別に、せめるつもりはないけど、ちょっとだけ、仮面うつ病とうつ病について、語っておく。「会社に行こうとすると憂鬱になる」人がいるとする。けど、「会社に行こうとすると憂鬱になる人たち」のなかには、ふたつのタイプがある。ひとつは「会社に行こうとすると、憂鬱になるけど、遊びに行く場合は憂鬱ではない」タイプだ。もうひとつは「会社に行こうとすると、憂鬱になるし、遊びに行こうとしても憂鬱になる」タイプだ。このふたつは、ぜんぜんちがう。ちがうけど、「しんどい」とか「死にたい」とかという表現はおなじなのだ。「つらい」とか「憂鬱だ」とかという表現もおなじだ。だから、外から見ると、言っていることだけでは、だれがどっちのタイプなのかわからないのだ。
「会社に行こうとすると、憂鬱になるけど、遊びに行く場合は憂鬱ではない」タイプも会社に行く前は「死にたくなるほど憂鬱になる」のだ。これは、嘘ではない。嘘ではないのだけど、その人たちの全体的な状態というのは、やはり、ちがうと思うんだよな。会社に行くときは、憂鬱だけど、遊びに行くときは元気だという人たちは、会社に行くときも憂鬱だし、遊びに行くときも憂鬱だという人たちとはちがうと思う。まあ、遊びに行くことが、そもそもできないのだけどね。
会社に行くときは憂鬱だけど、遊びに行くときは楽しいという人を、「鬱楽」タイプと言っておこう。そして、会社に行くときも憂鬱だけど、遊びに行くときも憂鬱だというタイプを、「鬱鬱」タイプと言っておこう。どっちも、会社に行く前は「死にたくなるほど憂鬱」と言葉で言うけど、「憂鬱」の度合いや質に、ちがいがあるのではないかということだ。まあ、会社に行く前の憂鬱に関して言えば、「鬱楽」タイプも「鬱鬱」タイプもおなじだと言う人たちもいるんだよな。どっちが正しいのかな? ぼくは、会社に行く前の憂鬱に関しても「鬱楽」タイプと「憂鬱」タイプの「憂鬱さ」はちがうんじゃないかなと思う。どうしてかと言うと、全体的なダウンの質は、部分的なダウンの質にも影響をあたえているのではないかと思うからだ。なにか、行動を起こそうとするときの「体力的な」状態があきらかにちがうと思う。
で、まあ、もう一つの結論を言ってしまうと、「鬱楽」タイプの人は、会社に行かなければいいのである。それで、問題解決。一丁あがり。「鬱楽」タイプが会社に行かなくても、生活費を稼げるような状態にすればいいのである。社会全体が、楽な仕事を提供すればよいのである。逆に言えば、「普通の会社」による仕事の提供は、不効率でまちがっているということだ。効率を持ち出すならそうなる。会社で仕事をする場合の「いやな部分」というのを、どんどん、けずっていけばよいのである。口を開けば「効率」「効率」というの人が、どうして、「いやな部分」の不効率については、口を閉じているのか? まあ、この人たちは、ほかの人に「いやな部分」をおしつけることで、会社の利益をあげていると思っている人たちなんだよな。けど、それは、もう、おしまいだ。そういうしくみ全体が機能しなくなっている。
しかし、問題なのは「鬱鬱」タイプだ。どれだけ、仕事が楽になっても、このタイプは憂鬱なままだ。「遊ぶ金を用意したから遊んでくれ」と言われても、憂鬱なままだ。人間として根本的な部分が破損している。
まあ、ぼくの場合は、きちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音の繰り返しで破損した。これ、ちがうのである。
きちがい親父による、いろいろに関しては省略するけど、影響をあたえている。