2023年10月31日火曜日

「過去が関係ない」なら

 「過去は関係がない」という考え方と、「言ったことが現実化する」と言う考え方を、両方とも、持っている人が多い。ところが、じつは、矛盾した部分があるのである。けど、矛盾した部分に、そのつど、気がつかない。だから、矛盾はないものとして感じられているものなのである。


「過去は関係がない」というのは、条件を無視した考え方なのである。過去の出来事が現在の状態に影響をあたえているのにもかかわらず、過去の出来事を無視することによって、現在の条件を無視するのである。

もちろん、無視した人にとっては、最初から無視できるもなのだけど、無視された人にとっては、無視できるものではない。

たとえば、AさんとBさんがいる。Aさんは九〇歳で、からだが老化している。Bさんは四〇歳の宗教家で、「過去は関係がない」とか「言ったことが現実化する」という考えにとらわれている人だ。あるいは、こだわっている人だ。

Bさんは、Aさんではないので、Aさんの体を使って生きているわけではないので、Aさんが「今現在」かかえているさまざまな『条件』を無視できるのである。自分がAさんのからだを使って生きているわけではないので、Aさんの老化は関係がないものなのである。

関係がないものになると、自分が無視すれば、相手も無視できるはずだと考えてしまう人たちがいる。自分のことにかんしては、過去からの時間経過と、過去の出来事の記憶があるので、「理由をもったもの」になるのだけど、ほかの人のことにかんしては、過去からの時間経過と、過去の出来事の記憶がないので、「特に理由持っているもの」にならないのである。ようするに、その人にとっては……関係のない人にとっては、軽く無視できるものになるのである。

たとえば、「体調が悪い」ということも、簡単に無視できるもなのである。条件と言っているのは、たとえば、体調が悪いという条件なのである。これは、言ってみれば、身体的な条件だ。

しかし、それは、身体的な条件という一つの視点を導入したから、「身体的な条件」という言葉にして切り出すことができるものなのだ。

じつは、無数の視点があり、そのうちの、いくつかの有力の視点は、本人にとって無視できないものだ。

ところが、本人ではない人にとっては、「そんなのはどうでもいい」ことなのだ。だって、本人じゃない人は、本人が身体的にくるしんでいたとしても、まったく、くるしくないから、実感としては「どうでもいいこと」なのである。

老化による体の衰えを実感しているのは、AさんであってBさんではない。ならば、Bさんの現実にとっては、どうでもいいことなのだ。さらに、「こだわる」という便利な言葉がある。

「こだわっているからダメなんだ」という理屈を言い出す。相手が「こだわっているからダメなんだ」と言えば、それで、ちゃんと説明をした気分になる。

これも、視点の移動で説明がつく。自分の身体でなければ、「体の調子が悪い」ということに「こだわっている」ように見えるのである。他人の言ってることは、そういうレベルのことでしかないのである。自分のからだの調子が悪くなれければ、他人のからだの調子が悪いということは、「現実味がないもの」なのである。

自己チューな人にとってはそうだ。

想像力が限られているので、相手が、どれだけたいへんかということについて、見積もりちがいをしているのである。

けど、これも、別々の身体をもっているわけだから、自分のことのようには、感じることが出なない感覚なのである。そして、感覚がそのまま言葉になっているわけではなくて、感覚と、感覚について語られる言葉には、差がある。相手の言葉をキャッチすることが苦手な人?は、自分のなかの自動的な思考で、相手の言葉をとらえてしまう。

ようするに、自分の過去や自分の身体感覚に依存するものは、自分のことなので、「理由として理解する」けど、他人の過去や、他人の身体感覚に依存するものは、他人のことなので、「理由として理解しない」のである。つまり、理由として認めないのである。

*     *     *

 これは、言ってしまっては、まずいことなのかもしれないけど、「過去が関係ない」なら「こういうふうに言った」という過去の出来事も関係がないことになる。言霊理論は成り立たない。「言ったことが、現実化する」というのが言霊の理論だ。ところで「言ったこと」って、すでに言ったことだよね。過去が関係ないなら、言ったことなんて関係がないということになる。じつは、矛盾した部分がある。

 

 


「生き返ると言えば、生き返る」 あとでけす

葬式のとき、満面の笑みを浮かべて「生き返ると言えば、生き返る」と言った人がいたら、どう思うよ? ニコニコすれば、いいことがあるのか? 「言ったら、言ったことが現実化する」のか? 「言ったら、言ったとおりになる」のか? だったら、どうして、「一秒後に、○○さんは生き返る」と言わないのか?

 

常識的な考え方を、見えない形で「レイプ」してしまう

 きちがいヘビメタ騒音は、どれだけ無視しても、からだに対する影響がでかいんだよ。この影響のでかさが、きちがいヘビメタ騒音を経験した人じゃないとわからない。言っておくけど、ぼくにとってのヘビメタというのは、ヘビメタが好きな人にとってのヘビメタとはちがう。この世で一番、苦手な音楽なんだよ。音楽とは、とてもとても、呼べないものなんだよ。強制的に、発狂なんだよ。あの音を、音のでかさで鳴らされたら、そりゃ、眠れなくなる。鳴り終わったあと眠れなくなる。一日中、きちがい音楽の影響をうけることになる。どれだけ「私は影響をうけない」と言ったって、うけるんだよ。言霊主義者は、そういう経験がないから、勝手なことを言う。きちがい兄貴は、きちがいだからきちがい的なやり方で、「無視」をする。やっていることの無視だ。耳が正常なら、絶対にでかい音で鳴らしているということがわかるのに、でかい音で鳴らしてないつもりのままだ。うちだと、鳴らせる。よそのうちだと鳴らせない。いま『きちがい兄貴が』住んでいるマンションでは、鳴らせない。ちゃんと、「やばい音だ」ということがわかっている。けど、「うち」では、わからない。そして、これが、わざとやっていることではないということが、問題をでかくする。普通ではないので、普通の人には考えられないことになる。でかい音で鳴らしていれば、聴覚が正常なら、でかい音で鳴らしているという意識をもつはずだというのが、常識だ。普通の人のなかにある考え方だ。ところが、きちがい兄貴の、この普通の人のなかにある常識的な考え方を、見えない形で「レイプ」してしまうのである。これ、レイプなんだよ。きちがい親父もおなじだ。きちがい親父も、普通の人のなかにある常識的な考え方を、見えない形で「レイプ」している。レイプの常習犯だ。つねに、自分にとって都合が悪いことにかんしては、そういう「魔法」がかかってしまうのである。これが、無意識的な過程で行われることだから、本人は、ほんとうに、わかってないというところがある。無意識的な感覚ではわかっていることなのだけど、意識的な感覚では、わかっていないことであり、わからないことになっている。だから、それを利用して、自分の意識的な意地をとおしてしまう。けど、この意識的な行為を、くそ意地を発揮してやっているのにもかかわらず、「やってない」のとおなじ認識をもってしまうのである。だから、そういう意味で、「やられたほうは」、認知をおかされるわけだから、「よけいに腹がたつ」のである。この「よけいに腹がたつ」部分というのは、たとえば、普通の家に生まれた人にはわからないことなのである。だから、普通の家に生まれた人は、感覚器を書き換えてしまうタイプのきちがいがいる家で起こることについて、必然的に、誤解をする。誤認をする。正しい認識をもつことができない。

2023年10月30日月曜日

正常な家族のもとに生まれた人には、きちがい家族の異常さがわからない。

 けっきょく、ヘビメタ騒音のことは、ほかの人にはわからない。ほかの人には、一日の重みですらわからない。いまでも、ときどき、中学時代の会話が思い浮かぶときがあるんだけど、ヘビメタ騒音のことを言わないで人とつきあっている場合、やっぱり、ほかの人は、いろいろと誤解をするんだよ。けど、言ったら、誤解がとけるかというとそうでもないんだよ。きちがい兄貴の性格や、きちがいヘビメタ騒音のひどさが、ほかの人にはわからない。正常な家族のもとに生まれた人には、きちがい家族の異常さがわからない。きちがい兄貴が、すっとぼけているというのがいやなんだよな。絶対の意地でやるのに、まったくやってないつもりでいるんだよね。これが、きちがい親父とおなじなんだよ。そして、ぼくの一日というのは、きちがいヘビメタ騒音で埋まっている。なにもしてないつもりのまま、俺の一日を粉砕する。きちがい兄貴は、きちがいおやじとおなじ頭の構造をもっているので、気にしない。その気にしないというのは、「やってない」場合の「気にしない」とおなじだ。一日に、ヘビメタを一分も鳴らしてない状態とおなじ状態なのである。一日に、一三時間きちがいヘビメタを、普通の家では、一分間だって鳴らせない音のでかさで鳴らしても、一分も鳴らてない状態とおなじなのである。意識、感覚、認知がおなじなのである。こんなバカなことはないけど、そういうバカなことが、きちがい兄貴の頭の中で、普通に!成り立つ。本人の態度というのは、「鳴らすな」と言われたから、一糞も鳴らしてない場合の態度とおなじなのである。そういう態度で暮らしているのである。絶対に、一分もゆずらないで、何時間も何時間も、自分が鳴らしたい音で鳴らしているのに、きちがいだから、なにを言われても「鳴らしてない」と思っているときの態度が続く。こんなのは、ない。普通の人だったら、何時間も何時間も鳴らしているのに、一分も鳴らしてないという態度をとる場合、どうしても、意識する。芝居をすることになる。意識的に芝居をすることにならざるをえない。ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、普通に「鳴らしてない」という態度で暮らしている。これが、頭にくる。きちがい的な意地でやっていることを、完全に無視して、やってないつもりでいる。

 

2023年10月26日木曜日

ほんとうに、ぼくの人生というのは、きちがいにやられて、バカにバカにされる人生だ

 本当に、水俣病の人に「過去なんて関係がない」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言っているようなものなのだ。ほんとうに、水俣病の人に「過去の出来事は、現在に影響をあたえない」と言っているようなものなのだ。脳みそが、器質的に変化すれば、感情面でも影響がある。ヘビメタ騒音の繰り返しと、毎日の睡眠不足は、器質的な変化をひきこ起こしたと思う。これ、分子レベルの構造的な変化なんだよ。

一日のなかでの感情の変化というのはある。一日のなかで、憂鬱になることがあれば、憂鬱になる。けど、けど、けど、数千日の繰り返しは、質的な変化をうみだす。ちがうんだよね。けど、数千日の繰り返しを経験してない人は、質的な変化がないわけだから、一日のなかでの変化しか、経験してない。そういうレベルの「憂鬱」を考えてしまう。数千日も、二時間、三時間しか眠れないような状態が続き、きちがい家族によるしつこい騒音が毎日、何時間も何時間も数千日にわたって続けば、そりゃ……。みんな、わかってない。そういうレベルの騒音であるはずがない。そういうレベルの憂鬱であるはずがない。そういうレベルの「困難」であるはずがない。これ、やられればみんな、「楽しめなくなるのに」……そういう経験がなかった人に「本当につまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」なんて言われるようになる。ぶっとばしてやりたくなるね。けど、ぶっとばさないけど。

これ、みんな、ヘビメタ騒音・数千日を、あまく見て、好き勝手なことを言うんだよな。自分だっておなじ状態で、数千日暮らせば、「楽しめなくなる状態」になるのに、そういうことを言う。人間なら、そうなるのに……。人間なら、脳が器質的に変化してそうなるのに……。数千日は、十数年間でもいい。

 めちゃくちゃにつかれているのに、その日、きちがいの音にずっとさらされたので、眠れない状態なんだぞ。夜ずっと、そういう状態なんだぞ。そのときの時間経過が、どれだけくるしいか、みんなわかってない。『鳴り終われば眠れる』と思っている。そんなんじゃない。そういうレベルの経験をしたことがない。好き勝手なことを言うな。

ほんとうに、ぼくの人生というのは、きちがいにやられて、バカにバカにされる人生だ。

けど、おなじように、影響のでかさを無視するのである。

 だから、まあ、朝の雰囲気がヘビメタ騒音の雰囲気なんだよね。朝の雰囲気が、ヘビメタ騒音期間中の、朝の雰囲気なんだよね。この朝の雰囲気が、絶望を呼び起こす。この朝の雰囲気が、死にたい雰囲気だ。まあ、自殺したりはしないけど……。しんどかったなぁ……。ヘビメタで……。だれも毎日、繰り返し、経験したことがないんだよな。ヘビメタ騒音の前の、朝の雰囲気を経験しているんだよなぁ。みんな……。経験してないわけだから、みんな、ぼくにとってはヘビメタ騒音前の、朝の雰囲気を経験しているわけだよな。それじゃあ、言うことがちがってくるよ。きちがいヘビメタが、異常なんだよ。あんな音がずっと続いてたというのが異常なんだよ。きちがい兄貴が異常だから、続いた。どれだけ言っても、続いた。どれだけ、ケンカしても、続いた。頭がおかしいから、まったく悪いと思わない。頭がおかしいから「でかい音で鳴らしている」ということが、まったくわからない。そんなのはおかしい。聴覚が正常なら、絶対に、「でかい音だ」と思う音なんだよ。本人だって、無意識がかかわらない感覚器のレベルでは、でかい音だということを知っていたから、無意識的かかわる感覚のレベルでは、でかい音だということを認めなかったんだよ。認めたら「でかい音」で鳴らせなくなってしまう。認めたら、普通の音で鳴らさなければならなくなる。だから、どれだけでかい音で鳴らして立って、「普通の音」だと感覚することにした。で、そういうきちがい回路が成り立っている人間だから、ごく自然に、そういうズルをした。ズルなんだよ。兄貴も親父も、ズルなんだよ。ズルをして、やりきる。ズルをしてやりきれば、「やったことになってない」のである。本人の、感覚、認知、認識が「やってない」と判断?してしまうのである。ともかく、ズルい。ズルい。あんなの、外から見れば一目瞭然なのに、本人は、どれだけ言われたってわからないという感覚でやっている。わからないのだ。頭がおかしいからできることなんだぞ。頭がおかしくなければ、どれだけ、意地をはってやったってあんなことにはならない。頭がおかしくなれれば、どれだけ、無視してやったってあんなことにはならない。無意識のレベルで書き換えている。どれだけでかい音で鳴らしたって、でかい音で鳴らしているとは思わないのだから、こっちとしては、やっかいなのだ。で、そういうタイプの家族がいなかった人には、これがわからないのである。実際そういうタイプの家族がいる人というのは、本当にレアだ。だから、ほとんどの人が、知らないのである。きちがい家族による、しつこい、騒音を知らないで、育っているのである。きちがい家族による、でかい騒音を、知らないまま、育っている。知らないのだから、「そんなのはへんだ」と思ってしまうのである。あるいは、影響のでかさを、ごく自然に、無視してしまうのである。自己チューである人は、相手の状態がわからないんだよな。自己チューな人はみんな、みんな、みんな、影響のでかさを、普通に無視してしまう。これだって、きちがい兄貴とは、しくみがちがうけど、言ったって、わからない。俺が、影響のでかさについて説明したって、経験してないことについてはわからないという意味で、まったくわからない。どこまでもどこまでも、影響のでかさを無視したことを言う。言いやがるんだよ。しくみはちがうよ。きちがい兄貴と、自己チューである人は、しくみがちがう。自己チューである人には、きちがい兄貴にはある、感覚器の書き換えなんてない。そういうレベルで狂っているわけではないのだ。けど、けど、けど、おなじように、影響のでかさを無視するのである。

2023年10月25日水曜日

相手にどれだけはっきり言われたって、きちがい発狂モードで無視だ

 俺がきちがい兄貴のヘビメタ騒音でこまっているのに、関係のない人として、横の部屋でずっと鳴らし続けやがって。クリスマスだって正月だって、きちがいヘビメタ騒音つきなんだよ。中間テストだって期末テストだってヘビメタ騒音つきなんだよ。夏休みだって冬休みだって、春休みだってヘビメタ騒音つきなんだよ。土曜日だって、日曜日だって、祭日だって、ヘビメタ騒音つきなんだよ。入学試験のまえだって、入学試験日だって、入学試験のあとだって、ヘビメタ騒音つきなんだよ。

ほんとうに、関係がない人として鳴らしていた。ほんとうに、関係がない人として鳴らしていた。こんなの、きちがいじゃないとできない。きちがい兄貴が、一番気にしてないのだ。「鳴らすな」と言われると、「竹をうえないでくれ」と言われたきちがい親父のように、あぶらあせをかいて、からだじゅう、真っ赤にして、発狂して、鳴らしてしまう。

鳴らし続けてしまう。

これ、「竹をうえないでくれ」と言われたときの、きちがい親父の態度とまったく同じなのである。竹のときは、反対語を、きちがい親父は叫ばなかった。反対語バージョンと、無言バージョンがある。

けど、どっちも、きちがい親父のなかでおなじことが起こっているんだよ。けっきょく、やっちゃうわけ。自分の意地をとおすわけ。相手の気持ちを粉々にするんだよ。けど、自分が迷惑をかけたつもりはないんだよ。そんなの、相手にどれだけはっきり言われたって、きちがい発狂モードで無視だ。

きちがい親父が竹をうえたから、ひどいことになっている。で、このあいだ、ネズミ対策業者に見積りにきてもらったとき、「玄関のところに立っていただけで、蚊に刺された」と俺が、文句を言われた。

ネズミ対策業者の人が、玄関に立って、俺が出てくるのをまっていたわずかな時間のあいだに、蚊に刺されたということを言った。で、ぼくは、自転車を出すだけで、蚊に、何か所も刺されているんだよ。だから、抗議の気持ちがわかる。

けど、俺に言われても、こまるんだよな。きちがい親父がきちがい的な意地でうえちゃったものだから……。これ、もうちょっと詳しく書きたいのだけど、やめておく。

けど、なんて言うのかな? ぼくが、ネズミ対策業者の人に悪いことをしたような気持ちになって、悶々とする。「親父が、うえちゃった。親父は昔から、おかあさんの言うことをきかない。俺とおかあさんが猛烈に反対しているのに、うえてしまった」と言うようなことを言ったんだけど、そのネズミ対策業者の人は「今ここにいない人のことを言ってもしかたがない」ということを言ったわけ。

「けど、親父が入院して、そのあと、いろいろあって、あれでも、一回、竹を一六万円かけて、切っている」とぼくが言ったのだ。「あれで切ったんですか? あれよりもたくさん、はえていたと言うのですか?」と言われたよ。

まあともかく、話がずれたけど元の話にもどす。「そんなところに、竹の根をうえたら、あとでたいへんなことになる」とおかあさんが、ちゃんと言ったのだ。「そんなところ、竹の根をうえたらたいへんなことになるから、うえないでくれ」「うえないでくれ」と言っていたのだ。

俺は、ただ見てただけだけど、きちがい親父の形相がすごいんだよな。そういうことを言われたときの形相がすごい。顔、真っ赤なんだよ。けど、真っ赤なのは、顔だけじゃなくて、全身、まっかっかなんだよ。上半身が、まっかっかなのは、確認した。あぶらあせをかいて、顔をこわばらせて、うえちゃった。

問題なのは、妻が、猛反対したということをまったく理解してないのである。

自分が竹をうえるときに、妻が「うえないでくれ」「うえないでくれ」と言ったということを、わすれちゃっているのである。だから、「うまくうえられただろ」「いい竹だろ」とおかあさんに言う。横で、おかあさんが必死になって「やめてくれ」「やめてくれ」と言ってたのに、「やめてくれ」「やめてくれ」と言っていた相手に、「いい竹だろ」なんて、言っている。「うまいことやったから、ほめてくれ」と言いたい気持ちなのである。この竹の根というのは、親父の知り合いからもらってきたもので、それも、親父にとっては「お手柄ポイント」なんだよ。ただでもらってきたというところが、自分のなかてすごいところなの。だから、本当は、家族が、よろこんでくれなければいけないわけ。けど、「やめてくれ」と言われた。普通の人は、無視して、やり続けたときだって、相手が反対したということは、おぼえている。けど、それがまったく、ないのである。これがひどいところなんだよ。つくづく、普通の人とはちがう人なんだなと思う。こんなのない。

2023年10月23日月曜日

ずっと、言い続けて、努力すればいい?

 「言霊理論はまちがっている」ということを、俺が、言霊主義者に言ったとしよう。

そうすると、たいていの言霊主義者は怒る。

すぐに、言霊を利用して、自分のご機嫌をとればいい。

「エイリさんが正しい」「言霊は、たしかにまちがっている」と言って、楽しくなればいいのである。

「自分の間違いを指摘されて、うれしい」と言えばいいのである。言霊理論が正しいなら、実際に、うれしくなるのだから、うれしいと言えばいい。

「楽しい楽しい」と言えば、実際に楽しくなるのだから、言霊理論を否定されたときも「楽しい楽しい」と言って、楽しくなればいいのである。

どうして、いつまでも、怒っているんだよ?

まあ、これは、もう、指摘したからいいか。もうひとつ指摘しておこう。

「希望をもって努力すればいい」ということと「言ったことが現実化する」ということが、イコールになってしまうらしい。「なんじゃ、それは??」とぼくは言いたくなる。「言ったことが現実化すると思って、希望をもって努力すればいい」……こういう話になってしまう。

「言ったことが現実化すると思って、『現実化する。現実化する』と繰り返し言いながら、努力すればいい」……こういう話になってしまう。

「言ったことが現実化すると思って、『願いが現実化する。願いが現実化する』と繰り返し言いながら、努力すればいい」……こういう話になってしまう。

言ったことが、現実化するのであれば、一回言ったら、現実化してしまうんだよ。

一回言ったのに現実化しないということは、言霊にはそういうチカラが宿ってないということなんだよ。ずっと、言い続けて、努力すればいい?

それなら、「希望をもって努力すればいい」と言えばいいだろ。

「言葉にはすごいチカラが宿っている」とか「言霊にすごいチカラが宿っている」とかと、言う必要がない。「言ったことが現実化する」「これは正しい」と言う必要がない。

「希望をもって努力すればいい」と言えばいいだろ。

「希望をもって努力すればいい」という文のなかには、「言霊」なんて言葉はひとことも、出てこないぞ。

*     *     *

さっきの話だけど、目上の人には「希望をもって努力すればいい」と言いにくいんだろうなと思う。成功者には「希望をもって努力すればいい」と言いにくいんだろうなと思う。

自分より相手のほうが成功しているだから、「希望をもって努力すればいい」とか「希望をもって努力すれば、いつか成功する」とかということは言いにくいことになるわけだ。

「自分より相手のほうが成功している」というのは、そういうふうに思っている人がそういうふうに思っているだけだ。

ようするに、「自分よりも相手のほうが成功している」と思っている場合は、相手に対して「希望をもって努力すればいい」とか「希望をもって努力すれば、いつか成功する」ということは言いにくくなる。

だって、自分より成功している相手に、「こうすれば成功する」と言うつもりになるか?

自分より成功している相手に、「努力すれば、いつかは成功する」と言うつもりになるか?

自分より成功している人に、言ったっていいんだよ。

けど、言ったら、ほかの人から「あの人は、発達障害者だ」とか「何様のつもりだろう」とか「空気読めねぇ~~」とかと言われておしまいだ。本人は他の人にそういうことを言う、常識側の人間だから、そういうことをしない。

自分より上の相手には、言霊理論が正しいという前提に立った、解決策なんて、言えない

 相手が「自分より下だ」と思うと、途端に「言霊はすごいチカラをもっている」という話をしはじめてしまうのである。ほんとうは、本人だって、言霊じゃ問題を解決できないことを知っているのである。だから、問題を解決できそうにもないことにかんしては、言霊を使って解決しようとしないのである。

「言ったことが現実化する」「言霊にはすごいチカラが宿っている」のであれば、ほんとうに、政治の問題だろうが、経済の問題だろうが、言っただけで解決できるのである。

どれだけ言っても解決できないから、言霊ではない、現実的な方法を探して、こころみているのではないか。自分だって、現実的な問題には、そうしているのに、「相手」のことになると、途端にそういう現実的な思考が「きれて」しまって、「言霊」「言霊」と言い出す。

もし、言霊が正しいなら、ほんとうに、相手の問題だって、解決できるのである。「自分で言って解決しなければならない」という文は、「言ったことが現実化する」「言霊にはすごいチカラが宿っている」という文のなかには含まれていない。

相手の問題を自分が言って解決することができるのだ。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが言霊主義者で、Bさんがおカネにこまっていたとする。Bさんが「おカネがはいってくる」と言わなくても、Aさんが「Bさんのところに、おカネがはいってくる」と言えば、Bさんのところにおカネがはいってくるのである。

「言ったことが現実化される」のだからそうなるのである。おカネがはいってくるというところを、「一億円はいってくる」と言っても、言ったことが現実化されるのだから、現実化されるのである。

「一億円はいってくる」というところを「一兆円はいってくる」と言っても、言ったことが現実化されるのだから、そうなるのである。

そうならないのであれば、「言ったことが現実化されない」のだから、言霊理論はまちがっているのである。正しくない理論なのである。

金額だけではなくて、時間に関しても、おなじことが成立する。「一〇秒以内に一億円はいってくる」と言えば、かならず、一〇秒以内に、一億円はいってこなければならないのである。

はいってこないのであれば、言霊理論は正しくなかったということになるのである。言霊のすごいチカラなんてなかったということになるのである。言霊では、問題を解決できなかったということになるのである。

こういうことを、無視して、「言ったことが現実化する」「言霊にはすごいチカラが宿っている」と言い続ける。自分より下の相手だと思ったら、それが真実だと言える。

これ、自分より上の相手には、言えない場合がある。たいていの場合は、自分より上の相手には、言霊理論なんて、言えない。言霊理論が正しいという前提に立った、解決策なんて、言えない。言えないのだ。言ってみろ。

この、自分より下の相手かどうかというのは、自分のこころのなかにある基準で決まっている。だから、ある人と別のある人のあいだで「どっちが上か」ということにかんする見解が一致しない場合がある。

CさんとDさんがいたとする。Cさんは、Dさんより自分のほうが上だと思っている。DさんはCさんより自分のほうが上だと思っている。こういう場合がある。こういう場合は、トラブルがしょうじやすい。

手短に言うと、言霊主義者が、言霊理論を「ぶつけられる相手」というのは、こまっている人なのである。こまっている人というのは、自分より立場が下である思う場合が多い。

こまっている人は、こまっている人だから、立場が下だと考える人がいる。ごく自然にそう考えてしまう。

だから、実際に、生まれの格差「下の下」でこまっている人は、言霊主義者から、言霊理論を「ぶつけられる」確率が高くなるのである。そして問題なのは、言霊主義者は、ぜんぜん考えてないけど、言霊理論がまちがっているということなのだ。

言霊理論に基づいた解決策というのは、「カス」だ。「スカ」だ。無効で有害なのだ。

多くの人は、有害ではないと思うかもしれないけど、有害だ。

どうしてかというと、こころみると、エネルギーと時間を使ってしまうからだ。

これ、「かつかつの人」「よゆうがない人」「おぼれかけていてアップアップの人」「つかれはててエネルギーがない人」「時間がない人」にとっては、エネルギー消費は死活問題なのである。かすの方法を試して、エネルギーを消費してしまうと、それが、打撃になって動けなくなる。

なにもわかってない。なにもわかってない。

 


不愉快な出来事をひとつ、増やすな

 言霊主義者に言っておきたいことがある。言霊主義者が言っていること言うのは、ブラック社長が言っていることとおなじだ。どうしてなら、ブラック社長が言霊主義者だからだ。

そして、ブラック社長の場合は、言霊理論を利用して、いろいろなトラブルをつくりだしている。名前だけ店長にしてみれば、ブラック社長の「この態度」が問題なのである。

ブラック社長に「やすませてくれ」ということを言うと「つかれると言うからつかれる。元気だ元気だと言えば、元気になる」とか「つらいと言うから、つらくなる。楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というような言霊的な反応が返ってくる。

名前だけ店長にしてみれば、この対応が、元気をそぐものなのである。活力を失わせることなのである。

きちがいブラック社長が、いろいろなことをおしつけてくるから、名前だけ店長はくるしいのである。

ブラック社長が、名前だけ店長が言うことを認めず、いろいろなことをおしつけてくるから、元気がなくなるのである。

この、ブラック社長という元凶が、きちがい的なことを言う。言霊理論だ。

条件の悪いものにとっては、有害である言霊理論をおしつけられることが、不愉快な出来事になるのである。

それ自体が、不愉快なことだ。

条件が悪い人というのは、いろいろなトラブルを抱えている。たとえば、きちがい家族が、よその家ではありえないような、でかい音で、ヘビメタを鳴らす。

いっぱい、いっぱいなんだよ。いっぱいいっぱいなんだよ。

言霊主義者との交流が、いやな出来事のひとつになるんだよ。条件が悪い人は、もう、何十年間も毎日、いっぱいいっぱいで暮らしているだよ。いっぱいいっぱいで暮らしている人に、有害な方法をおしつけて、不愉快な出来事をひとつ、増やすな。

「ああいえばこういう」という感じで矛盾に満ちたことを語って、トラブルをひとつ、増やすな。

「条件の無視」という「病気」は、どうにかならないのか?

「出来事の無視」という「病気」は、どうにかならないのか?

言霊主義者の「条件の無視」という「病気」はなおる!

いま、俺がなおる言ったから、なおるはずだ。

なおらなかったら、言霊理論がまちがっているということだ。

 *     *     *

言霊主義者は、まさか、ワクチンをうけに行ったりしてないよね。ワクチンを打ってもらうとために病院やその他の会場に行ってないよね。なんで、ワクチンをうけに行くかな?

どうして、病気に関しては、言霊を使わないの?

言霊はものすごいチカラをもっているんでしょ。なんで、ワクチンにたよるんだ。言霊主義者が「一秒後に、新型コロナウィルスは、すべて死ぬ(非・アクティブな状態になる)(この世から消えてなくなる)(消滅する)」と言えば、一秒後には、新型コロナウィルスの問題なんてなくなっているわけでしょ。

なくならないなら、言霊は、ものすごいチカラをもってないということになるんじゃない?

まあ、これ、新型コロナウィルスはすくなくても、みんなが思っているような状態では存在してないけどね。最初から……。けど、まあ、存在しているという前提でいいよ。

別に世界中の新型コロナウィルスを無効化しなくても、「自分は新型コロナにはかからない」とひとこと言えば、新型コロナには、かからないんじゃないの?

どうして、ワクチンをうけに行くの?

ねぇ、どうして? どうして?

*     *     *

言霊理論が正しいなら、政治の問題だって、経済の問題だって、ひとこと言えば、解決できるはずなのである。言霊主義者が、会社を経営しているということ自体がおかしい。さらに、言霊主義者がおカネをえるために働いているということ自体がおかしい。言霊の力を使って、おカネをもうければいいでしょ。言霊の力は絶対だから、絶対に、おカネがはいってくる。言霊の力にたよれないから、働いているんでしょ。

言霊にはすごいチカラが宿っているなら、言霊で、おカネをもうければいいでしょ。

いや、もうける必要なんてない。「俺は、一兆円すでに持っている」と言えば、「持っている状態」が実現化されるはずだ。

どうして、働いて、お金をかせぐんですか?

どうして、政治のことについて文句を言うんですか?

どうして、社会問題についてあれこれ言うんですか?

そんなの、言霊で解決すればいいでしょ。

言霊で解決できないから問題になっているんでしょ。どうして、自分にとって、現実度が高いものに関しては、一切合切、言霊を利用しないのですか?

利用しないのではなくて、利用できないのでしょ。利用しようとしても、言霊が無力なので、言ったことが現実化されないんでしょ。

なんで、人のことになると、途端に、「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」ということになるのですか? なんで、自分にとって現実味がないことだと、途端に、「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」ということになるのですか?

現実的な問題でいっぱいいっぱいなのに、「できると言えばできる」というような言霊的な発言をして、トラブルをひとつ、増やすな。

不愉快な交流を、ひとつ、増やすな。

 

 

 



無数の不愉快なことを経験することになる

 はっきり言ってしまえば、家族にやられている人にとっては、言霊主義者がトラブルのタネになってしまうのである。

わかるわけがないか。

だめだということがわかっている方法を、さも有効な方法として語りだすやつ……。

はっきり言えば、不愉快なんだよ。そういう言霊主義者との交流が、「いやなこと」のひとつになってしまうんだよ。それじゃなくても、ヘビメタが鳴っているということは、一日のなかで、無数の「不愉快なこと」を経験したことになる。

もう、一兆とか一京というような数字の単位ではない。

じつは、どういうふうにカウントするかは別にして、無数の不愉快なことを経験することになる。「不愉快な出来事」というのをどういう区切りで考えるかということが、問題になる場合がある。

ヘビメタ騒音というのは、区切りなく、続いている。

もちろん、午後一一時一一分になれば、終わるのであれば、そこで区切れるということになる。

しかし、ほかの事柄との関係を考えると、鳴っている時間内のことでも、どこで区切れているのかわからないというような状態になる。連続しているのだから、そうなる。

さらに、ヘビメタ騒音で眠れないということになると、次の日に影響をあたえる。ヘビメタ騒音で眠れないということ自体が、ヘビメタ騒音の影響によって引き起こされたことなのだから、これも、ヘビメタ騒音関係のトラブルだ。直接の原因になっている。

 

で、ほかの人は、不可避的だということがわかってない

どんだけひどいおとで いまさっき、ゴミの青いカゴが出てくるのをまっていたんだけど、やっと出てきた。それで、生ごみを出してきた。だいぶ前から、眠たくなっていたんだけど、青いカゴが出てくるのをまっていた。この時間が、憂鬱なんだよ。さらに、郵便受けにある郵便物がはいっていて、その郵便物を読んで、憂鬱になった。時間を決められて、やらなければならないことができてしまった。これを、パスすることはできない。土地のことで、どうしても必要な作業だ。それでまあ、その日時に起きているかどうかわからないのである。いまの入眠時間から逆算すると、相当にやばい。この状態で、作業につきあわなければならなくなる。眠たいときに、ゴミを出すための作業をしていたのだけど、それが、めちゃくちゃに憂鬱なのだ。特に、朝は、憂鬱だ。眠たい朝は、とてつもなく憂鬱だ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音があったからだ。ヘビメタ騒音が鳴っていた期間のなかで、ぼくが学校に通っていた期間は、約六年と六カ月間だ。この、六年と六か月間がきいているのである。きいている。毎日なんだぞ。毎日。平日は、毎日なんだぞ。これがどういうことかみんなわかってない。どうしてわかってないかというと、きちがい兄貴がいなかったからだ。きちがい的な感覚で、きちがい的なヘビメタを、きちがい的な意地で、鳴らしまくる兄貴というのが、いなかった人ばかりなのだ。俺だけが、そういうきちがい兄貴にやられた。きちがいのやり方というのは、きちがいなんだよ。きちがい親父が、きちがい的な意地で竹を植えたように、なんだろうが、自分にとって不都合な情報は、シャットアウトするんだよ。けど、シャットアウトした気持ちがないんだよ。認識がない。で、こういう状態の人を見たことがないとは、ぼくがなにを言っているのかわからない。これがどういうことなのか、わからない。ともかく、うちには、きちがいが二人いて、普通の家だったら、絶対に、一分間だって鳴らせない音を、きちがい兄貴が毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしていた。その持続が、俺の睡眠に影響をあたえて、睡眠が、俺の日常生活影響をあたえるんだよ。それは、鳴ってない時間も含めてそうなんだよ。きちがい兄貴が、朝も、きちがいヘビメタを鳴らしていた期間があった。つらかった。けど、きちがい兄貴が、朝は、きちがいヘビメタを鳴らしていない期間も、つらかったのである。きちがいヘビメタがない人だって、「俺だって朝はつらい」と言う。けど、つらさのつらさがちがうんだよ。きちがいヘビメタがない、仮面うつ病の人が、「俺だって朝はつらい」と言ったって、きちがいヘビメタが十数年にわたって鳴っていた僕とは、つらさのつらさがちがうのぉ!! で、これは、不可避的なんだよ。で、ほかの人は、不可避的だということがわかってない。実際に、会社や役所に通勤している人が、「俺だって朝はつらい」と言ったって、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ヘビメタがきちがい的な音で鳴っている毎日を、経験してない人の「朝のつらさ」とぼくが感じている「朝のつらさ」ちがうんだよ。だいたい、通勤しているのだから、通勤しているわけで、通勤することができるわけだ。そういうつらさなんだよ。通勤すことがどうしてもできないような体になってしまうようなつらさじゃないんだよ。けど、きちがい兄貴が、その人たちにはいないので、きちがい兄貴というものと、いっしょにすごした、十数年間鳴り、二十数年間がない。そうなると、想像でものを言うしかないということになる。「俺だって朝はつらい」……。実際に、通勤できているのなら、通勤ができるぐらいのつらさなんだよ!! きちがいヘビメタ騒音の六年と六カ月がないじゃないか。土曜も日曜も鳴っているんだぞ。ちなみに、土曜日も、学校に通っていたの!! 土曜は早帰りだった。昼間に帰ってくると、きちがいヘビメタが鳴っていた。うちのドアを開けるのがいやだった。ドアは、だいぶ防音効果があるのだ。どんだけ、ひどい音で鳴っているか、みんなわかってない。「うちのなか」でどれだけひどい音で、きちがいヘビメタが鳴っているのか、みんなわかってない。みんな、わかってないんだよ。毎日繰り返されて、毎日寝不足なのだから、つらいに決まっているんだよ。一日に二時間しか眠れな状態でずっと暮らすのはつらいんだよ。鳴ってない時間も、つらいんだよ。別に朝じゃなくても、ずっとつらいんだよ。ともかく、きちがい的な家族がいない人が、きちがい的な家族がヘビメタ騒音……(自分)にとって苦手な音をものすごい音で鳴らしているということを人生のなかで、毎毎日毎日、何年間も何年間も「つづけて」経験してこなかった人が、「俺だって朝はつらい」というようことを言って、「けど、がんばっている」ということを言って、俺に、「人間は働くべきだ」とか「過去は関係がない」とか「ヘビメタ騒音なんてほんとうにあったのか」とか「そんなのはあまえだ」とかと言ったことは、ゆるせない。ゆるせない。ゆるせない。  

「元気だと言えば元気になる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつが、「俺だってつらい」ということを言ったとする。これ、本人は、まともなことを言っているつもりなのだろうけど、ぜんぜんまともじゃない。どれだけずれているか本人がわかってないだけだ。「つらさ」の「つらさ」がちがうんだよ。ヘビメタ騒音なかでどれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないのである。「俺は、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言っている時点で、たいしたつらさを経験してないというのがわかる。きちがい兄貴は、かわっている人間なんだよ。とてつもなくかわった感覚の持ち主なんだよ。感覚器を自分の都合のいいように書き換えてしまうことができるんだよ。自分がきちがい的な意地でやったことは、やってないと思うことができる人間なんだよ。そういうきちがいなんだよ。そういうきちがいが、そんなにいるはずがない。どれだけ、きちがい兄貴に、「しずかにしろ」ということを言ったって、きちがいが、言われたときだけ、きちがい的に怒って、それで、はねのけたら、「言われた」ということも含めて、忘れてしまう。認知・認識しない。そういうトラブルがあったということが、わからない状態で暮らしている。そりゃ「やめてくれ」と相手が言ってきて、自分が、相手の言い分を無視してずっと、何時間も何時間もでかい音で鳴らしていたら、トラブルがあったということなんだよ。ところが、トラブルがあったという認知認識が生まれないのである。本人は、怒ったから、怒ったという感覚は、怒っているときだけあるのかもしれないけど、自分がやり通すことができるなら、「なにもなかった」ことになってしまうのである。自動的にそうなってしまう。これは、きちがい親父が、自分の意地をとおして、迷惑行為をやってしまうときの態度とおなじだ。こんなの、きちがいじゃなきゃできないことなんだ。そういう家族がいないやつが、「俺だってつらい朝を経験した」「俺だって朝はつらい」「けど、がんばっている」「いいことを教えてやる」「楽しい楽しいと言えば、どれだけつらくたって楽しくなる」と言いやがる。これ、本人は、いい助言をしてやったつもりなのだろうけど、的外れもいいところだ。ぜんぜん、ちがう。そういう言霊的なことを言えるというのは、ぜんぜんちがう環境で暮らしてきたということなんだよ。

きちがい家族にやられてきた人は……毎日毎日、きちがい構造をもつ家族にやられてきた人は……「楽しい楽しい」と言ったって、楽しくならないことを知っている。必然的に知っている。

きちがい家族が、きちがい感覚で、きちがい的な意地で、ずっと、きちがい的な迷惑行為をしたとする。そういう家族と、十数年間、二十数年間、一緒に住んできた人がいるとする。その人は必然的に憂鬱になる。必然的だ。この必然性がわかってないというのが、おかしいのである。きちがい家族と暮らしてきた人なら、絶対に、憂鬱になるのである。その憂鬱は、「楽しい楽しい」と言えば、解決できるような憂鬱ではないのである。そういう憂鬱ではないということを、知っている。これまた、必然的に知っている。わかってないのは、そういう経験がないからでしょ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」……こんなことを、真顔で言っているやつが経験した、つらさってなんだよ。こんなことを、真顔で言っているやつが経験した、憂鬱ってなんだよ。そんなこと、言えなくなるに決まっているだろ。それがわかってないということは、全部わかってないということなんだよ。 

一日に二時間しか眠れないということがわかってない。土曜日、日曜日も、二時間しか眠れないということが、どういうことなのか、わかってない。どんだけはりつめた状態で、普通の人にあわせて暮らしているか、ぜんぜんわかってない。どれだけ体が動かなくなるかぜんぜんわかってない。繰り返しだから、一日目より一〇〇一日目のほうがつらいし、二〇〇一日目のほうが一〇〇一日目よりもつらいのである。そういうことが、ぜんぜんわかってないなぁ。この無理解さが、なんか、きちがい兄貴の無理解さや、きちがい親父の無理解さと似ているのである。「わからなさ」とか「わからない状態」と言ってもいい。こいつらと、きちがい兄貴のちがいは、きちがい行為を毎日してないということだ。きちがい行為をうちのなかでしなかったということだ。たしかに、こいつらは、きちがい行為をしてない。けど、「無理解さ」はおなじだ。「わからなさ」はおなじだ。まるでわかってない。「そんなことであるはずがないだろ」と言いたくなる。そんなことであるはずがない。

この世の雰囲気」というのは、人生の経験と無関係ではない。自分の人生のなかでしょうじた経験と、関係がないことを言っても、自分の感情を支配できるわけがない。自分の感情というのは、実際にしょうじたことが、つくりだしているものなんだよ。とうして、そんなことがわからないのか? 言ったら、言ったとおりの感情になる? わらわせるな。自分の経験を裏切った感情になるわけがないだろ。なったとしたら、きちがい兄貴やきちがい親父ぐらいには、頭がへんだ。

自分の経験とはまったくちがう感情をつくりだすことができる? 言えば、つくりだすことができる? あほなことをぬかすな。

2023年10月22日日曜日

その苦労のなかに、きちがい家族がもたらした苦労は入ってない

セミリタイアブログとかfireブログとか見るけど、みんなやっいてることが、たいしてかわりがないね。やっぱり、人間、やることは、たいしてかわりがない。まあ、ぼくのように長期騒音をあびてしまうと、楽しみがなくなる。どうしてかというと、楽しむこころがなくなってしまうからだ。こわれてしまうからだ。これは、どうしようもない。意志で、復活するわけではない。こわれたこころが、意思で復活するわけがないでしょ。言霊なんて、おまじないは、もっと役に立たない。役に立たないというよりも、有害だ。だから、まあ、人生のなかで「実際に」なにがしょうじたかということが、重要なんだよね。まあ、「役に立たないとか言っているから、役に立たないんだよ」と思う人がいるかもしれない。その人は、ようするに、ぼくが経験したことを、経験してない。人生経験の差だ。まあ、経験しないほうがいいと思う。けど、経験してない人が、たわごとを言っても、ひびかない。これ、格差で上の人が、格差で下の人に、条件を無視して言っているだけなんだよね。条件の格差がある。現実的な出来事をうみだす環境の格差がある。そりゃ、きちがい家族と一緒に暮らしていれば、経験したくないことも、強制的に経験してしまう。不可避的に経験してしまう。そもそも、経験することに格差がある。この格差は、圧倒的な格差だ。凡人だと言ったって、きちがい的な父親にやられたわけじゃない。きちがい的な兄貴が、きちがい的な意地で、自分がこの世で一番嫌いな音を大音響で鳴らし続けたわけでもない。ぜんぜんちがう。「俺だって苦労した」と言うけど、その苦労のなかに、きちがい家族がもたらした苦労は入ってない。どうしてかというと、その人(その凡人)の家族は、きちがい家族ではないからだ。

2023年10月21日土曜日

人の『悪条件』を軽く無視できるやつ

「人は働かなければならない」「人は働くべきだ」という言い方も、じつは、『条件』を無視したものになっている。

「人は働かなければならない」という文の意味は、「どんな場合でも、人は働かなければならない」という文の意味を含んでいる。「どんな条件でも、人は働くべきだ」という文の意味は「人は働くべきだ」という文の意味を含んでいる。

特に、「どんな条件でも」という言葉を付け加えなくても、「人は働くべきだ」と言ったら、「どんな条件でも、人は働くべきだ」という意味を「かならず」含んでいるのである。

ところが、それは、人に言う場合で、人の現実を無視できる場合に限られるのである。自分が老化した、「老化した場合は、人は働かなくてもいい」ということになってしまうのである。「老化した場合」という条件を無視するなら、「人は働かなくてもいい」と言っているのである。

なので、「人は働くべきだ」と言っておいて「人は働かなくてもいい」と言っているのだから、矛盾している。自分の場合は、『条件』について理解しているので、ごく自然に、「人は働くべきだ」と他人にえらそうに言っていたことを、忘れてしまう。

そして、忘れてしまうだけではなくて、「老化した場合は、人は働かなくてもいい」と言ったあとも、「人は働くべきだ」という考え方を自分のなかに保持しているのである。ようするに、その人にとって「老化した場合は、人は働かなくてもいい」という文と「人は働くべきだ」という文は、矛盾したものではないのだ。

これは、かくされた『条件』について、考えないから、そうなる。かくされた『条件』について思考しないからそうなる。だから、矛盾しているということに気がついてない。

途中から、「人は働かなければならない」という文に関しての説明ははぶいたけど、「人は働くべきだ」という文とおなじことが成り立っている。まあ、当然か。

人の悪条件を軽く無視できるやつが「人は働くべきだ」と言っているにすぎない。そして、自分が老化したら、「自分は働かなくてもいい」ということになってしまう。自分の場合については、悪条件について、思考をめぐらすのである。

人の『悪条件』を軽く無視できるやつは、「そんなのはいいわけだ」という言い方を用意して持っている。人がなにかを言ったら「そんなのはいいわけだ」と言いかえすのである。人が、「老化したから、働けない」と言ったら、「そんなのはいいわけだ」と言いかえすのである。

けど、それは、他人事だからそうなる。自分のことだと、「自分は老化したのだから、働かなくてもいい」「働くべきではない」ということになってしまうのである。そういう思考の流れが、普通に成り立ってしまうのである。

が、「老化したから、働けない」と言ったら、「そんなのはいいわけだ」と言いかえすとき、「その人」は働いている場合が多い。自分が働けなくなったら、途端に、いいわけをして、働かなくなるのである。

「人は働くべきだ」と言っていた自分が、働かなくなっても、「自分の場合なら」いいのだ。自分は、自分の悪条件を自然に、無理なく、理解している。悪条件を考えれば、働かなくてもいいのだ。「人は働くべきだ」というのは、悪条件について考えない場合に限られるのである。

しかし、「人は働くべきだ」という文の意味は、「どんな条件でも、人は働くべきだ」という文の意味を含んでいるのである。

ようするに、自分の場合と、他人の場合を使いわけている。他人に言っている場合は「どんな条件でも、人は働くべきだから、おまえ(目の前の他人)も働くべきだ」ということを言っているのである。自分に関しては、「どんな条件でも人は働くべきだとは言えない」と考えているのである。

こういう、自分勝手なやつが、どれだけ多いか! 

人にはえらそうなことを言って、自分のこととなると、自分が言っていたことを、忘れてしまう。他人の場合は、どんな悪条件でも働くべきなのに、自分の場合は、悪条件のもとでは働かなくてもいいということになってしまうのである。

そして、立場の悪い相手に対して、マウントをして、悦に浸るのである。「俺、いいこと言った」「俺、正しいことを言った」「俺は、適切な助言をした」と思うのである。

やられるまえのぼくなら、他人のような反応をしていたかもしれない

 ともかく、きちがい兄貴にやられた時点で、いろいろな人に「うたがわれる」ことが決定していた。ほかの人にわかるわけがない。

 ともかく、きちがい兄貴にやられた時点で、いろいろな人に「バカにされる」ことが決定していた。能力がさがることが決定していた。寝不足で、どうしても、失敗することが決定していた。ほかの人にわかるわけがない。

だって、実際にやられたときのからだの状態なんて、わかるわけがない。毎日続くということがどういうことなのかわかるわけがない。きちがい兄貴の、きちがい感覚がわかるわけがない。実際にやられたときのからだの状態なんて、ぼくだって、やられるまえは、わからなかった。だから、やられるまえのぼくなら、他人のような反応をしていたかもしれない。

けど、実際にやられると、不可避的に「そうなる」んだよ。実際にやられたことがない人にはわからない。きちがいヘビメタ騒音生活を、長期にわたって、経験した人じゃないとわからないことがある。

そうすると、経験したことがない人は、低く見積もって、不適切なことを言うのである。「そんなのできるわけがないだろ」「そんなの、さんざんやったけど、もっとくるしくなるだけだったんだ」と叫びたくなるようなことしか言わない。そういうことを言う人が、出会った人の範囲で言うと、九五%ぐらいだ。みんな、そうやって、不適切なことを言って、自動的に、「バカにする」。その不適切な発言が、バカにするということなのである。

これは、感じ方の問題じゃない。


 

 

 

 

2023年10月20日金曜日

ほーーんと、どうしよう

ほーーんと、どうしよう。このまま、人生が終わってしまいそうだなぁ。かりに変革があったとしても、からだが一〇代のからだになるわけじゃないのだから、むだか。まあ、これからの一〇年間は、いままでの変化の量より、だいぶ変化の量が増大する。一〇年間で、ものすごく、かわる。社会的にはそうだ。けど、俺の人生は、ヘビメタ騒音でやられたままだ。

あーあ。ヘビメタ騒音なしで

 あーあ。ヘビメタ騒音なしで、あの子となかよくしたかったなぁ。ヘビメタ騒音がなければできたのになぁ。これ、だれにもわからないと思うけど、ヘビメタ騒音で、めちゃくちゃになっていく。だれもわからないと思うけど……。ヘビメタ騒音なしで、普通につきあいたかったなぁ。あの子が一番かわいかった。一番かわいかった人と、あのとき出会ってたんだな。それにしても、きちがいヘビメタで、普通につきあうことができない。どれだけ、さみしい思いをしてきたか。ヘビメタ騒音がずっと続いている状態というのが、ほかの人にはまったくわからないことだからなぁ。みんな、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して……。そんなことであるはずがないだろ。俺がちょっと、考え方をかえれば、どうにかなるようなものだと思っているみたいけど、ぜんぜんちがう。ぜーーぜんちがう。つきあわなかったからわからないけど、あの子だって、別に自分の人生のなかでヘビメタ騒音生活を経験したわけではない。友だちや親友のような態度になるだろう……。それで、わかれるのがいやだった……。つきあうまえから、ヘビメタ騒音が鳴っている毎日だと、だめだろうなというのがわかる。三下り半を突き付けられて、わかれるのは、プライドが許さないのだ……。きちがいヘビメタが鳴っていたら、うまくいかない。自分の感情が、こわれている。ヘビメタ騒音で、ぐちゃぐちゃな気分で暮らしている。ヘビメタ騒音のなかから、デートに出かけて、ヘビメタ騒音のなかに帰ってくるというのが、いやだ。これ、たとえ、デートがいいものであったとしても、ヘビメタ騒音でぐちゃぐちゃなのだ。怒り狂っている状態になってしまう。強制的に、怒り狂っている状態になってしまう。ヘビメタ騒音が鳴っていないデートのあいだは、こころのなかにあるヘビメタ騒音への怒りと、きちがい兄貴に対する怒りを、無理やり抑えているような状態だ。こんな状態で、楽しいわけがない。まあ、かくしてはいるけど、頭の5割は、ヘビメタ騒音のことでいっぱいだ。これからの人生に対する不安がある。その不安というのは、ヘビメタ騒音によって、引き起こされた不安だ。ヘビメタ騒音がずっと鳴っている状態でなければ、そういう不安はなかったのである。これも、だれに言っても、まるでわからないと思う。そして、俺がちょっと気分をかえれば、どうにかなると思っているような人が、まとはずれなことを言ってくる。頭にくる。俺がちょっと受け止め方をかえれば、ヘビメタ騒音の問題がおさまると思っている、頭がおかしい人が、へんなことを言ってくる。それ、勘違いだよ。壮大な勘違いだよ。けど、俺以外の人にはわからないのである。『どれだけヘビメタ騒音の問題を過小評価しているんだ?』という気持になる。

2023年10月19日木曜日

怒る理由なんてないのだけど、感情的にバランスがとれていたのである

「キミじゃなくて、彼だよ」のときもそうだけど、ひとのこころを傷つけないように気をつかって、なんか、誤解されている。ひとのこころを傷つけないように気をつかいすぎなんだよなぁ。気にしないで、最初に思い付いた言葉を言えばよかったという感じがする。

あとは、バイトで働いていたときに、取引先にも、いやなやつがいた。俺に対しては、気をつかってないよなぁ。

もともと、きちがい親父が、きちがい的な理由であれて、常に怒り狂っていたのだけど、きちがい親父が、きちがい的な理由で怒り狂っているとき、ほんとうに、こっちはなにもわるいことをしてないのである。けど、きちがい親父は、きちがいなので、怒りをぶつけてきた。完全な、きちがい的な言いがかり。小さなことで怒り狂っていたわけではなくて、完全に、頭がおかしい理由で怒り狂っていたのだ。そして、これが、さらに頭がおかしいとしか言えないことなのだけど、きちがい親父は、そのとき、「傷ついていた」のである。これ、本当に言いようがないよな。たとえば、こどもが、病気で、寝ているときに「なんで、そんなところで寝てるんだ」と怒り狂ったとする。これ、「風邪をひいて寝ている」と、おかあさんが、説明したあと、そういうふうに怒り狂っているんだぞ。しかも、寝ていてもおかしくない場所で寝ているんだぞ。こどもが、歩いていると「なんだ、その歩き方は」と言って、怒鳴り込んでくるんだぞ。おかしな歩き方をしてないのである。ところが、きちがい親父が怒り狂ってきて、へんな歩き方をおしつけるから、歩き方がおかしくなってしまったのである。こどもが、カレーを食べるとき、コップで水を飲んだら「なんだ!コップで水なんて飲んで!!」と怒り狂うんだぞ。別に、コップで水を飲んだらいけない理由なんてないんだよ。ないけど、きちがい親父が、怒り狂う。この爆発が、またひどいのである。普通の人だと、いきなり、ぶんなぐられても、こんなに怒らない。普通の人なら、二〇回ぐらい、ものすごく汚い言葉でののしられても、こんなに怒らない。ほんとうに、発狂している。体がまっかっかなんだよ。脂汗をかいて、からだじゅう、まっかっかにして、怒り狂う。で、その爆発が終わったら、また、別のことで怒り狂うのである。たとえば、「なんだ、その足は!!」と言って、まっかっかになって怒り狂うのである。頭がおかしい。普通の足なのに、普通に座っているのに、なんだ、その足は!!」と言って、まっかっかになって、爆発する。だから、親父がいると、親父がいるあいだじゅう、きちがい親父がなんらかのことで、こどもや妻にむかって、絶叫して怒り狂っているということになってしまうのである。これが、うちの「お茶の間」。これが、うちの、「居間」のすがた。俺が小さいときなんて、毎日毎日、毎時間毎時間、つねに!!!!そうだったんだぞ。もちろん、きちがい兄貴だって、やられているよ。最初の、風邪をひいて寝ているときに「なんだ!!そんなところ寝て」と怒り狂われたのは、兄貴だ。きちがい親父が帰ってきたら、ずっとこの調子なのである。「そんなことで、起こらないで」と言えばいいと考える人もいるかもしれない。「そんなことで、起こらないで」と言ったら、「くちごたえをした」と怒鳴って、ぶんなぐってくる。そして、これがおかしいことなんだけど、親父の場合、ぶんなぐったことだけは、反省するのである。けど、そのまえの、きちがい行為は反省しないのである。これ、ほかの人にはわかりにくいことなんだよな。暴力があるほうがひどいと思うだろ。ほかの人はそうなんだよ。ぶたれた数で、親のひどさを推し量ろうとする。けど、ちがうんだよ。俺が、問題だと思っていたのは、きちがい親父が、怒り狂うことなんだよ。もちろん、ぶたれるのはいやだけど、きちがい親父が、親父の寝床にもぐりこんで、ぶったことだけ、反省して、それ以前のきちがい行為についてはまったく反省しないというのが、もっと、いやだったんだよ。「くちごたえ」しなければ、怒り狂っているだけで、ぶってこないんだよ。だから、暴力の回数が少ない。だったら、暴力の回数が多い親よりも、いい親なのか? ちがうと思おんだよね。けど、ほかの人は、暴力回数で、ひどい親か、それほどひどい親ではないのか、決めるところがある。ぼくは、小さいとき、そういう人たちの、反応が、いやだった。「それ、ちがうだろ」と思っていたのだ。反省するべきは、きちがい的な理由で、怒り狂っていることなんだよ。回数? きちがい的な理由で怒り狂った回数は、もう、無限大だ。いれば、ずっと怒り狂っていたからな。で、きちがい親父は、怒り狂うだけの理由があると思っていたんだ。自分は、相手(こどもや妻)に、それ相応のことをされたから、怒っていると思っていたのだ。こどもや妻が、自分の気持ちを傷つけたという理由で怒り狂っていたのだ。でっ、これが、普通の人にはわからないことだと思うけど、実際に、傷ついていたのだ。頭がおかしいから、そういう反応なんだよ。「くちごたえをした!! くちごたえをしたら、ぶんなぐられた!! おんだされた!!おんだされた!!」とものすごい顔で、言って、自分の寝床に歩いて行って、布団にもぐりこんだ。それで、なぐったことだけ、反省するのである。頭がおかしい。俺が反省してほしいのは、それまでのやりとりなんだよ。きちがい的な理由で怒り狂うほうが、俺にとっては、ひどいことなんだよ。これ、ほかの人にはわからないのだろうな。常日頃から、きちがい的な理由で怒り狂うということのほうが、なぐることより、ひどいことなのである。「くちごたえをした」から、なぐる。多少は理解できる。けど、きちがい親父が、きちがい的な理由で怒っているとき、きちがい的な理由が、まったくわからないのである。怒る理由としてまったくわからないのである。これが、どういうことなのか、ほかの人にはわからない。そして、きちがい親父にとって、くちごたえをされたとき、なぐることは悪いことだけど、なんの理由もないのに、怒り狂うことは、別にいいことだったのである。悪いことじゃなかったのである。おやじにとって、バランスがとれていたことなのである。ほんとうは、怒る理由なんてないのだけど、感情的にバランスがとれていたのである。これは、相手が、そういうことをしたから、それに対応した怒りをぶつけていると「思っている」ということだ。本人にとっても、なんで、それだけ怒りがわいてくるのかわからないことなのだけど、そういうことにかんしては、本人はまったく無頓着で、不思議に思うことがないのである。相手が自分にしたことは、自分の怒りぐあいと、バランスがとれていると思っていたのである。きちがい親父は、怒るだけのことを、相手にやられと感じていたのである。そして、自分の怒りに関して、そういうことで納得していて、不思議に思わなかった。「どうして、俺は理由のないことで怒っているんだ」と言うような気持ちや思考が、まったくなかったのである。まったくそういう思考がしょうじなかった。これが問題なのである。こういう感じ方のほうが、頭にくる。くちごたえをされたから、思わず、ぶんなぐったというのは、理由としてはわかるのである。きちがい的な理由で怒り狂っているときは、本当に理由がわからない。こっちのほうがひどいことなんだよ。

*     *     *

たとえばの話だけど、「過去は関係がない」と言っている人に、俺が、親父とおなじように、きちがい的な理由で、怒りをぶつけたら、「過去は関係がない」と言っている人はどう思うか? 過去は関係がないなら、関係がないのである。けど、「おまえはなんだ!」と怒りをあらわにすると思う。「いちゃもんをつけてくるな」と怒ると思う。「過去は関係がない」などと、言っておきながら、過去の出来事に、感情的に反応する。

「過去は関係がない」のほかに「過去は、現在に影響をあたえない」とか「過去は、現在の状態に影響をあたえない」と言うようなことを言う人たちがいる。この人たちは、説教をするときは、そういう前提にたって説教をするのである。けど、その前提がまちがっている。完全にまちがっている。この人たちが、日常生活のなかで、過去の出来事にどういうふうに反応しているかということを考えれば、一目瞭然である。で、不幸なことに、きちがい親父も、過去を無視しているのである。「やったってやってない」ことになっているのである。「過去の無視」ということでは、きちがい親父も、説教をする人たちもおなじなのである。この説教をする人たちは、普通の親に育てられた人たちで、きちがい的な親に育てられた人たちではないのだ。きちがい的な理由で、毎日、何十回も、恫喝された人たちではないのだ。だから、この人たちにとってみれば、「そういう過去がない」のだ。自分にはなかったので、影響の大きさがわからないだけだ。けど、「かっこうをつけて」「過去は関係がない」とえらそうなことを言ってしまう。こういう言葉によっている。自分がなにか真実を言い当てたような気分になっている。けど、それは、宗教的なトリックだ。社会全体が、言ってみれば、悪魔教の影響をうけている。条件を無視して、過去の出来事を無視して、「過去は関係がない」というような前提にたって物事を考えるということ自体が、悪魔教的な文化の影響をうけている。これは、過去の出来事の影響をうけている。たとえば、ビジネス書を読んだり、アニメを見たり、ドラマを見たり、だれかの講演を聴くといった、過去の出来事の影響をうけている。

とりあえず、精神世界の人といってしまうけど、精神世界の人は、過去の出来事を無視するような発言が多いけど、実生活のなかでは、ちゃんと、過去の出来事に人として対応をしている。きちがい的な理由で、怒り狂われたら「なんだこいつ!!」と不愉快な気持になるのである。どうして、不愉快な気持になるかというと、人間の構造が成り立っていて、さらに、過去の経験があるからだ。「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえてない」と、考えてないような反応をする。ごく自然にそういう反応をする。


2023年10月17日火曜日

「楽しいと言えば、楽しくなる」……なんて、言ってられるのだから……。

 「楽しいと言えば、楽しくなる」……これを、信じているかどうかで、そいつが経験してきた「くるしみ」の質がわかる。「楽しいと言えば、楽しくなる」……こんなことを信じていられるなら、そいつは、本当のくるしみなんて経験してない。軽度のくるしみ。くるしみとは言えないくるしみしか体験してない。そりゃ、そうだろ。「楽しいと言えば、楽しくなる」……なんて、言ってられるのだから……。

「楽しいと言えば、楽しくなる」……と言っても、ぜんぜん楽しくならないということを、思い知らされてない。……そーーんな、くるしみ。アホらしい。バカらしい。

思い知らされるはずなんだよ。思い知らされてないということは、そういうことだ。

2023年10月16日月曜日

きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかったら

きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかったら、ぼくの人生はまったくちがったものになっていただろう。

きちがい兄貴が、こだわりの音で、ヘビメタを鳴らさなかったら、ぼくの人生はまったくちがったものになっていただろう。

ほんとうにまったく、ちがった人生だと思う。言っていることも、人間関係もぜんぜんちがっていたと思う。

2023年10月15日日曜日

ヘビメタ騒音でいろいろと、言いがたいこと、が、起こった

 ほんとう、ヘビメタ騒音でいろいろと、言いがたいこと、が、起こったなぁ。あーーあ。これ、どうなっちゃうんだ。人に親切にしてやったら、「どこの研究室ですか」と訊かれた。当時、高卒だったので、「研究室もなにも、高卒だよ」と言いたかったんだけど、言えなかった。親切にしたって、予想もしなかったいやなことが起こる。

自己責任論は、道徳心をマヒさせている。

 たとえば、言霊主義者が物理法則を無視したことを人にすすめたとする。この場合、あるていど、限定責任がしょうじると思う。たとえば、「ガソリンを飲むと元気になると言って、ガソリンを飲めば元気になる」とある言霊主義者が、他人に言ったとする。ある言霊主義者をAさん、Aさんにその言葉を言われた人をBさんだとする。実際にBさんが「ガソリンを飲むと元気になる」と言って、ガソリンを飲んだとする。その結果、Bさんの健康が害されたとする。その場合、Aさんには、あるていど、責任がしょうじる。しかし、Aさんが、気にしない人だと、まったく気にしない。これは、こころの問題だ。刑事罰の問題は、ここでは扱わないようにする。社会が「それ」に対してどういう罰をかすかということは、問題にしない。あくまでも、Aさんが、どういうふうに感じるかということだけを問題にする。ようするに、良心や道徳観の問題だけを扱うことにする。その場合、Aさんが、自分の行為に関して、限定的な責任を感じないのであれば、責任を感じないのである。悪いことをしたとは思わないのである。ブラック社長が、名前だけ店長を自殺に追い込んだとしても、ブラック社長が、限定的な責任を感じないのであれば、責任を感じないのである。あるいは、ブラック社長が、名前だけ店長を長時間働かせて、名前だけ店長の体調を害したとする。この時も、ブラック社長が、気にしなければまったく気にらないことなのである。

このとき、自己責任論が重要な役割をする。自己責任論がはびこっていると、ガソリンを飲んだのはBさんだから、Bさんの自己責任だということになって、Aさんの責任はまったく問われないということになってしまうのである。他人が、道徳的な側面に関して、Aさんの責任を問わず、Bさんの責任だけを問うということになってしまう。他人というのは、当事者ではない人のことを意味するとする。つまり、Aさんでも、Bさんでもない人のことを意味するとする。自己責任論がはびこっていると、名前だけ店長が自殺したのだから、名前だけ店長の自己責任だということになって、ブラック社長の責任はまったく問われないということになってしまうのである。自己責任論がはびこっていると、名前だけ店長が長時間働いたのは、名前だけ店長の自己責任だということになって、ブラック社長の責任はまったく問われないということになってしまうのである。

自己責任論がはびこっている状態だと、こういう問題をうむ。

自己責任論は、道徳心をマヒさせている。

「くさらないと言えば、くさらない」

ある言霊主義者が「くさらないと言えば、くさらない」と言ったする。ところが、この言霊主義者は、冷蔵庫をもっていて、冷蔵庫を使っているのである。だから、普段、言霊的な方法を利用しているわけではない。この言霊主義者だって、たいていの食べ物はくさるということを知っている。乾燥させたものだと、くさらない場合がある。けど、これは、言霊のチカラでくさらないわけではない。言霊主義者だって、普通の暮らしをしているわけだし、言霊主義者のまわりにあるものは、物理法則にしたがって、運動をしているのである。くさるというのも、ある意味、原子や分子の運動で説明できる。

ところが、相手のからだにだけ影響があって、自分のからだには影響がないものにかんしては、言霊で、相手の問題が解決できると言うのである。相手のからだがつかれている場合、相手が「元気だ」と言えば、それで、元気になるのである。つかれが吹き飛ぶのである……。もちろん、相手のからだからつかれが吹き飛ぶ。じゃあ、本人が、つかれているときに、本当にそういう方法で、つかれを吹き飛ばすのかというと、ちがうのである。普通に、眠ったり、やすんだりして、なんとかつかれをやわらげようとする。自分のからだの場合は、言霊的な解決法を利用せず、人には、言霊的な解決法を利用することを、すすめるのである。そして、「言霊は絶対だ」「言霊にはすごいチカラがある」と力説するのである。 

「俺は、老化しない」とひとこと言えば、老化しない

 ヘビメタ騒音の一日というのは、すさまじいものなのです。学校に通っているときだって、学校に通っていないときだって、すさまじいものなのです。すさまじく、つかれるものなのです。一五年間毎日鳴っていたら、つかれるんだよ。憂鬱になるんだよ。元気じゃなくなるんだよ。

考えてもごらんよ。一年目の名前だけ店長に「つかれたというからつかれる」「つかれないと言えばつかれない」「楽だと言えば楽になる」「楽しいと言えば楽しくなる」「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言ったとする。

これ、全部まちがいだけど、一年目の名前だけ社長なら、たえらるかもしれない。けど、一五年目の名前だけ店長にはたえられない。たえられないことになる。

ところが、ブラック社長というが、人のつかれには鈍感で、自分のことしか考えてないから、名前だけ社長の、必死のうったえを、無視してしまう。

口を開けば、有害な言霊理論を口にする。

何度も言うけど、くそ凡人が、このブラック社長とおなじ思考回路をもっているということだ。

そして、言霊的なことを口にする凡人は、みんな、ほかの人のつかれには鈍感なのである。

ほかの人のつかれは自分で感じることができないので、ほかの人が一五年間のつかれを口にしても、「そんなことはない」と思ってしまう。

「楽しいと言えば楽しくなる」「元気だ元気だと言えば、元気になる」とブラック社長のようなことを言ってしまう。本人は、「いいことを言った」と思っているのだろう。本人は、「元気づけてあげた」と思うのだろう。本人は、人に親切にしたつもりなのだろう。こういうレベルの人がいっぱい、いる。

そして、本人は、「俺は歳をとったから、もう働けない」と言って、仕事をやめてしまうのだ。老化を口実にして、仕事をやめてしまう。

言霊が正しいなら「俺は、老化しいない」とひとこと言えば、老化しないのである。どうして、自分の老化に関しては、言霊的な解決法を選択しないのか。自分のからだのことだから、わかっているのである。

「俺は、老化しない」と言っても、実生活のなかで、「ずいぶんと歳をとったな」とか「どうも最近つかれるようになった」というようなことを、感じる。

自分のからだのことだから、言霊で解決しようとしない。

人には、「限界なんてない」などと言っていたのに、自分のことにかんしては「限界を感じた」と言うのである。こういうやつが多すぎる。

人にはえらそうに、無益で有害な言霊的な解決法をすすめていたのに、自分のことになると、現実的なことを言う。言霊が絶対に正しいなら、「俺は、老化しない」「俺は、つかれない」「つかれたと言うからつかれる。元気だ元気だと言えば、元気になる」と言って、働けばいいじゃないか。

自分のことだと、自分のからだの状態は、自分でわかるので、正しい認識が生まれるのである。

ところが、他人のことだと、他人のからだのことは、まったくわからないので、他人のからだの状態を無視して、言霊的な解決法を口にして、言霊は絶対に正しいと言うのである。

俺がわかいとき、俺にえらそうなことを言っていたやつが、みんな、老化を理由に、仕事をやめていく。「俺は老化しない」とひとこと言えば、老化しないのだから、仕事をやめるべきではない。

こいつらは、ヘビメタ騒音を経験しなかったから、ヘビメタ騒音のつかれがわからないだけなのである。

ヘビメタのつかれがわからなければ、言霊的な解決法を口にして、言霊は絶対に正しいと言う。こいつら、みんな、そういうレベルのやつら。

きちがい親父やきちがい兄貴とは、質がちがうけど、「ヘビメタ騒音のつかれ」がわかってないだけなのである。

「できると言えばできる」「人間は働くべきだ」……こういうことを、えらそうに他人に言っていたなら、一生、働き続けるべきだ。

なに、泣き言を言っているんだよ。あまえたことを言うな。老化は、あまえ。できると言えばできるんだろ。言霊は絶対に正しいんだろ。

*     *     *

「食あたりしない」とひとこと言えば、なにを食べても食あたりしないんだろ。言霊のものすごいチカラで、食あたりしない。なんで、言霊主義者なのに、食あたりを気にするんだ?

どうして、自分にとって「うたがうにじゅうぶんな理由」があるときは、言霊を利用しないんだ? おかしいじゃないか。言霊のチカラはものすごいチカラなんだろ。物理法則をひっくり返すほどの、すごいチカラなんだろ。そのチカラを自分にとって「うたがうにじゅうぶんな理由」があるときも、利用すればいいじゃない。いや、逆に、そういうときこそ、言霊を利用するべきなのではないか?

こいつら、みんな、ひとごとだと、「あーだ」「こーだ」と言うんだよ。言霊は絶対に正しい。言えば、言ったことが現実化する。言霊にはものすごいチカラがある。

だったら、自分にとって「理由があきらかなとき」も言霊を利用すればいい。

 

2023年10月14日土曜日

「ご職業は?」

 無職の人は、「ご職業は?」と訊かれるのが、いやなんだよ。まあ、これは、無職属性をもっている人、一般に言えることだと思う。で、ヘビメタ騒音にやられながらも、世間の人とつきあっている状態というのは、それを五千倍、五万倍、五億倍、強めたような状態なんだよ。無職の人が、職業を聞かれる前の状態だ。相手は、職業を、当然、訊いてくるだろう。で、どういうふうに、こたえるかまっている状態だ。「訊かれたらいやだな」と思っている状態だ。そっちに話がいかなければいいな」「仕事の話にならなければいいな」と思っている状態だ。きちがいヘビメタにやられている状態というのは、そういう弱点がある状態なんだよ。あれだけ長い間続くと、まあ、いろいろとある。これ、ほんとう、生きていて、いやだったことだ。けど、これは、ほかの人にはないことなのである。どうしてかというと、ほかの人にはきちがい兄貴がおらず、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にさらされたことがないからだ。そういう、毎日がないからだ。連続した毎日がないからだ。「休みなく」というのが、本当にこたえる。土曜日、日曜日、なんかの休みの日、きちがいヘビメタが、数時間増えてしまう。倍の長さ聞かされてしまう。平日の倍の長さ、ヘビメタ騒音にさらされることになる。明るいときなっているヘビメタ騒音は、明るいときなっているヘビメタ騒音の雰囲気をつくる。暗いときに鳴っているヘビメタ騒音は、暗いときに鳴っている雰囲気をつくる。ようするに、朝鳴っていれば、ヘビメタ騒音が、朝の雰囲気を汚染してしまう。朝、自体の雰囲気というものを、けがしてしまう。朝の空間に、ヘビメタ騒音が、「くっついてしまう」。これを「憂鬱」とか「腹だたしい」と表現しても、表現しきれるものではない。他人には、まったくわからない。ヘビメタ騒音生活を数千日にわたって経験している他人以外、他人はわからない。ヘビメタ騒音生活を数千日にわたって経験している他人なんていない。いままでの人生のなかであったことが、一回もない。約一八〇日なら、ひとりだけあったことがある。けど、その人の場合は、約一八〇日で終わった。きちがい兄貴……その人の場合も兄貴だったんだけど……きちがいの程度が、うちのきちがい兄貴の程度よりも、弱かったんだろうと思う。ほかの家族も協力してくれたのかもしれない。ともかく、その人の場合は、約一八〇日で終わった。この人だって、ほかの人よりは理解してくれるよ。まったくそういう経験がない他人とは、ぜんぜんちがう反応だったよ。これ、ほんとうに、ぜんぜんちがうんだよね。まったく経験がない他者というのは、ひどいものだよ。これ、ほんとうに、ものすごいハンディになってしまうんだよな。そして、障害児教育の専門家が、俺のハンディは、ガン無視するというようなことになってしまう。ハンディにあれだけ敏感な人が、ヘビメタ騒音のハンディは、ガン無視する。まったく認めない。きちがい家族のハンディは、ガン無視する。まったく認めない。その人のなんとか障害だけが、ハンディだと思っている。きちがい家族のハンディがどういうものだか、まったくわかってない。そういう人に、ヘビメタ騒音のことを言っても、くそ凡人みたいな反応しかしない。この、くそ凡人というのは、わかったようなことを言ってくる人だ。ブラック社長じゃないのに、ブラック社長のようなことを言ってくる人だ。こいつら、ただ単に、自分がマウントしたいだけなのに、いいことをしたと思っている。たとえば、言霊、引き寄せ、アドラー、行動主義心理学、認知療法、プラグマティズムの影響をうけた、悪い俗説に、しばられている人たちなのである。こいつらが、洗脳されて、しばられている。すくなくても、プラグマティズム以降の思想は、悪魔教?の影響をうけている。これ、人をゴイムとして働かせるための、ゴイム教育なのだ。(まあ、これ、あんまり、書かないほうがいいよね。説得力がなくなるから。けど、いろいろなところで、洗脳されている。彼らがゴイム用につくった価値観の影響をうけている。彼らが、ゴイムにあたえたい内容の影響をうけている)

*     *     *

ヘビメタ騒音をやられているときと、ヘビメタ騒音をやられたあとというのは、なにかひどい「弱点」をかかえているような状態なんだよ。「弱み」があるからなぁ。きちがいヘビメタが、大きな、大きな、「弱み」なんだよ。で、それをかくすとか、かくさないということで、俺が、俺のなかでもめたりする。かくすにしろ、かくさないにしろ、他人にとっては、不可解なことでしかなく、普通の他人は、そこを、つっつく。いまの社会、「無職」であればつっつかれる弱点を抱えているということになる。そんな感じで、立場が弱くなる。きちがいヘビメタというのは、そういう影響を、不可避的に、かつ、必然的にもたらすものだ。これ、きちがい兄貴がなにも考えないで自分の欲望に忠実になってやっていたことなんだよね。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということを無視する。きちがいだから無視したら、現実になってしまうのである。きちがい兄貴の感覚だと「でかい音で鳴らしてない」ということになってしまう。「普通の音で鳴らしている」ということになってしまう。でかい音で鳴らしている」ということを認めたくなければ、ごく自然に、自分の聴覚をだまして、「普通の音で鳴らしている」と感じてしまう。耳が正常なら、絶対に、「でかい音だ」ということは、わかるんだよ。そういうところに、だましがある。そして、そういうだましをやる人がすくないんだよ。正常な人は、でかい音で鳴らせば、どれだけでかい音で鳴らしているから……でかい音で鳴らしているということを認めたくない……と思っても、でかい音で鳴らしているということを知っている。知覚している。感覚している。認知している。ところが、きちがい兄貴は、きちがいだから、自分が認めたくないことは、感覚器をだまして、認めないんだよ。そして、感覚器をだまして認めないようにしているということも、知覚、感覚、認知しないんだよ。だから、普通に、「でかい音で鳴らし切る」ことができる。でかい音で鳴らしているのだけど、本人が、でかい音で鳴らしていると思ってないのだから、どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしていると思ってない状態で鳴らすのである。それが毎日続く。そりゃ、そういう頭の構造がかわらないのだから、毎日そうする。殺されなければ、絶対の意地で鳴らして、絶対の意地で「でかい音で鳴らしている」という事実を認めない。本人が認めなければ、それでいいということになっているから、本人は、まったく「気にしないで」鳴らし続ける。

何度も言うけど、そういう家族がいる人が、少ないのである。だから、ぼくが、嘘を言っているように思われる。ぼくがへんなことを言っているように思われる。ぼくの交渉力がないように思われる。ぼくが、きちがい兄貴に言えないから……「やめてくれ」と言えないから、だめなんだと言ってくる。こいつら、みんな、きちがい兄貴の構造がわかってない。そして、やっかいなのは、きちがい兄貴の構造と、きちがい親父の構造がおなじだということだ。まあ、「の」重複を避けるために、なんの構造かについては言及してないけど、「脳みその構造」だ。

一家に、ふたり、そういう人間がいる。毎日、ふたりが、そういう頭を搭載して、くらしている。これがどういうことだかわかるか? わからないんだろな?

これが、ハンディじゃないと言えるのか? 言えない。

この、まのがれている連中……きちがい家族にやられてない人間が……「人のせいにしている」などと言うのだ。これも、この世で生きていて、「がまんならないこと」だったな。ほんとうに、「無理」なんだよ。あのうちで、ふたりの影響をうけずに暮らすなんてことは、無理なんだ。『影響をうけないぞ』と決心すれば、『影響をうけずにすむ』……こんなの、きちがい家族と一緒暮らしたことがないやつが、妄想で言っているだけのことだ。まったく、わかってないだけ。

 

細かい振動が、眠れない時間に影響をあたえる。 過去は関係がある。(修正)

 ヘビメタを鳴らされた状態だと、よその人とつきあうのが、めちゃくちゃに、くるしくなる。ヘビメタ騒音は、ぼくの、基本能力や基本体力をうばう。けど、そういうふうに表現できない者まで、いっぱい、うばう。うばうんだよ。実際に、毎日ヘビメタ騒音を、あの音のでかさで、あの時間の長さ、鳴らされた経験がない人には、わからない。どれだけ、つきあいにくくなるか、わからない……ところがある。表現をするなら、ほんとうに、氷の壁にかこまれているような状態なのだ。動くたびに、からだがきしむような状態なのだ。さむさで、からだがきしむわけじゃない。ヘビメタ騒音でからだがきしむ。もっと言ってしまえば、昨日のヘビメタ騒音でからだがきしむ。過去、すべてのヘビメタ騒音でからだがきしむ。きちがいヘビメタにやられているけど、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなる……なんてことはないんだよ。これ、みんな、わかってない。どれだけまとはずれなことを言っているか、きちがいヘビメタ騒音に実際にたたられてない人は、わからない。どれだけ、むなしい思いをしてきたか。どれだけ、腹立たしい思いをしてきた。特に、睡眠時間をけずられるのがこたえたな。みんな、ぼくが、ずっと眠れないことなんて知らないわけだからさ。「ヘビメタ騒音で」と言ったって、鳴り終わったあと眠れなくなるわけだから、ほかの人にはわからない。どういう、氷の時間をすごしたかわからない。夜、眠るべき時間に眠れないということがどういう意味を持つのか、みんなわかってない。「鳴り終わったら関係がない」などと言うやつは、ぶんなぐってやりたい。いまでも、ぼこぼこにぶんなぐってやりたい。きちがい兄貴も、〇してやりたい。鳴らしているきちがい兄貴を、殺したかった。毎秒毎秒、殺意をおさえている。これがどれだけくるしいか。騒音のなかで、毎秒毎秒、なぐりたいをのおさえている。毎秒毎秒、〇してやりたいのをおさえている。これで、ぼくのこころがめちゃくちゃになってしまった。おさえているあいだ、ずっと、攻撃をうける。ものすごい、攻撃をうける。無視できない攻撃をうけて、頭も体もくるしい。騒音攻撃、振動攻撃。ものすごい、音圧なんだよ。無視できるわけがない。細かい振動が、眠れない時間に影響をあたえる。過去は関係がある。

名前だけ店長が、どれだけ努力しても、成功なんかしない

 「こつこつと努力すれば、成功する」というようなことをアドラーは言っているけど、名前だけ店長が、どれだけ努力しても、成功なんかしない。つかれはてて自殺するだけだ。この「Xをすれば、Yになる」というような形式であらわすことができるような言葉には、いろいろな問題がある。ライフハックみたいな言い方が、はやっているのは、偶然ではない。悪魔の支配と関係がある。

 「こつこつ、努力すれば、成功する」という言い方は、単純な言い方だ。「努力すれば成功する」と言えば、もっとシンプルになる。じゃあ、単純なことは、正しいかというと、そうではないのだ。何度も言うけど、単純かどうかは、正しさとは関係がない。単純でも、まちがっていることはある。「単純だから正しい」というのは、単純だけとまちがっている。いい見本だ。

「単純だから正しい」というようなことを言う人は、条件による分岐を考えることができない。複雑なので、めんどうくさい。「シンプルなことは正しい」「正しいことは正しい」と言ってゆずらない。「全部こうだ」と言いたい人たちなんだよ。条件のちがいなんて、無視する。「どんな条件だって、こうだ」と言いたい人たちなんだよ。個々人の条件なんて、無視する。無視するな。

名前だけ店長が「泣き言を言っている」と理解するのだ

たとえば、名前だけ店長が「もう限界だ」「もうできない」と言ったとしよう。アドラーはこれを「泣き言」としてとらえて、名前だけ店長が「泣き言を言っている」と理解するのだ。「泣き言を言っている」店長は、「弱虫」なのである。だから、「名前だけ店長は、すぐに泣きごとを言う弱虫だ」ということになる。アドラーにとってはそうだ。もちろんアドラーなんて、もう生きてないから、時代がちがう「名前だけ店長」に直接、そういうふうに言うことはできない。けど、アルフレッド・アドラーのやり方はそういうやり方だ。完全に、ブラック店長の側に立つ人間だ。こんなやつがまともなことを言っているわけがないだろ。

これは、『相手の様子を読みとることかできない』なんていうなまやさしいものではない

 相手の状態を無視するというのは、きちがい親父の特徴だけど、きちがい兄貴の特徴でもある。こいつら、相手の状態がわからない人間なのである。自分の感情しかない人間なのである。相手の状態を理解するということが、頭の欠陥として、ない人間なのである。これは、『相手の様子を読みとることかできない』なんていうなまやさしいものではない。どれだけ、相手が、はきっりと、日本語で、何回も何回も言っても、まるで、日本語がわからないというレベルで「理解しない」のである。自分の気持ちに合致しないことは、きちがい的な意地で無視しやがるのである。あるいは、どれだけ何回、言葉で言っても、意味がまったくつたわってない状態にとどまる。日本語がわかれば、絶対に「言葉としてはわかること」がまったくわからなくなってしまうのである。ちなみに、わからなくなってしまっているということも、無視するので、へんな調子で無視することになる。これ、親父も兄貴もおなじなんだよ。二人とも、相手の状態がわからないし、自分の気持ちに合致しないことは、どれだけ言われても、理解しないのである。この理解しないというのは、わかったけど認めないということではない。日本語として意味はわかったけど、やってやらないということではない。そうじゃないんだよ。きちがい親父やきちがい兄貴の場合は、特殊なんだよ。自分の気持ちに合致しないものは、どれだけ入れても理解しない。日本語が理解できても、自分の気持ちに合致しないことは、言われても、言われたことにならない、のである。

まあ、ともかく、この、言われたことにならないということと、相手の状態がわからないということは、ちがうことだ。けど、両方が合わさって、そういう場面が形成されるのである。出来事が発生する。きちがい兄貴やきちがい親父にかかわると、きちがい兄貴やきちがい親父は「相手の状態がわからない」し「相手の言っていることが、言語として理解できず、言われても、いわれたことになってない」というような「態度」がしょうじる。 普通の人なら、相手の状態がわかるし、日本語がわかれば、日本語で言われたことは、理解できる。ところが、そうじゃないのである。けど、そうじゃないということを……きちがい兄貴ときちがい親父はそうじゃないということを、ほかの誰も知らないのである。だから、ほかの人は、普通の人のイメージで、話の内容を考えてしまうのである。普通の人には、兄貴や親父に関することは、これまた、通じないのだ。普通の人は、「普通の人間」を「理想的な人間」として考えて、「理想的な人間ならこういうふうに反応する」と考えてしまう。けど、きちがい兄貴ときちがい親父は「理想的な人間」のように反応しないのである。

ともかく、相手がこまって、必死になって言ってたって、相手が「こまっている状態だ」ということと「相手が必死になって言ってきた」ということがわからないのである。そして、自分のとの関係がわからない。自分の感情だけしかないのである。自分の感情には、相手の状態は一切合切影響をあたえないのである。自分の感情は、相手の状態とはまったく関係なく、存在していて、相手の状態は一切合切関係がないのである。けど、関係がないとちゃんと理解している状態でもない。ごく普通に、最初からそうなっている。ごく普通に、最初から、相手の状態を読みとることができず、相手が「かかわっている」ことにかんしても、自分の感情しか存在しないという状態で、生きている。

「相手がつかれている」ということを認知・認識しないのだ

 きちがい親父が生きてきたとき、きちがい親父の部屋で、テレビが見れるようにしてやったことがある。ぼくは、きちがい親父に親切にしてやった。ところが、きちがい親父によって、とてつもなく不愉快な目にあわされ、目に蛾の粉が入るということになった。「人に親切にすれば、いいことが起こる」ということは、一〇〇%で起こることではない。ところが、「人に親切にすれば、一〇〇%の確率で、いいことが起こる」ということを言っているのである。こういう人たちが言っていることはそういうことなんだよ。「人に親切にしてやれば、いいことが起こる」という文のなかに、「人のに親切にしてやれば、悪いことが起こる」という意味は、含まれてないんだよ。きちがい親父には、きちがい親父の構造が成り立っている。だから、親父に親切にしてやっても、悪い出来事が発生する確率のほうが高いんだよ。これも、言霊のところで言ったことだけど、「人に親切にすれば、いいことが起こる」ということ「人に親切にすれば、一〇〇%の確率で、いいことが起こる」ということは意味的に等価なんだ。「人に親切すれば、いいことが起こる」というのは、「人に親切に親切にしても、いいことが起こるとは限らない」という意味を含んでいないんだよ。

いろいろと事情が複雑なので、今回はアンテナ事件の細かいできこどにはふれない。問題なのは、ぼくが「休ませてくれ」「今日はもう、これでおしまい」と言っているにもかかわらず、きちがい親父が「今日のうちにやってしまおう。俺の部屋につなぐアンテナもやってしまおう」とつよく言い張ったことだ。そして、これは、きちがい親父にしてみれば、俺に親切にしてやるつもりだったのである。自分の部屋にアンテナコードを設置してもらったから、「お返しに」いいことをしてやりたいという気持が、きちがい親父のなかにもあったのである。けど、俺がきちがい親父に、そのとき、してほしかったことは、俺の言い分を認めて、俺を休ませてくれることだ。「なにか、してやりたい」ときちがい親父が俺に言うので、そのものずばりのことを言っているんだよ。それを「なんだよぉ」と言って、無視する。俺が言った発言を無視して「やってやるやってやる」と言う。「休ませてくれ」「今日はもう、これでおしまいだから、なにもしなくていい」と言っているのに、それは無視して「今日、やってしまおう」「いま、やってしまおう」と言うのである。「やってほしいことはなんだ」ときちがい親父が訊くから、「やすませてくれ」と何回も言っているのに、やすませずに、作業を続行することを、強く、しつこく主張したのである。けど、きちがい親父にしてみれば、悪気はないわけ。「お返しをしてやりたい」という気持なんだよ。けど、きちがい親父は、きちがい親父の脳みそう構造によって、相手がつかれいるということが、まったくわからないのだ。「相手がつかれている」ということを認知・認識しないのだ。自分の気持ちが、いま相手と、一緒に作業をしたいということになっていたら、相手のからだの状態は関係ないのだ。相手が「つかれたから、今日はもう、おしまい」と言っているのに、おしまいにさせない。「やってやる、やってやってやる」と言い張ってきかない。アンテナコードのことだって、そのまま置いてくれればいいのに、頭がおかしいので、置き方にこだわって、自分が気に入ったように置くために「アンテナを切ってやる」というようなことを言いだしたのである。これは、その「もう、今日はおしまい」というやり取りの前の出来事だ。これだって、「やすませてくれ」対「いやまろう」というやり取りに影響をあたえている。こっちは、不愉快な思いをしているんだよ。相手に「やってほしいことはなんだ」と訊いて、相手が「いまは、やすませてくれ」と言っているのだから、やすませてくれるのが、相手の役に立つことなんだ。相手の要望に応えたということなんだよ。だから、きちがい親父の選択としては、「やますませてくれ」と言った俺に対して、「じゃあ、今日はいいや」と言ってこたえるということが、適切な選択だったのである。「相手にお返しをしてあげたい」「相手の役に立ってあげたい」「相手に親切にしてやりたい」と思っているのであれば、相手がつかれている状態を認識して、相手が「つかれているから、今日はもうおしまい」と言っているのだから、おしまいにするべきなのだよ。それが、相手の役に立つということなんだよ。ところが、きちがい親父は、ガキだから、あるいはきちがだから、相手の状態を読みとるということができないんだよ。読みとるということができなくても、相手が日本語で、はきっりと言ったら、認めるべなんだよ。ところが、自分の気持ちのほうが優先だから、相手が「今日はおしまい」と言っても認めないんだよ。自分が今日、いま、相手の役に立ってやりたいと思っていたら、相手の上たなんて無視して、「やってやるやってやる」と言う。「今日、いまやろう」と言う。休ませてくれない。ここで、ぼくが親父にしんせつして、親父の言い分を聞いて、「じゃあ、つかれているけど、今日、いま、作業をやってしまおう」と言って、やったんだよ。普通ならそれでおしまいなんだけど、そうじゃないんだよ。

2023年10月13日金曜日

「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」

「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」ということについて考えみよう。問題を起こしている宗教団体の教えにも、「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」という教えがあるかもしれない。けど、「親切にする」ということの抽象度が高すぎるのである。そして、「親切にする」という行為が一意に決まるわけではないのである。なので、本人は親切にしたつもりなのだけど、逆に恨まれるというようなことが発生する。親切にしようと思ってやったことなのに、「ありがた迷惑だ」と迷惑がられることがある。その場面の状態というのが、めちゃくちゃに、複雑なのだ。いつも、理想的な状態が成り立っているわけではない。ところが、抽象度が高い言葉の場合には、条件が無視されている。だれがだれに、どういう状態で、どういう行為をするのかということによって、じつは、親切にするという行為の質が決まってくる。状態に埋め込まれた現実しかないのである。けど、頭のなかには、「親切にする」ということにかんするイメージがある。そのイメージに合致したことをすることが「親切にする」ということなのである。ある人の頭のなかに、「親切にする」という行為はいかなる行為かということにかんする「ちゅうょう的な」イメージがあるのである。だから、その人にとっては、そのイメージに合致したことが親切にすることなのである。けど、条件によっては、それが、親切にしたことにならない。逆に、条件によっては、迷惑をかけたということになる。

たとえば、条件を無視して、自分のなかにある「親切な行為」を相手にやってやれば、それは、相手に親切にしたということになると思っている人がいるとする。その人にとっては、その人のなかにある親切な行為に合致した行為をすれば、実際に親切にしたことになるのである。けど、相手の状態がわからない人だと、相手が、「そんなことはやらなくてもいい」「逆に迷惑をする」と言っても、それは、無視してしまうのである。自分のなかにある「親切な行為」にこだわって、親切にしているわけだから、自分のなかでは、それは「親切な行為」であるに決まっているのだ。「いやがるひと」「迷惑に感じする人」がいるとは思えない。なので、そういう現実は無視してしまうのである。

*     *     *

何度も言うけど、悪いことをしている宗教団体の教えにも、いい内容があると思っている人がいるかもしれないけど、その「いい内容」というのは、じつは、悪い行為に寄与している確率が非常に高い。

それに、たとえば、 「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」という単純で正しそうに見える、「教え」をその宗教団体がもっていたとして、その「教え」が正しいのかどうかわからないところがある。

まあ、どれだけ言ってもむだだろうけどな。

『幸福のツボ』を売ることは、相手を幸福にすることだからいいことだと思っているなら、これだって、「親切な行為」の中に含まれてしまうのである。その宗教に勧誘することは、相手を「善に目覚めさせること」だから、いいことだということになっているとする。けど、勧誘されたほうが、いいことをされた(親切にされた)と思うかどうかはわからない。

*     *     *

単純な意味で「人に親切にすることはいいことだ」「人に親切にしましょう」というような「教え」は、ほんとう、その宗教団体に属さないとわからないことなのかという問題もある。そんなのは、いくらだって、言われている。別に宗教団体の教えのなかになくても、普通に、言われていることだ。小さいときから、普通に言われていることでしょ。けど、ここで指摘したように、じつは、いろいろな問題がある。「単純だから正しい」とは言えない。

*     *     *

不利な条件で生活してきた人に「過去は関係がない」「今現在に集中すればいい」「つらいと言うからつらくなる。楽しいと言えば楽しくなる」「できないと言うから、できない。できると言えばできる」などと助言することが、親切な行為なのかどうかということだ。言っているやつは、親切にしてやったと思っているかもしれない。

 

 

自分だったら、一六年目も、弱音を吐かないで、いつものように、働けると思っているのだ

 しつこく、何度でも書いておくけど、名前だけ店長が、「今現在」くるしいのは、過去の積み重ねがあるからなんだよ。一五年間毎日、二時間しか眠れないような状態で、実際に暮らしてきたので、「今現在」くるしいんだよ。

「過去は関係がない」と他人が言ったって、それで、一五年間のつかれが、消えてしまうわけではない。ところが、「過去は関係がない」と言う人は、自分がそういう考えを、名前だけ店長に伝えれば、名前だけ店長の過去のつかれがなくなってしまうと思っているんだよ。

名前だけ店長が、過去に関係なく……過去の出来事に関係なく……勝手に、「つかれている」と思っているだけだから、その思いをかえれば、「つかれ」が消えてなくなると思っているんだよ。そういうところがあるんだよ。こいつら、あほだから、そういうことに気がつかない。たとえば、一五年間の過去のことなんて、気にしないで、「今現在」に集中すればいいというようなことを言うけど、それは、他人だから言えることだ。

自分が、「名前だけ店長」のからだを使ってないから言えることだ。自分が、名前だけ店長のからだを使って生きていたら、やはり、過去から蓄積したつかれが、気になるのである。これも、自己チューだから、わからない。自分が今現在つかれていなければ、情報として、名前だけ店長が、一五年間がんばってきたということを知らされても、それが、今現在の「名前だけ店長」のつかれとは、むすびつかないところがあるのである。

どうしてかというと、自分はつかれてないからだ。

自分は、一五年間、二時間しか眠れないような生活をしてないからだ。

自分が、今現在、つかれていなければ、「名前だけ店長」もつかれてないと思ってしまうのである。幼稚だから、そういう思考方法から抜け出せない。

そして、「気のせい」にしてしまうのである。だから、名前だけ店長が、今現在に集中すれば、つかれがなくなってしまうと思っているのだ。

こういう幼稚な考え方に支配されてる。

「今までのことは忘れて、今日に集中すればいい」……など言ったりする。一五年間の過去のつかれが、ずっと影響をあたえているから、今日もつかれているんだよ。過去の一五年間と関係なく、「今日」の体調があるわけじゃないんだよ。

そういうことが、根本的にわかってない。自分が無視すれば、相手も無視できると思っている。自分が「相手の体調」を無視すれば、相手も「相手の体調」を自分のように無視できると思っているのだ。こういう幼稚な考え方をするやつが、えらそうなことを言う。わかったようなことを言う。言われるほうは、絶望する。

問題なのは、ブラック社長だけではなくて、普通の人がそういう発想でものを言うということだ。普通の人が、弱っている人に対して、ブラック社長みたいなことを言うのである。

ブラック社長は、無休で、働かせたいから、そうやって、わけがわからないことを言って、名前だけ店長の主張をはぐらかしているんだぞ。普通の人は、なんの利益もないのである。

カネとしては、利益がない。自分がえらそうなことを言って、自己満足に浸る……そういう効果しかない。

それは、マウントをとったいうことで、気持ちがいいかもしれない。

「いいことを言った」「いい助言をしてやった」と勘違いして、満足な気持になるかもしれない。けど、金銭的に得をするわけではない。

こういう考えに「はまっている」だけなのだ。もちろん、自分がつかれたときは、自分が感じているつかれが優先する。だから、自分がつかれているときは、名前だけ店長とおなじように判断するのである。

けど、名前だけ店長のつかれ方が、異常なので、その異常さがわかってないのだ。これも、自己チューなので、自分がちょっとつかれたときのつかれと……がんばれるつかれと……名前だけ店長のつかれが、おなじレベルのつかれだと思ってしまうのだ。

そういう想像しかしない。

そういうことしか考えられない。

だから、えらそうに言っているだけなんだぞ。

これはむしろ、「他人の状態がわからない」という「能力の欠陥」だ。

けど、これが、優越感につながるのである。

ほんとうは、その人は、名前だけ店長のように一日だって働けないかもしれない。けど、じぶんがそういう状態に追い込まれていない。だから、経験してない。やったことがない。

人がやっていることは、過小評価するのである。

人のたいへんさは、過小評価するのである。

自分だったら、一六年目も、弱音を吐かないで、いつものように、働けると思っているのだ。名前だけ店長は、できるやつなんだよ。なんでそれがわからないのか?

名前だけ店長は、耐久力がある人なんだよ。人並みすぐれた耐久力がある人なんだよ。なんでそれが、わからないのか?

名前だけ店長は、人並み外れた、耐久力があるから、一五年間も毎日、一日に二時間しか眠れないような状態で働き続けることができたんだよ。どうして、それがわからないのか?

「言ってもむだだった」と思って、死んでいく。

 これ、生まれの格差・家族「下の下」の人は、みんな、生まれの格差・家族「下の中」以上の人に、やられちゃう。みんな、やられちゃう。まあ、生まれの格差・家族「中の下」以上でもいいけどさ……。ともかく、きちがい的な家族にたたられた人は、みんな、無理解なことを、ほかの人に言われて、死んでいく。「言ってもむだだった」と思って、死んでいく。

ほんとうに、きちがい的な家族のもとに生まれなかった人は、きちがい的な家族のもとに生まれた人のことが、ぜんぜんわかってない。わかってないなら、わかってないと思えばいいのに、わかっているつもりになってしまう。そして、きちがい家族の影響を無視して、「そんなのは影響をうけなければいい」と言ってしまう。どんだけ、無理なことを言っているかわからない。

2023年10月12日木曜日

ヘビメタ騒音の影響を無視して、過去は関係がないと言う

 きちがいヘビメタを毎日、鳴らされているのに、普通の人と普通につきあうということは、ものすごくむずかしいことなんだよ。それを俺は、一五年近くやった。もう、それだけで、ぼくは……普通の人ができないことをやっているということになる。みんなわかってないんだよね。ヘビメタ騒音の影響を無視して、過去は関係がないと言う。元気づけているつもりなのだ。しかし、これ、言われたときにどんな気持ちになるかわかってないんだよね。それは、やはり、一五年間がないかわからないのだろう。鳴っている一五年間がないからわからない。

たとえばの話だけど、名前だけ店長が一五年目に、「過去なんて関係がない」と言われたら、どういう気持になるかということについて、ちょっとだけ話しておこう。一五年間つらい思いをして暮らしているんだよ。その積み重ねがある。その積み重ねがあるから、つらいんだよ。それを、「過去なんて関係がない」と言って無視する。こんなことを言われて、元気になるわけがないだろ。「過去なんて関係がない」と言っている人は、「過去なんて関係がない」ということを、名前だけ店長が理解すれば、現在のつらい気持ちがなくなると思っているのである。こういう、ほんとうに、幼稚な考え方なんだよね。いま、つらいんだよ。そして、「こだわる」という表現を使えば、「過去にこだわるから、つらくなる」と言う。これも、ひどい話で、猛烈な無理解ぶりを発揮しているのかわからないのかな? 本当にガキ。こども。幼稚。

きちがい兄貴が、この世で、実際にやったことだ。

ほんとう、へんな目つきで、鳴らし続けやがって……。空間自体がゆがむほどくるしい。きちがいヘビメタが鳴っている空間自体がくるしい。

きちがい兄貴が……鳴らしているのに、本当にまったく関係がない人のつもりでいる。重要な試験のまえ、どれだけ「やめてくれ」と言っても、一日中鳴らして、一分もやめてくれなかった。

それが、きちがい兄貴が、この世で、実際にやったことだ。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴が鳴らしたいという理由だけで鳴らしているのだから、鳴らしているということについて責任がある。

そして、最低でも、鳴らしているという意識をもたなければならない。

ところが、本人は「鳴らしているつもりがない」まま、頑固に頑固に、意地をはって、きちがい的な目つきで鳴らしているのである。こんなのが、毎日続いて、空間自体がくるしいのに、いいわけがない。

鳴っている時間が終われば、それで、きちがいヘビメタが鳴っていた影響から自由になれる……。そんなわけ、ないだろ。バカも、やすみやすみ、言え!

 

 

人に対して「過去なんて関係がない」と軽く言えるようなつらさなんだよ

 ほんとう、ヘビメタ騒音があるとすべてがいやなことになる。こんなことをどれだけ、ほかの人に言ったって、ほかの人は、ヘビメタ騒音がないわけだから、ぼくが言った意味では、伝わらない。その人が今まで経験してきたことをもとに、「ヘビメタ騒音」のことを想像して、ものを言ってくる。その言い分は、ヘビメタ騒音を経験したぼくにとっては、「いやなこと」なのである。いやなことが、つみかさなっていく。きちがいヘビメタ騒音があると……毎日毎日続くと……いやな出来事がつみかさなっていく。ほかの人との間の、いやな出来事がつみかさなっていく。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。きちがい家族による騒音というのは、そういう騒音だ。きちがいじゃなければ、あれがでかい音だとわかるから、最初から鳴らさない。最初から、どんだけ性格がわるいやつでも、あんな音で鳴らさない。そして、でかい音で鳴らしているあいだじゅう、でかい音で鳴らしているということを、無視しやがるのである。これが、どんだけ性格がわるいやつでも、きちがいでなければ、できないことだ。感覚器を無意識のレベルで書き換えるということができなければ、できないことだ。で、そういうモードできちがい兄貴はずっと暮らしている。普段の「それ」が、きちがいヘビメタを鳴らしている「それ」なのだ。こんなのは、ない。そうやって、生活をうばわれたことがない人には、それが、どういうことなのかわからない。「やってないつもりのまま」「ずっとやっている」……。……こんな異常なことが、普通に成り立っている。二四時間中、二四じかんずっと、こんな異常なことが、普通に成り立っている。こんなきちがい的な家に住んでいて、いいわけがない。そりゃ、きちがい兄貴が、将棋にこって、ずっと将棋をやっているけど、パチンパチンという音以外は出ないというのであれば問題はないけど、きちがい兄貴がこったことは、ヘビメタを大音響で鳴らすことと、エレキギターを大音響で鳴らすことなのだ。これ、本当にでかい音で鳴らしているのに、わかってない。ずっと、やられる。生活しているあいだじゅう、ずっとやられる。そうなると、たとえば、深夜の時間帯は、鳴ってないのだけど、からだがくるしいのである。そして、眠れないのである。早朝になって眠れるけど、どのみち、朝、起こされる。ヘビメタが鳴ってなかった時期だって、朝がつらいというのはあった。けど、ヘビメタ期間中のそれは、質的に、あきらかに異なるのである。ぜんぜんちがう。これだって、実際にきちがいヘビメタ騒音を、日常的に、何千日も、経験した人じゃないとわからないことだ。質的にちがうということがわからない。ぜんぜんちがうということがわからない。だから、わからないまま、あてずっぽうで、好き勝手なことを言ってくるということになる。「俺だって、朝はつらい」「けど、がんばっている」……。ぜんぜんちがうんだよ。

きちがい兄貴がやったこと……やっていること……何千日も続けてやっていることで、俺が、ほかの人から、悪く言われる。俺とほかの人のなかが悪くなる。

きちがいヘビメタが一〇〇一日積もったときの、朝のしんどさといったらない。きちがいヘビメタが五〇〇一日積もったときの、 朝のしんどさといったらない。みんなわかってない。みんな、普通の「朝のしんどさ」だと思っている。ぜんぜん、ちがう。憂鬱になる。どれだけがんばって、起きて、学校に行っても、アルバイトに行っても、めちゃくちゃにしんどい状態でからだを動かすことになる。ぜんぜん、ちがう。しんどさの、しんどさがちがう。けど、それは、きちがいヘビメタ騒音がなかった人にはわからない。わかるわけがない。「過去は関係がない」と言っている人のしんどさなんて、まったく問題じゃない。そういうことが言えるのだから、まったくしんどくない。きちがいヘビメタとは、異質のしんどさだ。軽くて異質だ。一日のなかであれだけ長いヘビメタ騒音が、毎日つみかさなるということの、意味が、(そういうことを言う人は)まったくわかってない。

 

「過去なんて関係がない」と人に言える状態だということが、「わかってない」ということを、明示している。「過去なんて関係がない」と人に言えるのだから、「わかってない」。わかっているわけがない。けど、「わかっている」と、こういう人たちは、みんな、言うんだよね。けど、自殺する前の名前だけ店長が、人に対して「過去なんて関係がない」と言うと思う。そんなことを言う元気があったら、自殺してないよ。「過去なんて関係がない」と思っていたら、自殺なんてするわけがないだろ。過去の出来事がつみかさなって、死にたいと思っているわけだからさ。そういうことがまったくわかってないということが、「その状態」についてわかってないということを物語っている。質的にちがうんだよ。どれだけ「俺だってつらいことがあった」「いろいろないやなことを経験してきた」と言ったって、そんなのは、人に対して「過去なんて関係がない」と軽く言えるようなつらさなんだよ。

2023年10月11日水曜日

何度でもXをする根性がないからダメなんだということになってしまう

 「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」というような方法は、法則性があるような感じがするけど、じつは、法則性はない。

そして、ある条件のもとでは、有害なことになる。無害ではすまない。Xをすることで、新たなトラブルがしょうじてしまうのである。

これは、社会のピラミッド構造と、個人を中心した場合の比較優位・比較劣位を無視している。これは、生まれの格差を無視している。

「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」という言葉が、正しいこととして流通してしまうと、生まれの格差『下の下』の人が、くるしい思いをすることになるのだ。

「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」というような方法について語る人は、生まれの格差『下の下』をおいつめている。おいこんでいる。はっきり言えば、自殺においこむ一勢力になっている。

「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」ということが正しいなら……『真』であるなら……そうしないやつが悪いということになってしまうのである。

Xをすれば、問題が解決できるのに、Xをしようとしないからダメなんだ」ということになってしまうのである。

格差の問題が、「その人がしようとしない問題」に置き換えられてしまう。格差がその人のくるしみをうみだしているのに、その人が、くるしみから離脱しようと「Xをしないから」ダメなんだということになってしまう。

Xをするという努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。

何度でも地道にXをする根性がないからダメなんだということになってしまう。

ようするに、性格の問題に置き換えられてしまうのである。

自分が想像できる範囲のなかで……「どんな条件だって」と言っているにすぎない。

自分がニコニコすることで、相手の「頭の構造」がかわるかというと、かわらない。たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんは、Bさんの父親だ。Aさんは、頭がおかしいので、幼い子供であるBさんを、虐待する。Bさんを見かけたら、どなり、なぐらないと気がすまない状態になってしまうのだ。

頭がおかしいからそういう反応をする。頭がおかしいから、幼い子供であるBさんを見かけたときは、常にそういう反応をする。Aさんにとっては、Bさんは、自分の感情のはけ口で、人間サンドバックなのだ。

Aさんにとっては、Bさんは、安心して、自分の怒りをぶつけることができる、便利な人間なのだ。

あるとき、Bさんが、ニコニコしたとする。

Aさんの態度がかわって、虐待をやめるか? そんなことはないんだよ。どうしてかというと、Aさんには、Aさんの過去があり、Aさんの脳みそは、Aさんの脳みそだからだ。Bさんが、どれだけニコニコしても、Aさんの脳みそがかわらない。脳みその回路がかわらない。

なので、Bさんは、自分がニコニコすることで、Aさんの態度をかえることができない。なので、「どんな状態だって、ニコニコすればいいことがある」という命題は成り立たない。

『偽』だ。

「どんな条件だって」ということを、ニコニコ教の人は、簡単に言う。簡単に言うけど、ニコニコ教の人が想像できる範囲内の条件しか考えてない。そのニコニコ教の人が想像している範囲外のことは、考えてないのである。

なので、「きちがい的な父親という条件」のもとに生まれた場合のことは、そもそも、想像してないのである。そういう限定的な範囲……自分が想像できる範囲のなかで……「どんな条件だって」と言っているにすぎない。

きちがい的父親が、きちがい的な脳みそをもっているから、人間サンドバックとして、自分の感情を、自分の子供に向けて爆発させている。そのとき、子供側の人間がニコニコしたら、「なに、わらっているんだ!!」とどなりちらして、なぐってくるに決まっているのだ。ニコニコしたことで……悪いことが発生してしまう。

「どんな状態だって、ニコニコすればいいことがある」と言っている人は、こういうことを、完全に無視している。無視しているから、逆に「どんな状態だって」と言える。けど、現実はそうじゃない。悪い状態なら、ニコニコしていることで、悪い出来事が発生する。これが現実だ。現実だ。現実だ。

現実的ではないのは、そういう提案をするほうなのに、そういう提案をするほうが「現実を見ろ」と相手に言う場合がある。多い。これも、「手」なんだよ。相手の状態に無頓着で、相手の状態を理解していないから、そういうことが、言える。 

「どんな状態だって、ニコニコすればいいことがある」と「言霊思考」と「引き寄せ思考」と「現実を見ろ」と「受け止め方の問題だ」というのは、系をなしている。「どんな状態だって、ニコニコすればいいことがある」と言いたい人は、ほかのことも言いたいという傾向がある。ひとつのことを信じている人は、ほかのことも信じている。

「現実を見ろ」とか「目の前の現実に集中すればいい」というのは、ほんとうに、勘違い発言だ。「どんな状態だって、ニコニコすればいいことがある」も、勘違い発言。この勘違い発言が、どれだけ、不愉快な印象をあたえるか、ぜんぜん、こいつらは考えてない。『条件が悪い人』がこの言葉を言われて、どれだけ不愉快な気持になるか、ぜんぜんわかってない。


ニコニコしていることで、悪いことが起こることがある

 ニコニコ教に関してちょっとだけ言っておく。基本的に、言霊理論とおなじように、一〇〇%そうなるということを言っているのである。

「ニコニコしていれば、いいことがある」……。Xをすれば、Yになるという言い方だ。おなじみの言い方。ニコニコしている以上、ニコニコしてないわけではないのである。

ニコニコしていれば、ニコニコしている。いいことがあるというのは、悪いことがあるということを含んでないのである。いいことが起こるということは、悪いことが起こるということを含んでいない。いいことでも悪いことでもない、中立的なことが起こるということも含んでいない。

かならず、いいことが起こるのである。

そして、いいことは、いいことなのである。

どういうことかというと、「ニコニコしていれば、いいことがある」という文と「ニコニコしていれば、一〇〇%の確率で、いいことがある」という文は、意味的に等価なのだ。一〇〇%なんだよ。

ところが、「なにわらってんだ!ふざけているのか!!」と他人が言う場合だってあるのである。「なに、ニタニタしているのかな? 気持ち悪い」と他人が言う場合だってあるのである。「あんな状態なのに、わらっていて、気持ち悪い」という場合だってあるのである。

ようするに、ニコニコしていても、悪いことが起こる場合がある。

かならず、いいことが起こると言えない。

ところが、「ニコニコしていれば、いいことがある」というのは、一〇〇%いいことが起こるのであって、悪いことは起こらないということを言っているのである。

「ニコニコしていれば、いいことがある」というのは、無視されたり、中立的なことが起こることはないということを言っているのである。かならず、いいことがあるということを言っている。

これは、条件の無視なのである。あるいは、結果の無視だと言ってもいい。

本当は、法則性なんてないのに、あたかも、法則性があるようなことを言うな。幸福のツボとおなじように、ニコニコしていることで、悪いことが起こることがあるのである。

だいたい、ニコニコ教の人は、意識的につくってわらうことと、本当にわらうことを区別してない。こういうレベルの話をしている。

普通に、おもしろいからわらうということと、意識して作り笑いを浮かべるということは、本質的にちがうことなんだよ。

そのちがいを無視している。

おなじだと思っているのだ。

意識して、つくりわらいを浮かべることで、「自然にわらえる状態を引き寄せる」というような考えがある。意識して、つくりわらいをうかべるような状態について、まるで考えてない。

どんなにつらい状態でも、つくりわらいをうかべれば、いいことがある……。これ、どういうことを言っているかわかっているの?

これは、行動主義心理学のところでも書いたけど、「楽しいから笑うのではなく、わらうから楽しいのだ」とか「悲しいからなくのではなく、なくから悲しく感じるのだ」という考え方は、考え方自体がまちがっている。

これも、因果関係を逆転させて、「真理を言い当てたような感じ」をかもしだしているだけだ。これ、ちがう。まちがっている。理論的にまちがっている。

2023年10月10日火曜日

非・現実的な話

 しあわせについて考えると、とてつもなく……。とてつもなく夢のような話になってしまうのだ。非・現実的な話になる。まったくもって現実味がない話になる。現実的じゃない……。現実的じゃない。

そもそも、「設定」をかえなければ、しあわせについて考えることができないのだ。こんなのはない。現実的な設定で、しあわせについて考えることができないという、現実。ははっ。はははっはっはっはっはっは。 

呪術的な方法というのは「幸福のツボ」とおなじような効果をもっている

 言霊的方法やニコニコすればいいというような方法は、言ってみれば、カスなのである。スカなのである。効力がないのである。さらに言ってしまえば、そういう呪術的な方法というのは「幸福のツボ」とおなじような効果をもっている。高価な、効果のない、幸福のツボとおなじような効果をもっているのだ。物品の受け取りが発生したかどうかのちがいがある。それ以外は、だいたい、似ている。幸福のツボを売る人たちは、幸福のツボの力を信じている。「幸福のツボを買えば、絶対に幸福になる」と思っているのだ。思っているほうが、売るほうで、説得して売るわけだ。じつは、幸福のツボには、人をしあわせにするような効能がない。効能がないのにもかかわらず、あると言って、売るのはよくない行為なのである。俗にいう、詐欺行為だ。

 

条件を無視して、法則性があると思ってしまっているのだ。

 ニコニコの問題解決方法が、名前だけ店長には、有効じゃないのである。それは、構造によって押し出されているかどうかで決まる。ニコニコしたらいいことがあった……これは、事実だ」と言っている人たちには、よゆうがあるのである。

ようするに、条件がよければ、いいことがあったと思うことができる出来事が発生する可能性はある。あくまでも、可能性だから、「かならず」そうなるとは言えない。

もちろん、法則性なんてない。

あくまでも、まわりにいる人がどう感じるかだから、本人が、意識的にニコニコしても、「いつもおなじ反応が」「他者から」かえってくるとはかぎらない。

ところが、ニコニコ教の人は、「いつもおなじ反応が」「他者から」かえってくると思っているのである。自分の場合はそうだったから、他者がやった場合でも、その他者のまわりの他者がおなじように好意的な反応をすると思っているのだ。

けど、ニコニコしたところで、「気持ち悪い」と言われるかもしれないのだ。いいことが起こるとは限らない。

基本的に言って、ニコニコすればいいことがあるというのは、法則性があるものではない。無条件にそうなるものではない。

ところが、条件を無視して、法則性があると思ってしまっているのだ。なので、まちがっている。けど、悪魔が支配する世界では、こういうまちがいが歓迎されているのである。

どうしてかというと、これも、奴隷の道徳だからだ。奴隷的なあつかいをうけている「名前だけ店長」のような人が、「ニコニコ」して、のりきれば、それで、いいということになってしまっているからだ。

しかし、名前だけ店長は、無理をして働いているのに、さらに、「ニコニコする」という作業がくわわって、よりくるしい状態になってしまう。

そして、もし、のりきれたなら、そのぶんだけブラック社長がもうかるのである。そりゃ、奴隷労働者を効率よく使ったということになるから、利益があがる。

問題なのは、呪術的方法が、あたかも有効な方法として、流通してしまっていること

 問題なのは、呪術的方法が、あたかも有効な方法として、流通してしまっていることだ。加持祈祷というのがあったけど、言霊、引き寄せ、ニコニコは、加持祈祷のような呪術的解決方法なのだ。

まあ、呪術的というと、なんかかっこいい響きになるけど、まったく有効ではない解決方法だ。影響をあたえないのである。構造をかえないのである。状態をかえないのである。

「かえる力がある」と言っている人が言っているときだけ信じているような方法なのである。言っている人だって、普段は、現実的なことにかんしては、そんなことはしてないのである。

言霊主義者が、現実的なことに関しては、まったく言霊を用いないのとおなじなのである。問題なのは、何度も言うけど、その人たちのなかでは有効だと思われているということだ。

言霊主義者は、自分の理論の矛盾や、じつは無効だと思って行動しているということについて、認識しないのである。こういう幼稚なところがある。言霊にかぎらず、呪術的な解決方法は、幼稚なところがある。現実的ではないのである。

本人が、そう思っているだけなのである。ただ、人数が多いと、あたかも、正しいことのように流通してしまう……。これが問題なのだ。

そして、これは、じつはイルミナティーといわれているような勢力の支配と、合致した部分がある。

こういう無効な方法が、有効な方法であるかのように言われるというのは、やはり、格差において『下の下』の人をくるしめることになる。

「いいことをしているつもりの人たち」……「いい助言をしているつもりの人たち」は、じつは、悪魔の教えにしたがって、立場の弱い人をくるしめているのである。実際にくるしんでいる人をもっともっとくるしめているのである。けど、幼稚だから気がつかない。

2023年10月9日月曜日

ヘビメタ騒音のなかで「緊張」して、頭がこんがらがって、なにもかもわからなくなる

 ヘビメタ騒音のなかで「緊張」して、頭がこんがらがって、なにもかもわからなくなるというのがあった。ほんとうに、混乱して、普通なら理解できることがまったく理解できなくなってしまうのである。学校で覚えたことも、ヘビメタ騒音のなかで「復習」すると、「おぼつかないもの」になってしまうのである。なんか、へんな感覚がつきまとう。なんか、へんな感情がつきまとう。思うに、ヘビメタ騒音のなかで、怒りをがまんして、「学習内容」を見ているのがダメなんじゃないかと思う。これ、本当に、発狂状態なのである。ヘビメタは、俺にとって、発狂状態にさせられる音なのだ。強制的に発狂状態になる。その発狂状態を「意志で」抑え込もうとしているのだ。だから、ストレスとストレス対抗がある。これが、真っ向からぶつかって、めちゃくちゃな状態になっている。頭のなかがめちゃくちゃな状態になっている。これを繰り返すと、試験中など「緊張」しているときは、そういう状態になってしまうのだ。緊張してあせって、腹がたって腹がたっているのをおさえて、頭のなかが無茶苦茶な状態になってしまう。きちがいヘビメタの音は、超高圧状態を引き起こす音なのだ。きちがい兄貴の態度も影響している。きちがい兄貴の態度というのは、きちがい親父の態度そのものだ。「うそ」がある。「感覚器の書き換え」がある。あいつが、きちがい的な意地で、普通の家じゃありえない音でずっと鳴らしている……。そういうことが、まかり通っている……。ずっと鳴らされている……。こういうことにかんする、怒りがまた、尋常じゃないのである。不正が常に行われているような状態だ。しかも、やっているやつは、一〇〇%やりきるのに、一〇〇%やってないつもりなのだ。こんなのない。これは、腹がたつ。ともかく、試験中、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にさらされているような高圧力状態になってしまうのである。はげしいストレスの力と、はげしいストレスに対抗する力が、拮抗しているような状態になってしまう。試験となると、わかっていることもわからなくなってしまうのである。きちがいヘビメタ騒音のなかでなにがつらかったかというと超高圧状態がつらかった。超ストスレ状態で頭がこんがらがって、つらかった。超ストスレ状態で頭がこんがらがっている状態で、教科書や参考書と向かい合っているのがつらかった。普通なら、一読すれば理解できることがぜんぜん理解できなくなる。普通なら、一読すればおぼえられることがぜんぜん覚えられなくなる。教科書や参考書に書いてある内容に、ヘビメタ騒音の記憶がついてしまう。教科書や参考書に書いてある内容が、強烈に不愉快なものになってしまう。不愉快な感情を引き起こすものになってしまう。不愉快な感情を引き起こすものと向かい合っていて、楽しいはずがない。これ、ぼくが好きな科目でもそうなってしまう。
しゅきちがいが趣味で鳴らしている音じゃなかったんだろ。中学、高校の六年間、日曜も祭日も、夏休みも冬休みも春休みも、毎日毎日、そんな状態でいいわけがない。ずっと、本当に毎日やられた。きちがいだから、やるとなったらずっとやってしまうのだ。一日に二時間だけ、午後四時から午後六時までやるとか、そういうことができないのだ。家にいるときは、眠っている時間と風呂に入っている時間とご飯をくっている時間をぬかして、すべての時間、きちがいヘビメタを鳴らしながら、エレキギターを(もっとでかい音で)鳴らしていた。こんなの、いいわけがない。無視できるわけがない。きちがい兄貴の耳が、悪くなるようなでかい音で鳴らしていた。きちがい兄貴が最大限ゆずったときだって、そういう音なのである。それなのに、きちがい兄貴が、きちがいおやじとおなじ型の脳みそを搭載しているから、一切合切やってないことになっている。普通の音で鳴らしていることになっている。これが、きちがい親父とおなじように、どれだけ、でかい音で鳴らしているということ指摘しても、まったく理解しないのである。普通の音で鳴らしているつもり?で、ずっと、ヘビメタ難聴になるような音で鳴らしている。こんなので、いいわけがない。勉強する時間がなかったと言ったって、「そんなのは、いいわけだ」と言われるだけだ。「どんだけうるさくたって勉強はできる」と言われるだけだ。そういうことを言うやつには、きちがい兄貴がいないのである。ヘビメタ難聴になるような音で、ずっと、ヘビメタを鳴らしている家族がいないやつがそういうことを言う。

 

全部が全部そういうことになる。 


そいつにとって、一番嫌いな音のなかで、勉強したことがないだけだろ。そして、その普通の騒音は、短期間で終了することがわかっている騒音だったんだろ。そして、その普通の騒音は、なにか目的があって鳴らしていた騒音なんだろ。たとえば、工事のためにどうしても音が出るとか……。きちがい家族が、趣味で鳴らしていた音じゃないんだろ。

期間の長さがちがえば、ぜんぜんちがう効果があらわれるよ。なんで、そうやって、きちがい家族にやられたわけではない人間がわかったようなことを言うのか?

ぜんぜんちがうんだよ。 

俺は幼稚園の横にずっと生まれたときから住んでいる人間で、騒音耐性は高かったんだよ。その高い騒音耐性を、きちがい兄貴の騒音で、ズタボロにされた。そりゃ、うらみがつみかさなれば、騒音そのものに対する感度があがる。きちがい兄貴の騒音『で』からだがおかしくなれば、騒音そのものに対する耐性が落ちる。

 

老化はあまえ。老化したから、働けないなんてことはない

 老化はあまえ。老化したから、働けないなんてことはない。働けると言えば、働ける。あまえて、泣き言を言っているだけ。泣き言を言うな。泣き言を言っている人たちだって、老化はあまえにすぎないということを、理解してくれれば、働くにちがいがない。……老化にこだわるからダメなんだ。……老化を引き寄せるからダメなんだ。……明るいことを考えれば、明るいことが起こる。これは正しい。……老化なんて、暗いことを考えているから、暗いことが起こるんだ。

こういうふうに言ってやりたいね。

こんなことを言って、人をせめておきながら、「人に親切にすると、いいことがある」なんてことを言っているやつらだ。これ、本人の主観としては、親切にしてあげたことになるのかな?

老化にこだわっているダメな人に、働くことのたいせつさを教えてあげたということになるのかな?

「気のせい」という言い方で、物理的な現象を否定してしまう人

「 病は気から」という言い方があるように……病は、みんな気のせいだ……と言ったら、どう思う?

ぼくは、どうして、物理的な現象を無視してしまうんだ?と思うんだけど、どうかな?

これ、「気のせい」という言い方で、物理的な現象を否定してしまう人がいるのである。体を構成している分子が物理的な運動によって、変化したら、そりゃ、うまく動けないと感じることもあるでしょう。けど、じゃあ、うまく動けないと感じることも、気のせいだから、気のせいなのか?

これ、気のせいという言い方は、じつは、気分の問題に過ぎないということを言っているのである。だから、そういう気分じゃなくなれば、症状もおさまる(きえうせる)ということを言っているのである。 「気のせい」と言った時点で、すべての、物理的な現象を無視しているのである。

まあ、その言葉の対象となる人の、からだに起こっている物理的な現象を無視しているということだ。物理的な現象……関係あるでしょ。まあ、気分だって、けっきょくは、物理的な運動によって発生しているわけだけど……。

自分のからだを構成している物質が物理的な変化をうけた場合……あれができない、これができないということが発生する。けど、そんなのは、「気のせいだ」と言うのである。

気のせいだけであるような場合も、あるけど、気のせいじゃない場合もある。気のせいじゃない人に対して、「気のせいだ」と言うのは、たいへん失礼なことだ。それ、わかるかな?

自分だって気のせいじゃない病気になったときに、「気のせいだ」と言われたら、不愉快な気持になるくせに、ほかの人にはそういうふうに言って、平気なんだからなぁ。

 

まあ、けっきょく、気のせいである場合も、けっきょく、シナプスの電気的な運動が影響しているのだけど……。

 *     *     *

「副反応はあまえ」「副作用はあまえ」「後遺症はあまえ」「なんとか病はあまえ」と、なんとだって、言える。相手の状態を理解していなければ、なんとだって言える。

 

 

ブラック社長のような権限はないけど、なかみは、ブラック社長なのである。

 たとえばの話だけど、ブラック社長には、責任がある。限定責任だ。名前だけ店長に、時間外の仕事をおしつけて、それに相当する賃金を払わなかった。これは、あきらかな犯罪だ。

そういうことを、ブラック社長が、自分で思いついて、自分の意思でそうしたのだから、そうしたということについて、ブラック社長には限定責任がある。

相手が、つかれはててくるしい生活をしているのは、ブラック社長が社長の権限を利用して、そういう生活を相手におしつけたからだ。

ところが、世間の人は、ブラック社長の限定責任を問わず、やられたほうの無限責任を問うわけ。

ようするに、したがってしまった名前だけ店長が、したがってしまったからダメなんだということを言うわけ。自分がやったことだから、自分の責任だと「自己責任論」を振り回すわけ。

やられたほうにだけ、そういうことを言って、やったほう……限定責任があるほうの責任はまったく問わないわけ。

こういう「世間の人」が多い。こいつらは、ブラック社長のような権限はないけど、なかみは、ブラック社長なのである。

自己責任、自己責任と言いながら、自分の「限定責任」ですら、問わないのだ。

これ、言いたくないけど、たとえば、悪の宗教に所属している人がいたとする。この人が、強引に、ある人を、その宗教に引きずり込んだとする。猛烈に、説得して、悪の宗教団体の一員にしたのだ。

これは、その説得をした人の、意志によるものだから、限定責任が発生している。けど、そういう限定責任は問わずに、けっきょく、説得されて悪の宗教に入った人の「自己責任」を問うのである。

たしかに、悪の宗教に入ってしまったのだから、責任はある。けど、説得したほうの責任は問わずに、説得されてしたがってしまった人の責任だけを問うのは、まちがっている。

 

相手に不愉快な経験をさせているだけなのに、いいことをしたと思っている。

 老化はあまえ。老化したから、動けないなんてことはない。動けると言えば、動ける。あまえて、泣き言を言っているだけ。泣き言を言うな。老化はあまえにすぎないということを、理解してくれれば、働くにちがいがない。老化にこだわるからダメなんだ。老化を引き寄せるからダメなんだ。明るいことを考えれば、明るいことが起こる。老化なんて、暗いことを考えているから、暗いことが起こるんだ。

こういうふうに言ってやりたいね。

こんなことを言って、人をせめておきながら、「人に親切にすると、いいことがある」なんてことを言っているやつらだ。これ、本人の主観としては、親切にしてあげたことになるのかな? 自分は、老化にこだわっているダメな人に、働くことの大切さを教えてあげたということになるのかな?

こういうことをするやつがみんな、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言いやがる。けど、本当に、そいつは、俺と同等の苦労をしてないし、俺と同等の騒音をあび続けたわけじゃない。

『わかっている人』がそんなことを言うわけがないんだよ。『わかってない人』だから、そういうことを言う。いい気になって、不愉快な経験をさせてるだけなのに……本人がいい気になって、相手に不愉快な経験をさせているだけなのに、「いいことをした」と思っている。


2023年10月8日日曜日

「殺さなきゃやめさせることができない」状態をずっと毎日おしつけられていた

 ほんとうに、きちがい兄貴が「なにもしてないつもりで」つねに、ヘビメタを最大限の音で鳴らすから、こまったよ。あれ、ほんとうに、きちがいだから、なにもしてないつもりなんだよな。「やめてく」と言われても、絶対にやめないのに、やめてやらなかった」というつもりが、まったく生じないんだよね。きちがい兄貴は、きちがいだから、スイッチがはいったらずっとやってしまう。一日中鳴らすつもりになったら、一日中鳴らしてしまう。それが、デフォルトだ。気にならないことは、どれだけ言われても、気にならないのである。だから、「でかい音で鳴らしてないつもり」で、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らし続ける。それだって、「でかい音で鳴らしている」というつもりはないままだ。だから、気ちがい兄貴みたいなのが、「こってしまうと」こまるのだ。普通の話が通じない。スイッチが入ってしまうと、ずっとそのままやり続ける。きちがい兄貴にとって、自分の満足できる音で、ヘビメタを鳴らすことは、「いいこと」なのだ。迷惑行為じゃないのだ。どれだけでかい音で鳴らしていても、どれだけ、「うるさいからやめてくれ」と言われても、まったく「そんなつもりがないまま」やり続けることができる。本人は、まったく迷惑をかけたつもりがないのだ。定期試験のとき……中間期末試験のとき……どれだけ俺が苦労したか。どれだけ俺がふがいない思いをしたか。どれだけ俺が不愉快な思いをしたか。

もう、書いたから、ここでは省略するけど、無意識的なレベルで感覚器を書き換えてしまうのだ。耳が正常なら、絶対にでかい音だと感じるを音を、でかい音だと(意識レベルでは)感じなくなってしまう。でかい音で鳴らしたいからだ。本人は、普通の音で鳴らしているつもりなのだ。テレビの音とおなじぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。テレビとおなじぐらいの音で鳴らすなら、何時間鳴らしたって関係がないだろ」という気持が成り立っている。あとは、きちがい親父のように「でかい音で鳴らしている」ということを言われたら、目を三角にして、顔を真っ赤にして、怒り狂う。怒り狂って絶対に認めない。認めなかったということも認めないのだ。相手がでかい音で鳴らしている」と言ってきたということも、認めないのだ。ようするに、「でかい音で鳴らしている」と言われたことや、相手が言ってきたあと、その言葉を無視して、ずっと自分が鳴らし続けた……自分が満足できる音で鳴らし続けたということを無視してしまう。無視したら、やってないのとおなじことなんだよ。これ、ほんとうに、(相手が言ってきたということにかんしては)記憶がなくなってしまう。自分がそれでもやり通したといこうとは、都合が悪いことだから、記憶に蓋をしてしまう。きちがい親父のように、「やってない」ということになってしまう。頭の中でそうなってしまう。けど、その「やってない」と言ったあと、おなじようにやってしまったとしても、それはまったく気にしないんだよ。こういうきちがいだ。 

自分にとって都合がいいいように狂っているのである。でかい音で鳴らしたいという気持があると……それが無意識的に強い気持ちだと……「でかい音で鳴らしても、普通の音で鳴らしてしいる」と思ってまうのである。これが、強力で、どれだけ言っても、気がつかない。認めない。あんな音で鳴らしているうちなんないよ。

これ、ほんとうに、きちがい兄貴が鳴らしていると……ずっと鳴らしていると……一緒に住んでいる「いえのひと」はそれを許容しているように、まわりの人からは、思われるのだ。そこのところで、いろいろと問題がしょうじる。たとえば、東側の空き地に家が建ったときに……。あれだって、きちがいヘビメタが先行して六年間も鳴ってなかったら、そんなにこたえなかったことなんだぞ。あれだって、きちがい親父が、アパートをすぐに借りてくれたら、問題がなかったことなんだぞ。東側に引っ越してきた人が、これたま、めちゃくちゃに、うるさい人(大きな音をたてる人)だったんだけど、「そっちだって鳴らしてんじゃないか」と俺が思われるわけだ。

ともかく、きちがい兄貴は、耳が正常な人なら「ものすごくでかい音だ」と感じる音で鳴らしてたんだよ。兄貴の友達が「こんな音で鳴らしてだいじょうぶなの」「家族の人かわいそうだよ」と言った音なのである。きちがい兄貴は「だいじょうぶ。だいじょうぶ」なんて言ってたけど、だいじょうぶであるわけがないだろ。それ、兄貴の友達がきて、兄貴が「普段の音で」ヘビメタを鳴らしたのは、俺が「やめてくれ、やめてくれ」と毎日言って、四年間ぐらい経過した日のことだ。毎日に毎日「うるさいからやめてくれ」と言っているのに「だいじょうぶだ」と本気で思っているのだ。これが、きちがいおやじタイプのきちがい。きちがいなんだよ。

兄貴の友だちが帰ったあとも、俺が「やめてくれ」「やめてくれ」と言っているのに、まったく気にしないできちがい的にでかい音で鳴らしてたよ。これが、毎日やっていることだ。気にしないのである。言われたら、言われたときだけ、発狂して、無視してやっちゃう。殺さなければやめさせることができない。「殺さなきゃやめさせることができない」状態をずっと毎日おしつけられていた。これ、おしつけ。実際に鳴らすことでおしつけている。どれだけ言っても、きちがいだから、まったくなにも通じないのだ。きちがい親父もおなじだけど、きちがい兄貴は、自分にとって都合が悪いことを言われた場合は、無視するのだ。これも、無意識的なずれがある。自分で催眠術にかけなければ、絶対に、「でかい音だ」とわかる音で鳴らしているのに、どれだけ指摘されても、本人は、「でかい音で鳴らしているつもりがない」まま、生活している。だから、「うるさいからやめてくれ」「音さげてくれ」と言われたら、言われたときだけ、めちゃくちゃに怒って、鳴らしてしまう。普段通りに鳴らしてしまう。何時から何時までということは決まってなくて、自分が鳴らせる時間は全部、その音で鳴らしてしまう。殺さなければやめさせることができない。

みんな、わかってないけど、めちゃくちゃな生活になる。ほんとうに、明るくなるまで、眠れない。どれだけ眠たくても、眠れない。起きているとき、ヘビメタをあの至近距離で、あの音のでかさで鳴らされてしまうと、どうやっても、眠れなくなる。

普通の人は、鳴らされている時間だけ、うるさくてめちゃくちゃになると思っているみたいなんだけど、鳴らされてない時間も、めちゃくちゃになる。これが、個人の努力では、どうしても、無効化できないのだ。鳴らされているけど、普通に暮らすということが、どうしてもできない。鳴らされているけど、睡眠時間を確保するということがどうしてもできない。これ、「死ぬか生きるか」の問題になる。毎日、自殺寸前の、名前だけ店長のような体調で生きてきた。眠れないということがどういうことなのかみんなわかってない。なっているときの「緊張した状態」が、みんなわかってない。わかってないのに「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、同等の騒音を経験したという前提で、わかったようなことを言ってくる。わかっている人が、そんなことを言うはずがないのだ。そういうことを言うということ自体が、わかってないということを明示している。同等の騒音であるはずがない。同等の持続時間であるはずがない。同等の持続期間であるはずがない。ずっとやられちゃっているんだぞ。そして、それが全部、俺の責任になってしまう。これ、鳴ってたらできなくなることがあるんだよ。それだって、わかってないだろう。わかってないやつが、「できると言えばできる」とか「なんだって自己責任だ」とアホなことを言ってくる。こんなの、妄想的で宗教的な信念に基づいたことだから、アホなことなんだよ。

そいつらには、きちがい兄貴がいない。きちがい親父がいない。「きちがい兄貴が普通の家では、絶対に鳴らせない音で鳴らすこと」を、きちがい親父が、支持しているんだからなぁ。これ、頭がおかしくないとできないことなんだよ。そういうことが、いろいろなところにある。そうなると、普通の人が誤解するのだ。そして、普通の人のうちには、きちがい親父がきちがい兄貴のような人間がいないために、きちがい親父の影響きちがい兄貴の影響を、過小評価する。あるいは、無視する。本人だって、本当にやられていたら、絶対に無視できないことを、「無視すればいい」と言ってくる。本人だって、本当にやられていたら、絶対に影響をうけることなのに、「影響をうけなければいい」と言ってくる。

ほんとう、このさき、どうするかな?

 ほんとう、このさき、どうするかな?

うちは、ダニ。そとはスパイクたんぱく質と自己増殖型m-RNAか。

逃げるところがないなぁ。

親父が残した負の遺産がでかすぎるなぁ。親父がきちがいじゃなかったら、ネズミに対する対応が、ぜんぜんちがうのに、親父はきちがいだから、あとあと、ものすごくこまることになる対応をするんだよな。で、これが、うごかないんだよ。うごかせないんだよ。きちがいが意地をはって、ネズミ対策工事の妨害をする。あれ、普通の人だったら、絶対に自主的にネズミ対策工事をしようと思うはずなのに、きちがいだから思わないんだよね。 

2023年10月7日土曜日

実際に、きちがい家族といっしょに生活しているわけではない

 こいつらには、きちがい兄貴も、きちがい親父もいない。ぜんぜんちがう。こいつらは、きちがい兄貴と一緒に住んだ期間がない。こいつらは、きちがい親父と一緒に暮らした期間がない。

ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがう。

なんで「俺だって苦労をした」というひとことで、きちがい家族から発生する苦労を経験したことがないやつが、「同等の苦労したけど、働いている」ということになるのだ?

あるいは、「同等の苦労をしたけど、それでも、明るく生きている」ということになるのだ。同等の苦労をしてないじゃないか。

おまえらには、きちがい家族と一緒に暮らした期間がないじゃないか。

きちがい家族と暮らした数千日、数万日がないじゃないか。

同等の苦労であるはずがない。一秒も、きちがい家族と暮らしたことがないやつが、きちがい家族のことについて正確に想像できるわけがない。正確に理解できるわけがない。こいつらの頭のなかには、こいつらのイメージするきちがい家族しかない。

そして、それは、『人の話を聴いて』頭にこしらえたものだ。

実際に、きちがい家族といっしょに生活しているわけではない。

なら、影響はうけない。きちがい家族と一緒に暮らしていないのだから、きちがい家族の影響をうけない。なので、きちがい家族の影響は、無視できるのである。

それだけ。それだけなのに、えらそうにはっぱをかける。

そして、自分が老化したら、老化を原因にして、働くのをやめてしまうのである。

「老化なんてあまえ」「老化したと言うから、老化するんだ」「老化しないと言えば、老化しない」「すべては、受け止め方の問題だから、老化したと受け止めなければいい」。「老化なんて気のせい」「自分で老化したと思っているから、だめなんだ」「できると言えば、どれだけ老化していてもできる」。「自分が老化したという現実を自分でつくっている。つくらなければいい」。「老化を引き寄せちゃうからダメなんだ。老化を引き寄せなければいい」。

 

見えない能力低下ギブスなのだ

 「エイリ君のお兄さんが、ほんとうに、ききそうもないんだよなぁ。エイリ君とお兄さんって顔がぜんぜんちがうんだよなぁ」とワタ君に言われたことがある。ワタ君は事情を知っているし、きちがい兄貴のことを見たことがある。じつは、きちがい親父のことも見たことがある。で、俺と、きちがい兄貴が似てないということや、俺ときちがい親父が似てないということを知っているのである。ワタ君は、ヘビメタ騒音のことを理解してくれたけど、ほかの人は、まったく知らない。

基本的に言って、ぼくはヘビメタ騒音で、ほかの人から、ずっとずっと、能力的な誤解をうけて生きてきた。ヘビメタ騒音のことを知っている人は、俺がヘビメタ騒音でこまっているということを知っているけど、知らない人は知らない。

 

大人になれば、凡人Aや、凡人Bや凡人Cのように、ヘビメタ騒音のことを言っても、ヘビメタ騒音の影響は無視するやつが多かった。常に僕は、能力や人格において、誤解されている。ヘビメタ騒音なんてものがなかったらぜんぜんちがっていた。これ、本当に見えない遅刻強制ギブスなのだ。見えない能力低下ギブスなのだ。

2023年10月6日金曜日

破壊的な出来事が「人生のなかで」発生してないと言える。

 言霊的なことを言える人は、仮面うつ病の人のように、「つらい」と言っても、ぼくと同等のつらさは、経験してないということが言える。どうしてなら、言霊的なことを、言えるからだ。

ぼくと同等のつらさを経験したら、言霊的なことは、言えなくなる。

言霊が正しいなんて、口がさけても言えなくなる。

それが、言えるのだから、たいしてつらいことを経験してないと言える。

言霊的な解決法を人にすすめることができる……これが、どれだけ、頓珍漢なことかわかってない。ほんとう、仕事に行くときは「死ぬほどつらい」と言っているのに、旅行に行くとなると、鬱がはれて、楽しい気持ちで旅行ができるやつとおなじ。

ヘビメタ騒音相当騒音をあびて、何年間も暮らしていたら……そんな状態ではなくなる。「楽しい」という感情がなくなってしまう。旅行に行くときは楽しく感じられるのだから、ヘビメタ騒音相当の困難じゃない。破壊的な出来事が「人生のなかで」発生してないと言える。

言霊的な解決方法を信じていられるというのが、たいしてつらいことを経験してないということを、明示している。なんで、わからないのかな?

自動的にそうなる。内在している。

 これ、本当に腹立たしいことなんだけど、ぼけナスに、好き勝手なことを言われるということが、ヘビメタ騒音のなかに内在しているのである。

みんな、わかってない。

どうしてかというと、ぼく以外のだれも、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音をあびて、毎日毎日暮らしてきたわけじゃないからだ。ぜーーんぜん、ちがうことについて、述べているのである。常識的な人は……。

ぼけナスに、バカにされることが、決定しているんだよ。

きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタを鳴らすと、ぼくが、常識的な人にバカにされて、説教されることが、確定している。

だから、「やめろやめろ」と言ってきたのに、きちがいが、きちがいモードで無視して鳴らす。

しかも、きちがいだから「鳴らしたつもり」がないままなのだ。こんなの、俺だって書いてたって信じられない部分があるよ。

けど、きちがい兄貴はそういう人間だ。これが、ほかの人にわからないのである。だから、「そんなのはおかしい」と考える人が、説教タイプの常識的な人とはちがったかたちで、俺のことをバカにする。

陰で悪口を言う。

これも、ヘビメタ騒音のなかに内在している。

ほんとうは、だれだって、きちがいヘビメタ騒音同等騒音をやられれば、俺とおなじ状態になるのに、わかってないやつが、「そんなのはへんだ」と言って、陰で悪口を言う。

何度も言うけど、そういうことが、ヘビメタ騒音のなかに内在している。きちがい兄貴の態度、きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタをあれだけでかい音で鳴らすなら、そういうことになってしまうのである。

ぼくの側で、ぼくと他人との間にそういう出来事が、多数、発生するということになってしまうのである。

自動的にそうなる。内在している。

だから、「やめてくれ」「やめてくれ」と必死になって叫んでいたのに……きちがい兄貴の部屋に言って叫んでいたのに……、きちがいがきちがい感覚で鳴らして、きちがい感覚で無視して、きちがい感覚でやってないことにしてしまうのである。 

*     *     *

「ぼくの側で、ぼくと他人との間にそういう出来事が、多数、発生する」と書いたけど、張本人のきちがい兄貴の側で、そういう出来事が発生しないのである。きちがい兄貴は、きちがい行為をがめつく毎日、一秒もゆずらずにやっているのに、他人との間……よそのまったく関係がない他人との間には、問題がしょうじないのである。こんなの、ない。悪く言われるのがおれなのである。

仮面うつ病の人が、「朝、死ぬほどつらい」と言ったとしよう

 しかし、俺は、どうすればいいんだ?

この雰囲気は長期騒音の雰囲気だ。これ、だれにもわからないことなんだよな。これが、どれだけ、俺の生命力をうばい、どれだけ、俺の人生を破壊したか。

きちがい兄貴が、やっちゃいけないことをやっている。
けど、「やっちゃいけないことだ」ということを、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、認めないのだ。

きちがい兄貴だって、きちがい親父に理不尽なことをされていたとき、怒ったくせに。きちがい兄貴が怒ったということね。きちがい兄貴が怒ったのは、きちがい親父がやっていることが「おかしい」と思ったからだ。「理不尽だ」と思ったからだ。

ところが、自分のヘビメタになると、きちがい親父とまったくおなじ態度になる。きちがいおやじと同じ感覚になる。きちがい親父と同じ感覚になって、まったく気にしないでやり通す。

この、やり通すときの、やり方や感覚がおかしいのだ。

けど、そんなの、ほかの人は、まったくわからない。

ぼくがどれだけ説明したって、ほかの人はわからない。だって、実物が、うちのなかにいないのだから。「うちのなか」というのが、重要なんだけど、それだって、どれだけ言ったって、わからない。

ほかの人たちはほかの人たちで、その重要さがわからないのだ。それに、ほかの人たちにとって、ぼくの「うちでの」ヘビメタ騒音という悩みは、どうでもいいことだ。

ヘビメタ騒音で勉強ができない……ほかの人たちにとってそれがなんだというのだ。そんなのは、騒音のなかでやればいいということになる。そういうふうに、ほかの人たちは別にこまることではないのだ。
なので、ぼくと、ほかの人たちは、感じ方がちがう。

きちがい兄貴がいない人にとってみれば、きちがい兄貴のやることなんて、関係がない。きちがい兄貴がいないのだから、最初からゼロだ。最初からゼロである人が、最初から、最大である人に、「普通のことを」言う。

普通のことは、普通の家で成り立っていることだ。

その普通のことを基準にして、ぼくの「うち」に発生していることについて言及するというわけだ。これは、最初から、まちがっている。ぼくのうちのことなんて、わかるやつがいないのだ。

ぼくのうちの基準なんてわかるやつがいないのだ。

ぼくのうちの基準というのは、きちがいがやりとおしていいという基準だ。きちがいがやりとおすから、そうなる。

きちがいがやり通して、やったことを認めないからそうなる。けど、これは、きちがい家族がいるからそうなっているだけだ。きちがい家族がいないほかのうちでは、そんなのは、一日に一秒も成り立たない。

そういうところで住んでいる人が、俺の話を聴いて、それで意見を言うわけだから、もちろん、意見の根本は、そういう人が住んでいないところでなりたっている意見の根本だ。

ようするに、意見の根本に、普通の家族との暮らしが成り立っているのである。普通の家族と暮らしているということは、普通の家族がもたらす、見えない基準があるということだ。

この基準は、透明だけど、すべての行為について成り立っているのだ。

うちの見えない基準と、よそのうちの見えない基準がちがうのだ。
だから言うことがちがってくる。

だから、よその人はうちの基準を理解しないまま、自分のうちの基準を当てはめて、ぼくに意見を言ってくるということになるのである。

たとえば、仮面うつ病の人が、「朝、死ぬほどつらい」と言ったとしよう。で、ぼくが「朝、死ぬほどつらい」と言ったとしよう。「朝、死ぬほどつらい」という言葉はおなじだ。
 

だから、どっちが、より、つらいのかわからない。 「朝、死ぬほどつらい」という言葉がおなじなのだから、おなじぐらいのつらさなのだろうと、第三者は思ってしまう。

けど、仮面うつ病の人は、旅行に行くときは、るんるんで楽しい気分をあじわえるのである。
 

朝、会社に行くときは、「死ぬほどつらい」と感じるけど、朝、旅行に行くときは、楽しくて楽しくてしかたがないのだ。
 

けど、ヘビメタ騒音三〇日ならともかく、ヘビメタ騒音一〇〇〇日をこえると、仮面うつ病の人が言っているような「朝のつらさ」ではなくなる。ぜーぜん、ちがう。
 

だれだって、きちがい家族に、ああいう態度で五〇〇〇日にわたって、自分の嫌いな音を鳴らされ続けたら、俺とおなじ状態になるのに!それが若手っないのである。
けど、本人は「つらい思いをした」のだから「俺だってつらい思いをした」と言えるし、「俺だって朝はつらい」のだから、「朝はつらい」ということができる。
けど、ちがうんだよね。

旅行の場合とおなじように、まず、いま通っているのだから(いま、通勤することができているのだから)ちがう。程度がちがうのだ。

あれだけ、自分がきらいな音を聞かされ続けたら、だれだって働けなくなるのに、「人間は働くべきだ」「俺だってつらい」ということを言われる立場に追い込まれてしまうのである。

2023年10月5日木曜日

そんなの、仮定の話じゃなくて、実際にやってみなければわからないだろ

 たとえば、ブラック社長は、ほんとうは、名前だけ店長がやっていることができないとする。どれだけがんばっても、一日だって、名前だけ店長がやっふいることができないとする。

けど、ブラック社長は、社会ピラミッドで名前だけ店長よりも上だし、個人中心とした上下関係で、上なので、好き勝手なことを言えるのである。ブラック店長が「俺だって苦労をした」と言えば、いま名前だけ店長がしている苦労と同等の苦労をしたということになってしまうのである。

まあ、一日もできないではなくて、ブラック社長が三〇日間続けて、できないとする。その三〇日間しかできない人が、「俺だって、苦労をした」「できると言えばできる」と言って、名前だけ店長に、長時間労働をおしつけるのである。

そんなの、仮定の話じゃなくて、実際にやってみなければわからないだろ。

きちがいヘビメタ騒音を過小評価する人たちは、実際に、俺とおなじヘビメタ騒音生活をしてない人なのである。したことがない人たちなのである。こいつらが勝手に、ヘビメタ騒音の影響を無視して、「俺ならできる」という前提でものを言う。それは、架空の話だ。仮定の話だ。

一定の時刻に通うことが「どうしても、できなくなる」のだよ。

けど、そういう生活を数千日にわたって経験したことがないやつが、空想でものを言う。架空の前提でものを言い、核の前提には、言及しない。俺だって、一定の時刻に通うということはできていた。

けど、ヘビメタ騒音生活二〇〇〇日ぐらいで、できなくなった。

俺と同等のヘビメタ騒音生活を二〇〇日経験してからものを言ってくれ。ヘビメタ騒音は、ヘビメタが好きな人にとっては騒音ではないので、その人が、「この世で一番嫌いな音」をヘビメタ騒音とおなじ音のでかさで、同じ時間の長さ、聞かされる状態で暮らして、それでも、通勤通学ができるというのであれば、そういうふうに言えばいい。

おなじ条件で、おなじ状態を経験しなかったやつが、わかったようなことを言うな。

「できなくなる」環境がある。

 「俺だってつらいことはあった」と言えば、同等のつらさを経験したということになってしまうのである。格差があるのだから、同等ではない。「俺だってつらいことはあった」と言うけど、この人は、きちがい家族と一緒に住んでいたわけではない。きちがい家族というハンディがどういうハンディだかわかってない。わかってないのに、「俺だってつらいことはあった」と言えば、「同等のつらさを経験した」ということになってしまうのである。

同等のつらさを経験したのに、自分は、働いているということになると、自分はおまえより、すぐれているから平気だったということになってしまうのである。自動的にそうなる。同等じゃないのに、そうなる。こんなのは、ない。

きちがい家族にやられなかったやつが……きちがい家族にやられたやつに対して、俺のほうが能力があったから、気にしないで自分がやるべきことをやれたということになってしまうのである。そいつだってきちがい家族と一緒に住んでいれば、きちがい家族が、もたらしたことで「できなくなる」のに、ひとこと「俺だってつらいことはあった」と言えば、できたことになってしまうのである。架空の、文には現れない、前提というのがある。あくまでも「仮定」の話だ。けど、その仮定の話が、文には出てこないので、仮定の話だと明言されることがないのである。なので、見えない仮定として、機能する。仮定の話なのに、あたかも、仮定の話ではないような印象をあたえるのである。

きちがい家族のすさまじさを知らないやつが、知っているという前提で、ものを言う。「俺だって、きちがい家族にやられたことがある」ということになってしまう。きちがい家族がいないのに、どうやってやられるんだ?

そういうふうに気楽に言えるのは、きちがい家族のことを知らないからだ。きちがい家族のことを知らないやつが、あたかも、「自分もきちがい家族にやられたけど、それでも、ちゃんと働いている」というようなことを言う。言っておくけど、きちがい家族が騒音を出すことにこだわって、騒音を出したら、働けなくなる。通って働けなくなる。これが、本当の話だ。そういうことを言うやつは、きちがい家族のすさまじさがわかってないだけだ。殺さなきゃならない。殺したら、殺したで、めんどうなことになってしまうではない。

ただ単に、影響のでかさが、経験的にわかってないだけなのに、見えない前提を使って、「同等の環境でも、俺ならできる」ということにしてしまうのである。そして、上からものを言う。

人によって環境がちがう。「できなくなる」環境がある。そういうことを認めない、くそ凡人が、空想でものを言うな。

「自分だったらできる」というようなことを言って、相手をおいつめるのである

 そいつのなかで「差」を撲滅したら、「差」はないことになってしまうのである。あるとした、「能力の差」や「努力の差だ」ということになる。ようするに、「環境の差」をないことにして、「自分だったらできる」というようなことを言って、相手をおいつめるのである。「自分だったらできる」というのは、仮定の話だ。現実の話じゃない。

ぼくがずっと説明していることは、「環境の差」を認めるのかどうかということなのである。「過去は関係がない」「すべては受け止め方の問題だ」「言霊は正しい」と言っている人たちは、「環境の差」で「下の下」の人を、追いつめるようなことを言う。無理難題を言う。AさんとBさんがいて、Aさんが、環境の差、下の下だとする。Bさんは、環境の差、中の中だとする。下の下と、中の中では、ものすごい差があるんだよ。

家族がきちがいかどうかということも、環境の差だ。生まれた家の格差だ。この格差を無視するようなことは、あってはならない。ところが、環境の差を無視して、無理難題を「ふっかける」ことが、正義になってしまっている。どうしてかというと、ピラミッド社会(格差のヒエラルキー)と自分を中心とした比較優位・比較劣位が成り立っているからだ。

きちがい家族にやられたことがない人は、「差」を無視してしまう

 ほんとうは、格差がある。きちがい的な家族にたたられたやつと、きちがい的な家族にたたられないやつとでは、差がある。元の能力があったって、きちがい家族にやられたら、能力がなくなる。たとえば、きちがい家族が、ヘビメタにこだわるなら、ヘビメタを「自分が思ったとおりの音で鳴らすこと」にこだわりつくすので、すべての道徳が、そいつのこころのなかから、なくなってしまうのである。「鳴らしたい」……から……「鳴らせる」基準に移行してしまうのである。感覚器やこころが、「鳴らせる基準」に移行してしまうのである。そうなると、道徳的に悪いことをしても、なにも感じなくなる。鳴らせる基準で鳴らしているのだから問題がないということになってしまう。鳴らせる基準は、耳を悪くして、耳という感覚器を鈍感にして、成り立たせてしまうのである。そういうことを、器用にできるのが、きちがい兄貴型の気ちがいなのである。無意識問題があるタイプのきちがいなのである。こいつは、どれだけ言っても、まったくゆずらないし、ゆずらなくてもいいと思っているので、ずっとやりきる。相手がどれだけこまっていたって、相手がこまっているということが、完全にわからないのだから、相手をこまらせているつもりがまったく生じないのである。普通は、「言えばわかることなのに」どれだけ言ってもわからないということになってしまうのである。でかい音で鳴らしているということが、都合が悪いことなら、都合が悪いことは、意識が意味を理解するまえに、無意識が排除してしまうのである。そうなると、都合が悪いことを認めずに、やりきることができる。相手をこまらせている」ということも、本人がこまっていないのだから、ぜんぜん気にらないのである。どれだけ言っても、認めないのである。これは、相手が言っている内容を、意識が理解する前に、無意識がはねのけている状態だ。どれだけ言ったって、自分のとの関係で、内容を理解することがないのである。日本語がわかっても、「都合が悪いことを認める」ことはできないのである。認めないということも認めない状態でやりきってしまうのである。もちろん、やりきったとは思ってないのである。相手が反対してきたことをやりきったというつもりは、どれだけ長い時間やったとしても、まったくしょうじない。

ともかく、本当は、家族によって、差がある。ところが、「俺だって苦労した」というひとことで、差がないことになってしまうのである。きちがい兄貴と凡人は、まったくちがう感覚をもっている。無視するときの、しくみがちがう。きちがい兄貴の場合は、無意識がかかわっているけど、凡人の場合は、無意識がかかわってない。きちがい兄貴は、感覚器を無視してしまうけど、凡人は、感覚器を無視しない。はっきり言うけど、凡人は、感覚器を無視することができないのである。「そういうところで」きちがいだから、兄貴は、感覚器を書き換えて無視してしまうのである。そういうふうに、「やりたいこと」が「でっぱっている」のである。これを、脳みそのクセだと言えば、クセだということになるけど、くせだから許されるかというと、ゆるされない。まあ、話がずれるので、「クセだからいいのかどうか」ということについては、ここでは、これ以上、語らないことにする。

ともかく、きちがい家族にやられたことがない人は、「差」を無視してしまう。差を無視するための言語(説明の仕方)というのが用意されている。

きちがい兄貴の騒音を一日だって経験したことがないやつら

ヘビメタ騒音に蹂躙されていいわけがない。兄貴にヘビメタ騒音で蹂躙されていいわけがない。毎日、蹂躙されていいわけがない。これ、ほんとうに、一日だけでも、被害がでかい。普通のうちでは、絶対に、何時間も鳴らない音だ。ぜんぜんちがう。音圧がちがう。床がおなじ床だから、振動もくる。スピーカーの位置が近いから、やられている感じがものすごくする。あの中で、眠れるわけがないだろ。あの中で、勉強できるわけがないだろ。ほかのやつは、きちがい兄貴の性格も、きちがい兄貴がやっていることもわからないまま、俺を批判しやがる。

毎日がパニックだ。いいわけがない。

過去? 関係あるよ。おおありだよ。やられてないやつが、勝手に、過小評価して、きちがい的なことを言いやがって……。むりなことを言いやがって……。きちがい兄貴が、きちがい的な意地をとおすと、俺が、よそのやつから、誤解されて、ダメ人間にされてしまう。そのよそのやつらというのは、きちがい兄貴の騒音を一日だって経験したことがないやつらだ。

そいつは、そいつらで、普通のうちで育ったから、きちがい家族のことがまったくわかってない。まったくわかってないのに、「わかったつもり」で助言する。説教をする。こいつらも、ゆるせない。

いまだに、朝、起きると、鳴っている感じしかしない。これは、夏休みの朝の雰囲気だ」とか、「これは、冬休みの朝の雰囲気だ」とか「これは、普通の日の朝の雰囲気だ」とか感じる。

どれだけ言っても、きちがい兄貴が、最大限の音で、まったく俺のことを気にしないで鳴らしていた。きちがいだから、自分がやりたい分だけは、絶対の意地でやるのだ。一秒だってゆずらないよ。けど、きちがい親父とおなじで、「ゆずっやった」と思っている。頭がおかしいから、そういうことができる。がめつくやりきっているのに、一秒だって、本当にはゆずってないのに、「ゆずってやったゆずってやった」とさわぐことができる。そのあと、入試前日なのに、ずっと、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らすことができる。きちがいだからできることなんだぞ。きちがいだから……。

足のひっぱられ方が並じゃない。ほんとうに、どうやったってむりなのである。ところが、兄貴のようきちがい家族がいないやつが、「むりじゃない」と言いやがる。これ自体がどうかしている。けど、きちがい兄貴にやられて、俺の社会的な地位や、能力がさがった状態だと、そうやって、説教をするやつが、次々にあらわれる状態になってしまうのである。どうしてかというと、「よわっている」からだ。「よわっているやつには、無理難題をえらそうに言う」というのが、この世の凡人がやることだ。一般人は、みんな、そうする。どうして、弱っているかというと、ヘビメタ騒音で弱っているのだ。ヘビメタ騒音で弱っている。ヘビメタ騒音で「できなくなっている」。これを理解しないやつが、ヘビメタ騒音が鳴ってたとしてもできるという前提で、ものを言ってくる。けど、そいつは、一日だって、きちがい家族と暮らしたことがないし、一日だって、きちがいの騒音にさられたわけじゃない。ちがうのである。ところが、「自分だって苦労した」といひとことで、「おなじだ」「同等の苦労をした」ということにしてしまうのである。きちがい家族がいないのに、きちがい家族がもたらす困難を知っているという前提でものを言ってくる。そいつには、きちがい家族がひとりもいないのに。きちがいが、音の出るものにこだわったら、ものすごいこだわりでやるんだよ。普通だったら気にすることを、まったく気にしないでやるんだよ。普通だったら一回言われればわかることが、何万回言われてもわからない状態でやるんだよ。本人は、まったく悪いことをしているつもりがないんだよ。きちがいだからだ。きちがいにやられると、凡人にバカにされる。凡人はみんな、きちがいと一緒に住んだことがないから、きちがいがなんなのか、わかってない。きちがいの意地がわかってない。きちがいの意地が発揮されたらどんなことになるかわかってない。それが日常なんだぞ。できなくなるに決まっているだろ。弱くなる気に決まっている多わる。ところが、「そんなことはない」のである。そして、「影響をうけないと言えばうけないですむ」というような魔法的解決法を口にする。こいつらも、やられた人の現実を無視している。よわっている人の現実を無視している。そいつらが「現実的になったほうがいい」と言ってくるんだぜ。こんなの、地獄だ。

2023年10月4日水曜日

だから、いい教えじゃない。

 たとえば、ある宗教団体の教祖が、「日本人を奴隷化してやる」と思っていたとするだろ。そういう意図に基づいて、宗教団体を運営するわけ。その場合、「個々の教え」にはいいものもあるということが言えるかどうかなんだよ。この「いいもの」というのは、その人……たとえば、もと教徒が「いい」と感じたものだ。はっきり言ってしまうと、もと教徒には悪いけど、すべての教えがまちがっている。「いい教え」はない。どうしてかというと、よさそうに思えるものは、全部、洗脳の専門家が考え出したものだ。この「よさそうんな部分」というのは、言ってみれば「えさ」だ。そして、「えさ」は、悪いことに寄与しているのである。だから、いい教えじゃない。

常識的な人にとって、きちがい兄貴の「わからなさ」は範囲外

 きちがい兄貴が、自動的に、ぼくがこの世でもっとも嫌いな音を、鳴らしちゃうわけだけど、どうしても不可避的に影響をうける。ところが、この影響のでかさが、ほかの人にはまったくわからないのだ。そして、きちがい兄貴も、わからない。この「わからなさ」に関して、ほかの人は誤解をしている。きちがい兄貴のわからなさについて、ほかの人はわかってない。誤解をしている。ほんとうに「きちがい」としか言いようがない「わからなさ」なのだ。ほかの人は、「わからない」ということについて、きちがい兄貴の「わからなさ」を想定して考えてない。ほかの人にとって……常識的な人にとって、きちがい兄貴の「わからなさ」は範囲外だ。だから、ほかの人の「言えばいい」「家族で相談すればいい」という「こたえ」は、最初から無効なわけ。そんなのが、通るのなら、苦労はしてない。で、こういうことが、きちがい兄貴がもたらすこと、すべてに、成り立っている。けっきょく、きちがい兄貴が異質すぎて、ほかの人が、理解しないのだ。

きちがい兄貴の「わからなさ」は脳みそに欠陥がある人の「わからなさ」なんだよ。本人は、得をしている。「やったってやってない」が常に成り立っているわけだから、道徳上やってはいけないことだって、がんがんずっとやりきることができる。「やってないこと」になっているから、反省なんてしない。

これは、きちがい親父もおなじだ。だから、きちがい兄貴は、きちがい親父にやられたときは、きちがい親父がおかしいと言って腹をたてるのだ。けど、自分がやりたいことにかんしては、まさにおなじことをやるのである。おなじことをおなじ態度でやって、忘れちゃう。「やってないこと」にしてしまう。

ここがまったくわかってないんだよね。

 たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、汚染魚を食べて、今現在、いろいろな症状が出てくるしいとする。Bさんは、汚染魚を食べたことがなく、普通の暮らしをしている。Bさんは、Aさんをはげまそうと思って、「過去なんて関係がない」「すべては、受け止め方の問題」「すべては、自己責任」と言うわけ。

まず、Bさんが、Aさんに「過去なんて関係がない」と言った場合、どういう意味で言っているかというと、「Bさんにとって、Bさんが汚染魚を食べたという過去は関係がない」という意味で「過去なんて関係がない」と言っている。

Bさんは、汚染魚を食べてないわけだから、当然、汚染魚を食べたことによってしょうじる様々な障害が、自分の身にしょうじていない。なので、今現在、水俣病とよばれる病気にはなってない。

Bさんは、汚染魚を食べなかったので、水俣病とよばれる病気になってはないだけで、Aさんは、食べて、水俣病と呼ばれる病気になっている。

Bさんには、なんでもないことだ。Bさんのからだは、今現在、くるしくない。

Bさんは、洗脳されているから、あるいは言霊主義者だから「過去なんて関係がない」ひとこと言えば、「無効化できる」と思っているのだ。

Bさんは、魔法的な思考をする人だから、「過去なんて関係がない」という言葉をAさんが受け入れれば、Aさんのくるしさが消失すると思っているのだ。

そして、元気なAさんを基準にして、ものを言う。

魔法的な問題解決法が好きだから。そして、洗脳されているから。

「過去なんて関係がない」という自分の言葉をAさんが受け入れて納得すれば、Aさんの病気をもたらしている、過去の出来事が関係なくなるという魔法的な思考をしている。

Aさんが「過去にこだわっている」から、Aさんの状態がしょうじていると考えてしまうのだ。けど、Aさんの状態というのは、汚染魚を食べたということによってしょうじている。

過去のある時点で、そういうことがしょうじて、そういうことの影響が、Aさんのからだを構成している物質の物理的な変化によってしょうじたのだ。気持ちの問題じゃないのである。

Aさんが、だるくないのに、「なんとなくだるい」と思っているから、だるくなっているということではないのだ。ちゃんと物理的な変化がしょうじている。

けど、言霊主義者や受け止め方の問題だと思っている人は、こういう、物理的な変化を無視して、「きもちの問題」にしてしまう。「受け止め方」の問題にしてしまう。

だから、Bさんにとっては、Aさんの病気というのは、気持ちの問題で、Aさんが現実の受け止め方をかえれば、それで、問題解決ができると思ってしまうわけ。

だから、そういうことに、「ひらき」がある。Aさんの現実と、Bさんが思っているAさんの現実に「ひらき」がある。

たとえばの話、Aさんが汚染魚を食べたということを忘れてしまったとする。あるいは、なんらかの方法で、汚染魚を食べたという記憶を消去したとする。

記憶を消去すれば、Aさんの体は、もとにどるのか? 汚染魚を食べるまえのからだにもどるのか?

もどらない。

けど、記憶を消せば、汚染魚を食べしまったというAさんの「こだわり」はなくなる。汚染魚を食べてしまったということは、過去の出来事なので、Aさんの「過去へのこだわり」は消失する。

Aさんの「過去へのこだわり」が消失すれば、Aさんのからだは、もとにもどるか?

もどるわけがない。

言霊主義者や「受け止め方の問題だ」と思っている人や「魔法的解決法をすすめる」人は、Aさんの「気持ちの問題だ」と思っているわけ。だから、汚染魚を食べたということにかんする、「Aさんの気持ちがかわれば、Aさんの体がもとにもどる」と考えているのだ。

こういう人たちは、Aさんが汚染魚を食べたという過去の出来事に「こだわっているから」Aさんがくるしんでいると思ってしまっているところがある。ちがうんだよね。

たとえ、Aさんが、汚染魚に関する過去の記憶をなくしたとしても、Aさんはくるしいままなんだよ。ここがまったくわかってないんだよね。

過去の出来事と、ぶたれたところがふくらんでいる現在の状態は、関係がない

 「過去は関係がない」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。

そして、「過去は関係がない」と言ってやりたい。

ぶんなぐったことだって過去の出来事だからな。「俺がおまえをぶんなぐったということは、関係がない」という意味だ。

さらに、ぶたれたところがふくらんできたとしよう。たとえ、ぶたれたところがふくらんだとしても、「過去は関係がない」のである。

「自分がぶんなぐられたという過去の出来事と、ぶたれたところがふくらんでいる現在の状態は、関係がないことなのである」と言って、頬をさらに一〇発ぐらいなぐりたい。

過去が関係がないなら、それだって、すぐに関係がないことになる。こいつらは、そういう無理なことを言っているのに、無理なことを言っているというつもりがないのだ。過去の物理的な刺激(運動)……関係あるでしょ。

過去、俺のこぶしがおまえの頬にあたるという物理的な運動がなかったら、おまえの頬は、いま、ふくらんでない。過去……関係あるでしょ。そういう場合はある」と言うかもしれないけど、ヘビメタ騒音は、まさしくそういう場合なんだよ。おまえらが勝手に、まちがって解釈しているだけだ。

俺が、おまえを物理的になぐったら、おまえのからだに、人間としての変化がしょうじる。そりゃ、おまえのからだを構成している細胞が、物理的に変化したということだからな。けど、なぐったあと、すぐに、それは過去の出来事になる。過去の出来事が関係ないなら、いま、なぐられたところがふくらんでいるということと、過去の出来事は関係がないのである。

こいつらは、なぐられたやつに、「なぐられたのは自己責任」と言って、わらうんだよ。「すべては、受け止め方の問題」と言ってわらうんだよ。

あー、すべては受け止め方の問題」についても書いておくか?

たとえ、なぐられたところが、ふくらんだとしても、それは、受け止め方の問題なんだということだ。なぐられたほうが、「殴られた」という現実をつくっているのである。さて、そこまでいかなくても、「いたいと思うのは、気のせいだ」ということを言うわけだ。

そして、物理的な衝撃が発生した部分が、ふくらむというのは、生体の正常な反応なのに、「受け止め方の問題」にされてしまう。生体の正常な反応なのに、……物理的な反応なのに……「気のせいだ」ということにされてしまうのである。

こいつらが、やられたほうを、どれだけいびっているかわかるか?

筋違いのことを言って、侮辱しているということがわかるか?

全部がボロボロになっていく

きちがい兄貴のやり方が、きちがいだから、ぼくがほかの人から、誤解されることになる。よその人には、きちがい兄貴がいないので、実際に、ヘビメタ騒音相当の音を浴びせられるということがない。家族によって、浴びせられ続けるということがない。そういう生活が一〇年以上続くということがない。人生上ない。ないから、誤解をする。

鳴っているときだけ、うるさくて、だるいということではないのだ。むしろ、鳴ってない時間のからだのだるさのほうが上だ。ただ単に、鳴っているときだけ、勉強ができなくなるということではないのである。全部がボロボロになっていく。ぜんぜん、わかってない。わかってないということは、たとえば、「過去は関係がない」というような言葉になってあらわれる。

洗脳の結果

 すべては、自己責任なんて、通りのいい言葉で、人を断罪するな。人に責任を負わせるな。これ、便利な言葉で、洗脳の結果なんだよね。この時期、こういう自己責任論がはやっているというのは、偶然ではない……と思う。これ、全部セットで奴隷化と関係している。 


あんなやり方でやられたら、だれだって対処できないんだよ

 ほんとうは、きちがいヘビメタ騒音なんて、あんなやり方でやられたら、だれだって対処できないんだよ。けど、ほかの人のうちには、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴がいないということは、「あんなやり方でやる人」がいないということだ。自分が一度も経験したことがないから、ヘビメタ騒音自体とヘビメタ騒音の影響を、過小評価してしまう。想像の世界の話だから、自分なら平気だと思ってしまう。きちがい兄貴のやり方というのは、そういうやり方だ。きちがい兄貴以外に、感覚器を書き換えて、ああいう態度でやりきる人がいない。実際にやられなければ、どれだけ被害を被るかわからない。対処不可能なんだよ。けど、対処しなければならない。そういうところで、ストレスが常に生まれる。だいたい、きちがい兄貴が「家にいない人」は、きちがい兄貴がやることの、影響力を、過小評価している。ないのとおなじだと思っている。けど、ほんとうに、ちがうんだよ。きちがいがきちがい的な感覚で、鳴らす音と、普通の人が鳴らす音はちがう。感覚がちがうからね。そして、感覚器を書き換えて、なにもやってないことにしてしまう。


2023年10月3日火曜日

追いつめられたことがないやつが言う言葉

 「できると言えばできる」というのは、できなくなるところまで追いつめられたことがないやつが言う言葉だ。このひとことで、こいつはわかってないというのがわかる。

名前だけ店長が「すべては受け止め方の問題だ」と言うと思う? そこまで追いつめらたことがないから、「すべては受け止め方の問題だ」と人に言っているのだろう。

言いにくいんだよ。言いにくいことをいっぱい増やす。

 きちがい親父やきちがい兄貴というのが、この世の「異物」で「ガン」なんですけど……。違和感が強すぎるなぁ。きちがい親父に関しては……「命にかかわることだから、いままでのことは、横において、めんどうをみてやった」のに、きちがい構造がかわらないんだよ。根っからのきちがいなんだよね。このきちがいというのは、人格の悪さも含んでいる。けっきょく、かかわっただけ、こっちが傷つく。問題なのは、まわりの人が理解しないことだ。たとえば、病院の人、たとえば、老人ホームの人……。きちがい親父とぼくのことが理解できない。そして、ネズミとかダニとか、言ってしまうと、ぼくにとって都合が悪いことがあるんだよ。これで、いろいろな誤解をうけている。だいたい、親父がネズミ対策工事をしないとか、ネズミの糞をガン無視で暮らしていたとか、そういうことを言ってもなぁ。言ってもなぁ……。「そんなのはおかしい」と思うわけだからな。この「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言って、ネズミ対策工事をさせてくれなかったことは、普通の人にはわからない。ネズミの糞に対する気持ちが、きちがい親父と普通の人でちがうんだよ。この根本的なちがいがわからない。おやじが認知症なら……実際に認知症になっていたのだけど……認知症のせいにされてしまう。けど、これは、認知症の問題じゃなくて、性格の問題なんだよ。おやじが若くて、認知症じゃくても、ネズミ対策工事に関しては、おなじ反応をしたんだよ。おやじの反応というのは……認知症に関係なく、「俺がつかまえるからいい」という反応だ。ネズミの糞が増え続けることは、がん無視なんだよ。ネズミの糞が増え続けることにかんして、無視してしまう性格というのは、かわってないんだよ。どれだけ、ネズミシートでネズミをつかまえたって、ネズミの侵入をふせがなければ、ネズミの糞は増えるということを、こっちが言っても、きちがい親父が、「俺がつまえるからいい!!俺がつまえるからいい!!俺がつまえるからいい!!俺がつまえるからいい!!俺がつまえるからいい!!」と絶叫するのは、おなじなんだよ。これ、怒り狂って、絶叫しいてるんだぞ。こういう反応。これ、認知症以前の、脳みそ脳構造から、出ていることなんだよ。普通の人だったら、ネズミの糞が、畳の上に転がっているところを見ただけで、「ああたいへんだ。どうにかしないと」と思うはずなんだよ。増えているわけだし……。俺がちゃんと、調べて「これはネズミの糞だ」と教えてやっているわけだからさ。そして、ネズミが、ネズミシートにかかってつかまっているわけだからさ……。まったくわかってないな。

ネズミの侵入をうけているということは、言いにくいんだよ。言いにくいことをいっぱい増やす。

 

ちなみに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことも言いにくいことだ。普通の兄貴だった、そういう音で鳴らしていれば、どれだけ弟がこまるかわかるから、普通に、やめてくれる。あるいは、最初から、そういう音で鳴らそうとしない。きちがいだから、まったくわからずにそうしている。けど、ほかの人は、きちがい兄貴のことを知らないから、「ちゃんと言えばわかってくれるんじゃないの」という反応なんだよ。「そんな音で鳴らしているのはおかしい」という反応なんだよ。きちがいヘビメタ騒音だって、言いにくいことなんだよ。普通の人が理解できないことなんだよ。けど、うちではそうなんだよ。この、きちがい家族の反応というのは、普通の人には理解できない。『うちのなかにいるときの』『きちがい家族は反応』というのは、普通の人には理解できない。

ひとつだけ言えることは、きちがい親父は、認知症に関係なく、最後の最後まできちがい親父だったということだ。もうひとつ言うとすると、きちがい兄貴は、最後の最後まで気ちがい兄貴だったということだ。 

俺が誤解をうけるんだよね。そういうストレートな誤解だけではなくて、たとえば、ヘビメタ騒音の強度や圧力や影響に関する誤解というのが、しょうじる。

2023年10月2日月曜日

そのこまっている人の責任だと決めつけて、責任追及をしはじめる。

あとは、親父のことを思い出していた。ほんとうに、腹がたつ。頭のしくみがおかしいい人というのがいるんだよ。そういうことがわかってない人が「自己責任論」を持ち出す。

どういうことになっても、自己責任だという自己責任論を持ち出す。

これ、本当に、精神的に問題がある家族と一緒に暮らしたことがない人の言うことなんだよな。どれだけこまるかわかってないな。

どれだけ、いろいろなところ影響が出るかわかってないな。自己責任なわけないだろ。それなら、一切合切の「限定責任」がしょうじないということになる。

認知症の人と暮らしている人は、認知症の人と暮らしている人の「悩み」があると思う。けど、それは、普通の人と暮らしている人にはわからない。

で、親父の問題は、認知症の問題よりも、深刻なんだよ。こっちのダメージがでかくなる方向で、普通の人とちがうんだよ。

こんなの、やられたほうの責任であるはずがないだろ。

自己責任論というのは、こまっている人に、難癖をつけて、いじめるための理論だ。ほんとうは、そのこまっている人の責任じゃないのに、そのこまっている人の責任だと決めつけて、責任追及をしはじめる。

本当は限定責任ですらないのに、「おまえのせいなんだ」「おまえが悪いからそうなった」と人をせめる。だれが、人のせいにしていると思っているんだよ? 自己責任を問う人たちが、勝手に人のせいにして、勝手にせめているのである。限定責任範囲外の「責任」は問われるべきではないのだ。それを、「おまえの落ち度でそうなった」と言って、無実の人をせめる。それ、じつはその人の落ち度じゃないんだよね。「ひとのせい」にしているのは、自己責任論者だ。

これで、いいことをしたつもりなんだから、本当に、こういうやつらも、こまるなぁ。

言っておくけど、無実の人罪をきせて、無実の人をせめたということにかんする限定責任はしょうじている。やったとたんにしょうじている。

2023年10月1日日曜日

こいつらは、状態をつくりだしている真犯人ついては、なにも言及しない。

 たとえばの話だけど、本当のつらさを経験したことがある、名前だけ店長みたいな人が「つらいと言うからつらくなる。つらくないと言えばつらくない。楽だと言えば楽になる」と言うと思う?

わかってないから言うんでしょ。名前だけ店長の場合は、ブラック社長が、名前だけ店長がつらいと思う状態をつくっている。そういう人が「つらいと言うからつらなくなる」と言うなんて、ひどくないか?

これがひどいことだと思わないセンスというのはなんなんだ?

ブラック社長が犯人なのに、犯人が説教をしている。ほんとうに、説教犯人。説教強盗みたいなもんだな。まあ、説教強盗よりもはるかに悪質だ。

ちなみに、説教強盗というのは、ものを盗むために家屋に浸入したのに、その家屋の人たちに、「戸締りが悪いから強盗に入られる」というようなことを説教する強盗のことだ。

そりゃ、一五年間も毎日、二時間しか眠れないような状態で働いていたら、だれだって、人間なら、「つらい」と思うだろ。こっちのほうが法則性がある。

ところが、そういう状態を無視して、「つらい」と言ったからつらくなるというのだ。ここでも、言霊主義者は、因果関係を逆転させている。

因果関係を逆転させると、なにか真理を言ったような気持ちになるような人たちがいるのだ。

『わかったような雰囲気』『さとったような雰囲気』を出せると思っている。幼稚。幼稚。

すでに、つらいことが十数年間、毎日続いているから「限界だ」「つらい」「無理だ」と「こっち」は言っているわけだ。

ところが、「あっち」は「そういうネガティブワードを使うから、ネガティブな現実が引き寄せられる」と言うのだ。あるいは、「ネガティブな現実をネガティブなワードを使う人がつくっている」と言うのだ。

いやー。あほですね。

そうやって、弱い立場で、切羽詰まって困っている人を、さらにこまらせる。ぼくは、カルマを信じていないけど、カルマうんぬんというのであれば、まさにカルマをつくっている。

睡眠時間が二時間になってしまうような状態で暮らしているから、つらいのに、「つらいと言うからつらくなる」と言うのだ。こういう、くそ幼稚なトリック。どうして、こういうくそ幼稚なトリックを「真理だ」「真実だ」と思ってしまうのか?

言う前に、つらい状態が成り立っているのである。しかも、長い間、成り立っている。どうして、こういうことを無視してしまうのか。「言った」という表面的な結果に注目して、「言った」ことが原因だと考えてしまうのか?

ほんとうに、幼稚。くそ幼稚。
 
本当の理由を無視され、きちがい的な理由をつけられ、「だからこうなんだ」と言われていい気持ちになると思うか?

「くそふざけんな」という気持になるんだよ。

まちがった理由をつけて、人をせめるな。これ、本人が悦に浸っているからわからないと思うけど、人をせめている。しかも、無実の人をせめている。こいつらは、状態をつくりだしている真犯人ついては、なにも言及しない。

「言ったから」というのは、その人が言ったからということだろ。

その人というのは、ヘビメタ騒音のについてなら、ぼく、長時間労働についてなら、名前だけ店長だ。こいつらは、「その人」のせいにしている。「その人」が言うから悪いんだと言っているのだ。こいつらは、なにもわかってない。

こういう妄想的な思考がはやっているのには、理由がある。はっきり言えば、こういう思考は、悪魔側が用意した思考なのである。奴隷の道徳なのである。だれかAさんが、だれかBさんを傷つけるための道具なのである。

こいつらは、妄想的なことを言って、その人がつらい状態で暮らすことを推奨する。そして、そういうことにぜんぜん気がついてない。だいたい、「妄想的なこと」であって、現実的にはまったく意味がないことを言っているということに気がつかない。こんなの、支配者側から見て、奴隷を、傷つけ合わせるための思想だ。なんで、わからないんだ?

ぼくは、奴隷じゃないけど、こういう思想にとりつかれているやつは奴隷だ。そして、「その人」が奴隷らしく、くるしむことをのぞんでいるのだ。「その人が言うからダメなんだ」と罪をきせているのである。無実の罪をきせて、せめている。

「楽だと言えば楽になる」……あほなことを言うな。

二時間しか眠れないような状態で「楽だ」と言っても楽にはならない。

こういう、あほなことを言って、「いいことを言った」つもりになっている。「有効な助言をした」つもりになっている。けど、こいつらは、「その人」を傷つけているだけだ。有効な助言じゃなくて、非現実的で有害な助言だ。「その人」がくるしむ時間を長引かせようとしている。「楽だ」ともうろうとした頭で言って、くるしむ時間を増やそうとしているではないか。くるしむ日数を増やそうとしているではないか。くるしい状態で暮らすことを、長引かせようとしているじゃないか。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。