2023年12月31日日曜日

どれだけ、意識が命令しても、騒音の毎日で、根本的な意欲が減退するということを経験してない

長期間の騒音体験は、意欲をさげる……のだ。

しかし、長期間の騒音体験がないものには、それがわからない。

 

だから、長期間の騒音に実際にさらされたものと、長期間の騒音に実際にさらされてないものとのあいだには、感覚のちがいがある。普通の人は、長期間の騒音に、実際にさらされたことがない人たちなので、「意欲がさがる」ということが、わからない。まったく、まったくわからない。

「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」と思っている。ところが、長期間の騒音は、確実に、意欲をさげる。けど、これは、心理学の実験では、証明できないことだ。どうしてなら、そんな実験は、倫理的にできないからだ。

さらに、「生活騒音」ということを考えた場合「きちがい家族による、はげしい騒音」というのは、あまりにも少なすぎて、カウントされない。

「生活騒音」と言われて思い浮かべる騒音のなかに、きちがい家族による騒音は、入ってない。このきちがい家族という要素が、異常すぎて、カウントされないのだ。

ようするに、一般人が一般的なことを考える場合、きちがい家族による騒音というのは、除外されている。だって、ほかの「うち」には、うちのきちがい兄貴のようなタイプのきちがいがいない。ぼくがあった人のなかで、考えると、ひとりもいなかった。

ひとりだけ、六か月間やられた人がいるけど、六か月間で鳴りやんだ。その人の「兄」は、きちがいではなくて、六か月間でやめることができた。きちがい頭を搭載していると、六か月間でやめるなんてことはできない。不可能なんだよ。


ともかく、実際に、うちのタイプの兄貴が、きちがい的な意地で音にこだわって、その音でずっとずっと、鳴らすということが、人生のなかでなかった人たちが考える「騒音」とぼくが実際に経験してしまった「騒音」はちがう。別のものだ。

だから、普通の人が考える騒音と、ぼくが考える騒音はちがう。ぼくが「ヘビメタ騒音」について言及しているときは、いつも、「騒音」について言及していることになるのだけど、ぼくが体験した騒音と、一般人が体験した騒音がちがうのである。

なので、一般人は、主観的に、きちがい家族による長期騒音が「意欲をさげる」ということを理解してない。

説明しても理解しない。

自分のことじゃないから、理解しない。

自分の人生のなかでしょうじたことではないので、理解しない。

そりゃ、一五年間も鳴っているとか、すくなくても、中学・高校の六年間ずっと毎日、長時間なっているということを経験したことがないと、それがどういう影響をあたえるか自分のこととして経験したわけではないので、自分のこととしてわからない。

ふ・か・ひ・て・き・に・意欲に影響をあたえる。けど、騒音なるものは経験したことがあるけど、きちがい家族による長期騒音を経験したことがない人は、実際、騒音の毎日で、意欲が減退したという経験がない。

どれだけ、意識が命令しても、騒音の毎日で、根本的な意欲が減退するということを経験してない。

「騒音の毎日」と「毎日の騒音」はだいたいおなじ意味だ。

「騒音の毎日」ってほんとうに「騒音の毎日」なんだよ。

かぎりなく、騒音の毎日が続く。

それは、歴史的に言えば、一五年で終了したので、「かぎりなく」ではないと言うことができる。けど、鳴っているさいちゅうの毎日、現在進行形の毎日の場合は、「かぎりなく」という表現で正しいのである。

きちがい兄貴の態度がそういう態度だ。絶対にやめない。殺さなければ、やめさせることができない態度で、ずっと鳴らしている。

殺さなければ、やめさせることができない態度で、一分間鳴らしているなら、その一分間は、鳴らされている一分間だ。この、一分間の連続が、「やる気」や「意欲」をそぐのである。

けど、こういう言い方だと、誤解されるのだ。「やる気」や「意欲」というのは、ただ単なる「やる気」や「意欲」ではなくて、「やる気の根源」や「意欲の根源」を含んだ、「やる気」や「意欲」だ。

なにを言っているかわからないかもしれないけど、「源泉」がやられる。

「もと」がやられる。「やる気」や「意欲」と、ふたつ書くのはめんどうなので、以降、「やる気」と書くことにする。ただ単にやる気が出ないということではなくて、やる気が出るしくみそのものが、やられる。

やる気を出すしくみそのものが、命を絶たれる。

期間の長さというのは、重要だ。

普通「やる気」というようなこと考える場合、短期的なやる気のことについて考えるということになる。けど、この場合のやる気というのは、長期的なやる気も含んでいるる。短期的なやる気についても、言及しているけど、長期的なやる気についても含んでいる。

けど、やる気ということについて考える場合は、どうしても、短期的なやる気について考えてしまう。やる気そのものについて考えるけど、やる気の源泉みたいなものについては考えない。短期的で、根源的なしくみを含まないやる気について考えることになる。

俺が「つもる」と言ったって、「そんなのは、どうでもいい」ということになる

 ダイヤが「どうじんし」をつくろうと張り切っていたときがあった。で、きちがいヘビメタがなければ、ほんとうは、そういう話には、のっていた。のりのりで、のっていた。けど、ヘビメタ騒音生活が長いと、のれなくなる。これが、不可避的なのだ。きちがい兄貴は、日常的に、ずっとヘビメタ騒音を鳴らしていたのだけど、それは、ぼくの側から見ると、日常的に、ヘビメタ騒音を鳴らされるということだ。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、鳴らすとなったら、鳴らせる最大限の音で鳴らすのである。だから、きちがい兄貴がいるときはつねに、きちがいヘビメタが鳴っている状態になっていた。で、当然「やめてくれ」ということを言うのだけど、やめない。きちがい親父とおなじで絶対にやめない。なので、そういうことがつもっていく。実際に、きちがい兄貴と一緒に暮らしたことがない人にとっては「そんなのは、どうでもいいこと」だ。実際に、ヘビメタ騒音生活をしてないのだから、そうなる。だから、俺が「つもる」と言ったって、「そんなのは、どうでもいい」ということになる。その人にとっては、ヘビメタ騒音なるもの……あるいは、きちがい家族によるしつこい騒音というものは、存在しなかった。自分の人生のなかでなかったことなのだ。もちろん、そういう人だって「騒音」ぐらいは、経験する。だから、自分が経験した騒音を思い浮かべて、自分が経験したときの不愉快の度合いを思い浮かべて、「そんなのは、関係がない」というわけだ。けど、けど、日常的にずっと鳴らされるとなると、ちがう。一日に、学校に行ってつかれたあと、六時間五〇分鳴らされると、こたえるのだ。休みの日、一日に一三時間二〇分鳴らされるとと、こたえるのだ。そして、明日の学校の用意をしなければならないのに、きちがいヘビメタにやられて、できなくなる。この、きちがいヘビメタというのは、中立的だけどでかい音、というわけではない。たとえば、工事の音が、中立的で、工事の音がずっと鳴っているということとは、質的にちがうのだ。この世で一番嫌いな音がずっと、でかい音で鳴っている。それは、嫌悪感のある音が鳴っているということだから、中立的な音が鳴っているということとはちがう。中立的な音が大きな音で鳴っている場合と、嫌悪感のある音がでかい音で鳴っている場合とでは、ちがうのだ。


2023年12月30日土曜日

どれだけ「かかわるな」と言っても、かかわってくる

  自転車のことで不愉快な思いをしたことを、思い出してしまった。ほんとうに、腹がたつ。ほんとう、きちがい親父のせいで、自転車に関する記憶が、よごれまくっている。歴代の自転車が全部、やられている。おやじが、かかわってくるから、自転車が、トラブルを引き起こす呪いの自転車になってしまうんだよな。これ、親父と自転車というのは、相性が悪くて、たいへんな思いをした。庭に置いてあるものだから、どうしても、親父が見てしまう。きちがい親父の、きちがい的な部分が発揮されてしまう。

どれだけ「かかわるな」と言っても、かかわってくる。そのたびに、呪いの自転車になってしまうのだ。いやな出来事が染みついた自転車になってしまうのだ。「かかわるな」という言葉が、これまた、魔法のような言葉で、きちがい親父がきちがい的な部分発揮するのだ。きちがい思考が、爆発的に発生する。「かかわるな」と二〇回言ったって、「そんなのまったく聞こえなかった」という態度で、自分が言いたいことを言ってくる。自分がやりたいことをやらせろとくいさがる。俺の目を盗んで、やってしまう。

「かかわるな」とどれだけ真剣に、何回も言っても、きちがい親父は、きちがい親父の頭を搭載しているから、きちがい脳みそが、はねのけてしまうのだ。これ、ほんとうに言いようがない。あれ、相手がどういうふうにこまるかということをまったく理解してないのだ。それが「やってやる」というようなときでもそうなる。「やってやらない」というときもそうなる。きちがい兄貴は、自分の騒音で俺がどれだけこまるか、まったくわからないままやったんだよ。だから、最後の最後まで「迷惑をかけてないつもり」なんだよ。まったく関係がない人として暮らしているわけ。で、それが、親父の自転車事件とおなじなんだよな。けっきょく、あいつらは、相手がどういうふうに思っているか、わからない。自分の行為で、相手がこまるということがまったくわからない。どれだけ、言ってもわからない。まったくなにもつたわらない。相手が「こまるからやめてくれ」と言ってきた場合、言われる前の自分の気持ちと、言われたあとの自分の気持ちがまったくかわらないのだ。それしかない。自分の気持ちしかないんだよ。だから、相手が言ってきたことは無視して、自分が言っていることを、繰り返し言う。自分がやっていることを繰り返しやる。これが、もう、脳みそ的に絶望なんだよ。これ、ほんとうに、相手が(自分の行為をどう思っているか)ということについて考える脳みそが「さいしょからない」状態なんだよな。で、自分の気持ちだけで言ってくる。自分の気持ちだけでやる。そうなると、相手が「やめてくれ」といった場合、「やめてくれ」と言ったということをまったく理解しないまま、まったく気にしないでやり続けるわけ。言い続けるわけ。これが、「無視してやろう」と思っているわけではないというのが、病的なんだよ。普通の人は、相手が言っていることは耳が正常なら聞こえるし、日本語がわかるなら、わかる。ところが、きちがい親父ときちがい兄貴の無視のしかたというのは、まるで、耳が正常じゃないから聞こえなかったというような無視のしかたであったり、日本語がわからないから、意味がまったくわからないというような無視のしかたなんだよ。もちろん、耳は聞こえるし、日本語も、普通のレベルでわかる。だから、相手が言ったことは、無意識のレベルでは理解している。けど、意識のレベルに上ってこない。意識のレベルだと、「なにか不愉快なことを言われた」というレベルの理解でしかない。「なにか」なのだ。実体がわからない「なにか」なのだ。意味がわからない「なにか」なのだ。で、普通の人なら、「聞いてないふり」をして、そういう態度をとるのだけど、きちがい親父ときちがい兄貴は、「聞いてないふり」をするわけじゃない。ほんとうに、意識的なレベルでは「聞いてない」。きいてないとおなじレベルの理解しかないんだよ。直観として「なにかいやなことを言われた」というような「感じ」しかしない。そういうものを、無視している。いちおうは、内容を理解して……意識のレベルで内容を理解して……それで、わかってないふりをしようと決めて、わかってないふりをしているわけではないのだ。あたかも、普通の人なら、わかってないふりをしているような態度なのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父の場合、ふりをしているわけではなくて、意識レベルだと、ほんとうにわかってない。ふりしているのではなくて、わかってない。無意識のレベルでは、ほぼ正確に理解している。無意識のレベルで相手の言っていることを理解していないのであれば、そういう態度にはならないのである。無意識のレベルでは言葉の内容を理解しているのだけど、意識のレベルでは、「なにか不愉快なことを言われた」というようなレベルの理解しかない。だから、もっと簡単に、芝居でなく、むりでなく、無視できる。相手がこまっているということは、もう、ほんとうに頭のなかには残らないのだ。自分の気持ちしかないから、相手の気持ちについて考える余地がない。だから、本人の主観としては、「悪いことをしている」つもりがないだ。「無視をした」つもりもない。こんなのは、普通の人ならできないことだ。普通の人がこういうことをやる場合は、自分が気がついているということについて、知っている。芝居でそういうふりをしているということに、どうしても、気がついてしまう。どうしてかというと、芝居をしようと思って、無視している芝居をするからだ。ところが、「無視しよう」と、意識レベルではまったく思わずに、聞こえてない芝居をしてしまう。そして、聞こえてない芝居をしているあいだも、「相手が自分のやっていることでこまっている」ということは、意識にはまったくまったくまったくのぼらないのである。だから、忘れてしまったわけではないのだ。一度、感覚し、認知し、認識したことを、記憶して、その記憶を忘れてしまったのとはちがう。一度も、感覚し、認知し、認識してない。だから、当然、「記憶としても残らない」ということになる。これは、忘却じゃないんだよ。最初から、感覚されてないことだ。最初から、認知されてないことだ。最初から認識されてないことだ。だから、忘れてしまったことではないんだよ。これが、重要なんだよ。ほかの人にとってはまったく重要じゃないけど、やられた人間にとっては、ものすごく重要なことだ。

 

しかし、正しくない

  極端に悪い「うち」に生まれると、普通の人がせめてくることになる。きちがい的な親のもとに生まれた人間と、正常な親のもとに生まれた人間。やられることに差があって当然。けど、「そんなのは関係がない」と正常な親のもとに生まれた人間に、言われるようになる。「差」なんて認めないのである。そういうのが、正義なのである。差にこだわる人間は、未熟な人間なのである。これは、意志の力で自分を自由に制御できる人間が、成熟した人間だと考えるような思想でもおなじだ。まあ、ぼくの言葉で、意志教。意志教や努力論は、効率主義の一部なんだけど、自分にとって都合が悪い出来事は、無視してしまう。自分にとって都合が悪い「格差」は無視してしまう。人間万能論で、現実主義的が、選択的に、ある種の現実を無視している。ただし、意志教や努力論、そして、それを包括する効率主義が、「正しいこと」として流通しているということのもつ意味は、でかい。これらのことは、正しいこととして流通している。しかし、正しくない。まるで、言霊理論のように正しくない。

「よさそうなこと」が、じつは、悪いこと……なのだ

 たとえば、「大人になったら、こども時代のことは関係がない」というようなことが、よく言われるけど、それは、まちがっている。問題なのは、「すべては自己責任」とか「すべては受け止め方の問題」とか「人間はすべて、おたがいさま」とかというように、条件が悪い人が、めちゃくちゃに不愉快な気分を味わうことになるということだ。これ、条件が普通の人が、条件が悪い人にむかって、こういう言葉を、正しい言葉として、投げかける。ぼくはずっと「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような、ほかの人にとっては、正しいと思えるようなことにかんして、ずっと、批判してきた。これ、まるで、正しいことのように流通しているけど、じつはまちがってる。そして、「正しいこと」として流通しているので、現実世界で、不利益をこうむる人たちが、確実にいるのである。けど、「正しいこと」として流通しているので、「なんとなく、批判しにくい」という雰囲気が成り立っている。これは、おかしい。「よさそうなこと」が、じつは、悪いこと……なのだ。「正しいそうなこと」が、じつは、まちがっているのだ。

こういうことの繰り返しなんだよ。

 そもそも、あんなでかい音でずっと音楽を鳴らし続けるということが、やってはいけないことなのである。やってはいけないことを、やっている……。これが重要なことなのだ。きちがい兄貴が、毎日毎日、やってはいけないことをやっている。時間なの長さだって半端じゃない。きちがいだから、「やれる時間はすべて鳴らす」というモードでやっている。それが、きちがい兄貴にとって普通のことなのだ。この「やれる時間」から「一分でも、一秒でも」ゆずってやるとなったら、それこそ、大騒ぎだ。絶対の意地でやってやらない。こうなる。ひとつひとつに「いのち」がかかっている。そういう状態だ。けど、やれる限りは……自分が好きなようにやれる限りは、……そう思ってない状態が続く。ずっとやっているのだから、「そういう意地はない」ときちがいは思っているのである。そして、普通にやっている。起きている時間の家、ご飯を食べている時間と、風呂に入っている時間はすべて、自分が思ったとおりの音で、きちがいヘビメタを鳴らすのがあたりまえだと思って、そうしている。「一秒でも、自分が、おとうとにゆずらなければならない」ということになったら、くやしくてくやしくて、発狂してしまうのである。一日に、一秒も、ゆずってないから、そういう気持に気がつかない。本人が気がつかない。「一秒でも、自分が、おとうとにゆずらなければならない」ということになったら、くやしくてくやしくて、発狂してしまうような状態で、ずっと鳴らしている。

この態度が、親父とおなじなのである。おやじが庭に竹を植えるとなったら、絶対の意地で植えるのである。おかあさんが、どれだけ「そんなところに根っこを植えたら、あとあとこまることになるからやめてくれ」「根っこがのびて、いろいろなところに竹がはえるからやめてくれ」と言っているのに、植えてしまうのである。「やめろ」「やめてくれ」と言われたら、発狂して植えてしまうのである。けど、本人は、まったく「意地になったつもりがない」のである。「やめてくれ」と言われてやめなければならなくなったら、くやしくてくやしくて、発狂してしまう状態なのである。きちがいだから、起きているときは、いつもそういう状態なのである。

きちがい親父の「竹」と、きちがい兄貴の「音楽」は、おなじなのである。態度がおなじなのである。感覚がおなじなのである。反応がおなじなのである。認識がおなじなのである。

怒るときは、無意識的な部分で理解して、意識的な部分ではまるで理解してないような状態なのである。だから、相手がこまるとか、相手がこまっているということがわからない。自分の行為で相手がこまっているということは、「どれだけ言われても」まったく残らないのである。だから、いつも「そんなつもりはない」ということになっているのである。言われたときだけ、発狂して、やり続ければ……「やってないこと」になってしまうのである。「そんなことはない」ということになってしまうのである。「やめてくれ」と言われたとき、自分がどういう態度でどういう反応をしたのかということが、自分の感覚のなかにない状態なのである。最初から、時系列的に、認識してない状態なのである。だから、もちろん、相手がやめてくれと言ってきたとき、自分がこういう態度で、こういうふうに否定して、やりきったという記憶がまったくない状態なのである。で、それは、時系列的に、ネスト構造をもっている。その都度、発狂して、やりきっておしまいだ。やりきっておしまいだ。やりきっている。相手が言ったことを、認めずにやりきっている。やった。けど、やったつもりがないのである。そういうことを、相手が言ってきたという記憶がないのである。そして、不都合なことを言われたら、その言葉を意識的には認識しないで、否定したり、無視して、やりきるという態度がおなじだから、毎回そうなるのである。そういうことをやったということ自体が……そのときは、自分にとって不都合なことなのだ。不都合なことは、無意識的なレベルでは、理解するけど、意識的なレベルでは理解せずに……内容は理解せずに、きちがい的に否定したり、きちがい的な意地で無視して、やってしまうのである。そうしたらもう、自分には関係がないことなのである。自分が意地になって、やっていることなのに、自分には関係がないことになってしまっている。これが、こまるんだよ。こういうことの繰り返しなんだよ。

2023年12月29日金曜日

もう、こどものころには「条件のちがい」をはねのけられないような状態になっている

いかなる現実の条件も無視するという、条件が成り立っている。

ようするに、無言ではあるけど、『条件なんて関係がない』という考え方が成り立っているのだ。

そうなると、条件がいい人や条件が中ぐらいの人が、条件が悪い人を追い込むことになる。

そして、追い込むことが、もはや、奨励されているのである。

この条件のよさとか悪さというのも、相対的なものなんだよ。自分を中心として、相手の条件がいいとか条件が悪いということが決まる。

上位一〇%と下位一〇%をぬかした部分が八〇%を構成する普通の人たちだ。

もちろん、上位一一%から二〇%までに入る人と、下位一一%から二〇%までに入る人の条件はちがう。けど、おなじだということになっているのである。条件による違いというものを無視することが、前提条件になっているので、おなじだということになる。 

「コツコツ努力をすれば、成功する」という言葉は「おなじ条件のもとで、コツコツと努力した人は成功するけど、コツコツと努力しなかった人は、成功しない」という意味を持つ言葉として流通する。

そして、これに、自己責任論が、すいつく。

そうなると、条件が悪い人は、追い込まれることになる。家族がきちがいだということは、条件が悪い人のなかでも、かなり条件が悪いほうに入るのだけど、そんなのは、無視される。

「条件なんて関係なく、コツコツ努力をすれば、成功する」というような思想がはやっていると、ある層……たとえば、きちがい的な家族にたたられている層は……非常においつめられるのである。生きにくくなるのである。

凡人が凡人の首をしめるように、誘導されているのである。こういう思想がはやっているというのは、たぶん、偶然ではなくて必然だ。悪い人たちが、ある目的のために、はやらせておいたのである。

そう考えると、いろいろと、納得がいく。

凡人が凡人の首をしめると言ったけど、これは、ちょっと優位な凡人が、ちょっと劣位な凡人の首をしめるということだ。それが、普通のことになってしまうのである。そういう連鎖が、上のほうから下まで、一貫して成り立っている。なので、特に条件がいいわけではない凡人が、条件の悪い人を、追い込むことが可能になる。 

極端に条件が悪い人も、「自己責任論」と「努力論」を思想として受け入れているために、社会に文句を言うこともなく、自殺していくのである。

条件が悪い人も、「自己責任論」と「努力論」の正しさを信じ込むように誘導されている。条件が悪い人が、『条件の違い』について言及するのは、みっともないことなのである。そういう感じ方も成り立っている。

ようするに、条件が悪い人も、「自己責任論」と「努力論」を思想として受け入れているから、自分を殺すしかない状態になってしまうのである。「すべては自己責任」「自分のせい」と思って、死んでいく。

けど、条件のちがいがある。生まれたときの条件のちがいは、特に、大きな条件のちがいだ。生まれたときの条件のちがいが、さまざまな条件のちがいを、時系列的に生み出していくのである。

そして、過去のできごとは、現在に影響をあたえるので、もう、こどものころには「条件のちがい」をはねのけられないような状態になっているのである。条件のちがいをはねのけるには、これまた、努力をするしかないということになっている。

しかし、条件が悪いと、努力そのものができない。

自殺をしてはいけませんということになっているけど、それは、建前だ。社会的な自殺対策も、もちろん、建前だ。実際には、ちょっと優位な凡人を刺客として、ちょっと劣位な凡人のところに、さしむけている。頭のいい人たちが、凡人を洗脳して、優位な凡人を、劣位な凡人のところに派遣している。

ちょっと優位な凡人というのは、たとえば、先輩社員や先輩アルバイトだ。職階がおなじでも、あるいはアルバイトでも、先輩と後輩のちがいがある。先輩は「そこでは」ちょっと優位な人間なのだ。つまり、ちょっと優位な凡人だ。ヒエラルキーというと、頂点や底辺が、注目されがちだけど、自分を中心にした「ヒエラルキー」が成り立っている。

ちょっと優位な凡人が、ちょっと劣位な凡人の首をしめるときに使う思想が、自己責任論と努力論だ。これが、人類のありかたとして普遍的なありかたなのかというと、そうではないと思う。人類はほんとうは、そういうこととは関係なく、しあわせに存在することができると思う。

2023年12月28日木曜日

起きるたびに、きちがいヘビメタ騒音の朝を経験してしまう

起きるたびに、きちがいヘビメタ騒音の朝を経験してしまうわけだけど、ほかのやつは、わかってない。イチニチブンだって、わかってない。きちがいヘビメタ騒音が「つもった朝」というのがどういう朝なのか、みんなわかってない。わかってない。これ、ほんとう、ちがうのに。経験してない人が考える「ヘビメタ騒音の朝とかいう朝」と、実際に経験し続けた人が感じる「ヘビメタ騒音の朝」はちがうのに……ちがうのに……みんな、ぜんぜんわかってない。どんだけ、ひどいことになるか、みんなほんとうにわかってないなぁ。わかってない。わかってないところで、「そんなのは関係がない」「俺だって苦労した」と言ってくる。この「そんなのは関係がない」というのが、どれだけ腹がたつことか、わかってない。言ったやつはわかってない。きちがい兄貴がきちがいなら、「そんなのは関係がない」と言ったやつは、ほんものの、バカ。ほんとうに、きちがい兄貴がきちがいだから、ほかの人が経験したことがないことを、経験させられ、ほかのやつにバカにされる。バカなことを言われるようになる。こんなのは、ない。

2023年12月27日水曜日

「努力をしなかったやつが悪いんだ」ということになってしまうのである

 「コツコツ努力をすれば、成功する」というようなことが、正しいこととして流通するとどうなるか?

「努力をしなかったやつが悪いんだ」ということになってしまうのである。

しかし、実際には、条件が成功するかどうかを決めている。

第一要素は、条件だ。いい条件だと成功して、悪い条件だと成功しない。

いい条件のもとで努力すると、成功するけど、悪い条件のもとで努力しても、成功しないとする。成功するかどうかを決めるのは、「いい条件」だという考え方だってできる。

けど、「コツコツ努力をすれば、成功する」という文のなかには、『いい条件』なんて言葉は出てこない。「そんなのは、関係がない。努力のみが結果を決定する」という考え方が、背後にある。

努力のみが結果を決定する……ほかのことは関係がない……どんだけ、バカなんだ。

 

2023年12月26日火曜日

「Xをすれば、Yになる」というのは、条件を無視した言い方

 あっ、そうだ。アドラーは「コツコツ努力をすれば、成功する」というようなことを言っている。「Xをすれば、Yになる」という型の言葉だ。

これは、条件について、言及されてないけど、条件について、言及されていない場合は、「どんな条件だって」という言葉がついているのとおなじことになる。

実際、「どんな条件だって」とか「どんな場合だって」とかという言葉がつく場合もある。説明のなかで、「条件に関係なく、コツコツ努力をすれば、成功する」ということを説明したりする。

条件について、特に言及しない場合は、どんな条件でもそれが成り立つということを言っているのとおなじだ。

だって、Xをすることだけが、条件だからだ。

Xをすれば、条件を満たすのである。ほかの条件について語られていないということは、Xをするということだけが、条件になる。Xをするという全体的な集合を考えた場合、Xをしさえすれば、Xをしたということになり、全体的な集合のなかに入ってしまう。

Xをしたのに、Xをしたという集合のなかに入らないということはないのである。

なので、ただ単に「XをすればYになる」と言った場合と、「どんな条件でも、XをすればYになる」と言った場合の意味的なちがいはないということになる。等価なのである。

「Xをする」ということの集合と「すべての条件下で、Xをする」ということの集合は、おなじなのである。

たとえば、イタイイタイ病になった人は、イタイイタイ病という条件を背負うことになる。

この条件を背負うと「成功しにくくなる」。

水俣病の場合もおなじだ。水俣病という条件を背負うと、成功しにくくなる。けど、そういう条件は無視して、ただ単に「コツコツ努力をすれば、成功する」と、無慈悲な人たちは言うのである。

そもそも、存在しているだけで、からだがいたいのなら、やれることが制限される。そもそも、日常生活ができない状態なら、やりたいことが制限される。

有機水銀は脳に影響をあたえるので、いままでできていた行為ができないということになる。

そういうひとと、元気な人の条件はちがう。

実際にはちがうのだ。

日常生活のことがままならない人は、努力をしにくい状態になっているのである。

この成功というのが、社会的な成功だとすると、社会的な成功にむかって、コツコツ努力することすらできなくなる。そりゃ、日常生活を成立させる行動のうえに、さらに、社会的に成功するための行動が必要になるのだから、日常生活を成立させる行動すら、ままならないということになると「成功」が遠のく。

実際、不可避的に、判断力や行動力に影響与える。

こういうことを言うと、「車いすに座っていた、ある人は、社会的に成功した」という例をあげて、反論してくる人がいるけど、「車いすに座っていた、ある人」の条件と「水俣病で日常生活が自分ではできなくなっている人」の条件はちがうのである。

「車いすに座っていた、ある人」は、超・お金持ちだったのである。超・お金持ちが、投資の世界で成功した。その場合、「おカネ」という条件について考えると、有機水銀にやられて、いままでやっていた漁師の仕事ができなくなった人と、お金持ちのうちに生まれて、お金持ちだった人とは、もっているおカネの額という条件がちがう。

そして、将来、入るだろうおカネの額についても、条件がちがう。

体が不自由かどうかという条件のほかに、おカネという条件があるのである。

条件は、無数にある。

そりゃ、切り口がちがえば、あたえる印象がちがう。どの部分を記述するかということだ。

何度も言うけど、条件なんて無数にある。その無数の条件のなかで、ある条件に焦点を当てて、成功するかどうかに、その条件が影響をあたえるかどうかということに、言及しただけなのである。

ようするに、反論した人は、「体が不自由でも、こういうふうに成功した人がいるぞ」ということをしめして、「体が不自由かどうかは、成功するかどうかに影響をあたえない」ということを言おうとしたのである。

しかし、「体が不自由かどうか」というのはひとつの条件にすぎない。

そして、「体が不自由かどうか」ということを問題にした場合、どういう理由で、どういう範囲において、どういう程度で、体が不自由なのかということについては、人それぞれに、ちがいがあるのである。細かく見れば、ちがいがある。

判断力に影響をあたえる毒なのかどうかということも、そういう条件のひとつだ。

ようするに、ある切り口で言及された『条件』のなかに、さらに細かい『条件のちがい』があるのである。そして、体が不自由かどうかということについて、語られるとき、おカネのことは、捨象されていた。無視されていた。なので、まあ、あとだしということになる。

けど、何度も言うけど、条件というのは、無数にある。

その切り口で、その条件について語ってみた、だけなのだ。「車いすに座っている」という条件は、水俣病で動けないという条件とは、ちがう条件なのだ。けど、動けないなら、おなじだと思って、反論した人は、そういう条件……「車いすに座っている」という条件を出してきたのである。けど、そもそも、言っていることがちがうので、話にならない。

 「Xをすれば、Yになる」というのは、条件を無視した言い方なのだけど、実際には、無数の条件が「Xをすれば、Yになる」かどうかに影響をあたえている。これは、無視できないことなんだよ。けど、ライフハックや法則性があるようなことをいいいたい人は、条件を無視して、 「Xをすれば、Yになる」と言いたがる。

 そして、「コツコツ努力をすれば、成功する」に関しては、「成功」というのが問題で、「成功」というのが、客観的にはどういうことなのかわからない言葉なのだ。アドラーは明らかに「社会的な成功」についてのべているのだけど、そういうこととは、本質的にちがう「成功」を持ち出す人もいる。

なので、本人のなかで「成功した」と思えば、本人がそう思っているのだから、成功したということになるというような性格をもつ言葉として「成功」という言葉を使うのであれば、なんとだって言えることになる。

2023年12月25日月曜日

これは、悪魔の誘惑だ。

 自己責任論批判のうけが悪いのは、わかる。自己責任論が正しいと思っている人たちが多いからだ。けど、自己責任論というのは、「やられたほう」を無限にせめるやり方なのだ。「やられた以上は、落ち度がある」という論法だ。やられたら、関係のない他人からも、落ち度を追及されるようになる。自己責任論者は、うまいこと、洗脳されているだけだ。自己責任論者が増えると、悪い支配者が悪いことをしやすくなるのである。だれかが、「やられた」ことに気がついても、ことあげ」しにくい状態になっている。だまされた人が悪いということになってしまっている。だました人よりも、だまされた人が悪いということになっている。どうしてなら、自己責任論者は、だました人の責任を追及することはないからだ。だましたことによって、利益を受け、より良い状態になっているのだから、だましたほうが、「ことあげ」をする必要はない。まわりの一般人が、だまされたほうの人間を、せめれば、それだけ、やりやすくなる。気分もいいんじゃないかな。そういう一般人が増えれば増えるほど、やりやすくなる。しかも、自己責任論者は、自分が正しいと思っている。自己責任論者は、自分が審理について語っていると思っているのだ。そして、これが肝要なところなのだけど、優越感を味わえる。ただ単に、やられていないだけなのに、優越感を味わえるのだ。これは、悪魔の誘惑だ。



2023年12月24日日曜日

多くの自己責任論者

 ようするに、多くの自己責任論者というのは、イタイイタイ病の人に「おまえだって、カドミウムを摂取したという落ち度がある」「すべては、自己責任だから、おまえの責任だ。おまえの責任だ」と言ってせめるのである。

そして、「自分は自己責任で生きている」とくだらない例をあげて、満足する。「自分は、自己責任で生きているえらい人で、イタイイタイ病になって、人の責任を追及する人は、人のせいにする悪い人だ」と言うのである。すでに、ひどい目にあった人に、こういうことを言って、自己優越感にひたる。

けど、自分の実生活のなかでは、特に、「自己責任」では生きていないのである。人の行為に原因があると思っている場合は、人の行為に原因があると言って、その人(原因をつくった人)をせめる。

けど、本人は、そういうことに、矛盾を感じないのである。こういう、レベルだ。自分のことについて、自己責任自己責任」と言っている場合は、特に、そういうふうに意識できる事柄について、そう言っているだけだ。

*     *     *

これから、薬害がはやるだろう。薬害でこまっている人たちが、薬害でこまってない自己責任論者から、責任を追及される。「自分が打つことに同意したのだから、自己責任だ」と言われるようになる。

自己責任論者は、厚労省や政府や医者の責任は、追及しない。

自己責任論者は、やったほうの、責任は追及しないのである。自己責任論者は、こまってないほうの責任は、追及しないのである。自己責任論者は、こまっているほうの責任を追及する。

こういう自己責任論者が増えると、だれが得するのかな? 

「こういう自己責任論者が増えると、だれが得するか」ということについて、少しは考えたことがあるか?

考えたことがないなら、考えるべきだ。

*     *     *

すでにこまっている人に、「おまえの自己責任だ」と追い打ちをかける。そして、「俺は自己責任で生きているモーン」といやみを言う。

責任の所在は、個別に議論しなければならないことなんだよ!

「すべては、やられたほうの責任」ではないんだよ。

「すべて」という言葉を使って、個別の具体的な話に水をさす。個別の具体的な話を考えられないようにしようとする。こいつらの頭のなかでは、「すべて」だから、個別の出来事は「すべて」にあてはまるもなのである。

そこでは、個別の出来事を無視して、「すべてはやられたほうの自己責任だ」という決めつけが成り立っている。そいつの頭のなかでは、個別性を無視して、すべてにおいて、やられたほうの自己責任だということになっているのである。

これで、善をなした。善い行いをしたと思っている。

やられたほうに、「おまえの責任だ」と圧力をかけ、「俺は、自己責任で生きているけど、おまえは自己責任で生きてないダメなやつだ」といやみを言うのである。こいつらがこの世でやっていることはそういうことだ。

 *     *     *

現実の世界というのは、それこそ、すべてが、個別の具体例なんだよ。個別の出来事における責任の所在について考えずに、最初から「やられたほうが悪い」と決まっているのである……。自己責任論者の頭のなかでは、最初から、やられたほうに、全責任があると決まっている。やったほうには、一切合切責任がないのである。これは、責任という言葉を使っているけど、やったほうは、悪くないということだ。やられたほうが悪いということだ。

*     *     *

「すべて」と言うときは、抽象的な意味で「すべて」なのである。それは、これから起こることも含んでいる。抽象的な意味で「すべて」と言ったら、ほんとうに「すべて」なのである。しかし、そのすべてのなかに含まれてしまう、個別の出来事というのは、唯一無二の個別の出来事なのである。「すべて」というのは、個別の出来事をすべて含んでいるように思えるけど、実際には、「すべて」に含まれる個別の出来事なんてない。ひとつもない。一度、抽象化して、抽象化した「すべて」を考えて、個別の出来事に「すべて」の属性を当てはめて考えているのである。一度、すべてという言葉で抽象化してしまうと、そういう問題が発生する。

*     *     *

たとえば、ある人のうちに泥棒が入ったとする。泥棒が印鑑を盗んだとする。その場合、自己責任論者は、盗まれた人の責任を追及するのである。盗まれたら、こまるだろう。 自己責任論者は常に、こまっているほうの責任を追及するのである。ある人をAさん、泥棒をBさん、自己責任論者をCさんとする。たとえ、Aさんが戸締りをきちんとしたとしても、もっと厳重な泥棒対策をするべきだったということになってしまうのである。そういう厳重な泥棒対策をしなかったので、Aさんには責任があるということになってしまうのである。単に、責任があるだけではなくて、全責任があるのである。実際に、盗まれたということが発生したら、盗まれたことについて、盗まれた側に、全責任があるということに、してしまう。自己責任論者は、やれたほう、こまっているほうに、すべての責任があるということに、してしまう。そして、もっと厳重な泥棒対策をすれば、泥棒に入られることはなかったという、仮定の話をして、現実のAさんがとった泥棒対策がじゅうぶんでなかったということにしてしまう。そうすると、Aさんにも『非があった』ということになるのである。しかし、現実世界では「完全な泥棒対策」はむずかしい。実際に泥棒に入られたら、入られたほうに非があるということにされてしまう。非がなければ、泥棒であるBさんはAさんの家に入れなかったのであるから、非があるAさんの責任だということになってしまうのである。しかし、現実的には、完全な泥棒対策なんてない。だから、適度な泥棒対策をすれば、完全な泥棒対策をしなかったということで、せめられることはない。ところが、自己責任論者は、空想的な、完全な泥棒対策を想定して、そういうことをしなかったAさんをせめるのである。実際に!やられてしまったら、やられてしまったということで、やられたほうには落ち度があるということになってしまうのである。やられたほうには非があるということになってしまうのである。自動的にそうなる。

自己責任論者であるCさんは、Bさんが泥棒をしたということについて、自分の責任だと感じるべきなのだ。自己責任論者であるCさんは、Aさんが泥棒に入られたということについて、自分の責任だと感じるべきなのだ。どうしてなら、「すべては自己責任」だからだ。「すべては、自分の責任」だからだ。Aさんが完璧な泥棒対策をしなかったのは、Cさんの責任だ。どうしてなら、すべては「自分の責任」「Cさん自身の責任」だからだ。Cさんには、この世で起こったことすべてに、責任がある。「すべては自己責任」なのだからそうなる。Bさんが泥棒をしたのは、Cさんの責任なのである。どうしてなら、Bさんが泥棒をしないようにCさんがしなかった責任があるからだ。「完璧」ということを言うのであればそういうことになる。想像の世界では、いくらだって、「すべきだったこと」を……言ってみれば……作成できる。そうするべきだったのに、そうしなかったから悪いんだ(責任があるんだ)ということを言うことができるのである。無限にそういうことができる。実際に起こったことの反対を考えて、それが起こらないようにしなかったのは「その人の責任だ」ということに、することができる。こんなのは、ない。けど、自己責任論者が、こまっている人にやっていることは、そういうことだ。



2023年12月23日土曜日

「すべては自己責任」と言って、刺されたFさんの責任を追及する

 たとえば、自分が水俣病になったとする。きちがい自己責任論者が、しゃしゃり出てきて「すべては自己責任」と水俣病の患者をせめたとする。その場合、水俣病の患者は、やはり、不愉快な気持になるのである。

問題なのは「すべて」というところだ。

他者の人生において発生したことについて、よく吟味することなく、すべては、その他者の責任だと言っているのである。こんなのは、ひどい。

ぼくは、自己責任論については、だいぶ述べているのだけど、「自分を対象にした自己責任論」と「他人を対象とした自己責任論」がある。自分を対象にした自己責任論に関しては、別にどうでもいい。けど、他者を対象とした自己責任論には問題がある。

どうしてかというと、責任の所在について、ひとつずつ、吟味せずに、「その人のせい」にしているからだ。

「他人を対象とした自己責任論者」は、つねに、「人のせい」にして生きている。そして、それは、誤解にもとづく、責任のなすりつけを、含んでいる可能性がある。他者に対して「すべてその他者の自己責任だ」という場合、ほんとうに、その他者の自己責任だと言ってはいけないものが、含まれている場合がある。

たとえば、Aさん、Bさん、Cさんがいたとする。Aさんは、他人を対象とした自己責任論者だとする。そして、Bさんが、水俣病になった人だとする。Cさんは、まあ、水銀を海に流した会社の社長だとする。

この場合、たしかに、Cさんに責任がある。流したという責任がある。汚染魚を食べたのはBさんだから、Bさんの自己責任だとは、勝手に言えない部分がある。

けど、自己責任論者は、すべてをBさんのせいにするのである。そして、Bさんに対して「俺は、すべて自己責任だと思っているよ」と言うのだ。

「自分は、すべて自己責任だとすべてをうけとめる覚悟」があるいい人間だけど、Bさんはそういう覚悟がないダメな人間だと言っているのである。

まあ、だめな人間だというのは、どうして、そういうことになってしまうかというと、BさんがCさんのせいにしているからだ。人のせいにしている。人のせいにすることはだめなことなのだ。

だから、この文脈において、自動的にBさんはだめな人だということになる。だれのせいかということについて、つまり、だれの行為に原因があるかということについて、Aさんは、勝手にBさんのせいにしているのだ。

原因に関する判断がまちがっている。どうして、Cさんの行為が問題にならないのか。

Cさんの責任を追及するのは、ともかくとして、Bさんの責任を追及するのは、よくないことだ。

たとえば、Dさんと、Eさんと、Fさんがいたとする。Dさんは、他人を対象とした自己責任論者だとする。Eさんが、通り魔だとする。Fさんは、通り魔に刺された人だとする。Fさんは、普通に、普通の道を歩いていただけなので、Fさんには、責任がない。

これが、たとえば、Fさんが、常に、Eさんをいじめていた場合は、刺されるということにかんして、責任がある。「刺される」というのは、Eさんに、Fさんが「刺される」ということだとする。この場合は、Eさんは通り魔ではない。話を、刺さるまでは、無関係なEさんとFさんにもどす。自己責任論者のDさんは、「すべては自己責任」と言って、刺されたFさんの責任を追及する。刺したほうのEさんの責任は、一切合切、追及しない。

こういう、不公平なことをしている。

「そんなのは、Fさんの責任だ」と勝手に判断して、Fさんの責任を追及しているのである。勝手に、原因についてまちがった判断をして、勝手に、Fさんを追及している。こまったやつである。

すべては自己責任だと考えるのであれば、EさんがFさんを刺したのは、まったく関係がないDさんの責任だと、Dさんは考えるべきなのである。

すべては自己責任だと考えるのであれば、Cさんが、水銀がはいった汚染水を海に流し、Bさんのからだの自由をうばい、Bさんの人生を破壊したのは、まったく関係がないAさんのせいだと、Aさんは、考えるべきなのだ。

「すべては自己責任」なのだからそうなる。

なんで、「すべては自己責任」なのに、他人の責任を追及しているのか?

自分に関係があることと自分に関係がないことを区別するなら、「自分に関係があることはすべて自己責任」と言わなければならない。「すべては自己責任」と言っているのだから、自分には関係がないと判断できることにかんしても、責任がある。

どうしてなら、「すべては自己責任」だからだ。

関係がないことは除外するというのであれば、「すべては自己責任」ではなくて、自分関係してないことは、自分の責任ではないということになる。「すべて」と言ったら、もちろん、自分に関係がないことまで、含んでいる。この世に起こったあらゆることにかんして、責任があるということを意味している。

すべては、自己責任なのだから、Cさんが水銀がはいった汚染水を海に流したのも、自己責任論者のせいだし、EさんがFさんを刺したのも、自己責任論者のせいだ。それは、言い過ぎではないかと思うかもしれないけど、他者を対象にした自己責任論者は、自分に関係がないことまで、他者の責任を追及している。自分に関係がないことまで、すでに、責任追及をしている。

「すべては自己責任だと思っているよ」と他人に言い放つとき

「すべては自己責任だと思っているよ」と他人に言い放つとき、「すべては自己責任だと思っているよ」と言ったやつは、自分は、すべては自己責任だと思うことができるよい人間で、自己責任ではないと言っているやつは、人のせいにする悪い人間だと思っているのだ。そういうところがある。自分は、大人ですぐれている。だから、自己責任だと思うことができる。しかし、自己責任論に文句を言うやつは、あるいは、自己責任論を否定するやつは、自己責任なのに、自己責任だと思うことができないガキだと思っているのである。ともかく、自己責任だと思うことができる自分は、すぐれていて、自己責任だと思わない人間は、おとっていると思っているのだ。そういう感覚がある。

こっちの感じ方の問題にするな!

ヘビメタ騒音の話を聴いて、「そんなんじゃ、働けなくなるよなぁ」と必然性を理解してくれた人は、全体の五%だ。あとの九五%は、ヘビメタ騒音と働けなくなるということの関係性を無視して、くそを言ってくる。そいつらが無視したって、関係性がある。そいつらが、どれだけ無視したって必然性がある。まとはずれなことを言っているのは、必然性を無視した九五%だ。こいつらのことは、ゆるさない。

必然性を無視したあと、助言をするやつも、ゆるしがたい。そいつらは、助言をしてやっただけだと思っているかもしれないけど、必然性を無視している。助言通りにすれば働けると思っている。「元気だ元気だ」と言えば、元気になるから働けるのだ……。こういうレベルの発言……。こういうレベルのことを考えるやつの助言……。こんなの、腹がたつものでしかないよ。こいつらは、現実を無視している。けど、きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音はそんなものじゃないのだ。こいつらが考えているようなものじゃない。もちろん、ヘビメタが好きな人にとっては、ものすごくでかい音で鳴っているヘビメタも、騒音ではない。だから、感じ方には差がある。しかし、普通に言って、本人の耳が悪くなるような音で、ステレオを鳴らすことは、悪いことなのである。悪いことをずっと実行してきたやつがいる。それが問題なのだ。こっちの感じ方の問題にするな!

きちがい兄貴だって、いま住んでいるマンションでは、一日一分だって鳴らせないような音で鳴らしていたと言っているだろ。フォークギターや三味線ぐらいの音で、ずっと鳴らしていたわけじゃないのである。きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を鳴らす、三年前から、三年間、ずっとフォークギターを鳴らしていたけど、俺はそれに関しては文句を言ってないのである。ぼくが、騒音に特別敏感だったということではないのだ。しかし、これも、七年間鳴らされて、自分の人生を破壊されれば、騒音に対して敏感になる。きちがいヘビメタ騒音というのは、きちがい兄貴が、こっちの状態を無視して鳴らしていた音なんだよ。騒音に対するうらみがつのる。つもる。つもってつもってつもりまくる。これ、騒音によって人生を破壊されたあとの、騒音感覚と、騒音によって人生を破壊される前の騒音感覚は、ちがう。あきらかにちがう。

必然性というのがある

  軽めに書いておく。必然性というのがある。あれだけ長い間、きちがいヘビメタ騒音を浴びせられると、働けなくなる。働けなくなる、必然性がある。これは、正確には、通勤して働けなくなる必然性があるということなのだけど、当時は、通勤して働くという選択肢しかなかったので、働くといえば、通勤して働くということになる。きちがいヘビメタ騒音と書いたけど、自分がこの世で一番嫌いな音が、自分の意思とは関係なく、鳴っているということだ。平日、どれだけつらいか、わかってないのである。きちがいヘビメタ騒音を六時間以上浴びせられると、その日は、どれだけつかれていても眠れなくなるということがわかってないのである。そして、睡眠時間の短さが、どれだけ、人間の判断力や注意力に影響をあたえるかわかってないのである。「どれだけ、睡眠不足でも、注意力は減衰しない」とどれだけ言ったって、減衰するのである。言霊的な解決方法は、こういうことについても、まったく役に立たない。こんなの、言っているだけで、そういうことを言っているつらい状態が続いてしまう。実際には、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をあびているということが問題なのだから、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴りやめば、それで、睡眠力は回復されて、起きている時間の注意力不足も解消された。けど、これも、条件があるのだ。七年間続いたあとに、ヘビメタ騒音が鳴らなくなっても、睡眠力が低下しているので、前のようには眠れないのだ。そして、注意力以外にも、基本的な生活体力が落ちているので、やはり、普通の人とおなじように働くということができなくなる。みんなのもとには、きちがい家族がいない。みんなのもとには、ものすごい音で鳴らしているのにたいした音で鳴らしてないと思っているきちがいがいない。きちがい家族がいない。きちがい家族がいないら、きちがい家族によってもたらされることが、しょうじないということになる。これは、その人がすぐれているから、生じないのではない。きちがい家族と一緒に住んでないから、しょうじない。これだって、まるで、俺が能力不足だから、そういう問題がしょうじていると思っているやつがいる。これ、ヘビメタ騒音がない状態のからだなら、俺だって、そいつらとおなじように、きちがいヘビメタ騒音によってしょうじた障害はない状態で暮らしていけたんだよ。ぼくの能力がないからヘビメタ騒音にやられたというわけではない。

被験者の日常生活に影響をあたえるような実験はできない

 たとえば、楽しいと言えば、楽しいと感じるかどうかという実験をするとする。そして、実験者が、被験者を、理由を言わずに、三発、なぐるのである。まず、三発、理由を説明せずになぐったあと、その実験者が「楽しいと言ってみてください」と言った場合、被験者は「楽しい」と言って、楽しく感じるのだろうか? 不当なあつかいについて、説明を求めたいという気持や、ただ単に腹がたつという気持に支配されているのではないだろうか。

実際には、こんな実験はできない。どうしてかというと、被験者の日常生活に影響をあたえるような実験はできないからだ。もっと簡単に言ってしまえば、非人道的な実験や非倫理的な実験はできないことになっている。なので、こういう実験はない。けど、「楽しい楽しいというと、楽しく感じる」「これは、心理学の実験でも証明されたことだ」などと言う人たちに対する注意をしておきたい。そういう実験は、中立的な状態での実験だということだ。直前の出来事に関係なく、「楽しい楽しい」と言えば楽しく感じるということにかんする、実験ではないのだ。そして、「これは、心理学の実験でも証明されたことだ」と言ってしまう人は、その人が、統計的な処理にかんしてまったくわかってないということを証明してしまっているのである。これに関しては、以前書いたので、ここでは、書かない。

「条件に関係なく、楽しい楽しいと言えば、楽しいと感じる」ということと「安全で、中立的な状態なら楽しい楽しいと言えば、楽しいと感じる」ということは、まったくちがうことなんだよ。ところが、こういうやつらは、「条件に関係なく、楽しい楽しいと言えば、楽しいと感じる」ということと「安全で、中立的な状態なら楽しい楽しいと言えば、楽しいと感じる」ということを、混同している。完全にごっちゃにしている。そして、混同しているということについて、まったく自覚がない。ほんとうに、こまったやつらだ。

直前の出来事ですら「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」かどうかについて、影響をあたえているのに、どんな条件でも「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」なんて、よく言えたものだな。なにも、わかってない。なにも、わかってないということがわかる。

*     *     *

いちおう、話の土台として言及しておくけど、「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」というのは「楽しい楽しいと言えば、(人間は)楽しく感じる」ということである。だれが楽しく感じるかということについて、特に言及してない場合は『人間は』ということになる。

「楽しさ」の強度

  たとえば、単に「楽しい」と言っている場合、なんで楽しいのかわからないのである。本人にもわからない。自分を楽しくするために「楽しい」と言っているということはわかる。しかし、その場合の「楽しさ」は、ほんとうに、日常生活における、文脈のある「楽しさ」とおなじなのだろうかという問題がある。はっきり言ってしまえば、自分を楽しませる目的で、「楽しい」と言っているということを、本人は知っている。ならば、その楽しさというのは、そういう楽しさでしかない。日常生活における文脈のある楽しさというのは、いっしょに遊んでいて、楽しいと言うような楽しさである。楽しく感じることが目的ではなくて、実際の活動のなかで「楽しい」と感じる瞬間があったということだ。「楽しい」と言うと、言っただけで楽しい気分になる「ような気がする」というのは、日常生活における文脈のある楽しさを、人生のなかで、何回も何回も、繰り返し、感じてきたから、起こりえる現象だ。こっちの経験がなければ、「楽しい」と言ったって、なにが楽しいのかさっぱりわからないということになる。ようするに、複数回の「楽しい経験」をなんとなく「想起しているから」、なんとなく、「楽しいと感じている」のである。つまり、もともとの「楽しい経験」がなければ「楽しい」と言ったって、想起できるものがないのだから楽しくならない。自分が「楽しい」と思わず言ったとき、「楽しい」という言葉と、経験の結びつきがしょうじ、その結びつきの記憶が、「楽しいと言えば、楽しいと感じる」という現象を引き起こしているのであるなので、もし、「楽しいと感じるための行為ではない行為」によって、現実的な楽しさを感じたことがなければ、「楽しいと感じるための行為」で楽しいと感じることがないのである。

それから、「楽しい」と言った場合の「楽しさ」の強度と、ほんとうに楽しい体験をしている場合の「楽しさ」の強度はちがう。ほんとうに楽しい体験をしている場合の「楽しさ」のほうが、強度が強い。圧倒的に強い。「楽しいと言って楽しく感じる」「楽しいと言えば楽しい感じがする」と言った場合の、楽しさというのは、実際の経験の「うつしえ」にすぎない。そして、強度が弱いのである。「楽しい楽しい」と言えば楽しく感じるというのは、そういうふうに感じるべきだと思って感じている、ものすごく弱い楽しさなのである。「楽しいと言えば楽しく感じるらしいから、そうなのだろう」と思って、楽しい体験を想起するわけでもなく、ただ単に、楽しいと言ったから楽しいはずだという思い込みによって発生する「楽しさ」は一番、強度が弱いものなのである。この、強度の強さを、無視するという考え方は、非常に、偏った考え方だ。実際に体験しているときの「楽しさ」と「楽しいと言えば楽しく感じるはずだから、楽しいと感じているのだろう」と思って感じている「楽しさ」は、強度がちがうのである。 強度の順番を言ってしまえば、ほんとうにたしい体験をしている場合の楽しさが一番で、ほんとうに楽しい体験をしているときのことを想起した場合の楽しさが二番で、楽しいということでなんとなく楽しい気分になっているような気がするという場合の楽しさが三番だ。そして、三番の楽しさと、一番の楽しさでは、楽しさの強度がまったくちがう。

2023年12月22日金曜日

根拠は、「うち」で、きちがい親父が「ずっとそうやってきた」ということだ

 ほんとうに、きちがい兄貴がきちがいだから、「たいしてでかい音で鳴らしてない」ということにして、でかい音で鳴らし続けたのである。普通の人なら、「迷惑だ」ということがわかっているので、そういう音で鳴らそうと思わないのである。普通の人が、鳴らそうと思わないような音でずっと鳴らした。しかも、本人は、普通の音で鳴らしているつもりなのである。これが、きちがい親父とおなじなんだよ。きちがい親父が、「におってない、におってない」と言った時とおなじなの。感覚器が正常なら絶対にわかることを、否定する。そして、否定したということも、わかってない状態なのである。〇・一秒でも時間がたてば、否定してやりとおしたことになってないことなのである。こんなの、きちがい。こうやって、自分の意地をとおしてしまうのである。しかし、自分の意地をとおしたということになってないのである。こういうやり方だ。認めたら、自分にとって不都合なことがしょうじるということがわかっている場合は、きちがい兄貴やきちがい親父は、感覚器を書き換えて、やってしまうのである。けど、何度も何度も言うけど、本人の主観としてはまったくやってないのとおなじなのである。けっきょく、「やってない」と思ったままなのである。だから、「やった」ということを、言われると、おなじやり方で、否定するのである。ネスト構造になっているということを書いたけど、それは、短く表現すると、こういうことだ。

普通の人なら、そういうことを思いつかないのに、きちがいは、そういうことを思いついてやるのである。そうしたら、殺さないとやめさせることができない状態になる。普通の人だったら、「こういう音で鳴らすと迷惑だからやめておこう」と鳴らすまえから、思うことができるのである。きちがい兄貴だって「よそ」では、鳴らせない音なのである。「よそ」だと、、「こういう音で鳴らすと迷惑だからやめておこう」と鳴らす前から思って、鳴らさないのである。けど、「うち」なら、鳴らしてもいいのである。そういう心理的な、根拠がある。この根拠がまた、きちがい兄貴の場合は、きちがい親父がやってきたことが、かかわっているのである。根拠は、「うち」で、きちがい親父が「ずっとそうやってきた」ということだ。きちがい親父がやったことなのだから、自分がやったっていいだろう」ということになる。ところが、こういう思考の過程が、全部、無意識的な領域でおこわれていることなのである。だから、意識としては、特に考えもしないでそうするわけ。所与の根拠として、あたらえれているわけ。全部無意識的な過程なので、「根拠」について、意識的に考えるということがないのである。

*     *     *

だから、よその人は、みんな、やられてない。きちがい家族におなじことをやられてないのである。だから、ほんとうは、きちがい家族の騒音があたえる影響について、わかってない。ところが、「騒音なんて関係がない」とか「過去は関係がない」とかと言ってしまう。これも、腹がたつことなんだよな~~。きちがい家族にやられると、よその人から、こういうことを言われることになる。けど、よその人にはきちがい家族がいないので、よその人は、きちがい家族がやることを経験してないのである。生活のなかで経験してない。人生のなかで経験してない。きちがいが家族がどういう認識で、どういう感覚で、きちがい行為をやり通してしまうか、ぜんぜんわかってない。そして、きちがいヘビメタ騒音のことは、きちがい兄貴がやったことだから、きちがい兄貴のことが、前面に出るのだけど、きちがい親父が、ものすごく影響をあたえていることなのであ。きちがい兄貴が「うち」で、どうして、よそじゃ、一秒だってやらない騒音を出し切ることにこだわったかということに、きちがい親父がずっとずっとやってきたことが『影響をあたえている』のである。けど、こんなの、普通の人にわかるわけがない。兄貴のことだってわからないやつが、親父のことをわかるわけがない。親父が、兄貴にあたえた影響なんてわかるわけがない。「そんな音で鳴らしているのに、親が文句を言わないなんておかしい」と言ったやつがいるんだけど、そいつが、どれだけ、ズレたことを言っているか、そいつは、一生理解することがないだろう。

 

きちがい家族という条件がない人

きちがい家族という条件がない人は、きちがい家族という条件がある人の苦労を経験することなんてできない。経験したことがない、わからないことについて、述べているのである。

2023年12月20日水曜日

こだわっているからダメなんだと言ってしまう

 あんまり、言いたくないけど、「こだわる」ということについて、語っておこう。

「こだわるからいけないんだ」と言う場合の「こだわる」ということだ。きちがい的な人は、「過去にこだわるから、影響が持続している」と考えてしまうのだ。

けど、それはちがう。

たとえば、過去のある時点で、カドミウムを摂取してしまったとしよう。そして、それよりもあとの時点で、イタイイタイ病になったとしよう。そして、現在、イタイイタイ病であるとする。

その場合、イタイイタイ病の人が、過去を無視して過去にこだわることをやめたとしても、症状が消失するということはない。けど、「過去にこだわるからダメなんだ」と思っている人は、過去にこだわることをやめれば、症状が消失すると思っているのである。

たとえば、Aさんが、イタイイタイ病だとする。Bさんが、精神世界の人だとする。BさんがAさんに「過去にこだわるからダメなんだ」「過去にこだわることをやめればいい」と言ったとしよう。

その場合、Aさんが、カドミウムを摂取したという過去の出来事にこだわらないようにしようとしても、あるいは、こだわらないことにしても、イタイイタイ病の症状がなくならない。

Bさんが、勝手に「Aさんが、カドミウムを摂取したという過去の出来事にこだわっているから、現在Aさんが、イタイイタイ病の症状でこまっている」と考えたから、Bさんがそういうふうに言っただけだ。Bさんの認識がまちがっているのである。

過去にこだわっているから、イタイイタイ病の症状でこまっているわけではないのだ。過去にこだわっているから、「イタイイタイ」と言っているわけではないのだ。

しかし、たとえば、Aさんが、カドミウムの接種にこだわっているからそういう症状が出るのだとBさんが考えていた場合、こだわりをなくせば、Aさんの症状が消失すると思っているのである。

カドミウムを摂取したことや、その結果イタイイタイ病になったということは、過去の出来事だ。そして、現在のいたみに影響をあたえている出来事だ。

ところが、過去を無視してポジティブなことを言えば、それで問題が解決すると、精神世界の人は思っている。「自分が条件を無視すれば、その条件は自分に影響をあたえない」というような幼稚な思考が成り立っているのである。精神世界の人の頭には成り立っている。

自分にとって不都合な過去の出来事は、自分が過去の出来事を無視すれば、(現在の状態に)影響をあたえないというような幼稚な思考が成り立っているのである。

自分というのは、自分自身、本人という意味だ。

「自分が条件を無視すれば、その条件は自分に影響をあたえない」と書いたけど、これは、簡単に他人にスライドする。どうしてかというと、自分がその他人の「過去」の影響をうけてないからだ。

たとえば、Bさんは、Aさんの過去の出来事の影響をけてない。

その過去の出来事というのは、たとえば、イタイイタイ病になったという過去の出来事だ。自分はいたくないのだから、いたくない。自分が影響をけていなければ、影響を簡単に無視できる。他人の出来事なんて、簡単に無視できる。

どうしてかというと、自分は「いたくもかゆくもない」からだ。Bさんには、カドミウムを(過去において)摂取して、今現在、いたいという現実がない。

しかし、たとえば、Aさんは、いたいので、過去の出来事を無視できない。

精神世界の人は、過去の出来事を無視する傾向があるけど、同時に、言霊主義者でもあるので、「いたいと言うからいたくなる」と言い出す。これも、ほんとうの原因を無視していることになる。

カドミウムを摂取したという過去の出来事が、現在のくるしみをうみだしているのに、カドミウムを摂取したという過去の出来事を「自分自身が」無視すれば、体内のカドミウムの影響がなくなるのである。

ようするに、Aさんには、影響をうける理由があるのに、BさんはAさんが影響をうける理由を無視して「そんなのは、関係がない。無視すれば、効力が消失する」と言うのである。「いたいと言うから、いたくなるんだ」「こだわりをなくせば、いたくなくなる」と言うのである。

この、「こだわりをなくす」という表現ものすごく、やっかいな表現なのだ。

Aさんが、「いたいいたい」と言えば、Aさんがいたさにこだわっているように、精神世界の人からは、見えるのである。カドミウムを摂取してしまった過去の出来事について、Aさんが頻繁に話すと、Aさんが、カドミウムを摂取してしまったという過去の出来事にこだわっているように、見えるのである。

なので、精神世界の人は、「Aさんが過去の出来事にこだわっているから、そのまま、いたいのだ」と考えてしまう。なので、精神世界の人は、過去の出来事にこだわらないようにすれば、影響を打ち消すことができるはずだと考えてしまうのである。

ところが、「こだわらないようにしても」物理的な法則にしたがって、カドミウムはからだに影響をあたえる。なので、精神的に、カドミウムのことを無視したとしても、体内にあるカドミウムは、物理的な法則にしたがって、影響を与え続ける。

そういうことを、妄想的な考えで否定してしまうのである。「思ったことが現実化する」「言ったことが現実化する」「こだわらなければ、影響がなくなる」というような、幼稚な思考をしてしまうのである。

実際にいたいかどうかは、こだわるかどうかで決まってしまうのである。

過去の出来事にこだわると、いたくなるのである。こだわらなければ、いたくならないのである……。精神世界の人はそういうふうに、物理的な法則を無視して、超自然的な法則について考えてしまうのである。

「自分なるもの」が無視すれば、「それ」は効力を失うのである。「自分なるもの」がこだわっているから、「それ」は効力を発揮するのである……。

こういうことも、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると、暗いことが起こる」というような思考方法と似ている。

自分の気持ちのほうが、物理法則よりも、有力なのである。そういう幼児的万能感があるのである。物理法則にしたがって、イタイイタイ病の人は、いたくなっている。

けど、自分の気持ちをかえれば、そんなのは、いくらでもかえることができる……と、精神世界の人は考えてしまうのである。だから、物理法則の結果「いたさを感じている人」にも、物理法則を無視して、「過去の出来事を無視すれば、いたさがなくなる」というようなことを言ってしまう。

こだわっているからダメなんだと言ってしまう。

*     *     *

「自分の気持ちのほうが、物理法則よりも、有力なのである」と書いたけど、もちろん、精神世界の人にとっては、自分の気持ちのほうが、物理法則よりも、有力なのであるということだ。こころの持ちようで、世界が(かわったように)見えるということではなくて、ほんとうに、こころの持ちようで、物理的な世界がかわるのである。彼らのなかでは、そうだ。自分の「気持ち」が、外的な世界に、直接影響をあたえるのである。これは、比喩的な意味で、「世界がかわったように」見えるということではない。精神世界の人にとっては、ほんとうに、物理的に世界がかわるのである。たとえば、体内のカドミウムを無視すれば、体内のカドミウムの働きがなくなるのである。主体は、「自分自身」「自分というもの」なので、観念のなかでは、「他人」にスライドする。ようするに、この場合の自分というのは、「ひと」という意味なのである。自分もそうだし、他人もそうだと、頭のなかでは、考えてしまうのである。この「自分自身」というのは、物理法則を書き換えてしまうような、すごいチカラをもっている「自分自身」なのである。ようするに、神のような力をもっているような自分自身であり、物理法則を書き換えることができる自分自身なのである。しかし、そういうふうに、頭の中で思っているだけで、実際には、物理法則を書き換えることができない。だから、自分だって、カドミウムを相当量摂取してしまえば、イタイと感じて、イタイと言うのに、そういうことになるということが、ぜんぜんわかってないということになる。自分は、今現在、カドミウムの影響をうけてないので、影響がない状態なのである。なので、幼児的万能感が前面に出て、「自分の気持ちこそ」が世界を改変できると言ってしまうのである。この世界の改変というのは、超物理的な力を自分が使えるということなのである。ようするに、魔法のように、自分が、体内のカドミウムを無視すれば、体内のカドミウムが消失してしまうと考えているのである。物理法則を無視して、あるいは、超物理的な法則によって(つまり、魔法の力によって)自分が、カドミウムの効力を無視すれば、カドミウムの効力は消失するのである。そういう、幼児的万能感が、そういう人たちのなかには、あるのである。そういう幼児的万能感にささえられた発言なのである。あたかも自分は、影響をうけないことが可能だというような態度で、「こだわっているからダメなんだ」と、言ってしまう。精神世界の人は、他人に「こだわっているからダメなんだ」と、言ってしまう。

2023年12月19日火曜日

「思い知らされてない」からわからない

 「言ったことが現実化する」という考えを信じていられるのは、そうではない過酷なことにさらされてないからだ。多数の、そうではない過酷なことにさらされ続ければ、「言ったことが現実化する」という考え方がまちがった考え方であるということが、自然に、わかる。

まあ、もっとダイレクトな言い方をするのであれば「思い知らされてない」。

「思い知らされてない」からわからない。思い知らされるようなことが、多数発生してしまうような、悪い条件のもとで生活してこなかったから、思い知らされてない。

それこそ、人間ならだれでも、思い知らされるんだよ。

思い知らされないのであれば、それは、そういう苦労を経験してないからだ。思い知らされるような、数々の苦労を経験すれば、思い知らされる。

「言ったことが現実化する」という考え方がまちがった考え方であるということを思い知らされるような苦労を、経験してないから、「言ったことが現実化する」と信じていられる。

悪魔が用意した圧力容器のなかで、圧力をたかめあって生きている

ともかく、「言ったことが現実化する」とか「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とかということを、信じている人はだめだ。こういう人は、こういうことを言って、ほかの人にマウントをとろうとするけど、それ自体がいいことではない。まちがった前提で助言をしてもしかたがない。「言ったことが現実化する」というこをほんとうに信じているなら、まちがった前提で物事を考えている。「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということをほんとうに信じているなら、まちがった前提で物事を考えている。まちがった前提で人に助言をすると、助言されたほうは、たいへん迷惑をするので、まちがった前提で人に助言すること自体をやめてほしい。

これ、精神世界の人やビジネス精神世界の人って、こういうやつらの味方なんでしょ。そりゃ、条件が悪い人は、生きにくくなるよ。条件が悪い人は、所与の条件によって、生きにくくなっているのに、こういうやつらにやられて、さらに生きにくくなる。これ、俺が言っていることと、精神世界の人やビジネス精神世界の人が言っていること、どっちが正しいのかということを、普通の人が考えると、精神世界の人やビジネス精神世界の人が言っていることのほうが正しいと思うわけだろ。普通の人たちは、そうやって、条件が悪い人に圧力を加えている。で、社会的に見ると、この圧力は悪い方向に働く。まさに、悪魔が用意した圧力容器のなかで、圧力をたかめあって生きているという感じがするなぁ。圧力が高くなれば高くなるほど、人が、ふしあわせになる。圧力が高くなれば高くなるほど、人が、憂鬱になる。ぜんぜん、明るくならない。 「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを言う人は、それだけで、社会を暗くしている。憂鬱な、生きにくい社会をつくることに、貢献している。寄与している。

こういう行為自体がカルマをうみだしている。

 「言ったことが現実化する」ということを狂信している人が、そう思ってない人に、助言をしたってしかたがない。けど、そういうことが、おこなわれている。

これ……マウントして、助言をするほうは、いい気持になるかもしれないけど、マウントされて、助言されたほうは、まったくいい気持にならないのである。

けど、じゃあ、「いい気持にならない」ということを言えば、それは、「受け止め方の問題だ」といこうとになってしまう。マウントされて、助言されたほうの「受け止め方」が問題なんだということになってしまう。こういうことも、おこなわれている。

基本、この世界は、極端に悪い条件が成り立っている人には、生きにくい世界なのである。

まあ、生まれの格差ということを言えば、カルマ論が出てくる。「そういうところに生まれたのは、前世で悪いことをしたから、そういうところに生まれてくるしむことになったのだ」ということを狂信している人は、そういうことを言う。

カルマ論うんぬんということを言うのであれば、こういう行為自体がカルマをうみだしている。

こいつらは、狂信者だから、それに気がつかない。

極端に条件が悪い人に対して、普通の条件の人が、助言をしてもしかたがない。

普通の人が、経験せず、無視したことが、極端に条件が悪い人にとって、現実だからだ。

実際の出来事が生み出した「感じ方の総体」「体(身体)の総体」がある。

実際の出来事が生み出したのだから、実際の出来事が生み出したものだ。

ようするに、現実なのである。

そして、普通の条件の人は、条件が悪い人の「現実」を、無視するのである。

そして、「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と同等の苦労を経験したということを言い出す。

こんなのはない。

同等の苦労なんて経験しているわけがないだろ。


普通の人は、きちがいブラック社長のようなことを言いすぎる

 ずっと、ここで述べていることだけど、普通の人は、きちがいブラック社長のようなことを言いすぎると思う。これ、精神世界の人が言いがちなことなんだけど、普通の人も、ある程度は、精神世界に「かぶれて」いる。

ビジネス精神世界みたいなものがあって、それは、精神世界の受け売りで、精神世界から宗教的な部分を、極力、排除したものになっている。

しかし、根底では、まったくおなじものでできあがっている。

精神世界論?も、ビジネス精神世界論?も、根底では、まったくおなじ。


「耐久力」「耐久性」と言えるようなものは、一度、固定して考えてみてはどうか

 みんな「俺だってつらい思いをしてきた」「私だって、なんとか病にかかった」というようなことを言う。けど、どうなんだろうね? 社会人として活動できている人間が「経験したつらいこと」ってなんなんだよという気がする。社会人として通勤できる労働者(従業員)が経験してきたつらさと、きちがい家族がもたらすつらさ、どっちが、つらさの度合いにおいて強いのか? もう、通勤できなくなって、会社をやめた人が言うのは、いい。けど、社会人として通勤できる労働者(従業員)が経験したつらさや、セミナー講師として活動できる人が経験したつらさは、たぶん、通勤できなくなってしまった人のつらさよりも、軽いつらさだと思う。

神様的な視点で、どっちのほうが「つらさ」の度合いにおいて上だとか下だとかということを、決めることができないのだ。神様的な視点をもっている個人なんていないからだ。

神様しか、神様的な視点をもてない。

なので、すべては、個人の主観ということになる。客観的にどうのこうのと言っても、個人が考える主観的な客観性を持ち出しているにすぎない。そして、社会に参加しているすべての人が、独自の「視点」をもっている。そりゃ、個人の視点は、個人の視点でしかない。そういう部分をどうにかしないと、この話はできないというところがある。

簡単に言っておくと、まず、客観的な指標として、「働いているか」「働いていないか」ということを、重視するべきなのではないか。個人の「弱さ」と「強さ」ということは、別の指標として必要だ。しかし、個人の 「弱さ」と「強さ」ということを一度無視して、すべてを考え直す必要があるのではないかと言っているのである。ようするに、「耐久力」「耐久性」と言えるようなものは、一度、固定して考えてみてはどうかということだ。

 

2023年12月17日日曜日

通勤する能力をうしない、通常の業務ができなくなる

 ぼくは、この世で一番嫌いな音を毎日七年以上聞かされ続けると、通勤できなくなると思っている。通勤して働くのが当たり前であるような世の中であれば、通勤ができなくなると働けなくなるのである。そして、これは、ただ単に、睡眠についてだけ注目した場合の話なのだけど、実際には、体力障害と言えるものが発生してしまう。この世で、一番嫌いな音を、強制的に、毎日、七時間から一三時間聞かされるということが、土曜日も日曜日も休日も含めて、七年間持続してしまうと、人は、通勤する能力をうしない、通常の業務ができなくなる。通常の業務ができないのは、体力障害がしょうじるからだ。で、きちがい兄貴がこういう状態をつくりだしてしまった。もちろん、きちがい兄貴は、気がつかないのである。これは、言われないから気がつかないのではなくて、何万回、言われても、気がつかないのである。こういう他者……一緒に住んでいる他者……こういう家族の一員は、普通は、いない。普通の人には、こういう家族の一員がいない。なので、そういうことが発生しない。ところが、ぼくの場合は、いた。だから、発生した。これは、ぼくの能力の問題じゃないのである。ただ単に、きちがい兄貴の脳みそがそういう脳みそだったので、きちがい兄貴を殺して排除しなければ、ずっと鳴らされ続ける日々が続いたということだ。これも、経験のないクソ凡人が、俺のせいにしやがるのである。すべては自己責任なのだからそうなる。けど、きちがい家族の頭の構造に、責任をもてるか? きちがい家族がやることに責任をもてるか? こんなのはない。たまたま、経験のないクソ凡人が、きちがい家族と、くらしていなかったから、そう言えるだけのことなのである。

経験のないクソ凡人は、ヘビメタ騒音の効果を過小評価しすぎている。なんでわからないのか? まあ、一日だって経験してないからわからないのだろう。これ、ちがうんだよ。その人たちが思っているようなものと、ちがうんだよ。その人たちが思っているヘビメタ騒音の影響というのは、ぼくが実際に感じた影響とはちがう。どれだけ、がんばっても、不可避的に影響をうける。頑張っている状態というのが、はりつめた状態であり、すでに問題がある状態なのである。そりゃ、ヘビメタ騒音のなかでがんばっているわけだから、そうなる。ヘビメタ騒音という条件がない状態で、なにか、自分にプラスになることでがんばるのとは、180度意味がちがうのである。ものすごく悪いストレスがしょうじて、その悪いストレスに、ぎりぎりのところで対応しているのである。その対応がまた、ストレスをうみだしてしまうのである。プラス向きのことでがんばっているのとは、まったくちがう状態なのである。中理的な状態のなかで、プラス向きのことでがんばっているのとは、ちがう状態なのである。この点においては、たとえば、名前だけ店長よりもはるかに、くるしい状態が成り立っているのである。残業なら、理解されやすいけど、ヘビメタ騒音じゃ理解されにくい。実際に、経験のないクソ凡人は、みんな理解しない。やられてないから、どういうことなのかわかってない。やられてないから、やられた一日がどういうものになるか、根本的なところでわかってない。やられてないから、やられた日の、次の日がどういうものになるのか、根本的なところでわかってない。わかってないから「鳴り終わったら関係がない」とか「過去は関係がない」とかと、悪意なく、普通に言える。けど、これ、腹がたつことなのである。やられた人間としては腹がたつことなのである。しかたがない状態で、しかたがない影響をうけている人間にとっては、腹がたつことなのである。これ、普通の人は、「話を聴いて理解した」と思っているかもしれないけど、まったく、理解してない。どれだけ、ヘビメタ騒音の影響を無視すれば気がすむんだ?と言いたくなる。

だから、まあ、きちがいがきちがい的なことをやると、やられたほうと一般人のあいだに亀裂が入るんだよね。もちろん、きちがいは、きちがいだから、「これこれ、こういう認知のちがいができてこまる」「一般人との間に亀裂が入るからかこまる」ということを、どれだけ言われたって、理解しないよ。無理解。無理解。

死にものぐるいの努力をしても、問題が増えていくだけなのである。きちがい家族による騒音というものはそういうものだ。ずっと毎日鳴っているわけだからそうなる。けど、そういうことが、人生のなかて発生しなかった人は、普通の騒音しか経験してないわけだから、それがわからない。きちがい家族による騒音で、勉強することができないということが、人生のなかで発生しなかった人には、勉強することができないということが、どういうことなのか、わからない。「毎日」だからね。毎日なんだよ。人生のなかで、一日だけ、きちがい兄貴が騒音を、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、鳴らしていたわけではない。次の日、学校があるのに(行かなければらないのに)ずっと、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている。これが、どれだけくるしいかみんなわかってない。毎日続くということの意味が、まったくわかってない。普通の人は、きちがい家族による毎日の騒音を経験したわけではないので、きちがい家族による毎日の騒音が、毎日の出来事にどれだけ影響をあたえるか、経験的に、知っているわけではない。だから、過小評価する。

この人たちは、俺が、死にものぐるいの努力をしてもできなかったことを、ちょっとした努力でできると思っている。こういう認識のズレがある。俺がちょっとやる気を出せば解決する問題だと思っている。あるいは、自分ならちょっとやる気を出せば解決できる問題だと思っている。ところが、ちがうんだよ。どれだけ言っても、わからないとは思うけど……。ぜんぜんちがうことについて語っている。「ヘビメタ騒音の影響」という言葉のなかみが、ぼくと、普通の人とでは、まったくちがうのである。ちがう。けど、普通の人は「ちがう」ということに気がつかない。説明されたって、まったくわからないだろう。

ぜんぜんちがうのに「ちょっとやる気を出せば解決する問題だ」とか「ちょっと努力すれば解決する問題だ」とかと思うのは、やめてくれ。とてつもなく不愉快だ。

2023年12月16日土曜日

ポジティブなのは、いいけど、ネガティブなのは悪いという考え方が、はやっている

 たとえば、「生き返ると言えば、死んだ人は生き返る」ということが、まちがっていることだというのは、わかるだろう。

これは、だれが言っても、そうなる。生き返らない。

「俺は、言ったことが現実化した」と言っている人が、言ったって、生き返らない。「俺は、言ったことが現実化した」ということと「言ったことが現実化する」ということは、ちがうことなんだ。

けど、「俺は、言ったことが現実化した。言霊にはすごいチカラがやどっている。言ったことが現実化する。これは正しい」と思ってしまう。

そして、「俺は、言ったことが現実化した」ということだって、「言ったあとに現実化したこと」にほかならないわけで、「言ったから」現実したわけではない。

言霊の力によって現実化したのではなくて、現実的な行為によって現実化したのだ。

だから、ウソを言っているのである。けど、本人は、ウソを言っているつもりがない。

本気で、「言霊には、すごい力が宿っている。言ったから現実化した」と思っているのである。問題なのは、ポジティブとかネガティブということにかんする考え方だ。

ポジティブなのは、いいけど、ネガティブなのは悪いという考え方が、はやっている。一般的だ。生き返るということについて言えば、「言えば生き返らせれることができる」ということが、正しいことだということになってしまう。

「できる」というのは、ポジティブで、「できない」というのは、ネガティブだからだ。そして、こいつらは、「おまえができないと言ったから、できない」ということを言い出す。人のせいにするのだ。なにが、「すべては自己責任」だ。ふざけるな。

言霊と自己責任論は、たいていの場合、セットになっている。「すべては自己責任だ」と言っているやつが「おまえができないと言ったから、できない」と言うのは、矛盾している。他人のせいにしている。

「おまえができないと言ったから、できない」は、「おまえがネガティブなことを言ったから、ネガティブな結果になった」というように、言うこともできる。

「ネガティブなことを言うと、ネガティブな結果になるから、ネガティブなことを言うのは、よしましょう」ということになってしまう。

「生き返ると言ったって、死んだ人は、生き返えらない」ということは、言えなくなってしまう。「生き返ららない」というのは、ポジティブなことではなくて、ネガティブなことだからだ。このことにかんして、ポジティブなことしか言えなくなったら「生き返る言えば、死んだ人は生き返る」と言わなければならなくなる。ウソを言うしかないではないか。事実とは異なることを言うしかないではないか。こういうことになってしまうのである。

普通の人は、「生き返る言えば、死んだ人は生き返る」とは言わない。どうしてかというと、そういう現実を突き付けられたことがあるからだ。死は、不可避なので、死ということについて考えると、「生き返ると言っても、生き返らない」という結論に至ることになる。

これは、だれでも突き付けられている問題だから、そういう現実的な思考が働くのである。

けど、ある条件が成り立っている人にしか成り立たないことだと、たちまち、現実的な思考は後退して、言霊的な思考が前面に出るということになる。

たとえば、きちがい的な兄が、きちがい的な意地で騒音を鳴らすという条件が成り立ってない人には、その条件は、簡単に無視できることなのである。なので、言霊的な思考が前面に出て「できると言えばできる」「ポジティブなことを言えば、ポジティブなことが起こり、ネガティブなことを言うと、ネガティブなことが起こる」などと言えるようになる。

これは、その人にとって、その条件が成り立ってないから、言えることだ。

『きちがい的な父』という条件や『きちがい的な兄』という条件が成り立ってない人は、成り立っている人の発言を、ネガティブな発言だととらえて、「ネガティブな発言をしているからダメなんだ」とダメダシをすることができる。こんなことが、まかり通っているのが、この世だ。

「生き返らせることは、できないと言うから、生き返らせることが、できないんだ」「生き返らせることができると言えば、生き返らせることができる」……と、真顔で言われたら、どんな気分になるか。

*     *     *

「イタイイタイ病」という条件をかかえると、「イタイイタイ病」条件をかかえてない人から、言霊的なことを言われようになる。言霊的な助言を受けるようなポジションに移行してしまうのだ。

これは、やっかいだ。

言霊的な助言をするほうは「イタイイタイ病」という条件をかかえてない。かかえていないから、言えるだけなのだけど、本人は自信をもって「いたいいたいと言うから、いたくなる」と言うわけだ。「いたくないと言えば、いたくなくなる」と言うわけだ。さらに、「これは、科学的な実験でたしかめられたものだ」と言うわけだ。こんなの、ない。

「できる」と言うことは、ポジティブでいいこと。「できない」と言うことは、ネガティブで悪いことだと考える人が多い。できる→ポジティブ→いい発言→いい人という連想が(多くの人の頭のなかに)成り立っているとする。できない→ネガティブ→悪い発言→悪い人 という連想が(多くの人の頭のなかに)成り立っているとする。

じゃあ、「生き返ると言えば、人は生き返る」と言う人は、いい人で、「生き返ると言っても、人は生き返らない」と言う人は、悪い人なのか。

「できると言う人はいい人で、できないと言う人は悪い人だ」……こういう考え方は、よくない。こういう感じ方がはやっているんだよなぁ。これは、よくないことだ。

2023年12月15日金曜日

イタイイタイ病の患者は、いたくないときに、「いたい」と言ったから、イタイイタイ病になったのか?

 言霊主義者だって、いたくないときに、「いたい」と言って、ころぶわけではない。言霊主義者だって、ころんだあとに、「いたい」と感じて、「いたい」と言うのだ。

けど、言霊主義者は、じつは、そういう現実を無視している。「いたい」と言うから、いたくなるというのは、呪術的な意味があるのだ。

ようするに、「いたい」と言うことで「いたくなる現実」を引き寄せたという「引き寄せ感覚」がある。「いたい」と言うことで「いたくなる現実」をつくりだすような効果があると思っているのだ。

ようするに、いたくないときに「いたい」と言うと、いたくなるような現実を引き寄せることができるという感覚をもっている。

ようするに、たとえば、イタイイタイ病の患者は、いたくないときに、「いたい」と言ったから、知らぬ間に毒であるカドミウムを摂取して、「いたい」という現実をつくってしまったんだという呪術的な感覚をもっているのである。

言霊主義者はそういう呪術的な感覚をもっている。

もちろん、言霊主義者が、時系列的な出来事の順番を無視するという傾向はかわりがない。

じつは、将来、イタイイタイ病になる人は、いたくないときに「将来、自分は、気がつかずにカドミウムを摂取して、イタイイタイ病病になる」と言ったわけではない。

だから、「将来、自分は、気がつかずにカドミウムを摂取してイタイイタイ病になる」と言ったから、実際に、イタイイタイ病になったということではないのだ。

けど、こういう理論を、言霊主義者は積極的に無視して、「言ったからそうなった」という認識をもつことになる。

ようするに、実際には言ってなくても「そうなったのだから、言ったにちがいがない」と思うところがあるのだ。

そういうところも、「被害者」「やられたほう」の感情を無視している。

言ってないのだから、言ってない。

けど、「言ったから」そうなったのだと、なんとなく考える言霊主義者は、「言ってない」という現実を無視して、「言ったからそうなった」と思ってしまう。

ともかく、言霊主義者は時系列的な出来事の順番を無視して、「実際にそうなったのだから、過去においてそれに対応した言葉を言ったにちがいがない」と思ってしまうのだ。

そして、付け加えて言うなら、引き寄せ主義者における「引き寄せ」のような感覚を、言霊主義者はもっている。

だから、まあ、言霊思考や引き寄せ思考は、似たようなところがあり、一方を信じているものは、もう一方も信じている可能性がある。確率はたいへん高い。ここらへんのことは、「セット」になっている。

「被害者」「やられたほう」の感情を無視していると書いたけど、これも、自己責任論と「セット」になっている。自己責任論者も「被害者」「やられたほう」の感情を無視している。言霊主義と自己責任論は、似たようなところがあり、一方を信じているものは、もう一方も信じている可能性がある。確率はたいへん高い。ここらへんのことは、「セット」になっている。

死にたいぐらいに、つかれている。

言霊主義者だって、ころんだあと、いたいと言っている。いたいと言ったから、ころんでいたくなったわけではない。

ところが、言霊主義者の場合、ひとごとだと、「いたいと言うからいたくなる」と言い出すわけである。「いたいと言わなければ、いたくない。楽しいと言えば、楽しくなる。だから、いたいと言わないで、楽しいと言えばいい」と、ほかの人には言うのである。

イタイイタイ病の人だって、最初から、「いたいいたい」と言っていたわけではなくて、問題となる物質が体の中に入って、その物質が体を構成する物質に反応したから、「いたいいたい」と言いたくなる状態になったのである。

そういうことを無視して、「いたいいたい」と言うからいたくなると、言霊主義者は言ってしまう。「から」じゃないのである。「原因」について考え違いをしているのである。

イタイイタイ病の場合、問題となる物質はカドミウムだ。

言霊主義者は、「いたい」と言うことが原因でいたくなっていると言うけど、この場合は、「カドミウム」がはいった作物を食べてしまったことが原因で、いたくなっている。原因がちがう。

そういう原因を無視して、勝手に「言ったから」と言って、ほかの人をせめることはいいことではない。

けど、言霊主義者は「言ったことが現実化する」「言霊は正しい」と言って、認めないのである。

 

*     *     *

 

ぼくが、眠れないとき、「眠れる」と言っても、眠れなかった。

「一秒後に眠れる」と言っても、一秒後、起きていた。 眠れなかった。眠れない原因は、きちがいヘビメタを長時間、あびたからだ。「眠れない」と言ったからじゃない。

ところで、常識的な人はぜんぜん理解しないのだけど、きちがい的なヘビメタ騒音を、がんがんがんがん長時間あびて眠れなくなっているとき、どういう状態かというと、ものすごくつらい状態なんだよ。

眠れないと言ったけど、つかれはてている。死にたいぐらいに、つかれている。つかれてないから、眠れないわけではないのだ。

鳴っている時間、ずっと、腹がたって、緊張状態だった。そういう原因がある。ちなみに、きちがいヘビメタが鳴ってない期間においても……つまり、ヘビメタ騒音がはじまる前の期間も……つまり、一一(じゅういち)歳になるまえも……「なんとなく眠れない」という状態があった。

けど、ヘビメタ騒音をあびたあと、眠れなくなるのと、ほかのときに眠れないのとでは、ぜんぜんちがうんだよ。ヘビメタ騒音をあびたあとの時間というのが、どれだけつらいものか、ぜんぜんわかってないやつらが、適当なことを言う。

不適切なことを言う。

「鳴りやめ」と言っても、鳴りやまなかった。「眠れる」と言っても、眠れなかった。「鳴りやめ」と言っても、鳴りやまず、「眠れる」と言っても、眠れなかったのだから、言霊的解決方法は「カス」だ。

カスをおしつけるな。カス方法をさも有効であるように、言うな。

「自分は、言ったら、そうなった」と言霊主義者は言うけど、それは、ちがうことだろ。そして、ほぼすべての場合において「言ったあと」と「言ったから」を混同しているのである。

「眠れなくてつらい」と言っても「つらい」の「つらさ」がちがうんだよ。

異次元のつらさだ。

異質なつらさだ。

あんなの、毎日経験して、いいわけがない。体に異常が生じないわけがない。能力がさがらないわけがない。気分が落ち込まないわけがない。つまり、憂鬱にならないわけがない。ぼんやりして注意力がない状態にならないわけがない。これ、一日のなかで、ヘビメタ騒音が鳴ってない状態でも、からだがだるくて、能力がさがって、ぼんやりして注意力がない状態で、気分が落ち込んだ状態になるのである。不可避的にそうなる。けど、言霊主義者や常識的な人は、そういうことを認めない。「鳴っているときだけ」影響があると思っている。鳴ってないときに影響があるといえば、そんなのは、あまえだと言ってくる。「あまえだ」と言ってくるやつらには、きちがい家族がいないのである。

騒音をでかい音で鳴らすことにこだわって、こだわって、こだわって、こだわって、そうする家族がいないのである。

だから、きちがい家族が、ことにこだわって、こだわって、こだわって、こだわって、とてつもなくでかい音で、何時間も何時間も騒音を鳴らすということ経験してない。毎日経験してない。

普通の人……普通の家族は、「そういう音で鳴らすと迷惑だから鳴らさないようにしよう」と思って、鳴らさないのである。

これ、ほんとうに、非常識な音で鳴らしていた。

ヘビメタが好きな、兄貴の友達が「こんな音で鳴らしたことがない」と言うような音で鳴らしていた。常にそうなんだよ。最大限にゆずったって、普通の人が鳴らさないような音で鳴らしているんだよ。これが、きちがい感覚なんだよ。

きちがい親父とおなじで、ゆずってないのに、「ゆずったゆずった」と言い出す。すべてがこの調子だ。「言えば、しずかにしてくれる」と普通の人は言うけど、どれだけ「しずかにしてくれ」と言っても、しずかにしてくれなかった。

こっちが、事実だ。こっちが、現実だ。

「しずかにしてくれ」と言われても、きちがい兄貴は、絶対の意地で鳴らして、一秒もしずかにしなった。これが、現実だ。こっちが現実。

かってに「しずかにしてと言えば、しずかにしてくれるのだから、しずかにしてと言えばよかったのに、言わなかったら、だめなんだ」と言って、人を悪者にしたてあげるな。

常識的な人は、常識的な人で、常に、きちがい家族に関するいろいろなことについて、まちがった判断をしている。

しかも、常識的な人は常識的な人で、まちがった判断をしたということを、認めないのである。こっちが、説明して認めない。しかも、言霊主義者じゃないけど、意地になって認めないところがある。

きちがい家族と一緒に住んでいると、言霊主義者との関係だけではなく、常識的な人との関係も、険悪なものになる。

土台無理な話なのである。

 きちがい家族にやられると、常識的な人が「敵」になってしまう部分がある。

そりゃ、よくわからないやり方……常識的な人にはよくわからないやり方で、働けないからだになったら、働けないということで、常識的な他人がせめめてくる。常識的な他人にしてみれば、働けないことではないのだ。

常識的な他人は、経験的に、そういうことを、きちがい家族に、長期間にわたって、毎日毎日やられたことがないので、それが、「働けなくなるようなことだ」という認識がない。

常識的な他人は、「たとえそういうことがあったとしても、働けるはずだ」と、ごく常識的にそう思う。ところが、そうじゃないのである。たとえば、きちがいヘビメタ騒音による、はりつめた状態を七年間毎日経験すると、睡眠回路が「誰でも壊れて」一定の時間に起きられなくなる。そうなると、通勤ができなくなる。週に三回でも、通勤するとなったら、むりな話だということになる。そういうからだになる。けど、ほかの人は、経験的に、そうなったことがないので、わからないのである。そして、たとえば、きちがい的な家族が、きちがいてな意地で、それだけの騒音を毎日、長時間鳴らすということが、常識的な人の身の上には、まったくまったくしょうじないので、常識的な人にとっては、想像するだけの問題になる。実際にやられたわけではないので……一倍速で経験したわけではないので……それがそういう問題だということがわからない。そうなる」ということが体でわかっているわけではない。だから、「たとえ、そうされても、そうならないのではないか」と軽く考えてしまうのである。ところが、人間なら、だれでもそうなるものだと、ぼくは思う。健康的な人でもそうなるし、騒音耐性がある人でもそうなる。肝心なのは、「世界で一番きらいな音」だということだ。たとえば、ヘビメタは、ぼくにとっては、世界で一番嫌いな音の集合だけど、ほかの人にとってはそうではない。だから、その「ほかの人」特有の、一番嫌いな音を、あのでかさで毎日、長時間・聞かされるという状態を、経験してもらわなければならない。ところで、やっている人間の態度は問題だ。態度は、感情に影響をあたえる。やっている人間が「やってないつもり」「関係がない人のつもり」でやっていたら、それは、頭にくる。こういうことが、すべて「常識はずれ」なのである。だから、うちで、発生していたことは……きちがいによって発生したことは、「常識的な人」にはわからない。けど、「騒音はよく鳴っているし、騒音経験はあるので」そういう騒音だと、勝手に、常識的な人が考えてしまうのである。だから、ようするに、そういうふうなものだと、きちがい兄貴の騒音について、考えてしまう。なので、ここでも、考え違いがしょうじる。普通の人……常識的な人は、きちがい家族による騒音にいて、ごく普通に、ごく常識的に、考え違いをしてしまのである。まちがった認識をもってしまうのである。なので、やっかいだ。くそ凡人が「そんなのはたいしたことがない」「そんなことで、働けなくなるはずがない」「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と思って、きちがい的なことを言ってくるなので、ごく普通の人も、敵になる。

常識的な人が、ごく普通に「言霊的な解決方法」を口にするけど、それは、実際にやられた人にとっては、「無理な話」なのだ。言霊的な解決方法を口(くち)にする人は、「無理難題」をおしつけているとは、考えない。けど、言霊的な解決方法を口(くち)にする人は、特殊な家族にやられた人に、無理難題をおしつけることになる。どうしてかというと、その、言霊的な解決方法が、カスだからだ。土台無理な話なのである。「生き返ると言えば、生き返る」と言霊主義者が言ったとする。「生き返るといえば、死んだ人だって、生き返る。だから、生き返るといえばいい」と助言しているようなものなのだ。けど、生き返ると言ったって、死んだ人は、生き返らない。土台無理な話だ。で、死人に関しては、そういうことだということが、経験的にわかるけど、ヘビメタ騒音で通勤ができなくなったということは、経験的にわかってないのである。なので、その方法は、有効だと言い張るのである。けど、こっちにしてみれば、「生き返ると言えば、死んだ人は生き返る」と言われているようなものなのだよ。そのくらい無理な話なんだよ。けど、「無理だ」ということが言霊主義者や常識的な人にはわからない。経験的に、わかってないからわからない。『有効だ』と思ってしまう。「自分」が「到底無理な話」をしているとは、到底思えない。そういうところに、ズレがしょうじるのである。どうしてズレがしょうじるかというと、常識てな人は、きちがい家族による騒音を経験してないからだ。きちがい家族の行為が、「ブラックホール」になってしまうのである。きちがい家族の態度が、「盲点」になってしまうのである。きちがい家族が、ふたりいたら、そりゃ、もっともっと、誤解をうける。たとえば、「親なら、そんな音で鳴っていたらやめさせるはずだ」と常識的な人は思ってしまうからだ。ところが、そうじゃないのである。けど、これも、「そうじゃない」ということを、言葉でちゃんと説明したとしても、常識的な人は、きちがい家(け)で育ったわけではないので、わからないのである。感覚的にわからない。

*     *     *

深刻さがわかってない。そして、そういう深刻な状態になったのは、ぼくが……きちがいヘビメタが鳴っているにもかかわらず、毎日、学校に通ったからなのだ。

これが、ぼくの睡眠回路を七年かけて、破壊した。平日は毎日ということだけど、休日は、平日よりももっともっと、もっともっと、長い時間、きちがいヘビメタが鳴っていた。ようするに、午前中からなりはじめたのである。

けっきょく、休日は「やすみ」にならないのである。一日中、きちがい家族による、きちがい騒音にさらされ続けた。休日のほうが、さらされている時間が長い。休日は、一日に一三時間(じゅうさんじかん)ぐらい鳴らされた。絶対にやめない。『きちがいだからなのかどうか』わからないけど、絶対にやめない。

ところが、きちがいだから、絶対にやめなかったという認識がないのだ。これがこまる。しかも、でかい音で鳴らしているという認識はつねにないので、まったく関係がない人として、鳴らし続けるのである。どれだけ「やめろ」と言われても、やってない人として、やり続けるのである。

これが、「現実の破壊」だ。

きちがいだからできる。きちがいだから、ごく普通にそうなっている。特に、「こうしよう」と思ってやっていることではないのである。きちがいだから、二四時間中二四時間そういうモードで暮らしていて、うちにいるときは、そういうモードになってしまうのである。

そとにいるときは、うちにいるときとはモードがちがうわけだけど、それも、わざわざ、意識的にモードを切り替えているわけではないので、うちにいるときは、ごく普通にそういうモードになっているのである。

モードという言葉を使ったけど、脳みそが構造的にそうなっているのである。そういう脳みそを搭載して一日に二四時間生きているのである。脳みその物理的な構造が、かわらないのだから、うちでは、ごく自然にそうなる。二四時間中、いついかなる時も、きちがい兄貴がうちにいるときは、きちがい兄貴は、そういうモードになっているのである。 

きちがいが、常に、「現実を破壊して」生きている。きちがいが、きちがい的なことを、きちがい的な意地でやるとき、きちがいは、それをまったく、認識してないのである。そういうことをやっていると思ってないのである。きちがい的な意地で、自分の無意識を実行しているのに、自分の意識は、実行していると認識してない状態なのである。

なので、常に「関係がない人」としてやり続ける。「やめろ」と言われたら、脂汗をかいて、からだを真っ赤にして、ものすごい形相でやり続けるけど、「やったつもりはな常にない」という状態になっている。

だから、自分がやったこととして感じられないというところがある。

「やった」と言われたら、「やった」ということを認めるということが、自分にとって不愉快なことなので、そういうモード?になって、絶対に認めないのである。やり方がおなじ。何回も、ネスト構造になっているということを言っているけど、それは、こういうことだ。やりたいことをやっているとき「やめろ」と言われることは不愉快なことなんだよ。だから、無意識のレベルで相手が言っていることを無視して、がぜんやる。やりきる。けど、相手が言っていることを無視したつもりはないのである。そりゃ、そんな認識、しょうじるはずがない。だから、これも、相手がやめろと言ってるのに、自分が無視してやりきったということには、なってないのである。そういう認識がうまれないのだから、そういう記憶が残るはずがない。だから、いつも、いつも、そうやって、無視して鳴らしている……やりきるのに……本人はそういうことをしたつもりが、まったくないということになる。そういうレベルの無視だ。こんなのは、きちがいじゃないとできない。だから、そういうきちがいが、家族のなかにいる人じゃないと、きちがいにそういうことやられたということがないということになる。そうなれば、「やめてといわないのが悪いんだ」とか「すべては自己責任」という話になってしまう。

2023年12月14日木曜日

「自分が相手にやってやりたいこと」「相手が自分にやってほしいこと」

 風呂に入ったとき、傷口を見たんだけど、だいぶある。だいぶ、刺されている。ネズミ対策工事で、失敗をしたやつに腹が立ってしかたがない。腹が立ってしかたがない。どうして、きちがい親父がつくった問題を解決しようとすると、ほんのちょっとはきちがい親父みたいな性格をしているやつがくるんだ。そりゃ、きちがい親父ほどひどくないけど、俺がやらなくていいといったことはやらなくていいんだよ。勝手にやりがって。「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ。問題が起こったら、すぐきにてやるから」などと言っておいて、だいじょうぶじゃなかったし、こなかった。どうしてこなかったかというと、そいつが脱腸で入院していたからだ。そいつというのは、工事をしたやつだ。俺が「そこはいじらなくていい」と言ったのに、いじりやがって。しかも、長期ヘビメタ騒音で睡眠回路がこわれているので、俺はそのとき、二四時間起きているような状態で、対応したんだ。全部が全部、影響ある。「よく見ればわかること」なのに、まったく見ないで、ばんばん、俺が設置したパティをとりやがって。あれをつけるのに、どれだけ苦労したと思っているんだ。「とらなくていいといったらとらなくていいんだよ」。この、プロなのに、「自分が相手にやってやりたいこと」を「相手が自分にやってほしいこと」よりも優先してしまうやつというのはなんなんだ? こんなの、病気だろ。とりあえず、ネズミ対策工事をしたやつのことを「棟梁」と呼ぶことになる。「棟梁が、俺にやってやりたいこと」よりも、「俺が棟梁にやってほしいこと」を優先しなきゃだめなんだよ。これ、親父と似てるんだよなーー。なんで、きちがい親父がやったことの「穴埋め」をしようとすると、似たやつが出てくるんだ。

 

2023年12月13日水曜日

どれだけ、誤解されたか

 ぼくが好きに書いていいブログだから、書いちゃうけど、つまんない。ひじょーーに、つまんない。あーあ。こんなの、ない。おなじことの繰り返し……。長期ヘビメタ騒音がはじまってから、どれだけ、つらかったか。どれだけ、さみしかったか。どれだけ、誤解されたか。一一歳のあの日から、全部がかわってしまった。影響をうけないように、最大限の努力をしたけど、全部、むだだった。きちがいヘビメタ騒音……きちがい家族による騒音を経験してない人は、『影響をうけないことは可能だ』と簡単に考えてしまうけど、できない。で、また、「できない」というようなことを言えば、言霊主義者が「できないというからできない」「できるといえばできる」というようなことを言うわけだし、普通の経験しかない普通の人が、「俺だったら影響を受けないで生活することが可能だと思うけどな」というようなことを言う。


2023年12月12日火曜日

過去の出来事が現在に影響をあたえている

からだがかゆい。血が、ちょっとだけ出ている。かゆい。

ともかく、かゆい。

 

で、まあ、このかゆさと、長期ヘビメタ騒音は、関係があるのである。外壁工事ということを経由して関係ができてしまっている。ほかの人には、どうでもいいことだけど、俺にとっては、どうでもいいことではない。まさに、過去の出来事が現在に影響をあたえている。 

現実の社会というのは、そういうところがある。

 まあ、似ているとは書いたけど、別にその人たちが、ぼくに対して、親父がやったことや、兄貴がやったようなことを、やったわけではない。

それはわかっている。

似ているとは書いたけど、その人たち……言霊主義者や精神世界の人は……ほかの人に対しても、親父がぼくにやったことや、兄貴がぼくにやったことを、やってない!

その人たちの近くには、ようするに……うちの親父のような人や、うちの兄貴のような人が……いない。すくなくても、家族として一緒に住んだことがない。

なので、「わかってない」。

わかってないところがあるんだよね。

たしかに、たしかに、言霊主義者や精神世界の人が、きちがい親父がぼくにやったことや、きちがい兄貴がぼくにやったことを、ほかの人たちに対して、やったとは思えない。そういうレベルではちがう。

だって、そうだろ。

きちがい親父やきちがい兄貴は、特殊な人なのだから。きちがいのなかでも、特殊な気ちがいなのだから……。

で、ともかく、ほかの人……世間の人……普通の人……は、無意識に問題があるようなきちがいと一緒すんだことがないので、無意識に問題があるようなきちがいがどういう態度で、どういうことをやるのかぜんぜんわかってないのだ。

やったあとの、きちがい側の感覚というのも、わからないと思う。わかってないと思う。そりゃ、いっしょに家族として暮らしてみなければ、わからない。わからない部分がある。どうしたって、わかるには、いっしょに住む必要がある。

いっしょに住むということが、どういうことなのか、わかってないかもしれないけど……あるいは、所与のものとして軽視しているかもしれないけど……ともかく、そういう無意識に問題がある人と、いっしょに住むということは、とてつもなく、たいへんなことなのだ。

ここで、すべての常識が「ひんまがって」しまう。

けど、世間の人……普通の人……は、言ってみれば、常識のなかで住んでいる人なのである。なので、ぼくがかかえた問題の『本質』がわかってない。これ、わかってないのだ。

はじめから、終わりまで、まったくまったく、わかってない。

だから、わかってないという意味で、気楽なことが言えるわけ。わかってないという意味で、勘違いしたことを、勘違いしてないつもりで、言えるわけ。

無意識に問題があるようなきちがい家族が、やったことの影響をというのを、無視してしまう。わかったつもりでもわかってないのだ。

だから、普通の人たちは『影響』について、とてつもなく、表面的な理解しかしない。

それは、ブラック社長が、名前だけ店長のつかれについて、表面的な理解しかしないのとおなじだ。ブラック社長は、名前だけ店長の話を聴いて、「ようするに、疲れているんだろ」というところまで理解する。

けど、どういうふうにつかれているのかはぜんぜん理解してないのである。

そして、「できると言えばできる」とか「つかれたと言うからつかれるんだ」という言霊主義者的な反応をする。

名前だけ店長が実際に経験しているつかれと、ブラック社長が、名前だけ店長の話を聴いて、ブラック社長の頭のなかにつくりあげた「名前だけ店長が経験しているつかれ」は、一致してない。

完全に一致してない。

けど、どれだけ、名前だけ店長が、ブラック社長に自分のつかれについて説明しても、ブラック社長はそういうレベルの!!理解しかないだろう。そして、ブラック社長は、『完全に理解した』と思うのである。

ブラック社長は、『名前だけ店長が経験しているつかれについて、完全に理解した』と思うのである。これは、最初に言われたときの理解度と、ものすごく説明されたときの理解度が、おなじだということを意味している。

意味していると言ったって、ぼくがそういうふうに言っているだけだけどさぁ……。

ようするに、名前だけ店長が、どれだけ詳細に、自分のつかれについて説明したとしても、ブラック社長は、「ようするに、つかれているんだろ」という最初の理解とおなじレベルの理解しかしなのである。

なので、どれだけ詳細に説明をうけたとしても、「できると言えばできる」とか「つかれたと言うからつかれるんだ」という「まとはずれな」反応しかしないのである。

だから、名前だけ店長は、失望するんだよ。あるいは、絶望するかもしれない。

この一連のやりとりで、けっきょく、絶望してしまうほうは、名前だけ店長だ。ブラック社長は、ぴんぴんしている。ぜんぜんかわらずに、ぴんぴんしている。理解度もかわらずに、ぴんぴんしている。

けど、名前だけ店長は、日常の業務につかれはて、ブラック社長に自分の状態を説明しても、むだだったということに失望してしまうのである。現実の社会というのは、そういうところがある。

2023年12月11日月曜日

「あてすいりょう」

 しかしーーー。おれはーーー。どうしたらーー。いいんだぁーーーー。

どうしたらいいんだ?

さっぱりわからない。ぜんぜんわからない。ぜーんぜん、わからない。生まれた家が悪かったんだよな。俺は最大限の努力をしたけど、きちがい家族が、足をひっぱってダメになった。この、きちがい家族のやったことがひどいのである。足をひっぱるといっても、もうちょっと、普通は、ちがう感じなんだよな。生活ぜんぶがやられた。 

きちがい的な意地でやってるやつは、まったく、つもりがないからなぁ。「やってないつもり」なんだよなぁ。じゃあ、「やめてくれ」とこっちが言って、あっちがやめてくれるかというと、それは絶対にないんだよね。つもりがないけど、いのちが、かかっている。やめてやるつもりはないけど、やっているつもりもない……こんなの、きちがい。

きちがい以外にありえない。そうやって、自分の意地を通している。押し通している。押し通すことができれば、やってないのとおなじなのである。空気のようにまったく感じない。

けど、一秒でも、ほんとうに、ゆずってやらなければならなくなったら、発狂して、発狂して、発狂して、発狂がとまらないのである。全力でやる。きちがいが、きちがいの全力でやる。顔どころか、からだじゅう、真っ赤にして、冬でも脂汗をかいて、必死にやる。

しがみついて、やる。

ゆずってない……。

ゆずってないんだよ。一秒もゆずってないんだよ。

けど、一秒もやったつもりがないまま過ごしている。自分がやりきることができれば、まったくやってないのと「おなじ」なのである。そして、「おなじだ」と思っているということを、無視する。本人の意識に入れない。

そうなると、完全無欠の、きちがいができあがる。

きちがい的な意地でやっていることは、全部無視して、やってないつもりのまま、くらしている。

本人はそれでいいけど、きちがい行為をやられて、普通の生活ができなくなったほうは、よくない。よくない。

ところが、これがまた、……あたりまえのことなんだけど……きちがい家族がいない人には、これが、ぜんぜんわからないのだ。

普通の人は、きちがい家族にやられて、普通の生活ができなくなったほうの人を、せめる。きちがい家族にやられて、不可避的に普通の生活ができなくなった『きちがい家族の周辺にいる人(その家族の一員)をせめる。

*     *     *

兄貴がブラックホールのようになってるということを、以前、書いたけど、ブラックホールのような家族がいない人は、ブラックホールのような家族のことがよくわかってないので、常識でものを言うのである。

そんな常識が「きちがい家」で成り立つなら、こまってないんだよ!!

こまってないの!! そういう常識をきちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい的なやり方で粉砕するから、「こまっている」んだよ。

特に、言霊とか、「思ったことが現実化する」とか、引き寄せとか、「すべては思いよう」と言っているやつとか、「すべては、おたがいさま」と言っているやつは、ぜんぜんわかってない。

わかってないところで、「あてすいりょう」でものを言ってくる。

けど、あて推量なんだけど、これまた、本人のなかでは、「絶対的なこと」だから、断定した形で言ってくる。決めつけてくる。きちがい兄貴の影響や、きちがい親父の影響を、過小評価したり、完全に無視して、現実的ではないことを言ってくる。

「現実的ではない」ということを、こいつらに説明すれば、こいつらは、俺のことをうらんだりする。きらったする。すべてはおたがいさまなんだろ……。すべて、受け止め方の問題なんだろ……。言ったことが現実化するのだろ……。こいつらは、「すべてはおたがいさま」だと思い、「すべて、受け止め方の問題だ」と思い、「言ったことが現実化する」と思って暮らしている。

それなら、「楽しい楽しい」と言って、俺との会話を楽しめばいいだろ。「言霊理論がまちがっているということを教えてもらって、楽しい」と言えば、ほんとうに!楽しくなるのだから、そういうふうに言えばいいだろ。

「すべては受け止め方の問題」なのであれば、「批判された」と受け止めずに、「自分ひとりでは絶対に気がつけないことを教えてもらった」と受け止めればいいだろ。あるいは「気づきをもらったので楽しい」「気づきをもらったので、元気になった」と受け止めればいいだろ。

あとは、省略。

だいたい、おなじだ……。

こいつらはこいつらで、批判されたときは、「怒り」の感情がわく。

それは、まあ、当然なのだけど……。それなら、本人が主張している理論で、解決すればいいのに、そういうことは、本人が主張している理論で解決しないのである。ぜんぜん、実践してないのである。その場で、すぐに実践すればいいでしょ。怒ったら、「楽しい楽しい」と言って、楽しめばいいでしょ。 

*     *     *

そういえば、「愚痴を聞かされた」と思ったときも、「すべては受け止め方の問題」なので、「楽しい話を聴かせてもらった」と思えばいいよ。すべては受け止め方の問題なのだから、そういうふうにできるよね。

もし、そういうふうにできなかったとしても、「人間はみんなおたがいさま」「すべてはおたがいさま」なのだから、おたがいさまだよね。

日々、実践すればいいんだよ。

そういう機会をくれた人に対して、感謝をすればいいだろ。「感謝感謝」で暮らしているんだろ。「何事も感謝」なんだろ。「すべての人が自分の師」なのだろ。だったら、「愚痴を聞かされた」と思わずに、「楽しい話を聴かせてもらった」と思い、感謝すればいいでしょ。なんで、現実の場面で、実践しないのか?

この人たちは、普段から……人には……「思ったことが現実化する」とか、「ひきよせ」とか、「すべては思いよう」とか「すべては、おたがいさま」とか「すべてに感謝すればいい」と言っているのだから、これらの、理論を批判されたとしても、怒る必要はない。さらに、「愚痴を聞かされた」と思う必要もないのだ。

この人たちは、普段の生活で、本人が主張していることを実践してない。

 

 

2023年12月10日日曜日

自分のなかの「集合的な他者」が集合的に問題になっているにすぎない

精神世界の人は、自分の気持ちと世界が連動していると思っているから、自分が明るいことを思えば、世界に明るいことが起こると信じている。この場合は、「自分」対「世界」で自分の心理的な状態が、そのまま、ほんとうの世界に影響をあたえると思っている。

ところが、他人は、自分の気持ちとは関係なく動くので、悪い意志をもったものがいると、悪い意志を実行する。

その場合、自分の気持ちとは、関係なく、悪いことが発生する。

社会において、とても力をもった人が、悪いことをする意志にみちあふれている場合は、やはり、社会的に悪いことが発生するのである。なので、この場合は、「自分」対「世界」という構造が成り立たない。「自分」対「世界」という構造が成り立たないので、「他人」対「世界」というような構造を考えなければならなくなる。

その場合、他人というのは、集合的な他人なのである。「社会意識」とか、「集合的な無意識」とかという言葉で、そういうことを語る場合がある。精神世界の人は、そういうことを、「社会意識」とか、「集合的な無意識」とかという言葉で語る場合がある。

その場合、じつは、社会意識というのは、自分のなかの「社会意識」でしかない。自分の意識(社会意識)なのである。自分の意識のなかにある、社会意識なのである。

ほんとうは、自分が明るい社会や明るい未来を考えれば、それでおしまいなんだよ。自分が明るい社会を考えれば、実際の社会が明るくなるのである。それで、おしまい。

けど、実際には、自分がどれだけ明るい社会を考えても、暗いことが起こる。なので、「社会」という別の要素を持ち込まなければならなくなるのである。「自分」対「世界」だけだったのに、「自分(社会意識)」対「世界」という構造を考えなければならなくなるのである。

それは、いってみれば、じつは「自分が明るいことを考えると、世界が明るくなる」という理論がくずれていることを意味している。

自分が明るいことを考えれば、世界が明るくなるという理論が正しい理論であるならば、自分が明るいことを考えれば、世界は明るくなるので、それで、話が終了する。ところが、ならない……。ならないから、「自分(社会意識)」というものを考えなければならなくなるのである。しかし、明るい思霊主義者は、それに気がつかない。気がついていない。

なぜ、他人に「明るいことを考えましょう」「明るいことを考えると、明るいことが実現されるので、明るいことを考えたほうがいいですよ」と言わなければならないのかというと、すでに、「明るいことを考えると、明るいことが実現される」という理論が、破綻しているから、他人に言わなければならなくなるのである。

その他人というのが、たとえば、自分とおなじ力がある他人として、仮想されているのだけど、集合的な他者なのだ。その集合的な他者というのは、自分のなかにある集合的な他者でしかない。

社会意識とか、集合的無意識とか、集合的他者とかという言葉を使うにしろ、自分のなかの「集合的な他者」が集合的に問題になっているにすぎないのである。

 

この「ウソをついているつもりがない」というのが、病的な部分なのだ

 じつは、また、ネズミを窒息死させた日のことを思い出してしまった。俺は、いやだったの! いやなんだよ。

だから、ネズミのことについては、きちがい親父に「俺が処理しなければならなくなるから、ネズミ対策工事をしよう」と言ったのに、きちがい親父が「俺が、(ネズミシートで)つかまえるからいい」ということを言ってきかなかったのである。

ゆずなかった。

で、「親父が入院したら、俺が処理をすることになるから、はやめに工事をしよう」と俺が言ったのに……「俺が、つかまえるからいい」「俺が、つかまえるからいい」と親父が逆上して言って、ゆずらなかった。

「親父が入院することだってあるだろ」と俺が言ったら……「入院しないよ!!」「入院しないよ!!」と親父が逆上して言って、ゆずらなかった。

この、テンションの高さとか、いきおいの強さとかというのが、ほかの人にはわからない。

ようするに、「バレバレのウソを言っているのだけど」本人は、まったくそのつもりがないのだ。

「親父が死んだら、つかまえる人がいなくなるのでこまるだろ。

「俺にネズミ処理をさせるな」と俺が言ったら「死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!」と親父が叫ぶのである。この、きちがい。これ、俺が生まれるまえから(きちがい親父は)そういう状態なんだぞ。きちがい親父は、俺が生まれるまえから、こういう性格なのである。

きちがい親父は、自分にとって都合が悪いことを言われたら、バレバレをウソをついて、その場をおしきろうとする。

しかも、そういうつもりがなくて、「そのとき」はほんとうに、自分は死なないつもりなのだ。「そのとき」はほんとうに、自分が未来永劫、入院することはないと思っているのだ。

もちろん、そんなことはない。入院した。死んだ。

入院したあとすぐ死んだわけじゃないけど、死んだ。「死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!」と親父が叫んでいたけど、実際には死んだ。

そして、ネズミ処理を俺におしつけた。これが現実だ。叫ぶか叫ばないかのちがいはあるけど、きちがい兄貴もおなじなんだよ。

頭の中で起こっていることがおなじ。

実際、きちがい親父にしても、絶叫バージョンと沈黙バージョンがある。黙りこくって無視する場合もある。

けど、相手が言っていることを否認するという意味でおなじなのだ。バレバレのウソなんだよ。バレバレのウソ。きちがい兄貴は、大きな音で鳴らしたいので、大きな音で鳴らしているということを認めるのがいやなんだよ。そうすると、「普通の音で鳴らしている」「大きな音で鳴らしてない」というバレバレのウソをつく。

けど、本人は、そのとき、ウソをついているつもりが、ほんとうにない。ないんだよ。まったく、ない。この「ウソをついているつもりがない」というのが、病的な部分なのだ。もちろん頭の病気だ。これ、「悪気がない」んだよ。だからこまるんだよ。そして、こういう頭の構造をもっている親や兄弟がいる人が、少ない。

ほとんどの人にとっては、そんなの、「いるかどうかわからない人」だ。「本当に、そんな人いるのかな」と思うような人なのだ。「そんな人いない」と思うような人なのだ。

そして、そういうふうに思う人は、きちがい親父やきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっている人と、一緒に住んだことがない。圧倒的多数がそういう人間に「やられたことがない」人間なのだ。

自分の人生経験のなかで、そういう人にやられたことがない。

なので、「(そういう頭の構造をもっている人と)一緒に住んでいるとどういうことになるかということ」についても、一緒に住んでいる人が理解しているような形で、理解することができない。

バレバレのウソを絶叫するときも、沈黙してきちがい行為を続けてしまうときも、頭の中で起こっていることはおなじなんだよ。だまりこくっているけど、バレバレのウソを絶叫しているのとおなじ。

頭の中で起こっていることはおなじなんだよね。そして、そういうふうにしたということも、今度は認めないのだ。これも、ウソをついているつもりがないんだよ。「やった」ということを認めないときも、ほんとうに「やってない」と思っているわけ。

で、自分の言い分や、自分がやりたいことを押し通してしまう。

だから、何回も言っているのだけど、ネスト構造になっていて、認めるということがないんだよ。

だから、時系列的に何回も同じようなことが発生してしまう。

だって、きちがい的な意地で否定したという事実を、否定してしまうわけだから。たとえば、親父は、「俺がつかまえるからいい」と絶叫して、工事をしようという俺の提案をことわったといこうとを、認めないということになってしまう。

「そうだ」ということを認めるのが都合が悪いときは、バレバレのウソをついて「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」と否定するのである。そのときも、バレバレのウソをついているのだけど、本人だけは、バレバレのウソをつているという気持がないのだ。まったく、まったく、つもりがないのだ。これがこまる。

虐待ということを考えると、暴力があるほうがひどい虐待だということになるだろ。

それから、たとえば、「死なない、入院しないとウソをついて、自宅のネズミ対策工事をしない」ということを罰する法律があるかというと、ない。虐待じゃない。法律にも違反してない。ただ、ウソをついているだけだということになる。

けど、こまるんだよ。実際、親父が入院したあと、ネズミをつかまえて処理しなければならなくなる。この、ネズミをおびき寄せたということだって、きちがい親父が、意地をはって、ほぼ一日中、酒糟がついた魚の切り身を、テーブルの上に置いておくということに、こだわったからそうなる。

「においがすごいから、こまる」と俺が言っても……「におってない!におってない!におってない!におってない!」ときちがい親父は言って、臭覚が正常なら絶対にわかることを否定して、自分のやり方でだしっぱなしにすることに、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、しまわないのである。

だから、こまることになる。じゃあ、自分のうちで、酒糟がついた魚の切り身を二三時間、テーブルの上に置いておくことを禁止する法律があるかというとないのだ。虐待ではないということになる。じゃあ、こまらないのかというと、こまるのである。

そういうトラブルばっかりなのである。

これは、きちがい親父の頭の構造から出ていることだ。そういうふうにスイッチが入って、バレバレのウソをついてしまうのである。バレバレのウソをついて、相手の言い分をはねのけることに、自分の生命をかけてしまうのである。そういう勢いで、否定して、絶対に認めないという状態になってしまうのである。

つねに、そういうスイッチが入っている。そうなるスイッチが入っている。これが、どれだけこまることか、ほかの人はわかってない。「明るいことを考えれば明るいことをがおこり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」……そんなことじゃないのだ。

きちがいが勝手にやりたいことをやると、暗いことが起こるのだ。

家のなかにいるきちがいが、きちがい的な行為をすると、かならず、問題がしょうじるのだ。暗いことが発生するのだ。

「明るいことを考えれば明るいことをが起こり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」というのは、「自分が」明るいことを考えれば、明るいことが起こって、自分が暗いことを考えると暗いことが起こるということを言っている。

きちがい家(け)の状態というのは、そういう状態じゃない。きちがいが、いのちをかけて、ゆずらずに、きちがい行為をすることにこだわってこだわっこだわって、ゆずらないでゆずらないでゆずらないでやりきってしまうから、暗いことが発生するのだ。まったく、ほんとうにわかってないなぁ。

*     *     *

きちがい親父が、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、酒糟がついた魚を出しっぱなしにするということと、きちがい兄貴が、こだわって、こだわって、こだわって、自分が鳴らしたい音で、ヘビメタを鳴らすということは、構造において、おなじことだ。親父の頭と、兄貴の頭は、この点においておなじ構造をもっているのである。そして、その同じ構造から出てくる態度がおなじなのである。


2023年12月9日土曜日

総合的な体力や総合的な能力が「なくなっていくか」わかってないわけ

 これを言うと、おしまいなんだけど、まじつまんないわぁーー。まじ、つまんない。あーーあ。これじゃあなぁ。きちがい兄貴がやったことをうめようとすると、トラブルがしょうじて、きちがい親父がやったことをうめようとすると、トラブルがしょうじるのだ。そして、きちがい兄貴ときちがい親父は、そのままだから、俺がトラブル対処しなければならない状態で暮らしているとき、きちがい兄貴ときちがい親父は、「関係がない人」として、また新しいトラブルの「もと」をつくりだしているわけ。もう、自動的に、そういうことが、何十年も繰り返されてきたわけ。で、ほかの人は、まったくわかってないわけ。だから、もともとのきちがい兄貴ときちがい親父がやったことと、そこから派生することの意味がわかってないわけ。どれだけたいへんかわかってないわけ。どれだけ、影響をうけて、総合的な体力や総合的な能力が「なくなっていくか」わかってないわけ。

2023年12月8日金曜日

一秒もゆずってくれなかった

 きちがい兄貴が、毎日、全部、うばった。一秒もゆずってくれなかった。

2023年12月6日水曜日

どうにかするということが、むりなのだ

実際の「ヘビメタ騒音の日々」というのは、そういうものではないのだ。どうしても、言葉の限界がある。どれだけ、ヘビメタ騒音がほかのことにまとわりつくか、みんなわかってない。どれだけ、ヘビメタ騒音による寝不足が、ほかのことにまとわりつくか、みんなわかってない。みんな、勝手に、自分の騒音体験や自分の寝不足体験をもとにして「意見」を言うけど、ちがうのだ。そういうのとは、ちがうのだ。きちがい兄貴による騒音というのは、そういうものではない。すべてに、まとわりつく。どうにかするということが、むりなのだ。どだいむりなことなのだ。影響をうけないですごすということが、どうやっても、むりなのだ。この「むりな部分」というのが、経験的にわかってないから、まとはずれなことを言う。けど、本人は、まとはずれなことを言ったつもりがなく「自分の意見は、まとがはずれてない」と思っている。けど、まとがはずれている。

2023年12月4日月曜日

矛盾を、無視するところが似ている。

 きちがい兄貴の騒音で、つらかった。めちゃくちゃだった。どれだけ、気を取り直しても、だめなのである。ぼくがどういう気持で、くらしていたか、みんなわかってない。特に、言霊にこだわっている人は、まったくわかってない。けっきょく、言霊を信じているというのは、それだけ、運がよかった?ということだ。本人はどう感じているのかわからないけど、すくなくても、きちがい家族による騒音は、経験してない。この『きちがい家族』というのが重要なんだよ。みんな、理解してくれない。きちがいの感じ方がわかってない。きちがいの態度がわかってない。きちがいの認識がわかってない。どんだけ、くるっているのか、みんなわかってない。きちがい家族が、どれだけくるっているか、みんな、経験的にわかってない。わかってないと、言霊のような、妄想理論にたよることができるのである。どうしてかというと、幼児的万能感が残っているからだ。言霊にこっている人の、反応というのが、これまた、ある意味、きちがい兄貴の反応と似ているのである。一兆分の一だけど、似ている。現実を無視するところが似ている。理論的な矛盾を、無視するところが似ている。

みんな、ヘビメタ騒音、一日分もわかってない。

そんなことで、解決できるわけがないだろ。

相手がきちがいだと、ほんとうに、とことん、こまるなぁ。そして、きちがい親父がいるということが問題なんだよ。きちがい兄貴のほかに、きちがい親父がいるということが、絶望的な問題を引き起こす。きちがい親父の存在は、きちがいヘビメタ騒音問題にも影響をあたえている。

イチニチブンでも、わかってない。イチニチブンでも、わかってない。 

言えば、問題解決……こいつらも、妄想的な人間だ。こまるんだよ。

 

2023年12月2日土曜日

そういう意味で、言霊的な解決法は、「カス」なのである。

 たとえば、ある子どもの母親が死んだとする。そのこどもに「生き返ると言えば、生き返る」と教えてあげることは、いいことなのかわるいことなのかということだ。

あるいは、そもそも、生き返ると言えば、生き返るのかどうかということが問題だ。

言霊主義者は、「生き返る」と言うのだ。

だから、役に立つ助言をしてやったということになる。

けど、じゃあ、その子どもが、一所懸命、「生き返る、生き返る」と言ったとしよう。

けど、生き返るか?

生き返らない。

そういう意味で、言霊的な解決法は、「カス」なのである。

言霊主義者は、「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言っているけど、どうしてそんなことが言えるのか?

ぼくは、魔法的解決法と言ったけど、魔法的解決法は、カス方法だから、意味がない。意味がない方法だから、カス方法だ。

たとえば、消しゴムが、机の上から落ちたとする。言霊の力だけで、この消しゴムを床の上から、机の上にもどすことが可能だろうか?

「消しゴムは、机の上にもどる」とか「消しゴムは、机の上に、移動する」とかということを言えば、机の上に、消しゴムはもどるのか?

もし、言霊的解決法が「カス」ではないとしたら、もどらなければならいのである。

言っただけで、現実化するのだから、なにも手をくわえなくても、言っただけで、消しゴムが、机の上にもどらなければならない。

ところが、 「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってる人だって、言っただけでは、机の上に、消しゴムが移動しないことを知っている。言ったって、移動しない。言ったって、生き返らない……。

知っているのだ。

けど、あたかも、言霊的解決法が「カス」でないようなことを言う。あたかも、言霊的解決法が有効であるようことを言う。

言ったことが現実化するなら、消しゴムは、言っただけで、机の上に移動しなければならないのである。言えばそうなるのだから、言えばそうなる。言ってもそうならないのであれば、「言えばそうなる」という理屈がまちがっていたということだ。

「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってる言霊主義者だって、普通に、からだを動かして、消しゴムを、机の上にもどすのである。

言霊の力を使うのではなくて、身体の力を使って消しゴムを、机の上にもどすのだ。身体の力を使った場合は、物理法則に合致しているのである。なので、物理法則は成り立っているけど、言霊法則は成り立っていないということになる。

言霊主義者は、条件のちがいを無視する。

たとえば、全身不随で、からだを思うように動かせない人が、いるとする。この人がベッドの上に横たわっていたとしよう。この人は、だれかが、おとしたものを、もとの位置にもどそうと思っても、自分の身体を使ってもとの位置にもどすということができない。

こういう人に、「言えばそうなる」と言霊主義者は言うのだ。こういう人に「できないと言うから、できない。できると言えばできる」と言霊主義者は言うのだ。


言霊主義者にとっては、言霊は絶対だ。「言えば、言ったことが現実化する」というのは、絶対の真実なのだ。

なら、言えば、もとの位置にもどるはずだ。

けど、言ったって、もとの位置にもどることがない。

ぼくが、「死」について語ったとき、「死」というのは、特別だから、言霊がきかない……と思った言霊主義者がいると思う。

けど、たとえば、消しゴムをもとの位置にもどすことさえできないのだ。なにか落ちたものを、もとの位置にもどすことさえできないのだ。これが、言霊の力だ。どれだけ言ったって、もとにもどらないものは、もとにもどらない。

ところが、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」から「言えばいい」ということを、他人に言う。本人は、すごくいい助言をしたつもりだ。

けど、いつもいつも、条件を無視しているのである。

言霊主義者が、言霊は絶対だと思うのは、たとえば、消しゴムをもとの位置にもどそうと思ったとき、言霊の力を使わずに、身体の力を使っているから、「言霊は絶対だ」と思ったままでいられるのだ。

言霊主義者は、現実を見ないのである。

言霊主義者がやってることは、こういうことだ……。

たとえば、消しゴムが机から、床におちたとする。言霊主義者は「消しゴムが、机の上に移動する」と言ったあと、自分の身体を動かして、消しゴムを机の上に移動するのである。

その場合、実際には、言霊の力によって、消しゴムが、机の上に移動したのではない。

身体を使って、物理的に、消しゴムを机の上に移動した。そして、「消しゴムが、机の上に移動すると言ったから、机の上に移動した」と思うのだ。「そして」というのは、まちがいではない。本来なら「ところが」と書くべきところだ。けど、言霊主義者の感覚を重視して書くと「そして」が適切だということになる。

言霊主義者は「あと」と「から」を混同しているのだ。

本当は、言ったあと「そういうことが起こった」「その通りになった」だけなのに、言ったから「そういうことが起こった」「その通りになった」と誤解する。

消しゴムの例だと、わからないかもしれないけど、イチローというプロ野球の選手は、子どものころ「プロ野球の選手になる」と言ったから、プロ野球の選手になったという説明は、じつは、消しゴムの例とおなじなのである。

「言ったあと」と「言ったから」を混同しているだけだ。

イチローは、言ったあと、なにをした?

野球の練習をしたのでしょ。それなら、野球の練習をしたから、プロ野球の選手になったと言ったほうが、正確だ。まあ、練習だけではなくて、試合にも出た。そして、活躍した。だから、プロ野球の選手になったんでしょ。

「プロ野球の選手になる」と言った子どものうち、どれだけの子どもが、プロ野球の選手になるのか?

「言えば、言ったことが現実化する」と言うのであれば、もちろん、全員が、プロ野球の選手になってなければおかしいのである。言ったのに、現実化しなかった。おかしいじゃないか。

言霊主義者というのは、いままで見てきたように、「実際の行動」を無視してしまうのである。そして、「実際の行動」の結果、そうなったのに「言ったから、そうなった」と現実を捻じ曲げて解釈してしまうのである。

そうなると、条件によってできなくなった人は、こまるのである。

ある条件でできない人にむかって、「できないと言うからできない」とこれまた、的がはずれたことを言う。言霊主義者は言う。

全身不随の人が動けないのは、「動けない」と言ったから、動けないのではなくて、ほかの物理的な理由で動けないのである。

たとえば、神経線維を構成する細胞と、ある種の毒が(物理的に)むすびついてしまったので、神経線維を構成する細胞が、死に、動けない状態になったのだ。

これ、動けないという条件がある。そして、そういう毒も、毒を体内に入れてしまったという意味で条件なのだ。入れてしまったあとのからだの条件を無視して、「動けない」と言ったから、動けないのだと、幼稚な判断をくだしてしまうのが、言霊主義者なのである。

この判断がまちがっているから、ある種の条件をかかえている人を、くるしめるのである。

だいたい、条件を無視して、「言えばそうなる」ということ言うということ自体が、問題だ。なぜかというと、条件を無視して、まとはずれな助言をすることになるからだ。

『条件を無視された』ということは、無視されたほうは、『わかる』。

だから、不愉快なのだ。

さらに、「言ったからそうなった」という決めつけが、不愉快だ。不愉快だ。

まちがった決めつけをしているのだから、そうされたほうは、誤解をうけたことになるので、不愉快な気持になるのだ。

じゃあ、言霊主義者にこういうことを説明すれば、言霊主義者が納得してくれるかというと、納得してくれないのだ。言霊主義者というのは、自分のことに関しては、矛盾を無視している。

床に落ちた消しゴムですら、「言っただけ」ではもとの位置にもどらない。これが現実なのである。だから、「言えば、言ったことが現実化する」という言霊理論はまちがっているということになる。普段、言霊主義者はこの矛盾を無視している。

ほんとうは、身体を動かして、消しゴムをもとの位置にもどしているのに、自分は「言霊」によって、消しゴムをもとの位置にもどすことができると思っているのだ。

こういう、幼稚な誤解。

こういう幼稚な無視。

無視をするな。

自分が、普段、言霊的な解決法を選択してないということに、いいかげん、気がつけ。

どうして、言霊的な解決法を選択しないかというと、言霊なんて成り立ってないからだ。言霊的な解決法は選択できないのである。しないのではなくて、できないのである。できると言うのであれば、死人をよみがえらせ、身体を使わずに、消しゴムの位置をもとにもどしてみろ。

なっとく、いかない

 やっぱり、腹がたってしかたがない。なっとく、いかない。なっとく、いかない。なっとく、いかない。どうして、ああいうやつらがいるんだ。なっとく、いかない。なっとく、いかない。

はらわたが煮えくりかえってしかたがないこと

 思い出すと、はらわたが煮えくりかえってしかたがないことというのがある。あるんだよ。

どうしようかな。はらわたが煮えくりかえってしかたがない。いま、思い出した。くそ、どうしてこうなるんだ。こうなるというか、どうして、ああなるんだ。どうして、ああなる。なんで、俺ばっかり、きちがいにやられるんだ。殺せばよかったのか? ほんとうに、はらわた、煮えくりかえる。 

そりゃ、「いまになれば」「過去のことだけど」……。影響がある。影響が消失したわけじゃない。残り続けている。影響が残り続けている。過去のことだから、現在は影響がないと言えるかというと、言えない。なんで、過去のことは、すべて、影響がないと考えるのか? 影響がある過去の出来事だってあるだろ。というか、過去の出来事は影響しているんだよ。ただ、影響が小さすぎて本人がわからないだけだ。だから、そういう小さいことは無視できる。けど、無視できる過去の出来事があるからといって、過去の出来事は、現在に影響がないと考えるのは、あさはかでまちがっている。影響があるかの過去の出来事だってある。というか、何度も言うけど、過去の出来事というのは、微細なものも含めて現在に影響をあたえていると考えるべきだ。ともかく、過去の出来事だから、現在に影響をあたえないという考え方はまちがっている。現在に影響をあたえる過去の出来事だってある。

2023年12月1日金曜日

『あのときの雰囲気』が復活してしまう

ブラブラと買い物に行くというのは、案外、いい運動になってたんだなぁ……と思う。買い物は、そこそこ、楽しい。もっとも、ぼくの場合、行きも帰りも、長期ヘビメタ騒音のことを考えていて、つらいのだけど、これは、しかたがない。歩かなくても、歩いていても、気になるものは、気になる。『あのときの雰囲気』が復活してしまうのだ。どこにいても……。

夢の話

夢なんだけど……。「もう、上限に達した」というようなことを職員の人らしき人が言うわけ。病院から電話が、かかってきて、「もう、上限に達した」というのは、おかあさんの病状のことを言っているということが、すぐにわかるわけ。けど、「上限じゃないだろ」というような気持ちがあり、否定したい気持ちで、電話のやりとりを終えて……。けど、「もう、上限なんだろうな」という気持もあった。まあ、夢の話だから、そのあと、別の家族が喪服を着て、「うちのげんかん」のところで、別の家族の人のことについて話しているのだ。やっぱり、その人たちも、「上限じゃないだろ」とか「いや、あのとき、上限だったんじゃないの」というようなことを話しているような気がした。まあ、夢の話だから、支離滅裂なんだけど、じつは、省略した部分があって、それは、きちがい兄貴と「上限かどうか」ということについては話すというようなシーンだ。けど、これ、きちがい兄貴は登場しないのである。あくまでも、声だけ。けど、電話とかじゃない。自分視点から、横にいる相手の声だけを聴いて、相手のことは一切合切見ないというような感じだった。声も、きちがい兄貴の声ではなかったんだけど、なんとなく、関係者と話をしているのだ。

まあ、夢の話だからね……。

ヘビメタで、くるしい

 ヘビメタで、くるしい。ほかのやつにはわからない。これ、どれだけ、気分に影響をあたえるか、わかってない人たちばかりなんだよな。そりゃ、実際に、数年間でもいいから、経験しないとわからないよな。それにしても、きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らし続けたので、おかしなことになっている。いま、横になって考えていたのだけど、ほんとうに、普通の気持ちで、女の子にあうことができないのだ。普通の気持ちで、デートしたかった。あれだけかわいい子が、むこうから声をかけてくれたのに……。あれ、ほんとう、ヘビメタ騒音がなければ、普通につきあってたんだよな。気分がちがうと書いたけど、この気分というのが、つみかさなった気分だからちがうのである。ちがう。ヘビメタ騒音一日目と、ヘビメタ騒音三〇〇一日目は、ちがうんだよ。影響がちがうの……。普通に、ヘビメタ騒音がない状態でずっと暮らして、そして、あの子に、出会いたかったなぁ。

普通の人にわかるわけがない。やりようがないんだよ。

みんな、ヘビメタ騒音の影響は、無視して、好き勝手ことを言ってくる。そりゃ、「無視できるのだから」ちがうよ。実際に、その人の身の上には、ヘビメタ騒音がなかった。きちがい家族によるきちがい的な騒音がなかった。だから、言えることだ。相手の条件を無視して、好き勝手なことを言いやがって……。

2023年11月30日木曜日

ほんとうに、悪意なく、そうする。

 いやーー。まじ、つまんないわぁ。けっきょく、ヘビメタ騒音がでかすぎる。ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。なので、むりだ。

これ、ほんとうに、広範な範囲で障害がしょうじる。二次障害、三次障害がしょうじる。助けに行ったやつが、遭難してしまうような問題、そして、助けに入ったやつを助けに行ったやつが遭難してしまうような問題がしょうじる。

どれだけ、手を尽くしても問題がひろがる。

実際にやられてない人は、どういうことだかわからない。「そんなものなのかな」と、ぼくに好意的な人は思うかもしれないけど、好意的な人ですらそういう理解にとどまる。実際に、自分で経験しないとわからない。きちがい兄貴の頑固さがわからないわけだか、それはわからない。

この頑固さが、猛烈に腹がたつ部分ではあるんだよ。そして、きちがい兄貴の頑固さと言うのは、ここまでずっと述べてきたようなきちがい感覚によって成り立っている。自分にとって都合が悪いことは、認めないわけだけど、意識して、認めないというような状態とはちがう状態で認めないわけだ。

そして、きちがい的な意地でやったことは、ぜんぜんやってないことになっている。まったく無関係なのだ。本人の主観としては、「常に」そうなっている。

だから、どこかで「やった」ということに気がつくことがないのだ。「そういう態度でやりきった」ということを「忘れてしまっている」状態で、あたらしく、頑固にやるわけだよ。こういう状態の人が、家族に、最低一人は、いないと、わからないわけなんだよな。

聴覚に問題がある人ではなくて、無意識に問題がある人が「やってないつもりで」がんがんやりきって、絶対に認めないという状態が、ほかの人にはわからない。

ほんとうに、悪意なく、そうする。

そして、やっているのだけど、やっているということを認めない。その日のなかで、鳴らし終わったら、もう、その日は、一日中、鳴らしてなかったという気持になってしまう。あるいは、そういうことさえ感じないぐらいに、関係がない人になっている。

けど、実際には、一秒だってゆずらないという気持でやりきったわけだよ。一三時間鳴らせるなら、こっちが試験だろうがなんだろうが、一三時間、きちがい的な意地で、一秒だってゆずらずに鳴らすんだよ。実際にはそういう行動をするわけ。

けど、本人は、まったく鳴らさなかったのとおなじ気分でいるわけ。気分だけではなくて、「感覚の世界」や「認識の世界」でも、鳴らしてないということになってる。

頭がおかしいから、まったく悪いと思わない

 だから、まあ、朝の雰囲気がヘビメタ騒音の雰囲気なんだよね。朝の雰囲気が、ヘビメタ騒音期間中の、朝の雰囲気なんだよね。

この朝の雰囲気が、絶望を呼び起こす。

この朝の雰囲気が、死にたい雰囲気だ。

まあ、自殺したりはしないけど……。しんどかったなぁ……。ヘビメタで……。だれも毎日、繰り返し、経験したことがないんだよな。ヘビメタ騒音の前の、朝の雰囲気を経験しているんだよなぁ。みんな……。

経験してないわけだから、みんな、ぼくにとってはヘビメタ騒音前の、朝の雰囲気を経験しているわけだよな。それじゃあ、言うことがちがってくるよ。きちがいヘビメタが、異常なんだよ。あんな音がずっと続いてたというのが異常なんだよ。きちがい兄貴が異常だから、続いた。どれだけ言っても、続いた。

どれだけ、ケンカしても、続いた。

頭がおかしいから、まったく悪いと思わない。頭がおかしいから「でかい音で鳴らしている」ということが、まったくわからない。

そんなのはおかしい。

聴覚が正常なら、絶対に、「でかい音だ」と思う音なんだよ。

本人だって、無意識がかかわらない感覚器のレベルでは、でかい音だということを知っていたから、無意識的かかわる感覚のレベルでは、でかい音だということを認めなかったんだよ。

認めたら「でかい音」で鳴らせなくなってしまう。認めたら、普通の音で鳴らさなければならなくなる。だから、どれだけでかい音で鳴らして立って、「普通の音」だと感覚することにした。

で、そういうきちがい回路が成り立っている人間だから、ごく自然に、そういうズルをした。ズルなんだよ。

兄貴も親父も、ズルなんだよ。ズルをして、やりきる。ズルをしてやりきれば、「やったことになってない」のである。本人の、感覚、認知、認識が「やってない」と判断?してしまうのである。ともかく、ズルい。ズルい。

あんなの、外から見れば一目瞭然なのに、本人は、どれだけ言われたってわからないという感覚でやっている。わからないのだ。頭がおかしいからできることなんだぞ。頭がおかしくなければ、どれだけ、意地をはってやったってあんなことにはならない。頭がおかしくなれれば、どれだけ、無視してやったってあんなことにはならない。

無意識のレベルで書き換えている。

どれだけでかい音で鳴らしたって、でかい音で鳴らしているとは思わないのだから、こっちとしては、やっかいなのだ。で、そういうタイプの家族がいなかった人には、これがわからないのである。実際そういうタイプの家族がいる人というのは、本当にレアだ。

だから、ほとんどの人が、知らないのである。きちがい家族による、しつこい、騒音を知らないで、育っているのである。きちがい家族による、でかい騒音を、知らないまま、育っている。知らないのだから、「そんなのはへんだ」と思ってしまうのである。

あるいは、影響のでかさを、ごく自然に、無視してしまうのである。自己チューである人は、相手の状態がわからないんだよな。自己チューな人はみんな、みんな、みんな、影響のでかさを、普通に無視してしまう。これだって、きちがい兄貴とは、しくみがちがうけど、言ったって、わからない。

俺が、影響のでかさについて説明したって、経験してないことについてはわからないという意味で、まったくわからない。

どこまでもどこまでも、影響のでかさを無視したことを言う。

言いやがるんだよ。

しくみはちがうよ。きちがい兄貴と、自己チューである人は、しくみがちがう。自己チューである人には、きちがい兄貴にはある、感覚器の書き換えなんてない。そういうレベルで狂っているわけではないのだ。けど、けど、けど、おなじように、影響のでかさを無視するのである。

そういう世界

 ほんとう、「どうして、ぼくだけ」と思うようなことがいっぱいあるんだよな。きちがい家族にたたられたら、努力もくそもない。そういう世界だ。

はっきり言えば、幼児的な万能感を「悪い支配者」に利用されているだけなんだよ

 たとえば、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と考えている人がいるとする。

この人は、自分が「光側」で「悪魔側」の敵だと思っているだろう。だから、みんなが「明るいこと」を考えることをのぞむのだ。

それは、悪魔が嫌がることだと思っているところがある。ところが、実際には、逆なんだよ。そういうことを言うことで、悪魔側に協力をしてしまっている。悪魔側に、うまいこと、洗脳されて、そういうことを言っている。

「自分の思い」「世界」という二項目で考えているのだけど、実際には、悪い支配者層という項目がある。なので、悪い支配者層にとっては……人々が……「明るいことを考えれば、明るい世界になる」と考えてボケーっとしてくれていたほうがいいわけ。実際には、ぼけーーっと明るいことを考えているうち、どんどん、悪いことを実行していくわけ。

そして、悪いことをされて、ひどい目にあった人たちが、「ひどい目にあった」と言うことを禁止してくれるような存在があればいいなぁ……と支配者層は考えている。まさに、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と言う人たちが、支配者層がのぞんでいる人たちだ。

こういう人たちにとって、不平不満は、どんなことでも「暗いこと」なので、「暗いことを言うな」という考えに陥って、実際に、ひどいことをされた人たちが、ひどいことをされたと言うことを禁止してしまう。あるいは、禁止しようとしてしまう。

その呼びかけが「不平不満禁止」だ。

その呼びかけが「ネガティブ禁止」だ。

実際にひどい目にあった人たちに、「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」と言ってくれる人たちがいたら、悪い支配者層は、おおよろこびだ。

「これは、好都合」と……どんどん、悪いことを実行して、被害者(ひどい目にあう人たち)を増やしてしまう。

なので、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と言っている人たちは、じつは、悪い支配者に協力してしまっている。

自分が「光側」の存在で、「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」は世界を明るくすると思っているけど、じつはその言葉は、世界を暗くする。これ、暗いことだとわかる? 「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」という発言自体が、ネガティブな発言だということが、わかるかな?

はっきり言えば、幼児的な万能感を「悪い支配者」に利用されているだけなんだよ。

「明るい言葉が明るい世界に対応」していて、「暗い言葉が暗い世界に対応」しているというような幼稚な考えを、悪い支配者に利用されている。悪い支配者が、この一見ポジティブな言葉を利用すると、じつは、悪いことをおしすすめて、悪いことをされた人たちの口をふさぐことができるわけ。

「明るい言葉→明るい世界」「暗い言葉→暗い世界」という連想は、幼児的な万能感から出てくるものだ。なので、悪魔的な支配者が、この感覚をつくりだしたのではない。

けど、悪魔的な支配者は、この感覚を利用するのである。

そして、非支配者層の人たちの間に、亀裂をつくりだす。「明るい言葉→明るい世界」「暗い言葉→暗い世界」という連想をしている人たちは、自分が明るい世界をつくりだすつもりでそういうことを言っているのだけど、言われたほうは、ものすごく不愉快な気持になるのだ。そして、しかえしをするために、自分よりもくるしい状態にある人に、そういう言葉をぶつけるということになる。これは、不幸の再生産なのである。

まったくわかってないかもしれないけど、本当にひどいことをされた場合、そういうことを、被害者側に言うのは、よくないことだ。よくないことなんだよ。わからないかもしれないけど。言われたほうは、ストレスがたまって、ほかの相手に、やりかえすことになる。それがまた、負の連鎖をうみだす。

前から言っていることだけど、べつに、暗い言葉が暗い世界をつくりだすわけではない。予兆があり、実際に、つらい思いをしているから、その原因について語っているのだ。すでに、暗い世界なのである。明るい言葉を発していれば、明るい世界になる」と言っているけど、なってないじゃないか。なってないということが、その言葉が嘘であることを、証明している。

はっきり言えば、うまくだまされちゃっているだけだ。まず、自分・世界という項目を考えて、自分の気持ちが世界に反映するという考えをもってしまう。これは、幼児的な万能感から生み出されるものだから、しかたがない。

自己責任論とおなじで、信念として、自分の内側にかかえていればよいのだ。

ようするに、対象は、自分自身だけでよいのだ。自己責任論だって、自分だけを対象にしたものなら、問題はない。他人に対して、そういうことを言うから問題になる。他人を自己責任論の対象にするから、問題がしょうじる。

自己責任論とおなじように「暗いことを言うと暗いことがしょうじる」というのは、自分のにだけ適応されるものだと思っていればよいのだ。自分だけが対象なら、それでいい。

しかし、「だれか他人」を対象にして、その言葉を言うのは、失礼だ。まるで、そのだれか他人が暗いことを考えたから、だれか他人がそういう暗い状態になっていると決めつけているみたいだろ。実際、決めつけているのだけど……。 

わかんないかな?

*     *     *

明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる……これが正しいなら、ずっと昔に、明るい世界になっている。だれが好き好んで、暗いことを考えるか?

暗いことを考えなくても、他者が自分たいして、悪をなせば、暗い状態になる。自分が暗い状態になる。その場合、かならずしも、自己責任ではないのである。

明るいことを考えれば、明るいことが起こるなら、どうして、こんなにも暗い世の中なんだ? 自分が明るいことを考えても、ほかのことが理由で、暗い出来事が発生するのだ。

たとえば、悪い人たちが、ほかの人をだまして、ほかの人の命をうばおうとする。

そういうことが、おこなわれているのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言って、そういうことについて考えようとしない。

そして、「ことあげ」をしている人たちを、「暗いことを言う人たちだ」と決めつけて、その人たちが「ことあげ」できないようにする。

水俣病のところにも書いたけど、その人たち……「ことあげ」をしている人たちには……その人たちなりの、理由がある。自分が水俣病にならなかったからといって、水俣病になった人たちが、不平不満を言うことを、どうして、とめることができようか?

「明るい考え→明るい出来事」「暗い考え→暗い出来事」と考える人たちは、時系列的な順番を考えない人たちだけど、もうすでに、悪いことが起こったあとだ。

そして、べつに水俣病になった人たちは、「いつか、自分は水俣病になる」と考えた人たちではないのだ。こういうことを、ちゃんと、まじめに考えたほうがいい。

*     *     *

「ことあげ」についてちょっと、思うことを書いておく。神ではなくて、支配者層に対する不平不満を言うべきではないという思想がかくされているのかもしれない。支配者層だけではなくて、ともかく「うえ」のものに対して、不平不満を言うことは、けがれたことだというイメージをつくりだしているのかもしれない。あるいは、つくりだそうとしているのかもしれない。「うえ」のものだけではなくて、ともかく、不平不満を言うことは、よくないことだという思想は、まさしく、「明るい思霊思想」なのだけど、これは、じつは、抑圧システムの重要な要素なのかもしれない。

 

2023年11月29日水曜日

言霊と自己責任論

 「言えば言ったことが現実化する」ということを言う人は、そういうことを言って、人をだましたつもりはない。ところが、だましているのである。どうしてかというと、「言ったって、いたことが現実化しない」場合がたくさんあるからだ。けど、こういう人は、もし言ったことが現実化しないなら言った人の言い方が悪かったから、現実化しなかったのだと思ってしまうのである。しかし、何度も言うけど、「言えば」と言っているのだから、一回だけ、どんな言い方で言っても、言えば、現実化するのである。 「言えば言ったことが現実化する」と言っている人は、言っても現実化しなかったという報告を無視して、言った人の責任にするけど、 「言えば言ったことが現実化する」という理論がまちがっている。そんなのは、法則性なんてない。言えば、言ったあとにそのことが現実化することもあるし、そのことが現実化しないこともある……という理論のほうがあっている。ところで、 「言えば言ったことが現実化する」ということを言う人は、自己責任論にこっている場合がある。ところが、このことにかんしては、「言った人の言い方が悪いから、実現化しなかった」と決めつけてしまうのである。これは、他責思考だ。そりゃ、自分がかす理論をおしつけたということを認めず、相手の言い方が悪かったから、そうなったということを言うわけだから、他責思考だ。自己責任であれば、相手にカス方法をおしつけたことをまず、自分の責任だと感じるべきなのである。そして、超自然的なことだから、本当は、その人(カス方法をおしつけた人)には責任がないのだけど、言ったことが実現化しなかったということについて責任を感じるべきなのである。どうしてなら、「すべては自己責任」だからだ。自己責任論者というのは、こういう無理なことを、おしつけているのである。もちろん、他人におしつけている。言ったことが、現実化するわけではないから、言ったことが実現化しなかったということについて責任を感じるべきだというのは、言いすぎなのだ。何度も言うけど、言ったことが現実化するわけではないから、そういうことがしょうじなかったとしても、責任を感じる必要はない。しかし、「言ったことが現実化する」ということにこだわるのであれば、もちろん、言ったことが実現化しなかったということについて責任を感じるべきなのだ。だって、そうだろ。なんで、自分が言ったとおりにした相手のことをせめて、自分の責任を感じないのだ? 「言ったことが現実化する」と言ったのに「言ったことが現実化しなかった」……。言ったことが現実化しなかった責任の所在はどこか? 「すべては自己責任」なのであれば、もちろん、それも、自己責任だ。もちろん、ぼくは!……言ったことが現実化するわけではないから、責任を感じる必要はないと(本当は)思うけど、言ったことが現実化すると、いまなお、思っているのであれば、言ったのに現実化しなかったことについて、責任があるということになる。だって、すべては自己責任なのでしょ。ジコセキニン、だー。ジコセキニン、だー。ジコセキニン、だー。

いいかげん、目を覚ませ。

 悪い為政者が国民をだまして、悪いことをしているのだから、すでに、「暗い状態」になっている。それを……。まるで……。庶民側の誰かが「暗いことを考えるから、暗い状態になる」と言い換えている。そういう、言い換え。あるいは、勘違い。

ここでも、こういうことを言う人たち……多くの精神世界の人たちは……加害者の味方になっている。悪い加害者に、協力をしている。「やめろ」と言う側の人たちに、制限をくわえようとしている。

「悪いことを言うと悪いことになる」と多くの精神世界の人が言うのだ。言わなくても、悪い加害者が、そうしているから、悪いことになる。

多くの精神世界の人たちがやっていることは、被害者をせめて、加害者を増長させることだ。多くの精神世界の人たちは加害者の味方。多くの精神世界の人たちは悪い為政者の味方。

勘違いがある。

なぜ悪い状態になったかといことについて、完全に、勘違いしている。

こういうことを言う精神世界の人たちは、へんな妄想にしたがって、悪くない人たちを悪者にする。そんなの、よくないよ。いいかげん、目を覚ませ。

2023年11月25日土曜日

他者の行為

 本人に相手をくるしめるつもりがなくても、本人の行為によって、相手がくるしむ場合がある。こういうことすら、明るい言霊主義者の世界では、ないことになっている。

さらに言ってしまえば、「立場」というものをまったく考えていない。

たとえば、社長と平社員がいたとする。社長は、平社員に「不平不満」を言うことはたやすいけど、平社員は社長に不平不満を言いにくいということがある。立場で、不平不満の言いやすさがちがうのである。

ある人が、ある人に不平不満を言う場合は、不平不満の言いやすさにちがいがある。

立場によって、不平不満が言いやすい相手と、不平不満が言いにくい相手がいるのだ。こういうことは、現実的な条件のひとつだ。こういう現実的な条件のなかで、喘ぎながら生きているのが人間だ。社会的な人間だ。

なので、現実はそうなのだから、現実を無視するわけにはいかない。

ところが、「不平不満を言う」ということを、普通の人が考える場合、「不平不満を言う」という抽象度の高いことを考えることになる。

これは、言ってみれば、なにもない空白空間で、とてつもなく、抽象度の高いことを考えることになるのである。これは、『善』とか『悪』という場合にも成り立つのだけど、いまは、横に置いておく。

ともかく、抽象度が高いのだ。抽象度が高いということは、現実の条件について考えなくてもいいということだ。だから、空白空間で、「不平不満を言う」という抽象度の高いことを考える場合は、さまざまな条件が、捨象されてしまう。

捨象されるからこそ、なにか、「XをすればYになる」というような法則性がありそうなことを、言えるような状態になる。ところが、現実生活では、さまざまな条件が成り立っているので、空想的な空白空間で成り立った抽象的なことが、成り立たないのである。

立場……。立場だって、現実的な条件のひとつだ。自分を中心にして考えた場合、自分よりち立場が上である(と認識している相手には)不平不満を言いくく、自分よりち立場が下である(と認識している相手には)不平不満を言いやすいという傾向がある。人間にはそういう傾向があるのではないか。

そうなると、空白空間で、抽象的に、「不平不満を言う」ということについて考えたことがむだになるのである。だって、現実的にはそんな、空白空間がないから。その空白空間で出た結論は、現実的な結論ではないのである。しかし、

*     *     *

現実世界では、他人が、自分にって不都合なことをやる場合がある。他人が自分に危害を加える場合がある。その場合、思霊主義者は、自分が「危害を加えられる」と考えた「から」「危害を加えられた」と考えるのである。

過去のある時点で「自分」が「危害を加えられる」と考えたので、「危害を加えられた」と考えるのである。

しかし、他人は、他人の意思によって動くので、自分が考えてなかったのに、他人が自分に危害を加える場合がある。

だれのみに降りかかることなのか、ということについて、思霊主義者は、まったく考えていない。自分の思考によって、世界が決まるのだから、自分の思考でそうなったと考えるのだ。しかし、これが、言霊主義者のように、でたらめなのだ。

たとえば、「どれだけ生き返ると言っても、死んだ人は、生き返らない」と言ったあとに、「言ったことが現実化する」と言って、まったく矛盾を感じないレベルの思考をしている。いきあたりばったりなのだ。

矛盾しているということについて、極端に鈍感なのだ。

思霊主義者も、そういうレベルで矛盾を感じない。空白空間の思考においては「自分が」「自分が」ということになって、自分が思うことだけを考えているので、他人が、自分の思いとは関係なく、行為する主体であるということを見逃しているのである。

自分の思いに関係なく、他人が、他人の思いを実行することがある。他人は、自分の「思い」とは関係なく、生きているのである。他人には、他人の「思い」があるのである。しかし、思霊主義者の考えのなかには、「他人」がない。(注1)

思霊主義者のように、「他者」を無視して「思ったことが現実化する」と考えるのは、無理がある。他者が参加している空間だから、自分の思いとは関係なく、他者が活動し(行動をしその結果、自分の身に関係があることがしょうじることがある。自分の身に関係があることがしょうじないという前提で、「自分の思い」だけ考えてもしかたがない。

利益追求を考えている他人は、工場排水を流しても、なにも感じないのである。もし、工場排水と「病気」に関係があるといわれても、工場排水と「病気」の関係を否定しようとするのである。どうしてなら、利益追求を考えているからだ。

効率主義者なら、たとえ、工場排水に問題があると指摘されても、効率を第一に考えて、行動する。不効率なことは、しないようにする。

そうなると、なにも、「病気にしてやろう」と思って、工場排水を流したわけではないけど、工場排水の影響で、病気になる人が出てくる。この場合、工場排水を出している主(ぬし)と、病気になる人がちがうのである。

思霊主義者は、病気になった人が、病気になると思ったので、病気になると思っているのだ。「他の要素」というものを無視している。「他人」というものを無視している。だから、AさんがBさんに、危害を加えたということにかんしては、立場がクロスした考えをもちがちだ。

思霊主義者は、結果を見て、「Bさんが、病気になる」と思ったので、Bさんが病気になったと考えてしまう。Aさんは、思霊主義者の思考のなかに出てこない。

「自分」対「世界」のところでも話したけど、言霊主義者は、そこらへんの区別があいまいで、その都度、自分にとって都合がいいように考えてしまう。ようするに、「思いが世界に反映する」という考え方にあうようなかたちで、現実を見てしまう。

*     *     *

(注1)

だったら、他人に明るい考えをもってもらおうとする必要もないのではないかと思うもかもしれない。これにかんしてと言っておくと、思霊主義者がいきあたりばったりなので、その都度、矛盾のある行為をしているのである。空白空間では「他人」というのは出てこない。あくまでも、「自分」対「世界」だ。世界のなかには「他人」が含まれているかもしれないけど、その世界のなかの他人というのは、これまた、極端に抽象度が高い他人だ。ようするに、自分のなかでどうにでもなる他人なのである。ようするに、他人ということになっていても、自分の思考の一部だから、自分の思った通りに動く他人なのである。あるいは、集合的な他人だ。集合的な他人というものも、「世界の人たちがしあわせになりますように」というような言葉のなかに含まれている「他人」でしかない。空白空間で考える思霊主義者にしたって、現実にはふれているので、他人が不平不満を言う行為を禁止しようとするのである。他人が言いたいことを言う行為を禁止しようとしているのだから、ネガティブな行為だ。問題のある排水を流している企業の側に立って、「不平不満禁止」と言っているのだから、ネガティブな行為をしているということになる。

明るいことを言って、問題を先送りにしたので、不幸な出来事がしょうじたのである

 これは、もうすでに書いたので、骨格だけ、説明する。有機水銀がはいった工場廃液を出す工場があるとする。そこで働いていた人をAさん、Aさんの上司をBさんだとする。Aさんは、「この茶色い排水を出すのはまずい。このままだとひどいことになる」と言ったとする。それたいして、上司のBが「そんなのは、どうでもいいから、ちゃんと働け」と言ったとする。Aさんが、予兆を感じて、「このままではだめだ」ということを言ったのに、上司のBが「そんなのは気にしないで、仕事をしろ」と言ったのである。がんがん仕事をすると、がんがん、茶色の工場排水が流れるのである。ポジティブ思考だと、お金儲けがたいせつなので、お金儲けに反することは、だめなことなのである。一度工場をとめて、工場排水の検査をしようとか、何か問題があったら、その問題部分取り出して処理するようにしようということは、効率主義にもとづけは、だめなことなのである。明るいことか、暗いことかということにこだわると、暗いことなのである。そりゃ、生産量を少なくて・工場排水を減らすべきだということは、もうけが少なくなることだし、工場排水に問題となる物質がはいらないようなフィルターをつけようということになると対策費がかかるのでおカネが減ることになる。上司のBがっていることは、効率的でポジティブなのである。Aさんがっていることは、非効率で、ネガティブなのである。「ネガティブな発言禁止」の「明るい言霊主義者」がいたとする。明るい言霊主義者は、どっち見方をするか? もちろん、ポジティブな発言をしたBさんの見方をするのである。明るい言霊主義者は、どっちの敵になるか? もちろん、ネガティブな発言をしたAさんの敵になるのである。

明るい言霊主義者は、明るいことを言っていれば、明るい未来があると言っているけど、この件に関しては、明るいことを言って、問題を先送りにしたので、不幸な出来事がしょうじたのである。

さらに言ってしまえば、気がつかずに、汚染魚を食べて、水俣病になった人が、工場の責任者に対して不平不満を言った場合、明るい言霊主義者は、水俣病になった人の側に立つのか、工場責任者の側に立つのかと言うと、工場責任者の側に立つのである。水俣病になった人は、光をうしない、自分のからだの自由をうしない、くるしんでいる。そのくるしんでいる人に「不平不満を言うな」「ネガティブなことを言うと、ネガティブなことになる」と言うのだ。何度も何度も言うけど、すでに、ネガティブなことが発生しているのだよ。明るい言霊主義者は、自分が、汚染魚を食べなかったので、水俣病にならず、元気に暮らしているとする。その場合、明るい言霊主義者は単純なので、「自分はポジティブなことを言ってきたから、水俣病にならず、水俣病になった人は、ネガティブなことを言ってきたから、水俣病になったのだ」という勘違いをして、その勘違いに、感情的に支えられた発言をすることになる。

自分とはちがう「暗い考え」をもっている人が、じゃまになるのである

この文は、公開してしまった文よりも、はやい段階で書かれたもので、順序が入れかわかっている……のだけど、まあ、公開しておく。

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「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えている人は、「為政者」という項目について考えないとだめだ。

「為政者」という項目が、すっかりぬけて落ちているのである。

とりあえず、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考える人のことを「明るい思霊論者」と呼んでおこう。「明るい思霊論者」の頭の中から、「悪い為政者」という項目がすっかりぬけおちている。

ところが、悪い為政者がいる場合があるのである。悪い為政者がいる場合は、明るいことを考えても、暗いことが起こることになるので、明るいことを考えてもむだだ。

むしろ、庶民の側が、根拠もなくぽやーっと明るいことを考えている状態というのは、悪い為政者にとって、「特別に」やりやすい状態だ。「明るいことを考えればいい」と言って、暗いことが起こる確率をあげている。「明るいことを考えればいい」と言って、悪いことが起こるようにしている。

まあ、悪いことが起こりやすいようにしていると、弱めに言っておくかな。

以前書いた記事のなかで説明しなかったことについてちょっとだけ説明しておこう。

それは、ひとりの人が思うだけで、「世界」がかわってしまうということだ。そういうパワーをひとりの人……個人個人がもっているという前提でものを話しているということだ。

言霊とおなじように、「○○さんが生き返る」と思っても、生き返らない。

「思うこと」に現実をかえるパワーはない。

そして、たとえば、言霊主義者が、朝のニュースで起こったことを知るように、思霊論者も「思ったことが現実化する」と思っているのに、朝のニュースで起こったことを知るのだ。起こったことは、自分が事前に考えてなければならないことなのだ……ほんとうの思霊論者の意見にしたがえば……。

これは、いろいろと言いにくい部分を含んでいる。思霊論者の言っていることが、その時々によってちがうからだ。これは、言霊論者が言っていることが、その時々によってちがうということとおなじだ。

ひとりの人の「思い」が世界をガラっと変えてしまうパワーがあるという前提で話したり、ひとりひとりの「思い」には、世界をガラっと変えてしまうパワーがないという前提で話したりすることがある。

ひとりの人の思い……たとえば、自分の思いが世界に反映するなら、自分一人が思っただけで、自分の明るい思いが世界に反映するはずなのである。

もし、「自分ひとりの思いにはそんなパワーはなく、多くの人が、おなじようなことを思わなければ、思いが世界に反映しない」と言うのであれば、最初から、自分ひとりの「思いのパワーが」世界をかえるというようなことを言うべきではない。

自分の思いが世界の現実を変えるのであれば、もちろん、ひとりで変えてしまうことができるのである。自分と世界が対応していて、自分の思いにあわせて、世界がガラッと変わるということを言っているわけだから、「あなたも、こういう明るいことを考えましょう」という必要はまったくない。

だいたい、自分対世界なのであれば、自分の思いが、そのまま世界に反映する(反応する)わけだから、相手のことも、自分の思い通りにできるのである。相手が考えていることも、自分の「想像」一発で、思い通りにできるのである。

たとえば、明日は、雨になると思えば、雨になるのである。明日、この国とあの国が戦争をすると思えば、この国とあの国が戦争をするのである。思ったことが現実化するのだからそうなる。その場合、「自分」というのは、特別な存在なのである。

まあ、神のような存在なのである。これは、幼児的万能感がなせるわざだ。みんな、じつは、そういう幼児期をへて、大人になっている。なので、幼児期の影響が残っているのである。

自分が特別な存在で、自分と世界が対峙しているのである。あるいは、自分と宇宙全体が対峙しているのである。自分の思いが、宇宙のありかたに影響をあたえるのである。その影響は、思っただけで、宇宙の全体をかえてしまうほど、強い影響なのだ。

なのであれば、もちろん、多数の他人が、おなじように、明るいことを考えなければならない……と考えるのはおかしい。この、明るいことの内容は、自分とおなじような明るいことなのである。自分が思っているのとおなじような思いをもてばいいということになる。

その場合、自分とはちがう「暗い考え」をもっている人が、じゃまになるのである。

人間とは不思議なもので、明るい考えをもっているつもりなのに「暗い考えをもっているやつが邪魔だ」と暗い考えをもってしまうのである。「暗い考えをもっているやつのせいで、現実が暗くなる」と思ってしまうのだ。大きな、勘違いだ。こういう、幼児的万能感氏に配された幼稚なやつが、「不満不平禁止」「ネガティブ発言禁止」と言って、とても、暗い状態をつくってしまう。あるいは、とても、危険な状態をつくってしまう。

こいつらは、明るいふりをしているけど、ほかの人の「発言する権利」をおびやかすような暗い発言をしている。

*     *     *

「不満不平禁止」「ネガティブ発言禁止」と言って、「このままでは危険だ」ということを言おうとしている人の、口をふさごうとするな。


2023年11月23日木曜日

その人の身にしょうじなかったのだから、それは、架空の話になってしまうのである

前々回の投稿で書いたことは、ようするに、本当は、その人たちだって、おなじことをやられれば、おなじような状態になるのに、、その人たちは、おなじことをやられなかったので、正常な姿でいられるということだ。ところが、「話を聴いた」その人たちは、「自分なら、そういうことをやられても、正常な姿でいられる」と思ってしまうのだ。なので、そこに、まちがいがある。けど、実際に、そういうことが、その人の身にしょうじなかったのだから、それは、架空の話になってしまうのである。なので、その人たちは、そういうことがしょうじなかったという意味において、正常なだけなのだけど、それを、能力の差だと思ってしまうのだ。これが、やられたほう……きちがい家族にやられたほうとしては、くやしいことだ。世間の、きちがいではない他者との間に、亀裂が入るのである。その場合、きちがい家族が、繰り返し、繰り返し、こだわって、こだわってやったことに、そういう性質が、あるということだ。これも、絶対に、やられたない人にはわからないと思うけど、ある。そういうことを、説明したかった。けど、それを説明すると、ほかの人たちは、そんなことはないだろうと思ってしまうのである。ひとごと、だからだ。自分の身にしょうじなかったことだからだ。きちがい的な家族と毎日一緒に住んだ、数十年間がないからだ。

「立場」はない。たちばーーないーーよーー。

 まあ、非常に人気がなくなることなのだけど、前投稿で書いたことは、事実だ。事実、そうなる。きちがいが、きちがい的な感覚で、きちがい的な基準で、「うちのなかで」きちがい行為をやり続けると、きちがい行為の影響をうけたやつが、特殊なやつになってしまうのである。

きちがい行為の影響をうけたやつが、「さえないやつ」になってしまうのである。

こんなの、ない。人によっては、きちがい家族のほうではなくて、きちがい家族のほうの、影響をうけたほうが、きちがいなんだ(障碍者なんだ)と思ってしまう。あいつがっていることは「へんだ」と思ってしまうのである。「そんなことがあるはずがない」と思ってしまうのである。

こんなのは、ない。

けど、ある。

実際に、そういうことは、ぼく以外のケースでもある思うよ。この場合、きちがい家族に、長年やられたほうの、「立場」はない。たちばーーないーーよーー。

2023年11月22日水曜日

「おまえ、ぜんぜんわかってないよ」と言いたくなる。

 やっぱり、人間というのは「出来事」の影響をうける。それが自然な状態だ。きちがい的な人間と一緒に住んでいると、きちがい的な人間の行為の影響をうける。特に、頑固に、絶対の意地で、きちがい行為をやるやつがいると、トラブルがしょうじる。そのトラブルのなかでの感情消費が、普通の人とのトラブルでしょうじる、感情消費よりもずっとずっとずっと、上なのである。どうしたって、なぐりたくなる。どうしたって、殺したくなる。しかし、なぐるわけにもいかず、殺すわけにもいかないとなると、そういう感情が内向してしまうのである。なので、きちがい的な人間と一緒に住むことは、健康上、非常に悪いことなのである。そしてさらに、ほかの人は、きちがい的な人間と一緒に住む経験がなかったとすると、ほかの人には、きちがい的な人間と「うちなので」対峙したことがないということになる。その場合、ほかの人の理解というのは、えられないのである。なので、二重に傷つくことになるのである。きちがいが、すぐになおってしまうなんてことはないのである。頭がおかしい親は、ずっと頭がおかしい親なのである。きちがい的な行動をきちがい的な意地でするやつなのである。そして、絶対に反省はしない。この、絶対に反省はしないというポイントが、非常に重要なのだけど、これも、ほかの人……きちがいてな家族と一緒に住んだことがない人には、わからない。きちがい的な兄も、ずっときちがい的な兄なのである。頭の構造がかわるわけがない。『うちにいる限り』『うちにいるときの』『行動をする』のである。そして、絶対の意地で行動する割には、絶対の意地で、行動したということを認めないのである。この「認めなさ」。きちがい親父と、きちがい兄貴でおなじなんだよな。だから、絶対の意地でやったことは、絶対の意地で、やったと認めない。うちで、いつもそうなんだよ。そうなると、俺がこまるんだよ。

ともかく、出来事は感情や体力に影響をあたえるのである。繰り返し、繰り返し、しょうじている「似たような出来事」は、感情や体力に影響をあたえる。「よくなったよくなった」と言えば、よくなるかというと、よくならない。「つかれない」と言えばつかれなくなるかというと、そんなことはなくて、つかれる。出来事が影響をあたえているのである。で、この出来事が、感情や体力に影響をあたえるということは、比較的に言って、よく理解されることなのだけど、意欲になると、理解されない。あきらかに、きちがい家族のせいで、全体的な意欲が、さがっているのに、「全体的な意欲がさがった」というと、「人のせいにしている」と言われるのである。しかも、まともな家族と暮らしてきたやつが、そういうことを言う。「おまえ、ぜんぜんわかってないよ」と言いたくなる。

きちがいがきちがい的な意地でやるんだよ。どれだけこまるか。そして、きちがい的な意地で責任をとらないんだよ。きちがい的な意地で「やった」と認めないんだよ。きちがい的な意地で、「関与」を認めないんだよ。けど、また、きちがい的な意地でやっちゃうんだよ。そうなると、こまり続けるわけなんだよ……こっちは。こういう出来事の連続が、こっちの「意欲」に影響をあたえないわけないだろ。体力と言えば、普通の体力を思い浮かべるけど、睡眠まで含めた、日常生活を円滑におくるための体力がある。睡眠まで含めたということは、重要だ。体力というと、体力測定で測定できるような体力を思い浮かべてしまうけど、睡眠まで含めた「日常生活を円滑におくるための体力」というのがある。これは、普通の体力測定にも影響をあたえるけど、普通の体力測定というのは、言ってみれば、瞬間的なものだ。寝不足だと、寝不足ではないときよりも、一割から三割ぐらい落ちるかもしれないけど、そのとき、がんばればなんとかなってしまう。けど、十数年間毎日、寝不足だと、「日常生活を円滑におくるための体力」が極端に落ちてしまうのである。これは、通常の体力測定では測れない体力だ。睡眠まで含んだ、体力というのが重要なのである。どうしてかというと、日常生活においては、時間通りに通勤通学するということが、必要だからだ。これ、根底の部分なのである。ほかにも必要とされる能力はあるけど、これがどれだけ重要な能力か、普通の人は、無視してしまうのである。どうして、無視できるかというと、「やっかいではあるけど」「多少の苦痛を感じるけど」普通にできることだからだ。これが、十数年間毎日の、睡眠相(あるいは、サーカディンアン・リズム)のみだれによって、できなくなってしまうのだ。けど、これが、普通の人には理解されないのだ。普通の人には、きちがい的な意地で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、きちがい的な騒音を鳴らし続ける、家族がいない。毎日、そういう経験をしてない。人生のなかで、そういうことが、毎日毎日、十数年にわたって、発生しなかった。なので、体力と言えば、普通の体力を思い浮かべてしまうし、「自分だって通勤はきつい」という気持になってしまうのである。けど、「自分だって通勤はきつい」と言っている人には、きちがい家族がいないし、とりあえず、「いやだけど」「つらいけど」「通勤ができる」体力……睡眠まで含めた生活体力が残っている。残っているんだよ。残っていない俺とはちがう。この人たちも、たしかに、つらい思いをして通勤していると思うけど、きちがいヘビメタが一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ま位置になっている状態で、通学してきたぼくとはちがう。ぜんぜんちがう。人生経験がちがう。睡眠まで含めた生活体力が残っている。

きちがい家族と一緒に暮らしたことがないやつが「そんなのはあまえだ」と言う場合がある。こいつも、なぐり殺してやりたいほど怒りがわく。どうしてかというと、きちがい兄貴に対する怒りが「のっかっている」からだ。なぐり殺してやりたいほどの怒りがわくのだから、相手は、さっきを感じるかもしれない。あるいは、「ものすごい目でにらんできた」と思うかもしれない。そうすると、なぐらなかったとしても、人間関係がうまくいかなくなるのだ。そりゃ、「そんなのはあまえだ」と言ったやつは、きちがい家族と一緒に生活しかたことがなく、体力と言えば、体力測定で測れるような体力を思い浮かべるし、自分だって「つらい気持ちで通勤している」わけだから、当然の、発言だと思っているのだろう。けど、ちがうのだ。そいつは、睡眠まで含めた生活体力が残っている。どうして、残っているかというと、そいつの人生のなかで、きちがいヘビメタ騒音が毎日鳴っているということがなかったからだ。きちがい家族による、「世間ではありえないような」騒音がずっと鳴っていた……という人生上の経験がないのである。一日のなかでずっと鳴っていた。そりゃ、きちがい兄貴は、すべての時間を使って鳴らして、殺さなければやめさせることができないからな。ともかく、世間の人には「睡眠まで含めた日常生活を円滑におくるための体力」が極端に削られた状態というのが、わからない。それは、毎日、きちがい的な騒音をずっと聞かされるという生活を十数年にわたって経験したことがないから、そうなる。近くにアパートを借りて、生活してから、ヘビメタ騒音にさらされる時間は、減った。けど、アパートを借りることができたのは、ヘビメタ騒音がはじまってから一一年目のことなのである。通学と通勤の区別をせず、ある一定の時間にそこに行く必要がある生活が成り立っているとして、なおかつ、きちがい家族による「家庭内の騒音」があると、睡眠まで含めた生活体力が著しく消耗して、なくなってしまうのである。けど、ほかの人の人生には、きちがい家族がいないのだから、そういうことがしょうじない。どれだけの意地で鳴らすかわかってない。どれだけ「でかい音で鳴らす」ということにこだわっているかわかってない。どれだけ「ヘッドホンをしない」ということにこだわっているかわからない。そして、自分がきちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことだと感じられる感性がわかってない。この、きちがい感性。自分がでかい音で鳴らしたいと思ったら、耳が正常なのに、めちゃくちゃにでかい音で鳴らして、普通の音で鳴らしていると思えるきちがい感覚がわかってない。普通の人には、そんな家族はいない。普通の人はそんな家族と毎日一緒に暮らしているわけではない。普通の人は、でかい音で鳴らせば、でかい音で鳴らしているということが、わかる。きちがい兄貴は、絶対の意地で、でかい音で鳴らすけど、でかい音で鳴らしているということが、耳が正常なのにわからないのである。のちに、ヘビメタ難聴になるので、耳が正常ではなくなるのだけど、鳴らし始めたときは、正常だったのである。自分がヘビメタ難聴になるほどでかい音で鳴らしているのに、普通の音で鳴らしていると思っているのだ。こんなのはない。フォークギターで、フォークギター難聴になるか? ならないだろ。音のでかさがちがうんだよ。ほんとうに頭にくる。こういうところで、「だましている」。こういうところで、きちがい兄貴が、きちがい兄貴のことをだましている。そして、これが腹の立つところなのだけど、どれだけこっちが指摘しても、きちがい兄貴はわからないままなのである。そして、でかい音で鳴らし続ける。こだわりの音で鳴らし続ける。けど、悪いことをしているつもりがまったくないのである。それは、入学試験の前日でもおなじなのである。もちろん、こっちの入学試験の前日だ。ともかく、そういうところに、「ズレがある」人間なのである。そして、そういうところにずれがある人間は、少ないので、そういうところにずれがある人間と、「家族として」一緒に暮らしている人間も少ないのである。なので、普通の人は、そういう人間が……きちがい兄貴のような人間が……自分のこだわりの音で、ヘビメタを鳴らすということになった場合の、しつこさがわかってない。ともかく、普通の人間は、そういう家族と一緒に住んだことがないので、そういう家族がもたらす、騒音が、「自分のからだに」どういう変化をもたらすかについて、経験的にわかってないのである。なので、「そんなのはあまえだ」と言ってくる。腹、たつだろーー。たつに決まっている。けど、そういうことが理解できるのは、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音を、聞かされ続けた人間だけなのである。家族が音源である人に限られるのである。きちがい的な家族によって、こっちの「睡眠まで含めた生活体力」がうばわれてしまうのである。どれだけ、がんばって生活して市もそうなる。どれだけ、たえて、がんばってもそうなる。どうしてかというと、毎日、きちがい的な音で鳴っているからだ。これ、不可避的に眠れなくなる。たえて、がんばっていると、一時的なストレス対応(反応)がずっと毎日、続くわけだから、ズタボロになってしまうのである。意志に関係なくそうなってしまうのである。人間というのは、ストレスに対して対応できるようにできている。けど、それは、一時的な出血大サービスみたいなものなのだ。ずっと続けることはできない。けど、がんばって続けたとする。「学校に行く」となると、がんばるしかない状態なのだ。きちがい兄貴の騒音のほうは、かわらないわけだから……。普通なら、一日だって、一時間だって、鳴らせないような音でずっと鳴らしているんだよ。これ、ほんとう、幼稚園とかご近所のうちとか、そういう物理的な構造が、きちがい兄貴のヘビメタをゆるすような構造になっているのである。マンションだったら、絶対に一日だって鳴らせないような音で鳴らしている。これが、事実だ。これ、きちがい兄貴があまりにもきちがいだから、俺が嘘を言っているのではないかと思われることがあるのである。もう、そういうのだって、人間関係に影響をあたえる。相手が、「エイリさんは、騒音についてウソを言っているのではないか」と思っていれば、俺のことを、疑惑の目で見て、俺の言っていることを、信用しなくなる傾向が強くなるのだから、人間関係に影響をあたえる。きちがい兄貴は、もちろん、そんなことを考えたことはないよ。ただ、一所懸命に、きちがい騒音を鳴らしているだけだ。俺が、いろいろなところで、誤解をうけるようになっている。きちがい兄貴があまりにも変なので、そうなる。きちがい兄貴の行為が、普通のうちでは成り立たないので、普通の人はぼくが言っていることが、ウソだと思うのだ。こんなのない。ウソだと決めつけなくても、うたがいをもっている状態が続くことがある。それは、人間関係に影響をあたえる。

 

 

ほんとうに、ヘビメタ騒音で「睡眠回路」を破壊されて、めちゃくちゃだよ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で「睡眠回路」を破壊されて、めちゃくちゃだよ。バイトのときも、くるしかった。きちがい兄貴のヘビメタ騒音さえなければ、ぜんぜんちがうのに……。人に迷惑をかけることになっちゃうんだよなぁ。そして、睡眠不足でハイになっているとき、失敗が多い。睡眠不足だけど、元気を出さなければならないと思って、「カラ元気」を出しているとき、失敗が多い。もう、全部、つかれたなぁ。わかいころ、ほんとうに、くるしかった。ヘビメタ騒音で睡眠回路を破壊されて、バイトもうまくできなかった。で、そのバイトが暗いんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がなければ、塾講師のバイトなどができたんだけどなぁ……。バイト仲間にヘビメタ騒音のことを言ってもしかたがなかったわけだし……。まあ、しかたがないよなぁ。きちがい兄貴がやってることだからなぁ。どうしても、睡眠回路がこわれるんだよ。睡眠がうまくいかなくなる。そうなると、本当に、人間関係にひびが入るの……。

2023年11月21日火曜日

スキー

 後悔といえば、スキーだ。わかいときに、かわいい子とスキーに行きたかった。いま、スキーに行ってもおもしろくないわけ。ひとりで行って、すべって、おもしろいかというと、たぶん、おもしろくない。

さらに、まあ、現実的な問題としてはエクソソームの問題があるので、たのしめない。

これ、全部、ふっとんだよな。

長期ヘビメタ騒音で、どうしても、できない状態になった。そういうことが、こころのこり、といえば、こころのこり、だ。自分の気持ちを成仏させるために?かりに、スキーに行ったとしても、当時のようには楽しめないのだから、自分の気持ちを成仏させることはできない。

たしかに、「こだわり」といえば、「こだわり」だ。

人に説明してもむだなんだけど、本当に、長期ヘビメタ騒音でできくなる。長期ヘビメタ騒音が続いているときの状態というのは、たぶん、どれだけ説明しても、ほかの人にはわからないと思う。

なので、ほかの人は、勝手なこと?を言う。

自分だったら、(家族の出す騒音なんて)鳴ってたってできるというような設定でものを言ってくる。他人は、そうだ。けど、あの状態というのは、本当に、「できない」。一一歳のときから、毎日、あらしのような騒音が、何時間も何時間も鳴ってている状態ですごして、そして、一八歳のときに、スキーに行けるかというと行けない。

行ったって、だめなんだよ。

これも、どれだけ言っても、わからないと思う。一日の状態というのがわからないのだ。一日、二四時間、どういう状態で暮らしているか、八年間続いた人じゃないとわからない。八年目の一日がどういうものなのか、わかるはずがない。

気分は自分で制御できるというようことを言う人がいるけど、その人は、まったくわかってない。そういう状態ではないのだ。

「予兆」

 「予兆」というのがあるのである。

人間は、学習する。

たとえば、トラブルにはある種のパターンがあるということを、学習したとしよう。トラブルが起こりやすい環境というのがある。

たとえば、きちがい的な理由で怒り狂う親がいるうちでは、トラブルが起こりやすい。これは、頻度の問題なのである。

繰り返し繰り返し、頻繁に発生した出来事というものを無視してしまうやつらがいる。「過去なんて関係がない」と言うやつらだ。繰り返し繰り返し、頻繁に発生した出来事というのは、過去の出来事なんだよ。

繰り返し繰り返し、頻繁に発生した出来事は……何年間も、十数年間も、ずっと毎日、頻繁に発生していることだから、「現在」に影響をあたえる。現在の状態に影響をあたえる。勝手に無視してんじゃねぇーーよ。

自分の身にしょうじなかったことだから、無視できるだけの話じゃなか。自分のからだではなくて、ほかの人のからだだから、無視できるだけの話じゃないか。こいつらの言っていることは、はなっから、おかしい。まちがっている。

*     *     *

トラブルが発生するまでに、第三段階の段階があるとする。ようするに、第一の出来事が発生して、第二の出来事が発生して、第三の出来事が発生して、トラブルが発生するとする。

その場合、繰り返し繰り返し、そういうことが起こっていると、第一段階の出来事が起こった時点で、「これはトラブルが発生する」と予想することができるようになるのだ。経験から、法則性を導き出し、未来を予想することができる。

これは、実際に経験したことについて語っているわけだから、「自分がまったく経験しなかったこと」について、空想して、勝手に語っていることではない。ちゃんと、現実的な出来事について語っている。

第一の出来事が発生した時点で「トラブルが発生する」という「暗い考え」がうかぶのだ。

これは、予兆だ。

現実的なパターンの積み重ねがあるので、第一の出来事が発生した時点で「これは、トラブルが発生する確率が高い」と思うことができるのだ。なので、第二の出来事が発生しないように注意をむけるということができる。

「これは、トラブルが発生する確率が高い」という「暗い考え」がうかんだからこそ、第二の出来事が起こらないように、行動することができるのである。これは、重要なことだ。

けど、対策ができないことだとどうなるか?

あるいは、本当はできる対策が、なされなかった場合はどうか?

第二の出来事が起こり、第三の出来事が起こり、トラブルが発生するのだ。

ここで、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、パターンを学習して、こういう場合は、こういうことが起こりやすいということを理解している人だ。Bさんは「暗いことを言うと暗いことが起こる」と思っている人だ。

かりにAさんが、第三の出来事が発生したことを確認して、「トラブルが発生する確率が高い」とか「このままいくと、トラブルが発生する」とかと言ったとしよう。とか「このままいくと、トラブルが発生する」とかというのは、ネガティブな発言だ。

「明るい思霊」にこころを支配されているBさんは、Aさんが「暗いことを言った」と思ってしまうのである。

もっとも、「すべては思いよう」「すべては受け止め方の問題だ」と言うのであれは、当然、Aさんは意味内容として中立的なことを言っただけであり、「暗いことを言った」と判断したBさんが、「Aさんが暗いことを言った」と思っただけだということになる。Bさんは、本来、中立的なことを、暗いことだと受け取ったのだということになる。

この立場から見れば、Aさんが予想しているトラブルも、中立的な出来事だということになる。トラブルだと感じて、トラブルだという認識をもったAさんが、本来、中立的な出来事をトラブルとして認識しただけなのだということになる。

精神世界の人は、「暗いことを考えると暗いことが起こり、明るいことを考えれば明るいことが起こる」という考え方と「すべては受け止め方の問題だ」という考え方をもっている場合が多い。これも、セットになっているようなものなのだ。精神世界セット。

けど、この両者は、ある意味、矛盾している。しかし、この矛盾にかんしては、今回は、このくらいにしておく。

話をもとにもどすと、「Aさんが暗いことを言った」とBさんが思うのである。そして、実際に、トラブルが発生したとする。その場合、Bさんは「Aさんが暗いことを言ったから、トラブルが発生した」と思ってしまうのである。

しかし、Aさんが暗いことを言ったから、トラブルが発生したのではなくて、Aさんの予見通りに、トラブルが発生したのである。

原因は、別なのである。

ところが、Bさんみたいな人がいっぱいいると、そういう人たちが、そういうまちがった考えに基づいて、Aさんをせめるのである。こういうことが、普通に発生してしまう。

こういうことを考えた場合も、「暗いことを考えると暗いことが起こり、明るいことを考えれば明るいことが起こる」という考え方は、やっかいな考え方だなと、ぼくは思う。

もし、こいつらが、Aさんをせめて、Aさんの口をふさいだとする。

そうなるとどうなるか?

第一の出来事が発生しても、だれも、なにも言わず、第二の出来事が発生しても、だれもなにも言わず、第三の出来事が発生しても、だれもなにも言わず、かなりの高確率で、トラブルが発生してしまうのだ。これが、「明るい思霊」主義者がやっていることだ。

だれがわるいのかということについて考えてみよう。

第一の出来事、第二の出来事、第三の出来事を引き起こした人間がわるいのである。ところが、Bさんは「Aさんがわるい」と思ってしまうのである。Aさんがわるいことを言ったので、わるいことが現実化したと、Bさんは思ってしまうのである。

Bさんは、ますます、自分の考えに自信をつけてしまうのである。「悪いことを言ったから、悪いことが起こった」「これが正しい」とBさんは思ってしまう。「悪いことを思わなければ、悪いことは起こらない」「これが正しい」とBさんは思ってしまう。

まったくこまったやつだ。

 

暗いことを考えたから、暗いことが起こった……のではないのである

 たとえば、水俣病でくるしんでいる人が、問題である物質を海に流した企業に対して、「責任をとれ」と言ったとする。

そうなると、自己責任論者が、水俣病でくるしんでいる人の自己責任だと言ってくるのである。自己責任論者が、水俣病でくるしんでいる人は、「人のせいにしている」と言ってくるのである。

口癖論者が「つらいつらいと言っているから、つらくなる」と言ってくるのである。

引き寄せ論者が「水俣病でくるしんでいる人は、水俣病を引き寄せちゃったからダメなんだ」と言ってくるのである。

そういうことを、「現在くるしんでいる人」に対して言って、なにも感じないということになる。

いや、「自分が言っていることは正しい」「自分が言っていることは真実だ」と感じているかもしれないけど、相手がどう思うかについてはなにも感じてないということになる。

*     *     *

ああ、そうだ。「暗いことを考えると暗いことが起こり、明るいことを考えると明るいことが起こる」と思い込んでいるやつが、「不満不平禁止」と水俣病でくるしんでいる人に言うのだ。

たしかに、水俣病でくるしんでいる人は、不平不満を「言いやすい状態」になっている。

実際にくるしいし、他人(他の団体)が、やったことが原因で、くるしんでいるのだから、他人(他の団体)に不満不平を言うだろう。

これを、とめようとするやつらが出てくる。

こんなのない。

しかも、すでに暗いことが起きたのである。水俣病でくるしんでいる人の身の上には、すでに暗いことが起きたのである。

明るい気持ちで、毎日、働いていた漁師が、水俣病になってくるしんでいた。これが事実。これが現実だ。

明るい気持ちで働いていたのに、暗いことが起こった。

暗いことを考えたから、暗いことが起こった……のではないのである。もうすでに、否定されていること。その否定されていることを、正しいと思い込んでいるやつが、妄想的なことを言う。

こんなの、妄想。

妄想は、自分の頭のなかにとじこめておけばいい。妄想的な前提に立って、現実を語るな。

他人の「自由に発言する権利」をうばおうとするな。

条件的に優位である人は、条件的に劣位である人の条件について、なにも考えてない

 環境というのは、『条件』の集まりだ。きちがい兄貴や、きちがい親父がいるうちに、「おぎゃー」と生まれると、きちがい兄貴という条件、きちがい親父という条件をかかえることになる。

きちがい兄貴という条件がない人には、きちがい兄貴という条件がある人のことは、根本的にわからない。経験していることがちがうからだ。「実際に経験したこと」が重要だと言っているだろ。

おなじように、きちがい親父という条件がない人には、きちがい親父という条件がある人のことはわからない。そして、きちがい親父と言っても、いろいろなタイプのきちがい親父がいるので、それぞれに、ちがった条件をもってしまうということになる。

Aというきちがい親父と、Bというきちがい親父は、きちがいの部分がちがうのだ。きちがい的な行動をうみだす、脳みそがちがう。

そうなると、Aというきちがい親父のもとに生まれてきた人と、Bというきちがい親父のもとに生まれてきた人とでは、条件がちがうということになる。

なので、ひとことで『きちがい親父という条件』と言っても、その中身はちがうのである。

似たようなきちがい親父はいるかもしれない。似ている度合いが高ければ、きちがい的な行動の特性が似てくるので、話が通じることもあるかもしれない。

けど、きちがい親父という条件をかかえた人と、正常な親父という条件をかかえた人とでは、まったく、ちがう条件をかかえているということになる。きちがい親父という条件をかかえた人が言っていることが、正常な親父という条件をかかえた人に、そのまま、うまく、正確に伝わるとは、到底、思えない。

なので、正常な親父という条件をかかえた人は、実質的には、きちがい的な親父という条件をかかえた人のことかわからないということになる。

しかし、「Xをすれば成功する」「Xをすれば、しあわせになる」というようなことを言うことがはやっているので、条件的に劣位である人は、そういうことを言われる機会が多くなる。条件的に劣位である人は、「成功してない」人であり、「しあわせではない」人なので、そういうことを言われがちになる。

ところが、条件的に優位である人は、条件的に劣位である人の条件について、なにも考えてない。考えたつもりになっているかもしれないけど、考えてない。

理解したつもりになっているかもしれないけど、まったく理解してない。

けっきょく、条件を無視して、法則性があるようなことを言う。

けど、法則性なんてない。条件を無視して、空想空間をつくりだして、そのなかで、推論しているから、そういうことが、あたかも成り立つような気分になっているだけだ。

その人の「環境」を無視して、なにかを言ったとしても、その通りにはならない。

 みんな、わかったようなことを言う人たちは「環境」というものを無視してしまう。まったく、「環境」が関係がない状態を空想して、その空想のなかでものを言う。

つまり、現実的ではないのだ。

現実は、個々人がかかえている環境のほうが、その人に「つよい」影響をあたえている。その人の「環境」を無視した人が、勝手に、その人の「環境」を無視して、なにかを言ったとしても、その通りにはならない。

むりなことを言われたほうが、ますます、元気をなくすのだ

 基本、実際に経験したことが影響する。「やる気」「疲労感」……こういうものには、実際に経験したことが影響するのだ。からだの問題だからね。意識的脳というのは、脳のなかの一部にしか過ぎない。こいつが、どれだけ命令したって、ほかの脳が、それに反応する状態でなければ、脳全体は、動かない。脳全体が問題なんだよ。

そして、脳全体の問題というのは、からだの問題でもある。だから、からだが重要。からだが、実際に経験したことは、重要だ。

「意識」を重視して、無視できるようなものではない。

ところが、ほかの人たちは、その人のからだで生活しているわけではないので、その人のからだのことが、根本的に、わからない。そして、ほかの人たちは、その人のからだで、生活してきたわけじゃないので、その人が経験してきたことがわからない。

わからないので、勝手に無視して、勝手なことを言うけど、その勝手なことというのは、実際に、そのからだをもっている人にとっては、役に立たないことが多い。

たとえば、言霊信者が「元気だ元気だといえば元気になる」「つかれたつかれたと言うからつかれるんだ」と、そのからだを使っている人に、言ったとする。そのからだを使っている人が、「元気だ元気だ」と言えば、「元気になるかどうか」が問題だ。

実際に経験してきたことが影響をあたえるので、実際に、経験してきたことが、「やる気」をなくさせるものであったり、「疲労感」を増大させるものであったりする場合は、どれだけ「元気だ元気だ」といっても、元気にならない。

ところが、言霊主義者は、自己中なので、相手のことがわからない。

そして、「自分は元気だと言ったら元気になった」と言ってマウントをとる。はっきり言えば、いい気になる。かくして、助言をしている言霊主義者がますます元気になって、むりなことを言われたほうが、ますます、元気をなくすのだ。

2023年11月20日月曜日

「暗いことを考える」というのは、「思考の痛覚」みたいなものなのである

 たとえば、痛覚というのは、「それをやられ続けるとやばいぞ」とか「それをやり続けるとやばいぞ」とかということを伝えるためのものなのである。

まあ、これは、仮説だけどね。この仮説は、相当に説得力がある。痛覚がなかったら、傷ができてもまったくいたくない。いたくなければ、いいのか?

いたいと思うから、傷ができることをさけようと思うわけなのだよ。

やられ続けたら、死んでしまうだろ。

だから、いたみを使って「これはやばいぞ」という信号を発信しているわけ。

痛覚がなければ、いたるところで「ぼろぼろ」になって、身体が、はやめに、動かなくなってしまう。

そりゃ、そうだろ。

自然界は厳しいのだから、やばい状態がいっぱいある。そのやばい状態から逃げるために、痛覚が必要なのである。あるいは、痛覚があったほうがいいのである。

*     *     *

「暗いことを考える」というのは、「思考の痛覚」みたいなものなのである。たとえば、干ばつで、作物が育たないということが発生したとする。期間が長ければ、食べ物がなくなって、死んでしまう。

そこで、「干ばつになるとこまるから、食料を備蓄しておこう」ということになるのである。「干ばつになる」という可能性について考えるから、食糧を備蓄しようと思うのだ。

「干ばつになる(かもしれない)」という思考は、暗い思考なのである。ネガティブな思考なのである。暗いことを考えるからこそ、食料備蓄という対策を思いつくことができる。

これは、干ばつについてだけ、言えることではない。ほかのいろいろなことにかんしても、暗いことを考えて、対策をしているのだ。

たとえば、「食中毒を起こすかもしれない」から、においをかいだり、カビがはえてないか、くさったところがないか、確認しているのである。

まだ、雨がふってないときに、外出するとして、天気予報で、雨になると言っていたから、傘を持って外に出るとする。これなんかも、「雨にぬれる」という暗いことを考えて、傘をもっていくという対策をしているのだ。

*     *     *

暗いことを考えると暗いことが起こると信じている人が、本当に「暗いこと」を考えないかというとそうではないのである。

普通に、考えている。

本人が、意識してないだけで、本当は、暗いことを考えている。

もし、「暗いこと」を考えないようにするとなると、食品の見た目やにおいを一切合切気にしないで、食品を食べるということになる。

暗いことを考えると暗いことが起こると言っている人だって、実際には、「これは、だいじょうぶかな」とにおいをかいで確認したり、目で見て、へんな色になっていないか確かめたりする。

暗いことを考えると暗いことが起こると言っている人だって、雨がふりそうだと思えば、傘をもって外に出るのである。

いまの世の中、裸足で歩くと、やばいものをふんでしまうかもしれない。だから、靴を履いて、外に出るのである。あるいは、ただ単に、足の裏がよごれるといだから、靴を履いて出るのである。

その場合、「やばいものをふんでしまう」というようなことや「足がよごれる」というようことを考えるわけだけど、「やばいものをふんでしまう」ということや「足がよごれる」ということは、ネガティブなことなのである。暗いことなのである。

歯みがきをするのだって、歯磨きをせずに、虫歯になったり、歯槽膿漏になったりするのがいやだから、歯磨きをするのである。まあ、そこらへんは、人の考え方次第なのだけど、ともかく、「虫歯になる」ということや「歯槽膿漏になる」ということは、悪いことなのである。思い浮かべてはいけないことなのである。

暗いことを考えると、暗いことが起こると考えている人は、「虫歯になる」と思うことができない。ほんとうは、そうなのである。「虫歯になる」と思ってしまったら、実際に「虫歯になってしまう」ので、「虫歯になる」と思わないようにするのである。

「虫歯になる」ことをさけるために、歯磨きをしようと思わないのだ。歯磨きは、虫歯対策なのである。歯槽膿漏でもおなじ。「歯槽膿漏になる」と思ってしまうと、実際に歯槽膿漏になってしまうので、「歯槽膿漏になる」と思うことはやめようと思うわけだ。けど、思うことはやめようと思った時点で、過去において「歯槽膿漏になる」と思ってしまったということを意味している。

暗いことを考えると、暗いことが起こると本気で思っている人は、「虫歯になる」ということや「歯槽膿漏になる」ということを考えると、虫歯になったり、歯槽膿漏になったりするので、虫歯になることや歯槽膿漏になることを考えることができない。

思い浮かべたら、その通りになってしまうのだから、虫歯になると思ったら、虫歯になってしまうのである。

ところが、思いとは関係なく、虫歯菌が、物理的に、歯に作用して、虫歯になるのである。歯槽膿漏だって、思いとは関係なく、歯槽膿漏を引き起こす細菌が、歯茎に物理的に作用して、歯槽膿漏になるのである。

「虫歯になる」と思ったから虫歯になるのか?

「歯槽膿漏になる」と思ったから歯槽膿漏になるのか?

「虫歯になる」と思わなければ、虫歯にならないのか?

「歯槽膿漏になる」と思わなければ、歯槽膿漏にならないのか?

「虫歯になる」と思わなくても、虫歯菌と、歯を構成する物質の相互作用によって、虫歯になる。「虫歯にならない」と思っていれば、虫歯菌と、歯を構成する物質の相互作用が起こらないかというと、起こる。

なので、「虫歯にならない」と思っていたとしても、虫歯になることはある。そして、「虫歯になる」と思っていても、口内に、虫歯菌がまったくいないなら、虫歯にならない。

悪いことを考えると悪いことが発生すると考えている人だって、雨がふりそうなときは、傘をもって外に出るし、靴を履いて外に出るし、普通に歯みがきをする。

自分の「注意」がむかないところでは、自分だって、「悪いことを考えて」対策をしている。けっきょくのところ、自分の注意がむくか、あるいは、自分の注意がむかないかの問題なのである。

虫歯になると思うと、虫歯になるので、虫歯にならないように、虫歯になると思わないようにするとしよう。その場合、逆に、虫歯になる確率があがる。

どうしてかというと、歯みがきをしないからだ。虫歯になる」と思ったから、対策として、歯磨きをしようと思うのだ。もちろん、親がそういうふうに教えてくれたということだってある。理由を考えないで、歯磨きをしていたということだってある。

けど、親は、こどもが歯磨きをしないと虫歯になってしまうと悪いことを考えて、対策として、歯磨きをすることを教えるのだ。

靴を履くということでもそうだけど、慣習として受け継がれているものは、ちゃんと理由があることが多い。悪いことを考えて、対策として、そうしているのだ。けど、そういうふうにすることを教えられ子供が、その理由を完全に知っているとは、かぎらない。


*     *     *

魚を食べて、水俣病になってしまった人は、「この魚を食べると水俣病になる」と悪いことを考えることができなかったので、水俣病になってしまったのである。

「この魚を食べると水俣病になる」と暗いことを考えることができたら、食べないので、水俣病にならずにすんだのである。

なので、「この魚を食べると水俣病になる」と暗いことを考えると水俣病になるという考え方はまちがっている。「「今日も魚を食べて元気に活動しよう」と明るいことを考えて、その魚を食べたから、水俣病になったのである。

ようするに、汚染魚であることがわかっていれば、食べなかったのである。

この、「魚に原因がある」ということがわかったのは、「のちに」水俣病と言われる病気になった人がいたからだ。これにかんしても、人間が知っているかどうかにかかわらず、有機水銀と体を構成する物質とのあいだに相互作用がしょうじたから、そうなったのだ。

人間が知らなくても、物理的な相互作用によって、そうなる。

「思うかどうか」というのは「知っているかどうか」とたいへんに深い関係がある。例外がまれにあるかもしれないけど、まったく知らない場合は、思うことができない。

水俣病の場合、有機水銀を摂取すると、水俣病になると思うことができなかったのだ。その魚には、有機水銀がはいっているということを知らなければ、その魚を食べることによって水俣病になると思うことができない。

思うことができなくても、物理的な相互作用によって、水俣病になる。

つまり、本人が思うかどうかに関係なく、暗いことが発生する場合がある。

「暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人は、暗に暗いことを考えなければ暗いことは起こらないと思っているのである。

明るい思霊主義者は、「思わないこと」で、「防衛することができる」と思っているのだ。

「暗いことを思わない」ことが、「暗いことが(実際に)起こる」ことの対策になっているのである。……明るい思霊主義者の頭のなかでは。

しかし、これは、いままで見てきたように、完全にまちがっている。防衛にならない。対策にならない。

「暗いことを考えないこと」は防衛にならない。「暗いことを考えて」対策をしなければならないのだ。「暗いことを考えて」……その暗いことが起こらないようにするにはどうすればよいかということを考え、対策しなければならない。

しかし、明るい思霊主義者は「暗いことを考える」ということを禁止してしまう。自分にだけ禁止するならいいけど、ほかの人に対して、禁止しようとするな。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。