ほかの人には、一倍速で経験した、ヘビメタ騒音の経験がないんだよな。あれがどれだけやっかいなものかわかってない。だから、ヘビメタ騒音の効果を過小評価する。
もし、自分が、おなじ音にさらされたら……おなじ音にさらされて一年間生活したら……わかるのに、そういう経験がないからわからない。
わからないところで、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、まとはずれなことを言ってくる。けど、そのまとはずれなことというのは、その人にとっては大切なことなのである。たとえば、言霊主義者にとって、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなことは、たいせつなことなのである。
どうしてかと言うと、言霊主義者だからだ。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなこと言ってくるわけだけど、「楽しい楽しいと」とどれだけ言っても、楽しくならないので、「楽しい楽しいとどれだけ言っても楽しくならない」というようなことを、言わざるをえない。
これで、言霊主義者の主張にあわせると、問題がしょうじる。
問題がしょうじるんだよ。
「そうですねぇ」と、いちおう同意したとしよう。そして、ぼくが「楽しい楽しい」と言わずに「楽しくならなかった」としよう。その場合、努力をしないと、それを、せめられる。「楽しい楽しいと言えば楽しくなるのだから、言えばいいだろ」というようなことを言われる。「楽しい楽しいと言えば楽しくなるのだから、楽しいと言えばいいのに、そういう努力をしないからダメなんだ」というようなことを言われる。めんどうくさい。
きちがいヘビメタ騒音のなかで「楽しい楽しい」と言っているときの、破滅的な気分がわかるか? ヘビメタ騒音が終わって、眠れなくなっているときに、「楽しい楽しい」と言っているときの破滅的な気分がわかるか? 「もう、自殺するしかない」というような気分なんだぞ。
楽しいわけがないだろ。楽しくない。どれだけ言っても、楽しくない。
逆に、そういうきちがい騒音なかで、自分の気持ちをおさえて、「楽しい楽しい」と自分の気持ちとは関係がないことを言うのは、くるしいことだ。はげしく、くるしいことだ。
けど、ヘビメタ騒音という経験がない言霊主義者にはそれがわからない。この人たちは、子どもだ。ぼくから見ると、子どもなのだ。幼児的な万能感にみたされている。
そして、ほんとうは、言霊理論が破綻していることに気がつかない。
矛盾だらけなのだ。
けど、それを指摘してもしたがない。指摘してもしかたがない。
ヘビメタ騒音が鳴っているさいちゅうでもなく、一日のなかでヘビメタ騒音が鳴り終わったあとではなくて、人生のなかでヘビメタ騒音が鳴り終わったあとに「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。おなじだ。破滅感しかない。
言霊も、「意識的な意志」に自分のすべてを操作させることができるという考え方の一種だ。意識的な意志というのは、意識的な脳みそだと言ってもいい。意識的な脳みそが『憂鬱なのはまずい』『腹がたっているのはまずい』と判断して、「楽しくなる」ように「楽しい楽しい」と言うわけだ。
ちなみに、ぼくが、言霊は成り立たない」というようなことを言った場合、たいていの言霊主義者はおこる。おこったとき、「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。そうたら、途端に楽しくなるのだから、自分の理論が否定されたからといって、おこる必要はなくなる。
へそを曲げなくてもすむ。
けど、たいていの言霊主義者が、言霊理論を否定されると、へそを曲げる。もう、もどらないのだ。その人にとって、ぼくが、いやな人になる。
ヘビメタ騒音を鳴らしているきちがい兄貴は、ぼくと言霊主義者のあいだでそういう、争いがあるということには、気がつかない。「きちがい兄貴が、ヘビメタをでかい音で鳴らすと、言霊主義者と言い争いをしなければならなくなるから静かにしろ」と言っても、しずかにしない。しずかにしないし、自分の行為と、「言霊主義者との争い」になにか関係があるとは、さかだちをしても、思うことができない。
まったく気にしないで、鳴らし続ける。あるいは、自分にとって不都合なことを言われたと無意識的には理解して、怒り狂って鳴らし続ける。意識的には「なんの関係があるんだ」と思って、「そんなの関係がない」と即座に思って、怒り狂っておしまいだ。
ともかく、なにがなんだろが、一分だろうが、一秒だろうがしずかにしてやるつもりがないのだ。ほんとうに我慢させられるということは、絶対の意地でさけている。その、強烈さを、きちがい兄貴が、意識してないということが問題なのだ。
これは、親父でもおなじだ。きちがい兄貴と、きちがい親父は、おなじことをする。きちがい兄貴ときちがい親父は、おなじ精神回路をもっている。
兄貴と親父とのあいだで起こったハンダゴテ事件の話を、きちがい兄貴に言えば……きちがい兄貴が、きちがい兄貴がうらんでいるきちがい親父とおなじ態度でヘビメタを鳴らしているということに気がつくかというと気がつかない。どれだけ言っても、きちがいおやじとおなじ反応経路をへて、気がつかない。どれだけ言っても、そのことを理解してくれるかというと理解してくれない。そんな高度なことがわかるなら、頑固に、こちらの言うことを無視して、うるさくしてない。
そもそも、「よその家では一分だって鳴らせないような音でずっと鳴らそう」と思わない。けど、よその家では一分だって鳴らせない音でずっと鳴らしても、弟に迷惑をかけているということがわからない。それは、言われないからわからないのではなくて、言われてもわからない。自分のなかで、「思いっきり、鳴らしたい」という欲求があるのであれば、その欲求に反すること……じゃまになるようなことは、無意識的なレベルではねのけて、認めない。意識的なレベルの脳みそには入ってこない。事前に、はねのけて、「なかったこと」になってしまう。自分に不都合なことは、「まったくかたちがない予感」のようなもでしかないのだ。瞬間的にしょうじる「まったくかたちがない予感」のようなものでしかない。それは、すぐに消えてしまう。怒り狂ったら、消えてしまう。このしくみが、兄貴と親父でおなじなんだよ。この、脳みそのしくみが……。だから、ものすごくこまることになる。けど、よその人はそういう人といっしょに住んでいるわけではないので、これまた、「親父と兄貴のしくみ」「親父と兄貴における脳みそしくみ」「親父と兄貴み反応回路」がわからない。だから、総合的に言うと、うちの兄貴の態度と、うちの親父の態度は、よその人にはわからないということになる。これがまた、こっちの負担になってしまうのである。理解しやすいしくみで動いている、きちがい兄貴ときちがい親父だったら、どんなに楽か?
俺がどれだけ、親切に、くわしく、きちがい兄貴の反応回路やきちがい親父の反応回路を説明したとしても、ほかの人は、半信半疑だ。凡人佐藤が……常識人佐藤のように「そんなひと、いるのかな」と思っておしまいだ。そして、それはともかくとして、とりあえず、「(エイリさんが)働いてないのなら、(エイリさんが)働いてないということが問題だ」ということになる。意識がそっちのほうに動く。ヘビメタ騒音で働けなくなっているとうことは、理解しないまま、「働いたほうがいい」と言ってくることになる。言霊主義者とおなじで、めんどうくさい。説明はしたからな。
兄貴の頭の問題や親父の頭の問題だけではなくて、ヘビメタ騒音「で」通学通勤ができなくなったということを、ちゃんと説明した。けど、ヘビメタ騒音という問題が人生中で生じなかった普通の人たちにとっては、それは問題ではないのである。それというのは、ヘビメタ騒音だ。普通の人たちは、「ヘビメタ騒音がいっくら鳴っていたからと言ったって、働けないということはないだろう」と思ってしまう。こいつらにとっては、兄貴ではなくて、目の前のエイリさんが悪い人だということになってしまう。どうしてかというと、こういう人たちは、「なんであれ、働いていないのは、よくないことだ」「働いてない人は悪い人だ」と思っているからである。
けど、おまえ、毎日やられてみろ。そんなことは言えなくなる。どれだけ俺がこらえて、生きてきたかわかってない。どれだけ俺が努力して生きてきたかわかってない。いくら、自分の身には生じなかったことだとはいえ、想像力がなさすぎる。
あの生活が、どれだけたいへんか、まったくわかってないなぁ。