2024年7月31日水曜日

ヘビメタ騒音の影響を無視する人

 アドラーの主張では、「自分がどう思われるかを気にする必要がない」ということになっているんだよね。けど、相手が傷つかないように気にするという部分がある。

けど、これが、この世は地獄で、そんなことがまったく成り立たない現実というのがあるんだよね。たしかに、まあ、だれだれのこころが傷つかないように配慮するということは必要なことなのだけど、枠組みというのがある。そして、相手というのがある。相手が、自分をないがしろにして、攻撃を加えてきた場合は、応戦しなければならなくなる。その場合、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をかかえていると、やばいことになるのである。どうしてかというと、相手が、ヘビメタ騒音の影響でそうなっているということを、まったく理解しないからだ。あるいは、相手が、ヘビメタ騒音の影響というもの自体を、まったく理解しないからだ。ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、「自分の考えを述べているだけだ」と思っているかもしれないけど、ぼくを侮辱しているところがあるんだよ。そりゃ、そうなるんだよ。たとえば、ほんとうに、ヘビメタ騒音で宿題ができないのに、ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、ヘビメタ騒音が鳴っていたって宿題ぐらいできるのに、やってなかったと思うわけだよ。ヘビメタ騒音とは関係なく、宿題をやりたくなかったから、ヘビメタ騒音でできなかったといっているだけなんだと思うわけだよ。これは、侮辱だろ。どういう気持で、問題集や教科書と、ヘビメタ騒音なかで、にらめっこをしていると思っているんだよ?

「できると言えばできる」と言ってしまう人だって、アドバイスのつもりで言っているのだろうけど、そういうことを言う人は、みんな、ヘビメタ騒音の影響を無視しているんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っているなかで、どれだけ俺が「できるできる」と言ったって、できないんだよ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音でできないからだ。ヘビメタ騒音が鳴っていなければできるのである。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、宿題ぐらい、簡単にできるのである。けど、ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題もできない。この人たち……「できると言えばできる」と言っている人たちは、理由について、壮大な勘違いをしている。けど、これまた、「できると言えばできる」と言っている人たちに、だれだけ、ここに書いたようなことを説明しても、ヘビメタ騒音の影響を無視したり、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができなくなるということを認めないのである。この人たちの頭のなかでは、ヘビメタ騒音の影響で宿題ができなくなるということはないことなのである。かわりに、「宿題ができる」と言えば、宿題はできるはずなのである。あるいは、「ヘビメタ騒音のなかでも、宿題ができる」とひとこと言えば、宿題ができるはずなのである。あるいは、宿題ができるようになるはずなのである。けど、ヘビメタ騒音のなかで「ヘビメタ騒音のなかでも、宿題ができる」と何回も言っても、宿題ができないのである。ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題ができないのである。頭がこんがらがって、短期記憶が吹き飛ばされてしまうので考えることがまったくできないのである。これを言ってしまうと、問題があるのだけど、「できると言えばできる」と言っている人たちだって、自分の現実的な問題に関しては、「どれだけできると言ったって、できないものはできない」と考えているので、自分の現実的な問題に関しては、言霊的な問題解決方法を採用しないのである。たとえば、とある「できると言えばできる」と言っている人がAさんだとする。そして、Aさんが、ギックリ腰になったとする。その場合、Aさんは「ギックリ腰はなおる」と言って、ギックリ腰をなおそうとするのかというと、そうではないのである。「ギックリ腰はなおる」と言っても、言っただけでは、なおらないことを知っているので、言うことで、ギックリ腰をなおそうとしないのである。Aさんの職場で、Aさんが五〇キログラムもあるような重たい荷物を運ばなければならないとする。その場合、Aさんが「できると言えばできる」と言って、「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言って、はこぶかというと、そうではないのである。 「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言ったって、できるようにならないことは知っているので、荷物を運ぼうとしないのである。あるいは、「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言って、荷物を持ち上げようとするのだけど、荷物を持ち上げようとすると、腰が痛くなるので、そのたびに「いたい!いたい!」と言って、荷物を持ち上げることすら、できないのである。「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言えば、言っただけで、自分がこの荷物を運べるようになるというのが、言霊理論なのである。言ったことが、現実化するのだからそうなるのである。ところが、言霊主義者であったとしても、自分の、現実的な問題に関しては、言霊的な解決法をこころみようとさえしないのである。どうしてかというと、「できる」と言っても、「できない」ことを知っているから……。どういうことが(自分には)できないかということを知っているので、最初から、現実的に考えて、できないことに関しては、言霊的な解決法を利用しようとしないのである。けど、ほかの人には、言霊的な解決方法が絶対的に有効であるというようなことを言う。「言霊は絶対だ」というようなことを言うのである。なにが、絶対なのかぼくにはわからないけど、たぶん、言霊は絶対にあって、言霊で絶対に解決できるということなのだろう。どんな問題でも、言霊的な解決方法で解決できるということを、真剣に主張するのである。ところが、普段の生活を見てみると、言霊主義者は、自分の現実的な問題を言霊的な解決方法で解決しようとしないのである。

ともかく、ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、ぼくのことを、必然的みくびり、バカにして、事実とは異なることを言ってくるようになるのである。

たとえば、「ほんとうは、宿題をやりたくなかったから、(エイリは)ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないと言っている」というようなことを言ってくるようになるのである。ちがうんだよ。誤解だ。

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たとえばの話だけど、「できると言えばできる」と言っている人が「自分はこの荷物を運べる」と言ったあと、荷物を運ぶどころか、持ち上げることすらできなかったとする。その場合、「できると言えばできる」と言った人は、自分が「できると言えばできる」と言ったにもかかわらず、できなかったというとを、ちゃんと認めるのかというと、ちゃんとは、認めないのである。できなかったあとも、「できると言えばできる」という考え方が、ずっと成り立っているのだ。現実的には、自分ができなかったにもかかわらず、「できると言えばできる」と思ったまま生活をしている。「できる」と言ったのに、「できなかった」ということに、ちゃんと向き合うことをしないのである。自分をごまかして生きているのである。

まあ、説明をはしおったので、話は見えないと思うけど、なんとなく、書いたこと

 「キミじゃなくて彼だよ」と言いたかったのだけど、相手のこころが傷つくかなと思ってやめたわけだけど、そうしたら、ほかのやつらが文句を言ってきたというのがある。ほかのやつらは、言ってみれば、誤解をしている。けど、英語、日本語、スペイン語が入り乱れている状態だったので、ちょっと誤解をとける状態じゃなかった。通訳を買って出た人の、発言がトラブルのもとになっているんだよな。けど、手短に言って、ぼくが、相手のこころが傷つくかどうかを、過度に心配しすぎるのは、きちがい親父の影響なんだよな。きちがい親父なんて、相手が赤ん坊だろうが幼児だろうが、家にいたら、発狂していたわけだから。怒りを、赤ん坊や幼児にむけて、発散していた。理由なんてないんだよ。自分の怒りを発散できる状態だから、発散していただけなんだよ。けど、きちがい親父のきちがいたるゆえんなのだけど、きちがい親父自信が、その赤ん坊やその幼児に、ひどい目にあわされたという気持でいっぱいなんだよ。「おこる理由がある」と思っているんだよ。発狂して攻撃をしてもいいだけのことを、相手?がしたと思っているんだよ。そういう思い込みがあるんだよ。感情的な爆発があるんたよ。感情的に爆発しているのだけど、自分が爆発するだけのことを、相手がしたと思っているんだよ。けど、じゃあ実際に、それがなんなのかということは、本人にもわからないことなんだよ。ほんとうは、とるにたらないことというか、きちがいでなければ、絶対におこらないようなことでおっているのだから、理由なんてない状態なんだよ。だから、次から次へと、怒り狂うことを見つけて、怒り狂うということになる。

ともかく、俺が幼児時代、きちがい親父が、なんだろうが傷ついて、こっちに攻撃をしてきたので、気にするようになった。たしかに、「キミじゃなくて、彼だよ」ということ自体は、いま考えると、たいして、傷つけるような内容じゃないんだよな。けど、通訳を買って出た人が、「オーケーというのは、自分が話しかけてもいいというオーケーなのか? 狩れば話しかけてもいいというオーケーなのか?」ということを英語で訊いてきたわけ。でっ、そのとき、ぼくは、ほかの人との会話を五個ぐらいかかえていたので、ちょっと対応が雑になった。だいたい、いつも、その人(通訳を買って出た人とは)英語で話しているわけだから、なんで、そこで、「自分が話しかけてもいいということなのか? 彼が話しかけてもいいということなのか?」という疑問を持つのかということに関して、もどかしさを感じた。ようするに、通訳を買って出た人は、俺が「オーケー」だといったのだから、そのまま、通訳を開始してくれればよかったのである。ただ、ようするに、ぼくの場合、いつでも、「こういうふうにいうと、相手が傷つくかもしれない」というようなことを、ものすごく、気にしている。ここで、いろいろとずけずけと書いているようだけど、それは、すでに、こっちが攻撃をうけたと認識しているので、そうなるのだ。攻撃をうけていないニュートラルな状態であれば、ぼくは、相手が自分の言葉をどういうふうに受け取るかということを、ものすごく気にする。傷つけたくないからだ。

まあ、この、「キミじゃなくて彼だよ」ということに関しては、ほんとうは、状態をちゃんと説明しなければならないのだけど、状態をちゃんと説明したわけではないので、話が見えないところがあると思う。ときどき、この「キミじゃなくて彼だよ」と言えばよかったんじゃないかと、思ったりする。

2024年7月29日月曜日

「サカマのことだってあんなことにならなかった」

 きちがい兄貴がやったことや、きちがい親父がやったことが、ぼくの日常の気分に、影響をあたえるんだよ。どうしたって、俺の行動に影響をあたえる。きちがい的な感覚で、きちがい的な行為をきちがい的な意地でやって、それを、きちがい的な意地で認めない。そして、思いつくことが、きちがいなんだよ。きちがい兄貴の「おとへのこだわり」というのはない。ヘッドホンをしてくれればそれですむのに、絶対にヘッドホンをつけてくれない。自分が思いっきり鳴らしたいという気持を優先して、思いっきり、よそではありえない音で鳴らしているのに、自分が思いっきり鳴らしていると言うこと自体を、認めない。これは、認識しているけど、俺には、認識してないようにふるまうと言うことではない。ほんとうに、認識してない。その場合、どーーしても、影響をうけるんだよ。実際にやられていることというのは、俺の他人に対する行為に、影響をあたえる。そりゃ、きちがい家族によるヘビメタ騒音で人生を破壊されたあとは、騒音そのものに対して敏感になる。あたりまえだ。そういうことも、きちがいヘビメタがなければなかったことなんだよ。そして、「あたりまえのようにやる」ということが、やはり、影響をあたえる。

きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、普通の兄貴だったら、「サカマのことだってあんなことにならなかった」という気持がある。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、普通の兄貴だったら、「ダイヤのことだってあんなことにならなかった」という気持がある。 

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ヘビメタ騒音にやられなかった場合の「反応行動」を理想的な反応行動だとする。そうすると、ヘビメタ騒音にやられていると、理想的な反応行動ができなくなってまうのである。理想的な反応行動というのは、ぼくにできない反応行動ではなくて、ほんらい、できる反応行動なのである。けど、ヘビメタ騒音がつみかさなっていくて、普通の反応行動ができなくなる。これだって、「できると言えばできる」というようなことを言う人にはまったくわからないことだ。わからないということは、けっきょく、それだけのハンディを背負ってないのである。ヘビメタ騒音相当のハンディを背負ってないから言えることなのである。ああっ、手短に言って「俺だって苦労した」と言ったって、それは、ヘビメタ騒音相当のハンディを背負ってない状態で言っていることだからね。ヘビメタ騒音相当のハンディを背負っていたら、「できると言えばできる」なんて言わない。「できると言ったってできないものはできない」「できると言わなくたってできたことが、できなくなる」ということが、経験をとおしてわかってないから、「できると言えばできる」と豪語している状態なのだから、経験をとおしてわかってないということは、あきらかだ。ようするに、ヘビメタ騒音相当のハンディがなかったから「できると言えばできる」と言える状態なんだよ。

たとえば、睡眠がじゅうぶんでないから、頭がモヤモヤして、普通の反応行動ができないというのが、一番わかりやすいと思う。けど、睡眠だけじゃないのである。きちがい兄貴が普通にやる基地ちがい行動が与える影響がでかいのである。もちろん、ヘビメタ騒音で眠れなくなり、常に睡眠不足である状態で暮らしていたのだけど、それだけじゃないのだ。睡眠だけじゃない。きちがい行為が、きちがいの行為として影響をあたえている。この部分は、毎日、きちがい家族にやられた人じゃないとわからないと思う。たとえば、だれだっていやなことをやられれば、やなことをやられたという負の感情が生まれる。けど、相手がきちがいの場合は、これがまた、ちがうのである。ただ単にいやなことをやられたから感じる部分のほかに、きちがい家族が、きちがい家族のやったことを無視しているということが、影響をあたえるのである。認知症の人がなにかをやって、不愉快な気持になる場合と、普通の人がなにかをやって、不愉快な気持になる場合とはちがうと思う。けど、きちがい兄貴がやったことというのは、認知症がやったことともちがうのである。この部分が、みんなわかってない。実際に、自分がやられたことがないので……そういう特殊な家族にやられたことがないので、普通の人がやってくる不愉快なことと、おなじだと思っているのである。きちがい兄貴が俺にやったことは、普通の人が、普通の人にやったこととは、ちがうのである。たとえ、「うるさくした」という点でおなじであっても、ちがうのである。けど、普通の人は、普通の人が「うるさくして」不愉快な気持になったというようなことしか、考えてないのである。ちがうのである。きちがい兄貴の認知の問題というのは、認知症の人の認知の問題とはちがうのである。忘却じゃない。無視しているところがちがう。これは、こっちの感情に影響をあたえる。毎日、つもれば、ちがう効果があらわれる。単に、寝不足で、普通の反応行動ができないというのとは、ちがう点がある。もちろん寝不足で、普通の反応行動ができないということとおなじ点もあるのだけど、ちがう点もある。感情がちがう。実際にやってしまったのだから……実際にやらなかった場合とは、ちがう効果があらわれる。これ、無視のしかたがちがうと……無視のしかたが普通の人とちがうと、ちがった効果もしょうじてしまうのである。これは、感情や思考に影響をあたえる。

2024年7月26日金曜日

ルール

 ほんとうに、どれだけ、がんばっても、一日が「やぶけて、ふさがらない」ような状態になるのに、無視してやりやがって。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚の持ち主でなければ、絶対にできないことなんだよ。けど、そういう「ほかのうちでは絶対にありえないこと」が、うちでは、毎日普通に成り立っていた。うちでは、毎日普通に、そうなっていた。ほかのうちだったら、ぜっーーーたいにありえないことなんだよ。どれだけ鳴らしたくても、きちがいでなければ、「こんなにでかい音で鳴らすと迷惑だな」と思って鳴らさない音なんだよ。鳴らしているときも、絶対に、普通の人なら「自分はでかい音で鳴らしている」ということを認識できるんだよ。ところが、うちのきちがい兄貴は、きちがいだから、どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているということを認めたくない場合は、でかい音で鳴らしてないと思って、でかい音で鳴らし続けることができるのだ。こんなの、頭がおかしくなかったら、できないことなんだよ。でっ、何度も言うことになるけど、きちがい親父もおなじなんだよ。四人家族のなかで、二人がそういう状態。こんなの、ない。きちがいのやってることは、きちがい親父が、毎日、ずっとずっと、十数年間にわたって「やってきたこと」なんだよ。もちろん、きちがい親父自身は「そんなことはやってない」と思っていることなんだよ。きちがい的な意地で、毎日普通にやるということや、きちがい的な意地で、やったことを認めないというへんな性格が、きちがい親父からきちがい兄貴に伝わってしまったんだよ。問題なのは、ずっと、「知らんぷりでやってきた人がいる」ということだ。普通なら、その人は、親として、子どもを監視するような立場にいる人なのだ。普通なら、親として子どもを監視するような立場にいる人が、そういう人間だということが、どういう意味をもっているか、ほかの人はわかってない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な感覚で「やってないこと」にしてしまう……。こんなことを普段から普通にやっている人間が、親なんだぞ。これがどういうことなのか、ほかの人はまったくわかってない。普通なら、ルール通りに、ほかの人が動いているかどうか監視する人が、ルールを守らずに、ルールを破りきった行動を毎回毎回しているのに、本人は、そのつもりがないのだから、こまるんだよ。一緒に住んでいる人はこまるんだよ。悪意なく、「そのつもりがない」状態なのだ。「そのつもりがない」ということは、「やってないということ」なんだよ。きちがい的な意地でやったのに、本人がやったつもりがない……。やめろといわれたら、発狂してやり続ける。けど、やり続けたことで、相手がこまったということは、永久に、記憶に残らない。最初から、そういう認識がまったくないのだから、記憶に残るわけがない。これは、忘却じゃない。都合が悪いことなので、認識しないことになっていることだ。しかも、「都合が悪いから認識しないようにしよう」ということにもなってないのである。そうじゃない。ぜんぜんちがう。

「まいにち、つもる」

  「まいにち、つもる」と言っても「まいにち、つもったことがない」人にはわからない。この差は、でかい。きちがい兄貴が、まったく気にしないでやったことが、ずっと影響を与え続けている。これ、一日のなかでも、たいへんなのに、毎日続いたら、どんなことになるか、ほかの人には、まったくわからないんだよね。

ともかく、きちがい兄貴がやったことというのは、普通のうちでは起こりえないことなんだよ。おりこえないということは、普通のうちに住んでいる人には、怒らないことなんだよ。だから、その人たちが「俺だって苦労した」「俺だって困難があった」「騒音ぐらい俺だってある」と言っても、ちがうんだよ。たとえば、「騒音ぐらいあった」と言っている人は、普通の枠組み中で、騒音があったということなんだよ。きちがい家族による騒音じゃない。きちがい家族による騒音でなければ、ぼくが言っている騒音とはちがう。きちがい兄貴の騒音とはちがう。きちがい兄貴のしくみがあまりにもおかしいので、ほかの人にはわからない。まえから言っているけど、きちがい親父も、きちがい兄貴とおなじしくみをもっている。ほかの人にはないしくみだ。これ、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、親父とおなじように、きちがい行為を夢中になってやりはじめてしまった場合、きちがい親父が、普通の父親と同じ行動をするかというと、しないんだよ。きちがい親父らしい感じ方で、きちがい親父らしい行動する。そうすると、ほかの人から、俺が誤解をうけるということになるんだよ。そして、ほかの人は、それにまったく気がつかない。どうしてかというと、自分の常識のなかでは、「親というのはそういうものだ」「家族というのはそういうものだ」「人間というのはそういうものだ」ということになっているからだ。ようするに、「家族」という概念のもとになっている、家族というものが、ぼくの家族とは、まったくちがうのである。だから、ぼくがおかしいことを言っているように感じるのである。そして、こんなことをやられたら……やられ続けたら、「やられた」ということや「やられ続けた」ということについて言及する場合だって、ネガティブな話になる。自動的にそうなるだろ。しかし、世の中には、「ネガティブな話は、ネガティブだからダメだ」というような常識があるんだよ。わっはは。わらっちゃうね。だから、誤解をしたまま、「こいつは、ネガティブな話をしている」と思うわけ。どんだけ……。いろいろ……。くっつくか……。

2024年7月25日木曜日

ヘビメタ騒音でくるしい

 ヘビメタ騒音でくるしい。ほんとうに、人にあっているときの気持ちが並じゃない。やられてない人にはわからない。きちがい家族にたたられたことがない人にはわからない。そりゃ、デートなんてできるわけがない。これも、ヘビメタ騒音とデートは関係がない」などと言うやつが出てくるんだけど、おおありだよ。関係、あるよ。あのときの気分……あのころの気分……ヘビメタ騒音期間中の気分といったら、並じゃない。ぜんぜんちがう。そいつらが考えているヘビメタ騒音の影響と、俺が実際に経験したヘビメタ騒音の影響はちがいすぎる。そいつらが、わからないから、そういうふうに言っているだけ。

頭が、こんがらがる……いてもたてもいられなくなる音にずっとさらされて、いいわけがない。ほんとうに、精神も体も破壊された。ゆるせない。兄貴に言いたい……。「俺の人生をかえしてくれ」と言いたい。

普通の人だったら、どれだけ、あの音で鳴らしたくても、遠慮して鳴らさないんだよ。普通の人だったら、ヘッドホンをつけて鳴らす音なんだよ。「なまのおと」にこだわって、絶対に、ヘッドホンをつけないで鳴らすとか……おかしすぎる。そういうおかしい部分が、よその人にはわからないから、俺が問題解決能力がないように言われたり、俺がかわった人だと言われることになる。きちがい兄貴の、こだわりは、ほかの人にはわからない。そして、これが、ほんとうにいやなことなのだけど、きちがい兄貴にもまったくわかってないのだ。これ、当のきちがい兄貴が、ほかの人よりも、まったくわかってないというところがある。本人がきちがい的な意地でこだわっているということについて、本人が無頓着なんだよ。気がつかない。

これは、親父とおなじだ。親父と兄貴でおなじなんだよ。きちがい的な意地で、きちがい的なこだわりで、ゆずならないのに、これまた、きちがい的なしくみで、ゆずってないということに、一切合切、気がつかない。そういうきちがい的な態度はおかしい……ということについて、本人たちがまったく気がつかない。ほんとうに、ごく自然にそうなっている。ほんとうに、ゆるせない。

2024年7月24日水曜日

疲労供給モデル

 たとえば、つかれることがあるとする。このつかれることは、一回起こると、一の疲労をあたえるとする。そして、人間には、体力の個体差があるけど、体力の個体差は、七〇から一〇〇の範囲のなかにおさまるとする。一日に、二〇〇の疲労をあたえられると、一日に、一〇〇の疲労がたまる人から、一三〇の疲労がたまる人の間で疲労の度合いが分布するということになる。人類ならそうなるということになる。そして、たとえば、おなじ状態が一〇〇日続いたのであれば、一日における値が一〇〇倍になるということになる。その場合、一〇〇日の積み重ねは、個人において意味があるものになる。「過去は関係がない」なんて言えない。前述の設定なら、一〇一日目には、一〇〇日分のちがいがあらわれているということになる。たとえば、七〇の疲労解消力をもっている人は、一三〇〇の疲労がたまっていることになり、一〇〇の疲労解消力をもっている人は、一〇〇〇の疲労がたまっているということになる。なので、たとえば、一〇一日目の、一日における疲労の供給が、一〇〇だったとしても、すでに、一三〇〇の疲労がたまっている人と、一〇〇〇の疲労がたまっている人では、疲労の状態がちがうということになる。過去は、関係がある。

すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。

 うーーん。まあ、あんまり、頭が働いてないから、適当に書く。

たとえば、困難の度合いを一〇〇段階にわける。一段階目から、一〇〇段階目までわける。そして、一〇〇段階目の人も、ひとつは、困難があるとする。一段階目の人は一〇〇の困難がある。

なので、「ある」とか「ない」という、二値であらわすと、みんな、困難があるということになる。

けど、一段階目の人と、一〇〇段階目の人とでは、困難の数がちがう。

けど、個体は個体なので、ほかの人の、困難の度合いというのは、わからないとする。体験しないとわからないので、体験してない困難については、理解できないものとする。

その場合、あきらかに「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、相対化できるのである。

「困難のちがい」がないのようなことを言える。

実際は、「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、「困難のちがい」を無視することができるのである。

でっ、その場合、やられたほうを悪く言う「言い方」がはやっていると、困難の度合いが強いものが、被害を受けることになるのである。

けど、あいかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」と言っている人は、困難の度合いを同質化して、無視することができる状態ではあるのだ。

これは、たいへんまずい状態なのだ。社会として、たいへんまずい状態だ。

たまたま、きちがい的な親のもとにうまれてしまった人は、きちがい的な親のもとにうまれなかった人とは、ちがう困難を経験することになるのである。

けど、きちがい的な親のものとにうまれなかった人は、経験的に、ちがう困難だということがわからないので、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、困難を同質化して、無視することができるのだ。

きちがい的な親のもとうまれなかった人は、無視できるけど、きちがい的な親のもとにうまれた人には、きちがい的な親のもとにうまれなかった人にはわからない「異質な困難」がある。

けど、同質化されてしまうので、「困難の質」は無視されてしまうのである。その場合、たとえば、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような文言が、きちがい的な親のもとにうまれた人の首をしめることになるのである。

ぼくが、ここで、いままで述べてきたように、言霊理論、思霊理論、努力論、引き寄せ理論などは、すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。

2024年7月22日月曜日

もう、これ、宗教戦争なんだよ

 「できない」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音でできない」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音でできなくなった」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音の連続で、どうしてもできなくなった」と言っているだろ。なにが、「できると言えばできる」だ? なにが、「けど、働いたほうがいい」だ? ふさげるな。

けど、考えてみれば、きちがい兄貴が、きちがい兄貴が満足できる音で、きちがい的に大きな音で鳴らしているということを感覚的に無視して鳴らし続けなければ、こんなことになってないんだよな。 

そして、このことについてだって「いいわけしている」と言われる。こんなのあるか? だいたい、「できると言えばできる」とか「けど、働いたほうがいい」とかと言っているやつらは、そもそも、きちがい家族による毎日のヘビメタ騒音を経験したことがないやつらなのだ。口を開けば、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うけど、ちがうじゃないか。もう、これ、宗教戦争なんだよ。

こいつらには、毎日の記憶がない。実際に、毎日やられたわけじゃないので、毎日の記憶がない。こいつらには、毎日やられたことによって、できあがる、からだの状態がない。実際に、毎日、やられたわけじゃないからだ。ほんとうに、きちがいが、きちがい的な意地で、よそのうちではありえない音で、ずっと鳴らす。「どれだけ、言ったって、きかない」。この、「どれだけ、言ったって、きかない」というのは、こっちが、どれだけ「やめてくれ」と言っても、一分もやめてくれなかったということだ。やめてやる必要がない」ときちがい思考で思っているのである。はっきりと言ってしまうと、それすらもない状態だ。「なにかを言われた」というレベルの理解しかなく、「なにか、不愉快なことを言われたので、きちがい的にしがみついてやり続けた」という状態でしかない。相手が「やめてくれ」と言ってきたということが、そもそもわかってない状態だ。俺が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にずっとさらされて、こまって「やめてくれ」と、きちがい兄貴のところに言いに行ったのに、きちがい兄貴が、「なにか、不愉快なことを言われた」という気持で、怒り狂っておしまいだ。意識的な部分では、「やめてくれ」と言われたということになってないのである。相手が「やめてほしい」と思っていると思うまえに、発狂してはねのけておしまいなのである。だから、はっきりと「やめてくれ」と言われたにもかかわらず、(きちがい兄貴の)意識的なレベルでは「やめてくれ」と言われたということになってないのである。これ、ほかの人にはわからない。ともかく、きちがい兄貴が鳴らしていると、さけようがない状態になる。その状態は、さけようがない状態だ。もちろん、からだの状態も含んでいる。これが、実生活に影響をあたえるのである。 

これも、鳴らされていたって、影響をうけないことは可能だというきちがい思考がある。ところが、どれだけ、強く耳を両手でおさえても、耳栓をしても、発狂的な音で鳴っているのである。とめられないのである。きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対にありえない音で鳴らしているということに、気がつけ。この、「そんなの、耳栓をすればいいだろ」みたいなことを言うやつは、自分が、きちがい家族にやられたことがないのである。「耳栓だと意味がないんだよ」と言ったって、こいつはこいつで、わからないままだ。きちがい兄貴が悪いことをしているのに、まるで、俺が、ちゃんとした対策をしないからダメなんだというようなことを言うのはやめろ。そのおまえが言っている対策は、無意味なんだよ。「だいじょうぶだだいじょうぶだ」と言えば、だいじょうぶだというような感じで、無意味なんだよ。「だいじょうぶだだいじょうぶだ」と言っても、だいじょうぶではないから、無意味なんだよ。それとおなじだ。

2024年7月21日日曜日

こんなやつらと、やられてない体(からだ)で、つきあってたようにつきあえるわけがないだろ。

 ぼんくら凡人だって、うちで暮らしていたら、無理なことになるのに、それがわからない。ぼんくら凡人だって、うちで暮らしていたら、どれだけがんばっても、いままで、軽くできたことが、できなくなるのに、その過程が、わからない。ぼんくら凡人にはわからない。普通の凡人が、無理なことを言ってくる。自分だって、おなじ環境、同じ条件で暮らしていたら、ぼくのように、できなくなるのに、「この環境、この条件だと」できなくなるということを無視して、無理なことをおしつけてくる。これ、超人なんだよ。超人なら、やられていても、やられていないようにふるまうことができるかもしれないけど、超人でなければ、やられていたら、やられていないように、ふるまうことができなくなる。超人なら、やられていても、やられていないようにふるまうことができるかもしれないけど、超人でなければ、やられていたら、やられた体(からだ)になる。これは、ようするに、不可避的にやられた身体になり、不可避的にやられた身体状態で暮らすことになるということだ。ところが、やられてないやつは……毎日やられてないやつは、そこのところを、ガン無視してしまうのである。そりゃ、やられてないから、ガン無視できる。「俺だって、不愉快なことはある」「俺だってつかれることはある」と均質化、同質化してしまえば、なんだろうが、おなじなのである。だから、自分だったら、影響をうけないで暮らすことができるとという前提で、もを言ってくるようになる。というか、最初から、自分だったら、影響をうけないで、ちゃんとやることができるという前提でものを言ってくる。そして、自分だったら、影響をうけないでちゃんとやることができるという前提が成り立っているということに関して、本人は、無頓着だ。こんなやつらと、つきあえるわけがないだろ。やられてしまっているのだから、無理なんだよ。生活すること自体が無理なんだよ。やられてない場合のように、生活すること自体が無理なんだよ。完全に無理。ところが、よその人……やられてない人は、そこのところが、完全にわからない。よそのやつは、そのこところを完全に無視する。完全に無視している。その場合、やられてしまっているのだから・やられてない場合のように、人間関係を維持するということ自体が無理なことになる。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)の性格が問題だからそうなると考えるのだ。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)がさぼっているからそうなると考えるのだ。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)が努力をしてないからそうなるのだと考えるのだ。こんなやつらと、やられてない体(からだ)で、つきあってたようにつきあえるわけがないだろ。

2024年7月20日土曜日

つらい思いをした

 スネ夫に、「俺だって買ってもらえなかったことがある」「俺だって、ものを買ってもらえなかったからつらい思いをした」と言われているようなもなのなんだぞ。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。

2024年7月19日金曜日

不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる

 たとえば、えらそうに説教する人たちの「きれいごと」をすべて理解しているとして、理解したうえで、ヘビメタ騒音下で、生活するということが、どれだけひどいことなのか、まったくわかってないんだよね。「きれいごと」を言う人たちは……。説教をする人たちは……。「きれいごと」の内容が、できなくなるからこまっているのに……。ヘビメタ騒音で、どうしてもできなくなるからこまっているのに……。こいつらときたら……。こいつらときたら、きれいごとの内容をすればいいんだ……と……言う。できないからこまっているんだぞ。こいつら……きれいごとを言う人たちだって、おなじ環境下なら、できなくなる。自分だって、できなくなる……ということが、まーーったく、まーーったく、わかってない。こういうレベルの理解力しかない。どれだけぼくが、言葉をつくって語ったっとしても、こういうやつらは、こういうやつらのレベルでしか理解しない。そして、こともあろうに……ぼくのことを見下してくる。きちがい兄貴にやられたときから、このことが決まっている。これ、セットなんだよ。言ってみれば、セット。

みんながみんな、あの、常識的な、佐藤(仮名)レベルの理解しかしてない。こんなの、地獄だろ。不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる。ところが、常識的な人は、不可避的にできなくなるということを、ガン無視して、できるという前提でものを言ってくる。こんなの、ない。どれだけ言ったって、(むこうは)わからない。こうなると、あんまり言いたくないけど、似てくるんだよな。きちがい兄貴と、常識的な人の態度が似てくる。しくみはちがうけど……しくみは、完全にちがうけど……態度だけは、似てくる。みんながみんな、きちがい兄貴のように、無視するという構造ができあがる。無視している部分も、無視をする全体のしくみもちがうけど、むしするという構造ができあがる。わかってないやつが、「わかってもらえなくてもいいじゃないか」なんて、言い出す始末だ……。いったいどこまで、こんなことが続くのかと、途方にくれる。

毎日、続いて、いいわけが、ないだろ

 やっぱり、ヘビメタ騒音できついなぁ。毎日、続いて、いいわけが、ないだろ。みんな、まったくわかってない。「影響がない」という前提でものを言うのは、やめろ。「過去のことは関係がない」という前提でものを言うのは、やめろ。「自分だって、くるしい目にあってきたので、おなじだ」という前提でものを言うのは、やめろ。「影響がないという前提」「過去のことは関係がない」という前提で、ものを言っておいて、それはない。くるしさの質がちがうから、ちがう症状が出ている。おなじであるはずがない。実際、その人たち……そういうことを言う人たちには、きちがい家族がいない。きちがい家族と一緒に暮らしてきた毎日が、ない。「影響をあたえる」のに「影響はガン無視」か?

ヘビメタ騒音で、できなくなっているから、こまっているのに……「できないと言うからできない」なんて言ってくるやつに、なにがわかっているのかという問題がある。で、「ヘビメタ騒音の影響」を無視するやつは、みんな、「できないと言うからできない」なんて言ってくるやつと、おなじレベルのやつなんだよ。そういうレベルでしか物事を考えることができないやつらなんだよ。

2024年7月16日火曜日

屈辱以外のなにものでもない。

 だれもが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験し続けると、働けなくなるのだけど、だれもが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないので、「働けなくなる」ということがわからない。「働けなくなる」というのは、「通勤することができなくなる」「通学することかできなくなる」ということだ。だから、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないので、「通勤することができなくなる」「通学することかできなくなる」ということがわからない……ということになる。だから、「できなくなる」ということがわからないまま、「できる」という前提でものを言ってくることになる。これ自体が、ぼくにとっては、屈辱であるわけ。けど、「これ自体が、ぼくにとっては、屈辱である」ということは、やられてない人にはまったくわからない。普通の人にはまったくわからない。俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない人にはわからない。みんながみんな、俺を見くびって、俺を軽蔑して、もをを言ってくるようになる。ヘビメタ騒音が鳴っている時間に、そのことが決まってしまう。さけられないのだけど、さけられないということが、ほかの人にはわからないのだから、ほかの人はごく自然に「避けられる」という前提でものを考えて、ものを言ってくる。屈辱以外のなにものでもない。

 

 

 

2024年7月15日月曜日

きれいごとを言う人たちが、対象者の首をしめる

 じつは、きれいごとを言う人たちが、対象者の首をしめるということになる場合が多い。きれいごとですめばいいのに、裏がある。あるいは、時系列的なことを考えてないんだよな。きれいごとを言う人たちは、時系列的なことを考えてない。どういう反応が起こって、時間がすすむのかということが、わかってない。まあ、最初から悪意がある場合もある。わかっていないのではなくて、最初から、「あとで対象者がこまること」を想定して、きれいごとを言う場合だ。たとえば、求人欄に、対象となる性別や年齢について書いてはいけないというようなことも、そういうことのひとつだ。あれは、たぶんだけど、わざとやっている。法律とは関係がないケースについては、まあ、きれいごとを言う人たちは、対象者に対する無理解があり、無理解を前提にして、解決策を考えるので、おかしなことになる。理解しているようで、まったく理解してないというしくみ……。

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まあ、条件を無視して、精神世界的なことを言う人たちも、本人は、じゅうぶん現実的な、「いい助言」をしているつもりなのだけど、条件を無視しているので、けっきょく、ディスっているだけということになってしまう場合がある。まあ、精神世界の人たちがいい気分になり、「対象者」は悪い気分になるということが発生してしまうなぁ。

 

 

 

 

 

 

2024年7月14日日曜日

未来において、決まっていたことが、「いま」起こったのかどうかわからないではないか

 たとえば、自分が、未来のある時点で起こるすべてのことについて知っていたとする。そういう場合は、「たしかに、決まっていたことが、起こった」ということがわかる。自分が未来見ある時点で起こるすべてのことを知らないのであれば、未来において、決まっていたことが、「いま」起こったのかどうかわからないではないか。過去をむいて……「過去のある時点において、こういうことが起こったから、こういうことが起こるということが、最初から決まっていたにちがいがない」……と思っているだけなのである。未来決定論者、あるいは、運命論者というのは、最初から決まっていたにちがいがないと思っているだけなのである。未来において起こるすべてのことについて知っている人でなければ、たしかに、「それ」が起こったということが、わからない。

条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。

 たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは運命論者だ。Bさんは、Aさんの知り合いだ。Bさんが、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったとする。その日は、二〇二四年の七月一四日だとする。その時間は、午後七時四分だとする。ようするに、Bさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったのだ。そうすると、「BさんがBさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買うということは、Bさんが生まれるまえから決まっていたことだ」ということをAさんが言い出す。結果が出ているから、「こうなることは、最初から決まっていた」とAさんは、言うことができる。しかし、じゃあ、明日の午前八時四分に、Bさんが、なにを買うのか、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分の時点でAさんが言うことができるかというといえないのだ。決まっているのであれば、言えるでしょ。決まっているということを知っているんでしょ。そして、決まっている内容についても知っているんでしょ。だったら、言える。ところが、まったく言えないのだ。だいたい、Bさんが、ほんとうに、明日の午前八時四分に、なにかを買うのかどうかということさえ、言うことができない。Aさんは、言うことができない。結果が出たあと、決まっていたと言っているだけだ。未来のことに関しては、なにも言えないのである。だったら、決まっているかどうかも、ほんとうは、わかってないということではないか。けど、結果が出ていることに関しては、さも、「決まっていた」ように言うのである。決まっていたかどうかというのは、Aさんの勝手な妄想なので、どうとでも言うことができる。結果が出たあと、「あとだしで」決まっていたということを言う人たちがいる。精神世界の人は、よくこういうことをするんだよ。けど、勝手な妄想だとは思ってないから、タチが悪い。こういうことをする人たちというのは、条件が悪い人のことをまったく考えてない。条件が悪い人を、いじめまくって、良心のいたみを感じない。正しいと思っているからな。条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。精神世界の人たちが、得意になって、あとだし思考を前提としたことを言うけど、それは、条件が悪い人にとっては、不愉快なことだ。精神世界の人たちは、精神世界の人たちなのに、あおり行為をして、楽しんでいる。精神世界の人たちは、条件が悪い人に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がついたほうがいい。

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起こったということは、起こったということだ。「起こったから、最初から決まっていた」ということは、言えない。まあ、言うことはできるけど、それは、理論的に正しいことではない。距離があることに気がつかないかな? 根拠になってないんだよ。「起こった」ということが、「最初から決まっていた」ということの根拠にはならない。

2024年7月13日土曜日

すでに起こった結果を、引き寄せというタームを使って、強引に解釈しているだけなのだ

 引き寄せ力についてちょっとだけ、語っておく。たとえば、ぼくは、自分にとって重要な哲学の本を、おカネにこまったので、売ったことがある。そして、ある人が、その本を買った。ある人のことをBさんだとする。Bさんは、めったに市場に出てこない中古本を買うことができた。Bさんが、引き寄せ力がある人で、本を引き寄せたのではない。Bさんは、ほしい本が出てくるのを待っていただけだ。Bさんが、引き寄せなんてものに、まったく興味を持っていなかったとしても、そういうことはある。ところが、引き寄せパラダイムに支配されている人は、Bさんが、中古のその本を引き寄せたのだと主張する。そういう解釈をする。これは、解釈にすぎないんだよ。実体としての引き寄せがあるとか、実体としての引き寄せ力があるということではない。けど、引き寄せ信者はBさんの引き寄せ力というものを想定して、Bさんの引き寄せ力が働いた結果、Bさんが、それを引き寄せることができたのだという解釈をする。いつから、Bさんの引き寄せ力が働いているのか? たとえば、ぼくが経済的にピンチになったのは、Bさんの引き寄せ力が影響していのだろうか? ぼくが経済的にピンチにならなければ、その本は、市場に出なかった。ほかの人が、出していたのかもしれないけど、事実として、Bさんが買った本というのは、ぼくが出品したものだ。Bさんの引き寄せ力が働いているのであれば、その本に、Bさんの引き寄せ力が働いているということになる。つまり、ぼくに対して、Bさんの引き寄せ力が働いたので、ぼくが、その本を出品したということになるのである。それだと、Bさんの引き寄せ力が、ぼくの経済的なピンチをつくりだしたということになる。しかし、そうじゃない。実際には、引き寄せというのは、解釈にすぎない。引き寄せのしくみとか、引き寄せの力といったものは、まったくない。存在しない。ただ単に、現実を解釈しただけだ。すでに起こった現実を、引き寄せというコンセプトを使って解釈しただけだ。引き寄せの力なんてない。Bさんの引き寄せ力が、ぼくの行為に影響を及ぼしたわけではない。実際には、アマゾンマーケットプレイスやヤフーオークションのような中古マーケットが成立しているということのほうが、重要な影響をあたえている。しくみが成り立っているし、そのしくみというのは、現実に実行されるしくみなのである。売りたい人が出品をして、買いたい人が買えるというしくみのほうが、(実際の取引において)Bさんの引き寄せ力などというものよりも、実際に、ぼくの出品するという行為に影響をあたえている。「ひきよせひきよせ」と言っている人たちは、すでに起こった結果を、引き寄せというタームを使って、強引に解釈しているだけなのだ。これは、引き寄せというしくみが成り立っているということや、だれだれに(固有の)引き寄せ能力があるということとは、まったく関係がないことだ。引き寄せというしくみが成り立っていなくても、ぼくの本を、Bさんは買うことができた。Bさんに(固有の)引き寄せ能力がなかったとしても、Bさんは、ぼくの本を買うことができた。けど、ぼくが、アマゾンマーケットプレイスに、その本を出さなかったら、Bさんは、ぼくから!その本!を買うことができなかったのである。どっちが重要かというのは、あきらかだ。どっちが成立要因となっているかというのは、あきらかだ。実際には存在しない引き寄せ能力なんかより、中古取引を成立させるしくみのほうがずっと、重要だ。実際には存在しない引き寄せ能力なんかより、中古取引を成立させるしくみのほうがずっと、Bさんがその本を手に入れることができたということに、影響をあたえている。

それから、たとえば、Bさんの、その本に対する関心が続かなかった場合であって、なおかつ、Bさんがその本を手に入れることができなかった場合について考えてみよう。この場合は、ようするに、Bさんは、その本を手にすることがなかったということになる。その本に対する関心が消失したのだから、Bさんにとって、その本を手に入れることは重要なことではなくなる。その場合、Bさんの「引き寄せ能力」がないということになるのだろうか。結果的に、本を手に入れることが出なかったなら、引き寄せ能力がないということになってしまうのである。けど、これもおかしい。引き寄せ能力に関係なく、手に入れられるときは、手に入れらるし、手に入れられないときは、引き寄せ能力に関係なく、手に入れることができる。基本的に、引き寄せ主義者?の言っていることは、すべて、現実の写し絵なのである。結果が出てないことについては、なにも言えない。まあ、結果が出てないことについても、「引き寄せ能力があるから、引き寄せようと思っていればひきよせることができる」とかなんとか、言うことはできる。けど、この人たちは、引き寄せというタームにしたがって、過去における結果を解釈しているだけだ。そして、未来に関しては、引き寄せ能力があるということを前提にして話をしてしまう。けど、過去における結果の解釈というのは、解釈でしかない。結果が出たあと、「これは、引き寄せだ」と言っているだけなのである。で、過去における結果の解釈が、未来の希望につながるわけだけど、これは、ペテンだ。嘘の希望なのである。根拠にならないのである。過去の解釈はあくまでも、過去の解釈であって、嘘の力を前提とした話は、嘘だ。ペテンなのである。引き寄せ能力などというものはないから、未来に関しては、なにも言えない。結果が出てないことについては、なにも言えない。結果の解釈というのは、結果の解釈なので、解釈でしかない。これがわからないかな?


 

 

 

「相手の問題だ」という言い方の問題点について、ほーーんの、ちょっとだけ、語っておく

 「相手の問題だ」という言い方の問題点について、ほーーんの、ちょっとだけ、語っておく。ここでいう「相手の問題だ」というのは、「自分の問題と相手の問題を切り分けましょう」というような考え方のことだ。自分の問題と相手の問題を「切り分ける」こと自体には、別に問題はない。問題なのは、「切り分ければ、自分は影響をうけないですむ」という考え方のほうだ。これ、区別がされてないのである。「切り分けること」ができれば、影響をけなくてすむという考えになってしまうのである。実際には、切り分けることができたとしても、影響をうける場合があるので、影響をうける場合は、問題解決には至らない。ところが、「切り分ければ問題解決ができる」と自動的に考えてしまうやつが出てくる。こいつらの頭のなかでは「切り分ければ、問題解決ができる」ということになっているので、人にもそういうことを言う。けど、「切り分けても、問題が解決できない」場合もあるので、問題が発生する。この問題というのは、最初の問題ではなくて、すべての場合において、「切り分けることさえできれば」問題は解決すると考えるやつが発生するという問題だ。

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たとえば、きちがい親父は、いろいろな迷惑な行動をする。その場合、きちがい親父の内的な問題だと割り切って考えれば、一緒に住んでいるきちがい親父の影響をうけずにすむかというとそうではないのである。ここに、「切り分けることができれば問題は解決する」と考えているやつがいるとする。とりあえず、Aさんだということにしておこう。Aさんの頭のなかでは、ぼくが、きちがい親父の問題は、きちがい親父の問題であると考えることができれば、それで問題が解決してしまうのである。ようするに、ぼくにおける、ぼくのなかの、きちがい叔父の問題は、きちがい親父の構造と、ぼくの構造は関係がないということを、ぼくが自覚すれば、それで解決してしまうのである。けど、こんなことはない。きちがい親父の頭の問題だと、問題を切り分けても、問題が解決しないのである。きちがい親父の奇行から発生する問題が解決しないのである。影響をうけることに関しては、影響をうけるのである。おなじように、きちがい兄貴の問題と、ぼくの問題を切り分けたところで、きちがい兄貴が、ヘビメタをきちがい的にでかい音で鳴らす以上は、ぼくの問題が、解決しないのである。ヘビメタ騒音の影響をうけるという問題が、解決しないのである。ところが、「それは、兄貴の頭の問題だ」と問題を(ぼくが)切り分ければ、それで、問題が解決するようなことを言うやつからが、発生してしまう。これは、「気にする必要はない」とか「影響をうける必要はない」とかというような言い方とおなじ問題を含んでいる。相手のこころの問題だと問題を切り分けても、実際に相手がすることによって影響をうけている以上、問題は解決できないのである。あたかも、自分のなかで、相手の問題と自分の問題切り分ければ、それで問題が解決するようなことを、言うな!!

九割以上の人間が、そう思うのだ

 きちがい家族によるものすごくひどい騒音生活というのは、ほかの人にはわからないことなんだよ。経験的にわかってない。だから、ほかの人はつねに、ものすごくひどい騒音生活について勘違いをしている。しかし、ほかの人は、「ないから」勘違いしているのだけど、「ないから」実際に被害をうけてない。そうすると、完全にこっちを見下してくるようになる。どうしてかというと、「自分なら、だいじょうぶだ」という自信があるからだ。こんなの、経験してないから、わかってないだけなのに、とにもかくにも、「自分なら、だいじょうぶだ」という自信がある。「自分なら、だいじょうぶだ」という自信は「自分なら、鳴っていてもできる」という自信とおなじだ。おなじ意味をもっている。なので、「自分は、鳴っていても、できるけど、エイリさんは、鳴っているからできないといいわけをしている」と思うことになる。九割以上の人間が、そう思うのだ。「そんなに鳴らされていたら、自分だってできない(できなくなる)」と思う人間は、一割以下だ。だから、出会う人間に、ヘビメタ騒音のことを説明しても、九割以上の人間は、「自分は、鳴っていても、できるけど、エイリさんは、鳴っているからできないといいわけをしている」と俺のことを見下してくるということになる。けど、ほんとうのことを言ってしまうと、証明はできないけど、あれだけひどい騒音生活を体験すれば、「できなくなる」ということがわかると思う。やってみれば、どれだけあがいて努力しても、ボロボロになってできなくなるということが、わかると思う。けっきょく、そういう人たちは、騒音生活というものに関する想像力が欠如しているから、わからないだけだと、ぼくは思う。死にものぐるいの努力をしても、努力しているときに、きちがいヘビメタが鳴っているのだから、できないまま、高圧状態(高ストスレ状態)が続くのである。毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続くのだから、高ストレス状態でボロボロになる。がんばっているあいだ、鳴っているのである。こういうことを、完全に無視して、「俺ならできる」と思って、無理なことを言ってくる。そういうレベルの想像力しかない。そういう人間が九割以上だ。この世は、そういうレベルの想像力しか持ってない人間が九割もいる世界なんだよ。想像力が欠如しているうぬぼれた人間が、ぼくのことをバカにしてくる。きちがいヘビメタが鳴っていると、強制的に、そうなってしまうのである。きちがいヘビメタを鳴らしている張本人というのは、普通の人が考える範囲にいない人なのである。ようするに、九割以上のバカは、きちがいヘビメタを鳴らしている張本人について、常に誤解をしている状態なのである。普通の人は、きちがい兄貴の「脳みその構造」について、誤解をしている。普通の人は、きちがい兄貴の感覚について誤解をしている。だから、これまた、強制的に誤解をされるような状態になってしまうのである。ヘビメタ騒音が押しつけてきたことはいろいろとあるけど、そのうちのひとつが、これだ。

2024年7月12日金曜日

「できる」とか「地位」とかが自分の認知と他者の認知に影響をあたえてしまう

  なになにができるというのは、なになにができるということだけを意味して、『人格』とは関係がない。ところが、「なになにができる自分は、なになにができないだれかよりも、上だ」と考えてしまうのだ。

そして、「思ったことが現実化する」というような、幼稚な考え方がはびこっていると、「できない」人は「できないと思っているからできない」というような幼稚な考え方に支配されてしまうのである。

この世は、条件がある。個人の能力というのも、『条件』のなかに含まれている。

そして、この社会には、階層構造がある。あきらかな階層構造だ。

なので、上下関係は、「人間の格」の上下関係になってしまうのである。ほんとうは、階層構造において、上の地位にいるということは、人間の格をあらわしてない。もちろん、人格もあらわしてないな。

ところが、上の人は、人格的にも上だという考え方が、(各自の全身に)しみわたってしまうのである。

なので、「できる」とか「地位」とかが自分の認知と他者の認知に影響をあたえてしまうのである。「できる」とか「できない」とかということを通して、自分自身や他者について考えるということになる。

また、「地位が上か下か」ということを通して自分自身や他者について考えるということになる。これは、(すべての社会的な人間に)染みついている。

なので、どれだけきれいごとを言っても、実際の行動は、こういうメタ認知に根差したものになる。ようするに、意識的なきれいごとには従わず、現実場面のメタ認知にしたがって、行動するということになる。

そもそも、きれいごとは、「切り出した場面」によって構成されているのだけど、その「切り出した場面」というのは、メタ認知にしたがっているので、あらかじめ、条件を含んだものになる。

ところが、「切り出した場面」から、抽象化するときに、そのメタ認知的な条件をすべて、そぎおとしてしまうのである。そして、条件をそぎおとした「きれいごと」が誕生するのである。

しかし、「現実の場面」では、(その現実の場面における)メタ認知が影響しているので、ごく普通に「きれいごと」のなかにはなかった行動をするのである。それが、人間なのである。ようするに、「きれいごと」に感動したときのようには、行動しないのである。

2024年7月9日火曜日

「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。

 「よそのうち」では、ありえないことなんだよ。だから、よそのうちの人は、経験したことがないことなんだよ。そうすると、過小評価する。無視する。俺がどれだけ、「ヘビメタ騒音の影響できない」と言っても、認めない。こいつらは、無視して「できる」という前提で、話をすすめてしまう。「できる」というのは、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていてもできる」ということだし、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、できる」ということだ。現在進行形でも、過去形でも、できないものはできないんだよ。そして、努力のすえ、できなくなることがあるんだよ。ストレスに対抗して、がんばっている期間というのは、長くは続かない。そして、長く続いた場合は、負の影響をもたらすことになる。ようするに、もともとのストレスのほかに、時系列的には、がんばってきたということが新しいストレスをもたらすのである。あたらしいストレスと言ったけど、このほかにも、疲労感、倦怠感などがある。これも、時系列的に、からだがストレスにさらされて、「がんばってきたから」発生したものだ。ところが、「影響なんてない」というやつは、そういうプロセスを無視して、影響なんてない」と言うのである。くそばか。くそばか。

きちがい兄貴も、きちがい親父も、一般人も、ヘビメタ騒音の影響を、認めなかった。ガン無視なのである。「そんなのは関係がないこと」なのである。そりゃ、一般人には、関係がないことだ。けど、ぼくには関係があることなのである。過去の出来事でも、関係があることなのである。昨日の出来事でも、長時間続く出来事なのだから、今日の状態に影響をあたえるのである。昨日のヘビメタは、今日のぼくの状態に、影響をあたえるのである。長時間続いて、眠ることができなかった。眠ることができなかったということは、起きて活動している時間に影響をあたえるのである。「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。「影響がない」と、影響がない人は言うけど、影響がある。

ともかく、一般人は、ヘビメタの影響を、無視する。きちがい兄貴も無視する。きちがい兄貴は、張本人で実際に、ぼくの部屋の横で、きちがい的な意地で鳴らしていたやつだ。一般人は、ぼくの部屋の横で、ヘビメタを鳴らしてない。鳴らしてない。だから、そういう意味では、関係がない。けど、僕の身に起こったことだから、ぼくには関係があることなのである。一般人が、関係性を無視して、「関係がない」と言い張るのは、ぼくにとって腹がたつことなんだよ。 

一般人は、俺が、どれだけがんばってきたか、まったくわかってない。きちがいヘビメタ騒音生活が続くのだから、がんばるしかないのである。これ、ほんとうに毎日、自殺するかどうかというようなでかい問題なのである。ぎりぎりのところで、がんばって暮らしてきたのに、まるで、俺がちょっと努力をすれば、問題が解決できるようなことを言うな。

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「ヘビメタ騒音→ヘビメタ騒音疲労→ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」という連鎖があるとする。これは、少ない項目の連鎖なんだけど、もっともっといっぱいいっぱい、たくさんの連鎖がしょうじてしまう。一般人にはまったくわからないと思うけど、「ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」こと自体が、とてつもなく、不愉快なことだ。これ、不愉快なことなのである。ネガティブな経験なのである。ヘビメタ騒音を起点として、無数の連鎖がしょうじる。そりゃ、第二項目から、別の第三項目がしょうじる場合だってあるわけだからそうなる。努力論や自己責任論は、俺の首をしめてくる理論なんだよ。こんなもの、妄想的な理論なのだけど、真実だと思っているやつは、正しい理論だと思っている。

こういう人たちの気持ちを考えると、言いたいことが言えなくなってしまうのだけど、こういう人たちは、考えちがいをしている。ともかく、「(ヘビメタ騒音なんて)関係がない」と言われることは、ぼくにとって、不愉快な出来事だ。猛烈にネガティブな出来事なのである。 「関係がない」と言わなくても、関係がないということが前提として成り立っていることを言われるのは、ぼくにとって、とてつもなく、不愉快な出来事だ。

良心

 ほんとうは、良心に従わず行動をしていても、いくらだって、きれいごとを言えるのが人間だ。だから、別に、黒側の宗教のなかに、もっともらしい教義をもっているものがあったとしても不思議ではない。それから、ほんとうにピンチになったとき、どういうことをするのかが問題なのであって、普段、どういうことを言っているかは、まったく問題じゃない。今回だって、それは、もうあきらかなんだけど、黒側に洗脳されている人たちは、黒側の人の言葉を好むのである。「いい人だ」「すごい人だ」「これが、真実だ」と思ってしまうのである。それは、正反対のきれいごと。ようするに、普通の人は、見分けがつかない。良心に従った行動と、良心に従わない行動の、見分けがつかない。だから、見せかけの言葉にだまされてしまう。ある程度、黒に洗脳されて、その価値観があるから、だれがほんとうに良心的な行動をしたか、判断がつかない状態で生きている。

頻度と程度がちがうから、ちがう。

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのがすさまじいもので、どうしても、すさまじい影響をうけてしまう。どれだけ気持ちをとりなおして、生活しても、ずっとずっと、きちがいヘビメタ騒音が、続くわけだから、けっきょく、どれだけ気持ちをとりなおして生活していても、くるしいということになる。楽しくないということになる。つらいということになる。不愉快な出来事が連続して起こる状態になる。それは、きちがいヘビメタ騒音によってもたらされる出来事なんだけど、当の、きちがい兄貴は、知らんぷりだ。わかるわけがない。こっちが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、不可避的にトラブルを抱えてしまうということが、まったくわからない。これは、きちがいだからわからない。普通の人だったら、ひとこと言えば、わかることなのである。自分が「思いっきり」やりたければ、思いっきりやれないようになることは、どれだけ明らかなことでも、いのちをかけて、絶対に認めないのである。きちがい兄貴の態度というのはそういう態度だ。ちなみに、きちがい親父の態度もそういう態度なのである。だから、ひとつ家に、ふたりもそういう人間がいるのだから、くるしくなる。一家に、ふたりもそういう人間がいれば、残りの家族の人生は、ズタボロになる。どうしたって、ズタボロになる。そして、きちがい家族と一緒に住んだことがない人が、めちゃくちゃなことを言うのである。「気をとりなおしてやればいい」というようなことを言う。そりゃ、普通の家ならそうなのだろうけど、ちがうのだ。きちがい家族と一緒に住んでいるとちがう。頻度と程度がちがうから、ちがう。

ヘビメタ騒音にやられた体(からだ)で、黒に洗脳された普通の人といっしょにいても

 ヘビメタ騒音にやられた体(からだ)で、黒に洗脳された普通の人といっしょにいてもおもしろいはずがないんだよね。普通の人は、黒に洗脳されて、黒の価値観が正しいと思って生きている。黒の労働観、黒の道徳観、黒の人生観……そういうものが頭のなかにつまっている。ちなみに、黒の道徳観というのは、文字だけ抜き出してみれば、白の道徳観とおなじなのである。しかし、黒の影響をうけていると、まったく正反対の行為をするようになる。ようするに、完全にだまされて、逆のことをしてしまう。そういうしくみがある。なので、自分の道徳観にしたがって生きているようでも、非・道徳的なことをして生きているということになる。まあ、だまされてしまっているのだから、しかたがない。言葉だけで考えるなら、黒の道徳観も、白の道徳観もたいしてかわりがないのである。字面(じづら)は、おなじなのである。

2024年7月6日土曜日

近くの工事がうるさい

  近くの工事がうるさい。騒音のなかで、バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いている。騒音と、この曲の組み合わせ……。いろいろなことが頭のなかをよぎる。騒音に対抗するためになにか聴こうと思って、かけた曲なのだけど、とても、とても、なつかしい。あーー。しかし、俺の一生はなんだったんだろう。

ぼくは、もともとは、騒音耐性がとても高いほうなのだけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音七年間で、だめになった。破壊された。ヘビメタ騒音の持続期間が七年ということではなくて、七年で、崩壊したということ。ほんとうに、騒音耐性が破壊された。あの音の持続が、どれだけひどいものか、ほかの人はわかってない。すぐ、そこで鳴っている音なんだぞ。あんなでかい音で、鳴らしているうちなんてない。壁があるから、きちがい兄貴のスピーカーは見えないけど、壁が透明なら、すぐそこにあるスピーカーだ。振動? くるよ。細かい、細かい、振動で、睡眠回路がおかしくなる。耐騒音回路も破壊された。

これ、きちがいヘビメタがなかったら、うるさいとは思うけど、たいして、こたえない音だ。きちがいヘビメタ騒音の十数年があるから、どんな騒音もこたえるようになった。不愉快な記憶がよみがえってしまうのだ。

このしんどさは、人生のなかでヘビメタ騒音期間が十年以上続いたことがない人には、ないしんどさなのである。

  ほんとうに、つかれたなぁ。まあ、起きたあと、水を飲んで、ゆっくりできるというのは、いいことかな? だって、そりゃ、ヘビメタ騒音以降、一定の時間に起きて、どこかに行かなければならないという圧力がかかっていると、水を飲んでゆっくりできる時間なんてないからな。「そんなのは、つくればいいだろ」と思うかもしれない。ようするに、一定の時間に起きて、どこかに行かなければならないとしても、水を飲んでゆくっりする時間ぐらいはできるということだ。ところが、ヘビメタ騒音期間中から、ヘビメタ騒音期間後は、そういうことが、一切合切、できなくなる。毎日、できなくなる。それから、ちょっと話がずれるけど、ヘビメタ騒音期間中の、休みの日というのは、水を飲んでゆっくりできる時間はない。ヘビメタ騒音期間後、いまは、起きたあと水を飲んでゆっくりできるのだから、なおったといえるのかどうかというと、いえない。「水を飲んで、ゆっくりできる」と書いたけど、それは、いちおう、だるさや憂鬱感や破滅感を、はぶいたものなのである。たしかに、ヘビメタ騒音が鳴っていたころの朝にくらべれば、ゆっくりできるのだけど、相対的なものだ。たとえば、今日は、一定の時間に起きて、どこかに行く予定がまったくないのである。いまは、ヘビメタ騒音が鳴ってないわけだけど、鳴ってないから、一定の時間に起きて、どこかに行く予定がある日、水を飲んでゆっくりできるのかというと、できない。ようするに、ヘビメタ騒音期間中、ヘビメタ騒音期間後の予定のない日、ヘビメタ騒音期間後の予定のある日で、気持ちがちがう。ヘビメタ騒音期間後の予定のない日であっても、だるさや憂鬱感や破滅感があるので、ヘビメタ騒音がなかった場合……人生のなかでヘビメタ騒音がなかった場合とは、身体と精神の状態がちがうのである。けど、比較をして言えば……一定の時間に起きて、どこかに行く予定がない日だから、水を飲んで「ゆっくり?」できるという意味だ。これで、一定の時間に起きて、どこかに行く予定があるとなると、ヘビメタ騒音期間中の朝の気分になり、はげしい憂鬱感におそわれるのである。はっきり言うと、めちゃくちゃに気分が悪いけど、無理をして、外に出るということになる。今日は、一定の時間に起きなければならないから、一定の時間に起きたのではなくて、そもそも、自由な時間に起きた日だ。ヘビメタ騒音期間以降であり、一定の時間に起きなくてもいい自由があるから、だるくてしんどいけど、「ゆっくり」はできるという感じだ。これだって、人生のなかで、ヘビメタ騒音期間がなかった場合とは、ちがうはずだ。起きたときになにを感じるかというと、破滅感を感じるのである。ほんとうは、起きたくないけど、生理現象にあらがうことができないので、しんどいけど、無理やり起きて、無理やり行動しているのである。水を飲むというのも、「からっからにのどがかわいた状態」だったから、水を飲みたいと強く思って、水を飲んだのである。まあ、しんどさは、常にある。ヘビメタ騒音期間後であったとしても、しんどさは、常にある。このしんどさは、人生のなかでヘビメタ騒音期間が十年以上続いたことがない人には、ない、しんどさなのである。

*     *     *

横道にそれないけど、「楽しい楽しいといえば、楽しくなる」とか「元気だ元気だといえば元気になる」と言ってるやつが、感じるしんどさなんて、たいしたしんどさじゃない。そういうことを言えるのだから、たいしたしんどさじゃない。けど、そういうことを言う人間だって、「俺だって苦労した」「俺だって、ものすごくしんどい思いをした」と言うことはできる。言うことはできるんだよ。けど、そいつは、きちがい家族によるきちがい騒音生活を毎日毎日、ずっと、十数年にわたって、経験したわけではない。そいつは、きちがい家族によるきちがい騒音生活を毎日毎日、ずっと、十数年にわたって続くと……しょうじる……しんどさがわかってない。わかってないのに、「俺だって苦労した」「俺だって、ものすごくしんどい思いをした」と言って、おなじ程度のしんどさを経験したということにしてしまう。その「苦労した」「ものすごくしんどい思いをした」……自分が……「楽しい楽しいといえば、楽しくなる」と言っているのだから、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなる……と主張しているのだ。いやーー、ちがうでしょ。「元気だ元気だといえば元気になる」と言っているのだから、「元気だ元気だと言えば元気になる」と主張しているのだ。いやーー、ちがうでしょ。「楽しい楽しいと言えばたのしくなるような憂鬱さ」や「元気だ元気だといえば、元気になるようなしんどさ」しか経験したことがないんじゃいの?

*     *     *

たとえば、憂鬱な人はダメ人間だというような価値観があるとする。だるい人間はダメ人間だというような価値観があるとする。そういう価値観にしたがって、「俺は憂鬱にならないダメ人間じゃない人間なんだ」と思って、そういうことを言うわけなんだよな。そういう価値観にしたがって、「俺は、憂鬱になっても、楽しい楽しいといって、自分の気持ちを制御できるすごい人間なんだ」と思って、そういうことを言うわけなんだよな。だめそうな人にそういうことを言って、うかれている。俺はすごいんだと思いたい。憂鬱になっているやつは、ダメなやつだ。常にしんどいやつは、ダメなやつだという価値観が底にある。それに比べて、自分は、しんどさを感じたって、自分で「元気だ元気だ」と言って、しんどさをふっとばすことができる。だから、自分は、しんどいやつにくらべて、すぐれているのだ……と言いたい気分が……見てとれる。経験したことがちがうのに、自分のほうがすぐれているという前提で、くそ役にたたない方法を、クチにするな。相手にとってまったく役に立たないくそ方法をクチにして、有頂天になり、マウントしている。

2024年7月5日金曜日

「植物を減らしてくれ」と言ったのに、逆に、増えちゃう。

  かゆいんだよなぁ。かゆいのをどうにかしなければならない。ひっかき傷が増えていく。だいたい、庭の竹だって、モミジだって、きちがい親父が、めちゃくちゃないきおいで植えたものなのだ。だから、こういうことになるから「植物を減らしてくれ」と言ったのに、逆に、増えちゃう。

こいつらは、俺が悪いことをしたように思っている

 きちがい兄貴が、きちがい的な情熱で、悪いことをした。これがわかってないやつらが九割ぐらい、いる。こいつらは、俺が悪いことをしたように思っている。無限に努力をすることを求めてくる。

2024年7月4日木曜日

こいつらは、前提がまちがっているということを、認めない。頑固に認めない。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でできないのに、……普通の人が……「ヘビメタ騒音でできなくなることはない」というきちがい理論を言って、俺のことを……ダメ人間と認識して……せめてくるというのは……いったいなんなんだ? これ、ほんとうに頭にくる。ヘビメタ騒音で、できなくなったこともおなじだ。ヘビメタ騒音「で」できなくなったといっているだろ。これを、信じないやつらがいる。信じないやつらばっかりだ。こいつらの頭のなかでは、「ヘビメタ騒音の影響はない」ということになっているのである。「ヘビメタ騒音の影響でできなくなるということはない」ということになっているのである。こいつらの頭のなかでは、「過去は現在に影響をあたえない」ということになっているのである。こいつらの頭のなかでは、「過去は関係がない」ということになっているのである。きちがい的な思考をする。きちがい的な前提でもの言ってくる。そして、きちがい親父よりは頑固じゃないけど、頑固だ。ゆずらない。たとえば、「過去は、たしかに関係がある」ということを認めないのである。たとえば、「過去は現在に影響をあたえる」ということを認めないのである。たとえば、「ヘビメタ騒音の影響でできくなることがある」ということを認めないのである。たとえば、「ヘビメタ騒音の影響はない」ということを認めないのである。俺とおなじ部屋で、一年間ずっと暮らせば、それがまちがっているということがわかる。いやおうなくわかる。自分のからだでわかる。経験をとおしてわかる。ところが、実際には、こいつらは、俺とおなじ部屋で一年間暮らしたことがない。自分の経験としてない。だから、「ヘビメタ騒音の影響でできくなることがある」ということがわからない。

ただ単に、自分の人生には、きちがい家族のきちがい騒音がなかっただけなのに……ずっとずっと毎日毎日続く、きちがい騒音がなかっただけなのに……えらそうなことを言いやがって!! ほんとうに、頭にくる。こいつらは、前提がまちがっているということを、認めない。頑固に認めない。

なんで、こんなことにだまされてしまう人がいるんだ?

 本人の気持ちでどうにかなっていることなら、とっくにどうにかなっているんだよ。

*     *     *

世の中の人というのは、『条件』を無視しすぎている。条件を無視した妄想的な理論が正しい理論だと思っている。けど、条件を無視した妄想的な理論は正しい理論ではない。

たとえば、「長財布を使えばお金持ちになる」というような理論について考えてみよう。長財布を使うという条件しか考えてない。ほかの条件はガン無視だ。そして、「長財布を使えばお金持ちになる」という文はXをすればYになるという構文をもっている文だ。一〇〇%理論が成り立っているのである。もう、これは、ここでさんざん書いたので、省略したいけど、簡単に言っておこう。「長財布を使う」ということのなかには、「長財布を使わない」ということを含むことができないんだよ。「金持ちになる」ということのなかには「金持ちにならない」ということを含むことができないんだよ。「金持ちにならない場合だってある」という意味を含むことができないんだよ。なので、「長財布を使えば一〇〇%の確率で金持ちになる」ということと「長財布を使えばお金持ちになる」ということは、意味的に等価なんだよ。これをおさえておかなければならない。

それから、「金持ちはみんな長財布を使っている」というようなことが、 「長財布を使えばお金持ちになる」ということの根拠になっているのだけど、そういう関係は成り立たない。お金持が、みんな!長財布を使っているということだって、正しくないことだ。「長財布を使えばお金持ちになる」というようなことを言っている人は、「逆転の発想だ」と思っているかもしれないけど、この逆転の発想がそもそも、理論的に破綻している。もう、これも、努力論のところでさんざん書いたからいいか。

なんで、こんなことにだまされてしまう人がいるんだ?

*     *     *

こういうことにだまされてしまう人が、ヘビメタ騒音の影響をガン無視して、妄想的なことを言ってくる。なんなんだ? この地獄は?


もう、この体であるわけだから

 もう、この体(からだ)であるわけだから、現実的なことは、全部、きちがい兄貴がかかわっていることなんだよ。実際に、現実的なことをやるとしたら、この体(からだ)を使ってやるしかないわけだからなぁ。

ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。ヘビメタ騒音生活の影響がでかすぎる。時間経過というのはある。みんな、ぜんぜんわかってない。どれだけ影響をあたえたか、ぜんぜんわかってない。「過去は関係がない」とか言うやつは、みんな、なぐってやりたくなる。「おまえ、ほんとうに、まっくわかってないな」と言いたくなる。

どれだけのことがつみかさなったか、ぜんぜん、わかってない。わっかてないのに、くそ、言うな。 

この、ヘビメタ騒音の影響を無視するやつらといのは、いったいなんなんだ? ヘビメタ騒音について、ぼくが説明したあとに、こいつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、きちがい的なことを言ってく。妄想的なことを言ってくる。無理なことを言ってくる。「ぼくのからだでは、それは無理なんだ」ということを言ってくる。本人は、正しいことを言っているつもりなんだ。バカの壁がある。このバカの壁は、やっかいだ。本人は、妄想にしたがっ、ただしいことを言っているつもりだからな。

ぼくがヘビメタ騒音について説明したあと、ヘビメタ騒音の影響を無視して、ぼくに、妄想的なことを言ってくるやつらというのは、まったくわかってない。……まあ、これだと、わからないかもしれない。

妄想的なことを言ってくるやつらのなかには、たとえば、言霊主義者が含まれている。言霊主義者は、言霊理論がまちがっているということを認めない。そして、妄想的なことを言ってくる。「言えば、言ったことが現実化する」「言えば、言った通りになる」……これが妄想でなくてなんだ。

けど、ここに書いたようなことを説明しても、言霊主義者は、自分がまちがっているということを認めない。バカの壁だ。

言霊主義者だけではなくて、ヘビメタ騒音の影響を無視して、妄想的なことを言ってくるやつらには、自分が妄想的なことを言っているという自覚がない。バカの壁だ。説明してやっても、まるで理解しない。

 

2024年7月3日水曜日

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである

きちがい親父の話をする。ハンダゴテ事件のとき、きちがい親父は、兄貴がピンチだということを認めずに怒り狂ってたんだよ。ハンダゴテ事件のときは、きちがい親父の態度で、兄貴がピンチになった。きちがい親父が、自分がもっているハンダゴテにこだわって、新しいハンダゴテを買ってやらなかったのだけど、自分がもっているハンダゴテは、使えないということを、絶対の意地で認めなかったのである。

きちがい親父は、自分がもっているハンダゴテが使えないということを、絶対の意地で認めてやらなかったのだけど、絶対の意地で認めてやらなかったということを、認識してない。そして、絶対の意地で認めてやらなかったから、兄貴が……長男が学校で恥をかいたということを認めてやらない。

ようするに、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」で、兄貴が学校で恥をかくことになったのだけど、親父は、認めないのである。親父が、兄貴のピンチをつくったわけだけど、親父は、兄貴をピンチにしたつもりがないのである。

きちがい親父は、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」のせいで、兄貴(親父から見れば長男)がこまっているということが、まったくわかってない状態なのである。

自分が損をすることがわかっているので、きちがい的な意地で「ハンダゴテが使えない」ということを認めない。無意識的なレベルでは、新しいのを買ってやると、自分が損をするというとがわかっていた。なので、無意識的なレベルで、自分がもってきたハンダゴテが使えないということを認めるということが「できないこと」になる。

けど、きちがい親父の意識は、それがわかっってないのである。意識のレベルでは、「自分が物置から出してきたハンダゴテが使える」ということになっているのである。それはもう、決まっていることなので、ほんとうなら、どれだけ頭がわるい人でもわかる説明を聴いても、認めないのである。

そして、実際に、きちがい兄貴が学校に「そのきちがい親父が押し付けたハンダゴテ」を持って行ったら、先生にバカにされて、みんなに、わらわれたのである。恥をかいたのである。「これが使えると思っているのか」「これが使えると思っているなんて、おまえバカだ」という意味のことを、友達に言われて、兄貴は、ものすごく、くやしい思いをしたのである。

そりゃ、自分だって、「使えない」ということがわかっている。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。兄貴は自分が、学校にもって行った「親父のハンダゴテ」が使えないハンダゴテだということは、知っているのである。

だから、「知っているよ」と答えるのだけど、「じゃあなんで持ってきたんだよ」と友達に言われるのである。でっ、「親父がどうしても、認めなかったんだ」ということを友達に言うわけなんだけど、友達が「おとなの人がこんなのがわからないなんてことはおかしい」と言ったのである。

でっ、技術科の先生まで「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」ということを言ったのである。だから、恥をかいて、家にもどってきたわけ。

それで、きちがい親父に、そういうプロセスについて話して、学校で恥をかいたということを説明したのだ。しかし、きちがい親父が、一回目のときとおなじ態度ではねのけて「使える!!使える」と絶叫して、新しいハンダゴテを買ってくれないのである。

そういういじわるをする。もちろん、きちがい親父は、いじわるをしているつもりなんてないのである。親父の頭のなかでは、いつまでも「使えるハンダゴテ」なのである。

親父にとっては、「自分が物置から出してやった、うちにもともとあるハンダゴテ」は、「使えるハンダゴテ」なのである。だから、学校で恥をかいたということを説明しても、絶対に認めないのである。きちがい親父のなかでは、どこまでも、「使えるハンダゴテ」なのである。なにを言われても、判断をかえることがないのである。

無意識なレベルで、「使えないハンダゴテだ」ということを認めるのは、それこそ、ピンチになることなので、認めない。ピンチというのは、親父にとってピンチということだ。

親父にとってピンチなのは、新しいハンダゴテを買わされることなのである。使えないということを認めてしまったら、新しいハンダゴテを買ってやらなければならなくなるので、絶対に「使えない」ということを認めないのである。

でっ、これが、「いつもの」親父のやり方だ。

うちでは、ずっとこうなのである。兄貴が生まれたときから、親父の態度がずっとこうなのである。親父が、わざと、いじわるでそうしているわけではなくて、親父は、「認めない」ということで、ずっといじわるをするのである。ずっと、おなじようにやってきたのである。

だから、親父にかかわると100%確率で、こういう不愉快なことが発生してしまうのである。意識の部分は、「使えないハンダゴテだ」ということを、絶対に、認めない。

ピンチということをいったけど、きちがい親父の態度というのが、おかしいのだ。普通の人だと、殺人をして、その証拠を突き付けられたときのようなピンチなのだ。普通の人は、まあ、殺人なんてしないわけだけど、テンションの高さがちがう。

親父にとって、「ハンダゴテが使えない」ということを認めるのは、普通の人が、自分がかくしておきたい「殺人の証拠」を認めるようなことなのだ。認めてしまったら、自分が新しいハンダゴテを買ってやるために、カネを払わなければならないということに関する緊張感が、普通の人とはちがうのである。

普通の人の場合、「認めてしまったら」全財産を失って、破産しなければならないというような緊張感は、そういうことがなければないわけなんだけど、親父は、くるっているので、どんな少額なことでも、そういう考えがうかんでしまうような態度になる。ようするに、カネを出さされる……ハンダゴテのカネを出さなければならないというとは、親父にとっては、殺人をしたことを認めなければならないピンチや、全財産を失うようなことを認めなければならないようなピンチなのである。そういう緊張感がある。普通の人にとっては、ハンダゴテを買ってやることぐらいなんでもないだろう。

しかも、学校で必要なものだ。ところが、きちがい親父にとってみれば、人生の破滅を意味することなのである。絶対に負けられないことなのである。絶対に、認めてやるわけにはいかないことなのである。

だから、絶対の意地で振り払わなければならないことなのである。

全力で、否定しなければならないことなのである。無意識レベルでは、絶対に認めてはならないものなのである。無意識が、絶対に認めてはならないと、意識に命令すると、意識は、認めることができなくなってしまうのである。

これは、知能とは関係がない。「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」というのは、大人になった人なら、どんな大人の人でも、そのくらいの知能があると思ってる人の発言なのである。

もちろん、おとなでも知能が特別に低い人はいるかもしれないけど、親父は、「社会人として普通に働いているので」知能が特別に低い人ではないということになる。普通の人は、知能が低いからわからないこともあるかもしれないけど、それ以外の場合は、わかるはずだと考えてしまう。

そういう前提でものを言ってくる。

親父が精神的な病気?で、わからないという可能性を考えない。

そして、実際に、親父が社会人として暮らしているわけだし、精神病院に通院したり、入院したりしているわけではないのだから、「おかしい」とは思わないのである。ようするに、『わからない理由』として、知能と精神病ということが考えられるのだけど、そのどっちも、普通の人の頭のなかでは、否定されることなのである。

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである。普通の人は、そういう「無意識的な問題」について、考えない。特別に、精神病院に通っていなくても、特別に、精神病院に入院していなくても、へんな態度をとる人のことがわからない。

だから、親父のように、無意識に問題があって、なおかつ、うちの人にしかそういう態度をとらない人の場合は、ほかの人たちにとっては、『普通の人』であるわけだから、『普通の人だ』と思って、『普通の人だからこうする』というような枠組みで(親父のことを)考えてしまう。

だから、まあ、言ってみれば、よその人にはわからない精神病なんだよ。しかも、そういう精神病的な反応が、うちにいるときは、すべのことに影響をしてしまうのである。ようするに、一回や二回、たまたま、そういうことがあったということではないのである。型にはまった反応なんだよ。

けど、よその人は、それがわからない。「かくれ精神病」みたいな言い方が、適切なのかどうかわからないけど、「かくれ精神病」だとわからないのだ。

ほかの人には、わからないのだ。

その場合、よその人から見ると、(自分の)親父のことをそういうふうに言っている人がおかしいと見えるわけだ。

だから、「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」とか「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」とかと、言われると「こまる」のである。こまるんだよ!!! こまるの!!

ハンダゴテ事件は、親父と兄のあいだの問題だけど、親父の構造がかわらないわけだから、当然、親父と俺のあいだにもおなじような問題が発生する。


よそで、よその人にバカにされたり、せめられたりする人が、うちのなかで、「かくれ精神病の親」にやられている人なのだ。手短に言って、よその人が、これを理解してくれたことは、ない。ぼくの経験の範囲ではない。

よその人の理解というのは、ぼくからすると、いつもいつも、「気楽な理解」なのである。ぜんぜんわかってないのである。誤解したままなのである。

じゃあ、兄貴の友達が「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」と言ったとき、兄貴の友達に兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。技術科の先生が「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」と言ったとき、技術科の先生が兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。

けど、友達や先生の「無理解ぶりを発揮した言葉」で、兄貴は傷ついている。

それから、ちょっとこれは、横道にそれるのだけど、認知療法は、「たまたま起こったことだ」ということを、重視する傾向がある。

たとえば、AさんとBさんがいて、AさんはBさんの父親だとする。あるとき、プールに行ったとき、AさんがBさん背中を押して、Bさんをプールに突き落とした。Aさんとしては、ちょっとしたいたずらでやったことだ。けど、Bさんは、それから、水がこわくなって、プールに入れなくなったとする。その場合、Bさんは、たまたま起こったことを、ずっと何回も起こることだと勘違いしているというような解釈をする。

ようするに、たまたま起こったことなのに、ずっと何回も起こることだと認知してしまったということだ。だから、たまたま起こったことだということを認知して、ずっと何回も起こることだという認知をすてれば、水をおそれる行動がなくなるということになる。「ずっと起こることだ」という認知は、ゆがんでいるのである。

だから、「たまたま起こったことだ」という正しい認知を、Bさんが獲得すれば、それで、問題解決するはずなのである。けど、これは、かくれ精神病の家族にやられている場合とは、ちがうことだ。はっきり言ってしまうと、かくれ精神病の家族にやられている人の(そのことに関する)認知は、ゆがんでいない。

「一回不愉快なことが起こったから、毎回不愉快なことが起こる」と思うのは、認知のゆがみだということになる。どうしてかというと、その「一回の不愉快なこと」というのは、「たまたま起こったことであることがあきらかであり、たまたま起こったことにすぎない」からだ。

けど、かくれ精神病の人は、繰り返し、そういう反応をするのである。だから、かくれ精神病の家族にやられた人の判断はあっているのである。かくれ精神病の人の認知がゆがんでいるかどうかは、ここでは問題にしないとする。かくれ精神病の人は、無意識的な構造でそうしているのだから、繰り返しそういうことをするのである。

実際に、うちのきちがい親父はそういうことをずっとしてきた。ハンダゴテの反応というのは、いつもの、反応なんだよ。親父らしい反応なんだよ!! いかにも、親父がやりそうなことなんだよ!!

ハンダゴテという部分では、たまたま起こったことのように思えるかもしれないけど、パターンがある。親父は、ほかのいろいろなことで、ハンダゴテのように反応するのである。

自分が出したくないカネを、出さされそうになったら、いつもそういう頑固さで、相手の言い分を否定して、怒り狂って「カネを出してやらない」という反応をするのである。

たまたま起こったことじゃないのである。

かくれ精神病の家族にやられた人の判断は、あっているのである。

どういう判断かというと、「おなじようなことが起こる」というような判断だ。「おなじようなことがずっと繰り返されてきたし、おなじようなことが繰り返されるのではないか」という考えは正しい考えなのである。「おなじようなことが繰り返されるのではないか」という認知がゆがんでない認知であり、「今回のことは、またまた起こったことだから、繰り返し起こることはない」という認知がゆがんだ認知なのである。

2024年7月1日月曜日

そういう、認知的な問題がある。

 ヘビメタにやられて、常に絶体絶命の状態で暮らしてきた。

がんばりきって暮らしているのである。

なら、そのほかの選択肢があるか?

ない。

そりゃ、そうだろ。例外なく、なんだろうが、きちがい兄貴が鳴らしている状態だ。殺さないとやめさせることができない。きちがいだから、なんとも思ってない。

こっちが、きちがい兄貴の音で、ピンチになっているのに、ピンチになっているということを、認めない。兄貴が、きちがい親父のやり方で認めない。

これ、きちがいだからできることなんだよ。

普通の人だったら、できない。

もし、普通の人がやるとしたら、芝居がかっていることになる。そして、普通の人だったら、芝居をしているということを知っている。芝居をして、おいはらった……ということを知っている。自分が特別にでかい音で「おもいっきり」鳴らしたいので、「しずかにしてくれ」と言ってきている弟を「おいはらった」といこうとを、知っている。

きちがいだから、まったくわかってない状態で暮らしているのである。きちがいだから、そういうことをしているのに、そんなことはまったくしてないと思って暮らしているのである。

やっていることというのは、そういうことなんだよ。

そういうこと……というのは、自分が特別にでかい音で「おもいっきり」鳴らしたいので、「しずかにしてくれ」と言ってきている弟をおいはらって、そのまま「おもいっきり」鳴らし続けるということだ。

実際にやっている行動というのは、そういう行動でしかない。

一日のなかで、自分が家に帰ってきて、ヘビメタを鳴らせる状態なら、おとうとのことなんてかまわずに、「おもいっきり」でかい音で鳴らすのである。

それは、もう、決まっているので、どれだけ言われたって、その通りにするということになっている。ちょっとでも、しずかにしてやろうなんて思わない。「一〇分間はしずかにしてやろう」なんて思わない。「一分間はしずかにしてやろう」なんて思わない。

「特別に、重要なことをやるから、一〇分間だけでもいいから、しずかにしてくれ」と弟が、言ってきたって、「なんだ!!そんなの!!」と怒り狂った気持ちになって、たとえ一〇分間だろうが、絶対に静かにしてやらないのである。

でっ、やっていることは、こういうことなのだけど、本人は、それが、特別に悪いことだと思ってない。まったく悪いことだと思ってない。本人にとっては、普通のことなんだよ。「そうして、あたりまえ」のことなんだよ。

特に、記憶しないことなのである。

実際の行動は、どれだけなにを言われても、「やりきる」ということなのだけど、常に、やりきったことになってないのである。これが、こまるんだよ。本人は、まったくつもりがないわけ。

そして、相手がこまっているということは、ガン無視するので、相手がこまっているということがわかってない状態でずっと、すごしているわけ。言われたときも、相手がこまっているということは、認めないし、言われたあと、「思いっきり」鳴らしたって、相手が、こまるとは思ってないわけ。

相手がこまっているということは、一〇〇%頭に浮かばないし、相手がこまっているのに、自分がやりきったということは、一〇〇%、頭に残らないんだよ。

残らないので、「やってないこと」になっている。

認識としては、「やってないこと」とまったくおなじなのである。

けど、実際には、きちがい的な意地で、どれだけなにを言われても、やったのである。やりきったのである。

だから、自分が夢中?になって、相手が言っていることを無視してやっている時間のことは、「ない」ことになっている。

自分の生活のなかで、きちがいヘビメタを、思いっきりでかい音で鳴らす時間というのは、相当に長い時間なのだよ。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。きちがい兄貴にとって、ヘビメタを鳴らす時間は、長い時間なんだよ。

けど、その長い時間、きちがい的な意地で、ゆずらないでやっていることが、やってないことになっている。同時に、やってないことになっているのだ。

そういう主観的な問題がある。

そういう、認知的な問題がある。


この世が地獄だった。この世以上の、地獄、ないわぁ

 この世が地獄だった。この世以上の、地獄、ないわぁ。

どうも、俺とおかあさんは同じ系列で、親父と兄貴は別の、同じ系列なんだよな。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。