2022年9月26日月曜日

だます構造、だまされる構造が成り立っている。○○をしても、しあわせになれない。

すでに、しあわせな人が、しあわせになるには、○○をすればいいというようなことを言ったとする。けど、そのしあわせな人がしあわせなのは、○○をしたからじゃないんだよ。生まれながらに、しあわせだった。経済的にもめぐまれていて、精神的に成熟した親のもとに生まれたから、しあわせだった。生まれながらに経済的にめぐまれていたので、たいした苦労もなく、経済的にめぐまれた生活を維持できた。経済的にめぐまれた家に生まれたから、成人してからも、経済的に恵まれた生活ができたのだということを言うと、経済的にめぐまれた家に生まれた人は、「俺だって努力した」とか「たいして、めぐまれてない」とか「成人してからの収入は、生まれた家の収入とは関係がない」とかと言いがちだ。そういう傾向がある。これは、基準がちがうから、そういう言葉が出てくる。めぐまれた家に生まれた人は、自分がどれだけめぐまれているか、あるいは、めぐまれていたか、わかってないところがあるんだよ。「普通」と言った場合の「普通」の基準が、ぜんぜんちがう。そして、その、ちがいには、無頓着なのだ。仕事をしはじめるときの条件がまるでちがうということがわかってない。そして、仕事をしはじめるときの条件のちがいは、その人の努力の結果ではなくて、生まれてきた家の格差の結果が反映している。

ともかく、意図的なのか、意図的ではないのか、よくわからないけど、すでにしあわせな人は、かならず、本人がしあわせになった本当の理由はかくして、あるいは、無視して、まったく、意味がない方法を、しあわせになる方法だという「くせ」がある。ほんとうは、○○をしたからしあわせになったのではなくて、条件がいいうちに生まれたから、○○をするまえから、すでにしあわせだった。だから、条件が悪いうちに生まれた人が、○○をしても、しあわせにならない。こういうことがまったくわかってないのだ。生まれの格差「上」の人はこういうことがまったくわかってない。自分がどれだけ恵まれた家に生まれて、さまざまな条件で優位だったのかが、わかってないのだ。問題なのは、生まれの格差「上」の人が○○をすればしあわせになれる、というようなことを、生まれの格差「下」の人に向かって言うことだ。これは、社会のしくみからして、そういう順序と方向性が成り立っている。さらに問題なのは、生まれの格差「下」の人が、その方法を「信じてしまう」ことだ。一時的に信じてしまうことだ。生まれの格差「下」の人が、生まれの格差「上」の人がすすめる○○をしても、絶対に、しあわせになれない。だから、基本的に、だます構造、だまされる構造が成り立っている。

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だまされてつらい思いをする人がひとりでも減るようにするために、二項目うんぬんとか生まれの格差うんぬんということを書いている。すでに、カネをもっている人が書いた、カネを儲ける方法というのが、ほんとうにはカネを儲ける方法ではないということが、「しあわせになる方法」にも成り立っているんだよね。生まれの格差を無視して、それぞれの条件を無視している。あったってないことになっている。そういう前提で、二項目的な文にまとめられることを書くのは、じつは、悪魔的な行為だ。これ、役に立たない情報商材とおなじなのである。これ、善意で行われているのだけど、悪魔の構造を維持している。悪魔の構造を維持することに寄与している。

生まれの格差「上」の人が、意図的に、生まれの格差「下」の人をだましているとは、言わない。意図的ではないのだ。すくなくても、本人は、善意でやっている。これが問題なんだよな。いや、これも、問題なんだよな。一番の問題は、すでにしあわせな人が提唱している「〇〇をすればしあわせになる」という方法が「うその情報」だということだ。カス情報と言ってもいい。 情報商材に書いてある、「おカネを儲ける方法」とおなじように、役に立たない情報なのだ。で、そういうふうになってしまうのには、理由がある。けど、書いている人も、読んでいる人も、その理由には目もむけない。こういう、不幸な構造がある。じつは、読んでいるほうも、『条件』を無視したいのだ。ほんとうは、自分の生活を縛り付けている『条件』を無視したい。条件を無視して、「一時的に」しあわせになりたいのだ。これは、自己啓発セミナーとおなじ問題を含んでいる。条件を無視しているから、一時的に「しあわせになれるような感じ」がしているだけだ。自己啓発セミナー会場から帰ってくるときは、なんでもできるような気分になっているけど、次の日は、満員電車で通勤している自分というものについて、考えたほうがいい。自己啓発セミナーに行っている人は……考えたほうがいい。なぜ、自分はいやな会社に通勤しているのか? どうして、自分は乗りたくもない満員電車に乗っているのか? なぜだ?? なぜだ?? どうしてだ?? どうしてだ??

条件がちがうからだよ。

2022年9月25日日曜日

きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじだ

 引用開始

急死した某ピアニストの呟き遡っていくと、最初はピアノについての楽しい投稿だったのに最後はワクチン後遺症で体力も気力も無くなり、無理解な夫への愚痴だらけになっていて、やるせなくなった。 たった3本の注射で人間の身体と精神が破壊される。ワクチン推進派の責任は?厚労省は何してるの?

引用終了

きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじだ。どれだけつらいかまわりは理解しない。 

ヘビメタでできなくなったと言っているのに、働いたほうがいいと言ってくるやつは、〇〇〇。自分だって、ヘビメタ騒音生活(そいつにとってのヘビメタ騒音生活)を6年間、経験すれば、俺が言っているとがわかるようになるのに……。俺が遅刻をするかしないかは別にして、ヘビメタ騒音生活の6年間、学校に通ったということが、どれほどすごいことなのか、奇跡的なことなのか、みんなわかってない。そいつらだって、6年間……6年でいい……6年間、あのヘビメタ騒音と同じレベルの騒音が鳴っているうちで生活すれば、みんな、わかるようになるのに、生活してないから、まるでわかってないんだよな。

俺が「ヘビメタ騒音で、できなくなった」と言ったら、ヘビメタ騒音でできなくなったということなんだよ。それを、無視して、「できないなんてことはないだろう」と勝手に思って、好き勝手なことを言うな。言うな。言うな。

これ、どれだけひどい生活なのか、みんな、わかってないんだよな。

どれだけ努力しても、「できなくなる」。で、努力する過程と、できなくなる過程が、おなじだから。だから、「ヘビメタ騒音で通勤することができなくなった」と言っているのに、きちがい野郎どもが、信じない。「努力すればできるようになる」って、おまえ、どの口で言っているんだ? と言いたくなる。言いたくなる。言いたくなる。

2022年9月24日土曜日

39度のお湯につかっている人間には、1度の水につかっている人間の状態がわからない。

 めぐまれている人とめぐまれていない人とでは、条件がちがうんだよ。だから、条件について、まず最初に考えなければならない。ところが、めぐまれた人が、X(エックス)をすればY(ワイ)になるといったようなことを言う場合は、条件のちがいを考えてない。

たとえば、比喩になってしまうけど、ふかふかな椅子に座っている人と、一〇〇本の毒針がはえている椅子に座っている人とでは、条件がちがう。ふかふかな椅子に座っている人が「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言ったとして、それがふかふかな椅子に座っている人にとっては事実であるとしても、トゲがはえている椅子に座っている人にとっては、事実ではない。トゲがはえている椅子に座っている人は「楽しい楽しいと言っても、楽しくなれない」のである。それは、ふかふかな椅子に座っているか、トゲがはえている椅子に座っているかによってちがうわけ。ようするに、座っている椅子の条件がちがう。ところが、ふかふかな椅子に座っている人は、生まれたときからふかふかな椅子に座っているので、トゲがはえている椅子に座っている人のいたさがわからない。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」などと言うわけだ。本人は、実際に、ふかふかな椅子に座っているとき「楽しい楽しい」と言ったら楽しくなったという経験があるわけだから、「これは真実だ」と思ってしまう。けど、それは、ふかふかな椅子に座っているからこそ成り立つ経験だ。どんな条件でも成り立つ「絶対法則」なんかではない。

もうひとつ、比喩的な話をしておこう。たとえば、摂氏三十九度のおゆにつかっているひと、摂氏一度の水につかっている人では言うことがちがうわけだよ。けど、摂氏三十九度のお湯につかっている人が、摂氏一度の水につかっているひとの『条件』を無視して、好き勝手なことを言う。

横道にそれるけど、ちょっとだけ、水とかお湯という単語について考えてみよう。日本語だと、水とお湯で、使いわけているけど、英語だとwaterであって、水とお湯の使い分けはない。お湯はhot waterであって、なんかそれをあらわす別の単語があるわけではない。温度によって、単語を使いわけているわけではないのだ。けど、じゃあ、氷と水をわけていないかというとそうではない。氷に関してはiceという単語がある。氷と水のちがいもじつは温度のちがいなので、温度のちがいによって、単語を使いわけていないというわけではないのだ。ただ、お湯と水の場合は、両方とも、液体なので、英語だとどっちもおなじ単語であらわすのだろう。こういうのは、じつは、ものの認知と結びついている。これはこれで、人間が世界をどのように見るかという問題にかかわっている。これは、格差の認知よりも、さきにたつ、世界認知の差だ。土台になっている認知の問題だ。

日本語だと、湯船のお湯、湯船の水というような使いわけになるので、「お湯」か「水」かでちがうではないかと思う人がいるかもしれないけど、それは、言葉がちがうだけであって、お湯も水も、温度がちがう水として認識して話をすることにする。

ようするに、摂氏三十九度のお湯につかっている人間には、摂氏一度の水につかっている人間の状態がわからない。摂氏三十九度のお湯と摂氏一度の水では、条件がちがう。にもかかわらず、摂氏三十九度お湯につかっている人間が、条件のちがいを無視して、いろいろなことを言う。たとえば「快適だと快適だ言えば、快適だと感じる」「お風呂に入れることに感謝すればいい」「お風呂は気持ちがいい」というようなことを言う。いっぽう、これは、摂氏一度の水につかって、凍えそうになっている人間にとっては「真実」ではない。「正しいこと」ではない。摂氏一度の水につかって、凍えそうになっていれば、「快適だ、快適だ」と言っても、快適だと感じることができない。つらい状態で「快適だ、快適だ」と言っても、つらい状態のままだということを経験してしまうのである。めぐまれた人の助言というのは、そういう問題を含んでいる。めぐまれた人は、相手の状態を理解せず、条件があることを無視して、ただ単に「言うこと」や「感謝すること」にフォーカスしてしまう。そして、いつもお決まりの「宇宙を貫く絶対法則」だと言う。「だれだって、そうだ」「どんな条件でもそうだ」と言う。条件を無視して、「人間はこうだ」ということを言う。決めつけ。大上段に構えて、決めつけをしてしまう。相手の条件を無視するということが、そもそも、相手を尊重してないということなのである。ところが、言霊っぽいことを言えば、なんか、スピリチュアルだと感じてしまう。宇宙の大法則について語っているような素敵な気分を、味わってしまう。相手のことなんて、お構いなしに、自分だけ、いい気持ちになってしまっているのである。

基本的には、せいぜいのところ、38度と摂氏三十九度のちがいぐらいにしなければならないのである。しかし、摂氏一度と摂氏三十九度ぐらいの差がある。生まれてこのかた摂氏三十九度のお湯にしか、つかったことがない人には、摂氏一度の水につかっているということが、どういうことなのか、根本的に理解できない。そして、温度のちがいを無視してしまう。

たとえば、摂氏一度の水につかっている人が「つめたい。つらい」と言ったとしよう。言霊主義者は「つめたいと言うから、つめたい」「つらいと言うから、つらくなる」と言って、摂氏一度の水につかっている人のことをせめる。そういうことを言う言霊主義者は何度の水(お湯)につかっているかというと摂氏三十九度の水(お湯)につかっているのである。摂氏一度の水につかっている人がどれだけ「あったかいあったかい」と言ってもあったかくならない。摂氏一度の水につかっている人がどれだけ「快適、快適」と言っても、快適にならない。不快な、つらい状態が続く。どうしてかというと、言ったから、そう感じているわけではなくて、摂氏一度の水につかっているという状態がそういう感覚を引き起こしているからだ。

たとえば、摂氏三十九度のお湯につかっている人は、「入浴は気持ちいい」と感じるだろう。あるいは、「風呂は気持ちいい」と感じるだろう。なので、入浴できることに感謝することもできる。風呂をつくってくれた人やガス窯を設置してくれた人に感謝することができるだろう。しかし、摂氏一度の水につかっている人は、「入浴は気持ちいい」とは感じない。「風呂は気持ちいい」と感じない。この人が、入浴できることに感謝すれば、しあわせになれるかというとしあわせになれない。入浴できることに感謝しても、摂氏一度の水につかっていることは、つらい。入浴自体が、つらいことなのだから、風呂をつくってくれた人やガス窯を設置にしてくれた人に対して感謝の気持ちがわくかというと、わかない。摂氏一度の水につかっている状態が、くるしくて、つらい状態だからだ。やせがまんをしてつかっているのである。しかし、感謝をすれば、しあわせになれるということ言う人の意見に従って、摂氏一度の水につかりながら「風呂をつくってくれた人、ありがとう」「ガス窯を設置してくれた、ありがとう」と感謝の言葉を述べても、摂氏一度の水につかっているという、つらい状態が、かわらないので、しあわせにならない。しあわせを感じない。記憶に残るのは、つらい状態で「風呂をつくってくれた人、ありがとう」「ガス窯を設置してくれた、ありがとう」と(自分がほんとうには感じてないことを無理やり言った)という記憶だけだ。その記憶はつらい記憶なのである。



不可避的にそうなる……けど、経験がない人はそこのところが、わからない

 風呂から出たあと、右足首が猛烈にかゆくなった。あとは、あごのしたがかゆくなった。どっちも、かいたので、ひっかきキズができている。

こういうのが、不愉快なんだよ。はやくここから離脱しなければならない。離脱しなければならないのだけど、エネルギーがない。離脱するべきなんだよな。

もう、全部がいやなんだよね。特に、手続きとか……。自分がいつ起きているのかわからないから、たとえば、不動産屋の人といっしょに物件を見る予約を入れるということができないんだよね。不動産屋に、ふらりと入ることはできるけど、そのあと、「いついつに、こういうことをしましょう」ということになると、それは、かなりやりにくいということになる。けど、そうなるでしょ。まあ、だいたい、だいじょうぶそうな時間で予約するけど、「予約の時間」を気にすると、どれだけ眠たくても、実際には眠れないということになる。これは、ヘビメタ騒音の繰り返しでそうなった。きちがい兄貴がきちがい的な意地で、毎日毎日、毎時間毎時間きちがいヘビメタを、とてつもなくでかい音で鳴らさなければ、こういう状態になってない。これが、行動に影響をあたえているか、ほかの人はわからない。

普通の人は、きちがい家族にやられると、こういうことになるということがわからない。自分がきちがい家族にやられたことがないのでわからない。自分の経験をとおして、毎日、何年間も、家族の騒音によって、睡眠時間が削られるということがどういう意味をもつかわかってない。「そんなの、お兄さんにいばいい」と言う人は、きちがい兄貴のことがわかってない。「どれだけ、騒音を鳴らされたって、寝る時間に鳴ってなければ関係がない」という人は、実際に、きちがいによる騒音によって、日常生活のあれやこれやがみだされるということを経験してないのでわからない。実際に、一日に、数時間、あの音のでかさで、きちがいヘビメタを聞かされると、眠れなくなるということがわからない。そして、ヘビメタの影響を無視したり過小評価するので「自分なら、そういうことをされたとしても、影響をうけないで普通に暮らせる」と思ってしまう。そうなると、常識人・佐藤(仮名)のように「自分なら、そういうことをされたとしても、影響をうけないで普通に暮らせる」という無意識的な前提のもとに、ヘビメタ騒音の影響をうけた人にはできないことを、やれと言うようになる。実際には「やったほうがいい」という表現なのだけど、やらない以上は、一人前の人間としてあつかわないという態度をとる。そういう行動をする。しかも、そういう行動をすることが悪いことだと思ってないのである。こういう、まぬけ。まぬけに、わかったようなことを言われるようなことになってしまうのである。うちの!!家族が、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を鳴らしていると!! これ、ほんとうは、せめられるべきは、きちがい的な意地で、きちがい的なしつこさで、きちがい的な音のでかさで、きちがいヘビメタ騒音を鳴らした、きちがい兄貴が責められるべきなのに、常識人・佐藤(仮名)のような人間は、きちがい兄貴のことはまったくせめずに、俺のことをせめるのである。俺が、ヘビメタ騒音の影響で、働けなくなったと言っているのに、「働くべきだ」と言ってくるのである。俺の発言を無視していやがる。こういうろくでもないやつが、多い。非常識なことをやったのは、きちがい兄貴なのに、非常識なことをやられて、能力をなくした俺が、だらしがないとせめられ、自己責任だとせめられることになってしまうのである。何度も言うけど、べつに常識人・佐藤(仮名)は悪いことをしているつもりはないのである。そういう、意識のずれがある。ぼくとしては、「できないと言ったらできない」「俺ができないと言ったらできないということなんだ」ということを言うしかない。どうしてかというと、普通の人間としての能力を破壊されたからだ。これ、ヘビメタ騒音なかった人が、「通勤ができない」と言っているわけではないのだ。俺だって、ヘビメタ騒音の前は、通学できた。通学ができるということは通勤ができるということだ。しかし、ヘビメタ騒音期間中に通学をしてしまった。毎日、たえにたえて、通学をしてしまった。その結果、通勤・通学ができないからだになった。これが、事実なのである。影響をうけるつもりがなくても、そういうことになるのである。不可避的にそうなる。ところが、佐藤(仮名)のように、きちがいヘビメタ騒音に毎日さらされたことがない人は、そういうことが、わからないのである。自分の感覚として『そんなことはないだろう』と思ってしまうのである。どうして、そのように思ってしまうかというと、トートロジーになるけど、経験がないからだ。経験がないから、わからない。自分のからだをとおして、それがどういうことか、学習してないからわからない。わからないだけなのに、自分のほうが「能力がある」「能力的にうえだ」と思ってしまうのである。なので、意識しているかしてないかは別にして「自分のほうがエイリさんより能力がある」とか「自分はエイリさんより能力的にうえだ」と思ってしまう。たぶん、明確には意識してないと思う。しかし、そうう無意識的な意識内容が、実際のエイリ(他者)に対する(自分)の態度に影響をあたえるのである。実際のエイリというのは、現実的な対象であるエイリさんという意味だ。佐藤(仮名)の前に他者としてエイリが存在しているのである。まあ、これは、親友のダイヤでもおなじだよ。どーーしたって、そういうことになる。

説教する人というのは、みんなおなじだよ。そういうところではね……。説教だと思ってないだろうけど……。

 

2022年9月22日木曜日

かくされた項目があるということに気がつかないか? (2)

(ふたつ前の投稿のつづき)

もうひとつ、「成功すると言えば、成功する」この場合も、出ている二項目は「成功すると言うこと」と「成功」だけだ。成功すると言った人は成功するし、成功すると言わなかった人は成功しない。左の項目に関しては言うか、言わないかのふたつの値しかない。そして、右の項目に関しては、「成功する」というひとつの値しかない。ほかの条件は、すべて無視しているのである。左の項目をするかどうかが、右の項目の値を決定すると言っているのである。「成功すると言えば、成功する」ということばには「成功すると言わなければ、成功しない」ということばは含まれていない。「成功すると言えば、成功する」と言っているだけで、「成功すると言わなければ、成功しない」とは言ってない。それは、事実だ。しかし、「成功すると言わなければ、成功しない」ということも、暗示しているのである。どうしてなら、「成功すると言わなければ、成功することがないからだ。成功すると言えば、成功するのだから、成功すると言わなければ、成功しないということを暗示している。しかし、成功すると言葉に出して言わなくても、「成功」する場合はある。暗示していることに関しても、じつは、法則性があることを言ってないのだ。しかし、「成功すると言った人が、成功するところだけ」を見ているので?成功すると言った人は、かならず成功すると思っていられる。「成功すると言った人が成功する」ところだけを見れば、「成功すると言った人が成功する」ということを信じたい人は、納得してしまう。自分で自分をごまかすことができる。「成功する」といったにもかかわらず、成功しなかった人のことは、無視すればよいのだ。無視すれば「そんなことはない」ということになる……その人の頭のなかでは。……その人の世界では……。なので、事実とは関係なく「成功すると言えば成功する」ということを信じることができるのである。これは、科学ではない。しかし、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが科学的証明されたとか、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが心理学の実験で証明されたということを、信じたい人が聞けば、「成功すると言えば成功する」ということが、科学的証明されたとか、心理学の実験で証明されたということになってしまうのである……その人の頭のなかでは。……その人の世界では……。

こいつらは、みんな、個別の条件というものを無視しやがるのである

 ワクチンのなかに、あーーんなものや、こんーーんなものがはいってることは、ぬきにして、もうだめだ。

復活しないな。ほかの人よりも、不幸量が大きいんだよな。きちがい家族と一緒に住んできたので、不幸な出来事の回数が多い。 

これ、ちがうんだよ。ぼくはもともと、きちがい兄貴やきちがい親父がかかわってない人づきあいは、好きだったんだよな。友達も多かったし、楽しく遊んでいた。深くつきあった親友もいた。きちがい兄貴やきちがい親父がかかわる部分で、「浸食」がはじまる。「汚染」がはじまる。きちがい兄貴やきちがい親父がかかわる部分が、ほかの人との付き合いを、だめなものにする。破壊する。不可避的なんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は特にひどかった。一日だけでも、どれだけつらいものか、ほかの人にはわからない。たとえば、佐藤にはわからな。わからないやつは、「ヘビメタ騒音でできない」ということを認めない。わからないやつは、「ヘビメタ騒音の影響」を認めない。そうすると、いろいろと、不愉快な気持になる。トラブルが発生する。親友との絶交だって、それが、影響している。一番大きな原因だ。そりゃ、どれだけ、「知っていたって」他人は他人だから、自分のからだをとおして、一日に二十四時間経験したわけじゃな。たとえば、一日に十二時間しかなってなかったとしても、残りの十二時間が影響をうける。鳴っていた十二時間の影響をうけてしまう。鳴ってない時間である十二時間が、鳴っていた十二時間の影響をうけてしまう。そして、それは、どれだけ努力しても、無効化できない。鳴らされていれば、どれだけ「気にしないようにしていても」影響をうけてしまう。からだが影響をうけてしまう。そういう一日を、経験したことがない人が、ヘビメタ騒音の影響を軽く無視して、あと倍するのだから、こっちとしては、たまったものではない。「それちがうよ」と言いたくなる。だれだって、あの騒音生活を経験すれば、俺とおなじ状態になる。騒音というのは、その人にとって、一番苦手な音だ。別にヘビメタじゃなくてもいい。いや、ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタじゃだめだ。その人が一番苦手な音が、ああいう音のでかさで鳴っていたら、どれだけ影響をうけないように努力しても、どうしても、影響をうけて、いろいろなところがダメになっていく。どうしても、からだが影響をけて、ほかの時間も、いろいろなトラブルに巻き込まれることになる。だいたい、鳴っているので勉強ができない」というのは、本人とって一番苦手な音を、きちがい家族が、きちがい家族の好きな音量で、好きな時間ずっと鳴らしている生活をしているのであれば、わかることなんだよ。けど、そんな、きちがい家族はほかの人にはいない。ほかの人の家族は、どれだけヘビメタを思いっきり鳴らしたいと思っても、ちゃんと遠慮をして鳴らす。遠慮をせずに鳴らしているときは、遠慮をせずに、でかい音で鳴らしているということを、知っている。きちがい兄貴は、つねにそうしているのだけど、つねに、知らない状態なのである。これがまた、わからないのだろうと思う。ほかの人にはわからない。こんな家族がいる人がいない。そういう人は、ヘビメタ騒音についても「常識的に」考えてしまう。鳴らしていれば、鳴らしているということを、鳴らしている本人は知っているはずだと思ってしまう。そう前提してしまう。けど、それがそうじゃないんだよ。ちなみに、きちがい親父もおなじなんだよ。自分にとって不都合なことは、どれだけやったってやってないことになっている。だから、認知自体がちがう。認識自体がちがう。普通ならそういう音で鳴らされたらこまるというとが、わかる。本人が、意識的にどれだけ否定しても、自分が騒音を鳴らされて不愉快な思いをしたという経験があれば、その経験から、相手が言っていることを推量してしまう。けど、きちがい兄貴の場合、「やりたければ」どれだけ明確に言われたって、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないということになる。これは、ハンダゴテ事件で、親父が、「このはんだごては使えない」ということを認めなかったのとおなじだ。しかも、本人は発狂して、そういうことを、主張するのに、発狂して、相手が言っていることを絶対に認めないで、否定したということも、やっぱり認めないのだ。だから、行動だけが、アクティングアウトしている状態になってしまっている。このアクティングアウトは、無意識に対応したアクティングアウトなのである。やっていることも認めないし、相手がこれこれこういう理由でこまるということを認めないし、それを自分が怒り狂って否定して、自分の意地をとおして、それ以降もおなじ行為をしたということを認めないのである。認めないということも認めない状態で認めない。どれだけ言われても、自分が関係していることとして認知できないのである。主語? 主体なら、きちがい親父ときちがい兄貴だよ。両方。両方とも同じなんだよ。おなじなんだよ。

おなじ家で生活している人の影響はうける。これも、アドラーみたいに頑固な人は、影響をうけるということを認めない。やぱっり、アドラーの態度は、きちがい親父やきちがい兄貴と似ているところがある。アドラーの家族がまともだったから、共同幻想からはずれたことをしないので、問題にならないという部分と、アドラーの場合、無意識のほうにスイッチが入っていて、自分が意地になってやっていることを認めないということがないのである。だから、そういう点でちがっているけど、頑固なところは似ているんだよ。アドラーの場合、きちがい家族にやられなかったから『影響をうけないことが可能だ』と考えるわけ。こいつも、ほんとうに、やかっいだな。こいつの信者の、レベルが低すぎる。こいつらは、みんな、個別の条件というものを無視しやがるのである。アドラー信者はまともな家に生まれてきた人で、まともじゃない家に生まれてきた人のことを、バカにする。勘違いして、バカにする。おまえらが理解できないだけのことなんだよ。これ、理解できてないだけなのである。不幸な人の条件というのを、無視するのである。特に、生まれの家族に関係する条件を無視する。条件はたばになって、環境。環境を無視して、そいつ個人の「人格」の問題にするのである。こいつらは、ほんとうに失礼な人間だよ。

 

2022年9月21日水曜日

かくされた項目があるということに気がつかないか?

かくされた項目があるということに気がつかないか? 二項目の関係で述べることが多い。たとえば、「努力をすれば成功する」ということについて考えてみよう。ここで出てくる二項目は、「努力」と「成功」だ。努力をすれば、成功するし、努力をしなければ、成功しない……こういうことを言っている。しかし、成功するかどうかは、「環境」で決まってしまうとする。この環境というのは、じつは、さまざまな『条件』を含んでいるのだけど、今回は、条件については説明しない。ともかく、さまざまな条件の束を「環境」ということにする。たとえば、どういう家に生まれたか、どういう性格の家族と一緒に住んでいるかということが条件になる。そういうものをぜんぶひっくるめて環境ということにする。ただし、「努力」という項目はこの環境の中には含まれないとする。また、「努力をする才能」ということを言って「努力するチカラ」を才能と言い換えることもしない。「環境」と「努力」は、排他的な項目だとする。環境のなかには努力は含まれてない。

「環境がよければ、成功する」ということが正しいとする。その場合「努力をすれば成功する」という二項目のなかには、ほんとうに「成功するかどうかを決定する要素(項目)」としての「環境」が含まれてないことになる。ほんとうは、「環境」が「成功するかどうか」を決めるにもかかをらず、「努力」が成功するかどうかを決めると言っているのである……「努力をすれば成功する」と言っている人は……。

もうひとつ、「根性があれば、成功する」という文について考えてみよう。この場合も、出ている二項目は「根性」と「成功」だけだ。根性がある人は成功するし、根性がない人は成功しない。日本語としてどうかと思うが「根性を出せば、成功する」というような言い方もある。「根性を出さなければ、成功しない」「成功した人はみんな根性を出した人だ」「成功しなかった人は根性を出さなかった人だ」「成功するかどうかは、根性を出すか出さないかで決まる」……こういうことを言っている人もいる。この場合は、「根性」と「成功」の二項目にしか言及してない。根性を「環境」という項目のなかに含めないとすると、ほんとうは、成功するかどうかを決める「環境」という項目についてはまったく言及せずに、「成功」について語っているということになる。


 

いま、影響がある。いま、くるしい。

 

 全部、つまらない。おもしろいわけがない。騒音事件。ネズミ・ダニ事件。全部、くるしい。

いま、影響がある。いま、くるしい。

別に影響が消失してしまったわけではない。影響がある。過去の出来事でも影響がある。過去の出来事なら影響がないと考える、バカな人たちが、みんな、バカなことを言う。バカなことを言うな。そいつらだって、ちょっと自説を批判されたら、おこるくせに。過去の出来事が、今現在の感情に影響をあたえないなら、おこる必要だってない。やけどをしたとする。やけどをした瞬間がすぎれば、影響がなくなるか? やけどをした瞬間がすぎたあと、ひりひり痛いとか、実際に肌がやけて、肌の色がかわるといったことが起こる。瞬間がすぎればどんなことだって、過去のことだ。影響をあたえる過去の出来事と、影響をあたえない過去の出来事があると考えるべきだ。厳密に言えば、どんな過去の出来事も現在に影響をあたえている。無視できるほど小さい影響しか与えなかったものを、影響がないものとして認識しているだけだ。それをおまえらは、どうして、「過去のことは関係がない」と言うのか?

つかれたときのからだの状態が、ヘビメタ騒音でつかれたときのからだの状態とおなじなんだよ。眠れないときの頭の状態が、ヘビメタ騒音で眠れないときの頭の状態とおなじなんだよ。どっちも、とてつもなく、くるしい。くるしい。くるしい。

2022年9月19日月曜日

彼らのやり方は、いつも同じだ。二つの項目の関係について述べるのである。

 彼らのやり方は、いつも同じだ。二つの項目の関係について述べるのである。その場合、『条件』はガン無視だ。二つの項目についてしか考えない。たとえば、「成功すると言えば、成功する」というようなことについて考えてみよう。「成功すると言うこと」と「未来の出来事」のふたつの項目についてしか言及してない。「成功すると言えば」成功するのだから、成功しないやつは、成功すると言わなかったらだめなんだということになる。二項目、ダメダシなんだよ。ほかの条件は無視してしまう。そして、「だからダメなんだ」と言い出す。これが、ほんとうの話ならいいのだけど、実際には、条件が「成功するか」「成功しないか」を決めてしまう。「成功する」といったかどうかは、成功するかどうかとはまったく関係がないことなのだ。「自分は成功する」と言って、成功しなかったやつがどれだけ多いか? これ、宗教的な信仰とおなじなのである。言葉には「ちから」がある。だから、「成功すると言えば成功する」。これは、単なる、妄想。二項目しか考えていない妄想。けど、この妄想は、気持ちがいいのである。だから、この妄想にとりつかれた人は、この妄想を否定することができない。本人が信じているぶんには、かまわない。しかし、彼らはかならず「これは、宇宙を貫く絶対法則だ」ということを言いだす。なので、人に害を及ぼすのである。不愉快。条件を無視するな。不愉快。きわめて、不愉快。

 

ほんとうに生まれの格差ってあると思うよ。

 

 ほんとう、どうするかな?

なんか、いろいろと「どうしようかな」とまよっている。ひとつは世界の情勢。もうひとつは、俺の個人的なこと。いろいろと、ありすぎた。人生のなかで、いろいろとありすぎた。もう、やっぱり、限界をむかえているのかもしれない。ほんとうに生まれの格差ってあると思うよ。生まれた家の人間がどういう人間かに一生を左右されてしまう。どれだけがんばったって、きちがい家族の騒音がはじまってしまったらおしまいだ。

2022年9月18日日曜日

。くるしいだけだ。

  奮発して買ったうなぎのかば焼きを食べてもまったく、おいしくないなぁ。あーー。やっぱりね。こころが破壊されてない状態で、好きな人といっしょに食べるのがうまいんだよね。こころが破壊されていたら、ひとりで食べていても、うまくない。こころが破壊されていたら、好きな人といっしょに食べていても、たぶん、うまくないと思う。くるしいだけだ。

想像力がない凡人が……ヘビメタ騒音の影響を過小評価しやがるんだよ

 ほーーんと、つまんない。

なにをやるにして憂鬱だ。つまり、賃貸を借りるにしろ、中古マンションを買うにしろ憂鬱だ。どうにもならないほど憂鬱だ。もう、やっぱり、むりかな。俺は、よくやってきたよな。あんな状態で、暮らしたなぁ。俺だから生きていられる。ほかのやつだったら死んでたな。ヘビメタ騒音一年目で自殺だよ。俺が、自分の生命にどれだけこだわっているか。普通の人とは比べ物にならないほどのこだわりがあるから、生きている。ヘビメタ騒音をずっと鳴らされたけど生きている。けど、限界はある。無傷じゃない。影響がある。過去のことになれば、影響がなくなるかというとそうではない。佐藤のような凡人が……想像力がない凡人が……ヘビメタ騒音の影響を過小評価しやがるんだよ。ヘビメタ騒音をやられてない人は、あれがどれだけ、日常生活に影響をあたえるかわかってない。

一日のなかで、どれだけ破壊的な影響をあたえるかわかってないな。きちがい兄貴は、鳴らしている張本人なんだけど、完全な部外者なんだよ。どれだけ言っても、一切合切かかわりがない人間として、自分のことを認知しているんだよ。頭が正常ならこんなことはありえない。けど、ずっとそうなんだよ。そして、そういう頭であることが、かわらない。どれだけ言ったって、注意したって、訴えたって、まるで、かわらないのだ。やってない人として、部外者として、やり続ける。かかわっている気持ちが、ない。けど、めちゃくちゃな意地があるんだよ。このやりかだきちがい親父とおなじなんだよ。きちがい兄貴は……。

佐藤はヘビメタを鳴らした張本人だから、ヘビメタのことは関係がないと言えば関係がない。けど、佐藤以上に、きちがい兄貴は、関係がないと思っているんだよ。ヘビメタ騒音と関係がないと思っている。ヘビメタ騒音から生まれる俺の不調と自分のヘビメタ騒音が関係、ないと思っている。こういうところが、きちがいなんだよ。で、このきちがいの度合いも、このきちがいのありさまも、ほかの人にはわからないんだよな。そして、そういう状態で、こっちのことを無視して暮らしてきた……絶対の意地で鳴らしてきたということが、ほんとうに、きちがい兄貴はわかってない。だから、いつも、とんちんかんなことを言う。当事者なんだよ。張本人なんだよ。鳴らしている人間なんだよ。それが……。それが……。

異常な毎日が、まったく普通の日として、流れて行く……。どれだけつらいか。ようやっと立っているようなものなんだぞ。ほんとうに……。

ヘビメタ騒音でめちゃくちゃに能力をさげられて暮らしているので、くるしい。もう、何十年間もずっとそうだ。こんなの、ない。ヘビメタ騒音がどういうものか、ほんとうにまるでわかってないな。きちがい兄貴も、きちがい兄貴以外の人も。

 

きちがい兄貴やきちがい親父がブラックホールになっている

 きちがい兄貴やきちがい親父がブラックホールになっている。ほかの人にはわからない、ブラックホール。ほかの人は、「父親」ということばで、きちがい親父ではない普通の父親を想像してしまうのである。ほかの人は「兄」ということばで、きちがい兄貴ではない、普通の兄を想像してしまうのである。普通の人の想像がとどかないところにあるから、彼ら……兄貴や親父がやったことについて、普通の人はかならず、誤解をするのである。そして、想像に基づいて、いろいろなことを言うしかないという状態になる。その想像というのが、ちがうのである。けど、ブラックホールのようにわからない存在なので、想像がちがうということをぼくが、その人たちに説明しても、けっきょくは、究極的なところはわからないままなのである。ようするに、ブラックホールのままだ。

不幸の量


アドラー主義者やポジティブ思考愛好者は、不幸の量は、だいたい同じだが、ひとによって、不満を言いやすい人と不満を言いにくい人にわかれるという、人格モデルをほぼ無意識的に採用しているのである。なお、この無意識というのは、ただ単に意識してないという意味であってフロイトの「無意識」とはちがう。ようするに、もともとの不幸量のが一定で、ちがうのはその人がどのくらい、自分の不幸について語りやすいかどうかの問題であると思っているのだ。しかし、ふかふかな椅子に座っている人間と、トゲがついた椅子に座っている人間の不幸量がちがうように、現実社会においても、めぐまれたうちに生まれた人間は、不幸の量が少なく、めぐまれないうちに生まれた人間は不幸の量が多いと思う。この場合は、不幸量が一定ではなくて、不幸量には大きな違いあるという理論に立つのである。だから、まずもって、人格と不幸量の関係において、整理しておかなければならない。たとえば、不幸について語りやすい度合を1とする。だれもが1だとする。その場合、不幸量が10の人は10不幸について語り、不幸量が1000の人は1000の不幸について語るということになる。実際には、きちがい的な親にたたられた人間は、不幸量が増す。人格的に成熟した親に育てられた人間よりも、きちがい的な親にたたられた人間は、不幸量が増すのである。それは、きちがい的な親が、つねに、きちがい的な感情をもって、その人間に働きかけるからである。これ、わからないと思うけど、きちがいはきちがいだから、つねにきちがい的な行動をするのである。つねにきちがい的な感情をもっているのである。この場合、時間とともに、攻撃をうける回数が増えていくのである。それは、おぎゃーと生まれたときから決まっている。なにか、きちがい的な親のもとに生まれた人間も、きちがい的な親に生まれたあと、不幸が一定の量だと、勘違いしているような人間が多い。たとえば、アドラー主義者や認知療法家だ。こいつらは、不幸量が一定で、人格の問題があるから、不幸について語りやすいと考えているのだ。こいつらは!! こいつらは!! けど、それは、まちがっている。きちがい的な親が支配するうちに生まれた子供は、実際に不幸なことを経験するのである。それは、親によるいじめ?が、ずっと続くからである。わかりやすいように「いじめ」とか書いたけど、きちがい的な親は、死にものぐるいで、子どもにからんでくるのである。からむ。死にものぐるいで、子どもをいじめる。それは、内側の感情の爆発なのである。子どもは、人間サンドバックだから、どれだけたたいてもかまわないという「内的な」規定がある。思い込みがある。しかし、これまた、この思い込みが、無意識的なもので、本人が自覚できないものなのである。この無意識的なもの、の、無意識は、フロイトの無意識と関係がある無意識だ。ただ単に、自覚してないというレベルのものではない。ともかく、本人は、いじめているつもりはないのだけど、死にものぐるいになって、攻撃をする。その攻撃は、あたりまえの攻撃だから、息を吸って吐くように、攻撃をするのである。それは、生活のあらゆる点において、発揮されるのである。だから、不幸量は、毎日、不可避的に増えていく。一定じゃないのだ。ところが、「不幸な出来事」と「不満」という二項目をぬきだすと、そういう、条件がすべてぬけおちてしまう。そして、「不幸な出来事」の総数がだいたい同じなのだけど、不満を言いやすい人は不満を言うというモデルを採用して、不幸な出来事と不満の関係について語りだしてしまう。まず、条件がぬけているということに注目しなければならないのである。そして、不幸量が、ひとによってちがうということを重視しなければならないのである。それなのに、バカな人は、「不満を言う人は、みんな不幸だ」と言ってしまう。これは、不満を言いやすいという人格そのものに問題があるから不幸なのだと言っているのとおなじだ。こういう、発言は、条件を無視した発言だ。人によってまったく条件がちがうのに、条件のちがいは、無視されているのである。また、こういう発言は、不幸量を無視しているのである。無視しちゃ、いけないんだよね。

 ていよく、生まれながらにして不幸量が大きい人(不幸な出来事の数が多い人)のことを、おいこんでいる。こいつらの、無邪気な発言で、不幸な人がより不幸になるのである。

 

ほんとうは成り立たない「宇宙をつらぬく絶対法則」

 実際に経験したことのほうが、ほんとうは成り立たない「宇宙をつらぬく絶対法則」なんかより、実際の行動に影響をあたえるんだよ。

 

2022年9月17日土曜日

だれにでもわかる方向で、ずれているわけではないのだ

 やられてない人はわからないだろうけど、ほんとうに「出口」がないのだ。あのやり方だと、そうなる。こっちは十一歳だったんだ。きちがいヘビメタがはじまったとき、十一歳だったんだ。父親がきちがいだったんだ。兄貴が、きちがいだったんだ。あの状態だと、普通なら、親が、注意して、終わる。どれだけ、ヘビメタをでかい音で鳴らしたくても、それは、がまんする……ということになる。我慢させられる。母はまともな人で、注意してくれたけど、きちがい兄貴は、母の言うことを聞かない。で、きちがい親父のきちがいの度合いというか、方向性が、ほかの人にはまったくわからないんだよな。だから「そんなにうるさい音で鳴っているのに、親が注意しないのはおかしい」とか言って俺の発言に疑問をもつ。こういうしくみが、じつは、親のことにも成り立っている。きちがい親父の行為について、俺が説明しても、普通の人が信じないということが、たびたびあった。これ、たとえば、だれにでもわかる方向で、ずれているわけではないのだ。暴力はあったけど、少なかった。けど、きちがい親父の場合は、暴力にいたるまでが問題なんだよ。普通の人では理解できないことで、もめる。ハンダゴテのことだって、どうしてそんなことになるのか、ほかの人にはわからないことなんだよ。そして、普通の家ですんできた人、めぐまれた家ですんできた人にとっては、そういうことは、「はなから」関係がないことなんだよ。で、これも、自分のことではないから、わからない。だから、これも、なんて言うのかな? 軽く見るんだよね。アドラーの発言なんて、まったくそういうものだ。こいつは、自分が経験してないから、軽く見て、そんなは気にしないことが可能だというようなことを言う。けど、ちがうんだよね。まあ、家に、きちがいがいなかった人にはわからないよ。どういう状態でもめ事が起こるのかわってない。「どれだけがみがみ怒鳴られても、自分は気にしない」……そういうふうに言えるのは、生まれたときから、きちがいといっしょに住んでないやつの特権だ。ぜんぜんちがうのである。けど、「ぜんぜんちがうのである」と言っても、これまた、こいつらにはわからないんだよ。ある種、似たような頑固さがあるよ。人格はちがうし、ていどもちがうけど、頑固さが似ているんだよ。だから、きちがい的な親にやられた人は、アドラーが言っていることを聞いてしまうと、腹がたって腹が立ってしかたがない状態になる。親が気ちがいかどうかは、アドラーの本をぶったたかずに読めるかどうかで判断できる。認知療法家の本もおなじだ。アドラーとか、認知療法家の「わかってなさ」がひどいんだよ。これは、ひどい。あいつらは、考え違いをしている。どうしてそういうことが起こるかというと、きちがい的な親についてなにも知らないからだ。実際に自分が赤ちゃんのときからやられたことがないからだ。これ、外から見て、わかりやすいタイプの、ダメな親とはちがうのである。わかるわけがない。自分で経験していないのにわかるわけがない。ものすごく、複雑な状態で「くるっている」。そのくるっている、さまを、ほかの人に納得ができるように説明することができないのだ。どうしてかというと、ほかの人は、そういう親に育てられたことがないから、感覚的にわからない部分があるからだ。そして、自分のの常識的な感覚を信じてしまう。常識的な感覚とはちがう感じの話を「相手がする」ので、理解しがたいということになる。けど、きちがい的な親にやられたほうの認知……子供側の認知が、おかしいわけじゃないのだ。ここが感じなんだけど、わからないんだよね。わかりにくいタイプのきちがい的な親にやられた人のことは、普通の人はわからない。

ともかく、普通の人は、筋違いであることを言う。わかってないから、不適切な発言をする。不適切な発言だというのは、ぼくの側の意見だ……。もちろんぼくの側の意見だ。その不適切な発言をした人は、……普通の人は……自分が不適切な発言をしたとは思ってないのだ。たとえば、佐藤のように……。 

親の格差といった場合、たいていは、親の収入の格差になる。貧乏な家に生まれて、安い給料で働いている人は、かならずしも、きちがい的な親にやられた人ではないので、これは、「貧乏な家に生まれて、安い給料で働ている人」には、わからないことだ。あるいは、「貧乏な家に生まれて、安い給料で働ている人」でもわからないことだ。これ、いっしょじゃないのである。まあ、わからない程度は、「貧乏な家に生まれて、安い給料で働ている人」とおなじだけど「普通の家に生まれて、普通レベルの給料で働いしている人」にもわからないよ。

きちがい兄貴が、ヘビメタをはじめなければ、きちがい親父の問題だけで済んだのに……。きちがい兄貴が、きちがいおやじとおなじ脳みそで、おなじ反応で、きちがいヘビメタをでかい音で鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、実際に鳴らし続けたので、こまったよ。これも、ほかの人には想像ができないのかな? かならず、ヘビメタ騒音の効果を過小評価するんだよね。「そんなんじゃない」と言いたくなる。言いたくなって、言ったって、わからない。相手は、わからないままだよ。そいつの脳みそが、これまた、突然、かわるわけじゃないからな。そいつは、そいつが搭載している脳みそで考えるわけだし、そいつが搭載している脳みそは、そいつがいままで経験したことをもとにして、ヘビメタ騒音について考えるわけだから、そいつのいままでの経験がものをいうことになる。

 

2022年9月15日木曜日

そういう理由で、そいつらは、わからない。

 人生の時期を、ヘビメタ騒音以前、ヘビメタ騒音中、ヘビメタ騒音以後の三つにわけるとする。その場合、ほかの人は、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、ヘビメタ騒音以前のからだに復帰するはずだと考えてしまうのである。ところが、これがまったくちがう。まったくちがうのだけど、ほかの人には、「ヘビメタ騒音中」の経験がないから、自分のからだの経験として、わからないのである。ヘビメタ騒音相当の騒音にやられた人は、ごく少数だろう。どれだけ多く見積っても、〇・一%ぐらいだと思う。その場合、九九・九%の人は、自分のからだの経験として、わからない人たちだということになる。つまり、九九・九%の人が、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音以前のからだに復帰するはずだとナチュラルに、考えてしまうわけだ。つまり、ぼくが社会に出ていけば、一〇〇〇人中九九九人が、そういう解釈をするということだ。そうなると、佐藤のように、そういう前提に立って、ものごとを言ってくるということになる。そうなると、佐藤のように、そういう前提に立って、俺のすべての行動に関して、解釈をするということになる。まあ、すべての行動というのは一度、そういう認知的誤謬が成り立つと、その線にあわせて、エイリさんの行動を解釈するようになるということだ。彼らにとっては、たとえば、ぼくが、(その時)無職であるということや、職歴がないということがものすごく重要なことに思えるのである。そして、「人間は働くべきだ」という考え方は、「ヘビメタ騒音は過去のことだから影響がない(はずだ)」と考えて、「人間は働くべきだ」と言ってくるわけだ。そして、この「人間は働くべきだ」というのは、「人間はポジティブに生きるべきだ」とか「人間は効率的に生きるべきだ」とか「人間は、過去のことにこだわって生きるべきではない」とかという考え方と親和性がある。そういうふうな一般的な考え方をもっている人たちは、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったなら、たとえ、一五年間にわたって鳴っていたとしても、過去のことは過去のことだから、いまのエイリさんには関係がないことだ」と考えてしまうのである。エイリさんが、過去にこだわっているから、過去のことが問題になる」と考えてしまうのである。けど、このふたつの考え方は、間違いだ。あきらかにまちがっている。けど、あきらかにまちがっていると俺が言ったとしても、自分のこととして、ヘビメタ騒音の経験がない人は、それがわからない。ヘビメタ騒音以降のからだは、ヘビメタ騒音以前のからだとおなじではないのである。それが、根本的に!!決定的に!!わからない。わからない以上は、わからない。そいつにとっては、それが真実だ。だから、こういう決定的にばかな人、考え違いをしている人を、相手にすることになる。それは、ぼくにとって、苦痛なことだ。そりゃ、ばかを相手にするのはいやだからな。これが、どれだけ言ってもわからないんだよ。どれだけ言ってもわからない理由は、書いておいた。そういう理由で、そいつらは、わからない。

 

 

 

2022年9月11日日曜日

ほんとうに、「よそのいえ」だったら、絶対に鳴らせない音なんだよ。

つかれたぁーーー。ほんとーーに、つかれた。

このつかれは、一生とれないなぁ。たぶん……。ながい……。ながすぎる。ヘビメタ騒音がはじまったときからずっととれないつかれがある。

二の曜日の午後2時9分。この時間帯もヘビメタがものすごい音で鳴っていた。どれだけ「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と言ってもやめてくれなかった。それで、「なにもしたつもりがない」わけだからな。くさっている。きちがい親父も、きちがい兄貴も脳みその構造がおなじ。これ、普通なら、ほんとうに、どれだけ鳴らしたくても、がまんしなければならない音なんだよ。我慢して鳴らさないようにしなければならない音なんだよ。そういうでかさだ。これがわかってないのである。「よそのひと」にはこれがわかってない。「よそのひと」は、そういう音に毎日さらされた場合、どういう状態になるか、まったくわかってない。自分の経験をとおして、自分のからだでわかっているわけじゃないから、想像でものを言うことになる。その想像のなかでは、「たいした騒音じゃない」のである。鳴っていても、影響をうけないことが可能な騒音」なのである。「鳴り終わったら、どれだけ長くなっていても、関係がない騒音」なのである。いまの状態には、関係がないという意味だ。これは、一日のなかでも、人生のなかでも言える。これ、ほんとうに、ぜんぜんちがうのに、まるでわかってないんだよな。「よそのひと」はきちがい兄貴の態度も、きちがい親父の態度もわかってない。よそのひと」はきちがい兄貴の感覚も、きちがい親父の感覚もわかってない。だから、好き勝手なことが言える。ほんとうに、「よそのいえ」だったら、絶対に鳴らせない音なんだよ。そして、仮に、長男が鳴らしたとしても、絶対に、「よそのいえ」だったら、二日でやめさせられることなんだよ。二日以上鳴っているようなことがない音なんだよ。普通の家だったら、その長男は、絶対にベッド本をして鳴らすということになるんだよ。一日中、ヘビメタを鳴らすときは、ヘッド本をして鳴らすということになるんだよ。あるいは、一日中、普通の人が聞くような音で鳴らすということになるんだよ。ぜんーーぜん、ちがう。こういう日々、が、続いたときのからだの状態なんて、本当にみんなわかってない。わかってないから、「ヘビメタ騒音の影響はない」「過去のことなら関係がない」という前提で物事を言う。それは、実際に鳴らされなかったから言えることだ。きちがい家族に鳴らされることがなかったから、言えることだ。きちがい家族が、しつこくしつこく、普通の家ではありえない状態で、鳴らすことがなかったから言えることだ。人生のなかで、そういう「毎日」が十年以上続くということがなかったから、言えることだ。ぜんぜんちがうのに……こいつら……好き勝手なことを言いやがって。

 

2022年9月10日土曜日

普通の親に育てられた人は、きちがい的な親にやられた人のことがわからない

 やっぱり、親父が導入したネズミの存在がでかい。しかも、親父が約3年間、ネズミ対策工事に反対したので、そのあいだに、ネズミの糞が増えた。で、防衛していたのだけど、二階の西側の部屋にも入った。その部屋には、ぼくの本がたくさんつまっているのだ。どうしようかな。あそこは、ネズミの糞を掃除しようとして、入ったら、めちゃくちゃにダニに刺されたので、入れなくなっている部屋だ。本に、バルサンの煙をつけたくない。ほんとうに、いやなんだよな。ほんとうに、ネズミの糞とダニの存在で、片づけるというのが、ものすごく難しいことになってしまった。やる気がしない。もう、さんざん、ネズミの糞を片づけてきたけど、ものがあると、うまく片づけられないところが出てくるのだ。ほんとうに、いろいろなところに落ちている。自分の頭よりも高いところにある平面に落ちている。たとえば、本棚とか神棚とか。粗大ごみ業者を頼むときだって、ネズミの糞のこととダニのことを説明しなければならないので、ぼくが、恥をかくのである。いつもいつも、ほんとうに、ずっとずっと、きちがい親父にかかわるということになるんだよな。かかわらないわけにはかいないんだよ。これ、人間として成熟した親に育てられた人にはまったくわからないだろうけど、親父は、きちがいだ。おかしい。けど、そのおかしさが、ほかの人にはまったくわからないのである。どうしてかというと、そういう親にたたられたことがないからだ。そういう親とおなじうちで暮らしたことがないからだ。上司であれば、会社を辞めれば縁がきれる。しかも、成人して働いているのだろう。まあ、未成年のときもあるかもしれないけど、いちおう体は大きくなっているとしで働いているということになる。じゃあ、たとえば、15歳から働き始めたとして、15歳までの15年間は、でかい15年間じゃないのかということだ。これ、ちがうじゃないか。1歳のときから、影響をうけている。うまれたときから影響をうけている。小さいときの影響は、でかい。15歳になったときには、14年間、ずっと影響をうけている状態なのである。

いっしょに住んでいても、影響をうける必要がないとか、そういう言いまわしはよくないと思うんだよね。影響をうける必要があるのか、影響をうける必要がないのか、判断したあとに、影響をうけようと思って、影響をうけているというわけではないのだから……。そういうことを無視して、あたかも、影響をうけないことが可能であるのに、その可能なことを、さぼってやらなかったからダメなんだと、ダメダシをする。責任を追及する。これは、きたない。そして、そういう言いまわしを選ぶやつは、実際には、きちがい的な親にやられたわけではないやつなのだ。まともな親に育てられたやつが、そういうことを言う。まともな親に育てられたやつのほうが、社会的な地位が高いことが多いので、普通の人は、そいつが言うことを信じてしまう。普通の人というのも、けっきょくは、きちがい的な親にたたられてない、人だ。普通の親に育てられた普通の人だ。普通の人であっても、考え方のちがいや、言った言わなかったというタイプのあらそいはしょうじる。けど、それは、普通の人同士のあらそいだ。いっぽうが、きちがいである場合は、ちがうんだよ。けど、普通の人は、それがわからない。どうしても、普通の人が経験したトラブルの延長線で、きちがい的な人とのトラブルについて考えてしまう。特に、親兄弟といった家族に関しては、普通の人である親兄弟とのトラブルの延長線で考えてしまう。けど、ちがうんだよ。これ、普通の親に育てられた人に、きちがい的な親のことについて語ってもわからないと思う。だから、「影響をうけないことは可能なのに、影響をうけたからダメなんだ」というような意見がうかんでくるわけだから。影響をうけないことは不可能だとこっちが言っても、そいつらは、「強い意志をもっていれば影響をうけないことは可能だ」という意見をかえない。

ほんとうに、きちがいがどういう態度で、どういう行為でたたるのか、(きちがいにやられてない人は)わからない。家のなかにきちがいがいるということがどういうことなのかわからない。そのきちがいが、自分の親である場合、どんなことになるかわかってない。あたかも、影響をうけないことが可能だという前提でものを言うのは、やめろ。それは、失礼なことだぞ。自分がやられてないからわかってないだけだ。 

*     *     *

なにを見ても、いやなことを思い出すなぁ。これも、しかたがない。実際この世で経験したことなのだから、記憶がある。人間には学習能力があるので、いやなことも学習してしまう。


2022年9月9日金曜日

生まれの格差について言及するのは、みっともないという意識

 生まれの格差について文句をつけるのは、「みっともないことだ」という意識をもっている人がいっーーっぱい、いっーーっぱい、いると思う。これ、この社会のなかで普通に生きているとそういう意識をもってしまうのである。これは、洗脳の結果だ。2022年1月に、マスクをしているような人は、特別にマスクをつけなければならない理由がある人以外、 生まれの格差について文句をつけるのは、「みっともないことだ」という意識をもっている人だと思う。生まれの格差はある。環境の格差はある。しかし、生まれの格差について言及してはいけないのである。もし、言及すれば、「そんなのは、ない」「あっても、たいしたことはない」「嫉妬はみっともない」「不満を言うのはみっともない」ということばを浴びせられるだろう。これが、「洗脳の結果」だとしたらどうだろう? ぼくは、今現在、これは、度重なる洗脳の結果だと確信している。

実際には、生まれの格差の格差の度合いがひどいのである。大きいのである。でかすぎるほどでかいのである。しかし、「でかい」といってはいけない。そして、生まれの格差の影響もでかいのである。けど、生まれの格差の影響に関しても、でかくないことになっている。生まれの格差がそもそも、でかいということと、その格差の影響が、その人の人生に大きな影響をあたえるということが、「ともに」否定される。否定される傾向にある。たいていの人が、生まれの格差は、ないと思っている。あるいは、生まれの格差があったとしても、ちいさい格差しかないと思っている。たいていの人が、生まれの格差の影響は、ないと思っている。あるいは、生まれの格差の影響があったとしても、ちいさい影響しかないと思っている。これは、おかしい。さらに、格差や格差の影響について述べることは、みっともないことだという共通の認識があるのである。これは、操作されて、つくられた認識だ。

支配者躁にとって、そういう認識をつくることは、意味があることだ。もし、そういう認識をつくらなければ、格差の頂点にいる彼らの立場があやうくなる。

2022年9月8日木曜日

影響がなくなるわけがないんだよな

 どーーし、よっかーーなーーーーーー。

つまんない。

ほんとうに、きちがい兄貴のことでこまっている。いま、こまっている。行為はかつての行為だけど、いま、こまっている。影響がなくなるわけがないんだよな。あんなにやられて……。あの生活がどういうものだと思っているんだよ? 思っているんだよ?? 全部、だよ。全部。全部、なんだよ。わからんやつはわからんと思うけど。わかるわけがない。あの生活がどういう生活かわかるわけがない。これ、ほんとうに、わからないから、『影響なんてない』とくそずれたことを言えるだけだ。ちがうのに。けど、 実際に自分の人生のなかで経験したことじゃないのだから、わからないというのは、しかたがないことだ。しかし、前提がまちがっているんだよ。まちがった前提のもとに、あほなことを言うな。まちがった前提のもとにまちがったことを言うな。まちがった前提のもとに、アドバイスをするな。言っていることが、まちがっている。けど、経験がないのなら、その前提は、正しい前提だと思うことができる。だとしたら、そいつは、一生、まちがっているということを認めないだろう。

 

2022年9月7日水曜日

「生まれの格差はない」あるいは、「あったとしても、たいして影響がない」と信じている

もう、ぼくがどれだけなにを言っても、普通の人にはなにもつたわらないというとがわかっているので、普通の人ではなくて、少し変わった人にぼくの言葉を残そうと思っている。
生まれの格差はある。特に、親の性格やほかの家族の性格によって、不幸がもたらされる。しかし、普通の人は、生まれの格差を認めない。どうしてかというと「生まれの格差を認めることが、みっもないこと」になっているからだ。どうして、「生まれの格差を認めることがみっともないこと」になっているかというと、悪魔がつくりだした社会だらそうなっている……と言っておこう。悪魔が人を支配するときに、「生まれの格差」があるということに人々が気がつくと、支配ができなくなってしまうのだ。悪魔がつくりだした社会のなかでは「生まれの格差はない」あるいは、「あったとしても、たいして影響がない」ということになっている。格差の上に、悪魔が社会をつくっている。格差は、必要なのである。そして、そういう格差について、人がまちがった考えをするように、つねに、洗脳しているのである。なので、普通の人たちは、「生まれの格差はない」あるいは、「あったとしても、たいして影響がない」と信じている。しかし、そのことについては、あまり触れられず、二項目関係が論じられる。たとえば、愚痴をう言う人は不幸になる」とか「不幸な人は、みんな、愚痴を言う」というようなことが言われる。これは、「不幸」と「愚痴」の相関関係について言及しているのである。あるいは、「不幸」と「愚痴を言うこと」の因果関係について言及しいるのである。言っているやつは、気持ちがいいわけで、たいして「悪いことをしている」というつもりにはならない。いや、まったく「悪いことをしている」というつもりにはならない。しかし、「生まれの格差がある」ということと「生まれの格差の影響がでかい」ということを無視してまっている。無視して、「不幸」と「愚痴」について言及しているのである。これは、まちがった態度だ。そこで言われていることも、正しくない。どうしてなら、当然にして認められなければならない「生まれの格差」と「生まれ格差の影響」を無視してしまっているからだ。これを無視して人生に関係することを論じても、まちがった結論にしか、いたらない。いたらないのだ。 

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2022年9月5日月曜日

つねに!!!そういう反応をするということになる。

 しかし、このさき、どうしようかな?

まあ、やる気がない状態が続いているのだけど、いつかは動かなければならないだろう。

このさき、どうするんだ?

兄貴のヘビメタ騒音から始まった「めちゃくちゃにくるしいじょうたい」が終わらないなぁ。 

つねにひきつっているような限界生活だ。体力も精神も限界……きちがいヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。そういうことになる騒音だ。これ、不可避的なのである。言霊で回避できるとか、強い意志をもてば回避できるとか、気にしないようにすれば回避できるということではない。けど、横にきちがい兄貴がいない状態で、育ってきた人にとっては……「回避できる」ことなのである。だから、「回避しなかったエイリが悪い」「回避できるのに、回避しようとしたなかったエイリが悪い」ということになる。そして、まちがった前提で「えらそうなこと」を言う。言えるのは、ただ単に、きちがい兄貴が横の部屋にいなかったからだ。どれだけ言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがい的にこだわって、きちがいヘビメタを鳴らすのだから、そういう状態が続いてしまうのである。そして、きちがいはきちがいだから、ほんとうに、まるで気にしないのである。きちがい兄貴も、きちがい親父も、ヘビメタ騒音のことについては、「まるできにしない」。俺がどれだけ言っても、きちがい兄貴は、一分もゆずらずにやるということが決まっているという認識で、ずっとやり続ける。きちがい親父は絶対に兄貴に文句を言わない。注意をしない。俺に対して「こだわっちゃうからだめなんだ」と言っていたやつなのである。注意できる15年間、ずっと毎日、そういう態度を突き通したやつなのである。ところが、16年目以降「注意してくれなかった」と俺が親父に言うと「注意した!!!注意した!!!注意した!!!」とむくれる。怒り狂う。注意できる15年間は「しかたがない!!しかたがない!!しかたがない!!」とむくれて、注意してくれなかったのが、きちがい親父だ。こういう態度をとり続けるということが、ほかの人には、わからない。わからないから、「ない」と思ってしまう。けど、「うち」では、きちがい親父は、いつもそういうやって反応するのである。どうしてかというと、きちがい親父がきちがい親父の脳みそをつけて、一日24時間中、24時間、生きているからだ。そりゃ、そうなるだろう。それとおなじように、きちがい兄貴はきちがい兄貴の脳みそをつけて生活しているので、つねに!!!そういう反応をするということになる。

 

2022年9月4日日曜日

言葉と実際の経験のちがいが、わからなくなってしまうのである。

けど、いまも鳴っているのだ。午後4時。この間の時間……。時間……現在進行形で聞かされた時、どういう状態になるか? それは、たとえば、「6時間鳴っていた」ということばでは表現できないものだ。5時間鳴っていた」とだれかが書いて、だれかが、「ああっ、6時間鳴っていたのね」と理解する。理解する。理解する。6時間鳴っていたということは、言葉で理解できる。けど、実際に、その人が体験したわけじゃない。自分がきらいな音が、自分がきらいなきちがい家族によって、ずっと鳴らされている状態がきついのだ。腹立たしいのだ。ぜんぜんちがう。だから、「理解した」としても、それは、ぜんぜんちがうことを「理解した」にすぎない。けど、ヘビメタ騒音のことを、聞いた人は、「6時間鳴っていた」ということを文章として理解するようなやり方で理解する。別に、経験したわけじゃない。個別の、自分がこの世で一番嫌いな音をずっと鳴らされて、6時間経過した状態を経験しているわけではない。だから、理解のしかたがぜんぜんちがう。他人の言葉を聞いて理解した内容と、他人が経験した内容を、おなじものだと考えるべきではない。けど、そういうことを経験したということを理解したと思うと、言葉と実際の経験のちがいが、わからなくなってしまうのである。

 

 

ヘビメタがどれだけたいへんなものか、みんなわかってない

 ヘビメタがどれだけたいへんなものか、みんなわかってない。鳴っているあいだの時間がすべて汚染されてしまう。いま日曜日の午前10時36分だけど、この時間は、つねにヘビメタが最大限の音で鳴っていた。空気がよごれる。どれだけ無視しようとしても、からだにこたえる。こんな時間からずっと鳴らされ続けて、からだにこたえないわけがないだろ。そういうことの影響のほうが、たとえば「眠れる眠れる」と言うような暗示よりもでかいんだよ。もう、チリと太陽ぐらいにちがう。ところが、言霊を信じている人は「眠たい眠たい」と言えば眠たくなると言って聞かない。「眠れる眠れる」と言えば眠れると言って聞かない。そして、きちがいヘビメタ騒音でどうしようもなく、「おしだされて」健康管理が出ない状態になるのに、健康管理が出ないのは問題だとせめられるようになる。「受験というのは、健康管理も含んでいるんだよ」などと言われる。そいつには、きちがい兄貴も、きちがい親父もいない。きちがい兄貴が頑固に鳴らす騒音もない。そういう、突き刺さる、騒音が鳴っている時間も短い。あったとしても短いし、きちがい兄貴、きちがい親父でなければ、二日もあれば、解決している問題なんだよ。こいつら……きちがい兄貴ときちがい親父は、自分が、きちがい的な意地でやっているからそういう問題が生じているのに、自分が、まったくの部外者なのだ。まったく関心がない。なら、言うことを普通に聞いてくれるかと言うと、それがまったくない。だから、『きちがい』という単語を使って説明しているわけ。これまた、きちがいと言う単語を理由もなしに使っているわけじゃないんだよ。態度としておかしいんだよ。そりゃ、きちがい的な意地でやっていることなのに、まったくつもりがないことなのだから……主観的にはやってないこととおなじなのだから、自分がやっていることに関する認知がおかしい。けど、自分がやっていることに関する認知がおかしいことで、得をしているのである。きちがい兄貴なら、きちがいヘビメタを、心おきなく、でかい音で鳴らすことができる。これ、おばあちゃんのうち」だったら、きちがい兄貴だって一分間だって鳴らせないほどでかい音なんだよ。けど、「うち」だったら、「こんなのあたりまえ」という感覚で、ずっと鳴らすことができる。殺さなければ、排除できない。そういう意地で鳴らし切る。けど、本人は、ほんとうに「鳴らしたつもりがない」状態なのだ。これがこまるんだよ。「自分」と書いて「自分たち」とは書かなかったけど、おのおの「自分」ということだ。きちがい兄貴にも、きちがい親父も、おなじことが成り立つ。こまるのは、まわりの人なんだよ。 

きちがいヘビメタのことを説明したあと、きちがいヘビメタの影響を無視して、えらそうなことを言ったやつは、みんなまるまるすればいいと思うよ。

人生が、屈辱的な人生になってしまう。兄が、きちがいで、きちがい的な意地で、きちがい的な時間の長さ、きちがい的な騒音を鳴らすという状態になると、こまるのだ。けど、そういうこまり方をしている人間が、ぼく以外にいない。だから、どういうふうにこまるかと言うことは共有できないし、そもそも、話が通じないということになる。そりゃ、他人は全員、きちがいヘビメタ騒音を経験してないのだからそうなる。どれだけつらいか、ほんとうにわかってない。

2022年9月3日土曜日

ヘビメタ騒音さえなければ……

  ほんとうに、つまんない。ヘビメタ騒音さえなければ……。ほんとうにあのとき、すべての感情がほろんだ。あのとき……。あのときからずっとくるしいだけだ。どれだけがんばっても、どれだけ、楽しもうとしても、つらいだけだ。

あれはない。ほんとうに、みんなわかってないなぁ。経験がなければわからないか? 人間の感情というのは、意志的な思考でどうにかなるものではない。実際に経験したことがものをいう。そのとき、実際にからだが影響をうけている。もちろん、ヘビメタ騒音にさらされたからだ全体が影響をうけている。脳みそだって、からだの一部だ。「楽しもうと思えば楽しめるはずだ」というような考えをもっている人は、きちがいヘビメタ騒音のような長期の経験がない人たちなんだよ。だから、そんなことを言っていられる。もちろん、そういうことを言っていられるようなことしか、経験してないというのは、いいことだ。これ、いいことだからな。別に、バカにはしてない。けど、そういうことを言う人たちが、こっちの状態を無視しているのである。だから、「そういうことではない」ということを説明するわけ。だけど、そういう人たちだって、自分が正しいと思っていることを否定されたら、おもしろくないわけだよ。けど、そのおもしろくない経験の「不快度」を1だとすると、ヘビメタ騒音、一秒間の「不快度」は、1兆だよ。そのくらいちがう。

言霊の人もそうだけど、自分が正しいと思っていることを否定されたら、気分が悪いわけだよな。じゃあ、相手が正しいということにして、つきあうとなると、こっちが不愉快な思いをするわけだよ。相手の理論?は、ぼくの体験を裏切っている。ぼくが実際に経験したことから考えると、やっぱり、相手の理論はまちがっているのである。あきらかに、まちがい。どうしようもなく、まちがい。修復しようがないまちがい。

考えてもみろ。横にきちがい兄貴がおらず、きちがい兄貴のきちがい騒音を体験しなければ、ぼくだって、「そうですね。そうですね」と話をあわせることができたのだ。そして、話をあわせても、不愉快な気持になる家ではなかったのだ。どうしてなら、ぼくだってそう思っているからだ。ところが、ちがうのである。この「ちがいのふかさ」というのは、きちがい的な兄がいない人間にはわからない。きちがい的な兄が、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らすということを毎日続けたということ、実際にはどういう意味をもっているのか、わかるわけがない。これ、ほんとうに、毎日、ひどい。そんなのは、ぶっとぶ。言霊なんてぶっ飛ぶ。どれだけ、「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ。だいじょうぶだ。」と言ってもぜんぜん、だいじょうぶじゃない状態が続く。どれだけ「すぐに鳴りやむ」「すぐに鳴りやむ」「すぐに鳴りやむ」と言ったって、鳴りやまない。どれだけ「眠れる。眠れる」と言ったって、ぜんぜん眠れない。 

ほんとうに、常識人・佐藤みたいな人間には、そういうことがわからないんだよな。人のことだと思って、ヘビメタ騒音を軽く見積って!! ヘビメタ騒音の影響を無視しをがって!! おれがどれだけ、ヘビメタ騒音の影響でできないと言っても、それは無視して、できるという前提で、くそ説教をしてくる。頭がおかしい。どうして、無視する? 俺が言っているだろ!!!!! 

こいつらだけは、絶対に許せない。毎日、どれだけ希望をもって暮らしても、きちがいヘビメタが希望をうちくだく。毎秒毎秒、うちくだく。はげしく、うちくだく。そういう毎日が続いて、いいわけがないだろ。そういう毎日が続いて、通勤通学ができるわけがないだろ。働けるわけがないだろ。ところが、きちがい兄貴がおらず、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験したことがないやつは、ヘビメタ騒音のことを聞いたあとも、「そんなのは、関係がない」とかってに見積って、頭がおかしいことを言いだす。これ、完全に頭がおかしいことだからな。なにを聞いているのだ!! 

鳴っている状態も、鳴り終わったあとの状態も、まったくわかってないな。鳴り終わったら関係がないと思っているのか? ぜんぜんちがうね。こいつら、想像力がないからまったくわからない。話しても、わからない。わからないやつの頭のなかでは、影響がないことなんだよな。どれだけ、あほか。

2022年9月2日金曜日

こだわりがおなじなのである。「殺さなければならない状態」を突き付ける

 のどがかわいて、起きた。気温がさがったのですごしやすくなっている。けど、ぼくは、あいかわらず、動けない。いちおうやってはいるのだけど、亀の歩みだよ。鼻の横がかゆいのだけど、これが、ダニなのか、ダニじゃないのか、気になる。首のしたは、なんか、ダニに刺された感じがする。きちがい親父が二回、意地をはらなければ、こんなことになってない。ほんとうなら、親父が死んだ時点で、マンションを買って、完全にバルサンをたける状態にして、粗大ごみ回収の人たちにきてもらって、どうにかするということが必要だったんだな。引っ越してしまえば、バルサンをやるときに、食器や調理機の心配をする必要がなくなるからな。

まず、ネズミの流入をとめようとして、工事をしたのだけど、工事がうまくいかなかった。結果的には、工事をしたあとも、ネズミの流入をとめられなかった。これ、もう、においがついちゃうとだめなのだ。

まあ、ともかく、首の下のかゆみは、たぶんだけど、Tシャツが原因だと思う。洗って、ほして、置いておいたのだけど、それでも、ダニがついていたと考えるべきだな。というわけで、今度は熱湯処理をして、洗濯をしたけど、そういうのも、もう、限界なんだよな。動きたくないわけだから。この「うごきたくない」というのは、長期騒音と、親父のネズミ騒動で、引き起こされたことだ。ともかく、もう、「うごきたくない」のである。それを、おして、たとえば、熱湯処理をしている。片づけをしている。

これ、みんなわかってないだろうけど……。ともかく、築58年ぐらいの木造二階建てというのは、もう、むりなんだよね。けど、きちがい親父がネズミの餌付けをするまで、54年間ぐらい、ずっと、一匹も、ネズミなんて入ってこなかったのだ。あとでわかったことだけど、ネズミが侵入できる穴というか隙間があった。複数カ所あった。あったにもかかわらず、親父が餌付けをするまえは、一匹も入ってこなかったのだ。だから、これ、ちがうんだよね。ちがうんだよ。餌付けをして、いっぱいネズミの糞がころがっている状態になったあとは、どれだけ努力しても、次から次へ入ってくるという状態になった。なかなか、とめられないのである。工事をしても、むり。きれいさっぱりと、ネズミが入ってこれない状態というのを、つくれないんだよね。ねらわれちゃったら、だめなんだよ。ねらわれちったら。ねらわれちゃったら、意地でも入ってこようとするわけで、穴があいてなかったとこに、穴をあけて入ってこようとする。ほんとうに、54年間、きちがい親父が、きちがい的な方法でえ付けをするまでは、そんなことがなかった。どれだけ、穴があいていても、ネズミなんて一匹も入ってこなかった。それが、きちがい親父が、酒糟がついた魚の切り身を、24時間中、23時間、テーブルの上に出しておくことに、こだわってこだわってこだわってこだわって、こだわってこだわってこだわって、こだわってこだわってこだわって、殺さないとやめさせることができない状態になった。勝手に片づけてしまうのも、問題があるのである。かかわってしまったら、殺さずにはおけないような行為をすることになる。トラブルの連続になる。我慢すると、こっちの身がもたないような状態になる。どっちにしろ、殺さなきゃならないような状態になってしまうのである。おやじの頭の構造から言ってそうなる。「とおらない」のだよ。ちゃんと言えば、通じるとか、そんなおかしいことに、そんなにこだわるはずがないとか……普通の人は考えるわけだけど、ちがうんだよ。この場合も、かかわってしまって、こっちの意地をとおそうとすると、殺さなければならなくなるのである。それをがまんしている生きている。ともかく、「普通の人がやらないこと」を、親父がやりだすと、こまるのである。こまる。これ、ずっと前からおなじなんだぞ。たまたま、酒糟がついた魚の切り身を出すことにこだわることになったから、ネズミ関係のあれこれが発生しているわけで、こっちが我慢して、問題が発生しなかったことに関しても、こういう状態が成り立っている。おやじの頭が常にそういう状態だから、常にそうなっているのである。たまたま、酒糟のついた魚を「ほぼ」一日中だしっぱなしにすることにこだわったから、見えやすい問題が発生しているだけだ。

これは、兄貴でもおなじだ。おなじなのである。おやじのこだわりと、兄貴のことだわりが同じなのだ。こだわる箇所がちがうけど、親父の酒糟のついた魚の切り身をだしっぱなしにすることに関するこだわりと、兄貴のヘビメタを思いっきり鳴らすことに関するこだわりがおなじなのである。どれだけ言ったって聞きはしない。「殺さなければならない状態」を突き付ける。二十四時間中、二十四時間、つきつける。

 

2022年9月1日木曜日

きちがい兄貴が、毎日鳴らさなかったらこんなことになってない

 しかし、つまんねぇな。これはいったいなんだ??

これは、いったいなんだ?

きちがい兄貴が、毎日鳴らさなかったらこんなことになってない。

気分が、だめなんだよな。こんなの、ない。 

つまーーんない、人生。

ヘビメタの、この感じが、すごいんだよな。だれもわかってくれないけど……。経験がない人たちにとっては「そんなの気にしなければいい」と軽く言えることだからな。そんなことじゃないからこまっているのに……。こういうレベルのことを言われる……。ずっと……。

なんなんだ? この人生は? こんなのない。きちがい兄貴のきちがい度がわかってないなーほんとうに殺さなければ一分間だってやめてくれない。きちがい的な意地で、鳴らしている。自分がやりたい時間に、自分がやりたい音で鳴らすということに「いのち」がかかっているから、絶対にやめてくれない。やめさせるとなれば、殺さなければならなくな。こっちは、人知れず、つねに、きちがいヘビメタ騒音で死にそうな感じだ。爆発して、自害するか、爆発して、きちがい兄貴を殺すしかない。そういう一秒一秒なんだよ。こんなの、一日に七時間から十三時間続いたら、そりゃ、どれだけ我慢したって、つかれる。死にたくなる。憂鬱になる。楽しめなくなる。ところが、楽しめなくなれば楽しめなくなったで、きちがい兄貴がいないやつから、「楽しもうと思えば楽しめるのに、楽しもうと思わないからダメなんだ」と説教をくらうことになる。こういう人生。こ、れ、なんだ、これ?

 

そういうことを言えるぐらいのハンディだ

 ヘビメタ騒音をやられると、一日が、どれだけつらいものになるか、まるでわかってないな。どれだけしつこく、のぞみをもって暮らしても、毎日やられると、そののぞみもなくなっていくというのがわからないな。だいたい、窮地に立っいるわけで、その度合いが、毎日、増す。どれだけ、「元気だ元気だ」と言っても元気にならない。

ヘビメタ騒音のハンディがないやつが、好き勝手なことを言って!!

きちがい兄貴のハンディ、きちがい親父のハンディがないやつが、好き勝手なことを言って!! 

「そんなことが成り立つなら、こまってない」と絶叫したくなる!!

しかも、そいつらが、こまっているところで……窮地に立って困るているところで、へんな要求をしてくるわけだ。痰的に言えば、気にしないでがんばればいいということを言ってくる。こいつらには、ヘビメタ騒音のハンディがない。けど、そいつらは言うだろう。「俺だってこれこれでくるしい。けど、がんばっている」と。ね。けど、そいつらのハンディというのは、そういうことを言えるぐらいのハンディだ。ちがう。ぜんぜんちがう。そういうものじゃない。毎日、ヘビメタ騒音がつみかさなるというのは、そういうことじゃない。そういうことが、ぜんぜんわかってないということは、そいつのハンディがたいしたハンディじゃないということを、明示している。

「がんばっている」状態を維持できるなら、そいつらのハンディは、ぼくのヘビメタのハンディとはちがう。

おわりがないんだよ。実際には、十五年間で終了したけど、たとえば、一年目の三十日目の俺にとっては、ヘビメタ騒音は、兄貴を殺さなければ「永遠に続きそうな」騒音なんだよ。実際、十五年目に終了したとしても、意味がない。三十一日目に終了しなければ意味がない。この終了というのは、完全に終了するということだ。きちがい兄貴が、「ゆずったつもりで」おなじようにずっと鳴らし続けるということではない。殺さないと絶対にやめない。そういう状態だった。理解してないからね。きちがい兄貴を殴ったらなぐったで、今度は、「なぐった」ということを「ひとじち」にとって、自分を正当化してやる。暴力という悪いことをしたのだから、騒音なんて関係がない。おまえが暴力をふるったのだから、ヘビメタ騒音を思いっきり自分が鳴らしたいように鳴らしたっていい……こういう精神状態になって、きちがい的な意地で鳴らす。ならばやはり、殺すところまでいかなければならなくなる。常に相手にそういうことを突き付ける「いじ」なんだよ。きちがい兄貴の意地というのはそういう意地なの。で、これおなじ意地をもっていたやつが、きちがい兄貴のほかにもいた。きちがい親父だ。二人のきちがいに、はさまれて、どれだけつらい思いをしたか、きちがい兄貴ときちがい親父がいない人には、まったくわからない。どういうことが発生するのか、聞いたって、わからない。自分のことでなければわからない。実際にそういう「うち」で、二十年ぐらい、生活しないとわからない。どんだけのことがつみかさなるか、わからない。どんだけのことがつみかさなるか、実際の時間経過とともに、経験しなければ、二十年間でこうなるということを、説明されたって、わからない。

2022年8月31日水曜日

寄付と宗教団体と不幸

 全財産を寄付するとしあわせになれると言っていた医者は、全財産を寄付したの?

どこに寄付するかというと、宗教団体なわけで、悪質な洗脳とかわりがないんだよな。そういうのを、感動のストーリーだと紹介してしまう。これ、壺でしあわせになった人の感動のストーリーと、どうちがうの?

全財産、はたいて、幸福のツボを買ったという話と、どうちがうんだよ? 

寄付することでしあわせになるなら、カルト教団の教徒はみんなしあわせになっている。

全財産を寄付することで、しあわせになるなら、カルト教団の教徒はみんなしあわせになっている。

ぼくにはしあわせになっているように見えない。けど、「そんなのは、個人の感じ方次第だと」という言い方がある。ようするに、「全財産をはたいて、幸福の壺を買った人が、しあわせを感じているのであれば、それは、幸福の壺を買うことによって、しあわせになったということだ」という言い方だ。本人が、しあわせを感じているならそれでいいじゃないかという言い方だ。けど、法則性があるようなものとして、説明したほうの、責任はどうなる?

全財産をはたいて、高価な壺を買って、一時的に幸福感をえたとしても、そのあと、やっぱり、全財産を使ってしまったのは、失敗だったと思って不幸な感じがするなら、けっきょくは、不幸になったといこうとじゃないか。なんであたかも、幸福感がそのあとも持続するような前提でものを言っているのか?

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たとえばの話だけど、きちがい的に頑固な兄が、でかい音でヘビメタを鳴らすことにこだわって、でかい音でヘビメタを鳴らしているから、しあわせではないという場合は、壺を買っても、しあわせにならない。全財産をどこかの宗教団体に寄付しても、しあわせにならない。しあわせになるには、きちがい的な兄が、きちがい的な兄ではなくなり、ヘビメタを鳴らすときは、ヘッドホンをするようになることが必要なのだ。こういう『条件』がある。しかし、たとえば、壺を買えばしあわせになる」というような法則性のある話をする場合は、そのひとの『条件』を無視してしまうのである。しあわせではない状態が続いているのには、「理由がある」のである。なになにをすれば、しあわせになると言う場合、なになにをすることで、その理由がなくならなければならないのである。実際に、その理由がなくなるような強制力が発動するようなものでなければならないのである。実際には、壺を買うことではなくて、きちがい兄がきちがい兄ではなくなり、しずかにするということが必要なのである。ほかにも、方法はある。たとえば、弟だけ、宿を借りて、きちがい兄が鳴らしている時間は、その宿にいるという方法がある。しかし、これをやるとすると、弟が未成年の学生である場合は、親が協力しなければならないのである。しかし、親が兄とおなじように気ちがいであった場合は、そういうことにはならない。これもまた、「不幸になる条件」なのだ。なんらかの、これこれをすれば、しあわせになる」という言い方のなかには、個々人がかかえる『条件』がまったくはいっていない。考慮のそとなのだ。まったく問題になっていないのである。しかし、法則性があるように言うので、あたかも、その行為によって問題が取り除かれしあわせになるような「感じがする」のである。しかし、それは、「感じがするだけ」なのである。これは、「別に壺を買う」ということだけではなくて、「他人に親切にする」というよう場合でも成り立つ。人に親切にすればしあわせになるという言い方には、壺を買えばしあわせになるという言い方とまったく同じ問題が横たわっている。エックス(X)になにを代入するかのちがいでしかない。エックス(X)をすれば、しあわせになるというのは、基本的に『条件』を無視するものだから、そういう効力がなく、意味がない。

二項目を取り上げて、まるまるになるというのは、実はよくないやり方だ。どうしてかと言うと、そうならない場合のほうが多いからだ。しかし、二項目を取り上げることによって、あたかも、二項目の関係があるような錯覚?をもたらすのである。二項目を取り上げた場合、二項目にはものすごくタイトな関係があり、一方を達成すれば、自然にもう一方も達成されるというような言い方をされると、そういうことが、「どんな場合でも成り立つ」ような感じがしてしまう。そして、そういう考えにとりつかれてしまう人が出てくる。これこそが、不幸のもとだ。 

「壺を買うとしあわせになる」よりも「他人に親切にするとしあわせになる」のほうが受けがいいのは、ある人が壺を買うと、たいていの場合、まわりの人が不幸になる感じがするけど、ある人が他人に親切にした場合は、たいていの場合、まわりの人が不幸になる感じがしないからだ。けど、これはこれで、問題がある。ある人が思う「他人に親切にする」の内容が、かならずしも、他人にとって、親切ではない場合があるからだ。

もうひとつ、現にしあわせではない人は、人に親切にしないひとだということを、理論的に暗示しているのである。実際には、不幸になる理由はたくさんある。しあわせになる理由もたくさんある。しかし、二項目だけをとりあげて、二項目の関係背について述べると、あたかも、二項目以外は関係がないような印象を与えてしまうのである。これは、印象操作だ。じつは、アドラーもこういう印象操作をおこなっている。この印象操作は、壺購入のように悪いイメージがないけど、ほんとうは、注意しなければならないことだ。不幸な人をより不幸にしているのである。



 

2022年8月30日火曜日

俺は、自動的に友達をなくして、通学通勤ができる体力をなくして、生きていかなければならなくなるんだぞ

 ヘビメタ騒音の破壊度が、いっしょにいた人間にもわからないんだよな。どれだけ言っても、あまくみつもる。俺が「できない」といったら「できない」のに、俺ができるのに「できない」と言っていると思って、働くことをすすめてくる。俺ができないと言ったら、できないんだよ。これ、俺がどういう気持で言っていると思っているんだ? これ、俺がどういう経験をもとに言っていると思っているんだ。そりゃ、「ずっとヘビメタが鳴っていた」と言うしかないけど、毎日のしんどさは、それじゃあ、つたわらない。他人だと、どうしても、俺の24時間がわからない。一日、24時間の、24時間がわからない。俺のからだがわからない。俺のからだがどれだけ傷んでいるかわらない。他人は、ずっと一緒にいた人もふくめて、「軽いと」だと思っている。俺がちょっと考えをかえれば、どうにでもなることだと思っている。けど、実際に、365日中、365日、ずっとずっとずっと、ずっとずっとずっと、たえきれない騒音を、あびせられて……。たえきれないのに、何年間もたえてきた。これで、精一杯なのに、まだ、余力が残っていると思っている。まだ、「その気になれば」働けると思っている。通学できると思っている。そういうものじゃないのに、そういうものじゃないと言っても、ヘビメタ騒音生活の経験がない人にはわからない。だから、そこにいつも齟齬がしょうじる。認知がちがいすぎる。認知のズレが、うまらない。ほんとうに毎日やられた人じゃないと、毎日のことはわからない。時間……たとえば、一日に7時間あびせられたとして、その生活が10年続いた場合の状態がわからない。実際に、午後4時には、やめてほしいのに、午後11時10分まで鳴っている状態が、どういう状態なのかわからない。きりきりまい。きりきりまいと言っても、経験がないのだからわからない。わからないところで「できる」と思って「やってくれよ」と言う。「むりだ」と言っても、聞かない。そういう人……頑固な人と、いっしょにいられると思うか? 会えば必ず、それを言われる。そういう人と会いたいと思うか? 「どうにかなってくれ」と言われて、「どうすることもできない」「働けない」と言うときの気持ちがわかるか? 「そこをなんとか」と食い下がられて、どういう気持になるかわかるか? 「ほうっておいてくれ」という気持になる。何十回もそういう気持になっていいわけがないだろ。会いたくないと、心底思うようになるだろ。どうして、わからないのか? そりゃ、「ほうっておけない」ということになれば、えん、を、きる、しかないだろ。友だちの記憶が続くわけがないだろ。いっしょにいたいと思わないくなるだろ。会いたくないと思うようになるだろ。どうして、これがわからないのか? ほうっておけよ。ほうっておけばいいんだよ。そこには触れずに、いままで通りにつきあってくれればいいんだよ。それを、こわしたの、きみだ!!

まあ、そっちからすれば、「そんなことで、いままでのことがなしなのか?」「いままでのことは、いったいなんだったんだ」と思うだろう。そういうことなのであれば、そこには触れずに黙っておけばいいだろ。できない」と何回言ったと思っているんだ。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴のしらないところで、俺と友達の縁(えん)を、切ってしまうのである。きちがい的な意地でやりやがって……。ほかの人が、わからないことをしやがって。きちがい兄貴の性格があまりにおかしいからほかの人のまわりにはきちがい兄貴みたいな人がいないんだよ。だから、きちがい兄貴みたいな人がやる、騒音を経験してない。これがどういうことだかわかるか? 俺は、自動的に友達をなくして、通学通勤ができる体力をなくして、生きていかなければならなくなるんだぞ。

「もーーう、いやだ」という気持がある

 どうも、ネズミが二階の横の部屋に入ったことが濃厚になってきた。うたがいが濃厚になったということだ。どうも、はったみたいだな。はいったら、出ていかないんだよ。どうするかな?

言ってはいなかったけど、じつは、鼻筋のところが、みょうにかゆくなってかいたんだけど、それがちょっと、かさぶたになっている。まあ、これ小さいわけだけど……。複数個あるから、ちゃんと治るかどうかわからない。あとがついたらいやだな。

あと、いま、首のところと胸のところがかゆい。ほんとうは、アパートをかりるために、動くべきなんだけど……どーーしても、腰があがらない。あがらない。

猛烈にしんどい。「もーーう、いやだ」という気持がある。「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」「もーーう、いやだ」と100回ぐらい、こころのなかで、言ってる。おやじがネズミを入れてから、こういうことばかりだ。俺がネズミの糞を片づけるんだぞ。俺が、ダニに刺されるんだぞ。ほんとうに、頭がおかいしいから、魚を出しておくことにこだわる。ほんとうに、頭がおかしいから、「俺がネズミをつかまえるから、いい」と言って聞かない。ネズミをつかまえたって、あとからあとから入ってくるわけだし、ネズミをつかまえたってネズミの糞は片づけるわけじゃないから、こまると言っているのに、一切合切わからない。この「わからなさ」がすごいんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音もおなじなんだよ。どれだけ「でかい」と言っても、わからない。ほんとうに、よその家じゃ絶対にありえないほど、でかい音で鳴らしているのに、「でかい音で鳴らしている」ということを認めないんだよ。いつもいつも、こうなる。こういう、頭のしくみをもっているやつ破壊力と言ったらない。「どれだけ相手がガミガミ言っても気にしない」ということでどうにかなることではないのだ。逆に、きちがい兄貴やきちがい親父が「どれだけ相手がガミガミ言っても気にしない」で頑固にやりきる。あたかも、「気にしないこと」が「善」であるようなことを言うな!!

 

2022年8月29日月曜日

お楽しみ回路を破壊されたのが、一番、こたえたのかな?

 

 いやー、ほんとうにつまらない。俺、よく、生きているなぁ。

あーー。お楽しみ回路を破壊されたのが、一番、こたえたのかな?

あの感情の繰り返しじゃ、こわれるよ。

どんだけ、つらかったか。 

どんだけ、ながい時間持続したか?

どんだけ、ながい期間、持続したか?

まったく経験がないやつにわかるわけがない。おなじ経験がないやつにわかるわけがない。けど、その「わからないやつら」が、「楽しもうと思えば楽しめる」「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と、こっちからすれば、まったく根拠のないあほな意見を言ってくる。彼らは、きちがい兄貴にやられてないからそういうことが言える。「きちがい兄貴騒音相当」の騒音がないから、言える。きちがい親父と同じ家に住んでなかったから言える。どんだけの、経験がつみかさなる? まったくわかってない人たちは、生まれの格差について考え違いをしている。生まれの格差は、時間とともに広がっていくのである。生まれたときの「格差」がその格差の方向で、ひろがっていく。だめなところ、ひどいところに生まれた人間は、どれだけあがなっても、だめな経験、ひどい経験がつみかさなっていく。経験……。ところが、いいところに生まれた人間が、「格差なんて関係がない」「過去なんて関係がない」と言う。こういう、トリック。それからもうちょっと言っておくと、根拠というのがあるのである。感じ方の根拠がある。不適切な感じ方だから、そういうふうに感じないようにしようとしてもむだなのである。感じ方の根拠があるから。たとえば、ひどい家族のもとにうまれたら、ひどい家族との経験がつみかさなる。その場合、「家族と言うのはいやだな」と思うようになる。そこのそこで思うようになる。かりに、テレビドラマで、「理想の家族」みたいなものが放送されていたとする。その、理想の家族のほうが、ほんとうの家族だと思ったとする。けど、自分の経験に根差さない、「理想の家族」は「空想の家族像」でしかないのだ。なので、そういう「あるべき理想の家族」をもとにして、経験を積み上げることができない。それは、自分にとって「よそよそしいもの」なのである。たとえばの話だけど、「理想の家族」に近い家族のものに生まれて「家族とはこういうものだ」と言うイメージをつくりあげたボンボンがいたとする。そのボンボンにとっては、根拠があるイメージなのである。このボンボンが、不幸な人を見て、不幸な人は、家族に対して不幸な考え方をもっていると言ったとしよう。不幸なの人は、みんな自分の家族がきらいだと言ったとしよう。で、対策として、「不幸な考え方をもたなければいい」「自分の家族を好きになればいい」と言ったとしよう。……言ったとしよう。言ったとしよう……。それがなんだというのだ? もともと、めぐまれた家族のもとに生まれた人間。もともと、まともで人格的にすぐれている家族のあいだで育った人間。そういう人にとっては、たとえば、家族に対していいイメージをもつことが可能だ。普通に家族のことが好きになって当然だ。家族というもの、あるいは、家族の構成員に対していいイメージをもつことができる。これを、いいイメージを持てる能力の差のようにとらえがちなのだけど、根拠のないイメージは持てないものなのである。持ったとしても、実際に感じたことのほうが、実際の感情に影響をあたえるのである。実際の行動に影響をあたえるのである。実際の判断に影響をあたえるのである。たまたま、いい家族にめぐまれた人間が、またまた、悪い家族のもとにうまれた人間をさげすみ、能力の差のように考えるのである。

ちょっとだけ、脱線して説明しておくと、「さげずむ」も「さげすむ」も言い方としてある。けど、「見下す」という意味では、「さげすむ」と書くことになっている。まあ、見下すと書いておけばよかったか。

で、話をもどそう。たとえば、めぐまれた家族のもとで育った、ボンボン心理学者が、「不幸な人は、家族のイメージがゆがんでいる」と言ったらどうだろうか? ボンボン心理学者は、自分が、めぐまれた家族のもとに生まれて、自分がめぐまれた家族のもとで生活してきたので、きちがい家族がどういうものであるのか、ほんとうには知らない。経験をとおして知らない。なので、自分の家族(良心的な家族)をもとにして、家族のイメージをつくりあげる。その場合は、経験と家族のイメージが合致しているのである。けど、ボンボン心理学者が提示した「家族のイメージ」は、きちがい家族のもとで育った人にとってみれば、「空想の家族」「自分の経験に根拠がない人間的な交流をしている家族」なのである。なので、経験と言うことを考えれば、たとえば、不幸な家族のもとで生まれ育った人が、不幸な家族のイメージをもつのは、当然なのである。これは、そのことについて、認知がゆがんでないということを意味している。しかし、ボンボン心理学者のほうが、幸福な家族のもとに生まれ育って、幸福な家族のイメージが「認知的に正しいのだ」と思ったらどうだろう。不幸な家族のもとに生まれ育った人間の「家族のイメージ」がゆがんでいると判断してしまう。そして、それは、まちがっている。不幸な家族のもとに生まれたものがもっている「家族のイメージ」に対する認知は、ゆがんでないのである。 どっちの側にいるか? あるいは、どっちの側に含まれるか? ということを考えないで、「(認知が)ゆがんでいる」と言うべきではない。

 

2022年8月27日土曜日

下の存在

 ヘビメタ騒音をきちがい兄貴みたいな相手に、ずっとやられたら、通勤・通学ができないからだになるのである。だれだってそうだ。

まあ、ヘビメタが好きな人はならないかもしれないけど、それは、鳴っている音がヘビメタだからだ。

もしかりに、その人が苦手な音がずっと鳴っていたら、ヘビメタが好きな人でも、通勤・通学ができない状態になる。

たまたま、そういうことをする『きちがい的な家族』がいなかったから、まのがれているだけ。能力のちがいじゃないのである。

けど、自分が通勤・通学することができれば、通勤通学ができないなどと言っている人のことを、根本的に、無意識的に、意識的に、「ばかにする」。自分より下の存在だと思う。一度、下の存在だと思ったら、説教をするのは自由なのである。そういう人たちは、下のやつにえらそうなことを言うのは、自由だと思うし、「やっていい」と思う。むしろ、積極的にそうするべきだと思ってしまう。

*     *     *

きちがい兄貴が、一心不乱に、きちがいヘビメタ騒音をでかいでかいでかい音で鳴らし続けると、俺が、バカなやつらから、あるいは普通のやつらから、下の存在に見られるようになってしまうのである。どうしてかと言うと、ヘビメタ騒音で勉強ができくなるからだ。学歴や職歴がなくなるからだ。体力も、生活的な持続力もなくなからだ。睡眠回路が破壊され、つかれやすいからだになる。そうなると、仕事ができないからだになるのである。しかし、そこでも、家の状況というものを無視した、あるいは、ヘビメタ騒音の影響を無視した、努力論や自己責任論が、あたかも正しいことして、言われるのである。

そんなのはいいわけだ」ときちがい兄貴がいないやつ、きちがい兄貴の騒音にずっと悩まされてこなかったやつが、言うのだ。こんなのは、屈辱だ。そいつだって、きちがい兄貴のような兄がいて、その兄が、そいつの一番嫌いな音を発狂的な意地で、毎日、ほとんどすべての時間、鳴らしていたら、学歴と職歴をなくし、通勤・通学ができないからだになる。どれだけ我慢して動いても、基本体力がなくなったつらい体で動くことになる。どれだけ、睡眠に気を使っても、けっきょく、適切な時間に、眠れないからだになる。そして、そうなったのは、自己責任だと言われるようになる。こいつらは、俺の責任を追及するけど、きちがい兄貴の責任はまったく追及しないのだ。それで、「正義」だと思っている。それで、「善」だと思っている。佐藤のような、凡人に、この俺が、かるく見られるのである。思考力がない凡人は、「専門家」の言うことなら、ありがたがって聞く。きちがい兄貴にやらなければ、俺は、専門家になれた。専門家である俺の意見を、思考力がないあいつらは、ありがたがって聞いただろう。それは、くそ凡人が、専門家の意見は正しいと思うようなくそ凡人だからだ。


2022年8月26日金曜日

わざとやっている場合は、わざとやっていることを知っている

 ヘビメタ騒音でつらい。ヘビメタ騒音でつらい。ヘビメタ騒音でつらい。

ヘビメタ騒音でつらいと言っているだろ!

ヘビメタ騒音でつらいと言っているだろ!

あの、連続ない。あの連続、ない。ほんとう、どういう状態でいると思っているんだ? 

どういう状態でいたと思っているんだ?

どういう状態になると思っているんだ?

きちがい兄貴を殺すべきだった。はやく殺して、きちがいヘビメタの影響から逃れるべきだった。これ、やられてない人は「ふかひせい」みたいなものがわかってない。不可避、なんだよ。不可避なんだよ。影響をうけないということがないんだよ。どれだけ、がんばって影響をうけないようにしても、影響をうける。あの、はりつめた気分はない。あの、はりつめた状態はない。きちがいが「へーき」でやっているんだよな。どれだけ言ったって、きちがいだから、日本語の内容を意識的に理解する前に、否定してはねのける。きちがいでも、日本語はわかるのである。けど、「予感」のようなものでしかない。理解すると、相手の言うことを聞いてやらなければならなくるから、理解をするまえに、相手の言うことを否定する。あるいは、理解する前に、無視する。無視したら、「まったく言われなかった」状態とおなじ状態になる。区別はない。だから、言われて、怒って、無視したあとも、「言われた気持ち」は発生しないのである。これが、兄貴の無視のしかただ。で、これは、普通の人が「こうしよう」と思ってできることじゃないのである。普通の人だと、どうしても、「聞いたけど、無視した」という記憶が残ってしまう。相手が「やめてくれ」と言ってきたけど、無視したという記憶が残ってしまう。さらに、無視したあと、相手が嫌がっていることをやり続けたという記憶が残ってしまう。普通なら、そうだ。けど、きちがい兄貴は、普通の意味で、意識的に理解する前に、はねのけてしまったので、そういう記憶が残らない。自分は、なにも言われてなかったし、言われなかったのだから、どれだけ続けたってそんなのはしかたがない」と思っている状態なのである。本人としては、本人の行為だとは思ってない状態なのである。あいてがいやがっていることをずっとやり続けたという認知・認識は、何万時間やりきっても、これっぽっちも、うまれない。相手が「やめてくれ」と言ってきたという認知・認識は、何万回言われても、まったく、うまれない。これは、わざと、やっていることではない。それがどれだけひどいことかわかるか? せめて、わざとやる……ぐらいの脳みそがなければならないのである。わざとやっている場合は、わざとやっていることを知っている。本人が、どれだけ、人の前で、否定したとしても、知っている。けど、きちがい兄貴の場合、わざとやっているわけではないから、それがないのである。普通の人が意識して、意地になって、わざとやらなければならないことを、普通に、自然に、やってないつもりのまま、やってしまう。こういう、催眠術にかかっているような状態……。これが、ふだんのきちがい兄貴の脳みそなんだぞ。どれだけ犯罪的なことをしたって、本人が、まったく気がつかなかったら、犯罪的なことをしたことにならないんだよ。

2022年8月25日木曜日

ヘビメタ騒音をぼくとおなじように経験すれば、その常識的な人だって働けなくなるのに、それがわかってない

 「悪」ということについて考えてみよう。ヘビメタをあの音のでかさで、鳴らすのは悪だ。なおさら、兄弟が「うるさいからやめてくれ」と一日に何十回も言っているのに、ずっと鳴らし続けるのは、悪だ。

いっぽう、騒音生活の結果、働けなくなった人が働かないのは、悪ではない。ところが、佐藤(仮名)のような常識的な人は、働けなくなった人間が働かないのは、悪だと考えてしまうのである。

ほんとうのことを言えば、佐藤は、エイリさんが働けると思っている。だから、佐藤のなかでは「働けないから働いてない」というのではなくて「働けるのに働かない」ということになっている。エイリさんは「働けるのに働かない人だ」ということに、常識的な佐藤(仮名)は認識しているのだ。これ自体が間違いだ。

きちがいヘビメタ騒音一分間の迷惑度を一兆だとすると、ぼくが働かないことの迷惑度は、ゼロだ。まあ、話がすすまないので、一兆歩ゆずって、ぼくが働かないことの迷惑度を一(いち)だとする。一兆倍悪いことを、問題とするのはなぜか? 頭がおかしいからだ。悪の度合いがわかってない。ほんとうに失礼なやつらだな。しかし、失礼なことをしているのは、佐藤たちなのに、佐藤たちは、自分がエイリさんに対して、失礼なことをしてないと思っているのだ。一兆歩ゆずって、話をすすめてしまったけど、ぼくは、悪いことをしてない。しかし、佐藤たちの考え方ついて考えると次のようなことが言える。「働かないエイリのほうが、ヘビメタを鳴らしたエイリの兄よりも悪いことをしている」と常識的な佐藤たちは判断しているのだ。この、混乱。この、迷惑な考え方。おまえらのそういう、見なし方のほうが、迷惑だよ。しかし、ぼくがそのことについて、不満を述べた場合どういうことになるかと言うと、佐藤たちは、ぼくが不満を感じたということについて、不満を感じるのである。こんなのは、ない。きちがい兄貴が、ほかの人にはまったくわからないきちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らさなければ、ぼくは、外部の人たちと、こういう関係になることはなかった。言霊についてだって、きちがいヘビメタ騒音のなかで「元気だ元気だ」と言って元気にならなかったという経験がなければ……そういう経験がある日が、何千日も続かなければ、言霊を普通に肯定できたのである。けど、ぼくは、きちがいヘビメタ騒音の経験から言って、言霊を普通に肯定するわけにはいかない。そうすると、言霊信者からは、軽く恨まれ、きらわれるのである。話をもどして、佐藤たちの反応のについて考えることにする。言霊の人が反感をもつように、常識的な人たちは、自分たちが言った「あたりまえのこと」をぼくが受け入れないということになると、ぼくに対して、反感をもつようになるのである。「働くのが当たり前のなに、働かないのはけしからん」「働かないのはけしからんと言ったことについて、反対意見を述べたのも、けしからん」ということになってしまうのである。きちがいじゃなかった、常識人、佐藤の頭のなかではそういう考えが浮かぶ。けど、これは、佐藤がヘビメタ騒音の影響を無視しているから起こることだ。佐藤が、ヘビメタ騒音の影響を十分に認めて、ヘビメタ騒音がそれだけなっていたのであれば、働くのはむりだと判断すれば、そういう考えが、佐藤の頭に浮かぶことはなかったのである。ぼくが、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、経験がない人にはわからないのだ。「うち」の状況というものを考えると、普通の人が生まれ育ってきた状況とは、まるでちがうのである。常識人佐藤が育ってきた「うち」の状況と、エイリの「うち」の状況がちがいすぎる。きちがい秋にというカード。きちがい親父というカードが、どれだけの影響をあたえるか、まったくわかってないやつらばかりなのだ。そりゃ、きちがい兄貴というカードときちがい親父というカードを両方、もっている人間でなければ、ぼくが言っていることがわからない。きちがい兄貴ときちがい親父の影響がどれだけ、でかいものか、まったくわかってないのだ。経験をとおしてわかってないから、まったくわかってない状態で、そいつらは生きているのだ。そいつらにできることは、「自分」の家族のカードから、「エイリ」の家族のカードを類推するということだ。けど、この類推は、はっきり言ってしまえば、かならず、誤解をうみだすものなのだ。

いずれにせよ、佐藤は、ぼくがなにもわるいことをしてないのに、悪いことをしていると誤解して、悪いことをしないようにすることを求めるのである。そして、働かないという悪いことをしているのだから、せめられて当然だという考え方もある。なので、自分がエイリを道徳的にせめることは、なんの問題もないことなのである。そしてさらに、自分がエイリを道徳的に攻めたとき、その道徳観についてエイリが文句を言ってきたとなると、不愉快になるのである。そして、エイリが文句を言ってきたのは、エイリが未熟だからそういう文句を言ってきたと考えるのである。自分が言っていることの意味がわからないから、そういう文句を言ってきたと考えるのである。説明するために「文句」ということばを使ったけど、実際には、文句ではない。文句と言うのは、佐藤から見た場合、エイリが佐藤の言葉を批判することが文句を言うことに見えるということだ。エイリの批判は、あたっているのである。なので、佐藤がまちがっているのだから、佐藤は、ぼくの批判を、文句ではなくて、正当な批判だと受け取らなければならないのである。しかし、佐藤はそういうことにも失敗してしまう。常識的な思考しかできないからそういう失敗をすることになる。この失敗は、佐藤側の失敗なのだけど、佐藤は、失敗をしたとは思わないだろう。そういうところに、ズレがあるのである。

さて、こういうずれは、ヘビメタ騒音のことを常識的な人に説明すると、普通に発生してしまうずれなのである。きちがい兄貴が、常識的な考え方らは、想像ができないきちがい兄貴なので、ぼくが、常識的な人から、批判されてしまうのである。文句を言われてしまうのである。未熟だと思われてしまうのである。あの、ヘビメタ騒音を経験したことがない人が、えらそうなことを言う。きちがいヘビメタ騒音をぼくとおなじように経験すれば、その常識的な人だって働けなくなるのに、それがわかってない。想像力がない。とくに、自分と相手の立場をいれかえて考えるということができないのである。不得意なのである。「自分だってそんなにでかい音でずっと、一一歳からヘビメタ騒音を鳴らされ続けたら、働ないからだになるかもしれないな」というような想像がまったく働かないのである。これは、想像力の欠如だ。

2022年8月24日水曜日

「ただちょっとうるさかった」というような話と、いっしょにするな!!

 ビオフェルミンのほかにミヤリサンも飲むことにした。

つまーーんない。

このあいだから、ずっと腹の調子が悪い。

頭も、もやもやする。

起きたとき、しんどい。

だいじょうぶかな?

たとえば、ごみをすてに行くとき、いちおう、服を着て、外に出るわけだけど、服を着るのがめんどうくさいんだよね。これは、ヘビメタ騒音の朝とおなじだからそうなる。だれもわかってはくれないか。あの破滅がどういう破滅なのか、全員わからない。

だから、「服を着るのがめんどうくさいんだよね」なんて言っても、ただのぶしょうものが、ちょっとしたこごとを言っているようにしか思えない。

けど、真実は……そういうことじゃない。あの、ヘビメタ騒音を経験したものにしかわからない。はっきり言えば、普通の人が「うける印象」よりもずっと深刻な問題なのである。印象とはちがって、そうとうに、やばい問題なのである。

そして、ヘビメタ騒音が十五年間だから、治りようがないのである。だれだって、十五年間もやられれば、「こたえる」のに、やられてないからわからない。だれだって、おなじ状態で15年間生活すれば、「服を着るのもしんどくて死にたくなる」状態になるのに、やられてないから、わかってない。

わかってないところで、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「すべては重いようだ」とかめちゃくちゃなことを言いやがる。そういうことばを信じて?15年間生活して、ボロボロになったということがわかってないなぁ。

そんなことで解決しているなら、とっくに解決しているんだよ。ヘビメタ騒音のことがほんとうにわかってない。ぼくにとってヘビメタ騒音がどういうものなのかわかってない。あと、ぼくにとってと言ったけど、普通の人はみんなそうだよ。普通の人がもっている音の感覚をもっている人は、みんなそうだよ。

これ、みんなわかってないかもしれないけど……。ヘビメタ騒音が特殊なものだから、ぼくが騒音に対して弱いみたぃな感じを与えるかもしれないけどぼくは、騒音に対して特に弱くない。

むしろ、強いのではないかと思う。

それをひっくり返す、きちがい騒音だったんだよ。ぼく以外だれも経験したことがない騒音だから、わからない。きちがい兄貴の態度が、態度だ。ぜんぜんちがう。ヘビメタ騒音があまりにも特殊なものだったので、ぼくの騒音耐性が普通の人よりも低いように思われるけど、ちがうんだよね。

ぼくは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまで、ずっと、幼稚園の騒音は、気にしてなかった。きちがい兄貴に十五年間やられて、人生を破壊されたあと、幼稚園の騒音も気になるようになったのである。十一歳から二十五歳まで、幼稚園並みの騒音が続いて、きちがいヘビメタ騒音が続いてなかったら、こんなことになってなかったのである。

で、ほかの人にとってみればこんなは、ただの愚痴だけど、ぼくにとってはそういうものじゃない。人生、すべての、問題だ。死ぬか生きるかの問題だ。いのちがかかっている問題だ。人生の質が、全部、かかっている問題だ。「ただちょっとうるさかった」というような話と、いっしょにするな!!

 

2022年8月20日土曜日

アドラー心理学の問題点について 4

まるで受けないけど、書いておく。アドラー主義者は「気にしない人間」を量産しようとするな。「どれだけがみがみ言われても、まったく気にしない人間」を増産しようとするな。
まるで気にしないことが善であるような言い分だ。まるで、気にしないことが正義であるような言い方だ。しかし、「気にしない」ということが善であったり、正義であったりするわけじゃない。「善悪の基準」というのは、人間のなかにほかの基準として成り立っている。
まるで、気にしないことが善であるような言い方自体が悪だ。それだとこまる人が出てくるのである。「迷惑だからやめてくれ」とどれだけ言っても、やめない人がいたとする。その人のなかでは、「相手を無視して、相手の言っていることを気にしないこと」が善になってしまう。
相手が言っていることをまるで気にしない人間がいたとする。その人、個人の「善悪の基準」がほかの人とずれていたとしても、相手が言っていることを無視して、自分がやりたいことをやることが善だということになってしまうのである。
そうなると、その特別な人間が、特別な価値観をもっていた場合、まわりの人が、迷惑をするのである。家族なら、当然、ひどくこまるということになる。まるで、わかってないんだよな。
「相手の言い分を聞いて、たしかに迷惑行為であると思ったらやめればいい」などということをアドラー主義者は言う。きちがい的な意地で迷惑行為をしているやつが、どういう基準で、あるいは、どういう考えで自分の行為が迷惑行為であると認めるのだ?
そういう相対性について、アドラー主義者はまったく考えてないのである。現実は、アドラー主義者が考えているほど単純じゃない。おおきく、基準がずれているやつがいる。そいつが、アドラー主義者の言うことを信じて、「どれだけ、がみがみ言われても、一切合切気にしない」で、やり続けたらどうなるか? そいつの行為でこまっているほうは、もっとこまるということになる。いいかげん、単純な考えで、自分勝手な行為を助長するようなことを言うのはやめろ!! 迷惑なんだよ!!
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「気にしないのが正義である。気にするのは悪である。だから、気にしないようにすればいい。相手がどれだけ、がみがみ言ってたって、それは相手の問題なのだから、気にする必要がない」……こういうふうに思っている人の善悪の基準が、きちがい的な基準だったら、どうなる?


まわりの人間が、こまるんだよ。たとえば、本人の耳が悪くなるようなでかい音で音楽を鳴らしている人間がいるとする。この人をAだとする。そういうことをしているということは、Aは、このくらいの音で鳴らしていいいと思っているということを意味している。
同じ家に住んでいる家族Bが、「うるさいから静かにしてくれ」とがみがみ言ったとする。けど、アドラー主義者に感化されたAは「相手がどれだけがみがみ言ってきたとしても、気にする必要はない」と思って、でかい音で鳴らし続けるのである。
当然、そういう場合だってある。「気にしないこと」が正義か? 「どれだけ相手がどれだけ、がみがみ言ってきても、それは相手の問題だと思って、気にしないでやり続けること」が正義か?
気にするのが悪である。気にしないのが正義であるという価値観とは、別に、善悪の価値観があるのである。そして、善悪の価値観は、ひとによって「だいぶちがう」のである。そういう相対性がまるでわかってないなぁ。
ともかく、「気にしないようにする」のがあたかも正義であるようなことを言って、ひとをそっちの方向に導くのをやめろ。誘導するな。「気にしない人」を量産するな。
 

ちがうと言ったら、ちがう。

 もう、なんだかんだいって、全部がいやだな。全部がいやだ。いやだぁ。特に他人がいやだな。リアルであった、いろいろな人のことを思い出している。ヘビメタ騒音以降、いろいろと腹がたつ出来事があった。他人とのかかわりあいのなかで、い・ろ・い・ろ・と腹がたつことがあった。もう、いいや。もう、いい。長期騒音で俺が失ったものは、でかい。でかすぎる。

ほかの人たちにはわからないと思うけど、ぜんぜん、ちがう。なにからなにまで、ちがう。ちがうと言ったら、ちがう。

 

2022年8月19日金曜日

ぼくに対して、失礼なことを言っているということがわからないのかな?

誠実に生きてきたけど、これは、だめだなぁ。

誠実に生きても、むくわれない。ほんとうに、つかれた。 

どんだけ、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃになるか、みんな、わかってない。

「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「ヘビメタ騒音の影響なんてあったとしても小さいものだ」「気にしなければいいんだ」「気にしなければ影響なんて受けない」「過去のことは関係がない」

こういうことばで、ひとをさんざんバカにしやがって。これ、バカにしているというとがわかってないんだろうな。ほんとうに頭にくる。やられてないやつらが、きれいごとを言う。そういうレベルの話は、ヘビメタ騒音一か月間で、木っ端みじんにふきとぶ。ぜんぜんちがい。やられてないからわかってないんだよ。ヘビメタ騒音生活が一か月間続いた状態がわかってない。一年間続いた状態がわかってない。一〇年間、続いた状態がわかってない。わかってないからいえることなのに、「真実だ」と思っている。頭がわるすぎる。これ、ほんとうに、ぼくに対して、失礼なことを言っているということがわからないのかな?

相手と自分の立場をいれかえて考えるということができないという意味で、頭がわるいゃっが、つぎつぎとあらわれて、頭がわるい意見を言って、ぼくを侮辱する。侮辱だよ。

ヘビメタ騒音生活にに関する想像力がまったくないという意味で、頭がわるいやつが、頭がわるいやつしか言えないことを、つぎつぎとあらわれて、頭がわるい意見を言って、ぼくをみくだす。これ、ほんとうは、わるいことをしているのに、本人は、いいことをしたつもりなんだよな。もう、そういうの、あきた。

みーーんな、ろくでもないやつらだと思う。こーーんな、ろくでもないやつらが、道徳について語っているんだからなぁ。哲学について語っているんだからなぁ……。どうかしているだろ! どうかしている!!

*     *     *

まあ、こういうことがつみかさなると、「人間なんて、いやだな」というような感想をもつようになる。この感想は、単なる感想だ。こういうことがあるからと言って、人間がいやな存在であるとは、言えないのである。けど、どうだろう? 一〇〇回のうち一〇〇回、こういうことが繰り返されたら、「いやだな」と思うのは、当然なのではないか? 基本、きちがいヘビメタ騒音……頭がおかしいほど、ヘビメタ騒音を自分の思った通りの音で鳴らすということにこだわり切った……きちがい兄貴が、こういう状態をつくりだしているのである。無関係じゃない。そして、ほかの人には、『きちがい兄貴』というカードがないのである。俺には『きちがい兄貴』というカードがあるのである。そして、そのカードがもたらす、災害がある。その場合、そのカードをもってない人にしてみれば、ひとごとだから、どうでもいいことであり、「自分」が制御でなかったのだから、自己責任……とかるく言えることなのだ。けど、それは、そういうカードをもたなかったから、言えることだ。こういうことが、わかってないのである。あるいは、アドラーのように、こういうちがいを積極的に無視して、現象をうまく説明できない破綻した理論を主張するようになるのである。この、カードのちがい……生まれの格差の無視というのは、アドラー心理学に深くよこたわっている特徴なのである。

2022年8月18日木曜日

俺がゆるせないのは、きちがい兄貴が「かるいきもちで」やったということだ

 俺がゆるせないのは、きちがい兄貴が「かるいきもちで」やったということだ。軽い気持ち。軽い気持ち。軽い気持ち。もちろん、実際は、「やめろ」と言われれば、きちがい的に怒って、やり通したのである。けど、……だけど「かるいきもち」なのである。これ、わかるかな? きちがい兄貴を、なまで、見た人じゃないとわからないんじゃないかな。こういう人と、いっしょに住んでいるというとが、どういうことなのかわからないんじゃないかな。だから、言霊や思霊みたいなことを言うんじゃないかな。「すべては、うけとめかたの問題」「すべては、生まれるまえに決まってた」というようなことを言うんじゃないかな。この「言霊思考」や「思霊思考」や「すべては、うけとめかたの問題」「すべては、生まれるまえに決まってた」が、めちゃくちゃに、人を傷つけるのである。特殊な家族にやられている人を傷つける。この傷つけ方は、並じゃない。

そんなんじゃないから、こまっている。そんなんじゃないから、できなくなる。被害の度合いがそんなものではないから、できなくなる。遅刻でも宿題でもコミュニケーションなんでもそうなんだよ。これ、言っているほうは、特殊な家族にやられた人間のことがまったくわかってないのである。特殊な家族に、騒音でやられた人間のことがまったくわかってないのである。無理難題を人におしつけているのに、無理難題を人におしつけているということがわからない。こいつらだって、俺とおなじ経験をすれば、睡眠障害で、遅刻をするようになる。睡眠障害で体力がなくなる。けど、やられたことがないので……つまり、実際には経験しなかったので……つまり、人生のなかで、十数年間にわたってそういうことがしょうじなかったので……「俺だったらそんなことにならない」「騒音がそんなに影響をあたえるわけがない」「騒音と人間関係は関係がない」「騒音が鳴ってたって勉強ぐらいできる」「俺だったら、騒音が鳴ってたって、遅刻をしないで通うことができる」と思って、ものすごく身勝手な決めつけをして、無理難題をおしつけてくる。こんなの、わかってないからやれるだけなんだぞ。わかってたら、絶対にそんなことは、言えなくなる。まるでわかってない。

2022年8月16日火曜日

次元がちがうんだよ。次元がちがう

 しかし、こんなつまらない人生、あるか?

ヘビメタ騒音。

ヘビメタ騒音の雰囲気しかしない。

きちがいが、頑固に鳴らしている。

どれだけ言っても、なんとも思わずに鳴らしている。

こっちは、鳴ってないときの人間関係を含めて、ボロボロだよ。

こんなの、あるか?

きちがいの維持が、みんなわかってない。

きちがいの感覚が、みんなわかってない。

きちがい家族のことが、みんなわかってない。

常識で考えて、常識をおしつけるな!!

どれだけ、頭がおかしいか、みんなわかってないんだよ。

うちの兄貴と、親父が、どれだけ、へんな感覚で生きているかわかってない。

みんな、わかってない。

俺が、文句を言われる。

こんなの、ない。

いい人も、含めて、俺に無理難題をおしつけてくる。

いい人は、いいアドバイスをしてやった、と思っている。

きちがい家族のことがまったくわかってない。

『そんなことが成り立つなら、苦労してない』……そう思うアドバイスばっかりだ。

わかってないから、できるアドバイス。

た、こういう人たちは、けっきょくのところ、ヘビメタ騒音が毎日積もった場合の、からだの状態がわかってない。わかってないこと、ばかりだ。

けど、自分の考えには自信があるので、ずれた、アドバイスをしてくることになる。そういう溝ができてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で毎日毎日、でかい音でヘビメタを鳴らすと、そういう溝が、不可避的に生じてしまう。

そして、その溝に気がついているのは、自分だけ……俺だけなのである。なので、状態は、もっとくるしくなる。

そういうことの繰り返しで、いいわけがないだろ。

世間的ないい人は、けっきょくのところ、きちがいヘビメタ騒音を経験してないし、きちがい兄貴の性格もわかってない。きちがい兄貴の感覚がわかってない。

きちがい的な兄貴が……家族が、きちがい的な意地で、つねに「常識はずれの騒音」を鳴らしているということが、わかってない。そういうことからしょうじる……不可避的なからだの変化がわかってない。

「そんなのは、自己責任」「過去は関係がない」「だいじょうぶだ、だいじょうぶだと言えば、だいじょうぶだ」「元気だ元気だと言えば、元気になる」「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」「人間は働くべきだ」「人生で起こることは決まっている」「自分が選んで、その家に生まれてきた」……そういうレベルのことしか言わない。

そういうレベルのくそ発言を聞かされて、こっちがどういう気持になるか、まったく、わかってないな。きちがい兄貴との関係、きちがい親父との関係を考えれば、わかる。

きちがい兄貴というものがわかってないから、わからない。

きちがい親父というものが、根本的にわかってないからそうなる。

常識的な人は、けっきょく、きちがい家族にやられたわけじゃない。どれだけトラブルがあっととしても、常識的な人同士のトラブルだ。次元がちがうんだよ。次元がちがう。

2022年8月15日月曜日

アドラー心理学の問題点について 3

アドラー主義と自己責任論が合体すると、不幸な人をより不幸にするのである。彼らは、条件のちがいを無視して、全部、自己責任にしてしまう。社会の責任はある。ところが、社会の責任はまったくなくて、すべてが自己責任だと考えるのである。……アドラー主義者は、他人のことに関してはその人の自己責任だと考える。じつは、アドラー主義者は無自覚なのだけど、自分の責任があることに関しては、無頓着である場合がある。アドラー主義者が自己責任を主張する場合、それは、他人の自己責任に限られる。
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悪魔が支配する世界で、生まれの格差がある。これを無視してどうする? これを無視するな!
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悪魔的な超金持ちが支配する世界で、生まれの格差がある。これを無視してどうする? これを無視するな!

 

悪魔的な人たちが支配する世界で、生まれの格差がある。これを無視してどうする? これを無視するな!

 

2022年8月14日日曜日

アドラー心理学の問題点について 2

部下や同僚がアドラー主義者だった場合は、問題がしょうじる可能性が低いけど、上司や社長がアドラー主義者だった場合は、問題がしょうじる可能性が非常に高い。むだなことをおしつけられる可能性が非常に高い。
また、じつはアドラー主義者は他人のことを考えてないので、いやなことを他人におしつけても平気なところがある。自分が他人にいやなことをおしつけたり、あるいは、他人を窮地に追い込んだとしても、それは、「他人」の問題だと思うのである。

まさに、本人は、「きらわれる勇気をもって」部下にいろいろなことを要求していると思っているのかもしれない。

部下にきらわれても、かまわないと思っているのかもしれない。しかし、アドラー主義者は、上司や社長にきらわれても、かまわないとは、考えないのだ。どうしてかと言うと、順・社会的だからだ。
現実社会のなかで成功したいという気持が非常に強い。
じつは、行動の基準には、「善か悪か」の基準のほかに、「損か得か」という基準がある。アドラー主義者は、現実的?な順応主義者なので、損なことは、さける傾向が非常に強い。
「善悪の基準」よりも「損得の基準」のほうが、うわまわってしまう。「善悪の基準」と「損得の基準」が同じ方向をむいている場合はよいが、「善悪の基準」と「損得の基準」が反対の方向をむいている場合は、「損得の基準」が「善悪の基準」よりも優先する。
それがアドラー主義者の行動パターンだ。
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2022年8月13日土曜日

アドラー心理学の問題点について(1)

壺を売っている人たちだって、「人にどう思われるか」なんて気にしてないよ。アドラー主義者も、「人にどう思われるか」なんて気にしてないけどね。この人たちは、こういう点でものすごく似ているわけ。

そうなると、悪いことをして気にしないというわけではないと、アドラー主義者は言い出す。普通のアドラー主義者にとっては、高い壺を売ることは、悪いことだ。だから、そういうふうに言う。

けど、壺を売っている人は、悪いことをしているとは思ってないんだよ。だから、「善悪の基準が問題になる」と言っているだろ。けど、アドラー主義者は、善悪の基準を気にしない。

そんなのは、決まっているからだ。どういうことかと言うと、「善悪の基準は人によってちがう」ということが理解できてないのである。アドラー主義者は、みんながみんな、アドラー主義者とおなじような善悪の基準をもっていると思っているのである。

アドラー主義者は、善悪の基準が相対的なものだということが、徹底的にわかってない。人間だからだいたい同じようなものだろ」と思ってしまっている。けど、人間によって、善悪の基準がちがうのである。

だから、「気にすべきことは気にすればいい」などと言っても、まったく無意味なのである。たとえば、壺売り組織のえらい人は、きらわれる勇気をもっているのである。人が批判をしてきても気にしない人なのである。

まさに、アドラー主義者が奨励していることを、実践している人なのである……高価な壺を売っている人は……。

「人殺しはいけないというような基本的なところではだいたいおなじだろ」とアドラー主義者は、言うかもしれない。けど、「より良い世界のために人口削減が必要だ」と考える人は、人口削減計画を実行してしまう。

「人殺しはいけないというような基本的なところではだいたいおなじだろ」ということは言えない。条件や立場によってちがう。おなじじゃない。けど、じゃあ、人口削減計画を推し進める人が、自分家族にとって悪い人かというとそうではないのである。

これは、その個人にとって、身近な人間か、身近な人間じゃないかが問題になる。人口削減計画に積極的に取り組んでいる人たちだって、自分の子供には、やさしいかもしれないのである。自分の子供は殺されたくないと思うのである。

ところが、自分の子供ではなくて、他人の子供なら、人口削減の対象になるのである。他人の子供を人口削減のために、がんばって殺そうと思ってしまうのである。

そういうことが、アドラー主義者はまったく、わかってない。単純すぎる。

「善悪の基準がしっかりしているのであれば問題はないとアドラー主義者は思っているかもしれないけど、そうじゃないのだ。だいたい、アドラー主義者は、マスク装着についてどう考えているのだ?

アドラー主義者こそ、他人に嫌われる勇気をもって、マスクをしない人を、悪く言う人たちの一員なのではないか。アドラー主義者は、マスクをつけるように言われる場面で、マスクをつけない人をどう思うのか?

アドラー主義者は、社会適応的で、長い物には巻かれろという考え方をもっているので、社会不適応なことを、「勇気をもって」やることはない。マスクで言えば、マスク適応的で、マスクをマナーとして考えるので、マスクをつけないという選択をしない。
きらわれる勇気が問題にならないところでしか、きらわれる勇気を発揮しないのである。ワクチンに関しても、アドラー主義者は、感染防止のために、みんながワクチンをうけるべきという「適応的な」判断をして、ワクチンをうけないという選択をしない。そして、ワクチンをうけないという選択をしたものを、「反ワク」「非科学的」「社会不適応」と批判する。つまり、悪口を言うほうにまわる。「ながいものにはまかれろ」を実践する。そして、勇気をもってワクチンを打たないという選択をしたものをばかにする。
これが、アドラー主義者がやることだ。もうひとつ言っておこう。このアドラー主義者がアドラー主義者の考えを代表しているわけではないけど、あるアドラー主義者が、ワクチンを打たない人についてこんなことを書いていたのを目にしたことがある。
ワクチン反対派の人は、ワクチンを打つというつらい現実から目をそらせるために、ワクチンに寄生虫がはいっているというようなことを言って、ワクチンを打たないようにしているのだ」というようなことを彼は書いていた。
むしろ、アドラー主義者が、おそろしい現実に目をむけずに、そういう奇妙なことを考えるとぼくは思う。アドラー主義者は、単純な意味でポジティブであり、単純な意味で単純なので、ワクチン接種に関しても、集団免疫を獲得するために、みんなが打ったほうがいいと考えてしまうような人たちだ。
ワクチン接種に関しては、時間がたてば、はっきりしたことが言えるようになる。いまは、まだ言えないことがある。ただ、アドラー主義者が、ながいものにまかれず、きらわれる勇気をもって、非常識なことを言うとは思えない。
ようするに、常識的な範囲でしか、ものごとを言わない人たちなのである。その人たちは、じつは、順・社会的なことを言って、ほかの人を苦しめている可能性がある。
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2022年8月12日金曜日

きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやってないという認知をつくりだしてしまう

まじ、しんどいわぁーー。まじ、つまんないわぁーー。

これ、よくやってきたよな。あーーんな状態で、よくやってきたなぁ。生きているだけですごいなぁ。普通だったら、死んでいる。

しかし、もう、つかれた。

ダニとの戦いもつかれた。一番いやなのは、顔をさされることだ。特に、鼻ふきん。鼻の頭をやられてるんだよね。これは、ニキビなのか、ダニなのか、まったくわからない。どっちでもありえる。感じとしては、ニキビなのではないかと思う。あとは、「うつのたいせき」がある。堆積ね。つもりにつもった「うつ」がある。もう、つかれたよ。どの場面を思い返しても、くるしい場面なんだよね。くるしい。くるしいんだよ。ほかのやつらにはわからないよ。だって、ほかのやつらには「きちがいあにき」がいないもん。そして、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でヘビメタを、一日中鳴らしたという現実がない。それなら、話がちがってくる。ぜんぜんちがってくる。

ほかのやつらの、のんきな設定。俺だって、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らさなかったら、言っていることがちがう。全人生がちがう。全人生。全部ちがう。これ実際に、やられた人じゃないわからないんだよな。一日だけでも、ものすごくくるしい。はりつめた状態になる。怒っているのをがまんして、何時間も何時間もたえているのだから、精神がぐちゃぐちゃになる。はらだたしいものになる。これは、鳴っているときだけではなくて、何日も続くと、鳴ってないときも、ぐちゃぐちゃになっているのである。けど、ほかの人には関係がないから、ほかの人には、ぐちゃぐちゃな部分を見せないようにして、対応する。そうすると、こころがはりつめる。寝不足がたたって、意識がとんでしまいそうな状態なのに、こころがぐちゃぐちゃぐちゃで、さらに、それを隠そうとして、こころがはりつめた状態になる。きちがいヘビメタはそういう効果がある。きちがい兄貴は、そういう効果を狙ってやったわけじゃない。きちがい親父とおなじで、自分がやりたいだけなのである。自分がやりたかったら、感覚器を書き換えて、やってしまうのである。どれだけでかい音で鳴らしても、こんなのは、しずかな音だと感覚してしまう。でかい音だと認めたら、音をさげなければならなくなる。それが絶対にいやなのである。けど、それが……そういう思考のプロセス全体が、意識によって認識されているわけではないのである。全部、無意識的なプロセスでおこなわれるのである。だから、本人としては「つもりがない」ままなのである。こういう場合「つもりがない」といことは、全部ふくめてやってないということにひとしいのである。等価なのである。けど、これが、ほかの人には、まったくわからない。そして、さらに、きちがい兄貴にはまったくわからない……ほかの人以上にわからないという性質がある。これだって、もし、「つもりがないけど、意地になってやった」ということを認めてしまったら、芋づる式に、最初の部分……でかい音で鳴らしているのに、しずかな音だと思っているという部分まで、浸食してしまうので、絶対に避けなければならないことなのである。これも、意識的に避けようとしているわけではないのである。なので、連鎖的に、重複した現実認知の錯誤がしょうじるのである。これは、悪意がない認知症の現実認知の錯誤ではない。ちゃんと、悪意がある。ごまかしの部分がある。まず、完ぺきに自分をごまかしてしまうのである。それは、どうしてかというと、どでかい音で鳴らしたいからだ。「よそじゃ、絶対に鳴らせないような大きな音」で鳴らしたいからだ。自分が満足できる大きな音で、ずっと鳴らしたいからだ。自分が鳴らすとなったら、その音で鳴らさなければならないのである。で、意地になっているということは、絶対に認めないのだけど、たとえば、一分でも、こっちの要求にあわせて、フォークギターぐらいの音にしたら、一分間のあいだ、ずっと、はらわたが煮えくり返っているような状態になってしまうのである。我慢してないから、まったくかんけいがないつもりでいられる。一秒でもがまんしたら、真っ赤な顔をして、発狂してしまうのである。「そんなのできるか!!」と絶叫して、がまんしないで鳴らす。そのとき、こっちが意地をとおそうとすると、殺さなければならないのである。きちがい兄貴の踏ん張りはそういう踏ん張りだ。きちがい兄貴の意地はそういう意地なのである。一日のうち、一時間はそういう態度で暮らしているというわけではなくて、一日のうち、二四時間そういう態度で暮らしているのである。だから、全部の時間、しずかにしない。全部の使える時間……つまり、鳴らせる時間……ずっと最大限の音で鳴らすということになってしまう。さらに、普通の家であれば長男がそういう状態であっても、親は普通の状態なのだから、抑制が効くんだよね。どっちが、正しいのか、どっちが無茶なことをしているのか……公平に判断してくれる。ところが、うちの場合は、きちがい親父がきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっているので、抑制がきかないのである。もちろん、おやじは、こっちが赤ん坊のころからそういう頭の構造をもっている。きちがい親父も、きちがい的なことで、意地をはって、意地をはって、きちがい行為をしてきたのである。「やめさせられそうになったら」怒りくるという反応をしてきたのである。おかあさんの言うことは、きちがい兄貴もきちがい親父も聞かない。そりゃ、聞くわけがない。きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやってないという認知をつくりだしてしまうのだから、ひとから言われて、聞くわけがない。最初から、言ってわかるようだったら、苦労してない。こんなこと」になっていないのだ。頭がおかしくて、認知構造がおかしいから、そういう反応をするのである。全体的には、顔を真っ赤にして、怒り狂って聞かないということをする。けど、本人は、これまた、そういうことをしたというつもりがないのだ。こういうふうに重複しているので、どの時点で指摘しても、どの時点でたのんでも、きちがい親父ときちがい兄貴は、言うことを聞いてくれない。なおかつ、相手が必死になっていってきたけど「言うことを聞いてやらなかった」というつもりがないのである。けど、実際のアクティングアウトされている行動は、まさに、聞かないで、自分の意地をとおして、頑固に、やりたいことをやりたいようにやったということになる。これが、毎日、毎時間、毎分、毎秒、続くのである。どうしてかというと、頭の構造がそういう構造だからだ。

 

普通の家

 昨日、シェディングをうけてから、調子が悪い。のどがひりひり痛くて、痰がでた。痰は、帰ってきたときだけ……。しかし、頭がモヤモヤしてしかたがない。「ほんとうに、全部つかれた」という気分になった。ほーーんと、つかれた。俺の人生はなんだったのだ? なんだったんだ? なんだったんだ?

つかれた。ほーーんとーーに、つかれた。これ、復活するのかな?

じつは、腹の調子もわるい。ともかく、からだじゅうがだるい。

ほんとう、つかれた。めちゃくちゃな、一生だったなぁ。特殊な父親、特殊な兄のいる家に生まれて、ボロボロになっていくんだよな。こんなの、明るい気持ちを維持できるわけがないだろ。これ、……こういう話……どんだけつらくても、どれだけひどい状態でも明るい気持ちは維持できる……というような話だけど、そういうことを言う人の家は、こういう家じゃない。普通の家なのである。このポジティブ思考は、普通の話だ。普通の人の感覚が成り立っている。ほんとうに、わかってないだけなのに、「どんだけつらくても」とか「どん状態でも」と言いすぎる。こいつらが経験したひどい状態、なんて、明るい気持ちを維持しようと思えば明るい気持ちを維持できるひどい状態なんだよ。こいつらが経験したつらい状態なんて、明るい気持ちを維持しようと思えば明るい気持ちを維持できる状態なんだよ。どういうふうに「やられていくのか」ぜんぜんわかってない。経験してない。こんなもんじゃないのである。こういうことを言う「普通の人」が、ほんとうにつらい状態? 頭がおかしい家族にやられた人を、おいつめる。もちろん、「おいつめている」つもりなんてないだろう。阿多がおかしい家族のことがわかってない。毎日続くということがどういうことなのかわかってない。毎日、十数年も、何十年も続くということが、まったくわかってない。こいつらは、普通のうちに生まれて、普通のことしか経験してないから「どれだけひどい状態でも明るい気持ちは維持できる」……というようなことを言える。普通の家の、普通の人は「明るい気持ちを維持できる」状態で、明るい気持ちを維持している。こういう言説? こういう妄想に、どれだけ、搾り取られると思っているんだ? エネルギーを搾り取られると思っているのだ?

(シェディングと書いたけど、これは、ファイザーの言い方にあわせているだけだ。ほんとうは、トランスミッション。)

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ヘビメタでくるしい。あのとき、言っておけばよかったな。大原さん、誤解なんだ。杉中さん、誤解なんだ。大原さん、プレゼント、ありがとう。ヘビメタ騒音でごちゃごちゃになって、おかえしができなかった。ヘビメタ騒音のことを説明するのが、なんか、みっともなくって、いやだった。けど、言えばよかった。ヘビメタ騒音でくるしいと言えばよかった。

 

2022年8月11日木曜日

一回の出来事じゃなくて、何千日も、何十万時間も、生活そのものなのだよ!!

 きちがい兄貴が、俺にとってガンで、ブラックホールなのである。俺が、自動的に、誤解をうける。ほかの人から誤解をうける。ほかの人は、きちがい兄貴のことがまったくわからない。なので、きちがい兄貴が与える影響がわからない。きちがい兄貴が与える影響って、ヘビメタ騒音のことだよ。ほかの人は、ヘビメタ騒音のことを、無視している。ぼくの生活、ぼくの人生にあたえるヘビメタ騒音の影響を無視している。ぼくの感情、ぼくの行動にあたえるヘビメタ騒音の影響を無視している。そうすると、精神論になる。そういうことを言う人たちだって……えらそうに精神論を言っている人たちだって、その人たちにとってのヘビメタ騒音があれば、日常に対応できなくなる。この日常というのは、たとえば、遅刻しないで学校に通うことや、遅刻しないで会社に通うことだ。あるいは、学校や職場で、「適切な行動」をすることだ。通うことや、適切な行動をすることができなくなるのだから、そりゃ、文句を言われる。これ、障害が認められている障碍児よりも、くるしい立場に立たされてしまうのである。しかも、これを言うとまた、批判されると思うけど、頭に癖がある人の行動は、きちがい兄貴の行動と似ているのである。きちがい兄貴の反応と似ているのである。心理学者や心理学者の影響をうけた人たちは、頭に癖のある人のことは気にするけど、頭に癖がある人にやられた人のことは、まったく考えてないのだ。頭に癖のある人がやることは、頭に癖があるという理由で、ゆるされるべきだという理論を展開する。だれによってゆるされるかというと、頭に癖がある人にやられた人によってゆるされるべきなのである。どこまでもどこまでも、俺が、ほかのやつらから、やられる、ことになる。きちがい兄貴の頑張りが、そういうことに影響をあたえる。きちがい兄貴の頑張りって、きちがい的な意地で、ヘビメタをでかい音で鳴らすことだよ。一日中、きちがい兄貴にとって可能な時間はすべて、ヘビメタを鳴らすということが成り立って、いいわけがない。けど、これもまた、他人にとっては、『そんなのひとごとだから、関係がない』ということになる。けど、その他人が、あたかもヘビメタ騒音が鳴っていないかのような、行動を求めるのである。あたかも、ヘビメタ騒音が鳴ってないときのような行動を、俺にもとめるのである。「それは、むりだ」と言うと、対立関係がうまれる。ヘビメタ騒音でできなくなったと言っているだろ。影響は不可避的だと言っているだろ。こいつらはゆるさない。こいつらは、ゆるせない。

ヘビメタ騒音にやられてないやつが、「いいわけばかり、言うな」と言ってくる。ヘビメタ騒音にやられてないやつだ。こいつらだって、きちがい的な兄が、きちがい的な意地で、その人にとって騒音であるような音をずっと、あの音のでかさで鳴らしていれば、生活がみだされ、普通に行動できなくなるようになっていくのに、それが、わからない。自分の人生のなかで、しょうじたことではないから、わからない。ヘビメタ騒音と言えば、ひとことで、ヘビメタ騒音と言えるのだけど、期間の長さと、繰り返しの回数から言って、それは、ひとことですむことじゃない。たとえば、「遊園地のアトラクションでこわい思いをした」というようなことと、同じレベルのことではないのだ。期間の長さと、繰り返しの回数がちがう。どんだけ長い間鳴らされていたか、ぼくが、説明したのに、期間の長さを無視しているなぁ。一回の出来事じゃなくて、何千日も、何十万時間も、生活そのものなのだよ!! 生活そのもの。きちがいヘビメタの影響をうけてない時間がないんだよ。俺が一一歳のときから、ないのぉ!!

2022年8月9日火曜日

ヘビメタの感覚しかない。ヘビメタ騒音でくるしい。

 ヘビメタの感覚しかない。ヘビメタ騒音でくるしい。

こういう、生きている時間が、全部、きちがいヘビメタ騒音の記憶に結び付いている。記憶と書いたけど、これは、記憶というよりも、「生きている感覚」だ。

2022年8月8日月曜日

ヘビメタ騒音なしで、なかよくしたかったなぁ

 あの子となかよくしたかったなぁ。ヘビメタ騒音なしで、なかよくしたかったなぁ。ヘビメタ騒音があると、だめなんだよ。あっちが、どれだけぼくのことを好きになってくれたとしても、だめなんだよ。ヘビメタが鳴っている生活じゃあ、だめなんだよ。だめなんだよ。あの地獄のような生活が、わかるか? わかるわけがない。ほんとうに、ほかのやつら、適当なことを言いやがって。まちがっている。あの生活でいいわけがない。あの生活で、ほかの人とつきあって、いいことになるはずがない。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も含めて、めちゃくちゃなうえに、めちゃくちゃ。感情が成り立たない。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタを毎日毎日、きちがい兄貴の気がすむような音で、きちがい兄貴の気がすむような時間の長さ鳴らしてたら、だめなんだよ。どれだけがんばっても、だめなんだよ。どれだけはりつめていた。中学のときから、ダイヤとの関係だって、ヘビメタ騒音がなければ、ぜんぜんちがうものになっていたんぞ。これが、きちがい兄貴ときちがい親父で、脳みその構造が同じだから、まったく気にしないんだよ。この「気にしない」という状態がほかの人にはわからない。普通の脳みそをもっている人が「気にしない」のとは、ちがうんだよ。けど、こんなのは、どれだけ、説明したって、普通の人と暮らしている人にはわからない。ぜーーったい、わからない。わからないから、こっちの現実をまったく理解しないことを言いだすのである。普通の人は……。俺の説明を聞くと、こっちの現実とはまったくちがう現実の上に成り立つことを言う。けど、それは、こっちの現実では成り立たない。きちがいにどれだけ言ったって、殺さなければ、きちがいはきちがいのまま動いてしまう。どれだけ言ったって、きちがい的なふるまいをやめない。行動をやめない。普通の認知・認識ができないから、どれだけ言ったって、普通の認知・認識が成り立たないのである。きちがい兄貴の頭の中で……。きちがい親父の頭の中で……。そうすると、こっち、が、誤解される。勘違いされる。これまた、第三者が、勘違いしたことを、こっち、に、言うようになるのである。で、普通の人の常識と、きちがい兄貴がきちがい兄貴であるという状態……きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい兄貴がすでにしているような反応しか返ってこないという現実のあいだに、乖離がありすぎる。この、乖離だって、ほかの人に、どれだけ説明したってわからない。ほかの人の常識は、ほかの人の常識的な現実に基づいて生成されたものだから、その人にとって「根拠がある」ものなのである。こっち、には、常識的な人の「根拠」がないんだよ。言ってみれば……。常識的な人が根拠として感じるような現実が、こっちにはない。どれだけ、こまるか? どれだけ、こまるか?

ともかく、塾とか家庭教師なんて関係がなくて、きちがい兄貴が普通の音で鳴らせばよかったわけ。で、普通の音で鳴らすということができないというわけではないんだよ。たとえば、フォークギターぐらいの音で鳴らすということができないということはない。ところが、きちがい兄貴は、ヘビメタを鳴らすのであれば、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らさなければ気がすまないというところがあった。これが、「気がすまない」というような表現ですまされるようなことではないのだ。こだわりがある。このこだわりは、やはり、きちがい親父のこだわりとおなじなのである。これ、脳みそのしくみが同じだから、こまるんだよ!! こまるんだよ!! で、どっちも、自分が思ったとおりにやらなければ、気がすまないのに、自分が思ったとおりにやらなければ気がすまないという自覚がないわけ。これは、言われないから気がつかないというわけではなくて、どれだけ言われても、気がつかない。で、激しく言われているとき……激しく指摘されているときの態度が、「夢中になって」やっているときの態度とおなじなんだよ。「無視して」やっているときの態度とおなじなんだよ。はっきり言えば、からだをこわばらせて、目を三角にして、真っ赤な顔をして、脂汗をかいてやっているときと同じだ。自動的にそうなっちゃうの! 同じなんだよ。「注意すれば、なおせる」というものではないんだよ。これ……。おなじ状態で否定して、認識しないようにする。否定して認めないのだけど、否定して認めなかったという意識が発生しない状態なのである。だから、記憶にない状態なのである。一度、認識したものを、忘れるのではなくて、一度も認識してないのである。 これだって、ほかの人にどれだけ言ったってわからない。

 

2022年8月7日日曜日

兄貴も親父も、悪い意味で、「怪人」なんだよね

 兄貴も親父も、悪い意味で、「怪人」なんだよね。あんなの、ひとじゃない。あんなの、ひとじゃない。で、悪い意志がないというのが、こまるんだよ。本人の意識としては、悪いことをしているつもりがない行動で、こっちがこまるんだよ。そのこまり方は、悪意がある人が、悪意がある行為をしている場合よりも、はるかに、はるかに、でかい。そして、「本人の意識としては、悪いことをしているつもりがない行動」のひどさが、そういう家族がいる家に生まれたことがない人には、わからないのだ。これも、こたえる。「そういう家族がいる家に生まれたことがない人」にとっては、「ない」ことだからな。考えのらちがい。経験のらちがい。らちがいだから、「ない」こととしてあつかうわけだ。こっちが説明したって、わからない。「似たようなこと」から類推するしかないんだよね。で、「似たようなこと」というのは、ものすごく、うすめたかたちである。だから、「似たようなこと」と「本人の意識としては、悪いことをしているつもりがない家族の行動」が同じようなものだと思ってしまう。影響度の差を考えない。これ、もう、月とすっぽん。小石と太陽。ぜんぜん、影響のでかさがちがう。けど、「似たようなものだ」と考えてしまう。似たようなものだと考えてしまうとなると、影響度も似たようなものだと思うことになる。そうすると、誤解がしょうじる。繰り返しになるけど、誤解だということが、今度は、わからないということになる。普通の人は、誤解だとは思わないんだよな。こっちがどれだけ、『影響度がちがいすぎる』ということを言っても、わからない。普通の人は、経験がないからわからない。

おやじのきちがい的な態度が普通の人には、わからない。兄貴のきちがい的な態度が普通の人にはわからない。で、繰り返しなるけど、きちがい親父やきちがい兄貴は、きちがい的な意地でやっていることは、全部、まったくやってないのとおなじことなのである。こういう認知が成り立っている。そういう感覚が、全方位で、すべての時間、成り立っている。だから、途中で修正するということができないのである。そりゃ、「こういうことをやった」「だからこまる」ということを直接、兄貴や親父に言っても、兄貴や親父がきちがい的な意地で否定する。きちがい的な意地で無視する。で、その否定のしかたや、無視のしかたがおなじなんだよ。スイッチが入って、きちがい的な意地で、きちがい行為をやる時とおなじなの。だから、どの時点で言っても、おなじなの。修正されることがない。気がついてわかるということがないんだよね。

そもそも、自分がやりたいことをやっているときに、「迷惑だからやめてくれ」と言う人間があらわれたということが、不愉快なことなのである。無視したいことなのである。それと同じで、「こういうことをやったから、やめてくれ」とあとで言われた場合も、「やったということを認めること自体が」不愉快なことなのである。無視したいことなのである。だから、まるで、催眠術にかかったような状態で無視する。で、「困っているからやめてくれ」と「言われた」ということも、無視してしまう。記憶にない状態になってしまう。催眠術にかかったような状態でと書いたけど、発狂している状態なのである。むきになってやっているときと同じ状態で、無視をする。もちろん、無視をしたつもりかなんてない。だから、どこまでもどこまでもおなじなんだよね。

「悪気がない」ままだ。どこまでもどこまでも、「悪気」がないまま、きちがい的な意地でわるいことをする。そういうことが、何十年も毎日毎日、つみかさなったら、影響をうける。不可避的に影響をうける。けど、そういうきちがい家族にやられたことがない人は……そういうきちがい家族がいる家にうまれた経験がない人は……そういう影響を無視するのである。俺のことは、悪く言うけど、きちがい兄貴のことは悪く言わない。俺のことは、悪い言うけど、きちがい親父のことは悪く言わない。これまた、俺がどれだけ説明してもそういう態度だ。佐藤のように『そんな人いるのかなぁ』なんて考えるようなレベルだ。普通の人は、こういうことに関して、そういうレベルの思考しか持ってない。これが現実だ。

そうなると、きちがい家族にやられた人は、行く場所がなくなってしまうのである。とくに、ヘビメタ騒音のように、体力障害と睡眠障害を引き起こすことだと、よけいに行く場所がなくなる。

 

 

2022年8月1日月曜日

不可避的に「できくなる」ということ……。

 ヘビメタ騒音の感じがある。これは、否定できない。ほかの人には、ないわけだから、どれだけなにを言っても、根本的なことは伝わらないと思う。ほかの人には、どうしてないかというと、きちがい兄貴がずっと、ヘビメタを鳴らすということがなかったから、ない。このヘビメタが鳴っている「いちにち」というのが、ものすごく、たいへんなのだ。これだって、どれだけ説明したってわからないだろう。いちにち」のことですら、わからない。鳴っている状態、鳴っている時空がずっと続くって、どういうことだと思っているんだよ。ヘビメタとは言わず、自分がこの世で一番嫌いな音が、あの音のでかさでずっと、鳴っていたら、不可避的に影響をうける。けど、人は、うけてないので、それがわからない。不可避的ではないと思うわけだ。「しっかりと自分の意志をもっていれば、影響をうけない」と思っていたり「影響をうけないと言えば、影響をうけずにすむ」と思っていたりする。けど、これ、空論なんだよね。それは、やられてないから、実際にはどういうことなのかわからず、そういうことを言ってるという状態だ。いちにちですら、そういうことが成り立つのに、毎日ずっと、何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も鳴っていたら、どういうことになるか? どういうことになるか? そういった認知の誤謬が大きくなる。こっちの現実を知らずに、物事を言うということになる。認知療法……いちおう、俗流認知療法と言ったほうがいいかな?……まあ、認知療法や行動主義心理学や精神世界やアドラー心理学といったものを信じしている人は、そういう考え方を信じているので、「不可避的だ」ということを認めないのである。そうなれば、現実に関する、ぼくの認知と、「不可避的だ」ということを認めない人の現実に関する認知は、異なるものになる。そして、その認知の差が、きちがいヘビメタ騒音経験の数、とともに、どんどん広がっていくのである。

これは、「不可避的だ」ということを認めない人には、どうでもいいことだけど、ぼくにとってはどうでもいいことではない。生きにくくなってしまうのだ。たとえば、佐藤は常識的な人で日本人的な労働観をもっている人間だ。そういう人間は、「不可避的だ」ということを認めないのである。そして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価し、あるいは、無視して、「人間は働くべきだ」という「自分の意見」をしおつけてくるようになる。その場合、佐藤とぼくのあいだで、有効な人間関係が成り立つかというと、成り立たない。そういうことを言われたあと、佐藤といい気持でつきあうということができなるのだ。そして、外面的な行為について言えば、ぼくが働かない限りは、佐藤は、自分の意見をおしつけてくる……説得しようとするということをやめないわけだ。そして、佐藤がそういう労働観をもっている以上、これまた、不可避的に「働いてない人」を軽蔑するということがしょうじる。これは、佐藤が、意識的にやめようと思っても、やめられないことだ。「働いてない人」と書いたけど、くわしく書くと「働けるのに、働いてない人」ということになる。しかし、佐藤の場合、ヘビメタ騒音の影響を無視しているのだから、佐藤にとっては「ぼく」は、働ける人間なのだ。だから、「働いてない人」と「働けるのに働いてない人」はこの場合は!等価になる。ヘビメタ騒音にやられて働けないからだになると、必然的に、佐藤のような労働観をもった人から、「バカにされる」「軽蔑される」という結果がもたらされることになる。もちろん、きちがい兄貴が最初からそれをねらっていたわけではない。けど、ヘビメタ騒音は、ヘビメタ騒音が鳴っているという状態を作り出し、その状態の影響を不可避的に受けてしまう以上は、順番にそうなるのである。で、これは、佐藤との間にしょうじたことだけど、じつは、小学生のときからそういう問題がしょうじている。小学生のときは、働く必要がない(働くべき人間だと「常識的な他者」が思ってないから)見えないだけで、ほんとうは、同じ構造をもった問題がしょうじている。それは、ひとつひとつは小さく見積もられることだ。たとえば、「宿題をやってこない」という問題がある。宿題をやってこないのではなくて、ヘビメタ騒音で宿題をやることがどうしてもどうしてもどうしても、できなかったのだ。しかし、常識的な他者は、ヘビメタ騒音でそういうことがしょうじるということを認めない。また、基本的なことを言えば、「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「そんなのは、家族で相談すればいい」ということを言われることになる。「常識的な他者」はきちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造がわかってないので、「お兄さんに言えば」問題が解決されると思っているわけだし、「家族で相談すれば」問題が解決されると思っている。で、これが、伝わらないのである。佐藤に「不可避的に影響をうける」「その結果、働けなくなる」ということが伝わらなかったように、伝わらないのである。「常識的な他者」はきちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造を理解しない。ぼくがどれだけ明瞭な言葉で語っても、理解しない。常識的な人は、基本的に、きちがい兄貴のことやきちがい親父のことは理解しない。言ったって、わからない。これは、ぼくの説明のしかたが悪いのではなくて、相手側……常識的な人のなかに、それらに対応する「本質的な認識」あるいは「概念」がないのだ。ともかく、この場合も、お兄さんにちゃんとやめてくれと言えばやめてくれるはずなのに、言わないからダメなんだというような誤解をうける。また、「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできる」といったまちがった考え方をもっている先生だと、その先生と「ぼく」の人間関係が、悪くなるのである。

2022年7月31日日曜日

ヘビメタで、人生、ない。

 ヘビメタで、人生、ない。

これ、きちがい兄貴が存在しなかった人にとっては、俺が勝手に、いつまでもこだわっていることに思えるのか? そんなんじゃない。あれが、どういうことなのかわかってないなぁ。普通のうちで生まれ育った佐藤のような凡人は、きちがい兄貴のことは一切合切問題にせず、俺が働いてない(当時)ということを問題にする。俺の精神的な問題だと勝手に決めつける。自分だって、おなじことをやれれば、通えず、働けないからだになるのに……。きちがい兄貴が実際に存在せず、きちがい兄貴があのきちがい的な意地で一日中ヘビメタ騒音を鳴らすということをしなかったという現実をもつ人には、まったくなにもわからないのか? 

おまえ、毎日、どれだけ。

全部毎日、おなじことがつみかさなる。

二日目から、俺は、他人に誤解されていた。家で勉強ができないということがどういうことなのか、ほんとうにわかってないなぁ。家で勉強ができない人生がどういうものになるかわかってないな。あんなの、鳴らされてたら、夜、眠れなくなるのに、それもわかってないなぁ。その、眠れない度合いがひどいのである。普通の睡眠不足とはちがうのである。ほんとうに、きちがい家族にたたられたことがない・普通の人は、まったくわかってないな。

2022年7月30日土曜日

ただ単に「がみがみ怒る」というような言葉でかたづけられない問題が横たわっている

どうするかな? 風呂から出てきた。

きのう、真夜中の2時、がさががざがさと音がしたので、おどろいた。けっきょく、外に猫がいたみたいだ。一階のひさしの部分にのっかって、動いていたみたいだ。これ、ネズミが出るまえだったらなんてことないけど、ネズミが出てから、こういう音に敏感になって、「うわっ、また出たのか」と思うようになった。ほんとうに、おやじが餌付けをしなかったら、こんなことになってないのに……。ネズミの餌付け。そして、頑固にネズミ対策工事を拒否。その3年間でどれだけ、ネズミの糞がたまったか。頭がおかしいから、どれだけ言っても、ネズミの糞のことを気にしないんだよな。「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と絶叫して、俺の話を聞かない。「ネズミ本体をつかまえても、あとからあとから入ってきて、ネズミの糞をしていくわけだから、つかまえたって意味がないだろ」と言っても、聞かないんだよ。ともかく、こわれた機械のように「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と怒鳴って、聞かない。

いろいろなことでつかれたけど、ネズミの糞のことでつかれはてた。こんなの、俺だっていやだ。きちがい的な親がどういうふうに、影響をあたえるか、普通の親に育てられた人は、想像もつかないんじゃないかな。ただ単に「がみがみ怒る」というような言葉でかたづけられない問題が横たわっている。その問題は、本人のしくみ……親の脳みそと深く関係している。「どれだけ、がみがみ怒ったって、気にする必要はない」というようなことではすまないのである。それから、がみがみ怒るにしろ、きちがいががみがみ怒る場合と、正常な人が興奮してがみがみ怒る場合は、ちがうんだよ。それから、がみがみ怒るにしろ、いっしょに住んでいる身近な他人が怒る場合と、学校や会社でしか会わない相手が怒る場合は、ちがうんだよ。こういうちがいを積極的に無視して、ガタガタ言うのは、よくないぞ!!

状態や条件の無視、文脈の無視。アドラー主義者や認知療法家は、状態や条件を無視しすぎる。アドラー主義者や認知療法家は、文脈を無視しすぎる。文脈って過去から現在にいたるまでの文脈だ。状態や条件、文脈を無視して、抽象的な一般法則についてのべてもしかたがないのである。きちがい的な親にやられてこまっている「その人」がかかえている、状態や条件、文脈を考えなければならないのである。どうしてかというと、現実問題として、状態や条件、文脈が問題をうみだしているからだ。

2022年7月28日木曜日

強烈につまんない。

強烈につまんない。

いやなことを思い出した。

やっぱり、ひとによって環境がちがいすぎるよ。実際に経験したことのほうが、法則になってない法則よりも、チカラがある。実際の感情や行動を規定する。

これすらわからずに、「まるまるの法則、まるまるの法則」と言う純粋無垢な人たち。そういう人たちの純粋無垢さが、人を傷つける。 

けど、純粋無垢な人たちが多数派だ。こういう人たちが、不利な人たちをどれだけおいつめるか、こういう人たちはわかってない。生まれながらに不利な人がいるということがわかってない。「俺だって……」「わたしだって……」「どんなにつらくたって……」「どんなときだって……」と言う。けど、ナイーブな〇〇の法則にこだわっていられるような余裕があるなら、それは、やはり、めぐまれていたということだ。

 

2022年7月26日火曜日

ヘビメタ騒音のことは俺にしかわからないことなんだよな

 あれはない。ヘビメタ騒音のことは俺にしかわからないことなんだよな。ずっとずっと。鳴り始めたときから、ずっとずっと……。どれだけのことにたえてきたか? どれだけの不愉快な思いをしたか? たとえば、佐藤(仮名)とのやりとりだって、「不愉快なこと」なのである。ヘビメタ騒音がたいしたことだと思わない人は、「佐藤とのやりとりだって、「不愉快なこと」なのである」という文を読んだって、「そんなの、おまえが悪いんだろ」ぐらいのことしか思わないんだよ。「そんなの、おまえが悪いんだろ」のあとには「そんなのは、おまえがコミュ障だから悪い」というような文が続く。毎日のヘビメタ騒音のことがわからないとそうなる。相手の立場に立って考えることができない人だと、そういうことを普通に考える。相手の立場に立って考える……ということができないのだから、おまえのほうがコミュ障だとと言いたくなるけどなぁ……。そんなことを言ったって、そういうやつらのほうが多数派だ。もっと言ってしまえば、ヘビメタ騒音……きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験したのは俺だけなのだ……。あの長さ、あの態度でやられたのは俺だけだ。そういう意味では、究極の一対多だ。これは、一般論になるけど、頭に癖がある家族にやられた人のことを、一般的な人は、理解できない。一般的な人は、頭に癖がある家族にやられたことがない人だ。自分の人生のなかでそういうことがなかった人だ。そりゃ、学校でいじめられたり、上司にパワハラをされる場合もあるかもしれないけど、家族よりはましなんだよ。成人するまでずっと、その家族と一緒に住んでいるわけだし、そのあいだに、その家族は、きちがい的な意地できちがい的なことをして、その人の人生を破壊してしまう。もちろん「破壊してやろう」と思ってやったことじゃないんだよ。ここが!問題なんだよ!! 意識的にやったことなら……破壊してやろうと思ってやったことなら、まだましだ。そういう意図がまったくないのに、頭のねじがぬけているので、どれだけ言ってもわからないままやり続けるのである。「意図があってやること」と「意図がないのにやること」とどっちが問題がでかいか。でかいというか、どっちが本質的な問題を内包しているか? ということなのだけど、「意図がないのにやること」であってどれだけ言ってもあらためないことのほうが、問題が……深い。根深いところにある。息をするようにそういうことをするわけだし、言ってもわからない。なんて言うのかな? 全自動でそうして、ぜったいにあらためない。注意されたら、自分がやっていることを認識してやめるということが、ないのである。そういう可能性が最初からゼロなのである。脳みそが「そうなっている」から……。もう、こういう説明しかできないレベルで、「はいっちゃっている」。絶対に、やめてくれないし、気がついてもくれないんだよ。けど、からだはそうするわけで、そうする。けど、「やった」ということを認めない。やったということを認めなときは、からだがそうしているモードとおなじモードであるわけ。だから、底なし沼だよ。これが、相手にとっては、腹がたつことなのだ。これは、普通の前提では絶対ありえないもっと根本的なところで、相手を否定しているということだから、あるいは、相手の言っていることを否定しているということだから、頭にくる。相手は……やられた相手は頭にくる。けど、その脳みそのしくみが、ほかの「健全な家族」「普通の家族」「正常な家族」に「やられた」人にはわからない。「俺だって……」ということを言う人がいるけど、そういうことを言う人は、わかってない。その人が、普通の家族のもとで生まれ育ったということがわかるよ。これ、言い方がちがってくるんだよ。異常な家族にやられた人は、言ってみれば「わかってくれる」。わかってくれないのだから、「健全な家族」「普通の家族」「正常な家族」のもとで生まれ育った人なんだよ。異常な家族にやられた人がそんなに多いはずがない。そのほかにも「考え方」や「意見」を聞いているとわかる。その家族関係のことじゃなくても、ほかのことに関する「考え方」や「意見」を聞けば、その人が「異常な家族にやられた人」か「そうじゃない人」か、わかる。異常な家族にやられた人は、俺の言っていることがわかってしまうんだね! 俺の言っていることがわかってない人は、正常な家族のもとに生まれて育ったと言っていい。けど、正常な家族のもとに生まれ育った人でも、ヘビメタ騒音がどれだけこたえるか、普通にわかってくれる人はいるのだ。けど、こういう人が、ものすごくすくないのである。稀有。めったにいない。普通の人は佐藤(仮名)のような反応をする。ほんとうに、腹立たしい。こいつらまったくわかってない。

2022年7月24日日曜日

不幸量・普通の人は、不幸量・普通の人の価値基準で、不幸、あるいは、不幸感について、考えてものを言う

感情をうみだす脳みその部分がやられてしまうときがある。不幸量ということを言ったのは、閾値を考えないとダメなんじゃないかということを言いたかったので、不幸量なる概念を導入してみた。言いたいことは、不幸量がある量をこえてしまうと、感情をうみだす脳みそがやられて、「意志」ではどうにもならない状態になるのではないかということだ。ところが、普通の人……九〇%ぐらいの人が、不幸量がその量をこえてない。けど、ある程度の不幸は感じている。なので、話がかみ合わなくなるのではないかということを言いたかった。ようするに、不幸量がある量をこえた人が言うことは、不幸量がある量をこえていない人には、まったくわかしないのだ。しかし、不幸はあるので、あるいは、不幸感はあるので、「困難」とおなじように同じ言葉で語られてしまう。ほんとうは、不幸量がある量をこえてしまうと、それまでとはちがう状態になるのに、両者がともに、その状態のちがいについて注意を払わないので、言っていることがかみ合わなくなるのではないかということだ。とりあえず、不幸量・超過と不幸量・普通のあいだに、ものすごく深い溝があるとする。この溝をこえるかこえないかで、見える世界がちがう。ところが、不幸量・普通の人は、不幸量・普通の人の価値基準で、不幸、あるいは、不幸感について、考えてものを言う。こわれてない人が、こわれた人のものの感じ方についてものを言うわけだ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言霊教徒は言うわけだけど、それは、不幸量・普通の世界の話なのではないかと言うことだ。ところが、「人間は、そういうものだ」と言うわけである。不幸量・普通と不幸量・超過の世界を区別せずに、「人間は、そういうものだ」と言う。その場合、もちろん、不幸量・超過の人も、人間なので、その理論が適応されると、その人(不幸量・普通未人)は考えているのである。しかし、人間を主語とせず、不幸量・普通の人は「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うべきなのではないかということだ。不幸量・普通の人は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということは、納得できるけど、人間は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということは納得できない。これは、アドラー主義でも、行動主義心理学でも、引き寄せ主義でもおなじだ。不幸量について、考えずに、「人間とはこういうものだ」「人間とはこういうふうにできている」ということを言う。「人間は、こうするべきだ」ということを言う。それは、不幸量・普通の人間に限定するべき言葉なのである。それは、不幸量・超過の人にとってくるしいことだ。不幸量・超過の人にとっては、不幸量・普通の人が、そういうことを言うこと自体が、不幸なことなのである。不幸量・超過の人は、不幸量・普通の人が「人間とはこういうものだ」ということを言うと、不幸量がひとつは、増えるのである。

 

2022年7月23日土曜日

宗教団体と政治の構造的な問題について

 宗教団体と政治の構造的な問題について……。どこどこの宗教団体が悪いというような個別の話ではなく、構造的な問題を考えなければならない。

1)宗教団体(カネ)→製薬会社
製薬会社の株を買い占め大株主になり、製薬会社をコントロールする。宗教団体のボスであるDSの考え方が製薬会社に浸透する。


2)宗教団体(カネ)(人材)→政治家
宗教団体が、政治家の選挙運動を助けたり、政治家の秘書になって、政治家ととても親しくなる。政治家にとってはたいへん助かる存在。無償で行っているけど、ほんとうは、カネが流れているのとおなじ。もっとたちが悪い。


ただより高いものはないってね。選挙のとき、自分を助けてくれた人には、恩ができてしまう。そうなると、政治家の意志は、選挙のときに無償で奉仕してくれた宗教団体のものになってしまう。一回だけ、選挙のとき協力してくれただけでも、なにかおかえしをしなければならない気持ちになるのに、ずっと何回も何回も、何十年間にわたって助けてもらえば、そりゃ、その人たちが所属する宗教団体の要望を聞くようになる。

3)宗教団体(投票数)→政治家

その宗教団体の組織票がその政治家にとって必要不可欠なものであれば、当然、その政治家は、その宗教団体を重視する。みすみす、自分の票田をうしなうような政策を主張することは、さけなければならないことになる。宗教団体が思っているようなことを、政治的に主張するようになる。組織票と政治家誕生の関係は、エンドスレで繰り返される。こういうふうにして、政治家になった人が、宗教団体の「おもわく」を無視するわけがない。

政治家と製薬会社の関係もある。もちろん、製薬会社の母体がある宗教団体(A)であり、また、政治家の政治活動を支える母体がある宗教団体(A)であれば、製薬会社と政治家の思惑は一致するということになる。こういう、かたい三角関係ができあがる。

さらに、製薬会社は医者や病院を間接的に支配する。政治家も、厚労省をとおして医者や病院を直接的に支配する。なので、かたい四角関係ができあがる。

こういう関係が何個も付け加われば、多角的な関係ができあがる。たとえば、新聞社とかテレビ局とかそういうものが付け加わった場合、六角関係ができあがる。ある宗教団体(A)が、新聞社やテレビ局の株を大量に購入していて、大株主になっていた場合、製薬会社とおなじような関係が成り立ってしまう。

ようするに、宗教団体がおカネをとおして、企業を支配してしまうような状態が問題なのである。宗教団体がおカネと人材(無料奉仕)を通じて、政治家を支配してしまうような状態が問題なのである。この問題を解決するには、宗教団体にお金がはいらないようにするしかない。ようするに、寄付は禁止。なにかの販売に関しては、売り上げの九〇%を税金として回収するということが必要だ。どうせ、なにかの販売に関して、一個・一〇〇〇円までの値段にすることと言うことを決めたとしても、個数がじゅうぶんに多ければ、じゅうぶんな収入になる。宗教団体側の収入になる。

 

2022年7月21日木曜日

つもっているときは、すでに、つもった状態なんだよ。

 あの子と仲良くしておけばよかった。つきあっておけばよかった。

からだじゅうにまとわりつく、ヘビメタ騒音のいやな感じ……と言っても、わからないだろ。切迫感がちがうんだよ。「どれだけ言っても、やめてくれない」「帰ったあとずっとヘビメタが鳴っている」と思ったときの、破滅的な気持と言ったらない。これ、ほんとう、きちがい兄貴を殺すしか、ぼくには、手がなかった。きちがい親父も、きちがい兄貴が、あのでかい音で鳴らすことに協力していた。普通だったら、一日目に文句を言うはずだ。たとえ、鳴り終わったあとに帰ってきて、俺から話を聞いたとしても、「やめさせよう」と思うのが、普通の人だ。きちがい親父は、スイッチの入り方がちがうんだよなぁ。「そんなのしかたがない」「そんなのしかたがない」と兄貴を注意しない方向でスイッチが入る。そうしたら、梃子でも動かないという状態になる。この梃子でも動かない状態というのは、きちがい兄貴の状態でもある。梃子でも動かないのである。どれだけ言われても、絶対に、自分がやろうとしたことはやるのである。しかも、自分が思ったとおりの音でやらなければならず、相手が言っている音まで落とすということが、できない。スイッチが入ったときの親父おなじ頑固さで、否定する。そして、そうやって、意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!やったことは、全部、やってないのとおなじことなのである。この、意地になっやったことが、やってないことになっている……というのが、おやじとおなじなのである。兄貴は、おやじとおなじように意地になってやって、兄貴は親父とおなじように、意地になってやったことを、意地になって否定するのである。これ、こまるんだよ。

つもっている……。

この「つもっている」……ということを、普通の人は無視する。つもっているの……。つもっているから、くるしいんだよ。つもっているときは、すでに、つもった状態なんだよ。

状態を無視して、「いいことを考えればいいことが起こる」「悪いことを考えると、悪いことが起こる」「楽観的に考えれば、楽観的なことが起こる」「悲観的に考えると悲観的なことが起こる」なんてことは、言ってられない状態なんだよ。これは、言霊とおなじように因果関係を逆転させている。すでに状態があるんだよ。

たとえるなら、ふかふかな椅子に座っている人が、一〇〇本の毒針がはえた椅子に座っている人に向かって、「痛いというから痛くなる」「くるしいというからくるしくなる」と言っているようなものだ。すでに、針が刺さっていたいんだよ。すでに、毒がまわってくるしいんだよ。それを、「いったからそうなった」と誤解しているのである。「痛い」という前に、針が一〇〇本はえた椅子に座らされた。だから、いたいと言っている。針が一〇〇本はえた椅子に座る前は、「いたい」と言ってないのである。針が一〇〇本はえた椅子に座ったから「いたい」と言ったのである。順番がちがう。けど、ふかふかな椅子に座っている人は、「ひとごと」なので、まず、自分が「いたい」わけではないという状態が成り立っている。そして、ひとの「いたみ」に鈍感なので、相手が座っている状態を無視して「痛いと言うから痛くなるんだ」と言うわけである。さらに、「痛くない痛くない、と言えば痛くなくなる」と言うのである。ふかふかな椅子に座っている人にとっては、それは「事実」なのである。だから、容赦ないよ。原因についてまちがった認知をしているということは、認めない。認めないとしても、ふかふかな椅子に座っている人は、まったくこまらない。

言霊ではなくて、引き寄せにこだわっている人も、同じような考え方をする。引き寄せにこだわっている人がふかふかの椅子の上に生まれたなら、「痛いということを引き寄せた」「たい状態を引き寄せた」と言うのである。つまり、針の上に座っている人は、針の上に座っているような状態を引き寄せたからダメなのだということを言う。そして、針の上に座っている状態から、ふかふかな椅子に座っている状態に移行するには、フカフカな椅子を引き寄せればいいのだということを言う。けど、どれだけ、ふかふかな椅子を引き寄せるために、「ふかふかな椅子……ふかふかな椅子……」と言っても、針の上に座っている状態がかわらない。「針の上に座ってくるしい」という状態がかわらない。そうなると、これまた、「ふかふかな椅子を引き寄せる力がないからダメなのだ」ということを言うわけである。生まれたときに、針の上に座るか、ふかふかなクッションの上に座るかが決まっている。その結果、針の上に座らせられた人間は、「いたい」と言い、ふかふかなクッションの上に座らされた人間は「特にいたくない」と言う。ずっと座っていればふかふかなクッションの上に座っていても、いたいときはあるので「自分だっていたいときはある」「それを乗り越えてきたんだ」「乗り越える方法は、楽な状態を思い浮かべることだ。楽な状態を引き寄せることだ」とふかふかなクッションの上に座ったまま言うのである。状態がちがうのだけど、状態がちがうということを、こういうことを言う人たちは、まったく理解できない。そりゃ、生まれてからずっとふかふかなクッションの上に座っているわけだから、針の上に座っている状態が、わからない。けど、ときどき、いたくなるので、いたいというのはこういうことだと思ってしまうのである。だから、相手もこういう状態で、いたみを感じているだけなんだと思い込んでしまう。そして、そのうえで、相手が痛い痛いと言っているのはけしからんことだと思うようような教育がなされているので、「引き寄せ能力の差」だと思ってしまうのである。痛さのちがいはある。状態のちがいはある。そして、その状態のちがいというのは、能力のちがいではないのである。しかし、引き寄せを信じている人は「能力のちがいだと思ってしまうのである。たとえば、「引き寄せ能力」と言うようなわけのわからない能力を設定して、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」と思ってしまう。「不幸な人は、不幸を引き寄せているからダメなんだ」と思ってしまう。「不幸な人は、不幸を引き寄せているからダメなのだ」と思う場合、不幸な人は、不幸を引き寄せる思考をしているからダメなんだと思っているのである。しかし、「思考」の問題ではなくて、「状態」の問題なのだ。その状態というのは「所与の状態」だ。生まれたときに決まってしまう状態だ。だから、ほんとうは、「思考」の問題ではなくて、「状態」の問題だということを認知してないということになる。「思考」を「性格」と言い換えてもおなじだ。「性格」の問題ではなくて、「状態」の問題なのに、「状態」を無視して、性格の問題に「してしまっている」のである。もちろん、「たにんごと」なので「だからダメなんだ」と言える。「性格が悪いから、不幸を引き寄せているんだ」と普通に思ってしまうのである。状態は、性格が作り出したものなのである。しかし、ほんとうは、所与の状態が問題なのである。所与と書いたけど、ようするに、「うまれながらの」ということだ。これは、アドラーのところで書いた。こういう人たちは、他人の状態を無視して、筋違い、見当違いの説教をすることで、よろこびにひたっているのである。まちがったダメダシをして、よろこんでいるだけだ。自分が有能だと思いたいだけなのである。自分が特別だと思いたいだけなのである。「それにくらべておまえらは、不幸なことばかり言っているから不幸になるんだ」と言いたいだけなのである。これらの行為が「いい行為」なのかどうか?

2022年7月19日火曜日

基本的な「ふこうりょう」を無視して、頭がおかしい親のもとに生まれた人を侮辱するな

 きちがい親父がやったことやきちがい兄貴がやったことを「自分」にやったことを経験すれば、やはり、無気力になったり、楽しめなくなったりする。けど、ほかの人は、自分のこととして、きちがい親父が「俺に」やったことやきちがい兄貴が「俺に」やったことを経験してないんだよな。どれだけの影響があるからないと思う。そして、それは、ただ単に影響があるということではなくて、そのなかで、もがき苦しみ努力したというこちら側の反応の影響もあるのだ。そりゃ、どれだけ、言っても、相手が聞かずにやってしまったというのであれば、無力感がしょうじる。実際に、ヘビメタが鳴っている状態というのを経験してない人が、ぼくに対して「とやかく」言う必要はない。言う権利自体がない。不適切なのである。「とやかく」言う権利がないのに「とやかく」言うので、不適切な行為をしているということになる。

あとは、きちがい的な親兄弟にやられた人が、みんな、言いにくいことなのだけど、これ、ほんとうに、「やられぞん」なのである。 きちがい的な親兄弟にやられたことというのは、きちがい的な親兄弟にやられたことがない人にはまったく想像もつかないことなのである。けど、正常な親兄弟とも、行き違いはあるし、喧嘩をすることもあるということで、「にたようなこと」は発生しているのである。だから、「にたようなこと」は「おなじ」だと、人気してしまうのである。それは、たとえば、「困難」という単語があらわしている内容が、ひとによってちがうにもかかわらず、「困難」という単語が、「困難」という単語として使われているという問題にも関係する。だいたい、構造はおなじだ。「しりえないこと」あるいは、「しりえなかったこと」について、言及しているのである。

「泣き言をいうことはみっともないことだ」というような共同幻想がある……とする。「自分の弱みを見せることは、よくないことだ」というような共同幻想がある……とする。その場合、現実的に、頭がおかしい親のもとに生まれると、不幸なことがつみかさなるのだから、頭がおかしい親のもとに生まれた子供と、頭がおかしくない親のもとに生まれた子供では、基本的な「ふこうりょう」がちがうということになる。しかし、基本的な「ふこうりょう」がちがうということは、無視されて、「泣き言をいうことはみっともないことだ」「自分の弱みを見せることは、よくないことだ」という前提のもとに「わかったようなこと」を言うことになるのである。頭がおかしくない親のもとに生まれた人は、「わかったようなこと」を言うことになる。この「わかったようなこと」というのは、まあ、アドラー主義者が言うようなこと、認知療法家が言うようなこと、言霊主義者が言うようなこと、精神世界の人が言うようなことだ。「世の中というのはこうだ」「それでも、がんばらなきゃいけないんだ」「受け止め方をかえれば、いい」「楽観的になることが必要だ」「楽観的になれば、楽観的なことを引き寄せて、悲観的になると悲観的なことを引き寄せる」……などという、ばかげたことが、さも正しいことのように言われてしまう。これは、ばかげたことだ。ほんとーーに、ほんとーに、ばかげたことだ。ぼくは、いままでずっと、これらのことがどのようにばかげたことなのかということについて、ずっと説明をしてきた。頭がおかしくない親のもとに生まれた人にとってみれば、おもしろくないことだ。興味がわかないことだ。しかし、なんだろうが、言わなければならないことなのである。

頭がおかしい親のもとに生まれた人は、説明をすることなく死んでしまう。説明がむずかしいのである。基本的な「ふこうりょう」を無視して、頭がおかしい親のもとに生まれた人を侮辱するのはゆるされることではない。 頭がおかしくない親のもとに生まれた人は、ただでも、頭がおかしい親のもとに生まれた人に「わかったようなこと」を言って、追いつめる。基本的な「ふこうりょう」を無視して、「わかったようなこと」を言って、頭がおかしい親のもとに生まれた人を自殺に追い込む。言いたいのは、基本的な「ふこうりょう」を無視するなということだ。

 

2022年7月17日日曜日

みんな、誤解している

 きちがいヘビメタが鳴っている感じがする。みんな、誤解しているけど僕の騒音耐性は、もともとは、強かった。強いほうなのである。けど、それをぶち壊す騒音がずっと何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も、毎日毎日鳴っていた。こわれるまでのあいだ、ぼくは十四年間と数か月、がんばってきた。最大限の努力をしてきた。きちがい兄貴の騒音はひどい。幼稚園の騒音よりも、一億倍ぐらいすごい。あの音のなかで、あの音を無視することなんてできない。どうしたって影響をうけてしまう。きちがい兄貴が普通の兄貴で、ヘビメタ騒音をフォークギター騒音ぐらいに落としてくれたら、まったく問題がなかった。けど、一秒たりとして、落としてくれなかった。俺がどれだけピンチでこまっていても、一秒たりとして、落としてくれなかった。これが毎日の兄貴の態度だ。毎時間、毎分毎秒の、きちがい兄貴の態度だ。毎日、どれだけ兄貴に言っても、かわらなかった。

実際にやられてない人は、きちがい兄貴のきちがい騒音を起点にして、どれだけのことがしょうじるかまったくわかってない。わかってないところで、判断をして、こっち(俺)に、的外れなことを言ってくる。それは、決まっている。特に、悪の支配に親和的な価値観をもっている人は、勘違いをして勘違いしたことを言ってくる。これは、不愉快だ。こういうやつらは、自分がなにをしているのかわかってないのである。言いたくはないけど、ほんとうに、思考力がない。想像力がない。相手の立場に立って考えるという能力が、かけている。かけていると言っても、そういうひとたちばかりなのだから、相手の立場に立って考えるという能力があるほうが、いい意味で、異常なのだろう。すぐれているのだろう。軒並み普通の人は、佐藤(仮名)並の理解力しかない。ほんとうに、頭がわるくて、誤解しているだけなんだよな。想像力がないから誤解しているだけだ。なんで、わからないのか?

なんでだ。

まあ、経験がないからか? そして、想像力がないからか?

まあ、そういうことなんだろうけど、そいつらは、俺のことを侮辱している。けど、これがまた、侮辱をしているつもりがないまま侮辱をするということになる。どんだけ、腹がたつかわかってないんだよな。

ほんとうに、きちがい的な家族にやられた人は、きちがい的な家族にやられたことがない人に、誤解され続ける。誤解。どういうことが起こっているのか、まったくわかってないのである。説明をしたって、わからない。ちゃんと説明をしても、こっちにとって重要なことは無視するのである。「無視するな」と言っても、無視する。そりゃ、わからないから無視する。「影響が大きいと言っても、影響なんてたいしたこと、ないだろ」と思ってしまうのである。「いくら、騒音の影響が大きいと言っても、通勤、通学できるはずだ」と思ってしまうのである。できないから、できないと言っている。できなくなったからできなくなったと言っている。ヘビメタ騒音で、できなくなったからできなくなったと言っているのに「できなくなるわけがない」「そんなに影響がでかいはずがない」とばかな頭で考えてしまうのである。こいつらは、いったいなんだ。こいつらは……。ヘビメタ騒音でできなくなったとっているだろう。俺は、十数年間にわたって、ずっと、毎日、がんばってがんばってがんばってきたんだよ。その結果で聞くなったと言っているのに、「がんばればできるようになる」と、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に一日もさらされたことがないやつが言う。一日目と、五〇〇一日目とでは、一日に七時間鳴っていたとしても、意味合いがちがうのである。この意味合いのちがいも、自分のからだを通して学習したわけではないので、わかってない。そうぞ力がない人が、想像をしてものを言っているだけなのだ。きちがい的な家族というのは、ほかの人の想像をこえて「どはずれ」なところがある。しかし、その「どはずれ」なところも含めて、わからない。これは、徹底的にわからない。自分の経験の範囲にないからわからない。きちがい的な家族にやられた人というのは、きちがい的な家族と、世間の人のあいだにはさまれて、苦労する。

能力の喪失というのが、まるでわかってないなぁ。できていたことが、どれだけがんばってもできなくなるということが、まったくわかってないなぁ。普通のやつが、普通のやつの基準でものを言う。その普通のやつは、みんな、きちがい家族に、やられたことがないやつだ。きちがい家族に注意したってかわるわけがないだろ。そいつは頭の癖があってそうしているんだよ。頭の癖というのは、頭の物理的な構造のことだから、注意してもわからないままなのである。それはそれで、能力の欠如なのだけど、普通の人は、きちがい家族……原因をつくったきちがい家族のことはまったく言及しないで、ひたすら、きちがい家族にやられた人を悪く言うのである。しかも、そういうふうに無理解ぶり発揮して、きちがい家族にやられたほうを悪く言うのに、その人たちは『きちがい的な家族にやられたと、その人が、家族の悪口を言っている』と理解してしまうところがある。こういうのも、屈辱だ。

 

 

2022年7月16日土曜日

これは、ほかの人にはわからない

ほんとう、これからどうなるんだろう?

大きな変化がおとずれるのははっきりしている。

こころのこりはある。やはり、若いときにしかできないことってあるんだよね。それを、若いときにしたかった。けど、それは、もう、絶対にない。ともかく、日々続く、騒音と、きちがい親父というハンディがでかすぎた。これは、ほかの人にはわからない。騒音と言ったって、騒音の騒音がちがう。きちがい親父と言ったって、きちがい親父のきちがい度がちがう。これ、微妙なんだよな。これ、本人は、くるっていることで、ある程度、得をしているんだよ。はっきり言えば、本人はまったくこまわらないわけ。自分がくるっていることで、こまらない。自分が常に、きちがい的な判断をして、きちがい的な行動をするということで、こまらないんだよ。こまるのは、まわりの人間なんだよ。 

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2022年7月14日木曜日

つまーーんない。 この人生、なんだよ?? なんなんだよ??

 つまーーんない。

この人生、なんだよ?? なんなんだよ??

これ……。ほんとうに、どれだけ、つもったか??

きちがい兄貴と、きちがい親父のハンディがない人とは、ぜんぜんちがうんだよ。ぜんぜん、ちがう。 


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 幼稚園がうるさい。

どうするかな?

これから、風呂に入る。

こころは、なんか、ぐちゃぐちゃ。もうちょっと早く展開してくれないかな。それにしても、なんか、精神を破壊された感じがある。親兄弟に……。……親兄弟によって……。

ほかの人は、そういう親兄弟じゃないのだから、最初から問題がない。最初から問題がなければ、なんとだって言える。自分にはなかった問題だから、ほかの人がその問題をかかえていても、わからない。そりゃ、自分にはなかった問題だから、問題の本質がわからない。自分にはなかった問題だから問題のおおきさがわからない。わからなければ、ないのもおなじだ。だから、俺が言っていることは、問題がなかった人にはつたわらない。問題がなかった人のほうが、多い。ここでも、98%対2%みたいな問題がある。

やる気がなくなって、つらい思いをするのは俺だ。楽しめなくなって、つらい思いをするのは俺だ。けっきょく、カネがあったって、基本的な部分を破壊されたらおしまいだ。楽しめない。

 

2022年7月13日水曜日

「自己責任」「自己責任」「おまえが選んだ」「おまえが選んだ」。こうやって、せめられるだけなのである

役に立たないアドバイスのことについて書いた。この、役に立たないアドバイスは、アドバイスされた人をうちのめすのである。ほんとうに必要なのは、ふかふかな椅子を用意してやることだ。

傷を消毒して、それなりの手当てをして、ふかふかな椅子に座らせてやることだ。

ところが、針がついた椅子に座らせたまま、「元気だ元気だと言えば元気になる」「被害者意識をすてれば、しあわせになる」「感謝の気持ちをもてば、しあわせになれる」「たましいが、そうなることを選択したので……つまり、針がついた椅子に座ることを選択したので……自己責任だ」と説教をしはじめるのである。

針がついた椅子に座らされてこまっている人は、こまっているという点において、回答を求めている。ふかふかな椅子に座っている人は、こまってないので、適当なアドバイスをすることができる。

この適当なアドバイスがまったく(相手にとって)無意味なものであったとしても、アドバイスをするほうはまったくこまらない。

それどころか、相手がその状態にとどまれば、それだけ、いい気持ちで説教をすることができるということになる。カネのやり取りもあるかもしれない。もちろん、針がついた椅子に座っているほうが、ふかふかな椅子に座っているやつに、カネを払うのである。

これ、逆だろ。

ほんとうなら、ふかふかな椅子に座っているほうが、針がついた椅子に座っているほうに、カネをやるべきだ。そのカネを使って、ふかふかな椅子を買って、ふかふかな椅子に座ればいいということになる……針がついた椅子に座っている人は……。

けど、実際には、そんなことはなくて、ただ単に、アドバイスをうけるだけなのである。「自己責任」「自己責任」「おまえが選んだ」「おまえが選んだ」。こうやって、せめられるだけなのである。

ああ、ちょっとだけ、努力うんぬんについて言っておこう。たわごとを言わないで努力をすればよいのだというアドバイスがある。ようするに、「いたい。いたい」と言うのではなくて、ふかふかな椅子に座れるように努力をすればいいというアドバイスだ。

生まれたときに、針がついた椅子に座らせられたやつは、一生、針がついた椅子に座ったままだ。これ、努力じゃ、かわらないのである……。まあ、これは比喩だけどね。

しかも、生まれたとき針がついた椅子に座らされた人が、針がついた椅子から、ふかふかな椅子に移動することは可能だと言うのだ。……生まれたときにふかふかな椅子に座らされたやつが、生まれたとき針の椅子に座らされたやつに……言うのだ。

生まれたからふかふかな椅子に座っている人は、一度も、針の椅子に座るということを経験してない。

ところが、無慈悲で、相手の状態をよく見るということをしない人間は、そういうことを平気でする。そして、自分は努力したからふかふかな椅子に座っているのだと自慢する。こういうことをすること自体が、よくないことなのである。

どうしてかと言うと、生まれたときに決まったことを、くつがえせないような社会に生きているから……だ。あるいは、生まれたときに決まったことをくつがえせないような社会を維持しているから……だ。

これ、悪魔がこういう「構造」を作り出しているとすると、その「構造」のなかで上位に位置する者は、そういう「構造」を維持することに同意する。あるいは、積極的に維持しようとする。

悪魔が作り出した構造に親和的な存在になる……上位の者は。

この上位の者というのは、ふかふかな椅子に座っている者だ。社会の構造はこういう構造で、こういう構造をつくった悪魔が構造を通して人を支配すしているのである。

ようするに、上位の者は悪魔の支配に親和的になる。悪魔の支配をより強くしようとする。悪魔の支配をより長く維持しようとすることになる。そして、そういう自己中心性を心のなかに育ててしまう。

生まれたときにふかふかな椅子に座らされた……と表現すると、なにか場ちがいな感じがするけど、「座らされた」でいいと思う。本人が選んだわけではなくて、ランダムに決まってしまう。

だから、「された」でいい。

しかし、ふかふかな椅子のうえに「うまれた」でもいいような気がする。赤ん坊だから、「うえ」でいいだろう。ふかふかな椅子のうえに「うまれた」人は針がついた椅子のうえに「うまれた」人の状態を、自分の経験を通して、理解することができない。すべて、聞いた話だ。

そして、問題なのは、理解していないにもかかわらず、理解しているつもりになっているということだ。

だから、「わかって言っている」という傲慢な態度がうまれる。

そして、「わかってないのだ」ということを理解しない。

そのままだ。

ひとごとなので、わからないのである。また、針のついた椅子の「拘束力がわからない」。見た感じ、関係がないと思って、無視してしまう。

条件の無視……は、ほんとうは、悪いことなのだけど、「なにかすごい能力」のように思っているのだ。……アドラー主義者はそうだ。

相手がなにを言ってきたって、それを、相手の人格の問題だと思って無視する能力が高ければ高いほど、人間としてすぐれていると思ってしまっている。これは、もとの言い方にしたがえば、「悪魔の支配」に親和的だということだ。

 

 

2022年7月11日月曜日

「すべてのものは波動でできている」とか、わかったようなことを口にするな

「すべてのものは波動でできている」とか、わかったようなことを口にするな。

すべてのものは……と言ってしまっているのがまずいんだよ。別のものは別のものでできていると言ったほうが正しい。
たとえば、すべてのものは、これ以上分割できないものでできていると言ったとしよう。その場合、なにを分割できるものとして考えるのかという問題がしょうじる。
当然それは、なにを別のものとして考えるかという問題を含んでいる。波動は伝わるから波動でできていると言いたいのだろうけど……。その前に、そこで言われている波動とは何なのかを考えたほうがいいぞ。
波動を出しているものがあるとする。で、そのものも、波動でできているとする。ならば、ものと波動を分けた意味はなんなのかということだ。

2022年7月9日土曜日

赤ちゃんのころから、自分のまわりにいる「他者」の反応を見て、善悪の基準を獲得していく

 これは、軽い感じで書く。そんなには、深く考えていない。かーーんじとして、そういうことがあるんじゃないかなと思って書く。

アドラーは、善悪の基準が確固たるものだと思っているみたいなのだけど、善悪の基準というのは、出来事をとおして、ある程度かわるのではないかと思う。大人になった場合はそうだ。

こどものうちは、もっとやわらかくて、善悪の基準をつくっている時期なのである。幼児だと、こどもよりも、もっともっとやわらかくて、善悪の基準をつくっているような時期なのだと思う。幼児がどうやって、善悪の基準を獲得していくのかというと、じつは、「親」の反応を見て、善悪の基準を獲得していくのだ。

この場合の「親」というのは、身近な他人という意味だ。

親じゃなくても、同じ家に住んでいる身近な他人の反応を見て、善悪の基準を獲得していく。赤ちゃんのときから大人になるまで、そして、じつは、死ぬまで、この善悪の基準は発達していく。

しかし、時系列的なことを考えると、赤ちゃんから子供時代までの発達のほうが成人以降の発達よりも、でかい影響をあたえる。赤ちゃんから子供時代に獲得した善悪の基準が大人になったあとも、「しん」として残るのである。

ちょっと、ちがうけど、たとえば、身長の伸びは、赤ちゃんから成人するまで大きく変化して、一度成人してからは、あまり変化しない。

逆に、背骨の影響で年をとるとじゃっかん縮む場合もある。身長の伸びがぴったり比喩としてあてはまるわけではないけど、小さいときのほうが、大きくなったときよりも、「善悪の基準」の変化量が大きいのである。

つまり、ちいさいときの変化は、大きくなったときの変化よりも、でかい。

そして、いわば、「骨格」のようなものになってしまうのである。ちいさいときの善悪の基準が、大きくなったときの善悪の基準の「コア」になるのである。

たとえば、ろうそくを溶かした缶のなかに、ろうそくのシンを入れて、取り出すとする。一回つけて、ひっぱりあげて、もう一回つけて、ひっぱりあげて、もう一回つけてひっぱりあげるという行為をn回繰り返すとする。その場合、表面から見えなくても、一回目のろうそくが、表面のろうそくの「シン」として成り立っているということがわかる。

比喩は比喩なので、比喩には問題がある。

たとえば、真に近いほうが影響力がでかく、大きく変化しなければならないわけだから、一回目のほうが、二〇回目よりたくさんろうそくがつかなければならないのである。そういう意味で、比喩としては問題がある。

しかし、子どものころにつちかった善悪の基準は、その人の善悪の基準の「コア」として残るということだ。成人してから、善悪の基準を大きくかえるような出来事に遭遇するかもしれない。その場合だって、それまである善悪の基準を新しい基準に書き換えるとなると、葛藤がしょうじる。

今現在の「善悪の基準」は過去の「善悪の基準」をもとに少しずつ作り上げてきたものであって、現在の「善悪の基準」は過去の「善悪の基準」を「もと」にして作り上げてきたものだから、過去の「善悪の基準」は現在の「善悪の基準」と関係がないわけではない。

過去の「善悪の基準」はコアとして、現在の「善悪の基準」に大きな影響をあたえている。さらに、意識すれば意識できる意識的な善悪の基準と、意識しようとしてもなかなか意識できない無意識的な善悪の基準がある。この無意識的な善悪の基準は、ふつう「良心」とよばれるものだ。明確な言葉にならなくても、明確な基準として抜きだすことができないとしても、「なにかそれ」として、人間の行動や判断に影響をあたえる。

基本的には、自分のまわりにいる「他者」の反応を見て、人間は赤ちゃんのころから善悪の基準を獲得していくのである。善悪の基準を獲得していくには、いろいろな経験が必要だ。相手(身近な他者)が関係する出来事をとおして、善悪の基準を獲得していくのである。

「こういうことをしたら、親が怒った」とか「こういうことをしたら、親にほめられた」とか「こういうことをしたら親がよろこんだ」とか「こういうことをたら、親が悲しそうな顔をした」というようなことをとおして、善悪の基準が「かたちづくられていく」のである。

アドラーは、生まれたときから、善悪の基準がしっかりと成り立って、それが、生涯にわたってかわらないものだというような前提でものをはなしているところがある。

アドラーにしたって、赤ん坊のときから、しっかりと成り立っているとは、意識的には思ってないだろう。しかし、アドラーが考えている善悪の基準(そのものは)固定的で、あまり変化をうけないものなのである。

アドラーが絶対に無視したいのは、過去の影響なのである。「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」という宗教的な信念があるのである。

この信念は、単なる宗教的な信念で、合理的な根拠がない。

しかし、あたかも合理的な思考にしたがって、「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」と言っているのだという思い込みがある。アドラーの考える合理性は、彼が考える範囲のなかで成り立つ合理性なのである。

 

 

2022年7月6日水曜日

「努力をすれば、できるようになる」という言葉に隠されたトリック……「できなければ」努力をしたことにならない

 これ、むかし書いたんだけど、もう一度概要だけ書くよ。

「努力をすればできるようになる」ということについて書く。「努力をすれば」という部分と「できるようになる」という部分がある。「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということも、「努力をすれば、できるようになる」ということばの中にふくまれている。

この場合、「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということばと「努力をすれば、できるようになる」ということばは同義だ。例外はないということを意味している。

だれが、だれに、この言葉を言うのかが問題になる。ようするに、本人が、本人に対して、この言葉を言う場合は問題がない。しかし、だれかが、だれか他人に、この言葉を言う場合は、問題がしょうじる。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、会社の経営者だとする。Bさんは、その会社の従業員だとする。Bさんは、ある作業ができなかったとする。Aさんが「努力をすれば、できるようになる」と言ったとする。Bさんは、Bさんにできる最大限の努力したが、できなかったとする。この場合どうなるか?

もし、「努力をすれば、できるようになる」ということが正しい場合、Bさんは、努力をしなかったということになるのである。Aさんから見れば、Bさんができないいじょう、Bさんはじゅうぶんな努力をしなかったということになってしまうのである。

ようするに、「努力をしたのにもかかわらず、できない」ということは、最初から、Aさんの頭にはないわけだ。

「努力をすれば、かならず、できるようになる」のだから、「できない」のであれば、「努力をしなかった」ということになる。これは、Aさんのまちがいだ。

「できるようになるかどうか」は「努力をしたかどうか」とあるていど関係があるかもしれないけど、絶対的な関係ではない。

ようするに「努力をすれば、できるようになる」というのはまちがいで、「努力をすれば、できるようになる場合もある」し「努力をしても、できない場合」もあるのだ。

現実としては、努力をしてもできない場合がある。

しかし、AさんがBさんについて「努力をすればできるようになる」と言った場合は、Bさんが努力をしたにもかかわらずできない場合があるということを認めていない。最初から認めていない。

「じゅうぶんな努力」なのか「努力不足」なのかは、「できたかできないか」によって、かわるのである。

Bさんがちょっとだけ努力してできた場合でも、できたのであれば、じゅうぶんな努力をしたということになる。あるいは、Bさんが最初から努力をせずにできた場合でも、できたのなら「努力をした」ということになってしまう。

Bさんの主観とAさんの主観に、ちがいがある。そして、Aさんは、じつは、結果をもとにしてものごとを判断しているだけなのだ。「できれば」努力をしたことになるし、「できなければ」努力をしたことにならない。

これが、最初から決まっている。Bさんが、かりに、死にものぐるいの努力をしたとしよう。死にものぐるいの努力をしてもできなかったとしよう。この場合も、Aさんから見ればBさんは「努力をしなかった」ということになってしまうのだ。

だから、「努力をすれば、かならず、できるようになる」というのは、だれがだれに向かって言っている言葉かということが問題になる。かりに、

2022年7月4日月曜日

まあ、影響のでかさがわかってないんだよ。

 それにしてもつかれたなぁ。どうするかな?

いろいろと、おもしろくないなぁ。やっぱり、ヘビメタ騒音がでかい。あの日々がでかい。あの日々のままなんだよ。ぼくのからだは……。みんな、わかってないけど……。しかし、ほかのやつらは、ヘビメタ騒音の影響を軽く見るなぁ。これ、ほんとうは、ひどいことなんだぞ。こいつらみんな、ぼくとおなじ状態だったら、俺よりも早く、俺よりもひどい状態になっていると思う。けど、そいつらはやられてない。そいつらには、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴の態度なんてわからない。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音に関する認知なんて、逆立ちしたってわからない。そりゃ、きちがい兄貴のやり方や認知は、きちがい親父のやり方や認知とおなじだからな。これ、ほんとうそういう、やり方やそういう認知が成り立っている態度全体で、こっちが、ボロボロに傷つくのである。けど、それが、ほかの人にはわからない。だから、「そんなの、たいしたこと、ない」と思ってしまう。「自分だったらもっと、うまくたちまわれた」「自分だったら、お兄さんをしずかにさせることができた」「自分だったらやられたとしても、そんなにひきずってない」と思ってしまうのである……。経験がないから。実際にやられなかったから。実際に、自分の人生のなかで、そういうことがしょうじなかったから……。実際に、自分の人生のなかで生じなかったら、わからない部分がある。そして、その部分というのが大きいのである。ぼくの生命がどれだけうまくても、実際に経験しなかったなら……実際に自分の人生のなかで、そういうことが、生じなかったら、自分の経験としてはわかってないわけだから、影響のでかさもわかってないのである。 どれだけ、でかい分野に影響をあたえるか、わかってない。一日の、ヘビメタ騒音の長さが、どれだけの影響をあたえるかわかってない。これ、みんな、鳴っているときだけうるさいだけだと思っているんだよ。だから、鳴っているときの騒音が迷惑だということしかわかってない。どれだけ、からだがつかれるわかってない。どれだけ、眠れない状態になるかわかってない。眠れなかった次の日のつらさがわかってない。そういうことが、毎日毎日、つもってしまうということのつらさがわかってない。まあ、影響のでかさがわかってないんだよ。

 

2022年7月2日土曜日

カネの価値がちがう。カネの種類がちがう。ぜんぜんちがう。

つまらない。

どうなるんだろうな?

これ、みんな、わかってないけど、相当の変化がしょうじる。価値観がかわってしまう。ぼくにとってはいいことだけどね。そりゃ、ぼくにとってはいいことなんだよ。

いままでの価値観のなかでぼくがどれだけハンディを抱えて、生きにくかったか? まあ、そういうことは、本人にしかわからないことだな。

いろいろ、考えるんだよ。自分にとって本当にやりかたかったことはなんなのか? 

どういうくらしをしたかったのか? どのみち、この世にいる時間は有限だ。有限なんだよ。なら、なにを優先するのか? だ。俺がやりたかったことって、ヘビメタ騒音にやられず、あーーんなことや、こーーんなことをしたかったということだ。これは、若いときじゃないとだめなんだよね。若いとき、ヘビメタ騒音にずっとやられていた。なので、あーーんなことや、こーーんなことができなかった。これがこころのこりだ。

これ、いくら金があっても、できないことなのである。いま、仮に、一兆円持っていたとしてもできないことなのである。「あのとき」なんだからさ。

ぼくがやりたかった、あーーんなことや、こーーんなことって、普通の暮らしの中でできることだ。一か月に一五万円もかせげれば、できることだ。まあ、二〇万円のほうがいいけどね。

たしかに、こういうことにかんしては、おカネの問題じゃない。

じゃあ、おカネは重要じゃないかというと、そうではないのだ。これ、めぐまれた家に生まれた人はまったくわかってないけど、「できるおカネ」と「できないおカネ」があるのである。

一か月に一五万円稼げばできることも、一か月に六万円しかかせげないのであればできないことになってしまうのである。

このちがいがおわかりか?

一か月に二〇万円、かせぐのと、一か月に三〇万円、かぜくのではたいしてかわりがない。

まあ、自分のやりたかったことだけを考えれば、そりゃ、金銭的には普通の生活費があればできることだ。プラス二万円ぐらいあれば、よゆうでできることだ。けど、ちがうんだ。わからないかな?

一か月に五〇万円、使っても、一か月に一〇〇万円、使っても、しあわせ度はたいしてかわりがないというような話のなかに出てくる、カネじゃないのである。これがわからないか?

これが!!

ちがうんだよ。おカネの意味合いがちがう。こういうおカネの「意味合い」をぬかして、おカネのことについて語るというのは、まったくナンセンスなことだ。どうしてこれがわからないのか?


どれだけ相手が「がみがみ言ってきたとしても、それは、相手の問題だから、相手にする必要はない」……まちがっている

 どれだけ相手が「がみがみ言ってきたとしても、それは、相手の問題だから、相手にする必要はない」というような考え方がある。これについて考えてみたいと思う。

まず、「がみがみ言ってくる」というのは、マイナスのイメージあたえる言い方だ。

「がみがみ」というのが、不快感をしめしていて、なおかつ、「がみがみ」言っていることが不当だという認識があるということをしめしている。

つまり、がみがみ言われている人が、がみがみ言っている人の言っていることが不当な内容だと考えているということを暗示している。

ようするに、彼が言っていることは「なにか、へんなこと」を「がみがみ」言ってきたけど、そんなのは気にする必要がないということだ。

「がみがみ」というのは、怒りの程度をあらわす言葉だと思う。怒りには程度があり、怒りの表出にも程度がある。たいていの場合、怒りの程度が高ければ高いほど、怒りの表出のレベルも高くなる。これは、相手の側の怒りの表出だ。

こういうことを言う人たちは、怒りの程度について言及をしている。どれだけ相手が怒りを表出したとしても、それは、相手の問題だから気にする必要がないという意見だ。しかし、この人たちが忘れているものがある。

それは、自我だ。善悪の基準の問題だ。道徳観の問題だ。相手が言っていることが正しいなら、素直に反省すればよいということも、こういう人たちは、言う。

しかし、相手が言っていることが正しいと思うことができるのか?

きちがい兄貴にしたって、このくらいの音でヘビメタを何時間も何時間も鳴らすことは、別にやってもいいことだと思ってやっていたのである。その場合、ぼくが、「でかい音だから静かにしてくれ」「フォークギターぐらいの音にしてくれ」と言っても、相手が不当なことを言ってきたと思って、しずかにしないのである。

きちがい兄貴の自我の基準から考えると、このくらいの音で鳴らしてもいいということになっていたのである。その「いいこと」に文句をつけてくるのは、相手の問題だと思っていたのである。自分には関係がない問題だと思っていたのである。

「迷惑行為」をやる人間は、ここらへんの基準が、普通の人の基準一致してないことが多い。本人は、「迷惑行為をしているつもりがない」のである。

むしろ、「やめろ」「しずかにしてくれ」と何回も絶叫している相手のほうが、悪いと思っているのである。自分は、悪いことをしてないのに、相手が「がみがみ」言ってくると思っているのである。

なので、素直に反省することができるかというとできない。

これは、きちがい兄貴に限ったことではなくて、アドラーにしてもおなじなのである。ただ、アドラーは、感覚器を書き換えるということをしてないし、アドラー自身の善悪の感覚が「普通の人間」とだいたい同じだったので、特に目立つ!!迷惑行為をしてないだけなのである。

アドラーにとっては、そこらへんの感覚が、わりと絶対的なもので相対的なものではないのだ。なので、だれもが「反省できる」と思っている。しかし、アドラーもそうだけど、反省できるとは限らない。

それは、善悪の基準が人によって相対的で、今現在その人がそれを「自信をもってやっている」とすると、その人とっては、その行為自体は、他人に迷惑をかけるような行為ではないのである。

あるいは、他人に迷惑をかけるということが悪いことだと思ってないのである。相手が「必死になって」「やめてくれ」と言ってきたとき、相手の立場を理解してやめてあげるのか、それとも、相手の立場を理解せずにやり続けるのかは、自我が決定しているのである。

その自我というのは、善悪の基準をもっている自我なのである。

もう成人しているのであれば、わりあい強固な自我をもっているものと思われる。

だから、たいていの場合、正しいと思ってやっていることをやめたりはしない。それから、相手の立場に立って考えることができる能力というのは、だいたい人によって決まっているのである。

アドラーやうちの兄貴は、この能力が極めて低いのである。相手の立場と自分の立場をいれかえて考える能力が、ともに、低いのである。けど、アドラーの善悪の基準は、「普通の家」ものだったので、うちの兄貴のように、特に問題となる行為をしてないだけなのである。

自我の相対性……つまり、善悪の基準の相対性……の問題は、アドラーのような人間にも、成り立つことだ。

「普通の家」と書いたけど、これは、「家」そのものの問題ではなくて、「親の自我」の問題なのである。アドラーの場合、親がよくできた親なので、逸脱行為(社会的な迷惑行為)をしなくてもすんだだけなのだ。

構造自体の本質はかわらない。それから、冒頭で「相手の問題」と書いたけど、くわしく書くと「相手」の「こころの問題」ということになる。「相手のこころの問題」と書くと「の」が連続するのでやめておいた。

2022年6月29日水曜日

こんなの、ない。どれだけ、ひどい音で鳴ってたか?

 ほんとうにひどい音で鳴ってた。

こんなの、ない。どれだけ、ひどい音で鳴ってたか?

鳴っている感じがする。ほんとうに、ひどかった。全部がくるしくなった。どれだけがんばっても、ギリギリ生活なのである。むかしは簡単できたことができなくなる。特に、睡眠がダメになった。睡眠がダメになると、全部がくるしくなる。きちがい兄貴は、なにがなんだろうが鳴らしたのに、まったく鳴らしてないのとおなじ態度なんだよな。毎日、何十回も言った。何十回も怒鳴り込んだ。そのたびに、きちがい兄貴が、むくれて、きちがい的な意地で鳴らした。これ、きちがい親父の態度とおなじなのである。まったくおなじ。で、きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやってないことなのである。この感覚が、ほかの人にはわからない。これ、ほんとうに、きちがいだとむかつくんだよ。そりゃ、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定しているわけだから……。本人は「いつもいつも」つもりがないわけだから……。あんなに維持なってやったことなのに、本人は、まったくやってない場合と同じ気持ち、まったくやってない場合とおなじ態度でいるわけだから、むかつく。人間関係なんてない。そりゃ、そうだろ。これ、わかるかな? きちがい兄貴だって、おやじともめたら、おやじともめたということがわかっている。けどのこの場合は、おやじのほうが、まったくもめたということがわかってない状態なのである。じゃあ、こっちがやめてくれと言ったときに、ちゃんと対応してくれるかというとそれはないのである。これは、おやじも兄貴もおなじだ。で、兄貴は、おやじにやられたときは、感覚が普通だから、怒るのである。けど、きちがい兄貴が、俺に、ヘビメタ騒音でおなじことをやっているときは、おやじのようにまったくわからないままなのである。どれだけ言ったって、わからない。これ、ほんとうに、やめさせるとなったら、殺すしかないんだよ。本人が、毎日、いやがらせをしているのに、まったくいやがらせをしたつもりがない状態で暮らしている……。毎日、相手に、ひどいことをしているのに、まったくそのつもりがない状態でいる。だから、自分が恨まれているということは、わからない。自分が!!腹をたてている状態なのである。「やめてくれ」と言われたら、きちがい的な苛立ちを感じて、きちがい的な意地でやってしまうのに、やったつもりがまったくないんだよね。だから、相手が自分に対してどういう気持をもっているかというのが、まったくわからない状態で暮らしている。きちがい兄貴だって、ヘビメタをやるまえは、いやなやつだけど、がまんができる範囲のいやなやつだったのである。きちがい親父は、兄貴がヘビメタをやるまえからがまんができない範囲のいやなやつだったのである。きちがい親父にかかわって、いいことになったことなんてない。これは、そういうふうに思っているからそうなるというようことではない。おやじの構造から出てくるものだ。俺が、おやじはそういう人間だと思っているから、おやじがそういうふうに行動するわけではないのである。この「思ったことが現実化する」というある意味、幼児的な万能感に満ちた思考は、ほんとうに、きちがい的な親がいる人間を傷つけるのである。自分だけ、そう思っていればいいだろ。自分のことだけ、そう思っていればいいだろ。理由付けがちがうんだよ。因果がちがうんだよ。これはこれで、「思いは現実化する」というような思考をもっている人と、うまくいかなくなる理由のひとつだ。普通の人は、きちがいではない親のもとに生まれたからそれでいいのだろうけど、「ぬれぎぬ」をきせるな。ふざけるな。まあ、「思ったことが現実化する」派閥のことはいいよ。これをぼくは、「おもだましゅぎ(思霊主義)」ということにした。言霊も、じつは、別の理由をつけているんだよな。そういう意味で、言霊で、不幸な家のことを説明するときは、注意が必要だ。たとえば、ぼくが「きちがい兄貴が、ヘビメタにこって、ヘビメタをでかい音で鳴らして、エレキ・ギターを弾くようになるから、ぼくの人生が台なしになる」と言って、そういうことが発生したわけじゃないのである。兄貴がヘビメタを鳴らすということは、ぼくにはわかってなかったことだ。ヘビメタということばすら知らなかったのである。ヘビメタじゃなくても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の耳が悪くなるようなでかい音でなにかの音を鳴らすということが、わかっていたわけじゃないのである。だから、そういうふうに言うことができなかった。言ってないのにもかかわらず、現実化した……。まず、これが重要なのである。最初から、まちがっている。この言霊主義にしろ、思霊主義にしろ、普通の人の幼児的な感覚だから、きちがい的な家族がいる家のことを説明するとなると、まちがった説明になってしまうのである。けど、アドラーとおなじように、本人が、きちがい的な家族が最低でもひとりいる家の状態を自分の経験をとおして理解しているわけではないから、そういう誤解……まちがった説明が、気にならないのである。ぼくがいま言ったようなことを、思霊主義者説明しても思霊主義者は、「そんなことはない。思ったことが現実化する。思ったはずだ」と言い張って聞かない。しかし、思ってもみなかったことが、現実化したという点で、思霊主義の説明はぼくにとっては、まちがった説明なのである。符合しないのである。現実の現象を説明できないのである。また、ぼくがいま言ったようなことを、言霊主義者説明しても言霊主義者は、「そんなことはない。言ったことが現実化する。言ったはずだ」と言い張って聞かない。しかし、言わなかったことが、現実化したという点で、言霊主義の説明はぼくにとっては、まちがった説明なのである。符合しないのである。現実の現象を説明できないのである。まちがったことなのである。理由になってないことなのである。言霊主義者は、勝手に、ぼくのせいにする。言ってもいないのに、言ったからそうなったと、わけのわからないことを言いだすのである。誤解している。完全に誤解している。こっちにとっては、不愉快なことだ。

家族の構成員のうち、すくなくてもひとりがきちがいだと、ほかの人から誤解をされて、ほかの人が、まちがった前提に基づいてまちがったことを言ってくるようになる。うちは、ふたりだ。ふたりとも同じタイプの脳みそを搭載しているのである。どれだけ、こまるか?

ふたりいるんだぞ。誤解されるときもダブルパワーで誤解される。「そんなにでかい音で鳴らしているのに、親が文句を言わないのはおかしい」とか「そんなに小さなことで、おやじさんが怒っていたのに、お兄さんの音楽には文句を言わなかったというのはおかしい」と言いやがるのである。どれだけ、ずれたことか。そして、こういう人たちは、ヘビメタ騒音に関しては、経験がないので、それがどれだけ生活自体に影響をあたえるのかまったくわかってないのである。ヘビメタ騒音と書いたけど、ぼくとおなじヘビメタ騒音ということだ。あるいは、その人にとって一番嫌いな音楽ということだ。その人にとって一番苦手な音がずっと鳴っている状態を経験したことがないということだ。そして、その音を鳴らし続けているのが、家族の一員だということを経験したとがないということだ。これ、一一歳からやられてみろ。どれだけ体に影響が出るか? どれだけ人生に影響が出るか? 自分のからだでわかってないなら、わかったようなことを言うな。これ、影響を無視して……勝手なことを言いやがるのである。家族がへんなひとだと、よその人から、俺が悪く言われる。いつもいつもそうだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。