2022年12月31日土曜日

家族だということが、どれだけ、足をひっぱるか、ほかの人はぜんぜんわかってない。

 ほかの人は『きちがい的な家族』の『きちがい的な意地』がわからない。ほかの人は『きちがい的な家族』の『きちがい的な感覚』がわからない。どうしてかというと、きちがい的な家族がいないからだ。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいない。それはその人にとっては、いいことだ。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいるということがわからない。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいると、どういうことにかなるのか、自分の経験をとおして、理解してない。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいるということが、どういうことをうみだすのか、自分の経験をとおして、わかってない。家族として毎日一緒に生活をしているということは、ほかのこととはちがうことなのである。たとえば、アドラーは、「(相手がどれだけ)ガミガミ言ってきたって、気にしないことはできる」というようなことを言う。けど、その「がみがみ言ってくる相手」との関係がわからない。いっしょに住んでいるのかどうか? そのガミガミ言ってくる相手は、親なのかどうか? 親という属性を持ってしまうと、ただ単に「一緒に住んでいる」ということとはちがった現象がしょうじる。それは、まわりの人間が、「親」だとみなすし、「親」だということが、事実だから、「他人」である場合とはちがった現象がしょうじる。ようするに、「親である」ということが公認さされば、たとえば、「ガミガミ怒る」ということに関しても、公認されてしまう部分がある。いっしょに住んでいるのかどうか、家族なのかどうかというのは、人間の行動に影響をあたえる。他人と他人のあいだに生じることに「関する」ルールと、親と子供のあいだに生じることに「関する」ルールがちがうのである。そして、その違いが、共同幻想によって「承認」されているのである。共同幻想によって「承認」されているということは、じつは、個々の親子関係にも影響をあたえる。他者が、その者たちを親子だとみなせば、他者がその者たちを親子だとみなさない場合とは、ちがった反応をするのである。ちがった反応には、「根拠があり」その根拠が、言ってみれば、共同幻想なのである。そして、親と住んでいる期間が、20年間なり18年間だとして、未成年期における親の影響というのは、でかい。なので、青年期になったとたんに、未成年期の影響が全部なくなるというわけではないのである。ところが、アドラーのような単純な人は、「過去は関係がない」「トラウマはない」と考えてしまう。未成年期の出来事は、成年期の状態に影響をあたえないという考えにとらわれているのである。そして、この考えは、まちがっている。未成年期の出来事は、成年期の状態に影響をあたえる。「過去は関係がない」と言いたいばかりに、未成年期の出来事を無効化しようとする試みは、まちがっている。

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ヘビメタ騒音『で』寝不足になるということが、どういうことだか、わかってないんだよなぁ。凡人佐藤のような常識人は、まるでわかってない。そりゃ、凡人佐藤のような常識人には、きちがい家族によるヘビメタ騒音という経験がない。きちがいがどういう感覚で鳴らすかわかってないな。きちがい的な意地で鳴らすけど、きちがい的な意地で鳴らしたということは記憶にないという態度なんだよ。だから、こまる。自分で徹夜をしたくて、徹夜をした経験はあるけど、きちがい家族によるきちがい的な騒音で、しかたがなく、眠れなくなったという経験がない。それなら、なんとだって言える。ところが、そういうちがいについて、こいつらは考えない。こっちが言っても無視する。そういう部分では、きちがい兄貴に多少、似ている。あくまで、たしょうだけどね。どっちも、「ヘビメタ騒音の影響」は無視するわけだから、その点だけをとれば、すこしは、似ている。こっちの「事情」を無視する人に対する嫌悪感はあって当然だ。あるいは、憎しみと言ってもいいかもしれない。そりゃ、そうだろ。きちがいヘビメタ騒音『で』できなくなったと言っているのに、きちがいヘビメタ騒音の影響を無視するのだから、憎しみがしょうじる。それは、きちがいがい兄貴の行為にしょうじた憎しみや、きちがい兄貴そのものに対する憎しみの、『一部分』だ。きちがい兄貴が鳴らしたわけで、その人たちが鳴らしたわけではない。だから、ぜんぜんちがう。きちがい兄貴が無視して鳴らした。これは、重要なことだ。その人たちは鳴らしていない。これは、重要なことだ。しかし、気ちがい兄貴に対する怒りが、その人たちに対しても、むけられる。部分的なことだけど、これははしかたがない。怒りがたまっている状態なのだから、そうなる。怒りがたまっている状態で、ヘビメタ騒音の影響を無視する人たちと話せば、怒りの矛先が、その人たちに向かうということは、無理からぬことだ。無視という点では一致している。これは、怒りの集まる「ポイント」になる。焦点になる。

ヘビメタ騒音の影響……を無視して、『わかったようなことを言ってくる相手』の態度に我慢をしながら話をしなければならないということになる。怒りをがまんして話してやっている……んだぞ。わかっているの? そこ~~?? ユーは、そこ、わかっている??

けど、まあ、こういうことで、「おこれば」……エイリさんは未熟だから怒っているんだ……ということになってしまうのである。そうじゃない。ヘビメタ騒音の経験が長いからそうなる。きちがい兄貴の態度が、普通の人がわかるような態度じゃないからそうなる。そりゃ、何年間も、十数年間も、毎日やられて、勉強ができず、生きるのを邪魔されているのに、怒りがしょうじないわけがないだろ。たとえばの話だけど……これで、俺が「無職」であれば「無職で社会経験がないから(そんなことで怒っている)」と思ってしまうのである。きちがい家族と一緒にすんだことがない常識的な人はそういうふうに解釈してしまう脳である。たとえばの話だけど……これで、俺が「ひきこもり」であれば「ひきこもりで社会経験がないから、そんなことで不愉快な顔をしている」ということになってしまうのである。きちがい兄貴が「常識」を無視して、きちがい的な音を鳴らすということに、きちがい的にこだわりつくすと、連鎖が連鎖をよび、そういうことになってしまうのである。それなら、生きにくくなって当然だが、これまた、きれいごとですまされてしまうのである。「生きにくさ」に関しても、教授の言っていることのほうが正しいと、凡人佐藤は判断してしまうのである。どれだけ、アホなんだよ。「生きにくさ」に関して、俺が教授から学ぶことはない。その教授とやらは、俺よりもずっと生きやすい状態で暮らしている。それは、そのときだけではなくて、生まれてからずっとそうだ。俺のほうが「生きにくさ」において「専門家」なのである。ところが、佐藤のような凡人は、「生きにくさ」に関しても、心理学の教授のほうが正しいことを言うと思っているのだ。こういう、アホ。アホすぎる。


2022年12月30日金曜日

 ヘビメタで、くるしい。

 ヘビメタで、くるしい。あいつら、ふざけやがって……。ヘビメタ騒音の日々がどういうものだか、ぜんぜんわかってないな。わかってないくせに、くそえらそうなことをいいやがって。あいつらは、ゆるさない。

2022年12月29日木曜日

働くことがきらいなニートでも、働くことができるようになる

「楽な仕事を量産するべきだ」ということを書いたけど、たとえば、楽な農業をすることについて考えてみたう。楽な農業は、機械化された農業だ。土を掘り起こすところから、出荷するところまで、全部、自動化することを考えた場合、働くことがきらいなニートでも、働くことができるようになる。それは、ゲームみたいなものだから、ゲームができる人はたいていの人が、できるということになる。まあ、どれを、どの程度、どういう範囲で作るのかということは、個々人の好みで決めればいい。社会は、だれもが、楽な農業で働けるようにするとを、全力でサポートすればよいということになる。

機械かと言っても、さまざまな段階がある。どうしても、人間の作業が必要になる場合がある。人間の作業が必要になる場面が多いと、くるしい農業になる。くるしい農業になれば、「だれもができる」ということではなくなる。くるしさにたえられる人しかできないというかとになる。機械化にはさまざまな段階があるので、さまざまなくるしさの段階があるということになる。これは、時間とともに変わっていく。技術的なことだけを問題にするのであれば、ほとんどが、いまの技術で機械化できる。ロボット化できる。しかし、これは、機械を導入するためのコストを考えないようにした場合の話だ。なので、ニートがゲーム感覚で、なんらかの楽しみを感じながら、コストの問題を解決しなければならない。

「できるようにすることには価値がない場合もある」ということを前提にして話をすすめるべきだ

「努力をすればできるようになる」というような考え方が前提になって話がすすむ場合が、この世では多いけど、「努力をしてもできない」場合があるということを前提にして話をするべきだ。「努力をすればできるようになる」というのは、妄想だ。事実、努力をしてもできない人がいる。「努力をしてもできない人がいる」のだから「努力をすればできるようになる」という考え方は、現実を認めていない考え方だ。

そして、「できるようにすることには価値がある」という考え方も、いつも正しいとは限らない。 「できるようにすることには価値がある場合もある」けど、「できるようにすることには価値がない場合もある」。これが、現実だ。「どんな場合でも、できるようにすることには価値がある」という考え方は、たちの悪い妄想だ。「できるようにすることには価値がない場合もある」のだから、「できるようにすることには価値がない場合もある」ということを前提にして話をすすめるべきだ。もちろん、「できるようにすることには価値がある場合」もあるので、「できるようにすることには価値がない」とは、言わない。

「ニートが仕事にあわせようとするべきではなく、仕事がニートにあわせるべきだ」

  基本的なことを言ってしまうと、「ニートが仕事にあわせようとするべきではなく、仕事がニートにあわせるべきだ」ということになる。「発達障碍者が仕事にあわせようとするべきではなく、仕事が発達障碍者にあわせるべきだ」ということになる。発達障碍者だけではなくほかの障碍者にも同じことが言える。「障碍者が仕事にあわせようとするべきではなく、仕事が障碍者にあわせるべきだ」ということになる。

これからは、フラットで、楽な仕事を「量産」するべきだ。ものを「量産」するべきではなくて、楽な仕事を「量産」するべきなのだ。個々の障碍者が、仕事にあわせるように努力しても、全体的な仕事の「むずかしさ」がかわらないのであれば、仕事の「むずかしさ」に対応できない者の人数はそんなに変わらないということになる。さらに、ワクチンという名の毒は、脳みそに悪い影響を及ぼすので、表面的には、障碍者が増えていくと予想できる。まあ、このワクチンの問題は、棚に上げておこう。

軽い意味でコミュ障ということを考えてみよう。人づきあいが悪い人や、ただ単に内向的な人も含まれているとする。コミュ障が、コミュ障を克服して、コミュ障ではなくなればいいということになっているのだ。しかし、克服できないからコミュ障なのではないか。コミュ障が苦手だと感じる部分を、全部はぎとる方向で、社会が、努力すればいいということになる。コミュ障という言葉には、コミュ障である人(コミュ障者)とコミュ障自体が含まれているので、「コミュ障が、コミュ障を克服して、コミュ障ではなくなればいい」という文になる。これは、これでまちがってはいない。正確さにこだわるなら「コミュ障者が、コミュ障を克服して、コミュ障者ではなくなればいい」と書いたほうがいい。

いままでは、コミュ障者を悪者として、とえら、コミュ障者がその悪い性格をなおせば、問題は解決できると信じられてきた。しかし、ただ単に内向的な人が、外向的な人間になる必要があるだろうか? ただ単に内向的な人が、苦手なことを克服して、外向的にふるまうことは、はたして、本人にとっていいことなのだろうか? 人づきあいが悪い人にも、人づきあいが悪いなりの理由があると思う。この理由は、ほんとうに、悪い理由なのだろうか。人づきあいがいいということを正義だと考えれば、人づきあいが悪いということは、悪いというとになる。しかし、悪いことなのだろうか。悪いのは、むしろ、人づきあいがきらいな人に、人づきあいを要求するほうなのではないか。

これからは、内向的な人が内向的な人でいられる社会を目指すべきだ。これからは、人づきあいが悪い人が人づきあいが悪い人のままでいられる社会を目指すべきだ。

目指すところがちがう。

2022年12月28日水曜日

「カネをかせげるかどうか」で「人の価値」が決まるわけじゃない

「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!! 「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!! きちがい兄貴、きちがい兄貴、きちがい兄貴。

「きちがい兄貴、しずかにしろ!」「きちがい兄貴、しずかにしろ!」「きちがい兄貴、しずかにしろ!」……ああっ、もう、死ぬしかないか。「ああっ、死ぬしかない」は、非・合理的な思考です~~。けど、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。

あのときの……切迫感や「どうしようもなさ」がすごいのである。あの騒音のなかで感じた、圧迫感がすごいのである。絶望感がすごいのである。「あせり」がすごいのである。「いかり」がすごいのである。あんなのずっとやられていて、いいわけがない。

あんなのずっとやられて、しあわせなわけがない。しあわせになれるわけがない。あの騒音なかで「いいことある、いいことある」とずっと言ったって、いいことなんてない。

あの騒音のなかで「しあわせだ。しあわせだ」と念ずるように言ってたって、しあわせ感なんて感じない。少しも感じない。「ふあん」「いかり」がすごい。

きちがいヘビメタが、鳴っている状態の「いかり」と「ふあん」がすごいのである。

ぼくの人生に直結している音なのである。

ぼくの人生に直結している騒音なのである。

それなのに、それなのに……。どれだけ言っても、絶対に一分間ですら静かにしてくれない。殺さなければ、「ふあん」「いかり」がどんどん増えていく。

きちがい兄貴が出し続ける圧迫騒音で、どうしても、増えていく。そんなのが、何千秒、何万秒と続いていいわけがないだろ。

一秒だって、破裂しそうなほど頭にくる。そういうきちがい家族がいないやつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、好きな勝手なことを言ってくる。全部、まちがっている。

けど、まちがっていることに気がつかない。

 

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「カネをかせげるかどうか」で「人の価値」が決まるわけじゃないのに、決まると思っているやつ。

そういうイロメガネで、人を見て、人を判断して、相手が、無職という弱い立場なら、自分のほうが『上』だと勝手に決めて、えらそうに、説教をしてくるやつ。

そういうやつがどれだけ多いと思っているんだ?

「カネをかせげるかどうか」で人の価値は決まらない。俺はそう思っている。そういうこととは関係がない人の価値があると思っている。

けど、どうだ?

ほかのやつらは、まるで本能的にそう思っているように、行動する。まるで、「カネをかせげるかどうか」ということが、その人の価値全体に影響をあたえていると、無意識的に考えている。カネをかせげる人には価値があると、その人の価値全体を考えるまえに決めてしまって、カネをかせげる人を見上げる。カネをかせげない人には価値がないと、その人の価値全体を考えるまえに決めてしまって、カネをかせげない人を見下す。そして、あろうことか「人生とはなにか」というような哲学的な問題について語りだすのだ。

自分が人の価値を「カネをかせげるかどうか」で判断して語るようなやつが語る……哲学。

しかも、そいつらは、行動してはまったくもって「カネをかせげるかどうかで人を判断」しているのに、その自覚がないのだ。そういう凡人がどれだけ多いか?

普段、日常生活のなかで「人の価値」を「その人がカネをどれだけかせげるかどうか」で決めているやつが、語る、哲学なんてろくなものじゃないよ。そいつの哲学なんてろくなもんじゃないよ。

不徳の致すところ

ずっとまえ、 Wordpressを設置できない人が(どのくらい)いるのかな?と書いたのは、どのくらいの客がいるかなという意味で書いたわけで、別に Wordpressを設置できない人のことをばかにするつもりはなかった。これに関しては、反省をしている。そういうつもりではなかった。客がどのくらいいるのかな?ということだけが、気になっていた。別に、設置できる人でも、したくないので、人にまかせるということはある。めんどうだからな。

私の不徳の致すところで、すまなかった。そういう気持はなかった。

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ひとりで請負業をやるとなると(やろうとするとなると)、いろいろと気になるところが出てくるのである。サポートの範囲とか、それにまつわる責任問題とか。

2022年12月25日日曜日

冬休み期間中の、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。

 しかし、つかれたなぁ。賃貸アパートの広告を見ていた。広告というか、ウエブページ。

どうするかな?

そして、この、やる気のなさ。やる気がないねぇ。

まあ、生存しているからいいか? なんかやることを考えると、「めんどうくさい気持ち」がさきにたつ。

たとえば、近いので広告に掲載されていたアパートを実際に見てこようかなと思ったのだけど、めんどうなのでやめる。このアパートは、近所のストアに行く道にある。近所のストアでは、いくらを買うつもりだった。なので、近所のストアに行くついでに、物件を外から見て、イクラを買って帰ってくるという案が浮かんだ。けど、めんどうくさい。(たしょう、遠回りすることになるけど、ほんとうにたしょう。大通り?をさけるためにその道を使うことが多かったので、やはり、近所のストアに行く道にあるという表現であっている)

どうするかな? ほんとうにめんどう。そして、この時間もけっきょく、ヘビメタ騒音が鳴っていた。冬休み期間中の、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。

「やる気、が、ぶっ壊れている」。ヘビメタ騒音で壊れている。この場合、ヘビメタ騒音の繰り返しがある。毎日毎日、繰り返し、何時間も何時間もヘビメタ騒音が鳴っていた。どうしたって、学習してしまう。そういう「時間が人生のなかでながいわけだから」影響をうけないことは、可能ではない。ところが、そういうきちがい家族がいない人は、そういうきちがい家族による騒音が、毎日毎日、繰り返し、何時間も何時間も鳴らして、つらかったという経験がない。そういう経験がないところでの、発言なんだよ。わかってない。そういう経験なしで、たしょうの騒音を経験した。だから、たしょうの騒音のことを思い浮かべて、俺に説教をしてしまう。けど、それは、まちがっている。

あと、これは、省略して書くけど、「できるサラリーマンと、だめサラリーマンの比較」みたいな記事が、ネット上には、たくさんある。だめサラリーマンの特徴が、全部、ヘビメタ騒音にやられたときの特徴なのだ。そして、きちがい家族による、しつこい・しつこい騒音を何年間も毎日経験してない人は、「努力することで、だめサラリーマンが、できるサラリーマンになる」と言うのだ。記事というのはだいたいおなじだ。意図がある。「努力をしないからダメなのだ」といういつもの、誘導。

これは、ほんとうは、「能力」の問題なんだけど、「努力」の問題にすり替えられている。きちがいヘビメタ騒音といった物理的な刺激は、障害を引き起こす。これは、五度の風呂に毎日、入っているような状態だ。ちがうのである。けど、生活をするというところまで抽象化すると、「風呂は風呂だ」ということになる。「努力」することができない環境があるのに、それは、考慮されない。ひどいのになると、「努力することができる環境を」手にいれればいいとということを言う。そして、手に入れるには、「努力すればいい」ということを言う。

ぼくの場合、後天的に、能力がそぎおとされて、障害がしょうじたのだけど、そういう人ばかりではない。こういう記事を書く人は、基本的な能力の格差というものを認めていない。それは、いいことのように思えるかもしれないけど、「ダメ出し」の連続になる。ダメ人間のレッテル貼りにしかならない。そして、障碍者の人権に対してあれほど敏感な佐藤(仮名)ですら、「ダメ人間」の人権はまったく認めてないのである。けど、ダメ人間と言われている人たちは、言ってみれば、健常者と障碍者のあいだの存在だ。障碍者というカテゴリーには入らないけど、健常者で、『下位』の人間なのだ。これは、人間として『下位』であるといこうとではない。しかし、「努力」という言葉で、「能力」の問題を「性格」の問題に置き換えてしまうので、人間的に性格が悪いということになってしまうのである。「努力」をすればいいのに、「努力しない」からダメなのだという言い方をする場合、「努力」をしない性格が悪いからダメなのだということになってしまう。できる人は、性格がいい人、できない人は、性格が悪い人ということになってしまうのである。しかし、それは、性格の問題なのだろうか? ほんとうは、「能力」の問題なのではないか。「努力をすればだれでもできるようになる」という幻想のほうがまちがっているのではないのか? この幻想は、あまりにも当たり前すぎて、幻想だと思われてないのである。幻想と書いたけど、妄想と言っていい。ともかく、「努力をすればだれでもできるようになる」という考え方が正しいかどうかということをまったく問題にせず、「正しい」という前提に立ち、正しいという前提を隠して、物事を言う人が多い。正しいという前提を隠すというのは、ようするに、暗黙の了解として、あつかうということだ。それが正しいことは、議論の余地がないので、それが正しいということを前提にして、意見を言うのだ。この場合、議論の余地がいない考え方をメイン、そこから派生する考え方をサブということにすると、ようするに、このかくされた前提がメインで、いろいろな意見がサブということになる。サブの意見は、あたかも正しいように思われるのだけど、それは、メインの前提が正しい場合に限られるのだ。メインの前提が正しくない場合は、そこから派生するサブの考えたも正しくない。はたして、努力をすればだれでもできるようになる」という前提は正しいのかどうか? ぼくは、正しくないと思う。なので、そこから派生する個々の意見も正しくないと思う。

ほんとうは「能力」の問題なのだけど、「人格の問題」「性格の問題」にすり替えられているというところがある。「できるサラリーマンの特徴」「できるサラリーマンになるにはどうしたらよいかのということについての助言」……こういう記事は、じつは能力の問題を人格の問題に置き換えて、能力がない人間にダメ出しをするようになっている。この場合の「能力」というのは、サラリーマンとして活躍?するのに、必要な能力ということだ。サラリーマンでなければ、別に、そういう能力は必要ではない。なのであれば、人間の価値とは直結していないはずだ。特定の能力があるほうが価値があるという価値観がまちがっているのだ。

構造として、能力差はある。それは、人間なので、身長や体重の分布のように、ノーマルカーブを描くようになる。ノーマルカーブのカーブをとって直線にすると、『のび太のひし形』になる。この場合、上位のできる人、中位の普通の人、下位のできない人にわかれる。けど、それは、ある能力について、上位から下位にならべた場合に発生することだ。これは、その能力をはかれば、そういうことが言えるということだ。あるいは、はからなくても人間生活のなかでだいたいわかるような部分があり、なんとなく、みんなの頭のなかに、格差ができあがっているようなものだ。しかし、それは、『その能力』は価値があるという視点に立ったときだけ、効力を発揮するものなのである。その能力自体の価値は、わからない。さらに、冒頭でも述べたように、能力の問題を性格の問題にしてはいけないのだ。どうしてかというと、能力とは別に、人間としての価値があるからだ。能力とは関係なしに人間としての魅力があるからだ。しかし、学校や会社という組織は、むりやり、能力の格差をつくりだし……ある視点における能力格差を視覚化・数値化してあぶりだし……能力の格差を人間としての性格の格差にしてしまう。そして、能力格差『下』の人間に対して、「努力をしないからダメなんだ」という攻撃を加えることになる。そして、これは、無限に繰り返される……。まあ、実際には、ひとりの人間のなかでは、無限ではなくて有限だ。ともかく、いろいろなところで能力の差を性格の差と言い換えて、ダメダシをするのである。能力の格差「下」の人間は、性格が悪いということになってしまうのである。けど、そうだろうか?

ここでずっと言ってきているけど、アドラーのような価値観が、そのあとおしをするのである。

2022年12月24日土曜日

中立的な状態

 たとえば、水温1度の水につかっていながら「あったかいあったかい」と言ったとしよう。あったかくなるかというと、あったかくならない。強がりを言っていることになる。現実を無視していることになる。それだけだ。「あったかいあったかい」と言えばあったかく感じるというような言霊理論は、中立的な立場でやれば、『そんな感じもするかもしれない』といったことだ。そういうレベルの強さしかないのである。36度のぬるま湯につかって、「あったかいあったかい」と言ったら、あったかく感じた……かもしれないという程度のことだ。そして、たとえば、そういう実験に参加しているなら「あったかく感じた」と答えたほうがいいのかな?と思ってしまう部分がある。そういう部分をなるべく削除するように実験を構成するのだけど、そういう部分を削除できるかどうかというと、かなりあやしい。ようするに、「正直にこたえてください」と言ってもむだだ。そして、たとえば「あたたかく感じたと答える必要はありません」と言った場合は、逆の指示をしてしまうことになるのである。いずれにせよ、人間が普通に行う「はいりょ」を完全に削除することはむずかしい。そういうことを考えないとしよう。けど、中立的な状態であることにはかわりがないのである。あったかく感じるかもしれないし、ぬるいと感じるかもしれないという微妙な状態なのである。たとえば、「楽しい」と言えば楽しく感じるかどうかということに関しても、つまらないかもしれないけど、すくなくても、くるしくはないという中立的な状態なのである。たとえば、ヘビメタ騒音がきらいな人が、ヘビメタ騒音を爆音で聞かされながら「たのしいたのしい」と言ったら、楽しく感じるかどうかを調べているわけではないのである。そして、実験室というのは、実験が終われば解放される場所なのである。その人が不快だと感じる音を、耳が悪く様な爆音で聞かせて、それを、強制的に、十何年も毎日繰り返したらどうなるかということを調べているわけではないのである。そういうふうに、人生に影響をあたえるような実験は、人道的な立場から、否定されているのである。やってはいけない実験なのである。だから、きちがいヘビメタが鳴っている……爆音で鳴っているというような状態で調べたわけではないのだ。不快な音が鳴っているとしても、実験後もそのひとのメンタルが破壊されるようなレベルで実験するわけにはいかないのだ。ようするに、日常とは、かけ離れた状態で実験をしているのである。それなのに、たとえば、楽しい楽しいと言ってもらって、楽しいといったときは、楽しいといわなかったときよりも、楽しいと感じたかどうかということを、質問する。口頭で質問するときもあれば、印刷された質問を読んでこたえてもらうというときもあるだろう。こういうのも、じつは、「配慮」に影響をあたえるかもしれない。けど、それは、無視しておこう。ようするに、中立的な状態で、日常生活に影響をあたえないという前提のもとに、おこなわれた実験の結果を、中立的ではない日常生活の問題に適応していいのかどうかという問題がある。これに関して、言っておくと、適応してはいけないということになる。ところが、「心理学の実験で確かめられたことだ」というようこなとが、一人歩きをしてしまうのである。たとえば、「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」……これは、宇宙をつらぬく絶対法則だということになってしまうのである……あんまり、いろいろなことを考えない、単純な人の頭のなかでは、宇宙をつらぬく絶対法則になってしまう。その場合、だれか「他人」に対しても、絶対法則なので成り立つと思ってしまうところがある。

2022年12月22日木曜日

降り注ぐヘビメタ騒音でからだがだるい

降り注ぐヘビメタ騒音でからだがだるい。降り注ぐヘビメタ騒音でこころがくるしい。

みんな、誤解しているようだけど、魔術的な方法はまったく意味がない。魔術的な方法で解決するなら、解決しているのである。そもそも、きちがい兄貴は存在せず、存在したとしても、「やめてくれ」と言ったら、「やめてくれる」いい人なのである。けど、源氏はそうじゃない。どれだけ、こっちが「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかったのだ。やめてくれない、悪い人だったのである。現実はそうだ。どうして、現実とはちがう、前提を持ち出して、「効く」というのだ? 効かなかったから、こまっている。ずっと、騒音が続いて、からだも、こころもめちゃくちゃになった。そして、からだの損害が、ほかの人にはわからない損害なのである。なので、もっとこまるのである。魔術的な方法と書いたけど、これは、魔術的なことに期待する方法だ。呪文をとなえればいい。いいことを考えればいい。親切にしてあげればいい。こういうのは、魔術的なことを期待する方法だ。言霊、思霊(おもだま)、根性論、精神論、引き寄せ……。全部が全部、魔術的な方法だ。

必然性と無理解

正露丸を飲んだ。これで、約1日がたったわけだけど、どうなんだろうなぁ。

腹はいたくないので、そろそろ、やめるかな。

まあ、いろいろと、むなしい気持ちだ。また、いやなことを思い出してしまった。そして、ひとりで腹をたてている。長期ヘビメタ騒音で睡眠時間がずれるとろくなことがないのだ。その思い出も、じつは、睡眠時間のずれが影響をあたえている不愉快な思い出だ。睡眠時間のずれが、どれだけの影響をあたえるか、みんなわかってない。これ、ほんとうにこまるのだ。長期ヘビメタ騒音でそうなったわけなのだけど、ほかの人は、そんなことは、知らない。「長期ヘビメタ騒音でこうなった」ということを説明したって、しょせんはひとごとだ。自分のつごうのほうが優先する。あるいは、長期ヘビメタ騒音でそういう睡眠障害がしょうじないと思っている。ところがしょうじるんだよね。あるいは、簡単に薬で治ると思っている。ところがところが、治らないんだよね。

睡眠時間の調整ができないと、いろいろなところで、トラブルがしょうじるのだ。しかも、昼間は寝ているけど、夜は起きているというわかりやすい睡眠障害ではないのだ。ほんとう、こまったよ。だれだって、あの長期騒音にさらされれば、そうなる。これは、必然だ。人間のからだの必然だ。けど、ぼく以外の人は、そういう経験がないから「必然だ」とは思ってないわけ。そういうことがあったとしても、調整がつくだろうと思っているわけ。そして、なおせるだろうと思っているわけ。ところが、なおせないんだよね。 

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2022年12月20日火曜日

どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった

 あーー、やっぱり、ヘビメタ騒音で人生がない。ヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった。時間というのが……。持続してしまう……。ヘビメタ騒音が持続している時間というのが、ものすごくきつい。で、これは、鳴り終わっても続く。みんな、時間ごと経験してない人は……リアル世界で、俺とおなじ部屋で、俺とおなじようにヘビメタ騒音を経験してない人は、まったくわからない。影響がなくなるわけがないだろ。一日のなかでも、影響なんてなくならないよ。持続時間のぶんだけ、増えていく。影響が強くなっていく。なにもわかってないな。「過去なんて関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言ったやつをぶっ飛ばしてやりたい気持ちになる。あのひきつった時間がどういう時間なのかぜんぜんわかってない。一秒だって……一秒間だって……。どれだけ、つらいか、まったくわかってないなぁー。

あなたがたにとっては「必然性」がないように見えるものでも、「必然性」がある。わかってないだけ。からだの反応がわかってないだけ。意識や意志とは関係なしに影響をうけるということがわかってないだけ。自分のからだで経験してないからと言って「ない」と思うな。俺があるといっているのだから、ある。

きちがい兄貴が、俺にムリゲーをおしつける。

 ほんとう、いろいろとまようなぁ。どうすればいいのかな? ダニとネズミの糞のことで、頭が重い。これ、ほんとうに、なければ、普通の引っ越しゲームなんだけど、ダニとネズミの糞が出現?してしまったことで、ものすごく、むずかしいゲームになっている。ネズミの糞とダニはセットだ。ネズミの糞由来のダニは、たおすのがものすごくむずかしい。たおしてもたおしても、復活してしまう。

きちがい親父が、俺にムリゲーをおしつける。

きちがい兄貴が、俺にムリゲーをおしつける。簡単なゲームを超・むずかしいゲームにしてしまう。もう、つかれた。 

2022年12月19日月曜日

長期ヘビメタ騒音のあと、からだがだるくてたまらないのだ

  ゴミを出してきた。いまの当番の人は、青いゴミかご?を出す時間がはやい。すごく、たすかる。ありがとう~~~。まじで、たすかる。さっき、朝の6時15分ぐらいに、燃えるごみを出してきた。これで、用事がすんだ。

しかし、このさき、どうするかな?

起きたあと、お茶を飲みながら、細巻き寿司を食べた。これの、お新香のやつが食べたくて、昨日たのんだのだ。

で、これに関しては満足なんだけど、からだがなんとなく、だるい。なので、もう一度横になる……つもりだ。ほんとう、ぼろっぼろにつかれていて、つかれがとれない。このつかれは、何十年も生きてきて、たまったつかれだ。おもに、長期ヘビメタ騒音でたまった。長期ヘビメタ騒音のあと、からだがだるくてたまらないのだ。普通に生きるということが、強烈につらいことになる。そういう疲労?なんだよね。騒音の疲労は……長期間続いた騒音の場合、鳴り終わったら、終わるというものではない。騒音が鳴り終わったら、つかれている状態も終わるということではないのだ。みんな、誤解をしている。どれだけの疲労がつみかさなるか、みんな、わかってない。みんな」のばあいは、きちがい家族によるすさまじい騒音を経験しなかった。人生のなかで、経験しなかった。だから、ちがう。ちがうから、ぼくが言っている、「疲労」は、わからない。わからないから、「疲労」という言葉を使うと、かならず、誤解をする。そういう疲労じゃない……と言ってもわからないのだから、わからない。人生のなかで、きちがい家族が、きちがい的な音にこだわって、きちがい的な意地で毎日鳴らし続けるということが……発生しなかった人の場合は、ぼくの場合とはちがう。ぼくとはちがう。

2022年12月18日日曜日

いろいろあって、ぼろっぼろになった

  いろいろあって、ぼろっぼろになった。もう、建て直せないな。俺は、よくやった。俺は、よくやった。もう、いいや……。ほんとうに、つらかった。

感情が平たん化してだめだ。これ、言いようがないんだよな。言いようがない。

もう、つかれたなぁ。日曜日のこの時間も、ヘビメタが鳴ってなぁ。日曜日のこの時間のヘビメタが、次の日の日中の活動に影響をあたえるとは、ヘビメタ騒音にやられてない人は考えないんだよな。夜、眠るときだって、朝、起きなければならないときだって、遅刻をしそうになって学校に向かっているときだって、あらゆる時間に、影響をあたえるよ。それは、走ったら、息があがるといったタイプの反応、走り続けたらつかれるというタイプの反応とおなじだ。ようするに、「意志で」ストップすることができないのである。影響をうけないようにしようと思えば、影響をうけないことが可能だと……いうわけではないのである。ところが、これも、きちがいヘビメタ騒音にやられたことがない意志教徒が、『影響をうけないことは可能だ』と言いやがるのである。こんなの、39度のお湯にのんびりつかりながら、1度の水につかっている人に対して、1度の水の影響をうけないようにしようすれば、それは可能だといっているようなものだ。こいつらは、なにもわかってない。
 

たとえば、この文章を読むのは、一分間もかからないだろう。けど、その一分間、持続してきちがいヘビメタ騒音が鳴っているということは、その一分間、不可避的にヘビメタ騒音の影響をうけるということになる。そして、たとえば「日曜日、約13時間ヘビメタ騒音にたたられて、つらかった」と言ったとしよう。これも、数秒で終わる発言だ。しかし、実際の13時間というのは、その数秒では、表現できないものなのである。「どれだけ、つらいか」……と言ったって、佐藤のような凡人は、その意味がわからない。「鳴ってたとしても、たいしたことじゃない」「鳴り終わったなら関係がない」と思ってしまうのだ。「関係がないわけないだろ」と言ったって、そりゃ、自分で体験してみなければわからない。そういう日曜日が毎週毎週一年間繰り返されたら、やはり、影響が出る。ヘビメタが鳴っているあいだ勉強ができないとなったら、その影響をうける。そういう影響の結果、佐藤ような凡人に「鳴り終わったなら関係がない」と言われるようになるのだ。そりゃ、経験してない人にとっては、影響は、鳴っているときだけに限られるように思えるかもしれないけど、そんなものじゃない。

2022年12月17日土曜日

好きな風呂を選べ!! 君らには、選択の自由がある

「1度の風呂でも、2度の風呂でも、3度の風呂でも、4度の風呂でも、5度の風呂でも、好きな風呂を選べ!! 君らには、選択の自由がある」

「5度の風呂はつめたいから、いやだ? そんなのは、あまえだ。みんな、つめたくても、がまんして入っている。(実際には、「みんな」は39度のお湯につかっている)」

「5度の風呂にしかアクセスできない?? そんなのは、自己責任だ。そういうふうにならないように、みんながんばって勉強してきた。おまえが、勉強をさぼってきたから悪い。自己責任。自己責任」

「5度の水につかっていても、「あたたかいあたたかい」と言えば、あたかかくなる。(あたたかくならないよ。そして、そういうことを言うやつは、「みんな」39度のお湯につかっている)」

「5度の水につかっていても、ニコニコしていれば、いいことがある。(どんだけ、ニコニコしたって、5度の水につかっていたら、いいことなんてないよ)」

「つめたそうな顔をしているから、不幸なんだ。不幸な人はみんな、つめたそうな顔をしている。だから、だめなんだ」

「5度の水につかってたって、つめたそうな顔をする必要はない。5度の水につかってたって、つめたいと思う必要はない」

「5度の水につかってたって、あったかそうな顔をすれば、しあわせになる」

「人間は、風呂に入るべきだ。人間である以上、風呂に入らなければならない。(けど、俺は、自分のからだがつらくなったら、入らないけど、おまえが入らないのは、気にくわないので、おまえは入るべきだ。人間は、風呂に入るべきだから、おまえは風呂に入るべきだ)」 

「5度の水につかってたって、人に親切にすれば、しあわせになれる。(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

「5度の水につかってたって、感謝をすれば、しあわせになれる。(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

「生まれるまえに、たましいが5度の水につかることを選んだ。だから、自己責任だ。自分で選んでいる(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

「5度の水を引き寄せたから、だめなんだ。5度の水を引き寄せなければいい。39度のお湯を引き寄せればいい。39度のお湯を引き寄せるには、もう、39度のお湯につかっていると思えばいい。(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

 

「風呂に入れるように、細かく、行動をわけて、その行動をじょじょにできるようにすればいいのだ」

 たとえば、摂氏5度の風呂入った人がいたとする。その人は、風呂といったら水温5度の風呂に入るしかない人だ。何日も、水温5度の水につかったけど、すぐに出てきた。けど、ある日、「もう、こんなのはいやだ」と言って部屋にとじこもってしまった。さて、その人を、風呂に入れるようにするにはどうしたらいいか? 常識的な人たちが、こういうことを言い出す。まず、部屋を出れるようにする。次に、風呂場のドアのところまで、行けるようにする。その次に、ドアのノブをさわれるようにする。「の」の連続をさけるために、ドアと書いたけど、風呂場のドアのことを意味する。その次に、ドアのノブをまわせるようにする。その次に風呂場に入っていけるようにする。その次に、風呂場のバスタブに手をふれることができるようにする。その次に、バスタブに手を入れられるようにする。その次に、足だけバスタブに入れられるようにする。その次に、バスタブに下半身を入れられるようにする。その次に、バスタブに全身を入れられるようにする。そうすれば、風呂に入ることができるようになる。……ばんさいばんざい。これが、「療法」なのである。治療方法なのである。おかしいでしょ。言っておくけど、バスタブには、以前とおなじように、5度の水がはってある。問題なのは、5度の水だ。この水が39度なら、問題にならないのである。風呂に入れるのである。5度だから、いやなのである。5度だから、つらいのである。その、「つらい」部分を動かさないで、そういう反応をするということに問題があるとして、「風呂に入れるように、細かく、行動をわけて、その行動をじょじょにできるようにすればいいのだ」と考えてしまう。かえなければならないのは、5度の水だ。そして、こういう両方を考え出す人は、5度の水につかったことがない人たちなのである。風呂といえば38度から45度ぐらいの水(お湯)にかつかったことがない人たちなのである。だから、水温5度の水のつらさがわからない。水温5度だから、いやだといっているのに、水温5度の水に体を慣らせばいいのだと考えてしまう。「つらい」と思うからいけないのだということになる。風呂に入るまでの行動を細かく分解して、その分解した行動をじょじょにやれるようにすればいいのだと考えてしまう。おかしいでしょ。問題なのは、5度の水につからなければならないということだ。5度の水というのは、劣悪な環境における仕事のことだ。仕事をするとなると、劣悪な環境における仕事しか選べない人は、劣悪な環境における仕事をするしかない。5度の水につかるしかないということだ。けど、これを、「仕事をするのがいやだ」と言っていると、抽象化して考えるのだ。5度の水につかることも風呂に入ること、39度のお湯につかることも風呂に入ることだ。劣悪な環境で仕事をするのも、いい環境で仕事をするのも、仕事をすることだ。劣悪な環境で仕事をするしかない人は、劣悪な環境で仕事をすることがいやなのである。いい環境なら別かもしれないのである。けど、劣悪な環境で仕事をすることと、仕事をすることをおなじことだと考えてしまうのだ。認知行動療法や行動療法だと、そこにいたるまでの行為を分解して、その分解した行為をじょじょにやらせればいいということになる。こんなのは、意味がない。5度の水につかるしかない人は、5度の水につかるしかないのである。これが社会だ。だから、そういう社会のほうがかわらなければならない。「職業に貴賤はない」などといって、「ひと」には、劣悪な仕事をおしつけようとする。これが、社会常識だ。「どんな仕事だって仕事は仕事だ」と「どんな風呂だって風呂は風呂だ」は「にている」。考え方がおなじなのである。



2022年12月15日木曜日

せめたてられて、もう、全力疾走をしているような状態なのである

からだの感覚として「騒音につけこまれている」ときの感覚がある。それは、どうも、普通の騒音をうるさいと思っているときとはちがうのである。ぜんぜん、ちがう。はっきり断言できる。ぜんぜんちがう。もちろん、きちがい兄貴の態度で鳴らす、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のほうがひどい。悪質だ。あの音圧。勉強なんてできるわけがない。だれもが、あの音のなかで勉強することはできない。ヘビメタがきらいではない人は、自分がきらいな音が鳴っている状態を思い浮かべてくれ。だれだって、苦手な音がある。その苦手な音が、あの音圧で、壁のすぐ後ろで、がんがん鳴っている。これ、「勉強はできるけど、するかしないかまよう」と言うことではないのである。「勉強はできない」。どれだけやろうと思ってもできない。宿題ですらできない。発狂して、自殺したいような状態になっている。パニックだ。発狂して、きちがい兄貴を、ぶっ殺してやりたい状態になっている。パニックだ。音がその気持ちを激しく、生成して、ゆさぶる。きちがいの音が、激しく攻め立てる。せめたてられて、もう、全力疾走をしているような状態なのである。パニックで……。そういう状態で、何時間もすごして、いいわけがない。これは、ただ単に「勉強ができない」という問題ではない。そういう問題ではない。もちろん、そういう部分を含んでいる。けど、「鳴っているときだけ勉強ができない」からこまっているという問題ではない。

そして、朝は……次の日の朝は、からだの状態としてすごくだるいのである。猛烈にだるいのである。「体の状態として死にたい状態なのである」。そういう思いをして何千日も我慢して暮らしてきた俺に対して、まったくそういうことを経験しなかったやつが「あまえている」と言うのだ。こいつは、ゆるさない。ゆるせない。

そして、全体的には、不活性になるのである。憂鬱な気分になるのである。どれだけから元気を出しても、憂鬱な顔になってしまうのである。生気がなくなるのである。6年間毎日続いたら……きちがい家族によって鳴らされているきちがいヘビメタが入試の日も含めて六年間毎日続いたら、やはり、憂鬱な顔になるのである。そのとき、作り笑いをして、明るく振舞えばいいことがあるかというとないのである。つかれはてている。死にたい気持ちだ。これ、ニコニコ教団の人はまったくわかってない。ほんとうに、ふざけるなと言ってやりたい。俺は、ぼろくそにおこっいてるんだぞ。兄貴も、ニコニコ教団員にも怒っている。怒っている。これ、ほんとうに、どれだけめちゃくちゃなことを言っているかわかっているのか? こういう人たちは、時系列系のことがわかってない。俺は、きちがい親父にやられていたにもかかわらず、きちがい親父がかかわってないところでは、ニコニコと笑って過ごしていのである。ならば、いいことがあるはずなのである。しかし、気ちがいヘビメタがはじまってしまった。どれだけ、けなげにがんばって、作り笑いをしても、いいことなんてなかった。きちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音が、つづいた。これが、現実だ。これ、別に俺が暗い顔をしていたから、ヘビメタ騒音がはじまったわけじゃないのである。きちがいがやりたくなったからヘビメタ騒音がはじまった。きちがいが、きちがい的な意地で、自分のやりたいようにやるということにこだわったから、絶対、しずかにしないで、ずっと鳴らしていた。これは、俺がニコニコしていたかどうかとは関係がないことなのである。こいつら、なにもわかってない。言霊の人やニコニコ教団の人は、時系列的なことを、無視しやがるのである。そして、有害なアドバイスをする。 こんなのは、一度の水につかっている人に「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているのとおなじだ。一度の水につかっているから、からだが反応して、つらいと感じているのである。それは、いいことではないのである。一度の水につかっているという状態からぬけださなければ、いいことが起こる条件が、そもそも、そろわないのである。一度の水につかって自分か死にそうなのに、「ニコニコ」していたら、いいことが起こるか? ニコニコしていることがきっかけになっていいことが起こるか? 一度の水のなかで、どうやって、いいことを経験するのか?

きちがい家族が、きちがい的な音で、ヘビメタを鳴らし続けるということは、一度の水につかっているのとおなじだ。からだが反応する。意志の力でからだの反応をとめることができない。かならず、「つかった」という事実が、からだの反応を引き起こす。


2022年12月14日水曜日

へんなリフレクション

 あいかわらず、不愉快なことを思い出して、もだえてくるしんでいる。もう、つかれたなぁ。きちがい親父にやられると、いろいろと、へんなリフレクションがあるんだよ。これも、そのうちのひとつだ。けど、こんなことをどれだけ言っても、他人はわからない。

きちがい的な親にたたられたことがない人は、たとえば、なぐられたなら、なぐられたということなんだな。なぐられるという恐怖が生じたんだな……というようなことしか考えない。きちがい的な親のほうに、認知的なずれがある場合のことは、まったくわかってない。単純に、直線的に考えるだけなんだよな。認知的なずれがあるということは、無意識的な問題があるということだ。無意識的な問題は、じつは、善悪の基準に関係しているし、親のほうが……やる側のほうがきちがい的な衝動で動いていると、矛盾がしょうじるのである。ようするに、きちがい的な親がやっていることと、きちがい的な親がやったと認知しているもの、あるいは、感覚しているものとのあいだに、矛盾が生じてしまうのである。それを、「ひきうける」のは、やられたほうなのである。善悪の基準は、そのまま「どれだけ気にするか」ということにつながっているんだよ。そして、「やったってやってない」という態度はリフレクションをうむ。どうしたって、そうなる。

 基本、つまらない。感情が、死ぬ。

 基本、つまらない。感情が、死ぬ。

きちがいヘビメタがはじまって、いろいろとこまったことがあったけど、そのうちのなかで、一番こまったことは、感情が死ぬということだ。繰り返しで、そうなる。ところが、繰り返しでそうなるということがわかってない人が、いろいろなことを言ってくる。この人たちは、ヘビメタ騒音の影響を無視している。ヘビメタ騒音の影響を無視する人たちは、基本的に言って、「私はオッケーだが、あなたはオッケーではない」というタイプの交流をしようとする人たちなので、やられたこっちは、不愉快になる。そいつらがオッケーなのは、きちがいヘビメタ騒音にやられてないからだ。毎日、十一歳から、きちがいヘビメタ騒音が続くということがなかったからだ。そういうことを、経験しない人が、影響を推し量り、無視して、助言してくる。その助言は、役に立たないことなのである。けど、役に立たないということを言ってしまうと、その人たちは、傷つく。さらに、攻撃的になる。そして、ぼくが無職なら、無職で、相手は、目下の人間だと思うわけだ。おとっている人間だと思っているのである。それも、ようするに、ヘビメタ騒音の連続で、働けないからだになったということなのに、それが、……ヘビメタ騒音の影響を無視するからわからない。あったときに、こちらが無職であれば、無職であるということは「所与の条件」なのである。

ともかく、いろいろとつみかさなるのだけど、感情が死ぬ。感情が死んでいく。そうなると、反応速度が遅くなるのである。反応が鈍くなるのである。それも、ヘビメタ騒音の影響なのに、こいつらは、わからない。俺が、ヘビメタ騒音の影響だといっても、ヘビメタ騒音を俺と同じ時間の長さ、俺とおなじ期間の長さ、経験した人じゃないと、影響のでかさがわからないのである。「そんなことで、覆せるものではない」ということが、根本的わかってない。ヘビメタ騒音のなかで「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」となんか言っても、だいじょうぶじゃないのである。だいじょうぶにならないのである。ヘビメタ騒音にやられて、元気がない状態で「元気だ。元気だ」と言っても元気にならないのである。きちがいヘビメタが、ものすごい音で鳴っている状態が、まるでわかってないんだよな。きちがい兄貴の大都がまるでわかってないんだよな。きちがいヘビメタがずっと鳴ってた日の次の日、どれだけ、つかれはてている状態で動いているのか、まったくわかってないんだよな。きちがい兄貴だって、わかってないけどね。これ、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい親父のように無視して、わからないままなんだよな。けど、きちがい兄貴の感覚やきちがい兄貴の態度全体というのは、いっしょに住んでいる人しかわからない。そして、ヘビメタ騒音が、どれだけ影響をあたえるか、やられてない人はわからない。ヘビメタ騒音が鳴っている時間だけではなくて、ヘビメタ騒音が鳴っていない時間に、どれだけの影響をあたえるか、まったくわかってない。で、それは、言わないからわからないのではなくて、ぼくが言っても、わからないのである。その人に、ぼくとおなじ経験がないとわからない。一日のなかでどれだけこたえるか、わからない。人生のなかで、どれだけの影響があるかわらない。そいつらはみんな「鳴り終わったら」「影響もきえる」と思っている。ぜんぜんちがうのに、わかってない。これも、どれだけ説明しても、実際にぼくのからだで経験した人じゃないとわからないところがあるんだよ。そういうことをぬいたとしても、想像力がないやつらだなとは、思うけど。そういう、想像力がないやつらに、自動的にぼくが!ばかにされる。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。ヘビメタ騒音の「効果のひとつ」にそういうものがある。かならず、誤解をされるのである。誤解の素をつくっているのは、きちがい兄貴だ。ぼくは、ハンダゴテ事件について書いたけど、ハンダゴテ事件は、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだに起こったことだ。けど、しくみが、まったく同じなのである。きちがい兄貴にわかりやすいように、きちがい兄貴が「やられるがわ」のケースを説明したのだけど、きちがい兄貴は、きちがい兄貴が「やるがわ」である以上、理解しない。同じ理屈が成り立っている。おなじ脳みそのしくみが成り立っている。きちがい親父ときちがい兄貴でおなじなんだよ。で、きちがい的な家族がやることに関しては、普通の人は、「みんな」誤解をする。誤解をするんだよ。きちがい家族にやられたことがない人は、「みんな」誤解をする。だから、「やられたほう」が板挟みになる。そういう構造も、ずっとずっとおなじだ。心理学の専門家を名のるやつも含めて、みんな、誤解をしている。単純、単細胞。単純理解。まちがっているのに、まちがっていることに気がついてない。そんな、直線的な理解でわかるはずがない。「いっぽんせんのりかい」なんだよ。きちがい家族にやられてない人は、きちがい家族がやったことに関しても、きちがい家族ときちがいではない家族のあいだに起こったことも、「いっぽんせん」で理解してしまう。これ、わかる? わからないだろうなぁ~~。わかるわけがない。

ともかく、騒音の繰り返しで、感情が死ぬ。その場合、ヘビメタ騒音を経験してない人が言う、助言というのはまったく意味をなさない。むだどころか有害。そして、そういう「こうりゅう」がまた、「この世はめんどうくさい」とか「この世はいやだな」とか「他人はいやだな」という認識をうみだすのである。だから、きちがい家族に、しつこくしつこく、やられた人は、この世で、生きにくくなる。きちがい家族にやられたことがない人が「この世の生きがたさ」について語って、なおかつ、きちがい家族にやられたことがある人のことに関しては、ごく自然に誤解をしやがるからなぁ。わかる? 佐藤(仮名)。単純。単純すぎる。佐藤さんはまるでわかってない。単純すぎる。理解のしかたが「一直線」。「いっぽんせんのりかい」。そういうレベル。そういう理解度。

2022年12月12日月曜日

みんな、ほんとうに、きちがい的な親がどういうふうにたたるのかわかってない

 みんな、ほんとうに、きちがい的な親がどういうふうにたたるのかわかってないんだよな。怒りが内向するの。リフレクションするの。まるでわかってない。単純な理解のしかたでしか理解しない。そんなものじゃないのだ。きちがいの思考や、無視のしかたというのは、そんなに単純なものじゃない。佐藤(仮名)みたいのは、単純な理解のしかたしかできないんだよな。けど、ちがうんだよ。どんだけ、へんな人間かまるでわかってないな。どんだけ、へんな影響をあたえるかまるでわかってないな。きちがい親父がどれだけへんな人間かまるでわかってない。きちがい的な親がどれだけ、へんな影響をあたえるかまるでわかってない。わかってない。わかってない。


2022年12月11日日曜日

その問題の原因だけは、がん無視なのである

 その問題の原因だけは、がん無視なのである。たとえば、一〇度の水につかっている人のくちびるがむらさきになったり、一〇度の水につかっている人ががたがた震えている場合、原因は一〇度の水につかっているということだ。

ところが、一〇度の水につかったことがない、人たちが、「こきざみに体を左右にふっているのは、発達障害だ」とか「むらさきのくちびるにしているのは、本人だ」ということを言うのである。原因だけは、がん無視なのだ。ヘビメタ騒音もおなじだ。

これ、たとえば、遅刻に関して言うと、ヘビメタ騒音が問題なのだ。けど、「本人が甘えているから、だめなんだ」ということになる。「時間をまもるということが大切だということを本人が理解すれば、遅刻をしなくなる」と言うのだ。

たとえば、宿題をしてこないことに関して言うと、ヘビメタ騒音が問題なのだ。ところが、これも、「本人がたるんでいるから、宿題をしてこない。本人が、勉強の大切さを考えないから、宿題をしてこない」「連帯責任で、ほかの人の迷惑をかけるのだけど、ほかの人に迷惑をかけるということが、悪いことではないと思っているから、宿題をしてこないんだ」と言うのである。

あるいは、通勤して!働けないということに関しても、ヘビメタ騒音が問題なのだ。ところが、「本人が、本人が甘えてるからダメなんだ」ということになる。「時間をまもるということが大切だということを本人が理解すれば、遅刻をしなくなる」と言うのだ。むらさきのくちびるに関しては、からだの反応を認めず、俺は赤くて普通の色をしているのに、そいつはむらさきのくちびるをしているから「へんだ」と言って、いじめるのである。

ほんとうの原因は「がん無視」で、本当の原因によってもたらされた症状についてまちがったことを考えて、まちがったことを言うやつらが多い。「ヘビメタ騒音」というものは、そういうものだ。そういうまちがいを誘発しやすいものなのである。

ちなみに、意志教の人は、くちびるの色を「意志の力でかえられる」と思っているので、「いつまでも、むらさきのくちびるをしている人は、意志の力がないダメなやつだ」と決めつけるのである。言霊主義者は「くちびるの色よ、赤くなれ」と言えば、赤くなるのに、「『くちびるの色よ、赤くなれ』と言えば、赤くなるのに、言わないからダメなんだ」と言い出すのである。

ほんとうの問題をかんちがいして、それぞれの主張を言い出す。けど、ほんとうの問題について死しているので、そういう主張は、言われたほうからすれば、迷惑なだけで、意味がないことなのである。

なんで、俺だけ?

 ほんとうに、つまらない。俺の人生は、なんだったのか?

ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしい。もう、どうすることもできないな。なんで、俺だけ? なんで、俺だけ? なんで俺だけ、きちがい家族にたたらなければならないんだ?

 

2022年12月10日土曜日

我慢したぶんだけ、こっちが、ボロボロになった

 いったいなんなんだ? この人生は……。

ほんとうに、ボロボロになった。

最後のきちがい親父の意地でぼろぼろになった。「(ネズミは)(俺が)ネズミシートで捕まえるからいい」と言って、聞かなかったんだよな。ネズミ本体がはいってくる状態を維持すると、ネズミの糞とかネズミのショウベンでひどいことになるから、穴をふさがないとだめだと言っているのに、頭がおかしいから理解しない。そのときの、「いじのはりよう」なんだよな。

なぐりたい気持ちをおさえると、自分をボコボコになぐったような感じになってつかれるのである。我慢したぶんだけ、つかれた。我慢したぶんだけ、こっちが、ボロボロになった。

怒りをおさえると、怒りが内向して、とんでもないことになってしまう。きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、騒音でもつかれたけど、きちがい兄貴のきちがい的な頑固さに対する怒りが内向して、つかれた。ボロボロになる。 

ほかの人は、きちがいの意地がわかってない。ほかの人は、きちがいの感覚がわかってない。意地も感覚もわかってないのに、わかったようなことを言いやがって……。それも、腹がたつ。きちがいがいる家に生まれたことがない人は、ほんとうにわかってない。わかってないということもわかってないだろう。

だから、誤解をして、まちがった前提に立って、きちがい的な家族に「やられた人」をせめるんだよ。常識的な判断で、せめる。けど、非常識が成り立っていたんだよ。そのうちでは「非常識」がずっとずっと成り立っていたんだよ。これ、どういうことだかわかるか?

道徳が踏みにじられている。そして、道徳を踏みにじって、攻撃しているほうは、まったくそのつもりがないという状態が、何十年も、毎日、成り立つということだ。きちがい的な家族の「のうみそ」がかわらないじょう、毎日、二十四時間中二十四時間、きちがい的な感覚が成り立っているのである。

で、きちがい的な感覚が成り立っているところで、きちがい的な基準で、きちがい的な行為をする。そうすると、それをとめることができない。とめるとなると、殺さなければならなくなる。この、「殺さなければならなくなる」という状態も、きちがい家族と一緒に住んでいない人はわからない。根本的にわからない。だから、かならず、ずれたことを言ってくる。『そんなことが成り立つなら苦労してない』ということを、言ってくる。

 

2022年12月9日金曜日

自分よりこまっている人間を見つけて、その人間に説教をする人たち


精神世界のいろいろな話というのは、自分よりこまっている人間を見つけて、その人間に説教をするために役立っているのである。その説教が、もともとは、その人の妄想をもとにした話だから、説教された人間は、こまるのである。言ってみれば、すでに困っている人間が、精神世界の人に説教されて、さらにこまった状態になってしまうのである。

これは、精神世界の話だけではなくて、凡人の労働観にも成り立っている。だから、なんらかの、ほかの人が理解しにくい理由で、無職になった人は……つまり、働『け』なくなった人は、不愉快なことを言われる状態になる。普通の労働観をもっている普通の人が、無職に対しては、攻撃を仕掛けてくる。そういう状態になっている。なので、働けなくなる直接的な原因のほかにそういうことでも、いやな思いをすることになっているのである。

 

ようするに、回復のこころみが、そもそも、だめなのである

 あー、ああいうふうに言ってやればよかった。誤解されっぱなしというのは、いやだな。腹がたつ。言ってやればよかったな。

やっぱり、言うとなると、でかい声を出してどなることになるなぁ。

もう、二度とあわない人だけど、腹がたつ。勝手に遅れて、勝手に、誤解やがって。
あと、普通の人に言っておきたいけど、長期ヘビメタ騒音でだめになっている場合、いろいろな困難がおそっているのである。普通の状態なら……つまり、長期ヘビメタ騒音にたたられていなければ、やらなかったことをやって、不愉快な思いをするというとになってしまうのである。絶対にわからないだろうな。

ようするに、回復のこころみが、そもそも、だめなのである。回復のこころみ自体が悪手なのである。なんで悪手になってしまうかというと、長期ヘビメタ騒音で、穴ぼこにおちているから!!

2022年12月8日木曜日

「人間は働くべきだ」と考えているなら、当然、歳をとっても働いているはずですよね

 常識的なことを言ってくるやつらは、みんな、「ヘビメタ騒音の影響」を無視している。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、過去のことなら関係がない」という前提で、ものを言ってくる。

こいつらは、みんな、ぼくとおなじようにヘビメタ騒音を経験したわけではない。「きちがいかぞくによる」ヘビメタ騒音を経験したわけじゃない。きちがい家族が、息を吸うように、ヘビメタを、「つねに」鳴らすということがどういうことなのかわかってない。

それが、たとえ、一日のなかで、午後四時から午後一一時一〇分までのことであったとしても、学校から帰ってきたあと、あの音のでかさで、あの音を、あの至近距離で鳴らされた場合、からだにどういう変化がしょうじるか、まったくわかってないのである。

この、わからなさ、と言ったらないよな。自分の短い騒音経験で、「たいしたことがない」と勝手に決めつける。けど、俺とおなじ期間の長さ、俺とおなじ時間の長さ、あのきちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音を経験したわけではないのだ。きちがい兄貴の態度がどれだけむかつく態度かわかってない。

それは、やはり、影響をあたえる。そして、きちがい兄貴の態度がきちがい親父の態度とおなじなので、俺に迷惑をかけているということが、わからないのである。きちがい兄貴がわからない。こっちがどれだけ説明しても、きちがいの頭で解釈するから、まったく、なにもやってないのとおなじ態度で、ずっと生活をしているのだ。

そして、きちがい兄貴が学校から帰ってきた、かならず、風呂に入るまで、きちがいヘビメタを、自分が満足できる音で鳴らした。風呂から出てきたら、かならず、自分が満足できる音で、一一時一〇分まで鳴らした。

で、これが、こっちがどれだけこまっても、まったくゆずってくれないのである。けど、これがまた、きちがい親父とおなじで「ゆずってやった」と思っているところがある。気ちがいなんだよ。すべてが、きちがい的な反応。すべてを、きちがい回路で解釈している。

ともかく、俺にえらそうなことを言ったやつが、病気になって入院したら、連絡をくれ。そうしたら、その病気のことは、頑固に無視して、「働くということの大切さについて」語ってやるから。

俺は、そいつが、働くことの意味がわかってないから、働かないんだ」解釈するのである。だから、そいつが働くことの意味を理解してくれるように働きかけるのである。……悪いことじゃないだろ。そいつらがやってきたことだ。

そいつらが、「まるまるという病気で働けない」と言えば「○○という病気の影響」は頑固に無視して、「そんなのは関係がない」「そんなのは、あまえだ」「○○という病気にかかっている人だって、みんな働いている」と言ってやる。「もう、歳をとってむかしのようには動けないから、働けない」と言ったら「歳をとった」ということの影響は頑固に無視して「そんなのは、関係がない」「歳をとったって働いている人はいる。みんな苦労をして働いている」「だから、おまえが働けないということはない」「歳をとったから、働けないなんていうのは、あまえだ」「おまえは、働くということの意味がわかってないからそうやって、加齢を理由にして、さぼっているだけだ」と言ってやる。

「人間は働くべきだ」「これを理解してくれれば、おまえも働くようになるのだから、理解するように働きかけることはとてもいいことだ」と言ってやる。「みんな、歳をとっても病気になっても、がんばって働いている」「おまえだけ、働けないなんてことはない」「そんなのは、あまえだ」と言ってやる。

なので、死ぬまえに、かならず、連絡をください。

「人間は働くべきだ」と考えているなら、当然、歳をとっても働いているはずですよね。歳をとると人間は人間でなくなるということはないのですから。働くのをやめるときは、人間をやめるときだと思って、働いているはずですよね。

まさか、人間らしく暮らすために、働くのやめるなんて選択はしてませんよね。人にあんなことを言って、ただですむと思うな。「人間は働くべきだから、○○さんも働くべきだ」……まちがってませんよね。どうして、病気や老化を理由にして、働かないんですか? おかしいとは思いませんか? どれだけくるしくても、音をあげずに、働くべきでしょう。それは、あなたが言ったことなんだぞ。人には、頭がおかしいことを言って、自分は、その発言とはちがう暮らしをしているのか? おかしいだろ。

2022年12月7日水曜日

人権侵害だということに気がつかないのか?

  今日の朝、つまり、今朝、ゴミを出したんだけど、あのときの気分を考えると「ぼくはやはり、幸福になれそうもない」と感じる。きちがい兄貴にやられた朝の気分とおなじなんだよな。佐藤は、障碍者の人権についてだいぶうるさいことをやっているけど、ヘビメタをあの音のでかさで鳴らすということが、どれだけの人権侵害なのか、まるでわかってないところがある。あれは、ものすごい、人権侵害だ。あの音がどれだけひどい音かまったくわかってないなぁ。きちがいだから鳴らせる音なんだよ。普通の人だったら、鳴らせない音なんだよ。きちがいだから、でかい音を普通の音だと感じることができるんだよ。耳が悪くなければ、『でかい音』だと感じなければならない音なんだよ。ほかの種類の音が、あのでかさで、1分間なっていたら、きちがい兄貴だって、一分間腹がたって腹が立ってしかたがないような音のでかさなんだよ。あの音で、鳴らすこと自体が、人権侵害なんだよ。どうして、「小さな人権侵害」には敏感なのに、「大きな人権侵害」には鈍感なんだよ。障害者なら、どんな小さな人権侵害に関しても、人権侵害だと騒ぐくせに、「ほかのうち」の家族がやっていることだと、人権侵害なんて、そもそも関係がない話になってしまう。そういう感覚が成り立っている。ほかの家で、「兄」が「弟」にやったことだと、人権侵害という考え方自体が、佐藤の頭で成り立ってないんだよね。ばかだなぁー。そういう感覚は、ほんとうは、おかしい。けど、騒音に関することであって、なおかつ、「よその家のこと」だと、人権侵害というような考え方が思い浮かばないレベルまで、人権侵害が関係のない話になってしまう。ほんとうはものすごいことなのに、まるでわかってないな。佐藤(仮名)なんて一〇分間、あのきちがいヘビメタ騒音のなかにいたら、くるっちゃうよ。一か月間で、不登校になる。社会人なら出社拒否になる。そういう騒音なんだよ。まるでわかってないけど。こういうやつらの「まるでわかってない」態度は、むかつくなぁ。「やめてくれ」「やめてくれ」と家族が言っているのに、息をすったり吐いたりするように、普通に「いつもいつも」鳴らしてしまう感覚というのはないよ。まったくなにも気にしてない。俺にとって、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、重要な問題なのに、きちがい兄貴も、佐藤(仮名)も、重要な問題だということを完全に無視しやがる。佐藤(仮名)が鳴らしたわけではない。そして、佐藤が気にしない仕組みと、きちがい兄貴が気にしない仕組みは、まったくちがう。けど、気にしないということでは、相似だ。気にしないというベクトルの方向はおなじだ。ただ、佐藤のスカラーが一(いち)だとすると、きちがい兄貴のスカラーは一兆(いっちょう)だ。スカラーと書いたけど、ベクトルの大きさのことだとする。

おまえら、あれがどういう音なのか、まったくわかってないなぁ。

あと、アドラーみたいなとっちゃん坊やが、「どれだけ人(他人)がガミガミ言っても気にしない人」のほうが、気にする人よりすぐれているというような意見を書いているけど、ちがうね。人(他人)がガミガミ言ってきたということをちゃんと考えられる人間が、すぐれた人間だ。「気にすれば、すぐれていない人間だ」「気にしなければ、すぐれた人間だ」と、考えること自体がおかしい。人が言うことを気にする能力は大切な能力。相手が言うことを聞いて、自分の行動をあらためるのは、たいせつなこと。なんで、相手が言うことを聞いても、絶対に自分の行動をあらためないことが、すぐれた能力なんだ? 善悪の基準というのがあるんだよ。悪人が、悪いことをして、悪いことをしたということをまったく気にしなかったら、悪人のまわりの人がこまるだろ。人が言うことを気にしない人間がすぐれた人間だというような価値観はおかしい。

人が言ってくることを気にすることは、たいせつな能力だ。ふざけんな。

どれだけこまるか、まったくわかってないなぁ。きちがい兄貴もよその人も。やられてない人も、きちがい兄貴も、まるでわかってないんだよなぁ。

影響があるに決まっているだろ。なんで『影響なんてない』と考えるんだ。影響があるに決まっているだろ。 なんで『関係がない』と決めつけるんだ。関係なくない。そのときの状態どころか、次の日の状態にまで一〇〇%の影響がある。なんで、『影響なんてない』『関係がない』と決めつけるんだ? おまえらはみんな、でこパッチンB。

2022年12月6日火曜日

「すべては思いようだ」 ……ほんとうにそうなんだろうか?

 「すべては思いようだ」

……ほんとうにそうなんだろうか?

じゃあ、「すべては思いようだ」と言っている人の知覚や感覚はなんなんだ? 意思が「知覚していることとは反対のことを知覚するようにしよう」と思えば、反対のことを知覚することになるのか?

意思が「感覚していることとは反対のことを感覚するようにしよう」と思えば、反対のことを感覚することになるのか? それなら、最初に知覚し、感覚したものはなんなのか? どうして、意思で、その、知覚し、感覚したものを、くつがえすことができるのか?

くつがえした後の知覚や感覚を信用できるのか? 信用できるなら、知覚や感覚は必要なく、意思だけがあればいいということになってしまう。しかし、それならば、なぜ、最初の、知覚や感覚はあるのか?

知覚や感覚が意思に情報をあたえているのだから、意思のほうは、知覚や感覚を受け取る側のほうなのである。意思が勝手に、知覚や感覚をつくるというのであれば(発信して書き換えるというのであれば)それは、意思という妄想のなかですごしているということになる。これは、現実無視にほかならない。

意思がつくった心象のほうを、現実だと思い込めばいいということになってしまう。「すべては思いよう」というのは、じつは、きちがいのすすめだ。自分の知覚や感覚を信用せず、ただ単に頭の中で作った心象を現実だと思い込めばいいという話なのである。

「頭の中で作った心象」と書いたけど、これは、意思によってつくられた心象のことである。

 

2022年12月4日日曜日

喫茶店巡り……ヘビメタ騒音でこころがぶっこわされているから、気分がよくない

 カフェ巡りかぁ~~。いいよね~~。ね~~。

いいよなぁ。まあ、喫茶店巡りも、いい。内容はおなじで、言い方がちょっとちがうだけ。

どのみち、ぼくはあんまり、喫茶店には行かないんだよね。行かない。だって、もしご飯を食べるとなると、寿司、カレー、ラーメン、蕎麦のほうが、いいから。喫茶店の近くに寿司屋があったら、どうする? まあ、回転寿司系の安い寿司屋があるとする。その場合、やっぱり、寿司屋に行くだろう。寿司屋に行ったあと、喫茶店によるかというと、よらない。

けど、なんか、カフェ巡りとか喫茶店巡りという、語感がいい。ものすごくいい。「なんだこれは」と思うほど、いい語感をもっている。もっているんだね。なぜかは知らないけど。しかし、若いときのごく一時期をぬかして、若いときはおカネがなくて、喫茶店に入る気持ちはなかった。なんだろうなぁ「めぐり」というのがいいのかな?

めぐるんだよね。一軒じゃなくて、何軒も……。いいじゃない。なんか、いい。

しかし、もう、ぼくはコーヒーが飲めないからだになってしまった。どうしようかな?

喫茶店は、もちろん、コーヒーや飲み物を楽しむところだけど「場所」としておしゃれな感じがする。実際、そこで出される飲み物や食べ物よりも、雰囲気を楽しむ人も多いみたいだ。落ち着いた雰囲気のカフェ……いいじゃない。二階の窓側に座ると、道が見えていい……。道を眺めるのは、いいよね……。わりと、好きなんだよな……。ちょうど二階の高さから、外の通りを眺めるのは、好き。

まあ、ほんとうのことを言うと、若いときに、わりとお金に余裕がある状態で、喫茶店巡りをしたかったのさ。いまは、シェディングと寄生虫の問題があり、あんまり、外食をする気になれないな。喫茶店巡りはいつかやりたいと思っていたけど……。

どうするかな? 動けなくなってからじゃ遅いんだよ。けど、ヘビメタ騒音でこころがぶっこわされているから、気分がよくない。旅先の喫茶店に入るというのが理想といえば理想なんだけど、ヘビメタ騒音でこころがぶっこわされているから、気分がよくない。「俺はなにをやっているんだ」とか「あのとき、くるしかった」というようなことしか思い浮かばないと思う。そういう意味で、ヘビメタ騒音は、ぼくの楽しみを奪った。騒音というと、鳴っているときだけうるさいものだと思いがちなのだけど、そうじゃないのだ。こころを破壊する。期間が長いと心が完全に破壊される。死にたい気持ちでさ迷い歩くというようなことになる。みんな、わかってないんだよね。けど、俺の場合、人生のなかでヘビメタ騒音が実際にしょうじたので、そういうことになる。ほかの人にはわからないだろう。ほかの人の人生のなかで、俺と同じレベルの長期騒音が発生しなかったから、わからない。どういう状態になるのかわからないと思う。ほかの人は、楽しめる状態で、旅先の道を歩き、ぷらっと、喫茶店によることができる。けど、ぼくの場合、それは、もうない。

 

喫茶店巡り

 さて、いちおう起きたわけだけど、どうするかな?

 さて、いちおう起きたわけだけど、どうするかな?

わりと、寒い。そして、さみしい。たとえば、1993年あたりもこんな感じだったなぁ。あのときのむなしさ……そのままだな。喫茶店巡りの本を、きゅうに買いたくなったけど、喫茶店に行くわけじゃないのだ。行ったところで、さみしい。ああっ、ダイヤ君。君と喫茶店巡り?をしていたころは、楽しかったぞ。それだけは……。長期騒音で、めちゃくちゃだったけど……。あっ、誤解を招くようなことを書いたけどダイヤ君と喫茶店に行ってた頃は1993年あたりじゃない。1993年というのは、だから……こうして、部屋のなかでさむい感じがしたときの記憶。ある雑誌の表紙に1993年……。ベッドの横にその雑誌を置いていた。だから、目に入っていたんだね。もう、1993年ですら大昔か。あれから、なにがかわったと言うのだ? まあ、いろいろかわったね。しかし、憂鬱なのがかわらない。ヘビメタ騒音で、だるくて憂鬱なのが、かわらない。




2022年12月3日土曜日

ほかの人たちは『わからなさ』がわかってない

 ほかの人たちが誤解をするのは、『きちがい兄貴の催眠術にかかっているような態度』や『きちがい親父の催眠術にかかっているような態度』だ。きちがい兄貴の『わからなさ』やきちがい親父のわからなさ』が、わからない。ほかの人たちには、まったくわからない。だから、ほかの人たちは『わからなさ』がわかってないので、「言えば、わかってくれる」と思ってしまうのである。しかし、無意識的なずれがあり、催眠術にかかっているような態度でやりきってしまう。そして、「やりきった」ということを、今度は、催眠術にかかったような態度で認めないということになる。で、それで、きちがい兄貴や、きちがい親父は、安定しているのである。やりきることができるのである。殺さなければ、これはかわらない。脳みその病気みたいなものなのだから。そして、きちがい兄貴やきちがい親父は、つねに、そうやって、きたないかたちで、「やりきっている」ということが、ほんとうにわかってない。よその人は、そういうことが、まったくわかってない。『わからなさ』の『わからなさ』がちがう。そうなると、凡人○○のような常識的な人が、俺のことを、バカにした発言をすることになるのである。自動的にそうなる。こいつはこいつで、ほんとうにまったくわかってない。バカだ。バカにバカにされるということになってしまう。きちがい兄貴にやられるということはそういうことだ。きちがい親父にやられるということはそういうことだ。

人を傷つけるとか、人に傷つけられるということを考えている

 人を傷つけるとか、人に傷つけられるということを考えているのだけど、やっぱり、どうしても、ヘビメタ騒音がでかい。これ、ほんとうに、でかい。でかさがわからない人たちが勝手に決めつけて、へんなことを言う。その人たちが信じていることを言う。それが、その人たちにとっては、なんともないことなのだけど、こっちには、こたえることなのである。腹がたつことなのである。「自殺するしかないか」と投げやりな気持になってしまうようなことなのである。

2022年12月1日木曜日

のび太の名言「社会構造はピラミッドではなくひし形だと思うんだ」について語ってみた

ひし形なのか、ピラミッド型なのかという問題についてちょっとだけ、語っておくかな? これは、どういうことかというと「ピラミッド型ではなくてひし形なのではないか」と言っている人たちは、底辺の人数を問題にしているのだ。ピラミッド型だと、底辺の人数が多いように思えるけど、実際には、ひし形で、底辺の人数は下に行くほど少なくなるのではないかと言っているのだ。ようするに、能力がない人は、じつは少ないのではないかと言っているのである。けど、実際には、ピラミッド型のイラストが示すように、底辺の人が多いような印象を与えると言っているのだ。これは、能力がないとか、能力の度合いがそのまま、底辺人口になっているはずだという誤解のもとに成り立っている。能力の度合いということを言えば、ノーマルカーブを描くようになるのだ。その場合、「ひし形」になる。上辺・中・底辺というわかけたをするのであれば、中がボリュームゾーンになる。ようするに、普通人のなかに入る人が一番多くなる。上辺は少数、底辺も少数、中が多数。なので、底辺は少数派で、底辺を多く見せかけるようなピラミッド型のイラストはおかしいという考え方なのだ。けど、これはまちがっている。ノーマルカーブを描くのは、能力で、底辺かどうかは貯蓄と収入の問題だ。ぜんぜんちがう。能力というのは、くわしくと言うと、能力の分布のことだ。能力の分布は、ノーマルカーブになるので、中(普通)が多くなる。「中辺」という言い方がないか、一般的ではないので、「中」と書いておいた。社会構造としては、ピラミッド型なのである。ようするに、能力分布で、「中」である人が、「底辺」になっている。

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社会構造を表現するのにピラミッドがよく使われるだろう?

あれによると最低?の人間が一番多くなるはずなんだけど

周り?を見てもぼくみたいな最低の人間はほとんどいないじゃないか

そもそも僕が大勢いたら、この世の終わりだよ

(ちょっと文字が読めないので、?をつけてみた)

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会社のピラミッド構造を考えた場合、

社長、部長、課長、係長、一般社員と、人数が増えていく。トップの社長はたいていの場合、ひとりで、底辺(最低)の一般社員が多数なので、ピラミッド構造と人数が合致している印象があるし、実際にそうなのだろう。

 

 
資産のピラミッド構造を考えた場合、
トップの超富裕者層が8.7万世帯で、最低のマス層が4.215.7万世帯なので、ピラミッド構造と人数が合致している。
 
ようするに、マス層のなかに能力が上辺の人間、能力が中間の人間が含まれている。ノーマルカーブを描いた場合の上位側が、マス層に含まれているので、のび太のように誤解してしまう。マス層はこの図のなかで最低だけど、個々人の能力は、最低というわけではない。ようするに、学校の成績みたいなものであらわすと、上の人間が、相当に含まれている。そして、中間層によって、このマス層が構成されている。もちろん、学校の成績で下の人間も含まれている。学校の成績というのが、じつは、ほんとうは価値があるかどうかわからない能力についてはかっているだけなので、もちろん人間の価値とは関係がない。学校の試験ではかれる能力というのは、自分にとって興味がないものでも、記憶できるかどうかということだ。これがメインで、あとは、常識テストということになる。はかりやすいものをはかっているだけなので、人間の全般的な能力をはかっているわけではなくて、人間の一部の能力をはかっているにすぎない。そして、はかりやすい能力が、人間の能力をあらわすかというとそうではない。これは、学問についても言えることだ。歴史的な出来事に関する思考能力が、試験範囲として決まっている範囲の知識テストではかれるかというと、はかれない。しかし、学校ではかれる能力が、まるで、人間の能力をあらわしているように思われているのである。のび太は、人間の能力的なヒエラルキーと社会構造的なヒエラルキーが一致しているはずだという前提に疑問をもっているわけだけど、これは、正しい。しかし、のび太は、人数的なヒエラルキーと社会構造的なヒエラルキーをごっちゃにしているのである。人数的なヒエラルキーを考えるなら、中間層の人数が多いに決まっている。そして、下と上は、それぞれ、人数的には少ないのである。なのであれば、のび太の考察があっていると思うかもしれないけど、それがちがうのだ。「人数」と「階層(構造的なヒエラルキー順序)」をごっちゃにしてはいけないのだ。階層(構造的なヒエラルキー順序)を考えるなら、下の人数が多くなる。しつこく書いておくと、「人数」だとそうなる。階層(構造的なヒエラルキー順序)のなかで、最低のなかに、能力的には「上」「中」「下」が含まれているのである。そして、人数的にボリュームがある「中」がもっとも多く含まれている。なので、のび太は、この点において誤解をしている。
 


 


 

 会社内でのヒエラルキー(ピラミッド)

2022年11月30日水曜日

幼稚園の騒音とおなじぐらいの騒音だと思っている

 みんな、ほんとうにわかってないんだよな。一日だけでも、ヘビメタ騒音がどれだけつらいかわかってない。幼稚園の騒音とおなじぐらいの騒音だと思っている……ところがある。他人にとってはそうなのだろう。幼稚園の騒音と兄貴のヘビメタ騒音と……たいして、区別してないのだろう。いや、まったく区別してないのだろう。エイリさんの話のなかに出てくる「ヘビメタ騒音」と自分が経験した騒音の区別もしてないのだろう。「ちがう」と言っているのに、ほんとうにわからないみたいだな。ほんとうに、わからないやつらだな。そうすると、佐藤のように「エイリさんは働けるけど働こうとしない」と理解してしまうのだよな。ヘビメタ騒音の影響を無視しているわけだから……。「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのにもかかわらず、こういう、あほな理解レベルにとどまる。とどまりつづける。基本、きちがい兄貴は、張本人で、ヘビメタ騒音のひどさとヘビメタ騒音の影響をまったく理解しなかったやつなのである。なので、「理解しない」という意味では、相似なのである。もちろん、きちがい兄がやったことであって、きちがいヘビメタ騒音とほかの騒音の区別しない人値がやったことではない。きちがいヘビメタ騒音レベルの騒音と、幼稚園レベルの騒音を区別しないやつら……。やつら……。ほんとう、やつら!! 区別しないやつらが、ヘビメタ騒音のえいょきうを認めないまま、へたくそな説教をしてくる。あとは、「元気だと言えば元気になる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」とか「ニコニコしていれば幸運が近寄ってくる」とか「人に親切にすればしあわせになれる」とか、そういう、あほなことを言ってくるやつが発生する。これ、それぞれにものすごく問題があることなのだけど、身近な他者……きちがい的な家族に、ずっとやられたことがない人には、まったくわからない。この人たちが言っている「不幸」とか「不満」というものは、まったくちがうものだ。きちがい的な家族によってもたらされることに関する「不幸」とか「不満」というのは、ちがうことなんだよ。そして、きちがい家族のもとに生まれるか、きちがい家族以外の家族のもとに生まれるかは、「まったくの偶然」「必然性のないもの」なのに、いちどきちがい家族以外の家族のもとに生まれると、きちがい家族のもとに生まれた人のことは、まったく、目線に入らなくなる。どれだけ、考えても、どれだけ想像しても、きちがい家族のもとに生まれた人のことは、考えることも想像することもできないのである。まあ、「考えた」とか「想像した」とは言うだろうけど、それはちがう。「想像した」と言っても、「想像できてない」。「考えた」と言っても「かんがえてない」。はっきりと、言える。けど、きちがい家族以外の家族のもとに生まれてきた人には、これも、まったくわからない。そして、「必然性がないもの」であるにもかかわらず、「必然性があるもの」であると考える人たちもいる。この人たちは、自分は、もう、そういう学びが必要ではないものとして、自分のしたに「きちがい家族のもとに生まれてきた人たち」を置こうとする。そういうことが、傲慢な試みなのに、この人たちは、まったくわからない。「魂が選んで、そういう家族のもとに生まれてきた」「子供は親を選んでいる」というのが、彼らの主張なのである。主張というよりも、信念と言ったほうがいい。これは、単なる宗教的な信念なのに、「科学で証明された」「絶対の宇宙法則である」と言って、単なる宗教的な信念だということを認めない。「信念」ではなくて「真理」なのである。「信念」ではなくて「事実」なのである。そういうことが、どれだけ、ほかの人を傷つけるか、……きちがい家族のもとに生まれてきた人を傷つけるか、彼らは、わかってない。わかってないけど、自称、高次元人なのだ。5次元人、7次元人、9次元人……。この人たちが、妄想的な信念で、勝手に決めつけて、ほかの人……その人たちにとって他者である……きちがい家族のもとに生まれてきた人たち……を……傷つける。

現状維持

  現状維持のままだと、いつか破綻してしまうなぁ。家が、ネズミの侵入をうけなければ、どうにかなってたんだけどな。もう、ここはだめだろう。なので、いつかは引っ越す必要があるのだけど、エネルギーがないのだ。ぼくのほうのやる気がない。しんどい。感情エネルギーをごっそり、もっていかれたからなぁ。ヘビメタ騒音と音源であるきちがい兄貴とのトラブルとヘビメタ騒音後の他人とのトラブル……さらに、きちがい親父と、きちがい親父がったことからしょうじるトラブル……こういったものが、ぼくの感情を、ごっそり、ぬきとってしまった。やる気がないんだよ。

きちがいヘビメタ騒音なしで普通に暮らしたかった

 つまんない。つまんない。

どーーするんだ?

ヘビメタ騒音で人生がない。きちがいヘビメタ騒音なしで普通に暮らしたかった。普通にデートをしたかった。ヘビメタ騒音「あり」だとだめなんだよ。楽しい気分でデーというのがない。そういうことじゃないんだ。これ、ヘビメタ騒音に……あのヘビメタ騒音に……俺とおなじぶんだけ、俺の部屋でたたられた人じゃないと、わからないんだよな。どれだけ、説明したって、わからない。デートぐらいできるだろと思ってしまう。けど、デートだってできないし、長くつきあっていれば、「ヘビメタ騒音が原因で」わかれることになる。これも、「ヘビメタ騒音が原因で」というところがわからないと思う。これは、プロセスとしてある。親友とも友達とも、けっきょく、ヘビメタ騒音が原因で、いやなわかれ方をしている。たぶん、女の子でもおなじだと思う。これ、ほんとう、全体のプロセスを経験した人じゃないとわからないんだよな。ただ単に「鳴っているときだけ、うるさい」と思っている。そうじゃないんだよ。全部、台なしになる。この「全部台なしになる」という考え方はイ・ラショナルな考え方ではない。これも、わかってないだけなんだよな。生活の全部がおかしくなる。生活の全部が影響をうける。

2022年11月29日火曜日

「不満を言う人はトラブルに遭遇しやすい」

 たとえば、きちがいやくざばかりが、歩いている道を歩く場合と、善良な人ばかりが歩いている道を歩く場合と、どっちがトラブルが生じやすいかということについて考えてみた場合、きちがいやくざばかりが歩いている道を歩いたほうが、トラブルが生じやすいということになる。トラブルが生じれば、不愉快になり不満をもつ……これは、正しいとする。トラブルが一回生じた場合、一回不満がしょうじるとする。その場合、きちがいやくざばかりが歩いている道を歩く人は、不満が生じやすいということになる。これは、その人の性格の問題ではなくて、まわりの他人が、きちがいやくざだからそうなるのである。ようするに、歩いている人がみんな、きちがいやくざだから、トラブルがしょうじて不満になるのである。この場合は、その人の性格ではなくて、きちがいやくざの性格の問題だ。手短に言うとそうなる。しかし、たとえば、「不満を言う人はトラブルに遭遇しやすい」というふうに言ってしまうと、きちがいやくざばかりが歩いている道だということが、捨象されてしまう。つまり「不満を言いやすいかどうか」という一項目と、「トラブルに遭遇しやすいかどうか」という一項目の、関係にだけ注目することになる。「不満を言う人はトラブルに遭遇しやすい」という二項目文のなかには、その人がもっている環境が出てこない。きちがいやくざばかりが歩いている道を歩いているのか、善良な人ばかりが歩いている道を歩いているのかは重要な要素なのである。それが、じつは、「不満を言うの回数」と関係しているのだから、無視していいわけがない。ところが、二項目文が好きな人というのは、そういうことを、無視してしまうのである。

2022年11月28日月曜日

自分は定年まで何十年間も働いたから、もう働かなくてもいい

 老化を理由に働かない人がいるけど、老化を無視すれば、その人が働かないということは、納得ができないことになるのである。「人間は働くべきだ」と考えているなら、そうなる。

しかし、自分は、老化すると、老化を理由にして働かないということを選択するのである。矛盾している。けど、矛盾しているということ自体に気がつかない。

「自分はもう何十年も働いたので、働かなくていい」ということを言う人がいる。その人が、「過去は関係がない」ということを主張するのであれば、その人は、矛盾したことを言っているということになる。

けど、これも、まったく気がつかないんだよなぁ。

ようするに、「定年退職するまで働いたなら、働かなくてもいい」という主張をもっていて、なおかつ「過去は関係がない」という主張をもっているなら、その人は、相互に矛盾した主張をもっていることになる。「定年まで働いた」ということは、過去の出来事なのである。

過去が関係ないなら、「定年まで働いた」という過去の出来事は関係がないということになる。その人が、「人間は働くべきだ」という主張をもっているなら、その人が老人になっても、働いていなければならない。ところが、自分は定年まで何十年間も働いたから、もう働かなくてもいいと考えるのであれば、矛盾している。

いいかげん、気がつけ。

こういう矛盾した考え方を複数かかえている人たちが、いる。その人たちが、若い男性には「人間は働くべきだ」と説教をするのである。これは、矛盾している。矛盾している。いいかげん、気がつけ。いいかげん、気がつけ。

ほんとうは、ぼくを侮辱している

 きちがいヘビメタ騒音のひどさというのがわかってないんだよな。ほかの人たちにはわかってない。だから、勘違いした発言をする。あんなのに、ずっと、何年間もさらされていたら、働けないからだになるに決まっているのに、それがわからない。どうしてかというと、実際にさらされたことがないからだ。自分のからだをとおして、ヘビメタ騒音のひどさを感じたことがない。きちがいヘビメタ騒音の音圧を感じたことがない。きちがいヘビメタ騒音を鳴らしている人のきちがい的な態度や感覚にふれたわけではない。実際に、鳴らされると、どういう一日になるかわからない。実際に鳴らされると、どういう一週間になるかわからない。実際に鳴らされると、どういう一か月になるかわからない。実際に鳴らされるとどういう一年になるかわからない。実際に鳴らされると、どういう一生になるかわからない。みんな、わかってない。そして、ヘビメタ騒音の効果を過小評価したり無視したりする。そして、勝手な思い込みで、判断して、えらそうなことを言ってくる。

こういうことも、ヘビメタ騒音が十数年間も毎日つみかさなったことの「効果」だ。人生上の効果だ。だって、ほかの人は、そういう経験がない人ばかりなのだから、勝手な思い込みで、「ヘビメタ騒音の影響はない」と判断して、いろいろなことを言ってくることになる。そいつは、ほんとうは、ぼくを侮辱しているのだけど、侮辱しているということには気がつかない。どうしてかというと「ヘビメタ騒音の影響を認めない」からだ。たとえ、ヘビメタ騒音がどれだけなっていたとしても働けると考えている人は、人間は働くべきだから、エイリさんも働くべきだということを、普通に、悪意なく、言ってくる。しかし、これは、誤解に見ている行為なので、悪辣な行為なのである。

AさんとBさんがいるとする。Aさんがある病気にかかったとする。Bさんは、たとえ、ある病気にかかったとしても、働けると考えているとする。その場合、Bさんは、Aさんが働けるのに働かないと、自動的に判断するようになる。だから、Bさんは、Aさんに働くように言う。BさんはAさんの病気の効果を無視している。そこが問題なんだよ。



 

2022年11月26日土曜日

「飢え死に」でおどして、働かせようとする社会がおかしいとは思わないか?

 基本的なことを言ってしまうと、やはり、仕事をしないと飢え死にしてしまう社会というのは、おかしい。そういう社会は、社会として、よくない社会だ。

まず、これを理解しないと、話にならない。

で、こういう理解をさせないように、支配者側ががんばっているのである。一般の人がこういうことを理解してしまうと、支配者側の人にとってめんどうなことになるのである。

なので、全力で、そういう理解をさせないようにする。そして、「人間は働くべきだ」という道徳観を育てようとする。

これは、悪魔の支配している社会の構造だ。

そもそも、富の偏在がおかしいのである。

富の偏在は、異常なレベルに達している。

いかに富の偏在があるのにしろ、限度がある。

そして、その限度を超えてしまっている。

だから、奴隷労働をしなければならないのである。支配者層ではない人は奴隷労働をしなければ生きていない社会なのである。 そして、生活保護などの社会制度は、じつは、こういう支配を補完してしまう。まあ、外国人によって、日本が支配されていて、なおかつ、外国人は生活保護をもらいやすいけど、日本人は生活保護をもらいにくい状態が成り立っている。

けど、「そんなのは、社会制度で補完すればいい」という考え方では、だめなのだ。これは、慈善団体とか寄付の問題に直結している。一見、道徳的に正しいように思える制度や活動が、じつは、悪魔が支配する制度や活動のなかに「うめこまれている」。

富の偏在をただせば……「働かなくても、飢え死にしない社会」をつくれる。もう、そういうレベルになっている。そして、「働かなくても、飢え死にしない社会」をつくれば、「働かなくても、飢え死にはしないけど、働く」といった場合の労働と「働かないと、飢え死にするから働く」といった場合の労働が、完全に異なることに、人々は気がつくだろう。

「飢え死に」でおどして、働かせようとする社会がおかしいとは思わないか?

しかも、「おどし」ではなくて、現実にあることだ。おかしいだろ。こんな社会。

2022年11月25日金曜日

ぼくがこの世で感じてきたこと

 このさき、どうするかな? やっぱり、気分というのはある。そして、ぼくがこの世で感じてきたことというのは、きちがい親父がもとになっている。頭がおかしい親がいるということが、幼児にとってどういうことなのか、理解できる人は少ない。ほんとうに、頭がおかしい親というのは、頭がおかしい人にしかわからない理由で、一日中、怒り狂っている。いっしょに生活している限り、そういう人を無視して生活するということは、できない。幼児にはできないし、小学生にだってできない。かかわってしまったら、かならず不愉快な思いをするという存在が、父親なのだ。これは、地獄だ。ぜんぜん、わかってない。これも、わかってないんだよな。そりゃ、人間だから、頭がおかしいとは言えない親とだって、全部が全部うまくいくということはない。しかし、本質的に、頭がおかしい親と頭がおかしくない親は、ちがうのである。なので、影響もちがう。ちがうということが、頭がおかしくない親に育てられた人にはわからない。だから、ヘビメタ騒音とおなじで、見当はずれなこと、を言うんだよな。アドラーなんて特にそうだ。こういうレベルの理解力しかないのである。他人のことに関して……特に、きちがい的な親にやられた人のことに関して、こういうレベルの理解力しかない。これは、39度のお湯につかっている人間が、1度の水につかっている人間の状態がわからないのとおなじだ。なんとなく、「つめたいつめたい」と言っているのはわかる……。けど、1度の水につかったことがないので、からだの状態がわからない。1度の水につかっている人間に対して、39度のお湯につかっている人間が、1度の水につかっているということはたいしたことじゃないと思って、まったく見当はずれなことを言いだすのだ。「わかっている」と言って、見当はずれなことを言いだす。まるでわかってないことを、言い出す。39度の湯につかっている人間にとっては、まさしく、それが現実なので、そういう判断しかできない。39度の湯尾につかっている人間が、1度の水につかっているということを「想像」して、言っているだけ。「想像」して、「たいしたことがない」と言っているだけ。「そんなのは、気にしなければいい」「つらいと言うから不幸になる」「不幸な人はみんなつらいつらいと言っている」「トラウマはない」「影響をうけないという決心をすれば影響をうけないですむ」……どれだけ、的はばれなことを言っているのか、本人は気がつかない。

2022年11月24日木曜日

その「勝手なこと」は、その人にとって重要なことだ。

 ヘビメタ騒音に数千日にわたってやられたことがない人に、どれだけ「朝の憂鬱」ということを言っても、だめなんだよね。わかるわけがない。自分が数千日にわたって、毎日、六時間四五分から一三時間一〇分、自分がこの世で、一番嫌いな音を、至近距離で鳴らされたという経験がない人が、どれだけ、考えてもわからないことだ。影響のでかさがわからないのである。彼らの理解力は「鳴ってた」ということだけだ。自分が経験してないので、それがどういう意味をもつかわからない。これは、もう、猿が人間の気持ちを理解できないというのとおなじだ。まあ、経験がないからわからないだけで、別に、猿並みの能力だとは、言わないけど、そのくらいに、わからないことなのだ。経験がない……想像して考えるしかない……ということであれば、想像力がない人間は、かならず、過小評価する。「ぜんぜん、わからない」わけだから。そうすると、ヘビメタのことを聞いたあとに、ヘビメタのことを無視して、自分の信念について、自動的に語りだすのである。たとえば、「人間は働くべきだから働くべきだ」「その年で働いてないのは、おかしい。みっともない」と、猿並みの理解力で語りだす。こういう、レベルだ。こういうレベルの人間が九九%いる世界だ。自分が鳴ってみなければわからない。自分が経験してみなければわからない……。ほんとうにわかっているとは言えない。その場合、きちがい家族がいる人のほうが少ないわけだから、当然、大多数は、『きちがい家族やられる』経験がない。気ちがいではない家族にやられた経験はあるかもしれないけど、きちがい家族にやられた経験はない。きちがい家族が、どういう行動をするか、ほんとうにはわかってない。きちがい家族が、どういう感覚をもっているのか、外部的にもわかってない。この外部的というのは、そのきちがい家族の行動を考えると、そういう感覚をもっているのだろうということを推測するしかないという、人間の限界を示している。そりゃ、態度にあらわれたもの、発言されたものを考えるしかない。そいつの頭のなかなんて、どうなっているか、わからない。直接、内部の動きを観察できない。だから、外部にあらわれた行動や態度をとおして、内部の感覚を推測するしかないのである。まあ、そういうことが、問題になるのは、きちがい家族だからだ。相手がきちがい家族で、きちがい家族が、きちがい家族の感覚に基づいて、きちがい行動を毎日、つねにするからだ。感覚としては、二四時間中二四時間続いているのだから、つねにスイッチが入っている状態なのだ。そして、きちがい家族が、まわりの人のことはまったく考えないで、自分がやりたいことをやって、自分が感じたことをアクティングアウトしてしまうと、まわりの人は、迷惑をこうむることになるのである。こういうことも、普通の人にはわからない。きちがい家族と一緒に住んでいる人でないと、わからない。わかるわけがないのだ。まわりの人と書いたけど、これは、もちろん、家族のメンバーのことだ。きちがい家族のまわりにいる別の家族のメンバーのことを意味している。

ともかく、まあ、きちがいヘビメタ騒音に実際にさらされたことがない人は、自分の経験に基づいて、勝手に、自動機械のように、感想を言う。その感想が、ことのこどく、まちがっているのだ。どうして、ことのこどく、まちがっているかというと、前提がちがうからだ。この日たちの前提には、ぼくが実際にやられたことが含まれてない。この人たちの理解のレベルで、「騒音が鳴っていた」ということを理解しただけだ。そんなのは、まったく理解してないのと同じどころか、マイナスだ。マイナスの理解をしている。マイナスの理解をして、勝手なことを、語りだす。けど、その「勝手なこと」は、その人にとって重要なことだ。たとえば、佐藤にとっては「人間は働くべきだ」というのは重要なことのなのである。ユキオにとっては「三五歳なら、働いているべきだ」というのは、重要ことなのである。それをしてないというのは、ゆるせないという感情が発生する。経験がないから、そういう発言ができる。自分が経験したことじゃないから、そういうふうに言える。こいつらが、実際に、俺とおなじぶんだけ、毎日、自分の一番嫌いな騒音を、聞かされたわけじゃない。その音の音源が家族だということの意味がわかってない。経験をとおしてわかってない。騒音の問題は、騒音だけの問題じゃないのである。鳴っているときだけうるさいと感じるから、問題があるということではないのだ。けど、それが、からだでわかってない。経験をとおして理解しているわけではない。そうなると、「どれだけ前の日騒音が鳴っていたからと言って、遅刻するのはおかしい」ということになる。「鳴り終わったら、関係がないから、眠れるはずだ」ということになる。「そんなのは、あまい」「そんなのは、いいわけだ」と、発言する。それは、経験がないからわかってないだけなのである。けど、そういうのは、こちらにとっては、侮辱的な発言に思えるのである。実際、侮辱的な発言なのである。そして、こういうトラブルが発生したとしても、当の音源である「きちがいあにき」は、その場にいないのだからわからない。そして、「こういうトラブルがあったから、しずかにしてくれ」と言われても、きちがいレベルではねのけて、理解しないのである。こんなのもの、何十万回、言われても、理解しない。けど、きちがい兄貴がそういう存在だということが、これまた、「鳴り終わったら、関係がないから、眠れるはずだ」「そんなのは、あまい」「そんなのは、いいわけだ」と、発言する人には、まったく理解できないことなのだ。そういう家族が、身の回りにいないから、自分の経験の範囲外のことなのだ。ようするに、そういうきちがい家族がいないので、実際のきちがい家族の「感覚」や実際のきちがい家族の「態度」がわからない。経験をとおして、きちがい家族がどういう感覚で、どういう態度で、そういうことをするのか、まったくわかってない。だから、そういう人たちにとっても、きちがい兄貴の態度は理解しがたいものなのである。

2022年11月23日水曜日

パソコン関係のこと

 パソコン関係のことは、もうなんか「おわった」感じがある。人間のなかにナノチップを入れてしまうような勢力がある時代だからなぁ。このナノチップを、はこぶためのナノディバイスやほかの目的をもつナノディバイスも入れてしまうような勢力がある時代だからなぁ。なんか、パソコンとか、コンピューターがいやになってしまったところがある。まあ、この文章は、パソコンを使って書いているわけだけどさぁ。ともかく、パソコンが輝いていた時代が終わってしまったわけ……ぼくのなかで終了。そして、デザイン関係のことも、AdobeがDS企業なので、なんか、憂鬱になってしまうのである。Adobeの3D製品の広告が、いやなんだよね。

だから、まあ、パソコンが輝いていた時代が終わってしまったわけ。これは、でかい。デザインや3Dには夢があったわけ。けど、その夢が、なんか、しぼんだ。ぼくのなかで、しぼんだ。しぼんだら、もうだめだ。

 

2022年11月22日火曜日

そいつは、そういう前提で、ものを言う

きちがい兄貴が普通の兄貴で、でかい音をでかい音だと感じることができる人だったら、こんなことになってないのである。ぼくの人生はまったくちがっていたのである。きちがい兄貴は、ヘビメタを鳴らしているということを気にしてなかった。でかい音で鳴らしているということを、まったく気にしてなかった。こだわってなかったつもりでいるのである。こだわってないなら、鳴らさなくても平気だ。どれだけゆずっても平気だ。一日二十四時間中、一日二十四時間ゆずったって、まったく気にしないはずだ。けど、一秒だって、俺の言うとおりに鳴らすのは、いやだったのである。普通の音……人が話す声ぐらいの音で聞けばいいのに、絶対に、人がどれだけでかい声を張り上げても出せないようなでかい音で鳴らさなければ、気がすまなかったのである。一秒だって、ゆずりたくなかったのである。ゆずりたくないので、それを、通した。また、きちがい兄貴ではなくて、普通の人は……この問題人関係がない普通の人は、きちがいヘビメタ騒音のことなんて知らないし、気にしない。だから、そういう意味で、僕の身にきちがいヘビメタ騒音が降りかかっていたとしても、そんなのは、関係がないことなのである。普通の人は、俺の身の上にふりそそいだ、きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音のことなんて、まったく関係がないから、まったく気にしないのである。聞いたって、そんなのは気にしないのである。けど、きちがい兄貴が一分間、きちがい兄貴が満足できるでかい音でヘビメタを鳴らすと、ぼくが気にしないように、どれだけがんばっても、ものすごい影響をあたえる音だったのである。きちがい兄貴も、気にしない。普通の人も……気にしない。俺は気にする。だから、俺が気にしているというとが、悪いことになってしまうのである。普通の人だって、きちがい兄貴がいて、そのきちがい兄貴が、きちがい兄貴の満足できる音でずっとヘビメタを鳴らすと、気になるはずなのである。一〇時間鳴らされれば、一〇時間鳴らされた影響をうけるのである。不可避的に、一〇時間分の影響をうける。それは、鳴り終わった一〇時間と一秒目だってかわらないのである。一秒たてば、どれだけうるさい音で一〇時間鳴らされていても、影響がないのである。どうしてなら、そんなのは、過去のことだからだ。過去のことには影響をうける必要がないので、影響をうけないのである。あるいは、影響をうけるような気がしていたとしても、『影響をうけないぞ』という強い意志をもてば、影響をうけないからだですごすことができるのである。そいつの想像のなかでは、一〇時間鳴らされたあとに……あのきちがの音に一〇時間さらされたあと……一秒でもたてば、影響がなくなるから、「眠れない」などということはないのである。眠れないのは、自己責任。そんなのは、気にするやつがいけない」「気にするからダメなんだ」「影響をうけないという強い意志をもでは影響をうけないで眠ることができる」……こういう、無慈悲な、想像をする。こういう想像ができるのは、そいつが、きちがいヘビメタを一〇時間浴びてないからなのである。別に、そいつが、強い意志をもっていたから、俺とおなじように俺の部屋にいて、きちがいヘビメタ騒音を浴びせられたけど、気にしないで眠ることができたというわけではないのである。けど、実際にそういうことが人生中で発生しなかったので、そいつは、そういう前提で、ものを言う。

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2022年11月20日日曜日

みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態をめざしましょうよ。

 20度ぐらいの水につかっている人が、「俺だってつめたいと感じることはある」と1度の水につかっている人に言うんだよね。「だれだって、つめたいと感じる」「けど、俺は、がんばって、バスタブのなかから出ないでつかっている」「つめたいから、いやだなんていうのは、あまえだ」「ちゃんとつかってないダメだろ」……こんなふうに、20度の水につかっている人が、1度の水につかっている人に言う。

けど、1度と20度ではちがう。ぼくは、意図的に、室温にはふれてこなかった。風呂場の室温については、言及してこなかった。これは、意図的に言及しなかっただけだ。たとえで言うのなら、39度のお湯につかっている人だって、室温が低ければ、「さむい」と感じることがある。

けど、それなら、39度のお湯につかっていることと1度の水につかっていることは、おなじなのか?

ちがうでしょ。

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20度の水につかっている人が、1度のみずにつかっている人の側に立たずに、つねに、39度のお湯につかっている人の側に立つのだ。

そして、39度のお湯につかっている人が言いたいことを、言う。

「俺だって、つめたく感じることがある」「それなのに、なんだ」「つめたいつめたいと愚痴を言いやがって」「あったかいあったかいと言えば、あったかく感じる。これは事実だ。科学的証明された事実だ」と20度につかっている人が言いやがる。

つねにつねに、20度の水につかっている人は、39度側に立って、ものを言う。39度のお湯につかっている人よりも、20度の水につかっている人のほうが、1度の水につかっている人に、そういうことを言いやすい。

実際、20度だと「つめたい」と感じることはあるからなぁ。

「俺は、がんばって、逃げないでつかっている」「俺は愚痴を言わないで、つかっている」「俺は、あったかいあったかいと言ってつかっている」「あったかいあったかいと言ってつかっていればいいのに、つめたいつめたいと愚痴を言って……。愚痴を言うからつめたく感じるんだ。なんでも受けとめ方の問題だ」と言って、1度の水につかっている人を、せめる。

20度の水につかっている人が、1度の水につかっている人を、道徳的にせめる。「社会道徳がない」「常識がない」「がまんがたりない」と言ってせめる。

けど、1度の水につかっていることと、20度の水につかっていることは、ちがう。からだの反応がちがう。こいつらは、みんな、カラダの反応を無視して、1度の水につかっている人に説教をしだす。

こういう状態は、風呂場にはいない、もっともっと、すごくいい生活をしている人たちにとっては、好都合だ。そういう状態のほうが、制御しやすいのだ。管理しやすいのだ。

いま必要なのは、みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態だ。それなのに、1度の水につかっている人をせめまくる。「文句を言うな」「不満を言うな」「文句を言うから不幸なんだ」「不満を言うから不幸なんだ」「不幸を引き寄せている」「なんだっふ、感謝感謝だ」と言う。

けど、1度の水につかっている人が、すべてのことに感謝をしたとしても、1度の水につかっている人はつらいままなのだ。「感謝感謝」などとふるえながら言っているうちに死んでしまう。1度の水につかっている人が、1度の水につかれるという状態に感謝をしても、1度の水につかっている人の「つらい状態」はかわらない。

それを「感謝感謝」と言えば、かわると言うのだ。39度のお湯につかっている人は……そして、20度の水につかっている人は……。かわらない。それから、20度の水につかっている人は、つめたいと感じることがあるかもしれないけど、それは、1度の水につかっている人が感じるつめたさとはちがう。

けど、「つめたさがちがう」と言えば、怒りだす。1度の水につかっている人が20度の水につかっている人に「つめたさがちがう」と言うと、20度の水につかっている人は、怒りだすのだ。「そんなことはない」「だれだってつらい」「不満を言うな」「泣き言を言うな」と言って、きれる。

こんな状態がいいわけないでしょ。みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態をめざしましょうよ。

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2022年11月19日土曜日

「どんな仕事でもしたほうがいい」ということを言うやつ

 「どんな仕事でもしたほうがいい」ということを言うやつがいるけど、それは、「どんな風呂でも入ったほうがいい」ということとおなじだ。1度の水風呂だって、風呂なんだから、入ったほうがいいのだ。

そして、そういうことを言うやつは、別に、1度の水風呂に入るわけではないのだ。言われたほうが、1度の水風呂に入ることを推奨されている。すすめられている。

「心配して言っている」ということになっているみたいだけど、1度の水につかったあとのことは心配しないのか?

1度の水につかったら、たいへんなことになってしまうだろ。時間がたてば死ぬだろ。

なんで、そういうことを言うのか?

そういうことを人に言ってやつが、退職する。老後の生活を楽しんだりする。

「どんな仕事でもしたほうがいいよ」と言ってやりたい。

もう、つかれた。

 もう、つかれた。

ものすごいつかれがおそってくる。あーー。こんなの、意味がない。 

「ゆめがやぶれた」状態

  まあ、いろいろと、「ゆめがやぶれた」状態で、楽しくはない。これで、神田神保町に行けば、楽しいかというと楽しくない。リフレッシュできるのかというと、リフレッシュできない。まあ、そこらへんが、普通の本好きとはちがうんだよね。なんでリフレッシュできないかというと、ヘビメタ騒音の影響でリフレッシュできない。なんで、楽しくないかというと、ヘビメタ騒音の影響で楽しくない。

2022年11月18日金曜日

おもしろくない

  買い物に行くと気分が晴れるかというとそうでもないんだよな。シェディングの問題があるから、あんまり、いい気分じゃない。歩いていても、ヘビメタ騒音の影響があるので、気分的に、おもしろくない。破滅のなかを歩いているんだよ……。ヘビメタ騒音でめちゃくちゃ。

 

カラダが反応する。この反応は、現実だ。

 精神論をぶちまけるやつというのは、「その人の状態」を無視しているんだよね。「そんなの関係がない」と言う。なんのことを言っているかわからないと思うので、もうちょっと詳しく説明しておこう。

たとえば、1度の水につかっている人の「カラダの状態」と、1度の水につかっている人が「つらい」と言ったということを、わけて考えるとする。1度の水につかっている人にとって、ほんとうに問題なのは、1度の水につかっているということなのだ!

これが、わかってないんだよね。

1度の水につかっていれば、人間のカラダは、1度の水につかっているときの反応をする。これは、「意志」の問題ではない。「おもいよう」の問題ではない。カラダが反応する。この反応は、現実だ。

ところが、39度のお湯につかっている人にとっては、「現実」ではない。さらに、生まれてからずっと39度のお湯につかっているとにとっては、経験したことが一切合切ない、「現実」だ。だから、39度のお湯につかっている人にとっては、1度の水につかっている人のカラダの反応は、経験をしたことがないものであり、そういう意味で「架空の話」だ。

「想像」するしかないことだ。

けど、「つらい」というような日本語は通じるものとする。

そうなると、「カラダの状態」と「つらいと言った」ということが、不可分なものとして認知されるのだ。39度のお湯につかっている人にとっての現実というのは、1度の水につかっている人が「つらい」と言ったということだ。

いっぽう、1度の水につかっている人の現実というのは、1度の水につかっているから、カラダがそういう反応をするということだ。カラダがそういう反応をするので、「つらい」という言葉を発したということだ。

これは、ふたつとも現実だ。意志に関係なく、反応が起こっている。反応の結果について「つらい」と言っただけだ。「つらい」と言ったことが「すべて」ではないのだ。39度のお湯につかっている人にとっては「(1度のお湯につかっている人が)つらいと言った」ということが現実だ。

39度のお湯につかっている人は、39度のお湯につかっているので、39度のお湯につかっている場合における「カラダの反応」が起こっている。それは、「つらい」と表現できるものではない。もちろん、全身やけどをしていれば、39度のお湯でもつらいと表現するかもしれないけど、そういうことは、捨象しておく。

39度のお湯につかっている人の現実は、1度の水につかっている人の現実ではない。39度のお湯につかっている人の「カラダの反応」は、1度の水につかっている人の「カラダの反応」ではない。……ではない。……ではない。……ではない。

*     *     *

ぶっちゃけ、「人間にとって労働とは……」と精神論を語りだすやつらがいる。こいつらは、全員、ヘビメタ騒音がなかったやつらだ。俺にとってみれば、39度のお湯につかっているやつらが、1度の水につかっている俺に対して「人間にとって入浴とは……」と語りだしたようなものだ。まったく、意味がない。むしろ、有害。こういう、害虫みたいなやつら、どうにかならないかな? こいつらの人生のなかで、きちがい兄貴の夜きちがいヘビメタ騒音が発生したら、一発でわかることなのに、どれだけ俺が説明をしても、こいつらはわからない。こいつらは「ヘビメタ騒音の影響」を無視する。だから、わからない。「ヘビメタ騒音」は「1度の水」とおなじだ。ヘビメタ騒音が鳴っていれば、「カラダが反応する」。これは、人間のからだをもっていれば、そういうふうになるという反応だ。言っておくけど、「音」ではなくて「騒音」だから。その人にとって「騒音」であるということは、その「音」を不愉快に思っているということなんだよ。だから、『ヘビメタ騒音が鳴っていれば、「カラダが反応する」』という文は、正しい。まあ、これ、「音」と「騒音」のちがいについて述べたけど、こういうことも、ほんとうは、ここで言うようなことじゃない。ともかく、ヘビメタ騒音の影響をかたくなに否定するやつらがいる。「そんなのは関係がない」と言うわけだ。なにと関係がないかというと、ぼくが通勤して働けないということとは関係がないと言うのだ。あほとしか言いようがない。関係がないわけがないだろ。こいつら、ほんとうにくさっている。頭がわるいから、想像力がかけている。あるいは、性格が悪いので、「ヘビメタ騒音の影響」を無視している。人間のからだがそういうふうにできているというとを無視して、精神論をぶちまける。精神論をぶちまけるくそ! こいつらが、語る「哲学」や「思想」になんの意味があるのか? こいつらが、語る「心理学」や「発達障害論」になんの意味があるのか? こいつらが、語る「経済学」や「労働論」になんの意味があるのか? ヘビメタでできなくなったと言っているだろ。日本語!わかる?

ほんとうに、くさりきっているなぁ。

人体の、不可避的な、反応なのに……それを無視して、勝手な精神論を展開しやがって。ぶちまけやがって。説教をしやがって。こいつらだって、おなじぶんの騒音を、おなじ期間、あびせられれば、人体が、不可避的な反応をして、「朝、起きられなくなる」のに、それを無視して、「起きられる」という前提で、説教をする。「俺だって、朝、つらいときがある」と言えば、俺における騒音体験を、否定できると思っている。頭がわるいなぁ。悪すぎる。とりあえず、説教をする人を「説教男」とする。その場合、「エイリのつらさと、説教男のつらさ」ちがうんだよ。「の」が連続するけど「エイリの朝のつらさ」と「説教男の朝のつらさ」はちがう。どうしてかというと、説教男は、エイリとおなじぶんだけ、ヘビメタ騒音に相当する騒音にさらされたわけではないからだ。1度の水につかっているのと39度のお湯につかっている人の、からだの反応がちがうように、ちがうのである。それを無視して、勝手なことを言いやがって……。それで、「いいことを言った」つもりになっているのか? ほんとうに、くそバカ。ありえないほど、くそバカ。

これで、「現実」と「架空」がいれかわってしまう

 ヘビメタのことが、俺以外、みんな、だれも、わかってない。だれも、わかってない。ほかの人の身の上に、起きたことじゃないからなぁ。実際に、経験してみないとわからない。ヘビメタ騒音の一日が、どういうものかわからない。ヘビメタ騒音一日を経験したあとの、次の一日がどういう一日であるかわからない。わからない。これ、みんな、俺以外、「鳴り終われば、それで効果が消失する」「鳴り終われば、関係がない」と思っているんだよな。そんなことであるわけがないだろ。そして、何回も言うけど、ヘビメタ騒音のなかで、勉強ができない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音のなかでは、勉強ができない。きちがいヘビメタ騒音が鳴り響いているなかで、怒り狂っているだけだ。とても、からだに悪い。脳みそに悪い。影響が、次の日まで残る。なかなか、眠れなくなる。ずっと、「眠るべき時間」に起きていることになる。その「眠るべき時間に起きている」ということが、次の日に影響をあたえる。これも、「鳴り終わったのなら眠れるだろう」ときちがい兄貴のような性格の人間に、ずっと横で鳴らされたことがない人には、わからない。わからないから、筋違い、見当違いのことを、言いやがる。そして、きちがいヘビメタによって、その見当違いのことを言う人のほうが、ぼくよりも、立場が高いということになってしまう。その筋違いのことを言う人のほうが、ぼくよりも、学歴があるということになってしまう。これは、ヘビメタ騒音によって押し出されたことだ。鳴ってなかったら、ちがう。ぼくのほうが学歴があるし、ぼくのほうが立場が高いということになる。ヘビメタ騒音がなければそうなっていた。けど、これも、ヘビメタ騒音が鳴っていたので、ヘビメタ騒音が鳴ってなければそうだったというようなことは、負け惜しみにしか聞こえないということになる。これも、ヘビメタ騒音によって押し出されたことだ。ぼくとおなじヘビメタ騒音生活をして、ぼくよりも、前に出れるやつがいるかよ? きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタ騒音鳴らしたので、それが現実になって、鳴らさなかった場合の話は、すべて、「架空」の話になってしまう。普通の人が絶対に経験しないようなヘビメタ騒音を毎日鳴らされた俺の現実は、ほかの人にはわからない。それが及ぼす効果が、経験としてわからない。全部が全部、架空の話になってしまう。けど、きちがい兄貴というレアな存在がいなければ、ぼくもその、ヘビメタ騒音がない普通の生活を送ることができたのである。なにが、まけおしみだよ。ぜんぜん、ちがうじゃないか。きちがい兄貴というレアな存在がいたのかいないのか、これで、「現実」と「架空」がいれかわってしまう。きちがい兄貴が存在した世界では、きちがい兄貴が存在しない普通の生活が、すべて、「架空」の話になってしまう。そして、ぼく以外の他者にとっては、それは、「架空」の話なのである。最初から……。最初から、架空の話だ。それなら、好き勝手なことを想像して、好き勝手なことを言うことができる。たとえば「影響をうけないことは可能だ」と言うことができる。実際に、やられなかったからな。「架空」の話だからな。

2022年11月17日木曜日

個人がかわるべきではなくて、社会がかわるべきなのである

個人がかわるべきではなくて、社会がかわるべきなのである。まず、社会がかわるべきだと言っているだろ。まず、社会がかわらなければ、意味がない。いまの状態というのは、39度のお湯につかっている人が、1度の水につかっている人に対して「つめたいと言うから、つめたく感じる。あったかいと言えば、あったかいと感じる」と言っているような状態なんだよ。いまの状態というのは、ふかふかな椅子に座っている人が、トゲのはえた椅子に座っている人に対して「いたいと言うからいたく感じる。楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言っているよな状態なんだよ。こういう、意味がない助言が、どれだけ、くるしい状態の人を、さらに、いためつけるか、ぜんぜんわかってないんだよね。まず、全員が39度のお湯につかれる状態をつくらなければならないのである。まず、全員がふかふかな椅子に座れる状態をつくらなければならないのである。

 

 

 

2022年11月16日水曜日

なんだ?そりゃ??

 バカはバカです。どうしようもないバカです。バカの壁が高すぎる。基本、この世の不愉快な出来事というのは、他人によってもたらされる。きちがい兄貴やきちがい親父という他人がいる家に生まれたのが、そもそも、まちがいだ。そして、ぼくではなく、ぼくとはまったく関係がない他者が「そのうちに生まれることを選んだ」と言いやがるのだ。きちがい兄貴やきちがい親父がいる家に生まれたということ自体がハンディなのに、こういう他人も、ハンディになる。他人に対して「そのうちに生まれることを選んだ」と言いやがる他人。こんなろくでもないやつらがいる社会。こんなろくでもない生き物がいる世界。なんだ?そりゃ??

1度の水につかっているやつに対して、「摂氏1度の水につかることを選んで生まれてきた」と言って、まるで、なにも感じない他人……。そういう生き物。

「そのうちに生まれることを選んだ」と言う他人は、どうかしている。人間としてのこころがない。けど、こういうやつらは、自分が『高次元人』だと思っている。「たましいのくらいがたかい」と思っている。「世界の秘密を知っている」と思っている。思っている。思っている。思っている。けど、他人に対する思いやりは、まったくないんだよな。とくいがって、そういうことを言いやがって。そういう決めつけが、どれだけ人を傷つけるのかまったくわかってない。そして、本人は、「事実だ」ということに自信があるのだろうけど、「妄想」にすぎない。その人が、霊界や、生まれかわりを信じているだけなのである。そして、勝手に他人のたましいの勝ちを決めつける。勝手に、他人の人生の勝ちを決めつける。すべての不条理が、自己責任になってしまう。すべての悪が、肯定される。「それは、学びのために必要だったんだ」「たましいが、学ぶために、そういう家を選んで生まれてきたんだ」……こういふうに、自分の人生について考えるのは、かまわない。本人の妄想を本人の人生に適応しているだけだからだ。けど、他人の人生の上に適応して、妄想なのに、あたかも「事実だ」と思って言うということは……そういう発言を他者に投げかけるということは、よくないことだ。よくないことだ。けど、この「よくないことだ」ということが、こういう人たちにはわからない。決めつけて、得意がっている。

 

起きたら、世界がかわっていればいいのに……

  起きたら、世界がかわっていればいいのに……。かわっているわけじゃない。なんで、かわってないんだ? ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音でつらかった。どうにもこうにも、つらい。みんな、わかってない。きちがい兄貴の様子がわかってない。きちがい兄貴の頭のなかが、わかってない。きちがい親父の様子がわかってない。きちがい親父の頭のなかが、わかってない。「常識で推し量る」と全部まちがえるんだよ。そして、「常識で推し量る人間」のまちがいが、全部、俺の身の上に、投げつけられる。こんな、世界、ない。こんなのは、いやだ。けど、こういう世界なんだよ。

あとは、自分のことは棚に上げて「過去は関係がない」とか言う他人がいるけど、こういうやつは、どれだけ失礼なことを、俺に言っているのかわかってないなぁ。

2022年11月15日火曜日

経験してないのに、「ちこくしないことはかのうだ」「べんきょうぐらい、できる」と言う

 どーーしても、ヘビメタでくるしい。

どーしても、ヘビメタでくるしい。

いま、午後6時48分。午後6時48分は、毎日、鳴ってた。ギャーって鳴ってた。ほんとうに、ものすごい音なんだよ。あんな音のなかで、正常な気分を維持できるわけがない。正常な頭の働きを維持できるはずがない。あの音のなかで、勉強なんてできない。これも、ほんとうに、ぼくの部屋にいればわかることなのに、わかってない人たちが「どれだけ、騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできる」と言って、「勉強ができない」ということを認めない。発狂的な状態なんだよ。きちがい兄貴の態度に腹がたっているわけ。ものすごい音で鳴っている。これ、ほんとうに、いればわかるのに……。どんだけ鈍感な佐藤でも、ぼくの部屋で暮らしてみればわかることなんだよ。どれだけ、次の日にこたえるか。次の日の勉強にこたえるか……絶対にわかる。毎日だからね。毎日ということの意味がまったくわかってない人たちばかりなんだよな。「な・っ・て・た」という言葉ですんでしまう。「な・っ・て・た・ん・だ・ね」……これでおしまいだ。きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタを聞かされる状態は経験してない。俺の部屋で1秒も、きちがい兄貴のヘビメタを聞いてない。聞かされてない。あの態度で鳴らしているやつがいるということが、どういうことなのかわかってない。家族があの態度で鳴らしている……呼吸をするように鳴らしている……いつもいつも、鳴らしているということが、わからない。こいつらは、実際、人生のなかで〇秒しか、俺の部屋にいたことがなく、〇秒しか、きちがい兄貴のヘビメタを聞かされてない。人生のなかで、数万時間ヘビメタを聞かされたというわけではない。どれだけ、長いか? どれだけ蓄積するか? ぜんぜんわかってない。これ、三〇〇〇日目の、ヘビメタの騒音時間と、1日目のヘビメタ騒音時間が同じだとしても、蓄積があるからちがうんだよ。たとえば、三〇〇〇日鳴っていた場合の、三〇〇〇日間の朝の状態を、ほかの人たちは、経験してない。経験してないのに、「ちこくしないことはかのうだ」「べんきょうぐらい、できる」と言う。経験してないでしょ。こういうことを言う人たちが、いったい、何時間、ぼくの部屋で、ぼくとおなじようにヘビメタ騒音を経験したんだ? こういうことを言う人たちが、どれだけ、勉強ができない時間を経験したんだ?  こういうことを言う人たちが、どれだけ、勉強ができないくやしさを経験したんだ? 「かこなんてかんけいがない」……「ふざけんな」。もう、なぐってやりたかったね。なぐったって、なぐったとたんに、なぐったことは、過去のことになるんだぞ。なぐって「かこはなんてかんけいがない」と、俺が言ったら、おまえはどう感じるんだ。きちがいヘビメタの連続は、なぐるなんてことより、よっぽどひどいことなんだよ。それがわかってない。どれだけ、ダメージをくらうか、ぜんぜんわかってないなぁ。

相手が自分に「こまるからやめてくれ」と言ったことを、完全に忘れてしまう

 ああいう状態でヘビメタをやられると、どれだけがんばっても、がんばっても、人から誤解されるようになる。そりゃ、鳴っていると、対処できないことが出てくるから……。遅刻でも宿題でも、連帯責任ということになるとつらい。そして、そういうことでなくても、ほんとうに、他人に対する反応で、いろいろな問題が出てくる。ひとつは、ヘビメタ騒音で寝不足になるからそうなる。けど、それだけではなくて、きちがい家族が、あの態度で鳴らしているということが、基本的には、人間関係に悪い影響をあたえているのである。悪がおこなわれている。その悪について、きちがい親父が黙認をしている。そして、ヘビメタでこまっているということを無視している。きちがい兄貴もきちがい親父も俺が、ヘビメタ騒音でこまっているということを、無視している。これが、感情的にでかいんだよ。普通に俺の人権が踏みにじらてれている。もちろん、宿題をやっていかなくて、こまるのは俺なんだけど、俺がこまっているということをどれだけ言っても、「張本人である」きちがい兄貴が認めない。そして、それが、ほかの家族によって黙認されている。おかあさんは「こまったこまった」の連続だ。そして、常にからだの調子が悪いのである。おかあさんは、唯一、家族のなかで、俺が、ものすごくこまっているいうことを理解してくれている他人だけど、きちがい兄貴ときちがい親父は、どれだけ言っても、理解しないのである。「こういうふうにこまっている」「ヘビメタ騒音でできなかったからこまってる」「明日、こういうことがあるから、やめてくれ」「ヘビメタ騒音が鳴っていると失敗するからやめてくれ」と言っても、そういうことをまったく言われたなかった場合の態度で、きちがい兄貴が鳴らし続けるのである。そして、たとえばだけど、遅刻していけば、「だらしがないやつだ」とクラスの人が思うわけだよ。なおさら、連帯責任で、校庭のトラックを走らされるということになると、うらみが生じるんだよ。じゃあ、遅刻しないことが可能かというとそうではないのである。そうじゃない。けど、そういうことが、ぼくの部屋にいて、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音を経験している人じゃないとわからないんだよ。同じ生活をしている人じゃないと、この必然性がわからない。だから、ヘビメタ騒音のことを説明しても『そんなのは……』という話になる。ヘビメタ騒音のことを説明しても、説明しなくても、誤解されている状態というのは、かわらない。前投稿で、佐藤やユキオの態度について語ったけど、佐藤やユキオにしても、かわりがないのである。最初にできた(ぼくに対するイメージ)はヘビメタ騒音のことを説明しても、かわらないのである。「無職はみっともない」と思っている人に、ヘビメタ騒音で無職なのだということを説明しても、最初にできた、ぼくに対する、「ダメなイメージ」というのがかわらない。これは、無職うんぬんのことではなくても、小学生時代のときからずっとそうなんだよ。とくに、中学生時代と高校生時代がひどかった。これ、みんな、ヘビメタ騒音で「遅刻をしてしまう」ということがわかってないんだよね。ヘビメタ騒音について説明すれば、「そんなのは、お兄さんに言えばいいでしょ」ということになってしくお。それは、普通の家族と生活している人は、きちがい兄貴のきちがい的な無視のしかたがわからない。どれだけ、鳴らしていても、弟がこまらないと思っている。それは、兄貴にどれだけ説明しても、兄貴にはわからないことなんだよ。きちがい親父とおなじでわからない。これが、兄貴ひとりだけならともかく、オリジナルとして、きちがい親父も同種類のきちがいだから、四人家族なのに、ふたりも、「無視をしてやる着るきちがい」がいるということになる。どれだけこまると言っても、相手がこまることを、全力で無視してしまう人間がいるんだよ。そして、全力で無視して、相手がこまることをゆずらずにやりきったということも無視してしまう。そして、相手が自分に「こまるからやめてくれ」と言ったことを、完全に忘れてしまう。最後の「相手が自分にこまるからやめてくれと言ったことを、完全に忘れてしまう」ということにかんして言うと、これまた、そういうきちがい的な人間が家族のなかにいる人じゃないと、まったくわからないような感じで、忘れてしまう。これ、とりあえず、忘れてしまうと書くしかないのだけど、最初から認識してない。そして、最初から認識してないというのは、人間として、かなりおかしいことなのである。だから、常識的な人は、俺が言っていることを信じない。そういうことがしょうじてしまう。これは、ぼくの説明力の問題じゃないのである。よその人に対するぼくの説明がへたくそだからよその人が信じないということではないのである。また、兄貴に対して、ぼくが「こういうことでこまるかやめてくれ」「こういうことでこまるから、しずかにしてくれ」ということを言っても、兄貴が理解しないということは、ぼくの説明がへたくそだから、兄貴が理解しないということでもないんだよ。けど、普通の家で育った人は「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「ちゃんといえばやめてくれるよ」と言うのである。で、そういう前提でものを考える人は、「そのとしで働ていないのはおかしい」「人間働くべきだ」と考える人とおなじで、ぼくが説明をしても、その考えがかわることがないのである。その人のなかでは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音という問題は「ちゃんといえばやめてくれる」のにちゃんと言わないからダメなんだと思うような問題であり続ける。あとは、「きちがい」という言葉の使い方についてからんでくる人がいる。俺だって自分の家族を「きちがい」とは言いたくない。けど、現前として、うちのなかでなりたっている、親父や兄貴の態度が、きちがいの態度なのである。(厳然ではない)。けど、怒り狂ってゆずらないさまは、きちがい的な意味で厳然としているところがあるなぁ。あくまでも、きちがい的な意味でだけど。本来の意味とはちがうけど。現前だよな。けど、威厳とかそういうものはないけど、きちがい的な意味で頑固さがあるんだよ。この頑固さが、ほんとうに、頭がおかしい頑固さで、ほかの人にはわからない。ともかく、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で認めないということになる。「きちがい」と言わないと、うまく説明ができないところがあるのである。どうしてかというと、「矛盾」しているから。そして、きちがいという単語を使ったにもかかわらず……矛盾を軽減するためにきちがいと言う単語を使ったにもかかわらず「そんなへんなひとはいない」「そんなことはない」と普通に考えてしまう普通の人たちが多い。この人たちにとっては、ぼくが言っていることが……ぼくがきちがい兄貴やきちがい親父について言っていることが……嘘なのである。この人たちは、ぼくの言っていることを、この人たちの感覚に基づいて、信じない。ぼくが勝手に、嘘を言っていると思うわけだ。……ごく自然に……。

厳然には、いかめしいという意味が含まれており、いかめしいには 「猛烈である」という意味が含まれているので、かすってはいる。猛烈ではある。おごそかではないけど、猛烈ではある。

2022年11月14日月曜日

なぜだ! なぜだ! なぜだ! なぜだ? なぜだ? なぜだ?

「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのに、「働ける」という前提でものを言ってくるのはなぜだ? おまえは、日本語がわからないのか? 俺が真剣な表情で「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのに、「働ける」という前提でものを言ってくるのはなぜだ? 人の表情が読みとれない発達障害者か? なぜだ! なぜだ! なぜだ!

なぜ、弟の人生を破壊するような音でヘビメタを鳴らしていた兄のことは、せめずに、ヘビメタ騒音の結果!!働けなくなった弟をせめるのだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ?

「もしそれがほんとうだったら、もっとぐちゃぐちゃになっているから嘘だ」と思った場合、ぼくが、妄想できちがい兄貴の悪口を言っているということになる。たしかに、嘘であればそうだ。

けど、嘘ではない。「ウソを言っている」と決めつけたことについて謝罪しろ。ぐちゃぐちゃになっている」というのは、もっと精神病的な状態になっているはずだということだ。

もっと、精神病的な状態になっているはずなのに、普通に話しているので、エイリさんが嘘を言っていると思ったのだ。そして、「(そのとしで)働いてないのは、おかしい」「(そのとしで)働いてないのは、きもちがわるい」と言いやがったのだ。これ、なんで、毎日毎日、非常識な音で鳴らしているきちがい兄貴のことは、おかしいと思わないで、非常識な音を鳴らされた結果、働けなくなった人間のことは、おかしいと思うのか?

それこそ、おかしいんじゃないの。

こいつら、ほんとうに、どういう状態なのかまったくわかってないなぁ。佐藤は、たいしたことがないと判断した。だから「人間は働くべきだ」ということを言った。じつはこのとき、佐藤は、無職であったのだ。こいつは、当時、無職。いま? 佐藤は無職だろう。人間が働くべきなのであれば、死ぬまで働くべきだ。なんで、働かないんだ?

それとちょっと離れたことを言うけど、ほんとうなら、きちがい的な音でヘビメタを鳴らさないように、薬を飲むべきなのは兄貴だ。きちがい親父にしても、おさない子供を見ると、どうしても、きちがい的な理由で怒り狂いたくなるので怒りくるうわけだけど、精神科に行って、薬を飲むべきなのは、きちがい親父だ。きちがい兄貴が、薬を飲んで、ヘビメタをでかい音で鳴らしたいと思わないようにすればいい。

ほんとうに、非常識で迷惑な音なんだから。

これ、ほんとうにものすごい音で鳴っている。きちがい兄貴の耳が、きちがいヘビメタでおかしくなった。そういうレベルの音で鳴らしているんだよ。きちがい兄貴の、ヘビメタともだちである、カオ君という人が「こんな音で鳴らしていいの」と思うほどでかい音なんだよ。そして、カオ君が、「家族の人は、なにも言わないの?」「弟さんがかわいそうだよ」と言ったのに、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言ってしまう兄貴は、精神異常者ではないのか?

俺は毎日、きちがい兄貴の部屋まで行って「こまるからやめてくれ」と何十回も言っているんだぞ。それを、無視するやつは、精神異常者じゃないの? きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を、非常識な音で鳴らしたいという気持を抑えるために、薬を飲むべきじゃないの? なんで、ヘビメタ騒音にやられて、つかれはてて、憂鬱になっている俺が薬を飲まなきゃならないのか? きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすのは、いいことなのか? ゆるされることなのか?

話をもどして、繰り返しなるけど、どうして、老化したから、働かないなんて言っているんだ? 老化したら人間は人間ではなくなるのか? 人間は働くべきなんだろ。だったら、老人になっても働くべきだ。老人は人間ではないというのか? 佐藤、おまえ、どうして無職なんだ? 人間働くべきだから働くべきだ。

あと、ユキオ。そのとしで、働かないのは、おかしい。人間は老人になっても働くべきなので、働かないのはおかしい。「そのとしで、働かないなんて、気持ち悪い」「そのとしで働かないなんて、あまえている」……そう言ってやりたいのだけど、ぼくの言葉はとどいたかな?

ヘビメタ騒音でボロボロな体をひきずって、身を刻むような努力をしてきたましたぁ~~

 起きた。のどがカラッカラだから、起きた。

しかし、俺は、どうすればいいんだ?

まるでわからない。どうすればいいんだ? どうすればいいんだ?

まるでわからない。まるで……。どうするの? これ、ほんとう、どうするんだ?

俺は今まで、がんばってやってきたと思う。最大限の努力をしたと思う。そとから見たのとは、ぜんぜん、ちがうからね。みんな、俺が、さぼっていると思っているんだよな。ヘビメタ騒音でボロボロな体をひきずって、身を刻むような努力をしてきたましたぁ~~。「なに、言ってんだよ。おまえら」「自分が、たまたま、きちがい兄貴やきちがい親父にたたられなかったからって、それを自分の能力だと思うな」と言ってやりたくなるなぁ。言ってやりたくなる。これ、ものすごい、ハンディなんだよ。たとえば、家できちがい兄貴が、ものすごい音で鳴らしているということだって、学校によっている場合、学校で会う人たちにはわからない。いちおう、職場の場合だってそうだ。職場で会う人たちにはわからない。説明したって、「騒音が鳴っているんだな」という認識が生れるだけだ。これは、佐藤やユキオの場合とおなじだ。「騒音が鳴っているんだな」という認識(理解)と、実際にぼくが経験しているヘビメタ騒音はちがうのである。兄貴のヘビメタ騒音だ。この兄が、問題なのである。きちがいだから問題なのである。これ、ほんとうに、一日でも、きちがい兄貴の態度で、ヘビメタ騒音をやられれば……ぼくの部屋で暮らせば……わかるんだよなぁ。「ぜんぜんちがう」ということが、わかる。 

2022年11月13日日曜日

肯定しがたいことがいっーーぱいある、家族論

 きちがい兄貴の態度は問題がある。あたかも、鳴らしてないような態度なのだ。「一日中まったく鳴らしてない」「全部の時間ゆずってやっている」という認識が成り立っているような態度なのだ。そして、同時に「自分には関係がない」という認識が成り立っているような態度なのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ほかのうちでは、一分間だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らすことに、こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!鳴らしているのに、自分が、あたかも鳴らしてないような態度なのである。この態度! きちがい的な意地で、絶対、ゆずらないで鳴らしているのに、あたかも、「鳴らしてないような態度」のままなのだ。ぜんぜん、関係がないと思っている人の態度のまま生活をしているのだ。こんなのない。こんなの、きちがい以外にない。こういうことができるのは、きちがいだから。だから!ほかの人が言っている「騒音」とはちがうんだよ。

ほんとうに、関係がない人のつもりでいる。鳴らすのは鳴らすけど、まったく関係がない人がいるつもりでいる。きちがい兄貴が、意地になって鳴らしているんだぞ。きちがい兄貴が、意地になって、こだわりのおとで鳴らしているんだぞ。もっと小さい音で聞けばいいんだよ。これも、ほんとうに、ほかの人に誤解されるところなんだよな。きちがい兄貴……とやらが、ほんとうは、普通の音で鳴らしていたの……あるいは、ちょっとでかいだけの音で鳴らしていたのに、騒音に敏感なエイリが、大げさに言っているだけなんだ……というような誤解がある。この誤解は、けっこう、ありがちな誤解だ。ぜんぜんちがう。「ぜんぜんちがう」と言っているだろ!!

この特殊な態度については、家族のなかにこういう人がいて、その家族がごく自然にそうなっている人しかわからない。特殊なんだよ。そういう特殊な家族とは、やはり、ぶつかるのである。このぶつかりあいは、正常なもの同士のぶつかりあいとはちがう。こういうことが、佐藤のような凡人にはわからない。逆立ちしてもわからない。わからないと、「えいりさんがいっていることがなにかおかしい」と感じるのである。だから、そういう誤解が、しょうじる。 

きちがい家族にやられた人は、きちがい家族にやられたことがない人から、誤解をうける。そういうふうに、できている。普通の家族のなかで育った人は、きちがい家族にやられた人……を誤解するようにできている。きちがい家族にやられた人は、一次的にきちがい家族にやられて、二次的に普通の家族のもとで育った人にやられることになっている。そして、家族制度を維持することによって?社会的にそういうことが、認められているような部分がある。「そんなのはしかたがないことだ」ということになっているのである。そして、普通の家族のなかで育ったやつが、きちがい家族にやられた人間をディスって、家族論を展開するのである。この家族論は、普通の家族のもとで育った人にとってみれば当たり前の家族論かもしれないが……同意する部分がたくさんある家族論かもしれないが……きちがい家族に、ごく普通にやられた人間にしてみれば、肯定しがたいことがいっーーぱいある、家族論だ。けど、これも、多数決で、『正当さ』が決まってしまうようなところがある。そういう感覚をもっているものが多ければ、そういう感覚をもっているものが支持される。

誤解。誤解。誤解。これ、ほんとうに正常な家族のもとで育った人は、きちがい的な家族のもとで育った人の事情がまったくわかってない。つねに、誤解している。その誤解は、きちがい的な家族のほうにむけられるのではなくて、きちがい的な家族にやられた正常な人間にむけられるのである。 きちがい的な家族にやられた……こまりまっているけど……正常な人間が、攻撃をされる。それは、誤解に基づいた攻撃だ。けど、これも、攻撃だとは思ってないのである。「あたりまえのことを言っている」と思っている。

ゆるせない。

 どうして、こいつらは、きちがいヘビメタ騒音のことを無視して、勝手なことを言いだすのか? 「そんなのは関係がない」「あったしても、過去のことなら関係がない」……こいつら、○○。ゆるさない。ゆるせない。

「ちがう」と言ったことを無視するな

 人生のなかで、きちがいヘビメタ騒音レベルの騒音を長期間にわたって経験したことがない人に、どれだけ、言ってもわからないと思うけどちがうのだ。ちがうと言ったらちがう。「ちがう」と言っているでしょ。「ちがう」と言ったことを無視するな。俺が「ちがう」と言ったことを無視するな。「おなじ」だと思うな。失礼だろ。ふざけるな!! ふざけるな!! こいつらのことは、ゆるさない。

「俺だって、騒音ぐらいあった」

 ほんとうに、きちがい兄貴のハンディがひどすぎる。ほかの人には、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴の感覚で、いいと思って、きちがい的でかい音で鳴らす家族がいない。きちがい兄貴の感覚はほかの人にはわからない。きちがいが家族のなかにいない人にはわからない。そのきちがい家族が、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らしてない人には、わからない。わからないと言ったら、わからない。わからなければ、黙っていればいいものを、「俺だって、騒音ぐらいあった」とくらべものにならないほど、ちいさい騒音について語りだす。くらべものにならないほど短期で終わった騒音について語りだす。工事など、鳴らしても「いい」騒音について語りだす。きちがい兄貴の騒音は、きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなかったなら、鳴らせない騒音なんだよ。騒音の質がちがうんだよ。騒音を出している「人間」の質がちがうんだよ。だれも、俺の部屋できちがいヘビメタ騒音をずっとずっとずっと、経験したわけではないから……聞かされたわけではないから、考え違いをしているんだよね。考え違いなんだけど、考え違いだということがわからない。そうすると、佐藤のようにヘビメタ騒音を過小評価して、あらぬことを言ってくるということになる。こいつら、人の話を聞いているのか? 言っているだろ。ヘビメタ騒音とあんたらが経験した騒音はちがうと言っているだろ。これ、ないんだよ。あったら、俺が言っていることがわかる。絶対に「俺だって、騒音ぐらいあった」なんて言わない。ぜんぜんちがうということがわかっているから、言わない。その人だって、働けないからだになっているから、「人間は働くべきだ」とか「ちゃんとしてくれ」とかということは、言わない。言えない立場だからだ。どうして、言えない立場に追い込まれてしまうかというと、ヘビメタ騒音の騒音が、鳴っていたからだ。ヘビメタ騒音相当の音が鳴っていたなら、ぼくが言うことに反対をするわけがない。わかっているから、絶対に同意してくれる。それが、「俺だって、騒音ぐらいあった」「人間は働くべきだ」「ちゃんとしてくれ」と言ってくるのは、まったくわかってないからだ。

2022年11月12日土曜日

「もっと、ぐちゃぐちゃになっている」はずだから、エイリさんが言っていることは嘘だ

 

 そういえば、いま座っている椅子が、よくないんだよ。写真で見ただけでは、座りごこちはわからない。なんか、あってない。ともかく、だるい。どうしたものだ。

眠っても、回復しない。

眠ったら、ぱーーっと回復してほしいね。ぱーーっと。

現実はちがう。どろどろ。ぜんぜん、回復しない。やっぱり、いろいろと限界なんだよなぁ。体力的にも精神的にも……。

どうにかしたいのだけど、どうにかするには、体力が必要だという問題がある。明るい気持ちで……むかし、ヘビメタ騒音のまえにいろいろなことをやっていたときのように……、ぱぱーっと、計画を実行したいなぁ。明るい気持ちで……。けど、ヘビメタ騒音中と、長期騒音以降、むりなんだよ。どれだけ、自分の気持ちを鼓舞してもむりなんだよ。破壊された。 

ほんとうは、重要かつ重大な問題なのに、凡人佐藤が理解しない。凡人佐藤には常識的な人の見本として登場してもらっている。どれだけこういう態度の人が多かったか。あとは、ユキオって名前にしておいたけど、ユキオのような態度の人もいる。この人たちは「このとしで、職歴がないなんてどう考えてもおかしい。きもちわるい。近づかないでおこう」と思って、俺をさける人たちだ。さけたままならいいけど、徒党を組んで、裏で(俺の)悪口を言うのである。主婦がそうだった。「あれ、人の悪口を言うのは、悪いことなんじゃなかった」とつっこみを入れたくなる。ものすごい、差別意識があるんだよな。「ヘビメタ騒音『で』働けなくなった。ヘビメタ騒音でつらい」と言っているのにこういう態度だ。「どれだけ兄貴に言っても、兄貴がやめてくれなかった」と言っているのにこういう態度だ。ユキオの場合はちょっとかわっていて、「もし、それがほんとうなら、もっとぐちゃぐちゃになっているはずだ」と言っていた。『もし、ヘビメタ騒音のことがほんとうなら、もっと、(エイリさんが)きちがい的な状態になっているはずだ……けど、普通に話せるし、きっと、ヘビメタ騒音のことは、エイリさんがつくりあげた嘘なのだろう』と思ったみたいなのだ。そういうことを「もっと、ぐちゃぐちゃになっている」とは言っていた。ひとりごとのようにつぶやいたけど、口に出しているよ。

ともかく、きちがい兄貴がきちがい的な意地で、常識はずれのことを、やると、ぼくが誤解されるのである。ぼくがほかの人から誤解される。これ、親父の場合もそうなんだよね。けど、親父の場合よりも、兄貴の場合のほうがひどい。兄貴は、ヘビメタ騒音だけで、親父の1000万倍ぐらい、ひどいことをしている。これ、ほんとうにヘビメタ騒音生活が続けば「誰だって」働けなくなるのに、ほかの人はそれがわかってない。体験的にわかってないから、「そんなのはおかしい」という反応をする。『エイリさんが嘘をついているだけなのでは』と思ったりする。あるいは佐藤のように、『そんなのは関係がない』と思って、ヘビメタ騒音がしょうじなかったにもかかわらず、エイリさんがさぼって働かないという前提で、くそ助言をしてくるのである。ヘビメタ騒音のことを無視しているか、ヘビメタ騒音のことを過小評価している。「あったって、たいしたことはないだろう」と思っているのだ。「あったって、過去のことなら、関係がない」と思っているのだ。こういう、決めつけ。頭がわるい決めつけ。想像力がないのかな? 自分がほんとうにそういう生活をしたら、どんなことになるかまったく想像がつかないんだよね。きちがい兄貴の無視のしかたは、こういうやつらの無視のしかたよりもひどいけど、方向性は合致している。ヘビメタ騒音の影響を無視する。無視したところで「なめたこと」を言う。きちがい兄貴が、普通の人が想像できないことを、普通の人が想像できない期間の長さ、ずっと毎日やると、そういうことになってしまう。

大きな悪と、小さな悪。悪ではないものを悪だと決めつける思考

 一番大きな悪がおこなわれているのに、それは、気にしないで、一番小さな悪については、えらそうなことをがんがん言うというのはおかしいのではないか。きちがい兄貴の騒音は、悪いことだ。弟がこまっているのに、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、ずっと、音楽を鳴らすことは、一番大きな悪とは言わないけど、相当に大きな悪だ。俺が自殺をしなかったから、結果的に、自殺に追い込むような音で鳴らしていたということにはならなかったけど、人の人生を台なしにしてしまうような行為を、自ら進んで、きちがい的な意地でやっていた。これは、悪だ。かなり大きな悪だ。そして、たとえば、きちがい家族がきちがい的な音でヘビメタ騒音を鳴らしていたから、働けなくなったということは、別に、悪いことではない。「働けないから働いていないだけ」だ。ところが、凡庸な佐藤は、「働けるのに働けない」と解釈してしまう。ヘビメタ騒音『で』働けなくなったと言っているのに、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して「働ける」と判断したのだ。凡庸な佐藤が、働けると判断したら、凡庸な佐藤のなかでは、「働ける」ということになってしまうのだ。そして、「働けるのに、働かないのは、悪だ」という判断がしょうじる。この悪は、どう考えても、小さな悪なのに、凡庸な佐藤のなかでは、きちがい的な騒音をずっと、十数年間も毎日、鳴らすことよりも、この、「働かない」ということのほうが、悪いことに思えるのだ。ぼくは、ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのに、凡庸な佐藤が、「エイリさんは働ける」「騒音で働けなくなることはない」と勝手に考えているだけだ。けど、佐藤の頭のなかではそうなのである。だから、働けるのに働かないのは悪だと考えている佐藤が、きちがいヘビメタで働けなくなった俺に対して、働くことを『要求』してくるのである。俺は、「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているだろ。日本語、わかる?

ともかく、ヘビメタ騒音という大きな悪、を、まるで関係がないものとして判断して、「働かないのはけしからん」と思うやつが、けしからん。小さな悪、ではないものを、小さな悪と決めつけ、大きな悪を無視して、小さな悪をせめる。こんなのは、おかしい。これこそが、悪だ。 

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弟の人生を破壊するような音で毎日毎日、頑固にヘビメタを鳴らす……でかい音で鳴らすということが悪だ。「自殺するしかない」と弟が思うような音で鳴らし続けるということが悪だ。弟が「入学試験だからやめてくれ」と言っても無視して鳴らし続ける態度が、悪い態度だ。それなのに、こいつらときたら、その悪の結果、働けなくなった人を働かないということでせめたてるのだ。働けなくなった人と、働けなくなった人を(働けるという前提で)せめたてる人、どっちが悪か? どっちが、道徳的で、どっちが、非道徳的か?

なんでこいつらは、弟が、「やめてくれ、やめてくれ」と言ったいたのに、よその家じゃ鳴らせないようなでかい音で鳴らし続けた兄の悪は追及せずに、働けなくなった弟が「働いてない」ということを、悪とみなして、追及するのか?

これが、今世紀の「普通の人たち」の判断。これが、今世紀の「普通の人たち」の態度。 


ヘビメタ騒音以降、つらいことばかりだ

  つらいなぁ。

全部がつらい。

つまらないなぁ。

全部がつまらない。

ヘビメタ騒音以降、つらいことばかりだ。どれだけがんばっても、どれだけたえても、つらい。つらい。

ヘビメタ騒音でつらい。ヘビメタ騒音でつらいのに、ヘビメタ騒音にさらされてないやつが、えらそうなことばっかり言ってくる。さらされて、平気なわけじゃないのである。さらされてないから、平気なだけ。こいつらが、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、えらっそーなことばっかり言ってくる。これが、地獄だ。えらそうなこと、ばっかり言って……。ぜんぜん、えらくない。ヘビメタ騒音という『災厄』がしょうじなかっただけでしょ。まるで、「(ヘビメタ騒音という「災厄」が)しょうじたのに、自分はだいじょうぶだ……エイリさんは影響をうけている」という態度で、えらそうなことを言ってくる。こいつらも、想像力がないな。立場をかえて考えるということができないやつらだ。ヘビメタ騒音のことを過小評価するな。どんだけ、つらいと思っているんだ? 一日でも、どれだけつらいと思っているんだ? 思ってないんだろ。そんなの鳴り終わったら、眠れるに決まっていると思っているんだろ。次の日の朝、影響をないで暮らすことは可能だと思っているんだろ。そうじゃない。毎日毎日、あんな一日が続いて、いいわけがない。ところが、きちがい兄貴がきちがいだから、毎日毎日、まったく意識をしないで、息を吸うように、続ける。きちがい「だから」そういうことができるんだぞ。普通の人だったら、絶対に、普通のうちのなかで、一分だってあんな音で鳴らせないんだよ。気にして鳴らせなくなるのが普通の人なの。注意されたら、いっくら鳴らしたくても、やめるのが普通の人なの。そういうところで、ぶっ壊れているから、まったく気にしないでやりきることができる。相手が「やめてくれやめてくれ」ととなりで絶叫していたのに、無視してやり続けることができる。そして、相手が、それほどいやがっているということを、まったく、無視することができる。そういうことが一万回、起こったって、相手が嫌がっているいうことが、まったくわからないままだ。どうしてかというと、きちがい兄貴がきちがいだからだ。正常な人だったらそんなことにはならないのである。で、そういう家族がいるということが、どういうことか、正常な人たちはわかってないのである。たとえば、佐藤はわかってない。わかってないから、ヘビメタ騒音のことを過小評価してえらそうなことを言う。

穴があいている船なんだよね

  穴があいている船なんだよね。あーー。ヘビメタ騒音で穴があいた、船だ。さとーー、おまえ、まったくわかってないなぁ。ヘビメタ騒音がそんなものであるわけがないだろ。一日でいいから経験させてやりたい。次の日、どんなことになるか、経験させてやりたい。まったく気にしないで鳴らしているきちがい兄貴の態度が、騒音のなかで、どれだけ腹がたつものか、経験させてやりたい。

 

2022年11月11日金曜日

コロナ騒動、ワクチン騒動で、無職が増えたなぁ。

 コロナ騒動、ワクチン騒動で、無職が増えたなぁ。

いままで、無職をばかにしていた人たちが、無職になっちゃったら、どんな気分なんだろうな?

 

普通の人の基準でものを言うな!!!

  もーーーーーー、いーーー、や。しかし、俺のこのくだらない時間はなんだ?

そりゃ、楽しく生きたい。

しかし、これが、きちがい親父に、きちがい的な理由で怒り狂われていた幼児期があるとむりなのだ。これも、「人のせいにするな」と言われる。そういうことをいうやつの父親は、きちがいじゃない。普通の人だ。普通の人の基準でものを言うな!!!

それが、わかってないだけだ

 きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタを、あの音のでかさで、あの至近距離で鳴らされると、ほんとうに、だれもが遅刻することになるわけ。どれだけ体が丈夫な人も、どれだけ、睡眠力?がある人も、一年に20回か30回ぐらい遅刻するようになるわけ。そういうことがわかってないのは、その人たちが、ぼくとおなじ経験がないからだ。ぼくとおなじ経験がないからわからないだけなのに、「ヘビメタ騒音がいくら鳴っていたとしても、遅刻をしないことは可能だ」「ヘビメタが原因だといいわけをするな」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは、お兄さんに言えばいい(言えば解決する)」と言うわけ。ともかく、それは、その人たちの『要求』の前提になる。要求というのは、たとえば、遅刻しないことだ。たとえば、宿題をやってくることだ。こういう要求の前提には、「どれだけヘビメタ騒音が鳴っていても、要求したことをやれ」という考え方がある。ヘビメタ騒音の影響を無視するな。これ、やられてない人にどれだけ言ってもわからないと思うけど、自分の時間が、きちがいヘビメタ騒音で、「あたまえのように」「まいにちまいにち」普通に削られていくということがどういうことなのかわかないのだ。学校にいるときは、遅刻しないことや、宿題をすることだけど、大人になれば、働くことがくわわる。「どれだけヘビメタ騒音が鳴ってたって、働くことは可能だ」と、ヘビメタ騒音の経験がないやつが言うのである。それが、正しいと思って言うのである。それが道徳的に正しいと思って言うのである。彼らにとっては、「働けるのに働かないのは」悪いことなのだ。つまり、ぼくが働かないで暮らしていることは、そいつらにとって、ゆるせないことなのである。こいつらは、「どれだけヘビメタ騒音が鳴っていたって、そんなのは関係がない」「どれだけヘビメタ騒音が鳴っていた期間が長くたって、働ける」と前提してものを言う。そして、そういう「前提」があるということにすら、気がつかない。ぼくが「ヘビメタ騒音で働けない」とどれだけ言っても、そいつらにしてみれば、ぼくは「働けるのに働かない人」なのだ。そして、こいつらが、定年退職をしても、そういうことを言う権利があると思っている。自分が働いてないのに、ほかの人には「人間は働くべきだ」と言って、なにも矛盾を感じないやつら。「なんで生きているの? 人間じゃないの? 人間なら働くべきだろ。だったら、働けよ!」 と言えば、こいつらは、みんな怒る。自分が働かないのはあたりまえなのだ。どうしてかというと、歳をとったので、むかしのように働くのはできないと考えているからだ。歳をとった「ので」働けないと考えているのだ。これは、ヘビメタ騒音「で」働けないと考えているぼくと、どういうちがいがあるというのだ? 老化によって身体が思うように動かなくなった……だから、働かなくてもいいと考えている。それは、ヘビメタ騒音の連続で、身体が思うように動かなくなったから働けないと考えるのと、たいして、ちがいがない。ちがうのは、老化かヘビメタ騒音化のちがいだ。理由がちがうだけだ。そして、言っちゃ悪いけど、ヘビメタ騒音のほうが過酷だ。これ、ほんとうに、一日でもいいから、経験してほしい。きちがい家族が鳴らしているんだぞ。息を吸うように、鳴らしているんだぞ。まったく悪くないと思って鳴らしているんだぞ。息を吸ったり吐いたりするのは、まったく悪いことではないだろ。そういう感覚で、息を吸ったり吐いたりするようにヘビメタを、でかい音で鳴らしている。きちがい兄貴にとって、ヘビメタを、よその家では絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らすことが、呼吸のようなことなのだぞ。あたりまえに、やっていることなんだぞ。なんのことわりもなく、自然にやっていることなんだぞ。こっちがどれだけやめてくれといっふも、絶対にやめないでやっていることなんだぞ。そういう毎日なんだぞ。どれだけこっちが、こまっていたって、一分間だってほんとうにはゆずってくれないのだぞ。これで、腹がたたないわけがない。きちがい兄貴やられなかった常識的な人たち……働けるからだ維持できた人たち……は、かんがえちがいをしている。君たちだって、働けないからだになる。君たちだって、ヘビメタ騒音をおなじぶんだけやられたら……きちがい家族に、あたりまえのようにやられたら、働けないからだになる。それが、わかってないだけだ。

2022年11月9日水曜日

その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについて

 その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なことなのかどうかについて、ちょっとだけ、書いておく。結論から言うと、その前の文脈が重要なことになるので、なんとも言えないということになる。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが男性で、Bさんが女性で、ふたりは、つきあっていた。あるとき、Bさんが慢性疲労症候群になって働けなくなった。それまで、Bさんは看護師として働いていた。Bさんが、「からだつらい」ということをAさんに言った。Aさんは、「慢性疲労症候群なんていうのは、病気のうちにはいらない」と言った。Bさんが「私がどんなにつらいか、Aさんにはわからない」と言った。そのあと、AさんがBさんに「相手が否定できないことを言うのはずるいぞ」と言った。

まあ、こういう文脈があった場合の話をしてみよう。いきなり「否定できないこと」を言ったわけではないのだ。否定できないことというのは、相手が否定できないこと、という意味だ。相手が否定できないことを言うのは、そもそも、きたないことだというのが、その人たちの主張なのである。ここでは、Aさんの主張だ。けど、文脈がある。Aさんが、さきに「Bさんのつらさ」について、否定している。話のなかでは出てこないけど、Aさんは、Bさんに対して「病気に、逃げるな」というようなことを言っているのである。まあ、そういうことを付け足したとしよう。この場合、Bさんを侮辱している……とぼくは思う。しかし、アドラー主義者は、そういうことを言って、まったく気にしない。自分が正しいと思っている。じゃあ、アドラー主義者が、おなじように……Bさんと同じ程度の慢性疲労症候群になったばあい、働けるのかというとそうではないのだ。アドラー主義者だってからだがきつくなって働けなくなる。しかし、今現在、アドラー主義者がそういうことを経験してなければ、アドラー主義者にとっては、慢性疲労症候群なるものはそういう程度のものでしかないのである。そういう認識しかない。だから、「病気に逃げている」「働きたくないから病気に逃げているだけだ」というようなことを言う。これは、ぼくの考えでは、相手を侮辱していることになる。しかし、アドラー主義者は、そういうふうには感じない。自分が正しいことを言っていると感じて、自分の発言を訂正したりしない。こういう人間が「さとる」のは自分が動けなくなってからだ。自分が働けなくなってからだ。しかし、アドラー主義者が実際にそういうふうに、働けなくなると、アドラー主義者は、適当なことを言って、間違いを認めないし、自分が病気で働けないのはあたりまえだということを言い出すのである。自分のかつての発言は気にしないのである。そういう、手前勝手なところがある。これは、「人間は働くべきだ」と言っていた人が、無職になったときにも、発揮されることだ。「自分の場合は」「あたりまえ」なのである。むかし、自分が無職にどういう発言をしたのかは、まったく問題にならないのである。これ、理論的に破綻していると思う。まあ、ぼくが、そう思うだけで、当の本人たちは、そうは思わないのである。これも、ちょっと脱線してしまうけど、言っておこう。たとえば、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということを言っている言霊主義者がいたとする。この言霊主義者が病気になった場合、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということはまちがっていたということだ。そういう現実にぶつからなければならないのである。そして、そういう現実を認めなければならないのである。『「私は病気にならない」と言えば病気になることはない』ということは、まちがっていたということを認めければならないのである。ところが認めない。これこそ、現実に立ち向かわないで、現実をごまかして認識しているということではないか? しかし、そういうふうには思わないのである。こういう人たちは、そういうふうには思わない。今度は、『「病気は治る」と言えば治る』ということを言いだす。そして、わざわざ、病院に行くのだけど、病気が治ったら『「病気は治る」と言えば治る』ということ言い出すのである。「事実だ。事実だ」という。『「病気は治る」と言えば治るということは、正しい。実際に、私の場合、病気が治った』ということを言う。「私は病気にならない」と言えば病気にならないんじゃないの? そっちは、どうなっているの?

まあ、そっちは、どうなっているの? ということを、ぼくが言ったって、言霊主義者は認めないのである。ああっ、あと、『「病気は治る」と言えば治る』のだから、病院に行く必要なんてないのである。「病気は治る」と言えば治るのだから、「病気は治る」とひとこと言えばいいだけの話だ。どうして、病院に行くの? なんで、入院するの? 病気は、治ると言えば、治るんでしょ。言えばいいじゃない。

まあ、普通の人、アドラー主義者、言霊主義者と見てきたけど……語ってきたけど……みんな、ご都合主義なんだよなぁ。自分の気持ちだけなんだよなぁ。言われた人のことをまったく考えてないんだよなぁ。

まあ、話がずれたので、話をもとにもどす。その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについては、わからないけど、前後の文脈がたいせつなのではないかということだ。これも、自分が否定できないことを言われたということだけを問題にしているんだよ。「否定できないこと」を言うのは、ずるいというようなことを言う人は、自分が否定できないことを相手が言ったということをだけを問題にしている。そのまえに、「慢性疲労症候群なんてたいしたことがないから、Bさんは働けるのに、働こうとしない。病気に逃げている」ということを言っている。だから、Bさんが「あなたに、私のからだのことがわかるのか」ということを言っているわけでしょ。ぜんぜん、きたくない。卑怯じゃない。むしろ、Aさんが、そういう決めつけをするのがよくない。かってに、「慢性疲労症候群なんてものはたいしたことじゃない」「慢性疲労症候群でも働ける」「慢性疲労症候群でも働けるのに、働かないのは、けしからんことだ」ということを言っている。「検査で正常なら、病気じゃない。病気じゃないなら働ける」と、勝手に、思っている。検査というのは、完全じゃないのである。その検査は、その検査でしかないのである。こういうことがわかってない。普通の検査だと、毛細血管のつまりぐあいはわからない。毛細血管のつまりぐあいを問題にしないなら、正常だということを言っているだけなのである。レントゲンとか、普通の血液検査では、毛細血管のつまりぐあいはわからない。けど、毛細血管がつまってしまうと、「だるい」とか「しんどい」という主観的な認識が発生するのである。毛細血管のつまりぐあいを調べるにはDダイマーという検査をしなければならないのである。だから、検査をしたと言っても、抜けている検査があるかもしれないので、普通の検査をして正常なら(広い意味で)病気ではないとは言えないのだ。

さきに攻撃を加えておいて、『 その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯だ』と言い出すやつが卑怯者なのである。

 

ヘビメタ騒音が生活のすべてなんだよ。かたときも、はなれないんだよ。

 ヘビメタ騒音なしで、あの子と仲良く、暮らしたかったなぁー。あの子と仲良くーー。きちがいヘビメタ騒音なしで……。あっちから言ってきたとしても、ヘビメタ騒音が鳴っていたら、だめなんだよ。「ヘビメタ騒音が鳴っていたら、だめなんだよ」とぼくが言っても、ぼく以外の人は、そういうふうに考えない。「騒音と女の子とつきあうことは、関係がない」とか言い出す。ヘビメタ騒音が生活のすべてなんだよ。かたときも、はなれないんだよ。

ほんとうに、どれだけ言っても、(きちがい兄貴は)やめてくれなかった。どれだけ言っても、やめてくれなかった。一分間だって、しずかにしてくれなかった。きちがい親父とおなじように、「ゆうずう」がきかないのである。たとえ、一分間だって、自分が、「がまんする」のはいやなのである。自分が我慢しないで「しずかにしてやる」という意地悪をする。しかも、ほんとうに、それでいいと思っている。意地悪だとは考えてない。けど、きちがい兄貴だって、きちがい親父に「そういうこと」をやられれば、腹をたてるんだよ。そして、一分間でも、しずかにさせられたら、腹がたつんだよ。きちがい兄貴が、やってやりたいことを、やらされたら、きちがい兄貴は、猛烈に腹をたてるんだよ。これは、殺すとか、殺されるとかという問題だ。どうでもいいもんだいじゃないのである。たとえ、一分間だろうが、いのちがかかっている。そういう問題だ。意地がかかっているのである。やったから……やり続けることができたから……押し通してやれたから……本人はそれを感じないだけだ。こっちがその状態をひっくり返すには、殺さなければならないのである。これは、大げさなことじゃない。事実だ。ほんとうはそういうことなのである。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、ほんとうはそういうことだ。きちがい兄貴がきちがいで、自分の意地をとおしたから、そういう問題だと思ってないだけだ。けど、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父も、この問題にまったく関係がないほかの人も、そういう問題だとは思ってないのである。たとえば、佐藤はそういう問題だと思ってない。

あの子だって、最初のうちは、理解をしめすかもしれないけど、そのうちに、親友みたいに「ちゃんとしてくれ」と言い出すかもしれない。それがいやなんだよ。もーーれつに、いやなの。

まあ、そういうことが関係なにしろ、どうなるかわからないことであるにしろ、ヘビメタが鳴ってたんだよ。あの子にあったとき、ヘビメタが鳴っている期間中だったの。現在進行形で、毎日、鳴ってたんだよ。きちがい兄貴を殺さないと一分間だって静かにさせることができない状態で暮らしていたんだよ。精神的、よゆうなんて、あるわけが、ない。そんなのは、あるわけがない。

ヘビメタは、すさまじく、すべてが暗黒世界にかわってしまったよ。

きちがい兄貴のヘビメタにやられていないやつ……きちがい兄貴が横に住んでいなかったやつは、ヘビメタ騒音の過酷さがわかってない。どういう生活になるか、わかってない。不可避的に、ボロボロになる。わかってない。わかってない。わかってないところで、えらそうなことを言う。おまえがその口で言うな!! おまえが!!! ただたんに、きちがい家族がいなかっただけ。ただたんに、きちがい家族がきちがいヘビメタに夢中になって、がんがん鳴らさなかっただけ。それだけなんだよ。


 

2022年11月8日火曜日

それと「人間は働くべきだ」という考え方は、どういうふうに両立するんだよ?

  やっと、頭が普通の状態になった。まあ、普通の状態と言っても、つかれている状態ではある。どうしてかと言うと、長期騒音で常に、つかれている状態になってしまったからだ。「どうしてかと言うと」と書くか「どうしてかというと」と書くか、まようんだよな。統一性を保つには、じつは「どうしてかと言うと」のほうがよいのだけど、この場合「言うと」は見た感じ、しつこい。抵抗がある。抵抗を感じる。やっぱり、「どうしてかというと」だよな。けど、「厳密に言うと」という場合は、「厳密に言うと」と書いたほうがいい感じがする。どうするかな?

あとは、また、「君じゃなくて、彼だよ」と書こうとして、「君じゃなくて、彼だよ」と書いた場合、 その人(君)が傷つくと思って、書かなかったんだよな。そうしたら、いろいろと誤解をうんで、俺が、ほかの人から猛烈に恨まれることになった。あれは、誤解なんだよ。気にしちゃったから、書かなかっただけ。けど、その人たち……(対象になっている人たちで、ここでは書いてないので、だれのことだかわからないだろうけど)……その人たちのことを侮辱するつもりはなかった。けど、その人たちは、侮辱されたと思っているんだよね。まあ、しかたがないかな。

けど、この話とは関係がないのだけど、ほかの人が、ぼくのことを侮辱することがあるんだよ。それは、偏見に基づいて侮辱してくるわけ。たとえば、「無職はけしからん」と思っている人は、無職を侮辱するわけでしょ。ごく自然に……。ぼくは無職期間が長かったので、無職だということで、侮辱されたことが何回かある。それは、やはり、そいつらが悪いのだと思う。だれだって、あのヘビメタ騒音にさらされれば、通勤して働くことができなくなる。不可避的にそうなる。ただ単に、その人たちがそういうことを経験してないから、通勤して働くことができた。そういうことをもたらす家族……きちがい的な意地で騒音を出し続ける家族……と……いっしょに……住んでいたことがないから、無職にならなかっただけだ。通勤できる体力を保持していただけだ。その時点で……。この人たちだって、毒注射で、通勤できなくなれば、やがては、無職になるんだよ。まあ、いまは、ネット回線をとおして働くということが、わりと一般的になっているから、通勤ができないということが、そのまま、働けないということにはならないのだけど、当時は、通勤ができないということは、働けないということを意味していたんだよ。当時だって、資本家や特別なコネをもっている人は、(通勤せずに)働くことができたかもしれないけど、それは、例外中の例外で、ぼくには当てはまらなかった。けど、当時ぼくのことを、無職だということでばかにした人たちは、ぼくのように、気にするだろうかということだ? 気にしないだろ。そして、自分が働けなくなったあとも、自分がかつてほかの人……つまり、エイリ……を、働けないということで侮辱したということを気にしないだろう。自分が働けなくなったら、そんなことは気にしないのだから。自分が働けないのは当然だから、無職は悪いことではないということになってしまう。自分にとって働けないということが当然なので、そんなのは、当然の結果だということになる。それが、ぼくの場合、ヘビメタ騒音で成り立っていたんだよ。だから、「ヘビメタ騒音で働けない」と言ったんだよ。それを、無視したのは、当時、えらそうなことを言ってきたやつらだ。こいつらは、自分が働けないからだになれば、自分が働けないのは当然だから、無職は悪くないと思ってしまうのだ。もちろん「自分が無職なのは、悪いことではない」と思ってしまう。「しかたがないことだ」ということになる。……その人のなかで……。ぼくも、「しかたがないことだ」ということになってたんだよ。どうして、それがわからないのか? 自分はいつまでも働けるつもりなのか? 無職になったら無職なんだよ。むかし働いていたから、俺は、無職になっても無職じゃない」と自然に思い込んでいる。「そんなのはしかたがないこと」だからだ。自分には「人間は働くべきだ」とか「人間は働くべきだから、働かないなんていうのは、あまえだ」と言わない。思わない。自分が無職なのはあたりまえ。働いたから、無職でもかまわない。それと「人間は働くべきだ」という考え方は、どういうふうに両立するんだよ? こういうレベルんだよ。「人間は働くべきだ」なんてえらそうに言っていたやつは、こういうレベル。こういうレベルのやつが、ニートや無職をせめる。「人間は働くべきなのに、働いてないのは、けしからん」……自分が働いているときは、普通にそう思っている。けど、自分が働けなくなっても、自分が働けなくなった理由が、自分にとって明確なら、「人間は働くべきなのに、働いてないのは、けしからん」……ということが、自分の身の上だけには、適応されない。適応されなくて、当然だと思っている。そういう深い深い、誤謬のなかで住んでいる。そういうレベルの人間。そういうレベルの思い込み。そういうやつは、俺を侮辱したということを、忘れてしまう。そういうやつは、俺が無職だということで、……そういう理由で……俺を侮辱したことを忘れてしまう。そういうやつに、……そういうやつが、脳梗塞だか認知症だか慢性疲労症候群だか知らないけど、ともかく働けなくなったとき……そいつの枕元に行って「人間は働くべきなのに、働かないのはけしからん。みんな、働いている。自分だけ働けないなんていうのは、あまえだ」と言ったら、どういう顔をするのだろうか。そいつらは、そういうことを、されてしかるべき存在だ。もし、そういうことが、「ひどいこと」であるなら、当時、ヘビメタ騒音『で』働けなくなった俺に、「人間は働くべきなのに、働かないのはけしからん。みんな、働いている。自分だけ働けないなんていうのは、あまえだ」と言ったやつらは、「ひどいことをした」ということになる。けど、そういうやつらは、一切合切、そんなことは考えないで、死んでいく。

みんな、ちょっと、ニートや無職の人に自分がどういう感情をもって、どういうことを言ってしまったかということについて考えたほうがいいよ。どうせ、いつかは働けなくなるのだから……。

2022年11月5日土曜日

インチキ構造がある

 これ、ほんとうに、ほかの人の人生で発生した場合も、おなじことになると思う。これ、ようするに、「うちの兄貴」みたいな人が、いないのである。「うちの兄貴」だから、きちがいヘビメタにこだわって、こだわって、よその家じゃ一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らすことに、こだわってこだわって、鳴らして、それを無視したのだ。一切合切無視。本人のなかでは、「そんなことはしない」ということになっている。きちがい兄貴のなかで、そういう「統一見解」ができている。無意識的な兄貴も、普通の言葉で言えば、意識的な兄貴も、『そんなことはしてない』『でかい音で鳴らしてない』という統一見解を採用しているのである。頭にくる。そういう、インチキ構造がある。きちがい構造がある。普通の人であれば、そういうことは、できないのである。どうしてかというと、自分が「でかい音で鳴らしている」ということを知っているから。あのでかい音で鳴らしたら、どれだけうそをつく人でも、「でかい音で鳴らしている」という基本的な認知は成り立つ。ところが、うちの兄貴においては、そういう認知が成り立たないのだ。これは、きちがい親父のやり方とおなじなのである。だから、兄貴も親父も、きちがい的な意地で、こだわってこだわってこだわって、やったことは、きちがい的な意地で、否定するのである。それが、普通の状態なのである。きちがいの頭を搭載しているから……きちがい兄貴もきちがい親父もきちがいの頭を搭載しているから……二十四時間中二十四時間、ずっと、そういう状態なのだ。それが、普通の状態なのだ。そうでない状態がないのだ。普通の人のように、意地になってやったことは、意地になってやったことだと認識できる状態が、ない。二十四時間中、二十四時間、ない。そういう毎日が十年続けば、十年間ずっと毎日、そうしていたのに、一日もそんなことをしたことがないと……思っている状態が続いてしまうのである。こういう、くさった状態。これが、どれだけこまることか、わかってない。よその人はよその人で、こういう家族がいるということが、わかってないので、こういう家族がやることで、こまったことがないのだ。継続的に毎日ずっとこまったことがない。相手がいつもそういう状態なので、一日のなかで、何時間も何時間も、こまらされるのである。けど、相手の頭がそういう状態だから……こまらされたことがない人は、それがわからない。自分の体験としてはわからない。実際やられたことがないので、それが「つもったばあい」のこともわからない。ひとごとだ。自分のことでなければわからない。だから、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば楽しくなる」と言ってくる。「過去のことは関係がない」と言ってくる。「人のせいにしたってしかたがない」と言ってくる。「(生まれるまえに)たましいが、どんな家に生まれるか選んだ」と言ってくる。「ほんとうにつまらないやつは、つまらないつまらないと言っているやつだ」と言ってくる。自分は楽しめる……エイリは楽しめない。自分は楽しめるので、楽しめないエイリよりも、すぐれている……。もし、自分がそういうことを経験したとしても、自分なら、楽しめる状態を維持している(はずだ)。けど、エイリは、自分より優れていないので、楽しめる状態を維持できてない。どうしてかというと、エイリがそういうことにこだわる性格だからだ。どうしてかと言うと、エイリが能力的に劣っているので、そういう状態になるからだ。自分が楽しめるということは、それを物語っている。エイリが楽しめないということはそれを物語っている……。そういうふうに思ってしまう。屈辱!

2022年11月4日金曜日

ヘビメタ騒音で、カフェ巡りなんてない。カフェも旅行も楽しくない。楽しくない。

  けど、まあ、残念なことに、ワクチンのなかには、いろいろとはいっていて、シェディング(トランスミッション)もあるので、あんまり、人がいるところには行きたくない。とくに、食べ物や飲み物を扱っているところには行きたくない。どうしたって、食べ物や飲み物に入っている。問題なのは、トランスミッションで出てくるものだけではなくて、ナノレベルの寄生虫だ。これも、打った人は「うそだ」「デマだ」と言って信用しないけど、入ってます。

それに、ヘビメタ騒音でうちのめされたので、たとえば、カフェを楽しむということができなくなっている。これは、致命的だ。旅行も楽しめない。旅に出て?旅先の?カフェに入って、コーヒーを楽しむなんてことは、できないのだ。物理的にはできるけど、ぼくの精神がそれを許さない。というか、ともかく、ほんとうは、人生のなかでヘビメタ騒音がなければ……家族によるヘビメタ騒音がなければ、カフェを楽しむことができた。旅行を楽しむことができた。そういうことが、すべて、なくなってしまった。そして、これが、ぼくにだけにしか、わからないことなのである。ほかの人は、あのきちがいヘビメタ騒音を経験してない。なので、きちがいヘビメタ騒音の話を聞いたあとも、きちがいヘビメタ騒音の『影響』を無視してしまう。だから、ヘビメタ騒音があったにしろ、そんなのは関係がないという前提で、楽しむことをすすめる。すすめてくる。これに関して言うと……なんて言うのか??……自分は可能な状態なんだよね。楽しめる状態……。ヘビメタ騒音に相応する騒音が人生のなかで発生しなかった人……。発生しなかった人の基準……感覚。 



2022年11月3日木曜日

どっちが悪いことをしているのかについては、普通の親にとっては明白なこと

 俺、よく生きてるなぁ。よく生きている。これ、ほんとうに、家族の騒音問題ってほかの人にとっては、「片づきやすい問題」に見えるのである。そんなに深刻な問題に見えないのである。それは、「言えば」しずかにしてくれるからだ。どれだけけんかしても、四日ぐらいでかたがつくはずだ。だいたい、どっちが『きちがい的にうるさい音で鳴らしているか』は、親にとって明白なことなので、親が、『きちがい的にうるさい音で鳴らている』側につくということはない。ところが、きちがい的な父親ときちがい的な兄貴なので、そうなって知ってしまうのである。母親の言うことは、きちがい親父も、きちがい的な兄貴も、どっちも聞かない。この「聞かない態度」がそもそも、きちがい的なのである。そして、「聞かなかった」という認知がしょうじないというところも、きちがい親父ときちがい兄貴でおなじなのである。認知に関して、きちがい親父ときちがい兄貴がおなじ問題をかかえている……こういうことが、ほかの人には見えない。きちがい親父の問題も、きちがい兄貴の問題も、ほかの人にはないのである。どうしてかというと、うちのきちがい親父のように、きちがい的である人が、父親のなかにいないから。よその家は、きちがい親父とおなじように認知の問題がある父親がいないのである。ぼく以外のだれも、「うちのきちがい親父のように狂っている父親」がやることを経験してないのである。だから、「けんとうはずれ」なことを言いやがるのである。まったくおなじことが、きちがい兄貴の問題にも成り立つ。 

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親父(おやじ)と読む

2022年10月31日月曜日

鳴っているときの不利感も、鳴り終わったあとの不利感も、尋常じゃないほどある

 起きた。

これじゃあ、おんなじだよね。おなじだ。おんなじだ。これじゃ、らちがあかない。どうするかな? このままいくしかないのか??

ヘビメタ騒音でくるしい。これは、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。鳴っている感じがする。こういう世の中。ものすごく、不利な感じがするんだよ。それは、鳴っているときもそうなんだけど、鳴り終わったときも、そうなんだよ。これ、みんな、ほんとうに誤解している。鳴り終わったら関係がないと思っている。けど、まるでちがうんだよね。睡眠時間を圧迫する。鳴っているときの不利感も、鳴り終わったあとの不利感も、尋常じゃないほどある。人生「ばんばらばん」で、感情「ばんばらばん」なんだよ。常に、死にたいほど怒っている。常に、きちがい兄貴を〇したいほど怒っている。常に、緊張緊張。常に、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、爆発的に、緊張している状態なんだよ。発狂して、気ちがい兄貴をめった刺しにして、〇して、しずかにさせたい気持ちがあるのだけど、それをがまんして、座っている状態なんだよ。勉強しようとして座っている状態なんだよ。それがずっと、鳴っている間続く。鳴り終わったときには、もう、つかれはてている。ぜんぜんちがうんだよ。無傷なまま、つかれないまま、鳴り終わるのをまてばいいということにはならない。そういうことにはならない。これ、実際に、きちがい兄貴の態度で、自分がこの世で一番苦手な音を、あの音のでかさで、常に常に、鳴らされている状態というのを、経験しないと……自分のからだで経験しないと、それがどれだけこたえることか……わからない。鳴り終わったあと、どれだけ、つかれているか、わからない。わかってない。「鳴り終わったら関係がない」と言うやつも、ぶっ〇してやりたいほどむかつく。そのセリフを聞いたとき、ほんとうに、なぐり〇してやりたい気持ちになる。不利感がちがう。つもりつもった、絶対的な不利感がちがう。こいつ、わかってないだけなのに、わかったようなことをいいやがって」となぐりたくなる。ぼこぼこになぐりたくなる。それも、がまんだ。そして、うちに帰れば、ヘビメタが鳴っていたのである。休みの日は、朝からヘビメタが鳴っていたのである。だから、不利感がどうしようもないほど、つもる。「ヘビメタが鳴ってたって、ちゃんとやらなきゃだめだよ」と言ったやつも、ぶっ〇してやりたい。ぶっ〇してやりたい。そういう怒りがわいてくる。どうしようもなく、わいてくる。そりゃ、そうだろ。人間として生きていて……この不公平な社会に生きていて……この不利な状態を経験したことがないやつが、わかったようなことを言う。言えるのは、そいつが、経験してないからだ。自分がこの世で、一番嫌いな音が、がんがんでかい音で長時間鳴っているということが、どういうことなのか、体験を通してわかってないだけだ。これ、きちがい家族による騒音に限るからな。意味がちがうんだよ。これ、家族と、他人だと意味がちがうんだよ。そして、家族のほうが、物理的な距離が近い。家族の鳴らしている音のほうが、音源が、実際に近いのである。音源の近さは、ものすごい影響をあたえる。人間が感知する音のでかさというのは、じつは、言うほど簡単じゃないのである。「でかい音」というのが、ほんとうに、いろいろとちがうのである。これも、わかってない。この世で一番嫌いな音が、壁のうしろでがんがん鳴っていていいわけがない。これは、工事の音とか、幼稚園の音とか、電車の音とかとは、ちがうのである。きちがい家族による、騒音。そして、これは、きちがい家族でなければ鳴らさない音なのである絶対に、普通の家族だったら、一分間でも鳴らしたら、「やばいな」と思う音なのである。そして、鳴らしたとき、ほかの家族が「うるさいからやめろ」と言った場合、「うるさい音で鳴らした」ということが、わかるのである。きちがいだから「うるさい音で鳴らした」と言うことが、永遠にわからない。どれだけ強く言ってもわからない。自分が鳴らしたい音なら、どれだけうるさい音で鳴らしたって、うるさい音で鳴らしているとは思わないのであるどうしてかと言うと、そういう、でかい音で鳴らしたいからだ。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということを認めない。それが、無意識的なレベルで起こってしまうのである。「感覚器」を書き換えてしまうのである。だから、本人はほんとうに、でかい音で鳴らしているつもりがないのである。なら、聴覚が異常なのかと言うと、異常じゃないのである。もっとも、自分のヘビメタ騒音で、聴力がさがったわけだけど、最初は、聴力が普通だった。そして、自分のヘビメタのでかさで、聴力がさがったのである。で、聴力が普通のときと、聴力がさがったときと、態度がまったかわらないのだから、やはり、無意識的な「感覚器」の書き換えがあったと判断するべきなのである。

 

このきちがい的な家族にやられた人間が、ほかの人からわかったようなことを言われなきゃならなくなるというのは、納得がいかない。これ、みんな、ルール違反をやっているほうはせめないのである。ルール違反をやられて、結果的に、できなくなって、こまっているほうをせめる。「ちゃんとやらなきゃだめじゃないか」とせめる。「そんなのは関係がない」と言う。これ、どれだけ地獄かわかってんの?

*     *     *

きちがい家族にやられたことがない人はわからない。わかってない。

そんなことじゃない、と言っているだろ。こういう人たちが、持ち出す「俺だって、つらい思いをした」「俺だって困難があった」という話が、全部ちがうのである。どこが違うかと言うと、その問題の家族が、きちがいかどうかがちがうのである。ほんとうのきちがいは、ぶっとんでいる。そういう常識が通じないからこまっているんだろ。これ、ほんとうに、きちがい親父と、きちがいでなはい普通の親父は、ちがうんだよ。なんでそれがわからないのか。きちがい親父とのトラブルときちがいではない普通の親父とのトラブルは、ちがうんだよ。「不愉快な思いをした」と言ってもちがうんだよ。

きちがい兄貴とのトラブルは、きちがいではない兄貴とのトラブルとはちがうんだよ。質がちがうんだよ。「もっている意味」がちがうんだよ。

みんなわかってない。すくなくても、「鳴ってたってちゃんとしなきゃだめだろ」と言うようなことを言うやつにはわかってない。わかってないから、言える。これ、どれだけの侮辱か、わかってないだろ。侮辱なんだよ!! さきに侮辱しているのは、そっちなの!!

いま言ったようなことを「鳴ってたってちゃんとしなきゃだめだろ」と言ったやつに言えば、言ったやつは、一〇〇%、怒るんだよ。これ、「困難の困難がちがう」とか「きちがい兄貴とのトラブルは、きちがいではない兄貴とのトラブルとはちがうんだよ」とかと言って、怒らなかったやつがいない。これは、「騒音のなかで、どれだけ、楽しいと言っても楽しくならなかった」「騒音のなかで、どれだけ、だいじょうぶだだいじょうぶだと言っても、だいじょうぶじゃなかった」というようなことを言われた、言霊主義者の態度とおなじなのである。みんな、腹をたてる。言霊主義者は、腹をたてたとたんに、「エイリさんと話すと楽しい」と言えば、「楽しく感じる」はずだから、問題はない。けど、それは、なんて言うのかな? ただが自分の意見を否定されただけの話なんだぞ。おまえ、そんなの、ヘビメタ騒音の〇・一秒にも相当しない。そんなことで腹をたてるなら、きちがいヘビメタのことで絶対に腹をたてる。小さなことなんだぞ。自分の意見が否定されたなんてことより、ヘビメタ騒音が鳴っているということのほうが、一〇〇京倍も、影響をあたえることなんだぞ。きちがい兄貴は、「うるさい音だ」という意見を無視して鳴らしている。鳴らしていれば、うるさい。実際に、こたえる。俺が、言霊主義者の意見を否定したとき、俺は、うるさくしてない。どかどか、ものすごい、騒音を鳴らしているわけではない。音の振動を与えているわけではない。どかっすっかどかすっか、ほんとうに、ひどい状態なんだぞ。それが影響をあたえないというのであれば、俺が、意見を否定したとしても、影響なんてないよ。そんなことで怒る必要はないから、怒らなければいいよ。「きちがい兄貴とのトラブルは、きちがいではない兄貴とのトラブルとはちがう」と言うとき、俺は、意見を言っているだけなのだから……実際にきちがいヘビメタを鳴らして、迷惑をかけているわけではないのだから、気にしなければいい。「そんなちょっとのことで、腹をたてるのが異常だ」。

迷惑度の度合い、影響の度合いが、まるでわかってないんだよな。この人たち……。こういうやつらが、わかったようなことを言う。きちがいヘビメタ騒音の積み重ねで、そういうことを言われる立場に追い込まれる。きちがいヘビメタが、……きちがい兄貴のきちがいヘビメタが鳴ってなかったら、俺はそんなことを言われる立場に追い込まれてない。そいつらよりも、社会的な地位の高い職業について暮らしている。ふざけんな。こいつらは、自分よりも社会的な地位の高い職業についている人に対してこんなことは言わない。そいつらのなかにある上下関係の妄想が、そういう行動に影響をあたえている。

そして、こういうとを言うのが、一般的にはみっともないことなのである。それは、悪魔が支配している社会だからだ。きちがい兄貴というブラックホールが、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴というハンディがほかの人にはわからない。どれだけ不利なことになるかわかってない。きちがい親父というハンディがほかの人にはわからない。どれだけ不利なことになるかわかってない。
 

2022年10月30日日曜日

生活体力をもっていかれた

ほんとーーに、つかれた。ほんとうに、きちがい兄貴ときちがい親父に、体力をもっていかれた。生活体力をもっていかれた。憂鬱なんだよね。動きたくない。なにかをするとなると憂鬱。 

きちがい兄貴やきちがい親父と暮らしたことがない人には、わからない。実際に、人生のなかで、きちがい兄貴やきちがい親父と暮らした時間が、何時間あるかで、憂鬱かどうかがちがう。これは、今現在、いっしょに暮らしてなくても、過去において、いっしょに暮らしていた時期があるということが影響をあたえる。いまの、憂鬱度に影響をあたえる。みんな、「憂鬱な感じがする」ということについて、勘違いをしている。疲労とおなじように、憂鬱な体験がつみかさなれば、それは、やはり「今現在の憂鬱度」に影響をあたえる。関係がないわけじゃないのである。この世の感覚……に影響をあたえる。今現在の時間感覚に影響をあたえる。きちがい兄貴はきちがいヘビメタ騒音で、きちがい親父はきちがい行為で、それぞれ影響をあたえた。そして、きちがい親父のきちがい行為が、ネズミ事件・ネズミの糞事件・ダニ事件を引き起こしたので、それも影響をあたえる。ネズミの糞は、まだ、下の部屋と兄貴の部屋に散らかっている状態だ。そして、ダニが発生する。

だれもが、きちがいヘビメタをあれだけ、横の部屋で鳴らされたら、働けないからだになるのに、ぼく以外のだれも、それを経験してないから、そうなるということがわかってない。彼らのなかでは、「ヘビメタが鳴ってたって働ける」ということになっているのである。あるいは、「自分なら、ヘビメタを鳴らさせないようにできた」ということになっているのである。「かりに、ヘビメタを鳴らされたにしろ、過去のことなら関係がない」ということになっているのである。いずれも、まちがっている。


2022年10月29日土曜日

抵抗力

 どうするかな? もう、ワクチンのことは書きたくないんだけどなぁ。ここには、書きたくないという話。あとで、編集するときに邪魔になるから。

基本的に理解しなければならないのは、ワクチンを打ったから、免疫システムが弱っているということだ。最終的には、免疫システムが破壊される。これは、時間の問題。ロッドによって、免疫システムを破壊するまでの時間がちがうのである。だから、打ってもなんともない人はいる。また、プラシーボの場合は、ほかのものはいろいろとはいっているけど、m-RNAは入ってないかもしれないので、その場合は、免疫システムを破壊しない。しかし、プラシーボの場合も、ほかのものはいろいろとはいっているので、完全に安全とは言えない。

で、ワクチンを打つと、風邪にかかりやすくなのである。風だけではなくて、さまざまな病原体によって引き起こされる病気になりやすくなる。けど、新型コロナだけには感染しないのである。どうしてかというと、人間の体の中には新型コロナウィルスが物理的に存在しないので、新型コロナウィルス感染症患者になろうと思っても、新型コロナウィルス感染症患者になれないからだ。

 ともかく、ワクチンを打ったから、風邪をひきやすくなっているんだよ。

PCR検査をうけてしまうから、陽性にされてしまう。そして、陽性だということを、感染したと思い込んでしまう。だから、新型コロナウィルス感染症患者ができあがってしまう。

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新型コロナウィルスが物理的に存在するかどうかについては、話が長くなる。これは、もう、ここではない場所にさんざん書いたので、省略する。

ともかく、新型コロナ用ワクチンを打てば打つほど、病気にかかりやすくなるので、やめておいたほうがいい。風邪症候群を引き起こす病原体はなんたくさんある。なので、免疫力が落ちると、物理的に存在する、風邪症候群を引き起こす病原体に「やられ」やすくなる。ワクチンを打つと抵抗力がじょじょになくなっていくのだ。だから、なるべくはやく解毒したほうがいい。

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ワクチンを打つと、あらゆる病気にかかりやすくなるので、注意!

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風邪症候群を引き起こす病原体はたくさんあります。それらの病原体でも、重症化したり、後遺症残すことはあります。通常の状態でもそうです。ワクチンを打ったからだは、そういう病原体に軽くやられてしまいます。重症化したり後遺症を残すことがあります。

 基本、新型コロナウィルスは患者の体内に存在しないので、「ただの風邪」を引き起こす病原体どころか、風邪の病原体にはなりえません。新型コロナウィルスは「ただの風邪」も引き起こすことはできません。

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新型コロナにかかったとき、くるしかったから、ただの風邪じゃないと言っている人がいるけど、まず、新型コロナにかかったわけではないということを理解する必要があります。

2022年10月28日金曜日

同等のつらさを経験した俺が働いているのだから、エイリも働ける。

 そりゃ、「俺だってつらいことがあった」で、やめるなら「つらいことがあったんだな」と思うけど、「俺だってつらいことがあった」と言う人は、みんな、そろいもそろって「だけど働いている」というようなことを言うのである。あるいは「自分が働いていることを前提として」そういうことを言うのである。「つらいことがあった」……それは、「あなた(エイリ)のヘビメタ騒音のつらさとおなじだ」……けど、「俺は」がんばっている……ということを言うわけだ。それは、ただ単に「俺は、つらいことがあったけどかんばっている」ということではないんだよ。「同等のつらさを経験した俺が働いているのだから、エイリも働ける。エイリも働くべきだ」ということを言っているわけ。

けど、同等のつらさじゃない。 ちがう。大いにちがう。けど、俺(エイリ)がどれだけ「ちがう」言っても、相手には伝わらない。相手は「同等のつらさを経験した」と思っている。同等のつらさを経験したのにもかかわらず、がんばって働いている俺、すげーー」という感情がある。そういうふうに見なしている。逆に言えば、「同等のつらさしか経験してないのに、働けなくなっているエイリは弱い」とか「同等のつらさしか経験してないのに、働かないエイリはずるい」という感情がある。みなし方がある。

けど、ちがう。同等じゃない。ほんとうに、同等じゃないのである。その困難、つらさを経験させた相手は、家族なのかというと、家族ではないのだ。その困難、つらさがどのくらい、長引いたのかという期間の長さをくらべると、同等ではないのだ。だいたい、きちがい的な相手に鳴らされ続けているときの状態というのがちがう。その相手の困難、つらさが騒音である場合、ぼくの騒音より、物理的な音のレベルが小さいと思う。おなじじゃない。おなじじゃない。おなじじゃない。おなじじゃないのに、勝手に、「おなじだ」とみなして、えらそうなことを言ってくるな。ぼくは、こういっちゃなんだけど、騒音耐性も、根性も、ほかの人よりは、ある。平均よりもある。普通の多くの人よりもある。けど、それを、覆すほどのきちがい騒音だったんだよ。だいたい、きちがい兄貴のような家族をもつ人が、どれだけいるのか? きちがい親父のような家族をもつ人がどれだけいるのか?

「そんなのはおかしい」と言ったり、思ったりする人たちは、みんな、みんな、みんな、ぼくの家族とはちがった種類の家族をもっている人たちなんだよ。ようするに、家族のなかにきちがい親父やきちがい兄貴のような人がいない。だから、ぼくの話を聞いたとき「そんなのはおかしい」と思うんだよ。「そんなのはおかしい」「そんなひとはいない」「そんなことってあるのかな」と思う人は、そう思って、ぼくの話を信じないというところがある。これも、やっかいなんだよな。そして、ぼくが実際に無職だったり引きこもりだったりすると、「無職だから嘘をついている」「引きこもりだから、嘘をついている」と思うのだ。ようするに、無職や引きこもりは、信頼できる人間ではないのである。その信頼できない人間が、「へんなことを言っているのだから」「嘘にちがいがあるまい」と思うのである。頭がわるいのか、偏見に見ているからそう考えるのかわからないけど、そう考えてしまう。

きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度について、語ると、そういうことが発生する……場合がある。きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度が「普通の人にとって」異常なので、信じないのである。「それは、なんかちがう理由があるのではないか」と考えてまうのである。きちがい親父における「ハンダゴテの話」だって、信じない人は信じない。兄貴が親父の態度について正確に説明したとき、学校の先生やほかの生徒は信じなかった。「説明がへたくそだから親父さんがわからなかっただけだろ」とゆがんだ会社をしてしまったのである。けど、これは、ゆがんだ解釈だ。きちがい兄貴は、親父の態度のことで、そういうふうにいやな思いをしているのに、自分が相手にやる場合は、親父の態度とおなじ態度でやってしまうのである。自分が親父の態度で、いやな思いをしたから、ほかの人にはそういう態度をとらないようにしよう……なんて考えないのだ。考えるわけがない。自分が「やられれれば」腹がたつけど、自分がやっているときは、「そういうことをしている」とは思わないのだ。これは、指摘されないから、わからないということではなくて、明確に指摘されても、まったくわからないままのことだ。きちがい兄貴における「ヘビメタ騒音」はまさしく、きちがい親父における「ハンダゴテ」なのである。どれだけ意地になっているか? どれだけ、普通の人が理解できないような感覚に基づいて行動をしているか? そして、普通の人が理解できないような感覚に基づいて行動をしているということを、どれだけ、認めないか。全部、ほんとうにおなじなのである。きちがい親父の態度ときちがい兄貴の態度はおなじなの。けど、普通の人には、『きちがい親父の態度もきちがい兄貴の態度も』わからない。自分の人生のなかでそういう人に出会ったことがないので、わからないのだ。そうなると、そういう人とのトラブルも「よそよそしいこと」になる。どこかちがう世界の話のように聞こえるのである。それが、「へんなかんじがする」「そんなのはおかしい」という判断になる。なので、きちがい的な意地でやった人のことは、無視してしまう。話のなかに出てくるへんな人のことは無視してしまう。軽く考えてしまう。その人がやったことを……話のなかに出てくるへんな人がやったことを軽く考えてしまう。そうなると、「たとえ、そうだとしても、いつまでも影響をうける必要がない」とか「過去のことは関係がない」という考えが頭に浮かんでしまう。そして、それを前提に、目の前のぼくに、説教をしはじめるるのである。頭にくる。

ぜんぜんちがうのに、「つらさはおなじ」「困難の度合いはおなじ」と思って、勝手に、へんなことを言ってくることになる。それは、へんなことだ。まちがったことだ。なぐりたくなることだ。

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それだと現実が説明できないの!

 ヘビメタ騒音の影響がどれだけでかいか、想像することができない、想像力がない人から、俺が、……この俺が……ばかにされるんだぞ。説教、されるんだぞ。こういうことになってしまうから、「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」ときちがい秋にの部屋に行って、絶叫したのに、きちがい兄貴は、ほんとうに、まったくわかってないなぁ。きちがい的なやり方で「のりきって」やってしまうのである。けど、「のりきってやった」ということを、これまた、きちがい的なやり方で「認識しない」のである。初めから認識してないのだから、「忘れた」わけじゃないんだよ。一度、認識したことを、忘れたわけじゃない。けど、認識したのかどうかなんて、外から見てわかるわけじゃないのだから、おなじ意味を持ってしまうのである。「認識して忘れたということ」と「最初から認識してないということ」は、おなじ意味を持ってしまうのである。そうなると、ほかの人は、忘れただけなのではないかと思ってしまうのである。そうなると、きちがい兄貴はきちがい兄貴ではなくて、忘れやすい人だということになってしまうのである。忘れたのであれば、よくある話になってしまう。けど、ちがう。それから、きちがい兄貴自体が認識してないのだから、きちがい兄貴のなかでは「そんなことはやってない」ということに、なっているのである。だから、こっちから見ると、きちがい兄貴の態度は、すっとぼけて腹がたつことなのだけど、きちがい兄貴のほうは、そんなことは、もちろん、一切合切気にしてない。「そとから見てわかるわけじゃない」のだから、エイリが、想像して話していることだということになるのだけど、それは、そうだ。現実の態度やきちがい兄貴の発言をもっとも、うまく説明できるのが、そういう仮説なんだよ。そりゃ、きちがい兄貴の頭のなかのことなんてわかるわけがない。けど、もし、「一度は認識した」と考えると、おかしなことがあるんだよ。それだと現実が説明できないの! きちがい兄貴の発言は、そう考えないと説明ができないことなんだよ。

こういう感覚器を書き換える「うそ」は普通の人では、つけない「うそ」なんだよ。きちがい兄貴ときちがい親父は、感覚器を書き換えてしまうタイプなのだけど、それは、認知症の人を相手にしているのよりも、はるかに、骨が折れることなんだよ。で、ほかの人は、これがわかってない。どれだけ、そういう態度……で……腹がたつかわかってない。これは、腹がたつ態度なんだよ。「そういう態度」というのは、きちがい兄貴やきちがい親父が、きちがい的な意地で、自分のやりたいことを押し通してしまうときの態度だ。そして、それを認めないときの態度だ。普通の家に生まれた人でも、親が認知症になった場合、あるいは、家族の誰かが認知症になった場合、認知症である人との間の「もめごと」は、健常者同士のもめごととはちがうということがわかるだろう。けど、感覚器を書き換えてしまうタイプの人は、認知症の人よりも、レアなんだよ。そして、こういっちゃ悪いけど、認知症の人なんかよりずっと悪質なことをするわけ。だから、腹がたつわけ。しくみがあるの!!! しくみがあるの!!

それを、まるで、俺の問題のように言いやがって。「気にするやつが悪い」「他人をかえることはできないから自分を変えるしかない」「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」というようこと言うような人たちがいる。この人たちたちが、どれだけ、ひどいことを言っているかの、この人たちはわからない。けど、それは、きちがい兄貴やきちがい親父にある感覚器の言い換えとは関係がないんだよ。けど、「ひどいことを言っている」ということについて説明すると、そういう人たちも、「俺が、そんなきちがい親父や兄貴とおなじだというのか?」と言って、腹をたててしまう場合がある。こういうこと、ひとつをとっても、きちがい兄貴とのあいだにあったこと、きちがい親父とのあいだにあったことというのは、ぼくの人間づきあいに影響をあたえる。「きちがい親父とのあいだにあったこと」というのは「ぼくときちがい親父とのあいだにあったこと」という意味だ。おなじように、「きちがい兄貴とのあいだにあったこと」というのは、「ぼくたきちがい兄貴のとのあいだにあったこと」だ。この、「あいだにあったこと」というのは、実際にしょうじたことだ。実際の出来事だ。ぼくが、頭の中で考えているだけのことではないのだ。みんな、これも無視してしまうけど、実際に発生したことが、人間関係に影響をあたえるんだよ。ちょっとだけ、言っておくと、「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」ということは、実際にあったことではなくて、その人が頭の中で想像して考えていることなんだよ。「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」というのは、想像して考えていることなんだよ。そういう想像をして考えたことを、あたかも、現実的な前提のようにして言うのは、よくないよ。そりゃ、信じているのは勝手だけど、ひとのことについて、そういう前提でものを考えて言うのはよくないよ。失礼だよ。そして、これも、ちょっとだけ言ってしまうけど、認知療法家のきれいごとも、じつは、「むりなこと」を含んでいる。きれいごとにあわせて、実際の現象を認知すればよいということになるのだけど、そうはならないのである。どうしてかというと、そのきれいごとでは、説明ができない出来事が、実際に、たーーくさん、たーーくさん、おこったからだ。現実が説明できないきれいごとを認知の方法として採用する気がするか? ……認知療法家が推奨するような「現実の認識」というのは、まったくもって現実的じゃないのである。認知療法の場合、患者の認知がゆがんでいて、自分たちの認知はゆがんでない……ということが前提に成り立っている。患者の「現実認知」がゆがんでいるからだめなんだということになっているのである。けど、ほんとうにそうなのかということには、ずっとまえから疑問を感じている。

2022年10月27日木曜日

そういう暮らしをしていれば「楽しく感じない」のである

  この気持ち、なんだよ。だれも、わかってくれないなぁ。あたりまえだが……。わかるわけがない。わかるわけがない。もう、こんなことを続けていてもしたがない。全部、が、くもって、しまった。くもってしまった。どれだけ、やる気を出そうとしても、「あのときの気分」とおなじ気分になる。切羽詰まっている気分になる。あの不安な気持ちはない。きちがいヘビメタ騒音にたたられたときの、不安な気持ちはない。腹立たしい気持ちはない。たとえば、きちがいヘビメタが鳴っていないとき……ぼくが自転車をこいでいるとき……ぼくの気持ちは、ぐたぐたなのである。どれだけ、元気づけようと思っても、元気づけることができない気持ちなのである。それは、体験があるからそうなる。前の日、ヘビメタにやられていたからそうなる。三〇〇〇日前、ヘビメタにやられていたからそうなる。経験がない人に、どれだけ言ったってわからない。きちがいが家にいるということが、そもそも、わからない。きちがい家族が家にいない人には、きちがいが家にいるということ自体がわからない。これ、ほんとうに、卑怯なんだ。卑怯なんだけど、ごり押しでやる。もちろん卑怯なので、「やった」ということすら、認めない。そういう認知構造が成り立っている。普通の人なら……やったことをやってないと言って、嘘をついているとき、嘘をついしているという認識がある。ところが、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定しているとき、嘘をついているという認識がない。こういうところが、こまるんだよ。そのこまり方は、健常者を相手にしているときのこまり方ではないんだよ!!

ほんとう、ほかのやつら、まったくわかってない。

ともかく、つかれた。で、実際にそういう家族がいないので、そういう家族が、きちがい的な構造で、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らし続けるということが、発生しないのである。普通の家族と一緒に暮らしている人にはそういうことが発生しない。普通の家族と一緒に暮らしている人の場合は、どれだけ騒音のことで喧嘩をしたと言っても、三日ぐらいで、うるさくしているほうがおれて、きちがい的な意地で鳴らさないようにするということになる。きちがい的にでかい音なのだからそうなる。常識的な家ならそうなる。普通の家ならそうなる。両親が普通の人なら、きちがい長男がどれだけがんばってもそうなる。けど、うちはちがう。きちがい親父がつくった家だ。きちがい親父がやっていることだ。きちがい親父がずっとやってきたことなのである。きちがい兄貴が「ヘビメタ騒音でやったこと」というのは、きちがい親父が、ずっとずっとずっと、何十年間もやってきたことなのである。そういうタイプの反応をして、そういう行動ずっとずっとずっとしてきたのである。……きちがい親父が。親であるきちがい親父が……やってきたことなんだよ。 そういうところがちがうのだけど、「騒音」ということになると、「騒音」ということが問題になって、そういう『きちがい的な父親』の話は、はるか後方に退くことになる。しかも、これ、言っても、わからないのである。だから、無視する。そういう父親だということを無視する。そういう兄だということを無視する。そして、けっきょくやられたほうが、がまんして、社会のルールに従わなければならないということになるのである。ところが、ヘビメタ騒音で、どうしても、社会のルールにしたがうことができない状態になっているのである。けど、普通の人は、経験したことがないので、「できない状態になっている」ということがわからない。ずっと追いつめられる。きちがい兄貴の騒音にやられながら、社会のルールにあわせようとして、ものすごく切羽詰まった状態で暮らすことになる。その状態で暮らして、「楽しい気分を維持する」ということは、できないことなのである。「楽しい楽しい」とどれだけ言っても、そういう暮らしをしていれば「楽しく感じない」のである。けど、世の中には言霊主義者がたくさんいて、「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「これは、宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言って、聞かないのである。言霊主義者にとっては、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」のに、楽しい楽しいと言って楽しくなろうとしない人なのだということになるのである。楽しくなるような努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。言霊主義者にとってエイリはそういう存在になってしまうのである。そして、きちがいヘビメタにやられたために、社会的な地位がひくぃのでぁ。自分よりも社会的な地位がひくければ、自分よりも下の人間なのである。自分より下の人間が言うことは、「絶対になにがなんだろうが正しいと認めない」という、判断感覚と言うべきものをもっている人たちがいる。で、言霊主義者のなかにはそういう人が多いのである。たぶん、かさなるところがある。相手と自分の力関係を考えて、相手に対する態度を決めるということは、ごく普通のことなのである。ほぼ一〇〇%の日本人が、普通にやっていることなのである。だから、日本人のなかに言霊主義者がいたとすると、その言霊主義者は「相手と自分の力関係を考えて、相手に対する態度を決める」人である場合が多い。きちがいヘビメタにやらなければ、ぼくの社会的な地位は高いので、そういうことでいやな思いをする必要もなかった。立場が上である人間に「説教ができるか」という問題だかある。説教をしはじめるやつというのは、立場が下の人間に「説教をしやすい」のである。そういう傾向がある。きちがいヘビメタが毎日続いて、通勤通学ができなくなると、かなりの高確率で、無職にならざるをえないのであった。すくなくても当時はそうだ。そうなると、よその言霊主義者に説教をくらいやすくなる、のである。その言霊主義者だって、きちがいヘビメタをあれだけでかい音であれだけ長い期間、ずっとやられれば……鳴らされ続ければ、通勤通学できないからだになるのに、そいつには、きちがい兄貴がいないのでそういうことにはならないのである。ならなかったら、そいつにとっては、きちがいヘビメタ騒音にたたられる毎日にというのは、「想像のなかにあるもの」でしかない。どういうことになるか、ほんとうにはわからない。「楽しい楽しい」とどれだけ言っても、楽しく感じないからだになるのに、そいつは、そういう経験がないので、わからないのである。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる。これは、宇宙をつらりく絶対法則だ」と言って聞かない状態になる。だから、そうなると、「みぞ」ができるのである。これは、言霊主義者との間にだけ、できる溝ではない。「人間働くべきだ」と考えている人との間にも「みぞ」ができるのである。ほとんどの日本人を敵にまわしてしまうのである。自動的に……。そういうことがわかっていたから「しずかにしてくれしずかにしてくれ」ときちがい兄貴の部屋に行って、きちがい兄貴に聞こえるように絶叫して絶叫して絶叫していたのけど、きちがいが、きちがい的な意地を、押し通して、鳴らしてしまうのである。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。