2022年8月31日水曜日

寄付と宗教団体と不幸

 全財産を寄付するとしあわせになれると言っていた医者は、全財産を寄付したの?

どこに寄付するかというと、宗教団体なわけで、悪質な洗脳とかわりがないんだよな。そういうのを、感動のストーリーだと紹介してしまう。これ、壺でしあわせになった人の感動のストーリーと、どうちがうの?

全財産、はたいて、幸福のツボを買ったという話と、どうちがうんだよ? 

寄付することでしあわせになるなら、カルト教団の教徒はみんなしあわせになっている。

全財産を寄付することで、しあわせになるなら、カルト教団の教徒はみんなしあわせになっている。

ぼくにはしあわせになっているように見えない。けど、「そんなのは、個人の感じ方次第だと」という言い方がある。ようするに、「全財産をはたいて、幸福の壺を買った人が、しあわせを感じているのであれば、それは、幸福の壺を買うことによって、しあわせになったということだ」という言い方だ。本人が、しあわせを感じているならそれでいいじゃないかという言い方だ。けど、法則性があるようなものとして、説明したほうの、責任はどうなる?

全財産をはたいて、高価な壺を買って、一時的に幸福感をえたとしても、そのあと、やっぱり、全財産を使ってしまったのは、失敗だったと思って不幸な感じがするなら、けっきょくは、不幸になったといこうとじゃないか。なんであたかも、幸福感がそのあとも持続するような前提でものを言っているのか?

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たとえばの話だけど、きちがい的に頑固な兄が、でかい音でヘビメタを鳴らすことにこだわって、でかい音でヘビメタを鳴らしているから、しあわせではないという場合は、壺を買っても、しあわせにならない。全財産をどこかの宗教団体に寄付しても、しあわせにならない。しあわせになるには、きちがい的な兄が、きちがい的な兄ではなくなり、ヘビメタを鳴らすときは、ヘッドホンをするようになることが必要なのだ。こういう『条件』がある。しかし、たとえば、壺を買えばしあわせになる」というような法則性のある話をする場合は、そのひとの『条件』を無視してしまうのである。しあわせではない状態が続いているのには、「理由がある」のである。なになにをすれば、しあわせになると言う場合、なになにをすることで、その理由がなくならなければならないのである。実際に、その理由がなくなるような強制力が発動するようなものでなければならないのである。実際には、壺を買うことではなくて、きちがい兄がきちがい兄ではなくなり、しずかにするということが必要なのである。ほかにも、方法はある。たとえば、弟だけ、宿を借りて、きちがい兄が鳴らしている時間は、その宿にいるという方法がある。しかし、これをやるとすると、弟が未成年の学生である場合は、親が協力しなければならないのである。しかし、親が兄とおなじように気ちがいであった場合は、そういうことにはならない。これもまた、「不幸になる条件」なのだ。なんらかの、これこれをすれば、しあわせになる」という言い方のなかには、個々人がかかえる『条件』がまったくはいっていない。考慮のそとなのだ。まったく問題になっていないのである。しかし、法則性があるように言うので、あたかも、その行為によって問題が取り除かれしあわせになるような「感じがする」のである。しかし、それは、「感じがするだけ」なのである。これは、「別に壺を買う」ということだけではなくて、「他人に親切にする」というよう場合でも成り立つ。人に親切にすればしあわせになるという言い方には、壺を買えばしあわせになるという言い方とまったく同じ問題が横たわっている。エックス(X)になにを代入するかのちがいでしかない。エックス(X)をすれば、しあわせになるというのは、基本的に『条件』を無視するものだから、そういう効力がなく、意味がない。

二項目を取り上げて、まるまるになるというのは、実はよくないやり方だ。どうしてかと言うと、そうならない場合のほうが多いからだ。しかし、二項目を取り上げることによって、あたかも、二項目の関係があるような錯覚?をもたらすのである。二項目を取り上げた場合、二項目にはものすごくタイトな関係があり、一方を達成すれば、自然にもう一方も達成されるというような言い方をされると、そういうことが、「どんな場合でも成り立つ」ような感じがしてしまう。そして、そういう考えにとりつかれてしまう人が出てくる。これこそが、不幸のもとだ。 

「壺を買うとしあわせになる」よりも「他人に親切にするとしあわせになる」のほうが受けがいいのは、ある人が壺を買うと、たいていの場合、まわりの人が不幸になる感じがするけど、ある人が他人に親切にした場合は、たいていの場合、まわりの人が不幸になる感じがしないからだ。けど、これはこれで、問題がある。ある人が思う「他人に親切にする」の内容が、かならずしも、他人にとって、親切ではない場合があるからだ。

もうひとつ、現にしあわせではない人は、人に親切にしないひとだということを、理論的に暗示しているのである。実際には、不幸になる理由はたくさんある。しあわせになる理由もたくさんある。しかし、二項目だけをとりあげて、二項目の関係背について述べると、あたかも、二項目以外は関係がないような印象を与えてしまうのである。これは、印象操作だ。じつは、アドラーもこういう印象操作をおこなっている。この印象操作は、壺購入のように悪いイメージがないけど、ほんとうは、注意しなければならないことだ。不幸な人をより不幸にしているのである。



 

2022年8月30日火曜日

俺は、自動的に友達をなくして、通学通勤ができる体力をなくして、生きていかなければならなくなるんだぞ

 ヘビメタ騒音の破壊度が、いっしょにいた人間にもわからないんだよな。どれだけ言っても、あまくみつもる。俺が「できない」といったら「できない」のに、俺ができるのに「できない」と言っていると思って、働くことをすすめてくる。俺ができないと言ったら、できないんだよ。これ、俺がどういう気持で言っていると思っているんだ? これ、俺がどういう経験をもとに言っていると思っているんだ。そりゃ、「ずっとヘビメタが鳴っていた」と言うしかないけど、毎日のしんどさは、それじゃあ、つたわらない。他人だと、どうしても、俺の24時間がわからない。一日、24時間の、24時間がわからない。俺のからだがわからない。俺のからだがどれだけ傷んでいるかわらない。他人は、ずっと一緒にいた人もふくめて、「軽いと」だと思っている。俺がちょっと考えをかえれば、どうにでもなることだと思っている。けど、実際に、365日中、365日、ずっとずっとずっと、ずっとずっとずっと、たえきれない騒音を、あびせられて……。たえきれないのに、何年間もたえてきた。これで、精一杯なのに、まだ、余力が残っていると思っている。まだ、「その気になれば」働けると思っている。通学できると思っている。そういうものじゃないのに、そういうものじゃないと言っても、ヘビメタ騒音生活の経験がない人にはわからない。だから、そこにいつも齟齬がしょうじる。認知がちがいすぎる。認知のズレが、うまらない。ほんとうに毎日やられた人じゃないと、毎日のことはわからない。時間……たとえば、一日に7時間あびせられたとして、その生活が10年続いた場合の状態がわからない。実際に、午後4時には、やめてほしいのに、午後11時10分まで鳴っている状態が、どういう状態なのかわからない。きりきりまい。きりきりまいと言っても、経験がないのだからわからない。わからないところで「できる」と思って「やってくれよ」と言う。「むりだ」と言っても、聞かない。そういう人……頑固な人と、いっしょにいられると思うか? 会えば必ず、それを言われる。そういう人と会いたいと思うか? 「どうにかなってくれ」と言われて、「どうすることもできない」「働けない」と言うときの気持ちがわかるか? 「そこをなんとか」と食い下がられて、どういう気持になるかわかるか? 「ほうっておいてくれ」という気持になる。何十回もそういう気持になっていいわけがないだろ。会いたくないと、心底思うようになるだろ。どうして、わからないのか? そりゃ、「ほうっておけない」ということになれば、えん、を、きる、しかないだろ。友だちの記憶が続くわけがないだろ。いっしょにいたいと思わないくなるだろ。会いたくないと思うようになるだろ。どうして、これがわからないのか? ほうっておけよ。ほうっておけばいいんだよ。そこには触れずに、いままで通りにつきあってくれればいいんだよ。それを、こわしたの、きみだ!!

まあ、そっちからすれば、「そんなことで、いままでのことがなしなのか?」「いままでのことは、いったいなんだったんだ」と思うだろう。そういうことなのであれば、そこには触れずに黙っておけばいいだろ。できない」と何回言ったと思っているんだ。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴のしらないところで、俺と友達の縁(えん)を、切ってしまうのである。きちがい的な意地でやりやがって……。ほかの人が、わからないことをしやがって。きちがい兄貴の性格があまりにおかしいからほかの人のまわりにはきちがい兄貴みたいな人がいないんだよ。だから、きちがい兄貴みたいな人がやる、騒音を経験してない。これがどういうことだかわかるか? 俺は、自動的に友達をなくして、通学通勤ができる体力をなくして、生きていかなければならなくなるんだぞ。

「もーーう、いやだ」という気持がある

 どうも、ネズミが二階の横の部屋に入ったことが濃厚になってきた。うたがいが濃厚になったということだ。どうも、はったみたいだな。はいったら、出ていかないんだよ。どうするかな?

言ってはいなかったけど、じつは、鼻筋のところが、みょうにかゆくなってかいたんだけど、それがちょっと、かさぶたになっている。まあ、これ小さいわけだけど……。複数個あるから、ちゃんと治るかどうかわからない。あとがついたらいやだな。

あと、いま、首のところと胸のところがかゆい。ほんとうは、アパートをかりるために、動くべきなんだけど……どーーしても、腰があがらない。あがらない。

猛烈にしんどい。「もーーう、いやだ」という気持がある。「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」と100回ぐらい、こころのなかで、言ってる。おやじがネズミを入れてから、こういうことばかりだ。俺がネズミの糞を片づけるんだぞ。俺が、ダニに刺されるんだぞ。ほんとうに、頭がおかいしいから、魚を出しておくことにこだわる。ほんとうに、頭がおかしいから、「俺がネズミをつかまえるから、いい」と言って聞かない。ネズミをつかまえたって、あとからあとから入ってくるわけだし、ネズミをつかまえたってネズミの糞は片づけるわけじゃないから、こまると言っているのに、一切合切わからない。この「わからなさ」がすごいんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音もおなじなんだよ。どれだけ「でかい」と言っても、わからない。ほんとうに、よその家じゃ絶対にありえないほど、でかい音で鳴らしているのに、「でかい音で鳴らしている」ということを認めないんだよ。いつもいつも、こうなる。こういう、頭のしくみをもっているやつ破壊力と言ったらない。「どれだけ相手がガミガミ言っても気にしない」ということでどうにかなることではないのだ。逆に、きちがい兄貴やきちがい親父が「どれだけ相手がガミガミ言っても気にしない」で頑固にやりきる。あたかも、「気にしないこと」が「善」であるようなことを言うな!!

 

2022年8月29日月曜日

お楽しみ回路を破壊されたのが、一番、こたえたのかな?

 

 いやー、ほんとうにつまらない。俺、よく、生きているなぁ。

あーー。お楽しみ回路を破壊されたのが、一番、こたえたのかな?

あの感情の繰り返しじゃ、こわれるよ。

どんだけ、つらかったか。 

どんだけ、ながい時間持続したか?

どんだけ、ながい期間、持続したか?

まったく経験がないやつにわかるわけがない。おなじ経験がないやつにわかるわけがない。けど、その「わからないやつら」が、「楽しもうと思えば楽しめる」「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と、こっちからすれば、まったく根拠のないあほな意見を言ってくる。彼らは、きちがい兄貴にやられてないからそういうことが言える。「きちがい兄貴騒音相当」の騒音がないから、言える。きちがい親父と同じ家に住んでなかったから言える。どんだけの、経験がつみかさなる? まったくわかってない人たちは、生まれの格差について考え違いをしている。生まれの格差は、時間とともに広がっていくのである。生まれたときの「格差」がその格差の方向で、ひろがっていく。だめなところ、ひどいところに生まれた人間は、どれだけあがなっても、だめな経験、ひどい経験がつみかさなっていく。経験……。ところが、いいところに生まれた人間が、「格差なんて関係がない」「過去なんて関係がない」と言う。こういう、トリック。それからもうちょっと言っておくと、根拠というのがあるのである。感じ方の根拠がある。不適切な感じ方だから、そういうふうに感じないようにしようとしてもむだなのである。感じ方の根拠があるから。たとえば、ひどい家族のもとにうまれたら、ひどい家族との経験がつみかさなる。その場合、「家族と言うのはいやだな」と思うようになる。そこのそこで思うようになる。かりに、テレビドラマで、「理想の家族」みたいなものが放送されていたとする。その、理想の家族のほうが、ほんとうの家族だと思ったとする。けど、自分の経験に根差さない、「理想の家族」は「空想の家族像」でしかないのだ。なので、そういう「あるべき理想の家族」をもとにして、経験を積み上げることができない。それは、自分にとって「よそよそしいもの」なのである。たとえばの話だけど、「理想の家族」に近い家族のものに生まれて「家族とはこういうものだ」と言うイメージをつくりあげたボンボンがいたとする。そのボンボンにとっては、根拠があるイメージなのである。このボンボンが、不幸な人を見て、不幸な人は、家族に対して不幸な考え方をもっていると言ったとしよう。不幸なの人は、みんな自分の家族がきらいだと言ったとしよう。で、対策として、「不幸な考え方をもたなければいい」「自分の家族を好きになればいい」と言ったとしよう。……言ったとしよう。言ったとしよう……。それがなんだというのだ? もともと、めぐまれた家族のもとに生まれた人間。もともと、まともで人格的にすぐれている家族のあいだで育った人間。そういう人にとっては、たとえば、家族に対していいイメージをもつことが可能だ。普通に家族のことが好きになって当然だ。家族というもの、あるいは、家族の構成員に対していいイメージをもつことができる。これを、いいイメージを持てる能力の差のようにとらえがちなのだけど、根拠のないイメージは持てないものなのである。持ったとしても、実際に感じたことのほうが、実際の感情に影響をあたえるのである。実際の行動に影響をあたえるのである。実際の判断に影響をあたえるのである。たまたま、いい家族にめぐまれた人間が、またまた、悪い家族のもとにうまれた人間をさげすみ、能力の差のように考えるのである。

ちょっとだけ、脱線して説明しておくと、「さげずむ」も「さげすむ」も言い方としてある。けど、「見下す」という意味では、「さげすむ」と書くことになっている。まあ、見下すと書いておけばよかったか。

で、話をもどそう。たとえば、めぐまれた家族のもとで育った、ボンボン心理学者が、「不幸な人は、家族のイメージがゆがんでいる」と言ったらどうだろうか? ボンボン心理学者は、自分が、めぐまれた家族のもとに生まれて、自分がめぐまれた家族のもとで生活してきたので、きちがい家族がどういうものであるのか、ほんとうには知らない。経験をとおして知らない。なので、自分の家族(良心的な家族)をもとにして、家族のイメージをつくりあげる。その場合は、経験と家族のイメージが合致しているのである。けど、ボンボン心理学者が提示した「家族のイメージ」は、きちがい家族のもとで育った人にとってみれば、「空想の家族」「自分の経験に根拠がない人間的な交流をしている家族」なのである。なので、経験と言うことを考えれば、たとえば、不幸な家族のもとで生まれ育った人が、不幸な家族のイメージをもつのは、当然なのである。これは、そのことについて、認知がゆがんでないということを意味している。しかし、ボンボン心理学者のほうが、幸福な家族のもとに生まれ育って、幸福な家族のイメージが「認知的に正しいのだ」と思ったらどうだろう。不幸な家族のもとに生まれ育った人間の「家族のイメージ」がゆがんでいると判断してしまう。そして、それは、まちがっている。不幸な家族のもとに生まれたものがもっている「家族のイメージ」に対する認知は、ゆがんでないのである。 どっちの側にいるか? あるいは、どっちの側に含まれるか? ということを考えないで、「(認知が)ゆがんでいる」と言うべきではない。

 

2022年8月27日土曜日

下の存在

 ヘビメタ騒音をきちがい兄貴みたいな相手に、ずっとやられたら、通勤・通学ができないからだになるのである。だれだってそうだ。

まあ、ヘビメタが好きな人はならないかもしれないけど、それは、鳴っている音がヘビメタだからだ。

もしかりに、その人が苦手な音がずっと鳴っていたら、ヘビメタが好きな人でも、通勤・通学ができない状態になる。

たまたま、そういうことをする『きちがい的な家族』がいなかったから、まのがれているだけ。能力のちがいじゃないのである。

けど、自分が通勤・通学することができれば、通勤通学ができないなどと言っている人のことを、根本的に、無意識的に、意識的に、「ばかにする」。自分より下の存在だと思う。一度、下の存在だと思ったら、説教をするのは自由なのである。そういう人たちは、下のやつにえらそうなことを言うのは、自由だと思うし、「やっていい」と思う。むしろ、積極的にそうするべきだと思ってしまう。

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きちがい兄貴が、一心不乱に、きちがいヘビメタ騒音をでかいでかいでかい音で鳴らし続けると、俺が、バカなやつらから、あるいは普通のやつらから、下の存在に見られるようになってしまうのである。どうしてかと言うと、ヘビメタ騒音で勉強ができくなるからだ。学歴や職歴がなくなるからだ。体力も、生活的な持続力もなくなからだ。睡眠回路が破壊され、つかれやすいからだになる。そうなると、仕事ができないからだになるのである。しかし、そこでも、家の状況というものを無視した、あるいは、ヘビメタ騒音の影響を無視した、努力論や自己責任論が、あたかも正しいことして、言われるのである。

そんなのはいいわけだ」ときちがい兄貴がいないやつ、きちがい兄貴の騒音にずっと悩まされてこなかったやつが、言うのだ。こんなのは、屈辱だ。そいつだって、きちがい兄貴のような兄がいて、その兄が、そいつの一番嫌いな音を発狂的な意地で、毎日、ほとんどすべての時間、鳴らしていたら、学歴と職歴をなくし、通勤・通学ができないからだになる。どれだけ我慢して動いても、基本体力がなくなったつらい体で動くことになる。どれだけ、睡眠に気を使っても、けっきょく、適切な時間に、眠れないからだになる。そして、そうなったのは、自己責任だと言われるようになる。こいつらは、俺の責任を追及するけど、きちがい兄貴の責任はまったく追及しないのだ。それで、「正義」だと思っている。それで、「善」だと思っている。佐藤のような、凡人に、この俺が、かるく見られるのである。思考力がない凡人は、「専門家」の言うことなら、ありがたがって聞く。きちがい兄貴にやらなければ、俺は、専門家になれた。専門家である俺の意見を、思考力がないあいつらは、ありがたがって聞いただろう。それは、くそ凡人が、専門家の意見は正しいと思うようなくそ凡人だからだ。


2022年8月26日金曜日

わざとやっている場合は、わざとやっていることを知っている

 ヘビメタ騒音でつらい。ヘビメタ騒音でつらい。ヘビメタ騒音でつらい。

ヘビメタ騒音でつらいと言っているだろ!

ヘビメタ騒音でつらいと言っているだろ!

あの、連続ない。あの連続、ない。ほんとう、どういう状態でいると思っているんだ? 

どういう状態でいたと思っているんだ?

どういう状態になると思っているんだ?

きちがい兄貴を殺すべきだった。はやく殺して、きちがいヘビメタの影響から逃れるべきだった。これ、やられてない人は「ふかひせい」みたいなものがわかってない。不可避、なんだよ。不可避なんだよ。影響をうけないということがないんだよ。どれだけ、がんばって影響をうけないようにしても、影響をうける。あの、はりつめた気分はない。あの、はりつめた状態はない。きちがいが「へーき」でやっているんだよな。どれだけ言ったって、きちがいだから、日本語の内容を意識的に理解する前に、否定してはねのける。きちがいでも、日本語はわかるのである。けど、「予感」のようなものでしかない。理解すると、相手の言うことを聞いてやらなければならなくるから、理解をするまえに、相手の言うことを否定する。あるいは、理解する前に、無視する。無視したら、「まったく言われなかった」状態とおなじ状態になる。区別はない。だから、言われて、怒って、無視したあとも、「言われた気持ち」は発生しないのである。これが、兄貴の無視のしかただ。で、これは、普通の人が「こうしよう」と思ってできることじゃないのである。普通の人だと、どうしても、「聞いたけど、無視した」という記憶が残ってしまう。相手が「やめてくれ」と言ってきたけど、無視したという記憶が残ってしまう。さらに、無視したあと、相手が嫌がっていることをやり続けたという記憶が残ってしまう。普通なら、そうだ。けど、きちがい兄貴は、普通の意味で、意識的に理解する前に、はねのけてしまったので、そういう記憶が残らない。自分は、なにも言われてなかったし、言われなかったのだから、どれだけ続けたってそんなのはしかたがない」と思っている状態なのである。本人としては、本人の行為だとは思ってない状態なのである。あいてがいやがっていることをずっとやり続けたという認知・認識は、何万時間やりきっても、これっぽっちも、うまれない。相手が「やめてくれ」と言ってきたという認知・認識は、何万回言われても、まったく、うまれない。これは、わざと、やっていることではない。それがどれだけひどいことかわかるか? せめて、わざとやる……ぐらいの脳みそがなければならないのである。わざとやっている場合は、わざとやっていることを知っている。本人が、どれだけ、人の前で、否定したとしても、知っている。けど、きちがい兄貴の場合、わざとやっているわけではないから、それがないのである。普通の人が意識して、意地になって、わざとやらなければならないことを、普通に、自然に、やってないつもりのまま、やってしまう。こういう、催眠術にかかっているような状態……。これが、ふだんのきちがい兄貴の脳みそなんだぞ。どれだけ犯罪的なことをしたって、本人が、まったく気がつかなかったら、犯罪的なことをしたことにならないんだよ。

2022年8月25日木曜日

ヘビメタ騒音をぼくとおなじように経験すれば、その常識的な人だって働けなくなるのに、それがわかってない

 「悪」ということについて考えてみよう。ヘビメタをあの音のでかさで、鳴らすのは悪だ。なおさら、兄弟が「うるさいからやめてくれ」と一日に何十回も言っているのに、ずっと鳴らし続けるのは、悪だ。

いっぽう、騒音生活の結果、働けなくなった人が働かないのは、悪ではない。ところが、佐藤(仮名)のような常識的な人は、働けなくなった人間が働かないのは、悪だと考えてしまうのである。

ほんとうのことを言えば、佐藤は、エイリさんが働けると思っている。だから、佐藤のなかでは「働けないから働いてない」というのではなくて「働けるのに働かない」ということになっている。エイリさんは「働けるのに働かない人だ」ということに、常識的な佐藤(仮名)は認識しているのだ。これ自体が間違いだ。

きちがいヘビメタ騒音一分間の迷惑度を一兆だとすると、ぼくが働かないことの迷惑度は、ゼロだ。まあ、話がすすまないので、一兆歩ゆずって、ぼくが働かないことの迷惑度を一(いち)だとする。一兆倍悪いことを、問題とするのはなぜか? 頭がおかしいからだ。悪の度合いがわかってない。ほんとうに失礼なやつらだな。しかし、失礼なことをしているのは、佐藤たちなのに、佐藤たちは、自分がエイリさんに対して、失礼なことをしてないと思っているのだ。一兆歩ゆずって、話をすすめてしまったけど、ぼくは、悪いことをしてない。しかし、佐藤たちの考え方ついて考えると次のようなことが言える。「働かないエイリのほうが、ヘビメタを鳴らしたエイリの兄よりも悪いことをしている」と常識的な佐藤たちは判断しているのだ。この、混乱。この、迷惑な考え方。おまえらのそういう、見なし方のほうが、迷惑だよ。しかし、ぼくがそのことについて、不満を述べた場合どういうことになるかと言うと、佐藤たちは、ぼくが不満を感じたということについて、不満を感じるのである。こんなのは、ない。きちがい兄貴が、ほかの人にはまったくわからないきちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らさなければ、ぼくは、外部の人たちと、こういう関係になることはなかった。言霊についてだって、きちがいヘビメタ騒音のなかで「元気だ元気だ」と言って元気にならなかったという経験がなければ……そういう経験がある日が、何千日も続かなければ、言霊を普通に肯定できたのである。けど、ぼくは、きちがいヘビメタ騒音の経験から言って、言霊を普通に肯定するわけにはいかない。そうすると、言霊信者からは、軽く恨まれ、きらわれるのである。話をもどして、佐藤たちの反応のについて考えることにする。言霊の人が反感をもつように、常識的な人たちは、自分たちが言った「あたりまえのこと」をぼくが受け入れないということになると、ぼくに対して、反感をもつようになるのである。「働くのが当たり前のなに、働かないのはけしからん」「働かないのはけしからんと言ったことについて、反対意見を述べたのも、けしからん」ということになってしまうのである。きちがいじゃなかった、常識人、佐藤の頭のなかではそういう考えが浮かぶ。けど、これは、佐藤がヘビメタ騒音の影響を無視しているから起こることだ。佐藤が、ヘビメタ騒音の影響を十分に認めて、ヘビメタ騒音がそれだけなっていたのであれば、働くのはむりだと判断すれば、そういう考えが、佐藤の頭に浮かぶことはなかったのである。ぼくが、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、経験がない人にはわからないのだ。「うち」の状況というものを考えると、普通の人が生まれ育ってきた状況とは、まるでちがうのである。常識人佐藤が育ってきた「うち」の状況と、エイリの「うち」の状況がちがいすぎる。きちがい秋にというカード。きちがい親父というカードが、どれだけの影響をあたえるか、まったくわかってないやつらばかりなのだ。そりゃ、きちがい兄貴というカードときちがい親父というカードを両方、もっている人間でなければ、ぼくが言っていることがわからない。きちがい兄貴ときちがい親父の影響がどれだけ、でかいものか、まったくわかってないのだ。経験をとおしてわかってないから、まったくわかってない状態で、そいつらは生きているのだ。そいつらにできることは、「自分」の家族のカードから、「エイリ」の家族のカードを類推するということだ。けど、この類推は、はっきり言ってしまえば、かならず、誤解をうみだすものなのだ。

いずれにせよ、佐藤は、ぼくがなにもわるいことをしてないのに、悪いことをしていると誤解して、悪いことをしないようにすることを求めるのである。そして、働かないという悪いことをしているのだから、せめられて当然だという考え方もある。なので、自分がエイリを道徳的にせめることは、なんの問題もないことなのである。そしてさらに、自分がエイリを道徳的に攻めたとき、その道徳観についてエイリが文句を言ってきたとなると、不愉快になるのである。そして、エイリが文句を言ってきたのは、エイリが未熟だからそういう文句を言ってきたと考えるのである。自分が言っていることの意味がわからないから、そういう文句を言ってきたと考えるのである。説明するために「文句」ということばを使ったけど、実際には、文句ではない。文句と言うのは、佐藤から見た場合、エイリが佐藤の言葉を批判することが文句を言うことに見えるということだ。エイリの批判は、あたっているのである。なので、佐藤がまちがっているのだから、佐藤は、ぼくの批判を、文句ではなくて、正当な批判だと受け取らなければならないのである。しかし、佐藤はそういうことにも失敗してしまう。常識的な思考しかできないからそういう失敗をすることになる。この失敗は、佐藤側の失敗なのだけど、佐藤は、失敗をしたとは思わないだろう。そういうところに、ズレがあるのである。

さて、こういうずれは、ヘビメタ騒音のことを常識的な人に説明すると、普通に発生してしまうずれなのである。きちがい兄貴が、常識的な考え方らは、想像ができないきちがい兄貴なので、ぼくが、常識的な人から、批判されてしまうのである。文句を言われてしまうのである。未熟だと思われてしまうのである。あの、ヘビメタ騒音を経験したことがない人が、えらそうなことを言う。きちがいヘビメタ騒音をぼくとおなじように経験すれば、その常識的な人だって働けなくなるのに、それがわかってない。想像力がない。とくに、自分と相手の立場をいれかえて考えるということができないのである。不得意なのである。「自分だってそんなにでかい音でずっと、一一歳からヘビメタ騒音を鳴らされ続けたら、働ないからだになるかもしれないな」というような想像がまったく働かないのである。これは、想像力の欠如だ。

2022年8月24日水曜日

「ただちょっとうるさかった」というような話と、いっしょにするな!!

 ビオフェルミンのほかにミヤリサンも飲むことにした。

つまーーんない。

このあいだから、ずっと腹の調子が悪い。

頭も、もやもやする。

起きたとき、しんどい。

だいじょうぶかな?

たとえば、ごみをすてに行くとき、いちおう、服を着て、外に出るわけだけど、服を着るのがめんどうくさいんだよね。これは、ヘビメタ騒音の朝とおなじだからそうなる。だれもわかってはくれないか。あの破滅がどういう破滅なのか、全員わからない。

だから、「服を着るのがめんどうくさいんだよね」なんて言っても、ただのぶしょうものが、ちょっとしたこごとを言っているようにしか思えない。

けど、真実は……そういうことじゃない。あの、ヘビメタ騒音を経験したものにしかわからない。はっきり言えば、普通の人が「うける印象」よりもずっと深刻な問題なのである。印象とはちがって、そうとうに、やばい問題なのである。

そして、ヘビメタ騒音が十五年間だから、治りようがないのである。だれだって、十五年間もやられれば、「こたえる」のに、やられてないからわからない。だれだって、おなじ状態で15年間生活すれば、「服を着るのもしんどくて死にたくなる」状態になるのに、やられてないから、わかってない。

わかってないところで、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「すべては重いようだ」とかめちゃくちゃなことを言いやがる。そういうことばを信じて?15年間生活して、ボロボロになったということがわかってないなぁ。

そんなことで解決しているなら、とっくに解決しているんだよ。ヘビメタ騒音のことがほんとうにわかってない。ぼくにとってヘビメタ騒音がどういうものなのかわかってない。あと、ぼくにとってと言ったけど、普通の人はみんなそうだよ。普通の人がもっている音の感覚をもっている人は、みんなそうだよ。

これ、みんなわかってないかもしれないけど……。ヘビメタ騒音が特殊なものだから、ぼくが騒音に対して弱いみたぃな感じを与えるかもしれないけどぼくは、騒音に対して特に弱くない。

むしろ、強いのではないかと思う。

それをひっくり返す、きちがい騒音だったんだよ。ぼく以外だれも経験したことがない騒音だから、わからない。きちがい兄貴の態度が、態度だ。ぜんぜんちがう。ヘビメタ騒音があまりにも特殊なものだったので、ぼくの騒音耐性が普通の人よりも低いように思われるけど、ちがうんだよね。

ぼくは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまで、ずっと、幼稚園の騒音は、気にしてなかった。きちがい兄貴に十五年間やられて、人生を破壊されたあと、幼稚園の騒音も気になるようになったのである。十一歳から二十五歳まで、幼稚園並みの騒音が続いて、きちがいヘビメタ騒音が続いてなかったら、こんなことになってなかったのである。

で、ほかの人にとってみればこんなは、ただの愚痴だけど、ぼくにとってはそういうものじゃない。人生、すべての、問題だ。死ぬか生きるかの問題だ。いのちがかかっている問題だ。人生の質が、全部、かかっている問題だ。「ただちょっとうるさかった」というような話と、いっしょにするな!!

 

2022年8月20日土曜日

アドラー心理学の問題点について 4

まるで受けないけど、書いておく。アドラー主義者は「気にしない人間」を量産しようとするな。「どれだけがみがみ言われても、まったく気にしない人間」を増産しようとするな。
まるで気にしないことが善であるような言い分だ。まるで、気にしないことが正義であるような言い方だ。しかし、「気にしない」ということが善であったり、正義であったりするわけじゃない。「善悪の基準」というのは、人間のなかにほかの基準として成り立っている。
まるで、気にしないことが善であるような言い方自体が悪だ。それだとこまる人が出てくるのである。「迷惑だからやめてくれ」とどれだけ言っても、やめない人がいたとする。その人のなかでは、「相手を無視して、相手の言っていることを気にしないこと」が善になってしまう。
相手が言っていることをまるで気にしない人間がいたとする。その人、個人の「善悪の基準」がほかの人とずれていたとしても、相手が言っていることを無視して、自分がやりたいことをやることが善だということになってしまうのである。
そうなると、その特別な人間が、特別な価値観をもっていた場合、まわりの人が、迷惑をするのである。家族なら、当然、ひどくこまるということになる。まるで、わかってないんだよな。
「相手の言い分を聞いて、たしかに迷惑行為であると思ったらやめればいい」などということをアドラー主義者は言う。きちがい的な意地で迷惑行為をしているやつが、どういう基準で、あるいは、どういう考えで自分の行為が迷惑行為であると認めるのだ?
そういう相対性について、アドラー主義者はまったく考えてないのである。現実は、アドラー主義者が考えているほど単純じゃない。おおきく、基準がずれているやつがいる。そいつが、アドラー主義者の言うことを信じて、「どれだけ、がみがみ言われても、一切合切気にしない」で、やり続けたらどうなるか? そいつの行為でこまっているほうは、もっとこまるということになる。いいかげん、単純な考えで、自分勝手な行為を助長するようなことを言うのはやめろ!! 迷惑なんだよ!!
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「気にしないのが正義である。気にするのは悪である。だから、気にしないようにすればいい。相手がどれだけ、がみがみ言ってたって、それは相手の問題なのだから、気にする必要がない」……こういうふうに思っている人の善悪の基準が、きちがい的な基準だったら、どうなる?


まわりの人間が、こまるんだよ。たとえば、本人の耳が悪くなるようなでかい音で音楽を鳴らしている人間がいるとする。この人をAだとする。そういうことをしているということは、Aは、このくらいの音で鳴らしていいいと思っているということを意味している。
同じ家に住んでいる家族Bが、「うるさいから静かにしてくれ」とがみがみ言ったとする。けど、アドラー主義者に感化されたAは「相手がどれだけがみがみ言ってきたとしても、気にする必要はない」と思って、でかい音で鳴らし続けるのである。
当然、そういう場合だってある。「気にしないこと」が正義か? 「どれだけ相手がどれだけ、がみがみ言ってきても、それは相手の問題だと思って、気にしないでやり続けること」が正義か?
気にするのが悪である。気にしないのが正義であるという価値観とは、別に、善悪の価値観があるのである。そして、善悪の価値観は、ひとによって「だいぶちがう」のである。そういう相対性がまるでわかってないなぁ。
ともかく、「気にしないようにする」のがあたかも正義であるようなことを言って、ひとをそっちの方向に導くのをやめろ。誘導するな。「気にしない人」を量産するな。
 

ちがうと言ったら、ちがう。

 もう、なんだかんだいって、全部がいやだな。全部がいやだ。いやだぁ。特に他人がいやだな。リアルであった、いろいろな人のことを思い出している。ヘビメタ騒音以降、いろいろと腹がたつ出来事があった。他人とのかかわりあいのなかで、い・ろ・い・ろ・と腹がたつことがあった。もう、いいや。もう、いい。長期騒音で俺が失ったものは、でかい。でかすぎる。

ほかの人たちにはわからないと思うけど、ぜんぜん、ちがう。なにからなにまで、ちがう。ちがうと言ったら、ちがう。

 

2022年8月19日金曜日

ぼくに対して、失礼なことを言っているということがわからないのかな?

誠実に生きてきたけど、これは、だめだなぁ。

誠実に生きても、むくわれない。ほんとうに、つかれた。 

どんだけ、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃになるか、みんな、わかってない。

「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「ヘビメタ騒音の影響なんてあったとしても小さいものだ」「気にしなければいいんだ」「気にしなければ影響なんて受けない」「過去のことは関係がない」

こういうことばで、ひとをさんざんバカにしやがって。これ、バカにしているというとがわかってないんだろうな。ほんとうに頭にくる。やられてないやつらが、きれいごとを言う。そういうレベルの話は、ヘビメタ騒音一か月間で、木っ端みじんにふきとぶ。ぜんぜんちがい。やられてないからわかってないんだよ。ヘビメタ騒音生活が一か月間続いた状態がわかってない。一年間続いた状態がわかってない。一〇年間、続いた状態がわかってない。わかってないからいえることなのに、「真実だ」と思っている。頭がわるすぎる。これ、ほんとうに、ぼくに対して、失礼なことを言っているということがわからないのかな?

相手と自分の立場をいれかえて考えるということができないという意味で、頭がわるいゃっが、つぎつぎとあらわれて、頭がわるい意見を言って、ぼくを侮辱する。侮辱だよ。

ヘビメタ騒音生活にに関する想像力がまったくないという意味で、頭がわるいやつが、頭がわるいやつしか言えないことを、つぎつぎとあらわれて、頭がわるい意見を言って、ぼくをみくだす。これ、ほんとうは、わるいことをしているのに、本人は、いいことをしたつもりなんだよな。もう、そういうの、あきた。

みーーんな、ろくでもないやつらだと思う。こーーんな、ろくでもないやつらが、道徳について語っているんだからなぁ。哲学について語っているんだからなぁ……。どうかしているだろ! どうかしている!!

*     *     *

まあ、こういうことがつみかさなると、「人間なんて、いやだな」というような感想をもつようになる。この感想は、単なる感想だ。こういうことがあるからと言って、人間がいやな存在であるとは、言えないのである。けど、どうだろう? 一〇〇回のうち一〇〇回、こういうことが繰り返されたら、「いやだな」と思うのは、当然なのではないか? 基本、きちがいヘビメタ騒音……頭がおかしいほど、ヘビメタ騒音を自分の思った通りの音で鳴らすということにこだわり切った……きちがい兄貴が、こういう状態をつくりだしているのである。無関係じゃない。そして、ほかの人には、『きちがい兄貴』というカードがないのである。俺には『きちがい兄貴』というカードがあるのである。そして、そのカードがもたらす、災害がある。その場合、そのカードをもってない人にしてみれば、ひとごとだから、どうでもいいことであり、「自分」が制御でなかったのだから、自己責任……とかるく言えることなのだ。けど、それは、そういうカードをもたなかったから、言えることだ。こういうことが、わかってないのである。あるいは、アドラーのように、こういうちがいを積極的に無視して、現象をうまく説明できない破綻した理論を主張するようになるのである。この、カードのちがい……生まれの格差の無視というのは、アドラー心理学に深くよこたわっている特徴なのである。

2022年8月18日木曜日

俺がゆるせないのは、きちがい兄貴が「かるいきもちで」やったということだ

 俺がゆるせないのは、きちがい兄貴が「かるいきもちで」やったということだ。軽い気持ち。軽い気持ち。軽い気持ち。もちろん、実際は、「やめろ」と言われれば、きちがい的に怒って、やり通したのである。けど、……だけど「かるいきもち」なのである。これ、わかるかな? きちがい兄貴を、なまで、見た人じゃないとわからないんじゃないかな。こういう人と、いっしょに住んでいるというとが、どういうことなのかわからないんじゃないかな。だから、言霊や思霊みたいなことを言うんじゃないかな。「すべては、うけとめかたの問題」「すべては、生まれるまえに決まってた」というようなことを言うんじゃないかな。この「言霊思考」や「思霊思考」や「すべては、うけとめかたの問題」「すべては、生まれるまえに決まってた」が、めちゃくちゃに、人を傷つけるのである。特殊な家族にやられている人を傷つける。この傷つけ方は、並じゃない。

そんなんじゃないから、こまっている。そんなんじゃないから、できなくなる。被害の度合いがそんなものではないから、できなくなる。遅刻でも宿題でもコミュニケーションなんでもそうなんだよ。これ、言っているほうは、特殊な家族にやられた人間のことがまったくわかってないのである。特殊な家族に、騒音でやられた人間のことがまったくわかってないのである。無理難題を人におしつけているのに、無理難題を人におしつけているということがわからない。こいつらだって、俺とおなじ経験をすれば、睡眠障害で、遅刻をするようになる。睡眠障害で体力がなくなる。けど、やられたことがないので……つまり、実際には経験しなかったので……つまり、人生のなかで、十数年間にわたってそういうことがしょうじなかったので……「俺だったらそんなことにならない」「騒音がそんなに影響をあたえるわけがない」「騒音と人間関係は関係がない」「騒音が鳴ってたって勉強ぐらいできる」「俺だったら、騒音が鳴ってたって、遅刻をしないで通うことができる」と思って、ものすごく身勝手な決めつけをして、無理難題をおしつけてくる。こんなの、わかってないからやれるだけなんだぞ。わかってたら、絶対にそんなことは、言えなくなる。まるでわかってない。

2022年8月16日火曜日

次元がちがうんだよ。次元がちがう

 しかし、こんなつまらない人生、あるか?

ヘビメタ騒音。

ヘビメタ騒音の雰囲気しかしない。

きちがいが、頑固に鳴らしている。

どれだけ言っても、なんとも思わずに鳴らしている。

こっちは、鳴ってないときの人間関係を含めて、ボロボロだよ。

こんなの、あるか?

きちがいの維持が、みんなわかってない。

きちがいの感覚が、みんなわかってない。

きちがい家族のことが、みんなわかってない。

常識で考えて、常識をおしつけるな!!

どれだけ、頭がおかしいか、みんなわかってないんだよ。

うちの兄貴と、親父が、どれだけ、へんな感覚で生きているかわかってない。

みんな、わかってない。

俺が、文句を言われる。

こんなの、ない。

いい人も、含めて、俺に無理難題をおしつけてくる。

いい人は、いいアドバイスをしてやった、と思っている。

きちがい家族のことがまったくわかってない。

『そんなことが成り立つなら、苦労してない』……そう思うアドバイスばっかりだ。

わかってないから、できるアドバイス。

た、こういう人たちは、けっきょくのところ、ヘビメタ騒音が毎日積もった場合の、からだの状態がわかってない。わかってないこと、ばかりだ。

けど、自分の考えには自信があるので、ずれた、アドバイスをしてくることになる。そういう溝ができてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で毎日毎日、でかい音でヘビメタを鳴らすと、そういう溝が、不可避的に生じてしまう。

そして、その溝に気がついているのは、自分だけ……俺だけなのである。なので、状態は、もっとくるしくなる。

そういうことの繰り返しで、いいわけがないだろ。

世間的ないい人は、けっきょくのところ、きちがいヘビメタ騒音を経験してないし、きちがい兄貴の性格もわかってない。きちがい兄貴の感覚がわかってない。

きちがい的な兄貴が……家族が、きちがい的な意地で、つねに「常識はずれの騒音」を鳴らしているということが、わかってない。そういうことからしょうじる……不可避的なからだの変化がわかってない。

「そんなのは、自己責任」「過去は関係がない」「だいじょうぶだ、だいじょうぶだと言えば、だいじょうぶだ」「元気だ元気だと言えば、元気になる」「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」「人間は働くべきだ」「人生で起こることは決まっている」「自分が選んで、その家に生まれてきた」……そういうレベルのことしか言わない。

そういうレベルのくそ発言を聞かされて、こっちがどういう気持になるか、まったく、わかってないな。きちがい兄貴との関係、きちがい親父との関係を考えれば、わかる。

きちがい兄貴というものがわかってないから、わからない。

きちがい親父というものが、根本的にわかってないからそうなる。

常識的な人は、けっきょく、きちがい家族にやられたわけじゃない。どれだけトラブルがあっととしても、常識的な人同士のトラブルだ。次元がちがうんだよ。次元がちがう。

2022年8月15日月曜日

アドラー心理学の問題点について 3

アドラー主義と自己責任論が合体すると、不幸な人をより不幸にするのである。彼らは、条件のちがいを無視して、全部、自己責任にしてしまう。社会の責任はある。ところが、社会の責任はまったくなくて、すべてが自己責任だと考えるのである。……アドラー主義者は、他人のことに関してはその人の自己責任だと考える。じつは、アドラー主義者は無自覚なのだけど、自分の責任があることに関しては、無頓着である場合がある。アドラー主義者が自己責任を主張する場合、それは、他人の自己責任に限られる。
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悪魔が支配する世界で、生まれの格差がある。これを無視してどうする? これを無視するな!
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悪魔的な超金持ちが支配する世界で、生まれの格差がある。これを無視してどうする? これを無視するな!

 

悪魔的な人たちが支配する世界で、生まれの格差がある。これを無視してどうする? これを無視するな!

 

2022年8月14日日曜日

アドラー心理学の問題点について 2

部下や同僚がアドラー主義者だった場合は、問題がしょうじる可能性が低いけど、上司や社長がアドラー主義者だった場合は、問題がしょうじる可能性が非常に高い。むだなことをおしつけられる可能性が非常に高い。
また、じつはアドラー主義者は他人のことを考えてないので、いやなことを他人におしつけても平気なところがある。自分が他人にいやなことをおしつけたり、あるいは、他人を窮地に追い込んだとしても、それは、「他人」の問題だと思うのである。

まさに、本人は、「きらわれる勇気をもって」部下にいろいろなことを要求していると思っているのかもしれない。

部下にきらわれても、かまわないと思っているのかもしれない。しかし、アドラー主義者は、上司や社長にきらわれても、かまわないとは、考えないのだ。どうしてかと言うと、順・社会的だからだ。
現実社会のなかで成功したいという気持が非常に強い。
じつは、行動の基準には、「善か悪か」の基準のほかに、「損か得か」という基準がある。アドラー主義者は、現実的?な順応主義者なので、損なことは、さける傾向が非常に強い。
「善悪の基準」よりも「損得の基準」のほうが、うわまわってしまう。「善悪の基準」と「損得の基準」が同じ方向をむいている場合はよいが、「善悪の基準」と「損得の基準」が反対の方向をむいている場合は、「損得の基準」が「善悪の基準」よりも優先する。
それがアドラー主義者の行動パターンだ。
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2022年8月13日土曜日

アドラー心理学の問題点について(1)

壺を売っている人たちだって、「人にどう思われるか」なんて気にしてないよ。アドラー主義者も、「人にどう思われるか」なんて気にしてないけどね。この人たちは、こういう点でものすごく似ているわけ。

そうなると、悪いことをして気にしないというわけではないと、アドラー主義者は言い出す。普通のアドラー主義者にとっては、高い壺を売ることは、悪いことだ。だから、そういうふうに言う。

けど、壺を売っている人は、悪いことをしているとは思ってないんだよ。だから、「善悪の基準が問題になる」と言っているだろ。けど、アドラー主義者は、善悪の基準を気にしない。

そんなのは、決まっているからだ。どういうことかと言うと、「善悪の基準は人によってちがう」ということが理解できてないのである。アドラー主義者は、みんながみんな、アドラー主義者とおなじような善悪の基準をもっていると思っているのである。

アドラー主義者は、善悪の基準が相対的なものだということが、徹底的にわかってない。人間だからだいたい同じようなものだろ」と思ってしまっている。けど、人間によって、善悪の基準がちがうのである。

だから、「気にすべきことは気にすればいい」などと言っても、まったく無意味なのである。たとえば、壺売り組織のえらい人は、きらわれる勇気をもっているのである。人が批判をしてきても気にしない人なのである。

まさに、アドラー主義者が奨励していることを、実践している人なのである……高価な壺を売っている人は……。

「人殺しはいけないというような基本的なところではだいたいおなじだろ」とアドラー主義者は、言うかもしれない。けど、「より良い世界のために人口削減が必要だ」と考える人は、人口削減計画を実行してしまう。

「人殺しはいけないというような基本的なところではだいたいおなじだろ」ということは言えない。条件や立場によってちがう。おなじじゃない。けど、じゃあ、人口削減計画を推し進める人が、自分家族にとって悪い人かというとそうではないのである。

これは、その個人にとって、身近な人間か、身近な人間じゃないかが問題になる。人口削減計画に積極的に取り組んでいる人たちだって、自分の子供には、やさしいかもしれないのである。自分の子供は殺されたくないと思うのである。

ところが、自分の子供ではなくて、他人の子供なら、人口削減の対象になるのである。他人の子供を人口削減のために、がんばって殺そうと思ってしまうのである。

そういうことが、アドラー主義者はまったく、わかってない。単純すぎる。

「善悪の基準がしっかりしているのであれば問題はないとアドラー主義者は思っているかもしれないけど、そうじゃないのだ。だいたい、アドラー主義者は、マスク装着についてどう考えているのだ?

アドラー主義者こそ、他人に嫌われる勇気をもって、マスクをしない人を、悪く言う人たちの一員なのではないか。アドラー主義者は、マスクをつけるように言われる場面で、マスクをつけない人をどう思うのか?

アドラー主義者は、社会適応的で、長い物には巻かれろという考え方をもっているので、社会不適応なことを、「勇気をもって」やることはない。マスクで言えば、マスク適応的で、マスクをマナーとして考えるので、マスクをつけないという選択をしない。
きらわれる勇気が問題にならないところでしか、きらわれる勇気を発揮しないのである。ワクチンに関しても、アドラー主義者は、感染防止のために、みんながワクチンをうけるべきという「適応的な」判断をして、ワクチンをうけないという選択をしない。そして、ワクチンをうけないという選択をしたものを、「反ワク」「非科学的」「社会不適応」と批判する。つまり、悪口を言うほうにまわる。「ながいものにはまかれろ」を実践する。そして、勇気をもってワクチンを打たないという選択をしたものをばかにする。
これが、アドラー主義者がやることだ。もうひとつ言っておこう。このアドラー主義者がアドラー主義者の考えを代表しているわけではないけど、あるアドラー主義者が、ワクチンを打たない人についてこんなことを書いていたのを目にしたことがある。
ワクチン反対派の人は、ワクチンを打つというつらい現実から目をそらせるために、ワクチンに寄生虫がはいっているというようなことを言って、ワクチンを打たないようにしているのだ」というようなことを彼は書いていた。
むしろ、アドラー主義者が、おそろしい現実に目をむけずに、そういう奇妙なことを考えるとぼくは思う。アドラー主義者は、単純な意味でポジティブであり、単純な意味で単純なので、ワクチン接種に関しても、集団免疫を獲得するために、みんなが打ったほうがいいと考えてしまうような人たちだ。
ワクチン接種に関しては、時間がたてば、はっきりしたことが言えるようになる。いまは、まだ言えないことがある。ただ、アドラー主義者が、ながいものにまかれず、きらわれる勇気をもって、非常識なことを言うとは思えない。
ようするに、常識的な範囲でしか、ものごとを言わない人たちなのである。その人たちは、じつは、順・社会的なことを言って、ほかの人を苦しめている可能性がある。
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2022年8月12日金曜日

きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやってないという認知をつくりだしてしまう

まじ、しんどいわぁーー。まじ、つまんないわぁーー。

これ、よくやってきたよな。あーーんな状態で、よくやってきたなぁ。生きているだけですごいなぁ。普通だったら、死んでいる。

しかし、もう、つかれた。

ダニとの戦いもつかれた。一番いやなのは、顔をさされることだ。特に、鼻ふきん。鼻の頭をやられてるんだよね。これは、ニキビなのか、ダニなのか、まったくわからない。どっちでもありえる。感じとしては、ニキビなのではないかと思う。あとは、「うつのたいせき」がある。堆積ね。つもりにつもった「うつ」がある。もう、つかれたよ。どの場面を思い返しても、くるしい場面なんだよね。くるしい。くるしいんだよ。ほかのやつらにはわからないよ。だって、ほかのやつらには「きちがいあにき」がいないもん。そして、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でヘビメタを、一日中鳴らしたという現実がない。それなら、話がちがってくる。ぜんぜんちがってくる。

ほかのやつらの、のんきな設定。俺だって、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らさなかったら、言っていることがちがう。全人生がちがう。全人生。全部ちがう。これ実際に、やられた人じゃないわからないんだよな。一日だけでも、ものすごくくるしい。はりつめた状態になる。怒っているのをがまんして、何時間も何時間もたえているのだから、精神がぐちゃぐちゃになる。はらだたしいものになる。これは、鳴っているときだけではなくて、何日も続くと、鳴ってないときも、ぐちゃぐちゃになっているのである。けど、ほかの人には関係がないから、ほかの人には、ぐちゃぐちゃな部分を見せないようにして、対応する。そうすると、こころがはりつめる。寝不足がたたって、意識がとんでしまいそうな状態なのに、こころがぐちゃぐちゃぐちゃで、さらに、それを隠そうとして、こころがはりつめた状態になる。きちがいヘビメタはそういう効果がある。きちがい兄貴は、そういう効果を狙ってやったわけじゃない。きちがい親父とおなじで、自分がやりたいだけなのである。自分がやりたかったら、感覚器を書き換えて、やってしまうのである。どれだけでかい音で鳴らしても、こんなのは、しずかな音だと感覚してしまう。でかい音だと認めたら、音をさげなければならなくなる。それが絶対にいやなのである。けど、それが……そういう思考のプロセス全体が、意識によって認識されているわけではないのである。全部、無意識的なプロセスでおこなわれるのである。だから、本人としては「つもりがない」ままなのである。こういう場合「つもりがない」といことは、全部ふくめてやってないということにひとしいのである。等価なのである。けど、これが、ほかの人には、まったくわからない。そして、さらに、きちがい兄貴にはまったくわからない……ほかの人以上にわからないという性質がある。これだって、もし、「つもりがないけど、意地になってやった」ということを認めてしまったら、芋づる式に、最初の部分……でかい音で鳴らしているのに、しずかな音だと思っているという部分まで、浸食してしまうので、絶対に避けなければならないことなのである。これも、意識的に避けようとしているわけではないのである。なので、連鎖的に、重複した現実認知の錯誤がしょうじるのである。これは、悪意がない認知症の現実認知の錯誤ではない。ちゃんと、悪意がある。ごまかしの部分がある。まず、完ぺきに自分をごまかしてしまうのである。それは、どうしてかというと、どでかい音で鳴らしたいからだ。「よそじゃ、絶対に鳴らせないような大きな音」で鳴らしたいからだ。自分が満足できる大きな音で、ずっと鳴らしたいからだ。自分が鳴らすとなったら、その音で鳴らさなければならないのである。で、意地になっているということは、絶対に認めないのだけど、たとえば、一分でも、こっちの要求にあわせて、フォークギターぐらいの音にしたら、一分間のあいだ、ずっと、はらわたが煮えくり返っているような状態になってしまうのである。我慢してないから、まったくかんけいがないつもりでいられる。一秒でもがまんしたら、真っ赤な顔をして、発狂してしまうのである。「そんなのできるか!!」と絶叫して、がまんしないで鳴らす。そのとき、こっちが意地をとおそうとすると、殺さなければならないのである。きちがい兄貴の踏ん張りはそういう踏ん張りだ。きちがい兄貴の意地はそういう意地なのである。一日のうち、一時間はそういう態度で暮らしているというわけではなくて、一日のうち、二四時間そういう態度で暮らしているのである。だから、全部の時間、しずかにしない。全部の使える時間……つまり、鳴らせる時間……ずっと最大限の音で鳴らすということになってしまう。さらに、普通の家であれば長男がそういう状態であっても、親は普通の状態なのだから、抑制が効くんだよね。どっちが、正しいのか、どっちが無茶なことをしているのか……公平に判断してくれる。ところが、うちの場合は、きちがい親父がきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっているので、抑制がきかないのである。もちろん、おやじは、こっちが赤ん坊のころからそういう頭の構造をもっている。きちがい親父も、きちがい的なことで、意地をはって、意地をはって、きちがい行為をしてきたのである。「やめさせられそうになったら」怒りくるという反応をしてきたのである。おかあさんの言うことは、きちがい兄貴もきちがい親父も聞かない。そりゃ、聞くわけがない。きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやってないという認知をつくりだしてしまうのだから、ひとから言われて、聞くわけがない。最初から、言ってわかるようだったら、苦労してない。こんなこと」になっていないのだ。頭がおかしくて、認知構造がおかしいから、そういう反応をするのである。全体的には、顔を真っ赤にして、怒り狂って聞かないということをする。けど、本人は、これまた、そういうことをしたというつもりがないのだ。こういうふうに重複しているので、どの時点で指摘しても、どの時点でたのんでも、きちがい親父ときちがい兄貴は、言うことを聞いてくれない。なおかつ、相手が必死になっていってきたけど「言うことを聞いてやらなかった」というつもりがないのである。けど、実際のアクティングアウトされている行動は、まさに、聞かないで、自分の意地をとおして、頑固に、やりたいことをやりたいようにやったということになる。これが、毎日、毎時間、毎分、毎秒、続くのである。どうしてかというと、頭の構造がそういう構造だからだ。

 

普通の家

 昨日、シェディングをうけてから、調子が悪い。のどがひりひり痛くて、痰がでた。痰は、帰ってきたときだけ……。しかし、頭がモヤモヤしてしかたがない。「ほんとうに、全部つかれた」という気分になった。ほーーんと、つかれた。俺の人生はなんだったのだ? なんだったんだ? なんだったんだ?

つかれた。ほーーんとーーに、つかれた。これ、復活するのかな?

じつは、腹の調子もわるい。ともかく、からだじゅうがだるい。

ほんとう、つかれた。めちゃくちゃな、一生だったなぁ。特殊な父親、特殊な兄のいる家に生まれて、ボロボロになっていくんだよな。こんなの、明るい気持ちを維持できるわけがないだろ。これ、……こういう話……どんだけつらくても、どれだけひどい状態でも明るい気持ちは維持できる……というような話だけど、そういうことを言う人の家は、こういう家じゃない。普通の家なのである。このポジティブ思考は、普通の話だ。普通の人の感覚が成り立っている。ほんとうに、わかってないだけなのに、「どんだけつらくても」とか「どん状態でも」と言いすぎる。こいつらが経験したひどい状態、なんて、明るい気持ちを維持しようと思えば明るい気持ちを維持できるひどい状態なんだよ。こいつらが経験したつらい状態なんて、明るい気持ちを維持しようと思えば明るい気持ちを維持できる状態なんだよ。どういうふうに「やられていくのか」ぜんぜんわかってない。経験してない。こんなもんじゃないのである。こういうことを言う「普通の人」が、ほんとうにつらい状態? 頭がおかしい家族にやられた人を、おいつめる。もちろん、「おいつめている」つもりなんてないだろう。阿多がおかしい家族のことがわかってない。毎日続くということがどういうことなのかわかってない。毎日、十数年も、何十年も続くということが、まったくわかってない。こいつらは、普通のうちに生まれて、普通のことしか経験してないから「どれだけひどい状態でも明るい気持ちは維持できる」……というようなことを言える。普通の家の、普通の人は「明るい気持ちを維持できる」状態で、明るい気持ちを維持している。こういう言説? こういう妄想に、どれだけ、搾り取られると思っているんだ? エネルギーを搾り取られると思っているのだ?

(シェディングと書いたけど、これは、ファイザーの言い方にあわせているだけだ。ほんとうは、トランスミッション。)

*     *     *

ヘビメタでくるしい。あのとき、言っておけばよかったな。大原さん、誤解なんだ。杉中さん、誤解なんだ。大原さん、プレゼント、ありがとう。ヘビメタ騒音でごちゃごちゃになって、おかえしができなかった。ヘビメタ騒音のことを説明するのが、なんか、みっともなくって、いやだった。けど、言えばよかった。ヘビメタ騒音でくるしいと言えばよかった。

 

2022年8月11日木曜日

一回の出来事じゃなくて、何千日も、何十万時間も、生活そのものなのだよ!!

 きちがい兄貴が、俺にとってガンで、ブラックホールなのである。俺が、自動的に、誤解をうける。ほかの人から誤解をうける。ほかの人は、きちがい兄貴のことがまったくわからない。なので、きちがい兄貴が与える影響がわからない。きちがい兄貴が与える影響って、ヘビメタ騒音のことだよ。ほかの人は、ヘビメタ騒音のことを、無視している。ぼくの生活、ぼくの人生にあたえるヘビメタ騒音の影響を無視している。ぼくの感情、ぼくの行動にあたえるヘビメタ騒音の影響を無視している。そうすると、精神論になる。そういうことを言う人たちだって……えらそうに精神論を言っている人たちだって、その人たちにとってのヘビメタ騒音があれば、日常に対応できなくなる。この日常というのは、たとえば、遅刻しないで学校に通うことや、遅刻しないで会社に通うことだ。あるいは、学校や職場で、「適切な行動」をすることだ。通うことや、適切な行動をすることができなくなるのだから、そりゃ、文句を言われる。これ、障害が認められている障碍児よりも、くるしい立場に立たされてしまうのである。しかも、これを言うとまた、批判されると思うけど、頭に癖がある人の行動は、きちがい兄貴の行動と似ているのである。きちがい兄貴の反応と似ているのである。心理学者や心理学者の影響をうけた人たちは、頭に癖のある人のことは気にするけど、頭に癖がある人にやられた人のことは、まったく考えてないのだ。頭に癖のある人がやることは、頭に癖があるという理由で、ゆるされるべきだという理論を展開する。だれによってゆるされるかというと、頭に癖がある人にやられた人によってゆるされるべきなのである。どこまでもどこまでも、俺が、ほかのやつらから、やられる、ことになる。きちがい兄貴の頑張りが、そういうことに影響をあたえる。きちがい兄貴の頑張りって、きちがい的な意地で、ヘビメタをでかい音で鳴らすことだよ。一日中、きちがい兄貴にとって可能な時間はすべて、ヘビメタを鳴らすということが成り立って、いいわけがない。けど、これもまた、他人にとっては、『そんなのひとごとだから、関係がない』ということになる。けど、その他人が、あたかもヘビメタ騒音が鳴っていないかのような、行動を求めるのである。あたかも、ヘビメタ騒音が鳴ってないときのような行動を、俺にもとめるのである。「それは、むりだ」と言うと、対立関係がうまれる。ヘビメタ騒音でできなくなったと言っているだろ。影響は不可避的だと言っているだろ。こいつらはゆるさない。こいつらは、ゆるせない。

ヘビメタ騒音にやられてないやつが、「いいわけばかり、言うな」と言ってくる。ヘビメタ騒音にやられてないやつだ。こいつらだって、きちがい的な兄が、きちがい的な意地で、その人にとって騒音であるような音をずっと、あの音のでかさで鳴らしていれば、生活がみだされ、普通に行動できなくなるようになっていくのに、それが、わからない。自分の人生のなかで、しょうじたことではないから、わからない。ヘビメタ騒音と言えば、ひとことで、ヘビメタ騒音と言えるのだけど、期間の長さと、繰り返しの回数から言って、それは、ひとことですむことじゃない。たとえば、「遊園地のアトラクションでこわい思いをした」というようなことと、同じレベルのことではないのだ。期間の長さと、繰り返しの回数がちがう。どんだけ長い間鳴らされていたか、ぼくが、説明したのに、期間の長さを無視しているなぁ。一回の出来事じゃなくて、何千日も、何十万時間も、生活そのものなのだよ!! 生活そのもの。きちがいヘビメタの影響をうけてない時間がないんだよ。俺が一一歳のときから、ないのぉ!!

2022年8月9日火曜日

ヘビメタの感覚しかない。ヘビメタ騒音でくるしい。

 ヘビメタの感覚しかない。ヘビメタ騒音でくるしい。

こういう、生きている時間が、全部、きちがいヘビメタ騒音の記憶に結び付いている。記憶と書いたけど、これは、記憶というよりも、「生きている感覚」だ。

2022年8月8日月曜日

ヘビメタ騒音なしで、なかよくしたかったなぁ

 あの子となかよくしたかったなぁ。ヘビメタ騒音なしで、なかよくしたかったなぁ。ヘビメタ騒音があると、だめなんだよ。あっちが、どれだけぼくのことを好きになってくれたとしても、だめなんだよ。ヘビメタが鳴っている生活じゃあ、だめなんだよ。だめなんだよ。あの地獄のような生活が、わかるか? わかるわけがない。ほんとうに、ほかのやつら、適当なことを言いやがって。まちがっている。あの生活でいいわけがない。あの生活で、ほかの人とつきあって、いいことになるはずがない。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も含めて、めちゃくちゃなうえに、めちゃくちゃ。感情が成り立たない。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタを毎日毎日、きちがい兄貴の気がすむような音で、きちがい兄貴の気がすむような時間の長さ鳴らしてたら、だめなんだよ。どれだけがんばっても、だめなんだよ。どれだけはりつめていた。中学のときから、ダイヤとの関係だって、ヘビメタ騒音がなければ、ぜんぜんちがうものになっていたんぞ。これが、きちがい兄貴ときちがい親父で、脳みその構造が同じだから、まったく気にしないんだよ。この「気にしない」という状態がほかの人にはわからない。普通の脳みそをもっている人が「気にしない」のとは、ちがうんだよ。けど、こんなのは、どれだけ、説明したって、普通の人と暮らしている人にはわからない。ぜーーったい、わからない。わからないから、こっちの現実をまったく理解しないことを言いだすのである。普通の人は……。俺の説明を聞くと、こっちの現実とはまったくちがう現実の上に成り立つことを言う。けど、それは、こっちの現実では成り立たない。きちがいにどれだけ言ったって、殺さなければ、きちがいはきちがいのまま動いてしまう。どれだけ言ったって、きちがい的なふるまいをやめない。行動をやめない。普通の認知・認識ができないから、どれだけ言ったって、普通の認知・認識が成り立たないのである。きちがい兄貴の頭の中で……。きちがい親父の頭の中で……。そうすると、こっち、が、誤解される。勘違いされる。これまた、第三者が、勘違いしたことを、こっち、に、言うようになるのである。で、普通の人の常識と、きちがい兄貴がきちがい兄貴であるという状態……きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい兄貴がすでにしているような反応しか返ってこないという現実のあいだに、乖離がありすぎる。この、乖離だって、ほかの人に、どれだけ説明したってわからない。ほかの人の常識は、ほかの人の常識的な現実に基づいて生成されたものだから、その人にとって「根拠がある」ものなのである。こっち、には、常識的な人の「根拠」がないんだよ。言ってみれば……。常識的な人が根拠として感じるような現実が、こっちにはない。どれだけ、こまるか? どれだけ、こまるか?

ともかく、塾とか家庭教師なんて関係がなくて、きちがい兄貴が普通の音で鳴らせばよかったわけ。で、普通の音で鳴らすということができないというわけではないんだよ。たとえば、フォークギターぐらいの音で鳴らすということができないということはない。ところが、きちがい兄貴は、ヘビメタを鳴らすのであれば、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らさなければ気がすまないというところがあった。これが、「気がすまない」というような表現ですまされるようなことではないのだ。こだわりがある。このこだわりは、やはり、きちがい親父のこだわりとおなじなのである。これ、脳みそのしくみが同じだから、こまるんだよ!! こまるんだよ!! で、どっちも、自分が思ったとおりにやらなければ、気がすまないのに、自分が思ったとおりにやらなければ気がすまないという自覚がないわけ。これは、言われないから気がつかないというわけではなくて、どれだけ言われても、気がつかない。で、激しく言われているとき……激しく指摘されているときの態度が、「夢中になって」やっているときの態度とおなじなんだよ。「無視して」やっているときの態度とおなじなんだよ。はっきり言えば、からだをこわばらせて、目を三角にして、真っ赤な顔をして、脂汗をかいてやっているときと同じだ。自動的にそうなっちゃうの! 同じなんだよ。「注意すれば、なおせる」というものではないんだよ。これ……。おなじ状態で否定して、認識しないようにする。否定して認めないのだけど、否定して認めなかったという意識が発生しない状態なのである。だから、記憶にない状態なのである。一度、認識したものを、忘れるのではなくて、一度も認識してないのである。 これだって、ほかの人にどれだけ言ったってわからない。

 

2022年8月7日日曜日

兄貴も親父も、悪い意味で、「怪人」なんだよね

 兄貴も親父も、悪い意味で、「怪人」なんだよね。あんなの、ひとじゃない。あんなの、ひとじゃない。で、悪い意志がないというのが、こまるんだよ。本人の意識としては、悪いことをしているつもりがない行動で、こっちがこまるんだよ。そのこまり方は、悪意がある人が、悪意がある行為をしている場合よりも、はるかに、はるかに、でかい。そして、「本人の意識としては、悪いことをしているつもりがない行動」のひどさが、そういう家族がいる家に生まれたことがない人には、わからないのだ。これも、こたえる。「そういう家族がいる家に生まれたことがない人」にとっては、「ない」ことだからな。考えのらちがい。経験のらちがい。らちがいだから、「ない」こととしてあつかうわけだ。こっちが説明したって、わからない。「似たようなこと」から類推するしかないんだよね。で、「似たようなこと」というのは、ものすごく、うすめたかたちである。だから、「似たようなこと」と「本人の意識としては、悪いことをしているつもりがない家族の行動」が同じようなものだと思ってしまう。影響度の差を考えない。これ、もう、月とすっぽん。小石と太陽。ぜんぜん、影響のでかさがちがう。けど、「似たようなものだ」と考えてしまう。似たようなものだと考えてしまうとなると、影響度も似たようなものだと思うことになる。そうすると、誤解がしょうじる。繰り返しになるけど、誤解だということが、今度は、わからないということになる。普通の人は、誤解だとは思わないんだよな。こっちがどれだけ、『影響度がちがいすぎる』ということを言っても、わからない。普通の人は、経験がないからわからない。

おやじのきちがい的な態度が普通の人には、わからない。兄貴のきちがい的な態度が普通の人にはわからない。で、繰り返しなるけど、きちがい親父やきちがい兄貴は、きちがい的な意地でやっていることは、全部、まったくやってないのとおなじことなのである。こういう認知が成り立っている。そういう感覚が、全方位で、すべての時間、成り立っている。だから、途中で修正するということができないのである。そりゃ、「こういうことをやった」「だからこまる」ということを直接、兄貴や親父に言っても、兄貴や親父がきちがい的な意地で否定する。きちがい的な意地で無視する。で、その否定のしかたや、無視のしかたがおなじなんだよ。スイッチが入って、きちがい的な意地で、きちがい行為をやる時とおなじなの。だから、どの時点で言っても、おなじなの。修正されることがない。気がついてわかるということがないんだよね。

そもそも、自分がやりたいことをやっているときに、「迷惑だからやめてくれ」と言う人間があらわれたということが、不愉快なことなのである。無視したいことなのである。それと同じで、「こういうことをやったから、やめてくれ」とあとで言われた場合も、「やったということを認めること自体が」不愉快なことなのである。無視したいことなのである。だから、まるで、催眠術にかかったような状態で無視する。で、「困っているからやめてくれ」と「言われた」ということも、無視してしまう。記憶にない状態になってしまう。催眠術にかかったような状態でと書いたけど、発狂している状態なのである。むきになってやっているときと同じ状態で、無視をする。もちろん、無視をしたつもりかなんてない。だから、どこまでもどこまでもおなじなんだよね。

「悪気がない」ままだ。どこまでもどこまでも、「悪気」がないまま、きちがい的な意地でわるいことをする。そういうことが、何十年も毎日毎日、つみかさなったら、影響をうける。不可避的に影響をうける。けど、そういうきちがい家族にやられたことがない人は……そういうきちがい家族がいる家にうまれた経験がない人は……そういう影響を無視するのである。俺のことは、悪く言うけど、きちがい兄貴のことは悪く言わない。俺のことは、悪い言うけど、きちがい親父のことは悪く言わない。これまた、俺がどれだけ説明してもそういう態度だ。佐藤のように『そんな人いるのかなぁ』なんて考えるようなレベルだ。普通の人は、こういうことに関して、そういうレベルの思考しか持ってない。これが現実だ。

そうなると、きちがい家族にやられた人は、行く場所がなくなってしまうのである。とくに、ヘビメタ騒音のように、体力障害と睡眠障害を引き起こすことだと、よけいに行く場所がなくなる。

 

 

2022年8月1日月曜日

不可避的に「できくなる」ということ……。

 ヘビメタ騒音の感じがある。これは、否定できない。ほかの人には、ないわけだから、どれだけなにを言っても、根本的なことは伝わらないと思う。ほかの人には、どうしてないかというと、きちがい兄貴がずっと、ヘビメタを鳴らすということがなかったから、ない。このヘビメタが鳴っている「いちにち」というのが、ものすごく、たいへんなのだ。これだって、どれだけ説明したってわからないだろう。いちにち」のことですら、わからない。鳴っている状態、鳴っている時空がずっと続くって、どういうことだと思っているんだよ。ヘビメタとは言わず、自分がこの世で一番嫌いな音が、あの音のでかさでずっと、鳴っていたら、不可避的に影響をうける。けど、人は、うけてないので、それがわからない。不可避的ではないと思うわけだ。「しっかりと自分の意志をもっていれば、影響をうけない」と思っていたり「影響をうけないと言えば、影響をうけずにすむ」と思っていたりする。けど、これ、空論なんだよね。それは、やられてないから、実際にはどういうことなのかわからず、そういうことを言ってるという状態だ。いちにちですら、そういうことが成り立つのに、毎日ずっと、何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も鳴っていたら、どういうことになるか? どういうことになるか? そういった認知の誤謬が大きくなる。こっちの現実を知らずに、物事を言うということになる。認知療法……いちおう、俗流認知療法と言ったほうがいいかな?……まあ、認知療法や行動主義心理学や精神世界やアドラー心理学といったものを信じしている人は、そういう考え方を信じているので、「不可避的だ」ということを認めないのである。そうなれば、現実に関する、ぼくの認知と、「不可避的だ」ということを認めない人の現実に関する認知は、異なるものになる。そして、その認知の差が、きちがいヘビメタ騒音経験の数、とともに、どんどん広がっていくのである。

これは、「不可避的だ」ということを認めない人には、どうでもいいことだけど、ぼくにとってはどうでもいいことではない。生きにくくなってしまうのだ。たとえば、佐藤は常識的な人で日本人的な労働観をもっている人間だ。そういう人間は、「不可避的だ」ということを認めないのである。そして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価し、あるいは、無視して、「人間は働くべきだ」という「自分の意見」をしおつけてくるようになる。その場合、佐藤とぼくのあいだで、有効な人間関係が成り立つかというと、成り立たない。そういうことを言われたあと、佐藤といい気持でつきあうということができなるのだ。そして、外面的な行為について言えば、ぼくが働かない限りは、佐藤は、自分の意見をおしつけてくる……説得しようとするということをやめないわけだ。そして、佐藤がそういう労働観をもっている以上、これまた、不可避的に「働いてない人」を軽蔑するということがしょうじる。これは、佐藤が、意識的にやめようと思っても、やめられないことだ。「働いてない人」と書いたけど、くわしく書くと「働けるのに、働いてない人」ということになる。しかし、佐藤の場合、ヘビメタ騒音の影響を無視しているのだから、佐藤にとっては「ぼく」は、働ける人間なのだ。だから、「働いてない人」と「働けるのに働いてない人」はこの場合は!等価になる。ヘビメタ騒音にやられて働けないからだになると、必然的に、佐藤のような労働観をもった人から、「バカにされる」「軽蔑される」という結果がもたらされることになる。もちろん、きちがい兄貴が最初からそれをねらっていたわけではない。けど、ヘビメタ騒音は、ヘビメタ騒音が鳴っているという状態を作り出し、その状態の影響を不可避的に受けてしまう以上は、順番にそうなるのである。で、これは、佐藤との間にしょうじたことだけど、じつは、小学生のときからそういう問題がしょうじている。小学生のときは、働く必要がない(働くべき人間だと「常識的な他者」が思ってないから)見えないだけで、ほんとうは、同じ構造をもった問題がしょうじている。それは、ひとつひとつは小さく見積もられることだ。たとえば、「宿題をやってこない」という問題がある。宿題をやってこないのではなくて、ヘビメタ騒音で宿題をやることがどうしてもどうしてもどうしても、できなかったのだ。しかし、常識的な他者は、ヘビメタ騒音でそういうことがしょうじるということを認めない。また、基本的なことを言えば、「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「そんなのは、家族で相談すればいい」ということを言われることになる。「常識的な他者」はきちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造がわかってないので、「お兄さんに言えば」問題が解決されると思っているわけだし、「家族で相談すれば」問題が解決されると思っている。で、これが、伝わらないのである。佐藤に「不可避的に影響をうける」「その結果、働けなくなる」ということが伝わらなかったように、伝わらないのである。「常識的な他者」はきちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造を理解しない。ぼくがどれだけ明瞭な言葉で語っても、理解しない。常識的な人は、基本的に、きちがい兄貴のことやきちがい親父のことは理解しない。言ったって、わからない。これは、ぼくの説明のしかたが悪いのではなくて、相手側……常識的な人のなかに、それらに対応する「本質的な認識」あるいは「概念」がないのだ。ともかく、この場合も、お兄さんにちゃんとやめてくれと言えばやめてくれるはずなのに、言わないからダメなんだというような誤解をうける。また、「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできる」といったまちがった考え方をもっている先生だと、その先生と「ぼく」の人間関係が、悪くなるのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。