「お楽しみ回路」をうしなっているか、うしなっていないかということが、「苦労」の度合いを物語っていると思う。
たとえば、「お楽しみ回路」が喪失した場合、苦労が「大」だとする。そして、「お楽しみ回路」が消失していない場合は、苦労が「小」だとする。
お楽しみ回路が消失してない人は、「小」の苦労しか経験してないわけだ。しかし、本人は、自分の苦労は「大」だと思っている。
だから、「お楽しみ回路」という指標で見た場合、本人の認知している苦労の度合いと、実際の苦労の度合いがちがうということになる。
AさんとBさんがいたとする。Aさんは、お楽しみ回路を喪失していないけど、自分では苦労が大だと思っている人だ。Bさんは、お楽しみ回路を喪失していて、自分では苦労が「大」だと思っている人だ。この場合、Aさんが、Bさんに「俺だって苦労した」と言うときは、自分(A)の苦労とBさんの苦労は同レベルの苦労だと思っているのだ。
お楽しみ回路の喪失をひとつの「指標」として見た場合、Aさんの「見積り」には、問題があるということだ。
「差」がある。「ギャップ」がある。「認知のズレ」がある。
ようするに、Aさんの認知では、Bさんとおなじように苦労「大」を経験したということになっている。しかし、「お楽しみ回路」を喪失していない。
どうしてかというと、Aさんの認知とはちがって、苦労自体が「小」だったからだ。
これは、仮定の話だ。しかし、現実をうまく説明していると思う。