2023年9月26日火曜日

殺せなかった。鳴らされ続けた。

 精神、つまって、ちょちょぎれているのに、鳴らし続けやがって……。でっかい音で鳴らし続けやがって……。きちがい兄貴の音は、異常だ。きちがい兄貴の音で、こまっているんだぞ。きちがい兄貴の音で、追いつめられているんだぞ。切羽詰まっているんだぞ。しずかにしろ!!!  しずかにしろ!!

きちがい兄貴の部屋に行って、何回も絶叫しても、きちがい兄貴が鳴らし続けるんだよ。殺してやりたかった。殺せなかった。鳴らされ続けた。

それで、なにもしてないつもりなんだよ。きちがい兄貴はなにもしてないつもりなんだよ。なにもしてないつもりで、入試の前日、日曜日、十三時間、ヘビメタをでかい音で鳴らす。よそじゃ鳴らせない音で鳴らす。しかも、一分もゆずってないのに、「ゆずってやった」と思っている。きちがい。きちがい。自分が、弟の入試の邪魔をしてないと思っている。どれだけ言っても、通じない。こまるということが通じない。入試の前日に、そういう音でヘビメタ騒音が鳴っているとこまるんだということが、通じない。入試の邪魔をして、おとうとの人生を破壊してやろうと思っているわけではないんだよ。ただ単に、自分が思ったとおりの音で、ヘビメタを鳴らしたいだけだ。自分が鳴らしたい時間、ずっと鳴らしていたいだけだ。けど、それだとこまるのだ。入試前日の日曜日でさえ、これだよ。普段の日に静かにしてくれるわけがないだろ。

2023年9月25日月曜日

「こだわるからいけないんだ」「ごたわるからダメなんだ」というのは、言葉の遊びなのである

 たとえば、AさんとBさんがいたとしよう。

Aさんが、「目がいたい」と言ったとする。Aさんは、自分の目がいたいので、目がいたいと言ったのだ。それを見たBさんが、「Aさんは、目のいたさにこだわっている」と言うのである。

まるで、目のいたさにこだわらなければ、目のいたさが消失するというようなことを暗示しているような言い方なのである。Aさんが、目のいたさにこだわらない状態というのはどういう状態なのかよくわからないけど、ともかく、外側から見て、Aさんが目のいたさにこだわっているように見えない状態になれば、Aさんの目のいたさは消失するかというと、しないのである。

しないけど、あたかも、消失するようなことを暗示している言い方なのである。

「こだわっている」と評価し判断しているのは、よその人なのである。

それは、こだわっているように見えるということだ。

毎日、二時間しか眠れない状態で、生活していたら「つかれ」を感じる。その場合「つかれた」と言うだろう。それは、外から見ると、「睡眠不足からしょうじるつかれ」にこだわっているように見えるのである。

なら、毎日、二時間しか眠れない状態で、生活しているにもかかわらず、「つかれた」と言わななければどうなるか?

よその人から見れば、「こだわってない」ように見えるのである。

けど、じゃあ、よその人から見て、こだわってないように見えるようになれば、毎日、二時間しか眠れない状態で、生活していても、つかれないようになるのだろうか。

そうじゃない。

「こだわるからいけないんだ」「ごたわるからダメなんだ」というのは、言葉の遊びなのである。

*     *     *

それから、Bさんが言霊主義者である場合について考えてみよう。Aさんは、実際に目がいたいから、目がいたいと言ったのに、Bさんは、Aさんが目がいたいと言ったから、Aさんの目がいたくなると言うのである。

これも、Aさんの目がいたければ、Aさんが「目がいたい」と言わなくても、Aさんの目はいたいのである。Aさんは、言わなくても、「目がいたい」と感じているのである。

目がいたいと言わなければ、Aさんの目はいたくない状態になるかというと、そうではないである。けど、「目がいたいと言うから、目がいたくなる」という言い方は、まるで、Aさんが「目がいたい」と言わなければ、目がいたい状態ではなくなるというような言い方なのである。

「目がいたくない」と言えば、目のいたさが消失するか? 

 実際には、消失しない。そんなことで、目のいたさが消失するなら、みんな、そうやって、目のいたさを解決している。目がいたいときに、「目はいたくない」と言えば、目のいたさは消失するはずだと考えている言霊主義だって、自分の目がいたいときは、「目はいたくない」と言って、目をなおすということはしない。医者に行ったりするのである。

なら、そのとき、「言霊は役に立たない」ということに突き当たるかどうか?

突き当たらないのである。「目はいたくない」と言ったにもかかわらず、「目がいたい」とする。言霊主義者は、こういうことを、実際の生活のなかで、無視してしまう。自分にとって都合が悪いことは、簡単に無視できる性格なのである。言霊主義者は、言霊にとって都合が悪いことは、意識にのぼらないレベルで、無視している。

言霊思考と「こだわるからいけないんだ」というような思考は、わりと、系をなしていると思う。ようするに、一方を信じている人は、もう一方も信じやすい。


みんな、ブラック企業の社長みたいなことを言う。

 従業員しかしたことがない凡人が、みんな、ブラック企業の社長みたいなことを言うんだぞ。まるで、ブラック企業の社長の言い分が正しいみたいじゃないか。

ブラック企業の社長は、名前だけ店長をおいつめた人。自分の利益のために、名前だけ店長を奴隷のようにこき使って、じゅうぶんな賃金を払わなかった人だ。

どうして、名前だけ店長の「受け止め方が悪い」という話になってしまうのか。どうして、名前だけ店長がもっとがんばらないからダメなんだという話になってしまうのか。どうして、名前だけ店長が、「過去」にこだわるからダメなんだという話になってしまうのか。

おかしいだろ。こんなの……。

過去一五年間毎日、二時間しか眠れないような生活をしているわけだよ。

だから、過去からのつかれが蓄積している。今現在つかれて、もう無理だと感じるのは、過去一五年間のつかれがあるからだ。

これを「過去にこだわっている」と言い換えるのである。

「過去にこだわっている」からダメなんだということにしてしまう。

みんな、ブラック企業の社長みたいなことを言う。

こだわっているからダメなんだということにしてしまうのである。

「こだわっているから、だめなんだ」ということでもないのである。それは、店長なら、仕事が多すぎて、寝る時間がないということが、不幸をもたらしている根本的な原因だし、ぼくなら、ヘビメタ騒音が鳴っていて、寝る時間がないということが、不幸をもたらしている根本的な原因だからだ。

これ、「こだわり」というネガティブワードを使って、あたかも、こだわっている人が、こだわっているから悪いんだということになってしまうのだけど、そうじゃない。

名前だけ店長が「くるしい」と言ったとする。そうすると、それを聞いたブラック社長が「店長は、くるしさにこだわっている」と言うのである。構造的にくるしいのに、店長が、「くるしい状態」にこだわるからくるしいのだという理論を持ち出す。店長は「くるしい」と言ったのに、店長が「くるしい」という状態にこだわっているからダメなんだと言い出すのである。こんなのは、ただの言い換え。それこそ、言い換えて「ひとのせいに」している。

たとえば、名前だけ店長が一五年間ずっと、寝不足のままがんばってきたから、名前だけ店長は、一五年目に「もう限界だ」「もうできない」「もう死にたい」と思っているわけだ。そういう過去と、きちがいブラック社長が押し付けている構造がある。名前だけ店長が、むりをして働かなければならない構造がある。これが問題なのである。

店長が「できない」と言えば、「できない」ということにこだわっているからダメなんだということにしてしまうのである。
店長が「つかれてできない」と言えば、「つかれ」にこだわっているからダメなんだということにしてしまうのである。
店長が「過去一五年間ずっと働いたから、もうつかれた」と言えば、「過去にこだわるからダメなんだ」ということにしてしまうのである。

けど、そんなことを言われても、一五年間のあいだにたまったつかれがとれることはないのである。で、一五年目に死んでしまったけど、一五年目に会社をやめたとしても、一六年目、しあわせになっているかというとそうではないと思う。しあわせに感じる回路が、一五年間のきちがい労働でこわされている。一六年目に一年間休んだから元気になるかというと、元気にならないと思う。一五年間で睡眠回路がボロボロになり、やすんでいい状態になると、睡眠時間が回転し始めるのである。非二四時間睡眠覚醒症候群になると思う。一五年間、毎日、日曜日も含めて、ずっと一日に二時間しか眠れない、切羽詰まった生活をして、睡眠回路がぶっ壊れているので、睡眠がうまくとれなくなる。こわされた睡眠回路はなかなか元には戻らない。


ともかく、名前だけ店長の最後の一日が、ずっと続いているような毎日だったなぁ。

 まじで、ヘビメタ騒音の毎日というのは、自殺した名前だけ店長の毎日とおなじなんだよ。自殺した名前だけ店長の場合は、基本的なことを言ってしまえば、仕事をやめるべきだった。きちがい社長の言うことは聞かないでやめるべきだった。

仕事なら、やめられる。

けど、当時のぼくは、自分の生活をやめることができなかった。こどもだったわけだから、うちを離れて、くらすということができなかった。きちがい親父の同意が必要になる。

ぼくは、小学六年生のときに、アパートを借りてくれときちがい親父に言っていた。これも、しつこくしつこく、何回も言っていた。ヘビメタ騒音が鳴っているとだめだから、アパートを借りてくれとずっと言っていたのだ。

「そんなこと、できるわけないだろ」ときちがい親父がどなっておしまいだよ。

きちがい親父は、兄貴を注意するつもなかった。これが、また、ほかの人にはまったくわからないことなんだよ。きちがい親父が、こどもを虐待していたという話を、ぼくから聞いた人は、「そんなに怒りやすい人だったら、お兄さんにヘビメタ騒音のことで怒る。注意するはずだ」と言うのだ。

ところが、そうじゃないんだよね。

これがまた、言いにくいところなんだけどさぁ。

で、また、きちがい親父の性格がめちゃくちゃに、へんだから、俺が誤解をうけるんだよな。きちがい兄貴も、きちがい親父もへんだから、俺が嘘を言っていると感じる人が、多かった。「ヘビメタ騒音のことが嘘なんじゃないか」と思っている人が多かった。

あまりにもかわっているから、人が誤解をする。

ともかく、名前だけ店長の最後の一日が、ずっと続いているような毎日だったなぁ。

楽しいわけがない。自分を鼓舞したって、ヘビメタ騒音が鳴っているわけだから、怒りと不安が続く。いままでよゆうでできていたことが、どれだけがんばってもできなくなるんだぞ。これがわかるか?

希望というのは、ようするに、不安の裏返しだ

 ほんとうに、悲惨な人生だったなぁ。むりなんだよ。ヘビメタ騒音にたたられて、人から誤解されて、軽く扱われたりバカにされたりするのに、しあわせを感じるなんていうのはむりだ。
きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音と、世間の常識の、相性が、悪すぎる。ここだけ、俺だけ、落ち込むということになる。
これ、やられてない人は軽く考えるけど、ちがうんだよ。


それに、ヘビメタ騒音が鳴っているところで、浪人したら浪人したで、いろいろと問題が発生する。きちがいヘビメタが、一一歳のときから始まったというのが問題だ。
 

俺が一一歳のときにはじまったというのが問題だ。
中学・高校と、大事な期間をまるごと含んでいる。これのおおきさはちょっと言いようがない。


どうしたって、人生に後悔が残るだろ。
きちがいヘビメタに毎日たたられていいはずがない。きちがいヘビメタ騒音の一日というのは、名前だけ店長さんが自殺する一日まえとおなじなんだよ。自殺寸前で暮らしているわけ。
それは、ぼくが、希望をもっていたからなんだけど、その希望というのが、ヘビメタ騒音がなければ簡単にかなう希望なんだよ。ところが、ヘビメタ騒音が鳴っていると、絶対にかなわない希望になってしまう。
 

そして、希望というのは、ようするに、不安の裏返しだ。きちがいヘビメタが鳴っているのだからそうなる。ヘビメタ騒音が鳴っているわけだから、希望を持つと、不安がでかくなる。どうしてもその希望をかなえたいのに、きちがいヘビメタでどうしても希望をかなえるための努力ができないのである。

不安になるに決まっている。鳴っているあいだ、胃腸が切れそうな不安感じるに決まっている。よる、きちがいヘビメタで眠れないとき、不安になるに決まっている。

「このままでは、希望がかなわない」という予想がつく。どれだ否定したって鳴っている以上、自分のすすみぐあいがわかる。破滅的なすすみぐあいだ。

自殺一日まえの名前だけ店長が「笑っていれば、いいことあるよ」と言われたって、いい気持にはならないだろ。まえの投稿でも言ったけど、「わくぐみ」が問題なんだよ。


いまの状況が続いてしまう……そういうわくぐみがある。働くなら、いまの状況が続いてしまう。その枠組みが問題だから、くるしいと言っているわけなのに、「わらっていれば、いいことあるよ」と言われたって、いい気持にはならない。


どうしてかというと、わらったって、わくぐみがあるかぎり、いいことなんてないからだ。まったくまったく、いいことなんてないからだ。かたく、かたく、とざされているのである。

それを「感じ方をかえましょう」「受け止め方をかえましょう」と言われたって、しかたがない。かわらなければならないのは、わくぐみのほうなのである。店長ががんじがらめにされたわくぐみというのは、店長としての仕事であるわけだけど、ぼくががんじがらめにされた枠組みというのは、ヘビメタ騒音が鳴っているわくぐみだ。


そして、他人は他人だから、くるしさがわからないのである。
けど、わかったつもりになって、「わらっていれば、いいことあるよ」「感じ方をかえましょう」「受け止め方をかえましょう」と言うのだ。


何回だって言ってやるけど、わくぐみが、そのわくぐみとして成り立っている限り、わらったっていいことなんてないし、感じ方をかえることができないし、受け止め方をかえることはできない。

実際にはできないことを、あたかも簡単にできるように言うのは、よくない。これ、「感じ方をかえましょう」「受け止め方をかえましょう」と言っている人だって、できないことなのである。自分が実際にやられてないので、そう言えるだけだ。

自分が実際にそのわくぐみみのなかにいるわけではないから、「感じ方をかえられる」「受け止め方をかえられる」という気分になって、そういうふうに言っているだけだ。これ、(今まで自分が言ってきたことと矛盾しているように思えるかもしれないけど)人間なら、だれだって、できない。

実際に店長の立場になって店長とおなじことを一五年間続けていれば、感じ方なんてかえられないし、受け止め方もかえられない。

関係がない人だからだ。他人として、想像しただけだからだ。

あるいは、そういう想像しかできない自己中心的な感じ方がある人だからだ。

自己中心的な感じ方をかえたほうがいいんじゃないか。

そういうことを言っているということは、わかってないということを明示している。

 たとえばの話だけど、自殺二日前の名前だけ店長さんが、ヘビメタ騒音の話を聞いて、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「過去は関係がない」とかと言うと思う? いうわけないでしょ。「そうじゃない」ということを知っているからだ。身をもって経験しているからだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「過去は関係がない」とかと言っている人は、身をもって経験したことがないから、自分の状態としてその状態がわからない。だから、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「過去は関係がない」とかということを言える。言霊は正しいと信じている。「言えば、言ったことが現実化する。これは正しい」と信じている。自殺二日前の名前だけ店長が「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「過去は関係がない」とかと言われたとき、どんな気持ちになるのか、そういうことを言っている人はまるで考えてない。このことひとつとってみても、「わかってない」ということがわかる。なにがわかってないかというと、たとえば、ヘビメタ騒音生活が七年間続いた場合における……ぼくの「からだの状態」とか、名前だけ店長として一五年間働いた場合における……名前だけ店長さんの「からだの状態」だ。「の」の重複は指摘しなくていい。わかっていたら、自分が感じたそのからだの状態を無視して、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「過去は関係がない」とかと言えるはずがない。人にそういうことを言われたとき、どんな気持ちになるかわかっているので、そんなことは、言えないという状態になる。それがわかっている状態だ。わかってないから、ぺらぺらと、言霊的な解決法を言ったり、はげますつもりで、「過去なんて関係がない」と言ったりする。過去……関係あるでしょ。そういう、からだになったのは、たとえば一五年間の疲労困憊生活の結果なんだよ。そういうからだになったのは、たとえば、ヘビメタ騒音疲労困憊生活の結果なんだよ。「俺だって、疲労困憊生活をした」「俺だって苦労をした」……そういうふうに言いかえしてくるけど、わかっている人が、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「過去は関係がない」とかと言うはずがないんたよ。そういうことを言っているということは、わかってないということを明示している。


続けてできるかどうかを問題にしているのである

  たとえば、一五年名前だけ店長が、一五年と一日目に、あの話をブラック会社の社長にしたとする。あの話というのは「もう無理だ」という話だ。一五年と二日目に、「いつもの通りに」働いたとする。そして、一五年と三日目に、自殺したとする。二日目は、「できた」のである。だから、「できると言えばできる」ということが一見正しそうに見える。けど、問題なのは、そういう、生活なのだ。我慢に我慢を重ねて、休息をとることができない生活なのだ。そして、そういう生活が「続く」ということなのだ。「できない」というのは、「もう、できない」ということだ。「無理だ」というのは「もう、無理だ」ということだ。このまま、この生活を続けるような「わくぐみ」が成り立っているのであれば、もう死ぬしかないということだ。その場の「できる」とか「できない」ということを問題にしているわけではないのである。続けてできるかどうかを問題にしているのである。「続けてできない」と判断したから「できない」と言っているのだ。その判断に至るまでの生活というのが問題なのだ。そして、その判断をしあとも、働いている。これが問題なのだ。「むりだ」と思えるような「わくぐみ」のなかで働いているのだから問題がある。ちなみに、「過去は関係がない」という言葉は、「無理をして続けてきた」という全体性を無視する言葉だ。そういう言葉をよく言えたものだなと思う。言霊思考だけではなくて、「過去は関係がない」というような言葉も、毒針だ。毒針にしかならない。

「ヘビメタ騒音」という聞きなれない理由

 くそ凡人が、「ヘビメタ騒音を七年間やられたら、働けなくなる」「ヘビメタ騒音を七年間やられたら、通勤通学できなくなる」「ヘビメタ騒音を七年間やられたら、睡眠回路がこわれる」ということを認めないで、働けるという前提でものを言ってくるのである。ヘビメタが好きな人は、そもそも、「騒音」とは感じないだろうから、ヘビメタ騒音というのを「自分がこの世で一番嫌いな音」に置き換えて、考えてほしい。自分がこの世で一番嫌いな音を、あの頻度で、あの音のでかさで、あの時間の長さ、聞かされたら、働けなくなるという前提で、ものを考えてほしい。ところが、くそ凡人はみんなみんな、「自分だったら働ける」という前提でものを言ってくる。「ヘビメタ騒音は、働けなくなるような影響をあたえない」という前提でものを言ってくる。あとは、「ほんとうに、そんなにヘビメタ騒音が鳴っていたのか疑問だ」「エイリさんが嘘を言っているのかもしれない」という疑念もいだいている。これらは、きちがい兄貴がちがい兄貴だからしょうじたことだ。普通の兄貴だったらあの音で、一日に一分だって、ヘビメタを鳴らそうと思わないのだ。きちがいだからそう思って実行した。きちがいだから、「やめてくれ」といくら言われても、やめなかった。ちなみに、言霊理論が正しいなら、ぼくが、自分の部屋で「一分後にはヘビメタが鳴りやむ」と言えば、一分後には蛇田が鳴りやむはずなのである。言霊理論が正しいならそうなるはずなのである。ところが、そうならなかった。だから、言霊理論は正しくない。「言ったことが現実化する」という意味での言霊理論は、正しくないのである。ところが、「言ったことが現実化する」「これはシンプルだから正しい」と思ってしまうのである。言霊的解決方法は、ヘビメタ騒音問題に関して有効ではなかった解決方法なのである。そのとき、言霊理論が正しくないということは、証明されてしまっているのである。

言霊の話になってしまったけど、話をもとにもどす。「自分だったら働ける」という前提や「ヘビメタ騒音は、働けなくなるような影響をあたえない」という前提は、言語化されることもあるしされないこともある。問題なのは、言語化されない場合だ。それらの前提をもとにした、意見と言うのがある。前提として成り立っているということを本人が意識してない場合は、前提として成り立っているということについて語らずに、その人が思った結論だけを言う場合がある。その場合、やっかいなことになるのである。語られてない前提について、こちらが語らなければならなくなる。そして、こういう前提で、自分の意見(結論)を言っているということを指摘しなければならなくなるのである。さらに、その前提がまちがっているということを説明しなければならなくなるのである。ところが、前提として考えていることは、その人にとって、「絶対に正しい」ことなので、前提自体がまちがっているということを、なかなか認めない。

 *     *     *

それは、たいへんなことだったな。それじゃあ、働けなくなるよな」と言ってくれれば、それですむのに、「人間は働くべきだ」「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」と言ってくるのである。世間の普通の人はそういうふうに言ってくるのである。一見働けそうに見える若者が、働けないというとそういうふうに言ってくるのである。だれでもが納得できる理由……であれば、そういうことは言ってこないかもしれないけど、「ヘビメタ騒音」という聞きなれない理由だと、その人のなかでは、「働けない理由」にならないのである。どうしてこういうことがしょうじているかというと、きちがい兄貴がきちがい兄貴だったからだ。きちがい兄貴が、きちがい的なこだわりで、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしたからだ。きちがい兄貴がヘビメタを、自分のこだわりの音で鳴らすということに、こだわっこだわってこだわってなかったら、ぼくと普通の人とのあいだで、そういう会話が成立するということがなかった。きちがいヘビメタがなかったら、ぼくは普通に働いているので、働けないということについて、そういう問答が成り立つはずがない。あるいは、そういう問答が成り立つはずがなかった。

言霊的な助言なんて、毒針みたいなものなんだよ。

 きちがいブラック社長が、一五年名前だけ店長に、過酷な労働環境をおしつけなければ、一五年名前だけ店長は、普通に暮らせたのである。一日に二時間しか眠れないと言うような状態で毎日暮らすということ自体が地獄なのだ。「できると言えばできる」「無理だと言うから無理なんだ」……。こういう一見ポジティブな言葉で、一五年名前だけ店長を自殺に追い込んだのは、きちがいブラック社長だ。そのきちがいブラック社長とおなじことを、言霊主義者は言うのである。「できると言えばできる」「無理だと言うから無理なんだ」……。こういう一見ポジティブな言葉が、だれかを、自殺に追い込むのである。もうすでに、そういう言霊思考をぶつけられて、くるしんでいる人を、自殺に追い込むのである。言霊的な助言なんて、毒針みたいなものなんだよ。

「たいした苦労を経験してない」ということを意味している。

 考えてもごらんよ。言霊的解決法が有効だったら、一五年店長は、一五年間、そんなところで働いてないよ。「明日は、理想の職場で働く」と言ったら、理想の職場で働くことになる。そんな、きちがいが支配している職場で、動かない体をを無理やり動かして働く必要なんてない。「今日中に、一〇〇〇万円、じぶんのこうざにふりこまれてる」と言えば、そうなるのだから、働かなくてもいい。理想の職場で働くということをしなくてもすむ。むりをしてやっているということを考えなければだめだよ。むりをしてやっているということの、枠組みを考えなければだめだよ。言霊的な解決法が有効なら、損な枠組みとは関係なく、自由に、気楽に、生活することができる。けど、それができないからこまっているんでしょ。言霊的な解決法はまるで役に立たたないんだよ。そして、言霊的な解決法がまるで役に立たないということを知らない人であって、言霊的な解決法を人にすすめる人は、たいした苦労を経験してない。まちがいに気がつかないレベルの苦労だ。そんなの、俺に言わせれば、苦労じゃないね。言霊を信じていられるということが、そのまま、「たいした苦労を経験してない」ということを意味している。

2023年9月24日日曜日

「無理なものは無理なんだよ」

 「無理なこと」というのはあるのだけど、その特定の「無理なこと」を本人が体験してないと、想像のなかでは「無理なこと」にはならないのである。なので、可能なのに、その本人がさぼっているということになってしまうのである。きちがいヘビメタ騒音は、特殊な家族による特殊な騒音なのである。きちがい家族でなければ、鳴らさない騒音なのである。だから、ほかの人には、ないのである。体験としてない。だから、常に、想像で、まちがったことを言ってくるのである。

かりに、「遅刻せずに通う」ということが、正しいことだとする。この前提も、うたがえることなのだけど、うたがわずに正しいことだとする。そして、だれもが「努力」すればできることだとする。これの前提もおかしいのだけど、この前提も正しいとする。きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音という特別な理由が生じたので、できなくなってしまったのである。ぼくは……。ところが、ぼく以外の人は、そういう理由がない。なので、努力すればできる状態が続いている。そういう前提でそういう生活をしている。そうなると、ヘビメタ騒音が、「できない理由」「できなくなる理由」でない以上、凡人の反応は、これまでの投稿で述べたような反応になる。けど、「無理なものは無理なんだよ」。 ヘビメタ騒音生活をしてないやつ……ヘビメタ騒音生活を体験してないやつが……「無理だと言うから無理なんだ」「できると言えばできる」と言ってくる。こんな、きちがい世界で生きていていいわけがない。

「俺だって、くるしかった。ものすごい苦労をした」と凡人は言うかもしれないけど、ほかの人に対して「できると言えばできる」と言っている時点で、たいした苦労じゃないということがわかる。「言霊的な解決法はまったく意味がない」ということを思い知らされないような「苦労」。わらわせるぜ。言霊的な解決法がまだ、頭のなかにある? おかしい。そんなレベルじゃない。「言霊的な解決法なんてまったく意味がない」と思い知らされることになる。それが「本当の苦労」だったらそうなる。思い知らされる。思い知らされる。何万回、こころみれば、何万回、無意味だということを思い知らされる。そういう経験がなく、「言霊は正しい」などと思っている時点で、たいした苦労じゃない。そういうことを思えるよゆうがある「苦労」だ。ぜーーんぜん、ちがうんだよ。

じゃあ、15年目の店長が、「できると言えばできる」と言われて、「できる」と言って、できるようになり、むりな状態が改善されたか? これも、店長が、死にものぐるいでやれば「できたじゃないか」といこうとになる。そういうことが、ずっと、つみかさなってきたから、死にたくなっているんだろ。まったくわかってないな。 

そういうことがつみかさなって、「もうできない」「もう無理だ」と言っているんだよ。このまま続けるなら、死ぬしかないと言っているんだよ。

「できると言えばできる」というようなきちがい的な「はげまし」

凡人は、ヘビメタ騒音生活のことがまったくわかってない。想像でものを言うけど、その想像がまちがっているのである。簡単に言えば、ヘビメタ騒音をあびて生活すれば、三年で、一五年目の店長とおなじ状態になる。だから、三年目以降は、本当に、自殺寸前の状態で暮らしていたのである。みんなまちがっている。ヘビメタ騒音生活のひどさがわかってない。一五年目店長だって、自殺したから自殺するほど苦しんでいたんだということが、目に見えてわかるだけで、一五年目もがんばっていたら、自殺するほど苦しんでいるようには見えず「できると言えばできる」というようなきちがい的な「はげまし」を受けていたはずなのだ。

「できない」と言えば「できないというからできないんだ」「できると言えばできる」と言われ、「無理だ」と言えば「無理だというからむりなんだ」「 できると言えばできる」と言われるような状態になる。そういうことを一年目から、繰り返していたんだよ。一五年目自殺店長は……。

そういう理解のしかたなのである。そういう理解の程度なのである。

 過去一五年と三〇日、一日に二時間しか眠れないような生活をしてきた人は、過去一五年と三〇日、一日に二時間しか眠れないような生活をしてきたから、つかれているんだよ。Aさんがそういう人だったとしよう。Bさんが、つかれは経験したことがあるけど、過去一五年と三〇日、一日に二時間しか眠れないような生活によって、しょうじるつかれは経験したことがない人だとする。一五年と三一日目に、AさんとBさんがあったとしよう。Bさんが、「過去は関係がない」と言ったら、Aさんの過去は関係がなくなり、Aさんの「過去一五年と三〇日のつかれ」がなくなるか? なくならない。Aさんが一五年間と三〇日経験したつかれは、Aさんのからだに影響をあたえている。Bさんが「過去は関係がない」と言うことで、Aさんのつかれは消えない。ところが、Bさんは、Aさんが「過去は関係がない」ということを理解すれば、Aさんのつかれは消えると思っている。過去の出来事によってしょうじたつかれは、過去を無視すれば、なくなってしまうのだ……。これが、BさんのAさんに対する態度だ。こういう妄想的なことを前提にして「過去は関係がない」という。Aさんが「過去は関係がない」ということをよく納得してくれれば、Aさんのつかれは、なくなるのである。どうしてなら、関係がない過去に生成されたつかれだから関係がないのだ。いまのつかれは、過去のつかれとは関係がないのだ……。BさんにとってAさんのからだが、他人のからだだからそういうことが言える。ところが、Bさんは自分のことにかんしては、過去が関係があるという前提でものを考えていることがある。というよりも、ほとんどすべてのことを過去との関係で考えているのである。本人が、自覚してないだけなのである。たとえば、ある日、一日にだけ、二時間しか眠れなかったとしよう。そうしたら、次の日はつかれを感じる。「昨日、二時間しか眠ってないからつかれた」と(本人が)思う。普通に、過去を重視して、過去との関係において、「現在のつかれ」について考察している。自分の場合ならそうだ。ところが、他人のことなら、「過去は関係がない」と普通に言ってしまう。この自分というのが、Bさんなら、Bさんは自分のことであれば、過去を重視して、過去との関連において、「現在自分が感じているつかれ」について考えるということになる。けど、Aさんが一五年と三〇日間にわたって経験してきたつかれに関しては、ひとこと「過去は関係がない」と言って無視してしまうのである。 Bさんは、Aさんのつかれは無視してしまう。現在のAさんのからだと言うのは、過去のつかれがたまっている状態なのである。Bさんは、別の個体なので、Aさんのつかれを感じているわけではない。自分が感じているわけではないので、Aさんつかれは、架空のつかれとおなじなのである。Aさんが一五年間と三〇日わたってつかれてきたということは、言葉では理解している。けど、単なる言葉の理解だ。自分のからだが、Aさんのからだのようになっているわけではない。そうなると、Bさんの想像力は非常に制限されているので、Aさんのつかれについて過小評価をしてしまう。あるいは、無視してしまう。Bさんにとって、Aさんのつかれは、Aさんが「過去は関係がない」ということを理解すれば、消えてしまうようなつかれなのである。そういう理解のしかたなのである。そういう理解の程度なのである。

みーーんな、みーーんな、影響を無視して、ものを言ってくる

 ヘビメタ騒音の影響を無視したやつが、あるいは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したやつが、好き勝手なことを言ってくる。しかも、そういうことをやってくるやつは、みんな、助言しているつもりなのだ。有効な解決方法を提示しているつもりなのだ。道徳について語っているつもりなのだ。たとえば、そいつにとって、通勤して働くことが道徳的なことなら、通勤して働いてないぼくが、道徳的ではない人間に見えるので、説教して変えてやろうと思うわけだ。けど、そういうことをするやつが、みーーんな、みんな、ヘビメタ騒音の影響を無視しやがる。ヘビメタ騒音の影響を無視するということが、どういうことなのかわかってないやつらなのである。ヘビメタ騒音の影響を無視して、へんなことを言ってくるな。実際にあるヘビメタ騒音の影響を無視する。俺がどれだけくるしも思いをしてきたか……。きちがいヘビメタ騒音で!くるしい思をしてきたか。ヘビメタ騒音なのだよ。きちがい家族によるヘビメタ騒音なのだよ。毎日毎日、ずっと何年間も何年間も……十数年間にわたって続いたヘビメタ騒音の影響なのだよ。影響をうけないわけがない。ところが、こいつらは、みーーんな、みーーんな、影響を無視して、ものを言ってくる。失格。影響を無視しているという点で、失格。まったく正しいことを言ってないのである。ヘビメタ騒音の影響がないという前提に立った助言は、助言じゃなくて、単なるマウント。単なる、嫌味。単なる自慢話。単なる武勇伝。ていのいいいじめ。ほんとうにつかれている人を、自殺に追い込む、無理解な発言。もう、決まっているんだよ。

いま、気にしなければ影響がなくなるものなのである。そいつらにとっては、エイリさんのヘビメタ騒音なんてものはそういうもなのである。けど、ちがう。そんなものであるはずがないだろ。理解力がたりないと思う。

ヘビメタ騒音のあと、「誤解され度」や「なめられ度」がひどい

 ヘビメタ騒音のあと、「誤解され度」や「なめられ度」がひどい。回収できないなぁ。これ、きちがい家族がいない人にはわからないんだよな。きちがい家族がいない人には、きちがい家族の感覚がわからない。そうなると、俺が言わないからダメなんだということになってしまう。どれだけ言ったって、まったく通じないのが、きちがい家族だ。「感覚」からしてくるっているというのが、普通の常識的な人にはわからない。「自分のうち」のなかに、「実例」がいないと、どういうものなのか、まったくわからないようにできている。実際、まったくわからない。普通の人が、きちがい兄貴の構造を理解できるわけがない。普通の人が、きちがい親父の構造を理解できるわけがない。行動の解釈に差ができてしまう。実際に気ちがいが、がめつく、きちがい的に行動すれば、その行動の影響を(一緒に住んでいる人は)うけることになる。これは、不可避的だ。ところが、普通の人のなかでは、「可避だ(回避可能だ)」ということになっているのである。

知っていたら、「元気だ元気だと言えば元気になる」などとは口がさけても言えない~~~

 正確ではなくなるので、あんまり言いたくないことなのだけど、「本当のつかれ」と「普通のつかれ」というものを考えてみよう。一五年間にわたって、毎日、二時間しか眠れない状態で暮らしたときに感じるつかれが、本当のつかれだとする。いっぽう、月に、四回、残業することはあるけど、けっきょく、毎日八時間眠れる状態で、一五年間過ごしたときのつかれが、普通のつかれだとする。人生のなかで、本当のつかれを経験したことがない人は、普通のつかれについてしか、語れない。けど、自分だって、「つかれたことがある」ので「本当のつかれを知っている」という認識になる。もちろん、そういう認識が成り立てば、「自分だって、本当のつかれを知っている」と言うことができる。けど、本当は、「本当のつかれ」を知らない。知らないけど、だれが、その人が本当のつかれを知っているかどうかを判定するのかという問題がある。本人が「本当のつかれを知っている」と言うのであれば、それは、否定できない。

「自分が、本当につかれたとき、元気だ元気だと言ったら元気になった」……と言える。けど、それは、本当のつかれじゃない。「本当につかれたとき」と書いたけど「自分が本当のつかれを感じたとき」でも、いい。意味はかわらない。

『本当のつかれを感じるたびに「元気だ元気だ」と言って自分をはげましてきた……俺はそれができる。……おまえは、それができない。俺のほうがすぐれている』……こういうことを暗示しているのだ。こういう言葉にはそういう認識が含まれている。けど、こいつは、毎日二時間しか眠れなかった一五年間を経験してない。そういう意味では、そこまでは、つかれていない。「元気だ元気だ」と言えば、回復できるようなつかれしか経験したことがないのだ。もし、「元気だ元気だ」と言っても、回復できないようなつかれを経験していたら、「元気だ元気だと言えば元気になる」などとは口がさけても言えない。言っているのだから、「元気だ元気だ」と言っても、回復できないような本当のつかれを経験したことがないのだと予想できる。

本当のつかれを知らないものが、本当のつかれを知っているものにたいして、説教をするのだ。しかも、そこで提示されている有効な方法というのは、説教をする側の人間にとっては有効な方法なのであるけど、説教をされる側の人間にとってはまったく有効ではない方法なのだ。すべては、説教する側が、本当のつかれを知らないということから始まっている。説教をする側が、本当のつかれを知らないので、そこで提示される方法が有効な方法だと(主観的に)思い込んでいるのである。有効じゃない。無効だ。それどころか、じつは、有害な方法なのだ。有害さがわかってない。

 

みんなあっち側なので、うけないとは思うけど、言っておくぞ

 本人は、「はげましている」つもりかもしれないけど、「だめだし」と「まうんと」をしているだけだ。元気な状態がいい状態で、元気じゃない状態は悪い状態だ。悪い状態になっているのは、「自己責任論者」なら、「おまえが悪い」「おまえの責任だ」ということになる。マウントしているほうは、相対的に元気なのだから、マウントしているほうは、無意識的に「自分のほうが相手よりすぐれている」と思っているわけだ。そして、たとえば、「元気だ元気だと言って元気になる方法」が正しいなら、「元気だ元気だと言って元気にならないおまえが悪い」ということになる。そういう意味を含んでいる。全部、つかれの程度を無視してい。過去一五年間にわたって、毎日二時間しか眠れなかったという現実は、無視され、「疲れの程度はかわらない」という前提でものを言っている。しかし、ちがいがある。ちがいは、「過去は関係がない」という言葉で無視されるのである。なので、一五年間にわたって、毎日二時間しか眠れないような状態の人間を、一五年間にわたって、毎日八時間も眠れる人間が、「たるんでいる」と言ってせめることができる。「俺なんて、元気だもんね」と言える。「つかれているおまえが悪い」「どうして、元気だ元気だと言って元気にならないんだ」と言える。「そういう方法を利用しないおまえが悪いんだ」と言える。

いまは、そういう時代だ。

2023年9月23日土曜日

庶民とブラック企業の社長

 程度のちがいを無視した庶民が言うことは、ブラック企業の社長が言うことと、おなじになる。これ、みんな、気がついてないでしょ。じつは、おなじになってしまう。これは、じつは、ゴイムの思想だ。支配者が、おしつけたしそうだ。ところが、庶民が、自分でそういうふうに考えたと思うように、なっている。洗脳されている。ほんとうは、自分の考えじゃないのに、あたかも、自分で考えてその結論に達したと思うようになっている。右横から、上から、下から、左横から、ななめ右下から、ななめ左下から、ななめ右上から、左上から、洗脳されて、そう思ってしまっている。

庶民が庶民におしつけることと、きちがいブラック企業の社長が、名前だけ店長におしつけることが、おなじだということ……。これに、気がつけ。そういうふうになっちゃっている。ちがいは、きちがいブラック企業の社長が、名前だけ店長の「くるしい状態」をつくっているのにたいして、庶民は名前だけ店長の「くるしい状態」をつくっているわけではないということだ。そこにちがいがある。けど、おしつけてくることがおなじなのだ。しかも、はげますつもりで、おしつけているのだ。きちがいブラック企業の社長も、庶民も、名前だけ店長のくるしい状態を無視している。

くるしい状態を改善するには、楽しい楽しいと言えばいい……こんなことをはげますつもりで言ってしまう。この堕落がわからないのか?

完全にゴイム思考。



2023年9月22日金曜日

程度は関係がある

名前だけ店長が過去一四年間と三〇日、ずっと毎日、土曜日も日曜日も含めて、一日に、二時間しか眠れない状態で暮らしていたとする。普通のサラリーマンが、過去一四年間と三〇日、たまに残業はあるけど、残業がない日は、一日に八時間眠れる状態で暮らしてきたとする。そして、残業があった日は、一日に五時間しか眠れなかったとする。しかし、残業は平均して、月に三日間だけだったとする。この場合、名前だけ店長の状態と、普通のサラリーマンの状態には、差がある。この差を無視して「過去は関係がない」と言ったり、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っても、しかたがない。ところが、普通の人は、「過去は関係がない」と言ったり「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ったりする。たしかに、この場合、普通のサラリーマンだって「残業」はした。名前だけ店長も普通のサラリーマンも、残業をした。「残業をした」というところまで、各々の状態を「抽象化」すれば……「抽象化して表現」すれば、どっちも「残業」をしたということになる。これを、「違いはない」表現して、よいのだろうか? 「残業」というレベルまで抽象化して、残業の程度を問わないのであれば、両者とも「残業をした」ということことになる。けど、実際には、ちがいがある。このちがいを無視していいのか? 無視してはいけない。程度のちがいは、今現在の状態に、影響をあたえる。昨日の状態は、一四年と二九日まえの状態よりも、影響をあたえやすい。昨日ことは、一四年と二九日まえのことよりも、影響力が強い。しかし、一四年間と三〇日、ずっと、一日に二時間しか眠れなかった人と、月に三日はのぞいて、ずっと、一日に八時間眠れた人の状態はちがう。今日が、一四年間と三一日目だったとする。過去における一四年間と三〇日の状態は、一四年間と三一日目の状態に影響をあたえる。「過去は関係がない」とは言えない。「過去のことは、現在の状態に影響をあたえない」とも言えない。ところが、普通のサラリーマンが、名前だけ店長に対して「過去は関係がない」「過去のことは、現在の状態に影響をあたえない」と言うことができる。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言うことができる。過去一四年間と三〇日、ずっと毎日、土曜日も日曜日も含めて、一日に、二時間しか眠れない状態で暮らしていたなら、「元気だ元気だ」と言っても、元気になれない状態だ。人間のからだはそういうふうにできている。「過去は関係がない」「これは、シンプルだから正しい」「元気だ元気だと言えば、元気になる」「これは、シンプルだから正しい」と言える。どうして、過去を無視するのか? どうして、過去のことは、現在の状態に影響をあたえるということを無視するのか? どうして、過去は関係がないなどという「カルト思考」が常識になってしまったのか?





シンプルな考え方のうち、正しいものは正しいし、正しくないものは正しくない

 世の中には、「シンプルな考え方は、シンプルなので正しい」と考える人がいる。シンプルかどうかは、正しいかどうかとは関係がない。シンプルな考え方のうち、正しいものは正しいし、正しくないものは正しくない。シンプルさは、正しさの証明ではない。シンプルさは、正しさの原因にはならない。シンプルだから正しいとは、言えない。シンプルで正しい命題もあるし、シンプルだけど正しくない命題もある。たとえば、「言えば、言ったことが現実化する」という命題は『偽』だ。ところが、言霊を信じている人は、「シンプルだから正しい」と思ってしまう。言霊の力を信じるということと、「シンプルな考え方は、シンプルなので正しい」と考えることは、わりと、関連性があるようなことだと思う。どうも、系をなしている考え方であるようなのだ。これ、言霊を信じている人は、ほとんどの人が、そういうふうに言う。ぼくが、言霊理論について批判をすると、言霊を信じている人は「シンプルなものは正しい」「だから、言霊は正しい」と言い出す。

(誰か特定の人をせめるつもりはありません)。けど、「シンプルだから正しい」という考え方は、まちがっている。

 

名前だけ店長で自殺した人と、気楽なサラリーマンの差

 風が強いと、外壁のことが、かなり気になる。外壁にしたって、ヘビメタ騒音がなければ、何十年か前に、ちゃんと、補修工事をしていたのだ。ヘビメタ騒音が、いろいろなところに、影響をあたえている。けど、そんなこと、俺にしかわからないでしょ。

風の音が大きいと、不安になる。外壁がボロボロになり、ネズミの襲撃をうけたらやばい。

ところが、世間では、エクソソーム祭りをやっている。こんなのない。

ヘビメタ騒音がなければぜんぜんちがう。

*     *     *

「もう、どうでもいいや」という気持になることが多い。もう、横になっているとき、エンドレスで「もういいか」という言葉が頭のなかをまわっている。

*     *     *

ほんとうに、ヘビメタ騒音は、外壁にも影響をあたえている。外壁の工事にも影響をあたえている。すべてのタイミングがおかしくなる。ヘビメタ騒音以外の音も、俺の気持ちを破壊するようになってまった。「ヘビメタ騒音で人生が破壊された」という気持があると、そのほかの音にも、影響がある。 「ヘビメタ騒音で人生が破壊された」という気持になっているとき、たとえば、工事の音がすると、かっとなる。ヘビメタ騒音が鳴るまえは、そういうことはないわけ。

ヘビメタ騒音は、俺だけの音だ。「どうして俺だけ、こんな音を鳴らされなければならないんだ」という気持がある。そういう気持が、長い期間ある。そりゃ、きちがい兄貴が、最終的にヘビメタを鳴らすことをあきらめたのは、鳴らし始めてから、十五年目なのだから。

 まるまる荘だって……。もう、すべてがズタボロだ。きちがい兄貴が、無視して鳴らしていた。ほかの人は、きちがい家族と一緒に住んでない。きちがい家族と一緒に住んでいる人も、きちがいヘビメタを鳴らすことに特殊なこだわりをもっている家族と一緒に住んでいる人は、いない。きちがい親父が、特殊なんだけど、きちがい親父ときちがい兄貴の構造がおなじなんだよ。頭の構造がおなじなの……。そうすると、複数のいろいろな問題が出てくる。そして、その問題が相互に影響をあたえだす。これ、単発じゃないんだ。そして、構造から出てくることだから、かわらないのである。だれも、そんなには長くやられないのだから、経験がない。そうなると、名前だけ店長で自殺した人と、気楽なサラリーマンの差が出てくる。どっちだって、たいへんだ。どっちだって、残業をして、つかれる。けど、名前だけ店長で自殺した人の「つかれ」と一カ月に四回、二時間だけ、残業したサラリーマンのつかれはちがう。特に長期にわたって、蓄積すれば、それは、大きなちがいになる。けど、残業したサラリーマンだって、「俺だってつかれた」「俺だって残業した」とは言える。だから、体力がある状態で、「元気だ元気だと言えば元気になる」というようなことを言えてしまう。そんなことを信じていられる「つかれ」と、そういうことを信じられなかったときの「つかれ」はちがう。名前だけ店長で自殺した人だって、そういうことを言われて、どれだけそういうことを実行してきた。はりつめたものがあったと思うよ。けど、「元気だ元気だと言っても、元気にならない」という経験を繰り返してきたわけだ。何万回も「元気だ元気だと言っても元気にならない」ということを経験していれば「元気だ元気だと言えば元気になる」ということは、嘘だということがわかる。「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが嘘だということがわからないレベルの「つかれ」と何万回も「元気だ元気だと言っても元気にならない」ということを繰り返してきたときの「つかれ」はちがうのだよ。けど、主観というものがあるから、このあいだ説明したように、「俺だって苦労した」「俺だってつかれはてたことがある」「けど、元気だ元気だと言って、自分をはげまして、のりきってきた」と言えるのだ。だって、主観なのだから。

きちがいヘビメタによって、ぼくは、ほかの人が経験したことがないつかれを十数年間にわたって経験してきたのだよ。ぜんぜんちがう。ぜんぜん、ちがうんだよ。 「元気だ元気だと言えば元気になる」というようなことを信じていられるレベルのつかれとおなじであるはずがない。

2023年9月21日木曜日

回収はできない。

 いろいろ、不愉快な記憶がある。どうしても、腹がたつ。回収はできない。

過去にもどって、「設定をかえて」やりなおしたい。どれだけ、やったって、この設定だとだめだ。なんでこんなに、設定にちがいがあるんだ。この設定じゃ、どうやったって、くるしむことになる。

ほかの人にはないくるしみが、ぼくには、設定されている。こんなのはない。 

2023年9月18日月曜日

他人を対象にした自己責任論……人間をつめたい人間するためのくそ理論

 自己責任論に関しては、ずっまえに、くわしく書いているので、ちょっとだけ書くことにする。言いたいのは、自己責任論を信じている人は、他人につめたくなるということだ。本来の自己責任論というのは、自分を対象にした自己責任論なのである。「すべては、自分の責任」なのである。この場合の「自分」というのは、もちろん、自分自身のことだ。思っている人自身のことだ。この場合は、ほかの人の責任は問わないのである。ところが、他人を対象にした自己責任論というのがある。この場合は、他人がどれだけ不幸になろうが、どんなことになろうが、それは、その他人のせいだという自己責任論なのである。「せいだ」と書いたけど、「その他人の責任だ」ということだ。これ、実際の感情としては、もちろん、「せいだ」と考えているのである。もしかりに、きちがい的な親に虐待されているこどもがいたとしよう。虐待されているので、幸福ではなく不幸だとしよう。この場合、その虐待されているこどもが不幸なのは、虐待されているこどものせいだと考えるのが、自己責任論になってしまうのである。この場合、虐待しているほうの親の責任はまったく問わず、虐待されてるほうの子供の責任を問うということになる。これは、不幸な人一般についてもあてはまる。どんな環境に生まれようとも、その人が不幸なら、その人の責任だと考えてしまうのである。もちろん、その場合の自己責任論というのは、他人を対象にした自己責任論だ。たとえばの話だけど、虐待されているこどもがひとりでもいるということに、自己責任を感じるのかどうか? 本来の自己責任論だと、虐待されているこどもがひとりでもいるということは、自分の責任だということになってしまうのである。「すべては、自分の責任」なのだから、そういうことになる。もちろん、こういうタイプの自己責任論は、本来が、おかしな話だ。「すべて」に責任を感じるなんてことは、おかしな話だ。現実的ではない。じつは、最初から、自分を対象にした自己責任論を他人を対象にした自己責任論にすり替える意図があったのではないかと思うのだ。自己責任論は、自然発生的に、はやったものではなくて、だれかが意図的にはやらせたものなのである。こういう「考え方」の流行の背景には、意図的な洗脳(の意思)があると考えたほうがいい。

2023年9月17日日曜日

この人たちは、不幸な人には、つらくあたって、親切にしない。

 これは、言っちゃうとまずいかもしれないけど、ぼくが無職のとき、「人間は働くべきだ」というようなことを言ってたやつが、ぼくに親切にしてくれたことはない。

たぶん、こいつらは、凡人なので、「人には親切にするべきだ」「親切にすると運がアップする」なんていうことを信じている人たちだと思う。

ある人を、Aさんとしておく。Aさんは、「人間は働くべきだ(だから、エイリさんも、ヘビメタで働けないなんてことは言ってないで働くべきだ)」というようなことを言ったし、「できると言えばできる」ともうようなことを言っていたし、「人に親切にするといいことがある」と言っていた人だ。けど、無職のぼくには、親切にしないのである。

かわりに、むりなことを言って、こまらせる。むしろ、ぼくが、なけなしの体力でAさんに、親切にしてやったのである。それなのに、次から次へと文句を言いやがって……。

言霊思考と引き寄せ思考というのはリンクしている。系をなしている。凡人には凡人思考がある。凡人には、凡人たる思考セットのようなものがあるのである。

はっきり言ってしまうと、「人には親切にするべきだ」「親切にすると運がアップする」なんてことを言っている人は、みんな、無職に対して偏見があり、無職に対して、親切にしない人だ。まさしく、目の前の無職に対して親切にしない人たちなのである。

さらに言ってしまえば、裏にまわって、悪口を言うのである。「人には親切にするべきだ」「親切にすると運がアップする」というようなことを言っている人たちが、実際にやることは、「説教」することとや「陰口」を言うことなのである。

そして、無職を攻撃する。

たとえばの話だけど、「ヘビメタ騒音」という特殊な理由は一切合切認めないのである。きちがい家族の話には渋い顔をして、「そんなのはへんだ(へんだから、事実じゃない)」と思うようなやつらばかりなのである。「ヘビメタ騒音」という無職になった理由を、無視して、「人間は働くべきだ」と言うような一般論を展開する……。

こんなの、本人が、いい気分になりたいだけ。

説教をして、いい気分になりたいだけ。

親切じゃない。

これ、ひょっとして、こういうことを言うことが、親切なことだと思っているの?

ヘビメタ騒音で非二四時間睡眠覚醒症候群になってなっているという話をしているのに、「人間は働くべきだ」というようなことを言ってくる。

「非二四時間睡眠覚醒症候群で、通勤できなくなった」「どうしても、一定の時間に起きることができなくなった」「ヘビメタ騒音で非二四時間睡眠覚醒症候群なった」と言っているのに、通勤が必要になることを言ってくるのである。無視するな。

ほんとうに、言霊みたいなものにこっている人や、思霊みたいなものにこっている人は、ほんとうに、目の前の人には親切じゃないのである。無職には親切じゃないのである。

無職には、親切にしないのである。

逆に差別して、説教をして、裏にまわって悪口を言うのである。 

言霊みたいなものにこっている人や、思霊みたいなものにこっている人は、すでに不幸である人には、親切じゃないのである。説教をしてせめたり、自己責任論を持ち出してせめたりする。

こっちが、現実。

言霊みたいなものにこっている人や、思霊みたいなものにこっている人は、かなりの高確率で「人に親切にすると運がアップする」というようなことを信じている。

そりゃそうだろ。運にこだわる人たちなのだから……。この人たちは、すでに不幸な人には、つらくあたって、親切にしない。こっちのほうが、法則性あるよ。

たとえば、引き寄せということを考えている人たちは、いいことを引き寄せたいとおもっいるのである。当然、運をアップするということには関心があるだろう。

ところで、引き寄せにこだわっている人にとって、すでに不幸な人というのは、けがれた存在なのである。不幸なのは、不幸を引き寄せた人が悪いのである。……こういう思考が成り立ってしまう。

不幸な人とつきあうと、自分も不幸を引き寄せちゃうから、不幸な人とつきあうのはやめにしようと思うわけだ。なるべく、遠ざけようとする。

なのであれば、もちろん、不幸な人に親切にするということはない。

『だって、不幸な人は、不幸を引き寄せちゃうから悪いのだし、不幸はうつるので、自分が不幸になりたくないから、かかわりあいをもちたくない』と思うのだ。

なのであれば、もちろん、親切にしない。

ところが、「人に親切にすると、運がアップする」とか「人に親切にすると、運を引き寄せることができる」ということには賛成するのである。それは、そういう文章が切り出されて提示されたときだけ、そう思うということだ。

実際には、親切にしないのである。もっと正確に言えば、こまっている人には親切にしないのである。それは、不幸な人に親切にしないのとおなじ理由が成り立っている。実際には、こまっている人をもっとこまらせるようなことをする。こっちが、現実。

 

 

2023年9月16日土曜日

親切な人が、「よし、人に親切にしよう」と思うと、ろくなことがない。

 「どれだけなになにでも」といった言い方は、環境の格差を無視している言い方なのである。

ところが、環境の格差がでかいのである。

環境の格差がでかい影響をあたえる。

こういう、でかい影響をあたえる要素を、まったく考えないで、「どれだけなになにでも、Xをすれば、Yになる」というようなことを言うのは、おかしなことだ。

最初から、まちがっている。

まちがっていることを、えらそうに言うな。

環境というのは、環境と言えば、環境という一つの要素なのだけど、実際には、複数の要素が組み合わさって、「その人の」環境をつくりあげている。複数の要素なのである。

その重要な環境という要素をガン無視して、Xという、小さな要素に注目して、XをするかどうかがYになるかどうかを決定するという考え方は、おかしい。

どうしてなら、Xというのは、とるにたらない小さな要素だからだ。影響をあたえない要素を、わざわざ、つまみあげて、影響をあたえる要素をガン無視するなんておかしいだろ。 

「人に親切にすれば、しあわせになる」……。その人がいままで生きてきた環境を無視して、人に親切にしたかどうかだけを、つまみあげる。しかも、今現在、しあわせではない人は、人に親切にしたことがないということを明示しているのである。

こんなのは、ない。

「どれだけふしあわせでも、どれだけつらくても、人に親切にすれば、しあわせになる」……そんなことはない。もともと、根がやさしい人がいたとする。

その人は、普段の状態で、人に対して親切だ。

ところが、きちがい家族のもとに生まれてしまったので不幸だとする。この場合、その人が不幸である原因は、人に親切になかったことではない。親切にしている。人に親切なのに、きちがい家族にやられて、ボロボロなのである。

だいたい、もともと、親切な人が、「よし、人に親切にしよう」と思うと、ろくなことがない。どうしてかというと、過剰に親切にすることになるからだ。

こういう場合は、自分が「思った親切」をしがちになる。そんなことを思わなければ、普通の親切な人なのに、そういうことを思ってしまうがゆえに、おしつけがましい人になってしまうのである。

こういう場合は、普通の程度に親切にする場合よりも、トラブルがしょうじやすい。

だいたい、「自分がしあわせになるために」人に親切にするというのは、もう、目的がちがってしまっているのである。親切にする場合は、相手のことだけを思って親切にすればよいのである。

「人に親切にして、自分の運をあげたい」「人に親切にして、自分がしあわせになりたい」……こういう気持で親切にするということ自体が、まちがっている。

ともかく、「親切にする機会」を「ねらっている状態」というのは、トラブルを起こしやすい状態だ。そういう、一見よさそうなことに注意をうばわれて、そのときになって、行動すると、かならず、トラブルがしょうじる。

どうしても、「自分が思った親切行為」をしがちになる。その「自分が思った親切行為」というのは、「親切にする機会」を「ねらっている状態」で思いついた親切行為なので、「相手が思っていること」とはちがってくる……ことが多い。

 

 

自分がやっていることが弟にあたえる影響というものを無視していた

 きちがい兄貴の無視のしかたがすごいんだよ。自分のやっていることを無視する。すべての時間を使って、絶対の意地でやっているのに、そのやってることは、あたりまえのことで、特に意識しないことになっている。

だから、呼吸をするような感じで、きちがいヘビメタを、鳴らすという状態になっている。暇があったら鳴らす、暇がなくても、鳴らすという状態になっている。

その場合、鳴らさない時間のほうが異常な時間なのである。

たとえば、きちがい兄貴が、鳴らしたいのに、鳴らせない時間というのは、なかった。一秒だって、自分が鳴らしたいのに我慢させられたら、それは、特殊な時間として、記憶に残るのである。

そして、自分がやっていることが弟にあたえる影響というものを無視していた。

そして、この無視が、普通の人間では考えられないほど、おかしい無視のしかたなんだよ。だから、そういうことが、影響をあたえる。きちがい兄貴の態度に影響をあたえるし、そういう態度で、ずっとあたりまえのこととして、やるということになる。

その場合、うちでは、そうではない時間が異常なのだけど、普通のうちでは、そうではない時間があたりまえだということになる。きちがいが我慢しないで、きちがい行為をしている状態が普通の状態なのである。日常なのである。普通の日常なのである。そうなると、前投稿のように、「努力すればどうにかなる」ということが、一八〇度、かわってしまうんだよ。

「努力すると、もっとひどいことになる」とことが、成立してしまう。

いっぽう、普通の人は、普通の「うち」で住んでいるわけだから、「努力すればどうにかなる」ということがあたりまえである、日常のなかですごしているということになる。プラス向きに努力すれば、プラスの結果がうまれるのである。ちょっとでも努力すれば、ちょっとはましになるのである。

ところが、きちがい家族がつくった亜空間だと、どれだけ努力しても、ましにならない。ひどくなるだけなのである。

だから、そういうことがひっくりかえっているのだけど、ほかの人は、きちがい家族と一緒に住んだことがないので、そういうことが、生活実感としてわからないというとになる。

けっきょく、普通の家族と一緒に住んだ経験しかない人は、その人の常識にもとづいて、ぼくにあれやこれやと言うのだけど、それが、全部、まちがっている。

「どんなにつらくても、エックスをすればワイになる」……この命題は、『偽』なんだよ。ところが、こういうことを言っているやつらは、こういうことが『真』であると思って言っているわけだろ。どれだけ、すっとぼけたことを言っているのか理解してないわけだろ。ぜんぜん、ちがうんだよ。 

+++++

ヘビメタ騒音が毎日鳴り続けているということは、立場が悪くなることなんだよ。環境が悪くなることなんだよ。不利になるんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っていると、できていたことができなくなるんだよ。

できていたことができなくなる状態で、立場が悪くなっていくのだから、土台、むりだ。

立場が悪くなったところで、正常な状態に戻すということは、もっと、エネルギーが必要なことなんだよ。ところが、ヘビメタ騒音が毎日続いているので、エネルギーがないということになる。

たとえば、普通の状態で、一〇の努力をすれば一〇の結果があるとする。ヘビメタ騒音が鳴っている状態というのは、普通ならできる一〇の努力ができない状態なんだよ。

そして、エネルギーが常にマイナスで、回復されることがない状態なんだ。時間の経過とともに、環境が悪くなっていく。時間の経過とともに立場が悪くなっていく。

寝不足で、普通の生活ができなくなっている。騒音で、普通ならできる勉強がまったくできない状態になっている。騒音で、普通なら、一〇の努力でできることが、一〇の努力では、できない状態になっている。そして、普通なら、一日一〇努力することができるとしても、ヘビメタ騒音が鳴っていると、一日に一努力することもできない状態になっているである。

ようするに、時間経過とともに、エネルギーがなくなり、状態が悪くなるのに、そういう状態で、「なんとかしよう」とすると、普通の状態よりも、エネルギー必要な状態になるのである。ところが、きちがいヘビメタが鳴っているので、エネルギーがない状態になっているのである。わかるかな?


普通のことができなくなった体でやるわけ

 ヘビメタ騒音がくわわると、ヘビメタ騒音をどうにかしようとしたり、ヘビメタ騒音から生じた問題をどうにかしようとするわけなんだけど、それらのことは、ヘビメタ騒音が鳴らなければ、そもそも、しょうじなかったことなんだよ。

蟻地獄なんだよ。

そして、そのヘビメタ騒音問題回収のための努力は、ヘビメタ騒音でくたくたになったからだで、やるわけ。

きちがいヘビメタで、普通のことができなくなった体でやるわけ。

普通に考えると、何か問題が起こっても、努力して解決すればいいということになるのだけど、問題解決のための努力が、さらなる問題をうんでしまうわけだし、ヘビメタ騒音が続ている以上、ヘビメタ騒音のなかで……その努力をするわけだから、どれだけやったって、だめになるだけなんだよ。

普通に、なにもないところで考えると、問題解決のための努力は、プラスなんだけど、きちがい家族による生活的なヘビメタ騒音が鳴っているとなると、問題解決のための努力が、ものすごい、マイナスになるわけ。

ずっとつもれば、「ヘビメタ騒音の圧力がなければ、俺はこんなところでこんなことをしてない」というような感じのことがしょうじる。


むり

 いろいろと不愉快な記憶があり、めちゃくちゃに、腹をたてたり、めちゃくちゃに、落ち込んだりしている。でっ、なんというのかな、無時間性みたいなものが成り立っていて、四〇年前のことでも、ありありと思いだしてしまうんだよ。

これ、うかばないようにするのがむりなんだよね。どうしても、連想方式でうかんでしまう。なにを見ていても、なにかしら関係があることはあるので、その関係がある記憶がよみがえってしまう。 

2023年9月15日金曜日

けど、ぼくは、おなじではないと思う

 たとえば、居酒屋の名前だけ店長で、一日に睡眠時間が二時間しかとれない人がいたとしよう。そして、そういう一日に二時間しか眠れない日が一五年間、日曜日も含めて、続いたとする。

とりあえず、Aさんということにする。

普通のサラリーマンで、一日に睡眠時間が八時間の取れる人がいたとしよう。

とりあえず、Bさんということにする。

Bさんがある日、午後一〇時まで残業したとする。その日、帰ったあと、Bさんは七時間しか眠れなかったとする。

Aさんも、Bさんも残業で、賃金がしょうじなかったとする。

ようするに、サービス残業だ。どっちも、サービス残業をしている。サービス残業をしたことがある。けど、Aさんのつらさと、Bさんのつらさがおなじだとは思えない。残業によって生じる、Aさんの疲労と、Bさんの疲労は、程度においてちがいがある。

けど、AさんもBさんも残業をしたということにはかわりがない。そして、たとえば、Bさんが、「俺だって残業をしてつらかった」「俺だってつらい思いをして働いた」と言ったとしよう。

これは、Bさんが、残業をしてつらかったと思っているということだ。

じつは、Aさんも残業で死ぬほどつらいと思っている。なので、どっちも「つらい思いをしている」。ならば、Aさんのつらい思いと、Bさんのつらい思いにはちがいがないのか? 程度に置いてちがいがないのか?

ぼくは、程度においてちがいがあると思う。

けど、Bさんの主観をたいせつする?のであれば、Bさんの主観もたいせつしなければならないということがしょうじる。Bさんだって、つらい思いをしたことにはかわりがないのだから、どっちもつらい思いをしたということに関しては、おなじだと判断する人もいる。

けど、ぼくは、おなじではないと思う。

BさんがAさんにむかって「つらくてもがんばることがたいせつ」などと説教したとする。これは、いいことだろうか? 悪いことだうか? ぼくには悪いことに思える。

程度のちがいを無視する言葉がある。それは、「どれだけつらくたって」とか「どんなことがあったって」とかという言葉だ。そういうことを、付け加えれば、BさんがAさんにむかって「 どれだけつらくたって、がんばることがたいせつだ」と言うことができるのである。

この、程度のちがいを無視する言葉というのは、言うほうは、いい気持になって言うことができるけど、言われたほうは、いい気持にならないことが多い。

程度のちがいがあるのに、程度のちがいを無視されたことを言われると、腹がたつことがある。それは、程度のちがいがある場合なのである。

しかし、ここで、主観と客観の問題が発生する。だれが、Aさんのつらさも、Bさんのつらさもおなじレベルだと判断するのか? あるいは、だれが、Aさんのつらさよりも、Bさんのつらさのほうが、上だと判断するのか? あるいは、だれが、Bさんのつらさよりも、Aさんのつらさのほうが、上だと判断するのか?

 

2023年9月14日木曜日

「憂鬱な状態」

 みんな、ヘビメタ騒音の一日が、どんだけ切羽詰まった一日になるか、わかってない。ぜんぜんわかってない。鳴ってない時間も含めて、ものすごくしんどい。鳴ってない時間も、動かないからだを無理やり動かして、パニックになっているところがある。動かないんだよ。この動かないからだを無理やり動かしている時間というのが、たとえば、「うつ感情のもと」なのである。「うつ病のもと」なのである。こういう時間に生成された「感情」は、意識的な意思で変更することができない感情なのである。感情と書いたけど「感覚」といってもいい。ぜんぜんちがう。これも、こういうくるしい時間が毎日毎日、数千日にわたって続いた人と、そうではない人は、ぜんぜんちがうのである。そうでない人は、感覚的にわからない。数千日にわたって経験した人が考える「憂鬱な状態」と数千日にわたって経験してない人が考える「憂鬱な状態」とは、ちがう。ちがうのだけど、これまた、「憂鬱」というような抽象的な単語を使うと、「俺だって、憂鬱なときはある」ということが言える。数千日にわたって経験してない人だって「俺だって、憂鬱なときはある」ということが言える。けど、じゃあ、数千日にわたって経験した人が言う「憂鬱な状態」と、数千日にわたって経験したことがない人が言う「憂鬱な状態」はおなじものかというと、やはり、ちがうものなのである。ちがう」と考えたほうがいい。ちがうことについて言っていると考えたほうが、合理的だ。

基本的に言って、「できると言えばできる」というようなことを、数千日にわたって経験した人は言わない。こういうことは、数千日にわたって経験してない人が言う言葉だ。数千日にわたって経験した人は「できる」と言っても「できない状態」を何十万回も経験している。突き付けられている。突き付けられてないということ自体が、経験の不足を物語っている。

十数年間にわたって、まったく悪いと思わなかったというのが問題なんだよ

 

 どれだけ言っても、わからないとは思うけど「ちがうんだよ」。ちがうの。普通の騒音じゃないの。普通の人じゃないの。きちがい兄貴は普通の人じゃないから普通の人が絶対にやらないことをやっているんだよ。普通の人の身の回りには、そんな人はいないの。だから、誤解をしているんだよ。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなくて、風雨の兄貴だと思っている。だから、誤解をしている。しかも、誤解をしているということがわかってない。「そんなのはおかしい」と俺の話を聞いて、俺の話が嘘だと思う人は、誤解をしている。

あと、程度のちがいはある。程度のちがいがあるのに、「騒音」と言えば「騒音」としてとらえられてしまう。その人が人生のなかで感じた騒音と、きちがい兄貴の騒音はちがうんだよ。ちがうの。「騒音」という同じ言葉で表しているけど、ちがうの……。全く別物なんだよ。きちがい兄貴が、あのステレオセットで鳴らすまで、きちがい兄貴だって、ああいう騒音は鳴らさなかったの……。それが一六歳のときに、アルバイトをして、でかいステレオセットを買って鳴らすようになった。

きちがいだから、音の感覚がおかしい。耳は正常なのに、でかい音と小さい音の区別がつかない。自分が無意識的に「でかい音で」鳴らしたいなら、そして、それがでかい音だから、やめさせられる可能性があるなら、途端に「小さい音」になってしまうの。そういう、解決方法なんだよ。無意識的な解決方法なの。

それで、これは、きちがい親父もおなじなんだよ。で、きちがい親父はきちがい親父で、常にそういうやり方で、自分の維持をとおしてきたんだよ。これは、たとえば、ぎゃくたいでもそうなんだよ。きちがい親父が、幼児を虐待しているとき、悪いことをしているつもりというのは、一〇〇%、ないんだよ。そういうことを、ごく自然に、きちがい親父がやりとしてきた「うち」なんだよ。

だから、ちがうんだよ。それを、そういうことを無視して、「親が注意しないのだから、そんなでかい音で鳴っていたわけではないだろう」と考えるやつは、おかしい、まちがっている。

けど、そいつに、おれがきちがいあにきやきちがいおやじのことをせつめいしても、そいつは、自分の親や自分の兄弟について考えるから、「そんなんじゃない」というような感じがまとわりつくわけ。

「そんなのはおかしいから、真実じゃない」と思うわけ。

こっちはこっちで、そういう感覚が成り立っているわけ。普通の人はそうなんだよ。だから、きちがい親父やきちがい兄貴のことについて、俺が「正しく」説明してもわかってくれない。けど、言語としてはわかるわけ。

だから、「不愉快な感じ」がしょうじるんだよ。それに、そいつの世界は、きちがい家族がいない世界なのだから、きちがい家族のことを言われると、いやなんだよ。

「そんなのは、ない」というのが、そいつの常識であるわけ。

だから、そいつがもっている常識を覆すことになるのだけど、人間は、自分がもっている常識を、くつがえされるのがいやなんだよ。これは、まえ、くわしく説明したので省略する。

ともかく、うちでは、「普通のうち」では成り立たないことが、常に成り立ってきた。普通のうちでは、一日に一秒だって成り立たないことが成り立ってきた。きちがい兄貴が、よそで、きちがい兄貴が『うち』で鳴らしている音で、鳴らせるかというとちがうのである。「普通のうち」では一秒だって鳴らせないようなでかい音で、ずっと鳴らしてきたというのが問題なんだよ。そして、十数年間にわたって、まったく悪いと思わなかったというのが問題なんだよ。そういう人間を普通の日は、想像できないわけ。

だから「へんだ」と思うわけ。きちがい兄貴が悪いやつなのに、俺が悪いやつだと思うやつがいるんだよ。十数年のきちがいヘビメタ騒音によって、通勤できないからだになったから、働いてないだけなのに、「無職である」ということが影響をあたえる。

そういうやつの感情に影響をあたえる。「無職は悪いやつだ」という深い信念をもっているやつは、「無職だ」と聞かされれば、悪いやつだと自動的に思うんだよ。そのあとに、ヘビメタ騒音でそうなったということを言っても、「悪い人が嘘を言っている」と思うんだよ。こんなのは、ない。

正直に、無職だと言っているのだから、いい人なんだよ。嘘を言っているわけじゃないんだよ。十数年間のヘビメタ騒音で仕方がなく無職になったということを言っているのに、こいつらはなんだ。

きちがい兄貴が悪いことをしてきたのに、まるで、仕事をさぼって、俺が悪いことをしているというように考えるやつが出てくる。第一印象というのは、ものすごく重要だ。

俺は、ほんとうは、第一印象の研究をしたかったのである。学問的な世界で生きたかったのである。きちがいヘビメタが鳴っていると、どうしても、勉強することができないのである。

勉強することができないだけではなくて、好きな本を読むこともできなくなるのである。体力全体が、けずられる。睡眠不足で、できることが、どーーーしても、できなくなる。そして、睡眠不足のまま、ほかの人と、交流することになる。睡眠不足のからだで、人と交流すると、いろいろな問題が発生するのである。

で、じゃあ、ヘビメタ騒音が鳴っているに眠れるかというと眠れないのである。幼稚な言霊主義者は「眠れる」と言えば眠れると言って、人を、不愉快な気持にさせる。

ほんとうに、ヘビメタ騒音でなくても、横の部屋に住んでいる家族の一員に、自分がこの世で一番嫌いな音を、あの音のでかさで鳴らされたら、夜、眠れくなるんだよ。

「眠れると言えば眠れる」と言っている言霊主義者だって眠れなくなるんだよ。その言霊主義者の家族が、普通の家族だったから、その言霊主義者が、自分がこの世で一番嫌いな音を七時間から一三時間あびて、夜、鳴ってない時間に眠れなくなるということを経験しなかっただけの話なのである。

だれだって、そうなる。

あの音圧で、きちがいが鳴らしているんだぞ。きちがい的な理由で、こういうでかい音で鳴らしていいと思って、鳴らしているんだぞ。頭にくるだろ。理由がちゃんとあって鳴らしているのとはちがうんだぞ。工事で音が出るのはちがうんだよ。幼稚園が、運動会の練習をして音が出るのとはちがうんだよ。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなければ、一秒だって「うちでは」鳴ってない音なんだよ。

だから、そういう言霊主義者だって、鳴らされてない。経験してない。けど、そういう言霊主義者だって「俺だって、苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言うことができる。ちがうんだよ。ちがうの。

そういう毎日。そういう毎日。いいわけがない

 きちがいがまったく気にしないで、しつこくしつこく、鳴らす。しつこく、しつこく、鳴らす。被害甚大。どれだけなにを言っても、きちがい兄貴が、やり続ける。殺さなければ、中断させることができない。そういう状態を俺に「おしつけて」いるのに、きちがい兄貴本人は、まったく、つもりがない。そういう毎日。そういう毎日。いいわけがない。

きちがい親父は、きちがい兄貴のように、がん無視だし、おかあさんは、おかあさんで、「こまったこまった」と言っているだけだ。おかあさんは、自主的に、兄貴に注意したけど、兄貴がきくわけがない。きちがい親父ときちがい兄貴の、行動はおなじなんだよ。おかあさんがどれだけ注意したって、やめない。「やめさせられそうになる」と、きちがいのような顔をして、脂汗をかいて、やっちゃう。けど、やっちゃっても、やっちゃったつもりがないんだよ。ずっと、頑固にやっているんだけどね……。そして、注意されたという記憶がなくなってしまう。だから、「やめてくれ」と言われたという記憶がない。だから、相手はなにも言ってこなかったという、「はればれとした」気持ちでやっているわけ。なにを言っても、そういう状態になる。だから、気にしてない。だから、「つもりがない状態」のまま、ずっとやることになる。「相手がいやがっていることを」「相手が、注意したにもかかわらず」「自分の意地をとおして、やり続けた」という記憶がない状態なんだよ。けど、毎日、毎時間、毎分、毎秒、いつでもそうしているんだよ。「やれるなら」そうする。そして、一秒もゆずらない。絶対に、中断しない。けど、「つもりがない」。やったつもりが、まったくない状態で暮らしている。だから、相手が、どれだけこまっていたって、蚊帳の外の人で、関係がない人なんだよ。ほんとうは、自分が意地になっているから、相手がこまるのだけど、そんなことはわからない。言わないからわからないのではなくて、三万回言ったって、わからないんだよ。言われたときに、「はねのけて」おしまいなんだよ。無意識的には、相手が自分にとって都合が悪いことを言ったというのはわかるけど、意識的には、相手が言ったことがまったくわかってない状態で、やり続ける。相手が自分にとって都合が悪いことというのは、「やめてくれ」というようなことだ。それを、意識のレベルで理解して、聞いてしまったら、「やめなければならなくなる」。そういうこと自体を、無意識のレベルで排除しているのである。だから、きちがい的な意地で、発狂して、がむしゃらにやっているのに、まるで無関係ない人として暮らすという、状態がしょうじる。これが、毎日繰り返されていいわけがない。きちがい的な意地でやっているやつが、きちがい的な意識で、やったということをまったく認めない状態で暮らしている。だから、きちがい兄貴は、きちがい的なヘビメタ騒音を絶対の意地で、やれる時間はすべて使ってやっているのに、ぜんぜん、まったく鳴らしてないときと、おなじ感覚で生きているんだよ。だから、普通の人が、無視されたということとは、ちがうことがしょうじている。で、これが、むかつくんだよ。無意識のレベルに問題がない人がやっている場合とはちがうんだよ。けど、そんなことは、無意識のレベルで問題をかかえているきちがい的な家族がいなければ、わからない。そんなことを理解できる、普通の人はいない。だから、普通の人から見て、俺が、へんなことを言っているように思えるのである。「そんなのは、言えばいいでしょ」「お兄さんにやめてと言えばいいのに、言わないからダメなんだ」というようなことを思いついてしまう。そういう人間に、これまた、いままで書いたことを言っても、納得しない。「そんな音で鳴っているのに、親が注意しないなんておかしい」「そんなのはへんだ」「うそにちがいない」と思って、これも、おしまいなんだよ。

2023年9月12日火曜日

「異質な騒音」「別次元の騒音」

 しかし、俺の人生はいったいなんなんだ。いま、午後一〇時〇七分。この時間もきちがいヘビメタが鳴っていた。次の日、影響をうける。だいたい、

 

ヘビメタ騒音のことを「言う」にしろ「言わない」にしろ、ヘビメタ騒音の影響をうけた体で、ほかの人の行動に対処しているわけだから、当然、ヘビメタ騒音の影響はある。ぼくの受け答えに、前の日や、その前日や、数十日まえから、たたっているつかれが影響をあたえる。ほかの人の行動に対する、ぼくの判断、ぼくの感じ方、ぼくの行動に影響与える。全部、悪影響だ。いい影響なんてない。ヘビメタ騒音のことを言うにしろ、言わないにしろ、ほかの人との関係にヘビメタ騒音が、深い深い深い、影響をあたえている。ぼくの人生は、当いう人生だった。 

全部が全部、ヘビメタ騒音だった。これは、行動だけではなくて……履歴や属性に影響をあたえる。けっきょく、ヘビメタ騒音が鳴りはじめてから、ずっとずっと、すべてのことに、ヘビメタ騒音は影響がある。そりゃ、ヘビメタ騒音でぼくが無職だということを言うにしろ、言わないにしろ、無職だということを伝えたら、それは、相手のぼくに対する判断や、ぼくに対する行動に影響をあたえる。ぼくに対する行動のなかには、ぼくに対する発言も含まれるとする。一般社会において、無職に対する偏見が成り立っているのであれば、当然、多くの人が、ぼくのことを偏見の目で見るということになる。影響をあたえているではないか。普通の人は、きちがい兄貴と一緒に住んでいないので、きちがい兄貴が鳴らした騒音の影響がない。きちがい兄貴が鳴らした騒音の影響をうけてない人生を歩んでいる。なので、ヘビメタ騒音のひどさがわからないし、「ヘビメタ騒音の影響」のでかさがわからない。どうしたって、その人が経験した「普通の騒音」でものを考えてしまう。影響のでかさも、当然、その人が経験した騒音をもとにして考えた影響のでかさになる。そうなると、ぜんぜんちがうものについて考えているということになる。「騒音」という文字はおなじだけど、ぜんぜんちがうのだ、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は「異質な騒音」「別次元の騒音」なのだ。それは、きちがい兄貴の性格や、きちがい兄貴の感覚が影響した騒音になるから、きちがいが出している騒音だということになる。

まあ、トートロジーだけど、騒音の出し方がきちがいだから、きちがい兄貴と言っているわけだ。きちがいということにしておかないと、普通の言葉では、説明することができないのだ。そういう部分を内包している。

だから、ほかの人には、よけいにわからない。音のでかさや音の持続時間、そして、きちがい兄貴の感じ方というのは、きちがい兄貴の騒音を身にあびてきた人しか、わからない。

ともかく、きちがい兄貴の脳みそが、ほかの人とはちがうのである。脳みその構造がちがうのである。

だから、騒音をだしているときの態度も、騒音をだしおわったときの態度も、普通の人が想像できないものになる。普通の人のまわりには、きちがい兄貴とはちがう脳みその構造をもっている人がだしている騒音しかない。

よその人は、経験してないから、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音がどういう影響をあたえるか、ぜんぜんわかってない。わかってないところで、「たいしたことはないだろう」と思って、「エイリさんがさぼっている」「エイリさんが甘えている」「人間は働くべきだ」というようなことを言う。そういうことを言われること自体が、屈辱だ。

「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言われて、「怒りの感情」がしょうじないとでも思っているのか? きちがいヘビメタ騒音、数千日の怒りが、いっきに、そいつの顔に集中するよ。がまんして生きているんだぞ。がまんして……。

きちがい兄貴がやってきたことに対する怒りやきちがい兄貴の態度に対する怒りなのだけど、そういったものが、一気に爆発しそうになる。どうしてかというと、常に、たえて生きてきたからだ。常に、きちがい兄貴やられて生きてきたからだ。

やっているほうは、まったくやってないつもりなんだよ。きちがい兄貴の意識というのは、実際に、一日に一秒もヘビメタを鳴らさなかったときの意識とおなじだ。何千日も、何万日も、もめているのに、そういう意識しかない。まさしく、くるっている。

殺すわけにいかなかったから、ずっと、そうなってしまった。

ところが、殺さなかったということを、他人はほめずに、だめになった俺に、ダメダシをするのだ。こんなことがゆるされていいと思っているのか? ゆるされるべきではない。

きちがい兄貴ときちがい親父が『うちでだけくるっている』タイプなので、ほかの人にはわかりにくい。それは、くるっているということがわからないということだけではなくて、狂っていることによって押しだされるものが、わからないのである。それは、行為であり、出来事だ。実際の出来事が、人間の感情に影響をあたえないわけがないだろ。

みんな、きちがい兄貴が十数年間にわたって、なにをしてきたかということを問題にせず、俺が無職なら、無職だということを問題にする。不可避的に無職にならざるをえない理由があるのに、それは無視する。きちがいヘビメタ騒音は、 不可避的に無職にならざるをえない理由ではないのだ……。その人たちにとっては……。これも、むかつく。うらみがしょうじないわけがない。これは、侮辱だ。ゆるせない。

こいつらのことを、俺が一〇〇万回なぐって、こいつらが無職になったとしよう。俺がなぐったという行為と、こいつらが無職になったという結果にはなにも、関係がないというのか? 因果関係がないというのか? ふざけるな。こいつらは、そのくらいに、ふざけたことを言っている。どうして、そういう「感じがしない」かというと、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた毎日をすごしてないからだ。どれだけ影響をうけるか、わかってないからだ。こういうやつらのことを、ぼくがゆるせるのか? ゆるせるわけがないだろ。

 

この世で、一番嫌いな音を、あの頻度と長さで、聞かされ続けたら、働けなくなるのに、それがわからない。

 ヘビメタ騒音は、普通の騒音じゃないわけ。幼稚園の騒音や工事の騒音といっしょにするな。そりゃ、ヘビメタ騒音を一五年間やられて、騒音には敏感になった。

そりゃ、騒音で人生を破壊されているのだから、うらみがたまる。それから、みんながわかってないのは、騒音が鳴ってないときのしんどさなんだよな。

これが、どれだけつらいかわかってない。みんなが経験する騒音は、普通の騒音なんだよ。ぼくが経験した騒音は異次元の騒音だ。ぜんぜん、ちがう。

けど、「ちがう」と言っても、経験がない人にはわらないのである。騒音は鳴り終わったら、関係がないと思ってしまう。ぜんぜん、ちがう。どれだけ「ちがう」と言っても、そこのところが、ほかの人にはわからない。ほかの人は、異次元の騒音を経験したことがないし、合計で一五年間の騒音を経験したことがない。

きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音は、普通の騒音じゃない。

一五年間と書いたけど、最初の?七年間で、ぼくの人生が終わっている。もっと言えば、最初の一年間で、ぼくの人生が終わっている。一年間やられたら、そのあと、どれだけ、復活しようとしても復活できないからだになっている。

そういうことも、経験がない一般の人にはわからない。

だから、ぼくが、へんなふうに見えてしまうという問題が、しょうじる。けど、やられてない一般の人も、おなじ状態で一年間やられたら、わかるようになる。

ぜんぜん、ちがう。

きちがい家族による、ヘビメタ騒音なんだよ。『きちがい家族』というところがでかい。みんな、わかってない。きちがい兄貴は、普通の人じゃないのである。なので、普通の人がしないことをしている。

ほかの人のうちには、きちがい的な家族がいない。ほかの人のうちには、普通の人がしないことを、する家族がない。

そして、普通の人には考えらないことなのだけど、きちがい的な意地でやったことは、きちがい感覚で無視してしまうのである。本人のなかでは、「まったくやらなかったこと」とおなじなのである。本人のなかでは、「まったくやってないこと」とおなじなのである。

そういう感覚で、ずっとやられる。

きちがいだから、こだわりがすごいのである。

この、こだわりのすごさ、というのが、これまた、普通の人と暮らしている人にはわからない。だれだって、自分が、この世で、一番嫌いな音を、あの頻度と長さで、聞かされ続けたら、働けなくなるのに、それがわからない。

自分だって、ほんとうは、おなじことをやられたら働けなくなるのに、「自分だったら平気だ」という前提でものを言ってくる。実際に、やられなかったので、実際に「自分は平気」なのである。「自分は、いま現在平気だ」という感覚がある。「自分は、いま現在平気だ」という感覚が、「やられたって、平気だろう」という感覚をうみだすのである。

2023年9月11日月曜日

わかってないところで、正常な意見を言う

 ほんとうに、きちがいが、やっているのである。ほかの人は想像ができないことをやっている。日常的にずっとやっている。きちがいの意地が、わかってない。ほかの人は、きちがいの意地がわかってない。自分のやりたいこと……意地をとおしたいことがある場合、正常な感覚をなくしてしまうのである。感覚器が正常なら絶対にわかることを、認めないということになる。だから、やられているほうは、不愉快な感覚が付きまとうのである。そりゃ、感覚器が正常なら絶対にわかるはずのことが、すっぽりぬけてわからなくなっている状態なのだから、頭にくる。そして、この状態でやっていることについて、どれだけ、しつこくしつこく、やったことでも、ぜんぜん本人は関係がないと思っているのである。そういう感覚も、成り立っている。こんなのは、ほんとうに、きちがいだ。そういうきちがいが一家に、ふたり、いるんだぞ。これがどういう状態をうみだすか、ぜんぜんわかってない。ほかの人は、ぜんぜんわかってない。わかってないところで、正常な意見を言う。その正常な意見の背後には「そんなことはない」という感覚が成り立っている。きちがいが頑固にやったことが、無視されてしまうのである。もちろん、影響も無視されてしまう。そして、奴隷教育が成り立っているので、奴隷の道徳について、語りだすのである。まったくもって、頭にくる。頭にくる。

『やっているやつの態度』の影響をうける

 どんなに、たてまえにしがみついても、どれだけ死にものぐるいの努力をしても、ヘビメタが鳴っているとだめなのである。あのきちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で鳴らしているヘビメタ騒音が鳴っていると、だめなのである。究極の状態になる。そういう究極の状態をずっと、何千日も、毎日毎日、繰り返してきて、影響がないわけないだろ。体に影響がないわけがないだろ。履歴に影響がないわけないだろ。鳴ってない時間帯の人間関係に影響がないわけがないだろ。体というのは、物理的な脳みそも含んでいる。きちがい家族が、となりの部屋で、案だけすごい音でずっと、鳴らしていていいわけがない。

きちがいヘビメタ騒音のなかから出ていって、友だちとつきあうのもたいへんだったけど、これが、彼女ならもっとたいへんだ。ヘビメタ騒音が鳴っているから、女の子とつきあえないなんてことはない」ときちがいヘビメタ騒音にやられてない人は言うけど、それはちがう。そんなんじゃない。ぜんぜんちがう。寝不足を含めて、昨日のヘビメタ騒音の影響をうけているし、きちがい親父のようなきちがい兄貴の態度に対する怒りの影響をうけている。きちがい感覚が、ほかの人にはまったくわからないんだよな。兄貴や親父の『きちがい感覚』がまったくわかってない。だから、かなり誤解をして、ヘビメタ騒音の影響について語りだすのである。これ、『やっているやつの態度』の影響をうけるよ。感情的に、『相手の態度』の影響をうける。「の」の重複は指摘しなくていい。きちがいだから、きちがい感覚で鳴らすのである。そして、きちがいだから、まったく迷惑をかけてないと思っているのである。きちがいだから。これ、ほんとうに、本人が怒り狂ったら、もう、なにも覚えてい状態になってしまう。こんなのは、気ちがいだからできることなんだよ。で、気ちがいだからできることというのは、ほかの人にとって信じがたい「へんなこと」なんだよ。そして、そのきちがいによって生み出された効果によって、ぼくが、ほかの人から「へんなひと」だと思われるのだよ。そうなっている。

あーー。あの子は、めちゃくちゃにかわいかった。あっちから言ってきたのだから、普通なら、よろこんでつきあう。ヘビメタが鳴ってなかったら、まったく、迷いがない。けど、きちがいヘビメタが鳴っていて、その子にあうときも、ヘビメタ騒音の影響をうけた状態で、会うことになるのである。これが、めちゃくちゃに、くるしいことなのである。で、ぼくの人生というのは、そういうことの繰り返しだった。けっきょく、数千日続いヘビメタ騒音の影響をうけている。強度としては、もちろん、『昨夜のヘビメタ騒音』の影響を一番つよくうけているわけなんだけど、全部、つもっている。「の」の重複は指摘しなくていい。ふたつまでなら、OKと言うことにして、書くことにする。だから、もう、「の」の重複は指摘しなくていいとは、書かないことにする。


しかし、法則性なんてない。

「不満を言わなければ、しあわせになる」かというと、そうではないのだ。環境から押し出されるものがある。たとえば、きちがい的な親と一緒に暮らしているこどもは、不満を感じる量が多くなるのである。そして、その不満は、実際の出来事に対応したものなのである。これを、「感じ方の問題」と考えてしまうのは、どうかと思う。「感じ方の問題」に関しては、以前書いたので省略する。

基本的には、「不満を言わなければ、しあわせになる」といった言葉は、相手の実感を無視する感覚によって成り立っている。

不満を言いたくなるような出来事の総量は、人によって変化がなく、だいたいおなじであるという前提に立ってものを言っているのである。このような前提自体がまちがっているので、結論もまちがっている。

その結論は、相手の現実、相手の実感を無視するものなのである。しかも、表面上は、相手の現実、相手の実感を無視したことになってないのである。相手の現実、相手の実感を理解したうえで「不満を言わなければ、しあわせになる」と言っているということになっている。すくなくても、「不満を言わなければ、しあわせになる」といったことを言う発言者の感じ方はそうだ。

そして、ほんとうは、法則性などはないのに、あたかも、法則性があるような印象をあたる言葉なのである。「不満を言わなければ、しあわせになる」というようなことを言う発言者は、法則性がある言葉をのべていると感じているだろう。しかし、法則性なんてない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ようになっているのである。相手の実感を、無視することが理知的で合理的な態度だという暗黙の了解がある。それは、社会の洗脳によってつくりだされたものだ。

「不満を言うから、不幸になる」「不満を言わなければ、しあわせになる」……自殺に追い込む言説

 めちゃくちゃに、言いにくいことなのだけど、正しそうに聞こえることが、結果的には、人を追い込んでいる。

実際の、不幸量、実際の不満量には、差があるのに、その差を無視して、同じ量の不幸量、同じ量の不満量というものを想定して、不満を言いやすい性格というものをつくりだし、「不満を言いやすい性格の人は、不幸である」というようなことを言うのである。

そして、「不満を言うから、不幸になる」とも、言うのである。こういうことを言う人が多ければ、差において、比較劣位になる人が、自殺に追い込まれる。

もちろん、「不満を言いやすい性格の人は、不幸である」とか「不満を言うから、不幸になる」とかと言う人は、ほかの人(比較劣位である人)を自殺に追い込んでやろうと思って言っているのではない。「いいこと」を言っているつもりなのである。

さらに、たとえば、「不満を言わなければ、しあわせになる」と言ったとしよう。これがまた、比較劣位の人を傷つけるのである。自殺に追い込むのである。このしくみがわからないかな? どうしてかと言うと、不満を言わなくても、強烈に不幸なままだからだ。

どうして、わからないのか? 

これ、ぼくが言っていることは、とてつもなく、うけないというのことは、よく知っている。

「不満を言うから、不幸になる」「不満を言わなければ、しあわせになる」と言ったほうが、もっともらしいことを言っているような印象をあたえる。

しかし、現実社会においては、そういう言説がやはり、比較劣位である人を追い込むのである。このしくみが、ほかの人にはわからない。

 

 

 

 

 

2023年9月9日土曜日

絶対量

絶対量というものを考えるべきなのである。幸福なうちに生まれた人が一日一の量、つらい思いをするとする。不幸なうちに生まれた人が一日に一〇〇の量、つらい思いをする。一〇〇日経過すれば、幸福なうちに生まれた人は一〇〇のつらい思いを経験し、不幸なうちに生まれた人は一万のつらい思いをするということになる。

そして、幸福なうちに生まれた人が、不幸なうちに生まれた人に、「俺だってつらい思いをした」と言ってしまうのである。「どれだけつらい思いをしても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言ってしまうのである。一〇〇日目ですら、九九〇〇の差がある。そういう差を、幸福なうちに生まれた人は、無視してしまう。

ちどれだけつらくたって、笑えばいいことがある」と言うのである。

けど、不幸なうちの人がが、無理やり笑ったところで、いいことなんてないんだよ。どうしてかというと、不幸なうちで生活しているからだ。構造的に、不幸なのである。構造的に不愉快なことが起こるようになっているのである。構造的に、腹だたしいことが起こるようになっているのである。

それは、たとえば、ほかの家族によってもたらされるものなのである。

だから、ほかの家族の性格というのは、影響がある。「いいこと」があるとか、「悪いこと」があるとかということに、一緒に暮らしているほかの家族の行動が関係している。影響がある。

ところが、そういう「環境」はガン無視して、ただ単に、「不幸だと感じる人は、不幸なのだ」と言ってしまうのである。

不幸なうちでも、幸福なうちでも、おなじことが発生しているのに、「不幸だと感じる人は、不幸だと感じて、幸福だ感じる人は、幸福だと感じる」というのである。

ようするに、不幸だと感じる人の感じ方の問題なんだということだ。

そして、「そういう感じ方をもっている人が悪いのだ」ということを言うのである。ようするに、「不幸な人の自己責任だ」というのである。幸福なうちに生まれた人が、気取って、えらそうに、そういうふうに言うのである。

しかし、「不幸なうちでも、幸福なうちでも、おなじことが発生している」という前提がまちがっている。こういう前提をかくして、結論を言うのである。

そうなると、「不幸なやつが悪いんだ」というような印象をあたえることに成功する。「不幸な人は、なんでもない出来事を、不幸な出来事だと受け止めるから、悪いんだ」というような印象をあたえることに成功する。

ところでなんだけど、絶対量の差を無視して、あたかも、「不幸な人の性格が悪いから不幸なんだ」とか「不幸な人が、普通の出来事を不幸な出来事だとらえるから悪いんだ」というような話を、聴いて、不幸な人が、よろこぶと思う?

絶対量を無視して、「自分は、つらくても、だいじょうぶだだいじょうぶだと自分に言い聞かせて生きてきた」というような武勇伝を、語りだすのはどうかと思うな。そして、これも、そういう話を聞いて、不幸な人が、いい話を聴いたと思うと思っているの?

絶対量を無視するな。ちがう環境で生きているのだから、不幸な出来事の量もちがう。そういうことを無視して、あたかも、同じ量をあびてきた(同じ量の不幸な出来事が起こった)という前提でものを言うな。同じ量の不幸な出来事が起こったという前提でものを言うのであれば、もちろん、自分は、相手より優れているということを自慢している。そういう自慢話を聴いて、聴かされたほうは、いい気分になると思っているの? いいことをしたと思っているの?

いいことをしたと思っているなら、まちがっている。基本、こういう話を聴かされたら、不愉快になるんだよ。説教しているほうが、いい気持になっているだけじゃないか。こんなことをして、いい助言をしたと思っているなんて、どんだけ、自己チューなんだよ。どんだけ、幼稚なんだよ。

不幸な家……親が気ちがいであるような家に生まれると、そうではない家に生まれたやつに、えらそうなことを言われる羽目になる。こいつらだって、機関銃のように攻撃してくるきちがい的な親と一緒に暮らしていたら、不愉快な思いをすることになる。そうなれば、不愉快そうな顔つきにもなる。それなのに、これも、得意がって批判するのだ。絶対量が少ないやつが、絶対量が多いやつの批判をする。絶対量が多いやつは、ただ単にいい親にめぐまれたから、普段、たてつづけに、不愉快な思いをしなくてもいい状態で暮らしているだけだ。それなのに、まるで、能力の差のように、自慢をする。

しかも、国家や社会がそういうことを奨励しているのである。そういう価値観をばらまいて洗脳をしている。これ、気がつけよ。

「不可避である」

 普通の人がわからないのは、鳴っているときのからだの状態でもあるわけだけど、鳴り終わったあとのからだの状態もわからない。なので、言っていることがずれてしまうのである。これどれだ、ぼくが正確に記述しても、「体験」がない人にはわからない。そして、かなり特殊な家族によってもたらされたことなので、ほかの人には、わからない。どうしてかというと、ほかの人には、「その特殊な家族」がいないからだ。特殊な家族と一緒に暮らしたことがない人は、特殊な家族が、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為をやるのかわからない。そして、きちがい行為に関する、特殊な家族側の「記憶」が、普通の人が考えているような「記憶」ではないのである。こういうこともわからない。実際に、「経験」がないのだから、そんなのはまったく、関係がない話だ。だから、基本的に僕が言っていることがわからないのである。

たとえば、鬱とか、つかれというものも、ほんとうは、わからない。ぼくが、ヘビメタ騒音によって経験した「打つ」とか「つかれ」というものが、ほかの人にはまったくわからない。そして、ほかの人たちというのは、共同幻想にしたがって生活しているのだけど、その共同幻想にしたがうと、「無職」や「引きこもり」といったものに関する偏見が生まれてしまう。その偏見は強固なものであって、一生続くものだ。修正の必要性は、一生涯のあいだか信じることができないものなのである。なので、普通に、ぼくのことをばかにしてくるということになる。しかし、この「無職」や「ひきこもり」という属性は、きちがいヘビメタ騒音によって、発生したものなのである。これ、きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、ぼくがそういう属性を獲得してしまうということはなかった。で、この属性の獲得なのだけど不可避」なのだ。やられたら、不可避なのだ。あの態度で、あの時間の長さやられた不可避なのだ。あの期間の長さやられたら、不可避なのだ。けど、やられたことがないほかの人にとっては、「不可避である」ということがわからないのだ。なので、ぼくに対して「まちがった」態度をとるようになるのである。

たとえば、一番強い言霊信者というものかを考えたとする。その強い言霊信者が、ヘビメタ騒音のなかで「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ」と言ったとしても、だいじょうぶじゃないのである。長く続けは、しんどくなるのである。 こいつらは、たとえば、朝の状態と、夜のヘビメタが関係がないと思っているのである。けど、関係がある。これに関しても、「うこげるうごける」とどれだけ言っても、動けない日がくる。そういうときがくる。何年間も毎日、自分が、この世で、一番嫌いな音をずっと、鳴らされ続ければそうなるのである。ところが、そういうことを、言霊主義者は無視してしまう。

経験のない人にとっては、「ヘビメタ騒音」はそういうものでしかないのである。あるいは、経験がない人にとっては、「ヘビメタ騒音の話」はそういうものでしかないのである。しかし、こっちには、鳴っていた時間がある。そして、眠れなかった時間がある。そして、眠れなかったのに起きて、無理やり動いていた時間がある。この無理やり動いていた時間が「鬱」をつくりだすのに、そういうことがわかってないやつが、「鳴っていなければ関係がない」と言うのである。

ずっと語ってきたけど、言霊理論は、妄想的な理論なのである。妄想を語るな。こっちは、現実の事実について語っているんだ。現実の出来事について語っているんだ。ずれた話を持ち出しているということに、いいかげん、気がつけ。

 

2023年9月8日金曜日

俺の人生は、最高なんだろうな

きちがい兄貴がヘビメタ騒音を鳴らさなかった場合の、俺の人生は、最高なんだろうな。そりゃ、きちがい親父はいるけど、きちがいヘビメタ騒音がなければ、一八歳で、きちがい親父とさよならできる。そのあと、一切合切あわないですむ。だいたい、きちがいヘビメタがなければ、塾の講師のアルバイトだってできるし、ダイヤとツーリングに行ったり、あの子とつきあうことだってできた。そういう生活をおくったあと、学問で食えるようにして、学問研究をすることができた。そうすれば、佐藤(仮名)やその他のやつだって、学問研究で食べている人だという第一印象ができるわけだから、態度がちがう。そして、この第一印象と「事実」が一致している。これが、大切。通信制の大学だって、生徒としていくことはなかった。「その年で働いてないのはおかしい」と考える主婦に、影口をたたかれることもなかった。無職でいると、裏にまわって、陰口を言う主婦に遭遇してしまう。これ、その主婦は、俺が嘘を言っていると思っているのだ。ヘビメタ騒音なんて、鳴ってなかったか、大げさに言っているだけだと思っているようなのである。こういう、バカなやつにばかにされる。家のなかにいる、きちがいが、バカなやつがどんだけ考えても思いつかないような感覚と態度で、きちがいヘビメタを鳴らしているとこういうことになってしまうのだ。こいつらは、ヘビメタ騒音が鳴っている一日も想像できないし、ヘビメタ騒音が鳴っている7年間も想像できない。通う必要がある七年間を想像でない。ヘビメタ騒音が鳴っているにもかかわらず、学校に通う生活を七年間も続けていたら、それ以降、通勤通学ができなくなるということが、からだで、わかってない。あたまでもわかってない。こいつらの想像をこえる事実なのである。こいつらが想像できない「体調」なのである。こいつらが想像でない「毎日」なのである。こいつらか想像でない「一年」なのである。

わかっている人と、わかってない人、はっきりと区別がつく。

 ほかの人が考えているよりも、ヘビメタ騒音の影響はでかい。やはり、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、ずっと鳴らしているわけだから、影響をうける。一倍速の時間というのは、普通の時間だ。みんな、現実的には一倍速の時間のなかで暮らしている。一倍速の時間のなかで鳴っている「実際の、きちがい兄貴が鳴らしたヘビメタ騒音」というものを、ほかの人たちは、ぼくの部屋で聞いていない。ぼくのうちで、聞いていない。なので、耳をふさいでも、がんがん聞こえてくる、空間がわからない。時間の経過を考えると、時空間ということになるかもしれいないけど、実際の、鳴っている空間は、空間自体がひどいものなのである。「無視」できない。影響がある。びんびん、感じる。がんがん鳴っている。脳みそを直接、がんがんたたかれているような感じだ。無視できない。で、鳴っている時間だけではなくて、鳴ってない時間が問題なのだ。すぐに鳴りやむ騒音を聞いて暮らしている人は、鳴ってない時間の影響のでかさがわからない。何度も言うけど、うちでだけ鳴っている騒音なのだ。となりの部屋に住んでいるのは、ぼくだけなのだ。舌の部屋と、となりの部屋では、音の伝わり方がちがう。床が、おなじだから、床の振動もある。この床の振動が、「圧力」をうみだしているのかもしれない。ともかく、ほんとうは、一秒だって、たえられないような音で鳴っている。

みんな、自分のことではないから、「気にしなければいい」とか「鳴り終わったら関係がない」というけど、気にしないということはできないし……事実上どれだけがんばってもできないし……鳴り終わったあの影響もでかい。鳴り終わったあとの影響を無視している人が言うことは、全部まちがっている。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だってつらい思いをした」と、そいつは言うのである。そいつが、長年サラリーマン生活をしているのであれば、長年サラリーマン生活ができるぐらいのつらさなんだよ! そいつだって、一一歳から一八歳にかけて、おなじように鳴らされれば、通勤通学ができないからだになるんだよ。もちろん、ヘビメタではなくて、そいつがこの世で一番きらいな音が鳴っているという前提が成り立っているものとする。だれだって、苦手な音はある。ヘビメタが好きなやつだって、苦手な音がある。その音が、あのしつこさで、ずっとずっと鳴っているということがどういう意味をもっているのか、経験すればわかる。けど、その人の近くには、きちがい家族がいない。だから、わからない。きちがいがやるとなると、ちがうのだ。きちがいがやる場合と普通の人がやる場合は、あきらかに、ちがう。ちがうんだけど、きちがい的な家族がいないので、わからないのだ。きちがい的な家族のやり方がわからない。実際の生活のなかで、きちがい家族と一緒に暮らした経験がないのでわからない。わからないということすら、感覚的にわからないという意味で、わからない。ぜーーぜん、ちがう。どれだけ、ぜーんぜんちがうと言っても、わからない。わからないということは、わかる。その人がわかってないということは、ぼくはわかる。どうしてかというと、言っていることで判断できるのだ。わかっている人と、わかってない人、はっきりと区別がつく。わかっている人は、そんなことは言わないということを、得意げに語りだすやつが、わかってない人だ。そういうことを言ってしまうということ自体が、「わかってない」ということを明示しているのだよ。

「おしだされるもの」が並じゃない

 ほんとうに、ヘビメタ騒音が鳴っていると、「おしだされるもの」が並じゃないのである。鳴ってない人には想像もつかないものが、押し出される。「なんでこんなふうになってしまうんだ」ということが、連続的に押し出される。東側の空き地に家が建ったときだってそうだ。きちがい兄貴の騒音と工事の騒音、ダブルで、つらかった。で、また、引っ越してきたやつがうるさいやつなのである。ダブルで鳴っていたときの、あのつらさと言ったらない。そして、家族だというのに、まったく理解しないで、入試だろうがなんだろうが、一分もゆずる気がないから、一分もしずかにしないで鳴らしていた。入試前日、ほんとうに、きちがい兄貴を殺してやりたかった。ものすごい状態なんだよ。工事の音ときちがい兄貴の音で、気がくるいそうだった。これだって、文章で書くと、こんなものだ。けど、ちがうのである。あの時間の連続はちがう。

2023年9月7日木曜日

そんなことが言えない状態になる。

 もし、ヘビメタ騒音相当の騒音が人生のなかであった人なら、ぼくの言うことに賛成するのである。「ヘビメタ騒音で、通勤できなくなった」「ヘビメタ騒音で、通学できなくなった」「ヘビメタ騒音で、週三回のアルバイトですらできなくなった」……賛成してくれる。「そうだよな」と言ってくれる。「そのとおりだ」と言ってくれる。ところが、ヘビメタ騒音相当の騒音がなかったやつが「俺だって、騒音ぐらいあった」と言って、「通勤は可能だ」と言うのだ。こんなのは、嘘だ。そうでなければ、頭がおかしい。たとえは、通勤している人が、「俺だって苦労した」と言うけど、だから俺(エイリ)が、通勤できるかというとそうではないのだ。「騒音があった」「苦労した」……けど、普通に通勤できるからだだ。通勤できるので、できない俺(エイリ)に対して、通勤できると言うのだ。けど、その人たちが言う、苦労とか、騒音というのは、ヘビメタ騒音相当の騒音ではないし、ヘビメタ騒音相当の苦労ではないのだ。だって、できるわけだからさ。人間なら、だれでもできなくなる。それが、きちがい家族による、きちがい騒音だ。しつこいしつこい、騒音だ。ほんとうに、気持ちが破壊されるのである。睡眠回路が破壊されるのである。生活体力が破壊されるのである。どれだけ、しんぼうして、たえたとしても、そうなる。そうなることはきまっている。人間のからだを使っているならそうなる。ところが、きちがい家族がいないやつが、「俺だって、騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と言うのだ。そいつは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないのである。そして、今現在、げんに、通勤しているのである。仕事をしているのである。それ自体が、通勤できなくなるような苦労じゃなかったというとの証明だ。それ自体が、仕事をすることができくなるような騒音じゃなかったということの証明だ。

*     *     *

「そんなのは、気の持ちようだ」「そんなのは、受け止め方の問題だ」「元気だ元気だと言えば元気になる」……。こんなことを言うやつらが、経験した苦労というのはなんだ? きちがいヘビメタ騒音相当の苦労を経験したら、絶対にそんなことは、「くちがさけても」言わない。言えない。「ちがう」ということがわかるからだ。「そんなんじゃない」というとがわかるからだ。ほんとうに、ちがうのである。そんなたてまえが成り立つような状態じゃないのだ。そんなたてまえは、どれだけたもとうとしても、一年間でふっとぶ。そんなことが言えない状態になる。これがわかってないのだから、わかってない。これがからだでわかってないということは、そういう経験がなかったというとを意味しているのだ。ぜんぜんちがう。

そういうことを信じていられるということが、ヘビメタ騒音相当の苦労じゃないということだ。そういうことを信じていられるというとが、そういうことを信じていられるような苦労でしかないということを、物語っている。証明している。明示している。だれでも、人間なら、そんなことは言ってられない状態になる。そういう状態がわかってないということが、わかる。「そんなのは、気の持ちようだ」「そんなのは、受け止め方の問題だ」「元気だ元気だと言えば元気になる」……こんなことが言えない状態になる。これ……こういう言葉……は、まちがっているということが、わかる。これ……こういう言葉……は、嘘だということが、否応なくわかる。やられ続けて、気がつかないなんてことはないんだよ。気がつかないなら、それは、それだけのものだ。ちがうのである。ぜんぜん、ちがう。うぬぼれているからそう思っているだけだろ。あるいは、他人の状態に対する理解力がかけているからそういうふうに思っただけだろ。ちがうのである。ぜんぜーーん、ちがう。ちがうと言ったら、ちがう。

死ぬときにすべてわかるというのは、いい設定だな

 死ぬときにすべてわかるというのは、いい設定だな。それだと、気が楽だ。AさんとBさんがいて、Aさんを優先したので、Bさんの質問にこたえられなかったのだけど、Bさんが起こっていたんだよな。気持ちがわかる。「なんで無視するんだ」と書いて、怒っていたわけだから……。そりゃ、まあ、自分が質問したのに、相手が無視してこたえないというのは、「むかつく」ことだよな。でっ、まあ、いまは、Aさんには「(なんでそんなに気にしているのかわからないけど)(俺ことは)気にしないで」書いて、Bさんの質問にこたえるべきだったと思っている。けど、じゃあ、そのときどうして、そうしなかったかというと、「(なんでそんなに気にしているのかわからないけど)(俺ことは)気にしないで」と俺が書くと、Aさんが傷つくような感じがしたのである。可能性は、否定できない。なので、Aさんの気持ちを優先してしまったのである。けど、やはり、あのときは、Bさんの質問こたえることを優先するべきだったと「いま思っている」のである。で、「なんで無視するんだ」に対する回答は「Aさんを傷つけたくなかったから、こたえられなくなってしまった。俺はほんとうはこたえたかった」というものになる。で、そういうことを、空中にむかって、言っておくと、Bさんが死ぬときに、「ああそうだったのか」とわかるということが起こればいいなと思っている。Bさんがいつ死ぬのかはわからない。ぼくのほうがさきに死ぬかもしれない。そのときも、Bさんが死ぬときに、あのときはこういうことだったんだなということが、わかる……という設定だと、気持ちが楽ではある。けど、考えてみれば、もっとひどいことを、ぼくは、言われているんだよね。ひどい態度のやつは、ひどいことをして、ひどいことを書いて、怒り狂っている。これ、頭がおかしいから、自分が悪いことをしているのに、自分が起こっているんだよね。まあ、簡単に言うと「あらし」なんだけど……。「あらし」じゃなくても、ひどいことを書くやつはいる。でっ、そいつは、ひどいことを書いたということがまずわからないし、ひどいことを書いたということについて、(人生のなかで)反省するわけでもない。だって、そういうやつは、そういうモードで生きているから、すべての機会において、そういうことをするのである。まったく悪いと思ってねぇーーよ。あくどい人が、あくどいことをした場合、相手のことなんて考えないで「やった」と思うわけだよ。「やった」とよろこぶわけ。そして、「俺は才能がある」と思うわけ。だから、反省なんてしない。ここらへんの道徳観の問題は、議論をしてもしたがない部分というのがある。


 

しかし、いろいろ、ありすぎたな

 しかし、いろいろ、ありすぎたな。どーすんだ? 俺??

きちがい兄貴が無視して鳴らすところが、うかぶ。

きちがい兄貴の感覚というのは、ほんとうに、普通の人の感覚じゃない。異常な人の感覚だ。あれ、自分で感覚器を書き換えているの、わかってないのかな? 普通の人だったら、鳴らしたくても鳴らせない音で鳴らしている。しかも、おとうとがずっと、「やめてくれ」と言ってきているのに、絶対にやめない。絶対にやめないということを、絶対に気にしない。自分は、こだわってこだわって、鳴らすけど、完全に関係がない人なんだよな。これ、わかる? こんなのは、おかしい。普通の人じゃない。

普通の人じゃないから、ほかの人にはわからない。だって、ほかの人には、そういうことをする家族がいない。家族の一員がいない。だから、ほんとうにずっと続いてしまうということがない。ないということは、経験がないということだ。そういう経験がないところでものを言う。そうなると、実際とはずれるのである。やれたほうの生活実感というのは、ひどいものがある。これ、どれだけ努力しても、ズタボロなのである。「どれだけ努力しても」ということを言うと、「努力の方向がまちがっている」と、普通の人が言うのだ。その普通の人は、きちがい家族にやられたことがない人だ。きちがい家族が、きちがい的な意地で、でかい音で、自分が一番嫌いな音をずっと毎日鳴らしているということが、経験としてわかってない。 「努力の方向がまちがっている」と言う人は、まちがっている。完全にまちがっている。けど、これも、きちがい兄貴とおなじように、「わからない」。その人にどれだけ言ったって、通じるわけがないのだ。どうしてかというと、その人は、きちがいヘビメタが鳴ってるということの意味がわかってないからだ。自分がこの世で、一番きらいな音が、ものすごい音量でずっと鳴っているということの効果がわかってない。毎日続くということの効果がわかってない。努力もくそもない。努力の方向もくそもないのだ。他人のくるしみ鈍感な人というのがいる。気ちがい兄貴なんてそのさいたるものだ。そういう人間に、際限なく、やられた場合の状態というのが、こういう人たちにはわからない。わからないから、わからないまま、クソみたいなことを言う。どんだけ、頭にくるかわかってないな。こいつらが、鳴らしたわけではないということは理解している。しかし、こいつらときちがい兄貴は、『影響を無視する』という点ではおなじだ。影響を無視するな。

2023年9月6日水曜日

もう、一兆キロぐらい離れている

 老化なら、生きていれば、いずれは自分にも発生することであり、まわりに老人がたくさんいるので「そんなものなのかな」と思うことができる。しかし、「ヘビメタ騒音」だと、まわりにそんなことで悩んでいる人がいないし、自分との関係を考えられるわけではないから、『そんなのは関係がない』と簡単に無視することができることなのである。けど、ぼくの生活というのは、ヘビメタ騒音がはじまってから、ヘビメタ騒音でくるしいものだったのである。ずっとずっと、くるしいことなのである。で、この「わからなさ」「つうじなさ」が、いろいろな人間関係に影響をあたえるのである。そして、事実ヘビメタ騒音が鳴っていたので、社会的な地位が落ちていくのである。そうなると、かっこうの攻撃対象になるのである。そうなると、偏見の目で見られるようになるのである。そうなると、まず偏見の目で見たあとに、ヘビメタ騒音のことについて吟味するということになってしまうのである。「無職」の人は、悪い人だということになっていると、悪い人が言っていることだから、嘘に違いがないと思うようになるのである。こういうことが、つみかさなる。ヘビメタ騒音で引きこもりとよべる状態に追い込まれたのに、ヘビメタ騒音にやられてない人が、ヘビメタ騒音なんて関係がないと思うのである。俺の話を聞いてもそう思うのである。そして、引きこもりの人だから、お兄さんにうまく言えなかったにちがいがないと思うようになるのである。兄貴がきちがいだから、無意識的なレベルで感覚を無視して、でかい音で鳴らしていたのに、俺がコミュ障だから、お兄さんに言えなかったんだと思うようになるのである。ヘビメタ騒音に関する俺の話を聞いても、そう思うようになるのである。まず、偏見が成り立っているので、偏見にあわせた解釈をするのである。そういう、普通の人がどれだけ多かったか。これ、割合で言えば、九〇%以上なのである。そして、言霊のような、まったく役に立たない助言をするのである。

実際に、きちがい家族による毎日のヘビメタ騒音を経験したことがない人には、それがどういうことをもたらすのか、まったくわからない。実感は、まったくない。なので、勝手なことを言えるのである。けど、本人は本人のレベルで「理解したつもり」なのである。どれだけの乖離があるか。実際のヘビメタ騒音と、そいつの頭のなかにあるヘビメタ騒音のイメージと、どれだけの乖離があるか? もう、一兆キロぐらい離れている。話にならないほど、はなれている。まったく理解してないと言っていいレベルだ。ところが、「理解した」と(相手は)思っているのである。こういうことの繰り返しで、ぼくのこころがどれだけ、ボロボロになったか。誤解している相手に、どれだけ言ったってわかるものではないのだ。実際の経験がないと、実感がないから、わからないのだ。わからない相手が、勝手に小さく見積ったり、完全に無視して、いかがわしいことを言ってくる。この、いかがわしいことというのは、ほんとうに、頭にくることだ。「理解したつもり」になっている他人は、いいことを言っているつもりになっているかもしれないけど、それは、ひどいことだ。むなくそわるいことだ。いかがわしいことだ。まちがったことだ。実感がないからわからないというレベルでもまちがっいるし、偏見にもとづいた思考というレベルでも、まちがっている。

*     *     *

いま、午後6時4分なんだけど、ヘビメタ騒音が鳴っている感じしかしない。ものすごい音圧で鳴っている感じしかしない。あんなの無視できるわけがないだろ。やられてない一般人が「そんなのは無視すればいい」「そんなのは気にしなければいい」と言うのさ。もう、全部が全部と言っていいほど、そういう人生だ。そういうことを言うやつが「気にしなくてもいい」のは、実際に、きちがいヘビメタが鳴ってなかったからだ。きちがい家族がいなかったからだ。うちなんて、ふたりも、いるんだぞ。実際にやられてなければ、一日の量だってわからない。実際に五〇〇〇日やられてなければ、五〇〇〇日つみかさなったときの、しんどさがわからない。わからなければ、「ない」のだよ。自分には関係がないし、自分の身の上にはそういうことが発生しなかった。そういうやつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、勝手なことを言ってくる。「人間働くべきだ」というのもそういうことの、ひとつだ。頭にくるだろ。こいつらのやったことは、忘れない。こいつらが、俺にやったことは、忘れない。俺は忘れない。

絶対に、ほかのうちではないことなのである

 みんなが、実感として無視していることなのだけど、きちがいヘビメタ騒音で、つらかった。そのつらさというのが、ほんとうに、毎日毎日つみかさなるつらさなんだよ。

そして、「きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、こんなことにはなってない」ということがつみかさなっていく毎日なんだよ。実感としてどれだけつらいのかということは、毎日、何年間も、きちがいヘビメタ騒音相当の音が続いた人じゃないとわからない。

言っておくけど、「どんなにつらくても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなことを信じている人には、想像もつかないつらさだ。「どんなにつかれていて、元気だ元気だと言えば元気になる」というようことを信じている人には、想像もつかないつらさだ。毎日というのがつらいんだよ。つみかさなるわけだからさ。

けど、実際に毎日つみかさならなかった人には、わからない。

そういう人だって、たしかに、「騒音ぐらい」はある。

けど、ちがうのである。

きちがい兄貴がまず、ちがう。きちがい兄貴はきちがいだから、ああいう音で鳴らすということにまったく抵抗がなかったけど、普通の人だったら、抵抗があることなんだよ。まあ、きちがい兄貴にしても「よそ」では、ああいう音で鳴らすことには抵抗があるみたいなのである。

けど、「うち」では、ほんとうにまったく抵抗がないのである。

「やっていいことをやっている」という気持ちしかない。それが出発点だ。普通の人だったら絶対に、鳴らせない音で鳴らしている。これが、普通の人にはわからないのである。

どうしてかというと、普通の人の家族は普通の人だからだ。

もちろん、普通の人だって、テレビの騒音やステレオの騒音で家族ともめることがあるかもしれない。けど、家族が、きちがいでなければ、カタがつくのである。

ところが、家族が、きちがいだった。この、きちがい家族のことに関しては、ほかの人はまったくわからないのである。

そして、目立たないことなんだけど……きちがいヘビメタ騒音のことを言ってるときは目立たないことなのだけど、父親がきちがいなのだ。きちがい親父がいるということがもつ意味、というのが、ほかの人には絶対にわからないことなのだ。

これ、普通の家だったら、……もし、きちがい兄貴だけがきちがいだったら、そりゃ、親が「やめさせる」のである。せいぜい鳴らしていても、六カ月間だ。それをこえて鳴らすということは、子供側の人間かきちがいであったとしても、ない。

ところが、きちがい兄貴のほかに、きちがい親父がいるので、そういうことが成り立ってしまうのである。普通に、成り立ってしまうのである。

この、きちがい親父が協力してくれない状態というのは、ありえない。きちがい親父が、きちがい兄貴の騒音について、まったく理解しないということも、ありえないことなのである。そして、きちがい親父が、きちがい兄貴にまったく注意をしないということも、ありえないことなのである。そして、きちがい親父が、毎日毎日、きちがい兄貴に注意しなかったのに、「注意してくれなかった」と一五年目に言われれば、「注意した、注意した」ときちがい親父が、荒れ狂うということも、絶対に、ほかのうちではないことなのである。

過去は関係がある。 過去の出来事は、現在に影響をあたえる。

相手の過去を無視するということは、相手の現在を無視するということなのだ。これが、わかってないやつが多い。相手が今現在抱えている状態というのは、時間経過によってできあがったものなんだよ。たとえば、老化した人は、時間経過によって老化したんだよ。Aさんが八〇歳で、Bさんが三〇歳だとする。 BさんがAさんに「過去は関係がない」「過去の出来事は現在に影響与えない」と言ったとしよう。言われたAさんの、現在の状態が、その言葉でかわるのかどうかということを考えた場合、かわらないということが言える。Aさんの「八〇年の過去」を言葉で否定したって、Aさんの状態はかわらない。Aさんは、八〇歳で、八〇年の時間経過によって、老化した。この事実はまったくかわらないのである。たとえば、八〇年の時間経過によって、肝臓が機能不全を起こしたとする。その場合、「過去は関係がない」「過去の出来事は現在に影響を与えない」と言われたところで、肝臓の機能不全はかわらない。なので、肝臓の機能不全をかかえているというAさんの状態はかわらない。Bさんが、勝手に無視しているだけなのである。Bさんが勝手に、Aさんの現在の状態を無視して、「過去は関係がない」「過去の出来事は現在に影響を与えない」と言っているだけなのである。

過去は関係がある。

過去の出来事は、現在に影響をあたえる。

過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえる。

 

過去の出来事は、現在に影響をあたえる。

過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえる。

 

「どんなに」という言葉を軽々しくつけることはやめるべきだ。

 ほんとうに、つらい思いをしたやつが、「どんなにつらくても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言うと思う? そいつが経験したつらさというのはなんなのか? こんな意見を保持できるやつが、感じたつらさというのは、なんなのか?

「どんなにつらくても」というように「どんなに」という言葉を軽々しくつけることはやめるべきだ。これ、ほんとうに、人のつらさがわからないやつは、軽々しく、こういう言葉を口にする。「どんなことがあっても」「どんなにくるしくても」「どんなに悲しくても」……。どんなにという言葉をつけると、そのあとの言葉に、あらゆる、主観的な体験が含まれてしまうのだ。こんなの、相手のつらさをまったく理解できないやつが、使う言葉だ。自己チューなんだよ。幼児的万能感があるから、幼児的万能感に支配された言葉を言うわけ。そして、助言は役に立たない。「楽しい楽しいと言うこと」が助言の内容になるけど、これは、まったく役に立たない。どれだけ役に立たないかわからないのかな? 魔法的な解決法は意味がないと言っているだろ。ほんとうは、これ、本人の日常生活のなかでは、使われていない解決方法なのである。どうして使われないかというと、役に立たないからだ。まったく役に立たない。本人だって、現実的な問題に関しては、そんな方法は使ってない。こいつらが、たとえば、言霊を批判されたときに、どんな気持ちになるか? 腹がたつだろ。その腹がたったとき、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるか? その、腹がたったとき、「うれしいうれしい」と言えばうれしくなるか? ただが、言霊理論を批判されただけなんだぞ。そして、批判には、意味があるんだぞ。理論的に、批判しかえすということを考えなければならない。そして、理論的に批判しかえすということができないなら、「どんなにくやしくても」相手が言ったことを認めるべきだ。

理論的に批判されるということが、一(いち)ぐらいの、不愉快なことなら、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が一(いち)秒間鳴っているということは、一千万ぐらいの、不愉快なことだ。そんなことを毎日やられていいわけがないだろ。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「楽しい」なんて言ったって楽しくならないよ。さらに、「一秒後には、きちがい兄貴が正常な兄貴になって、ヘビメタをでかい音で鳴らすことをやめてくれる」と言ったって、ぜんぜん、やめなかった。事実はこうだ。

言霊を用いた解決方法の問題点は、ほかの方法にも成り立つ。「どんなに、なになにでも、XをすればYになる」というような構造をもつ方法には、言霊と同じ問題が成り立っている。



 

2023年9月5日火曜日

こういう詭弁がはやっている

 ほんとうの原因を無視する思考方法がはやっているのだ。ほんとうは、厳然とした格差がある。この格差が、結果のちがいを引き起こしている。ところが、格差だけは、頑固に無視しして、別の理由を考え出し、別の理由が結果のちがいを引き起こしているというのだ。こういう、詭弁。こういう詭弁がはやっている。

きちがい的な親のもとに生まれたか、やさしい正常な親のもとに生まれたかということは、重要なことだ。「格差」がある。この格差を無視して、「明るい思考ができるかどうか」に着目するのである。きちがい的な親のもとに生まれたこどもは、きちがい的な親が虐待してくるので、明るい思考をもちにくい。そして、やさしい正常な親のもとに生まれたこどもは、いろいろな成功体験を親がつませてくれるので、明るい思考をもちやすい。実際に、きちがい的な親のもとでは、トラブルが多発して、苦しいことがしょうじるのである。そして、実際に、やさしい正常な親のもとでは、楽しいことがしょうじるのである。くるしいことを不愉快なトラブル。楽しいことを成功体験と言ってもおなじだ。

その場合、(こどもが)明るい思考をもちやすいか、(こどもが)暗い思考をもちやすいということは、親が正常かどうかということが、ほんとうは、影響している。ところが、「親」という要素を、がん無視して、明るい思考をもっているこどもにはいいことが起こり、暗い思考をもっているこどもには、悪いことが起こると言ってしまうのだ。ほんとうの原因を無視して、ニセの原因を考え出し、ニセの原因が結果のちがいをひきこ押しているというのだ。しかも、ニセの原因は、結果の言い換えにすぎない。ようするに、原因ではなくて、結果の別の側面に言及しているにしかすぎない。結果の別の側面を、原因と言い換えているのだ。こういう詭弁がはやっている。


 

 

 

そして、兄貴自身は、まったく気がついていない

 きちがい兄貴がきちがいだと、ぼくが人知れず、こまるということになってしまうのだ。きちがい兄貴のやり方は、普通のやり方じゃない。そして、自分がやったことに関する認知のしかたも、普通の人の認知のしかたじゃない。けど、そういうのは、「うち」の人にしかわからない。そして、兄貴自身は、まったく気がついていない。兄貴自身は、そういう、きちがい構造をもっていることで、自分がやっていることを、やってないつもりでやることができる。手放すはずがない。まったく、やってないことなのである。きちがい兄貴にとっては、きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやってないことなのである。やってないことなのだから、関係がないのである。だから、自分人関係があることとして、ヘビメタ騒音というものを認識することができない。そして、きちがい親父とおなじように、ほかの人の、苦痛というのはまったくわからない人間なのである。きちがい兄貴は、ほかの人の苦痛というのはわからない。自分が、「相手をこまらせている」のに、それがわからないのである。この「わからなさ」というのが、尋常ではないのである。普通の人は、どれだけいじわるな気持になっていても、そういうことはしないのである。どうしてかというと、普通の認知機能が働いているので、どうしても、認知してしまうことがあるからだ。いじわるな気持になっていじわるなことをした場合、いじわるなことをしたという認知がどうしても、しょうじてしまう。ところが、きちがい兄貴の場合は、どうてしも、これがしょうじない。きちがいだと、ほんとうに、普通の人が、普通に認知していることを、普通に認知しない。できないのだ。そうなると、「自分の王国」になる。ほんとうに、「やったってやってない」のである。これが、こまるんだよ。

*     *     *

 

2023年9月4日月曜日

自分のからだが老化して、思うように動けなくなった場合

 ヘビメタ騒音で、通勤できなくなったということを言ったとき、「過去なんて関係がない」と言ったやつがいる。そいつが、いまは、無職なのだ。定年退職をまたずに、退職して無職。自分は、職場でいやなことがあったから、働かなくていいのだ。自分は、老化して、むかしのようには働けなくなったので、働かなくてもよいのだ。そういう、思考が成り立っている。こいつは、バカだ。大バカ者だ。自己チューー。こいつにとって、ヘビメタ騒音は、働けない理由ではないのだ。その大バカ者は、「過去なんて関係がない」と言ったあと「人間は働くべきだ」と言ったのだ。こいつは、大バカ者だ。自己チューー。一〇〇%の人が老化するけど、一〇〇%の人が、ヘビメタ騒音相当騒音で睡眠障害になり、生活体力障害になる。老化はからだのしみでそうなる。ヘビメタ騒音生活にしても、一〇〇%人が、通勤できなくなる。それは、からだのしくみでそうなる。ところが、こいつは、自分がヘビメタ騒音相当生活を経験してないので、からだが、ヘビメタ騒音相当生活によって、変化をうけてない。自分が変化をうけてなければ「そんなのは、関係がない」と言い出すのだ。自分のからだが老化して、思うように動けなくなった場合は、自分が変化をうけたので、変化は実感できるものなのである。けど、ヘビメタ騒音生活は、自分が経験したものではないので、変化が実感できないものなのである。「自分が」実感できなければ、「それ」の効果はないのである。相手が言っているだけななのである。そういう、底の浅い解釈しかできないのである。そういう底の浅い解釈しか出ないやつが、えらそうなことを言ってくる。説教をしてくる。さとったようなつもりで、さとったようなことを言ってくる。そういう世界だ。これ、そういう世界なんだよ。

たとえば、自分は老化したので働けないと思っている人がいたとしよう。としをとったので、体力が落ちて、むかしのようには動けなくなったので、働けないと思っているということだ。実際に、からだがしんどくて、つかれがたまりやすく、動くと痛い部分もあるので、働くのはむりだと判断したのだ。その判断は、自分のからだを知っている人の判断だ。しかし、「老化なんて関係がない」「人間は働くべきだ」と言ってくるやつがいたらどう感じるかということだ。さらに、「過去なんて関係がない」と言ってくるやつがいたらどう感じかるかだ。別に、「自分ば老化したので働けない」と思っている人だって、一瞬にして老化たわけではない。長い年月をかけて、老化した。時系列的な変化があるのである。ヘビメタ騒音生活も十年以上続いたので、時系列的な変化がある。からだに、時系列的な変化が起こる。その、時系列的な変化を「過去は関係がない」というひとことで否定してしまってもいいものか? そして、「過去は関係がない」という言葉の意味は、ほんとうに正しいものかなの?

はっきり言うと 「過去は関係がない」という言葉の意味は正しくない。過去が関係ないわけないだろ。自分が老化した場合は、その老化が一瞬して起こって、過去は関係がないと思うのか? ここでも、自己中心的な性格が発揮されている。自己中心的な性格だから、相手のことに関しては、過去を無視して、自分のことに関しては、過去を無視しないというような態度がうまれる。これ、自己チューだからわかってないだけなんだよ。

*     *     *

「過去は関係がない」と人に言ってしまう人は、自己チュー。自分のことに関しては、過去の出来事を重視し、時系列的な変化を重視するのである。しかし、自分のことではなくて、ほかの人のことになると、「過去は関係がない」と言ってしまう。ほかの人の過去は、自分の過去ではないので、安心して、無視できるのだ。ほかの人にだって、ほかの人の過去がある。まあ、そういうことを言えば、「そんなのはわかっている」と「過去は関係がない」とほかの人に言いがちな人も、言うだろう。けど、わかってないのである。自己チューだからわかってない。

「過去は関係がない」とほかの人に言う人は、「過去は関係がないと言っている、俺、かっこえーー」と思って、うぬぼれている自己チューなのである。「さとったようなこと」を言っているわけだけど、ぜんぜんさとってない。自己チューだから、ほかの人のことに関しては、的がはずれた発言をしているだけ。

「過去は関係がない」と言って、こまっている人の現実を吹き飛ばしたような気持ちになっているのだろうけど、こまっている人の現実というのは、その言葉では、かわらない。吹き飛ばしてやったつもりになっているだけ。ほんとうに、自己チュー。

実際に、そういう生活をしないと、そうなるということが、わからない。

 一〇〇%の人が「そうなる」ということを、ほぼ一〇〇%の人が経験してないのだ。だから、経験としてはわからない。わからないから、「そうならない」と思う。これが、問題なのだ。わからないなら、わからないと思えばいいじゃないか。ところが、「そうならない」と決めつけてしまうのだ。「自分はそうならない(自分はそんなことにはならない)(自分は、だいじょうぶだ)(自分は平気だ)」と、思ってしまう。そう思ってしまったら、その人のなかでは、「それ」は「そういうもの」なのである。だから、「自分はそうならない」と決めつけてものを言ってくる。けど、一〇〇%の人が「そうなる」。実際それがつづけば、そうなる。たとえば、ピストルで撃たれたら出血する。どこにあたるのかはわからないけど、出血する。ゆちがいヘビメタ騒音にやられた一〇〇%が睡眠障害になるのだ。それは、ピストルで撃たれたら、出血するということとおなじだ。人間のからだのしくみを考えると、一〇〇%の人がそうなるのである。きちがいヘビメタ騒音と書いたけど、その人にとって、この世で一番きらいな騒音という意味だ。ヘビメタが好きな人は、別に大音量でヘビメタが鳴っていても気にしないだろう。好きなのだから。けど、その、ヘビメタが好きな人だって、苦手な音があるはずだ。この世で一番きらいな音があるはずだ。だから、ヘビメタ騒音と書いたけど、この世で一番きらいな音が大音響で鳴っている場合の騒音という意味だと思ってくれ。で、ピストルの弾丸と、出血のように、『わかりやすいこと』ではないのだ。そんなのは、いっぱい、アニメやドラマで見ている。理論的にもそうなるのだろうなというのがわかる。けど、きちがいヘビメタ騒音は、『きちがい家』だけのことで、『自分のうち』では成り立たなかったことだ。ようするに、「なかったこと」だ。世間の話でも、きかない話だ。超・レアな話なのである。なので、なじみがない。想像できない。そして、理論的にもわかりにくいのだ。実際に、そういう生活をしないと、そうなるということが、わからない。

2023年9月3日日曜日

主観と意識的な操作

 人から見て、幸福かどうかということは、本人の主観的な感覚とはことなる。ほかの人から見て、不幸そうな感じの人なのに、本人は、幸福だと感じている場合はある。逆に、ほかの人から見て、幸福そうな感じの人なのに、本人は、不幸だと感じている場合もある。

しかし、「だから、思いようだ」ということにはならないのである。

主観的な問題だから、主観をかえれば、そう思うことができる。気持ちの問題だから、気持ちをかえれば、そう思うことができる。こういうふうに、主張する人たちがいる。

これは、まちがいだ。

不幸な人が、自分は幸福なのだと、無理やり思えば、その人が幸福になるかどうかだ。また、幸福な人が、自分は不幸だと、無理やり思えば、その人が不幸になるかどうかだ。 「気持ちの問題だから、気持ちをかえれば、そう思うことができる」と主張する人たちは、意識的な意思と全体的なこころの問題を考えていない。

主観の問題だということと、なのだから、意識的に操作できるということではないのだ。しかし、気持ちの問題だから、気持ちをかえれば、そう思うことができる」と主張する人たちは、主観の問題だから、意識的に操作できると思っているのだ。

主観的な問題だということはあっているけど、「だから、意識的に操作できる」という思い込みは、まちがっている。しかし、この人たちは、主観の問題なら、意識的に操作できると思い込んでいる。「主観の問題だ」という前半部分はあっているのだけど、「だから、思いどおりに操作できる」という後半部分は、まちがっている。

しかし、この人たちは、思慮が浅い人たちなので、前半部分と後半部分を一体化して考えてしまう。前半部分があっているのだから、後半部分もあっていると思って、まちがいに気がつかない。

 

ブラック企業 ブラック家族

 ブラック企業と、ブラック家族というべきものは、似ている。ブラック家族というのは、きちがい的な親がいる家族のことだ。ブラック企業とブラック家族は似ているのだけど、ブラック家族のほうが、ひどい。より、ひどい。ブラック企業のしくみは、通常人が理解できるけど、ブラック家族のしくみは、通常人は、理解できない。逆立ちしたって、理解できない。しかし、似ているのである。きちがい的な親が、きちがい的なことをした場合、どういうことが生じるのか、きちがい的な親のもとで育ったことがないひとは、永遠にわからない。わかるわけがない。質がちがうからな。けど、ブラック企業とブラック家族は似ている。

ひどさだけに注目するなら、ブラック家族のほうが、ブラック企業よりも、一兆倍ひどい。そして、ブラック家族にやられた人は、絶対に、ブラック家族にやられてない人に、理解されない。ブラック企業で起こっていることは、普通の人にも、理解される。理解される範囲内に収まっている。きちがい家族がやることといったら、それはそれは、理解されない。理解される範囲におさまってない。つきでている。つきだしている。そういう部分がある。けど、そういう部分は、固有のきちがい的な親にやられた人じゃないとわからない。

きちがい側の「無意識」が問題をつくりだす。きちがい側が、きちがい的な意地でやったことは、きちがい的な意地で、きちがい側が認めない。あたかもやってないような感じで暮らしている。こんなのは、ない。普通の人の場合は、その人がきちがい的な意地でやったことは、覚えている。「やった」と言う感覚がある。この感覚がないのである。こんなのはない。だから、すべてが、この、見えない「無意識」という構造にからめとられてしまうのである。ブラック企業の場合は、ブラック企業といっても、「ひとのめ」はある。まあ、零細だとどうだかわからないけど……。ブラック家族だと「ひとのめ」が完全にない状態なのである。やりっぱなし、意識しないままで、生活できる。意地になってやっているほうが、意地になってやってないという前提と意識で、ずっと暮らすことができるのだ。こんなのは、ない。

ヘビメタ騒音自体とヘビメタ騒音派生物

 ヘビメタ騒音自体とヘビメタ騒音派生物はちがう。ヘビメタ騒音派生物というのは、ヘビメタ騒音がしょうじたことによって「そうなってしまう」からだのことだ。物理的なからだが影響をうける。そして、物理的なからだが影響をうけていると、そのあいだの行動の結果が、影響をうけてない行動の結果とはちがってくるのである。そして、それが、「つもる」。つもるというのは、時系列的なことだ。外的には「結果」としてあらわれる。たとえば、学歴とか職歴だ。

2023年9月1日金曜日

きちがいヘビメタ騒音を経験してない人は……

 ヘビメタ騒音「あり」の状態というのがほかの人には、わからないんだよな。だから、かならず、まとはずれなことを言ってくる。これがまた、ぼくにとってはストレスなんだよ。「それはちがうんだ」ということを、相手は、真剣に言ってくるわけだから、ストレスは半端じゃない。しかも、ヘビメタ騒音「なし」の人にはわからないということが、わかっている。ストレスを感じる。みんな、騒音というと、騒音が鳴っているときだけ問題だと思うところがある。ところが、そうじゃないのである。たとえば、前の日の騒音と、眠れない深夜の状態と、ちょっとだけ眠って起きたときの状態は、くっついているんだよ。不可分なんだよ。不可分。わかる? 不可分。鳴っている時間と、鳴ってない時間がはっきりと分かれているわけではないわけ。鳴っている時間は、くるしいけど、鳴ってない時間はくるしくないということではないわけ。一日という区分だって、抽象的な区分だ。実際に、一日単位で、みんなが暮らしているから、実質的な意味を持つのだけど、別に、時間がはっきりと分かれているわけではない。連続しているでしょ。それとおなじなんだよな。鳴っている時間はくるしいけど、鳴ってない時間はくるしくない……こういうふうに設定して、「騒音」というものを考えるんだよ。きちがいヘビメタ騒音を経験してない人は……。けど、それがちがうんだよ。

2023年8月31日木曜日

それ以降の「すべて」にたたっている

 ほんとうに、ヘビメタ騒音は、それ以降の「すべて」にたたっている。これ、正しい文なのである。そして、実際に正しい。「すべて」だから、非合理的かというとそうではないのだ。ほんとうに、すべてだ。

2023年8月30日水曜日

他人との関係に影響をあたえる

 なんで、他人との小さな傷が、大きな傷になってしまうかと言うと、きちがい兄貴やきちがい親父とのかかわりで、全身が傷だらけだからなんだよ。きちがい兄貴との関係で、からだが、傷だらけ。満身創痍。きちがい親父との関係で、からだが、傷だらけ。満身創痍。もう、すべてすべて、限界値に達している。もう、瀕死の重傷状態で、ほかの人とつきあうわけだ。だから、少しの傷でも、致命傷になってしまう。そして、瀕死の重傷状態だから、動きがおそかったりするのである。これは、比喩なんだけど、きちがいヘビメタにやられて、睡眠時間がとれず、慢性的にくるしいわけだから、動きがおそくなるのである。チカラがでない状態になるのである。それは、やはり、他人との関係に影響をあたえる。

それで、たとえば、ネズミ対策工事で、ある意味、親父と似たような人とかかわるようになってしまうのである。この人は、正常な人だ。きちがい親父みたいに異常な人ではない。けど、少しだけ、似ているところがあるのである。この人のことをティーさんと言っておこう。ぼくが、ティーさんにやってほいしいことと、ティーさんがぼくにやってやりたいことがくいちがう場合がある。その場合、プロであるなら、ぼくがティーさんにやってほしいことを優先するべきだ。ようするに、ぼくが「ここはやらなくていい」「お勝手のドアはあかなくもいいから、ぼくが貼り付けたパティをとらないで」と言ったのに、「お勝手のドアは、あいたほうがいいだろ。ネズミがちゃんと入らないようにしてやるからだじょうぶだ」と言うのである。けど、ぼくは、「ドアはあけられなくていいから、ぼくがつけたパティをとらないでくれ」と言ったのだ。言ったんだけど、とっちゃった。「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ」と言う。「とるな」と言ったのに、とった。で、これが、結果的には、だいじょうぶじゃなかったのである。しかも、パティは捨てられないと、パティをもって行かなかったのだ。ようするに、俺がパティをすてることになる。家庭ごみとして捨てることになる。俺は、「とらないでくれ」と言ったんだよ。行為のがわかってないやつがいる。そして、問題がしょうじたとき……ネズミが、お勝手のドアの下から入ってくるようになったとき、電話をしたら、電話に出ないのである。ティーさんが出ない。あとでわかったことだけど、脱腸で入院していた。だから、けっきょく、助けにきてほしいときは、助けにきてくれなかったのである。同種のことを、さらにでかい場所でやられているのである。で、これが、ネズミのことで、いろいろな影響をあたえているのである。ネズミがはいらないように工事をしたのに、二か所、ネズミがはいるようにしてしまったのである。で、ぼくは、何回も「パティはとらなくていい」と言ったのに、とっちゃったのである。じつは、ヘビメタ騒音も影響をあたえている。ヘビメタ騒音のせいで、睡眠時間が普通の人とは、ずれまくっている俺は、ティーさんに「あっちのパティはとらないでください」と言ったとき、三〇時間ぐらい起きている状態だったのである。これ、睡眠がうまくいかない。工事をするとなると、昼間やることになる。ところが、睡眠時間があわないのである。前日まったく寝てない状態で、人に対処することになる。頭が、モヤモヤしているのである。これは、親父の入院や退院、親父の老人ホーム入居などのときも、おなじだ。人と会うことになると、時間の調整ができないのである。前の日から眠ってない状態で人に会うようなことになってしまうのである。だから、頭がモヤモヤしているときに、自分が思っていることを、言うわけだけど、押しが強い人の場合は、こっちが言っていることを、無視してしまうのである。俺が、強く言わなくても、ひとこと言えば、俺が言ったことを優先してくれる人だと問題は起こらないのだけど、自分がやりたいことが優先する人の場合だと、問題がしょうじる。一回、しずかに言っただけでは、納得せず、自分がやりたいようにやってしまうのだ。これ、問題があるよ。俺がティーさんにやってほしいことをティーさんはやるべきなんだよ。ティーさんが俺にやってやりたいことを、やるべきではないんだよ。俺が、「ドアはあけられなくていいい」「パティはとらなくていい」とひとこと言ったら、そうしてくれないとこまるんだよ。

家が古いので、ふるい家のつくりについてよく知っている人じゃないとだめだったのだ。で、そういう人は当然、歳をとっている。「昭和一桁の呪い」と言っているのだけど「昭和一桁」の人は、自分が相手にやってやりたいことが優先する人が多い。ティーさんは、親父のように気ちがいではない。ティーさんの逸脱の程度は、親父とは比べ物にならないほど小さい。けど、「相手が(自分に)やってほしいこと」よりも「自分が相手にやってやりたいこと」をやりたいという気持が、強いのだ。「相手が(自分に)やってほしいこと」よりも「自分が相手にやってやりたいこと」を優先してしまう。こういう人は、部分的には、親父と似ているのである。だから、きちがいではなくても、同種の性格傾向をもっている人たちが、社会にはいる。

きちがい兄貴の騒音で、満身創痍になっていなければ、対処できるのに、それが対処できないのである。睡眠障害と体力障害をかかえている状態で、うまく対処できないのだ。体力障害と書いたけど、これは、まあ、慢性疲労症候群のようなものだと考えてくれ。体力測定で測れるような体力と、生活体力のようなものはちがうのではないかと思っているわけ。たとえばの話だけど、前日眠っていない状態で、体力測定をうけたとする。その場合、なんとか力をふりしぼって対応するわけだけど、意識水準は当然、前日眠っているときとくらべれば、さがっている。そして、「持続時間」というものを、考えなければならない。「気をはって」「無理やり動いている状態」……が、数時間、十数時間にわたって、持続するわけでしょ。無理やり動いている時間の体力というのは、体力測定で測れる瞬間的な体力とはちがうと思うんだよね。十数時間にわたって、持続して行動することができる体力と瞬間的な体力はちがう。ぼくの場合、持続して行動することができる体力も、ヘビメタ騒音以前は、人並みにあった。けど、毎日のヘビメタ騒音が「不可避的に」けずっていく。生活体力というべき体力がさがった。

「敵」のなかで暮らしている

 きちがい家族による激しい騒音というのを、みんな、経験してないんだよな。それが、数千日続いてしまう状態というのを経験してない。その、はげしい騒音が、自分がこの世で、一番嫌いな音なんだよ。だから、この世で一番嫌いな音、家族による騒音、ほかの家族が黙認している騒音、一日のなかで、長時間鳴る騒音という、条件をみたしている。この条件(群)とおなじ条件(群)をみたしたことを経験している人が非常に少ない。人数としても少ないし、割合としたら、無視できるような割合だ。ようするに、九九・九九九九九%ぐらいの大多数の人はぼくが経験した騒音を経験してない。経験してない以上、からだがちがう。

まあ、言いたいことは、こういうことだ。「敵」のなかで暮らしている。「無理解さを発揮する敵」のなかで暮らしている……。 敵の言っていることは、すべて、きちがい家族による激しい騒音なんて関係がないという前提の上に成り立っている。そりゃ、そいつにとってみれば、そういう騒音がなかったわけだから、そういう騒音の影響がわからない。そして、そういう騒音がなかったわけだから、そういう騒音の影響を「実際に受けてない」。そういう騒音の影響がない体で暮らしている。そういう騒音の影響がない体で生きている。これが、ちがう。

いま、ほんとうに、このタイミングで、工事が始まって、がーがー、うるさい。けど、ぼくは、こういう文章を書いている。ががががーーと電動工具でものをけずっているような音がする。けど、ぼくはこういう文章を書いている。きちがいヘビメタ騒音なかで、文章が書けるかというと、書けない。きちがいヘビメタ騒音で頭がいっぱいで、文章を書くということができない。当然「眠る」ということもできない。当然「勉強をする」ということもできない。もう、まったく不可能な状態だ。こういう状態を、一日に何時間も、毎日経験してないやつが、騒音について語る。自分のつらい経験について語る。……それ、関係がないから。そして、そのえらそうなクソ野郎が(毎日通勤できる体を保持している)ということは、そいつの経験した騒音やそいつの経験したつらいことは、(毎日通勤できる体を保持できるよう)な騒音やつらいことでしかないということ意味している。通勤できる体を保持しているのでそういうことが言える。通勤できる体を保持して通勤しているので、通勤してない俺(エイリ)に対してえらそうなことを言える立場を保持できるのだ。発言の意味を考えるときには、発言の背景について考えなければならない。

工事の音源からだいたい一〇メートルぐらいは離れている。そして、きちがいヘビメタの音源とは一メートルも離れてなかった。音のでかさというのは、距離でぜんぜんちがう。音源の音のでかさで想像しがちなのだけど、音源の音のでかさとおなじように、あるいは、それ以上に、音源との距離が影響をあたえる。ぼくの部屋ときちがい兄貴の部屋はつながっている。床もつながっている。床からの個体振動だってある。あのでかいスピーカが、壁のうしろにあるわけだから、当然、床からの振動もある。壁からの振動もある。音ではなくて、振動なのだけど、音に合わせた振動もある。こういうことが「音圧」と表現したくなるようなちがいをつくりだす。ほんとうに、圧力がちがう。無視できない。ぜんぜん、ちがう。

「の」の連続は指摘しなくていい。

人間

人間が、俺とおなじ騒音環境で暮らせば、俺とおなじような精神状態になるとする。そして、俺以外の人間が、俺とおなじ騒音環境で暮らしてないとする。こういう世界なんだよな。実際に俺とおなじ騒音環境で暮らしてない人間は、俺とおなじ騒音環境で暮らしてないので、俺とおなじような精神状態にはならない。なので、俺の言っていることが理解できない。あるいは、理解する必要がない。あるいは、俺の言っていることが『偽』であると思う。その場合、人間は、俺(エイリ)とおなじ騒音環境で暮らしても、俺(エイリ)とおなじような精神状態にならないという前提でものを言うようになる。しかし、 人間が、俺とおなじ騒音環境で暮らせば、俺とおなじような精神状態になる。つまり、実際に、俺とおなじ騒音環境を経験したかどうかが、その人の考えに影響をあたえる。

2023年8月29日火曜日

「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっている人はニセモノ

 ほんとうにつらい思いをした人が、「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっているというとはない。リトマス試験紙のようにわかる。「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっているのであれば、その人は、ほんとうにつらいことなんて経験してない。ものすごくつらいときは、どれだけ楽しいと言っても、楽しくはならない。そういう経験がいっぱいつみかさなる。そういう経験がいっぱいつみかさなることがなかった、気楽な人が「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっているのだ。リトマス試験紙のようにわかる。ほんとうにつらい経験をしているのか、ほんとうにつらい経験はしてないのか、リトマス試験紙のようにわかる。結果が、すべてを物語っている。「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっている人は、たいしてつらいことを経験してない。「楽しいと言えば楽しくなる」というようなつらさしか経験してない。「楽しいと言えば楽しくなる」というようなレベルのつらさしか経験してないから、「楽しいと言えば楽しくなる」と思っている。

おまえ、それ、ぜんぜんちがう。

 まあ、正直に言うけど、「憂鬱」と言っても「憂鬱」のレベルがちがうんだよ。そして、その憂鬱をつくりだしたのが、一方では「正論」なんだよ。「やらなければならないことだから、やるべきだ」という正論だ。

これが、きちがいヘビメタが鳴っている状態だと、どうしても、通せないことになる。ところが、きちがい家族が鳴らす、きちがいヘビメタ騒音がない人だと、「やらなければならないことだから、やるべきだ」ということを、通せる。やり通すことができる。

それは、それなりにくるしいことだから、本人は「どんなにくるしいことだって」と言いたくなる。そして、言う。けど、その人だって、ヘビメタ騒音があれば、ちがってくる。

その人だって、ヘビメタ騒音の繰り返しがあればちがってくる。

ヘビメタ騒音だけでは、そういう状態は、しょうじない。作用と反作用のように、ヘビメタ騒音が押し出すものに関して、押し返してくるものがなければ、「ほんとうにくるしい状態」というのがしょうじない。

ほんとうにくるしい状態……。ヘビメタ騒音ありの本当にくるしい状態と、へびめたそうおんなしのほんとうにくるしい状態がちがう。けど、世の中の人というのは、きちがい家族がいないので、きちがい家族が、くりだす、ヘビメタ騒音を知らない。残酷さを知らない。無関心さを知らない。

これ、きちがいだからできることなんだよ。

そして、まあ、「うち」だからできることなんだよ。きちがいヘビメタをやらてれない人が言う、「どんなにくるしいことだって」というのは、ヘビメタ騒音がないくるしさなんだよ。ヘビメタ騒音がない人が感じる、日常的なくるしさなんだよ。

おまえ、きちがい家族と一緒暮らしてないじゃないか。

きちがい家族が、息をするように、毎日毎日鳴らす、ヘビメタ騒音にさらされたことがないじゃないか。

おまえ、それ、ぜんぜんちがう。

2023年8月28日月曜日

ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる

 どれだけ説明しても、たいていの人にはわからないと思うけど、ぼくとおなじような環境で育ってきた人には、ひょっとしたらわかるかもしれないので、書いておく。

基本、きちがい家族と一緒に住んでいる人と、正常な家族と住んでいる人とでは、すんでいる世界がちがう。それぞれに、「自分はこうだった」という記憶がある。なので、その人が言う一般論は、「自分はこうだった」という記憶がベースになっている。

たとえば、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町に住んでいる人が、店を出した場合と、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人である町に住んでいる人が、店をだした場合とを、くらべてみよう。

一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町に店をだした人の場合は、かならず、トラブルがしょうじるのである。ものを売るとき、かならず、すべての人とトラブルが生じるようになる。

きちがいばかりが住んでいるので、きちがい的な基準でつっかかってくる人ばかりなので、ただたんに、ものを売るということでも、トラブルが続くということになる。

いっぽう、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町に店を出した人の場合は、ときどき、トラブルがしょうじるということになる。

そして、そのトラブルも、正常な人が引き起こすトラブルなのである。正常な人だって、機嫌が悪いときはある。八つ当たりしたい気持ちになって、八つ当たりする場合もある。

けど、その場合は、感覚器を書き換えていないので、自分が八つ当たりをしているということは、認識できるのである。なので、感覚器を書き換えているような異常な人とのトラブルとは、質がちがうということになる。

そういうトラブルに対する対象方法だって、ちがってくるのだ。

たとえば、自分の言い分をおさえて、まずゆずってあげれば、相手だって、自分がやったことはまずいことだったと反省して、今度は、八つ当たりをしなくなるという方法があるとする。そういう方法は、相手が正常なら、有効である場合がある。

その場合、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町に住んでいる人が、「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる(ゆずりかえしてくれる)」ということを言いだす。これは、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町では、真実なのである。正しいことなのである。しかし、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町では、正しくないことなのである。真実ではないのである。

これが、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人には、わからない。法則性があることとして「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる」ということを言う。「Xをすれば、Yが起こる」「ゆずるということをすれば、相手もゆずってくれるということが起こる」ということを言う。「どんなばあいだってそうだ」と言ってしまうのである。

もし、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人が、一〇〇〇人中一〇〇〇人がきちがいの町に住んでいる人に助言をするとしたらどうなるか?

「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる」ということを言うのである。この場合、相手の悩みを解決するような、すごい方法を教えてあげているというとになる。だって、法則性があることなんだよ。どんな条件だって、それは成り立つという前提で言っているんだよ。そうしたら、「成り立たないなんてことはない」ということになるじゃないか。ところが、成り立たないのである。条件がちがうから成り立たない。けど、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な町に住んでいる人は、『条件のちがいなんてない』と思っているのである。

だから、たちが悪い。

そうなると、不思議なことに、こまっている人が、もっともっと、追い込まれることになる。一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人も、まちがった前提でものを言ってくるということになる。こまっている人が、自分が助言したことを実行しないから、こまったままなんだと判断することになる。けど、この判断はまちがっている。

そのためだったら、どんな現実認知でも、捻じ曲げるんだよ

 やっぱり、あとにも、さきにも、ヘビメタ騒音もヘビメタ騒音級の騒音もないな。きちがいヘビメタにやられ続けたので、「ヘビメタがはじまるのではないか」「ヘビメタ騒音級の騒音がはじまるのではないか」と思うときがあるのだけど……いまだにあるのだけど、ない。そりゃ、工事の音や幼稚園の音はあるけど、ヘビメタ騒音級の騒音じゃないんだよね。きちがい兄貴だって、いま住んでいるところでは鳴らしてない。鳴らせないのだ。けど、「うちでは」鳴らせた。「鳴らしたって問題ない」と思っていた。その思いが、また、消えないのである。きちがい親父が「このはんだごては使える」と思ったら、どれだけ使えないということがあきらになっても、現実を無視して「使える」「使える」と言い張るのである。これも、いじわるでやっているわけではないのである。死にものぐるいなんだよ。絶対に、カネははらいたくないんだよ。そのためだったら、どんな現実認知でも、捻じ曲げるんだよ。そういう意地がある。そして、それが無意識的なレベルでおこなわれるために、意識的なベルでは、ほんとうにそうしているつもりがないのである。なので、「そうした」という記憶が残ることがないのである。これとおなじことが、きちがいヘビメタ騒音にも成り立っている。まえにも言ったけど、兄貴のヘビメタ騒音と親父のハンダゴテはまったくおなじ。でっ、どっちの出来事も、「ふつうのうち」ではしょうじない出来事なのである。どうしてかというと、無意識的なレベルで、現実認知を捻じ曲げてしまうほど、くるっている人がいないからだ。そりゃ、だれだって、機嫌が悪いときはある。そりゃ、だれだって、都合が悪いことは認めないようにするときがある。けど、それは、やっている本人が知っていることなのである。きちがいは、きちがい的な意地でやったことは、全部、知らないことなのである。そんなのやったってやってなくたって、関係がないことなのである。こういうレベルで、くるっているのである。だから、反省もしないし、責任があるとも感じない。自己責任なんて感じるわけがないだろ。これは、ようするに、やり勝ちした人が、やり勝ちできる思想なんだよ。

2023年8月27日日曜日

この現実はなんだ??

 ここは、やなぎ荘だ。やなぎ荘の日曜日だ。やなぎ荘だ……。まだ、おかあさんも生きていた。まだ、親友とつきあっていた。まだ、友だちがたくさんいた。あーー。ヘビメタ騒音でつらかったけど、まだ、希望だけはあった。そりゃ、どうなるかわからないわけだから……。どうなるかわからないだろ。ものすごい幸運にめぐまれる「かも」しれない。そんなのはわからない。だから、希望はあった。しかし……。この現実。この現実はなんだ?? 

たとえばの話

 たとえばの話なんだけど、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」というような解決法を提示されること自体が、不愉快なことなんだよ。「きちがい家族によるヘビメタ騒音で、楽しめなくなった」と言っているだろ。自分の家族が、きちがい家族ではなかった人間……そういう人間は、当然、きちがい家族がきちがいヘビメタを鳴らすということもない。きちがい的にでかい音で、長時間、長期間にわたって鳴らすということだ。そして、「鳴らすな」ということを言われれば、腹をたてて、きちがい的にこだわってこだわって、鳴らした……。そういうときに、くるしいのである。楽しくないのである。そういう時間が、楽しく感じられない構造をつくりだすのである。そういう、実際の経験が、楽しく感じられない「脳みそ」「こころ」をつくりだすのである。やられてないやつが、中立的な状態で、「楽しいと言ったら、なんとなく楽しくなったような感じがする」ということではないのである。そういうやつには、きちがい家族がいない。きちがい家族が毎日、きちがい行為をするということがなかった。人生のなかでなかった。だから、「楽しいと言ったら、なんとなく楽しくなったような感じがする」という状態を維持できているだけなのである。そして、こういう状態のちがいを無視して、ただ単に、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」「これは、真実だ」と言う。状態のちがいを無視するな。けど、そういう、普通の人に「状態のちがいを無視するな」と言っても、むだなのである。そいつは、きちがい家族のもとに生まれたわけじゃない。きちがい家族が、どういう状態で、きちがい行為をするの、感覚的にわかってない。わかってないし、人生のなかでそういうことがしょうじなかったので、そういうことが、はなから、問題になっていないのである。その結果、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」ような状態を維持できた。維持できたというだけの話だ。だから、きちがい家族のもとに生まれた人と、きちがい家族のもとに生まれなかった人では、基本的な経験がちがう。基本的な経験がちがうということは、基本的な経験が生み出す、基本的な感覚値がちがうということだ。この感覚のちがいは、でかい。話の根底にあるものだ。けど、その根底にあるものを無視して、「XをすればYになる」というようことを言う人が多い。「楽しいと言えば、楽しくなる」というのも、そういう構造をもった言葉のひとつだ。

 

2023年8月26日土曜日

本人が怒り狂って否定すれば、それで本人は、まったく関係がない人になってしまう

 きちがい兄貴に言っておく。きちがい兄貴が、ハンダゴテのことでこまっているとき、きちがい親父は、まったく気にしてないんだよ。気にすることができない。関係がない人になっている。けど、きちがい親父が、きちがい回路にしたがって、きちがい行為をしたの。きちがい親父が原因をつくっているんだよ。こんなの、きちがい的な親のもとに生まれなかったやつにはわからない。逆立ちしたってわからない。そして、そいつらは、逆立ちしてわかる気持ちもない。そんなの、関係がない。「へんな話」。「そんなの人、いるの?」で、すんでしまう。「言い方が悪かったんだよ」「俺だったら、ちゃんと説明できる」と思っているんだよ。そんなことは絶対にできないのに、そう思っている。そいつの頭のなかだとそうなんだよ。

きちがい兄貴に言っておく、親父はまったく、ハンダゴテのことを忘れている。きちがい兄貴が、きちがい親父に、「ハンダゴテは、やっぱり使えなかった」「ハンダゴテのことで、バカにされてはじをかいた」と言ったとき、きちがい親父の頭に去来するのはなにか? 「使える!!使える」ということだ。絶対に認めないのである。そういう態度。そういう態度、頭にくるよな。きちがい兄貴のヘビメタに対する態度というのがそういう態度なんだよ。相手がこまったということがわからない。自分が発狂的な意地でやったことで、相手がこまったということが、発狂的にわからない。本人が怒り狂ったら、もう、それで関係がないことになっている。ひとつひとつが切れているんだよ!! 連続してない。関係がわからない。きちがい親父のなかになにがあるかというと、「買わされたらたいへんだ」という気持しかないんだよ。それが、無意識的なレベルで思っていることなんだよ。そうしたら、絶対に「使える」ということになってしまう。「使えない」ということは、絶対にどんなことがあっても認めない。きちがい兄貴が、ヘビメタが、普通の家でありえないほどでかい音で鳴っているということを、認めなかったのとおなじだ。きちがい兄貴にとっては、「でかい音で鳴らしている」ということが、そういうことだったのである。命がけで、否定して、それでおしまいだ。本人が怒り狂って否定すれば、それで本人は、まったく関係がない人になってしまう。このきちがい回路が、ほかの人にはわからない。そして、本人もわかってないんだよ。こんなのない。きちがい的な意地で、本人が主張していることが、わかってない。本人がまったくわかってない。きちがい的な意地でやったことが、本人にとってはやってないことなのである。本人がきちがい的な意地でやるからそういうことが生じているんだぞ。相手の身にそういうことが生じているんだぞ。それを、全否定だ。でっ、ほんとうに、関係がない人になってしまって、記憶がない状態になってしまう。 関係がない人になってしまうし、自分がやったことで相手がこまったということは、ほんとうに、言われたことがないことになってしまうのである。言われた記憶がまったくないことになってしまうのである。そういう意味でも、関係がないことなのである。けど、身体は、きちがい的な意地でやってしまうのである。普通なら、意地をはってやったことは、記憶に残るはずだ。けど、まったく残らない。そんなことはなかったという「態度」になる。そんなことはなかったという「感覚」で、それ以降くらすということになる。それ以降の時間は、そういうことがなかったという記憶にもとづいた時間なのである。ようするに、本人は、「相手が自分に言ってきた」ということがわかってない状態になってしまう。だから、瞬間瞬間は、きちがい的に怒るのだけど、行動がまったくかわらないのである。

きちがい兄貴は、どれだけ言われても、俺がきちがい兄貴のヘビメタでこまっているということを認めなかった。これは、認めなかっただけではなくて、そのとき!きちがい的な意地でひっくり返せば、もう、記憶にないことになってしまうのである。相手は言ってこなかったということになってしまうのである。それ以降の時間は、相手は言ってこなかったという前提で暮らししているのである。まったく記憶にないことなのである。相手が「抗議をしてきた」ということは、まったく記憶にないことになってしまうのである。そういうことの繰り返しだ。何万回繰り返したって、おなじなのである。態度がおなじ。やることがおなじ。感覚がおなじ。本人はまったく気がついてない状態なんだよな。そのとき、爆発的に起こったら、もう、記憶にないことになってしまう。きちがい的な意地で怒って、自分のきちがい的な意地をとおしたのに、そういうことをしたという記憶がまったくない状態になってしまうのである。 本人が「そうやって」「はねのけるから」相手がこまっているのに、そういうことに関して、一切合切の記憶がない状態になってしまうのである。もちろん「関係」なんて認めない。認めるわけがないだろ。あっ、あとは、一切合切の「関心」もないわけ。自分がやったことで、相手がこまっているんだなということが、まったくわからないわけ。それは、きちがい思考回路で、否定されている。否定されたら、そういうことがなかったという記憶と態度なんだよ。相手に対する「関心」がないんだよね。自分がきちがい的な「やったこと」に関しても、まったく関心がないんだよね。これ、「やらなかったこと」とほんとうにおなじなんだよ。けど、無意識が「外貨」して、きちがい的な意地で破裂して、やる。やりきる。殺さなければ、やめさせることができない。そういう、意地がぶつかるようなトラブルがあったら、普通記憶に残るはずなんだけど、ほんとうにまったく記憶に残らないのである。そういう意味で、きちがい兄貴はへんだ。きちがい兄貴だって、きちがい親父におなじことをやられていたら怒っていたのに、自分がヘビメタ騒音のことで、おとうとにそうしているということは、きちがい親父とおなじしくみで、きちがい親父とおなじように、わからないんだよ。わからなかったら、やってないんだよ。記憶にないんだよ。感心がないんだよ。関係があるとは思ってない状態のまま、すごしているんだよ。毎日やりきっていの……。

2023年8月25日金曜日

他人は、必然性がわからないので、まちがった前提に立ったまちがった提案をする

 毎日鳴っていたということを、ぼくが言ったとする。他人には、毎日鳴っていたということがわかるわけだ。しかし、それは、それだけだ。毎日鳴って、毎日積もっていると、体と心にどういう影響があるのかは、わからない。これは、説明したってわからない。「そんなの気にしなければいい」というレベルの反応だ。自分のことではなくて、ほかの人のことだから、わからない。「遅刻することになる」「精神が影響をうけて、他人との関係にひびが入る」「楽しめない状態になる」というようなことを、どれだけ言っても、他人ごとなので、「必然性」がわからい。自分だったら、たとえそういうことがあったとしても、いまの自分の状態を保てると思っている。自分だったら、たとえそういうことがあっても、そんなことにはならないという「へんな」自信がある。そういう人が多い。そういう人ばかりだ。これは、ぼくにとっては屈辱的なことなのだ。ところが、ぼくにとって、……必然性があるぼくにとって……実際に体験してしまったぼくにとって……屈辱的なことだということがわからない。「そんなの気にしなければいい」と言った人は、別にそんなことは気にしてない。ほんとうに気にしてない。

他人は、必然性がわからないので、ぼくに対して、失礼なことを言う。他人は、必然性がわからないので、まちがった前提に立ったまちがった提案をする。しかし、まちがった前提に立っているということがわからない。こんなの、どれだけ説明したって、今度は、相手が腹をたてるだけで、どれだけ言っても、まちがった前提に立っているということがわからない。認めない。

 

努力せざるをえないのである

きちがいヘビメタが、無職や遅刻常習者や引きこもりというレッテルを自動的に貼りつけてしまうのだ。きちがいヘビメタが、運び込んでしまう。こっちは、最大の努力をして、そういうふうにならないように頑張ってきた。それが、そういう状態を運び込んでしまうのだ。

いま、つくづく思うのは、「無職だ」と言わなければよかったということだ。相手が、俺のことを研究者だと思っているのなら、研究者だということにしておけばよかった。これ、バカ正直に、「研究者じゃない」と言ったので、いろいろなトラブルが発生しているのである。 

努力うんぬんと言えば、「努力の方向がちがう」と言ってくるやつがいる。こういうのも、そいつが、きちがいヘビメタにさらされたことがないから、思いつくことだ。ぜんぜんちがうのである。ヘビメタ騒音を経験したものと、ヘビメタ騒音を経験してない者では、考えることが、ぜんぜんちがう。努力の方向もなにも、ヘビメタ騒音が鳴っているなかで、「生きる」としたら、努力せざるをえないのである。死にものぐるいの努力をしなければならなくなるのである。死にものぐるいの努力をして、遅刻常習者になり、働けなくなって無職になり、友だちとヘビメタ騒音をめぐるケンカをして、定義的に引きこもりにあてはまるようになる。ヘビメタが鳴っているということが、どういうことなのかぜんぜんわかってない。ヘビメタが、生活的に、常に!鳴っているということが、どういうことなのかわかってない。ヘビメタを鳴らしている主が、気ちがいだということがわかってない。ヘビメタを鳴らしている主が、家族の一員だということが、わかってない。ぼくが、家族の一員だということを言えば、わかったわけで、わかってないということにはならないと思うだろう。正確に言えば、家族の一員だということの意味がわかってないのである。ヘビメタの主が家族の一員であるか、他人であるかということは、じつは、ものすごくでかい意味をもっている。これが、「生活的に」わかってないのである。そりゃ、きちがい兄貴が鳴らしたと言えば、兄が鳴らしたということ自体は伝わるわけだから、家族の一員が鳴らしたということは、理解できるということになる。わかったということになる。けど、ちがうのだ。家族が鳴らしているということが、どういう意味を持つのか、ぜんぜんわかってない。

ヘビメタが鳴っているからと言って、友達とケンカをする必要はないということを考えるやつがいると思う。ようするに、ヘビメタと友達とのケンカは関係がないということを考えるやつが出てくると思う。必然性に関する疑問だ。必然性……あるんだよ。時の流れとともにどうしても、そうなるのだ。こんなのは、ほんとうに、経験してみなければなわからないと思う。みんな、必然性が見えてない。こんなにはっきりしたものはないのに、みんな、見えてない。十数年続けば、そりゃ、おかしくなる。こっちがいい人で、あっちもいい人でも、十数年、家族によるきちがいヘビメタ騒音が続けば、交友にひびが入るのである。それは、社会システムとも関係があるのだけど、そうなる。必然性、ある。十数年の変化で、交友関係がかわる。人間の関係がかわる。そうなると、必然的に、ケンカ別れをすることになる。これは、不可思議な力でそうなると言ってもいい。不可思議な、符合的な力によって、そこに押し出されてしまうということだ。不可思議な力というのは、じつは、社会常識と個人の思考によってもたらされるものだ。これ、ほんとうにそうなるのである。

 

2023年8月24日木曜日

ぼくは、人間の性格というのは、ロウソク型だと思っている

 「人間の性格」のモデルとして、ロウソク型とペラペラ一枚紙型というものを考えたとする。ロウソク型というのは、年代による層があり、その層が、表面の性格に影響をあたえるというものである。ロウソクの芯を、赤いロウソク液につけるとする。そのあと、ろうそくの芯を引き上げてさめるまでまったあと、もう一度赤いロウソク液につけるとする。そういうことを一〇回繰り返すとする。そのあと、今度は、青いロウソク液につけて、おなじことを一〇回繰り返すとする。そのあと、今度は黄色いロウソク液につけて、おなじことを一〇回繰り返すとする。その場合、芯のまわりには、赤いロウソクがあり、その赤いロウソクのまわりには、青いロウソクがあり、その青いロウソクのまわりには、黄色いロウソクがあるということになる。表面を見れば、黄色に見える。けど、赤いロウソクも、青いロウソクも残っている。

いっぽう、ペラペラ一枚紙型の場合は、最初に、赤で塗りつぶしたとする。そのあと、青で塗りつぶしたとする。そのあと、黄色で塗りつぶしたとする。その場合、まあ、かわいてから、塗りつぶすのであれば、たしょうの層は残っているけど、そんなのは関係なくて、表面的に見える色が、そのときの色だということになる。黄色で塗りつぶした場合は、赤い色や青い色の影響をうけないという考え方だ。あたらしい色で塗りつぶしたとき、過去の色は、消えてしまって、新しい色に影響を及ぼさないという考え方だ。まあ、これ、紙じゃなくて、パソコンのお絵かきソフトを考えたほうがいい。過去において、新規作成した「キャンバス」を赤く塗った。そして、それを消して、青く塗った。そして、それを消して、黄色く塗った。もう、黄色く塗ったので、赤く塗ったということや、青く塗ったということは、関係がない。こういう考え方だ。

まあ、基本的には、ぼくは、人間の性格というのは、ロウソク型だと思っている。年輪として残っている。


びくびくしているこども

 きちがい的な親が、きちがい的な理由で、怒り狂って攻撃をしてくるとする。そういう親に育てられた人間は、いちおう、びくびくするようになる。それは、攻撃に対して、気をはった状態になっているということなのだ。そりゃ、三六〇度、どこからでも、きちがいやくざが、いちゃもんをつけて攻撃をしてくるとなったら、心休まる感じがしないだろう。学校で、びくびくしているこどもというのは、うちで、常に攻撃をうけているこどもなのである。この現実認識は正しいのである。この現実認識というのは、こどもの側の現実認識のことだ。ほんとうは、やさしい性格親なのに、こどもの側の人間が、妄想で、攻撃されたと思っているということではない。親が、きちがい的な攻撃を、してないにもかかわらず、こどもの側の人間が勝手にそういうふうに思っているという場合もあるかもしれないけど、今回話したケースの場合は、ちゃんと、親のほうが攻撃をしているということにしておく。きちがい的な親が、一日に何十回も何百回も、きちがい的な理由で怒り狂って、攻撃をしているとする。この場合、どうしたって、防衛的な性格になる。しかも、防衛が失敗しているのである。どれだけ防衛しても、きちがいが攻撃の手を休めないからだ。どれだけがんばって、防衛しても、きちがいがきちがい的な理由で攻撃をしてくる。その攻撃をしてくる相手が、自分の親だという地獄。普通の人は、そういう親にやられてないので、「そんなひとはいない」と思っている。そして、びくびくしているやつは、びくびくするような性格だから、だめなんだと思っている。びくびくしているこどもが、学校の教室にいたとしよう。悪戯が好きなこどもは、「わっ」とうしろから声を出し、びくびくしているこどもがおどろく様子を見て楽しんだりする。でっ、みんなでわらいものにするわけだ。まあ、そういう経験もつみかさなるとは思う。どうしてかというと、びくびくしているからだ。凡人は、そのこどもにびくびくしなければならないような状況がある……ということに関しては、考えもしない。「びくびくしているから、からかわれる」とえらそうに言うだけだ。引き寄せにこっている人は、「びくびくしているこどもが、攻撃を引き寄せている」と言い出す。こういうことが、まかり通っている。この世は、そういう世の中だ。

 

きちがい的な親と般化

 般化についてちょっとだけ説明をしておこう。たとえば、ピッというブザーの音を聞かせたあと、ネズミに餌をやると、ピッというブザーの音に反応するようになる。そのあと、プッというブザーの音を聞かせても同様の反応が起こるようになる。ピッというブザーの音とプッというブザーの音は、ちがう音なのだけど、両方とも、短いブザーの音だという点では、おなじなのである。ピッという音と、プッという音はちがう刺激なのだけど、似たような刺激なので、プッという音にも、ピッという音で形成された反応が起こるようになる。これが般化だ。また、プッという音のあとには、エサがでてこないということを何回か繰り返すと、プッというあとの音には、ピッという音で形成された反応が起こらなくなる。これが、弁別だ。ピッという音とプッという音は、ちがう音なのだけど、どちらも、短い音であるという点では同じだ。とりあえず、短い音であるという属性をもっているという表現することにする。当然、どちらも音であるという属性をもっている。ブザーの音だという属性もある。この、属性うんぬんという話は、ぼくが、これ以降の話をするために、つけたした話だ。般化と弁別については、ここでは、ここまでの話とする。

で、ぼくがなにを言いたいのかというと、うちのきちがい親父は、うちのきちがい親父なのだけど、男性であるという属性をもってるし、大人であるという属性ももっている。当時、中年だったので、大人という属性のなかにある、中年という属性をもっている。きちがい親父は、個別のきちがい親父なんだよ。けど、きちがい親父が、こっちのいろいろなことに腹をたてて、ぶつかってくるということが繰り返されると、大人というのは、そういうものなのではないかという気持がしょうじる。きちがい親父は、個別のきちがい親父なのだけど、中年の男性は、そういう性格があるのではないかという「うたがい」がしょうじるのである。かりに、あとで、個別の人は個別の性格をもっているということを学習したとしても、それは、このうたがいを完全に打ち消すようなものにはならないのである。つまり、しんの部分にきちがい親父のイメージが、中年男性のイメージとして残ってしまうのである。人というところまで抽象化すると、芯の部分にきちがい親父のイメージが、人間のイメージとして残ってしまうのである。

 

たとえば、きちがい親父が帰ってきそうな時間になると、ぼくは、全身に蕁麻疹ができた。これ、雰囲気としてあるのである。帰ってくる時間というのは、特に決まっているわけではなくて、帰ってきそうな時間がだいたい、決まっているだけなのである。で、蕁麻疹のことで病院に行ったとする。その病院の医師が、中年の男性だったのだけど、やさしい性格で、きちがい的な理由で怒り狂う人ではないということがわかった。なので、きちがい親父とこの医師は性格がちがうということがわかったわけだ。しかし、見ず知らずの中年男性の性格を推し量るイメージ(基準)として、きちがい親父のイメージが残っているのである。やさしい医者との出会いによって、そのイメージが完全に消えるかというとそうではないのである。

 

 

 

2023年8月23日水曜日

『影響をうけないぞ』とがんばっていても、脳みそまで含めて不可避的な影響をうける

 毎日つもる騒音が、すごい騒音なのである。なので、不可避的に、つかれる。体力をけずられる。不可避的に、睡眠力をけずられる。不可避的に、精神的な疲れを感じるようになる。不可避的に、腹がたった状態になる。不可避的に、猛烈に憂鬱な状態になる。こういうのは、不可避的なんだよ。やられたら、どれだけ影響をうけないようにしようとしても、影響をうける。がんがん鳴っているわけで、これは、物理刺激だ。なぐられているのでおなじなのである。なぐられたけど、影響をうけないぞと思っているから、影響をうけない。肌が青くならない。そんなことはない。なぐられたら、影響をうける。ものすごい音に、なぐられたら、影響をうける。どれだけ、『影響をうけないぞ』とがんばっていても、影響をうける。そもそも、『影響をうけないぞ』とがんばっている状態、はりつめている状態が、「つかれ」を引き起こすのである。様々な、からだの障害をひき押す子のである。からだのなかには、臓器としての脳みそも含まれている。脳みそまで含めて、不可避的な影響をうける。どれだけ、『影響をうけないぞ』とがんばっていても、脳みそまで含めて不可避的な影響をうける。この不可避的な影響は、きちがいヘビメタが鳴ってない、日中の時間まで、はげしく、影響をあたえるである。ようするに、学校にいる時間に影響をあたえる。ほかの人と、下校している時間に影響をあたえる。影響をあたえない』なんてことはないのである。前の日の騒音の影響をうける。汚染された状態で生きている。汚染された空気を吸ったあと、からだに症状が出たとする。汚染された空気を吸ったのは、前の日の数時間だとする。けど、その影響が、その日の夜と、次の日の昼間に出る。汚染された状態で生きているということになる。汚染物質が体の中に入って影響をうけた状態で、汚染されていない空気のなかにいたとしても、汚染された空気を吸ったという出来事の影響をうける。この出来事は、過去の出来事だ。『過去の出来事』の影響をうけるんだよ。ところが、ヘビメタにやられていないやつ……きちがい的な家族がきちがい的な意地でずっときちがい的な騒音を鳴らすということが、人生のなかでなかった人間が……えらそうなことを言うのである。「過去は関係がない」『影響をうけないぞとつよく思えば、影響をうけないで済む」……。あーー。バカにバカにされる状態ができあがる。ばかになめられる状態ができあがる。

きちがいヘビメタを、きちがい兄貴になられさという事実がない人間にとっては、それは、「想像のなか」の「出来事」にしかすぎない。想像の影響しか受けない。けど、ぼくは、実際に鳴らされているので、「鳴らされた過去」の「影響」をうける。「の」の連続に関しては、指摘する必要はない。

2023年8月22日火曜日

ヘビメタ騒音相当の困難を経験したなら、「言霊は正しい」とは言えなくなる

 ヘビメタ騒音じゃなくても、ヘビメタ騒音相当の「苦難」を経験した人は、絶対に、口がさけても「元気だといえば元気になる」というようなことは言わない。言霊を信じているという時点で、その人の経験した苦難というのは、ヘビメタ騒音相当ではないということがわかる。はっきりしていることだ。だから、言っていることで、その人がどのくらいの苦難を経験したかわかるのである。魔法的解決法が役に立たないことぐらい、ヘビメタ騒音相当の苦難を経験してきた人は、わかっている。体でわかっている。体でわかってないから、魔法的解決法が、さも、有効であるようなことを言う。あるいは、信じている。信じていなければ、ほかの人に助言できないだろう。もし、その人が、ヘビメタ騒音相当の「苦難」を経験した人なのであれば、「そういうこと」を言われたとき、どんな気持ちになるか知っている。「そういうこと」というのは、魔法的解決法のことだ。そういうことじゃ、どうにもならないことを、体で知っている。

ヘビメタ騒音の苦難とヘビメタ騒音以外の苦難を分けたとする。その場合、たいてい、ぼく以外の人は、ヘビメタ騒音の苦難は経験してない。きちがい兄貴がやったほどのヘビメタ騒音という意味だ。普通の騒音じゃない。ヘビメタ騒音じゃなくても、その人がきらいな音ならいい。基本的に言って、家族がやって、ほかの家族がそれをゆるしてしまっているところがある。これも、異常なんだよ。こういうのは、ほかの人が認めたがらない。ほかの人は、正常な家族のもとに生まれて、正常な家族に囲まれて生活しているからだ。異常な家族がやることなんて、経験してないのである。異常な家族は、異常な脳みそを搭載しているから、四六時中、異常なことをするのである。それは、普通の範囲に入らないという意味でも、異常なのである。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音に対するこだわりと言ったらない。異常なこだわりをもっている。ヘビメタを絶対に、自分が鳴らしたい音で、鳴らしたい方法で鳴らすということに、いのちが掛かっている。だから、一秒でもゆずったら、自分が死んでしまうような感覚で、鳴らしている。絶対にゆずらないのである。そういう態度は、きちがい兄貴が、気ちがい兄貴である以上、自然に出てくる態度なんだよ。正常な人が、異常な人の態度をまねして、ふりをしているわけではない。ごく普通に、そういうふうになってしまう。ごく普通に、そういう状態でいる。そうしたら、それをかえることができないのである。けど、正常な家族に囲まれてすごしている人は、「自分のうちで」そういうことを経験してないんだよ。自分の人生のなかで、そういうことを経験してない。なので、「困難」と言っても、きちがい家族によってもたらされる困難と、ほかの困難はちがうと言える。けど、騒音なら騒音で、「にてはいる」。なので、「自分だって騒音ぐらいあった」というようなことを言う。けど、その人が、普通に働いて、言霊や引き寄せを信じている状態なら、やはり、その騒音は、うちのきちがいヘビメタ騒音とは、質がちがう騒音だと言うことができるのである。つまり、普通の騒音だ。きちがい家族による異常な騒音ではないのである。

きちがい兄貴は、スピーカーで鳴らすことにこだって、ヘッドホンをしてくれなった。これだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、弟がこまっているということを普通に認識できる兄貴だったら、ちがうのである。普通に、ヘッドホンをしてくれる。何十回かもめたら、本人は、ヘッドホンをしたくなくても、ヘッドホンをすることになる。家族が、おなじように被害を受けているわけだから、家族が応援してくれる。これ、言いたくはないけど、おかあさんもちょっと普通の人とはちがうのである。ともかく、兄貴に、おかあさんが注意しても、兄貴は、おかあさんが言うことをきかなかった。これも、かつて書いたから、ここでは省略する。おかあさんも、普通の人だったら、「たいへんだ」と思って、よその人に働きかけているはずなんだけど、横になって、「こまったこまった」と言っているだけだったのである。普通の母親だったら、長男が毎日あんな音で鳴らしていたら、怒る。怒って怒って怒って怒る。そして、どうしても、長男が言うことをきかないら、市の相談所とかそういうところに行って、ものすごい音で鳴らしているからこまっているということを言うはずだ。けど、おかあさんは、横になって「こまったこまった」と言っていただけなのである。そして、言いたくはないけど、おかあさんは、問題をかくそうとするところがある。よその人にきかれたとき、すっとぼけてしまうようなところがある。ともかく、きちがい兄貴の脳みそが、きちがい親父の脳みそとおなじなので、けっきょく、自分の意地をとおすということになる。なお、きちがい兄貴脳みそが、きちがい親父の脳みそとおなじなので、通したことになってないのである。きちがい兄貴の脳みそのなかでは、自分はなにもやってないという認知が生じている状態とおなじなのである。これもこまたっことなんだけど、そうなのだ。そして、家族に、ふたりそういう人間がいるということが、ほかの人が考えている以上に、きちがい兄貴が鳴らし続けるという状態に影響をあたえる。これ、ほかの人は、そういう状態で暮らしている話ではないので、根本から、わからないのだ。なので、こういう部分に関しても「普通に」誤解がしょうじる。しょうじるんだよ。しょうじないわけがないだろ。そして、やっている本人ふたりは、赤の他人よりも、自分のその状態について、知らんぷりなのである。認識してない。あかの他人よりも、自分がきちがい的な意地で押し通しているということについて無頓着なのである。あかの他人よりも、自分がやっていることがわかってない状態なのである。じゃあ、言えばわかるのかというと、わからないのだ。これが、へんな状態なんだけど、そういう状態で暮らしている。これ、脳みその構造がかわらないと、かわらないんだよ。だから、普通にやりきるし、普通にやりきったということを、普通に無視してしまう。本人の主観としては「そんなことは一度もやっていない」という主観に近い主観なのである。だから、「きちがいだ」と言っているわけ。そういう部分があるから、きちがい兄貴と言わないと、意味が通じないのだ。どうしてなら、普通の兄貴がそんなことをするわけがないので、普通の兄貴がそういうことをしたということになると、へんな印象をあたえる文になってしまうのである。

ともかく、言霊は正しいと思っている人が、どれだけ「俺だって困難を経験した」と言っても、その困難は、たいした困難じゃないということが言える。どうしてかというと、ほんとうにヘビメタ騒音相当の困難を経験したなら、「言霊は正しい」とは言えなくなるからだ。「言霊は正しい」と言える状態を維持している以上、ヘビメタ騒音相当の困難は経験してないと言える。どれだけ言霊的な解決法をこころみても、まったく無駄だということが、わかってしまう。わかってないのであれば、それは、ヘビメタ騒音相当のくるしみではないから、わかってないということになる。「言霊はまったくだめだ」ということをいやというほど思い知らされることになる。思い知らされてないのであれば、それは、そういう困難でしかない。それは、そういうくるしみでしかない。軽い。浅い。ぜーーぜん、ちがう。ちがうのでちがう。そんなこと、言えるわけがないだろ。「言霊は正しい」なんて言えなくなるんだよ。そういう、長い長い時間があるんだよ。長い長い時間の経験があるんだよ。重たい。深い。

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがい親父と同じタイプの脳みそを搭載しているので、きかない。絶対にきかない。俺が言っても、おかあさんが言っても、きかない。きかない。こんなの、ちゃんときいてくれるなら、苦労はしてない。こんなことになってない。どうして、そういうことを無視して、普通の基準でものを考えて、まちがったことを言ってくるんだ?

まちがっている。

*     *     *

ヘビメタ騒音を経験してなくても、ヘビメタ騒音相当の困難を経験した人は、わかっている。だから、ヘビメタ騒音を経験してない人のなかにも、二タイプ、いるということになる。ヘビメタ騒音を経験してなくても、わかっている人と、ヘビメタ騒音を経験してないし、まったくわかってないやつと、二タイプいる。わかってないやつは、みんな、えらそうなことを言う。「自分は平気だ(自分なら、鳴らされても平気だっただろう)」という前提で、ものを言う。ヘビメタ騒音なんてたいしたことがないという前提でものを言う。こういうやつらは、思考力のかけらもない。「おまえ、自分がどういう前提でものを言っているのか、わかっているのか」と言いたくなる。

こういうやつらに、下に見られ、バカにされる俺の気にもなってみろ。ほんとうに、そういうことも、全部、きちがい兄貴がきちがい的な意地で鳴らしたことから、はじまっているのだ。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、一回言ったら、しずかにしてくれる普通の兄貴だったら、絶対にこんなことにはなってない。

こういうやつらは絶対に、きちがい兄貴のことはせめない。よわっている弟のほうをせめる。できなくなったなら、できなくなったやつが悪いと思っている。こういうやつが言う、道徳、善、神、宇宙の絶対法則……。あほらしい。

きちがい的な親が「人間存在」の「元型」になる。

 きちがい的な親にやられるというのは、きちがい的ではない親にやられるのとは、ちょっとちがうのである。そして、きちがい的な親のほうが人数が少ないために、きちがい的ではない親に育てられた者たちから、悪く言われるようになるのである。

たとえば、きちがい的な親に、『きちがい的な理由で』怒り狂われた子供というのは、いつもおどおどしているような子供になるのである。どうしてかというと、四六時中、「気をはって」いなければならないからだ。そして、どれだけ「気をはって」いても、攻撃がやむことがないのである。三六〇度から、攻撃をうけるのである。その攻撃は、その子供が(想像のなかで)勝手につくっている攻撃じゃない。実際に、三六〇度、どの方向からも、きちがい的な親と一緒にいれば、攻撃をうけるということになる。きちがい的な親は、きちがい的な理由で怒る。別に、子供側の人間が、悪いことをしたわけではないのである。これを、理由もなく怒ると表現するとなると、まさしく、きちがい的な親は、理由もなく怒っているのである。三六〇度、どの方向からも、攻撃をうけるとなると、攻撃に対して身構えた状態になる。これが、気をはっている状態なのである。三六〇度、やりをもった敵に囲まれて、やりをぶさぶさと刺されている状態なのである。なので、そういうふうになるのには、理由がある。きちがい的な親と一緒にいると言うことは、きちがい的なやくざと一緒にいるというような状態なのである。わけのわからないことで、いきなり、攻撃をうけるという状態なのである。当然、気をはって、身構えた状態になる。こういう時間が長く続くと、他者といるときは、安心ができない状態になるのである。きちがい的な親は、きちがい的な親であって、他者の代表ではない。しかし、人間の場合は、脳みそが正常なら、「般化」という機能が働くのである。だから、特定の「人物」が「人間」の代表として、意識されるようになるのである。きちがい的な理由で怒る親にやられた人間は、他者というのは、そういう存在だと、かなり深いレベルで思うようになるのである。これは、強迫神経症を引き起こすような無意識ではないけど、かなり、無意識的なレベルで、「人間」というものが、「理由もなく、攻撃してくる存在だ」という学習が生じてしまうのである。たしかに、きちがい的親はきちがい的な親であって、やさしい人間もいるのである。そして、やさしい人間は、理由もなく攻撃をしてくると言うことがない。なので、あとで、やさしい人間といるときは、別に気をはらなくてもいいということを学習することもある。その場合、きちがい的な親とそのやさしい人間を区別するようになるのである。これが、弁別だ。弁別という機能もあるので、きちがい的な親と、だれか他者はちがう存在だということを学習することもできるのである。ただ、親のほうがちいさいときから、いっしょにいるという問題がある。核の部分というのは、きちがい的な他者なのだ。きちがい的な親にやられた人間の場合、ものすごく根本的なところで、きちがい的な親が「人間存在」の「元型」になる。

2023年8月21日月曜日

そんなことがゆるされていいわけがない

 「そんなのは関係がない」「過去のことは関係がない」「気にしなければいい」と言ってる人は、実際に、ぼくとおなじように、きちがいヘビメタ騒音にさらされたわけじゃないんだよね。まあ、ヘビメタが好きな人は、その人がきらいな音にずっとさらされていたわけじゃないということにしておく。

時間の長さというのがあるんだよね。その「時空間」というのがある。苦しみは、苦しみだ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい的な理由で、きちがい的にでかい音を鳴らして、いいわけがない。そんなことがゆるされていいわけがない。


2023年8月20日日曜日

そういうことがわかる回路が脳みそのなかにないから、わからない

 生きていくだけで、けっこうたいへんだ。そういう体になってしまった。あーー、めんどい。ほんとう、常に鳴ってたからなぁ。こういう雰囲気だったなぁ。鳴っているとき、こういう雰囲気だった。もう、外の雰囲気というか、うちの雰囲気というか、この世の雰囲気というものが、ヘビメタ騒音の雰囲気なんだよ。これは、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。ヘビメタ騒音が鳴っていた日の、鳴っていた時間の雰囲気だ。だれもわからないと思うけど、ヘビメタ騒音が鳴っていた日の、鳴っていない時間……というのも、地獄なんだよ。鳴っていない時間というのは、ぼくが、外にいる時間だ。家にいる時間は、きちがい兄貴が寝るまでずっと鳴っていた。こっちにだってつごうがあるのに、きちがい兄貴も、きちがい親父とおなじように、一切合切、融通がきかないのだ。自分がやりたくなったら、絶対の意地でやる。絶対に、やめない。やめろ」と言われると、火がついて、きちがい的な意地でやる。融通がきかないんだよね。相手の状態というのが、一切合切わからないから。普通の人だと、相手が言わなくても、わかるんだよ。なおさら、言ってきたら、わかる。ところが、きちがい兄貴や、きちがい親父だと、わからない。そもそも、そういうことがわかる回路が脳みそのなかにないから、わからないというレベルで、わからない。「相手」というのがないんだよね。もちろん、「相手の感情」というのもない。相手が、どれだけ、(自分のやっていることでこまっていても)「相手がこまっている」ということが、ほんとうに、まったく、わからない。わからなければ、きちがい兄貴やきちがい親父の頭のなかでは、相手がこまってないということになっているのである。あるいは、相手がこまっているか困っていないのかということについて、まったく、まったくまったく、関心がないということになっているのである。関心がないというよりも、やっぱり、関心をもつ機能そのものが、脳みそにないというレベルで、関心がない。けど、自分だってやられれば、わかるんだよ。そのときは、やられたほうの感情がある。だから、きちがい兄貴だって、きちがい親父に、やられれば、やられたと言うことがわかる。おやじのやり方がおかしいということがわかる。おやじのやり方に、腹をたてる。けど、自分が相手にやっているときは、まったくわからないのだ。自分が相手にやっているときは、きちがい親父とまったくおなじ状態になる。だから、相手が「腹をたてている」ということも、無視する。

ぼくが「できない」と言っていることは、できないことなんだよ

 小学六年生の10月から、きちがいヘビメタがはじまっているわけだけど、俺のからだには、きちがいヘビメタ騒音の経験が「つまっている」。

で、ほんとうに、繰り返しで「できなくなる」。できたことができなくなるの……。それは、ちゃんと眠れるということにもあらわれる。ヘビメタ騒音前は、努力なんてしなくたって、ちゃんと眠れたの。そういう能力があったの……。

ところが、ヘビメタ騒音期間中と、ヘビメタ騒音期間後は、どれだけ努力しても、ちゃんと眠れなくなった。

いちおう省略して言うけど、ぼくが「できない」と言っていることは、できないことなんだよ。ぼくが、できないと言っていることは、いまのぼくにできないことなんだよ。ところが、「できる」という前提でものを言ってくる。「過去なんて関係がない」「過去の影響は関係がない」「できるといえば、できる」というような意見は、「できる」ということを前提にして言っている。

俺が「できない」と言っているのに、「できる」ということを前提にしてものを言うやつ……と、うまくいくわけがないでしょ。これはもう、宗教裁判みたいなもんなんだよ。「できない」と言っているの、「こうすればできるようになる」と魔法的解決法を提示するやつがいる……。その魔法的解決法は、役に立たないので、魔法的解決法をこころみても、「できないまま」なんだよ。それは、ずっとずっとやってきて、わかってることなんだよ。

きちがいヘビメタの時間というのは、こういうことを言う人たちが考えているような時間ではない。きちがいヘビメタの生活というのは、こういうことを言う人たちが考えているような生活ではない。もう、最初から、考えていることがちがう。

「できる」か「できないか」に関しても、ぼくができるかできないかについて話しているのに、ぼくが「できない」と言っているのに、それを無視して、「できる」という前提で話をすすめるやつが、「ぼくにとって」いい人間だとは思えない。

そこで提示される「方法」が現実的な方法とは思えない。きちがい兄貴が、きちがいでなければ、こんなことになってない。

「できる」という前提でものを言ってくる人間は、みんな、きちがいヘビメタ騒音や、それに相当する騒音を経験してない。

「想像」でものを言っているだけだ。ヘビメタ騒音や、それに相当する騒音の影響を、過小評価しているのである。あるいは、もっと言ってしまえば、無視している。

これは、言っちゃいけないことだけど、ヘビメタ騒音の影響を無視しているという意味で、きちがい兄貴や、きちがい親父とおなじなのである。きちがい兄貴やきちがい親父と、ヘビメタ騒音に関する認識がおなじなのである。

どうして、「言っちゃいけないことなんだけど」と言ったかというと、これを言うと、「できない」ということを無視して、妄想的な方法を提示した人は、みんな、「俺(妄想的な方法を提示した人)と、きちがい兄貴とやらが一緒だというのか?」とものすごい剣幕で言ってくるからだ。

まあ、すくなくても、ぼくの発言で、気分が悪くなったと言うことだろう。これ、なかなか、むずかしいことなのである。とりあえず、「できない」ということを無視して、妄想的な方法を提示した人のことをAさんと呼ぶことにする。

Aさんと、きちがい兄貴はおなじなのかどうか?

おなじじゃない。

Aさんは、うちでヘビメタを鳴らしてない。ぜんぜんちがう。ぼくに対して、騒音を浴びせかけてない。だから、ちがう。

けど、「できない」とぼくが言っているのに、「できる」という前提でものを言っていることにはかわりがないし、ヘビメタ騒音がそういうレベルの影響しかないと(まちがった)見積もりをしているということ関しては、きちがい兄貴とおなじなのである。

これ、ほんとうに、わかってないだけなのだ。自分がおなじことを経験したら……人生のおなじ時期に、おなじ期間の長さ、経験したら、わかることなんだよ。「できるわけがない」。「そんなことで、できるようになるわけがない」。こういったことが、普通にわかるはずなんだよ。経験してないからわからないだけなんだよ。

そして、きちがいヘビメタ騒音に関しては、この人たちは、犯人じゃない。Aさんは、犯人ではない。Aさんが、きちがいヘビメタを鳴らし続けたわけじゃない。だから、ちがう。「同じような人間だ」と言っているわけではないのだ。そういうことをするような「似たような人間」だと言っているわけではないのだ。

けど、Aさんは、自分と、きちがい兄貴とやらがおなじような人間だといわれたと、勘違いする可能性がある。あるいは、Aさんは、自分ときちがい兄貴とやらが人いる人間だと、言われたと勘違いする可能性がある。これは、勘違いだ。

ぼくは、たしかに、きちがい兄貴とAさんは、ヘビメタ騒音の影響を無視する点で似ていると言っている。けど、きちがい兄貴と、Aさんがおなじことをするような、おなじような性格の持ち主だとは言ってない。言ってないのだ。けど、誤解する可能性はある。

こういうことだって、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったらしょうじないことなんだよ。みんな、きちがい兄貴の性格と、きちがい兄貴がやったことの影響ののでかさについて、考え違いをしている。「の」の重複は指摘しなくていい。

普通の家には、きちがい兄貴がいない。

きちがい兄貴のような感覚、あるいは、きちがい兄貴のような脳みそをもっている人がいない。ひとりもいない。だから、ほかの人にとって、きちがい兄貴は未知の存在なのである。あるいは、ほかの人にとって、きちがい兄貴がやったことは、未知のことなのである。自分の経験の範囲にはないことなのである。

だから、自分の経験の範囲にないことについて、「特に影響がない」と推論してましう。それは、本当に自分がおなじことを経験していたら、ありえないことだ。そんな推論は、絶対に成り立たない。おなじ経験をしているのに、そういう推論が成り立つということはない。

これ、みんな、わかってないから、そういうふうに勘違いしてしまうだけなのだ。

きちがい兄貴と、普通の兄貴は、ちがうんだよ。きちがい家族と、普通の家族は、根本において、ちがうんだよ。きちがい家族やこることの影響というのは、普通の家族がやることの影響とは、ちがうんだよ。

けど、やはり、おなじようなものだと仮定して、推論してしまう。だから、「俺だって、朝、眠りたいときはある」「俺だって、朝はつらい」「俺だって、徹夜したことがある」「俺だって、夜、眠れないときはある」……ちがうんだよ。きちがい兄貴の行為によってもたらさる、それらのことと、きちがい兄貴の行為によっもたらされたわけではない、それらのことは、ちがう。ぜんぜんちがう。質も、期間の長さも、ちがう。ぜんぜんちがう。


きちがい兄貴の態度というのは、普通の人には、永遠にわからないと思う

 けっきょく、きちがい兄貴の態度というのは、普通の人には、永遠にわからないと思う。ほかの人は、常にまとはずれなことを言うことになる。そりゃ、わからないのだから、まちがった認識をして、まちがったことをことを言うことになる。

まちがっている。

そりゃ、やられてないわけだから、本人にとっては、どうでもいいことであり、影響がないことなのである。ゼロに見積れることなのである。自分のことではないのだから、もちろんそうだ。そして、えらそうなことを言う。

自分だって、ほんとうに、きちがい的な家族に、やられたら、俺とおなじ状態になるか、俺よりもひどい状態になるのに、それがわからないやつらなんだよ。やられてないから、やられてない前提でものを言う。まったく、勘違いをしている。

けど、勘違いをしていると思うことに失敗する。

そりゃ、それぐらいの関心しかないし、自分の身の上に怒らなかったことなのだから、そういうふうに、「小さく」見積る。

そして、きちがい的な家族にやられた人の「あれやこれや」を小さく見積ることがはやっている。ずっとそうだ。それは、たとえば、自己責任論やアドラー心理学や言霊思考や引き寄せ思考によって、強化されるのである。

関係がないと思われると思うけど、ワクチン接種と自己責任論はリンクしている。自己責任論だけではなくて、アドラー心理学や言霊思考や引き寄せ思考もリンクしている。自己責任論を例にとって言うけど、だまされてワクチンを打った人が、自己責任だと感じたほうが、支配者層にとっては都合がいいのだ。支配者層は、だました責任なんてとらない。こういうことだ。


ヘビメタにやられてからずっとずっとずっと

 ああっ、やなぎ荘時代ですら、もう、遠い過去か……。あーーあ。

このさき、どうすりゃ、いいんだ?

体がきついんだよなぁ。きちがいヘビメタにやられてからずっとずっとずっと、体がきつい。これ、もう、どうにもなんないな。どれだけ、誤解されてきたか?

2023年8月19日土曜日

どんだけちがうか、きちがい家族といっしょに住んだことがない人にはわからない

 問題なのは、かつての『いやな記憶』をありありと思い出してしまうことだ。ほんとうに、そのときの感情がそのまま復活してしまう。そして、ぼくは、いろいろとくるしかった。

どうしたって、きちがい家族の影響はうける。

きちがい家族の影響というのは、きちがい家族との間にとどまらずに、他人との間に影響をあたえる。「不可避的」。

ところが、きちがい家族と一緒に住んでいない人が、「不可避的なことではない」というようなことを言いやがるのだ。そして、そのあとにつづく、助言なり説教なり、精神的な世界観なりというのは、とっくのとうに、ぼくによって、捨てられたものなのだ。

まったく、当時役に立たなかったことなのだ。そして、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから言える、いろいろなことというのがある。

これ、基準がちがうのである。

けど、基準がちがうということについて気がついているのは、ぼくと、少数の人たちだけなのである。少数の人たちというのは、きちがい家族にたたられたことがある人たちだ。

きちがい家族といっしょに住んでいた人たちだ。ま・る・で・ち・が・う。

普通の家でそんなことがあるわけがないということが、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、成り立っている。

話がちがう。

ぜんぜんちがう。

話の前提がちがう。

ぜんぜんちがう。

どんだけちがうか、きちがい家族といっしょに住んだことがない人にはわからない。

2023年8月17日木曜日

ヘビメタ騒音なしの、若い時期がほしい

 ヘビメタ騒音なしで暮らしたかった。ヘビメタ騒音なしの、若い時期がほしい。ほんーーんとう、ほかの人はわからないと思うけど、ヘビメタ騒音が生活にしみわたって、つねにくるしいのである。あの眠れなさと、朝の緊張状態を毎日経験したことがないやつが、語るくるしさなんて、たいしたことがない……。そういうふうに言いたくなるような状態がずっと続いた。やっているほうは、まったくなにも感じないんだよ。言われたら、怒るだけだからな。「やめろ」と言われたら、目を三角にして、脂汗をかいて、からだを真っ赤にして、きちがい的な形相で、続けてしまう。あのとき、あのとき殺さなければ、やめさせることができない。きちがい親父のトイレ事件とおなじなんだよ。「ちょっとだけどいて」と言われたら、発狂してどけない。けど、まるで気にしてない。相手がこまったということは、まったく無視しているのである。無視するというのは、ちょっと語弊がある。というのは、一度意識にのぼったことを無視するという意味になってしまうからだ。どれだけ言っても、最初から、最後まで、相手が自分の行為でこまったということは、意識にのぼらないことなのである。相手がどれだけ明確に、言っても、「わからない」ことなのである。これ、認識する前に、きちがい的に怒り狂って「はねのけている」。はねのけたら、関係がないんだよ。

きちがい兄貴の場合も「しずかにしてくれ」と言われたら、スイッチが入ってしまうんだよ。やった「責任」はあるぞ。実際、本人だって、「よそ」じゃやれないようなことなのだから……。よその人のことは、気にするんだよ。これも、きちがいおやじとおなじ態度だ。よその人に対する態度と、うちの人に対する態度がちがう。よその人に対する基準と、うちの人に対する基準がちがう。そして、これが肝要なことなのだけど、本人はまったくそういうふうに思ってない。二重基準が成り立っているとは思ってないのだ。よその人に対する態度とうちの人に対する態度がちがうと思ってないのだ。ごく自然に、うちの人には、きちがい的な方法で迷惑をかける。迷惑をかけた「責任」はある。

2023年8月16日水曜日

きちがい家族が家でやる行為がわかってないだけ

 ヘビメタ騒音のきつさが、みんな、わかってない。わかってないところで、えらそうなことを言う。むりなことを言う。鳴ってないからわかってないだけ。

きちがい家族がいないから、きちがい家族が家でやる行為がわかってないだけ。きちがい家族の態度がわかってないだけ。きちがい家族の「反応」がわかってないだけ。

こっちが「やめろ」と言ったときの、きちがい家族側の反応がわかってないだけ。

きちがい家族と一緒に住んでないからわかってないだけ。

わかってないだけなのに、えらそうに……。

きちがい兄貴は、知らんぷりでやってきたけど、毎日毎日つみかさなって、できないことが増えていく。普通なら、できることができなくなる。

これは、きちがいヘビメタ騒音によって、押し出されてできなくなる。普通に眠るということだって、どれだけ努力してもできなくなる。きちがいヘビメタ騒音を何時間も何時間も何時間も何時間も、あびていると、どうしても、夜、眠れなくなる。眠るべき時間に眠れなくなる。

普通なら、なんの努力もしなくても、普通に眠れるのに、きちがいヘビメタが鳴っている生活だと、どれだけ努力しても、眠れなくなる。

そして、きちがいヘビメタ騒音が原因で眠れなくなっているのに、「眠れる」と言えば眠れるというようなことを言われる。そういうあほなことを言われることになる。これは、屈辱だ。

けど、「眠れるといえば眠れる(ようになる)」と、じょげーーんしているほうは、別に、侮辱しようと思ってそう言っているわけではない。ほんとうに、そう思って言っているだけだ。けど、ヘビメタ騒音という要素を付け加えて考えると、ちがうのである。

じょげーーんしているほうは、ヘビメタ騒音に悩まされてないのである。きちがい兄貴のきちがい的な部分に悩まされているわけではないのである。なので、問題が発生してない。「理由となる」問題が発生してない。

「理由となる問題が発生していない人」……が、理由を無視して、じょげーーんをする。

けど、それは、こっちにしてみれば、腹がたつことなんだよ。これだって、言霊主義者に、説明したって、言霊主義者は、怒って「言霊は正しい」と言うだけだ。まあ、言霊主義者なのだから「楽しい楽しい」と言えば、すぐに楽しくなるのだから、問題はないのだろう。

問題は、言霊主義者が、勘違いをしているということだ。ぼくは、ヘビメタ騒音で眠れなくなってこまっているのである。ヘビメタ騒音が鳴っいなければ、「眠れる眠れる」なんて言わなくても、眠れる。そして、ヘビメタ騒音が鳴っている以上、「眠れる眠れる」とどれだけ言っても、眠れない状態になる。いま、「ヘビメタ騒音が鳴っていれば」ということを書いたけど、これは、「日中、夕方、夜」……午後一一時一一分まで鳴っていればということだ。

たとえば、午後一一時一二分の時点で、ヘビメタが鳴っていなければ、鳴ってないのだから眠れると考えるのだ。ところが、ヘビメタを毎日浴びていると、どうやっても、眠れなくなる。ヘビメタ騒音が続く日々ということを考えた場合、たとえ、午後一一時一二分には、ヘビメタ騒音が鳴り終わっていても、「鳴っていれば」と表現していいということになる。

こういうのも、めんどうなことなんだよな。

この、異常な状態がわからない。

どれだけひどい音で鳴らしているか、鳴らされているか、みんなわかってない。

そして、みんな、きちがい兄貴の脳みそについて誤解をしているのだ。脳みその構造ということだけど、脳みその構造について、誤解をしている。この誤解は、深くて、普段は、気にならない。ようするに、フォーカスされることがない。

ところが、「現前」してしまうのである。うちなのかで、「現前」してしまうのである。よその人の家では「現前」してないのである。

なので、よその人にとってみれば、「そんなのはない」ことなのである。

けど、うちでは、「現前」してしまう。それが、『きちがいヘビメタ』になっあらわれる。それが、『きちがいヘビメタを一切合切の常識を無視して鳴らすこと」にあらわれる。あらわれてないやつにとっては、「ないこと」だから、「影響力がないこと」なのであり、「無視していいこと」なのである。知りもしないことなのである。

2023年8月15日火曜日

けど、「眠れなかった日」はあるので、それを基準して、助言をしてくる

 きちがい兄貴は、がん無視でやっていたけど、こたえた。これ、鳴らされているあいだ、地獄なんだよ。さらに、鳴らされたあと、本来、眠るべき時間になって、眠れないという地獄を経験することになる。「眠れる」「眠れる」なんて言わなくても、きちがい兄貴がヘビメタ騒音を鳴らすまえは、普通に眠れたわけ。そして、なかなか眠れない日もあったわけ。けど、なかなか眠れない日というのは、続かなかったわけ。なかなか眠れない日が、続くのと、続かないのとではぜんぜんちがう。そして、きちがいヘビメタのつかれと、ほかの、眠れない日のつかれが、ぜんぜんちがうのである。ほかの人……ぼく以外の人にとってみれば、ぼくのヘビメタ騒音の話を聞いて、思い浮かべる「眠れない日」というのが、普通の眠れない日なのである。ようするに、ぼくにとって、ヘビメタ騒音がはじまるまえに、人生のなかで数値ぐらいあったような「眠れない日」なのである。ぜんぜんちがうのだけど、ほかの人は、比較対象をもってないので、そういう「眠れない日」を思い浮かべてしまう。ぼくのヘビメタ騒音の話を聞いて、そういうレベルの、普通の「眠れない日」を思い浮かべてしまう。そして、それを基準して、いろいろな提案をしてくる。けど、その提案は、全部、役に立たない提案なんだよ。普通の人は「普通の眠れない日」を思い浮かべて、それを基準して、助言をしてくる……。その助言は、言っちゃ悪いけど、全部まちがっている。不適切な助言だ。そして、普通の人は、えらそうなことを言いたがるのである。自分の問題ではなければ、えらそうなことを言いたがる。とくに、きちがい家族によってもたらされた、きちがい的な騒音というのが、ほかの人にはわからない。そりゃ、人生のなかで経験してないのだからわからない。期間の長さがわかってない。それは、こっちが言っても、実際にそういう、長い期間鳴っていた場合の、からだの状態なんてわかるわけじゃないのだ。経験がないからわからない。けど、「眠れなかった日」はあるので、それを基準して、助言をしてくる。けど、その助言が、まちがっている。

この世というのは、きちがい的な家族にやられた人が、とことん、やられる世の中なんだよ。普通の人が、弱っている人間……かわった理由で弱っている人間に言ってくることというのは、まちがっていることだ。弱っている人間には、高い立場から、説教をしていいという気持が成り立っている。その説教が、全部、まちがっているのだ。「全部」というのは、イ・ラショナルではない。まちがってない。全部で、まちがってない。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。