2019年12月31日火曜日

「迷惑をかけるな」と「どうして、助けを求めてくれなかったのだ」のはざまで


無職のまま、飢え死にしてしまった人のことについて書いたとき、もうちょっと書こうかなと思ったことがある。まあ、ちょっとは書いてあるんだけど、あんまり書かなかった。以前書いたのは、「働かざる者、食うべからず」という考え方についてだ。もうひとつ、書かなければならないことがあった。それは、「働いていなくても、公的な援助を求めなければ、税金を払っている人には迷惑がかからない」のか「将来、公的な援助を求めることになるから、潜在的な意味で迷惑をかけている」のかどうかということだ。


生きているとき、「迷惑をかけているか」「迷惑をかけていないか」というのは、重要な問題なのである。「迷惑をかけている」のであれば、働かなければならない。「迷惑をかけていない」のであれば、働いてないということに関して文句を言うのはおかしいということを主張できる。
けど、その主張は相手には実は、伝わらない。

たとえ、「迷惑をかけていないにしろ、将来、迷惑をかけることになるから働け」と相手は言い返すからだ。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは無職だとする。本人は、働けないと思っているのだが、他の人から見ると働ける人間に見える。Bさんは、Aさんの暮らしとはまったく関係がないあかの他人だとする。

ようするに、Aさんが無職だとしても、Bさんが直接、お金を出して援助するということはない。Bさんは、Aさんの状態について、口は出すけど、金は出さない。しかし、Bさんは税金を払っているとする。Bさんの税金がAさんの生活費にあてられたとしても、実際の金は、一銭にも満たない。

それから、Bさんは行政のむだ遣いには文句を言ってない。Bさんは、公務員が「労働」の対価として金をもらいすぎているということについても文句を言わない。軍事費の使い方について文句を言わない。けど、Bさんが払う税金のなかから、Aさんに使われる金が、たとえ〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一銭でもあるなら、それは、ゆるせないという感情におそわれる。

Aさんが援助を受けていない場合は、Bさんは、いま現在のことではなくて、将来そうなるから(働け)ということを言うわけだ。ちなみに、Bさんが将来、生活保護になる可能性も否定できない。Bさんが、高齢者になったとき、高齢者に対する医療控除などを受ける可能性も否定できない。

だから、「将来の可能性」ということを言うのであれば、ほんとうは、Bさんが生活保護を受ける可能性がまったくない状態で言わなければならないのだけど、Bさんは「いま現在働いている」ので、将来、生活保護を受ける可能性がないという前提でものを言うことになる。自分が将来、生活保護を受ける可能性があるにもかかわらず、他人であるAさんには、「将来、Aさんが生活保護を受けるのは、気にくわないので働いてくれ」と言っているのである。

将来のことは、わからない。Bさんだって、翌日には、働けないからだになって、生活保護を受けなければならないかもしれない。「将来の可能性」ということを言うのであれば、もちろん、Bさんだって、将来生活保護を受ける可能性がある。将来、生活保護を受ける可能性があるということに関しては、AさんもBさんも、ある。

けど、Bさんは、自分が「将来、生活保護を受ける可能性がない」と思っているのだ。だから、Aさんさ対して「将来、生活保護を受ける可能性があるから、働け」と言えるわけだし、それでいいと思っているのだ。可能性の高さについては、たしかに、Aさんのほうが高いと言える。しかし、Bさんが生活保護を受ける可能性がないわけではないのだから、将来のことは、言うべきではないと、私は思う。

しかし、多くの日本人は、Bさんが言っていることが正しいと思うことだろう。Aさんは、Bさんが言っているようなことを、いろいろな人から言われるので、援助を受ける可能性を否定する必要が出てくる。だから、そのまま、援助を受けずに自殺するということになる。

生前、Aさんは働けないのにもかかわらず、他の人からは働けるように見えるので、「働け」と言われた。Aさんは、働けない人なので働かなかったけど、そのときはBさんのような人に対して「迷惑をかけてないのだから、俺のかってだろ」と言うことができた。「迷惑をかけてないのだから、俺のかってだろ」とAさんが言わなければならないのは、「オマエが援助を求めるのは気にくわない。働け!!」ということを、Bさんのような人が言ってたからだ。

「どうして、援助を求めてくれなかったのか?」という問いのほんとうの答えはこれだと思う。

問題なのは、Aさんがほんとうは働けなかった人だということだ。そして、他の人から見てAさんが働けるように見えるということだ。日本の場合、働けるように見える人が働かない場合、その人が言っていることは、ほとんどすべて否定される。

だから、Aさんはささやかな抵抗として「あなたに迷惑をかけていないのだからいいでしょ」ということを言ってきたのだ。しかし、迷惑をかける可能性が出てきた。だから、死んだ。こういうことなのではないかと思う。

2019年12月29日日曜日

やっぱり、ヘビメタ騒音でつらい。

やっぱり、ヘビメタ騒音でつらい。
どうしても、つらい。
ダイヤ……。


どーーしても、つらい。くるしい。むなしい。
どーーしても、暗い。どうしても、憂鬱。
どーしても、不安。気違いヘビメタ騒音がずっとずっとずっと鳴ってた。これ、他の人にしてみれば、どうでもいいことで、時間がたったなら、効果を与えないはずのものなのだけど、そんなんじゃない。そんなんじゃない。どうしても、くるしい。
気違い兄貴が、気違い兄貴の態度で、気違いヘビメタを、気違い的な音のデカさでずっとずっとずっと、鳴らし続けたから、くるしい。どうしても、くるしい。


本当に長い間鳴ってた。毎日、というのがくるしい。どうしたって、くるしい。「くるしいと思っているから、くるしいんだ」なんて言うやつはデコパッチンBをしてやりたい。そういうことを言うやつは、ヘビメタ騒音を鳴らされてない。たぶんだけど、気違い的な家族にやられて育ってきたわけじゃない。たぶん、そいつが成人するまで、気違い的な家族の影響を受けてない。気違い家族が、「いえで!!」どういう行動をするのかまったくわかってない。どういう感覚で、気違い家族が、気違い的な行為をするのかまったくわかってない。正常者とのあいだでも、「いった」「いわない」というようなあらそいはある。正常者とのあいだでも、考え方がちがえばあらそいがある。けど、異常な家族とのあらそいというのは、そういうあらそいとは、質も量もちがうのである。これが、わからない。たまたま、正常な家族にかこまれて、育ったので、異常な家族のことがわからない。想像してもわからない。だいたいは、わかる……つもりになっているのかもしれないけど、それは、勝手に想像しただけだ。「異常な家族」の話を聞いて、自分の体験をもとに、想像しただけだ。ちがう。質も量もちがう。正常な家族のもとに生まれた人が「想像して考える」異常な家族のことと、実際に異常な家族のもとに生まれた人が「経験から考える」異常な家族のことは、ちがう。微妙にちがうのではなくて、ぜんぜんちがう。聞いた話しで想像するしかないから、想像するだけなのだけど、それは、現実とはだいぶちがう。与える効果もちがう。どうして、与える効果を過小評価するのか? それは、現実世界のなかで体験してこなかったからだ。自分のことではないからだ。自分の話しではないからだ。自分の経験ではないからだ。

これ、ほんとうに、ちがうんだよな。ぼくの言っていることは気違い家族にやられた人にしかわからない。圧倒的少数なのだから、ぼくの言っていることは、大多数の人には理解できない。わからない。

普通に、おなじなんですよという前提に立ってものを言った方がうける。大多数のほうに生まれて、一般的に通りがいいことを言って、うけたかったなぁ。

2019年12月26日木曜日

「無職だ」ということを知った途端に、無職偏見回路が発動してしまうのである


どれだけ、「つまらない」と書いてもつまらなさが解消するわけではないけど、限界なので、つまらないと書く。解消というのは、つまらなさがなくなり、楽しくなることなのだが、そんなのは、むりだ。この状態だとむりだ。長期騒音以降、ぼくは、くるしい。

発狂しそうな状態がある。発狂しそうな状態でも、とりあえず生きていれば、ちょっとはまともな状態に移行するときもある。ヘビメタ騒音以降、くるしくてくるしくてしかたがないんだよ。このくるしさは、なんていうのなか、限界的なくるしさだ。

トラブルが発生するとだれでもくるしくなるけど、なんて言うのかな? まだ、トラブル対処のよゆうがあるときにトラブルが発生した場合と、もうまったくよゆうがないときにトラブルが発生した場合とでは、ちょっとちがうんだよな。

いや、ちょっとじゃない。
だいぶ、ちがう。
ぜんぜんちがう。

気違いヘビメタで、常に極限に近いところにいるので、ちょっとでもトラブルが発生するとだめになる。

で、ヘビメタ騒音で極限に近いところにいるということが、トラブルを引き起こしやすい状態なのである。普通の状態であれば、たとえば、震度一のトラブルが一ヶ月に一回ぐらい発生するとしよう。これが普通の人の普通の状態だとする。けど、ヘビメタ騒音以降は、ヘビメタ騒音が影響して、震度一のトラブルが一ヶ月に一〇回ぐらい発生するような状態になってしまう。

ヘビメタ騒音が鳴り終わったあともそうだ。何十年たっても、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、そういう状態で生きている。ヘビメタ騒音自体が、震度七のトラブルで、一日に数千回発生しているようなものなのだ。だからそれ以降はずっとくるしい。

さいちゅうの一五年間も一五年目以降もくるしい。一年目のくるしさと言ったらない。みんな、一年目のくるしさを経験しないで、「ヘビメタなんてどれだけ鳴っているって言ったってたいしたことはない」とか「ヘビメタ騒音で宿題ができないなんてあまい」とか「ヘビメタ騒音で遅刻してしまうなんてあまい」というようなことを言いやがる。

おまえらは、経験してないだろう。

で、こういうところで、他者とのあいだに溝ができるのである。気違い兄貴は、気違い親父とおなじでしらんぷりだよ。気違い兄貴が震源地なのに、ぜんぜんわかってない。どれだけ言っても、理解しない。頭がおかしいから自分がやっていることがわからない。

あれだけデカイ音で鳴らしているのに、デカイ音で鳴らしているという気持ちかない。認識がない。つもりがない。だから、本人が気違い的にデカイ音で、鳴らしているあいだ、本人には、気違い的にデカイ音で鳴らしているという認知がずっとない状態なのである。

こんなのは、普通は考えられない。けど、うちの兄貴は気違いなので、頑固にそうやって、繰り返す。頑固に否定して繰り返す。頑固に否定したと言うことも否定して繰り返す。本人はまったく関係がないつもりでやり続ける。

殺さなければ、それが終わらない。

この深刻さがわかってない。ヨソのやつらはこの深刻さがわかってない。わかってない。俺に、無理難題を押しつけているというとがわかってない。だれだって、横に気違い家族が住んでいて、そいつが、「つもりがないまま」気違い的にデカイ音で、自分が一番嫌いな音を鳴らし続けたら、遅刻するようになるのに、遅刻するようになるということが、わからない。自分の体験としてわからない。

だれだって、横に気違い家族が住んでいて、そいつが、「つもりがないまま」気違い的にデカイ音で、自分が一番嫌いな音を鳴らし続けたら、一〇〇点が取れるテストで五〇点しかとれなくなるのに、それがわからない。「ヘビメタなんて、関係がない」「ヘビメタなんてどれだけ鳴ってたって、勉強ぐらいできる」「俺だって、工事の音が鳴っている」……ちがうんだよ。ちがうの!!

工事の音や、ちょっとした楽器の音や、カラオケ屋の音や幼稚園生の絶叫とはちがうの!! ちがうんだよ!!! これ、本当にわかってない。普通の音じゃないんだ。どれだけ凶暴な音かわかってない。

うちのすぐ横が幼稚園なのでわかる。ちがうんだよ。となりの人がいろいろな楽器の練習をしているけど、ちがうんだよ。ちがうの!! カラオケ屋やスナックの前をとおるからわかるけど、ちがうの!!

ほんとうにこいつら、わかってないな。どれだけ凶暴な音で、鳴っているかわってない。手につかないんだよ。なにもできないんだよ。気違い騒音の嵐の中にいて、落ちつくことができないんだよ。普通の気分でくらこすことができないんだよ。

生きているだけで、ものすごいエネルギーを消耗してしまう。そして、そのエネルギーがまるで「いきない」のである。夢中になって仕事をしてつかれているというのとはちがうのである。まったく無益なつかれ。

たえているだけで、まるで病人のような状態になる。どうしてもくるしい。どうしても、うまくいかない。けど、やられて、他人とのあいだに溝ができる。そうなると、いろいろなことが積み重なる。

わかってない。

いろいろなことが積み重なるとそれがまた他者とのあいだの溝を大きく、広く、深くするのである。たとえば、ヘビメタ騒音の結果、仕事ができない状態になると、それが、ますます、他人とぼくとのあいだにある溝をひろげる。

仕事ができない状態というのは、無職である状態だ。無職であれば、無職をバカにする人たちが出てくる。たとえば、もし、気違いヘビメタが鳴ってない状態で生きて、ぼくが学者として出会ったら、佐藤のようなやつは俺のことをバカにしない。そりゃ、無職だからバカにしているわけだから。

けど、無職だからバカにしているというような意識は、そんなにはないんだよ。本人が持っている無職に対する偏見に、本人が気がついてない。それほど、深い偏見が、佐藤にはある。けど、佐藤は特別な人間じゃない。日本人の大半が佐藤のような感覚を持っている。無職である人に対して偏見を持っている。

「(相手が)無職だ」ということを知った途端に、無職偏見回路が発動してしまうのである。それが、ほんとうは、人のことをよく見ないで、無職だということでその人のことをバカにするというような態度になってあらわれるのだけど本人は、別に悪いことだと思ってないのである。「そんなのは、無職なんだからしかたがない」と思っている。気違いヘビメタにやられて、働けない状態になって、無職状態が長く続くと、他者の無職に対する偏見に悩まさせれるようになってしまうのである。不可避的に……。

佐藤だって、俺とおなじ期間、俺とおなじぶんだけヘビメタ騒音にやられていたら、どうしても働けないからだになって、無職になる。それが佐藤のような普通の人間にはわからない。逆立ちしたってわからない。佐藤のような人間にとっては、ヘビメタ騒音はたいしたことじゃないのである。ヘビメタ騒音というのは、佐藤にとって他人である人間が経験したヘビメタ騒音であるから、わからない。そして、経験しない以上どこまでも、ヘビメタ騒音というのは、佐藤にとってはそういうヘビメタ騒音なのである。俺が言ってるヘビメタ騒音とはちがう。俺が経験したヘビメタ騒音とはちがう。不可避的に無職にならざるをえないのに、それが、佐藤のような人間にはわからない。

ヘビメタ騒音がどれだけの障害をうむか、まったくわかってない。うまれながらの障害に敏感な佐藤が、うまれたあとに発生するヘビメタ騒音障害に関してはまったく、理解をしめさない。それが人間だ。それが、普通の日本人だ。ヘビメタ騒音で働けなくなるような障害が発生したという(俺の)話しよりも、日本人の労働観のほうが強い。佐藤のなかで強い。だから、テンプレ通りの反応をする。

たまたま、俺よりも「めぐまれていたから」働けるだけなのに、えらそうなことを言いやがって。ヘビメタ騒音が小学六年生の時から二五歳まで、中学三年間と高校三年間をふくんでなっていたというハンディがないから普通に通勤ができるだけなのに、えらそうなことをいいやがって。おまえらだって、ずっとずっと毎日毎日、この世で一番嫌いな音を、「現実を常に無視する」自分勝手な家族が気違い的な意地で鳴らしていたら、通勤する能力をうしなってしまう。

けど、そういうことが、自分の身に起こらなかったから「ヘビメタ騒音なんてたいしたことじゃない」と思ってしまう。「どれだけ鳴っていると言ったってたいした音じゃないんだろ」と思ってしまう。おまえ、毎日やられてみろ。どれだけつらいか。つらいつらい毎日を必死の思いで暮らして、睡眠障害になって、毎日決まった時間に起きるということがどうしてもできなくってしまう。気違いヘビメタにやられて、パッとしない学歴になってしまう。それが、どれだけ、足を引っぱるかわってない。俺は、ヘビメタ騒音がなければ、しかる場所に行けた。しかる場所に行けたら、自分の能力を発揮できた。しかし、しかる場所に行けないとだめなのである。なけなしの努力をして、睡眠障害になってしまう。なけなしの努力をして、疲労と鬱で働けなくなってしまう。

しかし、「騒音で働けないなんてあまい」「そんなのお兄さんに言えばいい」「やっぱり人間は働かないとだめだよ」なんて言われてしまう。気軽に言うな!! 気軽に!! そういうことを言う人にとっては、気軽な問題なんだろうけど、俺にとっては気軽な問題じゃない。人生全部の問題だ。


(働くとは普通に通勤して働くということ)

2019年12月24日火曜日

「やったってやってない」がうちではとおった。これが、ヨソの人にはわからない


親友のことを考えても、俺はもう、ボロボロだ。ころろがぼろぼろだ。よくなる感じがしない。ヘビメタ騒音以降、だれといても、圧迫される感じがある。切羽詰まった感じがある。だれもわからない。

家族である気違いが、気違い的な意地で、この世で一番きらいな音を大爆音で鳴らし続けるというのが、どれだけ人を追い詰めるか、わかってない。他の人はまったくわかってない。経験としてわかってない。だから、ぜんぜんわかってない。わかってない。わかってない。

あの音のなかにいるということ自体が、ピンチなんだよ。どうでもいいことじゃないんだよ。感じ方の問題じゃないんだよ。受けとめ方の問題じゃないんだ。文脈があるといっているだろ。たしかに、気違い兄貴にとって気違いヘビメタは、気持ちのいい音だ。爆音で鳴らさないとストレスがたまるのだろう。爆音で鳴らすと気持ちがいいのだろう。まさしく、感じ方の問題、受けとめ方の問題だと言えそうだ。しかし、ちがう。ちがうんだよ。
ボクは、気違いヘビメタが嫌いだった。この世で一番嫌いな音だった。それは、聞いたときからそうなんだよ。聞く前からそうなんだよ。そういう文脈がある。腹がよじれてしまうような音なんだよ。

あんなでかい音で鳴らしていいわけがないだろ。実際多くの自治体では、いまは、騒音にかんする法律がある。

あんな音で鳴らしていいわけがない。目の前がでかい幼稚園で、横の家が離れていたから鳴らせただけだ。気違い兄貴だって、おばちゃんの家に居候したら、あの音のデカさでヘビメタを一日に一分だって鳴らすことはできない。うちでは、好きなときにどれだけ鳴らしたって、(鳴らしてないのとおなじ)気持ちでいられる。これも、うちのなかでは、気違い親父がやり始めたことだ。気違い親父が、気違い兄貴がゼロ歳の時からそういうモードで暮らしているから、うちでは、それがあたりまえになっている。むかしから、うちでは、(やったってやってない)がとおった。とおっていた。気違いが、やりとおすと、その気違いは、やったつもりをもたなくてすむのである。もちろん、気違い的な意地でやりとおすけど、本人は『やってないのとおなじ』気持ちでいられる。そういうことが普通に、一六年間成り立っていた。気違い兄貴がヘビメタをやり始めたとき、うちでは、気違いが意地をとおして、気違い的な意地でやれば、やってないとおなじだという常識が成り立っていた。気違い兄貴が気違い親父のまねをしてやりはじめた。うちでは、なじみのことだったんだ。これが、ヨソの人にはまったくわからない。気違い親父が正常な感覚と知覚を踏みにじって、そういうことを実行してきた。気違い親父は「いえでは」てっぺんだから、絶対におれない。絶対に言うことを聞かない。
「やったってやってない」がうちではとおった。これが、ヨソの人にはわからない。やったやつはそんなつもりはまったくないよ。これだって、どれだけ、問題を複雑にしているかわからない。やった張本人は、気違い的な意地でやるモードでくるらしているけど、そんなつもりがまったくないんだからな。どれだけ気違いか。どれだけこまるか! 兄貴だって、親父にやられていたときは、こまってたんだよ。それを、一六歳になったら、気違い親父のやり方で、ヘビメタを鳴らしやがって。それも、ものすごくデカイ音で鳴らしやがって。それで、やってないつもりなんだからな。じゃあ、言えばやめてくれるのかというと、それは絶対にない。絶対にない世界だ。これが、ヨソの人には、ほねの髄からわからない。だから、俺が悪くいわれる。俺がだらしないように言われる。殺さなければ、一秒だってこっちの意地を通せない。殺さなければ、一秒だってしずかにさせることができない。それを押しつけてきた。そういう状態を押しつけてきた。そういう状態を押しつけてずっと暮らしていたのに、そういうつもりがまったくないという状態だ。つもりがまったくなければ、どれだけやったって、やってないのとおなじなんだよ。

2019年12月23日月曜日

『いま現在に集中する』というマインドフルネスの考え方は酒のアルコール、たばこのニコチンとおなじ

『将来のことを気にするのはやめよう』ということと『いま現在しかない』ということは、両立しないということを言いたい。

基本的に、こういうふうに思ってなんとかやりすごそうとしている人を批判するつもりはないわけね。どうしてかというと、その人たちは、相当にやられて、こまっている人たちだから。相当に追い詰められている。けど、追い詰められている人が、『過去は過去だ』『過去のことは気にしないようにしよう』『将来のことは気にしないようにしよう』『いま現在に集中しよう』『過去も未来もない』というような考え方に立つのは、危険なところがある。おいつめられた底辺労働者が目の前の作業に集中すると、その作業が底辺労働者のからだをいためつけるということが考えられる。たとえば、一〇年間その労働を続けたとき、自分のからだが悪くなるということがわかっている状況で、目の前の作業に集中したら、一〇年後には、その労働者のからだは悪くなってしまう。目の前の作業に集中するというのは、ポジティブな考えに(いちおうは)思えるけど、ほんとうは、ネガティブな考えだ。それは、ガス室の中で作業をしているのとおなじだからだ。いつか自分のからだが悪くなってしまう』という恐怖からのがれたいから、『いま現在』という考え方に執着しているだけだ。『将来のことは気にしないようにしよう』という考え方はポジティブに響くけど、基本が『逃避』なのでネガティブな意味を持ってしまうのである。酒が体に悪いことがわかっているのにもかかわらず、『いま現在が楽しければいい』『いま現在がくるしいものでなければいい』という考えに基づいて酒を何十年も毎日飲み続けている場合は、いま現在に集中して酒を飲んでいても、ポジティブとは言えない。実は現実から逃避したいだけだからだ。実は、目の前の労働も酒とおなじだ。体を壊す酒とおなじで、その人のからだをこわす。もちろん、一日や二日でこわれるものではない。しかし、二〇年間も三〇年間も、続ければ、からだがこわれる労働というのはある。その場合、『いま現在』に執着する考え方は、『逃避』でしかない。









 ・考えても納得のいく答えが見つからないことは考えない。





過去において、考えたが納得がいく答えがみつからなかったということが、この考えの根底にある。ようするに、過去の経験を参照して、(過去の経験的なデータを考えて)未来のことについて考えているのである。『考えない』というのは、『考えないようにしよう』ということであるから、これは、未来の行動方針について語っているということになる。考えないのは、いまではなくて、未来の自分なのである。いまの自分が、『(将来)考えないようにしよう』といま思っているだけなのである。







  ・将来のことばかり考えてたら、今を生きられないから考えないようにする。



考えないようにしようといま現在決めたのだけど、それは、将来(未来において)考えないようにしようということだから、将来のことを考えていると言える。





・ 良いことも、悪いことも、終わったことは忘れるようにする。



これも、いままでの過去の経験から、『忘れるようにした方がよい』と考えているのである。忘れるようにするのは将来の『自分』である。(いま現在の自分はそういうことを考えている自分である)。これは、『忘れるようにしたい』という願望の別の表現だ。将来の自分は、たぶんだけど、近い過去に起こったことについて「あーだこーだ」と考えているのではないかと思っているのである。将来の自分は、将来の時点において、近い過去に起こったことについて、怒ったり、喜んだりしているのではないかと思っているのである。そういう感情を想起させるのは、実は、いま現在のことではなくて、将来の時点において、近い過去の出来事だ。生きていれば『思っているうちに』未来に到達してしまう。





・ 悩んでもしょうがないことは悩まない。



これも、過去のデータを参照して、これからはこうしようと言っているにすぎない。「これから」のことについて言及しているので将来のことについて語っている。過去の記憶を思い出して、未来の行動指針について語っているのである。要するに『過去も未来もある』。過去のことは忘れてないし、未来のことも心配している。





・ 心配しても解決しない問題については心配しない。



これも、過去のデータを参照して、これからはこうしようと言っているにすぎない。「これから」のことについて言及しているので将来のことについて語っている。







・将来も過去も、自分の頭の中にしかない。



それを言うなら、いま現在のことも、自分の頭の中にしかないのではないか?

+++++

たとえば、アスベストを吸い込むと肺がんになるとする。そういう知識がある労働者がアスベストを吸ってしまう作業をしているとする。その場合、どうしても、将来の自分が気になるだろう。

しかし、『アスベストを吸い込むと肺がんになる』というのは、『アスベストを吸い込むと肺がんになる可能性が高くなる』と言うことであって、アスベストを吸い込んだにもかかわらず、肺がんにならない人もいるとしよう。しかし、どのくらいの長さアスベストを吸い込む作業をしたかとということと、どのくらいの量アスベストを吸い込んだかということが、肺がんになる確率に影響を与えているということは否定できないとする。つまり、長期間、アスベストを吸い込めば吸い込むほど、肺がんになりやすく、アスベストを吸い込む量が多ければ多いほど、肺がんになる確率が上がるとする。確率は上がるけど、ちょっとだけアスベストを吸い込む作業をした人は、アスベストを吸い込んだにもかかわらず、肺がんにならなかったとする。その場合、『アスベストを吸い込んだにもかかわらず、肺がんにならなかった人がいるのだから、吸い込んだアスベストの量は関係がないとは言えない。また、肺がんにならなかった人がいるのだから、アスベストを吸い込む期間の長さは関係がないとは言えない。
いちおう、こういうことをおさえておくとする。
『アスベストを吸いこむと肺がんになるのではないか』と思っている人がいたとする。その人が、アスベストをどうしても、ちょっとは吸い込んでしまう作業を平日はしていたとする。マスクをしてもちょっとは吸い込んでしまう作業を月曜日から金曜日まで、朝の九時から昼の一二時までと、午後一時から午後五時までしていたとする。
その人のことをAさんと呼ぶことにする。「このままこの仕事を続けていたら、将来、肺がんになってしまう」とAさんが考えても、当然だと(僕は)思う。けど、そういう作業をしていない心理学者や心理学者の影響を受けたもと患者やポジティブシンキングに傾倒している人が言うんだよ。『いま現在に集中すればいい』とね。『不安なんていうのは、幻影だ。将来の不安というのは、自分で作り出しているにすぎない』とね。『いま現在に集中すればそんな不安はなくなる』とね。
けど、僕はAさんが将来のことを心配するのは当然だと思う。そして、Aさんがいま現在の作業に集中したばあい、肺がんになる危険性があがると思う。アスベストをどうしてもちょっとは吸い込んでしまう仕事を続けていれば、将来、肺がんになってしまう危険性があがるという考え方は、非合理的ではないと思う。根拠があるから心配しいてる。根拠がないことを心配しているわけではない。僕はそう思う。けど、将来のことを心配してくよくよ!悩むのは、非合理的なことだと考える人たちもいる。くよくよというのが、そもそも、ネガティブな言葉で、いかにも、非合理的な考え方にとりつかれているような印象を与える。これは、印象操作ではないのか?
まあ、「くよくよ」という言葉については今回はこれで、切り上げるとする。問題は、将来、肺がんになる危険性をあげる仕事をしているAさんが、『いま現在に集中』して作業しても、将来、肺がんになる危険性をあげるということだ。Aさんが『いま現在の作業』に集中して、不安がなくなったとしても、将来のAさんが肺がんになったとすると、将来のAさんは、楽しくないと思う。『いま現在の作業に集中』するときっと、いい未来があると思うのは勝手だけど、そういう前提に立って、他の人にそういう考え方を押しつけるのはどうかと思うな。『いま現在の作業に集中すると』と書いたけど『いま現在に集中すると』でもおなじだ。『いま現在』に集中すると、将来の不安がなくなるとする。それはいいことなんだと言えるかどうかという問題だ。『いま現在に集中』することで成果が得られる場合がある。その場合は、『いま現在に集中する』という考え方でいいと思う。将来、いいことがあるのだから……。しかし、将来悪いことがある場合は、そんなことは、言えない。




2019年12月22日日曜日

せけんのやつらは、『ヘビメタ騒音でできない』ということを認めない


どこか遠くに行きたいという気持ちはある。よく、思うんだ。『どこか遠くに行きたいな』と。
けど、実際には、行かない。行けない。
『どこに行ったっておなじだよ』という気持ちがある。『そんなの、つかれるだけで、なにもかわらないよ』という気持ちがある。『自分が動いても、気違いヘビメタ騒音にやられた雰囲気が毒ガスのように蔓延しているのだから、どこに行ったって無理』という気持ちがある。
ほんとうに、どこに行ってもくるしい。だれもたすけてくれなかった。どこに行ってもヘビメタ騒音でくるしい。まるまるたい。

『ヘビメタ騒音でくるしい』と言っているだろ。
『ヘビメタ騒音で●にたい』と言っているだろう。
『ヘビメタ騒音でできない』と言っているだろ。で・き・な・い・ん・だ・よ。できない。ヘビメタ騒音でどーしてもできない。

けど、せけんのやつらは、『ヘビメタ騒音でできない』ということを認めない。やられてないからわかってないだけだ。できないんだよ。できなくなるんだよ。

『なにが、過去は関係がない』だ。ふざけんな。

2019年12月19日木曜日

『想像の埒外』だ

   *   *   *



ひとごとだよなぁ~~~ こんなの~~



けど、俺はつらい。ずっとつらい。



気違い兄貴のヘビメタというのが、『想像の埒外』なんだよな。普通の人には想像ができない。そのくらいひどい。そして、ヘビメタ騒音の影響がまた、『想像の埒外』だ。他の人は、『たいしたことがない』と思ってしまう。そうじゃない。



これ、もう、すべてがむりなんだよな。で、気違いヘビメタにたたられたことがない人が……気違い家族によるしつこいヘビメタ騒音にたたられたことがない人が、認知療法的な説明やアドラー心理学的な説明やポジティブ思考的な説明をする。



こんなの、ない。

2019年12月18日水曜日

ヘビメタ騒音がない世界で……


2019年12月18日23時07分38秒
あのあと、また眠って、起きた。
なんだろうな? 夕方の四時ぐらいに眠ったのかな? よく、おぼえてない。
さてと、どうするかな?
いま、とりあえず、お茶を飲んだけど元気が出ない。いつも、外食をするなら急がなければならない時間に起きるなぁ。二四時間やっているところもあるけどね。
二四時間やっているデニーズをこのあいだ見つけた。デニーズは、入ったことがない。(これも、私はデニーズには入ったことがないという意味だ)。
入ったことがないので行ってみるかな。けど、ほんとうは、刺身だな。刺身をいっぱい食いたい。けど、どのみち、ひとりで行動しているとさみしい感じはある。男の友達でもおなじだ。やっぱり、好きな女の子と行動したほうがさみしさはまぎれる。普通に好意を持っているけど、ほれているわけではない女の子だと、さみしい感じがまぎれない。男の友達といるのとおなじだ。
ヘビメタ騒音がなければ、こんな思いはしなくてすんだのに。僕は、そういう女の子がひとりいればいいわけで、多くの女の子とそうしたいわけではない。
けど、もう、そういう気持ちを抱えて、何十年もひとりで暮らしたので……。なれるわけがないだろ。これ、わかってないやつがおおいんだよな。なれたり、しない。愛情飢餓感?は強くなる。もちろん、あきらめの念がしょうじる。客観的に見て、老化していくわけだからな。
今度生まれ変わったら……。
ヘビメタ騒音がない世界で……。

外に食べに行こうと思ったのだけど、なんかさみしいので、元気が出ず……。家でレトルトのハヤシライスを食べることにした。
いま、食っている。
このハヤシライス(レトルト)はけっこう、高い。一個二五〇円ぐらいするのだ。けど、一個一〇〇円ぐらいのハヤシライス(レトルト)二・五倍うまいかというと、そうではない。一・二倍ぐらいしかうまくない。ほとんどかわらない。
まあ、レトルトってそうだよね。
レトルトのカレーも一〇〇円台のやつと二〇〇円台のやつがあるけどそんなにかわらない感じがする。
それに、レトルトカレーとレトルトハヤシライスは、一口目はうまいのに、食べている途中で、まずくなる。これは、たぶん、あぶらが原因なのだと思う。あぶらといっても、脂肪系のあぶらだ。ほんとうに、途中で食べたくなくなるんだよな。ご飯が半分ぐらいなくなったところで、一気に、「なんかうまくない」と感じるようになる。

いろいろと言ったけど、うえがみたせた。
感謝だ。
おなかがいっぱいだ。
++++++
このさっきーーどうするかな?

「おれはもうだめか」とか「つかれたなぁ」とか「うごきたくないなぁ」とか考えながら歯磨きをしている俺君です。
まあ、「もう、うごきたくない」はほんとうにこころの言葉で、「もう、うごきたくない」「もう、うごきたくない」と思いながらむりやり動いているときがある。どうして、動かなければならないかというと、俺にしかできない用事があるからだ。けど、もう、つかれた。

ふつうのひと……『標準』からはほんとうにだいぶはずれてしまったな。別の言い方だと、『レールからはずれた』というのがあるか? ぼくのなかでは、だいたい、おなじような意味だ。
ほんとうに長期騒音でつかれた。毎日が長期騒音の連続だった。

   *   *   *

俺はかなり疲れた。
ほんとう、起きて、水分を補給して、食事をして歯磨きをしただけで、相当につかれる。

もう、むりだ。

ふたたび、高校をおちたときのような気分で、よこになるしかないか。
ほんとうに長期騒音でくるしかった。




2019年12月17日火曜日

ほんとうに、自分の人生なのだけど、信じられない


ほんとうに、自分の人生なのだけど、信じられない。どうしてこうなってしまったのか。気違い兄貴が、あんな気違いでなければ、こういうことにならなかった。気違い兄貴が、気違い的な感覚で俺の言っていることを無視して、気違い的な態度で鳴らし続けなければ、こんなことになってない。気違い兄貴にやられたことがない人が、『ちゃんといわないからだめなんだ』と俺を下に見て、説教をしてくる。『無職』『引きこもり』*という属性があれば、人は、勝手に見下して説教をしてくる。おまえらだって、あんなに長い時間、あんなに長い期間、自分がこの世で一番嫌いな爆音にさらされたら絶対に働けないようになるのに、えらそうなことを言いやがって……という気持ちになる。

自分がこの世で一番嫌いな音が一日に一三時間以上鳴っている状態というのを経験してみろ。どんだけ、くるしいか。しかも、やっているやつが家族で、サイコパスだ。気違い的な意地で、自分が出している音がデカイ音だということを認めない。全部、ゆずらずにやりきっているのに、全部ゆずってやった気持ちでいる。……こういう部分が他の人にはわからない。しかも、家族のなかにそういう人間がもうひとりいる。その人間は、父親だ。こんな状態を押しつけられて、他人にはえらそうなことを言われて、俺はもう、いやだよ。



*当時

いま、アマゾンキンドルアンリミテッドを無料で楽しめるので、ぼくの本をただで読むチャンスですよ。

一ヶ月だけだけど。

いろいろと誤解をうんだようだ。


いま、アマゾンキンドルアンリミテッドを無料で楽しめるので、ぼくの本をただで読むチャンスですよ。
一ヶ月だけだけど。





+++++++++++++


俺がむかし、親父と作業をしたくないということを書いたんだけど、いろいろと誤解をうんだみたいなのである。「やめてくれ」とどれだけどなってもやめてくれないし、やっていることがいちいちへんなんだよ。で、親父じゃなくて、こっちが痛い思いをすることになる。
それから、親父のように頭がおかしくてへんなところで(行きすぎた)意地をはる人は、働かないほうがいいということを書いたんだけど、これも、いろいろと誤解をうんだようだ。親父を想定して書いたのだけど、仕事が不得意な人全般を指しているような感じになってしまったんだな。まあ、そういうつもりはない。(親父は)悪気がないのに、いつもこっちが、こまらされるんだよ。ほんとうに、へんなことを言い出して、こだわりつくしてゆずらないから、ものすごくこまる。そういうことを言おうとしていたわけ。仕事が不得意な人全般について言ってたわけじゃないわけ。たとえば、作業が遅いということは、この場合問題ではないわけ。けど、作業が遅いと感じている人が、反感を持ったみたいなのである。
親父がこだわる理由がおかしいし、親父が「かわりに」思いつくことが、これまた、こまることなんだよ。こっちが。たとえば、アンテナコードは、数日後に使うからそのまま置いておいてくれと言ったら、まいておくことにこだわってまくわけ。けど、それはいい。それはいいんだけど、室内において欲しかった。ところが、室外におくことにこだわって、絶対にゆずらない状態になる。室外におくと、つゆがついて錆びる原因になるからいやだったわけ。(むいてあるからね)。だから、外にかけないでくれと言ったら、『切る』とか言い出すわけなんだよ……。これがぁ! つながっているものを切ってしまったらだめなんだよ。けど、一度『切る』ということを言い出すと、止まらない。『俺が切って、使うときに中継器でつなげてやる』ということを言い出す。中継器は、コードが短くて使えないときに使うものなんだよ。せっかく、一本で使える長さなのに、切る必要はないわけ。さらに、中継器を使うと信号がわずかではあるけど、減衰する。ほんとうに、切る必要なんてないのに「きるきる」と言い出す。『(アンテナコード)中継器でつなげてやるからいい」と言い出す。室内にそのままおけばいいのに、そういうヘンなことを言い出す。もう、こまるんだよ。

コードは俺が買ったコードだから、親父から、取り上げて二階に持っていけばよかったんだけど、どのみち、庭で使うから、一階の物置スペースにおくつもりだった。

ともかく、そういうことで、トラブルが発生する。絶対にトラブルなんて発生しなくてもいいところで、トラブルが発生する。で、一度言い出したら、言うことを聞かない。だから、こまる。「やってやる。やってやる」と言い出す。こまるんだよ。

ともかく、一般に不器用な人とかそういう人について言っているわけじゃないのである。親父みたいな人について言っているのである。親父みたいな人は、組んだ人……いっしょに仕事をやる人に迷惑をかけっぱなしになるから、働かないほうがいい……とね。けど、多くの働くのが苦手な人が、自分のことを言われたのではないかと思ったみたいなんだよね。けど、俺は親父型の特殊な人について言っているわけ。話が通じればいいけど、通じないんだよね。こまるんだよね。

2019年12月15日日曜日

完全に追い詰められている。

やばい。去年よりも一昨年よりも、悪くなっている。そーとうに、やばい状態になっている。ヘビメタ騒音の影響は消えるどころか、年ごとに強くなっている。俺が歳を取れば取るほど、気違いヘビメタ騒音の影響が強くなっている。完全に追い詰められている。

気違い的な意地でムキになってやったのに「そんなにやってないつもり」なのかよ?

もう、いやだ。●にたい。

あんなに意地になってやってたのに……。

ほかのやつらだって、自分がこの世で一番嫌いな音を九〇デシベル付近の音で、毎日平均八時間聞かされ続けたら、●にたくなる。

遅刻するようになる。忘れ物をするようになる。

気違い兄貴が家族だったと言うことが最大の問題だ。他の人は『家族なんだから、相談すればいい』といいやがる。『家族で相談すればいい』と言いやがる。
他人ではなくて、家族だから問題なんだろ。もうひとり、おなじ感覚の家族がいるから問題なんだろ。たとえば、アパートで気違い兄貴が気違い兄貴が鳴らしていた音量で鳴らしている場合、他人なら、注意できる。『家族で相談すればいい』なんて、言われなくてもすむ。警察に相談するときだって、『他人である』ほうがどれだけ話しがとおりやすいか。『家族の問題は家族で解決してください』というような考え方が、当時の日本では強かった。『家族だから』どうにかなるのではなくて、『家族だから』どうにもならないんだろ。『家族』だから、弟である俺が、目だたたないかたちで犠牲にならなければならなくなるんだろ。気違い兄貴だって、うちでだけやったわけだから、『家族ならどれだけ虐待してもいい』という感覚が成り立っていたとしかいいようがない。『家族だから、やったってやってない』という感覚が成り立っていたとしかいいようがない。『家族だから、どれだけやったってやってない(のとおなじだ)』という感覚が成り立ってしまうんだよ。そして、世間のやつらは、気違い兄貴の構造がわからない。気違い親父の構造がわからない。家族にもうひとり、気違い兄貴とおなじ感覚がのやつがいるということを書いたけど、気違い親父のことだよ。気違い親父が『家主』で『大家さん』だから、問題なんだろ。実際、うちは、二階の俺の部屋と兄貴の部屋を貸していた。ほんとうに大家さんだったのである。で、この大家が、気違い兄貴のヘビメタ騒音に関しては、一切合切かかわらないようにしていたのである。鳴らしている、三年間、鳴らしているもう三年間、鳴らしているもう四年間、鳴らしているもう五年間、注意しなかったのである。俺が、小学六年異性時のに『注意してくれ』と言ったら『まったく鳴らすななんて言えるわけがないだろ』とか『まったく鳴らすななんて言ったらかわいそうだろ』と言って、注意しなかったのである。『注意なんてできるわけがないだろ』という意見なのだ。気違い親父は、いろいろなところでおかしいけど、これは、あっけにとられた。絶望的な気分になった。気違い親父は、普段家にいないから、気違い兄貴がどれだけの音で鳴らしているかわかってないのである。自分が被害を受けなければどれだけ言われたって、「しらぬぞんぜぬ」なのである。で、そういうことも、ヨソの人にはわからない。気違い親父は、気違い的な理由で怒り狂っていた人間なんだぞ。気違い兄貴が一三歳ぐらいになるまで、ずっと怒り狂っていた人間なんだぞ。それが、気違い兄貴が一六歳になって、自分よりでかくなったら、注意することが必要なことなのに、今度は、一切合切注意しないという態度になってしまった。こんなの、気違い兄貴がこわいから、なるべくあわないようにして、注意しなかっただけだ。で、『まったく鳴らすななんて言えるわけがないだろ』とか『まったく鳴らすななんて言ったらかわいそうだろ』みたいな意見は、言い訳なのである。頭がおかしい言い訳。本人がやりたくないと、ほんとうの理由じゃないことを言い出して、発狂して、やってやらないということを実現化する。そういうしくみなんだよ。あのときは、俺が一一歳の小学六年生の時だから、俺はまだからだが小さくて、(親父は俺に対して)怒り狂うことができた。兄貴には、もう、怒り狂うことができなくなっていた。注意したくないから、ほんとうに気違い的な理由をつけて、注意をしない。これ、おかしいんだよ。耳が正常で、本式ではないにしろ日曜日の朝は、聞かされるわけだから、普通の家で鳴らしたら絶対にだめな音で鳴らしているということがわかるはずなんだよ。けど、気違い兄貴が鳴らしている時間は、外に出て、庭をいじっている。外に出れば、階段の下や俺の部屋よりもずっと音が小さくなる。日曜日の昼にはもう、パチンコ屋に行って、家にいない。そして、帰ってくるのが、一一時一五分で、五分前か四分前に、気違い兄貴が鳴らすのをやめている時間だ。だから、気違い親父が帰ってきたときは、しずかなのである。だから、もう、関係がない。わからない。自分がこまるのでなければわからない。たとえば、自分が午後八時に帰ってきて、ガンガン鳴っている居間でテレビを視るということをするなら、『デカイ音で鳴っている』ということがわかるんだよ。けど、気違い親父なんて、兄貴と顔をあわせたくないのか、兄貴が高校生になってから、絶対に、平日も土曜日も日曜日も、午後一一時一五分に帰ってくるようにして、気違い兄貴のヘビメタを聞こうとしない。どれだけ、『午後八時に帰ってきて、どれだけひどい音で鳴っているか、聞いてくれ』と言われても、三六五日中、三六五日、クリスマスも大晦日も元旦も、絶対に、午後一一時一一分に帰ってきて、聞こうとしない。一日だって、午後八時に帰ってきて、どれだけデカイ音で鳴っているか聞いてくれない。これが、俺が小学六年生から、二〇歳までの気違い親父の態度だ。やったことだ。

2019年12月14日土曜日

旅と旅行のちがい


旅は目的地が特に決まっていない場合が多い。旅行の場合は目的地が決まっている場合が多い。特に、旅行の場合は、目的地だけではなく、行程が決まっている場合が多い。

どこに行ってなにをやるのか、どういう時間にやるのかということが、だいたい決まっているのが旅行だ。旅の場合は、そのような決まりがあんまりなく、なんとなく、どこか、自分が住んでいるのとはちがう場所に行くというイメージがある。

「あてどもない旅に出る」とは言うけど「あてどもない旅行に行く」とは言わない。旅行の場合は目的地が決まっている。「自分探しの旅」とは言うけど「自分探しの旅行」とは言わない。

旅の場合は、さまよっている感じがある。なので、旅の場合はアクシデントが多い。なにが起こるかわからないけど、自分が予期してないなにかが起こることを(期待)している感じがある。両者のちがいはだいたいこんなところだろう。

しかし、旅のほうが、意味範囲が広いのではないかと思う。人によっては、旅行と言うべき時に旅と言う場合がある。おなじ人でも、旅行であったとしても、気分的には『旅をしている』と言う場合もあると思う。包含関係を考えると、『旅』という概念のなかに、目的がはっきりした『旅行』が含まれているのではないか。



2019年12月13日金曜日

『いそがしすぎて』旅行にも自分探しの旅にも行けない状態が、いい状態なのか悪い状態なのかは、一概には言えない


俺はもう、長期騒音でめちゃくちゃになっているので、なんともいいようがないのだけど……普通の人の基準からははずれてしまっているので、はずれた基準でものを言うけど、いそがしくて旅行に行けないサラリーマンが、定年後旅行に行けるとは限らないぞということは言っておきたい。

基本的には、自分探しの旅は、やったことがない。

俺は、これまた、ぶっちゃけたことを言うと、気違い親父と旅行に行くのがいやでいやでしかたがなかった。親父といっしょに行動していると常に気違い的な攻撃を受けるので、親父といっしょに行動するということは、蕁麻疹が出てしまうほどいやなことなのである。

しかも、親父の知り合いがいなければ、乗り物のなかでもきちがい的な理由で怒り狂うので、乗り物自体が憂鬱になってしまっているところがある。

気違いが怒り狂うのに、理由なんて必要ないんだよ。

本人が本人の中で、「なにか」に怒りをぶつけたいと思っているから、『相手のなんでもないこと』で怒り狂うわけだから、相手には怒られる理由がない。

けど、これまた、親子フレームという考えがある人には、『親』が怒るのであれば、子供が(小さくて気がつかないにしろ)怒られて当然のことをしているのではないかというような疑問を持つ人がいるのである。

人が、人に対して、『理由なく』怒り狂うのはよくないことだと思う人でも、親子フレームを持っていると、親が子供に対して『理由なく』怒ったとしてもそれは、ゆるされることだとと思ってしまうのである。子供のほうに、どこまでも、負担を求める考え方をする人たちがいる。

『親』がやるのであれば、ゆるされるのである。ただ単なる『他人』がやるのであれば、ゆるされないことでも、『親』という立場の人がやるのであればゆるされると考える人たちが一定数いる。

『子供』が、親に対して『怒ること』はゆるされないことだが、親が子供に対して怒ることはゆるされると思っている人たちもいる。『どんな場合でも』というような条件がつくと、『(親が)気違い的な理由で』怒っている場合も含まれてしまうので、かなりやっかいだ。

この人たちは、『子供』のほうに負担をかけている。期せずして、差別的な偏見に基づいて自分の意見を述べている。その意見は、何度も言うけど、気違い的な親にやられた『子供』を追い込む。

まあ、ここまでは、そもそも、自分探しの旅に出るような気持ちもないということだ。俺は……。自分探しの旅に出ようかなと思う人のほうが、やはり、恵まれているような感じがする。まあ、旅行と旅はちがうけどな。ここでは、旅行も旅もおなじだとする。

そりゃ、無職、ニートである人が自分探しの旅に出てもあんまりいいことは起こりそうもない。いや、けど、いいことが起こるかもしれない。問題なのは、現役サラリーマンの人が、説教をしてしまうことだ。自分(現役サラリーマン)は、いそがしくて旅行に行けないそうだ。

で、自分探しの旅なんかよりもやることがあるのではないかということを言い出す。そのやることというのは、就職だ。就職すれば『自分がなにであるか定まる』ので、自分探しの旅なんてしなくていい。無職、ニート「だから」自分探しの旅に出たいような気分になるのだ。というようなことを言うのだ。


この意見はもっともそうだけど、もっともじゃない。

就職しているかどうかと自分は何者であるのかということに対する興味は関係があるけど、すべてではない。

ようするに、就職しているにもかかわらず『自分探しのたび』に出たい人もいるのだから、就職すれば『自分探しの旅に出たくなくなる』ということは、すべての人において成り立つものではない。

それから、『いそがしすぎて』自分探しの旅というようなものに関しては興味すら失うというのが、そのサラリーマンが(就職することをすすめる根拠)になっているのだけど、『いそがしすぎて』旅行にも自分探しの旅にも行けない状態が、いい状態なのか悪い状態なのかは、一概には言えない。

いそがしすぎるというのは、自分を失っている状態なのである。だから、自分探しの旅に出たいという気分は、むしろ、高くなる可能性がある。いそがしさが一段落すればいいけど、ずっといそがしかったらどうなる? 退職するまで、『自分探しの旅に出たい』と思いながらも、『自分探しの旅に出る』ことができない。

いそがしすぎる状態になれば、自分探しの旅に行きたいとか自分は何者であるのかなんて、悠長に考える時間がなくなるので、そういうことを考えないためにも就職したほうがいいという意見なのだけど、いそがしすぎる状態は、我を忘れている状態なので、ずっと続くのであれば、よくないことだ。

忙殺されているあいだ、自分は何者であるのかという問題は、忘れてしまっているけど、なくなってしまったわけではない。

定年退職後に、旅行ができるという前提でものごとを語っているけど、それは、わからない。体力も旅行に行きたい気持ちもじゅうぶんに残っているという仮定がいつも成り立つとは限らない。実際、定年退職後の旅行を楽しみにしていたのだが、からだが悪くなって、旅行に行けなくなってしまった人もいる。


・就職すれば、『自分探しの問題』は解決する……解決しない場合もある
・いそがしくなれば、自分が何者であるかについて考えなくてもよくなる……これは、言える。しかし、自分が何者であるかについて考えなくてもよい状態が、かならずしもよい状態とは限らない。
・定年退職したあとに、旅行に行けばいい……行ける人もいるけど、行けなくなってしまう人もいる。
・そもそも、いそがしく働いているうちに死んでしまう人もいる。忙殺されている状態が、いい状態かどうかはわからない。(そういう状態が好きな人もいるだろうけど、そういう状態が嫌いな人もいる。そういう状態とは、あまりにもいそがしくて、旅行にも行けないし、自分が何者であるのか考えるひまもないという状態のことだ。

ぼくは、自分探しの旅に出たいとは思わないので、どうでもいいことなのだけど、忙殺サラリーマンが言っていることは、正しいとは言えない。言いたいことは、忙殺サラリーマンが、それがいい状態だと思って、自分でそうしているのはかまわないのだけど、人に言わなくてもいいのではないかということだ。

自分は、いそがしくて、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……ということは、別いいのである。だから、他人が同様に、いそがしい状態になって、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……状態になることがよいことなのかどうかはわからない。その人(相手)にとって、それが本当にいいことなのかどうかわからない。

しかし、自分探しの旅に出たいとか、あるいは、自分は何者であるのかということについて考えたいと思わない……状態は、だれにとってもいいことだと考えているのである……忙殺サラリーマンは。

気違いヘビメタがものすごい音でガンガン午後一一時まで鳴っている毎日は、忙殺サラリーマンの毎日よりも忙殺されている状態なのである。この状態が(月数切り捨てで)一四年も続いて、つかれはてた。このつかれは、とれない。

ヘビメタ騒音が鳴っている毎日よりも、忙殺サラリーマンの毎日は、楽だと思う。忙殺されてないと思う。けど、そういうレベルの忙殺でも三〇年間続いたら、人間としてだめになると思う。たぶんだけど、三〇年間、強烈にいそがしい毎日を続けたら、なにかしらの病気になると思う。

三一年目に旅行に行けるとは限らない。そもそも、旅行に行きたいという気持ちもなくなっているかもしれない。ならば、旅行に行きたいときは、行ったほうがよいのではないか。たとえ、無職ニートでも。働いても働いていなくても……。

けっきょく、『よゆうがあるのが悪いのだ』という意見なのだよね。それは、一見正しそうに見える。ただ、見えるだけだ。余裕がなくなるほど働けば(いそがしくなれば)一時的には、根本的な問題を『忘れる』ことはできるけど、忘れた状態がほんとうにその人にとってよいことなのかどうかはわからない。忘れた状態でも解決はされてないので、解決されてない問題としてのこり続ける。それが、定年退職後におそってくるかもしれない。いそがしくして忘れているだけなのである。それは、麻薬でつらい現実を忘れるのと根本的にはおなじだ。それから、三〇年間とか四〇年間とかそういう状態が続くのであれば、身体と精神にたいへんな影響を与えると思う。

ようするに、無理をして病気になる確率が上がる。忙殺されている状態というのは高ストレスな状態なのである。ストレス過剰な状態なのである。

それは、理想的な状態じゃない。長い目で見るとむしろ悪い状態だ。『忘れる』という意味では問題解決にはなるけど、それは、短期間に限った話しだ。三〇年間、四〇年間という期間の長さを考えた場合には、問題解決にはならない。むしろ、忙殺されて仕事以外のことを考えられないような毎日が長期間続くということは、その後、複数の問題を引き起こす原因になる。

(注)毎日というのは休日を含んだ毎日のことだとする
++++++++++++++



だから、反省したりしない。


かなり精神的にくるしい。
さっき、下の部屋にある段ボールを片付けているときに、足を刺されたような気がする。(もう、ダニなんだか、乾燥肌なのかわからない)。
実は、バルサンのあと、ネズミが出ているので、ダニが発生していてもおかしくはない。
もう、俺は疲れた。
ほんとうにつかれた。ヘビメタ騒音でつかれた。どうにもならないほど、ヘビメタ騒音でつかれた。まあ、ネズミは親父経由なんだけどな。
もう、つかれたよ。
ヘビメタでくるしい。だれもわかってくれない。まあ、わかるわけがないか。

ヘビメタにやられなかった人たちが、マインドタフネスとかアドラー心理学とか認知療法みたいなことを言う。きたないよな。そりゃ、やられてなければ言えるだろう。気違い的な家族と一緒に住んだことがない人が、「人間の選り好み」を言っているだけだ。積極的な人のほうが、消極的な人よりも好きだ……自分は。こういうことだ。気違い的な家族にやられてない人が言う。気違い感覚だけずらせば、人のことを気にせず、ものすごい意地で、ものすごく夢中になって、なにごとごとかをやる人は、気違い兄貴や気違い親父とたいしてかわりがない。ただ、気違い感覚が成り立っているかどうかはものすごく重要な部分なので、だから、こまる、とは言わない。けど、ほんとうに、気違い親父も、気違い兄貴も、気違い的な意地で、気違い的な迷惑行為をしているとき、とくに「迷惑をかけている」という気持ちがないんだよな。それは、どれだけ言われても「ない」。その、どれだけはっきり、何万回言われても、特に迷惑をかけているつもりがないというのが、おかしいのだけど、こういうおかしさは、「よそのいえのひと」にはわからない。本人たちだって、よそのいえのひと」よりもわかってない。がむしゃらにやるだけなんだから。「やめろ」と言われたら、傷ついて怒り狂う。で、ムキになってやってしまう。けど、ムキになってやったとしても、やったつもりがないのである。また、「やった」と言われたら、ムキになってやったときとおなじように、ムキになって「やってない」と言い出す。で、それがすんじゃったら、それでおしまいだ。「やってない」ことを「やった」と言われて自分が傷ついた……腹が立ったという気持ちしかない。相手のことはまったく考えてないのである。そういうことを、生物レベルで普通にできる。こんなの、自分の感覚器をだますことができなければできないことなのに、普通に自分の感覚器をだましてそうする。で、そうするのが、気違い兄貴や気違い親父なのだ。どういうことかというと一日二四時間中二四時間、そういうモードで暮らしている。だから、反省したりしない。

気違い的な意地で夢中になってやったことは、常に、「やったってやってないこと」なのである。やっているさいちゅうは「なんだ、そんなこと言ってきてぇ!!!!」という気持ちになって怒ってやり続けるし、やり終わったら、「そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と怒り狂えば、それでおしまいなのである。

2019年12月12日木曜日

●『私に過去はない』という人の『肩書き』や『履歴』が一番重視されていることに気がつく人はいないのか


●『成功者の過去』と『つらい労働者の過去』


こういう言い方がはやるのは、『成功者』と『つらい労働者』がいるからだ。成功者が、いま現在に集中するという意味で、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』ということを言うのである。

これは、ほんとうは記憶を維持して言っているのだから、記憶障害者になりたいということではない。記憶は失いたくないのである。過去の記憶であれ、自分にとって必要な記憶は失いたくないのである。

成功者が使う『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』というのは、ほんとうに『効率』の問題で、自己投入の問題だ。自己投出といってもいい。

いそがしいから時間の効率を考えているだけだ。過去のことを思い出すと時間の効率が悪くなることが多いということを知っているからそういうふうにしようと思っているだけだ。


ちなみに、どうしてそういうことを知っている? かというと、過去において、自分の経験と効率にいて考えたとき、そういうふうな考えにいたったからだ。

つまり、ここでも過去の経験と過去の記憶は、結論を見いだすときに重要なものであるということがわかる。過去の経験について考えることができるから『時間の効率が悪くなる』ということを『知っている』のだ。

知っているのは、とりもなおさず、そういう記憶があるからだ。ちゃんと、自分の結論を覚えている。結論を出すときに過去の記憶を使い、さらに、結論を出したあと、記憶を保持している。

これで、記憶障害者になったら、効率の問題などは考えられないような状態になってしまうのである。効率なんてものを考える以前に仕事なんてまったくできない状態になってしまうのである。


だから、ほんとうは、記憶を失うことを考えてない。記憶を失うことを考えないで、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』と言っているだけだ。こっちは、成功者だから、仕事をやっているうちは、それでよいのである。


++++++++++++



●マインドフルネス・マインドタフネス、ゾーン、自己投入

成功者が言っている『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』という話は、実は、マインドフルネス・マインドタフネスの話しなのである。何度も言うけど、少し前の言い方だと『自己投入』の話しだ。別の言い方で言うと『ゾーン』の話しだ。


成功者が言っている『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』という話は、より良い仕事をするための方便にすぎない。ほんとうは、『過去』に頼り切っている。『過去の記憶』を土台にしてものごとを考えている。『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』と言うことも含めて『過去の記憶』を土台にしてものごとを考えている。


●成功者の過去は事前に紹介されている


問題はつらすぎる労働者だ。つらすぎる労働者にとっては、過去の記憶はつらい記憶ばかりなので、思い出したくないのである。成功者の過去は、実は、思い出したい過去なのである。できれば宣伝したい過去なのである。

かつての失敗談に関しても、いまの成功をより際立たせるための失敗談であって、ほんとうに失敗した話しではないのである。この手の話しの場合は『失敗は成功の母』であり、成功へとつながる失敗なのだから、ほんとうの意味では失敗ではない。

いま、一番、いそがしい成功者が『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』と言う場合は、何度も言うけど、効率性を求めているにすぎない。

過去にやったことよりも、もっとすごいことをやりたいと思っているから、そういうことを言う。そして、発言者の属性は、発言する前に多くの人によって『認識されている』ものなので、多くの人は『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』という発言が『記憶障害にかかわることではない』ということを知っているのである。

『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』という人の『肩書き』や『履歴』が一番重視されていることに気がつく人はいないのか?

成功者であれば、他の人はその人の『肩書き』や『履歴』についてある程度は知っているのである。『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』『私に過去はない』と言っても問題がない状態ができあがっている。


これは、ほんとうのことを言ってしまえば、人びとが、『肩書き』や『履歴』という『過去の実績』を重視しているということを如実に示している。


成功者の場合は、『肩書き』や『履歴』という過去の実績について、その場で本人が説明する必要がない状態が成り立っている。『過去の実績』というのは、その人にまつわる過去の記憶に他ならない。


その人の過去の記憶と、他の人がその人について考える場合に使われるその人の『過去の記録』なのである。他の人がその人について考える場合に使われるその人の『過去の記録』は、成功者の場合は、他の人が感心するような『過去の記録』なのである。


肩書きというのは現在のことを示しているのだけど、過去のこともある程度は明示しているのである。たとえば、いろいろなドラマに出てきた女優は、いろいろなドラマに出たという過去の実績が、『女優』という肩書きを成り立たせている。

どこかの『代表取締役』は、『代表取締役として働いてきた』という過去の実績を売り物?にしているのである。いずれせよ、肩書きによって過去の実績?が『明示』されている。

何本ものドラマに主演していた『女優』は特に『過去の業績』について語らなくても、『女優』という肩書きだけで、『過去の業績』について他の人から理解される下地がある。

説明する必要がないほど有名な会社の社長は、その肩書きだけで、その人がそれまでも社会的に有能であったということを示している。その人が社長になるまでも、その会社で優秀な業績をおさめてきたということを暗示している。

過去の実績をこえたいからこそ、「過去は関係がない」「私に過去はない」と言いたくなるのだ。

これは、目の前の仕事に夢中になることで、体を壊してしまう人の話ではない。粉じんが舞い散るところで働いている人たちの話ではない。

2019年12月11日水曜日

ヘビメタ騒音の朝なんて、『人間魚雷になる日の朝』とおなじなんだよ。


「どうにかしないとやばいな」というのはあるけど、動けない。「どうにかしなければ」と思いながら、なにもしないまま時間だけがすぎていく。



たとえば、リアルであっている人がいたとして、その人にはぼくの内面の崩壊がわからない。



騒音問題は、睡眠障害を含めてけっこう重たい問題なんだよ。睡眠障害で「うけ」が悪いよ。だいたい、これから眠るつもりなんだけど、ほんとうは、行かなきゃならないところがある。昼間あたり……。けど、俺は行かない。寝ているから。


   *   *   *


2019年12月11日07時16分15秒
ほんとうーーーに、つらかった。どれだけ、ぼくが「つらかった」と言っても、まったくつたわらないだろうけど、つらかった。で、この朝の感じが『リアル』なんだよね。この朝の感じはヘビメタ騒音の朝の感じだ。どれだけだれがなんと言おうと、つらいものはつらい。破滅破綻を感じるものは、破滅破綻を感じてしまう。長く続きすぎたんだよ。ヘビメタ騒音が長く続きすぎた。毎日続いた。毎日の経験の上にできあがった感覚は、否定できない。『破滅を感じる必要はない』と言ったって感じる。『破綻を感じる必要はない』と言ったって感じる。
気違い兄貴が、ほんとうに気違いモードで気違いヘビメタを鳴らした。ほんとうは、深刻な問題なんだけど、当事者ではない人にとっては、どうでもいい問題だ。どうでもいい問題だという意味で、『破滅を感じる必要性がない』のである。けど、どうだ。気違い兄貴が、気違い的な意地で、気違い的な感覚で、ヘビメタを鳴らすと、破滅を感じる。長いからな。一日のなかで長すぎる。だれもわからない。そりゃ、体調、くずれるよ。力が出ない体質になる。つかれやすい体質になる。どれだけ、よゆうがある時間だってめちゃくちゃだ。ズタボロだ。これは、ほんとうにヘビメタ騒音でそうなっている。『めちゃくちゃだと感じる必要がない』とか『ズタボロだと感じる必要がない』と言われて片づく問題じゃないんだよ。こういうことで、気違いヘビメタを体験してない普通の人と、敵対しなければならなくなるだろ。まあ、ついうっかり、敵対という言葉を使ってしまったから『敵対する必要はない』と言葉をかえされてしまうけど、少なくても、意見があわない。で、感覚的に、ぼくが言っていることがわからない。わからない上で、正論を吐く。だいたい、日本は、労働至上主義みたいなものがある。無職(*)のいうことは、なんだろうがまちがっているのである。そういう思いこみのほうをどうにかしろよ。無職は、むかしの非国民みたいなものなんだよ。いったん非国民になったら、どれだけいじめてもいいということになってしまう。いまだって、無職*であるならば、どれだけののしってもいいということが成り立っている。感覚として成り立っている。あるいは、下ののものとして説教していいという感覚が成り立っている。『無職なのだからしかたがない』という感覚が成り立っている。これは、『非国民なのだから、しかたがない』という感覚とおなじだ。
まあ、非国民のことはいいよ。これは、あとで書くよ。基本的には、なんて言うのかな? どうして、日本人なのに人間魚雷になった人の気持ちがわからないのかという問題がある。俺には棺桶と言われる魚雷につめこめられた人の気持ちがわかる。どうして、拒否できなかったのかわかる。どうして、逃亡できなかったのかわかる。これがわからずに、お国のためにすすんで人間魚雷になっていたという物語を考え出してしまうほうがどうかしている。

関係がないけど、
ヘビメタ騒音の朝なんて、『人間魚雷になる日の朝』とおなじなんだよ。

   *   *   *

みんな、気違い兄貴の意地がわかってない。みんな、気違い兄貴の感覚がわかってない。みんな、気違い兄貴の態度がわかってない。

どれだけこまるか。どれだけ、気違い兄貴が重症か、みんなわかってない。平日、一日六時間四〇分。日曜祭日、一日一三時間気違いヘビメタが鳴っていると、どれだけ苦しい生活になるかぜんぜんわかってない。みんなわかってない。

こいつらわかってないから、てきとうに『どれだけ鳴ってたって勉強ぐらいできる』とか『どれだけ鳴ってたって遅刻しないことは可能だ』というようなことを言う。自信を持って言うわけだからな。けど、そういう言うやつは、一日もヘビメタ騒音を経験してないし、一〇〇〇日、連続でヘビメタ騒音が毎日鳴った場合、どういうからだの状態になるかわかってない。

『そんなの、お兄さんに言えばいい』『言えばわかってくれる』『ちゃんといわないからだめなんだ』……。どれだけズレているか。

『人の悪口を言うのはよくない』『なおさら、家族の悪口を言うのはよくない』……。悪口? おまえ、どんだけ。

2019年12月9日月曜日

「過去のことは忘れる」というマインドフルネス的言葉と記憶障害(2)



●過去の軽視と記憶障害







『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』などと言っている人は、自分が、記憶障害者になることを考えてない。『過去が相当に抜け落ちた』状態が記憶障害者の世界だ。







ほんとうに『過去はない』のであれば、自分が何者であるかわからない状態になってしまう。五秒前にたのまれたことですら、忘れてしまう……そういう状態で仕事ができるわけがない。







その人が仕事をするのであれば、その人は記憶障害者ではなくて、記憶を保持できる能力があるということなのである。つまり、その人は、過去に頼っていきているのである。もっと言えば、過去の記憶に頼りっぱなしなのである。







だいたい、過去の記憶がないのであれば、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』というような日本語の文を考えることができない。







この人たちは、実は、過去の記憶に頼りっぱなしなのだけど、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』と言っている人たちなのである。







日本語の記憶や業務遂行に大切な短期記憶や長期記憶のことは、無視して、『過去なんて関係がない』なんて言っているのだ。







『過去』と『過去の記憶』はそれぞれ別のことだけど、ここでは、特に区別しないで使うことにする。どうしてかというと、『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』というような発言をしている人が『過去』と『過去の記憶』の区別をしてないからだ。







『過去なんてどうでもいい』『過去なんて関係がない』『過去はない』ということを言うひとは、仕事について語っている場合が多い。『いま現在』に集中したほうが『効率がいい』からそういうふうに『思い込もう』としているだけだ。







ほんとうに、過去が関係がない状態になっているわけではないのだ。







これは、ほんとうは、記憶障害者にならずに、記憶障害者になりたいと言っているようなものだ。過去の記憶は無価値だから、過去の記憶は関係がないと言いたいだけなのだ。つらい出来事に関しては、その出来事に関する過去の記憶は有害ですらあるので思い出したくないと言っているだけだ。







これは、自分にとってその過去の記憶が有害であるという判断をしているということになる。それは、過去の記憶があるということなのである。だから、別に完全に忘れてしまっていることを意味してない。



++++++++++++

実は、ぼくが言いたいのは、身動きのとれない労働者が『過去なんて関係がない』と言って、その労働にしがみついてしまうことの恐怖だ。最初の部分を公表できない。傷ついてしまう可能性があるからだ。



だから、大勢の人にはわけがわからない話になっていると思うけど、状況が違うとおなじ言葉が、まったく違った意味を持つので注意が必要だということを言いたい。



セミナー講師やマインドフルネス系の学者や有名女優などは、追い詰められている労働者のことはまるで考えてない。経営者も、自分の利益ばかりを考えて、労働者のことを考えてない。『目の前のことに集中すればいい』というようなことを言う経営者は、労働者のことを考えてない。「考えてないからこそ、言えることなんだよ」ということだ。追い詰められた労働者が『追い詰められている』ということを言うと、批判されるのである。『そんなのはあまい』『そんなのは、自己責任だ』とね。

ようするに、「自分が学校でがんばらないで、いいイスに座れなかったのだから、そんなのは自己責任だ」と責め立てる人たちは言っているのである。あるいは、「自分ががんばらなかったからいいイスに座れなかったのに、責任を放棄するのは、あまい」と責め立てる人たちは言っているのだ。責任とは働く責任である。



ようするに、『自己責任だ』『あまい』ということを言う人たちは、過去を重視している。いま現在追い詰められているのは、おいつめられた労働者が過去において努力しなかった当然の結果なのだから、その結果を受け入れるしかないということを言っているのだ。



つまり、過去に原因があるのだからしかたがないということを言っている。もちろん、『過去』を重視している。



+++++++++



追い詰められた労働者が、自分の環境や立場を改善するのは、並みじゃない努力が必要になる。これは、言いにくいけど、追い詰められた労働者がくるしくない日常を選択するということは、不可能に近い。『自己責任だ』と言っている人たちは、追い詰められた労働者が、(働くのをやめて)生活保護をうけることは認めてない。



たとえ、その人たちが認めてなくても、条件を満たせば生活保護はうけられるけどね。『自己責任だ』ということを言う人たちは、追い詰められた労働者が『もうむりだ』と思って、仕事をやめて、生活保護をうけるということについては、よく思ってないだろう。



おいつめられた労働者がくるしみを少しでもわわらげようとして『過去なんて関係がない』と思ったとしても、日常はかわらない。



要するに、くるしいままだ。



現在働いている会社をやめて、別の会社に行ったとしても、かなりの高確率で問題は解決しない。けど、改善される確率がないわけではない。



『過去なんて関係がない』『過去のことは忘れる』という言葉は、麻薬のような働きをするのだ。そうやって、現実逃避したとしても、くるしい日常はかわらない。自分の体をむしばむようなくるしい労働もかわらない。



『過去なんて関係がない』『過去のことは忘れる』と言って、目の前の現実に集中しようとすることは、実は現実逃避なのである。



2019年12月8日日曜日

この雰囲気はアパートの雰囲気だ。


これ、またしてもまるまる荘とおなじだ。まるまる荘というのは、昔、借りていたアパートなんだけど……。

この雰囲気はアパートの雰囲気だ。
あーー

この日曜日の雰囲気、三〇年前と同じじゃないか。あーー。
俺はいったいなにをやっているんだ?

日曜日の朝一〇時は、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。
日曜日の午後一時は、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。
日曜日の午後四時は、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。

これから、横になるつもりだ。ほんとうにぼくの人生はなんだったんだろう。家族の騒音でズッとやられて、まったくなにもない人生だった。騒音でくるしい以外、なにもない人生。


2019年12月7日土曜日

必死の努力をしても一日がうまくまわらなくなる


高橋名人の記事とか読んでた。
俺の場合、長期騒音のハンディがでかすぎる。能力はもちろんけずられるけど『やる気や機会』をガンガンけずられない。一日中ヘビメタ騒音が鳴っているというのは、そういうことだから。一日が、うまくまわらなくなる。それも、必死の努力をしても一日がうまくまわらなくなる。うまくまわると書いたけど、それは、なにも特別なことじゃない。普通に過ぎ去ることが「うまくまわる」ということだ。ここでは。たとえば、普通にうまくまわるのに必要な意志力が一〇だとしよう。これは、一日の意志力だ。気違いヘビメタ騒音がはじまる前は、一〇でまわっていた。そりゃ、なんて言うのかな、運悪くうまくまわらないことだってある。けど、それは、一〇の範囲でなんとかやりくりできるものだ。次の日も気違いヘビメタが鳴っているというわけではないのだから、次の日に挽回することだってできる。けど、ヘビメタ騒音がはじまってからは、一日に一〇〇の意志力を出しても、うまくいかない。ボロボロになる。成功度……ということをいうと、一〇分の一になってしまう。たとえば、意志力一〇で普通に生活していたときの成功度を一〇だとすると、ヘビメタ騒音が鳴ってからは、一〇〇の意志力を必死になって出しても、一しか、成功しないということになる。一は進歩なしで、失敗ばかりだが、とりあえず生命は維持するというレベルだ。必死になって、血相を変えてがんばって、一〇分の一の成功になってしまうわけだ。これは、ない。しかも、毎日続くなんて、ありえない。けっきょく、気違い兄貴本人が兄貴だった人は、地球上に俺しかいない。そういう人じゃないと、ほんとうにヘビメタ騒音の空間のことがわからない。ヘビメタ騒音の空間がどれだけくるしいかわからない。終わったあとも、どれだけ、体調や睡眠に影響を与えるかわからない。けっきょく、やられてない人たちがつくっている世界なのだから、俺には居場所がない。
だって、言うことがちがうもん。感じていることがちがうもん。人間の基本的な考え方というのは、やはり、実際の経験に基づくことが影響を与えている。たとえば、親という概念を考えた場合、実際の自分の親が親という概念の基本になってしまう。言いがたい気違いだって、親になることがある。けど、言いがたい気違いが親であった人や言いがたい気違いが親である人は、実際には少ない。普通は、普通の人が親になっている。その場合、普通の人は『子供は親に逆らってはいけない』とか『子供は親に感謝をするべきだ』『親のほうがえらいのだから、子供は『どんな場合でも』親に対しては丁寧な言葉を使うべきだ』というような考え方を受け入れやすい。それは、共同幻想と合致している。もちろん、完璧な人間などはいないので、完璧な親もいないということになる。だから、普通の親と言っても、普通の人が実際にはいないように、バラエティーに富んでいる。これは、偏差というような考え方に置き換えられないようなユニークさを持っているということだ。『普通の親』はユニークなのである。この場合のユニークというのは、おもしろいという意味ではなくて、唯一無二のという意味だ。『普通の親』という言葉でくくれそうなのだけど実際には、やはり、ユニークな人間が『親』を『やっている』のであり、ユニークだということになる。けど、それなら、ユニークなのだから、すでに気違いになっている親も普通の親もかわりがないということができるかというと、できないと思う。
まあ、いいか。ともかく、気違いヘビメタは、いまの時間も鳴っていた。気違い親父の性格は、気違い兄貴が気違いヘビメタを鳴らし続けること影響を与えている。気違い親父がやってきたことは、気違い兄貴がヘビメタをやり続けることに影響を与えている。普通の親だったら、絶対にあり得ないことなんだよ。

一度、親子という関係が生じると、親がやったことは『親がやったこと』として解釈されてしまう。それは、親がやったことではなくて、親である個人がやったことなのに、一度、親子という関係性が生じると、外からは、『親がしたこと』になってしまう。
これは、生物的な親であれ、社会的な親であれ関係がない。『ヨソの人』からみて、『親がやったこと』になってしまう。『ヨソの人』からみて、子供が(親に)されたことになってしまう。
ほんとうは親としての行為ではなくて、その個人の行為なのに、関係上、その子供の親がやったことは『親がやったこと』になってしまう。これは、ほんとうはけっこうでかい問題なのだけど、だれも重視しない。


2019年12月6日金曜日

疲労の『雪』


通販の受け取りがふたつ完了。よし、これでもう、こないはずだ。しかし、ちゃんと頼んでおけばとどくからなぁ、すごいよなぁ。そういうことに関しては恵まれているんだろうなぁ。

けど、長期騒音で人生がないので、憂鬱だ。

紅茶がとどいた。これは、安い紅茶なんだけど、ちょうど紅茶が切れたところなので、大歓迎だ。さっそくあけて飲んでいる。うまい。紅茶がうまい。

けど、長期騒音で人間関係がほろんだので、憂鬱だ。長期騒音でくるしすぎる。

くつがえられないからなぁ。ちょっといいことがあってもくつがえらないんだよな。だれか、根本的なところを長期間やられて、くつがえらなくなっている人っていないかな?

本当に鳴ってたな。
いま2019年12月06日16時25分18秒
午後四時二五分一八秒は、毎日、ものすごい音で鳴ってた。その一秒一秒がぼくの『普通の感覚』をこわす。もう、再建不能だよ。

みんな勘違いしているけど、ストレスというのは、長期間、ずっとつもっていると再起不能になる。

モデルとしては、雪でつぶれた家が、そのままでは元に戻らないのとおなじだ。時間がたてば元に戻るというのは、たとえば、かすり傷とか、風邪とかそういうことなら言えることだけど、長期間続いてしまった場合はそうじゃない。かなり強い刺激が、長期間続いてしまった。これがでかい。


ようするに、たとえば、家に雪がつもったけど、家が倒れない場合なら、春になってあたたかくなればもとにもどる。けど、一度つぶれてしまったら、人為的に建て直さないかぎり、元には戻らない。

みんな、疲労に関して、そんなにつもらないまま、家が建っている状態しか考えてない。実は、疲労に関しても、つもってしまって、家がつぶれてしまった場合というのがある。比喩だけど。

この場合は、自然に元に戻るということはない。

だって、つぶれちゃっているわけだから。

疲労に関して、『つぶれないケース』ばかりを考えているから、ちょっと時間がたてば、疲労の『雪』が、とけて、元に戻ると思っている。

疲労の『雪』は、本体をつぶすほどでなければ、つもっていても、問題はない。

けど、つぶれちゃったら、ダメなんだ。
比喩だけど、こういうことが言える。

で、ヨソの人たちは、気違いヘビメタを経験しているわけではないので、疲労の雪がつもるにしても、すぐにとけると思っている。だから、『やすめばいい』と言う。けど、家がつぶれていたら、雪がなくなっても、家はつぶれたままなんだよ。だから、想定しているモデルがちがうとしか言いようがない。

ほんとうは、長期騒音にやられた人は、家がつぶれた場合なんだよ。けど、ほかの人たちは、雪がつもっているけど、家はつぶれてない状態を想定して、ものごとを言ってる。

だから、『過去のことは影響がない』とか『どれだけ鳴ってたって、鳴り終わったなら関係がない』などと言う。

そりゃ、気違いによる気違い的なヘビメタ騒音を一〇年以上に渡って経験してなければそうなのだろうけど、こっちはそうじゃないのだということが、言える。「こっちはそうじゃないんだ」と言いたくなる。

けど、これまた、言ったって、けっきょく、本人が経験してないのだからわからないだろ。つぶれる前にあたたかくなって、雪がとけてしまうケースしか経験してないのだから、そういう経験をもとにして、人のことも、言う。

『自分だって一メートルつもった』と口をたてて言うかもしれない。『自分だって二メートルつもった』と言うかもしれない。

けど、それは、すべての場合において、過去のことが影響を与えないということを意味しているわけではないのである。二メートルの積雪にたえられる家だって、一〇〇キロメートル、つもったらどうなんだよ?という話しだ。月数切り捨てで、一四年間の気違いヘビメタなんて、一〇〇キロメートルぐらいつもるような量だ。

普通の人が二メートルでたえられたから自分は『つぶれちゃっているエイリにくらべて』丈夫だと思っているだけだ。さらに、二メートルだから、春になって自然に雪がとけて、『普通の状態』に復帰したということを、すべての場合において成り立つものだと思っている。

『雪なんて関係ない』と言う。

春になってとければ雪なんて関係がないという考え方だ。

一理あるけど、一理しかない。

一〇〇キロメートルつもった場合のことを考えてない。その人がたえられる『雪』の量が、積雪三メートルだとする。三メートルまでは、『過去は関係がない』というエリアにとどまり続けることができるけど、三メートル一センチつもって、家が倒壊したら、『過去は関係がない』とは言えない。

しかし、本人は、三メートル以下の積雪しか経験してないので、それが、すべての場合に成り立つルールだと思っている。それで、一〇〇キロメートルつもったぼくに対して勘違いのアドバイスをする。

これは、アドバイスということになっているけど、実際は、侮辱だ。『俺はたえられたけど、オマエはたえられなかった。オマエは俺より劣っている。俺はオマエより丈夫でがんじょうだ』というまちがった認識が成り立っている。そういう認識が成り立っているところで、言っていることだ。自分よりだらしがない人間だと思っているのである。どうしてなら、自分は治ったけど、相手(エイリ)は治ってないからだ。

2019年12月5日木曜日

基本的な状態まで、自分の意識的な意志で制御できる……という意見について


楽しいと感じられる状態にしたいわけ。からだがどんな刺激に対しても「たのしい」と感じられない状態になっているから、それを普通の状態にしたいわけ。けど、それは、気違いヘビメタ騒音一四年のストレスでできなくなっている。状態の変化なんだよな。で、この基本的なからだの状態というのは、自分の意志ではどうにもならない。これは、ヘビメタ騒音相当のストレスを長年にわたって感じた人のことを言っているわけで、他の人は、どうだかわからない。けど、たとえば、ぼくがヘビメタ騒音ストレス後に「自分の意志ではどうにもならない」と言うと、「自分の意志でどうにかなる」と言いたくなる人が出てくると思う。基本的な状態まで、自分の意識的な意志で制御できるというわけだ。もちろん、主語は『人間』だ。人間は自分意識的な意志で、基本的な状態をかえられるのだというような主張だ。なんの基本的な状態かというと、からだの基本的な状態だ。からだのなかには、臓器としての脳みそも含まれている。たとえば、『元気だ元気だ』と自分に言うと、つかれていても『元気だ』と感じることができるというようなことを言う。
で、まあ、ここで人間の種類を分けようと思う。ヘビメタ騒音級のストレスを一〇年以上にわたって毎日経験した人と、そうではない人にわける。そうではない人は、基本的な状態をかえることができるが、ヘビメタ騒音級のストレスを一〇年以上にわたって毎日経験した人は基本的な状態をかえることができないということにしておくのだ。そうすれば、両者の意見は別に対立してないということになる。まあ、ヘビメタ騒音級のストレスの定義が問題になると思うけど……。あとは、そうなると、ストレスというのは主観的なものだということが問題になる。客観的な数値はない。そりゃ、騒音だって、どういう音を騒音と感じるかということに関しては、人それぞれだからだ。けど、そこの相対性を重視して、すべてを相対性のかなたに追いやることができるかというとそうでないのだ。ぼくのことばでいうと『文脈』が問題になる。これは、でかすぎるテーマなので、ここでは突っ込まない。



2019年12月4日水曜日

通勤通学ができないということ


騒音のことを考えていた。これ、他の人にはわからないんだよな。俺がどれだけ能力をうしなったか? わからない。表面的な実績が俺の能力だと思っている。ちがうんだよな。これは、くるしい。どれだけのハンディがうまれたか、ぼく以外にはわからないので、くるしい。くやしい。俺が通勤する能力をうしなったということがわからない人は、通勤できるのにあまえたことを言って通勤しない人だと思うわけだ。俺をサボり魔だと思うわけで、くやしい思いをする。学力学歴にしてもそうだ。

騒音がなければ、そんなことを思うやつより俺はずっとできるのに。通勤通学ができないということが、どれだけひとづきあいに影響を与えると思うよ?

『人間ならだれでも』家族によるしつこい騒音で、人間関係が壊れる

やはりぼくは家族の長期騒音でくるしい。いまもくるしい。朝なんて、どんだけくるしいか。いまだにくるしい。騒音が他人との関係をたってしまうんだよな。これが、間接的なことだから、他の人には、わからない。あるいは、ぼくの努力というか気の持ち方で、どうにかなるようなことに思える。それは、普通の人が普通に『家族による騒音』というもの考えるからだ。そして、気違い家族による騒音ということについて考えることすらできないからだ。(見当違いになってしまうのである)。間接的なことなのだけど、『人間ならだれでも』家族によるしつこい騒音で、人間関係が壊れる。人間ならば、だれでも、そうなる。そうなる部分について、他の人は考え違いをしている。どうしてなら、他の人にはわからないからだ。実際に、気違い家族が、気違い的な意地で、騒音を鳴らしていたことがないからだ。一日において長時間連続、人生において長期間連続。話がまったく通じない、特殊な感覚を持っている家族というものがわかってない。そういう家族と一緒に暮らしていたことがない人はみんな、考え違いをしてしまう。あとは、実際にやられてないから、どういう範囲に家族の騒音の影響が出るかわかってない。

『いま動くんだったら、死んだ方がましだ』という時間がある


いま、やばい状態になった。

精神的にやばい状態になって起きてきた。なんかつかれたから横になったんだよ。「うわっ」という感じがするときがあるなぁ。

悪い意味で……。やっぱり、くるしいこととか思い出してしまう。



明日は、歯医者か。


   *   *   *


けっきょく、今日、片付け関係でやったことは、すてるフライパンを洗うということだけか。
さっき、「うっ」ってなったけど、半分眠っているような状態はやばいな。
ほかには、今日は通販の受け取りを二回やった。あとは、洗濯物を干した。洗濯物は、すでに洗ってあったものだ。
今日は日差しが強くてたすかった。
なんとかするべきなのだが、むずかしく考えすぎなのか、あるいは、神が俺の邪魔をしているのか、あんまり……。いいアイディアが浮かばない。浮かんだとしても、行動する気になれない。行動はしんどい。これは、やられた人間じゃないとわからないと思うけど、ともかく、『いま動くんだったら、死んだ方がましだ』という時間がある。起きたくないときに、起きて体を動かすときは、そういう感じがある。ならば、『起きたのではないか』『動いたのではないか』と思うかもしれない。『いま動くんだったら死んだ方がましだ』と思っているのにもかかわらず、動くことができたのだから、そんなのは嘘だと思う人もいるかもしれない。けど、その人は、その蓄積を無視している。それから、起きて動いているあいだじゅう、くるしい。ずっとおなじようにくるしい。これがちがうんだよな。気違い騒音にやられてない人とやられた人だとこれがちがう。普通は起きたくないときに、起きて行動していても、だんだん体がなれてくるものだ。それは、気違いヘビメタにたたられる前に経験している。気違いヘビメタにたたられる一一歳までは、起きたくないときも起きて、動いていれば体がなれた。けど、それは、気違いヘビメタの連続がはじまる前の話で、ぜんぜん風景がちがってしまった。からだがちがう。こういうのがわかってないんだよね。今朝も話したけど、やられた人とやられてない人とでは、「つらい」の感覚がちがう。「できない」の感覚がちがう。おまえ、どれだけぼくが、動かない体を動かしたと思っているんだよ。気違いヘビメタにたたられてない人は、「ほら、動いた」と思うだろう。けど、ちがうんだよ。動いたことが全部マイナスになっている。そういう世界だ。家族による気違いヘビメタがものすごい音で一一時一〇分まで鳴っている世界というのはそういう世界だ。だんだんそういう世界になっていくのである。

俺は、無理をして動いたから……七年間毎日動いたから、だめになってしまったのだ。まあ、八年九年一〇年……と続くのだが。

ほんとうにつかれたよ。


2019年12月3日火曜日

このサイドボードのところからネズミが出るようになっちゃったんだぜ


むかし、台所においてあったフライパンがひどいことになっていて、不燃ゴミに出したら、資源ゴミだろという感じで、ダメダシ・シールを貼られたので、持ち帰ってきたことがあった。それは、五月か六月なんだけど、それ以降、ずっと、袋に入れたまま、置いておいた。で、ここは、ネズミが出る場所の前なので、さわる気がしなかった。これから、フライパンを洗う。ひとつスポンジたわしを犠牲にすればたぶん洗える。
スポンジたわしは古いやつでいい。栄養の入った油にカビがはえたという感じなんだよな。あれは、洗えばおちる。二重に袋に入っていたから、ネズミ関係のばい菌はついてないと思う。栄養の入った油というのは、たとえば、肉を焼いたあとの油だ。
このあいだバルサンをやってから、時間がたったので、ほんとうはあんまりいじりたくないけど、しかたがない。
風呂場で洗うしかない。

俺が、清掃員さんのことを考えて、二重に包装してしまったのが、まずかったんだよな。大きい方の袋が半透明なんだよな。大きい袋で、半透明じゃないやつはないのかな? ある程度丈夫な大きな袋は半透明なんだよな。

   *   *   *


サイドボードの上に食器棚がのかっているのだけど、サイドボードの後ろにある壁にネズミが出入りできる穴があいているようなのだ。サイドボードは五センチぐらいの脚がついている。この脚は、四本ついているわけではなくて、平行に二本の板がついているような脚だ。畳の上とこの脚のあいだの空間にアクセスできない。あそこにネズミが入ってしまうと、もう、手が出せない状態になる。このサイドボードはむかしからあったもので、ぼくとしては思い出の品だ。だって、ほんとうに、サイドボードの表面を背にして、ぼくはこたつの前に座っていた。たぶん、ぼくがうまれる前からあるんじゃないかな。いまはもう、ネズミが出てくる気持ち悪いサイドボードだよ。こたつもないしな。まあ、ネズミが出る家にこたつがあったらそれはそれで大問題だ。ともかく、親父がネズミをおびき寄せたのに、俺が全部処理しなければならないことになっている。
ともかく、あの中に入っているものは全部すてて、食器棚のほうもなかのものは全部すてて、サイドボードを動かして、壁にパティをつけなければならない。

『おかあさん、このサイドボードのところからネズミが出るようになっちゃったんだぜ』と俺以外だれもいない居間で、ぼくがつぶやくはめになった。



『気にしないでがんばればいい』というところに収束するアドバイス


最後にはぼくが勝つ。
それははっきりしていることなのだけど、実際問題として、このからだを使っていると『起きたとき』くるしい。さらに起きているあいだじゅうくるしいという問題がある。騒音の朝とおなじ朝になってしまう。騒音の昼とおなじ昼になってしまう。騒音の夜とおなじ夜になってしまう。騒音の深夜とおなじ深夜になってしまう。騒音の早朝とおなじ早朝になってしまう。この、気分!! このからだを使ってないやつにわかるわけがない。だから、誤解が生じる。他の人は気違いヘビメタ騒音相当の騒音がしょうじなかったにもかかわらず、「俺だって朝はつらい」と言う。それは、ぼくがヘビメタ騒音を経験しなかったときの『朝のつらさ』とおなじだ。ぜんぜん、ちがうのである。つらさのつらさがぜんぜんちがう。一四年もやられて見ろ。いや、通学が必要な七年間だけでいい。通学、通勤が必要な七年間、毎日、日曜日も含めて、午後一一時一〇分まで、自分が一番嫌いな音にふれてみろ。帰ってからやることが想定されている場合、それができなくなる。できなくなって、翌朝、恥をかくのは、あなただ。騒音にやられた人だ。騒音を出している人じゃない。この屈辱。どんだけそういう屈辱を経験してきたか。『気にしないでがんばればいい』というところに収束するアドバイスは、くるしさを無視している。くるしさは、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験したことがない人のくるしさなのである。たとえ、あなたががヘビメタ騒音相当の騒音を経験したにもかかわらず、そういうアドバイスをする人は、あなたがヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないという前提でものを言ってくる。それは、たとえ、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験したにしろ、そんなのは、どうでもいいことだからだ。こんなのは、ない。全部の学生期間、毎日午後一一時一〇分まで、勉強の邪魔をされ続けて良いわけがないだろ。そういうところで成り立つ『将来』がいいものであるはずがないだろ。くるしさは、即刻、排除されなければならないんだよ。それは、気違い騒音相当の騒音を出している人がぴったりやめるということだ。学生時代の七年間、毎日午後一一時一〇分まであれほどの騒音を聞かされて、『過去は関係がない』なんてことはないんだよ。『影響を受ける必要はない』とまるで、影響を受けた人を責めるようなことを言う人がいるけど、必要を感じて騒音の影響を受けたわけじゃないということがその人はわかってない。

2019年12月1日日曜日

これも、経験しなきゃわからないのだろう。想像と実際は違うから。

あー、まじ、つかれた。これは、まるまる荘……。まるまる荘時代とおなじだな。あーー、つかれた。つかれた。

ヘビメタ騒音がないところに行きたい。ヘビメタ騒音の記憶がないところに行きたい。そもそもヘビメタ騒音をあびなかった世界に行きたい。
あーー。ほんとうに、つかれた。これ、おなじだよ。もう、つかれた。限界だ。

展開がない。もう、つかれた。ヘビメタ騒音がない世界に行きたい。ヘビメタ騒音がなかった場合の人生を生きたい。

おんなじなんだよな~~。これ! いまでも、動けない時間は、ヘビメタ騒音にたたられて疲れ果てて動けない時間とおなじ。いまでも、あせる時間は、やらなきゃいけないのに、ヘビメタ騒音がガンガン鳴っていて、あせる時間とおなじ。おなじ。どこまでもおなじ。

気違いヘビメタに一四年間毎日やられた人じゃないとわからない。どれだけひどい影響を与えるか、わからない。やられてない人にとってみれば『過去なんてどうでもいい』と言えるものだ。

けど、やられた人間にとってみれば、そんなことは、とてもじゃないけど言えない。けど、やられてない人にとってみれば、『そんなのは、こだわっているからいけないんだ』と言えることだ。

ぼくの発言も、『こだわっているからいけない』と言えることだ。『悲劇のヒロインになっている』『元気だ元気だと言えば、元気になる』と言えることだ。けど、ちがうんだよ。どのみち、人間の体で、あの状態で、一四年間毎日やられなければわからないと思うけど、ちがう。

当然の学習の結果、なのに、ぜんぜんわかってない。やられれば睡眠回路が壊れて日中もボロボロに鳴るのにぜんぜんわかってない。これは、こだわっているからじゃないのである。悲劇のヒロインのつもりでいるから』でもないのである。

けど、わからない……のだろう。そりゃ、あの態度で、成長期ずっと、やられなければわからない。ヘビメタ騒音がどんだけでかい音で鳴っていたかわかってない。ほんとうに五分で限界だよ。あんな音で鳴っているうちなんてない。

「どんだけ鳴ってたって、勉強なんてできる」と言うやつも出てくるとは思うけど、そいつは、この世で一番嫌いな音が九〇デシベル付近でずっと鳴っているなかで、勉強できるのか?

実験のための一〇分じゃないよ!!

毎日やられたあと、できるのか? ということだ。

毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っているところで、睡眠回路が壊れて不眠でボロボロになっているところで、さらに、追い打ちをかけているようになっているところで、できるのかという話しだ。

これも、経験しなきゃわからないのだろう。想像と実際は違うから。けど、そいつは、実際に経験したことがないから、どうしても、想像することしかできない。

だから、想像でものを言う。まるでおれがこだわっているからだめなんだというような言い方は、相当に俺を侮辱した言い方なんだぞ。これで、俺がたとえば、無職引きこもりというどうしょうもない立場で、あるいは、どうしょうもなくかっこう悪い立場で、こういうことを言っても、『侮辱なんてしてない』と思うかもしれないけど、侮辱している。

『そんなのは、無職*なんだから言われたってあたりまえ』『そんなの引きこもりなんだから言われたってあたりまえ』と思うかもしれないけど、そういうことを言っている人だって、俺とおなじ状況で俺と同じ体験をすれば、働けない状態になる。そりゃ、働けないから無職*のまま何年もすごすことになる。

えらそうーーに!!! たまたま、俺とおなじことをやられなかったから、働けるだけなのに……。えらそーーに。えらそーーに。

こんな人生ない。

人間だったらだれだって、ああいうことが何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も毎日続けば、通勤働けないからだになるのに、まるで俺が劣っているように言いやがって。『サボっているからだめなんだ』『甘えているからだめなんだ』『自分の姿をみてみろ』『ネガティブなことを言うからだめなんだ』

はぁーー?? なに言ってんの?

ほんとうに人間は、こうも傲慢になれるのか?

想像力がないからそういうことを言えるだけなんだよ。想像力がある人は、たとえ、経験としてわかってなくても、そういうことは言わない。この差はでかい。けど、そういうことを言うやつのほうが多数派なんだよな。割合が大きい。

経験してないやつであってなおかつ想像力がない人たちにこういうことを言われることだって、気違い兄貴がこだわりつくして、気違い的な意地で、現実を無視して鳴らしてなかったら、起こりえなかったことなんだぞ。気違い兄貴は、こういうこと他人に言わせて俺をくるしめてやろうと思って、気違い的な意地で、気違い的な音のデカさで、一日のなかで長期間にわたって、人生の中で長長期間にわたって、ヘビメタを鳴らしたわけじゃない

。けど、気違い的なこだわりで鳴らすとそういう結果になってしまうのである。だから、俺がさんざん言っただろ。わかる範囲で言っただろ。気違い親父とおなじで、そのとき!!自分に都合が悪いことを言われたら、感覚器までねじ曲げて、やり続けるから、こういうことになってしまうんだぞ。

感覚器までねじ曲げてやり続けるから、普通の感覚を持っている人が、信じないんだぞ。

そりゃ、「そんな人いない」と言いたくなる。兄貴がやったことは、親父がやったこととおなじなんだよ。期間の長さも、一四年間と、だいたい親父がやった期間とおなじだ。あしかけで一五年間だけどな。親父は、兄貴のからだが自分より大きくなってしまったら、必要な注意だって、絶対の意地でしないという態度になる。

で、そういう態度で注意しないのだけど、本人はそのつもりがないだけだ。毎日、あしかけ一五年間、絶対の意地で注意しないのだけど、それがわからない。一五年目に、「注意してくれなかった」と言われたら、「注意した!!注意した!!!」と言い出す。

で、言っているときは、注意したつもりなのである。たしかに、一五年間で二回、俺が家族会議を開いたとき「しずかにしてやれ」とおのおの一回だけ言った。けど、たとえば、俺が小学六年生から、中学三年生の受験前日まで、毎日気違い兄貴が鳴らしているのに、毎日、注意しなかったのである。

だから、三年間のあいだに関しては、ほんとうに「注意してくれなかった」ということが正しいのである。そのあとの三年間も注意しなかった。高校三年生の大学受験前日まで注意しなかった。

だから、「注意したと言っても二回だけだろ」と言うと、「いっぱい注意した!!いっぱい注意した!!」と言い出す。

人が言ったことを、否定すれば、気が済むのである。

しかも、これ、「注意した!!注意した!!」とか「いっぱい注意した!!いっぱい注意した!!」とか、からだを真っ赤にして怒って!!!言っているんだぞ。

気違い兄貴が鳴らしていたときに、「注意してくれ」と言ったら、「そんなことできるわけないだろ!!」と顔を真っ赤にして怒って言ってたんだぞ。

「なっちゃったらしかたがない!!! なっちゃったらしかたがない!!!」と顔を真っ赤にして怒って言ってたんだぞ。怒りたいのはこっちだ。

で、ちょっと話がずれるけど……俺が怒って「注意できるだろ」と言ったら、外から見れば、喧嘩しているように見える。よく、怒っている人たちのことを見ると「喧嘩両成敗だ」などと言う人がいるけど、異常な家族と正常な家族のあいだで、喧嘩が発生している場合、喧嘩両成敗という考え方はよくない。

これも、精神世界に片足を突っ込んだ人が、正常者同士の喧嘩とおなじだと思ってそういうことを言うことがある。ちがうのに。これ、ほんとうに頭のおかしい人がどういう反応をするかぜんぜんわかってないんだよな……こういう人たち……。感覚器を書きかえ、記憶を書きかえることができるような人が、自分勝手なことをやった場合は、正常者同士の喧嘩ではない。

正常者同士の言い合いではない。……これがわかってないんだよな。まあ、さらに、『すべては受けとめ方の問題だ』というようなことを言いやがるんだけど……これが、異常な家族にやられた人にとってどういう言葉なのかまったく理解ができないんだよな。そういうレベルだ。大半のなんだかわかったようなことを言う精神世界の人はそういうレベルだ。ぜんぜん、ちがう。ほんとうに精神世界のことがわかっている人たちは、そんなことは言わない。なおさら、やられた人に直接そういうことを言うなんてことはあり得ない。

感覚器を書きかえ、記憶を書きかえることができるような自分勝手な人が、家族に対してどういうことをするのか? ぜんぜんわかってない。ほかの一般的な人は、そこがぜんぜんわかってない。

「注意してくれなかった」と言われたときに、親父が顔を真っ赤にして怒って「注意した!!注意した!!」と言うのと、「しずかにしてくれ」と言われたときに、兄貴が顔を真っ赤にして怒って、エレキギターを弾き続けてしまうことは、おなじなんだよ。おなじ態度なんだよ。

こういうのだって、じかに見てない人間には、わからないことなんだぞ。「親が注意しなかったなら、どれだけデカイ音で鳴っていたと言ってたって、たいした音で鳴ってなかったんだな」なんて言うやつがいるんだぞ。これ、あおり発言をするつもりで言ったわけじゃなくて、ほんとうにそう思って言っているだけだ。「そんな、デカイ音で鳴ってたら絶対に親が注意する」なんて言いやがるんだぞ。

気違い親父は、そういうことを見越して、注意しなかったわけじゃないんだよ。気違い兄貴はそういうことを見越して、絶対の意地でデカイ音で鳴らして、どれだけ注意されても、ボリュームをさげなかったわけじゃないんだよ。

けど、そういう出来事が発生するようなことばかりをする。そりゃ、普通の人が想像できないような態度でやってたらそうなる。普通の人がありえないと考えるようなことを、普通の人がありえないと考えるような態度でやり続けていたらそうなる。

けど、そういうアホな人にしてみれば……いや、まちがった見解を持つ普通の人にしてみれば……エイリさんが悪いということになってしまうのである。さらに、エイリさんは嘘を言う、信頼がおけない人だということになってしまうのである。

   *   *   *

この世で実際に起こったこととこの世で実際に感じたことは書いておく。



わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。