2023年3月21日火曜日

「いえで・おこる・ふこうのりょう」

 「いえで・おこる・ふこうりょう」がちがうのに、「いえで・おこる・ふこうのりょう」という項目を無視してしまうのはおかしい。悪魔教の信者は、基本的に、生まれの格差を無視しようとするのである。もともと、項目としてふくめないというようなことをしたり、項目としてふくめても、たいした影響がないように見えるように工夫をする。悪魔教の信者にとっては、人々が「うまれのかくさ」に注目することは、さなければならないことなのである。なので、人々が「うまれのかくさ」に注目しないように、いろいろな洗脳をする。この洗脳は、きれいごとの洗脳だ。一見、正しく見えるのである。一見、道徳的に見えるのである。けど、まちがっている。うまれのかくさ」に人々が目をむけること対する攻撃というのは、たとえば、カルマ思考、プラグマティズム、認知療法、認知行動療法、行動心理学、アドラー主義心理学といったものにも、ふくまれている。「努力論」にもふくまれている。「根性論」にもふくまれている。「自己責任論」にもふくまれている。「おたがいさま教」のなかにもふくまれている。「すべてに感謝教」のなかにもふくまれている。「すべては受け止め方教」にもふくまれている。言霊思考のなかにもふくまれている。「思いは現実化する」という意味での「思霊教(おもだまきょう)」のなかにもふくまれている。「思霊教(おもだまきょう)」は、ぼくの造語だ。「引き寄せ教」のなかにもふくまれている。「ツキツキ教」のなかにもふくまれている。「ツキツキ教」は、ぼくの造語で「ツキを呼び込む方法」「運をつける方法」といったことにこだわる疑似宗教だ。しかし、その人たちが「ツキ」と呼ぶものや「運」と呼ぶものは、生まれの格差でだいたい決まってしまう。欠乏しているものが、これらの宗教的な解決方法にたよろうとする。どうして、たよろうとするのかというと、「かけている」からだ。ツキがないから、ツキにこだわる。運がないから運にこだわる。じゃあ、ツキとか運とか言っているものの正体はなんなのかというと、めぐまれた家に生まれた人は、ツキがあり、運があるということになる。現実、そうなっている。めぐまれない家に生まれた人は、運がないということになる。現実、そうなっている。けっきょく、生まれの環境の問題を言っているのだ。本人もつもりがないまま、悪魔教徒になっている人は、生まれの格差を無視する傾向がある。無視して、上記の「きれいごと」を言う。しかし、上記の「きれいごと」はむしろ、現実の写し絵なのである。生まれの格差から派生した身分が、現実社会において固定的であることの写し絵なのである。生まれの格差・下の人と生まれの格差・中の人たちは、生まれの格差・上(うまれつきめぐまれた人たち)が供給する「現実的ではない方法」で、本当の原因から、目をそらそうとしている。「現実的ではない方法」を供給する人たちは、そういう「現実的ではない方法」で、人々の目をそらさせようとしている。主張する人たちにそういうつもりがなくても、目をそらさせる効果がある。ひとやくかっている。ほんとうは、相当の部分が、生まれの格差(親)の上・中・下、とか、生まれの格差(カネ)の上・中・下で決まってしまう。だから、決まったあとの勝負なのに、あたかも、それらの方法で挽回が可能だというような「雰囲気」を売っているのである。けど、そういう方法を供給しているほうは、生まれの格差・上なのである。そして、そういう方法を受けとっているほうは、生まれの格差・中と生まれの格差・下なのである。そういう構造が成り立っている。だから、本来の原因をかくそうとする試みなのである。まあ、これ、個人事業主(セミナー講師)の場合は、生まれの格差・中なんだけど、これは、商売として成り立つからそうしているだけだ。ほかに肩書がなくて、そういうことを売っている人たち(セミナー講師)をのぞけば)……情報源は生まれの格差・上の人たちからもたらされるものなのである。

「ほーんと、なんだったんだ」

「ほーんと、なんだったんだ」と思うんだよな。きちがい兄貴の騒音で人生がない。ほかの人から、悪く言われる。きちがいヘビメタ騒音障害というのは、そういう障害だ。 

2023年3月20日月曜日

実際に聞かされたわけじゃないから。

 手短に言うと、長すぎるんだよ。繰り返し回数が多すぎる。だれに言っても、わからない。きちがい家族がいない人にはわからない。毎日毎日、おんなじ音を聞かされる。長時間、聞かされる。どれだけさけたくても、うちにいれば、聞かされる。

俺の部屋にいたら、特にでかい音で聞かされる。

からだがもたない。

けど、やられてない人は、それがわからない。だから、俺がなにを言ってもつたわらない。だって、たとえば、「だるい」「つかれた」「憂鬱だ」「しんどい」と言ったって、それが、そのまま、つたわるわけじゃない。

きちがいヘビメタの「だるさ」「つかれ」「憂鬱」「しんどさ」というのが、まったくつたわらない。どうしてかというと、その人は、きちがいヘビメタを毎日、何時間も何時間も、聞かされたわけじゃないから。実際に聞かされたわけじゃないから。

たとえば、「つらい」と言っても、ほかの人が感じる「つらさ」とは、ちがうんだよ。何千日も繰り返されているわけだから……。ほんとうに、きちがいのやりかたがひどすぎる。ほかの人のうちでは、あんな音で鳴ってない。

ぼくが「朝、つらい」と言っても、佐藤(仮名)は佐藤が考える「朝のつらさ」しか、考えることができないんだよ。それだったら『俺だって、朝はつらい』と言うだろう。そしてそのあとに、「でも、がんばって通っている」と言うだろう。

そして、正しいことを言ったと思うだろう。

けど、佐藤には、きちがいヘビメタがない。

きちがいヘビメタの朝がない。

あの連続がどういうことなのか、ぜんぜんわかってない。俺は、がんばったから、だめになっているんだよ。俺は、がんばったから、こわれちゃったんだよ。

もっとも、がんばらずに、学校を休んでいたとしても、きちがい兄貴が、鳴らすきちがいヘビメタの「量」というのはかわらないから、学校を休んでいたとしても、おなじようにこわれた。じゃあ、「俺だから、こわれるのか?」というとそうではない。

俺にとっては、ヘビメタなんだけど、その人が一番嫌いな音を、横の部屋にいるきちがい的な家族がずっとずっと、何時間も、十何時間も、あの音のでかさで鳴らしていたら、こわれるんだよ。それも、実際には鳴らされてないからわからない。生活なんだよ。生活。これがわかってない。「鳴っているとき」だけつらいと思っているんだよな。

「鳴り終わったら、眠れる」と思っているんだよな。生活時間のほとんどをヘビメタにとられてしまうわけだけど、「勉強とは関係がない」と思ってしまうんだよな。実際に鳴らされてないから、「あの騒音のなかで勉強することはできない」ということが体験的にわかってない。

そうなると、ヘビメタが鳴ってない時間に、勉強すればいいということを考える。そういう時間があると思っている。

けど、きちがいヘビメタ騒音で、崩壊している時間に、勉強ができるわけがない。たとえば、ヘビメタ騒音を何時間もあびて、眠れなくなっている時間、勉強ができるのかというとできない。

これも、実際に、生活してみないとわからないかな? きちがいヘビメタをあびて、頭のなかが、ぐちゃぐちゃで死にそうな状態になっている。ものすごく、つかれている。へんなつかれかたなのだけど、もう、死んでしまいたくなるぐらいにつかれている。

くるしいのである。眠れない時間、ただ眠れないだけで、くるしくないと思っているのか? 普通の状態だと思っているのか?

普通の人が感じる「眠れない状態」だと思っているのか?

ちがうね。ちがう。けど、どれだけちがうと言っても、ほかの人にはわからない。

2023年3月19日日曜日

「うち」でやっているかぎり、殺されないとやめることができない……『うちでなら』やってもいい

「たいして、でかい音で鳴らしてない」と思ってしまっていて、その思い込みが、強すぎるのである。こんなの、精神障害者の妄想にひとしい。どれだけ言っても、わからない。どれだけ言っても、まったくつたわらない。

信念のように、「たいして、でかい音で鳴らしてない」と思っている。けど、きちがい兄貴の音は、きちがい兄貴ですら、うち以外のところでは、鳴らせないほどでかい音だ。実際、きちがい兄貴が、いま住んでいるマンションでは、鳴らしてない。

鳴らせないのだ。

「マンションで鳴らすには、でかすぎる」ということを知っているからだ。けど、『きちがい親父がつくった家』なら鳴らしていいのである。『きちがい親父が自分にしたことを考えるなら、鳴らしていいのである』。きちがい親父が当たり前にやってきたこと……それは、きちがい兄貴が、『うちでなら』やってもいいと思うことだ。

そして、これが、無意識的な信念になっている。基本きちがい兄貴は、きちがい親父と頭の構造が同じなので……こういうことに関係する頭の構造が同じなので、そういう考えがなくても、そうする。自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる。

この「自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる」ということも、きちがい親父がずっとずっと毎日毎日、毎時間、毎分毎秒、やってきたことなのである。どうしてかというと、そういう脳みそ以外の脳みそがないからだ。そういう頭を搭載して、生きている。

だから、呼吸をするように、そうするし、そうすることにかんして、まったく、問題だと思わない。「自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる」し、「そうしてもまったく問題がない」と思っている。

そういう状態で、暮らしている。生きている。

生きていないときがないから、生きているあいだはそうする。

けど、「よそ」でそれをやると、反発をくらって、自分が窮地に陥るのである。それがわかっているからやらない。けど、「うち」でなら、押し切っても、自分が窮地に陥ることがないので、やるのである。そういう、気持ちがある。根底にある。無意識的にある。問題なのは、そういうふうに意識しているわけではないということだ。

「よそ」でやると、問題になるからできないけど「うち」でやるなら、問題はない……とはっきり意識してそうしているわけではないのだ。問題なのは、まったく意識してないということだ。まったく意識してないけど、本人はその通りに動ている。

そして、その通りに動いしているということについて、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、まったく自覚がいない。認識がない。主体? ここでは、親父と兄貴だね。主語? ここでは、親父と兄貴だね。

親父も兄貴も、おなじような? 頭をもっていて、おなじような無意識的な信念にしたがって、そうするのである。そして、「自分がそうしている」ということは、認めないのである。頑固に無視している。「やったってやってないこと」のうちのひとつだ。これは、認めないということを認めないということだ。やっていることを認めないということではない。

けど、「認めないということを認めない」ということと「やったってやってない」という認知が、同時に成り立っているのだ。これは、別の層の話だ。層は、ちがう。けど、同時に成り立っている。

で、ともかく、別の回路になってしまうのである。「よそ」ではやってはいけないということが、ごく自然にわかることでも、「うち」でなら、やっていいということになってしまうし、「うち」でなら、やっていいということになっているということが、どこまでもどこまでも、疎外されているのである。本人にとって疎外されているのである。

ようするに、自分のことであっても、自分のことではないのである。

そういうことが、ごくごく、自然に成り立って、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らして、わけのわからない? 構造によって……そのことを……ごくごく自然に無視してしまう。

これは、本人にとってだけ、都合がいいことなのである。

問題行為を、絶対にやりたい……問題行為をやろう……問題行為をやっているさいちゅうに、だれがなにを言っても、きかないでやり続けよう……けど、そうしていることは、意識にのぼらせないようにしよう……。

こういう状態で、頑固に頑固にやり続けるのである。

こんなの、「うち」でやっているかぎり、殺されないとやめることができないということになる。相手がどれだけ「やめてくれ」と言ってきても、やめてやる必要性がないのだからそうなる。「やったっていいことをやっている」という感覚で、やりきるけど、本人のなかでは、同時に「やってない」ということになっているのだから、まったく反省ができないのである。

だれかが……「うち」のだれかが……やめてくれと言ったって、そんなのは、きかなくていいのである。きくかどうかは、自分で判断していいことになっているのである。これも、ちょっと、アドラーの「相手がどれだけがみがみ言ってきても気にしなくていい」「相手の言い分が正しいかどうか自分で判断できるし、判断はまちがってない」というのと似ているんだよね。

「相手の言い分が正しいかどうか自分で判断できるし、判断はまちがってない」という前提が、これまた、見えない前提として成り立っている。言語化されることもあるけど、つけたしで、言語化されるだけだ。「自分でよく考えればよい」のである。

「自分でよく考えても、問題行為だとは思わないやつが、問題行為をしている場合」は、事前に除外されているのである。この、アドラーというやつは、ほんとうに単純なやつだ。


2023年3月18日土曜日

経験がないから、どういうことが発生するのか、わからない

 きちがい兄貴が「あたりまえのように」ヘビメタを鳴らすのだけど、それがつらかった。どれだけ「つらかった」と言っても、ほかの人には「つらさ」がつたわらないと思う。けど、つらかった。そして、鳴り終われば、解放されるのかと言うと、そうではないのだ。やられてない人は……実際に、ぼくと同じ生活をしてない人は……そこのところが、わからない。鳴り終わったら、解放されて、影響をうけない状態で暮らせるのではないかと、考えてしまうのである。それは、まちがいだ。しかし、これにかんしても、「まちがいだ」とぼくが言っても、実際に経験してない人は、なんのことだかわからない。どういうふうにまちがっているのかわからない。経験的にわからないから、どれだけの範囲に、影響がおよぶのかさっぱり、想像もつかないという状態になる。あるいは、そういう状態にとどまり続ける。だから、そういうことを前提にして「ものをいう」。その場合、前提となっているものが、明言されるかと言うとそうではないのだ。ぼくが「ヘビメタ騒音で通勤できなくなった」と言ったとき、「それでも人間は働くべきだ」とか「鳴り終わったなら関係がない」とか「ちょっとずつ体をならしていけば、働けるようになる」とかということを言う人たちがいた。その人たちの前提は、いま話したように、『影響をうけないことが可能だ』というような前提がある。けど、この前提がまちがっているのだ。けど、「その前提はまちがっている」とぼくが言ったとしても、「ヘビメタ騒音で通勤できなくなった」と言ったとき、「それでも人間働くべきだ」とか「鳴り終わったなら関係がない」とかと言った人は認めない。認めないのだ。経験がないから、どういうことが発生するのか、わからない。言われてもわからない。

2023年3月14日火曜日

ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい

 ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい。

ヘビメタ騒音がなかった場合の人生を歩みたい。ぜんぜんちがうと思う。ぜーーんぜん、ちがうと思う。ぜんぜんちがう人生だと思う。きちがいヘビメタ騒音がなかったら、わかったようなことを言われなくてもすんだ。

きちがい親父のもとに生まれたとしても、せめて、ヘビメタ騒音が発生しなかったら……。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかったら……。全部、仮定の話だ。架空の話だ。

普通の人は、そんなことを考えなくてもいい。普通の親のもとに生まれたからだ。

きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、ものすごくでかい音で騒音を鳴らすということがなかったからだ。騒音を鳴らしたにしても、最長で六か月ぐらいでやめてくれるようなちょっと頑固な人だったらなぁ六か月で、終わればどうにかなったと思う。

けど、六か月間でも、通の人が想像する六か月のヘビメタ騒音と、実際に鳴っていたヘビメタ騒音はちがうと思う。六か月間一倍速で経験するということがなかった人が考えるヘビメタ騒音と、六か月間、一倍速で経験した人が考えるヘビメタ騒音はちがうと思う。

実際に、やられた人と、「話で聞いた人」はぜんぜんちがう。実際にやられなければ、どれだけ想像しても、わからないことが、いっぱいある。

どれだけ説明を聞いても、わからないことが、いっぱいある。

ほんとう、ちがうんだよな。

どれだけ、広範な範囲にわたって、影響をうけるか、一倍速で、実際に経験しないとわからない。わからないと、「エイリさんは働けるのに、働かない」という前提でものを言ってくるようになる。前提を実際に、言葉にして言うやつは、まだましだ。

言葉にして言わないやつだって、前提として、それがあると、いろいろとゆがんだ判断をすることになる。それ、ゆがんでいるから……。

まあ、ゆがんでいると言われてもわからないだろうな。「どこがゆがんでいるんだ? 言ってみろ」と怒って言うかもしれない。「見えない前提」にこちらから言及するというのは、けっこうやっかいなことだ。

けど、ゆがんでいる。まちがっている。どれだけいろいろなところで影響をうけるか?

どれだけいろいろなところでばかにされるか?

どれだけ、見当はずれなことを言われるか?

見当はずれなことを言われるようになるか?

これ、立場なんだよ。誤解をうけやすい立場というのがある。

たとえば、無職とか、引きこもりとか……。どんだけ……。みんな、おなじぶんだけやられれば、睡眠障害や生活体力障害で、働けなくなるのに……。そして、睡眠障害や生活体力障害で、むかしからの人間関係が切れると、まあ、引きこもりの定義にあてはまる状態になってしまうのに……。

「からだをならせばいい」と言ったって、それは、七年間、ヘビメタ騒音生活をしなかった人間の話だ。言っていることだ。

ほんとうに、ぜんぜんちがう。

思っているのと、経験するのではぜんぜんちがう。

七年間、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている状態で、学校に通ったから、だめになっているんだぞ。がんばったから、だめになっている。これが、まったくわからないのである。どれだけ、ぎりぎりの生活を、やってきたか、まるでわかってない。こういうことを……。ヘビメタ騒音を鳴らしていたときの、きちがい兄貴のすがたがうかぶ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っても、きちがい的な形相で鳴らしていたきちがい兄貴の、すがたがうかぶ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っていたのは、俺な。こういうのも、書かないと、わからない人がいるんだよな。いちゃもんをつけてくる。

きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、相手がどれだけこまっているか、わからないのだ。これは、脳みその機能障害だ。頭がおかしいから、わからない。普通の人が、絶対にわかることがわからない。普通の人ばあい、わからないふりをするけど、わかっている。

きちがい兄貴ときちがい親父の場合は、わからないふりをしているわけではなくて、ほんとうにわからない。何千回、何万回言ったってわからないよ。何千回、何万回、ぶつかったって、わからないよ。わからないまんま、ほんにんはまったく「つもりがないまま」やり続ける。

こういう、ギャグみたいな話。

こういうきちがい空間。きちがい空間では、すへでのきれいごとが成り立ちませーーん。なので、きれいごとが成り立っていると思って、そういう基準で、ガタガタ言うのをやめてくれないかなぁ。はっきり言って、腹がたつ。

で、これまた、そういうきれいごとを言う人たちに、どれだけ、こっちの状態をはなしても、わからないままなんだよな。まあ、その人たちがわからないのは、経験がないからで、きちがい兄貴やきちがい親父がわからないのとは、ぜんぜんちがう。ちがうんだけど、誤解をしている。前提がちがう話をしているんだよ。

宗教の人「人間はだれだっておたがいさま」

俺「おたがいさまじゃないときだってあるよ。二者関係について語るときは、抽象的な人間という概念を出さないほうがいい。具体的なある人と、具体的なある人の関係だ。いれかえが可能なわけではない。けど、「人間」と言ってしまうと、あたかも、いれかえが可能な関係であるような印象をあたえるのである。AさんがBさんにやったことは、ほかの人が、べつのだれかにやったことではないんだよ。おたがいさまじゃないことがあるんだよ。おたがいさまじゃないことをすることがあるんだよ。個別具体的な人間が、個別具体的な人間に対してやることがある。じゃあ、それは、人間が人間にやることなのだから、人間が人間にやることだと抽象化していいのか? よくない。よくないよ。よくない」

防衛として、いろいろと気にしていた みんな、ほんとうにわかってない。

どうしても、白側の情報がほしくて、Twitterを見てしまうけど、白側のアートや黒側のアートがよくない。白側の人も、黒側のあれやこれやを紹介しているので、どうしても、目に入ってしまう。アートじゃなくても、たとえば、黒側エリートの顔を見ると、いやな感じになる。顔写真とかよくのっているでしょ。もう、全部がいやなんだよな。

あと、どうしても、ネズミのことを思い出してしまう。カサカサカサという音を思い出してしまう。これ、親父がやったことなんだけど、いつものように、俺が、親父のしりぬぐいをしなければならなくなった。

俺だって、ほんとうは、いやだ。

けど、生きるために、ネズミシートで捕まえて、袋に入れなければならなかった。けど、こんなにいやな思いをするのなら、やっぱり、空気穴をあけてやればよかった。

けど、空気穴をあけたらあたけたで、たとえば、ウジがわいたり、カラスがつついたりするかもしれない。そうなったら、やっかいだ。

袋に入れて(僕が病気にならなかったからいいけど)(ネズミのからだについていた病原体で)病気になってしまったら、やばい。

袋に入れないと、寄生虫だって吸い込んでしまうかもしれないだろ。袋を動かしたとき……。どのみち、袋を、市の袋に入れなければならないのだから。

なら、その時点で市の袋に入れればよいのではないかと思うかもしれないけど、だめなのだ。空気穴をあけて、市の袋に入れると、けっきょく外に出すことになるからおなじなのだ。市の袋には、なんかほかのものも入れないと、もって行ってくれない可能性がある。

じつは、胸がくるしいというのがある。これは、食べ物のせいじゃないかと思うのだけど、腹と胸がくるしかった。だから、横になっていてもくるしいのである。

俺は、ほんとうに、やりたくなかったんだ。

だから、「ネズミ対策工事をしよう」と言ったのに、「俺がつかまえるからいい」と言われた。これ、意味がないんだよね。けど、そっちの方向でスイッチが入ってしまうと、だめなんだよ。これ、頭がおかしいから、なにを言ってもきかない。親父も兄貴もおなじなんだよな。

 

で、さっき、台所に置いてあったので、殺虫剤がかかったかもしれない、鍋と、やかんふたつを、洗った。殺虫剤をおとすために、わざわざ、スポンジたわしで洗ったのだ。それで、袖がぬれたから、いま、洗濯をしているのだけど……。

けど、洗っても、ぼくは気になるのだ。けっきょく、軍手をしていると思うけど、作業員がつかんで、それらを入れるところ(もしくは、つむところ)に入れて、もっていくわけだから。

まあ、ぼくは素手でいじったわけだけど、殺虫剤がついていると知っているからね……。知っているから、終わったあと、念入りに手を洗うわけだし、箸やスプーンをもつときも、気をつかう。ともかく、やっかいなんだよ。気になるんだよ。

これも、もともとは、きちがい親父がきちがい的な理由……ささいな理由でもないことで、怒り狂っていたからなんだけどね……。これ、理由と、怒りの度合いが、つりあってない。ほんとう、きちがい。あんなの、何年もおさないときにやられて、気にならないわけないだろ。防衛として、いろいろと気にしていた。怒りくるをれないように、幼児の俺は、気にしていたのである。

理由が「きちがい」なんだよ。

理由が、きちがい的。

理由が、きちがいしか思いつかないこと。

気ちがいではない人は絶対にそんなことでは怒らないというようなことで、逆上してむかってくる。これが、幼児だろうがなんだろうが、全力なんだよ。発狂なんだよ。幼児だろうがというよりも、「幼児だから」なんだけどな。それも、きちがいなんだよ。全部、きちがい。きちがいが荒れ狂っている食卓だったなぁ。

*     *     *

もう、親父が年老いたときの話だけど、これで、俺が「やらなくていい」「やらなくていい」「やらなくていい」と親父に対して、絶叫して怒っていると、となりの人なんかが、俺が親父を虐待しているように誤解してしまうんだよな。やらなくてもいいと言っているのは、俺の自転車の修理だったり、電子レンジに金属のスプーンを入れることだったりするのだ。

じつは、うちは、ふるいからペンダントライトなどをつるすところのフック部分(引き掛けシーリング)が、超古いものなんだよ。古すぎて、規格があってない。うちの場合は、この部分をいじるとなると、電気工事士の資格をもっている人をよぶしかないのである。

で、ともかく、一階のトイレの前の電球が……まあ、ペンダントライトと言えないものなのだけど、ペンダントライトだった。これも、門のところにゴルフボールがついているのとおなじ、普通の家だったら絶対ありえない、へんなかさがついている。

もともと、ちがうかさを、荷物用ロープで、かさとしてつけたような感じだ。で、それをやったは、だいぶ前の親父なんだけど……。ようするに、もともとのかさがついているやつがこわれて?どっかに言ってしまって、かりそめのかさをつけたものだ。

で、電球までのコードが、普通のコードではなくて、布の被覆コードなんだよ。これは、昭和三〇年代の電球までの「つるし」コードで、今時こんなものをつかっている人はいないと思えるようなコードなのだ。で、それが、ぼろっぼろになって、銅線が見えているような状態になっていたので、親父が、かえようとしたのだけど、そのコードとおなじようなレベルのぼろっぼろの布被覆コードをつかおうとしていたの!

ぼろっぼろの布被覆コードは、繊維がささくれだっていて、糸のようになっている部分があるから、火がつきやすい状態だった。だから、火がつきやすい布被覆コードと、被がつきやすい布被覆コードをかえても、発火しやすい状態がかわらないわけ。

で、素人工事で、発火するといやだから、「それは、(親父が)かえなくていい」と俺が言ったのだけど、一度スイッチが入ってしまうと、きかないんだよ。

だから、「ぼろっぼろのコードをぼろっぼろのコードにかえてもおなじだろ」「知らないうちに火がついたらどうするんだ」「かえなくていい」「かえなくていい」と俺が何回もどなったわけ。あぶないから、どなっているんだぞ。

で、その回は、二〇回ぐらい、どなったら、親父がちょっとだけおれて、「それなら、このコードを使うからいいだろ」と言って、普通のビニール系のコードにかえたんだよ。ほんとうは、それだって、どこかの電源コードを切って、とっておいて、流用しているだけだから、あぶないと言えば、あぶない。けど、糸が複数本出ているようなコードよりはましだから、それで、こっちもおれた。けっきょく、親父が、ビニール系のコードにかえた。けど、親父は、電気工事士の資格をもってないから、ほんとうは、違法行為なんだよ。親父が悪いことをしているの!! で、じゃあ、少しは(おやじさんもおれる)のだなということになるのかもしれないけど、それは、親父が高齢者になったから。こっちのからだが大きくなったから。こっちのからだが小さい、幼児のとき、どれだけ、でかい声でさわいで「やめてくれ」と言っても、やめなかった。きちがい親父が押し切った。だから、そういうのが、基本的に言って、トラウマになっている。「すんでない」のだよ。あのきちがい空間は、ない。きちがいが、押し切り勝ちをする。そして、押し切り勝ちをしたにもかかわらず、きちがいは、押し切り勝ちをしたと思っていない状態なのである。それこそ、「やったってやっない」であり、超・無責任な状態が成り立っている。これは、じつは、きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音にも成り立っている。きちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことなのである。きちがい兄貴も、きちがい親父もおなじなの。

ペンダントライトのフックと電線工事に関して言うと、けっきょく、ビニール系の古いコードを使ってつるしてあるわけ。けど、これも、ほんとうは、やっちゃいけないことだからな。「火事になるとこまるからやめろ」と言っているのに「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」とどなって、ゆずらない。けっきょく、その回は、こっちも、もう、大人なので? きちがい親父が、布被覆コードを使うのをあきらめて、ビニール系の被覆コードを使ったわけだけど、それだって、ふるいやつなんだよね。ともかく、俺が「やめてくれと言っているだろ」と「やめろと言っているだろ」とどなりまくって、きちがい親父が「おれがやるからいい」「おれがやるからいい」とどなりまくっている状態が続いた。こっちが「やらなくていい」と言っていることは、なぜか、スイッチが入ってやってしまうことが多いんだよな。ともかく、俺だって、どなりたくないのだ。どなりたくない。近所に聞こえるような状態で、どなりたくない。……えーっと、これは、ビニール系の古いコートが、物置に入っていたので、親父が物置に行ってコードをとってきて、縁台で、コードの修理をしようとしたので、「やらなくていい」「おれがやるからいい」の繰り返しを、外でやったわけ。親父が認知症の高齢者だから、まるで、俺が、親父をいじめているように解釈する人がでてくる。「(認知症でそうなっているのに)そんなふうに何度も、どなることはない」などと思ってしまうのだ。事情を知らない人なら、「親に向かって、あんふうに(何回も)どなってなんだ」などと思ってしまうのだ。となりのじじいがそういうふうに思っていたのである。となりと言ってもいろいろとあるのだけど、このとなりの人は、きちがい兄貴がうるさくしていたころのことを知らない人なんだよな。ともかく、認知症でそうなっているわけではないわけ。幼児のときは、きちがい親父のほうがからだがでかいので、きちがい親父がすこしもおれずに、やりきり勝ちをするし、やったと思むてない状態なんだよね。よく、ぼくが、ハンダゴテ事件のことを説明するけど、あれもおなじしくみなんだよ。あれ、親父としては「やってやったこと」なんだよ。けど、不都合なことは、絶対の意地で認めないし、絶対の意地で認めなかったということを認めないんだよ。これ、わからないと思うけど、……普通の人にわかるわけがない。ともかく、相手が自分好意でこまったということは、最初から最後までわかってない状態が続く。だから、「これこれでこまったんだぞ」と言われると「やってないやってない」の逆上になるわけ。

けど、そういうふうにしても、今度は、また、「そういうふうに」否定して怒ったということが、記憶にない状態になるわけ。で、このしくみが、兄貴のヘビメタ騒音にも成り立っている。ハンダゴテは、親父が兄貴にやったことだ。で、ヘビメタ騒音事件は、兄貴が俺にやったことだ。で、兄貴と親父の、こういうところの態度がまったくおなじなのだ。自分の行為でこまっているということが、わかってないというのがまったくおなじだし、その他も、まったくおなじ。普通の人は、このきちがい的な頭の構造がわかってないから、俺が言えないだけなんだと思ってしまうんだよな。「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「そんなのは、お父さんに言えばいい」……こういうことをどれだけ言われたか……。普通の人はこういう頭がおかしい家族のことはまったくわからない。これがまた……。わからないんだよ。普通の人のきれいごとが成り立っていたら、こまってないの……。けど、きれいごとを前提にして、思いついた解決案(アイディア)を言ってくるわけ……。普通の人が俺に……。普通の人には絶対に、きちがい親父やきちがい兄貴の頭の構造がわからない。あいつらだってわかっているわけじゃないからな。わかってやっているわけじゃないから、強烈なのである。みんな、ほんとうにわかってない。

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ああっ、それから、「にんげんはみんなおたがいさま」と言っているやつが、きちがい的な家族にやられたやつの気持ちを、どれだけ逆なでしているか、そういうことを言っている人は、わからないだろう。わかるわけがない。

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ヘビメタ騒音もほんとうに、切羽詰まった状態が、一日に何時間も何時間も続いて、きつかったな。それで眠れなくなっても、俺が悪く言われる。俺が甘えているように言われる。あんなの、みんな……ほんとうに全員……自分の嫌いな音をあのレベルのでかさで、一日にに何時間も何時間も聞かされたら、眠れなくなる。眠れなくなる。睡眠不足がどれだけ、きついかわかってない。自分が勝手に、夜中のラジオを聴くために起きているのとはちがうよ。これも、おなじことだと思っているかもしれないけど、きちがいヘビメタで、眠れなくなるのと、自分の意思で起きているのはちがう。よなかに起きていて、睡眠不足ということはおなじかもしれないけどそれがちがう。その場合、自分がやりたくてやっている場合は、「やっぱり睡眠不足だとだめだから、やらず眠ろう」と思えばそれで、終了だけど、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の基準でやり続けるわけだから、眠れない状態がずっと続いてしまうのである。ほんとうに、人をさぼり魔みたいに言いやがって……。

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あと、それから、関連事項で言うと……どれだけ人がガミガミ言っても、気にする必要がないと言っている人は、一方的なものの味方しかできない人なのである。自分がガミガミ、言われたときにそうすることがいいことだと思っている人が、自分がガミガミ言っても相手が自分の言うことを聞かない場合は、その相手のことをどう思うか? ということが、問題だ。 AさんとBさんがいたとする。Aさんが上司で、Bさんが(Aさんの)部下だとする。Bさんが何回も遅刻をしたとする。Aさんが何回も怒って、注意したとする。けど、Bさんはまったく聞かずに、何回も遅刻をしたとする。Aさんがアドラー主義者だった場合、Bさんのことをどう思うか? どれだけ、ガミガミ注意されても、気にしないすばらしい人だと思うかどうかだ。さらに、Bさんが職務怠慢で、どれだけ注意してもなにもあらためないとしたら、上司のAさんは、どう思うか? どれだけなにを言われても、気にしないいい人だと思うかどうか? だ。アドラー主義者は「それとこれとはちがう」と言い出すかもしれないけど、おなじなんだよ。アドラー主義者は、自分がガミガミどなられているときと、自分がガミガミどなるときの、基準がちがうんだよ。立場がちがうから、気持ちがちがう。ほんとうは、問題を引き起こす態度だ。相手??がガミガミ言ったことを無視する場合でも、相手に自分の価値観に基づいて、がみがみと注意をする場合でも、ほんとうは、「がみがみ言われても気にすることはない」ということが、正しいことでなければならないのである。「自分が考えて、相手がっていることが正しいなら、きけばいいし、正しくないと思うならきかなくてもいい」というようことを、アドラー主義者は言うかもしれないけど、それは、それこそ、逃げているだけだ。価値観の相対化ができてないだけだ。その都度、自分の基準が自分にとって正しいなら、ほんとうは問題をひき起こしている。上下関係という関係性のなかで「あぐらをかいているだけ」だ。これ、じつは、上下関係と、ピラミッド組織の問題がある。これは、悪魔が支配している社会の特徴だ。で、アドラーの考え方というのは、この社会に合致しているのである。アドラー主義者の考えたというのは、社会の圧力を強くするだけだ。

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手短に言うと、ボロボロのコードを気にしない傾向と、ネズミの糞が畳の上におちていても気にしない傾向はおなじだ。傾向というよりも、どれだけ、言っても完全に無視なのである。言われたって、言われてない状態なのである。何万回言われても、一回も言われたことがない状態にとどまるのである。

で、これは、親父のことだけど、きちがい兄貴もおなじなんだよ。きちがい兄貴もおなじ。そりゃ、きちがい兄貴だって、ネズミの糞は気にすると思うけど、自分のヘビメタに関しては一切合切気にしないんだよ。また、親父のことにもどるけど、たとえば、ネズミが入ってきたことによって、ダニが発生して、からだがかゆくなったとするだろ。で、俺が「ダニでからだがかゆくなった」と親父に言ったとするだろ。そうすると、きちがい親父は「かゆくない。かゆくない」と本気で言うわけ。だから、そういうレベルで話が通じないの!!!

きちがい親父のことから、きちがい兄貴のことにもどるけど、きちがい兄貴も、そういうレベルで、ほんとうに、騒音を無視している。自分が鳴らしている騒音を無視している。そうなると、自分が鳴らしている騒音で、おとうとがこまっているということも、ごく自然に、無視することになる。だから、きちがい的な意地で、四六時中(しろくじちゅう)、自分が満足できる音でヘビメタを鳴らすわけだけど、鳴らしているあいだ、「おとうとに迷惑をかけているつもり」はないのだ。それは、おとうとが言わないから、わからないのではなくて、何百回、何千回、何万回言われてい、わからない。一回も言われてない状態で、鳴らし続ける。自分が鳴らしたい音で鳴らすということに、「こだわり」があるから、これも、ゆずらないのである。なら、「こだわりがあるから、絶対にゆずらないで鳴らしている」という気持があるかというと、そんなのはまったくないという状態で鳴らしている。だから、どこまで行っても話があわない。けど、あわない状態で暮らしていると、こっちが、くるしむだけで、あっちは、好き勝手にやれて、快適な状態なのである。そりゃ、自分が満足できるでかい音で鳴らしたいのに、常識がじゃまして、鳴らせないという状態よりも、常識が邪魔しないで、鳴らせる状態のほうが「本人だけは」気持ちがいいのである。……これだって、ポジティブなことを考えてポジティブに行動しているということになってしまう。「気にしない」ということが、すぐれているということなのであれば、まさに、きちがい兄貴は、「気にしない」という意味ですぐれしているのである。「どれだけ相手が、ガミガミ言ってきても、一切合切気にしないで、自分が思ったことをできる」……。「どれだけ言われても気にしない」……気にしないという能力が高い……。能力が高い分だけすぐれている……。こういうことになってしまう。「自分で考えて、気にするべきではないと思うなら、気にしなくていい」「相手の言い分があっていると思えば、気にしてやめてあげればいい」……きちがいがきちがいの基準でそう判断したら、きちがいのなかでは、そうなんだよ。「よく考えたこと」になってしまうんだよ。おやじみたいな気ちがいだって、兄貴みたいな気ちがいだって、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と思うことは可能だ。しょせん、そういう判断をするのが「自我」なのだから、「自我」を基準にして考えた場合、そういうことを言ってもむだだ。そういうことというのは「気にするべきことなのか、気にしなくてもいいことなのか、自分で判断すればいい」ということだ。そういうところで、アドラー主義者は、自我を相対化できてないからダメなのである。「だれのあたま」でそう考えるのかということを問題にしてない。個人の基準が成り立っているんだぞ。個人が(この世を)認知・認識しているんだぞ。個人の頭は、個人の頭なんだぞ。「なんか、統一的な基準があるようなこと」を言うな。「統一的な基準があるから、だいじょうぶだ」というようなことを言うな。「だれの頭にも、統一的な基準が成り立っている」と思うな。そういうことを、前提にしてものを言うな。そして、前提にしてものを言っているということについて、もうちょっと、深く認識しろ。これも、「見えない前提」で、本人は特に意識してないのである。「見えない前提」を可視化したほうがいいんじゃないの。そうじゃないと、「見えない前提」がまちがっていた場合、自分の誤謬に気がつけないよ。

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そもそも、「うちのひと」にどれだけ言われても、そういうところまではいかない。けど、ほかの人に言われた場合は、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と言うことは可能だ。そして、家に帰ってきたら、そういうことを言った(よその人にそういうことを言った)ということを忘れて、がんがん鳴らせばいい。そうすれば、自分がやりたいことができる。普通の人の基準で、ものすごくでかい音を鳴らすことができる。普通の人だったら、「めいわくだからやめておこう」と思うようなでかい音でずっとずっと、鳴らすことができる。

「めいわくをかけるのではないか」と思うことができない。なのだから、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と思うことはできないという点も確かにある。考えないでやっている。けど、考えなくても、「考えた」と言うことは可能だ。自己申告なのだから……。本人が「考えた」と言えば、「考えた」ことになる。「考える」と言ったって、もともとの基準が問題になる。きちがい兄貴は、きちがいだから、きちがいの基準で考えるだけだ。本人は「よく考えた」と思うだろ。そもそも、「やっていいことをやっている」というきちがい的な信念がある。で、そのきちがい的な信念は、きちがい兄貴のなかで、可視化されているわけではないのである。言語化されているわけではない。けど、「考えたのか」と言われたら「考えた」と言うかもしれない。「考えた」と言ったほうが、自分の立場を守れる場合は、そういうふうに言うだろう。気ちがいでも、もちろんそういう判断ができる。じゃあ、きちがいではないのか? そうではないのだ。たとえば、よその人の前では「考えた」と言ったけど、うちに帰ってくれば、その発言とは関係なく、考えないで、鳴らすことができるのである。そういうふうに、自我が「つながってない」ということが問題なのだ。場面場面で、自我がつながってないから問題なのだ。この場合は……。「その場面だけ乗りきればいい」という考え方ある場合、乗りきったら、気にしないのである。

またひとつ思い出してしまった

 いやー、高校時代とか、ヘビメタ騒音にやられて、つらくて、つかれはてていたけど、無理やり元気を出してポジティブにしてたんだけど、そういうとき、失敗をしているんだよな。いま、またひとつ思い出してしまった。ヘビメタ騒音で猛烈に、猛烈に暗いわけだけど、無理やりポジティブな感じにして、ハイになっているとき、失敗をしている。ポジティブとか、無理やり元気を出すような感じにすると、睡眠不足でつかれはてているときは、失敗することが多いぞ。あれだったら、まだ、暗い気持ちのまま、人と交流したほうがよかった。あー、なんであんなことを思い出すんだ。わすれたままのほうが、よかったのに……。あれに関しては、ほんとうに、いままでずっと、わすれていた。当時は、気にしてなかった。当時、気にしてなかったことが急に気になるというのはなんなんだ。けど、ともかく、きちがい兄貴の影響をうけている。ヘビメタ騒音で寝不足で、寝不足なまま、動いていた。明るく見せたって、なかみは、ボロボロ。とても、くるしい。くるしい。

 

2023年3月13日月曜日

きちがい兄貴は、なにもやってないつもりなんだけど、一日だけでも、被害がすごい

 きちがい兄貴は、なにもやってないつもりなんだけど、一日だけでも、被害がすごい。

この被害のでかさが、ほかの人にはわからない。

「ふつーのそうおん」だと思っている。ぜんぜん、ちがう。幼稚園の園児の出す騒音、普通の工事の騒音……兄貴のきちがいヘビメタの騒音……ちがう。ぜんぜん、ちがう。

ヘビメタが好きな人だって、「こんな音で鳴らしていいの?」「家族の人がかわいそうだよ」「俺は、うちでこんな音で鳴らしたことはない」と言った音だ。きちがい兄貴が「だいじょーぶ、だいじょーぶ」とかこたえたのだ。あたまにくる。

だいじょうぶなわけがないだろ。「だいじょうぶじゃない。宿題ができなくてこまっている」と言っても、きちがい兄貴は、きちがい親父のように無視して、鳴らしやがる。

ほかの人は……たとえば、教師は「なんで、泉水(せんすい)は、宿題をやってこないんだ」と言い、それを聞いたほかの生徒は「泉水(せんすい)はだらしないやつだな」と思うわけだ。

しかし、どれだけやっても、やろうとしても、精一杯頑張っても、どれだけ無視しようとしても、きちがいヘビメタが、ガンガン鳴っていると、宿題ができない。なってなければ簡単にとける問題も、まったくとけない問題になる。そして、とけない感触が残ってしまう。

ああっ、先生が 「なんで、泉水(せんすい)は、宿題をやってこないんだ」と言ったときに、ヘビメタ騒音のことを言ってもむだなんだよ。これは、どの先生でもむだだった。そんなに深刻な問題だと思わないんだよな。

「言えばやめてくれる」という考え方が、かわらない。こっちはこっちで、かわらない。きちがい兄貴の態度がわからない。脳みそのいかれぐあいが、わからない。普通の人には、きちがい兄貴の、脳みそのクセがわからない。

ほんとうに、感覚器を書き換えて、「うるさい音で鳴らしてない」と思ってしまっていて、その思い込みが、強すぎるのである。こんなの、精神障碍者の妄想にひとしい。どれだけ言っても、わからない。どれだけ言っても、まったくつたわらない。信念のように、「でかい音で鳴らしてない」と思っている。

この状態がずっとずっとずっと、かわらない。毎日ずっとずっと、かわらない。毎年ずっとずっとかわらない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の頭のクセを利用して、まったく気にしないで鳴らしている状態が、どれだけ異常な状態か、ほかの人にはわからない。

そして、ほかの人は、きちがい親父の「頭のクセ」もわかってない。

ふたり、そろうと、すごいんだよな。ばかパワーがすごい。これは、普通の人の誤解を呼び込む。普通の人は、絶対に理解できない。普通の人が絶対に理解できないことが、毎日、「うち」では起こりまくっている。

普通に、ずっと、きちがい行為が発生しているということになる。

けど、きちがい行為をやっているやつらは、『きちがい行為をやってない』と思っている。

まったくやってないと思っている。

「まったくやってない」と思ったまま、固執して、固執して、頑固に頑固に、一歩もゆずらずにやりきる。

そして、ふつーーの人は「そんなきちがい行為をする人はいない」「やっているのにやってないと思っている人なんていない」と思って、俺が、まちがったことを言っていると思ってしまうのだ。

ふつーーの人から見ると、俺がへんなことを言っているように思えるのだ。

こういう、へんなしめつけは、きちがい家族がいる人……以外には……わからない。きちがい兄貴ときちがい親父がへんな人なのに、俺がほかの人から、へんな人だと思われるのだ。こういう構造がある。で、この構造は、強固な構造だ。

そして、きちがいヘビメタ騒音で、ぼくが、働く能力をうしなうと、「無職という属性」がぼくに付け加わる。そうなると、ふつーーの人の、無職に対する偏見がものを言うようになるのである。

こうやって、きちがい家族にやられた人が、どんどん、へんな人だと思われるようになるのだ。きちがい兄貴の騒音で働けなくなるのは、ふつーーのことだ。だれだって、それこそ、あれをやられたら、働けなくなるのである。

けど、ふつーーのひとの人生には、それがしょうじなかった。自分の人生にしょうじなかったら、わからないんだよ。どれだけひどいことかわからないんだよ。「どーーしても、働けなくなる」ということがわからないんだよ。

わからなかったら、「泉水(せんすい)さんは、はたら「け」るのに、さぼって働いてない」と思うようになる。これまた、そういうふうに思っている人に「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っても、わからないままなんだよ。必然性がわからない。

働けなくなるという必然性がわからない。

その人たちにしてみれば、ヘビメタ騒音は、働けなくなるような効果があるものではないのである。そして、「過去のこと」であれば、「過去のことは関係がない」と思うのである。また、そういう人は「エイリさんも過去のことにこだわらなければいいんだ」と思うのである。

で、このふたつ……「過去のことは関係がない」ということと「過去のことにこだわらなければいい」ということは、俺を激しく傷つけるのだ。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音のなかで、がんばってきたから……。こいつら、まったくわかってないな。

「こいつら、まったくわかってないな」と思う。このふたつについても、ここで語ってきたので、もう、くわしくは説明しないけど、こういう意見が、案外、毎日毎日、きちがい家族にやられてきた人を、おいつめるのである。

毎日毎日やられたら、影響をうけるんだよ

 くるしいだけの一生だったなぁ。ほんとうにつかれた。誤解されっぱなしだ。そこでの努力……というのは、実をむすばない。実をむすばないというか、それ自体が、マイナスなのである。

ヘビメタ騒音のなかでの努力……大きなマイナス。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとの努力……大きなマイナス。普通の体力がある人……ヘビメタ騒音によって体力をけずられていない人が考える努力とは、ぜんぜんちがう努力なのである。

けど、ヘビメタ騒音がなかった人には、それがわからない。

ちがいがわからない。

からだで感じたちがいがわからない。

だから、ちがいがわかってないまま、きれいごとを言ったりする。けど、そのきれいごとが、成り立たないのだ。

だいたい、そういうきれいごとが成り立っているのであれば、きちがい兄貴はきちがい兄貴ではなく、きちがい兄貴よる、きちがいヘビメタ騒音は鳴ってない。これが重要ことなんだよな。

けど、ヘビメタ騒音がない人には、わからない。ちがいはわかるわけがない。両方体験して、それで、ちがいがわかるという状態になるからだ。

きちがい家族がいて、そのきちがい家族がへんなことにこだわってこだわってこだわって、絶対、ゆずらないで、きちがい行為をするということの意味がわかってない。毎日毎日やられたら、影響をうけるんだよ。ところが、『影響をうけないことは可能だ』という前提でものを言う。

やられてないから、そういう前提でものを言う。

けど、そもそも、やられてないのだから、「やられてないから、そういうことを言える」というような意識は、当然、発達しない。かたいっぽうしか経験してないのだから、その経験にもとづいたことを言うようになる。

わからずに言っているということになるけど、わからずに言っているわけではないということになってしまう……本人の意識のなかではそうだ。

所与の条件として、きちがい兄貴がいないのだから、きちがい兄貴がもたらすことなんて、わかるわけがない。わからないで言っている。

けど、わかったつもりになっている。「ちがい」を理解したうえで言っているという気持になっている。

ほんとうに、ヘビメタ騒音で、誤解されっぱなしだったなぁ。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で、誤解されっぱなしだったなぁ。

ほんとうに、つかれた。

あーあ。ほんとうにすごい音で鳴ってたな。

 あーあ。ほんとうにすごい音で鳴ってたな。

2023年3月10日金曜日

「不幸な人は、親切にしてこなかったから不幸なのだ」という考え方について

 たとえば、成功した人じゃないと、成功法則について語れないということがある。成功してない人が、成功法則について語ったとしても、耳を傾ける人は、あんまりいない。

やっぱり、成功した人が語る成功法則でないと、意味がない……と、普通の人は思っているところがある。おなじように「不幸な人が語る、しあわせになる方法」にも、耳を傾ける人はあんまりいない。

しあわせな人が語る、しあわせになる方法でなければならないわけだ。

もちろん、「なければならない」と言っても、ほんとうに「そうでなければならない」というわけでもない。不幸せな人だって、しあわせになる方法について語ることができる。書くこともできる。できるけど、それは、あんまり、信用されないと思う。

では、どうして、しあわせな人はしあわせなのかというと、めぐまれた家に生まれたから、しあわせなのだ。まず、これが土台として成り立ってないとだめなのだ。

けど、しあわせな人は、自分の努力でしあわせになったと勘違いしてしまう。これは、勘違いだ。

めぐまれた家に生まれた人にかぎって「生まれの格差なんて関係がない」「コツコツと努力すれば成功する」なんてことを言う。ほんとうは、「生まれの格差(親)上」で「生まれの格差(カネ)上」だから、しあわせな生活を送ることができているのだ。

もちろん、本人なりに努力したとは思うけど、「生まれの格差・上」の人は、それがあたりまえだと思ってしまうところがある。たとえば、親が人格者で、医者だったとする。本人が、医者になることを希望して、医学部に入って、医師免許をとったとする。して、病院を経営したとする。もちろん、本人も努力した。

けど、きちがい的な親にたたられていたわけでもないし、きちがい的な兄が、常に毎日、きちがい的な音を鳴らして、勉強を邪魔をしたわけでもない。自分の子供を医学部に入れることができる親というのは、悪いけど、普通の親じゃない。けど、まわりがみんな医者の子供であるような学校に通うと、それが普通だと思ってしまうのだ。まわりのみんながそうだから「みんなの親もそのくらいできるでしょ」と思っているのだ。そういう思い込みがある。

たいていの場合、医学部に進学するということは「生まれの格差(カネ)上」だからできることだ。「まわりの人間」も医学部に進学できるような「うち」に生まれた人だから、これがあたりまえだと思ってしまう。

こういう人は、いちおう、「リア充」の生活をしている。結婚して、子どもをつくったりしている。そういう経済基盤がある。自分がしあわせになれたのは、自分がほかの人に親切だからだ……と思っているのである。

けど、ほんとうは、その人がしあわせなのは「生まれの格差(親)上」で「生まれの格差(カネ)上」で、なおかつ、才能があり、本人が努力をしたからだ。なので、そういう部分をすべて無視して、「親切にするかどうか」に注目してしまうのは、どうかと思う。

人に親切にしない人は、ふしあわせだということになってしまうのである。ふしあわせな人は、人に親切にしない人だということになってしまうのである。

「人に親切にすれば、しあわせになれる」ということは「おまえがふしあわせなのは、人に親切にしてこなかったからなんだぞ」と言っているのとおなじだ。このふたつは、意味的に等価なのである。あるいは、「人に親切にすれば、しあわせになれる」ということは「不幸な人は、いままで人に親切にしたことがないから不幸なのだ」と言っているのとおなじだ。このふたつは、意味的に等価なのである。

けど、人に親切にしているにもかかわらず、不幸な人はたくさんいる。

「人に親切にすれば、しあわせな生活ができる」というのは、まちがった考え方なのである。当然、法則性もない。一時的に「しあわせな感じがする」ということと、継続的に「しあわせな生活をする」ということは、ちがうことだ。混同してはいけない。

むしろ、ぼくの感覚で言うと、多くの、親切な人は、くるしんでいると思う。親切な人、全員ではないけど、多くの、親切な人は、くるしんでいるような感じがする。生まれの格差(親)下で、生まれの格差(カネ)下の人が、もともと、親切なこころをもっていると、くるしんでしまう傾向が強いと思う。 

こういう人は、悪魔が支配するこの世で、もっと傷つきやすい人だと思う。ぼろ雑巾のように、使われて、へとへとになっているよ。ボロボロになってふしあわせな生活をしているよ……。もちろん、全員とは言わない。そういう傾向があると思う。

2023年3月9日木曜日

自分が経験したこととはべつに、「こころ」があるわけではないのだ

  自分が経験したこととはべつに、「こころ」があるわけではないのだ。

経験していたとき「自分のこころ」が自分のなかにあった。自分の経験を無視して「楽しい」と言えば楽しくなる、なんてことはない。

楽しいとか楽しくないというのは、案外、「意識的な脳みそ」が支配できないことなのである。

それを、あたかも、支配できるように言ってしまう人たちがいる。その人たちは、あんぽんたんで幼稚だ。人生経験がとぼしいのである。

あるいは、めぐまれた環境で、めぐまれたことしか経験してない。まあ、本人の主観としては、「つらいこと」「かなしいこと」も経験したということになると思うけど、それは、「軽めのつらいこと」「軽めのかなしいこと」だ。

なんでも、軽めなのである。

一時的なものなのである。

めぐまれた人とめぐまれない人は、ぜんぜんちがう環境で、ぜんぜんちがうことを、経験している。環境に恵まれた人に、きちがい親父の話をしてもわからない。その人たちの理解は、うすい。その人たちの理解は、ほんとうの理解じゃない。ぜんぜんわかってない。

ぜんぜんわかってないけど、言語として、話として理解したということになる。

そりゃ、言葉の意味はわかるのだから、そういうレベルの理解はある。

けど、これがぜんぜんちがうのだ。

まあ、ちがうということ自体がわからないと思うけど。

思っただけで、すーーーっと、うれしい気持ちが消えて、暗い気持ちになってしまう

 またひとつ、やばいことを思い出した。これ、なんなんだ?思い出すな!! 思い出すな!!

俺の頭、思い出すなぁ! 忘れてたんだから、忘れたままにしろ。

なんで、急に思い出すかな?

もう、何十年も前のことなのに……。

 *     *     *

 

「そういえば」という感じで、昨日も、超・小さいことを思い出してしまった。小さいことなんだけど、これも、いい思い出ではない。「親切にする」ということについて考えていたら、連想的に思い出してしまった。もう、三十五年ぐらい前のことだ。めちゃくちゃに小さなことだから内容は書かないけど、ほんとうにまったく思い出さなかったことなんだよね。なんで、何十年も前のことを、突然、思い出すかなぁ。まあ、連想というのはあるんだよ。ぼくの場合、「連想の距離」が相当に長いものも思い出してしまう。関連度で言えば、小さい関連度しかないんだよな。距離があるんだよな。距離があるのに思い出してしまうんだよな。あーー、こまった。この、超・小さな思い出も、いい思い出とは言いがたいので、忘れたままのほうがよかったのに、思い出してしまった。これは、きつい。

何回も思い出す、わりとでかいこともあるんだよな。うーん。全部もちろん、「ひとがらみ」さ。失敗はある。あのときの、あの場面にもどって、あやまりたいという気持がある。これ、みんな、どうなんだろうな。そんなにでかくないことでも、何十年もたっていることなのに、思い出すってことがあるのかな。しかも、みんな、そんなにいい記憶じゃないんだよな。いい記憶もあるけど、基本的に、長期ヘビメタ騒音で暗い気持ちなので、いいことをしたあとも……親切にしてあげて、相手も喜んだあとも……家に帰るときは、つらくて暗い気持ちになっているんだよ。これ、いいことをしたあとの「すごくさみしい気持ち」ってわかる? 人に親切にしてあげたあとの、すーーっと消えていく、「よかったね」という感じと、すーーっとよみがえる、うちの、暗い感じ。わかるかな。

『人に親切にするとしあわせになる』というようなことを言う人がいるんだけど、そういうことにはならないんだよな。これが、また、そういうことを言っている人にはわからないことなんだよな。どうしてかというと、その人が、めぐまれた家に住んでいたから。めぐまれた人生を歩んでいるから。きちがい家族が、きちがいヘビメタ騒音を、どれだけこっちがやめろと言っても、ずっっずっとずっとずっと、一日中、鳴らしている「うち」にいたわけじゃないから。そういう家族と一緒に二十一年ぐらい、いっしょに毎日暮らしていたわけではないから。そりゃ、人に親切にしてあげて、その親切にされた人がよろこんでくれれば、一時的にはうれしい気持ちになる。けど、ぼくがつらかったのは、人に親切にしなかったからではないのだ。ヘビメタ騒音でつらかった。もっと前の時期なら、きちがい親父のきちがい行為でつらかった。そりゃ、親切にしてあげて「ああっ、よかったね」と思う気持もあるけれども、「うちに帰ったら、あのヘビメタ騒音が鳴っている」と思うと、思っただけで、すーーーっと、うれしい気持ちが消えて、暗い気持ちになってしまう。ぼくが、不幸なのは、人に親切にしてあげなかったからではなくて、きちがいヘビメタ騒音が、鳴っていたからだ。どれだけ「やめてくれ!!やめてくれ」と兄貴の部屋に行って、絶叫しても、ぜんぜん、(兄貴が)やめてくれなかったからだ。ほんとうに、眠れなくなるから、次の日もくるしいのだ。あのくるしさと、いったらない。きちがい兄貴は気ちがいなので、朝も鳴らしていたときがある。朝、ものをそろえようとしているときに、あの音が鳴っていると、発狂状態で、殺したくなるし、自殺したくなるのである。ものが見つからないと、パニックになるのである。ものが見つからなくても、ものが見つかっても、きちがいヘビメタがガンガンガンンガガンガガガガン鳴っているから、パニックなのだ。前日、ヘビメタ騒音のせいで、宿題を終えることができないから、ものをそろえてから眠るということができない。実際に四六時中、ヘビメタ騒音にたたられていない場合は、「こうしたらいい」「ああしたらいい」ということが言えるのだけど、それが、できないのだ。絶対的にできない。けど、そういうふうにアドバイスをしている人に(あるいは、した人に)「これこれ、こういう理由でできない」と言っても、案外、認めなかったりする。そもそも、小学六年生のときから、毎日ヘビメタにやられている。そういう生活が続いている。極限状態での生活だ。そういう生活のなかで、できることじゃないのだ。帰ってから眠って、ヘビメタが鳴ってないときに起きて、勉強すればいいというようなことを言った人がいるのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っているので、眠ることができないのだ。どれだけつかれていても、ヘビメタ騒音のなかで眠ることができない。ぼくの部屋ではできない。おかあさんの部屋だと、眠れるのだけど、俺がおかあさんの布団を占領すると、おかあさんが横になって休むことができなくなってしまうのだ。おやじうちなのだけど、おかあさんの部屋と、ぼくの部屋では、音圧、音のでかさがちがう。ちがうんだ。(実は、一日だけ、気絶をするように、きちがいヘビメタが鳴っている、ぼくの部屋で眠ってしまったことがあるのだけど、起きたあと、猛烈にやばい状態になった。もう、三十九度ぐらい熱がでて、はきそうな状態とおなじ状態になった。そのからだの状態は、熱がでてダメな状態とはちがう、ダメさがあるのである。これが、異常な感じでくるしいのである。ほんとうに、頭にダメージをうけたようなだるさなのである。


*     *     *


2023年3月8日水曜日

「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。どんなミスでもゆるしましょう?

 引用開始+++
もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了+++

「ミスだっておたがいさま。だれだってミスをします。あなたもミスをするし、相手だってミスをする。自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」


こういう言葉というのは、基本的には、いろいろな見えない前提がある言葉なんだよ。手短に言うと、いろいろな決めつけがある。

その決めつけは、基本的には、書かれてないことが多い。

書かれてないのだから、書いたことじゃなということが言えるのだけど、「どんなことだって」というような言葉は書いてあるので、その見えない前提が、すけて見えることがあるのである。なので、この言葉の作者は、まるで気にしてないのだけど、「いらっ」とくる人がでてくるのである。

「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。小さなミスも、大きなミスも、ミスと言ったら、ミスなんだよ。ミスというのは、非常に抽象度が高い言葉なんだよ。どんなミスも、「ミス」という言葉に含まれてしまうんだよ。だから、ただ単に「ミス」と言った場合には、どんなミスも「ミス」という言葉に含まれてしまうということを、気にして発言するべきなんだよ。

簡単に言ってしまえば、釣銭をまちがったというようなミスも、人が死んでしまうようなミスも、どっちもミスなんだよ。漢字変換をしまちがったというミスも、全身不随になるようなミスも、どっちもミスなんだよ。

もし、だれかのミスで、自分が、そのあとずっと、動けないからだになってしまったとしよう。

そして、病院のベットで寝ているとしよう。そのとき、公平さを装う第三者があらわれて、「だれだってミスをします」「あなたもミスをするし、相手だってミスをする」「あなただって、漢字変換ミスというミスをしたでしょ」「それとおなじですよ」「相手だって、自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」と言ったら、どういう気持になるか?

俺だったら、「ミスのでかさがちがうだろ」「ミスの意味合いがちがうだろ」「どうして、(たとえば自分のブログにのせる文章の漢字変換ミスと、その後の人生がなくなるようなミスをいっしょにするんだ」と言いたくなる。

「ミス」というおなじ言葉として、表現されることであっても、現実世界ではまったくちがった、意味内容をもつことがあるのである。

この公平さを装う第三者というのは、漢字まちがいというミスも、全身不随になって動けなくなってしまったということをもたらしたミスも、同じレベルのミスだと思っているのである。どんなミスも、ミスはミスだから。そして、だれだってミスをするのだから、ミスはおたがいさまだというとになる。ミスがおたがいさまなら、どんなミスも許すべきなのである。

公平さを装う第三者が、そういうふうに思っているということが、ベッドに横たわっている人にわかった場合、ベッドに横たわっている人は、おこるのである。このいかりは、正常ないかりだ。わかってないのは、公平さを装う精神世界の人だ。

こういう精神世界の人は、自分のぶんだけ「他人」のミスをゆるせばいいわけ。他人に対して、別の他人のミスをゆるすべきだというようなことを言うべきではない。どうしてかというと、いままで説明してきたように、ひとくちに「ミス」と言っても、現実世界では「ミス」の内容が、大きくことなるからだ。

こういう精神世界の人は、「ミスはミスで、どんなミスもおなじ」「みんな、ミスをするのだから、他人のミスはゆるすべきだ」というようなことを言っているのだけど、話は、わりと複雑なのだ。他人が他人に迷惑をかけた場合を考えると、想定される人物が三人必要なのだ。

たとえば、精神世界の人をAさんだとすると、Bさんと、Cさんが必要になる。Bさんは、すでに、Cさんに迷惑をかけた人なのだ。逆に、CさんがすでにBさんに迷惑をかけた人である場合もある。

ようするに、話者(自分・精神世界の人)と、(他人1)(他人2)が必要なのだ。話者は、他人1が他人2にどのような迷惑をかけたとしても、他人2は他人1をゆるすべだということを言っているのである。

これが、ゆるしのすすめだ。

しかし、話者は、他人1と他人2のあいだに、どのようなことがあったのかということに関しては、まったく感知してないのである。「ミス」という言葉をつかっているけど、そのミスは、他人に迷惑をかけるタイプのミスなのである。

そして、ミスの大きさは、捨象されているのである。抽象的な世界の「ミス」について語っているわけで、現実世界の「ミス」について語っているわけではない。抽象世界の「ミス」は、なにか「ミス」と呼べるものといった、具体的な姿がない「ミス」なのだ。

しかし、現実世界の「ミス」というのは、すべてが、個別具体的なミスだ。この個別具体的なミスは、現実の文脈の中で、大きなミスであったり、小さなミスであったりする。やられたほうがこうむった被害のでかさについては、まったく語られていないのだ。

なので、現実世界において、他人がしでかしたことによって、たいへんな被害が生じている場合を無視しているのだ……この話者は、他人1か他人2にしょうじた被害について無視をしている。けど、「どれだけ被害がでかくても、人間は、人間(他人)をゆるすべきだ」という意味のことを言っているのだ。

他人1がどういうミスをしたのかということはまったく問題にならない。他人1のミスによって、他人2がどのような被害を被ったのかということは、まったく問題にならない。そういうことを言っているのである。

他人1と他人2をいれかえることもできる。けど、いちおう、他人1が他人2に迷惑をかけたというケースについて語っている。何度も言うけど、逆の場合もある。他人2が他人1に迷惑をかけた場合もある。

さらに、話者が「自分」という言葉を使うと、その自分という言葉は、話者自体のことをさしているのか、読者自体のことを指しているのかわからなくなる。これは、けっこう重要なことだ。

こういうことを、全部吹っ飛ばせるのは、「ミス」という抽象的な言葉を使い、「自分」という抽象的な言葉を使い、「他人」という抽象的な言葉を使うからだ。

あるいは、「他人」のかわりに、相手という言葉を使う場合もあるのだけど「相手」という言葉も、かなりめんどうな問題を引き起こす。抽象的な「ミス」という単語をつかっているのにもかからず、自分!の人生において発生した「ミス・ストーリー」が頭のなかにいくつかあるからだ。完全に抽象的な「ミス」全体について語っているようでいて、思い浮かべて語っているのは、この人の人生において発生した、具体的なミスなのである。そのミスは、その人の人生において発生した具体的なミスなのであるから、どれも、他人の人生において発生した具体的なミスとはちがうのである。話者が、具体的な話者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべて、話をするのだけど……抽象的な話をするのだけど、読者は読者で、読者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的」(話者にとっての相手)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべてしまうのである。


 

2023年3月7日火曜日

「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。

 引用開始

もうこの人とは離れるべきだなと思うのは、自分への対応が雑になったときです。ぱっと見だけ「感じのいいひと」は世の中には沢山いるけど、気まぐれで咲かせる花が綺麗なだけで、本当に見るべき所は心の奥にある根っこの部分なんですよね。自分は大切にされていないと感じたら今すぐ離れるといいです
引用終了
 

人間はおたがいさまだから、肩の力をぬいてゆるしてやるべきなんだろ。相手の自分への対応が雑になったときに、相手に対して「カチン」ときても、肩の力をぬいてゆるしてやればいいだろ。自分だって、相手への対応が雑になるときはある。人間はおたがいさまだから、ゆるしてやるべきなんだろ。「どんなことがあっても」肩の力をぬいて、ゆるしてやるべきなんだろ。ゆるしてないじゃん。

相手だって「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから、自分への対応が雑になっても、肩の力を抜いてゆるしてやればいいでしょ。「自分への対応が雑だ」なんてことにはこだわらないで、もっと相手にやさくしくしてやってもいいんじゃないの。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心を満たしておけば、自分への対応が雑になっても、ゆるせるんじゃないの?

「カチンときてもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「ミスがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、「雑な対応」はおたがいさまだ。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておきたいのだから、みたせばいいでしょ。どんなことでも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておけば、「雑な対応をされても」ゆるせるのでは? ぜんぜん、寛容な気持で心をみたしてないじゃん。寛容な気持で心をみたしてないから、(相手との)縁を切りたくなって、縁を切るんでしょ。いちいち「対応が雑だ」とカチンときてるんじゃないの?

「雑な対応だ」と思ったとき、ゆるしてやれば、何回、(相手が)雑な対応をしてきても、そのつど「人間はおたがいさま」と思って、ゆるしてあげればいいんじゃないの?

「雑な対応」ぐらいで、腹をたてているのに「なにがあってもおたがいさま」なんて、よく言えたものだな。「なにがあっても」と言っているんだよ。これじゃ、実際に子供を誘拐されて、殺されたら「なにがあってもたがいさま」だから、ゆるしましょうなんてことはならないよな。だったら、人に「なにがあってもおたがいさま」なんて言うべきじゃない。

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 「なにがあってもおたがいさま」というのは、「どんな出来事が発生しても、おたがいさま」ということなんだよ。どうして、その出来事のなかに「雑な対応をされるという出来事」は、ふくまれていないんだよ? 「なにがあっても」と言っているでしょ……。「雑な対応されるのだけは別だ」言いたいのか? ほかの人は「雑な対応」レベルのことではないことで、悩んでいるんだよ。そういうことがあるのぉ。もちろん、雑な対応でも、頭にくる。けど、そういうレベルのことではないことで、くるしんでいるんだよ。「なにがあってもおたがいさま」「もっと肩の力をぬいてゆるしましょう」なんてことを、「雑な対応レベルのこと」でおこっているやつが、言うべきではない。

「なにがあってもおたがいさま」だから「寛容なこころ」で、相手をゆるして、つきあうか? あるいは、「なにがあってもおたがいさま」なんてことはないから、自分に対して雑な対応をするやつのことは、さっさときるのか? どっちかにしろ。ささっと(縁を切る)という対応をするなら「なにがあってもおたがいさま」とか「寛容な気持でこころをみたしておきたい(寛容な気持でこころをみたしておけば、肩の力をぬいて、ほかの人をゆるせる)」というようなことを言うな。「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。 

「(こっちが雑な対応をしてないのに)相手が雑な対応をしてきたら、おたがいさまではない」と思うなら「なにがあってもおたがいさまだ」とは思ってないということだ。

「雑な対応」をされるとカチンときて、縁を切るというのであれば、「(相手を)ゆるしてない」ということだ。「おたがいさまだからゆるす」なんことは、実行してない。「寛容な気持でこころをみたして、相手をゆるす」ということは、実行してない。そもそも自分が実行してないことを、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか? 自分が実行してないことを、さも実行しているようなふりをして、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか?

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雑な対応をされたら「おたがいさまじゃない」と思うやつが、「なにがあってもおたがいさま」なんて言うな!! 

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2023年3月6日月曜日

めぐまれた環境のなかですごした人は、めぐまれた環境のなかでの「努力」しか思い浮かべることができない

  ほんとう、このさき、どうしようかな。

やっぱり、長期ヘビメタ騒音なしで、暮らしたかった。普通の小学生生活、普通の中学生生活、普通の高校生生活、普通の大学生生活をしたかった。したかった。長期騒音で、ぼろっぼろ。まあ、こっちに書くようなことじゃないけどね。

あーー。ともかく、頭のなかがぐちゃぐちゃで、からだがしんどくて、いつもいつも、きちがい兄貴による騒音が鳴っていて、つらかった。猛烈につらかった。

全部、俺のせいになる。

不可避的に、「できなくなる」のに。

騒音が鳴ってなかったら、「できること」なのに。鳴ってできなくなったら「できないこと」になってしまう。

どれだけ、「ヘビメタ騒音が鳴ってなかったらできる」と言ったって、むだだ。できないようになって、「できない現実」と向かい合わなければならなくなる。

それが、どれだけつらいか、みんなわかってない。どれだけ努力したって、どれだけ影響をうけないようにしたって、普通に眠ることすらできなくなる。

勉強にしたっておなじだ。きちがいヘビメタが鳴っている空間というのを、みんなは、一倍速で経験したわけじゃないから、一日に約七時間から十三時間鳴っているだけで、生活すべてが、めちゃくちゃになるということがわからない。「努力」とか関係がないから。死にものぐるいの努力をしても、崩壊をとめられない。死にものぐるい努力をするしかないのだけど、死にものぐるいの努力をすると、からだが、もっと弱っていくのである。余裕がある状態で「普通に努力する」ということを感がている人たちばかりだけど、きちがい騒音生活のなかで努力をするということは、けっきょく、破滅につながる。みんな、ほんとうにわかってない。「コツコツ努力すれば成功する」なんて、あほなことを言っているやつは、きちがい家族がいるうちのことがぜんぜんわかってないんだよね。きちがい家族が、きちがい家族の基準で、きちがい的な音を、きちがい的な意地で鳴らすということが与える影響がまったくわかってない。「無視すればいい」。「無視できないから、こまっているんだろ」。自分がめぐまれていたから、きちがい家族がふたり、いる状態というのがわからないのである。無意識に問題がある家族が四人家族のなかで、ふたり、いるということがどういうことなのかわかってない。わかるわけがない。ひとりだって、たいへんなのに、ふたり。めぐまれた環境のなかですごした人は、めぐまれた環境のなかでの「努力」しか思い浮かべることができない。「努力できない状態」が思い浮かばない。努力が、プラスにならないで、マイナスにしかならない状態というのが、思い浮かばない。

2023年3月4日土曜日

人間界のすべてのことは「おたがいさま」だと決めつけてしまう

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引用開始

もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了

 

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これ、白側信者だから、アドレノ〇〇〇については知っているだろう。ある子供がA子さんだとする。ある子供を誘拐した人がBさんだとする。BさんがA子さんを誘拐して、拉致、監禁して、虐待して、A子さんを殺したとする。

それは、BさんがA子さんを虐待したときに、A子さんが体内で放出するある成分がほしいからだ。

ようするに、Bさんが、自分の欲求にしたがって、A子さんからアドをとって、殺したとする。

その場合も、「おたがいさま」なのだろうか。

A子さんも、Bさんも、ぶっつけ本番で人生を生きているのだから、A子さんは、Bさんをゆるすべきなのだろうか。まあ、殺されてしまうから、ゆるすも、くそもないのだけど、この白側信者がAさんに要求していることは、そういうことだ。

Cという親が、Dという子供を虐待して殺したとする。一方的に、Cという親が、Dという子供を虐待したとする。それでも、「人間はみんなお互いさま」なのだろうか。「人間はみんなお互い様」だから、DはCをゆるすべきだと、Dがするべきことを、赤の他人が、Dに要求してもいいのだろうか?

「なにがあってもお互い様」なのだと言っている。こういう人は、お互いさまの意味がわかってない。一方的にやられたのに、おたがいさまに、なるわけがない。「なにがあってもお互い様?」……こういうことをよく言えるなぁ。

事柄の意味を無視して、全部おなじようなレベルの意味しか持たないとする、無意味化思考があるのだ。この、見えない前提と言うのは、やっかいだ。個別の事柄の意味を無視して、全部、おなじようなことだと考えているのだ。

だから「なにがあっても」と言っている。個々の具体的な事柄の意味を無視して、「ゆるすべきだ」と言っているのである。この人が、他人全体に向かって言っている。

他人のなかには、この人が想定してるようなことではないことを経験した人がいる。なので、「それとこれとはちがう」ということを言いたくなる。

こういう精神主義世界の人は、すべてがすべて、感覚的な言い方でものを言う。いいことを言っているつもりなのだろう。けど、まちがっている。

たとえば、虐待して殺すという事柄と、ちょっと肩がぶつかるという事柄はちがう事柄なんだよ。全部、事柄だから、おなじようにあつかうべきだという主張には無理がある。

この白信者は、「ちょっと肩がぶつかる程度のこと」を想定して、ものを言っている。「ちょっと肩がぶつかったことぐらいで、カリカリおこるのは問題がある。

゛相手だって自分だって、この世で、全力で生きているのだから、そんなことでおこるべきではなく、もっと、余裕のある気持ちで生活するべきだ」というようなことを言っているのだ。

けど、「ちょっと肩がぶつかるという事柄」と「虐待して殺す」という事柄は、ちがう。どちらも、事柄だけど、意味内容がちがう。

ところが、意味内容のちがいを無効化して、どんなことも「ちょっと肩がぶつかったぐらいのことなのだから、人間は人間(他人)のことをゆするべきだ」と主張しているのである。

しかし、頭のなかでは「ちょっと肩がぶつかったぐらいのこと」を想定しているのだけど、そういう想定があるということを、明言しない。

だから、「虐待して殺す」という事柄と「肩がぶつかった」という事柄を「おなじレベルの事柄だ」とみなしているということは、かくされている。けど、「どんなことが起こっても」という言葉で、じつは、この発言者が「どんな事柄も、おなじレベルの事柄だ」とみなしているということが、すけて見えるのだ。

たとえば、Eさんが、Fさんの行為で、全身不随になって、ずっとこのさき、動けない状態で暮らすことになったとしよう。それですら、「肩がぶつかったレベルのこと」とこの発言者は見なしている。「どんなことが起こっても」やられたほうは、やったほうを、ゆるすべきなのだから、Eさんは、Fさんをゆるすべきなのである。

この白信者だって、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたら、おこるはずだ。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「相手だってぶっつけ本番で人生を歩んでいるのだから」ゆるしましょうということになるのかどうかということだ。

自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしているから」ゆるしましょうということになるかのかどうかということだ。

自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから」ゆるしましょうということになるのかどうかということだ。自分の子供が、ただが、アドを採取するために、虐待されて、殺されても、「おたがいさま」なのだろうか。子供は、その相手になにもわるいことをしてないぞ。どこが「おたがいさま」なのだろうか。

この場合は、「肩がちょっとぶつかったこと」と「自分の子供が、誘拐され、虐待され、殺されたこと」が「同レベルのことだ」という前提に立って話がすすんでいるのである。そういうふうに、明言されてはいないけど、「どんなことだって」という言葉が、それを、あらわしている。この白信者の頭のなかには「どんなことだってゆるせるし、ゆるすべきだ」という考えがあるのである。そういうことを言っているのである。けど、そういうことを言っているときは、具体的な事柄としては、「ちょっと肩があたったぐらいのこと」を思い浮かべている。

けど、精神世界の人なので「どんなことでも」「どんなことが起こったって」ということを言いたがる。そして、他人の身の上に起こったことは、どんなことだって「ちょっと肩があたったぐらいのこと」なのだから、カチンときても、お互い様だと思ってゆるせることなのである。想定のなかではそうなのだ。けど、実際に、この白信者の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたらそんなことは言ってられないだろう。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから」ゆるすのだろうか。たとえばの話だけど、実際に、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺された人だっている。その人が、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから、ゆるしましょう」と(関係がない人に)言われたら、どんな気持ちになるかということだ。こういうことが、ぜんぜん、わかってないのである。「(自分の子供を殺した)相手だってぶっつけ本番で人生を歩んでいるのだから」ゆるしましょうと言われたら、どんな気持ちになるか? この精神世界の人は、不特定多数の人に「もっとゆるしましょう」と語りかけている。当然、自分の子供を殺された人も、不特定多数の人のなかに、ふくまれている。はたして、自分が、自分の子供を殺された人と同じ立場になったとき、自分が言っていた理由で、自分の子供を殺した人をゆるせるのだろうか?

かりに、「なにがあってもおたがいさまだから、ゆるしましょう」と言われたとき、考えることはなんなのかということだ。ぼくだったら「ぜんぜんおたがいさまじゃないじゃん」と思う。 この精神世界の人は「なにがあっても」と言っているのだから、当然、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されることだって、ふくんでいるのである。けど、この精神世界の人は、きれいごとを言っているときは、そういうことを想定してないのである。だから、もっと気楽に、肩の力をぬいて、「相手」をゆるしてあげればいいというようなことを言う。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたときに、公平な?第三者があらわれて「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから、ゆるしましょう」と言ったら、どう思うか?


「何があってもお互い様」と軽く言っているけど、これはおかしい。すべての事柄を、平均化して、無意味化しているのである。事柄であれば、事柄なのである。どんな事柄だって、事柄なのである。肩がぶつかったということも、事柄だし、自分の子供が殺されたということも、事柄だ。ぜんぜん、お互い様じゃない事柄も、勝手に「お互い様であるような事柄」にされてしまっている。個々の事柄の意味合いをはく奪してしまっているのである。

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ほんとうーーに、破壊的なやつがいるなぁ。「生まれの格差(家族)中」以上の人は、根本的なことがわかってない。こういう、精神世界主義者みたいなやつが言うことというのは、ほんとうに、「生まれの格差(家族)下の下」のやつを自殺に追い込むことばかりだな。

「そんなことじゃない」という怨嗟の声が聞こえないんだろうな。「なにもわかってない」というのがわかる。こういう無邪気な精神世界主義者のざれごと、あるいは、きれいごとは、ずっとやられ続けて、自殺寸前の人のこころを、破壊する。

これだけ、みごとに、さかなでしまくるやつは、めずらしいな。しかも、そういう人が、うけていて、同意する人があらわれる。ぜんぜん、わかってないな。

こういう、もともと、めぐまれた家に生まれてきた人はなにもわかってないなぁ。そんな、ちょっとした、もめごとであるはずがないだろ。たとえば、ちょっと肩があたったというようなことと、きちがい家族が毎日ずっとやってきたことをいっしょにすることはできないんだよ。

まるでわかってない。

これずっとまえに、「おたがいさま」ということについて書いておいたけど、こういう感じの精神世界主義者みたいなやつが言うことは、ほんとうにどれもこれも、おなじだな。

おカネ持ちの人が貧乏人について考えるときもおなじなんだけど、そもそも、前提がまちがっている。けど、そういう人たちは、そもそもの前提がまちがっているということに気がつかない。気がつかないだけではなくて、言われてもわからない。説明されたって、わかるわけじゃないのだ。どうしてかと言うと、経験がないからだ。

そして、人間の思考というのは、そういう「みえない」前提を必要としている。いつもいつも、みえない前提をもとにして、考えている。見えない前提は言葉の中に含まれていないにしろ、言葉に影響をあたえている。どれだけ言ってもわからないと思うけど……。ほんとうに、きちがい家族がどういうものなのかぜんぜんわかってないんだよな。

きちがい家族にやられたことがない人が発する「おたがいさま」の意味と、きちがい家族にやられたことがある人の「おたがいさま」の意味がぜんぜんちがう。
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めぐまれた世界のなかで、たいして、ひどいことをやられたわけではないのに「ゆるし」について語ってしまう。人間界のすべてのことは「おたがいさま」だと決めつけてしまう。そういうレベルのことじゃないことがあることが、ぜんぜんわかってない。

こういう精神主義的な人が流す「よさそうな言葉」でくるしめられている人がたくさんいると思う。くるしめられている人が感じていることが、真実だ。精神主義的な人が言っているのは一部なのである。部分集合。

そして、精神主義的な人は、めぐまれた家に生まれて、めぐまれた生活をしてきた人なんだよ。本人は、まるでわかってないと思うけど。

だから、そういう基準でものを言う。そういう基準が成り立っている前提でものを言う。けど、そういう基準が成り立ってない家がある。そういう家では、何十年も継続的に、トラブルがしょうじる。

そのトラブルというのは、よくある他人同士のトラブル?のように、「おたがいさま」ではない。継続的なトラブルと、一回なぐられたとか、一回侮辱されたとかというようなトラブルをいっしょにするなと言いたい。

(頭がおかしい親のもとに生まれた子供がどういうことを経験するのか、まるでわかってないな。頭がおかしいということは、機能的な欠陥があるということだ。普通の人ならわかることがまったくわからないということだ。機能障害なのである。

その機能障害がある脳みそを搭載している人は、ずっと、そのままなんだよ。

根本の部分がかわらないわけ。

ほんとうに、こういうことがわかってないな。

こういうことが生み出すことがわかってない。

まるで、学校で、ときどきトラブルが発生するというようなことしか想定してないんだよな……。喧嘩両成敗とかそういう世界の話しかしてない。「おたがいさま」……ふざけるな。

まったくまったくわかってないなぁ。偶発的に起こる「いっかいこっきり」のことと、構造的に起こる「毎回繰り返される」ことをごっちゃにして考えるのはよくない。

現実的じゃないんだよ。まあ、精神世界主義者は、だれかが「お前の言っていることは、気にくわない」とぶんなぐってきても、「おたがいさま」だから「ゆるせる」のでしょ。

そんなの、突発的な出来事で、毎回繰り返されることじゃないからな。「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく」のだから、当然ゆるせる。

どれだけ、めちゃくちゃな理由でなぐられても、「おたがいさま」だからゆるせる。『ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから』ゆるせる。肩の力をぬいて、ゆるせる。けど、毎回やられたり、自分が守りたいと思っている家族をなぐられたらどうなの?

何回、自分が守りたいと思っている家族がなぐられても、「おたがいさま」だからゆるせるの?

「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たして」いるので、ゆるせるの?

自分も他人も「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」……だからなんだ? じゃあ、「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」他人が、ぶっけつ本番で歩んでいるから、わけのわからない理由で、自分が守りたいと思っている家族を殺しても、ゆるせるの?

偶発的なことだって、ゆるせないんじゃないの? 自分の家族が学校で継続的にいじめられていても、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様」だからゆるせるの? 自分の子供をいじめている子供も、「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」だけなので、肩の力をぬいて、ゆるせるの?


自分の子供が、インフルエンザワクチンを打ちに医者に行ったら、医者がまちがって新型コロナワクチンを打ったとする。そして、その結果、子どもが死んだとする。「なにがあってもおたがいさま」「ミスがあってもおたがいさま」「カチンときてもおたがいさま」だから、ゆるせるのか?

職域接種で、あのワクチンを打ったら、夫が死んでしまったとする。「なにがあってもおたがいさま」「ミスがあってもおたがいさま」「カチンときてもおたがいさま」だから、ゆるせるの? その医者も「ぶっつけ本番」で自分の人生を歩んでいるだけだから、ゆるせるの?

精神世界主義の人は、「おたがいさま」ではないことについて「おたがいさま」だと思えるのかどうかということについて、もうちょっと思考をめぐらせたほうがいい。

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もっと他人に対してやさしくなったほうがいいと「小さなこと」を思い浮かべて話しているだけでしょ。けど、いい方が言い方だから、「大きなこと」まで含んでしまっている。


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家族ではない人間との一時的なトラブルと、家族である人間との継続的なトラブルをいっしょにするな。言っておくけど、引用文は、別に俺に向かって書かれたことじゃないよ。精神世界主義の人は、よく、こういうことを言って、悦に浸っていると思うから、引用しておくけど。

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2023年3月2日木曜日

因果関係を逆転させて、ひどいことを言うな


いつも機嫌のいい人は、運気もいい
いつも機嫌の悪い人は、運気も悪い

↑こういうことを言って、いきがっている人がいるのだけど、これは、ひどい。どうひどいかというと、すでにひどい目にあっている人を、悪く言って、よろこんでいるので、ひどいということになる。たとえばの話だけど、1度の水につかっている人は、「つめたそうな顔」をしているとする。それは、1度の水につかっているからだ。しかし、つめたそうな顔をしている人は、不幸を呼び寄せていると言った場合は、「つめたそうな顔をしている」ということが不幸を呼び寄せているということになってしまう。生まれの格差を無視してこういう発言をするのは、いかがなものかと思う。いかがなものかと思うというような言い方だとわからないかもしれないので言っておく。こういう発言をするのは、悪魔の容器を補強するので、悪いことだ。

たとえば、水俣病で、つらい顔をしている人がいたとする。もともと、つらい顔をしている人ではなくて、水俣病になるまえは、明るい顔をしていたのだ。そして、付け加えるなら、漁をしていたとする。たまたま、知らずに汚染魚を食べてしまったということが、原因で、からだがつらいので、つらい顔をしているのだ。けど、つらい顔をしている人は、運が悪いと言ったらどうだろうか? もし、運とかそういうことを言うのであれば……運が悪いから、汚染魚を食べてしまったのである。だから、つらい顔をしているというのは、結果であって原因ではない。ところが、精神世界のこういう人たちは、因果関係を逆転させて、「その人の性格」や「その人の表情」のせいにしてしまうのだ。かりに、水俣病でくるしんでいるのであれば、その人が、どれだけニコニコしても、つらいことにはかわりがないということになる。からだがつらかいら、つらい顔(つき)になるのだ。ニコニコすることで、水俣病が治るということはない。それを、自分が(たまたま)水俣病にならなかったからと言って、水俣病の人をばかにする。「つらい顔をしているからだダメなのだ」「つらい顔をしているから、運が悪くなるのだ」と言って、ばかにする。これは、原因についてまちがった前提にたった発言だ。そして、結果についてまちがった前提にたった、発言だ。そして、こういう人たちは「運をよくするために、ニコニコしましょう」というようなことを言うのだけど、ニコニコするという、作業が増えてしまう。こういう人たちは、精神が子供なので、人に対する思いやりがなく、人に対して、無理なお願いをすることがある。これもまた、自分の気持ちだけなのだ。ただでもつらいのに、作業が増えてしまうということに関する、心遣いがない。増えてしまうでしょ!! やらなければならないことが、増えてしまうのだよ。そして、そのやらなければならないことで、運がよくなることはない。そして、その作業で、つらさが減るということはない。つらさが増えてしまう。この人たちは、幼児的万能感に支配された魔法の世界に住んでいる。魔法の呪文を唱えると、その通りになる。ニコニコするとよくなると思っている。思っているだけだ。ほんとうに、子どもなんだよなーー。相手の状態をまったく考えてない発言をして、いきがっている。本人は、そのとき楽しいのだろう。これから、ワクチン後遺症の増えると思う。ワクチン後遺症の人は、ワクチンに入っている物理的な成分によって、病気になっている。すでにワクチン後遺症になっている人は、べつに、つらい顔をしてワクチンをうけに行ったから、病気になったわけではないのだ。対応しているのは、ワクチンの成分であり、ワクチンをうけに行ったときの気分とか、顔の表情ではない。こういうことがわからずに、弱っている人を見かけたら「そんなのは、暗い顔をしているからダメなんだ」と言って、いい気になる。からだが(物理的につらいので)つらい顔をしている人を見かけたら「つらい顔をしているからダメなんだ」と言っていい気になる。こういうことばかりしている人たちがいる。本人は、いい気になって、ニコニコしているんだよ。

「運」とかそういうことを言うのであれば、大半が、「生まれの格差」で決まっている。その人の性格のせいにするな。その人の考え方のせいにするな。これ、体験のほうがさきなのである。きちがい的な親に虐待されたから、(虐待された幼児は)不愉快な顔つきになるのである。不愉快な顔つきだから、虐待されるわけではないのである。それを、きちがい的な親という外部環境……虐待された幼児にとっての外部環境……を無視して、「幼児」のせいにしてしまうのである。幼児が不愉快な顔つきをしていたから、虐待されたわけでないのである。これは、きちがい的な親という外部環境を無視している。……きちがい的な親はきちがい的な脳みそをもっているので、なにがなんだろうが、幼児を虐待するのである。それを「幼児の表情」のせいにする。こんなの、虐待に加担しているようなものだ。

2023年3月1日水曜日

自分が発狂して無視したら、そのとたんに、本人(たち)のなかでは終わっているのである。

 ほんとうに、ヘビメタでくるしかった。これは、きちがいヘビメタ騒音の空間だ。これは、きちがいヘビメタ騒音の、朝、だ。こんなのはない。あの一分間が、どれだけくるしいか、みんなわかってない。一分間ですむならいい。一日に、一分間ですむならいい。けど、すまない。きちがい兄貴したって、集合住宅だったら、あんな音で、一分間だって鳴らせないはずだ。実際、いま住んでいるマンションで鳴らしてない。あいつが……きちがい兄貴がわかくて、くるっていたから、やった。平気だった。そして、そういうことを黙認し、支援するきちがい親父の存在があった。こんなの、普通の人にわかるわけがない。きちがい兄貴に、文句を言えなくなっちゃったんだよな。けど、本人はそう思ってないわけ。だから、「おまえは、騒音をつかんじゃっているからダメなんだ」とか言ったんだ。これだけでも、刺殺されても、文句を言えないセリフなんだぞ。きちがい兄貴はきちがい兄貴で、自分が鳴らしていることで、弟がどれだけこまっているかということが、まったくわからないから、「やーい、問題児」とかいいやがる。きちがい兄貴の騒音のことで、きちがい親父ともめてたの!! きちがい兄貴、おまえ、すぐに、二階にあがたっから知らないだろうけど。まあ、そのときは、きちがい兄貴が、もう、寝るつもりでいたので、二階にあがったあと鳴らすということはなかった。ともかく、きちがいなんだよな。普通の親だったら、自分の息子があんな音で鳴らしているということがわかったら、「近所迷惑だからやめろ」と、怒鳴り込むはずなんだぞ。頭がおかしいから、普通の人がまったく思いつかない行動をする。態度をる。「親の行動」として普通の人がまったく思いつかないことをするんだよ。普通の人だったら、絶対にありえない反応をしている。普通の人が、考える、親というものとは、まったくちがう行動を、うちの親父はしやがるのである。で、きちがい兄貴も、きちがい親父も、どれだけ、普通の人からずれているかということが、わかってない。ほんとうに、やっているときは、きちがい的な意地でやっていて、相手がなにを言っても、やり続けるのだけど、「やった」というつもりがないんだよ。相手が文句を言ってきても、それを無視して、頑固にやり続けたという、「認知全体」がぬけているんだよ。毎日毎日。一生のあいだ。ずっとずっと……。だから、「まったくそんなことはやってない」という認知で、ものを言うわけだよ。本人がやっているから、相手がこまっているのに、ほんとうに、まったくなにもやってないから、まったくなにも関係がない人としてふるまうのである。こんなの、きちがいとしか言いようがない。どれだけの意地でやっていると思っているんだよ。きちがい兄貴も、きちがい親父も、おなじ構造の脳みそをもっている。自分がやっていることで相手がまっているということが、まったくわからない脳みそだ。これ、いやがらせでやっているわけじゃないのである。自分が発狂して無視したら、そのとたんに、本人(たち)のなかでは終わっているのである。まったく関係がない人になってしまっているのである。まったくやってない人になってしまうのである。こんなの、普通の人にわかるわけがない。

お兄さんと話し合えばいい」「お父さんと話し合えばいい」「家族で話し合えばいい」とよく、ほかの人から助言されたけど、こういう助言をする人は、きちがい兄貴の頭の構造と、きちがい親父の頭の構造がわかってない。わかるわけがない。そして、一番わかってないのは、親父と兄貴なのである。だから、きちがい的な意地でやり通したことは、きちがい親父のなかではまったくやってないことになっているし、それに、気がつかないのである。ほかの人よりも、わかってないのである。おなじことが、きちがい兄貴にも成り立つ。きちがい兄貴のなかではまったくやってないことになっているし、それに、気がつかないのである。ほかの人よりも、わかってないのである。

だから、まあ、まったく関係がない人として、やり続けるんだよ。一日中やってたって、やってないつもりなんだよ。一日中やってたって、一秒もやってないつもりなんだよ。主観としてはそうなんだよ。じゃあ、「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言われたらどうかと言うと、発狂して、はねのけておしまいなんだよ。この「発狂してはねのけておしまい」という態度は、兄貴と親父でおなじなの。まったくおなじなの。こんなの、ありえない。自分が不都合なことを言われたら、発狂して、「それ」をやり続けるのだけど、本人は「まったくやったつもりがないまま」なのである。こんなの、ない。「不都合なこと」は、なんか、予感としてあるだけなんだよ。だから、意味内容が、わかってない。意識的なレベルでは意味内容はわかってない。無意識的なレベルでは、もし相手が言っていることを認めてしまったら、自分がゆずらなければならない(自分がやり続けることができない)ということがわかっている。それは、無意識的な内容なので、まっーーったく、まっーーったく、意識にのぼらないのである。相手が言ってきた内容は、もちろん、意識にはのぼらないようになっている。だから、どれだけ、相手がなにを言っても、「相手がこまっている」ということかわからないのだ。もうちょっと詳しく言うと、そして、「自分がやっていることで」「相手がこまっている」ということがわからないのだ。わからないままの「脳みそ」なのだ。わからないままの「脳みその構造」なのだ。だから、きちがい兄貴のように、毎日、続けてやることになるとこまるのである。けど、きちがい兄貴は、毎日、ずっと、やっていても、毎日、ずっと、文句を何十回と言われていても、自分との関係性がわからないままなのである。まるで、文句を言われなかったつもりで、鳴らし続けることができる。そりゃ、きちがい兄貴の頭が、それを受けつけないわけだから、こっちがどれだけ文句を言っても、文句を言われたことになってないのである。だから、本人は気楽で、相手に対して「まったくなにもやってないつもり」で話しかけることができるのである。こんなの、ない。頭がおかしいからできることなんだぞ。毎日やられているほうは、そういうことを言われて、発狂するほど腹がたつのである。けど、どういう理由で、腹がたつかということを、きちがい兄貴やきちがい親父に説明しても、きちがい兄貴やきちがい親父は、わからない。わかるわけがない。そんなのがわかっていたら、そんな行動をするわけがない。もともとの、行動をするわけがない。おしきってやって、知らんぷりなんだけど、知らないふりをしているわけではなくて、ほんとうに知らないのである。で、頭がおかしいのは、そのあと、もともとの行動をしても、まったく気にしないのである。このきちがいぐあいがわかるか? もともとの行動というのは、兄貴なら、ヘビメタ騒音を二階にあがって鳴らすことだ。親父の場合はその都度ちがうけど、ともかく、説明したらなおるというものではないのである。ほかの人は「なら、ちゃんと説明すればいいじゃない」とこれまた、気楽に言うのだけど、ほかの人もほかの人で、うちのきちがい兄貴に「ちゃんと説明しても、わからない」ということや、うちのきちがい親父に「ちゃんと説明してもわからない」ということが、わからないのだ。自分のことじゃないし、そういう特殊な脳みその構造をもつ家族と一緒に暮らしているわけではないからだ。そうすると、ぼくは、きちがい兄貴が問題行動をする場合は、きちがい兄貴とほかの人(よその人)のあいだにはさまれることになるんだよ。きちがい親父が問題行動をする場合は、きちがい兄貴とほかの人(よその人)のあいだにはさまれることになるんだよ。普通の親のもとで育った、「よその人」は、わからない。これまた、わからないんだよ。そうすると、ぼくがへんなことを言っていると思うんだよ。「そんなことないよ。ちゃんと説明すればわかってくれるよ」と言うんだよ。そういうふうに言われると、「あー、またか」と思う。失望感、破滅感がうまれる。幼稚園にあがるまえから、そういうことの繰り返しなんだよ。どうしてかというと、きちがい親父は、幼稚園にあがるまえの子供に対しても、きちがい行為をしていたからだ。幼稚園にあがってから、「よその人」……たとえば、幼稚園の教諭に、きちがい親父のことを言っても、幼稚園の教諭は普通の人だから、やっぱり、わからずに、「子供だから、大人の言うことがわかってない」と思ってしまうわけ。この大人というのは、きちがい親父のことだ。よその人に、きちがい親父のことを説明して、よその人が、そのまま、わかってくれたことがないんだよ。俺が言っていることをそのまま、理解してくれたことがない。表面的な理解なんだよ。「かみなりおやじかーー」とか。そういうことじゃないんだよ。

 

 いろいろなことがあったなぁーー。ほとんど、いやなことだ。

あーー。どうしても、つらい。きちがい兄貴のヘビメタ騒音でくるしい。きちがい親父の奇行でくるしい。

ヘビメタ騒音がなければ、親父がああであったとしても、普通に恋愛ぐらいできたのに……。どうしても、普通に恋愛できなくなる。親友と、ヘビメタ騒音の結果をめぐって、喧嘩することになる。友達と、ヘビメタ騒音の結果をめぐって、喧嘩することになる。これ、必然なんだよ。そして、だれもぼくではないから、そういうことにこだわっているのは、ぼくだけだということになる。どうしたって、男だと、「就職」ということが、話題になる。そういう時期がある。世間の人が想像するヘビメタのダメージと、実際のヘビメタのダメージがぜんぜんちがうのである。これは、友だちでも親友でもおなじだ。ともかく、他人が想像するヘビメタ騒音のダメージと、実際ぼくが経験したダメージのおおきさがちがう。ほかの人には、わからない。一倍速で、おなじ経験をすればわかる。けど、どれだけ説明したってわからない。たぶんだけど、『彼女』ともおなじことが起こると思う。

2023年2月28日火曜日

あーー、俺はいったいなにをやってたんだろうな

 記憶の残滓、残骸。

あーー、俺はいったいなにをやってたんだろうな。ヘビメタ騒音期間中も、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとも、めちゃくちゃにくるしい。くるしい記憶しかない。暗い気持ちで、さ迷い歩いていた。あとは、寝ていた。どっちもくるしい。 

たとえば、まだ気ちがい兄貴がこのうちにいて、ぼくがアパートを借りていた期間があるのだけど、その期間中だって、ヘビメタが鳴っていた。飯代を浮かすために、家に帰ってきてご飯を食べてたのだけど、ご飯を食べているあいだ、「あの」きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた。俺の勉強時間をぶち壊したヘビメタ騒音が鳴っていた。家から、アパートに向かうあいだ……アパートから家に向かうあいだ……ふがいない気持ちでいっぱいだ。

みんな、わかってないけど、ほんとうにものすごい音なのである。そして、きちがい兄貴のきちがい頭が、ものすごく頑固な状態で凝り固まっているのである。刺し殺さなければ、あるいは何らかの方法で殺さなければ、絶対にやめさせることができない。そして、きちがい兄貴の音が、気にならなかったかと言えば、気になった。きちがい兄貴が、あの音で鳴らしていて、影響をうけないということがないである。そういう一日が、どれだけつらいか、どれだけくやしいかわかってないと思う。それが何年間も毎日つみかさなっていいわけがないだろ。この時代の、学生なのだから。「家で勉強することができない」「家で勉強すると、いやなイメージが、教科の内容についてしまう」というようなことが、本当の意味でわかってないやつが、なにを、わかっているというのだ。くやしいにきまっているだろ。破滅的な気分になるに決まっているだろ。たとえば、ひとことで「それが何年間も毎日つみかさなって……」と書いたけど、「何年間も毎日」の意味がわかるわけがない。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、過去のことなら関係がない」なんて言うやつは、やっぱり、ぶんなぐりたい気持ちになるんだよ。そして、ぶんなぐらずに帰ってきたということにふがいなさを感じる。「言いきれない気持ち」がしょうじる。まるでわかってないな。どういう状態で、どういうことがもたらされたのか、一倍速で経験してみろ。この部屋で、あの騒音を経験してみろ。「ヘビメタ騒音が鳴っていたって勉強はできる」なんことはないんだよ。まあ、そいつが、ヘビメタ大好き人間ならできるかもしれないけど、そいつにだって「にがてなおと」はあるだろう。ヘビメタの音のでかさで、その音が鳴っていたら、どうなんだよ。あれは、ほんとうに、勉強ができない状態だ。勉強だけじゃないのである。勉強だけじゃない。ともかく、ヘビメタ騒音をあびてしまうと、眠れない状態になってしまうのである。

2023年2月27日月曜日

だから、「病気は精神から生まれる」「精神が病気をつくる」というようなことは、ない

 精神世界の人というのは、生まれの格差・下の人にケンカを売っているようなところがある。『精神的な人の思考』のなかでは、常に、『物理的なこと』が無視されるのである。

すべてが、「精神」の話になる。しかし、われわれは、肉体をもっており、肉体を使って生活をしているのだから、肉体は、物理法則にしたがう。からだに取り入れてしまった物質の影響をうける。

どうして、からだに取り入れてしまった物質の影響をうけるかというと、分子レベルの運動があるからだ。結合や移動も含めて、運動と言っている。

分子レベルと言ったけど、もちろん、原子レベルの運動も含んでいる。これ以降、分子レベルと言ったら、原子レベルのことも含んでいると思ってほしい。

だから、「病気は精神から生まれる」というようなことは、ない。注射をして、物質が体の中に入れば、物質の影響をうける。

その場合、ものによっては、うけないような感じがする場合があると思うけど、かならず、うける。

量がすくなくて、なおかつ、すぐに「分解」されてしまうようなものに関しては、うけないような感じがするかもしれないけど、かならず、うける。

「分解」されたということは、分子レベルの運動の結果、ある物質が分解されたということだ。意識レベルにのぼるかどうかにかかわらず、分子レベルの運動はある。そして、構造的な変化をうみだしてしまうものに関しては、長期間、そういう身体を背負って生きるということになるのだから、当然、長期間、影響をうけるということになる。

分子レベルの運動の結果、なんらかの長期的な障害がしょうじたとすると、当然、その肉体をつかっている以上、生活に変化がしょうじる。これは、あることができるとか、あることができないということに、影響をあたえる。

特に、体内のなかで起こっている変化に関しては、表面から見て、判断するということがなかなかできないわけだから、問題がある。ようするに、腕がないとか足がないというような見てわかる障害ではなくて、体内の「見えない部分」に障害があると、他人や自分からは見えないわけだから、他人や自分の判断に影響をあたえる。

たとえば、Aさんと、Bさんがいたとする。Bさんが、見えない部分に障害を抱えているとする。その場合、Aさんからは、Bさんの障害が見えないわけだから、「Bさんができるかどうか」ということに関するAさんの判断に影響をあたえる。ヘビメタ騒音が脳内にあたえた影響、ヘビメタ騒音が副腎にあたえた影響は、他人からは見えない。本人だって、「見て」確認することは、通常できない。

その場合、「エイリさんは働ける」とそとから見て思った人は、ぼく(エイリ)が働けないと言うと、それは、あまえだと判断する。そして、「病は気から」「病気は精神からしょうじる」というような考え方をもっている人からすれば、「こころのもちよう」で、そんな障害はなおってしまうということになる。あるいは、最初から、障害はしょうじていないということになってしまう。

これが、やっかいなのだ。

きちがい家族によるヘビメタ騒音がどういう騒音なのかわかってない。それがどれだけ毎日の生活に影響をあたえるかわかってない。そして、それが、数千日も繰り返された場合は、言ってみれば「定着してしまう」「固定的な症状になる」ということが、わかってない。これは、物理刺激によって、しょうじた障害だ。

けど、経験した人じゃないと、わからないことなのだ。「そうなる過程」を一倍速で経験すれば、たしかに、そういう障害が(人間には)しょうじるということが、自身のからだをもってしてわかるのだけど、自分のことでなければ、わからない。 

精神的なことだけを重視する人は、分子の運動を無視してしまう。あるいは、分子の運動の結果を無視してしまう。精神的なことだけを重視する人の足を切断すれば、血が流れる。これは、分子の運動だ。

さらに、その結果、足がなくなった場合は、そのときのナイフを構成する分子と、自分の足を構成する分子の運動の結果、足がなくなったということになる。精神的なことだけを住する人なのであれば、血が流れず、足をうしなうということはないのである。

精神的なことだけを重視する人が、致死量の青酸カリを飲み込めば、死ぬのである。

それは、青酸カリの分子と、その人の肉体を構成している分子の『運動の結果』なのである。「病気は精神から生まれる」と考えている人は、自分が致死量の青酸カリを飲んでも、死ぬことがないと思っているのである。

どうしてなら、「病気は精神から生まれる」からだ。

精神が、青酸カリの物理的な運動を受け入れなければ、肉体は、青酸カリの物理的な運動をうけずにすむのである。あるいは、青酸カリの影響は、精神がつくっているのである。

こういう、妄想は、人を傷つけるので、よくない。

自分の肉体にのみ、その法則を適応していればいい。ただ、本人がそう思っていても、本人が人であるならば……人間の肉体をもつのであれば……取り入れた物質の影響をうけることになる。不可避的に受けることになる。物質がある種の毒であれば、病気がしょうじる。

こういう人たちの考え方は、「病気にならない」と言えば、病気にならないと思っている言霊主義者とおなじなのである。思っているだけ……。肉体を無視したから、そういうふうに考えているだけだ。

けど、『考え』と『本人の肉体』はちがう。本人の肉体だって、人間の肉体なのだから、人間の肉体としての特質をもっている。その特質に反応する物質を取り入れれば、人間の肉体とその物質との間に物理的な運動がしょうじる。

これは、意識では、どうにもならない。この運動を意識で制御することがでない。この運動を意識で制御することができないので、この運動の結果は、意識とは関係なくしょうじる。

ただ、「俺は病気にならないと思っているから病気にならない」とうそぶいている人とおなじなのである。そういうレベルのことを言っているだけなのである。

むしろ、「俺は病気にならないと思っているから、病気にならない」と言うことは、肉体の分子的な運動の結果なのである。脳内の物質的な運動の結果なのである。そういうことを思える、そういうことを言えるというのは……彼らが無視している……人間の肉体のおかげなのである。『脳みそ』という臓器をふくんだ『人間の肉体』のおかげ……。

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本人の「精神」が現実をつくりだしているというのも、まちがっている。自分の精神が、現実の物質的な世界に影響をあたえているのである。影響をあたえているというのは、この場合は、現実をすべてつくりあげているということなのである。

たとえば、DS支配者が、ワクチンを接種させようとした……。これは、現実だ。

そういう現実もすべて「自分」の「精神」がつくりあげた現実だと、思い込もうとしているのである。こういう、「わな」がある。これは、まちがっている。

けど、いろいろな言い方で、このコンセプトがあらわれて、その人を幼稚な状態にしてしまうのである。その人の個人的な「精神」がすべての世界を構成しているなんてことはないのに、そうなのだと信じ込んでしまう。

このトリックは、いろいろなところで成り立っている。「精神が病気をつくる」いうのもこのトリックのひとつだ。分派みたいなものだ。 

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自分の精神が、現実をつくっている……のである。けど、ちがう。

「自分の精神」が「現実のありよう」を決定しているというのは、その通りなのだけど、それは、自分がかかわっている範囲で、そのように『考えることができる』というだけの話だ。

別に、ほんとうに、物理的な現象まで、ふくめて、「自分の精神」が「現実」に反映しているわけではないのである。この、現実が自分にとってどういうふうに見えるかとという問題と、物理的な問題をごっちゃにしているだけなのである。

自分がかかわってない、世界の動き……他者の動き……というのは、自分の精神とは関係なしに動いている。他者は他者で、「自分の精神」があるということが、根本的にわかってない。他者も、自分のように「自分の精神」をもっている存在なのである。

これがまったくわかってない。

他者は、「自分の精神」のなかで、集合的であり、自分の精神との通りに動く他者なのである。これは、傲慢だ。ほんとうに、他者は他者で、「自分の精神」があるということが、根本的にわかってない。

自分の精神をもってる他者というのが、自分の精神のなかで生きている、他者全体なのだ。

だから、他者全体の動きからしょうじる結果も、自分の受け止め方次第ということになり、自分がつくりだしているということになってしまう。

完全にまちがっている。


話で聞いた異常者と、実際の異常者はちがうのだ 「家族の格差・下の中」以上の人にはわからない

 けっきょく、ほんとうに、どうしようかな?

どのみち、人は死ぬ。それはたしかだ。しかし、しかし……。しかし、しかし……。やっぱり、生まれの格差があるよ。特に、家族の格差はどうにもならない。影響をうけるに決まっている。

しかし、家族の格差「上」「中」の人が、家族の格差「下」の人の言っていることを無視して、勝手に、軽蔑してくるのだ。

どれだけのハンディになるかわからない。やつらは、わかってない。

不可避的に影響をうけるのに、『影響をうけないのは可能だ』というような前提でものを言ってくる。さらに、影響は未成年時代に限られて、未成年時代の影響は、成年時代以降に影響をあたえないというような前提でものを言ってくる。

どれだけ、「下」の人にくらべて、「中」「上」の人が、下駄をはかされているかが、わかってない。特に、「下」のなかでも「下」である、下の下の人の場合……ほんとうに、人生を破壊される。

けど、家族の格差「下の下」以上の人は、そういうことを認めない。家族の格差「下の中」の人ですら、認めない。

言っておくけど、家族の格差「下の下」は、異常者である場合の家族だ。家族の格差「下の中」以上は、正常者である家族ね。

異常者がそんなに多いはずがない。

問題なのは、異常者とのトラブルと、正常者とのトラブルの区別がついてないのだ。正常者とのトラブルしか経験してない人は、「家族とのトラブル」と言えば、当然、自分が経験した「正常者とのトラブル」になる。人の話を聞いたってわからない。

どうしても、「俺だって……」「自分だって……」「わたしだって……」と思えるトラブルが、いくつかはある。そりゃ、人間だからね。けど、正常者と異常者はちがう。完全にちがう。異常者と住んでいる人は、異常者がおかしいということがわかるけど、正常者と住んでいる人は、異常者の「特徴的な部分」というのが、根本的にわからない。

どうしても、似たようなストーリーで考えてしまう。あるいは、正常者が異常者についての話を聞いた場合の、異常者にかかわる典型的なイメージでとらえてしまう。

けど、話で聞いた異常者と、実際の異常者はちがうのだ。どのみち、異常者の「へんな部分」に関しては、いっしょに住んでいる人しかわからない。

これは、金持ちが考える貧乏人のイメージと似たようなところがある。話を聞けば、貧乏人のイメージがわくのである。その貧乏人のイメージと、実際の貧乏人の生活はちがうのである。まあ、こういうことを言っても、さらに、わからなくなるとは思うけど……。

まあ、貧乏とかおカネとか、そういう話のほうがわかりやすい。異常な家族に関しては、正常な家族と暮らしてきた人には、わからない。どう説明したってわからない。そして、実際に、異常な家族と接触し続けて、迷惑をかけられ続けたわけではないので、ほんとうの部分に関しては、イメージがわかないのである。典型的な、なにかそれ……に置き換えられてしまう。

そして、家族のことを異常者だというのは、悪いことだということになっているのである。これは、共同幻想としてそうなっている。なので、実際に異常な家族のもとに生まれてしまった人は、ずっとずっと、誤解をされるということになる。これ、誤解なんだけど、誤解だということが、「家族の格差・下の中」以上の人にはわからない。 

トラブルの必然性を無視して、二項目文を語るのはよくないことだ。まるで、自分なら、トラブルを事前に避けられると思っている。まるで自分なら、トラブルの影響をうけないようにすることができると思っている。ちがう。ちがう。ちがう。ちがうんだよ。

トラブルの必然性や、改善不可能性みたいなものがあるのだ。きちがいの頭のなかにはそういうものをうみだしてしまうなにかが、はいっている。まあ、もっと正確に言うと、なにかがはいっているというよりも、頭の構造なんだけどね。

(「の」の重複については、指摘しなくてもいいです)。

2023年2月25日土曜日

こういうことの繰り返しが、「つかれ」や「たのしめないこころ」につながっている

 なんか知らないけど、もう、いいわ。俺……。あーー。もう、いいや。

もう、つかれたな。

また、ネズミのことを考えていた。俺は、殺したくなかったんだ。特に、窒息させるのはいやだったんだ。けど、空気穴をあけてやると、そこから、細菌や寄生虫がでて、俺が病気になる可能性があった。ほんとうは、穴をあけてやりたかった。けど、やっぱり、その袋を置いておくところがない。そとに置くしかなかったのだけど、外に置くと、その空気穴から、ハエがはいったりすると、うじがわいて、たいへんなことになる。カラスや猫が、袋を破いて、食べてしまうかもしれない。きれいに食ってくれるならいいけど、そうはいかないだろう。

だから、工事をしようと言ったのに……。だから、「親父が病気になって入院したら俺が捨てることになるから、工事をしよう」と言ったのに……。「俺がネズミシートを捨てるからいい」とおやじが言って、ゆずらなかった。頭がおかしいから、会話になってないんだよな。「(おやじが)入院したらこまるだろ」……「ニュウインシナイヨ!!ニュウインシナイヨ!!ニュウインシナイヨ!!」と発狂して絶叫。

「(おやじが)死んだらこまるだろ」……「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」と発狂して絶叫。「俺がネズミシートを捨てるからいい」と親父が発狂して絶叫。発狂して、絶叫。話にならないんだよな。こまるんだよな。けっきょく、入院して死んだわけだ。俺が、ネズミシートを片づけなきゃならないことになっただろ。ネズミが、ネズミシートの上で死んでいる場合はいいんだよ。生きているときは、こまるんだよ。俺は、そういうことをしたくないんだよ。したくないから「親父が病気になって入院したら俺が捨てることになるから、工事をしよう」と言ったのに……。

「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」「オレガカタヅケルカライイ」「オレガカタヅケルカライイ」と、よだれをたらしながら、真っ赤な顔をして、絶叫している姿を見て、どう思うよ? ネズミの糞が散らかった部屋で……。

こういうことの繰り返しが、「つかれ」や「たのしめないこころ」につながっている。「元気だ元気だ」と言えば元気になるか? 「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるか? 「死なないよ」「死なないよ」と言えば、死なないからだになるか? 

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ちなみに、親父のネズミシートに対する態度と、兄貴のヘビメタに対する態度がまったくおなじだ。親父の場合、「反対語を叫ぶ・バージョン」と「無口・バージョン」があるのだけど、兄貴の場合は「無口・バージョン」しかない。けど、「反対語を叫ぶ・バージョン」と「無口・バージョン」の内面的なこころの動きはおなじだ。まったくおなじ。おなじ過程。相手の言っていることを無視して、頑固に、顔を真っ赤にしてやりきるけど、やったつもりがぜんぜんないのだ。まっーーったく、まーーっっったく、ない。だから、そういうところが、「普通の人」にはわからないのである。普通の家で育った人にはわからない。普通の家族のもとで暮らしている人には、まったくわからない。なので、言っても信じない。こっちがそういうふうなことを説明しても、感覚としてわからないし、経験としてわからないから、説明された人は、信じない。経験がないのである。家にいる気ちがいが、どういうふうにくるっていて、どういうふうな主張して、どういうふうな態度で、どういうふうな行動をするのかわかってないのである。なので、「ぼくが」へんなひとだと思われてしまうのである。説明をしている人がへんな人だと思われてしまうのである。へんな家族の説明をしている人が、へんな人だと思われてしまうのである。こんなの、ない。そして、きちがい家族のほうは、感覚器を書き換えて、ほんとうにつもりがないままやっているのである。だから、本人としては、それが終われば、終わった瞬間に、「やった」という記憶がないものになってしまうのである。「やったつもりがないこと」になってしまうのである。だから、何万回もめても、一回ももめてない状態で、本人はやってしまうのである。なら、「言えば」やめてくれるのかというと、きちがい的な意地でやって、やめてくれない。「やめなかった」という記憶がない状態なのである。「相手がやめてくれ」と言ったのに、「やめてやらなかった」という記憶がない状態で生きているのである。毎日毎日、やりきるのに、毎日毎日「やってやらなかった」という記憶がない状態で生活しているのである。しらんぷり、だよ。けど、この、しらんぷり、というのが、病的な知らんぷりなのである。きちがい的な知らんぷりなのである。普通のしらんぷり……あるいは、「の」が重複するけど……普通の人の知らんぷりというのは、しっているのに、しらんぷりなのである。きちがい兄貴と、きちがい親父の場合は、ほんとうに、しらないのである。きちがい的な意地で、やりきるのに、しらない。「やめてくれ」と言えば、真っ赤な顔をして、発狂してやりきるのに、しらない。やってないつもりのまんま。やっているさいちゅうからやっているつもりがない。まったくない。まったくない。こういう毎日なんだぞ。「言えばわかってくれる」「ちゃんと説明をしないのが悪いんだ」と言われるのである……。俺が……。そして、「しずかにさせることができなかったのなら、自己責任」と言われるのである。俺が……。きちがい家族にやられてこまっている俺が、きちがい家族にやられてこまったことがない人に、わかったようなことを言われる。説教される。そういうことになってしまうのである。「健康管理ができないのはだめだ」「健康管理能力がない」と言われるのである。俺が……。「朝、起きられないなんてというのは、あまえだ」ときちがいヘビメタ騒音に毎日さらされたことがないやつが言うのである。おまえ、どれだけ、つらいと思っているんだ」と言ってやりたくなる。こういうやつに言ったって、(相手は)ヘビメタ騒音の毎日をほんとうに経験したわけじゃないから、ヘビメタ騒音が鳴ったって、俺なら、遅刻しないで通勤通学ができるという前提でものを言ってくる。「そんなのは、関係がない」「そんなのはあまえだ」『俺だって、騒音ぐらいある』『俺だって、朝、つらいときはある」……と言う。けど、その人(僕にそういうことを言った人)は、普通の家族と住んでいて、きちがいヘビメタ騒音を実際に、聞かされているわけではないのである。毎日毎日、自分がこの世で一番嫌いな音を、あの音圧で、あの音のでかさで、聞かされているわけではないのである。

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2023年2月24日金曜日

言霊主義者は、体内の物理法則を無視してしまう。しかし、物理法則が成り立っている。人のからだについてまちがったことを言うな

 ヘビメタ騒音がなければ、言霊の人があらわれたときだって「そうですよ」で、すんだ。完全にすんだ。

けど、ヘビメタ騒音があるとそれでは、すまない。言霊が成り立たなかったという経験がある。

くるしいなかで、どれだけなにを言っても、それは、現実化しない。

普通の人が言霊にこるのは、自己暗示の部分の有効だからだ。けど、それなら、自己暗示は有効だと言えば済むことだ。言ったことが、現実化すると言うべきではない。言ったことと、出来事が、時間的に接近している場合、言霊を信じている人は「言ったからそうなった」と思ってしまう。

けど、それは、「言ったから」ではなくて、別の理由でそうなっている。あとは、自分の身体系のことで、意識的な意志にしたがう、肉体的な動きは、たしかに、自分が言ったあと、そのように動けば、そのように動いたということになる。これは、言ったことが現実化したということだ。

けど、それは、自分の意思で肉体的な動きをしただけで、肉体的な動きができる状態でそういうふうに言って、そういうふうにしただけだ。身体的なことでも、自分の意思ではどうすることもできないことがある。たとえば、あのワクチンのm-RNAは、ACE2受容体から、細胞内に入るのだけど、自分の意思でそれをやめさせることができるかというとできない。

ACE2受容体は、栄養素を細胞内にとりこむための受容体だ。m-RNAの一部を、栄養素に似た配列にしたので、ACE2受容体が勘違いして細胞内にとりこんでしまう。

(これ以降の文は、いろいろな理由があって省略・中略)

そのあと、m-RNAは、核によっていって、いろいろな「わるさ」をするのだけど、それは、省略する。いろいろと、省略するけど、m-RNAに侵入された細胞は、細胞膜がこわれて、なかみがでてしまう場合と、スパイクたんぱく質が細胞膜から突き出た状態になる場合がある。

スパイクたんぱく質が細胞膜から突き出た状態になると、やばいことがしょうじる。たとえば、毛細血管の内側というのは、つるつるなんだけど、突き出たスパイクたんぱく質の(とげ)によって、つるつるではない状態になってしまうのである。

このような状態になると、血小板が毛細血管の内側にかたまり(血栓)をつくってしまうのである。全身の毛細血管がつまると、「だるい」と感じるようになるのである。けど、通常の検査では、毛細血管がつまっているというのはわからない。

なので、慢性疲労症候群だと判断される場合が多い。まあ、血小板が減っているということはわかるので、血小板減少症だと判断される場合もあると思う。この場合、m-RNAに対処しなければならないのだけど、日本の医者はm-RNAには対処しないのである。

なので、血小板を増やすような方向で治療をおこなうのだけど、もともとの、原因であるm-RNAをどうにかしないとだめだろうと、ぼくは、思う。血小板減少症でもだるいと感じることはあるのだけど、ともかく、全身の毛細血管がつまっているだけで、だるいと感じるのである。人間は……。この場合、病(やまい)は気からと「気のせい」にしてもしかたがない。

しかし、「だるい」というのが、主観的な感情や感覚の表現なので、気のせいにしてしまう場合もある。ながながとm-RNAの説明をして、なにを言いたいのかというと、体内の物理的な運動を無視するなということを言いたいのである。たしかに、ほうっておけば、回復する「だるさ」もある。しかし、ほうっておいても、回復しない「だるさ」もある。

だから、「だるい」と表現されることでも、このふたつは、区別しなければならないのである。けど、言霊主義者は、この区別をしない。「元気だ!元気だ!」と言えば、かならず、言霊の力によって、元気な状態になるのである。

「だるくない!だるくない!」と言えば、かならず、言霊の力によって、だるくない状態になるのである。例外なく、かならず、言ったとおりになるのである。言っても、その通りにならないなんてことはないのである。「すぐに元気になる」と言えば、かならず、すぐに元気になるのである。どうして元気になるかというと「すぐに元気になる」と言ったから、元気になるのである。

しかし、たとえば、全身の毛細血管に血栓ができている場合は、毛細血管の血栓をとかして、除去したり、スパイクたんぱく質を除去して、普通の毛細血管にしなければならないのである。さらに、そういうことをひきおこしたm-RNAを無効化しなければならない。そういうことをしないで、「元気だ!元気だ!」「 だるくない!だるくない!」と何回も何回も言っても、元気にならない。だるい状態が続く。

なので、言っても、その通りにならない状態が続く。

だから、言霊は宇宙をつらぬく絶対法則ではない。むしろ、物理的な運動が宇宙をつらぬく絶対法則なのである。からだの内部にある原子的な、あるいは、分子的な運動や、その結果を無視して、「気のせいだ」と言ってもしかたがないのである。自己暗示的な意味で言霊をつかっている場合は、それでいい。希望がかなうと信じて行動するのはいい。けど、からだのことについて、まちがったことを言うのは、問題がある。

毛細血管の血栓について話したのだけど、きちがいヘビメタ騒音にさらされた場合も、「からだのへんか」がある。けど、普通の人は、騒音なら回復可能なダメージだと思ってしまうのである。なので、心理的な問題だと思ってしまうのである。実際に「だるい」と言ってしまった場合には、「感情」の問題になる。けど、ヘビメタ騒音のダメージをうけないで、「だるい」と言っているのと、ヘビメタ騒音のダメージをうけて、「だるい」と言っているのは、質的にちがいがある。けど、そういう質的なちがいを無視して「気分の問題だ」と判断されてしまうのである。たとえば、朝、学校に行きたくないとする。それは、気分の問題だと思われてまう。もちろん、きちがいヘビメタ騒音ですでにトラブルが多発しているのだから、生きたくなくなる理由はある。けど、前の日!約七時間、過激なヘビメタ騒音にさらされたということが、重要なことなのである。物理刺激と、それに対する体の反応というものがある。肉体をもって暮らしているのだから、当然、肉体の影響をうける。ヘビメタ騒音を七時間あびたあとは、何時間も何時間も眠れなくなる。入眠できなくなる。これは、人間の体の物理的な反応なのだけど、きちがい家族が絶対に約七時間、きちがい的な音を鳴らし続けるということを、毎日毎日、経験したことがない人にはわからないことだ。ちがうのである。一時的な騒音とはちがう。毎日毎日、続くわけではない騒音とはちがう。ぜんぜんちがう。からだの物理的な反応がちがう。そして、睡眠に影響が出ると、次の日のすべてに影響が出てしまう。これも、睡眠時間が極端に少ないけど、精神で乗り越えるということは、一時的にはできるけど、毎日続いた場合は、できない。ようするに、精神で乗り越えようとする努力が、新たな問題を生み出してしまうのである。それも、自分のからだにかかわることだ。自分のからだのなかの、物理的な運動にかかわることだ。これ、自分のからだのなかの、物理的な運動を、自分の意志で制御することができないのである。しかし、精神世界の人や、家族による継続的な騒音を経験してない人は、からだのなかの、分子的な運動を無視してしまうのである。からだのなかの、分子的な運動の結果を無視してしまうのである。どうしてかというと、第一には「他人のからだのこと」だからだ。第二には、「精神」だけを重視して、肉体を軽視してしまうからだ。

 

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あと、ここを読んでいるかどうかわからないけど、遠隔ヒーリング(遠隔治療)というのも、詐欺だとぼくは思う。統失の人のなかにも、いい人はいる。あなたは、いい人だと思う。ただ、やっぱり、アトラクションの近くにいたから恐怖を感じたということと、毎日のヘビメタ騒音はちがう。一四年間、毎日続いた、騒音とはちがう。効果がちがう。影響がちがう。

 

 

何十年も前から、知ってます。

 いちおう、言っておきますけどぉ~~、自営業の人はきらいじゃありません。セミナー業の人は、きらいじゃありません。セミナー業ってようするに、講師業ね。たとえば、「ニコニコすればいいことがある」というようなことでおカネをかせぐ人とか、「言ったことが現実化する」というようなことでことでおカネをかせぐ人とかは、個人的にはきらいじゃないんです。あくまでも、個人的には、ということなんですけどぉ~~。

その人自体のことは、ぼくはきらいじゃないんです。ユニークな人たちですからね。けど、言っていることには、いろいろと言いたいことがでてきます。

それから、ぼくは、そういう人たちは、たくさんいると思っているので、だれか個人に説明しているわけではありません。たとえば、「笑う門には福があるというように、笑っていれば、いまはどんだけつらくても、そのうち、いいことがある」というような考え方は、何十年も前から、知ってます。宗教的なことに関しても、ぼくは、何十年も前から知っているんです。だから、何十年も前に本を書いていた人のことを思い浮かべて、自分の理論について説明していることもあります。なので、いま、かせいでいるだれだれ、というのは、関係がありません。

まあ、自営業じゃなくて、会社の社長で、ほかのことでおカネをもうけて、そして、精神的な二項目文を言う人たちもいますし、大学の教授で、教授としておカネをもうけて、そして、精神的な二項目文を言う人たちもいます。この人たちに対する感情は、前述の自営業の人たちとは、ちょっと、ちがうんですよね。

だいたい、個人事業主的な人たちと、社長や大学の教授みたいな人たちは、ちょっとちがうんですよ。

2023年2月22日水曜日

ツキがあるとか、ツキがないということは、だいたい、生まれの格差で決まってしまう

ツキがあるとか、ツキがないということは、だいたい、生まれの格差で決まってしまう。どこに生まれたかで決まってしまう。なので、別に、生まれの格差「上」で「ツキ」がいい人は、別に自分の「実力」でツキを呼び寄せたわけじゃない。わかるかな? だから、ツキを呼び寄せる「方法」を知っているわけではない。けど、そういうふうに言う。あたかも、自分がついているのは、自分がツキを呼び寄せる方法を知っていたから、ツキを呼び寄せることができて、ついている状態になったのだということを言う。本人は、嘘をついているつもりはないと思うけど、本人の思い込みに、誤謬がある。まちがったことを信じている。

どれだけ、むりなことを要求しているのかまったくわかってない。

 ほんとうにヘビメタ騒音で人生がない。全部がくるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。くるしい。ヘビメタがなかった世界に行きたい。なんで、ぼくだけ……。ほかの人が絶対に理解できないハンディ。障害を背負ってしまった。ヘビメタ騒音障害というのは、ほんとうに、ほかの人には理解できないことなのだ。「鬱になるな」といってもむりなのに、そのむりなことを、ほかの人が要求してくる。そりゃ、ほかの人には、きちがい兄貴もいないし、きちがいヘビメタもないので、鬱にならないことができる。幼児のときから……というか、赤ん坊のときから、きちがい親父にやられて、人よりはくるしい状態で暮らしてきた。けど、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、普通だったのである。みんな、普通の生活が成り立っているところで、二項目文を言うわけだ。Xをすれば、Yになる」と言う。けど、ヘビメタ騒音がはじまってからは、それは、成り立たない。むりなことなのだ。どれだけ言ったって、むりだという部分がわからないと思うけどむりなのだ。ところが、二項目文を言えるような、普通の人は「どんなにつらくたって」「どんな条件だって」「どんな環境だって」と簡単に言ってしまう。簡単に付け足してしまう。どれだけ、むりなことを要求しているのかまったくわかってない。

2023年2月20日月曜日

めぐまれた人は、きちがい的な家族のことが、本質的に、根本的にわからない

 精神世界の人は、基本的にめぐまれた環境のなかで育ってきたと言える。家族にめぐまれた人たちなのだ。めぐまれた人たちは、絶対に、きちがい兄貴の原理を理解しない。絶対に、きちがい親父の原理を理解しない。そして、可能ではないことをおしつけてくる。自分の世界では可能なことだ。しかし、ヘビメタ騒音にずっとやられると可能ではないことになることなのだ。で、「可能ではないことになる」という部分が、たぶん、死んでもわからないだろうな。

めぐまれた人は、きちがい的な家族のことが、本質的に、根本的にわからない。きちがい的な家族と一緒に住むということがどういうことなのか、本質的に、根本的に、わからない。きちがい的な家族がどういう感覚でどういうことをするのか、ぜんぜんわかってない。そして、そういう行為の総体が、やられた人にどういう影響をあたえるのか、ぜんぜんわかってない。

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手短に言うと、精神世界の人が、きちがい家族にやられた人を、自殺に追い込む。そういう傾向がある。もちろん、これは、傾向だ。一〇〇%そうだとは言わない。 

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たとえば、人数的なことを言うなら、異常な家族のもとに生まれた人のほうが、圧倒的に少ない。そりゃ、異常な家族がのほうが、割合として大きいなら、それは、正常な家族になってしまう。多数のほうが、正常。少数のほうが、悪い意味で、異常なのだ。だいたい正常な家族のもとに生まれた人が九五%。異常な家族のもとに生まれた人が五%だとする。その場合、九五%の人は、五%の人のことを理解しない。九五%にとっての家族について語りだす。九五%にとっての、人間というものについて語りだす。九五%にとっての、幸福というものについて語りだす。

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はっきり言うと、めぐまれた人の「人間観」が幼稚すぎる。これは、他者に対する思いやりが、じつは、ないということだ。そりゃ、理解できないのだから、思いやりもくそもない。他者というのは、特殊な他者ね。五%のほうの他者だよ。まったく理解してないのだから思いやりもくそもなぃ。めぐまれた人の口から出てくる言葉というのは、必然的に、特殊な他者をくるしめる。

まあ、ぜぇーーーーったい、わからないと思うけど。けど、いちおう、語っておこう。そいつらがわからなくても、五%は理解するからいいや。めぐまれた人たちが言っていることは、ただ単に、幼稚なだけ。わかってない。わかってないということも、わかってない。けど、たとえば、「憂鬱な顔をしている人」「不機嫌な顔をしている人」というような形で、いろいろと言ってくる。無理難題をおしつけてくる。きちがい的な家族にやられなければ、別に無理難題ではない。けど、きちがい家族にやられたら、むりなんだよ。そこのところが、まるでわかってない。だから、九五%は、そういう「道徳観」や「人間観」で生きているから、五%の人のことは、無視して、そういう道徳観にそくしたことや、そういう人間観にそくしたことを言ってくる。けど、言う場合は一〇〇%の人なんだよ。ようするに、彼らは別に五%の人と九五%の人のことを、わけて考えてない。ほんとうは、わけて考える必要がある。けど、幼稚で、人生経験がないからわからない。人生経験がないというのは、きちがい家族のもとに生まれた経験がないということだ。だから、きちがい家族のもとにうまれると、どういうことになるか、まったくわかってない。わかってないまま、人間とはこういうものだという理論を語りだす。ただ単にわかってないだけなんだけど、わかってないということもわかってない。


生まれの格差という初期値を無視しているやつが、ニセの原因を持ち出して、人をせめる。


おカネを擬人化して扱うのはよくない。たとえば、以下のような意見があるとする。


引用開始--------
おカネが出ていくときは「また帰ってきてね」とこころなかでつぶやき、おカネが入ってきたときは、「よく帰ってきてくれたね」「いい子だいい子だ」とこころのなかでつぶやく。そういう人がおカネをたいせつにしている人だ。おカネにも心があるから、自分を大切にしてくれた持ち主のことを覚えている。おカネをめでる人のところは、おカネが集まってきて、おカネをめでない人のところには、おカネは集まってこない。おカネに感謝しない人のところにはおカネはよってこない。人間だってそうでしょ。感謝する人のところに人が集まって、感謝しない人のとことにには人が集まらない。

引用終了-------



この場合、生まれの格差を無視している。ただ単に、おカネに好かれる人と、おカネに嫌わる人という区別をしている。生まれの格差があるのに、それは、頑固に無視して、おカネに好かれる人はこうだ。おカネに好かれない人はこうだと言っている。

そして、これがまた、性格に由来することなのだ。おカネに好かれる人は、性格がいいからおカネに好かれる。おカネに好かれる人は、行いがよいから、おカネに好かれる。

反対に、おカネに嫌われる人は、性格が悪いから、おカネに嫌われる。おこないが悪いからおカネに嫌われるということになる。そうなる。生まれの格差(カネ)下の下に生まれた人の立場がない。勝手に、性格が悪い人間にされてしまう。勝手に、おこないが悪い人間にされてしまう。おカネがあるかどうか……そういうことは、かなりの部分まで、生まれで決まってしまう。そういうことを認めないで、ただ単に、性格のせいにしたり、行動のせいにしたりする。

この行動というのが、また、悪魔がつくった圧力容器のなかで、お金をかせぐための行動を意味しているのではなくて、フェチズム的に、おカネをかわいがるかどうかという行動を意味しているのである。おカネをフェチズム的に扱い、擬人化して物事を語る人は……じつは、現におカネがない人をディスっている。悪口を言っている。侮辱している。

けど、そういうことにまったく気がつかないのだ。おカネがないのは、……その人の考えで言えば……おカネをかわいがらないからなのである。かわいがらないから、おカネがない。かわいがれば、おカネが集まってくる……。こういう魔法の世界の話なんだよね。

けど、生まれの格差だけは、頑固に無視する。

影響がないと思っている。本人は、たぶん、生まれの格差・中以上の人なんだと思う。

そうじゃなきゃ、わかっている。

生まれの格差がどれだけの影響をあたえるかわかっている。

こういう精神世界の人は、ほんとうに、生まれの格差を無視している。そして、ほかのところに原因を求めて、ほかの原因について語りだす。けど、これが、嘘の原因なのだ。その人のなかでは、本当の原因なのだろうけど、「現実」的にはウソの原因だ。

これは、本当の原因を無視して、二項目文をつくりあげて、悦に浸っている人にも言えることだ。それが単なる自己満足なのならいいけど、ほんとうの原因で、苦しんでいる人を、ディスっている。悪口を言っている。

この、本当の原因を無視して、ちがった原因(原因としてはまちがった原因)を持ち出し、まちがった原因が影響をあたえているということを言って、げんにこまっている人たちを、悪く言うということが、はやっている……。

これは、実は、悪魔の容器のなかで行われる悪行だ。

こういう精神世界の人たちは、口を開けば、「悪口はいけない」と言うけれども、実際には、悪口を言っている。侮辱している。ほんとうの原因を否定され、ニセの原因を持ち出され、ニセの原因のせいでそうなっていると言われている人の気持ちを考えたことがあるか? ニセの原因だと思ってないので、そういうことを考えたことがないのだろうと思うけど。ニセの原因は、性格に由来する原因なのである。

なので、ニセの原因で、「悪い」人が、実際にみじめな思いをしているということになる。その理論のなかでは、常にそうなっている。なので、現にこまっている人をディスっている。これ、自分のほうがさきにパンチを繰り出しているのに、まったくわかってないな。

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はっきり言えば、生まれの格差・下なら、どれだけおカネが好きだって、おカネがない状態になる。おカネがない状態ですごすということになる。悪魔の容器のなかでは、初期値の格差は、時間が経過するとともに広がっていく「傾向がある」。かならず、そうなるとは言わないけど、ようするに、不利な状態で暮らしているうちに、不利なことが状態が強固になる傾向がある。初期値は単なる初期値ではなくて、悪い経験が時間とともにつみかさなっていくのである。

そして、大人になるころには、固有の条件になってしまう。初期値の格差が、そのまま続くか、あるいは、拡大する傾向があるのだか、まず、それを考えなければならないのである。(固有の条件というのは、たとえば、就職に有利な大学を出ているかとか、事業をおこせる条件があるかどうかとか、自営業をするのに有利な条件をもっているかどうかというようなことだ。

大人になったときの、ある人の固有の条件は、それまでの行動や行動の結果によって形づくられている。「なら、行動なのではないか」と思うかもしれないけど、行動が、初期値によって、限定されているのだ。つまり、親のカネとか、親の人脈とか、親のカネに対する態度によって、限定されている。

たとえば、子どもを大学に行かせやすい親なのかどうか……こういうことが、実際には影響をあたえている。大学に行かずに個人事業主として、おカネをかせぐ場合も、それまでのことが影響をあたえている。どういう家に生まれ育ったかということは、その人が、どの程度、カネをかせげるかどうかということに影響をあたえている。もう、成人する前に、差がつみかさなっている。

実は、おカネに好かれない人というように、マイルドな言い方をしているけど、ようするに、貧乏人のことだ。おカネがない人のことだ。おカネがない人は、おカネをかわいがらない「から!!」おカネがないのである。ならば、おカネがない人が、一日中、おカネをかわいがったらどうなるか? 貧乏なままだ。

どうして、これがわからないのか。このペテン。そして、性格の悪さがおカネがない状態にむすびついている……ということを暗示している悪口を言っているのに、それにまったく気がついていない。そして、まったく気がついていない態度全般。

これ、こたえるよ。そりゃ、生まれの格差・下の人が聞いたら、怒るだろう。「そんなことじゃない」と思うだろう。生まれの格差下の人であって、なおかつ、げんにおカネがない人が、おカネをかわいがっても、おカネがない状態が続く。おカネがない状態が続けば、外側から判断すると、「おカネをかわいがらない人だ」ということになる。げんにおカネがない人は、おカネに好かれない人なのだから、おカネをかわいがってないということになってしまうのだ。

そういうふうに見なして、おカネがない人の悪口を、積極的に言う。

悪魔の圧力容器のなかで、おカネがないということがどういうことなのか、まったくわかってない。悪魔の圧力容器のなかで、おカネがないうちに生まれたということの、意味あいがまったくわかっていない。

おカネがあるかどうかというのは、おカネをかわいがるかどうかで決まらない。おカネがある人というのは、おカネが入ってくるパイプをいっぱい持っている。おカネがない人は、おカネが入ってくるパイプをもってない。パイプのちがいだ。……こっちのほうが正しい。まあ、パイプというような言葉を不適切なのだけど、不適切な言葉を言いたくなるような気分になった。

おカネに関しては、ストックとフローについて語らなければならなくなる。親のストックとフローが影響をあたえないわけがないだろ。けど、それを、ただ単に「好かれる」とか「好かれない」という言葉であらわして、その人の「態度」や「性格」のせいにしてしまう。こんなのはない。

こんな、高度なディスり方があったのかと思う。考えてみれば、これ、悪口を言っている異なるんだよな。そして、悪口の方向性がずれている。おカネのない人は、無実なのに、有罪判決をうけるのだ。「性格が悪いからそうなのだ」「おこないが悪いからそうなのだ」。「こうすれば、こうなる」……実際には、どれだけそれをしても、そうならない……こういう希望的なウソ。嘘八百。希望詐欺。法則性詐欺。

おカネがないという属性をもっている人は、性格が悪い、おこないが悪いと、軽くディスられてしまう。そして、「おカネをかわいがれば、おカネがよってくる」などという、二項目文を言われるけど、不利な人がどれだけ、おカネをかわいがっても、おカネがない状態が続く。おカネがよってこない。こういう、現実。おカネがなければ、「おカネをかわいがってないから、だめなのだ」と言われる現実。

これ、「ネガティブな人」というような言いかたでもおなじだ。

生まれの格差という初期値を無視しているやつが、ニセの原因を持ち出して、人をせめる。

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おカネを擬人化して、おカネが(その人を好き)だとか、おカネがその人をきらいだとか、そういうことを広めたのは、今回引用した人じゃなくて、たぶん、斎藤一人(さいとう ひとり)だと思う。たぶん、だけど、今回引用した人は、斎藤一人(さいとう ひとり)の影響をうけていると思う。物神性に関しては、むかし、ながながと述べたので、ここでは省略。

たとえば、明治のころ、金のような価値がありそうなものではなくて、紙のような粗末なもの?をたいせつに扱うようになるかどうかということについて議論があったのだけど、紙のようなものでも、たいせつに扱うようになったね。これ、権威と物神性の問題なんですよ。

まあ、今回引用されてしまった人は、引用されてしまったわけだけど、「攻撃を受けることはあるけど、無視している」ということなので、傷つかずに無視してくれるとものと思う。

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精神世界の人のなかには、斎藤一人(さいとう ひとり)が好きな人ってわりといるんですよ。

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おカネを擬人化してごにょごにょ言うと、現におカネがない人や人生の初期値で下の人が、傷つくんですよ。おカネを擬人化してごにょごにょ言っている人は、まったく気がついてないけど……。「単に嫉妬しているだけだろ」と思うと思うのだけど……。この認識の差は、どうしょうーーもないなぁ。

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いま、ほんとうにこまっている人は、精神世界の人やアドラー主義者や認知療法の理論が好きな人から、攻撃をうけるんですよ。攻撃をうけるようになっている。精神世界の人、アドラー主義者、認知療法の理論が好きな人……それぞれ、攻撃をしているつもりはない。まったくない。なんで、(ほんとうにこまっている人)が(自分に)反感をもつのかまったくわかってない。彼らは、(ほんとうにこまっている人)のことを、ほんとうにこまっている人だとは認識してないので、一部の人が反感をもつようだと認識していると思う。反感をもっている人たちは、ほんとうにこまっている人たちなんですよ。ほんとうにこまっている人の気持ちを、さかなで、しているの人は、精神世界の人やアドラー主義者や認知療法の理論が好きな人。

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こまってない人が、こまっている人にニセの情報をあたえるということがはやっている。ライフハック的な二項目文がはやっている。けど、そのライフハック的な二項目文を、実行してもまったくよくならない。まったく、まったくよくならない。むしろ、悪くなる。完全に悪くなる。希望をあたえられ、希望をへし折られる。まさに、そういうことになる。

めぐまれた人が、めぐまれない人にニセの情報をあたえるということがはやっている。はやっている。はやっている。絶望した。絶望した。はやっている。はやっている。

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2023年2月16日木曜日

ぼくは、普通の人より、騒音耐性がある

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兄貴のヘビメタ騒音と幼稚園の騒音はちがう。ぜんぜん、ちがう。みんな、ぼくが最初から、音に敏感だったと思っているんだよな。ぼくは、普通の人より、騒音耐性がある。そのぼくが、悲鳴を上げてしまうようなうるささだった。兄貴のヘビメタ騒音と、普通の人が普通に考えている騒音は、ちがうんだよ。ちがうのぉ!! まるでわかってない。まるでわかってないやつが、勘違い発言をする。頭にくる。けど、うちの兄が、きちがい兄ではなくて、普通の兄だったら、ほんとうに、こんなことになってないのだ。まるでわかってないやつが、勘違い発言をしてくる……ぼくに言ってくるということは、発生しなかった。ぼくの人生のなかで発生しなかった。これがどれだけでかいちがいかわかるか? 騒音の質と、騒音のレベルに関する勘違い発言だけではなくて、「できる」「できない」の勘違い発言までされる。「きちがい兄貴の騒音のなかでも勉強ができる」「きちがい兄貴の騒音のなかでも眠れる」「ちがい兄貴が騒音を鳴らしていたとしても、遅刻しないことは可能だ」「きちがい兄貴が騒音を鳴らしていたとしても、睡眠障害者にならないことは可能だ」……などなど。そりゃ、死にたくなるだろ。どんだけ、影響をけるかわかってない。兄貴のヘビメタ騒音を横の部屋で聞かされたことがない人は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をどれだけ無視して暮らしていても、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の影響をうけまくるということが、わかってない。無視する。無視して、「人間は働くべきだ。(だから、エイリさんも働くべきだ)」というような発言をする。そういうことをいわなくても、きちがいヘビメタ騒音で、こっちが、無職になっていれば、無職だと思って、さまざまな言いがかりをつけてくる。


 

「プラス言葉をつかうと、いいことを引き寄せることができる」ということについて

これが、めちゃくちゃに、しんどいことになるのだけど、どうしても言っておく必要があるかなとは、思う。けど、俺にしたって、これをうまく説明できるのかわからない。これ、ほんとう、ためいきがでるよなぁ。

たとえば、こういうことを言う人がいる。
 

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「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、そういうことをもっと引き寄せることができる」
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これは、よく言われていることだ。みんな、そうだと思うだろ。みんな、その通りだと思うだろ。けど、ちがう。ちがうけど、大多数の人にとっては「真実」なのだ。気分的に真実なのだ。だから、うけがいい。けど、こういう発言は、二項目文とおなじで、生まれの格差・下の人には成り立たない。特に、生まれの格差(親)下の下の人には成り立たない。事実ではないのだ。「真実」ではない。環境の差を無視して、ただ単に「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」というような言葉を使えば、そういうことが引き寄せられると言うことは、あんまりいいことじゃない。というか、どうして、生まれの格差を無視してそんなことが言えるのだと思う。これは、まあ、特殊な感じ方だ。たとえ、この言葉が、生まれの格差・上と生まれの格差・中の人にとっては、「真実」であろうが、生まれの格差・下の人にとっては、真実じゃない。むしろ、これらのことを実行してしまうと、みじめな気持になり、健康にもわるいのである。しかし、たとえば、こういう言葉を言う人たちは、「すべての人にとって」正しいと思っている。自分の言葉は、すべての人にとって真実だと思っている。「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉を使って不幸になる人がいるとは思ってない。思ってないということが、生まれの格差・下の人にはわかる。どういうことかと言うと、生まれの格差・下の人は、「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、そういうことをもっと引き寄せることができる」と思っている人たちが、生まれの格差下の人にも、当然そういうことが成り立つと思っているということが、「わかる」。けど、それが、ほんとうにちがうのである。どういうことかと言うと、生まれの格・下の人の場合、「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと不幸を引き寄せてしまうのである。それは、その人の性格の問題ではなくて、その人の受け止め方の問題でもなくて、ただ単に、「まわりにいる人の」性格の問題なのである。きちがい的な頭を搭載して、ぶつかってくる人が家族のなかに何人もいる場合、きちがい的な頭を搭載して、ぶつかってくる人に「かこまれて」生活していることになる。『「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、いいことを引き寄せることができる』と思っている人たちは、ほんとーーに、ほんとーーに、ほんとーーに、そういうことについてわかってない。まわりにいる人が重要なのだ。まわりにいる人って、一種の「環境」なんだよ。環境のちがいで、ぜんぜんちがうということが、ほんとーーに、わかってない。 


2023年2月15日水曜日

無意識的なレベルで感覚器を遮断してしまう

 ヘビメタ騒音にやられた俺に対する、世間一般の人の対応というのは、ひどかったよ。普通の人には、きちがい家族による、きちがいヘビメタのすごさがわからない。経験してないから、わからない。どの時間もめちゃくちゃになる。鳴っている時間だけ、だめになるわけじゃないのである。影響が残る。毎日続けば、前の日の影響がとれないまま(消化されないまま)次の日の騒音がつみかさなるということになる。ほんとうに、過酷な状態なのである。その過酷な状態のなかで、きれいごとを信じて、努力すると、自分のからだがおかしくなるのである。意識的な意志では制御できない脳がおかしくなる。それでも、がんがん鳴っている。どれだけ「やめてくれ」と叫んでも……兄貴の前で叫んでも、ずっとやっている。きちがいだから、自分の気持ちしかないんだよ。そのときの自分の気持ちしかない。自分の気持ちとしては、自分が満足できる音で鳴らしたいのである。だから、自分が満足できる音で鳴らす。自分が満足できない音で鳴らすという選択肢はない。たとえ、一分間だろうが、自分が満足できない音で鳴らすということは、できない。そんなのは、最初から頭のなかにない。頑固に絶対にやりきる。頑固に絶対にやりきるうえで、「でかい音で鳴らしている」という認知・認識が邪魔なものであれば、無意識的なレベルで感覚器を遮断してしまう。そうすると、本人だって、別の音が鳴っていれば、「くそうるさい」と思うレベルの音で鳴らしていも、でかい音で鳴らしてないというとになってしまうのである。感覚器のレベルでだましているから、ほんとうに、意識的な本人としては「でかい音で鳴らしている」という認知・認識がしょうじないのである。だから、頑固にやりきるけど、頑固にやりきることができれば、一切合切そんなことはやってないという認知・認識のまま生きていくことができるのだ。生活することができる。こういうきたない手を使うのは、兄貴だけではない。親父も名時。こうなると、兄貴のことを、本来なら、管理監督する立場の人間がおなじ盲点をもっているということになる。実際に、「うちのなか」で、そういうことをやりはじめたのは、きちがい親父だ。きちがい兄貴がやりはじめるよりも前に、きちがい親父がずっとやってきたことだ。これが重要なのである。けど、そんなのは、どれだけ説明しても、一般の人にわかるわけがない。そういうことの影響……きちがい親父の感覚の影響が……あるいは、きちがい親父が仏にやってきたのことの影響が……どういうふうにしょうじるか、一般の人はわからない。そういう「うち」で暮らしてきたわけではないので、わからない。

 

「生まれの格差について語るのはダサいことだ」

 これは、たいへん、言いにくいことなのだけど、「生まれの格差」について言及することは、一種のタブーだ。これは、洗脳された状態だ。どうしてかというと、普通に考えれば、「生まれの格差」というのは、まず、第一番に考えなければならない項目(要素)なのである。しかし、生まれの格差について言及すると、「甘えだ」というようなこたえが返ってくる。基本的なことを言えば、「生まれの格差」について言及しているほうも、なんらかの、ばつの悪さがあるのである。「言いにくい感じ」があるのである。これは、自己差別だと思う。自己差別が生じるようなすごい洗脳がおこなわれたのだと考えると、納得がいく。

まあ、こういう書き方だと、わからなくなってしまうかな? ようは、格差にかんしては絶対に認めたくないグループがいるのである。一軍の生まれの格差「上」である人たちだ。この人たちは、二軍の「上」から「下」までのグループに(すべての人に)生まれの格差がほとんどすべてのことを決定しているということを、認めさせたくないのである。感じさせたくないのである。感じないように、洗脳する必要がある人たちなのである。支配者層と、二軍の「下」のあいだには、ものすごい格差がある。成功やしあわせに関係することは、だいたい、生まれの格差で決まってしまう。もちろん、例外はある。あくまでも、「だいたい」だ。彼らは、「努力」や「性格の良さ」を持ち出す。まあ、努力することができるということ自体が「なんとなく、性格の良さをあらわしているように見える」のではないか? ちがうか? まあ、ともかく、生まれの格差ではなくて「努力の格差」なのだというイメージをつくりたいグループがある。そのグループは、一般の人からは、見えないレベルの支配者グループだ。だれがそのグループのメンバーになるかということが、決まっているのである。「生まれ」で決まっている。ほぼ、世襲制だ。まあ、例外はあるけど、ファミリーなのだ。一族なのだ。

彼らにくらべれば、「二軍の上の上」は、「つかいっぱ」のようなものだ。手下。まあ、使える上級奴隷だ。けど、これも、いろいろな手段で、支配している。手法はいくつかあるけど、ともかく、彼らにとっては「二軍の上の上」なんて、あかごのようなものだということは、いちおう考えておく必要がある。そのくらいに、差がある。これは、生まれの格差だ。

しかし、われわれは、常に、見えるところの「格差」を問題にしているのである。一軍は支配者層。二軍の「上の上」は被・支配者層。二軍の「上の上」は、そりゃ、二軍とはいえ、二軍の支配者だ。まあ、一軍の代理人といったところかな。ともかく、二軍のなかでも、「上の上」と「下の下」では、天地の差がある。天地の差がある。この、天地の差を、ないものとしてあつかうことが、「はやっている」。

これは、もう、洗脳だ。格差について語るのは、ダサいことなのである。かっこう悪いことなのである。これは、洗脳の結果だ。この洗脳は、ものすごく深い洗脳だ。だから、生まれの格差・下の人もそういう考え方をもっている。そういう感覚をもっている。考えるまえに、「生まれの格差について語るのはダサいことだ」と思ってしまう。感覚としてある。だから、自己差別がはじまる。自分で自分を差別しているのである。これは、同様に、生まれの格差・下である人にもむけられる。「そんなのは、あまい」「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」「そんなのは、未熟だ」「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、嫉妬しているだけだ」「親のせいにするな」「家族のせいにするな」……こういう言葉が、自分と同様に生まれの格差・下である人にむけられる。かくして、相互監視状態になる。

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「親のせいにするな」……

「親のせい」と言う場合には「実際に親のせいである場合」と「実際には、親のせいではない場合」がある。ごちゃまぜにするな。「だれだれのせい」という言い方には、もともと、そのだれだれのせいではないのに、だれだれのせいにしているというニュアンスがある。だれの行為が原因でそういう結果になったのかということは、重要なことだ。当然、親の行為が原因でそういう結果になったということもある。これを、親の行為が原因でそういうけっかになったわけではないことと、いっしょにするな。親の行為が原因でない場合は、たしかに、「親のせいにしている」と(誰かが誰かに対して)言える。けど、親の行為が原因であることに関しては、親ではない他人の行為が原因である場合とおなじように、親という他者の行為が原因でこういう結果になったということは、言える。なので、それをごっちゃにして、親という他者の行為が原因である場合も含めて、「親のせいにするな」というのは、悪意がある行為だ。ようするに、親というのも、他者のなかに含めていい。他者の行為に原因がある場合は、当然、他者に責任があるということだ。親という他者をなぜか特別な存在としてとらえ、親がやったことには、すべて責任がないという考え方をもっているやつらがいる。そいつらが、実際に悪い行為をする親側の人間をかばっている。まるで、ほんとうは、親という他者の責任ではないのに、(子供側の人が勝手に)親という他者の責任にしていると考えて、親のせいにしているという言葉を(そういう悪意がある人たちは)使う。これは、おかしい。

人生、これかーー。

  働いている人も含めて、みんな、たいしたことをやってないよな。やっているわけがない。あーー。

人生、これかーー。

まあ、大きな傷がなければ、それで、楽しいのだろう。つらくても、しんどくても、なんとかなるのだろう。けど、大きな傷があると、そうはいかない。いかないのだ。全部、めちゃくちゃに、くるしくなる。「もうだめだ」という気持になる。ほんとうに、しんどくなる。

じゃあ、どうするかというと……。うつてがない。これは、ほんとうだ。だいたい、可能な「うつて」は全部うって、そうなんだよ。大きな傷を負ったんだよ。なおらない傷を負ったんだよ。常にいたむ」傷を負ったんだよ。

むりなものはむり。

2023年2月14日火曜日

けど、それをするなら、死んだほうがいいという気持になってしまうのである。

いのちをかけるようなものじゃないとしても、追い込まれるといのちをかけるようなものになってしまうのである。追い込まれるまでには、時間がかかる。けど、それをするなら、死んだほうがいいという気持になってしまうのである。

エネルギー消費のことについて、語りたい

 法則性詐欺の被害者は、たいていの場合、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下の人だ。この人たちが、こまった状態で暮らしているのは、二項目文の、一番目の項目を「してない」からではなく、また、「してなかった」からでもない。

ようするに、たとえば、「人に親切にすると幸福になる」と言った場合、その人が、幸福ではないのは、いままで、人に親切にしたことがないからではないということだ。あるいは、いままで、人に親切にした回数が少ないから、幸福なのではない状態でいるというわけではない。その人が不幸なのは、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下で、奴隷労働を突き付けられているからなのだ。なので、その人が、幸福になるには、その人に突き付けられた奴隷労働が、普通の労働にならなければならない。あるいは、その人が働かなくても、それなりの生活費がふれこまれるようにしなければならない。奴隷労働をしているから不幸なのに、奴隷労働をしているという部分をまったく改善せずに、幸福になるということはないのである。これは、ヘビメタ騒音でもおなじで、ヘビメタ騒音で不幸感を多く感じるのだから、ヘビメタ騒音が鳴りやまなければならないのである。当時のことを言うなら、そうだ。まあ、ヘビメタ騒音のことを出さずに、奴隷労働うんぬんということについて語ろう。どうして、奴隷労働しなければならないのかと言うと、じつは、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下だからなのだ。ここを理解しなければ、ただ単に不幸を拡大していることになる。

基本的に言って、きれいごとの二項目文を言う人は、やる人のエネルギー消費について考えていない。やる人というのは、二項目文を実行しようしている人のことだ。どうして、実行しなければならないかというと、不幸だからだ。幸福ではないからだ。二項目文は、人に対する助言なので、その助言を受ける人は、「欠乏している状態」なのである。しあわせになる方法であれば、いま現在、しあわせではない人が対象なのである。成功する方法であれば、いま現在、成功してない人が対象なのである。欠乏があるから、それを満たすための方法を探し求めているわけだ。みたされていれば、そもそも、その方法を使わなくてよいのである。どうしてかと言うと、みたされているからだ。そして、これも見落としがちなのだけど、その方法を教えてやるほうは、みたされているほうなのである。たとえば、「Xをすれば、成功する」と言っている人は、すでに、成功した人で、成功してない人に語り掛けているのである。「Xをすれば、しあわせになる」と言っているつとは、すでに、しあわせな人なのである。しあわせな暮らしをしている人なのである。成功している人が、成功してない人に教えてあげる、二項目文。しあわせな人が、ふしあわせない人に教えてあげる、二項目文。けど、その二項目文には、生まれの格差がでてこない。二項目しか出てこない。ほんとうは、生まれの格差が、二社のちがいをうみだしている。生まれの格差・上だということが、成功している状態をつくりだしているし、生まれの格差・下だということが、成功してない状態をつくりだしている。奴隷労働をおしつけられて、不幸な生活をしている。なので、「成功したい」「しあわせになりたい」と思うわけである。欠乏がある。

エネルギー消費のことについて、語りたい。欠乏がある人は、ただでもくるしい生活をしている。それなのに、二項目文を実行しようとすると、エネルギーを消費してしまうのである。残り少ないエネルギーを消費してしまう。また、二項目文を言う人は、実際には、生まれの格差・下の状態を経験してない。経験してないので、「どんな状態だってXはできる」と言うことができる。また「どんなにくるしくても、Xはできる」と言うことができる。「何回でも、Xをすればいい」と言うことができる。

二項目文を実行する人は、Xをするエネルギーをもう、残してないかもしれない。エネルギー消費の観点から言うと、二項目文を実行する人は、Xを「何回も」するエネルギーをもう、残してないかもしれない。みたされている人は、みたされていない人の状態がまったくわかってない。生まれの格差・下で、みたされてない人は、相当にエネルギーつかってしまっている。つらくて、くるしい日常生活を成り立たせるだけで、もうエネルギーを、ほとんど全部つかってしまっている。Xをするようなよけいなエネルギーがない状態だ。

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2023年2月13日月曜日

法則性詐欺。希望詐欺。

 「生まれの格差・上」「生まれの格差・中」「生まれの格差・下」で、三階層。

「生まれの格差・上」のなかに、さらに「上・中・下」をつくり、「生まれの格差・中」のなかに、さらに「上・中・下」をつくり、「生まれの格差・下」のなかに、さらに「上・中・下」をつくって、九階層。

どうして、九階層にしたかというと、努力によって、九階層のなかの一階層ぐらいは、上昇することができるからだ。じゃあ、二項目文があっているのかというとそうではない。

これは、言霊のところでも説明したのだけど、「Xをすれば、Yになる」というような二項目文を考えた場合、Xのなかには、非・Xがふくまれないという問題がある。問題ではなくて、ほんとうは、だからこそ、「文」に意味があることなのだけど、普通の人は、ここらへんのことがまったくわかってない。Xと言ってしまっているのだから、X以外のものは含まれない。これは、「すべてのX」とおなじ意味だ。XとすべてのXは意味的に等価なのである。これがわかってないんだよな。Yのほうも、「Yになる」と言ってしまっているのだから、「Yにならない」ということは、含まれてない。かならず、Yになるのである。「Xをすれば、Yになる」と「Xをすれば、かならず、Yになる」は、意味的に等価なのである。「Xをすれば、Yになる」と言っているのに、「Xをしても、Yにならないこともある」ということが、含まれている……そんなことはない。「Xをすれば、Yになる」という言葉と「Xをしても、Yにならない場合がある」という言葉は等価ではない。「Xをすれば、Yになる」という言葉と「Xをしても、Yにならない」という言葉は等価ではない。「Xをすれば、Yになる」という言葉と「Xをすれば、Yにならない」という言葉は等価ではない。

法則と言っているのだから、一項目目をXと言っているのに、非・Xが含まれているわけがないのだ。Yになると言っているのだから、Yにならない場合が含まれているわけがない。

言霊の場合について説明しておこう。

「言ったことは、現実化される」と言った場合、「言ったこと」のなかには、すべての「言ったこと」が含まれる。「言ってないこと」は含まれない。「言ったことは、現実化される」という言葉は「すべての言ったことは現実化される」ということと意味的に等価なのだ。そして、「言ったことは、現実化される」という言葉は「言ったことは、すべて、現実化される」という言葉と意味的に等価なのだ。「言ったこと」のうち「いくつかは現実かれる」と言うことではない。「言ったことは、現実化される」という言葉は「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という言葉とは、等価ではない。非・等価だ。かならず、非・等価なのである。もし、「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味で「言ったことは、現実化される」と言うなら、最初から、まちがっていることを言っているということになる。等価ではないからだ。ところが、言霊主義者は「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味で「言ったことは、現実化される」と言ってしまっている場合がある。もちろん、「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」ということではなくて、「言ったことは、すべて、現実化される」という意味で、「言ったことは、現実化される」と言っている場合もある。だから、言霊主義者は、「言ったことは、現実化される」という言葉を使って、まったく別のことを言っているということになる。そして、そういうことに無頓着なのだ。「言ったことは、すべて、現実化される」という意味で、「言ったことは、現実化される」と言ったほうが、都合がいいときは、「言ったことは、すべて、現実化される」という意味をこめて「言ったことは、現実化される」と言い「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味で、「言ったことは、現実化される」と言ったほうが、都合がいいときは「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味をこめて「言ったことは、現実化される」と言っているということだ。そして、言っている本人は、そのことに気がついてないのである。なので、いかように言えるということになる。

法則性がないことに関して、あたかも、法則性があるようなことを言う。そうやって、人をせめる。こういうことが、平然とおこなわれている。法則性があるようなことを言っている人は、それでいい気持ちになれるけど、言われた人のうち、何割かは、ダメな方法をおしつけられて、不愉快な思いをする……ことになる。言われた人のうち、何割かは、見当違いのことを言われて不愉快な思いをする……ことになる。有害な希望詐欺。

場合によるけど、いのちをおとす場合もある。「生まれの格差・下の下」のうちの多数が……かなりの割合の人が……「死ぬしかない」というところまで、おいつめられる。過労死をしてしまうひとは、法則性詐欺師にだまされている可能性がある。

 

 

ぼくが求めていた世界はこんなものじゃなかった

まじ、つまんねぇーーんですけどぉーーー。つまんないんですけどぉ~~。

あー。あーーあ。つまんない。ぼくが求めていた世界はこんなものじゃなかった。もっと自由で、もっと快活で、もっと楽しいものだった。もっともっと、ずっとずっと、うまくいくはずの世界だったのである。こんな、ねがふぃぷなハンディばかりせおわされて、ぐたぐたにつかれはてる世界じゃなかった。きちがい親父のことは、きちがいではない親父のもとに生まれた人には、絶対にわからない。「わからない」ということが、わかった。けど、じゃあ、どうする? こいつらは、かならず、誤解をするんだぞ。誤解する。か、な、ら、ず、誤解する。楽しいわけがない。こいつらは、誤解をして、俺を侮辱してくる。しかも、侮辱しているつもりもないという状態になっている。こんなのない。どれだけ、むなくそわるい気持ちになるかわからないと思う。ふがいない気持ちにもなる。みじめな気持にもなる。それは、他者とのふれあいでそうなるのだけど、他者とのふれあいでそういう思いをするということは、きちがい親父のもとに生まれたということで、決定している。きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、ほかの人にはわからない。ほかの人のうちなら、一日目の一分目に、「おまえ、ふざけるな」と言われて、鳴らせなくなる。鳴らさないようにするしかないということをさとる。さとらざるをえない。どれだけ鳴らしたくても鳴らせなくなる……これが普通のうちだ。うちでは、きちがい親父の支援をうけて、きちがい兄貴が好きなだけ鳴らすのが当たり前。一分だって静かにしないのが当たり前。きちがい兄貴が好きなように、好きな時間に鳴らしていいというのが当たり前。一分間でもしずかにしてくれたら、感謝しなければならない状態……。一分間もしずかにしてくれなかったから、感謝しなかったけどな。けど、一分間しずかにしてもらっても、毎日、あれだけ長い間鳴っていると、一分間のちがいではどうにもならないのだ。ほんとうは、一分間ですら、鳴らしてはいけない音で、ずっと鳴らしている。一分間だって、しずかにしないで鳴らしている。殺さなければそういう状態が続いてしまう。実際、続いた。

 

この世に対する、違和感が、半端じゃない。半端じゃない。半端じゃない。いったい、これ、なんなの? じょーーだんでしょ? なんなの? この世界? おかしいんじゃないの?

2023年2月11日土曜日

五〇〇〇日以降の、からだの状態も、わからない。

 ほかの人には、ヘビメタ騒音の五〇〇〇日がないわけだから、五〇〇〇日中の、からだの状態もわからないし、五〇〇〇日以降の、からだの状態も、わからない。それは、親友でもおなじだ。わからない。わからない。実際に経験したわけじゃないから、わからない。一倍速で、毎日経験してみろ。わかるから。

「そんなものじゃない」とぼくがどれだ言っても、経験がない人にはわからない。だから、影響がない」という前提でものを言う。けど、「影響がある」。今現在もある。勝手に、そっちが、無視しても、あるんだよ。それは、俺のからだを使ってないとわからないことかもしれないけど、あるんだよ。俺にはあるんだよ。

わかってないだけなのに、くそえらそうに……。わかってないだけなのに、説教か?

実際に、自分の嫌いな音を、あの時間の長さ、あの期間の長さ、聞かされ続けたら、働けなくなる。えらそうなことを言っているやつだって、働けなくなる。働けなくなったら、説教をされる立場になる。きみらが見ているのは、ヘビメタ騒音の結果だ。家族による、きちがい的な騒音の結果だ。自分だって、おなじ状態で十一歳から二十一歳まで暮らせば、おなじ状態になるのに、実際に経験してないから、おなじ状態になるということがわからない。想像もできない。『影響なんてない』と考えてしまう。『俺だったら、しずかにさせることができる』と考えてしまう。けど、実際に、きちがい的な頭のもちぬしに鳴らされると、そういうことが成り立たなくなってしまう。それは、実際に経験してない人が、語る、きれいごとだ。

これ、ほんとう、家族だということが問題なんだよ。そして、やぬしである父親が、ヘビメタを鳴らしているきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっているということが問題なんだよ。実際に、父のほうがさきで兄のほうがあとだから、父が兄とおなじ頭の構造をもっているという表現よりも、兄が父とおなじ頭の構造をもっているという表現のほうが、わずかに、適切だ。けど、「おなじずれ」がある。そして、その「ずれ」の部分が、他人にはわからないのである。特殊な「頭の構造」をもつ家族にやられたら、他人には理解されない。他人の家族は特殊な「頭の構造」をもつ家族ではないから。これがまた、経験した範囲でしかわからないんだよな。

そうすると、「エイリさんがちゃんと言わないからダメなんだ」「エイリさんの説得力がないからダメなんだ」ということになってしまう。特殊な家族が、特殊な頭の構造をもっているということがわかってない。『特殊な頭の構造』のすごさがわかってない。『俺の説得力』の問題じゃなくて、『兄貴の頭』の問題なの。『俺の説得力』の問題じゃなくて、『親父の頭』の問題なの。なんで、これを、『他者』は認めないのか。なんか、認めると、まずいことでもあるのか?

「そんなの、家族で話し合えばいい」「もう一度、言ってみればいい」「ちゃんと言えば、わかってくれる」……全部、まとはずれな助言。「家族の問題には、かかわりたくない」という気持がある。家族、家族、家族。家族が問題なんじゃないか。それを、家族という変数については、まったく考えないで、ただ個人の努力と性格を問題にする。生まれの格差(家族)下でも、生まれの格差(家族)上でも、おなじだと考えているのだ。ぜんぜん、ちがう。頭の構造から出てくるものは、どれだけ言ってもかわらない。注意してもかわらない。どれだ言っても、これっぽっちも……つたわらない。自分が認識できることしか認識しない。認識できない。認識できないことは、やったってやってないことなのである。

2023年2月10日金曜日

ストレス反応は、身体を維持するために必要なしくみなのである

走っている人に向かって、走ってない人が「ぜいぜい息をする必要はない」と言っているようなものなんだよ。走っている人に向かって走ってない人が「くるしいと思う必要はない」と言っているようなものなんだよ? ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「睡眠は制御できるので、睡眠障害になる必要はない」と言っているようなものなんだよ。ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、くるしく感じる必要はない」と言っているようなもなのだよ。ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「つかれる必要がないから、つかれる必要はない」と言っているようなものなんだよ。

走っているとき、呼吸がくるしくなって、「くるしい」と感じたとしよう。くるしいというのは、気持ちの表現だ。あるいは、走っているとき、呼吸がくるしくなって、「つらい」と感じたとしようつらいというのは、気持ちの表現だ。とりあえず、感情的な表現と身体の物理的な反応をわけて考えるとする。「くるしい」「つらい」そういうのは、感情的な表現だ。いっぽう、身体の物理的な反応というのは、身体の分子的な運動によってもたらされる反応だ。原子的な反応も、分子的な反応の中に含まれているとする。身体が正常なら、そういう刺激に対してそういう反応があるのである。これは、意識的な意志が制御できるものではない。走ろうとして走っているのだから、意識的な意志は、走るという善的な行為に影響をあたえている。あたえているのだけど、身体の反応すべてをコントロールできるわけではない。「くるしい」ので、走るのをやめるというのが身体の反応に対するひとつの答えだ。「くるしい」と感じるのは重要ことだ。神経がブロックされていて、「くるしい」と感じることができなかったら、走って死んでしまう。ちゃんと、そういうしくみがあるから、意識的な意志の爆走を制御している。意志をうみだす脳みその部分とそれ以外の脳みその部分、神経、感覚器をわけるとすると、意志をうみだす脳みそ以外の脳みその部分、神経、感覚器が意志をうみだす脳みその爆走をふせぐように働いているのである。ストレス反応は、身体を維持するために必要なしくみなのである。全体的なしくみなのである。この全体的なしくみのなかに、意識的な脳みそが含まれているわけで、意識的な脳みそが、それ以外の脳みその部分、神経、感覚器を完全にコントロールしているわけではない。したがわせているわけではないのだ。けど、根性論の人や、努力論の人や、人に向かって「どんな状態だって、まるまるはできる」と言ってしまう人は、こういうことがわかってない。しかも、他人に言う場合は、自分のことではないので、他人の状況を簡単に無視できるのである。無視すれば「ない」のとおなじだということになってしまう。しかし、他人のからだのなかでは、全体的なしくみが、意識的な意志に影響をあたえている。影響は、無視できない。勝手に無視して、話をするな。

 

 

2023年2月9日木曜日

あれを経験してないで、えらそうなことを言うな。

  まあ、まじで、楽しくはないなぁ。あーーあ。けっきょく、ヘビメタ騒音で「お楽しみ回路」を破壊された。これ、なおらないわぁ。でかい出来事だった。で、何千日も続いたからなぁ。あの同じ繰り返し……。だれにもわからない。ぼく以外、だれにもわからない。あれを経験しないで、好き勝手なことを言うな。俺を下に見るな。あれを経験してないで、えらそうなことを言うな。

あれを経験してないから、無職にならなかっただけなのに、「人は働くべきだから、エイリさんも働いたほうがいい」と言うな。えらそうなことを言うな。たまたま、生まれ落ちた家に、きちがい兄貴がいなかっただけじゃないか。これ、まるで、きちがい兄貴をしずかにさせることができなかったのは、エイリさんの落ち度だ……という立場で言っているけど、実際に、きちがい的な家族にのもとに生まれてきたらそんなことは、言えない。きちがい的な家族のもとに生まれてくるか、きちがい的な家族のもとに生まれてこないかということは、重要な問題だ。なんで、きちがい兄貴の「頭の構造」が俺の落ち度になるんだよ。自己責任、自己責任。ふざけるな。「きちがい兄貴をしずかにさせることができなかったのなら、自己責任」。「俺なら、しずかにさせることができる」のだから、俺はエイリさんよりすぐれている」という、根拠のない思い込み。そういうのは、きちがい的な親兄弟のもとに生まれなかったから、言えることだ。実際に、きちがい的な親兄弟のもとに生まれたら、それが、どれだけ困難なことかわかる。「できないことだ」ということがわかる。たまたま、きちがい的な親兄弟のもとに生まれなかったから、そういう問題がしょうじなかった。しょうじなかったから、なんとなく、できるのではないという気持になっている。実際にしょうじなかったから、「しょうじた場合」というのは仮定の話だ。実際にしょうじず、知らないのだから、なんとなく、できるような気持ちになっている。実際なかったわけだから……。それだけの話だ。別に能力が上というわけではない。たとえば、説得能力が上だから、説得してしずかにさせることができるというわけではない。きちがい的な人間のことがわかってないだけでしょ。きちがい的な人間が、家のなかでなにをするかわかってないだけでしょ。きちがい的な人間が、どういう反応をするかわかってないだけでしょ。きちがい的な人間が、自分のやったことについて、理解してない状態がわかってないだけでしょ。 


2023年2月7日火曜日

こんな「ハンディ」ない。

 なんとか生きているけど、つまんない。ほんとーーに、つまんない。このさき、どうする? ほんとーーに、つまんない。

いちおう、ネットスーパーを使うことにした。ほんとうに、ほんとうに、たすかる。いやー、たすかるねぇ。なんか、元気がなくてだるいから、買い物に行けない。やっぱり、長期騒音がでかい。これがぼくの人生を破壊した。なので、横になって考えていることの八〇%は長期騒音のことだ。長期ヘビメタ騒音生活と、それに関連した出来事。まあ、いまの状態だって、それに関係した状態だ。長期ヘビメタ騒音生活と、それに関連した出来事がつみかさなって、いまの状態になっている。 なかなか、くるしいです~~。まあ、どれだけ言ったって、ぼくのからだを利用していない人には関係がないよな。まあ、ともかく、配達してくれる人がいてたすかってます~~。

あーー、いま急に、市立図書館の雰囲気を思い出した。全部が、走馬灯のようだな。走馬灯は正直言ってもってないけどな。慣用句として残っているなーー。あそこの図書館の雰囲気だって、長期騒音にやられて、ふにゃふにゃになっている。これは、図書館の雰囲気ではなくて、ぼくが感じた図書館の雰囲気だ。たとえば、図書館の館内の光景を思い出したとしても、その光景には、感情がくっついている。図書館までの道……。道を自転車で走っているときに見える光景にも、感情がくっついている。感情がふにゃふにゃで、不安で、くるしいものだと、光景もふにゃふにゃで、不安でくるしくなる。

きちがいヘビメタ騒音にやられてない人にはわからない。どういう不安なのか、どういうふうに、ふにゃふにゃなのか、どいうふうにくるしいのか、わからない。どれだけ言ったって一丁分の一もつたわらない。まあ、つたわらなくてもいいけど、ヘビメタ騒音のことを過小評価したり、無視したりするやつらがきらいだ。そいつらが無視をしたとしても、ある。影響がある。ヘビメタ騒音の影響が残っているからだで生きている。今現在、その影響を無視できるはずがない。そりゃ、俺のからだを利用して生きているわけではない人たちにとっては、それはどうでもいいことだから、無視してしまうけど……。無視しがちになるけど……。けど、そいつらが無視しても、俺のからだに残っているのだから、しかたがない。きちがい兄貴がああいう性格ではなくて、普通の性格だったら、絶対に起こりえないことなのである。あんなに長く鳴らしているなんてことはない。だから、普通の家族と暮らしている人にはないことなのである。きちがい兄貴ではない、普通の家族と暮らしている人が経験してないことなのである。経験してないことだから、影響を過小評価したり、無視したりする。そりゃ、そいつらは無視してもまったく問題はないだろうけど、ぼくがこの体を動かして生きているのだから、なにをするにしても、影響はある。

ほんとうは、生まれの格差で言いたいことは、おカネの格差ではなくて、家族の格差だ。きちがい的な親のもとに生まれたら、おしまいなのだ。もちろん、きちがい的といっても、どういうふうにきちがい的なのかということについて、差がある。きちがい的な親と表現したとしても、きちがい的な親のベクトルがちがえば、「ハンディ」もちがってくる。これ、みんな、生まれの格差というと、おカネの問題だと思うかもしれないけど、親の問題なのだ。そして、家族の問題なのだ。きちがい的な父親がいた。きちがい的な兄がいた。そういう家に生まれた。これが、でかい影響をあたえる。けど、そんなのは、自己責任だと言われるのだ。たましいが選んだのだからしかたがないと言われるのだ。そりゃ、他人にとってみれば、(比較優位なら)問題ははないだろう。自分の問題ではないのだから、無視するだろう。ないか、あるいは、あったとしても小さな影響しか与えないものだと思うだろう。けど、ちがう。ちがうんだよ。こんな「ハンディ」ない。ないない。こんな「ハンディ」ない。 

2023年2月6日月曜日

できるかどうかということを判断する場合

プリオンたんぱく質が脳内で増殖してある程度の量になっているとき、ある作業をすることができるかどうかということを考えた場合、プリオンたんぱく質が脳内で増殖してある程度の量になっているから、できないということがある。プリオンたんぱく質の量は、本人が、「まじないで」増減させることができるものではない。「すくなくなれ」「なくなれ」と命令しても、「すくなくならない」し「なくならない」。どうしてかというと、物理法則が成り立っているからだ。分子の運動ということについて、物理法則が成り立っている。なので、増殖してしまう場合は増殖てしまう。増殖をさまだけ、増殖しないようにするには、増殖させないようにする方法が必要だ。その方法はまじないのようなものではなくて、物理法則に合致したものでなければならないのである。 

だから、むしろ、問題なのは物理法則のほうなのである。もし「できる」とか「できない」とかということを判断するなら物理法則に従って判断するべきなのである。しかし、他人のからだの状態は無視する傾向がある。

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できるかどうかということを判断する場合、脳みその内部的な状態を分子的なレベルで調べて、判断するわけではない。たとえば、まるまるという作業ができないと言っているAさんがいたとする。Bさんが、勝手に「だれだって、まるまるという作業はできる」と思っていたとしよう。だれだってできるので、Bさんにとっては、Aさんもまるまるという作業ができるということになっている。しかし、それは、Bさんのなかでそうなっているにすぎない。勝手に、Bさんがそういうふうに思い込んでいるだけだ。Bさんが、Aさんの脳内の、プリオンたんぱく質の状態を事前に調べて、そして、プリオンたんぱく質の状態が、こうだから、まだ、Aさんはまるまるという作業ができると判断しているわけではない。「見た感じ」Aさんがまるまるという作業をできると、Bさんが勝手に考えているだけだ。

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意識的な意志がどれだけ命令しても、できないことはできない。意識的な意志というのは、意識的な脳みその部位ということだ。意識的な脳みそが、命令しても、他の脳みそがその命令に従わない場合がある。あるいは、意識的な脳みそが、命令しても、ほかの脳みそがその命令を実行できない場合がある。しかし、意識的な意志を信じているものは、自分や他社において、意識的な意志が命令たことは、絶対にできるということになってしまっている。ほんとうは、ある状態では、自分もできないのに、そういう状態を無視してしまうのである。「意識的な意志が命令すれば、できる」と言っているいっているときは、そういうつもりになっている。それが絶対に正しいと思い込んでいる。しかし、思い込んでいるだけだ。実際には、意識的な意志は脳みその一部なので(脳みその一部で発生していることなので)ほかの脳みそや、その人を構成している身体を、完全に支配することはできない。ただ単に、「支配できる」と思い込んでいるだけだ。命令すれば、脳みそのほかの部分や自信を構成する身体が、命令をきくはずだと思っているだけだ。宗教的な信念と、まったくかわりがない。これは、一種の信念で、科学的な根拠はない。しかし、科学的な実験詐欺」と言いたくなるものがあり、本人の頭のなかでは「科学的な根拠がある」ということになっている。けど、信念であり、宗教的な妄想とかわりがないものだ。

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プリオンたんぱく質という物理的な存在がもたらすことに関しても、通常は、脳内の分子的な状態を調べて「できる」とか「できない」ということを判断しているわけではなくて、外面的な様子を見て「できる」とか「できない」ということを判断しているにすぎない。

その場合、「どんな状態でも、まるまるすることができる」「どんな状況でも、まるまるすることができる」「できると言えば、できる(言霊パワーで「できるできる」と言えば「できるようになるという意味)」と「他人」に言ってしまうのは問題がある。どうしてかというと、できない場合があるからだ。

「どんなにつらくても……」「どんな条件だって……」「どんな状況だって……」という言葉を軽々しく使うものじゃない

 ごくごく、簡単に言っておくけど、「どんなにつらくても……」「どんな条件だって……」「どんな状況だって……」という言葉を軽々しく使うものじゃないと思う。みっつあるけど、「どんな状況だって」という言葉だけにしぼって、説明することにしよう。ほかの言葉もほぼ同じことが成り立つ。「どんな状況だって」という言葉を使う人は、対象となる人の状況を知っているのかという問題がある。AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんに「どんな状況だって」と言ったとする。この「どんな状況だって」という言葉のあとには、ろくでもない二項文が続く。たとえば、「どんな状況だって、あきらめずにコツコツと努力をすれば、いいことがある」などだ。けど、Aさんは、ほんとうにBさんの状況を理解しているのだろうか?ということが問題になる。Aさんが、Bさんの状況を理解していないとしても、AさんはBさんに「どんな状況だって」と言うことができる。だから、言うことはできる。言うことだけはできるのだ。しかし、それは、AさんがBさんの状況を理解せず、「まちがったこと」を言っているという可能性を否定するものではない。むしろ、AさんがBさんの状況を理解せず、「まちがったこと」を言っているということを暗示するものなのである。「できないほど、つらいので、まるまるすることができない」ということは現実社会のなかで、ありえることなのである。Aさんが、なんらかの病気になって、AさんがAさんのからだの状態について、「つらい」と認識したとする。そして、そのつらい状態では、まるまるという仕事ができないと判断したとする。その場合は、「つらいから(まるまるという仕事が)できない」と判断したことになる。自分のからだの場合は、そういうふうに判断することがあるわけである。ところが、他人のからだに起こった場合については、そのように判断せず、「どれだけつらくても、仕事ができる」と言ってしまうのは、よくないことなのである。


2023年2月4日土曜日

キミのほうがさきに、ばてて、死んでいるよ。

 うっ、むーー。どうしようかなぁ。どうしようかなー。

あれから、眠ってしまったよ。まあ、好きな時間に眠れるのが、こういう生活のいいところだ。

しかし、起きたあと、むなしさを感じる場合がある。今回は、そんなにむなしさは感じてない。基本的に言って、長期騒音のことについて書きたい感じがあるんだけど、おなじなんだよな。

あれだけ説明してわからない人はわからないと思う。個々人の人生体験というのは、人生体験のなかでしかわからないからね。

けど、ヘビメタ騒音で、言ってみれば「ふめいよな」属性ができてしまった場合……。おさない魂をもつものは……はっきり言うと、バカなクソガキは、「ふめいよな」属性に注目して、ぼくのことをしたみることになるんだよな。それがまた、ゆるせないんだよ。

これ、ヘビメタ騒音があれば、だれでもそうなったことだ。ぼくだから、もっているようなものだ。絶対に、殺人か自殺をしている。きちがい兄貴ときちがい親父を殺している。これ、きちがい兄貴が鳴らした騒音なんだけど、きちがい親父が「かげで」協力をしているんだよ。

で、それは、きちがい親父のきちがい的な性格から出てくることなんだけど、これが、ほかの人にはわからない。『親が注意してないのだから、たいした騒音じゃないじゃないか』と思ってしまうところがある。

ともかく、なんていうのかな、どれだけかしこい人も、きちがい親父の行動については誤解してしまうところがある。きちがい親父だって、まったく認知、認識してないんだからな。自分の行動に関して、自分の行動の意味について、まったく認知、認識してない。

ついでに言っておくと、きちがい兄貴も、自分の行動に関して、自分の行動の意味について、まったく認知、認識してない。これ、逆上して、意地になって、やっていることなのに、「やってないこと」になっている。

こういうのも、普通の家で育った、普通の人にはわからないことなんだよな。だから、まず、うちのきちがい親父の構造と、うちのきちがい兄貴の構造があって、その構造は「認知、認識しない構造」なのだけど、それに関して、普通の人が「認知、認識しない」ということが発生する。

これは、だけど、普通の人が、きちがい親父やきちがい兄貴のように、認知、認識しないということではないのだ。

しくみがちがう。もっと言えば、構造自体がちがう。だから、普通の人が、きちがい親父やきちがい兄貴について、正しい認識をもたないということは、しかたがないことだと思っている。「もたない」というよりも「もてない」。

きちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造もわからない……普通人にはわからないわけだけど、実際のヘビメタ騒音によって生じた現実的なことも、実際のきちがい親父のきちがい行為によって生じた現実的なことも、ほかの人にはわからないわけ。それは、体験してないからわからない。どういう影響が生じるのか、わからない。

だから、影響の質と、影響のでかさについて、(ほかの人たちは)つねに「かんがえちがい」をするとうことになる。だから、ようするに、そういうこともふくめて、ほかの人たちは、実質的にぼくのことをばかにしてくるわけ。けど、まあ、これも、バカにしたとは思っていないのだろうけど、認知、認識の問題なんだよね。ほんとうは、影響の質と影響のでかさがわかってないだけなのだけど、自分は「そうだとしてもそんなことにはならない」と思っているので、ひどいことを言ってくるということになる。もちろん、ひどいことを言っているつもりはないのである。

たましいがおさないので『自分はコミュニケーション能力が高い。(ひきこもりのエイリさんは)コミュニケーション能力が低い」。「自分は騒音に対して強い、エイリさんは、騒音に弱い」と勝手に決めつけてしまう。おなじ状態で暮らしていれば、キミのほうがさきに、ばてて、死んでいるよ。自暴自棄になって、自殺しているよ。あるいは、きちがい親父やきちがい兄貴を殺しているよ。そういう問題なのに、そういう問題だということが、わからない。経験がないからわからない。

毎日きちがいヘビメタ騒音がつもった場合のことなんて、そういう人たちが、どれだけ想像したってわからないことだ。ぼくの話を聞いて、想像するしかないのだけど、想像したってわからない。

ヘビメタ騒音が鳴っているときのからだの状態や、ヘビメタ騒音が毎日鳴っている状態が十数年間も続いたときのからだの状態がわからない。わからないので無視して、適当なことを言う。「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「人は働くべきだ……(だから、エイリさんも、ヘビメタ騒音で働けないなんてことは言ってないで働くべきだ)」というようなことを、言いやがる。それは、経験してないから言えることだ。影響はある。勝手に影響を無視するな。

2023年1月29日日曜日

「自分が相手にやってやりたいこと」というのが、無意識的に、意識的に、ゆがんでいるのである

 しかし、もう、つかれた。おやじが最後にとどめをさして、あの世に行った。あいつは、ほんとうに、俺が生まれたときから、俺の人生を破壊し続けているなぁ。これ、みんな、わからないだろうな。無意識に問題がある親に育てられた人じゃないとわからない。影響をさえぎることができないのだ。

アドラーのように単純な人だと、「どれだけがみがみ言われても無視すればいい」というようなことを考えるけど、そういうことではないのだ。破壊的な影響というのはそういうものではない。そして、きちがい親父の態度が「どれだけ言われても無視する」というものだから、アドラーが進めている態度と、きちがい親父の態度が似ているのだ。

どれだけ相手が、真剣に言っても、頑固に無視する……相手が必死になってどなって言っていることでも、頑固に無視する……。こんなの、いい態度であるはずがないだろ。

相手が、真剣に言っていることは、無視して、自分が相手にやってやりたいことだけ、やってやるのである。そして、「自分が相手にやってやりたいこと」というのが、無意識的に、意識的に、ゆがんでいるのである。ゆがみきてっている。

じゃあ、相手が、どういうふうにゆがんているのかを説明すれば、認めてくれるのかというと、それは、頑固に無視するのである。アドラーの場合は、無意識に問題がある親にやられなかったので、無意識に問題がある親に「やられる」ということ自体が、まったくわかってないのだ。俺から見ると、アドラーも、子ども。幼稚すぎる。考え方が幼稚で単純。わかってないことは、「ないこと」として無視する……そういう態度もある。

きちがい的な親にやられた人じゃないとわからないことがあるのだ。

2023年1月28日土曜日

ヘビメタ騒音で、くるしいだけの人生だったな

 ヘビメタ騒音で、くるしいだけの人生だったな。ぼくがやりたかったことなんて、ヘビメタ騒音がなければ、できたことだ。全部できた。きちがい親父がきちがい親父でもできた。きちがい親父がきちがい親父でも、ヘビメタ騒音がなければ、できた。願いがかなった。ヘビメタ騒音の出現で、全部できなくなった。そして、「できないのはおまえのせいだ」と言われるようになった。そういうことを言うやつは、みんな、ヘビメタ騒音がない。きちがい兄貴も、きちがい親父もない。どれだけのことがつみかさなるか、まったくわかってない。「コツコツ努力すれば成功できる(願望がかなう)」……コツコツ努力すると、身も心もボロボロになる。ヘビメタ騒音なかでしているのだからそうなる。ヘビメタ騒音を十五年間あびた体で、努力するのだから、そうなる。

これ、みんな、わかってないけど、努力の結果なのだ……。「楽しめないこころ」「だるい身体」……みんな、努力の結果だ。じゃあ、努力しないことができたかというとそうではないのだ。きちがいヘビメタ騒音のなかで生きていくということ自体が、たえまのない努力なしでは成り立たないことだ。ヘビメタ騒音が終わったあとだって、おなじだ。もう、身体も精神も崩れている。「ヘビメタ騒音がなかった場合の人生とはちがう」。ヘビメタ騒音がなかった場合の精神ではない。ヘビメタ騒音がなかった場合の身体じゃない。影響をうけている。ほかの人たちは、ぼくの影響を、無視できる。ぼくがヘビメタ騒音でこうむった影響を、ほかの人たちは、無視できる。過小評価できる。「あったって、ないもの」にできる。そりゃ、その人たちが、きちがい家族によるヘビメタ騒音でくるしんだわけじゃないから。ちなみに、この世で一番嫌いな音がヘビメタだったので、ヘビメタ騒音と言っているけど、かならずしも、ヘビメタである必要はない。その人にとって、一番嫌いな音が、長時間、となりの部屋で鳴っていたということだ。これは、爆音だ。きちがい兄貴が、爆音で鳴らしたいから、爆音じゃないと、書き換えてしまったのだ。ヘビメタが好きな、兄貴の友達ですら、「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」と心配するような音だ。普通の人にとってはそうなのである。きちがい兄貴にとっては、そうではなかったけど……。これ、きちがいの言い換えがある。感覚器的な言い換えがある。無意識的な言い換えがある。それがずるいのである。ずるすぎて、ほかの人は、かんちがいしてしまう。もう、俺はいやだ。ほんとうに、普通の、幼稚園レベルの騒音で文句を言っているわけじゃないから。最初から、普通じゃない。ほかの人が経験したことがないような騒音なのである。むりなのである。あの中で、勉強するのは、むりなのである。普通に暮らすのはむりなのである。けど、「ない」人は、「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」と言う。できないんだよ。「鳴り終わったら、眠れる」と言う。眠れないんだよ。生活自体が、ボロボロになる。俺が説明しても、ほかの人にとって、「兄のヘビメタ騒音」というものは、たいしたものではないので、俺が「できない」ということを認めない。そうなると、トラブルがしょうじる。不可避的なトラブルだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月27日金曜日

自分が思ったとおりの音で鳴らすということに「いのち」がかかっている

あの騒音生活をしながら、学校に通うということが、どれだけ、精神と身体を破壊するかまったくわかってないな。

そういう努力行為をしたから、だめになっている。

通勤ができなくなっている。

ともかく、きちがい兄貴はものすごい音で鳴らしているんだよ。それは、鳴らしてはいけない音だ。ほかのうちでは鳴ってない音なんだよ。きちがい兄貴だって、ほかのうちだったら一分も鳴らせない音なんだよ。

事実、いま、きちがい兄貴がすんでいるマンションではきちがい兄貴は、一分も鳴らしてない。けど、「うち」ならよいのだ。「おやじのうち」なら、絶対に鳴らしていいということになってしまう。

考えるまでもなく、「このくらいの音で鳴らしていい」と思ってしまう。

そして、きちがい兄貴はきちがいだから「このくらいの音」というのが、ありえないほどでかい音なのだ。横にいるのが……家族だから……弟だから……まったく気にしないで鳴らした。

あとは、ヘビメタ騒音道具を、自分が買ったという気持がある。こういうことが、どれだけ、影響をあたえるか、「一五〇〇円のハンダゴテ」のことでもめたことがない人にはわからない。きちがい兄貴の意地だって、わからない。きちがい親父の意地だってわからない。

いのちがかかっているんだからな。

ハンダゴテを買ってやらないことに命がかかっている。

一円だって出したくないという無意識的な気持は絶対なんだよ。親父の場合はな……。

焦点になっている。出してやるかどうかが焦点になっている。兄貴の場合も、一秒だってゆずってやらないということが、焦点になっている。絶対の意地で、全部の時間、自分が思ったとおりの音で鳴らすということに「いのち」がかかっている。

これ、大げさな表現じゃないのである。もし、俺が、自分の維持を通すとなると、きちがい兄貴を殺さなければならなくなるのである。もし、きちがい兄貴が、ハンダゴテのカネを親父からうばうとなると……出してもらうとなると、きちがい親父殺さなければならなくなるのである。そういうことなのである。

「いのちがかかっていること」なんだよ。

親父は、一円に命がかかっているけど、兄貴は、一日に一秒だってゆずらないことに命がかかっている。

そして、きちがい兄貴はカネのことで親父に意地悪をされたので、自分がアルバイトをして買ったヘビメタ騒音道具で鳴らすなら、どれだけ鳴らしたって、文句を言われる筋合いがないと思っているんだ。

この思いも強烈なんだよ。いのちがかかっている。

こういうことが、凡人佐藤にはわからないのである。普通の人にはわからない。どれだけの意地がかかっているかわからない。ほんとうに、俺が兄貴を一秒でもしずかにさせようとしたら、そのとき、殺さなきゃならないんだよ。

一秒だってしずかにしてやらないことに命がかかっているんだよ。一秒だってゆずらずに、全部、自分が思ったとおりにやりきることに、いのちがかかっているんだよ。

絶対の意地で、ゆずらない。

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月25日水曜日

そういう経験がないからわからない

 ほかの人には、一倍速で経験した、ヘビメタ騒音の経験がないんだよな。あれがどれだけやっかいなものかわかってない。だから、ヘビメタ騒音の効果を過小評価する。

もし、自分が、おなじ音にさらされたら……おなじ音にさらされて一年間生活したら……わかるのに、そういう経験がないからわからない。

わからないところで、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、まとはずれなことを言ってくる。けど、そのまとはずれなことというのは、その人にとっては大切なことなのである。たとえば、言霊主義者にとって、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなことは、たいせつなことなのである。

どうしてかと言うと、言霊主義者だからだ。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなこと言ってくるわけだけど、「楽しい楽しいと」とどれだけ言っても、楽しくならないので、「楽しい楽しいとどれだけ言っても楽しくならない」というようなことを、言わざるをえない。

これで、言霊主義者の主張にあわせると、問題がしょうじる。

問題がしょうじるんだよ。

「そうですねぇ」と、いちおう同意したとしよう。そして、ぼくが「楽しい楽しい」と言わずに「楽しくならなかった」としよう。その場合、努力をしないと、それを、せめられる。「楽しい楽しいと言えば楽しくなるのだから、言えばいいだろ」というようなことを言われる。「楽しい楽しいと言えば楽しくなるのだから、楽しいと言えばいいのに、そういう努力をしないからダメなんだ」というようなことを言われる。めんどうくさい。

きちがいヘビメタ騒音のなかで「楽しい楽しい」と言っているときの、破滅的な気分がわかるか? ヘビメタ騒音が終わって、眠れなくなっているときに、「楽しい楽しい」と言っているときの破滅的な気分がわかるか? 「もう、自殺するしかない」というような気分なんだぞ。

楽しいわけがないだろ。楽しくない。どれだけ言っても、楽しくない。

逆に、そういうきちがい騒音なかで、自分の気持ちをおさえて、「楽しい楽しい」と自分の気持ちとは関係がないことを言うのは、くるしいことだ。はげしく、くるしいことだ。

けど、ヘビメタ騒音という経験がない言霊主義者にはそれがわからない。この人たちは、子どもだ。ぼくから見ると、子どもなのだ。幼児的な万能感にみたされている。

そして、ほんとうは、言霊理論が破綻していることに気がつかない。

矛盾だらけなのだ。

けど、それを指摘してもしたがない。指摘してもしかたがない。

ヘビメタ騒音が鳴っているさいちゅうでもなく、一日のなかでヘビメタ騒音が鳴り終わったあとではなくて、人生のなかでヘビメタ騒音が鳴り終わったあとに「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。おなじだ。破滅感しかない。

言霊も、「意識的な意志」に自分のすべてを操作させることができるという考え方の一種だ。意識的な意志というのは、意識的な脳みそだと言ってもいい。意識的な脳みそが『憂鬱なのはまずい』『腹がたっているのはまずい』と判断して、「楽しくなる」ように「楽しい楽しい」と言うわけだ。

ちなみに、ぼくが、言霊は成り立たない」というようなことを言った場合、たいていの言霊主義者はおこる。おこったとき、「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。そうたら、途端に楽しくなるのだから、自分の理論が否定されたからといって、おこる必要はなくなる。

へそを曲げなくてもすむ。

けど、たいていの言霊主義者が、言霊理論を否定されると、へそを曲げる。もう、もどらないのだ。その人にとって、ぼくが、いやな人になる。

ヘビメタ騒音を鳴らしているきちがい兄貴は、ぼくと言霊主義者のあいだでそういう、争いがあるということには、気がつかない。「きちがい兄貴が、ヘビメタをでかい音で鳴らすと、言霊主義者と言い争いをしなければならなくなるから静かにしろ」と言っても、しずかにしない。しずかにしないし、自分の行為と、「言霊主義者との争い」になにか関係があるとは、さかだちをしても、思うことができない。

まったく気にしないで、鳴らし続ける。あるいは、自分にとって不都合なことを言われたと無意識的には理解して、怒り狂って鳴らし続ける。意識的には「なんの関係があるんだ」と思って、「そんなの関係がない」と即座に思って、怒り狂っておしまいだ。

ともかく、なにがなんだろが、一分だろうが、一秒だろうがしずかにしてやるつもりがないのだ。ほんとうに我慢させられるということは、絶対の意地でさけている。その、強烈さを、きちがい兄貴が、意識してないということが問題なのだ。

これは、親父でもおなじだ。きちがい兄貴と、きちがい親父は、おなじことをする。きちがい兄貴ときちがい親父は、おなじ精神回路をもっている。

兄貴と親父とのあいだで起こったハンダゴテ事件の話を、きちがい兄貴に言えば……きちがい兄貴が、きちがい兄貴がうらんでいるきちがい親父とおなじ態度でヘビメタを鳴らしているということに気がつくかというと気がつかない。どれだけ言っても、きちがいおやじとおなじ反応経路をへて、気がつかない。どれだけ言っても、そのことを理解してくれるかというと理解してくれない。そんな高度なことがわかるなら、頑固に、こちらの言うことを無視して、うるさくしてない。

そもそも、「よその家では一分だって鳴らせないような音でずっと鳴らそう」と思わない。けど、よその家では一分だって鳴らせない音でずっと鳴らしても、弟に迷惑をかけているということがわからない。それは、言われないからわからないのではなくて、言われてもわからない。自分のなかで、「思いっきり、鳴らしたい」という欲求があるのであれば、その欲求に反すること……じゃまになるようなことは、無意識的なレベルではねのけて、認めない。意識的なレベルの脳みそには入ってこない。事前に、はねのけて、「なかったこと」になってしまう。自分に不都合なことは、「まったくかたちがない予感」のようなもでしかないのだ。瞬間的にしょうじる「まったくかたちがない予感」のようなものでしかない。それは、すぐに消えてしまう。怒り狂ったら、消えてしまう。このしくみが、兄貴と親父でおなじなんだよ。この、脳みそのしくみが……。だから、ものすごくこまることになる。けど、よその人はそういう人といっしょに住んでいるわけではないので、これまた、「親父と兄貴のしくみ」「親父と兄貴における脳みそしくみ」「親父と兄貴み反応回路」がわからない。だから、総合的に言うと、うちの兄貴の態度と、うちの親父の態度は、よその人にはわからないということになる。これがまた、こっちの負担になってしまうのである。理解しやすいしくみで動いている、きちがい兄貴ときちがい親父だったら、どんなに楽か?

俺がどれだけ、親切に、くわしく、きちがい兄貴の反応回路やきちがい親父の反応回路を説明したとしても、ほかの人は、半信半疑だ。凡人佐藤が……常識人佐藤のように「そんなひと、いるのかな」と思っておしまいだ。そして、それはともかくとして、とりあえず、「(エイリさんが)働いてないのなら、(エイリさんが)働いてないということが問題だ」ということになる。意識がそっちのほうに動く。ヘビメタ騒音で働けなくなっているとうことは、理解しないまま、「働いたほうがいい」と言ってくることになる。言霊主義者とおなじで、めんどうくさい。説明はしたからな。

 兄貴の頭の問題や親父の頭の問題だけではなくて、ヘビメタ騒音「で」通学通勤ができなくなったということを、ちゃんと説明した。けど、ヘビメタ騒音という問題が人生中で生じなかった普通の人たちにとっては、それは問題ではないのである。それというのは、ヘビメタ騒音だ。普通の人たちは、「ヘビメタ騒音がいっくら鳴っていたからと言ったって、働けないということはないだろう」と思ってしまう。こいつらにとっては、兄貴ではなくて、目の前のエイリさんが悪い人だということになってしまう。どうしてかというと、こういう人たちは、「なんであれ、働いていないのは、よくないことだ」「働いてない人は悪い人だ」と思っているからである。

けど、おまえ、毎日やられてみろ。そんなことは言えなくなる。どれだけ俺がこらえて、生きてきたかわかってない。どれだけ俺が努力して生きてきたかわかってない。いくら、自分の身には生じなかったことだとはいえ、想像力がなさすぎる。 

あの生活が、どれだけたいへんか、まったくわかってないなぁ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。