2019年12月31日火曜日

「迷惑をかけるな」と「どうして、助けを求めてくれなかったのだ」のはざまで


無職のまま、飢え死にしてしまった人のことについて書いたとき、もうちょっと書こうかなと思ったことがある。まあ、ちょっとは書いてあるんだけど、あんまり書かなかった。以前書いたのは、「働かざる者、食うべからず」という考え方についてだ。もうひとつ、書かなければならないことがあった。それは、「働いていなくても、公的な援助を求めなければ、税金を払っている人には迷惑がかからない」のか「将来、公的な援助を求めることになるから、潜在的な意味で迷惑をかけている」のかどうかということだ。


生きているとき、「迷惑をかけているか」「迷惑をかけていないか」というのは、重要な問題なのである。「迷惑をかけている」のであれば、働かなければならない。「迷惑をかけていない」のであれば、働いてないということに関して文句を言うのはおかしいということを主張できる。
けど、その主張は相手には実は、伝わらない。

たとえ、「迷惑をかけていないにしろ、将来、迷惑をかけることになるから働け」と相手は言い返すからだ。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは無職だとする。本人は、働けないと思っているのだが、他の人から見ると働ける人間に見える。Bさんは、Aさんの暮らしとはまったく関係がないあかの他人だとする。

ようするに、Aさんが無職だとしても、Bさんが直接、お金を出して援助するということはない。Bさんは、Aさんの状態について、口は出すけど、金は出さない。しかし、Bさんは税金を払っているとする。Bさんの税金がAさんの生活費にあてられたとしても、実際の金は、一銭にも満たない。

それから、Bさんは行政のむだ遣いには文句を言ってない。Bさんは、公務員が「労働」の対価として金をもらいすぎているということについても文句を言わない。軍事費の使い方について文句を言わない。けど、Bさんが払う税金のなかから、Aさんに使われる金が、たとえ〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一銭でもあるなら、それは、ゆるせないという感情におそわれる。

Aさんが援助を受けていない場合は、Bさんは、いま現在のことではなくて、将来そうなるから(働け)ということを言うわけだ。ちなみに、Bさんが将来、生活保護になる可能性も否定できない。Bさんが、高齢者になったとき、高齢者に対する医療控除などを受ける可能性も否定できない。

だから、「将来の可能性」ということを言うのであれば、ほんとうは、Bさんが生活保護を受ける可能性がまったくない状態で言わなければならないのだけど、Bさんは「いま現在働いている」ので、将来、生活保護を受ける可能性がないという前提でものを言うことになる。自分が将来、生活保護を受ける可能性があるにもかかわらず、他人であるAさんには、「将来、Aさんが生活保護を受けるのは、気にくわないので働いてくれ」と言っているのである。

将来のことは、わからない。Bさんだって、翌日には、働けないからだになって、生活保護を受けなければならないかもしれない。「将来の可能性」ということを言うのであれば、もちろん、Bさんだって、将来生活保護を受ける可能性がある。将来、生活保護を受ける可能性があるということに関しては、AさんもBさんも、ある。

けど、Bさんは、自分が「将来、生活保護を受ける可能性がない」と思っているのだ。だから、Aさんさ対して「将来、生活保護を受ける可能性があるから、働け」と言えるわけだし、それでいいと思っているのだ。可能性の高さについては、たしかに、Aさんのほうが高いと言える。しかし、Bさんが生活保護を受ける可能性がないわけではないのだから、将来のことは、言うべきではないと、私は思う。

しかし、多くの日本人は、Bさんが言っていることが正しいと思うことだろう。Aさんは、Bさんが言っているようなことを、いろいろな人から言われるので、援助を受ける可能性を否定する必要が出てくる。だから、そのまま、援助を受けずに自殺するということになる。

生前、Aさんは働けないのにもかかわらず、他の人からは働けるように見えるので、「働け」と言われた。Aさんは、働けない人なので働かなかったけど、そのときはBさんのような人に対して「迷惑をかけてないのだから、俺のかってだろ」と言うことができた。「迷惑をかけてないのだから、俺のかってだろ」とAさんが言わなければならないのは、「オマエが援助を求めるのは気にくわない。働け!!」ということを、Bさんのような人が言ってたからだ。

「どうして、援助を求めてくれなかったのか?」という問いのほんとうの答えはこれだと思う。

問題なのは、Aさんがほんとうは働けなかった人だということだ。そして、他の人から見てAさんが働けるように見えるということだ。日本の場合、働けるように見える人が働かない場合、その人が言っていることは、ほとんどすべて否定される。

だから、Aさんはささやかな抵抗として「あなたに迷惑をかけていないのだからいいでしょ」ということを言ってきたのだ。しかし、迷惑をかける可能性が出てきた。だから、死んだ。こういうことなのではないかと思う。

2019年12月29日日曜日

やっぱり、ヘビメタ騒音でつらい。

やっぱり、ヘビメタ騒音でつらい。
どうしても、つらい。
ダイヤ……。


どーーしても、つらい。くるしい。むなしい。
どーーしても、暗い。どうしても、憂鬱。
どーしても、不安。気違いヘビメタ騒音がずっとずっとずっと鳴ってた。これ、他の人にしてみれば、どうでもいいことで、時間がたったなら、効果を与えないはずのものなのだけど、そんなんじゃない。そんなんじゃない。どうしても、くるしい。
気違い兄貴が、気違い兄貴の態度で、気違いヘビメタを、気違い的な音のデカさでずっとずっとずっと、鳴らし続けたから、くるしい。どうしても、くるしい。


本当に長い間鳴ってた。毎日、というのがくるしい。どうしたって、くるしい。「くるしいと思っているから、くるしいんだ」なんて言うやつはデコパッチンBをしてやりたい。そういうことを言うやつは、ヘビメタ騒音を鳴らされてない。たぶんだけど、気違い的な家族にやられて育ってきたわけじゃない。たぶん、そいつが成人するまで、気違い的な家族の影響を受けてない。気違い家族が、「いえで!!」どういう行動をするのかまったくわかってない。どういう感覚で、気違い家族が、気違い的な行為をするのかまったくわかってない。正常者とのあいだでも、「いった」「いわない」というようなあらそいはある。正常者とのあいだでも、考え方がちがえばあらそいがある。けど、異常な家族とのあらそいというのは、そういうあらそいとは、質も量もちがうのである。これが、わからない。たまたま、正常な家族にかこまれて、育ったので、異常な家族のことがわからない。想像してもわからない。だいたいは、わかる……つもりになっているのかもしれないけど、それは、勝手に想像しただけだ。「異常な家族」の話を聞いて、自分の体験をもとに、想像しただけだ。ちがう。質も量もちがう。正常な家族のもとに生まれた人が「想像して考える」異常な家族のことと、実際に異常な家族のもとに生まれた人が「経験から考える」異常な家族のことは、ちがう。微妙にちがうのではなくて、ぜんぜんちがう。聞いた話しで想像するしかないから、想像するだけなのだけど、それは、現実とはだいぶちがう。与える効果もちがう。どうして、与える効果を過小評価するのか? それは、現実世界のなかで体験してこなかったからだ。自分のことではないからだ。自分の話しではないからだ。自分の経験ではないからだ。

これ、ほんとうに、ちがうんだよな。ぼくの言っていることは気違い家族にやられた人にしかわからない。圧倒的少数なのだから、ぼくの言っていることは、大多数の人には理解できない。わからない。

普通に、おなじなんですよという前提に立ってものを言った方がうける。大多数のほうに生まれて、一般的に通りがいいことを言って、うけたかったなぁ。

2019年12月26日木曜日

「無職だ」ということを知った途端に、無職偏見回路が発動してしまうのである


どれだけ、「つまらない」と書いてもつまらなさが解消するわけではないけど、限界なので、つまらないと書く。解消というのは、つまらなさがなくなり、楽しくなることなのだが、そんなのは、むりだ。この状態だとむりだ。長期騒音以降、ぼくは、くるしい。

発狂しそうな状態がある。発狂しそうな状態でも、とりあえず生きていれば、ちょっとはまともな状態に移行するときもある。ヘビメタ騒音以降、くるしくてくるしくてしかたがないんだよ。このくるしさは、なんていうのなか、限界的なくるしさだ。

トラブルが発生するとだれでもくるしくなるけど、なんて言うのかな? まだ、トラブル対処のよゆうがあるときにトラブルが発生した場合と、もうまったくよゆうがないときにトラブルが発生した場合とでは、ちょっとちがうんだよな。

いや、ちょっとじゃない。
だいぶ、ちがう。
ぜんぜんちがう。

気違いヘビメタで、常に極限に近いところにいるので、ちょっとでもトラブルが発生するとだめになる。

で、ヘビメタ騒音で極限に近いところにいるということが、トラブルを引き起こしやすい状態なのである。普通の状態であれば、たとえば、震度一のトラブルが一ヶ月に一回ぐらい発生するとしよう。これが普通の人の普通の状態だとする。けど、ヘビメタ騒音以降は、ヘビメタ騒音が影響して、震度一のトラブルが一ヶ月に一〇回ぐらい発生するような状態になってしまう。

ヘビメタ騒音が鳴り終わったあともそうだ。何十年たっても、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、そういう状態で生きている。ヘビメタ騒音自体が、震度七のトラブルで、一日に数千回発生しているようなものなのだ。だからそれ以降はずっとくるしい。

さいちゅうの一五年間も一五年目以降もくるしい。一年目のくるしさと言ったらない。みんな、一年目のくるしさを経験しないで、「ヘビメタなんてどれだけ鳴っているって言ったってたいしたことはない」とか「ヘビメタ騒音で宿題ができないなんてあまい」とか「ヘビメタ騒音で遅刻してしまうなんてあまい」というようなことを言いやがる。

おまえらは、経験してないだろう。

で、こういうところで、他者とのあいだに溝ができるのである。気違い兄貴は、気違い親父とおなじでしらんぷりだよ。気違い兄貴が震源地なのに、ぜんぜんわかってない。どれだけ言っても、理解しない。頭がおかしいから自分がやっていることがわからない。

あれだけデカイ音で鳴らしているのに、デカイ音で鳴らしているという気持ちかない。認識がない。つもりがない。だから、本人が気違い的にデカイ音で、鳴らしているあいだ、本人には、気違い的にデカイ音で鳴らしているという認知がずっとない状態なのである。

こんなのは、普通は考えられない。けど、うちの兄貴は気違いなので、頑固にそうやって、繰り返す。頑固に否定して繰り返す。頑固に否定したと言うことも否定して繰り返す。本人はまったく関係がないつもりでやり続ける。

殺さなければ、それが終わらない。

この深刻さがわかってない。ヨソのやつらはこの深刻さがわかってない。わかってない。俺に、無理難題を押しつけているというとがわかってない。だれだって、横に気違い家族が住んでいて、そいつが、「つもりがないまま」気違い的にデカイ音で、自分が一番嫌いな音を鳴らし続けたら、遅刻するようになるのに、遅刻するようになるということが、わからない。自分の体験としてわからない。

だれだって、横に気違い家族が住んでいて、そいつが、「つもりがないまま」気違い的にデカイ音で、自分が一番嫌いな音を鳴らし続けたら、一〇〇点が取れるテストで五〇点しかとれなくなるのに、それがわからない。「ヘビメタなんて、関係がない」「ヘビメタなんてどれだけ鳴ってたって、勉強ぐらいできる」「俺だって、工事の音が鳴っている」……ちがうんだよ。ちがうの!!

工事の音や、ちょっとした楽器の音や、カラオケ屋の音や幼稚園生の絶叫とはちがうの!! ちがうんだよ!!! これ、本当にわかってない。普通の音じゃないんだ。どれだけ凶暴な音かわかってない。

うちのすぐ横が幼稚園なのでわかる。ちがうんだよ。となりの人がいろいろな楽器の練習をしているけど、ちがうんだよ。ちがうの!! カラオケ屋やスナックの前をとおるからわかるけど、ちがうの!!

ほんとうにこいつら、わかってないな。どれだけ凶暴な音で、鳴っているかわってない。手につかないんだよ。なにもできないんだよ。気違い騒音の嵐の中にいて、落ちつくことができないんだよ。普通の気分でくらこすことができないんだよ。

生きているだけで、ものすごいエネルギーを消耗してしまう。そして、そのエネルギーがまるで「いきない」のである。夢中になって仕事をしてつかれているというのとはちがうのである。まったく無益なつかれ。

たえているだけで、まるで病人のような状態になる。どうしてもくるしい。どうしても、うまくいかない。けど、やられて、他人とのあいだに溝ができる。そうなると、いろいろなことが積み重なる。

わかってない。

いろいろなことが積み重なるとそれがまた他者とのあいだの溝を大きく、広く、深くするのである。たとえば、ヘビメタ騒音の結果、仕事ができない状態になると、それが、ますます、他人とぼくとのあいだにある溝をひろげる。

仕事ができない状態というのは、無職である状態だ。無職であれば、無職をバカにする人たちが出てくる。たとえば、もし、気違いヘビメタが鳴ってない状態で生きて、ぼくが学者として出会ったら、佐藤のようなやつは俺のことをバカにしない。そりゃ、無職だからバカにしているわけだから。

けど、無職だからバカにしているというような意識は、そんなにはないんだよ。本人が持っている無職に対する偏見に、本人が気がついてない。それほど、深い偏見が、佐藤にはある。けど、佐藤は特別な人間じゃない。日本人の大半が佐藤のような感覚を持っている。無職である人に対して偏見を持っている。

「(相手が)無職だ」ということを知った途端に、無職偏見回路が発動してしまうのである。それが、ほんとうは、人のことをよく見ないで、無職だということでその人のことをバカにするというような態度になってあらわれるのだけど本人は、別に悪いことだと思ってないのである。「そんなのは、無職なんだからしかたがない」と思っている。気違いヘビメタにやられて、働けない状態になって、無職状態が長く続くと、他者の無職に対する偏見に悩まさせれるようになってしまうのである。不可避的に……。

佐藤だって、俺とおなじ期間、俺とおなじぶんだけヘビメタ騒音にやられていたら、どうしても働けないからだになって、無職になる。それが佐藤のような普通の人間にはわからない。逆立ちしたってわからない。佐藤のような人間にとっては、ヘビメタ騒音はたいしたことじゃないのである。ヘビメタ騒音というのは、佐藤にとって他人である人間が経験したヘビメタ騒音であるから、わからない。そして、経験しない以上どこまでも、ヘビメタ騒音というのは、佐藤にとってはそういうヘビメタ騒音なのである。俺が言ってるヘビメタ騒音とはちがう。俺が経験したヘビメタ騒音とはちがう。不可避的に無職にならざるをえないのに、それが、佐藤のような人間にはわからない。

ヘビメタ騒音がどれだけの障害をうむか、まったくわかってない。うまれながらの障害に敏感な佐藤が、うまれたあとに発生するヘビメタ騒音障害に関してはまったく、理解をしめさない。それが人間だ。それが、普通の日本人だ。ヘビメタ騒音で働けなくなるような障害が発生したという(俺の)話しよりも、日本人の労働観のほうが強い。佐藤のなかで強い。だから、テンプレ通りの反応をする。

たまたま、俺よりも「めぐまれていたから」働けるだけなのに、えらそうなことを言いやがって。ヘビメタ騒音が小学六年生の時から二五歳まで、中学三年間と高校三年間をふくんでなっていたというハンディがないから普通に通勤ができるだけなのに、えらそうなことをいいやがって。おまえらだって、ずっとずっと毎日毎日、この世で一番嫌いな音を、「現実を常に無視する」自分勝手な家族が気違い的な意地で鳴らしていたら、通勤する能力をうしなってしまう。

けど、そういうことが、自分の身に起こらなかったから「ヘビメタ騒音なんてたいしたことじゃない」と思ってしまう。「どれだけ鳴っていると言ったってたいした音じゃないんだろ」と思ってしまう。おまえ、毎日やられてみろ。どれだけつらいか。つらいつらい毎日を必死の思いで暮らして、睡眠障害になって、毎日決まった時間に起きるということがどうしてもできなくってしまう。気違いヘビメタにやられて、パッとしない学歴になってしまう。それが、どれだけ、足を引っぱるかわってない。俺は、ヘビメタ騒音がなければ、しかる場所に行けた。しかる場所に行けたら、自分の能力を発揮できた。しかし、しかる場所に行けないとだめなのである。なけなしの努力をして、睡眠障害になってしまう。なけなしの努力をして、疲労と鬱で働けなくなってしまう。

しかし、「騒音で働けないなんてあまい」「そんなのお兄さんに言えばいい」「やっぱり人間は働かないとだめだよ」なんて言われてしまう。気軽に言うな!! 気軽に!! そういうことを言う人にとっては、気軽な問題なんだろうけど、俺にとっては気軽な問題じゃない。人生全部の問題だ。


(働くとは普通に通勤して働くということ)

2019年12月24日火曜日

「やったってやってない」がうちではとおった。これが、ヨソの人にはわからない


親友のことを考えても、俺はもう、ボロボロだ。ころろがぼろぼろだ。よくなる感じがしない。ヘビメタ騒音以降、だれといても、圧迫される感じがある。切羽詰まった感じがある。だれもわからない。

家族である気違いが、気違い的な意地で、この世で一番きらいな音を大爆音で鳴らし続けるというのが、どれだけ人を追い詰めるか、わかってない。他の人はまったくわかってない。経験としてわかってない。だから、ぜんぜんわかってない。わかってない。わかってない。

あの音のなかにいるということ自体が、ピンチなんだよ。どうでもいいことじゃないんだよ。感じ方の問題じゃないんだよ。受けとめ方の問題じゃないんだ。文脈があるといっているだろ。たしかに、気違い兄貴にとって気違いヘビメタは、気持ちのいい音だ。爆音で鳴らさないとストレスがたまるのだろう。爆音で鳴らすと気持ちがいいのだろう。まさしく、感じ方の問題、受けとめ方の問題だと言えそうだ。しかし、ちがう。ちがうんだよ。
ボクは、気違いヘビメタが嫌いだった。この世で一番嫌いな音だった。それは、聞いたときからそうなんだよ。聞く前からそうなんだよ。そういう文脈がある。腹がよじれてしまうような音なんだよ。

あんなでかい音で鳴らしていいわけがないだろ。実際多くの自治体では、いまは、騒音にかんする法律がある。

あんな音で鳴らしていいわけがない。目の前がでかい幼稚園で、横の家が離れていたから鳴らせただけだ。気違い兄貴だって、おばちゃんの家に居候したら、あの音のデカさでヘビメタを一日に一分だって鳴らすことはできない。うちでは、好きなときにどれだけ鳴らしたって、(鳴らしてないのとおなじ)気持ちでいられる。これも、うちのなかでは、気違い親父がやり始めたことだ。気違い親父が、気違い兄貴がゼロ歳の時からそういうモードで暮らしているから、うちでは、それがあたりまえになっている。むかしから、うちでは、(やったってやってない)がとおった。とおっていた。気違いが、やりとおすと、その気違いは、やったつもりをもたなくてすむのである。もちろん、気違い的な意地でやりとおすけど、本人は『やってないのとおなじ』気持ちでいられる。そういうことが普通に、一六年間成り立っていた。気違い兄貴がヘビメタをやり始めたとき、うちでは、気違いが意地をとおして、気違い的な意地でやれば、やってないとおなじだという常識が成り立っていた。気違い兄貴が気違い親父のまねをしてやりはじめた。うちでは、なじみのことだったんだ。これが、ヨソの人にはまったくわからない。気違い親父が正常な感覚と知覚を踏みにじって、そういうことを実行してきた。気違い親父は「いえでは」てっぺんだから、絶対におれない。絶対に言うことを聞かない。
「やったってやってない」がうちではとおった。これが、ヨソの人にはわからない。やったやつはそんなつもりはまったくないよ。これだって、どれだけ、問題を複雑にしているかわからない。やった張本人は、気違い的な意地でやるモードでくるらしているけど、そんなつもりがまったくないんだからな。どれだけ気違いか。どれだけこまるか! 兄貴だって、親父にやられていたときは、こまってたんだよ。それを、一六歳になったら、気違い親父のやり方で、ヘビメタを鳴らしやがって。それも、ものすごくデカイ音で鳴らしやがって。それで、やってないつもりなんだからな。じゃあ、言えばやめてくれるのかというと、それは絶対にない。絶対にない世界だ。これが、ヨソの人には、ほねの髄からわからない。だから、俺が悪くいわれる。俺がだらしないように言われる。殺さなければ、一秒だってこっちの意地を通せない。殺さなければ、一秒だってしずかにさせることができない。それを押しつけてきた。そういう状態を押しつけてきた。そういう状態を押しつけてずっと暮らしていたのに、そういうつもりがまったくないという状態だ。つもりがまったくなければ、どれだけやったって、やってないのとおなじなんだよ。

2019年12月23日月曜日

『いま現在に集中する』というマインドフルネスの考え方は酒のアルコール、たばこのニコチンとおなじ

『将来のことを気にするのはやめよう』ということと『いま現在しかない』ということは、両立しないということを言いたい。

基本的に、こういうふうに思ってなんとかやりすごそうとしている人を批判するつもりはないわけね。どうしてかというと、その人たちは、相当にやられて、こまっている人たちだから。相当に追い詰められている。けど、追い詰められている人が、『過去は過去だ』『過去のことは気にしないようにしよう』『将来のことは気にしないようにしよう』『いま現在に集中しよう』『過去も未来もない』というような考え方に立つのは、危険なところがある。おいつめられた底辺労働者が目の前の作業に集中すると、その作業が底辺労働者のからだをいためつけるということが考えられる。たとえば、一〇年間その労働を続けたとき、自分のからだが悪くなるということがわかっている状況で、目の前の作業に集中したら、一〇年後には、その労働者のからだは悪くなってしまう。目の前の作業に集中するというのは、ポジティブな考えに(いちおうは)思えるけど、ほんとうは、ネガティブな考えだ。それは、ガス室の中で作業をしているのとおなじだからだ。いつか自分のからだが悪くなってしまう』という恐怖からのがれたいから、『いま現在』という考え方に執着しているだけだ。『将来のことは気にしないようにしよう』という考え方はポジティブに響くけど、基本が『逃避』なのでネガティブな意味を持ってしまうのである。酒が体に悪いことがわかっているのにもかかわらず、『いま現在が楽しければいい』『いま現在がくるしいものでなければいい』という考えに基づいて酒を何十年も毎日飲み続けている場合は、いま現在に集中して酒を飲んでいても、ポジティブとは言えない。実は現実から逃避したいだけだからだ。実は、目の前の労働も酒とおなじだ。体を壊す酒とおなじで、その人のからだをこわす。もちろん、一日や二日でこわれるものではない。しかし、二〇年間も三〇年間も、続ければ、からだがこわれる労働というのはある。その場合、『いま現在』に執着する考え方は、『逃避』でしかない。









 ・考えても納得のいく答えが見つからないことは考えない。





過去において、考えたが納得がいく答えがみつからなかったということが、この考えの根底にある。ようするに、過去の経験を参照して、(過去の経験的なデータを考えて)未来のことについて考えているのである。『考えない』というのは、『考えないようにしよう』ということであるから、これは、未来の行動方針について語っているということになる。考えないのは、いまではなくて、未来の自分なのである。いまの自分が、『(将来)考えないようにしよう』といま思っているだけなのである。







  ・将来のことばかり考えてたら、今を生きられないから考えないようにする。



考えないようにしようといま現在決めたのだけど、それは、将来(未来において)考えないようにしようということだから、将来のことを考えていると言える。





・ 良いことも、悪いことも、終わったことは忘れるようにする。



これも、いままでの過去の経験から、『忘れるようにした方がよい』と考えているのである。忘れるようにするのは将来の『自分』である。(いま現在の自分はそういうことを考えている自分である)。これは、『忘れるようにしたい』という願望の別の表現だ。将来の自分は、たぶんだけど、近い過去に起こったことについて「あーだこーだ」と考えているのではないかと思っているのである。将来の自分は、将来の時点において、近い過去に起こったことについて、怒ったり、喜んだりしているのではないかと思っているのである。そういう感情を想起させるのは、実は、いま現在のことではなくて、将来の時点において、近い過去の出来事だ。生きていれば『思っているうちに』未来に到達してしまう。





・ 悩んでもしょうがないことは悩まない。



これも、過去のデータを参照して、これからはこうしようと言っているにすぎない。「これから」のことについて言及しているので将来のことについて語っている。過去の記憶を思い出して、未来の行動指針について語っているのである。要するに『過去も未来もある』。過去のことは忘れてないし、未来のことも心配している。





・ 心配しても解決しない問題については心配しない。



これも、過去のデータを参照して、これからはこうしようと言っているにすぎない。「これから」のことについて言及しているので将来のことについて語っている。







・将来も過去も、自分の頭の中にしかない。



それを言うなら、いま現在のことも、自分の頭の中にしかないのではないか?

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たとえば、アスベストを吸い込むと肺がんになるとする。そういう知識がある労働者がアスベストを吸ってしまう作業をしているとする。その場合、どうしても、将来の自分が気になるだろう。

しかし、『アスベストを吸い込むと肺がんになる』というのは、『アスベストを吸い込むと肺がんになる可能性が高くなる』と言うことであって、アスベストを吸い込んだにもかかわらず、肺がんにならない人もいるとしよう。しかし、どのくらいの長さアスベストを吸い込む作業をしたかとということと、どのくらいの量アスベストを吸い込んだかということが、肺がんになる確率に影響を与えているということは否定できないとする。つまり、長期間、アスベストを吸い込めば吸い込むほど、肺がんになりやすく、アスベストを吸い込む量が多ければ多いほど、肺がんになる確率が上がるとする。確率は上がるけど、ちょっとだけアスベストを吸い込む作業をした人は、アスベストを吸い込んだにもかかわらず、肺がんにならなかったとする。その場合、『アスベストを吸い込んだにもかかわらず、肺がんにならなかった人がいるのだから、吸い込んだアスベストの量は関係がないとは言えない。また、肺がんにならなかった人がいるのだから、アスベストを吸い込む期間の長さは関係がないとは言えない。
いちおう、こういうことをおさえておくとする。
『アスベストを吸いこむと肺がんになるのではないか』と思っている人がいたとする。その人が、アスベストをどうしても、ちょっとは吸い込んでしまう作業を平日はしていたとする。マスクをしてもちょっとは吸い込んでしまう作業を月曜日から金曜日まで、朝の九時から昼の一二時までと、午後一時から午後五時までしていたとする。
その人のことをAさんと呼ぶことにする。「このままこの仕事を続けていたら、将来、肺がんになってしまう」とAさんが考えても、当然だと(僕は)思う。けど、そういう作業をしていない心理学者や心理学者の影響を受けたもと患者やポジティブシンキングに傾倒している人が言うんだよ。『いま現在に集中すればいい』とね。『不安なんていうのは、幻影だ。将来の不安というのは、自分で作り出しているにすぎない』とね。『いま現在に集中すればそんな不安はなくなる』とね。
けど、僕はAさんが将来のことを心配するのは当然だと思う。そして、Aさんがいま現在の作業に集中したばあい、肺がんになる危険性があがると思う。アスベストをどうしてもちょっとは吸い込んでしまう仕事を続けていれば、将来、肺がんになってしまう危険性があがるという考え方は、非合理的ではないと思う。根拠があるから心配しいてる。根拠がないことを心配しているわけではない。僕はそう思う。けど、将来のことを心配してくよくよ!悩むのは、非合理的なことだと考える人たちもいる。くよくよというのが、そもそも、ネガティブな言葉で、いかにも、非合理的な考え方にとりつかれているような印象を与える。これは、印象操作ではないのか?
まあ、「くよくよ」という言葉については今回はこれで、切り上げるとする。問題は、将来、肺がんになる危険性をあげる仕事をしているAさんが、『いま現在に集中』して作業しても、将来、肺がんになる危険性をあげるということだ。Aさんが『いま現在の作業』に集中して、不安がなくなったとしても、将来のAさんが肺がんになったとすると、将来のAさんは、楽しくないと思う。『いま現在の作業に集中』するときっと、いい未来があると思うのは勝手だけど、そういう前提に立って、他の人にそういう考え方を押しつけるのはどうかと思うな。『いま現在の作業に集中すると』と書いたけど『いま現在に集中すると』でもおなじだ。『いま現在』に集中すると、将来の不安がなくなるとする。それはいいことなんだと言えるかどうかという問題だ。『いま現在に集中』することで成果が得られる場合がある。その場合は、『いま現在に集中する』という考え方でいいと思う。将来、いいことがあるのだから……。しかし、将来悪いことがある場合は、そんなことは、言えない。




2019年12月22日日曜日

せけんのやつらは、『ヘビメタ騒音でできない』ということを認めない


どこか遠くに行きたいという気持ちはある。よく、思うんだ。『どこか遠くに行きたいな』と。
けど、実際には、行かない。行けない。
『どこに行ったっておなじだよ』という気持ちがある。『そんなの、つかれるだけで、なにもかわらないよ』という気持ちがある。『自分が動いても、気違いヘビメタ騒音にやられた雰囲気が毒ガスのように蔓延しているのだから、どこに行ったって無理』という気持ちがある。
ほんとうに、どこに行ってもくるしい。だれもたすけてくれなかった。どこに行ってもヘビメタ騒音でくるしい。まるまるたい。

『ヘビメタ騒音でくるしい』と言っているだろ。
『ヘビメタ騒音で●にたい』と言っているだろう。
『ヘビメタ騒音でできない』と言っているだろ。で・き・な・い・ん・だ・よ。できない。ヘビメタ騒音でどーしてもできない。

けど、せけんのやつらは、『ヘビメタ騒音でできない』ということを認めない。やられてないからわかってないだけだ。できないんだよ。できなくなるんだよ。

『なにが、過去は関係がない』だ。ふざけんな。

2019年12月19日木曜日

『想像の埒外』だ

   *   *   *



ひとごとだよなぁ~~~ こんなの~~



けど、俺はつらい。ずっとつらい。



気違い兄貴のヘビメタというのが、『想像の埒外』なんだよな。普通の人には想像ができない。そのくらいひどい。そして、ヘビメタ騒音の影響がまた、『想像の埒外』だ。他の人は、『たいしたことがない』と思ってしまう。そうじゃない。



これ、もう、すべてがむりなんだよな。で、気違いヘビメタにたたられたことがない人が……気違い家族によるしつこいヘビメタ騒音にたたられたことがない人が、認知療法的な説明やアドラー心理学的な説明やポジティブ思考的な説明をする。



こんなの、ない。

2019年12月18日水曜日

ヘビメタ騒音がない世界で……


2019年12月18日23時07分38秒
あのあと、また眠って、起きた。
なんだろうな? 夕方の四時ぐらいに眠ったのかな? よく、おぼえてない。
さてと、どうするかな?
いま、とりあえず、お茶を飲んだけど元気が出ない。いつも、外食をするなら急がなければならない時間に起きるなぁ。二四時間やっているところもあるけどね。
二四時間やっているデニーズをこのあいだ見つけた。デニーズは、入ったことがない。(これも、私はデニーズには入ったことがないという意味だ)。
入ったことがないので行ってみるかな。けど、ほんとうは、刺身だな。刺身をいっぱい食いたい。けど、どのみち、ひとりで行動しているとさみしい感じはある。男の友達でもおなじだ。やっぱり、好きな女の子と行動したほうがさみしさはまぎれる。普通に好意を持っているけど、ほれているわけではない女の子だと、さみしい感じがまぎれない。男の友達といるのとおなじだ。
ヘビメタ騒音がなければ、こんな思いはしなくてすんだのに。僕は、そういう女の子がひとりいればいいわけで、多くの女の子とそうしたいわけではない。
けど、もう、そういう気持ちを抱えて、何十年もひとりで暮らしたので……。なれるわけがないだろ。これ、わかってないやつがおおいんだよな。なれたり、しない。愛情飢餓感?は強くなる。もちろん、あきらめの念がしょうじる。客観的に見て、老化していくわけだからな。
今度生まれ変わったら……。
ヘビメタ騒音がない世界で……。

外に食べに行こうと思ったのだけど、なんかさみしいので、元気が出ず……。家でレトルトのハヤシライスを食べることにした。
いま、食っている。
このハヤシライス(レトルト)はけっこう、高い。一個二五〇円ぐらいするのだ。けど、一個一〇〇円ぐらいのハヤシライス(レトルト)二・五倍うまいかというと、そうではない。一・二倍ぐらいしかうまくない。ほとんどかわらない。
まあ、レトルトってそうだよね。
レトルトのカレーも一〇〇円台のやつと二〇〇円台のやつがあるけどそんなにかわらない感じがする。
それに、レトルトカレーとレトルトハヤシライスは、一口目はうまいのに、食べている途中で、まずくなる。これは、たぶん、あぶらが原因なのだと思う。あぶらといっても、脂肪系のあぶらだ。ほんとうに、途中で食べたくなくなるんだよな。ご飯が半分ぐらいなくなったところで、一気に、「なんかうまくない」と感じるようになる。

いろいろと言ったけど、うえがみたせた。
感謝だ。
おなかがいっぱいだ。
++++++
このさっきーーどうするかな?

「おれはもうだめか」とか「つかれたなぁ」とか「うごきたくないなぁ」とか考えながら歯磨きをしている俺君です。
まあ、「もう、うごきたくない」はほんとうにこころの言葉で、「もう、うごきたくない」「もう、うごきたくない」と思いながらむりやり動いているときがある。どうして、動かなければならないかというと、俺にしかできない用事があるからだ。けど、もう、つかれた。

ふつうのひと……『標準』からはほんとうにだいぶはずれてしまったな。別の言い方だと、『レールからはずれた』というのがあるか? ぼくのなかでは、だいたい、おなじような意味だ。
ほんとうに長期騒音でつかれた。毎日が長期騒音の連続だった。

   *   *   *

俺はかなり疲れた。
ほんとう、起きて、水分を補給して、食事をして歯磨きをしただけで、相当につかれる。

もう、むりだ。

ふたたび、高校をおちたときのような気分で、よこになるしかないか。
ほんとうに長期騒音でくるしかった。




2019年12月17日火曜日

ほんとうに、自分の人生なのだけど、信じられない


ほんとうに、自分の人生なのだけど、信じられない。どうしてこうなってしまったのか。気違い兄貴が、あんな気違いでなければ、こういうことにならなかった。気違い兄貴が、気違い的な感覚で俺の言っていることを無視して、気違い的な態度で鳴らし続けなければ、こんなことになってない。気違い兄貴にやられたことがない人が、『ちゃんといわないからだめなんだ』と俺を下に見て、説教をしてくる。『無職』『引きこもり』*という属性があれば、人は、勝手に見下して説教をしてくる。おまえらだって、あんなに長い時間、あんなに長い期間、自分がこの世で一番嫌いな爆音にさらされたら絶対に働けないようになるのに、えらそうなことを言いやがって……という気持ちになる。

自分がこの世で一番嫌いな音が一日に一三時間以上鳴っている状態というのを経験してみろ。どんだけ、くるしいか。しかも、やっているやつが家族で、サイコパスだ。気違い的な意地で、自分が出している音がデカイ音だということを認めない。全部、ゆずらずにやりきっているのに、全部ゆずってやった気持ちでいる。……こういう部分が他の人にはわからない。しかも、家族のなかにそういう人間がもうひとりいる。その人間は、父親だ。こんな状態を押しつけられて、他人にはえらそうなことを言われて、俺はもう、いやだよ。



*当時

いま、アマゾンキンドルアンリミテッドを無料で楽しめるので、ぼくの本をただで読むチャンスですよ。

一ヶ月だけだけど。

いろいろと誤解をうんだようだ。


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一ヶ月だけだけど。





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俺がむかし、親父と作業をしたくないということを書いたんだけど、いろいろと誤解をうんだみたいなのである。「やめてくれ」とどれだけどなってもやめてくれないし、やっていることがいちいちへんなんだよ。で、親父じゃなくて、こっちが痛い思いをすることになる。
それから、親父のように頭がおかしくてへんなところで(行きすぎた)意地をはる人は、働かないほうがいいということを書いたんだけど、これも、いろいろと誤解をうんだようだ。親父を想定して書いたのだけど、仕事が不得意な人全般を指しているような感じになってしまったんだな。まあ、そういうつもりはない。(親父は)悪気がないのに、いつもこっちが、こまらされるんだよ。ほんとうに、へんなことを言い出して、こだわりつくしてゆずらないから、ものすごくこまる。そういうことを言おうとしていたわけ。仕事が不得意な人全般について言ってたわけじゃないわけ。たとえば、作業が遅いということは、この場合問題ではないわけ。けど、作業が遅いと感じている人が、反感を持ったみたいなのである。
親父がこだわる理由がおかしいし、親父が「かわりに」思いつくことが、これまた、こまることなんだよ。こっちが。たとえば、アンテナコードは、数日後に使うからそのまま置いておいてくれと言ったら、まいておくことにこだわってまくわけ。けど、それはいい。それはいいんだけど、室内において欲しかった。ところが、室外におくことにこだわって、絶対にゆずらない状態になる。室外におくと、つゆがついて錆びる原因になるからいやだったわけ。(むいてあるからね)。だから、外にかけないでくれと言ったら、『切る』とか言い出すわけなんだよ……。これがぁ! つながっているものを切ってしまったらだめなんだよ。けど、一度『切る』ということを言い出すと、止まらない。『俺が切って、使うときに中継器でつなげてやる』ということを言い出す。中継器は、コードが短くて使えないときに使うものなんだよ。せっかく、一本で使える長さなのに、切る必要はないわけ。さらに、中継器を使うと信号がわずかではあるけど、減衰する。ほんとうに、切る必要なんてないのに「きるきる」と言い出す。『(アンテナコード)中継器でつなげてやるからいい」と言い出す。室内にそのままおけばいいのに、そういうヘンなことを言い出す。もう、こまるんだよ。

コードは俺が買ったコードだから、親父から、取り上げて二階に持っていけばよかったんだけど、どのみち、庭で使うから、一階の物置スペースにおくつもりだった。

ともかく、そういうことで、トラブルが発生する。絶対にトラブルなんて発生しなくてもいいところで、トラブルが発生する。で、一度言い出したら、言うことを聞かない。だから、こまる。「やってやる。やってやる」と言い出す。こまるんだよ。

ともかく、一般に不器用な人とかそういう人について言っているわけじゃないのである。親父みたいな人について言っているのである。親父みたいな人は、組んだ人……いっしょに仕事をやる人に迷惑をかけっぱなしになるから、働かないほうがいい……とね。けど、多くの働くのが苦手な人が、自分のことを言われたのではないかと思ったみたいなんだよね。けど、俺は親父型の特殊な人について言っているわけ。話が通じればいいけど、通じないんだよね。こまるんだよね。

2019年12月15日日曜日

完全に追い詰められている。

やばい。去年よりも一昨年よりも、悪くなっている。そーとうに、やばい状態になっている。ヘビメタ騒音の影響は消えるどころか、年ごとに強くなっている。俺が歳を取れば取るほど、気違いヘビメタ騒音の影響が強くなっている。完全に追い詰められている。

気違い的な意地でムキになってやったのに「そんなにやってないつもり」なのかよ?

もう、いやだ。●にたい。

あんなに意地になってやってたのに……。

ほかのやつらだって、自分がこの世で一番嫌いな音を九〇デシベル付近の音で、毎日平均八時間聞かされ続けたら、●にたくなる。

遅刻するようになる。忘れ物をするようになる。

気違い兄貴が家族だったと言うことが最大の問題だ。他の人は『家族なんだから、相談すればいい』といいやがる。『家族で相談すればいい』と言いやがる。
他人ではなくて、家族だから問題なんだろ。もうひとり、おなじ感覚の家族がいるから問題なんだろ。たとえば、アパートで気違い兄貴が気違い兄貴が鳴らしていた音量で鳴らしている場合、他人なら、注意できる。『家族で相談すればいい』なんて、言われなくてもすむ。警察に相談するときだって、『他人である』ほうがどれだけ話しがとおりやすいか。『家族の問題は家族で解決してください』というような考え方が、当時の日本では強かった。『家族だから』どうにかなるのではなくて、『家族だから』どうにもならないんだろ。『家族』だから、弟である俺が、目だたたないかたちで犠牲にならなければならなくなるんだろ。気違い兄貴だって、うちでだけやったわけだから、『家族ならどれだけ虐待してもいい』という感覚が成り立っていたとしかいいようがない。『家族だから、やったってやってない』という感覚が成り立っていたとしかいいようがない。『家族だから、どれだけやったってやってない(のとおなじだ)』という感覚が成り立ってしまうんだよ。そして、世間のやつらは、気違い兄貴の構造がわからない。気違い親父の構造がわからない。家族にもうひとり、気違い兄貴とおなじ感覚がのやつがいるということを書いたけど、気違い親父のことだよ。気違い親父が『家主』で『大家さん』だから、問題なんだろ。実際、うちは、二階の俺の部屋と兄貴の部屋を貸していた。ほんとうに大家さんだったのである。で、この大家が、気違い兄貴のヘビメタ騒音に関しては、一切合切かかわらないようにしていたのである。鳴らしている、三年間、鳴らしているもう三年間、鳴らしているもう四年間、鳴らしているもう五年間、注意しなかったのである。俺が、小学六年異性時のに『注意してくれ』と言ったら『まったく鳴らすななんて言えるわけがないだろ』とか『まったく鳴らすななんて言ったらかわいそうだろ』と言って、注意しなかったのである。『注意なんてできるわけがないだろ』という意見なのだ。気違い親父は、いろいろなところでおかしいけど、これは、あっけにとられた。絶望的な気分になった。気違い親父は、普段家にいないから、気違い兄貴がどれだけの音で鳴らしているかわかってないのである。自分が被害を受けなければどれだけ言われたって、「しらぬぞんぜぬ」なのである。で、そういうことも、ヨソの人にはわからない。気違い親父は、気違い的な理由で怒り狂っていた人間なんだぞ。気違い兄貴が一三歳ぐらいになるまで、ずっと怒り狂っていた人間なんだぞ。それが、気違い兄貴が一六歳になって、自分よりでかくなったら、注意することが必要なことなのに、今度は、一切合切注意しないという態度になってしまった。こんなの、気違い兄貴がこわいから、なるべくあわないようにして、注意しなかっただけだ。で、『まったく鳴らすななんて言えるわけがないだろ』とか『まったく鳴らすななんて言ったらかわいそうだろ』みたいな意見は、言い訳なのである。頭がおかしい言い訳。本人がやりたくないと、ほんとうの理由じゃないことを言い出して、発狂して、やってやらないということを実現化する。そういうしくみなんだよ。あのときは、俺が一一歳の小学六年生の時だから、俺はまだからだが小さくて、(親父は俺に対して)怒り狂うことができた。兄貴には、もう、怒り狂うことができなくなっていた。注意したくないから、ほんとうに気違い的な理由をつけて、注意をしない。これ、おかしいんだよ。耳が正常で、本式ではないにしろ日曜日の朝は、聞かされるわけだから、普通の家で鳴らしたら絶対にだめな音で鳴らしているということがわかるはずなんだよ。けど、気違い兄貴が鳴らしている時間は、外に出て、庭をいじっている。外に出れば、階段の下や俺の部屋よりもずっと音が小さくなる。日曜日の昼にはもう、パチンコ屋に行って、家にいない。そして、帰ってくるのが、一一時一五分で、五分前か四分前に、気違い兄貴が鳴らすのをやめている時間だ。だから、気違い親父が帰ってきたときは、しずかなのである。だから、もう、関係がない。わからない。自分がこまるのでなければわからない。たとえば、自分が午後八時に帰ってきて、ガンガン鳴っている居間でテレビを視るということをするなら、『デカイ音で鳴っている』ということがわかるんだよ。けど、気違い親父なんて、兄貴と顔をあわせたくないのか、兄貴が高校生になってから、絶対に、平日も土曜日も日曜日も、午後一一時一五分に帰ってくるようにして、気違い兄貴のヘビメタを聞こうとしない。どれだけ、『午後八時に帰ってきて、どれだけひどい音で鳴っているか、聞いてくれ』と言われても、三六五日中、三六五日、クリスマスも大晦日も元旦も、絶対に、午後一一時一一分に帰ってきて、聞こうとしない。一日だって、午後八時に帰ってきて、どれだけデカイ音で鳴っているか聞いてくれない。これが、俺が小学六年生から、二〇歳までの気違い親父の態度だ。やったことだ。

2019年12月14日土曜日

旅と旅行のちがい


旅は目的地が特に決まっていない場合が多い。旅行の場合は目的地が決まっている場合が多い。特に、旅行の場合は、目的地だけではなく、行程が決まっている場合が多い。

どこに行ってなにをやるのか、どういう時間にやるのかということが、だいたい決まっているのが旅行だ。旅の場合は、そのような決まりがあんまりなく、なんとなく、どこか、自分が住んでいるのとはちがう場所に行くというイメージがある。

「あてどもない旅に出る」とは言うけど「あてどもない旅行に行く」とは言わない。旅行の場合は目的地が決まっている。「自分探しの旅」とは言うけど「自分探しの旅行」とは言わない。

旅の場合は、さまよっている感じがある。なので、旅の場合はアクシデントが多い。なにが起こるかわからないけど、自分が予期してないなにかが起こることを(期待)している感じがある。両者のちがいはだいたいこんなところだろう。

しかし、旅のほうが、意味範囲が広いのではないかと思う。人によっては、旅行と言うべき時に旅と言う場合がある。おなじ人でも、旅行であったとしても、気分的には『旅をしている』と言う場合もあると思う。包含関係を考えると、『旅』という概念のなかに、目的がはっきりした『旅行』が含まれているのではないか。



2019年12月13日金曜日

『いそがしすぎて』旅行にも自分探しの旅にも行けない状態が、いい状態なのか悪い状態なのかは、一概には言えない


俺はもう、長期騒音でめちゃくちゃになっているので、なんともいいようがないのだけど……普通の人の基準からははずれてしまっているので、はずれた基準でものを言うけど、いそがしくて旅行に行けないサラリーマンが、定年後旅行に行けるとは限らないぞということは言っておきたい。

基本的には、自分探しの旅は、やったことがない。

俺は、これまた、ぶっちゃけたことを言うと、気違い親父と旅行に行くのがいやでいやでしかたがなかった。親父といっしょに行動していると常に気違い的な攻撃を受けるので、親父といっしょに行動するということは、蕁麻疹が出てしまうほどいやなことなのである。

しかも、親父の知り合いがいなければ、乗り物のなかでもきちがい的な理由で怒り狂うので、乗り物自体が憂鬱になってしまっているところがある。

気違いが怒り狂うのに、理由なんて必要ないんだよ。

本人が本人の中で、「なにか」に怒りをぶつけたいと思っているから、『相手のなんでもないこと』で怒り狂うわけだから、相手には怒られる理由がない。

けど、これまた、親子フレームという考えがある人には、『親』が怒るのであれば、子供が(小さくて気がつかないにしろ)怒られて当然のことをしているのではないかというような疑問を持つ人がいるのである。

人が、人に対して、『理由なく』怒り狂うのはよくないことだと思う人でも、親子フレームを持っていると、親が子供に対して『理由なく』怒ったとしてもそれは、ゆるされることだとと思ってしまうのである。子供のほうに、どこまでも、負担を求める考え方をする人たちがいる。

『親』がやるのであれば、ゆるされるのである。ただ単なる『他人』がやるのであれば、ゆるされないことでも、『親』という立場の人がやるのであればゆるされると考える人たちが一定数いる。

『子供』が、親に対して『怒ること』はゆるされないことだが、親が子供に対して怒ることはゆるされると思っている人たちもいる。『どんな場合でも』というような条件がつくと、『(親が)気違い的な理由で』怒っている場合も含まれてしまうので、かなりやっかいだ。

この人たちは、『子供』のほうに負担をかけている。期せずして、差別的な偏見に基づいて自分の意見を述べている。その意見は、何度も言うけど、気違い的な親にやられた『子供』を追い込む。

まあ、ここまでは、そもそも、自分探しの旅に出るような気持ちもないということだ。俺は……。自分探しの旅に出ようかなと思う人のほうが、やはり、恵まれているような感じがする。まあ、旅行と旅はちがうけどな。ここでは、旅行も旅もおなじだとする。

そりゃ、無職、ニートである人が自分探しの旅に出てもあんまりいいことは起こりそうもない。いや、けど、いいことが起こるかもしれない。問題なのは、現役サラリーマンの人が、説教をしてしまうことだ。自分(現役サラリーマン)は、いそがしくて旅行に行けないそうだ。

で、自分探しの旅なんかよりもやることがあるのではないかということを言い出す。そのやることというのは、就職だ。就職すれば『自分がなにであるか定まる』ので、自分探しの旅なんてしなくていい。無職、ニート「だから」自分探しの旅に出たいような気分になるのだ。というようなことを言うのだ。


この意見はもっともそうだけど、もっともじゃない。

就職しているかどうかと自分は何者であるのかということに対する興味は関係があるけど、すべてではない。

ようするに、就職しているにもかかわらず『自分探しのたび』に出たい人もいるのだから、就職すれば『自分探しの旅に出たくなくなる』ということは、すべての人において成り立つものではない。

それから、『いそがしすぎて』自分探しの旅というようなものに関しては興味すら失うというのが、そのサラリーマンが(就職することをすすめる根拠)になっているのだけど、『いそがしすぎて』旅行にも自分探しの旅にも行けない状態が、いい状態なのか悪い状態なのかは、一概には言えない。

いそがしすぎるというのは、自分を失っている状態なのである。だから、自分探しの旅に出たいという気分は、むしろ、高くなる可能性がある。いそがしさが一段落すればいいけど、ずっといそがしかったらどうなる? 退職するまで、『自分探しの旅に出たい』と思いながらも、『自分探しの旅に出る』ことができない。

いそがしすぎる状態になれば、自分探しの旅に行きたいとか自分は何者であるのかなんて、悠長に考える時間がなくなるので、そういうことを考えないためにも就職したほうがいいという意見なのだけど、いそがしすぎる状態は、我を忘れている状態なので、ずっと続くのであれば、よくないことだ。

忙殺されているあいだ、自分は何者であるのかという問題は、忘れてしまっているけど、なくなってしまったわけではない。

定年退職後に、旅行ができるという前提でものごとを語っているけど、それは、わからない。体力も旅行に行きたい気持ちもじゅうぶんに残っているという仮定がいつも成り立つとは限らない。実際、定年退職後の旅行を楽しみにしていたのだが、からだが悪くなって、旅行に行けなくなってしまった人もいる。


・就職すれば、『自分探しの問題』は解決する……解決しない場合もある
・いそがしくなれば、自分が何者であるかについて考えなくてもよくなる……これは、言える。しかし、自分が何者であるかについて考えなくてもよい状態が、かならずしもよい状態とは限らない。
・定年退職したあとに、旅行に行けばいい……行ける人もいるけど、行けなくなってしまう人もいる。
・そもそも、いそがしく働いているうちに死んでしまう人もいる。忙殺されている状態が、いい状態かどうかはわからない。(そういう状態が好きな人もいるだろうけど、そういう状態が嫌いな人もいる。そういう状態とは、あまりにもいそがしくて、旅行にも行けないし、自分が何者であるのか考えるひまもないという状態のことだ。

ぼくは、自分探しの旅に出たいとは思わないので、どうでもいいことなのだけど、忙殺サラリーマンが言っていることは、正しいとは言えない。言いたいことは、忙殺サラリーマンが、それがいい状態だと思って、自分でそうしているのはかまわないのだけど、人に言わなくてもいいのではないかということだ。

自分は、いそがしくて、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……ということは、別いいのである。だから、他人が同様に、いそがしい状態になって、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……状態になることがよいことなのかどうかはわからない。その人(相手)にとって、それが本当にいいことなのかどうかわからない。

しかし、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……状態は、だれにとってもいいことだと考えているのである……忙殺サラリーマンは。

気違いヘビメタがものすごい音でガンガン午後一一時まで鳴っている毎日は、忙殺サラリーマンの毎日よりも忙殺されている状態なのである。この状態が(月数切り捨てで)一四年も続いて、つかれはてた。このつかれは、とれない。

ヘビメタ騒音が鳴っている毎日よりも、忙殺サラリーマンの毎日は、楽だと思う。忙殺されてないと思う。けど、そういうレベルの忙殺でも三〇年間続いたら、人間としてだめになると思う。たぶんだけど、三〇年間、強烈にいそがしい毎日を続けたら、なにかしらの病気になると思う。

三一年目に旅行に行けるとは限らない。そもそも、旅行に行きたいという気持ちもなくなっているかもしれない。ならば、旅行に行きたいときは、行ったほうがよいのではないか。たとえ、無職ニートでも。働いても働いていなくても……。

けっきょく、『よゆうがあるのが悪いのだ』という意見なのだよね。それは、一見正しそうに見える。ただ、見えるだけだ。余裕がなくなるほど働けば(いそがしくなれば)一時的には、根本的な問題を『忘れる』ことはできるけど、忘れた状態がほんとうにその人にとってよいことなのかどうかはわからない。忘れた状態でも解決はされてないので、解決されてない問題としてのこり続ける。それが、定年退職後におそってくるかもしれない。いそがしくして忘れているだけなのである。それは、麻薬でつらい現実を忘れるのと根本的にはおなじだ。それから、三〇年間とか四〇年間とかそういう状態が続くのであれば、身体と精神にたいへんな影響を与えると思う。

ようするに、無理をして病気になる確率が上がる。忙殺されている状態というのは高ストレスな状態なのである。ストレス過剰な状態なのである。

それは、理想的な状態じゃない。長い目で見るとむしろ悪い状態だ。『忘れる』という意味では問題解決にはなるけど、それは、短期間に限った話しだ。三〇年間、四〇年間という期間の長さを考えた場合には、問題解決にはならない。むしろ、忙殺されて仕事以外のことを考えられないような毎日が長期間続くということは、その後、複数の問題を引き起こす原因になる。

(注)毎日というのは休日を含んだ毎日のことだとする
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だから、反省したりしない。


かなり精神的にくるしい。
さっき、下の部屋にある段ボールを片付けているときに、足を刺されたような気がする。(もう、ダニなんだか、乾燥肌なのかわからない)。
実は、バルサンのあと、ネズミが出ているので、ダニが発生していてもおかしくはない。
もう、俺は疲れた。
ほんとうにつかれた。ヘビメタ騒音でつかれた。どうにもならないほど、ヘビメタ騒音でつかれた。まあ、ネズミは親父経由なんだけどな。
もう、つかれたよ。
ヘビメタでくるしい。だれもわかってくれない。まあ、わかるわけがないか。

ヘビメタにやられなかった人たちが、マインドタフネスとかアドラー心理学とか認知療法みたいなことを言う。きたないよな。そりゃ、やられてなければ言えるだろう。気違い的な家族と一緒に住んだことがない人が、「人間の選り好み」を言っているだけだ。積極的な人のほうが、消極的な人よりも好きだ……自分は。こういうことだ。気違い的な家族にやられてない人が言う。気違い感覚だけずらせば、人のことを気にせず、ものすごい意地で、ものすごく夢中になって、なにごとごとかをやる人は、気違い兄貴や気違い親父とたいしてかわりがない。ただ、気違い感覚が成り立っているかどうかはものすごく重要な部分なので、だから、こまる、とは言わない。けど、ほんとうに、気違い親父も、気違い兄貴も、気違い的な意地で、気違い的な迷惑行為をしているとき、とくに「迷惑をかけている」という気持ちがないんだよな。それは、どれだけ言われても「ない」。その、どれだけはっきり、何万回言われても、特に迷惑をかけているつもりがないというのが、おかしいのだけど、こういうおかしさは、「よそのいえのひと」にはわからない。本人たちだって、よそのいえのひと」よりもわかってない。がむしゃらにやるだけなんだから。「やめろ」と言われたら、傷ついて怒り狂う。で、ムキになってやってしまう。けど、ムキになってやったとしても、やったつもりがないのである。また、「やった」と言われたら、ムキになってやったときとおなじように、ムキになって「やってない」と言い出す。で、それがすんじゃったら、それでおしまいだ。「やってない」ことを「やった」と言われて自分が傷ついた……腹が立ったという気持ちしかない。相手のことはまったく考えてないのである。そういうことを、生物レベルで普通にできる。こんなの、自分の感覚器をだますことができなければできないことなのに、普通に自分の感覚器をだましてそうする。で、そうするのが、気違い兄貴や気違い親父なのだ。どういうことかというと一日二四時間中二四時間、そういうモードで暮らしている。だから、反省したりしない。

気違い的な意地で夢中になってやったことは、常に、「やったってやってないこと」なのである。やっているさいちゅうは「なんだ、そんなこと言ってきてぇ!!!!」という気持ちになって怒ってやり続けるし、やり終わったら、「そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と怒り狂えば、それでおしまいなのである。

2019年12月12日木曜日

●『私に過去はない』という人の『肩書き』や『履歴』が一番重視されていることに気がつく人はいないのか


●『成功者の過去』と『つらい労働者の過去』


こういう言い方がはやるのは、『成功者』と『つらい労働者』がいるからだ。成功者が、いま現在に集中するという意味で、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』ということを言うのである。

これは、ほんとうは記憶を維持して言っているのだから、記憶障害者になりたいということではない。記憶は失いたくないのである。過去の記憶であれ、自分にとって必要な記憶は失いたくないのである。

成功者が使う『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』というのは、ほんとうに『効率』の問題で、自己投入の問題だ。自己投出といってもいい。

いそがしいから時間の効率を考えているだけだ。過去のことを思い出すと時間の効率が悪くなることが多いということを知っているからそういうふうにしようと思っているだけだ。


ちなみに、どうしてそういうことを知っている? かというと、過去において、自分の経験と効率にいて考えたとき、そういうふうな考えにいたったからだ。

つまり、ここでも過去の経験と過去の記憶は、結論を見いだすときに重要なものであるということがわかる。過去の経験について考えることができるから『時間の効率が悪くなる』ということを『知っている』のだ。

知っているのは、とりもなおさず、そういう記憶があるからだ。ちゃんと、自分の結論を覚えている。結論を出すときに過去の記憶を使い、さらに、結論を出したあと、記憶を保持している。

これで、記憶障害者になったら、効率の問題などは考えられないような状態になってしまうのである。効率なんてものを考える以前に仕事なんてまったくできない状態になってしまうのである。


だから、ほんとうは、記憶を失うことを考えてない。記憶を失うことを考えないで、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』と言っているだけだ。こっちは、成功者だから、仕事をやっているうちは、それでよいのである。


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●マインドフルネス・マインドタフネス、ゾーン、自己投入

成功者が言っている『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』という話は、実は、マインドフルネス・マインドタフネスの話しなのである。何度も言うけど、少し前の言い方だと『自己投入』の話しだ。別の言い方で言うと『ゾーン』の話しだ。


成功者が言っている『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』という話は、より良い仕事をするための方便にすぎない。ほんとうは、『過去』に頼り切っている。『過去の記憶』を土台にしてものごとを考えている。『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』と言うことも含めて『過去の記憶』を土台にしてものごとを考えている。


●成功者の過去は事前に紹介されている


問題はつらすぎる労働者だ。つらすぎる労働者にとっては、過去の記憶はつらい記憶ばかりなので、思い出したくないのである。成功者の過去は、実は、思い出したい過去なのである。できれば宣伝したい過去なのである。

かつての失敗談に関しても、いまの成功をより際立たせるための失敗談であって、ほんとうに失敗した話しではないのである。この手の話しの場合は『失敗は成功の母』であり、成功へとつながる失敗なのだから、ほんとうの意味では失敗ではない。

いま、一番、いそがしい成功者が『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』と言う場合は、何度も言うけど、効率性を求めているにすぎない。

過去にやったことよりも、もっとすごいことをやりたいと思っているから、そういうことを言う。そして、発言者の属性は、発言する前に多くの人によって『認識されている』ものなので、多くの人は『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』という発言が『記憶障害にかかわることではない』ということを知っているのである。

『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』という人の『肩書き』や『履歴』が一番重視されていることに気がつく人はいないのか?

成功者であれば、他の人はその人の『肩書き』や『履歴』についてある程度は知っているのである。『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』と言っても問題がない状態ができあがっている。


これは、ほんとうのことを言ってしまえば、人びとが、『肩書き』や『履歴』という『過去の実績』を重視しているということを如実に示している。


成功者の場合は、『肩書き』や『履歴』という過去の実績について、その場で本人が説明する必要がない状態が成り立っている。『過去の実績』というのは、その人にまつわる過去の記憶に他ならない。


その人の過去の記憶と、他の人がその人について考える場合に使われるその人の『過去の記録』なのである。他の人がその人について考える場合に使われるその人の『過去の記録』は、成功者の場合は、他の人が感心するような『過去の記録』なのである。


肩書きというのは現在のことを示しているのだけど、過去のこともある程度は明示しているのである。たとえば、いろいろなドラマに出てきた女優は、いろいろなドラマに出たという過去の実績が、『女優』という肩書きを成り立たせている。

どこかの『代表取締役』は、『代表取締役として働いてきた』という過去の実績を売り物?にしているのである。いずれせよ、肩書きによって過去の実績?が『明示』されている。

何本ものドラマに主演していた『女優』は特に『過去の業績』について語らなくても、『女優』という肩書きだけで、『過去の業績』について他の人から理解される下地がある。

説明する必要がないほど有名な会社の社長は、その肩書きだけで、その人がそれまでも社会的に有能であったということを示している。その人が社長になるまでも、その会社で優秀な業績をおさめてきたということを暗示している。

過去の実績をこえたいからこそ、「過去は関係がない」「私に過去はない」と言いたくなるのだ。

これは、目の前の仕事に夢中になることで、体を壊してしまう人の話ではない。粉じんが舞い散るところで働いている人たちの話ではない。

2019年12月11日水曜日

ヘビメタ騒音の朝なんて、『人間魚雷になる日の朝』とおなじなんだよ。


「どうにかしないとやばいな」というのはあるけど、動けない。「どうにかしなければ」と思いながら、なにもしないまま時間だけがすぎていく。



たとえば、リアルであっている人がいたとして、その人にはぼくの内面の崩壊がわからない。



騒音問題は、睡眠障害を含めてけっこう重たい問題なんだよ。睡眠障害で「うけ」が悪いよ。だいたい、これから眠るつもりなんだけど、ほんとうは、行かなきゃならないところがある。昼間あたり……。けど、俺は行かない。寝ているから。


   *   *   *


2019年12月11日07時16分15秒
ほんとうーーーに、つらかった。どれだけ、ぼくが「つらかった」と言っても、まったくつたわらないだろうけど、つらかった。で、この朝の感じが『リアル』なんだよね。この朝の感じはヘビメタ騒音の朝の感じだ。どれだけだれがなんと言おうと、つらいものはつらい。破滅破綻を感じるものは、破滅破綻を感じてしまう。長く続きすぎたんだよ。ヘビメタ騒音が長く続きすぎた。毎日続いた。毎日の経験の上にできあがった感覚は、否定できない。『破滅を感じる必要はない』と言ったって感じる。『破綻を感じる必要はない』と言ったって感じる。
気違い兄貴が、ほんとうに気違いモードで気違いヘビメタを鳴らした。ほんとうは、深刻な問題なんだけど、当事者ではない人にとっては、どうでもいい問題だ。どうでもいい問題だという意味で、『破滅を感じる必要性がない』のである。けど、どうだ。気違い兄貴が、気違い的な意地で、気違い的な感覚で、ヘビメタを鳴らすと、破滅を感じる。長いからな。一日のなかで長すぎる。だれもわからない。そりゃ、体調、くずれるよ。力が出ない体質になる。つかれやすい体質になる。どれだけ、よゆうがある時間だってめちゃくちゃだ。ズタボロだ。これは、ほんとうにヘビメタ騒音でそうなっている。『めちゃくちゃだと感じる必要がない』とか『ズタボロだと感じる必要がない』と言われて片づく問題じゃないんだよ。こういうことで、気違いヘビメタを体験してない普通の人と、敵対しなければならなくなるだろ。まあ、ついうっかり、敵対という言葉を使ってしまったから『敵対する必要はない』と言葉をかえされてしまうけど、少なくても、意見があわない。で、感覚的に、ぼくが言っていることがわからない。わからない上で、正論を吐く。だいたい、日本は、労働至上主義みたいなものがある。無職(*)のいうことは、なんだろうがまちがっているのである。そういう思いこみのほうをどうにかしろよ。無職は、むかしの非国民みたいなものなんだよ。いったん非国民になったら、どれだけいじめてもいいということになってしまう。いまだって、無職*であるならば、どれだけののしってもいいということが成り立っている。感覚として成り立っている。あるいは、下ののものとして説教していいという感覚が成り立っている。『無職なのだからしかたがない』という感覚が成り立っている。これは、『非国民なのだから、しかたがない』という感覚とおなじだ。
まあ、非国民のことはいいよ。これは、あとで書くよ。基本的には、なんて言うのかな? どうして、日本人なのに人間魚雷になった人の気持ちがわからないのかという問題がある。俺には棺桶と言われる魚雷につめこめられた人の気持ちがわかる。どうして、拒否できなかったのかわかる。どうして、逃亡できなかったのかわかる。これがわからずに、お国のためにすすんで人間魚雷になっていたという物語を考え出してしまうほうがどうかしている。

関係がないけど、
ヘビメタ騒音の朝なんて、『人間魚雷になる日の朝』とおなじなんだよ。

   *   *   *

みんな、気違い兄貴の意地がわかってない。みんな、気違い兄貴の感覚がわかってない。みんな、気違い兄貴の態度がわかってない。

どれだけこまるか。どれだけ、気違い兄貴が重症か、みんなわかってない。平日、一日六時間四〇分。日曜祭日、一日一三時間気違いヘビメタが鳴っていると、どれだけ苦しい生活になるかぜんぜんわかってない。みんなわかってない。

こいつらわかってないから、てきとうに『どれだけ鳴ってたって勉強ぐらいできる』とか『どれだけ鳴ってたって遅刻しないことは可能だ』というようなことを言う。自信を持って言うわけだからな。けど、そういう言うやつは、一日もヘビメタ騒音を経験してないし、一〇〇〇日、連続でヘビメタ騒音が毎日鳴った場合、どういうからだの状態になるかわかってない。

『そんなの、お兄さんに言えばいい』『言えばわかってくれる』『ちゃんといわないからだめなんだ』……。どれだけズレているか。

『人の悪口を言うのはよくない』『なおさら、家族の悪口を言うのはよくない』……。悪口? おまえ、どんだけ。

2019年12月9日月曜日

「過去のことは忘れる」というマインドフルネス的言葉と記憶障害(2)



●過去の軽視と記憶障害







『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』などと言っている人は、自分が、記憶障害者になることを考えてない。『過去が相当に抜け落ちた』状態が記憶障害者の世界だ。







ほんとうに『過去はない』のであれば、自分が何者であるかわからない状態になってしまう。五秒前にたのまれたことですら、忘れてしまう……そういう状態で仕事ができるわけがない。







その人が仕事をするのであれば、その人は記憶障害者ではなくて、記憶を保持できる能力があるということなのである。つまり、その人は、過去に頼っていきているのである。もっと言えば、過去の記憶に頼りっぱなしなのである。







だいたい、過去の記憶がないのであれば、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』というような日本語の文を考えることができない。







この人たちは、実は、過去の記憶に頼りっぱなしなのだけど、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』と言っている人たちなのである。







日本語の記憶や業務遂行に大切な短期記憶や長期記憶のことは、無視して、『過去なんて関係がない』なんて言っているのだ。







『過去』と『過去の記憶』はそれぞれ別のことだけど、ここでは、特に区別しないで使うことにする。どうしてかというと、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』というような発言をしている人が『過去』と『過去の記憶』の区別をしてないからだ。







『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』ということを言うひとは、仕事について語っている場合が多い。『いま現在』に集中したほうが『効率がいい』からそういうふうに『思い込もう』としているだけだ。







ほんとうに、過去が関係がない状態になっているわけではないのだ。







これは、ほんとうは、記憶障害者にならずに、記憶障害者になりたいと言っているようなものだ。過去の記憶は無価値だから、過去の記憶は関係がないと言いたいだけなのだ。つらい出来事に関しては、その出来事に関する過去の記憶は有害ですらあるので思い出したくないと言っているだけだ。







これは、自分にとってその過去の記憶が有害であるという判断をしているということになる。それは、過去の記憶があるということなのである。だから、別に完全に忘れてしまっていることを意味してない。



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実は、ぼくが言いたいのは、身動きのとれない労働者が『過去なんて関係がない』と言って、その労働にしがみついてしまうことの恐怖だ。最初の部分を公表できない。傷ついてしまう可能性があるからだ。



だから、大勢の人にはわけがわからない話になっていると思うけど、状況が違うとおなじ言葉が、まったく違った意味を持つので注意が必要だということを言いたい。



セミナー講師やマインドフルネス系の学者や有名女優などは、追い詰められている労働者のことはまるで考えてない。経営者も、自分の利益ばかりを考えて、労働者のことを考えてない。『目の前のことに集中すればいい』というようなことを言う経営者は、労働者のことを考えてない。「考えてないからこそ、言えることなんだよ」ということだ。追い詰められた労働者が『追い詰められている』ということを言うと、批判されるのである。『そんなのはあまい』『そんなのは、自己責任だ』とね。

ようするに、「自分が学校でがんばらないで、いいイスに座れなかったのだから、そんなのは自己責任だ」と責め立てる人たちは言っているのである。あるいは、「自分ががんばらなかったからいいイスに座れなかったのに、責任を放棄するのは、あまい」と責め立てる人たちは言っているのだ。責任とは働く責任である。



ようするに、『自己責任だ』『あまい』ということを言う人たちは、過去を重視している。いま現在追い詰められているのは、おいつめられた労働者が過去において努力しなかった当然の結果なのだから、その結果を受け入れるしかないということを言っているのだ。



つまり、過去に原因があるのだからしかたがないということを言っている。もちろん、『過去』を重視している。



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追い詰められた労働者が、自分の環境や立場を改善するのは、並みじゃない努力が必要になる。これは、言いにくいけど、追い詰められた労働者がくるしくない日常を選択するということは、不可能に近い。『自己責任だ』と言っている人たちは、追い詰められた労働者が、(働くのをやめて)生活保護をうけることは認めてない。



たとえ、その人たちが認めてなくても、条件を満たせば生活保護はうけられるけどね。『自己責任だ』ということを言う人たちは、追い詰められた労働者が『もうむりだ』と思って、仕事をやめて、生活保護をうけるということについては、よく思ってないだろう。



おいつめられた労働者がくるしみを少しでもわわらげようとして『過去なんて関係がない』と思ったとしても、日常はかわらない。



要するに、くるしいままだ。



現在働いている会社をやめて、別の会社に行ったとしても、かなりの高確率で問題は解決しない。けど、改善される確率がないわけではない。



『過去なんて関係がない』『過去のことは忘れる』という言葉は、麻薬のような働きをするのだ。そうやって、現実逃避したとしても、くるしい日常はかわらない。自分の体をむしばむようなくるしい労働もかわらない。



『過去なんて関係がない』『過去のことは忘れる』と言って、目の前の現実に集中しようとすることは、実は現実逃避なのである。



2019年12月8日日曜日

この雰囲気はアパートの雰囲気だ。


これ、またしてもまるまる荘とおなじだ。まるまる荘というのは、昔、借りていたアパートなんだけど……。

この雰囲気はアパートの雰囲気だ。
あーー

この日曜日の雰囲気、三〇年前と同じじゃないか。あーー。
俺はいったいなにをやっているんだ?

日曜日の朝一〇時は、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。
日曜日の午後一時は、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。
日曜日の午後四時は、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。

これから、横になるつもりだ。ほんとうにぼくの人生はなんだったんだろう。家族の騒音でズッとやられて、まったくなにもない人生だった。騒音でくるしい以外、なにもない人生。


2019年12月7日土曜日

必死の努力をしても一日がうまくまわらなくなる


高橋名人の記事とか読んでた。
俺の場合、長期騒音のハンディがでかすぎる。能力はもちろんけずられるけど『やる気や機会』をガンガンけずられない。一日中ヘビメタ騒音が鳴っているというのは、そういうことだから。一日が、うまくまわらなくなる。それも、必死の努力をしても一日がうまくまわらなくなる。うまくまわると書いたけど、それは、なにも特別なことじゃない。普通に過ぎ去ることが「うまくまわる」ということだ。ここでは。たとえば、普通にうまくまわるのに必要な意志力が一〇だとしよう。これは、一日の意志力だ。気違いヘビメタ騒音がはじまる前は、一〇でまわっていた。そりゃ、なんて言うのかな、運悪くうまくまわらないことだってある。けど、それは、一〇の範囲でなんとかやりくりできるものだ。次の日も気違いヘビメタが鳴っているというわけではないのだから、次の日に挽回することだってできる。けど、ヘビメタ騒音がはじまってからは、一日に一〇〇の意志力を出しても、うまくいかない。ボロボロになる。成功度……ということをいうと、一〇分の一になってしまう。たとえば、意志力一〇で普通に生活していたときの成功度を一〇だとすると、ヘビメタ騒音が鳴ってからは、一〇〇の意志力を必死になって出しても、一しか、成功しないということになる。一は進歩なしで、失敗ばかりだが、とりあえず生命は維持するというレベルだ。必死になって、血相を変えてがんばって、一〇分の一の成功になってしまうわけだ。これは、ない。しかも、毎日続くなんて、ありえない。けっきょく、気違い兄貴本人が兄貴だった人は、地球上に俺しかいない。そういう人じゃないと、ほんとうにヘビメタ騒音の空間のことがわからない。ヘビメタ騒音の空間がどれだけくるしいかわからない。終わったあとも、どれだけ、体調や睡眠に影響を与えるかわからない。けっきょく、やられてない人たちがつくっている世界なのだから、俺には居場所がない。
だって、言うことがちがうもん。感じていることがちがうもん。人間の基本的な考え方というのは、やはり、実際の経験に基づくことが影響を与えている。たとえば、親という概念を考えた場合、実際の自分の親が親という概念の基本になってしまう。言いがたい気違いだって、親になることがある。けど、言いがたい気違いが親であった人や言いがたい気違いが親である人は、実際には少ない。普通は、普通の人が親になっている。その場合、普通の人は『子供は親に逆らってはいけない』とか『子供は親に感謝をするべきだ』『親のほうがえらいのだから、子供は『どんな場合でも』親に対しては丁寧な言葉を使うべきだ』というような考え方を受け入れやすい。それは、共同幻想と合致している。もちろん、完璧な人間などはいないので、完璧な親もいないということになる。だから、普通の親と言っても、普通の人が実際にはいないように、バラエティーに富んでいる。これは、偏差というような考え方に置き換えられないようなユニークさを持っているということだ。『普通の親』はユニークなのである。この場合のユニークというのは、おもしろいという意味ではなくて、唯一無二のという意味だ。『普通の親』という言葉でくくれそうなのだけど実際には、やはり、ユニークな人間が『親』を『やっている』のであり、ユニークだということになる。けど、それなら、ユニークなのだから、すでに気違いになっている親も普通の親もかわりがないということができるかというと、できないと思う。
まあ、いいか。ともかく、気違いヘビメタは、いまの時間も鳴っていた。気違い親父の性格は、気違い兄貴が気違いヘビメタを鳴らし続けること影響を与えている。気違い親父がやってきたことは、気違い兄貴がヘビメタをやり続けることに影響を与えている。普通の親だったら、絶対にあり得ないことなんだよ。

一度、親子という関係が生じると、親がやったことは『親がやったこと』として解釈されてしまう。それは、親がやったことではなくて、親である個人がやったことなのに、一度、親子という関係性が生じると、外からは、『親がしたこと』になってしまう。
これは、生物的な親であれ、社会的な親であれ関係がない。『ヨソの人』からみて、『親がやったこと』になってしまう。『ヨソの人』からみて、子供が(親に)されたことになってしまう。
ほんとうは親としての行為ではなくて、その個人の行為なのに、関係上、その子供の親がやったことは『親がやったこと』になってしまう。これは、ほんとうはけっこうでかい問題なのだけど、だれも重視しない。


2019年12月6日金曜日

疲労の『雪』


通販の受け取りがふたつ完了。よし、これでもう、こないはずだ。しかし、ちゃんと頼んでおけばとどくからなぁ、すごいよなぁ。そういうことに関しては恵まれているんだろうなぁ。

けど、長期騒音で人生がないので、憂鬱だ。

紅茶がとどいた。これは、安い紅茶なんだけど、ちょうど紅茶が切れたところなので、大歓迎だ。さっそくあけて飲んでいる。うまい。紅茶がうまい。

けど、長期騒音で人間関係がほろんだので、憂鬱だ。長期騒音でくるしすぎる。

くつがえられないからなぁ。ちょっといいことがあってもくつがえらないんだよな。だれか、根本的なところを長期間やられて、くつがえらなくなっている人っていないかな?

本当に鳴ってたな。
いま2019年12月06日16時25分18秒
午後四時二五分一八秒は、毎日、ものすごい音で鳴ってた。その一秒一秒がぼくの『普通の感覚』をこわす。もう、再建不能だよ。

みんな勘違いしているけど、ストレスというのは、長期間、ずっとつもっていると再起不能になる。

モデルとしては、雪でつぶれた家が、そのままでは元に戻らないのとおなじだ。時間がたてば元に戻るというのは、たとえば、かすり傷とか、風邪とかそういうことなら言えることだけど、長期間続いてしまった場合はそうじゃない。かなり強い刺激が、長期間続いてしまった。これがでかい。


ようするに、たとえば、家に雪がつもったけど、家が倒れない場合なら、春になってあたたかくなればもとにもどる。けど、一度つぶれてしまったら、人為的に建て直さないかぎり、元には戻らない。

みんな、疲労に関して、そんなにつもらないまま、家が建っている状態しか考えてない。実は、疲労に関しても、つもってしまって、家がつぶれてしまった場合というのがある。比喩だけど。

この場合は、自然に元に戻るということはない。

だって、つぶれちゃっているわけだから。

疲労に関して、『つぶれないケース』ばかりを考えているから、ちょっと時間がたてば、疲労の『雪』が、とけて、元に戻ると思っている。

疲労の『雪』は、本体をつぶすほどでなければ、つもっていても、問題はない。

けど、つぶれちゃったら、ダメなんだ。
比喩だけど、こういうことが言える。

で、ヨソの人たちは、気違いヘビメタを経験しているわけではないので、疲労の雪がつもるにしても、すぐにとけると思っている。だから、『やすめばいい』と言う。けど、家がつぶれていたら、雪がなくなっても、家はつぶれたままなんだよ。だから、想定しているモデルがちがうとしか言いようがない。

ほんとうは、長期騒音にやられた人は、家がつぶれた場合なんだよ。けど、ほかの人たちは、雪がつもっているけど、家はつぶれてない状態を想定して、ものごとを言ってる。

だから、『過去のことは影響がない』とか『どれだけ鳴ってたって、鳴り終わったなら関係がない』などと言う。

そりゃ、気違いによる気違い的なヘビメタ騒音を一〇年以上に渡って経験してなければそうなのだろうけど、こっちはそうじゃないのだということが、言える。「こっちはそうじゃないんだ」と言いたくなる。

けど、これまた、言ったって、けっきょく、本人が経験してないのだからわからないだろ。つぶれる前にあたたかくなって、雪がとけてしまうケースしか経験してないのだから、そういう経験をもとにして、人のことも、言う。

『自分だって一メートルつもった』と口をたてて言うかもしれない。『自分だって二メートルつもった』と言うかもしれない。

けど、それは、すべての場合において、過去のことが影響を与えないということを意味しているわけではないのである。二メートルの積雪にたえられる家だって、一〇〇キロメートル、つもったらどうなんだよ?という話しだ。月数切り捨てで、一四年間の気違いヘビメタなんて、一〇〇キロメートルぐらいつもるような量だ。

普通の人が二メートルでたえられたから自分は『つぶれちゃっているエイリにくらべて』丈夫だと思っているだけだ。さらに、二メートルだから、春になって自然に雪がとけて、『普通の状態』に復帰したということを、すべての場合において成り立つものだと思っている。

『雪なんて関係ない』と言う。

春になってとければ雪なんて関係がないという考え方だ。

一理あるけど、一理しかない。

一〇〇キロメートルつもった場合のことを考えてない。その人がたえられる『雪』の量が、積雪三メートルだとする。三メートルまでは、『過去は関係がない』というエリアにとどまり続けることができるけど、三メートル一センチつもって、家が倒壊したら、『過去は関係がない』とは言えない。

しかし、本人は、三メートル以下の積雪しか経験してないので、それが、すべての場合に成り立つルールだと思っている。それで、一〇〇キロメートルつもったぼくに対して勘違いのアドバイスをする。

これは、アドバイスということになっているけど、実際は、侮辱だ。『俺はたえられたけど、オマエはたえられなかった。オマエは俺より劣っている。俺はオマエより丈夫でがんじょうだ』というまちがった認識が成り立っている。そういう認識が成り立っているところで、言っていることだ。自分よりだらしがない人間だと思っているのである。どうしてなら、自分は治ったけど、相手(エイリ)は治ってないからだ。

2019年12月5日木曜日

基本的な状態まで、自分の意識的な意志で制御できる……という意見について


楽しいと感じられる状態にしたいわけ。からだがどんな刺激に対しても「たのしい」と感じられない状態になっているから、それを普通の状態にしたいわけ。けど、それは、気違いヘビメタ騒音一四年のストレスでできなくなっている。状態の変化なんだよな。で、この基本的なからだの状態というのは、自分の意志ではどうにもならない。これは、ヘビメタ騒音相当のストレスを長年にわたって感じた人のことを言っているわけで、他の人は、どうだかわからない。けど、たとえば、ぼくがヘビメタ騒音ストレス後に「自分の意志ではどうにもならない」と言うと、「自分の意志でどうにかなる」と言いたくなる人が出てくると思う。基本的な状態まで、自分の意識的な意志で制御できるというわけだ。もちろん、主語は『人間』だ。人間は自分意識的な意志で、基本的な状態をかえられるのだというような主張だ。なんの基本的な状態かというと、からだの基本的な状態だ。からだのなかには、臓器としての脳みそも含まれている。たとえば、『元気だ元気だ』と自分に言うと、つかれていても『元気だ』と感じることができるというようなことを言う。
で、まあ、ここで人間の種類を分けようと思う。ヘビメタ騒音級のストレスを一〇年以上にわたって毎日経験した人と、そうではない人にわける。そうではない人は、基本的な状態をかえることができるが、ヘビメタ騒音級のストレスを一〇年以上にわたって毎日経験した人は基本的な状態をかえることができないということにしておくのだ。そうすれば、両者の意見は別に対立してないということになる。まあ、ヘビメタ騒音級のストレスの定義が問題になると思うけど……。あとは、そうなると、ストレスというのは主観的なものだということが問題になる。客観的な数値はない。そりゃ、騒音だって、どういう音を騒音と感じるかということに関しては、人それぞれだからだ。けど、そこの相対性を重視して、すべてを相対性のかなたに追いやることができるかというとそうでないのだ。ぼくのことばでいうと『文脈』が問題になる。これは、でかすぎるテーマなので、ここでは突っ込まない。



2019年12月4日水曜日

通勤通学ができないということ


騒音のことを考えていた。これ、他の人にはわからないんだよな。俺がどれだけ能力をうしなったか? わからない。表面的な実績が俺の能力だと思っている。ちがうんだよな。これは、くるしい。どれだけのハンディがうまれたか、ぼく以外にはわからないので、くるしい。くやしい。俺が通勤する能力をうしなったということがわからない人は、通勤できるのにあまえたことを言って通勤しない人だと思うわけだ。俺をサボり魔だと思うわけで、くやしい思いをする。学力学歴にしてもそうだ。

騒音がなければ、そんなことを思うやつより俺はずっとできるのに。通勤通学ができないということが、どれだけひとづきあいに影響を与えると思うよ?

『人間ならだれでも』家族によるしつこい騒音で、人間関係が壊れる

やはりぼくは家族の長期騒音でくるしい。いまもくるしい。朝なんて、どんだけくるしいか。いまだにくるしい。騒音が他人との関係をたってしまうんだよな。これが、間接的なことだから、他の人には、わからない。あるいは、ぼくの努力というか気の持ち方で、どうにかなるようなことに思える。それは、普通の人が普通に『家族による騒音』というもの考えるからだ。そして、気違い家族による騒音ということについて考えることすらできないからだ。(見当違いになってしまうのである)。間接的なことなのだけど、『人間ならだれでも』家族によるしつこい騒音で、人間関係が壊れる。人間ならば、だれでも、そうなる。そうなる部分について、他の人は考え違いをしている。どうしてなら、他の人にはわからないからだ。実際に、気違い家族が、気違い的な意地で、騒音を鳴らしていたことがないからだ。一日において長時間連続、人生において長期間連続。話がまったく通じない、特殊な感覚を持っている家族というものがわかってない。そういう家族と一緒に暮らしていたことがない人はみんな、考え違いをしてしまう。あとは、実際にやられてないから、どういう範囲に家族の騒音の影響が出るかわかってない。

『いま動くんだったら、死んだ方がましだ』という時間がある


いま、やばい状態になった。

精神的にやばい状態になって起きてきた。なんかつかれたから横になったんだよ。「うわっ」という感じがするときがあるなぁ。

悪い意味で……。やっぱり、くるしいこととか思い出してしまう。



明日は、歯医者か。


   *   *   *


けっきょく、今日、片付け関係でやったことは、すてるフライパンを洗うということだけか。
さっき、「うっ」ってなったけど、半分眠っているような状態はやばいな。
ほかには、今日は通販の受け取りを二回やった。あとは、洗濯物を干した。洗濯物は、すでに洗ってあったものだ。
今日は日差しが強くてたすかった。
なんとかするべきなのだが、むずかしく考えすぎなのか、あるいは、神が俺の邪魔をしているのか、あんまり……。いいアイディアが浮かばない。浮かんだとしても、行動する気になれない。行動はしんどい。これは、やられた人間じゃないとわからないと思うけど、ともかく、『いま動くんだったら、死んだ方がましだ』という時間がある。起きたくないときに、起きて体を動かすときは、そういう感じがある。ならば、『起きたのではないか』『動いたのではないか』と思うかもしれない。『いま動くんだったら死んだ方がましだ』と思っているのにもかかわらず、動くことができたのだから、そんなのは嘘だと思う人もいるかもしれない。けど、その人は、その蓄積を無視している。それから、起きて動いているあいだじゅう、くるしい。ずっとおなじようにくるしい。これがちがうんだよな。気違い騒音にやられてない人とやられた人だとこれがちがう。普通は起きたくないときに、起きて行動していても、だんだん体がなれてくるものだ。それは、気違いヘビメタにたたられる前に経験している。気違いヘビメタにたたられる一一歳までは、起きたくないときも起きて、動いていれば体がなれた。けど、それは、気違いヘビメタの連続がはじまる前の話で、ぜんぜん風景がちがってしまった。からだがちがう。こういうのがわかってないんだよね。今朝も話したけど、やられた人とやられてない人とでは、「つらい」の感覚がちがう。「できない」の感覚がちがう。おまえ、どれだけぼくが、動かない体を動かしたと思っているんだよ。気違いヘビメタにたたられてない人は、「ほら、動いた」と思うだろう。けど、ちがうんだよ。動いたことが全部マイナスになっている。そういう世界だ。家族による気違いヘビメタがものすごい音で一一時一〇分まで鳴っている世界というのはそういう世界だ。だんだんそういう世界になっていくのである。

俺は、無理をして動いたから……七年間毎日動いたから、だめになってしまったのだ。まあ、八年九年一〇年……と続くのだが。

ほんとうにつかれたよ。


2019年12月3日火曜日

このサイドボードのところからネズミが出るようになっちゃったんだぜ


むかし、台所においてあったフライパンがひどいことになっていて、不燃ゴミに出したら、資源ゴミだろという感じで、ダメダシ・シールを貼られたので、持ち帰ってきたことがあった。それは、五月か六月なんだけど、それ以降、ずっと、袋に入れたまま、置いておいた。で、ここは、ネズミが出る場所の前なので、さわる気がしなかった。これから、フライパンを洗う。ひとつスポンジたわしを犠牲にすればたぶん洗える。
スポンジたわしは古いやつでいい。栄養の入った油にカビがはえたという感じなんだよな。あれは、洗えばおちる。二重に袋に入っていたから、ネズミ関係のばい菌はついてないと思う。栄養の入った油というのは、たとえば、肉を焼いたあとの油だ。
このあいだバルサンをやってから、時間がたったので、ほんとうはあんまりいじりたくないけど、しかたがない。
風呂場で洗うしかない。

俺が、清掃員さんのことを考えて、二重に包装してしまったのが、まずかったんだよな。大きい方の袋が半透明なんだよな。大きい袋で、半透明じゃないやつはないのかな? ある程度丈夫な大きな袋は半透明なんだよな。

   *   *   *


サイドボードの上に食器棚がのかっているのだけど、サイドボードの後ろにある壁にネズミが出入りできる穴があいているようなのだ。サイドボードは五センチぐらいの脚がついている。この脚は、四本ついているわけではなくて、平行に二本の板がついているような脚だ。畳の上とこの脚のあいだの空間にアクセスできない。あそこにネズミが入ってしまうと、もう、手が出せない状態になる。このサイドボードはむかしからあったもので、ぼくとしては思い出の品だ。だって、ほんとうに、サイドボードの表面を背にして、ぼくはこたつの前に座っていた。たぶん、ぼくがうまれる前からあるんじゃないかな。いまはもう、ネズミが出てくる気持ち悪いサイドボードだよ。こたつもないしな。まあ、ネズミが出る家にこたつがあったらそれはそれで大問題だ。ともかく、親父がネズミをおびき寄せたのに、俺が全部処理しなければならないことになっている。
ともかく、あの中に入っているものは全部すてて、食器棚のほうもなかのものは全部すてて、サイドボードを動かして、壁にパティをつけなければならない。

『おかあさん、このサイドボードのところからネズミが出るようになっちゃったんだぜ』と俺以外だれもいない居間で、ぼくがつぶやくはめになった。



『気にしないでがんばればいい』というところに収束するアドバイス


最後にはぼくが勝つ。
それははっきりしていることなのだけど、実際問題として、このからだを使っていると『起きたとき』くるしい。さらに起きているあいだじゅうくるしいという問題がある。騒音の朝とおなじ朝になってしまう。騒音の昼とおなじ昼になってしまう。騒音の夜とおなじ夜になってしまう。騒音の深夜とおなじ深夜になってしまう。騒音の早朝とおなじ早朝になってしまう。この、気分!! このからだを使ってないやつにわかるわけがない。だから、誤解が生じる。他の人は気違いヘビメタ騒音相当の騒音がしょうじなかったにもかかわらず、「俺だって朝はつらい」と言う。それは、ぼくがヘビメタ騒音を経験しなかったときの『朝のつらさ』とおなじだ。ぜんぜん、ちがうのである。つらさのつらさがぜんぜんちがう。一四年もやられて見ろ。いや、通学が必要な七年間だけでいい。通学、通勤が必要な七年間、毎日、日曜日も含めて、午後一一時一〇分まで、自分が一番嫌いな音にふれてみろ。帰ってからやることが想定されている場合、それができなくなる。できなくなって、翌朝、恥をかくのは、あなただ。騒音にやられた人だ。騒音を出している人じゃない。この屈辱。どんだけそういう屈辱を経験してきたか。『気にしないでがんばればいい』というところに収束するアドバイスは、くるしさを無視している。くるしさは、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験したことがない人のくるしさなのである。たとえ、あなたががヘビメタ騒音相当の騒音を経験したにもかかわらず、そういうアドバイスをする人は、あなたがヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないという前提でものを言ってくる。それは、たとえ、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験したにしろ、そんなのは、どうでもいいことだからだ。こんなのは、ない。全部の学生期間、毎日午後一一時一〇分まで、勉強の邪魔をされ続けて良いわけがないだろ。そういうところで成り立つ『将来』がいいものであるはずがないだろ。くるしさは、即刻、排除されなければならないんだよ。それは、気違い騒音相当の騒音を出している人がぴったりやめるということだ。学生時代の七年間、毎日午後一一時一〇分まであれほどの騒音を聞かされて、『過去は関係がない』なんてことはないんだよ。『影響を受ける必要はない』とまるで、影響を受けた人を責めるようなことを言う人がいるけど、必要を感じて騒音の影響を受けたわけじゃないということがその人はわかってない。

2019年12月1日日曜日

これも、経験しなきゃわからないのだろう。想像と実際は違うから。

あー、まじ、つかれた。これは、まるまる荘……。まるまる荘時代とおなじだな。あーー、つかれた。つかれた。

ヘビメタ騒音がないところに行きたい。ヘビメタ騒音の記憶がないところに行きたい。そもそもヘビメタ騒音をあびなかった世界に行きたい。
あーー。ほんとうに、つかれた。これ、おなじだよ。もう、つかれた。限界だ。

展開がない。もう、つかれた。ヘビメタ騒音がない世界に行きたい。ヘビメタ騒音がなかった場合の人生を生きたい。

おんなじなんだよな~~。これ! いまでも、動けない時間は、ヘビメタ騒音にたたられて疲れ果てて動けない時間とおなじ。いまでも、あせる時間は、やらなきゃいけないのに、ヘビメタ騒音がガンガン鳴っていて、あせる時間とおなじ。おなじ。どこまでもおなじ。

気違いヘビメタに一四年間毎日やられた人じゃないとわからない。どれだけひどい影響を与えるか、わからない。やられてない人にとってみれば『過去なんてどうでもいい』と言えるものだ。

けど、やられた人間にとってみれば、そんなことは、とてもじゃないけど言えない。けど、やられてない人にとってみれば、『そんなのは、こだわっているからいけないんだ』と言えることだ。

ぼくの発言も、『こだわっているからいけない』と言えることだ。『悲劇のヒロインになっている』『元気だ元気だと言えば、元気になる』と言えることだ。けど、ちがうんだよ。どのみち、人間の体で、あの状態で、一四年間毎日やられなければわからないと思うけど、ちがう。

当然の学習の結果、なのに、ぜんぜんわかってない。やられれば睡眠回路が壊れて日中もボロボロに鳴るのにぜんぜんわかってない。これは、こだわっているからじゃないのである。悲劇のヒロインのつもりでいるから』でもないのである。

けど、わからない……のだろう。そりゃ、あの態度で、成長期ずっと、やられなければわからない。ヘビメタ騒音がどんだけでかい音で鳴っていたかわかってない。ほんとうに五分で限界だよ。あんな音で鳴っているうちなんてない。

「どんだけ鳴ってたって、勉強なんてできる」と言うやつも出てくるとは思うけど、そいつは、この世で一番嫌いな音が九〇デシベル付近でずっと鳴っているなかで、勉強できるのか?

実験のための一〇分じゃないよ!!

毎日やられたあと、できるのか? ということだ。

毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っているところで、睡眠回路が壊れて不眠でボロボロになっているところで、さらに、追い打ちをかけているようになっているところで、できるのかという話しだ。

これも、経験しなきゃわからないのだろう。想像と実際は違うから。けど、そいつは、実際に経験したことがないから、どうしても、想像することしかできない。

だから、想像でものを言う。まるでおれがこだわっているからだめなんだというような言い方は、相当に俺を侮辱した言い方なんだぞ。これで、俺がたとえば、無職引きこもりというどうしょうもない立場で、あるいは、どうしょうもなくかっこう悪い立場で、こういうことを言っても、『侮辱なんてしてない』と思うかもしれないけど、侮辱している。

『そんなのは、無職*なんだから言われたってあたりまえ』『そんなの引きこもりなんだから言われたってあたりまえ』と思うかもしれないけど、そういうことを言っている人だって、俺とおなじ状況で俺と同じ体験をすれば、働けない状態になる。そりゃ、働けないから無職*のまま何年もすごすことになる。

えらそうーーに!!! たまたま、俺とおなじことをやられなかったから、働けるだけなのに……。えらそーーに。えらそーーに。

こんな人生ない。

人間だったらだれだって、ああいうことが何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も毎日続けば、通勤働けないからだになるのに、まるで俺が劣っているように言いやがって。『サボっているからだめなんだ』『甘えているからだめなんだ』『自分の姿をみてみろ』『ネガティブなことを言うからだめなんだ』

はぁーー?? なに言ってんの?

ほんとうに人間は、こうも傲慢になれるのか?

想像力がないからそういうことを言えるだけなんだよ。想像力がある人は、たとえ、経験としてわかってなくても、そういうことは言わない。この差はでかい。けど、そういうことを言うやつのほうが多数派なんだよな。割合が大きい。

経験してないやつであってなおかつ想像力がない人たちにこういうことを言われることだって、気違い兄貴がこだわりつくして、気違い的な意地で、現実を無視して鳴らしてなかったら、起こりえなかったことなんだぞ。気違い兄貴は、こういうこと他人に言わせて俺をくるしめてやろうと思って、気違い的な意地で、気違い的な音のデカさで、一日のなかで長期間にわたって、人生の中で長長期間にわたって、ヘビメタを鳴らしたわけじゃない

。けど、気違い的なこだわりで鳴らすとそういう結果になってしまうのである。だから、俺がさんざん言っただろ。わかる範囲で言っただろ。気違い親父とおなじで、そのとき!!自分に都合が悪いことを言われたら、感覚器までねじ曲げて、やり続けるから、こういうことになってしまうんだぞ。

感覚器までねじ曲げてやり続けるから、普通の感覚を持っている人が、信じないんだぞ。

そりゃ、「そんな人いない」と言いたくなる。兄貴がやったことは、親父がやったこととおなじなんだよ。期間の長さも、一四年間と、だいたい親父がやった期間とおなじだ。あしかけで一五年間だけどな。親父は、兄貴のからだが自分より大きくなってしまったら、必要な注意だって、絶対の意地でしないという態度になる。

で、そういう態度で注意しないのだけど、本人はそのつもりがないだけだ。毎日、あしかけ一五年間、絶対の意地で注意しないのだけど、それがわからない。一五年目に、「注意してくれなかった」と言われたら、「注意した!!注意した!!!」と言い出す。

で、言っているときは、注意したつもりなのである。たしかに、一五年間で二回、俺が家族会議を開いたとき「しずかにしてやれ」とおのおの一回だけ言った。けど、たとえば、俺が小学六年生から、中学三年生の受験前日まで、毎日気違い兄貴が鳴らしているのに、毎日、注意しなかったのである。

だから、三年間のあいだに関しては、ほんとうに「注意してくれなかった」ということが正しいのである。そのあとの三年間も注意しなかった。高校三年生の大学受験前日まで注意しなかった。

だから、「注意したと言っても二回だけだろ」と言うと、「いっぱい注意した!!いっぱい注意した!!」と言い出す。

人が言ったことを、否定すれば、気が済むのである。

しかも、これ、「注意した!!注意した!!」とか「いっぱい注意した!!いっぱい注意した!!」とか、からだを真っ赤にして怒って!!!言っているんだぞ。

気違い兄貴が鳴らしていたときに、「注意してくれ」と言ったら、「そんなことできるわけないだろ!!」と顔を真っ赤にして怒って言ってたんだぞ。

「なっちゃったらしかたがない!!! なっちゃったらしかたがない!!!」と顔を真っ赤にして怒って言ってたんだぞ。怒りたいのはこっちだ。

で、ちょっと話がずれるけど……俺が怒って「注意できるだろ」と言ったら、外から見れば、喧嘩しているように見える。よく、怒っている人たちのことを見ると「喧嘩両成敗だ」などと言う人がいるけど、異常な家族と正常な家族のあいだで、喧嘩が発生している場合、喧嘩両成敗という考え方はよくない。

これも、精神世界に片足を突っ込んだ人が、正常者同士の喧嘩とおなじだと思ってそういうことを言うことがある。ちがうのに。これ、ほんとうに頭のおかしい人がどういう反応をするかぜんぜんわかってないんだよな……こういう人たち……。感覚器を書きかえ、記憶を書きかえることができるような人が、自分勝手なことをやった場合は、正常者同士の喧嘩ではない。

正常者同士の言い合いではない。……これがわかってないんだよな。まあ、さらに、『すべては受けとめ方の問題だ』というようなことを言いやがるんだけど……これが、異常な家族にやられた人にとってどういう言葉なのかまったく理解ができないんだよな。そういうレベルだ。大半のなんだかわかったようなことを言う精神世界の人はそういうレベルだ。ぜんぜん、ちがう。ほんとうに精神世界のことがわかっている人たちは、そんなことは言わない。なおさら、やられた人に直接そういうことを言うなんてことはあり得ない。

感覚器を書きかえ、記憶を書きかえることができるような自分勝手な人が、家族に対してどういうことをするのか? ぜんぜんわかってない。ほかの一般的な人は、そこがぜんぜんわかってない。

「注意してくれなかった」と言われたときに、親父が顔を真っ赤にして怒って「注意した!!注意した!!」と言うのと、「しずかにしてくれ」と言われたときに、兄貴が顔を真っ赤にして怒って、エレキギターを弾き続けてしまうことは、おなじなんだよ。おなじ態度なんだよ。

こういうのだって、じかに見てない人間には、わからないことなんだぞ。「親が注意しなかったなら、どれだけデカイ音で鳴っていたと言ってたって、たいした音で鳴ってなかったんだな」なんて言うやつがいるんだぞ。これ、あおり発言をするつもりで言ったわけじゃなくて、ほんとうにそう思って言っているだけだ。「そんな、デカイ音で鳴ってたら絶対に親が注意する」なんて言いやがるんだぞ。

気違い親父は、そういうことを見越して、注意しなかったわけじゃないんだよ。気違い兄貴はそういうことを見越して、絶対の意地でデカイ音で鳴らして、どれだけ注意されても、ボリュームをさげなかったわけじゃないんだよ。

けど、そういう出来事が発生するようなことばかりをする。そりゃ、普通の人が想像できないような態度でやってたらそうなる。普通の人がありえないと考えるようなことを、普通の人がありえないと考えるような態度でやり続けていたらそうなる。

けど、そういうアホな人にしてみれば……いや、まちがった見解を持つ普通の人にしてみれば……エイリさんが悪いということになってしまうのである。さらに、エイリさんは嘘を言う、信頼がおけない人だということになってしまうのである。

   *   *   *

この世で実際に起こったこととこの世で実際に感じたことは書いておく。



2019年11月30日土曜日

営業してその人ができる仕事を持っていってやるというのが正しい援助のしかただ ●説得や指導は、たいていの場合意味がない

●説得や指導は、たいていの場合意味がない

うんと手短に結論だけ言っておく。『その人が余裕でできる仕事』を持って行ってやることが、『引きこもり支援』なのである。その人が余裕でできる仕事を持っていってやることが、ほんとうの支援だ。基本的に「引きこもり」とか「高齢引きこもり」と言っても、それぞれに、ひきこもりにいたった問題がちがうのである。けど、「引きこもりだから」おなじだ。「高齢引きこもりだから」おなじだと思われてしまうのである。原因がまったく違うので、原因に対する対処の仕方もちがってくる。基本、『働くように説得する』というのは、一番やってはいけない対処の仕方なのである。営業してその人ができる仕事を持っていってやるというのが正しい援助のしかただ。その時点で「できないこと」や「むりがあること」を押しつけても解決にはならない。

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説得されて、働けるのは一割か二割といったところだろう。この人たちは、ほんとうに甘えていて?やればできる人たち??だから、やればいいということになる。けど、基本的に、日本は第二次産業がぬけた状態になっているので、加齢とともに、よりきびしい状態を押しつけられるようになるということは、かわりがない。
もともと、働けない人たちは、どれだけ説得されても、働けない。説得されることで、働けない状態が改善されないからだ。虚弱体質の人ができる仕事は限られている。難治性の睡眠障害を抱えている人ができる仕事は限られている。働けない人をむりやり働かせても、けっきょくは、働けない人はからだがなれることがなく、その仕事をやめてしまうだろう。そうすると振り出しに戻るわけだし、振り出しに戻ったときには、『失敗の体験』がひとつ増えるわけだから、より悪い状態になっているといえる。虚弱体質である人は、仕事量が自分の体力の限界をこえているのであれば、何日たっても、仕事に慣れることがない。もともと、虚弱体質ではない引きこもりは仕事に慣れる可能性がある。虚弱体質である引きこもりと、虚弱体質ではない引きこもりは、わけて考えなければならないのである。睡眠障害に関しても、働き出せば、治る人たちがいる。その人たちと、働き出しても治らない人たちを一緒にすることは、賢明ではない。難治性の睡眠障害がある引きこもりと、引きこもっているからしょうじる睡眠障害を抱えている引きこもりは、わけて考えなければならない。


せいぜいのところ、「心地よい日影」を想定して、ものごとを言っている


置かれた場所で咲きなさい



生まれも育ちもいい人が、こういうことを、生まれも育ちも悪い人に言ってるんだよな。こんなの、どうしてうけるのか?



だいたい、命令形なのが気にくわない。「咲きなさい」だと? どうして、命令形を使うのか? こういう言葉は、差別を肯定するためにある言葉だ。

構造的な貧富の差を認めずに、貧しい人間に、「虐げられた場所で、がんばればいい」と言っているだけだ。



なんで、こんなのがうけるんだろうな? 自己責任論とおなじで、なんかおかしいんだよな。恵まれた人の無理解が根底にある。

しかし、そうは思っていないのである。恵まれた家に生まれて、恵まれた状態で生きてきた人には、根本的にどれだけ努力してもどうにもならない場所があるということがわかってない。努力すら、毒でできないような状態というのが根本的にわかってない。

まあ、なにを信じるかは人の好き好きなので、底辺の人が「そのとおりだ」と思ってこの人の言っていることを信じるのはかまわない。けど、それ、手短に言うと、かもになっている。



差別構造を肯定する底辺の人たちがいるんだよ。この人たちは、自分をくるしめているものがなんなのかぜんぜんわかってない。

日影でもいい場所はある。そういう場所で、ひっそりと咲くということであればなんの問題もないと思う。けど、汚染された場所がある。汚染された場所で咲こうとしても、毒にやられて死んでしまうぞ。

構造的に汚染された土地がある状態で、そんなことを言われても、汚染された土地の上に住んでいる人は、どうすることもできない。どうすることもできないというか、苦しんで死んでしまう。苦しんでいるときに、希望をすてずに努力したとしても、汚染された土地の上で生きている以上、毒にやられて死んでしまう。

毒と言ってもいろいろあるけど、まあ、放射能でも水銀でもなんでもいいとするよ。まあ、汚染された土地というのは、比喩だ。基本的に努力が一切合切実を結ばない場所というのがあるのだ。

「配られたカードで勝負するっきゃないのさ」という言い方もある。こっちの方が好きだけど、差別構造を肯定していることにはかわりがない。

たとえば、カースト制度があっとして、カースト制度で下の方にいる人たちが、「置かれた場所で咲こう」と思っても、うまくいかない。いま現在は、実は、カースト制度に対する反動があった「あと」だから、逆差別のようなものも生じているのだけど、ここでは、カースト制度が確固たる制度で、その制度に対する批判や疑問があまりない社会を前提にしてものごとを考えてみよう。

ようは、カースト制度全盛時代に、カースト制度・上位の人が、カースト制度・下位の人に対して「置かれた場所で咲きなさい」と言っているのとおなじなのではないかということだ。

現在の日本には、カースト制度はない。しかし、それは、制度としてはないというだけで、実質的には、カースト制度がもたらすような経済的な差、文化的な差はある。

だから、経済的な差において上位の人が、経済的な差において下位の人に向かって、「置かれたところで咲けばいいのだ」と言うことは、カースト制度全盛時代に、カースト上位のものが、カースト下位のものに対して「差別を受け入れろ」と言っているに等しいところがある。文化的な差において上位の人が、文化的な差において下位の人に言う場合もおなじだ。(ここで言っている経済的な差というのは、うまれながらの経済的な差に限定しておく。文化的な差も同様。)


日本はこういうまやかしの言葉がはやる時代になっている。なんとしても、自己責任にして、社会を維持したいのだ。

何度も言うけど、「日影でもいい場所」はある。だから、日影にいる人がこの人の言葉……「置かれた場所で咲きなさい」ということを聞いて、日影でがんばるというのはわるいことではない。けど、汚染された土地の上にいる人が、この人の言葉……「置かれた場所で咲きなさい」ということを聞いて、汚染された土地でがんばっても、いいことにならない。いいことなんてない。

もちろん、その個体にとっていいことにはならないだけで、言っている人は汚染された土地に住んでいないのだから、普通に生きて死んでいくということになる。だから、汚染された土地に住んで、がんばったにもかかわらず、毒にやられて、苦しんで死んでいった人のことなんて、知らないままだ。

眼中にない。

汚染された土地に住んでいる人たちのことは、考えない。

せいぜいのところ、「心地よい日影」を想定して、ものごとを言っている。どうしてそうなるかというと、人間というのは、たとえ、カースト上位でも、文化的な差において上位でも、経済的な差において上位でも、人間として、ある程度の「苦労」はしているからだ。しかし、そういう人たちの「苦労」と、汚染された土地に住むしかない人たちの「苦労」はぜんぜんちがう。

けど、それがわからない。どうしてかというと、文化的な差において上位にいるのであれば、あるいは、経済的な差において上位にいるのであれば、汚染された土地の上には住んでないからだ。自分の経験した「苦労」をもとにして、ものごとを言っているからそういうことになる。

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人間というのは、どこにうまれようが苦労を強いられる存在なのだ。それは、カースト制度上位にうまれようがかわらない。しかし、カースト制度下位に産まれた場合と、カースト制度上位にうまれた場合は、苦労の質と量がちがう。
現在の日本だって、隠されてはいるけど、カースト制度のような不公平が存在している。それは、うまれながらに存在している。カースト制度上位のものが「気にする必要はない」と言っても、現実として押しつけられているほうは、気にすることになる。気にするべきことか、気にするべきことではないのかということを吟味して気にするようにしている場合は、気にする必要性がなくなれば、たしかに、気にする必要はなくなるから、気にしなくてもすむようになる。しかし、それは、事前に吟味して気にしたような、気になることに限定される。

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『置かれた場所で咲きなさい』
 単行本(ソフトカバー) – 2012/4/25
渡辺 和子

Bloom where God has planted you.
置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。
咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう。

「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください」
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。
現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。
いい出会いにするためには、自分が苦労をして出会いを育てなければならない。
心にポッカリ開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。
希望には叶わないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けること。
信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。
「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練を感謝すること。

著者 渡辺 和子 について
1927年2月、教育総監・渡辺錠太郎の次女として生まれる。51年、聖心女子大学を経て、54年上智大学大学院修了。56年、ノートルダム修道女会に入りアメリカに派遣されて、ボストン・カレッジ大学院に学ぶ。74年、岡山県文化賞(文化功労)、79年、山陽新聞賞(教育功労)、岡山県社会福祉協議会より済世賞、86年、ソロプチミスト日本財団より千嘉代子賞、89年三木記念賞受賞。ノートルダム清心女子大学(岡山)教授を経て、90年3月まで同大学学長。現在、ノートルダム清心学園理事長。
主な著書に、『愛と祈りで子どもは育つ』『目に見えないけれど大切なもの』『美しい人に』『愛と励ましの言葉366日』『幸せのありか』『マザー・テレサ 愛と祈りのことば<翻訳>』(以上、PHP研究所)他多数がある。

2019年11月27日水曜日

三本の歯をなおすことになった


歯医者に行ってきた。三本の歯をなおすことになった。しばらく時間がかかる。今日はやっぱり、麻酔を打って、歯を削った。
いやー、治療中も、ヘビメタ騒音でむなしい気分が続いた。おんなじなんだよな。七年前に治療したときもおなじ。一八年前治療したときもおなじ。むなしい。

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歯医者から帰ってきたもののやることがない。
いや、あるよ。あるはあるんだけど、ほんとうに長期騒音にやられていた頃とかわりがないなと思ってさ。帰り道……。ストアによってきた。やっぱり、ほかの人たちの生活が見えるわけ。『俺はなにをやっているんだ』という気持ちになるよ。デジャブだよ。

こっちがどれだけ切羽詰まった状態になっていても、こっちの状態がわからない


なんとか、歯医者に行ける体力を維持しなければならない。もし、死ぬのであればもちろん、歯なんてどうでもいいわけだ。長生きすることを想定して歯のことを考えている。

けど、ヘビメタ騒音にやられて、入学試験か会場に行ったような気分になる。

ぶらぶら。
不安。

この不安は、気違いヘビメタ騒音が続かなかったらなかった不安なんだよ。他の人は、試験の不安だと思っているかもしれないけど、そうじゃないんだよ。ヘビメタ騒音に三年、毎日やられた不安なんだよ。ヘビメタ騒音に六年、毎日やられ続けた不安なんだよ。日中の雰囲気が並みじゃない。深夜の雰囲気も並みじゃない。早朝の雰囲気が並みじゃない。それぞれ、気違いヘビメタの雰囲気がする。気違いヘビメタの影響を受けたからだの状態になっている。気違いヘビメタの影響って、たとえば、その日、一二時間鳴っていたとすると、午後一一時一一分に鳴りやんでいるにもかかわらず、午前一時、午前二時、午前三時、午前四時、午前五時と影響を受ける。ラッキーなことに、午前五時に眠れたとする。そして、午前七時四五分に起こされたとする。そのときの、からだの調子は、前日のヘビメタ騒音の影響を受けている。たとえ、午前七時四五分の時点でヘビメタが鳴ってないとしても、影響を受けている。一二時間というのは、日曜日だ。平日は約七時間だ。けど、おなじだ。それから、午前七時四五分に実際に鳴ってたときがあるんだよな。この世で一番嫌いな音が、ガンガン鳴っている中で、ものをそろえなければならない。前日、ちゃんと眠れたわけじゃない。……そういう状態で、ものをそろえなければならない。騒音のなかで考えがまとまらない。不注意な状態がどうしてもできあがる。で、忘れ物をする。遅刻もするだろう。そりゃ、午前七時五〇分には家を出ないと、かならず、遅刻するからな。五分……。『五分でいいからやめろ』『ものをそろえるからやめろ』と逆上して気違い兄貴の部屋に怒鳴り込んでも、一回も……一四年間で、ただの一回も、しずかにしてくれたことがない。しずかにしてくれ』と言って、すぐにやめてくれてそのあと五分間しずかにしてくれたことがない。こっちがどれだけ切羽詰まった状態になっていても、気違い親父とおなじで、こっちの状態がわからない。気違い兄貴は、俺がどれだけ切羽詰まっているかわからない。気違い兄貴には、気違い兄貴のヘビメタ騒音で、俺が切羽詰まった状態になっているということが、とことんわからない。そりゃ、どれだけ言われたってわからない。そりゃ、親父とおなじで、なにか不都合なことを言われたら、その途端に反対のことを言って本人が腹を立てるということになってしまうから、相手がこまっているということは、どれだけ言われてもわからない。言われれば言われるほど、発狂してしまう。じゃあ、しずかに言えばわかるのかというとそうじゃないんだよ。言い方に関係なく、自分にとって不都合なことは、発狂して、腹を立てて認めない。けど、認めなかったということも、頭にない状態になってしまうんだよな。直後に……。


ヘビメタ騒音がなかったらこんな『ひえひえの気分』になってない。やる気も、特にやる気を出そうとしなくても、いまの一〇〇〇倍ぐらいあった。だいたい、俺は、気違いヘビメタ騒音のなかで、五〇〇〇日以上こういう状態で生きてきたから、「もうまるまるしたい』という気持ちになっているんだぞ。「だれだって試験日は不安だ」……ちがうんだよ。ヘビメタ騒音が数千日鳴っていたから、試験日に不安なんだよ。ちがうんだよ。「歯医者に行くのはだれだっていやだ」……そりゃそうだろうけど、ヘビメタ騒音で人生がない状態で行くからいやなんだよ。

ヘビメタ騒音を経験してない人が「ヘビメタで働けないなんて甘えだ」とか「ヘビメタ騒音で遅刻するなんて、そんな言い訳が成り立つわけがないだろ」とか「ヘビメタ騒音が鳴っていると忘れ物をしてしまうなんて、そんなのは、言い訳だ」とか言うのが気にくわない。

これで、「じゃ、言われないように遅刻しなければいいだろ」「じゃ、言われないように忘れ物をしなければいいだろ」と言い返したくなる人がいると思うけど、そういう人たちは、みんな、数千日にわたるヘビメタ騒音を経験してない。俺の部屋で、気違い兄貴のヘビメタの音を聞いてない。世界で一番嫌いな音に六時間四五分から一三時間さらされる毎日というのを経験してない。それじゃあ、わからないよ。「わからないのに、がたがた言ってんじゃない」と言いたくなるね。

で、気違い兄貴が親父の態度で『無視して』鳴らしていると……つまり、自分は鳴らしてないつもりで鳴らしていると……ヨソの人と俺とのあいだで、こういう「いいあい」が発生してしまうのだ。ぜーーんぜん、わかってないんだからな。それは、昨日も書いたけど、親父が気違い的な意地でハンダゴテを押しつけたにもかかわらず、兄貴の話を聞いても、兄貴が(親父が押しつけたハンダゴテのことで)他の人から悪く言われたということがまったくわからないのとおなじなのである。現実否定して『使える使える』とさわげば、それで親父のなかではすんでいる。気違い兄貴も、『がたがた言ってくるな』と言えばそれで、気違い兄貴のなかでは、終わってしまう。あるいは、気違い親父のように、無視してやり続ければ、それで「やってないこと」になってしまう。おなじなんだよ。全部……。ほんとうに……。これ、ヨソの人にはまったくわからないことなんだよな。

それから、相手が文句を言った場合、親父にしてみれば文句を言われたということになるのだけど、時間がたてば、相手が文句を言ってきたということを忘れてしまう。最初から、認知されてないのとおなじ状態になってしまう。兄貴も、俺がどれだけ(兄貴のヘビメタについて)文句を言っても、『そんなのぜんぜん知らなかった』という状態になってしまう。まるで、覚えてない状態なになってしまう。そりゃ、一日もたてばそうなんだよ。あるいは、一〇秒もたてば、そうなんだよ。だから、常に『文句を言われてない状態で』自分は鳴らしているということになってしまう。本人が怒って、はねのけたら、もう、それでおしまいだから……。言われなかったことになってしまう。そもそも、相手は文句言ってこなかったということになってしまう。気分的にはそうだ。もうちょっと時間がたてば、記憶的にもそうなる。

   *   *   *


いろいろな意味で限界だ。
限界を感じる。
あのときも、このときも、ヘビメタ騒音で切羽詰まって、つらかったな。

なんかどこかで、どうにかしなければならないと思うけど、からだが重い。一つ一つが重い。

   *   *   *

むなしいので限界です。
これから、歯医者に行くけど、……。
まだ時間がある……。
けど、この雰囲気。あああ。
俺の人生、意味 なかったな。


2019年11月26日火曜日

歯医者の予約をしてきた


歯医者の予約をしてきた。ほんとうは、今日、やってもらうつもりだったけど、そうはいかなかった。歯医者に行く道は、高校の時駅まで行く道とおなじなんだけど、むなしい。人間関係がまだ不通に成り立ってる人たちの、会話を聞いてむなしくなった。俺にもそういう時があった。家族の騒音のことでもめて、グチャグチャだけどな。家族の騒音って学力と進路にもろに影響を与えるから、いろいろなことが積み重なる。毎日のことだから。
一〇年ぐらい毎日鳴りっぱなしだと、やはり友達ともめることになる。進路だってパッとしないものになる。だいたい、鳴っているわけだから、通うとなると、鳴っている状態が続く。前に書いたけど、基本的に言って一八歳の時にはもう、だめになっていた。修復不能。どのみち、一八歳の時には、もう通勤、通学ができない状態になっていた。だから、たとえば金を稼いで、家を出るということができない状態なのだ。ということは、鳴らされたまま、いままでとおなじように、通勤通学するということになる。そりゃ、やめてくれればそれですむけど……。兄貴は気違いだから、まったくやってないつもりで、ガンガンやる。すべての可能な時間鳴らすけど、まったく鳴らしてないと思っている状態で生きている。頭がおかしいからそういうことができる。どれだけ強く言われても、まったく関係がない人として鳴らすことができるわけだから、まったく関係がない人として暮らすことができる。


気違いヘビメタが小学六年生時から毎日鳴っている状態でなければ、通勤通学できるからだだった。そういう普通のからだを維持できた。前投稿に書いたけど、ともかく、過小評価する人はヘビメタ騒音なんてどれだけ鳴ってたって、遅刻をしないで通うことができると考えているから『ヘビメタ騒音が鳴っているから遅刻したなんて、いいわけをするな』と言うことを平気で言う。そういうふうに言う人は、一日も気違いヘビメタ騒音を経験してない。俺の部屋で、気違いヘビメタ騒音がどれだけの音で鳴っているかわかってない。七時間も、気違いヘビメタ騒音にさらされ続けたら、どれだけがんばったって、眠れなくなるということがわかってない。もう、ほんとうに、踏んだり蹴ったりだよ。気違い兄貴にどれだけ言ってもわからないと思うけど、俺の毎日というのは、気違い兄貴が(親父のハンダゴテのことで)人から文句を言われてバカにされている日とおなじなんだよ。「そんなの、いえばいい」「ちゃんと説明すればわかるはずだ」「説明のしかたが悪いんだ」「そんなのが、使えると思っているのか?」「そんなのが使えると思っているなんて、バカだな。使えるわけないだろ」ということ言われた日とおなじなんだよ。そういうふうに他の人に言われたという兄貴の説明を聞いて、親父は、発狂していただけだ。「なんだそんなの!!」と怒り狂えば、気違い親父は『関係がない人』になれる。気違い兄貴の無視とおなじなんだよ。『しずかにしてくれ』と言われたら、『このハンダゴテは使えない』といわれた親父のように、怒り狂ってたんだよ。『そんなつもりはまったくない』などと言うかもしれないけど、それは、もう結婚したあとで、鳴らすつもりがないからそういうふうに言うだけだ。けど、『つもりがない』のはたしかだ。親父だって、怒り狂って否定しても、時間がたてば『つもりがない』という意識を持つ。兄貴もおなじだ。怒り狂って否定したあとは、『つもりがない』状態になる。どれだけ、意地になってやってたって、つもりがないのだ。それから、親父は、ハンダゴテのことをいわれて、怒り狂って防衛したあとは、『関係がないひとになってしまう』わけだけど、それも、兄貴と親父でまったくおなじだ。
ほんとうにすべてが、普通の人が想定している世界じゃないのである。すべてが、普通の人が想定している人間の反応じゃない。

こころがさめてしまって、どうにもならない


こころがさめてしまって、どうにもならない。そして、これまた、他の人には絶対にわからないだろうけど、この世の感じがヘビメタ騒音にたたられている感じなのだ。ヘビメタ騒音にたたられている時に認知したこの世の感じがそのまま、続いている。だから、どこに行っても楽しくない。さっき、ダイヤ君といろいろなところに言ったときたのしかったと書いたけど、ヘビメタ騒音でうすらよごれている。ほんとうに楽しかったけど、ダイヤ君といっしょにいるあいだも、ヘビメタ騒音のことが頭の隅というか、ほぼ中央にあり、くるしかった。気違いヘビメタが続いている以上、はげましは毒にしかならない。終わってくれないとだめなんだよ。実際終わった……。一四年と四ヶ月後に、気違い兄貴が引っ越すことによって終わった。終わった。けど、一四年は長い。長すぎる。終わっても、毎日やられたので、続いている。これも、実際に七年以上毎日やられてない他人にはわからない。ぼくは他の人にはわからないことを言っている。それはわかる。わからないというのがわかる。これ、遺書として書いておくけど、認知療法的な言説アドラー心理学的な言説、精神世界に片足を突っ込んでいる人が使う説明は、俺をくるしめるだけで少しも楽しませてくれなかった。楽にしてくれなかった。


ともかく、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するやつらの言い方がひどかったな。言い分がひどい。こいつらは、カルマしか生み出してない。認知療法的な言説に基づいた意見というのは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価する意見だ。気違いヘビメタにたたられなかった人たちはまったくわかってない。そういう意見を言う人は、俺とおなじヘビメタ騒音にたたられなかったので、その人のなかでは、実際に影響がゼロなのである。実際に影響がゼロという立場から、『ヘビメタ騒音とやらの影響』を考えるので、実際の影響からすれば、とてつもなく微少な影響しか考えられないのである。これは、俺の『実際』を無視している『現実』認知なのである。

ともかく、もう、つかれたな。


ほんとうにつまんない。
とりあえず、DVDを返しにいった。雨が降っていた。雨の中をわざわざ傘をさして歩いていったわけだ。

そのあと風呂に入った。風呂に入るのもけっこうたいへんだ。俺はちょっと限界に達している。あとは、体中がかゆかったりする。いま思うと、家族による騒音があったものの、ダイヤ君といろいろなところにいってたのが、楽しかったな。家族による騒音によって、ダイヤ君との仲もさけてしまうのだけど……。

ともかく、俺はいろいろと限界なんだよ。それは、長期騒音によってもたらされたものだ。で、これも、書いても、他の人の誤解をさそうだけのことなんだよな。もう、つかれた。いったいどれだけの人が正しく理解できるのか? 二割ぐらいだと思う。八割は常識にとらわれて理解できない。ぼくは、不幸なことに共同幻想のそとにいるから、共同幻想にどっぷりつかっていたい人にとっては、耳が痛い話をしなければならなくなる……ことがある。
ともかく、もう、つかれたな。

あとは、SNSなどに発生する虫が問題なんだよな。害虫。長期騒音で虫にも弱くなった。
どうするかな? 俺の人生……。ほんとうに、つらい。ヘビメタ騒音がはじまってからずっとつらい。
どれだけ書いてもむだなんだよな。けど、書かざるをえないのだが……。

楽しみがない。楽しみがない。

こっちのブログに関しても、アクセス数なんてどうでもよくなってきた。

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どうしても、不愉快な体験のほうがのこりやすいんだよな。あとは、ヘビメタ騒音が常に鳴っている状態というのは本当につらい。そういう状態が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続く、一日というのは、本当につらい。他の人は、経験がないからわからない。そういう一日が、一年、二年、三年、四年、五年、六年、七年、八年、九年、一〇年、一一年、一二年、一三年、一四年と……毎日……続くとつらい。他の人にはわからない。軽いことだと思ってしまうんだよな。

2019年11月25日月曜日

つまんない

つまんない。限界だ。
とりあえず、長期騒音のことは横において、人づきあいを再開するか?

別に隠すわけじゃないけど……。

にしても、つらいなぁ。
これ、ほんとうにどれだけたたっているか。
鳴っている感じがする……。
ヘビメタ騒音の雰囲気だ……。
どんだけ長く鳴ってたか。どれだけ多くの人に誤解されたか。どれだけデカイ音で鳴っていたか。どれだけ多くの人に誤解されたか。あんな音で鳴ってたら、だれだって眠れなくなる。●にたくなる。それが道理だ。それが、気違い兄貴の態度で気違い兄貴のヘビメタを聞かされたことがない人は、わからない。やられてないやつは、『自分だったら平気だ』『どれだけ鳴っていると言ったってたいした音じゃないんだろう』『騒音なんて、そんなの俺だってある』と思って俺にものを言う。どれだけ誤解されているか。その人たちが経験した騒音と、俺が経験した騒音はちがう。気違い兄貴の気違い感覚がわからない人には、わからない。やられてないやつは『俺だったら、お兄さんをしずかにさせることができる』と思って、ものを言う。気違い兄貴の気違い感覚がわからない人には、わからない。うちのことが、まるでわかってないんだよな。

普通の人は、気にしすぎるから、そういう言葉が必要になる

++++++++++



はぁー。鳴っている感じがする。いましずかだけど、鳴っている感じがする。あのとき、このくらいにしずかだったら……。「やめてくれ」と言ったら、やめてくれたら……。「しずかにしてくれ」と言ったら、しずかにしてくれたら……。まったく、関係なしにガンガンステレオを鳴らして、キーキーエレキギターをひきやがって。ステレオの音にまけないぐらいの音で、エレキギターをずっとひきつづけやがって……。どれだけくるしいか。どれだけ、その日の深夜に影響を与えるか。次の日の、午前一時、二時、三時、四時、五時、六時に影響を与えるか。試験日の午前六時の気分に影響を与えるか?



もーーう、ぼろぼろだったよ。俺が小学生のころからそういう生活をしているということが、他の人にはわからない。ほかの人たちは、「言えばしずかにしてくれる」と思っている。『言えばしずかにしてくれるはずだ』と思っている。なので、『言わないエイリが悪い』ということになってしまう。そういう思考をするやつらが、俺のことをバカにする。どんだけ、不名誉なことか。だいたい、そういう人たちは、常識的な家族に囲まれて生きてきたので、サイコパス家族のことがわからない。(中略)もともと、現実を否定しているところがあるから、「やってない」というもうひとつの現実でものを考える。自分がやりたくてやっているさいちゅうに、相手から「(その行為を)やめてくれ」と言われたら、なにか自分がひどいことをされたような気分になって、発狂してやってしまうのだ。やり続けてしまう。けど、そういう場合でも、「やっているつもり」だけはない。だから、時間がたったあと「兄貴がこういうふうにしてたのでこまった」ということを言われても、まるでわからないのである。「やってない」という気持ちになる。「やってない」という気持ちになったら、自分のなかではやってないということになってしまうのである。親父もおなじで、「親父がこういうふうにしてこまった」ということを言われれば、「やってない」という気持ちになる。そのときだけ、相手の言っていることを否定して、おしまいだ。あとにはなにも残らない。だから、こまる。道徳観や正常な現実認識という問題をぬかせば、「人の言うことなんて気にしないでやった方がいいんです」というようなアドラー風の意見とかわらない状態になってしまう。けど、普通の人は、気にしすぎるから、そういう言葉が必要になる。人の言うことを気にしすぎるから、「人の言うことなんて気にしないでやった方がいいんです」というような意見にひかれる。道徳観や正常な認識が成り立っている人であれば、それでいい。けど、兄貴や親父のように道徳観や正常な認識が成り立ってない人間だったらどうか? まわりの人が被害を受けてこまる。これも、『感じ方の問題だ』なんてことになってしまうのである。アドラーや認知療法家の意見というのは、気にしないでやってしまうひとのことをとめられない。むしろ、気にしないでやってしまう人たちことを応援している。普通は、道徳観や正常な認識が成り立っているからそれでいいけど、道徳観や正常な認識が成り立っていない家族がいる家では、それだと、やられているやつがやられっぱなしということになってしまう。
そして、日常生活ができない状態になれば、当然、無職になる。無職期間が続けば「そんなのは、受けとめ方の問題だ」「過去なんて関係がない」と説教をされるような状態になってしまうのである。やられたほうが。そして、「やられた」という感じ方がそもそも問題なんだと、やられた方が気にするから悪いんだと説教をされるような状態になってしまうのである。こんなとがゆるされるのか?

2019年11月24日日曜日

おまえら、能力一〇の一でやってみろ

ほんとうにすべてが、ちがっちゃったんだよな。

すべてが、ちがっちゃった。

気違い兄貴の行為ですべてが、ちがっちゃった。一四年と四ヶ月は、長すぎる。成長期の一四年と四ヶ月は長すぎる。どんだけのハンディで社会に出なければならないか。ゆるせない。

おまえら、能力一〇の一でやってみろ。毎日、気違いヘビメタを聞かされて、どれだけがんばっても、虚弱体質になっていく状態で暮らしてみろ。一四年後どころか、七年後には、完全な虚弱体質だよ。睡眠障害はもっとひどい。けど、疲れや睡眠障害に関しては、人は「がんばればどうにかなる」と思っている。虚弱体質になって睡眠障害を抱えて、能力一〇分の一でやってみろ。どれだけ屈辱が積み上がるか。どれだけ情けない思いをしなければならないか。


2019年11月23日土曜日

「過去のことは忘れる」というマインドフルネス的言葉と記憶障害(1)

(実はこの前に長い話があるのだけど、それを書いてしまうと、傷つく人が出る可能性があるので、書かない)

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「過去のことは忘れる」という場合は、『自分にとって不都合な過去のことは忘れる』ということであって、別に、自分にとって不都合なことでなければ、忘れる必要がないのである。楽しい過去でも、その他の楽しい記憶が自分の成長を妨げるものであるのであれば、楽しい過去の記憶もいまの自分にとって「不都合なこと」になるのである。それは、『不効率』といってもいい。

過去の楽しい記憶があるから、いま現在のことに力が入らないということであれば、いま現在の自分にとって『過去の楽しい記憶』は『不都合なもの』であり『不効率なもの』なのである。いま現在の自分にとって、その楽しい記憶が『不都合なもの』であり『不効率なもの』になってしまうから、楽しい記憶であっても必要がないということになってしまうのである。

『楽しい過去を思い出す』ということが、現在の自分にとって『不必要なもの』であると現在の自分が判断しているなら、『楽しい過去を思い出すこと』は時間のむだなので、避けるべきことなのである……その人にとっては!! 

それは、実際に過去のことを忘れるということではない。ちゃんと日常生活に必要な分は、覚えている。『いま現在の効率』『(究極まで効率を考えた)時間の使い方』を考えるから、過去のことについて考える時間がむだな時間になるのである。

しかし、実際には、そういうことをやっている人は、『過去』について、ちゃんと、記憶している。

なので、ちゃんと仕事ができる状態を維持している。健忘症や認知症の記憶障害というレベルで『過去の記憶がない』わけではない。
たとえば、誰かと話して『明日の午後二時に●●病院に来てください』と言われたとする。あるいは、『明日の午後二時にミーティングをするので、第一会議室に来てください』と言われたとする。それを忘れてしまったらどうなるか? 

日常の業務に差し障りが出るレベルで『過去の記憶がない』ということになる。なら、「明日の午後二時に第一会議室に行く」というようなメモを書いておけばよいということになる。

しかし、メモを書いたということを忘れたらどうなるか? 適切な時間にも目を見ることができないので、第一会議室に行けないということになる。じゃあ、メモを書いたということは覚えておけばよいということになるかも?しない。

けど、書いたにしろ、今度はどこにメモを置いたか覚えていなければ、『書いたことは覚えているけど』肝心のメモがどこにあるかわからないということになってしまうのである。

メモを書いたという記憶も、メモを机の上に置いたという記憶も、実は、『過去の記憶』に他ならないのである。

この場合の記憶は、『現在の自分にとって』有益だから、『過去の記憶なんてどうでもいい』『過去の記憶なんてどうでもいい』なんてことにはならないのである。

いま現在の会議に参加するには、過去においてその会議について情報を得たから、その会議に参加しているのだ。そして、その情報を忘れなかったから、その会議に参加しているのだ。

別に、どうでもいい会議であればどうでもいいけど、これが重要な会議だったらどうなるか? 重要な会議なら出る必要があるのではないか。

現在の自分にとって重要な会議に出れるということは、その会議に関する情報の記憶があると言うことなのである。なので、『過去のことなんてどうでもいい』とは言えない。

この人たちが言っている『過去のことはどうでもいい』とか『過去のことは忘れる』というのは、自分にとって不都合な過去のことはどうでもいいということであり、いま現在の自分にとって『必要ではない』過去の記憶は忘れるほうがいいということなのである。

別に『過去のことは忘れる』と言っても、すべての過去のことを忘れてしまうわけではない。

だいたい、会議の時間のことについて述べたけど、『時間の読み方』だって、おぎゃーとうまれた時点ではわからない。おぎゃーとうまれた時点で、時計の読み方を知っているわけではないのだ。一日は二四時間で、一時間は六〇分だということを知っているわけではない。

午後二時の会議に出るには、午後一時五八分には、自分がいつもいるオフィスの部屋を出なければならないというのは、時間を計算していることになるから、時間の計算もできないとなると、そもそも、そういう行動をとれないということになる。

時間の概念も時間の計算もともに、過去の記憶を保持しているから可能なことなのだ。

たとえば、会議室ではなくてその会社に行くことを考えるとする。その場合、自分のうちからその会社にいまでの時間を考えなければならない。会社の会議室に午後二時に行くには、少なくても、午後一時には家を出なければならないということは、時間の計算方法がわからなければわからないことなのだ。そして、これは、記憶の成果だ。学習というのは、記憶に他ならないのだから。つまり、『過去なんて関係がない』とか『過去のことは忘れる』というような『格好いい』言葉さえ、過去の記憶がなければ発することができないものなのである。

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ともかく、ヘビメタ騒音でくるしい。
いまもくるしい。気違い兄貴のやつ、まったくつもりがないまま、鳴らしたのか。何万回も言ったのに、何万回ももめたのに、「まったくつもりがないまま」なのか。親父と兄貴なら、そういうことも可能だろうな。態度を考えると、気違い兄貴の場合、ほんとうに、ひどいことをしているつもりがまったくないんだろうな。気違い的な意地でひどいことをしまっていたのに……。いま住んでいるところでやってみろ。一〇分でわかるよ。それを、一日に十数時間やっても、家族なら、まったく気にしないでいることができた。そういう「家族」なんだよ。



2019年11月20日水曜日

「眠らなきゃいけない」と思っているのに、眠れない状態になる


あー、まじでつかれた。もう動きたくない。つかれた。つかれた。

横になっているとき、こんなことばかり、考えている。
ほんとうに動きたくないのだ。いまは、起きて、ズボンなどの熱処理を行ったあと、洗濯をして、さらにそのあと、こうやってパソコンに向かい文章を書いているのだが。

ダニ対策として熱処理が必要なわけ。バルサンをやっても、ネズミが出現してしまったら、全部振り出しに戻る。もう、つかれた。ほんとうにつかれた。

ネズミ、ダニ、ナメクジ、全部、めちゃくちゃにつかれることをしいる。俺にしいる。あとは、睡眠時間がずれているときに、付き添いで病院に行かなければならなかったときは、ほんとうにつかれた。頭がおかしくなる寸前。「もうだめか」と思ったけど、朝の七時から九時まで眠れたときはほんとうにたすかった。

けど、ほんとうに限界なんだよな。これ、ヘビメタ騒音で睡眠回路が壊されてないひとは「なにを言ってるんだ」というような感じしかしないと思うけど、ほんとうに死にそうになる。ほんとうに、動けなかった。義理の姉が、電話をかけてくれたけど、二時間でも眠れなかったらほんとうにやばかった。

じゃあ、全部義理の姉にやってもらえばいいといいのではないかと思う人がいるのかもしれないけど、保険証からなにからなにまで、俺が持っている。「全部、渡すから行ってくれ」と言ったんだけど、それは無理だった。だいたい、義理の姉が住んでいるところが、遠い。

ともかく、俺がものすごく眠たいにしても、俺が動かなければ、手術やその他の処理が進まないのだ。全部、持っているわけだから。

ともかく、ネズミ対策と入院の世話で、くるしかった。どうしてそんなにもくるしくなるかというと、やはり、ヘビメタ騒音で睡眠回路がくずれているから、くるしくなる。

調節のための夜も、ヘビメタ騒音で眠れない夜の再現になってしまう。前日まで、午前九時から午後五時まで寝ていたひとが、当日は、午前七時から、動かなければならなくなったときの、つらさが、半端じゃない。

これ、ヘビメタ騒音で午前四時ぐらいまで、眠れないですごしたときの記憶がすべてよみがえるように、くるしい。毎日俺がどれだけくるしんでいたか。毎日俺が、人知れずどれだけくるしんでいたか。

これ、みんなわかってないけど、ヘビメタ騒音に、日中と夜、ずっと七時間ぐらい、さらされると、眠る時間になっても眠れなくなる。

「眠らなきゃいけない」と思っているのに、眠れない状態になる。

これは、ほんとうに、腕をナイフで切ったら、血が出るというような反応に等しい。けど、みんなわかってないんだよな。「午後一一時一一分には、鳴りやむのであれば、夜は眠れる」と思ってしまう。そんなんじゃないのに。自分がこの世で一番嫌いな音が、七時間、八六デシベル付近の音でずっと鳴っている状態を経験してみろ。

それも、なにを言っても話が通じない、気違い家族が鳴らしている音だ。腹が立つ。家族にやられているということは、重大な要素だ。これも、他のひとには、わからない。要素として、見逃す。他人にやられているのも、家族にやられているのもかわりがないと思ってしまう。

けど、「うち」でずっとやられつづけるということは、想像以上につらいものがある。だいたい、ヨソの人たちは「家族だから、言えばやめてくれる」と前提してしまうわけで、こういうのも、俺の首をしめる要素のひとつになる。

ともかく、他のひとは無視するけど、「眠れない夜」というのは半端じゃない破壊力を持っている。その人の人生を破壊する。「ちょっと気をつければ、いい」「過去のことは関係がない」なんて言ってられない。「ちょっとのことじゃないんだ」と言っても、実際に経験したことがないやつにはわからない。

一〇〇〇日、二〇〇〇日、三〇〇〇日、四〇〇〇日、五〇〇〇日と毎日!!続いた場合の状態を経験したことがない人には、経験としてはわからない。「たるんでいるから、眠れないんだ」「健康管理は自己責任」なんてことをか考えている。俺は自分の意志で「よふかし」をしていたわけじゃない。あまえてもいないし、たるんでもいない。

けど、「夜眠れなくて」ということを言えば、まるで、俺が、好きで夜更かしをしているように考えるやつが、どれだけ多いか。一〇年、一五年、何時間も何時間も、毎日、こっちにとって重要なことがあっても、ずっと鳴っている騒音がどれだけひとの人生を傷つけるか、破壊するかわかってない。

気違い兄貴は、俺の都合というのをまったく考えてない。俺がどれだけ言っても、通じない。

それは、言わなかったのと等価だ。気違い兄貴のなかで、なにも残らないということになっていれば、なにも残らない。いつも通りに、ロボットみたいに、ずっと鳴らし続ける。鳴らすことに鳴っている」から鳴らすという態度で、遠慮なく、気遣いなく、ずっと鳴らす。

どれだけ言っても、まったく気にしないで鳴らす。これも、言われたときだけ、親父のように怒っておしまいなのだ。自分が言われたから、自分が傷ついたというような反応しかない。現実を否定して、おしまいだ。

ほんとうは、ヨソの家では三〇秒だって鳴らせないようなデカイ音で鳴らしているのに、「しずかにしろ」ということを言われたら、「腹を立てる」。それは、親父が、金を使いたくないのに「ハンダゴテを買ってくれ」と言われたときの怒りに相当する。自分の感情しかない。親父も兄貴も、自分の感情しかないから、壊れたロボットのようにおなじことをし続ける。

こっちの都合なんて、考えない。
どれだけ言われたって、考えない。
考えないと決まっているように考えない。

最初から受け付けない。言われたら、発狂して、おしまいだ。現実否定したことを言っておしまい。それで、もう、なにもなかったことになってしまう。こういう態度が、ヨソの人にはわからない。そして、ロボットのように頑固にそうしている人間にもわからない。ようするに、親父と兄貴にはわからない。


(注)義理の姉には相当に助けられている。二人で付き添うことが多かった。そのときもそうだったんだけど、じゃあ、義理の姉だけでいいかというと、そうではない。ようするに、「俺」か「俺と義理の姉」のふたつの選択肢があるわけで、「義理の姉だけ」は、ない。
基本的に、気違い兄貴がうるさくして俺の人生を破壊したのは、義理の姉と結婚する前のことなので、義理の姉にはうらみがない。兄貴の嫁さんだから、うらんでいるということはない。「だから」ね。原因について常にまちがうやつがいるんだよな。兄貴は俺に悪いことをさんざんしているけど、義理の姉は俺に悪いことをひとつもしてない。だから、俺が義理の姉をうらむということはない。こういうことも、いろいろと誤解するやつがいる。

2019年11月18日月曜日

「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」


気違い親父がやりたくなったことは、こっちがどれだけとめても、やってしまう。


勝手にエンジンがかかってしまったことは、こっちがどれだけ「やめてくれ」「やめろ」と叫んでもやめてくれない。



これは俺が大人になってからだけど、「やらなくていい」ということは、血相を変えて、顔を真っ赤にしてやってしまうというところがある。俺が、あるとき、手をすべらせて皿を割ってしまったんだよ。



で、その皿の破片は、ぼくが片付けるから、いじらなくていいといったんだよ。その途端に、スイッチが入って「やってやるやってやる」と言って、皿の破片を片付け出すんだよ。で、ぼくが「やらなくていいよ!!!」「やらなくていいよ!!!」「やらなくていいよ!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!」「やらなくていいよ!!!!!!」と、動いている親父を見て、絶叫したんだよ。



「やらなくていいと言っただろ!!!!!」「やらなくていいと言っただろ!!!」「やらなくていいと言っただろ!!!」「やらなくていいと言っただろ!!!」とさらに続けて絶叫したんだよ。

これ叫んでいるあいだ、ずっと、ちょこまかちょこまか、動いて、まるで聞いてないような状態で、やってしまう。

「やらなくていい」「やってくれるな」ということは、へんな状態でスイッチが入ってやっちゃう。

相手が必死しなって、言っているのに、からだをマッカッカにして、やってしまう。

これが病気で、頭がおかしい。

それから、ぼくはもうその時、大人になっていたわけだけど、本当に、かたづけて欲しくなかったんだよ。

親父がやると、ろくなことにならないから、いやなんだよ。

そういうことを親父がやると、破片が足に刺さったりしていやなんだよ。どれだけ、注意を払って、破片などがないことを確認しても、あらぬところに破片が落ちていて、それを(親父がいないときに)(ぼくが)踏んでしまうというようなことがあるわけ。

これ、もう、本当に呪われているんだよな。

いやなんだよ。これ、本当に、おかあさんもこまってたけど、「やらないでください」「いじらないでください」「さわらないでください」というようなことを言われると、相手が本当に!!!!やって欲しくないときは!!! 自動的に動いてしまう。親父は、相手がやめてくれとずっと横で、言っているのに、顔を真っ赤にしてやってしまう。

これ、言いたくないんだけど、「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と一〇回、二〇回、絶叫しても、かまわずにやってしまう。エンジンがかかって、あぶらあせをかいて、一生懸命に、急いでやってしまう。相手が、言い終わる前にやってしまおうというような考えにとりつかれているとしか言いようがない態度で、切羽詰まった状態でやってしまう。これを、とめるとしたら、本当に、ぶっ殺してとめるしかない状態になってしまうんだよ。本当に、親父にいじって欲しくないとき、親父にかかわって欲しくないときは、それを、「よみとって」勝手にエンジンがかかって、むりやりやってしまう。皿の破片を拾ってくれたならいいじゃないかと思うかもしれない。そうじゃないんだよ。「やってほしくないこと」「親父に手出しして欲しくないこと」「自分であとでやると決めたことは」……くだらないことでも、自分でやる必要があるわけ。自分でやりたいわけ。この場合、俺が皿を落として割ったわけだから、自分でかたづける必要があったわけ。俺の中で、そういう必要性感じたわけ。だから、「皿の破片は、ぼくがかたづけるからそのままにしておいて」と言ったんだよ。そのままにしておいた欲しかったわけ。俺はその時、別の皿を持っていて、手がふさがっていたから、その皿を部屋のテーブルに一度置いて、ガムテープや新聞紙をとってきてガラスの破片の処理をしようと思ったわけ。
普通なら、「それは、ぼくがあとでやるからやめてください」というようなことを言われたら、やめるものだ。けど、「やめてください」と言われると、スイッチが入ってしまう。で、相手が言っていることを、全部無視して、顔を真っ赤にしてやってしまう。首のしたも真っ赤だから、たぶん、からだじゅうが真っ赤になっていると思う。で、本人は、意地悪でやっているつもりはないわけ。けど、これは、意地悪なんだよ。兄貴のヘビメタもまったくおなじで、「やめてくれ」と言われたら、スイッチが入ってしまうところがある。そのときだけ、相手の状態や言い分を無視してやってしまう。で、やってしまったら、もう関係がないわけ。こういうのも、親父と兄貴でそっくりおなじなんだよ。「そのときだけ」なんだよ。相手がいやがることを、血相を変えて夢中になってやったつもりがないんだよ。けど、現実はそうだ。相手が、横で「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と絶叫し続けていることを、やり続けてしまう。顔を真っ赤にしてやってしまう。頭がおかしいから、相手が必死になって言っていることがまったくわからない。自分の気持ちしかない。『やってやりたくなったら』どれだけ相手がいやがっても、やってやりたいのだからやってしまうのである。これが、気違いのやりかたなんだよ。精神的な暴力なんだよ。力でやめさせようとしたら、殴り合いになる。殺し合いになる。すべてがすべてそういうテンションだ。親父は、子供が小さいときは(家のなかで)テッペンだから、気違い親父がやりたくなったら、気違い的な意地でやってしまうのである。そのときはそのときで、「俺のほうがうまいからやらせろ」という気持ちしかない。工作の宿題だって、プラモデルだって、気違い親父が「やってやる」と言ったら、ものすごいしつこさでやってしまう。これ、ほんとうにやらせてあげないと、いつまでも食らいついて、怒り狂ってやろうとする。で、理由を言っても、それは、聞かないんだよ。「これは、自分の宿題だからやらなくて良い」と理由を言っても、「どうしてだ」と聞いてくるところがある。コントじゃないけど、このやりとりを何十回も繰り返すようなところがある。理由を言っているのに、「どうしてだ」と怒り狂って聞いてくる。顔を真っ赤にして、「やらせろ」「やらせろ」とうるさい。プラモデルだって、とりあげて、やってしまうところがある。この場合のやってしまうというのは、部品を母体になる部品につけるということなのだけど、ともかく、やらしてあげるまで、横にぴったりくっついて、逆上する。理由なんて言ったって、ガン無視だ。頭がおかしいから、「自分がやってやる」「自分がうまいところを見せたい」という気持ちしかない。相手の気持ちなんて、どれだけ、相手が正確に言ったって、まるで通じない。頭がおかしいから、ほんとうに「自分がやってやりたい」という気持ちしかない。あとのことは、どれだけデカイ声で言われたって、無視なのである。無視しているということも無視してやってしまう。

よく考えてみたら、ヘビメタを鳴らしているときの兄貴の態度がおなじなんだよ。ヘビメタを鳴らしているときに「やめてくれ」と言われ取る、親父みたいな態度で、顔を真っ赤にして無視してやり続ける。

で、兄貴も親父もそうなんだけど、そういうことがあっても、そういうことがあったということが、わ・か・ら・な・い。記憶にない状態になってしまう。

兄貴は、あいてにやってやるやってやる」という部分はなかったけど、自分が勝手にやりたくなってやったことをとめられるという場合は、親父とおなじなんだよ。親父は、「やってやるやってやる」と言うときがある。そのときは、「自分がどんだけすごいか」「じぶんがどれだけうまいか」ということを見せつけたいからやる。で、ほんとうに、自分の側のそういう気持ちしかない状態になってしまう。頭の中に、自分の気持ちしかない状態になってしまう。自分の頭に一〇〇個のものをつめられるとすると、「やってやる」という気持ちだけで、一〇〇個つまっている状態になって、相手が言っていることが入ってくるスキマがなくなってしまう。普通のひとは、どれだけやりたく立って、一〇〇個入るうち、七〇個ぐらいしか埋まらない。三〇個ぐらいは、相手が必死になって言ってくれば、相手が言っていることが三〇個ぐらい、頭のなかにはいる。けど、一〇〇個中一〇〇「自分がやりたい気持ち」でうまっているから、相手がどれだけ言ったって、〇個しか入らない。で、これがおそろしいことなんだけど、自分がそうしたという記憶があたかもないような状態になる。
だから、気違い親父が「やってやるやってやる」と言うと、かならず、その手のトラブルがしょうじる。やった本人は、やってしまえば、関係がないひとになってしまう。
あとで、「親父がやってやるといってやってしまったので、こまった」ということを言ったって、親父は「そんなんじゃない」「やってないやってない」と言い出す。で、「やってないやってない」と言うときの頑固さが、「やってやるやってやる」と言うときの頑固さとおなじなんだよ。
「やってやる」と言っているときは、「やめてくれ」と言っている相手の現実を無視するのである。「やってないやってない」と言っているときは、「やった」という相手の記憶を無視するのである。実際には、やっているので、やったという現実も無視する。けど、現実稼働かなんて言うのは、関係がないんだよ。そのとき、気違い親父が否定したくなったら、現実とは関係なく否定したいわけで、否定する。で、その時間がすぎてしまえば、そういうことがあったということを忘れてしまう。自分にとって不都合なことは、どれだけ言われたって認めない。そういうことの繰り返しになる。そりゃ、時間がたっているわけだからそうなる。
兄貴もおなじで、ゆずってくれなかったのに、「ゆずってやったゆずってやった」と言うことになる。ものすごくデカイ音で鳴らしていたのに「そんなにデカイ音で鳴らしてない」と言うことになる。全部おなじなんだよ。やっているさいちゅうから、現実を無視している。自分にとって都合がいい現実しか見てない。それは、実際には現実じゃない。兄貴の頭のなかでの現実だ。はっきり言えば、妄想だ。よその家じゃ絶対に一分だって鳴らせないようなデカイ音で鳴らしているのに、自分が鳴らしたい時は、「そんなにデカイ音じゃない」「普通の音だ」と言うことになっているのである。気違い兄貴が、ほんとうに、自分の騒音を「三味線ぐらいの音」「フォークギターぐらいの音」だと思っていたから、いろいろなところに矛盾が生じる。けど、そんなのは無視だ。気違い親父とおなじで、「そのとき」自分にとって都合が悪いことは、どれだけわかっていても、わかることでも、わからないことになってしまうのである。正反対のことになってしまうのである。

これ、他のひとにはわからないんだろうな。

どれだけこまるか、ぜんぜんわからないんだろうな。

俺は、まるまるたい。俺は、まるまるたい。俺は、まるまるたい。

2019年11月17日日曜日

影響のデカさが普通のひとにはまったくわからない


気違い兄貴のヘビメタノやり方というのが、普通のひとにはわからないし、気違い兄貴のヘビメタを一日中浴びたとき、どれだけの影響が出るか普通のひとには、まったくわからない。

けっきょく、そういうことのギャップが、いろいろなことに影響を与える。佐藤氏の誤解だって、けっきょくは、気違い兄貴のヘビメタのやり方と気違い兄貴のヘビメタの影響の度合いについて、佐藤氏が理解してないということからしょうじることにすぎない。しょうじることにすぎないのだけど、でかすぎる。

ほんとうにヘビメタ騒音がなければ、貧乏でも特待生で進学できた。

影響のデカさがわかってない。中学時代、高校時代とヘビメタ騒音にずっとたたられ続けるということの意味が、他のひとにはわからない。

気違い兄貴にもわからない。気違い兄貴がまったくわかってないということに関しては、怒りを感じる。

そりゃ、気違い兄貴なんて、ほかのまったく関係がない人よりも、無頓着なんだから。

それは、もう、ほんとうに親父の態度、そっくりなんだよな。親父がかかわっていることに関する親父の態度とおなじ。気違い的な意地を張ってやったからしょうじることに関する親父の態度とおなじ。

本人はまったくやったつもりがないのである。「まったくやってない」と認識しているひとの態度おなじなのである。気違い兄貴も、自分がこだわってこだわって、どんな時間も、自分のこだわりの音で鳴らしているのに、「そんなことはまったくやってない」という認知が成り立っている。気違い的な意地でやりきったことに関しては、ほんとうにまったく関係がない人のつもりでいるのだ。

一方で、たとえば、「鳴らした」ということに関しては、気違い兄貴は、記憶があるのである。ものすごくデカイ音で鳴らしたという記憶はない。

どうしてなら、ものすごくデカイ音で鳴らしているとき、「たいした音で鳴らしていない」という認知が成り立っているからだ。だから、鳴らしたという記憶はあるけど、デカイ音で鳴らしたという記憶はないということになる。

けど、もうひとつ言っておくと、たとえ、デカイ音で鳴らしたにしろ、「まったく鳴らしてないのとおなじ態度」なのである。これは、まったく鳴らしてない場合とおなじ気持ちでくらしているということだ。そのくらいに、関心がない。どれだけ言われても関心がない。関心がしょうじない。自分がやることは決まっているので、それを絶対の意地でやり続ける。

けど、相手に与えた影響というのはほんとうに、無視しているのである。ゼロだと思っているのである。どれだけ何万回、強く言われたって、「やったってやってないのとおなじ」態度なんだよ。おなじ認知が成り立っている。

そのくらいに、相手のことについて考えることができない。これは、気違い親父の態度とおなじだ。一家にふたりそういう人がいるんだぞ。これがどういうことかわかるか?

気違い兄貴が、以後に夢中になるならまったく問題はないけど、気違い兄貴が、デカイ音でヘビメタを鳴らすことに夢中になったら、こっちの生活が壊れてしまう。その深刻さが、また、他のひとにはまったくわからない。俺がどういう気持ちで暮らしているかわからない。

2019年11月15日金曜日

自分が本当におれて、自分が本当に我慢してやるということはない


たいしたこと、やってない。
つかれた。横になるとする。
どうするかな?

この雰囲気のまま、クリスマス、年末大晦日、なんだろうな。ほんとうに長期騒音で楽しむ能力をなくした。これ、ほんとうに長い間騒音生活が続いた人じゃないわからないと思うけど、学生時代もそれ以降も、追い詰められて、くるしくなる。人といてもくるしい。なにか、たすかるとか、気持ちいいとか楽しいといった感情がなくなる。だれといてもくるしいということになる。ヘビメタ騒音でくるしい。くるしい。じゃ、だれもいないとせいせいしていいかというと、そういう時間もあるのだけど、そういう時間ですら、けっきょくは、きちがいへびめたにやられているわけだから、くるしい。他の人にはわからない。ヘビメタ騒音で……兄貴が鳴らす、強烈にでかいヘビメタ騒音で勉強がまったくできなくなったことはくるしいことなのだけど、仮に勉強のことをぬいたとしても、くるしい。要するに、勉強しているか、勉強していないかに関係なくくるしい。勉強していなくても、強烈な騒音刺激で、ものすごくくるしい。あの時間を経験してないやつが、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、えらそうなことを言う。これがゆるせない。どんだけの騒音だと思っているんだよ。気違い兄貴の態度も、ゆるせない。あの態度はない。あんだけででかい音で鳴らしておいてまったく鳴らしてないのとおなじ認知・認識なんだよな。気違いじゃないと無理な認知・認識なんだよ。あまりにも、おかしいので、他の人が信じない。そして、おそろしいことに、他の人以上に、気違い兄貴が信じないのである。そういうところで、二重、三重に、倒錯している。あるいは、二重三重に、すっとぼけている。これが頭にきてしかたがない。気違い兄貴だって、ヘビメタ騒音以外の音を、あの音のデカさで、鳴らされたら一秒で腹を立てるんだよ。自分が意図してない音を、あのデカさで鳴らされたら、怒る。五分間、鳴らされたら、五分間、やきもきして、たまらない気分になる。そういうデカイ音で鳴らしているのに、自分のヘビメタだと、気持ちがよいのだ。で、気持ちよくなりたければ、弟のことはどうでもいいと思っている。思っているのだけど、これまた、『そんなふうに思ってない』ということになっているのである。で、これは、どれだけ言われても、気がつかない。気違い親父とおなじで、そのときの気持ちしかないのである。そのとき、思いっきりデカい音で鳴らしたいなら、絶対に、思いっきりデカい音で鳴らすわけで、ちゃんと静かにしてやるなんてことはないのである。ちゃんと、普通の基準に基づいて自分が我慢してしずかにしてやるなんてことは、ないのである。なのに、気違い兄貴は気違いだから、勝手に?『しずかにしてやった』ことにしている。これがまた、腹が立つ態度なんだよな。腹が立つ認知・認識なんだよな。
兄貴の認知というのは親父の認知とおなじなんだよ。最初から、自分が本当におれて、自分が本当に我慢してやるということはない。それは、無意識的に絶対にさけるのである。だから、相手にとってまったく意味がない譲歩をするということになる。これが、また、親父が何十年間に渡って、何万回も、何十万回もやったこととおなじなのである。本人は、そりゃ、これまた、やったつもりがない。けど、これが、かならず、そうなる。だから、これは構造的に成り立つことであって、たまたま、成り立つことじゃない。認知療法だと、『たまたま、成り立ったこと』にしてしまうのである。それこそ、認知がおかしい。また、認知療法の世界では『たまたま、成り立ったことじゃないにしても、意味はない』ということにしてしまうのである。これも、ほんとうは非合理的な反応なのである。効率的な反応ではあるけど、非合理的な反応だ。効率的な反応になるときは、実際に、『構造的に成り立つことではなかった場合』だ。このちがいを無視して、がたがた言いやがる。

2019年11月12日火曜日

ネズミ


ほんとう、ついにこうなったかぁ……と思っている。まあ、こうなることはわかっていたのだが、こうなってみると感慨深い。
あーあ。ほんとう、おかあさんが天国に行ってしまったことはでかい。

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あーあ。石けんをかじられた。ネズミにかじられた。パティでふさいだあと、すでにかじられた石けんは使えないので、新しい石けんを下に置いたあと、かじられたのだから、やはり、床下にいるということになる。たぶん、唯一の出口は、ふさいでしまったので、床下にとどまり続けるわけだ。

で、これがやっかいなところなのだけど、内側の出口もわかった。けど、それは、見たわけじゃない。あそこは、なにか道具を使わないと、こちら側からはみえないところにあるから、確認ができない。けど、なめくじの位置から言って、あそこだと思う。

ともかく、工事の人が気をきかせて、お勝手のドアの下を工事してしまったことが原因だ。どうするかな? どうして、こういうことになる。俺は、正直言ってまるまるまるまるまる。まるまるまるまる。ネズミ、一匹? あーー。もう、いやだ。これ、なめくじだって、やばい寄生虫(虫と言っても六本足の虫じゃない)がついているんだぞ。

けど、最低でも一匹は、内側に出れる状態で、床下にいるわけだから、内側の出口をふさいでしまうと、床下で死ぬことになる。もちろん、外側の出口がひとつ残らず完全にふさがれているのならばという前提が成り立つ。

ともかく、これじゃ、風呂に入る気になれない。あそこ、風呂の横なんだよな。無防備な感じがする。まあ、どのみち、はいるけどさ。



いま、マスクをして、防塵眼鏡をかけて、殺虫剤をまいてきた。さっき、ウサギ跳びをするときのようなすわり方でしゃがんだので、けつのあたりがかゆくなった。床に近いとだめなのかもしれない。なので、殺虫剤をかたけんだけどこういうことをするときだって、防塵眼鏡で目の付近を傷つけることがある。

ほんとう、ついにこうなったかぁ……と思っている。まあ、こうなることはわかっていたのだが、こうなってみると感慨深い。
あーあ。ほんとう、おかあさんの死はでかい。

ともかく、04時21分54秒あたりに、こういう作業をひとりでしていると●にたくなる。おかあさんがいたって、寝ているだけで、ぜんぜん力を貸してくれないけど、ひとりというのがなぁ。気違い親父はいれば絶対に、邪魔をするので、だめだ。だいたい今回のことだって、一匹目のネズミが出た時点で、俺は、親父に『プロにたのもう』と言ったのに、親父が『俺がやるからいい』と言って、プロにたのまなかった。

で、親父が相手をしているのは、ネズミだけで、ネズの糞、ネズミの小便、ネズミが持ち込むナメクジ、ネズミやネズの糞から発生するばい菌や寄生虫のことはまるで考えてないんだよ。で、ずっと、ネズミの糞がうちのなかにつもることになった。

親父の部屋を片付けたのは俺だけど、親父の部屋にどれだけネズミの糞がつもっていたか。親父のベッドと押し入れのあいだのスペースにものすごい量のネズの糞がつもっていた。ああいうところに寝ていて、平気なんだからな。しかも、親父の部屋にある押し入れは、押し入れの床が抜けているんだよ。

で、ビニールを貼って、すごしていた。で、ネズミが出たら、押し入れのスペースをうたがうべきなのに、うたがわない。俺が『押し入れのところがあやしい』と言ったのに、『そこは、シートを貼ったからだいじょうぶだ』と言って、押し入れのなかにあるものを全部出して、床と側面がどうなっているか確認しなかった。

親父の部屋のことだから、親父がいると、押し入れの中のものを出して、調べるということができない。押し入れの中にいっぱいつまっているわけだから、あれを出すということができない。ともかく、床が抜けている部分にあるビニールはまるで役に立ってなかった。

やぶけて、ぺろぺろ。ネズミが、ガンガン入ってこれる状態が続いていた。ともかく、親父は、邪魔でしかない。親父が、マグロの粕漬けをずっと出しておいて、餌付けをした。

これだって、サランラップなどをかないで、テーブルの上にずっとのせておくというのがおかしいことなのに、どれだけ言っても、自分の行為をあらためようとしない。

前の日の午前中に出しておいたマグロの粕漬けを、一晩中なにもかけないで、出しておいて、次の日の朝や昼に食べようと思っているんだぜ。普通の人だったら、そんなのは、たのまれたって、ほこりがついているから、いやがる。へーーーき、なんだよ。本人のなかで、へーきなら、なにを言われたって平気なままなんだよ。

で、そういう常識とはちがったことをすると、いやなことがおこる。親父が親父のものを食べるわけだから、関係がないわけだけど、それでも、魚をなにもかけないまま、放置して、ネズミが入ってきたとなれば、関係があることになってしまうんだよ。

ともかく、親父がいたら、一切合切話が進まない状態になって、ずっと、ネズミの侵入を受け続けるわけだから、ネズミの糞がたまっていくということになる。ネズミは走りながら小便をたれながしているので、床や壁にネズミの小便がつくことになる。これは、不衛生だし、くさいし、ネズミをおびき寄せるにおいになる。

工事の人も、最後によけないことをして……。しかも、前の日まで、夜型だから、昼間どれだけ気を張って対応しても、ぬけることがあるんだよな。それは、長期騒音の影響で、ずっとくるしんでいる。他の人は、うちで鳴っていたような長期騒音を経験してないので……人生の中で経験してないので……わからない。

それがどれだけ、その後の睡眠相に影響を与えるか、わかってない。俺が、だめ人間のように見えてしまうんだぞ。気違い兄貴が鳴らした騒音をずっと浴び続ければ、だれだって、そういうことになるのに、気違い兄貴が鳴らした騒音を俺の部屋で経験した人が、この世にひとりしかないので、だれだって、そういうことになるということが、他の人にはわからない。

他の人は、自分の条件を考えて、「そんなに影響を与えるわけがない」「過去のことなんて関係がない」と言う。この発言だって、そうとうに侮辱的な発言なんだぞ。まったくわかってないだろ。

ともかく、パティのことに関しては、ドアが開くかどうかのほうが気になって、ぬけてしまった。少し気になったんだけど、眠ってない状態だったから、うまく反応できなかった。

2019年11月11日月曜日

子供の奇声は、うるさいときがあるよ


子供の奇声は、うるさいときがあるよ。けど、それとはちがう。兄貴の気違いヘビメタ騒音とそれとはちがう。けど、子供の奇声でくるしんでいる人を悪くいうつもりはまったくない。ちがうけど、まったく悪くいうつもりはない。かわいそうだと思う。『子供が奇声をあげるのはあたりまえだろ』と言って注意しない親はおかしいと思う。苦情が出たら、しずかにさせるように努力するべきだ。くるしんでいた女の人の言い分というのがあっているのである。その人のほかのことに関する考えたも道徳観もあっているのである。支持できる。深い同情を感じる。

ただ、俺が元気をもらっているとかなんとか言ったのには理由がある。それは、自分が幼稚園生の時に教室でまどろんでいるようなときの気分があるからだ。そういう時もある。けど、その人とぼくとでは、奇声に関しては、たぶん距離がちがう。おなじ距離でやられたら、うるさいと思うかもしれない。その人はほんとうに悩んでいたと思う。くるしい思いを人知れずしていると思う。その人の親が子供の奇声には寛容らしく、その人とは異なる意見を持っていたみたいなのだけど、その人の意見や感覚は、正しいと思う。(近距離なので)。

マンションの隣接する部屋における子供の奇声に苦情を言うのは、感覚として正しい。なるべくしずかにさせるように親が努力をするべきだと思う。

あの女の人は、元気でやっているだろうか? 騒音に殺されないように、なんとか方法を探してなんとかその方法を実現して欲しいと思う。

2019年11月10日日曜日

あのときのあれ、ない


あのときのあれ、ない
って気持ちがいっぱいわいてくる。ほんとうにあのときのあれないよ。気違い兄貴、おまえ、どれだけ!! 気違い兄貴のヘビメタ騒音でくるしかった。毎日毎日、いついかなるときもくるしかった!!
無視して、関係がないひとして、夢中になって、ガンガン鳴らしやがって。どれだけ言ってもやめなかったのに、「ゆずってやった」と本気で思っている。ほんとうに気違い野郎。そういう態度がおかしい。そういう感覚がおかしい。そんなの、普通なら、『嘘を言っているつもり』がなければできないことなんだぞ。ほんとうにまったく関係がない人として鳴らし続けやがって。どれだけしつこかったかぁぁ!!どれだけしつこかったかぁぁ!!

そんで、また、つねに、さみしいんだよ。あいた穴がふさがらない。こころにあいたあながふさがらない。どうやっても、ふさがらない。常に、やられた。常に、毎日やられた。毎日の連続がどれだけつらいか。なんでもない時間がどれだけつらいか。なんでもない時間というのは、本来なら『なんでもない時間』ということだ。気違いヘビメタにやられているさいちゅうも、気違いヘビメタにやられた「あとも」、強烈にくるしい時間になった。そう、なんでもない時間というのは、食べたあとのちょっとした時間とか、寝る前のちょっとした時間とか、なにもやってない時間だ。そういう、なんでもない時間が、地獄だ。くるしすぎる。強烈なさみしさを感じる。

だから、「やめてくれ」とあれほど言っただろ。気違い兄貴が、気違い親父の態度で、無視した。気違い兄貴が、気違い親父の感覚で、無視した。あんまりにも頭の構造がおなじだから、「まったくやってない」と思っているところおなじだ。毎日、つねに、十何年もやったのに、自分は関係がない『ヨソの人』なのだ。関係がない『ヨソの人』でまったくやってないのだ。どれだけしつこく頑固にやっても、「つもりだけ」はないんだよな。注意されたときは、怒って、怒ったら、〇・一秒で忘れやがる。〇・一秒後にやっているときは、『注意される前』の状態でならしているのである。注意されたということがまったくわかってない。記憶から消えている。だから、相手がいやがっていることを、自分がやりたいからやっているという自覚もない。そういう毎日だ。そういう毎時間だ。そういう毎分だ。そういう毎秒だ。これが、頭がおかしいから、全部毎日、おなじように繰り返される。……それ以外の状態がない状態なんだからな。こんなのわからない。普通、言われたら、言われたという記憶が残るということになっている。普通の人はそう思うだろ。けど、俺が気違い兄貴になにを言っても、気違い兄貴にはなんの記憶も残らない。自分にとって『不都合』な記憶は残らない。『いまの自分』にとって不都合な記憶は、残らない。『いまの自分』というのは、ヘビメタを思う存分ならしたい自分なんだよ。だから、『ならせなくなるようなこと』は事前に、効く前から排除されている。聞こえたって、聞こえてないのである。怒ったって、〇・一秒後には、すっかり忘れてしまうのである。消去消去。怒ったということは、一瞬だけど、理解したということなんだよ。あるいは、一週だけどちゃんと聞こえたということを意味しているんだよ。けど、それは、外的には、聞こえてないのとおなじなんだよ。そりゃ、〇・一秒後には『言ってこなかった』ことになってしまうのだから。あたかも、聞こえてないような態度だけど、聞こえたから、怒っている。けど、怒ったあとは、ほんとうに、聞こえなかったような態度なんだよ。

2019年11月8日金曜日

高齢引きこもり本人(だらしがない、あまえている)家族(迷惑している)という構図ばっかり


本人(悪)と書いたけど、『悪』というのは「だらしない」とか「あまえている」というような意味で『悪』なのです。そして、家族(被害者)と書いたけど『被害者』というのは、「迷惑を被っている」『迷惑している』という意味で『被害者』なのです。



『だらしがない』という言葉になにか『良い』イメージがあるかというと、ない。『だらしがない』という言葉になにか『善』であるイメージ

があるかというと、ない。「だらしがない」という言葉はすでに、悪いイメージの言葉で、『ゆっくりしている』とか『ゆったりしている』とか『他人の価値観に動じない』というような言葉ではない。他人が言っていることを気にしないという意味では中年引きこもりのような態度はむしろ歓迎されるべきなのである。もちろん、個々の中年引きこもりは、他人の価値観を『気にしている』とは思うけど、行動自体は気にしてないように思えるのである。他人がどう思っても関係がないという態度が推奨されるのであれば、中年引きこもりの態度はむしろ、推奨されるべきなのである。(他人がどう思っても)外に出て働かないわけだから。



「他人がどう思っているか気にしないようにする」とか「他人がどう思っているか気にするのはばかげている」と考える人たちは、むしろ、引きこもり中高年の『態度』をほめるべきなのである。けど、こういう文脈になると、「他人がどう思っているか気にするのはばかげている」と考える人たちは、「だらしがない」「よわすぎる」「けしからん」「あまえている」と引きこもり中高年の『態度』をけなす。



それから、SSRIなどの薬の量を増やせば、よくなると思っている程度の人は、薬の量について、精神科医と相談するべきではない。たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんはBさんの父親だとする。Bさんは、強迫神経症(強迫性障害)で引きこもりだとする。で、AさんがBさんに働くように説得したとする。で、Bさんが「秋になったら働く」と言ったとする。けど、Bさんは(その年の)秋になっても働かなかったとする。そこで、Aさんは、Bさんが行っている精神科を訪れて、医者に薬の量を増やすように説得したとする。医者が、Bさんの説得に負けて?Aさんの薬の量を増やしたとする。そうしたら、Aさんが失禁してしまったとする。

この場合、はっきり言えば、Aさんのしたことは批判されてしかるべきものだ。これ、父親が心配してやったことだから、いいのか。失禁したというような負のエピソートが増えてしまって、Bさんがかわいそうだろ。まず手短に言って『強迫性障害』にSSRIが効くかどうかということに関しては、そんなにたしからしいことは言えない。効く場合もあるけど効かない場合もある。脳内のシナプス間隙におけるセロトニンの放出量が問題なのである。

だいたい、セロトニンを増やしているわけではなくて、セロトニンの再取り込みを阻害して「つかいまわしている」だけなのである。セロトニンの放出量にかんしては適切な放出量がある。セロトニン過多になってもだめなのである。セロトニン過多になると、いわゆるセロトニン症候群のような状態になる。セロトニン症候群になると体温の上昇、異常発汗、緊張、高血圧、心拍数の増加、吐き気、下痢、ミオクローヌス、筋強剛、振戦、反射亢進、混乱、興奮、錯乱、頭痛、昏睡などの症状が生じることがある。失禁などもそりゃ、あるだろう。

これ、医者が父親に説得されて、量を増やしてしまうというのがおかしいと思うけど、まあ、増やしたんだろうな。薬が効かないから、薬を増やせばいいと思ってしまうような……短絡的な考え方をどうにかしたほうがいい。

手短に言うと、Aさんの強迫性障害にはBさんのそういう態度がかかわっている可能性がある。Aさんはどうも、小さいときは『いい子』だったみたいなのである。成績優秀で学級委員などをすんんでやるような子供だったのである。親の期待に過度にこたえようとするところがあるのではないかと思う。まあ、実際のところは、情報が少なすぎてわからない。けど、医者に「かけあって」息子の薬の量を増やしてもらうというような行動には、問題がある。

けど、こういう記事のなかではAさんのていたらく、ふがいなさ、だらしなさが強調される。そして、そのていたらく、だらしなさ、ふがいなさに家族が迷惑をしているというような感じが醸し出される。そして、そして、そのていたらく、だらしなさ、ふがいなさに家族が迷惑をしている家族がいろいろと手を尽くすけど、本人(Aさん)は働こうとしないということが記述される。父親がいろいろと心配してがんばっているのに、本人はだらしなく寝転んでいるだけなのだ。

これ、このケースはどうだか知らないけど、ほんとうに、親が子供に迷惑をかけて、子供を精神病に追い込んでいるケースがある。けど、そういうことは、うわべだけ見るとわからない。実は、親が子供に迷惑をかけているケースもあると思うよ。けど、そういうケースも含めて、本人が高齢引きこもりなら、本人(悪)家族(被害者)という文脈で語られると思う。

だから、なにを言いたいかというと、本人(被害者)家族(悪)というような構図で説明できるような場合が、どのくらい多いのかはわからないけど、あるはあると思うということを言いたい。割合はわからないけど、あると思う。報道は常に、本人(悪)家族(被害者)だからな。全部、そうなんだというような印象を与える。理解があるような発言が含まれていたとしても、本人(ふがいない)家族(迷惑している)というような印象を与えることに成功していると思う。たぶん、記事を書く人が、理解があるようなつもりになっていても、本人(悪)家族(被害者)という構造を頭の中に描いているからそうなるのだと思う。



2019年11月6日水曜日

『どうにかなってくれ』はない


起きたあと、お茶を飲みながら作業をしていた。作業中も、長期騒音を巡るいろいろな人とのやりとりが思い浮かんで、腹立たしい。これ、ほんとうに他の人にはわからない、不幸なことなんだよな。おまえに「どうにかなってくれ」なんて言われて、つきあえるわけがないだろ。なんでそれがわからない。どうして、「エイリがどういう目に遭ってきたか知っている」という前置きをしてそういうことをいうことができるのか? そんなこと、言われて、友達として、親友としてつきあえるわけがないだろ。これやっぱり、他人だと……別の個体だと……積み重なっているものがちがうから、本当のところがわからないんだよな。俺がどれだけがんばってきたかわからない。気違いヘビメタ騒音に耐えて普通に学校に通うということがどういうことなのかまったくわかってない。ぎりぎりのぎりぎりなんだぞ。「わかっている」だと。ふざけんな。心配してくれるだけならいいけど、『どうにかなってくれ』はない。どうにかなってくれって、通学してくれ、通勤してくれってことなんだぞ。それが俺にとってどういう意味を持っているか……。どうやってもできないことなんだよ。やろうとしたら自殺するしかないようなことなんだよ。そこまで、追い詰められるんだよ。

じゃあ、そういうふうに言えばいい?? 言っただろ。さんざん。

まあ、ともかく、ヘビメタが鳴ってなかったらこんなことにはなってない。兄貴の態度が、気違い的な態度でなければ、こんなことになってない。気違い的な態度で、気違い的な意地で無視して、頑固に鳴らしていたから、こういうことになった。普通の人が絶対に理解できない状態で、ぼくは暮らしていた。毎日暮らしていた。毎日が、限界。

ほんとうにまったく鳴らしていないと思っている状態が、続く。気違い的にデカイ音で毎日、すべての時間鳴らしているのに、まったく鳴らしてないと思っている、態度だ。感覚だ。頭がおかしいからそういうことが、普通にできる。そういうふうにセットされていたら、ずっとそうなんだぞ。これはどういう意味かというと、人格としてそうなっているということだ。常にそうなっているというとだ。これが、わかってない。どういうこだわり方で、どういう意地で、鳴らしているのか『ヨソの人』はまったくわかってない。俺が説明してもわからない。

『すべての時間鳴らしているのに』と書いたけど、それは、ほんとうにすべての時間鳴らしているということを意味していない。つまり、二四時間中二四時間鳴らしているわけではない。気違い兄貴がヘビメタを鳴らすことが可能な時間は、すべての時間鳴らしていたという意味だ。当時、毎日、鳴らしているという意味だ。『すべての時間ではない』ということを言っても、ぼくのつらさはかわらない。『すべての時間』という言葉を使ったとき、すべての可能な時間と書き直そうとしたけど、わざわざ、書き直さないで書いた。気違い兄貴が眠っている時間以外のほとんどすべての時間鳴らされて、くるしかった。俺が眠れなくなって、俺が他の人に文句を言われる状態になる。気違いヘビメタを鳴らされてないやつに、甘えているとか言われることになる。こんなのは、ない。ゆるせない。正確に言えば、すべての時間ではなくて、可能なすべての時間だ。けど、それを書き直しても、やられたことがかわらないので、ぼくのつらさがかわらない。

心配してくれることと、『どうにかなってくれ』と言うことはちがう。だから、わけて書くよ。心配してくれることはいいことだけど、『どうにかなってくれ』と言うことは、いいことじゃない。心配して『どうにかなってくれ』と言った場合は、心配することと『どうにかなってくれ』ということをわけて考えなければならない。あの状態の俺に『どうにかなってくれ』と言うことは『くるしんで死んでくれ』と言っているのとおなじなんだぞ。だから、『できない』と何度も言っているだろ。それを、『そこをなんとか』とか、食い下がりやがって。何回言わせるんだよ!!!


ほんとう、この先どうするかな?どれだけ言っても、一秒も静かにしてくれなかった


つまんねぇ。歯医者のこととか将来のことを考えると憂鬱だ。
ちなみに、昨日、缶コーヒーを飲んだので、背中に蕁麻疹ができている。背中がかゆい。

まあ、腕もかゆいんだけど。

この先、どうするかな。ほんとうに長期騒音で人生がない。

ほんとう、この先どうするかな?

他の人はいいよな。旅行に行けば憂鬱な気分が吹っ飛んでしまうのだから……。

ともかく、一〇年間ぐらい、ドクターペッパーとコーラと紅茶を飲み過ぎた。反省した。ドクターペッパーはやめよう。飲んでも、一ヶ月に一回ぐらいにしておこう。紅茶がやめらない。

実は昨日アニメを見ていたら、入試のことを思い出して、強烈にへこんだ。勉強の話しを聞くと、どうしても、気違いヘビメタ騒音を思い出してしまう。騒音にたたられながら、試験を受けたことを思い出してしまう。言っておくけど、試験中に騒音が鳴っていたのではなくて、試験期間中に騒音が鳴っていたのだ。

どれだけ言っても、一秒も静かにしてくれなかった。そういう状態で、次の日試験を受けに行かなければならなかった。


2019年11月4日月曜日

中高年引きこもり本人(悪)家族(被害者)という構造があるかのように思わせる記事ばかり



なんか、中高年の引きこもりが働かないので、まわりの人(おもに家族)が迷惑を被っているというような話しが多い。けど、これは、ほんとうにそうなのかな? 

家族が原因で、働けなくなった人(中高年引きこもり)が多数いると思う。けど、記事を書く場合は、どうしても、家族を『悪者』にできない。そりゃ、そうだろう。『心配して』『助言をしている』家族なのだから、悪者にはできない。しかし、ぼくの感じでと言うとだいたい四割ぐらいが、家族のほうにむしろ原因があると思う。

どうして、本人が『甘えて』働かない……というようなストーリーばかり出てくるのか? 家族が心配して『働け』と言うけど、ちょっとした障害?で働こうとしない。

ちょっとした障害?というのは、たとえば、強迫性障害や社交不安性障害だ。場面緘黙症なども、ちょっとした障害のうちに含めていいと思う。これらの障害?は、ちょっと本人ががんばればどうにかなりそうな障害?だと、一般の人は思っているのである。

だから、親が甘やかしているというような判断をすることになる。もちろん、甘えているのは、中高年の引きこもりだ。

こういうイメージができあがるようにできている……記事全体が。こういう話ししか出てこない。けど、家族がむしろ原因になっている場合があると思う。

本人は、ようするにサイコパス家族の『被害者』だ。数十年にわたって、サイコパス家族にやられて、働けなくなっている中高年の引きこもりだっているはずだ。『心配している』となると援助しているような感じになるけど、むしろ、サイコパス家族(本人たち)の問題が、その人(引きこもりの中高年者)にあらわれている場合があると思う。

ようするに、サイコパス家族が足を引っぱりきって、働けなくしている場合があると思う。サイコパス家族が長い年月をかけて、(子供を)働けないようにしたのである。だいたい、三割だと思うなぁ。

これは、『甘やかし』ではなくて、虐待なのである。
何十年も毎日続く虐待だ。

もっとも、「子供」が強迫性障害や社交不安性障害や場面緘黙症なら、家族が原因だとは言わない。けど、そういう場合もある。そういう場合もあるということを事前に排除してはいけないということを言いたい。
たとえば、強迫性障害だけど、これは、どちらかというと脳のソフトウエアの問題なのである。

脳のハードウエアには問題はないが(注)、出来事によって症状が形成されてしまう場合がある。はっきり言いたいのは、子供が強迫性障害者なら、親に問題があるとは言わないけど、子供が神経症者である場合、親に問題がある場合があるとは言えるということだ。

『親が原因』ということを言うと、一〇〇%、親が原因だと思ってしまう人がいるのだけど、それは、まちがっている。場合分けをしなければならない。なんでこれがわからないのか? すべての場合において親が原因だとは言ってないのだ。

そういう場合がありえるというとを言いたい。部分なんだよ。全体じゃなくて。逆に、子供が強迫性障害者である場合、親が原因でないと言えるかどうかなんだよ。子供が強迫性障害者であった場合、親が原因ではないとは言えない。これがわかるかな? これ、ほんとうに、まちがった推論をすると人たちが多い。

ようするに、親が原因で(親の行為が原因で)子供が強迫性障害になることある。なので、中高年の引きこもりが強迫性障害で引きこもっている場合、親の行為が原因で引きこもりなっている場合がある。親の行為とただ単に書いたけど、親の『過去の行為』だ。『出来事』と書いたでしょ。

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(注)ちょっとした障害だと考えているのは私ではなくて一般人だ。その人にとってちょとした障害だとは、私は考えていないし、考えられない。

中高年引きこもりのことを取り上げた記事では、中高年引きこもりのことは、直接!!悪くは言ってないけど、ちょっとした障害で働こうとしない(だらしがない人だ)(悪い人)というような印象を与えてしまうのである。

ようするに、本人(悪)家族(被害者)という構造があるかのように思えるのだ。悪というのは言いすぎだと思うかもしれないが、ちょっとした理由で働かないことが悪なのであれば、悪だということになる。

本人が迷惑をかける人で、家族が迷惑を被っている人だという構図が頭の中にできあがる。(記事を読んでいる人の頭の中にできあがる)。

けど、ほんとうは、家族が迷惑をかけた人で、本人が迷惑をこうむっている人であるケースがあるのではないかということだ。私がこの投稿で言いたいことはそういうこと……だ。

たぶん、世の中の九割は、本人(悪)・家族(被害者)というケースが一〇〇%だと思って、そういう記事を読んでいるのだろうなと思う。本人(被害者)家族(悪)というケースがあるということに注意を払って(そういった記事を読む人は)少ないのではないかと思う。そういった記事というのは、仕事をしない中高年の引きこもりに関する記事のことだ。
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2019年11月3日日曜日

働き出せば、からだがなれて、ハンディがゼロになると思っている


長期騒音のことで●にそうだよ。ほんとうにすべての人生を破壊した。ほんとうにすべての人生の可能性を破壊した……気違い騒音。もうやっぱりつかれた。こんなハンディ・障害がある状態じゃだめだ。


いろいろと動いてもハンディはかわらない。

ともかく、長期騒音の影響でだるい。まるまるまるたい。他の人とはまるでちがってしまったな。ほかの人は経験してないので、俺がなにを言っているかわからない。たいしたことじゃないと思ってやがる。そういうことのすべてがいやだ。

いろいろと動いてもハンディはかわらない。つかれてもっとひどくなる。気違いヘビメタにやられてない人は、まったくわかってない。気違いヘビメタに数千日やられてない人は、ぼくが、なにかをやり始めたらハンディがなくなってしまうと思っているのだ。

たとえば、普通の仕事をし始めたら、ハンディがなくなってしまうと思っている。あるいは、最初から、やはり、気違いヘビメタ騒音のハンディが見えないのだろう。当時もいま現在もゼロだと思っているのだろう。

『そんなんじゃない』と何回、言ったら、わかるんだ。

ほんとうに、ゼロだと思っているんだよな。あるいは、働き出せば、からだがなれて、ハンディがゼロになると思っている。そいつらはみんな、俺とおなじ量、ヘビメタ騒音をやられてないやつらだ。ヘビメタ騒音生活が一〇年以上続くということがどういうことなのかまったくわかってない。

そこからしょうじる障害がまったくわかってない。

俺とおなじヘビメタ騒音を一〇年以上毎日経験してから、言え。一〇年以上経験すれば、障害がどれほどひどいかわかる。「やりはじめること」でゼロになる……からだがなれるというのは、普通の人の普通の考え方だ。ぼくの経験は普通の人の経験じゃない。

もうすでに普通の人じゃなということがぜんぜんわかってないんだよな。こいつら、ヘビメタ騒音障害を過小評価して、(やられてない)自分のからだがなれたから、エイリさんのからだもなれるはずだと思ってる。やられてないから、普通の状態を維持している。自分が普通の状態を維持しているから、エイリさんも『なれる』と思ってうたがわない。

ヘビメタ騒音をやられたあとは、積み重なるだけだよ。

つかれが積み重なるだけ。

どれだけ無理をしても体はなれない。だいたい、休みの日が休みの日ではないんだよな。一〇年もやられてみろ。わかるから。新しいつかれがつもるだけになってしまう。気違いヘビメタ騒音生活をしてなかった人にはそこのところがわからない。

注『働く』というのは、決まった時間に通勤して働くという意味。決まってない時間に家で働くことは意味してない。

2019年11月2日土曜日

内向的な人のつかれと、外向的な人のつかれ


あっ、そう言えば、夢のなかの会話が楽しかったんだけど、内向的な人も、気のあった人と興味がある分野について話すのは楽しいのではないかと思った。

ようするに、『つかれない』のではないかと思った。もちろん、内向的な人は他人と接するとつかれて、外向的な人は他人と接すると楽しいというのはあると思う。

内向的な人は他人とつきあうとエネルギーをうしなうけど、外交的な人は他人とつきあうとエネルギーをえるというような傾向のちがいはたしかにあると思う。

けど、内向的な人は、あわない人とあわせているから(より)疲れるのではないかと思う。たしかに、ゲームが好きな人でも夢中になってゲームをやれば「つかれる」。車の運転が好きな人だって、ずっと車を運転しているとつかれる。そういった意味で、外向的な人だって、人とつきあっているとつかれるのだ。

それは、まあ、友達とゲームをやっているときのつかれみたいなもので、人間の身体的なつかれだ。時間とともに発生する身体的なつかれ。一方、たとえば、内向的な人がゲームをする場合、内向的な人は他人に気をつかって、ゲームをしているので、精神的に疲れてしまうのではないだろうか。内向的な人も時間とともに発生する身体的なつかれは感じていると思う。

これは、内向的な人も外向的な人もかわりがないのではないだろうか。

内向的な人が人とつきあうとつかれると感じるのは、実は、内向的な人が精神的なつかれを感じているからだと思う。もちろん、精神的なつかれを感じると、動きたくないというような身体的なつかれとも思えるようなつかれが発生する。

それが、内向的な人はつかれやすいということにつながるのではないだろうか。要するに、内向的な人でも、『気をつかわなくてもいい相手』ならば、外向的な人が感じるぐらいのつかれを感じるのではないだろうか。気をつかわずにつきあえる相手なら、内向的な人でもつかれを感じる量が少なくなるのではないかと思う。

外向的な人でも、形式的な儀式に参加すると、普段は感じないつかれを感じるのではないかと思う。たとえば、葬式などに出席するとつかれるのではないかと思う。葬式には人がいて、人とのコミュニケーションがある。その点では、たとえば、仲間内のパーティーとかわりがない。

けど、葬式の場合は、仲間内のパーティーよりも『気をつかう』はずだ。なので、仲間内のパーティーに参加するときより精神的につかれるのではないかと思う。この場合は、外向的な人であるにもかかわらず、必要以上に気をつかうので、いつも以上につかれを感じるのだと思う。

内気な人は、仲間内のパーティーに参加しているときも、あたかも外向的な人が葬式に参加しているような精神的なエネルギーを使っているのではないかと思う。

ようするに、外向的な人と内向的な人のちがいは『気をつかうかどうか』と『気をつかう程度』などだと思う。『気をつかう程度』と書いたけど、これは、項目数と深度(強度)が関係していると思う。ようするに、気をつかう項目数と深度をかけたものが気をつかう程度(気をつかう量)になるのではないかと思う。

内向的な人は普段から、気をつかう項目数が多いのではないか。たとえ、身体的に動いていなくても、こころのなかではあれやこれやといろいろと気にしてつかれてしまう。これは、そこにいる人たちの動きが読めないとか、そこにいる人たちの考えが読めないということが影響しているように思える。

読めないと言ったけど、これは、読めないわけではなくて、ひとつの事柄に関して解釈の可能性が複数あるので、解釈の可能性を巡ってしきりに考えているような状態になるのではないかということだ。要するに、動いてないようでいて精神活動は活発なのだ。その精神活動は、おもに(恐怖)から発生しているので、楽しめない。

兄貴の気違い騒音が何千日も続かなかったら、知的な会話を楽しめたかもしれない


ものすごく楽しい夢を見た。ひさびさに知的な会話を楽しんだ。いい人ばかりの世界を味わった気がした。俺が求めていたのはこういう世界なんだ。考えてみれば、俺と、性格が悪い人たちが「あう」はずがない。性格が悪いと言ったけど、自分勝手で頭が悪いやつらなことなんだけどな。自分勝手で頭が悪いやつらが常駐しているようなSNSや掲示板が、俺に「あう」はずがない。兄貴の気違い騒音が何千日も続かなかったら、知的な会話を楽しめたかもしれない。そういう人たちに囲まれてすごすことができたかもしれない。考えてみれば「あう」はずがないのだ。
小室直樹氏と心ゆくまで話したかったなぁ。若い小室氏と、知的な会話を楽しみたかった。ぼくが見た夢のなかでは、サブカル的なノリがあって、そのノリはあんまり好きじゃないのだけど、そこに集まっている人たちとの会話は非常におもしろかった。心地よかった。だいたい、三グループと話したんだけど、どのグループの人たちとも非常に心地よい会話を楽しんだ。

2019年10月30日水曜日

「プラスだったらどうなんだよ」という話しだ


日常生活もままならない状態で、やり始めること……か?
まあ、俺は今年、ずいぶんとがんばった。もう、今年は、いいや。それにしても、寝ている状態のときがつらい。くるしい。寝ている状態からなんとか起きて、しょうべんに行くというのがつらすぎる。あの状態で、いまは寝れるからいいけど、むかしは、そうじゃない。どれだけきつくても、起きて、学校に行かなければならなかった。気違い的な人はヘビメタ騒音のことを軽く考えるけど、軽いことじゃない。しかし、実際に経験してない人にしてみれば、どういうことなのかわからないのだろう。その人たちは想像でものをいうしかない。自分の騒音経験から、ものをいう。自分のつらい経験からものをいう。けど、ちがう。たとえば、その人たちが、つらい思いをして生活していたとして、それで!ヘビメタ騒音が鳴っていたらどうなのかということを考えて欲しいのだ。家に帰れば、とてつもなくデカイ騒音が午後一一時まで鳴っている状態……鳴っている毎日について考えて欲しい。仕事でつらい思いをしているとき、ヘビメタ騒音が鳴ってたらどうなのかということだ。自分だって仕事でつらい思いをしている」と言うけど、仕事でつらい思いをして帰ってきたとき、気違いヘビメタがガンガン鳴っていて、どれだけ「やめろ」と言っても、鳴らしている本人がやめないという状態で、一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、七時間と経過してしまう状態を考えてみたことがあるのか? 休みの日は、朝から鳴っているんだぞ。つらい思いをしてきたという人は、それプラス!!気違い騒音だったらどうなのかということを考えて欲しい。仕事でつらい……それだけでなく、家で騒音が鳴っている。騒音を鳴らされたあと、眠れない。ヨソの人は、その騒音のことについて言っても、『サボっている』『甘えている』と考える……そういう世界について考えてみろと言っているのだ。「それ!プラス』なんだよ。いじめられてつらい……。たしかにつらい。けど、それプラス、気違い家族が気違い的な意地で、気違い的な感覚で、気違い的にデカイ音で、気違い的に気にしないで、騒音を鳴らしていたらどうなのかということだ。生活がむちゃくちゃになってしまう。ぼくは、騒音のことだけを言っているようだけど、実際の生活は、『それプラス』ということになってしまう。『それプラス』なんだよ。どうしてかというと、気違いヘビメタ騒音が、さまざまなトラブルを呼び込むからだ。これも、『本人の感じ方次第』『自己責任』ということになるのたげど、ほんとうに、ヘビメタ騒音でつらいということが、ほかのトラブルを引き起こしてしまうのだ。これは、不可避的なことだ。基本的に、長時間騒音にさらされるというとは、注意欠如多動性障害の「ていをしめす」ことになってしまうのだ。注意欠如多動性障害者ではなくても、注注意欠如多動性障害者のような状態になってしまう。(おもに、注意欠如のほうで、多動はない)。トラブルの質がおなじなのである。だから、普通なら、家族で相談すれば、一日ぐらいで片付くのだけど、気違い兄貴が気違いだったので、また、大家である気違い親父が気かちがい親父だったので、片付かなかった。これは、ぼくのほうの、障害じゃないのである。ほんとうに頭にくる。世間のやつ、頭にくる。まるで俺がサボっているように言いやがる。まるで俺がコミニュケーション障害者であるかのようにいう。要するに、気違い兄貴や気違い親父に話が通じないのは、俺のせいなのである。『エイリさんがコミニュケーション障害者だから、うまくいうことができないのだ。だから、ダメなのだ。だから、問題を解決できなかったのだ』と佐藤氏のようなやつは解釈してしまう。家族で話し合えば、そんな問題は片付くはずだ』『お兄さんやお父さんのような人はいない』と考えているやつはそう考える。こういうところに、「はめこまれる」。これも、「はめこまれる」と言うと、『被害妄想』とか『被害者の立場でものを言うな』と言ってくるやつがいるけど、まさしく、「はめこまれる」。そして、『被害妄想』とか『被害者の立場でものを言うな』と言ってくるやつのほうが、あおり体質の性格が悪い人だと思う。佐藤氏みたいなやつは、別に性格が悪いわけではないけど、しかし、常識にしたがって、「そんなことはありえない」「そんなことはないはずだ」という判断を(よく考える前に)してしまうために、俺の言うことを、信用しないということになる。俺の言うことを信用しない立場で、空想的な理屈を押しつけてくる。キレイゴトを押しつけてくる。『そんなんじゃないから、こまっている』と言っているのに、認めない。佐藤氏にしても、仕事上でトラブルがあった日があるだろう。その日、帰ったらヘビメタが鳴っていたらどうなんだよ? 家族で縁が切れない人がヘビメタを鳴らしていたらどうなんだよ? まあ、成人していなくて、自分だけ引っ越すことができないという条件は、そういう設定では成り立たないけど。仕事はしているわけだから。家族、家族、家族。家族ということが問題なんだよ。気違い兄貴がヘビメタを鳴らし始めたとき、気違い兄貴も俺も未成年者だったということが問題なんだよ。まわりの家が離れていたというとが問題なんだよ。おかあさんがおとなしい性格で、あまり注意しなかったということが問題なんだよ。目の前がデカイ幼稚園だったということが問題なんだよ。気違い兄貴が俺のことを無視すれば、気違いヘビメタを気違い的にデカイ音で……常識外れのデカイ音で鳴らせる条件がそろっていた。気違い兄貴は、気違い親父のように自分勝手で、自分にとって都合が悪いことは、どれだけ明らかなことでも認めないという性格なんだよ。

「プラスだったらどうなんだよ」という話しだ。
「それが何千日も毎日続いたらどうなんだよ」という話しだ。

おれは、家族の長期騒音で社会的存在を消されている


むかしのアニメを見たくなって、『ノーゲーム・ノーライフ』を見たんだけど、ちょっとこたえた。たまたま選んで、見てみたのが第9話なのだ。これは、存在と記憶をかけたゲームだ。ゲームに負けたほうの存在が、すべての人の記憶から消えるというようなゲームなのだ。まあ、究極の目的は、相手の存在を消すということではないので、ゲームに負けたほうの存在が、すべての人の記憶から消えるというようなゲームと言い切ることはできないのだが『ようなゲーム』だとは言える。

で、ともかく、おれは、家族の長期騒音で社会的存在を消されている。ひびいた。存在をかけたゲームで負けている状態なんだよな。ゲームはまだ続行中なんだけどね。

2019年10月29日火曜日

「そういうことを引き寄せた」などと言われる時代になってしまったのだ


一日にできる量をいまの一〇〇分(ぶん)の一(いち)にしようかな。できる量というのは正確な言い方ではない。『できるつもりでいる量』が正確な言い方だ。いろいろとあって、『できるつもりでいる量』が減ってしまった。けど、まだ自分は『できるつもり』でいる。一日に、このくらいすすめるはずだという量を一〇〇分の一ぐらいにすると、ちょうどよいのではないかと思ったわけだ。一〇〇分の一にすれば、『今日は、もうすでにちゃんとやった日』なのである。
さっき、片付けをしたからな。けど、この片付けは中途半端な片付けで、使わないものの位置をかえたにすぎない。すてる決断をしたわけじゃない。しかも、自分が必要になって探そうとした場合、その場所を探すことができるかどうかわからない……というようなこころぼそい「おかたづけ」なのである。まあ、ほんとうにゴミであるゴミは捨てるためにゴミ袋に入れた。ゴミ袋と言えば、市のプラスチック用ゴミ袋を買ってこなければならない。お菓子の包装とか、ビニールゴミは、とりあえず、すてるつもりの大きなビニール袋に入れておいた。あとでいっしょにすてる。
実は、そういうことをしているあいだも長期騒音や長期騒音によって押し出された入学試験日のことを考えていたりするのである。他の人にはわからないだろうな。ほんとうにずっと毎日、家で一分も勉強することができなかった。そういう三年間、そういう六年間。どれだけの不満がつもっているか? これは、おかしい。どうして気違い家族にやられた俺が他の人から悪く言われるのか? ほんとうにくやしい。ここだから書いてしまうけど(アクセスのことを考えてないここだから書いてしまうけど)たとえば、こういうことを書くこと自体が、アウトになっている。これは、ひどい世の中だ。常識はずれで、感覚器をだますことができる人によって、ずっと騒音を聞かされてきた人が、それについて真実の報告をすると、アウトなのだ。普通の人は、感覚器をだまして迷惑行為をしてきた人間をせめずに、俺のことをせめてくる。こういう時代になった。たとえば、いちゃもんをつけて人をなぐったやつにはなにも言わないで、なぐられたやつに『自己責任』『自己責任』と説教をすることが正しいと思っているやつらがたくさんいる世の中だ。常識的な人が、掲示板でいう「あおり」行為を平気でやる時代になった。ナイフで刺した人間が悪く言われることはなくて、ナイフで刺された人間が「そういう人を引き寄せた」「そういうことを引き寄せた」などと言われる時代になってしまったのだ。これは、精神世界の荒廃なのである。実は! 『引き寄せ』とか言っている人は、精神世界に片足を突っ込んでいる人間なのだけど、そういう人たちが、『あおり行為を平気でやる』時代になった。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。