いろいろ、思い出して苦しい。基本、背中がかゆくてたまらん。どうしても、ネズミ対策工事のことを思い出してしまう。親父が起点だと、ほんとうに、「これでもか」というほど、いやなことが発生するんだよな。あー。ともかく、気がたって眠れない。これはやばい。やはり、明日も眠れず、歯医者に行くためにずっと起きているような状態になるか?
うーん。シェディングもいやなんだよね。
現在、なんとかweb系の仕事で食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
きちがい家族が、自分のうちにいないから、きちがい家族の影響をうけなくてもすむだけなのに、きちがい家族の影響をうけないようすることはできるという前提でものを言うやつらが多い。きちがい兄貴が、自分のうちには、いなかったから、きちがいヘビメタ騒音の影響をうけなかっただけなのに、きちがいヘビメタ騒音の影響をうけないことは可能だという前提でものを言うやつらが多い。こいつらは、みんな、まちがっている。人間なら、あれだけでかい音で、あれだけの時間、あれだけの期間、自分がこの世で、一番きらいな音を毎日毎日、あの至近距離で聞かされ続けたら、影響をうける。影響をうけないなんてことはない。ところが、「影響をうける必要はない」とか「気にしなければいい」と言いやがる。そういう人間が多い。そいつは、ただ単に、実際にきちがいと一緒に住んでないから、きちがが鳴らす騒音が、どうしたって、影響をあたえるということを、理解してないだけだ。経験してないから、わからない。それだけだ。それだなのに、えらそうに、自分なら、影響をうけないことは可能だという前提でものを言う。ゆるせない。
たとえばの話だけど、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供は、一〇のぶんだけ、ものをもらいやすい。
そして、親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供は、〇・一のぶんだけ、ものをもらいやすい。一〇〇倍ちがう。
そりゃ、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供があるものをもらえず、親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供が、そのあるものをもらえる場合もある。
けど、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供のほうが親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供よりも、一〇〇倍も、ものをもらいやすいので、全体的には、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供のほうがものをもらいやすく、実際に、ものをもらえるということになる。
こういう現象を、引き寄せという視点で見ると、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供には、引き寄せ能力があるけど、親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供の子供には引き寄せ能力がないように見えてしまうのだ。
実際に、親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供は、もらえないので、もらえないという現実に落胆することがある。親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供はもらいやすいので、実際にもらえる機会が多く、よろこぶことが多い。
けど、これも、引き寄せ能力というような視点に立って、「あとだし思考」をすると、まるで、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供は、よろこぶので、よろこびやすい出来事をひきよせているとみなすことになり、親の傾向度が〇・一の子供は、落胆しやすいので、落胆するような出来事をひきよせているとみなすことになる。
落胆と書いたけど、たとえば、『自分はもらえない』とくやしがったとする。そうすると、くやしがるような、悪い性格の子供は、実際にもらいにくいと判断するようになるのだ。
ようするに、くやしがるような悪い性格が、悪い状態をつくりだしていると言い出すのだ……。
引き寄せ主義者や精神世界の人はそのように言いだす。
引き寄せ主義者も精神世界の人なので、まとめて、精神世界の人ということにしておくと、精神世界の人は、「あとだし思考」をしやすいので、実際に条件が悪いものを、悪者(わるもの)にしたてあげてしまうのだ。
悪い性格をしているから、悪いことをひきよせる……。暗いことを考えるから、暗いことを引き寄せる……。このように、思い込んでしまう。
そういうふうに見なすと、そういうふうに、見えるので、自分は正しいことを言っていると、確信してしまう。けど、まちがっている。
* * *
これは、いまの時代、まったくうけないと思うけど、言っておく。
条件の悪い人の、悪口を言っているのは、精神世界の人だ。精神世界の人は、因果関係を逆転させて、「あとだし思考」でものを言うので、必然的に、条件が悪い人の悪口を言うことになる。
精神世界の人は、みんな、「人の悪口を言うことはよくないことだ」「人の悪口を言わないようにしよう」と思っているけど、実際にやっていることは、こういうことだ。
だから、教義として、どれだけ、納得したってむだなのだ。実際に「自分の偏見」が働いているところでは、偏見通りに判断して「悪口」を言うことになっている。
子どもの引き寄せ能力について、考えてみよう。親がものをあたえる傾向を、おなじだとする。実際には、もちろん、収入が低いにもかかわらず、ものをあたえやすい傾向をもつ親もいるし、収入が高いにもかかわらず、ものをあたえにくい親もいる。
この傾向に関してはあとで考えることにする。
いまは、みんな、どの親も、ものをあたえる傾向度が一だとする。そして、収入を一〇段階にわけるとする。下から、一段階目の親を収入度一の親と呼ぶことにして、下から一〇段階目の親を収入度一〇の親と呼ぶことにする。
その場合、収入度一親を持つ子どもは、ものをもらう機会が少なく、収入度一〇の親をもつ子供はものをもらう機会が多いといえる。
こういう状況があるとき、引き寄せ主義者は、収入度一〇の親をもつ子供を引き寄せがうまい子どもと呼び、収入度一の親をもつ子供を引き寄せがへたくそな子供と呼ぶことになる。
じつは、親の収入段階が、子供の引き寄せる量に影響をあたえている。けど、引き寄せという視点で、現実を見ると、収入度一の親をもつ子供は、引き寄せ能力がなく、収入度一〇の親をもつ子供は引き寄せ能力があるように見えるのである。
実際には、親という条件が、子供の「引き寄せ能力」の値を決めているのだけど、引き寄せ主義者は、親という条件を完全に無視して、子供に特有の能力が、引き寄せる量に影響をあたえていると考えるのだ。
そして、引き寄せ能力が低い子供も、(自分たちが言う)引き寄せ能力をあげる方法を実行すれば、引き寄せ能力があがるということを言うのである。
引き寄せという考え方をうけいれた子供たちは、引き寄せという視点で現実を見るようになるので、引き寄せの量がないとされた子供にしてみれば、その方法を知るのは、重要なことになる。
なんと言っても、ものをもらえずに、みじめな思いをする機会が多いのに、その方法を実行すると、ものをもらえるようになるのだ。
けど、実際には、子供が、どれだけ、もらえるところをイメージしても、親がかわらなければ、イメージのとおりに、「引き寄せる」ということができない。
実際には、子供が、どれだけ、もらっている人のまねをしたとしても、もらっている子供のようには、もらえない。
どうしてかというと、もらっている子供というのは、じつは、親が収入度が高いから、もらっているだけだからだ。親の収入度が四段階である子供が、親の収入度が一〇段階である子供のをまねをしても、親という条件がかわらないのだから、ものを引き寄せることができない。
子供たちは完全にだまされている。
引き寄せ主義者が、人をだますつもりがあるのかどうかわからないけど、やっていることはこういうことだ。
架空の能力は、じつは、現実の写し絵なのだ。「現実の条件」の写し絵なのだ。条件が決めているのに、その条件について、まったく考えないことにして、無視する。
かわりに、潜在的で見えない「能力」というものを考えて、その「能力」の差が、現実の差になってあらわれるということを言う。これは、嘘だ。
つぎに、傾向について考えてみよう。親がものをあたえやすい傾向についてだ。
たとえば、これも、一〇段階にわける。ただし、〇・一から一までの一〇段階にする。そして、これを傾向度と呼ぶことにする。
その場合、親の収入度と親の傾向度を掛け合わせた値が、実際のあたえる度合い(あるいは、あたえる量)になる。
たとえば、収入度一〇だけど、傾向度〇・一の親は、あたえる数量が一になる。そして、たとえば、収入度七だけど、傾向度が一の親はあたえる数量が七になる。なので、収入とは一致しない値になる。このあたえる数量は、親が子供にあたえる数量のことなのだけど、引き寄せという視点から見ると、このあたえる数量が、そのまま、子供の引き寄せ能力の値になる。
たとえば、親の収入度が一で、親の傾向度が〇・一の子供は、〇・一しか、あたえられず、引き寄せが一番へたくそで、引き寄せ能力が一番低いということになる。
いっぽう、親の収入度が一〇で、親の傾向度が一の子供は、一〇あたえられることになり、引き寄せが一番うまく、引き寄せの能力が一番高いということになる。
しかし、ほんとうは、引き寄せのうまさなんて関係がない。
条件がそのまま反映しているだけだ。
けど、「実際に引き寄せ方法を試したら、引き寄せることができたという場合があるのではないか」と思う人もいるかと思う。そこには、「方法を試したあと」と「方法を試したから」の混同がある。
言霊主義者の「言ったあと」と「言ったから」の混同とおなじだ。ある言霊主義者が「明日は雨がふる」と言ったとする。実際に、その日、雨がふったとする。
その場合、言霊主義者は『自分がふると言ったから、ふったのだ』と考えてしまうのだ。
けど、その言霊主義者が「言ったから」ではなくて、ほかの理由で、雨がふったのだ。その言霊主義者が『自分が言ったあと、ほかの理由で雨がふった』と考えずに、『自分が言ったから、雨がふった』と考えるので、言霊理論は正しいと思ってしまうのだ。
これと似たことが、引き寄せ主義者の身の上にもしょうじる。ほんとうは、引き寄せ方法を方法を試したあとに、引き寄せができたと思うような、なんらかのものをもらっただけなのだ。
引き寄せ方法を試した「あと」に、ものをもらったので、『引き寄せ方法は有効だ』と思ってしまっただけだ。
ものをもらった理由はほかにある。引き寄せ方法を試したからではない。
引き寄せ方法を試したあと、ものをもらうという出来事が、ほかの理由によってしょうじただけだ。
引き寄せ主義者には「試したあと」と「試したから」の混同がある。
いったん、引き寄せという考え方をうけいれると、『自分の引き寄せ能力によって、引き寄せることができたのだ』と考えるようになってしまう。
けど、引き寄せ能力なんてものはない。現実の写し絵だ。
ものをもらうということではなくて、彼氏ができるとか彼女ができるという場合もおなじだ。引き寄せ方法を試したあと、彼氏ができた。あるいは、引き寄せ方法を試したあと彼女ができた。
それだけだ。
引き寄せ方法を試したからではない。その引き寄せ方法を試したあと、別の理由で、彼氏ができたり、別の理由で彼女ができたりしている。
引き寄せ方法を試したあと、ものももらえず、彼氏もできない場合はどうか?
ただ単に、引き寄せ能力がないということになってしまうのである。そして、「へたくそだから」うまくできないと思ってしまう。そんなのは、現実うつし絵なので、へたくそも、くそもない。
大人の場合は、子供の場合とはちがって、なにかをもらう場合も、彼女・彼氏に出会う場合も、機会が豊富なのである。なので、こどもの場合のように、単純に考えることはできないけど、子供の場合とおなじなのである。
子供の場合、親という条件が、こどもの引き寄せ能力の値を決めていた。親という条件がかわらない限り、めったに、引き寄せることができないのである。
親ではなくて、おじいちゃん、おばあちゃんにものをもらう場合もあるだろう。その場合は、引き寄せ方法を試したのであれば、『引き寄せた』と思うのだ。けど、おじいちゃん、おばあちゃんが、ものをくれただけだ。その子供の引き寄せ能力があがったわけではないのだ。
子供の場合を考えるとよくわかるのだけど、引き寄せ方法のトレーニングをしても、親の収入度や親の傾向度に変化がなければ、なかなか、変化がないということになる。
そもそも、引き寄せ能力なんてものは、ないからだ。
勝手に、そういうものを想像して、人間に固有の能力だと架空の話をしているだけだ。人間に固有と書いたけど、個人に固有の能力なのだ。
だから、個人差があるということになる。
個人差があるから、引き寄せ能力がある人が、引き寄せ能力がない人に、引き寄せる方法を教えてあげるということになる。
まあ、ただで教えてあげる場合もあるし、カネをとって教えてあげる場合もあるだろう。
けど、どんな方法であれ、嘘の方法だ。
どうしてかというと、個別の引き寄せ能力などというものは、最初からないからだ。現実の条件の差を、引き寄せる能力差だと認識させて、おカネをもうけたり、自分を相対的に相手より有利な立場に置いて、マウントしているだけだ。
いまでも、ヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。いまでも、ヘビメタ騒音が鳴るんじゃないかと不安になる。あれが鳴り始めてしまったら、すべてが破壊されるのだ。たとえば、いま、土曜日の午後一時二三分なんだけど、土曜日の午後一時二三分は、いつも、ヘビメタが鳴っていたので、土曜日の午後一時台の雰囲気が、ヘビメタ騒音の雰囲気なのだ。午後二時も、午後三時も鳴っているのだけど、土曜日の、まだ明るい午後の雰囲気は、ヘビメタ騒音の雰囲気なのだ。やられてない人には、ない。やられてない人には、経験による学習がないので、当然、そんな雰囲気はしない。けど、さんざん、やられたので、学習してしまって、そういう雰囲気がある。そういう雰囲気を感じるようになった。「土曜日の午後」の雰囲気……は、きちがいヘビメタが鳴っている「土曜日の午後」の雰囲気なのだ。この学習をしなかったやつに、どれだけ、こういう雰囲気がすると言っても、わからない。わからないし、ひとごとだ。「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」と言える。そいつは、平気でそういうふうに言える。けど、繰り返しの学習があると、現実認知……に、そのことがくっついてしまう。現実認知というは、こういう時間の午後は、こういう明るさだというような認知のことだ。まあ、晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日もあるわけだけど、晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日も、ヘビメタ騒音が鳴っていたので、土曜日の午後の雰囲気は、こういう雰囲気なのだ。鳴っている雰囲気だ。
しかも、人間なら、だれだって、学習がしょうじるのに、学習がしょうじなかった人から見ると、俺が「ヘビメタ騒音にこだわっているからダメなんだ」と見えてしまうのである。だれだって、長期間にわたって、毎日、きちがい的な物理刺激をあたえられれば、その物理刺激と、別の物理刺激がむすびつくようになるのに、まるで、こだわっている人がこだわっているから、こだわっているのだということになってしまうのだ。やられたことがないやつにとってはそうなのだ。そして、やられたことがないやつだって、「苦労」はしているので、「俺だって苦労した」「わたしだって、苦労した」と「言える」状態ではある。けど、ほんとうに、同等の苦労をした人が「こだわっているからダメなんだ」というようなことを言うだろうか? ほんとうに同等の苦労をした人は、学習が(意思に関係なく)しょうじるということがわかっているから、そんなことは、言わないのではないか。わかってないから、「こだわっている」と決めつけて、「こだわっている」と言うのではないか。「こだわっているからダメなんだ」と言うのではないか。
同等の苦労をした人は、学習がしょうじるということは「からだでわかっている」ことなので、「こだわり」というタームをもちいて、「こだわっているからダメなんだ」と言うだろうか? 同等の苦労をした人は、学習がしょうじてしまうということは、からだでわかっている。自分だってそういう状態になっている。そんな人が「こだわっているからダメなんだ」と言うだろうか?
なお、「の」の重複は指摘しなくてもいい。
あんなこと、家族にやられて、よくがんばってきたよなぁ。あんなこと、毎日、家族にやられ続けて、よくいきてきたなぁ。あんなのはない。けっきょく、みんな、やられてないから、わからない。効果がどういうものか、わからない。わからないところで、無理なことを言う。もっとも、わからないので、無理だということもわからないのだ。きちがい家族にやられた人というのは、必然的に!普通の人から、誤解をうけることになる。普通の人がまちがった想像をすることになる。もう、決まっている。普通の人は、普通の人で、これまた、きちがい家族のことがまったくわかってない。どうしたって、普通のうちにいる普通の家族のことを想像してものを言うことになる。けど、ちがうんだよ。きちがい感覚が成り立っているかどうか、ということが問題だ。きちがい感覚が成り立っているきちがい家族が、どれだけ、頑固にきちがい行為をするのか、まったくわかってない。そして、わかってないから、影響のでかさもわかってない。だって、やられたことがないもん。ははっ。そりゃ、普通の家族同士だって、ケンカはする。けど、ちがうんだよ。ともかく、普通の人はやられたことがないから、きちがい家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度でやることが与える影響というものについて、完全に勘違いをしている。「そんなんじゃないから、こまっている」……。そんなんじゃないから、こまっている。ずっとずっと、こまり続けている。問題が蓄積していく。こっちのからだに蓄積していく。こっちの人生に、きちがい家族がやった影響が、蓄積していく。まわりの人の誤解だって、そうだ。時間がたつにつれて、蓄積ししていくのである。普通の人が、普通に誤解をする。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんがエレキギターをでかい音で鳴らしていたとする。BさんがAさんに、「うるさいからやめてくれ」と言ったとする。Aさんが、でかい音で鳴らすことをやめたとする。この場合、言霊の力によって、Aさんが、でかい音で鳴らすのをやめてくれのか? ちがう。これは、超物理的な言霊の力によって引き起こされたことではなくて、言葉の力によって引き起こされたのだ。もちろん、Bさんが発した言葉が、空気の振動になって、Aさんの耳にとどくということも、物理的な現象だ。まず、物理的な現象が成り立っている。次に、AさんもBさんも日本語が理解できるという前提がある。Bさんは日本語で言ったけど、Aさんは日本語がわからないので、Bさんが言っていることがわからなかったということが発生したとする。わからない場合は、やめてくれない確率があがる。相手のジェスチャーで、相手がやめてほしいと思っているということに気がついてやめる場合はある。けど、「言ったからやめてくれた」という場合だって、言霊の神秘的な力によって、やめさせることができたわけではないのだ。Bさんが言っていることを、Aさんが理解して、「やめてやってもいいかな」と思ったので、Aさんがエレキギターを弾くことをやめた。Aさんの意思がある。Aさんが「やめてやってもいいかな」と考えたので、やめてやっただけだ。Aさんが、「絶対に、この音で鳴らしたいから、絶対にやめてやらない」と考えたら、やめてやらないということになる。エレキギターの音が続くということになる。言霊主義者は、「やめてくれ」とBさんが言ったから、Aさんがやめてくれた場合も、言霊の力によって、Aさんがやめたのだと解釈してしまう。けど、ちがう。超自然的な言霊の力によって、Aさんが、やめたくないのに、強制的にやめさせられたわけではない。言霊の力にあやつられて、Aさんがやめたわけじゃない。Aさんの意思がある。Aさんが「やめてやろう」と思ったからやめてやったのだ。Aさんが「やめてやらない」と思ったら、Aさんはやめない。この場合は、言霊の力が働かなかったということになるのか? 言霊主義者は、Bさんの言い方が悪かったから、言霊の力が発動せず、Aさんがやめてくれなかったと解釈してしまう。これも、あとだしジャンケンだ。Aさんがやめてくれない限り、Bさんの言い方が悪いということになってしまうのだ。Bさんの言い方が悪かったから、言霊力が発動せず、Aさんがやめてくれなかったということになってしまう。言霊主義者の頭のなかでは、そうなる。けど、そうではないのである。AさんにはAさんの意思があるので、やめる気持ちにならず、やめてやらなかったというのが正解だ。Aさんの意思に、超物理的な言霊の力が、働いてないのである。
Aさんがどう考えていったって、Bさんが「やめてくれ」と言ったら、やめることになるのだ。Bさんが、「Aさんは、一秒後に、エレキギターをでかい音で鳴らすをやめる」と言ったら、Aさんの意思に関係なく、ものすごい言霊の力によって、Aさんは、一秒後に、エレキギターをでかい音で鳴らすをやめるのだ。……そうでなければ、おかしい。おかしいので、そういう言霊的な考えはまちがっているということになる。言霊主義者が言っていることにしたがえば、Aさんの意思に関係なく、Bさんが「Aさんがやめる」と言ったら、Aさんはやめることになる……のだ。それ以外ない。
Aさんの意思というのは、まったく関係なく、Bさんが「Aさんがやめる」と言ったかどうかだけが、問題になるのだ……。言霊主義者の頭のなかでは、Bさんが言ったことだけが問題になる。おかしいとは思わないのか?
「明日は雨がふる」と「自分」が言ったから、雨がふったと考えるような思考レベルだ。相手の意思や物理法則に関係なく、自分が言ったとおりになるのだ……。おかしいとは、思わないのか?
たとえば、「明日は雨がふる」と言って、雨がふったとする。言霊主義者は、自分が「雨がふる」と言ったので、雨がふったと確信してしまう。しかし、その言霊主義者が「雨がふる」と言ったあと、別の理由で、雨がふっている。大気に含まれるものの物理的な運動によって、雨が、その地方にふった。その言霊主義者が「明日は雨がふる」と言ったから、雨がふったのではないのである。その言霊主義者の言葉に、魔法的な力が宿っているから、雨がふったのではないのである。こういうことも、言霊主義者は誤解している。最初から、考え違いをしている。
たとえば、人間の体重から割り出して、ある量の毒を飲むと、人間のからだをもってるものは、だれでも死ぬとする。ようするに、ある一定量の毒を飲むと、人間が死ぬとする。この場合、毒を構成している物質の原子や分子が、人間を構成している物質の原子や分子と、化学的な反応をしたということだ。自分が言っただけで、反応をとめられるかというと、とめられない。言うという魔法的な力で、この反応をとめられるかというと、とめられない。毒を構成している物質の原子や分子や人間を構成している物質の原子や分子は、物理法則にしたがって、運動する。その結果、人が死ぬということになる。
あたかも、とめられるようなことを言うな。言うことで、物理法則にしたがった運動を、魔法法則にしたがった運動にかえることができるか? かえられない。どれだけ言ったって、物理法則にしたがった運動をしてしまう。なので、最初から、これも「無理なこと」なのだ。言えば、物理法則にもとづいた運動をかえることができるかというと、かえられない。無理なことを、「できる」と言って、対象となる人に、ふっかけている。対象となる人が言っても、そうならないことが、この場合、最初から決まっている。ところが、言霊主義者は、「自分の場合、言ったことが現実化したので、言ったことが現実化するということは正しい」と思って、「無理なこと」をほかの人にふっかけることになる。
ほんとうは、言霊主義者だって、その毒を一定量飲めば、死ぬ。ほんとうは、言霊主義者だって、毒を構成している物質の原子や分子や人間を構成している物質の原子や分子の、運動をとめられない。物理法則にしたがった運動をとめられない。ところが、魔法的な力によって、物理法則にしたがった運動をとめることができるというのだ。そして、毒を飲んだ人が、言っても死んだ場合は、「言い方が悪かった」とあとだしで言うのだ。こんなのは、ない。「言い方が悪かったから」毒を構成している物質の原子や分子や人間を構成している物質の原子や分子の、運動をとめることができなかったと、まちがったことを主張する。しかし、ほんとうは、言霊主義者だって、とめられないのである。自分だってできないことを、人に、「言えばできる」と言うな。
それじゃあ、どうして、言霊主義者は、言葉には、言霊と呼ばれる力が宿っていると感じることことができるのかということについてちょっとだけ、言っておこう。これは、ようするに、幼稚だからそう思っているだけなのだ。だれにでも、幼児的万能感は残っている。濃さはちがうけど、残っている。だから、特別に、言霊主義者が言っていることがおかしいとは感じないのが、普通だ。言ったことが現実化する……これが正しい……と思っている人は、多い。
たとえば、言霊主義者が、「明日は雨がふる」と言ったとしよう。そして、晴れたとする。その場合は、言霊主義者は、「明日は雨がふる」と言ったのに、晴れたということを、無視するのである。気にもとめない。ところが、言霊主義者が、「明日は雨がふる」と言ったあと、雨がふったら、それは、記憶に残すのである。だから、言霊主義者のなかでは、いつも、「言ったことが現実化している」ということになるのである。
言霊主義者は、「だいたい思考」をしている。ところが、「言ったことが現実化する」と文は、「すべての言ったことが、かならず現実化する」という意味になってしまうのである。「言ったことが現実化するときもあるけど、言ったことが現実化しないこともある」……こういう意味ではないのである。 「言ったことが現実化する」ということを「言ったことが現実化するときもあるけど、言ったことが現実化しないこともある」という意味で言ってしまうのは、そもそもが、まちがいなのである。 「言ったことが現実化する」という文のなかに「言ったことが現実化しない場合もある」ということを、ふくめることはできない。どうやってたって、できないのだ。けど、言霊主義者は、「言ったことが現実化するときもあるけど、言ったことが現実化しないこともある」という意味を込めて、「言ったことが現実化する」と言ってしまう。これが、本人が意識できない、誤謬だ。こういう感覚で、ものを言っているので、自分が自分にトリックをしかけたことに、気がつかない。これ、トリックなんだよ。
言ったことが、あたった?場合は、記憶に残し、言ったことがはずれた場合は、記憶から消去してしまう。そして、「だいたい、言ったことが現実化しているので、言ったことが現実化するというのは、真実だ」と思ってしまう。これが、言霊主義者がやっていることだ。頭のなかで、こういうことをしているから、「言ったことが、現実化する」「これが真実だ」と思ってしまう。けど、まちがっている。
言霊主義者が、悪質なのは、「言い方が悪かった」ということを言いだすことだ。これは、もう、決まっているのである。たとえば、条件によって、悪いことがしょうじたとする。その悪いことは、条件がもたらしたことだ。ところが、言っただけで、条件をかえられると言霊主義者は言うのだ。あるいは、言っただけで、結果をかえられるということを言霊主義者は言うのだ。結果というのは、条件がもたらす結果のことだ。その場合、条件が悪ければ「言ったところでかわらない」ということが、最初から、決まっているのである。条件が悪い人が、どれだけ、条件に反したことを言いまくっても、それでは「わからない」ということが、最初から決まっている。だから、対象となる人……言霊主義者にとって他人である人が、言ったところで、条件がもたらす結果というのがわからない。なので、言霊的な解決方法は、効力がない。ところが、言霊主義者は、言霊に宿る、魔法的な力を信じているので、効力がないということを認めないのである。代わりに言うことが「言い方が悪かったから、それが起こらなかった」ということだ。対象となる人の「言い方の問題」にしてしまう。これは、「言ったことが、現実化する」ということを、言霊主義者が、対象となる人に、言う前から、決まっていることだ。だから、悪質なんだよ。対象となる人の条件を無視できるのは、言霊主義者にとって、対象となる人が他人だからだ。別の個体だからだ。
別の個体だから、別の個体がどうなろうと知ったことではなく、限りなく、無責任な発言ができるようになる。ほんとうは魔法的な力なん宿ってないのに、宿っていると言い張り、魔法的な力は、言うことによって発動されると言うのである。ところが、魔法的な力は、存在せず、物理的な法則にしたがって、悪いことやよいことが起こるということになっている。悪いことというのは、その人にとって悪いことということだ。よいことというのは、その人にとってよいことだ。
条件によってかえられないことについて、「思っただけでかえられる」と言ってしまうことは、よくないことなんだよ。どうしてかというと、かえられないからだ。基本、この世は、物理法則にしたがって運動をしている。そして、人間は人間の身体をもっている。人間の身体は、物理法則にしたがって運動をしている。これは、細胞を構成している分子や原子が、物理法則にしたがって運動をしているということだ。だから、物理法則を無視したやり方だと、かわらないことがわかっている。「思っただけでかえられるか」というと、そうではないのだ。自分のからだを構成している、分子や原子に対してだって、そうなのだ。自分のからだを構成している、分子や原子に「こう動け」と命令したって、自分のからだを構成している、分子や原子は、物理法則にしたがって、動いてしまう。自分が思ったとおりには、動かないのである。自分のからだですら、そうなんだぞ。
昨日書いたことだけど……前回の投稿で書いたことだけど……やっと、ある程度満足できる形で、説明することができた。まあ、そのものずばりは言ってたんだけどね。言ったって、キョロ充が、「そんなの関係、ない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言いやがるんだよ。これ、普通の人は、ぼくが、なんで腹をたてているかわからないだろ。どうして、ぼくが起こるかわからないだろ。どうして、ぼくがそういうことを言うのかわからないだろ。そういうことというのは、ヘビメタ騒音でできなくなるということの説明だ。これ、みんな、「俺だって、くるしい」とか「俺だってつらい思いをした」とかと言うけど、「できる」という前提でものを言っておいてなんだ? これ、俺と同レベルのつらい思いをした人は、みんな「できない」ということがわかっている。だから、「できる」という前提でものを言わない。そして、「できる」ということを言うやつは、「こうすればできる」というような助言をするけど、その助言が、言霊的な助言や、思霊的な助言や、努力論的な助言なのだ。悪いけど、ぼくと同等の経験をした人は、そんなことはいない。どうしてかというと、 言霊的な助言や、思霊的な助言や、努力論的な助言が、まったく、まったく、まったく、まったく、無意味なことを知っているからだ。そんなことでどうにかなるなら、とっくに、どうにかなっている。そうじゃないからこまっている。そうじゃないからこまっている」ということを知っているから、そんな助言はしない。きちがいヘビメタ騒音は、そういう助言や、根性で、どうにかなるようなことではないのである。根性でどうにかしようとしてもどうにもならないのである。はげしくくるしくて、できないのである。どれだけ根性を出しても、ヘビメタが鳴っているとできないのである。そういうことが、わかってない。自分の経験でわかってないから、言霊的助言や思霊的な助言や、努力論的な助言は、有効だと思って、そういう助言をしてくるわけだろ。そういう助言をするということ自体が、無効だとわかってないということを証明している。その人が、わかってないから、そういう助言をして、問題がないと思っているのだ。同等の状態を経験したことがある人なら、そういう助言が、無効だということがわかっている。自分の身でわかっている。どれだけそんなことをやっても、くるしいだけで、まったく役に立たなかったということが、自分の経験で、わかっている。わかっていないから、「俺だって苦労した」と言って、無理難題を吹っ掛けてくる。「俺だってつらい思いをした」と言って「できないこと」を吹っ掛けてくる。これ、「できない」ということを、理解してないということだ。俺と同等の経験をした人は「できない」「できなくなる」ということがわかっているので、そんなことは言わない。
こいつらは、俺が「できない」「できなくなる」ということを言えば、「なんだせっかく、助言してやったのに」と腹をたてる。腹をたてたいのは、こっちなんだよ。ごく普通のやつが、そうやって、おそってくる。ごく普通のやつが、そうやって、俺のことを悪く言う。ほんとうに、ヘビメタが鳴っているとできなくなるのに、「エイリさんが、弱音を言っている」とか「エイリさんが、不明不満を言っているだけだ」とか「エイリさんは、不平不満を言いやすい性格だから、不平不満を言っている」とかと言ってくる。どれだけがんばったっ、できなくなるんだよ。そして、よそでは、きちがい兄貴だって一分だって鳴らせないような、でかい音で、鳴らしているのは、兄貴なんだよ。俺が悪いことをしているわけではない。どうしても、宿題ができなくなるのである。あの音のなかで、宿題ができる人なんていない。言っておくけど、ヘビメタが好きな人は、その人にとって、苦手な音があのレベルのでかい音で鳴っていたらということだ。同等の経験をしたことがないから「できる」という前提でものを言うのに、同等の経験をしたと思っている。いや、同等の経験をした人は、そんなことは、口がさけても言わない。はっきり言えば、同等の経験をした人は、宿題ができなくなるので、きちがいヘビメタが鳴っていても、宿題はできるはずだという前提で「ものを言えなくなってしまう」のである。宿題はできるはずだという前提でものを言っているのだか、同等の経験をしてない。たぶん、ほかの人は、「ヘビメタ騒音なんて関係がないとか、過去なんて関係がない」とちょっと言っただけなのに、なんだその反応は……と思っていると思う。「言霊は正しい」とか、「思ったことが現実化する」とかと思っていると思う。すでに、きちがい家族にやられて、つらい思いをしている人に、「明るいことを思えば、明るいことが起きて、暗いことを考えると暗いことが起こる」なんてことを言って、なにも感じないなんて、おかしい。けど、そういうレベルの人が多い。これ、いい助言だと思っているんだよね。ぼくが、ここで、ながながと説明したことがわかってない。同等の経験をしたことがないから、わかってないだけなんだぞ。
こいつらは、鳴ってなくても、さぼりたいから、宿題やってこないはずだと思っているんだよ。そういう前提でものを言っている。失礼なやつらだろ。じゃあ、どうしてそういうことが発生しているのかというと、きちがい兄貴が、普通の人が考えられないような意地で、普通の人が考えられないような騒音を鳴らしているからだ。そして、普通の人たちが、俺についてわるく誤解するからだ。たとえば、「そんなのはいいわけだ」ということを言うやつは、ヘビメタ騒音やヘビメタ騒音相当の騒音が鳴っていても、自分なら宿題ができると思っているわけなんだよ。けど、これは、まちがいだ。ヘビメタ騒音相当の騒音が鳴っていたら、宿題はできない。できるわけがない。そいつにとって、この世で一番きらいな音が、あの大音響で、あの至近距離で鳴っていて、宿題なんて、頭を使うことができるわけがない。やられてないから、そう思っているだけだろ。だいたい、「宿題をやりたくないから、ヘビメタ騒音でできないと、いいわけをしている」という解釈だって、勝手に「宿題をやりたくない」と決めつけているけど、そういう決めつけは、失礼じゃないのか? 「宿題をやりたくないから、宿題ができるのに、ヘビメタ騒音でできないといいわけをしている」と言っているわけだよ。きちがいヘビメタ騒音のなかで宿題ができるという前提だ。俺が……エイリは、宿題をやりたくないから、いいわけをしているだけなんだという前提だ。どうして、「えいりは宿題をやりたくないから、やってこない」という前提になっているのか。どうして、俺の性格について、そうやって、悪く言うのか? きちがい兄貴の性格について悪く言わずに、俺の性格がわるいから、やってこないと言っているのだ。俺の性格がわるいからいいわけをしていると言っているのだ。こんなの、ない。ヘビメタを鳴らされると、こういうことになるんだよ。こいつらの根拠はなにかというと、げんにやってこないということだ。ヘビメタで宿題ができなくなったら、こういう、悪いやつらに、こういう悪口を言われる。ようするに、こいつらは、「なんだろうが、やってこないのであれば、自分が言っていることを、相手が否定はできないのだから、言ったもの勝ちだ」という思考をしている。きちがい兄貴が鳴らしてなかったら、ということが、仮定の話になっているわけだよ。げんに、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らしたのだから、鳴らしてない場合の話は、成り立たない。現実ではない。ならば、それについて、それについて、「勝手に理由を考えていっても、いい」ということになってしまっている。自分が考えたことを言っただけだということになってしまっている。ヘビメタ騒音が鳴っている限り相手の考えがまちがいだということを、俺は証明できないんだよ。相手が、頭のわるいやつだから、認めない。証明はできない。どうしてかというと、実際に鳴っているからだ。鳴ってない現実がないからだ。鳴ってない状態になって、俺が宿題をやれば、そういうことは言われない。けど、鳴っているからできない状態だと、「いいわけをしている」と言われることになる。これは、「エイリは、すぐにいいわけをするような悪い人間だ」と言っているのとおなじだ。勝手に決めつけているだけなのだけど、俺が、宿題をやらなければ、そうではないということを証明できない。ところが、ヘビメタ騒音なかでは、宿題ができないのである。どれだけがんばっても、宿題ができない。鳴っていなければ、できる宿題ができない。できなくなる。鳴っていなければ宿題ぐらいできるということは、ぼくには、あきらかなことだ。実際、やろうとしているわけだから……。きちがいヘビメタのなかでやろうとしているわけだから、できないということが、あきらかなんだよ。そして、鳴ってないときは……きちがい兄貴のヘビメタがはじまるまえは、普通に宿題ができたのだから、鳴っていなければ、宿題ができるということは、あきらかなんだよ。ぼくにとっては……。こいつらが、勝手に、「エイリは、いいわけをするような悪い人間だ」「エイリは、できることを、できないと言う、だらしがない人間だ」「エイリは、人のせいにするようなダメな性格だ」と決めつけているのである。ほんとうに、できないのに、そういうことを言われる。そういう前提で、えらそうなことを言われる。けど、どれだけくやしい思いをしても、実際に宿題をやるようにしなければ、こいつらは、そう思ったままなのである。だから、ヘビメタ騒音が「つづいてしまう」ということは、ぼくにとって非常に問題があることなのである。名誉にかかわることなのである。
たとえばの話だけど、ぼくは、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを鳴らす気にならなかったら、ヘビメタ騒音を経験してない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がなかった場合の人生を歩めた。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がなかった場合でも、きちがい親父はいるわけだし、ヘビメタ騒音がはじまった一一歳のレベルで、ほかの人にはない打撃を受けていた。しかし、しかし……、しかし、きちがい兄貴のヘビメタ騒音はなかったのである。なかったとしたら……。なかったら、ぼくが、くそ凡人から、えらそうなことを言われることがしょうじるかというとしょうじないのだ。ヘビメタ騒音がなければ、普通に宿題をやることができた。ところが、宿題ができなくなる。そうなると、くそ凡人が、「俺だって、くるしいことはある」「俺だって、騒音ぐらいはある」ということを前提にして、宿題ができない俺のことを、せめてくるのだ。そういう、「弱点」……「ついてこれる部分」をあたえてしまったということになる。これは、ぼくにとって、たいへん不名誉なことだ。けど、くそ凡人はそういうふうに考えて、俺のことをせめてくるのだ。これにかんしても、「せめているわけではない」という「いいわけ」が発生する。せめているかどうかは、別にして、無理なのに、無理ではないという前提に立ち、おなじようなことがしょうじているという前提に立ち、無理なことを言ってくるのだ。「宿題はできるのだけど、エイリさんが、宿題をやりたくないから、ヘビメタ騒音がうるさいと言って、宿題をやってこない」というようなことを言いだす。こいつがそういうことを言えるのは、きちがい家族と一緒に住んでいないから、きちがい家族が鳴らす騒音……きちがい的な意地で鳴らす、きちがい騒音にさらされてないからだ。何度も言うけど、ヘビメタ騒音がなければ、宿題ぐらいできた。宿題をやってくのだから、宿題をやってこないと言われるはずがない。いつだって、ヘビメタ騒音の効果を無視するやつが、えらそうなことを言ってくる。勝手に、「エイリさんがいいわけをしている」と考えて、そういうふうに言ってくる。こともあろうに、宿題ができないというのは、いいわけだと言うのだ。そりゃ、そういうことを言うやつを、ぶんなぐりたくなるだろう。そして、そういうトラブルがしょうじたから、「絶対に、しずかにさせてやろう」と思って、家に帰って、きちがい兄貴、「しずかにしろ」ということを言うわけだけど、きちがい兄貴が、やめない。「宿題ができるのに、宿題をやってこない」「宿題をやりたくないからやらないだけなのに、ヘビメタ騒音がうるさいといいわけをする」と言ったやつは、きちがいヘビメタ騒音を経験しているのかというと、経験してない。そういうことを言ったやつは、きちがい家族と住んでいるのかというと、住んでいない。ぜんぜんちがう。ところが、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいある」というきちがい発言で、おなじ状態だということにしてしまうのだ。ちがうだろ。こういうくそ凡人が、えらそうなことを言いやがる。絶対に、こういうことを言うやつが、おなじような騒音にたたられたら、宿題なんてできなくなる。おなじような騒音じゃないから、できるんだよ。そりゃ、ヘビメタが好きなやつはいる。そいつにとっては、ヘビメタは、騒音じゃない。けど、そいつだって、きらいな音はあるはずなんだよ。そいつだって、苦手な音はあるはずなんだよ。苦手な音を大音響で聞かされたら、鳴っているあいだ、勉強ができない状態になるんだよ。しかも、やっている相手が、きちがいなのだ。腹がたつだろ。どうして腹がたつかというと、きちがいというのは、『わかって当然』のことを無視するからだ。こういうことをされて、腹がたたないわけがない。ところが、やられてないやつは「すべては受け止め方の問題だ」と言いやがるんだよ。こいつもら、ゆるせない。そんなことであるはずがない。そして、「すべては受け止め方の問題だ」と言うやつが、案外細かいことで怒っている。たとえば、「すべては受け止め方の問題だ」という考え方は、まちがっているということを言われると、怒ったりする。きちがい家族がいるところで発生していることは、そういうレベルのことじゃないぞ。俺は、ちゃんと、「すべては受け止め方の問題だという考え方は、まちがっている」ということを説明したとき、自分がそういうことを説明したという認識があるし、説明したあとは自分がそういうことを説明したということをおぼえている。きちがい兄貴は、認識も記憶もない状態なんだよ。頭にくるだろ。なんで、これがわからないのか? 普通の人とのあいだに発生するトラブルと、おなじではないのだ。質がちがう。なんで、これがわからないのか?
きちがいが鳴らしている騒音を、経験したことがない人だから、その、きちがいが鳴らしている騒音があたえる影響がわかってないだけなのだ。ところが、わかってないだけだということが、これまた、わかってないのである。だから、自分なら、やられたって大丈夫だと思って「そんなのは関係がない」と言う。関係がないというのは、エイリさんの身の上に起こったことだから、自分には関係がないと言っているのではない。エイリさんの身の上に起こったことだけど、エイリさんには関係がないと言っているのだ。エイリさんの身の上に起こったことだけど、エイリさんが「関係がない」ということを理解すれば、関係がなくなると思っているのだ。こういう、身勝手な、想像。「関係がない」ということを理解すると、きちがい兄貴が鳴らした騒音の「効果」が、エイリさんの身の上から消えるのである。こういう、妄想。こいつらは、いいかげんなことしか言わない。「そんなのは関係がない」というのは、「騒音なんて、関係がない」ということだ。「鳴ってたとしても、そんなのは関係がない」ということだ。「鳴っていたとしても、そんなのは、関係がない。遅刻しないようにできる」「鳴っていたとしても、そんなのは、関係がない。宿題をしようと思えば宿題ができる」「鳴っていたとしても、そんなのは、関係がない。働こうと思えば働ける」……こういうことを言っている。きちがいヘビメタ騒音の毎日を経験したことがないやつが、勝手に妄想して、事実とは異なることを言う。実際には、関係がある。どれだけ関係がないようにしようとしても、関係があるので、関係がある。ようするに、どれだけヘビメタ騒音の影響を無視しようとしても、無視したとしても、ヘビメタ騒音は、ぼくの身体や精神に影響をあたえているので、いろいろなことができなくなる。ヘビメタ騒音が鳴ってなければできたことが、できなくなる。これは、圧力だ。無理解という圧力だ。そういう圧力を感じて、きちがいヘビメタを鳴らしている本人……きちがい兄貴に、どれだけ「ぶつかったか」わからない。けど、きちがい兄貴がきちがいなので、これまた、無理解ぶりを発揮して、絶対に認めないのである。もう、自分(きちがい兄貴が)きちがい的な意地で、ものすごくでかい音を鳴らしているということを認めない。きちがい回路で無視すれば、やってないことになってしまうのである。きちがい回路で、「でかい音じゃない」と思い込めば、どれだけでかい音で鳴らしていても、でかい音で鳴らしていると感じないようになってしまうのである。このだまし方……本人が本人をだますときのだまし方が、あまりにも完ぺきなので、ほかの人は、信じないのである。ほかの人は、「そんなことはない」と思ってしまう。そして、こともあろうに、きちがい兄貴がこのことについて無頓着なのだ。きちがい兄貴だって「そんなことはない」と思っているのとおなじ状態なのだ。思っているのではなくて、思っているのおなじ状態だと言ったのは、わけがある。それは、きちがい兄貴は、自分がでかい音で鳴らているのか、それとも、普通の音で鳴らしているのか、まったく考えることがないからである。「でかい音で鳴らしているかどうか」を考えることができないほど、無視しているのである。ともかく、そく凡人が、ヘビメタ騒音を鳴らされていると、できないということを無視して、できるという前提でくそを言ってくる。ほんとうに、くそだな。自分だって、自分がこの世で一番嫌いな音を、きちがい兄貴の態度で、同居している人間に、鳴らされ続けたら、できなくなるのに、それがわかってないのだ。だから、「関係がない」と言ってしまう。関係? 関係はあるよ。関係があるからこまっているんだろ。どうしても、できなくなってしまうからこまっているんだろ。それを、「関係がない」と言い切って、俺がさぼっているように言いやがる。ほんとうは、関係がないから「できる」のに、「できない」といいわけをしていると言い切る。こんな、ぼんくらなやつらと、つきあうに気になるか?
手順なんて、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、メモなんかとらなくても、一回、説明してくれれば、おぼえられるような感じだった。ところが、ヘビメタ騒音がはじまってから、メモもくそもなにもなく、ともかく、「やる」ということが、いやになった。ものすごく、しんどいのである。ものすごーーーく、しんどいのである。やりたくないのである。注意力散漫なのである。ちゃんとやれと言われても、あせるだけで、頭になにもはいってこないような状態になってしまうのである。ヘビメタ騒音。ヘビメタ騒音生活で、そういうところでも、能力がさがる。帰れば、きちがいヘビメタが鳴っている状態なのでつらい。どれだけ、きちがい兄貴「やめろ」と言ってもやめない。今日、こういうトラブルがあったからやめろ」と言っても、やめない。きちがい親父が、兄貴に、きちがいハンダゴテをおしつけて、兄貴が、きちがい親父に、ハンダゴテのトラブルを説明しても、きちがい親父が怒り狂って、はねのけて理解しなかったのだけど、今度は、きちがい兄貴が、俺に、きちがいヘビメタ騒音おしつけて、俺が、きちがい兄貴に、ヘビメタ騒音でしょうじたトラブルを説明しても、きちがい兄貴が、怒り狂ってはねのけて、理解しないのである。きちがいヘビメタ騒音がなければ、一発でおぼえられることが、なかなか、おぼえられなくなる。というより、おぼえて作業をするということ自体が、つらくて、つらくて、どうしようもない状態になる……のである。きちがいヘビメタ騒音を、自分がこの世で一番嫌いな音……と言い換えるとする。自分がこの世で一番嫌いな音を……あの時間の長さ、あの期間の長さ、あの音のでかさで、あの態度で鳴らされると、できなくなるのである。自分が簡単にできていたことができなくなる。できなくなるし、もう、やるのであれば、死んだほうがましだというような気持ちになる。やりたくないのである。動きたくないのである。きちがいヘビメタ騒音というのは、そういう騒音なんだよ。自分がこの世で一番嫌いな音を、あの時間の長さ、あの期間の長さ、あの音のでかさで、あの態度で鳴らされたことがないやつが、普通の騒音を想像して、ものを言う。「ちがうんだ」と言っても、認めない。そいつはそいつで認めない。こういうことが、いっぱい、いっぱい、発生してしまう。生活のなかで、そういうことがいっぱい、いっぱい、発生したら、そりゃ、死にたくもなるだろう。それじゃなくても、ヘビメタ騒音が鳴っているということ自体が、死にたくなることなのだから。
また、昨日の夜とはちがう、いやなことを思い出した。ほんとう、ヘビメタ騒音をあびて、外に出ると、ろくなことにならないんだよな。ヘビメタ騒音でこまっているのに、ヘビメタ騒音のことを無視して、アホなことを言ってくる。ヘビメタ騒音でこうなったと言っているのに、ヘビメタ騒音の影響をガン無視して、アホなことを言ってくるやつというのは、なんなんだ。ほんとうに、気楽に、勝手に、人のことを侮辱しやがって。そいつだって、きちがい家族によるきちがい騒音を経験すれば……毎日浴びせられれば、不可避的に、不健康な状態になる。不活性な状態になる。憂鬱な状態になる。ほんとうに、アホだな。ほんとうに、頭にくる。初対面の人に、そういう無礼なことを言うかな? そういう無礼なことを言って、まったく、無礼だと思ってないやつが、アホ。
きちがい兄貴も、きちがい親父も、かならず、俺が「そと」で不愉快な思いをするようなことをするんだよ。よそのやつは、まったくわかってないよ。経験がないからな。特に、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は一四年以上続いたので、人生に大きな大きな影響をあたえているよ。ヘビメタ騒音で能力がなくなり、能力のなかに含めてもいいけど、体力がなくなり、通勤通学できないからだになると……不可避的にそうなるのだけど、よそのやつは、不可避的にそうなるということが、これまた、絶対にわからないんだけど……通勤通学できないからだになると、なめられるのである。
ほんとうに、きちがい家族にやられて、よそのバカにバカにされる人生だった。よそのやつが複数人いる場合があるのだけど、「なんでこんなに、うまく不愉快なことが発生するんだ」と思うようなことが、いっぱいあったよ。ほんとう、それぞれが、誤解をしたり、ぼけ発言をしたりする。ほんとうに、シナリオが用意されているのではないかと思うほど、うまく不愉快なことが発生する。個々のタイミングや個々の発言が、あらかじめ用意されていたシナリオのように、うまく不愉快なことが発生する。
きちがい家族のことは、よその人に、理解されない。ほんとうに、理解されない。ものすごく、誤解をうける。誤解されっぱなしで、きつかった。
誤解をして、えらそうなことを言うやつというのが、みんな、幼稚なやつなんだよ。ほんとうに、幼稚。だから、ある意味……きちがい兄貴やきちがい親父と似ているということになる。もちろん、きちがい度がちがう。誤解をする幼稚なやつというのは、普通の人だ。普通の人の理解力なのである。きちがい兄貴やきちがい親父は、きちがいだから、普通の人とはちがう。ちがうのだけど、ちょっとだけ、似ているところがある。相似。ほんとうに、質がちがうし、量がちがう。けど、ある意味、ちょっとだけ似ているんだよ。だから、猛烈に不愉快な思いをすることになる。そりゃ、根源が、きちがい親父やきちがい兄貴なのだから……。きちがい親父やきちがい兄貴がやったことで、こっちがピンチになり、すでにピンチになっている俺を、普通の人が、バカにしてくる。普通の人は、普通の人なんだけど、ごく普通に誤解をしている。深いところでまちがっている。まちがった前提でものを考えている。しかも、その自覚がない。やっぱり、ちょっと似てるよな。
俺が終わるまで、この感じは終わらないのか?
ほんとうに、ヘビメタ騒音でさみしい思いをしている。あーー。この憂鬱。朝だしなぁ。ほんとうにつらい朝だったなぁ。今日は、出かけるんだけど、出かけるときの憂鬱が、これまた、ひどい。きちがいヘビメタ騒音の憂鬱、そのものだからなぁ。けど、こんなこと言ったって、ヘビメタ騒音生活を経験してない人にはまったくわからないんだよな。
ヘビメタ騒音というのは、みんなが、敵になる、騒音なんだよ。きちがい兄貴のやり方だと、そうなる。やりようがない。やりようがないということを、きちがい兄貴が、無視して、きちがい兄貴のつごうで、きちがい兄貴の感覚で、やりきる。そうすると、当然、影響をうけるのだけど……どれだけ影響をさけたいと思っても、やられていたら、からだが、きちがい騒音をあびているのだから、影響をうける。ところが、みんながみんな、そんなのは、お兄さんに言えば解決できるという前提でものを言ってくる。みんながみんな、きちがい兄貴がきちがいだということを理解しない。ちなみに、これは、みんながみんな、きちがい親父がきちがいだということを理解しないのとおなじだ。これ、ほんとうに、理解してくれないのである。ところが、みんながみんな、「自分だって苦労している」「自分だって困難はある」と言って、きちがい家族の特殊性を認めない。そりゃ、人間だから、みんながみんな、苦労している。人間だから、みんながみんな、困難はある。けど、きちがい家族の特殊性を理解してないのは事実なんだよ。そして、事実、きちがい兄貴にやられているということが、わかってない。事実、きちがい兄貴に、おなじような騒音を、おなじような態度で鳴らされている人は、ひとりの例外をのぞいて、いなかった。そして、そのひとりの例外は、ちゃんと理解してくれた。「どうしたって、影響をうける」ということを理解してくれた。ところが、普通の人は、「どうしたって、影響をうける」ということとを理解しない。まったく、理解しない。そうなると、理解しない人から見ると、俺がただたんに、さぼっている人間に見えるのである。理解しない人から見ると、俺が、たいして、困難ではないことを、困難だと言っている人間に見えるのである。けど、その人には、きちがい家族がないし、きちがい家族がきちがい行為をするということもないのだ。けど、そういう人はたちは、自分だって家族にこういうことをやられたということを言う。ようするに、「おなじだ」ということを言う。「おなじような困難をかかえている」というようなことを言うのだ。けど、ちがうのだ。ほんとうに、その人の家族が、きちがいで、きちがい行為をしている場合と、その人の家族が正常で、きちがい行為をしてない場合は、ちがう。そして、ぼくには、わるいけど「おなじような困難をかかえている」というようなことを言う人たちの困難が、ぼくの困難とはまったくちがうということがわかる。ちがうから、「おなじような困難をかかえている」というようなことを言うんだよ。ほんとうに、きちがい家族にたたられていたら、そんなことは絶対に言えないのである。絶対に言えない。これ、ほんとうに、普通の人が、普通の家族にかこまれて生活しているのに、勘違いしているのである。しかも、勘違いしていることに気がつかない。そりゃ、トラブルはある。家族とのトラブルはある。普通の人だって、普通の家族に対する、不満がある。けど、それは、普通の人の、普通の家族に対する不満なのである。これ、言っている人は、わかってないけど、きちがい家族にたたられたことがある人と、きちがい家族にたたられたことがない人とでは、まったく言うことがちがうのである。例としてあがる、トラブルの質が、まったくちがうのである。もし、きちがい家族にたたられた人がいたら、絶対に言わないことを、普通の家族と生活している人が、言う。もう、言うことが、ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがう。ちがうんだよ。普通の人は、ちがうということがわからない。ぼくは、普通の人と、きちがい家族にたたられたことがある人のちがいがわかる。もう、言っていることがまったくちがうのだ。実際、きちがい感覚に対する理解がないのである。普通の人は、きちがい家族のきちがい感覚に対する理解がない。完全に誤解したことを言う。だから、わかる。もう、ほんとうに、わかりすぎるほど、わかるんだよ。きちがい家族にたたられた人の感覚と、きちがい家族にたたられたことがない人の感覚は、ちがうということが、きちがい家族にたたられた人にはわかる。普通の人が言っていることから考えて、普通の人が、まったくわかってないということがわかる。きちがい家族に対する理解がまったくない。きちがい家族というものがどういうものなのか、まったく理解してない。普通の人が、きちがい家族というものがどういうものなのか、まったく理解してないということが、こっちは、手にとるようにわかる。実際、普通の人は、勘違い発言をする。自信をもって、勘違い発言をする。わかってないから、自信をもって、勘違い発言をすることができるのだ。勘違い発言だということは、手にとるようにわかる。絶対に、きちがい家族にやられた人は、そんなことを言わない。もう、ほんとうに、前提がちがうのである。前提として語られないけど、信じていることがちがうのである。家族……というものに対する、語られることがない前提としての信念がちがうのである。ぜんぜん、ちがう。やられたことがないから、わかってない。きちがい家族にやられたことがないから、前提自体がちがうということが、普通の人にはわからない。きちがい家族にやらたれことがある日はと、俺が言っていることがわかるんだよ。きちがい家族にやられたことがない人は、俺が言っていることが、逆立ちしても、わからない。けど、これまた、普通の人は普通の人で、わかってないということが、わかってない。そりゃ、きちがい家族にやられたことがない人が、きちがい家族がやることについてわかっているなんてことはない。ないんだよ。そういうふうに言うと、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うけど、ちがうんだよ。ちがうというと、「自分だけ、苦労したと思っているのか」と言うけど、ちがうんだよ。勘違い発言のあとに、こういうことを言うわけだろ。もう、ぜんぜんちがう。きちがい家族にやられたことがある人が、勘違い発言なんてするはずがないのだ。わかっている。わかっているから、勘違い発言はしない。普通の人はわかってないし、わかってないから、わかってないということがわかってない。普通の人は、ごく普通に、勘違い発言をして、勘違い発言だということを認めない。
きちがい家族による騒音というのは、みんなが、敵になる、騒音なんだよ。
実際、ヘビメタ騒音が鳴ってたって影響をうける必要がないというようなことを言う人は、きちがい家族がいない人なのである。きちがい家族に、きちがい騒音を、きちがい感覚で、鳴らされたことがない人なのである。普通の家族が鳴らす騒音と、きちがい家族が鳴らす騒音はちがうのである。普通の家族が鳴らしているときの、感覚と、きちがい家族が鳴らしているときの感覚が、ちがうのである。おなじであるはずがないだろ。わかってないから、そういうことが言える。経験がないということがわかるぞ。きちがい家族と一緒に暮らした経験がないということがわかるぞ。きちがい家族と一緒に暮らしたことがある人は、わかっているからそんなことは言わない。言うことが、ほんとうにちがうのである。わかっているかわかっていないか、一発でわかる。
普通の人の感覚といったらないよ。普通の人の、この問題に関する無理解ぶりといったらないよ。 わかってないということが、ほんとうによくわかる。わかっていたら、絶対にそんなことは言わないということを、普通の人は、言う。実際、きちがい家族による騒音という問題が発生してないじゃないか。普通の家族による騒音と、きちがい家族による騒音は、ちがうんだよ。ちがうということが、わかってないじゃないか。
そして、普通の人が、言霊主義者である場合が問題なんだよ。そして、普通の人が、思霊主義者である場合が問題なんだよ。こいつらは、きちがい家族にやられた人を、傷つける。もう、傷つけるように、決まっているのである。信念をもって、勘違い発言をする。こいつらの助言というのが、きちがい家族にやられた人の気持ちを、えぐる。傷つける。こいつらはこいつらで、ほんとうにまったくわかってないからな。わかってないということがわかってないんだよ。言霊主義者や思霊主義者というのは、きちがい家族にやられた人を、傷つけるように、できている。言霊主義者や思霊主義者だけでなく、精神世界の人は、きちがい家族にやられた人を、無理解という包丁で、さしまくっている。
もう、どうでもいいか? つかれたなぁ。
また、水が入った電気ケトルをひっくりかえしてしまったよ。床が水浸しになった。ふくのがめんどう。ふくのがみじめ。もう、いいかな。なんか知んないけど、無意味なんだよなぁ。よくがんばってきたよなぁ。あーー。がんばったわぁーー。よくやったなぁーー。もう、いいかな。なにをやったって、かわんないわぁーー。ひとりで行動しても、友だちと行動しても、知り合いレベルの人と行動しても、なんにもかわらない。けっきょく、ヘビメタ騒音でくるしい。
ほかの人にはわからないと思うけど、友だちといても、ヘビメタ騒音でくるしいんだよ。腹がたっているんだよ。不安なんだよ。孤独なんだよ。俺のレベルで、ヘビメタ騒音のことを理解してくれる人なんて、いないわけだからなぁ。表面レベルのことだと、かならず、誤解される。悪い意味で誤解をされる。悪い意味で……。ほーーとうに、つかれたなぁ。どれだけ気持ちをとりなおしても、けっきょく、ヘビメタ騒音にやられるんだよな。表面レベルって、ようするに、表現型だ。ヘビメタ騒音のことが、ぼくの体調や雰囲気、語調、顔つき、からだの動き、発言内容……そういうことにあらわれる。学歴、職歴……。思うように動かないからだ……。睡眠不足……。不調。眠れなかったからだで動いているときの憂鬱さ。頭のモヤモヤ。特にまあ、はじめてあった人だと、学歴や職歴が問題になる。これ、ヘビメタ騒音が何年も何年も、毎日毎日、何時間も何時間も、つづかなかったら、別に、問題にならない部分なんだよ。
全部に、ひとつはいやな思い出がくっついている感じだ。もう、おわりかなぁ。なにをやっても、いやな思い出が、ひとつは、うかんでくる。ほんとうに、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音は、鳴っているときだけうるさいからこまるというようなものではない。全部にたたる。けど、実際に、一倍速で経験した俺しか、そこのところがわからない。みんな、勘違い発言をする。それも、いやなんだよな。それも、いやな思い出のひとつだ。まあ、種類としては一種類だけど、複数回、普通の人で経験しているわけで、いろいろと、うかんでくる。
パソコンのプログラムのことを考えても、レトロパソコンのことを考えても、いろいろなソフトウエアのことを考えても、あそこに行ったことを考えても、あの人と会ったことを考えても、もう、全部、いやだな。特に、最後にいやな思いをして別れた人との、記憶というのが、こたえる。
だからまあ、アパートのことにしたって、パソコンのハードウエアのことにしたって、試験のことにしたって、クレジットカードのことにしたって、全部が、それぞれ、いやな記憶と結びついている。
けっこう、腹がたつんだよ。感情のしこりになって残っている。特に、言いたかったことを、がまんした場合の腹立たしさが、並じゃない。みんな、根本的なところで誤解をしているから、俺に対して、すごく無礼なことを言ってくるんだよな。あっちは、無礼だとは思ってないのだけど……。それは、やっぱり、きちがいヘビメタ騒音の日々から、うまれたことなんだよ。関係がないわけがない。関係ある。
この「過去は関係がない」とか「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは関係がない」とか……。いろいろと、発狂的に腹がたつ。帰れば、ヘビメタ騒音が鳴っていた。
* * *
ある程度、腹がたつ記憶というのは、決まっていのだけど……。どうしても、思い出してしまう。「あれ、言ってやればよかった」という気持が、ふつふつとわいてくる。頭にくる。言ってやればよかったんだよな。そして、相手が俺の予想通りにこたえたら、ぶんなぐってやればよかった。ぶんなぐるのをさけるために、言わなかった。そういうのが、なにをやっても、なにをやろうとしても、ひとつは、うかんでくる。
* * *
もう、つかれたなぁ。ほんとうに、誤解されてばっかりの人生だったなぁ。家族が、くそなんだよ。家族がきちがいなんだよ。きちがい家族の行動、きちがい家族の感覚、きちがい家族の態度について、みんな、勘違いするんだよ。まとはずれな、アホなことを言ってくるんだよ。普通の人が、まとはずれなあほなことを、兄貴のきちがい騒音で、能力がさがった俺に言ってくる。親父は、きちがい兄貴に協力して、俺に協力してくれなかった。俺が「アパートを借りてくれ」と言ったときも、俺が「騒音の測量をするためのカネを出してくれ」と言ったときも、俺が「兄貴に注意してくれ」と言ったときも、きちがい的な態度で、きちがい的な行動をするんだよ。まあ、もともと、ちゃんと動いてくれる相手ではない。きちがい親父がきちがい親父ではなくて、普通の親父だったら、兄貴もあんなことになってないような気がする。兄貴のヘビメタ騒音という問題が発生したとき、きちがい親父がきちがい行為をするのではなくて、普通の親父が普通の行為をしたら、きちがい騒音が鳴っていたとしても、アパートを借りて、そこで勉強をして、自分の人生を(ヘビメタ騒音の影響なく)きりひらくことができた。
* * *
レトロパソコンのことだって……。ともかく、不愉快。きちがいヘビメタがなかったら、あんなことになってない。ヘビメタがずっと鳴っているということは、他人から見くだされるということなんだよ。立場がなくなるということなんだよ。
* * *
なにをやっても、いろいろと腹がたつシーンがうかんでくる。誤解なんだよ。特に、修正しにくいのは、前提がまちがっているのに、相手が、その前提について言及しなかった場合だ。これ、言いにくいんだよ。腹がたつんだよ。
* * *
あのとき、腹がたったな。「(相手が)こう言ったら、(相手を)なぐってしまうから、言うべきではない」と思っているうちに、相手が、まちがい発言をしやがる。俺が言ってたら、まちがいなく、(相手は)言ってたと思う。俺が予想した発言をしたと思う。そうしたら、やはり、腹がたって、爆発してしまう。
宵越しのカネはもたないというような考えで、自分の子分に、いっぱい、いっぱいおごってあげる経営者がいるそうだ。いるとする。
その人について語る人は、「人にあたえると、おカネが入ってくる」というようなことを言う。まあ、これ、セットなんだよ。
けど、じゃあ、自分の子分に、いっぱいいっぱい、おごってあげる人のカネはどこから出てくるのか?
けっきょく、自分の従業員から吸い上げたカネなのである。なので、けっきょくは、あたえるというよりも、うばっている。
基本的には、子分というのは、その会社の上層部の人だ。上層部の人を社長がさそって、ものすごく豪華なレストランで食事をするのである。食事代を、社長が払うので、上層部の人に、おごってあげたということになる。
食事に招待されてない、一般の従業員から、ちょっとずつ、搾取したカネを使って、上層部の人におごってあげているのである。こういうことを「人にあたえると、おカネが入ってくる」というような「美談」にしてしまう。「人にあたえると、おカネが入ってくる」という文も、「Xをすれば、Yになる」という構造をたもった文だ。
人にあたえる人と、人にあたえない人がいるとする。人にあたえる人は、一〇〇%の確率でおカネが入ってくるということなのだ。人にあたえる人のうち、一〇〇%の人に、おカネが入ってくるということなのだ。しかし、ほんとうは、そうではない。命題として考えるなら、「人にあたえると、おカネが入ってくる」という命題は、『偽』なのである。
しかし、「おカネが入ってくるという印象をあたえる」のである。あくまでも、「印象」なんだけどね。そりゃ、子分は、おごってもらったので、社長に対していい印象を持つと思うけど、もとのおカネはどこから出てくるのかということだ。
手短に言うと、搾取されている従業員は、上層部の人に、おごってあげることが、できない。
毎回、豪華なレストランで、上層部の人に、おごってあげることができるのは、社長だけなのである。搾取されている従業員だって、一回ぐらいは、上層部の人、全員に、豪華な料理をふるまうことができるかもしれない。
かもしれないけど、毎回は続かないし、あんまりカネがない人が、生活費をすべてなげうって、他人におごってあげるということは、考えにくい。ようするに、やろうと思えばできることかもしれないけど、生活費のことを考えると、非常にやりにくいことではある。
ようするに、そういうふうに、豪華な料理をおごってあげることができない人がいるのだ。その人のところには、カネが入ってこないということになる。
いや、そりゃ、搾取されたあとの給料をもらっているので、すこしはカネが入ってくることになっている。
けど、そんなに、毎回、豪華な料理を、複数の人にあたえられるようなカネは入ってこないわけ。めぐまれている人はあたえやすいのだけど、めぐまれてない人は、あたえにくいんだよ。条件がいい人はあたえやすいけど、条件がわるい人は、あたえにくい。
けど、条件については、これまた、無視した言い方になっている。
手短に言ってしまうと、こういう美談は、あたえにくい人をおいつめるのである。手短に言ってしまうと、こういう美談は、条件が悪い人をおいつめるのである。「あたえないから、おカネが入ってこない」ということになってしまう。
まあ、これ、こういうことを言えば、「あたえる」というのは、なにも豪華な料理にかぎったことではないということを言いかえしてくると思う。かたちのあるものではなくても、親切な行為でもあたえればいいということを、言いかえしてくると思う。
けど、親切な行為に関しては、『自分が親切にしてやりたいことをやってやる』ということになってしまうので、押しつけがましい行為になってしまう確率があがある。親切な行為をしてやろう、あたえてやろうと思っていると、不自然さが増すのである。そう思わないで、親切にする場合よりも、不自然さが増す。
まあ、ともかく、「あたえるとはいってくる」という思考なのだけど、これまた、抽象度が高い話なのだ。
しくみというのが成り立っている。条件が成り立っている。
なので、しくみや条件を無視して、抽象的な話をした場合、条件によっては、まずいことになる可能性がある。
たとえば、「おカネを使えば使ったぶんだけ、おカネが入ってくる」というようなことを言ったとしよう。おカネが入ってくるしくみをもっている人が、おカネを使った場合、おカネを使うかどうかに関係なく、おカネが入ってくる。
おカネが、大量に入ってくるしくみをもっている人は、おカネを使うか、使わないかに関係なく、おカネが大量に入ってくる。おカネが入ってくるしくみをもってない人は、おカネを使うかどうかに関係なく、おカネが入ってこない。
おカネを使う量と、おカネがはいってくる量がつりあっているわけではない。
ところが、「おカネを使えば使ったぶんだけ、おカネが入ってくる」という文は、あたかも、おカネを使う量と、おカネが入ってくる量がつりあっているかのような印象をあたえる。
この前提は、まちがっている。
おカネを使う量と、おカネが入ってくる量がつりあっている場合もあるけど、おカネを使う量と、おカネが入ってくる量がつりあってない場合もある。おカネを使うことで、常に、おカネを使う量と、おカネが入ってくる量がつりあうようになるのかというと、ならない。おカネを使うことには、そんな力……つりあわせるチカラ……は宿ってない。
「おカネを使えば、使った分だけおカネが入ってくる」ということについて語ったわけだけど、ここで語ったことは「おカネをあげれば、あげた分だけ、おカネが入ってくる」ということにも成り立つ。
おカネをあげることには、そんな力……つりあわせるチカラ……は宿ってない。
あげる分と、はいってくる分がつりあうことはあるけど、それは、あたえたことにより発生する……つりあわせるチカラが働いているからではない。たまたま、あげた金額と入ってきた金額がつりあっただけだ。つりあわない場合だってある。むしろ、つりあわない場合のほうが多いだろう。
* * *
ちょっと、関連して、言霊について語っておく。
たとえば、「おカネが入ってくると言えば、おカネが入ってくる」ということについて、考えてみよう。 「おカネが入ってくると言えば、おカネが入ってくる」のだから「おカネが入ってくる」と言えばいいということになる。
「おカネが入ってくる」と言うことは、有効な解決方法なのか、無効な解決方法なのか?
無効な解決方法だ。
どうしてかというと、「おカネが入ってくる」と言っても、おカネが入ってこないからだ。「おカネが入ってくると言えば、おカネが入ってくる」と言っている言霊主義者だって、「言うこと」でおカネが入ってこないということことは知っている。
だから、「おカネが入ってくると言えば、おカネが入ってくる」と言っている、多数の言霊主義者だって、現実世界では従業員として、働いて、給料をもらっている。
多数の言霊主義者だって、「おカネが入ってくる」と言うだけで、おカネがないという問題を解決しているわけではない。自分だって、現実的な問題に関しては、言霊的な解決方法を採用してないのである。
自分だって、現実的な問題に関しては、言霊的な解決方法は無力だということを知っているのである。だから、「おカネが入ってくる」と言うだけで、おカネがないという問題や、おカネがたりないという問題を解決しようとしない。
けど、人に言うときは「おカネが入ってくると言えば、おカネが入ってくる」と言ってしまう。「これが真実だ」と言ってしまう。真実じゃない。嘘だろ。
もちろん、「おカネが入ってくる」と言ったあと、年金が自分の口座に振り込まれるということはある。この場合は、働いてないけど、おカネが入ってくる。「おカネが入ってくる」と言ったから、おカネが入ってくるようになったのか?
ちがうでしょ。
ある年齢にたっしたので、年金が、振り込まれるようになっただけでしょ。
「言ったから」じゃないのである。
言ったあと、年金が振り込まれた。それだけだ。
年金というしくみを利用しただけだ。
言った「から」じゃない。
* * *
あっ、そうだ。もとの話だけど、あたえるのが好きなら、搾取しないで、「もとのカネ」を従業員にあたえればいいんじゃない。もとのカネというのは、従業員が搾取されないときのもとのカネという意味だ。
* * *
ところでさぁ……。
自分がいくら年金をもらえるのかを気にしているのに、「過去は関係がない」と言う人がいるんだよね。
過去?
過去、関係、あるじゃん。
過去は関係があるでしょ。過去において、いくら年金保険料を払ったかで、現在もらえる年金の額、あるいは将来もえらる年金の額が決まるんでしょ。
過去、関係あるでしょ。
なんで、過去は関係がないという話になるのか?
なぜ、過去は現在に影響をあたえないという話になるのか?
自分が、しっかり、過去のことを気にして、現在や将来について語っているのだから、過去は関係があると認識しているんだよ。
どうして、人に言うときは、「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」という話になってしまうのか?
意図があるからなんだよ。
意図はともかくとして、嘘はいけないよ。
影響があるから影響がある。
過去は現在に影響をあたえる。
過去は現在の状態に影響をあたえる。
どうして、こういうことを無視してしまうのか?
まあ、意図があるからなんだけどね。嘘はいけない。
ちなみに、国民年金の場合は、年金保険料を払ってなくても、半額(老齢基礎年金満額の半分)は、もらえる。
だから、過去は関係がないか?
いやいや、それだって、ちゃんと申請しなければもらえない。ちゃんと申請したという過去があるから、半額だけど、もらえる。
過去?
過去は関係がない?
過去、関係、あるじゃん。
* * *
「言えば言ったことが現実化する」と「過去は関係がない」。
どっちも、まちがっている。両方ともまちがっている。
「影響をうけないことは可能だ」「影響をうける必要はない」と、きちがい家族と一緒に住んでないから、きちがい家族の影響をうけない人が、かってに、妄想して、空想して、想像して、言うんだよ。「気にしないことは可能だ」「気にする必要はない」ときちがい家族と一緒に住んでないから、きちがい家族の影響をうけない人が、かってに、妄想して、空想して、想像して、言うんだよ。
「影響をうけないことは可能だ」「気にしないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。けど、無理なんだよ。可能じゃないんだよ。ところが、こいつらはこいつらで、可能ではないということをとめない。本人は、まったく知らないことだから、可能ではないということがわからない。からだでわかってない。
だから、無理難題を吹っ掛けてくる。それに、言霊的な妄想や、思霊的な妄想が、付け加わる。この人たちは、現実的な解決方法として、言霊的な解決方法や、思霊的な解決方法を口にするけど、言霊的な解決方法や思霊的な解決方法には、現実的な根拠がない。超自然的な力によって、言ったとおりになる。超自然的な力によって思ったとおりになるということだから、超自然的な力が、なかったり、働かなかったら、その通りにはならないのである。そして、超自然的な力がないのである。超自然的な力は、働かないのである。なので、その解決方法は有効ではないのである。
みんな、きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがない人は、きちがい的な家族がどういう状態で、どういう感覚で、きちがい行為を夢中になってやりきるか、わかってない。言えば、やめてくれると思っている。やったら、やったということがわかっているということになっている。けど、どっちもちがう。
きちがい兄貴はきちがい兄貴だから、よそにはいないんだよ。無意識的なレベルで感覚器を書き換えて、でかい音で鳴らしてないと、意識的なレベルでは思っている、きちがなんて、そんなにいるわけがない。
そうなると、よその人は、実際に鳴らされてないから、実際に鳴らされた場合のことが、わからない。
自分の体験としては、わからない。
自分の人生のなかでそういう体験をしたことがないということになる。
もちろん、普通に暮らしていれば、ちょっとは騒音がある。
ぼくは、でかい幼稚園の横に住んでいるから、きちがい兄貴が鳴らすまえから、ずっと、普通の人よりは、騒音にさらされている。
だから、普通の人が経験する騒音や、幼稚園や学校があり、普通の人よりも、でかい騒音を経験する人が経験する騒音のことは、知っている。自分のからだで知っている。
きちがいヘビメタ騒音……異次元の騒音だよ。だれひとり、ぼく以外の人は、至近距離……兄貴のスピーカーに一番近い距離で、異次元の騒音を経験した人がいないんだよ。
兄貴のスピーカーに一番近いのは兄貴だけど、実際には、兄貴の普段の立ち位置と、ぼくの部屋の兄貴側の壁の近くと、どっちがスピーカーに近いかといえば、ぼくの部屋の兄貴側の壁の近くのほうが、スピーカーに近い。
そして、床がつながっているので、固体振動がくるのである。これは、感じてないようで、常に感じているということになる。これが、眠れない状態に影響をあたえる。
だから、「眠れない」と思っているから、眠れないのではなくて、きちがいヘビメタを長時間、聞かされたから、眠れないのだ。それにプラスして、固体振動が影響をあたえているから、眠れないのだ。床が音に合わせて、微妙に振動しているわけだから、気にしないようにしても、実際には、影響をうける。
きちがいヘビメタを長時間聞かされたら、眠れなくなるということを学習するわけだけど、それは、きちがいヘビメタが鳴ったあとのことなんだよ。ヘビメタ騒音という『条件』を無視して、「眠れないと思っているから眠れない」と俺のことをせめるのは、的外れなんだよ。
きちがい家族による、めちゃくちゃなヘビメタ騒音が鳴っている(鳴っていた)という条件を無視して「眠れると言えば眠れる」と言うのは、不適切なことなんだよ。
* * *
固体伝搬音も、もちろんあるのだけど、ぼくが「固体振動」という言葉で表現したものは、振動、そのものだ。たしかに振動があると感じていなくても、からだは、振動を感じている。
* * *
潜在意識と言うのであれば、長時間つづく、微細な振動に関する潜在意識を問題にするべきだ。一回でも、「はずれろ」と思ったら、そのあとずっとはずし続けるという「呪いのような潜在意識」ではなくて、長時間、ずっと続いたことを問題にするべきだ。実際には、「呪いのような潜在意識」というのは、効力を発揮しないのである。
だから、「はずれろ」と思ったことがある人でも、自分がその影響をずっと受け続けるということがないのである。話のなかで、それらしく語られているので、そういうことがあるのだなと思っているだけだ。相手がボールを打ったとき、「はずれろ」と思った人が、自分のボールを一〇〇%の確率で、はずすわけではない。「はずれろ」と思った人のうち、一〇〇%の人が、はずすわけではない。「呪いのような潜在意識」について語る人が、「はずれろ」と思った人のうち、一〇〇%の人が、一〇〇%の確率でボールをはずすようになるという前提で、語っているだけなのである。プロのなかでも、長い間、トップのプロであったようなプロゴルファーが、「はずれろ」と思わないようにしているということについて、「呪いのような潜在意識」について、特別に注意をはらっている人が、説明したので、聴いた人は、「そういうことがあるのかな」「そういうことがあるんだろう」と思ってしまうのである。その場合、聴いた人の注意は、「はずれろ」と思うかどうかに、集中してしまう。しかし、実際には、「はずれろ」と思ったことが一度でもあるかどうかということではなくて、「才能」や「環境」が、結果を決めている。才能という条件、そのスポーツを小さいときから練習できたのかどうかという条件を、無視してまう。条件には、注意をはらわなくなってしまう。条件には、注意をはらわない思考をしてしまう。
日光量一のタネが「日光量が一だから、自分は一しか伸びない」「日光量にめぐまれていないから、自分はここまでしか育つことができない」と言ったら、平凡なタネはどう思うか? 「そういうネガティブなことを言うから、一しかのびないんだよ」「不平不満を言うからダメなんだよ」と思うのだ。日光量一〇のタネが「日光量が一〇だから、自分は一〇までのびることができた」「日光量にめぐまれていたから、自分はここまで育つことができた」と言ったら、平凡なタネはどう思うか? 「さすが、すごいタネは、言うことがちがう」「さすが、えらいタネは、謙虚だ」と思うんだよ。けど、日光量に関しては、どちらも正しいことを言っているのである。
条件を無視して、まちがった前提に立ったことを言う人は、無理難題を吹っ掛けて、おいつめるようなことしかしてない。条件が悪い人をおいつめている。洗脳されちゃっているんだよ。条件を無視するように洗脳されているんだよ。そして、幼児的万能感を利用されている。幼児的万能感はだれにでもある。「濃さ」はちがうけど、だれにでもあるのだ。だから、だれもが、利用される「下地」をもっている。
* * *
特に、自分の内面が、そのまま外面に影響をあたえるというタイプの万能感は、社会にとって、よくない。「思ったとおりになる」とか「言ったとおりになる」ということだ。『自分が』思ったとおりになるといったタイプの思い込みだ。『自分が』言ったとおりになるといったタイプの思い込みだ。
ほかの人も、同等の存在であるということを、根本的に無視している。
相手が思っている世界が現実化してしまったらどうなんだ? 幼児的万能感によって、自分が思っている世界が現実化すると思っているのである。そして、相手が思っていることは、自分が思っていることと対立しないと思っているのである。ほんとうに、幼稚。幼児的。
自分が内面的に思っていることが、外界にそのまま影響をあたえて、外界が、内面的に思っている通りになる……という感覚があるわけだけど、これは、やっかいだ。ほかの人も、自分が思ったとおりに行動するという、前提がある。そりゃ、他人だって、外界の一部でしかないわけだから、そうなる。
現実化するというのも、けっきょくは、そういうことだ。自分の内面が、そのまま現実化するのである。
どういう力によって現実化するのかというと、超自然的な力によって現実化するのだ。
ところが、超自然的な力は……本当のことを言っちゃえば……ない。ない力があると思っている。
だから、「他人に助言する場合」は他人もそういう力をもっているという前提があるのだけど、その前提に対する認識が、これまた、欠けているのである。外界の出来事は、超自然的な力の影響をうけず、自然的な力の影響をうけているのである。
だから、内面的に思ったことが、超自然的な力によって現実化されるということがないのである。
思ったことが、思ったあとに、自然的な力によって現実化されることはある。けど、これまた、一度でも、思ったあとに、自然的な力によって現実化されることが発生すると、超自然的な力によって現実化されたと思ってしまうのである。
ほんとうは、「思ったあと」なんだよ。思ったからではなくて、思ったあとなんだよ。ほんとうは、超自然的な力でそうなったのではなくて、自然的な力でそうなったんだよ。
ほんとうは、自分の内面を、超自然的な力で、外面に(外界に)現実化させたわけではないんだよ。ところが、自分の内面を、超自然的な力で、外面に(外界に)現実化させたと思ってしまう。自分はそういうことができると思ってしまう。自分の内面を、超自然的な力で、外面に(外界に)現実化させることができるという前提の話というのは、無理がある話なんだよ。
そういう前提の話というのは、『自分』というのが、『他人』に置き換わっているわけだけど、実際に起こらないこと(実際には発生しないこと)が前提になっている話なんだよ。これが、助言として語られた場合は、相手に無理なことをおしつけるということになってしまうんだよ。
精神世界の人は、ほんとうに、ヘビメタ騒音量について、まったく理解してない。普通の人も理解してない。だから、こちらとしては、ものすごく腹がたつ態度で、ものすごく腹がたつことを(彼らが)言う。そりゃ、あの空間はないからなぁ。きちがい兄貴の態度にかんしても、精神世界の人や普通の人は、まったく、まったく理解してない。
ほんとうにおなじことを、おなじぶんだけやられた人が「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「すべては受け止め方の問題だ(だから、受け止め方をかえればどうにかなる)」というようなことは、絶対に言わない。一倍速であの空間を経験したら、そんなことは、絶対に言えなくなる。絶対に言えなくなることを言っているのだから、経験してない。「俺だって苦労した」と言うけど、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「すべては受け止め方の問題だ(だから、受け止め方をかえればどうにかなる)」とかということを言う人が言う苦労なんてものは、たいした苦労じゃないということが、わかる。たいした苦労じゃないと断言できる。そんなこと、言えなくなる。そんなこと、言えなくなる。
「影響をうけないことは可能だ」とか「過去は影響をあたえない」とかということも、付け加えておくよ。
* * *
通勤・通学ができるんじゃないか。通勤できる。事実、通勤している。通学できる。事実、通学している。通勤・通学ができなくなるようなことは、人生のなかで発生してない。なら、ちがう。ヘビメタ騒音とはちがう。ほんとうに、ヘビメタ騒音を、その人にとって一番嫌いな音と言いかえた場合、だれだって、通勤・通学、できなくなる。できるということは、その人にとって、できなくなるようなことが発生してないということなのである。だから、「苦労」と言っても、苦労の苦労がちがう。「困難」と言っても、困難の困難がちがう。「騒音」と言っても、騒音の騒音がちがう。ちがうからちがう。何度も言うけど、おなじぶんの苦労を経験した人が、「影響をうけないことは可能だ」「過去は影響をあたえない」「元気だ元気だと言えば元気になる」「すべては受け止め方の問題だ」と言うことは、ありえない。わかってないから、そういうふうに言っているだけだからだ。絶対に、言えなくなる。どんな個体だって、きちがい家族におなじことをされたら、そんなことは言えなくなる。どんな個体だって、きちがい家族におなじことをされたら、通勤・通学、できなくなる。ぜんぜん、ちがう。
こいつらが、うぬぼれ屋で自己チューで、ヘビメタ騒音の影響を『正確に』理解しないから、こいつらが、好き勝手なことを言って、こっちを、バカにしてくる。これ、バカにしていることに、気がつかないやつもいる。「そんなのはあたりまえだ」と思っている。言ってあたりまえのことを言っているわけで、侮辱してない。バカにしてないと思っているやつらがいる。けど、そいつらは、みんな、ヘビメタ騒音の影響について、過小評価をしている。そして、過小評価をしているということについて、無頓着だ。こんなやつらとつきあう意味なんてない。
ほんとうに、きちがい兄貴は、ほかの人がわからないやり方で、常に圧力をかけて、俺の人生を破壊した。 ほんとうに、きちがい兄貴は、ほかの人がわからないやり方で、常に圧力をかけて、俺の人間関係を破壊した。
きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしてなかったら、俺だって「こんなやつらとつきあう意味なんてない」と思ってない。そう思う理由が最初から、ないので、そういうふうには思わない。きちがい兄貴の行為に関する、認知・認識のちがいが、ある。普通の人と、ぼくとのあいだには、 きちがい兄貴の行為に関する、認知・認識のちがいが、ある。それが、人間関係を破壊するのだから、きちがい兄貴がきちがい行為をしなければ、ぼくの人間関係は、すくなくても、そのことが原因で、破壊されなかった。そのことが、原因で破壊されている。
実際、友だちとの人間関係だって、親友との人間関係だって、破壊された。ヘビメタ騒音をめぐって、認知のちがいがあるので、うまくいかなくなった。ほんとうに、ヘビメタ騒音に関係するトラブルなのである。ヘビメタ騒音が発生しなければ、それらのトラブルも発生しなかった。
まあ、こういうことを言うと、「ネガティブなことを言うからネガティブなことが起こる」と、カルト教徒が言う。これ、カルトなんだよ。もう、すでに起こってしまった人にそんなことを言っても、いじめにしかならない。誹謗中傷にしかならない。誹謗中傷をしているのは、むしろ、カルト教徒のほうだ。ネガティブなことを言っているのは、カルト教徒のほうだ。こんな、無理解ぶりを発揮した、ひどい言葉を人に言って、平気だなんて、どうかしているぞ。
カルト教徒というのは、すでに、狂人にやられてこまっている人を、追いつめるようなことしか言わない。助言なんてしてない。助けるわけがない。助けてない。これ、無理解な発言をして、圧力をかけているだけだ。なんで、それがわからないのか? 良心をすててしまったのか?
たとえば、ものすごく有名なプロゴルファーが、『相手が、パットを打つとき、はいれと思う』ということについて語ったとする。
ようするに、相手のボールがカップにはいるように念じるということだ。自分のボールがカップにはいるように念じるというのは、普通の人がやっていることだ。
けど、その、ものすごく有名なプロゴルファーは、「相手のボールがカップに入るように念じる」と言うのだ。
こういうタイプの「ちょっといい話」というのがあるのだ。
「一流の人はちがう……」と普通の人がうなるようなことを言う。
けど、相手が、パットを打つとき、その、ものすごく有名なプロゴルファーが、『はいれ』と思ったかどうかわからない。嘘を言っているかもしれない。
けど、いちおう、普通の人は、こういう話は信じるので、実際に、その有名なプロゴルファーは、相手が、パットを打つとき、『はいれ』と思うということにしておこう。
毎回、相手が打つとき、「はいれ」と思う……。なかなかできることじゃない。
毎回だからね。「はずせ」と思うときも、本当は、あるかもしれない。
「はずせ」と思わないのは、これまた、潜在意識がかかわっていて、「はずせ」と一度でも思うと、自分がはずすことになるという理論につながるのである。
潜在意識は『相手』と『自分』の区別ができないので?「はずせ」と一度でも思うと、自分がはずすことになってしまうのである。
なので、相手に対しても、一度も「はずせ」と思わず、毎回「はいれ」と思うことにしているというような話に、最初の話はつながる。
つまり、「相手も自分も区別せずに、常に『はいれ』と念じている」とそのプロゴルファーは言うのだ。
一度でも、「はずせ」と思うと、それが、影響して、自分がはずすことになる……こういう、カルト思考だ。
けど、プロゴルファーが、本当にそんなことをいつも、毎回思っていると思う?
相手が、打つときのことは、ガン無視して、自分が打つときのことだけを考えて、自分が打つときは、かならず、うまくいくというプラスのイメージをもつことにしているというのであればわかるけど、それは、相手のことを考えない場合の話だ。
相手の話が出てきてしまっている時点で、おかしいとは、思わないのか?
一度でも、「はずせ」と思うと、それに支配されてしまう。一度でも、「はずせ」と思うと、それに支配されてしまうということを知っている。
なら、どうやって、プロになったのか?
「はずせ」と思うと、それに支配されてしまうということを知っているのだから、そう思ったことが、一度は、あるのだ。そして、それに支配されて、はずすようになったことがあるはずなのだ。
「一度でもはずせと思うとはずすことになる」という効果は、いったいいつまで続くのか?
ずっと続くのであれば、それ以降は、はずすことになるので、プロにはなれない。
じゃあ、プロゴルファーじゃなくて、プロテニスプレーヤーだとどうか?
相手のボールが、自分のコートの内側に着地すればいいと思うのか?
自分が打ち返すことができないと、相手の得点になるエリアに、相手のボールが着地したほうがいいと思うのか?
一度でも、相手の得点になる部分に、ボールが着地しないことを願うと、その願いが、潜在意識に影響して、自分のボールが自分の得点になる、相手のエリア……に着地しないようになるのか?
* * *
「はずせ」と思ったかどうかが、すべてを決定してしまうような思考になっているけど、実際には「はずせ」と思ったか、あるいは、「はいれ」と思ったかということは、たくさんあることのうちの、ひとつにしかすぎない。
そのまえに、いろいろと条件が成り立っているのである。
たとえば、その有名なゴルファーは、小さいときから、ゴルフをやっていたのである。
小さいときから、ゴルフができる環境のなかで、育った人なんて、どれだけいるんだよ?
親がゴルファーだとか、親がすごい金持ちなら、こどもに小さいときから、ゴルフをさせることができるけど、普通の親は、こどもに小さいときから、ゴルフをさせるなんてことはできない。
もう、うまれた時点で、小さいときからゴルフができる環境と、小さいときからゴルフができない環境にわかれている。
その有名なプロゴルファーは、小さいときから、ゴルフが、できる環境のなかで育った……。これだけで、有利な条件をもっていたということなのである。
条件に差がある。
中年になってから、ゴルフを始めた人が、「はいれ」と思うか「はずせ」と思うかということは、この条件の差にくらべたら、たいした差ではないのである。
相手がパットをしたとき、自分が「はいれ」と思うか、自分が「はずせ」と思うかの差だから、重要な行為の主体は、自分ではない。
相手がパットをするときに、はずすかはずさないかということは、相手が決めることだ。
相手がうまくやれば、はいるし、相手がうまくできなければ、はいらない。
なので、『自分』が思うかどうかの、魔法的な力は、相手には及ばない。
ガンリョクを飛ばして、はいるはずのボールをはずすとか、ガンリョクを飛ばして、はいらないたまをはいるようにするということはできない。
ガンリョクというのは、いちおう、目のチカラということにしておく。超能力者ではないからできない。
ところが、ただひとつ、自分が「はいれ」と思うかどうか……自分が「はずせ」と思うかどうかが、強烈に、勝負の結果に影響をあたえるのである。
こんなのはない。
一度でも「はずせ」とネガティブなことを思うと、そのネガティブなことが、魔法的な力によって、あるいは、潜在意識によって、自分に影響を与え続けて、ずっとずっとずっと、はずすようになってしまうのである。
ならば、どうやって、プロの選手になったのか?
はずして、プロの選手になれないのではないか。
「はずせ」と思うと、自分もはずすようになるというのであれば、一度は、はずせと思ったわけなのである。
まあ、ともかく、中年になってから、ゴルフを始めた人と、小さいときからゴルフを始めた人のあいだには、環境の差が、まずある。
ゴルフで勝つ……。才能が必要だろ。才能のなかには、身体能力がはいっているとする。
ゴルフをやってきた期間の長さ……。小さいときから、ほかの子供に、ゴルフの勝負で勝ってきたという、経験……。こういうものを全部無視して、「はずせ」と思うか、「はいれ」と思うかだけが、「はいるかどうか」に影響をあたえていると言うのである。
相手が打つとき、自分が「はずせ」と思うか、「はいれ」と思うかは、この話の焦点になっている。焦点になってること以外は、まるで、自分の勝敗に影響をあたえないような印象をあたえる。
そういう話になっている。
けど、小さいときからゴルフをやれる環境だったんでしょ!
おなじように、そういうレアな環境のなかにいる子供のなかで、ほかの子供よりも、ゴルフの才能があるから、ほかの子供に勝ったんでしょ。ときにはまけたかもしれないけど、プロを目指せるほどの才能があったんでしょ。そこらへんの人とはぜんぜんちがうじゃないか。
中年からゴルフを始めた人が、相手がパットを打つとき「はずせ」と思ったことがある。だから、その中年は、ゴルフの試合でまけ続けるのか?
ちがうでしょ。
その中年にゴルフの才能がなく、ゴルフをする時間も短いから、まけるんでしょ。
まるで、相手がパットを打つときに、その中年が「はいれ」と思えば、その中年が、ゴルフで勝てるような話になっている。
どうしてかというと、こころがけの問題になってしまっているからだ。
相手がパットを打つとき「はいれ」と思うような、こころがけのいい人は、最終的に試合に勝って、相手がパットをするときに「はいるな」「はずせ」と思うようなこころがけの悪い人は、最終的に試合にまけるというような話になっているからだ。
いやー……。相手がパットを打つときに「はいるな」「はずせ」と思ったとしても、試合に勝てる場合はあるでしょ。相手がパットを打つときに「はいれ」と思っても、試合にまける場合はあるでしょう。
どうして、「はいるな」「はずせ」と思うような性格の悪い人は、勝負に勝てず、「はいれ」と思うような性格がいい人は勝負に勝てるという話になっているのか?
* * *
これも、一種の洗脳なんだよ。こういう話の一番、重要なところは、『条件を無視する』ということだ。条件を無視させたいのである。所与の条件ではなくて、こころがけが、結果を決めると、嘘の話をでっちあげて、普通の人にそう思わせようとしているのである。
普通の人は、感心している場合じゃないのである。彼らが、普通の人をどこにつれていこうとしているのか、感じとらなければならない。
ほんとうは、条件が重要なのに、「こころがけ」の話になっている。まけているやつは、相手がパットを打つときに「はずせ」と思うような悪い性格をしているから、まけているのだ……という印象をあたえようとしている。勝っている人は、相手がパットを打つときに「はいれ」と念じるようないい性格をしているから、勝っているというような印象をあたえようとしている。
* * *
「はいれ」と念じると、はいって、「はずれろ」と念じると、はずれる……ということは、じつは、言ってない。けど、あたかも、そのように言っているような効果がある。「はいれ」とか「はずれろ」というのは、相手に対する自分の行為なのである。
パット自体は、相手の行為なのである。自分がパットをするときに、はずれるようになるという話なのだから、実際には、念じるかどうかは、相手のパットには影響をあたえない。
その行為が、影響をあたえるのは、自分のパットなのである。
だから、物理的なことには影響をあたえず、自分の精神に影響をあたえるということになっている。
自分の精神に影響をあたえるから、自分の行為(パット)に影響をあたえるということになる。念じることが、物理的に直接、パットに影響をあたえているわけではないのである。
ところが、あたかも、自分が「はずれろ」と念じると、相手がパットをはずすというようなことが、話の前提になっている。なので、そういうふうに言ってはいないのだけど、なんとなく、そういう話をつたえてしまう。
幼児的万能感が強い人は、ただ、間接的に言われただけでも……つまり、前提にそういう話があることを言われただけでも、そうなのだと確信してしまう。自分の気持ちが、外界に直接影響をあたえるという考え方を強化してしまう。
* * *
自分は、相手がパットをするとき、「はずせ」と思ったことがあるので、人間としてまだまだだ……と思ってしまうのである。一流の人は、「はずせ」と思わず「はいれ」と思う。
プロゴルファーになれるのかどうかということは、そういうことが影響していると思ってしまうのだ。ところが、プロゴルファーになれるかどうかというのは、環境が影響している。
たとえばの話だけど、そのこころがけのいいプロゴルファーとおなじだけの才能をもっていた人がいるとする。けど、その人は、ゴルフができるような環境にうまれなかった。生涯で一度も、ゴルフをしたことがない。
そういう人が、プロゴルファーになれるのか?
なれない。
小さいときからゴルフができるような裕福なうちの子供としてうまれた……。ゴルフなんて、まったく縁がない普通のうちの子供として、うまれた……。おなじ才能があったとしても、結果はまったくちがってくる。
これは、こころがけの問題じゃない。
相手がパットを打つときに、自分がどう思うかの問題じゃない。
ところが、環境の差は、ガン無視して、相手がパットを打つときに、自分がどう思うかの問題にしてしまうのである。つまり、こころがけの問題にしてしまうのである。
なんで、環境をガン無視するのか?
環境というのは、条件の複合体だ。環境を無視するということは、条件を無視するということなのである。
生まれながらの条件の差は、なんだろうが無視して、ちょっとしたこころがけの差が結果を決めるということになってしまっている!
条件の問題が、こころがけの問題にシフトしてしまっている。
条件の問題が、こころがけの問題にすりかえられている。
才能の差というのは、いってみれば、個体の「条件の差」だ。個体の「条件の差」は、結果に大きな大きな、影響をあたえる。ところが、個体の「条件の差」を無視して、「こころがけ」の問題にしてしまう。これは、努力論でも、説明したことだ。
才能があるのかどうかという差と、うまれた家の差と、どっちが重要なのかというと、じつは、うまれた家の差のほうがより重要だ。
これは、環境か才能かという問題なのだけど、けっこう説明するとなると、むずかしいことなのだ。
才能には幅があって、環境がそれをおしだすというようなイメージが一番、現実をうまく説明できる。これは、むかし、書いたのだけど、公開しなかった投稿のなかで、説明している。
プロゴルファーになるような才能があったとしても、ゴルフができるような環境がなかったら、プロゴルファーにはなれない。こういう点では、環境のほうが重要だ。
ならば、プロゴルファーになるほどの才能がない人が、めぐまれた環境のなかで、ゴルフの練習をするとプロゴルファーになれるのかというとなれない。こういう点では、才能のほうが重要だ。
両方をうまく説明できるモデルが、ぼくの頭のなかにある。
* * *
Aさんと、Bさんがテニスの試合をしているとする。Aさんが、ボールを打って、Bさんのコートにボールが着地した。着地した瞬間、Bさんが「はいれ」と思った。着地したあと、ボールがはずんで、Bさんのまえを通過した。Aさんに得点がはいった。その結果、Bさんが勝った……。
こんなのはおかしいだろ。
Aさんが打ったボールを、Bさんが「はいれ」と念じたから、Bさんが勝った。Aさんが勝ったならわかるけど、Bさんが勝つのだからおかしい。
逆に、Bさんが「はいるな」と思えば、Bさんが負けるのである。
Aさんが打つとき、Bさんが、「はいれ」と思うと、Bさんが勝って、Aさんが打つとき、Bさんが「はいるな」と思うと、Bさんがまける。Aさんが打ったボールが、Bさんのコートに着地するときの話だ。
おかしいだろ。
Bさんが一度でも「はいるな」と思うと、それが潜在意識に影響をあたえ続けて、それ以降、Bさんが打つときも、Bさんのボールが、Aさんのコート(Bさんの得点エリア)にはいらなくなってしまうというのが、こういうことを言う人たちの理論だ。
いや、普通に、Bさんが「はいるな」と思ったあとも、Bさんは、自分のボールをAさんのコート(Bさんの得点エリア)にいれようするでしょ。そして、実際、いれられる。
潜在意識の影響をうけないまま、勝つための行動をするでしょ。そうじゃないと、試合が成り立たない。
Aさんも、Bさんも、プロのテニスプレーヤーだとする。Bさんはどうやって、プロになったんだよ?
試合に勝ってきたから、プロになったんでしょ。相手のコートにボールをぶち込んできたから、プロになったんでしょ。何回も何回も試合のとき「はいるな」と思ってきたんでしょ。ようするに、相手のボールが自分のコート(相手の得点エリア)にはいらないでくれ、と思うことは、何回も何回もあったはずだ。
けど、普通に、そのあと試合を続けている。「はいるな」と一回、思ったから、そのあと、自分が相手のコートにボールをいれられなくなった……。これじゃ、まけてしまうわけだ。勝てない。
相手のボールが自分のコートに「はいるな」と思ったあとも、普通に試合を続けている。
ようするに、相手のコートに自分のボールをいれたということだ。
「はいるな」と思ってしまった、のろいのようなものは、発生してない。「はいるな」という言葉をこころのなかで言ったことによってしょうじる潜在意識の影響をうけずに行動している。
「はいるな」と思ったから、自分のボールもはいらなくなる……ということは、発生しなかった。一度でも、相手のボールに対して、はいるなと思うと、自分のボールがはいらなくなる……カルト思考だ。相手のボールというのは、相手が打ったボールということだ。
だいたい、「潜在意識は自分と他人の区別がつかない」とか「潜在意識は、主語を区別しない」とかというような前提がおかしい。
けど、これ、精神世界の話では、よく出てくる話なんだよ。似非科学なのだけど、科学的実験で確認されたというようなことが、語られる。
だから、精神世界の話をする人にとっては、これらは、正しいことなのである。これらというのは、「潜在意識は自分と他人の区別がつかない」とか「潜在意識は、主語を区別しない」とかということだ。
* * *
相手がサーブを打つとき、相手のボールが自分のコートにはいれと、念じるから、プロのテニスプレーヤーになった。相手がサーブを打つとき、相手のボールが自分のコートにはいるなと念じたから、自分がサーブをするときも、相手のコートにいれられなくなって、相手ににまける。……こんなの、おかしいでしょ。
テニスにしたって、環境がある。小さいときからテニスをやれる環境とやれない環境がある。特殊な人は、高校生ぐらいから、テニスを始めて、プロになれるかもしれない。
けど、たいていのプロは、小さいときからテニスをやってきた連中だよ。
これも、才能とか環境といった、特別に重要なことは無視して、「相手のボールが自分のコートにはいるなと念じた」かどうかということが、勝ち負けを決めると言うのか?
だいたい、たとえば、精神世界の人だって、すごい人が(謙虚なこと)を言ったから、すごいと思っているだけだ。精神世界の人がテニスをやっていたとして、自分よりへたくそなやつが、「相手のボールが自分のコートにはいれと(自分は)念じるんですよ」と言ったら、どう思うのか?
精神世界の人だって、「こいつは、あほだ」と思っておしまいだろ。精神世界の人だって、感心しない。精神世界の人だって、「そんなことを言っているからおまえは弱いんだよ」と思っておしまいだ。
特別にうまい人が、普通の人が言わないようなことを言うから、すごいと思うだけなんだよ。自分よりへたくそな人が、普通の人が言わないようなことを言ったら、どう思うんだよ?
特別にうまい人が、謙虚なことを言うから、すごいと思うだけなんだよ。自分よりへたくそな人が謙虚なことを言ったら、どう思うんだよ?
精神世界の人も、普段は、そういうレベルの思考しかしてない。ようするに、自分を中心とした、相手の立場というものが、暗黙知のように作用して、「判断」に影響をあたえているのだ。
そして、こういう「いい話」は、立場の比較優位、立場の比較劣位ということを無視している。「いい話」が成り立っている条件というものがある。それを語っている人がだれなのかということも、重要な条件のひとつだ。
現実の場面では、じつは、自分を中心とした比較優位と比較劣位の関係が成り立っていて、その関係が(主体者)の判断を決めてしまうところがある。主体者の判断というのは、ようするに、自分の判断ということだ。感想とか考えとかそういうものは、じつは、その場面にうめこまれた、さまざまな関係の影響をうける。
いっぽう、話を聴く場合は、「話を聴く」という意味で、 さまざまな関係の影響をうけている。しかし、話のなかの人物関係は、抽象的に固定されている。なので、その話の内容を現実の場面に適応しようとしても、なかなかうまくいかないということになる。
これは、予想に反して、じつは、「そういうことにならない」ことが多いということだ。
「いい話」を聴いて、感動したことを、実際の場面で実行すると、話通りにはならないことが多い。「いい話」をする人は、積極的に、環境や才能を無視して、へんな現実について空想的なことを語る。
そして、「いい話」のなかの固定された人間関係に対する主体側の抽象的な認知と、実際の人間関係に対する主体側の現実的な認知はちがうので、その点でも、話通りにはならないことが多い。
ヘビメタ騒音で頭のなか、めちゃくちゃでも、あの子と、短い期間でも、つきあったほうがよかったなぁ。もう、ヘビメタ騒音関係のことでもめるのが見えるんだよな。見えていた。「ちゃんとしてくれ」というようなことを言われるのが、いやだった。最初のころはともかく、ずっとつきあっていれば、絶対に言ってくると思うんだよな。でっ、そういうことを言われるのがいやだったというのもある。けど、リアルで、ほんとうに、人と会うときの気分が、ヘビメタ騒音で、めちゃくちゃなんだよ。ほかの人と会っているときでも、ヘビメタ騒音の不安と、兄貴に対する怒りで、もう、頭のなかがめちゃくちゃなんだよ。ヘビメタ騒音の不安と言うのは、このまま鳴っていたら、ぼくの人生がないというような不安だ。けど、もう、あの子に会ったときには、どのみち、通学も通勤もできないからだになっていたので、あの時点で、「将来の予想」と言うよりも「いまの現実」という側面があった。不安に思っていたからそうなった……と思霊主義者は得意になって言うと思うけど、ちがうんだよ。そりゃ、一日目から、はげしい不安と、不満を感じるでしょ。きちがい兄貴のいいぶんが通って、俺の言い分が通らず、きちがい兄貴が、好きなだけ鳴らしていたのだから……。きちがい兄貴が鳴らしているあいだずっと、宿題ができなくてこまっていたわけだから……。そんなの、不安にならないわけがない。鳴ってから、不安になったんだよ。きちがい兄貴の態度が、ああだから、「このさきどうなるんだ」と一日目から不安になったんだよ。鳴るまえは、不安じゃなかったんだよ。
仮定の話なのだけど、ある人が、「タネ」の環境を操作できるとする。水や気温を一定にして、日光だけを、かえるとする。ようするに、日光の値だけをかえられるようにする。
一(いち)から一〇までの一〇段階を用意するとする。一の量だけ光を浴びると、タネは、一だけ育つとする。そして、一〇の量だけ光を浴びると、タネは、一〇だけ育つとする。五の量だけ光を浴びると、タネは、五だけ育つとする。
ようするに、日光の値だけ、育つということにする。
よく育ったほうが、いいとする。
そのとき、日光量という条件を無視して、タネのこころがけの問題で、育ちかたが決まるということを、言ったとする。タネが、言うのである。まあ、擬人化して説明する。「育つぞ」「幹をのばすぞ」「枝をのばすぞ」「どこまでも成長するぞ」と明るいことを考えたタネが、実際に育っている……ということを言うのだ。
実際には、日光の量が育ち方を決定しているのだけど、タネのこころがけが、育ち方のちがいをつくりだすということを、言うタネが出てくる。
その場合、そのことを信じた普通のタネから見たら、現実は、そういうふうに見える。「明るいことを考えたタネは、よく育って、暗いことを考えたタネは、育たない」というようなことを、自分で考えて、言うようになる。
その場合、事実、一〇まで育っていれば、それは、明るいことを考えた結果だということになってしまうのである。事実一までしか育っていなければ、暗いことを考えた結果だということになってしまうのである。
ようするに、タネのネガティブな性格が、一しか伸びないような結果をつくったと……普通のタネが判断するようになる。
実際に、一しかのびなかったら、それは、そのタネが、暗いことを考えたからいけないのだということになってしまう。実際に、一しかのびなかったら、それは、そのタネがネガティブな性格だから、一しかのびないのだということになってしまう。
そういうふうに言う普通のタネから見ると、そういうふうに見えるのだ。
けど、実際には、日光の量が育ちかたを決定している。そうなると、条件がわるいタネは、必然的に、性格がわるいということになって、条件がいいタネは、必然的に性格がいいということになってしまう。
日光の条件ではなくて、性格が、のびる量を決定しているということになってしまう。
けど、そのまちがった判断をするタネは、実際の差を、性格の差に言いかえただけなのだ。
日光量の結果としてできた差を、日光量の差だとは知らずに、性格の差だと思い込んで、現実を説明しはじめるのである。
因果関係を逆にして説明する場合、実際の差を、性格の差に言い換えてしまう。隠れたほんとうの原因を無視して、因果関係を逆にして説明すると、実際の差を、性格の差に言い換えてしまう。
性格がいいからのびた。性格がわるいからのびなかった。このように、決めつけてしまう。そういう見方を採用してしまう。
現実を見たあと、「一しかのびないやつは、一しか伸びないような性格をしているから一しかのびないのだ」と説明してしまう。判断して、決めつけてしまう。
けど、そのタネはまちがっている。
どうしてかというと、実際の差は、日光量が決定しているからだ。日光量が決定した差を、「性格の差」として認識して、日光量の条件がわるいほうに、「性格がわるい」という要因を付与して、日光条件のいいほうに、「性格がいい」という要因を付与してしまうのである。
これはまちがったことなのだけど、日光量が育ち方を決定しているということを、知りえないタネは、結果から、内なる原因を考え出し、内なる原因の差が、結果の差をつくったと(逆向きの)説明をしてしまうのである。
だから、そう思っているタネからすれば、実際にのびなかったタネは、性格がわるいタネだということになってしまうのである。
そのタネの頭のなかでは、実際にのびたタネは、性格がいいタネだということになってしまうのである。
本当は、日光量という条件が差をつくりだしているのだけど、そういう考えをうけいれたタネは、それがわからず、性格のいいタネがのびて、性格のわるいタネがのびないということを……自分で考えて……言いだす。
そして、実際には日光量がたりないだけのタネに、「性格がわるいから、のびないのだ」「ネガティブな性格だから、のびないのだ」と言ってしまう。ようするに、結果の「写し絵」が、性格の悪さやよさを表現していると決めつけてしまうようになるのだ。
育つ量が、一なら、性格がわるいから一しか伸びないと決めつけてしまうのだけど、それは、実際に一しか伸びてないから、一しか伸びない性格をしていると、決めつけるということだ。
実際に、悪い結果の人は、悪い性格をしているからそうなったのだと思うようになるのだ。結果の量と、性格の量が一致していると思うようになるのだ。性格がわるいから、結果がわるいと思うようになるのだ。
一のタネは、一の性格だから、一しか伸びない。一〇のタネは、一〇の性格だから、一〇ものびる。性格がわるいから一しか伸びない。性格がいいから、一〇も、のびる。性格というのは、「こころがけ」でもいい。
こころがけが一〇だけいいタネは、一〇になり、こころがけが一しかよくないタネは、一になる……というような考え方が、そういう考えをうけいれたタネのなかに育ってしまう。
そういう考えをうけれたタネは、自分が一だろうが、五だろうが、七だろうが、そう思うようになっている。思考法が、そういう思考法だからそういうふうに思うわけだ。
たとえば、「いいことを思えば、いいことがある」「明るいことを思えば明るいことがある」「努力をすれば、成功する」といった、一見よさそうなことが、じつは、そういうろくでもない「まちがった思考法」にむすびつくのだ。
「いいことを思えば、いいことがある」「明るいことを思えば明るいことがある」「努力をすれば、成功する」という一見、ポジティブに見える文言が導き出すことは、じつは、「一の人は、一の性格だから、一しか伸びない」とか「一の人は性格がわるいから、一しかのびない」といった、偏見でしかない。
こっちが本体だ。
ようするに、「いいことを思えば、いいことがある」「明るいことを思えば明るいことがある」「努力をすれば、成功する」ということを、はやらせている側が、ゴールにしているのは、こっちだ。
ようするに、「いいことを思えば、いいことがある」「明るいことを思えば明るいことがある」「努力をすれば、成功する」と人に思わせる側が、やりたいことは、「一の人は、一の性格だから、一しか伸びない」「一の人は性格がわるいから、一しかのびない」と人に思わせることだ。
最初から、「性格がわるい人は、地位が低い」とか、「性格がわるい人は、性格がわるいから成功しない」ということを言うのではなくて、一見、正しそうな、ポジティブなことを言うことによって、「性格がわるい人は、地位が低い」とか「性格がわるい人は、性格がわるいから成功しない」という結論を、人に導きださせるようにしているのだ。
そういうふうに洗脳された人というのは、……自分で考えて……そういう感じ方(考え方)を、真実だと思ったわけで、洗脳されたとは思ってない。
けど、この人たちは、洗脳された人たちだ。
洗脳するほうのゴールは、「性格がわるい人は、地位が低い」とか「地位が低い人は、性格がわるい」とか「性格がわるい人は、性格がわるいから成功しない」とかというようなネガティブな思い込みを人のこころに育てることだ。
全部とは言わないけど、条件の写し絵になってしまっているところがあるのだ。
問題は、条件なのに、悪い性格が条件をもたらしたということを言いだす人たちがいることだ。
精神世界の人たちの多くがそういう思考法に「ならされている」し、普通の人たちも、そういう思考法に「ならされている」。もちろん、全員ではない。そういう思考法になれている人たちがいるということだ。
もう、何回も言っているけど、別にのび太が、悪いことを考えたから、結果として、ジャイアンがなぐってくるわけではないのである。ジャイアンがなぐってきたので、暗い気持ちになったのである。
のび太が、ジャイアンになぐられて、多くの人たちにとって、「愚痴」と判断されることを言ったとする。ジャイアンがなぐってくる頻度があがれば、のび太が「愚痴」を言う頻度もあがる。
もちろん、それは、「愚痴だ」と判断した人たちが、愚痴だと思っているだけなのかもしれない。ともかく、「愚痴だ」と判断した人たちは、のび太が愚痴を言うような、悪い性格だと決めつけてしまうのだ。
そして、愚痴を言う「から」ネガティブなことが発生すると言い出す。
ようするに、愚痴を言いやすい性格なので、ジャイアンがなぐってくるのだということを、間接的に、言うのである。
この、因果関係を逆転させた、あとだしジャンケン思考というのは、なにも、精神世界の人たちのものだけではない。普通の人も、普通にそうしている。
ようするに、悪い条件からうまれた結果を、悪い条件をもたらしたほうではなくて、悪い条件にやられたほうの「性格」の問題にすりかえてしまうのだ。
愚痴を言うような悪い性格だから、なぐられる……。なぐられるというようなネガティブなこと・暗いことが発生するのだということを言う。
これは、悪い条件の写し絵だ。
悪い条件によって発生したことを、じつは、判断するほうが「ネガティブなこと」だと判断して、「ネガティブなことを言うから、実際にネガティブなことが発生するのだと決めつけてしまう。
のび太が、愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言いたくなるようなことをひきよせている……という言い方になる。
いま、暇なわけだから、部屋片づけをすればいいのに、部屋片づけはやる気になれないのだよね。いろいろ、学生時代のくやしい思い出などが、うかんでくる。朝は、特にそうなる。長期騒音で、めちゃくちゃだから、ヘビメタ騒音の結果どうしてもしょうじることで、人から下に見られて、くやしい思いをするのである。ヘビメタ騒音さえなければ、本当にそんなことになってない。俺は、そいつよりも、頭がいいし、できる。ヘビメタ騒音さえなければ……。「キョロ充」のそいつは、俺に、うやうやしく接していたはずなのだ。俺の友達には、(そいつは)そういう態度だった。たとえば、「ヘビメタ騒音さえなければ……」というような発言自体が、きらわれるようなことなのだけど、じゃあ、言わないで、死んでもいいのかというと、ちがうんだよね。言わないで、ヘビメタ騒音にたえたとしても、ほかの人から、悪く言われる。ヘビメタ騒音というのは、そういうものなんだよ。
きちがいヘビメタがない状態なら、「きちがいヘビメタさえなければ」なんて絶対に言わないわけだよ。そして、「きちがいヘビメタさえなければ……」というぼくの発言を、いいわけだと考える人たちだって、ぼくが言わないわけだから、そうは考えないわけだよ。ヘビメタ騒音の大きさ、ヘビメタ騒音の影響の大きさにかんして、ほかの人は、勘違いをしている。たえられるようなちょっとした、騒音だと思っている。不愉快だけど、そんなには、生活を破壊しない騒音だと思っている。不愉快だけど、能力をさげるような騒音だとは思ってないのだ。ところが、ものすごくでかい影響なんだよ。きちがい兄貴は、影響をガン無視して、ほかの人の家では、ありえないことを、頑固に、すべての時間を使って、やったんだよ。一日に24時間鳴らしてなければ、すべての時間を使ってやったことにならない……というわけではないんだよ。可能な時間はすべて使ってやった。そして、融通をきかせて、しずかにしてやるということを一切合切しなかった。融通をきかせて、こっちが、ピンチなときは、しずかにしてくれた……。融通をきかせて、たいせつな試験のまえはしずかにしてくれた……そんなことはないのだ。
がんがん鳴らしている態度というのは、むかつくけど、一切合切融通が利かない態度というのが、もっとむかつくのだ。きちがい兄貴が、俺に不名誉な思いをさせている。きちがい兄貴が、条例に違反するような違法行為をしている。きちがい兄貴が、普通の人が鳴らさないような音で鳴らしている。……普通の人が鳴らさないような音で鳴らしているので、普通の人は、そういう音がずっと鳴っている状態を「家で!」経験したことがない。言えば、しずかにしてくれるからだ。だから、「家で!!」……普通のうちでは絶対になってないようなでかい音がずっと鳴っている状態……を、経験したことがない。経験したことがないから、それがもたらす影響について、完全に、勘違いしている。想像で、「うるさいんだろうなぁ」と考える場合の影響と、実際にやられているときの影響……実際にやられたあとの影響は、ちがうんだよ。
「ヘビメタ騒音がなければ、宿題をすることができた」……普通の人は、いいわけをしていると思うのわけだけど、ぼくは、事実を言っているだけなんだよ。ほんとうに、ヘビメタ騒音がなければ、宿題ができたんだよ。けど、ほかの人にとっては、「ほんとうにできたのかどうか」というのは、たいして重要じゃないんだよ。たいしてというか、まったくまったく、重要じゃないんだよ。重要?なのは、あるいは、記憶に残るのは、エイリが「いいわけをした」ということなんだよ。
ほんとうに、そうなのに、いいわけをしたと思われるのは、いいことじゃない。それも、くやしいことだ。だから、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、よその家では絶対にならほないようなでかい音で、本人がやりたい時間を、すべて使ってやるとなると、問題がしょうじる。宿題ができないという問題。ヘビメタ騒音下で宿題ができないということを他人が認めないという問題。ヘビメタ騒音下で宿題ができないということを他人が認めないまま、俺を見下すという問題。兄貴にしずかにしてと言えばいいのに、そんなこともできないのかと考えて、俺を見下すという問題。他人は、別に、きちがいヘビメタ騒音を排除してくれるわけではない。きちがい兄貴による、きちがい的なヘビメタ騒音という問題を解決してくれるわけではない。宿題ができるようにしてくれるわけではない。「そんなのは、家で解決しろ」「そんなのは、家族なんだから、家族で解決すればいいだろ」と思うのだ。ようするに、ほんとうに、ヘビメタ騒音がなければ、宿題ができるようになるのかどうかというのは、別に……他人にとっては問題ではないのだ。問題なのは、エイリが実際に、宿題をやってこなかったということだ。そして、「ヘビメタ騒音がなければ宿題はできた」とエイリがいいわけをしているということだ。他人は、単なるいいわけだと考えるわけだから、いいわけをしていると思うわけで、そう思っているやつは、エイリは言い訳をしていると思っている。事実であれば、いいわけではない……そんなことは、考えない。事実だろうが、事実でなかろうが、ともかく、言い訳をしたと思うわけだ。そして、言い分けは、ネガティブなことだから……ネガティブなことだと認識されているので……俺が、「ネガティブなことをした」「ネガティブな発言をした」と思うわけだ。いいわけが、ネガティブなことだと認識している主体は、実際にいきている多くの人だ。
なにを楽しみして生きていけばよいのか? 楽しみがない。楽しみなんてものは、無理やり作るものではない。無理やり作った楽しみで、楽しめるか? 楽しめるわけがないだろ。人生のなかでの自然な、ながれ、というのがあるんだよ。運が悪いと、「お楽しみ回路」を破壊される。たとえば、長時間、長期間の騒音で、お楽しみ回路は破壊される。破壊されたお楽しみ回路はもとには、もどらない。
みんなわかってないことだけど、ほんとうに、長くつもると、やりようがないことになる。きちがい兄貴の態度だと、最初から、やりようがないことになって、一日がつぶれてしまうのだけど、長く続くと、ほんとうにやりようがない状態になる。これ、ものすごいマイナスなんだよ。だいたい、がまんして部屋にいるときの俺の状態が、わかってない人はわからない。実際に、自分がこの世で一番嫌いな音が、あの音のでかさで、至近距離で鳴っているということが、どういうことなのかということが、みんなわかってない。それこそ、振動を感じている。とてつもなく、不愉快な音なんだよ。耳を両手でちからいっぱいふさいでも、がんがんがんがん、耳から入ってくるような音なんだよ。からだじゅうが、発狂しているような状態なんだよ。これは、残業でくるしいとか、そういう状態ではない。ちがうんだよ。きちがい家族の騒音というのはちがうんだよ。きちがい感覚が成り立っているわけだから、頭にくるんだよ。
鳴らされてから、時間がたつと、鳴らされた人にしかわからないような、「言いようのない効果」が体や人生にあらわれてくるんだよ。これ、ほんとうに、言いようがない。「そんなことまで、関係があるわけがない」と普通の人が思うようなことが、ヘビメタ騒音の結果、しょうじる。これも、さけようがないことなのである。いやな体験なのである。めちゃくちゃに不愉快な経験が、どうしても、しょうじるのである。騒音というと、鳴っているときだけ問題があるように感じるかもしれないけど、長い期間鳴らされると、結果がてしまうわけだから、いろいろなところに影響をおよぼすのである。そのひとつが、人間関係だ。
ある日、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的にでかい音で、きちがいヘビメタを鳴らし始めたのに、みんな、俺のことを悪く言う。
俺のほうに落ち度があるからそうなったと言うのだ。影響をうけないことは可能なのに影響をうけたからダメなんだと言うのだ。
こんなのは、ない。
彼らには、きちがい家族による、きちがい的な騒音というハンディがない。彼らには、きちがい家族による、きちがい的な騒音という条件がない。ぼくにはある『条件』が、彼らにはない。
もちろん、彼らにはある条件が、ぼくにはないということはある。彼らには、ぼくにはない「マイナスの条件」があるかもしれない。まあ、おなじ環境の人はいないので「あるかもしれない」のではなくて、「ある」のだろう。
しかし、彼らにだって、マイナスの条件があるのだから、「おなじだ」ということにはならないのである。どうしてかというと、『条件』それ自体がちがうからだ。
ものすごく影響をあたえる条件とそんなには影響をあたえない条件がある。
条件という場合、条件自体に含まれているけど、持続期間という条件だって、影響をあたえる。
ひとくちに騒音といっても、どういう質の、どういう音量の騒音が鳴っていたのか? ということは、非常に重要なことだ。
そして、騒音の持続時間や、騒音の持続期間というのも、非常に重要なことだ。騒音の持続時間というのは、一日のなかでの騒音の持続時間のことだ。騒音の持続期間というのは、人生のなかでその騒音が鳴っていた期間のことだ。
人生のなかで、その騒音が毎日鳴っていたのか、それとも、平日だけ鳴っていたのか、日曜日だけ鳴っていたのかということも重要だ。これは、騒音の頻度ということにしよう。
ともかく、騒音の質、騒音の音量、騒音の持続時間、騒音の持続期間、騒音の頻度がちがえば、ちがう条件が成り立っていたということになる。
この場合は、『騒音の条件』ということになるだろう。
Aさんの家でも、騒音が鳴っていた。Bさんの家でも騒音が鳴っていた。だから、「おなじだ」と言えるのかどうか。おなじとは言えない。言えないのに、「おなじだ」と言ってしまう人たちがいる。たくさん、いる。
その人たちはみんな、口をそろえて「自分だって、騒音ぐらいあった」と言うのだ。「自分だって、騒音ぐらいあった」とひとこと言えば、騒音の質を問わずに、おなじぐらいの騒音があったというとになってしまうのである。
「騒音」ではなくて、「苦労」でもおなじだ。
「自分だって、苦労した」とひとこと言えば、苦労の質を問わずに、おなじぐらいの苦労をしたというとになってしまうのである。
けど、これは、誤解だ。まちがいだ。まちがった認識に立ってものを言っている。
どういう苦労がしょうじたのかということは、根本的に大きな問題なのである。苦労という抽象度の高い言葉で、「苦労した」と語れば、それで、根本的なちがいが、なくなるわけではない。
ところが、「根本的なちがいがなくなった」と誤解して、「根本的なちがいはない」という前提で、いろいろなことを言いだすのだ。
* * *
はっきり言ってしまうと、「条件なんて関係がない」と言ってしまう人は、たいした苦労をしてないんじゃないかと思う。
ものすごい苦労をした人が、そんなことを言うとは、思えない。
「過去なんて関係がない」と言う場合もおなじだ。
過去において、とてつもなくひどい条件下で暮らした人が、「過去なんて関係がない」と言うとは、思えない。
まあ、その人たちだって、ぼくが経験してない苦労をしたということは、言える。
あることにかんしては、ぼくのほうが条件がよくて、彼らのほうが条件が悪かった。……こういうことだって、当然ある。
けど、条件の質は、重要なんだよ。どういうことにかんして、どういう条件が成立しているのかということは、非常に重要だ。
無視していいわけがない。「関係がない」なんて、とてもじゃないけど、言えない。
寝る前は、ボロボロだったけど、睡眠でたしょう……復活した。たしょうなんだけど、ともかく、ちょっとは復活したよ。
しかし、完全復活ではない。完全復活というのは、ヘビメタ騒音のまえの、普通の状態になることだ。
ヘビメタ騒音のまえ、眠ったあと、どれだけ復活できたか?
そりゃ、もう、フル充電だよ。けど、いまは、眠っても、たいして充電できないんだよ。これが問題だ。そうなったのは、ヘビメタ騒音が原因だ。
しかし、ほかの人にはヘビメタ騒音がないので、実際には、俺がどういう状態なのかわからないと思うだよな。普通の人というのは、よっぽど歳をとっていなければ、フル充電できる。けっこう歳をとっていても、だいたい、八割ぐらいは、充電できるんじゃないかな。
病気を抱えていると、やっぱり、一割ぐらいしか充電できないような状態になるかもしれない。
けど、俺は、ヘビメタ騒音が、じつは一一(じゅういち)歳からはじまったので、わかいときから、一割ぐらいしか充電できない状態で生きている。
本当は、条件の格差が現実を構成している。しかし、頭のなかだけは、お花畑にできるのである。しかし、お花畑にしているあいだ、じつは、条件の格差を反映した現実が続くのである。実際には、条件を反映したハンディがある。
条件の格差が、その個人の現実を繰り出してしまう。
しかし、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」「言えば言ったことが現実化する」「引き寄せればよい」ということを言って、一時的に、夢を見させる。
これは、麻薬みたいなものだ。
一時的に、幻影を見せるのだ。一時的に、現実のくるしさをやわらげてくれる。
なので、そういう話を聴いたときは、いかにもそういう話が正しいという感じがする。「思えばかえられる」「言えばかえられる」「引き寄せればかえられる」……こういうふう思って、現実の世界でそういうことができそうな感じがする。
けど、実際には、「ウン・コロコロアップ」のおまじないとおなじように、効果がないのである。じゃあ、嘘を言っている人たちはどうして嘘を言うのかというと、ひとつには、その人たちが儲けたいからで、もうひとつは、黒側のシステムに貢献したいからなのである。黒側というのは、支配者が側の悪い集団だと思っていい。
条件の格差に、目をむけさせないことが、第一の目標なのである。
そのために、そういう考えをはやらせる。そういう考えをはやらせるための実行部隊が、宗教集団であり芸能人でありインフルエンサーだ。おまじない系のことが正しいこととして流通しているあいだ、現実は、格差によって構成され続けるのである。
現実を構成しているのは、ほんとうは、格差なのだ。
ところが、絶対にそれに気がつかないように「夢」をあたえているのである。
「明るいことを考えれば明るいことが起こる」「言えば言ったことが現実化する」「引き寄せればよい」と思いながらも、満員電車に乗って通勤しているのは、そういう条件が成り立っているからなのである。
言えば、言っただけで、現実をかえることができるのに、どうして、満員電車に乗って通勤しているのかという問題に目を向けたほうがいい。
満員電車に乗って通勤しないと生活ができない……という『条件』が成り立っているから、そうしているのである。満員電車にのって通勤しないと生活ができない……という『条件』があなたをして、そうさせているのである。
言えば、言っただけで、現実をかえることができるのに、どうして、満員電車に乗って通勤しているのか??
言えば、言っただけで、現実をかえることができるのに、どうして、三〇〇〇万円の金融資産をもってないのか。「明日には、三〇〇〇万円の金融資産が、ある状態になる」と言えば、明日には、三〇〇〇万円の金融資産がある状態になるはずなのである。
けど、そんなことを言ったって、三〇〇〇万円の金融資産ができるような具体的な理由がなければ、三〇〇〇万円の金融資産はできない。どうして、三〇〇〇万円の金融資産がない状態で働いているのかというと、そういう条件が成り立っているからなのである。
そして、その条件の差は、じつは生まれたときから、ある。
条件の差が現実を繰り出している。
言えば、言ったことが現実化すると言っているけど、言ったって、三〇〇〇万円の金融資産なんて、わいてこないじゃないか。三〇〇〇万円あると言えば、三〇〇〇万円ある状態になるんでしょ。だったら、言って、三〇〇〇万円ある状態をつくればいいでしょ。
けど、どれだけ言ったって、現実はかわらない。現実を構成している条件がかわらなければ、現実はかわらない。
ところが、その重要な条件を、すべて無視してしまうのである。
無視して、「言えば言ったことが現実化する」と言って、夢を語るのである。
「言えば言ったことが現実化する」と言って、夢を語る現実が続くだけなのである。
言えば言ったことが現実化するのだから、三〇〇〇万円なんて、現実的なことを言わないで、三〇〇〇兆円と言ってもいいのではないか。言ったところで、三〇〇〇兆円がわいて出てくるわけではないということを知っているから、そういうふうに言わないだけなのではないか。言ったところで、三〇〇〇兆円がわいて出てくるわけではないから、満員電車にのって、通勤しているのではないか。
なんで、突然「言えば言ったことが現実化する」「これは、絶対に正しい」という気分になってしまうのか? 洗脳されているんだよ。
条件とは関係なく、格差において『下(げ)』の人は、悪い性質をもっているということを、印象付けるように、している。洗脳担当者は、している。
格差において『下(げ)』の人は、悪い性質をもっているから、『下(げ)』なのだという考え方を、格差において『下(げ)』の人まで、みんなが、もつようにしているのである。
たとえば、嫉妬というのは、悪いことなのだけど、嫉妬深いという悪い性質が、格差において『下(げ)』である現実をつくりだすということにしてしまうのである。条件について口(くち)にする人は、みんな嫉妬しているから、格差において『下(げ)』なのであるということに、強制的にしてしまうのである。
だから、嫉妬深い人だとか、嫉妬をしやすい人だという悪い性格の人だと、他人に思われたくない人は、格差について言及しなくなる。そして、本人も、条件について口にする人は、みんな嫉妬しているから、格差において『下(げ)』なのであるという価値観をもつようになる。
条件の格差について言及する人は、だれであれ、嫉妬深い人で、嫉妬の感情で、格差について言及していると、考えるまでもなく、考えるようになってしまうのである。
また、すずしくなってきた。夕方になり、日がしずんだら、一気にすずしくなった。しかし、どうしたものだ? うーーん。まあ、レトロ雑誌を読んで、昔を懐かしむつもりが、昔を懐かしむこともできなかったというオチになった。まあ、見たってしかたがない。時間は、かえってこないからなぁ。雑誌に載っていた人たちにはあった、わかい時間が、ぼくにはなかったんだよね。ヘビメタ騒音で……。
そして、それがずっと影響をあたえている。体調が悪いのも、じつは、ベースにヘビメタ騒音の影響がある。たしかに、気温変動に弱くなったけど、それとは別の「だるさ」というのは、ヘビメタ騒音の影響なんだよ。わからないと思うけど……。「ない」人には、わからない。
きちがい的な意地でへんなものをおしつけて、相手がこまっているということを、きちがい的な意地でガン無視するというのは、きちがい親父の思考回路として普通にあることなんだよ。
特別なときに、特別に発生するようなことじゃないんだよ。
常にそうなんだよ。常に、こっちがこまる「こと」を、きちがい的な意地でおしつけてきたり、常に、こっちがこまる「もの」を、きちがい的な意地でおしつけてくる。きちがい的な頭の回路が、そうさせている。
で、きちがい的な頭の回路というのは、常に、そういうふうに機能しているんだよ。きちがい親父が、きちがい兄貴に、使えないハンダゴテをおしつけたというのがあるのだけど、それも、構造としてはまったくおなじなんだよ。
普通に使えるものを買ってやるということができなかった。だから、「使えない」ということを認めないのである。この認めないときの、発狂と、意地が、すごいのである。
へんな帽子をおしつけるときも、自分がゲットした帽子だから、「へんな帽子だから、かぶりたくない」と言われたら、発狂する。相手……この場合、俺が、そういうことで、どれだけはじをかくかわかってない。
ようするに、俺が、きちがい親父に負けて、かぶらされた場合、ほかの人たちは、俺が、「その帽子はへんだ」ということがわかってないから、かぶっていると、これまた、自動的に解釈してしまう。
ハンダゴテのことだって、きちがい兄貴が、学校にその、使えないハンダゴテをもっていけば、きちがい兄貴がバカだから、そのハンダゴテが使えないということを理解できないのだと、思ってしまうのである。だから、「そんなの(そのハンダゴテ)が使えないって、わからないのかよ」と言われてしまうわけ。
いや、わかっている。わかっているけど、きちがい親父が認めないから、しかたがなく、学校にもってくることになった。
この、不格好なへんなハンダゴテが使えないということはわかっている。それを、きちがい親父に、発狂して、何回も何回も、説明した。
けど、きちがい親父が、発狂して、何回も何回も「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」と絶叫するのである。この絶叫……「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」という絶叫は、ネズミ対策工事をしようと言われたときの「俺がつかまえるからいい!!!」「俺がつかまえるからいい!!!」「俺がつかまえるからいい!!!」「俺がつかまえるからいい!!!」という絶叫とおなじなんだよ。
構造的には、おなじ部分なんだよ。言葉の内容がいれかわっているだけで、そこで成り立っていることは、おなじなんだよ。
この「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」「使える!!」という絶叫は、酒糟のついた魚を出しっぱなしにしているので、部屋中が、くさくなっていると言われたときの「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「におわないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」「くさくないよ!!」という絶叫とおなじなのである。構造的には、おなじ部分なんだよ。言葉の内容がいれかわっているだけで、そこで成り立っていることは、おなじなんだよ。
帽子の場合……俺→「へんな帽子だ」ということがわかっている。友達→「へんな帽子だ」ということがわかっている。親父→「へんな帽子だ」ということがわかってない。絶対の意地でへんじゃないと言って、へんな帽子だということを認めない。親父→「へんな帽子だと、友達に言われて、こまった」ということが、まったくわかってない。親父→「自分が意地をはって、息子に、帽子をおしつけた」というとが、まったくわかってない。
友だちのまえで、俺がはじをかく(親に強制されたことで、子供がはじをかく)ということが発生する。友だちは、エイリ君は、その帽子がへんな帽子だと認識できなかったと思うわけ。エイリ君は、その帽子がへんな帽子だということがわからずに、へんな帽子をかぶっていたわけで、エイリ君はファッションセンスがないと思ってしまう。
もっと、端的に言うと「そんなへんな帽子が、へんな帽子だとわからないのは、へんだ。バカだ」と思うわけだ。エイリ君は「へんな帽子をかぶっていて、はずかしく思わないようなセンスをしている」と友達のほうは思うわけだ。
俺は、「へんな帽子だ」と思っていた。「へんな帽子をかぶって、はずかしいと思っていた」という気持がある。普通の家の子供だと、「へんな帽子だからかぶりたくない」と言えば、親が納得して、もうかぶせようとしない。けど、うちは、ちがう。もう、小さいときから、こういうことが何回も何回も発生してしまうのである。
* * *
ハンダゴテの場合……兄貴「このハンダゴテは使えない」「不格好な、はずかしいハンダゴテだ」ということが、わかっている。
友だち……「このハンダゴテは使えない」「このはんだごてが使えないということがわからないなんて、バカだ」。
兄貴→「このはんだごてが使えないということはわかっている。だから、父親にさんざん使えないということを言った」。
友だち→「大人の人が、このハンダゴテは使えないと言われたのに、それを理解しないなんてことはない。大人なのだから、理解できるに決まっている」。
技術科の先生→「おまえ(兄貴)の説明のしかたが悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」。兄貴→友達や先生に誤解されて、くやしい思いをする。家に帰って、親父が帰ってくるまで待って、きちがい親父に「やっぱり、ハンダゴテは使えなかった」と言う。
きちがい親父→「使える!!!使える!!!使える!!!使える!!!」。兄貴→「使えないんだよ。使えないということがわからないのかと、友だちにばかにされた」。
きちがい親父「なんだ!!そんなの!!なんだ!!そんなの!!なんだ!!そんなの!!なんだ!!そんなの!!使える!!!使える!!!使える!!!使える!!!」……。
きちがい親父の「みとめないがち」。絶対に、認めない。
きちがい親父が認めなかったら、きちがい親父の頭のなかでは、「ハンダゴテは使える」という認識のままなんだよ。
きちがい親父は、きちがい兄貴(自分の子供)が、自分のおしつけたもので、友だちにばかにされてくやしい思いをしたということが、まったくわからないんだよ。認めないんだよ。きちがい親父の「みとめないがち」。絶対に、認めない。きちがい親父が認めなかったら、きちがい親父の頭のなかでは、「自分がおしつけたもので、自分の息子が、息子の友達にバカにされたということは、発生しなかった」という認識のままなのだよ。
あったってないことになっている。本人が(親父が)そのことにかかわっているという認識がない。そのことというは、自分が(親父が)おしつけたもので、こどもが、こどもの友達からバカにされたということだ。
* * *
ちなみに、「その年で働いてないなんておかしい」と言った人は、「そんなへんな帽子が、へんな帽子だとわからないのか」と言った友だちと、おなじレベルの思考方法なのである。きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音をきちがい的な意地で鳴らして、俺の通勤できる力をうばったから、通勤できないんだということを言ったあとに、九八%の大人は、そういう反応だ。
「できなくなる」ということがわかってないだけだ。
「そんなへんな帽子が、へんな帽子だとわからないのか」と言った友だちは、うちの親父が、認めないということがわかってないのだ。親父がかぶせたということを言ったあとに、そういうことを言う。「大人が、へんな帽子だということがわからないわけがない」という前提思考があるのだ。
ハンダゴテだって、「そのハンダゴテが使えないということを、大人がわからないわけがない」という前提思考があるのだ。「そんなにでかい音で、お兄さんが、ヘビメタを鳴らして、どれだけ言ってもやめてくれないというのはおかしい」という前提思考があるのだ。「本当にでかい音で鳴らしていたなら、でかい音で鳴らしているということがわかっているはずだ。
「でかい音で鳴らしているということを認めないなんていうのはおかしい」という前提思考があるのだ。だから、エイリさんがへんなことを言っていると思ってしまうのだ。
あーー。つまんない。やらなければならないことはあるけど、ダニが気になってしかたがない。ダニに刺される確率があがることはしたくない。けど、その、ダニに刺される確率があがることをしなければならないのである。たとえば、掃除とか、整理整頓とか。どうするかな~~。やりたくないーー。やりたくないーー。粗大ごみ業者を呼ばなければならないのだけど、これも、業者の人がダニに刺されるのは問題があるので、やりたくない。精神的に、おちこむ。きちがい親父が、俺に対して、いろいろやって、気にしてないんだよ。たとえば、ネズミを入れて、ダニに刺されるようにしたのは親父なんだよ。けど、親父にどれだけ言っても……生きていたとき言っても……親父が「そんなのなんだ!」と言っておこるような状態で、反省なんかしない。まるで、悪いと思ってない。「俺がネズミを入れてしまったから、ダニに刺されるようになったか。すまんな」のひとことが、ほしい。ところが、そんなことは、言わない。どうしてかというと、ほんとうに悪いと思ってないからだ。まったくまったく、悪いと思っていないのだ。これ、介護タクシーのなかでの話なのだけど、「親父が、魚をずっとだしっばなにしたから、ネズミが入ってくるようになった」と言ったら、「出してないよ!!出してないよ!!出してないよ!!出してないよ!!出してないよ!!出してないよ!!」と叫ぶのである。これ、嘘なんだよ。きちがい親父が嘘を言っているつもりがあるのかないのかわからないけど、ともかく、自分にとって不都合なことを言われたら、無意識的なレベルで「やばい」と思って、事実かどうかに関係なく、否定するということが、おこなわれるのである。ちなみに、兄貴に対して「うるさいからやめろ」と言ったときも、おなじ反応なのである。どっちも、ほんとうに、やったことを認めてないのである。無言バージョンと、否定語絶叫バージョンがあるのだけど、兄貴は、主に無言バージョンなのである。無言バージョンのときは、「これからやる」ケースが多い。無言バージョンのときは、「これから、続けてやる」ケースが多い。けど、無言バージョンにしろ、否定語絶叫バージョンにしろ、頭のなかで起こっていることは、ほぼおなじなのだ。無意識的なレベルでは、相手が言った言葉を理解しているけど、意識的なレベルでは、言葉の内容をまったく理解してないような状態なのだ。だから、なんとなくの感触でしかないんだよね。意識的なレベルでは、認知がちゃんとしょうじてないから、認知の結果としての記憶がまったく残らないのである。認知して、認識して、記憶の残すということを、通常やっているとして、このモードのきちがい親父やきちがい兄貴は、認知も、認識もしてない状態なのである。だから、どれだけやっても、本人の記憶には残らない。でっ、次にまた、「そういうふうにやった」ということを言われると、それも、おなじようなしくみで、否定してしまって、おなじように、はねのけるから、記憶に残らないのである。だから、どれだけ、繰り返し言われても、記憶に残らないのである。だから、本人はまったくそういうことをやったつもりがないまま、暮らすということになる。こういうきたないことをやって、それをまったく、認知、認識してない相手というのは、むかつくのである。やられた人は、むかつくのである。
きちがい兄貴のきちがい感覚が問題なんだよ。このきちがい兄貴のきちがい感覚が、ほかの人には、理解できないのだ。そして、これがもっと問題なんだけど、当のきちがい兄貴が、自分のきちがい感覚を、まったく認識してないのだ。だから、すりぬけるように、絶対の意地で、きちがいヘビメタを「普通じゃありえないほどでかい音」で鳴らすけど、そのつもりがまったくないままなのだ。毎日、すべての時間を使って、きちがい的な意地で、絶対に、「普通じゃありえないほどでかい音」で鳴らすけど、毎日、一分だってそんなことをやったことがないというつもりで、生きている。鳴らしているときに、「鳴らすな」と言われたら、きちがい親父のような態度で、やりきるのに、やりきったつもりが、きちがい親父のように、ないのである。だから、きちがい兄貴は、すべての使える時間を使って、ずっと毎日、鳴らしているのだけど、ほかの人には鳴らしてないと思えることであって、きちがい兄貴も鳴らしてないと思っている思えることなのだ。だから、きちがい兄貴は俺に「迷惑をかけたつもり」というのがまったくないんだよ。「鳴らすな」と言われたら、きちがい的な意地で鳴らし続けて、絶対にやめてやらなかったのに、そういうことをしたというつもりが、まったく、まったくまったく、ない。普通ならこういうことはありえないのだけど、ありえたのだ。常に、きちがい的な意地でそうしていたのだ。だから、そうなんだよ。ところが、きちがい兄貴にとって、「透明」なのだ。当然ながら、よその人にとって「透明」なのだ。透明というのは、あたかも内容になっている。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で「よそでは絶対に一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに」……それを認めない。やったってやってないことになっている。鳴らしている時間を暗黒の真っ黒時間だとする。ぼくにとっては、鳴らされている時間は、真っ黒時間なんだよ。ところが、張本人のきちがい兄貴も、よその人も、「透明」だと思っている。よその人が透明だと思っている場合は、ぼくが、さぼって宿題をやってことないということになってしまうのである。よその人が透明だと思っている場合は、ぼくが、さぼって仕事をしないということになってしまうのである。俺がヘビメタ騒音について、そのまま本当のことを言っても、よその人は、「そんなことがあるわけない」「そんなのはおかしい」と思って、透明時間あつかいをするんだよ。あるいは、「鳴ってたとしても、そんなのは、お兄さんに言えばいいのに、お兄さんに言わなかったエイリさんが悪い」と思ってしまうんだよ。あるいは、「鳴ってたにしろ、そんなのは、影響がない」と思ってしまうんだよ。影響でそうなっているのに、影響がないと、よその人は、判断するんだよ。だから、そうやって、俺のことを、ごく自然にバカにしてくるんだよ。そういう事態が生じているのは、きちがい兄貴がきちがい的な意地で、毎日毎日……「よそでは絶対に一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているからなんだよ。あるいは、十数年間にわたって、鳴らしていたからなんだよ。影響? 影響、うけるに決まっているだろ。その影響をうけた部分を、よその人は、ごく自然に無視するんだよ。ごく自然に無視して、俺というものを考える。だから、「さぼっている」「働けるのに働こうとしない、ダメ人間だ」とみなすようになるんだよ。一度、そういう認識ができると、俺がなにを言っても、こういうくそ凡人の認識が、なかなかかわらない。「なかなか」というよりも、かわらないままだ。こいつらは、こいつらで、ほんとうに、くそだと思うよ。自分だって、きちがい的な意地で、毎日毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も「よそでは絶対に一分だって鳴らせないようなでかい音で」自分のきらいな音を鳴らされ続けたら、勉強もできなくなるし、働けなくなるのに、それがわからない。
条件の格差を無視しているから、本当のことが見えなくなる。条件の格差を無視することは、悪魔側にとって、必要なことなのである。そして、目に見えないような支配者階級と、非・支配者階級とでは、ものすごい差がある。この差は、目に見えない。だから、普通に言っている『条件の格差』というのは、非・支配者階級のなかでの、条件の格差だということになる。条件の格差と言っても、もともとのすごい部分では、見えないので、まったく認識できないということになる。認識できる部分は、非・支配者階級のなかの、条件の格差だ。
* * *
非・支配者階級のなかの、条件の格差を考えさせないように、しているのだ。支配者階級は、支配者階級と非・支配者階級の条件の差、だけではなくて、非・支配者階級のなかの条件の差を、非・支配者階級に考えさせないようにしている。だから、条件の格差は、あるにもかかわらず、ないものとして、あつかわれることになる。そして、条件の格差について言及するのは、みっともないことだというイメージをつくっておくのである。このイメージ戦略は強烈だ。みんな、やられちゃっている。条件の格差で、「下」である人も、条件の格差について、口にするのは、みっともないことだと思っているのである。そういう社会ができあがっている。社会で生活するとなれば、『条件の格差はない』ということや『条件の格差について口にすることはみっともないことだ』ということを、受け入れるしかない。『条件の格差はない』ということや『条件の格差について口にすることはみっともないことだ』ということは、もう、無意識に近いレベルで、刷り込まれている。
しかし、どうするかな? 長期ヘビメタ騒音の影響で、だいぶ、「人生」を損したんだよな。修復不可能だ。俺は、長期騒音のなかで、できるだけのことはしてきた。しかし、長期ヘビメタ騒音のなかで、できるだけのことをするということは、自分の精神と、自分の身体と、自分の能力を、けずることになる。だめにすることになる。不可避的にそうなる。みんな、ヘビメタ騒音生活というものがわかってない。ヘビメタ騒音生活というものが、どういうものなのか、みんな、わかってない。どうにかしようとして、がんばること自体が、次の問題をうみだすのだ。どうにかしようとしてがんばると、次々に名誉をうしない、次々に能力をうしなうことになるのだ。騒音と言えば、騒音だということがわかるけど、騒音生活というものが、実際に経験した人じゃないわからない。どういうことになるのか、わからない。「関係がない」と言ってしまうやつは、ほんとうに、ぶんなぐってやりたい。ちなみに、「過去は関係がない」と言うやつも、ぶんなぐってやりたい。そりゃ、おまえには、俺のヘビメタ騒音生活は関係がないことだけど、俺には関係があるのだ。もちろん、ぶんなぐりたいからといって、ぶんなぐったりはしない。そんなことをするわけがない。けど、「関係がない」とか「過去は関係がない」とかというやつには、腹がたつ。ぶんなぐってやりたいほど腹がたつ。たとえ、その人が、ほかのところでいい人であったとしても、たとえ、その人のほうが俺より、その場所で立場が上の人であったしても、ぶんなぐってやりたい気持ちになる。きちがいヘビメタ騒音を鳴らしたきちがい兄貴が、俺という存在や、俺の立場を無視して、やってきた時間が長すぎる。きちがい兄貴の感覚は、ほかの人には、理解できない感覚だ。きちがい兄貴本人がまったく理解してないしな。きちがい兄貴本人がまったく理解してないと、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でやったことなのに、まったく、関係がない人になってしまうのだ。きちがい兄貴本人がまったく理解してないと、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でやったことなのに、まったく、やってないと思ってしまうのだ。きちがい的な意地てやっていることを、まったくやってないと思って、くらしている。まったくやってないという態度で暮らしている。「やめてくれ」とこっちが言えば、きちがい親父のように発狂して、きちがい親父のように頑固にやり続けるのに、やってないつもりなのだ。こんなの、ほかの人にわかるわけがない。だから、ほかの人は、こういう特殊な家族と一緒に住んだことがないので、こういう特殊な家族の態度や感覚がわからない。それは、実際に、「やられない」ということを意味しているから、こういう特殊な家族にやられたこともないのだ。なので、やられたことがないので、やられた場合、どういうことになるのか、普通の人は、まったくわかってないということになる。
ちなみに、「関係がない」というのは、「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、そんなのは関係がない」という意味だ。ところが、関係があるんだよね。ヘビメタ騒音でほんとうに、十数年間毎日、苦労してきたのに、「関係がない」と言われたら、腹がたつだろ。しかも、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないから、きちがい家族の、きちがい行為がどれだけ(こっちの)生活に影響をあたえるか、まったくわかってないやつが、そういうふうに言うのだ。腹、たつだろ。 きちがい家族と一緒に暮らしたことがないから、きちがい家族の、きちがい行為がどれだけ(こっちの)能力をけずるか、まったくわかってないやつが、そういうふうに言うのだ。腹、たつだろ。
「関係がない」と言って、ヘビメタ騒音の影響を、全否定しているんだぞ。俺が、ヘビメタ騒音が鳴っている部屋で、どんな気持ちで生活らて来たと思っているんだ。それが、睡眠や体力や能力にどれだけの影響をあたえてきたと思っているんだ。きちがい兄貴の、きちがい的な感覚が、どれだけ腹だたしいものか、ぜんぜんわかってない。全否定してくるな!
きちがい兄貴は、無視して、なにもやってないつもりでやっているだけなんだけど、こっちの身の回りはめちゃくちゃなのである。どうしても、「帽子」のようなトラブルが生じてしまうのである。「ハンダゴテ」は、きちがい兄貴と、きちがい親父の事件だけど、きちがい兄貴と、俺との事件である「ヘビメタ騒音」でも、俺と、よその人のあいだで、「ハンダゴテ」のようなトラブルが生じてまうのである。しかも、「ハンダゴテ」は一日ですんだけど、「ヘビメタ騒音」は数万日、「ハンダゴテ」のようなトラブルが、ぼくと他人との間に生じてしまうのである。他人は、「なにがヘビメタ騒音だ」と思う程度なのだけど、ぼくのほうとしてみれば、人生の全部の問題なのである。
これは言ってしまってはいけないことなのかもしれないけど、世の精神世界の人は、みんな、ジャイアンに「のび太をなぐるな」とは言わず、のび太に「明るいことを考えればいい」と言ってしまうのだ。
「のび太が、暗いことを考えたから、暗いことが起こった」と言ってしまうのだ。「のび太が、ジャイアンになぐられると思ったから、ジャイアンが実際にのび太をなぐった」と言ってしまうのだ。
だから、「ジャイアンはなぐってこないと思えば、なぐってこない」と言ってしまうのだ。
もうすでに、なぐられている人にそういうことを言う。
こんな解決法で、問題が解決するわけがない。問題が解決しないから、なぐられているんだろ。こんな解決法では、解決しないから、のび太がこまっているんだろ。こんなの、こまっているのび太をさらにこまらせるだけだ。
そして、ジャイアンがかわらなければ、のび太がどれだけ、のび太の頭のなかで「ジャイアンはなぐってこない」と思っても、ジャイアンがなぐってくるわけだ。
そうなると、のび太が本気で「ジャイアンはなぐってこない」と思わなかったから、だめなんだと、のび太の思い方のせいにしてしまうのである。
こんなのはない。
のび太が「ジャイアンはなぐってこない」と明るいことを考えたって、ジャイアンがかわらなければ、ジャイアンはなぐってくる。のび太の思考が、そういうレベルでジャイアンに影響をあたえるのであれば、そもそも、ジャイアンは、一回目、のび太をなぐってない。
なんでこんなに、簡単なことがわからなくなってしまうんだ。
しかも、あとだし思考があるので、実際にジャイアンがのび太のことをなぐることをやめなければ、のび太の思い方は、ずっと、悪い思い方なのである。
「悪い思い方だから、効果が出ない。いい思い方だったら、効果が出る。のび太の思い方が、へたくそだから、効果が出ないのだ」ということになっているのだけど、それは、ジャイアンがなぐってくるという結果を見てから、言っているだけのことなのである。
のび太の思い方に関係なく、ジャイアンがのび太をなぐることをやめたとする。その場合、のび太の思い方が、いい思い方になったと、精神世界の人は判断するのである。
あとだし。言っている意味がわかるかな? あとだしなんだよ。
ジャイアンがなんらかの理由で、なぐるのをやめない限り、ずっと、のび太の思い方は、悪い思い方なのである。そういうことに決まってしまうのである。こんなの、ていのいい、いじめ。精神世界の人は、「善」だとか「光の世界」とか「良心」とかということについて語っているけど、こういうことを忘れてしまっている。
きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らし続ける、きちがいヘビメタ騒音の影響について、みんな、勘違いをするんだよな。もう、猛烈につらかったなぁ。猛烈に、つらかった。それがすべてに及んでしまうんだよなぁ。
みんな、口をそろえて、勘違い発言をする。もう、つかれたなぁ。ヘビメタがどれだけ、たたるか、みんな、わかってない。一日のなかで、あれだけ長い時間、きちがい兄貴が、横の部屋で、きちがい感覚でヘビメタを鳴らし続けるということの、意味が!!まったく、わかってない。
わかってないやつにとっても、これ、影響はゼロなんだよ。
わかってないやつは、自分が影響をうけたわけじゃないからね。わかってないやつは、自分が鳴らされてこまっているわけじゃないからね。実際のところ、影響はゼロだ。
想像力がないから、エイリにとっても、ゼロなんだろうと思ってしまう。想像力がないから、自分だったら平気だと思ってしまう。自分だったら、影響をうけずに暮らすことができると、自然に思ってしまう。全部、まちがいなんだけど、まちがいだということに、気がつくということがない。
どうしてなら、そんな、騒音、鳴ってないからだ。
どうしてなら、そんな家族と一緒に住んでいるわけではないからだ。
みんな、実際に、そんな家族と一緒に住んでいるわけではないから、影響を無視して、好き勝手なことを言ってくる。
その好き勝手なこと(影響を無視した感想、影響を無視した意見、影響を無視した解決策)というのは、鳴ってたら、絶対にできないことなんだよ。絶対にできないことになってしまうんだよ。どれだけ、努力してもできないことになってしまうんだよ。
努力が、次のできないことをうみだしてしまうんだよ。みんな、みんな、ほんとうにわかってない。わかってないまま、好き勝手なことを言いやがって。ヘビメタ騒音ことを無視して、頭がおかしいことを言うな。無視できるのは、おまえらが、実際に、やられてないからだ。それだけだ。
ほんとうに、きちがい兄貴しかいないのに、普通の騒音とおなじだと考えている。きちがい兄貴しか、あんな音で鳴らすやつはいない。俺に好き勝手なことを言ってきたやつらのうちでは、そんな、騒音を鳴らすやつがいない。いないから、影響をうけてない。影響をうけてないから、影響をうけないことが可能だと、考えてしまう。
ぼくの話を聴いたあとも、影響をうけないことが可能だと考えてしまう。
ハンディはハンディなんだよ。きちがい兄貴のハンディがでかすぎる。
きちがい騒音のハンディがでかすぎる。
普通に、できることが一〇、あるとする。それが、一〇、できなくなってしまう。どれだけがんばっても、普通にできていたことが、どうしても、できなくなる。そういうハンディだ。そういう必然性があるんだよ。けど、そういう必然性が、ほかの人にはわかってない。
まるで、ぼくが、こだわらなくていいことにこだわっているように感じる。まるで、ぼくが、できることをしないで、さぼっているように思う。
こいつらは、きちがい家族がおらず、きちがい家族が至近距離で鳴らす、きちがい的な騒音の影響をうけていないから、ただ単に、できるだけなのに、まるで、俺がさぼっているように言う。
やられたら、そいつらだってできなくなるのに、それがまったくわかってない。その部分は、頑固に無視だ。
こいつらは、こいつらで、俺のハンディ……きちがい家族というハンディ……きちがい家族による騒音というハンディ……をガン無視する。きちがい兄貴のように、ガン無視しする。影響をうけないわけがないだろ。
きちがい兄貴は、鳴らして、きちがいヘビメタの影響を無視したわけだけど、こいつらは、きちがいヘビメタを鳴らさずに、きちがいヘビメタの影響を無視したわけだよ。影響を無視しているということは、かわらない。
こいつらのまえにいる俺は、すでに、きちがいヘビメタでできなくなった俺なのだ。こいつらは、最初から、俺ができないと思っている。そんなのは、影響をうけないで、すむと思っている。ヘビメタ騒音の影響なんて、あったとしても、たいしたことじゃないと思っている。『自分だって、騒音ぐらいあった』と思っている。「ちがうんだ」と言っても、認めない。
そのあなたが経験した、騒音と、ぼくが経験したヘビメタ騒音は、ちがうんだよ。
けど、認めない。騒音の質がちがうということを認めない。騒音の量がちがうということを認めない。認めない。認めない。認めなければ、そいつにとっては、そういうことなんだよ。そういうレベルの理解しかしないんだよ。
もし、そいつが、経験した騒音が、きちがい兄貴がきちがい感覚で鳴らしている騒音とおなじ質の、おなじ量の騒音だったら、そいつも、通勤、通学ができないからだになっている。普通にできたことが、できないからだになっている。そういうからだになってないのだから、ちがうんだよ。
こいつらもこいつらで、影響を無視するということは、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじなんだよ。
影響を無視して、えらそうなことを言いやがって。想像力がないから、そういうことを言えるんだよ。うぬぼれ屋だから、そういうことを言えるんだよ。こういうやつらが、社会人・人口の九九%だ。会うやつ、会うやつ、みんな、こういうレベルの思考しかしないやつらだ。地獄だろ。
ヘビメタ騒音を毎日聞かされて、くるしいのに、さらにこういうことがつみかさなってしまうのだ。ヘビメタ騒音をあの音で、この至近距離で聞かされるということは破壊的なことなんだよ。その、破壊度がわかってないだけじゃないか。破壊度が、ぼくの説明を聴いても、わからないやつばかりだ。わかってないから、うぬぼれた発言をするんだろ。
日曜日の午後六時二八分なんて、鳴っている感じしかしない。きちがい親父の「へんな防止」といのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじなんだよな。みんなに、ぼくがバカにされるようことをする。「へんだ」ということを絶対に認めない。
きちがい親父が、へんなベレー帽をもらってきたときがあるんだよ。ぼくが七歳のときなんだけど。それで、自分が、ゲットしたから、おおいばりなんだよ。
ようするに、ほかの人から、ほかの人がいらなくなった子供用のベレー帽をもらったんだけど、それが、親父にとっては、すごいお手柄であるわけ。
で、それは、だれもかぶってないへんな防止だったんだよ。で、もらってきてやったから、こどもがよろこんでかぶると思っていたのだろう。
で、正月の元旦に、親戚のうちに行くとき、その帽子をかぶれときちがいおやじが言って、ぼくが、「いやだ」と言って、もめたんだよ。これも、当時七歳ぐらいだから、俺が親父を殺すわけにはいかないのだけど、からだがおおきかったら、殺すとか殺されるというような問題なんだよ。
そういう緊張度と意地がある。
死にものぐるいなんだよ。
これが、ほかの人にはわからない。きちがい親父が、どれだけ発狂するかわかってない。この、きちがい親父がきちがい的なことを言っているときの「意地」が、ほかの人にはわからないのである。
こどもが、「いやだ」と言ったら、それで引きさがってくれるような親ではないのである。
いのちがかかっているのである。
そのときはそのときで、こどもに、自分がもらってきたベレー帽を、かぶらせることにいのちがかかっている。きちがい親父のほうが、まず最初に、発狂するんだからな。ここのところをまちがえるな。
よその人は、こういうところもまちがった認識をするんだよな。親父が自分勝手で、思い通りにならなかったら、発狂している。きちがい親父の思いつきで、こういうことになってしまうことが、多いんだよ。
そりゃ、いっしょに住んでいたら、一日に何回も何回も、そういうことが起こるんだよ。きちがいだからなぁ。
そして、きちがいが、自分の思ったとおりにならないと、爆発して爆発して爆発して爆発して爆発して爆発して爆発して爆発して、怒り狂って、怒り狂って、とまらない状態になる。
でっ、正月に、そのへんな帽子をかぶらされて、外に出ると、それを見た近所の友達が、「エイリ君が、正月に、へんな帽子をかぶっていた」と言うわけだよ。「へんな帽子、かぶってた」「へんな帽子、かぶってた」というわけ。
その場合、ぼくは恥をかくわけだけど、親父はそんなことは、気にない。
へんな帽子をかぶらされたから、「恥をかいただろ」ということを言ったって、そんなのは、認めないのだ。「へんな帽子である」ということを、最後の最後まで認めない。「かぶれ」「かぶらない」で、大喧嘩だよ。
言うことをきかない子は、「おばあちゃんちにつれてかない」と言うわけだよ。おばあちゃんちに行くことが、いいことだとしても、へんな帽子をかぶることは、めちゃくちゃに、悪いことなので、いいことと、悪いことの度合いの差を考えると、「それなら、おばあちゃんちに行かなくたっていい」という気持ちになる。
正直言って、きちがい親父と行動するのは、非常にいやなことなので、親戚のうちに行くことも、本当は、いやでいやでしかたがないことだった。帽子の件をぬいても、きちがい親父と一緒にどこかに行くということは、死にたくなるほど憂鬱なことなのである。
で、正月の朝から、大喧嘩だよ。「子供がわがままを言っている」と、常識的な人は考えてしまうわけ。常識的な人の考えというのは、そういうレベルなんだよ。
もう、これも、ヘビメタ騒音と、無職の関係にそのまま、おとせるんだよなぁ。ヘビメタに関して言うと、きちがい兄貴が、へんなことをしているわけ。きちがい兄貴の主張がまちがっているわけ。
けど、よその人は、それがわからないまま、とりあえず、目の前の無職である成年をせめるわけ。「そんなんじゃ、だめじゃないか」とせめるわけ。
それも、ヘビメタ騒音で通勤できなくなったと、俺が説明したあとの話だ。これ、ヘビメタ騒音で通勤ができなくなるということが、よその人には、かーーんぜんに、わからないわけ。
けど、そのよその人だって、俺とおなじように、一一歳から毎日、きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタを毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も聞かされ続けたら、睡眠回路が破壊されて、どれだけがんばっても、一定の時間に通勤できなくなるんだよ。
けど、よその人には、そういうことがないわけ。
どうしてかというと、きちがい家族がいないから。きちがい家族がいないから、たまたま、そういうことを経験してないだけなのに、よその人が、そこらへんを勘違いして、威張る。
わかったようなことを言う。
基本的に、悪魔が提供する「いい話」で、こころをやられてしまう人が多い。悪魔が提供するいい話には、嘘がある。けど、その嘘に、気がつかない。まったく気がつかない。
普通の人は、いい話なのだから、いい話だと思っているけど、その話を信じてしまうと、悪いほうに誘導される。その話で感動した場合……おおげさに言えば感動した場合……悪い芽が、感動した人のなかに、育つということになってしまう。
けど、いい話で、いいことを思ったという主観がしょうじるのだ。
けど、けど、けど、悪い芽が育っている。基本的には、その「いい話」が、「条件の格差」を無視しているかどうかで、判断できる。いい話が、「条件の格差」を無視しているのであれば、悪い話だ。
これ、みんな、普通の人は、成功者が好きだ。
そして、成功者の話に感動したりする。
けど、その、成功者というのは、悪魔側の人間で、悪魔側がつくったシナリオにしたがって、道徳的に聞こえる話をしている。けど、それで、感動してしまうと、悪いこころになってしまう。かならず、悪に誘導されてしまう。
効果としては、条件的に不利な人のことが、もっともっともっと、きらいになる。もともと、洗脳されているので、条件的に不利な人を嫌悪するようになっている。
その傾向が、増幅されてしまうのである。
ひとつずつのいい話で、増幅するレベルは小さいもなのだけど、その小さいものが、何回も何回もつみかさなると、大きなものになる。
たとえばの話だけど、ヘビメタ騒音を経験してないにしろ、ぼくと同等の苦労をした人が、言霊や思霊や引き寄せや発言をするはずがないのである。そういうものを基礎にした発言をするはずがない。
どうしてかというと、言霊や思霊や引き寄せが、まちがっているということが、身にしみてわかっているからだ。
ぼくと同等の苦労をした人が、そういう発言にこだわっていると……それが正しいと思っていると、自殺するしかないのだ。自殺せずに、生き残っているということは、言霊や思霊や引き寄せが、まちがっているということが、身にしみてわかっているということだ。
言霊や思霊や引き寄せだけでなく、努力論がまちがっているということにも気がつくはずなのだ。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論について語る人は、語る人が、どれだけ「自分だって苦労した」と言ったって、その苦労というのは、言霊、思霊、引き寄せ、努力論まちがっているということが、身にしみてわかっている人が経験した苦労とは、ぜんぜんちがう苦労だ。質的にちがうのである。
こればかりは、だれでもが、身にしてみてわかるとしか言いようがない。わかってないということは、ぼくと同等の苦労をしてないということなのである。
ぼくと同等の苦労をして、なおかつ、生きている人は、絶対に、どんなことがあっても、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいという前提で、ものを言ったりしない。
言葉で説明することができるかどうかは別にして、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しくないということが、身にしみてわかっているので、そんなことは口にしない。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいという前提に立った発言をしない。
ぎりぎりのところまで、追いつめられて、そういうものが、嘘っぱちだということが、うまく説明できるかどうかは別にして、わかっている。わからないわけがないだろ。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているのは、こころに余裕があるからなんだよ。ようするに、まちがいに気がつかないだけの余裕がある。
* * *
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っている人たちが先兵になってしまうのである。あるいは、全軍の兵になってしまうのである。悪魔のくそ洗脳で、凡人が、くそ凡人になってしまうのである。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているような凡人が、特別に条件が悪い人のことを、取り囲んで、言葉の槍で刺すのである。
言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているような凡人が、特別に条件が悪い人のことを、取り囲んで、言葉の矢をはなつのである。凡人が悪魔の洗脳によって、くそ凡人になって、特別に条件が悪い人を攻撃する。
もう、くそ凡人になった人は、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいという前提を疑わない。いいことをしていると思っている。
けど、ほんとうは、特別に条件が悪い人に攻撃をしているだけだ。
* * *
たとえば、言霊理論が正しいと思っているのは、たいした苦労をしてないからなんだよ。言霊理論が正しくないということを思い知らされるような苦労をしてないからなんだよ。
条件というものを無視して考えるように、悪魔がしむけているのである。悪魔のいい話にも、言霊、思霊、引き寄せ、努力論が正しいと思っているような凡人の話にも、条件がでてこない。条件の格差は、無視されている。あるいは、「多少は影響をあたえるかもしれないけど、大きな影響は与えない」というような但し書きで、過小評価されている。条件の格差と、条件の格差がもたらす影響については、「ない」か、あるいは、「あったとしても、ない」のと同じだということになっているのである。条件の格差は、ないこととして無視される。そして、ないこととして無視されるということも、無視される。
普通の人は、初期値や、初期値の影響を無視して、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」などとカルト的なことを言っているのである。
積極的とか、消極的とかということにかんしても、別に、積極的というのがよくて、消極的というのが悪いわけではないのだけど、あたかも、積極的ならよくて、消極的だと悪いという前提で、普通の人は、話をすすめることが多い。
初期値というのは、生まれた家のことだ。生まれた家にどんな人がいるのかというのは、その人の人生に影響をあたえる重要な要素だ。しかも、初期値は初期値だけで、初期状態にだけ、影響をあたえるものではないのである。
時系列的に、格差が増すのである。
時系列的に、初期値の格差が、育っていく、のである。
まあ、ここまで、感情がこわれてしまったのだから、むりだな。気持ちよく生きるのはむりだな。普通の感情を維持して生きるのはむりだな。まあ、ちょっとでも、気分がよくなる方向を目指すしかない。となると、やはり、この家にいるのはまずい。きちがい家族の呪縛から、離れなければならない。もちろん、もう、ネズミの糞とか、ダニとか、いやだよ。どんだけ、これが、たたってきたか……。ほんとうに、いろいろな、原因をつくりやがって。俺が、不愉快になる原因をつくりやがって。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音というと、鳴っているときだけ問題があるように、聞こえてしまうのだ。よその人には、そういうふうに、聞こえるのだ。けど、ぜんぜんちがうんだよ。むしろ、鳴っていない時間のほうが問題だということもある。前投稿のように、ヘビメタ騒音をずっと鳴らされて、ヘビメタ騒音のなかから、ほかの人に会いに行くとき、どれだけ感情が破壊されているか、ほかの人には、わからない。あのきちがい騒音は、感情破壊騒音なんだよ。きちがい兄貴の態度は、態度それだけで、こっちの感情を破壊するものなんだよ。
まあ、生きていて、楽しいこともあった。あったんだけど、どうしても、どうしても、つらいことのほうが、記憶に残っているのである。腹がたつ記憶が、鮮明なのである。
楽しいことはあったよ。けど、それは、だいたい中学生ぐらいまでのことなんだよね。ヘビメタ騒音四年目以降は、もうだめだ。
「あの子」にあったのは、ヘビメタ騒音九年目だから、やはり、よごれている。
みんな、わかってないけど、すでに、九年間汚染された状態なんだよ。すでに、九年間毎日、ヘビメタ騒音にからだを汚染された状態なんだよ。一日、二四時間中、二四時間、毎日、汚染された状態なんだよ。
前の日鳴っていた……。うちをでるまえにずっと鳴っていた……。こんな状態で、正常な気持を維持できるわけがない。どうしたって、汚染された気持ちででていくことになるんだよ。うちをでることになるんだよ。うちをでるのだから、いいじゃないか」「騒音から離れるのだからいいじゃないか」こんなのは、やられてない人間の発想だ。ぜんぜんちがうんだよ。
ほんとうに、ものすごい音で鳴ってたんだよ。至近距離だからね。あの音が、あの至近距離で鳴っていて、無視できるわけがない。ほかの人はまったくわかってない。ほんとうに、きちがい兄貴が、鳴らしていいという法律はない。あんなの、鳴らしていいわけがないだろ。けど、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい兄貴の基準でしずかにしたつもりになって、ものすごくでかい音で鳴らすという状態が、まったくかわらないんだよ。これも、こまった。これ、きちがい親父とおなじで、本人は、ゆずってやったつもりなのである。頭がおかしいからできることなんだぞ。頭がおかしくない人は、いじわるで、そういうことをする場合もあるけど、その場合は、いじわるでやっているということが、わかっている。本人には、いじわるで、わざとやっているということがわかっている。きちがい兄貴ときちがい親父はまったくわかってない。このわかってないというのがおかしいんだよ。頭がおかしい。
ジャイアンが、ジャイアンの意思で動いているのだけど、あたかも、それをのび太の意思のように言うわけ。
ジャイアンは、ジャイアンの意思で動いているから、のび太が「ジャイアンが自分をなぐるのをやめる」という明るい考えをもったとしても、その考えに関係なく、なぐってくるわけ。
暗い思いは、実現化するけど、明るい思いは実現化しないなんておかしいとは思わないのか? のび太の思い……のび太の頭のなかにある考えとは、まったく関係なく、ジャイアンが行動をしているからこうなる。
別に、のび太の頭のなかにある「暗い考え」がジャイアンを動かしているわけではない。
のび太の頭のなかにある「暗い考え」を「明るい考え」にかえれば、ジャイアンの行動がかわるというのが、カルト思霊主義者の主張なのだ。のび太の頭のなかにあるジャイアンがなぐるので、実際のジャイアンがなぐる。のび太の頭のなかにあるジャイアンが、のび太をなぐるのではなくて、のび太の頭をなでると、実際のジャイアンがのび太の頭をなでるようになる。
カルト思霊主義者の主張にしたがえば、ジャイアンが、のび太の頭をなでるようになるのである。ところが、現実には、そうならない。
カルト思霊主義者の理論がまちがっているからだ。ジャイアンは、のび太の頭のなかにある考えとは、関係なく、ジャイアンの頭で考えて、ジャイアンがしたいことをする。
だから、のび太が「思っただけ」でジャイアンの実際の行動に影響をあたえるということはできない。不可能なのである。
ところが、なにか、神秘的な力によってそうなると、考えてしまうのだ。思霊主義者や思霊主義者に説得されてしまう人は、なにか、神秘的な力によってそうなると、考えてしまうのだ。
これは、幼児的万能感が、色濃く残っているからそう感じるだけだ。
頭のなかにある世界が、現実の世界にそのまま連動しているように、錯覚しているのである。頭のなかにあるジャイアンが、自分のことをなぐるのではなくて、なでるようになると想像すると、実際のジャイアンも、自分のことをことをなぐるのではなくて、なでるようになると信じ込んでいるのである。
あるいは、そういう希望をもっている。
しかし、それは、現実的ではない。
どうしてかというと、ジャイアンが、ジャイアンの考えにしたがって、行動しているからだ。ジャイアンは、のび太の操り人形ではないのである。頭のなかのジャイアンは、のび太の操り人形だけど、実際のジャイアンは、のび太の操り人形ではない。
だから、のび太が頭のなかで、ジャイアンが自分の頭をなでてくる「良いイメージ」を、どれだけ、繰り返し再生しても、実際のジャイアンにはまったく影響をあたえない。
ところが、幼児的万能感に支配されている人は、なにか、神秘的な力によって、頭のなかにあるジャイアンのイメージにあわせて、実際のジャイアンが、のび太の頭をなでるようになると思っているのだ。
繰り返しジャイアンがやることであれば、途中から見ている「思霊主義者」は、「ジャイアンが自分をなぐってくる」とのび太が思っているから、実際のジャイアンがのび太をなぐってくるのだと思ってしまう。
だから、のび太が、「ジャイアンが自分をなでてくる」と思えばよいのであるという主張を……思霊主義者がするのである。
のび太が頭のなかで「ジャイアンが自分をなでてくる」という「明るいこと」を考えれば、現実が、それにあわせ、明るいものになるのだから、それで、問題が解決するのである。
頭のなかにあることが、神秘的な力によって、現実化されるというカルト理論にしたがえば、そうなるのである。
ところが、実際には、どれだけ、のび太が「明るいこと」を考えても、ジャイアンが自分をなぐってくるという暗いことが発生してしまう。
そうなると、思霊主義者は、こともあろうに、「のび太の思い方が悪いのだ」とのび太のせいにしてしまうのである。ほんとうは、自分のカルト理論がまちがっているのである。ほんとうは、思霊主義者の現実認識がまちがっているのである。
ところが、思霊主義者は自分のまちがいを認めたくないので、「のび太がへたくそだからダメなんだ」と言いはじめるのである。なので、のび太は、ジャイアンになぐられ、さらに、思霊主義者からは「のび太がへたくそだからダメなんだ」と言われることになるのである。
これは、のび太にとっていいことではない。
思霊主義者の登場で、「やっかいごと」が、さらに増えてしまう。思霊主義者は、実際にはのび太の負担を増やしているのに、のび太に対して、いい助言をしてやったつもりでいるのである。明るい思霊主義者が、暗いことを増やしている。すでに不幸な人の、負担を増やしている。
* * *
のび太のことをせめる思霊主義者が、同時に自己責任論者である場合もあるのだ。思霊主義者であって、自己責任論者である人はいる。しかし、自己責任論者が「のび太の思いがうまく現実化されないこと」に責任を感じるかというと感じないのである。 「のび太がへたくそだからダメなんだ」と言って、のび太の責任にしてしまう。
自己責任論者は「すべては、自己責任」と言うけど、自分の理論がまちがっていることについて、気がつかなければ、自分の理論がまちがっているからこそしょうじる結果について、まったく責任を感じない。
* * *
人によって、条件がちがうのだけど、条件のちがいというのを、精神世界の人たちは、ガン無視するのだ。精神世界の人たちだけではなくて、この世の普通の人が、条件のちがいをガン無視してしまう。実際には、条件のちがいがつくりだしている「格差」であるかもしれないのに、条件のちがいは無視して「努力の差」や「明るいことを思うか、暗いことを思うかの差」にしてしまうのだ。
* * *
本当は、自分の提案……「明るいことを考えれば明るいことが起こるので、ジャイアンがなぐってくるとは考えないで、ジャイアンがなでてくると考えればいい」という提案が、非・現実的なのに、うまくいかないと、のび太のせいにしてしまうのである。それで、「すべては、自己責任だ」と言う。
たとえば、ジャイアンが、のび太を見かけたら、「おまえは気にくわないんだよ」と言って、のび太をなぐるということが、何回かあったとする。
その場合、のび太は、ジャイアンにあうと、なぐられるということを学習するのである。「ジャイアンにあうと、なぐられる」という考えは、悪い考えか、良い考えかということを考えると、悪いことが起こると考えているという意味で、悪い考えなんだよ。
注意するべき点は、一回目、ジャイアンがのび太をなぐるまえは、のび太のほうには、そういう考えがなかったということだ。
たびたび、そういうことがあったので、学習した。
だから、「ジャイアンにあうと、なぐられる」と考えるようになった。これは、「ジャイアンにあうと、なぐられる」と思うようになったと言っても、いい。
暗い思霊主義者は「暗いことを考えると、暗いことが起こる」ということを言う。考えたので、それが、現実化するということを言っているのだ。
しかも、これには、じつは、言霊理論とおなじ問題がある。
どういう問題かというと「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文と「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文が意味的に等価だという問題だ。
しかも、「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文と「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文が意味的に等価になるということを、当の「暗い思霊主義者」が自覚してないのである。
「暗い思霊主義者」は、「暗いことを考えると、暗いことが起こる場合もあるし、暗いことが起こらない場合もある」という意味を込めて、じつは「暗いことを考えると、暗いことが起こる」ということを言っている。
ところが、「暗いことを考えると、暗いことが起こる場合もあるし、暗いことが起こらない場合もある」という文と「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文は、意味的に等価ではないのである。なので、問題がしょうじる。
暗い思霊主義者が言っていることは、単に「暗いことを考えると、暗いことが起こるような気がする」ということだけだ。暗い思霊主義者が、「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文の意味と、「暗いことを考えると、暗いことが起こるような気がする」という文の意味のちがいを考えてないのである。
確率ということを考えた場合、暗い思霊主義者は「暗いことを考えると、暗いことが起こる確率が、明るいことを考えた場合よりも、あがるのではないか」という意味を込めて「暗いことを考えると、暗いことが起こる」と言っているのである。
ところが、何回も言うけど、「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という文と「暗いことを考えると、一〇〇%の確率で、暗いことが起こる」という文は、意味的に等価なのである。
言っている本人が、おなじ文に、ちがう意味を込めて、言っているのである。
しかも、おなじ文にちがう意味を込めているということに、本人が、気がついてない。言っている本人が、気がついてない。これは問題だ。
たとえば、ジャイアンがのび太をなぐったとする。一回目だ。もう一回、ジャイアンがのび太をなぐったとする。二回目だ。もう一回、ジャイアンがのび太をなぐったとする。三回目だ。もう一回、ジャイアンがのび太をなぐったとする。四回目だ。三回、なぐられたとき、のび太が「ジャイアンにあうと、ジャイアンがなぐってくる」と暗いことを思ったとする。
暗い思霊主義者は、のび太が、「ジャイアンにあうと、ジャイアンがなぐってくる」と暗いことを思ったので、ジャイアンがのび太をなぐったと、考えてしまうのである。
いや、ジャイアンが、むしゃくしゃしていたので、のび太をなぐった。
ストレス発散のために、のび太をなぐった。
ジャイアンのなかに、のび太をなぐりたいという気持がしょうじたので、のび太をなぐった。のび太をなぐったのは、ジャイアンであり、ジャイアンが主体的に、自分の意志で、のび太をなぐった。
のび太は、三回なぐられたので、学習して「おなじことが起こるのではないか」と推論しただけなのである。
のび太の「なぐられる」という暗い思いが、現実化したのではないのである。ジャイアンが、なぐりたくて、なぐったのである。のび太をなぐったのである。
なぐるという行為の主体は、ジャイアンなのである。
こういうことも、わからなくなってしまっているのが、暗い思霊主義者だ。
三回、なぐられたら、四回目もなぐられるかもしれないと思うだろ。ネズミだって学習する。人間だって学習する。
こういう、学習という能力は、人間が生きていくうえで必要な能力なのである。
「暗いことを考えると暗いことが起こるので、暗いことに関しては、学習をやめましょう」と言っても、すでに、学習の能力があるので、学習するのである。
暗いことに関しては、学習をやめる……自分にとって、都合が悪いときだけ、学習の能力をオフにする……そんな「きようなこと」はできないのである。もし、そんな「きようなこと」を無意識的にしてしまうなら、それはそれで、行動に問題がしょうじる。なんで、これがわからないのか?
まあ、ともかく、のび太のほうが「ジャイアンにあうとなぐられるかもしれない」と暗い考えをもったので、のび太が、ジャイアンになぐられるという暗いことが起こったと考えるのは、完全にまちがないのである。
なんで、なぐる主体である、ジャイアンの意志については、まったく考えないのか?
主体性をもったジャイアンという存在が、どうして、まったく、思考のなかに出てこないのか?
思考のなかに出てくるジャイアンは、まるで、のび太の操り人形だ。のび太の意思で動く、ロボットみたいなものだ。「ジャイアンが自分をなぐる」と、のび太が思ったから、ジャイアンがのび太をなぐった。ジャイアンの意思は、どこにあるのか?
ジャイアンには、主体的な意思があり、意思を実行したのである。 のび太の暗い考えが、ジャイアンをして、のび太をなぐらせたのではないのである。ジャイアンが、のび太を、なぐったのである。ジャイアンが意識的に、のび太をなぐったのである。ジャイアンの主体的な行為なのである。
まったく、わかってないんだよな。
のび太は、ジャイアンになぐられるまえは、ジャイアンになぐられるという暗い考えをもってなかったのである。実際になぐられたので学習した。それだけだ。
一回目、のび太がなぐられる前に、のび太は、「ジャイアンになぐられる」という暗い考えをもってないのに、ジャイアンになぐられたということは、どう説明するのだ?
暗い思霊主義理論では、説明できないことではないか。
思ってないんだぞ。
暗いことを思ってないのに、暗いことがしょうじた。
もちろん、のび太にとって暗いことだ。ジャイアンにとっては別に暗いことじゃないのである。ほんとうに、まったくなにもわかってない。
毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/
ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。
自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。
俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る
日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!
「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!
各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。
ぼくはまけない
「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。
サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。
認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。
「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。
死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。
過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。
用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。