2023年6月29日木曜日

暗闇環境の種「光がたりない」 光環境の種「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」

 暗闇環境の種「光がたりない」

光環境の種「そんなのは、いいわけだ。そんなのは、負け犬の遠吠えだ。そんなのは、あまえだ。環境のせいにするな」

↑こんな感じだ。実際には、光という条件が成長に影響をあたえている。ところが、めぐまれているやつが、それを絶対に認めようとしないのである。これは、宗教的な思い込みだ。宗教的な信念だ。科学じゃない。公平でもない。偏見だ。

好条件組は、好条件が結果に影響をあたえているということを、絶対に認めないのである。これはもう、完全に宗教的な妄想だ。妄想をふりまくな。妄想で人の悪口を言うな。

「すべては決まっていたという考え方をするやつ」

 条件というものが成り立っているので、条件を無視した助言というのは、まったく意味をなさないことが多い。光にあたって育ったタネが、光にあたらなかったタネにむかって「光があたると言えば、(光があたるから)光があたると言えばいい」と言ったって、無意味なんだよ。最初の条件がちがう。光にあたって育ったタネが、光にあたらなかったタネにむかって「光があたることを思い浮かべればいい」と言ったって、無意味なんだよ。最初の条件がちがう。光にあたって育ったタネが、光にあたらなかったタネにむかって「光を引き寄せればいい」と言ったって、無意味なんだよ。最初の条件がちがう。

最初に決まってしまっているのに、その条件だけは、無視して、ああだこうだと言う。いう権利があるのは、好条件に恵まれたほうなのである。ようするに、これは、いっぽう方向だ。好条件が悪条件に(ついて)言うことはゆるされるが、悪条件が好条件に(ついて)言うことはゆるされない。そして、好条件のやつは、生まれながらに好条件なのである。なので、ほんとうは、そういうこと……彼らが主張することで、好条件を引き寄せたわけじゃない。最初に決まっている。だから、ここらへんの問題を解決するには、霊界ということを考えて、霊界で、生まれるまえに好条件を引き寄せたというような話になる。

*     *     *

それから、すべては決まっていたという考え方をするやつがいる。すべては決まっていたというやつにあったら、ぼくは、そいつをなぐってなぐってなぐってなぐってやる。そして、「おまえが俺になぐられることは、生まれるまえから決まっていた」と言ってやる。「決まっていたこと」なのだから、問題はないのである。なぐられた結果、ずっと動けなくなっても、それも、決まっていたことなのである。だから、なっとくできるはずだ。俺はなっとくしないけど、「すべては決まっていた」という考え方をするやつなら、なっとくできるだろう。

 ここでは、「すべては決まっていたという考え方をするやつ」のことを運命論者と呼ぶことにする。運命論者が言っていることは、結果が出たあとのことなんだよ。すべてが決まっているなら、決まっていることについて語ることができるはずだと考えるはずだ。けど、そういうことは、考えないのである。決まってないからだ。決まってないから考えることができない。未来に関しては、決まっているのに、一切合切、わからないのである。それは、決まってないという状態とイコールだ。運命論者は、未来について語らず、過去についてだけ語るのだ。過去(について)はもう、結果が出ている。なので、語れる。けど、未来に関しては実際には結果が出てないので、一切合切、語れない。一切合切、語れないということは、決まってないということと、実質的にイコールだ。

実際には、ぼくだって、運命論者を、なぐらない。なぐったら、まけ」だと思っているからなぐらない。けど、運命論者が押しつけていることは、こういうことなんだよ。……つまり「決まっていたのだから、あきらめろ」「決まっていたのだから、なっとくしろ」ということだ。

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未来が決まっているということと、決まっていることについて語ることは区別する必要がある……。けど、じゃあ、どうやって、未来が決まっているということを知りえたのですか?

2023年6月28日水曜日

ゼロなのだから、わかるわけがない。

 普通の人は、きちがい兄貴の感覚がわかってない。

だから、きちがい兄貴の感覚からもたらされることを経験してない。きちがい兄貴の感覚からもたらされることを経験してないから、きちがい兄貴の感覚からもたらされることが、実際の生活に与える影響がわからない。

きちがい兄貴の行動と態度がわからない。

これは、きちがい親父にも成り立っている。けっきょく、ほかの人は、きちがい兄貴の感覚や、きちがい親父の感覚がわからない。ほかの人家には、きちがい兄貴や、きちがい親父がいないからだ。

きちがい兄貴や、きちがい親父がいなければ、きちがい兄貴や、きちがい親父の影響は「ゼロ」になる。ゼロなのだから、わかるわけがない。

ほんとうに、「ずっと」きついんだよ。

きちがい兄貴のことで言えば、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らしてないときも、きちがい兄貴のヘビメタでくるしい。くるしくてくるしくてたまらない状態になる。

ところが、そういう経験がない人は、そういう経験がないから、「鳴っているときだけ、うるさい」と思っているのだ。「鳴っているときだけ、影響をうける」と思っているのだ。「鳴り終わったら関係がない」と思っているのだ。

それは、そういう騒音しか経験してないから、そう思うだけだ。

きちがい家族が横の部屋にいるということが、どういうことなのかわかってないな!!! おまえら!! ほんとうに、きちがい家族が、横の部屋にいて、まったく気にしないで、ヘビメタを常に鳴らしているということの意味がわかってないなぁ!! わかってない!!

そいつらが、えらそうなことを言う。きちがいヘビメタ騒音の結果!俺が、無職になれば、有職である自分はえらいと思って、俺を見下し、くそ発言をする。これが、ノーマルな人間の、ノーマルな態度だ。 

こいつらが、人のことを「悪く言う」やつらなのに、きちがい兄貴のことについて説明すれば、こいつらは、俺が人のことを悪く言うやつだと判断するのだ。こういう、ノーマル。

あまりにも、おかしい……つまり、普通の人が信じることができないような感覚をもっている家族にやられると、やられた人が、普通の人から、悪い人間だと思われるようになるのだ。これが、普通に発生することだ。そうなっている。

ヘビメタにやられると、すべてがしんどくなる

 ヘビメタにやられると、すべてがしんどくなる。ヘビメタにやられてない人にはわからない。人生経験上、そういうことがなかった人が、好き勝手なことを言っている。なかったから言えることなのに、それがまったくわかってない。自分の気持ちはコントロールできる……。明るいことを考えていれば明るいことが起こる……。そんなの、きちがいヘビメタ騒音でふっとぶ。どれだけやろうとしても、むだだ。けど、きちがいヘビメタ騒音にやられてない人は、そこのことろがわかってないんだよね。それは、自分がやられてないからわかってないだけだ。自分が、きちがいヘビメタ騒音にやられたらわかる。きちがい家族がいない人が、きちがい家族によるきちがい騒音を経験できるわけがない。きちがい家族がやっているんだぞ。きちがい家族の基準なんてわかるわけがない。きちがい家族の感覚なんてわかるわけがない。ほんとうに、殺さなければ、どれだけ努力してもだめなんだよ。経験的にわかってないだけなのに、えらそうに……。きちがいヘビメタ騒音生活がどれだけつらいかわかってない。ヘビメタが鳴ってない日中だって、無茶苦茶にくるしい。外出すれば、そこではヘビメタ騒音が鳴ってないわけだけど、ヘビメタ騒音が鳴ってないから、家でずっとヘビメタ騒音が鳴っていた影響が、ないかというと、あるのだ。ヘビメタ騒音から逃れるために外に出たって、外に出るまでに、ずっとヘビメタ騒音を浴びせられていたら、影響が出る。影響がある。そして、きちがい兄貴が、ほんとうーーーに、きちがいなので、言ってることがまったく通じない。こっちが言っていることが、きちがい兄貴にはまったく通じない。その通じなさ」が異常なのだ。その通じなさが、きちがい的な通じなさなのだ。こんなの、いっしょに住んでいて、実際に、きちがいヘビメタ騒音にさらされている人、以外には、関係がないことだ。関係がないということが、無理解をうむのである。この無理解は絶対的な無理解だ。どれだけ、ヘビメタ騒音で「できない」と言っても、きちがい家族による、しつこつしつこい、ヘビメタ騒音を経験した人じゃないとわからない。つまり、ぼくにしかわからない。きちがい兄貴の、気ちがいたるゆえんが、わからない。「そんなのはたいしたことがないだろう」「言えばいいのじゃないか」と思うだけだ。それが、また、ぼくを傷つけるのである。それがまた、ぼくをくるしめるのである。これは、不可避な不愉快なんだよ。こういうことをされて、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるか? ならない。けど、わかってないやつが、これまた、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなると言って、俺をくるしめる。そいつらは、助言をしてやっているつもりなんだぞ。わかってないだけなのに……。実際にきちがいヘビメタにやられてないから、きちがいヘビメタがどういう「生活」をもたらすかわかってないだけなのに、わかってないから、えらそうなことを言う。これは、きちがいがきちがい的な態度で、きちがい的な感覚で、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らすことに、こだわってこだわってこだわって、鳴らしたときに、不可避的にしょうじることだ。ほかの人は、「きちがいがきちがい的な態度で、きちがい的な感覚で、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らす」ということの意味が、経験としてわかってない。

2023年6月27日火曜日

条件反射

  光において好条件であるタネ(植物)が、日光において悪条件であるタネ(植物)に対して、日光なんて関係がない「日光なんて、気にするな」と言っているようなものなんだよ。

差が、日光によってつくられているのに、好条件のやつが、悪条件のやつに、その条件を無視すればいいというようなことを言う。

その条件は、関係がないということを言う。

さらに、たまたま、日光があたるところに置かれたから、育っただけなのに、自分が、なにかうまく育つコツを知っているという感じで「日光があたるところを想像すればいい」「思い浮かべればいい」「日光があたったあたったと言えばいい」というようなことを言うわけよ。

育ったほうは、育ってないやつより育っている。だから、育って、背丈がのびて、葉っぱがたくさんついているという現実がある。

これは、カネのあるうちに生まれたやつが、金儲けについて語る場合とおなじだ。生まれの格差上だから、成功したやつが、成功するにはどうしたらいいかということについて語る場合とおなじだ。

実際に、成功してなければ、成功の秘訣みたいなものは語れない。けど、その秘訣というのが、最初の条件とは関係がないことなのだ。なので、ほんとうは、成功したということとは関係がない。めぐまれた条件のもとに生まれてきたということが、ほんとうは、関係がある。

けど、成功してないやつは、成功について語れないという問題がある。そりゃ、語ることはできるよ。けど、相手はどう思うか?

相手がどう思うかということを考えれば、それは、語れないということとおなじだ。

好条件の種が、育ったのは、光のおかげだ。悪条件の種が育たなかったのは、暗闇のせいだ。けど、事実育ったということが、めぐまれた条件のもとに置かれたタネが、「じゅうぶんに育つには(どうすればいいか)」ということについて語る資格をあたえる。

めぐまれない条件のもとにおかれたタネは、その資格自体がないのだ。どうしてかというと、現に、「じゅうぶんに」育ってないからだ。

そういうところがある。

で、まあ、暗闇というのは、光不足のことなんだけど、これは、ほんとうに、まっくらということを意味しているとする。日陰ではなくて、光がまったくあたらない条件であることを意味しているとする。

めぐまれた条件の種は、自分の成功(じゅうぶんなな背丈、おおくの葉っぱ)について、語る資格がある。けど、語る内容は、本来の原因をつくりだしたこととは無関係なことなのだ。

そして、事実!光があるとか、事実!光がないというようなことが、実際には影響をあたえるのに、事実!光がないほうは、「光がないから育たなかった」と言うことができない。

そりゃ、言えば言えるけど、悪魔が支配している社会なので、そういうことは、全部、あまえだということになっているのである。そういうことを言うこと自体があまえなのだ。そういうふうに見なされることになっている。

そういうこと言うということは、すなわち、負け惜しみを言っているということになる。

そういうことを言うということは、すなわち、愚痴を言っているということになる。

そういうことを言うというタネは、じゅうぶんな光の種に、嫉妬をしているということになってしまう。

自動的にそうなる。

こういう決めつけは、よく考えると「おかしな決めつけ」なのだけど、悪魔が支配している社会なので、みんな、そういうふうに考えるようになっている。

この紋切り型の思考こそが、おかしいのだけど、みんな、おかしいとは思ってない。それこそ、条件反射のようにそういうふうに考えてしまう。

やりたいのにできなかったということと、やりたくなかったからやらなかったということ

 やりたいのにできなかったということと、やりたくなかったからやらなかったということは、ちがう。

勉強だってそうだ。ヘビメタ騒音で勉強ができなかったということと、勉強する気がないから勉強しなかったというのはちがう。きちがいヘビメタ騒音のなかで、勉強ができない。これが、ほかの人にはわからない。あれ、どういう音圧で鳴っいるかわかってない。あれ、壁のすぐ後ろに、あのでかいスピーカーがあるということがわかってない。直撃を受けたのは俺だけなんだよ。ヘビメタが鳴っていたら、眠ることだってできない。眠っておいて、あとで起きてやるということができない。こういうことだって、みんながすぐに思いつくことは、全部!試したの。けど、だめだったことなんだよ。ヘビメタが鳴っていたら、やすむことさえできない。からだを休ませるということができない。きちがいヘビメタのなかで、発狂モードで走っているような状態になる。あのヘビメタが鳴っているのに、無視すれば、ヘビメタが鳴ってないようにすごせるというわけではないのだ。この、ヘビメタ騒音が鳴っている時間というのが、地獄だ。そして、鳴り終わったあとも地獄だ。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も地獄なんだよ。実際にきちがい兄貴がないので、実際にきちがい兄貴のヘビメタ騒音にさられさなかった人は、強い意志をもてば、ヘビメタが鳴っていても、ヘビメタが鳴ってないようにすごすことができると考えるんだよ。それが、むりなことなんだよ。どうやってもむりなことなの!!

2023年6月26日月曜日

短期記憶がふき飛ばされてしまう

 ヘビメタ騒音がでかすぎるんだよなぁ。音がでかいだけではなくて、影響がでかい。そして、実際にやられた人じゃないと、影響のでかさがわからない。幼稚園ぐらいの騒音だと思っている人たちがいるんだよな。そんなものであるはずがないだろ。幼稚園の騒音で「勉強ができない」ということはない。けど、ヘビメタ騒音で、一秒も勉強ができない。できなくなる。ほんとうに、どれだけ、ヘビメタ騒音のなかで……勉強しようと思ってもだめなのだ。短期記憶がふき飛ばされてしまう。ドカスカ・ドカスカ、鳴っていて、考えるということができない。あの音は、ぼくとの相性が最悪で、とにもかくにも、いてもたても、いられない状態になる。あれ、発狂して、全力疾走しているような状態なんだぞ。パニックで、全力疾走しているような状態なんだぞ。椅子に座っている状態でそういう状態だ。横になったって……布団の上で横になったって、おなじ状態だ。がまんができる状態じゃないのである。パニックになっている。そもそも、次から次へと送り込まれる、きちがい音で、パニックになっている。度のきちがい音も、なんていうのかな、刺激的だ。あんなの無視できるわけがないだろ。頭をおもいっり、トンカチでたたかれているとき、トンカチを無視できるか? トンカチでたたかれているということを気にしないということができるか? そういうレベルのことだ。幼稚園の騒音といっしょにするな。



「過去は関係がある」と思って人を評価し、自分のその人に対する態度を決めている

 「過去なんて関係がない」と人に言っているときは、人に説教をしているときなんだよ。普段は、人を見るとき、その人の過去を見ている。こういう構造が凡人にはわからない。自覚できない。自覚できないだけだからな。

いま、かりに、もし、元・官僚のAさんと、元・短期フリータのBさんと、会社勤めをしたあと定年退職したCさんがいたとする。Cさんの、Aさんに対する態度と、CさんのBさんに対する態度はちがうのだ。どうしてかというと、CさんはAさんの過去を見てAさんに接し、Bさんの過去を見てCさんに接するからだ。

元・官僚のAさんも無職。元・短期フリーターのBさんも無職。無職であることにはかわりがない。けど、Cさんの態度に差が出る。どうしてかというと、Cさんは、相手の過去を見ているからだ。Cさんの態度は、普通の人の態度なのである。なので、普通の人は、相手の過去を見ている。「過去なんて関係がない」と思っている態度で人に接しているわけではない。「過去は関係がある」と思って人を評価し、自分のその人に対する態度を決めている。

 

回復のこころみ

 これ、みんな、わかってないけど、回復のこころみが、新たな問題をうみだすということになってしまうのである。きちがいヘビメタ騒音が鳴っていると、そうなる。不可避的にそうなる。「むりがたたる」。

魔法的な解決法にたよって、自分が成功してきたと思っている人って、ほんとうに、ヘビメタ騒音のことがわかってない。家族がきちがいだということがわかってない。家族のきちがい的な意地がわかってない。家族の……いっしょに住んでいる人間の、きちがい的な感覚がわかってない。家族として一緒に住んでいる人間の、きちがい的な行動がわかってない。

ち・が・う・ん・だ・よ。

もう、全部が、ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。

「みんな、よくやってるよな」

 暑い。

あー、全部がめんどうくさい。まだ、エアコンはつけないでがんばるつもりだ。まだ、シェディングが残っていて、あんまり、いい感じじゃない。からだがだるい。目と、のどに違和感がある。 

いろいろと、不愉快なことを思い出している。別に思い出したくないけど、うかんでくるんだよね。どうしても、長期ヘビメタ騒音でくるしい。派生したことがあるんだよ。長期ヘビメタ騒音から派生したことがある。その派生したことのひとつひとつが、腹立たしい。いろいろと、腹立たしい記憶がうかんでくる。

やっぱり、からだがくるしいというのは、問題がある。

 *     *     *

 あれから、少し眠ったんだけど、不愉快な記憶がよみがえってきた。

説明するのはけっこうやっかいなんだけど、やっかいだからやめるけど……。

説明してもしかたがない。けど、なんて言うかな? やりようがないんだよね。そして、これもまた、きちがい的な他者がかかわるエピソードなんだよな。もう、ほんとうに、いやだな。長期ヘビメタ騒音期間中、長期ヘビメタ騒音期間以降、ずっと、いやなことばかりなんですけどーー。全部、けっきょくは、長期騒音の結果生まれた状況と体調が影響している。

 *     *     *

  「みんな、よくやってるよな」と思ったけど、みんなには、長期ヘビメタ騒音がなかった。ないなら、できるよな。みんな、長期ヘビメタ騒音がどれだけからだに影響をあたえるかわかってない。ぜんぜん、ちがう。あるのとないのじゃ、ぜんぜんちがう。ヘビメタ騒音の主が、きちがい兄貴だということも影響している。同じ家に住んでいる。そして、スピーカーが同じ高さにあり、直撃を受けていたのは俺だけだ。きちがいはほんとうにきちがいだから、話が通じない。「つうじなさ」が、これまた、ほかの人にはわからない。

2023年6月24日土曜日

説教ポイント ダメダシポイント

 普通の人は、ヘビメタ騒音の問題は騒音の問題だと思うかもしれないけど、生活の破壊力が並じゃないのだ。あのきちがいヘビメタは、騒音の問題だけではないのだ。

騒音の問題だと思っている人は、騒音が鳴りやめば解決すると思っている。

解決しないのだ。

破壊力がでかすぎる。

あのヘビメタ騒音で、ぼくの睡眠回路が破壊された。これが与える影響がでかすぎるのである。

、そういうことは、普通の人は人生のなかで経験しないので、まったくわからないのである。そういう人たちが考える等騒音と、ぼくが経験したきちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音はちがう。

しつこさが、きちがい的。

「やってないつもりでいる」というところがきちがい的。「でかい音で鳴らしているのにでかい音で鳴らしてない」と思っていることころが、きちがい的。そういう家族が、身近にいない人には、まったくわからない、騒音なんだよ。「害」なんだよ。ヘビメタ騒音病は「害」によってしょうじた病気なんだよ。

これ、そういうきちがい家族と一緒に暮らしたことがない人は、自分の人生経験のなかで、そういうきちがい家族による騒音を経験してないのだから、そういうきちがい家族による騒音がどういう事態を引き起こすのか、わかってない……。

わかってないということになる。事実わかってない。まったくわかってない。だから、普通の騒音……その人たちの人生のなかでしょうじた騒音をもとに、きちがいヘビメタ騒音の影響について考えてしまうのである。

これは、ぼくにとっては、屈辱以外のなにもでもない。これ、ちがうのに……。相手は絶対に理解しないわけだからなぁ。ちがいを理解しない。

そして、相手は、理解しなくても、自分のほうが優位にたてるわけだから、なんの問題もないわけだ。問題がないどころか、俺にダメ出しをできるという有益なポイントをえられる。説教ポイントだ。説教できるポイント・と言ったほうがいいか。

科学的な推論

 政府が発表しているデータが正しいのかどうかということまで、考えることができるようにしないとだめだ。政府が発表しているので、正しい」と思って、そのデータから、結論を出したとする。その結論は、正しいのか?

データがまちがっているのであれば、その結論もまちがいだ。これがわかっているかどうか? これが重要なのである。まちがっているデータを見て、どれだけ科学的な推論をしても、それは、科学的とは言えない。科学的というのは、「このデータが改ざんされている可能性を考えること」だ。これがわかってないやつが多いんだよね。


2023年6月23日金曜日

やりきることができれば、ゼロになってしまう。

 あーあ、ヘビメタ騒音でかっこう悪かったなぁ。

ヘビメタ騒音で……。

これ、ヘビメタ騒音がなかった人には関係がない話で、まったくわからないと思う。ヘビメタが好きなやつなら、なおさらわからないと思う。

けど、あの音のでかさで、自分が、この世で、一番きらいな音がずっと鳴っているということを経験すればわかると思う。

そして、鳴らしている人間が、精神に問題がある家族なのだ。精神と言ったけど、ようするに、現実認識に問題がある家族なのだ。

「やったってやってない」「でかい音だってでかい音じゃない」ということになっている……。そいつの頭のなかでは、そういうことになっている。そういうことでしかない。だから、つねに「やってないつもり」で生活している。俺に対する態度が、そういうことをまったくやってないときの態度なのだ。

これは、めちゃくちゃに傷つく部分だ。これは、めちゃくちゃに腹が立つ部分だ。

これも、きちがい兄貴が意図してやったことじゃないけど、あれだけ頑固に常にやっていることを(本人が、意識的に、無意識的に認めていない場合)は、きちがい兄貴の発言が、普通なら特に、傷つけるような発言ではない発言だとしても、傷つくのである。きちがい兄貴だって、きちがい親父のそういう発言で傷ついていた。腹をたてていた。

きちがい親父は、きちがい親父で、やっぱり「やったってやってない」ということを、繰り返していた。そういう脳みそなのである。

ハンダゴテ事件は、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだで起こった事件であって、ぼくときちがい親父のあいだで起こった事件じゃない。

けど、たった一つの事件で、きちがい兄貴の気持ちは、めちゃくちゃになっているのである。

で、きちがい兄貴は、たった一分間のヘビメタ騒音で、ぼくの気持ちをめちゃくちゃにしている。きちがい兄貴に言っておく。きちがい兄貴のヘビメタ騒音・一分間で、きちがい親父のハンダゴテ事件全体・一件とおなじぶん量のダメージを、こころとからだにあたえている。

やられたほうのこころとからだは、不可避的にダメージをうけている。

一日に七〇〇分間、鳴らしたときは、一日だけで、ハンダゴテ事件全体の怒りと不愉快の七〇〇倍の怒りと不愉快を経験している。この文章は、きちがい兄貴向けの文章なんだけど……。ほんとう、きちがい兄貴、おまえ、親父にやられたことはわかるのに、自分が弟にやったことは、親父とおなじでまったくわかってないな。

何万時間やったって、ゼロだと思っている。

きちがい兄貴、おまえ、親父にやられて怒ったことがあったけど、毎日毎日、親父の数百倍のことを、俺にやっている。鳴らし続けるということでやっている。騒音攻撃を絶対にやめないでやり続けるということで、親父が兄貴にやった行為とおなじ意味を持つ行為を俺(弟)にしている。

きちがい兄貴のやり方と、きちがい親父のやり方が、そっくりおなじなんだよ。

人間のこころをもっていれば、きちがい親父にやられてくやしい思いをしたなら、きちがい親父みたいな行為を人にするのはやめようと思うもんなんだよ。

けど、きちがいおやじとおなじ脳みそを搭載しているから、きちがい親父とまったく同じように、まったくなにもやってないつもりになってしまう。

「言われれば」きちがい的におこって、顔を真っ赤にしてやり続けるけど……やりきることができれば、ゼロになってしまう。やってないのと、完全におなじなのである。

このしくみが、きちがい兄貴ときちがい親父でおなじなんだよ。

だから、こまるんだよ。

 一家に、ふたりいる。ふつうなら、いたって、ひとりだ。ふたりいるということが、そとの人から見えない。そうすると、そとの人というのは、常に、まとはずれな発言をするようになってしまうのである。

2023年6月22日木曜日

「悪条件でも成功した話」「創業者の苦労話」は、うたがってかかる必要がある

構造の問題について言っておきたいことがある。好条件の数がおおい人が、支配者層や準支配者層を形成していて、悪条件の数がおおい人が、まあ、底辺のほうにいるという構造があるのではないかということだ。

その場合、好条件多数者が、実際に成功しているので、好条件多数者が、条件を無視して、「XをすればYになる」ということを言うということになる。

そして、悪条件多数者がそれを実行しても、よくならないということとが成り立っているのではないかということだ。好条件多数者も悪条件多数者も、ともに、条件を無視してしまうのである。条件を無視することが、最初に成立している。

だから、条件を無視した話を、好条件多数者がするということになる。逆はないのである。どうしてかというと、「成功」しているのは、好条件多数者だからだ。たとえば、「コツコツ努力すれば、成功する」ということを好条件多数者が、好条件を無視して言うのである。

それを聞くほうは、言った人以外の好条件多数者、好条件悪条件中間者、悪条件多数者なのである。好条件多数者、好条件悪条件中間者、悪条件多数者のほとんどが、それに賛成してしまう。

「コツコツ努力すれば、成功する」ということは、正しいことだと考えてしまうのである。

これが問題なのだ。大問題なのだ。

どうしてかというと、条件を無視しているからだ。実際に影響をあたえているのは、条件なのである。結果に影響をあたえているのは、最初から無視されている条件なのである。

問題ではないか。

「XをすればYになる」という文のなかには、条件なるものがまったく存在しない。「コツコツ努力すれば、成功する」という文の場合、結果は、成功するということだ。

この文のなかには、条件が存在しない。丁寧に「どんな条件だって」「コツコツ努力すれば、成功する」と言うやつまでいる。

成功する方法について記述する人間は、すでに、成功してないといけないという法則がある。もちろん、法則というのは冗談だ。一度も成功したことがない人が書いた「成功する方法」なんて、売れない。だれも興味をもたない。

「そんなら、その方法で成功してから書け」ということになる。

けど、成功している人は、好条件(複数)にめぐまれ人なのである。

そして、その人たちは、自分の好条件については無視して、成功する方法について語ることになる。失敗ばかりの人が、失敗したままの状態で書いた「成功する方法」はうけないということね。

世の中には、悪条件の人が成功したという話もある。そういうはなしは、めずらしいので、メディアにもとりあげられる。

しかし、メディアは、そういう話を、でっちあげることもできる。なので、メディアにあふれている、そういう、不幸な人が成功したという話や、失敗ばかりだった人が成功したという話は、嘘である可能性がある。

そして、ほんとうである場合も、じつは、詐欺行為に非常に近いことをやっていた可能性があり、とても、「見本」としては、役に立たない。こういう、でっちあげ話に、過剰に反応する人がいる。

こういうでっちあげ話がひとつでもあれば、「悪条件(複数)でも成功する人がいる」ということになる。そして、「悪条件(複数)でも成功する人がいる」のだから、悪条件で成功できないなんていうことは、あまえだということになるのだ。

その人の頭のなかでは……。

これも、ある方向に、人々を誘導するために、そういう話をでっちあげはやらせていると考えたほうが現実的だ。DS側の企業は、そういう話をでっちあげるのが好きだ。もう、これは、伝統的にやっている。

例をあげると、たいした証拠もなく、ある起業家をディスることになるのでやめるけど、そういうことがあるのではないかということは考えておいたほうがいい。

「悪条件でも成功した話」「創業者の苦労話」は、うたがってかかる必要がある。こういう話に特別に弱い人たちがいる。この人たちは、宗教団体の宗教に没頭しやすい。

ともかく、ほんとうは、悪条件が影響をあたえているのに、「悪条件で成功できない」ということを言えば、言い訳をしているように思う……ということが問題だ。

これも、誘導されてそう思っている。条件は結果に関係がある。そういうことを無視して、精神論で乗り切ろうとする。けど、それは、きたない悪魔に手をかしていることになる。その場合の精神論というのは、これまた、洗脳のための道具なのである。

ともかく、条件は、結果に影響をあたえる。こっちのほうが、法則性があることだ。どうして、この法則性を無視しなければならないのか。無視しているということにすら気がつかない思考方法はいったい、なんなのか。

 

2023年6月20日火曜日

本人は、感覚器を書き換えて否定しているということに無頓着

  いやー、ほんとう、思った以上に家がボロボロなんだよ。『これは、のんびりできないなぁ』と思った。風呂に入っているときも思ったけど、ぼくの人生は、長期ヘビメタ騒音でめちゃくちゃだ。

あのときからずっと、めちゃくちゃだ。

だぶん、このまま、不愉快な気持をもったまま、死んでいくんだろうな。

「あのとき」というこだわりはある。

それは、鳴ってたからだ。

きちがい家族が、あの態度で鳴らしていたからだ。

ほんとう、あんな音で鳴っている家はない。あんなでかい音で、こどもが音楽を鳴らしているのに、ずっと注意しない親なんていない。

そして、きちがい的な高校生でなければ、でかい音で鳴らしているということが、わかる。きちがい兄貴は、あのとき高校生だったんだよ。

普通の人間なら、でかい音で鳴らしているということは、表面上否定しても、知っている。ところが、きちがい兄貴は、ほんとうに知らないのである。自分にとって、「でかい音で鳴らしている」ということが、不都合なことであれば、ほんとうに、「でかい音で鳴らしている」と思わない。

感覚器を書き換えてしまう。

そして、本人は、感覚器を書き換えて否定しているということに無頓着なのである。

ようするに、感覚器を書き換えて、強引に自分の言い分をとおしているという、認識がない。ほんとうは、感覚器を書き換えて否定して、自分の言い分をとおしているのに、その認識がないのである。

これは、親父が、魚の切り身を出しっぱなしにしたときもそうだ。おやじと兄貴で、頭の構造がおなじなのである。自分にとって不都合なことは、どれだけ明らかなことでも、絶対に認めないのである。

けど、普通の人の場合、知っていることを認めなかったという認識ができるのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父は、そういう認識ができないのである。

だから、本人はまったく知らないまま、「当の行為」をやり続けるということになってしまう。

こういう、でたらめ。

こういうでたらめが、常に成り立っている。きちがい兄貴が、でかい音で鳴らしたいあいだは、でかい音で鳴らしてないという認識が成り立ってしまうのである。事実を絶対の意地で認めないのである。けど、「事実を絶対の意地で認めない」ということをしたという認識もないのである。

きちがい兄貴は、思いっきり、まったくほかの人のことを気にしないで、でかい音で鳴らしたいあいだは、でかくない音で鳴らしているということになってしまうのである。頭がおかしいからそうなる。

親父の場合は、魚の切り身を出しておきたいという気持が続いている限り、絶対に、魚の切り身がものすごいにおいを放って、部屋全体がくさくなっていると行こうとを認めないのである。本人が「やりたい」あいだは、絶対に、「やれなくなるようなこと」は認めない。

けど、普通の人であれば、「そういうことをしている」という認識は、否応なくしょうじる。

ところが、きちがい兄貴ときちがい親父は普通の人間ではないので、「そういうことをしている」という認識が、まったく、まったく、まったく生じないのである。きちがい兄貴は、ほかの人が、おなじ音のでかさで、自分が聞きたくない音を鳴らしたら「うっささささい」と思う人間なのである。

耳はその時点で正常。

きちがい親父も、相手をせめることができるときは、相手が出したにおいに対して敏感なのである。自分がやりたいときは、きちがい的な鈍感ぶり発揮する。

言いたいのは、ともかく、どっちも、感覚器自体は正常なのであるということだ。そのときだけ、都合よく、「無感覚」になるのである。感覚器がない状態になってしまうのである。感覚器が機能してない状態になってしまうのである。

で、普通なら、どれだけ言い張っても、自分がそういうことをしているという感覚があるはずなのに、そういう感覚がない。感覚と書いてしまったけど、いままで、認識といっていたものだ。

自分がすごい強度で、強烈にやっていることは、絶対に認めないのだけど、相手がやっていることは、弱い強度でも、敏感に気がつくのである。

こういう、きちがい。

こういうきちがいはやりにくい。けど、そういうふうになってしまっているんだよな。ようするに、きちがい親父が考えて選択しているわけではないわけ。きちがい兄貴が、考えて選択しているわけではないわけ。これが、こまるんだよ。

アドラーが、「相手がどれだけがみがみ言っても気にしなければいい」ということを言っているけど、それは、相手の立場と自分の立場、相手が言っていることが正しいのかどうかということと、関係がある。まったく無関係に「気にしなくてもいい」「気にしなければいい」とは言えない。

気にするとか、気にしないということをぬかして考えてみても……いっしょに住んでいれば、影響をうけることがある。

相手の行為……出来事……というのが、たいせつだ。

たとえば、きちがい親父が、きちがい的な意地で、くっさいかさなの切り身を、一日に二三時間、テーブルの上に出しておくということにこだわったなら、その部屋がくさくなるわけだから、影響をうける。

そして、「くさいからしまってくれ」と(こっちが)言ったとき、(あっちが)「くさくない」と感覚器を否定するようなことを言えば、その事柄は、不愉快な事柄として記憶されるのである。

事実、きちがいが、きちがい的な感覚で、通してしまうのだから、影響をうける。 

*     *     *

正常な感覚が成り立っているはずなのに、正常な感覚が成り立っていない状態になる。正常な感覚が成り立っていないということは、本人は、否定する。気にもとめてない。まったく認識してない状態で生きている。実際にそういう状態で生きているわけだから、いっしょに住んでいる人は、不可避的に影響をうける。しかし、そういう人といっしょに住んでない人、あるいは、そういう人といっしょに住んだことがない人が『影響をうけないということは(どんな場合でも)可能だ』というくそ理論で、そういう人といっしょに住んでいる人を、ののしるのである。これは、ののしっているやつが悪い。「生まれの家族」なんて、選べないんだよ。そいつが、そいつである限り、そいつは、迷惑行為だとは考えないで、迷惑行為を(ごく自然に)する。その場合、どれだけ、『影響をうけないぞ』とがんばっても、影響をうけることになる。『影響をうけないことは可能だ』というのは、現実味がないくそ理論なのである。誤謬がある。しかし、まるで、影響をうけてしまうやつが悪いということになってしまう。こういう地獄だ。いったん、きちがい家族のもとに生まれたら、よそのやつにそういうふうに言われるのである。よそのやつは、きちがい家族のもとに生まれたわけではないので、ほんとうは、知らない。知らないから、そうだろうと思って言っているだけだ。

重要な条件

 たとえば、植物が成長するには、光が必要だ。光がよくあたるということは、重要な条件だ。また、光がまったくあたらないということは、重要な条件だ。もちろん、他にも条件がある。水や空気の質、土の質、温度などが影響をあたえるだろう。

しかし、光が重要な条件であることにはかわりがない。

かりに、昼間は太陽光線がよくあたるところに一〇〇〇〇個のタネを植えたとする。これを光十分条件だとする。そして、太陽光線がまったくあたらないように四角い箱をかぶせたところに一〇〇〇〇個のタネを植えたとする。これを光不十分条件だとする。両方ともタネの種類としてはおなじものだとする。

四角い箱は、水をとおすものにして、水の量に関しては、差が出ないようにするとする。箱にすると、水の量に偏りができるという場合は、箱でなくて、防草シートでもいい。

ともかく、光という条件以外は、おなじにして、おなじ種類のタネを植えるのだ。

その場合、普通なら、太陽光線がよくあたある場所に植えたタネは、よく育つということになる。いっぽう、太陽光線があたらない場所に植えたタネは、ほとんど成長しない。

光……ここでは太陽光線だけど……光という条件は、植物の成長にものすごい影響をあたえているのだ。『条件なんてまったく関係がない』ということにはならない。

ここでも、もしかりに、太陽光線があたらない箱の中にある、一個のタネが、成長したとする。ほかの九九個の種は、成長しないとする。このような場合、一個のタネが、成長したのだから、光という条件は、関係がないと言い切ることができるかどうかだ。

できない。

ほかの九九九九個が成長しなかったのだから、光という条件は関係があると考えるべきなのだ。 

ところが、悪条件の数が多く好条件の数が少ない人が、成功したという場合は、ひとりでもそういう人がいれば、『条件は関係がない』と言い切る人たちが、多数あらわれる。

おかしくはないか?

「人間は植物じゃないから、そうだ」……。「人間には意志があるから、意志の力ではねのければいい」……。まあ、人間は植物ではないというのは、認めるし、人間には意志があるということも認める。

けど、だからといって、『条件』を無視していいのかどうか?

なんで、そんなに条件を無視したいのか? 人間の条件となると、植物の条件を認めるようには認めない。条件が結果に重要な影響をあたえるということを、認めないということに、熱意を燃やすのだ。これは、おかしい。おかしな態度だ。こういう態度は、つくられた態度だ。支配者側の洗脳によって、つくられた態度だ。

 


2023年6月19日月曜日

ヘビメタ騒音が次の日にあたえる影響が、甚大

 ヘビメタ騒音が次の日にあたえる影響が、甚大なのである。ものすごい影響をあたえる。鳴り終わったら関係がないなんて、とてもじゃないけど、言えない。一日のなかで考えてみても、人生のなかで考えてみても、鳴り終わったら関係がないなんて、言えない。それは、きちがい家族による、しつこいしつこいしつこい、騒音を経験したことがない人の発言だ。くそ凡人は、ほんとうに、くそ凡人だな。わからなければわからないと言えばいいだろ。わからないのと、無視しするのはちがうことなんだぞ。わからないから、影響がない考え、関係がないと考え無視する。わからないのと、関係がないと考えることはちがうことなんだぞ。わからないなら、わからないと言えばいいだろ。くそ凡人。くそ凡人の発現が、いちいち、人を傷つける。いま、ゴミ捨て場に、なまゴミ用の青いカゴが出てくるのを待っている状態なんだけど、はっきり言って、しんどい。きちがいヘビメタにやられたあとは、ほんとうにしんどかった。それは、次の日の朝もおなじなのである。やられているときは、あらしのなかにいるような状態だ。そして、みんな、ほんとうに、どれだけひどい音で鳴っているかわかってない。あんな音のなかで勉強ができるわけがないだろ。平常心を保てるわけがないだろ。この世で、一番嫌いな音が、あの音のでかさでずっと鳴っている。こんなの、たえられるわけがない。午後一一時〇七分になり終わっても……そのあと、眠れるわけではないのだ。それから、ほんとうに、勉強ができない。ほとんど眠れないまま、学校に行くあいだがきつい。学校に行ってからがきつい。みんなわかってない。「鳴り終わったら関係がない」なんて、ほんとうに、ぶんなぐりたくなるようなことを、くそ凡人は言いやがる。

*     *     *

俺がどれだけ言っても、知らんぷりで鳴らしていた。

俺がどれだけ言っても、きちがい顔で鳴らしていた。

しかも、鳴らしたつもりが、ないのである。こういうきちがい。こういうきちがい。そりゃ、ほかの人は理解できないよな。 

*     *     *

けっきょく、ヘビメタ騒音にやられたのは俺だけなんだよな。俺にしかわからないハンディだ。「気ちがいヘビメタさえなければ」という言葉の意味が、ほかの人にはわからない。どれだけの意味が込められているか、どれだけの量が込められているか、どれだけの時間が込められているか、わからない。

俺にしかわからない、俺だけのハンディを、つくりやがって。知らんぷりして、つくりやがって。きちがい兄貴が、きちがい的な意地でずっと鳴らしていたから、こまってるんだぞ。経歴だってなんだって……。

2023年6月18日日曜日

好条件、悪条件

好条件、悪条件ということを考えると、ある人には複数の好条件が成り立っていて、ある人には複数の悪条件が成り立っているわけだ。好条件というのは、ひとつの好条件のことではなくて、複数の好条件のことだ。で、複数の好条件のセットと、複数の悪条件のセットが、生まれたとたんに決まってしまう。どこのうちに生まれるかということは、そういうことだ。たとえば、一〇〇の条件のうち、だれもが、五〇個ぐらいは悪条件で、五〇個ぐらいは、好条件だというわけではないのだ。そして、それは、思い込みではない。これも、「思い込み教」「受けとめ方教」だと、そういう悪条件とか好条件というのは、受けとめ方の問題なんだということになってしまう。好条件とか悪条件というのには、かたよりがある。全部好条件である人はいない……そういうふうに決めつけられるかどうかわらないけど、とりあえず、全部好条件である人はいないということにしておこう。そして、全部、悪条件である人もいないということにしておこう。けど、五〇個ぐらいは悪条件で、五〇個ぐらいは、好条件だというような人は、人数的に少なくて、好条件が九〇個ぐらい、悪条件は一〇個ぐらいというような人と、好条件が一〇個ぐらい、悪条件が九〇個ぐらいの人にわかれてしまう。なにを『条件』として認めるかという問題がある。それから、ひとつの条件が時系列に複数の結果をもたらすことがあり、また、ひとつの条件が時系列的に、ほかの条件に影響をあたえることがあるので、いま、ぼくが説明しようしていることは、正確なことではない。だいたいのことだ。中央に、山ができるような折れ線をえがいているのではなくて、両極に山ができるような折れ線をえがいているということだ。そして、『悪条件が多い折れ線の山』のほうが、山全体がおおきくて、山の頂点が高いということだ。

折れ線うんぬんというときのグラフだけど、縦軸と横軸について語っておこう。縦軸が人数で、横軸は条件の個数だ。横軸の左の端には「好条件が一個、悪条件が九九個という条件」右の端には「好条件が一個、悪条件が九九個という条件」中央には「好条件が五〇個、悪条件が五〇個という条件」になっていて、右に行くほど、好条件の数が増える。そういう軸を考えるとする。まあ、右端を「好条件が〇個、悪条件が一〇〇個という条件」でもいいけど、そういう人はいないという前提を採用したので、好条件が一個、悪条件が九九個という条件」のほうを採用しておいた。


 

「の」の重複は指摘しなくていい。

2023年6月17日土曜日

単純な思考しかできない人は、かわった家族にやられた人を攻撃しはじめる

 やはり、無職に偏見をもっている人は、レベルが低い思う。思考のレベルがとことん、低い。話にならないほど、低い。

そして、無職といっても、ほんとうは、働いているかどうかとは関係がない部分がでかいのである。

しかし、そういうことにも、思考がまわるということがない。そういうことについて考えるということができない。そいつらの頭のなかでは、じつは、言葉の定義とはちがう……「無職像」というべきもの……が成り立っていて、その無職像について、語りだす。

だれか、目の前の人が無職だと、その無職像について語りだすのである。

まあ、そういうことは、さんざん書いてきたので、ここでは、説明を省略する。しかし、思考のレベルが低い。どんだけ、思考のレベルが低いか? どれだけの偏見をもっているか? どれだけのまちがった判断をしているか?

引きこもりに、ついてもおなじことが言える。「引きこもり像」とたたかっているのである。アホだ。 アホすぎる。

まあ、アホなのは、引きこもりではなくて、引きこもりに偏見をもっている人だ。そして、そういう単純な思考しかできない人は、みんな、かわった家族にやられた人間を傷つけるのである。どうしたって、単純な思考しかできない人は……中立を装いながら……かわった家族側に立って、かわった家族にやられた人を攻撃しはじめる。それがスタンダードだ。

佐藤(仮名)の行動はまったくもって、そういう行動なのである。佐藤(仮名)の判断は、まったくもってそういう判断なのである。

ヘビメタ騒音の過程と、ヘビメタ騒音の影響について、完全に見誤っているのは、佐藤(仮名)のほうなのに、説教をして悦に浸っている、佐藤(仮名)は、それに気がつかない。

「俺だって苦労をした」という武勇伝……。武勇伝。これ、普通の人の武勇伝というのは、きちがい家族(かわった家族)にやられた人にはまったく役に立たない……参考にすらならない……のだから、そういうことをちょっとは考えたほうがいい。

これ、ほんとうに、普通の人は、わからないんだよな。普通の人というのは、普通の家族とともに育った人だから、かわった家族がどういうことを、するのかわかってない。根本的にわかってない。影響の深さがわかってない。

2023年6月16日金曜日

ハンディ

 ヘビメタ騒音をやられると、バカから、一丁前のこと・えらそうなことを言われるようになる。そりゃ、バカの頭のなかでは、バカが働いているとなったら、働いていないエイリさんよりも、自分(バカ)のほうがえらいということになる。そういう、スキができてしまう。きちがい兄貴のヘビメタ騒音というハンディを小さく見積るやつ、無視するやつが、好き勝手なことを言ってくる。そのなかには、俺だって苦労したという話がある。けど、そいつの苦労というのが、ヘビメタ騒音の苦労の一〇〇京分の一ぐらいの苦労なのだ。働けなくなるような苦労じゃない。働けなくなるようなハンディをうみだすような苦労じゃない。事実、そいつは、通勤して働いている。自分は通勤して働いているということが、そういう苦労話を披露する根拠になっている。けど、こいつも、ほんとうに、きちがい家族による、きちがい騒音を毎日毎日、経験したら、働けなくなる。実際にそういう経験がないから、そういうことがわからないだけだ。想像力がないやつなのである。そういう、思考力も想像力も、他人に対する気遣いもないやつが、俺に対して、ダメダシをしてくる。どうして、ダメダシをしていいかというと、エイリは働いてないからだ。この一点に尽きる。ヘビメタ騒音がなければ、ぼくは働いていた。そして、そういうバカが「えらい」と感じる職業についていただろう。そういうバカは、相手がどういう職業についているかで、態度をかえる。意見だってかえる。なんだってかえる。そういうやつらだ。だれが言っているかで、「それ」が正しいかどうか判断するようなバカなやつらばかり。なんで、ぼくがこんなやつらに、バカにされたり、ダメダシをされなければならないのか。こんなの、ない。こいつらだって、ほんとうに、七年ぐらいで、どれだけがんばっても働けない状態になるのに……。通勤して働けない体になるのに……。こいつらは、ゆるせない。

 *     *     *

どれだけ努力しても、ボロボロになるだけだ。ボロッボロになる。きちがいヘビメタ騒音のなかで努力するということがどういうことなのか、こいつらはわかってない。軽く見ている。きちがいヘビメタ騒音生活が、どういうもなのか、こいつらは知らない。経験をとおして、理解してない。

*     *     *

どんな条件でも、コツコツ努力すれば、成功する……頭がおかしいやつが言うセリフだ。けど、これが正しいということになってしまっているのである。

条件のちがいについて言及するのは、はずかしいことだ

 条件のちがいについて言及するのは、はずかしいことだ……という思い込みがあるけど、その思い込みもつくられた思い込みだ。

条件のちがいについて口にするやつは、はずかしいやつだ……という思い込みがあるけど、その思い込みもつくられた思い込みだ。

条件のちがいはある。条件のちがいが結果のちがいをうみだす。これは、事実だ。条件を無視していいわけがない。どうして、条件を無視して言うことがはやっているのか? かならず、条件を無視して、わかったようなことを言うことがはやっているのはどうしてなのか?

もう、いいかげん、気がつけ。

2023年6月15日木曜日

普通の人の発想では、きちがい的な親、きちがい的な兄のことが、理解できない。

こっちが、めちゃくちゃにこまっているのに、一分間もゆずってくれないなんておかしい。きちがい兄貴が、うるさくしているんだぞ。自分(きちがい兄貴)だって、ほかの音が、その音のでかさで鳴っていたら、一分間で腹をたてるような音で鳴らしているのに、どれだけ言われても、自分が悪いことをしているという主観的な気持が発生しない。どれだけ言われても、しずかにする必要性を認めない。きちがいだから、自分がやりたいようにやる。きちがい的な意地でやりたいようにやる。それが毎日つみかさなってるから、こまっているんだぞ。どうしてこまっているかというと、きちがい兄貴が、執着して執着して、こだわりの音で、きちがいヘビメタを鳴らしているからこまっているんだぞ。これがわかってないのである。やり続けた一五年間毎日、どれだけ言われても、わかってない。これは、もうちがうんだよ。普通の騒音じゃない。そして、きちがい親父が、それを、背後でささえている。これが、知らんぷりだよ。普通の親だったら絶対に、注意するんだよ。そういう音で鳴らしている。けど、兄貴が小さいときは、理由もなく虐待していたのに、兄貴がおおきくなったら、注意ができなくなってしまった。「しかる」ということができないのである。まあ、きちがい親父が、普通の親がもっている感情でこどもを「しかった」ということは、一度もないけどな。きちがい親父は、きちがい的な理由で怒りを爆発させているだけだ。きちがいだからできることなんだぞ。自分の子どもが、きちがい的にでかい音でステレオを鳴らして、みんなに迷惑をかけている……ということが、いっしょに住んでいるのに、わからないのである。この、わからなさも、きちがい親父と一緒に住んだことがない人にはわからない。だから、「そんなでかい音で鳴らしているのに親が注意しないのはおかしい。エイリさんが大げさに言っているだけなんだろう」と考えてしまう。すべてが、俺をおいつめるようにできている。普通の人の発想では、きちがい的な親、きちがい的な兄のことが、理解できない。きちがい家族に「やられたほう」が、世間の人から誤解されるように「できている」。そして、そのことに関して、世間の人は、これまた、無関心なんだよ。関心なんて持つわけがない。「へんな話だ」「そんなことはないだろう」と思っておしまいだ。これもまた、自分の考えをかえて「へーそうなんだ」「きちがい的な家族はそういう反応をするんだ」と思わない。話がすんだあとも、「へんなことを言っているのは、エイリさんのほうだ」と思っている。きちがい的家族にやられたほうが、おかしい……おかしなことを言っているだけなんだと思っている。自分がそれまでに持っていた、考え方を、話のあとも、かえない。ようするに、俺と話したあとも「そんなでかい音で鳴らしているのに親が注意しないのはおかしい。エイリさんが大げさに言っているだけなんだろう」と不審に思っているのである。こんな、やつら……。

こいつらは、こいつらで、くさっている。完全にくさっている。

 ヘビメタ騒音でくるしいなぁ。けっきょく、中学生のころからかわらない。いや、小学生のころからか……。小学生のころからかわらない。どうしても、くるしい。あんな音で鳴らしやがって。このあいだ、となりのとなりの人と話をしたんだけど、ヘビメタ騒音のことを話したら「鳴ってたねぇ」って(となりのとなりの人が)言っていた。庭のことで話をした。この人のうちは、だいたい、二〇年間ぐらい空き家になっていたのだけど、もどってきた。当時を知っている人だ。

ともかく、くるしい。あれだけ言ったのに、まったく関係がない人として鳴らし続ける。きちがい兄貴にしたって、いま住んでいるマンションでは、一日に一分だって鳴らせない音で鳴らしていた。だから、きちがい兄貴の嫁さんは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をなまで聞いたことがないのである。何度も言うけど、「うちだから」鳴らした。きちがい親父のうちだから、鳴らした。きちがい兄貴の態度が、きちがい親父の態度とおなじなのである。きちがい的な意地でやって、絶対にゆずらない。しかも、ゆずらなかったということがまったく記憶に残らないのだ。自分がやっているときに「やめてくれ」という内容のことを言われたら、真っ赤な顔になって、怒り狂う。で、その反応のときだけなんだよな。あとは、「なにも言われてない」と思って鳴らしている。これは、普通の記憶障害じゃない。ほんとうに、相手がこまるということがわかってない。自分だって、ほかの音で鳴らされたら、怒るわけで、相手がおこる理由はわかるはずなんだよ……。そんなことは、言わなくたってわかるはずのことなんだよ。けど、意識的にはわからない。そして、きちがい的な意地でやりきるのだけど、やりきったという記憶がない状態なんだよね。だから、いつもいつも「やっている」のに、「やってない状態」の記憶のままなんだよね。やってないつもりですごしている。だから、ほんとうに「つもりがない」のである。けど、アクティングアウトしている。きちがい的な意地でやっている。「やめろ」と言われたら、怒り狂って、脂汗をかいて、無言でやりきる。この時、やめさせるとしたら、殺さなければならない。そういう意地だ。けど、そういうひどいことになっているのに、本人は、まったくなにも起こらなかったという気持と感覚で生きている。ほんとうにまったく記憶にない状態に近い。あるいは、ほんとうにまったく記憶にない状態だ。そういう状態で、知らんぷりで、生きている。言えば、きちがい的な意地でやり続けて、ゆずらないのに、ゆずらなかったという記憶がないのだ。ゆずらずにやりきったという記憶がない状態で生きている。こういう、えげつなさ。こういう都合のよさ。自分にとってだけ、都合がいいように、記憶を書き換えている。こういうタイプのきちがい。

ほかの人は、関係がないから、絶対にわからないだろうけど、一日一日が、ひどいのである。究極の状態なのである。常に引き裂かれている。だれも、わかってくれない。ほかの人のうちに、そういうタイプのきちがいがいない。うちなんて、四人家族なのに、ふたりもそういうなちがいなんだぞ。これがどういうことか、ひとりもそういうきちがいがいなかった、人にはわからない。本人が震源地で、本人がきちがい的な意地でやるから問題が発生しているのに、まったく関係がない人として暮らしているのだ。この感覚は、ほんとうに、どれだけほかの人に言ったってわからない。そして、やっているほうは、ほんとうにやってないつもりなのだから、きちがい的な意地ですべての時間を使ってやるけど、なにもしてないつもりなのだ。こういう感覚。こういう認識。絶対、ほかの人はわからない。だから、そういう人によってつくりだされる、地獄についてもわからない。そういう感覚の家族によってつくりだされる、騒音地獄についても、わからない。わからないから、影響を過小評価して、あるいは、影響を無視して、好き勝手ないことを言う。家にいるきちがい家族がそういうタイプの人間だと、よその人間にも、バカにされるのだ。もう、これが決まっている。どんだけくるしいか、よその人間は、ほんとうにわかってない。よその人間は、経験してないからわからない。よその人間は、俺の経験をもってない。俺とおなじ経験をまったくしてない。どうしてかというと、家に、そういうタイプの家族がいないからだ。そういうタイプの家族が、騒音の出ることにこりきって、毎日、執着して執着して、執着して、執着して、頑固に頑固にやっているわけではないからだ。実際そういう人がいて、実際そういうことが、毎日生じてしまうと、ひどいことになる。ひどいことになるのだけど、ほかの人はわからない。こっちが働けなくなれば、「人間は働くべきだ」と言ってくる。こっちが働けなったな理由として、きちがいヘビメタのことを言えば、「そんなのは、関係がない」「そんなのは、あまえだ」と言ってくる。

こいつらは、こいつらで、くさっている。完全にくさっている。

きちがいの「無視」と、普通の人間の「無視」は、似ていないけど、似ている。しくみがちがうのだ。けど、「わからない」というところは、似ている。影響を無視するというところは似ている。きちがい兄貴の場合は、張本人なので「影響を無視する」のはおかしい。けど、やってない人は……張本人ではなくて、ただ、ぼくの話を聞いた人は、ぼくのうちでずっと、影響をあたえる原因になるヘビメタ騒音を鳴らしていない。鳴らしていない……あるいは、鳴らしていなかったという意味で、この人たちは、たしかに、自分が影響をあえる原因をつくったわけではないので、「関係がない」と言える。ヘビメタ騒音に関しては、関係がないのである。けど、関係がないから、影響がないとみなして、わかったようなことを言うというのは、問題がある。どうしてかというと、影響があるからだ。ヘビメタ騒音の影響がある。こいつらは、みんな、ヘビメタ騒音の影響を無視して、「人間は働くべきだ」「そんなのは、関係がない」「そんなのは、あまえだ」と言ってくる。こいつらは……。こいつらは……。

2023年6月13日火曜日

『条件は関係がない』という妄想は、いったいどこから出てくるのか?

 『条件は関係がない』という妄想は、いったいどこから出てくるのか?


こんなの、信念をもって無視しているとしか思えない。条件があってはならないものだから、条件なんてないと思っている。条件が影響をあたえることはあってはならないから、条件が影響をあたえるはずがないと思っている。条件は無関係でなければならないとつよく信仰しているから、『条件は無関係だ』と思っている。 

条件?

関係あるじゃん。

結果に関係があることを、条件として「析出」しているんだぞ。結果に関係があることを、ぬきだして、『条件だ』と言っているわけ。どんな条件も、結果には関係がない……こんなのは、宗教的信仰だ。もっと、はっきり言ってしまうと、宗教的妄想だ。

条件は関係がないということについて、宗教的妄想について語らず、合理的に、理論的に説明してみろ。 

「結果に関係があることを、ぬきだして、『条件だ』と言っているわけ」という文の、かくされた主語は、「こっち」……だ。あるいは「条件について語る人」……だ。


 

インテルの仕事

 インテルの仕事というのは、一般人に「陰謀論者はバカだ」と思わせることだ。一般人が「陰謀論者はバカだ」と思ったら、陰謀論っぽいことを言う人は、みんなバカになってしまう。だから、バカが言うことは一切合切信用しないという態度が生まれる。これも、たくみに誘導された結果だ。はっきり言ってしまうと、一般人と言うのは、インテルにだまされている。どうして、インテルがバカなふりをしているかまったくわかってない。はっきり言えば、「陰謀論者はバカだ」と思った時点で、「まけて」いる。「思ったら」負けだと思う……。「陰謀論者はバカだ」と思ったら、負けだと思う……。やられちゃっているのは、陰謀論者はバカだから、陰謀論者の言うことは、一切合切信用しないと思った人なんですよ。わからないかな?

 

『条件の無視』は宗教的な『信仰』だ

  はじめから、条件を無視しているのだけど、この『条件の無視』は宗教的な『信仰』だ。もしくは、単なる『妄想』だ。あたかも、合理的で正しいことのようであるけど、『条件を無視する』という態度は、合理的な態度でもないし、正しくない。他者の条件を無視している……。これ自体が、傲慢な態度だ。傲慢。傲慢。大傲慢。妄想が、さきになりっている。妄想があるから、もう、結論が決まっている。

 これは、おかしな思考スタイルだ。けど、だれも、おかしな思考スタイルだとは思わない。普通にそう考えている。もう、条件反射的にそう考えている。そういうところに、長年の……それこそ、生まれたときからの……洗脳の結果が成り立っている。

この批判は、やらなければならない批判なのである

 魔法的な解決法について、ぼくは批判しているけど、この批判は、やらなければならない批判なのである。軽い気持ちで、やっていると思うな。ただ単に、愚痴を言っていると思うな。ただ単に、泣き言を言っていると思うな。そういうことが、全部、洗脳の結果だ。キミたちは……そういう感じ方をする人たちは、悪魔に洗脳されている。悪魔の価値観を、植え付けられている。この感じ方は、ぼくにも、寸分(すんぶん)ある。ようするに、共同幻想なのである。感じ方の共同幻想なのである。そういう価値観を、ほんとうに、小さいときから、他者、メディア、教育制度などをとおして、植え付けられてきた。他者というのは、ともかく、まわりにいる他者だ。メディアというのは、テレビ、ラジオ、インターネット、新聞、週刊誌、本など、すべてのメディアのことだ。教育制度をとおしてというのは、ようするに、学校生活をとおしてということだ。学校には、他者がいる。

「脳みそがこわされた」とぼくが表現していること

  もう、いいや、おれ……という感じがする。あくまでも、いま、そう感じているということだ。あとで、またちがったことを書くかもしれないけど、それはそれで、いい。あくまでも、いまの感想。いまの感情。

しかし、つかれたなぁ。

なんで俺だけ、長期ヘビメタ騒音というハンディがあるんだ。なんで俺だけ、きちがい親父というハンディがあるんだ。長期ヘビメタ騒音のハンディなんて、みんなわからない。これ、ほんとうにわからないんだよ。だから、長期ヘビメタ騒音のハンディを無視して、みんな、好き勝手なことを言ってくる。そりゃ、そいつらの人生のなかにはなかったことだから、人の話を聞いて、空想するようなものでしかない……きちがいヘビメタ騒音というのは、ほかの人にとってそういうものだ。けど、これが、生活ぜんぶなんだよ。それ以降の、人生ぜんぶなんだよ。わからないだろうな。

ぼくが誰かと会うとき、ヘビメタ騒音が鳴ってない。たとえば、ぼくが読書会に行ったとき、その読書会では、ヘビメタ騒音は鳴ってない。ぼくが学校の教室にいるとき、その学校の教室では、ヘビメタ騒音は鳴ってない。なら、ぼくのからだに、ヘビメタ騒音が影響をあたえていないかというと、そうではないのである。これが、わからないんだよ。どれだけでかい影響をあたえているかわからない。わからないから、わからないという前提で勝手なことを言う。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言いやがる。けど、それは、その人にとって、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が関係なかったから、言えることなのである。まったく影響をうけてないわけだから……話に聞いただけのことなのだから……そんなのは、関係がないと、自信をもって言える。感覚的には、そうなのだから、そうなのだろう。その人の感覚のなかで、ヘビメタ騒音があたえた影響というのが、ゼロだから、関係がないという判断に結びつくのである。

あんまり、言いたくないけど、有害な解決法を提示されたときの、気分と言ったらない。これも、そういう経験がある人じゃないとまったくわからないと思う。無効なばかりではなく、有害な解決方法なんだよ。きちがいヘビメタ騒音影響下ですごしている。きちがいヘビメタ騒音の影響をうけた体(からだ)ですごしている。人生のなかの重要な時間を、ヘビメタ騒音にとられた。そして、睡眠回路がこわされた。生活体力回路?がこわされた。脳みそが、こわされた。きちがいヘビメタ騒音が一日だけ鳴っているのであれば、脳みそはこわされないけど、ずっと鳴っていたから、脳みそがこわされた。この「脳みそがこわされた」とぼくが表現していることが、ヘビメタ騒音にやられてない人にはわからないのである。感覚としてわからない。感情としてわからない。ぜんぜんわからない。わからないから、「ゼロ」だと思って、好き勝手なことをいう。えいきょうをうけているのに、うけていないという前提で好き勝手なことを言う。言っているほうは、気分がいいかもしれないけど、こっちは、ものすごく、気分が悪い。

これ、きちがい的な家族にやられたやつが、普通のやつにも「やられて」おいつめられるようにできているのである。それがこの世だ。それが、悪魔がつくったこの世だ。みんな、洗脳されている。「いい話」というのは、悪魔が用意した「はれんちな」いい話なんだぞ。ほんとうは、まわりまわって、人を傷つけるような「いい話」だ。それが、わからないのである。

2023年6月11日日曜日

めぐまれた条件の人たちが、言うのである

 どうして、「こういう人たち」がまわりの環境を無視できるかというと、「こういう人たち」が囲まれている環境というのは、いい環境なのである。どうして、「こういう人たちが」条件を無視できるかというと、「こういう人たち」がいい条件のもとで、暮らしているからなのである。「こういう人たち」というのは、魔法的解決法が効くと主張する人たちのことだ。恵まれた条件の人が、めぐまれてない条件の人に、成り立たないことを言う。めぐまれてない条件だと成り立たないことを言う。けど、「自分の場合は成り立った」「だから、これは、不変法則である」と言うのである。自分には成り立ったことでも、ほかの人には成り立たないことがある。いい人に囲まれていれば、「ニコニコしていればいいことがある」ということが成り立つかもしれない。けど、悪い人に囲まれていればニコニコしていても、いいことがなく、むしろ、悪いことばかりがおこるということになる。どうしてかというと、悪い人に囲まれているからだ。その人が悪い人にかこまれて生活しているからだ。悪い人は、その人がニコニコしているかどうかに関係なく、悪いことをしかけてくる。そういう脳みそをもっているから、きちがい的な理由で攻撃をしてくる。その人がニコニコしていても、まわりの人が悪い人なら、悪い人は、その人に対して、攻撃をしてくる。その場合、ニコニコていたのに、悪いことが発生したということになる。「ニコニコしていれば、いいことがある」ということが成り立たなかったということになる。生まれの家族は選べない。だから、たまたま、悪い人のなかに生まれおちる人もいる。条件がちがえば、結果がちがうのに、どんな条件でもそうだと、めぐまれた人たち……めぐまれた条件の人たちが、言うのである。めぐまれた人たちが、「どんな条件でも」これこれをすればこうなるというよなことを言う。解決法を求めているのは、めぐまれない人たちなのである。なので、めぐまれた条件が成り立っている人が、その条件を無視して、どんな条件でも、こうすればこうなる」ということを自信を持って言う。だれに言うかというと、めぐまれない人に言うのである。

一年三六五日でも、経験してみればわかるのに……

 ヘビメタ騒音生活というのが、どれだけつらいか、みんなわかってない。一年三六五日でも、経験してみればわかるのに……。一日じゃわからないだろうけど。一日で終わる騒音じゃなかった。一日のなかでの持続時間が、おなじでも、一日で終わるのと、三六五日間続くのでは、ぜんぜん影響度がちがう。影響の大きさがちがう。なおさら、一五年間なんて、どれだけの影響が出るか……。どれだけの影響が出るかは、一五年間、体験した人じゃないとわからない。

ヘビメタ騒音というのは、いろいろなところに影響をあたえる、病気なのである

 おまえ、やられてみればわかると思うけど、ヘビメタ騒音というのは、いろいろなところに影響をあたえる、病気なのである。ぼくにとっては、ヘビメタ騒音だけど、ほかの人にとってはほかの騒音でもかまわない。ぼくの場合は、きちがい兄貴が、毎日毎日、何時間も何時間も鳴らした、ヘビメタ騒音だけど、別に、ヘビメタ騒音ではなくても、ものすごくきらいな音が、ものすごい音量で、毎日毎日、何時間も鳴っていたという場合は、ヘビメタ騒音でなくても、おなじことがおこる。みんな、経験がないからわかってない。『総合的な病気』なんだよな。別に、一五年間毎日鳴っていたから、一五年目に、なおらない病気になったということではなくて、もう、最初の日から、病気なのである。総合的な病気なのである。能力がさがって、対人関係が、不可避的に、悪くなる。どうしてそういうことがおこってしまうかというと、きちがい兄貴の騒音が、普通のうちではありえない騒音だからだ。きちがい兄貴が気ちがいでなければ、普通は、どれだけ鳴らしたって、一日目の一時間目にやめる。それが、普通のうちで発生することだ。それが普通の人がやることだ。どれれだけ鳴らしたくても、一日目の一時間目には、その音で鳴らすことをあきらめるのである。ところが、きちがい兄貴が、きちがい親父と同種類のきちがいだったので、まったくやっいるつもりがなく、やってしまった。認めないのである。きちがいだから。こういうふうに、ねじがずれた人がやることというのは、ほかの人にはわからない。だから、ほかの人は、こういう人がやって、こまったということがないのだ。そして、そういう人(きちがい側の人)……きちがい的な意地でやり通してしまう人の性格が、レアであればレアであるほど、ほかの人たち……この件に関係がない人たちは……やられた人の気持ちや状態がわからなくなる。やっている人側がレアなので、そういうことが発生しにくいので、自分の経験のなかにそれに相応した経験がないのである。だから、必然的に誤解してしまうのである。これも、必然的に誤解をする。普通の人が思い浮かべるトラブルというのは、普通の人とのトラブルなのである。レアな人とのトラブルではないのである。そして、そのレアな人と、家族として一緒に住んでいる……生まれの家族として不可避的に十数年間一緒に住んでいるということがない。そういう家に生まれてこなかったので、そういうことを経験してない。レアな人にやられた人の状態というのは、レアな人にやられてない人は、わからない。家族として、十数年間にわたっていっしょに住んでいる人しかわからない。どういうところにずれがあるのかわからない。悪い意味でレアな人が、どういう感覚の持ち主なのかわからない。基本的には、「やられたほう」が悪く言われる。普通の人は、やられた人の症状にだけ文句を言う。普通の人は、やった人のことを問題にしない。普通の人は、やられた人の……必然的なしょうょ上に文句を言う。そして、発達障害だ、コミュ障だ、さぼり魔だ、あまえている、とののしる。ほんとうは、ちがう。そして、魔法的解決法を提示する。ところが、きちがい家族という『条件』があると、その魔法的解決法が、新たなトラブルをうみだす。きちがい家族という『条件』があると、その魔法的解決法が、「やられている家族」をさらに、苦しめる。これは、苦しめるしかない。たすかるということはない。どうしてかというと、きちがい家族という条件があるからだ。魔法的解決法をすすめる人は、普通の家族のもとに生まれて、普通に育てられている。きちがい的な家族がいないのである。レアな人が家族ではないのである。魔法的解決法についてのべる人は……すすめるひとは……きちがい家族と一緒に暮らしたことがない。レアな人と、家族として一緒に暮らしたことがない。なので、「きちがい家族と一緒に暮らしている」という条件がない。なので、その条件は、必然的に、無視できるのである。けど、『きちがい家族と一緒に暮らしている』という条件がある人は、その条件を無視できない。魔法的解決法のトリックは……トッリクの根底は……条件の無視なのだ。「他人だから」無視できる。「自分にはない条件だから、必然的に無視できる」……これだけだ。最初から、その条件がない。だから、その条件がもたらすことに関しては、無視できるのである。そして、「人のせいにしている」とまちがったことを言って、「やられた人」の性格のせいにしてしまうのである。

2023年6月9日金曜日

しかし、根性論、努力論、自己責任論、魔法的解決法でごまかしてしまう。

 軽い知的障碍者がいたとしよう。軽いので、障碍者枠から外れたとしよう。あるいは、障碍者として働こうとしたけど、障碍者として働くことができなかったとしよう。

ようするに、制度はあるけど、制度がすべての問題を解決してしまうわけではないので、制度としての保護が手薄になる「層」というのがある。ある軽い知的障碍者をAさんだとする。Aさんがある仕事をしたとする。

けど、その職場では、Aさんは、罵倒され、なぐられ、仕事ができなかったのである。で、Aさんを罵倒し、なぐったほうは、もちろん、悪いのだけど、そもそもの問題は、そこではないのだ。

 

仕事場に、働けない人がいたということが問題なのだ。

 

仕事場に「働けるように見える」けど、じつは「働けない」人がいる。こういうことが、問題なのだ。仕事場に、仕事をするために、そこにいる!!!にもかかわらず、じつは仕事ができない……。

これは、問題だ。

まわりのひとは、Aさんに、これこれの仕事をするように命令するけど、Aさんはこれこれの仕事がどうしてもできない。できないのだから、できない。「できる」とひとこと言えば、できるようになるか? できないままだ。Aさんが、あまえているから、できないのか?

ちがう。

できないからできない。

Aさんが、仕事場に……仕事をするための場所に……仕事をするためにいる……。それなのに、Aさんには、仕事ができない。これが問題なのだ。いくら、Aさんが仕事ができない人だとしても、まわりの人には、「仕事をするために、Aさんが仕事場にいる」という認知・認識がしょうじる。

しかし、Aさんは(その)仕事ができない。なので、認知・認識上の問題がしょうじる。「根性で仕事をすれば、仕事ができるようになる」……「いや、できないものできない」。「コツコツと努力すれば、仕事ができるようになる」……「いや、できないものはできない」。

Aさんが「あまえないようにすれば」仕事ができるようになるか?

いや、できないものはできないんだよ。あまえの問題じゃないのである。

人間にとって仕事がいかに大切なものか、Aさんに説教をすれば、Aさんは働けるようになるか?

働けないままだ。Aさんは、日本社会において、さまざまな職場で、仕事ができない。

できないものは、できないんだよ。こころがけの問題ではないのである。Aさんのこころがけの問題ではない。けど、「説教」という方法は、こころがけの問題にしか、対処できない。Aさんが仕事をすることができないのは、Aさんの機能障害の問題であって、こころがけの問題ではない。

何度も言うけど、「できないものは、できない」。

Aさんの認識は「自分は仕事はできない」というものだっとするそれは、さまざまな仕事場での経験から導き出された、認識だ。

しかし、世間の側が「人間は仕事をするべきだ」という考えをもっていたとする。

そして、Aさんに、仕事をするように、けしかけたとする。いっぱい、説教をしたとする。Aさんが、それで、働けるようになるか? 仕事ができるようになるか?

もともと、できないものはできない。脳の機能障害で……できないものはできない。ほんとうは、世間側は、それを認識しなければならないのである。

 

しかし、根性論、努力論、自己責任論、魔法的解決法でごまかしてしまう。

*     *     *

ぼくの場合は、睡眠回路に問題がしょうじた。これは、脳の機能障害だ。脳の機能障害が生じた理由は、ヘビメタ騒音の繰り返しだ。毎日、爆音で、自分が聞きたくない音を、聞かされ続けるということが、脳の機能障害をうみだした。

じつは、ヘビメタ騒音・プラス・「毎日、時間通りに学校に行かなければならない状態」が、何年間も続いたことが、脳の機能障害をうみだしたのだ。こわされたのは、睡眠回路(睡眠にかかわる脳の機能障害)だけではない。

楽しく感じることができないというような感情にかかわる脳の機能障害に関しても、毎日爆音にさらされていることだけではなくて、毎日爆音にさらされているにもかかわらず、一定の時間に起きて行動しなければならない状態が影響をあたえている。

で、これは、薬では治らない。

働けるのに、働いてない人と、事実として働けないから、働いてない人のちがいはでかい

 これに関して、まったくうけないことは知っているけど、書いておく。働くのが苦手な人は働かないほうがいい。もっと正確にいうと、働けない人は働かないほうがいい。ほかの人から見て、働ける人でも、働けない人がいる。

ほかの人から見て、働けるかどうかと、本人が、この世界で働けるかどうかはちがうのだ。

ぼくが見ていると、世間というのは、働けない人に、働くことをおしつけている。世間というのは、言ってみれば、他人だ。

「そと」から見た話なのだ。

「そと」から見て、働ける人であれば、働ける人だということになる。働けるのにはたらかないのはけしからん」ということになる。

佐藤(仮名)のような凡人だと、どうしても、そういう発想になる。ある人……たとえば、佐藤(仮名)が、エイリさんは働けると思ったら、佐藤のなかで、エイリさんは、働けるのに働かない人だということになる。

しかし、ヘビメタ騒音で、ぼくは、この世界で働けない人になっていた。このちがいがある。もっとも、ぼくの場合、インターネットがない世界では働けないということだから、時代が影響をあたえる。

ヘビメタ騒音「で」の「で」は非常に重要だ。こいつらは、ヘビメタ騒音は、働けなくなるような重い問題ではないと認識しているのだ。俺の話を聞いたあとでも……。

俺は過不足なく、制限時間内で、ちゃんと説明したからな。

だいたい、自己紹介のときに、限られた時間のなかで、ヘビメタ騒音のことを、全部説明するのはむりだ。だから、ちゃんと重要なところを説明している。……「自己紹介」というのがこれまた、やっかいなんだよな。自己紹介の問題は、どこかで書いた。すでに書いたから、省略する。

ほんとうは「働けない人」なのに、「そと」から見ると、「働ける人」に見える人がいる。あくまでも、「そと」から見た場合だ。「そと」から見て、働けるのに働けない人……と、「そと」から見て働けるのに、働かない人がいるのだ。

「働けないから働かない人」と、「働けるのに働かない人」のちがいはおおきい。

けど、このちがいが無視されることがある。

そして、「そとから見た」場合の認知と、本人の認識がちがう場合がある。

とりあえず、本人の認識と事実が一致するとする。「働けない」人に「働け」といってもむだだ。働けないからだ。世間側がどれだけ、「説教」してもむだだ。これ、あほなんじゃないかと思う。

世間側がやることが「説教」なのだ。

働けない人に「働くように」説教をする。あほとしか言いようがない。働けないから働けない。働けない人に「働いたほうがいい」と説教するのは、なんとばかげたことか?

しかし、このばかげたことが、まかり通っていのである。世間側の人から見ると、「その人」は働ける人なのだ。働けるのに、働かない人なのだ。

事実として、働けないから働いていない人にむかって、「働くように」説教してもむだだ。

繰り返しになるけど、働けないから働いていないだけだ。働けるのに、働いていないわけではないのだ。ここのところを世間側が「そと」から見て、勘違いしている場合がある。

事実として、「働けるのに、働いてない人」と、事実として「働けないから、働いてない人」のちがいはでかい。事実として働けるのか、事実として働けないのか、世間が判断しているのである。

そして、世間の判断がまちがっている場合は、まちがった判断をされたほうに、負担がかかるのである。まちがった判断をした世間側の人には負担がかからない。

ようするに、ほんとうは働けないのに、働けると判断されてしまう人たちがいるのである。

その人たちに投げかけられる言葉が「あまえ」だ。

世間側の人から見ると、その人が……働けないから働けない人が……「あまえている」ように見えるのだ。

そして、ここに、言霊思考や引き寄せ思考や自己責任思考が影響をあたえる。

そして、ここに、魔法的な解決法が影響をあたえる。

魔法的な解決法というのは、言っているほうは、すばらしく効果的な解決法だと思っているけど、実際には、解決法ですらないものなんだよ。まったく、役に立たないアイディアだ。そして、役に立たないだけではなくて、有害なアイディアだ。

だから、まず、世間側の事実誤認があり、そして、世間側から提示される魔法的な解決法が問題を大きくする。

 


「親との関係」という言葉で、思い浮かべる「親との関係」がちがう

 自分の名前が「お墓」に刻まれているときのショックといったらないよ。

これ、もう、書いたから、省略するけど、ひどい。名前がほられて、その上に、赤い顔料?塗料?のようなものを、ぬる。

そして、その人……名前のぬし……が死んだときに、その赤い顔料?塗料?のようなものを、とる。たぶん、ちょっとだけ、けずるんだろうなぁ。それとも、とるための薬品でもあるのかな?

まぁ、そこらへんはわからないけど、自分の名前が、墓にほれられてしまったことには、かわりがない。ほったあとに、赤い顔料?か塗料?で、ぬるわけだから……。

「赤い字に、いのちを、すいとらるわぁーー」と思ったよ。ものすごく、いやなんだよ。赤が、気持ち悪い。赤い字が気持ち悪い。

カネを払うと、名前がきざまれてまうのだ。俺は、カネを払ったあと、名前を彫るためのスペースが確保されるだけだと思っていた。きちがい親父が、カネを払うと、名前がきざまれるということを、かくしていたのである。

こういう、肝心なことを言わない。

自分が「(墓のカネを)払ってやる」と思ったら、もう、払ってやることしか頭にないのである。きちがい親父の「やってやる、やってやる」というのは、かならず、一〇〇%の確率で、トラブルが発生するのである。「いやなこと」「憂鬱なこと」「不愉快なこと」「腹がたつこと」が発生するのである。

自分の気持ちしかない。

相手にやってやることでも、自分の気持ちしかない。

相手がどう感じるかは、相手が、説明しても理解しないのである。

一切合切、認識しないのである。

一〇〇回、相手が、説明したとしても、一切合切、理解しないのである。一〇〇回、相手が、ちゃんと、言っても、一切合切、理解しないのである。

「相手がいやがっている」ということが、ほんとうに、わからない。この「わからなさ」が、ほかの人にはわからない。こういう問題があるんだよ。きちがいの親をかかえると……きちがい的な親のもとに生まれるとこういう問題が、必然的に発生する。

けど、きちがい的な親のもとに生まれなかった人は、ほんとうに、これまた、わからないのだ。どういうふうに、「つたわらない」のかわからない。きちがい的な親のもとに生まれなかった人の世界では、「つたわる」からだ。ちゃんと言えば、ちゃんとつたわるのである。ところが、つたわらない。意見のちがいではないのだ。

これ、よくある、意見のちがいではない。

正常者同士でも、意見がちがうから、かみあわないということがある。意見がちがうので、「あらそい」がしょうじるということがある。

けど、そういうことではないのだ。

その全段階で「つたわらない」。正常な人との、意見のちがいとは、ちがうのだ。これが、親子関係で、正常な人同士の親子関係しか経験したことがない人にはわからない。正常な人と認知症である人とでは、理解のしかたがちがうのだけど、認知症である人と、きちがい親父をくらべると、まだ、認知症である人のほうが、理解しやすい。

どういうところで「わからない」のか、理解しやすい。

きちがい親父の「わからなさ」というのは、きちがい親父を「まじか」で見て、いろいろなトラブルを経験した俺ですら、わかりにくいところがある。……普通の人にはわからない。普通の人というのは、きちがい的な親のもとに生まれてない。

自分自身の体験をとおして……『きちがい的なわからなさ』を発揮するきちがい的な親がやることを理解してない。知らない。きちがい的な親とのあいだに生じるトラブルを理解してない。知らない。きちがい的な親との間にしょうじるトラブルというのは、普通の親との間にしょうじるトラブルとはちがう。根本的な、認知・認識レベルでのちがいがある。

けど、そんなちがい、普通の人にとってはまったく関係がないことなのである。

わからないし、関係がない。

どうたって、自分と親とのことを考えてしまう。その親というのは、普通の親だ。きちがい的な親ではないのである。だから「親」という単語で思い浮かべる出来事がちがうのである。「親」という単語で思い浮かべる、さまざまな事柄がちがうのである。「親」という単語で思い浮かべる人がちがうのである。「親との関係」という言葉で、思い浮かべる「親との関係」がちがうのである。そもそも、ちがう。

 

2023年6月8日木曜日

防草シート

 庭に防草シートをはったから、ちょっとだけ、前進したぞ。まあ、全部じゃないんだけど、一部を残して、防草シートを、はることができた。これで、ひとまずは、竹の心配がなくなった。竹がはえてきても、いまの状態なら、竹が細いうちに切ることができる。

まあ、1メートルの高さで切るという方法がある。真冬……一二月から二月あたりに切らないといけないのだけど、一メートルの高さで竹を切ると、竹の根がくさるらしい。竹の根っこというのがすごいんだよ。まあ、切ってから、竹の種類によって三年ぐらいはまたなけばならないのだけど、これで、竹を枯らすことができるらしい。

まあ、ともかく、自転車を救出できた。竹のほかにも、木がはえていたのだけど、その木というのが、問題のある木で、細かい枝を横にのばす木なのだ。これに阻まれて、自転車を出すことができなくなった。

だいたい、親父が生きていたときからそうなのだけど、自転車を出すために、自転車が置いてあるところまで行くだけで、蚊に四カ所ぐらい刺されるのだ。自転車を出すだけで、そのくらいさされる。家に帰ってきて、自転車を置くにしても、おんなじように、蚊に刺される。

そのくらいに、蚊が多かった。

「木を増やさないでくれ」とこっちが言っても、木が増えてしまうのだ。「枝を切ってくれ」といっても、きちがい親父が、切りたくない枝は切らないわけ。で、きちがい親父が切らない枝というのは、普通の人の感覚で言えば、切らなければならない枝なわけ。こういうところでも、いちいち、くるっているんだよ。

いちいち、話が通じないの。普通の人が、「じゃまだ」と思うところに、木を植えて、普通の人が、「じゃまだ」と思う枝を無視しやがる。

くるっている人というのは、こういうところでも、くるっているんだよ。

そして、おそろいほどの頑固さを発揮するから、行動の修正ができない。

なので、きちがいがやりたいようにやって、ほかの家族が不愉快な思いをしたまま暮らすということになる。きちがい的な親は、普通だったら、言わなくてもわかることが、わからない。きちがい的な親がどういうふうにくるっているか、ほかの人はわからない。


きちがい的な親は、普通だったら、言えばわかることが、感覚として、わからない。ごく普通に相手のつごうを無視する。相手がこまっているということが、わからない。

この、自分の行為で相手がこまっているということがわからないというのは、きちがい兄貴もおなじだ。おやじと兄貴は、おなじタイプの脳みそを搭載して生きている。普通だったら、言わなくても、わかることが、わからない。

普通だったら、言えばわかることが、わからない。何万回言ってもわからない。どれだけ言ってもわからない。自分のなかのちょっとした「きもち」が優先する。その優先の度合いがひどいのだ。

じゃあ、自分が相手にやっていることを、相手がやったらどうかというと、それはわかるのだ。怒る。

けど、相手が「やめてくれ」と言ってきたら、怒る。きちがい兄貴にしたって、騒音というものは体験したことがあるので、騒音はいやなのだ。

だから、自分が聞きたくない音を聞かされれば、怒る。ヘビメタの半分ぐらいの音量どころか、ヘビメタの四分の一、八分の一ぐらいの音でも、怒る。「うるさい」と言って怒る。

そのときは、きちがい兄貴が騒音で不愉快な思いをして、こまっているわけだ。けど、自分が八倍の音で、ヘビメタを鳴らしているとき、だれかが「うるさいからやめてくれ」と言っても、相手が、自分の音で、うるさいと感じているということが、わからない。

根本からまったくわからない。

「文句を言われた」ということだけは、なんとなくわかるので、きちがい兄貴が腹をたててしまう。この反応は、きちがい親父とおなじだ。きちがい親父も、だれかが「枝がじゃまだから切ってくれ」と言ってきたら、怒る。

この反応。相手がこまっているということは、認めない。この認めないというのも、認識はしたけど、不愉快だから認めないというレベルのことではないのだ。もっと深いレベルで認めない。

ようするに、まったくわかってない。まったくわかってない。相手がこまっているということが、まったくわからない。まったくまったくわからない。自分だって(だれかに)やられたら、腹をたてるのに、自分が相手にやっていることは、わからない。自分が相手にやっている場合は、わからない。

で、この「わからなさ」というのが普通の人の「わからなさ」ではないのだ。これが、普通の人にはわからない。きちがい兄貴やきちがい親父の「わからなさ」について、普通の人は、誤解をする。

だから、きちがい兄貴やきちがい親父にやられた人は……うちのなかでやられている人は……ほかの人からも誤解をされる。「そんなのは、言えばいい」「言えばわかってくれる」とほかの人は、気楽に言う。

きちがい親父やきちがい兄貴の「わからなさ」について、ほかの人が理解をしてくれたことがない。

ほかの人にとっては「へんなはなし」なのだ。

そして、「へんなはなしだ」で終わってしまう。

自分は、きちがい家族と暮らしているわけではないので、そういう感想がうかんで、終了だ。けど、きちがい家族と暮らしている人は、毎日、必然的に、不愉快な思いをすることになるのである。

これも、わかってないんだよな。

きちがい的な家族ときちがいではない家族は、ちがうんだよ。けど、普通の人はここのところがわかってないので、「自己責任」とか「自立」とか「他責思考」とかといったタームで、くくってくる。これだって、きちがい家族にやられた人にとっては、不愉快なことだ。だってちがうことを言っているんだからな。あーー、もう、いやだ。


 

2023年6月5日月曜日

アルコールみたいなものだ。そのとき、「できるような気分」を味わえれば、それでよいのだ

 じゃあ、どうして、言霊や引き寄せがうけるのか? 魔法的解決法が、あたかも可能であるかのように言われるのか? まず、人間は、魔法的解決法が可能だというような感覚を、幼児的万能感のなかで経験しているのである。魔法的解決法が有効なはずだと感じているのである。これは、幼児のみならず、大人もそうだ。どこかで、魔法的解決法が可能だと感じるような部分があるのである。魔法的解決法は、儀式的解決法だと言える。そして、その儀式が、ものすごく楽なのである。言えば、その願望はかなう……言霊。夢を書けばいい。書けば夢がかなう……夢ノート。引き寄せるように、引き寄せをイメージすればいい……引き寄せ。思っただけで、夢が現実化する……思霊(思霊はぼくの造語で、言霊の思いバージョン)。

ともかく、楽なのである。けど、条件が悪いと、現実化しない。条件が重要だ。条件がよければ、こういう呪術的な方法にたよらなくも、「夢」は現実化する。「願望」がかなう。条件が重要なのに、条件を無視してしまっている。人間ならだれでもできるということになっている。実際、呪術的な行為をおこなうことは、特別な条件が成り立たなければ、たいていの人はできる。特別な条件というのは、たとえば、言霊の場合は、しゃべれるということだ。言葉を発することができない人の場合は、言霊的な解決法を利用できない。それだって、身体的な条件だ。けど、言霊主義者はそういう条件を無視している。そして、「人間ならだれだってできる」と言う。「条件なんて関係がない」と言う。しゃべれるかどうかというのは、条件のひとつだ。ほんとうは、無数の条件が成り立っている。条件を条件としてとりあげたとき、それが、条件として立ち現れるというような部分がある。条件を条件として取り上げなければ、条件としては、無視できる。

条件のなかで、生まれの格差は、現在の格差につながるので、非常に重要な格差だ。生まれの格差は呪術的な方法に関係なく、成功するかどうか、楽しいと感じる回路を維持できるかどうかに、非常に重要な影響をあたえる。もしかりに、呪術的な方法をしなくても、成功する人は成功する。そういう条件が成り立っている。成功しない人は、呪術的な方法をしなくても、成功しない。そういう条件が成り立っている。じつは、呪術的な方法をこころみたかどうかというのは、結果には、そんなに影響をあたえない。そういうのは、影響をあたえたとしても、全体の影響のなかで一%ぐらいの影響しか与えない。すくなくても、ほかの条件をくつがえすような力がない。はめこまれているので、そうなる。生まれの格差が与える影響は九〇%ぐらいだ。しかし、「生まれの格差」と言った場合、なにを生まれの格差としてとらえるかということが問題になる。そして、たとえば、親の性格という項目を取り上げたにしろ、「性格」ってなんですか? という問題が立ちはだかる。親の性格という項目を取り上げたにしろ、数値には還元ができないさまざまな「性格」と言うべきものがある。なにをして「性格」として取り上げるのかという問題がある。「やさしい」か「きびしい」か、そんな言葉に還元できるほど、人の性格というのは「やわ」じゃない。まず、性格という項目が問題だし、正確にかかわることを言語化してとりあげたにしろ、それは、言語化してない部分を置き去りにして話をすすめているということになる。

しかし、ここでは、その問題に立ち入らずに、言いたいことだけを言おう。魔法的解決法の呪術的な行為は、それが成功するかどうかに、ほとんどまったく影響をあたえない。けど、じゃあ、どうして、人が、呪術的な行為にはしるのか?  それは、じつは、「気分」を維持したいからなのである。現実は関係がないのである。アルコールみたいなものだ。そのとき、「できるような気分」を味わえれば、それでよいのだ。そういう使われ方をしている。


2023年6月4日日曜日

魔法的な解決法は、生まれの格差「下の下」の人をおいつめることになる

いまの世の中というのは、生まれの格差「下の下」の人に、ひどいことをおしつけるようになっている。魔法的解決法は、その根底をなすものだ。

これ、じつは、つながっている。

生まれの格差を頑固に無視することは、じつは、洗脳プログラムを考えた人が、考えたことだ。魔法的解決法は、生まれの格差を、きれいに、無視する。

ほんとうは、生まれの格差は関係がある。

ところが、魔法的解決方法のなかには、生まれの格差なんて、出てこないのである。だれもが、魔法をつかえるのだから……つまり、魔法的な解決法を実行することができるのだから、問題なんてないのである。

言霊理論は、言ったことが現実化するという理論なので、けっきょのところ、呪文を言えば、その通りになるというところに、いきつく。これは、魔法的な解決法だ。

もちろん、言ったところで現実化しないものは、現実化しない。

言うということに、現実化させる(エネルギー)のようなものがあるかというと、ないのだ。

ところが、言ったことが一〇〇%現実化するという理論が、あたりまえのようにまかりとおる。なんでも、言えば、解決するのだから、まさに、魔法的な解決法だ。そうなると言っている人たちも、じつは、そうならないことを知っている。使いわけているのである。

ほぼ、無意識的に使い分けている。これは、相当にやっかいな問題だ。基本的には、魔法的な解決法は、生まれの格差「下の下」の人をおいつめることになる。

ほんとうは、魔法的解決法なんて、役に立たないのに、役に立つと説得される。役に立たないので、実際にやっても、役に立たない。状況がかわらない。

けど、説得したほうは「役に立つ」と言うのである。

けっきょく、個人の能力の差や、個人の資質の差、あるいは、個人の努力の差に還元されてしまう。

たとえば、言霊的解決方法は、有効な解決方法だとする。

そうなると、個人の言霊能力が問題になってくるのである。使えないと言っている人たちは、言霊能力がないからダメなんだということになってしまうのである。言霊的解決法を、一生懸命努力して使わないからダメなんだということになってしくおのである。

言霊ではわかりにくいかもしれないので、引き寄せで説明しよう。ほんとうは、引き寄せのうょくなんてものはないのに、あたかも、引き寄せ能力の差が、引き寄せられるか引き寄せられないかということを決定しているということになってしまうのである。

引き寄せ的な問題解決方法は、有効だけど、有効に使えない人たちがいるということになってしまうのである。引き寄せ能力がない人たちは、引き寄せ能力がないからダメなのだということになってしまうのである。

さらに、引き寄せ能力をつけるために、いろいろと方法があるのに、そういう方法をこころみないからダメなのだということになってまうのである。

引き寄せ能力を身に着けるための修行しないからダメなのだ。努力をしないからダメなのだということになってしまうのである。けど、引き寄せ能力なんてものはないし、引き寄せ能力を前提にした問題解決方法はまったく役に立たない。けど、役に立つという、頭がおかしい前提をくずさないのである。

絶対に役に立つことになっているのである。

だから、引き寄せ能力がない人たちが悪いということになる。

そして、引き寄せ能力がないにかかわらず、引き寄せ能力をあげようとしない人たちがわるいのだということになってまうのである。引き寄せ能力がないのだから、引き寄せ能力をつけるように努力すればいいのに、努力しないからダメなんだということになってしまうのである。こういう、トリックが成り立っている。

けど、多くの場合、引き寄せ能力の問題ではなくて、生まれの格差の問題なのだ。ここのところを勘違いしている。ところが、生まれの格差「下」のうち、生まれの格差「下の上」や、生まれの格差「下の中」の人は、まさしく、魔法的な解決法にたよらなければならないような状態に追い込まれているのである。

なので、そういう方向で努力してしまう。しかし、努力しても、魔法能力なんてものは身につかない。くるしい状態のまま、暮らすということになる。生まれの格差「中」の人よりも、生まれの格差「下」の人のほうが、切実なんだよ。

生まれの格差「下の下」の人は、ボロボロな状態で「こころみて」死んでいく。生まれの格差「下の上」や、生まれの格差「下の中」の人は、もだえながら、生きていく。生まれの格差「下の下」の人は、はやいうちに、役に立たないということを思い知ることになるけど、生まれの格差「下の上」や、生まれの格差「下の中」の人は……のぞみをつないで……くるしいまま生きているということになる。

この、「のぞみ」というのが、「嘘の」のぞみなのである。支配者階級がつくりだした、まぼろし。

ちなみに、生まれの格差(親)「下の下」だと、親に虐待されてひどい目にあう。その場合、たとえば、トラブルを引き寄せてしまうからダメなんだということになるのである。あるいは、生まれたときに、ひどい親を引き寄せたからダメなんだということになってしまうのである。

親のほうに問題があり、子どもを虐待しなければ気がすまない状態で暮らしていたとする。そうなれば、親は子どもを虐待する。

ところが、引き寄せ理論になると、子どもが「虐待」を引き寄せたからダメなんだということになってしまうのである。子どもは、いいことを引き寄せるに努力すればいいということになってしまうのである。

役に立たない儀式的な引き寄せ方法があるとする。その方法をマスターすればいいのだということになる。マスターしないからダメなんだということになる。引き寄せ能力が低いなら、引き寄せ能力をたかめるように努力すればいいのに、努力しないからダメなんだということになってしまう。こういうしくみが成り立っている。

*     *     *

生まれの格差「下の上」や、生まれの格差「下の中」の人の場合、役に立たない方法に「しがみついて」「くるしみながら」生活することになるのだけど、それが、わりあい、長くつづく。生まれの格差「下の下」の人は、役に立たない方法に、一時的にしがみつくけど、強烈にくるしい状態で暮らしているので、長くはつづかない。

いきなり老化したわけではなくて、数十年かけて、老化するわけだろ……過去は関係がある

 ぼくがこまっているのは、繰り返しによって、生じたものだから、過去は関係がある。だいたい、老化した人だって、いきなり老化したわけではなくて、数十年かけて、老化するわけだろ。からだの器質的な変化があるわけだろ。それなら、過去は関係があると考えるのが妥当だ。どうして、自分にとって都合がよくないことだと、過去は関係がないということになるのか。あるいは、他人にとって、都合がよくなことであって、なおかつ、自分の身には、しょうじていないことだと、過去は関係がないということになるのか。過去……。関係あるんじゃん。なにを言っているのか、わかっているのか? 数千日の繰り返し……毎日の繰り返し……そういったものは、関係がある。現在の状態に関係がある。現在の状態で、動いている。からだの状態という意味だ。「の」の繰り返しになるけど、現在の「からだの状態」……もちろん、今現在の自分の行動や自分の判断に関係がある。なんで「過去なんて関係がない」と現在の「からだの状態」をうみだしたもの(あるいは、出来事)を、否定するのか。おかしいだろ。

自分の身にはしょうじなかったので、そんなのは、知らない。自分の身にはしょうじなかったので、そんなことに効果があるのは認めない。自分の身には、しょうじなかったことなので、(他人の身のうえに)効果があるということは、認めない。こういう、詭弁だ。 


自分の身のうえに、ヘビメタ騒音が生じなかったから、ヘビメタ騒音の効果なんてないと否定しているだけだろ。自分の身のうえに、ヘビメタ騒音が毎日毎日しょうじなかったから、ヘビメタ騒音の効果を否定しているだけだろ。

それで、「はげました」つもりになっている。おかしいだろ……。この否定は、侮辱だ。ぜんぜん、はげましてない。実際にしょうじている「効果」を否定して、努力だなんだと言う。あまえていると言う。侮辱してんだろ。はげましてないだろ。役に立たない、魔法的な解決法を提示して、そういうことをしないからダメなんだ、そういうことをする努力をしないからダメなんだと、ダメダシをする。はげましてないだろ。侮辱しているだろ。(その方法は)役に立たないわけだから……。そして、役に立たないということを言うと、おこるわけだろ。どっちが子どもっぽいんだよ。どっちが、コミュ障なんだよ。どっちのほうが、コミュニケーション能力に問題があるのか、わかったもんじゃないぞ。「引きこもりならコミュ障だ」という精神病的な思い込みがある人がいる。これは、まちがっている。まちがった思い込みだ。コミュニケーション能力がある人なら、わかるよね。

だれだって、家族によるきちがい騒音が十数年も毎日続いたら、通勤・通学できなくなる。それが問題で、他人と衝突するようになる。その結果、社会的な引きこもりの定義にあてはまるような生活をする場合がある。だいたい、九九・九九%、そういうことをやられたら、そうなるね。ほかの条件がよければ、〇・〇一%ぐらいの人は、たすかるかもしれない。けど、記述するかどうかは別にして、条件なんて、いくらでもある。記述したので、その条件に「注意」がむいて、「条件がある」と認識しただけだ。ほんとうは、無数の条件のなかで暮らしている。注意をむけるかどうかなんだよね。そういう、前段階のしくみがある。

「の」の繰り返しに関しては、指摘しなくてもいい。


2023年6月3日土曜日

一日に六時間以上、激しい音で鳴っているなら、睡眠の問題なんだよ。

 ヘビメタ騒音で無職でなければ、いろいろと活躍できた。俺の睡眠回路と履歴を完全に破壊した。NHKに学校問題を扱った番組に関する感想をおくったときも、「なにをしてらっしゃる人ですか」「なにか教育について言いたいことがある場合は、番組を用意するので出てくれませんか」みたいなことを、言われたんだよな。教育系の論文みたいなものをおくったときだけど。あとは、じつは、(非・自虐歴史観にもとづいた)教科書の震源地って、ぼくだ。たぶん、ぼく。まるまるの掲示板に、出版すれば、かならず、もうかると書いていたのは、ぼく。教科書として採用されなくても、出すことに意味があると書いていたのは、ぼく。どの出版社でもいいから、出してくれと書いていたのは、ぼく。(非・自虐歴史観にもとづいた)歴史の教科書が出版されたのは、そのあと。「アイディア料を払ってくれとか、アイディアの出所について言及してくれとかと、絶対に言わないから、そうして」と何回も書いた。ようするに、アイディアの出所は気にしなくていいということを、書いておいた。

ともかく、ヘビメタ騒音で普通の生活が、どうしても、どうしても、どうしても、できなくなった。これ、みんなわかってないけど、騒音の問題というのは、睡眠の問題なんだよ。睡眠時間に鳴ってなくても、一日に六時間以上、激しい音で鳴っているなら、睡眠の問題なんだよ。脳みそが興奮して、眠れなくなる。これが、努力とか、根性とか、言霊とか、ポジティブ思考とかの問題ではないのだ。どれだけ、努力しても眠れない。どれだけ根性を出しても、眠れない。どれだけ「眠れる」と言っても眠れない。どれだけ、ポジティブに行動しようとしても、前日というか、その日の午前中、眠れなかったことの影響から、まのがれることができない。できないと言ったら、できないんだよ。午前中というのは、だいたい、午前〇時から、午前五時ぐらいまでの話だ。眠れないまま、入学試験をうけに行くということもあった。これが、どういうとだかわかるか? ヘビメタをあびちゃったら、影響をうけるんだよ。地獄の生活が始まった。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタにこりだして、きちがいヘビメタを、きちがい的な意地で、鳴らし始めてから、地獄の生活が始まった。みんな、鳴っているときだけうるさくて、鳴り終わったら関係がないと思っているんだよな。そんなことじゃないんだよ。あの態度で、あの爆音で、ずっと、自分の嫌いな音を、がんがんがんがん、「ぶつけられたら」「なぐられたような」影響をうける。不可避的に受ける。この「不可避性」が、わからない。経験したことがない人にはわからない。

この、眠るべき時間に眠れないということが、いろいろな問題を引き起こす。そして、ただ単に、眠るべき時間に眠れないのではなく、ものすごく眠たいのに、眠れないということが、脳みそを部分的に破壊する。ものすごく眠たいのに、眠れないときのつらさといったら、ない。爆音のなかで、じっとしている、といったタイプの「つかれ」というのは、普通のつかれじゃない。運動して、つかれたとかそういう「つかれ」じゃない。そもそも、つかれが、「異常な性格の」つかれなのだ。これだって、きちがい家族がどうしても、言うことをきかずに、がんがん鳴らしているということが、なかった人には、わからないことだ。異常な性格の家族が鳴らしている……これの意味がわからない。不可避性なのである。そして、「家族の問題は家族で解決してください」という無言の圧力がかかるのである。ときに、無言ではなく、そういうふうに言われるわけだけど……。父親も兄とおなじように、きちがいなんだぞ。こんなの、八方塞がりだ。きちがいの頭は修正できないんだよ。きちがいが、きちがい的な意地でこだわって、こだわってこだわって、そうしている場合、殺さなければ、やめさせることができないんだよ。

あとは、そして、たとえば、眠れなくて、くるしい時間……くるしくてくるしくて頭がこわれそうな時間……「明日、午前七時二〇分には、絶対に起きなければ」といった考えがうかぶんだけど、その考えは、不安をもたらす。

2023年6月2日金曜日

「やってないつもりの人」と「やられたという認識がある人」の交流

 正常な親のもとに生まれて、正常な親のもとで育った人にはわからないことなんだけど、異常な親のやり方が、異常なのである。そして、たとえば、きちがい的な理由で、何年間も毎日、どなりちらしていじめていたということが、わかってないのである。そのときもわかってないけど、もちろん、時間がたったときも、わかってない。そうなると、「やってないつもりの人」と「やられたという認識がある人」の交流になる。この交流が問題なのである。そして、きちがい側の親がかわらないのである。たとえ、子供が大きくなって、もう、全力でぶちあることや、全力で『負の感情』をぶつけることができなくなっても、脳みその構想がかわらない。脳みその構造がかわらないということが、どれだけ暴力的な影響をもつか……普通の人は……わからないのだろう。脳みその構造がかわらないということが、引き起こす、さまざまな出来事が、やられたほう……子供側に絶望的な影響を及ぼすのである。ところが、そういうことが、正常な親に育てられた人にはわからない。正常な親に育てられた人が、異常な親に育てられた人に『わかってない言葉』を投げかけるのだ。これが、副次的な問題だ。この副次的な問題も、人間構造から言って、必然的に導き出される問題なのだ。

自分が老化したら、自分の老化は、関係があることになってしまう。(老化して働けなくなるのはあたりまえ)

ヘビメタ騒音生活で、どれだけボロボロになるか、わかってない人たちが「そんなのは関係がない」と言っている世界なんだよ。

ヘビメタ騒音で、どれだけボロボロになるかわかっている人が、この世で、ぼくしかいない。体験的にわかっているのはぼくしかいない。きちがい兄貴の態度について、ほんとうに理解しているのはぼくしかいない。きちがい親父の態度について理解しているのは、ぼくしかいない。

ともかく、『一・対・多』なんだよ。あるいは、『少数派・対・多数派』なんだよ。多数派はつねに、無理解なことを言う。そして、無理解なことを言っているということを、無視している。

それならば、形式的には、きちがい兄貴とおなじになってしまう。これがまた、地獄なんだよな。形式的には、と書いたのは、本質的には、きちがい兄貴の無視と、多数派の無視はちがうからだ。けど、形式的に、似てしまう。

あくまでも、形式的に似ているだけで、本質はちがう。しくみもちがう。程度もちがう。

けど、形式的には似てしまう。そうなると、たとえば、「形式的には似てしまう」と書くと、一般の人……ヘビメタ騒音の原因にならなかった人が……兄貴ではない人が……「俺とそんなやつをいっしょにするな」「わたしとそんな人をいっしょにしているわけ?」と思うわけだ。

「似ていると言われて、なんか、不愉快だ」と思ってしまう。「こいつは、そんなろくでもない兄貴と、このわたしが似ているというのか」と思ってしまう。多数派の人が、ヘビメタ騒音に理解がないのは……本質的に理解できないのは……ただ単に、経験がないからだ。

これと、きちがい兄貴の無理解は、本質的にちがう。本人がやってることを無視している問うことだから、しくみがちがう。おなじじゃない。けど、経験的に知らないということは、それに関して、軽視するわけだから、こっちがわ(俺)に対して言ってくることが、形式的には似てしまうのである。

言ってること、わかるかな?

きちがい的な意地でやっている人が、基地会的な意地でやっているということを、きちがい的な意地で認めない……。こんなのは、普通の人ではありえない。普通の人……ようするに、多数派だ。それこそ、きちがい兄貴ひとりと、ほかの人全員というようなことが成り立ってしまう。けど、きちがい親父がいるので、同種のきちがいがいると思う。なので、少人数体、善人るぐらいの差で、人数がちがう。

きちがいヘビメタの影響を認めず「職業に貴賤はない」「どんなことだって、できると言えばできる。できないなんて言うのは、あまえだ」「人間は働くべきだ」というようなことを言ったやつがいる。

けど、そいつが老化して働けなくなったら、今度は「もう、老化して働けない」と言い出すのだ。

老化はそいつにとって、働けなくなる(じゅうぶんな)理由だ。働かなくてもいい(じゅうぶんな)理由だ。ところが、ヘビメタ騒音は、「働けなくなる(じゅうぶんな)理由」じゃないのだ。

 「腰が痛いから働けない」……。「体が思うように動かないからできない」「腰が痛いから、そういう仕事はできない」……。

「こんなのは、あまえ。老化しても、人間は働くべきだから働け。腰が痛いだと。腰が痛くてもできる仕事をすればいいじゃないか。腰が痛いから働けないなんて言うのは、あまえ。あれができない、これができないなんていうのは、あまえ。職業に貴賤はない。どんなことだって、できると言えばできる。できないなんて言うのは、あまえだ」……。こう言ってやりたいね。

「職業に貴賤はない」「どんなことだって、できると言えばできる。できないなんて言うのは、あまえだ」「人間は働くべきだ」……。こんなことを、そいつは、むかし言ってたんだぞ。

だいたい、言霊が正しいなら、「老化しない」と言えば、老化しないんだよ。

「自分は老化しない」「自分は三秒で、三〇歳分若返る」と言えばいいじゃないか。

「自分は二〇歳のからだを維持できる」と言えばいいじゃないか。

言ったことが、現実化するんだろ。言ったことが、現実になるんだろ。だったら、言えばいいじゃないか。

なんで言わないの?

「自分は、不老不死だ」と言えば、歳をとることもないし、死ぬこともないんだよ。

なんで言わないの?

言ったことが現実するんでしょ。言ったことが現実になるんでしょ。言えば、いいじゃない。「一瞬で、若いからだになる」と言えば、一瞬で若いからだになるのだから、そう、言えばいい。「言えばそうなるのに、言わない」「言わないからダメなんだ」「できないなんて言うのは、あまえだ」「できると言えば、できる」……。

ちがうの?

人には、言霊思考にもとづいた「でたらめなこと」をおしつけて、実際に自分が老化したら、「老化したからできない」と言い出す……。こんなやつは、ばかりだ……。

ヘビメタ騒音は、老化よりずっとつらいことなんぞだ。ヘビメタ騒音が与える影響は、老化が与える影響よりずっとでかいことなんだぞ。ヘビメタ騒音のほうが、老化よりずっとずっとずっとずっと、でかい影響をあたえる。

それなのになんだ?

老化は、だれでも理解しやすいことだ。だから、「老化すれば、だれもがこうなる」ということがイメージできる。ヘビメタ騒音は、理解しにくいことだ。ぼく以外だれも理解できないことだ。だから、「ヘビメタ騒音にやられると、だれもがこうなる」ということが理解できない。

それだけのちがいなのに……。

俺が「なめられたこと」を言われる。単純な多数派が、言霊的なことを言ってくる。無理難題を吹っ掛けてくる。ヘビメタ騒音にやられたからだをもつ俺には、無理難題なんだよ。無理難題を俺に吹っ掛けてくるやつは、自分がきちがいヘビメタにやられなかったから、普通のからだを維持できただけだろ。それが、そんなにえらいのか? 

やられなかったから、普通のからだを維持できた……それが、俺に対して、えらそうなことを言える権利になるとでも言うのか?

 

なにが「そんなの関係ない」だ。

自分が老化したら、自分の老化は、関係があることになってしまう。自分が老化したら、働けないのはあたりまえ。エイリがヘビメタ騒音で働けないというのは、認めない。ヘビメタ騒音で働けなくなるということは、認めない。

こういう、単純なバカが、えらそうなことを言ってくる。きちがいヘビメタにやられると、そういう立場に追い込まれる。一日でも、きちがいヘビメタ騒音生活がどれだけたいへんか、わかってないやつに、えらそうなことを言われるようになる。根源は?

根源は、きちがいヘビメタ騒音だ。きちがい兄貴のきちがい的な感覚だ。きちがい兄貴のきちがい的な感覚が、両者に「そのちがい」をもたらした。両者というのは……きちがいヘビメタ騒音にやられた俺と、ヘビメタ騒音にやられてない(俺以外)人類だ。

*     *     *

はぁ~~? 老化したから働けないだとぉ??

はぁ~~? なんですか? それ??

人間は働くべきだから働け!

老化したから働けないなんていうのは、あまえだ!!

あまえるな!! 働け!!! 働け!!!

あまえるな!!!

できないと言うから、できないんだ!!

できると言えば、できる!!!

働け!! 働け!!!

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。