2025年7月31日木曜日

●もともとの条件の差が、結果の差をつくりだしているだけ■言霊※2025/07/30 5:59

言霊主義者というのは、条件をガン無視しているのである。そして、条件を性格の問題に置き換えてしまう。

たとえば、家の中に二〇匹のメスの蚊がいる家に住んでいる人は、家の中に二〇匹のメスの蚊がいるという条件によって、蚊に刺されやすくなるのである。

家の中に一匹も蚊がいない家に住んでいる人は、家の中に一匹も蚊がいないので、蚊に刺されることがないのである。

蚊によってだけ、かゆさが発生するとする。

ようするに、物理的刺激によるかゆさや、身体のアレルギーによるかゆさや、ほかの生き物によるかゆさやは、発生しないとする。

その場合、家の中に二〇匹のメスの蚊がいる家に住んでいる人は、蚊に刺されやすくなるので、実際に、蚊に刺されるという出来事が発生する確率が高い。

いっぽう、家の中に一匹も蚊がいない家に住んでいる人は蚊に刺されない。実際に、蚊に刺されるという出来事が発生する確率がゼロ%だ。

その場合、蚊に刺されないので、蚊に刺されて「かゆい」という回数が、ゼロになる。まあ、ほかの理由もいちおう消去しているけどね……。蚊に刺される以外の理由でかゆくなることはないとする。

家の中に二〇匹のメスの蚊がいる家に住んでいる人は、実際に、蚊に刺されるので、蚊に刺されたところがかゆくなり、「かゆい」と言う場合がある。

「かゆい」という言葉に宿っている言霊の力によって、かゆくなるわけではなくて、蚊に刺されたから、かゆくなっている。
そして、「かゆい」という言葉が、ネガティブな言葉なら、ネガティブな言葉を言いやすくなっている。しかし、「かゆい」というネガティブな言葉を言うから、「かゆい」というネガティブな出来事が発生するわけではない。

あくまでも、蚊に刺されて、かゆくなってから、「かゆい」と言ったのだ。蚊に刺される前に、突然「かゆい」と言って、「かゆい」というネガティブな言葉を言ったから、「蚊に刺されかゆくなる」ということが発生したわけではないのだ。

ところが、言霊主義者は「かゆい」と言う人は、かゆいと言うから、「かゆくなる出来事」が発生すると言うわけ。原因がちがうんだよ。

口癖についても、「かゆい」と頻繁に言う人は、実際に、かゆくなることが多いということにしてしまう。「かゆい」というネガティブなことを言うから、「かゆい」というネガティブなことが現実化してしまうのだと言う。

そして、「かゆい」と言わない人は、「かゆい」とネガティブなことを言わないので、かゆくなることが現実しかないと言うのだ。もちろん、まちがっている。

そりゃ、家の中に一匹も蚊がいない家に住んでいる人は、お芝居でもしていない限り、「かゆい」と言うことがないのだ。だって、蚊以外の、かゆくなる理由は、設定によって消去しておいたからね。

現実世界には、もちろん、蚊以外のかゆくなる理由でかゆくなることがある。

けど、いちおう、蚊によるかゆさだけを今回は問題にしているわけ。そのほうが、わかりやすいからね。

そして、たとえば、お芝居で「かゆい」と言っても、実際には、言霊の力によって、かゆくなるということがないので、かゆくないのである。

蚊に刺されて、実際にかゆくなっているのと、お芝居で「かゆい」と言ったら、「かゆくなったような気がした」という場合の「かゆさ」はちがう。

たいていの人は、お芝居で、「かゆい」と言っても、蚊に刺されたようにかゆさを感じることがない。

むしろ、言霊の力が、ないということなのだ。自己暗示の力があるので、「かゆい」と言ったことで、かゆく感じる人はいる。

実際に、「この葉っぱにふれるとかゆくなる」という暗示をかけられると、その葉っぱにふれただけで、かゆくなる人がいる。

人によっては、実際にかぶれのような皮膚反応が出る人もいるぐらいだ。

じゃあ、言霊の力で、その皮膚反応がおこっているのとというと、ちがうのだ。自己暗示の力は、言葉の力だ。

そして、皮膚反応がおこる人だって、実際にかゆくなる原因があって、かゆいと感じたという過去の出来事があるから、かぶれという皮膚反応をおこすことができるのだ。こういう人は、まれだけど、そういう場合もある。

そういう場合ですら、言霊の力で皮膚反応がおこっているわけではなくて、言葉の力による自己暗示で、皮膚反応をおこしているだけだ。

そして、そういう皮膚反応をおこすには、すなくても、実際に原因がある場合のかゆさを経験しているから、そういう皮膚反応がおこるということになる。

これは、学習なのである。

だから、言葉による暗示が皮膚反応を引き起こす場合でも、過去の経験がたいせつだということは、言っておかなければならないことだ。

さて、今回言いたいことは、そういうことではなくて、「かゆいと言わない人は、かゆくならないし、かゆいと言う人はかゆくなる」というような、まちがった考え方についてなのである。

つまり、「かゆいと言わない人には、かゆくなるような出来事が発生せず、かゆいと頻繁に言う人には、かゆくなるような出来事が頻繁に発生する」というような、まちがった考え方についてなのである。

蚊が一匹いない家に住んでいる人は、蚊に刺されないので、かゆいと言わないだけなのだ。

そして、メスの蚊が二〇匹いる家に住んでいる人は、頻繁に、蚊に刺されるので、頻繁にかゆいと言っているだけなのだ。

蚊がいないという条件と、メスの蚊が二〇匹いるという条件の差が、「かゆい」と何回言うかの差をつくりだしている。

「言ったことが現実化している」わけではなくて、もともとの条件の差が、結果の差をつくりだしているだけだ。

実際に原因になることがあるとする。

その原因になることが、どれだけの頻度で、単位時間内に発生しているかということが重要なのだ。

*     *     *

厳密なことを言えば、実際に蚊に刺された場合の皮膚反応と、実際には蚊に刺されていないけど、暗示によって、皮膚反応が起こった場合の皮膚反応は、ちがう。蚊に刺されたほうは、蚊によって出された(注入された)物質との抗原抗体反応がある。これは、暗示の場合とはちがう。ちがいがある。

2025年7月30日水曜日

●自分の身に起きたことと、他人の身に起きたこと■言霊※2025/07/30 4:09

言霊主義者だって、一〇円玉が落ちたら、一〇円玉が落ちたと思うということについて書いたけど、これは、例外的なことではない。言霊主義者だって、道路の上で、すべってころんだら、すべってころんだと思うのである。

すべってころんだとき、右足の膝がいたくなったら、道路に右足の膝を打ちつけたので、右足の膝が痛くなったと思うのである。右足の膝と道路の表面がいきよいよくぶつかったので、いたくなったと考えるのである。

ここまで、一切合切、言霊的な思考が出てこない。

全部、物理的な説明をする。言霊主義者だって、すべってころんで、膝をうったら、すべってころんだから、膝をうって、膝がいたくなったと考えるのである。

言霊主義者が、朝、起きたときから、夜、眠るまでに起こったことのうち、言霊の力で起きたと考えることは、じつは、ものすごくすくない。

自分の身上にしょうじたことについては、物理的な思考をするのである。

Aさんが言霊主義者で、Bさんが言霊主義者じゃないとする。Bさんが、Aさんをなぐったとする。その場合、Aさんは、Aさんが「なぐられる」と言ったから、なぐられるということが現実化したとは、考えないのである。

まーーったく、考えない。

Bさんがなぐったと考えるのである。

Bさんが、Aさんの顔をなぐったので、Aさんは、顔にいたみを感じたとする。その場合は、Bさんがなぐったので、顔がいたくなったと思うのである。物理的な原因を考えてしまうのである。

自分が言ってないのに「Bさんが自分の顔をなぐって、自分の顔がいたくなる」と自分が言ったことにして、自分がそのように言ったから、Bさんが自分の顔をなぐるということが現実化したとは思わないのである。

そして、「Bさんが自分の顔をなぐって、自分の顔がいたくなる」とBさんが自分の顔をなぐる前に言ったから、自分の顔がいたくなるということが……「Bさんが自分の顔をなぐって、自分の顔がいたくなる」という言葉に宿っている言霊の力によって……現実化したとは、思わないのである。

まーーーったく、思わないのである。

何度でも言ってやる。なぐられるまえに「顔がいたくなる」といったから、顔がいたくなるということが、現実化したとは、考えないのである。

言霊主義者であるAさんは、自分が「いたい」と言ったから、Bさんがなぐってきて、顔がいたくなったとは、考えないのである。

他人事だと「いたい」というネガティブなことを言うから、言霊の力によって、「顔をなぐられる」というネガティブなことが現実化したと(言霊主義者は)考えてしまうのである。 

ひとごとだと、なぐられた人が、「なぐられる」と言ったから、「なぐられるということが現実化した」と思ってしまうのである。

自分の身に起きたことと、他人の身に起きたことだと、これだけちがうのである。

普段、自分が言霊的な理由を、ガン無視して、生きているということに、気がついたほうがいいよ。言霊主義者は、いいかげん、自分が普段の生活の中で、どれだけ多くのことを、物理的に考えているか、気がついたほうがいいよ。

*     *     *

たとえば、言霊主義者のCさんが、自分の家にいるとき、右手の甲を蚊に刺されたとする。そうすると、Cさんは、普通に、「蚊に刺されたから、かゆくなった」と考えるのである。

右手の甲を蚊に刺される前に、かゆくないのに、「かゆい」と、突然、言って、「かゆい」という言葉に宿っている言霊の力によって、「蚊に刺される」ということが現実化して、かゆくなったとは、考えないのである。

 右手の甲を蚊に刺されたときは、右手の甲を蚊に刺されたから、右手の甲の刺されたところがかゆくなったと考えるのである。

言霊主義者のCさんですら、そのように考えるのである。右手の甲を蚊に刺される前に、「右手の甲を蚊に刺されてかゆくなる」 と言ったから、「右手の甲を蚊に刺される」ということが現実化したとは思わないのである。

たとえば、言霊主義者のCさんが、右手の甲を蚊に刺される一〇日まえに、左手の甲を蚊に刺されたとする。左手の甲を蚊に刺されたCさんは、「かゆい」と言ったとする。

言霊主義者のCさんですら、自分が一〇日前に、「かゆい」と言ったから、今度は右手の甲を蚊に刺されるということが発生した(現実化した)とは思わないのである。

「かゆい」というネガティブなことを言ったから、一〇日後に、「かゆい」という言葉に宿っている言霊の力によって、右手の甲を蚊に刺されるということが現実化したとは思わないのである。

右手の甲を蚊に刺されたときは、右手の甲を蚊に刺されたから、蚊に刺されたところがかゆくなったと考えるのである。

言霊の力によって、かゆくなったと考えないのである。

「かゆい」と自分が過去において言ったので、「かゆい」という言葉に宿っている言霊の力によって、今度は右手の甲が蚊に刺されるということが発生したとは考えないのである。

普通に、右手の甲を蚊に刺されたから、かゆくなったと考えるのである。

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引き寄せもおなじだ。一〇日まえに、左手の甲を刺されたとき、「かゆい」と言ったとする。「かゆい」と言ったので、今度は、一〇日後に、右手の甲を蚊に刺されるということが発生したわけではないのだ。

一〇日まえに、左手の甲を刺されたとき「かゆい」と言ったから、今度は、右手の甲を蚊に刺されるということを引き寄せたわけではない。

ところが、そう考えてしまう。

「かゆい」と言ったから、かゆくなる出来事を引き寄せたのだと考えてしまう。原因について、完全にまちがった考えをもっている。

「そう考えてしまう」と書いたけど、いいことを引き寄せようとしているときは、いいことを引き寄せられるとは考えるけど、「かゆい」と感じたときに、引き寄せという考え方に注意が向かなければ、普通に、「蚊に刺されたのでかゆくなった」と思うのである。

そして、かゆければ「かゆい」と言う場合がある。引き寄せのことを考えていれば、「悪いことを引き寄せちゃった」と考えるかしれないけど、引き寄せのことを考えていなければ、ただ単に、「蚊に刺されたからかゆくなった」と思うだけなのである。


●きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らした騒音は、影響がある■過去※2025/07/30 1:15

 たとえばの話なんだけど、「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」ということは、それぞれ、ちがった意味をもつものなんだよ。

ところが、ある人は、「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」は、おなじ意味だと思って、それぞれの言葉を使っているんだよね。

こんなレベルの人が、俺に説教をするなんておかしい。

これも、きちがいヘビメタ騒音が発生したから、こういうことになった。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ずっとずっと、長い間、ヘビメタをでかい音で鳴らすことにこだわって、実際に、でかい音で鳴らしたから、こういうことが発生した。

きちがい兄貴が、実際に、現実世界で、きちがい感覚で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らし続けなかったら、こんなことになってない。

どしうてかというと、ヘビメタ騒音の話に対する反応だからだ。きちがい兄貴がきちがい感覚で鳴らしたので、ほかの、ほとんどの人は、きちがい家族のきちがい騒音にさらされていないということになる。そういうことをするのは、まれな人なのである。

だから、ほんとうは、きちがい家族が、飛び切りにこだわって、しつこくしつこく鳴らす、騒音にさらされた人というのは、ごくまれなんだよ。

たいていのほかの人は、ぼくが経験したレベルの騒音を、経験していない。

経験していないのに、経験したつもりで、説教をしてくるのだ。

そりゃ、あれだけ鳴っていれば、影響をうける。

ところが、普通の騒音にさらされた人は、どうにかなるような騒音だったので、実際にどうにかなった。だから、「過去は現在に影響をあたえない」というようなことを、騒音関係で、言いたくなる。

けど、おなじレベルの騒音ではないのだ。

おなじ期間の長さではないのだ。ぜんぜんちがう。

一日のなかでも、きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らした騒音は、影響がある。

人生のなかで、中学時代全部、高校時代全部、毎日、きちがい的にでかい騒音を聞かされ続けたら、それ以降の毎日に、影響がでる。実際には、高校を卒業したあとも、ずっと毎日、鳴っていた。しつこさがちがうのである。一部の人は、軽い騒音を想像して、「過去は関係がない」と言ったりする。ぼくが、「ちがう」と言っても、こいつらはこいつらで、認めない。

*     *     *

あーー。「そんなのは関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「過去のことは関係がない」と言ったやつのことは、ほんとうに、ぶっとばしてやりたいな。ほんとーーーに、頭にくる。腹がたつ。こいつらはこいつらで、ぼくが頭にくることを、言ったつもりがないんだよね。「なんだ、こんにゃろう」「実際に過去なんて関係がない」なんて、ぬかしやがる。そういうやつがいた。ぶんなぐってやりたい。腹がたつ。

こういうことになってちゃうんだよな。もちろん、張本人のきちがい兄貴は、知らんぷりだ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことで、ぼくがほかの人ともめても、きちがい兄貴は、その場にいないわけだから、まったく、知らない。

きちがい兄貴に、ほかの人とのもめ事を説明しても、きちがい兄貴が、きちがい親父のような態度で、腹をたてて無視する。この無視がまた、特別な無視のしかたなんだよな。きちがい的な無視のしかたで無視をする。

きちがいヘビメタを鳴らされて、ずっと、ひどい目にあって、できないことが増えて、ほかの人と、もめているんだよ。それなのに、「こういうことがあった」ということを、きちがい兄貴に言うと、きちがい兄貴が、発狂的な感情になって、おこって、無視をするのだ。

いつもおなじだ。

小学六年生のころからずっと、ずっと、そういうことが続いていいわけがない。けど、きちがい兄貴の脳みそだと、そういうことになってしまうのである。これ、認めないんだよ。

*     *     * 

手短に言うと「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」と言う人は、ヘビメタ騒音の影響を無視するわけ。

きちがい兄貴も、ヘビメタ騒音の影響を無視するわけ。

そういうところが、「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」と言う人たちと、兄貴で、似ている。こいつらと兄貴は、ヘビメタ騒音の影響を無視するということにおいて、似ている。

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言霊主義者なのに、「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」と言う人たちがいる。この人たちは、矛盾に気がつかない。「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのに「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」と言うのだ。

過去は関係がないなら、言ったという過去も関係がないということになる。過去は現在に影響をあたえないなら、言ったという過去の出来事も、現在に影響をあたえない。

完全に、矛盾している。

ところで、言霊主義者なのに、「過去はない」「過去は記憶の中にしかない」「過去は現在に影響をあたえない」と言う人たちに、いまの話をすると、「あげあしをとった」というようなことを言って、認めないのだ。「なんだ、こんにゃろう」という態度だ。

矛盾をあらためようとはしない。

どっちもまちがっているけど、「言えば言ったことが現実化する」ということをとるのか、「過去は現在に影響をあたえない」ということをとるのか、はっきりさせたほうがいい。こういうところで、矛盾を感じたあとに、悩まないのである。

ようするに、矛盾を指摘されたあとも「言えば言ったことが現実化する」ということも「過去は現在に影響をあたえない」ということも、ともに正しいと思っているのだ。

矛盾を感じてくれよ。

「単純なのが正しい」と言ってゆずらない。

俺がなんか、まちがったことを言ったと思っていやがる。こういう態度も、きちがい兄貴とちょっと似ているぞ。

*     *     *

それから、エイリの性格が悪いから、あげあしをとってきたと思うのだ。いやーー。それ、ちがうんだわ。「エイリの性格が悪いから、エイリがあげあしをとった。自分は、エイリにあげあしをとられた」とこの人たちは、思うのだ。こいつらは、矛盾を指摘されると、「エイリは被害妄想がある」というようなことを言うけど、ヘビメタ騒音に関していうと、被害妄想ではないのだ。そして、「自分が問題のないことを言ったのに、エイリがあげあしをとってきた」と思うほうが被害妄想的だ。

ともかく、「言ったことが現実化する」と言ったあとに、「過去は関係がない」と言うのは、おかしい。矛盾している。矛盾は認めたほうがいい。そのほうが、考えが深まる。

精神世界の人は「なんでも感謝感謝」と言っているわりには、感謝しないのである。矛盾を指摘してもらったから、感謝しようとは思わないのである。

逆に、「性格のわるいやつに、あげあしをとられた」と思うだけで、相手が言ったことの内容について深く考えようとしない。矛盾について考えられるなら、「言えば言ったことが現実化する」ということが「言えば、すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」ということと、意味的に等価だと言うことに気がついて、「言えば、すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という命題が偽であるということに気がつくことができるのだ。

証明は簡単だ。

「一秒以内に、むかし通っていた小学校の前に瞬間移動する」と言えば、約一秒後には、「すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」わけではないということが、わかる。まあ、小学校に通っていなかった人は、「通うはずだったの小学校前に瞬間移動する」とか、あるいは、「スカイツリーの前に瞬間移動する」とか、あるいは「新宿駅構内のどこかに瞬間移動する」とかと言えば、いい。

「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」ということと「言えば、すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」ということは、意味的に等価じゃないのである。

ところが、言霊主義者というのは、両者を区別なく使うのだ。

「言えば、すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」ということは「言えば、言ったことが現実化する」ということと等価だ。

言霊主義者は「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という意味をこめて、「言えば、言ったことが現実化する」と、言ってしまう場合がある。

いやー。そんな意味は、こめられないのだよ。

言霊主義者は「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という意味で「言えば、言ったことが現実化する」と言う場合がある。「言えば、言ったことが、現実化する場合だってある」という文がもつ意味と「言えば、言ったことが現実化する」という文がもつ意味は、ぜんぜんちがうので、区別をしたほうがいい。

2025年7月29日火曜日

●各項目は、一意に決まらなければらないのである■努力※2025/07/29 3:04

もう、以前、説明したことなのだけど、ちょっとだけ、説明しておく。

たとえば、「一気圧なら、水は摂氏一〇〇度で沸騰する」と言ったとする。これは、正しい言葉だ。命題として「真」なのである。

そして、「一気圧」ということも、一意に決まるし、水も、但し書きが必要こともあるけど、但し書きをすれば、一意にきまる。摂氏一〇〇度という温度も、一意に決まる。「沸騰する」ということも、一意に決まる。まあ、厳密なことを言わないのであれば、沸騰している状態と沸騰していない状態の区別ができるわけだ。

各項目は、一意に決まることなのである。

各項目は、一意に決まらなければらないのである。

そうじゃないと、文の意味が正しいかどうかなんて、決められないのである。

ところが、「努力をすれば、成功する」という言葉の場合は、「努力をする」ということが一意に決まらないのである。絶対に、一意に決めることができない言葉(表現)なのである。

そして、「成功する」という言葉も、一意に決まらないのである。絶対に、一意に決めることができない言葉(表現)なのである。

なので、そもそも、言葉の遊びにしかなっていない。

言葉の遊びなのである。

法則性なんて、成り立っていないのである。

法則性以前の問題があるのである。

言葉の遊びにしかすぎないのに、ほんとうに、物理的な法則性をあらわす文とおなじような文だと思ってしまう人がいるのである。

たしかに、物理的な法則性を表す文を模倣して、遊んでいるのだけど、遊んでいるということを理解せずに、ほんとうに、物理的な法則が成り立っているときとおなじように、法則が成り立っていると思ってしまう人がいるのである。

これは、こまったことだ! これは、こまったことだ!!

各項目の意味が一意に決まらないのに、法則性をあらわす文が成り立つわけがない。

●争いの種が、まかれた■言霊※2025/07/29 2:29

たとえば、言霊主義者が「すべての争いが、なくなる」と言ったとする。「一秒以内に」という言葉をつけたすと「一秒以内に、すべての争いが、なくなる」ということになる。

じゃあ、「一秒以内に、すべての争いが、なくなる」と言えば、ほんとうに、一秒以内にすべての争いがなくなるのか?

答えは、なくならない。

言霊の力がないので、言霊の力によって、言われた内容が現実化することがないからだ。これは、一〇〇%、ない。

むしろ、言霊主義者が、やられたほうに「やられると言ったからやられたんだ」と言っているときに、争いの種がまかれるのである。もう、まかれた。

やられてこまっているほうに「こまった」というから「こまることが、発生した」と言うときに、争いの種がまかれるのである。もう、まかれた。

そして、はっきり言ってしまうと、命題として考えた場合「言えば、すべての言ったことが、言霊の力によって、一〇〇%の確率で、現実化する」 という命題は『偽』なのだけど、たいていの言霊主義者は、おこって、認めない。

その場合、やはり、悪の種がまかれたということになる。

争いの種が、まかれたわけだ。もう、まかれた。

*     *     * 

「すべての争いがなくなればいい」という願望はいい願望なのだけど、運用のしかたに問題がある。言霊主義といっしょに語られると、かならず、問題がしょうじる。

だって、「言ったことが、現実化する」というのは、嘘だからだ。

ぜんぜん、そんなことになっていないのである。

この世では、「言ったことが現実化する」と思えることがあったとしても、言霊の力で、言ったことが現実化することは、ないからだ。

その人の頭の中で「言霊の力」と「言葉の力」の区別がついていないから、誤解がしょうじるのである。あるいは、その人の頭の中で「言ったから」と「言ったあと」の区別がついていないから、誤解がしょうじるのである。さらに、あるいは、「言ったことが現実化する」という言葉は「すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という言葉と意味的に等価であるということがわかってないから、誤解がしょうじるのである。

まちがったことを信じている人がいるということが、そもそも、争いの種なのだ。理論的にまちがっていることは、理論的にまちがっていることなんだよ。

ところが、「理屈じゃーーねぇーんだよ」とすごむ。あきらかに、おこっている。

「むずかしそうなことを言ってたけど、複雑なことはまちがっている。単純なのが正しい」と言って、ゆずらないのである。「複雑なことはまちがっている。単純なのが正しい」というのも、まちがった考え方だ。

決めつけられても、こまる。

こういうところに、争いの種がひそんでいるのである。もう、争いの種は、まかれたんだよ。

 

2025年7月28日月曜日

●こまるに決まっているだろ■騒音※2025/07/28 23:12

もう、いいかなぁ。ほんとうに、いろいろなことがあった。いやなことばっかりだった。どうしてかというと、家族が悪いのである。毎日、きちがい行為を夢中になってやる。こまるに決まっているだろ。そして、まわりのやつの態度というのが、言ってみれば、言霊主義者の態度なのである。まるでわかってないやつらだ。ほんとうに、いやになる。きちがい家族にやられて、バカな他人にバカにされる人生だった。

●「理屈じゃーーねぇーんだよ」■言霊※2025/07/28 5:35

「言えば、言ったことが現実化する」という文は、「言えば、すべての言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という文と、意味的に等価なのである。

まず、これがわかってないんだよな。

「言霊は絶対だ」なんて言っているやつらが、このことを、理解していない。

だから、いろいろなまちがいがしょうじる。そして、条件が悪い人を、まちがった理論で、いじめることになる。

けど、俺が言霊理論について説明をしてやると、言霊主義者は「理屈じゃーーねぇーんだよ」とキレたりする。これも、ほんとうにこまったな。

「言えば、言ったことが現実化する」というのは、理屈だろ。まちがった理屈だけどな。

「理屈じゃない」のであれば、最初から「言えば、言ったことが現実化する」などと言うな。

●本人が気がつかないだけなのだ■言霊※2025/07/28 2:56

言霊主義者は、「言霊は絶対だ」とか「言霊の法則は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言っているのに、じつは、「言ったってむだだろうな」ということは、言わないようにしているのだ。

たとえば、「この世のすべてのものは、自分のものになる」と言ったあと、近くのコンビニに行って、商品を手当たり次第につかみ、カネを払わずにコンビニを出ようとしない。 

「この世のすべてのものは、自分のものになる」と言ったのだから、言霊の力によって、言った内容が現実化されているのである。

なので、コンビニにある商品をもって、カネを払わずに、外に出たとしても、問題はない。ところが、「この世のすべてのものは、自分のものになる」と言ったって、自分のものになるわけではないから、おカネを払って出たほうがいいなと思っても、おカネを払って出るのである。

ちゃんと、言霊なんて、信用していない。言霊の力なんて、無力だと思っている。言ったことが現実化しないと思っている。確信している。

 

本人が気がつかないだけなのだ。

*     *     *

最初から、あきらめていることは、言霊を使ってどうにかしようとは思わないのだ。まったく、思わない。

言霊でどうにかできるのは、体のしくみによって、ストレス対抗期間にどうにかできることや、夢や希望といった「いつか」かなうと思いたいものに(たいていは)限られている。

つけくわえるなら、言ったあと、そうなる可能性が高いものについて、ときどき、言霊的なことを言うだけなのである。

ほんとうは、言霊主義者だって、言霊なんてまったく信じていないのだ。「くるしい時の神頼み」に似ているのだ。

言霊主義者が、言霊思考になってしまう時間は、じつは、かぎられている。そして、自分が一倍速で「それ」を体験したかどうかということが、判断において重要なのである。「それ」というのは、まあ、出来事だ。この出来事といのは、どこからどこまでを一つの出来事して考えるということが、ほんとうは、重要なことなのである。

そして、じつは、かりそめに、区別をしているだけなのだ。かりそめに、ここからここまでを一つの出来事として、認識することにするというメタ認知のようなものが成り立っている。

まあ、この問題には踏み込まないとする。

ともかく、言霊主義者でも、言霊思考になってしまう時間は、じつは短い。たいていの時間は、言霊なんて、ガン無視して、暮らしている。言霊的な解決方法を、思いつきもしないのである。「あたりまえのこと」は言霊の力によって、あたりまえのことになっているとは、思っていないのである。

だから、「あたりまえのこと」は、言ったかどうかなんて関係なくしょうじると思っているのである。言霊主義者が、じつは、そう思っている。本人が、気がつかないだけだ。

他人のことになると、自分が実際に経験したことではないので、言霊思考になってしまうのである。そして、立場が悪い人には、横柄な態度をとってしまうのである。自動的にそうなるのである。

立場がいい人には、尊敬のまなざしを向けるのである。これも、思考のなかに組み込まれているものだ。カルマを信じている人が、実際にめぐまれている人は、めぐまれている人なのだから、前世においていいことをした人にちがいがないと思ってしまうようなものだ。

言霊思考もカルマ思考も、じつは、悪魔にとって都合がいい思考なのだ。そういう思考を、へんな理屈で、信じてしまう。信じたら、「そのように世界が見える」のである。だから、実際に「くるしい人」には、傲慢な態度をとるようになるのである。実際に恵まれている人を尊敬して、実際に恵まれていない人を軽蔑するのである。そういうふうに、できている。もう、言霊思考やカルマ思考を受け入れてしまった時点で、そうなっている。洗脳されてしまう。 

*     *     *

まあ、「勝つと言えば勝つ」言って、パチンコ屋に行く場合もある。この場合は、ぜっいにかなえたい願望につい、言霊的な思考をしているのだけど、負けたって、「勝つと言えば勝つ」という思考自体がまちがっているとは思わないのだ。

絶対勝ちたい場合は、「かつ!!かつ!!かつ!!」と気合を入れる場合がある。これは、言葉の力だ。これは、人間のしくみによって成り立っている思い込みの力だ。

これは、言霊の力とは、区別するべきなのである。

ところが、言霊主義者はみんな、区別しない。

言霊主義者は、 「かつ!!かつ!!かつ!!」と気合を入れたあと、負けても、言霊理論がまちがっているとは思わないのだ。これも、ほんとうにこまったものだな。

まあ、文章の都合でいれなかったけど、気合を入れたいときは、言霊主義者は言霊思考になる。

けど、気合を入れたいときの言霊思考を入れても、じつは、言霊思考をする時間は短い。そして、自分のことなら、一倍速で経験できるので、事実、負けた場合は、「かつ!!かつ!!かつ!!」と言ったにもかかわらず、負けたということを、受け入れることができるのである。

しかし、この場合も、言霊理論に対する信頼はかわらないのだ。負けても、「勝つと言えば勝つ」という思考が、生き残っているのである。

負けても、「言えば、言ったことが現実化する」という思考が生き残っているのである。

負けても、言霊主義者は「言霊(理論)は正しい」「言霊は絶対だ」「言霊の法則は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と思っているのである。

矛盾しているのだけど、言霊主義者にとっては、特に、問題ではないのである。これは、「あたりまえのこと」だと、言霊思考にならないということと関係があるように思える。

*     *     *

言霊主義者が、言霊思考になるのは、神頼みをしたいときやおまじないをしたいときなのだ。「いつか」かなえるつもりの「夢」や「希望」について話す場合、「すぐに」かなえたい「願望」について話す場合だ。 

「いつか」かなえるつもりの「夢」や「希望」について話す場合は、「いつか」かなえばいいと思っているのである。

これは、現実的な思考もまじっている。

ほんとうは、「すぐに」かなえてしまえばいいのに、「いつか」かなうことにして、「夢」や「希望」を温存させることができるのだ。温存させている期間は、「夢」や「希望」は、かなわなくても、いいわけ。

ようするに、言霊主義者が、現実的に考えて、確率が低いことに適応される言霊思考だ。

「一秒以内に、こうなる」と言えば、こうなるのだ。もし、ほんとうに、言霊に力があるのなら、そうなる。なんの力かというと、当然、『現実化させる』力だ。

言霊主義者が「むりだろうなぁーー」と考えているから、言霊の力を使って、「いつか」現実化させたい「夢」や「希望」になるのである。「言霊は絶対だ」と言っているけど、絶対ではないと思っているのだ。「夢」や「希望」に関しては、言霊の力は、弱弱しい力になってしまう。すぐに、現実化させることができない「弱弱しい力」なのだ。

●これ、いじめみたいなもんなんだよ■言霊※2025/07/28 2:44

結果から、妄想的な原因を勝手につくりだしているだけなのだ。

「言ったから、そうなった」というのは、不幸なことがしょうじる確率がたいへん高い人にとっては、迷惑な理屈なんだよ。

だって、不幸なことがしょうじたのは、不幸な環境のせいだからだ。ほんとうに、自分が悪くなくても、不幸な出来事がしょうじることがある。

ところが、そういうことを、理解せず、不幸になると言ったから、不幸なことがしょうじたと考えるのが、言霊主義者なのである。

言ってなくても、言ったことにされてしまう。「不幸になる」と言わなくても、「くるしい」と言えば、くるしいことがしょうじたということになってしまうのである。

Aというくるしい出来事が、Aという時刻にしょうじたとする。Bというくるしい出来事がBという時刻にしょうじたとする。Aという時刻は、Bという時刻よりも、時間的にまえだとする。ある人、アルファさんがAという時刻に生じた、Aというくるしいことについて「くるしい」と言ったのに、言霊主義者は、くるしいと言ったからBというくるしいことがしょうじたと、決めつけてしまうのである。

これが、屈辱でなくて、なんだ?

これが、誤解でなくてなんだ?

「くるしいこと」以外にも「ネガティブなこと」という言い方がある。「ネガティブなことというところまで範囲をひろげると、誤解をしやすくなるのである。範囲がでかいわけだから、個別性を離れて、「ネガティブなことがしょうじた」と言いやすくなる。

しかし、考えてみろ。個別性を離れたところで、もう、出来事の原因についても、個別性を離れてしまうのである。

Aという出来事とBという出来事はちがう。ちがうのに、Aという出来事が発生した結果、アルファさんが「くるしい」と言ったから、Bという「くるしく感じる」出来事が発生したと言ってしまうのだ。

言霊主義者が決めつけてしまう。

しかし、アルファさんは、「Bという出来事が発生する」とは言ってない。言っていないという設定だ。実際、Bというくるしい出来事が発生するとアルファさんが言わなかったのに、Bというくるしい出来事が発生したということにしておく。

そういうことは、たくさん、あるからな。

現実世界でおこっていることを考えた場合、条件が悪い人は、悪い出来事を経験しやすいのである。たとえば、きちがい的な家族と一緒に住んでいる人は、悪い出来事が発生しやすい。

そして、「言ったから」発生したわけではないことについても、言霊主義者によって「言ったから発生した」ということにされてしまう。これだと、「やられたほう」が常に、「言ったから」不幸な出来事を呼び寄せたという子になってしまうのである。

やられたから、「くるしい」と言ったのに、「くるしい」と言ったから、別のくるしいことが発生したということになってしまうのである。責任転換。クソ思考。

そうやって、やられたほうのせいにしているのに、言霊主義者本人は、いいことをしているつもりでいるのである。言霊主義者にとっては、アルファさんのような人は、言霊原理について理解していない人だからダメなんだということになってしまう。

しかし、条件が悪い人を、問題の原因にしているのは、言霊主義者なのである。言霊主義者によれば、アルファさんが、ネガティブな言葉を使わずに、ポジティブな言葉を使えば、ポジティブな出来事が発生するようになるから、ポジティブな言葉を使うことによって、ネガティブな出来事が発生することを食い止めることができるということになる。

ところが、そんなことにはならないのである。しかも、そんなことにはならないのに、言霊主義者は、「言い方が悪かった」とアルファさんの言い方に文句をつけるのである。

これが、ネガティブなことだ。これ、いじめみたいなもんなんだよ。これ、無理解による、いじめみたいなものだ。

ところが、言霊主義者は、「いいことをしている」と思っている。アルファさんは、言霊の使い方が悪いから、そうなると言っているのである。ようするに、アルファさんの言い方が悪いから、「言ったことが現実化しなかった」と、言霊主義者が考えているということになるのである。

これも、侮辱。

自分は言い方がいいと思っている。自分は言い方がいいから、言霊をうまく使えるのに、アルファさんは、言い方が悪いから、言霊をうまく使うことができないということに、してしまう。

どんだけ、人をバカにすれば気がすむのかと、ぼくは思う。

こういう、相手を侮辱することばかりをしているのに、「言霊のコツを教えてやったいい人だ」と自分では、思っているのである。これには、しくみがある。

ネットでも、テレビメディアでも、新聞でも本でも、傲慢な言霊主義者を増やすようにしているのである。傲慢な言霊主義者が、知らず知らずのうちに、環境が悪いから不幸な人に、圧力をかけるようにしているのである。

*     *     * 

アルファさんは「くるしい」と言ったけど「Bという出来事が発生する」とか「Bという出来事が発生してくるしくなる」なんてことは、ひとことも言っていない。言っていないのだから「Bという出来事が発生すること自体」がおかしいのだ。

ところが、言霊主義者、そこのところは、スルーだ。完全に無視をする。

 「Bという出来事が発生する」と言わなかったのに、Bという出来事が発生したのだ。

言わなかったことが現実化したのだ。そもそも、言霊理論通りではない。

ところが、言霊主義者は、あろうことか、「つらい」と言ったから「Bという出来事が発生した」と言うのだ。そもそも、めちゃくちゃ。はなっから、めちゃくちゃ。

●「言ってない」ことを「言った」と言われることは、不愉快なこと■言霊※2025/07/27 6:11

原因がはっきりしていることなのに、でっちあげの言霊的な理由を言われることは、いやな気分になることなんだよ。

原因がはっきりしているんだよ。

過去において、自分が「こういうことが起こる」と言ったから、起こったんじゃないんだよ。これ、わからないかな?

たとえば、言霊主義者のAさんがエアコン修理請負業をしていたとする。Bさんの家のエアコンがこわれたので、BさんがAさんに電話をかけたとする。Bさんが「エアコンがこわれてしまったんです」と言ったとする。

そのとき、Aさんが「なおると言えばなおるので、なおる」と言ってくださいと言って、電話を切ったとする。

これでは、Aさんは、エアコン修理請負業者として活躍できないだろう。エアコン修理で、おカネをかせぐこともできないだろう。

Aさんが、普段「言霊は絶対だ」とか「言霊の法則は宇宙の絶対法則だ」と言っていたって、現実的な問題には、現実的な対処をするのである。エアコンのこわれた部分を特定して、こわれた部分の部品を正常な部品にするというようなことをしている。

あるいは、もう、とりかえたほうがいと言って、古いエアコンを新しいエアコンにかえるようにうながしたりする。

ともかく、こういうことに関して、言霊的な提案はしないのである。どうしてかというと、Aさんが、じつは、言霊なんて信じていないからだ。自分にとって現実的な問題に関しては、現実的に物理的に対処しようとするのである。

「言霊法則は絶対だから、なおると言えばなおる」と言ったりしないのである。

言霊があると信じるというのは、神がいると信じるということと、似ている。これ、信仰の問題なのである。夢に関しては、「言えば、いつか、夢がかなう」と信じて、生きているのである。たとえば、Aさんは「言えば、いつか、夢がかなう」と信じて、生きているのである。しかし、エアコンの修理に関しては、言霊的な解決方法にたよらずに、物理的な解決方法で解決しようとするのである。 ほんとうは、矛盾しているのだけど、矛盾しているということに、気がつかなくてもすむ、詐欺的な説明がなされるのである。

「神に祈れば、なおる」ということと「言葉に言霊が宿っているので、なおると言えばなおる」ということは、大差がないことなのである。オッペケペおまじないが効くと思っている人が、オッペケペと言えば、なおると信じていることと、言霊主義者が「なおると言えばなおる」と信じていることは、大差がないことなのである。「おまじないの言葉を言えば、なおる」ということと「なおると言えばなおる」ということは、大差がないことなのである。

*     *     *

CさんとDさんがいたとする。Cさんが言霊主義者だとする。Dさんの家のエアコンが、こわれたとする。Cさんは、言霊主義者なので、Dさんが「うちのエアコンがこわれると言ったから、エアコンがこわれた」と言って、Dさんのせいにするのである。

なら、Cさんが、「エアコンはなおる」と言えば、言霊の力によってエアコンがなおるのかというと、そうではないのである。Cさんは「電気屋やエアコン修理業者に頼めばいいだろ」ということを言うのである。

自分が「なおる」と言って、エアコンをなおしてやるなんてことはしないのである。どうしてかというと、そんな自信がないからだ。

どれだけ、「言霊は絶対だ」などと言っていたって、物理的こわれたら、物理的に対処するしかないということを知っているので、「なおると言えばなおる」などということは言わない。

しかし、Dさんが「こわれる」と言ったので、エアコンがこわれたのだということは、気楽に言うのである。

Cさんには、悪気はないけど、言われたほうは、相当にいやな気持になることを、言霊主義者であるCさんは、知ったほうがいい。

ほんとうは、Dさんが「このエアコンがこわれる」と言わなかったとする。それなのに、Dさんが「このエアコンがこわれる」と言ったから、言霊の力によってこわれたのだと、言霊主義者であるCさんが断言してしまう。

過去において「言ってない」ことを「言った」と言われることは、不愉快なことなのである。言霊主義者は、ちょっと、そういう無神経な決めつけについて、考えたほうがいい。

2025年7月26日土曜日

●これ、言われたら、いやな感じがするんだよ■騒音※2025/07/26 21:32

だいたい、「言い方が悪いから、現実化しなかった」と言うことが、決まっているんだぞ。こんなのない。

まず、条件が悪い人の、本当の理由を無視することからはじまるんだよ。

俺の場合で言えば、きちがい家族のきちがい騒音だ。最初から言っているように、きちがい兄貴のきちがい騒音で、くるしいのである。

ところが、言霊主義者は、ヘビメタ騒音でくるしくなったということを、認めないのである。ガン無視するのである。これも、決まっていることなんだよ。

言霊主義者によれば、こまっている人は、「こまる」と……過去において……言ったから、こまっているということになる。なんかの理由でくるしんでいる人も、なんかの理由でくるしんでいるわけではなくて、「くるしくなる」と……過去において……言ったから、くるしくなっているという解釈をする。

言霊主義者の解釈は、必然的にそういう解釈になるんだよ。

条件が悪いから、くるしんでいる人に対して、「条件が悪いということは関係がない」と言うのだ。

これだけで、マイナスポイントがある。

ネガティブなことを言っているということになる。

相手にとって、この言霊主義者の発言は、ネガティブな発言であって、不愉快な発言なんだよ。

だってそうだろ。

原因がはっきりしている。

原因がはっきりしていて、その原因でくるしんでいる。

その原因で不幸なことになった。

ところが、言霊主義者は、まず、「その原因」を無視するのだ。そして、「言霊」という原因をもってくる。「言ったからそうなった」と「その原因」を無視して、言霊的なことを言いだす。

まったく気にしていないと思うけど……言霊主義者はまったく気にしていないと思うけど……これ、やられたら、いやなことなんだよ。

精神世界セットをもっている人だと「人がいやがることはしてはいけない」などと言うけど、まさしく、精神世界セットをもっている言霊主義者が、「人がいやがること」をしているのだ。

けど、言霊主義者は、自分が言っていることに自信があるので、「相手がいやがることを言っている」とは思わないのだ。

「ほんとうの原因を無視して、言霊のせいにしないでくれ」と相手が言ったって、言霊主義者がそれを認めるとは思えない。「言霊は絶対だ」「言霊は真実だ」「言ったから、そうなる」「これが正しい」と言ってゆずらない。……ぼくの経験した範囲で言うと、そうなる。

まず、相手が「ほんとうの原因」だと思っていることを、ガン無視して、「関係がない」と言いきってしまうところが、ダメなんだよ。ダーーメダメ。

この時点で、じゅうぶんに、人がいやがることをしている。もっとも、言霊主義者は、絶対に認めないと思うけどな。

これ、言われたら、いやな感じがするんだよ。

言霊主義者だって、たいていの場合、自分が一倍速で経験して、原因を知っていることについて、別の原因を持ち出されたら、腹がたつんだよ。そして、その別の原因が、原因にならないことだったら、腹がたつんだよ。

言霊主義者は「言ったからそうなった」と言うけど、言っていない場合だってあるんだぞ。

たとえば、ぼくの場合だと、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らす前に……「きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音をでかい音で鳴らすので、ぼくが、くるしくなる」と言ったわけではないのだ。

ところが、言霊主義者が仮定している原因というのが、まさにそういうことなのだ。「言ったから、そうなった」と決めつけてくる。いや、言ってない。

「言ってない」と言ったって、言霊主義者は、たいていの場合、無視してしまう。言霊主義者にとって「言ったことが現実化する」ということは、たいせつなことなので、「言わなかった」という、相手の発言は、ごく自然に無視してしまうのだ。

あるいは、「言ったつもりはないかもしれないけど言ったんだ」ということを言いだす。これも、勝手に人のせいにして、不愉快だ。

それから、抽象化のレベルをあげると、ほとんどのことが言えるようになってしまうのだ。

たとえば、「くるしいと言ったから、くるしくなった」いう具合に、抽象化のレベルをあげればいい。これは、「ヘビメタ騒音でくるしくなる」と言わなくても、「くるしい」と……過去において……別のことで言ったから、「ヘビメタ騒音でくるしくなる」ということが、発生したのだという意味だ。

そのくるしくなることが、ヘビメタ騒音なんだという(理論的にまちがった)理屈だ。

別の個別具体的な理由が「くるしい」と言うまえに発生していて、「くるしい」と言ったのである。

たとえば、人間は、ずっと起きていると眠たくなる。人間のからだのしくみがそうなっている。だから、体のしくみにそったかたちで、「眠たい」と……そのとき、言ったとする。

けど、それを聞いた言霊主義者が、「眠たいといったから、眠たくなった」と勘違いしてしまうのである。

これは、眠たさについての話だけど、眠れなくてくるしいとか、眠たいのに作業をしなければならないからくるしいということまで、抽象度をさげれば、「くるしくなる」ということについて、語ることができるようになるのである。

眠たいのに、作業をしなければならないから、くるしいと感じたとする。だから、「くるしい」と言ったとする。

「過去において、くるしいと言ったことがあるから、実際にくるしくなることが発生したんだ。それが、これこれなんだ」と言うことだってできるのだ。

たとえば、眠たくなったから、眠たいのに作業をしなければならないのでくるしいと思い、「くるしい」と、あるとき、ぼくが言ったのだけど、実際にヘビメタ騒音が発生したら、そのときに、ぼくが「くるしい」と言ったから「ヘビメタ騒音のくるしさ」が発生したのだと、言霊主義者が勝手に考えてしまうのだ。

過去において、別の理由で「くるしい」と言ったのに、「くるしい」と言ったから「ヘビメタ騒音のくるしさが発生した」と、無理やり考えてしまうのだ。

もちろん、理論的には、まちがっているけど、言霊主義者は、そういうことを言いだす。

だいたい、「過去は関係がない」と言う人は、「言ったことが現実化する」なんて言えないはずなのに、矛盾を無視して、そういうことを言う。

言霊主義者は、相手における、本当の原因を無視するのだ。

原因を無視するときに使うひとつの言葉がが「過去は関係がない」という言葉だ。

ところが、「言ったことが現実化する」と言っているのだ。相手の本当の理由は、過去のことだから関係がないと言い、本当の理由ではなくて、偽の理由である言霊に関しては、「なになに」と言ったから、そういうことが発生したと言うのだ。

「つらいこと」というところまで、抽象度をあげれば、それは、たしかに、相手は過去のどこかの時点で「つらい」と言ったかもしれない。年齢によるけど、一〇歳以上の人なら、過去において、どこかの時点で「つらい」と言った確率がたいへん高い。

その「つらい」と言った場面には、つらいと思う、本当の理由があるのだ。

けど、その本当の理由を無視して、抽象度が高くなった「つらい」という言葉が……原因になって、「そのつらいことが発生した」と言霊主義者が言い出すのだ。

この言霊主義者が「即席で」考え出した原因は、ニセの原因なのである。

言霊主義者は「つらい」という言葉を言ったということが原因だと言うけど、これは、言霊主義者が考え出したニセの原因なのだ。

過去において、別の原因で「相手が」つらいと言ったら、相手が「つらい」と言ったので、いま「つらい」と感じることが発生したと言うのだ。

「つらい」と言ったから、「つらいこと」が発生したということになっているけど、当てはめられる「つらい」内容がちがう。

ここらへん、言霊主義者の思考が乱れまくっているのだけど、「言ったことが現実化する」ということ考えて、言葉の抽象度をあげて、時間を無視して、出来事の具体的な内容を置き換えると、そういうことが言えるのだ。

もちろん、そうすることによって、いろいろなまちがいをおかしている。

「ネガティブなことを言ったから、ネガティブなことが発生した」というところまで、言葉の抽象度をあげれば、たいていのことは言える。

けど、ネガティブなことと表現されていることが、ちがうのである。ネガティブなこととして表現されている個別具体的な出来事が、ちがうのである。

ちがう個別の出来事について、順番をかえて、抽象度を上げて、そういうことを(相手が)言ったということにしてしまうのである。しかし、ネガティブなことの具体的な内容が、ちがうのである。

二つ以上の、ちがうネガティブなことを、「ネガティブなこと」というひとつの言葉で表現しているのだ。「ネガティブなこと」という言葉が意味する具体的な出来事がちがうのである。

そういうところに、ズレがある。

●言霊主義者とうまくいかなくなることが……き・ま・っ・て・い・る・のだ■騒音※2025/07/26 8:09

 ここ最近書いていることなのだけど、ヘビメタ騒音にやられると、言霊主義者とうまくいかなくなることが……き・ま・っ・て・い・る・のだ。

もともと、きちがい兄貴が、きちがいだから、抵抗なく、自分の感覚を無意識のレベルでかえてしまう。きちがい兄貴の聴覚が異常だったわけじゃない。

もっとも、きちがいヘビメタの音量があまりにも出かかったので、きちがい兄貴の聴覚が正常ではなくなるのだけど、それは、さんざん聞いた後の話だ。鳴らしていた多くの時間、きちがい兄貴の聴覚は正常だった。

けど、耳が悪くなるような音をフォークギターぐらいの普通の音だと思っていた。これが、感覚器の書き換えだ。

きちがい兄貴の感覚が異常なので、きちがい兄貴みたいなことをやる人がほとんど、いないのだ。いないのだから、きちがい兄貴みたいなことをやる人が、家族のなかにいる人も、ほとんど、いない。だから、その点で、ぼくは、まったく理解されないのだ。

そして、これが肝心なことなのだけど、言霊主義者は、自分のこととして、きちがい家族による騒音を経験していない。

だから、言霊主義者にとって、ぼくの言っていることは、経験の範囲内にないことなのだ。実際に、きちがい家族によるきちがい騒音生活が続いたわけではないのだ。言霊主義者を含めて、一般人は、きちがい家族によるきちがい騒音生活を、経験したことがない。

さらに、言霊主義者は、理論的にまちがったことを言っているのだけど、自分が、理論的まちがったことを言っているという認識がない。

まったく、ない。

自分は正しいことを言っていると思っている。

だから、善意で、妄想理論をふりまわすことになる。善意で、決めつけてしまう。

そして、自分が理論的に正しいことを言っていると思っているので、理論的に正しくないことを言っているということを、指摘されると、感情的になっておこる。これは、人間の反応として当然だ。

だから、この点でも、悪意があるわけではないということが、はっきりしている。

しかし、実際に、きちがい家族によるきちがい騒音を経験させられた、ぼくとしては、自分の身の上に起こったことについて、言霊的な解釈をされると、不愉快なのである。不愉快なんだよ。とてつもなく、不愉快なんだよ。

*     *     *

言霊主義者が「言ったことが現実化する」とか「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という文を言わない場合においても、「言ったことが現実化する」とか「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」ということが、前提になっている言葉を言う場合がある。

たとえば、「できると言えばできる」とか「できないと言うからできない」とかということだ。背後に、「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という前提が成り立っているのだ。「元気だと言えば元気になる」とか「つらいと言うからつらくなる」とかということも、背後に「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という前提が成り立っている。

だから、言霊主義者が、「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」ということを言わなかったとしても、「できると言えばできる」とか「できないと言うからできない」とか「元気だと言えば元気になる」とか「つらいと言うからつらくなる」とかと言うだけで、その言霊主義者が「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と考えているということがわかるのである。

しかし、言霊主義者だって、物理的にあたりまえのことに関しては、物理的にあたりまえだと思うのである。一〇円玉が、下方向に向かって落ちる……そんなのはあたりまえだと思うわけ。

あたりまえだと思っているのだけど、これには、言霊的な思考がかかわっていないことなのである。

しかも、言霊的な思考がかかわっていないということについて、当の言霊主義者は無頓着なのである。

ようするに、まったく認識していない。

一〇円玉が下方向に向かって落ちるのはあたりまえだと、言霊主義者は、思っているのである。いちいち、「一〇円玉が下方向に向かって落ちると、自分が言ったから、一〇円玉が下方向に向かって落ちる」と考えているわけではないのだ。

言霊主義者だって、いちいち、考えていない。

あたりまえだと思うことについては、特に、言霊主義的な思考を必要としないのである。

これは、じつは、特筆すべきことなのだ。あたりまえすぎて、だれも気がつかないけど、特筆すべきことだ。

ちょっとだけ言っておくと、「落ちる」と書くべきではなく「移動する」と書くべきなのだ。

けど、日本語として、「落ちる」と書いたほうが、意味がよく通るので、「落ちる」と書いた。「落ちる」には、もともと、下方向に移動するという意味がある。

だから、「一〇円玉が下方向に向かって落ちる」というのは、ある意味、二重表現になっている。

2025年7月25日金曜日

●きちがいヘビメタ騒音によって、「できないこと」が増える■騒音※2025/07/25 9:38

 言えば言ったことが現実化する」ということと、「言えば言ったことが、言ったあとに現実化する場合だってある」ということは、ちがう意味をもっているんだよ。

ところが、「言えば言ったことが現実化する」と主張している人たちは、「言えば言ったことが現実化する」ことと「言えば言ったことが現実化する場合だってある」ということが、意味的に等価だと思っているわけ。

おなじことだと思っているわけ。

けど、ぜんぜんちがう。

さらに、言霊主義者が「言えば言ったことが現実化する」と言う場合は「言えば、言ったことが言霊の力によって、現実化される」という意味で「言えば言ったことが現実化する」と言っているのだけど、両者は、かなしずしも等価ではない。まあ、そういう意味で使っているということは、理解している。

けど、まあ、ここらへんのことは、ずっと説明してきたから、省略する。ともかく、一〇〇%詐欺をしていることに、気がつかない限り、理論的には、正しくないことを言っているのである。けど、ぼくの経験の範囲で言うと、ここらへんのことを言霊主義者に説明しても、言霊主義者が、認めてくれたことが、ないのである。

「言えば言ったことが現実化する」ということは、「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと、意味的に等価であるということが、わかってない人たちがいる。

その場合、「元気だ元気だと言えば、自分は元気になった」ということは、「言えば、言ったことが現実化する」ということの証拠になると思っているのだ。

けど、「元気だ元気だと言えば、元気になった」というのは、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、正しいということの証拠にはならない。

けど、自分が一回でも、「言ったことが現実化した」と思うことがあれば、普遍的に「言ったことが、現実化する」と思ってしまうのである。これは、まちがいだ。理論的にまちがっている。とこるが、認めないのである。言霊主義者は認めない。

「元気だ元気だ」と言えば、すべての場合において、元気になると思っているのである。しかも、「言霊の力で元気になる」と思っているのである。けど、言霊の力はないので、言霊の力で元気になることは、一〇〇%場合において、ない。はっきりと、そう言える。言霊の力ではなくて、言葉の力によって、元気になったような気がしただけだ。ストレス対抗期間内の出来事であって、なおかつ、体のしくみによって達成されることだ。言霊の力で、元気になったわけじゃないのである。

もう、まちがいが多すぎて、いやになる。

ところが、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音によって、できないことが増えると、言霊的なことを言われる機会が増えるのである。

ほんとうに、不愉快なことなのである。きちがい兄貴のきちがい騒音で、ぼくが元気ではない状態になれば、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる人たちが出てくる。この人たちは、俺に助言をしているつもりだ。悪意はない。

けど、理論的にまちがっているのである。

そして、理論的にまちがっているということを、この人たちに説明しても、この人たちは、……ぼくの経験の範囲で言えば……みんな、わかってくれなかった。しかも、くちをたてて「言霊(理論)は正しい」と言って、聞かないのである。

そして、基本的なことを言ってしまうと、ぼくに対して、いい感情を抱かないのである。そりゃ、自分が信じている理論を批判されたのだから、おもしろくないわけだ。そうなると、敵対的な感情が生まれるのである。ぼくが、不幸な目にあえば、「ざまあみろ」と思う気持がうかぶのである。この人たちのこころに……。

言ってみれば、こっちが理論的に正しいことを説明しただけなのに、言霊主義者から、うらまれるという、不幸なことが発生してしまうのである。

*     *     * 

きちがいヘビメタ騒音によって、「できないこと」が増えるのである。そうすると、言霊主義者が「できないと言うから、できない」「できると言えばできる」などと言ってくることが多くなるのである。

こいつらは、ほんとうにみんな……みんながみんな、ヘビメタ騒音の影響でできなくなったということを、無視しやがるのである。

きちがい兄貴が、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らしきることにこだわらなければ、こんなことになっていないのだ。言霊主義者がなんかの機会に「できると言えばできる」と言ったって、「そうですね」と言えば、それですむわけなのである。

けど、きちがい兄貴の、きちがい騒音がずっと続いたことによって、できなくなったぼくは、「そうですね」と言うことに抵抗がある。そして、サービスで「そうですね」と言ってしまうと、ひどいことになるのである。これ、ぼくの経験の範囲で言うと、言霊主義者が増長するのである。俺のことを、もっとなめてくるのである。こういうことが、ほんとうにいやだ。

起点は、この場合、きちがいヘビメタ騒音なのだよ。きちがい兄貴のきちがい騒音なんだよ。これは、ほかの家では発生しないことなんだよ。きちがい兄貴とおなじレベルで、おなじようにくるっている人間じゃないと、やり続けることができないからだ。

ほとんどの言霊主義者が、ぼくとおなじレベルのことを経験していないから、きちがいヘビメタが鳴りはじめるまえのぼくのように「できている」だけなのだ。

ぼくが、突然、「できない」と言ったから、「できない」という言葉にやどっている言霊の力によって、できなくなったわけじゃないのである。もう、その点ですら、言霊主義者は誤解をしている。

「きちがいヘビメタ騒音でできくなった」と言っているのに、きちがいヘビメタ騒音の影響を、ガン無視するということ自体が、失礼なことなのである。

*     *     *

言霊主義者は「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと「言えば、言ったことが現実化する場合もある」ということの区別をしていない。「言えば、言ったことが現実化する」というのは「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと、意味的に等価なのである。もう、これは、さんざん説明してきたけど、ほとんどの言霊主義者が、理解しない。

もうひとつ言いたいのは、全称・自称詐欺についてである。たとえば、言霊主義者は……「自分が、明日は雨がふると言ったから、雨になった」と思っているのである。自分の身に発生した、ひとつの例から導き出した法則性が、すべての場合において成り立つと自動的に考えてしまうのである。

もともと、 「言えば、すべての言ったことが現実化する」ということと「言えば、言ったことが現実化する場合もある」ということの区別ができていないので、自分の場合は、こうだったので、これが不変的な法則として成り立つと思ってしまう。

ちなみに、「言えば言ったことが現実化する場合がある」と書いたけど、これは、言ったあと、言霊ではない別の理由で、言った内容が現実化しただけだ。

ともかく、「元気だと言えば元気になる」と思っている人は、自分が「元気だ元気だ」と言ったとき、自分が元気になったので、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが、普遍的に発生すると勘違いしてしまうのである。

「元気だ元気だと言ったら、元気になった。だから、言ったことが現実化する」と考えてしまうのである。

「言ったことが現実化する」というのは、「すべての言ったことが、一〇〇%確率で現実化する」ということと意味的に等価なのだ。

もちろん、自分が「元気だ元気だ」と言ったら、元気になったということが、「すべての言ったことが、一〇〇%確率で現実化する」ということの根拠にはならない。

けど、言霊主義者は、根拠になると思っているのである。

「言えば言ったことが現実化する場合がある」ということと「言えば、言ったことが現実化する」ということの区別ができていないから、こういうところでも、簡単に誤解してしまうのである。この誤解の上に、全称・自称詐欺が成り立っている。

ようするに、一〇〇%詐欺の上に全称・自称詐欺が成り立っている。全称・自称詐欺は、一〇〇%詐欺の特殊なケース。

●悪い条件によって悪いことが発生しやすいのである■カルマ※2025/07/23 23:07

ヒエラルキーが成り立っているとする。階層が成り立っているとする。階層が高いほうが条件がよく、階層が低いほうが条件が悪いとする。

その場合、階層が低い人たちは、悪い条件によって悪いことが発生しやすいのである。時間の経過とともに、それが改善されるかというと改善されないのである。

時間の経過とともに、悪い条件の結果が出てしまうのである。悪い条件の結果が、堆積ししまうのである。時間とともに、悪い条件によって、悪い出来事が、たくさん発生してしまうのである。

きちがい的な親のもとに生まれた子どもは、不幸な出来事を体験することになっているのである。それは、きちがい的な親のもとに生まれた子どもが悪いわけではないのだ。

ところが、実際に不幸な出来事が発生すれば、「カルマ論者」「言霊主義者」「思霊主義者」「引き寄せ主義者」「努力論者」が、きちがい的な親のもとに生まれた子どもの「性格が悪い」から、そういうことが起こったと言い始めるのだ。

きめつける。

だって、そうだろ。

たとえば、ネガティブな発言をするから、ネガティブなことが「実際に発生した」と時間をさかのぼって考えてしまうようなやつばかりなんだぞ。

そして、努力論においても、「理由の言い換え」が発生するということを、説明した。

けっきょく、虐待されたほうの性格が悪いので、虐待されたのだということになってしまう。こいつらが導き出す結論というのは、つねに、やられたほうを追いつめる結論なのだ。

やられたほうの「性格」のせいにしてしまう。

やられたほうが……時間をさかのぼって……ネガティブなことを思ったり、ネガティブなことを言ったりしたから、実際に、ネガティブなことが起こったということになる。

そうなると、ネガティブなことを思う性格が悪いということになってしまうのである。

ネガティブなことを言う性格が悪いということになってしまうのである。

因果を逆転させて、妄想的な思考をして、「人のせい」にしてしまう。

いつでも「やられた人のせい」にしてしまう。

これが、悪魔に、心地よく支配された人たちが、やることだ。

これ、悪魔が言っていることを真に受けて、心地よく信じて、けっきょく、悪魔に協力をしているのである。

彼らは、悪魔の側に立っている。彼らは、神の側に立っていない。

どれだけ、道徳的なことを言っても、神の側に立っていない。

2025年7月24日木曜日

●全部、汚染されている■騒音※2025/07/24 11:05

タイムリープもののアニメを見ていても、ぐっと、くるものがある。ほんとうに、ヘビメタ騒音に、いろいろなものをとられた。何千日も、続いているときの気分と言ったらない。やっぱり、俺の青春をかえしてほしい。あんなのは、ない。あれが、どういうことなのか、みんなわかってない。ほんとうに、全部ないんだよ。全部、汚染されている。あんな状態で、まともな精神を維持できるわけがないだろ。一番近くでくらしている人間が、普通だったら絶対にわかることを、ガン無視して鳴らし続ける。ほんとうに、きちがい空間だ。汚染される。汚染されるということが、わかってないやつが、がたがた言うな。けど、わかろうが、わかるまいが、ともかく、俺はやられた。きちがいがきちがの音をずっと鳴らして、俺の青春を破壊した。俺の人生を破壊した。きちがいの意地が、きちがいすぎて、ほかの人にはわからない。張本人のきちがいは、きちがいだから、ほかの人よりもわからない。やっている本人が、まったくやってない人たちよりも、関係がない人のつもりでいるんだぞ。毎日やっていながら、そういう気持で生きている。そして、俺の人生を破壊していることを認めずに、普通に毎日、やりきる。自分がやりたい音で、やりたい時間、全部、やりきる。それが、不可避的に、ぼくの人生を汚染する。それが不可避的に、ぼくの人生を破壊した。これ、きちがい兄貴も含めて、みんなわかってないんだよ。「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。まあ、きちがい兄貴のことを考えると、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい……ということは、とばっちりだよな。そいつらが、悪いわけじゃない。しかし、あの時間の長さを無視するな。あの時間の長さを無視するな。全部、ほんとうに無茶苦茶にしちゃったよ。鳴ってなかったら、できることが、不可避的に、できなくなる。ヘビメタ騒音のことや、ヘビメタ騒音の影響を無視するやっは、「鳴ってなくたっておなじだ」と言うわけ。

●空想のストーリーを考え出して、A君をせめるのである■カルマ※2025/07/23 6:40

あんまり、書きたくないけど、書いておく。

虐待について書いたけど、いじめもおなじなのである。A君がいじめられたら、カルマ論者は、A君のたましいが、かつて、人をいじめたので、A君が、現世でいじめられたのだということになってしまう。

そういう空想のストーリーを考え出して、A君をせめるのである。

A君のたましいが、かつて人をいじめたというストーリーは、A君じゃなくて、カルマ論者が勝手に考え出したことなのである。神様が、カルマ論者に、じつは、こうなのだということを教えたわけではない。

精神世界の人は、実際に出来事がしょうじると、出来事の結果から、独自のことを言いだす。後出しジャンケンなのだ。

たとえば、引き寄せというストーリーをもっているものは、A君が、いじめを引き寄せたからダメなんだということを言いだすのである。

思ったことが現実化するというストーリーをもっているものは、A君が、いじめられると思ったからだめなんだということを言いだすのである。

言ったことが現実化するというストーリーをもっているものは、A君が「いじめられる」と言ったから、実際にA君がいじめられたのだということを言いだすのだ。

たとえば、B君が、A君のことが気に食わないという理由で、うしろから、A君の背中をぶったとする。そして、A君が「いたい」と言ったとする。

そうすると、言霊主義者は……A君が「いたい」と言ったから、実際に、いたくなる出来事が発生したと言いだすのである。

もちろん、引き寄せストーリーを信じている人は、A君が、ぶたれるという出来事を引き寄せたと考えるのである。実際に「起こったあと」に妄想的な原因を考えて、断罪するわけ。

「これはこうだ」と決めつけるわけ。

けど、妄想でしかないんだよ。

そして、言霊主義者は、自分がぶたれたときは、「ぶたれたから、いたくなった」と普通に思うわけ。言霊なんて出てこない。ぶたれる前に、「ぶたれる」と自分が言ったから、言霊の力によって、「ぶたれるということ」が現実化したとは考えないのである。

一〇円玉が落ちたときは、「一〇円玉が落ちた」と普通に考えることとおなじなのである。一〇円玉が落ちるまえに「一〇円玉が落ちる」と言って……言ってなくても言ったことにして……言ったから、言葉に宿っている言霊の力によって、一〇円玉が「実際に」落ちたとは考えないのだ。

他人事だと、いたいと言ったから、いたくなるという出来事が現実化したと考えてしまうのである。

そして、つねにそういうことをしているのに、まったく、疑問を感じないのだ。

この、矛盾無視回路こそが、幼稚な考え方の源泉なのである。

意識が、「言霊」に集中しないときは、「言霊」のことなんて、まったく考えないのである。自分が一倍速で体験していることは、実際に自分が一倍速で体験したことだから、順番がひっくり返ることがないのである。

順番というのは、出来事の順番だ。

自分の身に起こったことは、一倍速で体験したことなので、原因と結果をひっくり返して考える必要がないのである。



2025年7月23日水曜日

●カルマ理論を信じた人も、他人につめたくなるのだ■カルマ※2025/07/23 6:33

 もうひとつ指摘しておかなければならないことは、カルマ理論だけで、自己責任論になってしまうということなのである。

カルマ理論と自己責任論は、くっつきやすい理論だけど、カルマ理論だけで、自己責任論といえるものが成り立ってしまうのである。

たとえば、「前世でこれこれのことをしたから、現世でこれこれのことがしょうじている」ということを言った場合、けっきょく、前世でそのことをしたのは、その人なので、自分がやっていることが、かえってきているだけだから、自己責任論が成り立ってしまうのである。

ようするに、その人のたましいということを考えると、自分がやったことが、帰ってきているだけだから、自業自得だということになってしまうのである。たましいというレベルで考えると、不条理ではないというわけだ。

これは、悪魔の所業だ。

たましいという考え方を利用して、その人に対する虐待を正当化している。

その人のたましいがやったことなので、いま、虐待されても仕方がないということになってしまうのだ。

カルマ理論を信じる人たちは、みんな、いまやられている人間に、つめたい人間になってしまうのでる。理論的な必然として、そうなりやすい。等価だからね。

自分のたましいが、むかし人にやったことが、かえってきているだけ……。こう考えてしまうと、いまやられている人は、いまやられて当然だと思うようになってしまう。けど、カルマ理論が正しいなんて誰が言ったのか?

その人のたましいが、むかし、ひどいことをしたということを、どうやって、証明するのだ?

これ、あたかも、証明されたように考えてしまうのだ。そして、「今現在、やられていること」が証拠だということになってしまうのだ。

いま、虐待されているのであれば、たましいは、過去世において、ほかの人を虐待していた……ということになってしまうのだけど、それは、実際に、現世で「虐待された」ということによって、証明されたことになってしまうのである。

カルマ理論は、人々を奴隷にするために、あるいは、悪い人にするために、悪魔が流した理論だとする。そういうふうに考えると、じつは、つじつまがあうのである。カルマ理論を信じると、悪魔好みの、悪い人になってしまうのである。

カルマ理論は、等価性によって、自己責任論になるんだよね。特に、自己責任論をふりまわさなくても、自己責任論になっている。そして、明確な自己責任論とも、くっつきやすい。

自己責任論を信じた人は、他人につめたくなるのだけど、カルマ理論を信じた人も、他人につめたくなるのだ。特に、今現在、くるしんでいる人間には、つめたくなる。ようするに、環境が悪くて、こまっている人に、つめたくなる。

こいつらが、環境が悪くてこまっている人にすることは、助言なのだけど、その助言が、そのこまっている人を、さらにこまらせるのだ。そして、助言をしているほうは、いいことをしたと、ほんとうに思っている。

こういう事態をつくりだすことを逆算すると、カルマ理論は、適切な理論なのである。 

●きちがいだから、絶対に言うことを聞かない■騒音※2025/07/23 10:37

きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタを、きちがい的な音のでかさで、鳴らしたことから、すべてがはじまったのだ。ほかの人にはどうでもいいことだけど、俺にとっては、死ぬほどつらいことなのである。死ぬほどつらいことだったし、いまも、その影響で、死ぬほどつらい。基本的に、「なおっていない」のである。過去だから関係がないということにはならないのである。

きちがいヘビメタ騒音のハンディのでかさと言ったら、ほんとうに、人の一生を台無しにしてしまうものだ。きちがい家族のハンディがない人には、それがわからない。実際、一倍速で経験してみろ。きちがいだから、絶対に言うことを聞かない。きちがいだから、ほかの人が、家では絶対にやらないことを、普通にやってしまう。そして、きちがい親父の態度で認めないのである。認めないで、頑固にやりきることに命がかかっているのである。一秒だってゆずったら、腹がたって腹がたって憤死してしまうような状態なのである。しずかにするはずがないだろ。そして、平日は、学校から帰ってきた時間から、ちょっとの休み時間を抜かして、午後一一時一〇分まで鳴っているということが、僕の日常のすべてを破壊するのである。もちろん、ほんとうに、勉強なんてすることができないのである。あの中で……あの騒音のなかで……勉強しようとすると、その時間に、すでに覚えたことを忘れてしまって、普通なら、解ける問題も解けなくなってしまうのである。頭がこんがらがってそうなる。ずっと、発狂状態が、「騒音」で強制的に続くのである。どれだけつらいことか、みんなわかってない。 

「ひとごと」だと思って、好き勝手なことを言いやがって。普通の人が、ヘビメタ騒音の影響を無視して、言うことは、全部、腹がたつことだ。刺しちがえてもいいと思えるほど、腹がたつことだ。ぜんぜんちがうことなのである。普通人たちは、ぜんぜんちがうことを言う。実際に、一倍速で、家族にやられたらわかることなんだけど、やられたことがない人たちは、わからない。わからないで、適当にものを言っている。

これ、みんなわかってないんだよなぁ。実際に経験したら、どれだけつらいかわかってない。すべてのことが、ヘビメタ騒音で汚れてしまう。全部が、不可避的に影響をうける。あれだけ影響があることを、無視してやっている。やった。あれだけ影響があることなのに、影響がないと思って、ずっとずっとずっと、やった。こっちがどれだけ説明しても、きちがいがきちがいの感覚で鳴らしたいので……一秒も(ほんとうには)ゆずらずに鳴らしたいので、絶対の意地で鳴らし続けるのである。ほんとうに、毎秒毎秒、殺したかった。ずっと、持続して殺したかった。殺さないと、ぼくの人生がないのである。実際、殺せなかったので、ぼくの人生がない。 

ほんとう、普通の人だったら、「言われなくても」わかることが、何十万回言われても、わからない。きちがいモードではねのけたことは、言われたって、言われたことにならないのである。きちがいだから、そういうモードでやりのけることができる。そして、相手が言っていることは、まったく気にしないことができる。きちがいだからできることなんだよ。普通の人は、そもそも、あのでかい音で、鳴らそうとしないのだよ。頭のねじが一〇〇〇〇本ぐらい、本人にとってだけ都合がよいように、ぬけているから、できることなんだよ。ところが、ほかの人はそれがわかってないから、俺がおかしな人に見えるのである。俺が、宿題をやってこない、遅刻をよくするダメな人に見えるのである。こんなの、ない。そんなことがずっと、中学三年間、高校三年間続いていいわけがない。高校を卒業したら鳴り終わったわけじゃない。ずっと、おなじモードで鳴らしていた。

普通の人は、俺が言っていることがへんだと思うのだ。きちがい兄貴が、へんだから、きちがい兄貴について、正直に言うと、俺がへんな人だと思われるのだ。きちがい兄貴が、きちがいだから、きちがい的な感覚で、自分がやりたいことを押し通してしまうのに、俺がまるで、「交渉力がない」ように思われるのだ。こんなことが毎日続いていいわけがない。 

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがい親父と「おなじ」で、相手がこまっているということが、まったくわからないのである。悪意なく、ぬけているのである。相手がこまっているということを感じ取る脳みそがない状態なのである。相手が、自分のやっていることでこまっているということを、認める神経回路がないのである。だから、言われたあとも本人が、きちがい的な意地でやってしまって、なにも、感じないのである。やりたいことは、絶対の意地で、めちゃくちゃに、小さい量だってゆずらずにやることに、命がかかっているのである。だから、自分がやりたいことを、ほんとうに我慢しなければならないことは、感覚器のレベルで認めないのである。自分がやりたいときだけ、きちがい兄貴の聴覚が、おかしくなるのである。だから、まったく悪いと思わないまま、ずっと、きちがい的な迷惑行為をやり続けているのである。やり続けているけど、やり続けているあいだ、まったく自覚がないのである。自覚がないから「やってないのとおなじ気分」でいるのである。まったくやってないのと同じ認識が成り立っているのである。相手との関係も、「まったくやってない」のとおなじ認識が成り立っているうえでの相手との関係なのである。自分が意地になってやっていることは、全部抜け落ちてしまうのである。それで、きちがい兄貴は、きちがいなので、やり方が、普通じゃないのである。普通だったら、一日に二時間もやれば、あきるのに、すべての時間を絶対の意地で、一秒もさげずにやり通さなければ、気がすまない状態なのである。それが毎日、おなじテンションの高さで続くのである。きちがいだから、やり方も、きちがいじみているのである。もちろん、本人は、一秒も鳴らしてないときと、おなじ感覚なのである。一秒も鳴らしてないなら、となりの部屋の俺に(弟に)迷惑をかけているとは思わないわけだけど、そういうことが、一秒もゆずらずに鳴らしているのに、成り立っているのである。きちがいの頭のなかでは、一秒もゆずらずに、自分が好きなようにでかい音で鳴らした場合と、相手が言うように、一秒もでかい音で鳴らさなかった場合が、まったく、区別なくおなじなのである。本人は、きちがい的な意地ですべての時間をがめて、譲らずに鳴らしてしまうのに、本人の意識としては、まったくヘビメタを鳴らしていないときとおなじなのである。俺に対する感情がおなじなのである。自分がきちがい的な意地でやっていることは、すべてガン無視なのである。すべてガン無視だということは、まったくやってない状態と等価なのである。これが、どれだけ狂った感覚か、ほかの人にはわからない。ほかの人には、これが見えないのである。だから俺が、へんなことを言っているように思えるのである。普通の家族というものを想定して考えているので、「ちゃんと言えばわかってくれるよ」とか「家族なんだから、ちゃんと言えばわかってくれる」とかと言うのである。普通の人は、きちがい兄貴について、誤解をしている。そして、俺の話を聴いたあとも、本人の感覚が残っているので、誤解したままなのである。

●絶対に認めないことに、命がかかっている■騒音※2025/07/23 8:12

給湯器のことで、対応しなければならなくなるかもしれない。基本、親父がネズミを入れなければ、なんてことはないことなのだけど、ネズミを入れてしまった過去があると、けっこうきついものがある。そして、本調子ではない。足も完全に治ったわけじゃない。

片づかないんだよ。片づかない。

できれば、人をうちのなかに入れたくない。

外の工事だけで完了してくれ。

きちがい親父が、魚を出しっぱなしにすることに夢中にならなければ、こんなことになってない。普通に説明してわかる親だったら、こんなことになってない。「俺がネズミシートでつかまえるからいい」と、ネズミがはいってきてから捕まえる方法に、こだわりまくらなかったら、こんなことになってない。どれだけ説明しても、きちがいが発狂して、きちがい的な発言を繰り返すだけだ。そういうときの、部屋の空間というのは、いかんともしがたい雰囲気がある。ほんとうに、きちがい的なことを言って、絶対に認めないんだよなぁ。どれだけ、わかるように説明しても、絶対に認めない。絶対に認めないことに、命がかかっている。そういう意地で認めない。このときのきちがい親父の態度が、ヘビメタを鳴らしていたときのきちがい兄貴の態度と、いっしょなのである。

ぶっ殺すことをがまんするだけで、こっちのやる気がそげる。普通の状態で生活する気力がなくなる。ぶっ殺すことをがまんするだけで、うつ病になる。自殺したくなる。 


2025年7月22日火曜日

●はじまりはなにかというと、事実、虐待されたということなのだ■カルマ※2025/07/22 18:39

はじまりはなにかというと、事実、虐待されたということなのだ。

事実、虐待されたなら、なんらかの理由があるということになる。

その理由というのが、たとえば、カルマ論における前世のカルマだということになる。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、Bさんの父親だ。Aさんが、Aさんの性格にしたがって、幼児のBさんを虐待したとする。ほんとうは、別に、幼児であるBさんの責任ではないのである。

ところが、カルマ論者が、特殊な話を作り上げてしまうのである。

たとえば、じつは、Bさんは、前世で、Aさんの父親だった。そして、前世のBさんが、Aさんを虐待していた。だから、今世では、AさんにBさんが虐待されたることになったのだというような話を……でっちあげてしまうのである。

カルマ論においては、等価なものがあるはずだということになっているのである。

だから、現在、Bさんが、なにかひどいことをされているなら、それは、Bさんのたましいをもっている人が過去世において、実際にしたことなのだという……決めつけがある。

かならず、現世でひどいことをされたなら、過去世において、ひどいことをしているという、ある意味、平等な世界観があるのである。

平等と言ったけど、これは、等価だということだ。

ひどいことを現にされた人は、過去世において、おなじようなひどいことを人にしているということになる。過去世において人にしたことと、等価であるものを……現世で引き受けているという考え方なのだ。つまり、今度は、現世で人にされるという考え方なのだ。

だから、現に……まさしく、実際に……ひどいことをされた人は、過去世においてひどいことをした人だということになってしまうのである。

これは、仮想のスティグマだ。

じゃあ、ほんとうに、Bさんのたましいをもっている人が、過去世において、ひどいことをしていたのかどうかということは、まったくわからないのである。

カルマ論を信じている人が、勝手に、そういう物語を作り上げて、勝手に、Bさんのたましいに罪を着せているだけなのである。

はじまりはなにかというと、事実、虐待されたということなのだ。

●能力の問題ではなくて、性格の問題になってしまう■努力※2025/07/22 9:10

「努力をすれば成功する」という文も、カルマ理論のように、使われるのである。「努力をすれば成功する」という文があるために、能力で劣っていると、性格まで劣っているように言われるのである。

たとえば、ある能力において劣っている人がいるとする。それは、その能力において劣っているだけで、性格には関係がないし、人間の価値とも関係がないのである。

ところが、努力をすれば成功するという文があると、努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。ようするに、その点において能力で劣っているのは、その点において、努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。

その点において劣っているのは、いいことでも、悪いことでもないとする。

しかし、その点において、能力が平均以上になるように、努力をしないからダメなんだと決めつけられてしまう。

ようするに、その点において能力で劣っているということは、善でも悪でもないのだけど、努力をしないという悪い性質をもっているということにされてしまうのだ。

努力をすれば、成功するのだから、能力を高める努力をすれば、能力を高めることに成功するはずなのである。つまり、能力は高くなるはずなのである。

けど、低いままでいる。高くない。

だったら、能力を高めるための努力をしないでさぼってるということになってしまうのである。努力をすれば、その点における能力を高めることができるのだから、能力が低いままなのは、当然するべき努力をしていないということになってしまうのである。

だから、ただ単に、その点において能力がないということが、悪いことになってしまうのである。

なんでなら、努力をしてないからだ。

努力をしないのは悪いことなのだ。

だから、悪い性質をもっているということになってしまう。

努力をしないような悪い性格だから、能力が低いままなのだということになってしまうのである。ようするに、性格の問題になってしまうのである。

ただ単に、その点において能力が(人よりも)劣っているだけなのに、性格が悪いから、劣っているのだということになってしまう。

その点において能力が(人よりも)劣っているだけなのに、努力をしないという悪い性質をもっているということになってしまうのだ。ここにおいて、能力の問題が、性格の問題に書き換えられてしまうのである。

たとえば、計算能力が人よりも低い人がいるとする。これは、能力の問題なのだ。そして、計算機を使えば、おぎなうことができることだ。性格は関係がないのである。

ところが、「努力をすれば成功する」ということになっていると、計算能力をあげるように努力をすれば、計算能力はあげられるということになってしまう。計算能力が劣っているのに、計算能力をあげようと努力しないからダメなんだということになってしまうのである。

計算能力をあげるように努力すれば、だれもが、計算能力をあげることに成功する(はずである)という前提が横たわっている。しかし、このような前提は、ないことになっているのである。

そして、計算能力をあげるように努力すれば、だれもが、計算能力をあげられるのに、特定のあの人は、努力しないから、計算能力があがらないということになってしまうのだ。

だから、能力の問題ではなくて、性格の問題になってしまう。

努力しようとしない性格が問題なんだということになってしまう。努力をしないような性格は、悪い性格なのだ。これも、暗黙の前提として成り立っている。

だから、「努力をすれば成功する」というような文が正しい文だ思われていると、能力の問題が、性格の問題になってしまうのである。

能力の問題は、じつは、善悪を含まない問題なのだけど、性格の問題になってしまうと、善悪を含む問題になるのである。

だから、能力がない人は、悪い性格だということになってしまうのである。あるいは、悪い性質をもった人だということになってしまうのである。

 

2025年7月21日月曜日

●一倍速で、たたられてないから■騒音※2025/07/21 19:13

ヘビメタ騒音で、自己紹介ができなくなり、いろいろなところで、チャンスを逃してきた。きちがいヘビメタ騒音の毎日の繰り返しなんて、わかるわけがない。

一倍速で、実際に経験しないと、どういうふうに、たたるのかがわからない。

わからなければ「そんなのは関係がない」のひとことですんでしまう。

自己紹介というのは、履歴の開示でもある。

きちがいヘビメタが毎日、鳴っていたということは、履歴の開示ができなくなるということなのである。

必然性というものが、わかっないんだよな。一倍速で、ずっとたたられたら、どれだけ自分をはげましたって、だめになる。

どうしてかというと、一倍速でたたられたからだ。

精神世界的なことを言う人たちや言霊みたいなことを言う人たちは、ほんとうは、不可避的にダメになる過程というのが、わかってない人たちなのだ。

つまり、ずっとたたられたことがないということだ。

必然性というものがわかってない。不可避性というものがわかってない。ほんとうに、くちだけ番長なのである。わかってないから、言えることなのである。

彼らにしてみれば……経験していないのだから……『きちがい兄貴とやら』の騒音が、そんなに影響をあたえるとは思えないのである。

「そんなのはたいしたことがない」と勝手に考えることができることなのだろう。

一倍速で、たたられてないから……。

一倍速でたたられたことがないから、どういう生活になるかわかってない。どれだけがんばっても、影響をうけるということがわかってない。その影響のでかさが、自分のからだで、自分の生活の中で、わかってない。

だから、妄想的なことを言える。

言霊理論は、妄想理論なのだけど、言霊主義者が、言霊理論は妄想理論だとみとめることがあるかというとないのだ。そりゃ、認めていたら、言霊主義者じゃなくなるだろうからな。

*     *     *

日常のどうしようもなさが、わかっていない。

「元気だ元気だ」でのりこえられるはずがないだろ。「元気だ元気だ」でのりこえてきたやつは、実際には、ぼくが経験したようなことを経験してないと言える。

絶対に、そんなことは、言えなくなる。「どんだけつかれていても、元気だ元気だと言えば元気になる」……こういう発言をするやつが経験したつかれなんて、たいしたつかれじゃない。

毎日、ずっと続くということがわかってないんだよね。毎日、ずっと続いたらどうなるかというとが、ぜーーんぜん、わかってないのだよ。そういうレベルのつかれしか経験していない。

だいたい、「つかれ」とひとくちに言っても、つかれの種類がある。きちがい兄貴のきちがい騒音で発生したつかれは、普通の「つかれ」とはちがう。ちょっとした残業のつかれといっしょにするな。

悪質なつかれというのが、ほんとうにわかってないなぁ。

対処できるわけがないだろ。

特に、言霊的な対処でどうにかなるものではないのだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」「できると言えばできる」……これが、どれだけ破壊的な言葉かわかるか?

わからないだろう。わからないよな。

わからないから、言っている。正しいと思って言っている。

ぜーーんぜん、ちがうということ、気がついていない。

つかれのつかれがちがうんだよ。


●たいていの人の身の上には発生しない問題なのだ■騒音※2025/07/21 1:33

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な騒音を出す。きちがい的な感覚でやっているので、でかい音だということを認めない。

この、ほんとうなら、きちがい兄貴にだってわかることを、認めないというのが、そもそも、腹がたつことなのである。はじめのうちは、聴覚が正常なので、「でかい音で鳴らしている」ということは、絶対に認めなければならないことなのである。

本人が、聞きたくない音を、「あの音のでかさで」聞かされたら、本人は、一秒で腹をたててしまうのである。そういう音のでかさで鳴らしている。ところが、きちがい感覚で、「自分は普通の音で鳴らしている」と思い込んでしまう。そう思い込んで「絶対の意地」で「どでかい音で鳴らす」のだ。だから、認知のゆがみが最初からあるのである。その認知のゆがみは、きちがい兄貴にとってだけ、都合がいい……認知のゆがみなのである。

そして、こういう家族がいない人は、こういう家族に、こういうことを、やられることがないのである。感覚器を書き換えて、自分がやりたいことを(無認識のまま)押し通してしまう人というのは、そんなにいるわけではないのだ。

そして、それが「騒音」という分野で発揮されることも、めずらしいことなのだ。きちがい兄貴が、感覚器を書き換えて、自分がやりたいことを(無認識のまま)やり通してしまうような性格をしていたとしても、きちがい兄貴が、「でかい音で鳴らすこと」に興味がなければ、それで、その性格の問題は、きちがいヘビメタ騒音問題には発展しなかったのである。

ようするに、もともと、そういう性格だったにしろ、きちがい兄貴が、ヘビメタという音楽分野に興味を持って、その音を、本人の耳が悪くなるほどでかい音で鳴らそうと思わなければ、問題にはならなかったのである。

ぼくは、きちがいヘビメタにやられて「勉強することができない」状態にならなかったのである。

けど、こういうことは、理解されにくいのである。どうしてなら、ほかの人の身の上には、発生しないことだからだ。ごく少数の人の身の上には発生したのだろうけど、たいていの人の身の上には発生しない問題なのだ。

だから、普通の人は、まず、ぼくの状況について、まちがった認識をもちやすい状態なのである。そして、それは、「ひとごと」なので、なんとだって言える状態なのだ。自分だって、おなじ状況なら「勉強することができなくなる」としても、実際に、おなじ状況にならないので「勉強することができなくなる」ということは、自分の身の上には発生せず、ひとごとの問題として「聞くだけ」になる。

話に聞くだけの問題なのである。

そして、騒音は、たいていの人が、経験したことがあるので、エイリが経験しているきちがい兄貴とやらの騒音も、自分が経験した騒音と大差がないと、思ってしまうのである。

だから、基本的に、「勉強することができなくなる」ということは、認めないのである。

そして、言霊主義者は、「できないと言うから、できなくなる」というきちがい的な理論を信仰しているので、「できなくなると言うから、できなくなる」ということを、ぼくに言ってくることになる。

これは、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ほかの家では鳴らせないようなでかい音で(自分が好きな)音楽を鳴らさなければ、発生しなかったことなのである。言霊主義者は「ヘビメタ騒音」で「勉強することができなくなった」ということを認めていない。「できない」と言ったから「できなくなった」と考えているのだ。

これ自体が、ぼくに対する冒とくなのである。

けど、言霊主義者は、そんなことは考えない。言霊理論は正しいと思っているので、「できなくなると言うから、できなくなる」という自分の考えに自信をもっているのである。

つまり、エイリの場合も、エイリが「できない」と言うから「できなくなったのだ」と考えているのだ。ほんとうに、冒とく。勘違いの、きちがい発言。この発言は、ぼくにとっては、猛烈に腹がたつ発言なのだ。

もう、そこで対立が発生している。言霊主義者が「エイリさんができないと言うから、できなくなったのだ」という考えを、ひるがえすということはない。

ぼくが、どれだけ、言霊理論の矛盾について説明しても、たいていの言霊主義者は、認めない。ぼくの経験の範囲で言うと、ほんとうに一〇〇%の言霊主義者が、認めなかった。

2025年7月20日日曜日

●現実の格差を覆い隠し、現実の格差で優位なものを引き上げてしまう■言霊※2025/07/20 14:55

言霊思考というのは、現実の格差を覆い隠し、現実の格差で優位なものを引き上げてしまうのである。ブーストしてしまうのである。

ようするに、格差をひろげるものとして機能してしまうのである。

選挙について言ったけど、選挙というのは、まさしく、格差の象徴のようなものだ。おカネと地盤……。どこの家に生まれたかで、選挙に勝てるかどうかということが、だいたい決まってしまう。

もちろん、知名度もあるけど、知名度に関しても、格差がある。

Aさんと、Bさんがいたとする。Aさんは、有名政治家の息子だ。Bさんは、貧乏人だ。Bさんは、選挙に出ることすらできない。カネがないということは、出馬できないということなのである。

カネをつくろうとすると、いろいろなところに、借りができる。自分がやりたいことと、カネを出してくれた人が、自分にやらせたいことが、完全に一致しているのであれば問題は小さいけど、完全に一致しているのでなければ、大きな問題が発生する。

そして、最低限の出馬費用だけではなくて、おカネの差は、選挙結果に影響をあたえる。Aさんが「選挙に勝つ」と言ったとしよう。そして、Bさんも「選挙に勝つ」と言ったとする。

言霊理論にしたがえば、両方とも勝つはずなのである。しかし、Aさんは選挙に勝ったけど、Bさんは選挙に負けたとする。Aさんは、衆議院議員になったけど、Bさんは衆議院議員になれなかったとする。

この場合、言霊主義者は、どのように判断するかというと、Aさんの言霊の力のほうが強かったと判断してしまうのである。

だから、現実の格差を覆い隠し、現実の格差で優位なものを引き上げてしまうことになるのである。言霊主義者の頭のなかでは、Aさんの言霊のほうが強かったから、Aさんが勝ったということになってしまうのである。

生まれた家の差とかおカネとかの差が、「言霊力」の差に置き換わってしまうのである。

強い言霊力をもっているAさんのほうが、弱い言霊力しかもっていないBさんよりも、人間として優れているということになってしまうのである。言霊主義者の頭のなかではそうなってしまうのである。

そして、Bさんも「選挙に勝つ」と言ったことは、無視されてしまうのである。

言霊理論が正しいのであれば、「選挙に勝つ」と言ったのだから、選挙に勝つはずなのだ。

ようするに、「選挙に勝つ」と言ったBさんが選挙に負けたということは、言霊理論が正しくないということを、意味しているのである。

もちろん、言霊主義者は、そのことを、無視する。言霊理論に合致しない現実は、無視してしまうのである。だから、いつまでも、いつまでも……言霊主義者の頭のなかでは「言霊理論は正しい」ということになっているのである。

●「一分以内に、内閣総理大臣になる」■言霊※2025/07/20 7:00

たとえば、ある言霊主義者がいたとする。かりに、Aさんだとする。Aさんは「どの政党に投票するかまよっている」のである。

けど、これもおかしな話だ。

言えば、言ったことが現実化するので、政治家が決めることは、言ってしまえば、それで現実化してしまう。Aさんは、言うだけで、すべての政治的な決定をすることができるのだ。

だって、Aさんは、言うだけで、いかなることも現実させることができるので、言えばいいということになる。

Aさんがある政治家について文句を言っていたとする。文句を言う必要なんてないのだ。自分が、政治家になってしまえばいい。

政治家になるのは簡単だ。

「一秒以内に、自分が政治家になる」と言えば、政治家になれるのである。

「一分以内に、内閣総理大臣になる」と言えば一分以内に、内閣総理大臣になれるのである。

それどころか、「世界皇帝」というものを考えて、自分がその「世界皇帝」になると言えば、言っただけで、「世界皇帝」になれるのだ。「世界皇帝」の権力も、好きに決めることができる。あらゆる政治的決定をすることができるのだ。

それも、「言うだけ」で、あらゆることを決めることができる。

だってそうだろ。

「言えば言ったことが現実化する」のだから……そうなる。

言霊主義者が「あの政治家は、ここが悪い」とか「どの政党に入れるかどうか迷う」とか「自分は、投票をするので、自分の責任ははたしている」とかと言うことは、おかしなことだ。

普段、「言えば、言ったことが現実化する」と言っているけど、実際に自分が国会議員になることを考えると、途端に、現実的なことを考えるようになるのである。「言えば、言ったことが現実化する」のだから、国会議員になるのも簡単だろう。そして、別に、国会議員にならなければ、政治的な決定ができないわけでもない。言えば、言った通りになるのだから、政治的なことも、すべて自分で決めてしまえばいい。言霊にはものすごい力があるのだから、そのくらい、簡単にできる。

「今日から、こういう制度にする」と言ってしまえば、それで、言った通りの制度になる。別に、国会議員になる必要もない。 

●人間のからだに備わったしくみをこえて、「言葉の力」が機能するということはない■騒音※2025/07/20 2:06

 言霊主義者は別に、悪い人じゃないのだけど、なかが悪くなるようにできているのだ。どうしてかというと、ほかの人たちにはしょうじない、きちがい的な騒音がしょうじたからだ。

あの騒音生活は、ほかの人たちにはない。

ほかの人たちに、騒音体験があったとしても、あの騒音生活は体験していない。だから、話がズレてしまう。基本的に、言霊主義者は、ぼくに、むりなことを言ってくる。

しかし、言霊主義者は「むりなこと」を言ったつもりがないのだ。

どうしてかというと、家族が原因であるような、しつこい、騒音を経験したことがないからだ。騒音は経験したことがあるけど、きちがい家族による騒音は経験したことがないのだ。

ようするに、実際に経験したことがないので、「できなくなる」ということが、わかってない。わかっていないから、できるつもりでいるのだ。

もちろん、ヘビメタ騒音がなければ、俺にだってできることが多い。

けど、ちがうのだ。

騒音のなかで勉強することも、きちがい兄貴のやり方で、きちがい兄貴の感覚で鳴らすのではなければ、できたのだ。幼稚園の騒音、工事の騒音ならできた。

けど、手を伸ばせば、とどきそうな距離にあるスピーカーから、ずっと長い時間鳴っている状態の騒音は経験したことがなかったのだ。あの騒音のレベルは、普通の騒音のレベルをこえているのである。

そして、そういう、常識はずれな騒音を、ゆるしてしまうような環境が、うちにはあった。この環境も、ほかのうちには、ないものなのである。

言霊主義者だって、おなじことを、経験すれば、「できなくなる」のだ。けど、言霊主義者は「できなくなる」ということがわかっていない。自分ならできるつもりなのだ。だから、「むりなことをいっている」つもりがない。

 言霊主義者が、言霊を信じてしまうのは、幼児的万能感が強いからだ。幼児的万能感が抜けきっていないのである。

だから、「矛盾」にも気がつかない。

自分が一〇円玉を落としたとき、普通に一〇円玉が落ちたと思ってしまう。「一〇円玉が落ちる」と言わなかったのに、一〇円玉が落ちるということが現実化したということに、気がつかない。あたりまえだと思ってしまう。

じつは、「言えば、言ったことが現実化する」という考え方が正しいなら、これは、あたりまえではない。

言霊主義者は、たとえば、自分が「明日は雨になる」と言ったあと、雨になったら、言霊理論は、正しいと思ってしまうのだ。

しかし、言霊の力によって、雨になったわけではないのである。

自分が「明日は雨になる」と言った。だから、「明日は雨になる」という言葉に宿っている言霊の力が「雨を降らせた」と思ってしまう。けど、言霊の力によって、雨になったのではないのだ。

たしかに、「明日は雨になる」という言葉を発したあとに、雨になった。これは、言ったあとに、現実化した?にすぎない。言ったからではなくて、言ったあとなのだ。

もうひとつの例をあげておこう。たとえば、自分が「元気だ元気だ」と言ったら、「元気になった」とする。言霊主義者は、だから言霊理論は正しいと思うわけだけど、これも、じつは、ちがう。

これは、人間のしくみで、元気になったような気がしただけだ。言葉は、人間に影響をあたえるのだ。

けど、これも、言葉の力であって、言霊の力ではない。

人間の「体のしくみ」によって、暗示をうけただけだ。「気合を入れる」というようなことを言うけど、気合を入れるには、まず、言葉の意味を理解していなければならないのである。言葉による暗示はある。

しかし、それは、何回も言うけど、言霊の力ではない。そして、注意しなければならないのは、ストレス対抗期間内のことだということだ。人間のしくみに依存することであって、なおかつ、ストレス対抗期間内のことだと、「そういう気分になる」ことがあるということだ。

「元気になったような気がする」わけだ。

けど、ほんとうに、体がつかれているときは、どれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。

言霊の力で元気になっているわけではなくて、暗示の力で、元気になったような感じがしているだけだからだ。ストレス対抗期間内だと、体がむりをして、言っていることに対応しようとする力がある。これも、体のしくみによるものだ。

だから、この手の例で語られることは、ストレス対応期間内に、体のしくみをとおして現実化できるものでなければならないのである。

そして、自己申告制なのである。

「元気が出たような気がする」と自分が思ったということや「楽しくなったような気がする」と自分が思ったということにかぎられるのである。しばらくのあいだ「眠気がふっとんだような気がした」だけなのだ。ずっと、一生涯、眠らないなんてことはできない。

言霊の力で眠れなくても平気な体を手に入れたわけではないのだ。「自分は眠らない」と言えば、一生、言霊の力で、眠らずに生きることができるかというと、できないのだ。

一時的に、「眠気がふっとんだような気がする」だけだ。

これは、ストレス対抗期間内の出来事なのだ。人間のからだに備わったしくみによって、現実化されているだけだ。

だから、人間のからだに備わったしくみをこえて、「言葉の力」が機能するということはないのだ。「人間からだ」に備わったしくみによって、「眠気がふっとんだような気がする」だけなのだけど、言霊主義者は、これを「言霊の力だ」と誤認してしまうのである。

もし、言霊の力で「眠気がふっとんだような気がする」ということが現実化したのであれば、言霊の力によって、「一生涯、眠らなくてもすむ体」を手に入れることだってできるはずなのだ。ところが、「眠気がふっとんだような気がする」を手に入れることはできるけど、「一生涯、眠らなくてもすむ体」を手に入れることはできない。

言霊主義者が、「眠気がふっとんだような気がする」状態を言霊の力で手に入れたと思い込んでいるだけなのだ。実際には、言葉の力で、「眠気がふっとんだような気がする」状態を手に入れただけだ。そして、それは、「体のしくみ」によって成り立っているのである。「体のしくみ」が対応できないことは、どれだけ言っても、できないのだ。「体のしくみ」が対応できないことに関しては「言ったことが現実化する」わけではないのだ。言霊の力によって言ったことが現実するわけではないので、言ったって、言った通りにはならない。

ところが、言霊主義者は、「言い方が悪かったから、うまくいかなかっただけだ」と思ってしまうのである。誤解の上に、誤解を重ねている。 

 

2025年7月19日土曜日

●まずここに、普通の人とぼくのちがいがある■騒音※2025/07/19 18:59

きちがい兄貴が、普通の人にはないしくみをもっていて、普通の人がやらないことをやってしまったのである。だから、これは、もともとは、きちがい兄貴の問題なのだ。しかし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の不思議な感覚で、ものすごくでかい音で騒音を鳴らすことによって、騒音の影響をうけたのは、ぼくなのだ。そして、証明することはできないけど、きちがい兄貴のやり方で、騒音を鳴らすなら、横の部屋に住んでいる人は、影響をうけるのだ。ぼくと同じレベルの影響をうけて、ぼくとおなじ症状がしょうじる。けど、きちがい兄貴の感覚が、きちがい的な感覚なので、兄貴限定であって、うち限定であったの。よその人も、おなじことをやられれば、おなじように、被害をうけたのに、よその人は、おなじことをやられなかったので、被害をうけなかったのだ。まずここに、普通の人とぼくのちがいがある。

きちがい兄貴がやったことは、普通の人が「長期間にわたって」経験しないことなのである。騒音といったって、騒音生活といったって、きちがい兄貴のやり方が、きちがい的だから、普通のうちではありえないことなのである。普通のうちでは、絶対に経験しないことなのである。けど、騒音ぐらいだれだって経験したことがある。つかれだって、経験したことがある。憂鬱な状態だって、経験したことがある。遅刻しそうになったときの気分は、経験したことがある。眠れない夜をすごした経験は、だれだってある。寝不足で、動いた経験は、だれだって、ある。だれだって、ある。だれだって、経験したことがあることなのである。けど、家族の騒音によって、不可避的にそのすべての状態を「毎日毎日」ずっと経験した人は、少ないのである。きちがい兄貴の狂い方が、普通じゃないので、普通の人が経験しないことを、ぼくは、十数年間にわたって経験してしまったのである。その十数年間の、しんどい状態は、少数の人が経験したことなのである。しかも、「家族」によって、それが引きおこされた人なんて、ぼくしかいないのではないかと思えることだ。普通の人は、きちがい兄貴のことを理解しないけど、きちがい親父のことも理解しない。だから、「家族で話し合えばいい」「家族なんだから、ちゃんと言えばわかってくれる」「そんなの、お兄さんに言えば、解決することだろ」と言うのである。けど、それがちがうのだ。

こういうところに、基本的なずれがあるから、普通の人は、普通に考えてぼくのことを悪く言うのである。そして、たとえば、うつ病的な鬱や慢性疲労症候群患者のような疲労や、どうすることもできない睡眠障害というのは、ほかの人から見て、「ダメな」特徴なのである。それぞれ、俺だって憂鬱なときはある……俺だってつかれてい……俺だって眠たいときはある……というように、みんながある程度経験していることなのだけど、程度がちがうのである。深さがちがうのである。そして、ほかの人がある程度経験していることの……根本原因が、きちがい家族によるものではないのである。俺だって、親父のことを横に置くなら、きちがい兄貴がヘビメタをやるまでは、普通の憂鬱、普通の疲労、普通の眠たい状態しか、経験したことがなかったのである。

ぜんぜんちがうのだけど、ちがいがわからない。普通の人は、普通の普通の憂鬱、普通の疲労、普通の眠たい状態しか経験したことがないので、きちがい家族によってしょうじる、きちがい騒音にさらされているからこそしょうじる憂鬱、きちがい騒音にさらされているからこそしょうじる疲労、きちがい騒音にさらされているからこそしょうじる眠たい状態を経験したことがないのである。だから、わかっていないのである。わかってない。わかってない。

そうなると、文句を言うようになるのである。基本的に、きちがいヘビメタ騒音生活というのは、ほかの人に文句を言われやすい生活なのである。 

●「むりなことを言ってくるな」と言い返さなければならなくなる■騒音※2025/07/19 2:23

「けど、じゃあ、だったら、言霊主義者に話を合わせてあげればいいじゃない」と思う人がいるかもしれない。

ヘビメタ騒音が、ぼくの人生のなかで、なかったら、それでいいのだけど、ヘビメタ騒音が、ぼくの人生のなかで、あったので、それではだめなのだ。

言霊主義者は、幼児的万能感に支配されているので、「できると言えばできる」「眠れると言えば眠れる」「元気だと言えば元気になる」「つかれたというからつかれる」「つかれないと言えばつかれない」「楽しいと言えば楽しくなる」と言ってくる。

これが……きついことなのだ。

言霊主義者は、きちがい家族にやられることなく、普通に暮らしているから、そういう精神状態を維持できるだけなのだ。

しかも、「自分だって困難を経験した」「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、困難、苦労、騒音という言葉で表現されているものが、均一化、同一化されてしまう。

これは、仮の話なのだけど、ぼくとおなじ騒音か、あるいは、ぼくの経験した騒音と同レベルの騒音を経験したということになってしまう。

自分だって経験した……。

自分だって困難、苦労、騒音を経験したという前提で……「楽しいと言えば、どれだけつらいときも、楽しくなる」と言う。「元気だと言えば、どれだけ、つかれていても、元気になる」と言う。

「元気になると言ったって元気になるとは限らない」「楽しくなると言ったって、楽しくなるとは限らない」ということは、最低でも言わなければならなくなる。

むりなことを言ってくるから、「むりなことを言ってくるな」と言い返さなければならなくなるのである。

ヘビメタ騒音にやられて、くるしかったので、「話を合わせてあげる」余裕はない。 

●問題なのは、ぼくに対して「うらみ」がしょうじるということだ■騒音※2025/07/18 20:10

たとえばの話だけど、ぼくが、言霊理論の批判をしたとする。

そうすると、言霊主義者は、ほとんどの人が腹をたてるわけだ。「なんだ、このやろう!!」「言ったことが現実化する」「これが正しい」「ふざけるな!!」と思うわけ。

自分がこころから信じていることを、否定されると、不愉快な気持になるということは、いちおう、わかる。

けど、理論的には、ぼくが言っていることが正しい。

理論的なことは理論的なことなんだよ。

たとえば、うちの兄貴やうちの親父が、普通の兄貴や普通の親父とはちがうということは、事実だけど、それを信じない人は、理論的にまちがっているわけではないんだよ。経験的にまちがっているけど、理論的にはまちがっているとは言えないんだよ。

けど、「言えば、言ったことが現実化する」というのは、理論的にまちがったことなんだよ。

だから、言霊理論に関しては、もう、結果が出ているんだよ。

けど、言霊主義者は理論的なことは無視して、自分が信じたいことを信じているわけ。妄信。妄想的な信仰。

まあ、信じていると言ったって、「一〇円玉を落とした場合は、一〇円玉が落ちた」と思うわけ。「一〇円玉が落ちると言ったから、一〇円玉が、言霊の力によって、落ちた」とは思わないわけ。

だから、信じていると言ったって、自分のなかで、気分的に信じたいときだけ信じているわけ。自分のなかで、言霊なんて関係がないと思っているときは、言霊なんて関係がないと思っているわけ。言霊が意識にのぼっていないときは、言霊的な考え方が、みじんも、自分の頭のなかに浮かばないわけ。

ともかく、問題なのは、ぼくに対して「うらみ」がしょうじるということだ。

自分が信じていることを批判されたので、ぼくに対して、うらみの感情がしょうじるのである。だから、ぼくが、たとえば、失敗すると、「ざまあみろ」と思うわけ。「精神世界だ」「道徳だ」「倫理だ」と言ってたって、しょせんは、人間は、こういうところがあるわけ。

精神世界の人は、「すべては受け止め方の問題だ」なんて普段は言っているけど、言霊理論を批判されたら、「受け止め方をかえよう」としないで、おこるわけだよ。

ちなみに、「言ったことが現実化する」のであれば、ぼくが「一秒以内に、すべての言霊主義者は、ぼくが言霊理論について言ったことを、正しいと認める」と言えば、一秒以内に、すべての言霊主義者は、ぼくが言霊理論について言ったことを正しいと認めるはずなんだよ。

逆に、ある言霊主義者が「一秒以内に、エイリさんは、言霊理論を正しいと思うようになる」と言えば、「一秒以内に、ぼくが、言霊理論を正しいと思うようになる」のだ。

どっちが言っても、考え方が平行線をたどるのであれば、言霊理論が正しくないということなのだ。

言霊理論にしたがえば、「言っただけ」で、ほかの人の考え方をがらっとかえることができるのだ。

まあ、今回言いたいのは、言霊理論を批判してしまうと、多くの言霊主義者から、うらまれるということだ。 

2025年7月18日金曜日

●きちがい兄貴ときちがい親父のことについて、正確に考えることができない■騒音2025/07/18 16:43

 なんか、いろいろと、つまらない。おかしいな。どうしてつまらないんだろう? あたりまえか? そうだよな。つまらなくて当然だ。ぼくの人生になにが起こったかと言うことを考えると、つまらなくて、当然だ。それにしても、きちがい兄貴のやり方が、きちがい感覚に基づいたものだから、普通の人にはありえないことなのである。だから、きちがいか感覚で騒音を鳴らし続ける家族と一緒に住んだ人じゃないと、わからない。わからないところがあるのだ。実際に、きちがい的な感覚で、きちがい騒音を鳴らし続ける家族と一緒に住んでいない人は、わからない。そして、きちがい兄貴以外の家族も、普通の人はちがう感覚の持ち主なのである。これがやっかいなところなんだよな。だから、普通の人は「そんな音で鳴っているんだったら、絶対に家族が文句を言う」と思ってしまう。「家族が文句を言わなかったのであれば、エイリさんの妄想だ」と思ってしまうのである。あるいは「たいした音で鳴ってなかったのに、エイリさんが大げさに言っているだけなんだ」と思ってしまうのである。この人たちの常識は、わかるけど、家族全員が……ぼく以外の家族全員が普通の人とはちがった感覚をもってる場合だってあるのだ。おかあさんは、きちがい兄貴の音が異常だということはわかったけど、おかあさんが言うことを、きちがい兄貴は、きちがい親父のように無視するのだ。当然、ぼくの言っていることも、きちがい兄貴は、きちがい親父のように無視する。そして、普通の人たちは、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父に関しても、理解がないのである。普通の常識をもっている人たちが、考えられないような性格をしているのである。きちがい兄貴ときちがい親父が、常識外の人間なのである。だから、ごく自然に、常識的な人は、きちがい兄貴ときちがい親父のことについて、正確に考えることができないということになる。そりゃ、常識的な人がもっている感覚では、普通の人は、こういうふうに感じて、こういうふうに行動するのだから、そんなのは、おかしいと思うのだ。これが、きついところだ。

 

2025年7月16日水曜日

●普通の人にはそんなことがしょうじないのである■騒音※2025/07/16 13:10

特殊な条件を背負っている人は、特殊な条件によって、特殊なハンディがしょじてしまうのである。その特殊なハンディというのは、ほかの人にはないハンディなのである。

だから、ほかの人は、経験したことがないハンディなのである。

けど、ほかの人だって、そりゃ、苦労をしている。言霊主義者は、苦労するはずがないのだけど、なぜか、言霊主義者も、みんな、「自分だって苦労した」と言う。おかしな話なのだけど、本人は、気がつかない。

「言えば言ったことが現実化する」なら、なんの悩みもないはずだ。

言えば解決してしまうからだ。最初に「これ以降、一切合切、苦労しない」と言ってしまえば、一切合切、苦労しないのである。言えば、言ったことが現実化するのだから、そうなる。

なんでも、思った通りだ。

自分が思ったことを言えば、それで、自分が思ったことが現実化する。言ったことが現実化するのだから、そうなるのだろう。

ところが、言霊主義者が「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言いやがる。なんなんだ? こいつら?

ともかく、、特殊な条件によって、特殊なハンディがしょうじてしまった人のことは、普通の人は理解できないのである。どうしてかというと、特殊な条件がないからだ。特殊な条件が、そのハンディをしょうじさせるのである。

だから、これは、一般的な「苦労」とはちがうことなのである。一般人が感じる苦労と、特殊なハンディが生じてしまった人が感じる苦労はちがうのである。

けど、「苦労」という抽象的な言葉を使うと、その苦労という抽象的な言葉には、必然的に「特殊な苦労」も入ってしまうのである。なので、一般人が、普通に「自分だって苦労した」と言った場合の苦労という言葉には、特殊な苦労も入ってしまっている。

しかし、これまた、一般人が、その言葉を発しているときに、そのことを理解しているかというと、理解していないのである。

さらに、「自分だって苦労した」と言った人が、落ち着いているときに、「自分だって苦労した」と言った人に、ぼくが説明しているようなことを、説明すれば、「自分だって苦労した」と言った人が納得してくれるかというと、そうではないことのほうが多いのだ。

ようするに、興奮しているときは、さけて、落ち着いているときに言ってもむだだということだ。

自分の経験の範囲で言うと、「自分だって苦労した」と言った人は、みんな、納得してくれなかったのである。

みんな、「自分だって苦労した」と言って、苦労を抽象化したままだ。これは、特殊なハンディがしょうじている人の特殊な苦労も、自分は経験したことがあると言っているのとおなじだ。

ところが、実際には、経験していないのである。

だから、特殊な苦労の特殊性がわからないし、特殊な苦労が、なにをもたらすかわからないのである。きちがい家族にたたられて、きちがい家族の行為が原因で、慢性疲労症候群のような疲労を経験している人は、限られているのである。

普通の人にはそんなことがしょうじないのである。

きちがい家族の行為が原因で難治性の睡眠障害になった人もおなじである。きちがい家族の行為が原因で、うつ病になった人もおなじである。普通の人には、きちがい的な家族がないので、きちがい家族にたたられるという苦労が存在しないのである。

しかし、「自分だって苦労した」という言葉には「きちがい家族がもたらす苦労」も「苦労」として入ってしまっているのである。抽象的な「苦労」という言葉の持つ意味が、ちがってしまっているのである。

けど、たいていの人は、そのことに気がつかない。

気がつこうともしない。

「苦労の内容がちがうんだ」と言われれば、「自分だって苦労した」と言って、腹をたててしまうのである。

しかし、実際に、普通の人には、きちがい家族が原因である「慢性疲労症候群のような疲労」も、きちがい家族が原因である「難治性の睡眠障害」もきちがい家族が原因である「うつ病」もしょうじていない。しょうじていないから「説教」ができるのである。

 「慢性疲労症候群のような疲労」「難治性の睡眠障害」「うつ病」もしょうじていないから、普通に朝、起きて、通勤して働くことができるのである。そりゃ、普通に朝、起きて、通勤して働くことは、つらいことになる場合がある。たいていの場合はつらいことになるだろう。

まあ、言霊主義者は、言っただけで、そのつらい状態を消し去ることができるし、思霊主義者は、思っただけで、そのつらい状態を消し去ることができる。

「すべては思いようだ」と考えている人は、「すべては思いよう」なのでつらいと思わなければ、それで、つらくない状態に移行できる。いいじゃないか。はっはっは。グッドグッド……。君たち、グッドだねーー。

だったら、言霊主義者、思霊主義者、「すべては思いよう」だと思っている人は、苦労なんてしてない。言えば、即座に解決できるし、思えば即座に解決できるからだ。「思えば即座胃に解決できる」ということに、含まれてしまうのだけど、思いようやかえれば、即座に解決できる。苦労する間もなく、解決できるね。

どうして、この人たちが「自分だって苦労した」と言っているのだろうね?

ともかく、きちがい家族にたたられた人に対する、きちがい家族にたたられたことがない人たちの、無理解ぶりがひどいのである。これ、どれだけ差があるか、きちがい家族にたたられたことがない人たちが、わかってないだけだ。

*     *     *

どれだけ、ほかの人から、誤解をされてきたかわからない。みんな、きちがい兄貴の特集性がわからない。みんな、きちがい親父の特殊性がわからない。

きちがい兄貴が気ちがい兄貴でなければ、ほんとうに、俺の「ヘビメタ騒音の問題」なんて、発生しなかった。

「ヘビメタ騒音の問題」について、みんな、勘違いをしているのである。そして、その勘違いというのは、たいていの場合、修正不可能なのだ。みんな、勘違いをしたままなのである。

通勤できている人は……みんな……「ヘビメタ騒音の問題」をかかえなかったから、通勤できているだけなのに、くそを言うな。必然性が理解できていない。必然性がわかってない。あんな生活がずっと続けば、通勤できなくなる。

けど、経験しなかったから、通勤できる状態でいるわけだ。けど、苦労はした。だから、「苦労」という「抽象度が高い言葉を使えば」……ヘビメタ騒音の苦労も含めたまま、「苦労」という言葉を使うことができる。

だから、暗示的な意味では「自分だってヘビメタ騒音の苦労をした」ということになってしまうのである。けど、ほんとうは、きちがい兄貴のような家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な音を鳴らし続けるということが、人生のなかでなかったのである。

なかったから、通勤できるからだを維持しているだけなのだ。

通勤できるからだを維持しているので……実際に通勤できるので、通勤ができないと言っている「俺(エイリ)」にむかって「そんなのは、あまい」と言っているのである。

俺(エイリ)がどれだけ、厳しい生活をしてきたか、まったくわかっていないのである。

自分は、実際に通勤できるので、エイリに説教をする資格があると思って、説教をしているのである。

しかし、ぼくとおなじような苦労をしたかというと、していないのである。ぼくとおなじような苦労を経験したら、ほぼ一〇〇%の人が、通勤できなくなる。

ようするに、説教をする資格をうしなう。

こいつらは、みんな、自分なら平気だという前提で、ものを言っている。ヘビメタ騒音と俺の症状の関係がわかっていない。

こいつらが言っていることは「言えば言ったことが現実化する」というようなカルト理論なのである。理論的にまちがっている。理論的にまちがっていることが土台にあることを、えらそうに言っているだけなのである。

*     *     *

感情的に認めたくなくても、理論的なまちがいは認めなければならない。

そういうこと……理論的なまちがいを認めるということすら、できないようなやつらなんだよな。言霊言霊って言っているやつらは……。

思霊もおなじ。

そういう思考力しかないやつらに、説教をされるとは、なんたる失態か。

まあ、そういうやつらの思考力が高ければ、きちがいヘビメタ騒音のことも理解できるはずだ。きちがいヘビメタ騒音の『影響のでかさ』を理解できるはずだ。 

理論的なまちがいを認めることができないやつらが「言えば、言ったことが現実化される」と言い「できると言えばできる」と言い、「できないと言うからできない」と言い、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言う。

普段の自分と、言っていることがまったくむすびついていないのだ。

気分だけで、妄想的なことを言っている。

*     *     *

どれだけ、道徳的なことを言っているように見えても、どれだけ、徳がありそうなことを言っているように見えても、けっきょくは、理論的なまちがいを認めることができない人たちが言っていることなんだよな。

*     *     *

特殊な条件の人が、普通の条件の人に、めちゃくちゃに言われるのが、デフォルトなのだ。普通の条件の人は、苦労したと言っても、特殊な条件をかかえている人が経験する苦労を経験していない。けど、「自分だって苦労した」と言えば、「そういう苦労」も、経験したことになってしまうのである。暗示だけど、意味的には、経験したことになってしまうのである。けど、自分は「平気だった」「平気だ」という前提で、物事を判断して、物事について意見をのべるのである。

●思い通りにいかないから、苦労しているんだよ■言霊※2025/07/16 4:33

たとえばの話だけどさぁ……。「思ったことが現実化する」と普段、言っている人が、「俺だって苦労した」と言うのは、おかしなことなんだよ。

思えば、思ったことが現実化するのだから、こまるわけがない。

自分にとって都合がいいことを思っただけで、その通りになるのだ。こまるわけがない。苦労をするわけがない。

なんで、「思ったことが現実化する」なんて言っているのに「俺だって苦労した」と言うのだろうか?

ちっとは、自分の矛盾に気がつけ。

「思ったことが現実化する」なら、なんだって、思った通りなんだよ。こまるわけがないだろ。苦労するわけがないだろ。思い通りにいかないから、苦労しているんだよ。

思い通りにいかなかったから、苦労を経験したんだ。

いいかげん、気がつけ。

*     *     *

無理解ぶりを発揮した他者が現前するということが、くるしい人を、もっとくるしくさせている。 無理解ぶりを発揮した他者が現前するということは、不愉快なことなんだよ。不愉快なことを増やすな。

●「おまえが、くるしむと思ったから、くるしんでいる」と言わせればいいんだ■言霊※2025/07/16 4:28

特殊な条件でくるしんでいるやつを、さらにくるしめるには、どうしたらいいかなぁ?? そうだ。まわりのやつに、「おまえが、くるしむと思ったから、くるしんでいる」と言わせればいいんだ。けど、「おまえが、くるしむと思ったから、くるしんでいる」と言わせるには、どうしたらいいかな? そうだ「思ったことが現実化する」「明るいことを思えば明るいことが現実化する」「暗いことを思えば暗いことが現実化する」という考えを、普通の人に吹き込めばいいんだ。普通のやつらは、「おまえが、くるしむと思ったから、くるしんでいる」とは、なかなか、言わないけど、「思ったことが現実化する」ということを吹き込んでやれば、くるしんでいる人に、「おまえが、くるしむと思ったから、くるしんでいる」と言うようになるだろう。しめしめ。しめしめ。

こんなことを、考えたやつがいるかもしれない。そいつが、洗脳機関のやつなら、実行できる。

2025年7月15日火曜日

●夕方は、鳴っているような感じしかしない■騒音※2025/07/15 17:42

 ほんとうに、どんな日も、夕方は、鳴っているような感じしかしない。ほんとうに、やめてくれなかった。

●こいつらは、「ヘビメタ騒音」と「慢性疲労症候群のようなつかれ」の関係を無視する■騒音※2025/07/15 15:06

あれだけ、長く鳴らされれば、どうしたって、慢性疲労症候群のような状態になる。

けど、言霊主義者は、「鳴ってたんだな」ぐらいの理解度しかない。

だから、「ヘビメタが鳴っていた」ということと「どうしても、慢性疲労症候群のような状態になる」ということが、むすびつかない。

だから、「そんなのは関係がない」と言う。「俺だってつかれることはある」と無理解ぶり発揮した発言をする。「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言霊理論に基づいた発言をする。

ところが、原因が、長らく続くきちがい的なヘビメタ騒音なので、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。

俺がヘビメタ騒音が鳴っていないにもかかわらず、「慢性疲労症候群のようにつかれる」とか「慢性疲労症候群になる」と言って、慢性疲労症候群患者のようにつかれていたわけではないからだ。

ヘビメタ騒音でつかれていたんだよ。

ところが、こいつらは、「ヘビメタ騒音」と「慢性疲労症候群のようなつかれ」の関係を無視する。原因を無視しているのだ。ガン無視だ。

腹がたつだろ。

ずっとやられて、くるしい思いをしていればしているほど、この手の発言は、腹がたつ発言になる。

けど、たとえば、言霊主義者に、関係を理解させることができないのだ。

こいつらの理解度は、ものすごく低い。

「ようは、ヘビメタ騒音とやらで、元気がないんだろ」という理解なのだ。「だったら、元気だ元気だと言えば元気になる」「言霊は絶対だ」と言う。

ちなみに「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とか「過去は記憶の中にしかない」とか「過去はない。未来もない。今現在しかない」とかと言うやつらも、関連性の理解度は言霊主義者とおなじなのである。

今現在、慢性疲労症候群患者のような疲労におそわれて、こまっているんだよ。どうして、慢性疲労症候群の患者が抱えているような疲労が発生してしまったかというと、それは、ヘビメタ騒音生活によって発生したんだよ。過去は関係があるんだよ。

「今ここしかない」……格好つけて言うけど、「今ここ」がくるしいのだから、関係がないとは言えないのである。

2025年7月14日月曜日

●どういう意地で、その騒音を鳴らすか、まったく、知らない。わかってない■騒音※2025/07/14 21:45

 きちがい兄貴のような「特殊な人」が、特殊なやり方で、特殊な騒音を出した場合、一般の人には、わからないということになってしまう。どうしてかというと、一般の人の家族は、「特殊な人」ではないからだ。だから、一般の人は、「特殊な家族が鳴らす騒音」というものを、知らないのである。一般の人は、一般の人が鳴らす騒音しか知らない。特殊な家族が、どういう感覚で、どういう態度で、どういう意地で、その騒音を鳴らすか、まったく、知らない。わかってない。

*     *     * 

きちがい兄貴が普通の人だったら、「い・わ・れ・な・く・て・も」自分の鳴らしている騒音の異常さに気がつく。普通の人よりも、ちょっとだけ狂っている人だったら、何千回も言われれば、気がつく。強く言われたら、気がつく。

ところが、きちがいだから、まったく、気がつかないままやり続けることができるのだ。もうひとり、きちがい兄貴がいて、そのきちがい兄貴が、兄貴にとって「効きたくない」音を、きちがい兄貴が鳴らしているのとおなじ音量で鳴らしたら、一〇秒で、きちがい兄貴が、きちがい的に起こって文句を言う。そういうレベルの騒音だ。

きちがい兄貴にしたって、自分が聞きたくない音を、あの音量で鳴らしている他人が横の部屋にいたら、一〇秒で、文句を言いに行くことになるだろう。

みんな、うちきちがい兄貴のきちがい感覚をなめすぎ。こいつは、サイコパスで、自分に催眠術をかけているから、他人が鳴らせば、おこるような音で鳴らしていたって、別に、なんとも感じないのだ。

普通だったら、他人が鳴らしたら(自分が)おこるような音では、鳴らせない。

言われなくても、他人がおこるということがわかるからだ。他人を自分の音で不愉快にさせしまうということが、「自動的に」わかるからだ。

ところが、きちがい兄貴は、きちがい兄貴だから、どれだけ言われたって、きちがい親父のように無視しておしまいなんだよ。言われたら、きちがい的な感覚で、きちがい的な意地で、本人が腹を立ててしまう。おこってしまう。

そりゃ、自分が「やろう」と思っていることや「やろうと思って実際にやっていること」にケチがついたら、目を三角にして、顔をまかっにしておこる。

脂汗(あぶらあせ)をかいて、絶対の意地で「認めないで」おこる。

なにを認めないのかというと、相手が言っていることを認めないのだ。あるいは、相手が言っていることの意味を認めないのだ。 

2025年7月13日日曜日

●言霊主義者が、「おかしなことだ」と感じないというのも、おかしなことなのだ■言霊※2025/07/13 18:58

 たとえば、「日経平均が、五時間後には、いまよりも一万円分あがっている」と言ったとする。言えば言ったことが、現実化するので、五時間後には、いまよりも一万円分あがっているはずなのである。

ところが、あがらなかったとする。

あがらなかったら、「言えば言ったことが現実化する」という言霊理論はまちがっていたということだ。あがらなかったのに、言霊理論は正しいということにはならないのである。

ところが、言霊主義者は、「言い方が悪かったからあがらなかった」と詐欺師顔負けの言い訳をするのである。

これ自体が、悪いことだ。

いいことなんてしてない。

悪いことをしているという自覚がないのだ。

どうしてかというと、幼児的万能感が強くて、矛盾を矛盾として感じることができないからだ。

「そんなのは、どうだっていい」「言霊は正しい」と言ってしまえば、それで、すんでしまうことなのである。

たとえば、株の専門家が、正月に、今年はこうなるというような予想をたてるとする。

これは、予想だ。

「たぶんこうなるだろう」と予想しただけだ。正月に言ったことが、現実化している専門家はものすごく、少ない。

いちおう、あたっている専門家だって、予想があたっただけだ。

「言ったから、言った通りになった」わけではない。言ったので、言霊の力によって、現実化したのではないのだ。

言霊の力によって、本来の現実がかえられて、別の現実になったわけではない。

あてた専門家は、ただ単に、「こういうふうに動くだろう」ということを言っただけだ。

「こういうふうに動く」「こういうふうになる」と(自分が)言ったから、言霊の力によってそうなったと、主張しているわけではないのである。

現実を言霊の力によってかえたのではなくて、現実を予想しただけだ。

だいたい、予想をはずした専門家だって「こういうふうに動く」「こういうふうになる」と言っている。

当然、あたった専門家とはちがうことを言っている。

はずした専門家が言ったことは、現実化していない。

もちろん、あてた専門家だって、言霊の力で、現実をかえたわけではないのだ。

しかし、言霊主義者は、あてた専門家が、「こういうふうに動く」「こういうふうになる」と言ったから、言霊の力で、「こういうふうに動いた」「こういうふうになった」と誤解をしてしまうのである。

この誤解の力が強すぎるのだ。

あたらなかった専門家のほうが、数としては多いので、あたらなかった専門家が言ったことは、ガン無視だ。

あたらなかった専門家が言ったことが、現実しかなかったということは、ガン無視なのだ。

だから、言霊主義者のなかでは、『言霊が正しい』と思えるようなことにしか、意識が集中しないのである。

言霊が正しいと思えるようなことだって、予想があたっただけで、言ったから、言霊の力によって、言ったことが現実化したわけではないのだ。言ったから、現実が言った通りになったわけではない。

こんな、幼稚なカルト理論を、だいの大人が、目を輝かせて言う。ドヤ顔で言う。

さらに、言ったのに、言った通りにならなかった場合は、「言い方が悪いから現実化しなかった」とアホなことを言い、人のせいにする。

もうすでに書いたけど、言っても、言い方が悪いと現実化しないのであれば、言えば言ったことが現実化するとは言えないのだ。理論的におかしい。

*     *     *

ある銘柄の株価があがるかどうかというのは、二分の一の確率だ。

けど、この場合は、一定の時間を決めておかなければならない。

たとえば、一時間後にここまであがるとか、一時間後にここまでさがるということを決めておかなければならない。そうしないと、確率は50%とは言えない。二分の一の確率であたるということにはならない。

それぞれの時間にあがったときもあれば、さがったときもあるという感じで動いているので、時間のほうを自由に解釈できるなら、どっちも正しいという状態がしょうじてしまうことがある。

「一時間後にはさがったけど、一〇年後には、あがった」……こういうことだってある。 

言霊主義者は、「言霊は絶対だ」とか「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」とか「言霊が正しい」とかと言っている。

言霊理論を批判されると、腹をたてる言霊主義者が多い。多くの言霊信者にとって、「言霊は正義」なのだ。

だから、多くの言霊主義者は「言霊理論がまちがっている」ということを聞かされると、腹をたてるのだ。

これも、すでに指摘したけど「言霊」自体が、信仰の対象のようなものになっている。

多くの言霊主義者にとっては、「言霊は神のようなものだから」「神を汚されたように」腹をてるのだ。まさしく、言霊信仰だ。

ともかく、言霊主義者が本気で言霊を信じているのであれば、自分が、一定時間後のある株価を予想して、はずしたときは、言霊理論が正しくないということに、つきあたらなければならない。

言えば言ったことが現実化するのだから、自分が「この銘柄が、一時間後に何千・何百円になる」と言ったら、その通りにならなければならない。

その通りにならなければ、言霊理論は正しくないということになるのである。

言っても、言った通りにならなかった。

言えば言った通りになるという言霊理論はまちがっていると認識しなければならないのである。

株をやっている言霊主義者が「自分の予想は、あたるときもあるし、あたらないときもある」などと言っているのは、おかしいことなのである。言えば、言ったことが現実化するのだから、言霊主義者が言ったとおりに、株価が動くのである。言霊主義者が言った通りに、株価が動かないのであれば、言霊理論がまちがっていたということなのである。さらに、株をやっている言霊主義者が「予想」という言葉を使うのはおかしなことなのである。そりゃ、そうだろ。一〇〇%の確率で、自分が言った通りになるのだから、これは予想ではない。言霊の力によって、言ったことが現実化されるわけだから、これは、予想なんかではない。断じて、ちがう。

*     *     * 

問題なのは、「予想」と言ってしまう現実感覚や、「ばすれることもある」と言ってしまう現実感覚なのだ。この現実感覚が、言霊信仰と同時に存在してしまうのは、おかしなことなのだ。言霊主義者のなかに、この現実感覚と言霊信仰が、同時に存在してしまうのは、おかしなことなのだ。しかも、言霊主義者が、「おかしなことだ」と感じないというのも、おかしなことなのだ。

どんなばかだって、「言った通りにならなかった」と感じるはずなのである。「言った通りにならなかった」ということがわかってないわけではない。ところが、「言った通りにならなかった」のに、「言霊(理論)は正しい」と思っているのである。矛盾している。この矛盾した状態が「常態」だということが、問題なのである。 

 

2025年7月12日土曜日

●「二〇倍、働いてくれ」と言われたら、むりだと思うだろう■騒音※2025/07/12 11:34

これからさき、たとえ、理想の女の子と暮らすことができたとしても、ぜーーんぜん、おもしろくないのだ。もう、そういうところまで、こころが消耗してしまった。

 デザイン関係のことも、興味がなくなってしまった。パソコン関係のことも興味がなくなってしまった。

ともかく、ダニやネズミから解放されたい。痛みや苦しみや痒さから、解放されたい。

しかし、しかし、かりに、痛みや苦しみや痒さから解放されても、ぼくは、つらいままなのだ。おもしろくない。きちがい兄貴にやられすぎた。きちがい兄貴が、きちがいモードで、きちがい感覚で、きちがいの音をガンガン、最大限の音で鳴らしているとき、ぼくが消耗した。

きちがい親父のネズミが、追い打ちをかけた。ほかの人はどう言うか、知らないけど、あんなきちがい騒音生活が七年以上続いたら、どんな簡単な仕事でも、どんな短時間労働でも、できなくなる。

基本、「通勤」の必要があるところに関しては、たとえ、一日に二時間だろうが、むりだ。完全にむりだ。

普通の人の体力感覚で言えば、二〇倍、働いてくれと言われたのとおなじ状態になる。一日に残業を四時間やっている人が、二〇倍の仕事をしてくれと言われたのとおなじ状態になる。

まあ、一日・二四時間として考えると、そもそもがむりな設定なのだけど、「二〇倍、働いてくれ」と言われたら、むりだと思うだろう。

「元気だ元気だ」と言えば元気になると言っている人も、実際に、一日にやっとこなせる量の、二〇倍の量をおしつけられたら「そんなのはむりだ」と言うだろう。

きちがいヘビメタで、「仕事体力」と言うべきもの、「生活体力」と言うべきものを、毎日、ガンガンけずられて無理な生活をしてきたぼくには、普通に働くというのは、土台むりなことになっている。

普通の人が、「二〇倍の分量、働いてくれ」と言われたら「むりだ」と思うだろう。普通の人の分量働くということが、きちがいヘビメタにやられた俺には、むりなことなのだ。土台、むりなことだ。

けど、それが、毎日毎日、きちがいヘビメタ騒音にやられたなかった人間には、わからないことなのだ。

そりゃ、経験していないからわからない。

ほかの人の身の回りには、きちがい家族のような家族がいないのである。これがでかい。これが感覚のちがいをつくりだしている。俺だって、きちがい兄貴が、きちがい的なレベルで、ヘビメタにこだわらなければ……思いっきりヘビメタを鳴らすということにこだわらなかったら、普通に、普通の量の仕事ができる体力があった。

能力があった。

けど、その体力と能力をうしなった。けど、体力と能力をうしなう過程というのが、ほかの人にはわからないのである。体力とと能力をうしなう過程は、ぼくにとっては、自明のことだ。

そりゃ、学校に行くという普通のことが、二〇倍仕事量の行為になってしまう。むりにむりをかさねてやっていることになってしまう。

それは、おなじ生活をしてみればわかることだ。

普通の人だって、自分のきらいな音をあの音のでかさで、あの時間の長さ、あの期間の長さ、聞かされ続けたら、生活が、無茶苦茶になるということがわかるのだ。体力と能力をうしなうということが、わかるのだ。

ところが、一倍速で意見していないのでわからない。ぜんぜん、自明のことではないのである。一般人にとって……普通の人にとって……普通の家族に囲まれて生活している人にとって……自明の理ではないのである。

どうしてかというと、普通に暮らせていたからだ。

きちがい家族による騒音にさらされずに、暮らしてきたからだ。

普通の人だって、騒音はあるけど、きちがい家族の騒音は、普通の騒音ではないのである。

*     *     * 

言霊主義者にとって、相手が言っていることは、記号だけの理解にとどまるのである。たとえば、普通の仕事をしてつかれている人と、二〇倍の仕事をしてつかれている人には、差がある。

「つかれ」において、普通の仕事をしている人と、二〇倍の仕事をしている人のあいだには、差があるのだ。

ところが、言霊主義者の理解だと、どっちも「つかれているんだな」という理解になってしまうのである。「つかれている」ということは、理解できるのだけど、つかれの差は、理解できないのである。あるいは、ガン無視してしまう。

言霊理論が、まっさきに頭に浮かぶからだ。

言霊理論は、「言えば、言ったことが現実化する」というものだから、「元気だ元気だと言えば元気になる」はずなのである。

だから、普通の仕事をしている人と、二〇倍の仕事をしている人に、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってしまう。もちろん、言霊主義者にとっては、善意のアドバイスだ。しかし、「つかれの度合い」を無視したアドバイスになってしまうのだ。

普通の仕事をしている人と、二〇倍の仕事をしている人のあいだには「つかれかた」の差がある。おなじじゃない。おなじレベルの疲れを感じているわけではない。

しかし、言霊主義者は、程度のちがいを無視して、…「どちらもつかれているんだな」と思うだけなのである。

言霊主義者の頭のなかには、程度の差がない「つかれ」しか、浮かばない。どの程度つかれているのかということは、無視されてしまう。

程度は無視して、「つかれ」として理解するだけなのだ。

「つかれているなら」……「元気だ元気だと言えば元気になる」とアドバイスをしてあげればいいということになってしまう。言霊主義者のなかでは、そうなってしまう。

●そんなことであるわけがないだろ■騒音※2025/07/12 2:15

 汚染された雪が降り積もるような人生だった。きちがいヘビメタ騒音なんて、ほんとうに、汚染物質だ。きちがいヘビメタ騒音の汚染物質で、体が悪くなる。体調が悪くなる。これ、浴びていたら、不可避的なんだよ。「過去は関係がない」とか「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言ったやつを、ぶん殴ってやりたい。最後の力を振り絞ってぶん殴ってやりたい。そのくらいに、腹がたつ言葉だ。そりゃ、そうなんだよ。ぼくの立場からするとそうなんだよ。ぼくの立場からするとそうなんだということが、まったくわかってない人は、「あたりまえのことを言っただけなのに、なんだ!」と思うだろう。もう、そういうレベルでも、対立がある。こっちとしては、おもしろくない。きちがい兄貴は、まったく知らないまま、自分がやりたいように、鳴らしている。一日に、五分だって、一分だって、一秒だって、自分が満足できない音で鳴らすつもりはないわけ。すべての時間を、自分が思った通りの音で鳴らさないと、気分が悪いわけ。発狂してしまうほど、頭にくるわけ。だから、俺がなにを言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、鳴らすのである。実際に鳴っていると、鳴っている時間、影響をうけるのである。それで、鳴っている時間の影響というのが、鳴ってない時間に波及するのである。不可避的に波及してしまうのである。これだって、実際に、一倍速で経験したことがない人にはわからないことだ。「鳴っているあいだだけ、ちょっとうるさいだけだ」と思っている。そんなことであるわけがないだろ。

2025年7月11日金曜日

●ネズミ対策工事はすぐに終わるはずだった■騒音※2025/07/11 21:04

ともかく、ダニとネズミでくるしい。大きな水ぶくれにならなかったけど、反対側の足にも、おなじようなのができていた。いままで、気がつかなかったほど、薄いのだけど、これに、ばい菌がはいると、水ぶくれができるような感じだ。これ、けっこう、俺にとってでかいことなんだよなぁ。どこでやられたかわからないというのも、でかい。たぶん、風呂場でやられたんじゃないかな。じつは、ゲロ騒動のまえから、足はかゆかった。やっぱり、ダニ系のかゆさだ。虫に刺された感じだ。けど、あんなにでかい水ぶくれにはならないんだよな。そして、さっき、ゴキブリが出た。も、う、いやだ。失敗した。ともかく、もっと早くに引っ越すべきだった。どうしても、きちがい親父のことでつかれていたんだよなぁ。ネズミ対策工事はすぐに終わるはずだった。終わったら、もう、ネズミは出てこないはずだった。はずっだった。

基本、ヘビメタ騒音で、ぼくの体力はないのである。これで、このまま、虫やダニにさされる生活をしていたら、死ぬ。死ぬ。感染症になる。

きちがい親父が、きちがい行為をして、ネズミを餌付けしてしまうから、こうなっている。この家にいたのは、長期騒音の影響なのである。

そして、シェディングが本格的に始まってしまった。

風呂に入るのが、かけだなぁ。シャワーですますか。シャワーもなぁ。 

ほんとうに、親父のネズミや、親父のダニで、ぼくは死ぬかもしれない。いままででも、相当に被害をうけている。もう、こんな生活はいやだ。

きちがいヘビメタ騒音で、必然的に孤独になるのである。そりゃ、一五年間も続けばそうなる。みんな、きちがいヘビメタ騒音のことを、たいした騒音じゃないみたいに考えているのだけど、ちがう。だれもが、必然的に孤独になる騒音だ。これ、ほんとうに、どれだけがんばっても、人生がうまくいかなくなる騒音なのである。どれだけ、いい人でも、どれだけ気を使っても、人間関係がうまくいかなくなる騒音なのである。 

●きちがい兄貴の騒音と、きちがい親父のネズミで、人生がない■騒音※2025/07/11 18:46

あーー。気をうしなうように眠っていたい。このまま、起きているのは、つらすぎる。ほんとうにいろいろなことがあったけど、きちがい兄貴の騒音と、きちがい親父のネズミで、人生がない。

あーー。午後六時四六分か。鳴っている感じしかしないな。生きているのが地獄だった。あれからずっと、陸続きだ。あれからずっと、陸続きだ。終わってない。くるしいままだ。くるしさが、積み重なっていくのである。

ちなみに、「過去なんて関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とかと言う人は、ぼくにとって、不愉快な人だ。むなくそわるい。ほんとうに、腹がたつ。はらわたが煮えくり返る。

きちがい兄貴の騒音が、ほんとうに地獄だった。この時間、いつも鳴っていた。どれだけ鳴らすなと言っても、きちがいがきちがいの意地で、一分もゆずらずに鳴らした。

ほんとうに、宿題もできなかった。鳴り終わったあともずっとずっと苦しかった。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、ほんらい眠るべき時間になったとする。

ほんらい眠るべき時間が、その前のヘビメタ騒音でズタボロなのである。発狂的な時間なのである。けど、体の力が入らない状態なのである。あんなので、いいわけがない。

眠れない時間が地獄だった。

次の日、ほとんど眠ってない状態で、動くのがしんどかった。帰れば、また、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた。容赦なくなっていた。ヘッドホンをしてくれない。

そりゃ、精神、崩壊するよ。生活リズム、崩壊するよ。生活体力、崩壊するよ。学校にいる時間は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴っていない状態だけど、前の日のヘビメタ騒音で、猛烈にくるしかった。

はりつめた状態でくらしていた。元気は、カラ元気。失敗が多い。

ヘビメタ騒音のせいで、遅刻すれば、人から悪く言われる。ヘビメタ騒音のせいで、宿題ができなければ、人から悪く言われる。そういう思いをしてくるしいのに、家族が、鳴らしている。

家族がなにも気にせず鳴らしている。

家族がいろいろな苦しさの張本人。
家族が、いろいろな不調の、張本人。

●なんで、がんばる必要があるのか?■思霊※2025/07/11 4:48

一日に一〇個、つくるのは、むりだと言っている人に、「むりだというから、むりなんだ」「できると言えばできる」などと言い、むりなことをさせようとする。「今現在に集中すればいい」というのも、目の前の作業に集中すればいいということであり、一日に一〇つくることに集中すればいいということになってしまう。

みんな、ひとごとだから、好き勝手なことを言えるだけだ。

Aさんがブラック社長だとする。Bさんが、一日に一〇個、つくっている人だとする。Aさんは、ほんとうは、一日に三個しか作ることができない。しかも、その三個というのが、かろうじて基準を満たすものなのだ。たとえば、一〇〇点満点中五〇点以上が、合格だとする。そうすると、Aさんがつくるのは、みんな、五〇点台の製品(商品になるもの)なのである。Bさんは、一日に一〇個、つくることができる。

しかも、一〇個とも、九〇点台をたたき出す出来栄えなのだ。

しかし、そんなBさんも、一日に一〇個、つくるのは、くるしいと感じているのである。むりをしてつくっている。Bさんの考えでは、一日に七個、つくるのがちょうどいいのである。七個なら、毎日続けることができるのである。

しかし、一〇個、つくるのは、むりだと感じているのである。だから、七個にしようと言っているのに、強欲なブラック社長が「できると言えばできる」などと言って、Bさんに、一〇個作らせようとする。

それじゃあ、ブラック社長が「できる」と言って、一〇個つくれるかと言うと、じつは、つくれないのである。四個もむりなのである。言ったって、できないのである。

しかし、社長なので、そんな作業はやらない。Bさんの仕事だから、Bさんがやればいいと思っている。「できる」と言えばできるのであれば、ブラック社長がやればいいのである。

さらに、言霊理論が正しいなら、「一日に一〇〇〇〇個、この製品が、できあがる」と言えば、「一日に一〇〇〇〇個、この製品が、できあがる」のである。

別に、Bさんが作業をする必要もない。

ブラック社長は、言霊主義者だけど、言霊の力なんてぜんぜん信じていないのだ。

「明るいことを思えば明るいことが起こる」と言うのであれば、「今日から、一日に一〇〇〇〇個、この製品が、できあがる」と、明るいことを思えば、その通りになるのである。その通りになるのである。思ったことが現実化するのである。

だったら、「今日から、一日に一〇〇〇〇個、この製品が、できあがる」と思えばいいだけだということになる。

別に、希望をもって、がんばらなくてもいいのである。思うだけで、思った通りになるのだ。なんで、がんばる必要があるのか?

言霊主義者は、自分の現実的なことに関しては、言霊なんてぜんぜん信じていないし、思霊主義者は、自分の現実的なことに関しては、思霊なんてぜんぜん信じていないのだ。

ところが、言霊主義者も思霊主義者も、「ぜんぜん信じていない」ということが、わかってない。

言霊主義者も思霊主義者も、希望を持って頑張ればいいと言っているだけなのである。ところが、希望を持ってがんばっている状態が、くるしい場合は、くるしい状態が続いてしまうのである。

*     *     *

Bさんが、むりをして、うつ病になったら、自己責任論者は、「そんなのは、自己責任」と言うのである。言霊主義者であって、思霊主義者であって、自己責任論者である人は、「できると言えばできる」「できると思えばできる」と圧力をかけるのである。

他人事であれば、言うのは気楽だ。

そして、その対象となる人が、つぶれたら、「そんなのは自己責任」と手のひらを返して言うのである。

もう、これが、あたりまえになっている。日本では、もう、ずっと前から、これがあたりまえになっている。 

「できると言えばできる」というような言葉は、いちおう、ポジティブな言葉だ。明るい言葉なのである。

じゃあ、それが、もたらすものはなんなのかということを、言霊主義者は考えない。言霊主義者だけではなく、スピリチュアリズムにこっている人は、考えない。

俺がなにを言っても「単純なのが正しい」「アバウトでいいんだ」と言って、まるで、考えないのである。

ポジティブな言葉がネガティブな状態をつくりだすことだってあるのだ。他人事だと、ぜんぜんわからなくなるみたいなのだけど、自分のことである場合は、むしろ、積極的に、自分が普段言っているスピリチュアリズム的な言葉を、ガン無視しているのである。

そして、ガン無視していることに、まったく気がつかない。

そういう人が増えると、社会がより悪くなるのである。悪魔が好むような社会になってしまうのである。

思いやりがない、殺伐とした社会になってしまうのである。

●こういうレベルのやつばっかりだった■騒音※2025/07/11 13:30

 ヘビメタ騒音のことなんて、だれも、ほんとうには理解してくれなかった。「ぜんぜん、ちがう」と言っているのに、みんな、俺が言っている意味がわからない。一倍速で、おなじことを経験すればわかる。時間の長さ、期間の長さがおなじなら、わかる。「鳴り終わったら関係がない」なんて、口が裂けても言えない。「鳴り終わったら関係がない」と言っているのだから、まったくわかっていない。こういうレベルのやつばっかりだった。

●これだと、現代版『欲しがりません、勝つまでは』になってしまう■思霊※071101

 『欲しがりません、勝つまでは』という標語があったのだけど、これは、ほしいものをがまんして、ほしがらずに、勝つまで(くるしい状態でも)がんばるというような意味になる。

明るいことを思えば、明るいことが起こるとする。明るいことを思えば、すぐに、明るいことが起こるはずなのである。〇・一秒内に起こると思えば〇・一秒以内に起こることなのである。

どうしてかというと、思えば、思った通りになるからだ。
「思う」ことは、自由なのである。どんな内容を思っても、自由なのである。どんな内容でも思うことができるのである。

そして、どんな内容でも、現実化するのである。

だから、〇・〇〇〇〇一秒以内に、こういうことが起こると思えば、思った通りに、〇・〇〇〇〇一秒以内に思ったことが起こるのである。

「いつか」起こるだろという話ではないのである。

ところが、思ったことが、いつか起こるということになってしまっているのである。明るいことを思えば、その明るいことが、いつか起こるということになってしまうのである。

「明るいことを思えば、その明るいことが、いつか起こるはずなので、つらい現実にたえて生きていきましょう」ということになってしまう。

そうなると、つらい状態が続くのである。

明るいことが「いつか」起こると思って、つらい現実を受け入れて生きるということになってしまうのである。

だから、現実の生活は、つらい生活なのである。

わからないかな?

つらい現実だからこそ、そのつらい現実からのがれることができる理想の生活がほしいのである。

現実がつらいから、明るいことを考えて、つらい現実をがまんするということになってしまう。「いつか」起こるだろうという希望が、実際には、つらい現実をささえているのである。

いつか明るいことが起こるはずだと思って生きている状態は、つらい状態なのである。

わからないかな?

これも、トリックなんだよ。「いつか」なのか、「すぐに」なのかは、重要な問題だ。

そして、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という文には、「いつか」も「すぐに」も含まれていない。文としては、どっちでもいいのである。

しかし、思霊主義者は、実際には「いつか」起こるだろうということを言っているのである。「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という文を考えた場合、当然、「明るいことを考えれば、明るいことが、一秒以内に起こる」ということも含んでいるのである。

「制限時間」関する制限はなにもない。なにもないのである。だから、時間制限がある文も成り立っているのである。

ところが、思霊主義者は、「すぐに起こるはずがない」「短い制限時間の中でおこるはずがない」と考えているのである。

「なんかの内容を考えた場合、その考えた内容が起こるのは、制限時間内ではないのである。思霊主義者は「明るいことを考えれば、明るいことがいつか起こる」だろうということを言っているのである。

これだと『欲しがりません、勝つまでは』という標語のようになってしまう。

明るいことが起こるまでは、明るいことを考えながら、つらい現実にたえて生きていこうということになってしまうのである。

明るいことを考えれば明るいことが(ほんとうに)起こるなら、たえて生きていく必要がないのである。

思えば、思った通りになるのだから、思った通りにして、生きていけばよいのである。

長い間、ずっとずっと、つらい現実に我慢する必要なんてないのである。

思えば、思っただけで、思ったことが「すぐに」現実化するのだから、すぐに現実させてしまえばよいのである。

ところが、「すぐに」現実化すると思っても、すぐには現実化しないので……「いつか起こるだろう」と我慢に我慢を重ねて生きていくということになってしまうのである。

あるいは、すぐには現実化することはないと無意識的に考えているので……「いつか」現実化するだろうと、我慢に我慢をかさねて、暗い現実に対処して生きていかけなればならないのである。

けっきょく、暗い現実に対処して生きていくということが、続いてしまう。

ほんとうに、思ったことが現実化するのであれば、すぐにかえられることだ。

思ったことが現実しかないから、たえてたえて、生きているのである。おかしいじゃないか。

思ったことが現実化するのだから、すぐに現実化すると思ったことは、すぐに現実化するのである。思ったことが現実化するのだから、〇・一秒以内起こると思っていることは、〇・一秒以内に起こるのである。

ところが、だれもそんなことは信じていないのである。「思えば、思ったことが現実化する」と言っている人たちは、みんな「〇・一秒以内に、これこれが起こると思えば、〇・一秒以内にこれこれが現実化する」とは思っていないのである。

制限時間があることについては、まったくダメなのである。

「思えば、思ったことが現実化する」と言っている人たちは、みんな、「思ったところで、思い通りになるはずがない」「すぐに現実化すると思っても、すぐに現実化することはない」と無意識的には思っているのである。

繰り返しなるけど、「いつか」という言葉をつけて、安心したいだけなのである。「いつか」思った通りになると思って生きているわけである。

そして、ただ単に生きているわけではなくて、我慢して生きているのである。

思い通りじゃない状態で、ずっと生きているのである。それなのに……というか……それだからこそ……「思ったことがいつか現実化する」という希望的な言葉がうけるのである。

けど、それは、「制限時間内には起こらない」という無意識的な確信のもとに、言われる言葉なのである。

これだと、現代版『欲しがりません、勝つまでは』になってしまう。

「明るいことを考えれば明るいことが起こるので、いまは、我慢に我慢をかさねて、つらい思いをして生きていきましょう」ということになってしまう。明るいことを考えれば、明るいことが起こるなら、すぐに、明るいことが起こるようにすればいいのである。くるしい思いをして生きていく必要なんてないのである。

2025年7月10日木曜日

● 「言ったことが現実化する」ということと「思ったことが現実化する」ということ■言霊※071002

 「言ったことが現実化する」ということと「思ったことが現実化する」ということを、両方とも信じている人がいるけど、これは、おかしいことだ。

どうしてかというと、「思ったけど」「言わなかったこと」があるからだ。

「思ったことが現実化する」のであれば、「思った」だけで、現実化してしまうのである。 「言わなくても」現実化してしまうのである。

いっぽう、「言ったことが現実化する」と言っている人は、「言ったこと」が現実化すると言っているのである。

言霊主義者の主張においては、「思った」だけでは、現実化せず、現実化させるには、言わなければならないということになる。

ところが、言霊主義者であって、思霊主義者である人は、いっぱーーーい、いっぱーーーいいる。

「言ったことが現実化する」ということと「思ったことが現実化する」ということの両方を信じていて、なにも矛盾を感じない人たちがいる。この人たちは、一〇〇%詐欺をしている人たちで、「思った」ことが現実化する場合もあるし、言ったことが現実化する場合もあるのだから、両方とも正しいと考えているのだ。

ところが、この思考自体がまちがっているのである。

 思霊理論が正しいなら、思ったけど言わなかったことは、思霊の力により、現実化してしまうのだ。言霊理論が正しいなら、思ったけど言わなかったことは、言わなかったので、現実化しないのだ。

まあ、思霊理論も、言霊理論もまちがっているので、どっちが正しいということは、言えない。いいかげん、気がついてくれないかな。

*     *     *

「言ったことが現実化する」と言ったあと「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言う人がいるけど、もちろん、理論的に矛盾している。明るいことを思っても、その明るいことを言わなければ、現実化しないと、言霊主義者は考えているのである。

精神世界の人は、どっちとも、区別なく言っている。ようするに、両方とも、正しいと思っているのだ。いいかげん、気がついてくれないかな。

 

●「思ったことが現実化する」のであれば、ほんとうに、だれも苦労なんてしていない■思霊※071001

「明るいことを考えれば明るいことが起こる」というようなことを、言う人たちがいる。

けど、実際に、暗いことを経験してきた人は「明るいことを考えなかった」人たちではないのである。

もし、ほんとうに、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」のであれば、つらい思いをしている人たちなんて、たちどころにいなくなる。

「明るいことを考えただけで」明るいことが起こるからだ。

『きちがい兄貴がヘビメタを、すぐに、やめてくれる』と思っただけで……『きちがい兄貴がヘビメタを、すぐにやめてくれる』のであれば、もう、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことで悩む必要なんてないのである。

「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言っている人たちは……「考える」……ということを、なにがすごいことのように言っているけど、そんなのは、すごいことじゃない。明るいことを考えるということは、自分にとって明るいことを考えるということだ。

そして、自分にとって明るいことを考えるということは、自分にとって都合がいいことを考えるということだ。人間は、小さいころから「思い通りになればいい」と考えて生きているのである。

すぐに、生活の中で、思いつくことなんだよ。

なにか、不都合なことが実際にしょうじたら、その不都合なことがしょうじなくなればいいと、だれだって、すぐに考えることなんだよ。

ところが、生活のなかの条件がそれを許さないのである。たとえば、きちがい兄貴という条件がそれを許さない。きちがい兄貴の脳みそという条件が、それを許さない。

きちがい兄貴が、きちがい的な思考をしてしまう脳みそを搭載しているので、きちがい兄貴は、きちがい兄貴が思ったように行動してしまうのである。

そして、「やめてくれ」ときちがい兄貴に言ってもやめてくれないのである。「これこれだからこまる」ときちがい兄貴に言っても、きちがい兄貴が「こまる」ということをまったく理解しない状態で鳴らし続けるのである。

だから、こまるのである。

他人が、きちがい的な行為を、きちがい的な意地でやるから、こっちがこまるのである。

「鳴らさないでくれ」「鳴らさないでほしい」と思えば、それが、現実化するかというと、そうではないのである。

こういう、現実を無視して、あたかも、思っただけで現実化するようなことを言うな!という話だ。

そして、「思っただけで現実化する」というようなことを言っている人は、きちがい兄貴のように、こまっている状態を認めないのである。

明るいことを思ったって、明るいことが起こらずにこまっている状態を認めないのである。こいつらは、「思い方がダメだから、思ったことが現実化しない」ということを言いだすのである。

「思ったことが現実化する」のであれば、ほんとうに、だれも苦労なんてしていない。

なにか、いやなことが起こったら、それを否定するような明るいことを思えば、すぐに、問題解決して、苦労しないので、苦労がずっと続くなんてことはないんだよ。

ようするに、思っても、思っただけになってしまうという問題が、だれにでも成り立っているわけ。それを……そういう重要なことを、思霊主義者の人たちは、無視してしまうのである。

この、無視の構造というのが、完ぺきなのである。

言霊主義者が、ほんとうは、言霊のことを無視して暮らしているということを書いたけど、おなじことが思霊主義者にも成り立っている。

2025年7月9日水曜日

●言霊がどうのこうの……。自己責任がどうのこうの……■言霊※070903

「できると言えばできる」「できないと言うからできない」などと言い、人を追いつめたやつらがいたとする。

追いつめられたやつが、自殺すれば、「そんなのは、自己責任」と手のひら返しで言いやがる。

こいつらのやっていることは、こういうことだ。言霊がどうのこうの……。自己責任がどうのこうの……。

「つかれたと言うから、つかれる」「つかれないと言えば、つかれない」「元気だ元気だと言えば、元気になる」……こんなアホなことを言って、人を追いつめたやつらが、なにも感じない。

「ポジティブな言葉を使えば、いい」「ネガティブな言葉を使うべきじゃない」……などと言うやつも、おなじだ。

こいつらは、みんな、「条件」を無視している。

ところが、悪い条件だと、悪いことが発生する。それが現実だ。

現実の条件を無視して、こいつらが「言えば言った通りになる」「思えば思った通りになる」と言う。

条件が悪い場合は、条件が悪いから、できないことがおおくなる。条件が特別に悪い人はいるので、条件が特別に悪い人は、できないことがおおくなる。

普通の条件であればできることだって、できなくなる。

条件が悪いからできなくなっているのに、「受け止め方次第だ」「できれると言えばできる」「今現在に集中すればできる」というようなことを言う。

これは、基本的に、相手に負担をかける考え方だ。そりゃ、相手の条件を無視すれば、なんとだって言える。

どうしてかいうと、「ひとごと」だからだ。

自分には「その悪条件」がない。自分には、「その悪条件」がないので、普通の条件下で、普通のことができる。

相手の悪条件を無視したことを言うのは、簡単なことだ。相手の悪条件を無視して、「すべては、思いようなんだ」と言える。

こいつらがいいことをやっているのかというと、悪いことをやっている。

●「苦労」の質と量、「苦労」の持続時間と持続期間を無視してしまう■過去※070902

 たとえばの話だけど、名前だけ店長は、一五年間、ほんとうに毎日、休日も関係なく、一日に二時間、三時間しか眠れない状態で生活してきたとする。

「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言っているやつは、その一五年間の蓄積疲労を無視しているんだよ。ガン無視している。

これが、どういうことなのか、「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言っているやつは、まるで理解していない。疲労というのは、過去一五年間、毎日の、積み重ねによって、できあがったもなのだよ。

しんどいという身体感覚や、憂鬱だという感情は、過去一五年間の、積み重ねによって、できあがったものなのだよ。それを、無視して、「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言う。どれだけ、がんばってきたか、わかっていないのである。バカなのである。

一〇年以上、極端につかれる生活をしてきた人に、「過去は関係がない」とか「今現在に集中すればいい」とかと言うやつは、バカだ。

「過去は関係がない」とか「過去は現在に影響をあたえない」とか「過去の出来事は、記憶の中にしかないから、現在に影響をあたえない」とか「過去の出来事は現在の出来事に影響をあたえない」とかと言う人を、とりあえず、過去否定論者と呼ぶことにする。

神様視点で、過去否定論者の苦労が「並み」であり、名前だけ店長の苦労が「特大」だとする。過去否定論者の視点で、その過去否定論者の苦労が「並」であり、名前だけ店長の苦労が「並」だとする。

そうなると、名前だけ店長も、過去否定論者と同じぐらいの苦労しかしてないように、過去否定論者には思えるのである。

しかし、その過去否定論者の苦労は、神様視点で「並」なのである。「俺だって苦労した」と、ひとこといえば、過去否定論者は、名前だけ店長と同じレベルの苦労をしたということになってしまう。

「苦労」の質と量、「苦労」の持続時間と持続期間を無視してしまう。 

今現在、過去の積み重ねで、こまっているのに、「過去は関係がない」と言われたときの気持ちがわかるか? わからないのであれば、主観的にはどうであれ、その人が経験した苦労と言うのは、「小」か「並」だよ。「大」でも「特大」でもない。今現在に集中すればいいというけど、今現在の作業に、集中したとしても、過去からの「疲労」がとれないのである。過去の積み重ねによって、今現在の作業がつらいものになった。だから、休ませてくれと言っているのに、「今現在に集中すればいい」と言われたときの気持ちがわかるか?

 

●他人の状況を無視して、他人に 「過去は現在に影響をあたえない」と言うのは、よくないことだ■過去※070901

 「過去は現在に影響をあたえない」と言っている人が、想定している過去の出来事というのは、現在に影響をあたえない過去の出来事や、現在に、ほんのちょっとしか影響をあたえていない過去の出来事なのだ。

ようするに、影響力を無視できる過去の出来事について、語っているにすぎない。

ところが、実際は「影響力を無視できる過去の出来事」についてだけ語っているのだけど、本人は、すべての過去の出来事は無視できるという意味を込めて「過去は現在に影響をあたえない」と語っているのだ。

ここらへんでも、ズレがあり、誤認している。

自分だけが信じて、自分のなかで言っていれば、いい。

ほかの人には、被害をあたえない。

しかし、他人の状況を無視して、他人に 「過去は現在に影響をあたえない」と言うのは、よくないことだ。

どうしてかというと、まちがっているからだ。

他人事……なので……「過去は現在に影響をあたえない」と言う本人が、他人の出来事について、誤解をしてしまう。誤解をされたほうは、不愉快なのである。

ところが、「過去は現在に影響をあたえない」と言いきる人たちは、自分が言っていることが、まちがっているとは思っていないし、他人のことは考えない人たちなので、不愉快だと感じてしまうほうがおかしいと思うのだ。

まあ、自己中心的で、幼稚なんだよね。

 


2025年7月8日火曜日

●ヘビメタ騒音がはじまってから、生きているときの感覚が並じゃないのである■騒音※070803

 ヘビメタ騒音がはじまってから、生きているときの感覚が並じゃないのである。みんな、わかってない。わかってないんだよなぁ。

けっきょく、おなじようなことは経験してないし、おなじようなことをずっと一五年間、経験していない。

一日だけでも、このくるしさなのに、ぜんぜん、わかってない。

生活すべてが、きちがいヘビメタ騒音の影響をうけるのである。これがわかってない。これがわかってないやつが「過去は関係がない」「過去も未来もない。今現在しかない」なんて言っても、響くわけがないだろ。

「俺だって苦労した」と言ったって、ぜんぜんちがうということがわかるだけだ。ぜんぜん、ちがうんだよな。そいつは、普通に暮らしている。普通の感覚を保持している。「苦労」したあと、普通の感覚を保持している。

ぜんぜんちがう。

ましてや、おなじレベルの苦労をした人が「過去は関係がない」「過去も未来もない。今現在しかない」なんて言うわけがないのである。

言うわけがないということが、わかっていないということが、すべてを物語っている。

●悪魔のこころが満たされる■言霊※070802

 「言ったことが現実化する」という言葉自体には、なにもわるい効果がないように思える。ところが、「言ったことが現実化する」という言葉は、社会を悪くするのである。他人に、圧力をかける言葉なのである。

そして、他人の状態をガン無視する言葉なのである。

そして、さらに、他人の条件をガン無視する言葉なのである。現実の条件を、無視させる言葉なのである。

たとえば、底辺の人が、いたとする。この底辺の人は、それなりに苦労した人だとする。しかし、もっと、苦労している人がいるとする。

苦労している人がもっと苦労している人に、「言ったことが現実化する」と言うと、もっと苦労している人は、こまるのである。

「洗脳市民兵」みたいなものなのだ。

「洗脳市民兵」が「言ったことが現実化する」と言って、ほかの人の条件を無視する。条件を無視することが、きまっているんだよ。

支配者層が、被支配者層を洗脳している。社会ピラミッドのなかで、下の人が、「言ったことが現実化する」と思ってくれていると、支配者層が得をするのである。

とても、やりやすい状態になってしまう。

そして、下のほうの「洗脳市民兵」が下のほうの人に、勝手に、圧力をかけてくれるということになる。「洗脳市民兵」を量産すればするほど、支配者にとって住みやすい社会になるのである。

自発的に、下の人が、下の人に、圧力をかけてくれるわけだから、ウハウハだ。

悪魔のこころが満たされる。

●「過去は記憶の中にしかない」と思えば、過去の影響が無効化されると思っている■過去※2025/07/08 8:36

「過去は現在に影響をあたえない」という考え方について、ちょっとだけ言っておこう。たとえば、ある人がいたとする。Aさんだとする。Aさんは、病気になり、左足を切断したとする。今現在、左足がない状態でくらしているとする。

過去は、現在に影響をあたえている。

どうして、左足を切断したという過去の出来事が、現在に影響をあたえないと考えるのか?

まったくわからない。

「過去は現在に影響をあたえない」という考えをもてば、Aさんの左足はもとどおりになるのか?

なるわけがない。

過去の出来事が、現在の状態をつくりだしている。影響はある。

*     *     * 

「過去は記憶の中にしかない」という考え方の場合もおなじだ。

記憶の中にしかない?

なにを言っているんだ?

過去において、Aさんの左足を医者が切断したので、Aさんの左足がない状態になっている。Aさんが、「過去において自分の左足を切断された」という記憶をもっていたとしよう。 

左足を切断されたという出来事は、記憶の中にしかないのだろうか?

そんなことはない。

切断されたので、切断された状態になっている。現在、左足がない状態なら、過去において、左足を切断されたという記憶は、記憶の中にしかないことであり、現在の状態にはえぃきょうをあたえていないということではないのである。

ちゃんと、現在の状態に影響をあたえている。現在の状態を形作っている。

「過去は記憶の中にしかない」という、頭がおかしい説を、Aさんが信じれば、Aさんの左足はもとどおりになるのとでも言うのか?

「過去は記憶の中にしかない」という考え方をAさんが受け入れたとしても、考え方を受け入れたので、Aさんの左足が元に戻るということはない。

過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえているのである。

*     *     * 

こいつらは、あたかも、「過去は記憶の中にしかない」と思えば、過去の影響が無効化されると思っている。

妄想だ。

過去は記憶の中にしかないということはない。

たとえば、BさんとCさんがいたとする。

BさんがCさんの上司だとする。Bさんが、Cさんにあの書類を提出するように」と言った。そして、ある時点(アルファ)で、CさんがBさんにあの書類を提出した。手で渡したとする。

CさんがBさんにあの書類を渡したということが、記憶の中にしかないことなら、今現在、Bさんが、Cさんから受け取った書類は、Cさんの手元にはないことになる。

実際に、Cさんから、Bさんに、書類が移動した!

手渡したという記憶は、Cさんの記憶の中にしかないことなのか?

Cさんが、Bさんに、あの書類を渡したという記憶がなかった場合、記憶にないのだから、いまだにCさんの手元に書類があるということになるのか?

移動したのだから、記憶に関係なく、書類は、Bさんの手元にあるということになる。Bさんが、Cさんから受け取った書類をどこに置いたかは、別の問題だとする。

じゃあ、BさんがCさんから受けった書類を「Bさんの机」についている引き出中に入れたとする。そして、Bさんがそのことを忘れてしまったとする。

そうしたら、「Bさんの机」についている引き出のなかの書類は、記憶とともに、焼失してしまうのだろうか。

そんなことはない。

引き出しの中に入れたという記憶がなくても、引き出しの中に入っている。ただし、だれも、Bさんの引き出しのなかから、書類を出さなかったということにする。

*     *     * 

ようするに、過去の出来事が、現在の状態をつくりだしているのである。

過去の出来事が、過去の記憶の中にしかないなら、移動もしていないはずなのである。過去の記憶がなくなったとしても、移動した結果が残っているのである。

どうしてかというと、過去において実際に発生した出来事だからだ。過去の出来事というのは、現在の状態に影響をあたえるのである。

過去の出来事の記憶を喪失したとしても、過去の出来事が発生したということは、現在のありかたに影響をあたえているのである。

過去は記憶の中にしかないなんて、よく言えたものだな?

*     *     * 

だいたい、この人たちは、今現在とかこの瞬間という言葉を使うと、ほんとうに、時間の長さがない瞬間を思い浮かべてしまうのである。

だから、「今現在しか存在しない」ということを言うのである。「過去は記憶の中にしかない」ということを言うのである。

今現在というのは、じつは、時間の長さがあるものなのだ。どれだけ時間を短く区切っても、「今現在」という瞬間を切りだすことができない。過去のある時点から、仮に表現する現在までの時間の長さのことを、今現在と言っているにすぎない。

今現在と言った瞬間に?それが、過去の出来事になってしまうのだ。「い」と言った瞬間に「い」と言ったということが、過去の出来事になってしまうのだ。

だから、今現在と言っても、時間の幅があるものだ。時間の長さがあるものを、今現在と言っているのだ。

2025年7月7日月曜日

●「言う」ということを事前に言わないと、「言う」ということが現実化しない■言霊※070702

「言う」ということを事前に言わないと、「言う」ということが現実化しないのである。 

たとえば、Gさんが、事前に「私は自分が思ったことを言うことができる」と言っていたとする。この場合も、事前に「私は自分が思ったことを言うことができる」と言っておかなければならないのである。

「私は自分が思ったことを言うことができる」と言うということを現実化させるために、事前に「私は自分が思ったことを言うことができる」と言っておかなければならないのだ。

言わなければ、現実化しないからだ。事前に言っておかなければ、言えないのである。

これは、矛盾している。

言わなくても、「言う」ということができる。

なんらかの発言をする前に、なんらかの発言をすることが現実化すると言わなくても、現実化させることができたということだ。

*     *     * 

「言語能力が発達する」と言う場合でもいい。「自分の言語能力が発達する」ということを事前に、言わなかったにもかかわらず、「自分の言語能力が発達した」のである。

「話すことかできる」と、特に、言わなくても、話すことができるようになったのである。

どうしてか?

言霊の力ではなくて、人間に備わっている、発達する力が開花したからだ。

もっとも、これにも、個人差がある。残念なことに、話せない人もいる。

しかし、たいていの場合は、話せるようになる。

その場合、事前に「私は話せるようになる」と言ったから、「私は話せるようになった」のかということが問題なのである。

言ったことが現実化するのであれば「私は話せるようになる」と言ったから、話せるようになったのである。「私は話せるようになる」と言ったから、「私は話せるようになる」ということが、現実化したということになる。

ところが、事前に「私は話せるようになる」と言わなかったにもかかわらず、話せるようになったのである。

なんらかのことを言うということも、じつは、事前に、なんらかのことを言うと言っていなければ、現実化しないことになる。言霊理論が正しいなら、そうなるのである。

事前に言うことが可能だと言うのであれば、事前に言うまえに……つまり、事前の事前に言っておかなければならない。以降、三重である場合は、事前の事前の事前、四重であるばあいは、事前の事前の事前の事前と進んでいく。

つまり、言うということが現実化するには、事前に、言うということが現実化すると言っておかなければならないのである。

ようするに、矛盾しているのである。

言ったことが現実化するんだろ。言わなきゃ現実化しないんだろ。だったら、事前に「言う」と言っておかなければ、「言う」ことができくなる。

言わない場合は、「言う」ということを現実化させることができない。

*     *     *

ようするに、言わなくても、言うということが、現実化したのである。言霊理論にしたがえば、言うということを現実化させるには、言わなければならないのである。言うことによって、言うということが現実化するのである。

だから、矛盾している。

最初に言うことができないだろ。 言うということを現実化させるには、言わなければならないのだから、最初に言うことができなくなる。

言わないのに、どうやって、言うということを現実化させるのだ? 

無理だろ。言霊理論が正しければ、無理なのである。けど、言霊理論が完全にまちがっているので、言うことで、言うということを現実化させる前に、言う必要がないのである。

*     *     *

わかりにくいと思うからもう一度言っておく。たとえば、「私は言うことができる」と言わなければ、「私は言うことができる」ということを現実化させることができないのである。

言霊の力によって「言うことができる」ようになるのだ。「私は言うことができる」と言ったから、言霊の力によって「私は言うことができるようになった」のだ。「言うことができる」ということが現実化したのだ。

ところが、最初は、言うことができないわけだから「私は言うことができる」と言うことができない。矛盾している。……言いたいことは、こういうことだ。

*     *     *

親が子どもに「言うことができる」と言ったから、子どもが言うことができるようになったと反論する人がいるかもしれない。

ようするに、「私」ではなくて、「だれか」か言った場合だって、現実化するのだから、「私」が言わなくても、だれかが言えば、「私」が言うことができるようになるということだ。

けど、これは、くるしまぎれの、いいわけだ。 

たとえば、人類が話す能力を獲得したとする。だれか、人類が「人類が話す能力を獲得する」と言ったから、その言葉に宿っている言霊の力が発動して、人類が話す能力を獲得したのかということが問題になる。

もし、言霊理論が正しいなら、人類が話す能力を獲得する前に、「人類が話す能力を獲得する」と言わなければならないのだ。

しかし、話す能力を獲得していない人類のだれかが、「人類が話す能力を獲得する」ということを言うのは不可能のなのである。

「話す能力」ではなくて、「言語能力」でもいい。

言霊理論が正しいなら……人類のだれかが「人類は言語能力を獲得する」と言ったから、言霊の力によって、人類が言語能力を獲得することができたということになってしまうのである。

矛盾しているだろ。

じゃあ、最初に「人類は言語能力を獲得する」と言った人は、どうやって、言語能力を獲得したのだということが問題になる。

言霊や言霊の力というのが、フィクションなので、いろいろなところに、矛盾がしょうじるのである。言霊理論が正しいと前提して考えると、いろいろな矛盾に遭遇することになる。

「言霊」という考え方や「言霊の力」という考え方は、フィクションなのである。

もっと言ってしまうと、妄想なのである。 

 

 

●「一〇円玉が、宙に浮き、自分の財布にもどってくる」■言霊※070701

たとえば、Sさんが、銀行のATM付近で、財布からお金をとりだそうとしたとき、一〇円玉が、落ちてころがったとする。Sさんは、言霊主義者だけど、普通に、一〇円をひろうために、ちょっと歩き、腰をかがめて、一〇円玉を拾って、その一〇円玉を財布の中にもどしたとする。

言霊主義者の場合、ほんらいなら、「一〇円玉が落ちる」と言わなかったのに、一〇円玉が落ちたことに疑問を感じなければならない。

「一〇円玉が落ちる」と言うと、言ったことが現実化すると思っているからだ。

「一〇円玉が落ちる」と言わなかったのに、「一〇円玉が落ちる」ということが現実化した。おどろくべきだろ。

なぜ、一〇円玉が、下方向に運動するのか?

それは、言霊のせいなのである。

言霊の力が、一〇円玉を下に運動させたのである。言霊の力によって、運動が起こらないのであれば、いったいなんの力によって運動が起こったのか?

おかしいじゃないか。

しかも、自分が歩いて、一〇円玉をとりに行った。どうしてだ?

「一〇円玉が、宙に浮き、自分の財布にもどってくる」と言えば、言霊の力によって、一〇円玉が宙に浮き、自分の財布にもどってくるのである。

あるいは、「一〇円玉がとんで、自分のところにくる」と言えば、自分のところにとんでくるのだ。とんできた一〇円玉を、自分でつかんで、財布の中に入れればいい。

おかしいしゃないか? 

どうして、「歩く」と言わなかったのに、歩くことができたのか?

言霊のことなんて、ぜんぜん考えていないじゃないか。

どうして、一〇円玉を拾うことができたのか?

「一〇円玉を拾う」と言わなければ、一〇円玉を拾うことさえ、現実化しないのである。

「言ったことが、現実化する」と言霊主義者は、口を酸っぱくして言っている。言わないのに、現実化したじゃないか。しかも、自分がやったことだ。

なぜだ?

どうして、「一〇円玉が、宙に浮き、自分の財布にもどってくる」と言って、問題を解決しようとしないのだ?

言霊主義者だって、手でつかんでいたものをはなしたら、手でつかんでいたものが、下に落ちるということを、普通に、受け入れている。

「下に落ちる」と言えば、下に落ちるけど、下に落ちると言わなければ下に落ちないのではないのか?

なんで、人間の感覚で、下方向に移動するということに、疑問をもたないんだよ?

おかしいじゃないか。

「下方向に移動する」と言わなくても、下方向に移動した。

そして、言霊主義者なのに、それをなんの疑問もなく、受け入れている。

言わなくても、移動したのだから、これは、言霊の力によって移動したわけではないということが、あきらかだ。言霊主義者だって、普通の物理的な運動に関しては、物理的な運動が(言霊の関与なく)発生するということを知っているのだ。

普通に、そういうものだと受け止めている。言霊主義者は、まったく疑問に思わない。

言霊の関与なく、動いた。言霊の力、以外の力が、働いているのである。

言霊の力が、下に移動するということを、現実化させたのではないのである。

そして、言霊主義者も「言霊の力が、下に移動するということを、現実化させたのではない」ということを、普通に受け止めている。

*     *     *


たとえば、Sさんが、一〇円玉を落としたとき、銀行員の人が、一〇円玉を拾ってくれたとする。そして、銀行員の人が、一〇円玉をSさんに手渡し、Sさんは、自分の財布に一〇円玉を入れた。……こういうことが起こったとする。

Sさんは、まったく疑問に思わないけど、「言わなかったことが、現実化した」のである。Sさんが「銀行員が拾う」と言ったから、言霊の力によって、銀行員の人が拾ったのか。ちがう。

銀行員の人の意思で動いた。銀行員の人が、一〇円玉を拾ってあげたほうがいいだろうと思って、拾ってあげた。Sさんは、「銀行員の人が一〇円玉を拾う」と銀行員の人が一〇円玉を拾うまえに、言っていない。

そして、銀行員の人も、無言で一〇円玉を拾ったので、一〇円玉を拾うまえに「私は一〇円玉を拾う」と言ってない。一〇円玉を拾ったあと、Sさんに手渡しをしてあげるときも「私は、あの人に拾った一〇円玉を手渡しする」と言っていない。

ようするに、言わなかったことが、現実化したのである。

「言えば、言ったことが現実化する」という理論からすると、これは、おかしなことなのである。

ところが、言霊理論を妄信しているSさんが、まったく疑問に思わないのである。疑問に思わないということ自体が、おかしなことなのである。

普通に起こるとは、言わなくても普通に起こることだと思っているのである。物理的なことに関しては、特に言わなくても普通に発生すると思っているのである。なので「言わなくても現実化する」と思っているのである。

何度も言うけど、言霊主義者は、普通に発生することに関しては、言わなくても普通に発生すると思っているのである。

「言ったことが現実化する」のだから、言わなかったことが現実化してしまうのはおかしなことなんだよ。

「言ったことが現実化する場合もあるし、言わなかったことが現実化する場合もある」ということを主張しているのであれば、そのように言えばよいのである。

ところが、言霊主義者は「言ったことが現実化する」と言ってきかないのである。

しかも、言ったのに現実化しなかったことは、ガン無視だ。言ったのに、言ったことが現実化せず、言ったこととは真逆のことが現実化した場合も、ガン無視だ。



 

2025年7月6日日曜日

●Dさんが「なおる」と言っているあいだに、物理的な変化がしょうじたのである■言霊※070602

 「Dさんが『なおる』と言ったにもかかわらず、なおらないということが発生する」……と書いたけど、実際に、なおる場合もあるのだ。

そうすると、言霊主義者であるDさんは「ほら、なおった」「言霊は絶対だ」などと言うのである。

しかし、これも、言霊主義者であるDさんの勘違いなのだ。

たとえば、その機械の一部が、摩擦熱によって、過度に熱くなったとしよう。熱くなった部品が、わずかに膨張して、機械が動かなくなったとしよう。その場合、室内の温度と部品の温度に差があるので、部品の温度がさがる。

そうしたら、部品が膨張するまえの大きさにもどって、うまく、機械が動くようになったのだ。

ようするに、Dさんが「なおる」と言っているあいだに、物理的な変化がしょうじたのである。そして、物理的な変化の結果、なおった。

だから、Dさんの放った「なおる」という言葉に宿ってる言霊は、一切合切関係がないのだ。

もちろん、言霊はないので、宿っていないのだけど、Dさんの世界観だと、宿ってることになっているので、とりあえず、「『なおる』という言葉に宿ってる言霊」という言葉を使った。

 

●「なおると言えばなおるので、なおると言いましょう」■言霊※070601

 たとえば、Dさんは、「言霊(理論)が絶対に正しい」と言っているとする。そのDさんは、工場で働いているとする。工場の機械がこわれたとする。

このとき、Dさんは「なおると言えばなおるので、なおると言いましょう」とほかの人に言うかというと、言わないのだ。「なおる」と言っても、なおらないと思っているので、「なおると言えばなおるので、なおると言いましょう」とは、言わない。

もし、Dさんが、ほかの社員に「なおると言えばなおるので、なおると言いましょう」と言ったら、ほかの社員は、どう思うか?

「冗談を言っているのかな」と思うだろう。

もし、Dさんが、本気で言っているのなら、喧嘩になる。

「じゃあ、なおると言ってなおしてみろ」とほかの社員がDさんに言って、Dさんが「なおる」と言ったにもかかわらず、なおらないということが発生する。そういうことが、Dさんもわかっているので「なおると言えばなおるので、なおると言いましょう」 などとは言わない。

「今日中に、一〇〇〇個、この製品ができあがる」と言えば、言っただけで、一〇〇〇個の製品ができあがるのだ。これが、言霊による解決方法だ。けど、じゃあ、言えば、言っただけで、一〇〇〇個の製品ができあがるのか?

できあがらない。

言霊主義者のDさんも、それがわかっているので、「今日中に、一〇〇〇個、この製品ができあがると言えば、一〇〇〇個、この製品ができあがるので、今日中に、一〇〇〇個、この製品ができあがると言いましょう」とは、言わないのだ。

ようするに、言霊主義者のDさんも、言霊の力なんて、ぜんぜん、信じていないということだ。「言ったって、言っただけでは、一〇〇〇個の製品なんてできあがるわけがない」と思っているのだ。

もし、現実的な場面で、言霊的な解決方法を口にしたら「精神病患者だと思われる」のだ。

だから、言わない。

実際に、言霊主義者だって、「言えば言ったことが現実化する」とは思っていないのだ。

だから、「できるできると言って、がんばればいい」と言うことになる。けど、「できる」と言えばできるのだから、がんばらなくたっていいのである。

そして、たとえば、一日に一〇〇〇個の製品をつくりたい場合は、「一日に一〇〇〇個の製品が、この空間に出現する」と言えばいいのだ。

そうすれば、出現する。言えば言ったことが現実化するので、言うだけで、一〇〇〇個の製品を出現させることができる。

どうして、「一日に一〇〇〇個の製品が、この空間に出現する」と言わないかというと、言霊主義者は『言霊の力なんて、ない』と思っているからだ。

『言霊の力によって、言ったことが現実化することはない』と思っているので、「一日に一〇〇〇個の製品が、この空間に出現する」と言わないのだ。

ところが、現実的な問題でこまっている人には、「言えば言ったことが現実化する」と自信満々で言ってしまう。

「言えば言ったことが現実化するので、言えばいい」「言えば、言った通りになるので、言えばいい」と言ってしまう。もう、精神が完全に分裂していると言っていい状態だ。

ひとごとなら、「言えば言ったことが現実化する」と本気で思って助言することができるのだ。

けど、自分の現実的なことだと「言えば言ったことが現実化する」と言うこと自体を、はばかるということになる。自分の現実的な問題というのは、自分が関係している現実的な問題も含まれている。

工場で、みんなで働くときに、言霊的な提案をするかというと、しないのである。言霊的な解決方法なんて、口にしない。

けど、そんな彼らでも、言霊的な解決方法を口にすることがある。

それは、「できると言えばできる」というようなことだ。

たとえば、なにかをやろうとしている人がいるとする。

その人がEさんだとする。Eさんに対して、言霊主義者が「できると言えばできる」と言うのだ。

けど、けっきょく、作業をするのは、Eさんなのである。Eさんの身体を使って、Eさんが現実化していることなのだ。

たとえば、Eさんは、ある材料を組み立てて、一日に、一〇個の製品をつくっているとする。言っておくけど……Eさんは、「一〇個の製品ができあがる」とか「一〇個の製品が、出現する」と言って、一〇個の製品をつくっているわけではない。

Eさんの身体を使って、非常に現実的な方法で、一〇個の製品をつくっているのだ。

けど、一〇個つくるのが、きつくて、普通にやると、一日に、七個ぐらいしかできないので、「七個にしてほしい」とEさんが言ったとする。

ようするに、限界までがんばれば、一日に一〇個つくることは可能なのだけど、むりをしてつくっているので、毎日続けることはできないということだ。

これ以上やると、からだが悲鳴をあげて、一日に一個もつくれなくなるので、七個にしてほしいという意味で、「できない」と言っているのである。Eさんが「一日に一〇個つくるのは、できない」と言ったとする。

そうしたら、言霊主義者が「できると言えばできる」と言うのである。

実際に、Eさんは、一日に一〇個つくってきた。

だから、「一日に一〇個つくるのは、できない」ということは、まちがっているわけだ。実際に一〇個つくれた日もあるのだから、一日に一〇個つくれるというのは、事実だ。

けど、Eさんは「これ以上、続けることはできない」と言っているのである。

言霊主義者は、Eさんのかわりに「一日に一〇、この製品ができあがる」と言ってあげればいいのである。言ったことが現実化するのだから、Eさんが(おのれの)身体を使って、つくらなくても、言霊主義者が言っただけで、一日に一〇の製品をつくることができるのである。

ようするに、「できると言えばできる」というような言霊主義的な言葉というのは、現実的な方法でつくることを前提にして言っているわけである。言霊の力でつくってしまうわけではないのである。

Eさんが実際に、物理的な材料を使って、物理的な作業をして、つくるのである。

言霊……関係ない。

言霊の力……関係ない。

関係ないことに、言霊的な解決方法を提案するのである。その場合、Eさんが作業を背負うことになる。言っただけでは、できないのである。

だから、Eさんが、実際に動かなければならないのである。実際に動くのがしんどいので「もう、続けることはできない」という意味で、「できない」とEさんが言ったのである。

「できると言えばできる」と言ったほうも、EさんがEさんの身体を使って、製品をつくるということは、認知しているのである。実際の身体と実際の作業に関しては、メタ認知が成り立っている。

実際に、Eさんがやることだから、言霊主義者は、Eさんに負担をかけようとして、あるいは、Eさんの負担をガン無視して「できると言えばできる」と無責任にはっぱをかけたのである。

まあ、言霊主義者が、わざとEさんに負担をかけようとして言ったわけではないとする。

しかし、実際に、Eさんが言霊主義者のいうことを聞くと、Eさんに負担がかかるのである。

2025年7月5日土曜日

●あきらかなことに関しては、言霊主義者といえども、言霊の力で、そうなったとは考えないのである■言霊※070502

 たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんの上司で、BさんがAさんの部下だとする。

ある日、AさんがBさんに「このあいだ書類を提出してください」と言ったとする。Bさんが、Aさんに、「このあいだの書類」を提出したとする。

Bさんが、言われた内容を理解して、言われた内容に沿った形で行動し、実際に、Aさんに、書類を提出したとする。

その場合、Bさんが言霊主義者でも、言霊の力によって、書類を提出したとは考えないのだ。自分にとって、プロセスがあきらかなことは、言霊主義者であっても、現実的な理由を考えてしまうのである。

だいたい、Bさんは、提出する書類を、自分で書いて提出したのである。だから、一連のプロセスを知っている。

Bさんにとって、Aさんから言われて、その通りに動いて、Aさんにその書類を提出するまでのプロセスは、あきらかなことなのだ。

あきらかなことに関しては、言霊主義者といえども、言霊の力で、そうなったとは考えないのである。

言霊主義者なら、そもそも、会社に勤める必要がないのだけど、とりあえず、その問題は横に置くとして……言霊主義者なら、言うだけで、書類なんて提出できるはずなのである。

言霊主義者なら、言うだけで、書類に必要なことを書き込むことができるのである。

「なになにという書類が完成する。完成した書類が、Aさんの机の上に出現する」と言ってしまえば、言ったことが現実化するのだから、言霊の力で、現実化させればいいことなのである。

そして、たとえば、書類というのは、紙でできた物理的な書類であり、紙でできた物理的な書類を物理的な自分の手で持つことができるということが、そもそも、言霊の力によって成り立っていることではないのである。

物理的な力によって成り立っていることなのである。自然物であれば、だれかが、「ここに存在する」と言うまえに、自然物として存在していたのである。

そして、ほんとうになにもないところに、物理的な存在を、言霊の力で、出現させるということは、できないことなのである。どんな言霊主義者だってできないことなのである。

「ほんとうになにもない」の定義は考えないこととする。

書類を提出するというプロセスを考えると、紙でできた書類を手で持つことができるというような物理的な特性が、ものすごく、重要なのである。

言霊主義者といえども、言霊の力ではなくて、物理的な力に頼りきって生活しているのである!!

そして、言霊の力によって、言った内容が現実化されるにしろ、けっきょくは、物理的な過程をとおして、現実化するのである。

これは、言霊の力があるとしても、言霊の力は、物理的な力に従属しているということなのである。

ところが、言霊主義者が考える言霊の力というのは、超物理的な力なのである。

物理法則に従属しない力なのである。

言ったことが、あらゆる物理法則を排して、現実化しなければならないのだ。だから、言霊の力は、魔法力だと、ぼくが言ったのだ。

物理的な力が言霊の力に従属しているのか、あるいは、言霊の力が物理的な力に従属しているのかということを考えると、言霊の力が、物理的な力に従属してるということになる。

もちろん、これは、言霊主義者が考えるような言霊を考え、言霊主義者が考えるような言霊の力を、仮に考えた場合の話だ。

誤解されるのがいやなので、何度も言っておくけど、言霊も言霊の力も存在しない。

ようするに、言霊主義者は、このことについても、調子よく、誤解をしている。

矛盾をスルーしている。

物理的な意味で現実化されるのだから、もちろん、物理法則にしたがったかたちで「それ」が現実化したのである。

しかし、言霊主義者が、無邪気に想定している力というのは、物理的な力をこえた、物理法則にしたがわない力なのである。

そういう、超物理的な力が言霊の力なのだ。

*     *     *


ともかく、ボールペンで、書類に文字を書くことだって、物理法則にしたがった物理的な力(ちから)が現実化させていることなのである。

普通は、ボールペンで書類に文字を書こうとしたら、机が、床に沈んでしまって、うまく文字を書くことができないということが発生しないことだって、物理的な力が現実化させていることなのである。

ようするに、ボールペンで書類に文字を書くという、普通のことだって、ほんとうは、言霊の力によって、現実化されていることではないのである。

物理的な力によって、現実されていることなのである。

けど、「言えば、言ったことが現実化する」と考えている言霊主義者は、そのことを無視してしまう。

言霊主義者だって普通の知能があるので、机の上で、机の表面の上にある、物理的な書類に、物理的なボールペンで文字を書くことができるということを知っている。

言霊主義者だって、知っている。

だから、普段は、不思議に思わない。

それであたりまえだからだ。

言霊主義者が、普段「それであたりまえだ」と思っていることは、言霊の力によって発生していることではなくて、物理的な力によって発生していることなのである。

けど、言霊主義者が「言霊」ということについて考える場合、言霊主義者は、物理的な力に頼って生きているということを、無視してしまうのである。

そして、無視していることに気がつかない。

 

2025年7月3日木曜日

●「浮くと言ったって、落ちる」と思っているから、言霊主義者は、飛び降りないのである■言霊※070302

言霊主義者は、どうして、ビルの屋上から、飛び降りないのか?

言霊主義者は、「飛べる」と言えば「飛べる」と思っているのである。力説するのだから、そう思っているのである。なら、飛べるはずだ。

ところが、自殺するつもりがない言霊主義者は、「飛ぶ」と言って「飛ぼう」としない。

「飛ぶ」と言ったって、落ちるに決まっているから、飛ぶと言って、ビルの屋上から、飛び降りるということをしないのだ。

もし、ほんとうに「言えば、言ったことが現実化する」のであれば、「飛ぶ」と言えばすむ話なのである。

あるいは、「浮く」と言えば、浮くのである。

「自分は宙に浮く」と言えば、宙に浮くのである。どうして、自分の現実的なことについては「言霊なんて、嘘だ」「言霊の法則なんて成り立ってない」と思っているのか?

ここから飛び降りたら、死ぬと思っているから、飛び降りないのだ。

「飛べる」「飛ぶ」「浮ける」「浮く」と言ったって、落ちると思っているのである。ようするに、言霊なんて、ぜんぜん信じていないのである。

言うことで、現実をかえられるとは思っていないのである。

ところが、「言うことで、現実をかえられるとはおもっいない」ということに、無頓着なのだ。ぜんぜん、認識しない。自分のことなのに、まったく、認識しない。

一方では「言霊は絶対だ」「言ったことが現実化する」と思っていながら、もう一方では「言ったって、現実化するわけがない」と思っているのである。

「浮くと言ったって、落ちる」と思っているから、言霊主義者は、飛び降りないのである。「言ったって、落ちる」と思っているということを、ちょっとは、自覚したほうがいいよ。

言霊主義者が日常のなかで、言霊思考をするのは、じつは、かぎられた場面でしかない。言霊主義者は、ほぼ一〇〇%の思考で、現実思考をしているのである。

ようするに、言霊主義者は「言えば、言ったことが現実化するなんて、嘘」と思って生活しているのである。

言霊主義者は「言っただけで、現実化するわけがない」「言ったって、現実化するわけがない」と思って、自分の行動を決めているのである。

言霊思考が出てくるのは、他人に説教をしたいときと、本人が夢や希望について語るときだけなのである。あとは、「言霊なんてあるわけがない」「言っただけで、解決するわけがないだろ」と思って暮らしているのである。 

●自己責任論者が攻撃をするのは、やられたほうであり、こまっているほうなのだ■自己※070301

 自己責任論者は、無理解ぶりを発揮して、条件が悪い人にひどいことを言っているのに、ひどいことを言っているということには、もちろん、責任なんて感じない。

まあ、条件が悪い人にひどいことを言うこと自体は、それほど、悪いことではないのだろう。日常茶飯事だ。

けど、悪口を言うことに匹敵していることをしているんだよ。誤解をして悪口を言うことに匹敵している。

けど、もちろん、自己責任論者は、「悪いことをした」という認識がないので、責任なんて感じることができない。

けど、この悪いことを、殺人まで引き上げたとしよう。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんが、包丁でBさんを刺して殺した。Aさんが道に出て、Bさんにあうまで、AさんとBさんはあったことがないとする。メールのやり取りもしていないとする。

ようするに、Aさんは、Bさんのことを、知らなかった。これは、Bさんが、Aさんに、悪いことをしたので、Aさんが、復讐するつもりで、Bさんを刺したということではないということを意味している。

さて、Aさんは、Bさんを刺したことが悪いことだとはどうしても思えない人だとする。そういう人だっている。

Aさんのなかでは、ムカついたことがあったら、関係がない人を刺してもいいということになっていたのだ。これは、Aさんの基準だ。ほんとうに、悪いことをしたとは、どうしても思えないのだ。Aさんにとって、自分がせめられているということ自体が、腹がたつことで、気に食わないことだとする。そうすると、自分が人を殺したことよりも、自分がせめられているということに腹をたててしまう。

そして、それは、Aさんにとって当たり前のことだ。

ここで、自己責任論者に登場してもらおう。

自己責任論者は、刺されたBさんの自己責任を追及するのである。

刺されたほうに問題があるという「特殊な理論」を展開するのだ。「刺されたほうが、注意を怠ったから、刺された」「注意をおこたったっという責任がある」と、言うのだ。

すべては自己責任なので、注意をおこたって刺されたBさんが悪いということになる。

自己責任論者は、刺されたBさんの自己責任を追及するのである。

Aさんには、なにも言わない。

かりに、Aさんの責任を、自己責任論者が、追及したとする。責任追及をされたAさんが、無視して、おしまいだ。あるいは、責任を感じないAさんが、むっとしておしまいだ。

別に、自己責任論者が、Aさんに「責任を感じさせる」ことはできないのだ。

もちろん、Bさんに責任を感じさせることもできないけど、自己責任論者が刺されたほうに問題があるという「特殊な理論」を展開したのは、事実だ。

いままでの設定だと、Bさんは殺されたので、おこったりしない。もし、刺されたけど、一命は取り留めた場合について考えてみよう。

この場合、Bさんは、自己責任論者から、責任追及をされるのだ。

かりに、Bさんのほうに、現実的な落ち度がなかったとしても、自己責任論者が、Bさんの落ち度を勝手に作り上げ、Bさんの落ち度を追及し始めるのだ。Bさんが生きていれば、腹をたてるだろう。

「自分には、落ち度がない」と言うだろう。「自分には落ち度がなかった」とBさんが言ったとする。けど、それは、自己責任論者には届かない。自己責任論者は、一度、Bさんのせいにしているので、「Aさんのせいだ」と言うことに、抵抗を感じるのだ。

そうすると、自己責任論者は、Bさんに対して「そんなのは、いいわけだ」「一方が一方的に悪いということはない」「やられたほうにも責任がある」「Aさんのせいにしている」「被害者になりたがっている」「被害者意識、ばっかり」「被害者づらをするな」「泣き言を言っていれば、それですむと思っているのか」「泣き言ばっかり言っている」「愚痴ばっかり言っている」「暗いことばっかり言っている」と言い出す。自己責任論者がやっていることは、こういうことだ。自己責任論者は、いいことをしているつもりかもしれないけど悪いことをしている。

自己責任論者は「真実を述べたつもり」かもしれないけど「誤解」をして、真実を語っていない。真実ではないものを、勝手に真実だと決めつけているだけだ。

自己責任論者は、Aさんにはなにも言わない。自己責任論者は「やったほう」にはなにも言わない。自己責任論者は、責任があるほうには、なにも言わない。

Aさんの行為なのだから、Aさんに責任があるだろ。

ところが、自己責任論者は、責任があるほうには、なにも言わない。

Aさんは責任なんて一切合切感じないのだから、やったものがちになる。第三者である自己責任論者が、こまっているBさんをディスるのである。

こまっている相手に「自己責任だ」というとに、快感を感じているのである。言いきって、気分爽快なのである。

実際にせめられているのは、やられたほうだ。やったほうじゃない。自己責任論者が攻撃をするのは、やられたほうであり、こまっているほうなのだ。こんなの、ていのいい「いびり」。

いじめほど、ひどくはないけど、誤解をしているということが、問題なんだよな。そ

して、責任のがないほうに、責任をなすりつける。誤解をしている部分を、自己責任論者が認めるかというと、認めない。ほんとうに、やっかいな存在だ。

妄想で、こまっている人の「落ち度」をつくりだし、「落ち度」を追及し始める。しかも、自己責任論者・本人には、そういうつもりがなく、ほんとうに、そのこまっている人には、落ち度があると思っている。

その落ち度というのは、なんでも自己責任だから、やられたら、やられただけで責任があるというものだ。こんなろくでもないことを、「真理」と言っているのが、自己責任論者だ。

 

*     *     *

たとえば、包丁で刺されるというネガティブなことが、発生したから、包丁で刺されたということについて、語りだすのである。

包丁で刺されたということについて、ネガティブな発言をすると、言霊主義者が、「ネガティブな発言するから、ネガティブなことがを起こる」と言うのだ。

包丁で刺されたということについて、ネガティブな発言をすると、引き寄せ論者が、「ネガティブな発言をするから、ネガティブなことを引き寄せた」と言うのだ。

ところが、時間的な出来事の順番を見ると、ネガティブな出来事が発生したあとに、被害者であるBさんが、ネガティブなことを言ったのだ。順番は、出来事がさきだ。

ところが、因果関係を逆転させる考え方に慣れ親しんだ人たちが、因果関係を逆転させて、「ネガティブなことを言うから、ネガティブなことが起こる」と言いきるということが、発生してしまう。

因果関係を逆転させて考える人は、時間的な順番も、逆転させて考えてしまう。

しかも、時間的な順番を逆転させて(自分が)話しているということについて、気がつかないのだ。「時間的な順番がちがう」と言われたって、「言ったことが発生する」とか「ネガティブなことを言ったから、ネガティブな結果を引き寄せた」と言ってゆずらない。

自己責任論、因果関係の逆転思考、言霊理論、引き寄せ理論は、密接に結びついていて、一種の「思考群」を形成している。 

 

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。