2025年1月30日木曜日

年数が増えれば増えるほど、ほかの人には、絶対にわからない、いろいろな影響が出る

 きちがい兄貴がやったことは、ほんとうにひどいことで、どれだけがんばっても頑張っても、生活がめちゃくちゃになる。人生がめちゃくちゃになる。ほかの人には、うちの兄貴のような気ちがいはいない。だから、基本的には、わからない。やられたことがないという意味で、わからないし、想像しようにも、きちがい兄貴がいないのだから、想像できない部分がある。まあ、ともかく、けた外れに非常識なやつだから……きちがい兄貴は、けた外れに非常識なやつだから、……ほんとうにほかの人が、ごく自然に、誤解をするのである。きちがいヘビメタの効果に関しても、やられたことがない人は……つまり、ぼくとおなじように、自分がこの世で一番嫌いな音を、至近距離で、一日に何時間も何時間も……やられたことがない人は、それが、持つ意味がわからない。「鳴り終わったら眠れるだろ」と言ってしまうあたり、無理解ぶりがよくわかる。一日に何時間も何時間もと書いたけど、きちがい兄貴が休みの日は、一日に十数時間になってしまうのだ。ほんとうなら、平日の(きちがいヘビメタによる)勉強の遅れを取り戻したい、休日に、逆に、きちがいヘビメタ騒音・持続時間が増えてしまうというのは、いただけない。これも、けっこう、生活の中で、影響を与えることなんだよ。一年、二年と、年数が増えれば増えるほど、ほかの人には、絶対にわからない、いろいろなところに、いろいろな影響が出る。ところが、「騒音なんて、自分だってあった」と言っている人は、理解してないんだよ。おなじようなレベルの騒音で、おなじような量を浴びているわけではないということがわかってない。ぼくと、おなじ騒音を浴びた人が、言わないことを言っているのだから、理解してないのがわかる。こういう、くそばかが、どれだけぼくムカつかせるかと言うことも、こういう、くそばかは理解しない。ほんとうにまったく、くそばかだと思うよ。きちがい兄貴にやられて、くそばかにばかにされる人生だった。ほんとうに、全部が全部、そういうことになってしまう。きちがい兄貴のやり方と言うのは、そういうやり方なんだよ。みんなが誤解するやり方なんだよ。まあ、他の部分ではばかではない人も、普通に、誤解をする。普通の人が、みんなみんな、普通に誤解する騒音が、きちがい家族による、きちがい騒音だ。やり方がちがうからね。そして、ほんとうに、やったと思ってないのだ。あれだけこだわって、こっちがどれだけ、言っても、頑固に鳴らしたのに、本人は、「鳴らしたつもりがない」のだ。これが、きちがいでなくてなんだ?

たとえば、「騒音なんて、自分だってあった」と言っている人は、俺のことを、せめる立場でその言葉を発しているのである。同質、同量の騒音を浴びた人は……同質、同量、同期間のきちがい生活騒音を浴びた人は、そんなことを言える立場にはいないのである。そんなことを言えるわけがないのである。 同質、同量、同期間のきちがい生活騒音を浴びた人は、ぼくとおなじ立場になっている。そんなことが、言えるわけがないだろ。俺と同じ立場になってない人なら、俺と同質、同量、同期間のきちがい生活騒音を浴びたことがない人なんだよ。

「そんなのは関係、ない」「そんなのは、影響、ない」「鳴り終わったら影響はない」「過去は関係がない」「こだわっているからダメなんだ」と言っているやつらは、同様の理由で、まちがっている。 こいつらは、きちがいではないけど、ばかなんだよ。おおばかだ。こいつらも、自分が言っていることが正しくないということが、わからないやつらだ。説明したってわからないのである。たぶん、経験がないからわからないのだろう。そして、常識的黄な人たちなのだろう。常識的な人たちだから、常識的な騒音しか、経験したことがないのである。常識的な人たちだから、常識的な家族に囲まれて生活してきたのである。非常識な家族がやることについて、まったく、まったく無知なのである。実際にやられたことがないから、まったくまったくわからないのである。実際に、一緒に、ずっとずっと、成人するまで、すごしたことがないから、まったく、まったくわかってないのである。わかってないから言えることだということも、わかってないのである。こいつらは、すでにヘビメタ騒音にやられたぼくよりも、優位な立場に立っていることが多い。「立場に立つ」は二重表現なので、避けてきたけど、一般的に使われるので、使うことにする。まあ、優位な側に立っているのである。どうして、すでにやられたぼくより優位な側に立っているかと言うと、きちがい家族に、十数年間にわたってやられるということがなかったから、普通に生活ができて、普通の睡眠力と、普通の体力を維持できたのだ。普通の睡眠力と、普通の体力を維持できる状態で生活していたので、その時点で、ぼくよりも、優位な側に立っていたのだ。優位な側に立てば、まちがったことを言っても、ゆるされると思うな!

「立場に立つ」は「電流を流す」のように、二重表現ではないという意見もある。「立場に立つ」のほうが「側に立つ」や「立場になる」よりも、使いやすいときがある。

2025年1月28日火曜日

「笑顔じゃないやつが悪いんだ」「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」

 笑顔が生活水準をあげるかどうかということについて書いたけど、もうちょっと付け足しておく。

笑顔が生活水準をあげる原因ではなくて、生まれ育った家での、親の愛情や親の収入と貯蓄が、卒業をしたあとの、生活水準をあげる(ほんとうの)原因だったとする。

親の愛情と書いたけど、愛情がある行為を含んでいる。だって、愛情がある行為がなければ、愛情があるかどうかわからないでしょ。なので、愛情というと、親側の感情のことを意味しているわけだけど、実際に、愛情があらわれる行為があったとする。

その場合、心情的な愛情遺産というものがあり、物事に積極的になれるとする。そして、愛情資産の結果、笑っていたと考えることもできる。

手短に言うと、愛情のある親との生活の中で、正のストロークをうけてきたので、笑顔でいられる状態だったというわけだ。

だから、このあいだも書いたけど、笑顔自体は、単なるサインである可能性がある。

ぼくが言いたいことは、無理やりに笑顔を作れば、生活水準があがるという考え方は、まちがっているのではないかということだ。

笑顔が原因なら、笑顔を作るだけで、生活水準があがるということになる。

けど、親の愛情行為や親の収入と貯蓄が原因なら、笑顔を作ることで、生活水準はあがらないということになる。

そして、笑顔でさえいれば、生活水準があがるという常識?が正しいこととして、流通するという問題がある。

「笑顔じゃないやつが悪いんだ」ということになるからだ。あるいは、「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」ということになるからだ。

しかし、それは、笑顔を作れば生活水準があがるという考え方自体がまちがっているので、「笑顔じゃないやつが悪いんだ」という考え方も「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」という考え方も、まちがった考え方だということになる。

もうすでに書いたけど、ほんとうの笑顔も、作った笑顔も同じ効果があると考えてしまうことにも、問題がある。

ほんとうに楽しいと感じる理由がある状態で笑ったのと、ほんとうは、つらくてつらくてたまらないのに、笑顔を作る必要があると思って、笑顔を作ったのとでは、ぜんぜん、全体感情がちがうのだ。

おなじであるはずがない。

「なんでこういうことに無頓着なんだ」とぼくは、言いたい。

うんと手短に言えば、マイナスの環境で育った人間は、かりに、無理やり笑ったとしても、まったく生活水準があがらないのである。

どうしてかというと、生活水準があがった原因は、笑顔ではなくて、他のものであるからだ。無理やり笑っても、生活水準があがらないとしたら、「笑顔じゃないやつが悪いんだ」「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」という発言は、単なる攻撃でしかない。

「そうならないのであれば、潜在意識では思ってない」

 一度「ぶちあげておいて」……そうではない人は、こうなんだということにしているんだよ。たとえば、「思いは現実化する」とぶちあげておく。「思ったのに、現実化しない人は、思い方がたりないんだ」ということにしてしまう。あるいは、「ほんとうに思ってない」ということにしてしまう。あるいは、「潜在意識では、なろうとしてない」ということにしてしまう。ほんとうに思っていたら、そうなっている。思いは現実化している。思った通りになっている……。「そうならないのであれば、じゅうぶんなほど強くは、思ってない」ということになる。「そうならないのであれば、ほんとうには思ってない」ということになる。「そうならないのであれば、潜在意識では思ってない」ということになる。

けど、最初にぶちあげたことが、まちがっているんだよ。法則性はないし、一〇〇%成り立つということでもないんだよ。けど、一〇〇%詐欺をして、「Xをすれば、Yになる」と言うわけ。 「Xをすれば、Yになる」という文のなかには、「かならず」とか「一〇〇%」とかという文字は含まれていない。しかし、「Xをすれば、Yになる」という文の意味は、「Xをすれば、かならず、Yになる」という文の意味と等価なんだよ。あるいは「Xをすれば、Yになる」という文の意味は、「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」という文の意味と等価なんだよ。

2025年1月26日日曜日

あきらめることで、本当に望んでいることが手に入るのではないか……

 気にしないようにして諦めたら、よくなった……と言う話があるとする。たとえば、ガンになったけど、将来のことを気にしないであきらめたら、ガンが治ったという話などだ。「気にしないようにして、あきらめたら、よくなった」という抽象化された話がある。とりあえず、法則性がありそうな話だ。その例として、「たとえば、ガンになった人がいて、ガンになった人が、もうガンでもいいやとあきめたら、逆に治ってしまった」という例をあげる。こういう話になる。ライフハック(あきらめればいい)という話があって、その話の例として、「ガンの例」が語られるということだ。けど、法則性はないのである。たとえば、別の人は、おなじように、「気にしないようにして、あきらめたら、そのまま悪化して、死んでしまった」ということだってあるのだ。ようするに、あきらめれば、かならず、よくなるわけではないのである。あきらめるということが、かならず、よい結果をもたらすわけではないのだけど、一度、法則性があるような抽象的な話をして、そのあと、具体例をあげるので、どんな場合にでも、成り立つような「感じ」がしてしまうのだ。けど、法則性なんてないから、ちがう結果になることだってある。あきらめる……ということをすれば、(本当は望んでいた結果)が手に入るわけではないのである。ところが、あきらめることで、ほんとうに望んでいた結果が手に入るようなことを……言う。あきらめる……という言葉も、抽象度が高い言葉なのである。あきらめて、(本当はほしい結果を)手に入れようとしている状態は、千差万別だ。ようするに、人によって、ちがうのである。具体的な場面で、具体的な条件が成り立っているのである。そのこと……「あきらめることで、本当に望んでいることが手に入るのではないか……。なら、あきらめてみようかな」と思う場面がちがうのである。その人がそれまでやってきたことや、その人がそれまで経験したことや、病気の状態だってちがうのである。けど、ちがうのだけど、あきらめることでどうにかなるような雰囲気をあたえるのである。これは、雰囲気だ。抽象化と疑似法則化(ニセ法則化)によって、あたかも、その手法が役に立つような「イメージ」をあたえるのである。けど、実際に、個人がそれを行う場面というは、個人ごとにちがう。ぜんぜんちがう。おなじ人だって、そのときの状態がちがえば、ちがうのである。なので、ほんとうは、法則化できないことについて、法則化して、言っているにすぎないのである。場面場面で、状態がちがう。場面場面で、条件がちがう。なので、抽象的な意味で「あきらめる」ということを選択しても、それぞれ、ちがったものを手に入れることになるのである。何度も言うけど、法則性なんてない。

「あきらめる」といこうとについて語ってきたけど、「てばなす」という言葉も、よく使われる言葉だ。「てばなす」というのも、おなじようなニセ法則を説明するときによく使われる言葉だということは、おぼえておいたほうがいい。 

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付け足して言っておくと、うまくいかなかった場合は、「ほんとうにあきらめたわけじゃないから、だめなんだ」ということになるのである。これは、こころのブロックとおなじで、「あきらめたつもりになったのだけど、本当は、あきらめてないから、だめなんだ」というこになる。あきらめたつもりになったのだけど、あきらめてない部分が残っていたから、だめだったんだ」ということになる。これも、言ったもの勝ちなんだよね。ほんとうに、ひどい世の中だな。いい結果が出れば、ほんとうにあきらめたということになり、悪い結果が出れば「本当にはあきらめきったわけじゃなかったんだ」ということになるのである。顕在意識とか潜在意識という言葉を使うなら、「顕在意識では、あきらめたつもりになったけど、潜在意識ではあきらめてなかったから、だめだったんだ。潜在意識のレベルでもあきらめないとだめだ。潜在意識のレベルであきらめないと、ほんとうにはあ決めたとは言えない」……というようなことを言えば、ニセ法則であることがばれないですむのだ。こいつら、ほんとうに「悪」だなぁ。「ああ言えば、こう言う」タイプの詐欺師がよく使う手だよ。あとだしで、「それじゃだめだ」と言い出す。

「苦労」

 たとえばの話だけど、「苦労」という言葉を使うと一度、具体的な苦労が抽象化されるので、みんな、苦労という言葉の範疇に収まる苦労になってしまうのだ。けど、言葉にしたとたんに、現実の苦労の差がなくなるのかと言うとそうではないのだ。だから、差がある。そして、だれがどんな苦労を感じているかという問題がある。もちろん、だれも他人にはなりえないのだから、自分が感じた苦労についてひとまず、言語化しているということになる。なので、だれも、他人の苦労を経験したことがないという絶対的な事実がこの問題に、複雑な影を、投げかけているのである。

「つまらなさ」においても「楽しさ」においても、同様のことが成り立つ。

2025年1月25日土曜日

笑顔には生活レベルを上げる効果があると言えるのかどうかだ

  ちょっとだけ書いておく。

たとえば、学生時代の写真で、笑顔の写真がある人と、学生時代の写真で、暗い顔の写真がある人の卒業後の生活レベルを比較したら、笑顔の多い写真がある人のほうが、生活レベルが高かったとする。

笑顔には生活レベルを上げる効果があると言えるのかどうかだ。

基本的には、そうは、言えない。顔の表情には、笑顔、暗い顔の二通りがあり、生活レベルには、高いと低いの二通りがあるとする。

だから、笑顔が生活レベルを高くしたと言えそうな感じがするけど、そうじゃない。たとえば、親の性格という項目と、親の収入という項目をつくったとする。

じつは、親の性格がよく、親の収入が高い人は、笑顔が多かったという関係があるなら、じつは、卒業後の生活レベルを決めるのは、笑顔ではなくて、親の性格がよくて、親の収入が高いという項目(因子)の影響をうけたのではないかと考えることができるのだ。

きちがい的な親のもとに、生まれたとしよう。

そして、きちがい的な親が低収入で貯金がゼロだったとする。この場合、写真というのが問題なのだけど、きちがい的な親が攻撃を仕掛けてくる期間は、暗い顔になっただろう。その日は、暗い気持ちになったかもしれない。

そして、おカネがないので、いろいろなものを買ってもらえず、友達づきあいで、不愉快な思いをする回数が多いとする。

この場合、やはり、笑顔ではなくて、暗い顔になると思う。

そりゃ、不満をかかえるわけだから、そうなる。

いっぽう、親が愛情にあふれた人でで、子どもがよろこぶ姿を見たいと思っていた場合は、子どもは、笑顔になる回数が多くなるだろう。

親が与えたものが、成人後の生活レベルに反映しているのではないかということが考えられる。

笑顔は、サインであって、もともとの原因ではないのではないかと考えることができるのである。もともとの原因は、親の性格と親の収入なのではないかと考えることができるのである。

さらに、卒業写真の場合は、指導がはいる場合がある。集合写真のときも、笑っていると、注意されるかもしれない。

だから、実際の生活を反映したものではないかもしれない。

しかし、それでも、笑顔のほうが、暗い顔よりも、相手にいい印象を与えやすいということは、言えるかもしれない。その場合は、親の性格と親の収入が、笑顔を作り出し、笑顔が(一応はランダムに)影響をあたえたということになる。ようするに、相乗効果はあるかもしれない。

しかし、言っておきたいのは、作り笑いの笑顔とほんとうに笑っているときの笑顔は、ちがうということだ。

作り笑いの笑顔も、ほんとうに笑っているときの笑顔がおなじ効果をもっているという前提は、前提として、不適切だ。

作り笑いの笑顔とほんとうに笑っているときの笑顔を見分ける能力がある人が、表面的にはどうであれ、作り笑いの笑顔とほんとうに笑っているときの笑顔におなじ反応をするとは、かぎらない。

いっぽう、詐欺師の作り笑いにだまされてしまう人もいる。これは、たぶん、作り笑いの笑顔とほんとうに笑っているときの笑顔を見分けることができないのだろう。つまり、人によって、作り笑いの笑顔とほんとうに笑っているときの笑顔を見分ける能力に差があるのではないかと思う。

もう一つ言っておくと「運」という言葉を使うと、科学的ではなくなるということだ。

「作り笑顔でも、笑顔が運を上げるので、生活レベルがあがる」ということは、科学的には言えない。この場合の運というのは、結果の言い換えすぎないから、原因にはなりえない。

『運』という言葉を使うと、結果を含んだ、なんだかわからない用語を使って、現象を説明することになるので、科学的な説明にはなりえないのである。 


 

普通の親を想像して、まちがった、アドバイスをするのである。

  きちがい的な親というものについて、よくわかってないやつから、「こうすればいい」「こういうふうに言えばいい」言われる立場になるのである。

きちがい的な親のもとに生まれた子ども側の人間は、きちがい的な親のもとに生まれなかった普通の人から、いろいろと言われる立場になるのである。

自動的にそうなる。

どうしてかというと、きちがい的な親が、きちがい的な行為をして、子ども側の人間に迷惑をかけるからだ。

きちがい的な家族と一緒に住んだことがない人は、きちがい的な親についてまったく無知だと言っていい。

わかってないだけなのである。

そして、普通の親を想像して、まちがった、アドバイスをするのである。

きちがい的な親にたたられると、自動的に、ほかのやつらから、無理なことを言われるようになるのである。無意味なアドバイスをされるようになる。

きちがい的な兄でもおなじだ。ほかの人は、きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがないので、きちがいがどういう感覚でどういうことをやるのかということがわかってないのである。

きちがい的ではない兄と一緒に住んでいる人は、「やめてくれ」とちゃんと言っても、きちがい的な兄がやめてくれないということが、わかってないのである。

きちがい的ではない兄と一緒に住んでいる人は、きちがい的ではない兄の反応をもとに、「兄の反応」というものを、脳みそ内にイメージとしてつくるのである。だから、そこでつくられる「兄の反応」というのは、きちがい的な兄の反応ではないのである。

そうなると、「言い方が悪いんだ」ということになってしまう。「ちゃんと言わないからダメなんだ」ということになってしまう。

ともかく、一秒間でもやめさせようとしたら、殺し合いになるしかないのだ

  ほんとうに、特別に騒音に強い個体も含めて、みんな、やられたら、俺とおなじような状態になると思う。けど、ほかの人にはきちがい家族がいないので、俺とおなじことをやられる……実際にやられるということがない。俺とおなじような生活を、一一歳のときから二五歳まで、あるいは、一一歳のときから一八歳まで、続けるということがない。実際にやられてないので、どういう状態になるのかわかってない。わかってないところで、「自分だったらやられても平気だ」という前提で、ものを言ってくる。しかも、俺がヘビメタ騒音のことを説明しても、俺が嘘をついていると思っているやつらは、「ヘビメタ騒音などはなくて、エイリの性格がゆがんでいるから、そう言っているだけだ」という解釈をするのだ。こういうやつらの態度は、じつは「自分だったらやられても平気だ」と思っているやつらよりも、悪質なものになる。ひどいものになる。そりゃ、「やられてなかったのに、あれができない。これができないと言っている」と思っているのだから、態度が悪くなる。悪態をつく。勝手に見下して、悪態をつく。けど、悪態をついたって、悪いとは思わないんだよ。世間のやつと言うのは、ほんとうに、「自分だったらやられても平気だ」とヘビメタ騒音の影響を無視するやつと、「ヘビメタ騒音などはなくて、エイリの性格がゆがんでいるから、そう言っているだけだ」とヘビメタ騒音がそもそも(そんなにでかい音で)鳴ってなかったという解釈をするやつばかりだ。毎日、きちがい家族にやられると、よそのやつから、そういうふうに思われるようになる。兄貴の脳みそが、かわっているのに、俺の脳みそがかわっているから、兄貴が(そんなにでかい音で)鳴らしてないのに、勝手に、でかい音で鳴らしていると言っているだけなんだという解釈をするやつは、兄貴の脳みそじゃなくて、俺の脳みそに問題があると考えているのだ。こいつら、ほんとうに、頭がわるいなぁ。ヘビメタ騒音の影響を無視する夜郎自大なやつと、ヘビメタ騒音なんて本当は鳴ってなかったんだと思うような悪質なやつばかりだよ。世間には、そういうやつが多い。そして、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音で勉強することができないのに、勝手にさぼったと思っているわだろ。ほんとうに、頭がわるくて、性格が悪いやつらだな。

きちがい兄貴の態度は、おかしいんだよ。あんな音で、鳴らそうと思わないんだよ。普通の人はあんな音で鳴らそうと思わないし、聴覚が正常なら、鳴らしている音がでかい音だということは、どんなに否定した気持ちがあったとしても、認めざるをえないんだよ。けど、その、認めざるをえない状態を、きちがい的な跳躍で乗り越えて、まったく、認めないのだ。こんなのは、そりゃ……普通の人は信じないだろう。実際に、こういうきちがい的な家族と一緒に住んでいないのだから、こういうきちがい的な家族が、自分の勉強を、とことん、じゃまするということを経験してないのだ。まったく融通が利かない状態で、(すべての時間)を鳴らしているのだ。もちろん、二四時間中二四時間鳴らしているわけではない。使える時間はすべて使って鳴らしているということだ。こっちが、どれだけ困っていたって、こまっているということを認めずに、一秒もゆずらずに頑固にやりきる。けど、そういうつもりがないのだ。これも、アクティングアウトというか……自分の気持ちが飛び出して、自分がやりたいことを、きちがい的な意地で……なにを言われてもゆずらずに、頑固に、やるのに、本人は、そういうことをして「いる」というつもりがないし、本人はそういうこと「した」というつもりもないという状態になっている。そういう状態が、つねに続くのだ。こんなの、きちがい家族と一緒に住んでいる人しかわからない。きちがい家族といっても、きちがい兄貴とおなじような人といっしょに住んでないとわからない。「そんな、へんなことはない」で、おしまいだ。あるいは、「そんな、へんな人はいない」でおしまいだ。付け足すなら「そんなへんな人がいるならほかの家族がほっておくわけがないだろ」ということになってしまう。こいつらの、頭のなかでは、そうなってしまう。……と・こ・ろ・が、ちがうんだよ。きちがい親父は、きちがい兄貴とおなじだし、きちがい親父もきちがい兄貴も、おかあさんの言うことは、聞かないのだ。しかも、「聞かなかった」という気持がない。ガチャめちゃな意地で、本人がやりたいことをアクティングアウトするけど、それに関しては、本人は、まったく無頓着なのだ。まったく、認識してないのだ。どうして、やったと認識しないですむのかと言うと、やったからだ。自分の気がすむ行為を実際にやりきったからだ。これ、自分がやろうとしたことを、やれなかったということになったら、そりゃ、もう、発狂してあばれるような状態になる。一秒間でも自分ががまんしければならなくなったと、なったら、もう、発狂して、発狂して、発狂がとまらない状態になる。だから、おかあさんは、いつもこまったこまったと言っていたんだよ。「みんな、言うことを聞かないからこまる」「みんながよくなるように、やってあげているのに……」と言っていた。そして、おかあさんは、外部に「うちの問題」がもれて、おおごとになるのがいやだという気持があった。だから、ばれそうになると、しらばっくれてしまうというような感じがあった。ともかく、一秒間でもやめさせようとしたら、殺し合いになるしかないのだ。包丁で刺して、やめさせるということができなけば、やめさせることができない。こいつらは……親父と兄貴は、やりきるから、やったつもりがないだけなんだよ。これだって、ほかの人にはまったくわからないことだろ。わかるわけがない。けど、ほかの人よりも、ずっとずっとずっと、わかってないのが、親父と兄貴なんだよ。ともかく、兄貴は、ぼくが説明したような音のでかさで、ずっと鳴らしていた。親父は、兄貴とおなじ脳みその構造をもっているし、おかあさんは、こまっているだけで、よその人に相談しようとしない。だいたい、よその人だって、うちにずっといるわけではないのだから、「うちの人だけになった状態」というのが、わかってないのだ。一秒でもやめさせようと思ったら、包丁で刺してやめさせるしかないのだ。こういうレベルのテンションなのだ。しかも、本人がわかってないのだ。これ、どうするんだよ?

きちがい兄貴の『頭の問題』なのに、ほかの人は、俺の『頭の問題』だと思うのだ。いやなんだよなーー。こういう、構図。「の」の重複は指摘しなくていい。

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頭が悪い人だと、いままでの説明を聞いて、言うことが……「『の』が重複している」ということなのだ。『もっと重要なことを言ってきたのに、おまえが、気がつくのは、そこだけか』と思う。こんな、幼稚なやつが、「『の』が重複している」と言ってくる。ヘビメタ騒音のことを説明したのに、そんなことを言ってくる。世の中には、こういうバカがざらにいる。『の』の重複には、書いたときに気がついている。きちがい兄貴における『頭の問題』と書くよりも、きちがい兄貴の『頭の問題』と書いたほうが、すっきりするので、ふたつまでなら、オッケーだということにして、きちがい兄貴の『頭の問題』と書いたのだ。
 

まあ、「きちがい兄貴の問題」と書いたあと、「問題というのは、頭の問題のことだ」と書くこともできる。しかし、きちがい兄貴の『頭の問題』という書き方が一番すっきりしている。

「『の』の重複」問題以降、削除する可能性がある。気分で削除する。 

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「ああいえば、こういう」タイプの人間がいる。たとえば、ぼくが兄貴の部屋に行って、「やめてくれ」とどなったということを言うと、「ああいえば、こういう」タイプの人間は、「どなったら、いかん。しずかに言わなければならない。しずかに言えば、聞いてくれる」と言うようなことを言うのだ。いや、なっているのだから、どならないと聞こえないし、きちがい兄貴が、一階の部屋にいるわずかな時間に、(こっちが兄貴に)しずかに言っても、(きちがい兄貴は)きちがい的な顔をして、無視をしたのだ。何回も何回もそういうことがある。けど、きちがい兄貴の性格なんて、そいつは知っているわけではない。けど、「どなった」とか「どなって言った」という言葉を聞くと「しずかに言えばいいのだ」ということを言いたくなるやつがいるのだ。「自分なら……しずかに言って、解決できる」「お兄さんをしずかにさせることができた(はずだ)」と思っているのだ。こういう、 「ああいえば、こういう」タイプの人間は、間髪をいれずに、突っ込んでくる。

そんなんじゃないのだ。

この世界の問題とは、まったく関係なく、個人の「特殊な問題」が存在する。これは、まあ、履歴みたいなものだよ。歴史……。個人史……。個人史的出来事……。けっきょく、ぼくのやる気回路は、相当に破壊されているんだよなぁ。「楽しさを感じる回路」も、相当に破壊されてている。というわけで、つまらないわけだけど、その、つまらなさが、病的な次元のつまらなさなのだ。

仮面うつ病の人のように、会社に行くときは、ものすごく憂鬱だけど、旅行に行くときは、ハッピーな気持になれるという感じではない。そんなんじゃないのだ。

2025年1月24日金曜日

ヘビメタ騒音にやられるということは、みんなが病気だと認めない病気にかかったようなもん

 ヘビメタ騒音にやられるということは、みんなが病気だと認めない病気にかかったようなもんなんだよ。毎日、毎日、ほんとうにつらかった。からだが、いうことをきかないのである。けど、家族によるきちがいヘビメタ騒音という、普通の人にはありえない病気なので、ほかの人は、ぼくが、病気にかかってないと思って、いろいろなことを言ってくるのである。けど、これ、病気にかかっている状態で、がんばり続けても、文句ばかり、言われる状態なんだよ。

「当たると思えば当たる」詐欺 「根拠のない自信」詐欺

たとえば、〇・〇〇一%の確率で一億円が当たる宝くじがあったとする。

Aさんが、「あたる」と思って宝くじを一枚買ったら、一億円が当たったとする。Aさんが「当たると思って買えば当たる」と自分の体験を……疑似的に法則化して、言ったとする。

その次の回で、全員が「あたる」と思って、その宝くじをひとりにつき一枚、買ったとする。

そうすると、当たると思って買ったのに、九九・九九九%の人ははずれるということになる。

Aさんは、「思いは現実化する」ということができる。「当たると思って買ったら当たった。これは事実だ」と言うことができる。

けど、それは、法則にはならないんだよ!!

法則性なんて、まったくないことなんだよ!!!

だから、本人は、法則性があることとして、法則性があるようなことを言うけど、それは、本人の、勘違いだ。法則性なんてない。だから、「疑似的に法則化して」と書いておいた。

これ、どうして、こういう、詐欺に引っかかってしまう人がいるのかと不思議に思う。

ひとりにつき一枚買うとするなら、〇・〇〇一%の確率で当たる人がいるということと、九九・九九九%の確率ではずれる人がいるということは決まっていることなんだよ。

ようするに、九九・九九九%の人は、「あたる」と思って買ったとしても、はずれることが最初から決まっている。

それを、Aさんが「当たると思って買えば、一〇〇%の確率で当たる」と誤解してしまうような言い方で言っただけだ。ようするに一〇〇%詐欺をしただけだ。

「当たると思えば当たる」ということに、なんの法則性も成り立っていない。

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「根拠のない自信をもつこと」をすすめる人も、おなじやり方をしているだけだ。

そして、セミナー商法や情報詐欺商法で、かせげば、『法螺(ほら)』を実現化できる。

その人は、その方法を売ることで、おカネを儲けることができる。もし、その方法を書いた情報商材が売れたら、おカネがはいってくる。その方法を説明するセミナーに人が集まれば、カネがはいってくる。

「根拠のない自信をもって行動したら、おカネが入ってきた。カネが入ってきて、カネ持ちになったのだから、これは真実だ」と言うことができる。

けど、これも、条件によってある程度決まっていることだ。

この方法でカネを儲けることができるのは、そういうことをしてカネ儲けをすることに抵抗がない人だけだ。抵抗がある人は、カネ儲けができない。

ようするに、「これって詐欺じゃないか」と思った人は、カネ儲けができないのである。

書いてあることよりも、そいつがやっていることを、やらないとダメなんだよ。けど、すくなくても、詐欺行為や、詐欺行為に類似した行為はしたくないと思う人は、そのやり方ができない。だから、そのやり方では成功しない。
 

「根拠のない自信をもって行動したら、おカネが入ってきた。カネがはいってきて、カネ持ちになったのだから、これは真実だ」……ということにも、『一〇〇%詐欺』が成り立っている。

一〇〇%詐欺をしている人が、一〇〇%詐欺をしているということに気がついている場合は、むしろマレなので、気をつけたほうがいい。人の話を聞くときは、気をつけたほうがいいよ。

これ、善意で一〇〇%詐欺をするやつまでいる。自分がだまされているので、一〇〇%詐欺をしているということに、まったく気がつかない。そういうやつが、ごろごろいる。それがこの世の中だ。 

2025年1月23日木曜日

きちがいヘビメタ騒音という条件がないやつが、そう、言う。

 きちがいヘビメタ騒音が鳴っている条件と、きちがいヘビメタ騒音が鳴ってない条件はちがうんだよ。

きちがいヘビメタ騒音が鳴ってない条件のやつが「できると言えばできる」「だいじょうぶだと言えばだいじょうぶだ」「眠れると言えば眠れる」と言う。実際、自分は、できると言ったらできた。だいじょうぶだと言ったらだいじょうぶだった。眠れると言ったら眠れた……。

きちがいヘビメタ騒音という条件がないやつが、そう、言う。

きちがい兄貴は、きちがいなんだよ。きちがい家族という条件がないやつが、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいできる」と言う。「ヘビメタ騒音が鳴っていたって、遅刻をしないで通うことはできる」と言う。「お兄さんにちゃんと言えば静かにしてくれる」と言う。「自分だって騒音ぐらいあった」と言う。

けど、こいつらには、きちがい家族による、きちがい的な騒音という条件が成り立ってない。これではまるで、落とし穴がない条件で、「落ちないと思って歩けば、落ちない」と言っているようなものじゃないか。条件がちがうんだよ。落とし穴がないから、落とし穴に落ちない条件で歩いた。だから、落とし穴に落ちなかった。それだけのことだ。どうして、落とし穴がある条件の人に、「落ちないと思って歩けば、落ちない」など言うのか。「自分は、落ちないと思って歩いたら、落ちなかった。だから、落ちないと思えば落ちない」……。前半の……自分は、落ちないと思って歩いたら、落ちなかった……という部分は報告として正しい。うそを言ってないなら、事実なのだろう。けど、後半の……だから、落ちないと思えば落ちない……という部分はまちがっている。まちがった推論をしている。落ちないと思ったから落ちなかったのではなくて、最初から落とし穴がなかったから落ちなかっただけだ。ぜんぜん、ちがう。条件がちがえば、結果がちがうんだよ。

2025年1月22日水曜日

三メール先に落とし穴がない条件で、「落ちない」と思って歩いた。そうしたら、落ちなかった

たとえばの話なんだけど……たとえば、三メートル先に落とし穴が見えたらどうする?

落とし穴があるということを認識したということだ。

落とし穴があることを認識したら、避けるだろ。

どうして、落とし穴を避けるのか?

落とし穴の上を歩こうとしたら、落とし穴に落ちるということが、想像できるからだろ。落とし穴の上を歩こうとしたら、落とし穴に落ちるという考え方は、ネガティブな考え方なんだよ。落とし穴に落ちると、こまると心配するのは、当然のことだ。落とし穴に落ちるとこまるので、落とし穴を回避しようとするわけだ。

ちがうか? 

落とし穴が見えているけど、落とし穴がないと思って、前に進むとどうなるか?

落とし穴に落ちてしまう。からだが物理法則にしたがって、落とし穴に落ちてしまう。

自分が落とし穴を気にしていなければ、落ちなのか?

いや、自分が落とし穴を、気にしていなくても、落ちる。

精神世界の人は、すべては自分の受け止め方の問題だと言い出して、あたかも、落とし穴を無視すれば……つまり、落とし穴を落とし穴だと認識しないようすれば……落とし穴に落ちないということを主張する。

さらに、受け止め方の問題ならば、落ちたところで、落ちたということを(そのまま)受け止めればいいということになる。

しかし、落ちたことで、足の骨をおっていたら、足がいたくなる。

これも、人間の身体をもっていれば当然のことだ。もちろん、足がおれていても、痛さを感じない人はいる。なら、痛さを感じるか、感じないかの問題かというと、そうではない。

どうしてかというと、足がおれてしまったら、穴から出ることが容易ではなくなるからだ。現実世界で、足をおってしまったら、歩きにくくなるのだ。ジャンプもしにくくなる。

『影響をうけないぞ』と思ったって、影響がある。

『受け止め方の問題だから、こまる必要はない。ネガティブな受け止め方をかえればいいんだ』と思ったって、実際に、穴から脱出できなければ、こまるだろ。

いつまで、その穴に入っているんだ?

腹が減ったり、体が衰弱したりする。その他の生理現象がしょうじる。

たとえ、『出来事は、中立的に生起しているだけだから、こまっているという受け止め方をかえればいいんだ』と思ったって、こまるだろ。
『出来事は、中立的に生起しているだけだから、こまると思わなければ、こまらない』と思ったって、こまるだろ。

こういうことを、無視して、出来事は中立的に生起しているだけなんだと言い張るのである。

「本来、中立的な出来事に、ネガティブな意味をあたえているのは本人自身なんだ」と言ったところで、人間の身体をもって生まれてきて、人間の身体をもって生きているということを考えれば、痛いものは、痛いし、かゆいものはかゆいのだ。

自分の意思で動く手足があったほうが、自分の意思で動かせない手足があるよりも、行動の範囲が広がる。

穴から抜け出す場合だって、身体的な条件が、穴から抜け出せるかどうかに影響をあたえる。

そういう現実は、身体をもつ人間にとってみれば、中立的に生起しているわけではないのである。

*     *     *

きちがい的なヘビメタ騒音にたたられたら、不愉快なのである。俺は、ヘビメタという音楽がきらいなので……もう、ほんとうに、めちゃくちゃにきらいなので、ヘビメタを大音響で聞かされるのはいやなのである。

けど、きちがい兄貴は、おなじヘビメタを、大音響で鳴らしたいのである。大音響で聴くことに快感を覚えているのである。だから、人間は、ひとつの刺激に対して、ちがう反応があるということは、認める。


けど、それは、すでに、ヘビメタの音がきらいな俺が、きちがい兄貴の感覚にあわせて、好きになればいいという問題ではないのだ。

ともかく、人間の身体をもっている以上、本来中立的な出来事に意味合いをあたえているのは本人だから、本人が、意味合いをかえればいいという話ではない。

どうしてかというと、この話は、条件を無視した話とおなじで、本人が、自由に意味合いをかえることができるということになっているからだ。

トリック好きな詐欺師の世界では、本人が自由に意味合いをかえることができるということが、前提になっているのだけど、実際はそうじゃない。

ようするに、もう、前提の段階で、詐欺的なだまし要素がある。ほんとうは、本人が自由に出来事を意味合いをかえることができるわけではないのに、本人が自由に出来事の意味をかえられるということが、話の前提にある。

前提自体がまちがっているので、まちがった結論を導き出してしまうことになる。

まちがっている。

本人が自由に出来事の意味合いをかえることができるわけではないのだ。人間の身体をもっているということからしょうじる条件がある。それまでの過去の歴史によってしょうじる条件もある。

身体をもっている条件や過去の歴史によってしょうじる条件によってしょうじる……『現在の認識』……が成り立っているのだから、いやなものはいやなんだよ!

だいたい、人間といったって、個人によって脳みそがちがう。シナプスのネットワークがちがう。

だから、ちがう。

認識や、認識から発生する感情が、ちがって当然だ。

*     *     *

足がおれていたいとする。もうすでに、『痛い』と感じてしまっている。
「痛いと感じたあとに、痛いと感じるのはまずいことだから、意識を書き換えて、痛いと感じないようにすればいいんだ」と言っているようなものなんだよ。

「穴に落ちて、足をおったということは、中立的な出来事で、自分自身が、その中立的な出来事に『痛い』という解釈をあたえているだけなんだ」と言って、中立的な解釈をしようとしても、無駄なのだ。

「穴に落ちて、足をおったということは、中立的な出来事で、自分自身が、その中立的な出来事に『痛い』という解釈をあたえているだけなんだ。だから、出来事が中立的に発生しているということを理解して、意味合いを自分に都合がいいように書き換えれば、それでいいのだ」と言っている人たちだって、実際に、足をおったら、神経や脳が正常であれば、痛いと感じるのだ。

そして、日常生活なかでは、そういう出来事が連続して発生している。すでに条件が成立している出来事が、日常的に、発生している。そういう出来事のなかで生きている。

『出来事は中立的だから、このように感じる必要はない』と思って生きているわけではないのだ。

「出来事は中立的に生起しているだけだから、中立的に発生しているということを理解して、意味合いを自分に都合がいいように書き換えればいいのだ」と言っているときは、そういうことを言えるだけの余裕がある状態なんだよ。

そして、言霊主義者のように、普段、自分が出来事に対して、どういうふうに反応しているかというとについて、無頓着だから、『出来事は中立的に生起しているだけだから、中立的に発生しているということを理解して、意味合いを自分に都合がいいように書き換えればいいのだ』と思っているだけなんだよ。

実際には、そういうことを主張する人だって、そんなことは、実践してないよ。

特別に意識が……『それ向きのこと』……を考えたときだけ、実践しているように思っているだけだ。

完全に、誤解をしている。

普段は、「出来事は中立的に生起しているだけで、意味合いは、その本人が与えているだけなんだ」なんて思わずに、痛かったら、痛いと思っているのだ。

かゆかったら、かゆいと感じて生きているんだよ。

そして、本人が侮辱されたと思ったら、おこるんんだよ。そして、自分の思い通りにならなかったら、不機嫌になるんだよ。「中立的なことが発生しただけだ」とは思ってないんだよ。

けど、日常生活における自分の行為について、よく考えることができない人なので、日常生活における自分の行為にかんしては、リコールできないのだ。

ようするに、思い出すことができない。

日常生活における自分の行為に注意が向かず、日常生活における自分の行為に注意を向けることができないのだ。

ようするに、「出来事は中立的に生起しているだけで、意味合いは、その本人が与えているだけなんだ」と思っているときは……日常生活における自分の行為を……想起することに失敗しているのだ。

普段の自分は自分の理論通りに反応しているわけではないということに、気がつかないだけだ。

*     *     *

ともかく、三メール先に落とし穴があるということがわかっているのに、そのまま、進むということは、悪い結果をもたらすのでよくない。

ところが、精神世界の人は、気にせずに進むということをすすめるのである。

そして、落ちたら落ちたで、「落ちると思ったから落ちたんだ」「落ちるという思いが現実化したんだ」と言いやがるのである。

「落ちないと思えば、落ちない」「落ちると思うから落ちる」と自信満々に言う。

けど、そういっている精神世界の人が、ほんとうに、落とし穴の上を歩こうとした場合、物理法則にしたがって、落ちるのである。

現実生活において、精神世界の人である本人が、「あそこに落とし穴がある」と認識した場合は、「落ちないと思えば、落ちない」「落ちると思うから落ちる」なんて、思わずに、ちゃんと、落とし穴を回避しようとする。

回避行動をとるのだ。

しかし、普段、自分が、そういう回避行動をしているということは、「落ちないと思えば、落ちない」「落ちると思うから落ちる」ということを言っているときには、まったく思い浮かばないのだ。

*     *     *

三メートル先に落とし穴があるという条件と、三メートル先に落とし穴がないという条件は、ちがうんだよ。

条件がちがう。

三メール先に落とし穴がない条件で、「落ちない」と思って歩いた。そうしたら、落ちなかった。それだけだ。

ところが、「落ちないと思って歩けば、落ちない」と一般化してしまう。「落ちると思って歩いているから、落ちるんだ」と落とし穴に落ちた人を、せめる。



2025年1月21日火曜日

潜在意識のせいにすることがはやっている

 まあ、潜在意識のせいにすることがはやっているんだよね。ほんとうは、条件のせいである場合においても、潜在意識のせいにしてしまう。条件がちがうので、悪い条件が結果に影響をおよぼすということがある。ところが、条件だけは認めることができないので、あるいは、条件の格差だけは認めることができないので、条件がちがうからそうなったとは言わないようにしているわけ。そのかわりに出てくるのが「潜在意識」だ。すべて、潜在意識のせいにできる。「カネ持ちではないのは、カネ持ちはずるいと潜在意識で思っているせいだ」ということにしてしまう。けど、おぎゃーとうまれた時から、資産の格差はある。この生まれた時の資産格差というのが、潜在意識の結果かというと、結果ではないのである。条件を抜きにして現在の状態を考えた場合、当然、人によって、現在の状態にはちがいがある。そのちがいは、すべて、潜在意識がもたらしたものだと考えてしまうのである。あるいは、潜在意識のせいなんだということにしてしまう。潜在意識というのは、マジックワードなんだよ。条件という言葉を使わないようにしたときのマジックワードなんだよ。

潜在意識というのは、その人の潜在意識なのである。だから、けっきょく、悪い状態なら、悪い状態を潜在意識的にもとめている……その人が悪いということになる。悪い状態は、その人の潜在意識から発生するのだから、その人が悪いということになる。けっきょく、潜在意識という言葉を経由した、自己責任論だということになる。悪い状態をもたらすような、ネガティブな潜在意識をかえれば、それでいいという理論なのである。

けど、これは、おかしい。

悪い状態というのは、悪い条件がもたらす場合がある。そして、悪い状態というのは、悪い意図的な選択がもたらされる場合もある。悪い意図的な選択をするときにも、条件が成り立っいたので、どこまでがほんとうに悪い意図的な選択なのかは、ちょっとわからない。

ともかく、悪い状態のすべてが、潜在意識によってもたらされたということはない。おぎゃーーとうまれたときのこと考えてみればわかるだろ。遺伝子的な制限だって、別に、潜在意識がもたらしたものではない。

遺伝子的に決まってしまうことは、別に、その人の(悪い)潜在意識がもたらしたことではない。遺伝子も含めて、条件なんだよ。遺伝子のちがいは、条件のちがいなんだよ。

その人の潜在意識のせいにすることによって、その人のせいにできるのだ。なんでもかんでも、「ほんとうは、その人が潜在意識でのぞんだものだ」ということにしておけば、その人のせいにすることができる。もちろん、条件なんて、関係がないということになる。

条件は、重要なんだよ。

  まあ、これは、たとえ話なんだけどさぁ……。たとえば、ポーカーの手札をとりかえることができる回数は……たいていの場合……一回だよね。

環境の差というのは、ポーカーの手札をとりかえることができる回数のようなものだ。

たとえば、レベルゼロの人は、手札をとりかえることができないとする。


ようするに、配られたらそれでおしまいで、とりかえることができない。ブタをくばられたら、ブタのままだ。ブタというのは、役がひとつもない状態のことだとする。

レベル一の人は、一回だけ、とりかえることができる。

だから、「ブタだけど、とりかえたら、ワンペアができた」という場合もある。レベル二の人は、二回とりかえることができる。だから、レベルゼロの人より成功しやすい。

レベル一〇の人は、一〇回とりかえることができる。まあ、たいていは、ツーペア以上の役ができるだろう。まあ、こんな感じで、トライ回数が多いほど、手札が有利になる。

こころのブロックをはずせば、いいことがあるというようなことを言う人は、環境の差というものを、最初から完全に無視している。

そして、「こころのブロックをはずせないから、不幸なのだ」ということを言う。あるいは、「こころのブロックがあるから、成功しないのだ」ということを言う。

けど、レベルゼロの人は、一回も、とりかえることができないのだ。それが、条件の差だ。

まあ、環境の差と言ってきたけど、条件の差が集まったものが環境の差だ。

たとえば、「ポジティブなことを考えて、やったら、実際にうまくいった」ということを言う人がいるだろ。「ネガティブな人はネガティブなことを考えているからダメなんだ」と言う人がいるだろ。「ネガティブなことを考えるから、ネガティブなことを引き寄せるのだ」と言う人がいるだろ。

この人にとっては、ネガティブな思いがネガティブな出来事を引き寄せたということになる。

『自分は、ポジティブなことを考えてトライしたので、うまくいった。ポジティブなことを考えてトライすると、ポジティブなことが起こる……これが正しい』と考えてしまう。

けど、レベルゼロの人は、手札をかえることができない。レベルゼロの人のなかにも、たまたま、最初に配られたカードのなかで、いい役ができる人もいる。けど、レベルゼロなら、最初に配られたカードでブタなら、ブタだ。

〇回しかかえられないという条件と、一回だけ変えられるという条件は、ちがう。だから、条件を無視して、「ネガティブな思いがネガティブな出来事を引き寄せた」「自分は、ポジティブなことを考えてトライしたので、うまくいった。ポジティブなことを考えてトライすると、ポジティブなことが起こる……これが正しい」という考え方は、まちがっていることになる。

それは、トライできるという条件が成り立っている世界の話だ。とらいできるという条件が成り立っている人に成り立つ話だ。ゼロ回しかトライできないという条件が成り立っている人には、そういうことが、言えない。

けど、最初から、条件のちがいをないものとして無視するので、あたかも、「ネガティブな思いがネガティブな出来事を引き寄せた」「ポジティブなことを考えてトライしたので、うまくいった。ポジティブなことを考えてトライすると、ポジティブなことが起こる」という考え方があたかも、正しいような印象をあたえることができる。

条件は、重要なんだよ。

*     *     *

「ポジティブなことを考えてトライすると、ポジティブなことが起こる」ということにも、一〇〇%詐欺が成り立つ。自分で自分に一〇〇%詐欺をしている状態だ。

ちなみに、ポジティブな方向で、自分で自分に一〇〇%詐欺をすることは、いいことだ。別に否定しない。ぼくが言いたいのは、他人に言う場合なんだよ。相手には、相手が抱えている条件がいっぱいある。その相手が、かりに条件として言及しなかったとしても、相手には相手の条件がある。けど、言いきることで、他人の条件をすべて無視してしまうのである。言いきるというのは、ほんとうは、法則性がないのに法則性があると断言してしまうことだ。その命題は偽なのに、その命題が真であるようなことを言いきってしまうことだ。その命題が死んであるならいいけど、ただ単に、勘違いして、妄想世界で真だと思っているだけなのである。妄想世界で思っているだけなのに……相手の現実を無視してしまうことになるのである。これは、必然的だ。だって、命題が真でないのに、真であると思っているということだから、まちがいが必然的にひそんでいることになる。

*     *     *

ポーカーの例では、相手は手持ちのカードをかえられないという状態なのに、手持ちのカードを「どんどんかえればいいのだ」というアドバイスをしているわけ。相手の状態をまったく見てないんだよね。相手には、ゼロ回しかかえられないという条件が成り立っている。自分には、一回だけかえられるという条件が成り立っている。条件がちがう。自分が、一回、かえてみたら、いい結果が出た。「トライすることは重要だ。ポジティブなことを考えてトライすれば、かならず、いいことが起こる」と思ってしまう。けど、それは、一回はトライできる状態だったから、トライできただけのことなのであ。一回もトライできない人に、トライすればいいっても、意味がない。あるいは、嫌味にしかならない。

*     *     *

相手の条件を無視することは簡単なことなのである。だから、簡単に相手の条件を無視してしまう。相手の条件を簡単に無視できる人も、自分に成り立っている条件は無視できない。なので、ほんとうは、トライしたくてもトライできないことがあったりする。けど、それには目を向けないのだ。そして、たまたまうまくいくと、幼児的な万能感に支配され、「一〇〇%の確率でこうなる」ということを言う。けど、一〇〇%の確率でそうなるわけではないので、その文はまちがっている。命題としてあつかうなら、その命題は偽だ。

本人のなかで、言っていればいいことなんだよな。他人に言うべきじゃない。

2025年1月20日月曜日

愚者の意見がとおる

 簡単に書いておく。連鎖が見える人のことを賢者、連鎖が見えない人のことを愚者と呼ぶことにする。そして、賢者の割合が人口の〇・一だとする。愚者の割合は人口の九九・九%だとする。

その場合、直接民主主義の社会で、多数決をした場合、連鎖が見えない人の意見が通るということになる。賢者がどれだけ、愚者に説明をしても、愚者は愚者だから理解できない。

けど、愚者は愚者で、自分の考えに自信があるのである。

『これは絶対こうだ』と連鎖が見えないまま考えている。意見ということだけを考えると、平等なので、愚者の意見も賢者の意見もレベルにおいてかわりがないということになる。質的なレベルを判定するのは、神でしかない。

いまここで、愚者と賢者ということをわけて言っているから、愚者は愚者であり、賢者は賢者ということになっている。だから、これは、誤解しようがないことだということになっている。この話のなかではね。

けど、実際の世界では、愚者が自分のことを賢者だと思っているかもしれないし、賢者が自分の意見が理解されないことに絶望して、意見を言わないようにしているかもしれない。

現実世界では、愚者とか賢者というレッテルを神様視点ではれる人がいないということになる。なので、神様的な視点では、愚者の意見と賢者の意見にはレベルの差があるのだけど、人間界の人間の視点では、愚者の意見と賢者の意見には差がないように見える場合がある。

個人という視点でしか考えられないので、これが賢者の意見、これが愚者の意見と判定できる人が……いないのである。みんな個人として、考えているわけだから、愚者が愚者だと思わずに賢者だと思っている場合、それを否定することができない。

作者というのは、神様的な視点で、抽象的だけど、愚者と賢者をわけることができるわけ。もちろん、話の中でだけだ。

けど、現実世界においては、神の視点をもつものが原理的にいないわけだから、だれがだれをどう見るかという話になってしまう。わかるかな?

いちおう、これを、人間として平等と言っておこう。平等な人間が、おなじレベルの意見を言っているという世界になる。レベルの差がないということになる。

だって、レベルの差を判定できる神のような存在がいないのだから、しかたがない。

だから、人間として平等ということは、意見として平等ということになり、意見として平等ということは、個人の意見は、意見としては、質的なレベルの差がないものになってしまうのである。まったく平等である参加者による、質的なレベルの判断になるので、参加者の判断は、どのようなものであれ、平等だということになる。ちがう意見は存在するけど、意見のレベルは、同等だということになる。

ようするに、多数決をやれば、愚者の意見がとおる。連鎖が見えない人の意見がとおることになる。愚者の割合が、賢者の割合よりも大きければ、愚者の意見がとおるということになる。

2025年1月19日日曜日

きちがい兄貴やきちがい親父は、普通の人をだますつもりなんてないんだよ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でしょうじた不利な状態というものは、ほかの人には、絶対にわからないことなんだよなぁ。

経験がない人にはわからない。

不可避的に、猛烈に、不利な状態になるのに、不利な状態になるということを、普通の人が認めない。

そりゃ、十数年間も毎日やられたら、通勤できないからだになるでしょ。なって当然だ。けど、これも、ほかの人には、まったくわからないことだ。だから、彼らは必然的に、ぼくのことを、あまく見る。

十数年間どころか、七年間でも……六年と半年間でも……よく耐えたと思うよ。

この、六年と半年間で、ぼくは、通勤する能力をうしなった。普通の時間に起きて行動する能力をうしなった。これ、不可避だ。やられちゃったら不可避だ。みんな、あまく見ている。この状態をあまく見ている。

どれだけの症状が不可避的に生じるか、まったくわかってない。

けど、この世は、基本的につらい世の中なのである。だから、みんな、「つらさ」は経験している。けど、このつらさは経験してない。

つらさには、グレードがある。けど、「俺だってつらい」「私だってつらい」と言えば、グレードの部分<< 

グレードのちがいが、ふっとぶ。

おなじつらさということになってしまうのだ。

質のちがいはでかいのに、無視される。そのひとことで、おなじ分量のおなじつらさを経験したことになってしまう。

もちろん、これは、まちがいだ。きちがい兄貴……という特殊な条件。きちがいが鳴らす騒音という特殊な条件……。この条件がないなら、それはちがうことが発生したということだ。

そして、ちがうことは質のちがうつらさをもたらすのである。

当然、からだに与える影響だってちがう。

けど、ほかの人は、「自分だってつらいことがあった」という言葉で、きちがい家族による騒音から発生するつらさを、おなじつらさだと「仮定」してしまう。これは、仮定なんだけど、本人が仮定だと気がつかないレベルの無意識的な仮定だ。

本人のなかでは、仮定だと思われてないのである。真実だとか、事実だと思われているのである。

けど、その人たちは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない。きちがい家族がどういう、理屈で、どういう感覚で、どういう認識で、きちがい的な騒音をおしつけてくるか、まったく理解してない。

わかってない。

きちがい的な騒音というのは、よそのうちでは、絶対にありえないような騒音だ。よそのうちにも、家族がいる場合が多いけど、よそのうちの家族は、そんな音で鳴らさないのである。

普通の人は「そういう音で鳴らすと迷惑だ」ということがわかっているから、最初から、そういう音で鳴らさないのである。

これが、すっぽぬけているから、うちの兄貴は、きちがいなのである。

すっぽぬけているきちがいが鳴らす音が、どれだけ迷惑か、普通の人はわかってない。やられることがないからだ。そして、その鳴らす人が家族であるということがどれだけ影響を及ぼすか、普通の人は、まったくわかってない。その人たちの家族が、きちがい家族ではないからだ。

これ、盲点なんだよ。その騒音を鳴らす人間が家族の一員だということが、盲点になっている。

きちがい親父は親権者なんだけど、親権者の協力がないと、「うったえる」ということも事実上できない。子供だったからな。

俺が小学六年生のとき、きちがい親父に、法的に(兄貴を)うったえるということを言ったら、「そんなこと、できるわけないだろ」と言って、相手にしてくれなかった。じゃあ、親父が、兄貴に注意するかというと、そうではないんだよ。

当時、きちがい親父は、無意識的に、きちがい兄貴に文句を言えない状態になってたんだよな。これも、盲点なんだよな。

『そんなに、子どもを虐待していたような親なら、子どもに文句を言って当然だ。そんなのは、おかしい。嘘だ』と普通の人は考えてしまう。まあ、普通の人と言っても、俺が書いたことを読んで……親父が……兄貴と俺を虐待していたということを知っている人たちが、そのように考えてしまうということだけどな。

ようするに、「お父さんが、お兄さんに注意をしないのはおかしい。だから、エイリさんが言っていることは嘘だ」と考えてしまう。

こういうところにも、ズレがあるんだよな。

普通の人は、きちがい家族がどういうふうにくるっているのか、まったくわかってないのだ。

きちがい兄貴やきちがい親父は、普通の人をだますつもりなんてないんだよ。

けど、きちがい兄貴やきちがい親父が普通に、行動すると、普通の人がだまされてしまう。「そんなのはないから……ない」と考えてしまう。

あまりにも大きなズレがあるので他の人が、嘘だと思ってしまうのだ。

これが、どれだけ迷惑なことか、ほかの人は、まったくわかってない。

みんな、まるで、わかってないんだよな。

2025年1月18日土曜日

「えっ? どうして、苦労したと言えるんだ?」

 本人の意思とは関係がない「外部環境」が存在しているのである。きちがい的な家族と言うのも、本人の意思とは(本当は)関係がない外部環境だ。

そして、きちがいはきちがい的な脳みそを搭載して、行動しているので……実際に現実世界で行動しているので……いっしょに住んでいれば、当然、影響をうける。

ところが、「影響なんてない」と言うのだ。くそ凡人たちが、「影響ない」「関係ない」と言う。くそ凡人は、きちがい的な家族といっしょに暮らしたことがない凡人なのである。

だから、どういうふうに影響をうけるかということが、根本的なところでわかってない。自分の経験のなかにないことだからだ。

自分の経験のなかにないことであれば、想像するしかないのだけど、想像力がめちゃくちゃに限られているので(低いので)実体とあうぶんだけのことを想像することができないのである。

だから、無視する。「関係がない」「影響がない」「いいわけだ」「あまい」と言う。

ところが、きちがい家族といっしょに住んでいないという『あまえた環境』のなかで生活しているのは、こいつら、くそ凡人なのだ。

*     *     *

それから、「言ったことが現実化する」と思っている普通の人について考えてみよう。「楽しい楽しい」と言えば楽しくなる……これが、こいつらが主張していることだ。真実だと言い切ることだ。

こいつらが「俺だって苦労した」と言ったしよう。

「えっ? どうして、苦労したと言えるんだ?」と思う。

苦労だと思った瞬間に、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるんだろ。それなら、一日に一秒以内の苦労ですむ。なんといっても、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるのだから……。

ちょっでも、不愉快になったら、その瞬間に、「楽しい楽しい」と言えばいいのである。瞬間だから、実際には、〇・一秒以内のできごとだ。不愉快になった時間の長さは〇・一秒以内の時間の長さだ。

さらに、楽しい楽しいと言って、楽しくなった場合は、その〇・一秒以内の不愉快な時間も、完全に忘れ去ることができるだろう。つまり、次の瞬間には楽しくなっているのだから、〇・一秒以前に、ちょっと不愉快に感じたとしても、「楽しい楽しい」と言ったあとは、もう、まったく、不愉快さなんて感じない状態になっている。

楽しい楽しいと言ったあと、楽しくなった場合には、〇・一秒でも不愉快に感じたという記憶は、自分にとって意味がないことになっているのである。だってもう、楽しくなっているのだから、関係ないだろ。

それなのに、「俺だって苦労した」と言うのだ。

えー? 

どのくちで言っているんだ?

「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなってしまって、そのあとは、苦労なんて感じないような苦労なんだろ。

もし、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということと「俺だって苦労した」ということを、両方とも、言っているとしたら、矛盾しているぞ。

*     *     *

まあ、「苦労していたころは、『楽しい楽しい』と言ってたのしくなる方法を知らなかったんだと言うかもしれない。けど、その苦労というのは「楽しい楽しい」と言えば、吹き飛んでしまうような苦労なんだよ。たいした苦労じゃない。現実に発生したことが、重要だ。現実に発生したことに対する受け止め方のちがいというのは、個人にとってある。あるように、見える。しかし、その個人がその時点で持っている個人の受け止め方というのは、それなりに、文脈があることなのである。そして、人間という種によって、ある程度は、(受け止め方が)決まってしまっているものも含んでいるのである。ようするに、「不都合だから」といって、自由に書き換えられるようなものではないのだ。ようするに、「くるしい」という受け止め方をしたばあい、「くるしい」という受け止め方を(した)ということに、意味があるのだ。その人にとって、いかようにでも書き換え可能などうでもいいことではないのだ。ちゃんと、その文脈の中で、意味がある。

他人の文脈について、まったく考えないやつが、つたない考え方で「いかようにでも、受け止め方を書き換えることができる」と思っているだけだ。

*     *     *

実際の世界では、言霊主義者の多くは、言霊理論を否定されたら、おこる。不機嫌になるのだ。不機嫌になったと感じた瞬間に「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。そうすれば、言霊理論を否定されたことなんて、わすれて……楽しくなれる。実際の出来事とは、関係なく自分が意図していった「感情にかかわる言葉」の通りに感じることができる。だったらそうすればいいじゃないか。けど、実際には、できないのである。言霊理論を否定されて頭にきているときは、頭にきている状態になってしまって、「楽しい楽しい」と言ってもなかなか楽しくならないのである。実際は、そうなのに、そういう出来事を全部、無視して、「楽しいと言えば楽しくなる」とほざていいるのが、言霊主義者だ。あるいは、多くの言霊主義者だ。

言霊主義者に、ぼくが「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない場合だってあるということを言ったとしよう。その言霊主義者が「すべては受け止め方の問題だ」と考えているのであれば、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない場合があるのだから、言霊理論は間違っていると、受け止め方をかえればいいじゃないか。どうして、自分の場合は、受け止め方をかえないのだ? 受け止め方をかえずに、他人をかえようとするのだ? 全部、相手の意見にあわせて、受け止め方をかえればいいだろ。自分がこれが正しいと思っていたことを否定された……。だったら、相手の意見にあわせて、自分の受け止め方をかえればいいのである。ところが、普段「自分の受け止め方をかえればいい」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言っているような人は、自分の考え方にこだわって、意見をかえないのである。そして、そういうときに「楽しい楽しいと言って楽しくなるのだから、楽しい楽しいと言おう」と思って、「楽しい楽しい」と言うことで、気分をかえることができるかというと、できないのだ。こいつらは、自分の考えにこだわって、不愉快な気持になり、「楽しい楽しい」と言うことで、自分の気持ちをかえようとしない。あるいは、「楽しい楽しい」と言っても、楽しい気分にならない。相手がまちがっているということを考えて、不愉快な気持になっている。現実の出来事があり……この場合は自分が正しいと思っている理論を否定されたという現実の出来事があり……「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない時間をしばらくすごすということになる。

 ちゃんと実際の出来事に対応した気分になっている。実際の出来事が発生して、実際にそういう気分になっているときは「楽しい」と言っても、楽しくならない。現実世界の生活というのは、そういうものだ。それから、繰り返しになるけど、たとえば、自分が正しいと思っていることを否定されて、不愉快な気持になるということは、それまでの文脈でそういう感じ方ができあがっているということだ。これも、本人の文脈があることなのである。ようするに、自分が正しいと思っていることを否定されると不愉快な気持になるということも、「受け止め方」のひとつだ。なら、この「受け止め方」を文脈に関係なく、書き換えられるというと、そうではないのだ。だから、そうではないと、言っているでしょ。ところが、こいつらは「受け止め方は意識にあわせて、意図的に書き換えられる」「自分はそういうことができる」と主張しているのだ。受け止め方を書き換えるなら、新しい受け止め方が自我に再統合されないとだめなのだ。なんで、こんな簡単なことがわからないのか? どうして、「自分は、いかようにでも受け止め方をかえることができる」と思っているのだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ことた

 

 

 

 

 

 

ほうほうをしへ
 

2025年1月17日金曜日

条件を無視して、こころがけの問題にしてしまうのである。

 もう、さんざん言ってきたので、簡単に説明するだけにする。問題なのは、条件の無視だ。精神世界の人というのは、かくれている頂点以外は、みんな、お互いにお互いを洗脳しあっているような状態なのである。

だから、どんな人も、おなじようなことを言う。こころのブロックということについて書いたけど、生まれの条件、生まれの条件から派生する条件は、すべて、無視だ。

そして、「おカネが好きな人のことろには、おカネがよってくる」「おカネがたまらない人は、おカネをにくんでいる」「おカネがたまらない人は、おカネをきたないものだと思っている」というようなことを言う。

みんな……「その人が、どう思っているかということが、問題なのだ」というのだ。

これが……問題なのだ。

「おカネを、潜在意識で、きたないものだと思っているから、おカネがよってこない」と言う。これを正しいと思ってしまうセンスが問題だ。

そういう問題じゃないのである。

おカネをもっている人格者であるような親のもとに生まれた人と、おカネをもってないきちがい的な親のもとに生まれた人とでは、条件がちがうのである。収入、貯蓄という、もっとも、わかりやすいところだけではなくて、文化資産がちがう。

きちがい的な親は、きちがい的な理由で、毎回毎回、これでもかこれでもかと、たたりきるので、子供側の人間が、学校など、公的な場所で、ある意味「かくれ不適応」になってしまうのである。

根本的な部分に問題があるのだ。

きちがい的な親といっしょに暮らすということは、きちがい的な親との人間関係が、人間関係の「ひながた」になってしまう。そうなると、心的な問題が発生する。この心的な問題は、いろいろ人間関係に影響をおよぼす。

けど、普通の人たちは、きちがい的な親といっしょに暮らしたことがないので、「関係がない」と思うのだ。けど、実際には、関係がある。

しかも、これが、普通の人が、心理学を勉強してわかるような問題ではないのだ。普通の人が心理学を勉強して、「見える関係」ではなくてもっともっともっともっと、奥底の部分の見えないところに、関係が隠れているのだ。心理学を大学院で勉強した人ですら、あんまりわかってないようなところがある。

特に、認知療法はこういう部分を無視するので、わかってない人たちを量産するようになる。認知療法は、認知療法でプラスチックな解決方法を求めている。これは、プラグマティズムの影響だ。

まあ、ともかく、精神世界の人や普通の人は、「条件」を無視して考えることになれている。

条件を無視して、こころがけの問題にしてしまうのである。あるいは、潜在意識というわけのわからないことについて語りだし、「こころのバリアがあるから、おカネがよってこないのだ」ということにしてしまう。

いやー。おカネに関しては、生まれの条件が影響している。

恵まれている人にかぎって、生まれの条件を無視する傾向が強いと思う。これは、それこそ、調べてみる必要があるのではないか。まあ、これも、できたら研究しよう。

ともかく、条件を無視して、こころがけの問題にしてしまうと、こころがけをかえれば、おカネがはいってくるということを言うのである。ところが、現実生活においては、それこそ、生まれたときからつみかさなっている条件が、現実生活を規定する。その人ができきることを規定する。その人に対するまわりの人の態度を、あるていど規定してしまう。ところが、条件は無視するので、こころがけをかえたのに、状態がかわらないのはおかしいということになるのだ。それで、潜在意識というものを持ち出して、潜在意識で、おカネがきたないと思っているから、おカネがはいってこないということを、言い出す。そして、潜在意識を「うちやぶる」方法が、また、心理的な方法なのだ。あくまでも、外界の条件を認めずに、ただひたすら、内面の『こころの持ち方』だけを問題にする。けど、これ自体がまちがった態度なのだ。

だいたい、そんなことを言っている人間が、はじめてあった人のどこを見て、どういうふうに判断するかと言うことが問題だ。その人の見なりや、社会的な地位を見て、自分の態度を決めるのだ。あるいは、その人の学歴や職歴を見て、その人に対する態度を決める。

そして、実際に、たとえば、自分がどの程度カネをもっているかというのは、学歴や職歴や遺産で、決まってしまう。もちろん、生活スタイルもある。けど、生活スタイルだって、様々な条件が成り立っているから、そういう生活スタイルになるのだ。ともかく、生まれてきてからの条件を無視してしまうということはできない。ところが、生まれてきてからの現実的な条件を無視してしまう。だから、こころがけの問題になるのだけど、実際の生活というのは、現実的な条件によって、あるていど、決まってしまう。

セミナー講師ではなくても、現実の条件を無視して、こころがけの問題にしてしまう人は、実際に、恵まれた生活をしている場合がほとんどだ。生まれたときに、わりと恵まれた状態で生まれてきた人がほとんどだ。そういう人に洗脳されて、言ってみれば、恵まれていない人が「こころがけの問題なんだ」と思うわけなんだけど、それには、無理がある。実際に、恵まれてないからだ。条件がちがうのである。

基本的に、恵まれた人にとっては、自分の恵まれた条件というのは、空気のようなものだ。そして、他人の恵まれてない条件……悪条件に関しては、基本的に、無視しがちなのである。効力がある条件も、効力がない条件に見えてしまうのである。どうしてかというと、他人事だし、自分が人生のなかで、その悪条件を経験したことがないので、いまいちわからないというか、自分のこととしては、ぜんぜんわからない状態でくらしているからだ。他人の抱える悪条件に対する無関心さというのが、そもそも、生物的に内在しているのである。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年1月16日木曜日

普通の親だったら、あんな音で鳴らしているのをほっておくということは、ない

 あーー。ヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。この時間、つねに鳴っていた。猛烈にくるしかった。あんな嫌な音が、あんなにでかい音で鳴っている。しかも、鳴らしているやつは、きちがいだから、普通の音で鳴らしていると思っている。「しずかにしろ」と言いに行くと、きちがい的な反応をする。絶対にやめない。きちがいが、注意されておこる。きちがいが……。こんな、無法地帯……ない。普通のうちなら、あのでかさで鳴らしているなら、絶対に、鳴らしているやつが、注意されて、鳴らせなくなるのだ。それが普通のうちのありかただ。絶対に、普通の親だったら、あんな音で鳴らしているのをほっておくということは、ない。だから、おかあさんも含めて、普通じゃないのである。おかあさんは、きちがい親父とは全く違う方向で、普通じゃないのである。だから、親は、注意しないわけだけど……。まあ、おかあさんが注意したときはあるけど、きちがいが、おかあさんの言うことを聞くわけがないだろ。うちには、きちがいがふたりいて、ふたりとも、おかあさんの言うことは、絶対に聞かないのである。でっ、聞かなかった……というつもりも、まったく生じないのである。これは、気にしてないという意味ではなくて、ほんとうに、認識として成り立ってないのである。だから、どれだけ、注意されても、おなじことが繰り返されてしまうのである。

常識的なうちで育った常識的な人が、「そんな音で鳴っているのに、親が注意しないのはおかしい」「そんな音で鳴っていたら、絶対にやめさせようとする」と言って、俺の言うことを、うそだと思うのである。こういう構造がいろいろなところに成り立っている。きちがい兄貴のきちがい感覚なんて、そんなの、普通の人が理解できるレベルのものではないのだ。きちがい親父のきちがい感覚なんて、 そんなの、普通の人が理解できるレベルのものではないのだ。

 

 

 

2025年1月15日水曜日

ようするに、言霊という考え方が、悪事に使われているのである。

 だれにだって、幼児的万能感はある。

「言ったことが、現実化する」と言いたくなる気持ちは、わかる。

けど、それと、「言ったことが、現実化する」ということが、一人歩きすることは、別だ。

 

「言ったことが、現実化する」なら、いい。

 

けど、言ったって、言ったことが、言霊の力によって、現実化するわけではない。

言霊主義者だって、現実的な方法で生きているのである。ご飯を食べたいと思ったら、普通に、ご飯を炊く。コーヒーを飲みたいと思ったら、普通にコーヒーを作るか、あるいは、コンビニにコーヒーを買いに行く。あるいは、喫茶店に行ったり、自動販売機があるところまで行って缶コーヒーをゲットして、コーヒーを飲もうとする。

別に、言ったことが現実化するからといって、「コーヒーよ、いでよ」と言って、コーヒーをゲットしようとするわけではない。

何度も言うけど、本当は、言霊主義者だってできないことなのに、なぜか、できるということになっている。

なぜか、「言ったことが、現実化する」という文が正しいこととして流通してしまっている。

ぼくが、ここに書いてきたことだって、いったいどれだけの人が納得するかわからない。

自分が現実世界で、現実的な解決方法を採用してたとしても、こまっている人間には「言えば、言ったことが現実化するから、言えばいい」と助言するのだ。

この助言が、どれだけ役に立たないものか知っているはずなのに、意味がない助言を、さも、意味がありそうに言う。

正しくないものが、正しいものとして流通しているので、被害がひろがる。

しかも、「言霊理論はおかしい」と言うと、いろいろな人から、反感を買うのだ。

立場が上である人間が、「できると言えばできる」と言った場合、立場が下である人間は、なかなか、反論ができない状態が成り立っている。

まちがいを主張する者が、正しいことを主張している者のようにふるまう。

やられている人間は、なかなかはねかえせない。やられてしまう。

「できると言えばできる」と言って、無理な労働をおしつけているめちゃくちゃな人が、正しいことをしているわけがないだろ。

ようするに、言霊という考え方が、悪事に使われているのである。

それなのに、それなのに……。みんな、みんな……。「言霊(理論)は、正しい」と言う。「言霊は絶対だ」などと言う。「言ったことが、現実化する。これが正しい」と言う。

「言霊(理論)は、正しい」と書いた。言霊主義者が実際に言う言葉は「言霊は正しい」だ。まあ、これは「言霊理論は正しい」ということになるのだろうなと思って括弧をつけて、理論という言葉をつけたしておいた。

「言霊は絶対だ」というのは、言霊理論は絶対的に正しいとか、言霊の法則は絶対的に成り立っているということなのだろう。

それなら、どうやって、ご飯を食べているのだよ?

 

2025年1月14日火曜日

「思うだけで、思いが現実化する」「思っただけでは、思いが現実化しないので、行動することが必要だ」

 さらっと、ふれておいたけど、「思霊」という言葉は、「言霊」という言葉のように、いきわたっていないので、それなりに問題がしょうじる「余地」が大きくなる。

「思いは現実化する」と言う場合、「思うだけで、現実化する」という意味で、「思いは現実化する」という言葉を発する人もいるし、「思えば、行動するので、思いが現実化する」という意味で「思いは現実化する」という言葉を発する人もいる。

「思えば、行動する」ということが、その人の頭のなかでは、成り立っている。

けど、思ったって、行動しない場合がある。思ったって、行動できない場合がある。そういうこについて、「思えば、行動する」と思っている人は、無視してしまうのである。そして、「思いは現実化する」と言う。

「思いは現実化する」と言う場合は、ほんとうは、思えば、思うことによって生じる思霊の力によって、思いの内容が現実化するという意味を持っている。

いままでの説明は、「思いは現実化する」ということについて、ふたり以上の人が、ちがう意味を込めて使う場合の説明だ。けど、ひとりの人のなかで、区別がついてない場合がある。

「努力をすれば成功する」という言葉とおなじように、その言葉を発する人が、そのときどきで、おなじ言葉に、ちがう意味を込めて使うということが発生する。

しかも、ちがう意味を込めているのに、本人は、無頓着なのである。

「思えば、行動するので、思ったことが現実化する」と決めつけているけど、思えば行動するかどうかはわからないし、行動すれば思ったことが現実化するかどうかは、わからない。わからないことなのだけど、勝手に決めつけている。

そして、一〇〇%詐欺をおこなう。

これ、本人はつもりがないかもしれないけど、詐欺的な発言。虚偽の発言。

思ったあと、行動しないと、現実化しないというのであれば、「行動すれば、現実化する」ということになるし、思ったあと、努力しないと現実化しないというのであれば「努力すれば、現実化する」ということになる。

思うということは、起点にすぎない。そして、行動するにしろ、努力するにしろ、自分のからだを動かすということになる。これは、現実的なことに関する現実的な対処だ。

一方、本物の「思いが現実化する」という話は、思うだけで、現実化するのである。「思い」には「思いのパワー」があり、その思いのパワーが、現実を動かすということになる。

「思い」だけで、現実が動くのである。

その人の内部環境で思っただけで、外部環境がかわるのだ。そういう神秘的なパワーが「思い」には宿っていると考えているのが、精神世界の人たちだ。

言霊主義者が、「言えば、現実化する」ということと「言ったあと努力をすれば現実化する」ということを、おなじ意味で、おなじ言葉で表現しているということと、おなじことが成立している。

思霊主義者も、言霊主義者も、精神世界の人たちなので、そういうところが、あいまいなのだ。あいまいだから、自分が意図せず、自分の発言にふたつの意味を持たせることができる。ふたつ以上の意味と言ってもいい。

ところが、自分では、それに気がつかないのである。

ようするに、言霊主義者は「言うこと」と「言って努力すること」を混同しているし、思霊主義者は「思うこと」と「思って努力すること」を混同している。

「どっちも、現実化するのだからいいじゃないか」と精神世界の人たちは言いそうだけど、どっちも現実化するとは限らない。

現実化するとは限らないので、「どっちの場合でも現実化するからいい」と考えるのは愚かなことなんだよ。

*     *     *

わからないかもしれないから、ちょっと重複して書いておく。

「思う」ことと「思って行動すること」はちがうんだよ。ところが、精神世界の人のなかでは、おなじことだということになっている。「思うだけで、思いが現実化する」ということと「思っただけでは、思いが現実化しないので、行動することが必要だ」といこうとは、ちがうことだろ。

ところが、精神世界の人のなかでは、区別をつけずに、おなじことになっている。

だから、「思いは現実化する」という言葉に、「思うだけで、思いが現実化する」という意味と、「思っただけでは、思いが現実化しないので、行動することが必要だ」という意味の、ふたつの意味を持たせることができるんだよ。

けど、矛盾している。

けど、本人にとって、これがあいまいなことなんだよ。

「思うだけで、思いが現実化する」という意味で「思いは現実化する」と言ったあとに「思っただけでは、思いが現実化しないので、行動することが必要だ。けど、思えば、行動することになるから、行動によって思いが現実化することになる」という意味で「思いは現実化する」と言ってしまうことがある。

自分が矛盾したことを言ったつもりがないという状態ができあがる。

「思うだけで、思いが現実化する」ということと「思っただけでは、思いが現実化しない」ということは、ちがうことだろ。

けど、無意識的に使い分けて、本人は、まったく矛盾したことを言っているつもりがないのである。

だから、「思いは現実化する」と言ったあとに「強く思って努力すれば、思いは現実化する」などと言って、なんの疑問も感じない。

これ、ほんとうは、疑問を感じるべきところなんだよ。

最初の「思いは現実化する」ということの意味は、思っただけで、現実化するんだよ。思っただけで、思霊の力によって、思ったことが現実化するんだよ。だから、努力をする必要なんてないわけ。

思うだけで、いいわけ。

ところが、現実世界の現実的な問題に関しては、「思って」も「思った通りにならないこと」がある。それを知っているから「努力する必要」が出てくるわけ。「行動する必要」が出てくるわけ。

努力するということは、なんらかの行動をするということだ。何回も何回も、なんらかの行動をするということだ。

もう、この時点で、「思ったことが、思霊の力によって現実化する」という理論が、くずれているわけ。わかってくれたかな?

思えば、思っただけで「思いの力」によって、現実化するんだよ。思っただけで、思ったことが現実化するんだよ。努力なんて必要がないわけ。行動をする必要がないわけ。わかってくれたかな?

思えば、思っただけで「思いの力」によって、現実化する……という意味で、「思いは現実化する」と最初は言っているわけ。けど、途中から、「思えば行動するから、行動して思いを現実化することがたいせつだ」という意味で「思いは現実化する」と言い始めるわけ。矛盾している。なんで、矛盾に、気がつかないかな?

*     *     *

言霊主義者にも言っておく。言えば、言ったことが、現実化するのだから、努力なんてしなくていいんだよ。言ったあと、努力が必要だと考えるなら、言霊の力を否定している。

2025年1月13日月曜日

悪い立場なんだよ

 俺の成人の日というのが、悲惨だったんだよ。きちがい兄貴の、きちがいヘビメタ騒音が、小学六年生からはじまったので、悲惨だった。二〇歳の成人の日まで、ずっと続いているわけだからな。ヘビメタ騒音が毎日続いている。「関係ない」とか「影響ない」と言う人は、まったくわかってない。ほんとうに、なぐりたくなるんだよな。そういうやつらをなぐりたくなる。けど、なぐらないけどね……。ぼくが、なぐりたくなるというのだって、ヘビメタ騒音が鳴っているから、「関係ない」「影響ない」と言われると腹がたつわけで、小学六年生から成人式の日まで鳴ってなかったら、そんなことを思うわけがないのだ。「関係ない」と言うやつは、ヘビメタ騒音が関係ない」と言っているわけだし、「影響ない」と言っているやつは、ヘビメタ騒音の影響なんてない」と言っているわけだから、そもそも、ヘビメタ騒音がはじまらなかったら、そんなことは言われない。こいつら、わかってないだけなのに、えらそうなんだよ。こっちが、ヘビメタ騒音で、すでに、悪い立場になっているからだ。悪い立場なんだよ。

多くのネガティブな条件というのは、その人の思いとは、関係なく発生したネガティブな条件なのである

おぎゃーと、生まれた時から、人によって、条件がちがう。

当然、生まれながらに、ネガティブな条件をかかえてしまう人がいる。

多くのネガティブな条件というのは、その人の思いとは、関係なく発生したネガティブな条件なのである。

ところが、精神世界の人は「ネガティブな思いがネガティブな出来事を発生させる」と思っているので、実際に、だれかが、ネガティブなことを経験したら、その人は、その経験のまえに、ネガティブなことを考えいる「はずだ」と思ってしまう。

「はずだ」というのが、とれて「ネガティブなことを考えた」と断定してしまうことが、多い。

そして、精神世界の人たちというのは、一般論として、精神世界の理論を主張するので、当然、対象は、自分だけではなくて他人を含んでいる。

最初から、(条件が悪い)他人の人生に対して、たいへんネガティブな見解をもっているのである。
 

他人の人生について、自分のつたない考えで「これはこうだ」と断定的に決めつけてしまう。もともと、そういう性格の人たちだ。

そして、この人たちは、条件を徹底的に無視する。

思いのほうが「さき」で、条件が「あと」なのだ。思いのほうが「さき」で、出来事のほうが「あと」なのだ。この順番が、くつがえることがないのである。

ところが、実際には、ネガティブな条件があり、ネガティブな条件のもとに、ネガティブな出来事が発生するのである。

もちろん、ネガティブな条件と言っても、さまざまな条件があるので、かならず、ネガティブな条件が、ネガティブな出来事を引き起こすわけではない。

しかし、ネガティブな条件が成り立っていると、ネガティブな条件が成り立っているので、ネガティブなことが発生しやすくなるのである。

あきらかに、確率があがる。

たとえば、きちがい的な親のもとに生まれた子どもは、不幸な出来事を体験する確率が非常に高いのである。

その子どもが、言葉を学習する前から、「自分の親はきちがいなので、自分を攻撃してくる」と思ったわけではない。

きちがい的な親が、きちがい的な攻撃をしたので、「自分の親はきちがいなので、自分を攻撃してくる」と思うようになったのだ。これも、思いが「あと」なのだ。

けど、精神世界の人は、思いが「さき」だと思っているので、思いが「あと」だということを認めない。

きちがい的な親というのは、きちがい的な理由で、怒り狂うのである。そのひとつに、「思い通りではない」というのがある。自分の不満があるのである。自分のなかにストスレが発生しているのである。

そうなると、まわりの人に当たり散らすようになる。会社で押さえつけられている人も、家に帰れば、一家の大黒柱なので、たいへん相対的な地位が高い。ようするに、自分の怒りをまわりに発散できる自由があるのである。

たいへん、やりやすい状態なのである。
 

*     *     *

いっぱいいっぱいにストスレをためている人間は、ものすごく小さなことでも怒り狂うようになる。こどもが、座っていいところに座っていても「なんだ!そんなところに座って!!」と発狂する。

コタツの前に座っていたって、テーブルの前に座っていたって、そのとき、怒り狂いたいストレスがある人間は、それを理由にして、怒り狂うのである。座っていたって、立っていたって、横になっていたって、そのとき、ストレスを発散したければ、座っているいるということに文句をつけ、立っているということこ文句をつけ、横になっているということに文句をつけるのだ。

子どもが病気で横になっていても、「なんだ、そんなところで横になって!」と怒り狂うことが可能なのである。布団のなかで横になっているのだから、まったく問題がないことなのだ。

これは、子どもが横になっているということが、自分の思い通りではないことだから、怒り狂ったということだ。

子どもが風邪をひいて、横になっていたとする。妻が子どもの看病をしていたとする。そうなると、自分の思い通りではないのだ。妻は、自分のために、てきぱきと動いてくれなければならないのだ。それが、子どもの横にいて、子どもの看病をしているというところを、見ただけで、発狂してしまう。

ほんとうは、自分の世話をするべき妻が……そのとき、てきぱきと自分の世話をするべき妻が、自分の世話をしていないのだから、発狂するのだ。妻が自分の世話をしてくれないのは、熱を出して横になっている子どものせいだから、子どもに向かって「なんだ!!そんなところに寝て!!」と発狂するのだ。子どもを対象にして、怒り狂う。

これは、まだ、理由がわかるレベルの話だ。理由なんてなく、ともかく、自分の思い通りではないから、発狂するのだ。ある種のきちがい的な親というのは、ただをこねる子どものようなところがある。

自分の内部の世界と、自分の外部の世界が一致していないと感じた瞬間に、怒り狂う。自分の内部の世界が、自分の外部の世界と、詳細な部分まで、気分的に一致していなければ、発狂する。瞬間的に、怒り狂って、だだをこねる。

この場合、子どもの思いが先で、きちがい的な親が怒り狂うのが後だと考えるのは、これまた、妄想的な考え方なのである。しかし、精神世界の人は、「子どもの思いが、きちがい的な親をして、子どもにむかって、怒りを爆発させる」ということになってしまう。

「子どもが、『きちがい的な親がおこる』と思ったから、思ったことが現実化したのだ」と思うのだ。精神世界の人は、そのように現実を解釈する。

けど、この現実解釈が、まちがっている。

*     *     *

子どもの思いとは関係なく、きちがい的な親が、きちがい的な親の内部にある理由で、怒り狂ったのだ。

子どもが「ここに寝ていると、きちがい的な親が、ここに寝ているということについて、怒り狂う」と「さき」に思ったから、その思いに「つられて」きちがい的な親が、「子どもが、そこに寝ているということ」について、怒り狂ったわけではないのだ。

「思い」についても、一〇〇%詐欺が成り立っている。そして、思霊の力によって、そうなったわけではないのに、思霊の力によってそうなったと考えてしまうのだ……。

精神世界の人は、そのように考えてしまう。

精神世界の人は「思ったあと」と「思ったから」の区別をしていない。「思ったあと」になにかが、発生したら、それは、「思う」ことによって生じた思霊の力によって、発生したのだと思ってしまう。「思ったから、そうなった」と精神世界の人は考えてしまう。

思霊の力というのは、思ったことによってしょうじる、なにか神秘的な力のことだ。思うことによって、なにか神秘的な力が、その思った内容を現実化してしまうのだという考え方にとりつかれている。

そのわりには、普段の生活のなかでは、現実的な問題に関しては、思霊の力に頼らず、行動して現実的な問題を解決しようとするのだ。これも、言霊とおなじで矛盾した態度だ。




だから、「おかしいなぁ」と思っても、みんな、黙っている。

一〇〇%成り立つことじゃないのに、あたかも、一〇〇%成り立つということを前提にして法則性があるようなことを言う。まさに、一〇〇%詐欺だ。


努力すれば、成功する……ときもある。努力すれば、成功する場合だってある……。これは、正しい。
しかし、「努力をすれば成功する」と断言するのは、まちがいなのである。
けど、あんまり、こういうことを言う人が多くない。


どうしてかと言うと、「みっともない」からだ。きれいごとのライフハックを批判するのは、みっともないことなのである。この、こういうことに、文句をつけるやつは、嫉妬しやすい失敗者だというレッテルをはられるのが、こわいのである。
あるいは、単に、不愉快なのである。
 

彼ら……きれいごとのライフハックをくちにする人たちは……洗脳されている。多くが洗脳されていて、少数が、洗脳するだけで、洗脳されていない。頂点・トップグループ以外は、みんな、だまされて、正しいと思い込んでいるだけなのだ。
 

この、正しいと思い込むということには、一〇〇%成り立つ……一〇〇%そうなるにちがいがないと思うことも、含まれている。
 

ともかく、多くの人は、「おかしい」と思っても、みっともないから、批判をしないのである。
 

「努力をすれば成功する場合もあるけど、失敗する場合もある」という文であれば、一〇〇%詐欺は成り立たない。
そして、実際に、そうなる。
ところが、きれいごとの構文を使うものは、失敗する場合がないということを言っているのだ。そして、それに気がついていない。
失敗する場合があるのであれば、「努力をすれば成功する」とは言えない。
 

「努力をすれば成功する場合もあるし、失敗する場合もある」としか言えない。
 

まあ、努力というのが、一意に決まる内容を指し示しているのではなともかく、ほんとうは、努力をしても、成功しないということが起こる場合がある。それなのに、最初にそれを無視しているのである。

けど、成功しない場合だってあるということを、無視しても、実際には、努力をしても成功しないということが発生する。
それに関する対処が、「努力のしかたがまちがっている」とか「努力がたりない」「努力したことにならない」ということを言うということになる。
 

これも、最初から決まっていることなんだよ。
 

さらに、相手が、一〇〇%詐欺に気がついて、食い下がってきた場合は、「言い訳をしている」「人のせいにしている」と言うことが決まっている。
最初から、これも決まっている。
 

だから、「おかしいなぁ」と思っても、みんな、黙っている。
 

そうなると、問題のあるライフハック理論が、あたかも、一〇〇%正しいことにのよう思われてしまうのだ。
 

狡猾な、悪魔の所業だ。
計画をたてた頂点・トップグループを抜かして、みんな、ばかしあっている。
 

特に、職業的にライフハックを説明する人間は、みんな、一〇〇%詐欺を行うことになっている。もちろん、詐欺だとは思ってない。思っていないのだけど、詐欺だ。
けど、「詐欺だ」とぼくが言ってしまうと、問題がしょうじるのである。
 

どうしてかというと、彼らは詐欺だと思ってないからだ。
 

本人が、だまされているので、トリックに関して無頓着なのである。詐欺的なポイントに本人が気つがついていないのである。だから、そのライフハックを真実だと思っている人が「詐欺だ」と言われると、おこるということになる。

そして、批判をしてきた人に「人のせいにしている」「言い訳をしている」と言う。いやー、そのライフハックを信じている本人が、人のせいにして、言い訳をしているとしか思えない。


これが、言い訳でなくてなんだ。


まあ、そのライフハックを感じつだと思っている本人が、気がつかない以上、自分が正しいと思っているわけだから、「詐欺的なことは言ってない」ということに(本人のなかでは)なっている。
けど、詐欺なんだよ。残念でしたーー。

まあ、ぼくは、うけが悪いことを知っている。わざわざ、多くの人を敵にまわす必要はない。けど、だれかが言っておかないこと、これは、やばいことだ。


*     *     *
 

「努力をすれば成功する場合もあるけど、失敗する場合もある」という意味で「努力をすれば成功する」と言う場合と、「努力をすれば一〇〇%成功する」という意味で「努力をすれば成功する」と言う場合がある。
 

一人の人のなかで、このふたつの意味が、共存しているのである。
けど、努力をすれば成功するという文は「努力をすれば一〇〇%成功する」という文の意味にしかならないのである。
 

ここら辺が、頭の中で、あいまいだから、詐欺的な行為が発生する。本人は、気がついていないけど、気分次第で、言っていることがちがうのである。
 

おなじ文にちがう意味を込めて、気分次第で、意味合いがちがうことを言っているのである。けど、それに、本人が、気がつかない。

2025年1月12日日曜日

条件同士の組み合わせ

 たとえば、ネガティブな条件の強さみたいなものがあって、ほぼ一〇〇%ぐらいネガティブな出来事を引き起こす条件や、ほぼ一%ぐらいネガティブな条件を引き起こすものまである。さらに、組み合わせによっては、ほぼ一%のネガティブな条件と、ほほど一%のネガティブな条件が成り立つと、ほぼ五〇%ぐらいの確率で、ネガティブな出来事を引き起こすこともある。ようするに、条件同士の組み合わせで、影響力がちがってくる。ひとつの条件だけを取り上げて考えているときは、このことを忘れてしまってはいけない。

詐欺師の明るい世界

 「努力をすれば成功する」というのは、なんか明るい感じがするだろ。しかし、一〇〇%詐欺がある。ようするに、詐欺師の明るい世界だと、「努力をすれば成功する」ということになるけど、みんなが住んでいる実際の世界だと「努力をすると、成功する場合もあるし、成功しない場合もある」ということになる。「努力をすると、成功する場合もあるし、成功しない場合もある」ということが、現実的で正しい世界解釈なのだけど、そこを捻じ曲げて、「努力をすれば成功する」ということにしてしまう。こうすることによって、悪い状態を作り出すことができるのだ。こういう考え方が「はやっている」と、必然的に社会が悪くなるのだ。こういう考え方が「あたりまえのように肯定されている」と、必然的に人間の性格が悪くなるのだ。

2025年1月11日土曜日

「努力をすると、成功する場合もあるし、成功しない場合もある」

 努力すれば、成功するということにも、言霊とおなじようなことが成り立つ。努力論者は、最初、「努力をすれば、成功する」と言う。しかし、だれかが、その言葉を信じて、努力をしたにもかかわらず失敗した場合は、努力論者はどのように言うことになるか? 努力主義者は「努力のやり方が悪かったんだ」「努力の方向がまちがっていたんだ」と言うのである。「努力をすれば、成功する」と言う場合、「努力をする」という集合は、「努力のやり方が悪くても努力をするという集合や、「努力の方向がまちがっていても、努力をする」という集合を含んでいる。当然、「正しいやり方で努力をする」という集合も、「正しい方向で努力をする」という集合も、「努力をする」という集合の中に含まれる。なので、努力をすれば、どんな努力の方法であっても、成功しなければならないのである。「努力をすれば成功する」という文が正しいのであれば、もちろん、成功するのである。もし、正しいやり方で努力をしないと努力をしても成功しないのであれば、努力をしても成功しないのである。もし、正しい方向で努力をしなければ、努力をしても成功しないのであれば、努力をしても成功しないのである。つまり、「努力をすると、成功する場合もあるし、成功しない場合もある」ということになる。「努力をすると成功をする」という文のなかに「努力をしても成功しない場合がある」ということを含めるのは不可能だ。だから、この文……努力をすれば成功するという文は、まちがっている。命題として考えると、「偽」だ。

「ご飯を食べる」と言わなかったのに、ご飯を食べた

  たとえば、ご飯を食べようと思って、ご飯を炊いて食べた。「ご飯を食べる」と言ったあとに、ご飯を食べたわけではない。「ご飯を食べる」と言わなかったのに、ご飯を食べた。事実、ご飯を食べた。これは、「言ったことが現実化する」という理論を考えると、おかしいことだ。たとえば、卵焼きを食べようと思って、卵焼きを自分で作って食べたとする。「卵焼きを作る」と言わなかったのに、卵焼きを作った。卵焼きを作ると言わなかったのに、卵焼きができあがった。言わないのに、卵焼きを作るということが現実化した。さらに、言わなかったのに、卵焼きを食べるということが現実化した。これは、 「言ったことが現実化する」という理論を考えると、おかしいことだ。言霊主義者は、言わなくても発生したことについて、「なぜだ」と問わなければならないのである。言わなくても発生することがあるということを認めなければならないのである。「言わなくても、現実化する」……これは事実だ。なら、言わなくても現実化することはあるし、言っても現実化することはある……ということになる。言わなくても現実化することはあるし、言っても現実化するのであれば、「言ったことが現実化する」と言う必要がないのである。「言えば、言ったことが現実化する」……。「言わなくても、言わなかったことも現実化する」……。ことさら、「言えば、言ったことが現実化する」と言う意味がない。そして、その理論はまちがっている。

毎日ヘビメタが鳴っていてつらかった。こころがちぎれた。

 あの状態を知らないやつに、とやかく言われたくないなぁ……。言われたくないなぁ……。あれを知らないやつに、とやかく言われたくないなぁ。あれ経験してないやつにとやかく言われたくないなぁ……。ほんとうに、どれだけこころが、ちぎれまくったか、わかったものじゃない。だから「やめてくれ」と言っただろ。何回も、何万回も、言っただろ。あれだけもめて、「まったくやったつもりがない」なんて、ほんとうに、きちがい。なんと言っていいのか、まったくわからない。ともかく、「あしのひっぱられかた」というのが、尋常じゃない。どれだけ言葉を尽くしても、実際に、やられた人じゃないとわからない。あの態度で、毎日、毎日、何時間も何時間も、十数時間も十数時間、実際にやった。やったら、きちがいだから、途中でやめてくれるということがない。どれだけ気を取り直しても、けっきょくやられて、ズタボロだった。「すぐに鳴りやむ」と言ったって、鳴りやまなかったし、『影響をうけない』と言っても、影響をうけていた。あの、きちがい的な音が、ものすごい音でずっと鳴っている。勉強なんてできるわけがない。あの音のなかで勉強をしようとしたら、試験のときに、ヘビメタ騒音が頭の中で鳴っていて、まるで、できなくなってしまった。ヘビメタ騒音のなかで、なんとか勉強をしようとしていたとき、けっきょく、勉強なんてできなかったんだけど、そのときの、緊張感や頭の混乱が、そのまま、試験中に復活してしまうんだよな。それから、これは、どれだけ言っても、経験しなかった人にはわからないと思うけど、ほんとうに、いろいろなところで、不愉快なことが発生するのである。そして、普通ならできる行動ができなくなる。「そんなの関係ない」と言うやつは、ただの騒音だと思っているけど、そんなんじゃない。ほんとうに、どれだけ誤解をされたかわからない。ほんとうに、ヘビメタ騒音のことでどれだけ誤解をされたかわからない。こっちとしては、疲れはてていて、反応できなかったというのもある。たとえば、プレゼントをもらったのに、お返しのプレゼントをあげることができなかったということだ。これ、失礼なことなのである。そういえば、思い出したけど……あのときは、ほんとうに、ヘビメタ騒音で高校に落ちまくりで、「それどころじゃなかった」。落ちたあと、ある程度、期間があったわけだから、プレゼントを買ってやるべきだったんだよな。大原さん、あのとき、ごめん。ヘビメタ騒音のことで、忘れていた。中学三年から、高校一年にかけての、春休みも、毎日ヘビメタが鳴っていてつらかった。こころがちぎれた。

ともかく、つまらない

  書くかどうかまようけど、正直言って、つまらないーー。つまーーーんない。元気になって、部屋片づけをバリバリやるつもりだったけど、元気にならない。だいたい、ダニにされることになるので、片づけはやりたくない。ともかく、つまらない。長期ヘビメタ騒音で、死んだ。あのとき、やっぱり、ぼくの内部で、ぼくが死んだんだな。まあ、なんとか、生きているけどね……。かりそめの姿で生きている。

2025年1月10日金曜日

「こまっている人がいたら、悪い条件でこまっているんだな」と思ったほうがいい

  言えば言ったことが現実化するという考え方についてちょっと考えてみよう。

「言う」という集合のなかには、「こころをこめて言う」という集合も含まれている。最初から、含まれている。

当然、「こころをこめないで言う」という集合も、「言う」という集合のなかに、最初から、含まれている。

「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだから、こころをこめないで言った場合も、現実化するということになる。

ところが、このことが、わかってないのである。言霊主義者は、このことがわかってないし、指摘しても、なかなか認めない。

それは、実際には、言ったのに現実化しないことがあるからなのである。

言霊主義者が、だれかに「言えば言ったことが現実化する」と言ったとしよう。その誰かが「言ったけど、現実化しなかった」と言霊主義者に言ったとする。

そのときになって、はじめて「こころをこめて言わないからダメなのだ」ということを言い出す。

最初に「こころをこめないで、言うと、現実化しない場合もあるけど、こころをこめて言えば、現実化する」と言うべきなのだ。

まあ、こころをこめて言ったって、現実化しないものは、現実化しない。

それから、言霊主義者は、言霊の力を信じているわけだけど、実際には、言霊の力なんてない。最初から、言霊の力で、現実化することはないのだから、言霊の力で現実化したと言霊主義者が思うようなことが現実化しているだけなのだ。

たとえば、言霊主義者は、「言ったあと」と「言ったから」の区別がつかないので、言ったあとに現実化した場合、言霊の力によって現実化したと思い込むことで、言霊理論を正当化している。

全部が、まちがったプロセスなのだ。

言ったあとの特殊なケースで、「言ったから」と言えるものがある。

けど、その場合も、言霊の力によって、現実化したわけではないということがはっきりと言える。

たとえば、喫茶店に行って、席にすわり、「ブレンドコーヒーをもってきて」と言ったとする。言ったあと、現実化する。

けど、注文をうけた店の人が、ブレンドコーヒーを作っているのである。言霊の力で、ブレンドコーヒーが自分のまえに出現したわけではない。

こういうことを、言霊の力によって現実化したと、無理やり誤解をするので、言霊主義者にとっては、「言霊理論は正しい」ということになっているのである。

もう、これは、さんざん、説明してきたことだけど、ぼくがリアル世界で会った範囲では、こういう説明をして、納得してくれた言霊主義者がいないのだ。たぶん、ネットで出会ったことがある言霊主義者もおなじだと思う。

言霊主義者は、ぼくの説明を聞くと、ほとんどの人が、おこる。不機嫌になるのだ。

まあ、不機嫌になったら「楽しい楽しい」と言えば、いいわけだから、問題、ないよね。「エイリさんから素敵な話を聞けて、とてもうれしい」と言えば、うれしいと思うわけだから、問題ないよね。

ところで、言霊理論が正しいということになっていると、条件が悪い人が、ぼこぼにされるということが発生する。

ようするに、攻撃をうける。

精神世界一般の人に当てはまることなんだけど、実は、精神世界一般の人は、「弱っている人」「こまっている人」を攻撃する。「のび太の思いが、ジャイアンをして、のび太をなぐらせた」と本気で思っている人たち……ばかりだ。

ジャイアンのほうをせめずに、なぐられたのび太をせめるのである。のび太の思いが、のび太がこまった状態を作り出していると、言い始めるのだ。

『こんなことをやって、なにが、スピリチュアルなんだ?』と思うけど、実際には、精神世界一般の人はこういうことを、している人たちばかりだ。

ぼくが言いたいことは……「こまっている人がいたら、悪い条件でこまっているんだな」と思ったほうがいいんじゃないかということだ。

こまっている人がいたら、「ネガティブなことを言うから、こまっているんだ」とか「ネガティブなことばかり言ってるからネガティブなことを引き寄せるんだ」と思うのは、もう、やめにしないか?

2025年1月9日木曜日

どういう範囲で「他人」という言葉を使っているのかということに、常に注意をはらわなければならない

  ああっ、それから、『自分の受け止め方次第だ』という考え方について、ちょっと言っておく。

たとえば、相手に期待しなければ腹がたたないということが言われる。

相手に期待するから、腹がたつんだという理論だ。

そういう、部分もある。

つまり、そういうことが成り立っている「範囲」がある。

けど、すべて、そういうことが成り立っている「範囲内」で発生することなのかというと、ちがうのだ。ぜーーんぜん、ちがう。

こういうのも、「例」としてあげられることと、実際に発生していることの間で乖離がある場合がある。

はっきり言えば、きちがい兄貴やきちがい親父の行動は、「範囲外」の行動なのだ。

たとえば、「自分の受け止め方次第だ」という内容の本を書いた人がいるとする。その人は、まともな「家(いえ)」で成長した人なのだ。そして、「そと(外)」で、ちょっと嫌な人にあっただけなのだ。

ちょっといやな人が与える影響と、きちがい家族が与える影響はちがう。

ちょっといやな人が与える影響と、きちがい家族が与える影響の区別しないというのは、そもそもがまちがったことだ。ようするに、こういう人……こういう本を書く著者も……条件わけができてない人なのだ。

「他人」と言えば、きちがい家族も、職場のちょっといやな人も、おなじ他人だ。

だから、他人という言葉で、区別なく、いっしょくたにできるのかというと、そうではないのだ。他人という言葉も、抽象度が非常に高い言葉で、どの他人も、他人だということになる。

けど、いっしょに暮している家族と言う他人と、年に何回か会うぐらいの他人では、影響力がちがうのである。いっしょの家に住んでいる家族という名の他人と、学校や職場であう他人も、影響力がちがう。

だから、他人という言葉で、いっしょくたにして、あたかも、いっしょの家に住んでいる家族という名の他人と、学校や職場であう他人も、「他人というカテゴリー」のなかで考えてはいけないのだ。

その人間が、いっしょに住んでいる家族なのか、いっしょに住んでいない家族なのか、毎日、職場や学校であう人間なのか、ときどきあうだけの親戚なのかということは、「他人」のあたえる影響ということを考える場合には、非常に重要なことだ。

この区別を「他人」という言葉で、いっしょくたにしてしまっていること自体が、科学的ではないのである。

言ってみれば、まちがった結論にみちびいているのである。

抽象度が高い言葉を使う場合、その言葉の中に含まれる範囲が非常にでかいので、その範囲内の「こういう人」には成り立つけど、その範囲外の「こういう人」には成り立たないということが発生する。

アンガーマネジメントなど、人間の感情や人間の行動に関係することに関しては、どういう範囲で「他人」という言葉を使っているのかということに、常に注意をはらわなければならないのである。

実際、普通の人のようには、相手が言ったことを認識してないのである。

 害虫の攻撃を、わらってうけながすと、こころがどんどん、不健康になるのである。なんとも言えない憂鬱な感情が、こころの奥底につもっていく。

なにも感じないふりをして、害虫の攻撃をうけながしているときも、害虫が言うことについて、反論をするときも、なんとも言えない憂鬱な感情が、こころの奥底につもっていく。帰れば、きちがいが鳴らしている。どうして、ぼくが自分の兄のことを、きちがいだと言うかというと、普通の人が気にしてやらないことを、まったく気にしないでやりきるからだ。普通の人なら、ほかの人に配慮して、ああいう音で鳴らそうと、そもそも、思わない。

ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、ほかの人に迷惑がかかるから、こういうでかい音で鳴らすのは、やめようとは思わずに、ガンガン鳴らす。きちがい親父もきちがい兄貴もおなじで、自分がやっていることに、ちょっとでも、文句を言われたら、発狂する。

発狂して、はねのけたら、「ない」ことになってしまう。

「言われなかった」ということになってしまう。「相手が言っている内容」をやってないと思ってしまう。きちがい的な意地で、その迷惑行為を続行して、「相手が、自分の行為でこまっている」ということを、完全に忘れてしまう。

これ、いちおう、文章として、忘れてしまうと書いたけど、そもそも、認識してないのである。

これ、自分が、意地になって、相手の言っていることを否定して、そのあともやりきったという、認識がないのである。

しかも、そのあと、やり続けているわけだけど、やり続けているときも、相手がこまっているということは、まったく、言われなかったからわからない状態に、復帰しいるのである。

どれだけ、何回言っても、言われるたびに「まったく、言われなかったからわからない状態に、復帰」してしまうのだから、何回言われても、ゼロ回しか言われなかったということになってしまうのである。

だから、外側から見ると「しらばっくれて」鳴らしているということになる。

実際、普通の人のようには、相手が言ったことを認識してないのである。

こういう、認識のズレがある。

兄貴のヘビメタ騒音を起点として、不愉快な出来事が、どんどん、発生するのである。

 きちがい兄貴はガン無視して、「関係、ない」と言う人も、ガン無視するけど、めちゃくちゃな状態なんだよ。ものすごく、めちゃくちゃな状態が、めちゃくちゃにつもっていく。これ、一倍速で経験しないとわからないと思う。「騒音なんて、関係ない」「そんなのは、関係ない」「影響なんて、ない」と言う人は、経験してないからわかってないだけなんだよ。けど、その人たちにとっては、実際に、うちのきちがい兄貴の騒音は、関係がないことなのである。影響がないことなのである。だから、「関係がない」ということを確信しているし、「影響がない」ということを確信している。こういうやつらが、ぼくにとって、どういう存在かというと、害虫だ。きちがい兄貴は、死神きちがい。きちがい死神。不幸をもたらすもの。「関係がない」「影響がない」と言うやつは、害虫。俺のからだを刺しまくる。そして、きちがい兄貴のヘビメタが鳴っているうちにかえるわけだから、かゆい状態で、さらに、くるしい状態になるのである。どれだけ「やめろ」と言っても、きちがい兄貴が、頭がおかしいレベルで、無視して、きちがい兄貴の満足がいく、きちがい騒音を鳴らしているからだ。毎日、からだのだるさも、からだのかゆさも、積もっていく。不愉快な世界だ。不愉快さが、どんどんつもるのである。きちがい兄貴のヘビメタ騒音を起点として、不愉快な出来事が、どんどん、発生するのである。

条件を無視することがはやっている

 条件を無視することがはやっているのである。条件は、最初から、かならず、無視しなければならないことなのである。条件が影響をあたえているという考え方は、まちがっていると思い込んでいるのである。ところが、実際には、数々の条件が、影響をあたえている。他人の条件は、かならず無視して、妄想的なことを言うというのが、はやっているのである。

悪い条件をかかえている人の場合、条件を無視されると、不愉快な気持になるのである。いっぽう、よい条件をかかえている人の場合、条件を無視されると、いい気持になるのである。どうしてかというと、条件ではなくて、その人の才能や努力が評価されることになるからだ。ほんとうは、条件がいいから、うまくいっただけなのに、才能があると評価され、努力をしたのだと思われるのである。

悪い条件を無視して、悪い条件の影響を無視するように、洗脳されているのである。こいつらがやっていることは、よくないことだ。けど、あまりにもあたりまえに行われているものなので、うたがうことができないのである。そして、自分もその色に染まるのである。他人を見るときは、条件に関係なく、その人の才能や努力が、その人の「地位」に反映していると思い込むようにしているのだ。だから、ろくでもない人を尊敬するようになる。

しかも、気がつかない。本人は、気がつかないのだ。ほんとうに、ろくでもない人間ばかり、尊敬している人間がいる。こいつは、完全に思考力を奪われている。本人は、自分で考えていると思っているけど、社会が供給した価値観をうたがいなく信じている。自分自身の考え方というのが、実は、社会が供給した考え方だということに気がついていない。

社会と書いたけど、悪い人たちが、悪い人たちにとって都合がいい価値観を供給しているということだ。悪い人たちが供給する「きれいごと」には、かならず、副作用があるのである。その副作用で、「きれいごと」を信じている人のこころも、きたくなるし、社会もきたくなるのである。「きれいごと」なので、一見「よさそうにみえる」のである。「よさそうにみえる」のだけど、緩慢で持続的な副作用がある。その副作用で、人も、社会も、より悪くなっていくのである。

2025年1月8日水曜日

自分のからだのことではないので、ほんとうのことは、わからない

自分の夢や自分の希望について考える場合は、自分の条件というものを、現実的に考えることができる。自分が一倍速で経験してきたことが、自分の「いまの」条件を作り出しているということに、疑問をもたない。実際に、経験してきたことなので、自分が経験してきたことを考えれば、自分の条件について考えることができる。しかし、他人の条件だとどうだろう? 他人の条件は、聞いたことがない場合は、まったく知らないし、聞いた場合は、聞いたことだけしか、わからない。そして、その経験がほんとうにもつ意味は、わからない。その経験がその人のからだにあたえた影響が、わからない。自分の経験が自分のからだにあたえた影響なら、わかるのである。

この場合、条件を無視した思考だと、ごく普通に、相手の条件を軽視し、無視することになる。相手が「こうだ」と言ったって、「そんなのは関係がない」と言える。自分のからだのことではないので、ほんとうのことは、わからない。自分が経験してきたことなら、自分が経験したことが「いまのからだ」にあたえている影響が、ごく自然にわかる。けど、他人の話を聞いたところで、他人の出来事が他人のからだにあたえた影響なんて、わからない。いちおう、言葉だけで理解したとしても、それは、言葉だけの理解なので、たいへん質が悪い理解だ。たいへん理解の程度が浅いと言わなければならない。

「XをすればYになる」という文型におさまるライフハックは、全部、条件を無視したものなのである。どういう家に生まれたか? どういう経験をしてきたか? そういうことを無視して「XをすればYになる」と言っているのだ。これじゃあ、おおざっぱなことでも、判断をまちがえる。条件による場合分けなんて考えなくていいということになっているので、条件が悪い人には、無理なことを言うことになる。条件が悪い人は、「Xをしたって、Yにならない」場合のほうが多いのである。しかし、XをすればYになる」という言い方にはXをしてもYにならない場合が含まれない。すべての場合において「XをすればYになる」のである。その前提自体がまちがっている。

2025年1月7日火曜日

これは、こころにひろがる毒なんだよ。

 「思いが現実化する」ということのどこが悪いんだ? と思う人もいると思う。

けど、その人たちは、勘違いをしている。

ぼくが言いたいのはそこじゃないわけ。

ぼくが言いたいのは、そういう「いいこと」だと思われていることが、実は、社会のゆがみをうみだしているということなんだよ。

思いが現実化する……というのは、自分の希望がかなうということだから、とてもいいことなのだけど、理論に問題があるわけ。

端的に言ってしまうと「のび太の思いが、ジャイアンをして、のび太をなぐらせる」というようなことを、正しいこととして認識してしまう人がいるわけ。

けど、それは、間違っているわけーー。

あと、こういう人たちは、出来事の順番を無視して、「思ったから、こうなったんだ」と決めつけてしまうわけ。

そして、自分のことなら、ともかくとして、他人のことに関して、こういう決めつけをしてしまうのは、ものすごくよくないことであるわけーー。わかるかな?

出来事の順番を無視するというのは、時系列的な順番を自分で、都合がいいように書き換えて、事実を上書きしてしまうということなんだよ。わかるかな?

順番がある。

「思いが現実化する」と思っているわけだから、思いのあとに現実がくるわけ。

ところが、実際の社会では、現実が、さまざまな思いをうみだしているわけ。だから、この順番を無視してはいけないわけーー。わかるかな?

たとえば、水俣病になって苦しんでいる人は、水俣病になってから、くるしくなったんだよ。そして、有機水銀という物質的な原因があるわけーー。ところが、思いが現実化するということにことに、こだわっている人は、実際に、水俣病になって苦しんでいるなら、水俣病になるまえに、水俣病になって苦しむとと思ったはずだと思ってしまうわけ。

順番がある。

条件が悪い人は、条件が悪い。

これをまず認めてあげなければならないわけーー。

ところが、条件は無視してしまうので、実際に考えられる条件は、「思うかどうか」ということになる。実際に、不幸な事件が発生したなら、その人が、不幸な事件を引き寄せたんだと、引き寄せ思考をしてしまうわけ。

ところが、その人のせいじゃないことがほんとうにある。だから、ほんとうは、その人のせいじゃないのに「その人のせいだ」とせめることになる。

「思いが現実化する」と思っている人は、内側の思いが、時系列的に「さき」にあって、そのあと、その思いが現実化すると考えるわけだから、「その人が悪いことを思ったから、悪いことが発生した」とごく単純に考えてしまうわけーー。

ところが、それが、まちがいなんだよ。

だから、「思いが現実化する」と思って夢をかなえるようなパワーを感じているときとは、ちがったことが起こるわけ。起こってしまっている。わかるかな?

自分の思いは、思ったから現実化するはずだと、思っているときは、別にいいのだーー。

けど、他人に対して、「そのひとのせいだ」と思っているときは、ネガティブな思いにとらわれているわけ。そして、他人を攻撃するわけ。実際に、他人を攻撃するときのロジックがあっているのなら、まだしも、ロジックが完全にまちがっている。

完全にまちがったロジックで他人を攻撃している。これが、ポジティブなことであるはずがないでしょ。

もし、ポジティブだとしたら、悪いポジティブだ。

「思いが現実化する」ということを考えている人は、「自分の夢が現実化する」ということしか、最初は、考えてないのだけど、だんだん、不幸な他人をせめるような気持ちになっていくわけーー。

その、不幸な他人をせめるような気持ちになることが、最初から、決まっているわけ。これは、自己実現なんてものにこだわっている人が、だんだん、ホームレスを軽蔑するようになるのと、だいたい、おなじしくみが成り立っている。

ようするに、「思いが現実化する」という理論には、最初から、この攻撃が内包されている。 「思いが現実化する」と思ったときから、じつは、この攻撃性が、毒のようにこころに広がっていくわけ。

どうしてかと言うと、これまた、ほんとうは無視してはいけない「条件」というものを無視してしまうから、そうなる。不幸な環境のもとに生まれたから、不幸な出来事を経験してしまう人がいるわけなんだけど、その人は、別に不幸なになるとか不幸なことを経験したいと思っているわけではないのだ。ところが、「思いが現実化する」ということにこだわる人は、だんだん、不幸な人は不幸になることをのぞんでいたから不幸になったと考えるようになるわけ。これは、こころにひろがる毒なんだよ。

だから、まあ、内に秘めた強い思い……ということでいいんじゃないの。「思いは現実化する」と内側で、強く思っていればいいわけ。「不幸な人は、不幸になると思ったから不幸になったんだ」と思ったときは、「人には条件がある」「現実の出来事のほうが先だという場合もある」と思ったほうがいい。これ、「思いが現実化する」というのは、何度も言うけど、実際に不利な人を攻撃する部分がある。これは、最初から内包されている。

*     *     *

基本、いまの社会というのは、悪魔が作った社会なので、価値観も、悪魔の影響をうけている。どれだけきれいごとを言っても、きれいごとのなかに、悪魔的な部分が含まれている。

たとえば「努力をすれば成功する」ということにこだわっていると、次第に、成功してない人を努力しない人ととして、軽蔑するようになる。成功してない人を、せめる気持ちが出てくる。

たとえば、「人間は働くべきだ」ということにこだわっていると、次第に働いてない人をうらむようになる。無職を攻撃したい気持ちになる。

そして、自分が働けなくなったら、「それはしかたがない」と自分勝手なことを言い出す。自分がかつて、働けない人に「人間は働くべきだ」と言って攻撃していたことは忘れてしまう。「自分は働かなくてもいいけど、他人は働くべきだ」というようなことを言って、矛盾を感じない。これは、他人にいい影響をあたえない。

2025年1月6日月曜日

「うまく言うこともできないダメなやつ」というレッテルをはる

ライフハックのような方法でどうにかなるということになっていると、条件が悪い人の条件が、無視されるのである。あるいは、極端に軽視される。影響をあたえないことになってしまうのである。影響がないことになってしまうのである。

けど、実際には、影響がある。まず、影響を認めるべきなのだ。ところが、影響を無視して 「言えば、言ったことが現実化するから言えばいい」とか「思えば、思ったことが現実化するから思えばいい」とかと説明するわけだ。

これは、いい行為か、悪い行為かと言えば、悪い行為だ。

条件が悪い人は、条件が悪いので、失敗する。いいことにならない。空振りの数が増えるだけなのである。そのぶん、よけいにくるしくなる。

*     *     *

相手が、それをここみたあと失敗すれば、「言い方が悪かったんだ」「思い方が悪かったんだ」と試みた相手に対して、ダメ出しをする。

「言えば、言ったことが現実化する」のだから、言い方は関係がない。「思えば、思ったことが現実化するのだから、思い方は関係がない。自分が言ったこと……自分の主張がまちがっていたということを認めないのである。

「言えば、言ったことが現実化する」と(言霊主義者が)言うので、(自分も)言ってみた。けど、言ったことが現実化しなかった。

それなら、言ったことが現実化しなかったということなのである。

言い方にかかわらず、言えば、言ったことが現実化するはずなのである。どうしてかというと、「言えば」という条件のなかには「言い方」が含まれてないからだ。

おなじことが「思えば、思ったことが実現化する」ということにも成り立つ。「思う」という条件のなかには「思い方」なんて含まれていない。

結果的には、条件が悪い人に対して、「ダメ出しをする」ことに成功する。条件が悪い人は、たいへん高い確率で「言い方が悪い人」「思い方が悪い人」になるのである。

言い方が悪い人は「うまく言えない人」ということになって、ダメな属性を付与することになるのである。思い方が悪い人は「うまく思えない人」ということになって、ダメな属性を付与することになるのである。

条件が悪い人に、無理なことを言って、だめに人間にしたてあげるのである。

「うまく言うこともできないダメなやつ」「うまく思うこともできないようなダメなやつ」というレッテルをはる。

もともと、悪い条件を認めないというところから出発するのである。悪い条件が、できない状態を作り出しているのに、悪い条件をガン無視するのである。そして、「こうすればよくなる」とアホなこと・無理なことを言い出す。

アホなこと・無理なことを相手がやったとする。相手は悪い条件によって、できない状態になっているので、成功しない。相手が悪い条件について語れば「そんなのは、いいわけだ」と言うことになっているのである。

最初から決まっているのである。

「言い方が悪い」「そんなのはいいわけだ」と言うことになっている。「思い方が悪い」「そんなのはいいわけだ」と言うことになっているのである。相手がほんとうの理由……悪い条件について語ると、「そんなのはいいわけだ」と返すことに決めているのである。

「そんなのは、関係がない」「そんなのは、いいわけだ」と言うことになっている。

相手の「悪い条件」を無視するということは、本当の原因を無視するということなのである。

「そんなのは、関係がない」「そんなのは、いいわけだ」と言われて、いい気分になるかと言うと、いい気分にならない。

「社会を明るくする」とか「人を助けたい」と言って、 「言えば、言ったことが現実化する」とか「思えば、思ったことが現実化する」とかと言うわけだけど、そのぶん、社会が明るくなったかということや、そのぶん人を助けることができたかということが、問題になる。

「そんなのは、関係がない」「言い方が悪い」「思い方が悪い」「そんなのは、いいわけだ」と言って、相手の気分をめちゃくちゃにしているだけではないか。ぜんぜん、助けになってない。そんなことを、社会のあらゆるところで繰り返しても、ぜんぜん社会が明るくならない。むしろ、暗くなる。

*     *     *

 「言えば、言ったことが現実化する」とか「思えば、思ったことが現実化する」とかいうことについて、話してきたけど、ライフハックのほとんどすべてが、これとおなじ結果になる。詐欺部分・トリック部分があるので、言っているやつは、気分がいいのだけど、言われたほうは気分が悪い。

どうしてかと言うと、詐欺的な理論を展開するやつは、一番重要な条件を無視しているからだ。

悪い条件を無視して「こうすればいい」ということを言っている。「こうすればいい」と言っているほうは、その悪い条件がなく、悪い出来事が発生してないのである。ただ、それだけ。

ところが、これを自分の実力だと思っているのである。そして、「自分には言ったことを現実化する力がある」「自分には思ったことを現実化する力がある」と本気で思っているから、相手に対して、無礼なことをしても、無礼なことをしたということに気がつかない。

自分にはチカラがあるからオッケーで、相手には、チカラがないように見えるから、「いい方法を教えてあげる」のである。

ところが、自分には「自分には言ったことを現実化する力がある」「自分には思ったことを現実化する力がある」と本気で思っている場合も、そんな力(ちから)をもっていないのである。本人はもっていない。

単なる勘違い。

単なる妄想。

もっているような気分になっているけど、もってない。

だから、本人は、自分の現実的な問題に関しては、言霊の力をつかって問題を解決しようとしたり、思霊の力をつかって問題を解決しようとしたりしないのである。

ようするに、おいしいラーメンが食べたいときは、おいしいラーメンを提供している店に行ったり、おいしいと思っているインスタントラーメンを自分で作るという現実的な方法を採用している。

以降、言霊について説明するけど、思霊にもおなじことが成り立っている。

「おいしいラーメンが、目の前に出現する」と言って、おいしいラーメンを食べるわけではないのである。言ったことが現実化するなら、「おいしいラーメンが、目の前に出現する」と言えば、出現するはずなのである。

時間制限をつけてはいけないというルールはないので……つまり条件がないので……「三秒以内に、おいしいラーメンが、目の前に出現する」と言えば、三秒以内においしいラーメンが目の前に出現するのである。

もし、言霊理論が正しければそうなるのである。

ところが、実際にはそんなことはない。

言霊主義者は「三秒以内に、おいしいラーメンが、目の前に出現すると言っても、三秒以内においしいラーメンが目の前に出現しない」ということを無視しているのである。

ガン無視。

そして、自分ならできると、言い張るのである。

どうしてこういう矛盾した態度が成り立つかと言うと、それは、言霊理論が、幼児的万能感に根差したものだからなのである。ようするに、矛盾なんて感じないようになっているのである。

普段の現実的な問題に関しては、言霊による解決方法は無意味だということを知っているから、現実的な解決方法を(ごく自然に)採用するのである。

けど、その場合も、「自分は言霊の力(ちからをつかえる」という認識と「現実的な問題に関しては現実的な問題解決方法を採用している」ということが、矛盾しないようになっているのである。

どうしてかというと、現実的な問題解決方法を採用しているときは、「言霊の力(ちから)」をガン無視するからだ。

こんどは、「言霊の力(ちから)」をガン無視することで、矛盾を感じないようにしているのである。

言霊には力(ちから)があると確信しているときは、現実の条件をガン無視して、現実的な問題解決をするときには、言霊の力(ちから)をガン無視するのである。

たぶん、これも、無意識的な選択と、無意識的な無視が成立しているからできることなのだと思う。

言霊思考をしない場合と、言霊思考をする場合について、わけると、言霊思考をする場合は、自分の夢や希望に関することであって、解決の必要性がその場面ではないことにかぎられるのではないかと思う。

ようするに、すぐに解決したい場合は、現実的な問題解決法を採用して、時間的に余裕がある自分にとってプラス向きの夢や希望に関しては、言霊思考を採用するのである。

「いつか、かなう」と思って生きているのである。

もちろん、言霊の力がそれほど強烈なのであれば、そして、言霊の力が実際に存在しているのであれば、「いつか、かなう」などと悠長なことを言ってないで、その場で、言霊の力(ちから)を使って解決するはずなのである。

ところが、言霊主義者も、実際には、言霊の力(ちから)なんて信じていないので、現実的な場面では、現実的な解決方法を採用するのである。問題なのは、言霊の力(ちから)を信じていないということに関して、言霊主義者が、無頓着なことだ。

無頓着と言ったけど、矛盾は(無意識的に)無視しているのである。

もしかりに、現実的な場面で、言霊的な解決方法を採用した場合、「言霊なんてない」ということに気がつくからだ。

気がついてしまうので、無意識的に、気がつかないように、言霊的な解決方法が、現実的な場面では、採用されないのである。

どれだけ、「三秒以内に、おいしいラーメンが、目の前に出現する」と言ったって、言っただけで、言霊の力によって「三秒以内に、おいしいラーメンが、目の前に出現する」ということはない。どうしてかというと、言霊にはそんな力がないからだ。三秒以内に、おいしいラーメンが、目の前に出現する」という言葉に、言霊が宿っていて、その言霊力によって、三秒以内に、おいしいラーメンが、目の前に出現するなんてことはない。たとえば、これも現実的ではないけど、三秒以内においしいラーメンを出すラーメン屋があったとしよう。その場合は、「おいしいラーメンをおねがいします」などと言えば、三秒以内においしいラーメンが出てくる。まあ、三秒じゃなくて三〇分以内なら、現実的だろう。

「三〇分以内においしいラーメンを出すラーメン屋に行って『おいしいラーメンをおねがいします』と言ったら、三〇分以内に、おいしいラーメンが出てきた。だから、言霊は存在する。言霊には力がある」と言っているのが、言霊主義者だ。ここにも、トリックがある。けど、「言ったから、こうなった」「言ったことが現実化した」「これが言霊の証明だ」と粋がっているのが、言霊主義者なのである。けど、そんな言霊主義者も、三〇分以内においしいラーメンを出すラーメン屋に行かずに、自分の部屋で、「自分の机の上に三〇分以内に、おいしいラーメンが出現する」と言って、おいしいラーメンを出現さることができるかというと、できない。言っておくけど、言っただけだからね。自分で台所に行って三〇分以内につくるというようなことは、なしだからね。それじゃ、言霊の力で、「ラーメンを目の前に出現させた」ことにならない。超自然的な言霊の力で出現させなければ意味がない。超自然的と書いたけど超物理的でもおなじだ。

そういう説明のしかたがいきわたっていれば、そのぶんだけ、社会が悪くなる。

 「言えば、言ったことが現実化する」とか「思えば、思ったことが現実化する」とかというのは、詐欺とおなじ罠がある。これ、詐欺のテクニックとおなじなんだよ。だから、こまっている人は、もっとこまることになる。どうしてこまっているのかというと、条件が悪くてこまっている人は、もっと、不愉快な思いをすることになる。基本、一般人は、詐欺師ではない。ようするに、カネ儲けがかかわってない。しかし、詐欺師がよりよく活動できるようなしくみを作っている。どうしてかというと、原理的にはおなじことをしているからだ。カネのやり取りがないだけなのである。善意の助言というかたちをとるのだけど、カネのやり取りを抜かせば、詐欺師とやっていることがおなじだ。一般人がやっていることは、カネのやり取りを抜かせば、詐欺師がやっていることとおなじなのである。一般人が、罠……トリック部分を信じて、自信満々で、詐欺的なトリックがある説明をしてしまうのである。そういう説明のしかたがいきわたっていれば、そのぶんだけ、社会が悪くなる。


 

2025年1月5日日曜日

質がちがう時点で、ちがう騒音だ。

 ヘビメタ騒音で、ひとつ、ひとつ、が、重い。とても、楽しめたもんじゃない。これ、けっきょく、きちがい家族による騒音を毎日毎日、十数年にわたって経験した人じゃないとわからないと思う。特に、学校に通っていた前期七年間は、ものすごくつらかった。これ、脳みそに刻まれる。きちがい兄貴が、きちがい的なやり方で、騒音を鳴らし続けた。これはでかい。きちがい家族が、きちがい的なやり方で、騒音を鳴らしたわけではないという場合は、ぼくが言っていることがわからない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、騒音の、騒音がちがう。ちがう騒音について語っている。そいつは、語っている。ちがうと思ってないんだよね。同質・同量の騒音を経験したということになってしまう。けど、ちがう。ところが、ちがうということを、今度は、「俺だって騒音ぐらいあった」と言い切る人が認めない。特殊な家族が特殊なことをすると、こうなってしまう。世間の人が普通に経験する騒音と、特殊な家族がいるから、経験する騒音はちがうのである。質がちがう。もう、質がちがう。量だってちがうけど、質がちがう時点で、ちがう騒音だ。

けっきょく、きちがい家族がいない人が、俺だって騒音ぐらいあった」と言って、「通勤しなきゃダメじゃないか」ということを言うわけ。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」ということを言うわけ。いやーー。関係、あるんだわーー。けっきょく、自分が十数年間にわたってやられなかったから、言えることなんだよ。けっきょく、自分が十数年間にわたって、毎日毎日、経験しなかったから、「たいしたこと、ない」と言えることなんだよ。「自分だったら平気だ」と思えることなんだよ。経験してないから、『自分だったら平気だ』と思えるだけだ。経験していたら、そんなことは、言えなくなる。経験してないからわかってないだけなのに、経験したって自分は通勤できるという前提で、言ってきやがる。正しいことを言っているつもりだ。こいつの頭のなかでは、ヘビメタ騒音なんて、どれだけなってたと言ったって、そのくらいのものなのである。

こういう態度で、「人間は働くべきだ」ということを言うことが、いいことだと思っている。悪いことだ。こういうやつらが、アホだから、わからないだけだ。いい助言をしているつもりになっているかもしれないけど、悪い行為をしている。アホな行為をしている。なんでわからないんだ?

ほんとうにアホだな。あきれかえるぐらいアホだ。こいつらはこいつらで、俺が説明しても認めないんだよ。ひとつには、自分が経験してないということがあるのだけど……経験してないからわからないということがあるのだけど……もうひとつは……俺を見下しているから、俺がか言っていることが正しいとは思えないということがあるんだよ。どうして見下しているのかというと、働いてないからだ。けど、ほんとうに、あれだけ長い間、至近距離で、自分がこの世で一番嫌いな音をあびせられると、通勤できなくなるのである。どれだけがまんして、通学していたか、わかってない。だいたい、普通の人だって朝はつらいとは思うけど、その普通の人というのは、きちがい家族と一緒に住んでないから、きちがいがきちがい的な意地で鳴らす騒音を七時間から一三時間、聞かされてない人なのである。浴びせられてない人なのである。トイレにいるときも風呂に入っているときも、ガンガンガンガン鳴らされて落ち着けない状態をずっとずっと毎日、一一年間経験してない人なのである。四年間は、そりゃ、家に帰ってきて、風呂に入れば、風呂に入れば、きちがい兄貴は、やめないから、 ガンガンガンガン鳴らされて落ち着けない状態になる。「俺が帰ってきた時だけ、鳴らすな」「俺が風呂に入っているときは鳴らすな」と言ったって、きちがい兄貴が満足できる音で鳴らし続けている。殺さなければやめない状態で鳴らしていた。しかも、そういうことをおしつけているつもりがないのである。きちがい兄貴してみれば「まったく鳴らしてない」のとおなじつもりだからだ。これが、きちがいなんだよ。ほかの人は、まったくわかってない。こういう態度でやられたらどれだけ腹がたつか、ぜんぜんわかってない。毎日やられれば影響がある。けど、「自分だったら、そのくらい鳴らされても、影響なんてない」と考えてしまうやつが、いっぱいいる。あるいは、「家族がそんな音で鳴らしているのに、ほかの家族がしずかにさせようとしないなんてへんだ」と思ってしまうやつが、いっぱいいる。全部、俺が誤解、される。

 「自分だったら、そのくらい鳴らされても、影響なんてない」と考えているやつに「質がちがう時点で、ちがう騒音だ」と言ったって、こいつらは、認めない。自分がまちがっていて、相手(エイリが)正しいとは思わない。見下しているわけだしな……。これ、どうして見下してくるかというと、ヘビメタ騒音で、ぼくがダメな状態になっているからだ。たとえば、通勤できない状態になっている。そうすると、「通勤できないなんて言っているやつはダメなやつだ」と普通に思うわけなんだよな。けど、実際に、俺とおなじことを、俺とおなじ期間の長さ、ずっとずっと、経験したら、通勤できないからだになる。わかってないだけだ。経験してないだけだ。

たとえば、無職属性ということについて考えてみよう。「無職」であるということだ。無職に偏見をもっている人は、無職である人を軽蔑する。見下す。もう、相手が無職だということだけで、無職に対する偏見が爆発して、相手を見下す。これが、たとえば、無職にたいして偏見がある人にとっていい行為なのか悪い行為なのかというと、いい行為ではないにしろ、悪い行為ではないのだ。「あたりまえの行為」だ。「問題のない行為」だ。あたりまえだと思って、見下してくるのである。けど、じゃあ、どうして、無職になってしまったかというと、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴っていたから、無職になってしまったのだ。ところが、実際に、きちがいヘビメタ騒音を浴びてないやつは「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だってつらい思いをした」と言って、同等の騒音を浴びたことにしてしまう。そのうえで無職である俺に対して、文句を言ってくるのだ。理解が浅い、ろくでもないやつだ。思考力がないやつだ。頭がわるいやつだと思う。

だから、まあ、きちがいヘビメタにやられて、ほんとうに(通勤して)働けない状態になると、めちゃくちゃに不愉快なことが、不可避的にしょうじるようになってしまうのである。

*     *     *

何十年も通勤しているやつが「俺だって苦労した」と言ったとする。その苦労は、通勤できるような苦労であるわけだ。ぜんぜん、ちがう。アホなことを言うな。同質・同量の苦労であるはずがない。その人が、俺よりも何十倍も優れていて、俺が経験した苦労をしても、通勤できるからだを維持していた……。そんなことは、ない。ないない。俺は、普通の人よりも、健康だったんだよ。俺は普通の人よりも騒音耐性があったんだよ。実際、通勤できなくなるような苦労はしてないと思うよ。実際に、通勤できなくなるような苦労をした人が、通勤できなくなった状態で、人に「通勤して働くべきだ」と言うと思う?

実際に、通勤できなくなるような苦労を何年も、十数年も、してきた人が、「通勤して働くべきだ」「人は働くべきだ」と言おうとして、「俺だって苦労した」と言うと思う? 実際に、通勤できなくなるような苦労を何年も、十数年も、してきた人は、言わない。実際に、通勤できなくなるような苦労を何年も、十数年も、してきた人は、体験としてわかっているから、言わない。あとで「人は働くべきだ」とか「からだを慣らして通勤するべきだ」なんて言わない。だって、本人だって、できないわけだからな。

実際、「人は働くべきだ」とか「からだを慣らして通勤するべきだ」と言いたいから、「俺だって苦労した」と言う人は、きちがい家族と一緒にすんだことが、一度もない。実際、「人は働くべきだ」とか「からだを慣らして通勤するべきだ」と言いたいから、「俺だって苦労した」と言う人は、きちがい家族が鳴らす騒音を経験したことがない。一度もない。生涯で一度もない。実際、経験していない。何十年も通勤して働ける「苦労」がなんだと言うのだ? そんな苦労と、きちがい家族によるヘビメタ騒音の苦労を、いっしょにするな。

通勤して働きながら経験する苦労が+向きの苦労なら、きちがいヘビメタ騒音にさらされて働けなくなるような苦労はマイナス向きの苦労だ。こういうことを言う人たちは、マイナス向きの苦労を経験したことがないのである。そもそも、土台がちがう。土台がちがうということがわかってない。「苦労」という抽象的な言葉で、いいかえるのはやめろ。「苦労」という抽象的な言葉を使って、同質・同量の苦労をしたことにするのは、やめてくれ。

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苦労して勉強したということを言う人がいる。家に缶詰めになって、苦労して勉強した。いやー、こっちが経験しているのは、勉強することができなくなるような苦労なんだよ。苦労の質ちがう。家に缶詰めになって、勉強ができたんじゃないか。どれだけ幸福なことかわかってないな! 家で勉強することができたんじゃないか。それは、きちがい家族による、はげしいきちがい騒音で、家で勉強することができなくなったという苦労とはちがう。まったく、方向が逆を向いている。なんでこれがわからないのだ。なんで、「家に缶詰めになって、苦労して勉強した」というやつが、俺と同質・同量の苦労を(自分だってした)ということにしてしまうのか? ぜんぜん、ちがうじゃないか。 

*     *     *

そして、人によって、「できると言えばできる」とか「思いが現実化する」とか言いやがる。「俺だって苦労した」と言ったあとに、「できると言えばできる」とか「思いが現実化する」とか言いやがる。こんなことを言うやつが体験した苦労なんて、たいした苦労じゃないと、はっきり、言える。言えないわけがないだろ。まったくなにもわかってないなぁ。こういうやつらと話をするのがいやだ。たとえ、俺が仕事をしているとしても、こういうやつらと話をするのがいやだ。こういう感覚の持ち主が、いやだ。こういうやつらが、いやだ。

俺と同質・同量の苦労をした人が…… こういうことを言う人たちと一緒にいて、しあわせなわけがない。ダウンして、不愉快な気持になると思う。ぜんぜんちがうから……。俺と同質・同量の苦労をした人が「できると言えばできる」とか「思いが現実化する」とかと、言うはずがない。こういうことを言っている時点で、同質・同量の苦労をしたことがないということがわかる。わかる。明白。うたがいようがない。明白なこと。

ぼくに対する態度がちがうんだよな。根本的な態度がちがう。

 実際にぼくの部屋に入ってヘビメタ騒音を聞いた人と、実際には、うちに近づいたことがなく、ヘビメタ騒音をまったく聞いたことがない人だと、ぜんぜん、ぼくに対する態度がちがうんだよな。根本的な態度がちがう。

しかも、おかあさんも普通の人ではなく、こまったこまった」と言いながら、うなだれて、だるそうに布団のなかにいる人だから、俺が誤解をされる。あれ、ほんとうは、普通のうちだったら、五分間鳴らしたところで、親が猛烈に怒ってしずかにさせる音なんだよな。うちだと、俺が言っているだけで、おかあさんは、うなだれてだるそうに布団にくるまっているような人だし、親父は、きちがいだから、きちがい方向にスイッチが入って、絶対に注意しないような人なんだよな。こういうのも、ほかの人は、想像しにくいから、実際に聞いていなければ、「そんなにでかい音で鳴ってたのかな」と疑問に思うわけだ。俺が追い込まれるようにできている。普通の人は、「そんなにはでかい音で鳴ってないのだろう」と思う。そりゃ、もし、ぼくが、言っているような音で鳴ってたなら、普通、親がどうにかしようと思うからだ。おかあさんも、親父も、別の方向にずれていて、普通の人じゃない。

おかあさんが、二階の部屋まで行くということが、当時から、おかあさんにとってたいへんなことなんだよ。そのたいへんなことをして、きちがい兄貴に注意したことはあるけど、きちがい兄貴は、おかあさんの注意を、きちがい親父のように無視して、鳴らし続けた。何回か注意されたのだけど、「おかあさんは(弟の)味方をして……」とおこる場合と、「わかったわかった」と言って、一〇分間ぐらい、〇・一ベルぐらいさげて、一〇分目から〇・一ベルデシベルあげて、普段通りに鳴らすということになった。だから、しずかにしてない。けど、きちがい兄貴取っ手は、〇・1デシベルだろうが一〇分間だろうが、しずかにしてやったら、それは、永遠に記録に残るようなすごいことなんだよ。一回だけでも、一〇分間、〇・一ベルデシベルさげてやったら、もう、一生涯、さげてやる必要がないと思うような人なんだよ。たとえ、〇・1デシベルだろうが一〇分間だろうが、さげてやったら、ものすごいことだから、これからは、ずっと、さげてやらなくてもいいと思う人なんだよ。「〇・1デシベルだろうが一〇分間だろうがさげてやったら、さげてやったのだから、さげてやらなかったわけじゃない。だから、ずっと、ゆずらずに鳴らしていい」と自然に思う人間なんだよ。さげてやったか、さげてやらなかったかの二値思考で、さげてやったのだから、もう、じゅうぶんだと勝手に決めつけてしまう。「やってやらなかったわけじゃない」ということになる。「だから、いいんだ。問題はないんだ」と思って、思いっきり鳴らして、なんとも思わない人だ。「うるさい音で鳴らしている」という気持が、そもそもない人間だからなぁ。よそのうちでは、ほんとうは、気ちがい兄貴だって、あんな音じゃ鳴らせないのに、それに気がついてない。たとえば、きちがい兄貴が、おばあちゃんのうちに、下宿して、あの音で鳴らせるかと言ったら、鳴らせない。けど、うちだったら鳴らせるし、鳴らせてあたりまえの音だと、無意識的にも意識的にも思ってしまう。

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うちに、きちがい兄貴が鳴らしているときにきたことがない人だと、「たいした音で鳴ってないのだろう」と思ってしまう。俺が、ものすごくでかい音で鳴っていたと言っても、「対して鳴らしてないのではないか」と思ってしまう。どうしてかというと、そんな音で鳴らしていたら、親が、絶対におこるはずだかだ。親がなんとかしようと躍起になるからだ。親がなんとかしようと躍起になったことがないのだから、エイリはすごい音で鳴っていたと言っているけど、それは、エイリがすごい音で鳴っていたと言っているだけなんだ」と思ってしまう。そして、たとえば、「エイリは音に敏感なんだ」と思ったとすると、「音に敏感なエイリがすごい音で鳴っていたと言っているだけなんだ」ということになる。おかあさんも、うちの問題をそとに漏らすことには、抵抗がある人で、普通の人じゃないところが、かくれた問題になっている。俺がほんとうのことを言っているのに、俺が、「きちがい兄貴が鳴らしているときにきたことがない人たちに、誤解され、追いつめられることになっている。おかあさんも、普通の人じゃないのである。きちがい親父やきちがい兄貴とは、ベクトルがちがうけど、普通の人じゃない。普通の感覚の、普通に元気な人じゃないのである。

きちがい兄貴が鳴らしているとき、ぼくの部屋に入った友達に、証言してもらわないとダメなんだよな。けど、たとえば、ぼくがほかの人に自己紹介をしているとき、その友達がぼくの横にいつもいてくれるわけじゃないだろ。 

*     *     *

たとえば、三〇歳とか、ある程度歳がいったとき、無職だと自己紹介すると、「なんで無職なんだ」ということが問題になる。だから、ヘビメタ騒音のことを話さなければならなくなるのだけど、この時だって、「あいつが、すごい音で鳴っていたと言っているだけなんじゃないか」と疑問に思うやつがいる。

*     *     *

AさんとBさんがいたとする。Aさんは、短期間だけど、ぼくとおなじような騒音を経験したことがある人だとする。そして、Bさんは普通の人だとする。そうすると、普通の人だから「そんなの関係、ない」「鳴り終わったら、関係、ない」「すごい音で鳴っていたと言っているけど、たいした音で鳴っていたわけじゃないんじゃないか」と思ったとする。そのあと、一〇年たって、ぼくのこのページを読んだとする。そうすると、「でかい音で鳴っていたなら、でかい音で鳴っていたと、ちゃんと言わなきゃダメ」と言ったりするのだ。Bさんが「ちゃんと、でかい音で鳴っていたと(エイリが)言っていた」とAさんに言ったって、Aさんは、不機嫌なままなんだよ。

こいつも、記憶を改ざんして「でかい音で鳴っていたなら、でかい音で鳴っていたと、ちゃんと言わなきゃダメ」などと言うんだよ。たぶんだけど、こいつは、俺の話を聞いたとき、「そんな音で鳴っているなら、家族がどうにかしたんじゃないか」と思ったんじゃないかな。「そんなのは、不自然だ」「そんな音でずっと鳴っているのは、不自然だ」「家族がしずかにさせようと動かないのはおかしい」と思ったんじゃないかな。多分だけど……。

いちおう、「鳴っていた」と書いたけど「鳴っている」でもおなじなんだよ。現在進行形のときも、そういう態度の人が多かった。 実際にぼくの部屋に入ってヘビメタ騒音を聞いた人と、実際には、うちに近づいたことがなく、ヘビメタ騒音をまったく聞いたことがない人だと、ぜんぜん、ぼくに対する態度がちがう。

2025年1月3日金曜日

普通の人が五秒で気がつくことに、何十年たっても気がつかない

普通の人なら、言われなくてもわかることが、まったくわからないんだよね。

言われても、頑固にわからない状態のままになる。

そうなると、まわりの人がこまるんだよ。

きちがい親父は、魚の粕漬のにおいを認めない。きちがい親父が、魚の粕漬を出しっぱなしにしたいと思ったら、都合の悪いことは、認めないのである。

けど、これが、普通の人だと、「くさいのはわかっているけど、くさいということを認めないと、自分が片づけなければならないことになるから、認めない」ということが、わかっている。

どれだけ「くさくない」「におわない」と言い張っても、本人が、「くさい」ということを知っている。

ところが、きちがい親父だと、そのときだけ、ほんとうに、鼻が利かなくなるのだ。そのときだけ、臭覚が異常になる。そのときだけ、感覚器にズレがしょうじる。そのときだけ、感覚器が機能しなくなる。

これが、無意識的なレベルでおこなわれているから、非常にこまるのである。

自分がにおいを出しているときは、「くさない」「におわない」ということになるのだけど、ほかの人が、しかたがない理由で、一時的ににおいを出しているときは、においがわかるので「くさいよ」などと言ってきたりする。

これ、ほかの人にはちょっとだけ、一時的ににおいを出さなければならなくなる理由があるのである。そして、ほかの人は、一時的ににおいを出すけど、頻繁にやることじゃないから、ちょっと見逃してくれという態度だし、ほかの人は、においを出していることを認めている。

ともかく、きちがい親父の鼻は正常なので、ほかの人が一時的に出すことになる、においに関しては、敏感に察知することができるのである。

ほかの人が、一時的ににおいを出すのは、数年に一回なんだけど、その数年に一回のことは、「くさい」と文句を言ってくるのである。親父がほかの人に文句を言う。

これ、おかあさんも、こまっいたんだよな。じゃあ、おかあさんが、めったに魚をこがさないけど、数年に一回の頻度で、魚をこがしたとする。

そうすると、たいしてくさくないのに、きちがい親父は、気ちがいだから「くさいよ」と言って、おかあさんをせめるのだ。

だったら、臭覚は正常なのだ。臭覚は正常。

ところが、自分が、その気になって!くっさーーーい!さかなを出したくなったら、突然、鼻が利かなくなるのである。自分がやっていることに関しては、くさくないのである。

そして、他人が、「くさいからやめてくれ」と言ってきたら、「くさないよ!!」と怒鳴るのである。発狂して、絶対に認めない。

この態度は、兄貴にもある。兄貴は聴覚が正常なのに、自分がどれだけでかい音でヘビメタを鳴らしているのかについては、無頓着なのである。兄貴は、聴覚が正常なのに、きちがい親父とおなじように、ものすごくでかい音で鳴らしているということがわからないのである。

これは、聴覚のレベルでわからないということになっている。

自分がでかい音で鳴らしたい場合は、自分がでかい鳴らしたい音だけ、ちいさい音で聞こえるのだ。たいしてでかい音で鳴らしているつもりではないのだ。普通の音で鳴らしているつもりなのだ。

どこでも、普通に鳴らせる音で鳴らしているという感覚がある。けど、普通の人は、鳴らせないほどでかい音で鳴らしている。聴覚が正常なら、この音がでかいということがわからないということが、おかしいのである。

で、この感覚が、どれだけ、言っても、なおらない。正常にならない。

きちがい兄貴は、ほんとうに爆音で鳴らしている。あんな音で鳴らしているうちなんてないのである。ヘビメタが好きな、兄貴の友達が、うちにきた時、その兄貴の友達が「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」「(自分は)うちでは、こんな音で鳴らしたことがない」と言ったのである。

普通の人が五秒で気がつくことに、何十年たっても気がつかない。兄貴の友達が「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」「(自分は)うちでは、こんな音で鳴らしたことがない」と言うような音で、普段、鳴らしているのである。

きちがい兄貴もきちがい親父も、自分にとって都合が悪いことは、感覚器を書き換えて認めないのである。

これが、無意識的なレベルでおこなわれることなので、ものすごくやっかいなのである。

俺が、誤解をされる。俺が普通の他人から、誤解をされる。

ところが、他者とのこういうあらそいも、ヘビメタ騒音の一部なのである

 実質的なこの憂鬱が問題だ。ヘビメタ騒音にやられた期間が長すぎて、完全に、この世の認知と一体化している。こんなの、わかるわけがない。

ほんとうに毎日、続いた人じゃないとわからない。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音以降、ほかの人から、誤解されまくりだ。

そして、きちがいヘビメタ騒音が生み出すことが、ダメ人間に属することなのである。ほかの人は、実際に、きちがいヘビメタをやられたわけではないので……「そうなる」ということがわからないのである。

そりゃ、あれだけ、日中というか、眠る直前まで、ガンガンガンガン、きちがい的な音を聞かされ続けたら、眠れなくなる。けど、ほかの人は、「鳴り終わったのに、眠れないのはおかしい」「鳴り終わったのだから眠れる」「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と思うわけだ。

ところが、ヘビメタ騒音で眠れなくなるし、「眠れないとやばい」というような不安が常につきまとうようになる。

そして、眠れない状態というのが普通の人が、普通に経験する眠れない状態とは、ちがうのである。そもそも、それがちがうのだけど、横にきちがい家族が住んでない人は、それがわからない。実際に、きちがい家族に「よその家族が絶対にやられないこと」をやられた人じゃないとわからない。よその家族がやらないことだから、よその人は経験してない。実際に、やられていないから、どういうことが発生するのか、経験的にはわかってない。

わかってないけど、「眠れない状態」というのは経験したことがあるし、「騒音」というのも、経験したことがあるので、経験したつもりでいるのである。

だから、「鳴り終わったのに、眠れないのはおかしい」「鳴り終わったのだから眠れる」「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と思っている人はその考え方をかえない。そうなると、頑固に無視して鳴らしているきちがい兄貴と、経験がないからわかっていない他者との間に挟まれることになる。

他者は、「鳴ってない状態できること」をぼくに要求してくるのである。「鳴ってない状態できること」は、なっていなければぼくにもできることなんだよ。普通にできることなんだよ。

たとえば、夜……眠るべき時間に眠ることだ。

こんなのは、兄貴が、きちがいヘビメタ騒音を鳴らし始めるまえは、普通にできた。ところが、きちがいヘビメタが鳴っていると、どうしてもできなくなるのである。ヘビメタ騒音を浴びせられたあとだと、どうしてもできなくなるのである。きちがいヘビメタ騒音ということを考えると騒音ということになる。

だから、「騒音なんだろ」ということになる。

ところが、他者とのこういうあらそいも、ヘビメタ騒音の一部なのである。

「鳴り終わったのに、眠れないのはおかしい」「鳴り終わったのだから眠れる」「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と言われて、不愉快な思いをするのも、ヘビメタ騒音の一部なのである。

もちろん、「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と言う他者は、そんなことは、認めない。

2025年1月2日木曜日

「うっっ」とくる

 言葉はちがうけど「言えば、言ったことが現実化するので、言えばいい」「思えば、思ったことが現実化するので思えばいい」という内容のことを言われたときの、気持ちが並じゃない。「うっっ」とくる。ぼくの脳裏には、きちがい兄貴のヘビメタ騒音やきちがい親父のきちがい行為がうかぶ。言いきれない気持ちが、こころのなかに去来する。シーンがね……。シーンがうかんでしまう。「おまえ、まったくわかってねぇーな」と言いたくなる。

横から横へ、圧迫面接のような圧力をかけて、社会が明るくなると思うのか?

 「言えば、言ったことが現実化する」「思いは現実化する」「努力すれば、成功する」「すべては、自己責任」「引き寄せればいい」「おカネの量は感謝の量」「受け止め方をかえればいい」……こういう言葉がはやればはやるほど、社会が悪くなっていくのである。たとえば「思いは現実化する」という言葉が、明るく響くか、暗く響くかということを考えると、明るく響くのである。ところが、「思いは現実化する」という言葉がはやればはやるほど、社会が暗くなるのである。どうしてそうなってしまうのかということについて、ぼくは、ずっと書いてきた。こういう言葉には、トリックがある。ある程度、頭がいい人じゃないと、トリックがあるということがわからない。さらに、条件を無視するということがどれだけでかい影響をあたえるのかということがまったくわかってない。さらに言えば、「連鎖」というものについて、まったく考えることができない。「連鎖」というのは、出来事の連鎖だ。『出来事が出来事にあたえる時系列的な影響』と言ってもいい。本人は、いいことを言っているつもりで「言ったことが現実化する」とか「思いは現実化する」と言っているのだけど、本当は、こういうことをすると、社会が暗くなる。そういう影響力をもっている。だから、正しく理解しなければならないのである。

それぞれ、教祖みたいな人たちがいる。インフルエンサーもこういう考え方を布教する。そうすると、信者があらわれる。信者のほうが圧倒的に数が多い。そうなると、こういうことを言う信者が、そこらへんにいるということになる。こうなると、横から横への圧力が加わる。妄想が前提にあることを、条件が悪い人に言うということが、どういうことなのかぜんぜんわかってないやつらだ。はっきり言うと、悪影響しかあたえない。

こういうこと……を言って金を儲ける層だけではなくて、こういうことをほかの人に言うことで金を儲けるわけではない層が、問題を引き起こす。もちろん、金儲けをしている人たちも、悪い。悪い影響を、社会や人に及ぼしている。しかし、金儲けをしてない人たちも、悪い。悪い影響を、社会や人に及ぼしている。こういうことを言うことで、金を儲けているわけではないのだから、なにもわるいことはしてないと考えていると思う。むしろ、いいことをしていると思っていると思う。しかし、ずっとこれまで述べてきたように、人に悪い影響をあたえ、社会に悪い影響をあたえている。

僕がここに書いてきたようなことを言えば、彼らは「そんなのは、いいわけだ」とか「そんなのは、ねたみだ」とか「そんなのは、嫉妬だ」とか「そんなのは、あまい」とかと言うだろう。これは、基本的に、ディスっている。ぼくをディスっている。条件に付いて語る人をディスっている。「言霊のちから」を認めない人をディスっている。「思霊のちから」を認めない人をディスっている。

こいつらが、社会を明るくしているなんてことはない。社会を暗くしている。社会をよりギスギスしたものにしている。横から横へ、圧迫面接のような圧力をかけて、社会が明るくなると思うのか?

ライフハックをくちにする人たちというのは、こまっている人を、さらにこまらせている。

 言霊や思霊ではないにしろ、ライフハックをくちにする人たちというのは、こまっている人を、さらにこまらせている。これが、まるでわかってないんだよな。この人たちの理解が浅いのである。浅い理解しかしない人たちなのである。たとえば、不幸に対する理解が浅いのである。本人が浅い不幸しか経験したことがないので、深い不幸のことは、なにがなんだかまったくわからないのである。深い不幸に「おちいっているひと」が抱える条件というのものが、まったくわかってないのである。普通の人に、なかなか理解されない深い不幸をかかえている人たちが、深い不幸について説明しても、浅い理解しかしない人は、浅い理解しかしないので、浅い理解の不幸しか思い浮かばないのである。ともかく、深い不幸におちいっている人が抱えている条件について、まったく理解しないのである。だれでも、一分で思いつくようなアイディアを言って、いい気になっている人って、こまっている人を追いつめている。ある意味、バカにしている。バカにしきっている。そして、「そんなことでは解決できない」ということを理解してない。これ、どういうことなのか、わからない人のほうが多いんだろうな。言霊や思霊に関する説明をしてきてそう思う。「言ったことが現実化するから、言えばいい」「思ったことが現実化するから、思えばいい」……。こういうレベルの解決方法がまったく役に立たないということを理解できないやつが、なにを言っているのかと思う。

明るいノリで人を傷つけるのは、よくないよ。「人のために」「こまっている人を救いたい」と思って、ライフハックをくちにするのは、やめたほうがいい。「自分が言っていることなんて、最初に試みたけど、まったくうまくいかなかったんだな」と思って、くちをとざしていたほうがいい。そのほうが、よっぽど、人のためだ。 あるいは、「自分が言っていることは、この人もすぐに思いつことができることだ」と思って、くちをとざしていたほうがいい。

プラス向きの苦労すら、することができなくなる苦労なのである

 きちがい的な家族によってもたらされる苦労というのは、どれだけ、苦労しても、プラスになることがない苦労なのである。あるいは、プラス向きの苦労すら、することができなくなる苦労なのである。きちがい的な家族にもたらされる、不可避的な苦労と、つらい状態でも頑張ってきたというプラス向きの苦労のちがいがわからないということが、マイナスにしかならない苦労をしてないということのあかしだ。証明だ。

頓珍漢な発言。

  きちがい兄貴は、「あたりまえ」をレイプしているんだよ。普通の人はやらないことをやっているんだよ。普通の人なら、普通にためらうことをやっているんだよ。普通の人なら、普通にためらうから、できないことをやっているんだよ。こんなのは、「あたりまえ」のレイプだ。俺のあたりまえの感覚が、レイプされている。きちがい騒音で無視できない状態だ。そして、きちがい騒音で生じた俺の体の状態は、ほかの人には理解できないのである。どうしてかというと、一般的なことではないからだ。その人たちの家族は、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を、一日に、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らさないのである。そして、普通の人は、でかい音で鳴らしているということはわかっているので、でかい音で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしたということを、不可避的に理解しているのである。認知しているのである。認識しているのである。これを、認識してない。普通の人が、不可避的に認識してしまうことを、認識していない。これも、「あたりまえ」のレイプなんだよ。ほかの人にとっては、人ごとなので、はっきり言ってしまえば、どうでもいいことだ。本人は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で傷ついているわけではない。生活にゆがみが生じているわけではない。ひとごとだ。そして、うちのきちがい家族によるきちがい行為というのは、うちでしか生じてないことなのである。普通の人は、影響をうけてない。しかし、たとえば、「苦労」というのは、普通の人でも経験していることなのである。なので、苦労というところまで抽象化するなら、「自分だって苦労した」ということになる。そうすると、こいつの頭のなかでは、俺とおなじような特殊な経験をしたということになってしまうのである。あるいは、こいつの頭のなかでは、俺とおなじような特殊な経験と同等の苦労をもたらす経験をしたということになってしまうのである。特殊だから、普通の人が経験してない苦労をしているのに、普通の人が、自分だって同じような苦労をしたという意味で、「自分だって苦労した」と言ってくることになるのである。これだって、こっちにしてみれば「なにを言ってるんだ」と腹がたつことなのだけど、言っているほうは、そんなことは、気にしない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことについて説明しても、「自分だけ苦労したと思っているのか?」と頓珍漢なことを言ってくるやつだっている。これ、どれだけ頓珍漢なことか、わかってないだろ。こいつらの頭だと、理解できない。あとは、常識的すぎて、俺が嘘を言っていると思っているやつに、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、信じない。俺が嘘を言っていると思っているまんまなんだよ。特殊なきちがいが、きちがい的な意地で、普通の人が信じられないようなことをすると、俺がうたがわれるのだ。頓珍漢なことを言ってくるやつも、俺の言っていることを信じないやつも、きちがいヘビメタ騒音相当の苦労をしてない。きちがいヘビメタ騒音相当の苦労をしてないから、頓珍漢なことを言い、きちがいヘビメタ騒音相当の苦労をしてないから、そういうことがあるということを、信じない。夢中になって、きちがい行為をして、きちがい行為をしたと思ってない人間がいるということを信じない。その人たちにとってみれば、「お兄さんに、しずかにしてと、言えばいいでしょ」と思えることなのだ。これだって、屈辱だ。頓珍漢な発言。

目下のところ、からだのかゆさが問題。

  目下のところ、からだのかゆさが問題。あとは、『家』関係か。けっきょく、ダニ、外壁、ネズミ、引っ越しが問題か。これ、どうしようかな? 内見が憂鬱なんだよ。どうしてかというと、長期ヘビメタ騒音の後遺症で、自分がいつ起きているのかわからないからだ。次の日、自分がいつ起きているのかわからないのだ。日時を決められると、長期ヘビメタ騒音生活の経験から、非常に、精神が不安定になるのである。不安定なんてものではなくて、自殺したくなるほど憂鬱になる。あの生活を経験しなかった人になにを言ってもわからないだろう。

2025年1月1日水曜日

「なにか見えない力によってそうなるのではないかという危惧」は強迫行為に結びつきやすい

 なにか見えない力によってそうなるのではないかという危惧に関しては、また、別の話なのである。他人のことなら、自分のことではないので、他人事だ。他人事なら、その他人がそう思ったからそうなったんだという棍棒を振り回すことができるというのは、また、別の話なのである。たとえば、ある野球選手が、かならず、右側の靴から靴紐を結ぶとする。左側の靴から靴ひもを結んだら、まったく打てなかったという経験がある。右側の靴から靴紐を結ぶと、何回も勝てた。だから、縁起を担いで、以降、右側の靴から靴紐を結ぶようにした。実際に、身体的には、左側の靴から、靴ひもを結ぶことができるのである。けど、心理的には左側の靴から、靴ひもを結ぶことができない。できないようになってしまった。もちろん、球を打てなくてもいいということになれば、左側の靴から、靴ひもを結ぶことができる。しかし、球を打ちたいというこだわりがあるうちは、左側の靴から、靴ひもを結ぶ行為は、(その人にとって)アホな行為だから、あるいは、損をするような行為だから、できなくなるのである。これは、本人が理由を知っている強迫行為みたいなものだ。強迫神経症者の場合は、本人にも、理由がわからないのである。じつは「なにか見えない力によってそうなるのではないかという危惧」は強迫行為に結びつきやすいのである。そして、「言ったことが現実化する」ということや「思ったことが現実化する」ということにも、この機制が働いている。

相手が思っていなくても、思ったことにしてしまうのである。こ

 たとえば、「思いは現実化する」と思っている人だって、自分が階段から落ちて、足をおったら、階段から落ちたから、足をおったと思うんだよ。階段から落ちるまえに、「階段から落ちて足をおる」と思ったあと、階段から落ちたわけではない。階段から落ちて、足をおったわけではない。足の骨をおると痛いわけだけど、これも、足の骨をおるといたくなると思ったから、いたくなったわけではないんだよ。思ったあと、思ったから、思いが現実化したわけじゃないんだよ。自分自身のことなら、この通り、現実的に考えることができるのだけど、他人事になると、「階段から落ちると思ったから、階段から落ちた」「足をおると思ったから、足をおった」と考えてしまうんだよ。たとえば、事故にあうということだって、自分自身の事故なら、いきさつがわかっているので、これこれこういう理由でこうなったということを、物理的に、現実的に説明できる。ところが、他人事であれば「事故を引き寄せた」とか「事故にあうと思っていたから、事故にあったんだ」と変な解釈をしてしまう。これは、幼児的万能感から出てくるものなので、しかたがないとはいえ、本人が、自分にとってプロセスがあきらかなことに関しては、普通に物理的な思考をしているということに気がついてないということが問題なんだよ。そこも含めて、幼稚なんだよ。他人事なら、相手の思考をせめるということをやる。「そう思ったから、そうなったんだ」とせめることができる。「すべては自己責任」などと言いつつ、相手の責任を追及しているではないか。この場合、自分は痛い思いをしていない。自分のことではないからね。相手の責任というのは、「思ったこと」なのである。相手が思っていなくても、思ったことにしてしまうのである。こういう間違った思考をしている。他人事であれば「実際に事故にあったなら、事故にあうと思ったはずだ」と自動思考してしまうのである。他人事であれば「そんなのは、そいつが、事故を引き寄せたんだ」と自動思考をしてしまうのである。ようするに、みじめな思いをしたほうは、勝手に、自分が事故をあう前に事故をあうと思っていたということにされてしまう。そして、自分が事故にあうと思っていたから、実際に事故にあったんだということにされてしまう。たとえば、Aさんは、自分の事故に関しては、自分の経験があるので、プロセスを知っていて、現実的な思考をするのである。ところが、Aさんにとって、Bさんの事故は、自分の事故ではない。そうなると、Bさんがその事故を引き寄せたんだと考えてしまう。Bさんが事故にあう前に、事故にあうと思った「から」実際に事故にあったんだと思ってしまう。こういう、誤謬が成り立つ。こんなの、思考の誤謬じゃないか。この思考の誤謬をあたりまえのものとして塗りかえてしまうのが、「思考は現実化する」という考え方なのである。

特殊な悪条件をかかえる人をたたく『棍棒』みたいなものなんだよ

 「言ったことが現実化する」とか「思いは実現する」とかというのは、特殊な悪条件をかかえる人をたたく『棍棒』みたいなものなんだよ。一見よさそうなものなのだけど、実は、『棍棒』になっている。相対的に優位な一般人が、この棍棒を振り回して、特殊な悪条件をかかえる人を、たたきまくっているのが、この世だ。この世界だ。一見よさそうなものに見えるので、たちが悪い。特殊な悪条件をかかえる人やさまざまな悪条件をかかえる人も、一時は、信じることがある。けど、それが、トラブルをうむのである。トラブルをうむしくみについては、棍棒を振り回している一般人にはわからない。「言ったことが現実化する」とか「思いは実現する」とかというのは、条件が悪い人を自殺に追い込む『武器』だ。初期装備の武器なんだよね。平均的な一般人よりも、相対的に悪い条件をかかえている人も、この『初期装備の武器』をもっている。だから、底辺で、たたきあいだ。底辺どころか、中流、上流でも、たたきあっている。黒側公認のくそ武器だからな。

「思うか思わないか」という条件のほかに、いろいろな条件が成り立っている。

 「思うか思わないか」ということを一つの条件として考えよう。この一つの条件はふたつの値をもつ。ようするに、二値だ。「思う」か「思わない」の二値だ。二値ということは、〇%か一〇〇%なのである。そして、現実化するか現実しかないかも、二値だ。二値ということは、〇%か一〇〇%なのである。

「思うか思わないか」という条件以外のすべての条件を無視してしまうから、まちがった結論を導き出すことができるのだ。

「思いは現実化する」という言葉も「思えば、思ったことが現実化する」という言葉に書き換えれば、「XをすればYになる」という言葉の型に落とし込むことができる。 Xの具体的な内容が「思うこと」であり、Yの具体的な内容は「思ったことが現実化する」ということだ。Xがオンなら、かならず、Yもオンになるのである。

しかし、現実は、ちがう。「思うか思わないか」という条件のほかに、いろいろな条件が成り立っている。だから、いろいろな条件を無視しては、いけない。ところが、「無視をすること」が詐欺的な説明を成り立たせているのである。いろいろな条件を無視して、妄想世界に誘導しているのである。いろいろな条件を無視しているので、思っただけで、現実化できそうな感じがする。あくまでも、感じがするだけだ。思うだけで、思いの力が発生するというのも、隠された妄想ポイントだ。詐欺ポイントだ。

 

まあ、こういうところでも、『一〇〇%詐欺』をしている。

 5万円のパソコンを手に入れる話をした。「思う」と「思いの力」が発生して、「思いの力」によって、自動的にパソコンが手に入るわけではないということを言いたかった。「思えば、パソコンが手に入る」のではなくて、「おカネがあれば、パソコンが手に入る」とか「お金をかせげば、パソコンが手に入る」ということなのである。「思ったことが、思いの力によって現実化した」のではなくて、「思ったことが、おカネによって現実化した」のである。もし、金があれば、その金で買えばいいし、金がない場合は、お金をかせいで買えばいいということになる。そのほかにも、「パソコンをゆずってくれ」と人にたのむ場合だってあるかもしれない。この場合であっても、なんらかのアクションを必要とするのである。思うだけでは、手に入らないのである。「思えば、パソコンが手に入る」のではなくて「たのめば、パソコンが手に入ることもある」ということなのだ。おカネという条件や、ものをためる友人関係を無視して、ただ単に「思ったか思わなかったか」を問題にするのである。そして、思えば、手に入ると言うのである。まったくもって、詐欺的な説明だ。「思ったら、思ったあと、手に入った」ということはある。それは、「明日、雨がふると思ったら、思ったあと、雨がふった」という場合とおなじだ。ほんとうに「思いの力」が働いているわけではない。ほかの人の意思や制度が関係している場合だってある。「思いの力」とは関係なく、ほかの人があげようと思ってあげたのである。思えば、自然に手に入る……。ほんとうに、一〇〇%こうだったら、いい。思ったら、一〇〇%の確率で、思ったことが発生する……。ほんとうに、そうであるなら、いい。けど、実際はそうじゃない。実際はそうじゃないのに、あたかも、思ったら、思ったら、一〇〇%の確率で、思ったことが発生するということを言うのである。思いは現実化するのだから、思いは現実化しないことがないのである。これは、一〇〇%の確率で、思ったことが現実化するということを意味している。だから、まあ、こういうところでも、『一〇〇%詐欺』をしている。

思ったら、思いの力がしょうじて、思いの力が、思った内容を現実化してくるなら、いい。けど、実際には、思いの力によっては、一切合切のことが現実化しないのである。思ったあと、思ったことが、ほかの理由で現実化することはある。だから、「あと」と「から」の区別がつかない人は、実際に思ったから、現実化したと、事実を曲げて解釈してしまうのである。妄想的な理由を、自身のなかに作り上げて、その理由によって、現実化したと妄想的な解釈をしてしまうのである。

問題なのは、思っているのに、現実化しない場合だ。さらに問題なのは、思って、現実的なアクションを起こしたのに、現実化しない場合だ。条件によっては、アクションを起こしたけど、現実化しないという場合もある。それなのに、あたかも、思っただけで、思ったことが、一〇〇%の確率で現実化するようなことを言う。言いたくはないけど、詐欺的な説明だ。

*     *     *

条件によっては、アクションを起こせない場合だってある。思っていても、アクションを起こせない場合、「思って待っているしかない」ということになる。しかも、思って待っていれば、思いは現実化するので、現実化するはずなのである。けど、現実化しなかったらどうなる? 現実化する前に死んでしまうではないか。現実化する前に死んでしまった場合、その人の思いは現実化しなかったということになる。思いが現実化しなかった。ちがうか?


本人が強く思わなかったから、現実化しなかった。だから、本人の自己責任だ

「思いは現実化する」というのは、非常に希望がもてる話なのである。
 

しかし、「思い」だけが、結果を決定するという、現実離れした理論なので、いろいろな混乱をもたらすのである。

しかし、「思いは現実化する」といって金を儲けている人たちは、そんなことは、気にしないのである。

そして、「思いは現実化する」と思って、自分の夢を追いかけている人も、そんなことは、気にしない。

「思い」だけが、結果を決定するのだから、思っていればいいのである。しかし、外部的な要因がある。これは、「思い」とは関係がないことなのだ。「思い」というのは、「自分のなかの思い」「自分の思い」に他ならない。

自分が思っていれば、自分の思いは現実化するという、非常に自分にとって都合がいい理論なのだ。

思いの強さだけが結果を左右するということになる。

自分のなかの「思いだけ」が、実際には外界にかかわっているさまざまな出来事を決定すると言っているのだ。ようするに、自分にとって都合がいい結果を引き寄せることができるということを言っているのだ。

だから、これは、「引き寄せ理論」でもある。強く思えば、思ったことを引き寄せることができるということを言っているのとおなじだ。

外界というのは、たとえば、自然現象や他人がもたらすものなのである。

ほんとうは、どういう家に生まれたかということが、ある程度条件を決定してしまっている。どういう家族と一緒に住んでいるかということが、いろいろなことを決定する。

この自然現象や他者というのは、じつは「自分の思い通り」ではないのである。

自然現象や他者は、自分の思いとは関係がないのである。

自分が思えば、自然現象が自分の思った通りになってくれるというわけではない。自分が思えば、他人が自分の思った通りに動いてくれるというわけではない。他人は他人で、その他人の「思い」があるので、その他人の思いにしたがって生きている。

なので、これは、自分が思っただけでは、決定できないことなのだ。

けど、最初に述べた通り、「自分の思いだけが結果を決定する」ということになっているのである。もう、最初から、まちがっている。

なんで、外界が自分の思った通りになるのか?

実際には、外界は自分の思った通りにならない。そして、外界が自分の思った通りになるという理論は、最初から、でたらめだ。

「思い」というのが、言霊における、「言霊」のような役割をしているのである。だから、「思いの力」によって、そうなるのである。ところが、「思いの力」によって、外界のものが思い通りになるということ自体が、まちがった前提なのである。

そりゃ、幼児的万能感にしたがえば、外界が「自分の思いの力」によって「思い通りに動いてもいい」のだけど、そうはいかないのだ。

外界の他人は、他人の思いによってしたがって生きているわけで、自分の思い通りには生きてくれない。外界の物質は、物理法則によってしたがって、物理的な運動をしているので、自分の思い通りには運動してくれない。

人間以外の生き物も、その生き物の本能や意思にしたがって行動しているわけで、自分の思った通りの行動をしてくれない。

*     *     *

蚊がたくさいる竹やぶに入ったら、自分が「刺されない」と強く思っていても、ごく自然に蚊が寄ってきて、蚊が自分を刺す。蚊の行動ですら、自分の思いの力では、制御できないのだ。

地球独自の運動も、さまざまな物質の相互作用によって運動している。

じゃあ、たとえば、自分の思いの力によって、マントルの動きを制御できるのかというと、制御できないだろ。これだけ、「思い通りにはいかない」ということがわかるだろ。

地球の自転が「自分の思い通り」ではないとする。

じゃあ、自分の思いの力で、地球の自転をとめられるかといったら、とめられないだろ。海流の動きを自分の思いの力で、かえることができるかといったら、かえることはできないだろ。雲の動きを自分の力でかえることができるかといったら、かえることはできないだろ。

できない。

ところが、自分の思いの力でかえることができるという前提に立って、ものを言っているんだよ。まちがっている。

外界について勘違いしているのだ。あるいは、幼児的万能感が強すぎて、現実を受け入れることができないだけだ。

そりゃ、外界のいろいろなものや、いろいろな生き物が、自分の思いの力で、自分が思った通りに動いてくれれば、それで、いいわけだけど、自分が思った通りに動いてくれるとは限らない。

外界のいろいろなものや、いろいろな生き物が、自分の思いの力で、自分が思った通りに動くわけじゃないだろ。

*     *     *

だいたい、「思いが現実化する」なら、その時点で、過去の思いがすべて現実化しているので、いまさら、なにかの思いを現実化するために頑張る必要はないのだ。

希望があるとして、どうして、その希望が、すでにかなってないのか?

希望があるとして、どうして、その希望が、すぐにかなわないのか?

無条件に「思い」が現実化するなら、思っただけで、現実化しているはずだ。

思っただけでは、現実化しないから、思いを現実化するために努力するのだろ。願いをかなえるための最初の行動を起こすわけだろ。

思ったら、現実化するのであれば、思った時点で、現実化している。

思い通りになってないから、希望が生まれるんだろ。希望通りになってないのはなぜなんだよ。「思いが現実化する」のなら、いまの時点で、希望がかなっているはずだ。

*     *     *

個人が「思いは、いつか、現実化する」と思って、願いがかなうように努力するのは、別に否定しない。まあ、どうして、「いつか」かなうことを期待するのかという問題はあるけどな。

問題なのは、自己責任論とむすびつくことだ。

思いが現実化するわけだろ。

けど、いつか、思いが現実化するはずだと思っている時点では、思いは現実してないんだよな。

すべての条件は関係なく、「思った」のか「思わなかった」のかが、結果を決めるんだよな。だって、思ったら、現実化するわけだし、思わなかったから現実化しないわけだから。

「いつか」現実化するかもしれないことは、今は現実化してない。そうなると、どうして現実化してないのかということが問題になる。

そこで、出てくるのは「思いの強さ」だ。自分の思いが弱いとだめなのである。あるいは、思う力が弱いとだめなのである。

思う力が弱いと現実化しないのである。

なら、「思いは現実化しないこともある」ということになる。どうして、「思いは現実化する」ということになっているのか?

おかしいだろ。

まあ、いいや。

ともかく、ほんとうは、条件がいい人は、希望をかなえやすいし、条件が悪い人は、希望をかなえにくいのだ。

ところが、条件を無視したので、「思いの強さ」「思う力の度合い」が問題になる。かなわなかったのであれば、「思う力の度合い」が弱かったから、現実化しなかったということになる。

だれの思いかというと、本人の思いのなのだから、本人が悪いということになる。

弱い力でしか思わなかったから、だめなのだということになる。本人が、弱い力でしか思わなかったから、現実化しなかったということになる。弱い力でしか思わなかった本人の自己責任だということになる。

本人が強く思わなかったから、現実化しなかった。だから、本人の自己責任だということになのである。

しかし、「思いは現実化する」のだから、弱く思っても、現実化してしまうのである。「思いは現実化する」ということが正しいなら……。

実際には、正しくないので、弱く思っただけでは現実化しないことが多い。思う内容によるけど、どれだけ強く、強く思っても、現実化しないものは現実化しない。

思いは現実化するというのは、間違っていて、どれだけ強く思っても、現実化しないものは現実化しないということが、正しいということになる。

ところが、思いは現実化するということになっているので、そんなのは、思わなかったやつが悪いんだということになってしまうのである。そして、思ったのに現実化しなかったなら、強く思わなかったやつが悪いんだということになってしまうのである。

「そんなのは、自己責任だ」ということになる。

条件を無視して考えたから、こんなおかしなことが成り立つ。

「思い」というひとつの要因が、現実化するか現実化しないかということを決めてしまうという理論がおかしい。

最初から、「思い」というひとつの要因がすべての結果を決めてしまうという理論がおかしい。

*     *     *

所持金が一〇〇円の人と、所持金が一〇万円の人がいるとする。秋葉原で五万円のパソコンを買うとする。どっちのほうが、「パソコンを買う」という夢をかなえやすいか?

当然、所持金が一〇万円の人のほうが、「パソコンを買う」という夢をかなえやすい。「所持金が一〇〇円の人は五万円稼いでから、秋葉原にくればいいじゃないか」と思うかもしれない。いやいや。

「思い」というひとつの要因が結果を決めるのだから、所持金が一〇〇円の人も、その場で、五万円のパソコンを買えるべきなんだよ。

もし、「思いが現実化する」というのであれば……。

もしかりに、五万円を稼ぐ努力をすればいいというのであれば、五万円を稼ぐ努力をするかどうかが、「パソコンを買えるかどうか」に影響をあたえる。

なら、五万円を用意できたかどうかという条件が五万円のパソコンを買えるかどうかに影響をあたえるということだ。

これは、条件が買いやすさを決めているということだ。

「思いが現実化する」という話のなかには、おカネの条件なんて出てこない。「思いが現実化する」という話のなかには、努力をどれだけするかということは、出てこない。

「思い」という要因が、現実化するかどうかを決めるのだ。

ほかのことは、関係がない。

どうしてなら、最初から、条件をガン無視しているからだ。パソコンを買うというようなことですら、所持金がいくらかという条件が、影響をあたえる。現実の場面では、さまざまな条件が、「思い」を現実化できるかどうかを決定している。

どうして、さまざまなな条件は、ガン無視して、「思い」があるかどうかだけを問題にするのだ?

そして、思いが現実化しない場合は、「思いの強さがたりない」ということになるのだ?

思いというひとつの要因だけが、結果に影響をあたえるということになっているのだ。

トリックがある。だましポイントがある。

「思う」ことなら、だれだってできる。

「思う」だけで、現実的な結果に影響をあたえることができるという理論だから、言われたほうは、ここちがいい。

もっとも、思っても現実化しなかった場合には、「思いの強さがたりない」と言われることになるのだけど……。

思いの強さが影響をあたえるなら、思うだけじゃダメなんじゃないか。こいつら、ほんとうに、悪党だな。

*     *     *

思ったことが現実化するなら、思った時点で現実化していなければおかしいのである。

それから、もし「今、思ったことが一秒以内に現実化する」と思ったら、一秒以内に現実化しなければおかしいのである。現実化してなければ、おかしいのである。

「このヤカンの水が一秒以内に一〇〇度のお湯になる」と思ったら、一秒以内に一〇〇度のお湯になっているはずなのである。

もし、ならないのであれば、「思いが現実化するわけではない」ということになる。

思ったことが現実化するなら、努力なんて必要がない。現実化させようとして努力する必要なんてない。「思えば」現実化するからだ。

思ったことが現実化するなら、現実的な行為は一切合切必要がない。現実化させようとして行動をおこす必要がない。 「思えば」現実化するからだ。

「思えば、思っただけで、思ったことが現実化する」……これが、「思いは現実化する」ということのほんとうの中身だ。

ところが、夢はいつかかなうと努力しなければならないのである。夢をかなえるような行動を起こさなければならないのである。

思っただけで、現実化するわけではないのである。

いや、思っただけでは現実化しない。

思ったあと、現実化するということはある。「明日、雨がふる」と思ったら、雨がふった。思ったから、思いの力によって雨がふったのか?

ちがう。ちがう。ちがう。

思ったあと、ほかの理由で雨がふった。個人の「思い」とはまったく関係がない。詐欺的な説明をする人は、まったく関係がないことを例として使うことがあるんだよなぁ。

思えば、思ったから、思いの力によって、思ったことが現実化するなら、努力なんて必要がない。行動する必要もない。

思った時点で、「思いの力」によって、「それ」は、現実化されている。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。