2020年12月31日木曜日

兄貴は、ぜんぶやりきるけど、ぜんぜんわかってないんだよね

 あーーああああ、ヘビメタでくるしい。きちがい兄貴は、ぜんぶやりきるけど、ぜんぜんわかってないんだよね。はんだごて事件のときのおやじとおなじなんだよね。自分がやっていることで、相手がこまっているということは、認知しない。「自分」が文句を言われたということでおこっておこって、おしまい。自分が認めたくないことは、発狂して認めない。認めなかったら、ないのとおなじなんだよ。どれだけやったって、やってないのとおなじなんだよ。だから、本人は、まるでやってないつもりでいられる。もちろん、ぜんぶの時間やりきる。全部の時間(自分はやりきる)という成果は、怒り狂って、手に入れている。あとは、ほんとうに「なにもやってない」ときとおなじなんだよ。相手が言ってきたということもわすれてしまう。なにも言われなかったという前提、認知でやりきる。だから、相手に対して申し訳がないという気持ちが生じない。相手がいやがっていることをやったという気持ちがなぃ。自分意地をお通して、自分の気持ちを優先して、なにがなんだろうが、自分がやりたいようにやりきったのに、「やりきった」という気持ちがない。まったくなにもしてないつもりのままなのである。まったくなにもしないつもりで、やりきる。やり続ける。一晩寝れば、一切合切残ってない状態になる。まあ、やり終えた時点で、おぼえてないのだし、言われたとたんに、おぼえてないのだけど……。そして、きちがい兄貴は、「たとえば」はんだごて事件で、そういう態度は腹が立つということを経験的に知っているのに、自分がやる番になったら、おやじのまねをする。まったくおやじとおなじ態度になる。まったくおやじとおなじ行動をする。まったくおやじとおなじ認知になってしまう。最初から関係が切れているのだけど、相手が「やめてくれ」としつこくしつこく言ってきたときですら、まったく残ってないんだよ。切れていて、「やってないこと」になっている。「言われなかった」ことになっている。だから、相手がそのことで自分を恨んでいるとかそういうことが、まったくわかってない。わかってないとどうなるかというと「おまえが言うか!!!!」ということを、言いやがるんだよ。これも、おやじと兄貴でおなじだから。「どの口でそういうことを言っているのか」と(相手が)思うようなことを言う。で、ここがきちがいなんだけど、言ったあとですら、相手が(何万回も)やめてくれと言ったことをやって、平気なんだよ。

2020年12月30日水曜日

制御できる部分はあるように思える。しかし、それは部分で、すべてではない

 思ったことを書いちゃうけど、つまらないーー。ほんとう、つまらない。

ぼくはもう、普通の人じゃないから、普通の楽しみはない。ほんとうに、つかれた。おやじ騒動とネズミ騒動で最後の力がなくなった感じがする。そりゃ、なるべく楽しく感じでくらしたいけど、そういう気持ちは、制御できるものじゃない。これに関しても、「制御できる」と言い張る人たちがいる。その人たちは、今現在、中立的な立場にいるのである。だから「制御できる」と感じることができる。思い上がり、傲慢だと思うけど、今現在、中立的な立場にいる以上、ぼくが言っていることはわからないだろう。赤ちゃんに、老人が、老人の苦しさについて説明しても、わからないでしょ。赤ちゃんはわからない。そんなものさ。

中立的な人は、傲慢で無垢なので、俺の言っていることがわからない。それはそれでいい。けど、「正しさ」に関しては、ゆずれない。書き換えらる感情もあるけど書き換えられない感情もある。ようするに、制御できるような流れもあるけど、制御できない流れもある。だいたい、本人が、意識的に思っている「感情」が感情なのだから、たしかに、制御できる部分はあるように思える。しかし、それは部分で、すべてではない。すべての感情が制御できるかというと、ちがう。

 

 

2020年12月29日火曜日

きちがい兄貴が、きちがいおやじの顔つきで、二階にあがって行っちゃう。

 あのときの、あれ、ない。きちがい兄貴が、きちがいおやじの顔つきで、二階にあがって行っちゃう。あのときの、あれ、ない。俺が、試験前に「試験だからやめてくれ」とさんざん言っているのに、おやじの顔つきになって、二階にあがって、やっちゃうんだよな。きちがい兄貴が鳴らすとなったら、本人がヘビメタ軟調になるほど、でかい音で鳴らすんだよ。本人が、最大限「譲ってやったつもりの音」も同じ。だから、ほんとうは、静かになってないのだけど、きちがいおやじの譲歩とおなじで、本人が「ゆずってやった」と思ったら、どんだけ、ドケチぶりを発揮する、まったく意味がない「譲歩」でも、「ゆずってやった」「ゆずってやった」と思ってしまうわけ。そのきちがい兄貴が「ゆずってやった」「ゆずってやった」と思っている日だって、十二時間鳴らせるなら、十二時間、絶対の意地で鳴らするんだよ。きちがい兄貴が好きで鳴らしている音なのだから、下げることができないということはない。けど、きちがいのなかでは、下げることができないことなのだ。下げたら、死んでしまうというような意地で下げない。下げると言っても、〇・一デシベルだけ下げてやるということになる。九十デシベルで鳴らしているのであれば、八十九・九デシベルにしかならない。八十九・九デシベルは、爆音だ。壁のすぐ後ろに、きちがい兄貴のスピーカーがある。壁の表面がスピーカーの表面みたいにばしばし振動して鳴っているような状態だ。壁の表面って、俺の部屋を構成している壁の表面ね。

 

2020年12月28日月曜日

「やったってやってない」が常に成り立っている

 ヘビメタ騒音でつらい。

あの女の子となかよくしたかった。

ほんとうに、きちがい兄貴の脳みそのことがほかの人にはわからない。ほかの人にはきちがい兄貴の態度がわからない。きちがい兄貴も自覚してないけど、ほんとうにきちがいおやじとおなじ。「やったってやってない」が常に成り立っている。ほんとうは、こだわりつくして、絶対の意地で「でかい音で鳴らしている」のに「でかい音で鳴らしている」というつもりがなまったくない。認知・認識がまったくない。自覚がない。で、そういうふうに、きちがい兄貴がやりたいだけやってしまう「空間」が一度成り立つと、生活全部が、だめになる。あっちから、好みの女の子が告白してきたって、ヘビメタノイズでダメなんだよ。なんか、ヘビメタで中身がボロボロなのがばれて、相手が去って行ってしまうような感じがする。夕方だって、暗くなったばかりの夜だって、深夜だって、ヘビメタでダメなんだよ。「ヘビメタでダメだ」というのが、ほかの人には、わからない。これも、絶対わからないというレベルでわからないんだよな。そういうものだということは、ダイヤの反応でわかる。あれだけ、自分のことのように心配してくれたのに……。ほんとうに、ずっと俺と同じ部屋でくらしている人じゃないとわからない。そういう人がいなかったわけだから、俺以外のすべての人類が、ぼくの事情についてはわからないということになる。ほんとうに、やられたわけじゃないからさ。想像で補うしかないわけだから。そして、想像で補う場合は、事実とはまったくちがってしまうのである。

 

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いろいろな人から誤解を受けてきた。こんな人生ない。出版社社長のまるまるさんだって……。ヘビメタ騒音について誤解をしている。あとは、おなじことなんだけど、「自己紹介」ができなかった。自分はなになにだと言えない人間はあんまり信用されない。だから、ヘビメタ騒音で通勤・通学ができなくなったと言っているだろ。これ、兄貴の態度全般がわかってない人には、わからないことなんだよな。「そんなに影響を与えることであるはずがない」みたいな感じ方がある。 「騒音なんてものがそんなに影響を……」「家族の騒音なんてものが……」という考え方がある。「そんなの、静かにしてって言えばいいでしょ」というノリがある。軽い問題だと思ってしまうんだよな。そんなものじゃないのに。

ヘビメタ騒音歴九年目からなにもかもが、うまくいかないよ。「なにもかも」というのは、ヘビメタをやられてない人から見れば、イ・ラショナルなんだけど、俺のこころのなかでは、かならずしも、イ・ラショナルとは言えない。ほんとうに「なにもかも」と言いたくなるほど、広範な範囲が「おかされる」。そりゃ、やられたら、やられた体で生きているわけだから、「やられた」ということの影響下にある。その場合、やられたということの影響下にある時間がすぎていくわけだから、「なにもかも」と言いたくなる。「うまくいったこと」というのは、純粋に「うまくいったこと」ではなくて、「だめになったなかでうまくいったこと」なんだよ。それは、うまくいったことなのかというと、だめになったことなんじゃないかということだ。ともかく、他人が考えているよりも、範囲が広大だ。細かいことも、案外影響を受けている。そういうやりとりや結果が生じてしまうことに、影響を与えている。きちがい兄貴が何年間も毎日、きちがいヘビメタを鳴らしたということが、そういうやりとりや結果が生じてしまうことに、影響を与えている。

けど、たとえば、「いきているじゃないか」というようなことを「うまくいったこと」としてカウントするなら、たしかに、「なにもかも」「うまくいかなかった」というのは、イ・ラショナルな思考になる。しかし、しかし、しかし……ほんとうにそうなのだろうか?

いまですら、悪い影響を与えているというのは、事実だ。それは、「すべてがうまくいなかったわけじゃない。実際、俺は生きている」ということでは、くつがえすことができないことだ。じゃあ、言い方をかえよう。きちがい兄貴が、こだわりつくしてヘビメタ騒音を鳴らしたということが、俺の人生において生じた細かいことにまで影響を与えている。細部まで、ヘビメタ騒音の影響を受けている。 なにもかも、という言い方は、たしかに、誤解がしょうじる。すべてに影響を与えたというべきか。だって、それ以降のすべてに影響を与えている。体が影響を受けている。そして、影響を受けた履歴が出来上がる。影響を受けた履歴は影響を受けない履歴なのか? 影響を受けた履歴でしょ。

 たとえば、相手がヘビメタ騒音の影響を軽視した場合、あるいは、無視した場合、相手に対してなんらかの感情が生じるんだよ。そうなると、その感情にしたがった、行為が誘発される。無意識的にしろ、意識的にしろ。無意識的なことに関しては、ぼくは、この場合……感知しない。だって、本人の無意識的なことなんて、わかるわけがないだろ。けど、影響を受けているのではないかというような予想はつく。

まあ、たしかに、「成功したこと」はある。しかし、それがまた、次のいやなことを生み出すのである。その場合、次のいやなことは、ヘビメタ騒音の影響をまったく受けてないことかというとそうじゃないのである。「成功したこと」は、じつは、ヘビメタ騒音が生じたから、「あなうめ」的に必要になったことなのである。めんどうなことなのである。ある時点で失敗したので、その失敗を「うめる」ためにやったことで、失敗の穴をうめたところで、失敗のほうにものごとが動いていることにはかわりがない。

ともかく、鳴りやまなかったので、くるしい。最初の日、鳴りやまなければならなかった。最初の日鳴りやんでくれたら、失敗の穴埋めをする必要もないんだよ。成功しているから。

2020年12月26日土曜日

自分の体験をもとに考えるしかないことというのが……人間という生物にはある


そりゃ、本人だって、「そういうこと」がなくて、いろいろなことができる自分のほうがよいのである。けど、できなくなってしまった。これは、努力しないからできないというのとはちがう。ちがう……。しかし、わかってないんだよな。どれだけ、努力して「できない状態」になったのかわかってない。けど、実際に「そういうこと」を体験してない人は、体験してないわけだから、頭で「そういうこと」があったんだなと思っても、実際のところは、わからないという状態のままだ。そうなると、他人事でもあるし、「努力しなかった」場合と「努力したからこそできない状態になった」場合のちがいが、わからない。区別がつかない。どっちにしろ、「できない状態」なのだから「できるようにすればいいじゃないか」と思うようになる。できるようにするには、やる気を出して努力すればいいということになってしまう……その人のなかでは、そういうことでしかないのである。経験したことがないから……。
自分の体験をもとに考えるしかないことというのが……人間という生物にはある。だから、わからない人はわからない。わからない人が、助言をする場合、「そういうこと」が実際にあったということと、「そういうことが実際にあったということが、及ぼしている影響」を無視することになる。「そんなの過去の影響なんてない」という前提で、ものを言う。けど、これは、正しいのだろうか?
 

2020年12月23日水曜日

自己責任論について


もう、これは、前に書いたので、単純にまとめておくだけにする。
自己責任論には三種類の自己責任論がある。

ひとつ目は、自己責任の範囲を自分自身に限定したものだ。『すべては自己責任』と言っている場合は、もちろん、どんなことであれ、自分の身に生じたことは、自分の責任だということになる。
これを、(1)対象を自分に限った自己責任ということにしよう。

ふたつ目は、自己責任の範囲を、他者に限定したものだ。『すべて自己責任』と言っている場合は、もちろん、どんなことであれ、その他者の責任だというとになる。その他者の自己責任なのである。
これを、(2)他者に限った自己責任論ということにしよう。

みっつ目は、自己責任の範囲を、自分と他者の両方に拡張したものだ。しかし、これは、(2)の自己責任論者が言い逃れのために用意しているような自己責任論なので、実質的には、(2)の自己責任論とおなじだ。なので、基本的には(1)と(2)の違いについて説明することにする。

(1)の自己責任論者の自己責任は、いちおう、すじが通っている。通りすぎていると言っても過言ではない。

 

もしかりに、AさんとBさんがいたとする。Aさんが(1)の自己責任論者だとする。Bさんは、いろいろなことに不満を抱えている人だとする。

ある日、Aさんが、自分の会社に行くためにいつも通る道を通っていたとする。そのとき、Bさんがナイフを持ってAさんに切りかかったとする。このような場合、普通は、Bさんの行為によって、Aさんが傷ついたと解釈するだろう。

けど、Aさんはちがう。Aさんは、Bさんの責任を追及せず、自分の責任だと思うのである。これが、本来の意味での「自己責任」だ。その時間にその通りを歩いていた自分に責任がある。Bさんの行動に気がつかずに、刺されてしまった自分に責任がある……とAさんは考えるのだ。

自分の身に生じたことは、すべて、自己責任なので、自己責任論者のAさんはそのように考えるのである。

(2)の自己責任論者の自己責任は、すじが通ってない。

かりに、(2)の自己責任論者をCさんとする。その場合、Cさんは、刺したほうのBさんの責任は追及せず、刺されたAさんの責任を追及するのである。

Cさんは、まったく自分に関係がない、Aさんの責任を追及する。この感覚はかなりおかしいと私は思うが、いまでは、(2)の自己責任論がまかり通っているので、Cさんの「もののみかた」はおかしくないと思う人が多数いると思われる。

ちょっと話をかえて、CさんがBさんに刺されたとする。この場合、Cさんは、自分がBさんに刺されたのは自己責任だと思うことができるだろうか?

おそらく、Cさんは、自分を刺したBさんの責任を追及するのではないだろうか。

まあ、それは、実際にCさんが刺されてみないとわからないけど、まったく無関係なAさんの責任を追及するという態度から考えて、自分に被害を及ぼしたBさんの責任を追及しないとは考えにくい。

自分になんの被害も及ぼしてないAさんの責任を追及する人が、自分に被害を及ぼすことになったBさんの責任を追及しないというのは、なにか不自然だと思われるのである。

まあ、刺されたとたんに、「このやろう、ふざけんなぁ」と思うだろう……Cさんは。Cさんはそういう「性格」なので、刺されたとき「すべては、自己責任だ」と思わないと思う。

Cさんは、Aさんの責任を追及しているという意味で、過剰に人のせいにしがちな人なのである。Cさんは、他人をせめやすい人なのである。
Aさんに対して自己責任だと言うのは、ある種、いじめの延長なのではないかと思う。Cさんは、自己責任論というかくれみのにかくれて、Aさんを攻撃してやりたいのである。Cさんは、自分では気がつかないかもしれないけど、人をいじめてよろこぶような性格傾向があると思っていい。

もし、Cさんが会社にいるなら、上の者にはごまをすって、下の者には圧力をかける性格だろうと思う。ようするに、強いものにはへつらい、弱いものには、威張る性格なのではないかと思う。

Cさんは、(1)のタイプの自己責任論者とは違って、人をせめることに快感を感じるタイプだと思う。Cさんのような人は他人にケチをつけがちだと思う。そういう性格傾向が、実際には自分に関係がないAさんをせめるということに、あらわれている。

実際には自分に関係がないAさんをせめるのは、「弱っている人がいたら」攻撃してやろうと思っている性格のあらわれだ。「弱っている人がいたら」攻撃してやろうと思っている人が、本来の意味での自己責任論者のように謙虚な人だとは思えない。

「すべては自己責任」という言葉が同じでも、その言葉が向けられる対象が、自分なのか? 他人なのか? で言っていること全体が真逆になってしまうのである。

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2020年12月22日火曜日

けど、ちがうんだよな。まったくちがう。ちがいすぎて、言いようがない。ちがうということだって、やられてない人は、わからないだろう。

 ヘビメタ騒音で人生がない。鳴ってた。鳴ってたんだよな。ものすごい音で鳴ってたの!!

あー、いま、午後三時だけど、午後三時はヘビメタ騒音の雰囲気がある。もう、十二月二十二日だから、「早帰り」だったら、鳴っている。この雰囲気は、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。

みんな、どれだけひどい音で鳴っていたか、わかってない。佐藤とかユキオとかぜんぜんわかってない。あとは、そのひどい音でどれだけ生活が乱れるかわかってない。あとは、そのひどい音で、どれだけ、人間関係にひびが入るかわかってない。あとは、そのひどい音で、どれだけ勉強ができなくなるかわかってない。ほんとうに、きちがいヘビメタが鳴ってない状態で、まったく勉強をしないのよりも、ずっとマイナスなんだよ。これがわかってない。そして、そういうことが学生時代積み重なれば、どういうことになるか、わかってない。佐藤とかユキオとか、俺を学歴でバカにしたつもりはないのだろうけど、認知そのものとしてバカにしている。ほんとう、きちがいヘビメタなしで、俺が大学の教授だったら、あんな態度はとらない。あたりまえだ」と思うかもしれないけど、ヘビメタ騒音がなければ、ありえた現実だ。 佐藤とかユキオとか、俺を職歴でバカにしたつもりはあるのだろうけど、学歴のほうはないつもりだろう。けど、そうなんだよ。学生時代ずっと、勉強することができない……ということが、どれだけ、人の評価に影響を与えるかわからない。人の人生全体に影響を与えるかわからない。これは、無職になってからはじまったことではなくて、もう、小学生のときからはじまっている。これがわからないんだよな。学生なのに、家で勉強することができないということが、どれだけ影響を与えるかわかってない。佐藤やユキオたちは、「どれだけヘビメタが鳴ってたって、勉強ぐらいできるだろ」と思っている。経験したことがないからわからない。だいたい、勉強することができないというだけではなくて、ほんとうに、マイナスなのである。これもわからないだろうな。どういう体の状態になるか、ほんとうにそういう一日を経験したことがないからわからない。それが、五〇〇〇日続いたらどういうことになるのか、まったくわかってない。そんな、「鳴り終わったら関係がない」なんて言えるようなものじゃないのである。一日のなかで、どれだけ、ヘビメタ騒音で体力を消費するかわかってない。あの、苦痛はない。あの疲れ方はない。ほんとうにまったく経験したことがないから、どういう状態になるのかわかってない。そういうやつらが、勝手にヘビメタ騒音の影響を無視して、頭がおかしいことじゃなくて……もっともらしいことを言いやがる。説教しやがる。きちがいヘビメタにやられて、ズタボロになったので、説教されるポジションに落ちてしまったのである。僕の日常というのは、死に物狂いの日常なんだぞ。ヘビメタ騒音にやられながらも、死に物狂いで頑張ってきた日常なんだぞ。おまえ、ほんとうに、どれだけ!! ダイヤも、くそ。みんな、くそ。きちがいヘビメタ影響を無視するやつらは、みんなくそ!!!

俺は死に物狂いで、やっきたんだよ。俺がもうできないと言ったら、できないんだよ!!

くそ、こいつら! 自分はやられてないと思って、やられてない状態で、あほなことを言ってくる。無理なことを言ってくる。ヘビメタの影響を無視すれば、そりゃ、「むりじゃないことに」見えるだろう。けど、むりなんだよ!!!  本来こだわる必要がないことにこだわっているということではないんだよ。これも、認知療法家のくそ思想。まちがった考え方。ゆがみきった認知・認識。こういう妄想で、人を判断するな!!!

限界を乗り越えて常に頑張ってきた俺に、おまえらは、なにを言ったのか? 俺が生きているだけでも、奇跡なんだぞ。俺が、小学校、中学校、高校に通いきったことだけでも奇跡なんだぞ。おまえらだったら、小学生の時点で、挫折して、引きこもりになっている。引きこもりになったっとしても、きちがい兄貴は、まったく容赦なく、鳴らし続けるからな!! で、きちがい兄貴が学校に行っている間は、鳴ってないから、その時間に勉強ができると思うだろ!! ところが、それは、うまくいかない。 俺もやってみないとわからなかったけど、できない。まあ、俺が実際にそれをしたのは、すでに八年間以上、ヘビメタを毎日やられたあとなんだけど……。6か月やられた状態で、不登校になり、家で勉強するようにしたとしても、むだだ。これ、考えたんだよな。経験がなかった場合の俺も、ほかの人も、まったくわかってない。想像で、「ヘビメタ騒音」を考えて、想像で「ヘビメタ騒音の影響」を考えるわけだ。けど、「ヘビメタ騒音の影響」に関しては、経験してなければ、どれだけ考えたってわからない。ほんとうに、想像するのと実際にやられるのとでは、おおちがい。ぜんぜんちがう。まったくの別物。だから、そういうことでも、俺が「やられてない人」から、普通に!!誤解を受ける。やられてない人から、普通に誤解される。それでまた、日本という「いれもの」が、すべて、たたるようにできている。ヘビメタ騒音にたたられたやつに、たたるようにできている。これが、ものすごい、相乗効果がある。佐藤やユキオの反応だって、「日本といういれもの」の一部なんだよ。主婦の反応だって、社長の反応だって、「日本といういれもの」の一部なんだよ。実際に気ちがいヘビメタ騒音にやられた人の日常感覚は、実際にはきちがいヘビメタ騒音にやられたなかった人には、死んでもわからない。基本的に、過小評価したり、無視する。ないものとして、あつかってしまう。それは、やられてない人の感覚として当然だ。そして、やられてない以上わからないのだから……俺がどれだけ、言語で説明しても……やられてない以上わからないのだから……そういう感覚が続く。俺の話を聞いた後も、そういう感覚が続く。だから、佐藤やユキオみたいに、俺を、なめてかかってくる。説教をしはじめる。ダイヤもおなじなんだよな。

「もうできない」と言っているだろ。

きちがい兄貴は、俺とダイヤの仲を裂こうとしてヘビメタを鳴らしていたわけではない。けど、ごく自然に、そうなる。そういうふうに、なる。時間の経過とともに、そういう出来事が発生してしまう。そりゃ、ヘビメタ騒音がはじまってから、一年目と、ヘビメタ騒音がはじまってから10年目の、ダイヤの態度はちがう。こっちの状態だってちがうのだけど……。ちがうんだよ。1年目と10年目では、こっちの体の状態がちがう。よその人……経験してない人には、わからない。10年目にアパートを借りて、ヘビメタ騒音にさらされる時間がすくなくなれば、「過去の話だ」と思ってしまう。ヘビメタ騒音の影響がなくなったのだから、ヘビメタ騒音の影響はないのだろうと思ってしまう。 言い換えると、ヘビメタ騒音の時間が短くなったのだから、そのぶんだけ、負担が軽くなったはずだと考えてしまう。けど、ちがうんだよな。まったくちがう。ちがいすぎて、言いようがない。ちがうということだって、やられてない人は、わからないだろう。納得しないだろう。けど、ちがうんだよ。


もう、まるまるまる。俺が、どれだけ説明したって、やられてないひとにわからないのだから、説明したってむだだということになる。全部、むだ。

ヘビメタ騒音つかれというのは、ほかのつかれとちがう。まったくちがう。これも、ぼく以外の人はわからないわけだろ。どれだけのハンディになるか。ほんとうに、俺以外の人間が敵になる。きちがい兄貴はそれを目指したわけではないけど、あの態度でやればそうなる。きちがい兄貴の態度は、普通の人には、理解できない。想定外の態度だ。しかも、きちがいおやじとおなじで、本人が一番わかってない。きちがい的な意地でやる人間が、きちがい的な意地で否定する。きちがい的なこだわりやる人間が、まったくこだわってないような認知でいる。

2020年12月20日日曜日

いじめられて、引きこもりになり、結果的に、生活保護をもらうようになった人は、なにも悪いことをしてない


たとえば、いじめられて、引きこもりになり、働けなくなった人がいたとする。この場合、いじめた人間が悪い。しかし、いじめた人間が責任を取らないのであれば、いじめた人間が責任を取らないことを放置した社会が悪い。なので、社会が、責任を取るべきだ。
なので、いじめられて、引きこもりになり、結果的に、生活保護をもらうようになった人は、なにも悪いことをしてない。生活保護を請求して、当然。社会は、生活保護費を負担して当然。

いじめられて、引きこもりになり、生活保護を受け取るようになった人のことを悪く言う人たちがいるけど、こういう人たちのほうが、悪い。なぜなら、彼らは、いじめられたほうの責任を追及して、いじめたほうの責任を追及しないからだ。これは、不当に被害者の責任を追及していることになる。なので、そういう悪いことを言う人たちのことはまったく気しないで、生活保護を受けるということが正しい。

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いじめの程度はじつは問題だ。だから、ほんとうは、いじめられた人が、生活保護を請求するのは、当然だというのは、場合による。しかし、もし、いじめと言われているものが、犯罪なのであれば、当然、犯罪を放置した社会に責任がある。なので、そういう場合は、社会が責任をとって、生活保護を支給するべき。 

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まあ、生きていればいいというものでもないけど、社会に対する責任追及をして、生きようとするのは、少なくても間違いじゃない。なので、いじめられて、結果的に引きこもりになり、引きこもりになった結果、たいへん働きにくい状態になった人は、生活保護を請求するべきである。

いじめられた人の自己責任だと、いじめられた人を悪く言っている人は、自分が悪いことをしているということに気がついてない。しかし、責任がない人に対して、責任を追及するのは間違っている。なので、いじめられたことがきっかけになって、生活ができなくなった人は、自己責任論者の言うことを、気にするべきではない。

だいたい、こういう自己責任論者は、たいていの場合「自分の問題と他人の問題を切り分けるべきだ」と考えるようなアドラー心理学に親和的だ。なので、自分の問題と他人の問題を切り分けて、自己責任論者が言うことを無視するのが正しい態度だ。

言い換える必要があるか? ともかく、自己責任論者は、過剰に、被害者の責任を追及している。なので、被害者は、自己責任論者の言うことを、気にする必要がない。自己責任論者は、自分に関係がないことに口出しをしているにすぎない。

ぼくも、自分に関係がないことに口出しをしているけど、それは、ぼくが自己責任論者ではないからである。ぼくの場合は、矛盾がない。

しかし、もし、自己責任論者が、普段は、他人の問題と自分の問題を切り分けているのであれば、自己責任論者は、矛盾した行動をしていることになるので、そういう行動をつつしむべきである。

だいたい、すべては自分の責任であるという意味で、自己責任論を語っている人なのであれば、生活保護という制度を維持している社会に住んでいるのは、(その人の)自己責任なのである。

さらに、自己責任という理論を展開するのであれば、違法な生活保護受給者がいるということに関しても、「その人の責任」なのである。「その人の責任」というのは、この場合、「その自己責任論者の責任」だということだ。「すべては自己責任」なのだから、違法な生活保護受給者がいる社会に住んでいるということに関しても、「すべてが、自己責任」だと言っている人の責任だ。

もし、不正受給者がいることで、本人(自己責任論者)がなんらかの被害をこうむるというのであれば、それも、本人(自己責任論者)の責任である。他人がなにかをすることによって、本人が「損」をするにしても、それは、本人(自己責任論者)の責任だ。なぜなら、「すべては自分の責任」だからだ。他人がやることによって、自分が損をしたとしても、それは、自分の責任なのである。

もし、そうでなければ、すべては自己責任という意味での自己責任論が成り立たないことになる。もちろん、本人の範囲においてはという条件がつく。この場合の「本人」というのは、その自己責任論者のことを意味している。

 


2020年12月19日土曜日

すべて、おかしい。 すべて、まちがっている。

 すべて、おかしい。

すべて、まちがっている。 



この、もやもや、どうすんだよ。

もやもや~~もやもや~~~

さっき、買い物に行ってきた。いろいろと買ってきた。

しかし、ぼくのこころは晴れない。晴れないのだぁ。

もっと、気楽にいろいろとできればいいのに、めちゃくちゃに、「きおも」なんだよ。そして、あのシーンがちらつく。あんなの、ない。あんなの、ない。どうして、俺が、きちがい兄貴にやられて、誤解をされ続けなければならないのか? もう、きちがいおやじだけでめいいっぱいなのに、きちがい兄貴が、つみかさなる。ほかの人は、きちがい兄貴やきちがいおやじの「性格」がわかってないけど、それだけじゃないんだよ。わかってないのは……。実際に、ヘビメタ騒音が続いた場合、どういうことになるのか、まったくわかってない。俺が、教師とか教授とか、人に説明できる職業についていたら……あの当時ということだけど……ぜんぜんちがうんだよな。ほかの人は、必然性がわからない。働けなくなるという必然性がわからない。眠れなくなるという必然性がわからない。勉強ができなくなるという必然性がわからない。これが、……俺は小学生のとき、ほんとうに勉強してなかったわけ。けど、理科では100点をとれていたわけ。けど、きちがいヘビメタで「本を読む」こともできなくなって、それが終わった。ほんとうに、勉強も、本も、ヘビメタ騒音なんだよ。ヘビメタ騒音で、勉強ができなくなるし、本も読めなくなる。勉強をしなくても成績がいい人というのは、本を読んでいる。まあ、いまは、動画である場合もあるけど……。貧乏で、おやじの性格がああいう性格なのであれば、学歴であがっていくしかなかった。けど、きちがい兄貴が、どの細かい時間も、きちがいヘビメタをバカでかい音で鳴らしていた。これが、ほんとうにおやじとおなじで、全自動なんだよな。ぜーーったいに、殺さないとやめさせることができない。全自動でやったことは……きちがい的な意地で、どれだけ反対されても、全自動でやったことは……全自動でやったことになってないのである。やっているそばから、やっているつもりがなくなる。あるいは、最初からない。こういう態度がわからない……。ほんとうに、静かしてくれてないのに……静かにしてやったつもりがたっぷりあるという態度……。こういう態度が、どれだけむかつく態度かほかの人はわかってない。「騒音が鳴ってた」と言えば「騒音が鳴っていたんだな」ということはわかるけど、実際に、俺の部屋でくらしてないから、それが、学校生活にどういう影響を与えるか、自分の経験を通してわかってない。どういう、からだになるか、ぜんぜんわかってない。だから、「昔のことは関係がない」とか「どれだけ鳴ってたって、宿題ぐらいできる」といいやがる。ほんとうに、俺がどれだけ、ほかの人から「やられて」きたか? こんな不公平、ない。あいつらも、俺と同じように、自分がきらいな音が、ものすごい音で鳴っている生活をするべきだ。それで、俺よりも、勉強ができるなら、尊敬する。けど、俺の部屋に住んでないわけだから……。きちがいヘビメタ騒音と言っているけど、もちろん、ヘビメタが好きな人にとっては騒音じゃない……。自分のヘビメタとほかの人のヘビメタのちがいはあるかもしれないけど……。けど、ヘビメタが好きな人だって苦手な音があるはずだ。苦手なリズムがあるはずだ。それが鳴っていると……でかい音で鳴っていると……どうしても、腹が立つという音があるはずだ。そういう音が、あのでかい音でずっと、鳴時間も何時間も鳴っていて、生活がめちゃくちゃにならないなんてことはないんだよ。人から誤解を受けないですむということもないんだよ。遅刻をしただけで、どれだけ、文句を言われるか? まあ、班の連帯責任だったからな……。



墓の赤い文字

 実は、俺は、もうすでに、墓に名前がきざまれている。これが、いやだったんだよな。おやじの葬式を済ませたあと、霊園に行くわけだけど、そこで、自分の名前を見てしまった。もちろん、名前には赤い顔料?が塗られていて、赤い名前になっている。この赤い名前が、きもちわるくてさぁ。おやじとお母さんの墓のところに行ったときに、「こんなのは絶対に嫌だ」と言ったんだよ。おやじと行動するのは、基本的に嫌なことなんだけど、お母さんのことであれば、一緒に行動するしかないときは、一緒に行動した。お母さんの骨が入っているのは、共同墓というやつで、何十人かが一緒の墓に入っている。これは、まあ、ツボを保管するような部屋と名前が書いてある石のプレートが一体化したものだ。部屋と書いたけど、ツボがおいてある棚があるだけで、もちろん、他のスペースはない。ただ、中に入って歩けるので部屋と書いておいた。納骨スペースとは反対側に、花やお菓子などをおく石がある。まあ、それが、墓石だ。そして、収納スペースの後ろ側に石のプレートがついてる。後ろ側というのは、また、後ろ側の壁ということだ。外壁の部分に、石のプレートがついていて、そこに、名前がきざまれているのである。

で、 お母さんのことでは、おやじと行動をもとにするしかないと思っていた俺は、おやじとお母さんの墓に行ったことが、何回かある。そのとき、墓のプレートに赤い字で「書いて」ある名前があったので、「これは、なんだろう」ということを親父に言ったことがある。で、おやじは、「この人たちはまだ生きている人たちで、書いておいて、死んだら、赤い部分をとるのだ」ということを言った。で、「俺はそんなのは絶対に嫌だな」と俺は言った。俺は、はっきりと言ったんだよ。だから、知らないわけじゃないのである。その時はまだ、脳こうそくで倒れる前で、頭もしっかりしていた。おやじの頭はおかしいけど、まだ、脳こうそくによる障害はなかった。認知症もその時点ではなかった。ちゃんと、子供が言ったことを理解できるはずなのである。日本が理解できるのだから、ちゃんと、子供が「赤い字は気持ちが悪い」「こういうのは絶対に嫌だ」と言ったということは、わかるはずなのだ。俺の発言に対して、おやじが「自分は気にならない」ということを言っていたわけだから、通じているはずなのだ。で、何回もこのことは、話したのである。だから、頭が正常なのであれば、こども(エイリ)が『赤い字は気持ちが悪い』『俺は絶対にいやだ』と言ったことが、記憶に残るはずなのである。

(つづく)

2020年12月17日木曜日

ヘビメタ騒音と「跳ね返さなければ(ならない)という緊張」の綱引きで出来上がったもの

 ぼくは、ほかの人たちとはちがう状態になっている。そりゃ、楽しめない。ちがうんだよな。経験してきたことがちがう。家族がちがう。こんど、うまれかわったら、きちがい兄貴ときちがいおやじがいない人生を歩むんだ。

 もう、今回はだめだろう。ヘビメタ騒音がでかすぎる。毎日、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている生活というのがほかの人にはわからない。きちがい兄貴の態度全体も、たぶん、まったくわからない。そうなると、俺がほかの人に誤解される『世界』ができあがる。避けようがないんだよな。避けようがない。ほかの人は想像で「避けようはある」と言うかもしれないけど、ない。ほんとうに、きちがい兄貴を殺してしまえばよかったな。殺したら、案外、佐藤みたいなやつは、こっちの味方になってくれるかもしれない。けど、殺さずにこたえたら、敵になる。ヘビメタ騒音の影響を無視して、日本労働教徒の考え方を押し付けてくる。佐藤も、由紀夫も、ヘビメタ騒音がどういうものかわかってない。ヘビメタ騒音生活全体がどういうものか、わかってない。過小評価しすぎ。ヘビメタ騒音の影響を過小評価しすぎ。俺はNHKに教育関係の論文を送ったら、言いたいことがあるなら、番組を作ってあげるみたいなことを言われた。けど、そこで問題なのが、俺が無職・ニートだったことだ。これ、出版のときもおなじなんだよな。きちがい兄貴がいない状態で、俺が普通に、大学に行って、大学院に行って、そこそこ活躍していたら、「職業を聞かれて困る」ということがなかった。これ、けっこう、でかいんだよ。普通のコースを歩めた人間にしてみれば「そんなの、なんだ?」「そんなの関係ない」と言えることなんだけど、普通のコースを歩めなかった人にしてみればでかい問題だ。きちがいヘビメタ騒音の数千日が重い。重すぎる。毎日、普通じゃなかった。毎日、ヘビメタ騒音でズタボロだった。毎日、何時間も何時間も発狂して疲れ果てていた。そして、疲れ果てたあと、気分がきゅーっっと冷えて、死にたくなっていた。寝る前まで、きちがいヘビメタで加熱され、寝る時間になったら、きちがいヘビメタは終わるけど、俺の気持ちと体は、急速にひえて死にたくなっていた。毎日、それだ。

俺は、中学生のとき、職業は聞かれないけど!!!本質的には「おなじような思い」をしてきた。ばつのわるさ。「自分はこれこれである」と言えない、もどかしさ。きちがいヘビメタでほんとうに、ばつのわるい思いをしてきた。メンツがたたない思いをしてきた。それなら、それを跳ね返して……と思うだろ。けど、そんなこと、どれだけ思っても、ヘビメタ騒音でかき消されてしまう。俺がどれだけ、跳ね返すことにこだわってきたと思っているんだよ。その緊張が……はっきり言えば……全体的なうつ感情を引き起こしているんだよ。全体的な破滅の感情をひきこ起こしているんだよ。意欲の低下を引き起こしているんだよ。

それを……「跳ね返せばいい」というような「根性論」を言う人は、ぜんぜんわかってない。

憂鬱な状態や破滅感は、ヘビメタ騒音だけで醸成されたものじゃない。できあがったものじゃない。ヘビメタ騒音と「跳ね返さなければ(ならない)という緊張」の綱引きで出来上がったものなんだよ。作用と、反作用なんだよ。作用と反作用で、引き裂かれていく。ズタボロになっていく。もっとも、「跳ね返さなければならない」ときちがい兄貴にどれだけぶつかっても、きちがい兄貴の頭がきちがいおやじの頭とおなじだから、殺さなければ、まったく気にしないでやり続けるということになってしまう。実際、きちがい兄貴はそうした。だから、俺が自分の部屋に入って、きちがい兄貴のヘビメタにさらされながら「跳ね返さなければならない」という気持ちで、教科書を見たとき……緊張の度合いが強烈に強くなってしまうのである。頭が、まわらない状態、胸が引き裂かれるような状態で教科書を見たって、「負の効果」しかない。教科書を見た……教科書を読んだ……教科書に書いてあることを記憶しようした……そういうことが、きちがいヘビメタのなかで、どれだけ負の体験になるかわからない。こんなのは、ほんとうにやらないほうがいいのである。ヘビメタ騒音のなかで、頭がめちゃくちゃで、胸が引き裂かれるような状態で「しようとした」というのが、まちがいなのである。けど、じゃあ、やろうとしないとどうなるかというと、まあ、「やろうとした」状態よりはよいのだろうけど、ヘビメタ騒音のなかでぐちゃぐちゃな状態だ……あるいは……発狂したい気分でそれをおさえて、煮えくり返っている状態……だというのは、かわらないのである。それは、酒を飲むと酔っぱらう……というような反応なんだよ。これもわからないと思うけど。意志教の人は、「どんな状態だって勉強なんてできる」と言うだろうけど。薬を飲めば体が反応する……毒を飲めば体が反応する……。それと同じように、ヘビメタがきちがい的にでかい音で鳴っていると、体が反応する。酒に弱い人が、酒をがぶ飲みして、酒の影響を受けないようにしようとしても無理だ。「影響を受けないぞ」というような強い意志を持ってがぶ飲みすれば、だいじょうぶだ……なんてことはない。急性アルコール中毒で、たおれてしまう。毒物に対する「生物的な体の反応」だから、そうなる。それを、意志教の連中は、漫画やアニメの主人公になったつもりで、想像の翼をはためかせて、見当はずれなことを言ってしまう。これは、こっちにとっては、屈辱なんだよ。だいたい、そういうやつは、俺の部屋でくらしたわけじゃない。俺とおなじヘビメタ騒音をあびてない。きちがい兄貴の態度がわかってない。俺の部屋で何年間もくらしてから、そういうふうに言ってくれよ。俺も、六か月目あたりまでは根性論みたいなことを、こころのなかで言っていた。根性論みたいなことを考えていた。根性論みたいなすごい想像をしていた。跳ね返す想像をしていた。けど、七か月、八か月……一年、二年、三年と続いて……ぼろぼろになって、「そんなのはうそ」だなというのがわかってくる。単なる気分の産物なんだなというのがわかってくる。単なる想像の産物なんだなというのがわかってくる。

 

 

2020年12月15日火曜日

一回だけで腹が立って腹が立って仕方がない状態になってしまうのに


そこそこ、活動できるような状態になってきた。
けど、つまんない。やらなきゃならないことがあるけど、やりたくない。おもしろくない。

まじめに生きてきた俺が、こんな思いをするようになるんだからなぁ。こんなのはない。

気違い兄貴を殺してでも、自分のしあわせを追求するべきだったんだ。ぉれがずっとやられ続けた。気違い兄貴は気違いだからやっている最中も、やっているつもりがない。どれだけ言われたって、なにも認めない。怒っているときの気違いおやじと同じ状態なんだよな。自分だってやられたら、わかるのに……。腹を立ててたのに……。同じことを折れにしやがって……。ともかく、本人がものすごくでかい音で鳴らしたいなら、どれだけ、でかい音で鳴らしても、たいした音じゃないんだよ。もう、知覚・感覚を言い換えてそう思ってしまう。気違い兄貴がたいした音じゃないと思っている音で、他の音が鳴ってたらどうなんだよ。あの音のでかさだったら、一秒で怒るだろ。そういう音のでかさだ。けど、自分が思いっきり鳴らしたいなら、これは普通の音だということになってしまう。これは特別にでかい音じゃないということになってしまう。自己催眠でそう思ってしまう。

しかも、自己催眠をかけたつもりがない。

意識的にはそんなことをしているつもりがないのである。けど、気違いおやじのように、あるいは、まるまるまるまる症患者のように絶対の意地で信じているのだ。だから、本心から、やってないつもりだ。本心からやってないつもりで、頑固にやり続けることができる。どれだけ言われたって、わからないんだよ。わからなければ、どれだけやってたって、やったことになってないんだよ。そういう脳みその状態がずっと成り立ってしまう。
 

自分だっておやじにやられたら、一回だけで腹が立って腹が立って仕方がない状態になってしまうのに、同じことを、毎日毎日、何回も何回も俺にやりやがって!! しかも、おやじのように他の人には理解できないのである。おまえ、気違い兄貴、おやじがおやじのしくみで、理解せずに怒り狂って、使えないハンダゴテを押しつけたのに、まわりの人が「おまえ(兄貴)の説明のしかたが悪かったんだ(だから、おやじさんが理解できなかったんだ)」と言ったときのくやしさを忘れたのか? まあ、そんなの覚えてたって、結びつかないけどな。ともかく、気違い的な意地で頑固にやったことは、気違い的な意地で頑固に認めないのである。認めないということも認めないということになってしまうので、合わせ鏡のようにきりがない。人から、誤解される。

佐藤や他の人には気違い兄貴の気違い的な態度がわからない。気違い的な知覚がわかない。だから、「エイリさんが(お兄さんに)言わなかったからだめなんだ」ということになってしまう。こういうことが、気違い家族にやられた人をどれだけ、傷つけるか、おまえらはわかってない。おまえらは、わかってない。やられた人を傷つけるように、まわりの人が動く。ボケた発言をする。けど、もちろん、ボケた発言したとは思ってないのである。だから、「そんなんじゃないと言っているだろ。ボケた発言をするな」と俺が正直に言ってしまえば、そいつらは、腹をたてるのである。そうなると、「エイリさんがちゃんと言わなかったからだめなんじゃないの」ということを言っただけなのに、そんなに怒って……やはり、エイリさんはコミュ障だ」と、思ってしまう。思う……ようになるのではないかなぁ~~~。まあ、「それは違います」と丁寧に言ったあと、ここで書いているようなことを説明しても、そいつらは、信じない。半信半疑だ。気違いおやじや気違い兄貴のような人がいるということを信じない。だから、俺が嘘を言っていると思ってしまうのだ。まあ、ぼくの場合、「ボケた発言をするな」とは本当は、言わない。けど、ちゃんと説明しても、たいしてかわらないんだよね。

このさき、今日、一日、どうするかな?


このさき、今日、一日、どうするかな?
いま、起きたばかりだからなぁ。
このさきの一日と、このさきの人生、どうするかな?
風呂に入りたくないとか、そういうことが、わりと、でかい問題だ。気分が落ち込む。寒くなると風呂がけっこう、たいへん。風呂場に行くまでに、いちおう屋内だけどさむいところを通らなければならないから、気分的には、宿から温泉に歩いていくような気分になる。ようするに、歩いているあいだ、さむい。
それに、このあいだ、ナメクジが出たんだよ。これは、やばい!! 葉っぱものを買ってないのに、ナメクジが出たということは、かなりの確率で、ネズミが出たということなんだよ。おやじが、まず、物置に生ごみを置くようになってからがやばいんだよ。そのあと、おやじが、家の中にものすごくにおう魚の切り身を置くようにした。これで、餌付け完了。ネズミがガンガンくるようになった。穴や隙間があったのに、おやじがものすごくにおう魚の切り身を出しっぱなしにするまでは、数十年間一回も、ネズミの侵入を受けてないのだ。におうからやめろ」と言っているのに絶対にやめないんだよね。もう、そういうことで、どれだけ俺が迷惑をこうむってきたか。

 

2020年12月14日月曜日

これが自分の人生だとは思えない。思えない。

 眠れない。幼稚園、うるさい。

俺はほんとうにどうなってしまうのだろう。

俺のことなんて気にしているのは、俺だけなんだよな。

けど、ヘビメタ騒音の雰囲気がぬけない。なので、こまっている。 なにをやるにしてもおなじなんだよな。この雰囲気がきえない。ほかの人はもちろん、関係がない。わからない。けど、どこに行くにしろ、なにをやるにしろ、ヘビメタ騒音の雰囲気なんだよ。幼稚園は、うるさいといっても、たいしたことはない。ほかの人にはまったくわからないことなんだよな。俺は、長期騒音がはじまってから、現実感がない。悪夢のような毎日だ。これが自分の人生だとは思えない。思えない。

一日のなかで、時間感覚がおかしいのだけど、人生のなかでも時間感覚がおかしい。何十年も前のことがついこのあいだのことようだし、数か月前のことが、なんか、数年、前のことに感じる。 本当、ヘビメタ騒音がはじまってから、はじの多い人生になった。で、なんていうのかな?ヘビメタ騒音のことを言っても、ヘビメタ騒音のことを言わなくても、あんまり、結果はかわらない。「俺がお兄さんに注意してやる」と言ってくれた友達はふたりいたけど、俺が断った。俺が断った……。

 

どのみち、兄貴は、だれの言うことも聞かない。かりに、友達が注意して、静かにした?にしろ、友達が帰ってしまえば、それでおしまいだ。だいたい、電車賃まで、相手が出すとか言ってたんだけど、さすがに悪すぎる。

まあ、きてもらったほうがよかったのかな。どのくらいの音で鳴っているか、証人がひとり、増えた。まあ、ふたりなんだけど。

きちがい兄貴の脳みそはおやじとおなじだから、第三者がいる場面と、第三者がいなくなって、うちだけの人になった場合の場面が、つながってない。ほかの人の前で言ったことなんて、関係がないんだよ。その人が、帰って、目の前から消えちゃえば。それから、「静かにしたつもり」で、ものすごくでかい音で鳴らすということになると思う。

「静かにしたつもり」で、自分の耳が悪くなってしまうような爆音で聞くんだよ。おやじとおなじだから、それで、ほんとうに「静かにしてやったつもり」になる。本人のなかでは、「可能な限りゆずった」ということになってしまう。おやじの譲歩も、兄貴の譲歩も、トラブルしかうみださない。どけちぶりを発揮して、わざと、意地悪で、しらばっくれて、やっているのではないかと思うようなことを、する。悪気なく、する。本人は、真面目なんだよ。どんなに、小さな譲歩でも、譲歩してやったら、譲歩してやったことになる。きちがい兄貴のなかでも、きちがいおやじのなかでも……。

ほんとうに、きちがい兄貴の譲歩は、おやじのハンダゴテとおなじ。そういうときの態度が、ぜんぶ同じなんだよね。そして、自分の気持ちしかない。「やめてくれ」と言われたら、発狂して、真っ赤な顔をして、無言でやり続ける。けど、やったことになってないんだよ。ほんとうに、「つもりがない」。ものすごく言いにくいのだけど、「やった」という事実がないことになっている。あるいは、発狂して、基本的なことを否定して、おしまいなんだよ。この場合も「つもりがない」。相手が自分のやっていることで、こまっているという認知が、一切合切しょうじない。何万回言われても、言われたときに、発狂して、「相手がこまっている」という認知が、一切合切しょうじない。発狂したところで、「はねのけている」。相手がこまっているという認知をはねのけている。だから、言われたとたんにそういうモードになるから……言われたとたんにそういうスイッチがはいるから……何万回言われても、言われたことになってないのである。だから、自分がやったことで、相手が宿題をすることができなかったから……学校で恥をかいたということを、聞いても、まるで、心が動かない。おやじの反応と兄貴の反応がおなじ。おやじの場合は、兄貴が、ちゃんとしたハンダゴテを持っていけなくて、恥をかいたということを、じかに聞いても、まったくわからない。兄貴も、兄貴のヘビメタ騒音で宿題ができなくて、学校で恥をかいたということを、じかに聞いても、まったくわからない。最初に、「静かにしてくれ」と言われたときの態度と「恥をかいた」ということを聞いたときの態度がおなじ。そのくせ「心配してやった」というような恩着せがまいし態度がある。この態度がまた、頭にくるんだよ。相手にとって一番肝心なことを吹っ飛ばしておいて、 頑固に認めないで虐待するように、いじになってやったくせに……「心配してやった」「しんぱいしてやった」ということになる。これも、きちがいだから、意地悪でそうしているわけではないのだ。自分がやっていることを補うように、相手にとってどうでもいいことを、「心配してやって」それで、イーブンにするという心理的な機制がある。

 

 

*     *     *

 

 

2020年12月13日日曜日

ライフハック的な浅知恵は、燃え尽きたタイプを、ぶちのめす。


燃え尽きた人に対しては、たとえ、無職セミリタイア者でも、偏見を持っているということがわかってしまった。まあ、その人が無職セミリタイア者の代表じゃないから、その人が偏見を持っているということなのだけど……。無職セミリタイア者のなかで、どれだけの人が燃え尽きた人なのだろうかと考えると、燃え尽きた人は少ないのではないかと思う。ここでも少数派なのだ。

そりゃ、仕事はいやだけど、生活すること自体は楽しいというやつらが、セミリタイアしているわけだから、そっちのほうが、人数は多いよなぁ。無職セミリタイア者という少数派のなかでも、燃え尽きてどうにもならないタイプは少数派だ。

あるいは、燃え尽きた人は、声をあげない。声をあげる気力もないという状態で、うずくまっていると思う。ブログで情報発信をしている人は、元気なタイプが多いのだろうと思う。俺は、執念で「書くこと」だけは続けているけど……。

しかし、無職セミリタイア者で元気な人たちも、仕事に関しては、「元気ではない」。仕事には対しては、ネガティブな意見を持っている。けど、生活全体に対しては……あるいは、人生全体に対してはポジティブな意見を持っている。なんでなら、浸食された部分が、「仕事」に限定されているからだ。浸食された部分の「大きさの問題」なんだよな。

セミリタイア者のなかでも、やっぱり、燃え尽きタイプと燃え尽きてないタイプ(元気タイプ)の差があるなぁ。

まあ、これ、理解しろというのが無理なんだよな。

問題なのは、ライフハック的な浅知恵だ。ライフハックは、問題解決とか言っているけど、問題解決にならない。だから、仕事に関しては脳内変換なんてできないやつが、生活に関しては、「こんなふうに脳内変換すればいいんだ」ということを言い出す。

これは、これで問題なんだけど、なんと言っても少数派のなかの少数派だから、問題だと理解できる人間が少ない。少数派のなかの多数派は、「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」と思っている。「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」と思っている人は、「だれでも」脳内変換が可能だと思っている。自分だって、仕事に関しては脳内変換して楽しむなんてことはできなかったくせに……。


いままで、言霊や認知療法と「たたかってきた」けど、ライフハック的な助言やライフハック的な浅知恵は、燃え尽きたタイプを「うちのめす」のである。ほんとうにしんどい問題を抱えているタイプを、ぶちのめす。

「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」という意見には、じつは、脳内変換は一〇〇%可能だという「前提」が含まれている。なので、脳内変換ができないということは、認めていない。

しかし、脳内変換ができない人はいる。なので、話がくいちがっていくのである。

「脳内変換が可能だ」と「脳内変換が可能だ」と言っている人が言う場合、じつは、「だれでも」という補足事項が含まれている。しかし、この条件に関しては、無自覚なのである。ようするに、言霊主義者のように、場合によって使い分けている。

脳内変換ができない人に脳内変換すればいいと言ってもむだだ。むだなんだけど、「脳内変換ができない」ということは、認めてないので、言ってしまうのである。もちろん、ほんとうは、自分自身だって「脳内変換」できない分野はあるのだけど、それに関しては、無自覚なのである。あるいは、人に言う場合と、自分のことの考える場合で、「気分」がちがってしまっている。「気分」の違いが「補足事項」の有無にあらわれる。

「できない」から、こまっている人に、「(できるから)すればいい」と言ってもむだなのに、むだだと思ってない。「できないからこまっている人」はいないと思っているから、「やらないからだめなんだ」というような感情が沸き上がる。

こういう場合は、基本的に「努力」の問題になる。「根性」の問題になる。「脳内変換すればいい」と「つまらないと言っている人に」助言する場合、「脳内変換すればいい」と言っている人は、『つまらないと言っている人も脳内変換することができる』と思って言っているので、「つまらないと言っている人」が「できない」ということを言い出すと、『それは、努力しないからだ』『努力がたりないからだ』と思ってしまう。

ほんとうに「できない」場合を、根底では認めていない。「だれでもできる」と思って発言しているので、できないとしたら、「努力しないから、できないんだ」「やろうとしないから、できないんだ」と思ってしまう。


 *     *     *

手短に言うと、俺だって、ヘビメタ騒音にやられてなかったら、浅知恵をふりまわしていたと思う。きちがいおやじ……毒親にやられただけであれば、浅知恵ライフハックをふりまわしていたと思う。 毒親にやられて、なおかつ貧乏家出身なのに、努力で、いまの地位を勝ち得たという気分になっていたと思う。「俺が、どれだけ努力してきたか」と言っていたと思う。毒親・貧乏という二重苦(ハンディ)を自分の努力と才能で跳ね返したというプライドを持っていたと思う。


2020年12月12日土曜日

人が何事かを否定するときは、否定することが格好いいと思っているから否定する」と一般化してしまったところに間違いがある

 
否定から入る人は格好いいか?
つまらないと言っている人は格好いいか?
ということについて考えてみたいと思う。


Aさんがいたとする。Aさんは、「格好をつけて、否定する人」をたくさん見てきたとする。そうなると、Aさんのなかでは「否定する人は、否定するのが格好いいと思って、否定する」というような「他人に対する」見方が発生する。


きちがいヘビメタ騒音にやられている俺は、「認知療法」や「言霊」を含めて、いろいろなことを否定しているように(他人からは)見える。別に、なんでも否定しているわけではないが、否定するものは、広範囲に及ぶと思う。一般的に正しいとされているものは、俺の場合は「なりたたなかった」のである。なので、それなりに、根拠があって否定している。あるいは、問題点について語っている。


あとは、ヘビメタ騒音で疲れ果てているので、いろいろなものについて興味をなくしている状態である。ストレスアウトして「つまらない」と感じることが多いということだ。その場合、他人から見れば、「否定ばかりする人」「つまらないとばかり言っている人」に、見える。実際つまらないわけだからな。それは、ヘビメタ騒音という特殊な事情があったからだ。しかし、たとえば、Aさんのような人は、俺を見て「否定ばかりする人」「つまらないとばかり言う人」だと思ってしまう。


そうなると、Aさんのなかでは「否定ばかりする人」は、「否定するのが格好いいから否定する」ということになっているので、俺も自動的に「否定するのが格好いいから否定する人だ」ということになってしまうのである。

これは、Aさんが、個別の事情や、個人について考える必要があることを、「全体」として考えるからなのである。Aさんのなかでは「否定する人」は「否定から入るのが格好いいと考えている人」であって、なおかつ、「否定から入るのが格好いいと思っているから、否定している人」なのである。


否定する人(全体)……否定するのが格好いいから否定すると思い込んでいると、個別のことについて、否定する人も「否定するのが格好いいと思っているから、否定する人だ」と思い込んでしまうのである。

なので、そういうことを前提とした「批判」をする。


Aさんは、仕事が大嫌いで、仕事に関しては、否定する人だとする。その場合、仕事という個別のことに関しては、否定しているわけだけど、別に「否定するのが格好いいと思っているから」否定しているわけではないということが成り立つ。

しかし、自分自身に関しては、否定する理由があまりにも明らかなので、格好をつけるために否定しているとは自分では思えないのである。けど、AさんがAさんを外側から見て、「否定しているということ」に注目するのであれば、もちろん、Aさんは、「格好つけて否定している人」に見えてしまう。


ようするに、Aさんのなかにあるいきすぎた一般化が問題なのだ。個別例から全体へという概念の飛躍がある。


「格好をつけて否定する人がいる」「否定すると格好いいと思って否定する人がいる」……というのは、個別例なのだ。否定することや否定する人という概念を含んではいるけど、あくまでも、個別例。これを、Aさんが「人が何事かを否定するときは、否定することが格好いいと思っているから否定する」と一般化してしまったところに間違いがある。

ヘビメタ騒音の問題に戻ると、きちがいヘビメタを長年らやれたために、Aさんのようなひとが、間違った考えに基づいて、俺について間違った考えを持つということが生じてしまうのである。で、ヘビメタ騒音問題は、人格全部にかかわる問題なので、こういうことが、発生しやすいのである。


ほかのやつらにとっては、どうでもいいことだろうけど、こういうことが、いろいろな分野で発生してしまうのが、精神病質家族による騒音問題なのだ。「家族による騒音問題」というのは、他人にとっては、これまた、どうでもいいことなのだけど、「家族だ」というのが、いろいろな問題の根底になっている。騒音を出し続ける人が、あかの他人ではなくて、家族だというのは、問題がある。それは、やはり、「他人の無理解」という問題につながる。他人の無理解というのは、ヘビメタ騒音に関する「他人の無理解」という問題だ。

過去のことって……。

すでに、頭がおかしくなっているやつ……頭の癖があるやつ……にやられて、人生がうまくいかなくなっている人の、人権はない。頭の癖があるやっは、人権がある。そりゃ、立派な人権があるんだよ。頭の癖があるやつに、やられてきたやつの、人権がない。人権がない。どこに行っても、「そんなのは関係がない」と言われる。「ちゃんと言えば、やめてくれるんじゃないの」と言われる。「ちゃんと言わないからだめなんだよ」と言われる。「いずれにせよ、過去のことなら関係がない」と言われる。過去のことって……。こいつら、ほんとうにむかつく。

特に、頭の癖がある人が、家族だとやっかいなことになる。しかも、四人家族でふたりが、そういう状態なんだからな。こんなの、どれだけ「よそのひと」に言っても理解されない。

 きちがいおやじが何十年もやってきたことが、うちではあたりまえのことだから、きちがいあにきがやってきたことも、あたりまえ、なんだよ。うちでは!! きちがい兄貴の頭のなかでは、あたりまえ。きちがいおやじは、兄貴がやっていることがわからない。きちがいおやじは、「おおきくなった」兄貴に文句が言えない状態になってしまったのだ。これも、本人は「そんなんじゃないつもり」だ。こういう状態は「よそのひと」にはわからない。よそのひとは「そんなに、怒りやすいおやじさんだったら、ヘビメタ騒音のことだって怒るだろ」と言ってくる。そういうふうにまちがった想像をしてしまう。小さい子供に、容赦なく、きちがい的な理由で怒り狂うやつであって、なおかつ、「よそ」では比較的に言っておとなしくしているやつは、小心者なんだよ。そりゃ、よそでも、発狂することがあるけど、……小さい子供だから「安心して」ぶつかっていけるやつなんて、小心者に決まっているだろ。まったく、そういうことが、「よそのひと」にはわからないんだよな。「よそのひと」が普通に考える予想というのは、ぜんぶちがうんだよ。これも言いようがない。

佐藤や由紀夫のような、常識的な人は、こういうこともわからないと思う。「はだでわからない」のだよ。「はだで」……。そんなのおかしい」と思ってしまうのだ。「おかしいから、エイリさんが嘘を言っている」と思ってしまう。この場合も、「過去のことなら関係がない」ということになってしまう。過去のことって……。 

過去のことって……過去十数年間にわたって、毎日兄貴がやったことによって……いま、ぼくがこまっているのに……なんだ!!それ!!

きちがい兄貴がやったことによって、学歴が制限され、治らない睡眠障害がしょうじて、ものすごく疲れやすい体になって、こまっているんだよ。治らない睡眠障害がしょうじて、ものすごく疲れやすい体になってしまうと、通勤・通学ができないだよ。通勤ができないと、 働けないだろ。むかしは、そうだったんだよ!!! いまは、インターネットが発達して、通勤なしで働けるようになったけど、むかしはちがう。働けない体をかかえて、こまっているのは「いま」なんだよ。どうして、こいつらは、そういうことを言うのか?

ヘビメタ騒音の影響を無視して、エイリさんの体がヘビメタ騒音の影響を受ける前の体だと思っているからだ。汚染魚を食べて水俣病になったあとの体と、汚染魚を食べる前の体はちがうだろ。汚染魚を食べて、働けなくなった人に、汚染魚を食べたという過去のことを無視して、働ける体なのに、働かないのはけしからんということを言っても、なにも解決にならないだろ。 

「過去のことは関係ない」なんて、どういう気持ちで言えるんだよ??

それこそ、人間としておかしいぞ!!

人権!!人権!!!なんて言っているやつが、平気でそういうことをする。……やる。


 

それから、

2020年12月10日木曜日

対処不可能部屋につめられて、騒音生活をさせられたら、そういう性格だって、かわってしまう

ほんとうに、仕事でつらい思い?をした人は、仕事だけはつまらないということになって、仕事が「つまらないと感じる」範囲になる。けど、生活でつらい思いをした人は、生活全体が「つまらないと感じる」範囲になる。

それも、家族による長期騒音という、ほかの人にはわからないことだ。どうしてわからないかというと、「家族なら、言えば静かにしてくれるはず」だからだ。「そんなでかい音で鳴らしているはずがない」と思うからだ。日本の企業文化に慣れ親しんだ労働者が、「仕事をやりたくないと思っている」労働者にかける言葉と、家でひどい目にあわなかった人間が「すべてがつまらない」と感じている人間にかける言葉が、おなじ。おなじなんだよ。まるで気がついてないのだろうけど。

「ひとごと」というのがある。そればかりではなく、やはり、自分がほんとうに経験したことしか、わからないという部分が人間にはある。しかし、自分がほんとうに経験したことでなくても、「想像でおぎなえる」ということになっている。しかし、それは、想像でおぎなっているにすぎない。つまり、ちがう。実際に経験しないとわからないあれやこれやがある。

しかも、人間の生活の中で、つみかさなるのである。波及していくのである。裁量権がなくてつまらないと言っていた人は、裁量権がないような仕事をしていた。それは、学歴である程度決まってくる。もちろん、普通の会社に入社したあと、裁量権がある仕事をするところまで、のぼっていく人間はいるはいる。しかし、学歴である程度きまってしまうところがある。時間とともに、なんていうのかな? 不利が積み重なり、不利が波及していくのである。それでも、仕事だけがきらいな人……損害の範囲が仕事だけにかぎられている人は、しあわせである。

 たとえば、「自分が物事を楽しめるのは、自分の性格によるものだ」と考えるのである。もし、対処不可能部屋につめられて、騒音生活をさせられたら、そういう性格だって、かわってしまう。そういうことに、気がつかない。「自分は、楽しめる性格だから、いい。楽しめないやつは、楽しめない性格なのだからだめなのだ」……と思ってしまう。さらに、ライフハック的な知恵を披露して、「こういうふうに考えればいいのに、こういうふうに考えられないからダメなのだ」と言ってしまう。

学習性無気力感は、学習の結果だ。だから、もともとの性格とは関係がない。もちろん、個人差はある。たぶん、それもノーマルカーブを描くのだろう。まあ、人間を使った実験はできないのだけど、……。たぶん、もともとの性格に関係なく、学習性無気力感に閉じ込められた期間が短い人は、自分は才能があるから、損傷が限定されたと思うだろう。期間が短いだけなのに、「天性の才能」だと思うだろう。あるいは、「自分は強いから、たえられた」と思うだろう。これは、「耐えられなかったやつは、(もともと)弱いやつだ」というような考えを生み出すことになる。 

けど、期間の長さが同じではないから、そうは、言いきれない。

しかし、何度も言うけど、人間を使った実験はできない。ハツカネズミの自己肯定感なんて、わかるわけがない。ハツカネズミがどういうふうに原因を考えたかなんてわかるわけがない。そして、わかったにしろ、それは、ハツカネズミの心理学だ。まあ、ハツカネズミはいいんだけどさ。ともかく、ほんとうは、強いかどうかなんてわかってないのに、症状がない人は、自分が強いから、平気だったと思う……ような気がする。

ともかく、対処不可能箱に入れられた期間が特別に長い人は、ストレスアウトしてしまう。その場合、生きてたとしても「つまらない」と言うことになると思う。

その場合、対処不可能箱に長いあいだ入れられていたというようなことは、無視して、他人はライフハック的な知恵を披露することになるんじゃないかなと思う。『その人』とか『他人』という言葉を使うとわかりにくくなるから、AさんとかBさんと言った言葉を使うことにする。

Aさんが対処不可能箱に長い間、入れられた人だとすると、Aさん以外の他者が、わかったようなことをAさんに言うようになるということだ。その場合、Aさんは、余計に、めんどうな気持ちになるのである。破滅感が強くなる。説明をしたところで、対処不可能箱に入ったことがない他者は、それがわからない。自分のことじゃないから、わからない。そうなると、ごく自然に、「こういうふうにすればいい」と助言してしまうのである。

あるいは、「つまらない」と感じるようになったのは、その人の責任だと考えていればそういうことを言うだろう。自己責任!自己責任!と言うわけだ。そして、「こういうふうにすれば楽しく感じるのにそういうことをしようとしない。だからダメなんだ」とダメ出しをするだろう。

やられた人間が、やられてない他者と触れ合うと、余計に疲れてしまうのである。それこそ、ストレスアウトしてしまう。

こういうしくみで、きちがい家族にやられた人間は、他者からも責任追及されるようになる。そうなると、やはり、「めんどうだな」と思ったり「つかれたな」と思ったりするわけなのである。「否定するのが格好いいと思っているから否定する」などと、まとはずれな意見を押し付けられたりする機会も増えるだろう。 そうすると、余計に疲れるのだ。

 

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2020年12月9日水曜日

ヘビメタで苦しいと言っているだろ

 ヘビメタで苦しいと言っているだろ。ヘビメタ「で」苦しいと言っているだろ。ヘビメタで苦しいんだよ。他のことじゃなくて、ヘビメタ、で、苦しいの。他のことじゃないんだよ。けど、ヘビメタの苦しさは、水銀中毒のように、他のことに影響をあたえる。ぬけない。時間がたってもぬけない。

ほんとうに、他の人とちがいすぎるんだよな。ちがいすぎる。他の人はきちがい家族がいないからきちがい家族の意地がわからない。他の人は、きちがい家族がいないから、きちがい家族の構造がわからない。ごく自然にそうなっているのだけど、本人は自覚がないんだよ。だから、やってないことになっている。やってないことになっているということも含めて、自然にそうなっている。だから、俺と兄貴とでは、認知がちがう。きちがい兄貴の行動に関する認知がまったくちがう。きちがい兄貴は、きちがいおやじと同じだから、こだわってこだわってこだわってやったことを、否定する。ほんとうは、やってくれなったことをやってやったと言い出す。絶対の意地でゆずらなかったのに、「ゆずってやったゆずってやった」と言うことになる。

俺は、去年と今年は、色々とあって「引きこもりの定義」からはずれる。けど、ヘビメタ騒音「で」睡眠回路が壊れ、ヘビメタ騒音で、めちゃくちゃ疲れやすい体になった。なので、基本的に通勤ができない。日本で、通勤ができないまま、無職状態でいると、それまであった人間関係が切れていくのである。これも、わからないだろうけど……。必然的に切れていく。まあ、日本労働教の影響と、ヘビメタ騒音に関する無理解の影響がある。どうしたって、ダイヤとの間に起こったことが、他の友達との間でも繰り返される。他の人は、俺から説明を受けても、実際に自分の体でヘビメタ騒音生活を経験したわけじゃない。「きいて、りかいしたこと」なのである。だから、俺のなかにあるヘビメタ騒音と、その人のなかにあるヘビメタ騒音は、ちがう。ぜんぜん、ちがう。まったく異なるものだ。そうなると、やはり、認知に差ができるのである。その差は、たとえば、仕事に対する考え方に影響をあたえる。俺が「むりだ」と言っても、むりだと思わないやつが、ずれた話をしてくる。そうなる。ごく自然にそうなる。

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ともかく、楽しくない。楽しくない。楽しくない。

あの女と付き合っておけばよかったか。けど、やっぱり、楽しめなかっただろうな。つまらないんだよ。その人のせいじゃないけど、こころがおどらない。ヘビメタ騒音でこころが凍りついている。おどらない。それに、ヘビメタ騒音で無職だったんだけど、自分は無職だと言いたくなかった。言いたくなかった。当時俺が三十五歳で、その女が二十歳だったな。

何度か一緒に歩いたけど、まったく楽しくなかったんだよな。ヘビメタで、なんていうのかな、つきあげるものがある。あとは、楽しくない。別にその女が悪いわけじゃないんだけどヘビメタ騒音でこころが凍りついている。本当に、昔だったら、わらえた冗談で、わらえない。


2020年12月8日火曜日

価値がわからないというのは、罪だ。

 俺の文章は、人を選ぶ。頭がいい人しか、価値がわからない。

ドストエフスキーについても、小室直樹についても、頭が悪い人は、俺が言ってることがわからない。

価値がわからないというのは、罪だ。

ヘビメタがなければ、俺がドストエフスキーについて書いたことも、小室直樹氏の言ったことについて書いたことも、藤子不二雄のある漫画と超自我の関係についても、ちょちょっと論文に仕立てて、発表することができたのに……。

修士号や博士号を持っている人でも、バカな人がいる。あいつら、俺が学士じゃないと思うと、態度を変える。あとは、『機械の中の幽霊』を売ったときは、みじめだったな。これも、やっぱり、博士課程にいる人が、「どういう人なんですか」といろいろと聞いてきたんだよな。ぼくがものすごくいい人だからね……。ほんとう、適切な値段で売ってあげたんだよ。しかも、早く届くように、その人に郵便局まで行って、発送してあげた。「ほかのやつら、あしもとを見やがって。こんな親切な人にあえるなんて、マーケットプレイスはいいところだな」みたいな感想を送ってきてくれた。けど、「どういう人なんですか」と聞かれると、やばい。ヘビメタ騒音でやばい……。俺がどれだけ……。俺がどれだけ……。

 

 

あっ、機械の中の幽霊を俺から買った人は、バカな人じゃなくて、いい人ね。頭もいい人。ただ、その質問をあの文脈でされると、こまるんだよな。こまるんだよ。きちがい兄貴にやらなければ、いろいろと、話せたのになぁ。

2020年12月7日月曜日

俺は、あそこの階段を通るとき、ヘビメタ騒音がよみがえる


 ほんとうにすごい音で鳴ってた。すごい音で鳴っていた。

俺は、あそこの階段を通るとき、……どーーーしても、どーーしても、きちがいヘビメタ騒音がよみがえる。きちがいヘビメタが鳴っている感じがする。あれ、どれだけやられたか……。

ほんとうに頭がおかしいから、きちがい的な音で鳴らすことに、きちがい的にこだわってこだわってこだわって、きちがいおやじ状態で!鳴らした。兄貴が鳴らした。

これ、ほんとうに、ほかの人にどれだけ言ったって、わからないだろうな。

あれは、ない。

しかも、自分が一〇〇%やりきれれば、ほんとうに「やってない」のとおなじ態度になる。俺に対する感情は、自分が一〇〇%やってないときの感情とおなじなのである。

なにも、悪いと思ってない。

頭がおかしいから、つねにそういう状態なんだよ。どれだけなにを言おうが、つねに、そういう状態で鳴らしきる。もちろん鳴らしきれれば、鳴らしたつもりがない状態になってしまう。

どれだけこだわってやりきっているか? 一秒だって、一分だって、静かにしてやったら負けだと思っている態度なんだよ。一分間静かにしてやったら、一分間、発狂的に腹が立って腹が立ってしかたがない状態になるんだよ。

静かにしてやっている時間が〇分だからこそ、「まったくやってない」つもりになっている。でかい音で、こだわって鳴らしてないことになっている。

きちがい頭のなかでは、そうなのである。

これが、どれだけ言っても、かわらない。入試の前、どれだけもめたと思っているんだよ。普段の定期テストのとき、どれだけもめたと思っているんだよ。


きちがい兄貴のこういうときの態度は、きちがい親父のこういうときの態度おなじなんだよ。親父も兄貴も、発狂して否定するのに、発狂して否定したつもりがない。

自分が相手に与えている影響がわからない。自分が意地を張って、自分の意見?にこだわりつづけて、絶対に買ってやらないということを押し通しているのに、本人は、そのつもりがないのである。相手が、学校恥をかいたって、知らんぷりだ。

兄貴と親父は、自分が相手にやったことで、相手が恥をかいても、まったくなにも感じない。自分のせいで、相手が恥をかいたと思わない。

親父や兄貴にかかわるとそういうことに、自動的に、なってしまう。それは、おやじの頭や兄貴の頭が二四時間中、二四時間、おやじの頭や兄貴の頭として機能しているからだ。

きちがい兄貴に、ヘビメタ騒音のことで、文句を言うと、……きちがい兄貴は、あたかも、はんだごてを買ってくれと言われたときのおやじとおなじ状態になって……荒れ狂って認めない。

きちがいおやじが、相手にとって都合が悪いことをするとき、相手がやめてくれと言ってくると、無言のまま、脂汗をかいて、体を真っ赤にしてやり続けるのだけど、そういう状態に、兄貴もなってしまう。きちがい兄貴の頭が、おやじとおなじ頭だから二四時間中、二四時間、どんなときに言っても、おなじなのである。

兄貴もおやじも、自分にとって不都合なことを言われたら、真っ赤な顔になって、真っ赤な体になって、脂汗をかいて、やりきってしまうのである。で、その時の認知が、「相手がやめてくれと言ってきたけど、自分はやりきった」ということになってないのである。

無視したとたんに、「なにも言われなかった」ことになっている。

だから、おやじも兄貴も、本人としては、「なにも言われてないからやっている」という状態で、こだわりきって、こだわりきって、こだわりきって、こだわりきって、こだわりきって、こだわりきって、こだわりきって、こだわりきって、ずっとやりきる。

何回、何万回同じことが起こっても、ずっとそういう状態でやりきる。そういう認知でやりきる。

だから、おやじも兄貴も、本人の認識としては、まったくなにもやってないという認識なのである。相手がこまるようなことをまったくやってないという認識なのである。

どれだけもめたって、本人のなかでスイッチが入っていたら、そういうモードでやりきるのである。……兄貴もおやじも。

けど、本人がそういうモードでやりきったことは、「やったことになってない」のである。……兄貴もおやじも。

だから、兄貴もおやじも、自分がそうしたことによって相手から「うらまれている」ということが、根本的にわかってない。相手に対して、まずいことをしているという気持ちがまったくない。

2020年12月6日日曜日

ヘビメタ騒音は、勉強ができなくなる薬。体力がなくなる薬。眠れなくなる薬。憂鬱になる薬。気力がなくなる薬

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あーー、ともかく、きちがいヘビメタで、人生がない。すべてにおいてマイナス。しかも、他人がほんとうに理解しない。理解できない。俺がひたすら、誤解を受けて、ぬれぎぬを着せられることになる。ヘビメタ騒音は、勉強ができなくなる薬。体力がなくなる薬。眠れなくなる薬。憂鬱になる薬。気力がなくなる薬。こんなもの、毎日、ガンガン投与されて、いいわけがないだろ。学生時代ずっと、毎日毎日、勉強ができなくなる薬、を飲まされ続けていいわけがないだろ。それが、6年間続いたら、6年間、勉強ができなくなる薬を飲み続けたということなんだよ。

そうなると、たいした学歴ではなくなるので、佐藤や由紀夫が、偏見の眼で見ることになる。ヘビメタ騒音を抜かして、考えるなと言いたくなる。けど、「そうであるいじょうはそうだ」という彼らの認知は、かえられない。こんな屈辱は、きちがい兄貴が、一日目にちゃんと静かにして、そのあとずっと、ちゃんと静かにしてくれればなかった。おやじと同じような頭で、オヤジと同じような意地で、きちがい的にでかい音で鳴らすことにこだわって、きちがい的にでかい音で鳴らした。自分が鳴らしたい時間というのが、自分が鳴らすことができる時間すべて、なので、すべての時間、鳴っていた。可能な時間はどんな細かい時間も鳴らしていた。まあ、ずっと鳴らしているから、長い時間になるんだけどな。おやじとおなじで「ゆうずう」がきかない。相手があせっているようだから、しずかにしてやろう」というような気持がない。相手が「重要なテストだからやめてくれ」と言ってきても、きちがい回路で無視してずっと鳴らしてしまう。しかも、鳴らしたつもりが……普通の意味で……ない。ハンダゴテ事件のときに、おやじが、うちにあるハンダゴテにこだわったつもりがないのとおなじだ。ハンダゴテ事件のときに、おやじがうちにあるハンダゴテを、相手がなにを言おうが押し付けたのだけど、押し付けたつもりがまったくないのとおなじだ。おやじと兄貴はこういう態度がまったくおなじなの。押し付けたとたんに、忘れているよ。きちがい兄貴もきちがいおやじも。そういうことがまた、佐藤や由紀夫には理解できないことなんだよ「そんなへんなことはない」と思ってしまう。

 

ともかく、兄貴は、つねに、騒音を押し付けているのに、押し付けた気持ちがまったくない。「やめてくれ」と言われたら、発狂して、怒り狂って怒り狂って、黙りこくって、絶対の意地で鳴らす。絶対の意地で鳴らすように、スイッチが入ってしまう。だから、「やめてくれ」と言われたら、静かにするわけがないのである。なら、「やめてくれ」と言わないと、ずっと鳴らしているということになる。だから、「やめてくれ」と言っても言わなくても、きちがい兄貴が「こっちの存在自体を無視して」きちがい兄貴が鳴らしたい音のでかさで鳴らすということになってしまう。何度も言うけど、特に、そうしているつもりがないのである。これ、も、う、ほんとうに、催眠術にかかったような状態なんだよな。「やめてくれ」と……自分がちょっとでもやめなければならないようなことを言われたら……体に力が入った状態で、体を真っ赤にして、無言でやり続ける。「やっているから」。そのとき、鳴らしているから……。これ、ぜんぶの期間を通して「ならしたつもりがない」のとおなじ態度なんだよな。これも、ほかの人に言ったってわかるわけがない。

 

2020年12月4日金曜日

Aさんがへんな考えを持っているのは、Aさんの問題だから、あなたには関係がないと、あなたは思うことができるのか?


たとえば、あなたが障害者だったとする。ある人が、『障害者を殺して、お金を節約するのはいいことだ』と考えたとしよう。この人をとりあえず、Aさんということにする。で、その人が、あなたを包丁で刺したとする。あなたは、刺されたけど、一命はとりとめて、生き残ることができたとする。Aさんがへんな考えを持っているのは、Aさんの問題だから、あなたには関係がないと、あなたは思うことができるのか? できないのか? 
Aさんは妄想性障害者だったということが明らかになったとする。それは、Aさんの問題だから、あなたには関係がないことだと言えるのか? 言えないのか?

佐藤やアドラー信者はこういうことが起こったとき、どう考えるのか? 

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2020年12月3日木曜日

「他人の不幸はめしうま」ではなくて、「他人の不幸はめしまず」なのではないか?


「他人の不幸はめしうま」という感覚はぼくにはないなぁ。他人の不幸な話を聞いたら、同情して暗い気持ちになると思うけどなぁ。どうして、他人の不幸な話を聞くと、めしうまになるのだろう。これって、『楽しい』ということなんだろ。わからない。
けど、ぼくにたいして、ずっと、いやがらせをしてきた人間が、なにか不幸な目にあったら「ざまあみろ」とは思うから、そういう気持ちの延長線上にあるのかなとは思う。「めしうま」と思う人は、たぶんだけど、他人全体に対して、『いやがらせをしてきた』他人に対するような気持ちがあるんだろうな。そうとしか考えられない。いやがらせと、書いたけど、いじめとか虐待も含まれる。そういうことをしてきた他人に対しては、それは、うらみの感情が生じて当然だ。人間はそういうふうにできている。けど、自分になにもしてこなかった人間が、不幸になったところで、まったく、「めしうま」とか「ざまあみろ」という気持ちは生じないのだけど……。むしろ、かわいそうだと思うけどなぁ。自分に悪事を働いてきた人間が、不幸な目にあうなら、気持ちはわからないではないけど、まったく知らない他人が不幸な目にあって、『楽しい』とか『嬉しい』とか『飯がうまい』と感じるのは、おかしいんじゃないか。飯がまずくなるんじゃないのか? 


「他人の不幸がめしうま」だと感じる人間が住んでいる世界は、暗い。どれだけ、暗いか? 他人すべてが、憎しみの対象なのだから、暗くないわけがない。相当にくるしい思いをして生きてきたんじゃないかと思う。生きているあいだにあってきた他人が、みんな、くそ、なのである。みんな、腹立たしい存在なのである。そりゃ、くるしいだろう。

自分が好きな人が、不幸な目にあったら、そりゃ、こころがいたんで、くるしいと思うはずだ。どうにかしてあげたいと思うはずだ。ようするに、「他人の不幸はめしうま」と言っている人は、「好きな他人」がいないのである。荒涼とした世界の中で生きている。「他人はみんな敵」と思っているなかで、生きていくとしたら、どれだけ、つらいだろう。まあ、あかの他人と身近な存在である他人はちがうけど……。けど、身近な存在である他人のなかに好きな他人がいるのであれば、あかの他人に対しても、「他人の不幸はめしうま」みたいな感覚は育たないと思う。「めしうま」と言っている人は、身近な他人も敵ばかりなのである……たぶん。そりゃ、好きな他人にかこまれて生活していたら「他人すべてが敵」とは思いにくいからなぁ。

2020年12月2日水曜日

『ポジティブシンキングだ』などと考えて行動すると、ろ・く・な・こ・と・に・な・ら・な・い!


俺がまずいことをした記憶が突然、よみがえる時がある。これも、そのとき見ているニュースとか、自分の動作とか、そのとき見えているもの……コップでもコードでもなんでも……が関係しているんだけど、関係度がとてつもなく、うすい。

で、自分の方の失敗がある。けど、これも、ヘビメタ騒音で疲れまくっているところで、ポジティブシンキングをしたときに、やっていることが多いんだよ。他の人は、ヘビメタ騒音で疲れまくっているときがないのだから、わからないと思う。ヘビメタ騒音を鳴らしている、気違い兄貴の態度というのが問題なのだ。ほんとうに、気違い的なこだわりで、ものすごくでかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているという気持ちがないんだよね。あとは、「やめてくれ」「静かにしてくれ」と言われたときの態度が問題なんだ。これは、ここでは何回も説明しているけど、オヤジの態度とおなじなんだよ。なにか、不都合なことを言われたときのオヤジの態度と同じだ。発狂して無視するのだけど、無視したということも無視してしまうのだ。だから、言われた途端に、怒って、起こった途端に、言われたということを忘れてしまう……そういう態度だ。で、こういう『態度』でやられているとなると、本当にやばいのである。通されていること……押し通されていること……が押し通されていないことになっている。こういうとろに「うそ」がある。こういうところに、『認知の誤謬』がある。そうすると、そういう態度で「ずっと」「ずっと」「ずっと」気違いヘビメタが何時間も何時間も何時間もなっているということは、そういう態度をずっと押し付けられているということになる。もちろん、騒音は重要なのだけど……。騒音だけではないのだ。押し付けられていることは、騒音だけではない。ハンダゴテ事件のとき、兄貴が親父から、押し付けられているものは、使えないハンダゴテだ。これは、騒音じゃない。だから、親父とのやり取りは、親父と実際に関わっているときしかしょうじていない。親父が、現実を無視して、気違い的な意地で『使える!!!使える!!!』とわめいているとき、不愉快な思いをするわけだけど、それは、気違い親父と『交渉しているとき』でしかない。もちろん、使えないハンダゴテを押し付けられて、学校で恥をかくわけだから不愉快なんだけど……。そういう意味で効力が続くのだけど……。けど、兄貴が俺におつけているものが、ハンダゴテではなくて、騒音だということは、重要なことなんだよ。しかも、交渉のあと、ずっと続く。ハンダゴテの場合は、気違い親父にハンダゴテを押し付けられたあと、学校でハジをかくまでのあいだに、時間がある。その間は、とりあえず、ハンダゴテのことを忘れることができる。不愉快なんだけど……。けど、騒音は、『現前』してしまう。騒音は『持続』してしまう。無視できない。ハンダゴテ事件における『オヤジの態度』とヘビメタ騒音事件における『兄貴の態度』はおなじだ。まったくおなじ。けど、押し付けているものがちがうし、持続時間の長さがちがう。ようするに、騒音が鳴っているあいだじゅう、ハンダゴテ事件で言うと、親父と交渉しているとき……のいらだちが、続くわけだよ。交渉と言ったけど、交渉なんてよべるものじゃない。ともかく、『音のデカさ』と『持続時間』だけではない『要素』がある。それは、気違い兄貴の態度なのだけど、気違い的な態度なので……本当は、矛盾がある認識をしているので……他の人にはわかりにくい。本当は、矛盾がある認識というのは、『鳴らしてたって、鳴らしてない』『でかい音で鳴らしてたって、でかい音で鳴らしてない』という認識の問題だ。普通の人は、こういうことがあるということが、よくわかってない。ちなみに、オヤジの場合は『やったってやってない』ということになる。兄貴の場合も、本当に『やったってやってない』という部分がある。あれだけこだわって、人が言うことは絶対に聞かないで、やりきったのに、認知としては『やったってやってない』が常に成り立っているような状態なのだ。だいたい、『やったってやってない』という態度を持っているので、何回も、もめることになるのたげど、もめたということも、『もめたってもめてない」『そんなことはない』ということになって、本人のなかでは、関係がないことになっているのである。自分が優位にたって、ゆずらずに、やりきれるときは、こういう態度なのである。こういう認知・認識なのである。こういう感覚が成り立っている。この関係のなさというのが、また、他の人には理解しづらいことなんだよな。本当は、押し付けているのに、押し付けていると思ってないのである。そして、相手が不利益をこうむったということを、絶対に認めない。そりゃ、その時は、気違い的な意地で現実を否定するわけだから、そいつの頭の中では、押し付けてないことになっている。『相手が、自分には関係がないことで、文句を言ってくる』という感覚に似たところが、たぶん、ある。けど、絶叫して、発狂して、絶対ゆずらないで、押し付ける。だから、『関係がある』。けど、関係性も、無視される。

ともかく、こういう気違い的な他者……とくに、いっしょに住んでいる気違い的な家族に……不愉快なことをやられ続けると、へんなモードになるときがある。疲れと、ポジティブシンキングで、おかしくなる。これ、絶対に他の人にはわからないんだろうな。じつは、運動系の部活に入ってしまったときも、おなじような感じがある。普段なら、絶対にしないことをやってしまうんだよな。うちにいる時間を減らさなければならないという気持ちがあったんだよな。気違いヘビメタにさらされている時間をなんとしても、減らしたかった。

まあ、話がずれた。ともかく、ヘビメタ騒音にやられて疲れまくっているとき、『ポジティブシンキング!!ポジティブシンキング!!』なんて思うと、『ろくなことにならない』のである。これ、問題のある家族に長くやられた人じゃないとわからない。普通の人はそうではないのだから、普通に『ポジティブシンキングでいいじゃないか』と思ってしまう。どちらかと言えば、俺が悪い場合の、対人関係上のトラブルは、『ポジティブシンキング』とか考えているときしょうじるんだよな。寝不足で疲れまくっているときに、『ポジティブシンキングだ』などと考えて行動すると、ろ・く・な・こ・と・に・な・ら・な・い!!! ろくなことにならない。 


2020年12月1日火曜日

子供が自然に精神病になった場合と子供が親のせいで精神病になった場合


ここで、考えを整理するためにふたつの場合について考えてみよう。
子供が自然に精神病になった場合。……ほんとうに親のせいではない。……(4)
子供が親のせいで精神病になった場合。……ほんとうに親せいである。……(5)


子供が自然に精神病になった場合は、親のせいではない。子供が自然に発達障害になる場合、親のせいではない。子供が自然に妄想を抱くようになった場合、親せいではない。

 しかし、子供になんらかの障害がある場合、よその人が親のしつけが悪いからそうなっているではないかと考えてしまう場合がある。ようするに、「よその人」という要素が付け加わる。親が白なのに、親が黒だと思う人たちは、無実の親を追及することになる。

 

たとえば、多動型の自閉症スペクトラム障害の場合、ものすごく、わがままなことを言って荒れているように思われる場合がある。たとえば、多動型の自閉症スペクトラム障害である子供が自発的にやり始めたことを、親がやめさせようとすると、子供が騒ぐということがある。その場合、よその人は、「親が子供をあまやかせているから、そんなふうになるんだ」と思ってしまうことがある。

 

もちろん、家の中でそういうことが発生する場合が多いのだけど、電車のなかとか公園などでそういうことが発生する場合もある。その場合、よその人が、その状態を見て、親があまやかす「から」だめなんだと判断してしまうということが発生する。これは、親は白なのに、よその人が、障害の特性をよく理解していないので、偏見に基づいてそう考えてしまう場合だ。


いままで、親が白である場合とか、親が黒である場合について述べてきたが、これは、ぼくがここで述べているので、「親が白」とか「親が黒」ということが決まっているのである。実際には、医者やカウンセラーが判断することが多いのだけど、それも、その特定の社の目にはそううつるということだし、その特定のカウンセラーの目にはそううつるということしか意味してない。子供が神経症になっていたとしても、それは、絶対に親のせいではないという、信念を持っているカウンセラーは、親が黒である場合も、親が白であるとみなして、子供側の人に助言をすることになる。つまり、子供側をカウンセリングすることになる。その場合、そのカウンセラーは、間違った判断をして、間違った助言をしているのだけど、特定はできないということになる。どうしてかというと、こういう論考で、書いているときには、親が黒である場合について述べているということが、読者にもわかるのだけど、実際には、原因は不定のままだからだ。精神分析に傾倒しているカウンセラーなら、親が黒である場合を考えているので、親が黒である場合は、親が黒であるということを探り当てることができるだろうけど、認知療法に傾倒しているカウンセラーは、「原因なんて関係がない」と考えるので、親が黒であるということは、考えない。この場合は、自動的に親は白になる。世間的には、「悪者を探さず」「親を悪者にしないで」「現実的な対処法」を考える認知療法に傾倒しているカウンセラーは、よい存在だと思われるだろう。しかし、彼らは、最初から「可能性」を排除しているという点で、間違いをおかしている。なんの可能性かというと親がその症状の原因である可能性だ。また、症状を解決するためには「原因について考える必要がない」と考えている点で間違いをおかしている。原因を考えなくても対処療法で解決できる場合もあるが、原因を考えないと解決できない場合もある。原因を考えなくてもいい場合と、原因を考える必要がある場合があるのであれば、最初から、原因を考えなくてもよいとする態度をとるのは、問題がある。
 

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。