2023年11月30日木曜日

ほんとうに、悪意なく、そうする。

 いやーー。まじ、つまんないわぁ。けっきょく、ヘビメタ騒音がでかすぎる。ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。なので、むりだ。

これ、ほんとうに、広範な範囲で障害がしょうじる。二次障害、三次障害がしょうじる。助けに行ったやつが、遭難してしまうような問題、そして、助けに入ったやつを助けに行ったやつが遭難してしまうような問題がしょうじる。

どれだけ、手を尽くしても問題がひろがる。

実際にやられてない人は、どういうことだかわからない。「そんなものなのかな」と、ぼくに好意的な人は思うかもしれないけど、好意的な人ですらそういう理解にとどまる。実際に、自分で経験しないとわからない。きちがい兄貴の頑固さがわからないわけだか、それはわからない。

この頑固さが、猛烈に腹がたつ部分ではあるんだよ。そして、きちがい兄貴の頑固さと言うのは、ここまでずっと述べてきたようなきちがい感覚によって成り立っている。自分にとって都合が悪いことは、認めないわけだけど、意識して、認めないというような状態とはちがう状態で認めないわけだ。

そして、きちがい的な意地でやったことは、ぜんぜんやってないことになっている。まったく無関係なのだ。本人の主観としては、「常に」そうなっている。

だから、どこかで「やった」ということに気がつくことがないのだ。「そういう態度でやりきった」ということを「忘れてしまっている」状態で、あたらしく、頑固にやるわけだよ。こういう状態の人が、家族に、最低一人は、いないと、わからないわけなんだよな。

聴覚に問題がある人ではなくて、無意識に問題がある人が「やってないつもりで」がんがんやりきって、絶対に認めないという状態が、ほかの人にはわからない。

ほんとうに、悪意なく、そうする。

そして、やっているのだけど、やっているということを認めない。その日のなかで、鳴らし終わったら、もう、その日は、一日中、鳴らしてなかったという気持になってしまう。あるいは、そういうことさえ感じないぐらいに、関係がない人になっている。

けど、実際には、一秒だってゆずらないという気持でやりきったわけだよ。一三時間鳴らせるなら、こっちが試験だろうがなんだろうが、一三時間、きちがい的な意地で、一秒だってゆずらずに鳴らすんだよ。実際にはそういう行動をするわけ。

けど、本人は、まったく鳴らさなかったのとおなじ気分でいるわけ。気分だけではなくて、「感覚の世界」や「認識の世界」でも、鳴らしてないということになってる。

頭がおかしいから、まったく悪いと思わない

 だから、まあ、朝の雰囲気がヘビメタ騒音の雰囲気なんだよね。朝の雰囲気が、ヘビメタ騒音期間中の、朝の雰囲気なんだよね。

この朝の雰囲気が、絶望を呼び起こす。

この朝の雰囲気が、死にたい雰囲気だ。

まあ、自殺したりはしないけど……。しんどかったなぁ……。ヘビメタで……。だれも毎日、繰り返し、経験したことがないんだよな。ヘビメタ騒音の前の、朝の雰囲気を経験しているんだよなぁ。みんな……。

経験してないわけだから、みんな、ぼくにとってはヘビメタ騒音前の、朝の雰囲気を経験しているわけだよな。それじゃあ、言うことがちがってくるよ。きちがいヘビメタが、異常なんだよ。あんな音がずっと続いてたというのが異常なんだよ。きちがい兄貴が異常だから、続いた。どれだけ言っても、続いた。

どれだけ、ケンカしても、続いた。

頭がおかしいから、まったく悪いと思わない。頭がおかしいから「でかい音で鳴らしている」ということが、まったくわからない。

そんなのはおかしい。

聴覚が正常なら、絶対に、「でかい音だ」と思う音なんだよ。

本人だって、無意識がかかわらない感覚器のレベルでは、でかい音だということを知っていたから、無意識的かかわる感覚のレベルでは、でかい音だということを認めなかったんだよ。

認めたら「でかい音」で鳴らせなくなってしまう。認めたら、普通の音で鳴らさなければならなくなる。だから、どれだけでかい音で鳴らして立って、「普通の音」だと感覚することにした。

で、そういうきちがい回路が成り立っている人間だから、ごく自然に、そういうズルをした。ズルなんだよ。

兄貴も親父も、ズルなんだよ。ズルをして、やりきる。ズルをしてやりきれば、「やったことになってない」のである。本人の、感覚、認知、認識が「やってない」と判断?してしまうのである。ともかく、ズルい。ズルい。

あんなの、外から見れば一目瞭然なのに、本人は、どれだけ言われたってわからないという感覚でやっている。わからないのだ。頭がおかしいからできることなんだぞ。頭がおかしくなければ、どれだけ、意地をはってやったってあんなことにはならない。頭がおかしくなれれば、どれだけ、無視してやったってあんなことにはならない。

無意識のレベルで書き換えている。

どれだけでかい音で鳴らしたって、でかい音で鳴らしているとは思わないのだから、こっちとしては、やっかいなのだ。で、そういうタイプの家族がいなかった人には、これがわからないのである。実際そういうタイプの家族がいる人というのは、本当にレアだ。

だから、ほとんどの人が、知らないのである。きちがい家族による、しつこい、騒音を知らないで、育っているのである。きちがい家族による、でかい騒音を、知らないまま、育っている。知らないのだから、「そんなのはへんだ」と思ってしまうのである。

あるいは、影響のでかさを、ごく自然に、無視してしまうのである。自己チューである人は、相手の状態がわからないんだよな。自己チューな人はみんな、みんな、みんな、影響のでかさを、普通に無視してしまう。これだって、きちがい兄貴とは、しくみがちがうけど、言ったって、わからない。

俺が、影響のでかさについて説明したって、経験してないことについてはわからないという意味で、まったくわからない。

どこまでもどこまでも、影響のでかさを無視したことを言う。

言いやがるんだよ。

しくみはちがうよ。きちがい兄貴と、自己チューである人は、しくみがちがう。自己チューである人には、きちがい兄貴にはある、感覚器の書き換えなんてない。そういうレベルで狂っているわけではないのだ。けど、けど、けど、おなじように、影響のでかさを無視するのである。

そういう世界

 ほんとう、「どうして、ぼくだけ」と思うようなことがいっぱいあるんだよな。きちがい家族にたたられたら、努力もくそもない。そういう世界だ。

はっきり言えば、幼児的な万能感を「悪い支配者」に利用されているだけなんだよ

 たとえば、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と考えている人がいるとする。

この人は、自分が「光側」で「悪魔側」の敵だと思っているだろう。だから、みんなが「明るいこと」を考えることをのぞむのだ。

それは、悪魔が嫌がることだと思っているところがある。ところが、実際には、逆なんだよ。そういうことを言うことで、悪魔側に協力をしてしまっている。悪魔側に、うまいこと、洗脳されて、そういうことを言っている。

「自分の思い」「世界」という二項目で考えているのだけど、実際には、悪い支配者層という項目がある。なので、悪い支配者層にとっては……人々が……「明るいことを考えれば、明るい世界になる」と考えてボケーっとしてくれていたほうがいいわけ。実際には、ぼけーーっと明るいことを考えているうち、どんどん、悪いことを実行していくわけ。

そして、悪いことをされて、ひどい目にあった人たちが、「ひどい目にあった」と言うことを禁止してくれるような存在があればいいなぁ……と支配者層は考えている。まさに、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と言う人たちが、支配者層がのぞんでいる人たちだ。

こういう人たちにとって、不平不満は、どんなことでも「暗いこと」なので、「暗いことを言うな」という考えに陥って、実際に、ひどいことをされた人たちが、ひどいことをされたと言うことを禁止してしまう。あるいは、禁止しようとしてしまう。

その呼びかけが「不平不満禁止」だ。

その呼びかけが「ネガティブ禁止」だ。

実際にひどい目にあった人たちに、「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」と言ってくれる人たちがいたら、悪い支配者層は、おおよろこびだ。

「これは、好都合」と……どんどん、悪いことを実行して、被害者(ひどい目にあう人たち)を増やしてしまう。

なので、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と言っている人たちは、じつは、悪い支配者に協力してしまっている。

自分が「光側」の存在で、「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」は世界を明るくすると思っているけど、じつはその言葉は、世界を暗くする。これ、暗いことだとわかる? 「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」という発言自体が、ネガティブな発言だということが、わかるかな?

はっきり言えば、幼児的な万能感を「悪い支配者」に利用されているだけなんだよ。

「明るい言葉が明るい世界に対応」していて、「暗い言葉が暗い世界に対応」しているというような幼稚な考えを、悪い支配者に利用されている。悪い支配者が、この一見ポジティブな言葉を利用すると、じつは、悪いことをおしすすめて、悪いことをされた人たちの口をふさぐことができるわけ。

「明るい言葉→明るい世界」「暗い言葉→暗い世界」という連想は、幼児的な万能感から出てくるものだ。なので、悪魔的な支配者が、この感覚をつくりだしたのではない。

けど、悪魔的な支配者は、この感覚を利用するのである。

そして、非支配者層の人たちの間に、亀裂をつくりだす。「明るい言葉→明るい世界」「暗い言葉→暗い世界」という連想をしている人たちは、自分が明るい世界をつくりだすつもりでそういうことを言っているのだけど、言われたほうは、ものすごく不愉快な気持になるのだ。そして、しかえしをするために、自分よりもくるしい状態にある人に、そういう言葉をぶつけるということになる。これは、不幸の再生産なのである。

まったくわかってないかもしれないけど、本当にひどいことをされた場合、そういうことを、被害者側に言うのは、よくないことだ。よくないことなんだよ。わからないかもしれないけど。言われたほうは、ストレスがたまって、ほかの相手に、やりかえすことになる。それがまた、負の連鎖をうみだす。

前から言っていることだけど、べつに、暗い言葉が暗い世界をつくりだすわけではない。予兆があり、実際に、つらい思いをしているから、その原因について語っているのだ。すでに、暗い世界なのである。明るい言葉を発していれば、明るい世界になる」と言っているけど、なってないじゃないか。なってないということが、その言葉が嘘であることを、証明している。

はっきり言えば、うまくだまされちゃっているだけだ。まず、自分・世界という項目を考えて、自分の気持ちが世界に反映するという考えをもってしまう。これは、幼児的な万能感から生み出されるものだから、しかたがない。

自己責任論とおなじで、信念として、自分の内側にかかえていればよいのだ。

ようするに、対象は、自分自身だけでよいのだ。自己責任論だって、自分だけを対象にしたものなら、問題はない。他人に対して、そういうことを言うから問題になる。他人を自己責任論の対象にするから、問題がしょうじる。

自己責任論とおなじように「暗いことを言うと暗いことがしょうじる」というのは、自分のにだけ適応されるものだと思っていればよいのだ。自分だけが対象なら、それでいい。

しかし、「だれか他人」を対象にして、その言葉を言うのは、失礼だ。まるで、そのだれか他人が暗いことを考えたから、だれか他人がそういう暗い状態になっていると決めつけているみたいだろ。実際、決めつけているのだけど……。 

わかんないかな?

*     *     *

明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる……これが正しいなら、ずっと昔に、明るい世界になっている。だれが好き好んで、暗いことを考えるか?

暗いことを考えなくても、他者が自分たいして、悪をなせば、暗い状態になる。自分が暗い状態になる。その場合、かならずしも、自己責任ではないのである。

明るいことを考えれば、明るいことが起こるなら、どうして、こんなにも暗い世の中なんだ? 自分が明るいことを考えても、ほかのことが理由で、暗い出来事が発生するのだ。

たとえば、悪い人たちが、ほかの人をだまして、ほかの人の命をうばおうとする。

そういうことが、おこなわれているのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言って、そういうことについて考えようとしない。

そして、「ことあげ」をしている人たちを、「暗いことを言う人たちだ」と決めつけて、その人たちが「ことあげ」できないようにする。

水俣病のところにも書いたけど、その人たち……「ことあげ」をしている人たちには……その人たちなりの、理由がある。自分が水俣病にならなかったからといって、水俣病になった人たちが、不平不満を言うことを、どうして、とめることができようか?

「明るい考え→明るい出来事」「暗い考え→暗い出来事」と考える人たちは、時系列的な順番を考えない人たちだけど、もうすでに、悪いことが起こったあとだ。

そして、べつに水俣病になった人たちは、「いつか、自分は水俣病になる」と考えた人たちではないのだ。こういうことを、ちゃんと、まじめに考えたほうがいい。

*     *     *

「ことあげ」についてちょっと、思うことを書いておく。神ではなくて、支配者層に対する不平不満を言うべきではないという思想がかくされているのかもしれない。支配者層だけではなくて、ともかく「うえ」のものに対して、不平不満を言うことは、けがれたことだというイメージをつくりだしているのかもしれない。あるいは、つくりだそうとしているのかもしれない。「うえ」のものだけではなくて、ともかく、不平不満を言うことは、よくないことだという思想は、まさしく、「明るい思霊思想」なのだけど、これは、じつは、抑圧システムの重要な要素なのかもしれない。

 

2023年11月29日水曜日

言霊と自己責任論

 「言えば言ったことが現実化する」ということを言う人は、そういうことを言って、人をだましたつもりはない。ところが、だましているのである。どうしてかというと、「言ったって、いたことが現実化しない」場合がたくさんあるからだ。けど、こういう人は、もし言ったことが現実化しないなら言った人の言い方が悪かったから、現実化しなかったのだと思ってしまうのである。しかし、何度も言うけど、「言えば」と言っているのだから、一回だけ、どんな言い方で言っても、言えば、現実化するのである。 「言えば言ったことが現実化する」と言っている人は、言っても現実化しなかったという報告を無視して、言った人の責任にするけど、 「言えば言ったことが現実化する」という理論がまちがっている。そんなのは、法則性なんてない。言えば、言ったあとにそのことが現実化することもあるし、そのことが現実化しないこともある……という理論のほうがあっている。ところで、 「言えば言ったことが現実化する」ということを言う人は、自己責任論にこっている場合がある。ところが、このことにかんしては、「言った人の言い方が悪いから、実現化しなかった」と決めつけてしまうのである。これは、他責思考だ。そりゃ、自分がかす理論をおしつけたということを認めず、相手の言い方が悪かったから、そうなったということを言うわけだから、他責思考だ。自己責任であれば、相手にカス方法をおしつけたことをまず、自分の責任だと感じるべきなのである。そして、超自然的なことだから、本当は、その人(カス方法をおしつけた人)には責任がないのだけど、言ったことが実現化しなかったということについて責任を感じるべきなのである。どうしてなら、「すべては自己責任」だからだ。自己責任論者というのは、こういう無理なことを、おしつけているのである。もちろん、他人におしつけている。言ったことが、現実化するわけではないから、言ったことが実現化しなかったということについて責任を感じるべきだというのは、言いすぎなのだ。何度も言うけど、言ったことが現実化するわけではないから、そういうことがしょうじなかったとしても、責任を感じる必要はない。しかし、「言ったことが現実化する」ということにこだわるのであれば、もちろん、言ったことが実現化しなかったということについて責任を感じるべきなのだ。だって、そうだろ。なんで、自分が言ったとおりにした相手のことをせめて、自分の責任を感じないのだ? 「言ったことが現実化する」と言ったのに「言ったことが現実化しなかった」……。言ったことが現実化しなかった責任の所在はどこか? 「すべては自己責任」なのであれば、もちろん、それも、自己責任だ。もちろん、ぼくは!……言ったことが現実化するわけではないから、責任を感じる必要はないと(本当は)思うけど、言ったことが現実化すると、いまなお、思っているのであれば、言ったのに現実化しなかったことについて、責任があるということになる。だって、すべては自己責任なのでしょ。ジコセキニン、だー。ジコセキニン、だー。ジコセキニン、だー。

いいかげん、目を覚ませ。

 悪い為政者が国民をだまして、悪いことをしているのだから、すでに、「暗い状態」になっている。それを……。まるで……。庶民側の誰かが「暗いことを考えるから、暗い状態になる」と言い換えている。そういう、言い換え。あるいは、勘違い。

ここでも、こういうことを言う人たち……多くの精神世界の人たちは……加害者の味方になっている。悪い加害者に、協力をしている。「やめろ」と言う側の人たちに、制限をくわえようとしている。

「悪いことを言うと悪いことになる」と多くの精神世界の人が言うのだ。言わなくても、悪い加害者が、そうしているから、悪いことになる。

多くの精神世界の人たちがやっていることは、被害者をせめて、加害者を増長させることだ。多くの精神世界の人たちは加害者の味方。多くの精神世界の人たちは悪い為政者の味方。

勘違いがある。

なぜ悪い状態になったかといことについて、完全に、勘違いしている。

こういうことを言う精神世界の人たちは、へんな妄想にしたがって、悪くない人たちを悪者にする。そんなの、よくないよ。いいかげん、目を覚ませ。

2023年11月25日土曜日

他者の行為

 本人に相手をくるしめるつもりがなくても、本人の行為によって、相手がくるしむ場合がある。こういうことすら、明るい言霊主義者の世界では、ないことになっている。

さらに言ってしまえば、「立場」というものをまったく考えていない。

たとえば、社長と平社員がいたとする。社長は、平社員に「不平不満」を言うことはたやすいけど、平社員は社長に不平不満を言いにくいということがある。立場で、不平不満の言いやすさがちがうのである。

ある人が、ある人に不平不満を言う場合は、不平不満の言いやすさにちがいがある。

立場によって、不平不満が言いやすい相手と、不平不満が言いにくい相手がいるのだ。こういうことは、現実的な条件のひとつだ。こういう現実的な条件のなかで、喘ぎながら生きているのが人間だ。社会的な人間だ。

なので、現実はそうなのだから、現実を無視するわけにはいかない。

ところが、「不平不満を言う」ということを、普通の人が考える場合、「不平不満を言う」という抽象度の高いことを考えることになる。

これは、言ってみれば、なにもない空白空間で、とてつもなく、抽象度の高いことを考えることになるのである。これは、『善』とか『悪』という場合にも成り立つのだけど、いまは、横に置いておく。

ともかく、抽象度が高いのだ。抽象度が高いということは、現実の条件について考えなくてもいいということだ。だから、空白空間で、「不平不満を言う」という抽象度の高いことを考える場合は、さまざまな条件が、捨象されてしまう。

捨象されるからこそ、なにか、「XをすればYになる」というような法則性がありそうなことを、言えるような状態になる。ところが、現実生活では、さまざまな条件が成り立っているので、空想的な空白空間で成り立った抽象的なことが、成り立たないのである。

立場……。立場だって、現実的な条件のひとつだ。自分を中心にして考えた場合、自分よりち立場が上である(と認識している相手には)不平不満を言いくく、自分よりち立場が下である(と認識している相手には)不平不満を言いやすいという傾向がある。人間にはそういう傾向があるのではないか。

そうなると、空白空間で、抽象的に、「不平不満を言う」ということについて考えたことがむだになるのである。だって、現実的にはそんな、空白空間がないから。その空白空間で出た結論は、現実的な結論ではないのである。しかし、

*     *     *

現実世界では、他人が、自分にって不都合なことをやる場合がある。他人が自分に危害を加える場合がある。その場合、思霊主義者は、自分が「危害を加えられる」と考えた「から」「危害を加えられた」と考えるのである。

過去のある時点で「自分」が「危害を加えられる」と考えたので、「危害を加えられた」と考えるのである。

しかし、他人は、他人の意思によって動くので、自分が考えてなかったのに、他人が自分に危害を加える場合がある。

だれのみに降りかかることなのか、ということについて、思霊主義者は、まったく考えていない。自分の思考によって、世界が決まるのだから、自分の思考でそうなったと考えるのだ。しかし、これが、言霊主義者のように、でたらめなのだ。

たとえば、「どれだけ生き返ると言っても、死んだ人は、生き返らない」と言ったあとに、「言ったことが現実化する」と言って、まったく矛盾を感じないレベルの思考をしている。いきあたりばったりなのだ。

矛盾しているということについて、極端に鈍感なのだ。

思霊主義者も、そういうレベルで矛盾を感じない。空白空間の思考においては「自分が」「自分が」ということになって、自分が思うことだけを考えているので、他人が、自分の思いとは関係なく、行為する主体であるということを見逃しているのである。

自分の思いに関係なく、他人が、他人の思いを実行することがある。他人は、自分の「思い」とは関係なく、生きているのである。他人には、他人の「思い」があるのである。しかし、思霊主義者の考えのなかには、「他人」がない。(注1)

思霊主義者のように、「他者」を無視して「思ったことが現実化する」と考えるのは、無理がある。他者が参加している空間だから、自分の思いとは関係なく、他者が活動し(行動をしその結果、自分の身に関係があることがしょうじることがある。自分の身に関係があることがしょうじないという前提で、「自分の思い」だけ考えてもしかたがない。

利益追求を考えている他人は、工場排水を流しても、なにも感じないのである。もし、工場排水と「病気」に関係があるといわれても、工場排水と「病気」の関係を否定しようとするのである。どうしてなら、利益追求を考えているからだ。

効率主義者なら、たとえ、工場排水に問題があると指摘されても、効率を第一に考えて、行動する。不効率なことは、しないようにする。

そうなると、なにも、「病気にしてやろう」と思って、工場排水を流したわけではないけど、工場排水の影響で、病気になる人が出てくる。この場合、工場排水を出している主(ぬし)と、病気になる人がちがうのである。

思霊主義者は、病気になった人が、病気になると思ったので、病気になると思っているのだ。「他の要素」というものを無視している。「他人」というものを無視している。だから、AさんがBさんに、危害を加えたということにかんしては、立場がクロスした考えをもちがちだ。

思霊主義者は、結果を見て、「Bさんが、病気になる」と思ったので、Bさんが病気になったと考えてしまう。Aさんは、思霊主義者の思考のなかに出てこない。

「自分」対「世界」のところでも話したけど、言霊主義者は、そこらへんの区別があいまいで、その都度、自分にとって都合がいいように考えてしまう。ようするに、「思いが世界に反映する」という考え方にあうようなかたちで、現実を見てしまう。

*     *     *

(注1)

だったら、他人に明るい考えをもってもらおうとする必要もないのではないかと思うもかもしれない。これにかんしてと言っておくと、思霊主義者がいきあたりばったりなので、その都度、矛盾のある行為をしているのである。空白空間では「他人」というのは出てこない。あくまでも、「自分」対「世界」だ。世界のなかには「他人」が含まれているかもしれないけど、その世界のなかの他人というのは、これまた、極端に抽象度が高い他人だ。ようするに、自分のなかでどうにでもなる他人なのである。ようするに、他人ということになっていても、自分の思考の一部だから、自分の思った通りに動く他人なのである。あるいは、集合的な他人だ。集合的な他人というものも、「世界の人たちがしあわせになりますように」というような言葉のなかに含まれている「他人」でしかない。空白空間で考える思霊主義者にしたって、現実にはふれているので、他人が不平不満を言う行為を禁止しようとするのである。他人が言いたいことを言う行為を禁止しようとしているのだから、ネガティブな行為だ。問題のある排水を流している企業の側に立って、「不平不満禁止」と言っているのだから、ネガティブな行為をしているということになる。

明るいことを言って、問題を先送りにしたので、不幸な出来事がしょうじたのである

 これは、もうすでに書いたので、骨格だけ、説明する。有機水銀がはいった工場廃液を出す工場があるとする。そこで働いていた人をAさん、Aさんの上司をBさんだとする。Aさんは、「この茶色い排水を出すのはまずい。このままだとひどいことになる」と言ったとする。それたいして、上司のBが「そんなのは、どうでもいいから、ちゃんと働け」と言ったとする。Aさんが、予兆を感じて、「このままではだめだ」ということを言ったのに、上司のBが「そんなのは気にしないで、仕事をしろ」と言ったのである。がんがん仕事をすると、がんがん、茶色の工場排水が流れるのである。ポジティブ思考だと、お金儲けがたいせつなので、お金儲けに反することは、だめなことなのである。一度工場をとめて、工場排水の検査をしようとか、何か問題があったら、その問題部分取り出して処理するようにしようということは、効率主義にもとづけは、だめなことなのである。明るいことか、暗いことかということにこだわると、暗いことなのである。そりゃ、生産量を少なくて・工場排水を減らすべきだということは、もうけが少なくなることだし、工場排水に問題となる物質がはいらないようなフィルターをつけようということになると対策費がかかるのでおカネが減ることになる。上司のBがっていることは、効率的でポジティブなのである。Aさんがっていることは、非効率で、ネガティブなのである。「ネガティブな発言禁止」の「明るい言霊主義者」がいたとする。明るい言霊主義者は、どっち見方をするか? もちろん、ポジティブな発言をしたBさんの見方をするのである。明るい言霊主義者は、どっちの敵になるか? もちろん、ネガティブな発言をしたAさんの敵になるのである。

明るい言霊主義者は、明るいことを言っていれば、明るい未来があると言っているけど、この件に関しては、明るいことを言って、問題を先送りにしたので、不幸な出来事がしょうじたのである。

さらに言ってしまえば、気がつかずに、汚染魚を食べて、水俣病になった人が、工場の責任者に対して不平不満を言った場合、明るい言霊主義者は、水俣病になった人の側に立つのか、工場責任者の側に立つのかと言うと、工場責任者の側に立つのである。水俣病になった人は、光をうしない、自分のからだの自由をうしない、くるしんでいる。そのくるしんでいる人に「不平不満を言うな」「ネガティブなことを言うと、ネガティブなことになる」と言うのだ。何度も何度も言うけど、すでに、ネガティブなことが発生しているのだよ。明るい言霊主義者は、自分が、汚染魚を食べなかったので、水俣病にならず、元気に暮らしているとする。その場合、明るい言霊主義者は単純なので、「自分はポジティブなことを言ってきたから、水俣病にならず、水俣病になった人は、ネガティブなことを言ってきたから、水俣病になったのだ」という勘違いをして、その勘違いに、感情的に支えられた発言をすることになる。

自分とはちがう「暗い考え」をもっている人が、じゃまになるのである

この文は、公開してしまった文よりも、はやい段階で書かれたもので、順序が入れかわかっている……のだけど、まあ、公開しておく。

+++++++

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えている人は、「為政者」という項目について考えないとだめだ。

「為政者」という項目が、すっかりぬけて落ちているのである。

とりあえず、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考える人のことを「明るい思霊論者」と呼んでおこう。「明るい思霊論者」の頭の中から、「悪い為政者」という項目がすっかりぬけおちている。

ところが、悪い為政者がいる場合があるのである。悪い為政者がいる場合は、明るいことを考えても、暗いことが起こることになるので、明るいことを考えてもむだだ。

むしろ、庶民の側が、根拠もなくぽやーっと明るいことを考えている状態というのは、悪い為政者にとって、「特別に」やりやすい状態だ。「明るいことを考えればいい」と言って、暗いことが起こる確率をあげている。「明るいことを考えればいい」と言って、悪いことが起こるようにしている。

まあ、悪いことが起こりやすいようにしていると、弱めに言っておくかな。

以前書いた記事のなかで説明しなかったことについてちょっとだけ説明しておこう。

それは、ひとりの人が思うだけで、「世界」がかわってしまうということだ。そういうパワーをひとりの人……個人個人がもっているという前提でものを話しているということだ。

言霊とおなじように、「○○さんが生き返る」と思っても、生き返らない。

「思うこと」に現実をかえるパワーはない。

そして、たとえば、言霊主義者が、朝のニュースで起こったことを知るように、思霊論者も「思ったことが現実化する」と思っているのに、朝のニュースで起こったことを知るのだ。起こったことは、自分が事前に考えてなければならないことなのだ……ほんとうの思霊論者の意見にしたがえば……。

これは、いろいろと言いにくい部分を含んでいる。思霊論者の言っていることが、その時々によってちがうからだ。これは、言霊論者が言っていることが、その時々によってちがうということとおなじだ。

ひとりの人の「思い」が世界をガラっと変えてしまうパワーがあるという前提で話したり、ひとりひとりの「思い」には、世界をガラっと変えてしまうパワーがないという前提で話したりすることがある。

ひとりの人の思い……たとえば、自分の思いが世界に反映するなら、自分一人が思っただけで、自分の明るい思いが世界に反映するはずなのである。

もし、「自分ひとりの思いにはそんなパワーはなく、多くの人が、おなじようなことを思わなければ、思いが世界に反映しない」と言うのであれば、最初から、自分ひとりの「思いのパワーが」世界をかえるというようなことを言うべきではない。

自分の思いが世界の現実を変えるのであれば、もちろん、ひとりで変えてしまうことができるのである。自分と世界が対応していて、自分の思いにあわせて、世界がガラッと変わるということを言っているわけだから、「あなたも、こういう明るいことを考えましょう」という必要はまったくない。

だいたい、自分対世界なのであれば、自分の思いが、そのまま世界に反映する(反応する)わけだから、相手のことも、自分の思い通りにできるのである。相手が考えていることも、自分の「想像」一発で、思い通りにできるのである。

たとえば、明日は、雨になると思えば、雨になるのである。明日、この国とあの国が戦争をすると思えば、この国とあの国が戦争をするのである。思ったことが現実化するのだからそうなる。その場合、「自分」というのは、特別な存在なのである。

まあ、神のような存在なのである。これは、幼児的万能感がなせるわざだ。みんな、じつは、そういう幼児期をへて、大人になっている。なので、幼児期の影響が残っているのである。

自分が特別な存在で、自分と世界が対峙しているのである。あるいは、自分と宇宙全体が対峙しているのである。自分の思いが、宇宙のありかたに影響をあたえるのである。その影響は、思っただけで、宇宙の全体をかえてしまうほど、強い影響なのだ。

なのであれば、もちろん、多数の他人が、おなじように、明るいことを考えなければならない……と考えるのはおかしい。この、明るいことの内容は、自分とおなじような明るいことなのである。自分が思っているのとおなじような思いをもてばいいということになる。

その場合、自分とはちがう「暗い考え」をもっている人が、じゃまになるのである。

人間とは不思議なもので、明るい考えをもっているつもりなのに「暗い考えをもっているやつが邪魔だ」と暗い考えをもってしまうのである。「暗い考えをもっているやつのせいで、現実が暗くなる」と思ってしまうのだ。大きな、勘違いだ。こういう、幼児的万能感氏に配された幼稚なやつが、「不満不平禁止」「ネガティブ発言禁止」と言って、とても、暗い状態をつくってしまう。あるいは、とても、危険な状態をつくってしまう。

こいつらは、明るいふりをしているけど、ほかの人の「発言する権利」をおびやかすような暗い発言をしている。

*     *     *

「不満不平禁止」「ネガティブ発言禁止」と言って、「このままでは危険だ」ということを言おうとしている人の、口をふさごうとするな。


2023年11月23日木曜日

その人の身にしょうじなかったのだから、それは、架空の話になってしまうのである

前々回の投稿で書いたことは、ようするに、本当は、その人たちだって、おなじことをやられれば、おなじような状態になるのに、、その人たちは、おなじことをやられなかったので、正常な姿でいられるということだ。ところが、「話を聴いた」その人たちは、「自分なら、そういうことをやられても、正常な姿でいられる」と思ってしまうのだ。なので、そこに、まちがいがある。けど、実際に、そういうことが、その人の身にしょうじなかったのだから、それは、架空の話になってしまうのである。なので、その人たちは、そういうことがしょうじなかったという意味において、正常なだけなのだけど、それを、能力の差だと思ってしまうのだ。これが、やられたほう……きちがい家族にやられたほうとしては、くやしいことだ。世間の、きちがいではない他者との間に、亀裂が入るのである。その場合、きちがい家族が、繰り返し、繰り返し、こだわって、こだわってやったことに、そういう性質が、あるということだ。これも、絶対に、やられたない人にはわからないと思うけど、ある。そういうことを、説明したかった。けど、それを説明すると、ほかの人たちは、そんなことはないだろうと思ってしまうのである。ひとごと、だからだ。自分の身にしょうじなかったことだからだ。きちがい的な家族と毎日一緒に住んだ、数十年間がないからだ。

「立場」はない。たちばーーないーーよーー。

 まあ、非常に人気がなくなることなのだけど、前投稿で書いたことは、事実だ。事実、そうなる。きちがいが、きちがい的な感覚で、きちがい的な基準で、「うちのなかで」きちがい行為をやり続けると、きちがい行為の影響をうけたやつが、特殊なやつになってしまうのである。

きちがい行為の影響をうけたやつが、「さえないやつ」になってしまうのである。

こんなの、ない。人によっては、きちがい家族のほうではなくて、きちがい家族のほうの、影響をうけたほうが、きちがいなんだ(障碍者なんだ)と思ってしまう。あいつがっていることは「へんだ」と思ってしまうのである。「そんなことがあるはずがない」と思ってしまうのである。

こんなのは、ない。

けど、ある。

実際に、そういうことは、ぼく以外のケースでもある思うよ。この場合、きちがい家族に、長年やられたほうの、「立場」はない。たちばーーないーーよーー。

2023年11月22日水曜日

「おまえ、ぜんぜんわかってないよ」と言いたくなる。

 やっぱり、人間というのは「出来事」の影響をうける。それが自然な状態だ。きちがい的な人間と一緒に住んでいると、きちがい的な人間の行為の影響をうける。特に、頑固に、絶対の意地で、きちがい行為をやるやつがいると、トラブルがしょうじる。そのトラブルのなかでの感情消費が、普通の人とのトラブルでしょうじる、感情消費よりもずっとずっとずっと、上なのである。どうしたって、なぐりたくなる。どうしたって、殺したくなる。しかし、なぐるわけにもいかず、殺すわけにもいかないとなると、そういう感情が内向してしまうのである。なので、きちがい的な人間と一緒に住むことは、健康上、非常に悪いことなのである。そしてさらに、ほかの人は、きちがい的な人間と一緒に住む経験がなかったとすると、ほかの人には、きちがい的な人間と「うちなので」対峙したことがないということになる。その場合、ほかの人の理解というのは、えられないのである。なので、二重に傷つくことになるのである。きちがいが、すぐになおってしまうなんてことはないのである。頭がおかしい親は、ずっと頭がおかしい親なのである。きちがい的な行動をきちがい的な意地でするやつなのである。そして、絶対に反省はしない。この、絶対に反省はしないというポイントが、非常に重要なのだけど、これも、ほかの人……きちがいてな家族と一緒に住んだことがない人には、わからない。きちがい的な兄も、ずっときちがい的な兄なのである。頭の構造がかわるわけがない。『うちにいる限り』『うちにいるときの』『行動をする』のである。そして、絶対の意地で行動する割には、絶対の意地で、行動したということを認めないのである。この「認めなさ」。きちがい親父と、きちがい兄貴でおなじなんだよな。だから、絶対の意地でやったことは、絶対の意地で、やったと認めない。うちで、いつもそうなんだよ。そうなると、俺がこまるんだよ。

ともかく、出来事は感情や体力に影響をあたえるのである。繰り返し、繰り返し、しょうじている「似たような出来事」は、感情や体力に影響をあたえる。「よくなったよくなった」と言えば、よくなるかというと、よくならない。「つかれない」と言えばつかれなくなるかというと、そんなことはなくて、つかれる。出来事が影響をあたえているのである。で、この出来事が、感情や体力に影響をあたえるということは、比較的に言って、よく理解されることなのだけど、意欲になると、理解されない。あきらかに、きちがい家族のせいで、全体的な意欲が、さがっているのに、「全体的な意欲がさがった」というと、「人のせいにしている」と言われるのである。しかも、まともな家族と暮らしてきたやつが、そういうことを言う。「おまえ、ぜんぜんわかってないよ」と言いたくなる。

きちがいがきちがい的な意地でやるんだよ。どれだけこまるか。そして、きちがい的な意地で責任をとらないんだよ。きちがい的な意地で「やった」と認めないんだよ。きちがい的な意地で、「関与」を認めないんだよ。けど、また、きちがい的な意地でやっちゃうんだよ。そうなると、こまり続けるわけなんだよ……こっちは。こういう出来事の連続が、こっちの「意欲」に影響をあたえないわけないだろ。体力と言えば、普通の体力を思い浮かべるけど、睡眠まで含めた、日常生活を円滑におくるための体力がある。睡眠まで含めたということは、重要だ。体力というと、体力測定で測定できるような体力を思い浮かべてしまうけど、睡眠まで含めた「日常生活を円滑におくるための体力」というのがある。これは、普通の体力測定にも影響をあたえるけど、普通の体力測定というのは、言ってみれば、瞬間的なものだ。寝不足だと、寝不足ではないときよりも、一割から三割ぐらい落ちるかもしれないけど、そのとき、がんばればなんとかなってしまう。けど、十数年間毎日、寝不足だと、「日常生活を円滑におくるための体力」が極端に落ちてしまうのである。これは、通常の体力測定では測れない体力だ。睡眠まで含んだ、体力というのが重要なのである。どうしてかというと、日常生活においては、時間通りに通勤通学するということが、必要だからだ。これ、根底の部分なのである。ほかにも必要とされる能力はあるけど、これがどれだけ重要な能力か、普通の人は、無視してしまうのである。どうして、無視できるかというと、「やっかいではあるけど」「多少の苦痛を感じるけど」普通にできることだからだ。これが、十数年間毎日の、睡眠相(あるいは、サーカディンアン・リズム)のみだれによって、できなくなってしまうのだ。けど、これが、普通の人には理解されないのだ。普通の人には、きちがい的な意地で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、きちがい的な騒音を鳴らし続ける、家族がいない。毎日、そういう経験をしてない。人生のなかで、そういうことが、毎日毎日、十数年にわたって、発生しなかった。なので、体力と言えば、普通の体力を思い浮かべてしまうし、「自分だって通勤はきつい」という気持になってしまうのである。けど、「自分だって通勤はきつい」と言っている人には、きちがい家族がいないし、とりあえず、「いやだけど」「つらいけど」「通勤ができる」体力……睡眠まで含めた生活体力が残っている。残っているんだよ。残っていない俺とはちがう。この人たちも、たしかに、つらい思いをして通勤していると思うけど、きちがいヘビメタが一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ま位置になっている状態で、通学してきたぼくとはちがう。ぜんぜんちがう。人生経験がちがう。睡眠まで含めた生活体力が残っている。

きちがい家族と一緒に暮らしたことがないやつが「そんなのはあまえだ」と言う場合がある。こいつも、なぐり殺してやりたいほど怒りがわく。どうしてかというと、きちがい兄貴に対する怒りが「のっかっている」からだ。なぐり殺してやりたいほどの怒りがわくのだから、相手は、さっきを感じるかもしれない。あるいは、「ものすごい目でにらんできた」と思うかもしれない。そうすると、なぐらなかったとしても、人間関係がうまくいかなくなるのだ。そりゃ、「そんなのはあまえだ」と言ったやつは、きちがい家族と一緒に生活しかたことがなく、体力と言えば、体力測定で測れるような体力を思い浮かべるし、自分だって「つらい気持ちで通勤している」わけだから、当然の、発言だと思っているのだろう。けど、ちがうのだ。そいつは、睡眠まで含めた生活体力が残っている。どうして、残っているかというと、そいつの人生のなかで、きちがいヘビメタ騒音が毎日鳴っているということがなかったからだ。きちがい家族による、「世間ではありえないような」騒音がずっと鳴っていた……という人生上の経験がないのである。一日のなかでずっと鳴っていた。そりゃ、きちがい兄貴は、すべての時間を使って鳴らして、殺さなければやめさせることができないからな。ともかく、世間の人には「睡眠まで含めた日常生活を円滑におくるための体力」が極端に削られた状態というのが、わからない。それは、毎日、きちがい的な騒音をずっと聞かされるという生活を十数年にわたって経験したことがないから、そうなる。近くにアパートを借りて、生活してから、ヘビメタ騒音にさらされる時間は、減った。けど、アパートを借りることができたのは、ヘビメタ騒音がはじまってから一一年目のことなのである。通学と通勤の区別をせず、ある一定の時間にそこに行く必要がある生活が成り立っているとして、なおかつ、きちがい家族による「家庭内の騒音」があると、睡眠まで含めた生活体力が著しく消耗して、なくなってしまうのである。けど、ほかの人の人生には、きちがい家族がいないのだから、そういうことがしょうじない。どれだけの意地で鳴らすかわかってない。どれだけ「でかい音で鳴らす」ということにこだわっているかわかってない。どれだけ「ヘッドホンをしない」ということにこだわっているかわからない。そして、自分がきちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことだと感じられる感性がわかってない。この、きちがい感性。自分がでかい音で鳴らしたいと思ったら、耳が正常なのに、めちゃくちゃにでかい音で鳴らして、普通の音で鳴らしていると思えるきちがい感覚がわかってない。普通の人には、そんな家族はいない。普通の人はそんな家族と毎日一緒に暮らしているわけではない。普通の人は、でかい音で鳴らせば、でかい音で鳴らしているということが、わかる。きちがい兄貴は、絶対の意地で、でかい音で鳴らすけど、でかい音で鳴らしているということが、耳が正常なのにわからないのである。のちに、ヘビメタ難聴になるので、耳が正常ではなくなるのだけど、鳴らし始めたときは、正常だったのである。自分がヘビメタ難聴になるほどでかい音で鳴らしているのに、普通の音で鳴らしていると思っているのだ。こんなのはない。フォークギターで、フォークギター難聴になるか? ならないだろ。音のでかさがちがうんだよ。ほんとうに頭にくる。こういうところで、「だましている」。こういうところで、きちがい兄貴が、きちがい兄貴のことをだましている。そして、これが腹の立つところなのだけど、どれだけこっちが指摘しても、きちがい兄貴はわからないままなのである。そして、でかい音で鳴らし続ける。こだわりの音で鳴らし続ける。けど、悪いことをしているつもりがまったくないのである。それは、入学試験の前日でもおなじなのである。もちろん、こっちの入学試験の前日だ。ともかく、そういうところに、「ズレがある」人間なのである。そして、そういうところにずれがある人間は、少ないので、そういうところにずれがある人間と、「家族として」一緒に暮らしている人間も少ないのである。なので、普通の人は、そういう人間が……きちがい兄貴のような人間が……自分のこだわりの音で、ヘビメタを鳴らすということになった場合の、しつこさがわかってない。ともかく、普通の人間は、そういう家族と一緒に住んだことがないので、そういう家族がもたらす、騒音が、「自分のからだに」どういう変化をもたらすかについて、経験的にわかってないのである。なので、「そんなのはあまえだ」と言ってくる。腹、たつだろーー。たつに決まっている。けど、そういうことが理解できるのは、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音を、聞かされ続けた人間だけなのである。家族が音源である人に限られるのである。きちがい的な家族によって、こっちの「睡眠まで含めた生活体力」がうばわれてしまうのである。どれだけ、がんばって生活して市もそうなる。どれだけ、たえて、がんばってもそうなる。どうしてかというと、毎日、きちがい的な音で鳴っているからだ。これ、不可避的に眠れなくなる。たえて、がんばっていると、一時的なストレス対応(反応)がずっと毎日、続くわけだから、ズタボロになってしまうのである。意志に関係なくそうなってしまうのである。人間というのは、ストレスに対して対応できるようにできている。けど、それは、一時的な出血大サービスみたいなものなのだ。ずっと続けることはできない。けど、がんばって続けたとする。「学校に行く」となると、がんばるしかない状態なのだ。きちがい兄貴の騒音のほうは、かわらないわけだから……。普通なら、一日だって、一時間だって、鳴らせないような音でずっと鳴らしているんだよ。これ、ほんとう、幼稚園とかご近所のうちとか、そういう物理的な構造が、きちがい兄貴のヘビメタをゆるすような構造になっているのである。マンションだったら、絶対に一日だって鳴らせないような音で鳴らしている。これが、事実だ。これ、きちがい兄貴があまりにもきちがいだから、俺が嘘を言っているのではないかと思われることがあるのである。もう、そういうのだって、人間関係に影響をあたえる。相手が、「エイリさんは、騒音についてウソを言っているのではないか」と思っていれば、俺のことを、疑惑の目で見て、俺の言っていることを、信用しなくなる傾向が強くなるのだから、人間関係に影響をあたえる。きちがい兄貴は、もちろん、そんなことを考えたことはないよ。ただ、一所懸命に、きちがい騒音を鳴らしているだけだ。俺が、いろいろなところで、誤解をうけるようになっている。きちがい兄貴があまりにも変なので、そうなる。きちがい兄貴の行為が、普通のうちでは成り立たないので、普通の人はぼくが言っていることが、ウソだと思うのだ。こんなのない。ウソだと決めつけなくても、うたがいをもっている状態が続くことがある。それは、人間関係に影響をあたえる。

 

 

ほんとうに、ヘビメタ騒音で「睡眠回路」を破壊されて、めちゃくちゃだよ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で「睡眠回路」を破壊されて、めちゃくちゃだよ。バイトのときも、くるしかった。きちがい兄貴のヘビメタ騒音さえなければ、ぜんぜんちがうのに……。人に迷惑をかけることになっちゃうんだよなぁ。そして、睡眠不足でハイになっているとき、失敗が多い。睡眠不足だけど、元気を出さなければならないと思って、「カラ元気」を出しているとき、失敗が多い。もう、全部、つかれたなぁ。わかいころ、ほんとうに、くるしかった。ヘビメタ騒音で睡眠回路を破壊されて、バイトもうまくできなかった。で、そのバイトが暗いんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がなければ、塾講師のバイトなどができたんだけどなぁ……。バイト仲間にヘビメタ騒音のことを言ってもしかたがなかったわけだし……。まあ、しかたがないよなぁ。きちがい兄貴がやってることだからなぁ。どうしても、睡眠回路がこわれるんだよ。睡眠がうまくいかなくなる。そうなると、本当に、人間関係にひびが入るの……。

2023年11月21日火曜日

スキー

 後悔といえば、スキーだ。わかいときに、かわいい子とスキーに行きたかった。いま、スキーに行ってもおもしろくないわけ。ひとりで行って、すべって、おもしろいかというと、たぶん、おもしろくない。

さらに、まあ、現実的な問題としてはエクソソームの問題があるので、たのしめない。

これ、全部、ふっとんだよな。

長期ヘビメタ騒音で、どうしても、できない状態になった。そういうことが、こころのこり、といえば、こころのこり、だ。自分の気持ちを成仏させるために?かりに、スキーに行ったとしても、当時のようには楽しめないのだから、自分の気持ちを成仏させることはできない。

たしかに、「こだわり」といえば、「こだわり」だ。

人に説明してもむだなんだけど、本当に、長期ヘビメタ騒音でできくなる。長期ヘビメタ騒音が続いているときの状態というのは、たぶん、どれだけ説明しても、ほかの人にはわからないと思う。

なので、ほかの人は、勝手なこと?を言う。

自分だったら、(家族の出す騒音なんて)鳴ってたってできるというような設定でものを言ってくる。他人は、そうだ。けど、あの状態というのは、本当に、「できない」。一一歳のときから、毎日、あらしのような騒音が、何時間も何時間も鳴ってている状態ですごして、そして、一八歳のときに、スキーに行けるかというと行けない。

行ったって、だめなんだよ。

これも、どれだけ言っても、わからないと思う。一日の状態というのがわからないのだ。一日、二四時間、どういう状態で暮らしているか、八年間続いた人じゃないとわからない。八年目の一日がどういうものなのか、わかるはずがない。

気分は自分で制御できるというようことを言う人がいるけど、その人は、まったくわかってない。そういう状態ではないのだ。

「予兆」

 「予兆」というのがあるのである。

人間は、学習する。

たとえば、トラブルにはある種のパターンがあるということを、学習したとしよう。トラブルが起こりやすい環境というのがある。

たとえば、きちがい的な理由で怒り狂う親がいるうちでは、トラブルが起こりやすい。これは、頻度の問題なのである。

繰り返し繰り返し、頻繁に発生した出来事というものを無視してしまうやつらがいる。「過去なんて関係がない」と言うやつらだ。繰り返し繰り返し、頻繁に発生した出来事というのは、過去の出来事なんだよ。

繰り返し繰り返し、頻繁に発生した出来事は……何年間も、十数年間も、ずっと毎日、頻繁に発生していることだから、「現在」に影響をあたえる。現在の状態に影響をあたえる。勝手に無視してんじゃねぇーーよ。

自分の身にしょうじなかったことだから、無視できるだけの話じゃなか。自分のからだではなくて、ほかの人のからだだから、無視できるだけの話じゃないか。こいつらの言っていることは、はなっから、おかしい。まちがっている。

*     *     *

トラブルが発生するまでに、第三段階の段階があるとする。ようするに、第一の出来事が発生して、第二の出来事が発生して、第三の出来事が発生して、トラブルが発生するとする。

その場合、繰り返し繰り返し、そういうことが起こっていると、第一段階の出来事が起こった時点で、「これはトラブルが発生する」と予想することができるようになるのだ。経験から、法則性を導き出し、未来を予想することができる。

これは、実際に経験したことについて語っているわけだから、「自分がまったく経験しなかったこと」について、空想して、勝手に語っていることではない。ちゃんと、現実的な出来事について語っている。

第一の出来事が発生した時点で「トラブルが発生する」という「暗い考え」がうかぶのだ。

これは、予兆だ。

現実的なパターンの積み重ねがあるので、第一の出来事が発生した時点で「これは、トラブルが発生する確率が高い」と思うことができるのだ。なので、第二の出来事が発生しないように注意をむけるということができる。

「これは、トラブルが発生する確率が高い」という「暗い考え」がうかんだからこそ、第二の出来事が起こらないように、行動することができるのである。これは、重要なことだ。

けど、対策ができないことだとどうなるか?

あるいは、本当はできる対策が、なされなかった場合はどうか?

第二の出来事が起こり、第三の出来事が起こり、トラブルが発生するのだ。

ここで、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、パターンを学習して、こういう場合は、こういうことが起こりやすいということを理解している人だ。Bさんは「暗いことを言うと暗いことが起こる」と思っている人だ。

かりにAさんが、第三の出来事が発生したことを確認して、「トラブルが発生する確率が高い」とか「このままいくと、トラブルが発生する」とかと言ったとしよう。とか「このままいくと、トラブルが発生する」とかというのは、ネガティブな発言だ。

「明るい思霊」にこころを支配されているBさんは、Aさんが「暗いことを言った」と思ってしまうのである。

もっとも、「すべては思いよう」「すべては受け止め方の問題だ」と言うのであれは、当然、Aさんは意味内容として中立的なことを言っただけであり、「暗いことを言った」と判断したBさんが、「Aさんが暗いことを言った」と思っただけだということになる。Bさんは、本来、中立的なことを、暗いことだと受け取ったのだということになる。

この立場から見れば、Aさんが予想しているトラブルも、中立的な出来事だということになる。トラブルだと感じて、トラブルだという認識をもったAさんが、本来、中立的な出来事をトラブルとして認識しただけなのだということになる。

精神世界の人は、「暗いことを考えると暗いことが起こり、明るいことを考えれば明るいことが起こる」という考え方と「すべては受け止め方の問題だ」という考え方をもっている場合が多い。これも、セットになっているようなものなのだ。精神世界セット。

けど、この両者は、ある意味、矛盾している。しかし、この矛盾にかんしては、今回は、このくらいにしておく。

話をもとにもどすと、「Aさんが暗いことを言った」とBさんが思うのである。そして、実際に、トラブルが発生したとする。その場合、Bさんは「Aさんが暗いことを言ったから、トラブルが発生した」と思ってしまうのである。

しかし、Aさんが暗いことを言ったから、トラブルが発生したのではなくて、Aさんの予見通りに、トラブルが発生したのである。

原因は、別なのである。

ところが、Bさんみたいな人がいっぱいいると、そういう人たちが、そういうまちがった考えに基づいて、Aさんをせめるのである。こういうことが、普通に発生してしまう。

こういうことを考えた場合も、「暗いことを考えると暗いことが起こり、明るいことを考えれば明るいことが起こる」という考え方は、やっかいな考え方だなと、ぼくは思う。

もし、こいつらが、Aさんをせめて、Aさんの口をふさいだとする。

そうなるとどうなるか?

第一の出来事が発生しても、だれも、なにも言わず、第二の出来事が発生しても、だれもなにも言わず、第三の出来事が発生しても、だれもなにも言わず、かなりの高確率で、トラブルが発生してしまうのだ。これが、「明るい思霊」主義者がやっていることだ。

だれがわるいのかということについて考えてみよう。

第一の出来事、第二の出来事、第三の出来事を引き起こした人間がわるいのである。ところが、Bさんは「Aさんがわるい」と思ってしまうのである。Aさんがわるいことを言ったので、わるいことが現実化したと、Bさんは思ってしまうのである。

Bさんは、ますます、自分の考えに自信をつけてしまうのである。「悪いことを言ったから、悪いことが起こった」「これが正しい」とBさんは思ってしまう。「悪いことを思わなければ、悪いことは起こらない」「これが正しい」とBさんは思ってしまう。

まったくこまったやつだ。

 

暗いことを考えたから、暗いことが起こった……のではないのである

 たとえば、水俣病でくるしんでいる人が、問題である物質を海に流した企業に対して、「責任をとれ」と言ったとする。

そうなると、自己責任論者が、水俣病でくるしんでいる人の自己責任だと言ってくるのである。自己責任論者が、水俣病でくるしんでいる人は、「人のせいにしている」と言ってくるのである。

口癖論者が「つらいつらいと言っているから、つらくなる」と言ってくるのである。

引き寄せ論者が「水俣病でくるしんでいる人は、水俣病を引き寄せちゃったからダメなんだ」と言ってくるのである。

そういうことを、「現在くるしんでいる人」に対して言って、なにも感じないということになる。

いや、「自分が言っていることは正しい」「自分が言っていることは真実だ」と感じているかもしれないけど、相手がどう思うかについてはなにも感じてないということになる。

*     *     *

ああ、そうだ。「暗いことを考えると暗いことが起こり、明るいことを考えると明るいことが起こる」と思い込んでいるやつが、「不満不平禁止」と水俣病でくるしんでいる人に言うのだ。

たしかに、水俣病でくるしんでいる人は、不平不満を「言いやすい状態」になっている。

実際にくるしいし、他人(他の団体)が、やったことが原因で、くるしんでいるのだから、他人(他の団体)に不満不平を言うだろう。

これを、とめようとするやつらが出てくる。

こんなのない。

しかも、すでに暗いことが起きたのである。水俣病でくるしんでいる人の身の上には、すでに暗いことが起きたのである。

明るい気持ちで、毎日、働いていた漁師が、水俣病になってくるしんでいた。これが事実。これが現実だ。

明るい気持ちで働いていたのに、暗いことが起こった。

暗いことを考えたから、暗いことが起こった……のではないのである。もうすでに、否定されていること。その否定されていることを、正しいと思い込んでいるやつが、妄想的なことを言う。

こんなの、妄想。

妄想は、自分の頭のなかにとじこめておけばいい。妄想的な前提に立って、現実を語るな。

他人の「自由に発言する権利」をうばおうとするな。

条件的に優位である人は、条件的に劣位である人の条件について、なにも考えてない

 環境というのは、『条件』の集まりだ。きちがい兄貴や、きちがい親父がいるうちに、「おぎゃー」と生まれると、きちがい兄貴という条件、きちがい親父という条件をかかえることになる。

きちがい兄貴という条件がない人には、きちがい兄貴という条件がある人のことは、根本的にわからない。経験していることがちがうからだ。「実際に経験したこと」が重要だと言っているだろ。

おなじように、きちがい親父という条件がない人には、きちがい親父という条件がある人のことはわからない。そして、きちがい親父と言っても、いろいろなタイプのきちがい親父がいるので、それぞれに、ちがった条件をもってしまうということになる。

Aというきちがい親父と、Bというきちがい親父は、きちがいの部分がちがうのだ。きちがい的な行動をうみだす、脳みそがちがう。

そうなると、Aというきちがい親父のもとに生まれてきた人と、Bというきちがい親父のもとに生まれてきた人とでは、条件がちがうということになる。

なので、ひとことで『きちがい親父という条件』と言っても、その中身はちがうのである。

似たようなきちがい親父はいるかもしれない。似ている度合いが高ければ、きちがい的な行動の特性が似てくるので、話が通じることもあるかもしれない。

けど、きちがい親父という条件をかかえた人と、正常な親父という条件をかかえた人とでは、まったく、ちがう条件をかかえているということになる。きちがい親父という条件をかかえた人が言っていることが、正常な親父という条件をかかえた人に、そのまま、うまく、正確に伝わるとは、到底、思えない。

なので、正常な親父という条件をかかえた人は、実質的には、きちがい的な親父という条件をかかえた人のことかわからないということになる。

しかし、「Xをすれば成功する」「Xをすれば、しあわせになる」というようなことを言うことがはやっているので、条件的に劣位である人は、そういうことを言われる機会が多くなる。条件的に劣位である人は、「成功してない」人であり、「しあわせではない」人なので、そういうことを言われがちになる。

ところが、条件的に優位である人は、条件的に劣位である人の条件について、なにも考えてない。考えたつもりになっているかもしれないけど、考えてない。

理解したつもりになっているかもしれないけど、まったく理解してない。

けっきょく、条件を無視して、法則性があるようなことを言う。

けど、法則性なんてない。条件を無視して、空想空間をつくりだして、そのなかで、推論しているから、そういうことが、あたかも成り立つような気分になっているだけだ。

その人の「環境」を無視して、なにかを言ったとしても、その通りにはならない。

 みんな、わかったようなことを言う人たちは「環境」というものを無視してしまう。まったく、「環境」が関係がない状態を空想して、その空想のなかでものを言う。

つまり、現実的ではないのだ。

現実は、個々人がかかえている環境のほうが、その人に「つよい」影響をあたえている。その人の「環境」を無視した人が、勝手に、その人の「環境」を無視して、なにかを言ったとしても、その通りにはならない。

むりなことを言われたほうが、ますます、元気をなくすのだ

 基本、実際に経験したことが影響する。「やる気」「疲労感」……こういうものには、実際に経験したことが影響するのだ。からだの問題だからね。意識的脳というのは、脳のなかの一部にしか過ぎない。こいつが、どれだけ命令したって、ほかの脳が、それに反応する状態でなければ、脳全体は、動かない。脳全体が問題なんだよ。

そして、脳全体の問題というのは、からだの問題でもある。だから、からだが重要。からだが、実際に経験したことは、重要だ。

「意識」を重視して、無視できるようなものではない。

ところが、ほかの人たちは、その人のからだで生活しているわけではないので、その人のからだのことが、根本的に、わからない。そして、ほかの人たちは、その人のからだで、生活してきたわけじゃないので、その人が経験してきたことがわからない。

わからないので、勝手に無視して、勝手なことを言うけど、その勝手なことというのは、実際に、そのからだをもっている人にとっては、役に立たないことが多い。

たとえば、言霊信者が「元気だ元気だといえば元気になる」「つかれたつかれたと言うからつかれるんだ」と、そのからだを使っている人に、言ったとする。そのからだを使っている人が、「元気だ元気だ」と言えば、「元気になるかどうか」が問題だ。

実際に経験してきたことが影響をあたえるので、実際に、経験してきたことが、「やる気」をなくさせるものであったり、「疲労感」を増大させるものであったりする場合は、どれだけ「元気だ元気だ」といっても、元気にならない。

ところが、言霊主義者は、自己中なので、相手のことがわからない。

そして、「自分は元気だと言ったら元気になった」と言ってマウントをとる。はっきり言えば、いい気になる。かくして、助言をしている言霊主義者がますます元気になって、むりなことを言われたほうが、ますます、元気をなくすのだ。

2023年11月20日月曜日

「暗いことを考える」というのは、「思考の痛覚」みたいなものなのである

 たとえば、痛覚というのは、「それをやられ続けるとやばいぞ」とか「それをやり続けるとやばいぞ」とかということを伝えるためのものなのである。

まあ、これは、仮説だけどね。この仮説は、相当に説得力がある。痛覚がなかったら、傷ができてもまったくいたくない。いたくなければ、いいのか?

いたいと思うから、傷ができることをさけようと思うわけなのだよ。

やられ続けたら、死んでしまうだろ。

だから、いたみを使って「これはやばいぞ」という信号を発信しているわけ。

痛覚がなければ、いたるところで「ぼろぼろ」になって、身体が、はやめに、動かなくなってしまう。

そりゃ、そうだろ。

自然界は厳しいのだから、やばい状態がいっぱいある。そのやばい状態から逃げるために、痛覚が必要なのである。あるいは、痛覚があったほうがいいのである。

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「暗いことを考える」というのは、「思考の痛覚」みたいなものなのである。たとえば、干ばつで、作物が育たないということが発生したとする。期間が長ければ、食べ物がなくなって、死んでしまう。

そこで、「干ばつになるとこまるから、食料を備蓄しておこう」ということになるのである。「干ばつになる」という可能性について考えるから、食糧を備蓄しようと思うのだ。

「干ばつになる(かもしれない)」という思考は、暗い思考なのである。ネガティブな思考なのである。暗いことを考えるからこそ、食料備蓄という対策を思いつくことができる。

これは、干ばつについてだけ、言えることではない。ほかのいろいろなことにかんしても、暗いことを考えて、対策をしているのだ。

たとえば、「食中毒を起こすかもしれない」から、においをかいだり、カビがはえてないか、くさったところがないか、確認しているのである。

まだ、雨がふってないときに、外出するとして、天気予報で、雨になると言っていたから、傘を持って外に出るとする。これなんかも、「雨にぬれる」という暗いことを考えて、傘をもっていくという対策をしているのだ。

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暗いことを考えると暗いことが起こると信じている人が、本当に「暗いこと」を考えないかというとそうではないのである。

普通に、考えている。

本人が、意識してないだけで、本当は、暗いことを考えている。

もし、「暗いこと」を考えないようにするとなると、食品の見た目やにおいを一切合切気にしないで、食品を食べるということになる。

暗いことを考えると暗いことが起こると言っている人だって、実際には、「これは、だいじょうぶかな」とにおいをかいで確認したり、目で見て、へんな色になっていないか確かめたりする。

暗いことを考えると暗いことが起こると言っている人だって、雨がふりそうだと思えば、傘をもって外に出るのである。

いまの世の中、裸足で歩くと、やばいものをふんでしまうかもしれない。だから、靴を履いて、外に出るのである。あるいは、ただ単に、足の裏がよごれるといだから、靴を履いて出るのである。

その場合、「やばいものをふんでしまう」というようなことや「足がよごれる」というようことを考えるわけだけど、「やばいものをふんでしまう」ということや「足がよごれる」ということは、ネガティブなことなのである。暗いことなのである。

歯みがきをするのだって、歯磨きをせずに、虫歯になったり、歯槽膿漏になったりするのがいやだから、歯磨きをするのである。まあ、そこらへんは、人の考え方次第なのだけど、ともかく、「虫歯になる」ということや「歯槽膿漏になる」ということは、悪いことなのである。思い浮かべてはいけないことなのである。

暗いことを考えると、暗いことが起こると考えている人は、「虫歯になる」と思うことができない。ほんとうは、そうなのである。「虫歯になる」と思ってしまったら、実際に「虫歯になってしまう」ので、「虫歯になる」と思わないようにするのである。

「虫歯になる」ことをさけるために、歯磨きをしようと思わないのだ。歯磨きは、虫歯対策なのである。歯槽膿漏でもおなじ。「歯槽膿漏になる」と思ってしまうと、実際に歯槽膿漏になってしまうので、「歯槽膿漏になる」と思うことはやめようと思うわけだ。けど、思うことはやめようと思った時点で、過去において「歯槽膿漏になる」と思ってしまったということを意味している。

暗いことを考えると、暗いことが起こると本気で思っている人は、「虫歯になる」ということや「歯槽膿漏になる」ということを考えると、虫歯になったり、歯槽膿漏になったりするので、虫歯になることや歯槽膿漏になることを考えることができない。

思い浮かべたら、その通りになってしまうのだから、虫歯になると思ったら、虫歯になってしまうのである。

ところが、思いとは関係なく、虫歯菌が、物理的に、歯に作用して、虫歯になるのである。歯槽膿漏だって、思いとは関係なく、歯槽膿漏を引き起こす細菌が、歯茎に物理的に作用して、歯槽膿漏になるのである。

「虫歯になる」と思ったから虫歯になるのか?

「歯槽膿漏になる」と思ったから歯槽膿漏になるのか?

「虫歯になる」と思わなければ、虫歯にならないのか?

「歯槽膿漏になる」と思わなければ、歯槽膿漏にならないのか?

「虫歯になる」と思わなくても、虫歯菌と、歯を構成する物質の相互作用によって、虫歯になる。「虫歯にならない」と思っていれば、虫歯菌と、歯を構成する物質の相互作用が起こらないかというと、起こる。

なので、「虫歯にならない」と思っていたとしても、虫歯になることはある。そして、「虫歯になる」と思っていても、口内に、虫歯菌がまったくいないなら、虫歯にならない。

悪いことを考えると悪いことが発生すると考えている人だって、雨がふりそうなときは、傘をもって外に出るし、靴を履いて外に出るし、普通に歯みがきをする。

自分の「注意」がむかないところでは、自分だって、「悪いことを考えて」対策をしている。けっきょくのところ、自分の注意がむくか、あるいは、自分の注意がむかないかの問題なのである。

虫歯になると思うと、虫歯になるので、虫歯にならないように、虫歯になると思わないようにするとしよう。その場合、逆に、虫歯になる確率があがる。

どうしてかというと、歯みがきをしないからだ。虫歯になる」と思ったから、対策として、歯磨きをしようと思うのだ。もちろん、親がそういうふうに教えてくれたということだってある。理由を考えないで、歯磨きをしていたということだってある。

けど、親は、こどもが歯磨きをしないと虫歯になってしまうと悪いことを考えて、対策として、歯磨きをすることを教えるのだ。

靴を履くということでもそうだけど、慣習として受け継がれているものは、ちゃんと理由があることが多い。悪いことを考えて、対策として、そうしているのだ。けど、そういうふうにすることを教えられ子供が、その理由を完全に知っているとは、かぎらない。


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魚を食べて、水俣病になってしまった人は、「この魚を食べると水俣病になる」と悪いことを考えることができなかったので、水俣病になってしまったのである。

「この魚を食べると水俣病になる」と暗いことを考えることができたら、食べないので、水俣病にならずにすんだのである。

なので、「この魚を食べると水俣病になる」と暗いことを考えると水俣病になるという考え方はまちがっている。「「今日も魚を食べて元気に活動しよう」と明るいことを考えて、その魚を食べたから、水俣病になったのである。

ようするに、汚染魚であることがわかっていれば、食べなかったのである。

この、「魚に原因がある」ということがわかったのは、「のちに」水俣病と言われる病気になった人がいたからだ。これにかんしても、人間が知っているかどうかにかかわらず、有機水銀と体を構成する物質とのあいだに相互作用がしょうじたから、そうなったのだ。

人間が知らなくても、物理的な相互作用によって、そうなる。

「思うかどうか」というのは「知っているかどうか」とたいへんに深い関係がある。例外がまれにあるかもしれないけど、まったく知らない場合は、思うことができない。

水俣病の場合、有機水銀を摂取すると、水俣病になると思うことができなかったのだ。その魚には、有機水銀がはいっているということを知らなければ、その魚を食べることによって水俣病になると思うことができない。

思うことができなくても、物理的な相互作用によって、水俣病になる。

つまり、本人が思うかどうかに関係なく、暗いことが発生する場合がある。

「暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人は、暗に暗いことを考えなければ暗いことは起こらないと思っているのである。

明るい思霊主義者は、「思わないこと」で、「防衛することができる」と思っているのだ。

「暗いことを思わない」ことが、「暗いことが(実際に)起こる」ことの対策になっているのである。……明るい思霊主義者の頭のなかでは。

しかし、これは、いままで見てきたように、完全にまちがっている。防衛にならない。対策にならない。

「暗いことを考えないこと」は防衛にならない。「暗いことを考えて」対策をしなければならないのだ。「暗いことを考えて」……その暗いことが起こらないようにするにはどうすればよいかということを考え、対策しなければならない。

しかし、明るい思霊主義者は「暗いことを考える」ということを禁止してしまう。自分にだけ禁止するならいいけど、ほかの人に対して、禁止しようとするな。

暗いことを考えるということは、将来の暗いことをさけるために必要なことなのである。

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音の場合はともかくとして、もし、水俣病になった人が、「これは汚染魚だから、食べると水俣病になる」と思うことができたら、水俣病になっていないのである。「これを、食べると水俣病になる」と思うのだから、暗いことを考えている。暗いことを考えたので、「水俣病になるような魚」を食べることはなく、水俣病にならずにすんだのである。実際には、「これを、食べると水俣病になる」と「暗いこと」を考えることができずに、食べてしまったので、水俣病になってしまったということだ。暗いことを考えるということは、将来の暗いことをさけるために必要なことなのである。

暗いことを考えたから、暗いことが発生したのではなくて、むしろ、暗いことを考えることが出なかったから、暗いことが発生したのである。明るい気持ちで、汚染魚を汚染魚だと思わずに食べてしまったから、水俣病になってしまったのである。暗いことを考えることは、むしろ、将来の暗いことを考えるためには、必要なことなのである。

そして、水俣病の場合、工場排水が問題だった。工場排水のなかにはいっていた有機水銀が問題だったのである。この場合、工場排水を垂れ流した企業が、「水俣病になる」ということの原因をつくっている。自己責任論者は、こういう場合でも、「食べたのは、その人なのだから、その人の自己責任だ」と食べた人をせめるのである。これは、せめている。責任追及をしている。こんなことをして、人に対して「責任追及をしてない」と思っているとしたら、まちがっている。

ヘビメタ騒音も、俺がヘビメタ騒音を、きちがい兄貴が鳴らすだろうと思ったから、きちがい兄貴が鳴らしたわけではない。きちがい兄貴が勝手に鳴らしたくなって鳴らしたのである。有機水銀をたれながした企業は、なにも、「将来、水俣病患者になる人」のリクエストにこたえて、有機水銀を垂れ流したわけではないのである。「暗いことを考えた」人とされるひとと、原因となる行為をした人(団体)はちがうのである。しかし、思霊主義者は、この区別がついてない。暗いことを考えた人が、暗いことを考えたから、暗いことが、その人の身の上に起こったと考えてしまうのである。「ひきよせ」ふうに言うと、「暗いことを考えることによって、暗いことを引き寄せた」ということになるのだろう。けど、ちがう。ちがうのだ。言霊主義者も引き寄せ主義者もこれにかんしては、まちがっている。

人間と言うのは、自然界の影響をうけるし、他者の行動の影響をうける。本人が考えなくても、自然界は、自然界の物理的な運動をするし、本人が考えなくても、他者は、他者が思いついた行動をする。まさに、他者は、他者の考えたことを実行する。なので、他者が実際にやったことの影響をうけることがある。その場合、本人が……うけたほうが、事前にそのことについて考えていたから、そのことが発生したということではない。本人の「事前の気持ち」とは関係なく、他者が行動した。本人がまったく、考えていなかったとしても、他者が行動した結果、『他者の行動』の影響を(本人が)うけることがある。これが、現実だ。

ヘビメタというのは、俺にとって「無視できない」「ものすごくいやな音」をかき集めたような音楽

まったく、暗いことを考えていなかったにもかかわらず、暗いことが発生してしまうことはある。

たとえば、ヘビメタ騒音が、そういうもののうちの、ひとつだ。ぼくは、きちがいヘビメタ騒音がものすごい音で鳴りだすとは、考えていなかったのだ。ところが、ある日、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音道具を買って、それまで聞いたことがない、騒音を鳴らしだした。これは、別に「いつか、ヘビメタ騒音でくるしむだろう」とぼくが考えていたから発生したことじゃない。

水俣病についても、「俺はいつか、汚染魚を食べて、水俣病になってしまうだろう」と考えていたから、水俣病になったのではないのだ。こういうことについて、思霊主義者は、「かんちがい」をしている。せーーだいな「かんちがい」だ。

こういう、決めつけ自体が、よくないのである。

だいたい、汚染魚を食べている時点では、水俣病という言葉はない。「(俺は将来)水俣病になる」と考えることができない。きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らすまでは、ぼくだって、「ヘビメタ」という音楽の分野があるということを知らなかった。あのいやな音の集合について、知らなかったのである。ヘビメタというのは、俺にとって「無視できない」「ものすごくいやな音」をかき集めたような音楽なのだ。

ぼくが「いつか、ぼくは、ヘビメタ騒音にやられて、くるしむことになる」「いつか、ぼくはヘビメタ騒音でくるしむことになる」と、まったくヘビメタについて知らないときに、思ったから、実際にヘビメタ騒音が鳴りだしたわけではない。思ったから、実際にヘビメタ騒音が鳴りだしたということではないのである。

思霊主義者というのは、「原因」について勘違いしているのである。そして、勘違いしていることを、認めない。どうしてかというと、「思ったことが現実化する」とつよく思っているので、原因は、すべて「思ったこと」になってしまうのである。

過去のある時点で、「こうなる」と思ったから、「こうなった」と考えてしまうのである。それ以外の理由を、認めようとしない。本人が本人のことについてだけ語っている場合は、それでもいいけど、本人が「ほかの人」のことについて語っている場合は、よくない。

どうしてかというと、原因について、考え違いをしているからだ。まちがった原因を考えて、「考えたからそうなった」と言って、ほかの人をせめているからだ。

こんなの、ほんとうは、ひどいことだ。

そりゃ、やられたほうは、気分が悪くなる。不愉快な気持になる。

こんなのが、「明るいこと」なのか?

 たとえば、明るい気持ちで働いていた漁師が、汚染魚を食べてしまったことについて考えてみよう。この場合、明るい気持ちで働いていたにもかかわらず、汚染魚を食べてしまったことによって、のちに、水俣病と呼ばれる病気になる。もちろん、摂取量は重要だ。そして、摂取量によって、症状が、症状の重さが異なるのである。

暗いことを考えると、暗いことが起こる……と思霊主義者は言っているけど、この場合は、別に暗いことを考えていなかったのに、暗いことが発生している。暗いことを考えていなくても……事前に考えていなくても……暗いことが発生することはある。

というよりも、暗いことを考えていなかったにもかかわらず、暗いことが発生する場合のほうが多い。暗いことを考えていたら、暗いことが発生したというのは、すでに、症状が出て、「これはおかしい」と思ったケースが多い。基本的なことを言ってしまえば、「予兆」がある場合だ。この予兆がある場合にかんしても、暗いことを考えていなかったにもかかわらず、暗いことが起こったのである。

どうしてなら、「予兆」というのは、既に初期症状が出ていることだからだ。暗いことを考えたかどうかではなくて、こういう場合は、毒を摂取したかどうかということが重要なのだ。どうしてかというと、毒と呼ばれている物質が体の中に入って、からだを構成している物質と結びついて、症状を発生させるからだ。

気がつかずに食べたのだから、暗いことは考えてない。

暗いことを考えなくても、暗いことが発生してしまうことがある。

その場合、すでに、「暗いことを考えると暗いことが発生する」という文自体がまちがっているということを意味している。

これも、言霊の「言ったことが、現実化する」という文とおなじ問題をかかえている。暗いことは、明るいことではなくて、暗いことなのだから、暗いことという集合のなかには、暗いことがすべて含まれるのである。現実化するという言葉のなかには、現実化しないということが含まれていないのである。

なので、暗いことを考えた場合、その暗いことは、すべて現実化する(発生する)ということになるのである。そして、暗いことを考えない以上、暗いことは発生しないということを意味しているのである。ところが、暗いことを考えなくても、暗いことは発生するので、文自体がまちがっているということになる。この命題は、『偽』だ。

この、くそまちがっていることを、あたかも、法則性があることのように言ってしまうのである。

こんなのはない。

どうしてかというと、実際に、くるしんでいる人は、過去のある時点で「くるしくなること」を考えたから、そうなったのだと言っているとおなじだからだ。実際、くるしんでいる人が、過去のある時点で、くるしくなることを考えなかったとしたら……「事実」考えなかったとしたら……濡れ衣を着せているということになってしまうのである。

そして、自己責任論と結びつくと、濡れ衣を着せた上に、さらに、責任を追及するということになってしまうのである。つまり、ニセの原因を考えて、当事者(くるしんでいる人)が、そのニセの原因をつくりだしたからそうなったと勝手に断罪し、責任を追及しているということになる。

ひどいことじゃないか。

こんなのが、ポジティブなことなのか?

こんなのが、「明るいこと」なのか?

こんなのが、「善い行い」なのか?

2023年11月19日日曜日

こんなの、普通の「認知にかんする常識」をぶったぎって、やぶっている。

きちがい兄貴は「よそのひと」よりも、自分の状態がわかってない。

「なにもやっているつもりがない」んだよな。悪いことをやっているつもりがない。けど、普通の人は、やるまえに「これは悪いことだからやめておこう」と思ってやらないことなんだよ。

 まったく、なにもわかってない。弟がこまっているということも、何万回、言われたってわからないんだよ。

自分が無意識的にやりたいことは、一〇〇%、絶対の意地で通す。

けど、いつもいつも、つもりがないんだよ。だから、自分がやったという感じがない。まったくない。なおさら、迷惑行為をやったという気持はないよ。どれだけ言われたって、迷惑行為をやっていることになってないのだから、何万時間、つみかさねたって、ゼロ時間だよ。これは、きちがい兄貴の話だ。

きちがい親父のことについて言っておく。きちがい親父が、こっちが、幼児のとき、怒り狂っていたのだけど、これだって、迷惑行為をやっているつもりなんてないんだよ。きちがい的な意地で、きちがい的なことを言って、怒り狂って、幼児をいじめていたけど、いじめているつもりなんてないんだよ。

それは、きちがい兄貴が、普通の家では絶対に鳴らせないような音で、ヘビメタを鳴らしても、迷惑行為をしているつもりがまったくないというのとおなじだ。

こういうところで、本当に、きちがいの針が、降りきれているのである。これ、普通の人の想像の範囲をこえてしまう。そして、その「普通の人が想像できない状態」というのが、「いつもの!状態」なんだぞ。きちがいが、思い付きで、自分がやりたいことをやりはじめたら、どれだけ文句を言っても、とめることができない。きちがい兄貴も、きちがい親父もとめることができない。

とめることができないのだから、やったし、やりきったのだけど、本人(たち)は、やったつもりがないし、やりきったつもりもないのだ。こういう、きちがい状態が、きちがい兄貴やきちがい親父にとっては、ノーマルな状態なんだぞ。いつもいつも、そうなんだよ。

こんなの……生活がやぶけている。こっちの生活がやぶけている。日常の空間が……やぶれている。きちがいがいつもやぶっている。きちがいがいつも、きちがい感覚で、まったく悪いことをしてないつもりで、悪いことをやりきる。

やぶっている。ルールを破っている。

やったら「やったという認知」がしょうじるのが当たり前なのに、やっても「やったという認知」がしょうじない。まーーったくしょうじない。こんなの、普通の「認知にかんする常識」をぶったぎって、やぶっている。

兄貴のほうがあまりにも異常なので、ぼくが誤解をされる

 きちがい兄貴は、「軽い気持ち」以下の気持ちでやったんだろうけど、それが、日常破壊で、人生破壊なのだ。「何度も、言った!!」「何度も、言った!!」「何度も、言った!!」「何度も、言った!!」。何万回も言った。毎日、何十回も言った。言ったの! 言ったんだよ。きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじやり方で、無視をしただけだ。これ、きちがいだから「無視をした」ことになってないのである。

「軽い気持ち」以下の気持ちと書いたけど、ほんとうに、やっていいことをやっている気持ちしかないんだよな。それは、どれだけ言われても、かわらないわけ。

だから、自分の維持をとおして、一三時間鳴らせるなら、一三(じゅうさん)時間鳴らした。ゆずらない。半分の時間ゆずってくれた人いうのが、一五(じゅうご)年間で、一日もないのである。半分はない。一〇分(ぶん)の一もない。毎日、きちがいがきちがい的な意地で鳴らしているのだから、『影響をうける』んだよ。

そりゃ、俺とおなじ部屋で暮らしているわけではない人は、影響をうけない。けど、それは、騒音耐性が強いとかそういうことではない。別に、俺にくらべて騒音を気にしない能力があるというわけではないのだ。きちがい兄貴が異常だから、そうなっている。

きちがい兄貴みたいな、兄弟、家族が、ほかの人のうちには、いないのである。普通の人だから、きちがい兄貴みたいな音で鳴らさない。

それだけなのに、まるで、能力のちがいがあるように誤解をしているやつらがいる。これ、ほんとうに、九五%ぐらいのやつが、そういう誤解をするのである。きちがい兄貴のほうがあまりにも異常なので、ぼくが誤解をされる。こういうことになってしまう。

2023年11月17日金曜日

全部、まったくちがうんだよな

 ほかの人にどれだけ説明してもむだなんだけど……。ヘビメタ騒音は、うるさいだけの騒音じゃないんだよ。ヘビメタ騒音の影響は、うるさいだけにとどまらないんだよ。もう、ほんとうに、全部がダメになる。

そして、この「ダメになる」過程が、ほんとうに、ほかのひとにはわからないんだよな。どれだけ、死にものぐるいの努力をしても、ダメになる。必然なんだよね。

けど、ほかの人は、ヘビメタ騒音の影響なんて、ゼロだと思っている。

そういう前提で、ものを考える。

そういう前提でぼくの話を聴く。

ヘビメタ騒音にさらされず、一五年間経過したぼくの話ではなくて、ヘビメタ騒音に一五年間経過したぼくの話なんだよ。どれだけ、ヘビメタ騒音で、地位がなくなるか。ヘビメタ騒音で、不可避的に、「ダメな状態」になる。これが、ゆるせない。

これ、本当にちがうのに……。

あとは、若いとき、ヘビメタ騒音なしで、あの子とあって、あの子とつきあいたかったなということが、うかぶ。親友との関係だって、ほかの友達の関係だって、全部、まったくちがうんだよな。

きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らすことを思いついて、ヘビメタを鳴らし始めた。きちがいの頭だから、やり方が、そもそも、おかしいのである。

で、だれも、きちがい兄貴以外の人は、そんなやり方でやらない。だから、ほかの人の家族は、そういうやり方でやらない。

だから、ほかの人は、ほんとうに、知らないのである。自分の経験としてまったくわかってない。だから、「ダメになる必然性」もまったくわかってない。だめになった俺を見下してくる。ヘビメタ騒音でだめになった俺を、見下して、いろいろなことを言う。

これ自体が、屈辱なんだよね。

ほかのやつが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験して、それでものを言うのであれば、まだ納得できるけど、ほかのやつは、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない。

ヘビメタ騒音生活をまったく経験してない。どれだけ、広範囲に影響が出るか、まったくわかってない。

わかってないのに、わかっているつもりで、ものを言ってくる。常識にあわせて、こっちにとって、「無理な話」をする。むりな話なんだけどなぁ。

わからないんだろうな。

特に、言霊のように妄想的な考えにとりつかれているやつは話にならない。自分がどれだけめちゃくちゃな話をしているのがまったくわかってない。

 

不平不満禁止は、不幸をつくりだしている。

 条件を無視して、一括して、「不満不平、禁止」ということにしたら、条件が悪い人が苦しむことになるのである。たとえば、一五年間、不当なサービス残業をしている「名前だけ店長」が、「サービス残業なんておかしい」と言ったら、それは、サービス残業に関する「不平」を言ったということになってしまうのである。「サービス残業で、睡眠時間が短くなってくるしい」と言ったら、それは、「不満」を言ったことになってしまうのである。サービス残業をきちがい的な理論でおしつけるやつが悪いわけで、名前だけ店長が悪いわけではない。まあ、正論にこだわれば、サービス残業をうけいれてしまった名前だけ店長もわるいということになるかもしれないけど、そういうことは、今回は問題にしない。問題なのは、だれかにとって「不平不満だ」と思えることを言ってしまってはいけないという雰囲気だ。条件がいい人が、「不平不満禁止」と言うと、条件が悪い人が「不平不満を言うべきところ」で、言えなくなってしまうのである。なので、こういうのは、不幸をつくりだしている。なので、やめるべきだ。

不平不満を言うと、世界が暗くなるのではなくて、すでに、世界が暗いから、だれかが不満不平を言わなければならない状態になるのである。条件の差で、いわれのない悪条件をおしつけられている人は、口をふさがれ、くるしんで死んでいく。 

AさんとBさんがいたとする。Aさんが「サービス残業で、睡眠時間が短くなってくるしい」と言ったとする。Bさんが、「不平不満は言うものじゃない。不平不満を言うと、世の中が暗くなる」と言ったとする。この場合、Aさんの発言を「不平不満だ」と思ったのは、Bさんなのである。Bさんが、Aさんの口を封じるために「不平不満は言うものじゃない」と言ったのではないとしよう。しかし、Aさんは、言いにくい状態になっている。Bさんの発言によって、Aさんは、Bさんが不平不満だと判断してしまうようなことを、言いにくい状態になってしまう。Bさんは、Aさんの口を封じ、Aさんをくるしめている。どうしてなら、Aさんにとってくるしい状態が、ずっと続くことになってしまうからだ。Aさんの世界は、すでに、くるしく、暗いものなのである。不平不満を言わないと、改善されないものなのである。

Cさんがいたとする。Cさんが、Bさんのいる部屋につかつかと入っていって、いきなり、Bさんの襟を両手でつかみ、左手で襟をつかんだまま、右手を襟からはなし、右手でBさんの顔を一〇発なぐったとす。Bさんは「いたい」「やめろ」と言ったとする。そのとき、Cさんが「不平不満禁止!!」と言ったとする。Bさんは「その通りだ」と思うだろうか? 

まあ、Cさんのような人がいるかどうかは別にして、Bさんがやっていることは、だれか、Cさんのような人にやられている人の口をふさぐような行為なのである。いい行為じゃない。「差」があると言っているだろ。Cさんよりも、きちがい的な親がいる。そういう親のもとに生まれた子供側の人は、不利な立場の人なのである。そういう不利な立場の人が、「こういうことはよくない」と言った場合、Bさんのような人が「不平不満禁止」と言う可能性がある。確率は高い。というよりも、Bさんは、「全体」に対してそういう行為をしている。全体のなかには、立場が悪い人や条件の格差で「下の下の人」が含まれている。Bさんは、「不平不満を言うと世界が暗くなる」と言っているけど、立場が悪い人や条件の格差で「下の下の人」にとっては、生まれたときからすでに「世界は暗い」のである。まず、不平不満を言って、事柄を明らかにしなければ、世界が明るくならない。

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精神世界の人は、あんまり考えないけど「不平不満」というのは、一意に決まるものではない。ようするに、なんらかのことを言われた人、あるいは、なんらかのことを聞いた人が「それは、不平不満だ」と判断しただけなのだ。たとえば、Cさんは、Bさんが「いたい」「やめろ」と言ったので、それを、Bさんが不平不満を言ったと判断したのである。これは、Cさんがそう判断したということだ。ほかの人は、別の受け取り方をするかもしれないのである。

2023年11月16日木曜日

ネガティブな言葉狩り

 ネガティブな言葉を封じようとする勢力は、悪い世界をつくることに、協力している。そんなつもりはないかと思うけど、実際にはそうなっている。悪い為政者という項目を考えると、それがわかる。不満、不平などは、ネガティブな言葉だとされる。けど、不満、不平から、「改善」がうまれる。為政者が、悪い為政者で、悪い政策を実行しているなら、それに対して、不満や不平を言わなければならない。ところが、ネガティブな言葉狩りをやっているやつらがいて、そういう、たいせつな「芽」をつみとってしまうのである。「ネガティブな言葉」を狩ることが、ネガティブな結果を引き起こす。言葉狩りが、そもそも、「ネガティブ」だ。人に対して、ネガティブな言葉を使うべきではないと、助言すること自体が、ネガティブな行為だ。そして、そのネガティブな行為が、悪い為政者を助けてしまう。

この、個人をいじめまくるような社会がこのままであっていいはずがない

いま、時間稼ぎをすればいいことになっているんだよな。時間の経過は、けっこう重要だ。みんな、自己責任、自己責任と言っているけど、じつは、政治って大事だよ。自分をかえるのではなく、社会をかえるのだ。社会がさきにかわったほうがいいことというのはある。社会がさき。個人は、あと。この、個人をいじめまくるような社会がこのままであっていいはずがないでしょ。 

「すべての過去が現在に影響をあたえている」

しかし、こまった。全体的にこまっている。

正直言って、長期ヘビメタ騒音があった俺と、ほかの人の環境がちがいすぎる。

生きてきたなかで発生した出来事の差がでかすぎる。「蓄積」「堆積」が問題なんだよ。毎日続いたこと……何回も、何十回も、何百回も、何千回も、何万回も、何億回?もつづいたことが、重要なんだよ。

これ、重要なのに、みんな、無視する。重要でしょ。なんで、繰り返し発生した「現実の出来事」を無視してしまうんだ。それは、想像じゃないんだぞ。妄想じゃないんだぞ。空想じゃないんだぞ。実際に起こったことなんだぞ。

そして、たとえば、きちがいヘビメタ騒音が、睡眠に影響をあたえ、睡眠が人間関係に影響をあたえたということが、毎日発生したのだ。そして、学生時代だったので、成績や進学に影響をあたえる。あたりまえじゃないか。そういうことを無視して、なんで「過去は関係がない」と言うのか?

そういうことを無視して、なんで「過去は現在に影響をあたえない」と言うのか?

過去?

過去は現在に影響をあたえるよ。

時系列的に、不可避な影響をあたえる。

影響をうけないということが不可避なのだ。過去は現在に影響をあたえない……どころか、過去はつねに現在に影響をあたえている。与え続けている。そして、時系列的に見て、ふるい過去一は、ふるい過去二に影響をあたえる。

ふるい過去一は、ふるい過去二よりも、時系列的に前に起こったことだとする。ようするに、ふたつ前に怒った過去が、ひとつ前の過去に影響をあたえている。

そういう堆積の繰り返しが、現在を形づくっている。現在の状態を形づくっている。過去は関係がないどころか、過去が現在をつくっている。これが正しい。

過去は関係がないというよりも、過去は関係があり、影響力が小さい過去は、無視できると考えるべきなのだ。言霊や、過去を無視した明るい空想なんかより、過去が現在に影響をあたえているのだ。ただ単に「過去が現在に影響をあたえている」と書いたけど、 もうちょっとくわしく書けば、「すべての過去が現在に影響をあたえている」ということになる。

影響がないと思える過去の出来事というのは、「現在の時点で考えると、影響を無視できる過去の出来事だ」ということになる。無視できるだけで、影響はうけている。

 

2023年11月15日水曜日

「どうにかしなけばならない」と思っている人の口をふさぐ

 明るいことを考えれば、明るいことがあり、暗いことが考えれば暗いことがあると考える人も、言霊教徒と同じ問題をかかえていると言っていい。明るいことを考えれば、明るいことが起こるというのは、言霊とおなじだ。言うか、思うかのちがいだ。

「思う」というところを「言う」ということにすれば、「明るいことを言えば、明るいことが起こり、暗いことを言うと暗いことが起こる」ということになる。

まあ、ぼくの言葉でいうと「思霊(おもだま)」だ。

為政者(支配者層)が悪い為政者(支配者層)である場合は、非支配者層がどれだけ、明るいことを考えても、暗い世界になる。非・支配者層の人間がくるしむことになるのだ。支配者層が、悪い人たちであった場合、非・支配者層の人がどれだけ、明るいことを考えてもむだだ。

だまされて、誘導されて、非常に暗い世界になる。

支配者層の言うとおりに行動すると、暗い結果が待っているのだ。支配者層が、こつこつと、悪い政策を進めているのに、非・支配者層が現実を無視して「明るいこと」を考えると、まずいことになる。

だいたい、政策批判ができなくなるだろ。悪い政策について考えて、その悪い政策の結果を予想するということは、「悪いことについて考える」ということだ。「それをすると、その結果、ひどいことになるから、やるべきではない」ということは、悪いこと、暗いことを考えなければ、言えないことなのだ。

ところが、現実は、ほうっておいて、ただ「自分の考え」を明るい方向にもっていけば、明るいことが起こると言うのである。

これは、完全にまちがっている。

さらに、暗いことを考えるということを禁止してしまうのだ。これは、口癖教徒とおなじだ。「暗い考え禁止」なのである。そうなると、支配者層が、思ったとおりのことができるということになってしまうのだ。

なぜ、これがわからないのか?

現実を無視して、支配者層にだまされている無垢な?非支配者層の多数派に、「こういうことになる」ということを語りかけなければ、やられっぱなしになってしまうのである。

これは、積極的に、悪い支配者層を支持することになる。

自分のなかだけで、明るいことを思い浮かべれば、明るいことが起こる……こんな幼稚な考えにとらわれて、「どうにかしなけばならない」と思っている人の口をふさぐのだ。 

明るい思霊教徒が、ぽけーーっと、自分のなかで明るいことを考えているうちに、悪い為政者が、どんどん悪い政策を進めてしまうのだ。もう、そうなっている。

想起することは重要だけど、「暗い」か「明るい」かで、判断してはいけない。為政者が悪いことをやる場合は、為政者は、庶民にとって「暗いこと」をやるわけだから、その為政者の政策に賛成すると、暗いことが起こるということは、庶民として庶民に伝えなければならない。ところが、明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考えにとらわれると、道をあやまることになる。暗い世界に誘導される。


2023年11月14日火曜日

「たいしたことがない」と常識的な人が勘違いしてしまう

 ともかく、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したやつは、だめなやつだ。性格もわるいし、頭もわるい。しかし、こういうやつが、全体の九五%だった。

こんな、世界、ない。

きちがい兄貴がやったことが、特殊なので、ほかの人は、まったく経験してないのだ。ほかの人だって、そりゃ、この世界に住んでいれば、「いやなこと」はたくさんあるだろう。「騒音」だって経験しただろう。

けど、それとは、ちがうんだ。

「けど、それとは、ちがうんだ」と言っているのに、それを理解しないやつら……。そんなやつらが多数派なのだから、ぼくにとってこの世は住みにくい世の中だ。過小評価したやつと書いたけど、無視したやつも含まれている。

こいつらにとってみれば、ヘビメタ騒音なんてどうでもいいことなのである。こいつらは、実際に経験してないので、どういうものなのかわかってないだけだ。ぼくにとってヘビメタというのは、この世で一番嫌いな音なのである。

それを、至近距離で、大きな音で聞いているやつがいる。そいつが、いわゆる「ヘビメタ難聴」になったのだから、「大きな音」で聞いていたのは、まちがいがない。小さな音なのに、ぼくが「大きな音だ」と感じて文句を言っていたわけではないのだ。ぼくは、押し入れに助けられたのか、ヘビメタ難聴にはならなかったけど、ずっと、大きな音にさらされてきた。だいたい、本人がヘビメタ難聴になっても、まったく気にしないで、そのまま、がんがん鳴らし続けるなんておかしいだろ。頭がおかしいから、そういう音で鳴らしているんだよ。

そういう音で鳴らしても、「まったく問題がない」と考えているから、そういう音で鳴らしているんだよ。感覚がずれているのは、兄貴のほうだ。ぼくじゃない。

ところが、「過小評価したやつ」「無視したやつ」は、そういうことも、過小評価し、そういうことも、無視してしまうのだ。こんな、頭がわるいやつら……。

こいつらは、俺が、音に敏感だから、兄に文句をつけていた」と思っている節がある。「そんな音で鳴らしていたら絶対に、親が文句を言う」「やめさせる」と思っているのだ。

これも、普通の家ではそうなのだろうけど、ぼくの家ではちがうんだよ。

ともかく、常識的なやつらが、誤解をする行為を、きちがい兄貴はずっとやっていた。これ、常識的な人にとって「盲点」なのである。

だれだって、ちょっとぐらいは騒音がある。だれだって、眠れない夜はある。けど、みんな頑張って、通勤している。それなら、たとえヘビメタ騒音があったとしても、エイリさんだって、できるはずだ……と考えてしまうのである。盲点。盲点。強烈な、盲点。

きちがい兄貴が「盲点」をついたのである。

しかも、きちがいだから、きちがい的なやり方で常識的な人の「盲点」をついたのである。常識的な人は、実際に鳴らされてないので、わからない。

これ、単に、音の持続時間の問題だけではないのである。きちがい兄貴の、音に対する感覚や、家族に対する感覚がものを言っている。持続時間も実際に長いのである。普通の人は、どれだけこったとしても、楽器の練習なんて、一日に2時間ぐらいだ。ところが、きちがい兄貴はすべての時間を使って、エレキギターの練習をした。これも、普通の人なら、ヘッドホンをしてやるのに、きちがい兄貴は、「なまのおと」にこだわってこだわって、絶対にヘッドホンをしなかったのである。「なまのおと」といっても、もちろん、スピーカーから出る音だ。

きちがい兄貴が、絶対の意地で、ヘッドホンをしてくれなかったということは、特筆すべきことなのである。

これがわかってないから、「たいしたことがない」と常識的な人が勘違いしてしまう。こんなのはない。常識的な人は、きちがい兄貴の維持や、きちがい兄貴の感覚がわかってない。自分にとって都合が悪いことは、感覚器を書き換えて認めないということの、もつ意味が、わかってない。

普通の人にはわかってない。

常識的な人であって、なおかつ、兄貴とおなじような問題をかかえている人間と一緒に暮らしたことがない人には、まったくまったく、わからない。

ちなみに、きちがい兄貴の「なまのおとにこだわって」絶対にヘッドホンをしてくれなったということと、きちがい親父の「俺がネズミシートでつかまえるからいい」と言って、絶対にネズミ対策工事をしてくれなかったのは、おなじなのである。きちがい親父の、酒糟のついた魚の切り身を、長時間、ずっと、テーブルの上に置いておくということに対するこだわりも、おなじところから出てくる。

きちがい感覚がおなじなのである。

頭の構造がおなじなのである。

これ、「どれだけ言っても修正できない」のだよな。他人は、修正できない……他人を買えることはできないと言っても、正常な他人と、異常な他人はちがうのである。感覚が正常な他人がやることと感覚が異常な他人がやることはちがうのである。

もう、認知症でない人と、認知症である人がちがうようにちがうのである。普通の人は、普通の家族と一緒に住んでいるのだから、感覚器を書き換えてしまうような家族と一緒に住んでいるわけではない。その場合、普通の人とのトラブルになるのである。

ところが、うちには、ふたり、普通の人とはまったくちがう感覚をもっている人がいたので、その人たちとのトラブルというのは、普通の人とのトラブルとはちがったものになるのである。なので、「一般論」というのは、成り立たない。

成り立たないのに、一般人が「一般論」でせめてくるのである。

俺が言ったことを、一般的な常識で理解して、「くそふざけたこと」「勘違いしたこと」を俺に言ってくるのである。一般人、常識的な人が、勘違いして、勘違いした発言を、してくる。これが問題なのである。

2023年11月13日月曜日

こまる。

「生き返ると言えば、生き返る」と真顔で言われているようなものなのである。こまるのである。

「生き返るまで、こころをこめて、何回でも言えばいい」と真顔で言われているようなものなのである。こまる。

「できると言えば、できる。できないと言うからできない。できないのは、おまえのやり方が悪いから、できないだけだ。できると言えば、人を生き返らせることだって、できる。できると言えばできる。生き返ると言えば、生き返る」と真顔で言われているようなものなのである。こまるのである。

みんな、ヘビメタ騒音のことがわかってない。みんな、きちがい兄貴の態度がわかってない。みんな、きちがい兄貴の感じ方がわかってない。きちがい兄貴の、きちがい的な頭の構造が、わかってない。みんな、自分の一番嫌いな音を大音響で何時間も何時間も鳴らし続ける家族がいるという問題について理解がない。だって、みんなには、そんな家族はいなかったから。だって、みんなには、そういう経験が人生のなかでないから。やっている人間が、きちがいなんだよ。やっている人間が家族なんだよ。このふたつがそろった場合のことがわかってない。無視できるわけがないだろ。あんな至近距離で、きちがいがきちがい的な感覚で、きちがい的な態度で鳴らしている、ものすごくでかい騒音を無視できるわけがないだろ。これ、みんな、そういう騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできると思っているのだけど、まったくできないのだ。できないというのは、ゼロだ。プラスマイナスゼロ。けど、きちがいヘビメタ騒音で勉強ができない状態というのは、勉強(自体)にかんしても、マイナスなんだよ。大きく大きくマイナスなんだよ。もちろん、勉強以外のことにかんしても、きちがいヘビメタ騒音できちがいヘビメタ騒音で勉強ができない状態というのは、大きく大きくマイナスなんだよ。被害の大きさが、一倍速でわかってないのである。一倍速(いちばいそく)。これ、数秒間で「ヘビメタ騒音で勉強ができない」と言われて「ヘビメタ騒音で勉強ができなかったんだな」と思う時間の長さと、ぜんぜんちがう。実際に経験しているのは、「騒音で勉強ができなかった」という言葉を聞いたということだけだ。実際に、一日のなかで、きちがい家族による、きちがい的な騒音に何時間も何時間もさらされているわけではない。そして、そういう一日が、何年間も何年間も、十数年間も、毎日毎日、続いたという経験を、もっているわけでもない。そういう経験が自分の人生のなかにはなかったのである。そういう毎日が、なかった。そういう、一日のなかでの、時間がなかった。一倍速で、経験してみろ。

若いときの時間が、長期ヘビメタ騒音で消えてしまった

けっきょく、若いときの時間が、長期ヘビメタ騒音で消えてしまったので……あるいは、苦渋に満ちたものになってしまったので……若いときにしかできないことができないままなのである。あのときの、あんなことやこんなことをしたかったということだから、基本、時間を逆にしないとむりなんだよね。あの時点にもどって、さらに、長期ヘビメタ騒音に汚染されていないからだと気持ちで、普通に暮らしたかったということだから、無理無理なんだよね。じゃあ、いまから、長期ヘビメタ騒音に汚染されたからだと気持ちで、若いときにやろうとしてできなかったことをやればいいかというと、できないものはできない。やればいいと言ったって、やれない。どうしたって、長期ヘビメタ騒音に汚染されてないからだがほしいということになる。時間をもどすということもできない。けっきょく、むりなものはむりだ。

長期ヘビメタ騒音にやられなかった人が、なんか理想的なことを言う。それは、長期ヘビメタ騒音に汚染されてないからだをもっているからでしょ。長期ヘビメタ騒音に汚染されてない精神をもっているからでしょ。そして、これが案外肝要なのだけど、長期ヘビメタ騒音に汚染されてない「履歴」をもってる。 

「やっていい」と心の底から思って、あるいは、そういうことを考えることすらしないで

 すでに、ヘビメタ騒音で「どうしようもない」ハンディに見舞われている俺に、そんなことを言っても「しかたがないだろ」と思えるようなことしか言わない。他人は、ほとんど全員、そんなものだ。この、ヘビメタのハンディというのが、ほかの人には見えないのだ。だから、もともと、人体的にハンディを背負っている人とはちがうあつかいになる。しかし、ハンディはハンディだ。みんな、ヘビメタ騒音のハンディが、「どうにでもなるもの」だと思っている。不可避的だ」とぼくが言っているのに「不可避的ではない」と思っている。こういうところのズレとギャップがでかい。みんなところには、きちがい的な兄貴がいないのである。みんなところには、きちがい的な親父がいないのである。けっきょく、いっしょに住んでいる家族が、きちがい的な意地で、普通の人なら絶対にやられなことをやり続けるということによって、生じるハンディが、わからない。そりゃ、原因となる人物がいないわけだから……わからない。原因となる人物と「実際に」「毎日」おなじうちで暮らしているわけではないから……わからない。わからなければ、関係がないことで、「ちょとした、努力」「ちょっとした気づき」で、どうにかなるようなものだと思ってしまうのである。そういうふうに、考えるまでもなく、仮定してしまう。だから、そのあとから出てくる意見や「自分の側の気持ち」というのが、ヘビメタ騒音の不可避的な、ハンディを無視したものになる。で、そういうのは、鳴っているときからそうだった。鳴り始めた小学六年生のときからそうだった。小学六年生というのは、俺が小学六年生のときという意味だ。きちがい兄貴は、当時、高校一年生だった。どこの兄貴も、あんな音で鳴らさないんだよ。「鳴らそう」と思いつかないんだよ。耳が正常なら、「でかすぎる音だから迷惑だ」と、言われなくても、思うんだよ。そして、「でかすぎる音」では鳴らさない。普通に、そうなる。特に注意しなくても、そうやって、しずかにしてくれる。きちがい的な音で鳴らそうと、思わない。きちがいじゃないから、そもそも、そういうことをやろうと思わない。普通に、「迷惑だからやめておこう」と思って、やめる。やらない。そういう回路が、うちのきちがい兄貴の場合は、こわれているのである。自分がやりたかったから、そういうことは、無意識的に無視できるのである。そして、正常な感覚器を書き換えて「たいした音じゃない」「普通の音だ」と思ってやってしまうのである。そして、普通の人なら、どれだけやると言っても、一日に三時間ぐらいやればじゅうぶんなのに、きちがい兄貴はそういうところでも壊れているので、やれる限りやり続けてしまうのである。そういうきちがい的な家族がいないから、ほかの人の身の上にはそういうことがしょうじてないだけなんだよ。ところが、そのことを特に意識することなく、また、実際に自分が経験してないので、経験的にはわかってないので……そういうことが生じた場合ということが発生するということを、経験的に理解してないので……俺に対して、そういうことが簡単に片付く問題だと思って、勘違いしたことを言いやがるのである。しかも、一生、勘違いした発言だということに、気がつかない。当然の発言をしたと思っている。正しい発言をしたと思っている。で、それは、やはり、くやしいので、家に帰って、きちがい兄貴の部屋に行って、「鳴らすな」「こういうことがあったから、鳴らすな」「こういうことになるから、鳴らすな」ということを言うのだけど、きちがい兄貴が、きちがい頭で、うちの親父のように無視して、鳴らし続けるのである。この時の態度が、本当に、きちがい親父が、きちがい的な意地でやっているときの態度とおなじなのである。これも、そういう人が、家族のなかにいる人しかわからない態度だ。これ、本当に、頭がおかしい態度なのである。だから、きちがい兄貴のほうが、くるっていて、基地が兄貴のほうが、ほかの人にはやらない、悪いことを俺にしているのである。ほかの人には絶対にやられない悪いことを、俺には平気でやっているのである。「やっていい」と心の底から思って、あるいは、そういうことを考えることすらしないで、やるのである。態度としてそうなる。きちがい的な思考回路で、そうなる。すでに、そうなっている。だから、殺さないと、本当にやめさせることができないのである。これは、切実な問題なんだけど、そういう家族がいない人間にとってはまったく「この世の世界の話ではない話」なので、うけつかないのである。「そんなのはどうでもいいこと」なのである。「言えばわかってくれること」なのである。

2023年11月11日土曜日

ほんとうに、ヘビメタ騒音の影響が広範囲に及ぶ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音の影響が広範囲に及ぶ。みんな、わかってないんだよ。きちがいヘビメタ騒音で眠れなくて、睡眠不足なのに、ハイになっていると、意識水準がさがって、失敗することがある。人に親切にするということでも、人に感謝するということでも、知らない人にもあいさつするということでも、みんなみんな、いい結果に終わらないのである。そして、人に気にいられたり、人から好きになられたりしても、ヘビメタ騒音で、弱点を抱えているような状態になっていて、うまくいかないのである。ヘビメタ騒音が長期間にわたって鳴ってなかった場合は、感じなくていい、ストレスを感じているから、いろいろとへんなことになってしまうのである。ぼくは、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、普通の人として、気持ちよく対応できるのに、ヘビメタ騒音が鳴っているので、弱点を抱えながら、むりをして、あわせるような気持ちになってしまうのである。大きなアナボコをかかえているよな状態なのである。ブラックフォールなのである。鳴っていなければ普通に対応できるのに、鳴っているから、普通に対応するのに、むりをして、背伸びをして、対応しなければならなくなるのである。ようするに、たとえば、普通に睡眠をとっていれば、普通に対応できるのに、普通に睡眠をとってない状態だと、普通の対応じゃなくて、わざわざ、「ハイ」にしないと、対応できなくなっていくのである。けど、その「ハイ」というのは、むりがある。どうしてかというと、鳴っているからだ。その日、帰ってもずっと鳴っているんだよ。そうなると、それが過剰なストレスになって、もっと、むりをして、背伸びをして、対応しなければならなくなる。寝不足だって、続くわけだから、常に意識水準がさがるような状態になっている。大きな弱点を抱えながら、普段とはちがう、背伸びをした対応になってくる。これが、いろいろとめんどうな影響を、ちょっとずつあたえことになるのである。人間関係に……。

相手がこまるということも、普通の頭なら、絶対にわかることなのだけど、わからない

「やめろ!やめろ!」と言い続けたのに、ずっと無視して、鳴らし続けやがって……。鳴っている時間の俺が、どれだけつらいか、きちがい兄貴はまったくわかっていない。

ほんとうに、どれだけ言っても、きちがい親父とおなじで、まったく、通じないんだよな。普通の人なら考えもしないことをやる。きちがい兄貴も、きちがい親父も普通の人だったら、考えもしないことをやる。
 

そりゃそうだろ。普通の人だったら、自分で自分に「制限」をかける。禁止する。


「こんなことはやってはいけないな」と思う。それが普通だ。あんなでかい音で、「うち」で、ずっと鳴らし続けるなんて、そんなの絶対に普通の人は考えないのである。思いつきもしない。「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だからやめよう」と普通に思って、そういうでかい音で鳴らすことを考えもしない。

ところが、きちがい兄貴は、そういうところの思考回路がきちがい親父とおなじなのである。きちがい兄貴は、そういうところの「スイッチ」がきちがい親父とおなじなのである。

スイッチがはいったら、絶対の意地で鳴らす。

普通の人が、かりに、「こんなでかい音で」鳴らしたとしよう。けど、言われたらわかる。「でかいぞ」とか「でかい音で鳴らすな」と言われたら、音がでかいということは、認める。そして、やめる。

そういうところがまったくないんだよ。一度スイッチがはいったら、絶対に気しないんだよ。ほかの人になんと言われようが、気にしない。そして、おそろしいことに? 言われなかったことになってしまうんだよな。

これ、文句を言われているときの状態が、ほかの人とはちがうんだよ。

「文句を言われた」「なにか不愉快なことを言われた」ということは、理解できるのだけど、「文句の具体的な内容」が、まったく理解できないのだ。

じゃあ、知能に問題があるかというとそうではないのである。知能じゃなくて、無意識に問題があるのである。無意識的に、内容をうけいれることを、こばむのである。

そういうスイッチがある。

そういうスイッチが入ってしまったら、本人は、特に意識しないまま、「怒り狂って」無視してしまう。この無視というのが、これまた、本人は、「無視をしよう」と思って、無視しているわけではないのだ。頭がおかしいから、そういう反応になる。外部から見て、そういう反応になる。

ようするに、普通の人は、「無視をしよう」と思って「無視をした場合は」自分が「無視をした」ということを知っている。意識に「のって」いる。

けど、きちがい兄貴の場合は、「無視をしよう」と意識的に思って、無視をしているのではないので、「無視をした」ということを、知らないのだ。本人が、知らない。本人が、そう思ってない。

本人が、「無視をしようと思って」無視をした場合とは、ちがう反応なのである。

きちがい兄貴はきちがいだけど、「無視をしようと思って」無視をすることもできるのである。

けど、スイッチが入らないことについてなのである。この差は、微妙だけど、きちがい兄貴においても、「無視をしようとして、無視する」場合があるのだけど、無視をするつもりがないまま、無視をする場合がある。

「うち」にいるときは、そういうスイッチが入って、そういうモードになっているのである。だから、『うちの人』以外の人に対しては、「こいつは、不愉快なことを言ってきたら」無視をしようと思うことがあるのである。この場合は、普通の人が「無視をしようとして無する場合」とおなじ思考回路が働いている。

けど、「うち」では、そういう思考回路が働かない。ようするに、不愉快なことを言われたら、それはかならず、きちがい親父とおなじで、無意識的に無視することになるのである。

だから、本人は「無視したつもりがない」のである。

けど、からだが真っ赤で目が三角で、脂汗をかいて、きちがい的な意地でやってしまうのである。きちがい的な意地でやってしまう……意地をはってやったのだから、普通にやったときよりも、やったという感覚が残っていて当然だ。

ところが、きちがい的な意地でやった場合は、「やった」という感覚が、ごく普通に、残ってないのである。本人にとっては「やった」のか「やってないのか」わからないことなのである。「どうでもいいこと」なのである。

あるいは、これまた、無意識的に「わからないほうが都合がいい」ことなのである。

なので、やったかやってないかの境界が非常にあいまいになり、無意識的に「不都合なことをさける」思考回路が働いているので、現実的な場面では、これもまた「やってない」という感覚が打ち勝ってしまうのである。

なので、本人にしてみれば、やってないことなのである。そのくらいに、表面的な関心がないことになってしまうのである。

この……きちがい的な意地でやってしまう状態と、表面的な関心がないという状態で、やったということを無視してしまう状態が、これまた、おなじなのだ。これ、似たようなところがあるというか、おなじなのである。

やったという感覚がないわけだけど、それにプラスとして、自分にとって認めたくないことは認めない……いまの自分にとって不都合なことは、絶対の意地で、無意識的に認めないという感覚がある。

「しずかにしてくれ」と言われて、しずかにすることがいやな場合は、でかい音で鳴らしているということ自体を認めずに鳴らしきる。それが、過去のことになったら、「でかい音で鳴らしていた」ということと「(弟がやめてくれと言ったのに)自分が無視して鳴らし続けた」ということは、不都合なことなので、自動的に無意識的に無視してしまうのである。

認めないのである。感心がないし、認めない。

けど、これも、認めなかったことを認めないということになってしまうである。時系列的にはそういうふうに、ネスト構造が成り立っているのである。

ともかく、表面的な関心のなさが異常なのである。これが、腹の立つ部分なんだよな。腹がたつ部分のひとつなんだよな。

ともかく、時系列的には、つみかさなっていく。そして、きちがい兄貴の場合だと、時系列的には、まったく気にしないで、自分が好きな音でずっときちがいヘビメタを鳴らすという行為をしてしまう。

まったく気にしないのである。これ、どれだけ言われてもまったく気にしない。

そりゃ、自分がでかい音で鳴らているつもりがないのだから、そうなる。

普通だったら、でかい音で鳴らしているということは、耳が正常なら、絶対にわかることなのである。

そういう絶対にわかる部分を、へんなやり方で、きちがい頭をもってして、無視してしまう。相手がこまるということも、普通の頭なら、絶対にわかることなのだけど、わからないままなのである。

だから、相手がこまっているということが、本当に心底わからないのである。相手が、必死になって言ってきたら、必死になって、きちがい的な意地で鳴らすことになってしまうのである。

ところが、本人は、そういうふうにしたという記憶がまったくない状態なのである。

だから、相手とのトラブル(弟とのトラブル)の記憶もない……という状態で、毎日鳴らしているいるのである。いるのであった。そして、そういう期間が長いのである。

これも、「どーーして、ぼくの人生はこうなんだ」と思えるところだ。普通の人には「ない」ことなのである。普通の人が、経験しないことなのである。

「わらい方がダメなんだ」「わらう回数がたりないんだ」……ニセの希望をあたえて、ダメダシをする

 みんな、「程度」というものを考えないんだよな。

「程度」というのは、重要だ。たとえ、強制的にわらうにしろ、わらえば、病気が治るというようなことを言う人がいるけど、ちがうんだよ。まるでわかってない。

たとえば、ある毒で、症状が出ている人がいるとする。まあ、広い意味で、なんとか病になったとする。その場合、毒の力と、意識的にわらうことによって得られる治癒の力と、どっちが強いのかということを考えなければならないのだよ。

そして、本当に、どんな条件でも、どんな状態でも、意識的にわらえば、治癒の力があがるのかどうかを考えなければならない。

意識的にわらうことが、治癒の力?にいい効果を発揮するとする。

けど、それって、その人の状態によるんじゃないの?

それから、これも、わらったから病気が治ったのか、あるいは、わらったあと病気が治ったかということを考えなければならない。

ようするに、意識的にわらうにしろ、わらえば、病気を治す効果があると言っている人は、病気をもたらしているものの力(物理的な作用)とわらったことによって得られる治癒的な力の差を無視して、わらう人?のもとからある治癒能力(免疫システム)を無視して、さらに、わらう人の環境(条件)を無視している。

たとえば、ある毒を摂取したとする。その毒の一日の効果が、一〇〇メートル。わらうことによってなおる効果が一ミリだったとする。その場合、九九メートル九九センチ九九ミリは、後退することになる。

まあ、じゃあ、一日に一〇〇センチ、毒によってマイナス方向に動くとして、一日に一センチ、わらう効果によってプラス方向に動くとする。その場合、一日にマイナス九九センチだ。一日に九九センチずつ、マイナス方向に動いてしまう。プラスにならない。

毒の効果よりも、わらう効果のほうが、高い場合は、プラス方向に動くことになる。

ところが、わらいの効果を絶対視する人は、毒の物理的な効果を無視してしまうのである。あるいは、わらう効果のほうが、高いと思ってしまうのである。

だから、一点突破できるようなことを言う。

けど、実際には、わらうことによって発生する物理的な効果が、少量であって、なおかつ、毒によって発生する物理的な効果が、多量である場合は、毒の効果のほうが強いので、毒にまけて、死ぬということになる。

ところが、一点突破しか考えず、量を考えない人は、逆の結論を導き出してしまうのである。

量というのは、効果の量だ。一日に同じ割合で、毒の効果もわらう効果も続く場合は、日にちがたてば、効果が高いほうが、優勢になる。全体量としてはつもってしまうので、そうなる。注1。

わらうことによって生じるプラスのパワー? が、毒によって生じるマイナスのパワーを、「物理的に」上回ってなければならないのだ。そういう『条件』がつく。こういうことを、無視するべきではない。無視すると、でたらめなことを言って、人をまどわせることになる。

ようするに、「生き返ると言えば、生き返る」と言っている人とおなじになってしまう。

これは、ある人が「○○さんは、生き返る」と言えば、○○さんが、生き返るということだ。そういう意味で、 「生き返ると言えば、生き返る」と言っている。その場合、ニセの希望をあたえることになるのである。

「生き返るまで言えばいい。気持ちを込めて言えば生き返る。気持ちを込めて言ってないから、生き返らない。おまえの言い方が悪い。だから、だめなんだ。言霊理論は正しいけど、おまえの言い方が悪いから、生き返らないんだぞ。言霊には人を生き返らせるチカラが宿っているけど、おまえの言い方が悪いから、そのチカラを引き出せないだけだ」と言って、生き返らせることができない人を、せめるのである。

もちろん本人は、せめているつもりがなく、「いいやり方について、助言しているだけだ」と思っている。

これとおなじことが、意図せず毒を摂取してしまって、意識的にわらっている人に発生するのである。

彼らは「わらい方がダメなんだ」「わらう回数がたりないんだ」と言って、「わらってもだめだった人」をせめるのである。ようするに、わらうことの効果について説明する人は、わらってもだめだった人を、せめるのである。

わらうことの効果について人に説明する人は、毒の特性と、わらうということの特性について、誤解をしている。『量』について考えていない。

かりに、わらうということにプラスの効果があるにしろ、その量を考えてないのである。

物理的な現象として、わらうということにはプラスの効果があるにしろ、そのプラスの効果の量が問題なのである。物理的なことを考えた場合、毒の効果は固定的で、わらうということの効果は流動的で固定的ではない。

さらに、気分がよくなるとか、血行がよくなるとか、しあわせホルモンが出るとかということが、本当に起こるのかどうかわからない。

これにかんしても、わらうことをすすめる人は……一点突破でかえることができるということを主張する人は……どんな場合でも、絶対にそれが発生すると考えているのである。

けど、ぼくの考えでは、条件によって発生する場合と、条件によって発生しない場合があるということになる。

どんな場合でも発生すると考えて、さらに、毒に対して絶対的な量プラスである(プラス効果がある)と考えてしまのである。


けど、血行が良くなるとか、しあわせホルモンが出るとかということが、毒によってさまたげられている場合だってあるし、血行が良くなるとかしあわせホルモンが出るということの効果が、かりにあったとしても、毒を上回っていない場合もある。

気分がよくなるということだって、本当に、作りわらいを浮かべて、気分がよくなるかどうかは、わからない。わらいをすすめる人は……「科学的に証明された」というようなことを言うけど、それは、まちがっている。誤解だ。これに関しては、専門家?のほうにも罪がある。

*     *     *


相手に、現実的ではないニセの希望をあたえ、相手がそれをやってダメだった場合、彼らは相手のやり方のせいにする。

ダメなことは、条件によって決まっているのである。条件を満たさなければ、彼らが言っているようなことにはならない。

*     *     *

注1について

毒があるものを産生して、あるものが毒である場合は、つもることになるので、そういうことを前提にして話している。まあ、毒が減少していく場合もある。しかし、その場合は、毒を分解する体のしくみについて考えなければならないのである。時間経過ともに、毒が減少する場合であって、なおかつ、わらっていた場合、わらっていた効果で毒が減少してなくなったと思うかもしれないけど、体に毒を分解するしくみが備わっていたから、毒が分解されて減少したと考えるべきなのである。毒を分解するしくみがないのに、わらっていたとしよう。その場合、わらっていれば、毒が分解されるということはないから、ない。毒を分解するしくみがなりたっていて、自然にわらうことが、そのしくみを(たしょうは)たすけるという場合は、わらうことには、たしょうの効果があるということができる。けど、その場合だって、まず、毒を分解するしくみが成り立っていなければならないし、自然にわらうということが、その毒を分解するしくみを助けるしくみをもっていなければならないのである。さらに、無理やりわらうことが、おなじしくみをもっているとは限らない。

2023年11月10日金曜日

がむしゃらに、きちがい的な意地でやりのけることができる

 みんなわかってないけど、本当にヘビメタ騒音は、すべてにたたるんだよ。限定じゃないわけ。うるさい時間限定でこまっているわけじゃないんだよ。売るということだけでこまっているんじゃないんだよ。そうじゃなくて、連鎖が連鎖を呼び、すべてが、だめになる。影響をうける。その影響がまた、連鎖を呼ぶわけ。あんなきちがい的な態度で、やられていいわけがない。もろ、やっているのに、もろ、やっていることを認めない。こんなきちがい的な手口があるか。たとえるなら、自分の目の前で、Aさんが、自分のものを泥棒をしているのに、Aさんは、泥棒をしているつもりがまったくないというような状態だ。けど、とっている。盗んでいる。こんなバカげた話はない。けど、きちがい兄貴の態度というのはそういう態度だ。だれもが、俺の部屋にいたら、きちがい兄貴は、ものすごくでかい音で鳴らしているということを認めるのに、きちがい兄貴は、まったく、そのつもりがないわけだから……。こんな自分取っ手だけ都合がいい状態で、きちがい行為を繰り返しやがって。ズルいんだよ。ズルい。だれにもわかることが、当の本人にだけ、わからない。迷惑行為をきちがい的な意地でやるやつだけ、迷惑行為だとまったく思ってない。普通は、言えばつたわることなんだぞ。こういう、露骨な行為なんだよな。これ、きちがい親父もおなじなんだよ。それ、そのものをやっているのに、本人はまったくやっているつもりがないという状態だ。こんなのない。きちがい的な意地でやっていることを、きちがい的な意地で認めないということを、常にやっている。こんなの、ない。泥棒を、めちゃくちゃな意地でやったのに、常にそんなことをしてないと思っているやつ。自分にとってだけ都合がいい認知なんだよな。相手の認知を破壊しているよ。きたなすぎる。やっていることがきたなすぎる。これ、本当に、きちがい的な意地でやるのに、きちがい的な感覚で、「やってない」と思っている状態なんだぞ。そういう状態を「無意識的に」つくっている。ほかの人の目の前で、バレバレなことをやっているのに、本人は、ばれてないつもりなのである。やってないつもりなのである。頭がおかしいから、できる。ごり押しでできる。普通にできる。まったく意識しないで……そうしているということをまったく意識しないで、がむしゃらに、きちがい的な意地でやりのけることができる。やりのけたら、まったくやったことがないことだと思ってる。きちがいだから、そういうことが可能なんだよ。こんなの本当に、感覚レイプ。認識レイプ。おかしいんだよ。きちがい兄貴のやり方がおかしい。ついでに言っておくと、きちがい親父のやり方もおかしい。これ、きちがい兄貴ときちがい親父は、おなじタイプの脳みそをもっている。頭の構造がおなじ。きちがい的な意地でやったことは、本当に、やったつもりがないことなのである。この、きちがい構造。この、きちがい構造。

こういうきちがいが珍しいから、ほかの人は、ぼくの言っていることがわからない。自分の経験をとおしてわかっているわけではない。だって、そんなの、身近にいない。自分の家族にそういう「認知構造」をもつやつがいない。いなければ、わからない。わからなければ、「ない」「そんなことはない」という感覚で、ものを言う。

*     *     *

一行目に書いたことは、ようするに、ヘビメタ騒音で「みだれ」がしょうじた場合、その「みだれ」を修復しようとする試みが次の「みだれ」をうみだすということ。「修復のこころみ」が、次のトラブルをうむのである。そして、それが、必然的なのである。さけることができないのである。どうやっても、なんらかの次のトラブル」がうまれる。どうしても、さけることができない。そして、次のトラブルが、次の次のトラブルをうむのである。これも、不可避なのである。そういう具合に、時系列的に広がっていく。修復のこころみが修復にならない。

*     *     *

一点突破について語る人が多いけど、その一点突破だって、トラブルをうみだしてしまうのである。これが、わかってないんだよな。ニコニコすればいいことがあると言っている人は、ニコニコして……主観的にはニコニコして、トラブルが発生するということをまったく考えていない。親切にすれば、いいことがあると言っている人も、親切にすることによって、トラブルが発生するということをまったく考えていない。言霊についても、引き寄せについても、思霊でも、書霊でも、おなじだ。これ、一点突破について語っている人は、それをすることによって、トラブルが生じる可能性についてまったく考えてない。かならず、いいことが起こると思っている。こういうところも、いやなんだよ。現実を説明してない。現実の現象を救えない。


ほかの人は、勘違いをする

けっきょく、長期ヘビメタ騒音の問題を解決できない。ほかの人には、なかった問題だ。だから、ほかの人は、勘違いをする。程度において勘違いをする。影響力のでかさについて勘違いをする。 

ほんとうにこまっている人をおいつめている

 一点突破をすすめる人というのは、ほんとうにこまっている人をおいつめているんだよ。

まあ、ほんとうにこまっている人にとっては、一点突破をすすめる人なんて、ストレッサーでしかない。

生まれの格差があり、条件の格差があるから、人によって、こまり方がちがうんだよ。きちがい家族によって生まれる(こちら側の)悩みというのは、正常な家族と一緒に暮らしている人には、逆立ちしても、わからないことなのだ。

なので、お気楽に、へんなことを言って、ストレスをかけてくる。

これ、「生き返ると言えば、生き返る」「生き返るまで、何度でも言えばいい」と言われているようなものなのだ。だれかある人が「○○さんは生き返る」と言えば、○○さんは、生き返るか? 言っただけで生き返るか? 生き返らない。

「生き返ると言えば、生き返る」の意味は「生き返ると言えば、死んだ人は生き返る」ということだから。「生き返る」という言霊で、死んだ人を生き返らせることができるという意味だから……。

「生き返ると言えば、人は生き返るから、生き返るまで、何度でも、生き返ると言えばいい」と熱心に言われたときの気持ちって、あんまりいいものじゃないんだよ。ちょっと想像してみてよ。そういうレベルをことを、言霊主義者は言っているんだよ。

どんな条件だって、わらえばいいことがある? 葬式の席でわらっていたら、悪いことが起こるんじゃないの? まあ、いいことが起こる確率と、悪いことが起こる確率をくらべれば、悪いこる確率のほうが高いね。

だいたい、「どんな条件だって」と言っているのだから、あとだしで「葬式の席では、わらわないほうがいい」と言い出すのは、おかしい。

 

2023年11月9日木曜日

現実世界において、長時間さらされた……

本当に殺すしかなかったんだよな。

けど、殺せなかった。結果、俺の人生がズタボロになった。俺のからだがズタボロになった。俺の精神がズタボロになった。

あんなことを毎日やられて、「楽しく感じる心」を維持できるかというと維持できない。けど、ああいうことがなかった人……一時的なことではなくて、十数年間にわたって、毎日毎日、ああいうことがなかった人……にとってみれば、関係がないことなのである。

どうしてかというと、自分にはなかったことだからだ。なので、「人の話を聴いて」想像するものにしかすぎない。人の話というのは、ぼくの話なんだけど、ぼくの話を聴いて、そういうヘビメタ騒音が鳴ってたんだな……と想像するだけなのだ。

自分は、そんなものにさらされてない。

もちろん、ヘビメタが好きな人にとっては、どうでもいいことだ。そういうちがいもある。だから、ここは、自分にとって一番苦手な音が、大音響で、長時間、鳴っていたと置き換えてくれればいい。置き換えたとしても、基本的には、「人の話を聴いて」想像するものでしかない。

だから、ぼくには会った実際の時間が、その人たちにはないのだ。実際の時間……現実の時間……。現実世界において、長時間さらされた……。これが重要なのである。そりゃ、変化をうけるでしょう。脳みそだってからだだって変化をうける。

しかも、学生というのは、学校に通うということをやっている。ヘビメタ騒音がなければ、なんともないことだけど、ヘビメタ騒音があるとなると、その「なんともないこと」がものすごくむずかしいことになる。

これを、一日も経験しなかった人が、わかるかというとわからない。

この世で一番嫌いな音が、一日のなかで長時間続いて、それが毎日続くという生活の、意味がわからない。ひどさがわからない。他人にとっては、「なかった」ことだ。「なかった話」なのである。「俺だって困難は経験した」というけれど、その人が、医者とか、会社員とかこう医務院をしているのであれば、現に、通っているのだから、現に、通うだけの体力があるということなのだ。

そして、その体力は、きちがいヘビメタ騒音にさらされなかったから……自分の一番嫌いな音に、数千日にわたって、休みなく、さらされることがなかったから、維持できているものなのだ。これは、保証する。これはただししい。

けど、俺がそういうふうに言ったって、実際に経験してない人にとっては、……人生のなかでそういうことが発生しなかった人にとっては……ひとごとなのである。「想像の話」。話を聴いて、頭の中で考えるだけの話だ。

だから、自分の体験ではない。自分の人生のなかには、そういうことは発生しなかったわけだ。なので、どこまでもどこまでも、他人事であり、どこまでもどこまでも、「想像の範囲内」のことなのだ。

想像の範囲内のことだというのは、トートロジーになるけど、現実発生したことではないということを意味している。トートロジーになるけど。ようするに、話は理解したという範囲での「理解」と、経験して時系列的にさまざまなことが発生している範囲の「理解」はぜんぜんちがうということになる。

「楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っている人のなかには、本当の苦労をした人はいない

 たとえばの話だけど、「楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っている人のなかには、本当の苦労をした人はいない。その人がどれだけ「俺だって苦労した」と言ったって、そんなの、「楽しいと言えば楽しくなる」なんて言えるぐらいの苦労なんだよ。それが、わかる。けど、「楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っている人が「俺だって苦労した」「俺だって苦労した」「俺だって苦労した」と言う。本人は、それが、本当の苦労だと思っている。けど、「楽しいと言えば楽しくなる」なんてことを信じられるということ自体が、その人の苦労が、本当の苦労ではないということを、物語っている。

おなじように「元気だ、元気だと言えば、元気になる」なんてことを、本当に信じて言っている人のなかには、本当のつかれを知っている人がいない。ほんとうのつかれを知っている人は、そんなことは言わない。どうしてかというと、本当につかれた状態で、どれだけ「元気だ、元気だ」と言っても、元気にならないことを知っているからだ。

「俺だって苦労した」と言うけど、そんな苦労は、言霊を信じることができるぐらいの「苦労」なんだよ。いみなーーい。いみーーなーーい。

2023年11月8日水曜日

ヘビメタで、きつかったなぁ

ヘビメタで、きつかったなぁ。この部屋でやられたんだよな。あのとき、逃げ場がなくてくるしかった。行くところがなかった。いるところがなかった。あの天井は、ヘビメタでやられていたときの天井とおなじだ。経年劣化はあるけど……。あーあ。時間がたったなぁ。ほんとうに毎日、やられて、毎日、くるしかった。毎分毎秒、くるしかった。宿題なんてできるわけがない。遅刻は、そりゃ、何回だってするだろう。どれだけくるしいかわかってないなぁ。眠れるわけがないだろ。あんな音に、六時間以上、さらされて、夜になって眠れるか? 一一時一一分以降なら、眠れるか。眠れない。けっきょく、朝になってしまう。つらかったなぁ。

口癖教徒が、ほかの人におしつけていることは、「我慢」だ

 「口癖が人生をつくる」というようなことを言う人がいるけど、この人も、因果関係を見誤っている。

たとえば、ブラック社長のもとで働いている名前だけ店長の口癖が、「つらい」というものだったとする。名前だけ店長の口癖がつらい」というものだから、名前だけ店長は、つらい状態になっているということを言っているのだ。

ちがう。

たとえば、入社一年目の名前だけ店長と、入社一五年目の名前だけ店長の、つかれ方がちがうのである。入社一日目には、「つらい」とは言ってなかったかもしれない。言ってなかったとしよう。

けど、きちがい的なブラック社長の指導で、長時間労働が毎日続いたので、「つらくなった」のだ。毎日のつかれがとれない状態で、次の日の労働に駆り出されるので、つらいと思うようになったのだ。

つらいと思った、名前だけ店長が「つらい」と思わずつ、つぶやく。それを見た……「口癖が人生をつくる」と考える人が……「つらい」と言うから「つらくなる」と思っただけなのだ。 「口癖が人生をつくる」と考えている人のことを、以降、口癖教徒とよぶことにする。

「口癖が人生をつくる」というのは、「言霊」の一種だ。口癖というのは、ある言葉の繰り返しに、注目したものだ。毎日、何回か言っていることは、口癖ということになる。

ところで、生まれの条件が、人によってちがう。

だから、きちがい的な親のもとに生まれた子供は、つらい思いをすることになっている。不愉快な思いをすることになっている。そして、親との生活は、継続的に続くことなので、「つらい」とつぶやくようになる。

まず、つらい生活が成り立ったあと、「つらい」という「口癖」ができあがるのだ。それを逆手にとって、「つらい」と毎日言うから、つらい生活になっていると決めつけてしまう。因果関係を逆にして、真理を言ったつもりになっているだけだ。じつは、真理じゃなくて、大まちがい。こういう人が多い。

たとえば、水俣病になった人がいるとする。その人は、あるとき継続的に汚染魚を食べたから、水俣病になった。のちに水俣病とよばれる病気の症状が発生した。体に有機水銀がはいると、「つらい」と感じるようになる。なので、つらいと言う。毎日ずっとつらいのだから、「つらい」という言葉が、口癖になる。それを、つらいという口癖が、その「つらい状態」をつくりだしていると考えるのが、「口癖が人生をつくる」と考えている人だ。

順番が逆になっている。

さらに、水俣病の人が、「つらい」と言うことをやめたとしよう。言霊教徒の影響をうけて、「そんなものかな」と思って「つらい」と言うことをやめたとしよう。そのとき、どうなるか? 水銀によってつくりだされるつらさが、なくなるか? 軽減するか? 軽減すらしない。ようするに、「つらい」と言わなくなっただけ、だ。けど、くるしさは持続するので、「つらい」と思うことがある。それは、人間のからだを使って生きているのだから、そうなる。神経を遮断すれば、つらさはなくなるかもしれないけど、問題は、残り続ける。

口癖教徒が、ほかの人におしつけていることは、「我慢」だ。原因をまちがって、口癖を原因だと思っているだけだ。口癖教徒が、ほかの人の不幸について、その原因を、まちがって理解しているだけなのだ。口癖をやめたとしても、原因は、残り続ける。ほんとうの原因に対処しないと、「つらい」と「言わなくてもすむ」生活にならない。

つらい人がほんとうに求めていることは、「つらい」と口癖のように言わなくてもすむ、生活だ。環境だ。その生活をつくっている、本当の原因は、「口癖」ではない。口癖教徒が、幼児的万能感にしたがって、勘違いをしているだけだ。

名前だけ店長が、「つらい」と口にしたとする。それは、一日に二時間しか眠れないような状態で生活しているからだ。もっと眠れるようにすれば、「つらさ」が軽減され、自然に「つらい」という言葉をつぶやかなくてもいい状態になる。

「つらい」と言うからダメなんだと言われた、名前だけ店長が、「つらい」と言うことをあきらめて、「つらい」と言わなかったとしても、一日に一日に二時間しか眠れないような生活が続くなら、やはり、つらいままなのだ。

こころのなかで「つらい」とつぶやく日々が続くことになる。

まったく、問題解決になってない。

口癖教徒のやっていることは、名前だけ店長から、つらいという言葉をうばうということだ。

つらいのに、つらいと言えなくなったら、もっとつらくなるだろう。言葉狩りをしたって、問題は解決しない。

問題は、一日に二時間しか眠れないような生活を続けていることなのである。「つらい」と口癖のように言うことではない。口癖が原因なのではなくて、睡眠不足と過労が原因なのだ。ほんとうの原因がなくならないのに、「つらい」ということだけ禁止したとしても、意味がない。

 

 

2023年11月7日火曜日

みんな、経験的にわかってない。絶対に、通勤することができないからだになる。

 ヘビメタ騒音の連続で働けなくなっただけで、人から、ものすごく悪く言われる。これ、ヘビメタ騒音と言っているから、なんか、切迫感がないのだけど、この世で一番嫌いな音がずっと鳴っているという生活は、ほんとうに、すべてのことを破壊する。「なにも気しないで」「一緒に住んでいる家族」がすべての時間を使って鳴らす。もちろん、その家族が、うちで使える時間はすべてということだ。きちがい兄貴だって、寝ている時間は鳴らさない。けど、それでいいのかというとよくないのである。どんだけ、生活が圧迫されるか、みんなわかってない。この世で一番嫌いな音が、でかい音で何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もずっと鳴っている毎日が、どういうものだか、みんな、経験的にわかってない。人間関係なんて、バンバラばんだよ。空中崩壊。相手がどれだけいい人でも、空中分解。きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、ダイヤともめたりしなかった。空中分解もなかった。

*     *     *

働いてないと、ぼくの性格の問題だと思われるのだけど、そうじゃないのだ。けど、そうじゃないということが、経験的にわかってない人にはわからない。だから、「性格の問題」だと思ってしまう。これがやっかいなんだよ。きちがい兄貴の性格の問題なのに、働いてないとなると、ぼくの性格の問題だと思われる。働けなくなっただけなのに、きちがい家族がいない人には、きちがい家族のしつこい、しつこい騒音で、働けなくなるということが、わからない。経験的にわからない。経験的にわからなければ「そんなんじゃない」ということになるんだよ。「自分だったらそんなふうにならない」と思うんだよ。きちがいと言っているけど、それは、普通の人とはかけ離れた性格をもっているということだ。普通の人は、かけ離れた性格をもっている人が、普通の人とはかけ離れた熱意で、しつこさで、普通の家では絶対に鳴らせない騒音を鳴らすのである。普通の人の家には、そういうきちがいがいないとする。そうなると、普通の人は、そういうきちがい家族が鳴らす騒音でこまると言った経験がない。普通の家族が鳴らす騒音でこまるという経験があるかもしれないけど、きちがいが側芽鳴らす騒音でこまるという経験がない。その場合、自分の経験で、物事を判断してしまう。普通の騒音から、きちがいの騒音を「推量」してしまう。そうなると、まちがった判断をすることになる。ぜんぜんちがうのだから、ぜんぜんちがう。この「俺だって騒音ぐらいあった」というくそ発言は、本当に腹がたつ。そいつは、その時点で働いていたし、その時点で数年間は働いていた。数年間働けるなら、そういう騒音なんだよ!!

こいつら、ぜんぜんちがう騒音について語りだす。ぜんぜんちがう騒音による困難について語りだす。ぜんぜんちがう困難だ。もし、ぼくと同程度の騒音を経験していたなら、絶対にそんなことはいない。そして、絶対に、数年間も続けて通勤することができない。絶対に、通勤することができないからだになる。なので、通勤しているということが、「そういう騒音ではなかった」「同程度の騒音ではなかった」「騒音を鳴らしたやつが気ちがいでなかった」ということを雄弁に物語っているのである。

*     *     *

俺は、ヘビメタ騒音にやられるまえは、生活体力において人より秀でていたし、睡眠力において、人より優れていたし、騒音耐性も、人よりあるほうだったの。騒音耐性が、ほかの人より強かったの。その強い騒音耐性を、きちがい兄貴が、きちがい兄貴のやり方で破壊した。きちがい兄貴がいない人には、そういうことが起こりえないんだよ。普通の騒音で終わるんだよ。きちがいだから、普通の人だったら絶対に鳴らす前に、あきらめるようなでかい音で鳴らして、普通の音だと思っているんだよ。普通の人だったら、鳴らす前に、「こんなでかい音で鳴らしたらヤバイよな」「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だよな」と思って、鳴らさないんだよ。 「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だよな」と思って鳴らせない。それが、きちがいだから、自分にとって都合よく、きちがいになる。普通の人だったら鳴らせない音で鳴らしても、「普通の音で鳴らしている」と感覚器をだまして、思い込むことができる。そして、親父のところでも書いたけど、一度スイッチが入ると、ずっとやり続けて、ゆずらないのである。で、きちがい兄貴が病的に几帳面で、几帳面にヘビメタを鳴らす。細かく細かく、どんな細かい時間も使って鳴らすようなやり方で、ずっとずっと鳴らすのである。鳴らすと言っても、鳴らし方が普通の人とはちがうのである。普通の人は、普通になっていればよいと思うのだけど、きちがい兄貴は、こだわってこだわってこだわって、鳴らすのである。こだわりがすごいんだよね。で、自分でやりはじめたことにかんしては、本当に長く、続くのである。一年、二年で、あきてくれればよかったのに。


「不愉快そうな顔をしていると、もっと不愉快なことが起こる」と脅す

 たとえば、親がきちがいなら、とりつかれたようにきちがい行為を繰り返すので、いろいろなトラブルが発生する。

そもそも、きちがい的な理由で、頻繁に怒り狂う親は、きちがい的な理由で頻繁に怒り狂うので、怒り狂われたほうは、不愉快な思いをすることになる。

その場合、こどものほうが「ニコニコ」したって、「ニコニコ」わらっていたということで、怒り狂う。ニコニコ教の人は、環境を無視してしまう。どういう人間と一緒に住んでいるかという条件を無視してしまう。

そして、「ニコニコ」すればいいことがあると言う。

これは、妄想的な決めつけだ。条件にちがいがあるのである。

けど、条件を無視してしまう。親がきちがい的な理由で、怒り狂えば……わけのわからない理由で怒り狂われたほう……攻撃の対象になったほうは……いやな思いをする。実際に、不愉快な思いをすれば、不愉快な思いが顔に出ることがある。

そうすると、ニコニコ教徒が「不愉快そうな顔をしていると、もっと不愉快なことが起こる」と脅すのだ。実際に、きちがい的な親といっしょにすごしていれば、『もっと不愉快なこと』が起こるようになる。

けど、じゃあ、「不愉快そうな顔」をしていたから『もっと不愉快なこと』が起こるのかというと、そうではないのだ。

こういうところで、条件が悪い人のことを傷つけているということには、ニコニコ教徒の人は気がつかない。そりゃ、言霊主義者とおなじで、言われたって気がつかないのだ。

条件が悪い人は、条件が悪いので、不愉快なことが頻繁に、継続的に起こるようになっているのだ。

ところが、そういう条件を無視して、ニコニコしてないから、不愉快なことが頻繁に、継続的に起こると、ニコニコ教徒は決めつけてしまう。

きちがい的な親の性格が、かわらなかったとしよう。その場合、きちがい的な親は、きちがい的な理由で、こどもを攻撃する。攻撃された子供は、不愉快な思いをして、不愉快そうな顔になる。

ニコニコ教徒の人は、一回目、攻撃された子供が不愉快な顔をしたので、二回目に不愉快な思いをすることになると、予言して、その通りになったと思うのだろう。

けど、そうではないのだ。

不愉快な顔をしたということが理由になっているけど、きちがい的な親が、きちがい的な理由で子供を攻撃するのは、きちがい的な親の『頭の構造』に問題があるからそうなっているだけなのだ。

子供が、不愉快な顔をしたから、子供が不愉快な顔つきになるのようなできこどが続いたということではないのだ。原因について考え違いをしている。

「不愉快な顔をしているから、不愉快なことが起こる」というような発言も、じつは、攻撃なのである。そして、ニコニコ教祖は、「あたった」と思うだろう。

不愉快な顔をしている子供が、そのあとも、攻撃されて、不愉快な顔をすれば、『もっと不愉快なことが起こる』という自分の予言があたったと思うだろう。しかし、不愉快な顔をしているから、もっと不愉快なことが起こったのではない。きちがい的な親と一緒に暮らしているので、不愉快なことが起こったのだ。原因について考え違いをしている。

言っておくけど、条件を無視して、「不愉快な顔をしていると、もっと不愉快なことが起こる」というのは、攻撃の一種だ。これは、攻撃だ。

さらに、「そら、みろ、あたった」と言うことも、攻撃の一種だ。

きちがい的な親は、きちがい的な頭の構造にしたがって、なんでも怒り狂うということになっているので、きちがい的な親と一緒に暮らしている子供は、不愉快な思いをしがちだ。時系列的ことを考えれば、時間の経過とともに、不愉快な経験、不愉快だと感じる出来事が増えていくということになる。

一回目、不愉快そうな顔をしている子供を見た、ニコニコ教祖が「不愉快な顔をしているともっと不愉快なことが起こる」と予言したとしよう。実際に、この予言は、あたる。

けど、「不愉快な顔をしていると」という部分がまちがっている。不愉快な顔をしていなくても、作り笑いを浮かべてニコニコしていたとしても、不愉快な出来事が時系列的に、増えていくのである。

「不愉快な顔をしていると」の部分がまちがっているのである。「もっと不愉快なことが起こる」とか「次も不愉快なことが起こる」とか「不愉快な出来事が時系列的に増えていく」ということは、正しいことなのである。

けど、それは、「不愉快な顔をしているともっと不愉快なことが起こる」という予言があたったということを意味していないのである。文の前半部分がまちがっているので、文全体としてはまちがっているというとになる。

前半部分というのは、これまた、条件にかかわる記述なのだ。どういう人間と一緒に生きているかという重要な部分を無視するニコニコ教祖が、顔の表情だけは、無視しないのである。顔の表情ですべてが決まると思っている。ほかの条件をガン無視している。そして、一点突破だ。妄想的なニコニコ教祖のなかでは、それで、突破できることなのだけど、実際には、条件がまったくかわらないので、不幸な出来事が起こり続けるということになる。


2023年11月6日月曜日

本人は、「うそをついているつもりがない」状態なんだよね。

 シンナー作業用の防毒?マスクとあるものを組み合わせると、いちおう、顔を刺されずに、下で作業できそうなんだけど、やりたくない。いやだ。もう、いやだ。もう、いやだ。

きちがい親父がきちがい親父でなければ、こんなことになってないんだけどなぁ。普通の人だったら絶対に、やらないことを、きちがい的な意地でやって、どれだけ、「やめてくれ」と(こっちが)言っても、やめてくれないんだよな。

何か月もそういう状態になる。何年間もそういう状態になる。普通の人だったら、なにもかけないで、酒糟のついた魚を一晩中、皿の上に置いておくなんてことは考えないのだけど、きちがい親父は考えて実行してしまう。普通の人は……二三(にじゅうさん)時間、外に出しておいた……「ほこりがかぶっている魚の切り身なんて」食べない。食べてくれと言われたって、食べない。ほこりが気になるから、食べない。

ずっと出しておいた魚の切り身なんて、食べるわけがないだろ。

ところが、スイッチがはいってしまうと、どれだけ注意をしても、きちがい的な意地でやってしまう。この、きちがい的な意地でやってしまうというのは、きちがい兄貴もおなじだ。きちがい兄貴もスイッチが入ると、本当に自動的に、毎日、絶対の意地で、すべての時間を使ってやってしまうのである。

絶対に、ゆずらない。この絶対にゆずらないという性格もおなじなんだよな。きちがい兄貴ときちがい親父でおなじ。

ともかく、スイッチがはいったら、絶対の意地でやってゆずらないのである。きちがい親父と、きちがい兄貴はそう。こまるんだよ。

とりあえず、親父だけの話にもどす。ネズミ対策工事をやろう」と言っても「俺がつかまえるからいい」と言って、ゆずらない。あのとき、この家は親父の所有物なんだよ。おやじがその気にならかったらできない。なので、何年間も毎日ネズミの侵入をうけた。侵入された。

最初は、一カ所か、二カ所ぐらい、穴があいているだけかと思って、俺がパティで対処したのだけど、一カ所、二か所じゃなかった。

けど、親父が、魚の切り身を、一晩中、出しっぱなしにするまで、ネズミなんて一匹も入ってこなかった。

まあ、そのまえに、これまた、親父が思いついたことなんだけど、もともと、台所に置いてあった生ごみの袋の中にあるごみを、いちいち、親父が物置のゴミの袋に入れると言い出したのである。で、俺は、そういうことは、やってほしくなかった。言っておくけど、台所に、普通になまゴミのゴミ袋が置いてあって、そのゴミ袋に、生ごみの袋を捨てるまでずっと、なまゴミが置いてあった。けど、けど、けど、ネズミなんて、一匹も、入ってこなかったんだよ。五〇年以上、ネズミなんて一匹もこなかったんだよ。

けど、きちがい親父が、なぜか、台所のゴミ袋にゴミを入れておくのではなくて、いちいち、物置に置いてある生ごみの袋に入れるということを思いついて実行した。これ、やってほしくないことは、きちがい的な意地でやってしまうのである。やってほしいことは、梃子でも動かないのである。

こういう性格が、ほかの家族にあたえる影響というのはでかい。

みんな、きちがいがきちがい的な思いつきにこだわって、どれだけやめろとこっちが言ってもやってしまうときの勢いを知らない。きちがい的な意地でやってしまう。いのちが掛かっているんだよね。おおげさではなくて、そういう状態なんだよ。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音もそうだった。きちがい兄貴の頭と、親父の頭がおなじなんだよ。そういうところで同じなの。こういう家族が二人いる状態というのは、普通の家で育った人にはわからない。だから、そういう条件を軽く見やがるのである。

「すべては自己責任」なんて、どれだけ、侮辱的な言葉か……普通の人にはわからない。「すべては自己責任」という言葉を放つやつが、どれだけ、条件の悪い人を侮辱しているか、「すべては自己責任」という言葉を放つやつはまったく理解してない。

「俺だって苦労した」と言うけど、普通の親兄弟と一緒に住んでいたんじゃないか。

「そんなの、ぜんぜん苦労じゃないよ」と言いたくなる。

まあ、それはともかくとして、親父が、物置に置いてある生ごみの袋に、毎日ゴミを移動した結果、物置に、ネズミが集まってくるようになってしまったのである。で、物置というのが親父の作った物置で、つくった当時は、引き戸?をしめることができたのだけど、引き戸がこわれて、引き戸をしめることができなくなってしまったのである。だから、ネズミが、まず、物置に集まっていたのである。

けど、そのときは、ネズミにとって、魅力的なものが物置に置いてあった。けど、親父が、酒糟のついた魚の切り身を、テーブルの上にずっと出しっぱなしにしたので、ネズミにとって魅力的なものが、うちのなかにある状態になってしまったのである。

で、この、酒糟のついた魚の切り身が、ものすごい吸引力をもっていて、町中?のネズミ?が、うちをめがけて、突進してきたのである。

これ、ほんとうにすごいんだよ。酒糟のついた魚の切り身が、すごい。ものすごい、チカラをもっている。ちょっとでも、隙間がある家に住んでいる人は、絶対に酒糟のついた魚の切り身をほぼ一日中、出していたらだめだ。

一晩中、出していたらだめだ。

ものすごいにおいで、ネズミを吸引する。

この酒糟のついた魚の切り身のにおいだって、猛烈にくさくて、部屋中がくさくなっているから、「くさいからやめろ」と言ったのに、「くさくない!くさくない!くさくない!くさくない!」と真っ赤な顔をして絶叫しやがるんだよ。

もう、すべてが、くるっている。感覚器を否定して、反対語を叫ぶ。「くさい」と言われたら「くさくない!くさくない!」だよ。

この、感覚器の否定も、きちがい兄貴と、きちがい親父でおなじなんだよ。頭の構造がおなじなの。

感覚器が正常なら絶対に、くさいとわかるのに、くさいということを認めない。感覚器が正常なら絶対に、でかい音だということがわかるのに、でかい音だということを認めない。自分にとって不都合なことは、感覚器のレベルでだまして、認めないのである。

だから、本人は、「うそをついているつもりがない」状態なんだよね。

どれだけ、こまるか。

どれだけ、こまるか。


2023年11月4日土曜日

言えば、言っただけ。 作り笑いを浮かべれば、作り笑いを浮かべただけだ。

 「ニコニコしていればいいことがある」と言った場合の「ニコニコ」というのは、プラスのイメージを含んだ言葉なのである。だから、そもそもが、マイナスの結果をもたらすことを、連想しにくい言葉だ。

「ニコニコしている」状態が、すでに、心地よい状態なのだ。飼いか深いかで言えば、飼いだ。ところで、つくり笑顔のニコニコと自然なニコニコを、ニコニコ教祖は区別してない。作り笑顔のニコニコも自然なニコニコも、同じ効果をもたらすと信じている。

しかし、「つくり笑顔のニコニコ」と「自然なニコニコ」は、ちがう効果をもたらすのである。

これ、まず、「笑い顔」と中立的に言うべきなのに、ニコニコという、プラスイメージをともなう言葉を使っているというところに、トリックがある。

さらに、ある人が、作り笑いをしているとき、ある人以外の他者は、ある人が作り笑いを浮かべているだけでほんとうに笑っているわけではないという判断をする確率がゼロだと思っている。

作り笑いを浮かべているときも、自然に笑い顔になっているときも、ある人以外の他者は、ある人が自然に笑い顔になっていると判断すると、ニコニコ教祖は、決めつけている。

*     *     *

いいことがあるというのは、単発のいいことが一回だけ起こるということを言っているのか、いいことがあるというのは、複数回のいいことが起こる毎日が続くということを言っているのか、よくわからないところがある。

作り笑いを浮かべていることで、一回でも、いいことがあったなら、それは、めぐまれた人生だと言えると思う。作り笑いを浮かべている場合、複数回の悪いことが起こる。作り笑いを浮かべている場合……つまり意識的ににこにこしている場合、悪いことが起こる確率のほうが高いと思う。

*     *     *

名前だけ店長が、一日に二時間しか眠れない状態で、一五年間暮らしていたとしよう。その場合、名前だけ店長の顔は、くもりがちになり、ニコニコしていない状態になる。

それを、妄想的な人は、「ニコニコしてないから、悪いことが起こっている」と考えてしまうのである。ニコニコすれば、いいことが起こると(自分の経験から、相手の状態を無視して)考えてしまう。

もし、かりに、ブラック社長が、ニコニコ教祖の影響をうけて、名前だけ店長に「暗い顔をしているなぁ。ニコニコすればいいことがある」「いつもニコニコしてなさい」と言ったとする。

名前だけ店長は、つらい思いをしているのに、さらに、一日中、作り笑いを浮かべる……意識的にニコニコするということをしなければならなくなる。これが、いじめのような効果を発揮するのだ。つらい思いをしているのに、ずっと、作り笑いを浮かべていなければならない。こんなの、もっとつらい思いをするに決まっているだろ。もっとつかれるに決まっているだろ。

もちろん、ニコニコ教祖は、「ニコニコしていればいいことがある」としか考えてないので、「いつもニコニコしてなさい」と言われて、くるしむ人がいるということは、まったく考えない。

*     *     *

営業スマイルということを考えると、名前だけ店長は、ずっと、営業スマイルをしていたと思う。

まあ、じゃあ、名前だけ店長は、ずっと、営業スマイルをしていたということにしよう。で、いいことがあったかどうか。一五年間のあいだ、ずっと、いいことがない。一五年間のあいだずっとくるしいことばかりだった。

「毎日がくるしくてくるしくて、しかたがない」こういう人生だ。こういう一五年間だ。くるしそうな顔をしているから、くるしいことが起こる……。ニコニコしていたら、楽しいことが起こる……。こういう呪文。こういう呪いの言葉。

そんなもの、名前だけ店長がどれだけニコニコしてたって、いいことなんて怒るわけがないだろ。

じゃあ、たとえば、客に対してだけではなくて、従業員に対しても、ニコニコしていたとする。従業員が失敗したとき、ニコニコしながら注意しなければならなくなる。ニコニコしながら、注意するのが、むずかしいので、従業員の穴埋めを、店長がやったとする。こんなことがずっと続いて、帰る時間がおそくなり。ずっと、睡眠時間が短い生活をしている。

問題なのは、じゅうぶんに眠れないことだ。あるいは、過労だ。まあ、名前だけ店長が、ニコニコしてないのは、じゅうぶんに眠れないからだとする。その場合、名前だけ店長に必要なのは、じゅうぶんな睡眠時間だ。

ところが、睡眠時間という条件を考えないで、「ニコニコすればいいことがある」というようなことを言う。こういうことを言う人たちは、相手の条件をガン無視する。

そして、ひとつのことだけに注目させる。そのひとつのことをやれば、「全体的にしあわせになる」と言うのだ。しかし、それはない。

どうしてかというと、その「ひとつのこと」で、全体的な条件がかわらないからだ。

ニコニコすれば、睡眠時間を長くできるのかという問題がある。名前だけ店長が、睡眠時間を、じゅうぶんにとれるように、きちがいブラック社長に相談したとする。

そうすると、きちがいブラック社長が、「できると言えばできる」「つらいと言うからつらくなる」「楽しいと言えば楽しくなる」というような言霊理論で、切り返したとしよう。

言霊という「一点突破」をすすめてくるのだ。

言霊も、ニコニコもおなじ。

「それをやれば、いいことが起こる」「それをやれば、つらい状態ではなくなる」ということを言うけど、「それ」にはまるで、全体的な条件をかえる力がないのである。

まぼろし。詐欺。ペテン。

うその説明体系なのである。

妄想が前提にあるくそ理論なのである。

言えば、言っただけ。

作り笑いを浮かべれば、作り笑いを浮かべただけだ。

そんなことでは、全体的な条件がかわらない。

睡眠時間という、ひとつの条件ですら、そんなことをしても、かわらない。

ところが、なにかの超自然的な力によって、作り笑いを浮かべれば、全体的な条件がかわるとニコニコ教祖は言うのだ。

「しあわせだ」と言えば、全体的な条件がかわると、言霊主義者は言うのだ。

ところが、実際には、そんなことでは、「くるしみをうみだしている全体的な条件」が、かわらない。それどころか、くるしみを生み出す、タスクが増えてしまう。

「全体的な」と書いたけど、これは、複数の現実的な条件が成り立っていることをイメージして言っているのである。

「くるしい状態」というのは、複数の現実的な条件によって成り立っている。いろいろな条件で、がんじがらめになっているのが現実だ。

たとえば、きちがいブラック社長という『条件』がある。社長がそういう社長だという条件だ。

そのほかにも、どういう家に住んでいるかということも、条件のひとつになる。なになに線の電車を使っているということも、条件のひとつになる。言及はしないけど、いろいろな条件が成り立っているのである。ある日、通勤しているとき、なになに線で人身事故が起こったとする。

それも、突発的な条件のひとつなのである。

*     *     *

「つらいと言うからつらくなる」というのは「暗い顔をしているから、暗いことが起こる」というようなこととおなじだ。全体的な条件が、つらい状態をつくりだしているのである。全体的な条件が暗い顔をつくりだしているのである。それは、出来事に対応した当然の反応なのである。ところが、因果関係を逆転させて考えることが好きな人たちが、相手の条件を無視して、妄想的なことを言うのである。


2023年11月2日木曜日

言霊理論の矛盾やニコニコ教の矛盾について

 ぼくは、いま、言霊理論の矛盾やニコニコ教の矛盾について語っている。こんなの、普通の人にとってはどうでもいいことだ。いや、むしろ、普通の人は言霊やニコニコの効果を信じたいと思っている。だから、ぼくの言っていることに価値を見出せないと思う。けど、ぼくは、言っておかなければならない。これ、言っておかなければならないのだ。言霊理論やニコニコ教は、生まれの格差・下の人をくるしめている。生まれの格差・下の人にとってみれば、これは、有害な情報にほかならない。問題点を指摘しておく人がいなければ、問題がないものだと認識されてしまう。それは、やばい。これ、じつは、ぎりぎりの状態で暮らしている人を、追いつめる理論なのだ。ぎりぎりの生活をしている人に、さらに、負担を付け加える理論なのだ。みんな、「いい話」「いいこと」「いい概念」「いい方法」だと思っているんだろ。ちがうんだよ。

「認識のちがい」……でかいよ

 これ、ヘビメタ騒音、どうするんだよ。ほんとうに、終わらないよ。ずっと、ヘビメタ騒音だった。

ほかの人から見れば、俺が、こだわっているように思えるんだろうな。けど、それは、ちがうんだよ。ほかの人が、経験してないから、広大な影響がわからないだけだ。ほかの人たちは、実際に経験してないから、どれだけの影響が出るかわかってない。これ、ちょっと無視しすれば、それで、すむもの、ではないのである。けど、わからないのだから、わからないのだろう。数千日、きちがい的な住人が、横の部屋で、自分が一番苦手な音を、まったく気にせず、がんがん鳴らしていたら、そりゃ、すべての生活がくずれるんだよ。鳴っているときだけつらい」と思っている人は、「鳴り終わったら関係がない」と思うけど、まったくちがう。そういうこと自体がわかってない。そりゃ、経験がないなら、そうなのだろう。これは、一日のなかでのヘビメタ騒音の話だけど、人生のなかでのヘビメタ騒音の話もある。きちがいだから、スイッチがはいったらずっとやり続ける。よその家では一分間だって鳴らせない音を「うちでは」「きがねなく」鳴らし続ける。どれだけなにを言われたって、そのとき、腹をたてるだけで、現実を無視して、きちがい的な意地で鳴らし続ける。きちがい的な意地で鳴らし続けたら、きちがい的な意地で鳴らし続けたという「きもち」が、残っていればいいのだけど、そんな気持ちはまったく残ってない。この、「残ってなさ」がきちがいなんだよ。ほか人は、「自分の家族をきちがいとか言って、おまえがきちがい」というようなことを言ったりするのだけど、きちがい兄貴は、普通じゃないんだよ。おまえの家族が普通だったからって、ぼくの家族が普通だということにはならないんだよ。おまえは、きちがい家族の影響をまのがれている。だから、『きちがい』というような形容が気にくわないのだろう。「自分の家族」にたすいるきちがいというような形容が気にくわないのだろう。けど、ちがうんだよ。これ、一分間だって、くるしくてくるしくて、たまらないのに、毎日、やられていいわけがない。きちがい兄貴のきちがい的なやり方や、きちがい的な感覚が、まさに、きちがいなんだ。それ以外の形容がない状態なんだよ。それ以外の形容がない状態で、現実を無視して、きちがい兄貴がやりきった。現実を無視してというのは、これまた、ほかの人にとっては、「どうでもいいこと」なんだけど、やられた俺にとっては、どうでもいいことじゃないんだよ。どれだけの気持ちが、積もると思っているんだ? いや、まったく、どういう気持が、どれだけ積もるかなんて、わからないのだろう。わからないからそう言っているのだろう。けど、ちがうんだよ。まあ、どれだけ言ってもわからないとは思うけど。でっ、ぼくにとって、他者というのは、そういう他者なんだよ。これも、きちがい兄貴が、現実世界で、実際に、がんがん鳴らし続けることでつくってしまった、ぼくと他者の関係だ。 きちがい兄貴が、現実世界で、実際に、がんがん鳴らし続けることでつくってしまった、ぼくと他者の「認識のちがい」だ。「認識のちがい」……でかいよ。

ともかく、他人に言っておきたいのは……どうせわからないとは思うけど、言っておきたいのは、ヘビメタ騒音というのは、ぼくにとって、いま現在の問題なんだよ。ここが、まったくわかってないんだよな。今現在、ヘビメタ騒音でくるしいんだよ。ヘビメタ騒音は鳴り終わっているけど、いま現在、ヘビメタ騒音でくるしいんだよ。ヘビメタ騒音のくるしさは、過去のものじゃないんだよ。やられてない人は、最初から経験がないので、「過去の出来事」なら、影響も「過去」にとどまるはずで、「現在」には影響をあたえないと思うんだよ。けど、ちがうのぉーーーーーー。まったくちがうのぉーーーー。 

これ、鳴っているときから問題だったんだよな。一日のなかで、学校にいるときは、ヘビメタ騒音問題は、過去の問題だから。一日のなかでも、理解されない。昨日鳴っていたヘビメタ騒音は、過去の騒音なんだよ。過去の騒音は現在に影響をあたえないという考え方だと、「昨日のヘビメタ騒音なんて関係がない」ということになってしまう。けど、鳴っている時間のからだの影響と、鳴り終わったあとの睡眠時間としてあてがわれている時間の、えいょきうがあるんだよ。そりゃ、寝不足なら、次の日の日中に影響をあたえる。日中の身体に影響をあたえる。寝不足については、次の日に影響をあたえるというのはわかるけど、前の日にヘビメタ騒音を浴びせられた時間の影響が、次の日の日中に影響をあたえることはないと思うかもしれないけど、寝不足とおなじぐらいには影響をあたえている。これもわからないだろうな。

2023年11月1日水曜日

ニコニコする場合は、先行して、楽しいと感じることや、おもしろいと感じることが起こっている

条件がいい人と、条件が悪い人では、条件がちがう。

ぜんぜんちがう。

たとえば、まわりにいる人も、条件のひとつだ。学校に行っている場合は、学校の人たちが、条件のひとつになる。会社に行っている場合は、会社にいる人たちが条件のひとつになる。

どういう人とつきあっているのか、ということは、重要なことだ。

ところが、ニコニコ教祖は、「ニコニコすれば、いいことがある」と言って、条件のちがいを無視する。どんな条件だって、だれだって、「ニコニコすれば、いいことがある」と言って、条件のちがいを認めない。

家族にしたってそうだ。どういう家に生まれたかということは、学校の人たちや、職場の人たちよりも、その人の行動に大きな影響をあたえる。そして、作り笑いを浮かべたときに、家族がどういう反応をするということは、家族によってぜんぜんちがう。

それなのに、それなのに、「作り笑いを浮かべれば、いいことがある」と言ってしまう。作り笑いと書いたけど、意図的な笑顔をつくるということでもいい。あるいは、意図的にニコニコするということでもいいい。

とりあえず、表現を統一して、意図的にニコニコすると言っておこう。楽しくないのに、おもしろくないのに、意図的にニコニコした場合と、本当に楽しくて、本当におもしろくて、ニコニコした場合の区別を、してないのだ。

ニコニコ教祖もニコニコ信者も、これらの区別をしてないのだ。

区別をせず、おなじものだと思っている。

なので、おなじ効果があると思っているのだ。

ところが、ちがう。

ほんとうに楽しくて、ほんとうにおもしろくて、ニコニコする場合は、先行して、楽しいと感じることや、おもしろいと感じることが起こっているのである。過去の出来事と対応しているのである。実際に発生した出来事に関係しているのである。

『時系列的な感情の流れ』があるのである。

『時系列的な出来事の連続』があるのである。

なんとなく、ニコニコしているときも、その状態が、心地いいと思っている時間の流れがある。日差しが気持ちいいとか、風が気持ちいいというような時系列的な勘定の流れがあるのである。あるいは、楽しかったことを想起して、ニコニコしている場合も、以前、楽しかったことが実際にあったということと、その想起が影響をあたえているのである。想起には、じつは、時間の流れがあり、瞬間ではない。なので、本人にとって明確な理由がないときも、自然にニコニコしているときは、心地いいとか、楽しいとか、おもしろいということを実際に感じているのである。時間的な流れがあるのである。

理由となる感情の流れがないのに、ニコニコした表情を自分で意図的につくるという「時間の流れ」とは、決定的にちがった時間の流れがあるのである。

特に本人は、理由について明確な考えをもってないけど、自然にニコニコしている場合や、時系列的な出来事の連続によって、自然にニコニコしている場合は、無理やりニコニコしている場合とはちがうのである。区別するべきなのである。

それから、もうひとつ言っておくと、つらい人が、無理やりニコニコするというのは、じつは、くるしいことだ。くるしい作業をひとつ増やしたことになる。そして、このくるしい作業の結果、悪いことが起こる可能性がある。悪いことが起こる確率は、高い。条件が悪い人が、無理やりニコニにすることよって、その人がトラブルに巻き込まれることがある。その人と別の日との間にトラブルが発生することがある。ニコニコ教祖は、そういうことについてまったく考えてないので、そういうことが発生する可能性はなく、そういうことが発生する確率はゼロだと思っているのだろう。けど、かなりの高確率で、トラブルが発生して、不愉快な思いをすることになる。

けど、ニコニコ教祖は、「ニコニコしていたらトラブルが発生た」と言われても、そんなことは、認めないのである。  

*     *     *

不愉快だと思っているときに、無理やり笑うというのは、自分の感情を自分で認めない努力をしているということになる。不愉快だと感じているときにニコニコする……。こんなの自分で自分の感情を破壊するようなことだ。それも、「ニコニコしていれば、いいことがある」と思って、意図的に、ニコニコする。こういうときの感情と、本当にニコニコしているときの感情がおなじわけがない。ニセモノのニコニコは、ニセモノのいいことをもたらす可能性がある。それどころか、ニセモノのニコニコは、トラブルを発生させる可能性がある。意識してニコニコすれば、本当にニコニコしているときとおなじようなことが起こる……。こんなの、妄想でしょ。本当にニコニコしているときは、先行して、いいことが起こっている。悪いことが起こっているのに、ニコニコするというのは、本来の自分の感情を自分でせき止めて、改変している。あるいは、改変しようとしている。こんなことが、人間にとっていいわけがない。無理やりニコニコしているとき、自分の『本当の感情』を、傷つけている。自分の『自然な感情回路』を破壊している……。そういうことだ。どうして、これに気がつかないのか。

「そういう場合は、ニコニコする必要はありません」

ニコニコしていればいいことがある。どんなにつらくても、ニコニコしていればいいことがある。どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがある。けど、葬式でニコニコしても、いいことはありません。ティー・ピー・オーを考えましょう。……えっ? どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがあるんじゃないの。友人が死んでつらいので、つらくても、ニコニコしていればいいことがあると思って、ニコニコしたら、いいことがあるんじゃないの。ほかの人が友人の葬式にきてくれたということに感謝して、ニコニコしていれば、いいことがあるんじゃないの。どうして、急に、ティー・ピー・オーを考えましょうなんてことになるのか?

ティー・ピー・オーというのは、Time(時)、Place(場所)、Occasion(場合)の略で、けっきょく、「場面にあわせた行動をしましょう」ということになる。どんな場合でも、どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがあるという理論は、場合分けを否定している。条件の影響をうけないという前提がある。なんで、場合分けを考えてない人が、突然、葬式ということになると、「そういう場合は、ニコニコする必要はありません」ということを言い出すのか? どんな場合でも、どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがあるのでしょ。「ニコニコしていれば、いいことがある」という文と、「どんな場合でも、どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがある」という文は、意味的に、等価なんだよ。まったく、わかってないなぁ。 


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。