みんな、ほんとうにわかってないんだよな。一日だけでも、ヘビメタ騒音がどれだけつらいかわかってない。幼稚園の騒音とおなじぐらいの騒音だと思っている……ところがある。他人にとってはそうなのだろう。幼稚園の騒音と兄貴のヘビメタ騒音と……たいして、区別してないのだろう。いや、まったく区別してないのだろう。エイリさんの話のなかに出てくる「ヘビメタ騒音」と自分が経験した騒音の区別もしてないのだろう。「ちがう」と言っているのに、ほんとうにわからないみたいだな。ほんとうに、わからないやつらだな。そうすると、佐藤のように「エイリさんは働けるけど働こうとしない」と理解してしまうのだよな。ヘビメタ騒音の影響を無視しているわけだから……。「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのにもかかわらず、こういう、あほな理解レベルにとどまる。とどまりつづける。基本、きちがい兄貴は、張本人で、ヘビメタ騒音のひどさとヘビメタ騒音の影響をまったく理解しなかったやつなのである。なので、「理解しない」という意味では、相似なのである。もちろん、きちがい兄がやったことであって、きちがいヘビメタ騒音とほかの騒音の区別しない人値がやったことではない。きちがいヘビメタ騒音レベルの騒音と、幼稚園レベルの騒音を区別しないやつら……。やつら……。ほんとう、やつら!! 区別しないやつらが、ヘビメタ騒音のえいょきうを認めないまま、へたくそな説教をしてくる。あとは、「元気だと言えば元気になる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」とか「ニコニコしていれば幸運が近寄ってくる」とか「人に親切にすればしあわせになれる」とか、そういう、あほなことを言ってくるやつが発生する。これ、それぞれにものすごく問題があることなのだけど、身近な他者……きちがい的な家族に、ずっとやられたことがない人には、まったくわからない。この人たちが言っている「不幸」とか「不満」というものは、まったくちがうものだ。きちがい的な家族によってもたらされることに関する「不幸」とか「不満」というのは、ちがうことなんだよ。そして、きちがい家族のもとに生まれるか、きちがい家族以外の家族のもとに生まれるかは、「まったくの偶然」「必然性のないもの」なのに、いちどきちがい家族以外の家族のもとに生まれると、きちがい家族のもとに生まれた人のことは、まったく、目線に入らなくなる。どれだけ、考えても、どれだけ想像しても、きちがい家族のもとに生まれた人のことは、考えることも想像することもできないのである。まあ、「考えた」とか「想像した」とは言うだろうけど、それはちがう。「想像した」と言っても、「想像できてない」。「考えた」と言っても「かんがえてない」。はっきりと、言える。けど、きちがい家族以外の家族のもとに生まれてきた人には、これも、まったくわからない。そして、「必然性がないもの」であるにもかかわらず、「必然性があるもの」であると考える人たちもいる。この人たちは、自分は、もう、そういう学びが必要ではないものとして、自分のしたに「きちがい家族のもとに生まれてきた人たち」を置こうとする。そういうことが、傲慢な試みなのに、この人たちは、まったくわからない。「魂が選んで、そういう家族のもとに生まれてきた」「子供は親を選んでいる」というのが、彼らの主張なのである。主張というよりも、信念と言ったほうがいい。これは、単なる宗教的な信念なのに、「科学で証明された」「絶対の宇宙法則である」と言って、単なる宗教的な信念だということを認めない。「信念」ではなくて「真理」なのである。「信念」ではなくて「事実」なのである。そういうことが、どれだけ、ほかの人を傷つけるか、……きちがい家族のもとに生まれてきた人を傷つけるか、彼らは、わかってない。わかってないけど、自称、高次元人なのだ。5次元人、7次元人、9次元人……。この人たちが、妄想的な信念で、勝手に決めつけて、ほかの人……その人たちにとって他者である……きちがい家族のもとに生まれてきた人たち……を……傷つける。
現在、なんとかweb系の仕事で食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
2022年11月30日水曜日
きちがいヘビメタ騒音なしで普通に暮らしたかった
つまんない。つまんない。
どーーするんだ?
ヘビメタ騒音で人生がない。きちがいヘビメタ騒音なしで普通に暮らしたかった。普通にデートをしたかった。ヘビメタ騒音「あり」だとだめなんだよ。楽しい気分でデーというのがない。そういうことじゃないんだ。これ、ヘビメタ騒音に……あのヘビメタ騒音に……俺とおなじぶんだけ、俺の部屋でたたられた人じゃないと、わからないんだよな。どれだけ、説明したって、わからない。デートぐらいできるだろと思ってしまう。けど、デートだってできないし、長くつきあっていれば、「ヘビメタ騒音が原因で」わかれることになる。これも、「ヘビメタ騒音が原因で」というところがわからないと思う。これは、プロセスとしてある。親友とも友達とも、けっきょく、ヘビメタ騒音が原因で、いやなわかれ方をしている。たぶん、女の子でもおなじだと思う。これ、ほんとう、全体のプロセスを経験した人じゃないとわからないんだよな。ただ単に「鳴っているときだけ、うるさい」と思っている。そうじゃないんだよ。全部、台なしになる。この「全部台なしになる」という考え方はイ・ラショナルな考え方ではない。これも、わかってないだけなんだよな。生活の全部がおかしくなる。生活の全部が影響をうける。
2022年11月29日火曜日
「不満を言う人はトラブルに遭遇しやすい」
たとえば、きちがいやくざばかりが、歩いている道を歩く場合と、善良な人ばかりが歩いている道を歩く場合と、どっちがトラブルが生じやすいかということについて考えてみた場合、きちがいやくざばかりが歩いている道を歩いたほうが、トラブルが生じやすいということになる。トラブルが生じれば、不愉快になり不満をもつ……これは、正しいとする。トラブルが一回生じた場合、一回不満がしょうじるとする。その場合、きちがいやくざばかりが歩いている道を歩く人は、不満が生じやすいということになる。これは、その人の性格の問題ではなくて、まわりの他人が、きちがいやくざだからそうなるのである。ようするに、歩いている人がみんな、きちがいやくざだから、トラブルがしょうじて不満になるのである。この場合は、その人の性格ではなくて、きちがいやくざの性格の問題だ。手短に言うとそうなる。しかし、たとえば、「不満を言う人はトラブルに遭遇しやすい」というふうに言ってしまうと、きちがいやくざばかりが歩いている道だということが、捨象されてしまう。つまり「不満を言いやすいかどうか」という一項目と、「トラブルに遭遇しやすいかどうか」という一項目の、関係にだけ注目することになる。「不満を言う人はトラブルに遭遇しやすい」という二項目文のなかには、その人がもっている環境が出てこない。きちがいやくざばかりが歩いている道を歩いているのか、善良な人ばかりが歩いている道を歩いているのかは重要な要素なのである。それが、じつは、「不満を言うの回数」と関係しているのだから、無視していいわけがない。ところが、二項目文が好きな人というのは、そういうことを、無視してしまうのである。
2022年11月28日月曜日
自分は定年まで何十年間も働いたから、もう働かなくてもいい
老化を理由に働かない人がいるけど、老化を無視すれば、その人が働かないということは、納得ができないことになるのである。「人間は働くべきだ」と考えているなら、そうなる。
しかし、自分は、老化すると、老化を理由にして働かないということを選択するのである。矛盾している。けど、矛盾しているということ自体に気がつかない。
「自分はもう何十年も働いたので、働かなくていい」ということを言う人がいる。その人が、「過去は関係がない」ということを主張するのであれば、その人は、矛盾したことを言っているということになる。
けど、これも、まったく気がつかないんだよなぁ。
ようするに、「定年退職するまで働いたなら、働かなくてもいい」という主張をもっていて、なおかつ「過去は関係がない」という主張をもっているなら、その人は、相互に矛盾した主張をもっていることになる。「定年まで働いた」ということは、過去の出来事なのである。
過去が関係ないなら、「定年まで働いた」という過去の出来事は関係がないということになる。その人が、「人間は働くべきだ」という主張をもっているなら、その人が老人になっても、働いていなければならない。ところが、自分は定年まで何十年間も働いたから、もう働かなくてもいいと考えるのであれば、矛盾している。
いいかげん、気がつけ。
こういう矛盾した考え方を複数かかえている人たちが、いる。その人たちが、若い男性には「人間は働くべきだ」と説教をするのである。これは、矛盾している。矛盾している。いいかげん、気がつけ。いいかげん、気がつけ。
ほんとうは、ぼくを侮辱している
きちがいヘビメタ騒音のひどさというのがわかってないんだよな。ほかの人たちにはわかってない。だから、勘違いした発言をする。あんなのに、ずっと、何年間もさらされていたら、働けないからだになるに決まっているのに、それがわからない。どうしてかというと、実際にさらされたことがないからだ。自分のからだをとおして、ヘビメタ騒音のひどさを感じたことがない。きちがいヘビメタ騒音の音圧を感じたことがない。きちがいヘビメタ騒音を鳴らしている人のきちがい的な態度や感覚にふれたわけではない。実際に、鳴らされると、どういう一日になるかわからない。実際に鳴らされると、どういう一週間になるかわからない。実際に鳴らされると、どういう一か月になるかわからない。実際に鳴らされるとどういう一年になるかわからない。実際に鳴らされると、どういう一生になるかわからない。みんな、わかってない。そして、ヘビメタ騒音の効果を過小評価したり無視したりする。そして、勝手な思い込みで、判断して、えらそうなことを言ってくる。
こういうことも、ヘビメタ騒音が十数年間も毎日つみかさなったことの「効果」だ。人生上の効果だ。だって、ほかの人は、そういう経験がない人ばかりなのだから、勝手な思い込みで、「ヘビメタ騒音の影響はない」と判断して、いろいろなことを言ってくることになる。そいつは、ほんとうは、ぼくを侮辱しているのだけど、侮辱しているということには気がつかない。どうしてかというと「ヘビメタ騒音の影響を認めない」からだ。たとえ、ヘビメタ騒音がどれだけなっていたとしても働けると考えている人は、人間は働くべきだから、エイリさんも働くべきだということを、普通に、悪意なく、言ってくる。しかし、これは、誤解に見ている行為なので、悪辣な行為なのである。
AさんとBさんがいるとする。Aさんがある病気にかかったとする。Bさんは、たとえ、ある病気にかかったとしても、働けると考えているとする。その場合、Bさんは、Aさんが働けるのに働かないと、自動的に判断するようになる。だから、Bさんは、Aさんに働くように言う。BさんはAさんの病気の効果を無視している。そこが問題なんだよ。
2022年11月26日土曜日
「飢え死に」でおどして、働かせようとする社会がおかしいとは思わないか?
基本的なことを言ってしまうと、やはり、仕事をしないと飢え死にしてしまう社会というのは、おかしい。そういう社会は、社会として、よくない社会だ。
まず、これを理解しないと、話にならない。
で、こういう理解をさせないように、支配者側ががんばっているのである。一般の人がこういうことを理解してしまうと、支配者側の人にとってめんどうなことになるのである。
なので、全力で、そういう理解をさせないようにする。そして、「人間は働くべきだ」という道徳観を育てようとする。
これは、悪魔の支配している社会の構造だ。
そもそも、富の偏在がおかしいのである。
富の偏在は、異常なレベルに達している。
いかに富の偏在があるのにしろ、限度がある。
そして、その限度を超えてしまっている。
だから、奴隷労働をしなければならないのである。支配者層ではない人は奴隷労働をしなければ生きていない社会なのである。 そして、生活保護などの社会制度は、じつは、こういう支配を補完してしまう。まあ、外国人によって、日本が支配されていて、なおかつ、外国人は生活保護をもらいやすいけど、日本人は生活保護をもらいにくい状態が成り立っている。
けど、「そんなのは、社会制度で補完すればいい」という考え方では、だめなのだ。これは、慈善団体とか寄付の問題に直結している。一見、道徳的に正しいように思える制度や活動が、じつは、悪魔が支配する制度や活動のなかに「うめこまれている」。
富の偏在をただせば……「働かなくても、飢え死にしない社会」をつくれる。もう、そういうレベルになっている。そして、「働かなくても、飢え死にしない社会」をつくれば、「働かなくても、飢え死にはしないけど、働く」といった場合の労働と「働かないと、飢え死にするから働く」といった場合の労働が、完全に異なることに、人々は気がつくだろう。
「飢え死に」でおどして、働かせようとする社会がおかしいとは思わないか?
しかも、「おどし」ではなくて、現実にあることだ。おかしいだろ。こんな社会。
2022年11月25日金曜日
ぼくがこの世で感じてきたこと
このさき、どうするかな? やっぱり、気分というのはある。そして、ぼくがこの世で感じてきたことというのは、きちがい親父がもとになっている。頭がおかしい親がいるということが、幼児にとってどういうことなのか、理解できる人は少ない。ほんとうに、頭がおかしい親というのは、頭がおかしい人にしかわからない理由で、一日中、怒り狂っている。いっしょに生活している限り、そういう人を無視して生活するということは、できない。幼児にはできないし、小学生にだってできない。かかわってしまったら、かならず不愉快な思いをするという存在が、父親なのだ。これは、地獄だ。ぜんぜん、わかってない。これも、わかってないんだよな。そりゃ、人間だから、頭がおかしいとは言えない親とだって、全部が全部うまくいくということはない。しかし、本質的に、頭がおかしい親と頭がおかしくない親は、ちがうのである。なので、影響もちがう。ちがうということが、頭がおかしくない親に育てられた人にはわからない。だから、ヘビメタ騒音とおなじで、見当はずれなこと、を言うんだよな。アドラーなんて特にそうだ。こういうレベルの理解力しかないのである。他人のことに関して……特に、きちがい的な親にやられた人のことに関して、こういうレベルの理解力しかない。これは、39度のお湯につかっている人間が、1度の水につかっている人間の状態がわからないのとおなじだ。なんとなく、「つめたいつめたい」と言っているのはわかる……。けど、1度の水につかったことがないので、からだの状態がわからない。1度の水につかっている人間に対して、39度のお湯につかっている人間が、1度の水につかっているということはたいしたことじゃないと思って、まったく見当はずれなことを言いだすのだ。「わかっている」と言って、見当はずれなことを言いだす。まるでわかってないことを、言い出す。39度の湯につかっている人間にとっては、まさしく、それが現実なので、そういう判断しかできない。39度の湯尾につかっている人間が、1度の水につかっているということを「想像」して、言っているだけ。「想像」して、「たいしたことがない」と言っているだけ。「そんなのは、気にしなければいい」「つらいと言うから不幸になる」「不幸な人はみんなつらいつらいと言っている」「トラウマはない」「影響をうけないという決心をすれば影響をうけないですむ」……どれだけ、的はばれなことを言っているのか、本人は気がつかない。
2022年11月24日木曜日
その「勝手なこと」は、その人にとって重要なことだ。
ヘビメタ騒音に数千日にわたってやられたことがない人に、どれだけ「朝の憂鬱」ということを言っても、だめなんだよね。わかるわけがない。自分が数千日にわたって、毎日、六時間四五分から一三時間一〇分、自分がこの世で、一番嫌いな音を、至近距離で鳴らされたという経験がない人が、どれだけ、考えてもわからないことだ。影響のでかさがわからないのである。彼らの理解力は「鳴ってた」ということだけだ。自分が経験してないので、それがどういう意味をもつかわからない。これは、もう、猿が人間の気持ちを理解できないというのとおなじだ。まあ、経験がないからわからないだけで、別に、猿並みの能力だとは、言わないけど、そのくらいに、わからないことなのだ。経験がない……想像して考えるしかない……ということであれば、想像力がない人間は、かならず、過小評価する。「ぜんぜん、わからない」わけだから。そうすると、ヘビメタのことを聞いたあとに、ヘビメタのことを無視して、自分の信念について、自動的に語りだすのである。たとえば、「人間は働くべきだから働くべきだ」「その年で働いてないのは、おかしい。みっともない」と、猿並みの理解力で語りだす。こういう、レベルだ。こういうレベルの人間が九九%いる世界だ。自分が鳴ってみなければわからない。自分が経験してみなければわからない……。ほんとうにわかっているとは言えない。その場合、きちがい家族がいる人のほうが少ないわけだから、当然、大多数は、『きちがい家族やられる』経験がない。気ちがいではない家族にやられた経験はあるかもしれないけど、きちがい家族にやられた経験はない。きちがい家族が、どういう行動をするか、ほんとうにはわかってない。きちがい家族が、どういう感覚をもっているのか、外部的にもわかってない。この外部的というのは、そのきちがい家族の行動を考えると、そういう感覚をもっているのだろうということを推測するしかないという、人間の限界を示している。そりゃ、態度にあらわれたもの、発言されたものを考えるしかない。そいつの頭のなかなんて、どうなっているか、わからない。直接、内部の動きを観察できない。だから、外部にあらわれた行動や態度をとおして、内部の感覚を推測するしかないのである。まあ、そういうことが、問題になるのは、きちがい家族だからだ。相手がきちがい家族で、きちがい家族が、きちがい家族の感覚に基づいて、きちがい行動を毎日、つねにするからだ。感覚としては、二四時間中二四時間続いているのだから、つねにスイッチが入っている状態なのだ。そして、きちがい家族が、まわりの人のことはまったく考えないで、自分がやりたいことをやって、自分が感じたことをアクティングアウトしてしまうと、まわりの人は、迷惑をこうむることになるのである。こういうことも、普通の人にはわからない。きちがい家族と一緒に住んでいる人でないと、わからない。わかるわけがないのだ。まわりの人と書いたけど、これは、もちろん、家族のメンバーのことだ。きちがい家族のまわりにいる別の家族のメンバーのことを意味している。
ともかく、まあ、きちがいヘビメタ騒音に実際にさらされたことがない人は、自分の経験に基づいて、勝手に、自動機械のように、感想を言う。その感想が、ことのこどく、まちがっているのだ。どうして、ことのこどく、まちがっているかというと、前提がちがうからだ。この日たちの前提には、ぼくが実際にやられたことが含まれてない。この人たちの理解のレベルで、「騒音が鳴っていた」ということを理解しただけだ。そんなのは、まったく理解してないのと同じどころか、マイナスだ。マイナスの理解をしている。マイナスの理解をして、勝手なことを、語りだす。けど、その「勝手なこと」は、その人にとって重要なことだ。たとえば、佐藤にとっては「人間は働くべきだ」というのは重要なことのなのである。ユキオにとっては「三五歳なら、働いているべきだ」というのは、重要ことなのである。それをしてないというのは、ゆるせないという感情が発生する。経験がないから、そういう発言ができる。自分が経験したことじゃないから、そういうふうに言える。こいつらが、実際に、俺とおなじぶんだけ、毎日、自分の一番嫌いな騒音を、聞かされたわけじゃない。その音の音源が家族だということの意味がわかってない。経験をとおしてわかってない。騒音の問題は、騒音だけの問題じゃないのである。鳴っているときだけうるさいと感じるから、問題があるということではないのだ。けど、それが、からだでわかってない。経験をとおして理解しているわけではない。そうなると、「どれだけ前の日騒音が鳴っていたからと言って、遅刻するのはおかしい」ということになる。「鳴り終わったら、関係がないから、眠れるはずだ」ということになる。「そんなのは、あまい」「そんなのは、いいわけだ」と、発言する。それは、経験がないからわかってないだけなのである。けど、そういうのは、こちらにとっては、侮辱的な発言に思えるのである。実際、侮辱的な発言なのである。そして、こういうトラブルが発生したとしても、当の音源である「きちがいあにき」は、その場にいないのだからわからない。そして、「こういうトラブルがあったから、しずかにしてくれ」と言われても、きちがいレベルではねのけて、理解しないのである。こんなのもの、何十万回、言われても、理解しない。けど、きちがい兄貴がそういう存在だということが、これまた、「鳴り終わったら、関係がないから、眠れるはずだ」「そんなのは、あまい」「そんなのは、いいわけだ」と、発言する人には、まったく理解できないことなのだ。そういう家族が、身の回りにいないから、自分の経験の範囲外のことなのだ。ようするに、そういうきちがい家族がいないので、実際のきちがい家族の「感覚」や実際のきちがい家族の「態度」がわからない。経験をとおして、きちがい家族がどういう感覚で、どういう態度で、そういうことをするのか、まったくわかってない。だから、そういう人たちにとっても、きちがい兄貴の態度は理解しがたいものなのである。
2022年11月23日水曜日
パソコン関係のこと
パソコン関係のことは、もうなんか「おわった」感じがある。人間のなかにナノチップを入れてしまうような勢力がある時代だからなぁ。このナノチップを、はこぶためのナノディバイスやほかの目的をもつナノディバイスも入れてしまうような勢力がある時代だからなぁ。なんか、パソコンとか、コンピューターがいやになってしまったところがある。まあ、この文章は、パソコンを使って書いているわけだけどさぁ。ともかく、パソコンが輝いていた時代が終わってしまったわけ……ぼくのなかで終了。そして、デザイン関係のことも、AdobeがDS企業なので、なんか、憂鬱になってしまうのである。Adobeの3D製品の広告が、いやなんだよね。
だから、まあ、パソコンが輝いていた時代が終わってしまったわけ。これは、でかい。デザインや3Dには夢があったわけ。けど、その夢が、なんか、しぼんだ。ぼくのなかで、しぼんだ。しぼんだら、もうだめだ。
2022年11月22日火曜日
そいつは、そういう前提で、ものを言う
きちがい兄貴が普通の兄貴で、でかい音をでかい音だと感じることができる人だったら、こんなことになってないのである。ぼくの人生はまったくちがっていたのである。きちがい兄貴は、ヘビメタを鳴らしているということを気にしてなかった。でかい音で鳴らしているということを、まったく気にしてなかった。こだわってなかったつもりでいるのである。こだわってないなら、鳴らさなくても平気だ。どれだけゆずっても平気だ。一日二十四時間中、一日二十四時間ゆずったって、まったく気にしないはずだ。けど、一秒だって、俺の言うとおりに鳴らすのは、いやだったのである。普通の音……人が話す声ぐらいの音で聞けばいいのに、絶対に、人がどれだけでかい声を張り上げても出せないようなでかい音で鳴らさなければ、気がすまなかったのである。一秒だって、ゆずりたくなかったのである。ゆずりたくないので、それを、通した。また、きちがい兄貴ではなくて、普通の人は……この問題人関係がない普通の人は、きちがいヘビメタ騒音のことなんて知らないし、気にしない。だから、そういう意味で、僕の身にきちがいヘビメタ騒音が降りかかっていたとしても、そんなのは、関係がないことなのである。普通の人は、俺の身の上にふりそそいだ、きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音のことなんて、まったく関係がないから、まったく気にしないのである。聞いたって、そんなのは気にしないのである。けど、きちがい兄貴が一分間、きちがい兄貴が満足できるでかい音でヘビメタを鳴らすと、ぼくが気にしないように、どれだけがんばっても、ものすごい影響をあたえる音だったのである。きちがい兄貴も、気にしない。普通の人も……気にしない。俺は気にする。だから、俺が気にしているというとが、悪いことになってしまうのである。普通の人だって、きちがい兄貴がいて、そのきちがい兄貴が、きちがい兄貴の満足できる音でずっとヘビメタを鳴らすと、気になるはずなのである。一〇時間鳴らされれば、一〇時間鳴らされた影響をうけるのである。不可避的に、一〇時間分の影響をうける。それは、鳴り終わった一〇時間と一秒目だってかわらないのである。一秒たてば、どれだけうるさい音で一〇時間鳴らされていても、影響がないのである。どうしてなら、そんなのは、過去のことだからだ。過去のことには影響をうける必要がないので、影響をうけないのである。あるいは、影響をうけるような気がしていたとしても、『影響をうけないぞ』という強い意志をもてば、影響をうけないからだですごすことができるのである。そいつの想像のなかでは、一〇時間鳴らされたあとに……あのきちがの音に一〇時間さらされたあと……一秒でもたてば、影響がなくなるから、「眠れない」などということはないのである。眠れないのは、自己責任。そんなのは、気にするやつがいけない」「気にするからダメなんだ」「影響をうけないという強い意志をもでは影響をうけないで眠ることができる」……こういう、無慈悲な、想像をする。こういう想像ができるのは、そいつが、きちがいヘビメタを一〇時間浴びてないからなのである。別に、そいつが、強い意志をもっていたから、俺とおなじように俺の部屋にいて、きちがいヘビメタ騒音を浴びせられたけど、気にしないで眠ることができたというわけではないのである。けど、実際にそういうことが人生中で発生しなかったので、そいつは、そういう前提で、ものを言う。
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2022年11月20日日曜日
みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態をめざしましょうよ。
20度ぐらいの水につかっている人が、「俺だってつめたいと感じることはある」と1度の水につかっている人に言うんだよね。「だれだって、つめたいと感じる」「けど、俺は、がんばって、バスタブのなかから出ないでつかっている」「つめたいから、いやだなんていうのは、あまえだ」「ちゃんとつかってないダメだろ」……こんなふうに、20度の水につかっている人が、1度の水につかっている人に言う。
けど、1度と20度ではちがう。ぼくは、意図的に、室温にはふれてこなかった。風呂場の室温については、言及してこなかった。これは、意図的に言及しなかっただけだ。たとえで言うのなら、39度のお湯につかっている人だって、室温が低ければ、「さむい」と感じることがある。
けど、それなら、39度のお湯につかっていることと1度の水につかっていることは、おなじなのか?
ちがうでしょ。
* * *
20度の水につかっている人が、1度のみずにつかっている人の側に立たずに、つねに、39度のお湯につかっている人の側に立つのだ。
そして、39度のお湯につかっている人が言いたいことを、言う。
「俺だって、つめたく感じることがある」「それなのに、なんだ」「つめたいつめたいと愚痴を言いやがって」「あったかいあったかいと言えば、あったかく感じる。これは事実だ。科学的証明された事実だ」と20度につかっている人が言いやがる。
つねにつねに、20度の水につかっている人は、39度側に立って、ものを言う。39度のお湯につかっている人よりも、20度の水につかっている人のほうが、1度の水につかっている人に、そういうことを言いやすい。
実際、20度だと「つめたい」と感じることはあるからなぁ。
「俺は、がんばって、逃げないでつかっている」「俺は愚痴を言わないで、つかっている」「俺は、あったかいあったかいと言ってつかっている」「あったかいあったかいと言ってつかっていればいいのに、つめたいつめたいと愚痴を言って……。愚痴を言うからつめたく感じるんだ。なんでも受けとめ方の問題だ」と言って、1度の水につかっている人を、せめる。
20度の水につかっている人が、1度の水につかっている人を、道徳的にせめる。「社会道徳がない」「常識がない」「がまんがたりない」と言ってせめる。
けど、1度の水につかっていることと、20度の水につかっていることは、ちがう。からだの反応がちがう。こいつらは、みんな、カラダの反応を無視して、1度の水につかっている人に説教をしだす。
こういう状態は、風呂場にはいない、もっともっと、すごくいい生活をしている人たちにとっては、好都合だ。そういう状態のほうが、制御しやすいのだ。管理しやすいのだ。
いま必要なのは、みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態だ。それなのに、1度の水につかっている人をせめまくる。「文句を言うな」「不満を言うな」「文句を言うから不幸なんだ」「不満を言うから不幸なんだ」「不幸を引き寄せている」「なんだっふ、感謝感謝だ」と言う。
けど、1度の水につかっている人が、すべてのことに感謝をしたとしても、1度の水につかっている人はつらいままなのだ。「感謝感謝」などとふるえながら言っているうちに死んでしまう。1度の水につかっている人が、1度の水につかれるという状態に感謝をしても、1度の水につかっている人の「つらい状態」はかわらない。
それを「感謝感謝」と言えば、かわると言うのだ。39度のお湯につかっている人は……そして、20度の水につかっている人は……。かわらない。それから、20度の水につかっている人は、つめたいと感じることがあるかもしれないけど、それは、1度の水につかっている人が感じるつめたさとはちがう。
けど、「つめたさがちがう」と言えば、怒りだす。1度の水につかっている人が20度の水につかっている人に「つめたさがちがう」と言うと、20度の水につかっている人は、怒りだすのだ。「そんなことはない」「だれだってつらい」「不満を言うな」「泣き言を言うな」と言って、きれる。
こんな状態がいいわけないでしょ。みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態をめざしましょうよ。
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2022年11月19日土曜日
「どんな仕事でもしたほうがいい」ということを言うやつ
「どんな仕事でもしたほうがいい」ということを言うやつがいるけど、それは、「どんな風呂でも入ったほうがいい」ということとおなじだ。1度の水風呂だって、風呂なんだから、入ったほうがいいのだ。
そして、そういうことを言うやつは、別に、1度の水風呂に入るわけではないのだ。言われたほうが、1度の水風呂に入ることを推奨されている。すすめられている。
「心配して言っている」ということになっているみたいだけど、1度の水につかったあとのことは心配しないのか?
1度の水につかったら、たいへんなことになってしまうだろ。時間がたてば死ぬだろ。
なんで、そういうことを言うのか?
そういうことを人に言ってやつが、退職する。老後の生活を楽しんだりする。
「どんな仕事でもしたほうがいいよ」と言ってやりたい。
「ゆめがやぶれた」状態
まあ、いろいろと、「ゆめがやぶれた」状態で、楽しくはない。これで、神田神保町に行けば、楽しいかというと楽しくない。リフレッシュできるのかというと、リフレッシュできない。まあ、そこらへんが、普通の本好きとはちがうんだよね。なんでリフレッシュできないかというと、ヘビメタ騒音の影響でリフレッシュできない。なんで、楽しくないかというと、ヘビメタ騒音の影響で楽しくない。
2022年11月18日金曜日
カラダが反応する。この反応は、現実だ。
精神論をぶちまけるやつというのは、「その人の状態」を無視しているんだよね。「そんなの関係がない」と言う。なんのことを言っているかわからないと思うので、もうちょっと詳しく説明しておこう。
たとえば、1度の水につかっている人の「カラダの状態」と、1度の水につかっている人が「つらい」と言ったということを、わけて考えるとする。1度の水につかっている人にとって、ほんとうに問題なのは、1度の水につかっているということなのだ!
これが、わかってないんだよね。
1度の水につかっていれば、人間のカラダは、1度の水につかっているときの反応をする。これは、「意志」の問題ではない。「おもいよう」の問題ではない。カラダが反応する。この反応は、現実だ。
ところが、39度のお湯につかっている人にとっては、「現実」ではない。さらに、生まれてからずっと39度のお湯につかっているとにとっては、経験したことが一切合切ない、「現実」だ。だから、39度のお湯につかっている人にとっては、1度の水につかっている人のカラダの反応は、経験をしたことがないものであり、そういう意味で「架空の話」だ。
「想像」するしかないことだ。
けど、「つらい」というような日本語は通じるものとする。
そうなると、「カラダの状態」と「つらいと言った」ということが、不可分なものとして認知されるのだ。39度のお湯につかっている人にとっての現実というのは、1度の水につかっている人が「つらい」と言ったということだ。
いっぽう、1度の水につかっている人の現実というのは、1度の水につかっているから、カラダがそういう反応をするということだ。カラダがそういう反応をするので、「つらい」という言葉を発したということだ。
これは、ふたつとも現実だ。意志に関係なく、反応が起こっている。反応の結果について「つらい」と言っただけだ。「つらい」と言ったことが「すべて」ではないのだ。39度のお湯につかっている人にとっては「(1度のお湯につかっている人が)つらいと言った」ということが現実だ。
39度のお湯につかっている人は、39度のお湯につかっているので、39度のお湯につかっている場合における「カラダの反応」が起こっている。それは、「つらい」と表現できるものではない。もちろん、全身やけどをしていれば、39度のお湯でもつらいと表現するかもしれないけど、そういうことは、捨象しておく。
39度のお湯につかっている人の現実は、1度の水につかっている人の現実ではない。39度のお湯につかっている人の「カラダの反応」は、1度の水につかっている人の「カラダの反応」ではない。……ではない。……ではない。……ではない。
* * *
ぶっちゃけ、「人間にとって労働とは……」と精神論を語りだすやつらがいる。こいつらは、全員、ヘビメタ騒音がなかったやつらだ。俺にとってみれば、39度のお湯につかっているやつらが、1度の水につかっている俺に対して「人間にとって入浴とは……」と語りだしたようなものだ。まったく、意味がない。むしろ、有害。こういう、害虫みたいなやつら、どうにかならないかな? こいつらの人生のなかで、きちがい兄貴の夜きちがいヘビメタ騒音が発生したら、一発でわかることなのに、どれだけ俺が説明をしても、こいつらはわからない。こいつらは「ヘビメタ騒音の影響」を無視する。だから、わからない。「ヘビメタ騒音」は「1度の水」とおなじだ。ヘビメタ騒音が鳴っていれば、「カラダが反応する」。これは、人間のからだをもっていれば、そういうふうになるという反応だ。言っておくけど、「音」ではなくて「騒音」だから。その人にとって「騒音」であるということは、その「音」を不愉快に思っているということなんだよ。だから、『ヘビメタ騒音が鳴っていれば、「カラダが反応する」』という文は、正しい。まあ、これ、「音」と「騒音」のちがいについて述べたけど、こういうことも、ほんとうは、ここで言うようなことじゃない。ともかく、ヘビメタ騒音の影響をかたくなに否定するやつらがいる。「そんなのは関係がない」と言うわけだ。なにと関係がないかというと、ぼくが通勤して働けないということとは関係がないと言うのだ。あほとしか言いようがない。関係がないわけがないだろ。こいつら、ほんとうにくさっている。頭がわるいから、想像力がかけている。あるいは、性格が悪いので、「ヘビメタ騒音の影響」を無視している。人間のからだがそういうふうにできているというとを無視して、精神論をぶちまける。精神論をぶちまけるくそ! こいつらが、語る「哲学」や「思想」になんの意味があるのか? こいつらが、語る「心理学」や「発達障害論」になんの意味があるのか? こいつらが、語る「経済学」や「労働論」になんの意味があるのか? ヘビメタでできなくなったと言っているだろ。日本語!わかる?
ほんとうに、くさりきっているなぁ。
人体の、不可避的な、反応なのに……それを無視して、勝手な精神論を展開しやがって。ぶちまけやがって。説教をしやがって。こいつらだって、おなじぶんの騒音を、おなじ期間、あびせられれば、人体が、不可避的な反応をして、「朝、起きられなくなる」のに、それを無視して、「起きられる」という前提で、説教をする。「俺だって、朝、つらいときがある」と言えば、俺における騒音体験を、否定できると思っている。頭がわるいなぁ。悪すぎる。とりあえず、説教をする人を「説教男」とする。その場合、「エイリのつらさと、説教男のつらさ」ちがうんだよ。「の」が連続するけど「エイリの朝のつらさ」と「説教男の朝のつらさ」はちがう。どうしてかというと、説教男は、エイリとおなじぶんだけ、ヘビメタ騒音に相当する騒音にさらされたわけではないからだ。1度の水につかっているのと39度のお湯につかっている人の、からだの反応がちがうように、ちがうのである。それを無視して、勝手なことを言いやがって……。それで、「いいことを言った」つもりになっているのか? ほんとうに、くそバカ。ありえないほど、くそバカ。
これで、「現実」と「架空」がいれかわってしまう
ヘビメタのことが、俺以外、みんな、だれも、わかってない。だれも、わかってない。ほかの人の身の上に、起きたことじゃないからなぁ。実際に、経験してみないとわからない。ヘビメタ騒音の一日が、どういうものかわからない。ヘビメタ騒音一日を経験したあとの、次の一日がどういう一日であるかわからない。わからない。これ、みんな、俺以外、「鳴り終われば、それで効果が消失する」「鳴り終われば、関係がない」と思っているんだよな。そんなことであるわけがないだろ。そして、何回も言うけど、ヘビメタ騒音のなかで、勉強ができない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音のなかでは、勉強ができない。きちがいヘビメタ騒音が鳴り響いているなかで、怒り狂っているだけだ。とても、からだに悪い。脳みそに悪い。影響が、次の日まで残る。なかなか、眠れなくなる。ずっと、「眠るべき時間」に起きていることになる。その「眠るべき時間に起きている」ということが、次の日に影響をあたえる。これも、「鳴り終わったのなら眠れるだろう」ときちがい兄貴のような性格の人間に、ずっと横で鳴らされたことがない人には、わからない。わからないから、筋違い、見当違いのことを、言いやがる。そして、きちがいヘビメタによって、その見当違いのことを言う人のほうが、ぼくよりも、立場が高いということになってしまう。その筋違いのことを言う人のほうが、ぼくよりも、学歴があるということになってしまう。これは、ヘビメタ騒音によって押し出されたことだ。鳴ってなかったら、ちがう。ぼくのほうが学歴があるし、ぼくのほうが立場が高いということになる。ヘビメタ騒音がなければそうなっていた。けど、これも、ヘビメタ騒音が鳴っていたので、ヘビメタ騒音が鳴ってなければそうだったというようなことは、負け惜しみにしか聞こえないということになる。これも、ヘビメタ騒音によって押し出されたことだ。ぼくとおなじヘビメタ騒音生活をして、ぼくよりも、前に出れるやつがいるかよ? きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタ騒音鳴らしたので、それが現実になって、鳴らさなかった場合の話は、すべて、「架空」の話になってしまう。普通の人が絶対に経験しないようなヘビメタ騒音を毎日鳴らされた俺の現実は、ほかの人にはわからない。それが及ぼす効果が、経験としてわからない。全部が全部、架空の話になってしまう。けど、きちがい兄貴というレアな存在がいなければ、ぼくもその、ヘビメタ騒音がない普通の生活を送ることができたのである。なにが、まけおしみだよ。ぜんぜん、ちがうじゃないか。きちがい兄貴というレアな存在がいたのかいないのか、これで、「現実」と「架空」がいれかわってしまう。きちがい兄貴が存在した世界では、きちがい兄貴が存在しない普通の生活が、すべて、「架空」の話になってしまう。そして、ぼく以外の他者にとっては、それは、「架空」の話なのである。最初から……。最初から、架空の話だ。それなら、好き勝手なことを想像して、好き勝手なことを言うことができる。たとえば「影響をうけないことは可能だ」と言うことができる。実際に、やられなかったからな。「架空」の話だからな。
2022年11月17日木曜日
個人がかわるべきではなくて、社会がかわるべきなのである
個人がかわるべきではなくて、社会がかわるべきなのである。まず、社会がかわるべきだと言っているだろ。まず、社会がかわらなければ、意味がない。いまの状態というのは、39度のお湯につかっている人が、1度の水につかっている人に対して「つめたいと言うから、つめたく感じる。あったかいと言えば、あったかいと感じる」と言っているような状態なんだよ。いまの状態というのは、ふかふかな椅子に座っている人が、トゲのはえた椅子に座っている人に対して「いたいと言うからいたく感じる。楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言っているよな状態なんだよ。こういう、意味がない助言が、どれだけ、くるしい状態の人を、さらに、いためつけるか、ぜんぜんわかってないんだよね。まず、全員が39度のお湯につかれる状態をつくらなければならないのである。まず、全員がふかふかな椅子に座れる状態をつくらなければならないのである。
2022年11月16日水曜日
なんだ?そりゃ??
バカはバカです。どうしようもないバカです。バカの壁が高すぎる。基本、この世の不愉快な出来事というのは、他人によってもたらされる。きちがい兄貴やきちがい親父という他人がいる家に生まれたのが、そもそも、まちがいだ。そして、ぼくではなく、ぼくとはまったく関係がない他者が「そのうちに生まれることを選んだ」と言いやがるのだ。きちがい兄貴やきちがい親父がいる家に生まれたということ自体がハンディなのに、こういう他人も、ハンディになる。他人に対して「そのうちに生まれることを選んだ」と言いやがる他人。こんなろくでもないやつらがいる社会。こんなろくでもない生き物がいる世界。なんだ?そりゃ??
1度の水につかっているやつに対して、「摂氏1度の水につかることを選んで生まれてきた」と言って、まるで、なにも感じない他人……。そういう生き物。
「そのうちに生まれることを選んだ」と言う他人は、どうかしている。人間としてのこころがない。けど、こういうやつらは、自分が『高次元人』だと思っている。「たましいのくらいがたかい」と思っている。「世界の秘密を知っている」と思っている。思っている。思っている。思っている。けど、他人に対する思いやりは、まったくないんだよな。とくいがって、そういうことを言いやがって。そういう決めつけが、どれだけ人を傷つけるのかまったくわかってない。そして、本人は、「事実だ」ということに自信があるのだろうけど、「妄想」にすぎない。その人が、霊界や、生まれかわりを信じているだけなのである。そして、勝手に他人のたましいの勝ちを決めつける。勝手に、他人の人生の勝ちを決めつける。すべての不条理が、自己責任になってしまう。すべての悪が、肯定される。「それは、学びのために必要だったんだ」「たましいが、学ぶために、そういう家を選んで生まれてきたんだ」……こういふうに、自分の人生について考えるのは、かまわない。本人の妄想を本人の人生に適応しているだけだからだ。けど、他人の人生の上に適応して、妄想なのに、あたかも「事実だ」と思って言うということは……そういう発言を他者に投げかけるということは、よくないことだ。よくないことだ。けど、この「よくないことだ」ということが、こういう人たちにはわからない。決めつけて、得意がっている。
起きたら、世界がかわっていればいいのに……
起きたら、世界がかわっていればいいのに……。かわっているわけじゃない。なんで、かわってないんだ? ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音でつらかった。どうにもこうにも、つらい。みんな、わかってない。きちがい兄貴の様子がわかってない。きちがい兄貴の頭のなかが、わかってない。きちがい親父の様子がわかってない。きちがい親父の頭のなかが、わかってない。「常識で推し量る」と全部まちがえるんだよ。そして、「常識で推し量る人間」のまちがいが、全部、俺の身の上に、投げつけられる。こんな、世界、ない。こんなのは、いやだ。けど、こういう世界なんだよ。
あとは、自分のことは棚に上げて「過去は関係がない」とか言う他人がいるけど、こういうやつは、どれだけ失礼なことを、俺に言っているのかわかってないなぁ。
2022年11月15日火曜日
経験してないのに、「ちこくしないことはかのうだ」「べんきょうぐらい、できる」と言う
どーーしても、ヘビメタでくるしい。
どーしても、ヘビメタでくるしい。
いま、午後6時48分。午後6時48分は、毎日、鳴ってた。ギャーって鳴ってた。ほんとうに、ものすごい音なんだよ。あんな音のなかで、正常な気分を維持できるわけがない。正常な頭の働きを維持できるはずがない。あの音のなかで、勉強なんてできない。これも、ほんとうに、ぼくの部屋にいればわかることなのに、わかってない人たちが「どれだけ、騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできる」と言って、「勉強ができない」ということを認めない。発狂的な状態なんだよ。きちがい兄貴の態度に腹がたっているわけ。ものすごい音で鳴っている。これ、ほんとうに、いればわかるのに……。どんだけ鈍感な佐藤でも、ぼくの部屋で暮らしてみればわかることなんだよ。どれだけ、次の日にこたえるか。次の日の勉強にこたえるか……絶対にわかる。毎日だからね。毎日ということの意味がまったくわかってない人たちばかりなんだよな。「な・っ・て・た」という言葉ですんでしまう。「な・っ・て・た・ん・だ・ね」……これでおしまいだ。きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタを聞かされる状態は経験してない。俺の部屋で1秒も、きちがい兄貴のヘビメタを聞いてない。聞かされてない。あの態度で鳴らしているやつがいるということが、どういうことなのかわかってない。家族があの態度で鳴らしている……呼吸をするように鳴らしている……いつもいつも、鳴らしているということが、わからない。こいつらは、実際、人生のなかで〇秒しか、俺の部屋にいたことがなく、〇秒しか、きちがい兄貴のヘビメタを聞かされてない。人生のなかで、数万時間ヘビメタを聞かされたというわけではない。どれだけ、長いか? どれだけ蓄積するか? ぜんぜんわかってない。これ、三〇〇〇日目の、ヘビメタの騒音時間と、1日目のヘビメタ騒音時間が同じだとしても、蓄積があるからちがうんだよ。たとえば、三〇〇〇日鳴っていた場合の、三〇〇〇日間の朝の状態を、ほかの人たちは、経験してない。経験してないのに、「ちこくしないことはかのうだ」「べんきょうぐらい、できる」と言う。経験してないでしょ。こういうことを言う人たちが、いったい、何時間、ぼくの部屋で、ぼくとおなじようにヘビメタ騒音を経験したんだ? こういうことを言う人たちが、どれだけ、勉強ができない時間を経験したんだ? こういうことを言う人たちが、どれだけ、勉強ができないくやしさを経験したんだ? 「かこなんてかんけいがない」……「ふざけんな」。もう、なぐってやりたかったね。なぐったって、なぐったとたんに、なぐったことは、過去のことになるんだぞ。なぐって「かこはなんてかんけいがない」と、俺が言ったら、おまえはどう感じるんだ。きちがいヘビメタの連続は、なぐるなんてことより、よっぽどひどいことなんだよ。それがわかってない。どれだけ、ダメージをくらうか、ぜんぜんわかってないなぁ。
相手が自分に「こまるからやめてくれ」と言ったことを、完全に忘れてしまう
ああいう状態でヘビメタをやられると、どれだけがんばっても、がんばっても、人から誤解されるようになる。そりゃ、鳴っていると、対処できないことが出てくるから……。遅刻でも宿題でも、連帯責任ということになるとつらい。そして、そういうことでなくても、ほんとうに、他人に対する反応で、いろいろな問題が出てくる。ひとつは、ヘビメタ騒音で寝不足になるからそうなる。けど、それだけではなくて、きちがい家族が、あの態度で鳴らしているということが、基本的には、人間関係に悪い影響をあたえているのである。悪がおこなわれている。その悪について、きちがい親父が黙認をしている。そして、ヘビメタでこまっているということを無視している。きちがい兄貴もきちがい親父も俺が、ヘビメタ騒音でこまっているということを、無視している。これが、感情的にでかいんだよ。普通に俺の人権が踏みにじらてれている。もちろん、宿題をやっていかなくて、こまるのは俺なんだけど、俺がこまっているということをどれだけ言っても、「張本人である」きちがい兄貴が認めない。そして、それが、ほかの家族によって黙認されている。おかあさんは「こまったこまった」の連続だ。そして、常にからだの調子が悪いのである。おかあさんは、唯一、家族のなかで、俺が、ものすごくこまっているいうことを理解してくれている他人だけど、きちがい兄貴ときちがい親父は、どれだけ言っても、理解しないのである。「こういうふうにこまっている」「ヘビメタ騒音でできなかったからこまってる」「明日、こういうことがあるから、やめてくれ」「ヘビメタ騒音が鳴っていると失敗するからやめてくれ」と言っても、そういうことをまったく言われたなかった場合の態度で、きちがい兄貴が鳴らし続けるのである。そして、たとえばだけど、遅刻していけば、「だらしがないやつだ」とクラスの人が思うわけだよ。なおさら、連帯責任で、校庭のトラックを走らされるということになると、うらみが生じるんだよ。じゃあ、遅刻しないことが可能かというとそうではないのである。そうじゃない。けど、そういうことが、ぼくの部屋にいて、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音を経験している人じゃないとわからないんだよ。同じ生活をしている人じゃないと、この必然性がわからない。だから、ヘビメタ騒音のことを説明しても『そんなのは……』という話になる。ヘビメタ騒音のことを説明しても、説明しなくても、誤解されている状態というのは、かわらない。前投稿で、佐藤やユキオの態度について語ったけど、佐藤やユキオにしても、かわりがないのである。最初にできた(ぼくに対するイメージ)はヘビメタ騒音のことを説明しても、かわらないのである。「無職はみっともない」と思っている人に、ヘビメタ騒音で無職なのだということを説明しても、最初にできた、ぼくに対する、「ダメなイメージ」というのがかわらない。これは、無職うんぬんのことではなくても、小学生時代のときからずっとそうなんだよ。とくに、中学生時代と高校生時代がひどかった。これ、みんな、ヘビメタ騒音で「遅刻をしてしまう」ということがわかってないんだよね。ヘビメタ騒音について説明すれば、「そんなのは、お兄さんに言えばいいでしょ」ということになってしくお。それは、普通の家族と生活している人は、きちがい兄貴のきちがい的な無視のしかたがわからない。どれだけ、鳴らしていても、弟がこまらないと思っている。それは、兄貴にどれだけ説明しても、兄貴にはわからないことなんだよ。きちがい親父とおなじでわからない。これが、兄貴ひとりだけならともかく、オリジナルとして、きちがい親父も同種類のきちがいだから、四人家族なのに、ふたりも、「無視をしてやる着るきちがい」がいるということになる。どれだけこまると言っても、相手がこまることを、全力で無視してしまう人間がいるんだよ。そして、全力で無視して、相手がこまることをゆずらずにやりきったということも無視してしまう。そして、相手が自分に「こまるからやめてくれ」と言ったことを、完全に忘れてしまう。最後の「相手が自分にこまるからやめてくれと言ったことを、完全に忘れてしまう」ということにかんして言うと、これまた、そういうきちがい的な人間が家族のなかにいる人じゃないと、まったくわからないような感じで、忘れてしまう。これ、とりあえず、忘れてしまうと書くしかないのだけど、最初から認識してない。そして、最初から認識してないというのは、人間として、かなりおかしいことなのである。だから、常識的な人は、俺が言っていることを信じない。そういうことがしょうじてしまう。これは、ぼくの説明力の問題じゃないのである。よその人に対するぼくの説明がへたくそだからよその人が信じないということではないのである。また、兄貴に対して、ぼくが「こういうことでこまるかやめてくれ」「こういうことでこまるから、しずかにしてくれ」ということを言っても、兄貴が理解しないということは、ぼくの説明がへたくそだから、兄貴が理解しないということでもないんだよ。けど、普通の家で育った人は「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「ちゃんといえばやめてくれるよ」と言うのである。で、そういう前提でものを考える人は、「そのとしで働ていないのはおかしい」「人間働くべきだ」と考える人とおなじで、ぼくが説明をしても、その考えがかわることがないのである。その人のなかでは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音という問題は「ちゃんといえばやめてくれる」のにちゃんと言わないからダメなんだと思うような問題であり続ける。あとは、「きちがい」という言葉の使い方についてからんでくる人がいる。俺だって自分の家族を「きちがい」とは言いたくない。けど、現前として、うちのなかでなりたっている、親父や兄貴の態度が、きちがいの態度なのである。(厳然ではない)。けど、怒り狂ってゆずらないさまは、きちがい的な意味で厳然としているところがあるなぁ。あくまでも、きちがい的な意味でだけど。本来の意味とはちがうけど。現前だよな。けど、威厳とかそういうものはないけど、きちがい的な意味で頑固さがあるんだよ。この頑固さが、ほんとうに、頭がおかしい頑固さで、ほかの人にはわからない。ともかく、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で認めないということになる。「きちがい」と言わないと、うまく説明ができないところがあるのである。どうしてかというと、「矛盾」しているから。そして、きちがいという単語を使ったにもかかわらず……矛盾を軽減するためにきちがいと言う単語を使ったにもかかわらず「そんなへんなひとはいない」「そんなことはない」と普通に考えてしまう普通の人たちが多い。この人たちにとっては、ぼくが言っていることが……ぼくがきちがい兄貴やきちがい親父について言っていることが……嘘なのである。この人たちは、ぼくの言っていることを、この人たちの感覚に基づいて、信じない。ぼくが勝手に、嘘を言っていると思うわけだ。……ごく自然に……。
厳然には、いかめしいという意味が含まれており、いかめしいには 「猛烈である」という意味が含まれているので、かすってはいる。猛烈ではある。おごそかではないけど、猛烈ではある。
2022年11月14日月曜日
なぜだ! なぜだ! なぜだ! なぜだ? なぜだ? なぜだ?
「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのに、「働ける」という前提でものを言ってくるのはなぜだ? おまえは、日本語がわからないのか? 俺が真剣な表情で「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのに、「働ける」という前提でものを言ってくるのはなぜだ? 人の表情が読みとれない発達障害者か? なぜだ! なぜだ! なぜだ!
なぜ、弟の人生を破壊するような音でヘビメタを鳴らしていた兄のことは、せめずに、ヘビメタ騒音の結果!!働けなくなった弟をせめるのだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ?
「もしそれがほんとうだったら、もっとぐちゃぐちゃになっているから嘘だ」と思った場合、ぼくが、妄想できちがい兄貴の悪口を言っているということになる。たしかに、嘘であればそうだ。
けど、嘘ではない。「ウソを言っている」と決めつけたことについて謝罪しろ。ぐちゃぐちゃになっている」というのは、もっと精神病的な状態になっているはずだということだ。
もっと、精神病的な状態になっているはずなのに、普通に話しているので、エイリさんが嘘を言っていると思ったのだ。そして、「(そのとしで)働いてないのは、おかしい」「(そのとしで)働いてないのは、きもちがわるい」と言いやがったのだ。これ、なんで、毎日毎日、非常識な音で鳴らしているきちがい兄貴のことは、おかしいと思わないで、非常識な音を鳴らされた結果、働けなくなった人間のことは、おかしいと思うのか?
それこそ、おかしいんじゃないの。
こいつら、ほんとうに、どういう状態なのかまったくわかってないなぁ。佐藤は、たいしたことがないと判断した。だから「人間は働くべきだ」ということを言った。じつはこのとき、佐藤は、無職であったのだ。こいつは、当時、無職。いま? 佐藤は無職だろう。人間が働くべきなのであれば、死ぬまで働くべきだ。なんで、働かないんだ?
それとちょっと離れたことを言うけど、ほんとうなら、きちがい的な音でヘビメタを鳴らさないように、薬を飲むべきなのは兄貴だ。きちがい親父にしても、おさない子供を見ると、どうしても、きちがい的な理由で怒り狂いたくなるので怒りくるうわけだけど、精神科に行って、薬を飲むべきなのは、きちがい親父だ。きちがい兄貴が、薬を飲んで、ヘビメタをでかい音で鳴らしたいと思わないようにすればいい。
ほんとうに、非常識で迷惑な音なんだから。
これ、ほんとうにものすごい音で鳴っている。きちがい兄貴の耳が、きちがいヘビメタでおかしくなった。そういうレベルの音で鳴らしているんだよ。きちがい兄貴の、ヘビメタともだちである、カオ君という人が「こんな音で鳴らしていいの」と思うほどでかい音なんだよ。そして、カオ君が、「家族の人は、なにも言わないの?」「弟さんがかわいそうだよ」と言ったのに、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言ってしまう兄貴は、精神異常者ではないのか?
俺は毎日、きちがい兄貴の部屋まで行って「こまるからやめてくれ」と何十回も言っているんだぞ。それを、無視するやつは、精神異常者じゃないの? きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を、非常識な音で鳴らしたいという気持を抑えるために、薬を飲むべきじゃないの? なんで、ヘビメタ騒音にやられて、つかれはてて、憂鬱になっている俺が薬を飲まなきゃならないのか? きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすのは、いいことなのか? ゆるされることなのか?
話をもどして、繰り返しなるけど、どうして、老化したから、働かないなんて言っているんだ? 老化したら人間は人間ではなくなるのか? 人間は働くべきなんだろ。だったら、老人になっても働くべきだ。老人は人間ではないというのか? 佐藤、おまえ、どうして無職なんだ? 人間働くべきだから働くべきだ。
あと、ユキオ。そのとしで、働かないのは、おかしい。人間は老人になっても働くべきなので、働かないのはおかしい。「そのとしで、働かないなんて、気持ち悪い」「そのとしで働かないなんて、あまえている」……そう言ってやりたいのだけど、ぼくの言葉はとどいたかな?
ヘビメタ騒音でボロボロな体をひきずって、身を刻むような努力をしてきたましたぁ~~
起きた。のどがカラッカラだから、起きた。
しかし、俺は、どうすればいいんだ?
まるでわからない。どうすればいいんだ? どうすればいいんだ?
まるでわからない。まるで……。どうするの? これ、ほんとう、どうするんだ?
俺は今まで、がんばってやってきたと思う。最大限の努力をしたと思う。そとから見たのとは、ぜんぜん、ちがうからね。みんな、俺が、さぼっていると思っているんだよな。ヘビメタ騒音でボロボロな体をひきずって、身を刻むような努力をしてきたましたぁ~~。「なに、言ってんだよ。おまえら」「自分が、たまたま、きちがい兄貴やきちがい親父にたたられなかったからって、それを自分の能力だと思うな」と言ってやりたくなるなぁ。言ってやりたくなる。これ、ものすごい、ハンディなんだよ。たとえば、家できちがい兄貴が、ものすごい音で鳴らしているということだって、学校によっている場合、学校で会う人たちにはわからない。いちおう、職場の場合だってそうだ。職場で会う人たちにはわからない。説明したって、「騒音が鳴っているんだな」という認識が生れるだけだ。これは、佐藤やユキオの場合とおなじだ。「騒音が鳴っているんだな」という認識(理解)と、実際にぼくが経験しているヘビメタ騒音はちがうのである。兄貴のヘビメタ騒音だ。この兄が、問題なのである。きちがいだから問題なのである。これ、ほんとうに、一日でも、きちがい兄貴の態度で、ヘビメタ騒音をやられれば……ぼくの部屋で暮らせば……わかるんだよなぁ。「ぜんぜんちがう」ということが、わかる。
2022年11月13日日曜日
肯定しがたいことがいっーーぱいある、家族論
きちがい兄貴の態度は問題がある。あたかも、鳴らしてないような態度なのだ。「一日中まったく鳴らしてない」「全部の時間ゆずってやっている」という認識が成り立っているような態度なのだ。そして、同時に「自分には関係がない」という認識が成り立っているような態度なのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ほかのうちでは、一分間だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らすことに、こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!こだわって!鳴らしているのに、自分が、あたかも鳴らしてないような態度なのである。この態度! きちがい的な意地で、絶対、ゆずらないで鳴らしているのに、あたかも、「鳴らしてないような態度」のままなのだ。ぜんぜん、関係がないと思っている人の態度のまま生活をしているのだ。こんなのない。こんなの、きちがい以外にない。こういうことができるのは、きちがいだから。だから!ほかの人が言っている「騒音」とはちがうんだよ。
ほんとうに、関係がない人のつもりでいる。鳴らすのは鳴らすけど、まったく関係がない人がいるつもりでいる。きちがい兄貴が、意地になって鳴らしているんだぞ。きちがい兄貴が、意地になって、こだわりのおとで鳴らしているんだぞ。もっと小さい音で聞けばいいんだよ。これも、ほんとうに、ほかの人に誤解されるところなんだよな。きちがい兄貴……とやらが、ほんとうは、普通の音で鳴らしていたの……あるいは、ちょっとでかいだけの音で鳴らしていたのに、騒音に敏感なエイリが、大げさに言っているだけなんだ……というような誤解がある。この誤解は、けっこう、ありがちな誤解だ。ぜんぜんちがう。「ぜんぜんちがう」と言っているだろ!!
この特殊な態度については、家族のなかにこういう人がいて、その家族がごく自然にそうなっている人しかわからない。特殊なんだよ。そういう特殊な家族とは、やはり、ぶつかるのである。このぶつかりあいは、正常なもの同士のぶつかりあいとはちがう。こういうことが、佐藤のような凡人にはわからない。逆立ちしてもわからない。わからないと、「えいりさんがいっていることがなにかおかしい」と感じるのである。だから、そういう誤解が、しょうじる。
きちがい家族にやられた人は、きちがい家族にやられたことがない人から、誤解をうける。そういうふうに、できている。普通の家族のなかで育った人は、きちがい家族にやられた人……を誤解するようにできている。きちがい家族にやられた人は、一次的にきちがい家族にやられて、二次的に普通の家族のもとで育った人にやられることになっている。そして、家族制度を維持することによって?社会的にそういうことが、認められているような部分がある。「そんなのはしかたがないことだ」ということになっているのである。そして、普通の家族のなかで育ったやつが、きちがい家族にやられた人間をディスって、家族論を展開するのである。この家族論は、普通の家族のもとで育った人にとってみれば当たり前の家族論かもしれないが……同意する部分がたくさんある家族論かもしれないが……きちがい家族に、ごく普通にやられた人間にしてみれば、肯定しがたいことがいっーーぱいある、家族論だ。けど、これも、多数決で、『正当さ』が決まってしまうようなところがある。そういう感覚をもっているものが多ければ、そういう感覚をもっているものが支持される。
誤解。誤解。誤解。これ、ほんとうに正常な家族のもとで育った人は、きちがい的な家族のもとで育った人の事情がまったくわかってない。つねに、誤解している。その誤解は、きちがい的な家族のほうにむけられるのではなくて、きちがい的な家族にやられた正常な人間にむけられるのである。 きちがい的な家族にやられた……こまりまっているけど……正常な人間が、攻撃をされる。それは、誤解に基づいた攻撃だ。けど、これも、攻撃だとは思ってないのである。「あたりまえのことを言っている」と思っている。
「ちがう」と言ったことを無視するな
人生のなかで、きちがいヘビメタ騒音レベルの騒音を長期間にわたって経験したことがない人に、どれだけ、言ってもわからないと思うけどちがうのだ。ちがうと言ったらちがう。「ちがう」と言っているでしょ。「ちがう」と言ったことを無視するな。俺が「ちがう」と言ったことを無視するな。「おなじ」だと思うな。失礼だろ。ふざけるな!! ふざけるな!! こいつらのことは、ゆるさない。
「俺だって、騒音ぐらいあった」
ほんとうに、きちがい兄貴のハンディがひどすぎる。ほかの人には、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴の感覚で、いいと思って、きちがい的でかい音で鳴らす家族がいない。きちがい兄貴の感覚はほかの人にはわからない。きちがいが家族のなかにいない人にはわからない。そのきちがい家族が、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らしてない人には、わからない。わからないと言ったら、わからない。わからなければ、黙っていればいいものを、「俺だって、騒音ぐらいあった」とくらべものにならないほど、ちいさい騒音について語りだす。くらべものにならないほど短期で終わった騒音について語りだす。工事など、鳴らしても「いい」騒音について語りだす。きちがい兄貴の騒音は、きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなかったなら、鳴らせない騒音なんだよ。騒音の質がちがうんだよ。騒音を出している「人間」の質がちがうんだよ。だれも、俺の部屋できちがいヘビメタ騒音をずっとずっとずっと、経験したわけではないから……聞かされたわけではないから、考え違いをしているんだよね。考え違いなんだけど、考え違いだということがわからない。そうすると、佐藤のようにヘビメタ騒音を過小評価して、あらぬことを言ってくるということになる。こいつら、人の話を聞いているのか? 言っているだろ。ヘビメタ騒音とあんたらが経験した騒音はちがうと言っているだろ。これ、ないんだよ。あったら、俺が言っていることがわかる。絶対に「俺だって、騒音ぐらいあった」なんて言わない。ぜんぜんちがうということがわかっているから、言わない。その人だって、働けないからだになっているから、「人間は働くべきだ」とか「ちゃんとしてくれ」とかということは、言わない。言えない立場だからだ。どうして、言えない立場に追い込まれてしまうかというと、ヘビメタ騒音の騒音が、鳴っていたからだ。ヘビメタ騒音相当の音が鳴っていたなら、ぼくが言うことに反対をするわけがない。わかっているから、絶対に同意してくれる。それが、「俺だって、騒音ぐらいあった」「人間は働くべきだ」「ちゃんとしてくれ」と言ってくるのは、まったくわかってないからだ。
2022年11月12日土曜日
「もっと、ぐちゃぐちゃになっている」はずだから、エイリさんが言っていることは嘘だ
そういえば、いま座っている椅子が、よくないんだよ。写真で見ただけでは、座りごこちはわからない。なんか、あってない。ともかく、だるい。どうしたものだ。
眠っても、回復しない。
眠ったら、ぱーーっと回復してほしいね。ぱーーっと。
現実はちがう。どろどろ。ぜんぜん、回復しない。やっぱり、いろいろと限界なんだよなぁ。体力的にも精神的にも……。
どうにかしたいのだけど、どうにかするには、体力が必要だという問題がある。明るい気持ちで……むかし、ヘビメタ騒音のまえにいろいろなことをやっていたときのように……、ぱぱーっと、計画を実行したいなぁ。明るい気持ちで……。けど、ヘビメタ騒音中と、長期騒音以降、むりなんだよ。どれだけ、自分の気持ちを鼓舞してもむりなんだよ。破壊された。
ほんとうは、重要かつ重大な問題なのに、凡人佐藤が理解しない。凡人佐藤には常識的な人の見本として登場してもらっている。どれだけこういう態度の人が多かったか。あとは、ユキオって名前にしておいたけど、ユキオのような態度の人もいる。この人たちは「このとしで、職歴がないなんてどう考えてもおかしい。きもちわるい。近づかないでおこう」と思って、俺をさける人たちだ。さけたままならいいけど、徒党を組んで、裏で(俺の)悪口を言うのである。主婦がそうだった。「あれ、人の悪口を言うのは、悪いことなんじゃなかった」とつっこみを入れたくなる。ものすごい、差別意識があるんだよな。「ヘビメタ騒音『で』働けなくなった。ヘビメタ騒音でつらい」と言っているのにこういう態度だ。「どれだけ兄貴に言っても、兄貴がやめてくれなかった」と言っているのにこういう態度だ。ユキオの場合はちょっとかわっていて、「もし、それがほんとうなら、もっとぐちゃぐちゃになっているはずだ」と言っていた。『もし、ヘビメタ騒音のことがほんとうなら、もっと、(エイリさんが)きちがい的な状態になっているはずだ……けど、普通に話せるし、きっと、ヘビメタ騒音のことは、エイリさんがつくりあげた嘘なのだろう』と思ったみたいなのだ。そういうことを「もっと、ぐちゃぐちゃになっている」とは言っていた。ひとりごとのようにつぶやいたけど、口に出しているよ。
ともかく、きちがい兄貴がきちがい的な意地で、常識はずれのことを、やると、ぼくが誤解されるのである。ぼくがほかの人から誤解される。これ、親父の場合もそうなんだよね。けど、親父の場合よりも、兄貴の場合のほうがひどい。兄貴は、ヘビメタ騒音だけで、親父の1000万倍ぐらい、ひどいことをしている。これ、ほんとうにヘビメタ騒音生活が続けば「誰だって」働けなくなるのに、ほかの人はそれがわかってない。体験的にわかってないから、「そんなのはおかしい」という反応をする。『エイリさんが嘘をついているだけなのでは』と思ったりする。あるいは佐藤のように、『そんなのは関係がない』と思って、ヘビメタ騒音がしょうじなかったにもかかわらず、エイリさんがさぼって働かないという前提で、くそ助言をしてくるのである。ヘビメタ騒音のことを無視しているか、ヘビメタ騒音のことを過小評価している。「あったって、たいしたことはないだろう」と思っているのだ。「あったって、過去のことなら、関係がない」と思っているのだ。こういう、決めつけ。頭がわるい決めつけ。想像力がないのかな? 自分がほんとうにそういう生活をしたら、どんなことになるかまったく想像がつかないんだよね。きちがい兄貴の無視のしかたは、こういうやつらの無視のしかたよりもひどいけど、方向性は合致している。ヘビメタ騒音の影響を無視する。無視したところで「なめたこと」を言う。きちがい兄貴が、普通の人が想像できないことを、普通の人が想像できない期間の長さ、ずっと毎日やると、そういうことになってしまう。
大きな悪と、小さな悪。悪ではないものを悪だと決めつける思考
一番大きな悪がおこなわれているのに、それは、気にしないで、一番小さな悪については、えらそうなことをがんがん言うというのはおかしいのではないか。きちがい兄貴の騒音は、悪いことだ。弟がこまっているのに、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、ずっと、音楽を鳴らすことは、一番大きな悪とは言わないけど、相当に大きな悪だ。俺が自殺をしなかったから、結果的に、自殺に追い込むような音で鳴らしていたということにはならなかったけど、人の人生を台なしにしてしまうような行為を、自ら進んで、きちがい的な意地でやっていた。これは、悪だ。かなり大きな悪だ。そして、たとえば、きちがい家族がきちがい的な音でヘビメタ騒音を鳴らしていたから、働けなくなったということは、別に、悪いことではない。「働けないから働いていないだけ」だ。ところが、凡庸な佐藤は、「働けるのに働けない」と解釈してしまう。ヘビメタ騒音『で』働けなくなったと言っているのに、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して「働ける」と判断したのだ。凡庸な佐藤が、働けると判断したら、凡庸な佐藤のなかでは、「働ける」ということになってしまうのだ。そして、「働けるのに、働かないのは、悪だ」という判断がしょうじる。この悪は、どう考えても、小さな悪なのに、凡庸な佐藤のなかでは、きちがい的な騒音をずっと、十数年間も毎日、鳴らすことよりも、この、「働かない」ということのほうが、悪いことに思えるのだ。ぼくは、ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているのに、凡庸な佐藤が、「エイリさんは働ける」「騒音で働けなくなることはない」と勝手に考えているだけだ。けど、佐藤の頭のなかではそうなのである。だから、働けるのに働かないのは悪だと考えている佐藤が、きちがいヘビメタで働けなくなった俺に対して、働くことを『要求』してくるのである。俺は、「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っているだろ。日本語、わかる?
ともかく、ヘビメタ騒音という大きな悪、を、まるで関係がないものとして判断して、「働かないのはけしからん」と思うやつが、けしからん。小さな悪、ではないものを、小さな悪と決めつけ、大きな悪を無視して、小さな悪をせめる。こんなのは、おかしい。これこそが、悪だ。
++++++++
弟の人生を破壊するような音で毎日毎日、頑固にヘビメタを鳴らす……でかい音で鳴らすということが悪だ。「自殺するしかない」と弟が思うような音で鳴らし続けるということが悪だ。弟が「入学試験だからやめてくれ」と言っても無視して鳴らし続ける態度が、悪い態度だ。それなのに、こいつらときたら、その悪の結果、働けなくなった人を働かないということでせめたてるのだ。働けなくなった人と、働けなくなった人を(働けるという前提で)せめたてる人、どっちが悪か? どっちが、道徳的で、どっちが、非道徳的か?
なんでこいつらは、弟が、「やめてくれ、やめてくれ」と言ったいたのに、よその家じゃ鳴らせないようなでかい音で鳴らし続けた兄の悪は追及せずに、働けなくなった弟が「働いてない」ということを、悪とみなして、追及するのか?
これが、今世紀の「普通の人たち」の判断。これが、今世紀の「普通の人たち」の態度。
ヘビメタ騒音以降、つらいことばかりだ
つらいなぁ。
全部がつらい。
つまらないなぁ。
全部がつまらない。
ヘビメタ騒音以降、つらいことばかりだ。どれだけがんばっても、どれだけたえても、つらい。つらい。
ヘビメタ騒音でつらい。ヘビメタ騒音でつらいのに、ヘビメタ騒音にさらされてないやつが、えらそうなことばっかり言ってくる。さらされて、平気なわけじゃないのである。さらされてないから、平気なだけ。こいつらが、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、えらっそーなことばっかり言ってくる。これが、地獄だ。えらそうなこと、ばっかり言って……。ぜんぜん、えらくない。ヘビメタ騒音という『災厄』がしょうじなかっただけでしょ。まるで、「(ヘビメタ騒音という「災厄」が)しょうじたのに、自分はだいじょうぶだ……エイリさんは影響をうけている」という態度で、えらそうなことを言ってくる。こいつらも、想像力がないな。立場をかえて考えるということができないやつらだ。ヘビメタ騒音のことを過小評価するな。どんだけ、つらいと思っているんだ? 一日でも、どれだけつらいと思っているんだ? 思ってないんだろ。そんなの鳴り終わったら、眠れるに決まっていると思っているんだろ。次の日の朝、影響をないで暮らすことは可能だと思っているんだろ。そうじゃない。毎日毎日、あんな一日が続いて、いいわけがない。ところが、きちがい兄貴がきちがいだから、毎日毎日、まったく意識をしないで、息を吸うように、続ける。きちがい「だから」そういうことができるんだぞ。普通の人だったら、絶対に、普通のうちのなかで、一分だってあんな音で鳴らせないんだよ。気にして鳴らせなくなるのが普通の人なの。注意されたら、いっくら鳴らしたくても、やめるのが普通の人なの。そういうところで、ぶっ壊れているから、まったく気にしないでやりきることができる。相手が「やめてくれやめてくれ」ととなりで絶叫していたのに、無視してやり続けることができる。そして、相手が、それほどいやがっているということを、まったく、無視することができる。そういうことが一万回、起こったって、相手が嫌がっているいうことが、まったくわからないままだ。どうしてかというと、きちがい兄貴がきちがいだからだ。正常な人だったらそんなことにはならないのである。で、そういう家族がいるということが、どういうことか、正常な人たちはわかってないのである。たとえば、佐藤はわかってない。わかってないから、ヘビメタ騒音のことを過小評価してえらそうなことを言う。
穴があいている船なんだよね
穴があいている船なんだよね。あーー。ヘビメタ騒音で穴があいた、船だ。さとーー、おまえ、まったくわかってないなぁ。ヘビメタ騒音がそんなものであるわけがないだろ。一日でいいから経験させてやりたい。次の日、どんなことになるか、経験させてやりたい。まったく気にしないで鳴らしているきちがい兄貴の態度が、騒音のなかで、どれだけ腹がたつものか、経験させてやりたい。
2022年11月11日金曜日
普通の人の基準でものを言うな!!!
もーーーーーー、いーーー、や。しかし、俺のこのくだらない時間はなんだ?
そりゃ、楽しく生きたい。
しかし、これが、きちがい親父に、きちがい的な理由で怒り狂われていた幼児期があるとむりなのだ。これも、「人のせいにするな」と言われる。そういうことをいうやつの父親は、きちがいじゃない。普通の人だ。普通の人の基準でものを言うな!!!
それが、わかってないだけだ
きちがい兄貴の態度で、きちがいヘビメタを、あの音のでかさで、あの至近距離で鳴らされると、ほんとうに、だれもが遅刻することになるわけ。どれだけ体が丈夫な人も、どれだけ、睡眠力?がある人も、一年に20回か30回ぐらい遅刻するようになるわけ。そういうことがわかってないのは、その人たちが、ぼくとおなじ経験がないからだ。ぼくとおなじ経験がないからわからないだけなのに、「ヘビメタ騒音がいくら鳴っていたとしても、遅刻をしないことは可能だ」「ヘビメタが原因だといいわけをするな」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは、お兄さんに言えばいい(言えば解決する)」と言うわけ。ともかく、それは、その人たちの『要求』の前提になる。要求というのは、たとえば、遅刻しないことだ。たとえば、宿題をやってくることだ。こういう要求の前提には、「どれだけヘビメタ騒音が鳴っていても、要求したことをやれ」という考え方がある。ヘビメタ騒音の影響を無視するな。これ、やられてない人にどれだけ言ってもわからないと思うけど、自分の時間が、きちがいヘビメタ騒音で、「あたまえのように」「まいにちまいにち」普通に削られていくということがどういうことなのかわかないのだ。学校にいるときは、遅刻しないことや、宿題をすることだけど、大人になれば、働くことがくわわる。「どれだけヘビメタ騒音が鳴ってたって、働くことは可能だ」と、ヘビメタ騒音の経験がないやつが言うのである。それが、正しいと思って言うのである。それが道徳的に正しいと思って言うのである。彼らにとっては、「働けるのに働かないのは」悪いことなのだ。つまり、ぼくが働かないで暮らしていることは、そいつらにとって、ゆるせないことなのである。こいつらは、「どれだけヘビメタ騒音が鳴っていたって、そんなのは関係がない」「どれだけヘビメタ騒音が鳴っていた期間が長くたって、働ける」と前提してものを言う。そして、そういう「前提」があるということにすら、気がつかない。ぼくが「ヘビメタ騒音で働けない」とどれだけ言っても、そいつらにしてみれば、ぼくは「働けるのに働かない人」なのだ。そして、こいつらが、定年退職をしても、そういうことを言う権利があると思っている。自分が働いてないのに、ほかの人には「人間は働くべきだ」と言って、なにも矛盾を感じないやつら。「なんで生きているの? 人間じゃないの? 人間なら働くべきだろ。だったら、働けよ!」 と言えば、こいつらは、みんな怒る。自分が働かないのはあたりまえなのだ。どうしてかというと、歳をとったので、むかしのように働くのはできないと考えているからだ。歳をとった「ので」働けないと考えているのだ。これは、ヘビメタ騒音「で」働けないと考えているぼくと、どういうちがいがあるというのだ? 老化によって身体が思うように動かなくなった……だから、働かなくてもいいと考えている。それは、ヘビメタ騒音の連続で、身体が思うように動かなくなったから働けないと考えるのと、たいして、ちがいがない。ちがうのは、老化かヘビメタ騒音化のちがいだ。理由がちがうだけだ。そして、言っちゃ悪いけど、ヘビメタ騒音のほうが過酷だ。これ、ほんとうに、一日でもいいから、経験してほしい。きちがい家族が鳴らしているんだぞ。息を吸うように、鳴らしているんだぞ。まったく悪くないと思って鳴らしているんだぞ。息を吸ったり吐いたりするのは、まったく悪いことではないだろ。そういう感覚で、息を吸ったり吐いたりするようにヘビメタを、でかい音で鳴らしている。きちがい兄貴にとって、ヘビメタを、よその家では絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らすことが、呼吸のようなことなのだぞ。あたりまえに、やっていることなんだぞ。なんのことわりもなく、自然にやっていることなんだぞ。こっちがどれだけやめてくれといっふも、絶対にやめないでやっていることなんだぞ。そういう毎日なんだぞ。どれだけこっちが、こまっていたって、一分間だってほんとうにはゆずってくれないのだぞ。これで、腹がたたないわけがない。きちがい兄貴やられなかった常識的な人たち……働けるからだ維持できた人たち……は、かんがえちがいをしている。君たちだって、働けないからだになる。君たちだって、ヘビメタ騒音をおなじぶんだけやられたら……きちがい家族に、あたりまえのようにやられたら、働けないからだになる。それが、わかってないだけだ。
2022年11月9日水曜日
その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについて
その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なことなのかどうかについて、ちょっとだけ、書いておく。結論から言うと、その前の文脈が重要なことになるので、なんとも言えないということになる。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが男性で、Bさんが女性で、ふたりは、つきあっていた。あるとき、Bさんが慢性疲労症候群になって働けなくなった。それまで、Bさんは看護師として働いていた。Bさんが、「からだつらい」ということをAさんに言った。Aさんは、「慢性疲労症候群なんていうのは、病気のうちにはいらない」と言った。Bさんが「私がどんなにつらいか、Aさんにはわからない」と言った。そのあと、AさんがBさんに「相手が否定できないことを言うのはずるいぞ」と言った。
まあ、こういう文脈があった場合の話をしてみよう。いきなり「否定できないこと」を言ったわけではないのだ。否定できないことというのは、相手が否定できないこと、という意味だ。相手が否定できないことを言うのは、そもそも、きたないことだというのが、その人たちの主張なのである。ここでは、Aさんの主張だ。けど、文脈がある。Aさんが、さきに「Bさんのつらさ」について、否定している。話のなかでは出てこないけど、Aさんは、Bさんに対して「病気に、逃げるな」というようなことを言っているのである。まあ、そういうことを付け足したとしよう。この場合、Bさんを侮辱している……とぼくは思う。しかし、アドラー主義者は、そういうことを言って、まったく気にしない。自分が正しいと思っている。じゃあ、アドラー主義者が、おなじように……Bさんと同じ程度の慢性疲労症候群になったばあい、働けるのかというとそうではないのだ。アドラー主義者だってからだがきつくなって働けなくなる。しかし、今現在、アドラー主義者がそういうことを経験してなければ、アドラー主義者にとっては、慢性疲労症候群なるものはそういう程度のものでしかないのである。そういう認識しかない。だから、「病気に逃げている」「働きたくないから病気に逃げているだけだ」というようなことを言う。これは、ぼくの考えでは、相手を侮辱していることになる。しかし、アドラー主義者は、そういうふうには感じない。自分が正しいことを言っていると感じて、自分の発言を訂正したりしない。こういう人間が「さとる」のは自分が動けなくなってからだ。自分が働けなくなってからだ。しかし、アドラー主義者が実際にそういうふうに、働けなくなると、アドラー主義者は、適当なことを言って、間違いを認めないし、自分が病気で働けないのはあたりまえだということを言い出すのである。自分のかつての発言は気にしないのである。そういう、手前勝手なところがある。これは、「人間は働くべきだ」と言っていた人が、無職になったときにも、発揮されることだ。「自分の場合は」「あたりまえ」なのである。むかし、自分が無職にどういう発言をしたのかは、まったく問題にならないのである。これ、理論的に破綻していると思う。まあ、ぼくが、そう思うだけで、当の本人たちは、そうは思わないのである。これも、ちょっと脱線してしまうけど、言っておこう。たとえば、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということを言っている言霊主義者がいたとする。この言霊主義者が病気になった場合、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということはまちがっていたということだ。そういう現実にぶつからなければならないのである。そして、そういう現実を認めなければならないのである。『「私は病気にならない」と言えば病気になることはない』ということは、まちがっていたということを認めければならないのである。ところが認めない。これこそ、現実に立ち向かわないで、現実をごまかして認識しているということではないか? しかし、そういうふうには思わないのである。こういう人たちは、そういうふうには思わない。今度は、『「病気は治る」と言えば治る』ということを言いだす。そして、わざわざ、病院に行くのだけど、病気が治ったら『「病気は治る」と言えば治る』ということ言い出すのである。「事実だ。事実だ」という。『「病気は治る」と言えば治るということは、正しい。実際に、私の場合、病気が治った』ということを言う。「私は病気にならない」と言えば病気にならないんじゃないの? そっちは、どうなっているの?
まあ、そっちは、どうなっているの? ということを、ぼくが言ったって、言霊主義者は認めないのである。ああっ、あと、『「病気は治る」と言えば治る』のだから、病院に行く必要なんてないのである。「病気は治る」と言えば治るのだから、「病気は治る」とひとこと言えばいいだけの話だ。どうして、病院に行くの? なんで、入院するの? 病気は、治ると言えば、治るんでしょ。言えばいいじゃない。
まあ、普通の人、アドラー主義者、言霊主義者と見てきたけど……語ってきたけど……みんな、ご都合主義なんだよなぁ。自分の気持ちだけなんだよなぁ。言われた人のことをまったく考えてないんだよなぁ。
まあ、話がずれたので、話をもとにもどす。その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについては、わからないけど、前後の文脈がたいせつなのではないかということだ。これも、自分が否定できないことを言われたということだけを問題にしているんだよ。「否定できないこと」を言うのは、ずるいというようなことを言う人は、自分が否定できないことを相手が言ったということをだけを問題にしている。そのまえに、「慢性疲労症候群なんてたいしたことがないから、Bさんは働けるのに、働こうとしない。病気に逃げている」ということを言っている。だから、Bさんが「あなたに、私のからだのことがわかるのか」ということを言っているわけでしょ。ぜんぜん、きたくない。卑怯じゃない。むしろ、Aさんが、そういう決めつけをするのがよくない。かってに、「慢性疲労症候群なんてものはたいしたことじゃない」「慢性疲労症候群でも働ける」「慢性疲労症候群でも働けるのに、働かないのは、けしからんことだ」ということを言っている。「検査で正常なら、病気じゃない。病気じゃないなら働ける」と、勝手に、思っている。検査というのは、完全じゃないのである。その検査は、その検査でしかないのである。こういうことがわかってない。普通の検査だと、毛細血管のつまりぐあいはわからない。毛細血管のつまりぐあいを問題にしないなら、正常だということを言っているだけなのである。レントゲンとか、普通の血液検査では、毛細血管のつまりぐあいはわからない。けど、毛細血管がつまってしまうと、「だるい」とか「しんどい」という主観的な認識が発生するのである。毛細血管のつまりぐあいを調べるにはDダイマーという検査をしなければならないのである。だから、検査をしたと言っても、抜けている検査があるかもしれないので、普通の検査をして正常なら(広い意味で)病気ではないとは言えないのだ。
さきに攻撃を加えておいて、『 その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯だ』と言い出すやつが卑怯者なのである。
ヘビメタ騒音が生活のすべてなんだよ。かたときも、はなれないんだよ。
ヘビメタ騒音なしで、あの子と仲良く、暮らしたかったなぁー。あの子と仲良くーー。きちがいヘビメタ騒音なしで……。あっちから言ってきたとしても、ヘビメタ騒音が鳴っていたら、だめなんだよ。「ヘビメタ騒音が鳴っていたら、だめなんだよ」とぼくが言っても、ぼく以外の人は、そういうふうに考えない。「騒音と女の子とつきあうことは、関係がない」とか言い出す。ヘビメタ騒音が生活のすべてなんだよ。かたときも、はなれないんだよ。
ほんとうに、どれだけ言っても、(きちがい兄貴は)やめてくれなかった。どれだけ言っても、やめてくれなかった。一分間だって、しずかにしてくれなかった。きちがい親父とおなじように、「ゆうずう」がきかないのである。たとえ、一分間だって、自分が、「がまんする」のはいやなのである。自分が我慢しないで「しずかにしてやる」という意地悪をする。しかも、ほんとうに、それでいいと思っている。意地悪だとは考えてない。けど、きちがい兄貴だって、きちがい親父に「そういうこと」をやられれば、腹をたてるんだよ。そして、一分間でも、しずかにさせられたら、腹がたつんだよ。きちがい兄貴が、やってやりたいことを、やらされたら、きちがい兄貴は、猛烈に腹をたてるんだよ。これは、殺すとか、殺されるとかという問題だ。どうでもいいもんだいじゃないのである。たとえ、一分間だろうが、いのちがかかっている。そういう問題だ。意地がかかっているのである。やったから……やり続けることができたから……押し通してやれたから……本人はそれを感じないだけだ。こっちがその状態をひっくり返すには、殺さなければならないのである。これは、大げさなことじゃない。事実だ。ほんとうはそういうことなのである。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、ほんとうはそういうことだ。きちがい兄貴がきちがいで、自分の意地をとおしたから、そういう問題だと思ってないだけだ。けど、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父も、この問題にまったく関係がないほかの人も、そういう問題だとは思ってないのである。たとえば、佐藤はそういう問題だと思ってない。
あの子だって、最初のうちは、理解をしめすかもしれないけど、そのうちに、親友みたいに「ちゃんとしてくれ」と言い出すかもしれない。それがいやなんだよ。もーーれつに、いやなの。
まあ、そういうことが関係なにしろ、どうなるかわからないことであるにしろ、ヘビメタが鳴ってたんだよ。あの子にあったとき、ヘビメタが鳴っている期間中だったの。現在進行形で、毎日、鳴ってたんだよ。きちがい兄貴を殺さないと一分間だって静かにさせることができない状態で暮らしていたんだよ。精神的、よゆうなんて、あるわけが、ない。そんなのは、あるわけがない。
ヘビメタは、すさまじく、すべてが暗黒世界にかわってしまったよ。
きちがい兄貴のヘビメタにやられていないやつ……きちがい兄貴が横に住んでいなかったやつは、ヘビメタ騒音の過酷さがわかってない。どういう生活になるか、わかってない。不可避的に、ボロボロになる。わかってない。わかってない。わかってないところで、えらそうなことを言う。おまえがその口で言うな!! おまえが!!! ただたんに、きちがい家族がいなかっただけ。ただたんに、きちがい家族がきちがいヘビメタに夢中になって、がんがん鳴らさなかっただけ。それだけなんだよ。
2022年11月8日火曜日
それと「人間は働くべきだ」という考え方は、どういうふうに両立するんだよ?
やっと、頭が普通の状態になった。まあ、普通の状態と言っても、つかれている状態ではある。どうしてかと言うと、長期騒音で常に、つかれている状態になってしまったからだ。「どうしてかと言うと」と書くか「どうしてかというと」と書くか、まようんだよな。統一性を保つには、じつは「どうしてかと言うと」のほうがよいのだけど、この場合「言うと」は見た感じ、しつこい。抵抗がある。抵抗を感じる。やっぱり、「どうしてかというと」だよな。けど、「厳密に言うと」という場合は、「厳密に言うと」と書いたほうがいい感じがする。どうするかな?
あとは、また、「君じゃなくて、彼だよ」と書こうとして、「君じゃなくて、彼だよ」と書いた場合、 その人(君)が傷つくと思って、書かなかったんだよな。そうしたら、いろいろと誤解をうんで、俺が、ほかの人から猛烈に恨まれることになった。あれは、誤解なんだよ。気にしちゃったから、書かなかっただけ。けど、その人たち……(対象になっている人たちで、ここでは書いてないので、だれのことだかわからないだろうけど)……その人たちのことを侮辱するつもりはなかった。けど、その人たちは、侮辱されたと思っているんだよね。まあ、しかたがないかな。
けど、この話とは関係がないのだけど、ほかの人が、ぼくのことを侮辱することがあるんだよ。それは、偏見に基づいて侮辱してくるわけ。たとえば、「無職はけしからん」と思っている人は、無職を侮辱するわけでしょ。ごく自然に……。ぼくは無職期間が長かったので、無職だということで、侮辱されたことが何回かある。それは、やはり、そいつらが悪いのだと思う。だれだって、あのヘビメタ騒音にさらされれば、通勤して働くことができなくなる。不可避的にそうなる。ただ単に、その人たちがそういうことを経験してないから、通勤して働くことができた。そういうことをもたらす家族……きちがい的な意地で騒音を出し続ける家族……と……いっしょに……住んでいたことがないから、無職にならなかっただけだ。通勤できる体力を保持していただけだ。その時点で……。この人たちだって、毒注射で、通勤できなくなれば、やがては、無職になるんだよ。まあ、いまは、ネット回線をとおして働くということが、わりと一般的になっているから、通勤ができないということが、そのまま、働けないということにはならないのだけど、当時は、通勤ができないということは、働けないということを意味していたんだよ。当時だって、資本家や特別なコネをもっている人は、(通勤せずに)働くことができたかもしれないけど、それは、例外中の例外で、ぼくには当てはまらなかった。けど、当時ぼくのことを、無職だということでばかにした人たちは、ぼくのように、気にするだろうかということだ? 気にしないだろ。そして、自分が働けなくなったあとも、自分がかつてほかの人……つまり、エイリ……を、働けないということで侮辱したということを気にしないだろう。自分が働けなくなったら、そんなことは気にしないのだから。自分が働けないのは当然だから、無職は悪いことではないということになってしまう。自分にとって働けないということが当然なので、そんなのは、当然の結果だということになる。それが、ぼくの場合、ヘビメタ騒音で成り立っていたんだよ。だから、「ヘビメタ騒音で働けない」と言ったんだよ。それを、無視したのは、当時、えらそうなことを言ってきたやつらだ。こいつらは、自分が働けないからだになれば、自分が働けないのは当然だから、無職は悪くないと思ってしまうのだ。もちろん「自分が無職なのは、悪いことではない」と思ってしまう。「しかたがないことだ」ということになる。……その人のなかで……。ぼくも、「しかたがないことだ」ということになってたんだよ。どうして、それがわからないのか? 自分はいつまでも働けるつもりなのか? 無職になったら無職なんだよ。むかし働いていたから、俺は、無職になっても無職じゃない」と自然に思い込んでいる。「そんなのはしかたがないこと」だからだ。自分には「人間は働くべきだ」とか「人間は働くべきだから、働かないなんていうのは、あまえだ」と言わない。思わない。自分が無職なのはあたりまえ。働いたから、無職でもかまわない。それと「人間は働くべきだ」という考え方は、どういうふうに両立するんだよ? こういうレベルんだよ。「人間は働くべきだ」なんてえらそうに言っていたやつは、こういうレベル。こういうレベルのやつが、ニートや無職をせめる。「人間は働くべきなのに、働いてないのは、けしからん」……自分が働いているときは、普通にそう思っている。けど、自分が働けなくなっても、自分が働けなくなった理由が、自分にとって明確なら、「人間は働くべきなのに、働いてないのは、けしからん」……ということが、自分の身の上だけには、適応されない。適応されなくて、当然だと思っている。そういう深い深い、誤謬のなかで住んでいる。そういうレベルの人間。そういうレベルの思い込み。そういうやつは、俺を侮辱したということを、忘れてしまう。そういうやつは、俺が無職だということで、……そういう理由で……俺を侮辱したことを忘れてしまう。そういうやつに、……そういうやつが、脳梗塞だか認知症だか慢性疲労症候群だか知らないけど、ともかく働けなくなったとき……そいつの枕元に行って「人間は働くべきなのに、働かないのはけしからん。みんな、働いている。自分だけ働けないなんていうのは、あまえだ」と言ったら、どういう顔をするのだろうか。そいつらは、そういうことを、されてしかるべき存在だ。もし、そういうことが、「ひどいこと」であるなら、当時、ヘビメタ騒音『で』働けなくなった俺に、「人間は働くべきなのに、働かないのはけしからん。みんな、働いている。自分だけ働けないなんていうのは、あまえだ」と言ったやつらは、「ひどいことをした」ということになる。けど、そういうやつらは、一切合切、そんなことは考えないで、死んでいく。
みんな、ちょっと、ニートや無職の人に自分がどういう感情をもって、どういうことを言ってしまったかということについて考えたほうがいいよ。どうせ、いつかは働けなくなるのだから……。
2022年11月5日土曜日
インチキ構造がある
これ、ほんとうに、ほかの人の人生で発生した場合も、おなじことになると思う。これ、ようするに、「うちの兄貴」みたいな人が、いないのである。「うちの兄貴」だから、きちがいヘビメタにこだわって、こだわって、よその家じゃ一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らすことに、こだわってこだわって、鳴らして、それを無視したのだ。一切合切無視。本人のなかでは、「そんなことはしない」ということになっている。きちがい兄貴のなかで、そういう「統一見解」ができている。無意識的な兄貴も、普通の言葉で言えば、意識的な兄貴も、『そんなことはしてない』『でかい音で鳴らしてない』という統一見解を採用しているのである。頭にくる。そういう、インチキ構造がある。きちがい構造がある。普通の人であれば、そういうことは、できないのである。どうしてかというと、自分が「でかい音で鳴らしている」ということを知っているから。あのでかい音で鳴らしたら、どれだけうそをつく人でも、「でかい音で鳴らしている」という基本的な認知は成り立つ。ところが、うちの兄貴においては、そういう認知が成り立たないのだ。これは、きちがい親父のやり方とおなじなのである。だから、兄貴も親父も、きちがい的な意地で、こだわってこだわってこだわって、やったことは、きちがい的な意地で、否定するのである。それが、普通の状態なのである。きちがいの頭を搭載しているから……きちがい兄貴もきちがい親父もきちがいの頭を搭載しているから……二十四時間中二十四時間、ずっと、そういう状態なのだ。それが、普通の状態なのだ。そうでない状態がないのだ。普通の人のように、意地になってやったことは、意地になってやったことだと認識できる状態が、ない。二十四時間中、二十四時間、ない。そういう毎日が十年続けば、十年間ずっと毎日、そうしていたのに、一日もそんなことをしたことがないと……思っている状態が続いてしまうのである。こういう、くさった状態。これが、どれだけこまることか、わかってない。よその人はよその人で、こういう家族がいるということが、わかってないので、こういう家族がやることで、こまったことがないのだ。継続的に毎日ずっとこまったことがない。相手がいつもそういう状態なので、一日のなかで、何時間も何時間も、こまらされるのである。けど、相手の頭がそういう状態だから……こまらされたことがない人は、それがわからない。自分の体験としてはわからない。実際やられたことがないので、それが「つもったばあい」のこともわからない。ひとごとだ。自分のことでなければわからない。だから、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば楽しくなる」と言ってくる。「過去のことは関係がない」と言ってくる。「人のせいにしたってしかたがない」と言ってくる。「(生まれるまえに)たましいが、どんな家に生まれるか選んだ」と言ってくる。「ほんとうにつまらないやつは、つまらないつまらないと言っているやつだ」と言ってくる。自分は楽しめる……エイリは楽しめない。自分は楽しめるので、楽しめないエイリよりも、すぐれている……。もし、自分がそういうことを経験したとしても、自分なら、楽しめる状態を維持している(はずだ)。けど、エイリは、自分より優れていないので、楽しめる状態を維持できてない。どうしてかというと、エイリがそういうことにこだわる性格だからだ。どうしてかと言うと、エイリが能力的に劣っているので、そういう状態になるからだ。自分が楽しめるということは、それを物語っている。エイリが楽しめないということはそれを物語っている……。そういうふうに思ってしまう。屈辱!
2022年11月4日金曜日
ヘビメタ騒音で、カフェ巡りなんてない。カフェも旅行も楽しくない。楽しくない。
けど、まあ、残念なことに、ワクチンのなかには、いろいろとはいっていて、シェディング(トランスミッション)もあるので、あんまり、人がいるところには行きたくない。とくに、食べ物や飲み物を扱っているところには行きたくない。どうしたって、食べ物や飲み物に入っている。問題なのは、トランスミッションで出てくるものだけではなくて、ナノレベルの寄生虫だ。これも、打った人は「うそだ」「デマだ」と言って信用しないけど、入ってます。
それに、ヘビメタ騒音でうちのめされたので、たとえば、カフェを楽しむということができなくなっている。これは、致命的だ。旅行も楽しめない。旅に出て?旅先の?カフェに入って、コーヒーを楽しむなんてことは、できないのだ。物理的にはできるけど、ぼくの精神がそれを許さない。というか、ともかく、ほんとうは、人生のなかでヘビメタ騒音がなければ……家族によるヘビメタ騒音がなければ、カフェを楽しむことができた。旅行を楽しむことができた。そういうことが、すべて、なくなってしまった。そして、これが、ぼくにだけにしか、わからないことなのである。ほかの人は、あのきちがいヘビメタ騒音を経験してない。なので、きちがいヘビメタ騒音の話を聞いたあとも、きちがいヘビメタ騒音の『影響』を無視してしまう。だから、ヘビメタ騒音があったにしろ、そんなのは関係がないという前提で、楽しむことをすすめる。すすめてくる。これに関して言うと……なんて言うのか??……自分は可能な状態なんだよね。楽しめる状態……。ヘビメタ騒音に相応する騒音が人生のなかで発生しなかった人……。発生しなかった人の基準……感覚。
2022年11月3日木曜日
どっちが悪いことをしているのかについては、普通の親にとっては明白なこと
俺、よく生きてるなぁ。よく生きている。これ、ほんとうに、家族の騒音問題ってほかの人にとっては、「片づきやすい問題」に見えるのである。そんなに深刻な問題に見えないのである。それは、「言えば」しずかにしてくれるからだ。どれだけけんかしても、四日ぐらいでかたがつくはずだ。だいたい、どっちが『きちがい的にうるさい音で鳴らしているか』は、親にとって明白なことなので、親が、『きちがい的にうるさい音で鳴らている』側につくということはない。ところが、きちがい的な父親ときちがい的な兄貴なので、そうなって知ってしまうのである。母親の言うことは、きちがい親父も、きちがい的な兄貴も、どっちも聞かない。この「聞かない態度」がそもそも、きちがい的なのである。そして、「聞かなかった」という認知がしょうじないというところも、きちがい親父ときちがい兄貴でおなじなのである。認知に関して、きちがい親父ときちがい兄貴がおなじ問題をかかえている……こういうことが、ほかの人には見えない。きちがい親父の問題も、きちがい兄貴の問題も、ほかの人にはないのである。どうしてかというと、うちのきちがい親父のように、きちがい的である人が、父親のなかにいないから。よその家は、きちがい親父とおなじように認知の問題がある父親がいないのである。ぼく以外のだれも、「うちのきちがい親父のように狂っている父親」がやることを経験してないのである。だから、「けんとうはずれ」なことを言いやがるのである。まったくおなじことが、きちがい兄貴の問題にも成り立つ。
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親父(おやじ)と読む
毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/
ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。
自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。
●ヘビメタ騒音というのは
ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。
あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。
俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る
日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!
「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!
各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。
ぼくはまけない
「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。
サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。
認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。
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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。
過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。
用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。