2022年7月6日水曜日

「努力をすれば、できるようになる」という言葉に隠されたトリック……「できなければ」努力をしたことにならない

 これ、むかし書いたんだけど、もう一度概要だけ書くよ。

「努力をすればできるようになる」ということについて書く。「努力をすれば」という部分と「できるようになる」という部分がある。「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということも、「努力をすれば、できるようになる」ということばの中にふくまれている。

この場合、「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということばと「努力をすれば、できるようになる」ということばは同義だ。例外はないということを意味している。

だれが、だれに、この言葉を言うのかが問題になる。ようするに、本人が、本人に対して、この言葉を言う場合は問題がない。しかし、だれかが、だれか他人に、この言葉を言う場合は、問題がしょうじる。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、会社の経営者だとする。Bさんは、その会社の従業員だとする。Bさんは、ある作業ができなかったとする。Aさんが「努力をすれば、できるようになる」と言ったとする。Bさんは、Bさんにできる最大限の努力したが、できなかったとする。この場合どうなるか?

もし、「努力をすれば、できるようになる」ということが正しい場合、Bさんは、努力をしなかったということになるのである。Aさんから見れば、Bさんができないいじょう、Bさんはじゅうぶんな努力をしなかったということになってしまうのである。

ようするに、「努力をしたのにもかかわらず、できない」ということは、最初から、Aさんの頭にはないわけだ。

「努力をすれば、かならず、できるようになる」のだから、「できない」のであれば、「努力をしなかった」ということになる。これは、Aさんのまちがいだ。

「できるようになるかどうか」は「努力をしたかどうか」とあるていど関係があるかもしれないけど、絶対的な関係ではない。

ようするに「努力をすれば、できるようになる」というのはまちがいで、「努力をすれば、できるようになる場合もある」し「努力をしても、できない場合」もあるのだ。

現実としては、努力をしてもできない場合がある。

しかし、AさんがBさんについて「努力をすればできるようになる」と言った場合は、Bさんが努力をしたにもかかわらずできない場合があるということを認めていない。最初から認めていない。

「じゅうぶんな努力」なのか「努力不足」なのかは、「できたかできないか」によって、かわるのである。

Bさんがちょっとだけ努力してできた場合でも、できたのであれば、じゅうぶんな努力をしたということになる。あるいは、Bさんが最初から努力をせずにできた場合でも、できたのなら「努力をした」ということになってしまう。

Bさんの主観とAさんの主観に、ちがいがある。そして、Aさんは、じつは、結果をもとにしてものごとを判断しているだけなのだ。「できれば」努力をしたことになるし、「できなければ」努力をしたことにならない。

これが、最初から決まっている。Bさんが、かりに、死にものぐるいの努力をしたとしよう。死にものぐるいの努力をしてもできなかったとしよう。この場合も、Aさんから見ればBさんは「努力をしなかった」ということになってしまうのだ。

だから、「努力をすれば、かならず、できるようになる」というのは、だれがだれに向かって言っている言葉かということが問題になる。かりに、

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

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用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。