2021年7月31日土曜日

(できない→障害者)(障害者→できない) これは、トートロジーだ。

なになにができないことを、なになにができないという障害があると表現しているのだ。しかし、言葉がひとりあるきすると、なになに障がい者だから、なになにができないと表現されることなってしまう。

これは、トートロジーだ。

どういうことかと言うと、たとえば、簡単な計算問題ができない人がいるとする。この人にテストを受けさせる。その場合のテストというのは計算量を試すテストだ。

で、このテストの結果、この人には計算能力に関して知的障害があるということになったとする。そうなると、この人は計算にかんして知的障がい者だということになる。

この人が、ある職場で計算ができなかったとする。その場合、「知的障がい者だから計算ができないのだ」という表現が成り立ってしまう。知的障がい者だから?まるまるができない? まるまるができないということがテストで確かめられたから(認定されたから)知的障がい者なんだろ。一回転している。

例1

計算ができないから、計算における知的障がい者だ。(できないから→障がい者)

計算における知的障がい者だから、計算ができない。 (障がい者だから→できない)

例2

言葉がうまくしゃべれないから言語障がい者だ(できないから→障がい者)

言語障がい者だから、言葉がうまくしゃべれない(障がい者だから→できない)

こういうことは、おさえておいたほうがいい。本当のできない理由に関しては、語られていない。脳みそのどういうところに問題があるから、計算ができないのかということがわからない。

ある仕事のある作業のなかに、計算能力が隠れていたとする。いちおう、電卓持ち込み禁止、電卓機能アプリ使用禁止で、暗算でやる必要があるとする。ある作業は、複数の能力要素かがかかわっているとする。しかし、複数の能力要素がなんなのであるか分析されてないとする。

ある知的障がい者が、普通にその作業のアルバイトをする仕事に応募したとする。そして、とりあえず、採用されたとする。しかし、その知的障がい者は、その作業ができない。どこがどうというわけではないけどできないのだ。

だいたい、その作業の能力要素のうち、ほかのものも、できない要素であるかもしれない。作業が複数の能力要素に分解されているということはない。作業のなかに混ざり合っている。

能力要素に分解するということが言えるのではないかということが、研究をすればわかるというレベルだ。要素に分解すると言ったけど、これは、「視点」を含む。視点ちがうのであれば、還元される能力要素がちがってしまう。なので、わりとめんどうな話なのだ。

だいたい、おのおのの職場で、この作業をするには、こういう能力要素が必要だということが、明らかにされているわけではない。

その場合、「なんだか知らないけど、できない」ということが、ある。さらに、時間をかければできるというのではだめなのだ。制限時間内に、求められる個数を処理しなければならない。そうなると、これも、要素に還元できるのだろうけど、作業のはやさ(機敏さ)が求められるということになる。なので、計算能力のほかに機敏さにおいて障害がある(と言えるレベルだ)ということになると、努力をしてもできないということになる。




 

2021年7月30日金曜日

昭和型の企業文化がもう通用しなくなったので、いろいろなところでほころびが出ている……セミリタイア・FIRE 流行の根源的問題

 

 さっきまで晴れてたけど、いまは雷雨。豪雨。すげーな。これで、外壁が傷むのはいやだな。限界なんだよな。どうにかしなければならない。

あのとき、修理するべきだったのか。大規模修理。

けど、どうするんだ? 俺は二十歳の時の記憶があるからむりだ。

これも、激しく頭にくるんだよな。

ここには書けないことがいっぱいある。

けど、今日はついていた。「ハンコがいらないものは、玄関の前においてください」というようなことを書いた紙があるんだけど、配達の人が、いちおうピンポンを鳴らしてくれたんだよね。まあ、服を着て出るのにちょっと時間がかわるわけだけど……。で、まあ、そのときに、それとそれ以外の郵便物を家に入れておいたわけ。あれで、ピンポンを鳴らしてくれなかったら、雨が降ってきたということを確認したあと荷物をとりに行くわけだから、ちょっとはぬれるよね。雨が降る方向によっては、ぬれるんだよ。風もあるし。

*     *     * 

二十歳の記憶についてだけど、

ほかの人たちの行動原理とぼくの行動原理はちがうんだよ。 きちがい家族にやられてめちゃくちゃになった。あのときの切れぐあいはない。おかしいんだよな。きちがいがずっと妨害しているのに、妨害していると気がつかない。

どれだけ言っても、気がつかない。

気がつかない状態でやりまくる。頭がおかしい。頭がおかしい家族にやられて、ぼくの人生が普通の人生ではなくなっていた。こういうところの「感覚のちがい」はじつは、でかくて、一般人にうけるようなことを、俺は書けない。

そりゃ、きちがい家族!……ふたり!!……を相手にしないですんだやつばかりだからな。普通に暮らせたわけだからな。学生時代をとおして普通に暮らして、就職して仕事をしているわけだから、まったくもって、ぜんぜんちがうということになる。リタイアするにしても、サラリーマンをしていた人が、サラリーマンをしているリタイア希望者に対してものごとを言うわけだから、最初からちがう。パイの大きさがちがう。

社畜あおりだって、『自分も社畜をしてましたぁ~~~』という前提で、社畜あおりをするわけだよ。社畜という言葉は、好きではないので特別な理由があるとき以外は、ぼくはつかないけど……。

彼らが社畜という言葉をとおして表現しようとしているのは、じつは、日本企業の商習慣だったりする。まあ、日本の企業文化だよね。

もうちょっと、くわしく言うと「昭和型・日本の企業文化」なんだよ。昭和型の日本企業で求められる行動様式について文句を言っている。昭和型の企業文化がもう通用しなくなったので、いろいろなところでほころびが出ているのだ。

昭和型の日本文化が通用する時代だと、愚痴は言ってたけど、けっきょく居心地がいいから、(やめないでそこで働き続ける)ということになる。

いまは、もうだめだよ。だから、「いちぬけた」とやめてしまうやつが出てくる。ようするに、「居心地が悪くなった」のである。

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ほかのやつらは、きちがい家族がどれだけの頑固さで、ひとの人生(別の家族の人生)を破壊するわかってない。

2021年7月29日木曜日

あげることが快感でも無一文にはなれない 過剰蕩尽理論は貿易の起源を考えるとき重要

+++++++前投稿つづき

「体がいたい」と言っている「ノースキル・非正規・中年労働者」なんてたくさんいる。そういう人たちに、あげればいいでしょ。宗教指導者じゃなくて、そういう人たちに、直接あげればいいでしょ。

だれかひとりの「ノースキル・非正規・中年労働者」に、全財産をあたえれば、あたえた人がしあわせになれると言うのであれば、あたえればいいじゃないですか。言っておくけど、全財産だよ。

そういう美談を書いている人は、地位や名誉をうしなうかというと、うしなわない。財産をうしなうかというとうしなわない。仕事をうしなうかというと、うしなわない。子供の教育費を、見ず知らずの 「ノースキル・非正規・中年労働者」にあげても、家族はなにも言わない。しあわせを感じている父親に、子供はなにも言わない。しあわせを感じている父親に妻はなにも言わない……。

実際に、一家の大黒柱である父親が、全財産、地位、名誉を失うなら、家族がだまっているということはないと思う。かりに、家族がなにも言わないとしても、妻も子供もこまる。見ず知らずの人がしあわせになれば自分の家族はどうなってもいい(不幸になってもいい)というような発想は、普通の人間にはないだろうから、普通の人間はそういうことはしない。

「見ず知らずの人があわせになれば」と書いたけど、実際には、「見ず知らずの人に全財産をあたえることで、自分がしあわせを感じることができれば」ということだ。

フツーッチは、そういう美談に感動するみたいだけど、フツーッチが、実際に、ノースキルのアルバイト男性を見たら、どう思うか? 「そんなのは、自己責任だ」と思うんだよ。全財産を、そのノースキルのアルバイト男性にあげたりしない。

あげて、しあわせを感じたりしない。全財産どころか、ポケットにはいっている所持金ですらあげないだろう。その所持金は、その人にしてみれば、わずかな金だ。たとえば、全財産の5000分の1ぐらいの金だ。全財産の5000分の1だってあげないのに、5000分の5000なんてあげるわけがないだろ。「どうして、ノースキルなんだ? どうして、中年なのに非正規なんだ? そんなのは、自己責任だ」と言うだけだ。「腰が痛い? そんなのはあまえだ」「おまえがその職業を選んでいる」と付け足すかもしれないけど……。

たまたま、であった、ノースキルのアルバイト男性に全財産をあげてしあわせを感じるなんてことはない。そうすることで、しあわせになれるというのであれば、やってみればいい。あたえることでしあわせになるというのであれば、あたえてみればいい。全財産ね。

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家族のために用意しておかなければならない金を、宗教団体に全部、あげちゃったら、家族は悲しむでしょ。それは、不幸なことじゃないの? 家族にとっても。本人にとっても。

こういうへんな話を「感動の美談」にしてしまう人たちは、実際には、地位や名誉をうしなわない。そうすることによって、もっと地位があがってしまう。そうすることによって名声をえることができる。 こういうへんな話を「感動の美談」にしてしまう人たちは、実際には、そうすることで、お金が増えてしまう人たちだ。なら、まさしく「感動の美談」だ……ということになるのだろうけど、どうかな。

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人にあたえたとき、幸福を感じるというのは、一般的な傾向ではない。成立条件がある。人が、他人にあたえたとき、しあわせを感じる生き物なのであれば、こんな世界になってない。むしろ、奪うことにしあわせを感じているのではないか。けど、どうして、実験室だと、ひとはものや金をあたえたときに、しあわせを感じるという結論が出てしまうかというと、『文脈』がないからだと思う。つまり、実験では、条件を満たしてまっているのに、条件に関してまったく言及されてないということが考えられる。

ともかく、その手の話を聞いて、「その通りだと思う」人も「感動する」人も、実際には、全財産をほかの人にあげてしあわせを感じたりしない。お金がなくてこまっている中高年の男性なんていくらでもいる。あたえることが好きな人は、こういう人にあたえるべきだ。けど、ほんとうは、あたえない。現実の場面ではあたえない。それは、現実の場面では、実験室とはちがう条件が成り立っているからだと思う。

あたえることに快感を感じるというのは、たぶん、捨てることに快感を感じるというのおなじだと思う。それに、だれにでもあげても快感を感じるのかというと、そうでもないだろ。誰かにあげたときは、快感を感じるけど、別の誰かにあげたときは不快感を感じるということもあり得る。

経済人類学には過剰蕩尽理論というのがあるのだけど、あたえるときに快感を感じるというのは、こわすときに快感を感じるのとおなじだと思う。これ、けっこう重要な理論なのである。交易の起源に関する重要な理論だ。過剰蕩尽理論は普通の人にとってはわかりにくい理論だ。

へんな話だと思ってしまう。

過剰蕩尽理論だと、共同体のなかにないものを、ほしがるということを否定してしまっている。普通の貿易の理論は、共同体のなかにないものを、あるいは、共同体のなかではたりないものを、別の共同体から手に入れることは有益なことだという考え方が成り立っているのである。これはもう、無意識的な前提として成り立っている。その無意識的な前提を否定してしまっている。普通の人には、わからない。

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たとえば、Aという共同体とBという共同体があったとする。Aという共同体には鉄器がない。Bという共同体には小麦がない。だから、AとBの代表者が平和裏に話し合って、鉄器と小麦を交換することを考えるのかどうか? 足りないものを補うという考え方は、いまの社会では普通にある。だから、これは、貿易の理論を教えるときに、わりと頻繁に出てくる例だ。まあ、鉄器というのが問題なんだけどね。鉄の道具でもいいよ。その場合、じつは、小麦を食わない共同体の小麦を欲しがらないという問題がある。そりゃ、ほかのものを食べて、それで落ち着いているわけだから、なんだか知らない小麦を食べるということはないんだよ。小麦の料理を食べたいとは思わない。その共同体でとれるものを食べて生きたいと思うんだよ。鉄器がないから、鉄器を欲しがるか? 鉄器がないのにもかかわらず、鉄器がほしいと思うことは、平和な世界ならない。鉄器でやられた場合、鉄器がほしくなるかもしれないけど、そういう状態でないなら、特に鉄器がほしいとは思わないのが、実は人間だ。利益をもたらす交易の必要性というのは、じつは、戦争(部族間の争いが)ひきこ起こしたものなのではないかと思う。平和なのに、お互いに「たりないもの」をもらうために交易をする……。普通に考えればそうなるけど、ちがうのではないかという疑問がある。

(まあ、鉄器はまずかったかな。じゃあ、チューリップの花はどうだ? あるいは、さくらんぼ)

まあ、こういうことに興味がある人は、栗本慎一郎とバタイユを読めばいい。栗本慎一郎はいろいろとおもしろいことを言っている。

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豊富さを示すために、自分たちが一年かけて作ってきたものを、相手の前で、ばんばんこわしまくるのである。相手というのは、別の共同体の人間たちのことだ。これは、たぶん、戦争のかわりになっている、祭りのような儀式だ。

 

 注 この論考では、「しあわせ」と「幸福」は同じ意味を持つとする。

 

2021年7月27日火曜日

他人にあたえることで、しあわせになると言うのであれば、どんどんあたえればいい。お金がなくてこまっている人はたくさんいるのだから、あげればいい

 ある人との出会いで、人生が変わったというようなストーリー。これ、カネモッチーが人をだます手なんだよな。こんなのない。そして、お金を人にあたえればしあわせになれるというようなことを言う人たちは、お金をあたえたりしない。ちゃんと持っている。だいたい、全財産を失ったのに30億円持っているというのがおかしいとは思わないのか? そもそも、記述がおかしい。

全部、こういうことになるのか。

ある貧乏人が、人生の師と言える人にあってどうのこうのというファンタジーはうけるけど……。普通の貧乏人は、『人生の師』と言える人にあわないで、底辺労働者として暮らして、死ぬ。あるいは、メンターを名のる詐欺師にあって、ますます貧乏な暮らしをして、死ぬ。

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「実話」であろうが、関係ない。こういうファンタジー!!

それなら、そういう話を聞いて、感動した人が、ほんとうにほかの人にお金をあげるのかどうかだ。もちろん、文字通り、「全財産」をあげるべきだ。

それじゃあ、腰が痛いのに非正規労働で働いているあるブロガーに全財産をあたえてくれよ。そうすれば、与えたほうがしあわせになるんだろ。どうして、しあわせになることをためらって、「これは、いい本だ」なんて言っているんですか? 

いいことなら、即実行ですよ。

引用開始 (スタンフォードの脳外科医が教わった人生の扉を開く最強のマジック より)

しかし、株式市場が暴落し、彼はすべてを失い、破産した。彼に残ったのは、慈善事業に寄付することを誓った株式だけだった。

引用終了

……この株式が30億円。30億円残っている時点で、金持ちだ。「すべてを失い」とか、記述がおかしいだろ。「破産した」……売れば30億円になる株式を持っているのに破産?なんてできるの? 破産というのは、自己破産のことだろうか? 日本の法律では、30億円分の株式を持っている時点で、自己破産はできない。まあ、ほかの国の法律はどうだからないけど。しかし、30億円分の株式を持っている人が持っているにもかかわらず、自己破産するなんことが本当ににできるのだろうか? 株式を全部売っても、お金がない状態ならわかるけど、「残ったのが30億円分の株式」なんでしょ。これはおかしい。

30億円どころか、1億円持っている人のところにも、「お金めあて」の人が集まるよ。じゃあ、1億円持っている人は、1億円、集まってくる人にあげて、ハッピーになれるのか? だいたい、集まってくる人はいっぱいいるだろうけど、だれにどうやってわけるのか? 誰にいくらあげるということを決定する段階で、いろいろなトラブルが発生すると思われる。たった、1億円でも。30億円の「30分の1」の1億円でも。

宗教団体に寄付しちゃだめですよ。宗教団体は人をまるまる団体ですよ。 寄付した金で、多くの人がまるまるになるのだから、あげて、いい気持になっているだけですよ。世の中にはいっぱい不幸な人がいるのだから、自分でそういう人をすくいあげたらどうですか? どうして、自分でやらずに、宗教団体にあげちゃうんですか。

こういう「美談」は、みにくい世の中を維持するためにだけある。不幸な人を拡大再生産するような世界を維持するために、こういう「美談」が語られるんですよ。どうして、わからないんですか?

こういう本を読んで感動した人は、「 まず隗より始めよ」じゃないけど、全財産をだれか不幸な人に寄付してみればいいでしょ。全財産と言ったら、全財産ですよ。子供がいる人でも、子供にかかる金をほかの人にあげちゃいましょう。そうすれば、しあわせになれると言うのであれば、どうして、そうしないのですか? 

「(子供のために使う金は)あげられない」と言うのであれば、あげられない理由のほうに真実があるんですよ。

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金持ちが考える貧乏な子供の世界なんだよな。ぜんぜんわかってないんだよな。イメージで語っている。貧乏な子供が、ある賢者とあって、非常に重要なことを教わるという話……に似ている話は、すべて、いつわりの話です。これ、定型パターンなんだよな。注意すべき定型パターン。実際の貧乏な子供の世界や、実際のきちがい親にやられている子供の世界というのは、そういう人たちが思っている世界ではない。貧乏の貧乏がどういう貧乏なのかという問題もあるけどね。そりゃ、相対貧乏と絶対貧乏はちがうからね。しかも、親の性格がおかしい場合……親の無意識に問題がある場合……よその人にはわかりにくい形で、親が脳の機能障害を持っている場合…… カネモッチーや精神・カネモッチーがイメージとしてとらえている「不幸」とはちがう「不幸」が展開するんだよ。ほんとう、目を覚ませと言いたくなるなぁ。どれだけ勘違いをしているか。どれだけ、頭の中でつくった「不幸なイメージ」で物事を語っているか。

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ほんとうの貧乏人は賢者にはあわない。メンターとかインフルエンサーとかと名のる詐欺師にしかあわない。どうしてこういうことがわからないのか?

わかるわけがないか?

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 こういう話が次から次へと出てくるということ自体が、ビンボッチがくるしみ、精神ビンボッチが激しくくるしむ世界を「維持」するのに、役立つ。これ、「置かれた場所で咲きなさい(今いる場所で咲きなさい)」とおなじなんだよ。

精神ビンボッチがいわれのない攻撃を受ける世界を守っている。精神ビンボッチに、圧力をかけている。精神ビンボッチって、精神的な問題を抱えている親の子供ね。子供側の人。そういう家に生まれた人のことね。宗教家、医者、学者、そういう人たちが、 精神ビンボッチに相当に屈折した攻撃をしている。宗教家、医者、学者、そういう人たちが、 精神ビンボッチを助けているように見えるのかもしれないけど、それはちがう。攻撃している。普通の人たちから見ると、助けているように見える攻撃か。ほんとうに屈折しているなぁ。


 


 

2021年7月26日月曜日

「ここは、ジャングルですか? と言われる」

そういえば、他人の『やりたいことリスト』のなかには、豪遊とか高級車を買うとかそういうのがあったなぁ。 

こんなつまらな気持ちで、豪遊をしたっておもしろくない。けっきょく、親友のダイヤ君と本屋や映画館に行ってた頃が一番おもしろかったのか。あのとき、ヘビメタ騒音時代なんだよね。けど、人付き合いはまだ、汚染されてなかった。豪遊するなら、親友とやりたいね。あーあ。長期騒音のことでもめて、絶交だよ。あーあ。さみしいね。長期騒音の音源って、兄のステレオと兄のエレキギターだから。こんなのない。

長期騒音の音源がきちがい兄貴。

長期騒音の音源が家族。

こんなの、考えられない。普通の人は、どうしたって「言えばいい」と思ってしまう。言ったよ。

*     *     *

かっぱ寿司まで歩いていくかどうかまよっている。自転車で行くべきなんだけど、自転車にはツルがからまっている。あれをとって、タイヤに空気を入れて行くというのは、ちょっとね。この気温で、そういう作業をして、虫に刺されてかゆくなると、いやな気持になる。もう、それも、何回も経験した。だから、親父に「木を植えないでくれ」と何回も言ったのに、けっきょく、木が増えているんだよね。親父が入院した時点で。入院する前の、庭をいじれる期間中、ずっと「木を減らしてくれ」と言っていたのに、 増えているんだよな。減らしたところもあるんだけど、なぜか、飢えたところもあって、けっきょく増えている。まあ、木だけじゃなくて、多年草も植えたんだよね。

親父が入院したあと、ネズミのことでネズミ対策業者と相談したことがある。そのネズミ対策業者の人が「ここは、ジャングルですか」と言ったんだよ。俺がそういうことを言われる。いつも、いつも、そうなんだよ。親父がやったことなんだよ。ネズミの餌付けも親父がやったことなんだよ。何年間も「俺が捕まえるからいい」と言って、ネズミ対策工事をしなかったは親父なんだよ。あれほど、俺が、「このままだと、ネズミの糞がふえるからやばい」と言っているのに、あいつはぁ……。ネズミ対策業者の人と縁側のほうにまわったわけだけど、めちゃくちゃに蚊に刺されるわけよ。ネズミ対策工事業者の人だって、蚊に刺されたくないわけ。玄関で待っているときに、蚊に刺されたらしくて、「ここは、蚊が多いですね」と言うわけだよ。俺に言うな。俺だって、こまっているんだよ。親父が、ばんばん、植木を植えたから、こんなことになっているの。「減らしてくれ」って言ったのに、増えちゃっている。俺が、「親父が粕漬の魚で餌付けをした」ということや「親父が『俺が捕まえるからいい』と言い張ってネズミ対策工事に反対した」ということを言ったとき、そのネズミ対策業者の人は「いまいない人のことを言ってもしかたがないんじゃないですか」ということを言ったんだよ。だったら、おまえも、「蚊に刺されてかゆい」ということを言うなよ。いまここにいない、親父が、がんばってがんばって、木を植えちゃったんだよ。竹を植えちゃったんだよ。だから、蚊がいっぱいいるんだよ。

これ、お母さんも言ってたんだよな。親父がいないときに、ほかの人から「ここは、ジャングルですか? と言われる」と言っていた。お母さんが言ってたの。あのときから、お母さんは「木を減らしてくれ」とずっと言ってたの……。

 

2021年7月25日日曜日

きちがいヘビメタを朝から晩までずっと浴びて、交感神経がたかぶっているとき、「眠れる眠れる」と言えば眠れるかというと眠れない

ミンミンゼミ二〇匹、頭につけたような騒音をずっと聞かされて自分の人生がない。みんな、どれだけ苛烈かわかってない。今日、買い物に行ったとき、ミンミンゼミがないていた。このミンミンゼミは、そんなにうるさくなかった。ミンミンゼミでも、特別にうるさいやつと普通のやつがいるのかな?

ともかく、ミンミンゼミが耳の横でないていたら、いやだろ。ずっと、何時間も何時間もないていたらいやだろ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、耳の横に、二匹ずつミンミンゼミをつけて、頭の上に二〇匹ミンミンゼミがいるような状態なんだよ。ミンミンゼミが、耳の近くで、二四匹ないてたら、いたら、いやだろ。

けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音はそれよりも、有害なんだよ。頭を破壊する。睡眠回路を破壊する。精神を破壊する。生活体力を破壊する。むなしくさせる。おこりっぽくさせる。

俺の毎日は、我慢の毎日だった。それを、常識的な人間・座頭(仮名)みたいなやつが、軽く無視する。あいつらは、一日でも経験したことがないから、一二時間鳴らされたあと、からだがどういう状態になるかわかってない。鳴り終わったら、眠れると思っている。そういう単純なやつら。まちがった考えを持っているやつら。

これ、俺からすると、そういう人は、妄想性の障害を持っているように見える。ヘビメタ騒音『で』眠れなくなったと言っているだろ。事実や現実を否定して、非常識な考えにとらわれているようにしか見えるのである。俺から見ればな!!

ヘビメタ騒音『で』睡眠回路が壊れたと言っているだろ。こいつら、「そんなことはない」と思っている。

言霊主義者なら、「だいじょうぶだだいじょうぶだと言えば、だいじょうぶだ」というようなことや、「影響ない影響ないと言えば影響はない」というようなことや、「眠れる眠れると言えば眠れる」というようなことを言う。

俺は、やったんだよ。

きちがいヘビメタ騒音期間中、何日もやった。まったく効果がなかった。それどころか、精神崩壊なのである。きちがいヘビメタを朝から晩までずっと浴びて、交感神経がたかぶっているとき、「眠れる眠れる」と言えば眠れるかというと眠れない。

俺が、呪文のようにこの言葉を繰り返したとき、俺が、どういう気持ちになったと思っているんだよ。破滅破綻だよ。「もう、死ぬしかない」というような不安がおそってきたよ。

毎日、続いた。そういうことが毎日続いた。夜眠れずに、日中、動いているのがきつい。どうしても、気がぬけるときがある。へんなテンションになってしまうときがある。家では勉強ができないけど、学校でだって、授業中つかれて、どうすることもできないことがあった。眠たいのである。前の日、じゅうぶんに眠れずに、授業中、眠たくなるのである。前の日、ヘビメタ騒音にさらされて、頭が破壊されているから、頭がモヤモヤするのである。前の日、ヘビメタ騒音にさらされて、からだじゅうがだるいのである。


2021年7月24日土曜日

過去のことは、頭のなかにしかない……という考え方はまちがっている。過去の記憶がなくなっても、なお残る問題がある。

過去のことは、頭のなかにしかない……過去のことは過去の記憶にすぎない……という考え方がある。この考え方を敷衍すると、過去のることで悩んでいる場合、過去のことを忘れれば、悩みがなくなるという考えに行きついてしまうのである。

けど、そうだろうか?

ぼくはちがうと思う。

この、「過去は記憶でしかない」というような言い方が、そもそもまちがっている。過去のできこどか、脳みそを含んだ体に影響を与えているのであれば、脳みそを含んだ体の影響がなくならないのであれば、「過去の記憶」がなくなったとしても、脳みそを含んだ体の影響によって生じた問題は片づかない。

過去は記憶のなかにしかないという考え方がまちがいなのである。過去の出来事は、記憶だけではなく、脳みそを含んだ、さまざまな体の部位に影響をあたえる。あたえてしまっている以上、その人が「過去の出来事」を忘れても、過去の出来事の影響下にあると言っていい。

過去は、頭のなかにしかない……という考え方自体がまちがっている。

たとえば、ある人が、二〇二一年に認知症になったとしよう。そして、二〇二一年の時点では、自分が認知症だという自覚があったとしよう。また、自分が認知症になってしまったということについて悩んでいたとしよう。そして、二〇二三年に、認知症であるという自覚がなくなったとしよう。自分が認知症であるということで悩んでいたその人は、認知症であるという自覚がなくなり、認知症であったという過去の記憶がなくなれば、認知症であるということから生じる現在の問題を解決した言えるのだろうか?

現在の時点で認知症で、あれば、認知症であるということから生じる問題は生じる。たとえ、過去のある時点において認知症だったという記憶がなくなったとしても、現在の時点で認知症なのであるから、認知症であるという問題は存在する。

しかし、そういう場合でも、本人が過去のことにこだわらなければ、問題はないと考える人たちにとっては、解決済みの問題になるのである。

どうしてなら、過去の出来事について悩んでいる場合、過去の出来事は頭のなかにしかないからだ。過去の記憶に……にすぎないのだから、記憶を失えば、効力を失うのである。

過去の出来事に関する記憶を失うか、あるいは、過去の出来事に関する解釈をかえれば、「記憶にしかすぎない」のだから、問題は解決してしまうのである。

しかし、解決しない。

身体が残る。

この身体というのは、脳みそを含んだ体のことだ。脳みそは「記憶」だけしているわけではないのだ。

たとえば、度重なる騒音によって、睡眠に関する能力と、体力に関する能力に障害が生じた人がいるとする。この人にとっては、騒音の記憶がなくなったとしても、睡眠に関する能力と、体力に関する能力問題は残る。睡眠に関する能力に関しては、単に睡眠障害と言ってもいい。体力に関する能力に関しては、わかりにくいと思う。

この体力というのは、体力測定で測れるような体力とはちょとちがう。言ってみれば『生活体力』と言えるようなものだ。ようするに、ものすごくつかれやすい体になってしまったということだ。つかれやすさの問題というのは、ほんとうは、ある。あるけど、根性論や努力論によって無視されてしまう。

それに、「つかれやすさ」という問題は、脳みそのなかの問題のように、他人にはわかりにくいものなのだ。ようするに、外から見てわかりにくい問題だということだ。右手がないというような身体的な障害の場合は、外から見てわかりやすい。

なので、右手がない人に向かって、右手を使うような行為を強制する人はいない。あるいは、無視できるほど少ない。しかし、身体のつかれというのは、本人にしかわからない部分がある。ものすごくつかれている人に対して、「もっと動くこと」を要求する人は多い。逆に、「つかれ」が身体的な特徴や動作的な特徴に現れるということも多い。

ただし、この場合も、客観的に見た身体的な特徴や動作的な特徴が、そのまま、本人の主観的な疲労(つかれ)の認知と一致するかどうかはわからない。

「つかれ」と「疲労」という言葉を使ってしまったけど、ここでは、「つかれ」と「疲労」は完全に一致するものとする。また、本人の主観的な疲労(つかれ)の認知と本人の疲労(つかれ)自体は完全に一致するものとする。ようするに「つかれ」というものは、目に見えないので、脳みそと神経の問題としてあつかうことにする。疲労自体と易疲労性はもちろん、区別して考えなければならないけど、つかれやすい人は常につかれているとする。

その場合、たとえば、睡眠障害と駅疲労性によって、通勤・通学ができないということがしょうじる。睡眠障害と易疲労性がある場合は、その睡眠障害と易疲労性が、長期間の騒音によってもたらされたものであり、なおかつ、その長期間の騒音が終了しているにもかかわらず、身体的にくるしいということがしょうじる。

ようするに、頭のなかにある「過去の記憶」を消しても、睡眠障害と易疲労性は残る。

 過去のことは、頭のなかにしかない……という考え方はまちがっている。

過去のことはすべて、記憶でしかないことだから、過去の記憶を消せば、過去のことが原因で生じた、さまざまな身体的な障害が治ってしまうということはない。身体的な障害のなかには、脳みそや神経がかかわってる障害も含まれる。

 

 

2021年7月23日金曜日

ヘビメタ騒音の効果を過小評価して、本人の苦労話をするのはやめてくれないかな

 ヘビメタ騒音のことはちゃんと言ったのに、頭が悪いやつらが、誤解をするんだよな。たとえば、座頭(仮名)は自分(座頭)が一浪したとき、これからどういうふうに生きるか考えていたというようなことを言ったあと、やっぱり人間は働くべきだよというようなことを言った。

これ、ヘビメタ騒音について誤解をしている。

働けなくなるほどの騒音。通学できなくなるほどの騒音だと言っているだろ。働けなくなる騒音の繰り返しがあったと言っているだろ。通学できなくなるほどの騒音の積み重ねがあったと言っているだろ。

「できない」と言っているのに、ほんとうにわかってないなぁ。

「自分はできる」という前提、あるいは「自分なら鳴らされても、できたままでいたはずだ」という前提でものを言っているのだろうけど、それは、俺と同じ状態で俺と同じ時間の長さ、俺と同じ期間の長さ、自分がこの世で一番嫌いな音に、小学六年生から二二歳まで、さらされてないから、そういうことが言えるだけなんだよ。

ほんとうは、二二歳以降も鳴っていたのだけど、一般的な人が大学を卒業するまでの期間ということでいいよ。短めに言っておいた。中学三年間、高校三年間ずっと、毎日ヘビメタが鳴っていたということが重要なんだよ。

それは、積もる。

高校を卒業した時点で、ぼくは、通学をする能力・通勤をする能力をなくした。

これが重要なんだよ。やれるけど、やらないことじゃないんだよ。どれだけがんばってできないことなんだよ。どれだけがんばってもできないことになってしまったんだよ。

だから、ヘビメタ騒音で働けなくなったと言っているだろ。ヘビメタ騒音で通学制の学校には通えなくなったと言っているだろ。これ、高校卒業をした時点ではわからなかったのだけど、あとで、わかった。

ほんとうに、ヘビメタ騒音の話をしたとき、ヘビメタ騒音の効果(負の効果)を過小評価して、本人の苦労話をするのはやめてくれないかな。そのくだらない苦労話の対象となる期間、そいつは、学校に通っていたり、職場に通っていたりするのである。続けることができた。

だから、それは、学校に通えなくなったり、職場に通えなったりするような「でかい出来事」じゃない。同じじゃないだろ。その時点で、できるのだから、同じじゃない。苦労が続いたあと、通勤・通学ができるのだから、通勤・通学ができなくなるような「でかい出来事の連続」ではない。なんでこれがわからない。こいつらは、ゆるさない。

ヘビメタの効果を無視したり、過小評価しているだけなのである。こいつらは、自分がエイリさんより優れているから、ヘビメタ騒音があったとしても、ヘビメタ騒音の効果で通学・通勤する能力がなくなるということはないという前提でものを言っているのである。

侮辱。

こういうほかの人のことがまったくわからないやつら、こういう想像力がまったくわからないやつらが、そういう前提をとおして俺をばかにしてくる。

きちがいヘビメタ騒音でいろいろと恥をかてきたけど、こういうのも、そういうことのうちのひとつだ。

そういう前提をとおしてというのは、前提に関して、そいつらは言及しないのだけど、前提は思考の前提として成り立っているという意味だ。前提がまちがっているのだから、まちがった思考しかしない。まちがった結論を必然的に導き出す。

俺が「できない」と言っているのに「できる」という前提で「人は働くべきだよ」というようなことを言う。これは、俺が言っていることを無視していることに等しい。

しかし、無視しているつもりはないのだろう。これは、きちがい兄貴と同じ構造だとは言わないけど、普通に成り立つ構造だ。

ようするに、きちがい兄貴の場合は、感覚を言い換えてやり切るわけだし、本人がやったことを認めないという構造をもっている。

ほかの人は、同じように「ヘビメタ騒音の影響」を無視しているのだけど、ほかの人が、ヘビメタ騒音を鳴らしたわけではないということは理解している。きちがい兄貴は、自分がこだわってこだわって、すべての使える時間を使ってヘビメタをでかい音で鳴らしたにもかかわらず、「自分がこだわってこだわって、すべての使える時間を使ってヘビメタをでかい音で鳴らした」という認識がないのである。

認識がないのだから、俺がどれだけ「ヘビメタ騒音でこまる」と言っても、「自分には関係がないことだ」と判断してしまうだろう。認識がないわけだから。

そして、普通の人は、「意地になってやったことに関して、認識がないなんてことはない」と思っている。そういう前提でものを言う。きちがい兄貴の無視のしかたは、異常だ。普通の人にはわからない。

さらに、きちがい親父がきちがい兄貴同じ脳の構造をもっているということが、他人に理解されない。ふたりいる。一家に、ふたりいる。四人家族なのに、ふたりも「自分が意地になってやったことは、やってないことだ」と認識てしまう人間がいるということの意味が、わからない。そういう頭の構造をもっている人が、普段どういう意識で、問題行動をするかわかってない。わかるわけがない。これ、ほんとうに、兄貴は、まったくやったつもりがないのとおなじ気分でいる。

*     *     *

座頭(仮名)のようなやつとのやり取りだって、きちがい兄貴があれほどヘビメタに夢中にならなかったら、しょうじなかった。 全部ちがう。きちがい兄貴のような家族に、きちがい兄貴のようなやり方で、ヘビメタ騒音を聞かされなかったやつらのほとんどが、誤解をする。

きちがいヘビメタ騒音をやられなかった(場合の)ぼくに対して、尾っぽをふるようなやつらまで、俺のことをばかにしてくる。それは、きちがいヘビメタ騒音を無視しているからだ。正確には、ヘビメタ騒音の影響を無視しているからそうなる。その人がもっている常識というのがある。その人がもっている常識……たとえば、ひとは働かなければならないというような常識に、ヘビメタ騒音にやられたぼくが、反しているわけだから、ヘビメタ騒音を無視すれば、常識に従った判断が前面に出る。

それが、そいつの判断になる。

それが、そいつがほんとうに思っていることになる。

けど、そういうことを思うやつだって、自分がこの世で一番嫌いな音を、あの態度で、毎日毎日、何時間も何時間も聞かされたら、「通勤・通学ができなくなる」。根性論や、努力論を言っていたやつが、歳をとれば体が動かなくなったという理由で、仕事をするのをやめてしまう。無職になる。

しかし、本人は、無職でも、無職ではないつもりだ。

ヘビメタ騒音で働けなくなるのと、老化で働けなくなるのと、どっちがつらいと思っているんだよ。ヘビメタ騒音で働けなくなるほうが、つらいに決まっているだろ。老化なんて、自然なものではなくて、神経ガスを常に吸わされてきたようなものなのだから……。記憶力、精神力、体力をうばう、神経ガスを、十代という大切な時期に吸わされ続けて、それ以降、働けなくなったという場合のほうが、働いてきたけど老化で働けなくなったということより、つらいに決まっているだろ。

俺の青春をかえせよ……きちがい兄貴。

俺の学生時代をかえしてくれ……きちがい兄貴。おまえがこだわってこだわって、きちがいヘビメタを、でかい音で鳴らし続けたから、こうなっている。これだって、言いにくいことだ。どんなことであれ、「なんとかのせいだ」というのは、みっともないという感情がある。人間には、ある。だれだって、そういう感情をもっている。

けど、言わなければならない。「けど、言わなければならない」ということの意味すら、考えないやつら……。世間のやつらは、そういうやつらばかりだ。ところで、言わなければ言わないで、いいかというとそうではないのだ。

これ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、説明しなくても、うまくいかない。けっきょく、普通の人が普通に信じられる範囲の行動じゃないんだよね。兄貴の行動は。兄貴の意識も態度も同様……。おなじことが成り立つ。

けど、これまた、成り立つということについて、どれだけの人が注意を払うかという問題がある。「人のことなんて知ってられない」のである。そうなれば、一番近い思考ルートを選ぶだろう。一番近い思考ルートというのは、本人のなかにすでにある「常識」に従った思考だ。

なので、何重にも、誤解されることになる。ばかに誤解される。

きちがい家族が、意地になって、きちがいっぷりを発揮して、夢中になって、騒音を出し切るとそういうことになってしまう。横の部屋に住んでいる別の家族が、ほかの人からばかにされるということになる。ほかの家族……が、きちがい家族によるヘビメタ騒音について語っても、語らなくても、誤解されることにはかわりがなぃ。

*     *     *

努力論や根性論を振り回しているやつは、一生働ないとだめだよ。認知症になっても、新型肺炎になっても、どんなことになっても、働かないとだめだ。自分で言ってただろ。「人間は働くべきだ」と。「どんだけつらくても、努力すればできる」と。自分が人におしつけていたことを、忘れるなよ。「働けないなんていうのはあまえだ」。「できると言えばできる」。一生、最後の一秒、まで、働け。

 

2021年7月22日木曜日

「過去は関係ない」なんて理屈で、とぶようなものじゃない

ヘビメタ騒音の感じしかない。長すぎた。期間が長すぎた。何千日、毎日連続でやられたか。毎日連続ということが、どれだけこたえるか。どれだけ、影響を与えるか。人間は学習してしまう動物だ。

四〇〇〇日も五〇〇〇日も、毎日続いていいわけがない。成長期の一〇年間、毎日ずっと、続いたことが、その後の人生に影響を与えないなんてことはない。与えるに決まっている。しかし、家族によるきちがいヘビメタ騒音が、自分の身の上にしょうじなかったやつは、「過去のことは影響がない」など言う。

こいつは、自分の身の上にしょうじなかったことだから、そう言えるだけなんだぞ。……自分の身の上に、しょうじなかった。だから、しょうじたときの影響のでかさがわからない。影響の持続性がわからない。わからないだけ。影響を無視した推論をするな。

どれだけつらいか。どれだけ「連続して」この雰囲気が続くか。こんなの、理屈じゃない。あほな理屈じゃない。あほだと思う。「過去は関係ない」なんて理屈で、とぶようなものじゃない。残る。やられればやられるほど、影響が残るのにあほが、「そんなのは関係がない」と言う。

そういうことを言うあほは、俺とおなじヘビメタ騒音を経験してない。その人にとって、一番いやな音が、鳴っている生活というのを経験してない。

だから、言うことがちがう。

しかも、これ、鳴らしているやつが家族だということが問題なのだ。そして、ぼくが一〇年ぐらい、未成年だったというのが問題だ。そりゃ、やられてないやつは、やられてないのだから、好き勝手なことが言える。

勝手に自分で「ヘビメタ騒音の程度」と「ヘビメタ騒音の影響」を想像して、「こんなものだろ」と思って、「人間は働くべきだ」というようなことを言う。「ヘビメタ『で』働けない」と言っているのに、「ヘビメタ『で』働けない」ということを認めない。

そいつらにとっては、ヘビメタ騒音なんてたいした騒音じゃないのだ。ヘビメタ騒音の影響なんて、鳴り終わればなくなるもとだと思っている。さらに、鳴り終わって何年もたっているのであれば、絶対に影響なんて残るはずがないと思っている。

あほだ。しかし、普通の人だ。きちがいヘビメタ騒音を実際に自分の体で経験してない人はそう思うのだろう。

しかし、考えてもみろ。これは不幸なことだ。一一歳から二五歳までヘビメタ騒音を浴びたことがない普通の人間と、ヘビメタ騒音の影響をめぐって、議論になってしまうのだ。議論というよりも、言いあいだ。

そして、マジョリティーは、ヘビメタ騒音の経験がないやつらだ。マジョリティーは、想像でしかヘビメタ騒音について考えることができないやつらだ。そして、マジョリティーは「そんな年で働いたことがないなんておかしい」「人間は働くべきだ」と思うやつらだ。

そういうやつらと、言いあいになってしまうだろ。ヘビメタ騒音をめぐって。そして、マジョリティーのほうが多いのだから、そいつらが、俺の悪口を言ってうなづきあうということになってしまう。自動的にそうなる。俺の立場はどうなる?

だからそういうことになるから「やめてくれ」ときちがい兄貴に、何回も何回も言ったのに。一日に、何回も何回も言ったのに……きちがい兄貴が、きちがいおやじモードで無視して、鳴らした。そして、きちがい兄貴が、きちがいおやじモードで「鳴らした」ということを、無視する。毎日、一日ずつ、きちがい的な意地で鳴らして、一日中きちがい的な意地ですべての鳴らせる時間は鳴らしたので、まったく鳴らさなかったのと同じ気持ちになってしまう。まったく鳴らさなかったのと同じ認知になってしまう。

普通の人には想像することができない!きちがい的な無視!をしているからだ。「やっている」ということを無視して、「やった」ということを無視して、一日が終われば、その日はやってないことになってしまう。やったってやってなくなってどうでもいい日になってしまう。

なら、一日中。やめてくれるのかというと、そんなことは絶対にないのだ。「どうでもいい」なんてことはない。一秒だって、いのちがかかっているから、絶対ゆずらない……こういう態度でゆずらないのに、どうでもいいなんてことはない。

けど、全部、自分が好きなように、やり切ることができたので「どうでもいい」ことになってしまうのである。「やったってやってない」「やったって、そんなつもりはない」ということになってしまう。そして、「やったって」の部分がとれてしまう。

だから、「やってない」「そんなつもりはない」という意識が残る。こういう認識が毎日成り立つ、一五年間。きちがい兄貴よ。きちがい兄貴は、やってた。やってないなんてことはないからな。

一秒間、ゆずらないことに、いのちがかかっているんだよ。

そういうやりかたなんだよ。おやじとおなじなんだよ。

そういうのが全部、親父とおなじ。そういう脳みその構造が、全部、おやじとおなじ。だから、おやじとおなじやり方でやって、おやじとおなじやり方で、やったということを無視してしまう。

だから、悪気なんてまったくない。

じゃあ、ヘッドホンをしてゆずってくれるのかというと、そんなことは、一秒もない。

なまの音で聞くということにこだわってこだわって、絶対の意地でスピーカーで鳴らす。どんだけでかい音で鳴らしてたって、その音がでかい音だということを認めたら、しずかにしなければならなくなる。

それならば、絶対の意地で「でかい音だということを認めない」ということになる。

これが、意識的な決意ではなくて、無意識的な決意なのだ。

だから、すべてが矛盾しているということになる。

けど、そういう状態で得をするのはきちがい兄貴だ。

全部やりたいようにやって、ぜんぜんやったつもりがないまま生きることができる。責任なんて感じるわけがないだろ。本人はまったくやってないつもりなのだから、どうやって、責任を感じるんだ。

こういう、都合のよさ。きちがい頭。

全部、きちがい親父から引き継いで、きちがい兄貴がやった。

きちがい兄貴が、この頭の構造で、きちがい的ないこだわりで毎日、どんなこまかい時間も使ってずっとやったことが、ヘビメタをでかい音で鳴らすということだ。

こんなのない。こんなきちがい兄貴が横の部屋に住んでいた人間なんて、俺以外にいない。

いないから、自分の体験としてわかってない。俺と一緒の部屋に住んで、きちがいヘビメタウオンを経験したわけではない人が「そんなのは、関係がない」という世界だ。そういうことを言うやつは〇〇〇してやりたい。こんな世界で〇〇てたくない。

2021年7月21日水曜日

家族にやられたやつは、理解なんてされない。一般人の無慈悲な言葉は、けっして、助言などではない

 ほんとう、いまの日本、きちがい家族にやられたらおしまいなのである。「すべては受け止め方の問題だ」「すべては自己責任」とやられたやつを追いつめることしか言わないやつが、うじゃうじゃいる。

きちがい家族にやられたら、おましいだ。

きちがい家族にやられてないやつが、えらそうなことを言ってくる。特に、きちがい家族にやられて、「働く力をうしなった」場合はでかい。「どんなにつらくても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「限界は越えればいい」「〇〇障害で働けないなんていうのは、あまえだ」と追い打ちをかけてくる。

しかも、こいつらは、追い打ちをかけるつもりなんてないのである。ただ、知らないだけなのに。ただ、自分が何年間も毎日毎日、きちがい家族にやられたことがないから、わかってないだけなのに、自分の経験でものを言ってくる。

これ、ほんとうに、きちがい家族にやられたやつを、普通のやつが追いつめる構造というのができあがっている。きちがい家族にやられたやつは、理解なんてされない。

積極的に、きちがい的な意地で自分勝手なことをやったやつは、保護され、やられたことによって働く能力をうしなったやつは、きちがい家族にやられてない一般人から、ぼろくそに言われるのである。

こんなのはない。

一般人の無慈悲な言葉は、けっして、助言などではない。しかし、やられてない一般人は、「助言」のつもりでそういうことを言う。もう、できあがっている。こんなのはない。

 *     *     *

ほんとうに、自分勝手なやつをさらに自分勝手にさせるような言語がはやっている。病的な自分勝手さで、人を傷つけたやつが保護され、傷つけられたやつが、めちゃくちゃに言われる。

2021年7月20日火曜日

ヘビメタ騒音以降の世界だけど、「やりたかったこと」が「憂鬱で憂鬱でやりたくないこと」になってしまう

 ヘビメタ騒音以降の世界だけど、「やりたかったこと」が「憂鬱で憂鬱でやりたくないこと」になってしまうのである。これ、言いようがない。「じゃ、やらなければいいじゃないか」ということになるのだけど、やらないで、何十年もたったのが、俺のいまの姿だ。いまの状態だ。これ、ほんとうに、ちがうんだよ。わからないかもしれないけど、ちがう。これ、ちがうんだよ。けっきょく、きちがいヘビメタ騒音に毎日やられなかった人は、やらなかった人の世界を生きている。これ、ちがうんだよ。意識的な意志で「楽しもう」と思ってもむだなんだよ。きちがいヘビメタ騒音にやられたからだがある。きちがいヘビメタ騒音にやられた脳みそがある。脳みそは、当然からだの一部だ。けど、ほかのからだの一部とはちがうところがある。意欲に直結している。思考に直結している。認知・認識に直結している。脳が感じている世界が、「この世界」だ。意識的な意識は、脳みその、一部によって生成される。あくまでも、脳みその、一部。ほかのところがある。脳みそなのに、意識的な意識では、制御できない部分がある。これは、考えてみれば当然なのだけど、「意識的な意識教」の人たちは、意識的な意識を生み出す脳の一部は、それ以外の脳みそを、自由に制御できると思っている。これは、宗教的な信仰なのである。脳科学などというけど、宗教。たんなる、信仰の世界。すくなくても、ぼくには、「意識的な意志」では制御できない部分がある。「意識的な意識」をうみだす脳みその一部よりも、それ以外の脳みそのほうが、でかい。実際に、物理的にもでかいだろうし、(自我全体に対する)影響力もでかい。 意識的な意識を生み出す脳の一部は、それ以外の脳の、基盤の上に成り立っている。基盤のほうが、本質的な影響を与えて当然だ。よく眠っていなければ、寝不足の影響を不可避的に受ける。けど、こいつらは、それを認めない。「睡眠は、意識的ない意志で、どうにでも制御できる」「自分のことなのに自分が制御できないということはない」と「信じ込んでいる」。しかし、騒音などの外部の影響により、睡眠時間が少なく、睡眠の質がよくない場合は、やはり、脳がその影響を受ける。どれだけ、「意識的な意識」を生み出す脳の一部が、「寝不足の影響なんてない」「自分は睡眠を制御できる」と言い張っても、影響を受ける。こんなのは、ほんとうは影響を受けているのに、本人が、「いじになって」影響を無視しているだけだ。科学的な世界ではなくて、信仰の世界だ。

 

2021年7月18日日曜日

尊敬すべき父親が、自分を虐待してくるということが、どういうことなのか、やられたことがない人にはわからない

 なんか、新しいネズミの糞があるような気がする。あれは、ネズミシートを片づけたときに落ちたものなのだろうか?

じつは、仏壇とか神棚をどうするかまよっている。とくに、神棚は問題だ。仏壇から、ネズミが飛び出してきたときには驚いたよ。仏壇には、殺虫剤がかかっている。仏壇自体はともかく、位牌にも殺虫剤が何度かかかった。なので、お坊さんには「殺虫剤がかかったことがある位牌なので、手袋をしてね」と言う、必要がある。

ネズミの件を言わないで、それを言うのが困難だ。 ネズミの件を言うとなると、親父の件も言わなければならない。親父が意地をはらなければ、こんなことになってないのだ。ところで、親父がうちにいれば怒り狂っている時代、親父は神棚に手を合わせていたのだ。俺は「そんなことをするなら、きちがい的な理由で怒り狂うのをまずやめてくれ」と思っていた。

いちおう、しあわせを願って、神棚に手を合わせるわけだろ。きちがい親父がきちがい的な理由でいつもいつも怒り狂っているので、うちの人はしあわせじゃないんだよ。「そんなのに祈ってないで、普通の人になってくれ。きちがい的な理由で爆発するのはやめてくれ」と思っていた。いつもいつも思っていた。

親父は、神棚にお祈りする前に、パンパンと「かしわで」を打つ。親父は、でかく音が響くように思いっきり、手を打つわけだけど、俺は、それが、いやでいやでしかたがなかった。

「はやく、会社に行ってくれないか」「はやく、家からいなくなってくれないか」と布団のなかで「死にそうな気分で」思っていた。あの、憂鬱はない。

俺にとって「元祖、朝の憂鬱」だ。

これ、本来は、尊敬すべき父親が、自分を虐待してくるということが、どういうことなのか、やられたことがない人にはわからない。どれだけ、広範な範囲に、被害が及ぶか想像もつかないと思う。神棚のしめ縄は、じつは、お母さんが死んだとき、とってもらった。親父にとらせた。それは、もう、俺が四〇代になったあとだ。

こういう、時間の流れも、時系列的なことを無視する人には、わからないことかもしれない。「しめ縄をとってくれたのだから、いいお父さんじゃないか」とか「けっきょく、自分の意地(エイリの意地)を通すことができたのだから、お父さんが、おまえ(エイリ)の言うことを、聞いたということじゃないか」と思うかもしれない。

いちおう、この、しめ縄をとってもらったということは、不公平になるから、書いておかないといけないと思って書いているけど、いろいろと誤解をよびそうなので、書きたくはない。これ、いろいろと複雑なんだよな。「なんか、やってほしいことがあるか」と、聞いてきたのでしめ縄をとってくれと言った。お母さんが死んで、いろいろと、お母さんの持ち物を片づけているときだ。

それなら、たとえば「まったく言うことを聞かない頑固おやじではなくて、聞くこともある親父なのではないか」と、まったくわかってない人は思うだろう。ちがうのだ。これ、ほんとうに、言いにくいなぁ。親父が家で、発狂していた時代は、きちがい兄貴の体が大きくなった時に、いちおう、おわる。

けど、きちがい親父の性格がかわってしまったわけではないのだ。親父の性格や親父の認知機能がかわってしまったわけではない。感覚器を書き換えるような性格がなくなってしまったわけではないということが重要だ。

まあ、きちがい親父が、いばっている、きちがいおやじ時代が終わったけど、きちがい兄貴がいばっているきちがい騒音時代が始まってしまったのだ。親父の頑固さと、きちがい兄貴の頑固さはおなじだから……こまる。あとは、自分がなにもやってないという意識、認識が続くというのもおなじなんだよ。

こんなの、ない。

きちがい的な頑固さでやり続ける……毎日やり続けるのに、やっているつもりもなければ、やったつもりもない、というきちがい感覚。しかも、相手(困っている家族)は、毎日、言っているんだぞ。

これも、毎日言われているのに、ずっと、何十年も「わからないまま」暮らすということが、どういうことなのか、普通の人には、まったくわかってない。ここらへんだって、絶対にわからないことだ。

普通の人の単純な思考だと、これ、わからないんだよ。

家にいるきちがい親父のことや、家にいるきちがい兄貴のことは、普通の人にはわからない部分がある。この部分のおかげで、どれだけ俺が誤解を受けてきたか。普通の人から誤解を受けてきた。そして、その誤解は、続く。俺が生きている限り続く。

++++(つづく)


 

 

2021年7月17日土曜日

あれ、見えたって見えない状態になってた

 じつは、防塵メガネをかけて、ネズミシートを片づける作業をしたのだけど、汗をかくんだよね。で、どうも、防塵メガネのすこしうえのあたりを、ダニに刺された。ようするに、まゆげのうえなんだけど、かゆかった。で、なんか、作業中じゃなくて二階にあがってきてから、かゆくなった。なんか、横になっているときに、かいたんだね。なんか、かさぶたができた。一度傷ができて、かさぶたになった。で、顔だからいやなわけ。腕とかじゃなくて、顔だとほんとうにへこむんだよ。俺はほんとうにきれいな肌をしていたのに、ネズミ騒動で、ほくろみたいになったり、シミみたいになったりしている。これがいやなんだよね。親父がネズミダニを導入して、肌まできたくなっている。親父、責任、とれ。まったくわかってないんだろうな。ネズミの糞は、どれだけ言っても、がん無視だからな。あれ、見えたって見えない状態になってた。気にならないのだよな。普通、絶対に気にすることを、きちがい親父が気にしないから、ひどい目にあったということが、ネズミだけじゃないのだ。ほんとうに、普通の人の感覚からずれているんだよね。すべてが……。親父が普通の人だったら絶対にしょうじないような、トラブルがしょうじている。しょうじた。いつもそうなんだよね。

兄貴も、普通の人じゃないんだよな。親父とおなじで感覚器を書き換えることができる。認めてしまったら、自分がゆずらなければならないことにつながることは、絶対にどんなことがあったって認めない。聞こえたって、聞こえない。でかい音で聞こえたって、小さい音で聞こえると思ってしまう。そうしたら、どれだけなにを言っても、そういう「感覚」が正常な感覚にもどらないので、ずっと、頑固に迷惑行為をし続けるということになるのだ。親父のネズミに関しては、二段階ある。長くなるからはぶく。

ともかく、普通の人だったらあれだけネズミの糞が、居間とか台所に落ちていたら、気になるはずなんだけど、気にしない。親父の部屋にある押し入れと親父の畳ベッドのあいだに、ものすごい量のネズミの糞がおちていた。

ダニに刺されながら、処理をするのは俺なんだよ。

使い捨てレインコートと、パンツになっている使い捨てレインコートを着て、いちおう、ダニに刺されないようにしたのだけど、作業中刺された。これは、作業中だ。その、ベッドと押し入れのあいだにあるネズミの糞だけど、三センチ、つもっている。面積としては、横?九〇センチ×縦二〇センチぐらいのスペースなんだけど、その上に、ネズミの糞が、三センチぐらい積もっている。インスタントコーヒーの瓶に入っている、粒上のインスタントコーヒーをぶちまけた状態になっていた。四本分ぐらいぶちまけた状態だ。

台所にあるスポンジたわしも、まったく気にしないで使っているんだよね。あれだけネズミが出ているのだから、そして、ネズミの糞がたくさん落ちているのだから、普通だったら、シンクのところに置いたままになっているスポンジたわしなんて、使う気にならないだろ。フタがついていて、スポンジたわしだけ、ネズミの糞がつかないとか、ネズミがうえを通らないということにはなってないわけだから。

たぶん、ネズミが出始めてから、親父が入院するまでずっと、おなじスポンジたわしを使っていた。普通なら、スポンジたわしだけ、きれいに保てるように、ふたつきの箱に入れようとか、思うはずだ。というか、普通なら、あんなに、ネズミが出ている状態に耐えられない。まあ、ふたつきの箱に関しては湿気の問題があるんだけど、ネズミの問題のほうがでかい。親父は急性胆嚢炎だったんだけど、ネズミのばい菌が影響していると思う。



 

兄貴は、ほんとうに、自分の気持ちしかない人間

 きちがい兄貴は、ほんとうに、自分の気持ちしかない人間なんだよ。だから、自分のヘビメタ騒音で弟がこまっているということは、どれだけ言われても、うけつけない。

うけつけないとなったら、何万回、激しくでかい声で言われても一回も言われたことにならない。そのつど、怒ってはねのければ、〇回になってしまう。言われなかったことになってしまう。

基本的に、あたまがそうなっている。こんなの、芝居でできるわけがないだろ。ほんとうにそういう頭だから、できるんだよ。「わからないふりをしている」ということではないんだ。普通の人が、言われて、理解したけど、したがうのがいやだから、無視してやっているのとは、ちがうんだよ。

おおきくちがう。

普通の人の場合、やはり、言われたら理解してしまうので、感情としては残る。けど、きちがい兄貴は、感情としては、残らない。ほんとうに、「言われたことがない」という態度になってしまう。態度だけではなくて、感情的にもそうなる。

あたかも、一度も言われたことがないという感情で「知らずに」鳴らしているのである。何回もめたあとも、本人は、まったく気にしないのである。「知らずに」鳴らしているから!!

弟が、自分の騒音でこまっているというとを、知らずに鳴らしている「態度」のままなんだよ。何万回言われても、そういう「態度」がぬけない。ほんとうに、そういう感情、そういう感覚、そういう認識で鳴らしているのである。

そういう感情というのは、自分が鳴らしていても、弟がなにも言ってこなかったという感情だ。「なにも言ってこなかったのだから、鳴らしてもいい」と思っている状態だ。思っているのは、思考だけど、感情も、言われなかった場合とおなじ感情のままなのである。

まったく気にしない。どれだけ言われても、言われたということが、そのままぬけてしまっている状態で鳴らす。

どうしてかというと、自分が鳴らしたい音で鳴らしたいからだ。自分が鳴らしたいとなったら、一秒だって、しずかにしたくないのである。一秒しずかにしたら「負けだ」と思っている態度なのである。一秒間、しずかにしたら、死んでしまうという態度なのである。ともかく、鳴らしたいから、鳴らさないことは、一切合切考えないで鳴らす。

で、それが、ぼくが言うまで、続くならいい。こっちが「やめてくれ」と言ったら、「うるさいんだな」ということがわかって、やめてくれる。一日に七時間鳴らせるときも、がましんて、〇分にしてくれる。それなら、いい。

それなら、「ゆずってくれた」ということになる。

けど、きちがいだから、ずっと鳴らしているのに「ゆずってやった」と思うことができるのだ。これ、もう、何回もここで書いたから、むかしから読んでいる人は「また、その話か」と思うようなことだけど、ほんとうに、事実なのだ。だから、ぼくの日常は、毎日、我慢できないヘビメタ騒音に脅迫されて、浸食されて、くるしかった。

これが、いつわらざる、ほんとうの感想だ。けど、人生のなかで「やられてない人は」わからない。それが、どれだけすごいことかわからない。

だから、「人間は働くべきだ」「過去なんて関係がない」などということを言う。これ、どれだけ、こっちの感情を傷つけるか、わかってない。言ったやつはわかってない。こういうことが、鳴り始めた、一日目から続く。

ほんとうに、一〇メートル離れたところで聞く音と、すぐそこで聞く音はちがう。ぜーーぜんちがう。こういうことも、わかってない。どれだけ、気持ちをかき乱されるか。どれだけ「無視できない音」か、ぜんぜんわかってない。

そいつらは、きちがい家族によるしつこくてでかい音を聞かされたことがないのでわからない。押し入れはあるけど、すぐうしろに、あんなでかいスピーカーがあっていいはずがない。あんなものを持ち込みやがって。ほんとうに、一五メートルはなれた道で聞く、きちがい兄貴の音はちがう。ちがう。 

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「いまは、ヘビメタなんてまったく鳴らす気がしない」らしく、マンションでおとなしくして暮らしている。それができるなら、あのときに、毎日やってくれ。「できるんだよ」。「よそ」ならできるんだよ。

おまえ、きちがい兄貴、おまえ……おまえ。おまえ、きちがい兄貴、いま住んでいるマンションで、当時の音で鳴らしてみろ。五分で、苦情がいっぱいきて、そこに住めなくなるよ。小学校ぐらいある、でかい幼稚園の前で、じゅうぶんにほかの家とはなれていたからできただけだろ。

ほんとうに、ものすごい音で鳴らしてたのに、それを、実際に知らない人は「たいした音じゃないんだろ」と思ってしまう。きちがい親父の反応もおかしい。お母さんの反応も、普通の親の反応ではないのだ。お母さんは「こまったこまった」と言っていただけだ。お母さんが注意しても、兄貴は、聞かなかった。

これ、ほんとうに、俺の騒音耐性がないから、大きな音で聞こえているだけだと思ってしまう人や、俺が騒音に敏感だから、たいした音で鳴っているわけじゃないのに、騒音騒音とさわいでいるだけだと感じてしまうやつがいるのである。どれだけの侮辱か。侮辱なんだよ。

しかも、ヘビメタ騒音に一五年間やられて、人生がなくなってから、騒音に普通の人レベルで敏感になったら、今度は、時系列系のことが理解できないばかに「敏感なんじゃないか」なんて言われる羽目になる。こういう、地獄。きちがいにやられたあと、頭が悪い人に、頭が悪いことを言われるという地獄。こんなのない。自分の騒音耐性に自信がありそうな、そのばかな人も、自分がきらいな音を、あの音のでかさで、聞かされたら、腹をたてるし、眠れなくなる。

*

2021年7月15日木曜日

自分軸-他人軸という言い方は、基本的な問題を抱えている……「そいつ」が「そいつ」らしく生きようとすると、被害を被る人たちが出てくる

  他人の目を気にせず、自分らしく生きたほうがよいというようなことが言われる。ただ単に「他人の目を気にせず、自分らしく生きたほうがよい」というようなことを言いたいだけなのに、「自分軸-他人軸」という言い方で、説明しようとする人たちもいる。

自分軸-他人軸という言い方は、基本的な問題を抱えている。それは、自分軸にしろ他人軸にしろ、自己申告制だということだ。そして、人の目を気にするというのは、道徳観の範囲、マナーの範囲がかかわっている。なにをするのがよくて、なにをするのがいけないのかという考え方にかかわることなのだ。

自己申告制だということについて述べておこう。「自分は他人の目を気にしすぎる」と思うのは、自分だ。明確な基準がまったくない。これだと、自分勝手な人でも、自分は他人の目を気にしすぎると感じることができるので「他人の目を気にせずにもっと自分がやりたいことをやるべきだ」と思うことが可能だ。そして、自分がやりたいことというのが、たとえば、通り魔殺人だったらどうか?  被害者が出ることになる。

こういうことがまったくわかってないんだよね。「自分らしく生きる」の内容が道徳的に肯定できるものであるという前提でものを言っている。けど、現実世界だと、ある人の「やりたいこと」がある人の生命を奪うことである場合もある。

複数の障害者を殺した人がいたけど、この人だって、「やらなければならないことをやるつもり」だったのである。「いいことをしたつもりだった」のである。いまでも、本人のなかでは「いいことをした」と思っているのである。「わるいことをした」とは思ってないのである。「誰かがやらなければならないことを、自分が率先してやった」と思っているのである。 

複数の障害者を殺してしまうような「自分勝手な人」だって、自分自身としては「人の目を気にしすぎる」と感じてしまうことだってあり得るのだ。そういうレベルの「自分勝手な人」が「人の目を気にせず自分の信念に従って生きよう」と思ったら、こまる人が出てくるのである。

なお、複数の障害者を殺した人は、障害者は人ではないと思っているので、自分が人殺しをしたとは思ってないのである。ようするに、実際には人を殺したにもかかわらず、その人(犯人)のなかにある「道徳観」には反しないのである。

こういう人が実在するのが、この世だ。

こういう人が実在する世の中で、「自分軸で生きればいい」というようなことは軽々しく言うべきではないと思う。

「自分軸で生きるというのはそういうことではない」「自分らしく生きるということはそういうことではない」と言う人がいるかもしれない。

しかし、それは、個々人が抱えている「道徳観」というものを固定的なものとして見るからそういうふうに言えるわけで、そうではない場合は、そうでない結果がしょうじる。

「自分軸で生きるというのはそういうことではない」「自分らしく生きるということはそういうことではない」と自分実について語っている人が言ったって誤解するやつは出てくる。

誤解と言ったけど、これが誤解じゃないかもしれないのだ。その人のなかでは、誤解ではなくて、まさしく、「自分らしく生きる」ということなのかもしれないのだ。言っていることがわからないかもしれないけど、一度、「自分軸-他人軸」と言った場合の「自分」や「他人」を「還元」する必要があるのである。

ところが、還元してしまうと、たしからしいことは、なにも言えなくなってしまう。ともかく、「自己申告制」でしかないということと「道徳観」の具体的な内容が人によって異なるということは、意識しておいたほうがいい。


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しょせんは、自分軸-他人軸などと言っている人たちは「他人の目を気にせず、自分らしく生きたほうがよい」ということを言いたいだけなのだから、相手にしなくてもいいのだけど、「自分軸」という言い方は、「自己責任」という言い方(特殊な用語)の「うら」であるような感じがするから、もうちょっと、言いたいことを言っておくかな。

「そいつ」が「そいつ」らしく生きようとすると、被害を被る人たちが出てくる可能性だってあるのだということも、言っておきたかったことのひとつだ。

 

2021年7月14日水曜日

圧力釜なんだよ。怒りの圧力釜

 毎日、毎時間、毎分、毎秒のことなんだよ。

毎日のことなんだよ。毎日、数時間から十数時間続くことなんだよ。きちがい兄貴は、きちがいおやじ型のきちがいで、絶対に言うことを聞かない。絶対の意地でやり通したということを、認めないきちがいなんだよ。

ほかの人は、やられたことがないから、自分がこの世で一番嫌いな音が、がんがんがんがんずっと何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続く状態というのがわからない。

そして、その音を出しているのが、家族だとものすごくやっかいなことになるということがわかってない。

ともかく、あのぎりぎりの感覚はない。圧力釜なんだよ。怒りの圧力釜。あんなので、神経がおかしくならないわけがないだろ。睡眠回路が壊れないわけがないだろ。

ほんとうに、はじめて会ったときに、「ヘビメタ騒音『で』働けない」と言ったのに……。こいつら、ほんとう……。自分がきちがい家族にやられなかったからと言って、ひどすぎるぞ。どうして、ヘビメタ騒音の影響を無視するんだ!!

発狂状態ではりつめている数時間が毎日続いて、いいわけがない。

うちの兄貴とうちの親父は、「うち」と「そと」の顔を使いわけることができる。「うち」でなら、「そと」では、一秒だってできないことを、一〇時間やったって、まったく問題がないと思ってしまう。うちにいるときは、「そと」では、一秒だってやらないことを、ずっとやっていいと思ってしまう。

やりたいほうだいだ。きちがい兄貴はきちがいがきちがいの意地で、やりきる。けど、やったと思ってない。「やった」と言われれば、「やってないやってない」ときちがい的な意地で言って、忘れてしまう。

「やってないやってない」と発狂したら、もう、関係がないことになってしまう。まったく関係がないことになってしまう。自分がかかわっている感じがまったくない。まったくないから、相手に迷惑をかけているということがわからない。意地をはってやっているということがわからない。

たとえば、きちがい兄貴の場合、きちがい兄貴の騒音で、弟がこまっているということが、わからない。それは、言われなかったから、わからないのではなくて、何万回言われても、毎日毎日、何十回も、もめていても、わからないままなのである。

ほんとうに、「まま」。

兄貴の態度は、じつは、親父の態度おなじなんだよ。親父が、「ネズミ対策工事をやろう」と言われたときの態度とおなじなんだよ。親父は、お母さんが天国に行ってしまったとき、「おまえがこまらないようにやってやるから(言ってみろ)」などと言っていたのだ。 きちがい親父よ。おまえは、死んでもわからないと思うけど、俺が具体的にやってほしかったことは、俺が「ネズミ対策工事をやろう」と言ったら「そうしよう。そうしよう」と言ってネズミ対策工事をやることに賛成してくれることだ。

「部屋中がくさいから、粕漬の魚を出しっぱなしにしないでくれ」と言ったら「そうか」と言って、粕漬の魚を出しっぱなしにすることをやめてくれることだ。全部、きちがい的な反応が返ってくる。これ、ほんとうに普通の大人だったら、絶対にそんな反応は返さないというような反応を返してくる。

このきちがい親父の反応と、兄貴の反応がおなじなの。親父の「粕漬の魚」に対する態度と兄貴のヘビメタに対する態度が同じなの。

ほんとうに、ほかのやつら、わかってないな。

ほかの人はわかってない。よその人は、こういう人たちがいる……兄貴のような人がいるということについて、無関心、無理解だ。

言わないわけないだろ。どんだけ、兄貴に相談しようとしたかわからないよ。相談のテーブルにおいそれと、つくわけがないだろ。三年につき、一回は、相談のテーブルについたけど、その相談の日だって、二階にあがって、がんがん鳴らした。相談をした入学試験前日に一〇時間、ずっと鳴らされている。明日入学試験があるというのに、中学一年のときからずっと悩まされている「その騒音が」がんがんがんがんずっと鳴っているということが、試験に影響を与えないわけがないだろ。

こっちは、きちがい兄貴の騒音で「せっぱつまった」状態になっているのに、それをどれだけ、うったえかけても、きちがい兄貴が、「鳴らしていい」と思って、客観的に言ってものすごくでかい音でヘビメタを鳴らす。

高校入試の二日前と、大学入試の一日前だ。ほんとうに、きちがい兄貴が休みで?うちにいたら、一四時間近く、ヘビメタを聞かされる。入学試験前の冬休みだって、冬休み一四日中、一四日、そういう調子でやられる。言わないわけがないだろ。

ほんとうに、無意識に問題があるタイプのきちがいのことが、ほかの人たちにはまったくわかってない。そして、「ヘビメタ騒音の影響」のでかさがわかってない。わかってない。

もし、ぼくが他人だったら「そんなのは知らないよ」と言うだろう

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前前投稿はものすごく重要なことを言っているのに、まるでうけてないなぁ。かりに、ヘビメタ騒音がなく、俺がまるまるをやっていたら、ああいう内容でも評価する人が出てくるんだよ。

普通の人にはわからない。ほんとうに、若い時間……をヘビメタ騒音にとられたら、ひどいことになっているな。

すべてが、だめなんだよね。すべてと言っていいほど、いろいろなところで、「あ、これはだめだ」ということになる。これは、経歴の問題ね。

それとは別に、ヘビメタ騒音で睡眠障害者になった。これがまた、でかいんだよ。普通の人の寝不足問題とはちがうんだよ。けど、普通の人は自分の寝不足問題を土台にして、ぼくの睡眠障害を考えるわけだろ。

普通の人は、きちがいに家族によるきちがいヘビメタ騒音を経験してない。ヘビメタ騒音を数時間!あるいは十数時間!!聞かされたあとの「次の日の朝」を経験してない。

そんな人が、俺の睡眠障害について語るなという話だ。ヘビメタ騒音、数千回(数千日)の繰り返しがある人と、自分の意志で徹夜した人のちがいがわからないのか?

けっきょく、これ、俺だけの問題で、「そんなの知らないよ」とほかの人は言うわけだよ。で、この感覚はわかる。たしかに、他人のことは他人のことなので、もし、ぼくが他人だったら「そんなのは知らないよ」と言うだろう。

けど、これ、「いのち」が「ある」か「ない」かに近いちがいがある。

ほんとうに、ほかの人は「不可避」を経験してない。

繰り返しそういうことをやられれば「そうなる」という部分がわかってない。自分の経験をとおしてわかってないのだから、まったくわかってないのとおなじだ。このまったくわかってないというのは、想像することもできないという意味でわかってないのとおなじだ。

けど、「想像することができる」ということになっている。 だから、筋違いのことを言ってくるということになる。サトウやソウイチの態度……。言ったこと……。あいつら、ゆるせんよ。

けど、あれが、「普通の人」の反応なんだよ。典型的な反応のふたつ。あのふたつの反応で九割の人の反応を説明できる。だから、くわしく説明しているんだけど……。

あれが、普通の人の反応なんだからな。これは、普通に「〇にたくなること」だ。これも、わからないんだろうな。「人間は働かなければならない」「働いてないやつは、どれだけなにを言っても、半人前」「その歳で働いてないなんて、おかしいと思わないのかな」みたいな感覚しかない。「ヘビメタ騒音で働けない」と言っただろ。 

そして、こいつらだって、歳をとれば無職になる。こいつらだって、なんかの病気になれば働けなくなる。そして、働けないのだから、働いていない状態ですごすことになる。働けない状態ですごしているのであれば、それは、普通に言って無職者であるということだ。

こいつらが病気になり、働けない状態になったら、俺はこいつらの寝ているところに行って、言ってやりたいことがある。

それは、「人間は働かなければならない」「働いてないやつは、どれだけなにを言っても、半人前」「その歳で働いてないなんて、おかしいと思わないのかな」ということだ。

あと、もうひとつ「まるまるで働けないなんて、あまえ」と言ってやりたいね。まるまるというところには、こいつらの、病名や障害名や症状名がはいる。あるいは、「歳をとって働けないなんて言うのは、あまえ」とか「老化で働けないなんていうのは、あまえ」と言ってやりたい。こいつらは、「人間は働かなければならない」などと言ったくせに、自分が老化したら、自分の老化を理由に働かなくなる。老人は人間じゃないのか?

こいつらの感覚がどれだけおかしいか、こいつらはわかってない。

俺は、ヘビメタ騒音で生じたさまざまな障害をまとめて、ヘビメタ騒音障害とよぶことにした。言いたいことは、ヘビメタ騒音障害がどれだけひどいものか、こいつらはまるでわかってないということだ。

「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っただろ。

こいつら、まるで、わかってないんだよな。 

必然性がわかってない。

けど、「老化して、働けない」というような必然性については理解しているのか?

こいつらはおかしい。ヘビメタ騒音は働けない理由にならないが、老化は働けない理由になるのか。どれだけ、なめているのか? どれだけ、なめているのか? こいつら、まるまる。こいつら、まるまる。こいつら、でこパッチン。

 

 

 

2021年7月13日火曜日

アーリーリタイア(無職) セミリタイア(無職ではない) FIRE(無職)

FIREというのはFinancial Independence, Retire Earlyの略なのだけど、どれほどの人が「リタイア」という単語が入っていることに注意をむけるだろうか?

「FIREのRってRetireのことなんだぜ」と言える人は少ないだろう。ようするに、英語ではともかく、日本語では、リタイアという部分がかなり脱色されているわけ。

retireというのは、退職する、退職させるという動詞だ。退職はretirementで、退職者はretireeだ。ともかく、FIREと日本語になってしまった場合は、無職であるという意味あいが相当に脱色される。

アーリーリタイアは、完全に退職して仕事はしない場合なので、無職だ。しかし、セミリタイアだと、退職したあと、アルバイトをしたりフリーランサーとして仕事をしたりする。そこのちがいがある。セミリタイアは、無職ではないわけだ。

まとめると、アーリーリタイア(無職)、セミリタイア(無職ではない)、FIRE(無職)ということなるのだけど、 FIREは無職だという感じがしない。

退職したあと、アルバイトをするつもりがある場合は、セミリタイアだ。もちろん、退職したあと、個人事業主として自分がつくったものを売るつもりがある場合も、セミリタイアだ。

ともかく、個人事業主として働くつもりがあるのであれば、「FIRE(を)したい」あるいは、「アーリーリタイアしたい」と言うべきではなく、「セミリタイアをしたい」と言うべきだ。まあ、個人事業主になっても、もうからない場合があるだろう。この場合は、廃業するなら、もう一度、リタイアするということになる。

ともかく、FIREは、早期退職して、そのあと働くつもりがない人が使うべき言葉だ。けど、日本だと、 Retire Earlyの部分がぬけてしまうので、働くつもりがある人も、この言葉を使っている。

FIREというのは、早めに無職になるということなのに、なぜか、無職嫌いの人が、その言葉を良い意味で使っている。FIREした人は、無職ではないような印象を持つ人が多いのではないだろうか。その人たちは、無職には偏見をもっているけど、FIREには偏見を持ってないという、へんな状態がしょうじている。

「無職」と言うと、格好悪いけど、「FIRE」と言うと格好いいわけか。単なる印象のちがいだけなんだけど、印象のちがいはでかいなぁ。無職は軽蔑するけど、FIREした人は尊敬するの? FIREした人って、無職だよ。

(注)無職は、無職者という意味も含むということにする。

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2021年7月12日月曜日

ぼくは、これを「文脈」と言っている

たとえば、コンビニおいてあるものを、会計を済ませるまえに食べてしまうという行為について、あなたはどう思うだろうか。

AさんとBさんがいたとする。Bさんがコンビニで買い物をしていた。Aさんが、コンビニに入ってきて、チーズかまぼこの袋を開けて、チーズかまぼこを一本取り出し、チーズかまぼこの切取り部分をちぎって、チーズかまぼこをむしゃむしゃと食べ始めたとする。

Aは、「後で会計をすますつもりなので、別にこういうことをしても問題がない」と考えている。Bさんは、Aさんの行為を見て、「まだ会計を済ませてないものを食べるのは、よくない行為なのではないか」「会計を済ませて、はじめて、自分のものになるのだから、まだ、自分のものではないものを食べるというのは、法律的に問題があるのではないか」と思った。 

AさんとBさんのあいだで、ひとつの行為に関する意見についてちがいがある。どうしてこのような違いが発生するかというと、Aさんがそれで迄に経験したこととBさんがとれまでに経験したことがちがうからだ。あるいは、Aさんがそれまでに学習したこととBさんがそれまでに学習したことがちがうからだ。ぼくは、これを「文脈」と言っている。

ある日、会計を済ませるまえに、封をあけて食べることは正しい行為だということになったとする。そして、それが奨励され、会計を済ませて、封をあけることは、ださいということになったとする。

そして、そのあと、封をあけないで、会計を済ませることは犯罪行為として禁止されたとする。その場合、Bさんは、そのままの自我で、対応できる。しかし、Aさんは、そのままの自我では対応できない。文脈の書き換えが必要なのである。たとえ、封をあけて食べるか食べないかということに関してだけ書き換えるにしろ、別の価値観も関連しているものは書き換えなければならなくなる。

たとえば、立ち食いはみっともないという関連している価値観があるなら、それも書き換えなければならない。立ち食いはみっともないけど、座って食うのはみっともなくないと考えているのであれば、店の床に座り込んで食べるということになるだろう。

店内で、封を開けて食べるかどうかが問題なのだけど、関連して、立ち食いはマナーが悪いという考え方をもっている人は、その考えたを維持するなら、店のなかで座って食べなければならなくなるのである。

あるいは、しゃがみこんで食べるいうことや立ち止まらずに歩き回って食べるということを考え出さなければならない。その場合、そうすることは、ほかの人にとってみっともないことなのか、マナー的にゆるせることなのかは、わからない。立ち食いにするか、非・立ち食いにするのか、決めなければならなくなる。

また、店のなかで、立ち食いをしたり、しゃがんで食べたり、店の床に座り込んで食べたり、歩きながら食べるのは、マナー違反だという価値観を持っている人は、立ち食いも、非・立ち食いもできなくなるので、コンビニですぐに食べることができる食品を買うことができなくなってしまう。

さらに言えば、どういうものが、「自分のもの」で、どういうものが「店のもの」なのかということまで、関連しているので、それにまつわる、考え方を書き換えなければならなくなる。

いずれにせよ、自分のなかにある価値観と、整合性がある行為を選択しなければならないのである。そして、いままで、違反であると思っていたことを、正しいこととしてするのであれば、その考え方とその考え方にまつわる考え方を、かえて適応しなけばならなくなるのである。

これは、会計を済ませるまえに、封を開けて食べるかどうかということに関してだけど、人殺しが、ゆるされ、奨励される場合はどうなのかということについて考えると、人殺しの場合はもっと広範な範囲で書き換えを行わなければ、適応することができないということになる。

人を殺したあと、くよくよといつまでも気にしているのは、気にしすぎだというような「感覚」が主流になるだろう。人を殺したあと、いつまでも気にしている人は、弱い人だというとになってしまうだろう。人を殺したあと、いつまでも気にしているような弱い人のために、「気にしなくても済む方法」が、ブログなどに掲載されるようになるだろう。

いつまでも、気にするのはおかしいのだから、治療を受ける必要が出てくるのである。じつは、認知療法は「人を殺したあと、いつまでもくよくよ気にしている人にも」有効なのである。ただ、文脈はあるので、いままでの文脈に、おおきく反するものがある人は、それなりに苦労する。

 

2021年7月11日日曜日

必然性がほかの人にはわからない。どうしても、うつになる。どうしても、つかれる。

 いろいろとどうするか、まよいちゅう。

まよってばかりなんだけど、しかたがない。まよいの多い人生だった。

気楽じゃないんだよね。長期騒音期間中、長期騒音後、ずっとずっと、気楽じゃない。これ、ほんとうにちがうんだよね。 全部がちがう。ぜんぜんちがう人生なんだよな。きちがいヘビメタがはじまらなければ、ぜんぜんちがう人生なんだよ。

けど、そんなのは、俺以外、関心がない。現実に起こったことが、重視される。……もちろん、そうだ。そうでしかない。

それがくるしい。くるしみをうみだす。

ヘビメタ騒音って、やられたことがない人にはわからないだろうけど、一日中、こたえるものだ。たとえ、鳴っている時間が七時間でも、一日中、こたえる。そして、疲れが、疲れが次の日に残る。深夜一二時をこえて起きていることになるから、一日またぐけど、次の日の睡眠に影響を与える。

一番、睡眠が深いところで、起こされて動かなければならなくなる。二時間、三時間ぐらいしか眠ってないので、まだ、五時間ぐらいは眠りたいのに、起きて行動しなければならなくなる。

そして、帰れば、きちがいの音が鳴っている。兄貴の態度がおやじ態度とおなじなんだけど、それも、普通の人にはまったくわからない。それが、くやしい。ともかく、普通の人が体験しないことを体験して、俺が、文句を言われる。鳴らされているのにぎりぎりのところで頑張っている俺が文句を言われる。きちがい兄は気文句を言われない。

もちろん、俺があっている人に兄貴が文句を言われないだけで、俺からは文句を言われているけど。「きちがいヘビメタ騒音でどうしてもそうなる」という必然性が、やられてないほかの人たちにはわからない。

なにをするときも、ヘビメタ騒音に何千日もやられた体力、ヘビメタ騒音で何千日も寝不足状態でやるということになる。きちがい兄貴のきちがい的な態度に、破滅的な怒りを感じているのだけど、その破滅的な怒りを、かくして、ほかの人と交流しなければならなくなる。

その俺は、やはり、きちがいヘビメタ騒音で、体力も精神力も弱り切った俺なのである。こんなのはない。「なり終わったなら関係がない」と現実的ではない思考をするやつから、俺がバカにされることになる。そりゃ、きちがいヘビメタ騒音は学業成績に影響を与えるから……。そして、人は学校歴を見て、だいたいの、そいつの頭の良さを推し量るから。

ヘビメタ騒音が鳴ってないけど、勉強はやりたくないからやらないというひとはいいんだよ。俺だって、漫画家を目指しているのであればそうだった。けど、俺は学問の世界で生きたかった。だから、ちがう。漫画家を目指していたときもあるんだよね。小学生のときだけど……。そのときは、ほんとうに勉強なんてどうでもいいから、家に帰っても勉強をしなかった。それでも、特定の科目は、いつも成績がよかった。それは、好きだったからだ。けど、きちがいヘビメタがずっと鳴っている状態だと、それもできなくなる。好きな本を読むというとができなくなる。これは、学業成績に影響を影響を与える。

ともかく、ヘビメタ騒音はものすごいハンディなんだけど、ほかの人にはハンディが見えない。ヘビメタ騒音で「おしだされてしまうこと」というのがある。情緒不安定、睡眠不足、体力低下、不満。

ともかく、ヘビメタ騒音が毎日続かなければ、こんなことにはなってない。しかし、「 ヘビメタ騒音が毎日続かなければ、こんなことにはなってない」というのが、ほかの人は、言い訳に聞こえる。そして、そのいうふう考える人は、毎日のヘビメタ騒音を経験てない。きちがい兄貴によるヘビメタ騒音を経験してない。あのきちがいっぷりはないというような態度で鳴らす。

しかも、親父とおなじで、自分の意地を一〇〇%通したら、一〇〇%関係がない人になってしまうのである。……こんなのはない。そういうところで、きちがい兄貴はほかの人はちがう。そして、こだわり方が、ほかの人とはちがうんだよね。自分がやりたい音で鳴らすということに対する、こだわりがすごい。しかし、親父とおなじで、自分にとって都合が悪いことは、きちがい的な意地で認めないのである。

だから、本人は「知らないまま」なんだよ。

何万回言われようが、知らないまま……やっているということになる。自分のヘビメタ騒音で……こだわりの音で、弟がどんな目にあっているか、どれだけ言われても、わからない状態ができあがっている。言われたとき、怒り狂ってはねのければ、言われなかったことになってしまう。一〇〇%、そうなんだよ。

きちがい兄貴だって、親父におなじことをやられれば、怒っていたのに、自分は、弟にたいしてまったく同じことをしやがる。

そして、「やった」ということに関する認識も、きちがい親父とおなじなのである。「やったってやってない」ということになる。

この「やったってやってない」という認識だって、ほかの人には、わからないことだ。ほかの人の世界では、そんなことはない。そういう認識システムをもっている家族といっしょに住んでいるやつなんて、ぼく以外、いない。いっしょに住んでないとわからないんだよ。

これがやっかいなんだよ。

ともかく、特殊な家族に毎日毎日、ずっと騒音による暴行を受けていたのだけど、その深刻さが、ほかの人にはわからないんだよね。俺が勝手に、不活性になっているように見える。俺が勝手に、憂鬱になっているように見える。俺が勝手に、怒りやすい状態になっているように見える。なにか、トラブルが発生したあとに、「ヘビメタ騒音が鳴っているから、どうしてもこうなる」と言っても、ほかの人は認めない。「なにがヘビメタ騒音だ」「そんなの、兄貴に言えばいいだろ」とか言って、怒る。

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ヘビメタのでかさがわかってない。きちがい兄貴の頭の構造がわかってない。きちがい親父のアマの構造がわかってない。きちがいヘビメタの影響のでかさがわかってない。ほかの人たちには、これがわからない。

だから、「そんなにでかい音で鳴らしているのに、親がなにも言わないなんておかしい」とか言いやがる。「過去のことは関係がない」「鳴り終わったら、関係がない」「成人するまでにやられたことは、成人したら関係がない」とか言いやがる。一九歳までに、有機水銀を摂取して、症状が出ている状態で、二〇歳になった。二〇歳になったら、勝手に有機水銀が体から出ていって、関係がない状態になるのか?

ならないだろ。

毎日、一一歳から一九歳まで、やられたことが、影響を与えないはずがない。

もちろん、やられたことのうち、無視できることもあるだろう。けど、ヘビメタ騒音は、不可避的に影響を与える。脳みそを含んだ身体に、「意識的な意志」ではかえることができない影響を与える。兄貴のヘビメタ騒音は、何千日やられても、影響が出ないことではないのである。けど、家族によるきちがい騒音を毎日経験した人なんていないから、わからない。

俺とおなじぶんだけ、ヘビメタ騒音……自分がこの世でもっともきらいな音が、ガンガン、一日中鳴っている状態を経験した人しかわからない。不可避的。必然的。

「どうしたってなる」というところがわからない。「どうしたって、影響が出る」ということころがわからない。「どうしたって、影響が残る」というところがわからない。「(エイリさんが)あまえたことを言っているだけ」なのである。サトウやソウイチは、そういう解釈をしたんだよ。

これが一般的な解釈なんだよ。ヘビメタ騒音に関する解釈なんだよ。ヘビメタ騒音にやられて、働けない状態になったのに、こういうことを言われる状態になる。もちろん、きちがい

兄貴は、「そうしてやろう」と思って、ヘビメタを鳴らしていたわけじゃない。

一日中、自分が、好きな音で、好きな時間の長さ、いつでも鳴らしていいと思って、夢中になって鳴らしていただけだ。けど、それが、影響を与える。不可避的な影響を与える。サトウやソウイチとのくそみたいな交流だってそういうだどぃのうえに成り立っている交流なのである。

ヘビメタ騒音の影響をなめやがって。俺をなめやがって。なめているんだよ。

けど、じゃ、「おまえらは、ヘビメタ騒音のことがわかってない」「おまえらは、おれのことをなめている」と俺が、そいつらに言ったらどうなる? そいつらは、俺が未熟な人間だからそういうことを言っていると思うんだよ。未熟なのは、「不可避性」を認められないおまえらだ。 未熟なのは、「必然性」を認められないおまえらだ。未熟なのは、「影響のでかさ」を認められないおまえらだ。

 

2021年7月10日土曜日

頭をたたかれている感じなんだよ。音で……

ほかの人の話は、参考にならないんだよね。ならない。ほかの人たちにはヘビメタ騒音がなかったから、ヘビメタ騒音がない世界の話をしている。ヘビメタ騒音がなかった場合のからだで、生きている。こっちは、ちがう。だから、全部がちがってくる。この全部は、イ・ラショナルなのか、ラショナルなのかわかんねぇな。たぶん、ラショナル。

そりゃ、セミリタイアの話も、アーリーリタイアの話も、ニートの話も引きこもりの話も、無職の話も、ぜんぜん、参考にならない。 まあ、アーリーリタイアは、無職だけどな。ちょっと、二重になっているなぁ。普通の人の話というのは、全部参考にならない。

「そりゃ、そうでしょ」という話をしている。一般的な話。けど、ぼくはちがう。ちがうんだね。一般的な人が、一般的な感覚で、一般的な話をしている。この一般的というのは、「ヘビメタ騒音がなかった」という意味で一般的ということだ。「なかった」のだから、そうなのでしょう。「なかった」からだで生きているのだから、そうなのでしょう……そう思う。

きちがい兄貴の態度なんてわかるわけがない。テスト前に、きちがいヘビメタが何時間も何時間も鳴っているときの、あの、圧力なんて、わかるわけがない。圧力がすごいんだよ。気持ちが、破滅しそうなんだよ。ものすごい、圧力がある。そしてその圧力が、ずっと続く。あんなのやられて、いいわけがないだろ。何回も何回も、怒鳴り込んでいるのに、きちがいがきちがい感覚で、まったく気にしないでやり続ける。きちがい兄貴のきちがい感覚なんて、ほかの人にはまったくわからない。「圧(あつ)」がわからない。どれだけ破滅的な気分になるか、わからない。どれだけ、きちがい兄貴をまるまるしてやりたい気持ちで、椅子に座っているかなんてほかの人にはわからない。すごい気持ちなんだよな。頭を、一秒間に5回ぐらいなぐられている感じだ。ヘビメタの音というのはそういう音なんだよ。あんなの、無視できるわけがないだろ。あの中で勉強をするということは、マイナスなんだよ。勉強をしようとするということだけどな。プラスマイナスゼロじゃなくて、学力的にも、体力的にも、精神的にも、ものすごい、マイナスなの。マイナスで、眠れないまま、次の日、試験会場に行くんだよ。学校に行くんだよ。どれだけこころがくずれるか。「元気だ元気だと言えば元気になる」……ふざけんな。どれだけくるしいか。どれだけ「元気だ元気だ」という言葉が、空虚に響くか。あの気持ちはない。

頭をたたかれている感じなんだよ。音で……。音で脳内をたたかれている感じがする。音で拷問を受けているような感じなんだよ。無視しようとしたって、鳴っているから、無視できないんだよ。これ、そういう状態を経験しないやつが……きちがい家族による騒音を言経験してないやつが……偉そうなことを言う。「無視しようと思えば無視できる」と言う。「大丈夫だと言えば大丈夫だ」と言う。大丈夫じゃないんだよ。無視できないんだよ。



 

2021年7月9日金曜日

「近代教育」と「他者との比較」について……足がおそい人(どんくさいやつ)は、クラスのみんなに迷惑をかける (エイリの教育論)

比較をするなと言ってもむりだ。どうしても、比較してしまう。

人間は、比較をする生き物だけど、特に、近代以降は他者との比較が、自我に影響を与えている。あまりにも、自我に影響を与えすぎるので、「比較をするな」「他人とくらべてもしかたがない」というようなことを、声高に言わなければならなくなる。


問題なのは、近代の教育が、比較を強制するということだ。問題なのは、「どんくさいやつ」がいじめられる土壌を近代教育自体がつくっているということだ。近代教育が「どんくさいやつ」をいじめるように、生徒をしむけている。

なので、近代教育というものを強制しておきながら、「どんくさいやつ」をいじめるなと言っても、基本的には無理なところがある。近代教育が「どんくさいやつ」は迷惑をかける存在だと教えている。近代教育が「どんくさいやつ」を「迷惑をかける存在」にしたてあげている。

近代教育がなければ、「どんくさいやつ」は、迷惑をかける存在ではないのである。どうしてなら、そもそも「クラス」がないのだから、足がおそいということで他人に迷惑をかけることができないからだ。クラス対抗リレーをしないのに、どうやって、足がおそいことで、ほかの人に迷惑をかけることができるのだ?

クラス対抗リレーをやるとすると、足がおそい人(どんくさいやつ)は、クラスのみんなに迷惑をかけるということになってしまう。これは、必然的なことだ。

どんくさい人というのは、基本的に動作がおそい。これは、他人にくらべて「動作がおそい」ということであって、絶対値ではない。動作がはやいやつもいれば、動作が普通のやつもいれば、動作がおそいやつもいる。比較だ。他人との比較にほかならない。

これも、ノーマルカーブを描くとなると、下位二〇%に入る人が、かならず出てくる。ゼロにはできない。さらに、動作がおそい人は、動作をはやくすることを、求められるのである。

そりゃ、みんな、クラス対抗リレーに勝ちたいとすると、おそい人がはやくならなければならなくなる。さらに、日本の場合、努力すればできるようになるという考え方を持っている人間によって、集団が構成されている。

また、教師は、努力すればできるようになるという考えを持っていて、なおかつ、クラス(学級)を運営しなければならない立場なのであるから、当然、そうする。動作がおそい人は、「努力をする」ことで、やっと、クラス(学級)のなかでの存在がゆるされるということになってしまうのである。

これは、作為的なことだ。

どうしてなら、地域の子供たちが自主的に集まって、「クラス」なるものをつくり、クラス対抗リレーをしているのではないからだ。自発的な集団ではないのである。

その地域の子供たちが、その地域に住んでいるという理由でその地域にある学校に集められる。

学校では、学年というものがある。そして、クラスが八クラスとあるとすれば、八クラスになるべく均等に、子供たちが振り分けられるのである。この均等というのは、学力や体力が均等に割り振られるということだ。

ひとつのクラスに、勉強ができるやつを集めたり、ひとつのクラスに体育ができるようなやつを集めるということは、しない。私立ならそういうこともあるかもしれないけど、公立ではそんなことはない。クラス対抗リレーをするときには、そんなには、差がつかないクラス構成になっている。

だから、どのクラスにも、足がはやい人が数人はいるということになる。どのクラスにも、足がおそい人が数人はいるということになる。これは、必然だ。

だから、各クラスにいる、足のおそい人は、足がおそいということだけで、「迷惑をかける」存在に「なって」しまうのである。そして、「努力」するか、あるいは、「努力」するふりをして、やっと、クラスに受け入れられるのである。

「努力をしたのにできないのであればしかたがない」という理由で、やっと、クラスのなかに存在することがゆるされるような存在なのである。「努力」をしないのであれば、非難される。「迷惑をかける存在」なのだから、「努力」しないで、そのままの状態でいることは、「ゆるされることではない」のである。

「努力」をするか、あるいは、「努力」をするふりをして……と書いたけど、実際には、努力をするふりは、見抜かれる。 子供たちも、教師も、こういうことに関しては、敏感で、ちゃんと「ふりをしているだけ」なのか「努力しているのか」わかるのである。

なので、「努力するしかない」ということになる。

努力をしたって、たいしてはやくはならないだろう。これは、成長をまつしかないのだ。ほんとうは、成長をまったほうがいい。その子供だって一年前よりは、はやく走れるようになっている。たいていは……。そうではない子供もいるかもしれないけど、それは、それで、また発達障害がうたがわれる状態になる。

足がおそいと、おそいだけで、ばかにされるだけではなくて、「迷惑をかける存在」になってしまうのである。そして、「努力をしないと存在することすらゆるされないような存在」になってしまうのである。なのであれば、「人と比較をする必要はない」などと言ってもむだだ。「足がはやいかおそいかは、人格とは関係がない」などと言ってもむだだ。

他人と比較をして、くるしむようにできている。あーそれなのに、それなのに、「足がおそいだけで文句を言われる」学校というしくみをつくっておきながら、その学校というしくみのなかで「他人とくらべる必要はない」ということを教えている。

こんなのは、矛盾している。

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ラフな文体で書いたけど、かなり重要なことを言っているんだよ。近代教育というものについて考えようではないか。教育学に興味を持っている者のうち、俺が言っていることがわかるやつが、どれだけいるのか?

 

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えーと、それから、仕事場での、反応もおなじだから……。佐藤はどうして、気がつかないんだろう。ぎりぎり健常者の問題というのは、障碍者の問題とおなじなのに、まったく気がついてないんだよな。「人間は働くべきだ」という共同幻想と合致した労働観しか持ってない。

 

学校(クラス)で居場所がないやつは、職場でも居場所がないやつになる可能性が高い。それは、たとえば、「おそい」「はやい」という比較の軸を考えるとわかる。「おそい」やつはどうしても、足をひっぱる迷惑な存在になるのである。底辺の職場にしかアクセスすることができないのだけど、底辺の職場では、圧力を加えられた底辺先輩がいるのである。底辺先輩は、怒りのエネルギーをため込んでいるのである。「した」ができたら、いじめてやるつもりでいるのである。「おそい」人のぶんだけ自分が頑張って、サポートしようなんて、考えない。かりに、人格者がいても、長くは続かない。どうしてかと言うと、おなじ時給でおその人のサポートをするのは、どうしても、わりがあわないからだ。どうしたって、人間なら、負の感情が芽生える。かりに、会社がサポートをする人の時給をわずかにあげたとしても、長くは続かない。人間には限界があるから、負荷が高いことが続くと、対応ができなくなる。人格者だって、つかれる。だいたい、人格者がサポートしてあげるということは、おそい人がサポートをされるということになる。これは、おそい人にとって、気分がわるいことだ。どうしてかというと「かり」ができてしまうからだ。いにくくなるだろ。その場所にいにくくなる。

 +++++++++(注1)

これは、カネモッチーが、「感謝してまわせば、白玉が出る」と言っているようなものだ。似ているところがある。しかし、ここでは、そのことについては言及しない。

(なんとなく、もっともそうな嘘情報を流すという点で似ている。言ってみれば、メタ部分が結論をつくっているのに、そのメタ部分の結論を認めないで、サブシステムとしてよさそうな「反論」をつけ加えるということころだ。カネモッチーの話でいうと、生まれの差で決まっているのに、それは無視して、サブシステムとして、よさそうなことを言う。なんとなく、もっとそうな話というのは、注意したほうがいい)

 

2021年7月7日水曜日

本人にとって、実際にないことなのだから、「影響」なんて、無視できる。

 ヘビメタ騒音でぼくがつらい。ヘビメタ騒音でずっと地獄だ。ヘビメタ騒音でぼくが〇んじゃう。自分の人生がないまま〇んでしまう。ヘビメタ騒音がなかった場合の人生がぼくの本来の人生だと思うんだよな。

実際、ぼく以外の人間で、あれだけしつこいヘビメタ騒音を経験した人がいない。異常なんだよな。

けど、ほかの人は経験してないから、それが、どれほどひどいかわからない。ほかの人は、経験してないから、それが、どれだけ、影響を与えるかわからない。わからないのだから「(影響なんて)ない」のとおなじだ。本人にとって、実際にないことなのだから、「影響」なんて、無視できる。

俺の話を聞いたあとも、「そんなのは……」と思える。影響がないと思える。そんなことはないのだけど、そいつの頭のなかだとそうなんだろう。

そうなると、そいつは、自動的に俺のことをばかにするのである。善意で?言霊的なことを言ってくるのである。「過去のことなんて関係がない」と言ってくるのである。

これが、どれだけの地獄か。地獄なんだよ。

そういうことを言われる必要性がなかった。きちがい兄貴が、こだわりつくしてヘビメタを、一日に、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らさなかったら、こんなことになってない。

きちがい兄貴が、こだわりつくして、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、普通の家ではありえない、でかい音で鳴らしたのに、俺のせいだと言うのだ。「対処できなかったらしかたがない」「静かにさせることができなかったしかたがない」……「おまえのせいだ」「おまえのせいだ」……と言うのだ。

こいつら、〇〇。こいつら、〇〇。「過去のことは関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「人間は働くべきだ」……おまえ、これがどれだけ、頭がおかしい発言か、わかっているのか? わかってないんだろうな。経験してないから、言えることなんだよ。

俺のみのうえに起こったことがまったくわかってない。きちがいやろう。死ね。けど、こういうことを書いても、「へんな人だ」「ヘビメタ騒音とかよくわからないことを言っている人だ」「(そんなに、人のことを憎んでいるなんて)こわい人だ」と思うわけだよ。

俺がヘビメタ騒音について説明すればするほど、そういう人が増える。説明しなければ、俺が勝手にさぼっているだけだということになってしまうのである。能力がなかったのだからしかたがないということになってしまうのである。根性がなかったのだからしかたがなということになってしまうのである。

人間の限界を超える騒音……。

こいつら、きちがい騒音生活がどういう生活なのかわかってない。どれだけ能力がある人でも、無能になる。どれだけ根性がある人でも、一五年も続けば、へしおれる。

これ、経験したことがない人はわからないのだろうけど、時間の流れというのがある。

ほんとうに、「つみかさなる」のである。ヘビメタ騒音による疲労がつみかさなる。ヘビメタ騒音による能力削減がつみかさなる。ヘビメタ騒音による、失敗がつみかさなる。ヘビメタ騒音による、トラブルがつみかさなる。他人の無理解というのはあるけど……。

そりゃ、きちがいである「わかった家族」がやることだから、ほかの人にはわからない部分がある。「しつこさ」「がんこさ」ということだって、ほかの人にはわからない。そういう、「しつこさ」「がんこさ」がもとになって、どういう態度がしょうじているかほかの人にはわからない。

ほんとうに、きちがいが、意地を通してしまう世界なのだ。

殺さなければ、鳴りやむということがない世界だ。

そういうことがわかってない。

そして、そういう一日がどういう一日であるかわかってない。

 

ニュートラルな状態のとき、ややネガティブだと感じることが起きたときだけ

 感じ方の問題だから、意識的な意志で書き換えられること……というのは、少ない。小さい範囲のことでしかない。

しかし、よく考えない人たちが、すべて書き換えられると、あほなことを言っている。「すべて書き換えられる」と言っている人たちは、自分の実生活のなかで、じつは、書き換えられないことを体験しているのだけど、それに気がつかない。

ニュートラルな状態のとき、ややネガティブだと感じることが起きたときだけ、自分が「書き換えられるような」全能感を感じるのだ。しかし、それは、事前に選ばれている。

ほんとうに「書き換えなければならないこと」は、そのまま、感じたままになってしまう。つまり、自分が形成してきた感じ方の通りに感じるということになる。そのときは、「書き換えることができる」ということすら、頭に浮かんでこないのだ。

この人たちは、普通に怒ったり、よろこんだり、楽しんだり悲しんだりして暮らしている。それが普通にできるのは、じつは、 自分が形成してきた感じ方の通りに感じているからだ。

ようするに、すでに出来上がっている感じ方に頼り切っている。そして、頼り切っているということも忘れてしまっている。 

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よろこぶことと、楽しむことは、それぞれ、効率が良いので、問題がない。人生の時間が限られているので、効率よく、楽しんだよろこんだりしなければならないのだ。悲しんだり怒ったり時間は、効率が悪いので、なるべく短くする必要がある。これは、ポジティブなことはいい・ネガティブなことは悪いという価値観と、ネガティブなことに時間をかけるのは効率的ではないという価値観の組み合わせで成り立っている。

たとえば、父親が死んだとき、悲しむ時間の長さで、効率が良いとか悪いということが決まる。ずっと悲しんでいるのは、効率が悪いのである。だから、なるべく短い時間、悲しんで、あとは、楽しくするのがよいと考えているのである。一秒間悲しんだあと、二秒目から、楽しんだほうがいいということになる。認知療法では、さすがに、そういうことは言わない。適切な悲しむ時間があるというのだ。そのとき、悲しんで、適切な時間をすぎたら、悲しまず楽しく暮らせばよいということになる。適切な時間というコンセプトを出しているけど、ネガティブなことに時間をかけるのは効率が悪いという考えはおなじだ。この「ネガティブなことに時間をかけるのは効率が悪い」という考えはそのまま、価値観なので、そういう価値観を持っているということが言える。認知療法は「価値観中立的」ではない。また、なにがネガティブなことで、なにがポジティブなことなのかは、議論の余地なく、「なんとなく」決まっているのである。なにがネガティブか、なにがポジティブかを決めるには、本人がどのくらい意識しているかは別にして、「価値観」が必要なのである。このような意味でも、認知療法は「価値観」を持っている。価値観中立的ではない。

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2021年7月5日月曜日

現実の場面では、精神世界で推奨されているこういう方法は、採用されることがない

 

AさんとBさんがいるとする。AさんとBさんは同じ会社で働いているとする。Aさんが遅刻をすると、Bさんの仕事に遅れが出るとする。ある日、Aさんが、遅刻したとする。この時、Bさんは怒るだろう。

しかし、怒る必要はないのだ。どうしてなら、中立的出来事がしょうじただけだからだ。Aさんが遅刻すると、自分の仕事に影響が出ると考えているのは、Bさんだ。

「言ったことが現実化する」ということがほんとうに成り立つなら、Bさんが即座に「自分の仕事に影響はない」と言えば、影響がないことになるのである。言ったことが現実するので、「自分の仕事に影響はない」と言えば、影響が出ないのである。

しかし、現実の場面では、精神世界で推奨されているこういう方法は、採用されることがない。どうしてなら、Bさんが妄想性障害者でなければ「自分の仕事に影響はないと言えば、影響が出ない」などとは考えないからだ。言霊信者のBさんだって、そういう威力がないということは、知っているのだ。……現実生活においては。……実際の仕事の場面においては。

言霊信者のBさんだって、「言ったことが現実化する」とは考えてないということが、わかる。現実の場面を考えれば、ほんとうは、わかるはずなのだ。しかし、Bさんは、現実の場面では現実的な思考にとらわれて、「言ったことが現実化する」という考えを放棄している。しかし、現実的な場面で、「言ったことが現実化する」という考えを放棄しているということが、Bさんには認識できない。

これは、精神世界の話を読んでいるときと、現実生活のいろいろな場面で、感じていることがちがうということを意味している。

「なりたいという意志」「才能」「環境」のみっつが重要……「言ったから」ではない

「まるまるになる」と言ったから、まるまるになったのかということについて考えてみよう。

精神世界の人たちは「まるまるになる」と言ったから、まるまるになったという言い方が好きだ。

たとえば、「イチローは野球選手になる」と小学生のときに言った。だから、イチローは野球選手になれた。……というような話をするのが好きだ。このあと、「だから、まるまるになると言えば、なれる」という話をするのだ。

ぼくは、野球にまったく興味がない。だから、どのくらいの数の小学生が、野球選手になりたいと思っているのか、まったくわからない。そして、「野球選手になる」と言った小学生のうち、実際に、野球選手になることができた人がどのくらい、いるのかわからない。だから、数字自体は適当な話をする。調べるつもりもないからだ。

たとえば、一〇〇〇人の小学生が「将来、野球選手になる」と言ったとする。そのうちのひとりが野球選手になれたとする。九九九人は、「将来、野球選手になる」と言ったにもかかわらず、野球選手になれなかった。なのであれば、「まるまるになると言うと、まるまるになれる」ということは一〇〇〇人のうち九九九人には成り立たなかったということになる。

だから、「イチローは野球選手になると言ったから、野球選手になることができた」という理論はまちがっている。「言ったから」ではないのだ。

イチローには、ほかの九九九人とはちがう才能があったのではないか。イチローには、野球の才能があったから野球の選手になったと考えるほうが自然だ。「野球の選手になると言ったから」ではなくて「野球の選手になれるだけの才能があったから」野球の選手になれたのでないか。

まあ、なりたいという意志は重要だ。

才能があったとしても、なりたいと思わなければ、ならないのだから、なりたいと思うことは重要だ。

しかし、なりたいという意思よりも、才能や環境のほうが重要だと思う。精神世界の人は、なりたいという意志だけを重視して、才能や環境は無視してしまう。

「なりたいという意志」「才能」「環境」のみっつが重要なのだ。「なる」には、みっつとも必要だ。ほかのふたつが欠けていたらだめなのだ。さらに言ってしまえば、ひとつでも欠けていたらだめだ。

たとえば、「なりたいという意志」があるけど「才能」と「環境」はないとする。この場合は、なれない。「才能」と「環境」があるけど、「なりたいという意志」はないとする。この場合は、ならない。

「環境」はあるけど「なりたいという意志」と「才能」がないとする。この場合は、なれない。「なりたいという意志」と「才能」があるけど、「環境」はないとする。この場合も、なれない。

「なりたいという意志」と「才能」があれば「環境」を手に入れることができるか?

アニメや漫画だと、「なりたいという意志」と「才能」があれば、環境を手に入れるということかできる場合のほうが多い。そうじゃないと、ものがたりがはじまらないしね。

けど、実際の世界では、「環境」がなければ「才能」があるかどうかもわからない場合のほうが多い。「才能」があれば「環境」が用意されるかというと、用意されない場合もある。きちがい家族によって「才能」が完全につぶされてしまう場合もある。

「環境」が手に入れるられる場合は、そういう「環境」がすでにあったということだ。そういう「環境」を手に入れるための、もとの「環境」があったというとだ。「大きな環境」を手に入れるための、「小さな環境」はあったと考えるのが妥当だ。

どれだけ、才能があっても、環境がなければ、なれない。そこで言っている才能なんて、開花しない。才能があるということさえ、本人によって、認識されない。才能があるということさえ、他人によって「発見」されない。その子供に才能があるということを、だれか他人が「発見」して、環境を用意してやるというような夢物語ですら、もとの環境がないと、ない。

「なりたいという意志」と「環境」があるけど、「才能」がない場合は、なれない。

「環境」と「才能」があるけど、「なりたいという意志」がない場合は、なれない。

 以下、まとめ。

 「野球選手になる」と言って、野球選手になった人がいるのだから、「野球選手になると言えば、野球選手になれる」という考え方は正しいのかどうか?

野球選手になると言って、野球選手になれなかった人かがいるのだから、「野球選手になると言えば、野球選手になれる」という考え方は、まちがっている。「野球選手になると言えば、野球選手になれる」という命題は、真か偽かで言えば、偽。

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環境を用意できるかどうかも、実力のひとつという考え方がある。この場合の「実力」というのは、なんでもありの世界だ。たとえば、「運」も実力だという考え方がある。「環境を用意できるかどうかも、実力のひとつ」という言葉は「環境を用意できるかどうかも運しだい」とか「環境を用意できるかどうかも運のうちのひとつ」とかと言い換えることができるので、この場合の「実力」と「運」は等価だ。なら、「いつも実力と運は等価か」というと、そうではないのだ。「実力」のなかに「運」が含まれてしまう場合と、「運」のなかに「実力」が含まれてしまう場合がある。

 

2021年7月4日日曜日

ヘ・ビ・メ・タでくるしい

 ヘ・ビ・メ・タでくるしい。ヘビメタのハンディをどうすることもできない。全力で対処してきたけど、どうにもできない。どーしても、くるしい。 

この時間。この雰囲気。どうしても、くるしい。この時間。この雰囲気。きちがいヘビメタが鳴ってた。

2021年7月3日土曜日

「反ワクチン派」というカテゴリーでくくってはいけない 受けたい人の人権と受けたくない人の人権が両方尊重されるといいなぁ 

 くわしく書くのは、めんどうなのでできないけど、ほんとうに、コロナ騒動は人間の本性をあぶりだすねぇー。コロナワクチン騒動もコロナ騒動の一部だけど、これも、人間の本性をあぶりだしている。受けたい人の人権と受けたくない人の人権が両方尊重されるといいなぁとは思うけど、実際にはいろいろな場所で、衝突があるみたいだなぁ。人間の本性と書いたけど、個々人の本性ということだ。まあ、それが集まって人間の本性なんだけど。

個々人の考え方が、態度や行動に現れしまう。こんなに、わかりやすいのはない。受けたくない人に強要しようとするやつらと受けたい人の妨害をするやつらは、コロナワクチンに関する考え方はちがうけど、やっていることはおなじなんだよな。行動の原理が同じ。似た者同士。

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反ワクチン派の一部が、「コンセントをぬこう」運動をしているそうだ。冷凍庫のコンセントをぬいて、ワクチンを使えないようにしようという運動だ。けど、だからと言って「反ワクチン派」はひどいと考えるのは、おかしい。あくまでも、一部だ。穏健な?反ワクチン派だっているのだ。だから、「反ワクチン派」というカテゴリーでくくってはいけない。「反ワクチン派」というカテゴリーでくくると、反ワクチン派はみんな、コンセントをぬこうと思っているということになってしまう。これは、理論的な誤謬だ。

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毒親というのは、毒親のふりをしているわけではない

もう一つ言っておくと、毒親というのは、毒親になろうと思って、毒親になっているわけじゃないんだよ。毒親というのは、毒親になる必要があると思って、意識的な努力をして毒親になっているわけじゃないんだよ。

毒親というのは、毒親のふりをしているわけではなくて、頭が〇〇〇〇だから毒親なんだよ。サイコパスというのは、わざわざ、意識的にサイコパスのふりをしているのではなくて、頭の構造がサイコパスだから、サイコパスになっているだけなんだよ。

根本的に言えば、普通の人が考えられないほど「自分勝手」なのだけど、自分勝手の、自分勝手さがちがうんだよ。普通の人が考えられない部分というのは、感覚や認知や認識が、「自分勝手」な無意識に奉仕してしまう部分だ。

あったってない。聞こえたって聞こえない。言ったって言ってない。におったって、におってない。

聴覚が正常なのに、聞こえないということになってしまう。臭覚が正常なのに、におわないということになってしまう。認知症じゃないのに、やったってやってないということになってしまう。それこそ、サイコパス的な意地で、繰り返し繰り返しやったことでも、やってないということになってしまう。

どんだけ、発狂して、意地になってやっているか。

どんだけ、発狂して意地になってやったか。

こういうことが、普通に成り立ってしまう。けど、普通の人はそういうことがわからない。

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これは、一種の妄想性の障害があるのと同じ状態なのである。脳の機能障害。やられたほうが、どれだけこまるか、一般的な人はわからない。どうしてかというと、その人たちの親は、脳の機能障害を持ってないからだ。単に脳の機能障害と書いたけど、同じタイプの機能障害ということだ。「の」が重なるので、わけて書いたけど、同じタイプの「脳の機能障害」という意味だ。

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「気にする必要がない」という言い方は、サイコパス親が、意識的な意志で、わざとサイコパスのふりをして、ふるまっている場合に限られる。そんな場合は、ないので、「気にする必要がない」という言い方自体が、不適切だ。

これは、無意識に対応している部分があるか、感覚器を書き換えているかという問題だ。やられた人が「気にする必要がない」という言い方の場合、やった人が、意識的な努力でやったのか、無意識的な欲求があって、やっていることなのかということを、区別しない。

「どっちだって同じだ」という前提が成り立っている。

けど、この前提がまちがっている。人間同士のやり取りの場合、やっているほうの無意識は関係がある。どれだけ注意されても、注意されたという気持ちがまったく生じないというような態度は、無意識がかかわっていることを暗示している。

普通なら、相手が「やめてくれ」と言ったことは、意識される。何千回、何万回、激しく、言われても、まったく無視して、何年間もやり続けるなんことはない。何年間も毎日、意地になってやったなら、意地になってやったということを意識している。認識している状態になる。

そりゃ、起きているときにやっているのだから、普通なら、認識している状態になるだろ。

けど、それがちがうんだよ。こんなのどれだけ言ったって、そういう家族が身近にいなかった人にはわからない。どういう態度で鳴らすか、根本的にわかってない。どういう認識で鳴らすか、根本的にわかってない。どういう気持ちで鳴らすか、根本的にわかってない。

相手が、真剣に言ってきたこと、あるいは、怒鳴って言ってきたことを、〇・一秒で無視して、「言われたことになってない」状態で、やり続けるなんてことは、正常な人には、どれだけやろうと思ったってできることじゃないんだよ。

「無視している」芝居をしていたって、激しく相手が怒っているということや、相手が激しい口調で自分に文句を言ってきたということは、普通の人なら、心に残る。それが、サイコパスだとまったく心に残らない。まったく一回も言われなかったのと同じ状態で、やり切ることができる。 


2021年7月2日金曜日

家族が加害者であって、引きこもり当事者が被害者である場合、その引きこもり当事者は、言い切れないものを抱える

ちょっとだけ、引きこもりについて擁護しておく。世間の基準で言うと、引きこもりが「悪」なのだ。一度引きこもりが悪だと決めつけたあとは、引きこもりがなにを言っても、「悪い人が言い訳をしている」という線で、理解してしまう。

たとえば、ほんとうに、引きこもりになった人が、被害者であっても、「被害妄想だ」「被害者のふりをしているだけだ」というような「見方が」成り立ってしまう。引きこもり当事者は、悪で、引きこもりの家族は、善だということになっている。引きこもり集団のなかには、確かに、わるい引きこもり当事者がいると思う。

しかし、ほんとうに引きこもり当事者が被害者である場合がある。

特に、家族が加害者であって、引きこもり当事者が被害者である場合、その引きこもり当事者は、言い切れないものを抱えると思う。引きこもりをしてしまっている人が、「〇〇のせいで、こうなった」と言えば、それが、事実であったしても、「ほんとうは、〇〇のせいでこうなったわけではないのに、〇〇のせいだと言っている」ということになってしまうのである。

一般人の頭にはそういう自動解釈機能がついている。

その自動解釈機能のもとは、偏見なのだけど、偏見があると、「どんな場合でもそうだ」というような一括解釈が、よく吟味されることなく、成り立ってしまうのである。……普通の人間の頭には、そういう機能がついている。

それは、必要悪だ。

人間が人間の社会を成り立たせるには、上下関係が必要なのである。なので、上下関係を認識して、「態度をかえる」ということをしなければならないのである。人間の社会を成り立たせるための基本的な機能なのだ。

しかし、その機能が、じつは、偏見を生み出す。差別心を生み出す。なので、どれだけ差別撤廃を叫んでも、差別が残り続けるということになる。人間の認知機能、認識機能に、応じた、わるい面が、差別や偏見なのだから、もともとの人間の認知機能、認識機能をかえないと、どこまでもどこまでも、差別や偏見が生み出されるということになってしまう。

まあ、差別論はいいよ。これは、過去において何回か書いたのだけど、どこに書いたか忘れてしまった。

そこで、話をひろげないで、引きこもりの話だけに、話を限定しよう。

問題は、ほんとうにひどい家族の一員にやられて、引きこもりにならざるをえなかった人の場合なのである。 そういう場合は、ある。しかし、一般人は場合分けなどというめんどうくさいことはしない。「ひきこもり」なら、悪。家族が善。引きこもりが引きこもっていることで家族に迷惑をかけているという認識をする。

そして、そういう例……いかにもそういう例を出して、「こういう問題がある」と説明する。引きこもりになって人は、悪であるばりがはなくて、弱くて、だめな人間なのである。この「悪」にはそういう意味まで含まれている。家族に原因があるのではなくて、弱い引きこもり当事者に絶対に原因があると決めつけてしまっている。家族に原因がある場合もある。そういうことが理解できないのである。

 

 

2021年7月1日木曜日

毎日、ありえないほど、つかれていた

毎日土砂降りのようなヘビメタ騒音でくるしかったよ。つかれたよ。毎日、ありえないほど、つかれていた。そして、つねに勉強時間がなかった。どれだけくやしいことが発生するか? あのヘビメタ騒音はない。持続時間が長すぎる。きちがいヘビメタが終わったときには、へとへとになっている。あんなのが続いていいわけがない。 

2021年6月30日水曜日

外向的な性格と内向的な性格

 

外向的な性格と内向的な性格というものを考えた場合、外向的な性格のほうが、内向的な性格よりも物事を楽しむことができると考えている人がおおいのではないかと、ぼくは、思う。

しかし、内向的な性格とは、自分の内側に興味を持っている性格であり、自分が興味を持っていることに関しては、楽しむことができるのだ。

外向的な性格の場合、他人に興味を持っている性格であり、他人といっしょにいることや、他人となにかをやることに楽しみを感じる性格なのだ。

なので、別に外向的な人のほうが楽しむ能力があるというわけではない。内向的な人にも、自分の興味がむくことに関しては、夢中になって楽しむ能力があるわけで、楽しむ能力がないというわけではない。あるいは、楽しむ能力において、外向的な人とくらべて、比較劣位であるわけではない。

しかし、イメージとしてはどうしても、内向的な人は暗い、外向的な人は明るいというような感じにななる。そして、暗いよりも、明るいほうがいいという感じ方が一般的だ。

なので、内向的な人は、楽しんでないような印象を受ける人が多いのではないかと思う。しかし、内向的でも楽しんでいる人はいる。なので、問題はそこではない。

問題なのは、経験なのだ。どんなことを経験してきたかということが、「楽しむことができるかどうか」ということに影響を与える。そして、意識的な意志では、これをかえることができない。にもかかわらず、「かえることができる」と考えている人が多いことが問題だ。

自然な感情を生み出す部分の上に「意識的な意志」がのっかっているので、自然な感情を生み出す部分には、「意識的な意志」の手が届かない。自然な感情を生み出す部分を「意識的な意志」が制御しようとしてもむだだ。制御できないところに、自然な感情を生み出す部分がある。「意識的な意志」が効率を考えて、どれだけ、自然な感情を生み出す部分に命令をしても、その命令は届かない。自然な感情を生み出す部分が、「意識的な意志」の味方をしているときだけ、「意識的な意志」が機能する。あるいは、機能していると本人が自覚することができる。意識的な意志も自然な感情が生み出す部分なので、意識的な意志が自然な感情を生み出す部分を自由に操作するということはできない。 

自然な感情を生み出す部分がなんらかの理由で損傷してしまった場合、意識的な意識がどれだけ命令をしても、自然な感情がわきだすということはない。自然な感情を生み出す部分が、「楽しいと思う感情」を生み出しているので、この部分を、意識的な意志でどうにかしようとするのはまちがっている。

しつこくなるけど、あたかも、意識的な意志で自然な感情を操作できるということを言っている人たちがいるけど、この人たちは、たまたま、自然な感情を生み出す部分が破壊されてないだけなのである。 

自然な感情を生み出す部分が「意識的な意志」を生み出し、自然な感情と意識的な意志が「同じ方向を向いている状態」しか経験したことがないので、あたかも、自分の(意識的な意志)が自分の(自然な感情)を制御できると思ってしまっているのである。これは、ある意味しあわせだけど、まちがっている。

自然な感情を生み出す部分が、なんらかの理由で破損してしまった人に、意志の力で、自然な感情を制御することができるというようなことを言うのは、有害だ。

本人(たち)が「同じ方向を向いた状態」しか経験したことがない、ある意味、しあわせな人(たち)なので、損傷を受けてしまった人(たち)のことがわかってない。この人(たち)は、わかってないだけなのだ。この人(たち)の主張は残念ながらまちがっている。

 

 

 



2021年6月29日火曜日

おかしいのは「すべては、感じ方の問題だ」と考えているやつらのほうだった

おかしいのは「すべては、感じ方の問題だ」と考えているやつらのほうだった。

おかしいのは「つまらない現実はつまらないと感じる人が作り出している」と考えているやつらのほうだった。

「経験」という重要な問題をまるで考えてないでそういう発言をしている。これは、「生まれの格差」を隠す効果がある。 生まれの格差を隠す効果があるものに関しては、疑って考えたほうがいい。「なにかおかしいな」というような感じ方を大切にするべきだ。こいつらは、人をだましているつもりはないけど、だましている。

人生における「経験」の集積……これを、無視すると、現実にあわない結論にたどりついてしまうのである。 現実を語りえない理論は、理論のほうがまちがっていることが多い。「だまし」がある。

しかし、精神・カネモッチーと精神・フツーッチにとっては、まさしく、現実を説明できる理論なのである。ようするに、経験に合致しているのである。特殊な問題を抱える家族に、成人するまでにやられたことがでかすぎるのである。

 特殊な問題を抱える家族に、成人するまでにやられたことは、堆積している。集積している。なので、それ自体が「障害」になる。

精神・カネモッチーと精神・フツーッチにはない障害を抱えてしまっているのである……精神・ビンボッチは。精神・カネモッチーと精神・フツーッチには、障害がないので、「感じ方の問題だ」「自分の意識的な意志で制御できる」「影響を受ける必要はない」というようなことを語りだす。

それは、障害がないから、可能なことだ。意識的な意志で「無視しようとすれば」無視できるという理論は、きちがい家族にたたられてない人にとっては、可能なことなのである。

どうしてかというと、実際にたたられたことがないので、他人事だからである。実際にたたられたことがないので、「想像」のなかで、たたられた人のことを考えて、「想像」のなかで「たたられないことも可能だ」と考えてしまうのである。

それは、成人したあと「知識として」たたられた人のことについて「知る」だけだから、可能なのだ。成人したあと「知識」としてきちがい毒親やきちがい家族のことについて「知る」のである。なので、「経験」がなく、「障害」もない人が、頭の中で作り上げたイメージをもとにして、「感じ方の問題だ」「自分の意識的な意志で制御できる」「影響を受ける必要はない」語っているということになる。

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2021年6月28日月曜日

きちがい兄貴の「頭のバグ」によって、きちがい兄貴の「妄想の世界」が、現実化されてしまうのである

前回、前々回の投稿においては、「きついこと」と「つらいこと」は同じ意味だと思ってください。

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「自己肯定感が高いから人生を楽しむことができる」のではなくて「人生を楽しむことができるから、自己肯定感が高くなる」のではないかという疑惑ということについてもうちょっと考えてみようかなと思う。

きちがい毒親との交流を考えてみた場合、あるいは、きちがい毒親との交流の「つみかさね」を考えてみた場合、きちがい毒親は、普通の人が理解できないきちがい的な理由で怒り狂う。怒り狂って攻撃してくるわけだから、これは、楽しくない。おもしろくない。腹が立つ。楽しくなくて、おもしろくなくて、腹が立つ、不愉快な、交流なのである。

これは、そういう交流にならざるを得ない。 

これを楽しくて、おもしろくて、腹が立たない愉快な交流だと思いなおすのはむりだ。きちがいがどういう理由で、荒れ狂うか、ほかの人たちはわかってない。そして、これは、きちがいの頭の構造がかわらない限り、繰り返し、発生することなのである。

繰り返し!!!というが、重要だ。

「たまたま」起こることじゃないのだ。

これも、きちがい毒親といっしょに住んだことがない人にはわからないことだ。で、問題なのは、きちがい毒親と一緒に住んだことがない人のほうが多いということだ。なので、この人たちの常識が、「正しいこと」として流布されてしまうのである。

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日本国にはおいては、ニートはディスってもいいということになっているらしい。同様に、引きこもりもディスっていいことになっているらしい。同様に、無職もディスっていいことになっているらしい。 


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ともかく、ヘビメタ騒音で、全部ない。あれ以降、すべてが苦痛。今日もめちゃくちゃにさみしい夢を見た。ほかの人にはわからない。経験してないから……。だから、わからないのだから、俺のなかのヘビメタ騒音なんて無視する。ヘビメタ騒音の影響なんて無視する。無視して、本人にとって、あたりまえのことを言う。そのあたりまえは、俺にとっては、あたりまえじゃない。きちがいヘビメタ騒音でふっとんでいる。きちがい兄貴の態度でふっとんでいる。たとえば、遅刻だ。これは、ヘビメタ騒音を、あの音のでかさで、あの態度でやられれば、人間なら、だれだって、遅刻せざるを得ない状態になる。そりゃ、一日ならいいよ。けど、一〇〇〇日、二〇〇〇日、三〇〇〇日、四〇〇〇日、五〇〇〇日と、つみかさなったらどうだ?

絶対に遅刻せざるを得ない状態になる。

けど、ぼく以外の普通の人は、せいぜい、三〇日ぐらいで、三〇〇〇日なんて経験してない。そうなると、「みえるせかい」がちがう。どれだけがんばったって、できない世界に移行する。けど、きちがいヘビメタにやられてない人は、それがわからない。みえない。なので、本人が見ている世界の基準で俺を批判する。「そんなのは、あまえだ」「みんな、眠たいのに起きて、遅刻しないようにしている」と言いやがる。それは、きちがいヘビメタが三〇〇〇日続かなかった場合の話だ。きちがいヘビメタが五〇〇〇日続かなかった場合の常識だ。そんな常識は、実際に五〇〇〇日続いてしまった俺にはない。とっくのとおに、ないんだよ。きちがい兄貴を、一日目に静かにさせることができなかった人以外、俺に、そういうことを言う権利がない。けど、それも、俺の世界では常識だけど、ほかの人の世界では、常識ではない。それは、五〇〇〇日やられた場合の、体力状態を知らないからだ。自分が経験してないので、わからない。自分が経験してないので「ない」ということになってしまっている。あまいのは、きちがいヘビメタにやられずに生活している人だ。そのあまい連中から、俺が、あまえているように言われるという状態が発生する。そりゃ、「ヘビメタ騒音でどうしても遅刻してしまう」と言えば、「しらないやつら」はそう思う。だから、きちがい兄貴は、きちがいヘビメタを、絶対の意地で、やり切るようにすることで、俺をそういう状態に追い込んでいる。きちがい兄貴のやり方じたぃが、よその人にはまったくわからない。よその人には「ありえないこと」なんだよ。だから、よその人の常識のなかには、「ない」ことだ。だから、「ない」という前提で、俺のヘビメタ騒音を無視して、勝手なことを言う。ここにおいて、普通の人が、きちがい化してしまうのである。俺のなかで……。常識のなかではない。それは、妄想をいだくものが「ない」と言っているのとおなじだ。俺の言うことを無視して、きちがい兄貴は、きちがいヘビメタを「常識的な人が絶対に理解しない」やり方でやった。きちがい兄貴がやったことが、きちがい兄貴の脳内のなかでは、あたりまえのことなのだけど、これは、妄想者の「あたりまえ」だ。だから、現実がゆがんでしまうのである。ようするに、普通なら、俺、きちがい兄貴、よその人で、おなじ現実を見ているはずなのに、きちがい兄貴の「頭のバグ」によって、きちがい兄貴の「妄想の世界」が、現実化されてしまうのである。そうなると、よその人から見て、俺が現実の世界だと感じている世界が、俺の「妄想の世界」に見えるのである。なので、俺の言っているヘビメタ騒音や俺の言っているヘビメタ騒音の効果は、そいつらのなかでは、無効化される。「ない」こととしてあつかわれる。そんなのは、エイリさんのなかの妄想にすぎないというわけだ。そんなのは、あったとしても、影響がない。あったとしても、遅刻しないで通えるということになる。そりゃ、ない人の世界ではそうだけど、ある人の世界ではちがう。ほんとうに、自分が経験してないことについては、想像力が働かないな。こいつらは、どれだけ俺が言っても、「必然性」が理解できない。理解できないなら「そんなのは影響がないことだ」ということになってしまうのである。そいつらの頭のなかでは……。


 

セルフネグレクト状態と「楽しむ能力」について

楽しくない生活をしているように見える人は「楽しむことができない性格」だから、楽しくない生活をしているのだろうか?

たとえば、セルフネグレクト状態におちいっている人は、楽しめない人だ。この人が最初から、楽しめない人だったかというとそうではないと思う。

たとえば、Aさんという人がいるとする。このAさんは、超がつくようなブラック企業で、どつかれながら、一日に一四時間労働をしてきたとする。通勤するのに片道一時間かかるので、一日に一六時間を労働のためにとられるとする。日曜祭日も、呼び出しを食らって、働いていたとする。

しかし、家族がいるので、つらい労働にたえて、一五年間、毎日、会社に通って暮らしてきたとする。Aさんはある日、起きられなくなって、仕事をやめたとする。そのあと、離婚したとする。いまや、Aさんは、セルフネグレクト状態におちいって、「汚部屋」のなかで、「ほとんど」動けない状態でくらしているとする。

そういう場合、Aさんは、もともと、「楽しむことができない」性格だったのかいうと、ちがうと思う。Aさんも、もともとは、人並みに楽しむことができた性格なのである。なので、この「楽しむことができない性格」というのは、後天的につくられたものだ。

Aさんの生活は楽しそうじゃない。

その場合、「そとから見ると」Aさんがもともと、楽しめない性格だから、楽しい生活をしてないように見えてしまう。また、固有の性格というものを考えた場合、Aさんが楽しむことができない性格だから、楽しくない生活をしているように見えてしまう。

かりにAさんが、寝床にいたまま「楽しい楽しい」と言えば、Aさんは「楽しくなる」だろうか? Aさんが、寝床にいたまま「元気だ元気だ」と言えば、Aさんは「元気になる」だろうか? 問題は、一五年間の労働スタイルにある。

Aさんが、セルフネグレクト状態におちいったあと「楽しい楽しい」と言わなかったから、「楽しくない」生活をしているわけではないのである。

実際に経験した一五年間が、Aさんの感じ方の根本を形成している。

元気がない状態になったのは、一五年間、がんばり続けたからだ。楽しいと感じる能力を失ったのも、一五年間、がんばり続けたからだ。「楽しくなろうとする努力」では、楽しくならない。休むことか必要だけど、セルフネグレクト状態におちいったあと、どれだけ長く休んでも、もとの状態には戻らない場合がある。

これは、ちょっと話がずれるけど、Aさんがその会社に勤めたまま「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないと思う。Aさんがその会社に勤めたまま「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならないと思う。

しかし、言霊主義者がAさんに語りかける言葉は「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「元気だ元気だと言えば元気になる」なのだ。ブラック企業の社長が、言霊主義者で、Aさんが「休ませてくれ」と言っているのにもかかわらず、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「元気だ元気だと言えば元気になる」とこたえて、休ませてあげなかったという設定まで付け加えたくなってしまう。こういう言霊的なアドバイスは、ちゃんと「ほかに」理由があってこまっている人を、追いつめる効果がある。

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もう、読んでいるかどうかわからないけど

このサイトは、リンクを増やすつもりがなかったので、相互リンクは申し込みませんでした。その当時。もう、何年も前だけど。リンクを削って増やさないようにした。

 


 

2021年6月26日土曜日

「きついことでも、楽しいことに書きかえることができる」はまちがい。悪い意味できついことは、いい意味できついことにはならない

  「楽しんだほうがいい」というのは、わかる。

けど、ぼくは、これ、楽しむ能力というのが、決まっているわけではないと思う。実際に楽しめるかどうかは、その人が、経験してきたことで決まると思う。

ようするに、個別の能力を想定して、「自分は楽しむの力がある」「あの人は楽しむ能力がない」と決めつけるのは、よくないと思う。

実際に、楽しむ能力というものがあるならば、楽しむ能力に対応しているのは、個人の経験だ。体験だ。実際に、体験したことが影響を与えている。理屈じゃないのである。「べき論」ではないのである。「べき論」はこの場合、「楽しむべきである」という「べき論」になる。

「一度の人生なのだから、楽しむべきなのである」「楽しんで暮らしている人は、ポジティブでいい人だ」「楽しんで暮らしてない人は、ネガティブで悪い人だ」……と。

まあ、こんなことが語られるわけよ。「善悪」「好悪」が最初から決まっている。「楽しんで暮らしている人は善」「楽しんで暮らしてない人は悪」「楽しんで暮らしている人は良い感じがする(なので好感が持てる)」「楽しんで暮らしていない人は、悪い感じがする(悪い感じしかしない)」というような意識にもとづいたことが語られる。

あとは、自己肯定感が高いと、人生を楽しむことができて、自己肯定感が低いと人生を楽しむことができないということが言われる。

これには、「例の疑惑」がある。

 

ようするに、「自己肯定感が高いから人生を楽しむことができる」のではなくて「人生を楽しむことができるから、自己肯定感が高くなる」のではないかという疑惑だ。また、「自己肯定感が低いから、人生を楽しむことができない」のではなくて、「人生を楽しむことができないから、自己肯定感が低くなる」のではないかという疑惑だ。

けっきょくのところ、冒頭で述べた通り、体験に、いきつくのではないかと思う。

そうでしょ。実際の体験が、悪い意味で、きつくて、つらいのに、楽しめますか?

楽しめるという人は、マゾか、あるいは、いい意味で、つらいことに意味を感じているのではないかと思う。

悪い意味で、きつくてつらいというのは、書きかえられない。

しかし、ほんのちょっと負荷があることを、やって成功した場合、きついけど、楽しいという感覚が生まれる。ほんとうは、無意識的に「悪い意味」と「いい意味」のちがいがわかる能力はあるのだと思う……人間は。すべての人間は……。

しかし、「悪い意味できついこと」を経験したことがない人は、経験したことがないので、「悪い意味できついこと」が経験としてわかってないのだと思う。ようするに、その人にとっては「悪い意味できついこと」はこの世に存在しない。なので、「きついことでも、楽しいことに書きかえることができる」と言うまちがいをおかすのである。

ようするに、悪い意味できついことは、いい意味できついことにはならないのだけど、いい意味できついことしか経験してないので、悪い意味できついことと、いい意味できついことのちがいを認識でないのだと思う。

そういう人たちにとっては、きついことというのは、一意にいい意味できついことに決まっているので、きついことも、楽しいことに書きかえることができるという信念を持つにいたる。

その人たちにとってのきついことというのは「いい意味できついこと」に限定されているので、そういう認識ができあがる。

しかし、ほんとうに、悪い意味できついことは、いい意味できついことにならないのである。どれだけ、自分を洗脳して書きかえようしても、悪い意味できついことは、いい意味できついことにかえることができない。そういうことができると言っている人は、ほんとうに悪い意味できついことを、五年以上毎日経験したことがない人だと思う。

その場合、本人は、「最初はつらかったけど、あとになったら楽しくなった」というようなことを言うかもしれない。それは、ちょっと負荷があることを、悪い意味できついこととして、認識しているだけである。

ちょっと負荷がかかることは、本人が主観的に最初は「きつく」感じても、達成感などを味わえるので、そんなに悪いことではないのだ。つまり、最初から、悪い意味できついことではない。実際に、悪い意味できついことを数年間にわたって毎日経験した人じゃないと、ここらへんのちがいがわからないのかもしれない。

個別の能力の問題ではなくて、個人が経験してきたことがそのまま反映されているだけではないと……ぼくは思う。「楽しむことかできる」「楽しむことかできない」という話をする場合、あたかも、「楽しむ能力」が……固有の能力としてある……という前提で話をしているように思えるのだ。

しかし、固有の能力としての「楽しむ能力」なんてものは、じつはないんじゃないかと思う。

「楽しむ能力がある人」「楽しむ能力がない人」という言い方をする場合、楽しむ能力がある人のほうが優れているような感じを受ける。けど、それは、固有の能力ではなくて、体験によって押し出されてしまうものなのではないかと思う。その時点での固有の能力というものを考えてしまってはダメなのである。

ようするに、その時点での「楽しむ能力がある人」「楽しむ能力がない人」という分類は、例によって、生まれの格差を隠すものなのではないかと思う。ようするに、ほんとうは、論点をそらしている。

固有の能力としての「楽しむ能力を上げる方法」として、紹介されていることが、すべて、うちのめされた人にとっては、つらい方法なのである。憂鬱度があがる方法なのである。読んだだけで、不愉快な気持になる方法なのである。

これが、不思議なんだけど、……いや、不思議でもないか?……楽しむ能力をあげる方法を読んだ人は、うつになってしまうのである。 もちろん、「うちのめされた人」が読むと、うつになるということだ。ニュートラルな人は読んだからといってうつにならないだろう。

どうしてなら、うちのめされてないからだ。

本人が「俺にだってつらいことはあった」「わたしにだってつらいことはあった」と言っても、ほんとうは、それは、いい意味でつらいことを経験しただけであって、悪い意味でつらいことを経験してないのではないかと思う。「うちのめされた人」は、悪い意味でつらいことを、最低五年間ぐらいは、毎日、経験しているものだ。積み重なってしまうのである。この期間の長さが問題だ。

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ほんとうは、固有の能力としての「楽しむ能力」などというものは、なくて、ただ単に、経験がちがうから、事柄に対する反応がちがうのではないかということだ。ぼくがここでずっと述べているように、生まれの格差がある。生まれの格差は生まれた時点での格差だけけど、経験を通して拡張されていくのである。ようするに、親がきちがいだと、不愉快な体験がつもっていくのである。あるいは、才能がないと不愉快な体験がつもっていくのである。不愉快な体験の回数が増えると、人間は楽しめなくなるのではないかと思う。ようするに、「いま」の時点で、楽しめる人は、不愉快な体験が少ない人で、「いま」の時点で、楽しめない人は、不愉快な体験がめちゃくちゃに多い人なのではないかと思う。体験の差が、楽しめるか、楽しめないかの差になると思う。その場合、「能力の差」ではないということになる。楽しむ能力がある人と楽しむ能力がない人が「さいしょから」決まっているわけではないのだ。

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「つらさ」の「つらさ」がちがう。「つらい」の「つらい」がちがう。

 「人生を楽しむにはどうしたらよいか」「人生を楽しくするにはどうしたらいいか」そういう問題を意識をもって、Googleで検索してみろ。ほんとうにいためつけられている人は、失望する。

これ、ほんとうに、ほんとうにいためつけられている人を自殺に追い込むような文章が書いてある。

「無理解、無理解、無理解、無理解」。まさに、無理解。

けっきょく、ほんとうにくるしいことを経験してない人が、ちょっとだけ調べて書いたこと。ネガティブな人を、ディスっているにもかかわらず、そういうつもりがない人が書いたこと。

無理解さというのは、人を殺すだけの威力があるなとは思う。

あの無理解さは、アドラーに通じるものがあるなぁ。きっと、ちょっとはアドラーの影響を受けているのだろう。こいつらが、無理解で人を自殺に追い込むのだ。

こいつらは、精神・カネモッチーで、精神・ビンボッチが経験したことを一度も経験したことがないようなおぼっちゃんなのだ。おじょうちゃんである場合もあるけど。こういう人たちが「つらい経験」という場合の「つらい経験」と、ほんとうにいためつけられた人が言う「つらい経験」という場合の「つらい経験」はまったく異なったものだ。

同じ言葉を使って、それぞれちがったことについて語っているのだから、話があわなくて当然だ。そして、こういう、精神・カネモッチーのほうが、社会において、つねに優勢なのである。

精神・フツーッチは、 精神・カネモッチーのまねをする。ジャイアンにこびるスネ夫のように、ジャイアンが正しいと言う。精神・カネモッチーにこびる精神・フツーッチの数が多い。そうなると、やはり、精神・ビンボッチをディスりまくるということになる。

小ばかにした言葉を使って、まったく経験したことがないことについて、語りまくる。そういう場合、「きめつけ」があるのだ。そして、そういう「きめつけ」に、彼ら自身は無頓着なのだ。精神・カネモッチーと精神・フツーッチは、「きめつけ」に無頓着だ。

アドラーは、トラウマを否定しているけど、精神・フツーッチは、いろいろな人の本を表面的に読んだだけだから、いろいろな人の考え方がまじっている。すべてが、うわべだけの表面的な理解だ。

もう一度はっきり言ってしまうけど、「つらさ」の「つらさ」がちがう。「つらい」の「つらい」がちがう。ちがうことについて語っているんだよ。同じ言葉で!

「つらさ」が、フツーッチの考える「つらさ」でしかないのだから、アドバイスは、表面的なものになる。どんなばかでも、短時間で考えつくようなアドバイスがどれだけ人を傷つけるかわかっているのか?

こまった人を傷つけるかわかっているのか。たとえるなら、有機水銀を摂取してしまって、からだがうまく動かなくなった人に「動かないと思うから動かない」「動くと思えば動く」などと、説教しているようなものだ。

こういうことを言われたら、どれだけくるしか、わからないのだろう。どれだけ腹が立つかわからないのだろう。

こいつらだって、同じ量の有機水銀を摂取してしまったら、からだが思い通りに動かなくなる。それがまるでわかってない。こういうひどい発言を平気でする。

たとえば、水銀を摂取してしまったということが失敗だとしよう。

「一度の失敗がトラウマになって、体が動かないと思っているだけだ」というようなことを精神・カネモッチーが言った場合、水銀を摂取してしまって体が動かない状態になっている人が、どういうふうに感じるか、精神・カネモッチーには、まったく想像がつかないのだ。自分は、正しいことを言っていると思っているだろう。自分は、正しいことをおこなっていると思っているだろう。

「そんな、一回の失敗で、のびているやつが悪い」ということを言っても、まるで気にしない。簡単に「一回の失敗」と決めつける。あるいは、複数の失敗だとしても、複数の失敗にこだわる必要はないのである。けっきょく、「複数の失敗で、のびているやつが悪い」ということになる……彼らの頭のなかでは。

「できないと思っているからできない」「できると言えばできる」「一回の失敗にこだわる必要はない」「こだわっているからダメなんだ」……全部、不適切な発言。


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 「人生 楽しむ方法」などの言葉で、ググるといいよ。

たとえば、きちがい家族がいる環境で育った人が、精神・ビンボッチで、きちがい家族がいない環境で育った人が、精神・フツーッチと精神・カネモッチーだ。さらに言ってしまえば、精神的に成熟した家族に囲まれて育った人が、精神・カネモッチーだ。 

親の精神的な成熟と親の財産は、相関関係があると思う。もちろん、悪い意味で精神的に未成熟だけど、金を持っている人や、精神的に成熟しているにもかかわらず、金を持ってない人はいる。例外はかなり多いだろう。しかし、弱い相関関係はあると思う。普通の相関関係もあると思う。強い相関関係はあるかどうかわからないけど、あってもおかしくはない。

金持ちと言った場合、じつはフローとストックを両方とも考えなければならないのだけど、単に金持ちと言った場合は、そこらへんのことがあいまいだ。ここでは、ストックは個人資産が一〇億円以上。フローは、年収が二〇〇〇万円以上の人を、とりあえず、金持ちと呼ぶことにする。

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2021年6月25日金曜日

あの中で勉強をしたら、その勉強の内容にヘビメタ騒音がくっついてしまう

「ヘビメタが鳴ってた」「ヘビメタがものすごい音で鳴ってた」と俺が、ときどき、絶叫するんだよ。自分が出せる、一番でかい声で、どなる。

けど、俺が、一番でかい音で怒鳴っても、ヘビメタの音のほうが、一〇〇〇倍も、一〇〇〇〇〇〇倍もでかい。気違いだから、そういう音を、平気で出せる。

これ、隣の部屋でやられたら、ものすごく困る。常に、ガンガン、頭を叩かれているような状態になる。あのなかで、勉強なんてできない。

なにかを記憶することなんてできない。

逆に、学校で覚えたことを、忘れてしまう。あの中で勉強をしたら、その勉強の内容に、きちがいの音がくっついてしまう。その勉強の内容にヘビメタ騒音がくっついてしまう。

これ、本当に困るんだよ。気違いにやられて、勉強ができないだけなのに、俺より才能がないやつが俺を馬鹿にするというようなことが発生する。困るんだよ。名誉の問題なんだよ。「騒音なんて関係がない」といったやつは、まるまるまる。

 

2021年6月24日木曜日

けど、俺にとってはどうでもいいことではない

 きちがいヘビメタで人生がない。きちがい兄貴が、意地になったけど、気楽にやったことで人生がない。ほかの人は、ヘビメタ騒音のことを知らない。ほかの人は、ヘビメタ騒音を経験してない。俺とおなじヘビメタ騒音を経験してない。経験してないところで、俺にとってのヘビメタ騒音を「想像」して、話をする。他人にしてみれば、全部がどうでいいいことだ。けど、俺にとってはどうでもいいことではない。そういう他人の反応を含めてどうでもいいことではないのだ。

きちがい的な意地で「やる」のに、同時に「まったくやってないつもり」が成り立っている(再掲載)

 あー、つまんない。すべてがつまらない。

ちょっとずつは、いろいろとやっているけど、それは、日常を維持するようなことだ。日常の維持」……これがけっこうむずかしい。微妙なバランスのうえに成り立っている。どうするかな?

「すべてがつまらない」と書いたところで、どうにかなるわけでもない。きちがいヘビメタで、根本的なところがやられた。もう、疲弊してどうにもならない。ほかの人たちにはわからない。どうしてかというと、俺とおなじヘビメタ騒音生活をしてないからだ。

成長期に、あれをやられてないからだ。きちがいが、「ふつーー」にやりやがった。普通の人たちのなかで、ヘビメタ騒音はたいした問題じゃない。自分がやられなかったということもあるけど、想像がつかない。ひどさがわからない。どういう生活になるか、わからない。それは、話を聞いても、理解できないことだ。

だから、まあ、二段階あるんだろうな。経験がないということ、そして、想像してもわからないということが積み重なっている。想像して、わかる人たちも、少数だけどいる。けど、その人たちは、少数派だ。

普通の人は、想像してもわからない。

兄貴のヘビメタ騒音のことを、あまく見る。それこそ、あまく見る。自分の「ちょっとした騒音体験」をもとに、「こういうものだろう」と想像してしまう。その想像が、間違っていても、本人は、わからない。わからないし、わからなかったからといって、そいつらのほうに問題がしょうじるかというとしょうじない。

わからないまま、俺のことを「ぶったぎった」ほうが気持ちがいいという点もあるかもしれない。まあ、俺は、おかえしをしてやりたいとは思うけどな。さすがに……。こういうやつらは、自分がなにをしているのかわからない。

これは、きちがい兄貴の「わからさな」とは完全にちがう。きちがい兄貴の「わからなさ」というのは、もっと病的なものだ。無意識的なレベルでの「きたなさ」を想定しなければ、到底、理解することができないことだ。

きちがいおやじも、きちがい兄貴も「しらないことにして」自分のやりたいことをしやがるんだよ。きちがいおやじは自動的に腹を立てるわけだし……きちがい兄貴は自動的にでかい、でかい、でかい、音でヘビメタを鳴らすわけだ。

これ、ほかの人には通じないかもしれないけど……まったくわからないかもしれないけど……かならず、きちがい的な意地で「やる」のに、同時に「まったくやってないつもり」が成り立っている。そういう、無視のしかたなんだよな。

もちろん、相手の立場は無視しているのだけど、さらに、自分の「現実認識」を無視しているところがある。これは、わからない。そういう状態を見た人じゃないとわからない。

きちがいがつねに毎分毎秒きちがい的な意地でやり続けるけど、とうのきちがいは、つねに毎分毎秒「やってないのとおなじ気持ち」なのだ。

そりゃ、やられたほうの認識に影響を与えるだろう。

けど、これがまた、普通の心理学者にはわからないんだよな。とくに、めぐまれた家ですごした認知療法家にはわからない。たしかに、受け止め方の問題だという、言い方は成り立つけど、そういう言い方をしているときに、無視してしまうことがある。それがわかってない。

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2021年6月23日水曜日

ギルドマスターができるニートさんを、すくってあげたい リアル世界で「職業:ギルドマスター」

 ぼくはゲームのことはよく知らないのだけど、ほんとうに、「ギルドマスター」におカネをあげることはできないのかね?

聞けば、ギルドマスターというのは、たいへんな仕事なのに、「リアルマネー」をもらえないみたいなのだ。「ゲームが大好きな無職」や「ゲームばかりしているニート」は、世間の人から見ると、だめな存在だ。

どうして、だめな存在かというと、おカネを稼いでないからだ。おカネを稼げるようになれば、世間の人たちから、尊敬のまなざしで見られるようになるのだろう。プロゲーマーは、けっこう、尊敬されている。

プロゲーマーの場合は、格闘ゲームや競技ゲームで、おカネを儲けている場合が多い。これは、リアルのテニスやリアルのゴルフのように、スポンサーがついているのだろう。まあ、なんかのショーをやる場合もあるだろう。

あとは、ゲーム中継で儲けるということが考えられる。ようするに、動画を動画サイトにあげて、広告費で儲けるというタイプだ。

あとは、RMT(リアルマネートレード)という手法がある。RMT(リアルマネートレード)というのは、アイテムや育てたキャラをリアルマネーで売り買いすることなのだけど、たいていの場合、規約違反だ。規約違反である以上、「悪い行為だ」というイメージがつきまとう。「悪い行為」でカネを儲けるのは、イメージが悪い。

違法なのか合法なのかについては、意見がわかれる。しかし、詐欺などの温床になる場合もあるので、注意が必要だ。

↓wikipedia  RMT(リアルマネートレード)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

ギルドマスターができるニートさんを、すくってあげたい。

ギルドマスターというのは、けっこう、めんどうくさい仕事をしているようなものだと思う。リアル世界で「職業ギルドマスター」と言えるような状態になればいいなとは思う。

ギルドマスターができるということは、わりとコミュ力があるということだよな。格闘ゲーム系のプロゲーマーのように、金が流れ込むしくみをつくれないのだろうか?


*     *     *

日本だと、ブランクがものすごい意味を持つのだ。これは、無職歴のブランクということだ。これは、「のろい」のようなものだから、注意したほうがいい。ただ、これも、産業の構造が変わっていくことで、どうにかならないのかね?

日本では、新卒カードに意味があるのだ。

だから、大学なり高校に通って、新卒カードを使わないというのは、相当なハンディになる。しかも、使わなかったときだけではなくて、それ以降の就職活動に影響を与える。ブランクが長くなければなるほど、労働者としての戦闘力がさがっていく。これは、そういうふうに見なされるだけで、ほんとうは、どうだかわからない。けど、少なくても「就職力?」は、さがる。

ここらへんも、産業構造がかわればかわるかもしれない。

*     *     *

ゲーミフィケーションという考え方がある。これは、現実をゲームだと思って楽しむという方法だ。「現実の仕事をゲームのように考えて、攻略していけばいいんじゃね」というような考え方だ。これは、「現実世界で、職業:ギルドマスター」とは、正反対の方法だ。しかし、これが、なかなかむずかしいのである。はっきり言えば、「ひとをえらぶ」。

ぼくは、いろいろとありすぎて、ゲーミフィケーションでは楽にならないのである。ゲーミフィケーションで楽になる人は、現実世界でわりと普通に暮らしてきた人たちだ。ひどい状態で暮らしてきた人には無理なのである。現実世界が最悪の無理ゲーだと、ゲーミフィケーションという考え方では、楽にならない。

*     *     *

行為が同じでも、金を稼げるのか金を使うだけなのかで、評価がわかれる。現実社会では、「金を稼ぐのが正義」だ。金を稼げる人は尊敬され、金を稼げない人は見下される。これは、ほんとうは、よくないことだ。人間の価値は、金を稼げるか稼げないかで決まるものではないのだから。

人間の価値は、たとえば、足がはやいか足がはやくないかでは、決まらない。それとおなじように、人間の価値は、たとえば、おカネを稼げるか、おカネを稼げないかでは決まらない。

しかし、現実世界では、おカネというものが力(ちから)を持っているので、あたかも、おカネを稼げるか、おカネを稼げないかで、人間の価値が決まってしまうように見える部分がある。おカネを稼げる能力があるか、おカネをかせげる能力がないかで、ひとの価値は、決まりませーーーん。


 

2021年6月22日火曜日

感覚器を書き換えて、でかくない音だということにしてしまうのである

 ネズミシートを片づけた。衣服を置くところに、アルミ箔を置いたのだけど、そのアルミ箔が床に落ちて使えなくなっていた。で、それも、まるめて捨てることにした。

それから、あそこの床をふいたTシャツなどを「よごれ下着」として捨てるために、コンビニ袋に封印した。 こういう作業は、息を止めてやることにしている。それから、こういう作業はほんとうは、バルサンを炊いてからやるべきことなのだけど、今回、アルコール消毒液をかけてからやった。まあ、このあいだ、殺虫剤をかけておいたから、なんとかなるだろう。

ネズミがかじったペットボトルがあるんだよ。これは、ペットボトルのところに捨てられない。けど、「ねずみがかじった」と書いたものを貼りつけて、不燃ごみの日に出した場合、もっていくかどうかわからない。まあ、順序としては、それを試みて、もっていかなかったら、ペットボトルの日に出そう。けど、あれも、やはり、ビニール袋で封印するべきなんだよな。

親父が、酒糟のついた魚を、午後一時ぐらいに焼いて、皿の上に置いたあと、なにもかけないで、放置してしまうのである。夕食のときには、食べない。そのまま、眠って、次の日の朝も、食べない。そして、昼に、一晩中ずっと、出しておいた酒糟のついた魚を食べて、そのあと、また、酒糟のついた魚を、焼いて、放置するのである。こういう繰り返し。部屋がにおいで充満する。

一日、なにもかけないで、出しておいた魚を食べるとか、尋常じゃない。

けど、一度そうなると、絶対に、なにを言ってもやめないのだ。俺が片づけた場合、どういうことになるかわからないので、かかわりをもちたくない。そういう状態で五〇日ぐらいが経過したあと、ネズミが入ってくるようになった。それまでは、五〇年間、一度も、ネズミなんて出なかったのである。あとでわかったことだけど、いろいろとネズミが入れる隙間や穴があった。それでも、ずっと、五〇年間、ネズミが入ってきたことがないのである。

一度侵入を受けると、もう、経路を完全にふさぐまで、ずっと、侵入を受けるということになる。これが、すごいんだよ。で、普通の人だったら絶対に、ネズミの糞のことを気にするはずなのに、親父は気にしない。見えたって見えない」状態だ。だいたい、ほんとうに、酒糟の魚のにおいで、くさかったとき、「におうだろ」と言ったら「におわない!におわない!」と怒鳴ったのである。

これ、嗅覚が正常なら絶対ににおうはずなんだよ。けど、親父は、もし、におうということを認めてしまったら、自分が魚を片づけなければならなくなるから、絶対にいやなのである。絶対に認めない。

けど、意識的に、考えて認めないわけではないのだ。無意識的に、認めない。におうということを認めたら、片づけなければならないということが、(無意識的には)わかるので、感覚器を書き換えて、におわないことにしてしまうのである。

だから、意識的には、におってないから、におわないと言っている状態だということになる。

これは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじなの。

きちがい兄貴が、ものすごくでかい音で鳴らしているということを認めたら、ものすごくでかい音で鳴らせなくなってしまうので、感覚器を書き換えて、でかくない音だということにしてしまうのである。だから、意識的には、普通の音で鳴らしているのだからいいということになってしまうのである。こういう、都合のよさ。うすぎたなさ。

普通のうちでは絶対に鳴らせないような「でかい音」で鳴らしていたのに、本人は「三味線ぐらいの音だ」「フォークギターぐらいの音だ」と本気で思っているのである。そんなわけないだろ。きちがい野郎。きちがい野郎。そういう感覚で、絶対に、やめてくれないんだよ。ほんとうに、ものすごい音で鳴っているだよ。これが、俺の部屋にいなかった人にはわからない。あんなのない。あたまがおかしくなってしまう。五分で頭がおかしくなってしまう。ものすごく、攻撃的な音。だいたい、子供の声にしろ、三味線の音にしろ、ギターの音にしろ自然界にある音なんだよ。ヘビメタその場合は、自然界にない、不自然な音なんだよ。電気的に増幅しなければ、出せない音なんだよ。電気を切って、エレキギターを弾いているのならいいよ。その音が、自然界で出せる、弦をはじいた音だ。あんなにでかい、スピーカーを、六畳の和室にもちこみやがって。どんだけ、でかい音で鳴らしているか!! ものすごくでかい音で鳴らしているのに、本人がずっと気がつかない。きちがいおやじとおなじ、感覚器のゆがみがある。感覚器のマヒがある。無意識てな書き換えがある。

実際、きちがい兄貴だって、いま住んでいるマンションでは一日に一分も鳴らせない音なのである。ほんとうに頭にくる。うちは、感覚器を書き換えてしまう、きちがい親父がつくった「うち」なんだよ。 

あんなにでかい音で、一日に七時間から一四時間、鳴らされて、夜、眠れるわけがないだろ。それを、そういう生活をしなかったやつが……「鳴り終わったら関係がない」「鳴り終わったら眠れる」と言いやがる。こういう、世界。こういう世界なんだよ。

きちがい家族にやられたら、事情を知らない、想像力がない、一般的な人からも、攻撃を受けるようになる。侮辱されるようになる。一般的なやつが、無理解なことを、平気で言うようになる。自分のなかでは、それが正しいのだ。けど、俺の部屋にいてみろ。ぜんぜんちがうから。テスト期間中に、俺の部屋で勉強してみろ。俺が言っていることがわかるから。

 

2021年6月21日月曜日

これ、ほんとうに、小さな子供に対する手加減なんてないんだよ

 ヘビメタでくるしい。だれも理解しないのか? ヘビメタでくるしいと言っているだろ。

「過去のことだから関係がない」「鳴り終わったなら関係がない」

「ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな」

 

けっきょく誰も、俺とおなじようにきちがい兄貴によるヘビメタ騒音を経験したわけじゃないから、わからない。きちがい兄貴は脳みその回路がなくて、わからないタイプだけど、そういうタイプの人間がやることが、普通の人間にはわからない。

どうしてかというと、そういうタイプの人間が、家族にいないので、家族として迷惑をかけられるということが、わからないのである。経験としてわからない。佐藤やユキオというまともな人間でも、ヘビメタ騒音に関しては考えちがいをする。

ヘビメタ騒音をいつもいつも、過小評価する。

俺が、勝手にヘビメタ騒音にこだわっているようにしか、やつらからは見えない。これは、そいつらの、欠陥なんだよ。

「必然性」が理解できないだけ。

やられればそうなるのに、そういう関係性がわかってないだけ。そりゃ、経験がないからわからない。きちがい兄貴による、きちがいヘビメタ騒音が一五年間も毎日続いたのは俺だけなのだから、俺にしかわからない。

きちがい兄貴は脳みその回路がなくて、わからないタイプだと言ったけど、これは、対応する脳みそがないということだ。自分と相手の立場を入れ替えて考えることが、できないのである。

これは、きちがい親父もそうだから、遺伝である可能性もあるけど、無意識がかかわっていることはあきらかなので、遺伝だけで発生する可能性と、無意識的な問題だけで発生する可能性と、遺伝と無意識の両方がそろって、はじめて発生する可能性のみっつの可能性が考えられる。

ともかく、ほんとうに、少ないタイプの障害なのである。

で、ほかの人には、わからない。

家族としてそういう人がいる人じゃないとわからない。

そして、そういう人が「音を出すことに」夢中になった場合を経験した人しかわからない。

きちがい親父は、音を出すことに夢中になったわけではない。きちがい兄貴は音を出すことに夢中になった。きちがい兄貴は、かならず、でかい音で鳴らすことにこだわり続けた。そして、鳴らすときは、つねにでかい音で鳴らした。自分が満足できるでかい音で鳴らした。

無意識的な問題なのか、脳みその問題なのかわからないけど、でかい音で鳴らしたい場合は、「これはでかい音じゃない」という認識が発生してしまうのである。感覚器は正常なのに、感覚器を否定するような態度が生まれる。

それから、手短に言って、ヘッドホンはつけてくれなかった。「頭が重たくなるのがいやだ」「感じが出ないからいやだ」と言って、俺が入学試験のときも、一秒もつけてくれなかった。前日、前々日、三日前、一週間前、二週間前、きちがいがきちがい的な理屈で、ヘッドホンをつけることをこばむ。

これは、きちがい兄貴の話だけど、おなじことを、きちがい親父がやっていた。だから、「うちではあたりまえ」だ。そういう感覚が、普通に成り立っている。そりゃ、きちがい兄貴がやっていることは、きちがい親父がやってきたことだ。きちがい兄貴が一六歳になるまで、きちがい親父が一六年間ずっと毎日やってきたことだ。

*     *     *

息子たちが幼児のときは、きちがい親父が好き勝手なことをやっていた。きちがい親父がきちがい的な理由で怒り狂っていた。きちがい親父が、きちがい的な意地で、きちがい的な行為をやり続けた。それとおなじで、「うちでは」きちがいが、好き勝手ことをしていいということになっているのである。これ、ルールなんてない。そういう世界だ。きちがいが、きちがい的な意地で荒れたら、そうさせておくしかないような世界だ。

そして、きちがいはきちがいだから、「まったくそんなことをしたつもりがない」のである。これ、どれだけおかしいことか。どれだけ無法地帯か。どれだけ、こだわってやっていることに、無頓着か。本人が好き勝手にできるなら、それは、「やってないのとおなじ」なのである。

普通ならやってしまってはいけないことでも、きちがい的な意地で、やり通す。これを止めるとなったら、殺さなければならない。常に、そういう状態を押しつけてくる。どれだけの意地がかかっているかわってない。ヨソの人はわかってない。

親父もおなじだけど、兄貴の場合の話をしよう。兄貴の場合は、自分が思ったとおりの音で、鳴らすということに、こだわりがある。きちがい的な意地があるのである。

だから、絶対にゆずらないのである。そこは絶対にゆずらない。ゆずらないならゆずらないで、「押し通してやった」という記憶があればよいのだけど、そういうのがないのだ。

ほかの人が「やめてくれ」と言ったという記憶がない。ぜんぜん、「邪魔されずに」やったということだ。ほんとうは、じゃまされそうになると、発狂して怒ってやった。もう、ほんとうに、発狂。発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!発狂!なのである。そういう意地なのである。

けど、やってしまえば、「そんなの知らない」ということになってしまう。そういういじきたなさ。いじきたない。ずるい。そういうずるさ。父親が率先して、そういうことをやっているのだから、兄貴がやっても不思議じゃない。

親父は、むかし自分がそうしていたというのを知っているのか知らないのか、ともかく、兄貴の体がでかくなったら、一切合切文句を言わないのである。注意できなくなってしまった。これ、兄貴の体が小さいときは、文句を言うべきところではないところで、文句を言って、怒り狂っていた。きちがい親父がやったことってこういうことなのである。

これ、ほんとうに、小さな子供に対する手加減なんてないんだよ。相手が小さければ小さいほど、「思いっきり」ぶつかることができる。自分の好きにできる。「やめろ」と言われたら、発狂してはねのけることができる。発狂しているときに言うことが、現実の否定という要素を含んでいることなのである。

これ、ほんとうに腹が立つ。「やったってやってない」「におってたってにおってない」のである。これは、きちがい親父バージョンだけど、きちがい兄貴バージョンだと「(どれだけでかくたって)でかくない」ということが成り立つ。

これ、きちがいが、きちがい行為を押し通しているとき、悪いことをしているつもりがまったくないのである。やっていいことをやっている気分しかない。佐藤やユキオや認知療法家はこういうことがまったくわかってない。経験がないからわかってないだけだ。経験がないからわかってないということと、事実ではないということはちがうことなんだよ。

わからないやつは、とことん、無視する。ほんとうにそうだったということを、認めなかったりもする。たとえば、「お父さんはほんとうはそういう人ではなくて、俺が、そう言っているいるだけだ」というような理解をしたりする。俺の話を信じない。

「そんな人、いない」などと軽く言ったりする。

そいつのなかでは、俺の話は、真実ではないのだ。事実でもないのだ。俺がヘビメタ騒音について言っていることも、話半分で聞く。

ようするに、「ほんとうかどうかわからない」という態度だ。こういうやつらは、「ほんとうだとしても……」とヘビメタ騒音の影響を過小評価する。あるいは、完全に無視してしまう。無視したところで考えるなら、俺がただ単に嘘を言って、あまえているだけなんだということになってしまう。

きちがい兄貴が作り出した世界がこれだ。きちがい兄貴は夢中になってきちがいヘビメタを弾いて、聞いていただけなんだけど、そういう効果がある。

これ、きちがい兄貴は、親父にやられたことなんだよ。親父の話をそのまましても、ほかの人が信じなかったりする。「そんなことはないんじゃないの」「ちゃんと言えばわかってくれたんじゃないの」「説明の仕方が悪かったんじゃいの」と疑ってしまう。

どんだけ、くやしいか。兄貴の例で言ったけど、俺だって同じなんだよ。親父にかかわると、いっつもそうなるの。で、「いっつも」というのは、いきすぎた一般化じゃない。

これもわかってないんだよな。

親父の頭が親父の頭だから、外界の刺激にたいしていつも同じように反応するのぉ! きちがい親父が無意識的な怒りをため込んでいるので、きちがい的な理由で、怒り狂うんだよ。

きちがい親父のことは、勉強には関係がないから、我慢できるけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、勉強に関係があるので我慢できない。こういうふうに言うと勉強がメインであるような印象を与えてしまうけど、その勉強ができない時間というのは、体力を激しく奪う時間なのである。睡眠回路を破壊する時間なのである。佐藤やほかのやつらは、これまた、十数年にわたって毎日やられたことが、現在の状態に影響を与えるはずがないという、あほな考えにとらわれているのだ。

「鳴り終わったら関係がない」などと言ってしまう。

これも、無理解な発言なんだけど、本人たちは無理解な発言だと思ってないだろう。正しい発言だと思っているだろう。「朝、起きれないなんてあまえている」「みんなつらい思いをして起きている」などと言ってしまう。

けど、その「みんな」というのは、きちがい家族によるきちがいヘビメタを毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もあびつづけた人間なのかというと、そうじゃないのである。ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがうのに、いっしょにする。

みんなが、経験してないから、どれだけ、睡眠回路が破壊されるかわかってないだけでしょ。何千日も毎日、そんな状態が続いて、影響を受けないわけがないだろ。ほんとうに、想像力がないな。理解力がないな。

おまえらが、あまえている。ヘビメタ騒音なしでまったり暮らしてきたおまえらがあまえている。

そんなのは、障害がないからあたりまえなのに、自分のほうが俺より優れているから、毎日、通勤・通学ができると思っているんだからな。おまえらだって、おなじことが人生のなかで生じたら、通勤・通学できなくなる。それどころか、三年目ぐらいで死んでるんじゃないかな。

これ、ほんとうに、ただ単に、ヘビメタ騒音のすごさについて想像できないだけなのである。ヘビメタ騒音生活のつらさについて想像できないだけなのである。ヘビメタ騒音の影響の範囲について、想像できないだけなのである。

おまえ、あの態度で!ヘビメタを鳴らし続けれたら、どれだけこころをかきむしられるか、わかってないだろ。そこから生じたいろいろなことの意味がわかってないだろ。不可避的に、生じているんだよ。

これも、「俺(エイリ)がこだわっているから悪いんだ」と考えるやつがいるけど、そいつは、きちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音を経験してないやつだ。 ぜーんぜん、ちがう。こだわるとか、こだわらないという問題じゃないんだよ。

こういう、ひっかけ。

精神世界の人のトリックについて、俺は説明しているけど、「こだわる」という言い方にも、同じレベルのトリックがある。(これはもう、以前説明したことがあるので、ここでは書かない)

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2021年6月20日日曜日

(1)自分の身体タイプ (2)相手呼応タイプ (3)あきらめタイプ

本人の意識的な意志でどうにでもなることと、本人の意識的な意志では、どうにもならないことを、混在させることによって、あたかも、すべてのことが「意識的な意志でどうにでもなることだ」と錯覚させているのである。


たとえば、落ちた消しゴムをとろうとする「意志」があるとする。そして、落ちた消しゴムをとろうとして、とった。これは、意識的な意志でどうにでもなることだ。これは、比較的簡単なことで、自分の身体を動かせば、現実化できる。これを(1)自分の身体タイプとしておこう。

つぎに、たとえば、だれだれと恋愛するとか、どこどこの会社に入るとか、相手がある場合がある。この場合は、本人の選択にあわせて、相手が呼応してくれないと、現実化しない。これを(2)相手呼応タイプとしておこう。

つぎに、たとえば、Aさんに告白して、Aさんとつきあおうと思ったけど、告白せず、Aさんとつきあうということがなかったということがある。これは、選択しようとしたけど、選択するまえにあきらめたタイプだ。とりあえず、これを(3)あきらめタイプとしておこう。

セミナー会場で精神世界系の講師が言及するのは、(1)自分の身体タイプと(3)あきらめタイプだ。(1)自分の身体タイプの場合は、選択したのだから、現実化する。自分の身体が動く場合は、ほとんどすべて現実化する。なので、例として、こういうことがあるということを説明する。

そして、そのあとに、だから、選択すると現実化するということを言う。

(3)あきらめタイプは、選択するまえにあきらめてしまったのだから、現実化しないというとになる。あきらめずに、選択すれば現実化したはずなのである。なので、「これからは、あきらめないで、選択しましょう」「選択すれば、かならず現実化します」ということを話す。

(2)に関しては、語られない。じつは、セミナー講師のなかでも、(2)は無視されている。ときどき、意識にのぼるけど、すぐに、意識から消去される。

「強く思って選択しなかったから、そうなった」と考えるようにしているのである……彼らは。

けど、それなら、最初から「強く思って選択しないと、それは、現実化しない」ということを言うかというと、そんなことは、言わない……彼らは。

最初は、単に選択しただけで、現実化すると言っているのである。

最初から、「単に選択しただけだと現実化しないこともある」なんてことは、言わない……彼らは。

最初から「強く思って選択しないと、現実化しないこともある」なんてことは、言わない……彼らは。

「選択すれば現実化するのである」。どれだけ、弱い気持ちで選択しても、選択したなら、それは、かならず、現実化するのである……ほんとうは、こういうことを言っている。

最初はこういうことを言っている。

けど、現実化しなかったという報告を受けると、「強く思って選択しなかったから、ダメだったんだ」「強く思って選択しなかったから、現実化しなかったんだ」ということを言う。「選択しても、現実化する場合もあるし、選択しても現実化しない場合もある」ということは、「ダメだった」という報告を受けた直後だけ、考えとして浮かぶ……。セミナー講師の頭には……。

それは、ほんの一瞬だ。その話が済んだら、すぐに「選択すれば現実化する」ということになってしまう。この場合の「選択すれば現実化する」というのは、ただ単に、選択しただけで、現実化するということだ。強く思ったかどうかなんて関係がない。

こういうところに、からくりがある。トリックがある。



(注)
「意思」と「意志」はちがうのだけど、「意識的な意志」という言葉を使うことにしたので、「意識的な意志」で通すことにする。「意思」はそういう意図があること(頭のなかに思い浮かんでいること)だ。そして、「意志」は何事かのことをなそうとして志すことだ。
 

2021年6月19日土曜日

「選択をすれば現実化する」  これには、トリックがある

 こういう、考え方は精神世界の中では、くり返し現れる考え方だ。

なので、もうちょっと説明しておこうかな。
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東京に住む、あるサラリーマンが、しかめっつらをして、行きたくない会社に行ったとする。この場合、そのサラリーマンが、しかめっつら面をすることを選択したということになる。また、その会社に行くということを選択したということになる。すべては、そのサラリーマンの選択の結果なのだ。

どうだろうか? これだけ聞くと、正しいことを言っているように思えないか? これには、トリックがある。

そのトリックというのは、自分の意志で決められることについて語ったあと、すべては、選択の問題だと語るというトリックだ。

「選択できることもあるし、選択できないこともある」ということを認めない。

選択しておこなっていることを「例」としてあげたあと、このようにすべては、選択しておこなっているということを言う。だから、なんとなく正しいように聞こえてしまうのだ。

そのサラリーマンのことをサラリーマンAということにしよう。また、サラリーマンAが通っている会社を会社Aとしよう。たしかに、サラリーマンAは会社Aに通うことを選択した。過去において選択した。

なら、自分で選択したと言えるのではないか。
もちろん、そういうふうに言える。

しかし、ちょっとだけ、付け加えておきたいことがある。それは、過去のある時点で、サラリーマンAは、どの会社にも就職できるけど、会社Aを選択したわけではないということだ。

サラリーマンAは、本当は、Bという会社に就職したかった。しかし、Bという会社からは、お祈りレターをもらったのである。ようするに、Bという会社には就職することができなかった。

その場合、Bという会社を選択する自由があったかと言うとない。

もちろん、Bという会社に応募するということは、選択できた。しかし、Bという会社には就職するということは選択できなかった。相手があることは、自分の意志通りにはいかないことがある。

たとえば、サラリーマンAは、実は、Cという会社に就職したかったとする。けど、Cという会社はあまりにもレベルが高いので、最初から、応募をすることをあきらめたとする。

この場合は、選択肢に入れることができたのに、選択肢に入れなかったという判断をしたということになる。こういう場合は、「選択できた」のに、選択しなかったと言うことができる。

サラリーマンAが自分の意志で、選択しなかったのである。精神世界の人たちは、こういうことについてばかり言うわけである。

最初から、あきらめたのだから、結果は出てない。この場合、あきらめないで、応募したら入社できたかもしれないということが、成り立つ。そりゃ、「できかたもしれない」ということは、言える。だから、AがCという会社を選択しなかったから、ダメなんだとも言える。言えるだけなんだけど、言える。

会社Bの場合は、選択して応募したのに、ことわられたわけだ。この場合は、選択できなかったと言うことができる。
しかし、こういうことは、無視してしまう。

いまや、思えば、それはかなうということになったのだから、思えばいいということになってしまう。「選択」をすれば、その内容はかならず現実化するのだから、選択できないことも、選択すればいいということになってしまう。

自分が、選択をするまえにあきらめたことに関しては、「選択しなかったから、現実化しなかった」ということも、成り立つ。だから、正しいことのように思えてしまう。

これからは、むりだと思ってあきらめていたことも、選択すればよいのである。そうすれば、現実化する。

一時的に、こういう気持ちになっている。

けど、選択をすれば、現実化するということは、まちがっている。選択をすれば、現実化することもあるけど、選択をしても、現実化しないこともある。「選択をすれば現実化する」というのは、一〇〇%のことが、一〇〇%現実化するということを言っているのである……この時は。

まず、選択をしたものと選択をしなかったものにわけるとする。そうすると、選択をしたものは、すべて選択をしたものなので、「選択をすれば現実化する」と言った場合には、選択をしたものは、すべて現実化するということになる。

けど、実際には、選択をしたのに、現実化しなかったこともある。

たとえば、AさんがBという会社で仕事をすることを選択して、面接を受けたけど、AさんはBという会社で仕事をすることができなかった。

Bという会社に入社することができなかった。

「選択」をしても、それが、すべて、かなうわけじゃない。

これは、だれでも知っている。

セミナー会場にいる人も知っていることだ。けど、一時的に「選択をすれば、現実化する」と思ってしまう。

2021年6月18日金曜日

全部、思い通りになるはずなのである。こういう気持ちは、誰にでもある

 人間は、意識があるのに、死にゆく存在なので、基本的に不安だ。この不安は、ぬぐいようがない。こういうことは、なるべく意識しないようにして暮らすしかない。

自分が、なんらかのことに夢中になっているときは、その楽しい時間がずっと続くような錯覚がある。しかし、実際には、疲れて眠ることになる。

これも、人間のしくみなので、しかたがない。

ずっと楽しい時間が続けばよいのだけど、眠りたくなる。ずっと夢中になってる状態が続けばよいのだけど、途中で、疲れて集中力がとぎれる……ときがくる。けど、これも、「生物」としてしかたがないことだ。そういう、生物的な基礎の上に、人間のからだが成り立っている。

これは、すなわち、そういう、生物的な基礎の上に、人間の意識が成り立っているということだ。

人間は不安だから、それに対抗する心理的なしくみを持っている。それが、幼児的な万能感だ。これ、生きているあいだ、続くのである。

幼児期に出尽くして、あとは、影響を与えないということはない。

ずっと、生きている限り、幼児的な万能感は続く。

けど、幼児ではなくなるので、「幼児的万能感」と呼べなくなる。ただたんに、呼べなくなっただけだ。

じつは、「神頼み」は幼児的万能感の一部だ。苦しいときの神頼みとはよく言ったもので、まさに、不安になったときは、神様にお祈りしたくなるのである。「助けてください」と言いたくなるのである。これは、意識があるのに、死ぬべき存在だからだ。

これは、頼まずにはおれないだろう。神が、そういうふうに人間を作ったのだとしたら、まさに、死ぬべき存在として人間を作った相手に「助けてください」と言っているのだから、しょーーもないことなのだけど……そうだ。神が死ぬように作ったのに、そのように作った相手に、殺さないでくれと言っているのだから、滑稽と言えば滑稽なのだけど、しかたがない。人間はそういう存在だ。

「思い通りになるはず」なのである。全部、思い通りになるはずなのである。こういう気持ちは、誰にでもある。幼児期に芽生えて、そのあと、人間が強く持っている感情のひとつだ。

 

 

消えない。

 ヘビメタの嫌な感じが、雰囲気になって消えない。

たとえば、朝の感じは、この感じなんだけど、この感じは、きちがいヘビメタが鳴っていた頃の朝の感じだ。

消えない。

どんだけ、脳みそに刻み込まれてきたか。人生のなかで、どれだけ、こういう朝を経験してきたか。

 

この雰囲気。この雰囲気。おわっている。

ほかの人にはわからないんだよな。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音の経験がないから。ヘビメタ騒音の経験じゃなくて、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音の経験がないから、 わからない。どれだけ、長く続いたか!!

どれだけきちがい的な態度か!!!ほかの人はまったくわからない。

実際に、きちがい兄貴の!ヘビメタ騒音にさらされてない。きちがい兄貴の態度がわからない。どういう騒音なのかわからない。

きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタを鳴らし続ける。こまった。たえたけど、こまった。たえているあいだに、体力と気力と能力をうしなった。ほかの人は、この文脈が見えない。だから、俺のことを誤解する。下に見る。

けど、そいつらだって、おなじことをやられれば、同じような状態になる。引きこもりになる。学校に通えなくなる。会社に通えなくなる。憂鬱になる。元気がない状態になる。覇気がない状態になる。いろいろなものに対する興味を失った状態になる。激しく体力を消耗した状態になる。夜、眠れなくなる。

全部、これ、ダメ人間の特徴。

学歴がなくなる。学力がなくなる。

ほかの人はやられてないから、わからない。

それから、ぼくは騒音耐性がないわけじゃない。たぶん、普通の人よりある。それは、幼稚園の真ん前に住んでいるということで、証明できる。これ、ほんとうに、となりの人が結婚したんだけど、その相手が、幼稚園の騒音にたえられなくて、離婚した。大きな理由はそれ。「ここにいたら、おかしくなってしまう」という理由だ。幼稚園の騒音だって、メンタルをやられる人間はいる。

ぼくが生まれたときから、幼稚園は、目の前にあった。むかし、幼稚園のことを騒音で訴えた人のことを、きちがい呼ばわりしたやつがいた。そいつは「幼稚園が横にあることを知っていて、引っ越したのだから、そんなのはそいつの責任だ」という理論を振り回していた。それは、わからない。どうしてかというと、その人(訴えた人)が幼稚園の横に引っ越したと、そのばかは決めつけているけど、そういう情報はない。その人(訴えた人)が住んでいるところの横に、幼稚園ができたのかもしれないのだ。あるいは、その人の親が、幼稚園がないところに、土地を買って家を建てたあと、その人が(訴えた人)が生まれて、そのあと、横に幼稚園ができたかもしれないからだ。「幼稚園が横にあるところに引っ越したから悪い」というのは、そのばかが、そういうことしか考えられずに、決めつけたことだ。

まあ、AさんとかBさんと言ったほうがよかったか。たしかに、「その人」「その人」ということになると、だれのことを言っているかわからない。いちおう、いい人のことは、人。わるいやつのことは、「やつ」とか、「ばか」とかと言っておいた。いちおう日本語がわかる人が読めば、だれがどうして、それについてぼくがどう考えているのかわかる文章だと思う。

あほだから、幼稚園の横にその人が引っ越してきた場合のことしか考えてない。ほかの可能性について考えることができない。こういうあほ。こういうあほが、騒音なんて、騒音がうるさいと言っているやつのほうがきちがいと決めつけて、あほなことを言う。まあ、あほだからしかたがないか。

 

 

 

2021年6月17日木曜日

「自分は自家用ジェット機なんて買えない」と思ったから、「自家用ジェット機が買えない自分がいる」


ちょっと、繰り返しなるけど、アフリカの貧しい地域に住んでいる貧しい子供が、「三〇〇〇円のステーキ」を食べられるかどうかということについて、もう一度、考えてみよう。三〇〇〇円と書いているけど、各国の通貨に換算して三〇〇〇円相当のステーキということだ。

まず、おカネをかせがないことには三〇〇〇円のステーキは食べられない。そして、近くに三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店があるかどうかを調べなければならない。

近くにない場合は、どこにそういう店があるか調べなければならない。遠くにある三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店に行くまでの道のりについて考えなければならない。そして、その交通費をかせがなければならない。

いっぽう、たとえば、東京のサラリーマンは、三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店について、たぶん、知っている。街を歩けば、いろいろな店があり、そういう店でどのくらいの値段で、ステーキを提供しているかわかる。

もし、わからないとしても、スマホで調べればすぐにわかる。給料をもらっているので、一食三〇〇〇円ぐらい払うことは、なんでもないことだ。まあ、「奮発して食べないと食べられない」ということもあるかもしれないけど、奮発すれば食べられる値段だ。

なので、三〇〇〇円のステーキを食べようと思ったら、三〇〇〇円のステーキを食べることができる。

アフリカの子供は、三〇〇〇円のステーキが食べられるのに、食べないということを「選択」しているのだろうか? ぼくは、「選択」してないと思う。

それなのに、精神世界の人は生まれの格差を無視して、「あなたの現実は、あなたが選択したものだ」と言ってしまう。

ようするに、いろいろな方法を考えても食べられないという状況は、自分が作り出したものだということを言っているのである。いろいろな方法を考えても食べられないという状況は、自分が選択したものだと言っているのである。

しかし、現実世界ではそうではない。精神世界の人たちは、生まれの格差というものを無視して、すべては、自分が選択したものだと言う。

たしかに、昼食で、牛丼を食べるか、冷や麦を食べるか、ハンバーガーを食べるか、チャーシュー麺を食べるか、タンメンを食べるか、寿司を食べるか、パンを食べるか選択できる……人はいる。店がたくさんあるところに住んでいるか、そういう地域に通っていて、なおかつ、おカネを持っている人は、なにを食べるか選択できる。

そういうふうに、選択できるものは選択できる。

選択肢のなかに、牛丼を食べるという選択肢が含まれているので、数ある選択肢のなかから牛丼を食べるということを「選択」することができる。

しかし、これは、自分には所持金があるということや、自分がいる場所の近くに、いろいろな店があるという「条件」が、みたされてなければならない。店もあるし、おカネもある……そういう状態で選択できることなのだ。

なので、「なんでも選択できる」ということではない。

東京に住んでいるサラリーマンだって、自家用ジェット飛行機は、たいていの場合、買えない。一億円する食べ物は、たいていの場合、食べられない。これは、選択肢のなかに入ってない。

人によって選択肢がちがう。条件がちがう。

こういうことをまったく考えないで、「選択」「選択」と言っているのが、精神世界の人たちだ。

これ、「選択」と言っているけど、「思ったことが現実化する」という言い方にスライドさせることができる。「どういう現実だって選べるのに、あなたが、いまのような現実を選んだからそうなった」というような考え方だ。

自家用ジェット機を買える自分を思い浮かべれば、自家用ジェット機を買える自分になったはずなのである。それなのに、自分に制限をもうけて、「自分は自家用ジェット機なんて買えない」と思ったから、「自家用ジェット機が買えない自分がいる」のである。

なので、「自家用ジェット機を買える自分」を思い浮かべればそれだけで、「自家用ジェット機を買える自分になる」のである。

この場合、「思った」ということと、「選択した」ということは、おなじことだ。等価だ。言い換えているだけだ。「思ったこと」を「関心」と言い換える場合もある。

あるいは、言い換える方向がちがうけど、「引き寄せ」という言葉にも言い換えることができる。強く思えば、引き寄せることができるのである。これは、「思えば、現実化する」ということと、同じだ。

ともかく、「選択」という言葉を使っているけど、言っていることは「思っていることは現実化する」ということと同じだ。

「思う」というところを「言う」と言い換えると、「言ったことが現実化する」ということになる。言うことで、現実を選択できる……こういうふうに言い換えれば、言霊的な考え方になる。わざわざ「選択」というような用語を使う必要は、なくなる。

こういう考え方は精神世界の中では、くり返し現れる考え方だ。
 

2021年6月16日水曜日

しくみがわかったって、やられてしまったことは、かわりがない

 しくみがわかったって、やられてしまったことは、かわりがない。なので、やられてしまったことの影響を受けている。いまも、だるい。しくみがわかったところで、しかたがないのだ。

どうするかな?

ほんとうに、つまらない。こんなの、意味がない。どれだけのことが起こったか、そして、どれだけのことが起こらなかったか。起こすことができなかったか?

いやなことばかり起きて、希望していたことは起こらなかった。

 *     *     *

家に帰ってからのヘビメタ騒音時間が長いんだよ。あれをやられてないやつが、俺に対してえらそうなことを言う。やられてないからできるだけなのに、えらそうなんだよ。まるまるまる。

「おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為……「選択をした」1

 「選択をした」ということについて考えてみよう。

ようするに、自分が選択をしたから、こういう結果になっているという考え方について考えてみよう。これは、一見、正しいように見えるかもしれないけど、いろいろとまちがっている。

はっきり言ってしまうと、ペテン。

こういう初級レベルのペテンに引っかかってしまう人たちがいる。

まあ、ショーを見て、気持ちがよくなるのとおなじだから、ショーだと思って、セミナーに参加しているのであれば問題はない。

いや、ある。

これは、生まれついて不幸な人をバカにしている。

これは、たとえば、アフリカの貧しい地域に生まれた子供に対して、「飢えることをおまえが選択した」と言っているのとおなじだ。

こういう、無慈悲な考え方なのである。そして、「わたしは、うえてないもーん」と続く。「わたしはステーキ、食べられるもーん」と続く。


これが、ひどい話なのだけど、精神世界の人たちは、貧しい家に生まれることを選んだから、貧しい家に生まれたのだと考えている。しかも、自分のことではなくて、他人のこと……。

はっきり言えば、こういう人たちは、精神世界につかっていながら、精神世界のことがまったくわかってない人たちだ。そういうことを言って問題のない人は「受け止められる人」だ。たいていの人は「受け止められる人」ではないので、言うべきではない。

話をもとに戻す。食べるものさえほとんどない、貧しい家の子供に生まれたということは、その子供が、選択したことではない。

どうしてなら、生まれる前に選択などはできないからだ。選択というのは、意識的な意志で選択した場合においてのみ使われるべき言葉だ。それを、無視して、すべては意識的な意志によって選択されているという前提に立って、いろいろな「罪」をなすりつけているだけだ。

これは、貧乏人に向かって、「やい!ビンボーニン!! おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為だ。道徳的にただしいとは思えない。

たとえば、アフリカのまずいし子供は、高いステーキを食べられない。

けど、高いステーキを食べるということを選択しなかったから、そういう結果になっているだけだと言うのである……彼らは……。「すべては、選択の結果だ」「自分ですべてを選択していている」という言い方には、意識的な意志ですべてを選択できるという前提がある。

貧しい子供が、高いステーキを選択できるのかというと、できない。けど、「選択」の問題にしてしまっている。

それが問題だ。

ほんとうは、条件によって選択肢が限られている。この世では、選択肢が限られている場合のほうが多い。しかし、すべてを選択できるという架空の話をして、すべては選択の結果だという現実の話をするのである。なので、嘘がある。

セミナー講師をしておカネを儲けている人なら、高いステーキを食べる選択肢があるというだけの話だ。自分にはある。だから、ほかの人にもある……と思い込んでいるだけだ。

高いステーキを食べない人がいたら、それは、高いステーキを食べないということを選択したからだということになっているのである……セミナー講師の頭のなかでは……。

選択することができたのに、選択しなかった……こういう言い方で、選択できない状態を無視している。

たとえば、サラリーマンがいるとする。そのサラリーマンは、普段は一〇〇〇円ぐらいの昼食をとっているとする。しかし、ある日、「五万円するステーキを食べよう」と思って、五万円するステーキを食べたとする。

これは、まさに、五万円するステーキを食べるということを選択したと言える。

「みろ、選択したじゃないか。選択できたじゃないか」と精神世界の人は言うかもしれない。

「選択の結果」……そのサラリーマンは、五万円のステーキを食べるという新しい経験をしたじゃないか。

これは、選択の結果かどうか?

選択の結果だと思う。

けど、それは、そのサラリーマンが、決意をすれば、五万円のステーキを食べることができたという話でしかない。アフリカでうえている子供は、五万円のステーキを食べるということを選択したくても、選択できない。

選択できないのだから、五万円のステーキを食べることは、現実化しない。

それだけの話しだ。

精神世界の人たちが語っている世界は、「選択できるのか、選択できないのか」ということが問題にならない世界だ。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べられる世界の話をしているのである。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べるということを選択できる世界の話「しか」してない。

世の中には、五万円のステーキを、食べられない人はいる。たとえば、貧しい地域のこどもは食べられない。彼らには五万円のステーキを食べるという選択肢はない。

だいたい、最低五万円は持っているということ以外に、いろいろな条件が成り立っているから、そのサラリーマンは五万円のステーキを食べることができたのだ。

たとえば、近くに五万円のステーキを出す店がない場合は、どうなる? 五万円のステーキを出す店を探すということができなければ、五万円ステーキは食べれない。

条件がある。

五万円するステーキを出す店が、「貧しい地域に」あるか? たいていはない。実行可能なことしか、選択できない。

どういうことが実行可能なのかということに関しては、個々人によって条件がちがう。だから、もちろん、一〇〇万円ステーキを食べられる人だっている。一〇〇万円のステーキを食べられる人がいたとしても、みんながみんな一〇〇万円のステーキを食べられるわけではない。

なら、一億円のステーキならどうか? 大抵の人は、食べられない。そんなものがあるのかどうかも知らないけど、普通の人は、一億円のステーキを食べられない。

一億円以上の貯金?がある人か、一億円の借金をすることができる人か、一億円ぶんおごってくれる人がいる人しか、一億円のステーキは食べられない。

それなのに、一億円のステーキを食べないことを選択したと言えるのか?

選択もなにも、最初から選択肢のなかに入っていないのだから選択できない。具体的な選択肢は、個々人によって、それぞれ、ちがう。

ちがうにもかかわらず、精神世界の人は、「みんな、どんなことでも選択しようと思えば選択できるのだ」という前提で、ものごとを語ってしまう。こういうところに、誤謬がある。トリックがある。

2021年6月15日火曜日

ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、ぼろっぼろっ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、ぼろっぼろっ。みんなわかってくれない。ヘビメタ騒音がどれだけ強烈かわかってくれない。ヘビメタ騒音がどれだけ影響を与えるかわかってくれない。こんな不公平なことがあるか。あいつらはヘビメタ騒音がない状態で勉強ができて、今の地位を手に入れている。そいつらは、ヘビメタ騒音がなかった。ヘビメタ騒音がなければ、俺だって(通って)働くことができた。それなのに、ヘビメタ騒音がなかったやつが「人間は働いたほうがいい」と俺に説教をしてくるような状態になっていた。これがどれだけ頭にくることか、わかるか? まあ、「人間は働いたほうがいい」と言ってくるやつは、まったくわかってないのだろう。まるまるまる。

 

2021年6月14日月曜日

毎日の一秒一秒がヘビメタ騒音だ。

  毎日の一秒一秒がヘビメタ騒音だ。

2021年6月13日日曜日

セミナー会場から出れば、ディズニーランドから出たように、魔法がとけてしまう。

精神世界のセミナーは、ほとんどが、アトラクションやショーみたいなものだ。これは、ディズニーランドのアトラクションと同じなのである。

だから、セミナー会場を出てしまうと、効力を失う。

けど、はめ込まれている人たちは、ショーでも見ないとやってられない状態なのである。ショーはショーでも、「方法を教わる」ということだから、自分が主人公になれるショーなのだ。

もちろん、セミナーの主人公は、セミナー講師や主催者だ。

けど、方法を教わって、現実世界に戻れば、自分が主人公なのである。だから、あたかも、その方法が有効であるような気分でいられるのである。次の日、会社に行くまでは……。仕事場に行くまでは……。

しかし、会社や仕事場では、自分の地位や自分のやるべきことが決まっている。なので、ショーで教わった方法を試みることが、そもそもできないという状態になっている。ショーで教わった方法についてよく考えてみよう。

ショーで教わった方法というのは、全部が全部、幼児的万能感に根ざしたものだ。

だから、幼児期に、自分が採用していた方法なのである。

しかし、「潜在意識」とか「宇宙意識」とか「波動」とか「引き寄せ」とか「関心」とかという、衣をまとっているので、それが昔自分が採用して放棄した方法だとは気がつかないのだ。

まず、この人達……ショーの人たち……セミナーの人たちは、すべての現実は自分が選んできたものだという理屈を押しつける。これは、ものの見方だ。ここでやっていることは、「はめ込まれた状態などはない」ということを押しつけて、一時的に、縛りがない状態にするということだ。

縛りというのも、自分が勝手に選んで、縛っているだけだという言い方になる。

この場合の縛りというのは、会社に行ったり、会社で期待された行為をして働くということだ。あるいは、夫であるなら、夫としての役割、妻であるなら妻としての役割を、一時的に忘れるということだ。

本当は、そういうものがないと、人間は普通に暮らすことができないのだけど、セミナー会場では、一時的に、そういう縛りから自由になるのである。

過去の否定、過去の無視、過去の過小評価も同じ理屈で必要になる。「はめ込まれている状況」なんてないんだよということを、印象づけようとしているのである。

ようするに、自分が選び方をかえれば、現実がかわるという理屈を説明するために、まず、すべては自分の選択だということと、はめ込まれた状態などというものはないということを、説明するのである。

 これは、催眠術みたいなものだ。ほんとうは、自分が選んだことではないことも、自分で選んだということにしてしまう。どの地域に生まれかということや、どういう親のもとに生まれるかということは、自分が選んだことではない。

これも、前世を出せば、どういう親のもとに生まれるかも自分が選んだことになるということになるのだけど、前世はあるのかということが問題になる。前世という前提を信じないと、自分で選んだという結論も信じられないということになる。

けど、そういうところに行く人は、前世というような考え方が好きなので、抵抗なく信じるのだろう。

実際には、本人が選択したことではないことまで、本人が選択したことにされてしまうのだ。まず、ここに、嘘がある。その嘘は、強烈な効果を持つ。はめ込まれた状態のなかで、本人の選択が限られたものになっているということは認めない。そういうことは、絶対の意地で無視するのである。

はっきり言ってしまうと、自分にとって都合が悪いことは無視するということも、幼児的万能感の根幹をなす性質だ。自分にとって都合が悪いこというのは、自分にとって都合が悪い現実を含んでいる。

「現実」という言葉の持つ意味が、セミナー会場と、会社では、一八〇度かわってしまうのである。

基本的には、セミナーで教わる方法というのは、自分が幼児期に採用した方法だから目新しい方法ではない。しかし、それを、目新しい方法に見せかけるために、いろいろな用語を持ち出すだけだ。

ようするに、もともと、自分が知っていた方法しか、教わらないので、その方法では、「世界」はかわらない。自分が放棄した方法なのである。

どうして放棄したかというと、その方法が役に立たなかったからだ。

はめ込まれた状態のなかで、役に立たなかった。

一時的に、幼児的な思考に戻されて、なんでもできるような気分になっているだけなのである。セミナー会場から出れば、ディズニーランドから出たように、魔法がとけてしまう。

自分の文章が受けないのはわかるのだ

自分の文章が受けないのはわかるのだ。わかる。わかる。普通の人は、「どんなことにも感謝感謝」と言うような話を求めているわけで、「どんなことにも感謝感謝」という考え方には問題があるという話を求めてない。「できると言えばできる」という話を求めているわけで「できると言えばできる」という考え方には問題があるという話を求めていない。  


2021年6月12日土曜日

「できると言えばどんなことだってできる」「垂直飛びで三〇メートルジャンプできますか」(書き直し)

できるとかできないというのは、他人との比較なのだ。

たとえば、垂直飛びで三〇メートルジャンプできる人はいない。いないので、「できると言えばできる」と言っている人も、じつは、垂直飛びで三〇メートルジャンプできるとは思ってない。

思ってないのだけど、「人間ができないことは、できると言っても、できない」というようなことは、捨象されている。「人間ができないこと」と書いたけど厳密に言えば「人間ができないと(その人が思っていること)」だ。

「できると言えばできる」という言い方をするとき、その人は、例外をもうけてない。

「できると言えば、どんなことだってできる」のだ。そういう意味で言っている。だから、こういう人たちは、言うたびに、じつは、同じ言葉にちがう意味を込めて使っている。

これが、言ってみれば「意味のバッファ」になっていて、自分では矛盾に気がつかないようになっている。「そういう意味で言ったんじゃない」と言うことができるからだ。

+++会話例・開始

信者「できると言えばどんなことだってできる」

俺「垂直飛びで三〇メートルジャンプできますか」

信者「そんなことは言ってない。人間ができることは、できると言えばできるようになると言っているのだ」

++++会話例・終了

たとえば、こういう会話のあとでも、信者はなんとなく、「できると言えばどんなことだってできる」というようなファンタージを信じているところがある。「例外」があるのかないのかということについて境界線があいまいなのである。ファンタジーの世界のことを話しているのか、現実世界のことについて話しているのかについて、境界線があいまいなのである。「例外があるのかないのか」については考えないことにしている。すぐに「できると言えば、どんなことだってできる」という考えが復活してしまう。

この場合は、「例外」なんてないのである。

そういう、理論的な飛躍がある。

竹槍で、飛行機を落とすことだって、できると言えばできるのだ。

まあ、「できると言えばできる」と言うことに関しては、本人が本人に対して言う場合は、なんの問題もないので、追及はしないけど、「できると言えばどんなことだってできる」と他人に言う場合は、ちょっといろいろと、相手の状態を気にするべきだ。

「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言う人が、その言葉を言われる人のなにを理解しているのか?

なにも理解してないのである。

はげまして、いい気持ちになっているのは、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」という言葉をはなったほうだ。言われたほうは、いい気持にならない場合があるということを理解しておいたほうがいい。

できない人にとってみれば、そのことが三〇メートル、ジャンプするぐらいにできないことなのである。人によって、できることとできないことの内容がちがう。「できると言えばどんなことだってできる」という発言は、そういう「内容」のちがいを無視した発言なのだ。

何度も言うけど、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言って、自分を鼓舞するのはまったく問題がない。問題なのは、他人におしつける場合だ。

努力論とむすびつくと、「努力しないからできない」「努力がたりないからできない」と思って、ずっと、「 できると言えばどんなことだってできる」という言葉を相手におしつけることになる。その場合、相手が「努力をしてもできないタイプ」だと問題が発生する。

もちろん、言われたほうがきつくなって、その場を去るとかその仕事をやめるとかということになる。だから、言ったほうは、そのまま残って、相手を追いつめたことにすら気がつかない。「根性のないやつは去れ」といった気持ちになるのだろう。むなくそわるい気持ちになるのだ。

その相手が去ったあとではなくて、その相手がいるときの話だけど、自分が言ったとおりのことをしなかった人に対して、怒りの感情がわくことがあるのだ。そりゃ、相手は努力をしなかった!わけだし、できるようにならなかったわけだから、頭にくる。相手ができないので、自分がいろいろとやらなければならないということが続けば、普通の人間は、ものすごく頭にくる。相手に対して、憎しみの感情がうまれる。むなくそわるい気分になる。

「努力をしなかった!」と書いたけど、努力はしたかもしれない。努力をしてもできるようにならなかっただけかもしれない。しかし、その言葉を言っているほうにしてみれば、「できるようにならなかったのだから、努力をしてない」「努力をしなかった」ということになるのである。

 障害者論のところで書いたけど、どれだけ努力をしてもできない場合がある。そういうことを認めなければならない。そして、道具を使えば補えるところであれば、道具を使って補うということを考えなければならない。工夫をすればできるのであれば、工夫をすることを考えなければならない。そういう配慮をしないで「できると言えばどんなことだってできる」と繰り返し、繰り返し、言うことは、相手を、むだに追いこむことになるのである。むだ。むだであるばかりか有害。どっちも、むなくそわるい気分になる。どっちも、いい気分でいられる言葉を選ぶべきだ。どっちも、いい気分でいられるような方法を選ぶべきだ。

 

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この時間も鳴ってた。どれだけ言っても、やめてくれなかった。きちがい兄貴が、きちがい親父の形相で、きちがい的な無視をして鳴らす。

この時間も鳴ってた。

 

2021年06月12日(土) 04:00

 

騒音サイコパス 13 

無料セール

 

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。