楽しみ、うんぬんについて言うと、意識的な意志とは関係がないところに、正体がひそんでいる。なので、楽しんだほうが得だから楽しむということは、できない。けど、「楽しんだほうが得だから楽しむ」という意識的な意志をもって、楽しむ人もいるだろう。矛盾しているじゃないか」って? 矛盾してない。ぜんぜんしてない。
「楽しんだほうが得だから楽しむ」という意識的な意志をもって、楽しもうとして、楽しめる人は、条件を満たしているのだ。条件を満たしているのかどうかということが重要だ。条件を満たしていなければ、「楽しんだほうが得だから楽しむ」という意識的な意志をもって、楽しむということはできない。こういう条件に関して、鈍感な人たちがいる。たしかに、その条件は目には見えないし、主観的なものだというベールをかぶっている。しかし、条件はある。楽しめなくなる人は、楽しめなくなるような経験がたくさんある。本人が、どういうふうに、主観的にそれらの出来事を理解しているかどうかは関係なく、それらの出来事が、楽しめるかどうかを決めてしまう。様々な出来事がつみかさなって、「楽しめなくなっている人」は楽しめない。どれだけ、意識的な意志をもって、楽しもうとしても、楽しめない。そういう人の場合、楽しめないのだから、「楽しんだほうが得だから楽しむ」ということは、まったく意味をなさない。
わかるかな?
法則的なことを言うのは、よくないと思う。法則じゃないのだから。条件を無視して「人間ならこうだ」と言ってしまう。これは、よくない。だいたい、「楽しんだほうが得だから楽しむ」と思って楽しんでいる?人は、楽しんでいない人たちのことを軽蔑する。どうしてかというと、「損得」がわからないようなバカなやつだと思うからだ。「楽しんだほうが得だから楽しむ」と言っている人たちは「効率」を問題にしている。「効率主義」なのである。なので、効率的にまさっているということがわかっているのに、効率的まさっていることをしないという選択をする人が、バカに見えるのである。「楽しんだほうが得だから楽しむ」人から見ると、効率的な問題がわかるなら、効率的に言って、楽しむことを選択するはずなのである。「その単純なことがわからないのはばかだ」という見なし方をするようになる。
けど、この効率主義には問題がある。楽しめない人たちがかかえている条件をガン無視しているのだ。楽しめない人たちがかかえている、過去の出来事と、過去の出来事の影響を無視している。「こういうふう思おうと思えば、思えるはずなのだ。しかし、そういうふう思わず、非効率的なことにこだわっているのは、バカだ」と思ってしまうのだ。バカはどっちか? 範囲を狭めて、その狭い範囲のなかでしか思考しないやつがバカだ。そして、その狭い範囲から、広い範囲を見ることができない。狭くて、低い視点からしか、物事を見ることができない。範囲が狭いから、そう確信しているだけなのに、自分は、「全体」を考えていると思っている。たとえば、「人間全体」を考えていると思っている。「こころの全体」を考えていると思っている。「脳みその全体」を考えていると思っている。だから、バカだ。
損得勘定では、制御できないから、こまっているのに、「全部のことが損得勘定で制御できる」と思ってるのだ。それは、経験が少ないからそう思えるだけだ。たまたま、ラッキーな場所に生まれて、すごしてきたから、そう思えるだけのことだ。