「今現在」という言い方について、ちょっとだけ、言っておく。「過去も未来もない。今現在しかない」とAさんが言ったとする。そして、「今現在しかないと思って、生きていく」と言ったとする。Aさんにとっての「今現在」という時間の幅が問題なのである。
たとえば、二〇〇一年の一月一日に、「今現在しかないと思って生きていく」と思ったとする。そのあと、二〇三一年の一月一日に、また、「今現在しかないと生きていく」と思ったとする。この場合、三〇年前も「今現在」として表現している時間になる。
ずっと、今現在しかないと思って生きてきたのだから、そうなる。Aさんが言っている今現在と言うのは、二〇〇一年一月一日から二〇三一年の一月一日までの幅をもつ時間なのだ。
だから、「今現在しかないと思って生きていく」と言った場合の「今現在」という言葉が、どういう時間の幅をしめしているのかということが、問題になる。「今現在」の時間的な長さが、人によって、ちがうのである。
「いま、この瞬間しかないと思って、今この瞬間を生きる」と言った場合の「今この瞬間」という言葉も、ほんとうに「瞬間」を意味しているわけではないのである。
「瞬間」と言っても時間の幅をもっているもなのである。時間の幅がある言葉なのである。「今この瞬間を生きる」という気持で、一日をすごした。その場合、二三時間と五九分前のことも、「今この瞬間」のなかに含まれている時間なのである。二三時間と五九分前の過去が「今現在」という時間の表現の中に含まれているのである。
「今この瞬間」と言った場合、「いま」の「い」を言ったということも、過去のことなのである。「今この瞬間」のことではないのである。……物理的な時間について考えるならそうなる。
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ところで、だれが、どんな声で言っても、「い」は「い」に聞こえるという問題がある。まあ、しゃべり方が悪い人や猛烈に声が小さい人が「い」と言っても「い」とは聞こえない場合もある。
けど、たいていの場合は、「い」と言えば、「い」と聞こえる。これは、じつは、重要なことなのだ。これは、ようするに、「い」という音がゲシュタルト質をもっているということなのだ。全体は、部分の単なる総和ではないということだ。
ところで、言いたいことは、なにかがゲシュタルト質をもっているのではなくて、ようするに、人間の脳に、ゲシュタルト質を感じてしまう部分があるのではないかということだ。
ようするに、その「もの」……その「音」が、ゲシュタルト質をもっているのではなくて……脳のほうが、ゲシュタルト質を感じとってしまうのではないかということだ。
ゲシュタルト質は、脳に「そう感じさせる」特徴をもっているわけだけど、脳のほうが、特徴に対応していなければ、「それ」にゲシュタルト質を感じることはないわけだから、やはり、脳の問題なんだろうなと思う。
まあ、普通は「い」というような個別の?音ではなくて、「いまげんざい」というような、単音が組み合わさっている音の流れ(組み合わせ)について、ゲシュタルト質があると語られるのである。
たとえば、メロディーは、移調をしても、そのメロディーとして認識される。
しかし、ひらがなの「い」に対応した音も、音自体はちがうのに、「い」だと認識されるということは、短い「い」というような音にも、ゲシュタルト質があるということなのではないか。あるよなぁ。ある。
けど、おのおのの「い」がゲシュタルト質をもっているのではなくて、むしろ、おのおのの脳がゲシュタルト質に対応した処理部分をもっているのではないかということが、言いたかったわけ。
ようするに、ゲシュタルト質なるものをもっているのは、対象物(ゲシュタルト質があるものとして語られるもの)ではなくて、脳みそなのではないかということなのである。