2024年2月29日木曜日

ヘビメタ騒音なしの、若い時間がほしかった。

 ヘビメタ騒音なしで、普通に恋愛をしたかったなぁ。ヘビメタ騒音なしで、普通に勉強をしたかったなぁ。ヘビメタ騒音なしの友達づきあいをしたかったなぁ。ヘビメタ騒音なしの、若い時間がほしかった。

このズレについて、正常な家族といっしょにすごしたのに、わかるやつなんていない。

 俺だから、もった。俺だから、もった。

言霊主義者や、その他の妄想的なことを言う他人や、その他の、ヘビメタ騒音の影響を無視する他人だったら、三年で、自殺している。六カ月で、耐えきれずに廃人になっている。俺だから、もった。

一日が、どういう一日なのか、まったくわかってない。その人にとって、ヘビメタ騒音であるような音が、あのしつこさで、あのでかさで、あの至近距離で鳴っていたら、どんな生活になるか、わかってない。

経験してないからわかってないだけなんだろうけど、それにしても、影響のでかさを、無視しすぎる。

そんな、単純なことじゃないのに……。

そして、きちがい家族の性格がわからないから、「言えば解決できるような」簡単な問題に見えてしまうのである。こういうところで、きちがい家族の、きちがいパワーが炸裂している。

正常な家族と一緒に住んでいる人は、きちがい家族のことを、まったく理解しない。

まーーったく、まーーーったく理解しない。

そして、理解しないほうが、いいのである。きちがい家族のことが理解できるような人が育った家庭……。これも、似たようなものだろう。きちがい家族というのは、ごく自然にきちがい行為をするけど、きちがい家族本人にとっては、まったくきちがい行為をしたことになってないのである。

すべての時間、きちがい行為をしたとしても、まったくやってないということに……本人のなかでは……なっているのである。そういう、ズレがある。

このズレについて、正常な家族といっしょにすごしたのに、わかるやつなんていない。

俺の側の、真実のヘビメタ騒音と、他人の頭のなかにあるヘビメタ騒音が、ちがいすぎるんだよね

 きちがいヘビメタにやられた俺に対する、他人の態度というのがひどかったなぁ。ほんとうに、なめくさりやがって。ほんとうに、頭にくる。

他人は、たしかに、ヘビメタ騒音を鳴らしていた犯人ではない。

他人は、たしかに、ヘビメタ騒音には、かかわってない。

けど、ゆるせない。けど、ゆるせない。きちがいヘビメタ騒音にやられて、できなくなった俺に対する、ヘビメタ騒音に関してはまったく関係がない他人の態度が、ひどかった。

もう、書いておく。これが、現実だ。

それじゃあ、そういうことを、言霊で解決できるのかというとできない。まったくできない。

けど、解決できるということを言ってくる、幼稚な人が、あとからあとから出てくる。

いい気なものだ。論理的にまちがっているのに、理論的まちがっているということを、認めない。妄想を語りだす。その妄想が、俺をくるしめるのである。

ヘビメタ騒音で「ひくいたちば」になっているので、妄想のはけ口になってしまうのである。あっちは、いいことをしているつもりなのである。ちゃんとした助言しているつもりなのである。けど、妄想なんだよ。妄想なの。

けど、妄想だということを、妄想を語っているやつは認めない。

「真実だ。真実だ」と言う。

そして、「ヘビメタ騒音が鳴っていたんだな」ぐらいの理解しか、自分(妄想発言の主)がしてないということがわかってない。

ようするに、ヘビメタ騒音が鳴っていたということは、ひとごととして、理解しているのだけど、ヘビメタ騒音の影響に関しては、まったく理解してない状態なのである。

ヘビメタ騒音の影響を無視しているのだけど、ヘビメタ騒音の影響を無視しているということがわかってない状態なのである。ヘビメタ騒音の影響を無視するということは、きちがい兄貴もやったことだ。

きちがい兄貴と、まったく関係がない妄想を口走る他人は、ヘビメタ騒音の影響を無視するという点では、おなじなのである。

他人という他人が、この妄想を口走る言霊論者みたいなものなんだよ。

他人の理解なんて、そんなもの。

他人の、ヘビメタ騒音に関する理解というのは、そういうレベルだ。

だから、おなじことを話しているようで、まったくちがったことについて話しているということになるのである。

俺の側の、真実のヘビメタ騒音と、他人の頭のなかにあるヘビメタ騒音が、ちがいすぎるんだよね。

こんなやつらと、うまくいくはずがない。

 ヘビメタ騒音にやられて、他人がきらいになった。みんな、まったく、わかってない。実際に、俺の部屋できちがいヘビメタをあびたことがないし、きちがいヘビメタの影響がどういうものか、まったくわかってない。

ちょっと、気持ちを切りかえせば……とりなおせば、どうにかなるようなものじゃないのに、ちょっと気持ちをとりなおせば、どうにかなるようなものだと、勝手に想像してしまう。

ともかく、実際に自分の身に起こったことじゃないから、影響のでかさがわからない。

きちがいヘビメタが鳴っているからできなくなっているのに、きちがいヘビメタの影響を無視してものを言ってくる。それだけで、侮辱だ。

こんなやつらと、うまくいくはずがない。

きちがいヘビメタで、他人という他人が、きらいになった。

きちがい家族による騒音生活で、他人とうまくいかなくなった。

自分の生活自体がうまくいかなくなった。

ものすごい努力をしているのに、自分の生活自体がうまくいかなくなるのである。そういう部分が、他人はまったくわかってない。

このさき、どうするかな?

 このさき、どうするかな?

熱湯消毒の意味があるのかどうかわからない。消毒と言っているけど、ダニを殺したいだけだ。このあいだ、熱湯消毒を省略して、服を着たら、かゆくなったような気もする。実際、かゆくなった。けど、風呂から出てすぐだから、かゆいのかなとも思った。

どっちなんだろうな。風呂は、きつい。なおりかけると、風呂でかきこわすような感じもある。ともかく、親父がネズミを導入しなかったら、こんなことになってない。あいつが死んだあとも、こういうことで悩まされるのか。俺の人生、全部が全部、そんな感じだったなぁ。もうひとり、きちがい兄貴がいるしなぁ。

おかしいでしょ?

  「言えば言ったことが現実化する」と言っておいて、そのあとで「人はかわらない」というようなことを言う人ってなんだろう。

「人はかわらないから、自分がかわるしかない」というような意味なのだけど、「言えば言ったことが現実化する」のだから「あの人の考え方がかわる」と言えばいいでしょ。

「あの人の人格が一秒後にかわる」と言えば、あの人の人格が、一秒後にかわるのだ。

なので、自分をかえる必要がない。「言えば、言ったとおりになる」のだから、「人をかえること」だってできるのだ。

対象となる人が、Aさんだとする。Aさんの行動や態度に辟易していたとする。「言えば言ったことが現実化する」のであれば、「Aさんの行動や態度がかわる」と言えば、それで問題が解決する。辟易する必要がない。

なんで、その言霊主義者は「相手はかわらないから、自分をかえるしかない」なんてことを言うのか?

おかしいでしょ?

言霊主義者は、自分が言ったこと同士が矛盾しているかどうか考えたほうがいいぞ。いろいろなところで矛盾しているからなぁ。まあ、ぼくが言霊の力で、そういう言霊主義者の思考をかえることができるのであれば、言霊の力でかえてしまうという解決方法もあるわけだけど、言霊の力でかわるわけじゃないから、そういう解決法はない。

言霊主義者の矛盾思考を、言霊の力でかえることができないから、迷惑している。

こいつらは、好き勝手に、その都度、矛盾したことを言う。

ゲームの世界でいうHPのようなもの

  これも言ってしまっていいのかどうかわからないけど、努力論者が無視しているものがある。それは、ゲームの世界でいうHPのようなものだ。

HPというのは、たいていの場合、Hit Pointsの略で、HPがゼロになると、ゲーム内で死ぬ。これはもともと、防御力みたいなものなのだけど、体力みたいなものとして考えられる場合も多い。

努力論者は、普通の条件下で暮らしているので、特に、なにもしていなくても、HPががんがんけずられていく条件下で暮らしている人のことがわからない。

きちがい家族による騒音攻撃をうけると、そこに存在しているだけで、HPががんがんけずられていく。HPは、じつは、努力をすることによっても、けずられる。

ところが、普通の睡眠によって回復するので、一日のなかでけずられたHPは特に勘定をしなくてもいいということになっているのだ。……努力論者のなかでは。

努力論者というのは、じつは、環境に恵まれている。そこに存在しているだけで、HPが、がんがんけずられていくような条件をもってない。

だから、行動に割り当てるHPの余裕がある。行動というのは、努力をする行動という意味だ。普通の生活をするだけではなくて、追加の行動をするHPがある。HPの余裕がある。

ところが、そこに存在しているだけでHPをがんがんけずられる人は、追加の行動をするHPが、そもそもない。これは、ようするに、「努力できない」ということだ。

けど、普通の条件下で暮らしている努力論者は「努力できない」状態というのを認めていない。だれでも、その気になれば、努力できるということになっているのである。

「できない」なんてことはなくて、「しないだけだ」ということになっているのである。……努力論者のなかでは。

なので、努力論者は、努力をしないものを、根本的に軽蔑するように、できあがっているのである。これに関しては、あとで考えることにする。

ともかく、最悪の条件が成り立つと、努力することができない。

最悪な条件よりも、少しはましな、悪い条件が成り立っている場合、悪い条件によってHPがけずられていくので、追加の行動をすると、HPの減りがはやくなる。追加の行動をし続けるなら、HPがゼロになる。その日に回復されないからだ。

努力論者は、努力をすれば、成果が得られると考えている。

しかし、現実世界では、努力をしても、成果がまったく得られない場合がある。現実社会では、努力をしても、成果が得られない『条件』が成り立っている場合がある。その場合、努力をしても、成果を得ることなく、死んでいくということになる。

成果が得られないまま死んでいくことだってあるのに、努力すれば成功すると努力論者が言う。

けど、これは、条件を無視した考え方だ。現実的ではない。

2024年2月28日水曜日

言えば言ったことが現実化するなら、とっくに、理想的な社会になっている

 言えば言ったことが現実化するなら、とっくに、理想的な社会になっている。自分が思ったとおりになるのだから、とっくに、悩みがない状態になっている。

どうして、理想的な社会になっていないのか?

言えば言ったことが現実化するということが、嘘だからだ。ペテンだからだ。

どうして、悩みがない状態になってないのか?

言えば言ったことが現実化するということが、嘘だからだ。ペテンだからだ。

個人的な問題も、世界的な問題も、すべて、言っただけで解決できる。これが正しいなら、もう、問題が解決している。どうして、問題が解決してない状態で生きているのか? どうして、くるしい状態で生きているのか?

言えば言ったことが現実化するということが、嘘だからだ。ペテンだからだ。

「ちょっとした発言が、その差をうみだす」と言うのである

  初期値というのは重要だ。ところが、初期値を無視して、あーだ、こーだと言うのだ。

たとえば、裕福な家の子供に生まれた人は、おカネがある。貧乏な家の子供に生まれた人は、おカネがない。条件によって差がある。

けど、その差をガン無視して、「おカネが好きな人のところにはおカネが集まってくる」というようなことを言ってしまう。ようするに、おカネをどのくらい好きかということが、おカネの量……その人がもっているおカネの量を決める……というようなことを言うのだ。

けど、生まれの格差はある。あらゆる点で、親がお金持ちなら、子どものほうも所持金が増えやすい。親が貧乏なら、こどものほうも、所持金が増えにくい。

たとえ、ある子供が成人したあと、事業に失敗して、おカネがない状態になったとしても、全体的なことを言えば、おカネがある親のもとに生まれた子供のほうが、おカネがない親のもとに生まれた子供よりも、おカネをもっている確率が高い。

人生全体において、そうなる確率が高い。

もちろん、例外はある。

しかし、全体的な傾向としては、親のカネという条件が、カネが好きかどうかよりも、実際の所持金に影響をあたえているのである。まあ、所持金というのを資産と言い換えてもいい。

ほんとうは、生まれながらの条件の差が「その」差をうみだしているのに、ほかのことを持ち出して、ほかのことの差が「その」差をうみだすということを言う人が多すぎる。

たとえば、「ただ、おカネが好きかどうかが、おカネの量に影響をあたえる」と言うのだ。ようするに、性格なり、思いようで、どうでもなることが主要な原因だというのだ。そして、この場合、生まれの格差、あるいは、条件の格差は、ガン無視されている。

精神世界の人は「ちょっとした考え」が、実際の格差をうみだすようなことを言うけど、本当は、実際の格差というのは、現実的な『条件の格差』がうみだしている。

条件の格差のほうが、重要な因子なのに、重要な因子は、ガン無視して、「ちょっとした考え」が重要な因子だと言いはるのだ。現実的な『条件の格差』を無視することは、最初から、うめこまれていることだ。無視されなければならないのである。

現実的な『条件の格差』を無視することで、その文言(もんごん)が生きてくる。

たとえば、言霊主義者は、生まれの格差を無視して、「ちょっとした発言が、その差をうみだす」と言うのである。「おカネがある」と言うことが、実際におカネがあるかどうかの差をうみだすと言うのである。

けど、もう、生まれながらの条件の格差が、時系列的に『生長』して、もっとでかい格差をうみだしている。もっとでかい『条件の格差』をうみだしている。

個人において、じつは、条件というのは、無視できないものだ。現実を考えるなら、その個人が、現実の格差を無視しても、他人が、現実の格差を無視しないということになる。その個人の格差というのは、その個人の属性になっている。

だから、他人は、その個人を「そういう人だ」とみなすことになっている。その個人を、そういう属性をもつ人だと認知・認識するようになっているのである。

そして、他人の認知・認識が、現実をつくりだしているところがある。他人の認知・認識は、ただ単に、他人の認知・認識なのではなくて、他人の行動に影響をあたえるものだ。他人の認知・認識にしたがって、他人が行動する。

その場合、他人の行動の影響をうけることになる。他人の行動というのは、自分に対する他人の行動という意味だ。ようするに、他人の行動は実際の出来事に影響をあたえる。たとえば、無職に対して悪い認知・認識をもっている他人が多数いたとする。

その場合、無職である人は……つまり無職属性をもつ人は、他人から攻撃をうけやすい。その無職属性をもつ人が、「いいことがある」「いいことがある」とどれだけ事前に言っていても、実際には、無職に対して悪い考え(偏見)をもってる他者が、無職属性をもっているものに悪い行動をすることが多い。

無職属性をもっている人が「いいことがある」「いいことがある」と念じていても、それとは関係なく、他者の無職に対する攻撃的な行動が発現するので、実際には、無職属性をもっている人は、不愉快ことを経験しやすいのである。

「いいことがある」「いいことがある」と明るいことを考えていても、それとは関係なく、多くの他者が攻撃的なことを言い、攻撃的な行動をするので、不愉快な思いをしやすいのである。

属性が(多くの他者から見て)悪い人は「いいことがある」「いいことがある」と明るいことを考えていても、不愉快な出来事を経験する確率が、属性が(多くの他者から見て)悪くない人よりも、高いのである。

これはちょっとわかりにくいかもしれない。まえに書いたことを読めばわかるんだけどなぁ。

まあ、今回言いたいことは、精神世界の人は「生まれの格差」をガン無視して、ちょっとした発言やちょっとした行為で、現実をくつがえすことができるようなことを言うけど、それは、まやかしだということだ。

これ、詐欺的な説明なんだよ。一番重要な要素を無視して、ちょっとした「おまじない」で、現実をかえることができるというようなことを言う。これ、嘘なんだよ。

 

子供側のネガティブな性格によるものだと勘違いして、決めつけてしまうことは、よくないことなんだよ

 なにがネガティブなことなのかということは、重要な問題だけど、今回は、その問題には踏み込まないこととして、ただ単に、「ネガティブだ」と「あなた」あるいは「自分」が感じることをネガティブなことだとする。

ほんとうは、ネガティブな出来事が発生すると、ネガティブな感情が発生するのである。

たとえば、きちがい的な親が、こどもを、とりつかれたように、虐待するとする。けど、そのきちがい的な親は、きちがい的な親だから、別に、虐待しているとは思わないのだ。しかし、やられたほうは、不愉快な気持になる。

だから、出来事を描写するときは、子供側の人間が、ネガティブな表現を使うことになる。これは、『きちがい的な親』という条件が、生み出したものなんだよ。

ところが、精神世界の人というのは、生まれの条件をガン無視して、ただ単に、子供側の人が「ネガティブなことを言った」という出来事にだけ着目するんだよ。

そして、因果関係と、時系列的な出来事の順番をいれかえて、「子供側の人が『ネガティブなことを言ったから』父親が子供を虐待したんだ」と言うわけ。

あるいは、「子供側の人が『ネガティブなことを考えているから』ネガティブなことが現実化したのだ」と言うわけ。この場合の、ネガティブなことというのは、虐待されるということだ。

あるいは、「子供側の人が『ネガティブなことをひきよせたから』ダメなんだ」ということを言うわけ。

この場合、原因をつくっているのは、子供側の人間だということになる。そういうふうに、精神世界の人は、みんな、決めつけてしまう。こういうことが、いいことなのか悪いことなのかというと、ほんとうは、悪いことだ。

けど、自分の決めつけを、悪いことだと言われたら、それは、精神世界の人たちは、いい気分がしないだろう。自分は真実を言っているということにこだわるだろう。

そして、「原因をつくっているのは子供側の人間だと言うことは、よくないことだ」ということを言う人のこと……を「ネガティブなことを言う・悪い人間だ」と認知・認識するだろう。

けど、精神世界の人たちが……理解しないことなのだけど……子供側の人のせいにしたのは、精神世界の人たちだ。

子供側の人は、ただ単に、『きちがい的な親という条件』をかかえているから、きちがい的な親に不愉快なことをされるわけだ。

けど、それを、子供側のネガティブな性格によるものだと勘違いして、子供側のネガティブな性格のせいにしてしまう。子供側のネガティブな発言や、子供側のネガティブな性格が、親に虐待されるという現実をつくったと決めつけてしまう。こういうとは、よくないことなんだよ。どうして、これがわからなくなってしまうのか?

「ネガティブなことが発生するのは、おまえのネガティブな発言が原因だ」と決めつけることは、よくないことなんだよ。どうしてかというと、それが原因ではなくて、ちがうことが原因だからだ。

きちがい行為をされてしまう人が、どうして、きちがい行為をされてしまうのか?

そういうところに、まちがった認識があるのである。

上の例では、きちがい行為をするほうに問題があるのである。きちがい行為をする人間の思考回路に問題があるのである。それを、やられた側の発言や、やられた側の性格に問題があるからそうなったのだと決めつけてしまう。精神世界の人たちは、そういうことを常にやっている。

 

生まれの格差をガン無視して、法則性があるようなことを言うのは、よくないこと

 生まれの格差をガン無視して、法則性があるようなことを言うのは、よくないことだと思う。けど、これ、どれだけの人が理解できるのか? 幼児的万能感に支配されている人は、たぶん、一生、理解しないと思う。生まれの格差「下」の人も、法則性があるような文言を信じて、それなりにがんばるときがあるけど、はっきりし言ってしまうと、その経験がその人を傷つける。再起不能にする場合だってある。法則性があるような文言……一見、正しそうな文言……これが、どれだけの不幸をうみだしているか、わかるか? わかるわけがないよな。

そりゃ、だれだって、程度の差こそあれ、幼児的万能感はもっているので、そういうことを信じたい気持ちはわかる。わかるのだけど、複雑な相互連鎖によって、けっきょくは、いいことにならない。問題なのは、生まれの格差「下」の人が特に、そういう文言(もんごん)の餌食になってしまうということだ。どうしてかというと、生まれの格差「下」の人は問題をかかえているんだよ。だから、「運」をアップしたいと思っている。なので、そういう文言を信じがちだ。けど、これが、うまくいかないのである。どうしてかというと、条件があるからだ。その人が無視したって、条件は成り立っている。条件がもたらすことがある。条件が「不愉快な出来事」をもたらすなら、おまじないのようなことをどれだけやっても、おまじないのようなこととは関係かなく、情け容赦なく、「不愉快な出来事」が発生する。不利な条件が、たくさんの「不愉快な出来事」を発生させるなら、おまじないとは関係なく、たくさんの「不愉快な出来事」が発生する。

 

「自分はよく頑張って働いた」と思って死んでいくだろう。(後で削除)

  グレーゾーンというのがあるんだよ。むかしは、押し売りは、グレーゾーンだった。禁止する法律がなければ、考え方によれば、ホワイトだ。しかし、多くの人が「不愉快だ」と感じるもなのである。だから、押し売りをする人が増えれば、問題視され、禁止する法律ができる。けど、禁止する法律ができるまえは、違法行為ではないのである。相手の立場に立って考えるということが、できない人は、自分の立場に立って考えることしかできない。自分の立場しか考えてない人が、押し売りをしたとする。まだ、法律ができるまえに押し売りをしたとする。この場合、どれだけ、考えても、自分が迷惑行為をしたいうことを認識することがないのである。自分はやっていい行為をやっていると思っているし、実際、禁止する法律がないのだから、やっていいことの範疇に入る。「迷惑だ」と感じる相手の気持ちを無視すれば、やっていい行為なのである。一所懸命にがんがんやると、しあわせになる行為なのである。たとえば、押し売りを三回繰り返せば、一回は、相手がおれて、自分が押し付けたい品物を買ってくれるとする。その場合三回繰り返しただけでは、ほんのちょっとのもうけにしかならないけど、一日に三〇〇回繰り返せば、そこそこのもうけになる。三回よりも、一〇〇倍もうかるということになる。なので、自分の利益のためにがんばってがんばって、押し売り行為をしたとする。この人が、高齢者になって、押し売り行為をやめたとする。その場合、高齢者になった、もと押し売りさんが、自分の行為について反省できるかというと、反省できないのだ。「自分はよく頑張って働いた」と思って死んでいくだろう。



それ、無理解というナイフを振り回して、人を傷つけるような行為だ

 言霊、言霊と言っている人にはわからないだろうけど、言霊的な発言というのは、不利な条件の人を、傷つけているぞ。これ、必然的に傷つけるのである。明るい言葉が明るい言葉だから、明るい効果を発揮する? いやいや、それ、無理解というナイフを振り回して、人を傷つけるような行為だから、やるなら、そういう覚悟をしたほうがいいんじゃないかな。

2024年2月27日火曜日

ヘビメタ騒音がもたらす緊張が、そもそも、毒緊張なのである。

 きちがい兄貴が、きちがい兄貴の基準で、意地を押し通して、四六時中ずっとヘビメタを鳴らすとなると、本当に、勉強する時間や眠る時間がなくなってしまうのである。比喩的に、一〇〇〇〇〇〇〇ぐらいのマイナスだということにする。

けど、そういうことを、実生活のなかでされてない普通の人は、自分がされてないので、比喩的に言うと、せいぜい一(いち)ぐらいのマイナスなんだろうと思うわけ。あるいは、自己中である人は、マイナスゼロだと思ってしまうわけ。

けど、実際に、学校から得ったあと、ずっと、本来なら眠る時間まで、ヘビメタ騒音が、あの音でかさで鳴っていると、勉強ができなくなるんだよ。宿題すら、できないわけ。

アドラー的な考え方をする人は、本当は、宿題をやりたくないから、ヘビメタ騒音で宿題ができないと、いいわけをしているだけなんだと考えるわけ。けど、本当に、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ……あるいは、鳴っていたとしても、フォークギターぐらいの音のでかさで鳴っているなら……宿題なんて一時間から二時間ぐらいでできたことなんだよ。

宿題をやっても、まだ、自由時間の余裕があるレベルなんだよ。

それが、どれだけがんばってもがんばっても、宿題ができないということになる。

しかも、宿題ができない時間、ずっと、ヘビメタ騒音にやられて、はげしくくるしいのである。

ただ単に「宿題をやらなかった」時間ではなくて、「それだけでマイナス」である時間なのである。「それだけでマイナス」というのは、ただ単に、ヘビメタ騒音のなかで生きているだけで、マイナスだという意味だ。

ヘビメタ騒音を浴びせられて生きている時間というのが、マイナスなのだ。これも、やられてない時間は、たいしたマイナスではないのだろうと(普通の人は)考えるのだけど、ものすごく、マイナスなんだよ。

ヘビメタ騒音で激しくつかれているのに、まったく眠れないという状態になる。このつかれているのに眠れないという状態は、ヘビメタ騒音以外の理由でつかれているのに眠れない状態とはちがうんだよ。しかし、ほかの人は、ごく自然に、自分の眠れない状態と、ぼくのヘビメタ騒音で眠れない状態がおなじような状態だと思ってしまう。

日中、緊張するような事件があれば、だれだって眠れない……。そういうふうにくくってしまうと、ぼくの体験とはちがったことを意味していることになる。ヘビメタ騒音にさらされ続けて、部屋にいるというのは、ただ単に、想像しやすい正当な理由?があって緊張しているのとはちがうんだよ。質がちがうんだよ。

日中、緊張することをすればだれだってつかつれる。あるいは、日中、緊張することをすれば、眠りたいのに眠れない状態になることがある。けど、両方とも、きちがいヘビメタでもたらされた緊張とは、質的にちがうのである。

中立的な緊張することで、つかれているのではないのだ。ニュートラルじゃない。ヘビメタ騒音がもたらす緊張が、そもそも、毒緊張なのである。

あんな音で鳴らしている「うち」なんて、「うち」以外になかった。

 ほんとーーに、全部つまらないなぁ。この時間、きちがいヘビメタがずっと鳴っていた。この時間、鳴っていた。まあ、この時間帯という意味だけど……。ほんとうに、きちがいヘビメタで、くそ野郎に、なめられっぱなしだよ。

この人生になんの意味がある。

ほんとうに、ヘビメタ騒音の影響をうける。どれだけ「うけないうけない」と念仏のように唱えても、うけるものはうける。きちがい的な兄貴が、きちがい的なことを思いついたために、こうなってしまった。

これ、きちがい兄貴が、きちがい的な頭の構造をもっていたとしても、ヘビメタの音を大音響で鳴らそうと思わなければ、こうならなかったことなんだよ。たとえば、囲碁に夢中になったら、こうならなかった。

きちがい兄貴が、でかい音で鳴らすことにこだわってこだわって、ほかのことは、すべて無視して、鳴らしたからこうなった。

きちがいヘビメタ騒音生活が、はじまった。ぼくのほうで、ヘビメタ騒音生活が始まった。

「すべてを無視して」と書いたけど、本当に、自分にとって都合が悪いことはすべて無視したのだ。耳が正常なら絶対にわかる、おと手のでかさを最後の最後まで、無視した。しかも、本人は、きちがい親父とおなじように、無視したつもりがまったくないのである。

自分は、フォークギターぐらいの音でやっているつもりなのだ。そんなことはないよ。

ヘビメタが好きな兄貴の友達が「こんな音で鳴らしてだいじょうぶなの」「家族の人、かわいそうだよ」と言うような音で鳴らしてたって、なんとも思わないのだ。

きちがい親父が入院しているとき、兄貴の嫁さんに、いろいろと話した。それで、兄貴の嫁さんが、兄貴にいろいろ説明した。そうしたら、兄貴は「そんなつもりじゃなかった」「そんなのぜんぜん気がつかなかった」「あいつ(弟)がそんなにこまっているなんて、ぜんぜん気がつかなかった」と言ったのである。あのきちがい的な意地で、どれだけ言っても、鳴らしたくせに……。しらばっくれて。

兄貴の嫁さんが「それが、おかしい」と言ったら、黙りこくったみたいだけど、本当に、きちがい兄貴は、鳴らしている一五年間、気にしなかったのだ。こっちが、あれだけ「こまるからやめてくれ」「試験だからやめてくれ」「夜、眠れなくなって、遅刻をしてしまうからやめてくれ」「宿題をするからやめてくれ」と言っているのに、一秒もしずかにしてくれなかった。全部、自分がやりたい音でやりきった。これが事実だ。

これは、ほかの人には想像できないぐらいの影響をあたえる。

「そんなのは、お兄さんに言えばいい」と言ったやつが考えている影響なんて、ゼロだよ。ここでも、ゼロと無限大なんだよ。ぜんぜん、ちがう。けど、そいつの人生のなかでそういうことが発生しなかったのなら、そいつにとっては、ゼロなんだよ。

エイリさんが言っているだけのことなんだよ。どれだけのひらきがあるか? どれだけのひらきがあるか。

実際に人生のなかで、きちがい家族が、きちがい家族の感覚で、よそでは絶対にやらないことを、毎日、夢中になってやってしまう。それが、囲碁ならいい。けど、こだわったことが、こだわりのでかい音でヘビメタを鳴らすことなのだ。

すぐそこに、でかいでかいスピーカーがあって、がんがん鳴って、小さな振動もくる。あんな音で鳴らしている「うち」なんて、「うち」以外になかった。

2024年2月26日月曜日

それなのに、抽象化された「苦労」という、言葉ひとつで、すませてしまう

  精神世界の人は、生まれの格差を無視している。生まれの格差からしょうじる、条件の格差を、ガン無視している。

「どんなにつらくても」というような言葉をひとつつければ、それで、なんか、正しいことを言ったような気持ちになれる。

「XをすればYになる」という構造をもつ文というのは、なにもつけなくても「どんな条件でも、XをすればYになる」という構造をもつ文と、意味的には等価になる。

ほんとうは、生まれの格差をまず考えなければならないのだけど、最初から終わりまで、生まれの格差をガン無視するのである。

そして、格差はないものとして、自分の意見を述べる。

さらに、条件について、質問されたら、「私だって苦労した」と言えば、それで、すんでしまうことになる。

けど、「苦労」という言葉のなかに、すべてにおいて、苦労という言葉で統一化された苦労しか入ってない。ようするに、個別の苦労については、まったく言及してないのとおなじなのである。

たとえば、「苦労」とひとくちに言ったとしても、さまざまな種類の苦労がある。さまざまな条件によってしょうじる苦労がある。苦労の程度もちがう。苦労が持続した期間の長さもちがう。

それなのに、抽象化された「苦労」という、言葉ひとつで、すませてしまう。

けど、本当は、「苦労のちがい」には注目するべきなのだ。

*     *     *

多勢に無勢で、絶対に伝わらないと思うけど、じつは、「条件の無視」というのは、いいことではない。悪いことだ。条件を無視するから、「無理難題」を突き付けることになるのである。もちろん、精神世界の人が言うことは、言霊理論や引き寄せ理論のように、理論的にまちがっている。そして、精神世界の人は、それを認めない。「認めない」ということが「生命線」だからだ。認めてしまうと、これまた、存在理由がなくなってしまうことになってしまうのだ。だから、存在理由をかけて、絶対に認めないということになる。

条件が悪い人を「無理解」というナイフで刺すことになる。それが、正しいことだということになる。それから、条件が悪い人も、それを求めている。条件を無視すれば、できそうな感じがするからだ。ところが、現実生活のなかでは、条件を無視することができない。条件のもとで暮らしているということになる。無理なのだ。一時的に、条件に縛られているということを、忘れさせてくれるので、意味があるのだ。ところが、これは、同時に、むだなことだ。だって、条件がつくりだしているのだから……。条件がつらい状態をつくりだしている。条件を無視したって、条件は成り立っている。だから、条件を無視しているときも……意図的に無視しているときも、条件が生み出す現実的な出来事がしょうじることになる。現実的な出来事なので、無視できないのだ。なので、無理だということになる。

「なんだ!!そんなの!!!」

 ほんとうに、玄関でまっているあいだに、蚊に二か所刺された人には、ものすごく申し訳なく感じるのだけど、親父がやったことなんだよね。おやじが入院したあと、造園業者に頼んで、竹を根元から切ってもらった。

けど、竹というのはものすごく生命力で、すぐにはえてきた。根がつながっているところに栄養供給源の竹があるので、背丈の短い竹をはやすことができる。

で、これが、蚊の住処になっていたみたいなんだよね。

これ、蚊のことを言われるとは思ってなかったので、なんか、ふいうちをくらった感じなのである。しかも、玄関でまっているときに刺されたということになっているのだけど、実際には、玄関の前に立って、呼び鈴をおすまえに刺されたのではないかと思う。

ぼくは、一階の部屋で、まっていたので、三秒ぐらいで、出ている。で、ぼくだって、自転車を出すとなると、出すときに四カ所ぐらいは、どれだけいそいでも刺される。

でっ、そういうことで、もめても、きちがい親父がきちがい親父だから、竹を切らない。

だから、家の人はずっと、六月あたりから九月あたりまで、毎日、蚊に刺される日々になる。これ、「蚊に刺されるから、竹を切ってくれ」と言われたときの親父の態度が、「なんだ!!そんなの!!!」という態度なのだ。

だから、「うらみ」がつのるんだよね。

で、そのときのうらみの量が、何十年もつみかさなっていると、けっこうな量になっている。ぼくは、たとえば、友だちのうちに行って、呼び鈴をおして、まっているあいだに三か所、蚊に刺されたとしてもぜんぜん気にしなかった。

それは、あたりまえのことだと思っていた。

友だちの家で遊んでいたとき、蛾にやられたのだけど、それも、友だちや友達の家の人をせめる気なんてまったくなかった。でかい庭がある家で、庭で刺された。家のなかで刺されたわけじゃない。庭に池があるような大きなうちなのである。

で、ともかく、自分の家で遊んでいるとき、蚊に刺されても、ぜんぜん気にしなかった。けど、それは、まあ、小さいときの話だ。

庭の木と竹に関しては、主におかあさんがこまっていたのである。で、おかあさんが「こまる」と言っても、こまるということを(きちがい親父が)認めないんだよね。相手がこまっているということが、本当に、一ミクロンも、一ナノメートルも、わからない。まったくまったくまったく、わからない。

これ、きちがい兄貴が「しずかにしてくれ」と言われたときの態度と、まったくまったくまったく、おなじなんだよ。きちがい親父の態度ときちがい兄貴の態度が、まったくまったく、おなじなんだよ。自分が「やりたいこと」をとめられるようなことを言われると、発狂して、無視する。相手がこまっているということ全体を、無視する。

だから、相手が「こまっているからやめてくれ」と言われたあとも、本人たち(きちがい親父ときちがい兄貴は)まったく言われなかった状態に回帰してしまうのである。ようするに、本人たち(きちがい親父ときちがい兄貴のなかでは)……苦情を言われても、苦情を言われなかったことになってしまうのだ。一回、一回、そういうことになるので、合計で何万回言われても、一回も言われてないと思っている状態で、苦情が出るような迷惑行為をし続けるわけ。

で、当然、「悪いと思ってない」状態なんだよ。何万回言われたあとも、相手が、自分の行為でこまっているということは、頭のなかにない状態なんだよ。普通なら、何万回も苦情を言われたら、相手が、こまっているという記憶が残る。

けど、まったくまったく残ってない状態なのである。苦情を言われたということ自体を、発狂して、忘れている。これ、普通の忘却じゃないんだよね。本人がおこってはねのけたら、もう、相手が言ってこなかったと言うことになっているみたいなんだよね。きちがいなんだよ。

そんなの、普通の人はやろうと思ったってできない。普通は、フリをしているだけだ。気がつかなかったふりをしているだけだ。けど、きちがい親父ときちがい兄貴は、ここらへんの脳みそが、おかしくて、ほんとうに、「言われなかった状態」になってしまう。言われたとたんに、言われなかった状態になってしまう。

で、ネズミ事件があったあと、ダニのことでもめて、そういう期間中に、自転車を出すために庭に出ると、自転車を出すときと、しまうときで、合計八カ所とか一〇カ所ぐらい、蚊に刺されるわけ。

で、それも、どれだけなにを言っても、きちがい親父は、気にしないわけ。

で、こどものときは、気にしていなかったけど、おかあさんが天国に行ったあと、数年して親父が脳梗塞で入院して、退院してもどってきたころから、わりと腹がたつようになった。蚊のことで腹がたつようになった。「いいかげんにしろ」という気持になっていた。ダニのことだってある。つみかさなっている。

だから、蚊に刺されたということで、文句を言ってくる「ネズミ対策工事の人」の気持ちがわかるのである。この人は、見積もりにきただけなんだけど、棟梁が頼りにならないので、ほかの業者を探していて、見積もりにきてもらった。

で、ほんとうに、竹を切ってから三か月ぐらいしかたってないんだよ。けど、六月で、もう、蚊がだいぶいたみたいなんだよな。ぼくは、二階のドアから降りて、当然、竹のまえも通るのだけど、すぐに通り抜けてしまうので、自転車を出さずに、徒歩で外出するなら、蚊に刺されなかった。

だから、蚊のことで文句を言われるということが、まったくわかってなかった。相手の気持ちを考えると、本当にすまない気持ちになるのだけど、「俺に言ってもしかたがない」という気持もあったわけ。

だから、「親父がやったことだから、親父に言って」とネズミ対策工事見積の人に言ったんだけど、「ここにいない人のことを言ってもしかたがないでしょ」とネズミ対策工事見積の人が言って、俺に対して、敵意をむけてきたんだよね。

抗議をしたい気持ちはわかる。わかりすぎるほどわかるんだけど、本当に親父がやたっことなんだよね。たとえばの話だけど、泥棒が入ったとする。そして、盗まれたものについて、警察に説明したとする。その場合、「ここにいない人のことを言ってもしかたがない」ということにはならない。ここにいなくても、やった人が、悪いのだ。やった人に責任がある。

けど、ネズミ対策工事見積の人はやはり、俺に文句を言ってきたわけ。だから、俺は、ネズミ対策工事見積の人にうらまれたわけだけど、ほんとうに、親父がやったことで、ぼくは、できるだけのことはやったんだよ。

きちがい親父が(急性胆嚢炎で)入院する前は、切ることができなかった、竹を切った。竹だけではなくて、玄関のまわりにあった、いろいろな木や草系の植物を切ったんだよ。根こそぎ切ってもらったの……。だから、竹のことは、ぜんぜん考えてなかった。

ところが、背丈は低いけど葉っぱがたくさんついている竹がはえて、蚊がいたみたいなのである。これ、ぼくにとっては、対処したところだから、だいじょうぶだろうと思っていたところで、不意打ちなんだよね。まさか、そんなことを言われると思ってなかった。

で、相手の気持ちがわかると、こころがいたむのである。ずきずきといたむのである。それは、きちがい親父に抗議しているぼくの気持ちなのである。ネズミ対策工事見積の人がぼくに抗議しているわけだけど、相手の気持ちの「イメージ」がぼくが、親父に対してもっている気持ちなのである。

ぼくの、親父に対する抗議の気持ちを、考えて、ネズミ対策工事見積の人の気持ちを考えてしまう。そうなると、きちがい親父が、ぼくやってきたことが、甚大で、数が多すぎるので、とてつもなく憂鬱な気持になってしまうのである。

もしかりに、ぼくがネズミ対策工事見積の人の抗議に対して、なにも感じず「なんだそんなの」と無視するのであれば親父とおなじになってしまうのである。

けど、正直に言うと、回数がちがうんだよね。あと、親父が竹をうえたわけで、ぼくが竹をうえたわけじゃない。ぼくは、おかあさん一緒に、竹をうえることには反対していたんだ。

あのやさしいおかあさんが、あれだけこまった顔をして、「うえないで。うえないで。竹なんてうえるとあとでこまったことになるから、うえないで」と言っていたのだ。本来ならおこるのはおかあさんのほうで、親父じゃない。

けど、親父は、きちがいだから、自分のやっていることに文句を言われた……抗議をされた……ということで、怒り狂ってしまう。発狂してしまう。そして、発狂して、めちゃくちゃな意地で、やってしまう。

からだが、まっかっかだよ。竹をうえると、根がのびて、いろいろなところにタケノコがはえて立派な竹になってしまうということが、わかっている。わかっているから、おかあさんがやめてくれといった。

そして、その通りになった。

基本、頭が正常な人なら、「自分が意地をはってうえてしまったけど、たしかに、竹がふえすぎてこまったな」と思うはずなんだよ。

この、竹をうえるときは、無口バージョンで、「ふえないよ!!ふえないよ!!」と絶叫したわけじゃない。けど、「ふえないよ!!ふえないよ!!!のびないよ!!のびないよ!!」と絶叫してもおかしくない。ようするに、反対のことを絶叫する場合も、無口である場合も、おなじなんだよ。

まあ、緘黙バージョンも否定語バージョンも、きちがい親父の頭の中で起こっていることには、あんまりかわりがないわけ。

で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのが、まさにそれなんだよなぁ。

きちがい兄貴の場合は、ほとんどが、緘黙バージョンだ。けど、否定語を絶叫している場合と、頭の中で起こっていることは、かわらないのである。ようするに、どれだけ、でかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているということは、認めないわけ。

まあ、否定語バージョンなら「でかくないよ、でかくないよ」ということなのだろう。よその家ではありえないほどでかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているということが、本当にわからない状態なのだ。こんなのない。

何度も言うけど、ヘビメタ騒音で自分の耳(兄貴の耳)が悪くなる前は、耳は正常だった。きちがい兄貴の場合は、緘黙バージョンだから、からだじゅうをまっかっかにして、脂汗をかいて、きちがい的な意地でやってしまうのだけど、「でかくないよ!!でかくないよ!!うるさくないよ!!うるさくないよ!!」と絶叫しているのと、かわらないのだ。

そして、これ、ほんとうに頭にくることなんだけど、ぜんぜんしずかにしてくれなかったのに「ゆずってやった」と思っているだよね。これは、緘黙バージョンじゃなくて「ゆずったゆずった」と口に出して言う。あれ、「ゆずったゆずった」と言っているとき、嘘を言っているつもりがまったくないんだよね。頭が、本当におかしい。

あんなでかい音でずっと鳴らして、一秒だってゆずらずに鳴らして、ゆずってやったと、本気で思っている。頭がおかしいんだよな。

まったく俺に迷惑をかけてないつもりで、テスト期間中も、すべての時間を使って、最大限の音で鳴らし続けんだよ。

だから、テスト期間中は、いつも、こまってたんだよ。一日に、何十回も、もめたの。俺は、一日に何十回も、きちがい兄貴の部屋に行って「うるさいからやめろ」「テストだからやめろ」と必死になってどなっていたのだよ。あれで、緘黙バージョンで無視して鳴らしていて、本当に、でかい音で鳴らしていたつもりがないわけだからな。

*     *     *

あとは、理解度の低い人が「どなっちゃだめなんだ」とか「どなるからだめなんだ」とかと言うわけ。あとだしなんだよね。こっちが「どなって言った」と言ったら、「どなったと言うことが問題なんだ」ということを言ってくるわけ。

あたかも、しずかに言えば、ちゃんとしずかにしてくれたと言いたいみたいなんだよね。しずかに言ったときもあるけど、まったくしずかにしてくれなかったよ。よその人が、勝手に、きちがい兄貴のことを決めつけて、俺に、へんなことを言ってくる。

これ、俺の側の落ち度にしなければ、気がすまない人ってなんなんだ。しかも、こいつらは、俺が兄貴や親父の悪口を言っていると思っているところがある。

これ、なんなんだ。ほんとう、わき腹を刺されたような気持ちになるよ。

どれだけ、ひどいことをされてきたか、ぜんぜんわかってない。

こういう理解度が低いやつも、問題がある。

そりゃ、常識的な人は、きちがい家族の性格について、正確に理解することはできない。だから、常識的な人は、自分の常識のなかで考えて、俺の言ったことを、自分なりに修正して考えてしまう。けど、ただ単に、兄貴の性格や親父の性格について、常識的な人がわかってないだけだから……。事実はちがう。

騒音を気にせずに、明るく振舞っても、いいことなんてなかった

 きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音を気にせずに、明るく振舞っても、いいことなんてなかった。基本、いいことなんてないんだよ。あったとしても、ヘビメタ騒音にかき消されてしまう。ヘビメタ騒音のストレスで、眠れなくなるというのがでかい。ヘビメタ騒音のストレスで、気がたっているというのがでかい。

これ、みんなわかってないんだよね。どうしてかというと、その人の人生のなかには、きちがい家族が登場しないから。どうしてかというと、その人は、きちがい家族がいるうちに、うまれなかったから。だから、毎日毎日、何時間も何時間も、何年も何年も、何十年も何十年もずっとやられるこということがない。毎日のことなんだよ。そして、くそ意地になって、やっているやつは、まったくなにもしてないつもりなんだよ。現実を無視しているの。自分にとって不都合な現実を無視しているんだよ。

そういうことになると、こっちがどれだけ「気分を取り直して」頑張っても、うまくいかないということが、連続的にしょうじることになる。

2024年2月25日日曜日

この、むだな譲歩というのは、きちがい兄貴でもおなじだ。

ともかく、押しの強いやつに関しては、どなりちらさないとだめだ。どなりちらして、どうしても、相手が相手の思ったとおりにするというのであれば、契約を破棄しなければならない。こういうやつらが、「だいじょうぶだ」と言って、「だいじょうぶだった」ときがないんだよな。責任をとらない。おやじみたいに無責任ではないから、普通の状態では、責任をとるのだろうけど、入院して責任をとれない状態になっている。きちがい親父とおなじことになってしまうんだよな。相手が工事をして、工事の結果、ネズミがはいってくるようになったら、また工事をして、責任をとる。けど、入られたあとに、工事をしても、相当に打撃がある。これ、長期間にわたって何回もネズミの侵入をうけた人じゃないとわからないと思うけど、何回も侵入をうけたあとは、一度でも、侵入をうけたらダメなのである。ネズミの糞とダニがリセットされてしまうのである。また、ネズミの糞処理とダニ処理をしなければならなくなるのである。そういうことがあって、別の業者に頼もうかなと思って、見積もりを頼んだとき、「蚊に刺された」と言われてしまうのである。これは、ふいうちだった。けど、親父が、きちがい的な意地で、竹を植えたのである。植えたのは、何十年も前だけど、親父が、きちがい的な意地で植えたのである。しかも、植えるときに、おかあさんが「竹なんて植えると、こまったことになるからやめてくれ」「竹の根っこが、そこらへんにのびて、竹の処理が出なくなるからやめてくれ」ということを言って、やめさせようとしたのに、「そんなのはなんだ」というような気持ちで、発狂して、植えてしまったのである。それで、植えたあと、おかあさんに……あれだけ反対していたおかあさんに……「どうだ、うまくできただろ」とか言っているんだよ。まったくわかってない。相手がどんな気持ちかまったくわかってない。おとなしいおかあさんが、あれだけ反対したのに、脂汗をかいて、真っ赤な顔をして、きちがい的な意地で植えてしまった。この時は、じつは、なにも言ってないんだよ。親父が竹を植えるときの態度と、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすときの態度は、まったくおなじなんだよ。そして、「やめてくれ」と言われたときの態度がまったくおなじなんだよ。そして、やりきったあとの(やめてくれと言ってきた相手に対する)態度がまったくおなじなんだよ。殺さなければやめさせることができないような態度で、きちがい的に腹をたてて、やってしまうのに、本人はまったくつもりがないのだ。やってしまえば、やってないことになってしまう。やりきることができれば、やりきることができたわけだから、そのときは、こだわりがなくなるのである。相手の立場に立って考えると言うことが、まったくできないので、相手の気持ちというのは、最初から最後までないのである。相手が言ってきたことは、ちゃんと理由まで理解するのではなくて、なんか、予感のようなものとしてあつかわれるのである。ようするに、意味内容はわからないけど、ともかく、自分がやりたいことを妨げるようなことだということは、わかるので、それで発狂する。きちがい的な意地でやってしまう。やってしまったら、もう関係がない人になってしまって、相手が「やめてくれと言ったのに」やったという記憶がない状態になってしまう。無意識的なレベルでは、相手が言っていることを理解して、もし、相手が言っていることを認めてしまったら、自分がその行為をやめなければならないと言うことまで理解しているのだ。けど、意識的なレベルでは、そうではない。意識的なレベルでは「なにかいやなこと」「なにが不愉快なこと」を言われたという感じで、相手の気持ちや、相手がこまる理由というのは、一切合切、認知のなかに入ってない。認知されてないのだ。だから、「やったって、相手はこまらない」という前提が、意識のレベルでは成り立っているのである。相手は、きちがい兄貴やきちがい親父が「それ」をやるとこまるから「こまるのでやめてくれ」と言っているんだよ。それが、全部ぬけおちている。何万回、言ったって、ゼロなのである。きちがい兄貴もきちがい親父も、頭の構造がおなじだけど、きちがい親父の場合は、きちがいヘビメタというひとつのことを、ずっとやっていたわけではなくて、いちおう、ばらけている。けど、竹に限定しないで樹木ということにすると、やはり、植えてほしくない家族がいるのに、がんがん植えてしまう。そして、きちがい親父ではない家族が、きちがい親父に「木を切って」と言うと、やはり、おなじ反応が返ってくるのである。ようするに、「木を切って」と言われたら、発狂して木を切らないと言うことになる。「木を植えないで」と言われたら、発狂して、木を植えてしまう。「ここのところを切って」と言われたら、「ここのところ」は切らないで、きちがい親父が切りたいところを切って「切った切った」と言って、相手の要望をしりぞけてしまう。「やってやった」「やってやった」系列のことだ。相手がたのんだことではなくて、自分がやりたいことをやって「やってやった」「やってやった」という気持になる。この、むだな譲歩というのは、きちがい兄貴でもおなじだ。まるで、意味がないレベルだけ音をさげて、「ゆずったゆずった」と言うのだ。まったく意味がないのに、ゆずってやったつもりになってしまう。こっちにとっては、まったく意味がないことをされて、「ゆずってやった」と言うことにされてしまうのだから、腹がたつだろ。そういう態度は、腹がたつだろ。けど、相手をムカつかせるためにそういうことをわざとやっているのではなくて、ごく自然にそういうことをすることになっているのである。ニセの譲歩しかしないのだけど、本人は、譲歩してやったつもりになれるという、きちがい行為をする者にとってだけ都合がいい対象方法なのだ。譲歩になってないということを、これまた、きちがい的な意地で、認めないのである。

ヘビメタ騒音の後始末でしょうじること、全部が、不愉快なこと

 ヘビメタ騒音の後始末でしょうじること、全部が、不愉快なことなんだよ。親父の異常な行為の後始末でしょうじること、全部が、不愉快なことなんだよ。回収できない。回収できない。これ、回収できなければできないで、また、俺が文句を言われる。その文句というのは、ヘビメタ騒音で宿題ができないのに、宿題をやってこなかったということで、俺が文句を言われるということと、おなじことだ。同質であることだ。その人たちは、不可避的に影響をうけて、できなくなるということを、(自分の経験の範囲にないから)認めない。認めないのが、ごく普通のことだ。これも、俺がどれだけ、ちゃんと説明しても、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできるだろ」「お兄さんに、しずかにしてくれと言えば、お兄さんはしずかにしてくれるだろ」と思い込んでいる人は、認めないんだよ。「できない」ということを認めずに、「できる」という前提で、ものを言ってくる。それが、すべてのことに、成り立っている。

「生まれの格差」というのは、そのまま、「出来事の格差」

  「生まれの格差」と言っているけど、「生まれの格差」というのは、そのまま、「出来事の格差」なんだよ。生まれてから経験する「出来事の格差」なんだよ。経験する出来事に関係なく「楽しい」と言えば、楽しくなるなんて、どんだけ、現実離れしたことを言っているのか、わかっているのかな? 「楽しい」と言えば楽しくなるなんて、いい話ではなくて、ほんとうは、ひどい話なんだよ。なんでわからないかな?

よその人は、感覚器を書き換えてしまうような家族と一緒に住んでいない

 まあ、こういうことを書くと「よその人」とも、泥仕合になるのだけど、これは、しかたがない。

そもそも、こういう泥仕合だって、きちがい兄貴が、ヘビメタをああいう音のでかさで聞こうと思わなかったら、しょうじなかったことだ。「宿題ができない」と言うことについて書いたけど、実際にできないぼくと、話を聴いて「できる」と思う「よその人」のちがいがある。

これは、実際にその「よその人」が、「苦手な音」でそういうことを、経験すれば、やはり、「宿題できない」ということになる。「音ぐらい鳴ってたって、宿題ぐらいできるだろ」と考えている人は、「ヘビメタ騒音でできない」ということを聴いても「なんだ!!そんなの!!」ぐらいにしか、思わない。

これは、きちがい兄貴が「しずかにしてくれ」と言われたときの態度とおなじだ。きちがいだから、たいした音で鳴らしているとは思ってないのだ。フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。

けど、これは、聴覚が正常なら、フォークギターぐらいの音ではなくて、何十倍もでかい音で鳴らしているということがわかるはずのことなんだよ。

けど、それを認めると、フォークギターぐらいの音までしずかにしなければならない。

それは、絶対にいやなのだ。

こういう考えをもっているのだけど、それが、意識的にはそう思ってない状態なのだ。意識的には、本人だって、ほかの音で聞かされたら一分だってたえられないようなでかい音で鳴らしているつもりがなくて、本当に、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。

本人の意識的な認識では、あの極端にでかい音が、フォークギターぐらいの普通の音なのだ。無意識的なレベルで感覚器を書き換えている。ほんとうは、無意識的な要求がなければ、きちがい兄貴本人にしたって、それがでかい音だということがわかるのである。

うちでは鳴らしてはいけないほど、でかい音だと言うことがわかるのである。

けど、自分がものすごくでかい音で鳴らしたいので、でかい音で鳴らしてないと思うことに成功している。感覚器を書き換えて、認知認識を書き換えてしまうのだ。そういうことを、ごく自然にできる人間なのだ。

これは、きちがいだ。

そして、都合がいいのである。普通なら、一分間だって、鳴らすことが出ない音のでかさで、ずっと鳴らすことができる。しかも、意識的なレベルでは、「でかい音で鳴らした」ということがわからないようになっている。物理的な音のでかさと人間が感じる音のでかさはちがうのだけど、本当に、人間の主観で言って、何十倍もでかい音で鳴らしている。

あんなの、ほんとうに、よその家で鳴っていたら、一日目の一分後には、「いいかげにろ」「うるさいぞ」と(ほかの家族に)に言われて、鳴らせなくなるのである。

けど、うちは、まず親父が、兄貴とおなじように、無意識的な書き換えをしてしまう人間なのである。そして、四人家族のなかに、ふたりもそういう人間がいるということについて、よその人は、まったく考えられない状態なのである。

よその人は、無意識的な書き換えなんて関係なく、フォークギターの音はフォークギターぐらいの音のでかさで聞こえて、フォークギターの音よりも何十倍もでかい音は、何十倍もでかい音として聞こえるのだ。

言っておくけど、きちがい兄貴だって、「自分がでかい音で鳴らしたい」という気持がなければ……無意識的な欲求がなけれフォークギターの音はフォークギターぐらいの音のでかさで聞こえて、フォークギターの音よりも何十倍もでかい音は、何十倍もでかい音として聞こえる。

だから、普通の人は、兄貴がそういう構造をもっている人ではなくて、普通の人だと思って、俺にいろいろと言ってくるわけだ。

「お兄さんにちゃんと言えば静かにしてくれる」「家族で相談すればいい」と言う。それは、よその人にとってみれば、効果的な方法なのだけど、うちでは、効果的な方法ではないのだ。

きちがいが無視して、絶対に、フォークギターの何十倍もでかい音で鳴らしてないという気持で、何十倍もでかい音でがんがん鳴らすからだ。

で、よその人だけではなくて、きちがい兄貴もそう思っているのだ。きちがいだから、自分がそうしているということがわからない。自分自身がやっていることにかんして、普通の知覚・普通の感覚・普通の認知・普通の認識があるわけではない。

ようするに、きちがいにやられた俺だけ、きちがい兄貴がきちがいだと言うことがわかるのだ。感覚器を書き換えてしまうようなきちがいだということがわかるのだ。よその人と、きちがい兄貴本人は、ぜんぜんそんなことがわからない。

きちがい兄貴は、絶対の意地でそうしているのだけど、一分も、そんなことはしてないつもりで暮らしている。

だから、これは、「忘れてしまった」のではない。こういうことは、親父にも成り立っている。

だから、こまるんだよ。きちがい兄貴やきちがい親父がもたらすこと……この感覚器の書き換えということを利用してもたらすことが、よその家では、発生しないことなのである。

ようするに、ぼくがかかえている家族の問題は、よその人がかかえている家族の問題とは、質的に異なるのである。よその人は、ごくまれなケースをのぞいて、感覚器を書き換えてしまうような家族と一緒に住んでいない。感覚器を書き換えて自分の維持を常に通すような家族と一緒に住んでない。

この感覚器を書き換えて自分の意地を常に通すような家族はつねに、そういうことをしたつもりがないという状態で生活をしている。自分にとって不都合なことは、無意識的なレベルで無視して、頑固に頑固にやるのに、やった時間のことは、ぜんぜん覚えてないような状態で暮らしている。「やったってやってない」のだ。

不都合なことを認めることができない性格であり、感覚器を無意識的なレベルで書き換えているのだから、「そういうことをした」ということ自体が、本人にとって不都合なことになったら、おなじやり方で、無視して認めないのである。「やった」と認めない。

だから、ずっと、「やってないつもり」のまま、頑固にやりきって暮らしているということになる。そういう特殊な個人について、よその人はまったく知らない。

どうしたって、自分の常識で、考えてしまう。

そうすると、ぼくが言っていることが、へんなことに感じるのである。だから、「エイリさんの説明のしかたが悪い」とか「エイリさんがお兄さんにちゃんと言ってない」というような判断をしてしまうのである。

これ、一般の人にとってみれば、不愉快なことなのである。エイリさんが言っていることを認めるのは、一般人にとって不愉快なことなのである。

「なんか不愉快だ「なんか頭にくる」と感じることなのである。

これは、これは、その人がもっている自我が一時的に不安定になるからだ。これは、まえに書いたから、もう書かないけど、そういうところがある。

2024年2月23日金曜日

不可避的に影響をうけるということがわかってないんだよな

 こいつらは「無理解という名の包丁」で、わき腹を、刺しているのがわからないのか? なんで、「ヘビメタ騒音でできなくなった」と言っているのに、ヘビメタ騒音のことを無視して、盲僧理論を前提とした、無理なことを言ってくるのか? これ、本人が経験してないから、どのくらいくるいのかわらないというのは、わかるけど、俺が言った原因は無視して、別の原因を考え出し、勝手なことを言ってくるのはなんでなんだ? そりゃ、経験的には、わからないから、わからないのだろうけど、あまりにも想像力がない。理論的に考えることができない。ヘビメタ騒音が原因で、どうしてもできなくなった」と言っているのに、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と反応する。これ、なんなんだ?

どいつもこいつも、きちがい家族が至近距離で何時間も何時間も何時間もずっと、きちがい騒音を鳴らしていると、どうしても、できなくなるというのがわかってないんだよな。どうしても、不可避的に影響をうけるということがわかってないんだよな。「自分なら大丈夫だ」「自分なら、お兄さんをしずかにさせることができる」と勝手に仮定して、そういう前提でものを言ってくる。こんなの、きちがい家族にやられたほうとしては、屈辱だ。ところが、屈辱だということを認めないんだよ。「なんだ、せっかく助言してやったのに、なんだ」と言うことになる。言霊が正しいなら、俺が「できるできる」と言わなくても、そいつが「三日以内に、エイリさんが通勤して働くようになる」と言えば、それですむんだよ。言ったことが、現実化するのだからそうだ。こいつらは、現実を無視している。ほんとうに、一日でもくるしい。しかも、相手がきちがいなんだぞ。感覚器を書き換えてしまうきちがいなんだぞ。

なんだ、こいつら?

きちがい家族にやられたほうが、一方的に悪く言われて、説教をされるのは、おかしなことだ。これ、きちがい家族の構造がわかってないだけなんだよ。きちがい家族がやったことが、わかってないだけなんだよ。ぜんぜんわかってない。きちがい家族と一緒に住んだことがない人が、きちがい家族にやられた人の話を聴いて、きちがい家族にやられたほうを悪く言って、きちがい家族にやられたほうに説教をするというのは、おかしなことなんだぞ。これも、ばかだから、構造が複雑すぎて、理解できないのだ。こんなの、言霊主義者に、言霊理論がまちがっているということを説明するようなものだ。矛盾を指摘されたあとも、自分の考えにこだわって、こだわって、矛盾を認めない。くるしまぎれに「単純なのが正しい」とか「アバウトでいいんだ」というようなことを言いだす。これは、ひとりの言霊主義者の反応じゃなくて、複数の言霊主義者の反応だ。

ともかく、きちがい家族にやられたほうが、まったくなにもわかってない一般人から、悪く言われる。きちがい的な人が、きちがい的なやり方で、自分の意地をとおすときのやり方が、わかってない。「そんなのはない」ということになっている。そうなると、「そういうことを、うらんでいるほうがおかしいんだ」というような話になってしまう。これ、どういうことなのかわかるか? 本当に、正義がない。道徳がない。きちがいが悪をなして、それが通ってしまっている状態だ。きちがいが、一般人には理解できない、きちがい的なやり方で、悪いことをしたのに、一般人が、きちがいにやられたほうを、せめたてるような状態になる。なんだ、これ? これ、ほぼ一〇〇%なんだよ。それから、「そんなのは気にしなければいい」ということだけど、一般人は、一万分の一のことを、気にして不満を言ってくる。だいたい、俺が働いてないとして、それが、一般人にどう関係がある? そんな小さなことを、ぐちぐち言うやつが、「そんなのは気にしなければいい」だと? それじゃ、俺が仕事をしてないことは、気にしなければいいだろ。そんな小さなことは、気にするな。しかも、ヘビメタ騒音で、通勤して働くことができなくなったということを聞いたあとに、そういうことを言ってくる。なんだ、こいつら? ヘビメタ騒音で働けなくなったと言っているのに、ヘビメタ騒音の影響はガン無視て、「人間は働くべきだ」という話をしてくる。なんだ、こいつら? 気にしなければいいんだろ。だったら、おまえも気にするな。なんだ? こいつら!! 俺はこいつらに働いてないことで迷惑をかけてない。きちがい兄貴は、俺に騒音で迷惑をかけてきた。大きさがちがう。重さがちがう。一万分の一と書いたけど、そういうレベルではない。総量では、一無量大数分の一だ。きちがい兄貴が俺にやってきた(迷惑行為)は気にするなということになって、俺がおまえらにやってない迷惑行為は気にするのか? ようするに、きちがい兄貴が俺にやってきた迷惑行為は俺に対して、「気にするな」と言って、俺が働いてないことで、おまえらに迷惑をかけたわけではないのに、それを迷惑だと感じて、おまえらが、俺に「働くべきだ」と言ってくるのはなんなんだということだ。一対一無量大数ではなくて、ゼロ対無限大だな。迷惑の度合いを考えてものを言えよ。なんで、気にしなくていいことになるんだ。ヘビメタ騒音でできなくなったと言っているのに、どうして、ヘビメタ騒音の影響を無視して「働いたほうがいい」と言ってくるのか? できないと言っているのが、わからないのか!!! 俺が働いてないことなんて、気にしなければいいだろ。こいつらは、ゆるさない。ゆるさない。ゆるさない。当時のこういう屈辱的な出来事は、いまも、忘れない。こいつらときたら、むかしとまったくかわってない。あっ、ところが、こいつらは、老化したら、働かなくなってしまうんだよな。こいつらの知的レベルをうたがう。こいつら、ほんとうになんなんだ? これ、俺が自分で食えるようにならなかったら、いまでも、言われるようなことなんだよ。ゆるせない。ゆるせない。ゆるせない。

こいつら、本当に、どれたけヘビメタ騒音の影響を過小評価すれば気がすむんだ? ゆるさん!! ゆるさん!! ゆるさん!! 俺は、ちゃんと説明したぞ。説明を聞いて、「たいしたことがない」と思ったのはおまえらだ。「影響はない」「過去は現在に影響をあたえない」と思ったのはおまえらだ。「しくみ」はちがうけど、話のつたわらなさが、きちがい親父やきちがい兄貴と、同レベルなんだよな。ただ経験がないだけだから、一日でも経験すればわかるんだよ。けど、こいつらは、きちがい的な家族と一緒に住んでない。住んだことがない。きちがい的な家族がやることがわかってない。(きちがい家族が)どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をやるのかぜんぜんわかってない。 

影響? うけるだろ。おまえらだって、影響をうける。 

影響? 残るだろ。おまえらのからだにだって、影響は残る。

わき腹を「無理解というナイフ」で刺されたような気分になる

  楽しいことがないんだよなぁ。いやな記憶ばかりだ。ほんとう、どれだけいやな出来事がつみかさなったか。楽しいことなんてない。ない。

 
このさき、どうするかな? ワクチンシェディング(トランスミッション)を無視して、考えるとする。そうなると、どうなるんだ? 楽しいことってなんだろうな? もう、ほんとうに、かわいい女子がいたとしても、あんまり、おもしろくないんだよなぁ。ぜんぜん、おもしろくない。パソコンいじり? うーーん。楽しくない。むかしは、楽しかったんだけどなぁ。きちがい兄貴やきちがい親父にやられて、じつは、パソコンもそんなには、楽しいものではなかったんだけど、それでも、なんか、希望があった。とくに、Adobe系のソフトには希望があったなぁ。なんか、いじろうかなと思っても、もう、気力がないんだよね。

いま、からだがかゆいのだけど、かゆさは無視したとする。で、かゆくないからだなら、なんかできるかというと、できないんだよね。楽しいことをするということができない。まったく、できない。

なんか、親父ネズミ関係のことで、いろいろありすぎて、頭が、ボロッボロになったという感じなんだよね。まあ、ベースには、長期ヘビメタ騒音がある。けど、みんな、こんなのわからないでしょ。わかるわけがない。

だって、みんなには、きちがい家族がいないもん。

わかるわけがない。きちがい家族が、どれだけのきちがい的な意地で、迷惑行為をやるか、みんな、わかってない。常識的な範囲で考えて、まとはずれなことを言ってくる。書くつもりはなかったけど、書いてしまうと、言霊主義者のまとはずれな発言が、けっこう、こたえる。

わき腹を「無理解というナイフ」で刺されたような気分になる。書くつもりはなかったんだけど、まとはずれなことを言われるというのが、また、いやな出来事なんだよ。きちがい家族のことがわかってない人に、きちがい家族の影響を無視したことを言われるのが、いやなんだよ。いやな出来事なんだよ。いやな出来事がひとつ、増えちゃうだろ。

*     *     *

「言えば、わかる」「ちゃんと言えば、やめてくれる」というようなことですむなら、最初から、こまってないよ。

発狂して怒り狂ったという反応をしなかったというような態度

  きちがい親父が、きちがい的に傷つきやすい性格だったので、ぼくは、基本的に人の気持ちを傷つけないように気をつかっている。けど、きちがい親父の傷つきやすさというのが、きちがい的なものなので、その場面には、じつは、理由がないことで、傷ついて発狂していたというのがある。なんだろうが、こどものやることは、気にくわなくて、常に爆発していた。歩いていたって、じっとしていたって、立っていたって、横になっていたって、座っていたって、なんだかんだと理由をつけて、爆発していた。だから、こっちとしては、「(きちがい親父が)爆発しないように気をつかって暮らしていた。おかあさんと歩くときも、孤児だった父のことを気にして、父がいるときは、おかあさんと距離を保って歩くようにしていたのだ。どうしてかいうと、父の母がいなかったので、父が嫉妬心でいかり狂っていたからである。だから、まあ、こどもが母親と一緒にいるところを見ただけで、きちがい親父のなかみが、傷つくのである。で、それは、普通の人だと、「気にしすぎで」「親はそんなことは思ってない」と思うところなのだけど、打ちはちがうのだ。これで、正しい。きちがい親父は、母親が、こどもになにかをやってやると、発狂して怒っていた。で、問題なのは、本人が、そういうことに無頓着だということだ。発狂して怒りくううけど、発狂して怒り狂ったということには、まったく無頓着なのだ。で、こういうところは、兄貴にもある。「しずかにしてくれ」と言われると、発狂して怒り狂うのだけど、発狂して怒り狂ったあとは、発狂して怒り狂ったという反応をしなかったというような態度なのだ。まったくもって、そういう自分の反応に無頓着。そして、おかあさんが、「しずかにしてやって」と言うとおかあさんが、弟のかたをもっているということで、ひねくれて、怒っていたのだ。自分でわるいことをして、発狂して、それで、発狂して怒り狂ったことにかんしては、無頓着で、まったく問題がないことだと思っているのだ。そして、異常なところなのだけど、これ、やってないのとおなじなんだよ。発狂して、やったことなのに、まるでやってないこととおなじなんだよ。息をするように自然だから、まったくわからないのか、無視域的なことだから、意識のほうにはあんまりうかばないのか、よくわからないけど、まるで、本人は、やってないような感じなのだ。だから、相手の行動に対する怒りの反応があるのだけど、その反応をしたということが、意識にのぼらないタイプで、本人は、まったくそんなことをしたつもりがない状態で、生活しているのだ。兄貴も親父もそういうタイプだ。

2024年2月22日木曜日

努力

 これ、ほんとう、みんながみんな、経験することだったらちがうんだよ。俺が経験したのとおなじレベルの騒音を家族が鳴らすということを、みんながみんな経験したらちがうんだよ。その家族というのが、特殊な感覚の持ち主で、ものすごくでかい音で鳴らしているのに、また、聴覚が(最初は)正常なのに、普通の音で鳴っていると、すくなくても意識レベルでは本当に思っている家族だという設定だ。まあ、みんなの家族がそういう家族だったら、特殊じゃなくなってしまうのだけど。じゃあ、神がいて、神が、みんなの頭に、みえないヘッドギアをつけて、ぼくが経験した騒音を毎日、ぼくが経験した時間の長さ経験するようにしたら、ちがうんだよ。そうなれば「わかって」ちがうことを言うことになる。みんな、わかってないから、盲僧理論を前提にして、「そんなのはたいしたことはない」「自分だったら平気だ」というようなことを言う。

 

わかってない人は、みんな、努力に関しては、「努力の方向がまちがっていたからダメなんだ」というようなことを言う。けど、これも、わかってないから言えることなんだよね。ともかく、うまれの格差は、影響をあたえる。努力なんてできなくなる場合だってあるし、努力の方向が決められてしまう場合がある。これ、「うまくいかなかった」という結果から、あとだしじゃんけんで、「適切な努力しなたっかたら、うまくいかなかったんだ」と言っているだけなのである。あとだしじゃんけんなんだよなぁ。なにか、正しい方向の努力があったにちがいがないけど、正しい方向の努力をしなかったからダメなんだという、あとだしの「手」なんだよ。なにか正しい努力の方法があったというのが、空想の理論なんだよ。俺は、きちがい兄貴が鳴らさないように、正しい努力をした。けど、きちがい兄貴のきちがい度が高かった。正しい努力がむだになった。鳴っているなかで、正しい努力なんてないんだよ。

神様が、こいつら全員に、見えないヘッドギアをつければ、俺が言っていることがわかるよ。自分が苦手な音が、あの至近距離で、あの音のでかさで、どれだけ静かにしてほしいときも鳴っているなんて、そんなのに、たえられるわけがない。一日、二日の話じゃない。ずっと続いた。きちがいがきちがい感覚で無慈悲に鳴らし続けた。自分だって(きちがい兄貴だって)ほかの音だったら、一分間鳴っていただけで、はげしくどなっておこるような音なのに、自分が、どでかい音で鳴らしたかったから、しずかな音で鳴らしたということにしてしまった。そういうきちがい回路を脳みそに搭載しているから、どれだけ言ってもしずかにしない。そして、家に、もうひとり、おなじ回路を搭載しているやつがいるのだ。こいつは、きちがい感覚で、「絶対に注意しないと決めて」注意しなかった。よその人は、「そんなの音で鳴らしているのに親が注意しないなんておかしい。エイリさんが嘘を言っているにちがいがない」と思ってしまうのだ。もちろん、親父にはそんなことは理解できない。きちがい親父の感覚というのが、これまた、ほかの人にはブラックボックスでわからない。「ない」と思ってしまう。

2024年2月21日水曜日

だから、気持ちを切り替えて、目の前の作業に集中すればいいということになる。

「過去は関係がない」という思考は、「目の前のことに集中すればいい」という思考とむすびつきやすい。「過去は関係がない」「目の前のことに集中すればいいんだ」というのがひとつのセットになっている。

これは、目の前のことに集中させて、奴隷労働をさせる側の理論だ。

そして、奴隷労働をするほうも、洗脳されて、そういう考えをもっているのである。

だから、奴隷身分の人が、奴隷身分の人に「過去は関係がない」「目の前のことに集中すればいいんだ」と言って、無理なことをおしつけるようになるのである。

「目の前のベルトコンベアに集中すればいいんだ」とか「目の前の作業に集中すればいいんだ」とかということなのだ。

これは、支配者側が考えて、ブラック経営者や成功者を使って、はやらせた考え方だ。

過去の作業でつかれたとする。その過去の出来事が、どのくらい過去のことなのかは、問題にしないとする。

ともかく、過去の出来事でつかれたとする。

けど、過去の出来事を無視すればどうなるか?

妄想理論にしたがえば、効力をなくすことになるのである。だから、気持ちを切り替えて、目の前の作業に集中すればいいということになる。

過去の出来事でつらい思いをしたとする。

だから、仕事をするのがつらいとする。

その場合、気持ちを切り替えて、目の前の作業に集中すればいいということになる。目の前の作業に集中すれば、つらい記憶なんて、頭に浮かばなくなる。なので、目の前の作業に集中すれば、過去の出来事は関係がないことになる。……これが、過去無関係論者の言いたいことだ。

*     *     *

ところが、器質的な変化をすでにうみだしているものは、意識的に無視しても、効力がまったく消えないのである。ここに、「だまし」がある。

彼らにしてみれば「器質的な変化」なんて関係がないのである。彼らは、器質的な変化については積極的に無視して、全部、器質的な変化をうみださない過去の出来事にしてしまうのである。

だから、「気分の持ちようで、どうにでもなる」ということになる。

妄想理論のなかでは、過去の出来事というのは、気持ちの持ちようで、どうにでもなることになるのである。妄想理論のなかでは、すべての過去の出来事が気持ちの持ちようでどうにでもなることになっているのである。

そういうところに、「だまし」がある。トッリクなんだよ。トリックに気がつけ。

わからず屋は「過去は関係がない」と言う人だ

 「過去は関係がない」と言う人は、ぼくが言ったことを認めるかというと認めないのだ。せっかく、助言してやったのに、わからず屋のエイリさんがからんできたと思うのだ。

ぼくの説明について、そう感じてそう思うのだ。

けど、わからず屋は「過去は関係がない」と言う人だ。

ともかく、こういう人は、悪属性付与主義者とおなじように、きちがい家族によるヘビメタ騒音が原因で、「できなくなった」ということを無視する。認めない。

俺が説明したあとも、その部分は認めないのだ。

過去無関係論者は、同時に、言霊主義者である場合が多い。過去無関係論者であって、言霊主義者である人は、「できると言えばできる」と言って、現在の影響について無視する。

ちなみに、過去無関係論者は、言霊主義者とおなじように、矛盾を抱えている。人には、「過去なんて関係がない」と言うけど、自分のことに関しては、普通に、過去と現在を関連付けて考えているのだ。矛盾している。

さらに、過去無関係論者は、自分が尊敬する人に関しても、過去と現在を関係づけて考えている。尊敬する人の過去の生き方を知って、尊敬するのだ。尊敬する人の過去のエピソードや過去の発言を考えて、尊敬するようになったのだ。ようするに、経歴を重視している。

ところが、弱っている人には、「過去は関係がない」と言って、無理なことを要求する。そして、その弱っている人にとって「それ」が無理なことなのだということを、どこまでも認めない。

過去無関係論者にとってみれば、その弱っている人がその弱っている人の過去を無視すれば、過去の出来事が現在に影響をあたえないようになるはずなのである。「過去の出来事が現在に影響をあたえないようになる」というのは、「弱っている人の現在の状態に、過去の出来事が影響をあたえないようになる」ということだ。

弱っている人が「弱っている人の過去の出来事」を無視すれば、「弱っている人の過去の出来事」が、現在の状態に影響をあたえないようになると思っているのだ。

これは、「元気になると言えば元気になる」といったように、言うことだけで、過去の出来事に関係なく、元気になると考える言霊主義者の考え方とおなじだ。

しかし、数千日の出来事によって、器質的な変化がしょうじた場合は、どれだけ言ったって、もとどおりにはならないのである。

それとおなじように、器質的な変化がしょうじた場合は、どれだけ過去の出来事を無視したって、もとどおりにはならないのである。

言霊主義者は自分の現実的なことに関しては、言霊思考をしてないし、過去無関係論者は、自分の現実的なことに関しては、過去の出来事を重視して、過去の出来事を無視していないのである。

自分が、普段、どういうふうに思考しているのか、本人が、意識していないのである。だから、矛盾に気がつかない。

それは、「言ったことが現実化する」と言ったあとに「どれだけ瞬間移動できると言ったって瞬間移動なんてできるわけがないだろ」と言っても、矛盾を感じないのとおなじことなのである。

人のことは、まさしく「ひとごと」なので、自分にとっての現実ではない。なので、現実感がめちゃくちゃにうすくなり、対象となる人が、過去を無視すれば、過去の影響がなくなると(過去無関係論者は)思ってしまうのである。

2024年2月20日火曜日

数千日

 そりゃ、数千日も毎日やられたら、数千日、毎日やられてないやつには、絶対わからないことがしょうじる。

そういうことなんだろうなぁ。

数千日、毎日やられてないやつが、「たいしたことじゃない」「過去は関係がない」「自分なら大丈夫」と思って、こころないことを言ってくるんだよね。

まあ、言っているやつらは、俺を見下しているので、こころないことを言っているつもりはないよ。

きちがい家族が、きちがい感覚で、よその家ではやらないことを、絶対の意地で数千日やり続けてしまうと、よその人には、絶対にわからない効果が、心身をおそうことになる。

けど、よその人には実際になかったことだし、よその人にはわからないことなので、よその人は『無』『影響なし』として、あつかうのだ。

「そんなの、あったって、なくたって、おなじ」……。こういう考えが前提として成り立ってしまう。きちがい家族によるヘビメタ騒音が数千日続くと、働けなくなるのに、きちがい家族によるヘビメタ騒音が数千日つづいても、働けるという前提でものを言ってくるやつが出てくる。いっぱい出てくる。

だいたい、九五%ぐらいかな。ぼくの知りえる範囲だと九五%だな。そんなもの。みんなそんなもの。

そうなると、特殊な家族のもとに生まれた人が、不幸な思いをすることになるのである。

「俺を見下しているので」と書いたけど、どうして彼らが俺を見下しているのかというと、無職だからだ。働いてないからだ。「働けるのに働かないのは、人間としておかしい」と、彼らは考えるのだ。

「働ける」という前提は、「ヘビメタ騒音の影響なんて、あったってない」「ヘビメタ騒音の影響なんて、たいしたことじゃない」「過去は関係がない」「自分なら大丈夫」という考えの上に成り立っている。

だから、「エイリさんは働けない人ではなくて、働ける人だ」と、彼らは思うわけだ。「ヘビメタ騒音なんていうのは、いいわけだ」と思うわけだ。

けど、そういう事態がしょうじているのは、まさに、ヘビメタ騒音が数千日にわたって鳴っていたからなのである。

その数千日、ぼくがめげずに、生きてきたからなのである。最大限の努力をして、生きてきたからなのである。

勝手に、「怠惰な性格だ」とか、「言い訳がましい性格だ」と決めつけられることになる。

  勝手に悪い性格について考えて、その悪い性格のせいで、そういうことを言っていると考えるやつらが出てくる。悪いのはそいつらの性格なのではないかと思うけど、称賛されているのだ。

たとえば、ヘビメタ騒音で宿題をできなかったとする。

ヘビメタがなければ、ほんとうに宿題ができた。

ヘビメタが鳴っていると、ほんとうに宿題ができない。

できないので「忘れる」ことになる。ほんとうは、忘れたわけじゃない。

宿題をしようと思っていたけど、ヘビメタ騒音でできなかった。これが事実だ。ところが、その事実を認めないやつらが出てくる。

たとえば、エイリさんは、なまけものなのに、ほんとうは宿題をしたくない。なので、「騒音がうるさくてできなかった」と言っているのだと、言い出すのだ。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、「よそでは一分間だって鳴らせないようなでかい音で」ヘビメタを鳴らす。だから、がんがんせめたてられている状態で、ほんとうに宿題ができない。頭がこんがらがって宿題ができない。怒りで頭がいっぱいになって、宿題ができない。

めちゃくちゃに嫌いな音が、至近距離でめちゃくちゃにでかい音で鳴っているで……鳴り続けているので鳴り続けているあいだ、どれだけ宿題とにらめっこをしても、宿題ができない。

言っておくけど、ほんとうに、きちがい家族による騒音が鳴ってなかったらできたのだ。

きちがい家族による騒音がフォークギターぐらいの音量であれば、宿題ができたのだ。頭をきちがい家族による騒音で占領されず、宿題にリソースをまわして、宿題をすることができた。

けど、きちがい家族が鳴らす騒音で宿題ができなくなった。これが、事実だ。けど、そいつらは、「理由として」きちがい家族による騒音を認めないのだ。理由は、ほかにあると言ういうのだ。

きちがい家族による騒音でできなかったというのは、いいわけで、ほんとうは、ほかの理由があると言うのだ。さぼりたいという気持が理由だと言うのだ。さぼりたいので、ほんとうは理由ではない、ヘビメタ騒音という理由について、エイリが語っているだけだということにしてしまうのだ。

きちがい家族にやられると、こういう傲慢なやつに、文句をつけられることになる。

きちがい家族がきちがい行為をしなければ、宿題をしたので、「本当はさぼりたいから、ヘビメタ騒音が原因だと言っているだけなんだ」と言われる必要もないわけだ。実際に、そんなことは言われない。

もし!きちがい兄貴が、いい兄貴で、「やめてくれ」と(こっちが)言ったら、やめてくれるなら、そんなことは、言われずにすんだ。

けど、現実はちがう。現実は、きちがい的な意地で、こだわりつくしたでかい音で、鳴らし続けた。普通の人には、きちがい家族がおらず……きちがい兄貴がおらず……きちがいヘビメタ騒音をずっとずっと、何時間も何時間も、でかい音で鳴らすことにこだわってこだわって鳴らすということがない。

最初から、発生してない問題なのだ。

ぼくにとって、仮定の話が、ほかの人にとっては、現実の話なのだ。事実、ヘビメタ騒音を鳴らされずに、宿題ができる状態だ。これは、能力の問題じゃないし、性格の問題じゃない。ちがうのだ。ぼくだって、ヘビメタが鳴ってなければ……実際にヘビメタが鳴ってない期間中は、宿題ができた。

これ、ちょっと話がずれるけど「ならいいじゃないか」と言うやつがいる。いいや。よくないでしょ。事実は小学六年生のときからずっと毎日ヘビメタ騒音が鳴って、ずっと毎日宿題ができない状態だ。

もし!!……普通にしずかだったから、宿題ができたという話をしているのに……もし!!の部分を無視して「だったらいいじゃないか」と言うのである。

これも、バカげた攻撃だけど、こたえるなぁ。

どうしてこたえるかというと、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい的なヘビメタ騒音をこだわってこだわってこだわってこだわって、鳴らしているからだ。絶対に、やめてくれないからだ。もし!!鳴ってなかったらできた……。

もし!!!鳴ってなかったらできた。そういう話をしているのに、「だったらいいじゃないか」と鳴ってない場合の話をしてくる。この、勘違い、きちがい攻撃。これは、わざとやっているやつがいる。話をもとにもどす。

本当の理由は、エイリが怠け者だから、宿題をやらなかったと言い出すやつがいる。エイリが怠惰な性格だから、宿題をやらなかった。本当は、怠惰だから宿題をやらなかったのに、お兄さんの騒音のせいにしていると言い出すのだ。性格の問題にしている。

ほんとうに、ヘビメタ騒音かなければ宿題ができる。それなのに、そんなことを言われて、心外な気持になる。

理由づけ理論ということについて考えてみよう。そいつらは、勝手に、エイリを怠惰な性格だと決めつけて、怠惰な性格だから宿題をやらなかったのだと言うのだ。

さらに、ヘビメタ騒音は(宿題をやらなかった)本当の理由ではなくて、嘘の理由だと言うのだ。嘘の理由を言うのは、これまた、エイリさんの性格が悪いからなのである。

いいわけをすぐにする性格だから、「ヘビメタ騒音で宿題ができなかった」といいわけをしているだけなのだと決めつけている。こんな、悪意のある決めつけをして、濡れ衣を着させて、本人はまともなことを言ったつもりでいる……。

そういうやつらが一定数いる。

これだと、「きちがい家族に妨害される」というような悪条件をかかえている人は、勝手に、「怠惰な性格だ」とか、「いいわけがましい性格だ」と決めつけられることになる。

*     *     *

水銀で仕事ができなくなった人がいたとする。

とりあえず、Aさんだとする。

Aさんに対して、こういう人たちは、別の原因を考えだすのである。Aさんは漁師をしていた。仕事をしていた。けど、汚染魚を食べて、水俣病になった。水俣病というのは、水銀中毒だ。Aさんは、仕事をさぼりたいので、いいわけをしていると考えるのが、こういう人たちだ。

ようするに、Aさんは怠惰な性格をしているので、仕事をしたくないと思い、仕事をしない理由として「水銀中毒になった」といういいわけを思いついたということにしてしまうのだ。

他人を悪い人間だと決めつけて、その悪い性格が「まるまるができない」という本当の理由だというのだ。たとえば、ある一定量以上の水銀を摂取すると、まっすぐ歩けなくなる。Aさんがまっすぐ歩けなくなったとしよう。

その場合、Aさんは、ほんとうはまっすぐ歩けるのだけど、仕事をしたくないので「まっすぐ歩くことができなくなった」といいわけをしていると決めつけてしまうのだ。彼らがそういうふうに決めつけて、そういうふうに言う。

本当の理由の無視→他者の属性に悪い性格を付与→悪い性格が原因でそうなったと決めつける。これが一連の流れだ。

*     *     *

こういうやつらのことをなんて呼ぼうかな? 悪属性付与主義者とでも呼んでおくか。まあ、アドラー主義者と呼んでもいいのだけどなぁ。悪属性付与主義者というのは、ポジティブなんだよ。

だから、ポジティブだと良い性格だとは言えない。

勝手に、他人に「怠惰な性格」というような属性を付与して、その属性が理由だと言うのだ。

これ、やられたほうは心外だ。

本当の理由は、ガン無視される。

悪属性付与主義者が、本当の理由を、ガン無視して、別の理由を考え出してしまうのである。

そして、「(エイリは)悪い性格だから、そうした」と(彼らが)勝手に決めつけてしまう。悪い属性なのだから、勝手に決めつけられたほうは、迷惑だろ。不愉快な気持になるだろ。

けど、これが、通ってしまう。

悪魔が支配している世界では、これが通ってしまう。

条件が悪い人は、本人の性格属性のせいにされてしまう。悪い条件が引き起こしたことでも、その人の悪い性格のせいだということにされてしまうのである。こういうことを「積極的に」やって、「善をなした」と思っているのか?

*     *     *

言霊主義者は「言ったから」と言って、本当の原因を無視して、言ったことが原因だと主張し、悪属性付与主義者は、「本人の悪い性格が原因だ」と言って、本当の原因を無視してしまう。

原因について勘違いをしている。

さらに、言ってしまうと、引き寄せ主義者は、「引き寄せたからダメなんだ」と言って「本人が引き寄せた」せいにしてしまうのだ。こんなの、なんとだって言える。実際にそうなったら、「引き寄せた」ということになってしまう。

他人に対して悪い影響をあたえるやつはいる。

たとえば、水銀を海に流した企業は、前述の漁師に悪い影響をあたえている。別に漁師を病気にするために、水銀を流したわけではない。その企業の従業員が、頑張って仕事をしていたから、そうなったのだ。ポジティブに仕事をしていた。

だから、これも、ポジティブなら「善い」のかという問題の答えになる。だから、これも、ポジティブなら「良い」のかという問題の答えになる。

言霊主義者、悪属性付与主義者、引き寄せ主義者は、みんな、「やったほう」の責任は追及しない。影響をあたえたということさえ、積極的に無視する。やられたほうの責任だけ追及する。「言ったから」「本人の性格が悪いから」「引き寄せたから」……と、やられたほうのことしか言わない。

*     *     *

これ、いま生きている人に言っても、たぶんわからないだろうと思うけど、一般にいいことだと考えられていることが、悪いことにつながるのだ。悪魔が支配しているからそうなる。

たとえば、「思いやりワクチン」なんてことが言われていたけど、あれがまさしく、悪魔が人をだますときの手口だ。

「思いやり」があるのだから、いいことだ。ところが、問題のある物質をまきちらしてしまうことになるのである。こういう落とし穴がある。

まさしく、こういうことなのだ。

「ポジティブなのが、いい」「ネガティブなのは悪い」という考え方、「人間はすべておたがいさま」という考え方、「すべては自己責任だ」という考え方、「言ったことが現実化する」という考え方、こういう考えたがすべて、悪の支配に寄与することになる。

これ、みんな、圧力をかけているつもりはないのだろうけど、じつは、圧力をかけている。「すべては自己責任」と言っているのだから、他人に圧力をかけるわけがないと思うだろ。ところが、他人の自己責任を追及することによって、他人に圧力をかけることになる。

しかも、圧力をかけやすい他人というのは、不幸な人なのである。生まれの条件が悪い人なのである。条件が悪い人をおいこむようにできている。

条件が悪い人は、こういう悪意がない人に、おいつめられて、死んでしまう。まあ、死ななくても、不愉快な思いはするわけだよ。 自己責任論者という「責任の所在についてよく考えない人」が、条件の悪い人をおいこむ。

そして、それを見て、悪魔がわらっているのだ。悪魔的な支配者は、おもてに出てこない。言ってしまってはまずいのだけど、よく考えない大衆が、条件が悪い人をせめるのである。よく考えない大衆が、条件が悪い人をおいつめるのである。

 

2024年2月19日月曜日

「自分だけが苦労したと思っているんだろ」

 「自分だけが苦労したと思っているんだろ」と思うかもしれないけど、ちがう。

程度の差はあるにしろ、みんな苦労はしているのだろう。

けど、きちがい家族によってもたらされる苦労は、正常な家族によってもたらされる苦労とはちがうのだということは言っておきたい。それから、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」」ということを言う人は、ふたつのタイプにわかれる。

おなじことが人生のなかで発生したら(通勤して)働けなくなるということを理解しているタイプと、おなじことが人生のなかで発生したら(通勤して)働けなくなるということを理解してないタイプだ。

両者のちがいはでかい。

自分の身におなじことが起こったら働けないと思っている人と、自分の身におなじことが起こっても、働けると思っている人は、ちがう。ぜんぜん、ちがう。

前提がちがうのだから、ぜんぜんちがう。

「自分だってできなくなる」と思っている人と「自分なら(そういうことがあったとしても)できる」と思っている人は、ぜんぜん、ちがう。ちがうんだよ。

 

 

できくなるということを認めずに、ぼくが、さぼっているからやらないんだと思って発言をする

ぼくが、ヘビメタ騒音でできなくなったと言っているのに、できなくなったということを認めない人がいるのだ。エイリさんにはできないと言っているのではなくて、エイリさんにはできると言っているのだから、いいじゃないかと思うかもしれないけど、よくないのだ。

ほんとうに、学校から帰ってきたあと、午後一一時一〇分までヘビメタ騒音を鳴らされると、その日の宿題ができなくなる。宿題ができないまま時間がたつ。だからできない。

けど、ヘビメタ騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいできると思っているやつは、できないということや、できくなるということを認めずに、ぼくが、さぼっているからやらないんだと思って発言をすることになるのである。

『ほんとうは、宿題ぐらいできるのに、さぼってやらなかった』『ほんとうは宿題ぐらいできるのに、ヘビメタ騒音でできないといいわけをしているだけなんだ』と思っているわけだ。

この屈辱。この屈辱。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、よその家では絶対に一分間だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らすと、こういうことになってしまうのだ。

これが、人生ぜんぶに影響をあたえている。

宿題ができないということが、仕事ができないということにスライドしていく。

ヘビメタ騒音が続いて、睡眠回路が破壊され、睡眠障害者になり、ものすごくつかれやすい状態になり、生活体力障害者になった。

だから、通勤して働くということができなくなった。

けど、ヘビメタ騒音の影響を認めないやつは、『エイリさんは仕事をすることができるのに、さぼって仕事をしない』と思っているのだ。

『そんなのは、言い訳しているだけなんだ。そんなのはあまえているだけなんだ』と思っているわけだけど、そういうふうに思っている人が、ぼくとまったくおなじ騒音を、ぼくとまったくおなじ時間、ぼくとまったくおなじ期間、経験したら、できなくなる。

おなじ騒音といっても、ヘビメタ騒音にかぎらず、その人が、この世で一番苦手な音が鳴っているということにしておく。あんな音を、至近距離でがんがん鳴らされて、宿題なんてできるわけがないのだ。

自分の睡眠に影響を与えないということができるわけではないのだ。

睡眠時間が短くなっても自分の日常生活(起きている時間の生活に)影響をあたえないということができるわけではないのだ。影響はある。影響が出る。

それを、「そんなのは関係がない」「過去は関係がない」と言って、無視する。

たとえば、前の日の騒音が、過去の騒音なのだけど、過去の騒音の影響をうける。

「過去は関係がない」というのは、そのまま、「現在、影響をうけてないはずだ」ということなのである。

影響をうけているわけだから、ちがう。

勝手に「影響はない」と見なして、勝手に、「無理なこと」を言っている。

侮辱している。

自分だっておなじことをされたら……きちがい家族に、長期間にわたっておなじことをされたら……「できなくなる」のに、それは認めないのだ。

そして、『エイリがさぼっているからできない』と思って無理なことを言う。そして、『エイリがあまえているからできない』と思って無理なことを言う。そして、『エイリが過去にこだわっているからからできない』と思って無理なことを言う。

きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音の連続『で』できなくなった。

それから、「さぼっている」とか「あまえている」とか「過去にこだわっている」と言う人には、きちがい家族がいないのである。だから、きちがい家族がきちがい的な意地で、長期間にわたって鳴らす騒音というものを、自分の人生のなかで経験したことがないのだ。経験したことがないから、影響をうけていない。

だから、優位に立てるのだけど、俺だって、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で鳴らすということにこだわらずに、普通の音で鳴らしていたなら、できた。できたことなんだよ。

これ、できたのだ。

フォークギターぐらいの音でヘビメタを鳴らしたなら、できた。

できなくならなかった。

これが事実だ。

仮定の話になってしまうけどな。

事実は、フォークギターぐらいの音なんてくらべものにならないぐらいの音で鳴らしていた。フォークギターなんてくらべものにならないほどでかい音で鳴らしていた。

ところが、きちがい兄貴の感覚だと、フォークギターぐらいの音で鳴らしていたということになっているのである。自分がフォークギターぐらいの音まで、音をさげることを要求されたら、きちがい親父のよう発狂して、はねのけていたのである。

そして、きちがい親父のように、そうしたという記憶がないのである。これは単に記憶がないのではなくて、そのとき、そういうふうに認知・認識してないという、特殊な記憶障害に見える認知・認識障害なのだ。

実際、記憶障害であるように見える部分もあるのだ。相手が、文句を言ってきたということは、忘れてしまう。そのときは怒って対応しているのだから、記憶がありそうなものなのだけど、相手が文句言ってきたということは、すっかり忘れてしまっている状態なのだ。もう、はねのけた瞬間からそうなっている。

何度も何度も言うけど、きちがい親父の態度ときちがい兄貴の態度が、おなじなんだよ。そして、そういう父や兄がいる家というのは、レアなんだよ。

だから、そういう父や兄貴がもたらす経験というのは、経験してないのが普通なんだよ。だから、わからない。

単純な人が考えてみても、経験してないから、影響のでかさがわからない。自己中心的で、自分の立場と相手の立場をいれかえて考えることがじゅうぶんにできない人は、『自分だったら、たとえそういう状態でも宿題ぐらいできる』とか『影響をうけないことは可能だ』と思ってしまう。

これも、そういうやつがそう思ってしまったら、こっちがどれだけ言っても、認めないということになる。そういう頑固な態度が、そういうやつらにはある。

 

「自分だって」おなじことをさされば、できなくなるのに、それをガン無視する。

 ほんとうに、「自分だって」おなじことをさされば、できなくなるのに、それをガン無視する。「自分だって」おなじことをさされば、できなくなるのに、「おなじことをされても、自分なら、自分はできる」という前提で、ものを言ってくる。これ、能力のちがいじゃないのである。条件のちがいなのである。そして、条件のちがいがずっと続くと、能力のちがいになる場合がある。そりゃ、ずっと、やられていたら、能力をうしなうだろう。そういうことがあってもおかしくない。ずっと、きちがい的な騒音を鳴らされれば、睡眠障害になる。適切な時間に適切な時間の長さ、眠ることができなくなる。その場合、適切な睡眠能力をうしなったということになるのである。だから、できないのだけど、他人がそれを認めない。他人が考えているのは、普通の騒音なのである。きちがい家族によるきちがい的な騒音じゃない。その他人というのは、きちがい家族によるきちがい的な騒音を一秒も経験したことがない。なので、経験的に、「それが続くと」睡眠障害になるということがわからない。本人がわからなければ、「自分なら、それが続いたって睡眠障害なんかにならない」と思うわけだから、「それが続くと」睡眠障害になるということをガン無視して「できると言えばできる」とか「過去は関係がない」とかと言う。「できると言ったってできないものはできない」ということを言っても、「できると言えばできる」と言って、できないというとを認めない。「それが続いて」睡眠障害になったのに、過去は関係がないと言う。自分は、それが続いて睡眠障害になったことがないので、それが続くと睡眠障害になるということがわからないのだ。自分だって、それが続けば、睡眠障害になるのに、自分の場合は、睡眠障害にならないという前提で「過去は関係がない」と睡眠障害になった原因を否定する。睡眠障害になった原因をガン無視する。

実際、自分は、きちがい的な騒音を聞かされるということが(人生のなかで)なかったので、きちがい的な騒音聞かされずに、睡眠障害にはならなかったのである。ただ、それだけだ。もちろんほかの原因で、睡眠障害になることはある。けど、きちがい的な家族によるきちがい的な騒音で睡眠障害になった場合と、別の原因で睡眠障害になった場合はちがうのである。まあ、だから、睡眠障害だとしても、程度や理由がちがう。ともかく、実際にきちがい家族と一緒に暮らしてないので、きちがい家族がきちがい的な態度で鳴らすきちがい的な騒音は経験したことがないということが重要だ。自分が経験しなかったことにかんしては、無視できる状態になってしまうのである。自分と相手の立場を置き換えて考える力が欠如しているので、「そういうことをされれば、(自分だって)そうなる」ということが予想できないのである。実際、自分がされずに、そうならなかったので、「できる」という意味で比較優位なのである。そして、言われるほうは「できない」という意味で比較劣位なのである。

現実を無視して、矛盾を認めないという態度

言霊主義者というのは、「生き返ると言ったって、死んだ人は、生き返らない」「瞬間移動できると言っても瞬間移動なんて、できるわけがない」ということは、認識している。

けど、「言えば言ったとおりになる」「言えば言ったことが現実化する」と思っているのだ。

なので、矛盾している。

言霊主義者が言霊思考に自信をもっているのは、「言ったあと」に現実化したことを、過大評価しているからだ。

自分が「明日は晴れる」と言ったら晴れた……。こういうことを過大評価している。

記憶に残るのは、こういうことばかりで、自分が「明日は晴れる」と言ったのに、雨がふったということは、記憶に残らない。積極的に無視して、なかったとことにしてしまう。

「言ったあと」に現実化しなかったことは、積極的に無視して、なかったことにしてしまうのだ。

こういう、「現実の無視」がある。

だから、矛盾に気がつかない。

言ったあとに、現実化しなかった場合は、言ったあとに、現実化しなかったのだから「言ったことが現実化する」という理論はまちがっているということになる。そして、普通なら、それに気がつく。

けど、言霊主義者は、矛盾があることは、全部、無視をして、のりきっている。

もちろん、実際には、矛盾を解決してのりきっているわけではないのだけど、時系列的に、そういうことがあったあとも、気がつかないまま生きるということになる。

で、こういう態度は、言っちゃ悪いけど、うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父と似ている態度なのだ。

もちろん、普通の言霊主義者が感覚器を無視するということはないのだから、問題は小さい。そして、あまたの言霊主義者が、実際にぼくといっしょに住んでいて、かずかずの迷惑行為をしたわけではない。

ようするに、そういうことで、ぼくは、迷惑をうけてない。

うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父は、はげしく迷惑行為をして、ぼくに迷惑をかけたけど、ぼくといっしょに住んだことがない言霊主義者は、はげしく迷惑行為をして、ぼくに、迷惑をかけたわけではない。

そのちがいがある。

そのちがいは、でかい。

しかし、現実を無視して、矛盾を認めないという態度は、似ているところがあるのだ。

けど、それは、誤解だ。そして、この誤解をとくことができないのである。

 そりゃ、きちがい親父と一緒に住んでいない人間が、ハンダゴテ事件で起こったことを理解するのは、むずかしい。どうしたって、兄貴の説明が悪かったと考えてしまう。「父親は、大人なんだから、そんなことがわからないわけがない」「あんなハンダゴテが使えると思うはずがない」と考えてしまうのだ。父親のほうが正常だったら、兄貴のほうがバカなのである。「兄貴の説明の仕方が悪かったから、父親が理解することができなかった」「兄貴の説明の仕方が悪かったから、父親が誤解をした」と考えてしまう。しかし、これそこが、誤解なのだ。きちがい親父の話をしたけど、きちがい兄貴の話にも、それは成り立っている。ようするに、ほかの人が『きちがい兄貴』のことをよく理解できないので、「エイリの言い方が悪かったから、お兄さんがわからないだけだ」と誤解をしてしまうのだ。けど、それは、誤解だ。そして、この誤解をとくことができないのである。普通の人は普通の人で、言ってみれば、考えるまでも、そう考えているのだ。普通の人は普通の人で、言ってみれば、自信をもってそう考えている。なので、ぼくが「こうなんだ」ということを説明しても聞かない。ぼくが「こうなんだ」ということを、何回も、わかりやすく、説明しても、普通の人は、きちがい兄貴について理解しない。わからないままだ。ということは、最初の仮説……最初の思い込みに、こだわって、自説をまげない。ようするに、ぼくが何回、説明をしても、普通の人はぼくの言い方が悪かったから、お兄さんが理解しないと思ったままなのだ。

きちがいにやられて、バカにバカにされるような人生

 ほんとうに、きちがいにやられて、バカにバカにされるような人生だったなぁ。ほんとうに、そうだ。バカは想像力がないから、自分だって、おなじことをされれば、「できなくなる」ということがわからない。きちがい親父や、きちがい兄貴とおなじではないけど、他人に対する想像力というのが、たりない。自分に置き換えて、考えるという能力がたりない。

きちがい家族のことは、ほかの人は経験がないからわからない。

 きちがいではないけど、バカだからわからないということがある。バカではないけど、経験がないからわからないということがある。きちがい家族のことは、ほかの人は経験がないからわからない。どうしてかというと、きちがい家族と一緒に住んでいるわけではないからだ。そして、「家族というものはこういうものだ」「人間というものはこういうものだ」「人間はそういうことはしない」というような考え方があるのである。この考え方は自我に直結した考え方だ。もうすでに、説明したから、ここでは簡単に書くけど、「そうではないケース」について言われると、自我が不安定になり不愉快感を感じるということになっている。なので、きちがい家族にやられた側の話というのは、普通の人……きちがい家族と一緒に住んでない人にとっては、自我をおびやかす、不愉快な話なのだ。そういうことをきくと、自我の安定度がなくなり、「そういうことがある」ということを前提にして自我をつくりなおさなければならなくなる。なので、不愉快なのだ。なので「なに、わけのわからないことを言っているんだ」「そんなの(お兄さんに)言えばいいだろ」と感じてしまう。「だから、何度も兄には、言った」ということを何度も言っても、こいつらの「自我に対するゆさぶり」は消えないので、怒ったままになる。

これ、普通の人は、きちがい家族の話を聞くと、自我が不安定になり、言った人を攻撃したくなるのである。「なにか不愉快な話を聞かされた」と思うのは、自我が不安定になるからだ。これは、ただ単に愚痴を聞かされたということではない。自分が自分の経験の範囲内でわかる愚痴と、自分が自分の経験の範囲内ではわからない愚痴はちがう。ただ単に愚痴を聞かされた場合は、ただ単に不愉快になるだけで、自我は挑戦をうけてない。自我は不安定になっていない。だから、きちがい家族の話というのは、「ただ単に愚痴を聞かされた」場合とはちがう反応が出てくる。 

*     *     *

あーー。けど、こういう話は、むずかしすぎて、バカには、わからない。まったく、わからない。

2024年2月17日土曜日

「無理なこと」なんだよ。原因について勘違いをするな!!

  理解はしないと思うけど、いちおう、説明しておく。これは、これまでに何回も何回も説明してきたことだ。けど、もう一度、説明をしておく。

たとえば、有機水銀をある一定量、摂取してしまうと、だれでも、まっすぐに歩けなくなるとする。とりあえず、ある一定量のことを限界突破量ということにしておこう。Aさんは、汚染魚を食べるまえは、まっすぐに歩けた。

けど、有機水銀が入っている汚染魚を食べているうちに、まっすぐ歩けなくなった。なので、Aさんは「まっすぐ歩けなくなった」「まっすぐ歩くことができない」と言った。

「できない」と言ったから、できなくなったのではなくて、汚染魚を食べたから、まっすぐに歩くことができなくなったのだ。何度も言うけど、汚染魚を食べるまえは、まっすぐに歩くことができた。

ところが、言霊主義者は、「できないと言うから、できないのだ」ということを言い出す。思霊主義者は「できないと思うから、できないのだ」ということを言い出す。過去無関係論者は「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」ということを、言い出す。

そして、言霊主義者は「できると言えばできる」と助言し、思霊主義者は「できると思えばできる」と助言し、過去無関係論者は「汚染魚を食べたという過去は現在に影響をあたえないので、汚染魚を食べたという過去の出来事にこだわらないようにすれば、気持ちよくすごすことができる。こだわっているからダメなんだ。こだわりを捨てて、目の前のことに集中すれば、まっすぐ歩けるようになる」と助言するのだ。

こんなの、リンチ。言葉のリンチ。

しかも、ほんとうに、彼らは、そういうふうに思っているのである。

みんな、無理なことを言っている。

限界突破量の水銀を摂取すれば、みんな……言霊主義者も、思霊主義者も、過去無関係論者も……みんな、まっすぐ歩けないようになる。

Aさんと、 言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者のちがいは、有機水銀を限界突破量だけ、摂取したかどうかということだ。

有機水銀を摂取して、くるしい思いをしているということをAさんが言えば、言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者は、「自分だってくるしい思いをしたことはある」ということを言う。これは、事実なのだろうけど、まっすぐ歩けないという症状が出てないのだから、その「くるしいこと」というのは、まっすぐ歩けないという症状の原因になるものではない。

実際、そういうことを言う言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者は、まっすぐに歩けのだから……。そして、これは、Aさんができないことなのである。

ちょっと横道にそれるけど、「できる」というのは、ポジティブでいいことであるけど、「できない」ということはネガティブでよくないことだという考え方をする人たちがいる。こういう人たちから見ると、Aさんが、ネガティブなことばかり言っている悪い人で、言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者は、ポジティブなことを言っているよい人たちだということになる。こいつも、リンチに加担している。

まっすぐ歩けなくってしまった以上、比較劣位だ。

まっすぐに歩ける人たちは、比較優位だ。

まっすぐに歩けるということだけで、比較優位になり、「えらそうなことを言える立場」をゲットすることができる。自分はできる、おまえはできない……という図式が頭のなかに成り立っている。どんな理由があろうとも、できないのであれば、それは、できないということだから、できる自分のほうがえらい」という感じ方がある。

ようするに、説教をしてもいい立場なのだ。そりゃ、できない人ができる人に「こうすればいい」と言っているわけではないので、普通に考えると、それは問題がない行為のように見える。けど、理由について勘違いしているんだよ。

そして、だれだって、限界突破量をこえて、有機水銀を摂取すれば、まっすぐに歩けなくなるのだから、同等の存在なのだ。おなじ存在なの。原因について勘違いをして、無理なことを比較劣位の人に言うということが、この人たち……言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者がやっていることだ。

「無理なこと」なんだよ。原因について勘違いをするな!! 


*     *     *

自分なら、そういうことがあっても、まっすぐ歩けると思っているのである。その思い込みがまちがいなのである。だいたい、自分だって、そういうことがあったら、まっすぐ歩けなくなるだろうと思っている人は、そんなことを言わない。そういうふうなことというのは、まあ、限界突破量の水銀を摂取することであり、そんなことを言わないの、そんなことというのは、言霊的な説教、思霊的な説教、過去無関係論的な説教のことだ。

2024年2月16日金曜日

ヘビメタ騒音が鳴らなかったなら、ほんとうに話がちがう

 ヘビメタ騒音が鳴らなかったなら、ほんとうに話がちがう。あの毎日はない。どれだけ、一日がつらいか、みんな、わかってない。「ヘビメタ騒音で、できなった」と言っているのに、無視するな。「できない」と言っているのに「できると言えばできる」と言われたときの気持ちってわかる? ヘビメタ騒音がつみかさなっているんだよ。ヘビメタ騒音の怒りがつみかさなっているんだよ。ヘビメタ騒音の疲労がつみかさなっているんだよ。ヘビメタ騒音の睡眠不足がつみかさなっているんだよ。ぼくができないと言ったら、できないんだよ。なにが、できると言えばできるだ? ふざけるな。

一日がどういうものかわかってないな。俺がヘビメタ騒音の一日にどうやって、たえてきたかわかってないな。こんなの、ほんとうなら、六か月間で、自殺だよ。そういうレベルことだ。ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがうものを想像して「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」と言っている。「言えば言ったことが現実化する」と言っている。ぜんぜん、ちがうんだよ。ぜんぜん、ちがう。たぶん、一日分もわかってないと思う。あれがどんなものなのか、わかってない。きちがい兄貴の態度が、わかってない。きちがい兄貴に対して、どれだけ腹がたつかぜんぜんわかってない。腹がたつやつが鳴らす、きちがいヘビメタで、どれだけからだがつかれるか、ぜんぜんわかってない。

2024年2月15日木曜日

この「いきがたさ」は、普通の人間である家族と一緒に住んだことしかない人間には、わからない

家族によるものすごい騒音の意味が、みんなわかってない。ぜんぜんわかってない。「騒音」だと思ってしまうのである。

けど、これは、ちがう。単なる騒音じゃない。

家族が、きちがい感覚で鳴らしているということが重要なのである。これ、ほんとう、ものすごい音で鳴らしているのに、本人は、たいしてでかい音で鳴らしていつもりがない状態なのだ。

つもりがないというのが、普通の人の感覚ではわからない。

そして、つもりがない本人も、本人を無意識的なレベルでだましているために、わからない。『頭隠して尻隠さず』という感じなのだけど、本人が、この体勢をとっているという感情がない。認識がない。感覚がない。

なので、感覚が正常なら、絶対にわかることを無視してやっているということになる。

感覚が正常なら絶対に絶対にわかることを、本人が、ガン無視してやっている。

本人は、どれだけやっても、やったつもりがないということになっている。

ほんとうに、「やったってやってない」のである。

この、きちがい感覚が成り立っているということが重要なんだよ。

うそをついているのだけど、うそをついているつもりがない。物理的にでかい音で鳴らしているのに、物理的にでかい音で鳴らしているつもりがまったく、まったく、まったく、まったくない。

これが問題なのである。

そして、さらに、きちがい兄貴は、きちがい親父と感覚がおなじなので、「ゆずってやる」ということもできないのである。ほんとうは、まったくゆずってないのに、「ゆずったことにしてしまっている」のだ。

これも、ほんとうに、腹がたつ。

こういうことを、芝居でやっているのではなくて、すべて、ほんとうにやっているのだ。芝居じゃない。普通の人なら、「やたってやってない」とか「ゆずってやらなかったのに、ゆずってやったことにしてしまう」とかということが、ないのである。

こんなのやろうと思ったってできない。

やる場合は、芝居になってしまうのである。

そういうふりをしているということになる。

ところが、うちの兄貴のような……感覚器を書き換えてしまうタイプのきちがいだと、ごく普通にそういうことができるのである。そういうことが「必要なとき」は、二四時間中二四時間、いつでも、そういうことをしてしまうのである。一三時間二〇分鳴らせるなら、一三時間二〇分そういう態度で鳴らしているのである。

絶対に、一三時間二〇分鳴らすのである。

本人が満足できる、ものすごくでかい音で鳴らすのである。

よその家では、一分間だって続かないようなでかい音で鳴らすのである。

絶対にゆずってやらないのである。

一分だってゆずってやらないのである。

そういう脳みその障害を抱えているのは、きちがい兄貴のほうなんだよ。けど、やられたことが、障害を抱えることになる。そして、普通の人は、きちがい兄貴のきちがい感覚を、無視するので、「言えば解決するようなもんだいだ」とおもってしまうのである。家族の間で、テレビの音やステレオの音をめぐってケンカしたことが、人生のなかであるのだろう。

そういうものだと思ってしまうのである。

ところが、その人たち……普通の人たちの家族は……感覚器を書き換えてしまうような家族ではないのだ。だから、感覚器を書き換えてしまうような家族のメンバーがやる、騒音は、経験したことがないのである。騒音どころか、すべてのケンカにおいて、すべてのもめごとにおいて、感覚器を書き換えてしまうような家族を相手にしたことがないのである。

感覚器を書き換えてしまうような家族というのは、そういう脳みそを搭載しているから感覚器を書き換えてしまうことができるんだぞ。

一日、二四時間中、二四時間、そういう脳みそを搭載して生きている。

常にそうなんだぞ。

そうなると、一般の人……感覚器を書き換えてしまうような家族に、一分間ですらやれたことがない人たちは、感覚器を書き換えてしまうよう家族が、一日、二四時間中、二四時間、そういう脳みそを搭載して生きているということの『真の意味』がわからないのである。

これは、ほんとうにわかってない。

しくみはちがうけど、「無視の度合い」がきちがい兄貴やきちがい親父とおなじになる。

ただ単に経験がないだけなのだけど、俺の言っていることを無視してしまうのである。

頑固に無視してしまうのである。

「そんなのは、ほんとうのことじゃない」と感じてしまうのである。「あったとしても、たいしたことじゃない」と思ってしまうのである。「そんなのは、無視すればいい」という感じてしまうのである。ところが、きちがい家族のきちがい行為は、無視できない行為なのである。たとえば、きちがい兄貴のヘビメタ騒音とか、きちがい親父のネズミを餌付けする行為とか……。

*     *     *

一三時間二〇分というのは、「じゅうさんじかん、にじっぷん」ということ。

「にじゅっぷん」と書きたいところだけど、書くとなると、「にじっぷん」のほうが、正しいとされているのである。

ただし、「にじゅっぷん」でもいいということになった。「にじっぷん」のほうが、まちがっているような感じがするよなぁ。「にじっぷん」と書くと、書きまちがいだと思う人がいるかもしれないけど、「にじっぷん」と書くことになっている。

けど、「にじゅっぷん」でもいいと、ルールがかわった。ルールを決める人たちが、「にじゅっぷん」でもまちがいではないということにした。なので、まちがいではない。

ともかく、一三時間というのは「いちじかんからさんじかん」ということではなくて、「じゅうさんじかん」のことだから……。一日に一三時間(じゅうさんじかん)もあんなでかい音で鳴らして、まったく悪く思わないというのが、おかしいのである。

「普通の人間」ではないのである。

「普通の人間」ではない人間がやったことを、「普通の人間」は、「普通の人間」がやったことだと思って、俺に、いろいろなことを言ってくるのである。

けど、普通ではない人間がやったことなので、「普通の人間」がやったことだと思うのは、その時点でまちがっている。

きちがい兄貴が「普通の人間」であるという前提自体がまちがっている。

けど、普通の人は……きちがい家族にやらたれことがない人は……どうしても、きちがい家族にやられた人の話を聴くとき、そのきちがい家族にやられた人のなかに出てくる、家族の一員が、普通の家族の一員だと思って、物事を考えてしまうのである。

こういうところにも、「普通の人間」ではない人間にやられた人間の、「いきがたさ」がある。

この「いきがたさ」は、「普通の人間」である家族と一緒に住んだことしかない人間には、わからない「いきがたさ」なのである。

けど、「普通の人間」が多いのだから、「普通の人間」の意見というのは、常に、「普通の人間」と一緒に住んでいた人間の意見」なのである。

「普通ではない人間と一緒に住んでいた人間の意見」というのは、最初から、前提として、思考のなかで、無視されている。「普通の人間」の思考のなかで、無視されている。

きちがい家族の行為によって、からだをだめにされて、どれだけがぱっても一メールしか飛べない

  きちがい兄貴というのがブラックホールなんだよ。あるいは、きちがい兄貴というのが、そもそも、存在しないものなんだよ。

だから、きちがい兄貴がやったことによってしょうじたこと、すべてを理解できない。だって、そいつらのまわりには、そういうことをやる人間がいないから。ずっとずっと、執着して、毎日毎日、何時間も何時間も、そういうことをやる人間がいないから……。

そういうことをやる人間が「この世にいない」という設定でもの言っているんだよ。むりなものはむりなんだよ。そして、兄貴のきちがい行為によって、能力がなくなったんだよ。

ぼくの人生というのは、たとえるなら、ほんとうは八メートルとべるのに、きちがい家族の行為によって、からだをだめにされて、どれだけがぱっても一メールしか飛べないからだになったやつの人生んなんだよ。

がんばってがんばって、やっと一メートルとべるようになったんだよ。

ほんとうは、六〇センチなのに、努力をして努力をして、一メートルとべるようになったんだよ。

きちがい兄貴の行為というのは、毒で、跳躍能力を制限するものだ。

ようするに、毎日毎日、毒をばらまいて、ぼくの跳躍能力をうばったのだ。

けど、世間には、そういう家族がいないのである。世間の人には、そういう家族が「げんに」いないのである。なので、そんなのは、想像上の生き物なんだよ。

「そんなことをする人はいない」と思っている世界で暮らしているんだよ。そうなるとどうなるか? 自分は、三メートルしか飛べないのに、「努力をすれば三メートル、とべるようになる」と説教をしはじめるんだよ。俺はほんとうは八メートルとべるわけだから、こんなやつに説教をされなくていい人生だったんだよ。

「そうなる」ということを無視する。

こいつらは、「そうなる」ということを無視する。

だれでも、おなじことをされたら六〇センチしか飛べくなるのに、それを理解せず、最初から、俺が六〇センチしかとべないやつだと思って、えらそうなことを言ってくる。

2024年2月13日火曜日

まさしく、矛盾した状態で生きているということになる。

 「できると言えばできる」と思っている人は「できない」ということを無視するようになり、「言ってもできなかった」ということを無視するようになるのである。

そりゃ、その人の頭のなかでは「できると言えばできる。これが正しい」ということになっているからだ。けど、そういう人も「できると言ってもできないこと」はかかえているのである。

じゃあ、そういう人がどうやって矛盾を解決しているのかというと、無視することで解決しているのである。「できると言ってもできないこと」には注意をむけないようにする。あってもないようにあつかうことで矛盾を解決しているのだ。

けど、これは、本人のなかでは、矛盾を解決していることになるけど、外側から見れば、矛盾を解決してないということになる。まさしく、矛盾した状態で生きているということになる。

 

前提

 ヘビメタ騒音と言うと、失笑されるのだけど、ぼくと同じ量の騒音をあびた場合、全員が宿題をすることができなくなると前提しよう。

そして、ぼく以外の全員が、ぼくと同じ量の騒音をあびてないと前提しよう。そうなると、ぼく以外の全員が、自分は、エイリと同じ量の騒音をあびたとしても、宿題をすることができるという前提でものを言ってくることになる。

これは、エイリを軽蔑することになる。これは、エイリを宿題を忘れるようなダメ人間だと思うことになる。「騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいできるに決まっているのに、それを、エイリがやらないことを選択して、やらないだけなんだ」と思うようになる。

ようするに、「やろう思えばできるのに、さぼっているからダメなんだ」と思うようになるのである。

だから、そういう前提で、ものを言ってくることになる。

屈辱じゃないか。

そいつらだって、ぼくと同じ量、騒音をあびた場合、宿題ができなくなるのだから。

けど、これは、ぼくと同じ量の騒音をあびた場合、全員が宿題をすることができなくなると前提が正しいばあいの話だ。まちがっているのであれば、そういうことは言えなくなる。

けど、ぼくには、その前提が正しいと証明できないのである。そういうものを突き付けられてしまった。 

ほんとうは、全員ができないのに、全員が、「自分ならできる」という前提で、俺を見下してくるのだ。こんなのは、ない。

けど、「全員ができなくなる」ということを証明することができない。実験? そんなのは、ありえるはずがない。

だから、本人が……俺の話を聴いた本人が……「自分なら、同等の騒音が鳴ってたってできる」と思ったら、それで、おしまいなのである。そいつが、俺のことをバカにするということが確定している。

けど、それがいやなら、宿題をすればいいじゃないかということになるのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っていると、どうしてもどうしても、どれだけがんばっても、宿題ができない状態になるのである。 

きちがい家族のきちがい騒音が鳴っていると、どれだけがんばっても、どれだけがんばっても、どうしてもどうしても、どうしても、宿題ができないのである。

事実として、宿題ができない。

だから、宿題がある日は、毎日、次の日は恥をかくということが、決まっているのである。みんなから、見下されるということが決まっているのである。こんなのはない。

みんながわかってないのは、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないということだ。これがわかってないのである。

ようするに、みんながみんな「ヘビメタ騒音が鳴っていても、宿題ぐらいできる」という前提でものを考え、ものを言ってくるのである。

こんなの、地獄だろ。

そして、「みんなにバカにされるから、ヘビメタを鳴らすな」ということをきちがい兄貴、どれだけ言っても、きちがい兄貴がそういうことを認めないのである。ここでも、「認めない」ということが発生する。確定事実なのに、きちがい兄貴が認めない。きちがい兄貴は、でかい音で、ヘビメタを鳴らしているつもりがまったくないのだけど、本人の耳が悪くなるようなでかい音で常にヘビメタを鳴らしている。きちがいだ。そして、もちろん、「ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題ができなくなる」ということを認めない。そして、「宿題をやっていかないと、みんなからバカにされる」ということを認めない。関与すら、認めない。自分がやっていることとは、まったく関係がないことだと思っているのだ。きちがい兄貴の態度というのはそういう態度だ。これが、いじわるで、ほんとうは知っているけど、そういうふりをしているというのではなくて、頭の構造が異常なので、ほんとうに、まったく知らない状態になっているのだ。頭の状態が異常なので、感覚器をだまして、感覚器を上書きして、しずかな音や小さな音で鳴らしているつもりなのだ。頭がおかしいからそういうことが可能なのだ。けど、それは、外からは見えない。そして、実際にうちにいる人じゃないと、「そういう態度で鳴らしている」ということが、まったく、まったく、わからない。「言えばわかってくれるんじゃないかな」と考えてしまうのだ。だから、ここでも、きちがい兄貴のヘビメタ騒音についてまちがった前提でものを考えているのだ。そして、それは、ぼくがどれだけ、きちがい兄貴のことに説明しても、つたわらないことなのだ。そもそも、そんなに関心がない。自分の家族はそういう家族ではない。自分は経験的に、そういう家族が、そういうことをするということがわかってない。それなら、特別に関心がないし、自分は被害を受けていないのだから、自分のなかの常識にこだわることになる。わざわざ、自分のなかの常識……すでに成り立っている常識をかえようとは思わない。そんな、レアなケースにあわせて自分の常識をかえようとは思わないのだ。「これこれは、こういうものだ」というイメージがあるのである。「家族はこういうものだ」「家族の反応はこういうものだ」というイメージがある。そのイメージはその人の自我に直結しているので、あんまりかえたくないことなのである。これは、むかし書いたから、ここではもう、省略する。



2024年2月12日月曜日

宿題を忘れるのはエイリさんの問題だと思われるのである

 きちがい兄貴の態度について、ちゃんと説明しても、すぐにわかってくれたのは、少数派のなかの少数派だよ。レアな人たちだよ。たいていのやつは、きちがい兄貴の態度について、納得しない。納得しないというのは、ようするに、「そんなことはないだろ」「ちゃんと、説明すればお兄さんだってわかってくれるだろ(それなのになんだ)」というような反応のことだ。

ヘビメタの音がものすごく強烈なんだけど、家族の一員が、そういう強烈な音で音楽を鳴らすうちの人というのが、いない。それは、きちがい兄貴が、とてつもなくレアな人だからだ。基本的に言って、世界のなかで、きちがい兄貴が「うちのなかで」一番でかい音でヘビメタを鳴らした人間だと思う。「うちのなかで」だよ。「うちのなかで」。 世界のなかで、きちがい兄貴が「うちのなかで」一番、長い時間、ヘビメタを鳴らした人間だと思う。『うちのなかで』ヘビメタを鳴らした時間が一番長いんじゃないかな……。世界のなかで。あんなにこだわって、あんなに長い時間、あんなに長期間にわたって、ヘビメタを『うちでは鳴らせない音』で鳴らし続けやつは、うちの気ちがい兄貴しかいないと思う。うちの兄貴が、世界で一番長いあいだ、長い時間、でかい音でヘビメタを鳴らした人間だと思う。

 

普通の人は、普通の兄を想像してしまうのだ。普通の人は、普通の人が、ヘビメタを鳴らしていると思っているのだ。けど、うちの兄貴は、きちがいなんだよ。おやじとおなじタイプのきちがいなんだよ。ぜんぜんちがう。普通の人じゃない。普通の人じゃない。だから、完全に誤解をしている。普通の人が考えるのは、「宿題をやるから、しずかにしてくれ」と言われたら、しずかにする人間のことだ。ちがうのである。音のでかさについても、きちがいなんだよ。ここで何度も説明しているけど、意識のレベルでは、でかい音で鳴らしてないつもりなのだ。もちろん、ヘビメタを鳴らし始めたころの聴力は普通の人の張力とおなじだ。自分の耳がヘビメタ難聴になるほど、でかい音で鳴らしたかったから、ヘビメタ難聴になる穂ででかい音で鳴らしても、普通の音で鳴らしていると思っていたのだ。感覚器を書き換えてしまうという表現しているけど、こんな人、そこらじゅうに、いるはずがない。レアなのである。だから、普通の人は、誤解をするんだよ。

あのヘビメタ騒音のなかで、宿題ができないということに関しても、誤解をしている。俺がそういうふうに言っているだけだと思っているのだ。けど、特別にヘビメタが好きな人間でなければ、どれだけ努力しても、あの音のなかで、宿題をすることはできない。ようするに、普通の人は、「ヘビメタ騒音で、宿題ができない」ということを俺の問題にしているのだけど……兄貴の問題ではなくて俺の問題にしているのだけど……自分だってできないのだ。「(そういう音のなかで)宿題ができなくなる」ということには確信があるね。絶対に、俺とおなじように、宿題ができなくなる。あれが、どういう音だかわかっているのか? きちがい兄貴の態度がどういう態度だかわかっているのか?

ようするに、おなじ状態なら、ほとんどの人が、自分だって宿題をすることができなくなる。宿題をすることができないのだから、次の日、学校に行けば、「宿題を忘れた」ということになる。けど、忘れたわけじゃないのだ。きちがい騒音のなかで、宿題をやろうと努力したけど、どうしても、宿題をすることができなかったということだ。ともかく、ほんとうにやられたら、自分だって、宿題を忘れるようになるのに、自分なら、宿題はできるという前提でものを言う人たちが多かった。九九%ぐらいかな。実際に、きちがい家族に、きちがい的な騒音を鳴らされたわけではないので、そういう騒音が鳴っていると、宿題ができないということがわからないのだ。自分なら、そういう騒音が鳴っていても、できるはずだという前提でものを言っているのだ。けど、それは、ちがう。これは、証明ができない。けど、ちがう。ともかく、そういうやつらは、ほんとうは、自分たちだって宿題ができなくなるのに、宿題ができくなるのはエイリさん特有の問題だと思うのである。俺だって家族の騒音ぐらいあったという人たちが出てくると思うけど、ちがう。それ、音のでかさも、音の持続時間も、音の持続期間もちがう。音を出しているやつの、脳みその構造がちがう。音を出しているやつの、脳みその構造がちがうということは、音を出しているやつの、態度がちがうということだ。音を出しているやつの、脳みその構造がちがうということは、音を出しているやつの、感覚がちがうということだ。きちがい兄貴みたいなやつが、そんなにいるはずがない。耳が正常なのに、自分がでかい音で鳴らしているときは、どれだけでかい音で鳴らしていても、普通の音(問題がない音で)鳴らしていると(嘘でなく)思えるようなやつが、そんなにいるわけがない。きちがい兄貴だって、ほかの音なら、一〇秒も鳴っていれば、「うるさい!!!!」と怒鳴るような音だ。そういう音で、ずっとずっとずっとずっと、鳴らして、まったく問題だと思わない。そんなやつが、ざらにいるはずがないだろ。正常な人が「でかい音だな」と言うことはわかっているけど、でかい音で鳴らしたいので「こんなのは普通の音だ」と言っているのとは、ちがうんだよ。そういう人は、意識的なレベルで「でかい音で鳴らしている」ということがわかっている。

ともかく、兄貴がこういうやつだから、まるで俺が悪い人間のように言われるのだ。こなの、ない。 

*     *     *

俺の言っていることがわからないだけなのに、くそを言うな。くそ、言うな。

「宿題を忘れたのに、いばっている」

 ほんとうに、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないのである。できない。これはたしかだ。騒音耐性が高い俺でも、きちがい兄貴が、好き勝手に、兄貴のやりたいレベルでヘビメタを鳴らすと、どうしても、宿題ができくなるのである。

で、そうなると、宿題をやらないまま、次の日、学校に行くことになるのだけど、そうすると、先生やほかの人は「エイリが宿題を忘れた」と思うのだ。

忘れたわけじゃないのだ。

で、そういう場面で、「兄が、ヘビメタ騒音を鳴らしていて、どうしても宿題ができない」ということを言っても、兄のほうをせめる人ひとりもいなかった。「そんなのは、お兄さんに言えばいい」という話になる。

で、この場合は、宿題を忘れたことになっていて、「宿題をすることはできない」ということを言ったあとに、「何度も、兄に注意したけど、兄が、ぼくの言うことをきかずに、ずっと鳴らしている」ということを言うわけだ。そうすると、「それは、家族で話し合ってください」ということになる。

で、ともかく、「兄のヘビメタが鳴っていると、宿題ができない」ということは、認められてないままなんだよ。だから、ずっと毎日、宿題を忘れていくことになるのだけど、先生やほかの人は、きちがい兄貴のことがわかってないから、たいした問題だと思ってないんだよね。

これで、ぼくが「ヘビメタが鳴っている以上、宿題はできない」ということを言うと、「宿題を忘れたのに、いばっている」と感じるやつが出てくる。

まあ、クラスメイトだけど。

そういうときの、そういうやつの不満そうな顔というのは、「そんなの、お兄さんに言えばいいだろ」と言うやつの不満そうな顔と、そっくりだ。

こういうやつらのなかでは、ともかく、「ヘビメタ騒音で宿題ができない」ということを聞かされたということが不愉快なことなのだ。

こういうやつらのなかでは、ともかく、「兄が、言うことをきかずに鳴らし続ける」ということを聞かされたということが不愉快なことなのだ。

すべてにおいて俺が誤解をされている。

 いま、夕方なんだけど、夕方のヘビメタ騒音はすさまじいものがあった。ぼくは、何度も言っているけど、生まれたときから、幼稚園のとなり住んでいるわけで、騒音耐性は高いほうだ。

そのぼくが、「こんなのはない」と思うほど、うるさい音で鳴っている。あれ、きちがい兄貴は、ヘビメタを鳴らすまで、フォークギターを弾いたり、普通のステレオではやりの曲を聴いていた。それらは、普通の音だった。

けど、ヘビメタ用にオーディオセットを買って、エレキギターを買って、エレキギター用のアンプ付きスピーカーを買ってからの音というのは、たぶん、ほかの人が、「自分の家では」聞いたことがないほどでかい音だ。これは、「うちでは」ということだ。

音の聞こえ方にはいろいろとある。音源の音のでかさだけが問題ではない。音源からの距離というのが問題なんだよ。

で、コンサート会場では、どうだか知らないけど、普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしていたのはたしかなんだよ。普通の人でも、特に、ヘビメタがきらいな人じゃなくても、あの音は「ものすごくでかい音だ」と感じる音なんだよ。そういうでかい音で鳴らしてたんだよ。

けど、そういうことが、わからないんだよ。

そりゃ、どのくらいでかい音で鳴っているのか、俺が言葉で表現しても、実際に、横の部屋で鳴らされているわけではないので、まったくわからない。

そして、きちがい兄貴の態度なんだけど、これも、普通のうちの家族のメンバーにはない態度なんだよ。ほんとうに、すべてにおいて俺が誤解をされている。

ヘビメタ騒音の話を聴いたとき、ある種の人は、おこってくるのだ。ようするに、「そんなのは、兄貴に言えばいいだろ」と怒るやつがいる。それで、「兄貴にはさんざん言っている」ということを、言った場合、さらに怒るのだ。

不愉快だという顔をして怒る。で、「そんなのは、兄貴に言えばいいだろ」とそいつが言う前に、俺が、ちゃんと「兄貴には、何度も注意した」という内容を言っていたとしても、そういうことを言う。

「兄貴には、さんざん注意したけど、兄貴が言うことを聞かない」ということをぼくが事前に話していたとしても、「そんなのは、兄貴に言えばいいだろ」ということを言う。

だから、「兄貴には、さんざん注意していると言っているだろ」と言うわけなんだけど、そうすると、「なんだそんなの」「なにがヘビメタ騒音だ!」と怒ってしまうのだ。

ぼくは、すべての場合において「兄貴には何回も注意をしている」ということを言っている。「兄貴が言うことをきかない」ということを言っている。言っているのに、「そんなのは、兄貴に言えばいいだろ」と怒るやつがいる。

こいつらの、俺に対する見下しが、半端じゃないのだ。

これは、ヘビメタが好きなやつがそういうことをする場合があるのだけど、別にヘビメタが好きじゃなくても、そういう反応をするやつらがいる。「そんなにでかい音で鳴らしているのなら、親が注意する」というやつも、怒って言っているんだぞ。

2024年2月11日日曜日

その変化と、器質的な変化は別の問題だ。

  普通のストレス反応で処理できるものをソフトウエア的な問題だとする。普通のストレス反応で処理できないものをハードウエア的な問題だとする。

この、ソフトウエアとかハードウエアとかというのは、比喩的な表現だ。また、器質的な変化を生じさせる出来事はハードな出来事だとする。

器質的な変化を生じさせない出来事をソフトな出来事だとする。過去無関係論者というのは、ハードな出来事とソフトな出来事を、混同している。ごっちゃにして考えている。彼らが例として考えるのは、ソフトな出来事だ。そして、すべてが、ソフトな出来事だと思ってしまうのだ。そして、人に助言をするタイプの過去無関係論者は、言霊主義者とおなじように、他人の現実を無視する傾向がある。

比喩的な言い方だけど、調節弁そのものがこわれてしまったのかどうかというのは重要な問題だ。ちがいがある。調節弁がこわれていなときの一時的な不調と、調節弁そのものがこわれてしまった場合の長期にわたる不調はちがう。

調節弁そのものがこわれてしまった場合は、こわれてしまったあとずっと、影響をうける。器質的な変化が生じたので、器質的な変化がしょうじた部分が、もとの状態にもどるまでは、症状がしょうじる。

この調節弁そのものがこわれてしまったのかどうか、ということは、非常に重要な問題だ。

ホシオメタシスの範囲で、普通に人間の身体状態は変化している。けど、その変化と、器質的な変化は別の問題だ。たとえば、失恋による一時的な混乱や苦しみは、ストレス反応によって処理できるものだ。これは、たしかに、短い時間の範囲で見れば、物理的な状態に変化がある。けど、調節弁がこわれていなければ……つまり、器質的な変化が生じていなければ……ストレス反応内の変化なのである。ようするに、ホシオメタシスは保持されている状態だ。しかし、たびかさなるストレス刺激によって……調節弁がこわれてしまった場合は……つまり、器質的な変化が生じてしまった場合は、ホシオメタシスが保持されてない状態になる。調節弁が働いている状態での変化なのか、それとも、調節弁がこわれたあとの変化なのかは、実際に形成される症状に影響をあたえる。

 

 

そんなんじゃない状態なんだよ。

 屈辱の数々。ほんとう、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、きちがい的にでかい音で、ヘビメタを鳴らさなかったら、こんなことになってない。これ、ほんとうに、どれだけ言っても、普通の人にはわからないと思うけど、影響がでかすぎる。みんな、影響を無視して、俺にものを言ってくる。そんなんじゃない状態なんだよ。

俺がヘビメタ騒音にこだわっているように見えるかもしれないけど、おなじ状態でヘビメタ騒音生活……ヘビメタが好きな人にとっては別の騒音生活が続けば、「よそから見て」こだわっているような状態に見えるようになる。言っておくけど、ヘビメタを、なんだろうが、でかい音で鳴らすことにこだわっていたのは、きちがい兄貴だ。そして、普通の人の感覚なら、最初から、そういう音で鳴らそうとも思わないことなのだ。普通の人なら、一日に一分でも鳴らすことをはばかるような音で、ずっと、鳴らしていた。これ、きちがい親父と頭の構造がおなじだから、ぼくが、よその人から、誤解をうけることになる。ほんとうに、くるしい。ほんとうにくやしい。そんな、失恋みたいなものであるはずがないだろ。まあ、きちがいヘビメタ騒音生活が、女の子と普通につきあうことができない状態をつくりだしてしまうのだけど……。みんな、ヘビメタ騒音のことを過小評価している。現在、ヘビメタ騒音の影響があるのに、過去におけるヘビメタ騒音という出来事を無視すれば、現在の影響がなくなるというような前提で、ものを言うのはやめろ。不愉快だ。

 

過去の出来事にこだわらない状態になっても、現在のくるしみが続くのである

 何度も言うけど、過去を無視することで、現在はかわらない。厳密に言えば、現在の状態はかわらない。

たとえば、有機水銀によって水俣病になった人が、水俣病になるまでの過程を、無視したとする。汚染魚を食べたという過去を無視したとする。それで、現在の状況がかわるのだろうか? かわらない。

ところが、「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と言う人たちは、そういう効果を、設定して、ものを言っている。水俣病になっている人が、くるしみを感じているとする。過去の出来事が現在に影響をあたえないのであれば、くるしみもない。

過去が関係がないのであれば、有機水銀によってしょうじた現在のくるしみはないことになる。汚染魚を食べたという過去の出来事によってしょうじた、現在の状態は、汚染魚を食べたという過去の出来事を無視することによって、かえることができるのだ。本人が過去の出来事を無視すれば、現在のくるしみが消えるのだ。

そんなことがあるはずがない。

ところが「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」というようなことを言う人たちは、そういう効果を狙って「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と助言している。

とりあえず「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と言う人たちのことを「過去無関係主義者」と呼ぶことにしよう。過去無関係主義者は、対象となる人が過去の出来事にこだわっていると思っている。

なので、対象となる人が過去の出来事にこだわることをやめれば、過去の出来事が、現在に影響をあたえなくなると思っているのだ。

けど、これも、まちがいだ。

かりに、水俣病の人が記憶喪失になり、汚染魚を食べたという過去の出来事を忘れてしまったとする。こだわりようがない状態になったわけだ。けど、汚染魚を食べたという過去の出来事を忘れたら、突然、からだが汚染魚を食べるまえの状態になるかというとならない。

くるしみは、続くのである。

過去の出来事にこだわらない状態になっても、現在のくるしみが続くのである。過去無関係主義者は、言霊主義者のように、勘違いをしている。理由がわかってない。過去の出来事を無視すれば、現在に対する過去の影響がなくなると思っているのだ。そんなことはない。だいたい、相手の重要な理由を、無視するということが、失礼なことなのである。

*     *     *

一〇年以上毎日繰り返された物理刺激は、器質的な変化を生じさせると思う。証拠はない。けど、 一〇年以上毎日繰り返されたヘビメタ騒音は、睡眠にかかわる脳の質的な変化を生じさせたと思う。過去無関係主義者が考えていることというは、完全にソフトなことなのだ。本人は、つらかったと言うけど、ソフトなことを考えている。

たとえば、失恋だ。過去において、好きな人に告白してふられたとする。当時、ショックを受けて、はげしく落ち込んだ。けど、「過去を断ち切って」過去の苦しみを乗り越えた。だから、現在は過去の出来事の影響をうけてないと言える……。こんな感じだ。

過去の出来事って失恋のことね。でっ、そういうことを言う人たちは、まったくちがったことをおなじことだと思っているところがある。「なんで、勘違いしちゃうんだ」とぼくは思うけど、ともかく、この人たちにはそういうところがある。

*     *     *

たとえば、虫歯について考えてみよう。たいていの場合、虫歯菌は、母親からもらっている。虫歯菌が口内に存在するようになってから、歯を磨かなかったとする。そして、虫歯になったとする。こういうことを考えた場合、母親から虫歯菌をもらったという過去の出来事を無視して、歯を磨かなかったという過去の出来事を無視すれば、虫歯はなおるのかというと、なおらない。

現在において、虫歯でいたいという感覚があるとする。現在、いたい。現在、いたさを感じている状態で、過去の出来事を無視した……。いたみが消えるだろうか? 消えない。こういうことだ。

過去無関係主義者は、虫歯になるに至った過去の出来事を無視すれば、虫歯のいたみが消失すると思っているのだ。AさんとBさんがいたとする。Aさんは現在虫歯で歯がいたいとする。Bさんは、過去無関係主義者だとする。Aさんが「歯がいたい」と言ったとする。Bさんは「Aさんが歯がいたいという過去にこだわっている」と思うのだ。そして、「こだわりをすてればいたみが消失する」「過去を断ち切れば、いたみが消失する」と思っているのだ。だから、「過去に過去にこだわらなければいい」「過去は現在に影響をあたえない」と助言をする。けど、過去にこだわらないようにしても、過去は現在に影響をあたえないと思っても、けっきょく、いたみが消えない。過去無関係主義者は、そういう、迷惑な助言をして、対象となると人をこまらせている。不愉快な気持にさせている。

*     *     *

「過去は関係がない」って、正気で言っているのだろうか?

 「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とかと言う人は、頭がだいじょうぶなのか、心配になるレベルの人だ。

どうして、こういうことになってしまうのか。

そして、きちがい兄による、ほかの家にはない、きちがい的にでかいヘビメタ騒音という条件を背負ってしまうと、こういう人にバカにされることになる。

「過去は関係がない」って、正気で言っているのだろうか?

「過去は現在に影響をあたえない」なんて、正気で言っているのだろうか?

これ、こまるんだよな。

こういうことを言う人たちだって、ちゃんと、過去に対応しているのである。過去の影響をうけているのである。こういうことを言う人たちだって、過去の出来事と過去の記憶に対応して生きているのである。

まるで、自分は過去の影響をうけてないような気分でいるかもしれないけど、それは、言霊主義者が現実を無視するのとおなじだ。

これ、過去の出来事どころか、過去の記憶がない状態で生きているのであれば、なにもすることができないのだ。どの程度の過去の記憶がないのかは別にするけど、過去の記憶がなければ、現在において、人間としてある程度まともな行動をするということはできない。

だいたい、この人たちが普通に使っている言語……日本語だって、過去の記憶がなければ、運用することができない。たとえば、ひどい記憶障害について考えてみよう。

過去の記憶がなければ、日本語で「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」と言うことさえ、できなくなってしまうのだ。そういうとについて、少しは考えことがあるのだろうか? この人たちは、考えたことがあるのだろうか。

この人たちがどういう意味で、「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とかと言っているのか、ぼくは知っている。

ほかの人を元気づけるために言っているのだ。

しかし、それが、嘘なのだ。こういう嘘の助言は人を傷つける。元気にならない。むしろ、不愉快になって、生きる気力をうしなう。生きる気力を吸い取るような助言なのだ。

 

2024年2月10日土曜日

アファーメーションには、言葉の力しかない。言霊に設定されている「超自然的な力」なんてない。

 言霊的な助言なんてまったく役に立たないのだけど、言霊主義者は、じゅうぶんに有効な、役に立つ助言をしてやったと思うわけだよ。そして、言霊のトリックについて説明しても、納得してくれない。

ものすごく悪い条件が成り立っている人は、じつは、言霊的な助言をされるとこまるのだ。こまってしまうのだ。言霊主義者における「言霊」というのは、ものすごい力をもっているものなんだよ。けど、言霊には、まったく力がない。うそなんだよ。言霊というものが宿っていて、言霊にはすごい力があるというところが、嘘なんだよ。だから、例として出てくるのは、じつは、言葉の力だったりする。で、言葉の力というのは、言霊の力にくらべて非常に弱いものなんだよ。そこにもトリックがある。なにかものすごい力で現実をかえてまうようなことができるような話になっているけど、実際には、自分に言い聞かせるというような役目しかない。それだっていいじゃないかと思うかもしれないけど、これまた、自分に言い聞かせるやり方で、効果がある場合と効果がない場合がある。とりあえず、自分に言い聞かせるようなやり方をアファーメーションと呼ぶことにする。たとえば、ヘビメタ騒音にたたられてない状態で、アファーメーションをすれば、アファーメーションの効果は、あるかもしれない。けど、ヘビメタ騒音にたたられている状態で、アファーメーションをしても、効果はないし、負の効果がある場合がある。効果はないか、あるいは、負の効果がある。ようするに、アファーメーションをしただけ、悪くなってしまう。言霊主義者も普通の人も、悪い条件というものについてまったく考えてないのである。ヘビメタ騒音のなかでアファーメーションすること……。こんなの、感情がボロボロになってしまう。みじめでみじめでしかたがない気持ちになってしまう。

たとえばの話だけど、言霊に問題解決をしてしまうようなものすごい力があるとする。そして、アファーメーションにも、ほんの少しの力があるとする。言霊主義者というのは、言葉の力と言霊の力を、いつも、混同している。ほんとうは、言霊主義者が言っている「言霊の力」というのは、「言葉の力」だ。ようするに、自分に言い聞かせるような効果しかない。問題をほんとうに解決してしまうような効果はないのだ。どうしてかというと、言霊には、超自然的な力と、それを機能させる超自然的なしくみがないからだ。言葉には言霊が宿っているということになっていて、言葉を使うことと、言霊の力を使うことが、まるで、おなじことのように感じているみたいなのだけど、言葉を使うことと、言霊の力を使うことは、ちがうことなんだよ。言霊主義者は、おなじことのように感じているみたいだと、ぼくが思っている。言葉を使うことと、言霊の力を使うことはちがう。けど、これ、言葉を使えば、自動的に言霊の力をつかったことになっているみたいなのである。言霊主義者がそう考えているとぼくが思っている。

たとえば、虫歯になったとしよう。「虫歯はなおると言えば、虫歯はなおる」……これが、言霊主義者が考えていることだ。けど、言霊主義者は、じつは、言霊には力がないということを知っているので、自分のことにかんしては、言霊的な解決方法を採用せず、現実的な解決方法を採用する場合が多い。そして、言霊主義者はそのことにまったく疑問を感じないのだ。ほんとうは、矛盾しているのだけど、矛盾しているとは思ってない。言霊主義者なら、「虫歯はなおる」と言って、虫歯をなおすべきなのだ。虫歯になったら、「虫歯はなおる」と言って、言霊の力を利用して、虫歯をなおすべきなのだ。言霊は絶対であるわけだし、言霊の力は、すごい力なのだから、当然、虫歯ぐらい、ちょちょっとなおせる。なおると言えばなおるのである。なおると言ったのに、なおらないなんてことはないのである。言霊の力は、虫歯をなおせる力なのである。だから、虫歯をなおすには、言霊の力以外、必要がないのである。しかし、言霊主義者は、こういうものすごい、言霊の力を、まったく信じていないので、実際には、歯医者に行ってしまうことが多いのである。言霊を利用して虫歯をなおすのではなくて、歯医者の医療技術を使って虫歯をなおそうとするのである。こんなのは、矛盾だ。何度も言うけど矛盾だ。しかし、言霊主義者は、その矛盾に気がつかない。だから、歯医者に行ったあとも、「言霊は絶対だ」なんてことをほかの人には言うのである。なんで、現実的な場面で「言霊による解決方法」を言霊主義者は採用しないのか? それは、言霊主義者が言霊の力をまったく信じてないからだ。言霊に虫歯をなおす力なんてないと思っているからだ。

いっぽう、アファーメーションの力というのは、悪い状態でないなら、気分に影響をあたえるかもしれないというような言葉の力だ。たとえば、すでに虫歯になった状態というのは、悪い状態なのである。虫歯になったとき、「虫歯はなおる」と何回も念じるように言ったとする。これは、条件が悪いときのアファーメーションだ。アファーメーションには、言葉の力しかない。自分で自分を説得するような力しかない。言霊に設定されている「超自然的な力」なんてない。こういう意味で、じつは、言霊思考というのは、カルト思考だ。カルト的な考え方なのである。

*     *     *

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが言霊主義者で、Bさんは虫歯をかかえている人だ。AさんのBさんに対するアドバイスというのは「虫歯はなおると言えばなおるので、なおると言えばいい」というものだ。しかし、Bさんが「虫歯はなおると言ってもなおらなかった」とAさんに言うと、Aさんは、Bさんの言い方が悪いと言ってBさんのせいにする。言霊理論がまちがっているということを認めない。また、Aさんは、「Bさんが何回も言わないからダメなのだ」ということを言って「虫歯がなおるまで、何回でも言えばいい」ということを言う。これも、じゅうぶんな回数、言わないBさんのせいだと言うのだ。言霊には虫歯をなおすような力はないということを、認めない。けど、Aさんが、虫歯になったら、Aさんは、言霊で解決しようとせず、歯医者に行くのである。Bさんに、Aさんが熱心に言っていたことというは、いったいなんなのか?

自分のことであれば、現実的な対処をするのに、ひとごとだと、言霊的な対処をすすめるのである。そして、自分のことについて現実的な対処をするのは、言霊の力がないことを知っているからなのである。もし、Bさんが、虫歯をかかえたまま「虫歯なおる」と言い続けたら、虫歯は、より進行して、より悪い状態になるだろう。それは、もちろん、Aさんの言うことを信じてしまったBさんの責任だ。けど、Aさんにはまったく責任がないかと言うと、Aさんにも責任がないわけではないと思う。ようするに、言っただけの責任がある。それは、もちろん、法的に問題になるような責任ではない。しかし、言えば言っただけの責任はある。 

AさんはBさんにまちがったアドバイスをしたあとも、まったく責任を感じず、また、「言霊は絶対だ」「言霊(理論)は正しい」と思っているので、同種のアドバイスを、こまっている人にし続けることになる。ようするに、Cさん、Dさん、Eさんといった、未来の被害者が潜在的にいるということになる。しかも、自分は、歯医者に行くのに、「なおると言えばなる」ということを信じている状態なのである。これは、何度も言うけど、矛盾している。本人は、自分の「現実度」にあわせて、「言霊的な解決法」と「現実的な解決法」を使いわけているのに、ひとごとだと、全部が、自分にとって現実味がないことなので、(ひとごとだと全部が)言霊的な解決法で解決できることになってしまうのである。言霊主義者のなかでそうなってしまう。言霊主義者に悪意はないのだろうけど、これは、あまりいいことではない。

それから、ぼくが言霊理論を批判した場合、言霊主義者がどういう反応をするということを考えた場合、ぼくが言霊理論を批判したあとも、ずっと「言霊は絶対だ」とか「言霊理論は正しい」とかといった考え方をもち続けるということになる。で、ぼくに対する悪い印象ができあがるので「ネガティブなことばかり言ってると、そのうち痛い目を見るぞ」というような感情がわく……みたいなのである。言霊理論に対する批判は、言霊主義者にとって不都合なことなのである。なので、ぼくに対して「不都合なことを言ってきたわるいやつだ」というようなイメージができあがる。まあ、感情的な問題だよね。で、じゃあ、「エイリさんはいい人だ」と言霊主義者が言った場合、ほんとうに、「エイリさんはいい人だ」と思うことができるかどうかなんだよ。実際には、もうすでに、不愉快な感情が発生しているために、「エイリさんはいい人だ」と言っても、言霊の力が発動せず、「不愉快なことを言ってきた悪いやつだ」というようなイメージをもったままなのではないかと思う。言霊の力が本物?なのであれば、言ったら、そういうふうに思うのである。言霊主義者にとってエイリさんは、「言霊理論の批判をした悪いやつ」ではなくて「いい人だ」ということになるのである。そういうふうに、言霊の力を使って、自分の感情を書き換えることが可能だということも、じつは、言霊主義者が言っていることのなかに含まれている。そうなると、自分のことはすべて、自分の意志で制御できるというような意志教徒とおなじような理論をもっているということになる。言ってしまえば、言ったとおりになるのだから、「言う」という方法で、自分の制御はできるということになる。「言う」というのは、「言う」意志によって発動すればいい。なので、言うことによって「自分のことはすべて、自分の意志で制御できる」ということになる。言霊主義者が、意志教徒になってしまうのだ。自分の感情だって、言ってしまえば、その通りになるのである。

*     *     *

言霊主義者は、条件の悪い人に「無理なこと」をおしつけている。けど、それは、言霊主義者にとっては「無理なこと」ではないのである。けど、無理なことなんだよ。これ、ただ単に言霊主義者の経験のなかに、条件が悪い人の経験がはいっていないので、言霊主義者がわかってないだけかもしれないのだ。あるいは、走り幅跳びで八メートル以上とぶというように、一部の人間しかどれだけ努力してもできないことかもしれない。けど、ともかく、経験的に言って無理だとわかってることを、おしつけている。けど、言霊主義者は「無理だと言うから無理なんだ」とか「できると言えばできる」と言って、無理だということを認めない。言霊主義者が、条件が悪い人の条件で、それができるかというと、ほんとうはできない。できないのだけど、条件が悪くないので、できないということが、わからない。その条件だとできないということが、ぜんぜんわかってない。その言霊主義者には、その人がかかえている条件下の出来事がないので、経験的にわからない。その条件下で暮らしたことがないので、その条件下だとできないということが、経験的に(言霊主義者)にはわからない。「できないと言うからできない」のではなくて、できない条件下だから、できないのだ。「無理だと言うから無理なのだ」ということではなくて、無理な条件下だと、そのことが無理なことになるのである。ところが、経験がなく、わかっていないだけの言霊主義者が「できると言えばできる」「無理なことではないと言えば、無理なことではなくなる」ということを言うわけ。ようするに、その条件下では「無理だ」ということを認めないのだ。

それでは、言霊主義者は「認知症はなおる」と言うことで認知症をなおすことができるのかというと、できないのだ。無理なのだ。「虫歯はなおる」と言うことで、虫歯をなおすことができるのかというと、できないのだ。無理なのだ。そんなのは、言霊主義者だってできない。ところが、自分のことは棚上げなのである。「瞬間移動ができると言えば、瞬間移動ができるようになる」と言って、人には「瞬間移動ができると言うことによって、瞬間移動ができるようになること」を求めるけど、本人は「瞬間移動ができると、言ったって、瞬間移動なんてできるわけがないだろ」と思っているのだ。

多くの言霊主義者は「無理だとわかっていることにかんしては」言霊的な解決法をこころみようともしない。ようするに、多くの言霊主義者は「虫歯はなおる」と言って、虫歯をなおそうと思わない。「虫歯はなおる」と言うことで、虫歯をなおすのは無理だと経験的にわかっている。けど、人には「虫歯はなおると言えば、虫歯はなおる」と言って、無理なことをおしつける。言われた人が「できない」と言えば、「できないと言うからできないのだ」と、できないということを認めない発言をする。少数の言霊主義者は「虫歯はなおる」と言って、虫歯をなおそうとして、歯をうしなう。

2024年2月9日金曜日

大半の人が誤解するようにできている。

 大半の人が誤解するようにできている。前回の話だけど、普通の人は、お父さんはもう大人だから、こんなことがわからないはずがないと思うわけだよ。だから、こどものほうが(バカで)まちがったと思てっしまうんだよ。こういうことが、きちがい的な父親とかかわっていると、ほんとうに、いっぱい、いっぱい、しょうじてしまう。そうやって、こどもの側の人をバカにした人たちは、生涯を通じて、このことがわからない。これ、ほんとうに、頭にくる構造なのである。

普通の家の人は、「エイリの説得力がないからそうなんだ」と思ってしまうのである

 基本的に、きちがい親父が「お勝手に置いてあるごみ袋に、ゴミがたまるまでゴミを入れておくのではなくて、物置にもうひとつ別のゴミ袋を置いて、そっちのゴミ袋に毎日移動したほうがいい」と思ったのだ。それはなんか、「お勝手をきれいにする」というような感じのも妄想がある。 「きれいにしたほうがいい」と、ほかのよごれはガン無視のきちがい親父が、思ってしまったのである。で、きちがい親父がきちがい的なのは、「俺(エイリ)がそういうふうに望んでいる」と思っているところだ。「おまえ(エイリ)も、そのほうがいいだろ」という気持がある。その場合、俺がどれだけ、「このままでいい」「よけいなことをするな」と言っても、「(エイリ)も、そのほうがいい」と思っているという思い込みがくずれないのである。自分の頭の中で、俺の側の要望を勝手に設定したら、現実の俺が、何十回、何百回「そうじゃない」「俺は、その提案をよく思ってない」ということを言っても、親父の意識のなかでは、かわらないのだ。無意識的に、相手の気持ちが決まっているのである。で、それをくつがえすような相手の発言は、意識のほうにはのぼらないようになっているのである。こっちがどれだけ否定しても、きちがい親父の頭のなかにいる「俺」は「ごみ袋のなかの一日分のゴミ」を「物置にあるゴミ袋」に移動したほうがいいと考えている「俺」なのだ。勝手に、自分のなかで、そういうふうな俺をつくったら、どれだけ俺が必死になって、それを否定しても、きちがい的な意地で認めない。きちがい的なやり方で無視してしまう。で、これは、相手の言っていることがわからないということなのだけど、きちがい兄貴もおなじなんだよ。相手(エイリ)がどれだけ、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないからこまると言っても、そういう都合が悪い相手(エイリ)のすがたが見えないのである。トータルで、何万回、こまると言ったかわからない。これ、ほんとうに、何千回というレベルではなくて、何万回というレベルなのである。一日に何十回「こまるからやめてくれ」と言われても、相手がこまっているということが、まったく理解できない。きちがい兄貴の頭のなかには、何万回「こまるからやめてくれ」と言われても、こまっている俺のすがたはなくて、こまっていない俺のすがたしかないんだよ。だから、「悪気がないまま」ずっとやり続ける。で、きちがい兄貴も、きちがい親父も、そういう自分の性格について、気がついてない。本人の意識としては「そんなんじゃない」つもりなのである。そして、そういうところも、全部、無視しているのである。だから、無視しているつもりがないのだけど、無視している。ともかく、きちがい親父ときちがい兄貴は、「相手がこまっている」ということが、まったくわからない。きちがい的なしくみでわからない。そうなると、まわりの人は……関係がない普通の家の人は、「エイリの説得力がないからそうなんだ」と思ってしまうのである。そういうところがほんとうにある。これ、普通の家の人は、わからない。ハンダゴテ事件は、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだで起こった事件だ。けど、これは、ぼくときちがい親父のあいだに起こった事件とおなじ構造持っているのである。そして、これは、ぼくときちがい兄貴のあいだに起こったヘビメタ騒音事件と、おなじ構造をもっているのである。「使えないハンダゴテを学校にもって行くと、きちがい兄貴がこまる」ということがわからないのである。きちがい親父の頭のなかには「こまらない兄貴」のすがたしかない。学校の授業で、先生に「こんなんじゃ、できないぞ」と言われて(兄貴は)恥をかいたのだけど、その先生は「この子(兄貴)の説得力がないから、お父さんが誤解をした」と理解したのである。そして、たとえば、兄貴が「こんな、ハンダゴテでは使えるわけがない」ということを理解しなかったと思っているのだ。だから、その先生は、兄貴のことを低能児のように思ったわけなのである。で、そういうことが、いろいろなことで、発生するのである。「へん」なのである。「お父さんは、大人なのだから、そんなことがわからないはずがない」と普通の人が判断してしまうのである。そうなると、「こども側」の「説得力の問題」にされてしまうのである。あるいは、「こども側」の「知能の問題」にされてしまうのである。これ、くやしいんだよ。これ、くやしいんだよ。兄貴は、親父関係の事件でしかこういうことを経験してないわけだ度、俺は、親父関係の事件と、兄貴関係の事件の両方で、こういうことを経験している。ヘビメタ騒音事件における、まわり人の態度……普通の人の態度というのは、ハンダゴテ事件における、まわり人の態度……普通の人の態度とおなじだ。日本労働教徒も言霊主義者も、根底では、普通の人とおなじように、こういうまちがった認識をもっている。

 

時間の経過を考えなければならないのである

 「元気だ元気だと言えば元気になる」というような言葉は、相手の現実を、まっさきに無視した言葉なのである。ぼくがここでずっと言っているのだけど、生まれの格差は相当にでかい格差だ。これが、時系列的に影響をあたえないわけがない。洗脳された人はみんな「子供時代のことは大人になったら関係がない」とか「努力をすれば成功する」とかということを言う。こういうのも、「相手の現実」を無視した言葉なのである。生まれの格差は、生まれたときに固定化されて、そのあと値をかえないものではなくて、時系列的に値の差がものすごくでかくなるもなのである。ようするに、初期値でしかない。ところが、その初期値が、時間の経過とともに、個体にものすごい影響を与えいるのである。どうしてかというと、親の側の性格というのは、あんまりかわらないからだ。親の側の「脳みその構造」がかわらないので、きちがい的な親は、毎日毎日、きちがい的な行為をするのである。きちがい的な行為の影響を、子供側の人間は、うけるのである。ずっとずっと、毎日つみかさなっていくわけであって、時間の経過を考えなければならないのである。成人するちょっと手前あたりまでに、つもりつもった、「負の経験」は、甚大な量になる。なので、「子供時代のことは大人になったら関係がない」などとは、口がさけても言えない。ところが、めぐまれた人は、そういうふうに言いたくなるのである。めぐまれた人は、積極的に「環境」を無視するのである。環境のちがいを、絶対の意地で無視する。「自分の努力によって、成功した」「自分の努力によって、いまの地位をえた」と彼らは、言いたいのである。そして、これは、悪魔的な支配者ののぞむことなのである。

いろいろとあったなぁ。

  なんて、現実だ?

いろいろとあったなぁ。いろいろ、あった。どれもこれも、長期ヘビメタ騒音で汚染されたくるしい記憶ばかりだ。くるしかったなぁ。いまもくるしいけど。いまかりに、ものすごい美少女が横にいてくれたとしても、ぜんぜんおもしろくない。なんかすごい、仕事があったとしてもぜんぜんおもろしくない。おもしろくない。こころが、なんか、チカラをなくしている。

もう、つかれたというのがあるよね。

世間のやつは、ヘビメタ騒音がないのに、えらそうなことを言って……。世間のやつは、きちがい的な父親にたたられ続けたことがないのに、えらそうなことを言いやがって……。それ、洗脳の結果だから。この世というのは……いまのこの世というのは……生まれの格差がものを言う世界なんだよ。みんな「そんなことを言ってもしたがない」と言うけど、おまえらのそういう態度が、だめなんだよ。洗脳されて、くそあほなことばかりを言うようになって……。これ、ほんとうに、洗脳の結果だからなぁ。ひとつの方向を向いていた。まあ、今回、そのうち明らかになるとは思うけど、おそいんだよなぁ。きちがいとバカの組み合わせは、強烈だなぁ。ともかく、つかれた。もう、つかれた。

2024年2月8日木曜日

「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」

 ネズミのカサカサ音を思い出してしまった。俺は、ネズミを殺したくなかった。空気穴をあけてやりたかったけど、寄生虫の問題があるから空気穴をあけらなかった。だから「ネズミ対策工事をしよう」と言ったのに、「俺がつかまえるからいい」の一点張りだ。「家の中に入ってからつかまえたって、ネズミの糞の問題やダニの問題やナメクジの問題が発生するから、ネズミ対策工事をするしかない」と言ったって、「俺がつかまえるからいい」の一点張りだ。これ、ほんとうに、きちがい親父が、くそ意地をはって、ほぼ一日中、マグロの粕漬をテーブルの上にのせておくということに、こだわったからしょうじたことなのだ。そのまえに、なぜだか知らないけど、それまで台所に置いてあった生ごみの袋を、「物置にもって行ってやる」ということを言い出して、きかなかった。俺が「物置にもっていかなくていい」と言っても、一度、本人のなかでスイッチが入ってしまうと「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」と言ってきかないのである。「やらなくていい」——「やってやる」という問答が何十回も続くことになる。ゆずらない。しかも、これが、「なまゴミの袋が、台所にあると、おまえがたいへんだから」という理由なのだ。それだったら、俺が「台所にある生ごみの袋を物置にもって行かなくてもいい」とひとこと言えば、それで引きさがれ。こういうところが、俺が幼児の時代から、かわらない。普通の人は、きちがい的な脳みそをもつ家族と一緒に暮らすということが、どういうことなのか、まったくわかってない。


えらそうなことをさんざん言ってたって、脳みその影響をうける

 「どんな状態だって、元気だ元気だと言えば元気になる」とか、「自分は病気にならないと言えば病気にならない」とか「病気はなおると言えば、病気はなおる」とかと言ってた人だって、自分が認知症になれば、それまでなにを言ってたか、わからなくなってしまう。

えらそうなことをさんざん言ってたって、脳みその影響をうける。きちがいヘビメタに毎日毎日、長時間やられて、脳みそが影響をうけていた。問題なのは、「元気だ元気だ」と言わないことじゃなくて、毎日状時間、きちがい家族によるヘビメタ騒音が鳴っていたということなんだよ。

それで、睡眠時間が極端に短くなった。

言霊主義者によれば「どんな状態だって、眠れると言えば眠れる」のだ。受け止め方の問題主義者によれば、「そんなのは、受け止め方の問題だ」ということになる。意図的に受け止め方をかえればいいんだということになってしまう。ところがちがうんだよ。

そして、きちがい家族による、きちがい的な騒音というものを経験したことがない人たちが言っているんだよなぁ。

認知症ってこころがけの問題じゃなくて、脳みその問題なのである。

本人がそれまで「病気はなおると言えば、病気はなおる」と言ってたって脳みその状態がかわれば、それまで言ってたことがまったく関係がない状態になってしまう。「認知症はなおる」と言えば、認知症がなおるとでも言うのか?

「認知症がなおる」と認知症がなおるまで、言い続ければよいのか?

「認知症がなおる」と言っても、認知症はなおらない。「認知症がなおる」と言っても、脳みその物理的な状態がかわらないのであれば、認知症はなおらない。言霊の超自然的な力によって、認知症がなおるということがない。脳みその状態は、重要だよ。物理的な状態のことだけどね。

ひとごとであれば、えらそうなことを言える人たちって、どうにからならないのかな? 言霊を使って、その悪い癖をなおしてくれよ。

本人の認知症ひとつ、言霊の力ではなおせないのに、よく言うよ。認知症か認知症ではないかという条件ひとつ、言霊の力ではかえられないのに、よく言うよ。

普通の気持ち、普通の体力、普通の睡眠が、すべて破壊された。

 あの子と普通の気持ちでつきあいたかった。普通の気持ちで……。きちがいヘビメタにたたられている気持ちじゃなくて、普通の気持ちで……。ヘビメタ騒音に毎日たたられて7年間が経過しているんだよなぁ……。あの子にあったとき……。あの子が一番きれいだった。ヘビメタう騒音が続くということは……続いたということは……頭がヘビメタ騒音で汚染されている状態で生きているということだ。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間もそうなのである。影響をうけている。この影響がものごくでかい影響なのである。こんなの、どれだけ他人に言ってもしたがないけど、……ほんとうに、一日でも、破壊された。普通の気持ち、普通の体力、普通の睡眠が、すべて破壊された。あの音のなかにいて、普通の気持ちを維持するということができないのである。これも、幼児的万能感が強い人……じゃなくて、俺とおなじ経験がない言霊主義者は「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「どれだけつらい状態でも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とかと言いやがる。

言霊の力と魔法の力はおなじ

  言霊を信じている人は、自分が魔法を使えると信じている人なんだよ。その言葉を、魔法発動の呪文だと考えれば、呪文をとなえれば、魔法を使えるということになるんだよ。

たとえば、「わたしの指さきから、火が出る」と言えば、火が出るんだよ。言ったことが現実化するわけだからそうなるんだよ。言ったとおりになるのだからそうなるんだよ。言ったら、言ったとおりになる……。それが言霊理論だ。

おなじことだけど、内容を「詠唱する」とその通りになるのである。そういう力を自分がもっていると言っているのである。言霊の力で、そうなったと言っている人は、言霊の力を使うことができると言っているのである。

「内容」が、魔法の力によって、実現化される……のだ。言ったことが、実現化するというのは、言ったことが、魔法の力によって実現化するというのおなじなんだよ。

言ったことが、言霊の力によって、現実化するのだから、言霊の力を魔法の力と言い換えると、そのまま、魔法の力によって、現実化するということになるんだよ。言霊の力と魔法の力はおなじなんだよ。

もちろん、魔法が使えると言っている人が、ほんとうに魔法を使えるわけではない。

もちろん、言霊の力で、自分が言ったとおりになったと言っている人は、言霊の力を使えるわけではない。

そういうことを言う人だって、実際には、言霊の力で問題を解決したことは一回もない。言ったあとに、問題が解決したら、『言ったから、解決した』と思っているだけなのだ。本人が、本人のなかでそう思うのは自由だけど、ひとたび、人に助言をするとなると、問題がしょうじる。嘘を言っているという問題がしょうじる。

ほんとうは、魔法なんて使えないのに、「わたしは魔法が使える」と言うというのは問題がある。ほんとうは、魔法を使ったから、そうなったのではないのに、「魔法を使ったからそうなった」と言うというのには、問題がある。本人は気がついてないけど、嘘を言っている。

*     *     *

AさんとBさんがいるとする。Aさんは問題をかかえている人。Bさんは言霊主義者だ。

 

Aさん「じつは、アルファという問題でこまっているんだ」

Bさん「わたしは魔法が使えるんだ。どんな問題も、魔法で解決できる。だれでも魔法が使えるので、Aさんも魔法を使えばいい。『アルファという問題は解決する』と言えば、アルファという問題は解決する。言霊魔法っていうんだ。言えば、言霊魔法のすごい力によって、言った内容が現実化するんだ」

Aさん「それは、すごい。うちに帰ってやってみよう」

Aさんが、うちに帰って「アルファという問題は解決する」と言っても、アルファという問題が解決しなかった。

*     *     *

Aさん「うちに帰って『アルファという問題は解決する』と言っても、アルファという問題が解決しなかったぞ」

Bさん「言い方が悪いんだよ。こころをこめて言えば、言霊魔法のすごい力によって、問題は解決する。実際、わたしは、その方法で問題を解決した。言霊魔法の力は絶対だ。言霊魔法は宇宙の絶対法則だ」

Aさん「そうか。じゃあ、こころをこめて言ってみるよ」

Aさんが、うちに帰って「アルファという問題は解決する」とこころをこめて言っても、アルファという問題が解決しなかった。

*     *     * 

Aさん「うちに帰って『アルファという問題は解決する』とこころをこめて言っても、アルファという問題が解決しなかったぞ」

Bさん「解決するまで、何回だって、こころをこめて言えばいい。回数がたりないんだよ。自分は言霊魔法で問題を解決したことがある。言霊魔法の力は絶対だ。言霊魔法は宇宙の絶対法則だ」


まあ、言霊主義者との会話はこんなことになると予想できる。

 

*     *     *

 

言霊の力と、魔法の力は、おなじなんだよ。

言葉には、そういう魔法の力が宿っているから、言えば言ったとおりになるというのが、言霊理論だ。魔法のことを言霊と言っているだけなんだよ。

言霊を使って問題を解決すればいいというのは、魔法を使って問題を解決すればいいということと、おなじなんだよ。

「自分は魔法が使える。魔法の力は絶対だ。あなたも魔法が使える。魔法を使うには、言えばいい。さあ、魔法を使って問題を解決しましょう」……。こんなことを言っているのが、言霊主義者だ。言霊主義者は、まじめに言っている。嘘を言っているつもりがない。けど、嘘なんだよ。人をだますつもりはないのだけど、人をだましている。

「魔法」と言ってしまうと、こどもっぽくて、嘘がばれるけど、「言霊」と言うと、なんかそれっぽくって、嘘がばれない。それだけのことだ。「なんかそれっぽくって」というのは、まあ、宗教っぽい感じがするということだ。

これ、カルト宗教とおなじなんだよ。トリックがある。

けど、組織的な教団をつくっているわけではないので、全体がソフトだ。べつに宗教団体に入らなくても、本で読める。べつに単行本を読まなくても、雑誌やウエブにそれらしいことが書いてある。

そして、これが一番重要なことなのだけど、幼児的万能感は、だれにでも残っている。幼児的万能感が『言霊思考』の本体だ。幼児的万能感が残っていると、言霊を信じてしまう。「魔法」と言うと、幼稚な感じがするので、信じることはできないけど、「魔法」を「言霊」と言い換えれば、幼稚な感じがしないので、信じることができる。

言霊を信じている人だって、現実的な問題に関しては、言霊的な解決法を使ってないのである。それは、言霊を信じている人が、現実的な問題に関しては、魔法的な解決法を使おうとは思わないのとおなじだ。「魔法」なんて使えないから、魔法で問題を解決しようと思わない。ひとごとであったり、夢や希望といった、現実とは距離があることにかんしては、現実的な問題ではないので、言霊思考をしてしまう。『言霊で、解決できるんじゃないか』と思ってしまう。『自分は、言霊という魔法を使えるのではないか』と思ってしまう。

 

2024年2月7日水曜日

この妄想を信じてしまうと、じつは、社会的には、まずいことになる

  べつに努力をしたい人は、努力をすればいい。それは、価値があることだと思う。問題は、そこじゃない。問題は、そこじゃないんだ。

実際には、条件にちがいがあるのだから、条件を無視していいわけがないということだ。

たとえば、「努力をすれば成功する」という文だけど、いままで説明したように、まちがっている。けど、まちがっていることが、「正しいこと」として流通している。

この社会は、大きな権力によって、支配されている。

そして、その権力がつくりだした妄想がある。

この妄想を信じてしまうと、じつは、社会的には、まずいことになる。ぼくが言いたいのは、そういうことだ。

条件を無視するということが、見えないトリックとして機能しているのだ。これは、ひっかけだ。「努力をすれば成功する」という一見よさそうに見える文が、どうして社会の悪を生産してしまうのか、普通の人は、ぜんぜんわからない。

個人的な対処としては、まず、条件にちがいがあるということを認めることだ。人によって条件がちがう。社会は、条件のちがいを積極的に無視している。そういうことを、認識するだけでいい。


あと、それから……人間は学習する

 あと、それから……人間は学習する。いいことも、悪いことも学習する。いいことだけ学習するようにすればよいのだと考えるかもしれないけど、それはむりなことなのだ。ところが、バカは、そういうことが可能だと考える。どうしてかというと、たいして、悪いことを繰り返し学習してないからだ。ようするに、環境的にめぐまれているのである。ところが、この世は、環境的にめぐまれているほうだとしても、それは、主観的にくるしいことなどが発生する。そういう世の中だからそうなる。なので、それを、条件が悪い人の悪いこととおなじだと考えてしまうのである。ようするに、条件が悪い人が悪いことを経験した量と、条件がよい自分が悪いことを経験した量がおなじだと考えてしまう。なので、そこで、すでに、まちがいをおかしている。基本的には、これで終わりなんだけど、現実の社会では、ぼくがいま説明したように、神様的な視点で、悪いことや、いいことが決まっているわけではないのだ。なので、主観と客観の問題がしょうじる。問題は、「客観的な視点」というのが、ほんとうは、ないということだ。けど、この「客観的な視点が」あるような気持ちで、話をすすめてしまうのだ。その場合、神様的な視点でものを考えているのではなくて、主観でしかない客観的な視点でものを考えているということになる。けど、文として表現するなら、あるいは、文をもちいて、頭の中で考えるのであれば、神様的な視点を使うしかない。一時的に固定するしかないということになる。けど、この神様的な視点というのは、神様的な視点ではない。そして、神様的な視点ではないのにもかかわらず、「言葉」というのは、それとして存在するので、おなじ言葉で別のことを語ってしまうという問題がしょうじる。

単純に言うと

 単純に言うと、単純で思考力がない人たちが、ぼくのことをバカにしてくる。理由はヘビメタ騒音だ。彼らは、ヘビメタ騒音のことを軽く考えて、ヘビメタ騒音が鳴っていてもそうならないと思うのだ。だから、必然的にぼくのことを、バカにしてくる。

ほんとうに、きちがいにやられて、バカが理解できない状態になって、バカにバカにされるようになってしまった。そして、きちがい兄貴のほうだけど、きちがい兄貴も、ヘビメタ騒音の影響を無視するという傾向がある。これは、バカがもっている傾向とおなじだ。だから、きちがい兄貴は、きちがいであり、バカだ。そして、きちがい兄貴が行為者で、原因をつくっている。ぼくがバカに、バカにされる原因をつくっている。それも、きちがい兄貴に、どれだけ説明してもむだなのだ。説明されてわかるような人格なら、あるいは、脳みその構造をもって生まれてきた人間なら、あんなことは、最初からやってない。かりにやったとしても、一回目に説明すれば、「ああっ、そうか」と理解して、やらなくなる。ところが、きちがいでバカだから、きちがい的な意地でやり続けた。きちがい的な意地で、やり続けられると、こっちが「できなくなる」のだ。けど、そういうことを、バカは理解しない。

2024年2月6日火曜日

興奮して、きちがいモードでやりきったことは、ほんとうに、やったことになってないのである

 サカマのことだって、サカマのことだって……。サカマって東側にむかし、住んでいた人なんだけど……。サカマのことだって……。ともかく、ヘビメタ騒音のことでいっぱいになる。騒音に関しては、堪忍袋の緒が切れた状態だ。あのときだって、きちがい兄貴が、どれだけ俺が発狂して、怒鳴り込んでも、鳴らしてた。ほんとうに、殺さないとやめさせることができない。きちがい兄貴のほうは、言われたら、発狂してきちがいおやじモードになるのだけど、やりきるので、きちがい親父とおなじで、やったことになってないのである。これ、言いようがない。どれだけ細かく記述したって、きちがいが家族のメンバーにいない人にはわからない。家族のメンバーに気ちがいがいる人だって、親父や兄貴のようなタイプのきちがいがいないとわからない。ほんとうに、あれだけ意地をはって、やったことなのに、自分がまっくた関係がない人なんだよな。これ、ほんとうにこまるんだよ。ぼくは、きちがいヘビメタで常に困っていた。学校で、ほかの人と会話しているときも、ダイヤと仲良く登下校するときだって、ヘビメタで常に困っていたんだ。こまっていた。ハンダゴテをおしつけたきちがい親父が、ハンダゴテのことについてまったく関係がない人になってしまうように、ヘビメタ騒音をおしつけたきちがい兄貴が、ヘビメタ騒音についてまったく関係がない人になってしまう。こんなことは、普通はありえないのだけど……どれだけ「無視していると言っても」ありえないことなのだけど、うちでは普通にありえることだ。ありえるというよりも、きちがい兄貴ときちがい親父は、いつもそういうモードで生活している。いつもだ。いつ、いかなるときも、そういうモードで暮らしている。しかも、ほんとうに、「無視した」という気持がまったくないのである。あれ、頭、ほんとうにどうなっているのか、ぜんぜんわからないところがある。ともかく、普通の人じゃないんだよな。頭がおかしい。自分のにとって都合がいいように、二四時間中二四時間、くるっているんだよな。きちがい兄貴やきちがい親父にとって、興奮して、きちがいモードでやりきったことは、ほんとうに、やったことになってないのである。これが、まったく、ほかの人にはわからない。本人たちがわかってないしな。やられたやつだけ、わかるんだよな。

 

 

 

 

 

 

 

ヘビメタ騒音というのが、ほかのやつらにとって盲点なんだよな。

 ヘビメタ騒音というのが、ほかのやつらにとって盲点なんだよな。

きちがい的な兄というのが、ほかのやつらにとって盲点なんだよな。

あー。めんどうくさい。すべてが、めんどうくさい。 

これ、みんな、まったくちがったものを想像している。けど、まったくちがったものを想像しているというのが、わからないんだよな。必然的にわからない。経験がないから、まったくわからない。ぜんぜんちがうのに、まったくわかっない。

こまっている人を簡単にバカにできる「言葉の道具」なのだ。

問題なのは、条件を無視した嘘が、あたかも、ほんとうのことであるかのように、考えられていることなのである。

*     *     *

努力というのは、ほんとうは、「努力をした」「努力をしない」という二値ではない。これは、段階がある。頻度や量や時間が問題になる。

ところが、これまた、客観的な指標が、ないのである。もともと、「成功」というのが、なにをさしているのかわからない言葉であり、また、「努力」というのも、なにをさしているのかわからない言葉なのである。

しかし、あたかも、それぞれに「意味が決まっている」ような印象をあたえる。結果のほうからの「十分」「不十分」というのも、勝手に、その人が、そのように判断しているだけで、実際には、「十分」なのか「不十分」なのかわからないものなのである。

しかし、偽である命題を真であると思い込み、結果から、原因のほうにやじるしをのばすことに、まったく疑問を感じない人が、勝手に、「成功してないなら、努力が不十分なのだ」と断定してしまう。この断定は、あやまりだ。勝手に、自分ではない別の人のことを、判断しているだけなのだ。

もともと、努力をしたとか努力をしないということ自体が、主観的なことなのだから、いかようにも言えることなのだけど、それを、結果から考えて「努力しなかった」「十分な努力をしなかった」と決めつけてしまうことには、問題がある。

もともと、能力や環境のことを無視して、努力だけに注目して、努力をすれば、成功するということを言うことがおかしいのだ。能力のちがいが結果に影響をあたえないわけがないだろ。環境のちがいが結果に影響をあたえないわけがないだろ。努力をするのに必要な道具があるのかどうか、努力をするのに必要な時間があるのかどうかということについても、差がある。そういうことをすべて無視して、ただ単に努力のみが結果に影響をあたえるという暴論が、正しいこととして流通してしまっている。

これが問題の根本によこたわっている。

能力と言ったって、いっぱいある。能力については、いろいろな問題がある。能力というのは、はかれる能力しかはかっていない。けど、はかれる能力だけが能力なのかというとそうではないのだ。

なので、まず、どの分野において、どの程度能力があるかということさえ、ほんとうのことを言うと、決められない。さらに、環境といったって、いろいろだ。環境というのは、さまざまな要素を含んでいる。

なので、ここでも、一般的には、一般的にこういうことが結果に影響をあたえるだろうという要素をつまみだして、その要素について語るということになる。あるいは、これまた、測定するということになる。

しかし、たとえば、家族の性格……その人が属している家の、ほかのメンバーの性格というものだって、じつは、ひとことでは語れないものなのである。こういうことを、客観的に語ろうとすれば、かならず、とりこぼしがしょうじる。

努力をだけを(結果に影響をあたえる)要素として取り出し、努力不足だとか努力しなかったと決めつけることは、環境において劣位にある人や、能力において劣位にある人を、おとしめる行為なのである。「努力をすれば成功する」という言葉は、こまっている人を簡単にバカにできる「言葉の道具」なのだ。

2024年2月5日月曜日

まちがった文を信じて、人を不愉快な気持にさせるなっ!

 「成功」のほうは自己申告制なのに、「努力」のほうは自己申告制では、まずいのかという問題がある。何度も言うけど、「成功」というのは、特に客観的な基準が決まっているわけではなくて、その人が「成功した」と考えれば、成功したということになっている。

たとえば、年金で月換算一二(じゅうに)万円もらえるとする。それで、成功だと思える人は、コツコツと働いたから、年金で月換算一二万円もらえるようになったと考えて、年金で月換算一二万円もらえることを、成功の内容だととらえることができるのである。

あるいは、自分が好きなときに読書をできる環境を手に入れたとする。これだって、成功したと考える人は、成功したと考えるのである。なので、「成功」の具体的な内容は決まっていない。

社会的な成功のことだと、いちおう、なんとなく、成功の内容を決めたにしても、具体的な内容は、個々人でちがうのである。社会的な成功というのは、あなたにとって、なんですかということになる。社会的な成功に関しては、それぞれに、イメージがちがうのである。

たとえば、Aさんは、あることを思い浮かべて「こういうのが社会的な成功だ」と考えるし、BさんはAさんとはちがう別内容を思い浮かべて「こういうのが社会的な成功だ」と考えるのである。

だから、成功したかどうかについては、個人が勝手に決めることができるのである。

努力したかどうかについても、じつは、本人のなかで努力したと思うのであれば、努力したことになるのである。ところが、成功してないなら、努力をしなかったことになると考えるやつからが出てくるのである。

そして、「努力をすれば成功する」という文は正しいと主張するのである。

けど、この文は、まちがっている。

しかし、あたかも、正しいこととして流通してしまっている。これが問題なのだ。

条件について、なにも言及されてないということは、どのような条件でもそれが成り立つということなのだ。ほんとうは、条件が影響をあたえている。

現実世界では、そうだ。

さまざまな条件が影響をあたえている。

ところが、この文を信じている人の頭のなかでは、条件がまったく存在しないので、条件に関係なく努力をすれば成功するということになると思ってしまう。

いまかりに、年収八〇〇万円以上なら、社会的に成功したということにしておこう。離婚をして、くるしい状態でも、 年収八〇〇万円以上なら、社会的に成功したということにするのである。その場合、「努力をすれば、社会的に成功をする」と言えるのかどうかということについて考えてみよう。

たとえば、CさんとDさんがいるとする。Cさんは、ものすごい努力をしたけど、年収六〇〇万円で、年収八〇〇万円以上、かせぐことができなかった。努力をしても、社会的に成功しなかった。だから、「努力をすれば、社会的に成功をする」という文はまちがっているということになる。

ところが、Dさんは、Cさんが努力をしなかったということを言い出すのである。Dさんは「努力をすれば、社会的に成功をする」という文が正しいと思っているので「成功してないなら」「努力をしなかった」と考えてしまうのである。

これは、まちがった考え方だ。

X側の要素の値(オン・オフ)によって、Y側の結果(オン・オフ)が決まるのである。Y側の結果(オン・オフ)によって、X側の要素の値(オン・オフ)が決まるわけではない。そもそも、命題が『偽』なのであるから、最初から、考えるべきことではないのだけど、Dさんが、まちがった推論をして、Cさんにいちゃもんをつけている。

Cさんが「努力した」と言っているのだから、X側の値はオンだ。「努力をすれば社会的に成功する」という文がまちがっている。命題としてあつかうなら、「努力をすれば社会的に成功する」という命題は『偽』だ。『偽』である命題を『真』であると思い込んでいる人が、まちがった推論をして、人をののしっている。

そりゃ、「やった」のに、「やってない」と決めつけられたら、不愉快な気持になるだろう。まちがった文を信じて、人を不愉快な気持にさせるなっ! なっ!

*     *     *

ある種を(誰かが)植えれば、ある木が(かならず)育つとしよう。ある木が育っていれば、ある種を(誰かが)植えたと言えるのかどうかというと、言えない。どうしてかというと、ある木が自然に育つ場合があるから。原因から結果へという流れを、→(右矢印)で考えるとする。そうすると、矢印の向きは決定的に重要なんだよ。


2024年2月2日金曜日

「努力をしてないやつが、負け惜しみを言っているだけだ」

 かりに、走り幅跳びの距離が、そのまま年収に反映する社会について考えてみよう。そうすると、みんな、目の色をかえて、走り幅跳びの練習をするようになる。

走り幅跳びで八メートルとべれば、年収八〇〇〇万円。走り幅跳びで、二メートルとべれば、年収二〇万円ということにしておこう。そうなったら、まるで、走り幅跳びの記録が人間の価値であるように思えるようになるのだ。

そして、実際に走り幅跳びで八メートルとべる人は成功者で、二メートルしか飛べない人は敗者だということになる。

そして、そうなると、とべるようにするにはどうしたらよいかということが、みんなの関心事になる。

そうなると、たとえば、成功者が「コツコツと努力すれば、八メートルとべるようになる」などということを言い出すのだ。実際、その成功者は……そういうふうに言った成功者は、努力をしたとする。

けど、どれだけ、努力をしても、八メートルはおろか、二メートルだってとべない人もいる。努力をすればとべると、努力だけを問題にするけど、八メートルとべるかどうかというのは、その人の身体的な問題がからんでいる。

身体という要素を無視して、「努力」という要素しか見ないようにしているのだ。

そうなると、身体的な問題で、どれだけ努力しても八メートルとべない人は、自動的に、努力してない人になってしまうのである。こういう誤解が生まれる。

ほんとうは、身体的に成長したから、四メートルとべるようになった人が、練習をしていたとする。その人は「自分は、練習して努力したから、四メートルとべるようになった」と思って「努力をすれば、四メートルとべるようになる」というのは正しいと主張する。

しかし、努力をしても、四メートルとべない人もいるので、「努力をすれば、四メートルとべるようになる」と発言したの人の発言内容は正しくないということになる。

けど、信念としてそういうふうに語っている人は、まちがっているということを認めない傾向がある。

そうなると、感情的になって「努力をしてないやつが、負け惜しみを言っているだけだ」というようことを言う確率が高くなる。

そうなると、「努力をして、四メートルとべた人」と「努力をしたのに、四メートルとべない人」のあいだに、亀裂が入るのである。

この両者は、対立するように……しむけられている。

「努力」という要素だけを取り出して、成功するかどうかを、「努力」という要素だけが決めるという妄想的なまちがった考え方が、社会に流布しているので、そういうことになる。

このような妄想的なまちがった考え方が、正しいこととして流布していると、社会の競争圧力をうみ、社会のなかの対立をうみだし、生まれの格差の問題を見えないようにしてしまう。




「成功していないなら、努力をしなかった」ということは言えない

  Aさんが、小学六年生のとき走り幅跳びで、二メートル五〇センチとべたとしよう。そして、Aさんが高校生三年生のとき、四メートルとべたとしよう。Aさんは、小学六年生から高校三年生になるまで、まったく、幅跳びの練習をしなかったとする。

Bさんも小学六年生のとき走り幅跳びで、二メートル五〇センチとべたとしよう。そして、Bさんも高校生三年生のとき、四メートルとべたとしよう。Bさんは、小学六年生から高校三年生になるまで、幅跳びの練習をずっと毎日していたとする。

その場合、Bさんは、「コツコツと努力すれば、成功する」という言葉を信じやすい。実際、コツコツと、努力をしたので、走り幅跳びで四メートルとぶことに成功したと思いやすい。

しかし、それなら、「コツコツと努力すれば、成功する」という命題が、真であるかというと、そうではないのである。どうしてかというと、コツコツと努力したにもかかわらず、走り幅跳びで四メートルとぶことに成功しない場合もあるからだ。

「コツコツと努力すれば、成功する」というのは、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功するという」ことなのだ。コツコツと努力したにもかかわらず、成功しないということはないのだ。なので、まちがっている。

ところが、努力をして、成功した人は、これこそ真実だと思ってしまう。その人にとっては、それでよいのだけど、世間には、努力したのに、成功しなかった人もいるということを無視してはいけない。

何度も言うけど、条件に差がある。条件が悪い人は、「コツコツと努力すれば成功する」などと言われると、いやな思いをすることになる。「コツコツと努力すれば、成功する」という言葉自体が、最初から、条件の差を無視している。

どんな条件でも、コツコツと努力すれば成功すると言っているのである。一〇〇%の人が、一〇〇%成功するのである。例外はないのである。

ところが、実際には、例外ばかりだということになる。むしろ、コツコツと努力をして成功した人のほうが少ないのではないかと感じる。コツコツと努力をして成功した人のほうが、例外なのではないかと思う。

「成功」のなかみは、ひとそれぞれなので、成功したと感じる基準を低いものにすれば、「成功した」と言うことができる。

なので、これも、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功するという」ということを「信じたい」ので、わざと、ささいなことを持ち出して、そのささいなことに成功したから、この文が正しいと思おうとしている人もいる。そういう人をみたことがある。

この、成功したというのは、自己申告制だから、客観的な基準はない。なので、一部の人は、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功する」という文が正しいと信じることができるのだけど、それは、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功するという」という文が正しいということを意味していない。

ものすごく不利な条件が何個も何個も重なっている人がいる。そういう人は、どれだけ努力しても、成功しない。

そして、努力する過程で絶望を感じる。

努力をすること自体が楽しいことではなくて、くるしいことになる。いい意味で、くるしいことになると言っているのではない。悪い意味でくるしいことになると言っているのだ。

なまじか、「コツコツと努力すれば、成功する」という考え方がはやっているので、自殺する人も出てくるだろう。これは、人を自殺に追い込む文なんだよ。なんでこれがわからないかな?

そして、「コツコツと努力すれば、成功する」ということが正しいと思っている人たちは、実際に成功しなければ、どれだけ努力しても、努力したことにならないという考え方を採用するので、条件が悪いから成功できない人を、バカにすることになるのである。

侮辱することになるのである。

この侮辱は、悪いことなのだけど、これもまた、社会に承認された悪いことなのだ。ようするに、悪いことになってない。これもまた、侮辱されたと感じるほうが悪いということになっているのだ。

「コツコツと努力すれば、成功する」と人をはげますことがいいことだということになっているのだ。こんなのはない。条件を無視して、「コツコツと努力すれば、成功する」と言って、人をはげますのは、悪いことだ。悪行。

どうしてかというと、「条件を無視している」からだ。『条件なんて関係がない』ということになっているのである。「コツコツと努力すれば、成功する」ということを言う人の頭のなかでは、『条件なんて関係がない』ということになっている。

けど、そうではない。

それは、自動的に具体的な相手の条件を無視することつながるので、行為全体としては悪いことになるのである。

そして、トリックについて説明したけど、成功しなければ、努力したことにならないのだ。あとだしジャンケンみたいなもので、結果が出たあと、こうだと言っているだけだ。原因のほうを書き換えてしまっているのである。

成功しなければ、努力をしなかったということになってしまうのだ。あるいは、努力が不十分だということになるのだけど、それは、不十分な努力しかしなかったから、成功しなかったのだということを意味するのである。

しかし、言ったか言わなかったの二値しかないのとおなじように、努力をすれば成功するのだから、努力をすれば成功するのである。

「不十分な努力なら成功しない」と言うのであれば、そういうふうに言っておかなければならない。「コツコツと努力すれば、成功する」には一〇〇%という文字が含まれていないけど、意味的には一〇〇%そうなるということを言っていることになる。トリックがある。

そして、成功をしなければ、努力をしてないか、あるいは、努力が不十分だったということになるのである。そして、だれがどのような基準で(その人)の努力が不十分だったと判断するかというと、(その人が)成功しなかったから、ほかの誰かが、その人の努力が不十分だと言うのである。

たとえば、AさんとBさんがいるとすると、AさんがBさんがどれだけ努力をしたか、まったく知らないけど、ともかく、Bさんが成功していないのであれば、Bさんの努力は、不十分な努力だと、Aさんが勝手に判断して、Aさんがそのように言うのである。

ようするに、これも、結果から、不十分だったのだと言っているにすぎない。成功しないのであれば、努力が不十分ならという条件の部分をとれば、こつこつと努力をしても成功しないということになるのである。

なので、努力の度合いという条件を無視するなら、「努力をしても、成功しない」ということになる。しかし、これも、「努力すれば、成功する」とおなじように、条件を無視しているので、現実世界においては、まちがった、文になる。

どうしてかというと、条件というのは、現実世界においては、うまれながらに付与されているものだからだ。どれだけ条件を無視しても、どれだけ条件があるということ自体がいやだと思っていても、条件がある。

現実世界では、条件を無視して、「XをすればYになる」というようなことを言うのは、ご法度だ。

どうしてかというと、条件によって別の結果が出てしまうからだ。「XをすればYになる」と言っているのに、「XをしてもYにならない」という場合があるのなら、問題がある。

オン・オフについて考えてみよう。X側にもオン・オフがあり、Y側にもオン・オフがある。

「努力をすれば成功する」という場合は、X側に「努力をする・オン」と「努力をしない・オフがある。Y側には「成功する・オン」と「成功しない・オフ」がある。

X側がオンなら、かならず、Y側もオンになるというのが、この文の意味だ。

なので、X側がオンなのに、Y側がオフになることはないということを言っているわけだ。

しかし、実際には、努力をしても、成功しない場合があるので、もう、この時点で、この文は成り立たないということになる。

そして、X側がオフなのに、Y側がオンになってしまう場合があるわけだ。そうなると、「努力をすると成功する場合がある」「努力をしても成功しない場合がある」「努力しなくても、成功する場合がある」ということになって、「努力をすれば成功する」と言った意味がないということになる。

すでに、「努力しても成功しない場合がある」「努力しなくても、成功する場合がある」ということがあきらかなので、「成功したなら、努力した」ということは言えないということになる。

同様に「成功しなかったなら、努力しなかった」ということは言えないということになる。あるいは、「成功していないなら、努力をしなかった」ということは言えないということになる。

ようするに、「努力をすれば成功する」場合もあるけど、そうではない場合もあるということになる。

なので、ほんとうに、言っただけの意味がない。

ところが、あたかも、法則性があるような誤解をうみだしているのである。多くの人が、こんなでたらめな言葉を、正しい言葉だと思っているのだ。


そういう社会に住んでいると、条件が悪い人は、必然的にいやな思いをすることになるのである。

2024年2月1日木曜日

あんな音で鳴らしても、いいうちなんてない

 ほかの人はわかってないけど、ほんとうにヘビメタ騒音がひどいのである。どうしようもないほど、ひどいのである。あんな音で鳴らしているやつはいない。あんな音で鳴らしても、いいうちなんてない。防音部屋がある家なら、ともかくして、防音部屋がない家だと、ああいう音で鳴らしていいということにならないのだ。ところが、きちがい兄貴がきちがいなので、自分の感覚器をだまして、でかい音で鳴らしてないと思いながら、頭がおかしいやつしか鳴らさないようなでかい音で鳴らすのである。そして、きちがい親父がそれを、支持してしまうのである。協力してしまうのである。これも、普通の家の人にはまったくわからないことなので、ぼくが、きちがい親父の態度や行動について、普通の家の人に説明しても、普通の家の人は、納得しないのである。なんとなく、不愉快な感じがするのである。なんとなく、違和感を感じるのである。なんとなく、エイリさんが嘘を言っているのではないかと感じるのである。なんとなく、エイリさんが、ほんとうはたいしてでかい音で鳴ってないのに、でかい音で鳴っているとおおげさに言っているのではないかと感じるのである。きちがいと一緒に住んでいる人じゃないと、わからない。きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度なんて、ほかの人にわかるはずがない。そして、これが肝要なのだけど、きちがい兄貴はきちがい兄貴の態度に無頓着で、まったくわかってないという状態で暮らしている。感覚器にずれがあるということについて、あるいは、感覚器が正常なら絶対にわかることを無視してるということについて、まったく、まったく自覚がないのである。おやじもおなじだ。おやじと兄貴で、頭の構造がおなじなのである。こういうことにかんする頭のズレがおなじなのである。だから、本人にとってやりたいことがあったら、現実を無視して、頑固にやってしまうのである。現実を無視してしまうので、やったことにならないのである。本人の認識としてはやったことにならないのである。そういう、でたらめな感覚で暮らしているのである。そういうでたらめな態度のまま、きちがい行為をやりきって暮らしているのである。自分のほうがゆずるということはない。自分のほうが、普通の人の感覚にあわせて、ゆずるということはないのである。何度も言っているけど、本人が感覚器を無意識的なレベルで書き換えてしまうので、本人は、やったつもりがないままなのである。だから、そういう態度全体が「やられているほう」にしてみれば、腹がたって腹が立ってしかたがない態度なのである。こういう態度は、感覚器を無意識的なレベルで書き換えない普通の人には、しょうじない態度なのである。なので、特殊なのである。しかし、普通の人は、そういう人といっしょに暮らしているわけではないので、ここでも、無理解がしょうじる。

べつにコツコツと努力をしなくても、成功してしまう人はいる

べつにコツコツと努力をしなくても、成功してしまう人はいる。「コツコツと努力をすれば、成功する」という文に、「コツコツと努力をしなくても、成功する」という意味を含めることはできない。なので、これも、嘘だ。

たとえば、走り幅跳びで四メートルとべる人は、ざらにいる。学校の授業で「走り幅跳びの測定をするから、とんでみて」と言われて、とんでみただけだ。

別に、四メートルとべるように、コツコツと努力をしたわけではない。けど、とべる。

「コツコツと努力すれば、走り幅跳びで四メートルとぶことに成功する」という文を考えた場合、「コツコツと努力をすれば」走り幅跳びで、四メートルとぶことに成功する」と言っているわけで、「コツコツと努力をしなくても、四メートルとぶことに成功する」とは言ってない。

四メートルとべる人は、そういう身体をもっていただけだ。もちろん、遺伝子も影響をあたえていると思う。しかし、「コツコツと努力をすれば、成功する」という文には、身体という条件も、遺伝子という条件も入ってない。ただたんに、「努力すること」だけが成功するかどうかを決めると言っているのである。

努力すれば成功して、努力しなければ成功しない……こういうことを言っているのである。しかし、努力せずに、成功してしまっている人がいる。おかしい。これは、おかしい。文がまちがっている。文がまちがっていることを言っているということだ。

いっぽう、たとえば、どれだけ、コツコツと努力しても、四メートルとべない人もいる。これも、身体という条件や遺伝子という条件が影響しているのだろう。あるいは、もっと他のいろいろな条件が影響しているのだろう。『条件』というのは、切りだして、考えるから、条件になるのだ。

ほんとうは、無数の条件が存在している。

しかし、主な条件をとりだして考えて、その条件がどういう影響をあたえるかということについて考えるのだ。条件というのは、たいていの場合、複数ある。

ところが、努力という条件だけを考えて、Y側のことが成り立つか成り立たないかということを、決めてしまうというまちがった考え方について語りだすのだ。「努力するかどうか」がY側の結果を一〇〇%決めてしまうというまちがった考え方について語っているのである。はっきり言うと、妄想でしかない。

*     *     *

「どんな条件でも、XをすればYになる」というような法則性があたかもあるような言葉は、ほんとうはそうではないのに、ある意図をもって、そういうふうに言われるのである。

そして、ほんとうはそうではないということを説明するのが極めて困難なのだ。どうしてかというと、言ったところで相手が理解するとは限らないからだ。

そして、現実世界では立場があり、目上のものが言ったことを、目下のものが否定するということは、できるにしろ、やりにくいことなのだ。

なので、「どんな条件でも、XをすればYになる」というまちがった言葉が、あたかも正しい言葉であるように流通してしまう。世にはびこってしまう。

ほんとうは、妄想的な前提が必要であり、命題として考えた場合は、その命題が『偽』であるのに、法則性をもった正しいこととして流通してしまうのである。それは、法則性をもった正しいことではない。これは、多くの人をくるしめることになる。

けど、成功者がそういうことを言うと、成功者の信者は、それが正しいと思い込んでしまう。

「努力教」というゆるい言い方をするのであれば、努力教の教徒は相当に多い。「コツコツと努力をすれば、成功する」という妄想的な言葉が、正しい言葉として流通してしまっているのである。これは、じつは、ゆゆしき事態だ。

*     *     *

じつは、もうひとつトリックがある。それは、「あとだし」トリックだ。あとだしで決めているということだ。 「コツコツと努力をすれば、成功する」という文が正しいと考える根拠のひとつが、「あとだし」なのだ。

成功すれば、努力したことになり、成功しなければ努力したことにならないという、気ちがいじみた?理論が成り立っている。

Xをすれば、Yになるという文を考えた場合、Yのほうは結果であり、Xが原因となることだ。Xをするかどうかが、Yという結果に影響をあたえるということが、この文の意味だ。特に条件について言及されてない場合は、条件に関係なく、一〇〇%成り立っていなければならないのである。

物理法則だって、さまざまな条件について、言及し、こういう条件のときはこういうことが成り立つと言っているのに、こういう人間に関する言葉にかんしては、条件をすべて無視して、どんな条件でも、こういうことが成り立つというような暴論が流布してしまっている。広くいきわたってしまっている。こんなのは、ない。ないけどある。

もうすでに述べたけど、実際に成功すれば、どれだけ努力してなくても、努力をしたことになり、実際に成功しなければ、どれだけ努力をしても、努力をしたことにならないのである。こういうトリック。嘘。

これだと、Y側にあるほうが、X側の結果を決めているということになってしまうのである。こういう、嘘。こういう、ペテン。こういう、詐欺的な説明。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。