2024年12月30日月曜日

自己責任論によって、人が人に圧力をかけやすくなったのである。

 自己責任論だって、自己責任論がはやれば、それだけ、他人の責任を追及する人が減るかというと、減らないのだ。むしろ、増える。「すべては、自分の責任だ」と考える人が増えたなら、その分だけ、他人の責任を追及する人が減るはずなのである。ところが逆に、自己責任論がはやると、他人の責任を追及する人が増えてしまうのである。自己責任論というのは、他人の責任を追及しやすくするための理論なのだ。自己責任論のおかけで「そんなのは、おまえの自己責任だ」と他人の責任を追及することが、楽になったのである。「おまえの責任かどうかわからない」ことまで、全部「おまえの責任だ」と軽く、言えるようになった。何度も言うけど、自己責任論というのは、アンガーマネジメントみたいなことを言っている場合は、自分(本人)を対象とした、自己責任論なんだよ。けど、実際には、他人の自己責任を追及するようになる。自己責任論が流通しているときのほうが、自己責任論が流通してないときよりも、人は、他人の責任を追及しやすくなったのである。「そんなの自己責任だ」と無慈悲に言えば、それで、「正しいことを言った気持になるから」だ。「正しいことをしたつもりになるから」だ。ほんとうにその他人の責任なのかどうかわからないことまで、その他人の責任だと決めつけることができる。これが、自己責任論の正体だ。これも、何度も言うけど、「すべては、自分の責任だ」と考えるのであれば、他人が不幸になっているのは、自分の責任だと考えることになる。「すべては、自分の責任だ」と考えてないので、他人の責任を追及するようになるのである。自己責任論がはやったおかげで、その他人が不幸なのは、その他人の自己責任だと決めつけて、その他人の自己責任だと軽く言うことができるようになったのだ。自己責任論がはやっている時代と、自己責任論がはやってない時代を比べると、自己責任論がはやっている時代ほうが、「さまざまな、不可避的な悪条件」にたたられている人たちにとっては、生きにくい時代なのだ。

これは言ってはいけないことなのかもしれないけど、「すべては自己責任だ」と考えている人は、実際に他人が失敗したときは、他人の責任を追及する。自分が他人の責任を追及していることに、なんの疑問もいだかない。「すべては自己責任」なのだから、他人が失敗したって、「自分の側の自己責任」だ。なんで、対象が、自分から、他人に移ってしまうのか? 自己責任論をはやらせた人は、普通の人なら、自己責任の対象が自分から他人に移るということを知っていて、わざと、はやらせたのではないかと思う。ようするに、悪意があって、はやらせたのである。社会をより悪くすために、自己責任論なるものをはやらせたのである。社会のなかで、人が他人に圧力をかけやすくするように自己責任論なるものをはやらせたのである。

横から横への圧力ということを言ったでしょ。あれが、自己責任論でも成り立っている。自己責任論によって、人が人に圧力をかけやすくなったのである。自己責任論が「正しいこととして」流通していれば、人は人に対して、つめたくなれるのである。

普通の人が自己責任論を信じると、アンガーマネジメントみたいなことを言っているのは最初だけで、だんだん、他人の自己責任を追及するようになるのである。自己責任論がはやっていると、人が人に対してあたたかくなるのか、つめたくなるのか? もちろん、自己責任論がはやっていれば、人が人に対してつめたくなるのである。

ほかの人のことを思っている人たちばかりなのに、これだけ生きにくいのはなぜか

 「ほかの人のことを思って、こういうことをやっている」と言う人ばかりだ。もちろん、慈善事業ではなくて、ビジネスだ。

ビジネスなのに、「ほかの人のことを思って、自分はこういうことをしている」と言う人たちが多い。

「みんなが得をするように、シェアしてください」と言う人たちもいる。この人たちも、ビジネスをやっている。ほんとうに得をするのはだれか?

みんながシェアをすると、その人が得をするようにできている。みんなが得をするわけではない。みんなから、その人にお金が流れるわけで、みんなのほうは、別に得をしない。「お得な気分」を買っただけだ。「どうにかなるような気分」を買っただけだ。その人の「カモ」になっただけだ。

ほかの人のことを思っている人たちばかりなのに、これだけ生きにくいのはなぜかということだ。

実際には、「ほかの人のことを思っている」という人は、自分のことだけを思っていて、ほかの人をカモだと考えているので、ほかの人たちは損をするようになっている。

あるいは、ほかの人のことを思ってやっていることが、ほかの人にとって有害なものになっている。

このどちらかが成り立っているか、あるいは、両方とも成り立っている場合は、「ほかの人のことを思っている」人が、どれだけ増えても、社会はよくならないのである。社会のなかに住んでいる人は、生きがたさを感じ続けるだろう。ほかの人にとって、生きやすい社会にはならないのである。ほかの人の状態が、ぜんぜんよくならないのである。

まあ、有害ではないけど、有益ではないということも考えられる。ほかの人のことを思ってやっていることが、ほかの人にとって無害ではあるけど、有益ではない場合は、ほかの人は、よりよい状態にはならない。つまり、人々……ほかの人たちの悪い条件にまったくなにも影響をあたえない。

現実社会のことを考えれば、こんなにほかの人のことを思っている人たちばかりなのに、一向に生きがたさが改善されないのはおかしいということになる。どれだけ、きれいごとを言う人たちが増えても、まったく、社会がよくならない。

ほかの人のことを思っている人たちばかりだとする。そのような社会は、住みやすいはずだ。ところが、実際の社会は、住みにくいのだ。実際の社会は、つらいことばかりなのだ。これは、おかしい。

2024年12月29日日曜日

やられなかっただけだろ

 この感覚がヘビメタ騒音の感覚なんだよなぁ。そりゃ、やられてない人は……長年、毎日毎日やられてない人には、この感覚はない。だから、すぐれているのか? だから、いい人なのか? ちがうだろ。やられなかっただけだろ。

解決するなら、とっくに解決している

 ライフハックというのは、条件をガン無視したきれいごとなのである。そんなことで、解決するなら、とっくに解決している。

ほんとうに、まったくわかってないなぁ。

きちがい兄貴のしくみがわからないやつが、きれいごとを言う。そうなると、こいつは、俺に対して無理なことを言っているということになる。ところが、こいつは、俺のことを格下の存在とみなして、『いいことを言った』と思うのである。

こいつから見ると、基本的なことがわかってないのはエイリのほうなのである。……きちがい家族による、はげしい騒音生活がどういうものか、まったくわかってない。

ところが、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言う。言いやがる。

*     *     *

いままで細かく見てきたけど、妄想が横たわっているんだよ。

前提が妄想なの……。

こいつらはこいつらで、前提が妄想だということを認めない。

だから、これは言ってはいけないことかもしれないけど、なんとなく、態度が、きちがい兄貴と似てくるのである。

もちろん、きちがい兄貴がやっていることと、こいつらがやっていることはちがう。「似てくる」といっても、きちがい兄貴がやっていることを、こいつらは、やってない。

けど、俺に対する態度が、似てくるのである。

妄想が前提にある。

たとえば、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」という妄想をもっているのだけど、「言ったことが現実化する」ということが妄想だとは思ってないのである。

そして、「自分が言った通りになる」と思っているのである。そしてさらに、「自分が言ったのに」自分が言った通りにならなかったことは、ガン無視してしまうのである。

きちがい兄貴は、ものすごくでかい音で鳴らしているのだけど、気ちがい兄貴自身が、ものすごくでかい音で鳴らしているという事実をガン無視してしまう。だから、どれだけやったって、やったことになってないのである。

「しずかにしくれ」と言われれば、発狂して、ガン無視してやりきるのに、「ゆずってやった」「やってない」と思っているのである。まるで悪いことはしてないと思っているのである。

でっ、言霊主義者は、さすがに、そこまでは悪くない。

けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音によって、(こっちの身には)いろいろな障害が発生するのだけど、その障害について、勘違いするのである。

こういう、構造。

言霊主義者にとっては、こっちの不可避的にしょうじる障害を無視しているということを指摘されることは、これまた、不愉快なことなのである。

だから、ここでも、「なんとなく、兄貴に似ているなぁ」と感じることを(言霊主義者が俺に対して)しやがるのである。

もちろん、言霊主義者は、兄貴のように、一般的なルールを無視して、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らしているわけではない。

だから、そういう意味では、まったくちがう。ちがうんだよ。

けど、なんか、自分勝手さが似ているのである。まあ、似ているといっても、ちょっとだけ似ているだけだ。

何度も言うけど、やっていることがちがう。

だから、言霊主義者が、きちがい兄貴のように、一般的なルールを無視して、悪いことをやりきっているということを言いたいわけではない。

ただ、言霊主義者の妄想的な前提(設定)が、俺の側の言っていることを否定するので、そこに問題がしょうじるだけなのである。

妄想的な前提(設定)というのは、「言ったことが現実化する」という前提(設定)だ。

言わなかったことが現実化したら、ガン無視!!

言ったことが現実化しなかったから、ガン無視!!

そうしないと、「言ったことが現実化する」という妄想を維持できない。

*     *     *

ライフハックを口にする人たちも、言霊主義者とおなじように、条件を無視している。

条件なんてあったとしても、たいして影響をあたえないものなのである。

『それよりも、自分が主張しているライフハックのほうが影響をあたえる』と思っている。

こいつらの頭のなかでは、「条件が与える影響は、〇・〇〇〇〇〇一%ぐらい」なのである。こいつらの頭のなかでは「自分のライフハックの影響は九九・九九九九九九%ぐらい」なのである。

「条件が与える影響なんて無視できる」……これが、ライフハックをクチにする人たちの前提だ。

ところが、実際には、ライフハックの影響はない。

あるいは、あったとしても、〇・〇〇〇〇〇一%ぐらいしかない。

一方……「条件が与える影響は九九・九九九九九九%ぐらい」なのである。

一番重要なことを無視している。

*     *     *

ああっ、あとは……。他人がライフハックをした結果、トラブルがしょうじることに関しては、ライフハック主張者は、ガン無視だ。

ライフハックに書いてあることを実行したら、マイナスである出来事がしょうじた場合は、ライフハック主張者は、ガン無視だ。

「そんなのは、そいつの実行方法が悪い」ということになる。

いやー。ほんとうにそうなのかな?

その「ライフハックの方法」に内在している問題が顕在化しただけなんじゃあないかな?

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが言霊主義者で、Bさんが悪い条件をかかえている人だとする。AさんがBさんに「言ったことが現実化するから、言えばいい」と助言したとする。

基本的には、「言ったことが現実化する」という妄想的な設定がまちがっているのである。

BさんがAさんに「言っても、現実化しなかった」と言ったとする。

そうすると、Aさんは「そんなのは、言い方が悪いから現実化しなかったんだ」とBさんの言い方のせいにするのである。

これは、言霊主義者にかぎったことではなくて、ライフハックをクチにする人たちは「そんなのは、やり方が悪いから、うまくいなかったんだ」と言うのである。

けど、条件によってはやることさえできないし、条件によってはうまくやることができないのである。

けど、条件は無視して、『主要なこと』を言うわけだ。

『主要なこと』というのは、そのライフハックの短い文だ。

これ、法則性なんてないのに、法則性があるように言われて、流通している。

こんなもの、「現実をガン無視すること」が流行しているのとおなじだ。

そうなると、条件が悪い人が、けっきょく、損をするのである。

複数の悪い条件をかかえている人が、悪く言われることになるのである。

そりゃ、「理論は正しいけど、運用のしかたが悪かったんだ」ということが(ライフハックをクチにする人たちのなかで)決まっているのだからそうなる。

理論がほんとうに正しければいいけど、正しくないのである。法則性もないし、理論が正しくないので、条件が悪い人は、うまくいかないのである。

条件が悪いということが、うまくいかないということを、決定している。

ところが、条件の差を認めない人は、「条件が悪いということが、うまくいかないということを、決定している」ということを認めない。意地になって認めない。

*     *     *

社会のなかでは、ライフハックをクチにする人のほうがこまってないのである。ライフハックについて語られるほうより、ライフハックをクチにする人のほうが、相対的に優位なのである。

こまっている人たちは、どうして、そんなライフハックを語られるのか?

こまっている人たちは、どうして、助言されるのか?

それは、その人が「こまっている」からだ。

こまっているのである。

だから、立場が弱い。

劣位なのである。

なんで、こまっている人がこまっているかというと、たいていの場合は、悪い条件が「それ」をうみだすからこまっているのである。「それ」というのは、現実の結果、現実の出来事のことだ。

悪い出来事が「それ」によってしょうじてしまうから、劣位になる……。こまる……。劣位になる……。こまる……。劣位になる……。こまる……。

条件が悪くなければ、そういう悪いことが、しょうじない場合だってある。しょうじないほうが、多い。条件が悪いから、こまっているのに、こまってないやつらが、妄想的な前提で助言をしてくるのである。

*     *     *

たとえば、例外を抜かせば、カネがあるうちに生まれたほうが有利で、カネがないうちに生まれたほうは、有利じゃない。

カネがないということによって、さまざまな点で、損をするのである。

親がなにかを買ってやれば、子どもはそのなにかをゲットする。カネがある親は、子どもにいろいろとかってやられるけど、カネがない親は、子どもにいろいろと買ってやることができない。

そうなると、カネ持ちの子供はいろいろなんで優位に立ち、貧乏な子供はいろいろなところで劣位に立つようになるのである。

この場合、カネがあるかどうかという条件がこのちがいをうみだしている。

ところが、カネのあるやつらが「心構えの問題なんだ」ということを言い出すのである。あるいは「引き寄せ能力のちがいなんだ」ということを言い出すのである。

優位なほうが、助言して、劣位なほうが助言されるのである。

条件が悪いほうは実際にこまっていて、条件がいいほうは、実際にはこまってないのである。

こまってないほうが、こまっているほうに助言をするのはあたりまえだということになっている。

そうなるだろう。けど、条件が、そもそもの差をうみだしているのである。

ところが、助言をする人というのは、ほんとうに差をうみだしている根源的な「条件」を、無視してしまうのである。そして、架空の……妄想的な……理由を作り出して……現実的ではない助言をするのである。しかも、現実的な助言だと思っているのである。どうしてかというと、彼らにしてみれば、「妄想的な前提」ではなくて「現実的な前提」だからだ。

「言えば言ったことが現実化する」……これは、妄想的な前提だ。ところが、言霊主義者のなかでは、現実的な前提だということになっているのである。だから、条件の差で苦しんでいる人に対して「言えば、言ったことが現実化するから、言えばいい」と言うのだ。

けど、条件の差で苦しんでいる人が言ったところで、条件がもたらすことは、言っても、かわらない。言ってもかわらないのだけど、言霊主義者のなかでは「言えば、かわる」ということになっているのだ。

どうしてかというと「言えば、言ったことが現実化するから」だ。

 言霊主義者のなかでは「言えば、言ったことが現実化するから、言えばいい」というのは、じゅうぶんに、現実的な助言なのだ。ところが、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、言霊主義者がもっている「妄想」でしかないから、実際には「現実に影響をあたえない」のである。

けど、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」ということは、妄想だということを認めたくない。なので、「言った人の言い方が悪いから、現実化しなかったんだ」ということを言いだす。

これは、矛盾している。

言霊主義者は、ガン無視するけど、「言ったことが現実化する」ということと「言った人の言い方が悪いから、現実化しなかった」ということは、矛盾しているんだよ。

けど、この矛盾も、言霊主義者はガン無視だ。こういう、幼稚なやつばかり……。こういう非理論的なやつばかり……。こういう、妄想的なことを言うやつばかりだ。

ぼくが言っていることは、たいへん「うけがわるい」ことを知っている。

言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者を敵にまわすべきではない。

しかし、言っておかなければならないのだ。

どうしてかというと、こういうことが「正しいこと」ととして流通していると、非常にまずいことが発生するからだ。条件が悪い人が、追いつめられて、自殺することになる。

これ、 言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、自分たちが「いいこと」を言ってると思っているけど、いいことなんて、言ってない。

これ、 言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、自分たちが「いいこと」をしていると思っているけど、いいことなんて、してない。

これ、 言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、自分たちが「正しいことを助言している」思っているけど、正しいことを助言してない。

だれかが、「それは間違っている」と言わなければ、このままだ。

このままなのは、よくないのである。

*     *     *

横から横に対する圧力になるのだ。これが、社会全体の生きにくさを作り出している。ぜんぜん、よくないことだ。

たとえば、支配者階級と、被支配者階級ということを考えて、上が下に圧力をかけているということは、想像しやすい。

しかし、被支配者階級のなかで、横から横に圧力をかけているということは、想像しにくい。

しかも、支配者階級が、被支配者階級のなかで、横から横に圧力をかけることを期待していたらどうだろう?

横の人に圧力をかけている人は、正しいと思って圧力をかけているのだけど、それが、支配者階級の意図した通りの行動だとしたら、どうだろう?

横から横に対する圧力の場合、横から横に圧力をかけている人は、自分が圧力をかけているとは思わないのである。

相対的に優位である(横)が、相対的に劣位である(横)に妄想的な発言をして、圧力をかけているのである。

社会全体でこのようなことをしているのであれば、社会のなかにいる人が不幸になるのはあたりまえだ。まちがった前提に立ってまちがったことを言う人たちが増え、まちがった前提に立ってまちがったことを言っているにもかかわらず、間違ったことを言っているという自己意識がない。正しいことを言っているつもりなのである。

その場で、どちらかが、優位なのかは、その場によって、ちがう。その場で、どちらが劣位なのかというのは、その場によって、ちがう。

ようするに、ひとりの人が、ある人に対しては、優位に立ち、ある人に対しては劣位に立つのである。ひとりのひとが、場面によっては、優位に立ったり、劣位に立ったりするのである。

たとえば、Aさんと、Bさんと、Cさんがいたとする。Aさんが、Bさんといるときは、AさんがBさんより優位で、BさんはAさんよりも劣位だ。Aさんが、Cさんといるときは、AさんがCさんよりも劣位で、CさんはAさんよりも優位だ。

場面によって、立ち位置がちがうので、だれが優位なのかは、固定的なものではなくて、場面によってちがうものなのである。

しかし、全体的には、やはり、条件が悪い人が劣位に立ちやすいのである。

たとえば、会社のなかで、一番下の人と、二番目に下の人だと、二番目に下の人は、一番目に下の人よりも、優位な立場に立つことができるのである。あるいは、発注する側は、発注される側に対して優位になりやすいのである。

しかし、その会社のなかで一番下の人は、客としては、店員に対して優位に立つことができるのである。

だから、優位とか劣位といっても、相対的な優位とか劣位が、実際の場面では重要だということだ。

しかし、そうなのであれば、社会的な階層のなかでの、劣位と優位がまったく関係がないことになるかというと、そうではないのだ。社会のなかでの、劣位や優位が、その場の相対的な優位さに影響をあたえる。

だから、ここら辺は、社会的な構造と現実的な場面が複雑に絡み合っているから、どちらが優位なのかということについては、単純な決めつけは、できない。

しかし、条件が悪い人は、悪い属性をもちやすく、悪い属性は、相対的な劣位をうみだしやすいのである。相対的に劣位である人は、相対的に劣位である人間として、相対的に優位である人間と、対面するということになる。

逆も、また、しかり。

相対的に優位である人は、相対的に優位である人間として、相対的に劣位である人間と、対面するということになる。


いやだなぁ。

 きちがい兄貴も、きちがい親父も、「関係、ない」というやつも、ヘビメタ騒音のことについてぼくがほんとうのことを言ったのに、疑いをもつやつも、みんな、いやだなぁ。

特別養護老人ホームのやつも、自転車屋も、地方新聞をポスティングするやつも、「すべての勧誘お断り」と書いて、ドアに貼りつけてあるのに、無視して勧誘してくるやつも、みんな、みんな、いやだな。特別養護老人ホームは、歩行器詐欺をしやがった。俺が「やらなくていい」と言った工事をしてしまうネズミ対策工事業者。

2024年12月28日土曜日

「そんなの、関係、ない」

 きちがい家族の騒音がどれだけこたえるか、みんな、わかってない。きちがい家族の騒音が、どれだけ、人生を台なしにする、みんな、わかってない。

「俺だって苦労した」と言えば、同質・同量の騒音をあびたような感じになるのだけど、ちがう。ぜんぜんわかってない。

わかってないから「関係、ない」「影響、ない」と言える。

わかってないから、言っているだけだ。

これ、ほんとうに、すべてのことに、影響をあたえるのである。

でっ、一回だけ、ひとつのことに影響をあたえたから、それでおしまいというわけではなくて、何回も、多数のことに影響をあたえる。

過去は、関係があるのである。

「過去は影響をあたえる」とひとこと言っただけでは、到底、言い切れない影響をあたえている。

ところが、クソ凡人から出てくる言葉は「そんなの、関係、ない」だ。

「そんなのは、関係がない」と言うやつは、みんな、ヘビメタ騒音生活がどういう生活なのか、まったくわかってない。

どれだけ、がんばっても、全部がマイナスになる生活だ。言いようがない。ほんとうに、影響が限定的だと思っているやつは、まったくわかってないからな。

どれだけ、ひろい範囲に影響がおよぶかぜんぜんわかってない。

しかも、時系列的に増えてしまうのである。「影響」が、「影響の影響」をうみ、「影響の影響」が、「影響の影響の影響」をうむというようなことが発生する。

そして、みんなが理解できな感覚で、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らしている。

みんな、ほんとうに、理解できない。

「関係がない」と言わなかった人だって、わかっているわけじゃない。きちがい兄貴のきちがい感覚なんて、わかるはずがない。

けど、きちがい感覚で鳴らしてしまうので問題がしょうじる。

よそのうちでは絶対に鳴らさないような音で鳴らし続けてしまうから、問題がしょうじる。

よその人は、きちがい家族が、きちがい的な意地で鳴らした「騒音」というもの、まったく経験してない。きちがい家族が、きちがい的な意地で鳴らした「騒音」を経験した人が、俺に対して、みんなが言うようなことを、言うわけがないのだ。

みんな、よその人は、誤解をしているんだよな。

特に、「本当は、そんな音で鳴ってなかったんじゃないか」と思うやつは、ひどい。

こいつらは、どんだけ、俺をおとしめれば、気がすむんだ。

俺は、きちがい家族のきちがい騒音のなかで、がんばってがんばってやってきた人間なんたぞ。

ほんとうに、頭にくる。

2024年12月27日金曜日

トラブルの数……。

相対的な差というのは二者のあいだにあるような相対的な差のことなんだけど、じつは、絶対的な差がある。条件によって絶対的な差があるのである。ところが、条件の差は無視されるので、絶対的な差も無視されてしまう。

「差なんてない」というのは、宗教的な妄想なんだよ。

「言ったことが現実化する」というのとおなじだ。

妄想。

人間は、さまざまな条件によって、日常のなかで発生するトラブルの数やトラブルの質がある程度、決まってしまうのである。トラブルの質というのも重要なのだけど、とりあえず、トラブルの数に注目しよう。

トラブルの数……。

条件によって、一日にしょうじるトラブルの数が、だいたい決まってしまう。きちがい的な親のもとにうまれると、トラブルの数が多いのである。

いっぽう、温和で思慮深い親のもとにうまれると、トラブルの数が少ないのである。他にも、条件があるのだけど、一日のなかで経験するようなトラブルの数がそもそもちがうのである。

たとえば、人間が一日に一〇個のトラブルを処理できるとしよう。トラブルの質は問題にしないことにする。

だから、これは、たとえ話だ。モデルについて考えているだけだ。

AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは一日に八個のトラブルをかかえるような環境にいるとする。Bさんは、一日に一二個のトラブルを抱えるような環境にいるとする。Cさんは一日に二〇〇個のトラブルを抱えるような環境にいるとする。

その場合、Aさんは、Cさんに対して、「自分だってトラブルがある」と言える。Cさんは、それを否定できない。環境というのは、条件のことだ。複数の条件が環境をつくっていると考えることにする。

Aさんは、Cさんに対して、「自分だって苦労した」と言える。あるいは、また、Aさんは、Cさんに対して「自分だってトラブルぐらいある」と言える。事実だ。さらにあるいは、Aさんは、Cさんに対して「俺だっていやなことはある」と言える。

みんな、正しい発言だ。

それなら、AさんとCさんのトラブルの数はおなじかというと、おなじではないのである。Aさんの条件と、Cさんの条件がおなじかというとおなじではないのである。

条件の差とトラブルの数を無視して、「ある」か「ない」かの二値にすれば、Aさんの言っていることは、正しいのである。

しかし、Aさんが経験しているトラブルの数とCさんが経験しているトラブルの数はおなじではないので、同数のトラブルを経験しているとは言えない。

個数を無視した抽象的な言葉で還元できないものを含んでいる。Aさんの条件とCさんの条件とはおなじではないので、同数のトラブルを経験しているとは言えない。

たとえば、瞑想でストレスを軽減できるとする。一個のトラブルが一ストレスをうみだすと考えよう。瞑想で軽減できるストレスの量を、二個分のトラブルの量だとする。

そうすると、Bさんは一二個のトラブルから二個分のトラブルをひいた分だけ、一日にストレスをためるということになる。

そして、一日に一〇ストレスを処理できるので、一日のなかでストスレを処理できるということになる。Bさんにしてみれば、瞑想をすればストレス制御ができる状態になるのである。

しかし、Cさんはどうだろう、瞑想をしたって、一日に一九八ストレスが溜まってしまう。一日に一〇だけ処理できるとすると、一八八が次の日に持ち越しになる。

そして、Cさんにしてみれば、瞑想をしても、ストスレ制御ができないということになる。

トラブルは「件」でかぞえるべきなので「件」で書いたのだけど、すわりがわるいので「個」にした。

話をもとにもどす。Bさんは自分が瞑想でストレス制御ができるので、瞑想はストレスに効くと思うわけだ。主観としては、それが正しいということになる。ところが、Cさんにとってはそれは、正しくない。実際に、正しくない。そもそものトラブルの個数、ストレスの量がちがうので、Cさんは、瞑想では、ストレスに対処することができない。

けど、それは、Bさんが一日に一二個のトラブルを経験して、一二ストレスを感じているからだ。Cさんにとっては、正しいことではないのである。

しかし、一二個以内のストレスの量しか感じない状態で暮らしている人が多数派なら、多くの人が「瞑想でストレス制御ができる」という意見に賛成するだろう。

ここでは、条件が無視される。「瞑想でストスレに対処できる」という文言が正しい文言として流通するようになる。

しかし、みんながおなじ個数のトラブルを抱えているわけではない。トラブルが多い環境とトラブルが少ない環境がある。環境と言ったけど、これは、条件のことだ。

というわけで、たとえば、ライフハックとして「瞑想でストレス制御ができる」という意見が蔓延していると、一三個以上のトラブルを抱えている人は、いやな思いをするのである。

どうしてかというと、「できないのはおまえが悪い」ということになるからだ。条件なんて無視だ。そして、瞑想が効くか、効かないかという話になってしまう。

そして、効くと思っているほうが多数派なら、「瞑想でじゅうぶんにストレス制御ができるのに、できないと言ってるやつらが悪い」ということになってしまうのである。

しかし、「瞑想でじゅうぶんにストレス制御ができるのに、できないと言ってるやつらが悪い」と言っている人たちは、トラブルの個数を無視している。条件を無視している。環境を無視している。

そして、条件や環境は関係がないという考え方をもっているということに無頓着だ。

*     *     *

たとえばの話だけど、ある人は「瞑想でストレスを調節できる」と言うわけ。もちろん、その人の生活のなかでストスレを調整できるということだ。その人よりも、ストスレ量が大きい人やストレスを発生させる出来事の数が多い人は、「瞑想では、ストレスを調整できない」かもしれない。

けど、「瞑想でストレスを調節できる」ということが独り歩きを始めるとどうなるかということだ。「ストレスは瞑想で調節できるのだから、瞑想で調節しようとしないやつがいけない」ということになる。「調節できるのに、調節しようとしないやつの自己責任だ」ということになる。

「ストレスは瞑想で調節できるのだから、瞑想で調節しようとしないやつがいけない」といっている人の頭のなかには、条件の差はない。条件の差を考慮に入れてないので、「みんなおなじ量のストレスを感じている。どんなストレスも瞑想で調整できるはずだ」と思ってしまう。

「俺だって、ストレスを感じることはある。だから、瞑想で調整してるんじゃないか」と思うわけだ。ようするに、「自分だって、ストレスはあるのだから、調整できないといっている人だって、調整できる」と思うわけだ。

前提として、自分のストレスと「調整ができない」といっている人のストレスは、たいして差がないか、おなじだと思っている。

だから、「調節できるのに、調節しようとしないやつの自己責任だ」ということになる。

隠れた前提としては、「条件の差がない」「自分と相手はだいたいおなじじぐらいのストレスを感じている」ということが成り立っている。頭のなかに成り立っているこの前提が、そもそも、まちがっているのだけど、そういうことを言う人間にとって、この前提は空気みたいなものだから、別に、疑問に思ったり違和感を感じたりしない。

ようするに、そういう前提でものを考えているという意識がない。

ごく自然に「条件の差がない」「自分と相手はだいたい同じぐらいのストレスを感じている」と考えてしまうのだ。

ちなみに、相手が「差がある」ということを言ってきた場合は「自分だってストレスがある」と言って、「差」を認めない。そういうことを言う人が、頭のなかで見積ると、いつも「だいたいおなじぐらい」なのである。

こういう人たちは「ちがいがあったとしても、『たいした差』ではない」と、頭のなかで思っている。「自分はポジティブに調整できると考えて調整しようとしたから、調整できるんだ。そういう調整をこころみない相手がさぼっているだけなんだ」と思うのだ。

こういう人たちは「条件の差がない」「自分と相手はだいたいおなじじぐらいのストレスを感じている」と思う人は、夜郎自大な人格で、ごく自然に「相手がさぼっているだけなんだ」と思うことができるのだ。

こういう人たちは「ネガティブに考えて調整しようとしないからダメなんだ」「調整するための努力をしないで、さぼっているからダメなんだ」とごく自然に思うわけだ。

口に出して言う場合もあるだろう。

だから、「瞑想でストレスは調整できる」というような文言がはやっていると、条件が悪い人が、相対的に条件がいい人に、がたがた、文句を言われるということになる。マウントをとられるということになる。

そうしたら?

ただでも、条件が悪くて、普通の人よりもストレスの量が多い人や、普通の人よりも、ストレスを感じる出来事が多い人は、文句を言われたり、マウントをとられたりして、不愉快な思いをするということになる。

つまり、ストレスの量が増え、ストレスを感じる出来事の数が増える。

2024年12月26日木曜日

家を出れば(きちがい兄貴の)騒音は聞こえないのだけど、こころを圧迫しているのだ

  「だいじょうぶだろう」と思って、前開きの服を着たんだけど、どうも、ダニがついていたみたいだ。背中と腕を盛大に刺された。昨日、かゆすぎて、気が狂いそうになった。当然、かいたので、血が出た。というわけで、いまは、いたがゆい状態だ。どうするかな。

その服と、その他の服を、いま、熱湯につけている状態だけど、どうなのかな?

ともかく、親父のスイッチが入ってしまって、ネズミをおびき寄せ、頑固に、ネズミ対策工事に反対しているうちに……。頑固にネズミ対策工事に反対しやがって……。初期段階で処理しなければだめなんだよ。ところで、引っ越しだけど、シェディングがいやだというのがある。これも、目には見えないけど、やっかいなやつらだ。特に遅効性のやつは、たちが悪い。なんでもないと思っているうちに、見えないところで、書き換えと産生がすすんでいる。やっかい。やっかい。

ダニ問題がなければ、ある程度、余裕があったんだけど、余裕がない。そして、どのみち、片づけをしなければならないのだけど、片づけをするときにダニに刺されるので、いやなのだ。ものすごく、足をひっぱっている。きちがい親父が、死後も、ものすごく、足をひっぱっている。

今朝の夢は、長期ヘビメタの夢だ。なぜか、温泉に行くのだけど、長期ヘビメタ騒音の影響で死にたい気分になっているのだ。そりゃ、家を出れば(きちがい兄貴の)騒音は聞こえないのだけど、こころを圧迫しているのだ。なんか、受験の雰囲気なんだよな。あのころ、ほんとうにつらかった。

2024年12月25日水曜日

毎日やられると、つみかさなるということがわかってない

 きちがい家族によるヘビメタ騒音で、どれだけ、睡眠回路を破壊されるか、みんなわかってない。それだけで、話が伝わらない。実際、みんな、きちがい家族といっしょに住んでいるわけではないから、きちがい家族のやり方がわからない。どういう感覚でやっているのかわからない。どういう態度でやっているのかわからない。やっているとき、どういう認識が成り立っているのかわからない。やり終わったあと、どういう認識が成り立っているかわからない。きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、きちがい家族の、感覚、態度、認識について、まったくわかってない。実際にやられたことがないので、実際にやられたとき、どれだけの問題が「ふ・か・ひ・て・き・に」つみかさなるかわからない。ぜーーんぜん、わかってない。自分の常識内の、騒音や、自分の常識内の疲労を考えて、ものを言う。けど、ぜんぜんわかってない。毎日やられると、つみかさなるということがわかってない。「影響なんてない」と言ったやつに対して、ぼくがどういう感情をいだくか、まったくわかってない。どれだけ、影響をうけないようにしても、どれだけ影響が出ないようにしても、毎日毎日、毎時間、毎時間、ずっとやられれば、影響が出る。影響をうける。やられてないから、簡単に「影響なんてない」「鳴り終わったら関係がない」「ヘビメタ騒音なんてそんなものは関係がない」と言いやがる。はっきり言ってしまうと、きちがい兄貴やられた量がおすぎて、「影響なんてない」「鳴り終わったら関係がない」「ヘビメタ騒音なんてそんなものは関係がない」と言うやつを、その場で殺したくなる。もちろん、殺さない。なぐりさえしない。なぐりさえしないけど、こういうやつが言う、こういう発言で、腹がたつことはたしかだ。それは、きちがいヘビメタにたえてきた回数と、きちがいヘビメタにたえてきた期間の長さが、問題なのである。「おまえ、ほんとうに、どれだけマイナスになるか、ぜんぜんわかってないな」と言いたくなる。まあ、これ、どれだけオブラートに包んでいっても、「影響なんてない」「鳴り終わったら関係がない」「ヘビメタ騒音なんてそんなものは関係がない」と言ったやつが、認めるわけではないのだ。「影響なんてない」「鳴り終わったら関係がない」「ヘビメタ騒音なんて、そんなものは関係がない」と言ったやつが、逆にぼくに対して、苛立ちを感じて、誤解に満ちた、ひどいことを言ってくるようになる。こんなくそ野郎が、いい人間であるはずがないだろ。こんなやつが、ぼくと同等の苦労をしたわけがない。ぼくと同等の苦労をしたら、普通に社会に適応して働けないからだになっている。なってないのだから、こいつらがどれだけ「自分だって苦労した」と言ったって、たいした苦労じゃないんだよ。実際に、きちがい家族がいないから、小学六年生から、勉強を邪魔されたことがないんだよ。ずっとずっと、毎日、勉強することができない状態で暮らしたことがないんだよ。一日だけの問題を言っているんじゃないんだよ。ずっと毎日、何年間も、十数年間も続いた問題について言っているんだよ。こいつらが、ぼくとおなじ状態で、一一歳から二五才まで、暮らしたわけではないということは、あきらかだ。

なんで、これがわからないのか?

  言霊にかぎらず、ライフハック系のものは、条件が悪い人をくるしめるものなんだよ。支配者としては、一般大衆のなかで、横から横へと圧力を加えることができる。

そして、「みんな、つらい」とか「みんなつらい思いをしている」とかという言葉で、同質化・同量化してしまう。この同質化と同量化が成り立った時点で、条件の差というのは、無視されることになる。ガン無視、「あったってないもの」になってしまう。

そうなると、条件が相対的に悪い人は、損をすることになるのである。むりなことをおしつけられるようになるのである。

なんで、これがわからないのか?


いろいろ、ありすぎたね。

  むなしーー。正直に言って、むなしーー。ほんとうに、いろいろとあった。俺の人生、いろいろとあった。ぼくは、精一杯、がんばった。もう、いいかなぁ。まあ、死ぬわけじゃないけどね。まあ、誤解をしないように言っておくと、自殺メッセージではない。いろいろとがんばってきたよなぁ……と個人的に思っているだけ。このさき、どうするかなぁ。どうしようかなぁ。ほんとう、いろいろ、ありすぎたね。

こいつらのなかでは「むりなことではない」のである。

 ほんとうに、一日がひどい状態なのに、経験したことがないやつが、「俺だって経験した」「わたしだって経験した」と言う。そいつらには、きちがい親父も、きちがい兄貴もいない。きちがい兄貴の、きちがい的なこだわりヘビメタ騒音を経験してないのに、「そんなのはなんでもない」「影響なんて受けない」「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言いやがる。ほんとうに、影響をうけて、できなくなるのに、「いいわけをしている」「家族のせいにしている」と言いやがる。言いやがる。経験してないじゃないか。きちがい兄貴がいないじゃないか。きちがい親父がいないじゃないか。「そんなに鳴っているのに、親が注意しないのはおかしい」と言いやがる。さらに、「おかしいからエイリが嘘を言っている」と思うのだ。そして、嘘を言っているという前提でものを考える。きちがい兄貴やきちがい親父が「盲点」になってしまう。実際に、いっしょに、暮らしているぼくにしてみれば、あきらかなことなのに、他の人たちにとっては、ぜんぜんあきらかじゃないことになる。盲点になる。実害をうけているのから、こまっているのに、「そんなのたいしたことじゃない」「影響をうけない」「うそを言っている」と言われる人間の身にもなってみろ。

きちがい親父のしくみが異常なので、きちがい兄貴がヘビメタをやりはじめたら、注意せずに、裏から援助してしまということになる。黙認して、一切合切注意しないということになってしまう。 きちがい家族といっしょに住んだことがないやつが「そんなのは、へんだ」と考えて、俺のことを(嘘を言うような)悪い人間だと考えて、それ以降、俺の行動や俺の発言を悪く解釈するようになる。しかも、「自分だって経験がある」「自分だってつらい思いをした」と言っているけど、……その人たちは言っているけど……きちがい家族といっしょに住んでいないのだから、きちがい家族が発生源であるような「つらい思い」は一度も経験したことがないのだ。きちがい家族が、どれだけ強烈な意地で、きちがい行為をするか、まったくわかってない。きちがい的な意地でやったことを、どれだけ強烈な意地で、否定するか……「自分だって経験がある」「自分だってつらい思いをした」と言っている普通の人は、まったくわかってない。きちがい家族が……自分がやったことを否定するときの態度と、無視をしてやりきるときの態度がおなじなのである。だから、永遠に肯定しないし、永遠に……本人がやりたければやり続けるのである。なんの疑問も感じないよ。だから、「きちがいだ」と言っているんだよ。そういうことがまったくわかってないということは、おなじ経験をしてないということなのである。おなじ経験どころか、似たような経験もしてないのである。永遠に肯定しない……と書いたけど、これは、きちがいの頭のなかでは「やってないこと」なのである。だから、きちがいは、「自分がやってないことで文句を言われて頭にくる」という反応をする。こんなのは、ない。知らんぷりだよ。じゃあ、やめてくれるのかというと、やめてくれない。きちがい的なこだわりで、やりきる。これが、きちがいでなくてなんだ。

毎日、ものすごいハンディがつみかさなるのに、関係がないわけがない。

ところが、普通の人が……きちがい家族による激しくてしつこい騒音を経験したことがないやつが……「自分だって騒音ぐらいあった」と言う。「どれだけ、うるさくても、宿題ぐらいできる」と言う。「影響をうけないことは可能だ」と言う。「ヘビメタが鳴っていたから、遅刻したなんて、いいわけだ」と言う。ほんとうに、きちがいヘビメタがあの至近距離で、あの音のでかさで鳴っていると、頭がこんがらがって、宿題なんてできないんだよ。宿題って、勉強のなかで簡単な部分なんだぞ。きちがいヘビメタをあれだけでかい音で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされて、夜、眠れるかと言ったら、眠れないのである。これも、「健康管理ができないのは自己責任」などと言われる。どれだけ、くやしいか。「自分なら、鳴らされても、鳴らされてないときとおなじように普通に暮らすことができる」という前提がまちがっているんだよ。けど、親父やきちがい兄貴じゃないけど……こいつらが、まちがった前提でものをいっているということを認めるということはない。こいつらはこいつらで「自分だったら影響をうけない」「自分だったら、鳴ってたってできる」ということに、自信があるのである。そして、こいつらにとっては、ひとごとなのである。実際に、こいつらがきちがい家族といっしょに住んでいて、きちがい的な騒音にさらされ続けるということはない。「よそでは鳴らせないような音で鳴らしている」とずっと言っているだろ。こいつらは、こいつらで、頑固だ。認めないのである。「自分ならできる」「自分なら影響を受けずに、普通の状態を維持できる」という前提で「むりなこと」を言ってくる。もちろん、こいつらのなかでは「むりなこと」ではないのである。「自分なら影響をうけずに、普通の状態を維持できる」と考えているのだから、こいつらのなかでは「むりなことではない」のである。

*     *     *

言っておくけど、西側の隣人は、ヘビメタ騒音のことを知っている。ヘビメタが鳴り終わったあと、そのうちにきた人もいるので、全員が知っているわけではないけど、知っている。「文句を言ってやろうと思った」と言っている。「すごい音で鳴っていた」というのは、ぼくの妄想じゃない。けど、その西側の隣人だって、きちがい兄貴のスピーカーから、ぼくよりもずっとずっと、はなれているのである。

北側の隣人は、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、一年ぐらいして、引っ越してきたので、ヘビメタ騒音が鳴っていたということは知らない。で、北側の隣人が、西側の隣人に「その騒音(ヘビメタの騒音は)ほんとうに鳴っていたのか」ということを訊いたことがあるのである。そして、西側の隣人が、北側の隣人に「ほんとうにひどい音で鳴っていた」「エイリさんが言っていることは嘘じゃない」と言っているのである。

あとは、当時、ぼくの部屋に入ったことがある……親友や友達が、実際にものすごい音で鳴っていたということを、証言してくれるはずだ。

*     *     *

自分が経験しなかったから「できなくなる」ということがわからないだけじゃないか。自分が経験しなかったから「そういうことがある」ということを認めないだけじゃないか。自分が経験しなかったから「そんなのは嘘だ」と思っている人が、「自分だって苦労した」とひとこと言って、同様の苦労をしたことにしてしまう。同様の苦労をしてないから、「そういうことがある」「きちがい家族がきちがい行為をきちがい的な意地でしてしまうということがある」ということがわかってないだけじゃないか。同様の経験をしてないから「不可避的に影響をうける」ということがわかってないだけじゃないか。同様の経験をしてないから「影響はない」「影響をうける必要はない」と言っているだけなのに、同様の経験があると思っている。同様の経験がないから「俺なら、だいじょうぶだ」「わたしなら、だいじょうぶだ」と思っているだけなのに、同様の経験があると思っている。

「み・つ・も・り」がまちがっている。

ようするに、ほんとうは経験してないから「自分ならできる」「自分なら影響をうけないで生活できる」と、かーーーんーーたーーんーーに、考えてしまう。

 「み・つ・も・り」がまちがっている。

2024年12月24日火曜日

「自分が二五度になると言ったから、二五度になった」と思っているのだ。

 

まあ、もうひとつ例を出しておこうかな。たとえば、言霊主義者がほんとうに言霊の力を信じているのであれば、光熱費なんて気にする必要がないのである。

カネなら、いくらでも出てくるからだ。「カネが出てくる」と言えばいい。

けど、今回は、室温について言いたいのである。

言霊主義者なら、言霊でいかようにも、室温をかえることができるので、暖房機も冷房機も、両方こなせるエアコンも必要がないのである。

冬になって暖房機やエアコンの暖房機能が必要なのであれば、それは、物理原理に頼り切っているわけで、言霊原理にはまったくたよっていないということになる。夏になって、冷房機やエアコンの冷房機能が必要なのであれば、それは、物理原理に頼り切っているわけで、言霊原理にはまったくたよっていないということになる。

夏でも冬でも、「この部屋の室温は二五度になる」と言えば、それで、二五度になるのである。

言えば、言った通りになるというのが、言霊主義者の主張だからだ。

そして、自分は、言霊を使える人間だと思っているのが、言霊主義者だからだ。

言霊主義者なら、言うだけで、自由に、室温を設定できるので、なにも、エアコンやその他の機器による必要がないのである。

そして、エアコンやその他の機器にたよるのであれば、どうして、自分は言霊の力を使うことができないということに気がつかないのか。

暖房機、冷房機、エアコンには、しくみがある。

そのしくみというのは、物理法則にしたがった、しくみなのである。その物理的なしくみをもちいて、室温をあげたり、さげたり、しているのである。「言えば言った通りになる」というのであれば「一秒以内に、この部屋の室温は二五度になる」と言って、室温を調整すればいいではないか。なぜしないのだ? 

言霊主義者といえども、「言ったって、言った通りにはならないことを知っているからだ。

知っているのである。

知っているから、「言うことで」室温を調整しようとしない。

しかし、「言えば言った通りになる」「自分は言霊の力を使える」という(矛盾した)信念をもっているのである。行動と信念が一致していない。

さらに、行動と信念が一致してないことに、言霊主義者が、気がつかないのである。

こんなの、ない。

*     *     *

まあ、「夢がかなう」と言えば、夢がかなうという信念を持つことには、異議をとなえるつもりはない。

問題なのは……そういうことではなくて……「自分は言霊の力を使える」という前提で「言えば言った通りになる」などと他の人に言うことなのだ。

「他の人は、できないからダメなんだ」ということになってしまう。

たとえば「ヘビメタが鳴りやむ」と言えば、鳴りやむのである。「眠れると言えば、眠れる」のである。「できる」と言えば、できるのである。

自分はそういうこと……言霊で現実化することができるけど、エイリはできないという前提で、エイリのことをバカにしてくるのである。

言霊主義者は、「自分ならできると思っている」のだけど、ほんとうは……言霊主義者だって……できない。

言霊の力を使うことなんてできないことなのだ。ところが、すっかりその気になって「自分ならできる」という前提でものを言ってくる。

だったら……言うだけで、室温をかえてみろ!!

言うだけで、目のまえにコーヒーカップに入った熱々のコーヒーを出してみろ!!

ほんとうは……言霊の力なんて、使えないのに……使えるつもりでいる。

しかも、現実の場面では、普通に物理法則にしたがった機械を使って問題を解決しているのに、そういう認識がないのである。

なんで、エアコンのスイッチを入れるとき、「自分は言霊ではなくて、エアコンで、室温の問題を解決しようしている」ということに、気がつかないのか?

「二五度になれと言っても、二五度になるわけがない」と思っているから、言霊の力を使おうとしないのだ。 なぜ、気がつかないのか?

*     *     *

きちがい親父やきちがい兄貴というむずかしい環境(条件)をかかえてしまうと、やられた俺が、他の人から悪く言われるようになるのだ。きちがいヘビメタ騒音が問題になるのは、よそのうちでは絶対に鳴らないような音が、うちで常に鳴っているからなんだよ。

そして、ヘビメタ騒音の影響をうける。

ところが、言霊主義者は、「言霊の力を使えば、影響をうけないことが可能だ」と言うのだ。「言霊で現実をかえることができる」と言うのだ。「自分はできる」と言霊主義者が言う。

自信満々だ。

「できない」なんてことは考えていないのだ。

……(こういう設定で)(こういうことを言われると)(言われた相手が)どれだけこまるかわかってないなぁ。

……こいつら、ほんとうに、わかってない。

普通の人にはない、悪い条件をかかえている人が、言霊主義者から、あたかも、言霊で問題を解決することができるということを言われると、こまるのである。

悪い条件をかかえてない人は、たいしてこまらないけど、悪い条件をかかえている人はこまるのである。

*     *     *

言霊主義者の自信がどこからくるか言っておこう。

たとえば、「室温が二五度になる」と言って、エアコンのスイッチを入れて、室温が二五度になったら、「室温が二五度になると自分が言ったから二五度になった」と思っているから、自信をもっているのだ。

ほんとうは、物理法則にしたがった機器を使って、二五度にしたのに、それは無視して、「自分が二五度になると言ったから、二五度になった」と思っているのだ。

こいつらは、誤解をしているだけなのに、自信満々で威張っている。

自分にはできるけど、エイリにはできないと優越感を感じている。

「言った通りにならない人は、言い方が悪いから、言ったと通りにならないのだ」とこれまた、自信満々で言ってくる。

「自分は言うだけで現実をかえることができるのに、エイリは、言っても現実をかえることができないので、自分のほうがすぐれている」と思っているのだ。

自分は言霊の力を使える人間だけど、他の人は言霊の力を使えない人間だ」とか「自分は言霊をうまく使うコツを知っているけど、他の人は言霊をうまく使うコツを知らない」とかと思っているのだ。

けど、言霊主義者だって、言霊の力を使って、室温を二五度にすることはできない。

*     *     *

言霊主義者の感覚は、幼児的万能感から出てくる感覚だ。

たとえば、自分が「明日は雨がふる」と言ったとする。そうしたら、雨がふった。だから、言霊(理論)は正しいと考えているだけだ。言えば、言ったことが現実化すると考えているだけだ。

自分が「明日は雨がふる」と言ったとする。それでも、雨がふらなかったとする。そうしたら、言霊(理論)は正しくないと考えないのだ。言霊(理論)ことは無視する。無視したので「言えば、言ったことが現実化する」という考え方は、否定されない。「言えば、言ったことが現実化するという考え方は正しい」と思ったまま暮らせる。……無視したから……。現実を無視すると、自分の考え方を脳内で保持することができるのだ。けど、これは、幼稚な態度だ。

人間の思考の型がこれなのである。だから、たいして疑問を感じない。疑問をもたない。いろいろなところで、この考え方に抵触する事実は無視されるので、この考え方は脳みそのなかに残ったままになる。正しいこととして、脳みそのなかに残ったままになる。

はっきり言ってしまうと、ぼくだって、言霊感覚?はある。ぼくも幼児期を経験した人間なので、幼児的万能感の影響下にある。幼児的万能感にしたがって現実を無視する率が、言霊主義者より小さいだけだ。ようするに、ぼくのほうが、現実をよく見ているのである。

言霊主義者は、現実を無視してしまう。気がつかない。言霊なんて成り立ってないということに気がつかない。そして、気がつかない自分のことがわかってない。気がつかない自分に気がつかない。 

*     *     *

たとえば、人工知能を搭載したエアコンができたとする。まあ、いまでもあるんだけど……。ともかく、「室温を二五度にして」と言えば、その音声の意味を(いちおうは)理解して、自動的に室温を二五度にするように設定してエアコンが起動する。言霊主義者は、「言ったことが現実化した」「言った通りになった」と思うだろう。「言えば、言ったことが現実化する。これは正しい」と思うだろう。「自分が言ったから、言った通りになった」と思うだろう。けど、これは、言霊なんて関係がないことだ。言霊の力で室温が二五度になったわけではない。ところが、言霊主義者は、言霊の力で室温が二五度になったと勘違いてしまうのだ。そーーだーーいーーな、勘違いだ。勘違い。勘違い。理由についてまちがった考え方をもっているのである。

2024年12月23日月曜日

なぜ、言霊主義者は、「水がお湯になる」と言って、お湯をわかさないのか?

 たとえば、言霊主義者が階段から落ちて腰をいたくしたとする。階段から落ちるまえに、「階段から落ちて腰をいたくする」と言ったわけではない。

言わなかったことが、現実化したのである。問題なのは、言霊主義者でも、階段から落ちたから、腰をいたくしたと考えることだ。

階段から落ちて、その際に、階段を構成する物質と自分の腰が接触したので、腰がいたくなったと考えるのだ。

ようするに、腰をうったから、腰がいたくなったと考えるのだ。

そして、腰を打ったから、腰がいたくなったと考えることになにも矛盾を感じないのだ。これは、おかしい。腰がいたくなるのであれば「腰がいたくなる」と言ったあとに、腰がいたくならなければならない。

言えば言ったことが現実化するのだから、そうなる。

言霊主義者は、腰をうった「から」腰がいたくなったと考えるべきではなく、「腰がいたくなる」と言った「から」腰がいたくなったと考えるべきなのだ。

なので、自分はほんとうは階段から落ち前に、「階段から落ちて腰をいたくする」と言わなかったのだけど、どこかで、言ったはずだと考えて、言霊思考にあうように、記憶を改変するべきなのである。

ようするに、階段から落ちて、腰をいたくしたあと、自分は「階段から落ちて腰をいたくする」と以前に言ったはずだということにしなければならないのである。

「言ったはず」というような推量を「言った」という断言に変換して、自分は忘れてしまったけど、過去の時点で「階段から落ちて、腰をいたくする」と言ったので、階段から落ちて、腰を痛くしたと考えるべきなのだ。

ところが、言霊主義者であっても、理由がはっきりしている場合は、階段から落ちた「から」腰をいたくしたと、階段から落ちたという物理的な原因を考えるのである。

そして、階段から落ちても、そのとき、腰と階段を構成する物質とのあいだに接触がなければ、いたくはならないと考えているのだから、腰と階段を構成する物質の接触が、自分の腰がいたくなった直接の原因だと考えているのである。

ようするに、いたくなった理由は、階段を構成する物質と自分の腰の接触だと考えているのである。言霊思考ではなくて、物理思考をしているのである。物理的な接触の結果、いたくなったと考えているのである。

だから、言霊主義者だって、いつも、言霊思考をしているわけではないということが言える。

そして、言霊主義者は、自分が言霊思考ではなくて、物理思考をしているということに、無頓着なのだ。

物理法則ではなくて、言霊法則が成り立つというのが、言霊思考なのである。自分が物理思考をしているということにまったく疑問をもたない言霊主義者ばかりなのだ。

言霊の力によって腰がいたくなったのではなくて、物理的な接触によって、腰がいたくなったと考えるのが、多くの言霊主義者なのである。

『どうして、疑問を感じないのか?』とぼくは思う。

何度も言うけど、言霊主義者といえども、普段は、物理的な思考(物理思考)をしているのである。物理的な接触、つまり、物理的な打撃が腰がいたくなった原因だと(自分が経験したことであれば)さとれるのである。

理由は、物理的な打撃だと思うのである。理由は、言霊ではなくて、物理的な打撃だと思っているのである。

そして、「おちる」ということにも、疑問をもたないのだ。自分の身体が、階段からおちた。これは、物理的な現象なのである。「自分の身体が階段から落ちる」と言ったから、階段からおちたわけではない。

そして、物理的な現象が普通に成り立っているということを認めている。思考において認めているのだ。

別に、「ものは、地面にむかっておちる」と言わなくても、「ものが地面にむかっておちるのは」あたりまえだと思っているのである。ようするに、言葉にしなくても、物理法則が成り立っているということを認めているのである。

言霊主義者は「言ったことが、現実化する」と「言った」ということを重視するけど、物理法則も普通に認めている。ひとつの出来事がおきたとき、その出来事は言ったからおこったのではなくて、物理的な運動の結果、おこったと考えているのである。

だから、言霊主義者といえども、ほんとうは、いろいろな出来事について「言ったからそうなった」と考えているわけではないということがわかる。

そして、言霊主義者は、そのことを、無視している。認知してない。認識してない。

目覚めていて、意識的な思考をしているのに、自分が言っていることと、自分が普段、ほんとうに考えていることが、くいちがうということに、無頓着なのである。この無頓着さが、逆に、「言ったことが現実化する」という信念をささえている。

ようするに、都合が悪い部分は、全部、無視しているのである。都合が悪い部分は、言霊思考ではなくて、物理思考をしているのである。言霊主義者においても、「言ったことが現実化する」と言霊思考をしてしまう現象というのは、じつは少ないのである。

*     *     *

たとえば、言霊主義者がコーヒーを飲みたいと思って、水を夜間に入れて、レンジにかけ、お湯をわかしたとする。普通のことだ。

けど、すべて、物理法則にしたがっているのである。

なぜ、言霊主義者は、「水がお湯になる」と言って、お湯をわかさないのか?

「水がお湯になる」と言っても、水がお湯にならないことを知っているからだ。

だから、レンジにかけて、お湯をわかそうとする。

もし、言霊でお湯をわかせるなら、言霊の力をかりて、お湯をわかしたはずだ。言霊の力を使うには、どうしたらいいかというと、言えばよいのである。言うと、言葉にやどっている言霊が、物理法則をこえた力を発揮して、言ったことを現実するのである。

なら、「一秒以内に、このヤカンの内側にある水が、すべてお湯になる」と言えばよいのである。 「一秒以内に、このヤカンの内側にある水が、すべてお湯になる」と言えば、言霊の力によってお湯になるのである。

どうして、言霊の力を使ってお湯をわかそうとしないのか?

言霊主義者であっても、言霊の力なんてぜんぜん信じてないから、お湯をわかすときは、物理的な方法でお湯をわかすのである。ガスレンジも電気レンジも電子レンジも、すべて、物理的な法則にしたがって、水をお湯にかえている。

言霊主義者でも、物理的な法則にしたがった機器を使ってお湯をわかそうとするのである。

どうして、言霊主義者は、このことに疑問をもたないのか。

言霊主義者であれば、「コーヒーカップに入ったコーヒーが出現する」と言えばよいのである。あるいは、「コーヒーカップに入った熱いコーヒーが、テーブルの上にあらわれる」と言えばよいのである。

「言ったことが現実化する」のだから、言えば、現実化する。

言ったのに、現実化しないのであれば、「言ったことが現実化する」という言霊理論はまちがっているということになる。

問題なのは、普段、言霊で問題を解決しようとしないことなのである。

そして、言霊主義者が、ぜんぜんそれに気がついていないことなのである。気がつけよ」と言いたくなる。気がつけ! 「言ったことが現実化する。これが正しい」と力説するけど、当の本人は、まったく言霊なんて信用してないのである。

言霊の力でお湯をわかそうとしないのである。まあ、ぼくが観察した範囲だと、言霊主義者は、言霊と言霊の力を使いわけるということがないので、「言霊」と「言霊の力」はわけて考えられていない。ようするに、言霊主義者の感覚で言えば「言霊でお湯をわかそうとしないのはなぜか」ということになる。

言ったことが現実化するのだから、言霊でお湯をわかせばいいだろ。

別にお湯をわかさなくても、熱々のコーヒーが、飲めるよ。

熱々のコーヒーが、目の前にあらわれると言えば、目の前にあらわれるのだ。どうして、目の前にあらわれたかというと、言葉には言霊が宿っているから、目の前にあらわれるのだ。言霊の力が、目のまえに、熱々のコーヒーを出現させるのである。

言霊主義者は、コーヒー豆も、インスタントコーヒーも買う必要がないのだ。

だって、言えば、出てくる。

現実生活のなかで、言霊主義者が、どれだけ、物理法則にたより、物理法則の結果を享受しているか、言霊主義者にはまったく自覚がないのである。

自覚がないだけで、夢や願望にかかわること以外のことに関しては、ほとんどすべて、言霊を無視して暮らしているのである。

言霊の力なんか、ぜんぜん信じてないのである。

言霊の力を借りずに現実的な処理をしているのである。

どうして、これに、気がつかないのか?

2024年12月22日日曜日

その一日の全体感情に影響をあたえないわけがないのである

 やっぱり、この世の感覚というのがあるんだよなぁ。きちがいヘビメタにやられた期間が長いから、この世の感覚が、ヘビメタ騒音期間中の感覚になっている。これ、どれだけ言ったって、実際に、一倍速で経験した人でなければ、わからないことなんだよなぁ。ところが、きちがい兄貴が、特殊な兄貴で、普通のうちにはいないタイプの兄貴なので、やられてない人のほうが、ずっとずっとずっと、多い。ほんとう、こんなに長くやられたのは俺だけなのではないかと思う。きちがい兄貴の態度というのは、きちがい親父の態度とおなじだ。絶対の意地でやりきるけど、まったくやりきったつもりがないのだ。これがこまるんだよ。こういうところで、感覚が普通ではないと、感覚が普通の人や感覚が普通の人といっしょに暮らしている人は、きちがい兄貴のことがわからないということになる。そうなると、「そんなのはへんだ」「エイリが嘘をついているにちがいがない」と思うのだ。「そんなのはへんだから、嘘だ」と思うのだ。何度も言うけど、いったんそういうふうに思うと、ぼくの言っていることすべてに疑問を持つようなってしまうのである。そして、きちがいヘビメタにやられると、能力がなくなり、いままで簡単にできていたことができなくなり、遅刻をしたり、宿題をやってこなかったり、へんなところでミスをしたり、体力がなくなるということになる。だいたい、ほんとうに、「鳴りやんだら関係がない」と思っている人や、「そもそも、エイリが言っているような音で、鳴ってない」と思っている人は、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされたあと、鳴りやんでも、眠れなくなるということ自体を認めない。ならば、エイリが好きで夜更かしをしているだけだということになる。健康管理ができないエイリが悪いということになる。さらに、「お兄さんは普通の人で、しずかにしてくれと言えば静かにしてくれる」と思っている人は、「しずかにしてくれと言わないからいけないんだ」と俺をせめてくるのである。こういうことの連続で、いいはずがないだろ。こういうことが日常的に発生しているのに、実際に発生している出来事とは関係なく、どんなにヘビメタが鳴っていても、どんなにほかの人がまちがったことを言ってきても、「楽しい楽しい」と言えば楽しい気分になるなんてことはないのだ。ところが、この、「鳴りやんだら関係がない」「そもそも、エイリが言っているような音で、鳴ってない」「しずかにしてくれと言わないからいけないんだ」と言ってくる人と「楽しい楽しいと言えば楽しい気分になる」と言ってくる人間が、おなじ人間なのだ。だいたい数の人がこういう人間だから、かぶるのである。「鳴りやんだら関係がない」「そもそも、エイリが言っているような音で、鳴ってない」「しずかにしてくれと言わないからいけないんだ」と言う人の集合と「楽しい楽しいと言えば楽しい気分になる」と言う人の集合には、かさなる部分がある。ほんとうに、不愉快。そして、家に帰れば、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、ヘビメタを鳴らしているのである。家に近づいたとき、きちがいヘビメタが鳴っているわけで、どんな気持ちで、ぼくが、家の近くの道を歩くか、みんなわかってない。ヘビメタ騒音のことについてぼくが言ったとしても、「鳴りやんだら関係がない」「そもそも、エイリが言っているような音で、鳴ってない」「しずかにしてくれと言わないからいけないんだ」と言ってくるようなやつらは、この憂鬱な気分がわからないのである。家の玄関の前に立つと、ものすごい音で鳴っているのがわかる。玄関ごと、がんがん鳴っている状態だ。玄関のドアを開けるときのぼくの気持ちも、こういうやつらは、まったくわかってない。わかってない。こんなの、憂鬱にならないわけがない。不愉快な気持にならないわけがない。どれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、はねのけることは、わかっていることなんだよ。それでも、きちがい兄貴の部屋に、「しずかにしろ!!!!」「しずかにしろ!!!!」「しずかにしろ!!!!」「しずかにしろ!!!!」と言いに行く。そりゃ、言いに行かないと、ぼくが、きちがい兄貴の音を、うるさいと思っているということが、わからないからね。けど、何万回言っても、わからないのだ。一万一回目の「しずかにしろ」を言われたときのきちがい兄貴の態度と、一回目の「しずかにしろ」を言われたときのきちがい兄貴の態度がおなじなんだよなぁ。きちがい親父のように、自分に不都合なことは、きちがい的に発狂して、おしまいなのである。自分の発狂がすんだら、言われなかったことになってしまうのである。だから、一万一回目の「しずかにしろ」を言われたあとの態度が、鳴らしてないから「しずかにしろ」言われなかったときの態度とおなじなのである。そりゃ、きちがい兄貴が一五歳で、あと一か月で一六歳になるというときに、きちがいヘビメタ騒音セットを買って、鳴らし始めたのだから、きちがい兄貴は、一五歳になるときまで、ヘビメタを鳴らさなかったのである。鳴らさなかったときは、当然、「しずかにしろ」と言われないわけだけど、この、鳴らしてないから、しずかにしろと言われないときの認知と、一万一回目「しずかにしろ」と言われたときの認知がまったくおなじなのだ。こいつは、うるさくしているつもりがまったくない。どれだけ言われても、本人が発狂してはねのけたら、やってないことになってしまう。怒り狂ったときをぬかして、あるいは、怒り狂ったときも含めて、「でかい音で鳴らしている」という認知がないのである。自分の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らしているのに、「でかい音で鳴らしている」ということは、都合が悪いことなので、認知しないのである。これは、「でかい音で鳴らしているということを認めると都合が悪くなるので、意識的にでかい音で鳴らしているということ」を認めないということではない。これが、無意識的な過程なので、でかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているという、意識的な認知がまったくないのである。これが、ズレだ。これは、きちがい兄貴の「認知のずれ」なのである。ところが、「そんな音で鳴らしているわけがない」と思てっいる人は、ぼくのほうの「認知のズレだ」と思ってしまうのである。濡れ衣を着せられている。ほんとうに、くやしい。ヘビメタ難聴になるまでには、時間がかかるんだよ。俺も、壁一枚へだててだけど、ずっとずっと、きちがいの音を聞かされた。このきちがいの音を聞かされたという、一日のなかでの体験が、その一日の全体感情に影響をあたえないわけがないのである。ところが、「楽しいと言えば楽しくなる」というやつは、「その一日の全体感情に影響をあたえないわけがない」ということを、否定するのである。ほんとうに、きちがいにやられて、アホにアホなことを言われる人生だったよ

2024年12月19日木曜日

ほんとうに、これ! まるでちがう状態になるのに、わかってないなぁ

 ほんとうに、これ! まるでちがう状態になるのに、わかってないなぁ。人間なんて、条件次第で、ぜんぜんちがう状態になるんだよ。毎日のつみかさねは、でかいんだよ。毎日続いたことが、現在の状態に、影響をあたえるんだよ。なんでこんなに基本的なことを、無視して、「わかったようなこと」を言うのか? ぜんぜん、わかってないだろ。

これは、セットなんだよ。

だいたい二四時間以内に、七時間は、きちがい的なヘビメタが激しい音でがんがん鳴っているという生活なのである。土曜日曜は、最長で一三時間に増えてしまう。どうしたって、影響をうける。けど、影響をうけてない人にとっては、影響なんて関係がないことだ。だから、「影響なんてない」「関係ない」と言う。あるいは、「影響なんてない」「関係ない」という前提が成り立っていることを、えらそうに、言う。本人は、ほんとうに、影響をうけてないので、ほんとうに「影響なんてない」「関係ない」と思い込んでいるのだ。そして、きちがいヘビメタ騒音にさらされると、自動的に立場が悪くなるのである。能力がさがるのである。できていたことができなくなるのである。二四時間以内に、七時間、ぼくがきらいな音ががんがん鳴っているとなると、実際に、能力がさがって、鳴っていないからこそ、影響をうけずに「影響なんてない」「関係ない」という前提でものを言えるやつらに、えらそうなことを言われるということになるのである。これは、セットなんだよ。どっちも、きちがいヘビメタ騒音から出てきたことなんだよ。きちがいヘビメタ騒音ではなくても、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音ということを考えれば、こいつらだって、影響をうける。立場が悪くなって、能力がさがる。鳴ってなければできることができなくなる。けど、こいつらは、経験的にこれがわからない。「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けたということになってしまうのである。ほとんどのやつがこういう思考をするなら、ぼくにとって生きにくい世界になるんだよ。実際に、能力がさがっている。きちがい騒音で能力がさがっている。きちがい騒音で能力がさがるということを、認めないやつらが発生する。こいつらにバカにされるということになる。だから、「やめろ、やめろ」と言っているのに、きちがい兄貴がきちがいだから、よそのうちの人が、絶対にやらないことを、やるんだよ。やられてないよそのうちの人は、わからない。自分の経験の範囲にないことだからわからない。

きちがいヘビメタが鳴らされる前と後ではちがうんだよ。きちがいヘビメタがはじまってからと、きちがいヘビメタがはじまるまえはちがうんだよ。みんな、きちがいヘビメタがはじまるまえの世界で生きている。みんな、きちがいヘビメタがはじまるまえの感覚で生きている。だから、実際にうちの兄貴がもたらした、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない。経験してなければ、なんとだって言える。自分たちがエイリよりすぐれているから、「無視できる」「影響をうけない」と考えているのだけど、ちがうーー。ちがうーー。わかってないだけ。

そして、きちがいヘビメタ騒音生活以前と、きちがいヘビメタ騒音生活以降では、憂鬱の憂鬱がちがうのである。疲労の疲労がちがうのである。みんな、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない人だから、ぼくとみんなでは「憂鬱」という言葉や「疲労」という言葉で、あらわしているものがちがう。けど、ちがいがわからないんだよ。きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない人たちには、きちがいヘビメタ騒音生活以前の「憂鬱」やきちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活以前の「疲労」しかない。だから、比較はできない。比較できるのはぼくだけだ。けど、ともかく、普通の人は、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音以前の生活をしている。だから、わからない。根本的にわからない。「憂鬱」という言葉であらわしているものが、(ぼく)と(普通の人)とでは、ちがう。ちがいすぎる。まったく、ちがう。ほんとうに、なめたことを言いやがって。こんなやつら……。きちがいヘビメタ騒音がなかったら、絶対にそんなことは、言わせない。言わせない。言わせない。

2024年12月18日水曜日

問題なのは、自分の認知・認識に問題がないと思っていることなのだ

 自分が階段から落ちて、足を骨折した場合は、階段から落ちたという過去の出来事が、影響をあたえて、骨折したという認知・認識が成り立つのだ。そして、足を骨折したあと、1秒後には、足の骨が折れている状態なのだ。

これは、骨折したという過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえているということだ。

だから、本人の身に起こったことについては、「過去が現在に影響をあたえる」とか「過去の出来事が現在の状態に影響をあたえている」とかと思っているわけだ。「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と思っているわけではない。

自分のことなら、この通り、過去を重視した考え方を採用しているのである。

けど、ひとごとになれば、話がちがう。「過去は関係がない」と言い「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と言ってしまう。

問題なのは、自分の認知・認識に問題がないと思っていることなのだ。ようするに、矛盾を感じていない。矛盾を感じるべきだ。

「それから、ヘビメタ騒音の話を俺がだれかにしたとする。そのだれかが「過去は関係がない」「過去の出来事は現在に影響をあたえない」と言ったとする。

そして、宣言によっていくらでも自分の状態をかえられると言ったとする。ようするに、言えば言ったことが現実化するので、言えば、現実がかわるのである。言っただけで、現実がかわるのである。そういうふうに思っているからそういうふうに言ったとする。

そして、ぼくが、「過去は関係がある」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえる」と言ったとする。そうすると、こういうやつらは、不機嫌になるのだ。

しかも、こういうやつらは、普段から「すべては受け止め方の問題だ」とか「 すべてに感謝すればいい」というようなことを言っているやつらだ。

それなら、「いい話を聞いた」と思えばいいだろ。「自分の間違いを指摘してくれありがとう」と感謝すればいいだろ。ところが、「いい話を聞いた」と思わずに、「なんだ、あいつは」とおこるのだ。「せっかく、元気づけてやろうと思って、言えば言ったことが現実化すると言ってやったのに、批判をするとはなにごとだ」と腹をたてるのだ。

宣言でいくらでも自分の状態をかえることができるのだから、腹だたしい気持ちになったら、即座に「楽しい」と宣言して、楽しくなればいいだろ。

ところが、こいつらは「なんだ、あいつは……」としばらくのあいだ、腹をたてたままなのである。この腹をたてたときの感情が、続くことがある。

ぼくに対して、いい感じをいだかなくなるのだ。

だったら、過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえているということになる。

こんなやつらといっしょにいて、こころがなごむわけがないのだ。

 たとえば、きちがいヘビメタをあびされ続けて、三〇〇〇日が経過したとする。三〇〇〇日目の気分は、ひどい。憂鬱だ。三〇〇〇日目も、二九九九日目の午後と三〇〇〇日目の午前の睡眠不足がこたえる。これ、きちがいヘビメタを、あの至近距離で鳴らされると、どうしても、不可避的に影響をうけて、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、眠れないということになる。ヘビメタ騒音は、だいたい午後一一時一一分あたりには鳴りやむのだけど、午後一一時一二分になれば眠れるかというと、眠れないのである。けど、騒音に、ぶったたかれ続けて、からだがはれあがったような状態になっているのである。副交感神経が優位にならないのである。どうしても眠れないのである。ところが、宣言をすればそんな問題は簡単に解決できると言うやつは、「眠れる」と言えば眠れるということを言う。「眠たい」と言えば、眠れるということを言う。そして、自分が眠るべき時間に眠らないのは、だらしがないことだというのである。そして、さらに、自分が眠るべき時間に眠らないのは、あまえだと言いやがるのである。こいつらが、きちがい騒音を発狂的な意地で鳴らす、きちがい的な家族といっしょに暮らしてないから、騒音を浴びせられず、副交感神経が優位にならない状態を経験してないだけなのに、「宣言をすればできる」という前提で、無理なことを言ってくる。けど、こいつらは、夜郎自大な性格なので、無理なことを言っているという自覚がないのだ。だから、別に、失礼なことを言っているという自覚もない。こんなやつらといっしょにいて、楽しいわけがないだろ。こんなやつらといっしょにいて、こころがなごむわけがないのだ。


ところが、この矛盾に気がつかないのである。

 人には「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」「影響はない」と言っているけど、自分が実際につかれることを経験すると、「過去は関係がある」「そういうことも関係がある」「影響はある」という前提で、ものを考えるやつがいる。やつらがいる。しかも、自分がそういう前提でものを考えているということについて、無頓着なのである。たとえば、長距離通勤をしたとしよう。その場合、当然、からだは長距離通勤の影響をうける。しかも、長期間にわたって、その行為を繰り返すのであれば、その行為を繰り返してきたということの影響を「不可避的に」うける。たとえば、長距離通勤一日目と、長距離通勤十五年と一日目とでは、つかれ方がちがうのである。これは、「過去の出来事は影響がある」「過去の出来事は現在の身体に影響をあたえる」ということなのである。ところが、人のことは、自分のことではないので、わからなくなってしまう。人のことは、自分が経験したことではないので、昂然と無視できる。「ない」とあつかうことができる。「ない」とあつかうことがデフォルトだ。だから、エイリの騒音体験が、自分の騒音体験ではないのなら、「騒音の影響なんてない」「過去の出来事は関係がない」と言ってしまうのである。そして、自分が、実際に長距離通勤でつかれたときは、「過去は関係がある」「そういうことも関係がある」「影響はある」という前提をもとにして「つかれた」と言うのである。これ、思考の前提は、「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」「影響はない」ではなくて、「過去は関係がある」「そういうことも関係がある」「影響はある」になってなければならないのである。そうしないと、言っていることと前提が矛盾しているということになる。ところが、この矛盾に気がつかないのである。まったくもって、夜郎自大。自己中心的。しかも、本人の身に起こったことに関する思考と、他人の身に起こったことに関する思考が「まったくちがう」ということに、気がついていない。思考の前提がちがうんだよ。思考の前提がまったくちがうということについて、まったく、まったく、気がついていない。自分のことであれば、ごく普通に過去の出来事について考え、「過去の出来事」の影響について考えるのである。もちろん、つかれることが毎日続いたのであれば、過去の出来事は、現在の身体状態に影響をあたえると考えているのである。ところが、ひとごとだと、過去の出来事は現在の身体状態に影響をあたえないと言ってしまのである。相手のまえで、断言してしまうのである。このとき、ぼくが「過去は現在の状態に影響をあたえる」と言ったって、こいつらは、まったく、まったく、認めない。こういうことが、普通に成り立っているのが、この世だ。

「Bだと思いたい自分がいる」ということは、自分自身が知っていることなのである

 実際の気分というのは、宣言でできあがっているものではない。宣言というのは、たとえば、「楽しい」というような宣言だ。実際の気分というのは、出来事と関係がある。実際に発生した出来事と関係がある。実際に発生した出来事によって、ある感情Aが生じているなら、ある感情Aが生じているということになる。ある感情Aが生じているときに、ある感情Bを感じるべきだからといって「Bだと感じている」と言ったって、それは、作為によって、自分の感情を書き換えようとしているだけで、あいかわらず、実際の出来事に対応した感情のままなのである。しかも、「Bだと感じている」と実際の文脈とは、まったく正反対の感情を感じようとしているという作為があるということを、本人が知っているのである。無意識的にも、意識的にも知っている。ならば、自己意識としては、ほんとうは、Aを感じているけど、Bと感じるべきだから「Bだ」と言っているという自己意識をもつことになる。自分がそういう監査をしているのだから、なんで、「Bだと感じている」と言っているかということを知っているのである。中立的な状態なら、「Bだと感じよう」と思って「Bだ」と言えば「Bのような気分がしてくる」ということはある。けど、それは、中立的な状態でやった場合の話だ。どんな状態だって、「Bだと感じよう」と思って「Bだ」と言ったって、「Bだ」とは思わないのである。つまり「Bだと感じよう」と思って「自分はBだと感じている」と言ったって、「Bだ」と感じないのである。自分はBだと感じていると言ったって、その状態に関する全体的な思考があるのだから、「Bだと思いたい自分がいる」ということは、自分自身が知っていることなのである。

2024年12月16日月曜日

ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいだから、ぼくの行動にも影響をあたえる

 ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいだから、ぼくの行動にも影響をあたえる。つねに、ヘビメタ騒音のことで、煮えたぎっている状態だ。そりゃ、七年目にはそうなるだろう。七年間毎日鳴り続けなければ、こんなことになっていないということが、いっぱい、いっぱいあった。東側のうちができたときだって、工事のときだって、きちがいヘビメタが鳴っていた。両方にはさまれて、くるしかった。ちょうど、大学受験の時期だ、言い切れない怒りがたまりまくる。人間の「我慢の許容量」には限界がある。きちがい兄貴は「まったくなにもやってないつもり」なのだけど、毎日、毎日、十年年間つもって、くるしかったよ。東側の人に対する感情だって、きちがいヘビメタがなかったら、ちがっていた。北側の人との関係だって、ヘビメタ騒音がなければ、ちがっていた。きちがいヘビメタを鳴らされると、どうしても、生彩を欠いたものになる。履歴が悪くなる。働けないからだになる。どうやっても、睡眠回路がもとにもどらないので、人から、誤解をされることが多かった。

ヘビメタ騒音が毎日、十数年間、つみかさなっていくと、ぼくの側の、まわりの人に対する感情がかわってしまうのである。また、まわりの人がぼくを見る目もかわってしまう。属性や履歴が影響をあたえる。ヘビメタ騒音が毎日、十数年間つみかさならかなった場合のぼくと、まわりの人との関係と、ヘビメタ騒音が毎日、十数年間つみかさなった場合のぼくと、まわりの人のとの関係は、ちがいすぎる。そんなのは、ぼくのほうしか気にしない。ほかのやつは、ちゃんとした理由があると思っている。たとえば、無職に対して偏見があるやつは、無職に対する偏見を、ヘビメタ騒音があったぼくにむけるのだけど、それは、別に悪いことではないのである。そいつにとっては、別に悪いことではないのである。ぼくにとっては、腹立たしいことなのである。おなじことが、いろいろなことに成り立つ。裏にまわって悪口大会をする人たちは、別にそれが悪いことだと思ってないのである。どうしてなら、エイリが嘘をつくような人間だから、そういうふうに言ったって、まったく問題がないと考えているのだ。もちろん、ぼくは、ヘビメタ騒音やきちがい兄貴の態度について、嘘を言ってない。けど、そいつらは、ぼくが嘘を言っていると思っているわけだから、ぼくの悪口を言ったって、悪いとは思わないのだ。

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それから、言霊主義者には絶対にわからないと思うけど、「できると言えばできる」と言われたときの、こっち側の感情がひどいのだ。むなくそわるい気分になる。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音が毎日つみかさなっていたからだ。まったくやっているつもりがないきちがい兄貴が、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、自分が満足できる音で、しつこく、しつこく、しつこく、しつこく、鳴らし続けたからだ。この間、できると言ってもできなかったのである。「きちがい兄貴が一秒以内にヘビメタをやめてくれる」とか「一秒以内に鳴りやむ」とかと言っても、鳴りやまなかったのである。ただの一度も、言った通りになったことがないのである。だったら、それは、もう、嘘だと証明されているようなものなのである。

ある条件のなかには、「うちのなかでやること」という条件もある

  きちがい兄貴のことも、きちがい親父のことも、つぎからつぎへと、不愉快なことがおおいかぶさるように発生する。あいつらは、知らんぷりだ。知らんぷりで、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、よそのうちではありえないような、きちがい行為を、する。絶対の意地でする。きちがい感覚が成り立っているから、他の人にはわからない。脳みそがおかしいから、自分が意地をはって、猛烈ないきおいで、きちがい行為をしているということを、否定してしまう。だったら、やめてくれればいいのだけど、きちがい的な意地でやってしまうことと、やったことをきちがい的な意地で否定してしまうことが、セットなんだ。ひとつのセットなんだよ。おなじ構造から出てきていることなんだよ。きちがい的な意地でやりきることと、きちがい的な意地でやりきったことを否定することが、セットなんだよ。だから、きちがい行為を、まるで気にしないでやり続けることができる。脳みそがそういう脳みそだから、ある条件が成り立つと、常にそうするんだよ。これも、よその人が、まったくわかってないことなんだよな。ある条件のなかには、「うちのなかでやること」という条件もある。これが、無意識的に影響をあたえている。きちがい的な意地でやることは、きちがい的な意地でやるけど、きちがい的な意地でやったということを「認めない」のである。認めないことまで含めて、一セットなんだよ。

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親父のネズミ事件だって、きちがい親父が、きちがい的な意地で、魚の粕漬を、ほぼ、一日中、だしっぱなしにするというところから始まった。起点は、そこなんだよ。まあ、もっとも、こっちがたのんでないのに、お勝手のゴミを、毎日、物置のゴミ袋に移動するということが、本来の起点なんだけどな。これで、物置に、ネズミをおびき寄せていた。問題なのは、勝手に思いついたことを、こっちが、修正できないということだ。親父が普通の人だったら、「くさいから、魚の粕漬を出さないでくれ。冷蔵庫にしまってくれ」とこっちが言えば、それで、すむんだよ。ところがすまないわけ。そして、お勝手のゴミ袋に入ってるゴミを、わざわざ、物置に置いてあるごみ袋に移動するということだって、きちがい親父が勝手に思いついたことなんだぞ。そして、俺が何回も何回も何回も、「そんなことはやらなくていい」と言っていることなんだぞ。ひとこと「それはやらなくてもいい」と言ったら、引きさがれ。ひとこと「それは、やらなくてもいいからやらないでくれ」とこっちが言ったら、親父が「ああ、そうか」と認めて、やらないようにしてくれれば、それですむことなんだぞ。けど、絶対の意地でやってしまうことなんだよ。そして、これが、きちがい親父のなかでは、「俺のためになること」なのである。きちがい親父のなかでは、お勝手のゴミ袋に俺がいれたゴミを、親父が物置のゴミ袋に移動してやると、俺がよろこぶと思っているのだ。それを、俺がどれだけ何回、何十回否定しても、きちがい親父のなかでは、ずっとそういうことになっていて、自分がやってやれば、俺(エイリ)がよろこぶという考えが、消えないんだよ。こんまけして、ゆるしてしまうと、かならず、いやな目にあうんだよ。家のなかにネズミが入ってくることの導火線になるなんて、思いつきもしないだろ。そんなのは、考えてないことなんだよ。明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」などと言っている人がいるけど、うちではちがう。暗いことを考えなくても、きちがいが、きちがい行為をして、暗いことが発生してしまうのである。おまえら、説明できないだろ。どうして、暗いことを考えてないのに、暗いことが発生するんだよ? おかしいだろ。この、きちがい親父がかかわると、かならず悪いことが発生するというのは、事実なのである。俺の妄想じゃないのである。よその人が、やらないことなんだよ。よその人がやらないのには、それなりに理由があるんだよ。きちがい親父が、お勝手をきれいにしてやったほうが、俺がよろこぶだろうときちがいてなことを思いついてしまうことが、ダメなんだよ。普通だったら、「やめてくれ」とか「やらなくていい」とかとひとこと言えば、それで解決してしまう問題なんだ。ところが、ネズミの侵入、ネズミの糞、ダニの大発生、ネズミ対策工事のトラブルと、いろいろなことが発生してしまう。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音も、普通の人がやらないことなんだよ。きちがい兄貴が追い付いちゃったら絶対にやることなんだよ。そして、こっちが、どれだけ「うるさい」と言っても、「うるさい音で鳴らしている」という根本的なことを認めないんだよ。だから、よそのうちではない、非常識なことになるんだよ。よその人は、そういう家族といっしょに住んでいないし、そういう家族が実際にやることで、こまったということがないんだよ。だから、昨日書いたように、いろいろな誤解をすることになるんだよ。耳が正常なら、絶対に「でかい音で鳴らしている」ということがわかるのに、きちがい兄貴の脳みそが、きちがいおやじ型の脳みそだから、絶対の意地で認めないのである。そして、絶対の意地で認めないということも、無視してしまうのである。本人が無視していたら、どれだけきちがい的な意地でやったことでも、やってないことになってしまうんだよ。

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兄貴は別に、俺のために、ヘビメタを鳴らしてやろうと思って、ヘビメタを鳴らしたわけではないよ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴のなかの理由で、ヘビメタを鳴らしたくなったから鳴らした。けど、やり方が、おかしい。ほんとうに、うちでなければならせないような音で鳴らした。ようするに、うちでなければならないようなでかい音で鳴らすことに、いのちがかかっていたのである。きちがい親父がへんなことを思いつくのとおなじで、きちがい兄貴は、(よそのうちの人がやらないような)へんなことを思いつくのである。それが、「思いっきり」「なにを言われようが、気にしないで」きちがいヘビメタを「満足できる音」で鳴らすことだった。だから、自分が「満足できる音」で鳴らした。しずかにするわけがないのである。しずかにしたら「満足できない音」になってしまう。

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きちがい兄貴がでかい音でヘビメタを鳴らし続けたということを(ほかの人に)説明するわけだけど、音のでかさと時間の長さと期間の長さについて説明すると、俺の説明を信じない人が三割ぐらいは、いる。

この人たちは、俺のことを、性格に問題がある嘘つきだと断定してしまう。これだって……こういうことだって、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、「でかい音で鳴らしている」ということを無視して鳴らさなかったら、しょうじなかったことなんだよ。兄貴の感覚のズレが、他の人にはわからない。

だから、俺が嘘を言っているということになってしまうのである。……俺の説明を信じない人のなかでは、俺が嘘を言ったということになってしまうのである。

どうして嘘を言ったかというと、その人たちの頭のなかでは……エイリに性格の問題があるから、嘘を言っているということになってしまうのである。

そして、エイリの兄は、ほんとうはそういうでかい音で、ヘビメタを鳴らしてないということになるので、ヘビメタ騒音からしょうじた(僕の側の)問題は、エイリがもともと持っている問題だということになってしまうのである。

たとえば、遅刻をするとか、宿題をしないということだ。これは、きちがいヘビメタが長時間鳴っているから、しょうじていることなんだよ。

そして、この人たちの頭のなかでは……ヘビメタ騒音はほんとうはそんなにでかい音で鳴ってないということになっているので……エイリがお兄さんのせいにしているということになってしまうのである。

お兄さんは、ほんとうはやってないのだから、エイリが、ほんとうはやってないお兄さんのせいにしているということになってしまうのである。

こんなの……。こんなの、悪意を持った人しか考えつかないことだ。けど、普通の人が、こういうふうに考えてしまうのである。約三割と書いたけど、ほんとうは、約四割の人だ。

きちがい兄貴のほうに、他の人たちが信じられないようなずれがあると、他の人は、必然的に、理論的に誤解をするのである。こんな現実が、おもしろいわけがないだろ。こういう人たちといっしょにいて、おもしろいはずがないだろ。

けど、こういう人たちのまえで、うかない顔をしていると、うかない顔をしているのは、エイリの「こころの問題」だということになってしまうのである。

もともと、ヘビメタが鳴っているから、不愉快な顔にはなる。そりゃ、そうだろ。あたりまえのように、自分の勉強時間が破壊されているんだぞ。きちがいヘビメタが鳴っていたら、宿題のような簡単な勉強だってできない。きちがい兄貴にどれだけ言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父のように、まったく理解しない状態で鳴らしているんだぞ。腹がたつだろ。腹がたった顔になるだろ。鳴らされているあいだ腹がたっているのだから、腹がたっている顔になるだろ。そして、鳴らされているさいちゅう……次の日のトラブルが予想できるのだから……不安になるだろ。そして、また、腹がたつだろ。そして、きちがい兄貴に、「宿題をするからやめろ」「しずかにしろ」と何十回、言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴のくそ頭を搭載していて、きちがい兄貴のくそ頭の命令に従って、「自分の満足できる音」で鳴らしているので、やめない。腹がたつだろ。

何度も言うけど、俺が、こういう暗いことを考えたから、きちがい兄貴がヘビメタを、きちがいおやじがほかのことでやるのとおなじやり方で、やりはじめたわけではないのである。なので、思霊の人たちは、ぼくのことを、不必要にディスっていることになる。なんで、まちがった原因を考えて、勝手に断罪して、勝手に、エイリのせいにするのだ。どうして「エイリがヘビメタが鳴るという暗いことを考えたから、暗いことが現実化した」と考えるのだ。こんなのはおかしい。勝手に、へんな理由を考えて、断罪し、俺のせいにしてしまうのである。人のせいにしているのは、思霊の人たちだ。

そして、「そんな音で鳴っているはずがない」と思う人たちだって、勝手に俺を嘘つきにしたてあげて、勝手にきらいになって、勝手に攻撃をしはじめる。いろいろと、言葉で、攻撃しているよ。それは、「そんな音で鳴っているはずがない」ということが、真実なら、(その人たちのレベルで)あたりまえのことなのだろうけど、「そんな音で鳴っているはずがない」ということが、真実ではないので、的外れな攻撃だということになる。的外れな攻撃なら、よいのかというと、よくない。的外れな攻撃でも、俺にあたってないわけではなくて、俺にあたっている。原因についての思考が的外れなのだ。バカだから勝手に、推測して、事実だと断定してしまうのである。こういう要素がある。きちがい的な家族がやることは、きちがい的なことだから、ある意味、普通の人が信じないことなのである。だから、きちがい的な家族にやられた人が、普通の人から、攻撃されることになる。言葉の攻撃だけど、誤解がかかわっているぶんだけ、こたえるのである。きちがい家族にやられ、普通の人から誤解の攻撃をうけるわけだから、たまったもんじゃない。

2024年12月14日土曜日

そして、「うち」のなかで、起こっていること全体について、誤解をしている。

 きちがい兄貴の認識にずれがあるわけだけど、きちがい兄貴の認識にずれがあるということは、きちがい兄貴は、自分が気にせず、ものすごくでかい音で鳴らしたいと思っている限り、催眠術にかかったように、気がつかないのである。

いっぽう、無意識に問題がある家族と、いっしょに暮らしたことがない人は、ぼくの話を、信じないのである。無意識に問題がある家族といっしょに暮らしたことがない人にとっては、「そんなのは、言えばわかることなのだから、ちゃんと言えばいい」ということになってしまう。

ところが、きちがい兄貴にどれだけちゃんと言っても、ズレがあるので、認めないのである。まったくつたわらないのである。何万回言っても、つたわらないまま、問題となる行為をしてしまうのである。

そして、きちがい兄貴のほかに、きちがい親父がいるということが、どういう影響をあたえるか、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、これまた、わからない。

だから、ここでもまた、誤解がしょうじるのである。

けど、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、ここでも、自分のほうが誤解をしているとは、思わないのである。「そんなのはへんだから嘘だ」と思ってしまうのである。

「そんなにでかい音で鳴らしているのに、家族が、文句を言わないのはおかしい」と思ってしまうのである。

きちがい親父の構造は、きちがい兄貴の構造よりも、一般人にしてみれば「へんな構造」なので、きちがい兄貴の構造すら、理解できない人が、きちがい親父の構造を理解できるとは思えない。

「そんなのはへんだ」「そんなのはへんだから、エイリが嘘を言っている」と思っている人は、ぼくのことを誤解している。そして、「うち」のなかで、起こっていること全体について、誤解をしている。

「そんなにでかい音で鳴ってない」「エイリが嘘を言っているだけだ」と思う人は、ぼくが嘘を言う人間だと思っている。そして、もし、嘘でなく、ほんとうに、でかい音で鳴らしていると思っているのであれば、エイリは精神病だと思うのである。

どうしてかというと、エイリのお兄さんは、でかい音で鳴らしてないということが、事実だと思っているので、お兄さんがでかい音で鳴らしてないのに、エイリが「兄貴がでかい音で鳴らしてこまる」と言うのであれば、エイリのほうの現実認識がまちがっているということになってしまうのである。

もちろん、ぼくの現実認識はまちがっていない。

けど、「エイリが嘘をついている」と思っている人は、そういうふうに推測してしまう。兄貴の、「ズレ」が、ぼくのほうの「ズレ」だと(うたがっている人は)思うわけだ。

きちがい兄貴が、現実世界で、「ズレ」があることをしているのだけど、「そんなことはない」「えいりのお兄さんは、そんな音で鳴らしてない」と考えている人にとっては、ぼくが、ズレをもっているということになってしまう。そして、嘘つきか、精神病の人か、なんとか障害の人になってしまうのである。

そして、これがやっかいなことなのだけど、ヘビメタ騒音で、通勤通学ができなくなって、社会から取り残され、友だちとも疎遠になると、引きこもりと呼ばれる状態になる。

たとえば、ぼくが、引きこもりであると思っていて、なおかつ、引きこもりに悪いイメージをもっている人は、「エイリは、引きこもりだから、お兄さんがでかい音で鳴らしていたという嘘をついている」と考えてしまう。

あるいは、「引きこもりだから、なんらかの精神病を患っていて、それで、現実認識がおかしくなり、お兄さんが、ものすごくでかい音で鳴らしていると言っている」と考えてしまうのだ。

無職属性でもおなじことが起こる。きちがいヘビメタで、働けなくなったのに、無職だから、嘘を言っていると思われたり、無職だから、精神病を患っていて、お兄さんを悪く言っていると思われたりするのだ。

あとは、悪口を言っているということに関しても、ちょっと言っておく。この人たちの頭のなかでは、エイリのお兄さんはでかい音で鳴らしてないということになっている。

そうなると、でかい音で鳴らしてないお兄さんの悪口を、エイリが言っているということになってしまうのである。この人たちの頭のなかでは……。

きちがい兄貴が、無意識的なレベルで、まちがいをおかし、自分のやりたいことをやってしまうと、次々にこういうことが起こるのだ。

無意識的なレベルで音量の認知を書き換えないと鳴らすことがができないようなでかい音で鳴らしたいので、無意識的なレベルで音量の認知を書き換えて、でかい音で鳴らしてしまうのである。

その場合、そういうことをする家族というのは、他の人の家族のなかにはいないわけだから、俺が、いろいろと、うたがわれるのである。

「人の悪口を言うべきではない」とこういうふうに、俺のことを疑って、悪口を言ってる人たちが言っているのである。

兄貴が、実際に鳴らしてないのであれば、ぼくが、兄貴が非常識な音で騒音を鳴らしていると、兄貴の悪口を言っていることになる。

兄貴のヘビメタ騒音を経験したことがない人は、それがどれだけ強烈な影響をあたえるかわからないのである。

俺の精神にあたえる影響、俺のからだにあたえる影響、俺の勉強にあたえる影響がわかってない。

まとめて言うと、俺の日常生活にあたえる影響がわかってない。

「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちとおなじで、兄貴が実際にはぼくが言うような音で騒音を鳴らしてないと考える人たちは、騒音の影響を無視してしまう。

ところが、この人たちはわかってないけど、騒音の影響がある。

どれだけ、無視して暮らそうとしても、ものすごい影響がある。

 「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちは、でかい音で鳴っているという事実を無視してないけど、でかい音で鳴らされると影響をうけるということを無視している。

そして、「そもそも、そんなにでかい音で鳴ってない」と考える人は、もちろん、鳴ってないのだから、騒音の影響なんて考えないのである。

そして、実際に、「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちの家族も、「そもそも、そんなにでかい音で鳴ってない」と言う人たちの家族も、きちがい兄貴のような騒音を鳴らしていないのである。

だから、「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たち「そもそも、そんなにでかい音で鳴ってない」は、ぼくが、うちのなかで、経験した、きちがい兄貴による騒音と同程度の騒音を、経験してないのである。

毎日続くということが、どういう影響をあたえるか、まったくわかってないのである。

経験がないから、影響をうけてないだけなのに、「自分は影響をうけない」「自分は平気だ」「自分はだいじょうぶだ」「自分だったらお兄さんに注意して、やめさせることができる」と思っている人は、ぼくを、影響をうけるぼくを侮辱し、平気でないぼくを侮辱し、だいじょうぶはないぼくを侮辱し、注意してやめさせることができないぼくを、侮辱するのである。

*     *     *

たとえばの話だけど、影響を無視して、「過去は関係がない」「影響はない」と軽く言う人たちといっしょにいて、ぼくが楽しいと思うか? 「過去は関係がない」「影響はない」と言われて、ぼくが不愉快にならないと思うか?

たとえばの話だけど、『そんなのは、おかしい』『エイリのお兄さんはでかい音で鳴らしてない』『エイリが嘘を言っているか、精神病だ』と思っているやつと、いっしょにいておもしろいと思うか。

まあ、この手のタイプは、裏にまわって、徒党を組んで、おもしろおかしく不満を言いながら、俺のことを、ディスる。

悪口を言っているのは、こいつらなのに、俺が、兄貴や親父の悪口を言っているということになっている。

こいつらが、まちがった事実認識にもとづいて、俺の悪口を言っているのに、俺が兄貴や親父の悪口を言っていると思って、「人の悪口を言うのはよくない」と言うのだ。

いやーー。人の悪口を言っているのは、おまえらだろ。

*     *     *

「受け止め方をかえればいい」と思っていて、なおかつ「俺だって、騒音ぐらいあった」と思っているやつは、俺が「あなたが経験した騒音とは、質も量もちがうんだ」と言ったら、受け止め方をかえて、「そうなんだ」と思えばいいんだよ。

ところが、人に「受け止め方をかえればいい」と言っているやつは、自分の受け止め方をかえない。

「受け止め方をかえればいい」と思っていて、なおかつ「俺だって、苦労した。」と思っているやつは、俺が「あなたが経験した苦労とは、質も量もちがうんだ」と言ったら、受け止め方をかえて、「そうなんだ」と思えばいいんだよ。

ところが、人に「受け止め方をかえればいい」と言っているやつは、自分の受け止め方をかえない。

なんで、受け止め方をかえないんだ? どうして、腹をたてるんだ? どうしてむきになって、「俺だって、同等の苦労した」と言うんだ? 受け止め方をかえればいいのだから、かえればいいだろ。

*     *     *

俺がきちがい兄貴のヘビメタ騒音について説明しても、それを信じないやつというのは、誤解をして俺をひどい目にあわせている。裏で悪口を言って、盛り上がって、楽しんでいる。

そんなやつが、道徳をくちにする。

ほんとうにふざけたやつらだ。兄貴のような人間がいるということがわからないだけだろ。親父のような人間がいるということがわからないだけだろ。

自分が経験してないから、きちがい家族による騒音がどれほど、つらいかわかってないだけだろ。自分が経験してないから、きちがい家族による騒音がどれほど、人生に影響をあたえるか、わかってないだけだろ。


でかい音で鳴らすために、認識の穴をつくったわけだから、言われたって、認めない

 まず、きちがい兄貴が、普通のうちでは鳴らせないような音で、思いっきりヘビメタを鳴らしたいと思うわけだ。

けど、普通のうちでは鳴らせないような音では、鳴らせないので、普通のうちでは鳴らせないような音で鳴らしているのに、普通のうちでは鳴らせないような音で鳴らしているわけではないと思うことにしたのだ。

これが、無意識的な過程で起こることで、無意識的にはそういうふうにしているのだけど、意識的にはそういうふうにしているという気持や感覚がない。

ようするに、認識がない。この認識は、自分が認識してはならない認識なので、普通に言われたって、発狂してはねのけてしまう。何度言われようが、認めるわけにはいかない。どうしてかというと、自分が普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で、鳴らせなくなってしまうからだ。だから、普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしているという認知は、ぽっかりと穴があいた状態になる。ようするに、生きて、覚醒して活動しているわけなのだけど、その認知だけは、どれだけ認知しようにも、認知できないということになる。基本的には、無視をして、鳴らしてしまう。「でかい音で鳴らしている」ということを言われても、それは、頑固に無視して、「でかい音で」鳴らしてしまう。でかい音で鳴らすために、認識の穴をつくったわけだから、言われたって、認めないのだ。

こういうことの頑固さは、普通の頑固さではないのである。無意識がかかわっている頑固さというのは、意識がかかわっている頑固さとはちがうのである。質的にちがうのである。けど、無意識に問題がある家族といっしょに住んだことがない人は、無意識に問題がある家族のことが、よくわからない。無意識に問題がある家族といっしょに住んだことがない人は、無意識に問題がある家族のことを理解しないのである。

2024年12月13日金曜日

とにもかくにも、ヘビメタ騒音なしの青春がほしい

 とにもかくにも、ヘビメタ騒音なしの青春がほしい。ヘビメタ騒音なしのわかい時期がほしい。これ、やられてないやつには、まったくわからないことだと思う。ほんとうに、できることがちがう。まわりの人の態度がちがう。きちがいヘビメタが鳴っていなかったら、できたことがいっぱいある。それに関しても、どのみち他人は、「ヘビメタ騒音がなくたってできなかったことかもしれないよぉーー」と言うわけだけど、ちがう。ヘビメタ騒音なしなら、できた。

「ただ単におとがなっていただけだ」と思ってしまう人がいるのだけど、ぜーーんぜーーん、ちがう。ちがいすぎる。けっきょく、こういうことを言うやつは、普通の騒音しか経験してない。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタにこりまくって、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、ヘビメタを鳴らすまえだって、俺にも、「騒音体験」はあった。普通の騒音は経験しているのである。こいつらは、きちがい家族による騒音は経験してないままなのだ。そして、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、きちがい家族による騒音と同程度の騒音を経験したということになってしまう。ぜーーんぜん、ちがうということに、気がつけない時点で、きちがい家族による騒音と同程度の騒音を聞かされてないことが、あきらかだ。ぜーーんぜん、ちがうのである。デートだってほかの人とのつきあいだってぜーーんぜーん、ちがうのである。あの生活がどういう生活か、一日にも経験してないからわかってないだけなのに、くそを言うな。自分だって騒音ぐらい経験したと言って、同じ程度の騒音を経験したことにするな!! ぜーーん、ぜーーんということがまーーーったく、まーーーむたく、わかってないのだから、経験してないということが明白なんだよ。

エイリがへんなことを言っているだけだということになってしまうのである

 

 きちがい兄貴ときちがい親父が、普通の感覚の持ち主ではないので、普通の感覚の持ち主は、ぼくの話をうたがうのである。こんなの、ない。

「そんなのは関係がない」ということを言う人が約七割で、あとの約三割は、「そんなのは、嘘だ」と言うのである。ぼくが嘘をついていると思っているのである。

そうなると、その人のなかでは、ぼくが嘘を言うような悪い人間だということになる。

つまり、実際には、お兄さんは、そんな音で鳴らしてないのに、エイリさんが、そういう音で鳴らしたと嘘を言っているという解釈をしていしまわけだ。

そして、きちがいヘビメタ騒音で、寝不足になり、遅刻や不注意といった問題がしょうじているのだけど、それも、実際には鳴ってないのに、鳴っていると言っているわけだから嘘をいいわけをしているだけだということになってしまうのである。エイリさんは虚言癖があるというとになってしまうのである。そいつらの頭のなかでは、そうなってしまうのである。きちがい兄貴の構造がわからないから、俺が嘘を言っていると思うわけだ。きちがい親父が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を黙認して、裏から支持しているところがあるのだけど、それも、こいつらにはわからない。俺が……エイリがへんなことを言っているだけだということになってしまうのである。

きちがい兄貴側の問題が、俺の問題のように言われてしまうのである。

どうしてかというと、繰り返しになるけど、普通の人が、きちがい兄貴における「脳の構造」を理解してないからだ。普通の人が、きちがい兄貴における「感覚」を理解してないからだ。そして、きちがい親父が、きちがい兄貴とおなじ「脳の構造」をもっていて、きちがい兄貴の「感覚」とおなじ「感覚」をもっているということを理解してない。

そうなると、「そんな音で鳴っているのに、家の人が文句を言わないのはおかしい」と考えてしまうのである。そして、実際に、きちがいヘビメタ騒音の連続で、人のせいにしているだけだということになってしまうのである。

「そんな音で鳴ってたら勉強することができなくなるよなぁ」と言ってくれるのは、一%未満の人たちだ。ごくわずかな人しか、きちがいヘビメタのたいへんさを理解しない。きちがい兄貴みたいな感覚をもっている人がいるということを理解してくれない。

2024年12月11日水曜日

本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまう

 自己責任論というのは、どんな状態だろうが、やられたほうが悪いという理論なんだよ。どんな状態だろうが、やられたほうに落ち度があるという理論なんだよ。

だれになにをやられたにしろやられたやつの責任だという理論なんだよ。こんな、圧迫面接官がやるようなことを、上下関係がない他人にやりまくるやつがいいやつであるはずがないだろ。

こういう場合は、こうだ……という思考がまったくないんだよ。

どういう場合でも、やられたほうには、やられた責任があるという、くそ理論なんだよ。

それじゃあ、悪いやつのかたをもつことになる場合がある。加害者のほうが悪いのに、被害者が悪いと言いはるやつが、自己責任論者だ。問答無用で、条件に関係なく、状態に関係なく、理由に関係なく、ともかく、やられたやつが悪いのである。

こんな、めちゃくちゃなことを得意げに言って、なにも疑問をいだかないやつが、かしこい人間であるはずがない。

本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまうのである。そして、たいていの自己責任論者が、それに気がつかない。最初は、アンガー・マネジメントのようなことを言っているけど、最後には、すべての場合において、やられたやつが悪いという理論になる。

他人の責任をとことん追及する理論になる。やっていることは、自己責任論をふりまわして、他人の責任を追及することなのである。そして、その他人に責任がある場合もあるけど、その他人に責任がない場合もあるのである。

けど、理論的に、他人に責任がない場合はないと決めつけてしまう。条件が悪い人にとっては、それ自体が腹立たしいことだ。きちがい的な家族と住んでいる場合、きちがい的な家族は、きちがい的な脳みそを搭載しているので、よそではありえないようなことをするのである。

その場合も、やられたら、やられたやつのせいだということになる。

「やれられやつには、なんだろが、落ち度があり、落ち度があるのだから自己責任だ」とやられやつをせめるようになるのである。

本人を対象にした自己責任論であるならば、他人の責任を追及することはないのである。

だから、最初に提示された、本人の責任を追及する自己責任論と、他人の責任を追及するやつがふりまわす自己責任論は、似て非なるものなのである。

けど、他人の責任を追及するやつにとっては、まさに、他人の責任を追及する自己責任論が、自己責任論なのである。

事実に関係なく、勝手に他人に罪をなすりつけ、「おまえの責任だ」と言い切る自己責任論者が、やっていることは、よくないとことなのである。

しかし、自分はいいことをやっていると、たいていの自己責任論者は思っていることだろう。

まちがっことを思いついて、他人をせめたやつは、自分がまちがっていたと自分の責任をツ級することがないのである。自己責任論者は、まちがったことを思いついて、他人をせめている場合がある。責任を感じるなら、そのことに、責任を感じるべきなのである。

他人の責任を追及する自己責任論者は、普段は、自己責任だと思って生きているつもりなのだけど、ちょっと問題が発生したら「だれだっておこる」といかりをあらわにして、他人をせめるようなやつなのである。

「いやー、おまえがやられたなら、おまえの自己責任だろ」と他人の責任を追及する自己責任論者に言いたくなる。ぼくは言いたくなる。

これ、本人はほんとうに意識してないのだけど、たいていの自己責任論者は「自分の責任だ」と感じなければならないところで、自分の責任だとは感じないのである。

いやーー、だれだっておこるといかりをあわらにしないで、自分の責任だと考えるべきだろ。

アンガー・マネジメントもくそもないなぁ。

実際に、自分の身に、ちょっとでも「おかしい」と思うことが発生したら、これだ。

けど、他人には「すべては自己責任だ」と言う。ここらへんの矛盾が、まったくわかってないんだよね。

「こんなことをされたらだれだっておこる。なんだ!くそ!!」とおこっているときこそ、「すべては自分の責任だ」と思うはずなんだけど、そうじゃないのだ。

2024年12月10日火曜日

希望がもてる言葉は、裏では、人をせめる言葉に、はやがわりするのである

 叱責セットのなかに、努力論に関するものを入れなかった。努力論だって、「努力してないからダメなんだ」「努力不足だ」というせめの言葉をうみだす。

「努力をすれば、成功する」と言った場合、努力をすれば成功するのである。努力をしたのに成功しないということはないのである。

「努力をすれば成功する」というのは、「どんな状態であろうが、努力をすれば成功する」ということを意味している。状態は関係がないのである。

「努力をすれば成功する」というのは、「どんな条件でも、努力をすれば成功する」ということを意味している。条件は関係がないのである。

「努力をすれば成功する」というのは、「努力をすれば、かならず成功する」ということを意味している。一〇〇%の確率で成功するのである。

努力をしたのに、成功しないということはないのである。

かならず、成功する。

なので、成功しないなら、努力をしなかったということになる。

あるいは、成功してない人は、努力をしなかった人なのである。

だから、「努力をすれば成功する」というような希望がもてる言葉は、裏では、人をせめる言葉に、はやがわりするのである。

これは、表と裏の関係だ。

ライフハックの言葉は、ほんとうは、でたらめだ。法則性なんてない。条件を無視している。

条件というのは、今現在の条件だけではなくて、今現在の条件をつくった過去の条件も関係している。時系列的な条件の変化があるのである。

ところが、時系列的な条件の変化を無視する。「条件なんて関係がない」からだ。そして、妄想的なことを言う。

 

2024年12月9日月曜日

解決策が解決策ではなくて、さらにトラブルをうむ有害な策だからだ。

「叱責セット」と書いたけど、ようするに、これは、他人をせめる言葉だ。この他人をせめる言葉と、こういうふうに解決できるという解決策が、セットになっている。

そして、その解決策というのが、有効な解決策ではなくて、妄想の上にたつ有害な解決策なので、条件がわるい人が、こまるのである。こまりまくるのである。もう、条件がわるいなら、こまることが決まっているのである。どうしてかというと、解決策が解決策ではなくて、さらにトラブルをうむ有害な策だからだ。

条件が悪いから、こまった状態になっていのである。「Xをすれば、Yになる」とか「Xをすれば、Yという状態になる」というようなことを言うけど、こまっている人がこまった状態でるのは、Xをしなかったからではない。

ようするに、たとえば、ヘビメタ騒音でこまっている場合、ヘビメタ騒音でこまっているのだ。きちがい親父のきちがい行為でこまっている場合、きちがい親父のきちがい行為でこまっているのだ。どれだけ言っても、相手……きちがい兄貴やきちがい親父がやめないから、こまっているのだ。

Xをしないから、こまった状態になったのではない。

「人に親切にすれば、しあわせになる」ということについて考えてみよう。ぼくが、人に親切にしなかったから、しあわせになれず、こまっているわけではないのだ。

原因がちがう。

ところが、 「Xをすれば、Yになる」とか「Xをすれば、Yという状態になる」というようなことを言う人たちは、みんな、相手の現実的な原因を無視するのだ。どんな原因だろうが、「Xをすれば、Yになる」のである。「Xをすれば、Yという状態になる」のである。いまこまっている原因はまったく関係がないのである。条件を無視している。

たとえば、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の場合、感覚器を無意識的なレベルで書き換えてしまって、自分の耳が悪くなるほどでかい音でヘビメタを長時間鳴らすから、ぼくがその騒音でこまっているのだ。

過去から、現在にいたるまでの時間、きちがい兄貴が鳴らしているから、こまる。ここで、ぼくが「人に親切にしても」、きちがい兄貴のきちがい行為にはまったく影響がないから、きちがい兄貴のきちがい騒音からもたらされる、不幸な状態が続くのである。

両方のセットをあわせた全体構造を強化しているのである。

  なんとなくよさそうに聞こえるライフハックと「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」という言葉は対になっているということを説明した。

言霊(言ったことが現実化する)、思霊(思ったことが現実化する)、書き霊(書いたことが現実化する)ということもライフハックの中に含まれる。お気軽な解決方法だ。

ところが、条件があるので、お気軽な解決方法では解決できないのである。

あたかも、解決できるようなことが言われる。けど、解決できない。

そうなると、今度は「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」といいはじめるわけ。

だから、これらのものは、セットになっている。そして、条件を無視するという共通項がある。「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」だけだと問題があるので、まったくでたらめな解決方法が用意されているのである。

そして、まったくでたらめな解決方法で、うまく解決できないのであれば、それは、個人……つまり、その個人のやり方が悪いのだということになって、その個人をせめはじめるのだ。

ようするに、「いいわけだ」「あまえだ」「自己責任だ」という「叱責セット」と言霊(言ったことが現実化する)、思霊(思ったことが現実化する)、書き霊(書いたことが現実化する)といった「妄想ライフハックセット」が両方のセットをあわせた全体構造を強化しているのである。

潜在意識なるものを過大評価しすぎなのである 潜在意識 2

書いたら、書いたということが、潜在意識に影響をあたえるということが言われるけど、潜在意識なるものを過大評価しすぎなのである。

潜在意識がものすごい力をもっているということになっているけど、どうして、それなら、一度メモしたことを忘れてしまうのか?

潜在意識がものすごい力をもっているのなら、一度メモしただけで、忘れない。顕在意識が忘れても、潜在意識がおぼえているので、ものすごい力を発揮して、メモをしたことを、ごく自然におこなうことができるということになる。

ところが、忘れないようにメモをしたのである。それは、将来、忘れることがあるということを前提とした話だ。こういう前提が成り立っている話をしているわけだから、一度メモしたのに忘れるということが、わりと頻繁にあるということを意味している。

潜在意識に残っているなら、本人が意識しなくても、メモをした内容を、正確に実行できるはずだ。実行できないのであれば、じつは、潜在意識なんて大したものではなくて、ぜんぜん頼りにならないものだということだ。

けど、そう言ってしまっては、カモがよってこない。

潜在意識という、学術的なタームではないタームをつくりだし、あたかも、潜在意識がものすごい力をもっているということを前提とした話をするわけだ。

そうすると、潜在意識はものすごく頼れるパートナーであるから、言霊理論の言霊のように、魔法のような力を発揮するのである。

しかし、潜在意識がすごいパワーを発揮しない場合が、当然出てくる。

その場合は、「(あなたが)パワーを引き出せないだけだ」という説明をするのである。

だから、いつでも、パワーを引き出せるようなコツを教えてあげると言って、おカネをもうけようとするのである。

ひどいやつになると、潜在意識が宇宙意識につながっているということを言いだし、潜在意識に命令しただけで、すべてのことがかなうということを言いだす。これも、トリックなんだよ。

潜在意識に命令するのは簡単で、ようするに、紙に書きだせばいいということを言う。紙に書きだしただけで、潜在意識に命令したことになる。

だから、潜在意識が宇宙意識を動かして、宇宙意識が、書いたことをすべて、実行しはじめるというのだ。

ここにおいて、言霊理論における言霊のような役割をするのである。言霊理論は、言っただけで、言霊の力が、言ったことを現実化するという理論だ。

書いただけで、潜在意識と宇宙意識がつながっているので、宇宙意識が潜在意識に残っている内容……つまり、書いたことを実行しはじめるという説と、書いたものをはりだして、普段から見るようにすると、潜在意識に焼きつくので、宇宙意識が潜在意識に残っている内容……つまり、書いたことを実行しはじめるという説がある。

けど、どっちも、でたらめだ。

けど、別に、目標を紙に書いて、はりだしておくというようなことを否定するつもりはない。それは、普通の意識的な行動だ。見たら『いやな感じになる』こともあるけど、見たら『やりたくなる感じになる』ことだってある。

これは、普通の意識の問題だ。

意識や注意や認識や行動といった普通の用語で説明できることだ。潜在意識などという、インチキ用語を使って、説明しなくてもいい。

けど、どんな条件下でもそうなるのだろうか 潜在意識 1

  たとえば、目立つところに、邪魔なものが置いてあると、「邪魔だ」と感じる。視界に入るものは、たしかに、こころに影響をあたえている。

普通は、なんか邪魔なものが視界に入る場合、どかすという行為をすることになる。どかせないのであれば、なにか理由があってどかせないのだ。だから、まあ、そのままになるというのは、そのままになるだけの理由があるということを、いちおうは、おさえておかなければならない。

邪魔だと感じるものが(自分が普段生活する場所に)置いてある場合は、邪魔なものが意識に影響をあたえる。「目障りだ」「邪魔だ」と思っているとき、ある程度不愉快な気持になる。その邪魔なものは、見るものに、ある程度、ストレスをあたえていると言っていい。

しかし、それは、潜在意識とは関係がない。潜在意識なるインチキ用語を使わなくても、普通の用語で説明ができることだ。「邪魔だなぁ」と思った時点で、ストスレを感じている。「邪魔だなぁ」と思う部分は、脳の正常な働きだし、ストレスを感じるのも脳の正常な働きだ。

これとおなじように、目標が書いてある紙を見たときに、やる気になる(かもしれない)というのも、正常な脳の働きだ。潜在意識なんて関係がない。顕在意識なんて関係がない。普通の意識が関係している。認識、想起、意欲という言葉で説明できることだ。潜在意識なんて関係がない。

だいたい、潜在意識という用語を使っている人たちは、かならず、プラス向きの働きがあるということを言っている。

たとえば、目標が書いてある紙を見ると、それが、潜在意識に影響をあたえて、自然にやる気になるということを言う。

けど、目標が書いてある紙を見て、あせった気持ちになる場合だってある。目標が書いてある紙を見て、憂鬱な気持になる場合だってあるのだ。目標が書いてある紙を見ると、それば、潜在意識に影響をあたえると、その潜在意識と宇宙意識がつながっているので、宇宙意識が目標をかなえようとガーーーッと動くというようなことを言う人もいる。

「絶対!合格」と書いた紙を貼っておくとする。「合格」と書いた紙を見たときに、どういう反応が起こるのかということは、わからない。「絶対!合格」という文字を見て、むなしい気分になる場合だってあるし、あせる場合だってあるのだ。

「絶対!合格」と書いた紙を見たということは、「合格」と書いた紙を見たということだ。宇宙意識……関係ない。潜在意識……関係ない。普通に、見たものに反応しているだけだ。

意識の範囲の出来事だ。書いてあることの意味を理解して、その意味に関係したことを想起している。そして、その想起が感情に影響をあたえる。普通の脳みその働きで、説明ができることだ。宇宙意識……関係ない。潜在意識……関係ない。

だいたい、この人たちは、見ているときの状態をまったく考えていない。かならず、潜在意識によい影響をあたえて、かならず、宇宙意識によい影響をあたえると考えている。しかし、実際の状態というのは、いろいろとある。

たとえば、試験日まで、あと一日というとき、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っているところで「絶対!合格」と書いた紙を見たときは、あせりを感じるかもしれないのである。ヘビメタ騒音が鳴っている状態……ヘビメタ騒音が鳴っているという条件なんて、まったく考えてないのだ。

ヘビメタ騒音じゃなくても、はげしい騒音が鳴っているところで、書いたことを見た場合の反応については、まったく考えてない。

潜在意識に(よい)影響をあたえるので、潜在意識が目的を果たそうとして、(目的を果たす方向で)からだが、自然に動く……。どんな条件下でもそうなると言っているのが、まあ、潜在意識教の人たちの言っていることだ。

けど、どんな条件下でもそうなるのだろうか?

 


「ゴミ拾いをすると、運があがる」(1)

 「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人が、完全に無視していることがある。

それは、複数の悪い条件をかかえている人が、どういう気持で「ゴミ拾い」をしているかということだ。複数の悪い条件をかかえている人は、切羽詰まった気持ちで、ゴミ拾いをしている。

この、切羽詰まった気持ちがわかるか? 余裕がある人が、楽しんでゴミ拾いをしているのとはちがうのだ。

あるいは、ゴミ拾いをすることには意味があると思って、ゴミ拾いをしている人とはちがう。

ゴミ拾いをすることには意味があると思って、ゴミ拾いをしている人は、ゴミ拾いが目標。ゴミ拾いをすれば、目標を達成できる。「運をあげるために」ゴミ拾いをしている人は、ゴミ拾いが目標ではなくて、運をあげることが目標なのである。

これが、どれだけちがうことかわかってない。

ゴミ拾いをしても、運があがらなければ、目標を達成できないのである。行為と目標がずれているのである。これは、大きな影響をあたえる。心理的な影響はでかい。


「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえていている人の条件を無視している。

つぎに「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえている人が、ゴミ拾いをしているときの気持ちを無視している。

つぎに「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、行為と目標がずれていることがあたえる心理的な影響について無視している。

つぎに、「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえている人の体力的なリソースや時間的なリソースを無視している。

悪い条件をかかえている人は、体力的なリソースがゼロ付近、時間的な余裕もゼロ付近で、暮らしているのである。

そりゃ、相対的に条件がいい人には、体力的なリソースも時間的なリソースもある。どうしてかというと、条件がいいからだ。

条件がいい人が「自分だって苦労した」と言うけど、その苦労は、条件が悪い人の苦労とは質もちがうし、量もちがうのである。

条件が悪い人は、もう、ボロボロになって余裕がない暮らしをしているのである。

ゴミ拾いをしはじめるときの状態が、条件のいい人と、条件が悪い人とでは、ぜんぜんちがうのである。

「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、条件を無視するので、そんなことは、一切合切、考えてないのである。


あるいは、一切合切、考えてないお気楽さがある。このお気楽さは、裏をかえせば、傲慢さだ。相手の条件を考えずに、でたらめなことを言う傲慢さがある。無慈悲で傲慢なのである。

抽象的な話に興味があって、「あがる(はずだ)」ということを言うけど、相手が、ほんとうはどんなことでこまっているのかいうことに関しては、まったく、無感覚だ。無感覚、無慈悲なのである。実際にやってみた相手の状態なんて、気にならないのだ。

だから、このお気楽さ、無感覚さ、無慈悲さは、容易に、「せめのことば」に結びつく。「そんなのは関係がない」「そんなのは影響がない」「そんなのは、やり方が悪いんだ」「こころをこめてやらないからダメなんだ」などなど。相手の現実的な条件を無視して、相手をせめまくる。

「ゴミ拾いをすると、運があがる」ということが、そういうことを言う人のなかでは、正しいことになっているので、「ダメだった」「効果がなかった」ということを言われると、相手が悪いのだということを言いだすのである。

ようするに、理論は正しいので、相手に落ち度があると考えるのだ。理論が悪いのではなく、相手が悪いと決めつけて、相手の責任を追及しはじめるのである。

そして、ダメだしをする。

けど、理論がそもそもまちがっているのである。

こんな、無慈悲な行為をしているのに、どこに「愛」があるんだ?

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(5)

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということに関する批判は、めちゃくちゃにうけが悪い。わるすぎる。そんなのは、わかっている。

けど、ぼくは言わなければならないのだ。これ、ほんとうは、問題があることなのに誰も言わない。そりゃ……。ゴミ拾いをしたいと思っているのだからゴミ拾いをしたっていいじゃないかという意見があると思う。

ぼくだって、別にゴミ拾いをするべきではないと言いたいわけじゃないのだ。

けど、お気楽ライフハックを人にすすめるような行為は、不幸な人をどん底に突き落とすような行為なのだ。みんな、それがわかってない。

そういう要素があるということが、まったくまったくわかってない。

どのみち、ある程度、めぐまれている人が書いたライフハックはまるで役に立たないのだ。役に立たないどころか、有害なのだ。有害さが、無視されている。この手のライフハックというのは、多くの不幸な人を自殺に追い込んできたと思う。

複数の「悪い」条件が成り立っている人がいるんだけど、その人が感じていることというのは、この手のライフハックでは解決しない。

そして、この手のライフハックがはやっているということ……正しいこととして流通しているということ自体が、複数の「悪い」条件をかかえている人を、くるしめるのだ。

特に「運」がどうのこうのという話は、よくない。

まったく、よくない。

これ、最後のひとおしになる。がけっぷちに立っている人を、突き落とす、最後のひとおしなのだ。ほとんどの人が、「運がよくなるのだから、いいことだろ」と思っていると思う。

ところが、これ自体が、くるしみの原因になってしまうのだ。努力論とおなじで、正しいこととして流通しているけど、不幸な人を、より不幸にするところがある。 最後のひとおしになる。

というか、最初から、これ、条件が悪いところでは、マイナスに働くことなのである。

何度も言うけど、条件は無視されているのである。これは、悪質だ。

個々人がかかえる条件を無視して、条件が悪い人を追い込む。「自己責任」「あまえだ」「いいわけだ」……これらのせめる言葉と組になって、運をあげる方法が語られるのだ。

これは、自転車の前輪と後輪だ。ライフハックとせめる言葉が組になっている。「ライフハック」は条件を無視しているし、「せめる言葉」も条件を無視している。条件をガン無視するという点では、両者はおなじだ。

*     *     *

その人が不幸なのは、ゴミ拾いをしてこなかったからじゃないぞ。

悪い条件が成り立っていたから不幸なのだ。ゴミ拾いをすると運がよくなる……。だったら、運がいい人は、みんな、ゴミ拾いをしてたのか?

ちがうだろ。

こんなの、論点そらし。

別に、ゴミ拾いをしてもいい。ゴミ拾いをすることで、本人が気持ちよくなれるなら、それでいい。けど、実際はちがう。どうしてかというと、運をあげようとしてゴミ拾いをする人は、すでに不幸だからだ。

運がない思い……をさんざんしてきたからだ。

こまっているからだ。

条件が悪いうちに生まれたということ自体が、運がないことだ。運というなら、そういこうとになる。

運というのは、じつは、現実を言い換えたものだ。

たとえば、悪い親のもとにうまれてきた人は「運が悪い」のである。悪い親のもとにうまれてきたという事実を「運」という言葉で、言い換えているにすぎない。

 現実の写し絵なのでおなじものをみて、ふたつのことを言っているだけだ。そして、ふたつのあいだに関係があるというようなことを言うのである。

けど、おなじことを言っているのである。現実世界で、現実的にダメな状態で生活している人は、運がないのである。けど、運がない人は、現実世界で、現実的にダメな状態で生活している人なのである。

「運」というのが、現実の写し絵なのだから、こんな意味のない言葉の繰り返しになっても、しかたがない。

運の悪い人が運をよくする……ための方法……。けど、運が悪いとみなされる状態は、じつは条件によってつくりだされたのである。

だから、条件がかわらないとだめなのである。条件がかわらないと運が悪い状態が改善されないのである。

けど、条件を無視して、妄想的なことを言う。条件を無視している。

これは、原因を無視しているということとおなじだ。現実を繰り出している条件についてはまったくふれずに、別の原因を考え出し、それをしないからダメなのだとダメ出しをするのだ。

たとえば、運をあげる方法をやってみたけど、ダメだった人がいたとする。この人に言われる言葉は「続ければいい」という無慈悲な言葉だ。だいたい、条件を無視している時点で、無慈悲なのだ。こんなに思いやりがない行為はない。

相手の条件を無視するということは、すでに、相手に対する侮辱なのである。どうしてかというと、相手の状態がわるくなったほんとうの原因を無視することになるからだ。

そして、「いいわけだ」「あまえだ」「続ければいい」と言う。こんなことをして、いいことをしたつもりでいるというのがおかしい。

いいことをしたつもりになっているのは、自分が提示した方法が、ほんとうに相手の運をあげると思っているからなのである。

ところが、相手をよりくるしめる方法なのだ。

条件が悪い人が「運をあげる方法」をこころみたとしても、いいことなんてない。どうしてかというと、実際には、条件のわるさがわからないからだ。

*     *     *

はっきり言ってしまうけど、社会改革のほうがいい。社会がかわれば、だいぶ、条件がかわる。条件がかわれば、実質的に運がよくなった?状態になる。



「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(4)

  この「運をよくするためにやったこと」というのは、不幸な人の首をしめることがある。

たいていは、トラブルになる。

どうしてかというと、不幸な人は、条件が悪いからだ。さまざまな悪い条件をかかえているからだ。

そして、悪い条件からしょうじる悪い出来事の積み重ねがある。

過去における「悪い条件からしょうじる悪い出来事の積み重ね」は、いまの悪い状態をつくりだしている。それを、ライフハックでひっくりかえせるかというと、かえせない。

「自分の場合は運があがった」と言っている人は、相対的には、不幸がつみあがった人よりも、しあわせなのである。ようするに、いい条件がある。

ところが、人間系のライフハックの対象は、人間なので、よい条件とか悪い条件というものを一切合切無視して、「人間というものは、こういう動物だ」というようなことを言う。

 こういう動物でなければ、こういう存在でもいい。

人間なら、Xをすれば、Yの状態になるのである。人間なら、ゴミ拾いをすれば、しあわせな状態になるのである。人間なら、元気だ元気だと言えば、元気になるのである。

Xをしているときの状態なんて、まったく関係がないのである。

*     *     *

ただ、Xをしただけで、条件をすべてこえて、状態をひっくりかえせるのである。これが、ほんとうのことならいいのだけど、嘘なのだ。そんなことにならない。

 「自分の場合は運があがった」と言っている人は、なんかのまじないをしたあと、いいことが起こったから、このまじないにはチカラがあると思っている人なのだ。

まじないにチカラがあるわけではなくて、まじないの行為をしたあと、時間的に接近して、その人がいいことだと思えることが起こっただけなのである。

他の人が、そのまじないをしても、まじない自体には、チカラがないので、いいことが起こらないのである。まじないをしなくても、いいことが起こる確率と、まじないをするといいことが起こる確率は、おなじだ。

 

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(3)

  「法則性がある」と言った時点で、個々人がかかえる特殊な条件というのは、捨象されてしまう。

ところが、個々人がかかえる特殊な条件が、生活感に影響をあたえているのである。

なので、たとえ「法則性がある」と思っている人が、「法則性がある」と言っても、言われたほうの条件が、かわるわけではない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。 Aさんはボロボロな経歴を持つボロボロな50歳のアルバイターだ。Bさんは「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということを、信じている人だ。

Bさんにとっては、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということは、法則性があることなのである。

なので、高いところで、抽象化すると、Aさんも、ゴミ拾いをすることによって、しあわせになるはずなのである。Bさんは、法則性があると思っているのだけど、法則性なんてないのだ。

ゴミ拾いをしても、しあわせになれない人が、ざらにいる。

これは、そもそも、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」という文であらわさることには、法則性がないということを意味している。

そして、Bさんは、Aさんの条件を無視している。Aさんには、語られるかどうかは別にして、さまざまな条件が成り立っているのである。おぎゃーとうまれた瞬間から、いろいろな条件が成り立っているのである。いや、おぎゃーとうまるまえから、いろいろな条件が成り立っている。

母親のおなかのなかにいたとき、だれかが母親のおなかを強くぶんなぐれば、母親のおなかにいる子どもが物理的な影響をうける。生まれるまえから、じつは、物理法則は影響をあたえている。

おなかのなかにいる子供がAさんだとする。まだ、母親のおなかのなかにいたAさんが、なぐられたことによって、生涯続く障害が発生したとする。うまれてきたAさんが、この障害を「ゴミ拾いをすること」によってくつがえすことができるかというと、できないのである。

Aさんが障害をもって、生まれてきたせいで、いろいろな不愉快な思いをしたとする。それを、ゴミ拾いをすることによってくつがえすことができるのか? ということなのである。ぼくが言いたいのは、そういうことだ。

Aさんの身のうえに、50年間、いろいろな出来事が降りそそいだとする。Aさんが、いろいろな出来事を、いろいろな不幸な出来事ととらえているなら、いろいろな不幸な出来事が降りそそいだということになる。

不幸な出来事がたくさん発生したなら、「自分は不幸だ」と思っても不思議ではない。過去における不幸な出来事の積み重ねは、現在の不幸感(あるいは幸福感)に影響をあたえる。

ゴミ拾いをしただけで、その不幸感がひっくり返るのかどうかということだ。たいていの場合は、ひっくり返らない。不幸な人が、ゴミ拾いをしても、しあわせにならない場合のほうが、多い。不幸な人が、ゴミ拾いをして、しあわせになることは、あったとしても、めずらしいことだ。

不幸な人がゴミ拾いをしても、たいていの場合は、しあわせにならない。

ところが、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」といっている人は、「すべての場合において、ゴミ拾いをすれば、しあわせになる」と言っているのだ。対象は人間であり、人間はみんな、ゴミ拾いをするとしあわせになれる生き物なのである。

たとえば、Aさんが「今日」職場でいじめられたとする。Aさんがゴミ拾いをすれば、明日は、いじめられないようになるか。たいていの場合は、Aさんがゴミ拾いをしても、職場のいじめには影響をあたえない。

Aさんが「今日」の夜8時に「明日も会社に行けばいじめられる」と考えたとしよう。これは、根拠がない想像ではないのである。根拠のない不安ではないのである。ずっといじめられてきたので、「明日も、いじめられる」と思ってしまうのである。

そして、根拠があるから、実際にそうなる確率が高い。Aさんが「今日」の夜8時10分に、ゴミ拾いをしたとする。ゴミ拾いをしたので、「運があがって」いじめられないようになるのか?

ゴミ拾いはいじめに影響をあたえない。

そりゃ、職場の人がAさんをいじめている。職場の人にAさんがゴミ拾いをしたことの影響があらわれなければならないのである。そうしないと、職場におけるAさんの幸福感に影響をあたえない。

なんかものすごい力が働いて、急に、運があがり、いじめられなくなる……というようなことは、おこらない。

まあ、美談のなかでは、Aさんがゴミ拾いをしているところを、会社の同僚であるCさんが見かけて、Cさんが、職場の人に「Aさんがゴミ拾いをするようないい人だから、もう、いじめるのはよそう」と言って、いじめがなくなった……というようなことになるのかもしれない。

美談なんて、いくらでもつくれる。

*     *     *

ここで語るべきではないのだけど、出来事というのは、本来、中立的で、「不幸な出来事が発生した」と思うのは、「不幸な出来事が発生した」と考えた人が、「中立的な出来事」に「不幸な出来事」だという解釈をあたえただけだという考え方がある。これに関して、すでにのべたことがあるので、今回は、省略する。

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(2)

 美談を語る人というのは、他人の状態というのは考えてない。

他人の条件というのも考えてない。

法則性について語るだけなのである。

しかし、その法則性の根拠というのが、ない。

一例として、こういうことがあったと言われたから、法則性が成り立っていると思っているだけだ。ほんとうは、法則性なんて成り立ってないのに、ひとつの例において法則性が成り立っているように見えれば、どんな条件でも法則性が成り立っていると思ってしまう人たちなのだ。

たとえば、「言ったことが現実化する」というようなことを言う人がいるとする。

実際に、自分が「明日、雨になると言ったら、雨になったから、法則性がある」と言っているだけなのだ。「言ったことが現実化する」という法則はない。もともと、法則性がないことについて語っている。

そして、実際の『例』としてあげられる……「自分が明日、雨になると言ったら雨になった」……ということも、「言ったことが、言ったから、現実化する」ということを意味してない。

これは、「自分が明日、雨になる」と言ったあと、別の理由で雨がふっただけなのだ。自分が明日、雨になると言ったことと、雨が実際にふったことはなんの関係もないことなのだ。

ようするに、法則性があるということについて勘違いしているだけではなくて、実例が適切であるということについても勘違いしているのだ。

「あと」と「から」の区別ができないから、『例』としてあげているのである。

「あと」と「から」の区別がついていたら、実例としてもあげていない。法則性はないし、法則性が正しい証拠のように扱われている実例も、例として不適切なのだ。

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」(1)

  たとえば、ボロボロな経歴を持つボロボロなアルバイターがいたとする。この人は、もう50歳で、職場でいじめられているとする。この人には、この人の条件が時系列的に成り立っている。

とりあえず、この人のことをAさんだとする。「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということを聞いたAさんがゴミ拾いをすることでしあわせになるのかどうかということが、気になる。手短に言うと、Aさんは、ゴミ拾い以外のことで、くるしんでいるのである。

その苦しみが、ゴミ拾いをすることでなくなるのかどうかということだ。

たいていの場合は、なくならない。

ゴミ拾いをどれだけやっても、ゴミ拾いで幸福になるということはなくて、さまざまな人のいじわるによって、ボロボロな気分の、ボロボロな生活が続く確率のほうがはるかに高い。

ゴミ拾いをすると、運がよくなって、運がよくなった結果、いいことが発生して、Aさんがしあわせになるというのが、基本的な理論だ。

ようするに、ゴミ拾いをすることで、運があがるということが基本になっている。そして、運というのが、マジックワードで、どのようにも、言えることなのだ。分解すると、「運」という予想がかかわってくるのだけど、「運」という中継地点については、しばし、省略される。

「ゴミ拾いをするとしあわせになる」ということは、実際には「ゴミ拾いをすると、運があがって、しあわせなことが発生するので、しあわせになる」ということだ。

ゴミ拾いをしても、運があがらない場合については無視している。運があがっても、しあわせなことが発生しない場合については、無視している。ようするに、ゴミ拾い→しあわせになる」ということのあいだに「運」という言葉がはいるのだ。

けど、ゴミ拾いをすると「運があがる」というのは、妄想にすぎない。そういうふうに言っている人が、妄想として信じていることにすぎないのである。ようするに、科学じゃない。ところが、法則性があるようなことを言うのだ。

こういうことを言う人は、実際の不幸を発生させているものに関しても、無視している。どういう事情で、Aさんが不幸なのかということは、この場合は関係がないのである。

ただ、スタートする時点で、Aさんが不幸であることは必要なことなのである。どうしてなら、ゴミ拾いをしなくても、Aさんがしあわせなら、自分の不幸な状態をどうにかするために、ゴミ拾いをはじめないからだ。

そして、たとえば、美談のなかの主人公は、ゴミ拾いをしたことで、運があがり、しあわせになるのである。あるいは、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」と語る人が、もともと、しあわせである場合がある。

ようするに、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」と語る人は、さまざまな条件において、Aさんよりもずっと、しあわせだったのである。

そして、「ゴミ拾いをするとしあわせになる」と語る人が、単なる信者ではなくて、それなりに目立ったところにいる人だとすると、メディアがつくった人である可能性がある。ようするに、メディアが「したてあげた人」である可能性がある。メディアがしたてあげた人の条件と、Aさんの条件は、ちがいすぎるほど、ちがうのである。

さらに、言ってしまうと……言いたくはないのだけど、言ってしまうと、Aさんがゴミ拾いをすることによって、Aさんがもっと不幸になる場合があるのである。そもそも、Aさんが余裕のない限界生活をしているとする。その限界生活をしている人が、さらに、ゴミ拾いというタスクを実行しなければならないということは、現在進行形でむりな生活をしているAさんの、負担になるのである。

そして、ゴミ拾いをすることで、他人から、いちゃもんをつけられるかもしれない。そういう可能性だってある。美談を語る人は、Aさんがゴミ拾いをすることでしあわせになるということを言っているのだけど、Aさんがゴミ拾いをすることで逆にもっともっと不幸になることだってあるのだ。

けど、美談を語る人や、美談を語る人の取り巻き連中は、ゴミ拾いをして不幸になる可能性については、一切合切、言及しない。

2024年12月7日土曜日

こういう人たちとだって、ちゃんと話すことができた

  今日、見た夢は、そんなに悪い夢じゃなかったんだけど、そのあと、俺のことを研究者だと思った、研究者の人との、やりとりを思い出して暗い気持ちになった。ヘビメタ騒音さえなければ、こんな、思いをしなくてすんだ。そして、研究者の人には悪いことをしてしまったなぁと思うところもあった。ヘビメタ騒音のことを説明したくなかった。研究者じゃないところを説明するとなると、そこのところを説明しなければならなくなる。それが、いやだった。

アーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』という本の、中古本販売のときの話だ。たぶん、ここを見ないと思うけど、研究者の人が、ここを見たら、そういうことだったのかと思ってほしい。

そのほかにも、ドストエフスキー掲示板にちょっとだけ登場した研究者の人や、ソフトウエア会社の社長とか、ぼくにあってみたいと誘いをかけてくれた人がいたんだよな。けど、ヘビメタ騒音のことを話すのがいやだったから、見送った。これ、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタにこらなかったら、こういう人たちとだって、ちゃんと話すことができた。 

あってみたいと思っている人は、ぼくに興味を持って会ってみたいと思ってくれているわけだよ。けど、ヘビメタ騒音で学歴がない。さらに、無職だった。言えないよ……。

ヘビメタ騒音というのは、ぼくが言ってることを理解しない人たちともうまくいかなくなるし、ぼくが言っていることを理解してくれる人たちとも、うまくいかなくなる騒音なのだ。

2024年12月4日水曜日

「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性についても考えるべきだ

  「やる気」というものを考える場合は、普通の生活体力がある状態なのか、普通の生活体力がない状態なのかということを考えなければならない。「行動を習慣化すれば、行動できる」というようなことを言うけど、これは、普通に生活体力がある人の話だ。

たとえば、セルフニグレクト状態になっている人に、こんなことを言ってもむだだ。

けど、「行動を習慣化すれば、行動できる」というようなことを言う人は、セルフニグレクト状態になっている人に対してもそういうことを言ってしまう。病院で、チューブをつけられて寝たきりになっている人に「行動を習慣化すれば、行動できる」に「行動を習慣化すれば、行動できる」と言ってもしかたがないのとおなじだ。

けど、セルフニグレクト状態になっている人は、病院で寝たきりになっている人とは、見た感じがちがう。ようするに、外見の問題だ。

そとから見て……「こういう人はこういう状態だ」と見た人が、判断しているにすぎない。

そして、「できる」という言葉は、無情なものだ。見た人が……対象になる人を見て……「見た感じ、外傷がないからできる」と思ったら、見た人のなかでは、対象になる人は、できる人だということになってしまうのである。

しかし、セルフニグレクト状態になっている人は、できないと考えているのである。

そとから見た人からすれば……「それは、あまえだ」と言いたくなる。あるいは、「それは、いいわけだ」と言いたくなる。

外傷がないのだから、できるに決まっているというのが、そとから見た人の考え方だ。

対象になる人は、脳みそが委縮しているのかもしれなぃ。あるいは、脳みそが物理的に委縮していなくても、なんらかの機能障害があるのかもしれない。そして、機能障害はつきつめて言えば、「萎縮」とおなじように、物理的な現象なのだ。

脳は、外側から見ることができないので、外側から見て、対象者ができるかどうかということを判断している人には、対象者における脳の状態は、わからない。

そして、、外側から見て……「対象者ができる」と判断している人は、内側の状態を気にしないのである。あくまでも、外側から見て……できそうなら……「できる」と思ってしまう。

そして、対象者が「できない」と言うのであれば、それはあまえだということになってしまうのである。「動けるのに、動けないと言っているのだからあまえだ」と自動的に考えてしまうのである。あるいは、「できるのに、できないと言っているのだからあまえだ」と自動ときに考えてしまうのである。

なので、対象になる人の内側の状態は、わからないということが、前提になってない。外側から見て、「だいじょうぶそう」なら、「できる」のであり、「できる」のに「できないと言うのはあまえだ」というとになってしまうのである。

もちろん、そう考えている人の頭のなかでそうなるわけだ。とりあえず、外側から対象者を見ている人を観察者ということにしよう。観察者は、対象者の内側を気にしない。観察者は、対象者の内側でなにが起こっているのか気にしない。

観察者にとっては、「外見」だけが、問題なのである。

そして、「対象者はできる」と観察者が判断したら、対象者はできる存在なのである。なので、対象者の内側に問題が発生していて、「できない状態になっている」とは、考えないのだ。

対象者の脳みそがどうなっているのかということは、気にしない。あくまでも、表面的に外側からわかる情報だけにたよって、「判断」している。

しかし、たいていの観察者は、対象者の外見と対象者の内面に、へだたりがある場合について考察しない。たいていの観察者にとっては、観察者自身における「対象者を外側から見た判断が正しい」と前提して判断してしまう。

ようするに、たいていの観察者は、「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性について、考えてないのである。「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性についても考えるべきだ。

どうしてかというと、内側の状態というのは、外側からは見えないからだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。