繊細な人は、普通の人よりもずっとずっと、人に親切だ。特に、きちがい的な親にやられてきた人は、基本的に、親切なのである。その親切な人が、過剰に(ほかの人に)親切にしようとすると、問題がしょうじる場合がある。
というか、繊細な人は、普段でも、普通の人よりは過剰に親切なので、その繊細な人が、意図的に親切にしようとすると、トラブルが生じる可能性がある。
そもそも、「親切にする」「人に親切にする」というような抽象的な表現をしてしまうことに問題がある。細かいことで、怒り狂われてきた人間は、細かいことを気にする。ほかの人の気持ちを、普通の人よりも、細かい範囲で、敏感に気にしている。そういう人が、もっともっと、過剰に、人に親切しようとしたらどうなるか?
トラブルがしょうじるのである。
手短に言うと、人のことなんてまったく気にしない人と、人のことをけっこう過剰に気にしている人とおなじアドバイスをしたらどうなるかということに気がついてないのである。さらに、「親切にする」ということの内容がどうなのかということなのである。
人それぞれに、親切にするということの内容がちがいすぎるのである。
「ちょっとした親切」ということを、簡単に書くけど、「ちょっとした親切」の内容がちがうのだから、結果が同じになるとは思えない。
たとえば、Aさんが親切にしてやろうと思った内容と、Bさんが親切にしてやろうと思った内容がちがうとする。その場合、Aさんが、Bさんに親切にしてやろうとして親切にしたにもかかわらず、Bさんは、よけいなことをされたと考える場合がある。意図的に親切にしようとすることは、普段よりも過剰に親切にしようとすることを意味するのである。
なので、「親切」の内容が、より、「おせっかい」な方向にシフトしてしまう確率が高い。
ともかく、「人に親切にすればよい」というような一見、よさそうなアドバイスは。じつは、トラブルを引き起こす回数を多くする確率が高い。
そもそも、人の性格を考えないで……つまり、性格の差異を考えないで、一律に「親切にすればいい」というようなアドバイスをするということ自体が、ナンセンスなのである。
気にする人は、よけいに気にしてしまうだろ。ほかの人の気持ちがわからない人は、本人にとって、やってやりたいことを、過剰に人にやってやりたくなるだろ。そうすると、トラブルがしょうじる確率が高くなるのである。
それから、親切の「恒常性」ということを考えると、親切にしてやる回数が増えると、相手は、親切にされたと感じなくなる傾向がある。「あたりまえ」になってしまうのである。「あの人が、これをやるのはあたりまえだ」というような感覚が育ってくる。
サービス残業だってそうだろう。最初は「困っている人がいるから、親切で手伝ってあげただけ」なのかもしれない。けど、毎回やっていると、「サービス残業をするのが当たり前」になってしまう。最初は、感謝していた「困っていた人」だって、何回もやってもらっているうちに「やってもらうのが当たり前」になってしまう。こういう傾向もある。
その場合、「親切にすれば、しあわせになる」とは言えない。「親切にしたぶんだけ、疲労が増える」という場合だってある。
ともかく、人格を無視した、抽象的なアドバイスというのは、まったく意味がない場合が多い。逆に、人格を無視しているアドバイスなので、個々の人格の差を吸収しきれずに、トラブルをうむ場合が多い。
それから言ってしまうと、「親切にしたほうがいい」というような考え方は、いきわたっているのである。
すでに、いきわたっている。小さいときから、親に何回か言われているはずだ。
常識的なアドバイスであり、なおかつ、抽象度が高いアドバイスは、その人ができる範囲では、すでに「おわこなわれている」可能性がある。
つまり、普段からそうしているのだから……その人ができる範囲でそうしているのだから……「幸福になるために」「人に親切にする」というような意識をもった場合、その人がおこなう親切は過剰な親切になってしまう場合があると思う。思うだけけどな。
ところで、キミたちは「小さな親切、大きなお世話」という言葉を知っているかい?
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「人に親切にすると(自分が)しあわせになるから、人に親切にしよう」という気持は「過剰な親切」をうみだす確率が高い。
親切にされたと思うかどうかは、親切にされた側が決めることであって、親切にする側が決めることではない。
親切にする側が「親切にするつもりでやった行為」がいつも、親切にされる側にとって「よいこと」であるとは限らない。
普通の人は、普通に親切にしているわけで、「まるまるのために親切にしよう」と思った場合の親切は、過剰な親切になりがちだ。
普通の人は、普通に親切にしていると言ったけど、その人が感じる範囲で普通に親切にしているということだ。これ、「親切にする」と抽象的に言っているけど、具体的な内容は、その場の状況によって変わってくる。その場の状況を判断しているのはその人であり、すでに善悪の判断基準がその人のなかにある。具体的には、「客観的な状況」「(行為者側の)主観的な状況認知」「(行為者側の)すでにある善悪の判断基準」「(被・行為者側の)主観的な状況認知」「(被・行為者側の)すである善悪の判断基準」が複雑に絡み合って、「親切にする」という行為が成り立っているのである。そして、「親切にする」という行為自体が成り立つ場合というのは、被・行為者側の人が、主観的に「親切にされた」と感じる場合だけなのである。ようするに、「親切な行為」というのが客観的にまっているわけではないのである。
「繊細な人」は普段から、人に親切だ。
「細かいことで怒り狂う親に育てられた子供」は、普段から、人の気持ちを気にしている。人の気持ちを気にして、普通に親切にしている。
親切にする度合いと、長期的な幸福感の度合いは一致しない場合がある。
人に親切にする人は幸福だという考え方はまちがっている。どうしてなら、人に親切にしているにもかかわらず不幸な人がいるからだ。
人に親切にした回数と、人の幸福度が一致しているという考え方はまちがいだ。そして、不幸な人は、人に親切にした回数が少ないと考えるのもまちがいだ。そして、幸福人は、人に親切にした回数が多いと考えるのもまちがいだ。そして、この考え方は、不幸な人をより不幸にしている。すでに不幸な人を悪く言うような、まちがった考えたを流布するのは、よくないことだ。
意識的な意志をもった人が「幸福だ」と言ったとしても、その人が幸福であるかどうかどうかは、わからない。「自分は幸福だ」と、死にたい気分で暮らしている人が言うことだってある。そりゃ、言うのは、自由だ。口があって、普通に日本語がしゃべれるのであれば、自分の気持ちとは一致してないことだって、言うことができる。「自分は幸福だ」と言った人が、ほんとうに、「自分は幸福だ」と感じているかどうかはわからない。強がって?「(自分は)幸福だ」と言った人は、「幸福だ(と感じている)」と客観的にカウントするのは、問題がある。
じつは、「自分は幸福だ」と感じられるかどうかは、「生まれの格差」が影響していると思う。「生まれの格差」が一番大きな要因だ。他人に親切にしたと思った回数と「幸福度」は一致しない。この場合の幸福度というのは、人生という長い期間を考えた場合の「幸福度」だ。
自分は恵まれていないと考えているのに幸福だろうか?
きちがい的な親のもとに生まれたというハンディが、人生的な意味での幸福度に影響をあたえないとは思えない。生まれの格差は、人生的な意味での幸福度に影響をあたえる。一番、影響をあたえる。一番影響をあたえる要素だ。この一番、影響をあたえる要素を無視して、ただ単に、「人に親切にした(と自分が思っている回数)と人生的な幸福感が一致している(あるいは、「人に親切にした(と自分が思っている回数)と人生的な幸福感は、基本的に正比例している」と考えるのはまちがっている。
いろいろな宗教団体の講話のなかにも、「人に親切にしたら、しあわせになった」というような話が、あるはずだ。そういう逸話のようなものが、テキストのようなものにのっているはずだ。これは、けっこう、いろいろな宗教(団体)で言われていることだと思う。しかし、そういうことを実践している宗教関係の人があんまりしあわせになっているようには思えない。もちろん、ぼくが「思えない」だけなんだけど……。特に、下っ端の人は、実践することで、不幸になっていると(ぼくは主観的に)思う。実践というのは、そういう考えを実践するということだ。壺を売ることだって、その人たちにしてみれば、親切行為のつもりかもしれないのである。壺を買った人がしあわせになることは、その人の頭のなかでは確定しているので、善行をなしているということになる。人に親切にしているということになる。