2021年12月4日土曜日

奇妙なうわさについて考えてみた

俺がこの世に転生する前の世界で、あるときから、いろいろな病気がはやりだしたのだ。それは、あることをしたあとに、そういう現象が発生した。これは、異世界の話なのだけど、この世界でもたいへんにていることが起こっているような……気がするので、ちょっと、シェアしておこう。あくまでも異世界世界の話だ。

ワクチンを打つとはげるといううわさがある。このうわさについて考えてみよう。もし、はげるとしたらどうしてはげるのか。手短に言うと、体内に毒が入った場合、人間の体は、汗や小便などを使って外に出そうとする。しかし、それでは十分でない場合、髪の毛に毒を入れて、毒を入れた髪の毛を抜くのだ。そうやって、自分の体内に入った毒を出そうしている。(だから、対処療法をしてもむだだ。必要なのは、毒をからだから出すことだ。)

ワクチンを打つと帯状疱疹になるといううわさがある。このうわさについて考えてみよう。これは、ヘルペスが関係している。じつは、m-RNAには、ヘルペスをつくる部分がある。スートコドンでたんぱく質を作り出し、エンドコドンでたんぱく質の生成をやめる。異世界世界ではやっていた、m-RNAには、じつは、とげとげ部分を生成するほかに、ヘルペス、HIV、プリオンを生成する部分がある。あと、もうひとつ、エボラなのかポリオなのか忘れちゃったけど、とげとげ以外に4っのやばいものを生成している。そういう塩基配列パターンがある。たぶんだけど、帯状疱疹はヘルペス関係。

ここで、ちょっとずれるけど、たとえば、膀胱炎というものについて考えてみよう。膀胱炎というのは、膀胱のなかで細菌が発生してしまった状態だ。この細菌がふえると、膀胱炎になってしまうのだ。で、ある毒を飲んでしまうと、免疫システムが壊れる。免疫システムが壊れると、膀胱内の細菌がふえてしまうのだ。だから、m-RNAと、膀胱炎はむすびつきにくいのだけど、m-RNAが膀胱炎の原因になることが、ありえる。

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若林純一市議会員を悪く言う人がおおいのか。これが日本のレベルか。

しかも、ぽこぼこちんを受けたあと膀胱炎が悪化した人まで、アンチ若林純一市議会員なのか? だれが、だれを守ろうとしているのか、まったくわかってないな。若林純一市議会員が、膀胱炎が悪化した人を守ろうとしているんだよ。若林純一市議会員があれのあとに毛が抜けだした人や帯状疱疹になった人を守ろうとしているんだよ。いいかげん、気がつけ。マスクとワクチンは密接に結びついている。マスクとワクチンから抜け出さないと、ほんとうに、〇ぬよ。完全な奴隷社会になる。完全な監視社会になる。どうして、これがわからないのか。

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ベル麻痺、片側麻痺、下半身麻痺……。あのね、たとえばだけど、神経を構成している細胞がとげとげを産生して、神経を構成している細胞が細胞としては死んでしまったらどうなる? 本来の正常な細胞としては働けなくなってしまう。そういうことだ。m-RNAは脳内にも侵入する。そういうことだ。

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それから、バカちんは重症化を防ぐということになっているけど、集中治療室で横になっている人は、みんな、バカちん完全接種者だよ。これは、外国の話だけどな。じゃなかった、異世界の話だけどな。

これ、洗脳されている人は、正反対の解釈をしているんだよな

 寿命というものについて考えている。

俺にしたって、そのうち、死ぬわけだからな……。今回のワクチンに入っているものは、相当にやばいものばかりだから、ワクチンを接種してしまった人は、なるべく早く解毒したほうがいい。

ほんとうに、あんなものをからだに入れて、のんきな人たちだなぁ。今回、ほんとうに、からだに入れた人たちだけではなくて、からだに入れた人たちのまわりにいる人たちも、被害を受ける……ことになっている。これ、ほんとうに、エクソソームとして、やばいものをはきだしている。ようするに、ワクチンを受けた人の横にいると、ワクチンを受けたような状態になってしまう。けど、さすがに、注射で打ち込まれたのとは、ちがう。けど、ほんとうに、シェディングはある。ワクチンを受けた人がはきだしている、やばい物質を、ワクチン受けてない人が吸い込んでしまう。(これは、デマじゃない。ファイザーが報告したことだ)。

これ、洗脳されている人は、正反対の解釈をしているんだよな。ワクチンを受けた人が増えたから、集団免疫を獲得して、ワクチンをうけてない人を守っていると思っているんだよな……。どこまで……。ワクチンを受けた人たちが、ワクチンをうけない人を守っているなんてことはない。ワクチンを受けた人たちが、やばいものをはきだして、ワクチンをうけてない人を攻撃している。そして、ワクチンを受けた人たちが、超管理社会(黒エリート以外は奴隷社会)に賛成して、一票投じている。知っていることがちがうと、正反対の意見の持つことになるんだよな。シナリオライターはそういうことを最初からおりこんでいる。悪いけど、ワクチンを受けた人がワクチンをうけなかった人を守っている……なんて言っている人は、シナリオライターの「てごま」として動いているよ。おどらされているよ。

++++++++引用開始 

エクソソーム(Exosome、エキソソームとも呼ばれる)は細胞から分泌される直径50-150 nm(ナノメートル:10億分の1メートル)の顆粒状の物質です。 その表面は細胞膜由来の脂質、タンパク質を含み、内部には核酸(マイクロRNA、メッセンジャーRNA、DNAなど)やタンパク質など細胞内の物質を含んでいます。

引用終了 


世間の人たち……

 昨日から、ヘビメタ騒音のことで、なやんでいる。こまっている。もろ、復活してくる。あのきちがい兄貴が、あの顔で、鳴らしまくった。絶対に、言うことを聞いてくれなかった。一分も静かにしてくれなかった。……これ、おおきいんだよ。他人にとってはどうでもいいことだけど……。けど、当時の他人にとっては、どうでもいいことではなかった。どうでもいいことなんだけど、俺がヘビメタ騒音で「弱る」と文句を言ってくるやつらがいた。ヘビメタ騒音『で』できないと言っても、認めてくれなかった。ずっと十何年間も毎日やられていいわけがないだろ。十何年間やられて、働けなくなった……のだけど、これも、「ヘビメタ騒音自体」とは関係がないやつが……どれだけ「ヘビメタ騒音『で』できない」と言っても、認めてくれなかった。『で』の部分を認めてくれない。そいつらは、ヘビメタ騒音相当の騒音に一秒も触れたことがないやつらなのである。そいつらは、きちがいヘビメタ騒音が、ずっと鳴っている毎日を一年間ですら、経験したことがないやつらなのである。そいつらのなかの「騒音」で物事を考える。そいつらが経験した「騒音」をもとにして、俺の騒音について考えるということだ。そいつらのなかの「家族」で物事を考える。そいつらの家族……実際にいる家族をもとにして、俺の家族について考えるということだ。これが、もう、屈辱なんだよ。ぜんぜんわからないやつらを相手にしているわけで、俺としては、ものすごく腹が立つ。けど、俺が腹をたてる理由というのは、うちの家族ではない家族と一緒に暮らしているやつらにはわからない。俺が腹をたてる理由というのは、俺が経験している兄貴のヘビメタ騒音を経験してないやつらには、わからない。自分の日常として経験してない人にはわからない。そして、わからないところで、自分が思っていることを言うと、俺をいちじるしく、傷つけることになるということがわかってない。わからない。逆立ちをしてもわからない。

理由はある。怒る理由があるのだ。けど、あいつらは絶対にわからない。そりゃ、最初の二項目……きちがいヘビメタ騒音がそいつらの経験しているような騒音ではないことと……きちがい家族が、そいつらの家族とはまったくちがった性質をもっていること……を理解しないのだから、理解できるわけがない。俺は正しいことを言っているのに、そいつらが誤解をする。ヘビメタ騒音がどれだけ『鳴っている』と言っても、たいした騒音じゃない」と思ってしまぅ。「お兄さんに言えば、いい」と思ってしまう。「お兄さんに言えば」「お兄さんは静かにしてくれるはずだから言えばいい」という考え方だ。ぜーーんぜん、ちがう。どれだけ、必死になって毎日、何回も何回も、何十回も、何十回も言ったか。どれだけ、さわいだか。どれだけ、絶叫したか。ほんとう、きちがいの状態がわからないんだよな。そして、きちがいの「矛盾のある認知全体」がわからない。きちがいの矛盾のある態度かわからない。あたまがおかしいから「やってないつもり」でいる。頭がおかしいから……。

 

じつは、ワクチンやコロナウィするに対する態度に関しても、似たようなことが成り立っている。みんな、ころっとだまされちゃうんだよな。コロナ騒動に関しては「なにかおかしい」と思うべきだ。どうして「なにかおかしい」と思わないのか。まあ、省略するけど、だまされやすい人たちなんだよ。八割の人が、だまされやすい人なんだよ。社会の主流である人たちが、強烈にだまされやすいほうの人たちなんだよ。相対的にものを考えるということができない人たちなんだよ。

 

それにしても、どうしてみんな「おかしいな」って思わないのかな?

 もう、限界だ。はやくしてくれ。

あーー、それにしても、どうしてみんな「おかしいな」って思わないのかな?

思うだろ。思わないみたいだけど……。これ、今回、こたえた。

「あれ、へんだな」って思わない人のほうが多いんだからな。どーりで、ぼくは、あわないわけだ。

 

2021年12月3日金曜日

ぼくは、若林純一市議会員をこころから、応援している 彼こそ、真の勇者!!!

緊急事態宣言の行動制限は、ワクチンを打たせるための、手、だったんだな。そういえば、ワクチンによる差別的な行動制限の前に、緊急事態制限による無差別的な行動制限があった。もちろん、これも、非支配者用だ。支配者側は自分も行動制限を受け入れているような「ふり」をする。支配者側は、マスクなんて無意味だということを理解している。けど、テレビにうつるところでは、もちろん、マスクをする。マスクを推奨する。

マスクをつけるかどうかは自由……と言いつつも、分断をあおり、マスクをつけない自由を奪う。マスクが感染を防ぐという科学的根拠はまったくない。

あの、マスクをつけないで頑張っている市議会議員さんがいるでしょ。大分県臼杵市の若林純一市議会員か。あの人のえらさがわかる人って、どのくらい、いるんだろう?

ぼくは、若林純一市議会員をこころから、応援している。こんなに勇気がある人はめったにいない。我が国の誇りだ。 

 

 

打ちに行くことで奴隷制度に賛成することになる

 問題なのはバカちんを受けてしまった人が、受けてない人を、追い込むということだ。追い込むんだよ。

これは、関係がない話ではない。

たとえば、むこうにはがけがあるとする。満員電車のなかのような感じで、ほとんど全員が、がけに、むかっている。そのなかで「あっちには、がけがある」と絶叫しているのだけど、おされて、がけにむかって、すすんでしまう。がけがあることに気がつかない人たちが、がけがあることに気がついている人たちのまわりを囲んでいる。どうやっても、流れにさからうことができない。気がつかない人たちがすすんでいく方向に流されてしまう。

そういう意味で、「関係がある」。

これ、「打たない自由」というのは、ほんとうは、ものすごく制限されている。日本は、憲法があるので、建前としては、打たない自由も尊重しなければならない。

そこで、厚労省のような狡猾な機関は、打たない自由を尊重するというような建前を維持しながら、じつは、打たない自由を奪っていくということをする。

その場合、実際の「自由抹殺実行隊」は、よろこんで打つ人たちだ。こういう人たちが、じつは、打たない人の自由を奪う。

そして、よろこんで打つような人たちがこんなことを言う。

「打たない自由があるのだから、打たなかった人は、出入り禁止などについて文句を言うべきではない」。と。

厚労省にとって、どれだけ都合がいい「手ごま」か。 「打たない自由があるのだから、出入り禁止などについて文句を言うべきではない」なんて、発言を読むと、「あーあ」と思う。昨日も書いたけど、打ってしまうことで、打たない人の自由を奪うのだ。それは、将来の自分の自由を奪うことにもつながっているんだけど、そんなことは、まったくわからないのだろう。

個人にとっては、いのちのかかった情報収集ゲームみたいなところがある。けど、社会的な視点で見れば、打った人は、打つことになるシステムに「いっぴょう」入れている。

どういうことかというと、ほんとうに投票に似たようなことになっている。実際に打ちに行くという行為をとおして、不自由な制度をつくることに、賛成しているのだ。賛成票を入れることになる。こういう、しくみがある。もちろん、「個人の自由」という視点で見てみれば、「打たない自由があるのだから公平だ」と思えるわけだ。

けど、ちがうんだよ。これは、投票。打ちに行くということは、行動制限をどこまでも受け入れる制度に賛成したことになる。はっきり言えば、打ちに行くことで奴隷制度に賛成することになる。そして、奴隷は本人なのだ。そして、奴隷は、「打たない自由があった人」なのだ。

わかるかな?

打たない自由があるので打たない人……まで、奴隷にするための一票になっている。

「打たない自由があるのだから公平だ」「打たない自由があるのだからワクチンパスポートはあたりまえだ」「打たない人が入れないところがあったとしても、それは、あたりまえだ」……こういう奴隷思考の人が、奴隷制度を現実化するための一票を投じてしまう。

そうなると、おなじ社会に住んでいる人は、みんな、奴隷にされてしまう。最初は「打たない自由があった」ように見えた、人まで、一緒くたに奴隷にされてしまうのだ。

冒頭の、半強制的に撃たれてしまった人たちだって、被害者だ。よろこんで、われさきにとうちに行った人たちの被害者だ。どうしてかというと、もしかりに、だれも、ワクチンを打たなかったらどうなる?

(打たない人だけ、面会できないようにする)……ことなんてできない。だれもワクチンを打ってないわけだから、面会に「打ったか打たないか」で制限をつけられるはずがない。打ってしまった人たちが、面会制限という制限をつけることに賛成したというとになる。そうやって、ほんとうは打ちたくない人を「おいこんだ」ということだ。わかるかな?

どれだけ、国やころしー省が「ワクチンを打て」と言っても、みんながみんな、ワクチンを打たなかったら、すべての差別が発生しない。もちろん、それにかかわるすべての差別ということだ。限定的なものだということだ。

そして、差別的な「制限」をかすことができなくなるのだ。だってそうだろ。みんながみんな、ワクチンをうけてないのに(拒否したのに)どうやって、打った人と打ってない人の区別をするんだよ。ほんとうに、打たない自由があったとき、みんながみんな、打たなかったらこんなことになってない。

 

ともかく、なんらかの治療があるなら、強制的に撃たれた人、半強制的に撃たれた人を最優先して、治療するべきだ。 

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まあ、海外旅行に関してはちょっとちがうかな。べつにせめるつもりはない。海外旅行に関しては、ワクチンの前に、行動制限があった。まあー、けど、外交官は、いまでも、ワクチンなんて打ってないけどな。これが、すべてだ。支配者層(ワクチン打ってない・打つ予定もない)。非・支配者層(8割打った。差別政策で、予定では全員打たされる)。これが現実。

けど、安心しろ。白が勝った。 

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まあ、上のほうでは白が勝ったけど、まだまだ、悪い人が活躍しているね。

そうだ! 面会にしろなんにしろ、行動制限はあった。ワクチンを打った人は行動制限をなくす……という手口か。よく考えられているよな。シナリオを考えたやつは、別にいて、なんとか知事とかそういう人たちは、ただ単に、シナリオ通りに動いている役者だ。まあ、操り人形とかゴム人形とか言うつもりはないよ。けど、芝居だった。なにかおかしいなと思いながら、俺も最初は、芝居だということに気がつかなかった。(親父の入院と葬式、ネズミ処理、ダニ処理で頭がいっぱいで、コロナのことは、あんまり考えてなかったんだよな。ワクチンも、受けに行く人は、せいぜい3割ぐらいだろうなと思っていたから、他人の動向に関心がなかった。まあ、ぼくがあのワクチンを打ちに行かないのは、最初から決まってたけど。あんなあやしげなものを、自分の体に入れられるわけがないだろ)。

 

まあ、いろいろと、わかるようになるよ。

 もうすぐ、いろいろなことが明らかになる。しかし、普通の人の、のんきさよ。

もうすぐ、と言っても……。

まあ、いろいろと、わかるようになるよ。

しかし、この温度差はなんだ。

ほんとう、なにをされたのかまったくわかってないからな。 

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来年になれば、ぼくがここでこう言った意味が、わかるよ。

ともかく、今回、勝った。やったーー。やったーー。

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ほんとう、いいかげん、気がつけ!

何回でも言ってやる。

ほんとう、いいかげん、気がつけ!

ほんとう、いいかげん、気がつけ!

ほんとう、いいかげん、気がつけ!

 

 

 

 

2021年12月2日木曜日

みんな、撃ってないんだぞ。

俺がこの世に転生する前の世界の話なんだけどさ……。

 デルっタ株のとき、重症化を防ぐと言ってたけど、あれはほんとうに嘘だ。デマだ。これ、いつもの、手なんだよ。2018年出版の本に、そのままのことが書いてある。

最初は、感染防御率が高いと言っておいて、あとで、新株が出たときに、感染防御率はさがったけど、重症化率をさげる(重症化しないようにする効果がある)と言えばいいということが書いてある。もちろん、一回ではなくて、二回、ワクチンを打たせるための、手口だ。

最初、96%の確率で感染を防ぐとか、96%の感染防御率みたいなことを言ってたけど、おなじやり方で評価するなら、ただの生理的食塩水なんて99%の感染防御率だ。96%とか、いかにも感染を防げるようなことを言うわけだけど、プラシーボのほうが防御率が高い。96%というのは、その方法で算出するなら、ほんとうのことなんだよ。嘘じゃないということになる。

けど、その方法で算出するなら、生理的食塩水の感染防御率は99%だ。けど、生理的食塩水の感染防御率は、言わないで、バカちんの感染防御率だけを言うわけ。こういう手口。ファ〇ザーの出した論文を読めばそういうことがわかるのだけど、そんなの、読む人はいない。マスメディアで、バカちんの感染防御率は96%と宣伝されてしまう。

ああっ、もとにもどすね。最初から、デルタ株が出たときには……感染防御率はさがるけど、重症化を防ぐことができるというようなこと……を言うことが、決まってた。そして、そのときには、将来、オミクロン株が出るということも決まっていた。あせったのか、前倒しなんけどね。スケジュール的に前倒しということ。

バカちんを二回打たせたところで、バカちんを無効化するような株を出すということが決まっていた。で、ワクパスなんだけど、デルタ株に対して感染防御率は低いし、オミクロン株に対しては感染防御率がほぼゼロだと言いっているわけだ。

けど、バカちんパスポートで差別をする。区別をする。二回接種者も、未接種者のように、感染をひろげる……という理屈が一応は成り立っているということにどうして気がつかないのか。 バカちんを二回打っても、けっきょくは、本人も感染するし、他人を感染させてしまう……。なら、バカちんパスポートなんて意味がない。

オミクロン株に対応しているワクチンが、現時点でない。そもそも、オミクロン株というのが、3回目を撃たせるための口実なんだよ。そして、定期的に打たせるようにするための口実なんだよ。バカちんパスポートには、意味がないのに、バカちんパスポート制度を確立しようとする。バカちんパスポート制度が確立してしまったら、何度でも、危険なバカちんを撃たれるということになる。

生活をするのにどうしても、バカちんパスポートが必要だという世の中になってしまう。だから、人々はいきるために、バカちんを接種し続けなければならなくなるのだ。けど、バカちんを何回も接種すると、まるまるしてしまう。いま、副反応で苦しんでいる人たちの身の上に起こったことが、自分の身の上にも起こることになる。だから、他人事じゃないということを、ずっと言ってきたのに……。そんなの、運が悪いやつが大げさに言っているだけみたいな反応をする……。人もいる。けど、バカちんの内容は、未公開で、バカちんをつくる会社が決定できるのだから、ものすごくまずいロットを撃たれてしまう確率があがるでしょ。他人事じゃないということだ。受け入れてしまったら、かならず、いつかは、まずいロットにあたってしまう。


こういうことに、気がつかない人ばっかりなんだよ。

そもそも、外交官は、バカちんを打ってない。製薬会社の人は、トップも含めてバカちんを打ってない。国会議員は、バカちんを打ってない。厚〇省の役人は、バカちんを打ってない。みんな、ほんとうなら、バカちんを打つべき人だろ。人との接触が、人一倍多いわけだから。店なんかより、国会だよ。店の集まりより、国会の集まりのほうが、人数が多いだろ。人数が多いのに、バカちんを打ってない人……未接種者が集まって議論をしている。おかしいと思わないのか?

重要な職業についている人は、みんな未接種者。討たなくてもいい特権をもっている。おかしいと思わないのか?

 もし、ほんとうにこびっと19が恐ろしい感染力があるウィするなら、われさきにと、バカちんを撃ちたくなる人が、みんな、撃ってないんだぞ。

いいかげん、気がつけよ。 

オミクロン株が出たら、デルタ株のことなんて、忘れちゃっている。そういうことだと、だまされ続けるぞって話。

こびっと19よりも、バカちんを撃たせることが重要なんだよ。そういう視点を持って、この騒動をぜんぶ、最初っから考え直してみろ。いろいろなことがわかるから。

しくみ2

これはまあ、異次元世界の話なんだけど、

m-RNAがなにをしているのか、ちょっとだけ話すよ。2

m-RNAは全身に運ばれるんだけど、ミクロ的な視点で見た場合どういうことが起こるか、説明しよう。

基本的には、ACE2受容体にとりついたm-RNAは、細胞内部に入り、まず、ミトコンドリアを攻撃する。ミトコンドリアは、細胞内の栄養貯蔵庫みたいなものだ。m-RNAは、その栄養を使って、とげとげたんぱく質をつくる。ミトコンドリアは酸素供給にもかかわる大事な部分なのでアール。なので、ミトコンドリアが破壊されることは、細胞にとって、ものすごく、まずいことだ。m-RNAは、とげとげたんぱく質をがんがんつくる。そうすると、細胞内がとげとげたんぱく質でいっぱいになって、細胞膜が壊れる。そうしたら、m-RNAは、となりの細胞にとりついて、おなじことをやる。この連鎖。となりの細胞にもACE2受容体があるから、同じようにとりついて、ミトコンドリアの栄養を使ってとげとげタンパクしっつを生産(産生)する。

いままで説明したのは、細胞膜が破裂するタイプだけど、じつは、破裂しないタイプもある。この場合は、細胞膜から、トゲが突き出た状態になる。トゲが突き出た状態だとまずいのだ。どうしてかというと……。たとえば、毛細血管の内側は、ほんとうはつるつるなのだ。しかし、毛細血管を構成する細胞からとげとげが出ていると、毛細血管の内側が、ざらざらになる、免疫システムから見ると、毛細血管の内側が炎症を起こしているように見えるのだ。免疫システムは、これはたいへんだと、血小板で処理しようとする。そうすると、血栓ができる。まあ、擬人的に言ったけど、ようするに、トゲに血小板があたって、血栓ができる。毛細血管がつまれば、毛細血管がつながっている(もうちょっと太い)血管でも血栓ができる。こういうことが連鎖的に起こると、いろいろな病気になってしまう。あるいは、いろいろな症状をていするようになってまう。 

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まあ、それにしても、うけが悪いなぁ。うけが、悪すぎる。

みんな、まったく関心がないんだね。カルトがへんなことを言っているとしか思ってないんだね。それとも、「いまさら、そんな、あたりまえのことを言ってどうする」と思っているのか。それなら、いいんだけどな。

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たとえばだな。心筋炎がどうして起こるかというと、心臓にとげとげがはえてしまうのだ。もうちょっと詳しく言うと、心臓を構成する細胞にとげとげがはえてしまう。そうすると、免疫システムが、大きな異物が体の中に入っていると判断してしまうのだ。だから、自分の心臓を自分の免疫システムが攻撃するということが起こってしまう。

しくみ いまさら解説

これはまあ、異次元世界の話なんだけど、

m-RNAがなにをしているのか、ちょっとだけ話すよ。

蝙蝠のコロナウィルスにスパイクたんぱく質をつけたのが、こぅびっど19だということは話したよね。蝙蝠のコロナウィするは人間には感染しない。人間の細胞のなかに入ることができないのだ。しかし、悪魔の博士ふぁうっちが、スパイクたんぱく質をつけてしまった。スパイクたんぱく質は、ACE2受容体にとりつくことができるのだ。ACE2受容体というのは、細胞内に栄養を取り込むためのものだ。スパイクたんぱく質のとげとげの部分がACE2受容体が取り込むべき栄養によく似た構造をもっている。だから、擬人化して言うと、ACE2受容体は、「栄養がきた」と思って、このこびっど19を細胞内に取り込んでしまう。そうすると、ふつうにこびっど19が増殖してしまう。

ワクチンに入っているのは、スパイクたんぱく質をつくるためのm-RNAだ。これが、推定では60億個ぐらい、注射器に入っている……らしい。個数は、本当のところわからない。ろっどーによってちがうと思われる。けど、ともかく、相当な数のm-RNAが筋肉注射によって体内に入れられる。筋肉注射をすると、腕のところにm-RNAがのこって、いろいろなところに運ばれることがないというようなことを言われただろう。けど、これが、運ばれる。m-RNAは4層のナノ粒子によっておおわれている。このナノ粒子は、それぞれが、単独でも人間にとっては毒なんだけど、まあ、それは、横に置いておこう。問題なのは、ナノ粒子に覆われていることで、m-RNAが、からだの色々な部分には運ばれてしまうことだ。脳みそにも運ばれてまう。m-RNAが多く分布することになるのは、脾臓、肝臓、子宮、精巣、リンパ節などだ。

他人事じゃない


 リタイア資金として5000万円もっていようが、1億円持っていようが、あと2年で状況が大きく変わってしまう。そうしたら、もう、5000万円も1億円も、もう、関係がない。このままいったら、あと2年で、おわる。老後のことなんて考える必要はない。10年後のことなんて考える必要がない。いま、気がついて、かえるようにしなかったら、将来なんて、ない。なんで、わからないんだ。ほんとうに、のんびりしちゃって……。そういう状態は、続かないと言っているだろ。続かないんだよ。どーしてわからないのか? まあ、情報統制されているし本人が健康ならわからないのだろう。かりそめの健康なのに。

ワクチンでひどめいにあっている人たちは、いまは、他人事でも、ワクチンを強制され、何回も打たなければならなくなれば(定期的に打たなければならなくなれば)どこかで、ワクチン後遺症で苦しんでいる人とおなじ体になる。あるいは、死んでしまう。どうして、それがわからないんだ。いま、気がつかなければ、やられてしまう。やられてしまうんだよ。殺されてしまうんだよ。ワクチン後遺症は、他人事じゃない。

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近いうち、アメリカからのソフトディスクロージャーがある。刮目せよ。 

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 アメリカで法案とおらず、債務不履行。

けど、だいじょうぶ。世の中、よくなる。

 

2021年12月1日水曜日

わかってないのは、のんきな人たち

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ほんとうは、バカちんには、ものすごいものが入っている。そんなバカちんを厚労省が許可するはずがない……と思うでしょ。人口削減なんて、ばかげている……じゃあ、働く人がすくなくなったらどうするの?……と考えるでしょ。

けど、それは、一般人の視点から考えるとそうなるけど、まったく違った視点で考えると、そんなことはどうでもいいということになる。減るは減るけど、まるまるとして確保すればいいというとになる。

あとは、いま国民をこういうところに追い込んでいる人たちは、特別な地位が与えられてずっと、特権的な状態を維持できると思っているんだよね。だから、削減を考えて実行する。で、これは、おかしなことではない。けど、そういう人たちも、用が済めば、まるまるされてしまう。

「カルトおつ」ということになっていると思うけど、それがちがうんだよ。まさしく、政府や厚労省がカルト行為をしている。気がつかないのは、政府や厚労省を信頼している国民ばかり。 

そんなー。製薬会社がワクチ〇にそんなものをいれるはずがない……と思っているんでしょ。けど、入れるんだよ。そんなワクチ〇を厚労省がゆるすはずがない……と思っているんでしょ。ところが、ゆるすんだよ。

わかってないのは、のんきな人たち。立法、行政、司法とメディアを信頼している人たち。けど、その信頼は、裏切られている。けど、気がつかない……。気がつかない……。おっそろしいほど、気がつかない。矛盾に満ちた、言い訳を信じている……。これは、テレビに出ている学者や医者が言っている……矛盾に満ちた言い訳を信じているということだ。あの人たちが、自分たちをだますはずがないと思っている。そして、ほんとうのことを言っている研究者や医者を、あやしい人たちだと思っている。デマを流している人たちだと思ってしまう。

デマというなら、デマを流しているのは、政府だ。

なんで、これに気がつかないのか。 

そういう人たちが、タダだからと、腕を差し出してしまう。そうして、時間の差はあるけど、病気になってしまう。それだけなら、その人たちが〇ぬだけの話なんだけど、実際には、それだけでは、すまない。

ぼくは、そういう人たちにも天寿をまっとうしてほいわけ。生きるつもりでうったわけでしょ。なるべくなら、病気になってほしくないわけ。

 

「m-RNAは体内に入ったあとすぐに分解される」という嘘

いままで、俺が見てきた情報について簡単に説明しておく。
まず、「m-RNAはすぐに分解される」というのは、嘘であって嘘でない。トリックがある。どういうトリックかというと、m-RNAはたしかに分解されるのだけど、それは、一般的なm-RNAだ。ファ〇ザー製のバカちんに入っているm-RNAは分解されずに、体内に残り続ける。
普通は、ファ〇ザー製のバカちんに入っているm-RNAについて話しているときは、m-RNAと言えばファ〇ザー製のバカちんに入っているm-RNAのことだと思う。そういう文脈の中で「m-RNAは体内に入ったあとすぐに分解される」という説明を聞けば、ファイザー製のバカちんに入っているm-RNAがすぐに分解されると思ってしまうだろう。これが、ひっかけであり、トリックなのだ。

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もう、みんな、いいかげんしろ。いいかげん、気がつけ。おそい。まあ、気がつかなかった人は、そのまま、信者うけどさ。 

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ニュルンベルク綱領の重みがわかる人って、どのくらいいるの?

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平気な人は、免疫機能が時間をかけて破壊されていくということにかんして、無関心なんだよ。免疫機能の重要さがわかってない。免疫機能が破壊されているあいだ、痛くもかゆくもないので、本人は、気がつかない。気がつかないだけなんだけど、自分は平気なので、ワクチンがどういうものなのかということについて、考えない。ワクチンって、最近はやりのあのワクチンだよ。けど、症状があらわれてから、あせっても、むだだ。どうにかしようと思ってもむだだ。だいたい、症状があらわれても、ワクチンによって自分の免疫機能が破壊されたから、こうなっているとは思わないんだよな。じつは、あのワクチンは。免疫機能を破壊するだけじゃない。だけじゃないけど、これ、デマを書いたことになってしまうので、書けない。



2021年11月30日火曜日

ピンポンパンポ~~ン ここで、突然ですが、ニュルンベルク綱領と憲法97条について書いておきます

突然だけど、ニュルンベルク綱領という国際法について述べておく。

ニュルンベルク綱領というのは、憲法より上の法律だ。下位の法律と上位の法律で、内容がちがう場合、上位の法律が優先する。おなじことだけど、もし、下位の法律が、上位の法律の内容に抵触した内容を定めた場合、下位の法律は、無効だ。

ニュルンベルク綱領は、いまもいきている。こういうときのために、先人たちが、決めてくれたのだ。これ、もう、本当に感謝だ。ありがとう。

けど、実際に警察や保健所の人?や軍隊が、家の前にやってきたとき、「ニュルンベルグ綱領!!! ニュルンベルク綱領!!!」と言っても、そいつらは、聞かないだろう。なので、憲法を改正してはいけない。

憲法97条、基本的人権……これが、たいせつ。これを削除しようとしている悪魔のような国会議員がいるのだ。そして、そういう人たちを、国民が選んでしまっている。まあ、小選挙区からあがってきた人たちが多いのだけど……。だから、小選挙区からあがってきた国会議員については、小選挙区の人が選んでいるとは言える。

けど、これは……。何度も言うけど、右から左まで真っ黒。黒い立候補者のなかから、国会議員を選ぶということになってしまう。黒と黒のあいだで、いれかえが起こるだけ。選ばれた人はみんな、黒側の人。これじゃ……。

しかも、日本は、裁判所が行政や立法の味方だ。こんなの、相撲の行司が相手の力士とつるんでいるようなものだ。ようするに、裁判所も真っ黒。たよりにならない。

アメリカ軍が日本を占領し続けた?のが、こんなときに、役に立つは……。アメリカ軍の基地があってよかった。



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ニュルンベルク綱領


1.被験者の自発的な同意が絶対に必要である。

このことは、被験者が、同意を与える法的な能力を持つべきこと、圧力や詐欺、欺瞞、脅迫、陰謀、その他の隠された強制や威圧による干渉を少しも受けることなく、自由な選択権を行使することのできる状況に置かれるべきこと、よく理解し納得した上で意思決定を行えるように、関係する内容について十分な知識と理解力を有するべきことを意味している。後者の要件を満たすためには、被験者から肯定的な意思決定を受ける前に、実験の性質、期間、目的、実施の方法と手段、起こっても不思議ではないあらゆる不都合と危険性、実験に参加することによって生ずる可能性のある健康や人格への影響を、被験者に知らせる必要がある。

同意の質を保証する義務と責任は、実験を発案したり、指揮したり、従事したりする各々の個人にある。それは、免れて他人任せにはできない個人的な義務であり責任である。

2.実験は、社会の福利のために実り多い結果を生むとともに、他の方法や手段では行えないものであるべきであり、無計画あるいは無駄に行うべきではない。

3.予想される結果によって実験の遂行が正当化されるように、実験は念入りに計画され、動物実験の結果および研究中の疾患やその他の問題に関する基本的な知識に基づいて行われるべきである。

4.実験は、あらゆる不必要な身体的、精神的な苦痛や傷害を避けて行われるべきである。

5.死亡や障害を引き起こすことがあらかじめ予想される場合、実験は行うべきではない。ただし、実験する医師自身も被験者となる実験の場合は、例外としてよいかも知れない。

6.実験に含まれる危険性の度合いは、その実験により解決される問題の人道上の重大性を決して上回るべきではない。

7.傷害や障害、あるいは死をもたらす僅かな可能性からも被験者を保護するため、周到な準備がなされ、適切な設備が整えられるべきである。

8.実験は、科学的有資格者によってのみ行われるべきである。実験を行う者、あるいは実験に従事する者には、実験の全段階を通じて、最高度の技術と注意が求められるべきである。

9.実験の進行中に、実験の続行が耐えられないと思われる程の身体的あるいは精神的な状態に至った場合、被験者は、実験を中止させる自由を有するべきである。

10.実験の進行中に、責任ある立場の科学者は、彼に求められた誠実さ、優れた技能、注意深い判断力を行使する中で、実験の継続が、傷害や障害、あるいは死を被験者にもたらしそうだと考えるに足る理由が生じた場合、いつでも実験を中止する心構えでいなければならない。
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 第九十七条
 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

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手短に言うと、バカちんを凸するまえに「これは、人体実験です」と言わなければならないのだ。もちろん、凸する人が凹される人に言わなければならない。言わなければ、ニュルンベルク綱領違反。

ニュルンベルク綱領は刑事告発じゃない。すぐに、実行される。 執行されると言ったほうがいいかな。どういうことかというと、ニュルンベルク綱領に違反した者を、すぐに処刑できる。実際に『ニュルンベルク綱領に違反した者を』処刑するのは、軍隊なんだよな。

だから、ここらへん、むずかしいんだよ。

けど、ニュルンベルク綱領はかざりじゃない。こういうときのために、強烈に強い、上位の法律として、先人たちが残してくれた法律だ。言ってみれば、法的な武器だ。まさしく、こういうときのために、残してくれた。ほんとうに、ありがとう。

ニュルンベルク綱領が古いので、効力をなくしていると思う人もいるだろう。効力は、なくなってない。いまも、効力がある。いきている!!!

いまやっていること……バカちん接種は、ニュルンベルク綱領違反。

2021年11月29日月曜日

ぜーーんぶ、逆

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以下引用

ウイルスは核酸を持っていますが、代謝機構もエネルギー機構も持っていません。すべて、ほかの生物の細胞の代謝機構を借りて子孫のウイルスをつくっています。究極の寄生性の生命体であって、外界に置かれたウイルスは、まったく増えることができません。数分から数時間の後には死滅してしまいます。
(2005年放送NHK人間講座「ウイルス 究極の寄生生命体」より)

引用終了


なので、マスクで対応することはよくない。なので、透明なしきり壁で対応することは、よくない。全員がマスクをつけて感染対策をするなんていうのは、まったくまちがった対応。よくない対応。野外でマスクをする必要はない。風通しは、よくしなければならない。

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ウィルスに関しては時間の長さではなくて、量(個数)がたいせつ。かなり短い時間で、大量のウィルスが死んでしまう。感染を引き起こすにはある程度の量が必要。はっきり言えば、のどからのどに対する短時間の空気感染が必要。ものについているものは、気になくていい。頻繁にアルコール消毒をすることは、常在菌を殺してしまうことになるので、よくない。なにかの菌がつくと、それが、どばーーっと繁殖してしまうことがある。常在菌がいないと、そうなる。だから、適当に常在菌で汚染されているべきだ。それから、あのバカちんは、人の免疫システムを破壊するので、菌にやられやすくなっている。このことこそ、さけるべきこと。ぜーーんぶ、逆なんだよ。あいつらが言ってたことは、全部、悪いほうに悪いほうに誘導することだったんだよ。人が不健康になるように、がんばってきた人なわけ……。知事とか、医者とか。

だいたい、考えてみろよ。国会議員は、特別な法律をつくって、国会議員はあのバカちんを凹しなくてもいいことになっている。彼らが認めた人たちは、バカちんを凹しなくてもよいのだ。そして、ほとんどの国会議員が凹してない。なのに、密になって、ばか話をしているだろ。集まって、ぺちゃくちゃ話しているだろ。平気なんだよ。大丈夫なんだよ。そういうレベルのウィルスなんだよ。

NHKの社内だって、マスクなしで、密になって話をしているよ。普通に暮らしている。だます側の人たちは、普通に暮らしているんだよ。マスク警察がいきりたって、マスクをしてない人を注意すると、「やった」とほくそえむんだよ。分断化成功。あらそいを発生させることができたと、よろこぶんだよ。これが、彼らのやりかたなんだよ。

 国会議員は、最初のころ、「バカちんがいきわたるまでは、国会議員は遠慮して、国民の皆様方に打ってほしい」みたいなことを言ってたわけ。バカちんが、どれだけあまったって、打ちはしない。バカちんを打つとひどいことになるのがわかっているから。

それから、P社のバカちんには、最低三種類あった。(あとで、7種類に増える)。そのあとは、知らない。もっと増えたのかもしれない。三種類の話をすると、ひとつは、プラシーボ。もうひとつは、m-RNAが普通に入っているもの。そして、もうひとつはm-RNAのほかにやばい物質が入っているものだ。ほんとうは、もっといろいろ入っているのだけど、省略する。その場合、打ったふりをするには、三通りの方法がある。ひとつは、特殊な注射器を使って、打ったふりをするという方法。もうひとつは、バカちん用の注射器ではなくて、普通の注射器を使って、普通に用意した生理的食塩水を打つという方法(すがっちがやった方法)。さらにもうひとつは、プラシーボをほんとうに打つという方法だ。けど、プラシーボにもやばいものが入っている可能性があるので、製薬会社の人はプラシーボですら、打たない。ほんもののどくどくちんを撃たれるのは、国民だけ。


 

 

どっちともちがうんだよな

 ほんとう、どうすればいいのかな?

けっきょく、ぼくは、どっちともちがうんだよな。

たとえば、精神世界の人が浮世離れした存在だとする。そして、普通の人と精神世界の人の割合が、9対1とか8対2だとする。これ、割合については、ちょっとわからないんだけどさ……。

普通の人とも精神世界の人とも、あわないというか、ちがうのがぼくなんだよね。

どっちの集団にいても、あわせるのに、苦労する。

自分を偽らないと、そこにいれない。

言いたいことを言えなくなる。

ほんとうにこまった。たとえば、普通の人とのつきあいには、苦痛を感じるけど、精神世界のとのつきあいには、まったく苦痛を感じない人もいると思う。そういう人にとってみれば、普通の人とのつきあいをたち……あるいは、仮面をかぶってつきあい、ほんとうのつきあいは精神世界の人とするという選択肢がある。けど、ぼくはちがう。どっちにも、あわない。どっちにいても、「それはちがうんじゃないか」と言いたくなるような息苦しさがある。

 

2021年11月27日土曜日

マスクをつけるかどうかは個人の自由にするべき

 おちつけ。おちつけ。

流れが変わった。ぼくが応援しているほうが盛り返してきている。

しかし、この手の文を書いてから、うけがわるいなぁ。まあ、削除されないように「まるまるまる」を多用してすぎているのだけど……。自分で新しいところを立ち上げればいいのだけど、これが、いまのぼくにはめんどうなのだ。 どうしても、無料サイトでということになる。そうなると、書く内容にかかわらず、アクセスが少ないということになる。

まあ、うけが悪いのはわかる。普通にテレビを見ている人たちから見れば、ぼくが言っていることは、デマであり、陰謀論である。しかし、今回だけは、陰謀論が正しい。これがわかってないんだよな。政府や大企業、厚労省がそんなことをするはずがないと思っている。思っている。

マスクについてもそうだ。これ、ちゃんと考えられる人なら、ノーマスクとマスク推進派と、どっちが正しいのかわかるはずなのだ。当然、ノーマスクの人が正しい。まあ、ぼくは、マスクをつけたい人はつければいいという立場だけど……。

だいたい、今回のことに関係なく、花粉や粉塵を気にして、マスクをつける人はいる。その人たちの権利を侵害する必要はない。ノーマスク強制ではない。しかし、今回のういういうるーすには、マスクは意味がないことを知るべきなのだ。

風邪の季節……マスクをつける人もいる。感染した人は、おとなしく家で休養をとるべきなのだけど「這ってでも、出社しろ」というようなガンバリズムが徹底していたため、風邪をひいているにもかかわらず、マスクをつけて、咳をしながら通勤している人たちがいた。

新型コロっーナも、じつは、空気感染だ。感染力は、じつはたいして高くない。旧型コロナと同じレベルだ。なので、症状が出ている人は、マスクをしてもいいということになる。症状が出てない人・全員に……マスクをつけさせる必要は、まったくない。インフルエンザやライノウイルスによる風邪や旧型コロナによる風邪がはやっているときと同じように、マスクをつけるかどうかは個人の自由にするべきなのだ。

 +++++

風邪というのは一つの病気の名称ではなくて、本来なら風邪症候群というべきものだ。

風邪症候群を引き起こすウィルスたち

以下、ウィキペディアから引用。

ライノウイルス (30 % - 80 %)[19][20]。[21]
    普通感冒の原因ウイルスのひとつである。
    くしゃみ、鼻水、鼻づまりなどが主症状で、年齢を選ばない。「普通感冒」とは、この症状のこと。つまり、いわゆる鼻かぜ、のど風邪のことを普通感冒という。
コロナウイルス (15 %)[22][23]
    冬に感染しやすい。SARSやMERS、COVID-19の症候群は、風邪(普通感冒)とは区別されるケースもある
インフルエンザウイルス (10 % - 15 %)[24][25]
    英語では "flu" とされる。風邪として扱われないことが多い。
アデノウイルス (5 %) [24]
    夏に流行。プールで感染する咽頭結膜熱(プール熱)として知られる。
パラインフルエンザウイルス
    インフルエンザという名称が入っているが、インフルエンザウイルスとは別のウイルスである。
    喉頭と下気道に感染しやすい。子供がかかる場合が多い。
RSウイルス
    小児発症の原因病原体として最多であり、気管支炎や肺炎を起こしやすい。乳幼児は重症になる場合もある。冬の感染が多い。

エコーウイルス
エンテロウイルス
    下痢を起こしやすい。夏に流行する。

引用終了 

以下引用

ヒトに日常的に感染する4種類のコロナウイルス(Human Coronavirus:HCoV)は、HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1である。

引用終了

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ぼくがここで旧型コロナウィルスと言っているものは、SARSとMERSをのぞいたヒトコロナウィスルのことだ。4種類ある。(何度も言うけど、旧型コロナウィルスに対して、人類はずっとずっとずっと、ワクチンをつくることができなかったんだぞ。突然変異の速度がはやすぎる。ワクチンで対応するのはよくないことなのである。愚策。)

COVID-19を引き起こすウィルスは、蝙蝠のコロナウィルスにスパイクたんぱく質をつけたもの。これ、COVID-19という言い方だけど、最初は、ウィルス自体をさしていた。新型肺炎を引き起こすウィルスのことをCOVID-19と言っていたのだ。あとになって、WHOが混乱を作り出すためか、ちがった言い方を推奨してきた。

スパイクたんぱく質には、人工的な部分があり、そのことがばれたので、ウィルスバンクみたいなところから、抹消された。だから、いまは、培養ではなく、単離されたCOVID-19の存在を証明する資料がどこにもないという状態になった。これは、世界各国、どこにもない。だから、物理的な存在として、COVID-19の存在を否定する人もいるけど、物理的な存在としては当初の通り、もともとは、人に感染しない蝙蝠のコロナウィルスにスパイクたんぱく質をつけたものだ。

しかし、 培養ではなく、単離されたCOVID-19の存在を証明する資料がどこにもないということは、とてつもなく重要だ。それなら、PCR検査で調べているものはなんなんだということになる。塩基配列を調べているということになっているけど、もともとの塩基配列がないにもかかわらず、判定をしているということになる。

PCR検査では、じつは、ウィルスがあるかどうかしか調べられない。しかも、Ct値をあげることで、ほとんどの人を陽性にできる。 

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以下引用

ウイルスは核酸を持っていますが、代謝機構もエネルギー機構も持っていません。すべて、ほかの生物の細胞の代謝機構を借りて子孫のウイルスをつくっています。究極の寄生性の生命体であって、外界に置かれたウイルスは、まったく増えることができません。数分から数時間の後には死滅してしまいます。
(2005年放送NHK人間講座「ウイルス 究極の寄生生命体」より)

引用終了


なので、マスクで対応することはよくない。なので、透明なしきり壁で対応することは、よくない。全員がマスクをつけて感染対策をするなんていうのは、まったくまちがった対応。よくない対応。野外でマスクをする必要はない。風通しは、よくしなければならない。

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以下引用

ヒトに日常的に感染する4種類のコロナウイルス(Human Coronavirus:HCoV)は、HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1である。

引用終了

ウィルスに関しては時間の長さではなくて、量(個数)がたいせつ。かなり短い時間で、大量のウィルスが死んでしまう。感染を引き起こすにはある程度の量が必要。はっきり言えば、のどからのどに対する短時間の空気感染が必要。ものについているものは、気になくていい。

 

むかしの世界にもどろう

 ウィルスというのは、じつは生きた細胞のなかでないと、生きることができない。生きた細胞がないところでは、わりとすぐに、死んでしまう。まあ、ウィルスにとって「死」とはなにかということを考えなければならないのだけど、とりあえず自己複製できなくなった状態を死んだ状態だということにする。

飛沫のなかにいるウィルスは、わりと短い時間で死んでしまう。もう、つばのなかにいる時点でたいていのウィルスが死んでしまう。かりに、生きていたとしても、そんなに長くはいきられない。生きた細胞のなかでないと、長くは生きられないから。

そして、アルコール消毒も、あんまりよくない。もちろん、必要なときはあるけど、人間の手に、一日に何回も何回も、つけるべきではないのだ。どうしてかというと、常在菌を殺してしまう。人間が生きている環境というのは、つねに、菌がいる環境なのである。そういうものに対して、自然免疫がある。自然免疫を弱くするようなことは、極力さけるべきなのだ。

 

この雰囲気!!

起きた。

けっきょく、つまらない。

この雰囲気!!

この雰囲気!!

これ、おなじなんだよな。

ヘビメタ騒音の雰囲気とおなじ。

けっきょく、だめなのか。

 

 

2021年11月26日金曜日

よく成分がわかってないもの

 ともかく、ぼくが言いたいのは自分の免疫システムをたいせつにしましょうということだ。自然免疫にまさる防御はない。どうして、これがわからないのか。あのまるまるまるまるは、自然免疫をこわすまるまるまるまるだ。

子供たちの免疫システムを破壊するようなことはやめましょう。ぜっーーったいに、後悔する。これ、権威がある機関が、まさか、自分たちをまるまるしてくるとは思ってないでしょ。そんなのは、カルトだ。そんなのはデマだと思うでしょ。けど、今回だけはちがうんだよ。

ともかく、へんなもの……よく成分がわかってないものを子供の体に入れるのはやめましょう。 

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あっ、それと、未接種者は感染源にはならないということをCDCですら、認めている。しぶしぶ認めている。ちーさくね。記事にならないように認めている。


そーーいうもんなんだってば

 

2021年11月25日木曜日

気楽な人たちがうらやましい なにが起こっているのか、ぜんぜんわかってない人がうらやましい

 あたまきらきら星人のほうがしあわせかもな。あの人たちはあの人たちで、見えてない部分があるんだよな。妄想でかざられた部分がある。まさに、妄想イルミネーション。

妄想イルミネーションの状態でまるまるするなら、まるまるで防御力が上がったと思ってまるまるする人たちとかわらないので、気がらくだ。らっくらく。

妄想イルミネーション状態で言っていることが、ほかの人から見ると、カルトに見えるから、ほかの人が、拒否反応をしめすんだよ。けど、基本的に言えば、テレビに汚染されている人は、けっきょく、テレビで教えられたような考え方を持ってしまう。ネットもおなじだ。ほとんど、すべての権力があっち側なのだから、まるまる。

これ、ほんとう、俺も覚悟を決めないとだめか。

しゅーかつか。動けるうちに、やっておきたかったことをやるか。けど、これが、ヘビメタ騒音ときちがい親父の影響で、フォッグがかかっている。やっておきたかったことをやっても、ぜんぜん楽しくない。楽しくないということが予想できる。どうしてなら、そういう気持ちでやったことが……。生きているうちにやっておこうと思って、ヘビメタ騒音の影響を受けた体をひきずってやったことが……全部、楽しくなかった。破滅破綻。

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やりかたっことのうち、いくつかやったけど、だめだった。ということなので、上の文章の書き方であっている。まだ、やりたいことは、いくつか残っているけど、おなじような感じになるんじゃないかと思っているということだ。

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ひざしは、いつものひざし。

まあ、ヘビメタ騒音のひざしなんだが……。

ほんとーーに、くるしいだけの人生だった。『ほんとーーに、くるしいだけの人生だった』とよく思うんだよね。道を歩いてたって思うよ。そういう歩行だよ。くるしいよ。ヘビメタ騒音がはじまった11歳のときから、ずっとずっと、くるしいよ。胸が張り裂けそうな気分で生きている。それは、きちがい兄貴がヘビメタ騒音を鳴らしていたからだ。ずっとずっと、鳴らしていたからだ。ほかの人はそういうことを経験してないので、『ずっとずっと、くるしいよ。胸が張り裂けそうな気分で生きている』というようなことを聞けば、俺がもともとそういう性格だからそう思っているんだと思ってしまうのである。もともと、ネガティブな性格だから、誰にだってあるようなことを、特別にくるしいことだと思ってしまうんだと思ってしまう……という意味。これが、屈辱。これも、屈辱。ちがうんだって。

まずいロットのわくわくティーンを討たれた人が痙攣してまるまるしてしまうように、『人間のからだ』の反応として当たり前の反応なんだよ。俺の体質の問題じゃないわけ。人間のからだの反応……という書き方は『の』が連続するので、『』をつけておいた。人間の反応として当たり前。からだの反応として当たり前。

ほんとう、あたまがキラキラな人や、テレビに洗脳されてプログラムが誘導したように考えられる人がうらやましい。そりゃ、こわいことがないよな。


こういう、世の中。こういう、世の中。 この世は、地獄だった。

 さみしい一生だったなぁ。

こんなの、ない。

自分勝手な家族にやられて、人生がない。

世間のやつらも、それぞれに、自分勝手なやつだったな。まあ、いい人はいた。少ないけど、いい人はいた。それは、事実だ。

けど、ヘビメタ騒音で、そういう人たちともうまくいかなくなる。

これは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験した人じゃないとわからないと思うけど、そうなる。必然的にそうなる。どうしても、そうなる。どれだけさけても、そうなる。

おれにとっても、ほかの人にとっても、この三年間は、すごい三年間になるよ。

このあとの三年間ということだけど。

どれだけの人が生き残れるのだろうか。そして、生き残った人が、あんまりしあわせではないようなことになる……かもしれない。これ、ほんとうにひどい時代に生きているなぁ。こんなことになるとは思わなかったなぁ。つくづく思うのは、この世は、地獄だということだ。これ、ほんとうに、悪魔に支配された地獄なのである。この世は、地獄だった。

どーーりで、生きにくいと思った。この世はほんとうに地獄。地獄がどこかにあるんじゃなくて、この現世が地獄だった。この世界が地獄だった。あの世じゃないんだよ、この世にあった。

この世が地獄だった。

やっぱりなぁ。そうじゃないかと思っていたんだ。

なんか、いつもそうなんだよ。この世の人……特に家族二人……地獄の住民なのである。ほんとうに頭がおかしいレベルで、自分の感情しかない。自分にとって都合がいい感情しかない。どれだけ、なにを言っても、まるで通じない。ほんとうに、自分で自分に催眠術をかけてしまったような状態なんだよな。

そういう状態で、きちがい的に自分勝手なことをする。そうすると、本人は「やったつもりがまったくない」状態で生き続けるわけだから、相手になにか、悪いことをしたということに、どうやっても突き当たらないのである。思い当たらないのである。そういう毎日、毎時間、毎分、毎秒、毎ピコ秒なのである。

だから、その人たち……当人にとってはそういう世界なのである。やったってやってない世界なのである。ぜんぜん相手のことがわかってない世界なのである。自分の感情だけが張り出した世界で、どれだけ矛盾したことを言っても、どれだけ矛盾したことをやっても、本人が気がつかない。

だから、本人だけは、なにもやってないつもりで、しあわせ、なのである。「意地をとおして」しあわせなのである。絶対無責任の境地にたっている。そんなの、たとうと努力しなくたって、つねに、絶対無責任の境地にたっているのである。すでにたっている。こんなのない。

絶対無責任。

「やったってやってない」。「そんなのは知らない」……きちがい的な態度でやり続ける。「やったってやってない」……この繰り返しだ。どれだけこまるか。どれだけこまるか。ほかのやつはこんな異常な家族に囲まれて住んでいるわけではないから、普通に暮らせる。俺が言っていることが、根本のところからわからない。そして、影響を否定する。そいつらにしてみれば、「影響なんて受ける必要がない」のである。「影響を受けるかどうかは自分で決められること」なのである。

こんなの、ない。こういうやつらは、自分でなにを言っているのか、わかってない。 ほんとうは知らないから、そういうふうに言える。想像でものを言っているだけなのである。それは、まったく知らない食べ物について、なにかを言っているようなものなのである。まったく知らない毒についてなにかを言っているようなものなのである。その毒を飲んだって、影響を受ける必要がない……と言っているようなものなのである。

人間の体は、影響を受ける。

そういうこと自体を否定してまう。自分にとってなかったことだからだ。自分の想像の、範囲外のことだからだ。正しく想像できないのである。こういう、世の中。こういう、世の中。

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憲法を改正させないように投票したいのだけど、右から左まで、全部、あれだからな。れいわ新選組も、あれである可能性があるし、つばさの党が候補者だしてくれたら、入れるんだけどな。 

憲法改正を絶対に阻止しないと、ひどいことになるよ。


 

 

 ほんとうに、普通にテレビを見ている人たちは、こうも簡単に洗脳されてしまうのかと思う。洗脳の度合いが強すぎる。これ、ほんとうに、国民が自分たちを〇す人を、好んで選んでいるというところがある。ひどい。

水道の問題だってでかい。「民営化」というと、いいようなことに聞こえるだろ。完全なまちがい。

心筋炎だって、軽い心筋炎なんてないということに、どうして気がつかないのか。心筋炎というのは、自分の免疫システムが、自分の心臓を異物として見なして攻撃をするから発生する。これがどうして起こるかというと……ここには書けないか。心筋細胞は一生使う細胞なので、軽い心筋炎なんてない。

これは、架空世界の話だ。太古の昔にそういう世界があったのだ。

みんな、あのm-RNAがすぐに分解されると思っているだろ。テレビに出ていた医者や専門家がそういうふうに説明していたからだ。けど、分解されない。ずっと残って、ずっと、m-RNAの塩基配列通りのたんぱく質を作り出す。残る。すぐに分解されると思っているから、いろいろなまちがった判断が生まれてしまう。普通のm-RNAは分解される。しかし、あのぼこぼこち~んに入っているm-RNAは分解されない。これは、しぶしぶ、そのぼこぼこち~んをつくった会社が認めている。ぼこぼこち~ん接っっしゅう後に死んだ人の体を解剖すると、m-RNAが確認できる。これは、デマではない。

どうして、分解されないかというと、ウリジンがシュードウリジンに置き換わっているからだ。そして、脂質ナノ粒子によって、おおわれているからだ。脂質ナノ粒子におおわれているm-RNAは、BBB(ブラッドブレインバリアー・血液脳関門)をこえることができる。なので、さまざまな脳の障害を引き起こすことができる。ほんとうに、よく考えられたあく~まの物質なのだ。

心臓も、脳もとげとげにやられる。しかし、脳はもうひとつの物質から攻撃を受ける。二重にやられる。

2021年11月24日水曜日

たましいの位(くらい)とか、社会的なエリートとか

 まじ、つまんないわぁ。

あーつかれた。どうするかな。あー、もう、そればかりだ。ぼくのおいたちが、ほかの人とちがいすぎるんだよな。絶対に、わからないと思う。わからないんだよな。わからないということもわからないわけか。

頭キラキラ系の人たちがいうことには、抵抗があるんだよな。その人たちは、差別がきらいなんだけど、たましいのエリート主義みたいなものがある。自分のたましいはみがかれていると思っている。

おいたちのことをまるで考えてない。

この人たちは、まあ、波動という言葉が好きなので、そのと人たちの言い方を使えば、波動が低いとかそういうことになる。

ようは、きちがい親父のもとに生まれてしまった人は、波動が低いのである。そういう、差別主義がある。人を勝手に見下している。

あとは、「まなびのために」そういう環境を選んだというくそ理論がある。このくそ理論は、言ってみれば、自己責任論で、現世的な得を求めてるエリートさんたちとじつはたいしてかわからないところがある理論だ。

ともかく、自分のたましいはみがかれていて、波動が高いので「いいことばかりがおこる」のだ。あるいは、自分のたましいの「位(くらい)」が高いので、「まわりのひとにめぐまれて」いるのだ。まわりの人にめぐまれてない人は、(本人の)たましいの「位(くらい)」が低いからそうなる……ということを言いだす。げんに、言っている。

けど、「みんな、なかよく」なのだ。こういうレベルだ。

どんな環境に生まれてきても、ネガティブなことを言うのは、たましいのレベルが低いからだ……というような考え方が根本にあるのだ。うちの親父がどんな態度で、どういう認識レベルで、どういうことをしてきたのか、こういう人たちには、どれだけ説明してわからない。うちの兄貴がどんな態度で、どういう認識レベルで、めちゃくちゃにでかいきちがいヘビメタ騒音を鳴らしてきたかわからない。それが、数千日続いてしまうと、どれだけがんばっても、人から悪く言われ、普通に働けなくなるということが、根本的にわからない。わかってない。

「そんなのは、はねかえせばいい」「それは、学びに必要だった」「自分でうまれてくるところをえらんでいる」……などの、思いやりがある人の言葉とは思えない発言をするのだ。

この世は、ほんとうに地獄だけど、こういう人たちも、地獄の住人だ。そういう発言をすることで、すでにこまっている人を、こまらせる。そういう発言をすることですでに、傷ついている人に傷をつける。かってに、たましいのランキング。この世で、不幸な目にあって、こまっている人へのレッテル貼り。(そのような、こまっている人たちより)自分のたましいのレベルが高いというマウンティング。

まあ、これ以上は悪くは言わない。この人たちは、悪い人たちではないのだ。けど、そういう、無慈悲な点がある。そして、思いあがってるところがある。どれだけのことなのかわかってない。家族が、ほんとうに、頭がおかしいレベルで自分の今年考えられない人間だと、どういうことになるのか、身をもって知ってない。

知らずに、「そんなのは、運が悪い」「ネガティブなことを言うから悪い」「自分で選んでそういうところに生まれてきたので自己責任」というようなことを言う。これが、たましいの位が高い人のやることか?

思いやりも配慮も、まったくなにもないな。この世で、社会的なエリートをやっているやつらとかわりがない。社会的なエリートをやっているやつらの価値観と、自称たましいの位が高い人がやっていることは、うんと、うんと、うんと、根本的なところでは同じ。

けど、社会的なエリートよりも、この人たちのほうが、人間として純粋なところがあるのだ。悪い人たちではないのだ。今回のことでわかったけど、社会的なエリートのうち、9割ぐらいは、悪い人だ。社会的なエリートで、いい人の割合は1割ぐらいだ。

今回のコロナ禍、ワクチン騒動で、どういう人が、どういうことを言うのかわかった。これ、ほんとうにひどい。きれいごとのなかにものすごい悪意がかくされている。こういう部分は、自称たましいの位が高い人たちにはない。そういう点では、ぼくはこういう人たちのことが、好きだ。まあ、ほんとうに、普通の人間ではない家族にやられた経験がないので、そういうことについて、考え違いをしていると思う。自称たましいの位が高い人たちも、わかってない。もちろん、9割の社会的なエリートにはわかるはずがない。


 

 

2021年11月23日火曜日

おかっしい なぜなぜ

北海道でクラっっスターが発生とか言っているけど、これは、おかしい。前投稿でも言ったけど、新っっ型567うィするが存在しているということが証明できない。存在証明ができないウいいっィスる★★のどの配列パターンに一致たしたら、陽性だと言うことができるのか?

ちなみに、PCR検査で陽性ということは、新っ型567ウィするに感染したということにならない。PCR検査は、感染症の判断には使ってはいけない検査なのである。これは、PCR検査を考え出した人が言っていることだ。デマじゃない。


これは、未接種者を悪者にするという悪い糸っとーーに従ってやっていることことだ。悪い悪い糸っっっと~~なのだ。だいたい、80%の人が、接種者なのに、どうして、クラスターが発生するんだよ。あるいは、80%の人が接種者なのに、クラスターが発生するのであれば、接種率を80%まであげても、なにも防衛できないということではないか。これ、旭川市は80%かもしれない。けど、世界にはもっと接種率が高い国や地域(地方自治体)がある。なんと、接種率100%以上の地域があるのだ。これは、移民にも接種させているので、その地域の人口をもとにして計算すると接種率100%をこえてしまう。そういう地域ですら、感せーんが爆発してしまうのである。ならば、わくわくてぃーんをどれだけ売っても(撃っても)(凸しても)感せーんをふっっっせっげないというとなのである。イスラエル、シンガポールという国は、小さな国で、接種率が非常に高い。その接っ種っ率が非~~常~~に高いところでも、感染を防げなかったので、第三回目のブーすっスター接種が必要だということになった。ほとんど全員が二回接っっしゅうしたにもかかわらず、ふっせげないのだから、三回目のブースすったーせっしゅーをしてもむだだということに、どうして気がつかないのか。
スェーデンや窃っっしゅうをしなかったアフリカの国々では、感染爆発は起こってない。わっくわっくティーンをたくさんっ撃ったところで、感染爆発が起こる。
あと、旭川市の未接種者の定義がどうなっているのか知りたい。これ、撃ったあと、二週間たってない人はみっっせっしゅ~者と定義しているのかもしれないのだ。あるいは、3か月前に接種した人は、みっせ~~しゅ者として定義してしているのかもしれないのだ。
旭川市の接種者は80%だとする。みっせっしゅしゃが20%いるから、クラスターが発生したと言う。けど、そのみっせしゅしゃというのは、赤ん坊や11歳までの子供を含んでいるのかもしれない。いずれにせよ、イスラエルやシンガポールのように、ものすごく接種率が高いところでも、感ん染ん爆っっ発がおさまらないという現実がある。貧しくて、ワクチンをかえなかった国や、インドの州は、もう、感ん染ん者なんていない状態なのである。まあ、この感染者というのは、PCR検査で陽性になった人のことを意味しているのだけど。
 

2021年11月22日月曜日

自由


一回打てば、マスクもとれるし行動が自由になるというから、打ったんでしょ。打った人は。ところが、二回打っても、感染させるし、感染するということがわかった。あえて、シェディングのことは言わない。未接種者も感染させる人だし、二回接種者も感染させる人なのだから、区別する意味がない。未接種者も感染する人だし、二回接種者も感染する人なのだから、区別する意味がない。だから、ワクチンパスポートには意味がない。

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検査・パッケージ反対 

人権侵害。法の下の平等に反する。憲法違反。

 

ワクチンを打てば、感染しない……のでしょ。だったら、感染している人がいたとしても、問題ないじゃない。いちおう、新型コロナウィルスが培養ではなく、単離されたものであるという前提で言ってるけどな。その前提がまちがっているんだよ。けど、この前提がまちがっている話というのは、細かいことを調べる時間がない人たちには、わからないことだから、省略する。物理的には、じつは、新型コロナウィルスは、存在する。けど、やばいことになったので、登録はされてない。存在しているという証明は、どの国際機関も、どの国もできない。やばいことになったというのは、だます側にとって、不都合な事実が明らかになったから、登録を抹消してしまったということだ。だから、今現在、存在証明はできない。

 

 

治療薬(普通の薬)で対処するべき

 旧型コロナウィルスは、全部で6種類ある。そのうち、4種類は、ずっとずっとずっと、むかしからある。その昔からある4種類のコロナウィルスに対して、人類はずっとずっとずっと、ワクチンをつくることができなかった。どうしてかというと、突然変異のスピードが速いからだ。コロナウィルスに関しては、ワクチンで対処するのではなくて、治療薬(普通の薬)で対処するべきだ。健康な人にワクチンを打つのと、すでに発病した人に薬を飲ませるのは、まったくちがった意味を持つ。健康な人は、ワクチンを打つべきではない。 


2021年11月21日日曜日

「エイリさんが音に敏感だからダメなんだ」「そんなの、騒音ぐらいだれだってある」

 ヘビメタ騒音で、どーーーしても、どーーーーしても、くるしい。いま、午後8時27分。いま、鳴っている時間だ。今日は、日曜日だ。俺が中学生のときも高校生のときも、日曜日はいつも朝から、この時間までずっと鳴っていた。蓄積する。とてつもなく、つらい。きちがい親父が、注意をしなかった。おかあさんが、注意をしても、きちがい兄貴がまったくきかなかった。ともかく、つらいんだよ。積み重ね。蓄積。これ、つかれとか、この世に対するいやな雰囲気とか、どうしても、積み重なる。ほかの人は、ずっと毎日やられたことがないから、わからないだけだ。俺は別に、ヘビメタ騒音をやれる前、音に敏感だったわけじゃない。それは、幼稚園のすぐ後ろ(前)に住んでいるということで証明できる。ずっと、幼稚園はうるさいんだよ。あのころは、幼稚園が終わったあと、場所を剣道の道場?練習場としてかしていたので、「めーん」とか「おおぇぇ」とか奇声をあげていたし、全員でやる足踏みの練習は、うるさかった。けど、俺はそういうことで文句を言っているわけじゃないんだよ。きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音を鳴らすまえに、フォークギターの練習をほぼ、一日中していた。これは、学校から帰ってきたら、練習してたし、日曜日も朝から練習していた。けど、おれは、きちがい兄貴がフォークギターを練習しているあいだ、ずっと、文句を言ってない。「うるさいー。やめてくれ」と言ってないだ。こういうことも無視して、まるで俺が音に弱いみたいに思うやつらは、ひどいやつらだと思う。そういうふうに、俺をばかにして!! ばかにして!!! ばかにして!! えらそうなことを言って。自分が、うちの兄貴のような特別な人からずっとやられてないから……そういうことを言えるだけなのに、そういうことを言う本人は、それに気がつかない。これ、俺がこういうことを説明しても、「エイリさんが音に敏感だからダメなんだ」「そんなの、騒音ぐらいだれだってある」というような意見を、かえない。かえない。こいつら、ほんとうに頭にくる。こういう誤解をされることになっている。きちがい兄貴のやり方があまりにもおかしいと、こういうことになる。きちがい兄貴の感覚があまりにもおかしいと、こういうことになる。これは、親父でもおなじだった。きちがい兄貴は、親父にそういう態度で、そういうことをやられて、頭にきているのに……ずっと憤慨していたのに、自分が、「おやじとおなじ立場になって」……つまり「やるほうの立場になると」……親父とまったく同じ態度でやるんだよ。まったくおやじとおなじ感覚でやる。自分がやられたときは、一発でわかるのに、一分で、わかるのに、自分がやる番になると、まったくわからない。親父とおなしでまったくわからない。親父とおなじで、「やったってやってない」ということになってしまう。この「やったってやってない」ということに対する、きちがい兄貴の意地がすごいんだよ。こんなのない。ちなみに、「やったってやってない」ということに対する、きちがい親父の意地もすごい。兄貴は、親父のコピーなんだよ。おなじなんだよ。「やったってやってない」というようなきちがい的な態度をとるときの強情さと、自分がやりたいことを押し通してやってしまうときの強情さが同じなの。兄貴も、親父もそういうところがある。

 

わらいあって暮らす未来

 

 けっきょく、こういう気持ちでしゅうかつしなければならなくなったか。

つらいこと、ばかりだったな。おもに、他人がもたらすことでつらい思いをした。体調不良の原因がきちがいヘビメタ騒音だしな。 

ほんとうに、わらいあって暮らす未来がほしかった。

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小浜逸郎・ことばの闘い  

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 しゅーかつ、したくない。しゅーーかつですら、めんどう。

ぜんぶが、めんどう。

なみだが出てくる。そりゃ、こんな気持ちで……。こんな気持ちで……。

こんな気持ちで動いていたら……。まるまるするしかないということになってしまう。それなら、おなじじゃないか。そして、ヘビメタ騒音にやられていたときの気持ちが復活してしまうのである。 

 

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ほんとう、ついにこうなったか。俺が生きているうちに、こんなことになるとは思ってもみなかった。こんなことになるとは……。何十年も前に本で読んだことが、現まるになっている。これ、……。 まさかの、まさか、だよね。普通 信じられないよね。普通は……。普通は信じられない。普通は……。

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しかし、俺の場合、こういうことを書いていても、ヘビメタ騒音時代のくるしいいちシーンが思い浮かぶのだ。 きちがい親父にやられたときの幼児期の記憶がよみがえるのだ。いろいろなシーンがよみがえるのだ。つらいだけの人生。いいこと、なかった。

ちょっとは、あったかな。しかし、ヘビメタ騒音で、全部めちゃくちゃになっている。俺はヘビメタ騒音で、社会的地位や健康的な体をうしなった。どうやっても、ぶっ壊れている、くるしい体で生きていくことになった。

そしたら、これだよ。そしたら、これだ。きちがい親父が死んで、ネズミのことも不安定ではあるけど、ひとだんらくして。そして、ダニもまだまだ刺される場合があるけど、ひとだんらくして……。これから、なんとか引っ越して、第二の人生を歩もうとした、これだよ。これだよ。

まわりの人がみんなだまされていて、孤立無援。四面楚歌。


2021年11月20日土曜日

旅行

 奴隷の管理方法について意見を述べていた人がいるだろ。がんばった奴隷には褒美を与える。がんばらなかった奴隷にはほんのすこしのご飯しかあげない。こうすれば、奴隷が働きだして管理できる……と言っていた人がいるだろ。

考えてもみろ。凹した人だけ、旅行に行ける権利があるというのは、そういう褒美のひとつなんだよ。 凹することで旅行ができるようになったということは、凹せずに旅行ができる状態より、はるかに後退しているんだよ。行動制限がかかっているんだよ。自由じゃないんだよ。権利をはく奪されているんだよ。

いま、凹して旅行に行くということは、将来の自分と他人の「旅行する権利」をはく奪するような行動なんだよ。将来の権利を制限することに「積極的に賛成」していることになるんだよ。

そして、どこかで、毒リンゴを食べてしまう。たとえば、三個の無毒なリンゴと、六個の弱い毒のリンゴと、一個の強い毒のリンゴがあるとして、一個の強い毒リンゴを食べて死んでしまった人は不運だ。けど、その不運は、繰り返してやっていればかならず、くる。

弱い毒リンゴは、潜伏期を経て、効果をあらわす……とする。だとしたら、一回目に弱い毒リンゴを食べてしまったということは、重要なことだ。不幸なことだ。一回しかリンゴを食べず、また、その食べたリンゴが無毒なリンゴであった人だけ、いちおうは、危機をまのがれる。しかし、悪い人が、いろいろな食べ物に、弱い毒をいれてきたらどうなる? そのうち、死ぬ。もちろん、人間は、そのうち、死ぬ。けど、弱い毒が入った食べ物を食べた人間より、無毒な食べ物を食べた人間のほうが、長生きする確率は、高い。

 

2021年11月19日金曜日

雑感 憲法について考えよう。

 憲法を改正されたらおしまいだ。

ひとりでも多くの人に気がついてほしい。

わくわくティーンぱすぅぽ~~とは、どのみち、将来の自分の首をしめます。わくわくティーンを凹できない人の首をしめます。わくわくティーンぱすぅぽ~~とは、隷属への第一歩です。この一歩を許すと、自由が完全になくなります。人権が完全になくなります。なんで、旅行制限になっているということに気がつかないのか。旅行の権利を取り上げられているということに気がつかないのか。憲法を改正されたら人権なんて、なくなると思え。どうして、野党内与党である維新の会に投票してしまうのか。自分の首をしめることになるのがわからないのか。

自分はすでに受けたから、ぱぁす~~~ポぉーうっっトで外国に行ける人も、そのうち、旅行に行けなくなるぞ。運が悪い人のことは関係がないと思ってしまったらだめだ。運が悪い人の身の上に起こったことは、明日は、我が身の上に起こることだと思ったほうがいい。たまたま、運がよかっただけなんだぞ。人の不運をわらうべきではない。人の不運に注意をむけるべきだ。自分には関係がないと思うべきではない。自分は平気と思わないようにしたほうがいい。

2021年11月18日木曜日

ほんとう、ヘビメタ騒音にやられて、むなしいだけの人生だな。

 ほんとう、ヘビメタ騒音にやられて、むなしいだけの人生だな。いいこと、なかった。くるしかった。ずっとくるしかった。いま、夜が明けて、朝になった。闇から光の世界になった。けど、ぼくのこころは、ヘビメタ騒音でくるしい。あの雰囲気が、ぬけない。朝の雰囲気というのは、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。これ、どれだけほかの人に言ってもわからない思うけど、数千日の繰り返しがある。その数千日の学習の末に、獲得してしまったものだ。薬なんかじゃ、なおらない。もとの世界に到達できない。元の世界というのは、ヘビメタ騒音にやられなかった場合の、普通の世界だ。普通人たちには、普通にある、普通の世界が、ぼくには、ない。ヘビメタ騒音にやられて、毎日自殺したい気持ちで、動かないからだを無理やり動かして、はりつめた気持ちで、学校に行くのである。帰ってきたら、ヘビメタが鳴っていて、どれだけ言っても、一秒だってやめてくれない。あいつが眠る前まで続く。こっちは、そのあいだに、平日は夕方から、日曜祭日は、朝から、あいつが眠る前まで、ヘビメタ騒音を聞かされ続けて、その時間も、そのあとの時間もめちゃくちゃになっている。どれだけ、希望をもとうとしても、どれだけ、普通に頭を働かせようと思っても、鳴らされたあと、……鳴らされ続けたあとですら……まったく頭が働かない状態になる。「うつ」とか「憂鬱」という言葉では、表現できない、強烈な「うつ」や「憂鬱」がおそってくる。これは、「疲労」と同じで、どれだけ、「疲労を感じないようにしよう」と思っても、むりだ。土台がむりだ。人間の体はそういうふうにできている。きちがい兄貴レベルの騒音を毎日、聞かされて、生きてきた人間というのが、ぼくのほかにいないのである。だから、ぼく以外の人たちは、その人たちの経験した騒音をもとにして、ぼくが経験した騒音について考えるのである。毎日の持続……ということについて、考えがぬけている。せいぜい、テレビの音がうるさいとか、ステレオの音がうるさいとか、幼稚園や小学校がうるさいといった騒音のことしか考えない。あるいは、線路の横でうるさいということしか考えない。これ、ちがうんだけど、どれだけ俺が「ちがう」と言っても、ほかの人たちは、ちがいを認めない。どうしてなら、その人たちが、経験した騒音ではないからだ。ひとことで言うとそうなる。そんなら、俺(エイリ)だって、自分(ほかの人たちにとって自分自身)の経験した騒音を経験してないじゃないかと言うかもしれないけど、ぼくは、ほかの人たちが、経験した大抵の騒音を経験している。ヘビメタ騒音がはじまるまえに経験している。「そんなんじゃない」のである。「ぜんぜん、ちがう」のである。こんな、ハンディない。しかも、家庭環境が複雑で、ほかの人には、逆立ちしても理解できない原理がある。これをうみだしているのは、きちがい親父なのだけど、きちがい親父の狂い方というのも、普通の人の狂いかたとはちがっていて、ほかの人には理解できないのである。あるいは、くるってない普通の人とも、まったくちがう状態なので、くるってない普通の家族と暮らしてきた人には、逆立ちしてもわからない状況や状態というのがあるのである。これの、わからなさが、また、ひどいのである。これ、ぼくは普通の人自分の距離を感じる。このことについて、世間の、普通の人の理解度がもーーれつに、低い。ほとんど全部の人が、想像の範囲外だということで普通に無視してしまうのである。俺の状況や俺の状態について無視してしまう。普通の人にとって、俺は、へんなことを言っている人……よくわけがわからないことを言っている人になってしまうのである。「そんなのは、言えばいいのに」と思ってしまうのである。きちがい親父を知らないから。きちがい親父の感覚が、おかしい。その感覚のおかしさについてどれだけ、普通の人に説明しても、普通の人はわからない。俺が、へんなことを言っているようにしか、聞こえないんだよな。兄貴も、きちがい親父とおなじなので、兄貴のことも、普通の人にはわからない。普通の人というのは、普通の家族に囲まれて、そだってきた人のことである。きちがい兄貴やきちがい親父が、特殊すぎる。普通の人が考える「きちがい」とは、また、ちがった種類のきちがいなのである。きちがいのなかでもかわっているのである。ほかの人が理解することができないように、かわっている。あまりにもかわっているので、ほかの人は、理解できない。言ってみれば、普通の人が考える「きちがい」とも、まったくちがった「きちがい」なのである。そして、迷惑をこうむる人、影響を受ける人というのが、家族、限定なのだ。「よそ」では、きちがい的な側面を見せないで、普通の人のようにふるまうのである。これは、もう、自己催眠のレベルで、本人は、「つかいわけている」つもりがない。まったくない。本能ではないけど、表現するなら、本能できりかわってしまう。「うち」のなかにいるときの態度と、「そと」にいるときの態度がぜんぜんちがうのである。そして、本人は、特に、「うちの態度」と「そとの態度」をきりかえているつもりがないのである。ぜーーんぜんない。まったくない。ごく普通に、完全に、きりかわる。本人が、意識して、「うちでこうしよう」と思っているのではないのである。「そとでは、我慢したけど、うちのやつらに関しては、こういうたいどでいい」と、意識的に思って、態度をきりかえているわけではないのである。さらに、これは、「態度」だけではなくて、全体的な「認識システム」の問題なのである。これ、態度だけじゃなくて、認識システム自体が、きりかわってしまう。だから、本人は、強情にやっているのに、まったく気がつかないと行こうとになってしまうのである。この「強情」というのも、普通の人が理解できないレベルの「強情さ」だ。で、やっている本人が、普通の人とおなじように、理解してないのである。まったく理解してない。だから、「きりかわった態度」だけが「つきでる」状態になってしまうのである。ごく普通にそうなる。本人が、態度をきりかえようと思ってそうしているのではないから、そういう態度でやったことは、全部が本人にとって「やったってやってないこと」なのである。これが、ほかの人には理解できない。本人も、理解してないけどな。都合が悪くなれば、全否定だ。普通に記憶がある人なら……記憶能力がある人なら……絶対におぼえていることも、ガン無視してしまうのである。そういう、日常なのである。あんだけ、意地をはってやったことを、わすれるはずがないのである。この忘れ方がひどくて、もう、やり終わった瞬間に、やってないことになっている。やり終わった瞬間に、自分には、関係がないことになっているのである。この、態度、ほんとうに頭にくる。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。そして、きちがい的な意地でやっているときの態度と、きちがい的な意地で否定している態度がまったく同じなのである。こーーんなの、ほかの人にわかるわけがない。しかも、本人は、盲点になって、まったくわからない状態だ。台風の目のように、本人は、まったく関係がない人としてふるまうのである。この態度全体……。プロセス全体……。ほんとうに頭にくる。

 

2021年11月16日火曜日

つかれた

 ほんとうにつかれた。いろいろなことが浮かぶ……。

なんで、なんで。なんて、なんで。

あんなふうにうまくいかない。なんで。ほんとうに、じゃまばっかり。親父と兄貴がいなければ、どんだけ楽だったか。どれだけ今よりいい状態か。社会的にも金銭的にも……。人間関係も思い出も。ぜんぶ……。ぜんぶ。

 

2021年11月15日月曜日

長い時間、ヘビメタ騒音にさらされると、残りの時間も地獄になる

むなしいーーー。

 やっぱり、これは、かれるか。やっぱり、いろいろと問題はあると思うけど、人づきあいを再開するかな。どのみち、ぼくにしても、いつまで、この世にとどまることができるかわからないしな。

気分を書いてしまうと、どこに行くときも、家を出るときは、きちがいヘビメタにやられたときの朝のままなんだよ。これ、ほかの人には絶対にわからないんだろうなと思う。長すぎた。ひとことで言って、長すぎた。ヘビメタ騒音が一日だけ鳴ってたけど、注意をしたらやめふくれて、二日目からはずっと、ならないまますごした……というのであれば、ほかの人とぼくの差はないわけ。けど、どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった。ずっと鳴らし続けて、一日に一分だってやめてくれなかった。静かにしてくれなかった。ほかの人には、このことの持つ意味がわからない。せいぜい、「うるさかったんだな」と思う程度だろう。けど、ぼくにしてみれば、人生、ぜんぶ、一日の感覚、全部、なのだ。人間の感覚というのは、起きているあいだ持続しているわけで、ところどころで、途切れてしまうわけではない。そのときの……その一日の「雰囲気」というのがある。長い時間、ヘビメタ騒音にさらされると、残りの時間も地獄になる。けど、残りの時間の地獄なんて、他の人は、注意をむけるわけがない。注意をむけないし、注目しないし、認識しないのである。だから、ぼくにはあるのだけど、ほかの人には「ない」ことなのである。さいしょから、「ない」ことなのである。この感覚の違いは、でかい。でかすぎる。

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そういえば、犬を飼っている、むかしストーカーされたことがある女性はどうしているかな? 上の階の子供の足音のことで、だいぶ悩んでいたみたいだけど……どうなったのだろうか。「まず言わなければだめだ」と言ってごめん。言ったということを知らなかった。「幼稚園の子供からエネルギーをもらっている」と言ってごめん。距離が問題だ。

「楽しもう」という気持ちが、はてのない、憂鬱をうむのだ

 あと、3年か4年のいのちだと思って、行動しないとやばいなぁ。俺の場合、父親による虐待と、兄の騒音で、人生がくるっている。なにをするにしても、そこからの出発になる。兄の騒音のほうがでかいのだ。父親の虐待なんかより、兄の騒音のほうが1兆倍ぐらい、でかい。そのくらいに、影響を与えている。他人は、騒音の影響を無視したり、過小評価するので、「いま現在」ぼくが、ヘビメタ騒音の影響で苦しんでいるということを無視してしまう。「終わった騒音なら」「終わっているので影響がない」と思ってしまうのだ。この、屈辱。「そんなんじゃないから、こまっているのに……」。俺は、影響がないと思っている他人の発言に対して、そう思う。けど、「そんなんじゃないからこまっているのに」とその他人に言っても、他人は認めない。「なんだ、そんなの」と思ってしまう。他人は、きちがいヘビメタを鳴らされた期間がない。同じ体験をしてない。一日だけでも、どれだけヘビメタ騒音を浴びせられて、くるしいか、経験的にわかってない。それが100日、1000日、2000日、3000日、4000日、5000日、つみかさなったら、どうなるか、経験的にわかってない。経験的にわかってないから、本人の、ちょっとした騒音体験をもとに、おれのヘビメタ騒音について考えてしまう。その人たちにしてみれば、そういうことでしかない。

「楽しんだもの勝ち」とか言える状態じゃない。毎日毎日、ヘビメタ騒音が続いて、楽しく感じる回路というものをこわしてしまうので、そんなことは言えない。しかし、人生は有限であり、いつか死ぬということがわかっている。それならば、なるべく良い面を見て、楽しんだほうがよいのではないか……。これは、一理ある。しかし、一理しかない。それは、楽しもうと思えば、楽しめる人にとっては、真実だ。しかし、楽しもうと思っても、もう、どーーやっても楽しめない人にとっては、真実じゃない。楽しめないからだ。真実じゃない。そして、「楽しもう」という気持ちが、はてのない、憂鬱をうむのだ。破滅破綻をうむのだ。これも、毎日毎日、あの騒音が続いた人じゃないとわからないと思う。だから、そういうことを考えると、普通の人とぼくとでは、見ている地平がちがうということになる。意見があわないということになる。普通の人というのは、手短に言えば、きちがい家族によって、頭がおかしいやり方で、ずっとずっと、ヘビメタ騒音を聞かされたことがない人たちのことだ。この人たちとは、もう、ベースがちがう。ぜんぜんちがう。生命体としてまるでちがうのだ。

 

2021年11月14日日曜日

8分間ですら、くるしい。くるしすぎる

 

 どうせあと3年のいのちと、きめて、生きる……。まあ、別に3年後に自殺するわけじゃないけど、世界情勢からすると、そうなるのかなと思う。なので、覚悟を決めなければならないのだけど、それが、つらい。いま、これを書いているときですら、ヘビメタ騒音が鳴っている感じがするのだ。この日差しはヘビメタ騒音の日差しなのだ。もう、この世の感覚とヘビメタ騒音の感覚がくっついている。それほど、きつかった。それほど、ずっと、鳴っていた。くりかえし、くりかえし鳴っていた。今日は、日曜日で、いまは午後1時9分だ。日曜日の午後1時9分は、ずっとヘビメタが鳴っていたのだ。

勉強したかったとき、勉強ができなかった。ヘビメタ騒音でできなかった……。これが重要なのだ。これが、ぼくの人生にどれだけの影響を与えるか? 「どこで、研究なされているのですか」「研究者ですか」と訊かれて、「高卒です。どこにも所属してません」と言わなければならないときの気分はない。ともかく、そういうことをのぞいたとしても、ヘビメタ騒音が鳴っていた状態というのが、くるしすぎる。そして、ほかの人にはこの状態がわからない。逆立ちしたって、わからない。ぼくが書いた文章を1000回・読んだってわからない。実際の時間の長さというのがあるから……。鳴っていた時間の長さがある。ぼくにはあるけど、ぼくの文章を読んだ人にはない。だから、そういう人は、ヘビメタ騒音の影響を無視して、ぼくに、いろいろなことを言ってくる。悪意がない場合も、無視しているという時点で、相手ぼくをなめてかかっている。優位に立っていると思っている。自分は、普通に暮らしているので、こいつよりずっと上だと思っている。思っている。自分は、普通に働いているので、こいつよりずっと上の存在だと思っている。思っている。そういう決めつけと、自意識がある。ただ単に、きちがい兄貴にやられなかっただけの話なのに、まるで、存在として自分のほうがすぐれていると感じてしまうのだ。こんなやつらと、つきあえるか? こいつらは、エイリさんがコミュ障だから、お兄さんにやめてと言えなかったんだと、俺を下に見て、決めつけてしまう。こんなやつらと、つきあえるわけがないだろ。どうやってつきあうんだよ。そういう問題になってしまう。きちがいがきちがいの意地をとおして、きちがいヘビメタを、断固鳴らし続けると、やられた俺がそういう地位に落ちてしまう。 

あー、日曜日の午後1時17分は、きちがいヘビメタの感じしかしない。きちがいヘビメタが鳴っている雰囲気だ。この部屋の光は、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。この時間の雰囲気はヘビメタ騒音の雰囲気だ。1時9分から1時17分までの8分間。ずっと、がんがん鳴っている状態だ。この8分間で、何千回何万回と、頭のなかの、脳みそをぶたれてしまうのだ。がんがんぶたれる。くるしい。8分間ですら、くるしい。くるしすぎる。

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ともかく、この世の感覚が「ヘビメタ騒音付き」になってしまって、くるしい。だれに言ってもわからないと思うけど、くるしい。否定のしようがない。ふりはらうことができない。ぼくがどれだけ、「ふりはらう」努力を、何十年間も毎日やってきたか? ぼくが、どれだけ……。ぼくが、どれだけ……。

ふりはらう努力を何十年間も毎日やってきたぼくが、まったくやられなかったやつに「気にするな」なんて言われる。どれだけの屈辱か。ぼくがどれだけ、気にしないように頑張ってきたか……。けど、けっきょくやられると、気になる。やられ続けているときつかれるし、腹が立つ。そして、終わったあと、崩壊的な疲れがおそってくる。崩壊的な疲れがおそってくるのに、まったく眠れない状態で、夜をすごす。やられなかったやつらが、普通に眠っている時間、ぼくは、眠れないまますごす。これが、どれだけのことか、わかってない。毎日、やられなかったやつはわかってない。毎日、こういうことが続くということが、どれだけのことか、まったくわかってない。わかってないやつしかない。 

くそ佐藤、ふざけんなよ!!!

くそ社長、ふざけんなよ!!!

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俺の場合、ヘビメタ騒音があるから、どうやっても、ほかの人のようにはいかない。ほかの人は、旅行をすれば、旅行を楽しむことができる。ほかの人と会話すれば、会話を楽しむことができる。けど、ぼくは、旅行も会話も楽しくない。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音の雰囲気が頭のなかにあるから。この世が、ヘビメタ騒音の世だから。いつもいつも、楽しめない回路が発動している。スイッチオン。これ、なんていうのかな、意識ではどうにもできない。意識的に、ヘビメタ騒音のことは忘れて楽しもうと思っても、楽しめない。絶望的に楽しめない。

 

2021年11月13日土曜日

楽しいこと、ない。

 だめだ。もう。ばかにやられる。

あー、こういう世の中か。

あー、暗い。楽しいこと、ない。

2021年11月12日金曜日

自分の体が、数千日の、普通だったらありえない疲労で、ボロボロにならないとわからないんだよな

  いろいろなものを捨てようと思うと、むなしさがこみあげてくるなぁ。


つらいだけの一生だったけど、……むくわれなかったけど、いままで、よく生きてきたなぁ。ほんとうに、どのシーンをとっても、くるしいわ。あのこころぼそさはない。ヘビメタ騒音でずっとくるしかった。ずっとずっと、くるしかった。まともな気分じゃないんだよ。やられてない人は、こういうことを言えば、俺が特別に敏感で、特別に弱いから、そんなことを言っていると思うんだよ。あの生活が毎日続いたら、だれだって、こうなる。すべての時間、こころぼそくてくるしいということになる。俺は、ほかの人よりも強く、よくもったほう。俺は、ほかの人よりもずっと、しつこくて、粘り強いんだよ。そのぼくが……そのぼくが……。何千日もやられると、やはり、からだにがたがくるということになる。精神に亀裂が入るということになる。どうやっても、がんばれないということになる。どうやって、明るい気持ちを維持しようと思っても、明るい気持ちを維持できないということになる。ヘビメタ騒音……きちがい家族による、ものすごいヘビメタ騒音というのは、そういうものなんだよ。ほんとうに、まるでわかってないな。


やっぱり、自分の体が、数千日の、普通だったらありえない疲労で、ボロボロにならないとわからないんだよな。もう、どうやったって、我慢ができない状態になる。ノーマルな状態が、我慢ができない状態なのだから、普通にやろうとすると、短時間で、限界をむかえる。限界をこえたあとは、もうめちゃくちゃだ。そういう状態になるということが、ヘビメタ騒音が続かなかった人にはわからない。だから、気晴らしのたてまえや、気晴らしのきれいごとを言う。けど、その人たちは、あの毎日を十数年間経験してないから、そういうことが言えるだけ。同じようにやられたら、とてもじゃないけど、言えない。だから、そういうところでも、不公平なんだよ。

2021年11月10日水曜日

そういうふう「うごく」

  あの女の人とつきあっておけばよかったのかな。けど、まるまるのことで、意見が対立してもめたりすると、いやだな。もう、そういうのは、いやなんだよ。というわけで、ひとり。


もーーー、つかれた。


もーーー、いやだ。


脳裏にきちがい兄貴と、きちがい親父の姿が浮かぶ。あの顔、あの形相。あの頑固さ。絶対に、言うことを聞かないで、頭がおかしいことをやり切る。しかも、やり切ったつもりがないんだよ。「つもり」だけいつもない。けど、からだは、毎年、毎日、毎時間、毎分、毎秒、そういうふう「うごく」。


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たとえば、俺が親父のことについて語りだしたら、あの女の人はなんというのだろう。その発言に対して、ぼくはどう思うのだろう?


これ、なかったから、なんとも言えないのだけど、たぶん、あんまりいいことにならない。俺が、けっきょくなんだかんだ言って、親父の入院の手続きなどをしてしまう。めんどうを見てしまう。愚痴りながら、めんどうを見てしまう。

しくみがあるんだよなぁ。

しくみがあるんだよなぁ。

これは、もうだめだ。

やはり、終活か。 

俺の人生を考えると、きちがい兄貴とかきちがい親父とか、頭がおかしい・自分勝手な人に、ずいぶんとやられてきたなぁ。あいつら、頭がおかしいから、気がつかない。スイッチが入っちゃっている。もう、終活か。

俺は、もっと気楽な天国のようなところで暮らしたかった。この世は、地獄。 

このあいだも書いたけど、ヘビメタにやられると、ほかのやつにもやられるようなことになる。ヘビメタで能力をさげられると、ほかのやつにもやられる状態になる。佐藤(仮名)の説教だって、ヘビメタにやられたから、常識的な一般人である佐藤(仮名)になめられて、ヘビメタ騒音の影響を無視たした、一般的なことを言われることになる。この一般的なことというのは、そいつらにとっては、一般的なことだけど、ヘビメタ騒音実際に浴びてどうしようもないところで生きてきた俺にとっては、事情を知らないから言える「罵倒」「侮辱的な発言」なのである。きちがい説教なのである。こんなの、ゆるせるわけがない。自分で体験しないとほんとうに、ヘビメタ騒音のことはわからない。毎日毎日、ずっとあの態度で鳴らされてしまういうことの持つ意味がわからない。地獄に決まっているだろ。そりゃ、鳴らされている当時から……つまり、学生時代から、まわりの人間は、佐藤とおなじ一般人として機能しているわけだから、そうなる。

 

2021年11月3日水曜日

ヘビメタ騒音と親父のことで疲れはてたよ

 人間関係のこととか、これからのことを考えると胸が押しつぶされそうな気分になる。「こんなんじゃなかった」と思う。こんなんじゃない。こんなんじゃない。


どうしても、チカラが出ない。出ない。もう、つかれた。ヘビメタ騒音と親父のことで疲れはてたよ。ヘビメタ騒音はでかい。これがぼくの人間関係をうばってしまった。体力と気力をうばってしまった。しあわせをうばってしまった。

2021年11月1日月曜日

ほんとうに、だれもわかってくれないけど、すべての時間が、ヘビメタ騒音だった

 あの子としあわせに暮らしたかったなぁ。そういうしあわせも、ヘビメタ騒音がなければ(俺の場合)あったのに……。やったやつがまったくなにも感じてないというのも、親父と兄貴でおなじなんだよ。ほーーんと、どうしてこんなことになってしまうのか。


幼児のころ、おかあさんと買い物に行ったことを思い出して、泣きそうになった。

ほんとうに、だれもわかってくれないけど、すべての時間が、ヘビメタ騒音だった。そして、いまは、すべての時間がヘビメタ騒音後遺症だ。ほんとうに、きちがい兄貴、あんなに意地になって鳴らして、俺の人生かえしてくれ。俺の人生をかえしてくれ。どれだけ言っても、やめてくれくなかったじゃないか。

つらいに決まっているだろ。ほんとうに、きちがい親父とおなじで、「まったくなにもやったつもりがない」んだよね。おっそろしーことに、やっているさいちゅうから、うちの兄貴とおやじは、そう。

じゃあ、言えばやめてくれるかというと、それが絶対ないんだよね。

で、そういうことが、本人の頭の中……自分の頭の中で、つながってない。ぜんぜん別々のことだと認知しているんだよ。あるいは、まったくなにも認知してない。だから、どれだけ言ったってつたわらない。

殺されなければ、ずっとやっている。

なし崩し的に、きちがい兄貴が「勝っている状態」が続く。やったってやってない」と思っている状態が続く。その状態が続いているあいだ、「うち」で鳴らすには、でかすぎる音で鳴らしている。普通の家じゃありえない音で鳴らしている。うちの前がたまたま出でかい幼稚園で、となりの家が当時は、はなれていたから、鳴らせただけ。まあ、となりの人たちの騒音耐性は、幼稚園できたえられているとは思う。けど、俺の部屋はちがう。これ、音のでかさが、距離でどれだけちがうか、みんなわかってない。距離がほんとうに重要なんだよ。この至近距離の、きちがい騒音がどれだけ日常生活に影響を与えるかわかってない。この至近距離の、きちがい騒音が、どれだけ、勉強に影響を与えるかわかってない。この至近距離の、きちがい騒音が、どれだけ、人間関係に影響を与えるかわかってない。11歳までをのぞけは、その後の人間関係というのは、すでに、ヘビメタ騒音の影響を受けた人間関係なんだよ。俺がどれだけはずかしい思いをしてきた。


ほんとうに、どれだけ努力しても、長期騒音でだめなんだよな。ものすごいハンディ。ものすごい障害。ほかのひとにはわからない。わからないから、長期騒音のハンディがゼロに見える。それなら、常識に基づいて、いろいろな、好き勝手なことを言える。好き勝手なことを言っているというつもりもないだろう。はっきり言えば、きちがいにやられて、一般の人にばかにされるような立場に陥ってしまったのである。一般の人は、やられてないから、理解しない。自分の体で経験しなければわからないことというのがある。長期騒音生活は、それだ。まさしく、それ。盲点だけど、本当にすごい障害なんだよな。ほかの人が絶対にわからない障害。経験したことがない人が絶対にわからない障害。それが長期騒音障害だ。みんな、わかってないよ。どれだけのマイナスになるかわかってない。ライフハックみたいな助言でそのマイナスが、くつがえるわけがないでしょ。あった人に、ライフハックみたいな助言をされてしまう立場というのが、そもそも、ヘビメタ騒音障害から、しょうじたことなのである。こんなのはない。言いきれない。言いきれずに、死ぬわけか。どれだけ言っても、だれにも理解されない。繰り返しになるけど、自分の体で経験してない人には、わからない。騒音なんて鳴り終われば、終わりだろと思ってしまう。鳴り終わったままずっと障害になって残るとは思わない。一日だけならそうじゃないよ。けど、何年間も毎日やられると障害になる。これが、何年間も毎日、現実世界で、現実にやられなかった人には、さかだちしても、わからない。そして、わからないほうが、いいのである。わからないほうが、すぐれているのである。経験がなければ、高い地位に行ける。これは、どういうことかというと、たとえば、ぼくと、長期騒音やられなかった場合のぼくが、おなじ才能を持っていたとしても、社会的な地位がぜんぜんちがうということになる。一般の人は、言っていることよりも、言っている人の社会的な地位を参照して、言っていることが正しいかどうか決めてしまうところがある。座頭(仮名)とか、あるいは、「どこで研究をしてらっしゃるのですか」と訊いてきた人だって……。

ぼくの履歴がヘビメタ騒音付きの履歴なのである。きちがい兄貴は、中学のときも、どれだけ言っても、俺に影響を与えているということを認めない。ヘビメタ騒音のなかで、勉強ができないとずっと言っているのに、きちがいおやじとおなじ、きちがい的な虫のしかたで無視して、認めない。これ、「ないことになっている」んだよな。あたかも、自分が1分だって鳴らしてないような感覚で、怒っている。へそをまげている。きちがい的こだわって1分だって認めないで鳴らしているのに。でかい音で思いっきり鳴らすことにこだわっているから、思いっきり鳴らすということだって、一秒だって、1分だって、ゆずりたくないのだ。で、そういう気持ちがあって、そういう行動をしているのに、あたかも、そういう気持ちがなくて、そういう行動をしてないと思っているような態度なのだ。この態度!!

こんなの、普通の人はわからない。ぼくがどれだけ、普通人である座頭(仮名)に説明したって、座頭(仮名)はわからない。座頭(仮名)は普通人の感覚で、みとめない。「そんなひと、いるのかな?」なんて思っている。座頭(仮名)の前にいるのが、職歴がなく、仕事をしてない俺であれば、砂糖は、そういう視線で、俺を見てくる。そういうことだって、ヘビメタ騒音が過去において15年間も鳴ってなければなかったことなんだぞ。あるいは、学生時代だけに限って7年間鳴ってなければなかったことなんだぞ。むだなあらそいが、生じるんだよ。ヘビメタ騒音で!! 兄貴がいないところで!!




2021年10月30日土曜日

恵まれた人が「親切にする」ということを言った場合、恵まれてない人の状況を根本的に無視する

 『人に親切にする』って、たとえば、どういうことなのかということを考えてみる。

たとえば、迷子になって困っている人に道を教えてあげる。

たとえば、誰かが落としたものを、拾って「落としましたよ」と言って、渡す。

たとえば、誰かが落としたものを、拾って、警察に届けてあげる。

たとえば、誰かが「それをとって」と言ったから、とって渡してあげる。

たとえば、だれかが「肩がこった」というので、その人の肩をもんであげる。

たとえば、道をゆずってあげる。

たとえば、重いものを持っている高齢者に声をかけて、重いものを持ってあげる。

そういうレベルのことなのではないだろうか。

家族や同僚といった身近な人に、ちょっとした親切をしてあげるということだろう。見ず知らずの、ほんとうにこまっている人に直接、継続的に親切にしてあげるということを、じつは、含んでない。

恵まれたところに生まれて、恵まれた生活をしている人は、自分がどれだけ恵まれているかわかってない。

自分を中心にして考えれば、自分は普通なのだ。

そして、ほんとうにこまっている人に関しては、無視してしまう。ほんとうにこまっている人は、彼らの生活圏のなかに入ってこないのだ。たまたま、道に迷っていた人が、道を聞いてきたので教えてあげると言った場合は、もちろん、道に迷っていた人が、底辺の人で、道を教えてあげた人が恵まれた人である場合がある。

しかし、そういう例外をのぞけは、恵まれた人が底辺の人に親切にすることはない。そもそも、生活圏がちがうので、出あわないのだ。

そして、出会った場合には、「役職」をとおして出会っているので、プライベートな問題に関しては、話し合うということがない。例外を除けば」と書いたけど、その例外の特徴は、「一回きりですむ」ということだ。

継続的にずっと親切にしなくてもよいのである。

一回の親切で、親切にした気持ちになることができる……これが、重要な要素だ。

すでに恵まれた人は、恵まれた人に囲まれているので、トラブルに巻き込まれることが少ないのである。親切にしてあげたことで、トラブルに巻き込まれることが少ない。そして、相手も、恵まれているので、「そこのところはわかっている」という場合が多い。

ようするに、恵まれた人のまわりには恵まれた人がいて、一回きりの親切をした場合、その一回の親切が終わったとき、親切にした人がいい気分になれる(幸福な気分になれると)ということでしかない。

たとえば、お金の貸し借りにしても、底辺だと問題が発生しやすいのである。お金がなくてこまっている人にお金を貸してあげることは、「人に親切にする」ことになるのだろうか? ならないのだろうか?ということを考えたとする。

一般的には、「親切にしたことになる」と思う。

それはそうだろう。おカネがなくてこまっている人は、こまっている人だ。困っている人がまるまるをくれと言った場合、あげるのが、親切にすることだ。困っている人がなにかをくれと言ったにもかかわらず、あげないというのは、親切にしたなかったということになる。

しかし、おカネを貸してくれといってきた人に、おカネを貸したのに、おカネが返ってこなかったという場合を考えてみれば、おカネを貸して親切にしてあげたにもかかわらず、けっきょくは、不愉快な思いをすることになるのである……おカネを貸した人は。お金を返さないのに、何回もおカネを貸してくれという人だっている。この世にはいる。そういう人は、返さずに、何回も何回も、金を貸してくれと言ってくる。何回か金を貸してあげたあと、「金を返してくれなければ、おカネは貸してあげない」と言ったら、その金を貸してくれと言ってくる人が「けち」と言って怒ったとする。

こういうトラブルがあった場合、ほんとうに、おカネを貸してあげたことは、その人に親切にしたことになるのだろうかという問題がある。こういう話を聞けば、「そんなのはていよくぼっったくられているだけ」「そんなのは、利用されているだけ」と思う人がいるかもしれない。

「親切にした」ことでトラブルに巻き込まれることがあるし、「親切にした」ことでトラブルが発生する場合もある。

しかし、恵まれた人は、「親切にすればしあわせになる。これは絶対に正しい」と言ってしまうのである。これは、その人の親切が、まわりにいる恵まれた人に対する(継続的ではない)親切なのでそういうことが言えるのだ。生まれたときから恵まれている人は、まわりにいる人も恵まれている人なので、親切にすることで、トラブルに発展するということを経験することが少ない。

また、恵まれた人にとってみれば「人にあたえることでしあわせになる」ということも、真実なのである。しかし、これも、直接的に与える場合は、身近な人に限られていて、しかも、一回ぽっきりで終わるようなことなのである。

間接的に与える場合は、もちろん、宗教団体や慈善団体に寄付をするということが含まれている。そして、貧しい人にも間接的に与えれば、あたえたことになると言うことができる。

しかし、直接的か間接的かということは、じつは、本質的な問題なのである。あたえるものを持ってない人、あるいは、持っているものが少ない人は、あたえることで、しあわせにはならないのである。しかし、裕福な人は、そういう条件を無視して「あたえれば幸せになる」と言ってしまう。

そして、「金額の問題」や「ものをあたえるということに関する問題」を指摘されれば、無形のものでもよいということを言いだす。つまり、おカネやモノをあげなくても、親切にしてあげるだけで、あたえたことになるというようなことを言いだすのだ。

しかし、親切にしてあげるということには、問題が含まれている。ぼくがずっと言ってきたことなので、省略。

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ようするに、恵まれた人が「人に親切にすれば幸せになれる」と言った場合、ごく限られた範囲では、そういうことも発生しうるということしか言ってない。しあわせになれる」と言っても、そのとき、しあわせを感じたという話にすぎない。不幸な状態でくらしている人は、たとえ、親切にされても、不幸な状態のまま暮らすということになる。どうしてかというと、その親切というものの、中身がちがうからだ。けど、「親切」という言葉を使って、さまざまな具体的な内容を一緒くたにあつかうことで、ある種の、印象操作をしているのである。悪意はないのだろうけど、これは、すでに不幸な生活をしている人にとっては、「だまされた」と思えるような話なのである。で、その主観は、正しい。

恵まれた人は、恵まれない人に、継続的に、直接的に、親切にし続けることがない。これは、決まっている。かならず、寄付などの間接的な方法になるし、たとえ、ランダムに親切にしたとしたとしても一回きりの関係になる。寄付の場合は、末端に届かないという問題と、社会全体の貧富の差を改善するものではないという問題がある。これは、一種の免罪符だ。そして、「うら」がある。手放しに、喜べるものではない。貧富の差を「より固定するもの」として機能してしまうのである。

さまざまなトリックが仕掛けられているので、恵まれた人が「人に親切にすればしあわせになれる」と言った場合の問題点が、わからないようになっている。

ものすごいことになるぞ。

  ものすごいことになるぞ。

ものすごいことが起こる。

それは、いいことだ。

(これは、ヘビメタ騒音とは関係がありません)

2021年10月29日金曜日

そういうふうに、複合的に、俺の人間関係を破壊していくのである。

 昨日は、カスミストアまで行った。Big-Aには行かなかった。

しかし、ぼくがつらい。精神的にも肉体的にもつらい。

もう、これはないなぁ。

けど、ビオフェルミンだけ買いに行こうかな。


もう、たましいの不滅を信じるしかないな。

こんな状態で暮らしていて、楽しいわけがない。

おいつめられた。ほんとうにいろいろな出来事があった。

マイナスの出来事が多い。きちがい親父ときちがい兄貴という重荷。あいつらが、きちがいてな意地で、きちがい的なことをすると、めちゃくちゃに不愉快な気持になる。実害がしょうじる。実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持と、悪のサイクルが大きくなる。負荷がでかい。処理しきれなかった負荷が、次の日に、襲い掛かる。そうなると、今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事→今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事というように、処理できなかった負荷がたまっていく。やっかいな出来事がたまっていく。

きちがい兄貴は、きちがいヘビメタ騒音をやめないし、きちがい親父は(きちがい親父の悪い性格が治ってしまうわけではないので)ヘビメタ騒音ではない個別のきちがい行為をやめない……という状態のまま、1日が終わり、それが毎日繰り返される。まあ、ヘビメタ騒音がはじまってからは、きちがい親父のことは、けっこう後方に退くのだけど、それでも、きちがい親父のきちがい精神回路が、ヘビメタ騒音の持続に影響を与えるのだ。そうなると、たとえば、「そんな音で鳴っているのに親がなにも言わないはずがない。エイリさんが大げさに言っているだけだ(エイリさんが嘘を言っているだけだ)」というような思考をしてしまうやつが、好き勝手なことを言うというようなことが発生する。そうなると、ぼくが不愉快な思いをする。こういうことを言うやつに、どれだけ、兄貴のことや親父のことを説明してもむだなのだ。そいつは、自分の考えをかえない。そいつのなかでは、ぼくが、特別に騒音に弱いやつで、そうじゃなくても、嘘を言うやつだということになってしまったままになる。そうなると、そういうふうに言うやつが、ほんとうはいいやつだったとしても、つきあう気持ちがなくなる。もし、きちがい兄貴がきちがい兄貴でなく、きちがいヘビメタにこだわってこだわってきちがいヘビメタを鳴らさなければ、こういう人だって、仲良くやれたかもしれないのだ。そういうふうに、複合的に、俺の人間関係を破壊していくのである。


ヘビメタ騒音でつらかった。ほんのちょっとでもいいから、しあわせに暮らしたかった。

 ヘビメタ騒音でつらかった。ほんのちょっとでもいいから、しあわせに暮らしたかった。

ほんとうに、つらい。ヘビメタ騒音が鳴っていた。この、朝の光のなかで、鳴っていた。ほかの人にはどうでもいいことだけど、どうしたって、つらくなる。どうしたって憂鬱になる。ヘビメタ騒音で攻撃されたあと、眠れないんだよ。その眠れないというのも、ほかの人にはわからない状態だと思う。ただ単に眠れないだけではなくて、ほんとうに、頭と体がへんな感じになって、つらい。くるしいときに、くるしいと思うだろ。それと同じなんだよ。「つらくない」と言えばつらくないとか、「つらくない」と思えばつらくないとか、どれだけ、人の状態を無視した助言か。こんなものに……。こういうレベルの発言をするやつに、ばかにされる存在になってしまうだろ。いや、もう、こういうレベルの発言を俺にしている時点で、そいつは、俺のことをばかにしている。見下している。彼らとぼくのちがいと言えば、ヘビメタ騒音の有無だ。きちがいう兄貴の有無だ。きちがい親父の有無だ。条件がちがう。俺、きちがいヘビメタ騒音・あり、きちがい兄貴・あり、きちがい親父・あり、だ。そいつらは、きちがいヘビメタ騒音、なし、きちがい兄貴・なし、きちがい親父・なし、だ。条件がちがう。しかし、条件を無視して、自分は自分の感情の制御ができる。あるいは、自分はつらい状態に「より」たえられる。そういう能力があるという、いつわりの自信を持ってしまう。見下しているだろ。俺「より」も自分(へんな助言をする人)のほうが、能力があると思っているから、思いあがった助言ができる。

自分は、そういうことがあっても、こういう方法で「いきいきと」生きていけると思っている。自分は、そういうことがあっても、こういう方法で問題を克服できると思っている。思っている間もなく思っている。

ヘビメタ騒音がない世界で暮らしたかった。

あの子となかよく暮らしたかったな。ヘビメタが鳴っているとそうもうことも、かなわなくなってしまう。どれだけひきつった生活をしているか。どれだけのことがヘビメタ騒音でじゃまされているか。これ、やられてない人はわからないと思うけど、前の日のヘビメタ騒音が次の日に影響を与える。「やられた」からだで、生きていかなければならなる。影響を受けている。次の日のすべての時間、影響を受けている。その体力でやらなければならないからだ。寝不足と、前の日のヘビメタ騒音つかれが残っている状態で、生きていかなければならないからだ。これは、その日のすべての出来事に影響をあたえる。これは、イ・ラショナルな思考じゃない。けど、やつらは、「影響がないものとして」きりわけて、イ・ラショナルだとしてしまうのだ。これも、傲慢。やられてないから、やられてないからだで「自分は」すごすことができたというだけの話だ。けど、これも、「精神力」とか「能力」のちがいだと思ってしまう。



2021年10月27日水曜日

なんとなくの、正しさ

 なんとなくの、正しさ……と、実行してもしあわせにならない人がいるということの乖離について、ずっと述べてきたのである。それは、実行してもしあわせにならない人が悪いのではなくて、理論が最初からおかしい。理論が最初から、自分を中心とした理論なのだ。


もともと、しあわせな人がいるとする。その人は、人生の最初から、ずっと恵まれている人だ。この人と、人生の最初からずっと、恵まれてない人の差はでかい。人生の最初から、ずっと恵まれている人は、基本的に、しあわせな生活をしている。……トートロジーになってしまったけど、ともかく、長い間、しあわせな生活をしている。すでに幸せな生活をしているところで、たまたま、人に親切にしたら、しあわせを感じたということなのだ。これが、「人に親切にすると、しあわせになる」という理論を裏付ける根本的な体験だ。すでに、しあわせに暮らしている人が、親切にしたら、より、しあわせを感じた……こういうことだ。すでに不幸な人は、人に親切にしても、しあわせを感じる力が弱くなっている。あるいは、人に親切にしたことで、トラブルに巻き込まれて、いやな思いをする。すでに不幸な人は、生まれたときからずっと、不幸な生活をしているのだ。苦難の連続なのである。

しかし、「苦難」という言葉で、抽象化されると、すでに幸福な人も、「自分だって、苦難の連続だった」「自分だって、苦難を経験した」と言ってしまえるところが出てくる。しかし、生まれたときから幸福な人が経験した「苦難」と、生まれたときから不幸な人が経験した「苦難」はちがう。ぜんぜんちがう。しかし、生まれたときから幸福な人は、生まれたときから不幸な人が経験した「苦難」を経験することができないので、経験をとおして、知ることがない。経験をとおして知ることができない。不幸な人の話を聞いて、話として理解しているだけだ。「そんなこともあるのかな」ぐらいの理解度だ。ほんとうの部分は理解してないし、経験がないので、そのときの「感情」がわからない。そのときの感情というのは、具体的な不幸な経験をしているときの感情だ。これは、時間を含んだ経験だ。あんがい、時間の長さというのが、影響を与えているように思える。それは、度合(強度)や回数(頻度)が、基本的な感じ方に影響を与えるように、時間も影響を与えるのだろう。回数が増えれば、基本的には時間がなかなくなる。けど、回数には還元できない時間の長さも重要だと思える。基本的な感じ方というのは、ようするに、たとえば、「自分は不幸だ」とか「自分は幸福だ」という感じ方のことだ。


問題なのは、もともとしあわせに暮らしている人が「まるまるをしたら、幸福を感じたので」〇〇をすると幸福になると言ってしまうことだ。幸福を感じるということと、幸福な生活をするというのは、ちがう。しかし、ずっと、幸福な生活をしている人は、その幸福な生活のなかで、「幸福感を感じること」を経験してしまうと、その幸福なことをすれば、「だれでも」しあわせになると、まちがった推論をしてしまう。


ずっと、不幸な生活をしている人が、おなじことをしても、それ以降幸福に暮らせるわけではない。多数派の理論で書いたけど、多数派が快をえられることに関しては、多数派に理解されやすい。つまり、その行為をやったとき、しあわせ感は、あるのだ。たしょうの快を感じる。満足感を得る。その満足感が、どの程度持続するのかは、状況によってちがう。しかし、ほかのこともあるので、不快な感情を呼び起こす出来事が発生すると、そこで、とりあえず、満足感が消失してしまうのである。すでに、しあわせな状態でくらしている人は、満足感を消失してしまう出来事が少ないし、満足感を消失してしまっても、別のことでしあわせを感じることができるので、全体としては、満足感がある生活が持続しているのである。別のことでしあわせを感じるというのは、良好な家族関係などから生じる出来事によって、満足感が充当されるということだ。この満足感は、たとえば、ラーメンを食べたときに感じる満足感や、人に(たまたま)親切にしたときに感じる満足感とはちがう満足感だ。これは、満足感自体に違いがあるということを言っているのではなくて、ちがう出来事(単体によって)引き起こされる満足感だから、ちがう満足感として考えようと言っているのである。ようするに、Xとして、とりあげられたことではなくて、別のことで、満足感を感じ続けているので、全体の生活として「しあわせだ」と感じることができるのである。それは、生まれたときから恵まれた環境で育ってきたからこそ、できあがる状態だ。しあわせな生活と、単体のしあわせ感はちがうということに、気がついてない。単体のしあわせ感は、短ければ3分ぐらい、長くても二日ぐらいで消えてしまう。しあわせな生活をするには、満足感をもたらす出来事が、ある程度、連続的に発生しなければならないのである。そして、ここが肝要なところなのだけど、不快をもたらす出来事が連続的に発生してない状態でなければならないのである。たとえ、一回、ラーメンを食べてしあわせ感を得たにしろ(満足感を得たしろ)それをうわまわる不愉快な出来事が、何回も何回も連続して発生する生活をしている場合、「幸せな生活をしている」という気持ちにはなれない。








しかし、「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」ということと「ラーメンを食べれば、だれだって、しあわせになる」ということは、基本的な差がない。さらに言えば「親切にすれば、だれだって、しあせになる」ということと「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」いうことには、基本的な差がない。


(以下省略)

2021年10月26日火曜日

ヘビメタ騒音でくるしい。 どこまで行ってもおなじだ。昼も夜もおなじだ。

 ヘビメタ騒音でくるしい。

どこまで行ってもおなじだ。昼も夜もおなじだ。

ヘビメタ騒音でくるしい。

おなじだ。ヘビメタ騒音でくるしい。

あのときも、このときも、いまも、ヘビメタ騒音でくるしい。

他人?

他人にわかるわけがない。どれだけ親しい人だってわからない。

そりゃ、つらいんだろうなということはわかるかもしれないけど、別の個体だから、わからない。ぼく以外の人は、わからないところで、ぼくにものを言う。すべての基準がちがってしまったんだよ。ヘビメタ騒音生活がどれだけくるしいか。その積み重ねが、どれだけ、ぼくの人生を破壊してしまったか。

破壊してしまったか、ぼく以外の人にはわからない。

2021年10月25日月曜日

ほんとうに睡眠回路が破壊されていると、こういうところでめちゃくちゃになるんだよ。

  風呂に入ったけど、やっぱり、どれだけ気をつけても、足をダニに刺されてしまう。足首のところを負傷した。あとは、普段見ないようにしているのだけど、裸になるとわかる傷がある。ねむのところをだいぶひっかいたみたいで、ひっかき傷がある。地味にこたえるなぁ。手首のところは相変わらず、10箇所ぐらい、残っているなぁ。


で、部屋に帰ってきて、かゆい思いをしながら、これを書いている。基本的には、なんとかして、風呂場のダニを退治しなければと思っているのだけど、あんまり、決め手はない。あとは、きちがい親父の部屋をどうにかしないと、居間と西の間の畳をかえたとしても、どのみち、親父の部屋にあるものを運ぶときに、ネズミの糞がぽろぽろとおちるので、また、振出しに戻ってしまう。(親父の部屋にあるものは半分ぐらいこのあいだ持って行ってもらったけど、タンスが三つ残っているし、ベッドやその他のものがある)


風呂には、電池式のアース蚊取り器を置くことにして、いま注文をしたけど、風呂には通気口があるので、これを置いても、片づくような感じがしない。あとは、煙を出す普通の蚊取り器をセットして、自分は外に出るという方法があるのだけど、火を使うので、さすがに抵抗がある。


自分が二階にいる状態でやると、煙が見えない状態でもガスがきて、のどや鼻の奥がおかしくなるので、いやだ。


やはり、借りるしかないのだけど、なんていうのか、手短に言えば、転院の繰り返しで、エネルギーがなくなった。病院1から病院2に転院するとき、病院1の退院手続きをして、病院2の入院手続きをしなければならない。逆の場合は、逆。これを、何回も繰り返した。もともと、ヘビメタ騒音で、睡眠回路が破壊されているので、48時間ぐらい眠れなくなる二日間、三日間が、何回もあったのでくるしかった。いちおう、48時間ぐらい眠れなくなる状態を一セットとして、回数でかぞえることにする。そうしないと、何日もあってというところで、誤解を招くんだよな。ほんとうに睡眠回路が破壊されていると、こういうところでめちゃくちゃになるんだよ。


で、ともかく、転院の繰り返しと、親父の老人ホームを探すのでくたびれた。ネズミ系の話をするかどうかでまようんだよ。きちがい親父が、熱心にネズミを餌付けして、ネズミの侵入を受ける日々が続いた。ネズミ対策工事に反対して、何年間もネズミの侵入を受けたので、たいへんなことになっている。で、今日、起きてから一番目にやったことというのが、西の間のげろにアルコール消毒液をがんがん掛けるということだった。このげろというのは、たぶん、ネズミのげろだ。で、これは、ずっと気がつかなかった。これも、いろいろとあるのだけど、このあいだ粗大ごみ処理をするまで、そのエリアになにがあるのかわからなかったから、粗大ごみ処理をしたときに、業者の人が、それを見て「これは?」と訊いてきたわけ。で、ぼくは「わかりません」と答えたわけ。ほんとうにわからないから。で、業者の人によると、「これは、ものすごくあぶない」ということだった。ようするに、こういうのを放っておくと、病気になるのだ。けど、掃除をすると言っても、俺が掃除をすることになるわけだよ。いやだよ。そんな掃除……。掃除中に、ダニに刺される可能性はとても大きいし、掃除中に、そのげろから出ているばい菌で病気になる場合がある。「だから!!」言ったんだよ。「だから!!」言ったの。きちがい親氏が、頑固に無視をする。


そんなことを言えるのは、ヘビメタ騒音を経験してないやつだ

 楽しくない。こんな生活、楽しくない。楽しくない。




じゃあ、楽しくすればいいじゃない……。


そんなことを言えるのは、ヘビメタ騒音を経験してないやつだ。楽しめない。


けど、いっしょにいる人が「楽しくない」「つまらない」と言っていると、いっしょにいて、おもしろくないという気持ちになるというのは、わかる。わかる。むかし、ぼくを元気づけてあげようとした人が何人かいて、その人たちといるときも、じつは、おもしろくなかった。ヘビメタ騒音で、不安で、不安で、不愉快で不愉快で、腹が立って腹が立って……おもしろくない。おもしろくなかった。

2021年10月23日土曜日

なにが、ヘビメタ騒音だって言ったやつ



なにが、ヘビメタ騒音だって言ったやつ、でこパッチンしてやりたい。ほんとうに頭にくる。いま、午後10時25分か。午後10時25分も、毎日、鳴っていた。何十回、きちがい兄貴の横で、「やめろ」「やめろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」と怒鳴っても、一分も、しずかにしてくれなかった。きちがい兄貴がきちがいおやじとおなじ態度で、勝手にやりやがる。殺さなければやめさせることができない状態を、つきつける。こんなの、ない。きちがい家族による、きちがい的な騒音でこまったことがないやつが「なにが、ヘビメタ騒音だって」言いやがった。まるまるまるまるしてやりたくなる。「なにが、ヘビメタ騒音だ」って言ったやつは、中学のときのクラスメイトで、本人が、ヘビメタ好きで、がんがん鳴らすやつなんだよ。もっとも、俺はそいつと一緒に住んでいたわけじゃないから、そいつがどれだけヘビメタを鳴らしても、かまわないけどな……。きちがい兄貴の意地というのが、ほかの人にはわからないし、感覚器をだまして、普通の音のつもりで、やってしまうというのが、ほんとうに、頭の病気なんだよ。普通の人が、ほんとうに鳴らしている音のでかさで聞こえているけど、それは、認めないで、「普通の音で鳴らしている」と言い張っている状態じゃないのだ。その場合は、感覚器が正常だから、自分がどのくらいの音で鳴らして言か知っている。きちがい兄貴の場合は、自分のやりたい気持ちにあわせて、「普通の音」と思う音のでかさが、かわってしまう。それを、意識的にやっているのではないという問題がある。それは、きちがい兄貴にとってだけ、都合がいいことなのである。ほんとうはひどいことをやっているのに、ひどいことをやっているという気持ちが生じない。やっているつもりがないまま、ずっとやり続けることができる。こんなの、でかい音で鳴らしたいきちがい兄貴にとってだけ、都合がいいことだ。そして、そのしわ寄せは、全部こっちにきてしまうのである。だから、きちがい兄貴本人は、どれだけ「迷惑をかけても」迷惑をかけたつもりがまったくないという状態でくらすことができる。これが、兄貴のやったことなのである。で、それは、うちのばあい、兄貴だけがやったことじゃなくて、親父もやっている。どっちも、生きているあいだ、こういうところが、なおらない。言えば、注意してくれるところじゃないのである。言えば、なおしてくれるところじゃないのである。シニモノグルイ。ホネガラミ。きちがいの無意識。きちがいのきちがい的な意地。きちがいのきちがい的な無視。本人が無視してしまえば、どれだけいじになってやってたって、まったくやってないことになってしまうのである。……意識的には……。そういうことが、続く、10年間。20年間でいいわけがないだろ。そりゃ、きちがい兄貴が、以後に興味を持って、ヘビメタを思いっきり鳴らすことには興味を持たなければ、別だけだ。で、これが、ほかの人にはわからないことなのである。ほかの人にはわからない。ほか人はほかの人で、「そんなのはかんけいがない」「そんなのはどうでもいい」と思っている。けど、俺には、ヘビメタ騒音を鳴らされたときにできあがった、くやしい気持ちがある。疲労がある。崩壊的な気持がある。

2021年10月22日金曜日

しかし、ほんとうに生まれの格差がでかいな …… 幸福論と生まれの格差について

 しかし、ほんとうに生まれの格差がでかいな。生まれの格差が与える影響がでかすぎる。能力や努力の差じゃないのである。あるいは、努力してこう感じるようにすることができるかどうかの差じゃないのである。積み上げられてきたことがちがう。実際に、積み上げられてきた経験……。実際に積み上げられてきた経験のほうが「こういうふうに感じるようにしましょう」というようなきれいごとよりも、深く深く、「実際の感じ方」に影響を与える。すっとぼけた人たちは、これがわからない。すっとぼけた人たちは、みんな、恵まれた側の人で、生まれたときから、恵まれた経験を積み上げてきた人たちなのである。その恵まれた経験というのは、単に、金額の上下で評価されるようなものではないのである。金額というのは、親が自分にかけた金額であり、もうちょっと軽く言えば、親の年収と貯金だ。まあ、実際の貯金額に関係なく、きちがい的にケチな人がいる。そういう人は、子供のために金を払うとなると、たとえ、10円でも逆上してしまう。なんくせをつけて、怒り狂って、怒り狂って払わないことに成功する。自分がやってやりたいことというのは、子供の感情に関係なく、自分がやってやりたいので、勝手に、エンジンがかかる。そうなると、子供が「やめてくれ」と言っているのに、その発言を無視してやってしまうのである。その場合、金がかかることでもやってしまう。けど、これは、ムダ金だ。子供としてはそんなところに、金を使うのではなくて、あのとき、10円払ってほしかったという気持ちになる。たとえ、なにかを買ってもらったにしろ、きちがい的な親が思いついで買ってやったものは、子供にとっていらないもので、屈辱的なものなのである。ともかく、「子供の言う通りには絶対になにがあっても動いてやらない」という無意識を持っている親がいて、この親の場合は、実際の収入とか、実際の貯金額というのは関係がない。けど、一般的には、やはり、子供の(金における格差)ということを考える場合は、親の収入と貯蓄額が重要になる。あるいは、住宅ローンや車のローンといった負債額が重要になる。普通は、貯蓄額について言及る場合、負債額のことは、考えてない。まあ、もちろん、負債額を考慮して、貯金額について考えることもできるけど、それは、一般的ではないなぁ。けど、実際の生活には、ローンは影響を与えるかもしれない。ようするに、親の金銭感覚には影響を与えるだろう。けど、ローンなどの負債額について、あんまり考えないことにして、貯蓄額を考えることにしよう。で、その場合、やはり、生まれの格差は、単純に親の年収や、親の貯蓄額と関係があるものとして話されているのだけど、親の年収や親の貯蓄額には、あらわれない要素も、ほんとうは、重要だ。

こんなのは、恵まれた人にはわかるわけがない。さらに、親が人格的にまともなのだけど、収入が低い層に分類される親に育てられた人にもわからない。収入が低い層に分類される親は、だいたい、年収200万円以下かな。まあ、ゆるくとって年収280万円以下か。けど、これも、時代によってちがうんだよな。子供の人数も影響する。


2021年10月21日木曜日

俺にえらそうなことを言うやつは、みんな、騒音装置をつけて、15年間暮らしてからにしろ。

  幼稚園が運動会の練習をし始めたから、うっっっさい。うっさいわ。幼稚園は、やっぱり、うっさい。スピーカーで「よーーい、どん」とか言っているからな。


しかし、この世。このくそ世界。


むかしは、よかったんだよ。幼稚園の運動会なんて、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまでは、どうでもよかった。俺が、幼稚園の騒音に特別に文句を言っているのは、きちがいヘビメタ騒音で、俺の人生がぶっ壊れたあとだから。俺の体がぶっ壊れたあとだから。


幼稚園がうるさいから、騒音耐性が特別に強い人ばかり、うちの横にいるという可能性がある。それだって、文句は言われた。けど、きちがい親父が「うちの息子がやっていることに文句を言うな」みたいなことを言って、怒って怒って、はねかえした。きちがいだから……。きちがいなんだよ……。反応しかたが……。


あと、幼稚園の騒音で思い出すことは、ここで、「元気をもらっている」と書いてしまったことだ。これは、子供の足音騒音に悩んでいる女の人に失礼だった。けど、ヘビメタ騒音はそんなもんじゃないという気持ちもあった。あったんだよ。


それから、みんな、ヘビメタ騒音並の騒音が鳴る、騒音発生装置を脳内につけるべきだ。そうじゃないと俺の言っていることがわからない。座頭(仮名)や幸雄(仮名)だって、騒音発生装置を脳内につけられて暮らせば、俺のような体になるのである。そういうことがわかってないやつらが、くそ発言をしやがって。たまたま、ヘビメタ騒音もなく、脳内騒音発生装置もつけてないから、働けるだけなのに、えらーーそーーなことを言いやがって。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのが、ほんとうにうるさくて、幼稚園の騒音並の騒音ではない。座頭が考えられるような騒音じゃない。一分で心が引き裂かれてしまうような騒音だ。これ、ほんとうに、位置によってちがうんだな。近所の人と俺とでは、きちがいヘビメタのスピーカーからの距離がちがう。ちょっとした距離のちがいでどれだけちがうかわかってないな。押し入れのうしろ、きちがいヘビメタのスピーカーがあった。本人の耳が悪くなるような音でずっと、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も聞かされればこたえる。俺にえらそうなことを言うやつは、みんな、騒音装置をつけて、15年間暮らしてからにしろ。騒音装置をつけて、毎日暮らしてから、文句を言え。えらそうなことを言え。

で、一般の人に対して、そういう気持ちにならざるを得ないという、騒音体験が、どういうものなのか、きちがい兄貴は思い知れ。

*     *     *

やっぱり、不愉快だ。もう、まるまるまるまるか。

ほんとうに、自分勝手なバカばかり。俺がヘビメタ騒音について説明したにもかかわらず、ヘビメタ騒音の影響を無視して、自分が思っていることを言ってきやがって……。自分がもしやられていたらできないことを、できると言ってきやがって……。どれだけ自分勝手なら気がすむのか。だいたい、ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい親父のような態度で、きちがいヘビメタを夢中になって鳴らさなかったら、こんなことになってない。きちがい兄貴がやったことがあまりにも異常だから、ほかの人はそういうことにさらされてないし、無頓着だ。

こういう世の中。こういう世界。

2021年10月20日水曜日

親切にしたり、感謝することでしあわせになるのであれば、みんなしあわせになっている(ふしあわせな人がいない世の中になっている)

  俺っ、むかしっから、成功した経営者や、なんだか知んないたけど恵まれた環境で育ってきた人や、有名な学者や、有名な宗教指導者が「親切にすると、しあわせになる」とか「感謝すると、しあわせになる」とかと言っているとき、「なんかおかしいな」と思ってきたんだよな。

そんなことで、しあわせになるなら、みんなしあわせになっている。だれだって、しあわせになるのであれば、不幸な人なんていない。不幸だと思っている人なんていない。くるしいと思っている人なんていない。くるしくてくるしくて、いきているのがつらいとおもっているひとなんていない。

そりゃ、親切にしたり、感謝をすれば、しあわせになるからだ。

つらい状態から解放されて、しあわせになるはずだ。けど、つらい状態でくらしている人が親切にしたり、感謝をしたりしても、しあわせにならない。あるいは、しあわせにならない場合のほうが、しあわせになる場合よりもずっと多い。

「どうしてかな」って、ずっと思ってきた。

それから、しあわせサイドから、「感謝をすればしあわせになる」とか「親切にすればしあわせになる」と言っている人には、わからないだろうけど、まわりのやつにやられて、つらくてつらくてしかたがない人が、そういうことを試みて、しあわせにならないときの、打撃がすごいのだ。

これも、しあわせサイドの人が完全に無視していることだ。

しあわせサイドの人が無視しているのは、つらい人の状態、つらい人の状況、つらい人の履歴だ。現実場面だけを輪切りにして、「こうすればしあわせになる」と言っているだけだからだ。こういう人は、まったくわかってないので「パンがなければ、パンをつくればいい」「パンがなければ、ケーキを食べればいい」「パンもケーキもなければ、ステーキを食べればいい」とパンも、小麦粉も、ケーキもステーキも、その他のパンらしきものをつくるための粉もない人に言ってしまう。小麦粉の代わりに米粉を使ったケーキをつくりましょうという場合だってあるから、いちおう、その他のパンらしきものをつくる粉もない人と書いておいた。

これは、状況の無視なんだけど、しあわせサイドの人は、ふしあわせサイドの人の、生まれ格差や生まれの格差から不可避的にしょうじる時系列的な経験というものを無視してしまう。履歴は大切だ。そりゃ、不幸な体験が積もり積もっている。一回の親切や感謝でくつがえせるものではない。もちろん、こういうことを言えば、「一回じゃなくて、何回も何回もやればいいじゃないですか」というようこなとを言い出すと思う。

全部がその調子だ。

実践的とか言い出したときには、まるまるまる。一番、実践的じゃないよ。まるで状態がわかってないから、言える言葉。これは、ほんとうにある意味、こまっている人をばかにしている。不幸な人を、侮辱している。不幸な人やこまっている人を……さきに……ばかにしたり、侮辱したのは、しあわせサイドの人。

しあわせサイドの人にはまったく見えてないところがある。そして、見えてないところが、ふしあわせな人のふしあわせな感じに影響を与えている。この影響は小さな影響ではないから、無視することはできない。小さなことではなくて、つらさの本体、ふしあわせ感の本体だからな。

2021年10月19日火曜日

「ヘビメタ騒音なんてそんな大げさなことか」と言う、一般人とあらそいになってないのである


その人がすでに不幸であった場合、「Xをすれば、幸福になる」というようなことを言うことは、侮辱なんだよ。その人が不幸である理由について、まちがった認識を持っている。

ぼくが不幸なのは、きちがいヘビメタにたたられた体。きちがいヘビメタ生活が約一五(じゅうご)年間続いたからだ。その一五(じゅうご)年間のあいだ、いつでも、きちがいヘビメタを鳴らさないようにするということが、できたのに、きちがい兄貴はそうしてくれなかった。

これが、不幸の『もと』なのである。これが不幸の『原因』なのである。これが、ぼくの体力が根本的なところで落ちた理由なのである。これが、ぼくが通勤通学できなくなった理由なのである。

通勤通学できなくなると、無職、ひきこもりというたいへん不名誉な称号を得ることになる。たいへん不名誉なレッテルをはられることになる。これは必然なんだよ。

ヘビメタ騒音を一五年間、あの態度で、あの時間の長さ鳴らされたら、だれだって、通勤通学ができなくなる。しかし、そとの人から見れば、ヘビメタ騒音と無職引きこもりの関係性が見えない。

ぼくが説明しても、普通の人は、まったく理解しない。

なので、そういう事態におちいったなら、そういう普通の人たちとも、うまくいかなくなる。そりゃ、普通の人間たちは……きちがいヘビメタ騒音にぼくとおなじようにたたられたなかった人間は……ヘビメタ騒音を「やられれば」……あるいは、ヘビメタ騒音生活が続けば……通勤通学ができなくなるという必然性が見えない。

見えない以上は、ないんだよ。

そうすると、ぼくが、「さぼって」働いてないようにしか見えない。必然性が見えない。ぼくが説明しても、きちがい兄貴のヘビメタ騒音という経験がない人には、それが、根本のところで理解できない。自分の体の問題ではないので、わからない。経験して、実際に体が「ぶっこわれた」わけではないので、ぼくが「ぶっこわれた」体をひきずって、やっと生きているということがわからない。

普通の人たちには、ぼくが普通の人に見えるのである。普通の人というのは、「ヘビメタ騒音やられてない人」のように見えるということだ。それは、ヘビメタ騒音をやられたとしても、そんなのは、関係がないのだからヘビメタ騒音をやられた人とヘビメタ騒音をやられてない人の見分けがつかない。

ヘビメタ騒音をやられた人とヘビメタ騒音をやられてない人の違いがわからない。ヘビメタ騒音やられてない普通の人とヘビメタ騒音をやられた普通の人は、ヘビメタ騒音をやられてない普通の人にとって、「等価」なのだ。

だから、そういう文脈で、ものを言ってくる。それは、まちがった発言だ。経験がないからわからないというだけのことなのだけど、わからない以上は、まちがった認識をして、まちがった発言をするということになる。

「ヘビメタ騒音なんて、そんな大げさなことか?」ときちがい野郎は言うのである。けど、このきちがい野郎は、普通の人から見れば普通の人だ。言っていることがまちがっているとは認知しない……普通の人は、このきちがい野郎が言っていることがまちがいだとは認識しないのである。

こんな、生きにくい世の中があるか? 座頭(仮名)の生きにくさ……。大学教授の生きにくさ……。そんなものじゃないのである。だから、ヘビメタ騒音のことを最初に説明しただろ。こいつら、なにを聞いているんだ? きちがい兄貴が、普通の人にとって理解できないほどのきちがいなので、俺がおかしいことを言っているように、普通の人は認識するのである。こんな、世界で、生きられるはずがない。じょーだんは、よせ。

きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ほかの人がにわかには信じられないような音で、きちがいヘビメタを毎日毎日、長時間鳴らすということにこだわって、こだわって、実際に鳴らしたので、ぼくの世界はこうなっている。きちがい兄貴が、この世で、実際に鳴らさなければ、こんなことにはなってないのである。「ヘビメタ騒音なんてそんな大げさなことか」と言う、一般人とあらそいになってないのである。どんだけ、こういうむだなあらそいがしょうじたか?

2021年10月18日月曜日

『不幸なうまれ』の人がより不幸になって、『幸福なうまれ』の人がより幸福になる。人に親切にしたぐらいでは、ひっくりかえせない、事情があったのだ

 じつは、氏ムシメという人について書かれた、ブログを読んだ。いろいろなことを感じたよ。特に、幸福論と生まれの格差について、いろいろと考えた。ほんとうに、生まれの格差についてまった考えてないタイプの幸福論はだめだと思う。現実を輪切りにしたって、だめだ。「親切にした」という場面だけ考えてもだめだ。どうして、こういうすっとぼけた話が、正しいこととして、まかり通ってしまうのだろう。

小さいときから、経験していることに差がある。生まれてからずっと、差がある。どうして、そういう差を無視してしまうのか?

まあ、恵まれたところに生まれてきたから、これが普通だと思って無視してしまうのだろう。けど、恵まれた人は無視できるけど、恵まれない人は、無視できないことがある。経験として積みあがっている。出来事としてつみあがっている。

幸福論者の子供時代と氏ムシメさんの子供時代……ぜんぜん、ちがう。

このちがいを無視して、「こうすればしあわせになれる」ということについて語るなんて……。正直に言ってしまえば、ひどいことだと思う。

これ、抑圧装置を維持する言論なんだよ。『不幸なうまれ』の人がより不幸になって、『幸福なうまれ』の人がより幸福になる。そういう不公正なシステムを維持するのに役立つ。

不幸なうまれ』の人が小さいときからずっと、不幸な思いをしてきて、それでも頑張って生きているのに、小さなときから幸福な人が「人に親切にすれば幸せになる」とか言ってしまう。

前に書いたけど、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということは、すでにふしあわせな人は、人に親切にしてこなかったから、ふしあわせなんだということを、暗示している。

人に親切にすれば、しあわせになる」というのは、未来に向かった言葉だ。

「……すれば」これから「しあわせになる」というのは、その発言がなされたときから考えれば、未来の話なのである。

「人に親切にしたから、しあわせだ」というのは、過去において、人に親切にしたから、(自分は)いましあわせなのだという話になる。なら、ふしあわせな人はどうなのだろうか? ふしあわせな人は、人に親切にしてこなかったのではないかということになる。

氏ムシメさんは、人に親切にしたことがないのかというと、そんなことはなくて、母親の代わりに家事をして、父親や妹二人をささえてきたのだ。さらに、妹にプレゼントをしている。くるしい思いをしてバイトをして、バイト代で、プレゼントを買っている。親切じゃないか。親切にしたことがある。

しかし、けっきょく、親切にしても、それではしあわせになれず、けっきょく、自殺してしまう。自殺するまでのあいだ、どれだけ、氏ムシメさんががんばったか。

彼はがんばったと思う。

人に親切にしたぐらいでは、ひっくりかえせない、事情があったのだ。人に親切にしたぐらいでは、こえられない、壁があったのだ。幸福論の人には、この壁がない。最初からない。別にこえようと思わなくても、すっと、通り抜けて、さきにすすむことができる。

そもそも、幸福論の人には氏ムシメさんが経験したような困難それ自体がない。幸福論の人が言っている「自分が経験した困難」と氏ムシメさんが経験した困難は、おなじ困難と言う言葉で表現されているけど、困難の困難がちがうのだ。

まったくちがったものだ。

同じ言葉で表現するべきものではない。けど、人間の認知の限界と、人間の抽象化の限界で、同じ言葉を使うことになる。幸福論の人にとって困難と言えば、幸福論の人が経験したような困難なのである。

手短に言うと、氏ムシメさんの前には、800メートルぐらいの壁がそびえたっているのである。そして、その200メートルうえには、裕福な人用の道路がある。この道路は地上1000メートルのところにある道路だ。そして、その道路のうえにも、1メートルの壁がある。1メートルぐらいなら、なんとか、乗り越えることができるよね。あとは、ハードル競走用のハードルがいつくか置いてある。普通に、走って通れるよね。こえられるよね。あるいは、走ることは強制されてないので、歩いてまたぐこともできる。裕福な人の壁が1メートル。氏ムシメさんの壁は800メートル。800メートルのすべすべの壁なんて、だれだって、こえられない。どれだけ努力してもこえられない。けど、壁は壁だ。裕福な人が「壁なんてこえられる」と言う。そりゃ、1メートルの壁だからな。壁を困難という言葉に言い換えれば、ぼくが言いたいことがわかると思う。さいしょから、ぜんぜんちがう。困難の困難がちがう。けど、同じように「困難」と言う言葉で言い表されてしまう。だから、混乱がしょうじる。この混乱は認知の混乱だ。誤解が普通にしょうじる。どっちも、困難という言葉を使っているのだから、あたりまえだ。

はっきり言えば、氏ムシメさんのような人が人に親切にすることで、しあわせになることはない。こういう一見、よさそうな言葉が、氏ムシメさんのような人を、追い込むのである。自殺に追い込む。

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それにしても、うけがわるいね。みんな、これがどれだけすっとぼけた発言がわかってないんだろうな。これって「人に親切にすれば幸せになる」……という発言さ。どれだけのことを無視している発言かわってない。ずっと前から、おかしいおかしいと思っていたけど、どういうふうにおかしいのか説明ができなかった。ぼくが今言っていることは、だいたい、20歳のときに考えていたことだ。ずいぶん、時間がたったなぁ。一見よさそうに見えて、文句の付け所がないのだけど、こういうのは、おかしい。はっきり言えば、「生まれの格差を固定化することに寄与する。生まれの格差を固定化して、生まれの格差を再生産する仕組みのうちのひとつだ。たとえば、生まれの格差・上の人が、生まれの格差・下の人に親切にしてあげれば、それで、お互いがしあわせになるわけだから、いいと思うでしょ。ところが、そういうことにはならない。そして、生まれの格差・下の人が、生まれの格差・下の人がいっぱい集まっているところで、生まれの格差・下の人に親切にすると、かなりの高確率で、トラブルがしょうじるのである。こういうことを、生まれの格差・上の人はまったく考えてない。

これ、そういうことだったのかと、やっとわかるようになった。これは、説明しずらい。

2021年10月17日日曜日

はっきり言ってしまえば、幸福論者は、人に親切にしなくても、しあわせなのである

 たとえば、線分ということについて考え見よう。この線分は、関係性の線分だ。「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という場合は始点(A)と終点(B)をむすぶ、線分だと仮定しよう。

その場合、実際の世界には、ほかのこともいっぱいある。一日のなかですら、実際には、無数の線分が、あらわれている。

しかし、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」と言ってしまった場合は、無数にある線分のうち、ひとつの線分に焦点をあてて、あたかも、現実生活において、線分ABしかないような印象を与える。これが、言語化の問題だ。

あるいは、ずっと野へできたように抽象化の問題でもある。そうなると、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」ということを読んだ人は、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という線分を考えて、生活のなかのさまざまな線分を無視して、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という線分だけを考えるということになってしまう。

もし、自分が人に親切にした場合は、自分はしあわせになる「はず」なのである。ほかの、線分は見えなくなってしまうのである。けど、ほかの線分こそが、しあわせ感にとって重要なことかもしれないのである。

あるいは、ほかの線分が、ふしあわせ感をつくっていて、そのふしあわせ感をつくっている、線分をなくすということが、実際には、その人のしあわせ感を増大することになるのかもしれない。

しかし、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」と言ってしまったがために、意識が「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」に集中してしまう。

無数にあるほかの線分が、しあわせ感に影響与えているのに、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」だけを考えてしまう。人に親切にしたかどうかで、自分のしあわせが決まると思ってしまう。

しかし、人に親切にしかたかどうかで、自分の幸せが決まるわけではないのだ。

うまれてから、ずっと、いろいろなことを経験してきたのだから、そういう経験によってつちかわれてきたものが影響を与える。


「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」は現実の『うつし絵』にはならないのだけど、今度は、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」というところから、現実を考えてしまうのである。しかし、現実はそんなに単純なものじゃない。


では、どうして、幸福論者は「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」などということを言ってしまうのか? 幸福論者にとってみれば、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」ということは、ひとつのことでしかない。

はっきり言ってしまえば、幸福論者は、人に親切にしなくても、しあわせなのである。

恵まれたところに生まれて、いろいろな恵まれた経験をしてきた。

なので、しあわせなのだ。

しあわせに暮らしているとき、たまたま、人に親切にしたとき、しあわせを感じただけだ。「理由」ではないのだ。

その日、すでにしあわせしあわせである理由ではないのだ。

これは、しあわせに暮らしている人が、たまたま、タマムシを食べたら、これはうまいと、満足感を得たということに似ている。

これ、満足感と幸福感はちがうのだけど、ある程度、似ている。満足感に、「幸福だ」という思考がくわわるとし幸福感になるのだ。

話をもとにもどす。

ある人が、恵まれた家に生まれて、成長して、今度は自分の家族をつくって、しあわせに暮らしているとする。生まれた家も、自分がつくった家でもしあわせに暮らしているとする。

しあわせに暮らしている人が、タマムシを食べたとき、しあわせを感じたとする。タマムシを食べたとき、しあわせになった。……こういう経験があるとする。

その場合、しあわせな生活をしている人は、『タマムシを食べれば、しあわせになる』と思ってしまう。それは、もともと、しあわせな生活をしているのだけど、タマムシを食べたとき、幸福感を得たのだから、そういうふうに言っても、おかしくはない。

けど、不幸な生活をしている人が、タマムシを食べれば、しあわせになれるのかというとそうではない。あるいは、『案外、うまかった』と一時的には、しあわせ感を感じるかもしれない。

しかし、そのしあわせ感がいつまで続くのか?

すでに、しあわせな生活をしている人は、タマムシを食べたあとだけではなくて、次の日も、家族といっしょにすごして、しあわせを感じているわけだ。別に、タマムシを食べなくても、「家族団らんで楽しかった」「子供をカヌーに連れて行ったら、俺も楽しかった」と幸福を感じることができる。

なので、タマムシを食べたあとも、しあわせ感があり、しあわせな生活が続くと思うことができる。それは、タマムシを食べて幸福感を得たという経験のあとに、もっとしあわせだとと感じる出来事が、持続的に発生しているからそう思えるのである。そう思えるだけなのである。幸福な人にとって、タマムシを食べて幸福感を得たという経験は、さまざまな幸福感を与える経験の一部でしかない。タマムシを食べたあとも、しあわせ感がある生活が続くのである。タマムシを食べたとき、特に幸福を感じたけど、そのあとも、さまざまな幸福を感じる出来事がたくさんある。そういう生活が、成り立っている。だから、「つづく」ような感じがしているのである。

けど、もともと不幸な生活をしている人は、かりに、一時的に、タマムシを食べて幸福を感じたとしても、店から帰ったころには、その幸福感はかなり減衰している。だれもいない安いアパートの一室に帰り、明日の通勤のことを考えて、不安になったりする。しあわせじゃないのである。もともと、不幸な生活をしている人は、一時的に、幸福感を得たとしても、その幸福感は長くは続かない。


2021年10月15日金曜日

「そんなひとは、いない~~」とか「そんなことはない~~」と思ってしまう。

 ヘビメタ騒音のことは、そんなにも、わかりにくいことなのか。……わかるわけがないよな。

わかるわけがない。

俺だってもし、自分の身の上に起こらないことだったら、同じように誤解していたかもしれない。基本、実際に自分の身の上に起こらなければ、なんべん話を聞いても、わからないことというのは、ある。

わからないよな。

けど、わからないからといって、ヘビメタ騒音の影響を無視して、自分の意見を語りだすのはどうかと思うぞ。

自分の意見というのは、「人間は働かなければならない」といったことだ。これは、バージョンが案外、限られている。

一般に、引きこもりの人や無職の人に、言いたくなるようなことだ。説教したくなるようなことだ。それは、その人にとっては、正しいことなのだろうけど、きちがいヘビメタにやられたぼくにとっては正しいことではない。

はっきり言えば、あの態度で七年間、やられ続けたら、だれだって!!……これはほんとうに、だれだって!!……通勤、通学できなくなる。

一〇〇%の人がおなじことをやられれば、通勤通学できなくなる。

言っておくけど「騒音」だからね。きちがい兄貴にとっては騒音じゃない。毎日毎日、七年間にわたってあのレベルの騒音を聞かされ続ければ、……そして、そのあいだ通学していれば、だれだって、通勤通学できなくなる。

一一(じゅういち)歳からはじまったんだけどな。ヘビメタ騒音がはじまったのは一一(じゅういち)歳のときだ。で、普通の人は、「通学できたのであれば、だいじょうぶだ」「通学していたのであれば、たいしたことはない」と思ってしまうのだけど、そうじゃないんだよ。


たえてたえて、七年間、学校に通った……これが、通勤・通学できなくなった理由だ。もう、まったく、考え違いをしている。


けど、この考えちがいをしている人たちが、俺の説明を聞いて、考え違いをただすことができるかのというと、できないと思う。どうしてなら、この人たちは、あのレベルの騒音が鳴っている毎日を経験してない。

で、うちの場合、親父と兄貴が、特殊な人なんだよ。特殊すぎて、ほかの人がわからない。「そんなひとは、いない~~」とか「そんなことはない~~」と思ってしまう。


けど、実際、そういう人はいるのぉ~~。


どれだけへんな父親か、普通の人は、わからない。どれだけ、へんな、自分勝手な、頭がおかしいあにか、普通の人はわからない。わからないんだよ。わからないところで、常識の範囲で考えて、自分の意見を言う。自分の意見というのは、共同幻想に近い意見だ。だ

から、特殊じゃない。

共同幻想に近い意見を言う人たちは、みんな!!ヘビメタ騒音の影響を過小評価している。あるいは、完全に無視している。自分だって!おなじことを経験したら、この日本で働けなくなって無職になるのに、『自分は鳴らされたって平気だ』『自分は鳴らされたって無職にはならない』という前提で、ものを言ってくる。

えらそうなんだよ。

はっきり言って、それは俺に対する侮辱だ。侮辱というなら、ほんとうに侮辱だよ。けど、侮辱しているつもりはないだろう。自分にとって正しいと思っていることを言っているだけだから。きちがい的な家族に……きちがい的な兄に……ほかの人が理解できないような態度で騒音を鳴らされると、こういうことになってしまう。

じつは、必然性がある。

けど、共同幻想にしたがって、自分の意見を言っている人は、そういう必然性に気がつかない。どうしてなら、「ヘビメタ騒音なんて、どれだけ鳴ってたって自分なら通勤通学できるから」だ。


けど、それは、やられてないから、言えること。


経験してないから言えること。


現実世界でそういうことが発生しなかったから、言えることなんだよ。

けど、俺がそういうふうに言っても、そいつらは、ぜーーぜん、認めないだろうけどな。




*     *     *


2021年10月14日木曜日

普通の人は、旅行に行けば楽しい。俺は、憂鬱だ。

 掃除をしているけど、ほんとうにつまらない。けっきょく、ヘビメタ騒音で憂鬱だ。ヘビメタ騒音で体がだるい。ヘビメタ騒音で人生がない。そして、けっきょく、ぼくは、人に理解されない。

人に理解されたところで、「ヘビメタ騒音で憂鬱だ。ヘビメタ騒音で体がだるい。ヘビメタ騒音で人生がない」という部分はかわらない。わからない。なので、精神的にはつらい。たとえば、普通の人なら、あそべば楽しいわけだけど、楽しくない。仕事をしなくてもいい状態になれば、仕事をしたくない人は、ハッピーになれるのだけど、俺は別に仕事をしなくてもいい状態になっても、ハッピーじゃない。それは、ヘビメタ騒音の影響で、精神も体も、とても消耗した状態になっているからだ。だから、普通の人が仕事をやめれば、しあわせなるというのとはちがう。旅行に行けば気晴らしになる……。普通の人は、旅行に行けば楽しい。俺は、憂鬱だ。


2021年10月12日火曜日

「どんな人だって、タマムシを食べると、しあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べると、しあわせになる」

  タマムシを食べるとしあわせを感じる人がいるとする。とりあえず、この人をAさんだとする。「タマムシを食べると、しあわせになる」とAさんが言ったとする。

Aさんのなかでは、これは、絶対に正しいことだ。主体がAさんである限りは、それで問題はない。

けど、Aさんが「どんな人だって、タマムシを食べるとしあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べるとしあわせになる」「これは正しい」とほかの人に言ったとする。

ちなみに「人は、タマムシを食べるとしあわせになる」というのは、「どんな人だって、タマムシを食べると、しあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べると、しあわせになる」ということを含んでいる。


「どんな人だって」という言葉が入っていない場合も、人は、タマムシを食べればしあわせになると言っているのだから、「どんな人だってタマムシを食べればしあわせになる」ということを含んでいる。

「どんな状況だって」ということに関しても、「人は、タマムシを食べるとしあわせになる」ということを言ったとき、状況について触れていないのだから、「どんな状況でも」「いかなる状況でも」そうなるということを言っているのとおなじだということになる。

すべての状況においてそうなると言っているのだから、特殊な状況も含んでいるということになる。

ラーメンだと、不思議に感じない人も、タマムシだと、不思議に感じる人がおおくなると思う。ちなみに、タマムシは、調理して食べないとだめだ。生で食べただめだ。タマムシのほかにも、イナゴ、バッタ、コオロギなども、適切な調理をすれば食べられる。

話を元に戻す。ラーメンを食べたとき、しあわせを感じる人は多いけど、タマムシを食べたときしあわせを感じる人は少ないので、多くの人にとっては、「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」とか「どんなにつらくても、タマムシを食べれば、しあわせになる」とか「どんな状況でも、タマムシを食べれば、しあわせになる」というような文言は、嘘のように聞こえる。

けっきょく、「Xをすれば、しあわせになる」というのは、多数派の理論だ。あなたが、少数派なら、まったく意味がないということになる。まあ、多数派に属していても、いろいろな問題があるとぼくは言っているのだけど……。つまり、多数派に属している人にとっても「Xをすれば、しあわせになる」とは言えないと思っている。その理由は、ずっと書いてきた。


2021年10月10日日曜日

自殺を考えている人だって、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう傾向がある

 あー、金曜日の午後5時8分。ヘビメタが鳴っている感じがする。どれだけ「やめろ」「静かにしてくれ」と言っても、一秒も静かにしてくれなかった。一秒しずかにならないまま、けたたましい音が続く。そのひとつひとつのけたたましい音が、俺の睡眠回路を破壊する。けど、そういう経験がない人は、「鳴り終わったら関係がない」と言う。こいつら、でこパッチンC。

どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の学力に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の体力に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の精神に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の睡眠力に影響を与えたかわからない。

夜、眠るべき時間に、眠れなかったら、不安になる。うまくいっているのに「なんとなく不安だ」という内因性の不安ではないのである。内因性の不安なら、認知療法家が言うことは、もっともだと思うけど、外因性の不安の場合は、認知療法家が言うことは、もっともなことではない。無理難題を押し付けているだけだ。この無理難題を押し付けているだけというのは、幸福論者にも言える。「親切にすれば、しあわせになる」……。「親切にしないから、ふしあわせなのだ」……とは言ってない。

けど、「親切にすれば、しあわせになる」といこうとは、その人がふしあわせなのは、人に親切にしてこなかったからだということを暗示しているのである。まあ、言うほうにしてみれば、そんなつもりはないのだろう。

ニュートラルな状態、あるいは、人よりも恵まれた状態で暮らしてきた人が、人に親切にしたとき、いい気持ちになったということだ。いい気持ちになったということは、しあわせを感じたと言い換えることができる。

自分はそうだった。なので、他人もそうだろう。

「人は、人に親切にしたとき、しあわせを感じる」というのは、心理学の実験でも確かめられたことだ。なにもおかしくはない……と推論してしまうのだろう。けど、まちがっている。まちがっているんだ。

これは、質問のしかたが悪いのだ。

かりに、自殺を考えている人だって、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう傾向がある。

俺だって、そういう「公式の場」では、ヘビメタ騒音という私的なことは持ち出さずに、ヘビメタ騒音がなかったころ、友達に親切にしたとき、いい気持ちになったという出来事を思い出して、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう。

毎日いじめられている女子中学生だって、いじめられている状態はぬきにして、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまうかもしれない。

ちなみに、そういうふうにこたえた数日後に、その女子中学生が、自殺してしまったとしても、ぼくはおどろかない。「人に親切にしたとき、しあわせを感じる」と数日前こたえた女子中学生が、自殺をしたとしても、矛盾しているとは考えない。人間は、そういうふうにできている。

*     *     *

この、生きている、空間自体が、ヘビメタ騒音に汚染されている空間なんだよ。おまえ、どれだけ、長い間繰り返されてきたか。きちがいヘビメタを、家族に!鳴らされ続けると、日本の社会では、生きていけなくなってしまう。ぎりぎりのところでぼくはいきてきた。どれだけ精一杯、生きようとして努力してきた。鳴っているなかで頑張ってきたか。一五(じゅうご)年間鳴ったあと、……もう、一五(じゅうご)年間の影響があるのに……頑張って生きてきたか。

「人に親切にすれば、しあわせになる」なんて、そんなのは、侮辱でしかない。侮辱と言うなら、侮辱だ。

けど、一方で思うことがある。

もし、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを、恵まれすぎている人が言ってたとしても、まったく気にならなかったんだろうな……と思う。

はっきり言えば、兄貴が兄貴のやり方で、こだわってこだわって、俺の存在を無視して、俺の希望を無視して、がんがんつねに、毎時間時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒鳴らさなかったら……鳴らさなかったら……「そうですねー」ですんだことだ。

「人に親切にすれば、しあわせになる」

「そうですねー」

これで、すんだ。

そういうことにおいても、たたっている。

ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、座頭(仮名)にあんな態度をとられることはなかった。あんなことを言われることはなかった。そりゃ、〇にたくもなるだろう。

ほかの人は、どうして俺が、そんなことで〇にたくなるのか、まるでわからないだろう。わからないと思う。これ、つまっているんだよ。きちがい兄貴が鳴らしていたときの、「態度」の記憶がつまっている。あの強情さはないよ。

そして、きちがい的な意地で鳴らしたのに、きちがい的な意地で「ゆずったゆずった」と言いやがる……そういう、出来事の記憶。これ、本人は、ほんとうに「ゆずってやった」つもりなのである。

これは、きちがい親父のハンダゴテ事件とまった同じ。

譲歩が譲歩になってない。譲歩が、相手に屈辱をあたえることになっている。譲歩が、相手をよりこまらせることになっている。

けど、どれだけ相手が、それを説明しても、まったくわからない。普通の人なら、説明しなくてもわかることがわからない。きちがいが、きちがいの気持ちだけで、動いている状態だ。こんなのは、ほかの人にはわからない。ほかの人はどうしたって、自分の常識で考えてしまう。


ほかの人が、自分の常識で考えるときに、基準となるのは、自分自身の家族だ。

自分自身の家族との関係だ。

自分自身の家族の態度だ。


……そういうことが、判断の基準になるのである。きちがい兄貴……具体的な「うちのきちがい兄貴」が基準になってない。きちがい兄貴の態度が、基準になってない。きちがい兄貴のやってきたことが、基準になってない。きちがい兄貴の認知・認識が、基準になってない。基準になっているのは、その人の家族の態度、その人の家族がやってきたこと、その人の家族の認知・認識なのだ。

そういうことであるのならば……そりゃ、ぼくとは、意見がちがってくる。それは、実際に経験してきたことがちがうということから生じることなのだけど、その人の「その場の判断」はその人の『信念』に近いものなので、簡単には揺らがない。ぼくの話を聞いても、ぼくの話のほうが嘘なのだと思う。ぼくの話が矛盾があるへんなことだと思う。



2021年10月8日金曜日

「ラーメンを食べれば、しあわせになる。これは絶対に正しい」と言ったら、どう思うか?

  しあわせな人が語る、幸福論。まるで、マリーアントワネットが農民に説教しているみたいだぞ。がせねた。がせねた。うそ。うそ。ニセ情報。こんなのない。こんなのは、ない。これ、ほんとうは、言っていることがずれている。

しあわせな人は、それをやったから、不幸な状態からしあわせな状態になったわけじゃないのだ。最初から、恵まれたところに生まれて、しあわせなんだよ。

それが、わからない。

それが、わかってない。

普通だと思っている。

当たり前だと思っている。

だから、「ない」人の状態がわからない。状態がわからないのだけど、知識としては、わかるということになる。たとえば、「おカネがない状態だ」ということがわかるという意味で、わかるということだ。

けど、ほんとうは、経験してない。

きちがい毒親がどういうやり方で、子供を虐待するかわかってない。わかってないんだよ。話として、わかっている場合がある。

けど、その『わかっている』というのは、ぜんぜんちがう。


親の稼ぎが少ない状態であって、なおかつ、頭がおかしい親に『たたらている状態』というのがわからない。なので、見当はずれなことを言う。

『ない』と『ある』が、ひっくり返るけど、パンもケーキもない人に、「パンがなければケーキを食べればいい」ということを言ってしまう。『ない』と『ある』が、ひっくりかえるというのは、たとえば、パンがあることは、プラスだけど、きちがい毒親がいることはマイナスだということだ。

「ある」「いる」「もっている」という言い方だと、言い方の対称性がそこなわれるので、「存在する」という言い方にかえるとパンが存在するのは、(しあわせな生活にとって)いいことだけど、毒親が存在するのは(しあわせな生活にとって)わるいことなので、パンと毒親では、意味合いがひっくりかえる。パンが存在しないこと(非存在)は、こまることだけど、毒親が存在しないこと(非存在)は、とてもいいことだ。「存在しない」ということの意味合いがひくっりかえっている。


「まるまるをすれば、幸福になる」というタイプの幸福論はみんな、詐欺。

これ、ほんとうに、「波動水を飲めば、幸福になる」と言っているのと同じレベルのこと。もっとも、ものの受け渡しがなく、幸福論者が言っていることは、形がないことなので、詐欺だとは認められない。

けど、言っていることは、同じレベル。

どういうことかというと、たとえば、「ラーメンを食べればしあわせになる」と言う人がいたとする。

その人は、ラーメンが大好きで、ラーメンを食べているさいちゅうと、ラーメンを食べたあと、しあわせを感じる。

だから、この人にとっては、『ラーメンを食べればしあわせになる』ということは、正しいことだ。

けど、このラーメンが好きな人ですら、パワハラ上司のもとで何時間も何時間も残業する日が、何年間も続けば、だんだん、ラーメンを食べても、しあわせを感じないようになってくる。

疲れはてた体で、ラーメンを食べた場合、たしょうの快は感じるかもしれない。たしょうの快を感じるとしよう。毎日、くるしいけど、ラーメンを食べたときだけは、たしょうの快を感じる。

けど、全体的には、不幸なのである。

朝、起きたくないという状態になってしまう。さらに続けば、うつ病になってしまうだろう。うつ病なのに、しあわせ? 毎日、死にたい気持ちで暮らしているのに、しあわせ? 

毎日死にたい気持ちで暮らしているけど、ラーメンを食べたときだけは、たしょうの快を感じるということはある。あるけど、それだって、いつまで続くかわからない。あれだけ好きだったラーメンがうまく感じなくなってしまうかもしれない。

しあわせになるには、ラーメンを食べるのではなくて、パワハラ上司がいないところで、適切な量だけ働くということが必要になる。

しかし、それができなかったら、どうだ?

ふしあわせだと感じるだろう。

そのとき、パワハラ上司にたたられたことがない、しあわせな人が「ラーメンを食べれば、しあわせになる。これは絶対に正しい」と言ったら、どう思うか?

『ラーメンを食べても、この生活をしていたら、しあわせにはなれない』と感じるだろう。

しあわせではない生活をしていても、ラーメンを食べたとき、たしょうの快は感じるかもしれない。……しかし、「Xをしたとき、たしょうの快を感じる」ということと「Xをしたあと、しあわせな生活がずっと続く」ということはちがう。

たとえばの話だけど、この、パワハラ上司にたたられて、一日に何時間も何時間もサービス残業をしている会社員は、仕事をやめれば、しあわせ感が増大するかもしれない。

パワハラ上司にたたられるしかない社員生活をしているよりも、リタイアして、そういう『負の刺激』から自分を守ることができれば、パワハラ上司にたたられている生活よりは、しあわせを感じるかもしれない。あるいは、しあわせを感じないかもしれない。それは、すでに、「しあわせを感じる回路」と言うべきものが破壊されているからだ。


*     *     *


たとえば、医者として生計を立てている人がいるとする。忙しすぎるのでしあわせ感が、薄れていたとする。

ある日、リタイアすることにして、リタイアした。リタイアしたら、多忙な毎日が終わり余裕がある毎日が始まった。その元医者には、しあわせに暮らしているという実感があるとする。その場合「人に親切にした」という話はどこにも出てこない。

その元医者は、忙しすぎる仕事をやめたから、しあわせ感が増大したのである。ならば、「人に親切にするとしあわせになる」などは言わずに「リタイア生活をすると、しあわせになる」と言ったほうが、実情によく合致しているのではないかと思うのである。

その元医者は、しあわせを感じる回路と言うべきものが破壊されてない状態で、リタイア生活に移行したので、しあわせを感じるだけなのかもしれない。おなじように多忙だった人が、リタイア生活をすれば、しあわせを感じるかどうかは、ほかの条件によって異なる。なので、多忙な人がリタイア生活をすれば、かならず、しあわせになるとは言いがたい。


2021年10月7日木曜日

けど、それが普通に成り立ってしまう、「うち」だったんだよ。「うち」では、まったくおかしくないんだよ。

 ヘビメタ騒音で人生がない。どうしても、くらべてしまう。ヘビメタ騒音がなかった場合の俺の人生と、俺の人生をくらべてしまう。ほかの人にはまったくわからないことがある。それは、俺がどれだけ「ヘビメタ騒音がくるしかった」「ヘビメタ騒音でこういうことができなかった」「ヘビメタ騒音でこういうことができなくなった」「ヘビメタ騒音でこういうトラブルが生じた」ということを説明しても、わからない。経験してなければ、わからない。あのひどさが、わからない。俺以外の人間は、あのひどさを経験してない。どういう、朝になるかわかってない。どういう夕方になるか、わかってない。どういう、深夜になるかわかってない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなく、普通の兄貴だった、あんなことにはなってない。どれだけ、ヘビメタ騒音に凝っていたとしても、あんなことにはなってない。どんだけ、ヘビメタを思いっきり鳴らそうと思っても、あんなに思いっきり鳴らせない。

中古マンションのことを考えているとき、「うちが、マンションだったらあんな音じゃ鳴らせないのに」と思ったりする。いかりがわく。いかりと破綻を繰り返している。どうしたって、気分がよくない。どうしたって、すっきりした気持ちになれない。

毎日の繰り返しというのがある。毎日の繰り返し……それも、成長期に数千日、毎日、繰り返されたこと。……こんなことが、影響を与えないわけがない。ところが、それをやらなかったやつは……自分の体で経験してないやつは……「騒音なんて、だれだってある」「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」「騒音なんて、関係がない」と言いやがる。でこパッチンBをしたくなる。

ほかの人がわからないということは、他の人は、ヘビメタ騒音の影響を認めずに、俺に圧力をかけてくるということだ。そういうことになる。こいつらは、でこパッチンB。みんな、でこパッチンC。

こういう人たちは、きちがい兄貴の態度もわからない。きちがい親父の態度もわからない。きちがい親父がヘビメタ騒音についてなんて言ったと思うよ? もう、書いてきたからここじゃかかないけど、きちがいすぎて、わからない。ほかの人の常識の範囲外。きちがい兄貴やきちがい親父は、俺がどれだけ何回言っても、俺がきちがいヘビメタ騒音でこまっているということを認めない。あんなでかい音で、普通の人は鳴らさないということを、認めない。きちがいだから「なっちゃったなっちゃったでしかたがない」だ。きちがい親父は、カラがだでかくなった兄貴に、注意ができないだけ。きちがい兄貴が小さいときは、虐待してたのに、きちがい兄貴の体が自分の体より大きなったらも、もう、完全に無視して、きちがい兄貴がやっていることに関して関心を払わない。ガン無視。絶対に注意しない。絶対に注意しないとなったら、なにがなんだろうが注意しないんだよ。「そんな音で鳴っているのに親が注しないのはおかしい」とか、なにも知らない、普通の人が普通の感覚で言う。こういうことが発生してしまう。どれだけ挟まれてきたか。きちがい親父のきちがい感覚と、世間の感覚の違いがでかすぎる。きちがい兄貴のきちがい感覚と、世間の感覚がちがいすぎる。おかあさんの言うことは、兄貴はかない。おかあさんはこまってただけだ。親父とはちがって、注意はしてくれたけど、注意したって、兄貴が聞かない。兄貴がずっと、実力行使で鳴らし続けたら、こまったまま、うなだれてしまう。自分の寝床で、横になっていた。きちがい兄貴がまったく気にしないで、がんがん鳴らす気ちがい空間。そういうものを、押し付けられた。この、騒音の影響なんだけど、ほかの人が考えるように、鳴り終わったら、すぐに、関係がなくなるようなものじゃない。それは、一日のなかでもおなじだし、一生のなかでもおなじだ。ほかの人の考えが、まちがっている。ぜんぜん、ちがう。実際は、ぜんぜんちがう。ほかの人は経験したことがないから、完全に影響を無視できるけど、実際にやられ続けた俺は、無視できない。「無視しようと思えば無視できる」……そういうことを言うやつは、でこパッチンB。だいたい、そういうことを言う人は、実際のヘビメタ騒音を聞いてない。俺の部屋で、きちがい兄貴が鳴らしていた、なまの音を聞いてない。聞かされてない。何時間も何時間も聞かされたら、夜、どうなるかわかってない。本来なら眠るべき、夜の時間、どうなるかわかってない。眠れなくなるんだよ。どれだけつかれていても、朝まで眠れなくなる。これが、一日に与える影響がでかい。帰ったら、鳴っている状態だ。鳴っていたら、どれだけ言っても、一分間もやめてくれない。きちがいがきちがいの意地てやりまくる。そのきちがいの意地というのは、きちがい親父の意地とおなじだ。きちがい兄貴の頑固な態度は、きちがい親父の頑固な態度とおなじ。きちがい親父が発狂して、頑固に「怒り狂っていた」ときと同じ態度だ。「やめろ」と言われたら、発狂して、きちがい的な意地でやり続ける。けど、きちがいだから、そういうことをした「つもり」がない。つねに、きちがい的な意地でやるけど、つねに「つもり」だけはないのだ。「つもり」がなければ、「やったってやったことにならない」のである。主観的にはそうなんだよ。だから、まったく関係がない人として、鳴らし続けるのである。主語? きちがい兄貴だよ。きちがい親父は、別にヘビメタを鳴らさなかった。あいつは、きちがい的な理由で、きちがい的な頑固さを発揮して怒り狂うということをしていた。その、意地や、態度や、自分のやっていることに関する認知が、きちがい親父ときちがい兄貴でまったく、おなじなのである。

きちがい兄貴がヘビメタでやったことというのは、世間的に見れば、どれだけ、常識はずれなことでも、うちのなかでは、「形式的に」成り立っていたことだ。ただ、やっている人間と、やっている内容がちがうだけ。しくみはおなじ。だから、普通の家では成り立たないけど、「うち」では、普通に成り立ってしまうのだ。きちがいが、きちがい的な意地でやって、今度は、きちがい的な意地で「やった」ということを認めないということが、普通に成り立ってしまう。きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地で「やった」ということを押し流してしまう。認めない。けど、やっているときは「やったって、あたりまえ」という気持ちがあるんだよ。やっているつもりがないのと、きちがい的な意地でやり続けるのは矛盾がある。普通はそんなことはない。けど、それが普通に成り立ってしまう、「うち」だったんだよ。「うち」では、まったくおかしくないんだよ。


「Zという条件が成り立つとき、Xをすれば、Yになる」という言い方のほうが「まだ」まし

 この、「言えば、それが現実になる」というのも、「Xをすれば、Yになる」というタイプの助言だ。「元気になると言えば元気になる」「楽しいと言えば、楽しくなる」「つまらないと言えば、つまらなくなる」「好きだと言えば、好きになる」「つらいと言えば、つらくなる」という言葉も、「Xをすれば、Yになる」というタイプの言葉だ。なんとなく、法則性がありそうな言葉なのだけど、じつは、法則性はない。「言ったところで、現実はかわらない」ということのほうが、法則性がありそうなのである。まあ、これに関しては、あとであつかうことにしようかな~。まあ、いいや。

ともかく、「Xをすれば、Yになる」というあたかも物理法則のような言葉なのに、例外が多すぎるのである。例外が多いというよりも、めったに成り立たないことまで、「Xをすれば、Yになる」というタイプの言い方をする場合が、多すぎる。ある条件が成り立っている場合、「Xをすれば、Yになる」というように、条件をプラスしたほうがいい。そうすれば、「Xをしても、Yにならない」場合の話が楽になる。これはまあ、一時的に楽になっただけで、本当に、「Zという条件が成り立つとき、Xをすれば、Yになる」という言葉が正しいのかどうかはわからない。けど、条件をプラスすることで「傲慢さ」がある程度はなくなる。これ、「Xをすれば、Yになる」という言葉をなんの条件も付けないまま、言う場合は、相当に問題がある。どういうふうに問題があるかということについては、すでに述べてきた。たとえば「元気になると言えば元気になる」ということが成り立たない場合について、ずっと語ってきた。「Xをすれば、Yになる」ということを言った場合、無条件にそうなるということなのである。「Xをすれば、Yになる」ということは、100%成り立つことなのである。例外なく、成り立つことなのである。「Xをしたのに、Yにならないことはない」のである。そういう意味で、使っている。「Xをしたのに、Yにならない」ということが、たびたび、発生したのでは、「Xをすれば、Yになる」ということを言うことの意味がないのである。あるいは、「Xをしても、Yにならない」ということが、99%の確率で生じるなら、むしろ、「

「Xをすれば、Yになる」と言うから、試行したみたけど、99%の確率で「Xをしても、Yにならない」ということが判明したら、どうだ? むしろ、「Xをしても、Yにならない」確率が高いと言うべきなのではないかという問題が発生してしまう。もちろん、確率が100%でなければ「Xをしても、Yにならない」とは言えない。これは、すべてにおいて、どんな条件下でもそうなるということを、意味している。なので、1%でも、そうならないことがある場合は、どういう条件のときその1%が成り立つのかについて、考えるべきだ。言い方は、条件付きになる。ようするに、「Zという条件が成り立つとき、Xをすれば、Yになる」という言い方になる。


2021年10月6日水曜日

その方法では、恵まれてない人はしあわせにならないから

「まるまるをすればしあわせになる」という言い方は、わりと、不幸な人を傷つけるんだよ。けど、言っているほうは、いいことをしているつもりで言っている。「方法」を教えているだけだということになる。「方法」を教えて、なにが悪いという気持ちもあるだろう。しあわせになる方法を教えることで、社会全体のしあわせをふやして、なにが悪いという気持ちもあると思う。けど、「まるまるをすればしあわせになる」というのは、まずい問題を含んでいる。このまずい問題に関してまったく無頓着なのは、あなたが、恵まれているからだ。小さいときから恵まれた家庭のなかで育って、いまも恵まれた生活をしているからだ。これが、わかってないと、恵まれてない人を追い込むことになるんだよ。どうしてかというと、その方法では、恵まれてない人はしあわせにならないから。

「人はXをするとき、快を感じる傾向がある」ならありだけど

 こうすればしあわせになるというのは、「よたばなし」でしかないのに、学問的にどうとか、実験で証明されたというのは、どうかと思う。よくないと思う。

「うけ」がよくないのだけど、「人はXをすれば、しあわせになる」と言うのは、信仰でしかない。宗教的な信仰とおなじ。「人はXをするとき、快を感じる傾向がある」なら「あり」だけど、その違いの大きさがわかってない。

2021年10月5日火曜日

人に親切にしていたのである。じゃあ、きちがいヘビメタにやられて……中略……しあわせじゃなかったのだ。

  親切行為ということを考えた場合、どういうことが親切行為だと思えるかどうかということは重要なことだ。たとえば、ぼくは、母親のために二十数年間にわたって毎日、ご飯をつくってきたけど、これが、親切行為なのかどうかわからない。

親切行為なのであれば、ぼくは、毎日、親切行為をしていた。人に親切にしていたのである。

けど、じゃあ、きちがいヘビメタにやられて、働けない状態で、きちがい的な父親と一緒に住んでいて、しあわせだったかというとしあわせではなかったのだ。

きちがいヘビメタにやられたあと、ずっと、からだがくるしい。いまも、くるしい。

けど、きちがい兄貴ほど、夢中になってきちがいヘビメタをでかい音で鳴らした人が、まわりにいない人は、そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの、意味が、ぜんぜん、わかってない。

そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの影響のでかさがわからない。この問題に関係がない人……よその人……自分はヘビメタ騒音にやられたなかった人にとってみれば、ヘビメタ騒音がどれだけでかい音でも、鳴り終わったなら関係がないと思ってしまう。

けど、身体的に言っても精神的に言っても、関係がある。

ともかく、だるい体をひきずりながら、ご飯だけはつくっていたのである。きちがい的な父親もじつはぼくがつくったご飯を食べていた。きちがい的な父親には「たべさせない」というような意地悪はしていない。


ぼくが、母親に親切にしたにもかかわらず、ぼくは、しあわせにはならなかった。それから、母親の状態なのだけど、はっきり言ってよくないのだ。よくなかった。ずっと、超低空飛行なのである。病状がよくなるということがほとんどなかった。

たまに、調子がほーーんのすこしだけいい日があったとしても、次の日には、また前々日よりも悪くなっているという状態で、全体を通して、病気が治るということがなかった。

母親が抱えている病気は一種類ではなかった。同時に何種類もの病気を抱えていた。特に、免疫系の病気がほかの病気に影響を与えていたと思う。ともかく、どれだけ世話をしても、どれだけ、栄養がある料理つくっても、ぜんぜんよくならなかったのである。長期間にわたって……。


もしかりに、母親のためにご飯をつくるということを親切行為としてカウントするのであれば、親切にしたのだから、しあわせになるはずなのである。「XをすればYになる」というかたちで「親切にすれば、しあわせになる」ということを言う人は、現実的なことがまったくわかってないのではないかと思える。


一日のなかで、親切にしたときにしあわせ感を感じる回数と度合と持続時間といったものと、ほかのトラブルで不愉快に感じる回数と度合と持続時間というものを考えなければならないのだ。

どうして、親切にするということだけをとりあげて、ほかのことを取り上げないのだ。一日のなかで、かりに、あかの他人に親切にしたとしても、一日のなかで、きちがい的な家族と、108回の激しいトラブルが生じていたら、全体感情としては、やはり、しあわせだとは感じることができないのである。


介護殺人について思い出してしまった。

50代の女性が、それまで介護をしていた3人の高齢者を殺してしまったのである。それまで介護をしていたということがポイントだ。この50代の女性が、一日で、ひとりつき50回の親切行為をしたとする。

一日で150回だ。介護をはじめてから、50代の女性が3人の高齢者を殺すまでに、3000日あったとする。その場合、150回かける3000日で、合計450000回も親切にしたことになる。けど、この50代の女性のしあわせ感というものはどうだったのだろう。

親切にしてあげたから、しあわせを感じていたのだろうか。親切にしたから、しあわせになったのだろうか。けっきょく、「もうだめだ」と思って、殺してしまったのだから、くるしいものであったと想像できる。しあわせなのに、殺すか? つらかったから、殺したんでしょ。くるしかったから、殺したんでしょ。

どうして、しあわせな人、しあわせ論について語る人はそういうことを無視してしまうのか? どうして「人に親切にすると、しあわせになる……これは絶対に正しい」と思ってしまう人は、そういうことを無視してしまうのか?


2021年10月3日日曜日

ともかく、俺が恥をかくんだよ。俺が恥をかくの……。俺が……。

 「そんなとこ、人の住むところじゃない」とか思っているんだろうな。

せーーかい。せーーかいです。

親父・ネズミ・ダニ事件が、ほんとーーに、親父が俺にやってきたことを象徴している。俺が生まれるまえからこうなんだよな。どうして、生まれる前のことを知っているかというと、おかあさんが、教えてくれた。親父が俺にやってきたことというのは、ほんとうに、こういうことなんだよ。


けっきょく、俺がネズミの糞を処理しなければならない。粗大ごみ回収業者の人に、ネズミの糞がちらばっているけどいいですか」ということを訊いて、スリッパを用意してきてくださいというようなことを言わなければならなかった。けっきょく、土足で上がったけどな。けど、これは、文句を言う気になれないというか、あの人たち、よくやってくれたよなとしか思わない。バルサンをやったのだけど、どうも、効きがあまかったみたいで、たぶん、あの人たちも、ダニに刺された。で、親父の部屋に、毛の長いじゅうたんマットみたいなものがあるんだよ。あれが、ほんとうに、ぼろっぼろなんだよ。回収業者の人が、思わず「これは、いじりたくないなぁ」と言っていた。もうわけない。ネズミのことを考えると、ほんとうに、病気になる可能性があるから、ほんとうに、もうしわけなく感じた。気合を入れてまるめて持って行ってもらったけど、まるめるときだって、ほこりが出る。そのほこりのなかにはダニが入っている可能性が高い。いやじゃん」。あれ、置いてほしくなかったんだよな。「そんな、ほこりが出そうなものをおくなよ」と親父に言ったこともあったんだけど、親父は、いいじゃないかというようなことを言っていた。まあ、親父の部屋だからいいんだけどさ……。いいんだけど、ネズミの侵入という事件があるとちがってくる。どうして、俺が「ネズミ対策工事しよう」と言ったら、「そうしよう」というようなこたえをかえしてくれないんだ。「捕まえるからいい」の一点張りだ。

ともかく、俺が恥をかくんだよ。俺が恥をかくの……。俺が……。

自分は恵まれていると思ったほうがいい

  恵まれている人は、自分のことを普通だと思わないほうがいい。自分は恵まれていると思ったほうがいい。けど、人間というのは、どうしても、自分が普通だと思ってしまう。どうしても、自分が育ってきた環境が普通だと思ってしまう。どうしてかというと、自分のまわりの人もおなじような環境の人がおおいからだ。また、どうしても、自分を中心にして考えてしまうので、自分は普通だと思ってしまう。自分ができることは、他人もできてあたりまえだと思ってしまう。逆に、自分ができないことは他人もできないというような感じがしてくる。


けど、マリーアントワネットの発言の背後にあるのは、「自分は普通」という考え方だ。「自分には、パンもケーキもある。みんな、パンもケーキも持っいるんでしょ。だったら、パンにこだわらないでケーキを食べればいいんじゃないの」と考えてしまったわけだ。けど、民衆は、パンもケーキも持ってなかった。なので、その認知のギャップが、民衆の心に火をつけてしまったわけだ。もちろん、怒りという「火」だ。


侮辱

 侮辱と言うのであれば、「人に親切にすれば、しあわせになる」というようなことを言う人が、さきに、不幸な人を侮辱しているんだよ。どうして、それがわからないんだよ?


2021年10月2日土曜日

まあ、エチケットとしてマスクはするけどね。

   https://note.com/info_shinkoro/n/n4a11e20ca95c



2021/5/5更新】「マスクの効果とリスク」の徹底検証 (データで読み解くコロナ騒動,第2章)


まあ、エチケットとしてマスクはするけどね。


マスクはファクターXじゃないということだね。

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恐ろしいのはワクチンの主成分が血液脳関門をこえることができるということだ。だから、まるまるがまるまるなのか。こういう重大なことを、どうして教えてくれなかった。

Ct値ってそういうことだったのか。なら、新規感染者数の報道なんてまったく意味がない。

ゲーム感覚で楽しんでいるのだとしたら、まるまるのような人たちだな。

こうなってくると、飲み薬(経口薬)もやばいかも。


2021年10月1日金曜日

俺を追い込むようにできているのだ。

  やっぱり、顔を刺されたのがでかいな。今日はさみしい夢を見た。俺は、自転車に乗っていた。で、信号で待たされたので、ちょっと折れて、別の道で家に帰ることにした。その別の道というのは、子供のころ、よく自転車で走っていた道で、俺にとって懐かしい道だ。で、家に帰るとおかあさんがまっていると思って、走ったのだけど、……帰ってみると、だれもいないこのうちだったという夢だ。そりゃ、起きたら、家族がだれもいないうちなんだからな。家族のうち、親父と兄貴は、俺の人生を破壊した張本人なので、家にいてほしくないのだけど、おかあさんはちがうんだよ。


これ、俺じゃない人にはわからないと思うけど、親父のきちがい構造や兄貴のきちがい構造が、俺をほかの人から、孤立させるのである。ごく自然にきちがい構造に従った行為をするのだけど……それも、頑固に何年間も、何十年間も毎日毎日、きちがいしかやらないようなことをするのだけど、きちがいしかやらないようなことを、ごく自然にする……ということが、ほかの人にはわからないんだよな。ほかの人にとっては「そんなのは、言えば理解してくれるでしょ」「言えばいいでしょ」というような話なのだ。ところが、態度と認知と行動がそうじゃないのだ。これが、どれだけこたえるか?


俺を追い込むようにできているのだ。

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あと、鼻の内側をダニにされたのはショックだ。鼻の頭をダニに刺されたのはショックだ。これだって、親父が、普通の人が信じられないような行為にこだわって、やった結果だ。まず、親父は、俺がたのんでないのに、俺が料理をしていたとき、料理をするときに出たごみを、毎日、いちいち、物置に置いたごみ袋にうつすと言って聞かなくなった。俺が何十回も、そんなことをやらなくてもいいと言ったのに、けっきょく、自分(親父)が思いついたことは、やってしまうのだ。親父は……。そういうかわったことを、きちがい親父が言い出すと、かならず、いやなことが起こるので、俺は反対した。

けど、そのときは、物置に置いたごみ袋を目指して、ネズミが集まってくるということは、わかっていなかった。未来予知ができなかった。「なにか、おかしい」「なにか、いやなことが起こる」という予感はあったのだけど、理由を聞かれると、「なにか、いやなことが起こるような気がする」としかこたえられなかった。

明確な理由をこちら側が説明しても、けっきょく、きちがい親父は、自分(親父)が思いついたことはやってしまう。修正がきかない。この修正がきかないというのは、兄貴の場合もおなじで、「うるさいからやめてくれ」と言っても、兄貴の行動を修正することができない。


普通なら、「ああ、そうか」で、すむことが、何十年間も毎日、「ああ、そうか」で、すまないことになる。


絶対の意地でやってしまって、責任をとらない。関与すら認めない状態でやり続ける。きちがいが、きちがい的な意地でやっているのに、本人は、特にやっているつもりがないのと同じ認識になってしまう。

意地になってやっているのに、意地になってやっているつもりがない状態が続く。これが、ぼくが、親父や兄貴のことを、きちがいと言っている理由だけど、ほんとうにこまるんだよ。兄貴はともかく、親父のことをきちがいだと言えば、「親をきちがいと言うなんて、けしからん(おまえがきちがい)」と言うやつが必ず出てくる。

けど、そういうことを言う人は、どれだけこまるかわかってない。どれだけ、こまるかわかってない。ほんとうに、人の人生ぜんぶを破壊するちからがある。「のうのくせ」でそうしているのだから、毎日ずっと、自然にそういう状態が続いてしまう。

きちがい親父が、いつもいつも、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、きちがい的な理由で怒っている家なんて……。きちがい的な理由で怒っているにもかかわらず、そういう自覚がないんだぞ。『きちがい的な理由で怒るのはやめてくれ』と言ったら、「口答えをした。おんだされた。おんだされた。お相撲さんの世界では、親方が白と言ったら、黒でも白なんだ」とか言ってぶんなぐってくる。

時間がたったあと、親父がそういうことをしたと言えば「そんなんじゃな!!そんなんじゃない!!」と逆上してしまう。きちがい的な理由で怒るときの態度と、自分がやったことを否定して怒るときの態度がおなじなんだよ。おなじ態度、おなじ形相で、怒り狂う。きちがい的な頑固さを発揮して、ゆずらない。相手が言っていることを認めない。


ほんとうに、わかってないな。きちがい親父も、「親をきちがいと言うなんて、けしからん(おまえがきちがい)」と言うやつも、まるでわかってない。

きちがい兄貴なんて、きちがい親父の騒音バージョンだ。きちがい親父が、音を出すことにこだわったらああいうことになってしまうんだろうなという感じだ。きちがい親父は、おとをだすことにはこだわらなかった。そういう趣味が「たまたま」なかった。けど、きちがい兄貴は、ヘビメタをともかく、でかい音でがんがん鳴らしたいという欲求・欲望を持ってしまった。そうたら、『きちがい親父の騒音バージョン』のできあがりだ。きちがい兄貴の態度は、きちがい親父がヘビメタに興味を持ってしまったときの態度と、おなじだと思う。きちがい親父が、この世で、ヘビメタに興味を持つということがなかったから、親父がああいう態度で、ヘビメタを鳴らすということがなかっただけだ。

「そんなにでかい音で(お兄さんが)鳴らしているのに、親が注意をしないなんておかしい」とか、これまた、普通の家で育った普通の人が言うんだよ。わかってないのは、普通の家で育った普通の家の人なんだよ。ほんとうに、もう、涙が出てくる。くやし涙が出てくる。

2021年9月30日木曜日

具体的な行為と抽象化の問題(現実の場面における具体的な行為と言葉による抽象化の問題)

「(人に)親切にすれば、しあわせになる」……こういうレベルのことを、正しいと思ってしまう人ばかりなのか? 親切にするということはどういうことなのか?ということについて考えないのか?

たぶんこういうことを言う人たちは、恵まれすぎて、恵まれてない人のことがぜんぜんわからない人だと思う。こういう言葉が、すでに、ボロボロにされている人を、どれだけ追い込むかわかってない。すでに困っている人を、どれだけ追い込むかわかってない。

抽象性ということについては、後でもうちょっと詳しく説明するかもしれない。親切にするというのは、この世の具体的な行為を離れた抽象的な親切にするような行為なのである。しあわせになるという言葉も、じつは、この世の誰かが、このようにしあわせになるということを離れた、抽象的な言葉なのである。本当は、この世に何一つ対応しているものがないのである。それは、リンゴという言葉によってしめされる抽象的なりんごは、この世のどのリンゴとも一致してないということに似ている。しかし、リンゴのように具体的なものではなくて、親切にするというような、そもそもが抽象的な概念なのである。あるいは、しあわせになるというような抽象的な概念なのである。なので、抽象度がリンゴというような物質よりもあがっている。

個々の具体的な場面がなければ、親切にするも、しあわせになる」もないのである。そして、ここの具体的な場面における「親切にする」というのは、抽象的な「親切にする」とは一致してないし、ほかの場面における「親切にする」とも、一致してないのである。おなじことが「しあわせになる」ということにも成り立つ。このことは、個々の具体的な場面における「しあわせになった」というような感想や感覚が、じつは唯一無二であるということを示している。完全にユニークな知覚、感覚、認知、認識なのである。個々の具体的な知覚、感覚、認知、認識を離れた、抽象的な「しあわせになる」ということは、どこにも存在しない。

なので、抽象性の問題を含んでいる。あるいは、抽象化してしまったときに生じる問題を含んでいる。


問題なのは、言葉の抽象性だけではない。

親切にすれば、しあわせになるという関係性の問題なのである。個々の具体的な親切から離れた抽象的な親切行為をおこなうと、ここの具体的なしあわせから離れた抽象的なしあわせが現実化されるということなのである。これは、XをすればYになるということだから、100%そうなるということを言っているのである。さらに、Xが原因でYになると言っているのである。これも、100%の因果関係が成り立つということを言っているのである。抽象的な「親切」と抽象的な「しあわせになる」ということのあいだに、100%の因果関係が成り立っているということを示す文なのだ。

しかし、そんなことは、ない。現実の世界において、なにをもってして、親切行為かとする問題を捨象しても、100%の因果関係などはない。これは、もう、言っている人がどういうことを言っているのか理解してないとしか言いようがない。

たぶん、言葉と具体的な行為について考えたことがないのだろう。人間にかかわる具体的な行為を、親切にするという言葉で抽象化し、人間にかかわる具体的な状態を、しあわせになるという言葉で抽象化し、言葉同士(両方の言葉)の因果関係を100%の確率で言いきってしまう……。これがどういうことだかわかっているのだろうか? こういう人たちは、具体的な場面での親切というものを考えていない。抽象化したレベルの「親切にする」ということと、具体的な場面での「親切にする」ということの、区別をしてない。具体的な場面での「親切にする」も、頭の中ですぐに抽象化してしまうのである。具体的な場面の「親切にする」ということがそこでしか成り立たない唯一無二の現象だということに気がついていない。

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抽象的なリンゴは(現実世界においては)どこにも存在しないという問題に似ている問題。けど、もっとずっと複雑。どうしてなら、リンゴというような物質ではないから。もともとが抽象概念。さらに、言葉同士の『100%の関連性』が成り立つと言ってしまう問題。XをすればYになるという命題を考えたとき、例外なく100%成り立つということを言っているということになってしまう。

2021年9月28日火曜日

「やめてくれ」とさんざん言っていることを、きちがい的な意地でやってしまう人間と一緒に住んでいると、ものすごく不幸になる

 親父がやったことがでかすぎる。どうやっても対処できない。

ネズミの侵入を五年間もゆるしたということが、めちゃくちゃに重要だ。段ボールを片づけようとしたら、ネズミの糞がころがった。基本的に言って、鼻がかゆい。絶対にいやだったのに……。だから、さんざん言ったのに。だから、言っただろ!!

親父、おまえがやったことで、いまも苦労しているよ。

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いま、蚊取り線香をたいているけど、無理っぽいんだよな。

蚊取り線香のガスも、どうしても、こっちにくる。のどがいたくなる。

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 どうするかな?


昨日、Big-Aに行ったときは、わりといい雰囲気だったんだけどな。やっぱり、帰ってきてダニに鼻を刺されてから、くるしい気持ちになった。これ、本当に、親父が原因なんだよ。親父が死んだにもかかわらず、親父がやったことの影響を受けている。ほんとうに、いっしょに住んでない人にはわからないと思うけど、「やめてくれ」とさんざん言っていることを、きちがい的な意地でやってしまう人間と一緒に住んでいると、ものすごく不幸になる。頭がおかしい人と住んだことがない人にはわからない。

きちがい的な意地の出所が親父の頭なんだよね。きちがい的な意地というのは、親父のきちがい的な意地という意味だ。「の」が重複するから、わけて言うことにした。

頭がおかしい親兄弟といっしょに住むことがどれだけ、つらいことか、頭がおかしい親兄弟といっしょに住んだことがない人にはわからないと思う。これ、頭の構造がそうなっているから、普通の話が通じないんだよね。きちがい親父の場合、自分(親父)が思いついたら、こっちがこまることでも、絶対の意地でやってしまう。こっちが「やめてくれ」「やらなくていい」「やってくれるな」とどれだけ、大声で叫んでも、頭がおかしい感じでやってしまう。殺さないとやめさせることができない。どれだけ、首をしめたくなったか。「やめてくれと言っているだろ」と言って、親父の首をしめたくなった。親父が意地をとおすとき、顔が真っ赤になったり、へんな形相になるんだよ。首をしめたくなったにもかかわらず、首をしめずに、我慢したということが、どれだけ俺の体に影響を与えるか。ものすごい、ストレスで、からだがボロボロになってしまう。

こっちがこまることを、どれだけやめてくれと言っても、けっきょくはやってしまう。その結果、ネズミが入ってくるようになる。ネズミが入ってくるようになったら、なったで、今度は、「(自分がネズミを)捕まえるからいい」と言って、ネズミ対策工事をさせないようにする。どれだけこまるか。ネズミの侵入経路をふさがなかったら、つかまえても、つかまえても、あとからあとから入ってくるようになってしまうだろ。実際そうなった。そうなるから工事をしようとさんざん言っているのに、全部、へんな形相をして無視だ。

ネズミのことだけではなくて、むかしっから、そうなんだよ。こっちがこまることを、全力でやる。どれだけ「やめてくれ」と絶叫しても、無視して、やってしまう。

兄貴のヘビメタもおなじなんだよ。これ、ほんとうに、兄貴の頭とおやじの頭の構造がおなじなんだよな。形相もおなじ。顔を真っ赤にするところもおなじ。これ、やっちゃえば、「やってないこと」になってしまう。それもおなじ。どれだけの意地でやったか、本人はまったくわかってない状態になってしまう。やるということに、こだわってこだわってこだわって、どれだけ、やめてくれと言っても、やったのに、やってしまえば、関心がなくなってしまう。本人は、こだわってないと思っている状態になってしまう。けど、こだわってやったとか、こだわってないということが、そもそも、問題になってないんだよ。そんなのやったってやってなくたって自分には関係がないという状態になってしまうから。じゃあ、やめてくれと言ったときに、やめてくれるかというと、それは絶対にない。本人にとってやめてやるのは、都合が悪いことなのである。で、本人にとって、意地になってやったことを認めるということが、都合が悪いことなのである。都合が悪いことは、どれだけ矛盾があっても、認めない。認めなければ、本人のなかでは、やったことになってしないし、どうでもいいことになっている。どうでもいいことというのは、こだわってないことという意味だ。けど、本当は、命がけでこだわっている。こだわってこだわって、絶対の意地でやってしまう。けど、本人は、無関心なんだよ。やってしまえばね……。殺さないと、やめさせることができない。日常生活のなかでそういうことをしているのだけど、……きちがい的な意地でやっているのだけど……本人は、やり終わったあと、一切合切、関心がない状態になってしまう。関心がない状態になったときは、自分がやったことではないような感じになっている。だから、やり終わったあとに、どれだけ言っても、「なにを言われているのかまったくわからない」という状態になる。親父は「やってないやってない」と叫ぶし、きちがい兄貴は、「こいつはなにを言っているんだ」というような形相で無視をする。で、そういうことの認識が全部、ブツギレになっている。だから、本人は、こまらないわけだけど、まわりのひとはこまるんだよ。本人は、ほんとうならできないことを、やってないつもりでやってしまうのだから、『得』をしている。ほんとうなら、我慢しなければならないことを、やってしまうのだから、『得』をしている。その徳が手に入るなら、なんだっていいのである。だから、自分の態度の矛盾や、自分の認識の矛盾には一切合切気がつかない。いつもそうやって、繰り返してやる。

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2021年9月27日月曜日

この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。

 


度数というものがあると思う。むかし、と言ってもつい最近だけど、持続時間が問題なのではないかということを書いた。で、今度は、しあわせだと感じる度合いについて書いてみたいと思う。

基本的に、法則性があることとして「親切にすれば、しあわせになる」ということを言ったとしよう。けど、きちがい的な父親に虐待されている子供が、友達に親切にしても、そんなにはしあわせにならないと思う。

繰り返しになるけど、「しあわせになる」というのは、ある程度長い期間にわたってしあわせな生活をするというイメージがある。瞬間的な「幸福感」のことを言っているのではないのである。

たとえば、友達に親切にしたとき、きちがい父親に虐待されていることをわすれて……三分間ぐらい、いいことをしたつもりになって幸福感を感じたとしよう。この場合、家に帰って、きちがい的な父親とあってしまえば、それで、しあわせな感じというのはなくなる。破壊される。

きちがい的な父親がいちゃもんをつけてきて、激しく怒り狂うので、いやな気持になる。この場合、さっきまでの幸福感はなくなり、不愉快で不幸な気持になるのである。きちがい父親がきちがい父親である限り、そして、子供として一緒の家に住んでいる限り、その子供は「しあわせにはならない」のである。……たとえ、「人に親切にした」としても……。

だから、こういうことを無視して、あたかも物理法則のように「人に親切にすれば、しあわせになる」というようなことを言うのはよくないということを言ってきたのである。

これが、前回までの内容で、今回は、度合いについて考える。ようするに、さきの例で言えば、友達に親切にしたときに、感じるしあわせの度合いを一(いち)だとする。そして、きちがい的な父親にわけのわからない理由で怒り狂われたときに感じる不幸の度合いを三一(さんじゅういち)だとする。その場合、一日のなかで、このふたつが大きな出来事だとすると、三〇(さんじゅう)ぶんだけ、不幸になってしまうのである。

度合いや、頻度ということを無視して、あたかも、一回でも人に親切にすれば、「しあわせになれる」と言ってしまうのは、問題がある。

どうしてかというと、これがまた、恵まれた人にはわからないのだろうけど、この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。

おぼれているひとというのは、すでに強烈に不幸な人のことだ。

強烈に不幸な人だからこそ、しあわせになりたいのである。

しあわせになる方法を求めてしまうだろう。

しかし、そのしあわせになる方法というのが、がせねたなのである。嘘情報なのである。どれだけやっても、しあわせにはならないことなのである。マリーアントワネットが言霊主義者だったらということを書いたけど、「わたしは、しあわせになる」と言っても、しあわせにはならない場合がある。それは、パンが出てこないのとおなじなのである。

パンもケーキももってない人が、「パンがあるパンがある」といくら言っても、パンが出てこないように、すでに不幸せな人が「わたしは、しあわせになる」と言ってもしあわせにならない。

すでに不幸な人は、すでに不幸である「理由」がある。

その理由がなくならなければ、しあわせになる「前段階」にも到達しないのである。……どーーして、これがわからないのか?

たとえば、さきの子供の例で言えば、きちがい的な父親が、きちがい的な父親ではなく、正常な父親にならないと、その子供が「わたしは、しあわせになる」と何回も何回も言ってもしあわせには、なれないのである。あるいは、そのきちがい的な父親と引き離されて、普通の生活をしなければ、しあわせにはなれないのである。

きちがい的な父親に常に、毎日、たたられているのに、「しあわせだ」と感じることはないだろう。かりに、しあわせを感じる瞬間があったとしても、その瞬間は、短く、たたられて、くるしく、不愉快で、不幸な感じがする生活が続く。

不幸な感じがする生活が長く続いているのに、「しあわせになる」ということはない。

人に親切にするということも、おなじだ。「しあわせだと言えば、しあわせになる」ということと、同じレベルのがせねた、嘘情報なのである。どーーして、これがわからないのか?

2021年9月26日日曜日

マリーアントワネットが言霊主義者だった場合

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民衆「パンがない! パンをよこせ!」


マリーアントワネット「パンがないなら、ケーキを食べればいい」


民衆「パンも、なければ、ケーキもない」


マリーアントワネット「ないと言うから、ない。あると言えば、パンが出てくる」


民衆「あると言ってもパンなんて出てこないぞ」


マリーアントワネット「言った回数がたりない。出るまで、何回でも言えばいい」


民衆「何百回、何千回言っても、パンなんて出てこないぞ」


マリーアントワネット「そんなことはない。私の場合、パンが出てきた。パンがある状態になった。だから、きっと、あなたのもとにもパンが出てくる」


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マリーアントワネットの場合、「パンがある。パンがある」と言っていたので、従者がもってきただけ。けど、マリーアントワネットにしてみれば「パンがある。パンがある」と言ったら、パンが出てきたというのは、事実。事実を言っている。なら、正しいか?

民衆が「パンがあるパンがある」と言えば、パンが出てくるか?

そんなことはない。

言霊主義者の「助言」というのは、このくらい、ずれている。やっただけ、損をする、ガセネタ。嘘の情報。信じるに値しない情報。

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無料ダウンロードできます。


2021年9月25日  2021年9月28日


脱力さんがゆく 3

2021年9月25日土曜日

非合理的な思考にとらわれて、できるはずの努力をしないから、だめなのだ……

 手短に言うと、もっている人たちは、もっていない人の状態がわからない。また、人間はどうしても、自分が普通だと考えてしまうので、もっている人たちは、もっているのが普通だと思ってしまう。

なので、じつは「もってない」人に対しても、「もっている」という前提でものを言ってしまう。

物理的なものだと、「もってない」ということや「もっている」ということは、比較的に言ってわかりやすい。しかし、物理的なものに関しても、「もってないなら、もてるようにすればいい」というようなことを言うことができる。

もちまえの?ポジティブ思考や認知療法的な意味での合理主義にこだわっていると、どうしても、そういうことを言いがちになる。

しかし、これもまた、「もってない」ということがわかってないという場合がある。

どういうことか?

たとえば、「パンがないなら、パンをつくればいい」「ケーキがないなら、ケーキをつくればいい」ということを、ポジティブな人が言ったとする。その発言だけは、あっている。

けど、小麦粉やほかの材料がないという状態だと、「つくれない」のだ。「もっている」人は、こまっている人が「小麦粉やほかの材料をもってない」ということがわかってない。

けど、「小麦粉やほかの材料がない」というとを聞いたポジティブな人は「小麦粉がないなら、小麦粉をつくればいい」「ほかの材料がないら、ほかの材料をつくればいい」とか「小麦粉やほかの材料がないなら、小麦粉やほかの材料を買えるだけのお金をつくればいい(稼げばいい)」ということ言いたくなってしまうのだ。

……ポジティブ思考にとらわれているとそういうことを、「相手の状態を考えないで」言いたくなってしまうのだ。しかし、相手の状態というのは、小麦粉やほかの材料をつくることができない状態であり、また、小麦粉やほかの材料を買うためのお金を稼げない状態であり、さらにまた、小麦粉やほかの材料がそもそも、売ってないという状態なのだ。

マリーアントワネット庶民の関係では、マリーアントワネットが絶対的少数派、庶民が絶対的な多数派だった。

だから、「マリーアントワネットは、(自分たちの状態を)まったわかってない」という考えを、庶民が共有できたのだ。しかし、もっているほうが多数派で、もってないほうが少数派だったらどうなるか。

多数派には、少数派が、「どーーしょうもないことを言っている」ようにしか聞こえない。多数派には、少数派が、「非合理的でネガティブなことを言っている」ようにしか聞こえない。

そうなってしまう。

「どうして、ないならないで、つくろうとしないのか?」「どうしてないならないで、それを買うお金をつくろうとしないのか?」という意見が、社会的に見て、正しいことのように思えてしまう。どうしてなら、多数決の世界だからだ。

「状態」がわからなければ、わからないことがある。「状況」がわからなければ、見えないことがある。どういう状態や状況で、ものがないのかということがわかってないと、ものがないということに関しても、まとはずれな発言をしてしまうのだ。

暗黙知のように、判断の背後には、無数の状況に対する理解が存在している。どうして、お金を稼ぐことができないと判断しているのか、どうして、お金あってもものを買うことができないと判断しているのか……そういうことが、わかっている人は、わかっているのだけど、わかってない人にはわからないのだ。

わかっている人は、そういう主張をしている本人たちだ。わかってない人は、そういう主張を聞かされた人たちだ。わかってない人たちは、そういう主張を聞かされると、状態や状況を無視して、自分にとって正しいことを助言してしまう。

「まるまるすればいい」と言ってしまう。

しかし、助言をしたほうは、悩みごとについて発言したほうの状態や状況がただ単に、わかってないだけのなかもしれない。助言をしたほうは、悩みごとについて発言をしたほうの「背後にある条件」が理解できてないだけかもしれない。

しかし、理解できてないということを、ポジティブ思考にとらわれている人が認めるだろうか。

ぼくは、ポジティブ思考にとらわれている人が、「自分は相手の条件、状態、状況を理解してないので、非合理的なまちがった助言をしている」ということを認める可能性は、きわめて、小さいと思う。可能性という言葉に関しては「ひくい」のほうがより適切なのだけど、わざと「ちいさい」という言葉を使うことにした。

……ちいさい。

しかし、社会において多数派がそういう人間たちで構成されているなら、それで押し通すことができる。「悩みごとについて発言したほうが、非合理的な思考にとらわれて、できるはずの努力をしないから、だめなのだ」と考えることができる。多数派なら、理解をしないまま、そういう主張を押し通すことができる。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。