毎日のしんどさをほんとうに経験したわけじゃないのだから、わかるわけがない。たとえば、「休みの日は、ヘビメタ騒音が十三時間鳴っていた」とぼくが言ったって、あのヘビメタ騒音が十三時間鳴っている、休みの日がどういうものか、経験したことがない人にはわからない。一倍速で、経験してみろ。「休みの日は、ヘビメタ騒音が十三時間鳴っていた」と三秒で言える。そして、「意味」はつたわる。「意味だけ」はつたわるのだ。文章の意味はつたわる。けど、十三時間鳴っていた場合の、つかれなんてわからない。一倍速で、経験したわけではない、怒りややるせなさなんてわからない。きちがい兄貴の部屋に行って、「こまるからやめろ。勉強するからやめろ」「うるさいからやめろ」とどれだけ言ったって、きちがい兄貴が、無視して鳴らしているときの腹立たしさなんて、つたわらない。ヘビメタが鳴り終わったあと、やらなければならない宿題がまだ残っているときの、むなしさなんて、つたわらない。宿題をしてないけど、眠るしかないと思ったときの、やるせなさがわかるわけがない。そして、眠ろうとしても眠れないときのつらさがわかるわけじゃない。これ、眠れないんだよ。じゃあ、起きて、宿題をしようとしても、できない。脳みその九十九%は、眠ろうとしているのだけど、脳みその一%が、猛烈に反発している状態だ。使い物にならない状態なんだけど、けど、じゃあ、眠れるのかというと、まったく眠れないという異常な状態だ。気を失いかけているのに、どうしても、あとひとつ……一%の脳みそが猛烈に反対している状態だ。ヘビメタ騒音がなかった期間は、そんなことはない。ようするに、十一歳の十月まで、そういう、頭の状態になったことがないのである。特殊な状態なのである。きちがい家族がやる、きちがい的な騒音によってもたらされた「特殊な状態」なのである。こんなの、ほかの人にわかるわけがない。しかも、あびてしまったら、そうなるのである。意志でどうすることもできない。きちがい家族の、特殊な騒音を、あびてない人は、普通の生活ができるので「意志の力」を普通に信頼できるのである。これは、ぼくが、十一歳までは、信じられたことだけど、ヘビメタ騒音がはじまってから「意志の力でどうにでもできる」あるいは「意志の力でどうにかできる」というのは、まったくの嘘だということに気がついた。ほかの人が、意志の力を信じることができるのは、きちがい家族によるきちがい騒音を、十数年間、毎日、経験しなかったから……。ほんとうに、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音を経験すると、「眠れなくなる」のである。それ自体が、「意志の力ではどうすることもできない」ということの証明なのである。もちろん、ぼくにとって証明だけど……。「そんなことがあるわけないだろ」と思う。「意志の力で、どれだけ、ヘビメタ騒音を浴びせられても、ヘビメタ騒音が鳴り終われば眠れる」……そんなわけがないだろ。そんなわけがない。けど、それは、きちがい的な態度で鳴らし続ける、きちがい的な感覚をもった、きちがい的な家族がいない人には、わからない。実際にそういうことが続かなければ、わからない。わからない。わからない。わからない。わからないとなったら、それは、その人にとって「事実」じゃないのである。「真実」じゃないのである。エイリさんが言っているだけのことなのだ……。その人にとっては……。こんなのはない。ここからして、「誤解」だ。こんなのはない。つかれとか、眠れないとか、そういうことの意味がちがってしまうのである。ぼくだって、きちがい親父にやられながらも、十一歳の九月までは、ヘビメタ騒音なしですごしたので、そういう日常生活における「眠れない体験」がある。けど、それはちがう。ヘビメタ騒音がはじまってからの「眠れない体験」はちがう。ぜんぜん、ちがう。ちがうのだけど、ほかの人にはまったくわからない。だいたい、ほかの人は、ぼくの人生についてそんなに興味がない。なので、その人が持っている「感覚」で「話」を判断する。「他人の話」を判断する。その判断の基準になるのが、自分の経験だ。きちがいヘビメタ騒音にやられた続けたことがない人が、わかるわけがない。あの状態についてわかるわけがない。あの状態が「次の日」にあたえる影響なんてわかるわけがない。みんな、わからないまま、勝手に自分の感覚で判断して、決めつける。「そんなのは、たいしたことじゃない」『影響をうけないという強い意志をもてば影響をうけない」「影響をうけないと言えば、影響をうけない」……などなど。
ふざけんな! 毎日!! なんだぞ!!
毎日!毎日!毎日!
影響がないわけがないだろ。