2025年6月3日火曜日

「すべては自己責任」などと、他人に言ってることに、責任を感じるべきだ

たとえば、神様視点で適切範囲、ほかの人視点で適切範囲であるような作業があったとする。

その場合、きちがいヘビメタ騒音がなければ、ぼくにとっても、適切範囲なのだけど、ヘビメタ騒音という項目が付け加わると、不適切範囲になってしまうのだ。

しかし、ほかの人は、自分が、家族によるきちがい騒音にさらされ続けたことがないので、ヘビメタ騒音のことを過小評価してしまう。あるいは、無視してしまう。

そうなると、「ヘビメタ騒音なんて、鳴ってたって、関係がない」ということになる。

しかし、きちがい家族によるきちがい騒音があると、ほんとうにできなくなるのだ。きちがい家族によるきちがい騒音は、関係があるんだよ。

できるかどうかに関係がある。

ところが、何度も言っているけど、ほかの人は、自分が一倍速で経験したわけではないので、それがわからない。

ようするに、条件について考えない。

条件で分けて考えるということを、そもそもしない。一括して、できるとか、できないということを決めている。

どんな条件だとできて、どんな条件だとできなくなるのかということを、考えない。

一見、きれいな?「努力をすれば成功する」という文言が、圧力をうみだす文言にばけるのだ。圧力をうみだすときは、じつは、きれいごとなんて成り立っていない。

一般人は、基本的に、条件について考えない。

たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を聞かされた場合、「どんな条件でも」……「努力をすれば成功する」と考えてしまう。最初に、条件による分岐というものを考えない。

ところが、現実世界では、条件が成り立っていて、条件が、結果に影響をあたえる。

だから、ほんとうは、一番肝心なところを無視していると言っていい。

*     *     *

「努力をすれば成功する」のほかにも、「すべては自己責任」といったような「一括思考」を強制するような文言もある。

「すべて」と明示して、例外がないということを、宣言している。

この思考に陥ると、現実世界のさまざまな事象について、うまく考えることができなくなる。うまく考えることができないのだけど、自分のことについては、例外がたくさん成り立っている。

しかし、自分のことについては、例外がたくさん成り立っているということを認識できないので、問題がしょうじる。「すべては自己責任」などという言葉をすんなりと信じてしまう人は、ほんとうは、支配者層の考えにしたがって、圧力をうみだ人になっている。

支配者層という言い方が気に食わないのであれば、A層と、B層という言い方をしてもいい。

B層が「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」という考え方を信じ込むと、A層にとってたいへんに都合がよい状態ができあがるとする。

もちろん、この場合の「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」とかという考え方は、例外なくどんな場合でも成り立つという考え方として流通してもらわなければ……こまるのである。

そうしないと、圧力をうみだすことができない。

実際には、社会のいろいろな場所には、上下関係があるので、B層の個人同士が、おしつけあうということになるのである。

そのときに、圧力がしょうじる。

支配者層と被支配者層という言い方にもどす。

被支配者層のなかにだって、さまざまな段階があるのである。身分のちがいがあるのである。立場のちがいがあるのである。恵まれている人と恵まれていない人がいるのである。条件がいい人と、条件が悪い人がいるのである。

だから、ピラミッドの上から一%ぐらいを切って、上から一%の層を支配者層、上から一%の層より下の層を被支配者層とした場合、九九%のなかで、格差がある。

そして、九九%のなかで、上下関係が成り立っているのである。そして、ただ単に、「自分のほうが上だ」「自分のほうができる」と勝手に決めつけている場合でも、「自分のほうが上だ」という「態度」が生まれる。

組織に属している場合は、上下関係がしょうじ。上下関係があるうえで、「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」というきれいごとが語られるのである。けど、これは、上下関係があるという条件無視して語られることなのである。

組織において、上下関係があるなら、「すべては自己責任」とは言えないということなんだよ。じゃあ、どうして、組織において上下関係があるのか? 責任の所在をはっきりさせるために、上下関係がある。
上のやつの命令を聞いて、下のやつがやった。やった結果、ひどいことになった。下のやつは命令通りのことをしたわけで、責任は、上のやつにある。なんで、これがわからないのか? ひどい結果になった場合だけ、下のやつの自己責任になってしまうのはおかしい。

それを、「わかったようなことを言うやつが」……「結果を見て」……「そんなのは自己責任だ」と言うわけだ。これは、非常不公平な意見だ。

本来、自己責任論というのは、アンガーコントロール論として人に近づくのだけど、「その人」のなかで、他人をせめるための道具になってしまうのだ。ぜんぜん、自己責任じゃない。自己責任を感じるなら、条件を無視して、「すべては自己責任」などと、他人に言ってることに、責任を感じるべきだ。

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「努力をすれば成功する」に関しては、条件によってちがうから、条件を無視して、「努力をすれば成功する」とは言えない。組織に属していない場合でも、「属性」に関する偏見などによって、「自分のほうが上だ」と思い込んでしまう人もいる。

その人は、マウントをとろうとする。

そのときに使われる言葉が「努力をすれば成功する」とか「すべては自己責任」とかという言葉なのだ。

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話がズレたけど、ともかく、ヘビメタ騒音という条件がもたらす影響がでかすぎるのだ。

ところが、やられてない人は、それがわからない。

自分がやられていないので、実生活のなかでどういう影響があるのかわからない。

自分がやられていないから、わからないだけなのだけど、それを『影響はない』と判断してしまうのだ。そして、騒音生活によって強制的に生まれるハンディを無視する。

ようするに、「騒音生活のハンディはない」と判断するのだ。

これは、その人たちの家族が、まともな家族で、うちの兄貴のようなきちがい的な行為を夢中になってやり続けることがないから、ただ単に、経験していないだけだ。

ようするに、きちがい兄貴がもたらすような騒音生活を経験していないのである。けど、「自分だって苦労した」と言えば、「同レベルの苦労をした」ということになってしまうのである。

だから、「自分が言っていることは正しい」と思ってしまう。

けど、同レベルの苦労なんてしていないんだよ。もし、同レベルの苦労をしていたら、『影響はない』と言うはずがないからだ。

どれだけ、がんばっても、残ってしまう影響に苦しめられたことがないから、『影響がない』と判断してしまうわけだ。

だから、『影響はない』と言っている時点で、同レベルの苦労をしていないということがわかる。人間のからだをもっていたら、不可避的に影響をうけるということがわかる。わかりたくなくったって、わかってしまう。

わかってないないのだから、うけてないんだよ。

そして、たとえば、そいつの体(からだ)に、同レベルのダメージが蓄積していないから、普通のことができるんだよ。俺だって、きちがいヘビメタのハンディがなかったら、普通に、普通のことができるんだよ。

きちがい家族による騒音が何千日も続いて、できなくなったんだよ。なんでこれがわからないのか? ともかく、ものすごく失礼なことなんだぞ。ものすごく失礼な態度で、まちがったことを言っているんだぞ。自覚、ないだろ。正しいことを言っていると思っている。

けど、同レベルの苦労なんて経験してないんだよ。経験していたら、影響をうけるということが、身にしみてわかるから、『影響はない』『影響がない』『影響なんてない』と言わなくなる。

うちの兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、普通の人が一日に一分だってやらないことを、毎日毎日、やり続けたので、不可避的な影響をうけたんだよ。俺が、不可避的な影響を、うけたんだよ。くそ否定するな! 

だから、特殊な悪条件をかかえている人は……特殊な悪条件をかかえていない人から、悪く言われることになるのである。

みんな「自分なら平気だ」とくちをそろえて言う。

あるいは、みんな、言わなくても、「自分なら平気だ」と普通に思っている。

「自分なら、そんなの平気だ」「自分なら、そんなことの影響をうけずにできる」と思って、アホなことを言う。

「できると言えばできる」とか「努力をすればできる」とかということを言う。

けど、それは、とても失礼なことなんだよ。強烈に失礼なことなんだよ。

どれだけ「できる」と言ったって、できないし、どれだけ努力をしても、条件が悪い場合は、できない。あるいは、できるようにならない。

条件がもたらす悪影響を排除することが……どうしてもできない状態になる。全部の時間をからめとられているような状態になる。

悪条件が睡眠時間に影響をあたえる。どれだけ体が疲れていても、きちがい騒音のあとで眠れないという状態が毎日続く。そんな状態で、影響を受けないわけがない。

しかし、職場や学校で鳴っているのでなければ、知らない人は知らない。家で、きちがい家族が鳴らしてない人は、きちがい家族が鳴らしている騒音経験していないから、そもそも、きちがい家族による騒音の影響をうけていない。

うけていないのだから、受けている人とは、条件がちがう。けど、条件を無視して、「できると言えばできる」とか「努力をすればできる」とかと言ってしまう。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。