2025年4月19日土曜日

言霊主義者のこの無自覚性は、言霊主義者を現実に適応させている

 じつは、言霊主義者が、言霊思考におちいる分野というのは、だいたい、決まっている。夢や願望に関することについて、言霊思考をしてしまう。

現実の問題に関しては、言霊主義者だって、現実的な解決法を模索し、現実的な解決法で、解決しようとする。

べつに、「言えば、言った通りになる」とか「言えば、言ったことが現実化する」とは思っていないのだ。ほんとうに、「言えば、言った通りになる」とか「言えば、言ったことが現実化する」とかと思っていれば、言って解決しようとするのだ。

たとえば、おカネがなかったらどうするか?

「おカネが出てくる」と言えばいい。あるいは「おカネが、目の前にあらわれる」と言えばいい。「三秒以内に、おカネが、目の前にあらわれる」と言えば、三秒以内に、おカネが目の前にあらわれるのだ。

けど、言霊主義者だって、ほんとうには「三秒以内に、おカネが、目の前にあらわれる」と言えば、「三秒以内に、おカネが、目の前にあらわれる」とは思ってないのだ。

「言ったって、おカネがあらわれない」と思っているのだ。言霊主義者だって「言ったところで、おカネがあらわれるはずがない」と思っているのだ。

だから、言霊的な解決方法を採用しない。

かわりに、働いておカネかをかせぐという方法で、お金をかせごう度する。かせげば、そのお金は自分のものになるから、自分で使うことができる。

これが、問題解決方法だ。

働くために、働ける会社を探して、面接に応募して、面接に行ったりする。

これだって、言霊的な買いつ方法が、ほんとうに有効なら、やらなくていいことだ。

『言霊じゃ解決しない』と思っているから、働ける会社を探して、面接に応募して、面接に行くのだ。

これは、矛盾している。ほんとうは、矛盾している。

言霊主義者が、ほんとうに「言ったことが現実化する」と思っているのであれば、言って解決すればいいのである。言えば、解決できる問題ばかりだ。ところが、言って解決しようとしないのである。

ただし、自分のことではなくて、ほかの人のことだと、現実味が一気にさがるのである。

自分の条件は、自分が(言わなくても)知っているけど、ほかの人の条件は、ほかの人が言った分しかわからない。しかも、ほんとうに、相手の身になって考えているわけではないから、ほかの人が言ったことを、無視してしまう。

ようするに、ほかの人の条件は、自分の条件ではないので、無視してしまうのだ。

いっぽう、その「ほかの人」にとってみれば、その人の条件というのは「自分の条件」なので、言わなくても、よくわかっている条件なのだ。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんもBさんも言霊主義者だとする。Aさんは、Bさんにとって他人だ。Bさんは、Aさんにとって他人だ。だから、AさんがAさんの現実的な問題に関しては、言霊的な思考をしないのに、Bさんの問題に関しては、Bさんの条件を無視して、言霊的な思考をしてしまうのだ。

そして、逆に、Bさんは、Bさんの現実的な問題に関しては、言霊的な思考をしないのに、Aさんの問題に関しては、Aさんの条件を無視して、言霊的な思考をしてしまうのだ。他人のことだと、現実味がないので、言霊的な思考をしてしまう。

だから、言霊主義者は、他人には、言霊的なアドバイスをしてしまう。けど、じゃあ、自分が普段、言霊的な思考をして、言霊的な解説方法を選択しているのかというと、そうではないのだ。

普段は、言霊なんてガン無視して、現実的な方法で、現実的な問題に対処しているのである。

だからこそ、言霊主義者が、現実社会で、妄想的な精神病患者として扱われることがないのだ。

もし、ほんとうに、言霊主義者が、自分の現実的な問題に関しても、言霊主義的な解決方法を選択し続けると、言霊主義者は、妄想的な精神病患者として、まわりのひとから認識されるようになるのだろう。

現実的な問題に対して、現実的に対処しているので、言霊思考の問題が表面化していないだけなのだ。もし、原理を押し通して、すべてを、言霊的な解決方法で解決しようとすると、途端に、言霊思考の妄想的な部分が露呈して、現実に対応できなくなってしまうのだ。

現実を無視して、現実について言霊主義的な解釈をすると、さまざまな現実的な問題を引き起こすことになる。言霊主義者は、どれだけ、言霊が、妄想的な理論かということが、わかっていないのだ。

これは、実際には、言霊主義者が、現実的な問題に関しては言霊的な解決方法を採用していないということについて、言霊主義者自身が、無自覚だから、発生することだ。

言霊主義者のこの「無自覚性」は、言霊主義者を現実に適応させているのだけど、言霊思考が抱える、妄想的な部分を見えなくもしている。

*     *     *

他人事だと、自分のことではないので、自分における現実味が一気にさがってしまうのだ。現実味が一気にさがると、言霊で解決できそうな感じがしてくるのである。現実味がないことだから、言霊で解決できそうな気分になるのである。だから、他人には、言霊的なアドバイスをしてしまう。しかし、自分のことだと、言霊思考は一気に(頭のなかから)しりぞいて、現実的に対処しようとするのだ。

*     *     *

すべての言霊主義者にとって、ぼくのヘビメタ騒音問題は、現実味がないことなのである。「俺だって、騒音ぐらいあった」「俺だって、朝がつらい」「俺だって、困難を経験した」「俺だって、苦労をした」と言うけど、言霊主義者にとっては、ぼくのヘビメタ騒音問題は、現実味がまったくない問題なのである。だから、「軽く」見る。自分にとって現実味がない問題だから、言霊で解決できそうな気分になるのである。ところが、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音問題は、きちがい兄貴の脳みそにしたがって、きちがい兄貴が(実際に)やったことなので、言霊では、解決しない問題なのである。

けど、「言霊では、解決しない」「言霊理論は正しくない」ということを言霊主義者に説明しても、言霊主義者は(たいてい場合)理解しないのである。ぼくと言霊主義者の間に、亀裂が入る。たいていの場合と書いたけど、ぼくの経験の範囲だと、一〇〇%の言霊主義者が、認めなかった。理解してくれなかった。

*     *     *

言霊主義者は、夢や希望にかかわることだと、言霊思考をするということを書いたけど、このことは、逆に、言霊的な解決法の無力さを証明してしまっている。いつまでも、かなわないから、夢なのだ。「いつか かなう」と思っている。

それは、すなわち、「いまは、かなえることができない」ということなのである。

ようするに、「いまは、言霊的な解決方法では解決できない」ということを告白してしまっているのである。

「一秒以内に(これこれこういう)夢がかなう」と言ったところで、夢がかなわない。夢の内容が現実化しない。

言ったのに、夢の内容が現実化しない。

なら、言霊には力がない……言霊には「現実化さる」力がないということなのである。

言霊主義者が勝手に「言霊の力でそうなった」と勘違いしているだけだ

 言えば、言ったことが現実化するなら、「一九歳になる」と言えば、一九歳になるのだ。「一秒以内に、一九歳になる」と言えば、一九歳になるのだ。

たとえ、三〇歳だろうが、四〇歳だろうが、六〇歳だろうが、九〇歳だろうが、「一秒以内に、一九歳になる」と言えば一九歳になる。

ところが、どうだ?

「一秒以内に、一九歳になる」と言ったって、三〇歳の人は三〇歳のままだ、一九歳になるなんてことはない。「一秒以内に、一九歳になる」と言ったって、九〇歳の人は九〇歳のままだ。人によっては、一日以内に九一歳になってしまうかもしれない。ともかく、一九歳になれない。

だから、「言えば、言ったことが現実化する」という理論はまちがっている。完全にまちがっている。ところが、「言えば、言ったことが現実化する」「言えば、言った通りになる」と激しく主張する人たちがいる。言霊主義者だ。

その言霊主義者だって、実際に九〇歳だったら、九〇歳という「条件」をかえらない。

言霊の力で、その条件をかえることができるのかと言ったら、言霊の力で、その条件をかえることができない。かえることができないのだ。

だから、言霊理論は正しくない。

言霊で、いくらでも条件がかえられるなら、いい。

便利じゃないか。言えば言っただけで、条件をかえられる。

ところが、言ったって、条件がかわらない。

「かえられる条件だってあるだろ」と言うかもしれないけど、それは、言霊の力でかえることができるわけではないのである。

たとえば、「辞職させてください」と言った。だから、辞職できた。「だから、言うことで条件をかえることができる」と言う人がいるもしれない。

けど、それは、超自然的な言霊の力で、条件をかえたのではない。言葉の力で、条件をかえたのだ。言霊なんて関係がない。日本語が通じる人間に、日本語で自分の意思を伝えただけだ。

しかも、「辞職させてください」と言っても、辞職できない場合だってあるかもしれない。超自然的な言霊の力で、そうなるということではないのだ。

ところが、「辞職させてくださいと言ったから、辞職できた。言霊は正しい」などと言霊主義者は、言ってしまう。

それ、言霊の力で、辞職できたわけじゃないから。

じゃあ、九〇歳の人が、一九歳になると言ったら、一九歳になるのか。ならないだろ。何月何日生まれの一八歳の人が、明日、一九歳になると言ったら、一九歳になる場合だってある。何月何日になったら、一九歳になる人は、別に、何月何日に「一九歳になる」と言わなくても、生きていれば、自動的に一九歳になってしまう。

これは、言ったあと、そうなっただけだ。言霊は、関係がない。

ところが、条件を無視して「一九歳になると言ったら一九歳になった。だから、言霊は正しい」と言霊主義者は言ってしまうのだ。言ったことが現実化した。たしかに、言ったあと、現実化したけど、言霊の力で現実化したわけじゃない。

「条件を無視するな」と言いたい。

実際に、起こったことが、脳みそを含めた身体に、影響をあたえる。でかいことや、小さいことがある。本人にとって、でかいことであるか小さいことであるかということが問題になっている。

けど、人間の体(からだ)をもっている場合は、一定の傾向がある。ものすごくつかれることを毎日、何十年もやっていれば、つかれたと感じるし、つかれた体で動くと言うことになる。

「元気だ元気だ」と言えば、元気になるかといえば、元気にならない。言ったことよりも、現実に、何十年間も、毎日繰り返し繰り返し、起こったことが、体に影響をあたえているからだ。

それを、相手が、何十年も、つかれはてることを毎日やってきたという現実を無視して、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってしまうのが言霊主義者だ。

現実に発生した出来事を無視して、ただ、言えば、現実に発生した出来事の影響を無効化できるということを、言霊主義者は言っているのだ。

現実に発生した出来事のせいで、つかれたとする。……けど、「元気だ元気だ」と言えば、そのつかれがなくなって、元気になるのだ。……まるで、反対語を叫んでいるきちがい親父のようなところがある。

反対語を叫んだって、かわらない現実はかわらない。誰かが、反対語を絶叫したことで、相手がおれる場合だってある。表現的には「現実をかえることができた」と言えるところがある。

じゃあ、「おれたほう」はどうでもいいのか?

「がまんさせられたほう」は、どうでもいいのか? 

反対語を叫んでも、ほんとうは、「現実」はかえられないのである。起こった現実はかえられない。起こった現実に関して、反対の解釈をして、反対の解釈を叫んでいるわけだ。

叫んだあと、相手が『きちがいやろう! ふざけやがって!!』と思ったけど、殺すこともできないので、がまんして引きさがっただけだ。

別に、きちがいの「反対の解釈」が正しくなったわけじゃない。反対語を叫ぶことで、きちがいの……現実に関する……「反対の解釈」が正しくなったわけじゃない。

反対語を叫ぶことで、相手の言い分をさえぎっただけだ。

絶叫すれば、言霊の力で、現実がかわるのかといえば、かわらない。こころをこめて絶叫すれば、言霊の力で現実がかわるということはない。

これは、一〇〇%ない。

どうしてかというと、言霊の力が存在しないからだ。

言霊の力で「そうなった」わけではないのに、言霊主義者が勝手に「言霊の力でそうなった」と勘違いしているだけだ。この勘違いが、妄想的に強烈なのである。

ただ、それだけだ。

現実の現象について、妄想的な解釈をする人たちがいる。それだけだ。

2025年4月17日木曜日

一般人の「特質」と、きちがい兄貴の「きちがい的な特質」がセットなんだよ。

 あの音のでかさで、あの至近距離で、「わからずや」が、ガンガン鳴らすわけだよ。毎日鳴らすわけだよ。鳴らしているとき、どれだけこっちが「鳴らさないでくれ!!!」と言っても、鳴らし続けるわけだよ。

それも、「申し訳ないけど、どうしても鳴らさなきゃならない理由があるから、鳴らさせてくれ」というような態度ではなくて……「鳴らさないでくれ」と言われたら、おこって鳴らすような態度で鳴らすわけだよ。

これが、どういうことかわかるか?

工事で鳴っているわけではないのだ。どうしても必要な作業で音が出るわけではないのだ。きちがい兄貴が、きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしている。きちがい兄貴が、満足できる、きちがい的にでかい音で鳴らしているから、でかい音で鳴っている。

基本、理由は、きちがい兄貴のなかにある気持ちだけなのだ。

ほんとうに、まさしく、気持ちだけ。

そして、鳴らされると、日常の生活に支障が出るのだ。

日常生活に支障が出るという高度なことがわからないのはともかくとして、あれだけでかい音で鳴らしていたら、でかい音で鳴らしているということが、わかって当然なのだ。

どれだけ無視したくても、わかってしまう。

自分の感覚は、否定できないものなんだよ。普通は……。

その普通や、普通の概念を、きちがい家族が、ガン無視して、鳴らしている。

これが、きちがい空間でなくてなんだ。

きちがいが鳴らす音の攻撃を常にうけているのである。ほかの人は、きちがいが鳴らす音の攻撃を常にうけている状態ではない。

だから、ちがう。

これを、「俺だって騒音ぐらいあった」と抽象化、一般化、同質化、同量化して、理解してしまうこと自体がおかしい。おかしいけど、こいつらはこいつらで、きちがい兄貴とおなじように、「ちがい」を無視して、「俺だって騒音ぐらいあった」と言い張るのだ。

「俺だって騒音ぐらいあった」……というのは、ほんとうのことなのだろう。

けど、ちがう。

そして、こいつらがほんとうに言いたいことは、「俺だって、騒音ぐらいあった」ということではなくて、「だから、できないというのは、いいわけだ」ということなのだ。

「だから、できないというのは、いいわけだ」ということのほうが言いたいわけ。

ようするに、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音なんて「できない理由にならないんだよ」ということを、こいつらは、言いたいわけだ。

どうして、こいつらが、こういうことを言えるのかというと、実際には、きちがい家族による騒音攻撃をうけてないからだ。

ようするに、きちがい家族と一緒に暮らしていない状態で、きちがい家族が鳴らす騒音というものを知らないから、その「苛烈さ」と「どうしようもなさ」がわからずに、「そんなのは、できない理由にならないんだよ」と言っているのだ。

こいつらもこいつらで、抽象化、一般化、同質化、同量化して、きちがい兄貴の特殊性を無視してしまうのだ。

きちがい兄貴のようなやつが、そんなにいるはずがない。きちがい兄貴のような脳みその構造?で、自分の意地をとおしてしまうやつなんて、そんなにいるはずがない。

だから、ほんとうは、おなじことを経験してない。

同レベルのことを経験してないのだ。

ところが、抽象化、一般化、同質化、同量化してしまうから、俺だって同レベルのことを経験したということにして、俺に、むりなことを言ってくるのだ。けど、(こいつらは)むりなことを言っているというつもりがないのだ。

こういうところで、なんか、きちがい兄貴の無視構造と似てくるものがあるのだ。

こいつらが鳴らしたわけじゃない。それはわかる。

けど、抽象化、一般化、同質化、同量化が、不適切なのだ。しかも、不適切なことをやっているという自覚がないんだよな。

だから、こういう、一般人の「特質」と、きちがい兄貴の「きちがい的な特質」がセットなんだよ。

抽象化、一般化、同質化、同量化して……「俺だって、苦労しているけど、できるはずだ」という意見をもつということは、うちのきちがい兄貴の特殊性を無視することなのである。

きちがい的な感覚の家族がが鳴らしている音を聞かされるという「経験の特殊性」を無視することなのである。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴の脳みそにしたがって、普通の感覚ではない感覚で、きちがい兄貴側の意地をとおしてしまうと……そういう「異常なやり方で」とおしてしまうと……普通の感覚の持ち主が、「ぼくの身の上に起こったこと」について、自動的に、誤解をしてしまうのである。

普通の感覚では、きちがい兄貴の態度と行為は、理解できない。

だから、普通の感覚の持ち主が、ごく自然に、自動的に、誤解をしてしまう。きちがい兄貴の態度と行動には、普通の感覚の持ち主が誤解をしてしまということまで、含まれている。

どうしてかというと、ぼくが、普通の感覚の持ち主と、切っても切れない関係で暮らしているからだ。実際には、学校に行けば、普通の感覚の持ち主とあわないということはない。先生も含めて、普通の感覚の持ち主ばかりなのである。

普通の感覚の持ち主は、抽象化、一般化、同質化、同量化して理解するので、きちがい兄貴の特集性を理解しない。特殊なきちがい兄貴がもたらす、特殊な状況につい理解しない。特殊なきちがい兄貴がもたらす、特殊な影響について、理解しない。

無視する。

無視して、自分の意見を言う。自分の意見は、虫の上に成り立つ意見なのである。だから、ぼくが、必然的に、こいつらから、侮辱されたことになるのである。

不愉快なんだよ。

こういうこと自体が不愉快だ。

そして、家に帰れば、きちがいが、きちがいモードで、四六時中鳴らしているのである。これは、つねに、騒音につきまとわれるということだ。思考を破壊してしまうような騒音につきまとわれるということだ。無視できるわけがないだろ。トイレに入っていたって、風呂に入っていたって、きちがいの音が、大音響で攻めてくるのだ。

こんな状態でくらしていいわけがない。

それが、「俺だって騒音ぐらいある」と表現されるような騒音とおなじであるはずがない。いっしょくたにされていいわけがない。同一視されていいわけがない。

ちがうんだよ。

2025年4月16日水曜日

「努力をすれば適応できる」という「キレイゴト」が逆に、どうしても、適応できない人の苦労感を増大させてしまっている

  条件の悪さと、意識について考えてみよう。たとえば、一〇〇段階のグレードを考えることにする。一段階にひとり人がいるとする。一〇〇段目の人が、もっとも、条件がいい人だ。一段階目の人が、もっとも、条件が悪い人だ。

二段階目の人は、一段階目の人より、条件がいいけど、三段階目以上の人にくらべると、条件が悪いということになる。たとえば、「努力をすれば成功する」ということについて考えてみよう。ほんとうは、一〇〇段の「条件の差」があるのだけど、みんながみんな、条件の差については無視するような発言をするとする。

たとえば、「努力をすれば成功する」という文も、条件に関係なく、努力をすれば成功するということになる。

条件は、あるのだけど、思考をする場合は、条件は、ないことになっているのだ。条件は、成功するかどうかに、影響をあたえないのである。

けど、ほんとうは、条件こそが、相当に、成功するかどうかということに影響をあたえている。

いままで、家の格差、親の格差ということについて語ってきたけど、今回は、本人の才能の格差というものについて考えてみることにする。

本人における「才能の格差」というのも、じつは、「家の格差」とおなじことが成り立ってしまう。

一〇〇段階目の人は、たいして努力をしなくても、家の格差、親の格差がおなじであれば、成功してしまうのである。

いっぽう、一段階目の人は、どれだけ努力をしても、成功しにくいということになる。

けど、「条件の格差なんてない」ということになっているので、理論的な必然として「努力をしなかったのだ」ということになってしまうのである。

一段階目の人が成功しなかった場合、ほかの人は、一段階目の人に向かって、「努力不足だ」と言うことができるようになっている。

けど、ほんとうに努力不足なのだろうか?

もちろん、努力不足である場合もあるけど、その人が、その人にとって最大限の努力をしても、成功しない場合もある。

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問題なのは、二段階目の人は一段階目の人に説教をできるということだ。これ、下に下に、圧力がかかるようになっているのである。

ほんとうは、条件によっては、どれだけがんばっても成功しないのに、条件を無視して、「努力をすれば成功する」と言うことになっている。

だから、もし、成功しないのであれば、本人の努力不足が原因だということになり、他者が、「努力不足だから成功しないのだ」と言ってくるということになる。

本人(言われた人)が、「条件が悪かった」と言えば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言えるようになっているのである。

この場合、言っているほうが、ストレスを発散して、言われたほうが、ストレスをため込むということになる。

この、下へ下への圧力もセットなのである。ようするに、下にはえらそうなことを言っていいということや、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」だと、条件に関係なく、無条件に判断していいということになっているということが、「条件を無視していい」文化をつくりあげているのである。

下に対して、マウントをとっていいというのは、むしろ、常識なのである。みんなが、文化にしたがって、そうするようになっているのである。

「マウント合戦」で、負けるのは、だいたい条件が悪い人だ。条件が悪いと、成功できないのである。

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「成功するということは、どういうことなのか」ということについて、疑問をもつ人もいるだろう。

こんなのは、本人が、「成功した」と言えば、成功したことになるようなことでしかない。定義なんて不可能だ。

だから、この意味でも、じつは「努力をすれば成功する」というのは、なんにも、法則性がないことだということが、わかる。よくわかる。

だって、成功するということの定義ができないのだから、なにか確からしいことは、なにも言えないのである。成功するということの定義があいまいなら、当然、法則性があるようなことをいうことはできない。そもそも、なにか、確かであることは、言えないのだ。

なにも、確からしいことを言ってないのに、法則性があるなんてことは言えない。

けど、一般人は、社会的な成功を成功のイメージとしてとらえているので、社会的な成功が成功なのだということになることが多いだろう。

けど、社会的な成功にしても、本人が「成功だ」とか「成功ではない」ということを決めてしまうところがあるので、成功を社会的な成功にかぎったとしても、なにか確からしいことは、なにも言っていないということになる。

ようするに、個々人が、それぞれ、「社会的な成功」というものを考えているわけだから、個々人が思い浮かべる「社会的な成功」がその個人においてだけ「社会的な成功」の内容を構成するものになるのである。それは、個々人が勝手に思い浮かべていることなのであるから、統一的に「これが、社会的な成功だ」と決めつけることができない。

まあ、定義することができないということになる。

定義があいまいなので、個々人の頭の中にあるイメージにしたがって「ほかの人はどう考えているかわからないけど、自分は社会的に成功したと思っている」と言うことができるのだ。

個々人が勝手に「社会的な成功のイメージ」を頭中に作り上げて、「自分は社会的に成功した」と言えるということが、逆に逃げ道をあたえている。つまり、逃げ道があるから、あたかも、法則性があるようなイメージを作り上げることができるのだ。

しかし、しょせんは、個々人が勝手に「社会的な成功」のイメージを頭に作り上げているだけなので、もちろん、法則性なんてない。たとえば、「努力をすれば社会的に成功する」と言うことを言ったとしよう。

その場合、「社会的に成功する」ということの定義がない。実際にどうなれば、「社会的に成功」したことになるのかという定義がないのだ。まあ、個人が個人の頭の中で勝手に定義した定義はあるかもしれない。

けど、統一的な定義がない。一意に決まらないのだ。努力をするということも、定義できず、社会的に成功するということも定義できないのであれば、法則性がある分などは、構成することができないのだ。

一意に決まらない内容が右辺にあり、一意に決まらない内容が左辺にある。こんな状態で、法則性について語れるはずがないだろ。

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そもそも、問題なのは、ほとんどの人が、条件を無視して、相手にマウントをとろうとするところなのである。そして、もっと問題なのは、条件を無視して言っているということについて、言っている本人が無頓着なことだ。条件は、重要なのに、無視することが当たり前のことになっている。これが、問題なのである。

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条件がちがうと、適応度がちがってくる。難なく適応できる人と、どれだけがんばっても適応できない人が出てくる。だから、実質的には、やはり、条件があり、条件が格差をうみだしているのである。

しかし、「認めない」ようになっているのだ。成功しないということは、努力不足だということになってしまうのである。

適応というのは、まあ、いろいろとあるけど、とりあえず、仕事に適応するということにしておこう。仕事ではなくて、仕事場に適応するといこうとでもいい。

たとえば脳の癖があり、仕事に適応できない人がいたとする。努力では、脳の癖をかえられないのだ。あたかも、努力をすれば適応できるということになっているのだけど、仕事というものに対する適応度も、個人によってちがう。

脳みその構造も、条件の一つなのだ。

こんなにでかい条件を、やすやすと無視して、「努力をすれば、適応できる」と言うのは、どう考えても、言いすぎだ。

ところが、社会のなかの多くの人が「努力をすれば適応できる」ということを信じていると、「適応できないのであれば、適応しようと努力をしないやつが悪いのだ」ということになってしまうのである。

ところが、努力をしても、適応できないということが発生する。だから、脳みその構造という条件を無視して、「努力をすれば適応できる」と決めつけてしまうのは、よくないことなのである。

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みんながおなじ適応度をもっているわけではないのに、努力をすれば適応できるということになっていると、条件によって適応度が低い人は、居心地が悪くなるのである。

つまり、「努力不足だ」とマウントしてくるやつが、次から次へとわきだして、不愉快なことを言ってくるということになる。どうして、次から次へとわきだすかというと、たいていの人が「努力をすれば適応できる」と考えているからだ。

そして、たしかに、多くの人が、適応するために、努力をしているのである。そして、適応するための努力が、苦労している感じをうみだすのであれば、「自分だって苦労している」ということを言いやすい環境になる。

この場合、条件を無視しているので「相手の苦労も自分の苦労もおなじレベルの苦労だ」と考えてしまうのである。

しかし、脳みその構造レベルで適応度がちがうのであれば、苦労は、おなじではない。難なく適応できる人と、どうしても適応できない人の苦労が、おなじであるはずがないのだ。

だから、「努力をすれば適応できる」という「キレイゴト」が逆に、どうしても、適応できない人の苦労感を増大させてしまっているところがある。

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少数の例外をのぞけば、社会全体が「努力をすれば適応できる」と思っている人たちで構成されているなら、脳みその構造レベルで適応できない人は、どこに行っても、文句を言われ、説教をされるということになるのである。

脳みその構造というのは「条件」だろ。条件じゃないのか?

努力で脳みその構造を自由に(意図したとおりにかえられるなら)だれも苦労はしないのではないか。努力をしても、かえられないから、どこに行っても、文句を言われ、説教をされる状態になり、不愉快な気持になるのではないか。

そして、不愉快な気持をもったということについても、「未熟だ」と言われるようになっているのである。どうしてかというと、発言者のなかでは「努力をすれば適応できるのは、あたりまえのことだから、当たり前のことを言われて不愉快な気持になるのは、未熟だ」ということになるのである。発言者の頭のなかではそうなる。多くの発言者のなかでは、「正しいことを言われたのに、不満になっている人は、未熟だから、不満になっている」ということになる。

「努力をすれば適応できる」という考え方自体がまちがっているということは、考えない。指摘されたって、目下の人から指摘されたのであれば、頭にきて「努力をしても適応できない場合があるかもしれない」とは考えないのだ。

まあ、考える人も、なにはいるかもしれないけど、多くの人は考えない。

そして、自分自身が「条件を無視している」ということを指摘された場合も、腹をたてて「条件なんて関係がない」と言うだろう。「そんなのはあまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言うだろう。

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脳みその構造という条件は関係なく、努力という条件だけが、適応できるかどうかを決めていると考えている人がいるとする。その人にとっては、適応できないある人は、だれもがしている努力をしてないないということになってしまうのである。

なので、安心してせめることができる。

なので、安心してマウントをとることができるのだ。

左辺に一意に決まらない言葉が書いてあり、右辺に一意に決まらない言葉が書いてあるのに、法則性があることなんて言えるわけがない。ところが、そういう「ミス」をおかしてしまっている。基本的にまちがっていることなのだけど、あたかも、正しいこととして流通してしまうのである。

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そうなると、条件が悪い人が「壁」を感じるようになるのである。この壁というのは、雰囲気としての壁だ。多くの人が、「おなじことを言って」自分をせめてくると感じることが多くなるのである。実際に、多くなるので、そう思うわけだ。そういう出来事が多く発生すると、人は「壁」を感じるのだ。他者と自分の間にある「壁」だ。 

これは、幼稚さとは関係がない。むしろ、常識にあわせて、マウントをとろうとする人のほうが幼稚なのではないか。もちろん、言われるほうが、実際に幼稚である場合は、ある。あるけど、一〇〇%の確率で言われるほうが幼稚だということはない。どうしてかというと、言っているほうがまちがった理由で、そのように言っているからだ。

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最初に言いたかったことが、ぼけてしまったので、ちょっと書き足しておく。 二段階目の人は、下から二番目なので、じゅうぶんに『下』である人だ。ところが、じゅうぶんに『下』である人が、努力をすれば成功すると思っている状態ができあがるのだ。

そうなると、ほんとうは、条件が悪いから、下から二番目なのに、自分の努力が足りないから、下から二番目なのだと思うようになるのである。狡猾な蛇の目的は、それだ。

いかにも、明るいことを言っているのだけど、実際には、条件において『下』である人がくるしむように、最初からできているのである。いかにも、希望がもてることを言うのだけど、条件において『下』である人がくるしむように、最初からできているのである。

そして、下から三番目の人も、下から四番目の人も、下から二番目の人と、おなじような立場なのだけど、下から二番目の人には「努力をすれば適応できる」と説教をするようになるのである。

これも、最初から、目的のなかに織り込まれていることだ。下から三番目の人も、下から四番目の人が、下から二番目の人に「努力をすれば適応できる」という考え方が正しいということを、言うのである。

だから、『下』のほうの人間同士で、首をしめあっているという状態になる。

多少のちがいしかないのに、多少のちがいがあれば、途端に説教をし始めて、首をしめるのである。自分よりも『下』である人に説教をして、自分よりも『下』である人の首をしめるのである。

そして、それが正しい行為だと思うようになるのである。狡猾な蛇が求めている状態というのは、こういう状態だ。

「いかにも、明るいことを言っているのだけど、実際には、条件において『下』である人がくるしむように、最初からできているのである」と書いたけど、「明るいことを思えば明るいことが起こる」というような思霊的なことも、実際には、条件が『下』である人をくるしめるようになる。これ、「明るいことを言っているのだから、いいことを言っている」と思うかもしれないけど、実際には、今まで説明したような悪い状態をひきおこす考え方なのだ。 

*     *     *

これは、どういうことかというと、『下』の人たちが、支配者の視点で、自分よりも『下』である人を見るということになるのである。全体的には、『下』に入る人のほとんどが、自自分より『下』の人に対して、支配者にとっては、都合がいいことを、主張するようになるのである。 

まあ、ちょっとズレた記述になるけど、会社のなかで下から二番目の人が、会社のなかで下から一番目の人に、経営者目線で、いろいろな無理なことをおしつけるようになる……と記述すると、ぼくが言いたいことが、わかってくれるかもしれない。

会社のなかで下から二番目なのだから、経営者じゃないのはあきらかだ。その人が、経営者目線で、経営者にとって都合のいいことを、「自分より下の人に」おしつけてくれるようになるのだ。経営者にとっては、都合がいいことだ。

こういうことが、社会全体で成り立っているのである。

 

2025年4月15日火曜日

あいつが、ヘビメタを思いっきりでかい音で鳴らそうと思わなければ、それで、すんだ

 きちがい兄貴という要素が、どこまでも、どこまでも、たたる。あいつが、ヘビメタを思いっきりでかい音で鳴らそうと思わなければ、ぼくの人生は、まったくちがったものに鳴っていただろう。あいつが、ヘビメタを思いっきりでかい音で鳴らそうと思わなければ、それで、すんだ。そういう障害が発生する人がすくないのである。だから、まったく理解しない。普通の人は、理解しない。がんばって、言えば、やめてくれるような家族としか、住んでいない。きちがいレベルで感覚がおかしいやつと住んでいるわけじゃない。どれだけ、こまるかわかってない。やられてないから、わかってない。やられた生活が、毎日、十数年続くことがないから、わかってない。影響のでかさがわかってない。たとえ、七年間でも、中学の三年間、高校の三年間を(すべて)含んだ七年間だったら、人生が破壊されるようなハンディになる。実際に、中学の三年間、高校の三年間を(すべて)含んだ七年間がなかったから、「そんなの、影響ない」「そんなの、関係がない」と言える。ただそれだけなのに、こいつらは、えらそうだし、認めないのである。ハンディのでかさを認めない。そのくせ、俺に対して「いいことを言ってやった」と思っているところがある。これは、エイリというやつは、「あたりまえのことがわかってない」と思っているということだ。影響がないので、影響があると言って、やろうとしないエイリというのは、しかたがないやつだと思っているのだ。そう思って、なめてくる。こんなバカな連中に、なめられる。きちがい兄貴が、やらなければ、こんなやつら、俺の視界にあらわれないやつらなんだよ。 

*     *     *

ヘビメタ騒音がはじまってから、「言いようが、ないはずかしさ」というのがある。ヘビメタ騒音がはじまってから、「言いようがない立場の悪さ」というのがある。これだって、やられてないやつは、まったくわかってない。わからずに、せめてくる立場の人間だからな。わかってない。こいつらはこいつらで、バカなんだよ。きちがいにやられて、バカにバカにされるようになった。バカはバカだから、わからない。どれだけ「不可避的な影響がある」ということを言ったって、認めない。バカだから、わからない。バカでも、経験があれば、わかるけど、経験がないから、わからない。

これ、ほんとうに、不可避的にそうなるのである。そりゃ、世間のやつらは、きちがい家族のきちがい的な騒音なんて経験しない。毎日、十数年間、きちがいのレベルで、騒音が続くことが、ない。毎日、十数年間、きちがいのレベルで、騒音が続くことがないので、影響のでかさがわからない。そうなると、建前が正しいということになる。きれいごとが正しいということになる。こいつらの感覚というのは、きちがい家族が、きちがい的な騒音を鳴らしてない条件下での、感覚だ。きちがい家族が、きちがい的な騒音を鳴らしてない条件下で成り立つ建前が、正しいと思っているわけだ。きちがい家族が、きちがい的な騒音を鳴らしてない条件下で成り立つきれいごとが正しいと思っているわけだ。ほかはないのである。実際には、経験したことがないのでわからない。

積み重なって、できなくなるということを、どれだけ言っても、こいつらは認めない。「そんなのは関係がない」と言う。そのなかの多数派が「エイリさんがこだわっているからだめなんだ」と言いやがる。あるいは、そう思っている。「こだわっている」などという言葉は、ほんとうに、ぼくを傷つける言葉だ。これ、そういうことばを選んで、そうやって攻撃してくるのではないかと思うほど、きちがいヘビメタで毎日きりきりまいの思いをしているぼくには、腹がたつ言葉なのだ。言いがたい気持ちがわいてくる言葉なのだ。これだって、こういうことを言うやつは「いいことを言ってやった」と思っているんだろ。どれだけ、バカで、どれだけ俺をなめてくるんだ? これ、なにもわかってないバカだから、言えることなんだよ。まあ、そんなことを、どれだけ説明しても、わからないとは思うけど……。

 

2025年4月13日日曜日

たぶん、一生涯、そうだ。

きちがい兄貴が、あまりにも、常識はずれなモードで、常識はずれなことをするから、普通の常識的な人たちが、「そんなのは嘘だ」「そんなことはない」「そんな人はいない」と誤解をしてしまう。

けど、ほんとうなんだよね。きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、すべての時間を使って、自分が満足できるものすごくでかい音で思いっきり鳴らしているけど、ほんとうに、「そのつもりがない」のである。

これ、ずっと毎日、毎時間、毎分毎秒、ずっと、しずかにしてやったつもりでいるのだ。

がまんして、しずかにしてやるということがなかったのだけど、本人のなかでは、ずっと鳴らさなかったのとおなじぐらいの感覚なのである。

まったく鳴らしてないから、弟に影響をあたえていないと思っている状態で、鳴らすのである。弟に影響をあたえているとは思ってない状態で、どれだけ言われても、自分が満足できる、きちがい的でかい音で、鳴らすことにこだわってこだわって、鳴らしているのである。

兄貴にとって「空白」なんだよ。

そして、普通の家族に囲まれてすごしている普通の人には、きちがい兄貴のような人間がいるということが、わからない。わからない。わからないから、普通の人たちにっても、「空白」なのである。

「そんなことはない」「そんな人はいない」と思っている人は、ぼくが抱えているハンディがわからない。そりゃ、「ない」と思っているのだから、ハンディもないと思ってしまうだろ。

これが、きちがい家族のしくみなんだよ。まわりの人……常識的な人……普通の人に、絶対に理解されないことをする。絶対に理解されないモードで、絶対に理解されないことをする。

だから、普通の人は、「ない」と思ってしまう。空白なのである。

影響が空白。

ほかの人は、信じないけど、きちがい兄貴は、ほんとうに関係がない普通の人たちよりも、自分は関係がないと思っているのだ。弟にあたえる影響について、ほんとうに、まったく鳴らしてないときのように「関係がない」と思っているのである。

きちがい兄貴も、まっしろな「空白」なんだよ。

これ、普通の人が理解できないから「空白」だとというのはわかるけど、きちがい兄貴が真犯人なのに……きちがい兄貴が張本人なのに、まったくわかってないというのが、信じられないわけだ。起きているときに、自分が意地になってやっていることが、まったくわかってない……こんなことがあるはずがないと(普通の人は)感じてしまう。

いっぽう、うちの兄貴は普通の人よりも、自分がやっている行為について「空白」なのである。

ほんとうに、まったくなにも鳴らしてないときおなじ感覚が成り立っているのである。

だから、やってないのとおなじ感覚で、きちがい的な意地で、一秒だってゆずらずに、自分が満足できる音で鳴らすのである。

きちがい兄貴にとって「自分が満足できる音」というのが、普通の人にはわからないほど、きちがい的でかい音なのである。

だから、きちがい兄貴のきちがい騒音がはじまってしまった日から、こっちは、地獄なのである。きちがい兄貴のきちがい行為にさらされてくるしくて地獄だし、よその人の無理解にさらされて、なんとも言えない気持ちになって地獄なのだ。

うちの場合、真横が幼稚園だから……ぼくは、普通の人よりも、騒音が多い環境でくらしているのである。きちがい兄貴のきちがい騒音がはじまるまでだって、普通の人が「騒音だ」と感じる音を、普通の日よりも、長時間、経験して生きてきたのである。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまえだって、普通の人の騒音環境よりは、騒音がある状態でくらしてきたのである。

けど、うちきちがい兄貴の騒音は、普通の人が普通に経験する騒音とは、まったくちがう騒音なのである。まったく異質の、まったく無視できない、きちがい的な騒音なのである。

あの音を、この至近距離で、ずっとガンガン、キーキー鳴らされ続けるということが、どれだけつらいことなのかということについて、普通の人は、わかってない。工事の音とか、普通の人のステレオ騒音とか、そういう騒音じゃないのである。

これがわかってないやつが、俺に対して、えらそうなことを言う。

自分が経験してないから影響のでかさがわかってないのに、自分だったら影響をうけないという前提で、くそを言ってくる。ほんとうに腹がたつ。こいつらは、騒音の影響を無視しているという点では、きちがい兄貴とおなじなのである。

こいつらの態度と、きちがい兄貴の態度は、かぶるところがある。

そして、こいつらは、ほんとうは、経験がないから、まちがっているのだけなのに……勘違いしているだけなのに……勘違いしているということを、認めないのだ。

「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、腹をたてる。……こいつらが、悪質。

……普通の人なのだけど、こいつらが、悪党で悪質。

けど、きちがい兄貴場、こいつらがわからないようなことを、やってしまうから、こういう、あらそいがしょうじる。こういうズレがしょうじる。このズレは回収されない。

「相手」は、「自分だったら、平気だ」「自分だって騒音ぐらいあった」と思ったままなのである。

たぶん、一生涯、そうだ。そいつにとって、俺のヘビメタ騒音のことなんて、たいしたことじゃないからな。勘違いしたままだ。こいつらは、こいつらで、自分の見積もりがまちがっているということを言われると、腹をたてるのだ。

「そんなの、なんだ!」という気持になる。「なんだ!そんなのぉ!!」という気持になる。

けど、こいつらは、経験してないし、影響について勘違いをしている。こいつらはこいつらで、きちがい兄貴の態度、音のでかさ、至近距離であることなどを、理解しない。説明したって、「異質な騒音だ」「自分が経験したことがない騒音だ」ということを認めない。自分が経験した「普通の騒音」「どこにでもある騒音」だと思っている。

けど、ちがうんだよ。生活的に、至近距離で、あの音を聞かされ続けるということは、ちがう意味をもつようになるんだよ。「騒音」と言えば騒音なのだけど、生活的に、普通の騒音とは、まったくちがう意味合いをもつようになるんだよ。

ひとつは、きちがい兄貴の態度からしょうじていることだ。普通の人には、きちがい兄貴のような態度の家族が、そもそも、いないのである。だから、家族から、うちのきちがい兄貴がやったような騒音攻撃をうけるということがないのである。だから、ない。だから、経験してないことなのである。

「毎日続いたらどうなるか?」ということが、まったくわかってないやつらなのだ。音のでかさも重要だけど、音源が至近距離にあるということも重要だけど、きちがい家族が、「毎日」鳴らしている音だということが、生活全体に影響をあたえるのである。きちがい家族が鳴らしている音だということが、毎日の生活に影響をあたえるのである。

だから、毎日られたことがない人は、わからない。音のでかさがおなじでも、毎日、やられてない人にはわからない。普通の人の「騒音体験」とは、ちがう「騒音体験」なのである。そして、期間が長すぎる。音源が、きちがい家族のスピーカーだというところもでかい。

けど、きちがい家族と一緒にすんだことがない人は、きちがい家族がどういう態度で、どういう感覚で鳴らしているかわからない。だから、その点だけでも、もう、まるでちがうのだ。もう、その点だけで、まるでちがう騒音だと言える。ちがうんだよ。

けど、「自分だって騒音ぐらいあった」と言う人は、認めない。自分だって騒音ぐらいあった」という人は、騒音でほんとうに宿題ができなくなるとか、騒音でほんとうに、朝起きることができなくなると言うことを、否定している。

騒音が鳴ってたって、毎日、遅刻をしないで通える」と思っているのだ。その人が経験した騒音というのが、そういうレベルの「普通の騒音」なんだよ。

ぼくとおなじレベルの、おなじ質のそうおんを経験した人が、そんなことを言えるわけがないだろ。

どうしてなら、もれなく、遅刻をしてしまう体(からだ)になっているからだ。自分の経験をとおして、ほんとうに、騒音が鳴っているから、勉強ができなくなるということを知っているからだ。おなじ質の騒音を経験していたら、「あの騒音のなかでは、勉強することができない」「勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまう」「頭が、混乱して、勉強がまったくできない」ということを経験しているはずなんだよ。

その人が……そういう人が「どれだけ、騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」とか「どれだけ、騒音が鳴ってたって勉強することができる」とかとは、言わない。言えなくなる。ところが、ぼくに対して「俺だって騒音ぐらいあった」と言った人は、みんな「どれだけ、騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」とか「どれだけ、騒音が鳴ってたって勉強することができる」とかということを言っているのである。ぼくの経験の範囲でそうだ。

「俺だって騒音はあった」と言うけど……「あの騒音のなかでは、勉強することができない」「勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまう」「頭が、混乱して、勉強がまったくできない」とは、思ってないのだ。

経験してないから、経験的にわかってない。経験的にわかってないから、「あの騒音のなかでは、勉強することができない」「勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまう」「頭が、混乱して、勉強がまったくできない」とは思わず、「どんな騒音のなかでも、勉強することはできる」「どんな騒音のなかでも、勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまうなんてことはない」「どんな騒音のなかでも、頭が混乱して、勉強がまったくできないと言うことはない」と思っているのである。

これ、実験的に、騒音下で、作業をするというのとはちがうんだよ。たとえば、ものすごくでかい音で、ヘビメタの音を聞かせて、計算作業をしてもらう実験をしたとする。けど、その人たちは、実験が終われば、そういう騒音環境からは、解放される。人生における、「意味合い」がちがうのである。

けど、騒音下で、作業をさせると、短時間なら、むしろ効率が上がった人がいる……という実験結果が出たとする。そうしたら、よくわかってないバカな人たちが、「どんな騒音が鳴っていても、騒音環境下で作業効率があがる人がいる」と思ってしまう。毎日、家族が鳴らしているのか……実験室で、短時間だけ……たとえば一〇分間だけ、騒音環境下で作業をしたのか……ぜんぜんちがう。

実験室から出れば、騒音から解放されてしまう。

ぜんぜんちがうだろ。

人生のなかで、ずっと毎日この騒音が続いてしまうのではないかと思って暮らしている五五〇〇日が、影響をあたえないはずがないのである。

ほんとうに、考え方が幼稚!!

2025年4月12日土曜日

約六割のやつが「そんなの、関係、ない」と言う

約六割のやつが「そんなの、関係、ない」と言う。こいつらは、ヘビメタ騒音の影響で、遅刻をすることになるとか、勉強ができなくなると言うことを認めない。自分なら、平気だ」と思っている。こいつらは、同時に、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんはしずかにしてくれる」と思っているので、俺がちゃんと言わないのが悪いのだと考えてしまう。ともかく、ヘビメタ騒音の深刻さがわかってないやつらだ。どれだけ、ひどい状態になるか、まったくわかってない。どれだけ、睡眠が妨害されるかわかってない。どれだけ、勉強すること自体が妨害されるかわかってない。これ、意思の力でどうにかなると思っているのだけど、どれだけ、がんばっても、がんばれば、がんばるほど、悪い影響が体に出るということが、わかってない。これ、睡眠障害になったのも、がんばった結果なのだ。こういうところが、まったく見えてない。ひとこと「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、同質、同量の騒音を経験したことになってしまうので、差があるということがわからない。この人たちは、実際にやられたら、ぼくよりも、ダメな状態になると思う。ぼくは、ほんとうは、平均以上に騒音耐性があるし、平均以上に生活体力があった。頻尿や鬱もなかった。ヘビメタ騒音下での緊張が、頻尿と鬱をもたらす。どうしたって、寝不足で、憂鬱な状態になる。朝、決心をしないと、体が動かないということになる。決心をして、体を動かしている期間が七年ぐらいあると、不可避的に、どれだけがんばっても、体が動かなくなる。起きるべき時間に起きられなくなる。けど、それがわかってない。実際に、自分がこの世で一番嫌いな音を、至近距離で、一日に何時間も十何時間も、聞かされたことがないので、想像ができないのだ。表現の都合で、省略したけど、音源が家族だということが問題なのだ。そして、毎日、容赦なく、七年以上にわたって続いたということが問題なのだ。そりゃ、症状が形成される。けど、そういう経験がない人は、七年以上続くと、どうしても、どれだけがんばっても、症状が形成されて、症状が続くということが、わからない。だから、「そんなのは、影響がない」と言ってしまう。鳴り終わったら関係がない」と言ってしまう。鳴り終わるというのは、どういう意味で言っているかというと、ひとつには、一日のなかで、その騒音が鳴り終わったら、関係がないという意味で言っている。もうひとつは、一生のなかで、七年以上毎日鳴っていたとしても、鳴り終わった日から、七年以上毎日なっていたということは、関係がなくなるという意味で、言っている。どっちも、まちがっている。こういうことが言えるということ自体が、この人たちが、同等、同質の騒音を経験したことがないということを、意味している。けど、この人たちは、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」という言葉で、抽象化、一般化してしまうので、自分が、同質、同等の騒音を経験したことがあるという前提で考えて「そんなのは、関係がない」「そんなのは、影響がない」「鳴り終わったら関係がない」と言うのだ。こんなの、ほんとうに、わかってないから言っているだけだ。けど、こいつらのなかでは、これが事実なので、自分が想像していることと、ぼくが経験したことがくいちがっているということを認めない。どれだけ「ちがうんだ」ということを説明しても、認めない。こういうところが、なんか、親父や兄貴と似ているんだよなぁ。もっとも、こいつらが鳴らしたわけではないという事実もある。そして、こいつらは、ある意味普通の人なので、兄貴のように、自分の家で、きちがい的な音で、きちがい的な時間の長さ、きちがい的な期間の長さ、なんかの音楽を聴くということがない。そういう意味では、普通の人たちなのだ。この人たちは、たしかに、ぼくに対して、騒音攻撃をしていない。そして、自分の家族に対しても、うちのきちがい兄貴のような騒音攻撃をしていないのだろう。けど、きちがい兄貴の性格に関する理解がないのである。普通の兄貴だと思ってしまう。ぜんぜんちがうのに、そのちがいがわからない。だから、ある意味、普通の家族が出す騒音というものを、想像してしまう。ところが、うちの兄貴は、きちがい的な兄貴なので、普通の兄貴が出す騒音とはちがう騒音を、出すのである。この人たちは、・経験がないので……きちがい家族と一緒に住んでいないので、きちがい家族が出す騒音に関して、まったく理解がないのだ。しかし、騒音は経験したことがあるし、苦労も経験したことがあるのだ。だから、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言っているとき、自分がまちがったことを言っているとは、思わない。まったく思わない。ぼくの経験の範囲で言うと、ぼくが、こいつらに説明をする、こいつらは、腹をたてるようなところがある。はっきり言えば、不愉快な状態になるのだ。はっきり言えば、ぼくがここで書いているようなことを説明すると、「気分が悪くなる」のだ。だから、説明してもむだなんだよな。きちがい兄貴のせいで!きちがいヘビメタ騒音が実際に続いたことによって、ぼくの立場が悪くなっているのだ。そりゃ、遅刻したときだって、立場が悪くなっている。きちがい兄貴がいなければ、遅刻をしていない。基本的に、生活がまったくちがうのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタ騒音を鳴らすまえと、ヘビメタ騒音を鳴らしたあとでは、ぜんぜん、状態がちがう。このぜんぜん状態がちがうということが、こいつらは、まったく、まったくわかってないのである。こいつらは、言ってみればヘビメタ騒音を鳴らすまえ」の状態でくらしているのだ。だから、言われただけなので、想像力が低いと、「ヘビメタ騒音を鳴らすまえ」の普通の騒音とおなじようなものだと勘違いをしてしまう。想像力が低いと、「ヘビメタ騒音を鳴らすまえ」の普通の騒音が鳴っているのだろうと考えて、ヘビメタ騒音の話を聴いてしまう。ぼくの経験の範囲では、こいつらに、どれだけ、説明しても、こいつらがこのちがいを理解することがないということがわかっている。ほんとうに、なめられる。頭にくる。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタ騒音を、鳴らしたあとは、こういうことの連続なのである。これだって、ぼくにとって、不愉快な出来事なんだよ。こういうところで、他人とぶつからなければならないのは不愉快なことなんだよ。そして、一〇〇%の他人が、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、最初の思い込みをくつがえさないのだから、ぼくにとって、不愉快なことなんだよ。そりゃ、そうだろ。自分が死にたくなるほどこまっているのに、他人はたいしたことじゃないと考えて、ズレたことを言うのだから、いやになる。いやになってあたりまえだ。そして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したり無視するやつとの交流はこういう交流になるのだけど、ヘビメタ騒音の影響を普通に評価するやつらは、「そんなことはありえない」「そんなことを、ずっと続けていられるはずがない」と考えてしまうのだ。そして、ぼくが、ほんとうのことを言っているのに、ぼくが嘘を言っていると思ってしまう。こいつらも、こっちがどれだけ、説明をしても最初の、考えをくつがえすことがないのである。しまいには、ぼくが言うことを、いちいち、悪意がある状態で解釈をすることになる。こんなの、ない。きちがい兄貴が、きちがい的な思考で、きちがい兄貴が、思いっきりやりたいことを、やってるつもりではない状態で、やってしまうと、約四割の他人が、ぼくのことを、うたがうようになるのだ。

2025年4月11日金曜日

けど、同等の騒音攻撃なんてうけてない

 ぼくは、ほかの人がやられたことがない騒音攻撃をうけたのだけど、ほかの人が、「自分だって同等の騒音攻撃をうけた」という前提で「それでもちゃんとやらなければだめじゃないか」と言うのである。

けど、同等の騒音攻撃なんてうけてない。同等の騒音なんて経験してない。特殊なきちがい家族と一緒に住んでいるわけではない。

特殊なきちがい家族と一緒に住んでいないから、特殊なきちがい家族がどういう感覚で、どういう行動をするかまったくわかってない。どういう感覚で、どういう行動をするまったくわかってないということは、ようするに、「やられてない」ということを意味しているのである。

いまでも、「そんなの、関係ない」「そんなの、影響ない」「ちゃんとやらなきゃだめだろ」「俺だってつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言ったやつを、なぐってやりたい気持ちになる。

同等の騒音攻撃をうけてないから……同等の騒音攻撃のことがまったくわからず、無視してしまうのだ。この、きちがいの、騒音攻撃の影響がまったくわからないから、「そんなの、関係ない」「そんなの、影響ない」と言ってしまう。ほんとーーーに、腹がたつ。腹がたつ。

しかも、「すべては、受け止め方の問題だ」と言うやつは、目の前の俺にあわせて、受け止め方をかえようとしないのである。俺は、そいつにとっては、他人だ。「すべては、受け止め方の問題だ」と言っているのだから、他人である俺にあわせて、受け止め方をかえればいいのである。ところが、自分の考えに固執して、受け止め方を、まったくかえない。普通の人よりも?頑固に固持していると言ってもいいぐらいだ。「すべては、受け止め方の問題だ」と言うやつも、「すべては、受け止め方の問題である」という考え方自体は、絶対の意地で、固持して、かえようとしない。

「すべては、受け止め方の問題である」と言うやつらは、「お兄さんにあわせて、あなたがかわればいい」ということを言っているのである。こんなの、ない。あるいは、親父のことも言うのであれば「お父さんにあわせて、あなたが、かわればいい」ということを言っているのである。こんなのない。こんなのない。善悪を、うち兄貴やうちおやじとおなじように、とびこえている。こんなのない。

 

「自分にあわせて、相手をかえることができないなら、相手にあわせて自分をかえるべきだ」ということ言うやつも、目の前の俺にあわせて、自分をかえようとしないのである。目の前の俺にあわせて、「自分」をかえればいいでしょ。

「相手をかえることができないから、自分をかえればいい」と言うやつも、俺にあわせて、「自分」をかえればいいでしょ。

俺が、ヘビメタ騒音のことについて、説明したら「そんなのは、影響がない」「そんなの、関係がない」と考えないで、「それは、たしかに、影響がある」「それはたしかに、関係がある」と考えて、それまで自分が持っていた「そんなのは、影響がない」「そんなの、関係がない」という考え方を、俺にあわせて、かえればいいでしょ。

どうして、「そんなのは、影響がない」「そんなの、関係がない」というスタンスをたもちながら、「相手をかえることができないから、自分をかえればいい」と言うのか?

これ、きちがい家族にやられている人に、こういうことを言ってしまうということは、じつは、ひどいことなのである。これも、ぜんぜんわかってないからな。言っているやつは、ぜんぜんわかってない。言っているやつは、「いいことを言っている」つもりだ。

ぜんぜん、いいことじゃないよ。俺が、いいことじゃないと言ったら、俺にあわせて、そう考えればいいのである。いいことじゃない」と受け止めればいいのである。「真理」を語っているつもりで、まちがったことを言っている。しかも、悪質な発言なのである。

きちがい家族にやられている人に、きちがい家族がやっていることに関する受け止め方をかえればいいなんて、よく言えたものだな。きちがい家族にやられている人に、きちがい家族に、自分をかえてあわせればいい、なんてよく言えたものだな。

これ、人の気持ちを破壊するようなことを言っているのに、まったくわかってない。きちがいにあわせて暮らせばいいなんて、ほんとうに、よく言えたものだよ? きちがいのやった、きちがいが的な行為の受け止め方をかえればいいなんて、よく言えたものだよ?

これ、こいつらもこいつらで、自分がっていることの意味が、まったくわかってないなぁ。

きちがいにやられてすでに、ものすごく悪い影響をうけている人に、きちがいにあわせればいい、きちがい行為の受け止め方をかえればいいなんて、よく言えたものだな。

これ、きちがいになればいいと言っているだけなのである。

きちがいあわせて、きちがい的な受け止め方をするのか?

きちがい行為を、きちがい的な解釈で、受け止めなおすのか?

こんなことを、要求するなんてどうかしているぞ。そして、きちがい家族にやられた影響というのを、これでもかというほど、過小評価しているのである。この感覚! この感覚!! 

これは、ひどい。

過小評価して、『影響なんて、たいしたことはないだろう』と思っているから、言えることなんだよ。

けど、自分は、受け止めたかをかえようとしないのである。自分の意見に固執するのである。

精神世界の人の「攻撃」には何種類かあるのだけど、すべての種類において、誤解がある。前提として、めちゃくちゃな誤解が成り立っている。

精神世界の人じゃなくても、精神世界の人の言い方というのは、ひろく大衆の意識のなかにとけこんでいるので、似たようなことを、発言してしまう一般人もいる。ようするに、多数の一般人は、精神世界側のなのである。俺の意見よりも、精神世界の人の意見が正しいと思っているのである。

『理想としては、精神世界の人が言っていることが正しいけど、なかなかうまくいかない』というような意識をもっている場合が多い。『受け止め方をかえればいい」のだけど、なかなかうまくいかない』と思っている人も、いるだろう。

けど、これ、「うまくいかない」と思っているいるのだから、理想としては「うまくいけばいい」と思っているのだろう。

自分の気持ちを破壊してしまうものであるということが、まったくわかってないのである。これも、言霊主義者が、普段、言霊的な解決方法を選んでいないということに、無頓着なように、えそらごととして、受け止めているから、そういうふうな意見になってしまうのである。

その場その場の相手にあわせて、自分の受け止め方をかえてしまうということは、非常に、まずいことなのである。

もし、ほんとうに、かえることができるなら、それは、精神の崩壊を意味しているのである。心理システムの崩壊を意味しているのである。かえられるわけがないし、かえるのもよくないというが、ほんとうのことなのである。

いわば、真理だ。

まるで、わかってないんだよなぁ。「相手」のことになると、途端に、抽象的な考えになり、真実を、見失ってしまう。これ、よくないことだよ。

*     *     *

他人の条件を無視して、他人には「受け止め方をかえればいい」と言っているわけだけど、その人自体が、日常生活のなかで、「受け止め方をえて」生活しているかというと、「受け止め方をかえて」生活していない。

他人の条件を無視して、他人には「相手にあわせて自分をかえればいい」と言っているわけだけど、その人自体が、日常生活のなかで、「相手にあわせて自分をかえているのか」というと、相手にあわせて自分をかえていない。自分にあわせて、相手をかえようとしている。実際、俺のヘビメタ騒音に対する受け止め方を、かえようとした。俺の意見にあわせて、自分の意見をかえようとしていないし、実際、かえなかった。

*     *     *

まあ、一般人の多くは、「受け止め方をかえればいい」とは、考えていないのだろう。ただ、理想としては、そういうことも思っている。「受け止め方をかえればいい」というのは、きれいごとのなかの、理想像を保持している。「ほんとうに受け止め方をえれていたら、心理システムがこわれるよ」というぼくの意見は、あんまり、よく、受け止められない。けど、「多くの一般人は」と書いたのは、精神世界系のことがわりと一般論としていきわたっている部分があるということを言いたかった。努力論も、精神世界系の理論?とおなじような力をもっていて、ひろくいきわたっている。まあ、努力論は、ビジネス系精神世界の理論なのだよ。精神世界系の理論や努力論は、抽象的な意味では、理想論として語られるのである。そして、精神世界系の理論は、幼児的万能感を礎(いしづえ)にしているので、多くの人に訴えかけるチカラをもっているのである。また、努力論は、アニメや漫画をとおして、小さいころから、意識のなかに植えつけられているのである。抽象的には、精神世界の理論や努力論のほうが、響きがいいのである。「努力をすれば、成功する」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「人と争わず、受け止め方をかえればいい」……こういうきれいごとのほうが、正しいと思われてしまうのである。けど、ほんとうは、いっていることがめちゃくちゃなんだよ。精神世界の理論や努力論は、まちがっている。 

*     *     *

ひとこと「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、同等の騒音を経験したことになって島のである。けど、同等の騒音なんて経験してないよ。うちの兄貴とおなじタイプのきちがい家族と一緒に暮らしていたわけじゃないでしょ。実際に、家族のうちの誰かが、うちのきちがい兄貴と同じタイプのズレをもっている家族で、ひどいを騒音をしつこくしつこく毎日毎日、十数年にわたって鳴らしていたわけじゃないでしょ。

これ、ほんとうに、ちがうのに……。いい迷惑だよ……。不愉快だよ。




2025年4月10日木曜日

きちがい兄貴のきちがい的な認知・認識がわからない

きちがい兄貴は特殊な人なので、みんながみんな、特殊な人に毎日やられるわけがないのである。特殊な家族に、特殊な騒音を毎日鳴らされた人というのは、レアな存在なのである。しかし、相手が、遅刻をしたとなれば、「そんなのは関係がない」と言うわけ。これは、自分なら、どれだけ鳴らされたって、遅刻なんてしないという前提で言っているわけ。そして、「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うのだ。これも、同等、同質、同量の騒音を経験したという前提で、「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うわけ。けっきょく、騒音という抽象的な単語が示すもので、統一化されてしまっている。一般化されてしまっている。その場合、特殊な家族が鳴らしているということは、捨象されてしまうのだ。だから、まちがっている。ところが、何度も言うけど、こういうやつらに、ここに書いてあるようなことを説明しても、認めないのだ。自分は、遅刻をしないで、毎日通っているという優位な立場にあるわけ。そういうことを言ってくる人というのは、遅刻した俺に対して、比較優位なんだよ。俺は、比較劣位なんだよ。けど、こういうことが起こってしまうのは、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音のせいなんだよ。ちがうんだよ。どうしても、どうしても、遅刻するようになるんだよ。けど、そういう切迫した状態を経験してないやつが「鳴り終わったら関係がない」「そんなのは、関係がない」「影響なんてない」「俺だって騒音ぐらいある」「俺だって苦労した」と言うわけ。けっきょく、特殊な家族と一緒に住んでいないから、特殊な家族が、きちがい的な意地で鳴らす騒音というものを経験してないだけなんだよ。経験してないから、普通に通えるだけなんだよ。ところが、こっちが、遅刻をするとなると、こっちが、比較劣位になるので、相手は、えらそうなことを言ってくるわけ。そして、これは、遅刻に対する不寛容な態度であるわけ。あるいは、遅刻をした者に対する不寛容な態度であるわけ。ところが、こういう不寛容なやつが、これまた、ぼくには、無限の寛容さを求めるのである。どんな状況でも、きちがい騒音の影響をうけない「ありえないからだ」を求めるのである。そんなの、むりに決まっているのだけど、実際にやられてない人は、わからない。過酷さがわからない。きちがい兄貴の、きちがい度がわからない。きちがい兄貴の、きちがい的な態度がわからない。きちがい兄貴の、きちがい的な感覚がわからない。きちがい兄貴のきちがい的な認知・認識がわからない。わからないのだ。だから、わからないままに、無限の寛容さを要求してくるわけ。ようするに、どれだけ、きちがい兄貴とやらが、騒音を鳴らしていたとしても、影響をうけなければいいという判断をするのだ。この判断が、猛烈に腹がたつ判断なんだよ。……ぼくにとっては。ぼーくーーにーーとーーってはーー。どうしてかというと、むりなことが、やられてわかっているからだ。けど、むりだということを、相手は、認めないわけ。基本的には、ぼくには不寛容なのに、きちがい兄貴には、寛容で、きちがい兄貴のやったことを許せばいいんだという立場をとるわけ。こいつらの立場はこういう立場だ。これが、どれだけ無理なことを要求しているのかということが、わからない。経験がないからわからない。むりなのに、わからない。むりなのに、むりだということがわかない。わからないだけなんだけど、本人は、自分の判断に自信があるわけ。だから、こっちがどれだけ説明しても、認めないということになる。

2025年4月8日火曜日

まったく寛容じゃない。(後で修正)

 きちがい家族にやられた人間が自殺する確率は高いと思う。きちがい家族の割合は、たいへんに小さい。けど、きちがい家族にやられた人間というのは、きちがい家族にやられたことがない人間から、ものすごく悪く言われるのだ。しかも、多数派であるきちがい家族にやられたことがない人間というのは、きちがい家族にやられるということがどういうことなのか、まったく理解していない。そして、言霊ではなくても、妄想的なことが、前提として成り立っていることを言う。どうして、妄想的なことを前提にしてしまうかというと、きちがい家族にやられたことがないからだ。きちがい家族にやられたことがないので、きちがい家族に、「毎日」やられるということの意味が、みずからの経験をとおしてわかっていないということになる。結果、無限の寛容性を要求したりする。そんなのはたいしたことがない」と言いきって、無限のゆるしを要求したりする。ところが、無限のゆるしを要求するやつらは、じつは、まったく迷惑をかけられてないのに、ゆるさないのである。たとえば、きちがい家族にやられて、しかたがなく、無職になった人間がいるとする。通勤して働けなくなったのだ。きちがい家族に「毎日」やられて、通勤して働ける体(からだ)ではなくなったのだ。しかし、きちがい家族にやられたことがない人たちは、わからない。だから、「そんなのは、どうでもいい」「そんなのは、理由にならない」と言って、働けないということを認めない。きちがい家族の行為によって働けなくなったということを、認めない。きちがい家族にやられたことがない人間にとっては、「そんなことは、どうでもいいこと」なのである。だから、きちがい家族にやられた人に対して、無限のゆるしを要求する。たとえば、きちがい家族にやられた人のことをAさんだとする。Aさんに、きちがい家族の行為をゆるすように、要求するのだ。ところが、きちがい家族にやられたことがない人は、Aさんが、無職であることをゆるさない。ぜんぜん、寛容ではないのだ。Aさんには、きちがい家族に対して、無限の寛容性を発揮するように求めるのに、自分たちは、Aさんに対して、まったく寛容ではないのだ。無限の寛容性、無限のゆるし……そういうものを、Aさんには求めるのに、Aさんに対して、こいつらは、寛容じゃない。まったく寛容じゃない。

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「自分」は、俺に対して無限の寛容さを発揮することを求めるけど、「自分」は、俺に対してまったく寛容じゃないという話ね。「ゆるし」とか聞こえはいいけど、やられたやつが、がまんして死ねばいいということじゃないか。どれだけやられたかわかってないから、言えることだ。そして、やられたことの影響について、勘違いをしているのである。やられたことの、影響の、でかさについて勘違いをしている。「そんなものじゃない」とどれだけ説明しても、不寛容なこいつらは、理解しないのさ。それじゃ、悪いやつがやりがちになってしまうだろ。しかも、きちがい的な意地でやるやつらは、やったつもりがないんだよ。まったくやったつもりがない。「なんじゃこりゃ」という話になる。

ともかく、無限の寛容さを、だれかに求めるのはやめたほうがいい。「自分」の不寛容さが目立つだけだぞ。 


「善」とか「道徳」とか「倫理観」というものを、突き抜けて、問題解決をしてしまうのだ 悪霊のせいじゃない

脳みそがおかしい家族にやられた人を、悪く言う方法は、いくつかあるのだけど、そのうちのひとつが、悪霊というようなコンセプトを使った悪く言う方法だ。ほんとうは、悪い家族が、悪い頭で、悪いことを実行しているのに、悪いことをされた家族(のほうが)悪霊に取りつかれているから、悪いことが起こるのだと、「悪口」を言うのだ。しかも、これも、そういうことを言っている本人は、特に「悪口」を言った気持がないのだ。こんなの、ひどいだろ。どうして、ひどいと感じないんだ。こいつらは、妄想で、人の悪口を言っている。なんで、これがわからないのか? たとえば、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の脳みそには、癖があるんだよ。癖があるから、自動的に、悪いことをしてしまう。これも、本人は、悪いことをしているという気持がまったくない。本人の頭の構造に「ズレ」があるのだ。そして、本人は、その「ズレ」を認識できない。そして、悪いことをするのだけど……ほかの家族に迷惑をかけるような悪いことをするのだけど、ずっとずっと、脳みそのズレによって「迷惑行為をしている」という認識がしょうじない。迷惑行為をされたほうが、どれだけ、説明しても、絶対の意地で、認めず、迷惑行為を続ける。迷惑行為を続けることに命がかかっているという態度だ。迷惑行為なのだけど、本人が、迷惑行為をしているとは思わないのだ。だから、本人のなかでは、悪いことをしているというつもりがまったくないまま、迷惑行為を何千日も、何万日もやり続けるということになる。頭の癖だから、しかたがない? そりゃ、他人で一緒に住んでいないのであれば、それで済むだろうけど、一緒に住んでいる家族は、それじゃすまないのである。けど、これも、一緒すんでいないのであれば、ほんとうのことは、「見えない」ので、勝手に「影響がないこと」「ちょっと我慢すれば済むこと」にされてしまうのである。実際に、その家族……その個人といっしょに住んでいないから、迷惑をかけられないやつらは、しょせんは、他人ごとなので「そんなに生活に影響型ないことだ」と思ったり、「やられてるほうが、ちょっと我慢すれば済むことだ」と思ってしまうのである。これは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のような影響があるものだと、事実に反する思い込みなのである。事実はちがう。影響はある。ものすごい、影響がある。「もう、死ぬしかない」「もう、殺すしかない」と毎日、何時間も何時間も連続して、何回も何回も思うほど、影響があるのである。けど、やられていない他人は、そんな影響を無視してしまう。そして、だれだって、いやなことはあるし、だれだって、苦労はしているので、「自分だっていやなことはある」「自分だって苦労している」と思ってしまう。ヘビメタ騒音の話を聴いたときにそう思ってしまう。けど、「自分だっていやなことはある」「自分だって苦労している」と思っている人は、頭に癖がある人とは、一緒すんでいないのである。これは、頭に癖がある家族と一緒に暮らしている人の「苦労」と頭に癖がない家族と暮らしている人の「苦労」は質も量もちがうのである。けど、頭に癖がある家族と一緒に暮らしていない人の人数のほうが圧倒的に多いのである。割合が、とてつもなく大きいのである。だから、この人たちは、もはや、必然的に「苦労の質」をまちがって判断するようにできているのだ。だって、くらべるべきものをもってないのだからそうなる。きちがい家族の「苛烈な騒音」「よその家ではありえない騒音」を、過小評価するのである。もう、過小評価するようになっているのである。かならず、「苦労」とか「騒音」とか「いやなこと」という、抽象度が高い言葉を使い、「同質、同量」の苦労をしているとか、「同質、同量」騒音を経験しているとか、「同質、同量」の「いやなこと」を経験しているという前提でものを言うようになるのである。これ、決まっているのである。けど、この人たちには、きちがい家族がいないのである。きちがい的にでかい音で、きちがい的に長い時間、思いっきり騒音を鳴らしたいと思うような家族がいないのである。だから、そういう家族がもたらす「苦労」「騒音」「いやなこと」を経験していないのである。

話をもとにもどすと、きちがい兄貴の脳みそのズレから生じることを、悪霊のしわざだと思ってしまうやつらがいる。ぜんぜんちがうのに、こいつらは、こういう、妄想的なパラダイムで、現実を認識するのだ。迷惑なんだよ。そういうことを言う人が、そういうことを言うから、不幸の数が増えるんだよ。そういうことを言う人が、むしろ、悪霊だ。ただでも、脳みそにズレがある、きちがい家族にやられてこまっているのに、脳みそのズレは、無視して、悪霊のせいにするな。脳みその構造が、その人(きちがい兄貴のような人)にとって、都合がよくズレているんだよ。なんでこれがわからないのか? 脳みその構造によって、こっちが言ったことを無視するんだよ。脳みその構造によって、ほんとうはものすごくでかい音で鳴らしているのに、小さな音で鳴らしていると、解釈してしまうんだよ。自分に都合がよくなるように、ズレているんだよ。もっと言ってしまうと、自分に都合がよくなるように、くるっているんだよ。なんでこれがわからないのか?

思いっきりでかい音で、毎日毎日、好きな時間に、自分が聞きたい音を鳴らすという欲望があるとする。これに対して、普通の人は「けど、それは迷惑なことだからやめよう」と思うのだ。ようするに、超自我が命令して、やめさせる。ところが、きちがいだから、この超自我的な命令を、最初から発生させないようにすることができるのだ。自分の鳴らしている音は、でかい音ではなくて、ちいさい音なんだと(思えば)欲望と、超自我の、対立が最初からおこらないのである。

だから、「善」とか「道徳」とか「倫理観」というものを、突き抜けて、問題解決をしてしまうのだ。こうすれば、最初から、超自我的な命令がしょうじない。なんでなら、でかい音で鳴らしているのではなくて、ちいさい音で鳴らしているからだ。これが、道徳に反したことをやりたいと思ったときの、兄貴の側の解決方法なのである。これが、脳みそのズレを引き起こしているのである。だから、きちがい兄貴が、きちがい的な騒音を鳴らすことにこだわって、鳴らしているというのは、なにも、悪霊が関係していることではないのだ。これがどうしてわからないのか?

まあ、こういう人は、お兄さんが、そういうきちがい的な脳みそを搭載しているのが、悪霊のしわざなんだと言ってしまうだろう。そういうきちがい的な脳みそになったのは、悪霊のせいなんだと言っているわけだ。けど、これは、兄貴についた悪霊のせいなのか、俺について悪霊のせいなのか? 兄貴についた悪霊のせいだ。俺についた悪霊のせいじゃない。「悪霊のせいだ」と思ってしまう人は、言霊主義者のように、妄想的なことを信じているのである。もう、言いようがないな。そういうことで、どれだけ、きちがい家族にやられた人間を傷つけているのか、わかってない。兄貴の脳みその問題なんだよ。「の」の重複は指摘しなくてもいい。兄貴の脳みそが、兄貴の行動を決定している。

きちがい兄貴が、「悪いことをやっている」と感じないから、ずっと、やり続けてしまうのだ。どれだけ言ったって、聞かない。けど、昨日も書いたけど、「どれだけ言ってもきかない」ということを言うと、「エイリさんの説明が悪いから、相手であるお兄さんが理解できないのだ」と決めつけてくるやつがいる。こういうやつらは、みんな、精神世界の人たちなのである。まあ、精神世界の人じゃなくても、「そんなのは、ちゃんと言えばいいだろ」というやつらがいる。こいつらはみんな、「自分ならちゃんと説明できる」「ちゃんと説明すれば、お兄さんはやめてくれる」と思っているのだ。こういうバカ。こういうバカなやつらはガリだ。こんなやつに、バカにされてしまうのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な脳みその構造をもっていると、こういうバカにバカにされることになる。ほんとうに、腹がたつ。こういうやつらはこういうやつらで、俺が腹をたてると、なんで俺が腹をたてたのか、理解できないんだよ。そりゃ、そうだろ。自分は正しいことを言ったと思っているわけだからな。こんな幼稚なやつばかり。こんな幼稚なやつばかり。 

ともかく、きちがい兄貴の脳みそが、きちがい兄貴にとって都合がいいようにできているだけなのである。悪霊とか霊とか、まったく関係がない。兄貴の脳みそのネットワークが、異常なのである。普通なら、絶対に、わかることが、わからないようになっている。普通の人だったら、耳が正常なら、でかい音はでかい音として聞こえる。耳が正常なのに、自分がでかい音で鳴らしたいから、小さな音に聞こえるなんてことはない。普通の人が、芝居をする場合は、でかい音で鳴らしているのわかるけど、自分がでかい音で鳴らしたいから、「小さな音で鳴らしている」と言い張って、自分がやりたいことをやりぬこうとするのである。この場合は、どれだけなにを言っても、自分がでかい音で鳴らしているということを……認識してしまっている。認識してしまっているので、芝居をしているときは、芝居をしているという意識がある。芝居をしているということも、認識してしまうのである。ところが、きちがい兄貴は、自分がやりたいことを押し通したいので、無意識的な部分で、でかい音を小さい音だと言い換えてしまうのである。そして、言い換えたということを、認識しないのである。だから、まったく、躊躇なく、きちがい行為をやって、俺の人生を破壊することができる。こんなの、でかい音だというのは、わかるはずなので、わからないというのは、ほんとうに、きちがいだからわからないということになる。

ほかの人は、こういうタイプの家族と一緒に暮らしたことがないので、こういうタイプのか家族が鳴らす、苛烈な騒音を経験したことがない。ほかの人は、こういうタイプの家族と一緒に暮らしたことがないので、こういうタイプのか家族が鳴らす、しつこい、しつこい、しつこい、苛烈な騒音を経験したことがない。だから、わかってない。こういう苛烈な騒音がしつこく続くと、どういうからだの状態になるかということが、経験としてわかってない。だから、「自分なら平気だ」「自分ならそんなことに影響をうけない」「自分なら、お兄さんを説得できる」と思って、俺にむりなことを言うのである。こいつらはこいつらで「無理なことを言った」という認識がないのだ。「完全に、できることだ」と思っている。こいつらはこいつらで、俺がどれだけ説明しても、ところどころで反論し、腹をたて、俺が言っていることを認めない。最初に感じた「自分の見立て」にこだわって、ぼくが言うことを認めない。

 

2025年4月7日月曜日

ほんとうに、きちがい家族にやられて、世間のバカになめられた。

 「そんなの、お兄さんがやったことなのだから、しかたがないじゃない」と思う人と、「こいつは、なんなんだ」と思う人がいるんだよね。「こいつは、なんなんだ」と思う人は、俺が、無職だと、「こいつは、なんなんだ」と思うわけ。ヘビメタ騒音で働けなくなったという話を聴いても、「そんなのは関係がない」と思うわけ。こういう、頭が悪いやつがいっーーっぱい、いーーーぱい、いた。こいつら、頭が悪いだけではなくて、性格も悪いよな。あきらかに、悪い。こいつら、ほんとうに、人間のことをレッテルだけで考えるやつなんだよ。そして、ヘビメタ騒音の影響を認めない。ひどいやつになると、「無職だから、ヘビメタ騒音が鳴っていたとうそを言っているんだ」と思うわけ。こいつら、頭が悪いだけではなくて、性格も悪いよな。こういう、バカなやつらに、なめられることになるんだよ。だから、十数年間にわたって、何万回も、何十万回も、「ヘビメタを鳴らすな」「ヘッドホンをしろ」ときちがい兄貴に言ってきたのに、きちがい兄貴は、本物のきちがいだから、小さな音で鳴らしているつもりで、ものすごくでかい音で鳴らし続けた。「そんなのは関係がない」と思うやつらは、想像力がない。あるいは、とてもとても、低い。夜郎自大な性格で、「自分だったら平気だ」とすぐに考えてしまって、その考えを(どれだけ説明されても)否定できない。頭が悪いんだよ。「程度」について考えるということが、できないんだよ。こいつら、きちがい兄貴ほどは、くるってないけど、バカなんだよ。ほんとうに、きちがい家族にやられて、世間のバカになめられた。ほんとう、想像力がないから、説明を聞いてもわからないだけなのである。あるいは、自分のなかの常識で、事実を否定してしまうのである。こんなバカなやつら……。ほんとうに、ぼくにとって意味がない人たちなんだけど……。数がおおい。割合が大きい。頭が悪いやつが多いんだよな。「違う」と言っているだろ。君らが考えたような騒音じゃないんだと言っているだろ。こいつらはこいつらで、どれだけ説明しても認めないんだよ。こんなバカなやつらが、うじゃうじゃいる。そして、こいつらが、道徳を語り、善を語るのである。こんなのない。おそろしく思考力が低いやつらなのである。おそろしい。おそろしい。おそろしや……。おそろしやーー。

ずっとずっと、そうなんだよ。

 たとえばなんだけど、親父に対して、「親父が魚を出しっぱなしにしたから、ネズミがはいってきた」と言えば、親父が「なんだよぉ!! 出してない!! 出してない」とわめくわけ。そのときは、「ネズミがはいってくるようにしてしまって、すまなかったな」なんて気持ちはないわけ。ものすごく、かたい化粧箱が、居間にあったわけ。その化粧箱の中に、親父が、食べるわけではない、お菓子を入れていた。これ、ずっと、置きっぱなしで、食べないお菓子として、オブジェと化していたのである。ネズミの侵入と、ネズミ対策工事に対する反対がなければ、それはそれで、じゃまだけど、どうでもいいものだった。ところが、ネズミが侵入して、親父が「(ネズミシートで捕まえるから)工事はしなくていい」と意地をはって、時間がたった。そうなると、箱の中に、ネズミの糞がたまるのである。きちがい親父が、入院したあと、この化粧箱を解体して、処理しなければならなくなった。ところが、この化粧箱が、かたくてかたくて、なかなか解体できなかったのである。ダニがいる部屋で、この、かたい化粧箱をなんとか、市のごみ袋にいれるというのがたいへんだった。これ、清掃員の人が、持って行ってくれないのである。だし方が悪いと、市の清掃員の人がもって行ってくれない。そして、死の清掃員の人がダニに刺されないように、うまいこと処理するとなると、もっとたいへんだった。でっ、この、かたい化粧箱を解体しているときに、猛烈にかゆいダニに刺された。からだも、ほかのダニに刺されているけど、からだを刺しているダニとは、ダニの種類がちがうのである。足のくるぶしを刺されたのだけど、水膨れができて、一年以上治らなかった。いまでも、うすくアトがついているんじゃないかなと思う。こわくて見れない。ともかく、あのダニ部屋で、かたい化粧箱の処理をしたときの記憶が、頭から離れない。空間が汚染されていく。こういう記憶が、生きる力を、奪っていくのである。意欲を奪っていくのである。それで、ようするに、親父に対して、「化粧箱にネズミの糞がはいっていて、化粧箱を解体しているときに、ものすごくかゆいダニに刺された」と言ってやったんだよ。そうしたら、親父が「なんだ!そんなのぉ!!」と顔を真っ赤にして、言うわけ。親父のせいで、ダニに刺されたという文脈の全体は、なんとなく、つたわっているのだろう。だから、腹をたてる。なにか、不都合なことを言われたということは、わかるのだ。けど、……けどけどけど……親父が、しつこくやったことで、相手がこまっているということが、まったくわからないのだ。これ、ほんとうに、親父が、時系列的な節々で、ダニが発生するようなことをしているのである。親父が、やったことの結果なのである。親父が、責任を持って片づけるべきなのに、そういう責任は全く感じないで、自分が「せめられた」ということに対して、文句を言っているのである。発狂しているのである。顔を真っ赤にして、「そんなことを言ってくる」という気持になっているのである。まったく、相手がこまっているということが、わからないのである。相手が、自分のやったことで、被害を受けたということが、まったく、まったく、まったく、まったく、わかってないのである。ともかく、なんとなくだけど、自分が文句を言われたということだけはわかるのだ。だから、顔を真っ赤にしておこる。「なんで、自分にそういうことを言ってくるんだ」という気持になって、憤慨する。「迷惑をかけた」ということがわかってない状態なのである。これは、どれだけ、言ってもむだなんだよ。これも、精神世界のしったふうな人だと、俺の言い方が悪いから、そういう反応をしたと考えるのだ。親父がそういう反応をしたと考えるのだ。ようするに、親父の機嫌がいいときに静かに言えば、親父だってわかってくれたはずだという意見をもっているのである。精神世界のしったふうな人はそういう意見をもっているのである。ようするに、最初から、人をせめるような口調で言ったから、親父がそういうふうに反応しただけだというようなことを言う。自分だったら、ちゃんと、親父さんがわかるように説明ができると、勝手に、思っているのである。けど、これに関していうと、精子世界のしったふうな人がまちがっている。親父にどんな言い方で、言ったところで、親父の反応はおなじなんだよ。自分の行為をせめるようなことを言われたら、どんな行為をしたかに関係なく、発狂しておしまいなんだよ。そのときは発狂したけど、相手がこまっているということがあとでわかって、謝罪したなんてことはないんだよ。言っておくけど、兄貴のヘビメタ騒音に対する態度も、おやじとおなじなんだよ。普通の人が、一気に誤解をしてしまう。普通の人は、だから、こういうタイプのきちがい家族とは、一緒に暮らしてない。暮らしたことがない。だから、わかってないのだ。ようするに、こういうタイプのきちがい家族に、やられたことがないのだ。「わかってない発言をする」ということは、「こういうタイプのきちがい家族にやられたことがない」ということを意味しているのである。

きちがい親父や、きちがい兄貴の態度というのは、全部が全部、こういう態度だ。こういうことに関しては、一〇〇%確率で、こういう態度なのである。ずっとずっと、ぼくがこのうちに生まれてから、きちがい親父やきちがい兄貴は、ずっとずっと、こういうことに関して、こういう態度なのである。絶対に、自分の落ち度を認めない。自分がやったことの影響で相手がこまっているということを、認めない。ずっとずっと、そうなんだよ。

2025年4月6日日曜日

睡眠回路が破壊される。

ちなみに、「日時を決められると、眠れなくなる」という症状は、ずっと遅刻をしないようにする「努力」から生じたのである。これも、経験がない人はわからない。きちがいヘビメタが、午後一〇でも鳴っていたので、午後一〇時に眠ると言うことはできないんだよ。きちがいヘビメタが午後一一時一〇分に鳴り終わったら、午後一一時一〇分から、ねむれるかというと、ぜんぜん眠れないんだよ。「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって朝は眠い」と言っているやつだって、毎日続く、きちがい家族による、一日なのかで非常に長い時間続く騒音は経験してないのである。だから、それがわからない。もちろん、ヘビメタが好きな人にとっては、たいした騒音じゃないけど、ヘビメタの音が、この世で一番嫌いなぼくにとっては、ものすごい騒音なんだよ。ものすごい体験なの。平日、午後四時に家に帰ってきたとする。そうすると、平均で約六時間五〇分ぐらいは、ずっとヘビメタが鳴っているのである。きちがい兄貴が、飯を食う時間と、風呂に入る時間以外は、全部、フルの音で、ガンガンに鳴らしているのである。どれだけ、「宿題をやるからやめろ」と言ったって、やめないのである。そうやって、午後一一時一一分に鳴ったとする。眠れるかというと眠れない。これ、こういう家族が、きちがい的な意地でガンガン鳴らしていて、明日、何時に起きなければならないということになると、不安がしょうじるのである。それは、鳴っているときからそうなんだよ。頭がかき乱されてしまうんだよ。ようするに、通学をするとなると、朝何時何分までに、家を出ないと遅刻してしまうということが決まってしまう。そうなると、朝何時何分には起きなければならない」と思うだろ。これが、眠れなくなるひとつの原因なのである。そういうことに気がつかない人が、「自分だったらどれだけ鳴っていても鳴り終わったら、眠れる」という前提で、「だれだって騒音ぐらいあった」「俺だって、朝は眠い」と言ってくるのである。けど、それを言うその人は、きちがい家族がいないのである。きちがい的にでかい音である分野の音楽をききたがるきちがい家族がいないのである。いないのである。いないのである。だから、経験してないのである。経験してないのである。毎日、毎日、騒音と出発時刻に挟まれることがないのである。騒音がなくても、出発時刻が気になることはある。けど、それは、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえの、ぼくのように、特別な日を除いて、そんなに気になることではないのである。そして、特別な日だって、けっきょくは、いつものように眠れるのである。けど、ヘビメタ騒音がはじまってから、特別ではない日も、特別な日も、いつも眠れないのである。ヘビメタ騒音がはじまるまえは、いつも、心配事があっても、眠れたのである。普通に眠れたのである。「自分だったらどれだけ鳴っていても鳴り終わったら、眠れる」という前提でものを言う人は、実際に、はさまれたことがないからわからないのである。毎日はさまれたことがないからわからないのである。何十日も続いた時点で、睡眠回路が破壊される。

 

 

それが、説明するまでもなく、本人にとっては、自明のことなのである

  「希望的なことを言うのは、ただだから、希望的なことを言えばいいじゃないか」という人もいるけど、こういう人たちは、条件を無視しているのである。きちがい兄貴という条件。きちがい兄貴が鳴らすヘビメタという条件。実際にヘビメタを鳴らされて、数百日たっているという条件。実際にヘビメタを鳴らされて、数千日たっているという条件。こういう条件を無視しているのである。きちがいヘビメタ騒音のなかで、希望的なことを言ったって、鳴っているのだから、ダメなのである。どうしたって、きらいな音だ。どうしたってきらいな音が、大音響で鳴っている。鳴っているなら、影響をうける。現在進行形で影響をうける。こういうことを、ガン無視して、「希望的なことを言えば、希望的なことを言ったので、全体感情が、希望的なことに引っ張られて、希望がもてる状態になる」……と言うのは、よくないことなのである。これ、ぼくが相手だとすると、相手の条件を無視しているのである。相手の条件下では、「希望的なことを言えば、希望的なことを言ったということによって、希望がもてる状態になる」という理屈は、成り立たないのである。ところが、相手の条件を無視しているので……「そうなる」と断言してしまうのである。条件があるということを言えば、条件に関係なく、どんな条件でも「そうなる」と断言してしまうのである。もともと、相手の条件というものに無関心であり、相手の条件が相手の身体にあたえる影響を無視してしまうのである。条件を無視している人は、宙ぶらりんな、空白空間を考えて、「そうなる」と言っているだけなのである。前登校でも書いたけど、この相手の条件を資する人だって、自分の条件は、決して、無視していないのである。自分の条件は、ちゃんと、認知しているのである。ただ、この認知というのが、いわゆるメタ認知であるから、本人が、自覚していないだけなのである。本人の条件について、本人が、現在進行形でメタ認知しているのである。だから、それが、説明するまでもなく、本人にとっては、自明のことなのである。だから、希望的なことを考えるときは、本人のメタ認知が、事前に織り込まれた状態で、希望的なことを考えることになるのである。本人のメタ認知が、希望的なことを考えられない状態だと、人には「希望的なことを考えればいい」と説教をする人だって、案外普通に、希望的なことではなくて、メタ認知にしたがった現実的なことを考えるのである。ただ、メタ認知は成り立っているのだけど、メタ認知に対する関心がないので、本人のメタメタ認知は、本人の「目」のように、本人には、普段、認識されないのである。視覚があるけど、「目」はそんなに、認識されない。視覚があって当たり前だという状態のなかで、あんまり、「目」について考えないで、生活しているのである。それとおなじように、メタ認知について、あんまり考えないのである。あって当たり前で、影響を常に受けているのだけど、メタ認知それ自体については、あんまり考察しないのである。

2025年4月5日土曜日

出来事とは、関係なく、「言った」だけで、自分の感情を操作できるのかというと、操作できないのである

 「楽しいと言えば、楽しくなる。……これは、科学的に立証されたことだ」……などと言ってしまう人がいる。まったく科学的じゃない人なんだよな。まったくなにもわかってない。まあ、それに関しては、ずっと書いてきたから、いいとして、今回、言いたいのは、やはり、環境が悪い人にとって、こういうことを言うやつらが、悪い要素なのだということだ。こういう人たちは、環境が悪い人を、追いつめている人たちなのだということを言いたい。「環境が悪い」ということは、不愉快なこと、腹立たしいこと、憂鬱なこと、悲しいことが、たくさん発生するということなのである。発生回数自体がちがうのだ。たとえば、「楽しいと言えば、楽しくなる」と言っている人とは、不愉快なことが起こる回数がちがう。もちろん、「楽しいと言えば、楽しくなる」などと言っている人のほうが、回数が少ない。そういう環境のなかで生きている。ところで、「楽しいと言えば、楽しくなる」と言う人だって、ものすごく腹がたつことが起こったときに、「楽しい」と言えば、楽しくなるのかという問題がある。文脈と言ってきたけど、ちゃんと文脈が成り立っているかどうかと言うことが問題なのだ。「楽しいといえば楽しくなる」と言っているときに、そうしているのは、難の文脈もない場合なのである。文脈がない「空白状態」「中間状態」で、「楽しい」と言うことを、抽象的に想像しているにすぎないのである。宙ぶらりんの空白状態で「楽しい」と言ったら、どうなるのかと言うことを、抽象的に考えているだけなのである。言ってしまうと、問題があるけど、言霊主義者は、言霊理論が否定されただけで、相当に不機嫌になる人たちなのだ。この場合は、自分が信じていることを否定されるという出来事が実際に生じたから、その出来事に対応した感情が発生しているのである。直前の出来事は、感情に影響をあたえるけど、直前の出来事ではないにしろ、強く記憶に残る不愉快な出来事は、そのときの感情に影響をあたえる。

出来事という(本人にとっての)文脈を無視して、(本人の)感情を語ることはできないのでああ。ところが、「出来事」という(本人にとっての)文脈を無視して、ただ単に「楽しい」と言えば、楽しくなるということを言う。

実際に、猛烈に腹がたつことが発生したあと、「楽しい」と言えば、楽しくなるのかといえば、楽しくならないのが普通なのである。言霊主義者だって、「楽しい」と言っても、楽しくならないのである。普段はそうなのである。

猛烈に腹がたつやり取りをしている最中に、そのやり取りとは関係なく、突然に「楽しい」と言って、楽しくなるのかという問題がある。

これ、言霊主義者だって、こういうことについてまったく考えてない一般人だって、本人が本人の文脈で、腹をたてているときは、「楽しい」と言っても、楽しくならないのである。

人間の気持ちというのは、そんなものじゃないのである。言霊主義者が言ってるように、文脈に関係なく「楽しい」と言えば楽しくなるのかというと、そうではない場合のほうが多いのである。

特に不愉快なことは、発生していないという状態で「楽しい」と言えば、楽しく感じたような気がしたというだけの話なのである。

何度も言うけど、言霊主義者だって、猛烈に腹がたつことが、立て続けに起こり、腹がたって腹がたってしかたがないときに「楽しい」と言えば、楽しくなるのかと言えば、楽しくならない。言霊主義者だけではなくて、「楽しいといえば楽しくなる」ということに、疑問をもたない一般人だって、猛烈に腹がたつことが、起こり続ければ、「楽しい」と言っても楽しくならない。

これが、現実だ。こっちのほうが、現実なのに、文脈から解き放された、中立的で、宙ぶらりんな状態を考えて、「楽しいといえば楽しく感じるはずだ」と思ってしまうのが、おろかなことなのだ。

条件が悪い人と言うのは、条件が悪いので、不愉快なこと、腹がたつこと、憂鬱になること、つかれはてることが、猛烈な頻度で発生してしまうのである。

だから、「楽しい」なんて言ったって、楽しくならないのである。

どうしてなら、直前に、強烈に腹がたつことを経験しているからだ。

あるいは、現在進行形で、強烈に腹がたつことが発生しているからだ。

ちゃんと、文脈がある。文脈に対応した感情が発生する。当然のことだ。この当然のことを無視して、「楽しいといえば楽しくなる。これが絶対に正しい」と言ってしまうのが、精神世界の人たちなのである。

その精神世界の人たちだって、腹がたつことが発生し続けている最中に「楽しい」と言えば、楽しくなるかと、楽しくならないのだ。

精神世界の人たちは、「普段の自分」を無視しているのである。精神世界の人たちにだって、現実世界で、さまざまな現在進行形の出来事が発生するのである。

 そして、そのなかで、出来事に対応した感情が発生するのである。

出来事とは、関係なく、「言った」だけで、自分の感情を操作できるのかというと、操作できないのである。

なのに、ほかの人には、「楽しいといえば楽しくなる」と説教してしまう。自分のことを棚に上げて、よく言うよ」とぼくは思ってしまう。

環境が悪い人、条件が悪い人は、下の立場になりやすいのである。精神世界の人は、自分より立場が下である人には、説教をし始めるのである。そういう人種なのである。だから、環境が悪い人、条件が悪い人は、精神世界の人から説教をされやすい立場なのである。

*     *     *

言霊主義者は、相手の身に起こっていることを無視してしまうのである。特に、「頻度」を無視してしまう。特に「外的な理由」を無視してしまう。外的な理由によって、頻繁に起こっていることは、その個人の感情に影響をあたえている。その感情と関係なく、言葉を発すれば、その感情が消え、言葉通りの感情になるということは、ありえないことだ。

言霊主義者だって、普段の生活のなかでは、感情が赴くままに感じているのである。その感じていることにさからって、別の、真逆のことを感じるように、自分自身に命令したって、自分自身は、その感情に支配されていて、命令した通りには、感じないということを、言霊主義者だって、経験しているはずなのである。もっと、言霊主義者は、単純なので、言霊のことについて考えているときは、言霊のことについて考えているだけで、普段、自分がどういう感情で、どういう行動をしているかということに、考えのリソースを分配しないのである。

言霊主義者だって、腹がたつことがあれば、言霊を無視して、腹をたてる。腹がたって当然だと考えている。ちゃんと文脈があるときは、現実的な思考をしているのである。その現実的な思考というのは、メタ認知によってささらえれた思考なので、特に「文にして」説明しなくても、瞬間瞬間、時間の流れに従って、感情をうむ出すのである。以降、これを、文脈のある感情ということにする。言霊主義者って、普段は、文脈のある感情にしたがって、行動しているのである。文脈のある感情とは、真逆の言葉を考え出し、真逆の言葉を言うと、文脈のある感情が消え去り、真逆の言葉が意味している感情が、吹き出すなんてことはないのである。真逆の言葉が意味している感情に支配されるということがないのである。これは、言ったって言った通りにならないということなのである。しかし、言霊主義者は、このことに関して、おそろしく、無頓着なのである。無頓着。「あったってない」なのである。普段自分は、文脈のある感情にしたがって行動しているのに、そのことは、無視してしまうのである。「言霊」ということを考える場合は、普段の自分の行動を無視してしまうのである。けど、言霊理論が、だれかによって否定されれば、自然な感情として、怒りがわいてきて、相手の言ったことを、ともかく、否定しようとするのである。そのとき、「楽しい」といっても、楽しくならないのである。「うれしい」といっても、うれしくならないのである。「なんだこのやろう! 言霊は正しい!」と感情的に思っているのである。

これは、言霊理論が否定されたときだけではなくて、ほかのことでも、文脈にしたがって、感情の流れがあり、感情の流れに従った行動をしているのである。文脈とは、まったく関係がない言葉を考え出し、その言葉を発して、その言葉に対応した感情を自分のなかに作り出すということはしていないのである。

そして、このこころみは、発生した出来事の影響が強ければ強いほど、失敗してしまうのである。ところが、言霊主義者は、失敗を無視してしまうのである。あるいは、こころみようとも、しないのである。実際の場面では、文脈とは正反対の感情をもとうとはしないのである。普通に出来事に対応した感情をもっているのである。無自覚。無自覚。無自覚なんだよなぁ。





2025年4月4日金曜日

きちがい兄貴が、「騒音」に寛容かというと、寛容じゃないのだ

 きちがい兄貴が、「騒音」に寛容かというと、寛容じゃないのだ。自分が出してない音で、他人が出している音だと、普通の音でも、うるさいと感じるやつなのだ。

たとえば、テレビの音がうるさいと感じるやつなのだ。あるいは、ぼくが、テーブルの上でビー玉を転がしていたのだけど、そのビー玉の音がうるさいと言ってくるやつなのだ。

他人が鳴らしている音なら、「うるさい」と普通に感じる人間なのである。

兄貴は、別に、騒音というものに特別に寛容であるわけではない。これが、わかってないんだよね。

これ、本人の耳が悪くなるほどでかい音で鳴らしているのに、「こんなの普通の音だ」と感じてしまう。「普通の音で鳴らしているのだから、一日に十三時間鳴らしたって問題はない」と思ってしまうやつなのだ。

普通の音というよりも、しずかな音だと感じている部分がある。きちがいだから、現実を書き換えてしまう。そして、自分が現実を書き換えたことに気がつかない。

きちがい的にでかい音で鳴らしたいなら、それが普通の音や小さな音になってしまうのだ。

普通の音で鳴らしていたとしても、一日に一三(じゅうさん)時間鳴らすというのは、鳴らしすぎなのである。平日、学校がある日に帰ってきて、平均七時間鳴らしてしまうというのは、鳴らしすぎなのである。

一日に、二時間ぐらいまでだったら、ぼくの、睡眠回路はこわれていない。一日のなかで、宿題だってできる。

きちがい兄貴が、たとえば、午後五時から午後七時までの二時間だけ鳴らすということに、合意したかというと、合意しなかった。一秒間だって、ゆずってやりたくないのである。一分間だって、ゆずってやりくないのである。

自分が、弟のために、ヘビメタを鳴らすのをがまんして……つまり、まったく鳴らさないようにして、一秒間、がまんしてやる姿が、まったく想像できないレベルだ。そんなのは、ありえないから、考えもしないことなのだ。

一秒間、ほんとうに、がまんをさせられたら、発狂してしまうのである。

そういう意地なんだよ。

一分間でも、ヘッドホンをしてやらなければならなくなったということになれば、その一分間、腹がたって腹がたって腹がたって、「こんなこと、やってられる」「がまんできるか」という気持になって、一分間もたたないうちに、ヘッドホンのジャッキをはずしてしまうのである。ヘッドホンを頭からとってしまうのである。

こういう意地は、きちがい親父もおなじなんだよ。ここで、きちがい親父のことを書くと話が長くなるのでやめるけど、脳みその構造がまったくおなじで、「がまんさせられそうになった」ときの反応がまったくおなじなんだよ。

がまんさせられそうになったら、顔を真っ赤にして、発狂して、自分がやりたいことを、やってしまうのである。がまんなんて、一分間だってできないのである。

一分間がまんしてやったら、ものすごく、自分が損をした気持になってしまのうのである。死ぬほど腹がたつのである。きちがい的な意地がかかっているのである。たとえ、一秒だろうが、一分だろうが、自分が絶対にゆずってやらないということに、命がかかっているのだ。

きちがい兄貴のヘビメタに対する態度は、きちがい親父のカネに対する態度とおなじだ。

きちがい兄貴は、きちがい親父のカネの支配をうけていた。これ、ほんとうに、カネの支配があった。だから、きちがい兄貴は、自分でバイトをして勝ったヘビメタ道具一式だから、ほかのやつに文句を言われる筋合いがないという感情もあった。

この(兄貴の)感情の出所が、きちがい親父のカネに対する態度なのである。

カネで、いじめられる。カネのことで、意地悪なことをされる。カネのことで、ものすごく腹がたつことをされる。

もちろん、きちがい親父のほうは、そんなことをしているつもりがないんだよ。きちがい親父は、いじめているつもりなんてないんだよ。けど、親父のカネに対する態度に問題があるから、親父にかかわると、カネのことでいじめられることになるのである。

かならず!!!!かならず!!!不愉快な目にあわされる。

だから、きちがい兄貴にとっては、きちがい兄貴が高校生になってバイトをして金を稼げるようになったということは、きちがい親父のカネの支配から、自由になったということなのである。

きちがい兄貴がバイトをして、自分のカネで、ヘビメタ道具を買ったということが、めちゃくちゃに重要なんだよ。きちがい兄貴のなかで、めちゃくちゃに重要ことなんだよ。

これ、こんなことを言ってもわかってくれる人はいないと思うけど、こういうことも、関係している。自分のカネで買ったヘビメタ道具でヘビメタを鳴らしているのだから、どれだけでかい音で、どれだけ長い時間鳴らしても、まったく問題がない……という感じ方がある。

けど、こういうことを抜いたとしても、きちがい兄貴の頭の構造は、きちがい親父の頭の構造とおなじだから、やはり、自分ががまんさせられたとなったら、発狂してしまうのである。

まあ、ひらたく言うと、親父のお金支配をうけて、意地になっているところもあるのだけど、それだけではないのだ。基盤は、きちがい親父と同じタイプの脳みそを搭載しているということだ。

自分が!!がまんさせられる……となったら、一秒でもがまんしたら、死んでしまうというような危機的な気持になって、反抗をするのである。

「絶対にゆずってやらない」とがんばるのである。真っ赤な顔をして、体をこわばらせて、がんばるのである。このときは、そういう感情だけだから、相手が自分のやっていることでこまっているということは、まったく頭のなかにない。きちがい兄貴の頭のなかには、相手が(自分がやっていることで)こまっているということが、まったくない。

まったく頭のなかにないから、時間がたてば「やったってやってない」ということが、成り立ってしまう。やりきったら、「やってない」ということになってしまうのである。感情的には……。

きちがい兄貴だって、ほかの人が出す音には、わりと敏感で、この世に騒音と言える音があると言うことがわかっているのである。本人だって、わりと敏感に、自分が聞きたくない音に反応するのである。

ところが、「思いっきりでかい音で」ヘビメタを鳴らしたという気持があると、……その気持ちにあわせて、すべてが、ゆがんでしまうのだ。その無意識的な欲求にあわせて、現実認知がすべてゆがんでしまうのだ。自動的にゆがむ。

*     *     *

それから、ちょっとだけ言っておくけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にさらされていれば、憂鬱になるのだけど、ぼくの認知がゆがんでいるわけではないのだ。

きちがい兄貴のヘビメタで、宿題ができず、宿題ができないということから発生するトラブルに見舞われたとする。不愉快な出来事だ。そして、きちがい兄貴のヘビメタで、眠れなくなり、どうしても、遅刻をしてしまうということが発生したとしよう。

その場合も、学校でトラブルが発生するのだけど、これは、めいる出来事なのである。頭にくる出来事なのである。

そりゃ、学校のみんなは、教師も含めて、ヘビメタで「どうしても遅刻してしまう」ということは、認めないので、ヘビメタ騒音の影響に関して認識のちがいがあり、トラブルが発生してしまうのである。

そして、学校のみんなや教師は、「家族で話し合えば、問題が解決する」と思っているので、そこでも、きちがい兄貴やきちがい親父の脳みそに関する認識のちがいがあり、トラブルが発生してしまうのである。

もちろん、不愉快な出来事だ。

これ、鳴らされて、ずっと遅刻をしないようにするということが、どうしてもできない。もう、それは、はっきりしている。

だから、実際に「ものすごい音で」鳴らされているあいだ、くるしいというのは、ほんとうのことで、ぼくのほうに認知のゆがみがあるわけではないのである。むしろ、ほかの家では絶対に鳴らさないような音で、長時間、鳴らしてしまうほうに認知のゆがみがある。あれだけでかい音で、ずっと毎日鳴らされれば、憂鬱になるのである。そして、寝不足が続いてうつ病になったとしよう。その場合、うつ病患者の認知がゆがんでいるということになってしまのである。ようするに、ぼくがうつ病になったなら、うつ病になったぼくの認知はゆがんでいると、認知療法家が解釈してしまうのである。けど、ぼくの認知はゆがんでいないのである。これ、どれだけ重要なことか、ほかの人たちはわからないと思う。認知療法家だってわかってないよ。心理学者だってわかってないよ。認知療法家の認知のゆがみに関しては、ずっと前に書いたので、ここでは省略する。ちょっとだけ書いておくと、内因性のうつ病に関しては、認知療法の理論が当てはまる場合があるのだけど、外因性のうつ病に関しては、認知療法の理論がはてはまらない場合もあるのである。


2025年4月2日水曜日

「受け止め方の問題だ」とはまったく思わずに、自分の感情がしょうじるままに、受け止めているのである

自分のなかのやりたいことを、他人のことを考えずにやってしまう人は、迷惑行為をやりやすい人なのである。家族が、自分のなかのやりたいことを、他人のことを考えずにやってしまう人だと、いやなことが発生しやすいのである。


順番ということを考えた場合、実際に、きちがい的な親が、正常な親がやらないような迷惑行為をするということが、始まりなのである。これが一番目に起こることだ。

そして、これは、やられたほうの受け止め方の問題ではなくて、やっているほうの、行為の問題なのだ。まわりの他人がこまる行為をするけど、他人がどれだけなにを言っても、迷惑行為だと認めない性格傾向が問題なのだ。

本人が、迷惑行為をやっているということを感じなければ、本人のなかでは、迷惑行為なんてやっていないということになるので、迷惑行為をやめないのである。本人にとっては迷惑行為ではないのだから、やめる必要がない。

やられたほうの受け止め方の問題ではなくて、やっているほうの迷惑行為をやっているという認識のなかさが問題なのだ。ようするに、やられたほうの問題ではなくて、やるほうの問題なのである。

これにも、受け止め方の相対主義という問題がある。精神世界の人たちが言うことには、いっぱい、罠が仕掛けられている。これらの複数の罠は、かならず、やられたほうが悪く言われるようになる複数の罠なのだ。

けど、まあ、受け止め方の相対主義という問題について語るのはやめよう。

とりあえず、ほとんどの人が不愉快だと感じるネガティブな行為を、きちがい的な家族が、実際にしたということにしておく。いちおう、ネガティブな行為を実際にやったということにしておく。つまり、固定しておく。

やはり、避けては通れない問題なので、ほんのちょっとだけ、受け止め方の相対主義について語っておく。ほんとうは、この問題に関しては、だいぶ前に書いた記憶がある。だから、ほんのちょっとだけ、書いておく。

悪い行為などは存在せず、すべては、中立的な行為なので、中立的に受け止めることが可能だというよう妄想的な理論は、人を傷つける。

精神世界の人は、「すべては受け止め方の問題だ」などと、わかったようなことを言い、きちがい的な人間に「やられたほうの人間」をせめるのである。

そして、「やられた人の性格がネガティブだからそういうふうにされる」と決めつけて、悪口を言い出すのである。

精神世界の人が、どれだけ、普段、「(出来事を)中立的に受け止めているか」というと、中立的には受け止めてないのである。

生活のなかでは、「受け止め方の問題だ」とは思わず、固定された受け止め方をするのである。まず、そういう固定された受け止め方が、それまでのメタ認知と価値観によって、しょうじるということだ。これがわかってないのである。

これは、精神世界の人が、普段は、言霊の力を使わずに……つまり、言霊の力を使えずに、現実問題に現実的に対処しているということに、まったく気がつかないのとおなじだ。

じつは、精神世界の人も固定された受け止め方を、しているのに、それに気がつかないのである。

そして、言葉を語るときだけ、「受け止め方の相対主義」を口にするのである。ようするに、「すべては、受け止め方の問題だ」と言いやがるのである。この、癖は、どうにかしたほうがいいぞ。

本人が気がついていないだけで、普段は、中立的に受け止めていないのである。それまでの価値観にしたがって、出来事を受け止めているのである。

例にあがるのは、話のなかで、「そう思いやすい出来事だけ」であり、普段は、なにも気にせず、普通に固定されたやりかたで、出来事を受け止めているのである。

つまり、「受け止め方の問題だ」とはまったく思わずに、自分の感情がしょうじるままに、受け止めているのである。

自分の感情は、たしかに、価値観や、メタ認知の影響をうけるのだけど、価値観やメタ認知を相対化すれば、それで、出来事をまったくちがうかたちで受け止めることができるかというと、そうではないのだ。

まったくちがうかたちで受け止めた場合にも……その場合は、新しい価値観が生じているのである。そして、新しい価値観をささえるメタ認知が生じているのである。新しい価値観も中立的な価値観ではないのである。メタ認知は、メタ認知として自然に発生しているのだけど、発生した時点ですでに、中立的ではないのである。

発生したときになんらかの意味が「付与」されてしまっている。だから、まったく中立的なメタ認知なんてものはないと考えるべきなのだ。

 

「鳴り終わったら関係がない」と言う人が「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、それがなんなんだよ?

  つまんない。ヘビメタ騒音にやられた体で、旅行に行ったって、つまらない。貧乏旅行も、豪華な旅行もつまらない。つまらない。みんな、ほんとうにわかってないんだよなぁ。あれ、どうなるかわかってない。あんな音で、きらいな音が、一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴ってたら、そりゃ、おかしくなる。からだもこころもおかしくなる。あんなことを毎日、十数年間にわたってやられた人に、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「俺だって、つらい思いをしてきた」「つらいときこそ、楽しい楽しいというべきだ」なんて、言ってしまうのは、ほんとうに、まったく、おろかなことだ。いくら「俺だってつらい思いをしてきた」と言ったって、「つらい思い」の「つらい思い」がぜんぜんちがうのである。ぜんぜんちがうということは、たとえば、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということを信じているということからわかる。そりゃ、そうだろ。同等のつらさを経験していたら、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて信じていられなくなる。「楽しい楽しいと、どれだけ言っても、くるしくたまらない」ということがわかるようになる。自分のこころにさからって「楽しい楽しい」と言うことがどれだけ、有害なことか、わかるようになる。無害ではなくて有害なんだよ。自分の本心にさからって、正反対のことを言ったって、だめだ。これがわからないのであれば、たいして、つらい思いなんかしていない。たいして、つらい思いをしてないということが、はっきりとわかる。「楽しい楽しいといえば楽しくなる」「元気だ元気だといえば元気になる」……こんなことを、言える時点で、ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがう「つらさ」しか経験していないということがわかる。あきらかにわかる。毎日毎日、思い知らされるのである。どれだけ言ったって、楽しくならないということが、わかる。どれだけ言ったって元気にならないということが、わかる。わかってないのだから、同等のつらさなんて、経験してない。それがはっきりとわかる。

もう、何度も言っているけど、ヘビメタ騒音のことを話した後に、ヘビメタ騒音なんて関係がないとヘビメタ騒音の影響を無視するやつの態度は、きちがい兄貴の態度と似ているのである。きちがい兄貴が、ガン無視して、やりきったのである。きちがい兄貴が、俺における、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の影響を、無視したのである。ガン無視したのである。どれだけ、俺がこまるといっても、『影響なんてない』と考えていたのである。あるいは、きちがい兄貴はきちがいだから、『影響なんてない』と考えるところまでいかなかった。そういうレベルで無視をしていた。これ、やっていいことをやっている態度なのである。自分だって、苦手な音とは言わないまでも、普通の音を、あのでかさで鳴らされたら、おこるんだよ。きちがい兄貴だって、おこるの……。けど、それがわかってないんだよな。きちがい親父の鼻とおなじなんだよ。きちがい兄貴の耳は、きちがい親父の鼻とおなじ。

 自分の都合で、ものすごい臭いにおいを出しているときは、絶対に、におっているということを、認めないのだ。それは、におっているのがわかるけど、嘘を言っているのとはちがう。これがおかしいところなんだよ。ほんとうに、におってないと思っている状態なのである。頭がおかしいからそうなる。こういう自分にとってだけ都合がいい、頭のおかしさを発揮されると、こういう人間と一緒に暮らしたことがない人から、正常な人が、いろいろと誤解をうけるのである。正常な人というのは、こういう異常な家族と暮らしている、正常な家族だ。やっているほうが、「やったってやってない」という態度なのだ。本人は、ほんとうにやってないつもりなのである。そして、現実とは正反対のことを言って、その場を押し切るのである。あるいは、だまって、きちがい行為を続けて、その場を押し切るのである。そうすると、よその人はこういうことがまったくわかってないので、やられたほうの家族が、普通のことで、文句を言っていると思ってしまうのである。これ、じつは、異常なことなんだよ。

 だいたい、自分が異常なにおいを出しているときは、絶対の意地で、異常なにおいがするということを、(嗅覚が正常なのに)認めないのである。そして、他人が、ほんのちょっとでも、においが出ることをすると「くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!」と怒鳴り込んでくるのである。他人は、ちょっと、事情があって、においがすることをしているのである。それは、ちょっとはにおうということがわかっているのである。ちょっとでも、匂いがすれば「くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!」と怒鳴り込んでくるやつが、自分が出しているにおいに関しては、絶対に、どれだけくさくても、くさいということを認めないのだ。こういう態度は、相手にとって頭にくる態度なのである。他人のちょっとしたにおいは、わかるのに、きちがいだから、自分の異常なにおいはわからないのだ。こういう鼻……。便利な鼻……。しかも、他人のちょっとしたにおいというのは、ちょっとのあいだだけ、におうものなのだ。これ、事情があってやっていることなのである。ほんのちょっとの時間なのである。これ、具体的にはどういうことなのか、言いたくないから言わないのだけど、ともかく、事情があって、やっていることなんだよ。そして、時間的には短いんだよ。ところが、きちがい親父の場合は、時間が長いのである。それに、どれだけ注意をしても、毎日続いてしまう場合がある。ネズミを引き寄せた、酒糟がついた魚を一日に二十三時間出しておくことだって、毎日毎日、何か月も続いたのである。そりゃ、ネズミが突進するするようになるよなぁ。しかも、たとえば、酒糟がついた魚を一日に二十三時間出しておくことにこだわったわけだけど、これだって、他人から見て、ちゃんとした理由があることではないのである。頭がおかしい人が、突然そういうふうにし始めただけなのである。話をしても、ごく基本的なことを否定するのでそれ以上話がすすまないのである。たとえば、「におっている」のに「におっていない」と基本的なことを否定するから、話が、前に進まないのである。たとえば、そういうふうにしたい理由はなんなんだということに、話が進まない。しかたがない事情があるなら、相手だって納得をする。ところが、しかたがない事情なんてなくて、ともかく、きちがいが思いついただけなのである。そういうふうにしなければならない外的な理由が、まったくないのである。俺やおかあさんが、一時的ににおいがすることをしたのは、事情があるのである。外的な理由があるのである。そして、外的な理由について、まともに説明ができるのである。これこれ、こうだから、一時的に窓をあけることができないとか、これこれこうだから、一時的にセメダインのにおいがするという理由がある。テーブルの上に、なにもかけないで、魚がのっかっている皿をずっと出しておくということに、こだわる理由がないのだ。きちがい親父だって、ただ、自分がなんとなく、そうしたくなったという理由しかもってない。けど、理由について考えるまで、話がすすまないのである。「におわないよ!!!におわないよ!!!におわないよ!!!におわないよ!!!」と発狂しておしまいなのである。真っ赤な顔をして、絶叫しておしまいなのである。こういう態度が、どれだけこまるか、きちがい親父はわかってないのである。相手がどれだけ好意う態度でこまるか、きちがい親父はまったく気がついていないのである。そして、いつも、へんなところでスイッチが入って、きちがい的な意地をはるのである。これ、こういう人間といっしょに住んでいる人じゃないとわからない。しかも、「親」という自分より立場が上である人間が、こういうこわれた人間なのだ。これの意味がわかってない。普通の人は、こういうこわれた家族と一緒に住んでいるわけではないから、こういうこわれた家族が(きちがい的な意地で)やることで、こまったことがない。そして、常識で考えようとするから、「そんなのはおかしい」と思うのだ。そして、「あなたの父親だって、悪気があってそうしたわけではない」とか「なんか(あなたが)誤解をしているだけなのではないか(ほんとうは、あなたが気がついていない理由があるのではないか)」ということを言うのである。とくに、親父がだいの大人で、家族側の人間が子どもだと、世間の人はそういうふうに判断するのである。これだって、まったくわかってないやつが、まったくわかってないから、そういうことを言っているのだ。けど、そういう人たちだって、そりゃ、親子のトラブルはある。だから、「自分だって、親とけんかしたことことぐらいある」とか「自分だって、親とトラブルがあった」ということを言うわけ。けど、それ、ほんとうに、うちの父親タイプの狂った人間とのトラブルなのかということを、訊きたいわけ。問いただしたいわけ。たとえば、うちの父親タイプの狂った父親と、家族として、すごしたことがある人がいるとする。その人は、わかっているから「そんなのはおかしい」とは言わない。「あなたの父親だって、悪気があってそうしたわけではない」と言うかというと、言わない。だって、悪気がなくても、悪気がある以上のわるいインパクトを与えるということがわかっているからだ。そういう態度……うちのきちがい的な父親のような態度だと、悪気がないにしろ、それは、病的なしくみで悪気を無視しているだけだから、悪きがあるとき以上にこまるのだということが、わかるからだ。そんなの、説明しなくたって、自分が小さい時から、数千回、数万回とやられればわかるだろ。うちの父親のように、認知にずれがあるタイプの家族にやられたことがある人なら、わかることなんだよ。わかる人が「あなたの父親だって、悪気があってそうしたわけではない」なんて、言うわけがない。うちの父親とおなじような家族にやられたことがある人は、「なんか(あなたが)誤解をしているだけなのではないか(ほんとうは、あなたが気がついていない理由があるのではないか)」なんて、口が裂けても言わない。これ、言われたら、どれだけ不愉快な気持になか、知っているから、言わない。知らないのだから、うちのきちがい的な父親タイプの家族にやられたことがない人なんだ。うちのきちがい的な父親タイプの家族にやられたことがない人が「なんか(あなたが)誤解をしているだけなのではないか(ほんとうは、あなたが気がついていない理由があるのではないか)」と言うんだよ。しかも、この人たちは、みんなみんな、ふたこと目には「自分だって、親とトラブルがあった」と言うわけ。

おなじなんだよなぁ。けっきょく、うちのきちがい的な兄や、うちのきちがい的な父と一緒に暮らしたことがない人が、こういうしくみや、こういうときの、うちのきちがい的な兄や、うちのきちがい的な父の態度がわからないから、誤解をして、へんなことを言っているだけなんだよ。そうだ。へんなことだ。現象を救わない、勘違いだ。想定されている出来事がちがうのである。けど、想定されている出来事がちがうとは、思ってないのである。これも、ほんとうに、普通の人が、きちがい的な家族のことがわからずに、勘違いして、勘違いした発言をしているのだけど、自分が勘違いした発言をしているというつもりがないのである。認知認識がないのである。そりゃ、そうだろ。おなじような経験をしたという意味で「自分だって、親とトラブルがあった」と言うわけだから……。けど、その人たちは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないので、きちがい家族の態度や、きちがい家族の行動がまったくわかってないのである。きちがい家族の態度や、きちがい家族の行動を、常識をもってして理解しようとするから、ズレがしょうじるのである。何度も言うけど、ズレが生じたことには、気がついていないんだよ。だって、その人たちは、うちのきちがい親父や、うちのきちがい兄貴が、きちがいだとは思ってないからだ。普通の人のトラブルを想定して、物事を言っている。だから、ズレてしまう。普通人とのトラブルじゃないんだよ。ぜんぜん、わかってない。

自分が猛烈にくさいにおいを出すときは、くさいということを、一切合切認めないのに、ひとが、ちょっと一時的に、たいしてくさくないことをすると、「くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!」と発狂して怒鳴り込んでくるやつなんて、いやなやつだろ。嗅覚は正常なのに、自分が猛烈に臭いにおいを出すときは「くさくないよ!!くさくないよ!!くさくないよ!!くさくないよ!!」とまかっな顔をして、基本的なことを否定するのに、相手……他人がちょっとだけ、においがする行為をしたときは、「くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!」と発狂してせめるやつなのだ。嗅覚が正常なのに、性格がおかしいから、そういうことになってしまう。これ、そのときだけなんだよ。けど、そのときだけなら、それで済むかというと、済まない。だって、そうだろ。けっきょく、ネズミがきてしまったのだから。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度も、これとまったく、おなじなのである。もう、こころがかきむしられる。きちがい的な家族と一緒に住んだことがない他人が、普通に誤解をして、普通に誤解をしたことを言ってくるということになる。これ、きちがい兄貴は、「でかい音じゃないよ!!でかい音じゃないよ!!でかい音じゃないよ!!でかい音じゃないよ!!」絶叫したわけじゃないけど、頭の中で起こっていることはおなじなのだ。叫ぶか叫ばないかの違いはあるけど、頭の中でおこっていることは、まったく同じなのである。実際、きちがい兄貴は、聴覚が正常なのに、でかい音で鳴らしているということを、頑として、認めなかった。きちがい親父の態度で、きちがい兄貴が「でかい音で鳴らしている」という基本的なことを、認めなかった。これが、でかいのである。きちがい兄貴が、こういうところでズレているから、ぼくがこまることになるのである。ヨソの人は、常識的な思考をするから、ぼくにズレたことを言ってくるようになるのである。ヨソの人が、きちがい兄貴のズレをちゃんと理解してくれるなんてことはないのだ。いままで一度もないよ。だいたい、ここに書いてあることを、口頭で説明しようとすると、相当に長い時間が必要なのである。ほかの人と、きちがいヘビメタ騒音について話す時間は短いので、ぼくが説明する機会がほとんどないのである。かりに、ぼくが説明しても、ほかの人には、あんまりわからないことだろうなとは思う。ほかの人は、ズレがわからないから、おなじような苦労だと想定して「俺だって苦労した」と言うのである。けど、騒音を出している人が、自分の家族で、その自分の家族が、うちのきちがい兄貴のような心的な構造をもっている人である場合は、ほとんどないのである。だから、ちがう苦労について、誤解をして、いろいろと言っているということになる。

*     *     *

ぼくと同等の騒音を経験した人が「鳴り終わったら関係がない」なんて言うわけがないのである。「鳴り終わったら関係がない」と言う人が「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、それがなんなんだよ? ちがうじゃないか。

わかっていないから、「鳴り終わったら関係がない」なんて言っているんだよ。

 

2025年4月1日火曜日

ヘビメタが鳴っていたことは、鳴り終わったあとのすべてに、影響がある

 ヘビメタが鳴っていたことは、鳴り終わったあとのすべてに、影響がある。影響がないと思っているやつらが、ほざく、苦労なんて、たいした苦労じゃない。全部に影響をあたえている。それがわからないのであれば、たいした苦労じゃない。アホなことを言うな。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。