2024年5月31日金曜日

近代教育システムを維持して、「恥をかかせないようにする」というのは、無理なのだ

 ちょっと、つながりで言っておくけど、能力のちがいにこれほど、みんなが注目している社会というのは、おかしい。みんな「これが、あたりまえだ」と思っていると思うけど、これが、あたりまえのありかただという保証はない。ようするに、ちがう社会のありかただってあるかもしれない。

近代教育システムによって、能力のちがいに意識が集中するのである。近代教育システムと言うのは、近代学校システムのことなのだけど、学校システムに参加した人は、「個々人の能力の違い」に神経をとがらせることになるのである。

そして、基本的なことを言えば、能力が相対的にない人たちは、「恥をかかされる」ことになる。

近代教育システムを維持して、「恥をかかせないようにする」というのは、無理なのだ。 「恥をかかせること」が、かくされた目的のひとつになっている。

ようするに、そこで、その分野で、比較劣位なのであれば、必然的に恥をかくのである。恥をかくことになっている。比較劣位な人も、恥をかかないようにすることができる……そういうサポートができる……ということを言う人がいるかもしれないけど、それは、きれいごとだ。

そのサポートでは、基本的な性格がかわらないので、そのサポートは無意味だ。基本的な性格というのは、近代教育システムの基本的な性格ということだ。 

*     *     *

基本的なことを言ってしまうと、近代教育システムは、もう、崩壊させてもいいと思う。

けど、地獄はそこでは終わらないのである。

三キロのものを背負っている人と、一〇三キロのものを背負っている人がいるとする。三キロのものをせっおっている人が、「俺は、走れる。おまえは走れない」と言って一〇三キロのものを背負っている人のことをバカにするんだよ。

 三キロのものを背負っている人が、「俺は、動きがはやい。おまえは、動きがおそい」と言って一〇三キロのものを背負っている人のことをバカにするんだよ。

三キロのものを背負っている人が、「俺だって、重いものを背負っている」「重いものを背負っていかるから走れないなんて、あまえだ」と言って、一〇三キロのものを背負っている人のことをバカにするんだよ。

ハンディがちがう。重いと言っても、重さがちがう。重さのちがいを無視するな。

重さというのは、ハンディの比喩だ。ハンディの大きさがちがえば、症状がちがう。できることがちがう。

重さのちがいを無視して、えらそうなことを言うな。たまたま、その重りを背負わされなかっただけなんだよ。重りの軽いやつが、重りの重いやつの、重りを無視して、好き勝手なことを言う。

そして、それが正しいと思っている。「いいこと言った」と思っている。

これが、地獄なんだよ。こういう行為が、たくさんつみかさなって、この世を地獄にしている。

きちがい兄貴のヘビメタというのは、それだけで、地獄だ。きちがいヘビメタ騒音が鳴っているさいちゅうも、鳴り終わったあとも、地獄だ。それだけで地獄だ。

けど、地獄はそこでは終わらないのである。

ヘビメタ騒音という地獄がないやつが、ヘビメタ騒音の地獄を無視して、「無理なこと」を言ってくる。

ヘビメタ騒音という地獄がないやつにとっては、無理なことではないのだ。

手短に言うと、ヘビメタ騒音がなかったときの俺にも、無理なことではなかった。

けど、ヘビメタ騒音で「無理なことになる」のである。

それを認めないやつが、とてつもなく「無理なこと」を言ってくる。

「自分は平気だ」「過去は関係がない」とアホなことを言ってくる。「できると言えばできる」とアホなことを言ってくる。

「できなかった人」は、ダメ人間にされてしまうのである

 あっ、そうだ。

引き寄せというのは、いままで見てきたように、詐欺なんなんだけど、「あなたのうつわが、その状態ではないから、引き寄せることができない」というようなことを、引き寄せセミナー講師が言うことがある。

うつわではなくても、レベルでもなんでもいい。

ともかく、引き寄せられない人は、引き寄せる段階に達してないから、引き寄せられないんだということかを言うわけだ。なんの段階かというと、精神の段階ということになる。ようするに、『こころの用意』ができてないから、引き寄せることができないのだということを言う。

けど、引き寄せは、いままで見てきたように、詐欺だ。

それこそ、いいわけなのである。

「誰でも、簡単に引き寄せることができる」と言って、客を引き寄せる。けど、ほんとうは、セミナー講師も引き寄せの力なんて持ってない。全部、嘘だ。

引き寄せる力をもっている人なんて、この世にいないのである。引き寄せも、「あと」を「から」に言い換えるということと、「あとだし思考」で成り立っている。トリックを見抜けば、だまされることはないのだ。

みんな、だまされないようにしたほうがいいぞ。

言霊も、「言えば言ったことが現実化する」というあまい文句で、人を引き寄せる。実際に、「言った」人が、「現実化させることができなかった」としたら、なんと言うか? 「言い方がまずい」と言うのだ。

ようするに、やった人が、だめだから、ダメな結果になったということを言うわけ。けど、「言えば言ったことが現実化する」ということが、文として正しいなら、どんな言い方で言っても、現実化するということになる。

現実化しないのであれば、「言えば言ったことが現実化する」ということが、文として正しくないということになる。

それとおなじで、「できなかった人」は、ダメ人間にされてしまうのである。「言い方がダメだからダメ」「精神レベルが低いからダメ」ということにしてしまう。ほんとうは、最初から、文がまちがっている。

彼らが正しいと言っていることが、まちがっているから、それを聞いた人が、実行するとうまくいかない。これは、一〇〇%、絶対にうまくいかないのだけど、「から」と「あと」を混同してしまうので、数パーセントは、うまくいくという認知が成り立つ。

やった人のうち、「から」と「あと」を混同してしまう人は、「引き寄せがうまくいった」と思ってしまう。

けど、これは、教祖やセミナー講師とおなじように、「から」と「あと」を混同しているかだ。引き寄せの力は、人間にやどってないのである。最初から、やどってない。それを、やどっているように見せかけて、もうけているだけだ。

じゃあ、もうけていない取り巻き連中はどうなのかというと、もうけていなくても、おなじことをしているということになる。カネのやりとりがないだけで、やっていることはおなじだ。

実際に、「引き寄せがうまくいった」と(他人に)言っている人は、教祖やセミナー講師に、協力してしまっている。カネをもうける、手助けをしてしまっている。ただ、教祖やセミナー講師から、「てだすけりょう」をもらってないだけなのである。

まあ、言ってみれば、ほかの人をだます意図はないけど、ほかの人をだましているし、「てだすけりょう」をもらってなくても、教祖やセミナー講師の手助けをしてしまっている。

だます手助けをしているのだから、善良な行為ではない。

きちがい兄貴が、普通の兄貴のように、やめてくれれば、それですんだことなんだよ

 ヘビメタ騒音なしで、あの子と仲良く、つきあいたかったなぁ。あのころ……。あのころじゃないとどめなんだけど……。

ヘビメタ騒音なしで、暮らしたかったな。

ヘビメタ騒音生活をした人じゃないと、どれだけ、ヘビメタ騒音が精神に影響をあたえるかわからない。ヘビメタ騒音生活をした人じゃないと、どれだけ、ヘビメタ騒音が人生に影響をあたえるかわからない。

ほかの人たちにとっては、無視できることなんだよ。

ほかの人たちにとっては……実際にはなかったから……無視できることなんだよ。無視したら、まったく関係がないのである。

そりゃ、無視するまえから、俺のヘビメタ騒音は、ほかの人には関係がないことだ。ほかの人が、俺におけるヘビメタ騒音の影響を無視してしまうのである。

そうなると、必然的に、俺のことをバカにするようになる。ヘビメタ騒音というのは、そういう障害なんだよ。

ほかの人は、徹底的に、絶対的に、ヘビメタ騒音障害がわからない。ほかの人は、徹底的に、絶対的に、ヘビメタ騒音のハンディがわからない。

ハンディがわからないところで「関係がない」「できると言えばできる」と言う。本人が経験したら、わかることなんだけど、わからない。本人が経験したら、それがどれだけ無理なことかわかることなんだけど、本人は、経験してないので、まったくわからない。

好き勝手なことを、言いやがる。

まちがったことを言いやがる。

これ、まちがっているんだよ。まあ、「まちがっている」ということは、ヘビメタ騒音がない普通の人には、わからない。

これ、ほんとうに、人生のすべてが、ヘビメタ騒音障害なんだよ。あれだけ、あんな態度で毎日やられて、世界が、きちがい騒音にそまらないわけがない。ヘビメタ騒音のハンディがわからないから、ほかのやつは、みんな、みんな、無理解なことを言うということになっている。

そうなると、必然的に、ほかのやつらと、ぼくのなかが悪くなるのである。ヘビメタ騒音は、ヘビメタ騒音なのだけど、ヘビメタ騒音がもたらす障害が、経験のない人から見ると、発達障害に見えるようなところがあるのである。

それは、ヘビメタ騒音で、睡眠障害になっているからそういうふうに見えるだけなのだけど、睡眠障害の表面的な症状は、知識がない人から見ると、発達障害に見えるのである。

発達障害という言葉が、めちゃくちゃにはやっているので、普通の人は、一種のスラングとして(誰かが)発達障害だと言いたがる。人々は(誰かが発達障害者だと)決めつけたがる。

これ、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしているのは、きちがい兄貴なのに、俺が悪く言われるのである。ヘビメタ騒音にたられていれば……長時間たたられていると、眠れなくなるのである。

眠るべき時間に眠れなくなるのである。

普通の人にとって、眠るために用意された時間に眠れなくなるのである。でっ、ほんとうに、睡眠障害だけで、いろいろな、症状ができる。その症状は、よく言われる発達障害の症状とかさなる部分がある。

けど、理由がちがう。これ、きちがい兄貴が鳴らしているのだから、表面的に、発達障害に見える部分の睡眠障害は、きちがい兄貴によってもたらされたことなのである。発達障害とはちがう。

ほんとうに、きちがい兄貴が、「まったく鳴らさないようにすれば」すぐになおることだったのである。

そりゃ、七年以上、あの暮らしを続けていたら「もうむり」なんだけどさ……。これも、わかりにくいことなのだけど、リターン可能ポイントがある。器質的な変化をうみだしてしまう、時間的なポイントがある。毎日ずっと、何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も、続いて、いいわけがないだろ。

その繰り返しは、脳みそに器質的な変化をおよぼす。

睡眠障害だけにしぼって言ってきたけど、生活体力障害や、きちがいヘビメタ騒音が鳴っているのあいだは、勉強ができないという勉強障害がある。それも、つもっている。学習障害というと、これまた、語弊が出てくるので、勉強障害と言っておく。

これ、少数の他人が「(エイリは)ひとのせいにしている」とか言いだけすけど、ほんとうに、兄貴に責任があるのである。

これ、きちがい兄貴が、きちがいだから、常に、悪意なしでやっているのだけど、きちがい兄貴がきちがいでなければ、悪意をもたなければ、絶対にできないことなんだよ。

無意識的に、悪意がないということにしてしまっているのである。

こういう特殊な態度が、ぼくにあたえる影響はでかい。

そして、こういう特殊な態度は、ほかの人にはないものなんだよ。だから、ほかの人の家族にもないものなんだよ。特殊すぎる。

ほんとうは、人のせいじゃないのに、人のせいにしている場合……とは、ちがうんだよ。本人の遺伝子的な問題の場合、親は別に、意図的にやったことじゃない。

けど、きちがい兄貴は、きちがい兄貴の認知としてはどうだかわからないけど、ほんとうに、きちがい兄貴が意図的にやったことなんだよ。こっちの障害をもたらす行為を、きちがい兄貴が、意地になって、長期間にわたってやり続けた。

これは、遺伝子的な問題とはちがうんだよ。俺にとっての遺伝子的な問題じゃないんだよ。たとえば、遺伝子的な問題をかかえている人が、親のせいにしないとする。それは、実際に、親が意図的にやったことではないのだから、しかたがない。親だって、いやおうなく、その遺伝子をもっている。

でっ、「発達障害者が、親のせいにしてないのに、おまえは(エイリは)兄のせいにしている」と言って、せめてくるやつがいた。これ、ちがうんだよ。

きちがい兄貴は、いつでも、きちがいヘビメタ騒音をあれだけでかい音で鳴らすということを、やめることができたんだよ!!!

できたんだよ!!!!

このちがいを無視するな!!! このちがいを無視するな!!!

きちがい兄貴がやりたくてやっていることだから、きちがい兄貴が、普通の兄貴のように、やめてくれれば、それですんだことなんだよ。まるで、きちがい兄貴が、自分の意思ではやめられかなったことだということになっているぞ……。きちがい兄貴のせいではないということを言う人は、こういう前提でものを言っているぞ。

これは、決定的なちがいだ。

兄貴に責任がある。

ほかの人にはいないタイプのきちがい兄貴にやられると、こういうことになってしまうんだよなぁ。


2024年5月30日木曜日

「できるのに、できないなんて言うのは、あまえだ」

  たとえばの話なのだけど、ぎっくり腰になったら、重いものを運ぶような仕事はできないと思う。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんが、運送業で重いものを運ぶ作業を含んでいる仕事をしているとする。そのAさんが、まあ、いわゆるぎっくり腰になったとする。そして、Aさんが、「ぎっくり腰をやってしまったら、もう、この仕事はできない」と判断したとする。けど、ぎっくり腰を経験してないBさんは、Aさんに「できると言えばできる」と言ったとする。いやーー。できると言っても、できないものは、できないんだよ。そして、Aさんが「できるできる」と言って、その仕事をつづけたとする。そのあと、二回目の、ぎっくり腰を経験したとする。でっ、Aさんは、また「できるできる」と言って、腰をかばいながら、その仕事をつづけたとする。そのあと、三回目の、ぎっくり腰を経験したとする。「できると言えばできる」というのは、何回だって、「できると言えばできる」という理論だ。終わりがないのである。けど、経験をとおして、Aさんが「もうむりだ。できない」と言ったとする。けど、ぎっくり腰を経験してない、言霊主義者のBさんは「できると言えばできる」というのである。終わりがない。四回目でも、「できると言えばできる」ということは、成り立っている。「できない」ということを認めないのだから、そうなる。Bさんの頭のなかでは「できると言えばできる」「これは正しい」ということになっているのだからそうなる。五回目、六回目、七回目、八回目、九回目、一〇回目……n回目。終わりがないのである。Aさんは、Aさんの体と相談して「できない」と言っているのである。Bさんが、Aさんのからだの状態について、知らないだけなのである。あるいは、Aさんができないと言っても、Bさんが、Aさんのからだの状態について、軽く考えて「できる」と思っているだけなのである。ようするに、BさんがAさんのからだの状態を無視すれば「できると言えばできる」というようなカルト理論を、Aさんに言うことができるのだ。けど、Aさんは、自分の経験を通して、「できない」と思っている。これは、Aさんが思っているだけなのか? Aさんが「できない」と思っているから、できないのか。ちがうだろ。Aさんは、経験をとおして、「できない」と判断したから、できないと言っているのだろう。

ぎっくり腰のことが、ヘビメタ騒音でも成り立つ。「できないんだよ」。けど、経験がないやつは、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と同質化して、「できない」ということを無視して、「できる」と判断する。「できるのに、できないなんて言うのは、あまえだ」と思うわけだ。思ったらそういうふうに、言う人もいる。ようするに、言霊主義者じゃないけど、「できる」と判断している人は、「できない」と言っている人の、言うことを認めずに「できる」と判断して、「できない」と言っている人に、ものを言う。多くの場合は説教だ。助言という体裁をとる場合もあるけど、これ、説教だと思う。けど、「できる」と判断している人は、ほんとうに正しいのかという問題がある。

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「できない」ということを認めない人たちがいるんだよ。まあ、この人たちは、自分のことに関する判断は、わりと正確なんだけど、他人に対する判断は、まちがっている場合が多い。自分が経験してないことだと、軽く見たり、無視して、「できないなんてことはない」と言い出す。言霊主義者は「できるできると言えばできる」と言い出す。

じゃあ、言霊主義者のBさんが、なんでもできるのかというとできないのだ。Bさんもできないことがある。Bさんが「俺は、勉強なんてまったくできないよ」と言ったとする。えっ? できないの? 「できると言えばできる」のではないか? これ、よく言霊主義者の人が、「俺なんて、勉強なんかできなかったよ」と言ったとする。えっ? できないの? 「できるできる」と言えばできるんでしょ。

自分の経験をとおして「できない」と思っていることについては、言霊主義者だって「できない」と言うのである。自分の経験をとおしてわかっていることだから、そういうふうに言うのである。「できない」と言うのである。けど、これは、おかしい。言霊主義者なら「できるできる」と言えば、なんだってできるはずだ。できないのであれば、「できるできる」と言ってもできないことがあるということを認めなければならない。ほんとうに、どっちも認めないんだよな。言霊主義者は、いつまでたっても、「できると言えばできる」と言っている。本人ができないことがたくさんあるのに、そういうふうに言って、ゆずらない。

きちがい兄貴にたたられると、「ちゃんと」はできなくなる

 きちがい兄貴にたたられると、「ちゃんと」はできなくなる。できなくなるんだよ。どれだけがんばったって、できなくなる。ぎりぎりのところで、がんばり続けて、おかしくなる。からだが、不可避的にこわれる。本人……つまり、ぼくは、そのことを、経験して知っているけど、ほかの人は、まったく、知らない。「きいたはなし」でしかない。「そんなのは、平気だ」と思うわけだ。「自分だったら、たとえそういうことが起きたとしても、やっていける」「いつまでも続く後遺症なんてない」と思うわけだ。けど、これは、経験してない人の感覚なんだよ。けど、みんな、みんな「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言って、「ちがい」を認めない。苦労したのはわかるけど、事実、同等の経験をしてない。事実、みんなには、きちがい兄貴がいない。みんなには、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、騒音を出し続ける家族がいない。ちがうのだ。

死にものぐるいになってがんばっているのに……みんな、みんな、「あまえている」と言うのだ。こんなのない。しかも、「あまえている」と言っているやつらには、きちがい家族がいないのである。きちがい的な意地で、ほかの人が鳴らさないような音を、ほかの人が鳴らさないような音のでかさで、ほかの人が鳴らし続けないような、時間の長さ、ずっと、鳴らすような家族がいない。おやじうちに、いない。すぐ横にいない。透明な壁なら、手を伸ばせば届くような距離に、きちがい的にでかいスピーカーがない。これ、ちがうんだよ。ちがうの……。けど、俺がどれだけちがうと言っても、ほかの人は、はなからちがいなんて、わからない。経験してないのだから、わからない。経験的にわかってない。この「経験的にわかってない」というのが問題だ。けど、「苦労」とか「騒音」とかという程度にまで抽象化されると、みんな、経験していることだということになる。ぼくのきちがい兄貴の騒音は、異常な騒音で、みんなが経験してない騒音なのだけど、みんな、「苦労」とか「騒音」とかを経験している。この、みんな、苦労とか騒音を経験しているというのは、事実だ。事実だけど、それは、抽象化したレベルで、苦労とか騒音とかと言っているだけなのだ。「ちがう」と言っても「ちがい」がわからない。俺が「ちがう」と言っても、経験がない人は「ちがい」なんて、わからない。まーーったく、まーーったくわからない。

みんな、ほんとうは、「やられれば」「ちゃんとできなくなる」のに、それが、わからない。やられたことがないからだ。けど、「苦労した」とか「騒音ぐらいあった」と言う。そりゃ、あったのだろうけど、ちがう。

そして、ぼくがちがいを強調すると、「自分だけが苦労したと言うのか?」と思うやつが出てくる。実際に経験してないからわからないやつは、みんな、みんな、そう思うわけだよ。そいつらは、そうだ。そいつらの発想はそうだ。「自分だけが苦労した」と俺は言ってない。抽象化して、同レベルの経験にして、「あほなこと」を言うな。

誤解がきつい

 きちがい兄貴のやり方が異常で、ほかのところには、ない、やり方だから、ぼくが必然的に、誤解をうけることになる。誤解だらけの人生だ。この、誤解がきついのである。みんな、悪意なく、誤解をする。誤解がきつい。

2024年5月29日水曜日

ただひたすら、明るいことを考えていればいいんだよ

 「思霊」を信じている人が、勝手に、思霊を信じているぶんにはいいけど、この時代だと、「明るいことを思うと明るいことが起こり、暗いことを思うと暗いことが起こるので、暗いことを言うな」と言ってくるのは、納得がいかない。

支配者層が、民衆をだまして、悪いことをしている。

これは、基本的に「暗いこと」だ。「暗いこと」が発生しないように、気をつけようと言ってるのだ。それを、なんだ。

誰もが指摘しないままだと、平凡な民衆がまだされ続けたままになってしまうだろ。

平凡な民衆がやばい選択をすることになるだろ。そうなると、特にやばい選択をしなかった人も、まきぞい、をくうようになっている。これも、暗いことだ。

誰かが言わなければ、気がつかないのだから、誰かが言わなければならない。はっきり言ってしまうと、「暗いことを思うと暗いことが起こるので、暗いことを言うな」と言ってくるやつが、暗い世界をつくっているんだよ。

どうしようもなく、暗いところに落ちていく状態を維持しようとしているんだよ。

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それに、ひとつ前の投稿で説明したけど、思霊主義者は、自分が思ったとおりになると言っているのだから、思霊主義者は、自分が明るいことを考えていればいいということになるんだよ。

自分が明るいことを考えていれば、明るいことが起こるのだから、人の発言にちょっかいをださずに、ただひたすら、明るいことを考えていればいいんだよ。

思霊主義者の主張を考えるなら、他人が暗いことを言うと、暗いことが起こるというのは、おかしいんだよ。思霊主義者の主張を考えるなら、他人が暗いことを思っていると、暗いことが起こるというのはおかしいんだよ。

「自分」が明るいことを思っていれば、絶対に明るいことが起こるんだよ。暗いことは起こらないんだよ。なにを言っているんだ? 自分がなにを言ったかおぼえてないのか?

それよりも、現実的な力をもっている支配者層が、これだけ、暗い方向に引っ張ろうとしているのだから、そっちに引っ張られたらダメだということを、言うべきなんだよ。

2024年5月28日火曜日

けど、これは、「思霊」のすごい力によって、現実化したわけではない

 たとえば、線香花火をやりたいと思ったとする。線香花火に火をつけて、火花が散るところを見たいと思ったわけだ。そして、線香花火をやって、火花が散るところを見たとする。思いは実現化した。なら、思いは実現化すると言えるのかどうか? 思いは実現化するとは、言えない。命題として考えた場合、『偽』だ。基本的には、思霊主義者は、現実的なプロセスをすべて無視して、「思い」と「結果」だけを、結びつけて考えてしまう。線香花火をやりたいと思ったから、線香花火を買えるだけのカネを用意した。そして、線香花火を買いに行った。線香花火を持ち帰って、線香花火ができる場所に移動した。そして、線香花火に火をつけた。そうしたら、線香花火が火花を散らすところを見ることができた。思っただけではなくて、カネを用意するとか、線香花火を買いに行くとか、線香花火を持ち帰るとか、線香花火に火をつけたというような実際の行動は、全部無視する。「線香花火をやりたいと思ったから、線香花火をすることができた。線香花火から火花が出るところを見たいと思ったから、線香花火から火花ができるところを見ることができた」と思ってしまう。「から」は、言ったあとの特殊なケースとおなじで、たしかに、「理由」として成り立っているような印象を(聴いているものに)あたえる。そういうことを思ったから、行動した。その結果できた。けど、これは、「思霊」のすごい力によって、現実化したわけではない。思霊にすごい力が宿っているから、思っただけで、できたわけではないのだ。思ったあと、現実化するために、現実世界において、物理的な運動をしている。この物理的な運動の結果、現実化したのだ。「思霊」にすごい力が宿っていて、そのすごい力が、物理的な運動を介さずに、思ったことを現実化したわけではない。だから、自分自身をだましてしまっているのだけど、これは、一種の詐欺だ。嘘なのである。

これは、別に、線香花火だけに限った話ではない。「いつか、自分の家を買うぞ」と思った。そのあと、おカネをためて、自分の家を買った。「思い」が現実化した。しかし、現実世界において、自分がやった行動をすべて忘れてしまっている。思っただけで、現実化したのか? ちがう。自分が現実世界において、実際の行動をしたから、現実化した。それなのに、自分の行動をすべて無視してしまう。「思ったから」「現実化した」のではなくて、「実際に行動したから」「現実化した」のだ。起点としては、もちろん、思った「から」ということが言える場合もある。けど、これは、言霊で言えば、「言ったあと」の特殊なケースとおなじことだ。「思ったあと」の特殊なケースなのだ。言葉の使い方はあっているのだけど、日常生活的な意味と、思霊的な意味が、「かけことば」になっているのだ。一種のトリックがある。意味がかさなるけど、思霊的な意味はない。思霊の、超物理的な、ものすごい力によって、現実化したわけではないからだ。

けど、思霊主義者も、「思い方」の問題にしてしまう。

 思霊を信じる人たちは、まったく、悪意がない。悪意がないのだけど、たいへんまずいことをやっている。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」のだから、不幸な人に「明るいことを考えればいいことがあるよ」と言うだろう。ところが、悪い条件によって不幸になっている人というのは、悪い条件によって不幸になっているわけで、なにも、その悪い条件によって不幸になっている人が、「悪いことを考えたから不幸になったわけではない」のだ。けど、思霊主義者は、条件というのものを無視する。あるいは、考えたとしても、軽く考えてしまう。条件や条件がもたらす結果は、簡単に「思いようで」かえることができると思っているわけだから、軽く考えて、当然だ。考えるまでもなく、無視するというのが、思霊主義者の態度になる。そして、考えた場合も、悪い条件は、たいして影響をあたえないと考えてしまうのだ。ところが、思霊主義者を含めて、みんな、じつは、悪い条件の結果に反応している。不幸な人というのは、すでに不幸な人なのだけど、説教をされるポジションにいる人なのである。あるいは、もうちょっと好意的に言うと、不幸な人というのは、すでに不幸な人なのだけど、助言をされるポジションにいる人なのである。その助言というのは、不幸をもたらした助言を無視した、助言なのである。不幸をもたらした、実際の条件には、まったく影響をあたえない助言なのである。なので、その条件が、いまだに、成り立っていて、不幸な人の行動や、行動の結果を左右するものなのであれば、当然、助言に従ったところで、うまくいかないのである。なんでかというと、その条件が成り立っているからだ。悪い条件が過去から現在まで成り立ってきた。成り立ってきた結果としての不幸がある。その不幸な状態を、「明るいことを考えればいい」というような助言で、くつがえすことができるかというと、できない。これも、「思ったあと」と「思ったから」の混同があるから、たまたま、「いいことがあれば」真実だと思ってしまうのだけど、真実じゃない。悪い条件がもたらしていることというのは、現実的なものなんだよ。悪い条件がもたらしていることというのは、現実生活に、影響をあたえたものなんだよ。じゃあ、その人が……不幸な人が、「こういうふうになりたい」と明るいことを考えたことがないとでも言うのか? どれだけ「明るいこと」を考えても、うまくいかなかったんだよ。たとえば、きちがい的な兄という条件があるとする。そのきちがい的な兄が、きちがい的な意地で、毎日騒音を鳴らすとする。それが、条件として成り立っているとする。その場合、鳴りやまなければ、以前の状態にはもどれないんだよ。そして、騒音生活のなかで、どれだけ、明るいことを考えても、悪いことばかり起こるという状態になる。だから、これは、「紅茶が出てくると思えば、紅茶が出てくる」というような助言なんだよ。そういう助言をしている人は、「思ったから」と「思ったあと」の区別がつかない人なんだよ。だから、たまたま、自分が「紅茶が出てくる」と思ったあと、奥さんが気をきかせて、紅茶をもってきてくれたら、「思ったことが現実化した」と思てっしまうんだよ。けど、それには、まず、そういう気がきく奥さんがいるという上限が成り立っているんだよ。ともかく、これは、「思い方」の問題ではない。けど、思霊主義者も、「思い方」の問題にしてしまう。自分は思い方がうまいから、思いを現実化させることができるけど、ほかの人は、思い方がへたくそだから、思いを現実化することができないと考えてしまうのだ。すべてが、夜郎自大なのだ。この人たちの考え方には、夜郎自大な部分がある。まあ、幼児的万能感が、もっと下に、横たわっているのだから、そうなる。ともかく、問題なのは、「思い方」ではない。けど、「思い方」のせいにされてしまう。「助言」という一項目がはさまったために、「思い方」に格差があり、「思い方」のうまいへたがあるような感じがするけど、ほんとうは、「思い方」には格差がなく、「思い方」のうまいへたはない。けど、これまた、実際に条件が悪くて不幸な人は、「思い方がへたくそな人」というレッテルを貼られることになる。思霊主義者が、いいことをしようと思ってやってることは、そういう結果になる。

2024年5月27日月曜日

こんなのは、ない

 ヘビメタ騒音というくそのせいで、俺がほかの人から悪く言われる。ヘビメタ騒音という癖のせいで、俺がほかの人から、なめられる。すべてが、頭にくる。あのきちがいの音にたたられて、次の日学校に行くということが、どういうことなのかわかっているのか? わかるわけがない。わかるわけがない。こいつらは、みんな、「ヘビメタ騒音とやらが鳴っていたとしても、宿題ぐらいできる」「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、遅刻しないことはできる」と言ったやつとおなじだ。きちがい兄貴が、よそのうちにはいない、きちがいだから、俺が誤解をうける。「ヘビメタ騒音とやらが鳴っていたとしても、宿題ぐらいできる」……そのあとは「だから、エイリさんはあまえている」「エイリさんは言い訳をしている」「ヘビメタ騒音のせいにして、宿題をやりたくないだけなんだ」……ということを言うわけだよ。言わなくても、そう思って、俺を見下す。「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、遅刻しないことはできる」……そのあとは、「だから、エイリさんはあまえている」「エイリさんは言い訳をしている」「自分が遅刻したのを、お兄さんのせいにしているだけだ」……ということを言うわけだよ。言わなくても、そう思って、俺を見下す。こんなのが、毎日続いていいわけがないだろ。くやしいから、きちがい兄貴に、「やめてくれ」「宿題ができないからやめてくれ」「明日、遅刻してしまうからやめてくれ」と言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじ頭で、否定して、けっきょく、自分がやりたいようにやりきる。すべての時間、自分が満足できる音で鳴らし続ける。そうなると、不可避的に、勉強ができなくなり、宿題を忘れるようになり、遅刻するようになる。けど、それが、俺のあまえだというのだ、俺のあまえだというやつらは、みんな、きちがい兄貴にやられてない。俺の部屋にいて、きちがいヘビメタ騒音にさらされるているわけではない。けっきょく、自分の騒音体験をもとに、俺を見下すようなことを考えて、見下しているだけではないか。これ、おなじことをやられれば、「できない」ということがわかるんだよ。けど、おなじことをやられないから、「どうしてもできない」ということがわからない。「自分ならできるだろう」と思って、ちがった前提に立った、まちがったことを言う。そのまちがったことというのは、こっちにしてみれば、たえきれないことだ。腹がたつことだ。けど、こいつらは、俺にとって腹がたつことだということを認めないのだ。そうなると、きちがい兄貴がやっていることと、似てくる。だいたい、ヘビメタ騒音の影響を、無視したり過小評価するな。ものすごく、頭にくる。日本人というのは、きちがい家族にやられたやつを、めちゃくちゃに攻撃してくるやつらなんだよ。きちがい家族のもとにうまれたやつは、きちがい家族と、世間のやつら、両方に、やられる。こんなのは、ない。いままでここで取り上げてきた、きれいごとだけど、このきれいごとが、きちがい家族という条件をかかえている人を、せめて、ほろぼすんだよ。

ヘビメタでくるしかったなぁ

 ヘビメタでくるしかったなぁ。だれもわかってくれなかったなぁ。もう、つかれたなぁ。

2024年5月26日日曜日

頭は、ボコボコだよ

 まあ、音楽を聴いたり、ボイスコミックを聴いたりといろいろとやったけど、おもしろくないね。まあ、好きな異性がこの部屋にいたら、まあ、ちょっとは、やすらぎになるか? けど、頭がモヤモヤして、だめだ。たぶん、やすらぎにならないと思う。もう、いろいろなことが、めんどうくさくなっている。つまらないと言っているけど、これで、なにかやることがあったら、かなり、へこむ。どうしてこうなったかというと、やはり、ヘビメタ騒音と関係がある。ヘビメタ騒音が鳴っている生活のなかで「予定」があると、切羽詰まった気分になるのだ。これは、強制的にそうなる。ヘビメタ騒音のほうが鳴りやんでくれないと、「予定」が普通の予定ではなくなってしまう。どれだけ、切羽詰まった気分になったかわからない。悪い意味で、緊張感があるのだ。頭は、ボコボコだよ。ヘビメタ騒音によって、うまくいってないのだから、くるしい。睡眠時間にも影響をあたえる。 

実際にきちがい兄貴が、あれだけ長い期間、あの音(のでかさ)で鳴らさなかったら、俺だって、わからないと思うんだよね。いまの俺が、なにを言っているのか、感覚的にわからないと思う。みんなのうちには、うちのきちがい兄貴の多様なきちがいがいない。そして、みんなのうちには、そういうきちがい兄貴の騒音をサポートしてしまう、きちがい親父もいない。うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父の性格について、普通の人が理解することは、不可能なのである。だから、普通の人の性格を思い浮かべて、あるいは、ちょっと変な人の性格を思う浮かべて、いろいろなことを言うわけだけど、それが、すべて!まちがっている。まちがっているのだけど、普通の人には、うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父の性格がわからないのだから、まちがっているということも、わからない。わからないということでなにか不便がしょうじるかというと、わからないということで、不便はしょうじない。むしろ、わかる人は、もう、相当にいろいろなところで不利な思いをしていると思う。ともかく、普通の人は、きちがい家のことは、わからない。「うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父の性格がわからない」と書いたけど、わからないのは、性格だけではなくて、行動もわからない。感覚もわからない。そして、行動の結果……うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父の行動の結果、どういう影響が、自身の身にしょうじるか、まったくわからないまま、いきている。わかるはずがないのだ。うちのきちがい兄貴や、うちのきちがい親父の行動の影響を実際にうけていないのだから、わからない。これ、特殊なんだよ。普通の人が経験しないことなんだよ。経験してなければわからないことがある。

どこかに行くときの気分と言ったら、ないのだ。これは、歯医者に行くのがいやだとか、そういう話ではない。普通だったら、楽しみにすることが、すべて、強烈な負担になる。好きな異性と会って、話すをすることですら、ものすごい負担になる。半分以上、ヘビメタ騒音のことで腹をたてている状態だ。そして、そういうところに行くときの気持ちなんだけど、これは、きちがいヘビメタ騒音にたたられて、寝不足で起きて、学校に行くときの気分だ。普通の人が「学校に行きたくない気持ちはわかる」と言ったとする。けど、それは、ヘビメタ騒音にたたられた結果、「学校に行きたくない気持ちになっている」ぼくとはちがうのである。これは、学校でいじめられたから学校に行きたくない人の気持ちともちがう。だから、両方から、理解されない。ぼくは、普通の人にも、いじめられたから学校に行きたくない人にも、理解できないことについて語っているのである。これ、ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったら、どれだけでかい音で鳴らしたくても、鳴らさなかったと思う。そして、もし、鳴らしたとしても、一日目の一〇分後に「やめてくれ」「鳴らされないでくれ」と言われたら、しぶしぶ、やめたと思う。しぶしぶ、鳴らすのをやめて、それ以降、そういう音で鳴らさないようにしたと思う。普通の人なら、絶対にそうしたと思う。絶対にそうすると思う。

ほんとうだっら、好きなところに行くときの、破滅的な気持ちなんて、普通の人にわかるはずがない。


2024年5月25日土曜日

高校時代と、中学時代、毎日続いたことが、関係ないわけないだろ

  一日や二日で、ヘビメタ騒音が終わるなら、「あのころは、くるしかった」で、すむのだけど、そうじゃないんだよね。一日や二日のことなら「過去なんて関係がない」と言われても、そんなには、腹がたたないけど、一日や二日のことじゃないからね。ほんとうに、ヘビメタ騒音で勉強ができない。どれだけ俺が、かっこう悪い思いをしてきたか。毎日のことだから、問題なんだよ。毎日、十数年続いたら問題だろ。人間にとって一番重要な、高校時代と、中学時代、毎日、きちがいの音が鳴って勉強ができないということは、問題だろ。その人の人生に大きな影響をあたえるだろ。「過去なんて関係がない」と言える人は、きちがい家族と一緒に住んだことがない人なんだよ。「過去なんて関係がない」と言える人は、人間にとって一番重要な、高校時代と、中学時代、毎日ふみにじられたことがない人なんだよ。

高校時代と、中学時代、毎日続いたことが、関係ないわけないだろ。そういう、人の気持ちをさかなでするようなことを、えらそうに言って、なにも感じないやつも、問題があるぞ。

何十万回言われても、わからない。何十万回そのことでもめても、わからない。

 

 きちがい親父が入院しているときにわかったことなんだけど、きちがい親父が、親戚の人に、俺のことを悪く言ってたみたいなんだよね。でっ、親戚の人が俺の悪口を言っていたらしい。ようするに、親父が親戚に吹き込んだことというのは、俺が、その親戚の人たちを、バカにしているということなんだよね。俺は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられて、きちがいヘビメタ騒音で大学に受からなくなってしまったので、親戚にあいにくくなった。そのあとも、就職しなかったので……しなかったというよりも、ヘビメタ騒音で働けないからだになったので、就職するわけにいかなかったのだけど、就職していないと、やっぱり、親戚の人にあいにくいというのがある。というわけで、あわなかったんだよね。あとは、おじいちゃんの葬式に、きちがい兄貴が出るので、俺はきちがい兄貴にあいたくないので、おじいちゃんの葬式には出ないということを、あらかじめ言っておいたのだけど、おじいちゃんが、実際になくなったら、その気持ちは、ちょっとやわらいで、「葬式に出てあげようか」と親父に言ったんだけど、親父が「こなくていいよ」と言うので、けっきょく、いかなかった。おじいちゃんの葬式できちがい兄貴をなぐったり殺したりして、迷惑をかけるのは、問題があると、思っていた。けど、まあがまんして、葬式に出てあげようかなという気持になって、当時、親父に「葬式に出てあげようか」と言ったときの答えが、これだ。でっ、この葬式の話は、親父が入院する一八年ぐらい前の話だ。まだ、おかあさんも生きていた。このおじいちゃんというのは、おかあさんの父親だ。けど、おじいちゃんとおばあちゃんは、再婚同士なので、おかあさんと、ぼくが知っているおばあちゃんというのは、血のつながりはない。でっ、ともかく、きちがい親父が、ヘビメタ騒音のことをかくしていたんだよ。で、時間的には、この葬式のころからは、ずっとあとのことになるのだけど、ともかく、俺が、その親戚の人たちのことをバカにしているから、親戚の人たちにあおうとしないという作り話をしたみたいなんだよな。きちがい親父としては、自分が、いい人で、ほめられたい気持ちがあるんだよ。これ、きちがいだから、そういうことに出てしまう。なんていうのかな、自分の子供をダシに使って、自分がいい人になりたいというのがあるんだよ。ばれちゃうわけだけどさぁ。きちがい親父が死んだあとに、ぼくと親せきの人で、電話で話したときに、ぼくが、親戚の人にあわなかったのは、大学に落ちて、かっこう悪いからあえなかったというようなことを、話した。えーっと、これ、ぼくにしては、時系列的なこととか、登場人物の話をしてないのだけど、まあ、いいよ。親戚のひとと言っても、いろいろといるからね。じつは、ほかにも、ちょっとここでは書けないことがある。けど、ともかく、きちがい親父は、普通の親ではないし、普通の人間でもない。これ、ちがうんだよ。孤児として、ずっといじめられてきたというのが、いろいろなところ出てしまうんだよね。ともかく、普通の人じゃないんだよ。これ、ほかの人にはわからない。いろいろなところに、普通の人ではない「部分」というのが出てしまう。きちがい親父は、「家庭」というものがわかってないんだよ。自分が、虐待されただけだから、「家庭」というのがまるでわからない。だから、いろいろなところで、くるっている。最初から人間としておかしい部分があるのである。で、「子供の悪口を言って……」「わたしたちに、エイリちゃんの悪口を言わせて……」というようなことを親戚の人が言った。仏壇を拝みたいということだったんだよね。これは、親父が死んだときだ。で、親父が死んだときなんだけど、ネズミがいっぱいいた時期だ。これ、きちがい親父が残していったものが、ネズミとネズミの糞と、ダニなんだよ。「ともかく、ダニに刺されるし、ネズミの糞がころがっている状態だから、仏壇のまえに、立つようなことはできない」というようなことを、ぼくが、親戚の人に言ったわけ。でっ、親戚の人が、兄貴の嫁さんに電話をかけて、「ネズミの話はほんとうなのか?」いうことを訊いたわけ。で、兄貴の嫁さんは、当然、知っているから、「ほんとうですよ」と言うようなことを言ったわけ。俺は、親父の入院とか、親父の老人ホーム探しとか、親父の葬式で、兄貴にあってない。やっぱり、ぶんなぐって殺しそうだから、あってないんだよね。かわりに、兄貴がやるようなことは、全部、兄貴の嫁さんがやったわけ。

兄貴のヘビメタ騒音でいろいろとはずかしい思いをしているんだよね。これ、総量がわからないだろうと思う。どれだけのことが起こったかわからないと思う。だから、「過去は関係がない」とか「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは関係がない」と言う他人が出てきてしまうわけ。こいつら、わかってないよ。

大学に受からなくてはずかしい思いをするのは俺なんだよ。きちがい兄貴は、きちがいだから、まったく気にしてない。頭が、きちがい親父とおなじなんだよ。兄貴と親父は、性格がおなじなんだよ。これ、ほんとうーーに、わからないんだよね。自分がやったことで相手がどれだけこまっているか、わからない。言われたら、きちがい的におこって、おしまい。本人が発狂してはねのけたら、まったくなにも残らない。だから、何十万回やってもおなじなんだよ。何十万回もめてもおなじなんだよ。普通の人だったら、わかることがわからない。これは、きちがい親父もきちがい兄貴もおなじだ。主語? 主体? きちがい兄貴と、きちがい親父は、普通の人だったら、言わなくてもわかることがわからない。何十万回言われても、わからない。何十万回そのことでもめても、わからない。一回も言われてないと思ったまま、生活する。やることをかえない。自分がやりたいことは、そういうやり方で押し通してやってしまうんだよ。けど、そういうやり方で押し通してやったということが、ほんとうにわかってないわけ。だから、いつも、悪気がないんだよ。じゃあ、やめてくれるのかというと、やめてやるということは、絶対にないんだよ。発狂して、やめてやらない。これが、「ゆずる」ということにも発揮されていて、相手にとってまったく無意味な「譲歩」しかしない。これ、きちがいなんだよ。ほかの人はまったくわからないけど、きちがいなの……。うちの親父と、うちの兄貴は、こういうことについて、きちがいなんだよ。

まあ、ちょっと、今回の説明は、かくしたいことや、言いたくないことがあるので、なんかいろいろと省略した説明になった。かくしたいことって、これ、親父の名誉のために隠しておかなければならないことなのである。

2024年5月24日金曜日

影響……ある。影響……うける。

 ほんとうに、すべてがすべて、ヘビメタ騒音にしばられてしまうのである。ヘビメタ騒音の影響をうけずに、活動することが、まったくできなくなってしまうのである。きちがい兄貴のやり方は、そういうやり方だ。やられてない人が、「すべてではないだろ」とか「たとえ、ヘビメタ騒音があるにしろ、活動することは可能だ」とか言うのである。けど、やられたら、ぼくが言ってることを実感するようになると思うよ。この人たちの家族が、きちがい家族ではなくて、まともな家族だから「経験しなかったこと」なんだよ。経験しなかったことに関する、無理解ぶりがひどい。ほんとうにすべての活動が、不可避的に影響をうける。女の子とつきあうということだって、ヘビメタ騒音が鳴っているのと……ヘビメタ騒音生活が続いている場合と、ヘビメタ騒音生活が続いていない場合では、ちがうのだ。影響……ある。影響……うける。

当時、俺にえらそうなことを言ってたやつが、ことのごとく無職になっている

  当時、俺にえらそうなことを言ってたやつが、ことのごとく無職になっている。人間は働くべきなんだろ。働け!! おまえ、自分がなにを言っていたのか、忘れたのか? おまえ、自分がなにを言ったのか、わかっているのか? ほんとう、ふざけるな。人間は働くべきだから、死ぬまで働け。俺にえらそうなことを言っていたやつは、死ぬまで働け。なんで働かないの? つかれた? 老化した? ふざけんな。

だいたい専業主婦の中年は、当時だって、無職なのに、俺にはえらそうなことを言っていた。こいつら、いったい、なんなんだ。ほんとうに、ふざけんな。 

みんな、ヘビメタ騒音級の騒音にずっとずっと毎日たたられたら、働けなくなる。それが、たたられてない人にはわからない。みんな、わかってない。どうしてかというと、そういう人たちには、きちがい家族がいないからだ。きちがい感覚で、でかい音で鳴らしてないつもりで、でかい音を鳴らす家族がいないからだ。こんなのない。こんな不公平な話があるか? ヘビメタ騒音と言えば騒音の話になるけど、「よその人とうまくいかなくなる」騒音なのである。俺が、ヘビメタ騒音級の騒音をやられてない人から「えらそうなことを言われる」ということまで、含んでいるのである。そりゃ、必然的にそうなる。わかってないやつが、わかってないから、言う。「そうなる」ということがわかってないやつが、「そうなる」ということがわかってないから、無理難題をおしつけてくる。そいつにとって無理難題じゃないのは、きちがい家族がおらず、きちがい家族の騒音を経験しなかったからなんだぞ。そいつだって、きちがい家族の騒音を毎日十数年間続けてきかされてきたら、働けないからだになっている。働けないからだになるというのがわかってないというのは、ヘビメタ騒音級の困難を経験しなかったからだ。

じゃあ、俺にえらそうなことを言ってきたやつのなかで、きちがいヘビメタ騒音級の騒音をすくなくても、中学時代のすべての日、高校時代のすべての日、経験したやつがいるのか? いないじゃないか。経験してないんだよ。経験してないから、「わからずに」無理難題を言う。 経験してないから「無理だ」ということが、まったくまったくまったく、わかってない。これ、経験してないからわかってないやつが、言っていることなのである。けど、こいつらも、きちがい兄貴とおなじではないけど、わかってないということがわかってない。「俺だって苦労した」このひとことで、ヘビメタ騒音級の騒音を経験したということにしてしまう。あるいは、ヘビメタ騒音級の苦労をしたということにしてしまう。これ、ヘビメタ騒音級の苦労をした人は、そんなことは、言わない。「わかっている」のであれば、言わない。「わかっている」のであれば、たとえば、働けなくなるので、働いているという状態で、えらそうなことを言えなくなる。経験がなくて、まったくまったくわかってないから、えらそうなことを、とりあえず、言える立場で、えらそうなことを、言っている。

とりあえず、小学生時代をぬかして、中学時代と高校時代を学生時代ということにする。学生時代ずっと、ヘビメタ騒音級の騒音をきかされ続けた人が、いるのかよ? そんな人、いない。「俺だって苦労した」と言っている人は、学生時代ずっと、ヘビメタ騒音級の騒音をきかされてない。そういう苦労がないやつらだ。

*     *     *

きりきり舞いの生活をした人が「そんなの、関係がない」「過去は関係がない」と言えるのかというと、言えない。きりきり舞いの生活ではなくて、あるていど余裕がある生活なんだよ。そして、「そんなの関係がない」と言われたときに「心外な気持になる」ということを経験してない人なんだよ。きりきり舞いの生活をした人にとって、「そんなの、関係がない」と言われるのは、心外なことなんだよ。自分の経験からくる気持ちと、相手が言った「そんなの、関係がない」というひとことのギャップにくるしむものなんだよ。それがわかってないということは、たいして、きりきり舞いの生活をしなかったということなんだよ。きりきり舞いと言っているけど、限界生活だ。ほんとうに、どれだけ、ひどい騒音かわかってないな。ひどい騒音が、どれだけ影響をあたえるかわかってないなぁ。家族によるひどい騒音がどれだけ、影響をあたえるか、まったくまったく、わかってないなぁ。そういう無理解発言を、『相手をはげますつもりで』してしまうというのは、問題がある。これ、こういうやつらの鈍感さって、なんなんだ? これ、『相手をはげますつもり』や『あたりまえのことを言っているつもり』があるとしたら、ほんとうに、失礼なことだぞ。相手に対して失礼なことだぞ。

経験も想像力も気遣いもないから「そんなの、関係がない」と言っているんだよ。経験があり、想像力があり、気遣いがあるなら、そんなこと、口がさけたっていえないよ。失礼すぎて、言えない。

「そんなの関係がない」と言われたときの気持ちがわかってないというのは、そういう苦労をしてないということ

  ほんとうに自分がくるしい思いをしているのに「そんなの関係ない」とか「過去は関係がない」とかと言われたら、どんな気持ちになるか、わかっないやつが、経験した苦労なんて、たいしたことがないよね。「おまえが経験した苦労なんてたいしたことじゃない」と言われることの一万倍ぐらい、くやしい思いをするよ。ヘビメタ騒音というのはそういう騒音なんだよ。実際、「そんなの関係ない」とか「過去は関係がない」とかと言ったやつには、きちがい家族がいないんだよ。きちがい家族がもたらした『不幸』がないんだよ。きちがい家族がもたらしたくやしい経験がないんだよ。

「できない」というのも、きちがいヘビメタ騒音のなかで「できない」ということを思い知らされて、時間が経過するんだけど、そういう時間経過を経験してないんだよね。単なる騒音とおなじだと思っている。おなじであるわけがないだろ。何度も言うけど、うちのとなりはでかいでかい幼稚園だ。うるさいんだよ。きちがい兄貴がフォークギターを何年も毎日練習して鳴らしていた。うるさいんだよ。けど、そういう騒音じゃないんだよ。ほんとうに、きちがいヘビメタが鳴ってたら……そこで鳴っていたら……すぐそこで鳴っていたら……一秒も勉強ができない。しかも、この勉強ができない時間は、ただ単に、勉強ができない時間じゃないのである。ほかの有益なことでいそがしかったから、勉強ができない時間とはぜんぜんちがうのである。この、きちがいヘビメタの時間が、どれだけ、鳴り終わった一一時一一分以降の時間に影響をあたえるか、ぜんぜんわかってない。 この、きちがいヘビメタの時間が、どれだけ、次の日の朝に影響をあたえるか、ぜんぜんわかってない。この、きちがいヘビメタの時間が、どれだけ、次の日の日中に影響をあたえるか、ぜんぜんわかってない。これらの影響が、どれだけ積もりまくるかまったくわかってない。わかってないのに、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言って、「そんなのは関係がない」と言う。実際には、経験してないんだよ。勝手に、同等の騒音を経験したことにするな。そういう態度、よくないよ!!

これまた、本人が、ぎりぎりな状態で「できない」ということを何度も何度も、何万回も、何億回も、何京回も、思い知らされたことを「そんなの関係がない」と言われたときの気持ちがわかってないというのは、そういう苦労をしてないということなんだよ。

2024年5月22日水曜日

「きちがい兄貴のヘビメタ騒音」の影響が、ちがいすぎるんだよ

 ほんとうに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音ときちがい親父の奇行で、こまったなぁ。これ、ほかの人にはないことなんだよな。そして、ほかの人にはないことだから、ほかの人は、わからない。「ぬき」で、話をしてくる。ところが、ぼくのすべてに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音ときちがい親父の奇行が影響をあたえている。他人は「むりだ」ということがわからない。認めない。ぼくが、ヘビメタ騒音生活のなかで感じた「無理な部分」というのを、他人は、経験してない。だから、わからない。じゃあ、そういう他人が、苦労をしていないのかというと、苦労をしていると思う。けど、質がちがう。量がちがう。実感があるんだよ。他人には見えない部分で、なんとか、しようと、死にものぐるい努力をしてきたんだよ。その死にものぐるいの努力のなかには「影響を最小限にとどめる努力」もある。影響をうけないのは、無理だ。けど、他人は、「質」がわかってないので、「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。経験がないので、「自分だったら影響をうけないことは可能だ」という前提が、頭のなかに成り立ってしまう。それは、しかたがないことだけど、ともかく成り立ってしまう。この人たちが、苦労をしてないかというと、苦労をしていると思う。けど、質がちがうんだよね。影響のでかさがちがう。ぜんぜんちがう。この人たちが想定している「きちがい兄貴のヘビメタ騒音とやら」の影響と、実際にぼくが日常生活のなかで経験した「きちがい兄貴のヘビメタ騒音」の影響が、ちがいすぎるんだよ。

 

2024年5月20日月曜日

無理解ぶりを発揮しているということは、同等の経験がないということなんだよ

 無理解ぶりを発揮しているということは、同等の経験がないということなんだよ。わかってないから、無理なことを言う。同等の経験があれば、無理だということが、自分のからだでわかっている。

自分のからだでわかってないということは、同等の経験がないということなんだよ。

「俺だって苦労した」「私だって苦労した」という言葉で、同質化するな。

ヘビメタ騒音の話を聴いたあと、ヘビメタ騒音のことを無視して「それでも働いたほうがいい」と言う人は、なにもわかってない。

こいつらは、ほんとうに、みんな……「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言うけど、同等の経験をした人が、普通に働けるということはない。

同等の経験をした人が、普通に働けない状態について、理解しないはずがない。

自分だって、ほんとうは、「同等の経験」をしてしまったら、働けなくなるのに、「自分だったら、そういうことを経験したとしても働ける」という前提でものを言う。

これ自体が、(こっちにとっては)侮辱なんだよ。わかってないなぁ。

*     *     *

あと、「本当につまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」と言っているやつだけど、こいつも、「俺だって苦労した」と言っているのだよね。

いやーー。「楽しい」と感じられるこころが残っているということは、その苦労が、それだけの苦労でしかないということを、物語っているんだよ。

もしかりに、楽しみを……そのあとも……感じなくなるような苦労をした人が、「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」と言うと思う?

言わないんじゃないかな。

だって、本人だって、楽しむことができなくなって、「つまらない」と感じているわけだから……。「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」と言うやつが、ほんとうにむなくそ悪いやつで、性格が悪いやつだと思う。

こいつも「俺だって苦労した」とひとこと言って、苦労を同質化してしまうやつだ。

そして、ほんとうに苦労した人を、ののしる。こんなやつが、いい人であるわけがないだろ。こんなやつが、同等の苦労をした人であるわけがない。

同等の苦労をした人は「わかっている」。

わかっているから、そんなことは、言わない。

本人が、「楽しめない状態」になっているからな……。その苦労の結果、本人が「楽しめない状態」になっている……。

そういう人が、自分のことは棚に上げて、そんなことを言うか?

言わない。

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがいなんだよ。きちがい兄貴が、家族の一員であるような家族は、少ないんだよ。極端に少ないんだよ。そんなにたくさんいるわけがないだろ。

きちがい兄貴は特殊だから、きちがい兄貴によってもたらされた「困難」も、特殊なんだよ。

きちがい兄貴によって、もたらされた「困難」があまりも特殊なので、ほかのやつは、理解できない。

けど、そいつらにも困難があった。困難を経験したというのはほんとうのことだ。けど、同質の困難じゃない。同種類の困難じゃない。

「困難」の「困難」が最初からちがう。

ちがうのに「おなじだ」と思って、まちがったことを言ってくる。無理なことを言ってくる。「無理なことではないと思って」無理なことを言ってくる。

どうして、「無理なことではない」と思えるかというと、同種類の困難だと、誤解しているからだ。異種類の困難なのに、同種類の困難だと誤認しているからだ。経験がないから、「困難」のちがいがわからずに、「同種類の困難を経験した」という前提でものを言ってくる。

これが、言われたほうにしてみれば、ものすごく腹がたつことなのである。これは、侮辱だ。言っているほうは、侮辱しているつもりがないと思っていると思うけど、侮辱だ。

挙句の果てに、「できると言えばできる」などと言う。これがどれだけ、頓珍漢な発言か、本人がわかってない。

実際、同質の困難を経験したと勘違いしている人が、言霊主義者である確率は、かなり高い。これは、だいぶ、かさなりあっている。ぼくの経験の範囲でいうと、八〇%ぐらいが、同質の困難だと勘違いしている人であって、なおかつ、言霊主義者だ。ぼくの経験の範囲でいうと、同質の困難だと勘違いしている人であって、言霊主義者ではない人は二〇%ぐらいしかいない。

*     *     *

言霊のように、ぼんくらな解決方法でも、解決方法として流通しているのは、問題がある。紅茶の話で説明したけど、言霊が物理現象に影響をあたえる確率はゼロだ。

言霊には、そんな力はない。

どれだけ言ったって、紅茶は出てこない。

喫茶店に入って、ウエイトレスがきたので、「この紅茶を飲みます」と言った。「この紅茶を飲みます」と言った結果、紅茶が目のまえにあらわれた。だから、言霊的な解決方法は有効だと言えるか?

言えない。

これは、言霊の力ではなくて、言葉で意思表示をしたから、言葉を理解できる人が、「紅茶を飲みたいのだな」と思って、紅茶をもってきてくれただけの話だ。

言霊! 関係なし!!

この場合、「この紅茶を飲みます」と言ったから、ウエイトレスがもってきてくれたのだから、「言ったから」ということが成り立つ。

けど、言ったあとの特殊なケースなのである。「言葉の力と言霊の力」の勘違いと、「言ったからと言ったあと」の勘違いが、両方とも成り立っている。これ、両方とも、言霊の力じゃないのである。

言霊主義者が、勝手に、事実を誤認しているだけ。

どれだけすごい言霊主義者だって、言霊の力を使って、現実化することはできないのである。

「三秒以内に、紅茶がはいったティーカップが、目のまえにあらわれる」と、どれだけうまい言い方で言ったって、「三秒以内に、紅茶がはいったティーカップが、目のまえにあらわれる」ということは起こらない。現実化しない。

もちろん、人がもってきてくれるとか、そういう話ではない。

言霊の力によって、ぱっと、目のまえにあらわれるのである。言霊主義者は、「自分はそういう魔法が使える」とまじで言っている人なのだ。

じゃあ、言霊主義者が、紅茶を飲みたいとき、「紅茶が目のまえにあらわれる」と言って、あらわれた紅茶を飲むのかというと、そうではないのだ。

普通に、ティーカップなり、なんらかの容器に、ティーバッグを入れて、そのあと、お湯をそそいで、紅茶をつくったり、ティーサーバーに紅茶リーフを入れて、お湯を入れて、ティーサーバーから、ティーカップなり、なんらかの容器に、紅茶をうつしかえて、紅茶を飲むのである。

もちろん、インスタント紅茶の粉を、ティーカップなり、なんらかの容器に入れて、そのあとお湯を入れて、紅茶をつくってから、紅茶を飲むという場合もある。

いずれにせよ、これらの方法は、現実的で、実際にできる方法なのである。

言霊のすごい力に頼って、言っただけで、問題を解決してしまうわけではない。

「あらわれる」と言っても、「あらわれない」ことは、言霊主義者だって知っているわけだ。

ところが、「言えば、言ったことが、現実化する」と言って、きかない。

じゃあ「三秒以内に、紅茶がはいったティーカップが、目のまえにあらわれる」と言って、紅茶を飲んでみてよ。言っておくけど、だれかにもってきてもらうのではなくて、言霊の力を使って、目のまえに出現させなければならない。

まあ、ただ単に「紅茶が出てくる」と言うだけだと、液体の紅茶が、出てきて、床や机の上が紅茶でよごれてしまうから、注意。入れ物に入った紅茶ということを明言しておかないと、単なる紅茶が、空間に突然あらわれることになるから、注意せよ。

でっ、そういう方法で、紅茶を飲んでいる人はいるの?

言い方がよければ、紅茶が出てきて、言い方が悪いと、紅茶が出てこないの?

どれだけ言い方がよくても、紅茶は出てこないと思うけどなぁ。

「言い方が悪から、出てこない」……これが悪質な言霊主義者が言う言葉だ。

悪質だろ。

自分だって、言霊の力を使って、紅茶をだせるわけではないのに、どの口でそんなことを言っているのか?

これも、自分は、紅茶をだせるつもりでいるのである。

これは、事実誤認なのである。

自分が言ったら、その通りになったことがある……これだけだ。「自分が言ったあと」と「自分が言ったから」の区別がついてない。自分が「明日は、雨になる」と言ったら、実際に雨になった。「これは、言霊の力だ」「自分は言霊の力を使える人間だ」と思ってしまう。

言霊の力じゃない。

言霊の力はないので、「自分は言霊の力を使える人間だ」と思っている人間も、言霊の力は使えない。言霊の力で、雨になることは、一〇〇%ないことなのである。

大気中には、さまざまな物質があるのだけど、その物質の相互的な運動の結果、雨がふったのだ。言霊の力で雨がふったわけではない。その人が「明日は、雨になる」と言った「から」雨がふったわけではない。

勘違いしているだけ。勘違い人間。

勘違い人間が、無理なことを言ってくるのである。

 

「言えば」の「ば」と、「言ったら」の「たら」は、曲者なんだよ。

  言霊の力というのは、言ってしまってはまずいのだけど、ない。一〇〇%の確率で、一〇〇%、ない。「ちょっとはある」ということはない。まったくない。

しかし、言霊の力があるように思えるのは、「言ったから」と「言ったあと」を混同しているからだ。また、「言葉の力」と「言霊の力」を混同しているからだ。

AさんとBさんがいて、Aさんが言霊主義者で、Bさんが、なんらかの問題をかかえている人だとする。その場合、Aさんが「言ったことが現実化するから、まるまるになると言えばいい」と、Bさんに助言したとする。Bさんが「まるまるになる」と言っても、まるまるにならなかった。

その場合は、言霊主義者であるAさんは「言い方が悪い」「何回でも○○になるまで言えばいい」「こころをこめて言えばいい」ということを言って、言霊には、まったく力がないことを認めない。

「言えば、言ったことが現実化する」と「こころをこめて言えば、言ったことが現実化する」というのは、まったくちがうことなんだよ。

けど、言霊主義者のなかでは、「おなじことだ」ということになっている。

ここまでは、ぼくがここで、ずっと言っていることだ。Bさんが「まるまるになる」と言ったら、まるまるになったと言う場合がある。これは、Aさんの助言がうまくいったケースだ。

けど、Bさんも、じつは「言ったから」と「言ったあと」を混同しているのである。あるいは、Bさんも「言葉の力」と「言霊の力」を混同しているのである。

なので、「言ったらその通りになった」という場合もあるけど、その場合は、言霊の力でそうなったのではないということは、言っておきたい。基本「言えば、言ったことが現実化する」という言い方のなかには、「から」という文字がでてこない。「言えば」という文字しか出てこない。

言霊の説明をしなければ、「言ったから、言ったとおりになる」ということは言ってない。「言えば」の「ば」は、仮定を意味している。「言った場合を」仮定して話しているのだ。

しかし、言霊主義者の意識を考えると「言えば、言ったことが現実化する」といのは、「言えば、言ったから、言霊の力によって、言ったことが現実化する」という意味になる。なので、「言ったから」と言っている場合とおなじ意味になる。

「言えば」のほかにも「言ったら」という言葉がある。事前に言霊の説明していなければ、「言ったら」という言い方のなかにも「から」という文字は含まれてない。

なので、「言ったら、言ったとおりになった」という場合は、ありえる。しかし、この場合も、言ったから、言霊の力によって、言ったとおりになったわけではないのだ。言霊の力によって、言ったとおりになることは、一〇〇%、どんな場合でもない。

言霊主義者が主張するような言霊の力が、存在しないからだ。「言えば、言ったとおりになる」「言ったら、言ったとおりになる」「言ったら、言った通りになった」という場合においても、背後にに言霊理論が成り立っているのであれば、言霊理論とおなじ誤謬がある。

「言ったら、言った通りになった」という表現は、じつは曲者だ。

事実の報告をしているように見える。実際に、この発言をしている人の頭のなかには、言霊理論が成り立っていて、言霊主義者とおなじように、「言ったから」言ったことによって、言ったことが現実化したと思っている。

「言ったら、言った通りになった」ということは、ある。けど、それは、言霊理論が正しいということを意味していない。言ったあと、別の理由で、言った通りになっただけだ。

「言えば」の「ば」と、「言ったら」の「たら」は、曲者なんだよ。

確率の問題を話しているとき、「言ったら、言った通りになった」のだから、確率はゼロではないと考える人が出てくる。「たら」には、たしかに、「言ったから」の「から」のような意味はない。

「たら」だから。

ただ単に、「接続の順番」について語っているだけで、「理由」については語っていない。「たら」という言葉を使って語っている人は、「たら」という言葉で、「接続の順番」について言及しているだけで、「理由」について言及しているわけではない。

けど、発言者の背後に、言霊理論が成り立っているのであれば、それは、「から」と言っているのとおなじだ。

「言ったら、言った通りになった」ということは、ありえる。

けど、それは、言霊の力によって言った通りになったわけではないのだ。

この場合は、言ったらの「たら」が、ただ単に時間的な順番(接続状態)を表現しているので、「言ったあと」言った通りになったということになる。

言ったあと、言霊(の力)ではなくて、別の原因で、言った通りになったのである。

けど、「言ったら、言った通りになった」と思っている人は、言霊の力によって、言った通りになったと思っているのである。

なので、誤解がある。

「言ったら」の場合、「言ったあと」を含んでいるので、「言ったら、言った通りになった」と思える確率は、ゼロではない。

けど、「言ったから、言霊の力で、言った通りになる」確率は、ゼロだ。

「言えば」の場合も、「言えば、言ったあと」という意味にも、とれる。その場合、「言えば、言った通りになる」確率は、ゼロではない。

けど、言えば、言霊の力によって、言った通りになる確率は、ゼロだ。

言えば、言ったあと、別の理由で、言った通りになる確率はゼロではない。

しかし、このことは、言霊には、言ったことを現実化させる力があるということを意味してないのである。

2024年5月19日日曜日

眠らなきゃいけないと思いながら、なかなか眠れない状態

  けっきょく、ちょっと、うとうとした一時間をぬかして、二五時間ぐらい起きていたので、けっこうくるしい状態だ。なんか、頭がダメージをうけた。眠らなきゃいけないと思いながら、なかなか眠れない状態というのが、いやなんだよな。これ、ヘビメタ騒音時代に、毎日繰り返されたことだ。きちがいヘビメタ騒音に六時間以上さらされたあとは、眠らなければならない時間に眠れなかったのである。そのときの精神状態というものは、かなり、悪い状態だ。これ、睡眠うんぬんは、「からだ」に属することなのだけど、「ヘビメタ騒音で眠れなくなった」ということは、精神に属することで、精神にいろいろな影響をあたえる。それから、発達障害ではなくても、睡眠時間が極端に少ない毎日が、何日も何日も、何十日も何十日も、何百日も何百日も、何千日も何千日も、続けば、注意不足になる。はりつめた気持ちで、「注意をむけよう」と思っていても、注意がぬける瞬間や時間があり、けっきょく、注意不足で失敗することが多くなる。さけようがないのだ。これ、睡眠不足でそうなっている。きちがい兄貴の騒音と振動で、眠るべき時間に眠れなくなり、睡眠不足になる。ほかの人は、それだけの長期間やられたことがないので、ヘビメタ騒音がなくなれば、「眠るべき時間に眠れなくなる」ということがなくなると思うだろうけど、そうじゃない。十数年間、毎日続けば、「眠るべき時間に眠れなくなる」という状態が、その騒音刺激がなくなったあとも、続くことがある。そして、けっきょく、睡眠不足による注意不足という問題も、解決しないことがある。で、「注意不足で失敗するのは、いやだから、はやく眠らなければ」と思うのだけど、それがまた、圧力になる。だいたい、宿題に関して言えば、宿題が終わってない状態で「注意不足で失敗するのは、いやだから、はやく眠らなければ」と思うわけだから、ただ単に宿題ができなかったときとは、宿題に関しても、ちがった効果がある。だいたい、書いたけど、宿題を忘れたわけではないのだ。ヘビメタ騒音で宿題を完了することができなかった。けど、ヘビメタ騒音で宿題ができなかった」と言っても、ほかの人は、ヘビメタ騒音の強烈さがわかってないので、あんまり重要なことについて言っているとは思わないである。あるいは、「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「ちゃんと言えば(お兄さんは)分かってくれる」という前提でものを言ってくるので、こまる。これも、「うちの兄は、きちがいなので、どれだけちゃんと言っても、ずっとうるさくする」ということを言っても、相手はなかなか認めない。相手には、相手の育ってきた環境があり、相手の家族観があるので、「きちがい家族」のことに関しては、まちがった判断をする。「きちがい家族」に関しては、普通の人は、よくわかってないし、自分の問題ではないので、無頓着だ。ようするに、自分がまちがった前提で話をしているということがわかってない。無頓着だ。

宿題をやってこなかった」ということに関してだって、「エイリ君は、いいわけをしている」と思うやつだっている。そいつだって、きちがい家族の騒音にたたられ続けたら、どうしても、宿題ができなくなるのに、それが、(実際にやられてないから)わからない。全部の時間をとってしまうなんて……そういうひどいことをするやつがいるとは思ってないのだ。全部の時間を、とってしまって、まったく譲歩しない。悪いことをやっているのに譲歩しないのだ。これ、悪いことをやっているという主観的な感覚がないんだよね。自覚がない。 悪くない中立的なことをやっているわけではないのだ。条例違反の騒音を鳴らしている。きちがいだから、まったく悪いつもりがない。「悪いことをしているつもりがない」ので、実際に悪いことをしてないと認識している状態だ。そして、きちがい兄貴とって、実際の譲歩というのは、一秒であろうが、死んでもできないことなのだ。これが、兄貴の態度だ。ちなみに、親父の態度でもある。これ、兄貴と親父でまったくおなじなのである。脳みその……こういうことに関する構造が、まったくおなじなのである。こまるんだよーー。そして、そういう脳みそを搭載している人がすくないので、そういう脳みそを搭載してない家族と一緒に暮らしている人は、そういう脳みそを搭載している人が、どういう意地で、どういう行動をするのか、「はだで」わかってない。

 

2024年5月18日土曜日

けど、話としては、「なにか神秘的な力で」そうなるということを語っているのである

 

赤ちゃんでまだ、意図的に悪いことができないときは、意図的に悪いことができないのだから、言ってみれば、ゼロ状態なのである。ところが、「やったことがかえってくる」というのは、他人に「やったこと」がかえってくるということなのだ。悪いことを、意図的にすると、その悪いことが、かたちをかえて……あるいは、ほぼおなじかたちで……かえってくるというのが、「やったことがかえってくる」ということの意味だ。もちろん、これは、やったことが悪いことである場合だ。いいことを、意図的にすると、そのいいことが、かたちをかえて、あるいは、ほぼおなじかたちで……かえってくるというのが、「やったことがかえってくる」ということの意味だ。実際には、悪いこともいいことも、本人が「そうである」と自覚している場合の話になってしまうのである。どうしてかというと、本人がやっていることだからだ。本人が、意図的にやっていることだからだ。けど、「やったことがかえってくる」という場合には、なにか、神秘的な力によって、本人が意図的にやったことではなくても、とにかく、本人がやったことは、「かえってくる」ということになる。意味としてはそうなのだ。けど、実際に生活のなかで、「やったことがかえってくるのだから、いいことをしよう」と思ったり、「やったことがかえってくるのだから、悪いことはやめようなと思ったする場合は、やはり、本人が意図的にやろうと思うことについて考えているということについて、考えているということになる。本人が意図的にやったことではなくても、ともかく、本人がやたっことなら、「かえってくる」というのが、本来の意味なのだけど、実際の生活のなかでは、そうならない場合がある。けど、話としては、「なにか神秘的な力で」そうなるということを語っているのである。ようするに、認知の範囲がちがう。

*     *     *

回想として、「自分があれをやったから、こうなったのかな」と考える場合も、認知できる範囲で話をしている。 

*     *     *

ともかく、赤ん坊の「ゼロ状態」を考えると、「やったことがかえってくる」というのは、嘘なのである。最初から、環境のなかにとりこまれている。外部環境はある。

「そうならない場合もある」ということを無視してしまう。

 自分が思っただけでそうなる……というのは、都合がいい設定だ。自分が思っただけで、そっちのほうに傾く。自分が思っただけで、外部環境も含めて、自分にとって都合がいい状態になる……。それは、便利でいいことなのだけど、実際には、そうならないことがある。ところが、思霊主義者は、「そうなる」と決めつけ、「そうならない場合もある」ということを無視してしまう。本人のことなら、まあいいだろう。けど、他人のことについて、「そうならない場合もある」ということを無視してしまうと、問題がしょうじる。どうしてかというと、「そうならない場合が実際にある」からだ。

そういう、かってな、自分にとってだけ都合がいい前提を、たしかな前提として考えてしまうのは、問題があることなんだよ。 

これは、「前提ムシムシ詐欺」と命名しておくかな。前提として成り立っているのに、前提として成り立っているということを無視してしまう。これは問題だ。

こっちも「つづく」

  まあ、趣味でもなんでも、基本的なやる気というのは、制御できない。基本的なやる気というのは、自分の意志で制御できるものではないのである。けど、「とく」とか「そん」とかを考えるとやったほうがいいのではないかと思えることがある。けど、その「損得勘定」よりも、基本的なやる気のほうが上なので、「損得勘定」がどうであろうが、ともかく、やる気がないものは、やる気がないからできないのであり、逆に、やる気があるものは、やらないとストレスがたまってしまうのである。

基本的なやる気というのは、体力状態を含んでいる。単位時間内の睡眠時間などの条件を含んでいる。体力というのは、体力測定で測れるような体力ではなくて、じゅうぶんに睡眠をとれたかどうかということを含んだ「生活体力」になる。やる気というと、「気持ち」の問題だと思うけど、じつは、からだの問題でもある。けど、「やる気を出す」ということに集中した場合、からだのことは無視することになる。せいぜい、「じゅうぶんな睡眠をとりましょう」というような話になる。「じゅうぶんな睡眠をとろうと思ったら、じゅうぶんな睡眠をとれる」という前提が横たわっている。これじゃだめだ。どうしてかというと、たとえば、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていると、じゅうぶんな睡眠がとれないからである。 きちがいとのトラブルというのも、「生活体力」をけずる。けずりまくる。そして、きちがいとのトラブルが、そのきちがいの性格に起因しているなら、やはり、制御できないということになるのである。そして、そのきちがいが、家族だと、問題が、ややこしくなる。問題が、ずっと続くことになる。どうしてかというと、そのきちがい家族の脳みそが、かわらないからだ。「つづく」のである。けど、生活として、「つづく」ということを、「じゅうぶんな睡眠時間をとりましょう」というような話は無視してしまう。「じゅうぶんな睡眠をとろうと思ったら、じゅうぶんな睡眠をとれる」という前提で話をすすめるし、「じゅうぶんな睡眠をとろうと思ったら、じゅうぶんな睡眠をとれる」という前提は、そのあともずっと成り立っている。ようするに、こっちも「つづく」。

「できる」という話には、じつは、自分が制御できない外部環境について、都合のよう設定をしているのである。制御できない外部環境も、自分に都合がいいような状態になるという前提がある。制御できない外部環境の問題は、勝手に解決してしまうという前提がある。制御できない外部環境の問題が、勝手に解決してしまう場合もある。けど、制御できない外部環境の問題が、勝手に解決しない場合もある。しない場合の話は、無視するのである。

2024年5月17日金曜日

因果関係的に「マイナス」である赤ちゃんになってしまう

 たとえば、生まれたばかりの赤ちゃん。生まれたばかりの赤ちゃんは、「因果応報」というようなことを考えた場合、ゼロなのである。プラスマイナス・ゼロ。ゼロの状態でうまれてくる。「やってない」。

たとえば、きちがい的な父親がいたとする。そのきちがい的な父親は、そのきちがい的な父親にとって、妻である女性が、自分の世話をしなければならないと思っているとする。赤ちゃんの世話よりも、自分の世話に集中するべきだと思っているとする。この父親は、赤ちゃんにかまっている妻のすがたを見たら、発狂するのである。

どうしてかというと、自分の世話を知るべきなのに、赤ちゃんの世話をしているから気にくわないのである。発狂して、赤ちゃんと妻をせめる。

このきちがい的な父親にとってみれば、赤ちゃんは、邪魔な存在しでしない。邪魔な存在は、むかつくのである。

なので、発狂して、「あれが気にくわない」「これが気にくわない」と赤ちゃんにあたる。

べつに赤ちゃんが、きちがい的な父親に悪いことをしたから、それがきちがい的な父親の攻撃としてかえってくるというわけではないのだ。

*     *     *

「因果応報」と言う考え方にとらわれている人が、因果関係を考えると、さきに、赤ちゃんが、きちがい的な父親を攻撃したから、赤ちゃんに、きちがい的な父親が攻撃をしているということになってしまうのである。

「そこにいるのが気にくわない」という理由で、攻撃される赤ちゃんは、いる。幼児だっている。この赤ちゃんや幼児が、なにか悪いことをしたから、それが、この赤ちゃんや幼児にかえってくるのか?

ちがう。別の理由で、攻撃されているのである。問題は、攻撃しているほうにあるのである。なので、因果応報的に、ゼロである状態でも、攻撃されることはある。

「やられる」ことはあるのだ。

 

*     *     *

しかし、ここで、カルマとか、うまれかわりとかということを考えると、この不条理が、説明できる。かたちのうえの説明だ。

しかし、信じている人は、信じてしまうので、カルマを利用した説明が正しいと思ってしまう。

たとえば、その赤ちゃんは、前世で、その父親に悪いことをしたのだという説明をすれば、カルマとかうまれかわりを信じている人は、「なるほど」と納得してしまう。

じつは、その赤ちゃんは、ゼロではなかった。前世で、悪いことをしていたからマイナスだったということにしてしまうのだ。そうすると、現象が「いちおう」は説明できる。不条理が不条理ではなくなる。

けど、このカルマとかうまれかわりとかという話は、妄想の話なのである。そんなの、証明できるわけがない。勝手に、カルマとかうまれかわりを信じている人たちが、つくったことだ。

だから、この点でも、精神世界の人は、人にぬれぎぬを着せている。

悪いことをしてない人を悪いことをした人にしてしまう。「前世で悪いことをしたから」「今世でそうなっている」と考えてしまう。

いったん、そういう視点を獲得してしまうと、かわいそうな赤ちゃんは、かわいそうな赤ちゃんではなくなるのである。そういう視点を獲得すると、 因果関係的に「ゼロ」である赤ちゃんは、因果関係的にゼロ」である赤ちゃんではなくて、因果関係的に「マイナス」である赤ちゃんになってしまうのである。

「やったことがかえってくる」

「 因果応報」とか「やったことがかえってくる」という考え方があるけど、これもちがう。そういう場合もあるけど、そうじゃない場合もある。

全部そうなのか、一部だけがそうなのか?

全部そうなのか、そういうことがあるだけなのか?

全部の場合においてそうなのか?

そういう場合もあるけど、そうではない場合もあるということなのか?

これは、「XをすればYになる」といった構文をもった命題とおなじ問題を含んでいる。「全体・部分トリック」とでも言っておこうか。すべてがそうなるような印象をあたえるけど、ちがうのである。そうなる場合もあるし、そうならない場合もある。そうなるという法則性はない。すべての場合において、そうなるという法則性はない。


「ティーカップの水は、熱い紅茶になる」と言えばよいのである

 言霊主義者だって、普段は、物理法則にしたがった問題解決方法を採用しているのである。たとえば、熱い紅茶を飲みたいとする。このとき、「熱い紅茶が、目のまえにあらわれる」と言って、熱い紅茶を飲むのではない。どれだけ、何回、「熱い紅茶が、目のまえにあらわれる」と言っても、あらわれないということを知っている。そこで、水をお湯にしようと考えるわけである。ガスコンロを使う場合は、ヤカンや鍋に、水を入れて、ガスの炎で、加熱して、水をお湯にかえるのである。「ヤカンのなかの水は、三秒後に、八〇度のお湯になる」と言って、八〇度のお湯をつくるのではない。そうではなくて、ガスの炎を使って、お湯をつくるのである。どうして、「ヤカンのなかの水は、三秒後に、八〇度のお湯になる」と言わないのか、そんなのは、どれだけ言っても、八〇度のお湯にならないということを知っているからだ。現実的な方法を採用しているのである。電気ケトルを使う場合は、電気ケトルのなかに水を入れて、電気ケトルのスイッチを押して、電気の力を利用して、お湯をつくる。ケトルのなかの水をお湯にかえる。ティーカップに水を入れて、「ティーカップの水は、お湯になる」と言うわけではない。だいたい、紅茶が飲みたいのだから、「ティーカップの水は、熱い紅茶になる」と言えばよいのである。どうして、「ティーカップの水は熱い熱い紅茶になる」と言って問題を解決しようとしないのか? そんなのは、どれだけ言ったって、問題が解決しないということを知っているから、言わないのである。「言ったことが現実化する」と言霊主義者は言うけど、自分の現実的な問題に関しては、言霊理論をことごとく無視して、現実的な方法で、自分の現実的な問題を解決しようとするのである。ところが、「ひとの問題」だと、突然、言霊が有効な方法になり、「言ったことが現実化する」と言って、言霊的な解決方法を有効な方法として、人にすすめるのである。けど、言霊的な解決方法では、紅茶すら飲むことができないので、現実的な解決方法を模索することになる。ところが、悩んでいる人というのは、現実的な方法がうまくいかなくて悩んでいる人なのである。その人に、無益、無効な言霊的な解決方法を説明して、言霊主義者・本人だけが、悦に浸る。もちろん、ほんとうに有効な方法を教えてあげているつもりなのである。けど、実際の日常生活では、言霊主義者だって、言霊的な解決方法なんて、採用してない。無益、無効だとわかっているからだ。言霊的な解決方法を教えてあげた相手が「うまくいかなかったぞ」「現実化しなかったぞ」と言った場合は、「こころをこめて言わなかったからだめなんだ」とか「現実化するまで何回でも言えばいい」とかということを、言えば、それで、相手に勝ったような気持ちになるので、言霊主義者は満足してしまう。

毎日毎日、水の入ったコップをまえにして「八〇度のお湯になる」と言ったって、八〇度のお湯にならない。どれだけ言い方がうまい人でも、八〇度のお湯にならない。「言い方」の問題じゃないのである。どれだけこころをこめて言ったって八〇度のお湯にならない。「こころをこめて言ってないから八〇度のお湯にならない」のではないのである。

ところが、言霊主義者は、言ったことが現実化しなければ、「言い方」の問題にしてしまう。「こころをこめて言ったかどうか」の問題にしてしまう。こんなの、最初から、いかさま。いんちき。人をだましている。

ある日、別の人が、水が入ったコップを、八〇度のお湯がはいったコップにすりかえたとする。そうしたら、言霊の力によって水を八〇度のお湯にかえることができたということになるのか?

ちがう。

それは、言葉の力で、八〇度のお湯にかえることができたのだ。

別に、言霊の力じゃない。そして、別の人は、物理的な法則にのっとった方法で八〇度のお湯をつくったのである。別の人は、言霊の力を使って、水を八〇度のお湯にかえたわけではない。おわかりか?

「未来の自分をダメにするような苦労」

 「俺だって苦労をした」という場合、ぼくと同等の苦労をした場合は、すでに働けない状態になっているので、「働いたほうがいい」と人には助言できないと考える人が多い。これ、なぜか、本人が無職なのに、「無職はけしからん」ということを言ってくる人たちがいるんだよね。この人たちの、脳みそというのは、どうなっているのか? 自分は無職じゃないと思っているのかな? ともかく、こういう人たちをのぞけば、「俺だって苦労した」と言っている人が、ぼくと同等の苦労をしたのかどうか、働いているかどうかで見極めることができるということだ。その苦労が、働けなくなるような苦労なのかどうかで、判定することができる。働いているのであれば、働けなくなるような苦労はしてないということだ。本人がどれだけ「俺だって苦労をした」と言ったって、それは、働けるぐらいの苦労なんだよ。そして、未来の自分を、ダメにしない苦労なんだよ。たとえば、その苦労によって、脳に器質的な変化がしょうじて働けなくなったとする。この場合は、もちろん、働けなくなるような苦労だから、同等の苦労だ。そして、「未来の自分をダメにするような苦労」だ。脳にかぎらず、からだに器質的な変化がしょうじて、未来において、働けなくなるような苦労があるんだよ。働けなくなってない人が、「俺だって苦労をした」と言っても、その苦労は、本人が言うほど、ひどくない苦労なんだよ。実際に、からだに器質的な変化がないだろ。実際に、毎日通勤して働ける体を維持ているだろ。それなら、その苦労は、たいした苦労じゃない。

「苦労して勉強して、医者になり、いまは、いい生活ができるようになった」→「俺だって苦労した」

ぜんぜんちがう苦労なんだよ。そんなやつが、ヘビメタ騒音とおなじくらいの苦労だと想定して、勉強の苦労について語る。ぜんぜんちがう。そいつは、きちがい家族にかこまれて生活した経験がなく……一度もなく……勉強だって、普通に(ヘビメタ騒音なしで)できたのだ。それを「苦労」と言い、「俺だって苦労をした」と同等の苦労をしたように語りだす。「ぜんぜん、ちがうだろ」と言うと、まあ、おこることが多い。「俺だって、苦労をして、いまの地位を勝ち得た」……。ちがうじゃない。ちがうだろ。ぜーんぜん、ちがう。たいして、出世してない人でも、えらそうに「俺だって苦労をした」という人がいるけど、その人が経験した苦労とは、ちがうレベルの苦労なんだよ。質がちがう苦労なんだよ。だいたい、「俺だって苦労をした」と言う人たちは、その苦労で、いい生活をしている。その苦労がみのって、いいことを経験している。きちがいヘビメタ騒音の苦労とは、そういうところでも、ぜんぜんちがう。

無職でも、無職だと思われない人たちがいる。退職者と主婦と学生だ。まあ、学生はぬかすとして、多くの、本人が無職なのに「無職はけしからん」と言う人たちは、退職者と主婦だ。けど、アルバイトを繰り返している人は、やめた期間も含めて……ようするに、アルバイトとして働いてない期間も含めて……自分は「無職である他者をせめることができる」と思っているみたいなんだよね。まあ、ほかにいろいろな動機があるから、そういう発言をするのだろう。ともかく、本人が無職で、なおかつ、退職者、主婦、学生ではない人も、「それでも、働くべきだ」ということを言う場合がある。他人である俺に対して、ヘビメタ騒音の話を聴いたあと「それでも働くべきだ」と言う人たちがいる。まあ、この人たちのことは、放っておこう。

まあ、みんな「俺だって苦労をした」「わたしだって苦労をした」と言うのだけど、その苦労というは、働けなくなるような苦労じゃない。働けるのだから、たいした苦労じゃない。ヘビメタ騒音は働けなくなるような苦労なんだよ。だから、「俺だって苦労をした」「わたしだって苦労をした」という言葉で、苦労の質を同質化することはできない。最低限、本人が働いている人が、他人に対して「それでも働くべきだ」と言うべきであって、本人が働いてないのに、他人に対して「それでも働くべきだ」と言うべきではない。

2024年5月16日木曜日

自分がやりたいことをやり続けたということには、なっていないのである

 たとえば、きちがい兄貴は、ハンダゴテ事件のとき、めちゃくちゃな気分になっているんだよ。

きちがい親が意地をはるから、友だちにバカにされて、腹がたっているんだよ。そして、「きちがい親父が、意地をはるから、友だちにバカにされた」ということを、きちがい親父に言うと、きちがい親父が、発狂するのだ。

きちがいだから、自分にとって不都合なことを言われると、言われたということだけで……そういう感触だけで、発狂する。

感触だけというのは、ようするに、無意識のほうは、たぶん、正確に相手の言っていることを理解しているのだけど、意識の部分で、はねのけるから、意識の部分では、まったくわかってない状態なのである。

相手が言っていることがまったくわかってない状態だ。

相手が言っていることはわからないけど……自分にとって不都合なことだということはわかるので、内容に関係なく!!!発狂して否定するのである。

実際に、外的にやっている行為は、この通りの行為なのだけど、これまた、きちがいだから、実際に自分が意地になっていることが、まったくわかってないという状態なのだよ。発狂して、意地になってやるけど、意識的な部分では、「まったくなにもしてない」ということになってしまう。

相手が語っている「内容」に関係なく、発狂して否定するということになってしまう。

その場合、悪いことをしてきたのは『相手』なのだ。相手が自分に不愉快なことをしてきたから、怒っているという解釈が、きちがい頭のなかに成り立つ。

そして、自分が、相手の言っていることを否定して、腹をたてているということは、やったとしても、すぐにやってないことになってしまう。すぐにというか、現在進行形でそうなってしまうのである。

ともかく、自分がやったことで、相手に目わくかがかかり、相手がどういう迷惑を感じたかについて、話したとしても、それがまったく、頭に……はいってない状態なのである。

内容がまったく頭に……はいってない状態だ。

そして、なんとなく腹がたつから、発狂して、否定して、それでおしまいだ。そして、自分の行為をかえない。自分の行為について反省したりしない。これが、いきているあいだ、何万回でも繰り返されてしまう。

ほんとうは、きちがい親父のほうが悪いことをして、きちがい親父が、非難されて当然なんだよ。

けど、きちがい親父のほうの視点からすると、自分が「わけのわからないことで文句を言われた」「だから、おこった」という感触!!しかないことなんだよ。そして「だからおこった」の部分が、すぐに、忘れ去られてしまう。

現在進行形で忘れ去られてしまうので、実際には、発狂して怒ったという事実があるのに、それもわからないということになってしまう。

「そんなことは、してない」ということになってしまう。いつもいつも、そういうことの繰り返しなんだよ。

で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にも、まったく、おなじことが成り立つ。きちがい兄貴の脳みそと、きちがい親父の脳みそは、この点においてまったくおなじなのである。

だから、悪いことを押し通してやりきるのだけど、悪いことをしているつもりが最初からない。そして、相手が言ったことは、内容を理解せずに、ただなんとなく……腹立たしいことなので、怒り狂って否定する。

けど、これがまた、本人は、相手が言ってることを理解せずに、怒り狂って否定して、自分がやりたいことをやり続けたということには、なっていないのである。本人の主観としてはそうじゃないのである。こまるんだよ……。これ……。こまるんだよ。

きちがい兄貴の脳みそと、きちがい親父の脳みそがこの点でおなじだから、こういうことにかんして、態度がまったくおなじなのである。

きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音で、どれだけ俺に迷惑をかけても、迷惑をかけたと思ってないんだよ。きちがい兄貴は迷惑をかけたと思ってない状態なんだよ。

耳が正常なら絶対に、「でかい音だ」とわかるのに、耳が正常なのに「でかい音だ」ということがわからない状態で、鳴らしている。現在進行形で鳴らしいるときは、そうだし、それが、何万回も、十数年毎日、つみかなっても、まったく迷惑をかけたつもりがないのだ。

まったく迷惑をかけたつもりがないという状態で、生活している。

生きている。

これ、言っても、むだなのである。どれだけ言ってもむだなんだよ。そもそも、「でかい音で鳴らしてない」という気持があるのだから、「でかい音で鳴らして、勉強の邪魔をした」という意識もないのだ。

きちがいでなければ、だれだって、でかい音だということがわかるんだよ。「うちで鳴らしちゃいけない」と思う音なんだよ。

けど、そういう音で鳴らしたいから、そういう音で鳴らして、そういう音で鳴らしてないということに、感覚を書き換えてしまう。無意識のレベルで、書き換えてしまう。意識のレベルでは、「でかい音で鳴らしたことは一度もない」と思っている状態なのである。

こまるんだよ。そういうところで、きちがいだから、こまるんだよ。よその人が、誤解をするだろ。よその人が「自動的に」誤解をする。

きちがい兄貴も、無意識的なレベルの感覚器の書き換えは、「自動的に」やっていることなんだよ。だから、全自動で、現在進行形で、「やってない」ことになっているのである。わかるかな?

ここまでずれている人と、一緒に住んだことがある人は、めったにいない。だから、めったにいない人以外の人は、みんな、このことについて誤解をするのである。

自動的に誤解をする。

怒りをあらわにしないように、最大限、気をつかってあっている

 いろいろなドラマや映画を見て、思う。「わかいって、いいなぁ」……。きちがいヘビメタで、めちゃくちゃだった。俺のわかいときは、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃだった。ヘビメタ騒音がなければ、わりと、めぐまれていたと思う。けど、ヘビメタ騒音ですべてが、ゼロになる。マイナスになる。これ、実際にやられてない人しかわからない。実際に、きちがい的な家族と一緒に住んでいる人しかわからない。けど、「俺だって、騒音ぐらいある」と言えば、それで、同等の騒音をあびたけど、がんばっているというとになってしまう。影響をうけないですごすことは可能だということになってしまう。ところが、無理なんだよ。けど、実際には、きちがい的な家族と一緒に住んでない人は、それがわからない。やられてないからだ。やられてないから、わからないだけなのに、「俺だって、騒音ぐらいある」「騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」「騒音が鳴っていても、遅刻せずに通うことは可能だ」「騒音が鳴っていても、影響をうけないようにすることは可能だ」「騒音が鳴ってたとしても、注意力散漫になるのは、エイリが悪い」と考えてしまう。住んでないからわかってないだけなのに……。あんな気持ちで、女の子とつきあえるわけがないだろ。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、どけりぶりを発揮する。こっちがどれだけこまっていても、一〇分間だろうが、ゆずらない。こっちにとって、重要な一〇分間、やられる。家を出るまでに一〇分間かかるとして、一〇分間ずっとやられる。そのまえからやられているわけだけど、「一〇分間でいいから、用意をするときだけ静かにしてくれ」と言っても、きちがいが、きちがい感覚で鳴らしきるのである。こころはめちゃくちゃだ。騒音で傘だけじゃない。こういう態度で、こころがめちゃくちゃだ。「よその人」にあうとき、いつも、緊張してあっているのである。「よその人」にあうとき、いつも、きちがい兄貴やられたことで、頭がいっぱいで、腹がたっている状態なのである。そして、腹がたっている状態を……かくしている状態なのである。緊張感、あるだろ。この緊張感がいやなんだよ。この緊張感がある状態で、よその人とあっていても、おもしろくない。怒りをあらわにしないように、最大限、気をつかってあっている。それも、十数年続いたら、もう、最初のころとは、ちがうものになっているんだよ。これもわからないだろうけど……。けど、十数年続いたとき、俺が無職なのだから、「よその人」は、そこをついてくる。気をつかったって、相手は、無職に対するその人の偏見をぶちまけてくる。ヘビメタ騒音のことについて話しても、「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「どれだけ鳴ってたって、そんなのはたいしたことがない」「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。これは、何度も言うけど、失礼なことだ。俺に対して失礼なんだよ。けど、そいつは、俺に対して室れないことをしたと思うか? 思わない。ともかく、こういう思考力がないやつらは、まったくわからないと思うけど、ただひとつ「よその人とあう」ということだって、きちがいヘビメタ騒音の影響がある。きちがいヘビメタ騒音の長さが、ぼくの精神や体力状態に影響をあたえる。そして、十数年たてば、もちろん、属性的な意味での立場に影響をあたえる。

ともかく、一日目からして、ヘビメタ騒音のなかから、出ていって、よその人にあうということは、とても緊張することなのである。怒りを隠すので、いっぱいなのである。目の前の人の言っていることに、集中しているようでも、頭のリソースの九割以上が、ヘビメタ騒音と、きちがい兄貴の態度に、さかれる。そりゃ、重要なことがあるから、しずかにしてくれと言っても、一〇分だって、しずかにしてくれないという態度には腹がたつだろ。用意する時間だけしずかにしてくれと言っても、例外なく、一〇分だって、しずかにしてくれないという態度には腹がたつだろ。悪いことをしているのだから……。ゆずると言っても、全部ゆずって、やっとプラスマイナスゼロなんだよ。そして、やっていた時間……やっていた過去の時間はすべて、大きくマイナスなんだよ。ところが、マイナスのことをやっているやつが、威張っている。まったくゆずらなくてもいいと思っている。このきちがい妄想を、ただすことができないのである。どれだけ言ったって、きちがいはきちがいだから、きちがい的な思考をして、認めないんだよ。 

わかいときの時間を、全部こういうふうにして、とられた。いつも頭のなかは、きちがいヘビメタ騒音のことでいっぱいだ。人とあうまえに、きちがいヘビメタ騒音のなかから出ていくというのが、めちゃくちゃにすごいことなのである。発狂して、きちがい兄貴を刺し殺したい気持ちをがまんしてがまんして、人にあうのである。こんなのない。

2024年5月15日水曜日

「敵」と一緒にいて、楽しいか?

 「敵」と一緒にいて、楽しいか?  「敵」と一緒にいて、楽しいか?

ほんとうに、きちがい家族にやられて、普通の人からバカにされる人生だった。

きちがい家族にやられると、きちがい家族にやられたことが起点となって、負の連鎖がはじまる。

普通のやつは、普通の家族と住んでいるので、きちがい家族と住んでいる俺の状態がわからない。俺の状況がわからない。きれいごとを言って、俺のことをバカにしてくる。

こんなことが、何回つづいたかわからない。

きちがいヘビメタ騒音が長すぎた。一日のなかでも長すぎたし、人生のなかでも長すぎた。

期間が長いというのは、問題だ。期間の長さの問題を「過去は関係がない」と一蹴してしまう人。こいつらは、なにもわかってない。「過去は関係がない」とたたき切ることが、いいことだと思っている。

こんなことをやるやつと、一緒にいて、おもしろいわけがないだろ。

あとでけす

 ワクチンがはじまるまえから、こういう状態はずっと、成立していたんだよな。きちがい家族騒音で、成立していた。ずっとおなじことを繰り返しているなぁ。もう、いやだ。

常識をもっている他人が、全員、敵になる

 常識をもっている他人が、全員、敵になるような状態で、ぼくは、ずっとずっと、いきてきたんだ。きちがい家族に、やられると、そういう状態になる。きちがい兄貴の「こだわり」といったらない。だれも、わからない。やられたぼく以外、だれもわからない。ほかのやつらにとってみれば「簡単」な問題だ。ところが、きちがい家族だから、簡単じゃないのである。いつもいつも、ヘビメタ騒音が起点になって、負の連鎖がはじまる。いつもいつも、おなじだ。やられてないやつが、「そんなのは気にしなければいい」「そんなのは関係がない」「過去は関係がない」「影響をうけないぞと思えば、影響をうけないことは可能だ」と言う。これらの発言は、すべて、まちがっている。こういうことを言うやつは……ヘビメタ騒音に関係して言うやつは、全員、まちがっている。

何度も言うけど、負の連鎖がある。みんな、きちがい家族の騒音を経験したことがないから、きちがいのきちがい度がわからない。みんなが経験しているのは、正常な家族の騒音や、普通の状態の騒音だ。常識的ではないのである。実際、俺とおなじ経験をしたやつに会ったことがない。六カ月間似たような経験をした人がいたけど、その人の家族は、うちのきちがい兄貴よりも正常で、ちゃんと六カ月でやめてくれた。

からだの状態というのは、ほんとうにしかたがない。ところが、みんな、自分はやられてないから、からだの状態がわからない。経験してないのである。「続く」ということが、どれだけ、でかい意味をもっているかわからない。普通の騒音を思い浮かべて、きれいごとを言う。ところが、そのきれいごとでは、うまくいかないのである。どれだけ思い直してがんばってみても、けっきょく、きちがいヘビメタのつかれがたまってくる。

陸つづきで、つづいている

 ヘビメタを鳴らされていたときの、一日のつかれが、並じゃない。そのつかれが、何十年間も、陸つづきで、つづいている。切れ目がない。ぜんぜん、切れ目を感じなかった。ほんとうに、せっぱつまった、はげしい一日なのである。

もう、いいかな。あんなことをやられて、普通に生きられるわけがないだろ。普通の感情を維持できるわけがないだろ。普通の状態で彼女とデートできるわけがないだろ。

あんなに意地になって、どれだけ「やめてくれ」言っても……こっちが言っても、発狂的な意地で鳴らし続けいたのに、鳴らしたつもりがないのかよ。関与を認めないのかよ。きちがい兄貴が、気概的な感覚で、きちがい的にこだわってこだわって、自分のこだわりの音で、鳴らしていたから、こまっていたんだろ。きちがい兄貴が、長時間、こっちがどれだけなにを言っても、鳴らしていたから、宿題ができなくてこまっていたんだろ。けど、よその人たちは、自分がきちがい家族の騒音にさらされてないのに、「騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と言う。「さぼっている」と言う。「あまえている」と言う。「ちゃんとやれ」と言う。

こういう人生だ。ちなみに、きちがいヘビメタ騒音で、睡眠時間が極端に短くなって、起きている時間、どうしても、どうしても、注意力がさがるときがある。注意散漫になるときがある。そのときだって「ちゃんとやれ」と言われるけど、どうしてもどうしても、ヘビメタ騒音の影響で、注力がさがる。さがって、失敗する。

家に帰って、どれだけ、「こういうことがあったから、やめろ」と言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、鳴らすんだよ。これがきつかったな。こういうことの連続で、いいわけがないだろ。

なにか? 「いいことある」と言うと、いいことがあるのか? なにか? 「いいことがある」と思うと、いいことがあるのか? おまえら、いいかげんにしろ。俺がどれだけ「いいこと」を考えても、言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタを、よそのじゃ鳴らさない音で鳴らしている。鳴らし続けている。影響、うけるじゃないか。だいたい、俺が「いつか、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音でつらい思いをする」と暗いことを考えたから、つらい思いをしているのではないのだぞ。そういう、へんな濡れ衣を着せるな。

こういうことの繰り返しだ

 あんなことを、ずっとやられていいわけがないだろ。あんなことが、つみかさなった人生でいいわけがないだろ。きちがい兄貴のことがわかってない。普通の人は、きちがい兄貴のことがわかってない。そして、実際にやられたことがないから、実際にやられた場合の体力や精神がわかってない。実際にやられたことがないから、実際にやられたときの状態がわかってない。

わからずに、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と言う。こんなのは、ない。いや、いっぱいあった。ほとんど全部が全部、そういう反応だ。ところが、きちがいが、きちがい的な感覚で「よそじゃありえない」音と、意地でヘビメタを長時間鳴らしていると、「できなくなる」のだ。これが、よその人には、わからない。わからなければ「できる」と言う。こういうことの繰り返しだ。こんな人生でいいわけがないだろ。

2024年5月13日月曜日

ヘビメタ騒音でもたらされた「かっこわるさ」というのが、並じゃない。

 ヘビメタ騒音でもたらされた「かっこわるさ」というのが、並じゃない。

軽く見て、軽く見ているだけなのだということに、最後まで、気がつかない

 ヘビメタ騒音期間中の人づきあいや、ヘビメタ騒音後の人づきあいというのは、基本、「そういう勘違い」にのろわれている。これ、のろいなんだよ。みんながみんな、勘違いする。

まあ、勘違いの程度はある。

だから、ほとんど勘違いしない人は、勘違いしない人としてカウントするけど、勘違いする人が九九・九%だ。ほとんどの人が、勘違いして、勘違いな反応をする。前提自体がちがうのだけど、前提自体のちがいに気がつかない。

その人たちのヘビメタ騒音に関する「前提」というのは、まちがっているんだよ。まちがっているのに、まちがっているということに気がつかない。

そのまま、自分の前提が正しいと思って、「意見」を述べる。

これは、のろいだ。

のろいでしかない。

実際、九九・九九九九九%の人が、きちがい的な家族の騒音に、ずっとずっとずっと何年間も十数年間もやられてないわけだから、この人たちとの付き合いは、のろいがまとわりついたものになる。 

きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタ騒音をやられると、ほかの人とうまくいかなくなるんだよ。どれだけがんばっても、だめなんだよ。どれだけがんばっても、だめだということが、これまた、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴の態度で!と言っているだろ。

きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、あの音をずっとずっと毎日鳴らされ続けたら、影響をうける。不可避的な影響だ。これも、ほとんどの人は、不可避的な影響だと思わないのである。

きちがいヘビメタの影響は、一日の範囲でも、でかいけど、ほかの人……やられてない人にとってみれば、「そんなのはなんでもないこと」だ。

基本的に、そう思ってしまうのである。

どうしてかというと、その人のうちには、きちがい家族がおらず、「よそじゃ絶対に鳴らさないような騒音」を鳴らす人がいないからだ。

「よそじゃ絶対に鳴らさないような騒音」なのだから、よその人は、経験してない。

自分が経験した騒音でものを言う。自分が抽象的に思い浮かべる「家族」の話をする。ぜーーぜん、ちがうのだけど、ぜーーんぜん、ちがうということに、気がつかない。

こっちがどれだけ詳細に説明しても、気がつかないのだから、気がつかない。ちがいがわからない。ちがいがあるということが理解できない。

そうすると、ヘビメタ騒音の影響を「軽く見て」まちがったことを言いだす。けど、これだって、まちがったことだとは思ってないのである。

ヘビメタ騒音の影響を「軽く見ている」という自覚があるのかどうかはわからないけど、たぶん、自覚なんてない。ほんとうに軽く見て、軽く見ているだけなのだということに、最後まで、気がつかない。

実際にやられたからだで、こういうやつらと、つきあうことはできない。

どうしてかというと、その日も「影響をうけている」からだ。

からだが、不可避的に影響をうけている。きちがいヘビメタ騒音がはじまった日から、ぼくはずっと、影響をうけている。

この影響のでかさが、ほかの人には、まったくわからない。

わからないから、くそとぼけたことを言う。もちろん、くそとぼけたことだと判断しているのはぼくだ。そいつらは、そいつらで、適切なことを言っているつもりなのである。

なんで、普通の人が、普通の人が経験してないことについて、つらさを語るんだ?

 普通のうちでは「ありえない音」で、ずっと、鳴らしているのだから、普通人は、経験してないことなんだよ。「俺だってつらいことはあった」「俺だって苦労した」「俺だって困難なことがあった」「みんな、苦労している」……そういう言葉で、均質化、同質化するな。

普通のうちではないのだから、ないのだよ。普通のうちでは、ありえない音で、一日に、何時間も何時間も絶対にゆずらずに鳴らしてたんだよ。

そういう毎日が、一一歳から二五歳まで、足掛け一五年間、つづいたんだよ。初期の七年間で、通勤して働けないからだになるんだよ。

ふつうの「うち」では、ないことなんだよ。

だから、普通の人は経験してないことなんだよ。

なんで、普通の人が、普通の人が経験してないことについて、つらさを語るんだ?

「つらいのはわかる」……これで、一倍速で経験したことを理解したとでも言うのか?

わかるとでも言うのか?

だいたい、そのわりには、影響のでかさを無視したことを言うよなぁ。影響のでかさが、まったくまったくまったく、わかってない。実際にやられると、どんな状態になるのか、まったくまったくまったく、わかってない。わかってないし、同じ量の苦労、おなじ質の苦労をしてない。

してないんだよ。

もし、おなじ量の苦労、おなじ質の苦労を経験してたら、「絶対にそんなことは言わない」ということを、がんがん、言っている。

どうしてかというと、おなじ量の苦労、おなじ質の苦労をまったくしてないからだ。「俺だって苦労した」のひとことで「おなじ量の苦労、おなじ質の苦労」を経験したことにするな。

どんだけ、悪質なことをやっているかわかっているのか?

*     *     *

きちがい家族と一緒に住んでないから、きちがい家族が「もたらし続ける苦労」を経験してない。

おなじ質の苦労をしてない。

 きちがい家族が「もたらし続ける苦労」を経験してないから、普通に働けるからだを保持できただけなのに、えらそうなんだよ

。自分だってきちがい家族が「もたらし続ける苦労」を経験したら、働けなくなるのに、えらそうなんだよ。わかってないから、「おなじ量の苦労、おなじ質の苦労」を経験したことにして、「それでも働くべきだ」「人間は働くべきだ」とえらそうなことを言っているだけなんだよ。

なんで、それがわからないのか?

あっ、経験がないからわからないのか。わかってないということがわかってないというのは、悲惨だな。まあ、本人は、ジコマン(自己満足)で、うぬぼれて、いい気持になっているんだろうな。

わかってないということがわかってないというのだって、きちがい兄貴と似ているところがある。

きちがい兄貴とはしくみも、程度も、量もちがうけど、こういう態度が似ているかどうかだけを問題にするなら、似ているところがある。

ぼくは、「できない」ということを認めてやらない

 俺にえらそうなことを言ったやつがいるんだけど、そいつが、なんかの病気になって働けなくなったら、そいつの病室に行って、言ってやりたいことがある。

それは、「人間は働くべきだ」ということだ。そいつが「できない」と言ったって、ぼくは、「できない」ということを認めてやらない。

そんなのは、ガン無視だ。

「過去は関係がない」と言ってやる。

「過去は現在に影響をあたえない」「すべては、受け止め方の問題だ」「できると言えばできる」「できないというからできないんだ」と言ってやる。そいつが、「○○病になって、働けなくなったと言っているだろ」と言ったら、俺だって「病気をしたことがある」と言ってやる。

そいつが「できないと言っているだろ」と言ったら、「それでも働くべきだ」と言ってやる。俺のすばらしい助言で、相手に(働く)勇気をあたえることができたと満足して、病室をさる。すべて、自己満足。「過去は関係がない」「それでも働くべきだ」……これは、働けない人に対する攻撃的な文言だよね。

絶対に、相手が働けないということは認めない。絶対に、相手が働けなくなった理由は認めない。「これこれでできない」と言われたら、「俺だって、苦労した」「俺だって、くるしい」「俺だって困難を経験した」と言えばいい。

それで、均質化、同質化終了。

おなじ状態だ……おなじ条件を経験したということになってしまう。まあ、言ってるやつの頭のなかで、そうなるだけなんだけどね。

これは、「無視力」として、けっこう威力があるぞ。無理解ぶりを発揮した表現だからな。そういう言葉で、均質化したって、経験したことがちがうのだから、均質化できない。

そういう言葉で同質化したって、質がちがう経験をしたのだから、同質化できない。

けど、均質化できないということや、同質化できないということは、絶対に認めない。

実際、本人の頭のなかでは、それで、均質化、同質化したことになっているので、それですんじゃっている。

質のちがい、量のちがいなんて、認めない。

影響がものすごく残る過去の出来事なのか、影響がほとんどまったく残らない過去の出来事なのかなんてことは、気にしない。

「人間は働くべきだ」「俺だって苦労した」「それでも働くべきだ」と三つの言葉を言ってしまえば、それで、勝ったことになる。「いい助言をしたやった」ことになる。

本人は、満足だ。

*     *     *

あっ、そうだ。「まるまるさんは、働くということの意味がわかってない」とか「まるまるさんは、働くということの重要性がわかってないから、駄々をこねて、働こうとしないんだ」と言っているんだと、言ってやろう。相手……まるまるさんが「できないからできない」と言っていることは、ガン無視だ。あまえた性格だから「できるのにできないと言っている」とゲスのカングリをして、働くということの意味がわかってないから「できるのにできないと言っている」とゲスのカングリをして、駄々をこねるような幼稚な性格だから「できるのにできないと言っている」とゲスのカングリをする。正しいと思っている。自分の言ったことが正しいと思っている……。

 

2024年5月12日日曜日

「俺だって家族とケンカしたことがある」

 昨日の散歩。歩いているときの俺の気分が、俺の気分だからなぁ。あーー。けっきょく、あの気分なんだよ。

そりゃ、きちがい家族が、「こっちがこまっていることを」がんがんやり続けたら、あんな状態になるだろ。きちがいしか思いつかないような音で鳴らしている。きちがい感覚で鳴らしている。

あんなにでかい音で鳴らしておいて、でかい音で鳴らしているという自覚が、まったくない。普通なら、言われなくても、相手がこまるということがわかるのに、「スイッチが入った」から、まるでわからない。

自分が、「いろいろな条件」を無視してやりたいと思ったら、スイッチが入るんだよ。

そうしたら、普通の人だったら、絶対に思いつかないことをする。普通の人だったら、やりたくても、「いろいろな条件」が気になって、できないことを、頑固に、やる。

そして、自分がやっているということが、わからない。

そして、「やめてくれ」と言われると、発狂する。このとき、相手が言っている内容がわかっているのかというと、意識的には、わかってない状態だ。無意識的にはわかっているのだけど、意識的にはわかってない。

だから、内容はわからないけど、「なんだか頭にくる」から、発狂しているだけだ。そういう状態になる。

いちおう、これは、兄貴の話だけど、親父もまったく同じなのだ。

ネズミシートのことだって、皿の上にのせた魚を一日に二三(にじゅうさん)時間、出すことにこだわることだって、おなじなのだ。きちがい親父が、ネズミの糞のことをぜんぜん気にしないとおなじなのだ。

どれだけ「ネズミの糞が増えた」「このままだと増え続ける」ということを言っても、きちがい親父は気にしない。

普通の人だったら、言わなくてもわかることだし、普通の人だったら、気にすることだ。

ところが、きちがいだから、きちがい思考で気にしない。スイッチが入っているからなぁ。

兄貴も、親父とおなじように、「自分のでかい音」は、気にならないんだよ。最初から、普通の人だったら「これはまずい」と思うような「でかい音」で鳴らして、絶対に気にしない。

どれだけこっちが言っても、気にしない。

普通の人がやらないことを思いついて、頑固にやってしまう。

しかも、本人のなかではやったことになってないのである。

これも、普通の人にはわからない。「本人が意地になってやったことは、記憶に残るはずだ」「やったのにやってないと思うことはできないはずだ」ということになっている。

そういうふうに「思える人」の推論は、全部まちがうのである。理論的にすべてまちがうのである。きちがい兄貴やきちがい親父の行為に関する、「よその人」の推論は、理論的に、すべてまちがうのだ。

そして、「よその人」だって、自分がまちがっているとは、自覚できない。自覚できるわけがない。自分は、正しいままなのだ。

だから、たしょう、「態度」が似てくることになる。

けど、よその人は正常で、きちがい兄貴ときちがい親父は、異常なのだ。けど、よその人は、これまた、きちがい兄貴ときちがい親父と一緒に暮らしたことがないので、具体的には、自分経験を通して、「きちがい兄貴とやら」と「きちがい親父とやら」が、どういうふうに異常なのかわからない。

繰り返しになるけど、よその人は、『うちの父』と『うちの兄』について考えるときも、『普通の父』や『普通の兄』について考えてしまうのだ。兄とか、父とか、家族といった、抽象的な言葉は、そういう問題を含んでいる。

推論をしているとき、「うちの、父とうちの兄は、異常なんだ」ということを、ぼくが言ったとしても、どうしても、具体的な異常な父や、具体的な異常な兄のイメージがわかず、普通の人における、普通の父や、普通の兄から、抽象的にイメージするモデルとしての父や、モデルとしての兄について考えてしまうのだ。

だから、「へんなのは兄や、父ではなくてそういうことを言っている、エイリさんなのではないか」という考えが浮かぶのである。

*     *     *

それから、これは、非常に、説明しがたいことなのだけど、「父親の悪口を言っているやつなんて、だめなやつだ」というような感じ方がある。うちの父について、嘘を言わずに、ほんとうのことを話してしまうと、俺が(エイリが)「父親の悪口を言っている」と判断してしまうやつがいる。

こういうやつが、どれだけ、「俺だって父親とけんかしたことはある」ということを言ったって、こいつの父親が、正常なのがわかる。

きちがい家族……きちがい的な父親が、どんな行為をするのか、こいつらは、ぜんぜんわかってないなぁ。

これ、異常な家族にたたられた人を、悪く言う思想なんだよ。「父親の悪口を言っているやつはだめなやつだ」と考えるやつが、だめなんだよ。

まあ、いろいろと説明すると、「父親の悪口を言っているやつはだめなやつだ」と言ったやつのなかには、こんどは「そんなのは父親じゃない」と言い出すやつがいる。これも、ひどいんだよな。こういう論法。こういう反応……。

これ、なにが問題なのかわからないだろ。

もう、それで、きちがい家族にたたられたことがあるやつか、きちがい家族にたたられたことがないやつか、判断できる。リトマス試験紙よりも正確だよ。

きちがい家族にたたられたことがないやつが「俺だって家族とケンカしたことがある」「俺だって、父親とのトラブルを経験したことがある」と言ったって、そんなのは、ぜんぜんちがうことについて語っているのだということが、手にとるようにわかる。

「父親の悪口を言っているやつはだめなやつだ」なんて言っているやつは、わからないだろ……。これ……。言ってるやつは、わかってないよ。

ちがいがぜんぜんわかってない。

*     *     *

続柄が親なら、親なんだよ。子どもが未成年のときに、「家族やめます」と言ってやめることができるかというと、できないんだよ。そういうことでも、会社と家族はちがう。会社は、自分の意思でやめられるけど、家族は自分の意思でやめられないことが多い。そして、会社の場合は、選べるけど、家族は選べない。ぜんぜん、条件がちがう。だから、家族がもたらす苦労と、仕事がもたらす苦労は、ちがう。

2024年5月11日土曜日

あーーあ。しかし、つまんないなぁ。

 あーーあ。しかし、つまんないなぁ。

つまんない。

なんだ? この夜? なんだ? この人生?

こんな人生でおもしろいわけがない。どうしてぼくには、きちがい兄貴のハンディや、きちがい親父のハンディがあるんだ。ほかの人にはないハンディがあるんだ。

ぼくだって、ほかの人とおなじように、きちがい兄貴のハンディやきちがい親父のハンディが、なかったら、普通に暮らせた。

普通に恋愛して、普通に家族をもつことができた。

普通に……いや、それ以上に働いていた。

なんで、ぼくが、ほかの人からは、まったく見えない、きちがい兄貴というハンディやきちがい親父というハンディで、ほかの人から、悪く言われなければならないのか?

「俺だって、兄貴とトラブルがあった」「俺だって、父親とトラブルがあった」……こういうことを言う人たちは、ほとんど、普通の兄や普通の父とトラブルについて語っている。

「俺だって、家族とトラブルがあった」「私だって家族とトラブルがあった」……普通の家族とのトラブルについて語っている人が多い。

すくなくても、前投稿で「できる」という前提で語った人は、みんな、普通の家族と一緒に暮らしていた人なのである。ぜんぜん、きちがい家族のことがわかってない。きちがい家族と一緒に住んでないから、「そんなことはない」と思うわけでしょ。

きちがい家族がどんな意地できちがい行為をするかわかってないから、きちがい家族にきちがい行為をされたことがない。きちがい行為を毎日受けてこまったことがない。

そういう感覚の持ち主だ。そういう感覚の持ち主だから「騒音が鳴ってたって、宿題はできる」と普通の騒音について発言するわけだし、「騒音が鳴っていたとしても、働ける」と普通の騒音を思い浮かべて発言するわけだ。

きちがい家族と住んでないから、そういうことが言えるんだよ。きちがい家族と住んでいる人なら、ぼくの発現を理解できる。「できない」と言ったら「できないんだな」と思う。

それを、「できない」と言ったのに、「できる」という前提で、ものを言うなんていうことは、たいへん失礼なことだ。

「できる」という前提でものを言ったのだから、きちがい家族に、長期間にわたって、きちがい行為をされて、こまったことがないということを意味している。

きちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい行為をするということがわかってない。

一度スイッチがはいっちゃったら、毎日ずっとそうするということがわかってない。これ、たまたま、狂うときがあるとか、ときどき狂うことがあるということではないんだよ。

そういう頭を搭載して生きているんだよ。

常に、そういう感覚で、そういうことをするんだよ。

そういうタイプのきちがいと一緒に住んだことがあるなら、そういうタイプのきちがいがやることがわかっているので、「できる」という前提でものを言うということがない。

こっちが「できない」と言ったのに、「できないということを認めない」ということは、きちがい家族と一緒に住んだことがないということなんだよ。

きちがい家族と一緒に住んだことがないから、影響が不可避的だということがわかってないだけだろ。

「俺だって、苦労した」という言葉で、同質化、均質化することができないように、 「俺だって、家族とのトラブルを経験したことがある」という言葉で、同質化、均質化することはできない。できない。

きちがい家族が、どういう感覚で、どういう態度で、どういうことをするのか、わかってないから「影響をうけないことは可能だ」「影響をうけないぞと決心すれば、影響をうけない」というようなことを言うんだよ。

わかってないから、言っているだけ。

経験がないから言っているだけ。

毎日の経験というのは、毎日の経験なんだよ。毎日の影響というのは、毎日の影響なんだよ。

そういう状態に、「強制的になる」音なのである

 手短に言うと、ヘビメタ騒音にやられると「そんなことはわかっている」ということを言われることになる。たとえば、「宿題はやってこなければ、だめだろ」「宿題はやったほうがいいよ」「宿題をやったほうが、はじをかかなくてすむし、トラブルも少ないと思うけどなぁ」ということを言われる。そんなことは、わかっている。けど、この人たちは「じゃあ、なんでやってこないんだ?」と言うわけ。「ヘビメタ騒音でできないのだ」「ヘビメタ騒音で、どうしても宿題ができなくなった」ということを、言ったあとに、そういうことを言ってくる。この人たちのなかでは、ヘビメタ騒音というのは、そんなにでかい問題じゃないのである。この人たちは、「ヘビメタ騒音で、宿題ができなくなる」ということをまったく、まったく、まったく、認めてない。だから、「ヘビメタ騒音で、どうしても宿題ができなくなった」ということを、ぼくが言ったあとにも、「じゃあ、なんでやってこないんだ?」と(この人たちが)言うわけ。こっちが、ヘビメタ騒音で宿題ができないと言ったあとも、この人たちのなかには、ヘビメタ騒音で宿題ができなくなるということはないという考え方が、あるのである。この人たちは、ぼくといっしょに、ぼくの部屋にいたわけじゃない。透明な壁なら、すぐそこに、巨大なスピーカーが置いてあって、がんがん鳴っている状態がわからない。これ、短期記憶も、思考力も、なにもかも、すべてふっぱすのである。尋常な気分ではいられないのである。普通の、勉強ができる状態ではないのである。ところが、きちがい家族による騒音を経験したことがない人、あるいは、ぼくといっしょに、きちがいヘビメタががんがん鳴っている部屋にいたことがない人は、ヘビメタ騒音のなかでは、勉強ができなくなるということを認めないのである。ヘビメタ騒音のなかで、ぼくは、発狂した気持ちをおさえて、高圧状態で存在しているのである。はちきれんばかりなのである。怒りが内向して、頭のなかが、ズタボロになってしまっているのである。緊張感が、発狂的なレベルで高いのである。そういう状態に、「強制的になる」音なのである。ぼくにとってはそういう音なのである。あんな音のなかで、勉強できるわけがないだろ。きちがい兄貴が、横の部屋で、普通のステレオで、音楽を聴いているわけじゃないんだよ。きちがい兄貴が、ヘビメタをやるまえも、普通の人よりはでかい音で鳴らしていたけど、その場合は、勉強ができるんだよ。きちがい兄貴が、フォークギターにこって、常に鳴らしていた時期があるのだけど、その時期も、普通に勉強ができた。幼稚園で、運動会をやっているときも、普通に勉強ができた。けど、きちがいヘビメタが鳴っていると、一秒もできない。どれだけがんばっても、一秒も勉強ができない。そういう状態になる。

*     *     *

きちがい兄貴に、「宿題ができないから、ヘビメタを鳴らすな」とか「宿題をしてこないということで、バカにされた」ということを言ったって、きちがい親父とおなじ態度で、否定して、頑固に鳴らし続ける。だから、こういうことがつもってしまうのだから、部屋に戻って、自分の部屋で、きちがいヘビメタを強制的に聞かされているときの気分が、尋常じゃないものになる。

*     *     *

ちなみに、「お兄さんのヘビメタが鳴っていても、宿題ぐらいできる」と思っている人は、「できるのに、できないといいわけをしている」と思うわけだ。けど、できない。ようするに、この人にとってみれば、エイリさんは宿題をやってこないうえに、できないといいわけをするようなやつだということになる。こういうことの積み重ねなんだよ。きちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を鳴らすということは、こういうことだ。ほかの人はほかの人で、きちがい家族がいないので、そのきちがい家族が、きちがい的な感覚で!!夢中になってある音楽を鳴らすということを、経験してない。経験してないから「できない」というとがわかってないだけなのだけど、そいつの頭のなかでは「できる」ということになっているので、「エイリは、いいわけをするような人だ」ということになる。

きちがい家族によるヘビメタ騒音のなかで宿題ができないというのは、ほんとうのことなんだけど、「できないということはない」と考える人は、エイリが「できない」と嘘を言っていると考えるのである。

*     *     *

宿題で起こったことは、仕事でも起こる。ヘビメタ騒音で仕事ができないということはないという前提で、ものを言ってくるようになるのである。ほんとうに、通勤して働くことができないのに、「できる」という前提で、ものを言う。こういうことを言う人間だって、「実際に」きちがい家族によるきちがい的な騒音を毎日毎日、十数年間にわたって経験すれば、働けなくなるのに……つまり仕事ができなくなる……のに、そういうことを言う。

*     *     *

ほんとうに、普通の人は、きちがい家族の、きちがい的な態度について、勘違いをしている。誤解をしている。まちがった認識をもっている。わかるわけがないけど、まちがった認識なんだよ。わかるわけがないけど……。

「きちがい家族の、きちがい的な態度」と書いたけど、「きちがい家族の、きちがいてな感覚」でもおなじだ。おなじことが成り立つ。けっきょく、よその人が、わかってないだけなのである。よその人には、きちがい的な家族がいない。きちがい的な家族が『うちのなかで』どういう感覚で、どういう態度で、どういうことをするか、まったくわかってない。 

*     *     *

(事実できない)→(できるに決まっている)(できるのにできないと嘘を言っている)(できるのに、できないといいわけをしているだけなんだ)(エイリというやつは、できるのに、できないといいわけをするダメなやつだ)(エイリというやつは、いいわけばかりの人間だ)

できないということについて、勘違いをしている。 

きちがい家族が、きちがい的な行為を、きちがい的な態度でやり続けるだけで、よその人から、俺が、悪く言われる。こういうことの繰り返しだった。これも、つもっている。この、よその人だって、俺の部屋にいたら、勉強ができないし、宿題もできなくなる。けど、いないから、わからない。そして、「しずかにしてくれ」と言いに行ったときの、きちがい兄貴の態度に……腹をたてるのだ。よその人だって、腹をたてる。受け止め方をかえて、腹をたてないということはない。そして、しかたがないから、鳴っているなかで、受け止め方をかえるようにトライするのだけど、やっぱり、「できない」状態が続くのである。高圧状態だ。がんがん、音がせめてくるからな。一秒の休みもなく、たてつづけに、その問題の音がせめてくる。こんな状態で、いいわけがないだろ。

*     *     *

しかたがなく、学校に行くと、「どうして宿題をやってこなかった」と言われる。言われたので「兄がヘビメタを鳴らしていて、どうしても宿題ができない」ということを言ったって……ちゃんと説明したって……けっきょく、相手は、「お兄さんのヘビメタが鳴ってたって宿題ぐらいできる」というまちがった考えにこだわって、できないということを認めない。これだって、相手が「受け止め方をかえれば」すむ話だ。けど、受け止め方をかえないのである。 

*     *     *

ヘビメタが好きなやつは、ヘビメタと書いたところを「自分が、この世で一番きらいな音」と言い換えて読んでくれ。

あのときの不安のままなんだよ。あのときの不安のままなんだよ

  いま、散歩に行ってきたんだけど、「こりゃ、おわんないわ」と思った。なにが終わらないかというと、ヘビメタ騒音の雰囲気がおわらない。おわらない。

ずっとくるしいままだったんだな。

ほんとうに、きちがいヘビメタが鳴っている日の崩壊度がすごいのである。あんなの、どうやって、こころの傷をふさごうとしても、次から次へと、こころの傷があいてしまう状態だ。どうやったって、むだなんだよ。あのきちがい兄貴の、あの態度で、鳴らされていたら、もう、だめなんだよ。学校から帰ってきたあと、午後一一時一〇分までだろうが、だめなんだよ。一〇時台の音が、ほんのちょっとさがったとしても、だめなんだよ。午後四時からの、蓄積がある。ほんとうに、宿題ができない状態のなに……どれだけがんばっても、まったく考えがまとまらない状態なのに……みんな、ヘビメタ騒音が鳴ってたって宿題ぐらい(やろうと思えば)できるという考え方なんだよ。そういう考え方をもっている。けど、できない。もう、あのころからおなじったんだな。小学六年生のあのころからおなじだったんだな。ふさがるわけがない。俺があの音のなかで、どういう状態だったか、だれも知らない。俺だけが知っている。だから、認知に差ができるわけ。

ともかく、終わらない。終わらない。 そんでまた、中学三年生のときの気分が、並じゃないのである。

これ、きちがいだから「やってないつもりで」頑固に、やり続けたわけだけど……きちがい兄貴が、頑固に鳴らし続けたわけだけど、こたえた。

あのときの不安のままなんだよ。あのときの不安のままなんだよ。

ほんとうに、くるしかった。きちがいヘビメタ騒音の「不安」が形容しがたい。

並じゃない。

どれだけ形容したって、ほかの人には、わからない。やられてないから……。長期間、毎日毎日、やられてないからわからない。どれだけつもるかわからな。つもったらどういう気持になるのか、わからない。わからない。わからない。

「楽しい楽しいと言って、自分のゴキゲンをとればいい」……こういう言葉が、どれだけ空虚にひびくか、空虚にひびかない人には、まったくわからない。この人たちが、苦労したと言っても、そういうレベルの苦労なんだよ。

*     *     *

ともかく、これは、終わらない。たぶん、俺は、死ぬまでこのままだ。ヘビメタ騒音でくるしいままだ。

2024年5月10日金曜日

「ちょっと助言しただけだろ」

 こいつらは、「ちょっと助言しただけだろ」と言う。こいつらは、「ちょっと思ったことを言っただけだろ」と言う。けど、ヘビメタ騒音の影響を無視して、無理なことを言っている。無理なことを言っている。無理なことを吹っ掛けてきている。そして、「ヘビメタ騒音の影響でできなくなった」とこっちが言っているのに、「ヘビメタ騒音の影響を無視して」なんだかんだと言ってくるのは、ほんとうに、失礼なことだぞ。「ヘビメタ騒音で、できなくなるということはない」という前提で、嘘を言ってくる。もちろん、相手は、嘘を言っているつもりがない。そりゃ、たとえば、言霊主義者は「できると言えばできる」「言ったことが、現実化する」と、そのときは!本気で!言っているわけだから、嘘をついている気持ちはない。認識はない。けど、嘘をついているんだよ。無理なことを言っているんだよ。

そういえば、「あたりまえのことを言っただけなのに、なんだおまえは!!」という反応もあったなぁ。

「働いたほうがいい」なんて、言えない状態になっている

 生きているあいだの、ほんとうの気持ちを書くページなので、ほんとうの気持ちを書いてしまうけど、つまんない。ほんとうに、ヘビメタ騒音がはじまってから、つらさが並じゃないのである。

あれ、ほんとうに、経験した人じゃないわからないんじゃないかな。

けど、きちがい家族にやられた人や、想像力がある人は、わかるんだよな。

わかる人は「そんなのは関係がない」と、絶対に言わない。

「過去は関係がない」と絶対に言わない。

「それでも働いたほうがいい」と絶対に言わない。

「影響をうけないことは可能だ」という前提に立って、ものを、言わない。

「影響をうけないことは可能だ」という前提に立って、ああだこうだという人は、まったくなにもわかってない。

口を開けば、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言うけど、ぜんぜんちがうんだよ。

苦労の苦労がちがう。

騒音の騒音がちがう。

ぜんぜんちがう。ぜーーんぜん、ちがう。ちがいがわかってないということは、俺と同等の苦労をしてないということなんだよ。俺と同等の騒音を経験してないということなんだよ。

もし、ぼくとおなじ騒音を経験してたら、絶対に、「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ったりしない。俺と同等の苦労をしていたら、働けない状態になっている。通勤して働いて「働いたほうがいい」なんて、言えない状態になっている。

通勤して働いているということは、それだけの苦労だということだ。

通勤して働けない状態になってから、ものを言え。

通勤して働けない状態になったとして、それで、自分のことは棚に上げて「それでも、働いたほうがいい」と言うのか?

まあ、言う場合もあるんだよな。

これが! けど、矛盾している。これ、矛盾しているということを言うと、これまた、おこるんだよな。おこりたいのはこっちだーーっていーうのぉ。

「おまえだけが苦労したわけじゃない」……。それは、正しい。そりゃ、だれだって、相応の苦労をしているでしょ。

けど、だれもが、きちがい兄貴と一緒に住んでいるわけじゃない。

けど、だれもが、きちがい親父と一緒に住んでいるわけじゃない。まあ、「住んでいた」という過去形も含める。きちがい家族によってもたらされる苦労と、正常な家族によってもたらされる苦労は、ちがうんだよ。正常な家族としか暮らしたことがない人は、異常な家族といっしょに暮らす苦労がわかってない。

異常な家族が、どんな意地で、どんなことをするか、まったくまったく、わかってない。わかってないのに、わかっているようなふりをするな。

ひとくちに「苦労」と言っても、苦労の内容がちがえば、ちがうんだよ。苦労が及ぼす効果がちがう。「苦労した」とひとこと言えば、そのちがいが、うまるわけじゃないんだよ。苦労も、苦労が及ぼす影響も、ちがうんだよ。

「自分だけが苦労したと思うな」……。そんなことは、思ってないよ。けど、本人……自分自身が働いていて、「それでも働くべきだ」と言える人が経験した苦労とは、ぜんぜんちがう苦労を経験したと、言える。

ぼくが経験した苦労と、通勤して働ける人が経験した苦労は、ぜんぜんちがうと、言える。おなじじゃない。

「自分だって苦労した」「おまえだけが苦労したわけじゃない」「みんな、苦労している」「自分だけが苦労したと思うな」……そんな、陳腐な言葉で、均質化、同質化、できると思うな。

きちがい家族によってもたらされる苦労が、どういうものか、まったくわかってないから、そんなことが言える。

もし、きちがい家族によってもたらされる苦労が、どういうものか、わかっている人だったら、絶対にそんなことは言わない。

2024年5月9日木曜日

餌食になるのは、実際に条件が悪くて、つらい思いをしている人たちなのだ

  明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる……ということを信じている人を、とりあえず、思霊主義者と呼ぶことにする。

「ヘビメタ騒音のことを説明すれば、みんなが、ヘビメタ騒音のことを理解してくれる」と、ぼくが、明るいことを考えたとする。

ところが、現実は、わずかな例外をのぞいて、ほとんどのみんなが、ヘビメタ騒音のことを理解してくれない。ヘビメタ騒音における「影響のでかさ」を理解してくれない。

「影響がある」ということを理解してくれない。

「影響はない」という前提で、無理なことを言ってくる。

影響のでかさを理解しない他者の出現は、ぼくにとって、暗いことなのか、明るいことなのか?

無理なことを言ってくる他者の出現は、ぼくにとって、暗いことなのか、明るいことなのか?

暗いことなんだよ。

「ヘビメタ騒音のことを説明すれば、みんなが、ヘビメタ騒音のことを理解してくれる」と明るいことを考えても、暗いことが起こるんだよ。説明しても理解しない思霊主義者がいっぱいいるということ自体が、暗いことなんだよ。説明しても、相手が理解しないということは、暗いことなんだよ。

思霊主義者は、普通の人なので、普通の人が考えるように考える。

思霊主義者は、きちがい家族といっしょにすごした経験がなく、思霊主義者は、家族によって、自分が一番苦手な音を、ものすごくでかい音で何時間も何時間も鳴らされるという毎日を経験したことがない。

経験したことがないので、これまた、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、あるいは、頑固に無視して「できないこと」を言ってくる。

ようするに、多数の思霊主義者も、影響のでかさを理解せず、「影響はない」という前提で、無理なことを言ってくる。多数の思霊主義者が、ぼくにとって、暗いこと現実をつくりだす。

明るいことを考えても、暗いことが起こるということを、多くの思霊主義者がデモンストレーションしてしまう。

だいたい、ヘビメタ騒音という最大級に「暗いこと」は、ぼくが「考えたから」発生したことではない。ぼくが「ヘビメタ騒音が鳴りだす」と考えたから、発生したことではない。

きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で「でかい音で鳴らしたい」という願望を実行しただけだ。

きちがい兄貴にとっては、明るいことなのだ。

そりゃ、自分がやりたい思ったことを、人に遠慮せず、やっている状態なのだから、楽しい状態だ。

明るい思いを現実化したのである。

まあ、それはともかくとして、暗いことを考えなくても、暗いことが発生することはあるのに、それを、思霊主義者は認めない。暗いことを考えたから、暗いことが発生するという考えにこだわる。

それなら、引き寄せ主義者とおなじように、条件が悪い人をせめることになる。

ほんとうは、条件が悪い人が、悪いことを考えたから、悪いことが発生したわけではないのに、条件が悪い人が、悪いことを考えたから、悪いことが発生したと、濡れ衣を着せるのだ。

どちらかというと、そういう行為自体が、悪い行為だ。

思霊主義者は、暗いことを実行している。思霊主義者は、人にとって、いやなことをやっている。思霊主義者は、人にとって、暗いことであることを、やっている。

餌食になるのは、実際に条件が悪くて、つらい思いをしている人たちなのだ。実際に条件が悪くてつらい思いをしている人たちが、悪いことを考えたから、悪いことが起こっているのではない。

実際に条件が悪くてつらい思いをしている人たちが、暗いことを考え方から、暗いことが起こっているわけではない。

ところが、条件が悪い人たちが、暗いことを考える「から」暗いことが起こると、勝手に決めつける。

そして、条件が悪い人たちの考えを、暗いことの発生源のように言って、条件が悪い人たちをくるしめる。こんなことをやって、いいわけがない。

そういうことを言う思霊主義者本人は、気がついてないかもしれないけど、「暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方は、条件が悪い人のことをせめることになる。

条件が悪い人は、条件が悪いので、暗いことが発生しやすいのである。

ここでも、「あとだし思考」をするので、実際に、暗いことが発生したなら、暗いことを考えたから発生したのだと考えてしまう。これだって、濡れ衣を着せたことになるだろう。

ところが、思霊主義者は、そんなことは、気にしないのである。

*     *     *

思霊主義者は、「条件が悪い人が、悪いことを考えたから、悪いことが発生した」と、条件が悪い人に濡れ衣を着せるのだけど、これが、明るいことなのか?

ぼくには、暗いことに見えるけどなぁ。

この行為は暗い行為だ。
 

すぐにでもやめなければならない。

*     *     *

自分が明日は雨になると言ったから、雨になった……と考える言霊主義者については、以前、述べたことがある。

思霊主義者もおなじだ。自分が明日は雨になると思ったから、雨になった……と思霊主義者は考えてしまう。

この場合、実際の理由は無視されている。大気中のさまざまな物質の運動によって、雨がふった。これが正しい理由だ。大気と言われているものなかには、さまざまな分子が含まれている。

その分子の物理的な運動によって、雨がふった。

水蒸気を構成している物質の分子。核になるチリを構成している分子。その他の空気に含まれるさまざまな分子。こういった分子の物理的な運動によって、雨がふったのだ。

ある思霊主義者が、「雨がふる」と思ったから、雨がふったわけではない。

その「ある思霊主義者」は、理由について勘違いをしている。その「ある思霊主義者」は、まちがった理由づけをしている。

天候について、まちがった理由づけをして、「うぬぼれている」だけなら、まだ、いい。

けど、実際には、『条件が悪い人』をせめている。

条件が悪い人に、濡れ衣を着せている。

悪いことが発生した人は、「悪いことを考えたから」ダメなんだとせめる。

けど、ほかの理由で悪いことが発生しているのである。理由について考え違いをしている。こういう、考え方が、正しいこととして流通すると、社会全体は、悪い状態になるのである。

*     *     *

悪い支配者という項目を考えなれければ、個人的な思霊主義は、別に悪いものではない。個人が、個人に関することについて、勘違いをしているだけだからだ。

もっとも、その個人に関することではなくて、他人に関することについて、勘違いをすると、そのぶんだけ、勘違いされた人が、不愉快な思いをするということを書いてきた。 

悪い支配者がいた場合、悪い支配者が一般人をだまして、悪い方向に誘導する。

そのとき、思霊主義者が「いいことを思えばいいことが起こり、悪いことを考えると悪いことが起こる」という考えをもっているとする。それが正しいこととして流通しているとする。

実際には、すでに、悪い支配者によって、「悪いこと」が起こっている。もう、起こったあとなのだ。

それも、連鎖的に、複数の悪いことが起こっている。

一般人が……あるいは、一般人の誰かが「悪いこと」を思ったから、その悪いことが起こったわけではないのだ。

けど、悪い支配者のことは、無視しているので、あくまでも、悪いことを思った誰かのせいで?その悪いこととが起こったと……思霊主義者は……まちがって確信しているのである。

その誰かに、そんな、チカラはない。

ところが、思霊主義者は、超物理的な力を信じる魔法主義者なので、神秘的な魔法の力によって、誰かの考えが現実化したと思ってしまうのだ。

たしかに、悪いことは現実化しているけど、それは、実際に権力をもっているものが、いろいろなメディアを通じて、人をだまして、現実化したことだ。

現実的な方法をもちいて、現実化したことだ。ある人のなかにある「こういう悪いことが起こるのではないか」という「気持ち」「考え」が……超物理的な、神秘的な魔法の力によって……現実化したのではない。

メディアを使って人をだますということを実行した。実行したのは、まあ、悪い支配者だ。そして、現実的な方法を使って、人をだましたのである。

各メディアは、物理的な原理を使って、人々に「ある考え」を伝えたのである。その考えが、間違っているから問題がしょうじる。

誰かが思っている「こういう悪いことが起こるのではないか」という考えが、超物理的な力によって、現実化したわけではない。

はっきり言ってしまうけど、思霊主義者の態度というのは、悪いことが起こったとき、目をつぶって知らんぷりをするという態度なのだ。現実的な問題が発生しているのに、目をつぶって、明るいことを考えていると、自然に、その現実的な問題が解決する……と考えている。

「あたまかくして、しりかくさず」なのだ。

敵兵が大群をなしておしよせているとき、頭を、土の中に突っ込んで、しりを出したまま、明るいことを考えるという態度なのだ。

悪い支配者は現実的なので、現実的に悪いことをつくりだす。

はっきり言ってしまうと、思霊主義が正しいこととして流通しているということも、悪い支配者が、意図的につくりだした現実かもしれないのだ。悪い支配者が、悪いことを効率的におなうための、下地として、用意したものかもしれなぃ。

*     *     *

敵がせまっているとき、「頭を土の中に突っ込んで、明るいことを考えていれば明るいことが起こる」と言っているのが、思霊主義者だ。

敵とは、この場合、現実的な支配者だ。

現実的な支配者が、現実的な方法で、攻撃してくるのである。

ところが、支配者が悪いことをするから、悪いことが発生してこまっているのに、誰か一般市民が、悪いことを考えたから、悪いことが発生していると「嘘を言う」のが、思霊主義者だ。

思霊主義者が多ければ多いほど、悪い支配者は、悪いことをやりやすくなる。

こんなの、悪い支配者を応援しているようなものだ。理由について勘違いをしている思霊主義者が、悪い支配者を応援して、悪い支配者が悪いことをしやすくしている。

……ならば、思霊主義者の思いとは、逆のことが起こる。まさしく、正反対のことが起こる。明るいことを考えているのに、暗いことが起こるのである。

悪い支配者は、現実的な方法をもちいて、悪い思いを現実化しているんだよ。

誰かの、悪い思いが、超自然的な力によって、現実化したんじゃないんだよ。

ところが、思霊主義者は、「悪いことを考えると悪いことが現実化する」と考えてしまう。

何度も言うけど、これじゃあ、悪い支配者を応援しているようなものだ。

思霊主義者が、現実を無視して、「明るいこと」を考えているうちに、悪い支配者がどんどん、コマを進めてしまう。彼らの思いを現実化してしまう。

彼ら……悪い支配者と悪い支配者の協力者は、現実的な方法で、悪いことを現実化している。思霊主義者は、頭を地面に突っ込んで、暗い現実を見ることなく、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と、ひたすら「明るいこと」を考えているのだ。超自然的な力に頼っている思霊主義者は、現実的な悪い支配者に、いいように、やられてしまう。

「人に親切にするといいことがある」系の考え方

 「人に親切にするといいことがある」系の考え方は、ずっとずっと前からある。これも、定番で、「すべては受け止め方の問題だ」「なんでも感謝感謝」「人間はみんなおたがいさま」といった考え方とおなじように、精神世界で、何十年も前から言われていることだ。

普通に考えれば、いいことがありそうなんだけど、もともと親切な人は、「人に親切にするといいことがある」と思わないほうがいい。もともと、親切だから、普段、普通に親切にしている。これ、基準がちがうのである。もともと親切じゃない人と、もともと親切な人の、基準がちがいすぎる。もともと親切な人は、もともと親切なの人なので、その人が、『もっと親切にしよう』と思うと、過剰に親切にすることになる。なので、トラブルが発生しやすくなる。とくに、きちがい家族にやられて、弱っているときに、人に親切にしようとすると、トラブルばっかり発生して、死にたくなるから、注意が必要だ。これ、ほんとうに、どうして、もともとの性格や、その人が暮らしている条件を考えないで「人に親切にする」ということを言ってしまうのか。「人に親切にする」ということの内容がちがってくるのである。

ほんとうに「なんでこんなことになってしまうんだ」と思うような、意外な結末がまっている。ほかの人の反応というのは、親切にしようとした人が期待しているような反応ではない……。けど、あとになって考えたら、普段、親切な人が、その親切行為をしないのだから、やはり、過剰な親切行為なのである。過剰な親切行為をすると、かならずと言っていいほど、悪いことが発生するので、「人に親切にすると、悪いことがある」ということになる。もともと親切な人は、普段から、人に親切なんだよ。人のことを考えて行動しているんだよ。もともと親切ではない人が、親切にするというのとは、わけがちがうのである。

 

2024年5月8日水曜日

「人のいやがることはやめましょう」

  たとえば、「人のいやがることはやめましょう」と言ったって、強引な勧誘をするときだってあるでしょ……。宗教団体の人は、普通の人を救ってやるつもりで、説得するわけだから、強引な説得になる場合だってある。ほかの人がいやがっているかどうか……読みとる力……。読みとる力には個人差があるんだよ。そして、特別な理由……そうしてもいい特別な理由が加味されると、人は、ほかの人がいやがることをする場合もあるんだよ。もちろん、「人のいやがることはやめましょう」という教義があるとしても、その宗教の勧誘をする人は、あんまり勧誘されたくない人を勧誘する場合だってある。勧誘される側の人にとってみれば、「いやなこと」なんだよ。勧誘するほうにとっては、「いいこと」なんだよ。ただ単に、「人のいやがることはやめましょう」という簡単な教えだって、普段、まもれるかどうは、はなはだ、うたがわしい。教義のなかに「人のいやがることはやめましょう」ということがはいっているとする。はいっているから、その宗教は正しいのか? その宗教団体がやっていることは、正しいのか? ある宗教団体があるとする。その宗教団体の「おしえ」が、だいたい正しいと思っている人がいるとする。けど、その「だいたい正しい」と思える個々の内容(教え)というのは、「人のいやがることはやめましょう」といったような、特に、宗教団体に入って教えてもらわなくても、普通に、正しいと思えるようなことなのではないか。けど、「人のいやがることはやめましょう」なんて簡単そうに思えることでも、実践するのは、並じゃないのである。

きれいごとが成り立ってないから、こまっているんだよ。

 きちがい兄貴が、きれいごとを無視して、頑固に鳴らしているんだよ。それを、とめられない。そして、他人は、それをとめなかった。他人が、きれいごとを言う権利はない。まあ、そんなの知らないから、とめられないとか、あるいは、そんなのは過去の出来事だから、とめられないというのはある。けど、きちがい兄貴が、基準を無視して鳴らしたというのは重要なことなんだよ。条例違反なんだよ。きちがい兄貴が、まず、悪いことをしている。「うち」ではきれいごとは成り立たなかった。きれいごとをガン無視して、やりきってしまう、きちがいが、きちがい行為をやり続けた。その結果、ぼくが、睡眠障害になり、生活体力障害になり、働けなくなった。それが重要なんだよ。「受け止め方をかえればいい」「他人はかわらないから自分がかわればいい」というのは、きれいごとなんだよ。ちなみに、「受け止め方をかえればいい」「他人はかわらないから自分がかわればいい」と言っている人は、無職であるぼくをかえようとした人だ。その人は、きちがい兄貴のことをどうにかしてくれたわけではない。これが、重要なんだよ。

 「受け止め方をかえればいい」「他人はかわらないから自分がかわればいい」という意見には問題がある。そして、その問題は、言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論、自己責任論にも成り立っている。精神世界のきれいごとは、実際にやられた人を追いつめるものなんだよ。言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論、自己責任論は、自殺しそうな人を、自殺に追いつめるような理論なんだよ。これ、いいことをしていると本人は思っているかもしれないけど、悪いことをしている。きれいごとが成り立ってないから、こまっているんだよ。きれいごとが「うち」で成り立っていないから、自殺したいと思っているんだよ。きれいごとが「うち」で、成り立っていないから、普通に働けなくなってこまっているんだよ。それに、きれいごとをウワノセしたってしかたがない。やられているやつが、さらに追いつめられるだけだ。「できない」と言っている相手に、「できると言えばできる」「できないと言うからできない」と言うのは、 「受け止め方をかえればいい」「他人はかわらないから自分がかわればいい」と言うことと同様に、おろかなことなんだよ。

「そうですねと言っただろ」

  まあ、たとえばの話だけど、ヘビメタ騒音の影響を無視して「働くべきだ」と言う人と、つきあえるかというと、つきあえない。

つきあえばいいじゃないかと思うかもしれないけど、ヘビメタ騒音で働けなくなっている。

だから、働かない状態が続く。会うたびに「働くべきだ」と言われる状態が続くことになる。

だから、働くか、つきあいを切るしかない。

働けないのだから、つきあいを切るしかない。まあ、つきあいを切らずに、働かない状態で、会うという、選択肢も、選択肢としてはある。それは、否定しない。けど、楽しいかな? そんな状態であっていて、楽しいかな?

楽しくないんじゃないかな。こんな、針の筵(むしろ)の上に座っているような状態で楽しいか?

「働くべきだ」と説教されて、楽しいか? 働けないと、言っているのに、相手は、「働くべきだ」と言ってくる。こいつ、ぜんぜん、理解してないだろ。

こいつ、理解しているといえるの? 

いえないよ。

何度も、こっちは「働けない」「できない」「ヘビメタ騒音で働けないからだになった」と言っているのに、それは、全否定か? 全否定する人と、一緒にいて、楽しいかな? 楽しいわけないだろ。なんで、これがわからないかな? 決まっていることなんだよ。それは、きちがいヘビメタ騒音の数万時間、で、決まったことなんだよ。否定するなよ。経験した俺が「無理だ」と判断しているんだよ。数千日にわたって経験した俺が「できない」と判断しているんだよ。これは、「瞬間移動ができない」ということと、ほぼおなじだ。ヘビメタ騒音がなければ、働けた。働けるなら、働いているのだから、「言ったことが現実化する」とか「できると言えばできる」とか「できないというからできないのだ」ということに、特に、反論する理由がないんだよ。ほんとうは、ちがうと思っていても「そうですね」と話をあわせても、問題が生じない。けど、できないからだになってしまったら「そうですね」と話をあわせてしまうと、問題がしょうじる。一度でも、「そうですね」と話をあわせてしまうと、問題がしょうじる。たった、一回でも駄目なんだよ。一回でも駄目。「そうですね」と言ってしまうと、「そうですねと言っただろ」と、相手が言うことになる。「そうですねと言ったのに、どうしてやらないんだ」と、相手が言うことになる。「そうですね」と言ってしまったのが事実だと、これは、やばいんだよ。「そうですね」と言ってしまったのだから、「そうですね」と言ったということに関しては、相手が正しいということになる。

そして、「そうですね」と言ったのだから、やるべきだということになる。

ところが、「そうですね」と言ったあとも、きちがいヘビメタ騒音で「できない」状態というのは、かわらない。まったくまったく、まったく、かわらない。

だから、ぼくが、追いつめられることになる。

だから、最初から、絶対に、「そうですね」と言ってはいけないということになる。わかるかな?

きちがいヘビメタ騒音にやられて「できない」状態にならないと、わからないんだよな。けど、そういう人が「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と言う。

これも、ヘビメタ騒音なんて、俺が経験した騒音とおなじくらいの騒音だろということなのだ。これも、ヘビメタ騒音関係の苦労は、俺が経験した苦労とおなじぐらいの苦労なんだろということなのだ。ところが、ちがう。ちがうんだよ。

これ、相手は「ちがう」ということを、認めない。認めないなら、相手のなかでは、同等の騒音、同等の苦労ということになる。自分がげんに働いているのだから、働けるということになる。同等の騒音を経験しても、同等の苦労を経験しても、働けるということになる。

けど、ちがう。

同等の騒音じゃない。同等の苦労じゃない。だから、まあ、こういうところを、ぐるぐるとまわることになるんだよ。相手に、直接このように説明したって、相手は認めないのだから。 

*     *     *

ちなみに、ぼくに「できると言えばできる」と言ったやつが、定年退職する前に、退職して無職になっている。なんだ? おまえ? できると言えばできるんだろ。人間働くべきなんだろ。働けよ。なんで無職なんだよ? おかしいだろ。

*     *     *

ちなみに、たとえば、「人のいやがることをするのはやめましょう」「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」という教えをもった宗教があるとする。けど、「できると言えばできる」という嘘理論を言い、「できない」と言っている相手に「できる」ということを言うのはどうなのかな? 自分がやられて、いやなことは人にしないことにしているんだろ。精神世界の人はそうだ。まあ、その宗教は、「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」という教えをもっているとする。「できると言えばできる」という理論自体がまちがっていて、「できると言っても、できない」と相手が言っているのだから、「人のいやがることをするのはやめましょう」「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」ということをまもって、言わないようにする選択肢はないのか?

定年退職する前に退職したやつは、それなりに理由があって、退職したんだろ。「できると言ってもできない」ということを経験したはずだ。なんで人に言うときだけ「できると言えばできる」なんてことを狂信している状態になるのか? おかしいとは思わないか?

ともかく、「人のいやがることをするのはやめましょう」「自分がやられて、いやなことは、人にするのはやめましょう」なんて言ってたって、この通りだ。「できないと言っているだろ」「いいかげんにしろ」と相手が言ってたって、「人は働くべきだから、働くべきだ」ということを言ったりする。いやがっている。相手がいやがっていることを、頑固にしている。

だから、教義として、いいことを言っていたとしても、実際には、いいことにならないということが、現実の世界では、多発するんだよ。そういうことについて、もうちょっと、考えたほうがいいよ。 

表面的にきれいごとを言ってたとしても、いくらでも「すりかえる」ことができるんだよ。悪い状態に誘導することが、できるのぉ!! ちょっとは、考えたほうがいい。

これ、中立的な立場で言っているつもりかもしれないけど、加害者側に立っている

 ぼくがわかいとき、「それでも、働いたほうがいい」と言ったやつがいたのだけど……しつこく、しつこく言ったやつがいたんだけど……いたんだけど……エンを切ってよかった。殺されるところだった。まず、ヘビメタ騒音で「できなくなって」自殺に追い込まれる。でっ、「ヘビメタ騒音でできなくなった」ということを認めないやつにも、自殺に追い込まれるのだ。いいことなんてない。しかも、引き寄せ主義者は、俺が(エイリが)騒音を引き寄せたからダメなんだと言う。思霊主義者も、おなじだ。結果から、俺がヘビメタ騒音がはじまると暗いことを考えたから、ヘビメタ騒音がはじまったと言うのだ。ヘビメタ騒音という言葉をとれば、俺が暗いことを考えたから、暗いことが起こったという説になる。暗いことを思ったので、ヘビメタ騒音という暗い思いが現実化したとのだと言うのだ。こんなの、ない。それじゃ、条件が悪い家に生まれて、きちがい家族にやられた人は、全員、暗いことを考えたから、きちがい家族にやられたということになってしまう。これ、中立的な立場で言っているつもりかもしれないけど、加害者側に立っている。加害者と一緒に、被害者を追いつめている。潜在意識というタームも要注意タームで、これは、ほんとうのことを知っていると、追いつめられることになる。潜在意識論者の問題は、ずっと前に書いたことがあるから、ここでは省略する。

 

 

きちがい家族にやられて働けなくなった人間に、くそいやみを言う

  ただ単に経験がないからわからないというのが、一番の理由だ。

けど、本人の想像力がたりないから、わからないという部分もある。

それを、まるで、俺が悪いみたいに言いやがって……。おまえの思考力がないから、俺が悪いみたいに見えるだけだ。

この、やられたほうを、悪く言う思考というのは、どうにかならないか。

被害者という言葉を使って、「被害者を悪く言う思考はどうにかならないか」と書けば、「被害者意識ばっかり」と、あおり文句を言ってくる。

これ、あおっている。

こころが、汚染されて、いやみを言う性格になっている。

たとえば、努力論にも、いままで説明したようなトリックがある。トリックに気がつかないようなレベルの思考をしているから、俺が言っていることがわからないだけだろ。

これじゃ、きちがい家族にやられた人が、よそのやつから悪く言われておしまいだ。

やったほうのきちがい家族は、まったくなにも悪く言われない。きちがい家族にやられたから、働けなくなっているだけなのに……通勤して働けなくなっているだけなのに、……きちがい家族にやられてないから、働ける人間が、きちがい家族にやられて働けなくなった人間に、くそいやみを言う。

まちがった前提に立った、助言をする。

これは、言っているほうは助言だと思っているかもしれないけど、助言じゃない。こんなのは、助言じゃない。これを助言だと思えるカルト思考が、そいつの頭のなかに成り立っている。

こんな、人のことを悪く言うだけのやつら……。こんなやつらが道徳を語る……。「人の道」について語る……。「哲学」について語る。こんなレベルのやつらが……。

こんなレベルのやつらが言ったことには、なんの意味もない。

ヘビメタ騒音の影響を無視して、なめたことを、言ってくる

 ほんとーーに、ヘビメタ騒音のことで、ほかの人から、どれだけ悪く言われたかわからない。そりゃ、ヘビメタ騒音にたえて、ほかの人に、ヘビメタ騒音のをことを言わなくても、ほかの人から、悪く言われるのである。どうしたって、影響をうけるから、ほかの人から悪く言われる。けっきょく、ヘビメタ騒音のことを説明しても、、ヘビメタ騒音のことを、説明しなくても、ヘビメタ騒音の不可避的な影響で、俺が、ほかの人から悪く言われる。ヘビメタ騒音の影響で、「こういう状態になっている」のに、ヘビメタ騒音の影響を無視して、なめたことを、言ってくる。他人が言ってくる。そういう状態になる。どうしてかというと、影響をうけるからだ。他人は、こっちがヘビメタ騒音について説明しても、しなくても、ヘビメタ騒音の影響を無視して、くそを言う。無理なことを言う。無理なことだとは思わずに、無理なことを言う。俺にとって、他人がそういう存在になる。

*     *     *

「そんなの絶対、おかしい」と言ったやつがいる。「そんなの絶対、おかしい」から、俺が嘘を言っていると思っているのだ。きちがい兄貴はおかしいけど、俺は、おかしくない。きちがい兄貴がやったことをそのまま言っている。きちがい親父がやったことをそのまま言っている。俺は嘘を言ってない。けど、こういうこと…… 「そんなの絶対、おかしい」と言うやつは、俺が嘘を言ったと思っている。こいつらに、「俺は嘘を言ってない」ということをつめいしても、こいつらはこいつらで、信じない。

*     *     *

ヘビメタ騒音の影響を過小評価する人も、俺が過小評価するなということを言ったあとも、過小評価したままだ。しかも、ちょっとおこっている。おこりたいのは、こっちだ。

どれだけのマイナスになるか、みんな、わかってない。ほんとうに、誤解されて立場がなくなる。

2024年5月7日火曜日

だから、こういう不愉快なコミュニケーションが繰り返されることになる。

  たとえばの話だけど「できると言えばできる」「できないと言うから、できない」という人に、賛成してしまった場合、どういうことになるかと言うと、「やらなければならない」ことになるのだ。

「そうですね」とひとこと言ってしまうと、言ってみれば「やる義務」がしょうじてしまう。こういう話なんだよ。

ところが、きちがいヘビメタ騒音で「できない」体になったので、できない。この場合は、「できない」というしかない。相手は、「できると言えばできる」と言うわけだけど、「できない」とこたえるしかない。

手短に言うと、こういうことを言ってくる人たちは、きちがい家族が鳴らす、きちがい的な騒音の効果をあまく見ている。それは、やられたことがないから、あまく見ているだけなのだけど、あまく見ていることにはかわりがない。

この人たちは「ヘビメタ騒音で、できない」ということや、「ヘビメタ騒音でできなくなった」ということは、認めない。

本人だって、ほんとうは、きちがい家族による騒音にたたられたら、できなくなるのに、できなくなるとは思わないのだ。そうなると、ぼくがとても弱い側にたたされることになる。

「できると言えばできる」→「そうですね」→時間経過→「どうしてやらないんだ」→こたえに窮する。だから、最初から「できないものはできない」と言うしかない。そうなると、「できると言えばできる」→「できないものはできない」→「できないと言うからできない。できると言えばできる」→「できないものはできない」ということの繰り返しになる。

もう、最初から決まっている。

「できないこと」はあきらかなんだよ。

それは、相手……言霊的なことを言う人が、俺とおなじ経験をすれば「これは無理だ」とわかることなんだよ。

けど、言霊的なことを言う人には、俺とおなじ経験がない。そして、俺とおなじ経験をするような環境がない。だって、その人には、きちがい家族がいないのだからなぁ。

けど、「騒音」ぐらいはあるので、「どんだけ騒音が鳴ってたって、まるまるはできる」ということを言う。

ところが、騒音が鳴っていた生活をし続けた結果、できなくなった。これは、短期間的なものと、長期間的なものがある。

たとえば、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいはできる」と鳴らされてない人は、言う。

けど、実際に、鳴っていると、できない。

そして、そういうことが七年以上、つみかさなると、通勤することや、働くことができなくなる。通学することもできなくなる。

けど、実際に七年以上、経験したことがない人は……きちがい家族による騒音生活を経験したことがない人は「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤できる」「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、仕事はできる」「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通学できる」と言うわけだよ。

そして、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と言う。

だから、こういう不愉快なコミュニケーションが繰り返されることになる。このもとをつくったきちがい兄貴なんて、無関心だよ。どれだけ言ったって、自分がやっていることでそういうことがしょうじているということがわからない。そのときは、ヘビメタを思いっきり鳴らしたいので、ヘビメタを思いっきり鳴らせなくなるようなことは、どれだけ、日本語がわかれば、わかるようなことでも、まったく日本語がわからないような感じで、認めない。

*     *     *

「できると言えばできる」と言っている人は、まず、「わたしは瞬間移動することができる」と言って、瞬間移動してから、ものを言ってくれ。一倍速で経験したことがないからわからないだろうけど、七年間のきちがい騒音生活のあとは、瞬間移動ができないように、通勤通学ができないようになるんだよ。まあ、経験したことがないからわからないと思うけど……。

*     *     *

言霊主義者に「死人をよみがえらせてみろ」とか「瞬間移動してみろ」と言ったら、言霊主義者はどう言うか? 「そんなことはできるわけがない」と言うだろう。

そのとき、ぼくが「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と言ったとする。

どういう気持になるか、ちょっとは、わかるか?

 

社会全体をひとつの生態系として考えて、バランスをとる

  だれとは言わないけど、引きこもり系の人が、いろいろとつぶやいている。そのつぶやきを読んだ、別の引きこもり系の人が感想を書いている。そして、その感想に対して、引きこもり系の人が、また、感想を書いている。

ようするに、Aさんがつぶやいて、Bさんが、それについて感想を書き、AさんがBさんの感想に対して応答しているということだ。これ、じつは、Bさんの癒しになっているのである。これ、じつは、引きこもりカウンセラーなんかよりもずっといい仕事をしているのである。Aさんは、引きこもりカウンセラーじゃないし、おカネももらってないのだけど、Bさんに、ものすごくいい影響をあたえている。

引きこもりカウンセラーなんて、悪いことしかしてない。これ、わからないとは思うけど、害なのだ。引きこもりカウンセラーは、引きこもりに対して、悪いことしかしない。

現役引きこもりのAさんは、Bさんにいい影響をあたえることができるけど、引きこもりカウンセラーはBさんに悪い影響しか与えることができない。引きこもりカウンセラーはBさんにマイナス一〇〇ぐらいの影響をあたえるけど、AさんはBさんにプラス一〇〇〇ぐらいの影響をあたえる。このくらいの差がある。

いまの社会というのは、繊細な人や、日本の会社文化になじめない人にとっては、地獄なのだ。鈍感な人や、日本の会社文化にごく自然になじめる人だって、青色吐息、ヘトヘトなのに、 繊細な人や、日本の会社文化になじめない人がうまく働けるはずがないのだ。

もちろん、条件がいい日とはちがう。条件がいい場合は、繊細な人や、日本の会社文化になじめない人でも、わりと働くことができる。しかし、それは、条件がいい場合の話で、条件が普通の人や、条件が悪い人は、働けない。それをがまんして働くと、社会全体が、暗くなる。社会全体が、だめな方向に向かってしまう。

まあ、これから、経済がかわる。経済のしくみがかわるわけだけど、まあ、そこそこ、善意のある人が、四時間ぐらい、普通に働けば、普通に暮らせる社会になる。いまの社会というのは、いびつなんだよ。経済的に、極端にいびつなんだよ。

みんな、経済的に、極端にいびつだということに、気がついてくれよ。

これは、生態系としては、まずいことなんだよ。

経済社会をひとつの生態系として考えた場合、いまの経済社会というのは、極端なアンバランスがある状態なんだよ。このアンバランスが、住みにくさを、増大させている。社会全体をひとつの生態系として考えて、バランスをとることをしなければならない。

手短に言うと、Aさんの行為は、バランスをとる方向の行為で、引きこもりカウンセラーの行為は、バランスをとらない方向の行為だ。引きこもりカウンセラーなる職業が成り立つと、そのぶん、不幸が増え、社会のバランスがくずれるのである。社会の邪悪な圧力?を増大させる方向で努力するということになってしまう。

じつは、経済活動をすることによって、社会の邪悪な圧力が増大する場合があるのだ。これは、もっともっと重視しなければならない。ただの、内部不経済ではない。

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トラブルが生じる場合、最初から、悪意がある場合と、最初から悪意がない場合がある。悪意がなくても、その人の性格や考え方から、トラブルが生じる場合がある。けど、悪意がある場合もあるから、これは、減らせる。悪意がある経済活動をしなくてもいいようにすればよいのだ。

ぼくよりも、高等な人間だと思ってぼくのことを、見下している

 これ、ほんとう、無理なことなのに、みんなわかってない。過小評価している。あるいは、無視している。できるわけがないんだよ。できるわけがない。あんな音で鳴らされて、横の部屋にいるのに影響をうけないことは可能だという前提でものを言うやつは、どうかしている。頭がおかしいとは言わないけど、想像力が凡人並みだ。特に、人のことについて考えられる人ではないのである。特に、人の状態について、考えられる人ではないのである。ほんとうに、人並みの理解力しかないからそうなる。コミュケーション能力も、人並みでしかない。人並みのコミュニケーション能力だと、ヘビメタ騒音の影響について……つまり、きちがい家族のきちがい騒音について、かならず、誤解をするのである。しかも、これが……誤解をしたとは思ってないのである。この、本人が誤解をしていると思ってないタイプの誤解というのは、きちがい兄貴の誤解や、きちがい親父の誤解と、ある意味、似ているので、ぼくにとっては、相当に不愉快なものなのである。そして、「それでも働いたほうがいい」と言う人は、ぼくよりも、高等な人間だと思ってぼくのことを、見下している。これも、本人が「見下している」と意識できないことなのである。当たり前すぎて、意識できないわぁーー。意識できないぐらいに、当たり前のこととして、見下しているのである。働いているほうが、働いていないやつよりえらい……特に意識していなくても、こういう感覚がある。

きちがい兄貴が、気にせずに、ずっときちがいヘビメタ騒音を出し続けると……きちがい兄貴自身が、満足できる音で、鳴らし続けると……必然的に、普通の他者とこういう問題があるコミュニケーションがしょじるようになっているのである。

普通の人→きちがい的な家族と一緒に住んだ経験がない→きちがい家族がきちがい的な意地で騒音を毎日毎日鳴らし続けた場合における、からだの状態がわからない→それとは別に、日本労働教徒の教えがある(労働に関する共同幻想がある)→俺に対する、無理解、差別発言をする→俺に対して、無理解、差別発言をしたことに、気がつかない。こういう、一連の流れがある。だから、普通の人と俺は、なかが悪くなるように、できているのである。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ほかの人が理解できないような経験を俺にさせると、みーーんなみんな、俺について誤解するように、なる。そういうふうに、できているのである。こんなの、ない。ぼくにとって、外界というのは、こういう外界だったよ。

きちがい的家族が、きちがい的な意地でヘビメタ騒音を鳴らすと、普通の人が俺について誤解をするようにできている。かならず、普通の人は、普通の人の感覚で、誤解をする。どうしてかというと、経験がないから。きちがい家族と一緒に住んだ経験がない→きちがい家族というものが……きちがい家族という生命体が、そもそも、どういうものか、まったくわかってないという状態をうむ。そのきちがい家族が、きちがい的な感覚で、騒音を鳴らすと、これまた、普通の人にはわからない状態で、ぼくが毎日暮らすことになる。影響? あるに決まっているだろ。影響を無視して、ガタガタ言うな。

つもっている俺にとっては、ゆるせない発言なんだよ

  「ヘビメタ騒音で、できない」と俺が言ったあと、相手が「それでも働いたほうがいい」と言った場合、ものすごい、気分になるんだよ。並じゃないんだよ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音にやられた時間がつもっているからだ。つもってない人にとっては、なんでもない発言なんだけど、つもっている俺にとっては、ゆるせない発言なんだよ。実際にやられてない人は、やられたことがないので、俺がどういう気持になるか、まったくわからない。おれがどれだけ「やられている最中の気持ち」や「やられたあとの眠れない時間の状態」や「2時間しか眠れない状態で、動いているときのつらい状態」について語ったとしても、実際にやられてないので、わからない。実際にやられたことがないということは、たとえば、鳴らされるあいだの状態を経験してないということなのである。そして、それは、時間的なものなのである。毎日数時間にわたって、あの、自分がきらいな音を、あの音量で、あの至近距離で鳴らされた経験がないとまったくわからないことなのである。「俺だって騒音ぐらいある」と言っても、きちがい兄貴の騒音は、俺にとって、それまでの騒音とはまったくちがう、異質な騒音なんだよ。質がちがう。鳴らされているさいちゅう、この部屋にいるときの気分が、並じゃないのである。ほんとうは、きちがい兄貴は、条例違反の悪いことをしているんだぞ。ところが、悪いことをしているつもりがまったくない。そして、きちがい親父が、それを支持している。こんな状態ない。普通の家では、そもそも、発生しない状態なんだよ。普通の家では、そもそも、発生しない音なんだよ。「俺だって騒音ぐらいあった」と言うけど、ちがうんだよ。実際に、そいつは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない。どれだけ、くやしいかわかってない。悪いことをやって当たり前。悪いことをやっていると、まったく思わない。どれだけ言われても、無意識的なレベルでは、相手の言っていることがわかるけど、意識的なレベルでは相手がっていることがわからないので、わからないまま、やり続ける。どれだけなにを言われても……不愉快に思っている家族に、どれだけなにを言われても、悪いとは、一切合切思わないのである。きちがい行為をやる人間が、まったく悪い行為だと思ってない……。きちがい的な家族が……家族の一員が、それを支持してしまう。これがどういう圧力をうみだすか、ぜんぜんわかってない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている人の騒音とは、意味合いがちがうんだよ。質がちがうんだよ。量がちがうんだよ。

*     *     *

まあ、ここらへんの、感覚のちがいが、人間関係上の問題をうみだすのである。これは、一般の人は……きちがい家族によるきちがい騒音という経験がないので……あるいは、「つもってない」ので……きちがい家族の騒音がうみだしているものだとは思わないのである。ようすにる、ヘビメタ騒音の解釈をめぐって、人間関係上の問題が発生するのだけど、ほかの人にとってみれば、それは、俺の性格や能力によるものだと思ってしまうのである。たとえば、勝手に「エイリさんがコミュ障だから、人間関係がうまくいかないんだ」と思ってしまうのである。これ、こみにゅケーション能力の問題じゃなくて、ヘビメタ騒音の影響をどういう影響だとみなすかの問題なのである。やられてない人……つまり、何年間も毎日積もってない人にとってみれば、「家族の出す騒音なんて、たいした問題じゃない」のである。どうしてかというと、普通の家族と暮らしているからだ。ここらへんの理解に差があるのは、俺はわかるけど、「エイリさんがコミュ障だから、人間関係がうまくいかないんだ」と思っている相手は、ここらへんに差があるとは思ってないのである。これ、言ってしまうと、問題がしょうじるけど、平凡な想像力しかないから、俺が、ちゃんと説明しているのに、ヘビメタ騒音の影響の大きさについて、まちがった解釈をしてしまうのではないかと思う。ようするに、コミュニケーション能力に問題があるとするなら、相手のコミュニケーション能力に問題があると思う。想像力が欠如しているのである。『相手』の状態に対する想像力が欠如している。相手の立場に立って、物事を考えられない。どちらかと言えば、「エイリさんがコミュ障だから、人間関係がうまくいかないんだ」と思っているの問題だ。そして、勝手に、「コミュ障だ」と決めつけてしまう性格は、いい性格とは言えない。

ともかく、実際にやられてない人は、「つもっている量」にかんしても、勘違いをしている。この勘違いが、いま説明したような問題を発生させる。これは、ぼくにとって、悪いことで、相手?にとっては、どうでもいいことだ。相手にとってみれば、そもそも、ヘビメタ騒音なんて「小さなこと」だから、どうでもいいことなのだ。実際につもってない相手にしてみれば、ヘビメタ騒音の影響なんてないのである。 「俺だって騒音ぐらいあった」と言うけど、その騒音体験は「つもるような」騒音体験なのかということだ。つもらないような騒音体験だから、通勤して働いているんだろ。自分は通勤して、働いているからえらい……。エイリさんは、通勤して働いてないからえらくない……。こういう、「見立て」がこの会話のすべてに影響をあたえている。

騒音体験があったとしても、同質の、同量の騒音体験ではないんだよ。どうしてなら、働いているじゃないか。たいした騒音じゃないから、影響をうけずに働ける。たいした騒音じゃないから、つもらない。つもっている量が莫大ではないので、働ける。そもそも、つもらない量だから、一日のなかで処理で着て、睡眠時間に影響をあたえない。つもってない。睡眠時間に影響をあたえないので……毎日、睡眠時間に影響をあたえるような騒音ではないので、起きている時間にも影響をあたえない。起きている時間に影響をあたえるような、「前の日の騒音」ではないのである。前の日の騒音が、そのまま、残っている。前の日の騒音が、前の日にもまして、次の日に影響をあたえる。そういう状態を、毎日毎日……土日も含めて毎日毎日……本当に、三六五日中三六五日……毎日毎日……つづいてる状態を十数年間にわたって、経験したわけではないのだ。だから、ちがうと言っているのに、経験したことがないから、ちがいがわからない。ちがいがわかってない。「俺だって騒音ぐらいあった」という言葉ひとつで、ちがいを、全否定する。こういうところも、じつは、相手の立場を考える能力の欠如があるのではないかと思う。まあ、欠如と言ったって、「人並み」なので、能力の問題はないと評価されるわけだけど……。まあ、きちがい家族による騒音というのが、普通のうちではないことなので、普通の人は体験してないことなのである。だから、まるっきり、わからない。わからないけど、これまた、わからないというということがわかってないのだ。ちがいがあるということが、これまた、わかってない。そりゃ、普通の騒音と、きちがい家族によるしつこい、破壊的な騒音の、両方を経験したことがある、ぼくにしてみれば、両者のちがいは「あきらか」なのだけど、きちがい家族によるしつこい、破壊的な騒音を毎日毎日経験したことがない人は、経験がないから、きちがい家族によるしつこい、破壊的な騒音に関しては、わからないということになる。比較することができない。


2024年5月6日月曜日

「立場の低い人がどれだけ、気をつかってもだめだ」

 もうひとつ、思いついたことがあるので、ちょっと言っておこう。それは、「立場の低い人がどれだけ、気をつかってもだめだ」ということだ。立場の低い人が、どれだけ、気をつかっても、じゅうぶんじゃないのである。普通の人間の反応というのは、そういう反応なんだよ。これ、「立場」に反応している。現実の場面では、「なにか、適切でじゅうぶんな気をつかうレベルがある」という前提でものを考えてもむだだ。立場の低い人というのは、適切でじゅうぶんな気をつかうレベルで、気をつかっていても、じゅうぶんではないと判断されるのだ。

 

いやーー、それ、一倍速で経験したことがないから、そう思っているだけだから

 きちがい兄貴が、ほかの人が理解できないことを、しらーーっとした顔つきで、毎日、頑固にやり続けた。ほかの人は、まったく理解できない。くそ凡人についてずっと書いてきたけど、普通の人の反応というのが、くそ凡人の反応なのだ。昨日も書いたけど「エイリさんが、気にせずに、がんばればいい」ということを言ってくる。がんばってきたから、働けない体になっているのに、がんばれば、できるようになるというのだ。きちがい的なきちがい兄貴とはちがうけど、「無理だ」ということを、ガン無視している。これ、ガン無視発言なのだ。自分がやられてないから、一倍速で経験してない。経験してないから、「無理だ」ということがわからない。そして、言霊主義者は「言ったことが現実化する」から「できるできると言えばいい」と言う。引き寄せ主義者は「騒音を引き寄せちゃったからダメなんだ」「いいことを引き寄せればいい」ということを言う。……なんだこれ?? なんだ、これ??

自分が無理なことを言っているという自覚がないんだよな。この態度は、きちがい兄貴の態度とちょっと似ている。もちろん、くそ凡人、言霊主義者、引き寄せ主義者は、ヘビメタ騒音を鳴らした張本人ではない。この人たちは、ヘビメタ騒音とは関係がない。「理由」をつくってない。それは、事実だ。この人たちは、きちがい家族ではなくて、一般的な家族と一緒に住んでいる。あるいは、住んでいた。なので、きちがい家族が、どういう意地で、どういう感覚で、やってしまうか、まるでわかってない。そのことが、無理解につながるのは、わかる。無理解というのは、やられてないから、「無理だということがわからない」ということだ。しかし、こっちの事情を考慮せず、「無理なこと」を言ってくる。「無理だ」と言っても、カルト理論を振り回して「無理だ」ということを認めない。日本労働教徒についは、最近、語ってないけど、日本労働教徒もおなじだ。「無理なこと」を言ってくるのである。「体をならせばいい」と言ってくる。「週三回でも働いて、体をならせばいい」ということを言ってくる。「無理なのだ」ということを、こいつらも、まったく認めない。こいつらだって、きちがいヘビメタ騒音……自分にとって、この世で、一番苦手な音を、至近距離で、家族に、ずっとずっと鳴らされ続けるということを、経験すれば、「働くことができない体」になるのに、それが、わからない。こいつらの「わからなさ」は、きちがい兄貴とおなじだ。こいつは、こいつらで、わからないのだ。こいつらにとって、働かないのは『悪』なので、こいつらにとって、『悪はエイリだ』ということになる。こいつらにとっては、どんな理由があっても、働かない人が悪なのだ。そういう感覚が根底にある。きちがいヘビメタ騒音でむりなんだ」と言っても、無理だということを認めな。無理だということを認めずに、「こうすればいい」と無理なことを言ってくる。本人は、「無理なことを言っているつもりがない」のだ。九割以上の人間が、こういう反応をかえしてくる社会なのだから、俺にとっては、生きにくい社会だ。九割以上の人間と書いたけど、赤ん坊や子どもは、ぬかしていい。ようするに、社会人の普通の人……大人の反応が、こういう反応だ。無理解ぶりを発揮した反応なのだ。きちがい家族による騒音を毎日、十数年間も浴びせられると……いや、七年間浴びせられると、「働けない体になる」ということが、根本的にわかってない。こいつらは、みんな、「エイリさんがさぼって働かない」という前提でものを言ってくる。それ自体が「とても失礼なこと」なのに、それに気がつかない。自分は「あたりまえのことを言っている」と思っている。自分は「正しいことを言っている」と思っている。「無理なことなんて言ってない」と思っている。ところが、「無理なこと」を言っている。本人がわかってないだけ。きちがい家族と一緒に住んだことがないからわかってないだけ。きちがい家族による、しつこい、しつこい騒音を人生のなかで経験してないから、それがどういう効果を及ぼすのか……不可避的に及ぼすのか……ぜんぜんわかってないだけ。わかってないだけなんだよ。ところが、『自分は』経験してないので、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくる。いやーー、それ、一倍速で経験したことがないから、そう思っているだけだから……。まちがった前提で、ものを言うな。

*     *     *

くそ凡人から「生きがたさについて考えてみましょう」と言われたことがあるけど、そのくそ凡人は、言霊主義者で日本労働教徒だ。そして、「エイリさんがさぼって働かない」という前提で「週三回でも働いて、体をならせばいい」ということを言ってきたやつだ。おまえが、おれの生きがたさをつくっている。もちろん、きちがい兄貴によって、生きがたい状態になったのだけど、おまえは、俺の生きがたさを少しだけ、増やしている。『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが、多い社会と、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが、少ない社会を、くらべた場合、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが少ない社会のほうが、ぼくにとって、生きやすい社会なんだよ。

きちがいヘビメタ騒音で働けないからだになった。これは、通勤して働けないからだになったということだけど、家で働くにしろ、基本的な生活体力をヘビメタ騒音でうばわれてしまったわけだから、くるしいことにはかわりがない。きちがいヘビメタ騒音で……ほかの人にはない!騒音で、睡眠障害になってしまったのだから、いろいろなところでトラブルがしょうじてくるしいことには、かわりがない。生きにくくなっている。生きがたくなっている。けど、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつが多いということも、生きがたさの、原因のひとつだ。こういうやつが多いと、より、生きにくくなるのである。

『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提だけど、これは、『エイリさんは、働けるのに、さぼって働いてない』『エイリさんは、働けるのに、あまえたことを言って働いてない』という前提が暗示されている。これ、内包されていると言っても、いいんじゃないか。ともかく、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを考えるやつは、『自分だったら、同様の経験しをしたとしても、働いているだろう』という前提でものを言ってくるやつは、同時に『エイリさんは、働けるのに、さぼって働いてない』『エイリさんは、働けるのに、あまえたことを言って働いてない』と考えているやつなのである。

失礼だろ。こういう失礼な前提で、無理なことを言って、「いいことをした」と思っているやつがいる。 こういう失礼な前提で、無理なことを言って、「いい助言をした」と思っているやつがいる。ほんとうに、こういうレベルのやつが多い。こういうレベルなんだよ。

実際の影響については、まったくわからずに「受け止め方をかえればいい」とたわごと言っている

 くそ凡人は、たとえば、「きちがい兄貴をしずかにさせてくれる」という意味では、まったく、助けてくれない。

ところが、言うだけは言うのだ。感想を言う。その感想というのは、ようするに、「エイリが、がんばれば、それでいい」という話だ。

「きちがいヘビメタ騒音で働けなくなる」というとは認めずに、実際には、ヘビメタ騒音をなくしてくれるわけではなく、俺(エイリ)が、受け止め方をかえればいいという話になる。

ところが、実際に鳴らされていると、どれだけ受け止め方をかえようと思っても、きちがいの騒音に悩まされ、きちがいの騒音の影響をうけるのである。

この「影響をうけるということ」も、また、否定するのだ。

こいつらは、否定する。

どうして、否定できるかというと、やられてないから、否定できるのだ。「できるはずだ」という前提でものを言う。こんなやつらが、九割以上だ。こんな世界で生きていたくないと思うのは当然だ。

『自分だって騒音はあった』と言うけど、その騒音は、兄貴の騒音とはちがうのである。きちがい家族が出している騒音とはちがうのである。スイッチが入った、きちがい家族が出している騒音とはちがうのである。ちがうのは、よくわかる。

「受け止め方をかえればいい」などと、きちがいヘビメタ騒音でこまっている人にアドバスをしてしまうぐらいの騒音なのだから、たいした騒音じゃない。はっきりしている。

俺が、ぎりぎり、きちがいヘビメタ騒音のなかで、努力をしてきたということを認めてないのだ。このくそ凡人にとっては、ヘビメタ騒音は「受け止め方をかえればどうにでもなるような騒音」なのだ。こういう、「受け止め方」をしている。

こんなやつに、なにがわかるというのだ。「受け止め方をかえればどうにでもなるような騒音」だと見なしている時点で、こいつは、なにもわかってないということがわかる。どれだけ、まぬけか、わかる。どれだけ、うぬぼれが強いかわかる。どれだけ、きちがい家族による騒音を軽視しているかわかる。

こいつらが、勝手に過小評価しているだけだ。こいつらが、問題の本質を無視しているだけだ。

どうして無視できるかというと、実際にはやられてないからだ。きちがい家族による騒音とおなじ程度の騒音を経験したことがないからだ。

おなじ程度の騒音を経験した人が「受け止め方をかえればいい」なんてことを言うはずがないのだ。口がさけたっていえないよ。

その人は、その騒音のなかで「受け止め方をかえよう」として、実際には、受け止め方をかえられずに、被害を受けた人だ。

不可避的な被害というのがある。物理刺激は、どれだけ、無視しようと思っても、物理刺激があったという影響をうける。からだ影響をうける。こういうこと理解してないやつが「受け止め方をかえればいい」と言う。

こいつらが、自分なら、受け止め方をかえることで処理できると「思っている」のは、実際に、経験したことがないからだ。実際に経験したことがないので、実際の影響については、まったくわからずに「受け止め方をかえればいい」とたわごと言っているだけだ。

どんだけ、状況を理解してないばか発言をしているのか、本人が気がつかない。どうしてかというと、経験したことがないうえに、「うぬぼれ」が強いからだ。『自分なら大丈夫だ』という自信があるのだ。その自信というのが、ようするに、経験してないからもっている自信なのだ。ようするに、わかってないからもっている自信なのだ。たまたま、やられてないからといって、たわごとを言っていいわけではないということは、わかるか? 

たまたま、やられてないから、言えるだけのことを言っている。けど、本人は「同等の騒音を経験した」と前提しているところがある。これがちがうのである。経験してないから、同等の騒音だと思ってしまっているけど、ぜんぜんちがう。 

ともかく、こいらつらは、ほんとうは、できないことを言っている。ほんとうはできないことをできるという前提で言っている。ほんとうは、自分だってできないことなのに、自分ならできると、前提して、言っている。こんな、ふざけた態度があるか?

こういう想像力がかぎられた人間が、好き勝手なことを言ってくるようになってしまう。きちがい家族が、きちがい家族の感覚で、きちがい騒音を鳴らし続けると、俺が、よその人間から、こういうわかったようなことを言われることになる。わかったようなことと書いたけど、たわこどだ。

こいつらに、こういう説明をした場合、こいつらが「そうなのか。その通りだ」と納得してくれる確率は、極めて低い。もう、経験でわかっている。こいつらは、説明されても、納得しない。 

こいつらの理解力では理解できないことを、されてしまった。こいつらの経験の範囲外にあることをされてしまった。長い長い間、されてしまった。


2024年5月5日日曜日

一般人洗脳用の道具 すぐにけす

 一見よさそうなことを言うインフルエンサーの影響をうけると、悪いところに誘導されてしまうのである。そういう社会になっている。SNSというのは、DS側がつくった、一般人洗脳用の道具だ。SNSだけではなくて、ほとんどすべてのメディアや検索エンジンが一般人洗脳用の道具になっている。

*     *     *

悪魔のささやきというのは巧妙だ。「差別はいけません」「差別をしないようにしましょう」……これらの文には、差別を奨励する部分はない。ところが、こういうことを言う宗教家の影響をうけると、自然に、条件が悪い人を差別するようになるのだ。差別度があがる。差別度があがるしくみについては、ここでずっと述べているけど、ほとんどの人は、まったく関心がないだろう。「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」「これが正しい」……と思っているようなレベルだ。 「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような思考が、実際には、条件が悪い人のことを差別する思考につながる。そういうしくみがある。明るいことを考えているのに……暗い社会になるのである。ちなみに、悪い支配者層という参加者について考えると、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方が、どれだけ、やばいものかわかる。わからないか? ずっと説明してきたから、このブログを読んでいる人にはわかるよね。「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方のやばさについては、SNSで説明したことがあるのだけど、反感をかっただけだったな。そういうレベルだ。

「自分だって騒音ぐらいあった」

 ぼくが、一倍速で経験してきたことと、ほかの人が「ヘビメタ騒音の話」を聴いて、想像するものはちがう。ぜーーんぜん、ちがう。ちがうのだけど、ほかの人にはわからない。そして、大多数の人がわからないわけだけど、大多数の人が無職に対して偏見をもっているのである。これ、一倍速でぼくとおなじことを経験すれば、偏見をもっている人だって無職になるのに、それがわからないから、ごく普通に、ぼくに対しても偏見をもつことになる。その人は、無職に対して偏見をもっているので、無職属性をもつぼくにも偏見をもつようになっている。偏見をもてば、「エイリさんは、無職だから、嘘を言っている」と思ったりするようになる。この、きちがい兄貴の話や、きちがい親父の話は、「へんな話」なので、普通の人は、信じない。信じがたい部分があるので、その話が、ほんとうのことなのか、嘘なのか、疑問に持つのである。その場合、「エイリさんが無職だから、嘘を言っている」と判断してしまう人もいる。「エイリさんは無職だから、性格の悪い人だ」と思ったあと「性格が悪い人だから、ヘビメタ騒音についておおげさに言っている」と思う場合だってある。「エイリさんは無職だから、性格の悪い人だ」と思ったあと「性格が悪い人だから、ヘビメタ騒音が鳴っていたから働けなくなったと、言い訳をしているだけなんだ」と思う場合だってある。ところが、ほんとうに、ヘビメタ騒音……自分がこの世で一番嫌いな音を、あの時間の長さ、あの期間の長さ、あの至近距離で、あの音のでかさで、聞かされると、通勤して働くということができなくなる。ぼくは、わりと生活体力があるほうなんだよ。騒音耐性があるほうなんだよ。そのぼくが、こなごなになった。そういう音で鳴っていた。無職に対して偏見がある人であって、なおかつ、ぼくに対して偏見がある人は、みんな、「そういう音で鳴っていたら、無職になる」という必然性について考えないのである。「自分だって騒音ぐらいあった」と言うけど、そのように言えば、騒音の質のちがいと量のちがいを無視できるわけではないのだ。ところが、「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、騒音の質のちがいと量のちがいを無視できる権利があると思って、実際に、無視してしまう。きちがい兄貴の、きちがい行為は、他者のそういう行為をさそうのである。どうしてかというと、きちがい兄貴のきちがい行為が、他者にとって想像ができないものだからだ。常識的ではないのである。非常識なのである。非常識な音で鳴らしていたのである。非常識な時間の長さらしていたのである。非常識な期間の長さ鳴らしていたのである。きちがい兄貴の性格自体が、ほかの人にはわからない性格なのである。どうしてかというと、そういう人間と一緒に住んだことがないからだ。だから、ほかの人は……常識的な人は……きちがい家族と一緒に住んだことがない人は……きちがい兄貴の行為について誤解するようにできているのである。そして、きちがい兄貴の行為によって、自分の生活がおびやかされたことがないので、その程度において、考え違いをしているのである。

ヘビメタ騒音がはじまってから、人に「説明できないこと」ばかりだよ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音がはじまってから、人に「説明できないこと」ばかりだよ。これ、きちがい兄貴が、きちがいなので、ほんとうに、ほかの人のうちには、「いない」のである。だから、ほかの人は、きちがいの行動について理解がないのである。理解しないのである。きちがい兄貴は、当然、自分の『きちがい部分』について自覚がない。やっていることすら認めてない状態だ。感覚器が正常なら絶対に、どれだけ否定したくても、否定できことがある。そんなの、完全に無視している。感覚器を、自分の都合のいいように書き換えてしまう。そして、そういうしているということを、完全に無視する。だから、本人は「やってないつもり」なのだ。しかし、頑固に頑固に頑固に頑固に、やっている状態が成り立つ。だから、本当は、やっている。外的行動をだけを見て判断すればやっているのだ。ところが、本人は、やっているつもりがないのだ。じゃあ、言えばやめてくれるかというと、そうではないのだ。「はいっている」ところがちがうんだよな。こんなの、ほかの人にわかるわけがない。本人がわからないはずがないということを、本人がわからない。そういう状態で、本人がやりたいことを、やってしまう。夢遊病者じゃない。はっきりと起きているし、「頑固」にやるのである。この頑固さと言ったらない。だから、感覚器が正常であればわかることを無視するということは、頑固さむすびついている。一心同体だ。

あーー。ほかの人にはわからないことで、ぼくがずっと、悩んでいる。これ、わかるわけがないのだ。それにしても、なんでよりによって、ヘビメタ騒音なんだと思うことがある。きちがい兄貴が、「囲碁」にこったら、こんなことにはなってないのだ。ヘビメタだからこうなる。ヘビメタが、苦手な音だというのは、最初から、決まっていた。ぼくのなかでは決まっていたことなのである。聞かされたときの、強烈な感情はない。どうしたって、「発狂的な気分になって」しまうのである。どうしたって、「うるさい」ということ以外は、なにも考えられないような状態になってしまうのである。なんで、兄貴なんだ。なんで、ヘビメタなんだ。


2024年5月4日土曜日

引き寄せ思考をしているA子さんは、D男さんを引き寄せたと思うだろう

 はっきり言ってしまうと、「くそ方法」なので、落胆することが決まっているのだ。ほんとうは、無力な方法が、有力な方法として、流通していると、条件の悪い人が、それを試みて、落胆するということが、数多く、発生してしまう。

もちろん、流通させているほうは、そんなことには、気がつかない。

どうしてかというと、彼らにとってみれば、「くそ方法」ではなくて、「ほんとうに有効な方法」だからだ。

たとえば、引き寄せというコンセプトをもつ、引き寄せ能力をあげる方法というのは、現実の写し絵でしかないから、それ自体には、現実をかえるような力(ちから)がない。

しかし、「あと」と「から」を混同すると、ときには、現実をかえたと思えるような出来事が発生する。そうなると、引き寄せというコンセプトをもっているものは、「引き寄せは正しい」と思うわけだし、「この引き寄せ能力をあげる方法は、役に立つ」と思うわけだ。

誤解なんだけど、本人は、誤解だとは思わない。

誤解だと思わなければ、そのあいだは、効力を発揮する。

もちろん、ただ単に、幼児的万能感に満ちた人がそういうふうに誤解して思い込んでいるだけなのだけど、思い込んでいる以上は、その人の行動に影響をあたえる。

ところで、もうひとつ言わなければならなかったことがあるんだよ。

それは、条件がいい子供は、自信をつけやすく、条件が悪い子供は、自信をつけにくいということだ。引き寄せというコンセプトが、正しいこととして流通している以上、その影響をうけることになる。

条件がいい子供は、いいことを実際に経験しやすいのである。

そして、条件が悪い子どもは、うまくいかないことを経験しやすいのである。

引き寄せが「くそ方法」で、実際には、効力がないので、条件がいい子供には、いいことが発生しやすく、条件が悪い子供には悪いことが発生しやすいという状態が続く。

この状態は、条件がもたらものであって、こどもの性質がもたらすものではない。

ところが、こどもの性質がそういうちがいをもたらすと、引き寄せ主義者は考えて、そのように言ってしまう。

そして、引き寄せ方法が、くそなので……無効なので……条件が悪い子供は、引き寄せにも、「失敗」してしまうのである。それは、決まっている。どうしてかというと、引き寄せ方法が、現実的な条件になにも影響をあたえないからだ。

ようするに、まちがったコンセプトなんだけど、まちがっているか、正しいかに関係なく、ともかく流通しているのであれば、条件がいい子供は、実際に、成功体験を繰り返し、条件が悪い子供は、実際に失敗体験を繰り返すということになる。

ただでも、親という条件に差があるのに、引き寄せ能力というコンセプトが正しいコンセプトとして流通していると、引き寄せ能力の差があるということになり、引き寄せ能力の差があるということが、成功体験の数の差、失敗体験の数の差をうみだしてしまうのである。

そのような「ものの見方をする人」が実際に多いわけだから、そうなる。

ようするに、ほんとうは、引き寄せ能力の差なんてないのだけど、あたかも、引き寄せ能力の差があるということになってしまうのである。そして、引き寄せ能力がある子供は、ポジティブで性格が明るく、引き寄せ能力がない子供は、ネガティブで性格が暗いということになってしまうのである。

引き寄せというコンセプト自体が、善なのか悪なのかはわからないけど、すくなくても、引き寄せというコンセプトをうけいれてしまうと、「引き寄せ能力がある人」と「引き寄せ能力がない人」が発生する。

実際に、「引き寄せ能力がある人」と「引き寄せ能力がない人」がいるように、そのコンセプトを信じている人には見えるのだ。

そして、そのコンセプトを信じている人は、固有の「引き寄せ能力の差」というものが、新たなる、差別的なものの見方をうみだしているとは、思わない。

しかし、引き寄せというコンセプトをうけいれてしまうと、「引き寄せ能力がある人」と「引き寄せ能力がない人」が発生する。別に、ほんとうは、引き寄せ能力なんてものはないから、引き寄せ能力の差なんてものもないのだけど、条件が悪い人に「引き寄せ能力がない劣った人間」というレッテルを貼ることができるようになるのだ。

そして、そういう、悪いレッテルを貼ったことは、悪いことだとは思わない状態が続く。実際に、引き寄せ能力があるし、実際に、引き寄せ能力がない人がいる……というものの見方ができあがっているので、それ自体を(その人は)うたがうことができない。

引き寄せ能力をあげる方法というのが、無効な方法なのはあきらかないのだけど、有効な方法だと思っている人は、有効な方法だと思っている。なので、これまた、有効な方法を「うまく使える人」と有効な方法を「うまく使えない人」の差ができるということになる。

引き寄せ能力がない(と思われている)人は、条件が悪いので、有効な方法を「うまく使えない人」になる。無効な方法なので、効果がないのはあきらかなのだけど、条件が悪い人は、条件の悪さによって、その方法を試した「あとで」いいことがしょうじるということが、ほとんどないために、「有効な方法をうまく使えない人」になってしまうのだ。

その方法を試した「あとで」いいことがしょうじるということが、ほとんどないと書いたけど、これは、そういう確率が低いということだ。

ようするに、条件が悪い人でもその方法を試した「あとで」いいことがしょうじることは、たまにはあるけど、条件がいい人よりも、「あとで」いいことがしょうじる確率が低いのである。条件が悪い人は、「その方法を試したあと」いいことがしょうじる回数が少ないのだけど、条件がいい人は、「その方法を試したあと」いいことがしょうじる回数が多い。

たとえば、親からものをもらいやすい子供は、「その方法を試したあと」ものをもらえる回数が多く、親からものをもらいにくい子供は、「その方法を試したあと」ものをもらえる回数が少ないのである。

ようするに、最初から、親という条件が、確率を決めている。確率だから、たまには、条件が悪い子供も、なにをゲットすることができる。

けど、確率は低い。

一度でも、「その方法を試したあと」ものをもらえることがあった場合、ぼくが言っていることがまちがっているかというとそうではないのである。一度でも、「その方法を試したあと」ものをもらえることがあった場合、条件は影響をあたえてないということが正しいかというと、そうではないのだ。

条件は影響をあたえている。

問題なのは、実際に、その方法をこころみることによって、失敗体験が増えるということなのである。そして、問題なのは、その方法をうまく使うことができないという、これまた、「負のレッテル」を貼られることになるということなのである。

そして、さらに問題なのは、負のレッテルを(条件の悪い人に)貼りつけたほうは、別にそのことを気にしていないということなのである。

引き寄せというコンセプトを信じているために、目が曇って、事態がまったく見えない状態になってしまっているのである。引き寄せ方法を宣伝しているほうは、いちおう、善意でそういうことをしているのである。

もちろん、もうけになる場合は、もうけるために、引き寄せ方法を宣伝するということになる。引き寄せセミナー講師は、自分が、しあわせの総量を増やすつもりなのである。引き寄せ方法には効果があるので、引き寄せ方法を試した人は、「しあわせ」を引き寄せることができるので、いいことをしたと思っているのである。

引き寄せ方法を試す人が増えれば増えるほど、社会全体のしあわせの総量が増えるはずなのである。

引き寄せセミナー講師・本人がどう思っているかはわからないけど、じつは、引き寄せ方法を試す人が増えれば増えるほど、社会全体のふしあわせの総量が増えてしまう。

まず、引き寄せ能力が低い人」というレッテルを貼られること自体が、ふしあわせなことなのである。さらに、「引き寄せ方法をうまく使えない人」というレッテルの貼られること自体がふしあわせなのである。

そして、引き寄せ方法を試したぶんだけ、失敗体験が、増えるので、失敗体験のぶんだけ、ふしあわせだと感じることが多くなるのである。

条件が悪い人が、引き寄せ方法を試した場合、かなりの高確率で、失敗を体験することになる。ほんとうは無効である方法が流通してしまうと、そのぶんだけ、社会のふしあわせ度が高くなってしまうのである。

でっ、さらに言ってしまうと、これは、社会のぎすぎすした感じを増やすことになる。

引き寄せ能力があると思っている人は、引き寄せ能力がない人をバカにするようになる。引き寄せ方法を試して、うまくいったと思っている人は、引き寄せ方法を試してうまくいってない人を見下すようになる。

*     *     *

おカネでも、彼氏でも、彼女でも、「席のうばいあい」だ。席のうばいあいで勝ちたいという気持が、「引き寄せ」行為をさせている。根本的に、自分が勝ちたいという気持があるから、引き寄せを試そうという気持になったわけなんだよ。

楽に、ゲットしたいと思っているから、引き寄せ行為をしているんだよ。

引き寄せは、わかちあいではなくて、うばいあいなんだよ。

引き寄せようとしているおカネ、彼氏、彼女というのは、無限ではない。

たとえば、A子さんとB子さんとC子さんは、D男が好きだとする。A子さんもB子さんもC子さんも、引き寄せ行為をした。引き寄せ行為とは関係なく、D男がA子さんのことを好きだったから、A子さんとD男さんがつきあったとする。

引き寄せ思考をしているA子さんは、D男さんを引き寄せたと思うだろう。そして、B子さんやC子さんは、引き寄せ行為をしたにもかかわらず、D男さんをゲットできなかったのである。

引き寄せという視点に立てば、A子さんは引き寄せることができたけど、B子さんとC子さんは引き寄せることができなかったということになる。B子さんやC子さんより、A子さんのほうが引き寄せ能力があり、引き寄せ方法がうまかったから、D男さんを引き寄せることができたのだということになる。

けど、これも、「あとだし思考」だ。

結果が出たあと、引き寄せという視点でものごとを見ると、そういうふうに見えるだけだ。

実際は、ちがう。

引き寄せという世界観(パラダイム)が、まちがっている。

「理由」について勘違いするようにできている。

引き寄せセミナー講師は、そういう「錯覚」「勘違い」を利用して、おカネをもうけている。

 

 

2024年5月3日金曜日

「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だな」と思って、最初から、鳴らさない

 ともかく、ヘビメタ騒音というのは、俺と、わからない人たちのあいだをひきさくように、できている。きちがい兄貴は、もちろん、そんなことは知らない。どれだけ、言われたって、自分がやっていることを認めないやつだ。気がつくわけがない。言われたら、発狂して、自分がやりたいことにしがみついて、自分がやりたいことをしてしまう。それがあたりまえだ。それがあたりまえの日常だ。よその家では、そんなことにはなってないのである。よその家では、そもそも、「だれもが、まずいな、と考えるようなこと」は、しない。最初からしない。最初から、意味がわかっているからしない。よその家では、「こんなでかい音で鳴らしたら、ほかの家族がかわいそうだな」「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だな」と思って、最初から、鳴らさない。「迷惑だ」とわかっているから、鳴らさない。最初から、だれに言われなくても、迷惑だということがわかっているから、鳴らさない。鳴らせない。ところが、きちがい兄貴は、きちがいだから、自分がやりたかったら、そういうふうに思わないようになっている。「迷惑だ」ということがわからなくなるようにできている。自分の無意識が、やってもいいような状態をつくりだしてしまう。やってもいいような状態というのは、意識で考えるぶんには、「やってもいいことだ」「迷惑なことじゃない」と考えるような状態だ。で、これが強烈で、他人から、どれだけはっきり言われても、認めないのだ。本人が、まったくわからないという状態で認めなければ、本人の主観的な体験としては、「迷惑なことはやってない」という認識が成り立っている状態でやり続けるということになてっしまう。何万回、言われたって、一回も言われてない状態で、鳴らしてしまう。もちろん、何万回も言われたわけだから、何万回も、実際には言われた状態で、鳴らしてしまう。けど、本人は、ほんとうにまったく、一回言われてないという認識をもっているのである。こういうきちがい的な状態だ。いつもいつも、そうなんだよ。鳴らしているときは、いつもいつも、継続的にこういう感覚が成り立っているんだよ。だから、自分が迷惑行為をしているという主観的な認識はまったくない状態で鳴らし続けることができるのだ。

努力の過程が、じつは、不可避的に働けないからだをつくりだす

  ああいう態度で、鳴らしている……よそではありえない音で鳴らしている家族……が……いないやつら……よその人が……「愚痴を言っている」と言ってくる始末だ。俺が、ずっとずっと、十数年間我慢して、よその人には、言ってこなかったのに……重要な他者にしか言ってこなかったのに……そのあいだずっとずっとずっと……我慢して……他人……よその人からみて、愚痴だと思われるようなことを言ってこなかったのに……限界になって……きちがい兄貴のことについて語りだしたら……よその人だって実際にやられて生活と人生を破壊されれば……破壊されたと言わなければならない場面に遭遇して破壊されたと言うようになるのに……その、よその人が「愚痴を言っている」と思うわけだからなぁ。

こんなのない。

よその人というのは、自分がやられたら、もっともっともっともっと、愚痴を言うのに、俺が、愚痴を言っていると思うわけだからなぁ。ヘビメタ騒音のことについて語らなければならない場面というのはある。

たとえば、「どうして、働いてないんだ」「どうして働かないんだ」と訊かれる場合だ。訊かれたら、こたえなければならなくなる。ヘビメタ騒音ついて語らなければならなくなる。働けない理由がヘビメタ騒音だからだ。

ところが、他人は、俺が愚痴を言ったと判断するのだ。ヘビメタ騒音なんてたいした理由じゃないのに……働けなくなるような理由じゃないのに……ヘビメタ騒音を理由にしてさぼっている……と判断するのだ。

そういう判断をした他人だって、ほんとうに、きちがい家族に、あの態度で、あの騒音をあびせられれば、働けないからだになる。どれだけ努力しても、働けないからだになる。

努力の過程が、じつは、不可避的に働けないからだをつくりだす。

ところが、やられてないから、わからない。自分の身に起こったことじゃないから、わからない。自分の身に起こったことじゃないというのは、それだけ、きちがい兄貴の態度が、レアな態度だということだ。ようする、めずらしいのだ。よそでは、起こりえないことなのである。実際に、よそでは起こらないから、よその人は経験してない。経験してないからわからない。

自分の身に起こったことではないので、つたない想像力しか持ってないものだと、ヘビメタ騒音のことがまったくわからない。ヘビメタ騒音の影響がわからない。ヘビメタ騒音の影響の大きさがわからない。

どうしたって、働けないからだになる……ということが、まったくわからない。

どうしたって、だれだって、あのレベルでずっと長い間、自分がこの世で最も苦手な音を、至近距離で聞かされ続ければ、通学通勤ができない状態になる……不可避的にそういう状態になる……ということが、わからない。

わからないだけなのに、無視しているから、俺がさぼっているように見えるのだ。

「無視している」というのは、ヘビメタ騒音の「影響のでかさ」を無視しているということだ。俺がヘビメタ騒音を理由してさぼっていると思うのだ。こういうやつが、えらそうなことを言う。じゃあ、どうしてそういう事態になっているのかというと、そういうやつらが経験しないような騒音がずっとずっと鳴っていたからだ。

きちがい兄貴がレアだから、きちがい兄貴によってもたらされるような騒音を、その人たちは、経験してない。経験してないからわかってないだけなのに、えらそうなことを言う。えらそうなことを言ってくる。

こんな地獄があるか?

きちがい兄貴は鳴らしていただけだけど……不自然なほどでかい音で鳴らしているということを無視して、よくある騒音だとおもっ鳴らしてきただけだけど……こっちの言い分を無視して鳴らしてきただけだけど、そういう効果があるのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らすと、きちがい的な家族にやられたことがない人が、必然的に誤解をしてくるのだ。

多くの他者……九九・九九%以上の他者にとって、ヘビメタ騒音は、ひとごとだ。九九・九九%以上の他者にとって、そんなことは、発生しなかったことなのである。

発生しなかったら、そりゃ、小さく見積る。小さく見積るだけではなくて、無視する。ほんとうは、きちがいヘビメタ騒音の効果を無視しているのに、自分はヘビメタ騒音のことを『理解した』と思うだ。

この理解のなかには、じつは影響まで含まれている。ところが、影響については、ごっそり、ぬけおちているのだ。ようするに、理解したつもりになっているけど、ぜんぜん理解してない。

ヘビメタが鳴っていたということは、文として理解したけど、ヘビメタ騒音の影響については、自分がまったく感じてないので、自分がまったく感じなかったという意味で、ガン無視しているのだ。

こいつらのなかでも、ヘビメタ騒音の影響はないことになっている。

自分が、経験してなかったことだから、まったくわかってない。

だから、自分の身の上にしょうじなかったこととして、理解している。日本語の文として理解しただけなのだ。その意味は、文としての理解にとどまる。

「鳴ってたんだな」ということは理解したけど、「その影響」は無視しているのだ。

どうして無視できるかというと、実際に鳴ってなかったからだ。

けど、ぼくは、無視できない。

どうしてかというと、実際に鳴ってたからだ。

これが、よその人にとってみれば、自分とエイリさんの『格』のちがいだと思えるのだ。自分なら気にしないでちゃんとやれるけど、エイリさんは、だめだからちゃんとできないのだと、判断してしまう。

どこまで意識しているかどうかわからないけど、夜郎自大で想像力がないやつらばかりなので、そうなる。

まあ、「無意識的に判断してしまう」と書いてもいいのだけど、この無意識は、きちがい兄貴の無意識とはちがう。ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがうので、無意識というおなじ単語を使っていいものかどうかまよう。

ともかく、本人は、あんまり、意識してないのだけど、ぼくのことを、見下すのだ。

「自分は能力があるけど、エイリさんは能力がない」とか「自分は愚痴を言わないいい人間だけど、エイリさんは愚痴を言う悪い人間だ」とかと……くそ凡人が判断するのだ。

その判断をどの程度、くそ凡人が認識しているかどうかわからないけど、ともかく、そういうふうに判断する。その判断が、特に自覚されない判断なのだけど、ぼくに対する「態度」に反映する。ぼくに対して、「言うこと」に反映される。

実際に、きちがい兄貴にやられて、きちがいヘビメタ騒音生活をしたら、一年ぐらいで自殺してしまうような、弱い他人が、俺に対してえらそうなことを言ってくる。ぜんぜん能力がちがうんだよ。

十数年にわたって、毎日やられたのに、生きているということ自体が奇跡なんだよ。凡人だったら、絶対に自殺しているか、絶対に、きちがい兄貴を殺している。そういうバットエンドだと思う。

けど、能力的には、そうなるしかないような弱い他人が、えらそうなことを言ってくる。

この俺に言ってくる。

こんなの、ない。

実際に、きちがいヘビメタをやられて、さまざまな能力をうなっている。ところが、他者というのは、そのことを認めない。ヘビメタ騒音でさまざまな能力をうしなっているということを、認めない。

ヘビメタ騒音でさまざまな能力をうしなって、働いていない状態になっているのに、そのことがわからない。

自分だったら、働ける……という前提でものを言ってくる。

どうしてかって、凡人だから、実際に自分が働いていれば、そういうことがあっても働けるにちがいがないと思うのだ。凡人並みの思考力しかないから、そういうふうに考えてしまう。

自分だってそういうことがあったら働けなくなるという前提で、ものを言ってきた人というのは、ほんとうに数えるほどしかいない。割合にすれば、九九、九九九九九%ぐらいの人が、『自分だったらそういうことがあっても働ける』という前提で、ものを言ってくる。

自分だったら、そういうこと……ヘビメタ騒音があっても働ける……のだから、働けなくなっているエイリさんより自分のほうが能力があるということになる。

さらに、スーパーマンで、いい人で?……自分だったら、そういうことがあっても、愚痴を言わないでたえることができるということになっているのだ。

自分のほうが能力があるから、そういうことがあっても働ける……。実際に働けなくなっているエイリさんはだめな人間だ……。自分のほうが人格的すぐれているので、そういうことがあっても、愚痴なんて言わない……。

こういう前提で、ものを言ってくるやつが多かった。

そいつらの多くが、言霊や努力論にこっている。言霊や努力論が正しいと思っているようなやつらだ。トリックに気がついてないのだ。そういうレベルの思考力しかないやつらだ。
 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。