もう、つかれはててしまったところがある。もう、動きたくないという気持がある。
基本、かゆい。この、ダニにさされたあととひっかき傷。あーー。もう、いやだ。まあ、完全防備で、段ボールの上にあるほこりに、立ち向かうべきだった。けど、暑かったし、過去のいろいろで、完全防備をするのが、ほーーーんとうに、いやなのだ。もう、俺は何回おなじことを繰り返しているのだという気持になる。刺されて猛烈にかゆくなった時、どうしたって、きちがい親父の態度が思い浮かぶ。「ネズミ対策工事をしよう」と俺が言った時の、きちがい親父の態度が、思い浮かぶ。俺は、ずっと、きちがい親父のしりぬぐいをしてきた。もう、いやなんだよ。普通の人がやらないことを、突然やりだして、絶対にやめようとしない。粕漬の魚をテーブルの上にずっと出しておくことに、なんの意味があるのか? 焼いてから、二三時間、出しっぱなしにすることになんの意味があるのか。しかし、やめない。どれだけなにを言っても、やめない。部屋中がくさくてくさくて、たまらなかった。そして、部屋がくさいということを言うと、「くさくないよ!」「くさくないよ!」「くさくないよ!」と発狂して怒鳴るのだ。怒鳴って否定する。これ、ずっとおなじなんだよ。ともかく、自分にとって都合が悪いことを言われると、全否定する。嗅覚が正常なら、絶対にくさいということがわかるのだ。電位依存性カチオンチャネル阻害剤によって、特定のにおいに鈍感になっていたわけではない。自分が、テーブルの上に魚を出しておきたいと思っている。そうしたら、もう、絶対に、それができなくなるようなことは、認めないのだ。それだけ。これが、意識的にやっていることならいいけど、無意識的にやっていることだから、本人には、いつもつもりがないということになる。そして、やり勝ちしてしまえば「なかったことになってしまう」のである。こういう、きちがい構造。
これが、全過程をとおして、へんな態度なんだよ。これ、家でしかやらないんだよ。きちがい親父にしても、家でしかやらない。よそのうち」でこんなことができるわけがない。こういう意地を当せるわけがない。自然に、スイッチを切り替えている。これも、無意識的にやっていることだから、「うち」では、こうして……「よそ」では、こうしようなんて考えているわけではないのだ。自然に、スイッチが切りかわる。
ちなみに、きちがい兄貴もおなじなんだよ。きちがい兄貴が、「よそ」のうちに引っ越したら、ヘビメタを鳴らさなくなった。「よそ」の人に対しては、迷惑だということがわかるのだ。「よそ」の人に対しては、「でかい音だ」ということがわかるのだ。ところが、「うち」だと、スイッチが切りかわってしまう。いちおう、自分の部屋にいれば、となり家とは、距離があるので、きちがい兄貴のなかで、隣の家という「よそ」は気にならないものだったのだろう。そういうところで、感覚がおかしいのだけど、そうなのだ。それから、引っ越したときは、ヘビメタに対する興味が、ほとんどなくなっていたというところもある。ともかく、感覚としては、兄貴にも「うち」ならいいという感覚が成り立っていたのだ。そして、この感覚に対して、きちがい兄貴自身が無自覚なのだ。きちがい親父が建てた「このうち」だから、「思いっきり鳴らしていいい」という気持が、たしょうはあったのではないかと思う。きちがい親父に自分は、やられてきたから、今度は、自分がやりかえしていいという気持があったのではないかと思う。自分というのは、兄貴自身のことだ。きちがい親父に、自分はやられてきたから、今度は、自分が、やりたいようにやっていいと思っていたのだ。きちがい親父は、自分(親父自信)がやりたいようにやってきたわけ。そのやりたいようにやるというのは、普通の人の「やりたいようにやる」いうことではないのである。これが、普通の人にはまったくわからないことなのだけど、きちがい親父がやりたいようにやってきたという場合の、やりたいようにやるやり方というのが、ようするに、例をあげれば、酒糟のついた魚を、自分がやりたいように、テーブルの上に置いておくということなのだ。だから、親父にとって、特別に意識的な行為ではないのである。「かたづけてくれ」と言われると、スイッチが入って、きちがい的な意地でかたづけないのである。これに、なんの意味があるかというと、ない。きちがい親父側の問題なのである。きちがい親父の、きちがい的な無意識の問題なのである。やりたいようにやる」という表現を使うと、ちょっと、普通の人が、誤解をしてしまうのだけど、言ってみれば、へんなところで、やりたいようにやっているのである。頭がおかしい理由で、怒り狂うということも、きちがい親父が、きちがい的な意地でやりきったことだ。幼児に、頭がおかしいことを言って、怒り狂う。これが、一度や二度ではないのである。一日に、何十回やってたかわからない。日曜日なんて、おかあさんに、あたったぶんも、かぞえれば、百何十回もやっていた。普通の人には、考えつかない、奇妙な理屈で、怒り狂っていたのだ。これも、「やりたいようにやっていた」と書けば、そう書けることだ。きちがい兄貴の「ヘビメタの根拠」になっているのは、これだ。きちがい兄貴にとって、自分が思った通りに、思いっきり、うちでは鳴らしていいということに鳴っていたのだけど、これの感情的な根拠が、きちがい親父が、きちがい的な理由で、怒り狂っていたということだ。会社から帰ってきたあとの、わずかな時間で、何十回も怒り狂っていたなぁ。朝の、四〇分の間に、何十回も怒り狂っていたなぁ。これ、親父は、日曜日も、一日中家にいるわけではなくて、午前中だけ数時間いただけだったけど、百数十回じゃなくて、二百数十回ぐらいおこっているような気がする。平日の朝は、おかあさんに怒り狂っていたのだけど、そこに、起きていくのが、いやだった。こういうのも、朝の感覚に影響をあたえるんだよな。運動会などの特別な日は、きちがい親父が起きている時間に、居間に行かなければならないのだけど、死ぬほど憂鬱だった。
こういうことだって、「よそ」の人は「そんなのはへんだ。へんだから、エイリさんが嘘を言っている」と思うわけだ。 俺が親父の話をすると、「そんな人、いるわけがない」と思って、俺が嘘を言っていると思うやつが、いる。俺が、兄貴の話をすると「そんな人、いるわけがない」と思って、俺が嘘を言っていると思うやつがいる。けど、ほんとうなんだよね。
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手短に言って、きちがい親父の「粕漬の魚」に対する態度と、きちがい兄貴の「ヘビメタ」に対する態度が、まったく、おなじなのである。まーーーった、く、まーーーった、く、おなじなのである。そして、普通の人は、このふたりの態度が、まーーった、く、わからないのである。
「そんなのは、ちゃんと言えばいい」と思うだけのやつがいる。こいつに、どれだけ説明してもわかるわけがない。「そんなのは、ちゃんと、お兄さんに言えばいい」「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれる」……こういうふうに考えているんだよね。「そんなのは、ちゃんと、お父さんに言えばいい」「ちゃんと言えば、お父さんだってわかってくれる」……こういうふうに考えているんだよね。
どれだけ、ちゃんと言っても、わからないから、こまっているんだよ。どれだけ、ちゃんと言っても、わからないから、問題なんだよ。
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「言えば、言ったことが現実化するから、言えば、いい」と言うやつもおなじだ。言ったって、問題が解決しかないから問題なんだろ。言ったって、現実化しないから問題なんだろ。
こいつらも……。ほんとうに……。こいつらも、ほんとうに、わかってないな。