2024年10月31日木曜日

どれだけ言っても、相手がいやがっているということがわからない

  なまゴミをすててきた。これだけで、今日は、もういいや。おてがらーー。おてがらーー。

外壁を見るたびに思うけど、はやく、引っ越すべきだ。外壁をどうにかしなければならない。外壁のタイムリミットがせまっている。ここにいるなら、外壁工事をする必要がある。外壁工事をするまえに、引っ越すべきだ。この場合は、もちろん、外壁工事はやらずに、家をこわすことになる。

手の甲の、ダニに刺されたあとが、いやなんだよ。これ、見ると、へこむわぁーー。ほんとうに、親父がいれたネズミの被害が甚大なんだよなぁ。ネズミの糞と、ダニ。外壁がじょうぶだとしても、ネズミの糞とダニはものすごくでかい問題だ。外壁がじょうぶでも、数か所、ネズミが入ってこれる部分があった。これは、ぼくが、パティでつぶした。あとは、通気口はネズミ対策業者の人にやってもらった。これも、ネズミのことは考えたないような間隔なんだよね。でっ、ほんとうに、親父が魚を出しっぱなしにするまえは、何個もはいれる場所があったのに、ずっと、何十年も、ネズミが入ったことなんてなかったんだよ。親父が魚を出しっぱなしにするまで、家の中にネズミが入ったことなんて、一度もなかった。親父が魚を出しっぱなしにして、実際にネズミが入ってきたあと、いろいろなところにはいれる場所があるということに気がついた。一個ふさいだだけじゃダメだったということだ。二個ふさいでもだめだったということだ。三個ふさいでもだめだったということだ。それだけ、いろいろな箇所に入り込める隙間や穴があったにもかかわらず、親父が魚を出しっぱなしにするまえは、ほんとうに、一度も!!!一度も!!!ネズミが入ったことがなかったのである。一度入ってくるようになったら、ものすごいよ。

親父が、台所にあるゴミを、毎日、物置のゴミ袋に入れてやる」と言ってきかなかったことがある。あれも、反対したのに、一度言い出すと聞かないので、けっきょく、親父が、台所にあるゴミを、毎日、物置のゴミ袋に入れるようになった。これが、ほんとうに無駄な行為なんだよ。あとで考えてみると、物置に、ネズミをおびき寄せていたことになる。親父が、うちにいて、へんなことをやりはじめるまえは、ネズミの問題なんて、まったくなかった。きちがい親父が、どこでスイッチが入ってしまうのかは、わからないけど、台所に置いてある市のゴミ袋に、市のゴミ袋がいっぱいになるまで、なまゴミを入れるということになっていた。それで、問題がなかった。何十年もそういうことをしていて、一度も、ネズミが入ってくるということがなかった。だから、清潔だったのである。ところが、きちがい親父が、へんな気を起こして、「毎日、うちのなかにある市のゴミ袋に、ゴミを入れるよりも、毎日、一度、うちのなかにある市のゴミ袋から、(親父が)物置に置いた市のゴミ袋にうつしかえるほうが清潔だ」というような考えにとりつかれたのだ。あるいは、「自分が!!!やってやる」という気持になった。これも、俺は、台所に置いてあるごみ袋に、捨てるぐらいにたまるまで、ゴミをおいておくという方法でまったく問題がなかった。言っておくけど、母親が病気になってから、ぼくが料理をしていたわけで、量はぼくの担当だ。だから、なまゴミを、市のゴミ袋に入れていたのはぼくだ。でっ、おかあさんが天国に行ってしまったあと、親父と二人きりで住んでいたわけだけど、親父と接触する機会が増えたのである。で、親父は、言いがたい気ちがいなので、「自分(おやじ)が、毎日、出る生ごみを、物置にあるゴミ袋にいれかえたほうが、俺(ブログ主)の役にたつ」と勝手に決めてしまったのだ。こうなると、どれだけ「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」と言っても、聞かないのだ。親父が訊かない。これ、何十回言っても、聞かない。一度、自分(おやじ)が思いつくと、そうするまで絶対に引きさがらないのだ。これが、「相手のためにやってやること」なのだ。その相手が、「やめてくれ」「やらないでくれ」とどれだけ言っても、相手がいやがっているということがわからない。相手の(親父に)やってほしくない気持ちと言うのは、親父には、絶対に伝わらないのだ。頭がおかしいから、つたわらない。で、これは、ゴミ袋のことだけではなくて、すべてのことにおいて成り立つのだ。俺が幼稚園生のころから、どれだけ、親父のこういう行為でこまったかわからない。幼稚園生のときなんて、きちがい親父が重いつ言ったことを、こっが否定すれば……つまりやらなくていいということを言ってしまえば……親父が顔を真っ赤にして、怒り狂ってやってしまのだ。おこりたいのはこっちなんだよ。これ、頭のスタイルなんだよ。いつものことなんだよ。まるでわからないだろうな。ほかの人にはまるでわからないことだろうな。「そんなの、やめて」と言えばいい……というのが、ほかのとの考え方だからなぁ。そんなことが成り立たないからこまっているのに……まったくわかってない。 

俺が幼児のころは、親父が怒り狂って、きちがい行為を押しとおしていたのだ。でっ、親父の頭のつくりと、兄貴の頭の作りがおなじだから、「自分」たちが思ったことは、絶対の意地でやるし、それで問題がないと思っている。きちがい親父は、「相手のためになるだろう」と思ってやることだって、絶対に、相手が言っている通りには動かない。きちがい親父がやりたいようにやらないと、発狂する。きちがい兄貴は、もちろん、きちがい兄貴のために、ヘビメタを鳴らしているわけで、「弟のためにヘビメタを鳴らしてやろう」と思って鳴らしているわけではない。けど、おなじなんだよ。頭の作りがおなじなんだよ。ようするに、親父の場合は、勝手にこっちとは関係がないことをやりたくなってやるタイプと、親父の頭のなかでは、こっちのためにやりたくなるタイプがあるのだけど、兄貴の場合は、勝手にこっちとは関係がないことをやりたくなるタイプしかない。ようするに、集合で考えると、親父が、兄貴のタイプを含んでいる。たとえば、竹を植えるということは、親父が、やりたくなってやったことだ。おかあさんが「そんなところに竹なんて植えたら、たいへんなことになるからやめて」と必死に叫んでいたのに、顔を真っ赤にして植えてしまうのだ。しかも、「やめて」「やめて」「やめて」と言っていたおかあさんに、植え終わったあと「どうだ、すごいだろ」と言ったのだ。「ほめてよぉ」とも、ちょっと照れながら言っていた記憶がある。せっかくやったのだから、ほめてくれ」「うまく、植えられたのだから、ほめてくれ」ということだ。これ、おかあさんが、「やめてくれ」と言ったことが、まったく頭のなかにはいってないのだ。こまってこまって、「やめて、やめて」と言っていた相手に、「どうだうまくできだだろ」というようなことを言って、ほめてもらおうとする……。これがどういうことだかわかるか? まあ、こういう人間に、傷つけられないと、わからないと思うけど、これが、めちゃくちゃに不愉快なことなんだよ。しんどいことなんだよ。この世界と、「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちの世界は、ぜんぜんちがう。「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちたちは、「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちで、親父がつくった世界がわかってない。親父のアマのなかでどういうことが起こっているかまったくわかってない。この、相手の言い分の無視や、発狂的な意地というのがわかってないのだ。顔を真っ赤にして、顔をこわばらせて、あぶらあせをかいて、やってしまういのだからな。で、親父が「やめて」と言われたときの態度と、兄貴が「やめて」と言われたときの態度がおなじなんだよ。親父が(ほかの人から)親父がやる気になってやっていることを、(やめてくれ)と言われたときの態度と、兄貴が(ほかの人から)兄貴がやる気になってやっていることを、(やめてくれ)と言われたときの態度が、まったく、まったくおなじなんだよ。ヘビメタ騒音は、兄貴がやりたくてやっていることなんだよ。だから、ほかの人から、(やめてくれ)と言われたら、スイッチが入ってしまう。そして、スイッチが入ってやりきったのに、まったくやりきったつもりがないという状態になってしまう。ようするに、俺がどれだけ兄貴に(勉強ができないからやめてくれ)と言われても、無視して鳴らしたという気持がない。兄貴は、「エレキギターがうまくなったとほめてくれ」とは言わなかったけど、頭のなかに起こっていることは、親父が竹を植えたときとおなじなんだよ。「やめてくれ」と言っていた相手のことなんて、まったく頭にない。まっーーったく、まーーーったく、頭にない。普通の人だったら、残るんだよ。「俺が鳴らしているときに、勉強の邪魔だからやめてくれと、しつこく何回も、言ってきた」ということが、残る。どれだけ言われたって、残らない。何十回言われたって残らない。それなら……やめてくれるのかというとそうではないのだ。「やめてやらなかった」記憶がないのだ。「相手がやめてくれ」と必死になって何回も言ってきたという記憶がないのだ。これ、きちがい親父と、きちがい兄貴でおなじなんだよ。兄貴の場合は、「相手のために」やってやろうという部分がない。だから、親父のように「相手のためにやってやろう」としてトラブルを起こすということがない。この、親父が相手のためにやってやろうと思うことが、ことのこどとく、一〇〇%の確率で、相手にとってやってほしくないことなんだよ。相手が「やられたこまる」ということを、言ってくる。で、相手がどういう理由でこまるのかということを、親父に何十回、何百回説明しても、それは、無視してしまう。何十回も激しく言われたって、親父のなかでは、ゼロ回なんだよ。説明をうけてない状態とおなじなの……。で、きちがい兄貴の場合は、ヘビメタの音に関して、何千回も、何万回も、何十万回も言われてきたのに、兄貴のなかでは、ゼロ回なんだ。

こういうことを言うと、ほかの人は「そんなのへんだ」と思ってしまう。なかには、「そんなのはへんだから、エイリが嘘を言っている」と思うやつだっている。けど、ほんとうなんだよ。こういうところも、不愉快なんだよね。生きていて、不愉快だ。

2024年10月30日水曜日

親父のことから発生したトラブル。兄貴のことから発生した、トラブル

 親父のことから発生したトラブル。兄貴のことから発生した、トラブル。そういうものが、つみかさなりすぎている。どんだけ、繰り返されてきたか? これ、まったくわからないだろうけど、きちがい親父が、きちがい親父だと、ほかの人とのトラブルを抱えることが多くなるのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴で、きちがいヘビメタを絶対の意地で鳴らすと、ほかの人とのトラブルを抱えることが多くなるのである。みんな、わかってない。不可避的なときと、たまたま相手が悪いときがある。たまたま相手が悪いときもある。たとえば、ネズミの対策工事の業者とか自転車屋の人だ。こいつら、性格が幼稚で親父と似ているところがあり、自分の判断に責任をもたないのである。言いにくいことを言えば、おこるしなぁ。こっちが、言いにくいことを、言えば、あっちはおこる。トラブルを起こしやすい性格の人がいる。たとえば、依頼主が「やらなくていい」と言ったことをやってしまって、トラブルを起こすネズミ対策業者だ。これ、性格なんだよ。自分が相手にやってやりたいことは、やってしまうやつなんだよな。でっ、判断がまちがっているから、あとでひどいことになる。たとえば、ネズミが入ってくるようになる。ネズミ対策工事をしたのに、ネズミが入ってくるような穴をあけてどうするんだよ? それも、俺がふさいでおいた穴なんだぞ。穴と言っても、これが、穴に見えない穴なのである。だから、「そこはいじらなくていい」「そこは、なにもしなくていい」と言ったのに……。しかも、ネズミが入ったとき、ネズミ対策業者の人が入院をしていて、自分(ネズミ対策業者の人)があけた穴の工事をしてくれなかったのである。これ、けっこうあるんだよ。きちがい親父が、きちがい的な態度で、相手が言っていることを聞かないというのがある。よその人に、俺が、へんな人だと思われる原因をつくるのである。こまるんだよ。家族だとこまる。兄貴も、きちがい的な態度で、相手が言っていることを聞かない。だから、俺がほかの人なら絶対にかかえないトラブルを抱えて、ほかの人から誤解をされるということになる。きちがい兄貴がきちがい兄貴だから、きちがいヘビメタ騒音というトラブルを抱えている。これ、きちがい兄貴のような家族の一員がいる人しかわからない。「ちゃんと言えば、わかってくれる」「俺だったら、ちゃんと言ってわからせることができる」という前提でものを言ってくる。もう、それだけで、不愉快な気持になる。よそのうちの家族は、きちがい兄貴がやるようなことを、実際にやってない。よそのうちの家族は、きちがい親父がやるようなことを、実際にやってない。やられてないからわからないだけだというのがある。

「みんな」見てない。「みんな」知らない。

 家族が、知らんぷりで、自分がこまることをやっているということが、どういうことなのかわかってないなぁ。しかも、それが、普通の家の人は、やらないことなのである。普通の家ではありえないことなのである。普通の家ではありえないことを、きちがい家族が、毎日あたりまえのようにやってる。こっちがこまっているということを、認めない。よその家じゃ、絶対にありえないような異常な行為を、毎日あたりまえのように、長時間やっている。これで、生活がくるっていく。そして、みんな、「そんなのは関係がない」と言うのだ。「俺だって苦労した」「だれだってつらい」と言うのだ。けど、その人たちは、きちがい的な家族と、いっしょに住んでない。一秒も、いっしょに住んだことがない。学校や職場で、きちがい的な人にこませられるだけだろ。しかも、きちがい的な人が、「公的な場で」きちがい行為をするなら、「みんな」見ている。「みんな」知っている。けど、「うちのなか」だと、そうじゃないんだよ。「みんな」見てない。「みんな」知らない。

「みんな」きちがい家族による騒音を、聞かされてない。聞かされてないんだよ。どういう生活になるか、わかってない。 

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何度も言うけど、きちがい家族と一緒に住んだことがないから、きちがい家族がだす騒音を経験してない。一秒も経験したことがない。普通の家族がだす騒音と、きちがい家族がだす騒音はちがう。やっているときのきちがい感覚がちがうから、ちがう。質、量、ともに、ちがう。

やられたことがないから「そんなのは関係がない」と言うのだよ。やられたことがないから「過去は関係がない」と言うのだよ。やられたことがないから「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うのだよ。やられたことがないから「みんな、つらい」と一般化して言うんだよ。やられたことがないから「できると言えばできる」と妄想的なことを言うんだよ。きちがい家族に、毎日毎日やられたことがないから「できると言ったってできない」ということを、思い知らされてないだけなんだよ。きちがい家族に、毎日毎日やられたことがないから「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と妄想的なことを言うんだよ。きちがい家族にやられたことがないから、「暗いことを考えなくても、暗いことが起こる」ということが、わかってないんだよ。思い知らされてないんだよ。

2024年10月29日火曜日

一倍速で経験したあの騒音の意味がわかるはずがない

 きちがいヘビメタ騒音がはじまって、他人に対して「劣位」になった……。これが問題だ。しかも、これ、俺の問題なのである。ほかの人は関係がない。きちがい兄貴といっしょに住んでいる俺だけの問題だ。なので、他人は、基本的には理解しない。理解できるわけがない。一倍速で経験したあの騒音の意味がわかるはずがない。「鳴り終わったら関係がない」なんて、言えるはずがない。「鳴り終わったら関係がない」と言っているやつは、本人がどれだけ苦労したつもりでも、たいした苦労なんかしてない。本人が「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、そいつ本人が経験した騒音というのは、たいした騒音じゃない。何度も言うけど、一倍速で、あの騒音生活を経験したやつが「鳴り終わったら関係がない」なんて言えるわけがないのである。絶対に、口がさけても言えない。そして、そいつの地位は、やはり、他人に対して「劣位」になっているので、他人に対して劣位になるということを、否定したりしない。家族の騒音で他人に対して劣位になるということが、どういうことがわかっているやつが、「鳴り終わったら関係がない」「俺だって騒音ぐらいあった」「そんなのは関係がない」などと言うわけがない。これ、必然性がわかってないのである。どうーーしたって、影響をうける。しかも、鳴り終わったあとも、影響が続くのである。これは無視できる影響じゃないのである。ものすごくしんどいのである。眠れなくなる。睡眠回路が破壊されて、睡眠に関する不安が増大する。この増大度が半端じゃないのだ。それが毎日、つもったらどうなるか、わかっているやつが、「俺だって騒音ぐらいあった」なんて、言うわけがない。

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きちがい兄貴は、知らんぷりだから、一五年間やり続けたとしても、まったくやってないつもりのままだ。これ、ほんとうに、「悪気」がないのである。自分がやったと思ってない状態なのである。けど、じゃあ、「明日、試験があるからやめてくれ」と言って、やめてくれるかと言ったら、やめてくれない。意地になって、全部の時間、自分が満足できるでかい音で鳴らし続ける。つまり、「やっている」。やり続けた。ところが、本人は、まったく、わかってない状態なのである。「やった」ということも、「やり続けた」ということも、「弟がやめてくれと言ってきた」ということも、まったくわかってない状態なのである。あの態度は、全部、そういう態度なんだよ。 

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こういうきちがい家族に、毎日の時間を、毎時間浸食されて、いいわけがない。「いいわけがない」ということが、わかってないやつが、アホなことを言う。わかってないから言える、アホなことを言う。言ってくる。断言する。俺が、「きちがい兄貴の騒音はそんなものじゃない」「騒音と言っても騒音の騒音がちがう」「きちがい兄貴の態度は、ぼくが言った通りの態度だ」ということを言ったって、そいつらはそいつらで、認めない。「そんなのはおかしい」「そんなにでかい音で鳴らしているのに、家族が文句を言わないのはおかしい」と言ってくる。

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ともかく、そういうことの、繰り返しで、つかれた。

 

だから、普通の人が言う「いろいろなこと」が言えなくなる。

からだが、ちがう。やられてない人と、やられた人では、からだがちがう。けど、やられてない人は、「からだの状態」がまったく、わからない。自分なら、やられてもだいじょうぶだという前提でものを言う。けど、その前提がまちがっているのだ。「やられた」ことが、きちがい家族によるきちがい騒音だと、「やられた」ことがある人が、極端に少ない。はっきり言えば、ぼく以外の人はやられてないような状態だ。それであるならば、やっぱり、「からだの状態」がわかってないまま、『わかっている』という状態でものを言ってくるということになる。で、これが、ぼくの生きがたさをつくるひとつの原因だ。きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で、じゅうぶんに、生きにくくなったけど、その上に、こういう生きがたさがつみかさなる。これは、きちがい家族がいない人にはわからない。きちがい家族がいないので、おなじことを経験したことがない人にはわからない。けど、そっちがマジョリティーなんだよ。ひどいのになると、「そんなのはへんだから、嘘だ」と言ってくる。こんなやつら……。ああっ、こういうやつらも、生きがたさをつくりだしているよ。きちがい家族にやられるとこういうことになってしまう。けど、殺さなければ、きちがい家族はやめない。きちがい的な感覚があるからだ。悪いと思ってないのである。殺さなければ、きちがいかぞくはやめないということも、ほかの人にはわからない。普通の人にはわからないことだ。わからないで当然だ。きちがい家族と一緒に住んだことがないのだからわからない。そして、これが問題なんだけど、きちがい兄貴もまったくわかってないのだ。この「わからなさ」というのが、天を突き抜けている。これがどういう、障害をつくりだすか、まるでわかってないな。障害というのは、ぼくの人生における障害だ。ぼくから見て、人づきあいにおける障害だ。兄貴と、普通の人は、兄貴のきちがい行為がどういう感覚でおこなわれているのかまったくわかってないので、ぼくのほうに、生きがたさがつもるのである。ぼくがへんな人になってしまうのである。ぼくが、ろくでもないい、いわけをしている人になってしまうのである。あの状態だ、全力でやっても、いろいろなところに、きちがい騒音の結果がでる。どーーしても、でる。その必然性が、わかってない人ばかりだ。普通の人と、きちがい兄貴は、まったくわかってない。きちがい兄貴に関しては、自分のことなのにわかってないというのがおかしい。これがブラックホールになってしまう。よく知らない人は、「やっているか」「やっていないか」に関して、常識的に考えるから「やってない」と思うのである。で、きちがい兄貴も、きちがい的な意地でやっているのに、「やってない」と思うのである。これは、きちがいだから、認知機能がそのままぬけおちていて、認知しない。だから、こっちがどれだけ言っても、きちがい兄貴はきちがい兄貴のままだから、わからないままなのである。で、普通の人は、「自分でやっているのにわからない」というのは、おかしいと感じるのである。ようするに、普通の人と、きちがい兄貴は「やってない」と思っていて、ぼくが「きちがい兄貴がやった」と思っている状態が成り立ってしまうのである。普通の人は実際にはやられてないので、やられたときに起こるいろいろなことについて、まったくわかってない。無視してしまう。「俺だって苦労した」と言えば、それで、おなじ苦労をしたことになってしまうのである。「わたしだってつらい思いをした」と言えば、それで、おなじつらい思いをしたということになってしまうのである。けど、きちがい兄貴がもたらす、きちがい的な騒音に関しては、経験してないのである。経験していたら、そんなことは言わない。経験してない人が言う「いろいろなこと」を、全部、言わない。言えなくなる。これ、経験してない人は、むしろ、経験してないから、「いろいろなこと」が言える。その「いろいろなこと」の前提には、「自分なら平気だ」「自分なら影響をうけない」という前提がある。実際に、経験したら、「自分なら平気だ」「自分なら影響をうけない」と言えなくなるのである。だから、普通の人が言う「いろいろなこと」が言えなくなる。

2024年10月28日月曜日

自分がなにをやったのかわかってないということまで含めて、そっくりだよ

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音だけど、「ただ単にうるさかった」ということではないのだ。そんなことではない。けど、ぼくの話を聴いた、うちの兄貴によるきちがいヘビメタ騒音にさらされない人は、「うるさかったんだな」と思ってしまう。これは、「ただ単にうるさかったことだな」と思ったということだ。でっ、ぼくがどれだけ、なにを説明しても、その人にとっては……そういうふうに思った人にとっては……うちの兄貴によるきちがいヘビメタ騒音というのは、「ただ単にうるさいだけの騒音」なのである。どれだけ「ちがう」と言ったって、そんなのは、そういう人たちに、つうじない。こういうふうに、普通の人たちは、うちの兄貴によるヘビメタ騒音を過小評価したり、無視したりする。ほんとーーに、ちがうんだよ。単なる騒音じゃない。実際に経験してみればわかる。実際に、あの騒音にさらされて、生活してみればわかる。生活ぜんぶにかかわる、重要な出来事だ。何度も言うけど、高熱が出る風邪をひいたような状態で、暮らしていた。ひどい病気になって、頭がまわらないとか、からだがだるいとかという状態とおなじなのである。そして、睡眠が、めちゃくちゃになる。長い期間、睡眠が(毎日)不可避的にめちゃくちゃになるということが、どういうことなのか、みんなわかってない。しかも、睡眠だけではないのである。総合的な病気のようなものなんだよね。あいつは、知らんぷりで、まったく関係がない人としてずっと鳴らしていたわけだけど、あいつが、張本人で、あいつが、こだわってこだわってこだわって、絶対にゆずらないで鳴らしてたんだ。この、張本人が、まったくわかってないという状態が、普通の人にはわからない。俺だって、いろいろと言葉を尽くして説明してきたけど、あの「兄貴の態度」は説明しがたいものがある。そして、きちがい兄貴が、ほんとうにまったくつもりがないし、ほんとうにまったく気がつかないのである。自分が、意地になって鳴らしているということに、気がつかない。普通は、「文句を言われれば」文句を言われたということがわかるのだけど、日本語を理解する前にはねのけて、「文句を言われた」ということが、わからない状態で暮らしている。文句を言われたときの態度というのは、まあ、顔を真っ赤にして、発狂した状態だ。発狂してはねのけると、文句を言われなかったことになってしまうのだ。そういう……総合的な態度がある。相手がいやがることをやったのだけど、相手がいやがることを(自分がやった)ということが、わからないのだ。だれだけ、しつこく、毎日やっても、まったくまったく、わからない。どれだけ、しつこく「やめろ」と文句を言われても、まったくまったくわからない。「やめろ」と言われたとき、どういう気持になるかというと、怒り狂った気持ちになるのである。そして、日本語を理解するまえに、はねのけてしまう。日本語で言われた内容がわからないまま、「はねのける」ことに成功している。だから、日本語で言われた内容がわからないまま、なのだ。「なにか不愉快なことを言われた」という感覚が、発狂的な怒りになって爆発して、「なにか不愉快なことを言われた」というような感覚しか残らない。そして、そのあとやれなくなるのであれば、この感覚も(きちがいどもによって)認識されるのだけど、はねのけて、やりきるから、この感覚も認識されない。自分が、やれなくなって、こまった状態にならないと、猛烈に腹がったという感覚が認識されないままになっている。そうとしか思えない状態なんだよ。合理的に、きちがい兄貴の態度を説明しようとすると、そうなる。あれだけ、怒り狂っていなら、自分が腹をたてたということや、必死になってはねのけたということがわかりそうなものなのだけど、それがまた、ぬけているのである。認識されてない。きちがい兄貴自身のことなのに、きちがい兄貴が認識してない。

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ちなみに、親父もおなじだ。これ、ほんとうに、そっくりなのである。もちろん、自分がなにをやったのかわかってないということまで含めて、そっくりだよ。 

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きちがいヘビメタ騒音は、広範な範囲に被害をもたらす「総合的な病気」のようなものなのに、みんな「単なる騒音」だと思っている。どれだけ、からだがだるくなるかわかってないなぁ。ボロボロになって、意欲もなにもかも、めちゃくちゃにされる。あんな状態で、いいわけがないだろ。あんな状態で、普通に風呂に入れるわけがないだろ。あんな状態で、普通に飯が食えるわけがないだろ。あんな状態で、普通に眠れるわけがないだろ。「早めに寝て、起きてから、しずかなときに勉強すればいいんだ」というようなことを言った人がいるのだけど、それだって、実際にはできない。できないことなんだよ。どれだけトライしても、ダメなんだよ。けど、「早めに寝て、起きてから、しずかなときに勉強すればいいんだ」と言った人は「できない」ということを認めない。こまっているのは俺だからなぁ。相手はこまっている人に助言をしてやったということになっている。

こういうのも、何千、何万、何十万とつみかさなると、不愉快なものになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっているときの頑固さと、やったということを認めないときの頑固さがおなじ。

  さてと、どうするかな? 片づけることが、しんどい。相当にしんどい。だいたい、ダニが問題なんだよなぁ。きちがい親父がネズミを入れなければ、こういうダニはいなかったはずなんだよな。普通の状態であれば、粗大ごみ屋さんを呼ぶのも簡単だったし、片付けるのも簡単だ。ダニと、ネズミの糞で、大問題になる。

ほんとうに、きちがい親父がやりそうなことなんだよな。最後に、きちがい的な意地で、ネズミの糞を置いていった。 

やるまで、予想はできないけど、きちがい的な意地で、くさいものを置いて、ネズミを呼び込むというのが、まず親父がやりそうなことなんだよね。だいたい、そのまえに、俺が反対したのに、なまゴミを物置のほうに毎日うつすという、意味がないことをしていたのである。でっ、物置にネズミがくるようになった。そのときは、家には入ってこなかったから、かかわらないようにしていたのだけど、あれが導火線になっている。まず、ネズミを物置にさそいこんで、次に、家のなかにずっと、魚の粕漬をおくことによって、言えに、ネズミを誘い込んだ。普通なら、ネズミの糞が増えれば、どうにかしようと思うのはずなのに、思わないんだよな。こういうのも、言ってみれば、予想外の反応だ。でっ、「俺がネズミを(ネズミシートで)つかまえるからいい」と親父が言いはった。どれだけ、ネズミの侵入を食い止めないとだめだということを、言っても、聞かないんだよ。これも、親父がやりそうなことだ。全部、親父がやりそうなことなんだよな。そして、「魚の粕漬を一日に二三時間ぐらい、テーブルの上に置いていた」「それを、二カ月以上、毎日繰り返していた」ということを、俺が言うと、親父が「やってないよ!!!やってないよ!!」とキレて絶叫するのだ。これも、親父がやりそうなことなんだよな。こういう意地で、じつは、テーブルの上に魚の粕漬を出しっぱなしにしたのである。「テーブルの上に魚を出しっぱなしにするな」と俺が言ったって、きちがい親父が、頑固に、テーブルの上に置いておくということをやめないのである。こういうときの頑固さが、きちがい的に絶叫して認めないときの頑固さとおなじなんだよ。ちなみに、きちがい兄貴のヘビメタも、これとおなじだ。まったくおなじ。こいつら、ほんとうに、きちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことになっているんだよな。認めるということが、都合の悪いことになった時点で、「やってないやってない」と発狂して認めない。その頑固さがおなじなんだよ。やっているときの頑固さと、やったということを認めないときの頑固さがおなじ。

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「こまるからやめてくれ」と言われたときの反応が、きちがいなのである。普通の人と、ぜんぜんちがう反応がかえってくるのである。親父も兄貴もおなじ。「こまるからやめてくれ」なんて言われたら、エンジンがかかって、顔を真っ赤にしてやりきる。あれ、やったことになってないんだよ。こんなの、くるっている。きちがい以外のなにものでもない。けど、そういうことをやられて、そういう反応でこまっている俺のほうが、ほかの人から「へんだ」と言われてしまうのだ。こまるんだよ。「そんなのは、へんだ」「ちゃんと言えば、わかってくれる」……こういうことを言う、一般人がいっぱいいる。いた。こまるんだよ。一般人の反応も反応で、こまるんだよ。「うち」じゃ、きちがい親父ときちがい兄貴が、一般人が信じられないような反応をかえしてくる。現実の場面を一般人は見たことがないので、わからない。どういう意地で、きちがい行為をしているのか、一般人はわからない。「うち」のきちがいが、どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をしているのか、一般人は、見たことがないからわからない。うちのなかでしかしてないことだからな。これも、なんか、きちがい親父ときちがい兄貴にとってだけ、都合がいいことなんだよなぁ。こっちにとって、ものすごく、都合が悪いことだ。

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どんだけ、きちがい兄貴ときちがい親父がやることで、俺がはじをかいたと思っているんだよ? どれだけ……。

これも、きちがい家族といっしょに暮らしている人しかわからない。きちがい家族がどういうことをもたらすのか、普通の人はまったくわかってない。普通の人だって、まったくわかってないということがわかってないというようなところがある。 

『そんなに大きな音で鳴らしているのに、親が注意しないのはおかしい(だから、エイリさんが嘘をついている』とごく自然に思ってしまう。……一般人は、そう思ってしまう。「お兄さんと相談すればいい」「家族で相談すればいい」と、一般人は、ごく自然に思ってしまう。それが、どれだけ無理なことかわかってない。

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きちがい兄貴は、きちがい兄貴がやったことで、俺がどれだけこまっていても、知らんぷりだよ。この知らんぷりというのが、また、普通の人の知らんぷりとはちがうんだよ。きちがいの知らんぷりなんだよ。

きちがい親父は、きちがい親父がやったことで、俺がどれだけこまっていても、知らんぷりだよ。この知らんぷりというのが、また、普通の人の知らんぷりとはちがうんだよ。きちがいの知らんぷりなんだよ。

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きちがい兄貴のなかでやってないことになっているみたいなのである。あんなに意地をはってやったことが、やってないことになっているのである。やっているときから、どれだけ文句を言われても、相手がこまっているということがわからないから、こまらせているつもりがまったくしょうじない。普通なら、絶対にわかることなんだよ。言っているわけだからさぁ。ところが、どれだけ言われたって、わからないんだよ。このわからないというのは、日本語がわかるから、日本語の文を理解したけど、いうことを聞いてやめるつもりがないからわからないふりをしているということではないんだ。ここでも、ほんとうに、くるっている。 

親父も兄貴とまったくおなじ。これ、無視しているとき起こっていることが、普通の人とはちがうのである。けど、そんなのは、普通の人がわかるはずがない。普通の人は、こういうことに関しても、かならず、誤解をする。曲解をする。普通の人は、きちがい兄貴やきちがい親父のような人と、いっしょに住んだことがないので、わからない。根本的にわからない。

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ぼくの話を聞いて「そんなのはおかしい」と思う人たちのほうが、まあ、正常なんだよ。ヘビメタ騒音の話だって、いろいろと「おかしいところか」がある。けど、事実なんだよ。悲しいけど、事実だ。必然的に、俺が誤解をされる。普通の人から、俺が誤解をされる。俺が誤解をうける。これついて、普通の人に説明したって、こんどは、普通の人が認めないということになる。「そんなのはおかしい」と言って、認めないのである。

2024年10月27日日曜日

その解釈というのは、そいつにとって正しい解釈なのである

 きちがい家族にやられたことというのは、きちがい家族にやられたことがないやつが絶対に理解できないことなのである。かならず、曲解する。事実はちがう解釈をでっちあげて、解釈する。そして、その解釈というのは、そいつにとって正しい解釈なのである。だから、きちがい家族にやられたやつらは、きちがい家族にやられてないやつらからも、やられるということになる。そりゃ、まちがった解釈は攻撃だ。頭がおかしいことを言ってくるやつといっしょにいるようなものだ。こいつらは、きちがい家族とはちがう。普通の人だ。だからこそ、きちがい家族が家でなにをするのか、まったくわかってない。きちがい家族の影響がまったくわかってない。普通の家族の影響だと思っている。ぜんぜん、ちがう。

自分の!!普段の生活においては、「過去は関係がある」と思って生きているのである

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんにとって、Bさんの身に起こった出来事と言うのは、Aさんにとっては、関係がないことだ。

Bさんの身に起こった出来事というのは、Bさんにとって、関係があることだ。Aさんが、Bさんの身に起こったことを、過小評価するのだ。

Bさんの身に起こった過去の出来事は、Bさんの今現在の状態に影響をあたえないと勝手に判断して、そのように言っているのだ。

さらに、「過去は関係がない」という言葉は、じつは、抽象度が高い言葉であって、集合的な範囲がひろい。これがまったくわかってないんだよな。どうして、Aさんが、抽象度の高いことを言ってしまうかというと、自分に関係がないからだ。自分は影響をうけてないからだ。

Bさんは影響をうけているけど、Bさんの身に起こった過去の出来事は、Aさんに影響をあたえてない。その場合、「自分」を中心にして考えると、「過去は関係がない」と言いたくなる気持ちになるのだ。

自分自身の出来事に関しては、自分自身の出来事なので、過去の出来事が、いまの自分自身に、どういう影響をあたえているか、理解している。

けど、それは、自分自身の出来事だからだ。ほかの人の出来事は、自分自身の出来事ではないから「関係がない」。「関係がない」ので、「過去は関係がない」と言ってしまう。

Bさんの過去の出来事は、今現在のAさんに、影響をあたえていないのである。

だから、Aさんにとっては、「関係がない出来事なので」……「過去は関係がない」と言ってしまう。Aさんにとって、Bさんの過去が関係がないということと、Bさんにとって、Bさんの過去が関係がないということが、なんとなく、おなじことのように感じてしまうのだ。

ここらへんは、想像力のなさが影響している。他人の立場になって考えることがへたくそなので、自分に関係がなければ、相手にとっても関係がないことだと、考えてしまう傾向が強いのである。

「苦労」とおなじように、「過去」というのは、抽象度が非常に高い言葉なんだよ。「困難」とおなじように「過去の出来事」というのは、抽象度が非常に高い言葉なんだよ。

そうなると、集合としては、かなり多くのものを含むようになる。

集合の範囲がでかいのである。

これがわかってないんだよな。抽象化した時点で、Bさんにおける過去の出来事が、どういうふうにBさんに影響をあたえているのかということが、関係がないことになってしまうのである。

あたかも、Bさんの過去の出来事が、Bさんの現在の状態に影響をあたえていないような気持ちになってしまうのである。

ようするに、自己中心性が強いので、影響のでかさを、あんまりうまく考えることができないのである。自分にとって関係がないということと、相手にとって関係がないということが、ある程度だけど、一致してしまうのである。

「過去」という抽象度が高い言葉を使ったとき、抽象度の高さから、Bさんの現実的な意味が抜け落ちてしまうのである。言っておくけど、Aさんにおける、Bさんの現実的な意味だ。Bさんにおける、Bさんの現実的な意味ではない。

現実的な意味というのは、過去の出来事が、現在のBさんの状態に影響をあたえているということがもつ意味のことだ。

もちろん、Bさんにおける意味だ。Aさんは、Bさんにおける意味を、抽象度が高い言葉を使ったときに、捨象してしまう。切り捨てて、無視してしまう。

けど、Aさんにとって、Aさんの過去の出来事は、普通に、意味をもつものなのである。影響力について、具体的に考えることができることなのである。

だから、自分の!!普段の生活においては、「過去は関係がある」と思って生きているのである。

病気になったという過去の出来事を否定すれば、病気がなおるのか?

「過去は関係がない」と言うやつらがいる。

こいつらは、普段、過去を気にして、過去の記憶を頼りにして暮らしている。

「過去は関係がない」と言ったやつが、なんかの病気になったとする。まあ、手術をして生きのこったとする。

けど、後遺症が残ったとする。

「過去は関係がない」のだろうか?

なんかの病気になったのだって、拡大して見れば、分子レベルの移動や変化があったから、なんかの病気になったのだ。分子レベルの移動や変化が発生したという過去の出来事は、関係がないのか?

「過去は関係がない」と言えば、後遺症がなおるのか?

後遺症が残った結果、できないことが発生したとする。そのできないことは、「過去」を否定すれば、できるようになるのか?

「過去」を否定したってできるようにはならない。

「過去の出来事の結果」できなくなったのである。

練習をすれば、補える部分があるとする。これだって、「後遺症が残った」という過去の出来事が関係している。練習をしても、おぎなえない部分があるとする。「過去は関係がない」と言って、過去を否定すれば、できるようになるのか?

そんなことはない。

ほかの病気でもいい。

病気になったという過去の出来事を否定すれば、病気がなおるのか?

「過去は関係がない」と言って、過去の出来事を否定すれば、病気になるまえの状態にもどるのか?

こいつらは、自分ことに関しては、「これこれだから、これができなくなった」というようなことを言うのだ。「階段から落ちて、けがをした」というようなことを言うのだ。

過去の記憶があり、過去の出来事が影響をあたえていると認識しているから、そういう発言をする。

自分がやっていることがわかってない。普段、自分がどういうふうに生活しているのか、まったくわかってないのだ。

「過去は関係がない」なんて、口がさけても言えないような生活をしている。

こういうところも、なんか、兄貴に似ているんだよな。自覚がないんだよなぁ。自覚がまったくない。クチからでまかせばっかり……。

自分の普段の行動を否定することを、言って、まるで気にしない。

なんかの病気になって、その結果、なにかができなくなったとする。時系列的にはなんかの病気になったということがさきだ。つまり、現時点においては、なんかの病気になったということは、過去の出来事なのである。

現在、なにかができなくなったのは、過去の時点においてなんかの病気になったからだ。過去は関係がある。過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえている。

「過去は関係がない」と言えば、過去の出来事からフリーになって、なにかができないという現在の状態がかわるのかといえば、かわらない。「過去は関係がない」と言ったって、現在の状態は、かわらない。

現在の状態がかわるには、現在の状態をかえるようななにかが発生しなければならないのである。そして、未来のある時点から考えれば、現在の状態をかえるようななにかが発生したということは、過去の出来事なのである。


2024年10月26日土曜日

毎日の生活に与える影響がわかってない

 バイトをしたときだって、「これはもう、死ぬしかない」「これはもう、自殺するしかない」という気持になった。これは、ヘビメタ騒音でそういう気持になっているのである。睡眠回路が破壊されて、どうしても、決まった時間に起きることができないのである。だから、時たまであれば、もう、眠ることをあきらめて、起きたまま、行ったということが、何回もある。けど、それは、からだに負担がかかることなんだよ。じゃあ、帰ってくれば眠れるのかというと、そうではないのだ。つかれているから、すぐに眠れると思うかもしれないけど、ぜんぜんちがう。つかれていても眠れない状態で時間がすぎていく。どれだけつらいと思っているんだ。次の日だって、仕事がある。バイトがある。そういうことを言うと、一週間に三回、一日おきに働けばいいというようなことを言う人がいるけど、それでは、おなじことなるんだよ。まったくわかってないなぁ。ともかく、きちがいヘビメタ騒音で、睡眠回路が完全に破壊された。破壊されるまで、俺は、七年間毎日、がんばり続けてきたんだ。眠れない状態で学校に行って帰ってきて、ヘビメタ騒音にさらされて……何時間も何時間もさらされて……つかれているのに、眠れないという状態で起きていた。そして、きちがい蛇目騒音が鳴り終わったあとも、つかれているのに、眠れないという状態だったのだ。だから、前の日とおなじなのである。これが、どれだけつらいか、同等の騒音を経験した人しかわからない。おなじレベルの騒音を、おなじ期間の長さ、毎日、経験した人じゃないとわからない。みんな、軽く考える。きちがいがいないから……家族に気ちがいがいないから、きちがいが本気で、こだわってこだわってこだわってやる騒音がどういうものか、まったくわかってない。わかってないから、俺のからだの状態もわからないのに、「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、同等の騒音を同等の期間、経験したということにしてしまって、くそを言う。そいつらが、普通に通勤できているのであれば、それは、同等の騒音を経験してないということだ。同等の騒音を同等の期間、経験していれば、絶対にそんなことは言えなくなる。どうしてかというと、働けなくなるからだ。通勤して働けないからだになっている。だから、通勤して働ける体を維持しているという点から考えて、同等の騒音を同等の期間、経験してないと言える。けど、こいつらは、無職に対して偏見がある。ものすごく強烈で、ものすごく根が深い偏見だ。こいつらは、同等の経験がないから、きちがい家族が、しつこく鳴らす騒音の意味がわかってない。毎日の生活に与える影響がわかってない。だから、「理由がなんであれ、そのとしで、働いてないのはおかしい」と感じるわけなんだよ。「騒音ぐらいで働けなくなるわけがない」と思うわけだよ。なおさら、ヘビメタ騒音が終わった、二六歳以降に関しては、「過去のことは関係がない」とぼんくら野郎が言える状態になる。二五歳の、途中で、きちがいヘビメタ騒音から解放された。けど、おそいんだよね。小学六年、中学一年、中学二年、中学三年、高校一年、高校二年、高校三年のあしかけ七年間で、おしまいだよ。普通に通えるわけがない。死にものぐるいになって、無理をして無理をして、七年間通って、睡眠回路がこわれた。一日だけでおかしくなったのはなくて、七年間、かかっている。その七年間の重みがわかってないやつが、なにを言うのか?

こいつらが、病気になって働けなくなったとする。そうしたら、ぼくは、こいつらの枕元に行って、「人間は働くべきだ」「そんなことは関係がない」「そんなのは、あまえだ」「過去は関係がない」「できると言えばできる」と言ってやるのさ。言われたら、どう思うか? 言われたらどう思うか、経験すればわかるよ。

ほんとうに、毎日のきちがい家族騒音で、どんな生活になるか、まるでわかってないなぁ。「自分なら鳴ってたって平気だ」という前提で、クソを言うな。まちがった前提にたって、妄想的なことを言うな。

「家族の悪口を言うなんて、なんて悪いやつだ」と思うやつがいる

 ヘビメタ騒音で「通勤して」働けないからだになったということを言ったけど、それは、一日でできあがるようなものではないのである。当時、俺は、ちゃんと説明していたのである。きちがいではないけど、バカである、俺と同等の経験がない人たちが、「無職だ」ということで、俺を軽蔑したのである。当時の無職というのは、いまの無職とはちがう。ほんとうに、軽蔑してしかるべき存在だったのである。「アルバイト以外で働いたことがない」と三〇歳の人間が言えば、めちゃくちゃに、バカにされた。なんか、俺が悪いことをしたような反応なのである。俺が犯罪者であるかのような反応なのである。「そんなのはおかしい」と一瞬で思って、あとは、「こいつは、気持ち悪い」というような反応もあった。「そんなのはおかしい」と相手が思ったと俺が思っただけではなくて、ちゃんと相手は、そういうふうに、言ったんだよ。「そんなのはおかしい」「そんなのは、異常だ」と言って、完全に犯罪者扱いだったんだよ。アンタッチャブルでもある。だから、「そんなのはおかしい」「こんなやつとかかわるのはいやだ」と思ったやつは、裏にまわって、俺がいないのところで、「あの年で働いたことがないなんておかしいよなぁ」ということを言っていたのである。そういう人間が複数いれば、そいつらが、裏で、俺の悪口を言って盛り上がっていたのである。複数いる状態がしょうじるのは、俺が、正直に、無職だということを、言ったからである。正直ないい人なのである。えーっと、これ、ほんとうに、当事者じゃないとなかなかわからないことなのだけど、「自己紹介」で、自分をどういうふうに言うかというのがものすごく問題なのである。これ、つきあいが、ある程度継続しそうな場合であって、嘘をついても、ばれるか、あるいは、嘘をついてつきあうのがくるしい状態になりそうな場合は、俺は、正直に、自己紹介の場面で、無職だということを言っていたわけ。もちろん、ヘビメタ騒音のことは、過不足なく、つたえた。けど、もちろん、時間制限がある。ここで書いているような深い話をするわけにはいかない。そして、たとえば、ここで「きちがい兄貴」と書いているけど、自分の家族のことを「きちがい」と修飾して、言うやつに対する、嫌悪感というものも、普通の人は……普通の家族のなかで育った人は感じるようだ。「きちがい親父」とか「きちがい兄貴」とかということを言えば、「自分の家族のことをそんなふうに言って(ひどいやつだ)」と感じるやつがいたわけだよ。ほんとうに、「きちがい」とつけないと、説明ができない部分がある。「きちがい」とつけないで、説明をすると、「矛盾がある」「おかしい」と感じるのである。これは、話を聴いた人だけではなくて、言っている人間だってそう思うのだ。きちがいという言葉をつけないで、説明すると、おかしなことを言っているような感じになってくる。矛盾があることを言っているような感じになってくる。「きちがい」でなければ、やらないことを、きちがい兄貴やきちがい親父が、毎日のようにしてきたんだよ。ぜんぜんちがうんだよ。普通の人のうちとは、ぜんぜんちがうんだよ。「親の悪口を言うんなんて、なんてひどいやつだ」と思うやつがいる。兄貴のことに関しては「家族の悪口を言うなんて、なんて悪いやつだ」と思うやつがいる。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らし続けなかったらこんなことになってない。きちがい親父が、家にいれば、四六時中、きちがい行為をしていなければこんなことになってない。

2024年10月25日金曜日

これは、こいつらの頭のなかでおこなわれる自動変換だ

こんなやつらといっしょにいて、おもしろいわけがない。無価値。マイナス。マイナスの時間だ。マイナスの体験だ。マイナスでしかない。俺が、ヘビメタ騒音について説明したのに、ヘビメタ騒音の影響をガン無視して「人間は働くべきだ」と言ってくるやつは、くず。頭がわるい。バカの壁を感じる。こいつらはこいつらで、どれだけ説明したって、理解しない。そもそも、こいつらは、きちがい家族といっしょに住んでいないので、きちがい家族にやられるということがない。ようするに、きちがい家族にやられた経験がない。ところが、「俺だって苦労した」と「苦労」を一般化、均質化、同質化してしまえば、おなじことを経験したことがあるということになってしまうのだ。これは、こいつらの頭のなかでおこなわれる自動変換だ。そして、この考えを放棄することが、ほとんどない。こいつらが、この考えを放棄して、ぼくが言っていることを理解する確率はおおく見積っても、〇・〇〇〇〇〇〇〇一%ぐらいだ。過去において、理解してくれた人が、ひとりもいない。ぼくの経験の範囲で言えば、こういうことを言ってきたやつが、理解してくれたことが、一度もない。こいつらだって、自分の考えを否定されれば、機嫌が悪くなる。たとえるなら、言霊主義者が言霊理論を否定されたときのような気分になる。これまた、ぼくの経験の範囲なのだけど、言霊主義者が言霊理論を否定されて、理解してくれたことが一度もない。ぼくが言っていることを(言霊主義者が)理解してくれたことが、一度もない。

ともかく、ヘビメタ騒音の話をしたあとに「人間は働くべきだ」とか「できると言えばできる」とかと言ってきたやつらと、二度と会いたくない。こいつらといっしょにいる時間は、むだ。有害。

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きちがい兄貴がやったことが、非常識なことだから、こういう誤解がうまれる。普通の人は、きちがい家族と一緒に住んだことがないので、わからない。けど、普通の人だって、当然、苦労はしている。「騒音」がいやだなと感じたことがある。けど、それは、ちがうんだよ。けど、経験がない人に、どれだけ「ちがうんだ」と言っても、相手(経験がない人)は理解してくれない。誤解回路が発動するので、理解してないということも、理解してくれない。こいつらは、こいつらで、自信満々なんだよ。
 

 

こいつらも、こいつらで、案外、頑固に認めない

 きちがい兄貴の態度について、わかっているやつらがいない。きちがい兄貴の脳みそについて、わかっているやつらがいない。普通の人たちが、普通の兄だと思ってしまう。ところが、ちがうんだよ。きちがいとしか言いようがない態度で、きちがい的な意地で、鳴らす。そして、きちがい的な感覚で、あたかも鳴らしたことがないような態度で、生活をしている。みんな、ほんとうにわかってない。

長く続くということに関しても、まるでわかってない。そりゃ、きちがい的な兄貴がいないうちでは、そんなに長く続く騒音なんてないからだ。わかってないから、からだにおける影響も、精神面における影響もわかってない。そして、それが、つみあがってしまった場合おける、履歴の影響がわかってない。からだに影響をうけて、精神面で影響をうけて暮らしているのだから、不愉快な出来事がいっぱいしょうじるのである。だいたい、きちがい兄貴が……つまり、きちがい的な家族が……よそじゃ鳴らしてないような音で、ガンガン、何時間も何時間も鳴らし続けるということ自体が、不愉快な出来事なんだよ。けど、この出発点となる、不愉快な出来事は、そこで終わるわけではない。その日、鳴り終わったら、それで、不愉快な出来事が終わるわけではないのだ。その日、それまでに聞かされた騒音の影響で、眠れなくなる。鳴り終わったあとも、風邪をひいて熱が出たときのように、くるしい。けっきょく、くるしいまま、つかれているのに、眠れないということになる。そして、この出来事が、また、不愉快な出来事を引き起こすのである。どれだけがんばって、学校に行ったとしても、学校で、「昨日、ヘビメタが鳴っていたからしょうじる不愉快なこと」が発生するのである。そりゃ、前日、ヘビメタ騒音が鳴っていて、眠れなかったから、元気が出ないわけで、元気が出ないのに、無理やり気をはって学校で事業をうけるということがつらいことなのである。それは、ヘビメタ騒音が鳴ってないときとは、ぜんぜんちがうつらさなのである。ヘビメタ騒音が鳴ってないときは、つまらない授業でもただ単に、つまらないだけで、そんなにつらい授業ではないけど、ヘビメタ騒音で、睡眠がじゅうぶんでない場合は、つまらない授業ではなくて、つらい事業になるのである。前日、ヘビメタ騒音を浴びせられて……何時間も何時間も浴びせられれば、かりに、睡眠がうまくいった場合だって、影響がある。その日、前日のヘビメタ騒音の影響があらわれる。あんな、高ストレス状態で何時間も生きていて……生きるという活動を続けていて……次の日に影響がないわけがない。それは、睡眠ということをぬかして考えても、そうなのである。睡眠がかかわれば、もっと、影響をうけることになる。そして、ヘビメタ騒音の影響が睡眠にあらわれないということはない。どれだけ、努力をして、影響をうけないようにしても、影響があらわれる。不可避的にあらわれる。こういう思いをしたことがないやつが、「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。ほんとうに、「ふざけんな」と言いたくなる。けど、そこで、ぼくが「ふざけんな」と言ったら、どうなるか? 相手は、おこってくるのである。自分がまちがったことを言ったとは思わないのである。自分は正しいことを言ったと思ったままなのである。何度も言うけど、この態度は、きちがい兄貴やきちがい親父の態度と、寸分、似ている。仕組みはちがう。きちがい兄貴ときちがい親父の感覚は、特殊すぎる。普通の人と、きちがい兄貴は、その感覚においては、似ていない。けど、俺が言ったことを認めるかどうかということだけに着目すると、俺が言ったことを認めないという点で、だいたい、おなじなのである。こいつらも、こいつらで、案外、頑固に認めない。「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」という自分の意見に固着して、「関係がある」「影響がある」という俺の意見は、認めないのである。俺が説明したあとも、頑固な言霊主義者のように、認めない。

2024年10月24日木曜日

わかってないやつに、わかったようなことを言われる人生だったなぁ

わかってないやつに、わかったようなことを言われる人生だったなぁ。これが、生きにくさの一部分を形成している。

けど、「人間は働くべきだ」と言ってきたやつが「生きがたさについて考えよう」なんて言うのだ。

おまえが、つくっているんだよ。

ああっ。言いなおす、おまえがつくっている部分もある。

「人間は働くべきだ」というのは、「人間は働くべきだから、エイリさんも働くべきだ」「(エイリさんが)働かないなんて言うのは、ゆるさない」という意見なのだ。

けど、俺は、こういう人にも、ちゃんとヘビメタ騒音のことを説明した。

そして、「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、働けない」ということを言った。

そうすると、こういうやつらは、ヘビメタ騒音の影響を無視して、「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、働けないということはない」ということを言い出すのだ。こんなの、ケンカを売っている行為にひとしい。

けど、こういうやつらは、ほんとうに頭がわるいので、ケンカを売っているような行為だとは思ってないのである。

そうではなくて、「自分は正しいことを言った」「自分は、いい助言をした」と思っている。

こいつらが、俺の説明を聞いて、たしかに、「ヘビメタ騒音は、働けなくなるような騒音だ」ということを認めるということは、ないんだよ。

ヘビメタ騒音というのは、すべてのヘビメタ騒音のことを言っているのではなくて、もちろん、きちがい兄貴が、うちで鳴らしたヘビメタ騒音のことなのである。

ようするに、きちがいヘビメタ騒音に俺がさらされたぶん、(自分が)さらされても、働けるという認識をもっているわけ。

で、これは、経験がないからわかってないだけのことなんだよ。

こいつらだって、俺とおなじ年齢から、俺とおなじ期間、自分が一番きらいな音という意味で、ヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けたら、働けなくなる。

けど、そいつらは、基本的に、おろかなので、それがわからない。

想像力でおぎなうということができない。相手の立場になって考える場合の、想像力がとてもとても、低い。とてもとても、低いレベルの想像力しかないので、わからないままの状態にとどまる。だから、本人は、考えたつもりでも、考えてないような状態が続く。

ともかく、『ヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けても、自分なら働ける』という前提でものを言ったやつのことは、ゆるさない。いまでも、当時のことを思い出すと、ほんとうに、腹がたつ。ゆるしがたい。ゆるせない。

 ちなみに、ここでいう「働く」というのは、「通勤して働く」ということだ。こいつら、ほんとうに、「七年間の学校生活」で、睡眠回路が破壊されるということがまったくわかってないな。

普通に働く体力が、破壊されるというとがまったくわかってないなぁ。

きちがいヘビメタがはじまってからの学校生活というのは、めちゃくちゃにつらいものだった。あんなことを、やられて、睡眠回路が破壊されないわけがない。

一日が、どれだけつらいものになるか、こいつらはわかってない。

わかってないのに、えらそうなことを言う。

いや、わかってないから、えらそうなことを言う。

自分だって、ほんとうに、自分がきらいな音で、おなじ騒音にさらされ続けたら、通勤して働くことができなくなるのに、それがまったくわかってない。

実際には、人生のなかでそういうことが、発生しなのかったのである。そういうことが発生しなかったのは、そいつらが俺よりすぐれているからかというと、そうではない。きちがい行為をきちがい感覚でやり続ける、きちがい的な家族がいなかっただけだ。

いなかったから、きちがい家族が、血相を変えて、こだわってこだわってやることを、経験してない。

きちがい家族なので、どれだけ言っても、まったく通じない。きちがい感覚で乗り越えて、自分がやりたいことは、一〇〇%やってしまう。一〇〇%やっているのに、「ゆずってやった」と本気で思っているきちがいだ。

こんなの、きちがいでしかない。こんなの、きちがい以外にできないことだ。

きちがい感覚が前面に出て、きちがい的な感情にかられて、「ゆずってやらなかった」のである。たとえば、一日に一三(じゅうさん)時間、鳴らすとして、一日に一三時間、全部、きちがい的な音でならしているにもかかわらず……つまり、よそでは絶対に鳴らせないようなでかい音でずっと鳴らしているのにもかかわらず「ゆずってやった」と本気で思っているのである。

一日に一三時間、とてつもなくでかい音で鳴らしているのに「ずってやった」と本気で思っているような状態なのである。きちがい感覚が成り立っているので、そうなる。

無意識的なレベルで、感覚器を遮断して、でかい音で鳴らしているに普通の音で鳴らしていると思っているところで発揮される……きちがい感覚と……一日に一三時間ずっとでかい音で鳴らしているのに、「ゆずってやった」思うことができるきちがい感覚……は、ちがう。

けど、でどころは、おなじような感じがする。ともかく、このふたつは隣接領域の「きちがい感覚」だ。きちがい兄貴の頭のなかで、ほぼおなじところから出てくるふたつの感覚だ。

*     *     *

きちがい家族が、きちがい感覚で、ずっと鳴らしているような状態だと、ぼくが、必然的に、ほかのやつから、バカにされるのである。きちがいヘビメタ騒音で能力がさがり、きちがいヘビメタ騒音で障害が発生しているのに、ほかのやつらは、そういうことを、一切合切、認めない。何度も言うけど「自分なら平気だ」と思っているのである。自分なら平気だと思っているので、能力がさがってしまうエイリさんは、ダメだということになってしまうのである。あまえているということになってしまうのである。自分なら平気だと思っているので、障害が発生してしまうエイリさんは、ダメだということになってしまうのである。あまえているということになってしまうのである。「そんなのは、あまえだ」ということになってしまうのである。言霊主義者なら、「できると言えばできる」と言ってしまうのである。努力論者なら、「努力をすれば成功する」と言ってしまうのである。こいつらは、自分の言っていることによっているけど、この発言は、相手のことをまったく考えてない、クソ発言だ。頭にきて、頭にきてしかたがない。けど、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったら、「そうですね」ですませることができたことだ。こいつらとだって、別に対立する必要がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こいつらのなかでは、

 

 

 

 

一時的に、「おなじだ」ということになってしまうのである

 ああっ。言いなおしておく。「経験がないからわからないだけだろ」と言いなおしておく。ほんとうに、こんな経験をしたやつが、ぼくのほかにはいないのである。

きちがい兄貴タイプのきちがいと一緒に住んでいた人は少ない。非常に少ない。

だから、たいていの人には、経験がないのだ。

だから、わからない。

実際にそういう生活を、二年、三年……一〇年と、繰り返してみないとわからないところがある。たとえば、一〇年と一日目の、つかれというのは、そのまえの一〇年間の、つかれがたまったつかれなんだよ。毎日、一〇年間、ほかの人が、経験してない、つかれを経験しているんだよ。どうしてかというと、きちがい兄貴が、いないからだ。ほかの人のうちには、きちがい兄貴がいないからだ。それから、きちがい親父もいないからだ。そりゃ、みんなのうちの父親だったら、長男がああいうことをしていれば、自然に注意をする。どうしても、「長男」はやれない状態になる。どれだけ鳴らしたくても鳴らせない状態になる。ところが、きちがい親父は、かげから支援してしまう。こんなのは、ない。普通の人にはいない人が、ふたりもそろっている。だったら、ちがうんだよ。だったら、普通の人は、そういう経験がないということになる。経験がないから、わからない。実際のところがわからない。「聞いただけの話」だから、わからない。そんな、体験談なんて聞いたって、実際に生活してみなければわからないことがたくさんある。だから、実際に一〇年間、きちがいヘビメタ騒音にさらされてない人に、一〇年目の、からだの状態なんて、どれだけ説明してもわからないということになる。だいたい、他人にとっては、関係がない話だ。まあ、関心があったとしても、ともかく、実際にやられた人と、実際にやられてない人とではちがう。実際にやられてない人だって、「俺だって、つかれたことはあった」「俺だってだるいことはあった」と言えば、きちがい家族による騒音相当の騒音を一〇年間、毎日、経験したからだで暮らしているということになってしまうのである。一時的に、「おなじだ」ということになってしまうのである。きちがい家族による騒音相当の騒音を一〇年間、毎日、経験した場合の「つかれ」や「だるさ」を知っているということになってしまうのである。けど、実際には、一〇年間、毎日、きちがい家族による騒音を聞かされたことがないので、わからない。一〇年目の、からだの状態、なんて、わかるわけがない。けど、「わかったことにして」いろいろなことを言ってくるのである。これだって、この世のいやなことの、ひとつだ。きちがい兄貴が、きちがい的なねばりで、鳴らし続けたからこうなっている。鳴らし続けなかったら……きちがい兄貴が普通のうちにいる普通の兄貴だったら、こんなことになってない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年10月23日水曜日

想像力がないから、わからないだけだろ。

 自分が、ほんとうに、小学六年生のころから、ずっと毎日、勉強の邪魔をされて、「過去は関係がない」なんて言えると思うのか? きちがい的に、現実がわかってない設定でものを考えている。

自分が、ほんとうに、小学六年生のころから、ずっと毎日、きちがい的な騒音を、でかい音で、隣の部屋で鳴らされて、ほんとうに、「鳴り終わったら関係がない」なんて言えるとおものか? ほんとうにまったく、想像力がないな。 

言えるわけがない。どうして、「影響がない」とか「関係がない」と言えるのか? 自分がほんとうに、自分のきらいな音を、横の部屋で、がんがん鳴らされて、普通に生活できると思っているのか? 平日、学校から帰ってきたあと、午後十一時十分まで鳴らされて、それで、午後十一時十一分に鳴ったら、鳴り終わったから関係がないと思って、眠れると思うのか? そんなことじゃないから、こまっている。おまえら、ほんとうに、想像力がなさすぎる。

これ、どの程度現実的に、相手の立場にたって考えることができるかということが、問われている。こいつらは、一時間ぐらい、ちょっとうるさい工事の音が鳴ってたときと、おなじような感覚でものを言っている。

こいつらはこいつらで、俺がどれだけ「ちがう」ということを説明しても、わかってくれない。自分が最初に考えたことに固着して、「自分は、平気だ」と思っている。「自分なら、影響をうけないで眠れる」と思っている。「自分なら、影響をうけないで勉強をすることができる」と思っている。

それが、浅はかな考えなんだよ。実際にやられてみれば、一カ月で、わかるよ。どれだけのことが、つみかさなるかわかる。想像力がないから、わからないだけだろ。わからないのと、できるというのは、ちがうんだよ。

たとえ、工事の音が一日に八時間ぐらい、一年にわたって鳴っていたとしても、それと、きちがい家族による超近距離の騒音はちがうんだよ。だいたい、工事の音は、工事という目的がある。その目的は、理解ができるものだ。

けど、きちがい兄貴の場合は、きちがい兄貴が、鳴らしたいから鳴らしているだけの音だ。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持たなければ、鳴ってない音なのである。

そして、きちがい兄貴が気ちがいでなければ、あんな音で、ずっと鳴らそうと思わない音なのである。非常識な音なのである。どこのうちでも、うち以外、鳴ってない音なのである。時間帯もちがうし、ぜんぜんちがう。

そして、けっきょく、足掛け一五年間にわたって鳴ったのだから、期間の長さが、ぜんぜんちがう。

きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持ったとしても、きちがい兄貴がきちがいではなくて、普通の音で鳴らしていたらちがうんだよ。きちがい兄貴が、めちゃくちゃにこだわって、自分が鳴らしたい音で鳴らしたから問題がしょうじる。自分が鳴らしたい音というのが、本人の耳が悪くなるぐらいにでかい音なのだ。頭がおかしいから、本人の耳が悪くなるようなでかい音を、普通の音だと「おもいこんでいる」。こういうところに、ズレがあるから、ぼくが自動的に、ほかの人から誤解をされる。そして、ほかの人には、きちがい家族がいないので、きちがい家族によって、そういうレベルの騒音に、ずっと長い期間さらされ続けるという経験がないのである。経験がないから、想像でものを言うことになる。しかし、想像力が低いので、まったくちがったことを考えてしまうのである。何度も言うけど、俺が説明したって、むだなんだよ。こいつらはこいつらで、最初の自分の意見に、こだわる。

いつもの、反応なのに、やったつもりがないのだ。これも、こまる。

 きちがい親父や、きちがい兄貴が起点であることは、ものすごく、いやなことが起こる。どんどん、いやなやつが集まってくる。ネズミ対策工事だって、特別養護老人ホームだって、悪いやつが出てくる。俺がやれと言ったことは、やらずに自分がやりたいことをやりはじめてしまう、ネズミ対策工事業者。歩行器詐欺を事務所全体でやる特別養護老人ホーム。中心となる人間は、それぞれに、ひとりだけど、こいつが、こまっている俺をさらに、こまらせるのである。もう、そういうやつばっかりだ。きちがい兄貴にやられて、「できなくなっている」のに、自分は、きちがい兄貴が出す騒音相当の騒音をやられても、平気だという前提で、ものを言ってくるやつら。だれだって、遅刻するようになるのに、自分はきちがい兄貴が出す騒音相当の騒音をやられても、遅刻をしないという前提で、ものを言ってくるやつら。だれだって、宿題ができくなるのに、きちがい兄貴が出す騒音相当の騒音をやられても、自分は宿題ぐらいできると思っている、やつら。全員、いやだ。こいつらのことは、ゆるさない。

特に、ネズミ関連は、いやなことばっかりなのである。きちがい親父が、一日に二十三時間、粕漬の魚を、テーブルの上にのせておくということに、こだわるから、そうなる。ほんとうに、一階の部屋が、全部、猛烈にくさくなっているのに、「くさいから、やめろ」と言うと、「くさいなよ!!!!くさいなよ!!!!くさいなよ!!!!」と発狂する。このやり方がおなじなんだよ。きちがい親父がやっていることというのは、全部、こういうことなんだよ。「やめてくれ」と言われた場合は、そうやって、臭覚が正常なら、絶対に否定できないことを、否定して、あれる。きちがい兄貴は、この聴覚版なんだよ。絶叫はしないけど、頭のなかで起こっていることはおなじなんだよ。聴覚が正常なら、絶対に、否定できないことを否定して、あれる。発狂的な意地でやり続ける。全部、おなじなんだよ。こっちがこまるということを、言っても、それは、一切合切、つたわらないんだよ。何万回言われても、きちがいの頭のなかでは、一回も言われたことになってないんだよ。これがまず、ブラックホールとしてある。よその人が、気がつかない部分としてある。だから、よその人は、「ちゃんと言えばわかってくれる」ということを言うのだけど、わからないから問題になっているんだよ。どれだけ言っても、きちがいでなければ、絶対にわかる基本的な部分を否定して、怒り狂って、ゆずらないからこまるんだよ。そして、ゆずらなかったということも、忘れてしまうのである。頭にぜんぜん残ってない。こういう、ほかの人から見て、絶対にわからない部分があるからこまるんだよ。ほかの人は、普通の感覚で考えてものを言うわけだから、ズレがしょうじる。

こっちが、こまるということは、言われているときから、感覚器が正常なら絶対にわかる、基本的なことを否定して、頑固に無視する。しかも、それが意識的な経路をへてないのである。だから、いつもそうやって反応のしているのに、本人は、「そんなことはしたことがない」というレベルで記憶に残ってない。いつもの、反応なのに、やったつもりがないのだ。これも、こまる。

2024年10月22日火曜日

鳴っているときは、終わりが見えない騒音なんだよ。

 サカマ(旧となりの家)のことだって、きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、まったくちがう話になっていたんだぞ。きちがいが、きちがい的な意地で、よそじゃ絶対に鳴らせないような音で鳴らし続けて、俺が窮地に立たされて、俺が、誤解をされる。そういうことが、毎日毎日、ずっと繰り返されてきていいわけがない。よその人は、きちがい兄貴が鳴らしているから、きちがい兄貴のうちの人は、きちがい兄貴に文句を言ってないと思っているんだぞ。

ともかく、きちがい家族がいないから、きちがい家族が鳴らす、きちがい的な騒音にずっとさらされたことがないやつが、わかったようなことを言うな。 

サカマに対する感情だって、ちがう。

*     *     *

しかし、もう、すべてがいやだな。きちがい兄貴が張本人で、きちがい兄貴が、やめてくれれば、それでおさまるんだよ。普通の人は、絶対に気ちがい兄貴みたいに鳴らしてないんだよ。きちがい兄貴だって、あのステレオセットを買うまでは、あのでかい音を鳴らせなかったんだよ。普通の人が、感じる、家族の騒音とはちがうのである。テレビの音がちょっとうるさいとかそういうレベルのことじゃない。けど、いっしょに住んでいるおじいちゃんの耳が不自由で、大きな音で聞いている場合は、「俺だって、家族の騒音で苦労した」と言える。けど、ちがうんだよ。そういうことではないんだよ。ぜんぜんちがうレベルの騒音なんだよ。

*     *     *

きちがい兄貴が張本人。きちがい兄貴が、普通の人が鳴らさないような音でずっと、こだわり続けて鳴らしている。きちがい兄貴が非常識なことをやっているからダメなんだ。きちがい兄貴が非常識なことを、きちがい的な意地でやりはじめたら、それをとめる人がいないんだよ。きちがい兄貴のやってきたことというのは、きちがい親父がやってきたことなんだよ。きちがい親父の行動原理というのは、ほかの人にはわからないものなんだよ。実際に、きちがい兄貴がうるさくする前は、きちがい親父が、どういう反応をするかわからなかった。そんなのわかるわけがない。きちがい親父は、きちがい兄貴に文句を言いたくなかったので、無視して黙りこくった。きちがい兄貴に注意してくれと、親父に俺が言うと、きちがい親父が、梃子でも注意しないぞというような態度で、注意しないのである。こんなの、実際に発生してみなければわかるわけがない。ともかく、普通のうちで鳴ってない音が鳴っていたというのは、事実なんだよ。そして、鳴っていた期間が長いんだよ。鳴っているときは、終わりが見えない騒音なんだよ。

ほかの人がやらないことを、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でやる。だから、ほかの人にはわからない。どれだけ影響をうけるか、ほかの人にはわからない。けど、「騒音」というところまで抽象化すれば、「騒音」なんて、だれだって体験したことがあることなのである。だから、ほかの人は、自分の体験にもとづいて、自分の意見を言うということになるのである。けど、その「自分の意見」のもとになっている体験というのは、ぼくの体験とはちがうのである。大きくちがうのである。よそのうちでは、絶対に、一日だってありえない音なんだよ。音の持続時間なんだよ。あの音で鳴らして、「でかい音で鳴らしているつもりがない」……意識的には、ほんとうにまったくないという人間は、気ちがいなんだよ。きちがい兄貴だけなんだよ。普通の人だったら、「でかい音で鳴らしてないと思っている」付利をするだけなんだよ。普通の人だったら、意識を書き換えることなんてできないんだよ。普通の人なら、感覚を書き換えるなんてことはできないんだよ。 正常な感覚を、自分に都合がいいように、書き換えて、それに気がつかないなんてことはないんだよ。だから、「すっとぼけた態度」になる。けど、きちがい兄貴本人は、まったくすっとぼけた態度じゃないと思っているんだよ。意識のレベルでは、ほんとうに、しずかな音で鳴らしているつもりなんだよ。意識のレベルでは、特にでかくない音で鳴らしているつもりなんだよ。意識のレベルでは、ゆずってやったときは、ほんとうにゆずってやったと思っているんだよ。現実の兄貴は、自分が満足できる音で鳴らしているので、一秒もゆずってない。こういう、しらばっくれた、態度。自分が、きちがい親父に、おなじことをやられたら、それはわかって、一秒で起こるくせに、自分が(きちがいおやじとおなじ感覚で)やっているときは、何十年たっても、気がつかないんだよ。毎日毎日、ずっとずっと、長時間、こだわりきってやっているときは、まったく気がつかないんだよ。こんなの、ほんとうに「やったってやってない」の世界だ。これが、ほんとうに、成り立ってしまうから、よその人が、自動的に、ぼくのことを誤解する。ぼくの能力を誤解する。ぼくの態度を誤解する。

2024年10月20日日曜日

どれだけ言っても!!!!どれだけ言っても、なにもつたわらないのだ。

  個人的にはやばい状態になっている。なんと、新しいネズミの糞を発見してしまったのだ。複数個だ。これは、完全にいる。あーー。そして、手短に言うと、腹、頭、を相当にやられている。からだ全体も、相当に重たい。けっきょく、動く気がしない。なんとか引っ越さなければならないのだけど、動く気がしない。完全に、子どものころ、風邪をひいた状態になり、ご飯を食べるということについて、不自由を感じている。まあ、手短に言って、動く気がしないのよ。風呂はもう、完全に無理だな。復活をまつしかない。

まあ、寝ていてもくるしいのだけど、横になっている時間が長い。横になっていれば、らくらくで、楽しいならいいけど、そうじゃない。

ほんとうに、きちがい親父がネズミを呼び込んで、頑固に、工事に反対したから、めちゃくちゃなことになっている。引っ越したいのだけど、元気がない。エネルギーがない。 

*     *     *

 きちがいヘビメタをやられていたときの、状態というのが、ひどいのだ。これ、みんな、わかってないんだよね。そして、きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、でかい音で鳴らすということにこだわりきって、実際に、でかい音で鳴らすのだけど、本人は、まったくでかい音で鳴らしているという気持がない。だから、「でかい音で鳴らしているから迷惑をかけている」という気持も、まったく、しょうじない。これ、きちがい親父とおなじで、本人のなかで、しょうじなかったら、どれだけ言っても、しょうじないんだよ。

みんな、きちがい兄貴がいない状態で暮らしている。みんな、きちがい兄貴がいない状態で、勉強をしたり、風呂に入っている。日常の生活をしている。けど、ぼくは、きちがい兄貴がいる状態で、勉強をしたり、風呂に入っている。ぜんぜんちがう。勉強をしたり」と書いたけど、ほんとうは、きちがいヘビメタが鳴っていると、どうしても勉強ができない。けど、ほかの人は、それがわからない。実際に、自分の身の上に起こったことではない。実際に、毎日、きちがいヘビメタを浴びせられているわけではない。だから、わからない。

きちがいヘビメタ騒音というのは、うるさいのはもちろんだけど、「病気」のようなものなのだよ。一日中、ずっと、風邪をひいたような状態で暮らしていたわけ。ずっと、学生時代、そういう状態で暮らしていたわけ。だから、なにをやるのも、つらいんだよ。風で熱が出て、よく眠れな状態で起きて、必死になって、普通のことをしているわけ。

そして、張本人のきちがい兄貴が、一〇〇%意地をはってやっているのだけど、関係性を認めないのだ。きちがいヘビメタで、からだがだるくなって、こまっている。勉強することができなくてこまっている。けど、どれだけ言っても!!!!どれだけ言っても、なにもつたわらないのだ。これ、きちがい親父に、苦情を言ったときとまったくおなじ態度で、まったくおなじ反応が返ってくる。本人は、ほんとうに、自分の行為と相手の苦情の内容に、関係があるとは思ってないんだよね。そういう状態を、維持する。そして、そういう状態を維持して、やりきる。だから、「態度」自体が、普通の人の態度じゃないんだよ。

げ、普通の人は、「俺だったら、ちゃんと言って、やめさせることができる」と思っているわけ。言わなくても、そういう前提でものを考えて、ものを言ってくるわけ。だから、それは、無理なことなんだけど、普通の人にとっては、普通の人の頭のなかの想像では、無理なことじゃないわけ。こんなの、わかってないから、そういうふうに言っているだけなんだよ。だから、ここでも、ほんとうは、うちではむりなことを(よその人が)言っているのに、よその人が、そのことについて理解してないという状態がしょうじる。普通の家族を考えて、普通の家族にちゃんと言えばやめてれると考えて、そのうえで、エイリさんの家族も普通の家族だと考えて、だから、エイリさんもちゃんと言えばやめさせることができるのに、ちゃんと言わないからダメなんだと思ってしまうわけ。 

きちがい兄貴が、ヘビメタの影響を無視して、一般の人がヘビメタの影響を無視するのだから、やってられない。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的なヘビメタ騒音を絶対の意地で鳴らそうと思ってそうしているから、問題が発生しているんだぞ。そして、きちがい兄貴の態度が、きちがい的な態度だから、ほかの人が誤解をしてしまうんだぞ。そして、「そんなの、お兄さんに言えばいい」と言ってくるんだぞ。そして、一日何十回も、「やめてくれ」「やめてくれ」「勉強をするからやめてくれ」「宿題をやっていかないと、はじをかくことになるからやめくれ」と言っているのに、きちがい的な顔をして、無視して鳴らしている。このきちがい的な顔というのが、これまた、苦情を言われたときのきちがい親父の顔とそっくりなんだよ。おなじ形相なんだよ。おなじ気ちがいの顔つきなんだよ。

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがいだから、きちがい思考で、のりきって?やりきって?しまったけど、ほんとうは、異常なことだ。あの異常な状態が常に成り立っていていいわけがないだろ。ネズミ関連の細菌か、ダニ関係のウィルスか、蚊取り線香の煙中毒か、わからないけど、ともかく、風邪をひいたような状態になっている。で、風邪をひいたような状態になって、横になっていると、きちがいヘビメタ騒音で、くるしくて、横になっていたときのことを思い出す。あれだけ「やめてくれ」と絶叫しているのに、無視して鳴らす。そして、本人は、ほんとうにまったくなにもやったつもりがない状態で暮らしている。入試のまえだって、おなじ状態で鳴らしていた。それでも、受験の邪魔をしたつもりがないのである。本人のつもりがなければ、どれだけやったって、つもりがないからやってないと行こうとになっているのだ。入試一週間前だって、一日まえだって、休日で一日に一三時間鳴らせるなら、絶対の意地で一三時間鳴らしきった。これが事実だ。ところが、きちがいだから、「協力しやった」とか「ゆずってやった」と本気で思っているのだ。それは、きちがい兄貴の嫁さんと、話していてわかった。頭がおかしいんだよ。きちがいの感覚だか、どうにもならない。

で、きちがい兄貴が鳴らすとなったら、絶対に、ヘッドホンをしないで、なまの音で聞くことにこだわって、なまの音で聞く。「ゆずった」と(きちがい兄貴が)思って言ったって、きちがい親父のゆずったとおなじて、ぜんぜんゆずってない。普通の人なら、いやみでやることや、芝居でやることを、きちがいだから、頑固にそのまま、芝居のつもりでなくやりきって、ほんとうに、ゆずってやったつもりになっている。ところが、自分が満足できる音で鳴らすということにこだわっているから、そのこだわりが「台なしになるような」ゆずり方はしない。ほんとうは、自分が満足できる音で鳴らすということだわが、台なしになるようなゆずり方をしなければ、ゆずったことにならない。

これ、ほんとうに、普通の人なら絶対に気がつくことなんだよ。聴覚が正常なら、絶対に、普通の人が気がつくことに、何十年間も気がつかない。やっている最中なんて、気がつくわけがない。気がつくような人なのであれば、「きちがい兄貴」なんて言ってない。そして、気がつくような人なのであれば、そもそも、ヘビメタ騒音問題が発生しない。発生したとしても、一日でかたがついている。

*     *     *

だから、普通の人が、普通の家族によって、こういうことをされるかというと、されないのだ。きちがい兄貴がきちがいだから、こういうことをされたということになる。それは、ようするに、普通の人がきちがい家族による騒音を経験してないということだ。普通の人は普通の人で、ほんとうは、経験してないのに「俺だって、騒音ぐらいあった」と魔法の言葉を買えば、きちがい家族による同質の、同等の騒音を人生のなかで経験したということになってしまう。

きちがい家族による同質の、同等の騒音を人生のなかで経験した人が、「人間は働くべきだ」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とかと言うわけがないんだよ。

 

 


 


わかるかな? 後で消す

  彼らが、悪いことを進めるなかで、「感謝感謝」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」というようなことが、どこからともなく、流れてくる。これは、セットになってる。現実は、ひどい現実なのである。これから、わかることだろうけど、現実はひどい現実なのである。おろかな人たちが、だまされて、悪いことに協力してしまうような現実がある。言霊という考え方も、じつは、悪い現実を補完するようなかたちで主張されることだ。たとえば、「言霊のどこが悪いんだ」とか「明るいことを考えることのどこがいけいないんだ」とか「感謝感謝のどこがいけないんだ」とかという言葉が、これまた、どこからともなく、流れてきそうだけど、悪い。どこが悪いのかということは、一度、悪魔に支配されている現実を、離れたところから見なければならないのである。横から、ななめから、うえから、したから、「よさそうなこと」が聞こえてくるだろう。ようするに、「感謝感謝」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「言ったことが現実化する」とかということだ。これ、一見よさそうなのだけど、悪魔の入れ物のなかで、悪魔が、普通の人を「指導している状態」だと、ダメなものになってしまうのだ。まあ、わからないか? ある程度、そのものずばりではない言葉を選ばなければならないので、とてつもなく、言いにくいのだが……。悪魔が、人に毒を飲ませようとしているとき、「感謝感謝」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「言ったことが現実化する」とか「暗い現実を嘆いていもしかたがない」というような言葉が、悪魔側の洗脳設計者から、流れてくるのである。

言霊的なことを言う人たち、思霊的なことを言う人たちが、そのまま、悪をなしているわけではないけど、悪魔に協力してしまっているということになる。わかるかな?

現実の場面では、善意で言っていることなのだけど、それが、複雑怪奇なしくみによって、悪い圧力になってしまう。悪魔が、悪そうなことを提示したことなんて、一度もないんだよ。悪魔は、一見よさそうなことを言って、人のこころをくすぐる。ほんとうは、悪魔の目的がある。それは、悪いことだ。とりあえず、これを、人間側から見て、ディメリットだとする。そりゃ、ひどい目にあうことなのだから、ディメリットだ。ところが、悪魔は、人間に語りかけるとき、ディメリットについては、一切合切、言わない。そして、メリットだけを強調する。「メリットがあるのかな」「ちょっとよさそうだな」「ちょっとやってみようかな」と思った人間が、悪魔にやられるのである。 

たとえば、AさんとBさんがいるとする。AさんとBさんは友達だとする。Bさんは、困難をかかえていたとする。Aさんは「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とBさんに言ったとする。この場合、Aさんには、悪意がない。善意がある。ところが、いまのこの状態を見てみると、それが悪い方向に働くということが、わかる。いまのこの状態というのは、ぼくの妄想ではなくて、現実なんだよ。現実……。現実に対処するときにどうするかということが、みんなに、突きつけられている。そして、悪魔の選択をしてしまってはいけないということがある。けど、悪魔の選択をすることが、さも、いいように言ってしまうことができるのだ。根拠のない「明るいこと」を夢想しているあいだに、悪魔が、コマを一歩も、二歩も進めてしまう。簡単に言うと、幻術のたぐいだ。夢を見せられているだけなのである。そのあいだに、悪い方向に、社会全体がすすんでしまう。

2024年10月19日土曜日

言霊的なことを言うことで、ほかの人に圧力をかけている

 「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」ということで、説明したけど、ほかのことにも、おなじことが成り立つ。言霊理論が正しいと言い、言霊的なことを述べる人が、わかってないことがある。それは、言霊的なことを言うことで、ほかの人に圧力をかけているということだ。条件が悪い人に、悪い圧力をかけている。これ、言霊主義者は、考えたこともないだろう。けど、この社会だと、そうなる。特別に生まれの条件が悪い人に、妄想的な圧力をかけている。言霊主義者は「言霊は絶対だ」とかわけがわからないことを言うけど、言霊的な考え方というのは、不幸な人に圧力をかけるんだよ。ちょっとは、考えろ。やっぱり、他人の状態について、軽く考えてしまう人なんだよなぁ……言霊主義者というのは……。言っておくけど、言霊主義者は、他人の立場にたって考えるということが、苦手な人だ。

「立場にたって」は二重表現だという意見があるけど、いちおう、ここでは無視しておく。

絶対に言わない。言うわけがない。わかってないから言っている

 ヘビメタ騒音とおなじ苦労をしてきた人、あるいは、ぼくと同等の苦労をしてきた人は、「人間は働くべきだ」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」とか「明るいことを考えれば明るいことが発生して、暗いことを考えると暗いことが発生する」とかということを、絶対に言わない。言うわけがない。わかってないから言っている。同等の苦労をしたことがないから、言っている。

そんなこと、言えなくなる。経験してたら、心底「ちがう」ということがわかるようになるので、そんなことは、言えなくなる。経験していたら、そんなことは、言えなくなる。言えるわけがないだろ。裏切り続けてきたことだ……。どんな気持ちになると思っているんだ?

どんな気持ちになるか、まったくわかってないというのも、経験がないということの証拠になる。そういうことを言われたら、どんな気持ちになるか、まったくわかってないのだから、まったく経験したことがないんだよ。そういうことというのは、「人間は働くべきだ」とか「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」とか「明るいことを考えれば明るいことが発生して、暗いことを考えると暗いことが発生する」とかということだ。こんなことを言われて、どんな気持ちになるかわかってない。わかってないのだったら、経験がないということだ。経験があればわかっている。経験があればわかっている状態になる。何回も何回も、つきつけられて、ちがうということを理解しなければならなくなる。突きつけられたことがないんだろ。そんな気分でいられるような苦労なんだろ。経験というのは、ぼくと同等の騒音経験だ。きちがい家族による、毎日の、長期間の、騒音だ。ものすごくひどい騒音だ。非常識な騒音だ。ほかの「うち」にはない、騒音だ。ほかのうちじゃ、一日に、一分間だって鳴ってないような音なんだよ。だから、ちがうと言っているだろ。まったく理解してくれない。 

*     *     *

「つきつけられて、ちがうということを理解しなければならなくなる」という部分に含まれる「ちがうということ」が、どういうことか、ちょっと説明しておく。たとえば、「楽しい楽しい」と言っても、はげしくつらい状態がまったくかわらないので、「楽しいと言えば楽しくなる」ということは、どんな状態でも成り立つことではないということを、学習してしまうわけ。「ちがう」ということが、いやおうなく、わかる。わかるようになる。ちがうということを、繰り返し、繰り返し、学習してしまう。

*     *     *

「自分だけが苦労したと思ってんのか?」という質問に関しては、もう、すでに述べたので、そこのところを読んでくれ。

この世は、こういうボケナスに満ちている。

 きちがい兄貴が、特殊なタイプの気ちがいだから、みんな、気がつかない。きちがい兄貴が、特殊なタイプの気ちがいだから、特殊なタイプの気ちがいにやられたことがない人は、特殊なタイプの気ちがいにまいにちやられるということが、どういうことなのか、まったく知らない。けど、この世は、たしかに、苦労に満ちている。苦労を経験したことがない人なんて、めったにいないだろう。本人が、主観的に、苦労と感じているものを、ほとんどの人が経験している。だから、「みんなそんなものだろう」と思ってしまう。この、ほとんどの人は、きちがい兄貴のような特殊なきちがいにやられる苦労を経験してない。だから、まったくわかってない。だから、おなじ苦労だと思ってしまう。けど、おなじ苦労じゃない。ぜんぜん、ちがう。そして、毎日続いた。毎日、つもっていく。こういう生活がつもったら、どういう状態になるかというのが、経験的に、からだで、わかってないのである。だから、「俺だって苦労した」という前提で、「人間は働くべきだ」と言ってくる。だから、「わたしだって苦労した」という前提で、「そんなのはおかしい」と言ってくる。だから、「自分だって苦労したという前提で、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言ってくる。だから、「自分だって苦労したという前提で、つまらないと言っているやつが、ほんとうにつまらないやつだ」と言ってくる。「つまらないと言っているやつが、ほんとうにつまらないやつだ」ということについて、ちょっと解説しておこう。「自分は、苦労をしてきた」という前提と「自分は、楽しく感じられる」という前提があるのである。そいつが経験した苦労が、たいした苦労じゃないので「楽しく感じる状態を維持できている」だけなのである。けど、こいつはバカだから、「苦労」のちがいがまったくわからない。だから、「どんなに苦労をしたって、人間は楽しく感じることができるはずだ」というまちがった税店でものを言っているのである。

ともかく、こういうボケナスばかりなのだ。この世は、こういうボケナスに満ちている。

「俺だって苦労した」という前提で、勝手に人を見くびって、バカにするのはやめてほしいんだけどなぁ。こいつらの頭が悪いから、こうなってしまう。自分の苦労とエイリさんの苦労が同等だと思ってしまうから、こうなってしまう。何度も言うけど、ぼくは、他人に「楽しいと言えば楽しくなる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「人間は働くべきだ」とか言ってない。言ってないんだよ。普段そういうことを言っている人とは、ちがう。最初からちがう。順番を考えれば、わかるだろ。ヘビメタ騒音の話を聴いたあと、俺に対して「人間は働くべきだ」というやつが、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを理解してないか、わかるだろ。わからないか?

そのくせ、俺に対して、「人間は働くべきだ」なんて言ったやつが、無職になってしまう。働かくなってしまう。そいつに言わせると、「自分はもうじゅうぶん働いたからいい」ということらしい。いや、「人間は働くべきだ」というのは、条件がない場合を、条件がないという条件が成り立っていると考えれば、「条件に関係なく、人間は働くべきだ」ということと等価なのだから、 「自分はもうじゅうぶん働いたからいい」なんてことにはならない。じゅうぶん働いたという条件をもつ人も、人間は働くべきなのだから、働くべきなのだ。こういう、自分で言っていることが、自分でわかってないやつらというのは、どうにかならないか。これも、また、幼稚な、自分勝手なことを言って、認めないんだよ。説明したら、「その通りだ」と認めてくれるわけじゃない。ヘビメタ騒音で働けなくなった俺に対して、ヘビメタ騒音の影響で働けなくなったと俺が言っているのに、「人間は働くべきだ」と言ったときも、 「自分はもうじゅうぶん働いたからいい」と言って、自分だけ特別な理由をつけて例外にしてしまうときも、自分がなにを言っているのか、性格性格には理解してないんだよ。こういうやつらは……。発言の「前提」というものについて、考えない。一切合切考えない。ただなんとなく、そう思ったから、そのとき言っただけだ。たぶんね……。前提に気がついてほしいなぁ。

*     *     *

ヘビメタ騒音の一日分だって、わかってない。つみかさなったときの、ヘビメタ騒音の一日分の苦労ですら、まったくわかってない。なにが「俺だって苦労した」だ。ふざけんな!!!!!!!

「これは言霊で解決できる」と「これは言霊で解決できないと」と無意識的に判断している

 ぼくは「言ったことが現実化する」とか「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」とか「人間は働くべきだ」とか「努力をすれば成功する」とかと、言ってない。こういう非・現実的なことを、前提にして、ほかのことを言うということもない。ほかのことを言うときも、これらのことが、前提として成り立っている場合があるのだ。……妄想的なことを言う人たちは、これらのことについて言及しなかったとしても、これらのことを前提として話をすすめてしまう場合がある。「言ったことが現実化する」なんて、ぼくは言ってない。そして、ぼくは「言ったことが現実化する」ということを前提にして、ほかのことを言うこともない。前提として成り立たないと思っているから、これらのことが前提として成り立っている、別の妄想的なことを言うことはない。

いっぽう、ヘビメタ騒音の影響を認めない人は、これらのことを前提にして、妄想的なことを言うのである。しかし、一般的な常識として、これらの前提が成り立っているから、ほかの人は特に、「おかしい」と思わないのである。これは、分裂した態度が影響している。

言霊主義者をせめることになるので、あんまり言いたくないのだけど、言霊主義者というのは、ほんとうは、言霊理論が正しいと思っているわけではない。自分の現実的な問題に関しては、現実的な方法で解決しようとするのである。これは、自分の原人的な問題に関しては、言霊で解決しようとしないということだ。どうして、言霊で解決しようとないのかというと、言霊が、現実的な問題に対して、まったくもって無力だということを知っているからだ。

言霊主義者は、「明日、雨になる」と自分が言ったら、雨になったから、自分の言葉には力が宿っていると考えている幼児とおなじなのだ。ほんとうは、自分が「明日、雨になる」と言ったあと、雨になっただけなのに、「自分が雨になると言ったから、雨になった」と考えるのだ。理由づけがまちがっている。

言霊主義者が、トレーニングジムで、股間をいたくしたとする。言霊主義者なのだから、「一秒以内に、股間のいたみが消える」とか「一秒以内に、股間がなおる」と言えばいい。これが、言霊的な問題解決方法だ。言うことによって、問題が解決できるのである……。もしも、言霊理論が正しいならそうなる。ところが、この言霊主義者は「薄皮をはがすように、じっくりと時間をかけてなおすしかない」などと言う。はぁ? なに言ってんだ? 言霊の力でなおせばいいだろ。

人間には治癒能力がある。人間には、免疫機能がある。なので、「自然になおる」場合がある。これだって、「股間のいたみが消える」と言ったあと、治癒能力によって、なおったら、「言霊の力でなおった」ということができるのだ。言ったあと、と言ったからを混同してしまえば、自然になおった場合でも、言霊の力によって、なおったのだと思うことができる。できるだけで、ほんとうは、言霊の力でなおったのではなくて、人間に備わっている治癒の力によってなおったのだけど、本人は、「言霊の力でなおった」と思うことができるのだ。

言ったあとも、そうならない確率のほうが非常に高い場合、言霊主義者は、言霊の力で問題を解決しようとはしないのだ。言霊の主義者のなかで、現実原理が成り立っているからだ。「これは言霊で解決できる」と「これは言霊で解決できないと」と無意識的に判断しているのだ。 言霊で解決できるものというのは、「言ったあと」で解決しただけなのだけど、それを、言霊主義者が「言ったから」解決したと誤解できるものだ。けっして、言霊の力を使って、解決したことではない。しかし、言霊主義者の頭のなかでは、言霊の力を使って、解決したことになってしまう。

 

 

 

2024年10月18日金曜日

それがわかってないのだから、たいした苦労は、してない。

 ほかの人は、ぼくよりもひどいことを経験したかもしれない。だから、ぼくは「人間は働くべきだ」とほかの人に言わないようにしている。そして、「できると言えばできる」というような、妄想的で有害なことも、ほかの人に言わないようにしている。AさんとBさんがいたとする。Aさんが言霊主義者だったとする。Aさんが「できると言えばできる」とBさんに言ったたとする。Aさんは、言霊主義者だから、いいことを言ったと思うかもしれない。しかし、これ、Bさんの条件が悪い場合は、Bさんは、とても不愉快な気持になる。どれだけ不愉快な気持になるか、わかってないのだから、Aさんはたいした苦労をしてない。言霊主義者は、「自分だって苦労をした」ということを言いがちだけど、「できると言えばできる」と他人に言ってしまう人は、たいした苦労をしてないと思う。そりゃ、そうだろ。「できると言えばできる」と妄想的なことを言って、妄想的なことを言われたほうが、どういう気持になるか、まるでわかってないのだから、それ相応の苦労をしたことがないとはっきり言える。条件がものすごく悪い人は、「できると言えばできる」と他人から言われたら、ものすごく不愉快な気持になるんだよ。それがわかってないのだから、たいした苦労は、してない。

毎日、長く続くことだと、「なぐさめているほう」も、「もう、いやだなぁ」と感じるようになる

 毎日、長く続くことだと、「なぐさめているほう」も、「もう、いやだなぁ」と感じるようになるのである。けど、ヘビメタ騒音が、毎日、鳴り続けている状態なので、そうなる。長い期間にわたって、きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らし続けたということは、こういうことにも影響をあたえる。たとえば、親友とヘビメタ騒音の影響をめぐって、ケンカをしたときは、ヘビメタ騒音がはじまってから、もう、十三年ぐらいたっていた。そりゃ、「いいかげん、どうにかならない??」という気持にはなるよな。けど、それは、やられずに十三年間経過したほうの感覚だ。やられたまま十三年経過したほうにとってみれば、一日目よりも、十三年と一日目のほうが、ずっときついのである。たとえ、鳴っている時間が短くなったとしても、きついのである。進学ということを考えると、納得がいかないものになるのである。まるまる荘から帰ってきて、きちがい兄貴がヘビメタを、十三年前とおなじように鳴らしていて、俺が「飯をくうから静かにしろ」と言っているのに、きちがい兄貴が、きちがい的な顔をして、きちがい的な音で鳴らしたままなのである。俺を、浪人に追い込んだ音が、そのままなっているのである。俺を無職に追い込んだ音がそのままなっているのである。「風呂に入る時間だけ静かにしろ」と言ったって、きちがいが、きちがいづらをさげて、きちがい的な目つきで、無視して鳴らし続けるのである。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で鳴らし続けるのである。このときの、発狂の度合いがすごい。俺の側の発狂の度合いがすごい。これ、きちがいのほうはまったく関係なしにやっていることで、まったくなにもしてないつもりなのだけど、それがおかしい。そういうところに、問題がある。そういうところに問題があるし、そういうことにまったく無関心だということがおかしいのである。これは、兄貴自身が無関心だということがおかしいし、きちがい親父が、きちがい兄貴の見方をして、あるいは、おなじ感覚で……兄貴のヘビメタ騒音について……無関心だということがおかしいのである。きちがい親父がこういう感覚だから、俺が「そんなにでかい音で鳴らしているのに、親が注意しないなんておかしい。だから、エイリさんが嘘を言っているんだ」と言われるようになるのである。きちがい親父の感覚なんて、普通の人にはわからない。きちがい兄貴の感覚なんて普通の人にはわからない。きちがい兄貴に、毎日、きちがい騒音を鳴らされたことがない人は、それが毎日つもると、働けなくなるということがわからない。きちがい兄貴に、毎日、きちがい騒音を鳴らされたことがない人は、それが毎日積もると、勉強ができなくなるということがわからない。きちがい親父もきちがい兄貴も、おかあさんが言うことを聞くことはなかった。そして、おかあさんの体調が常に悪いので、階段をのぼって、兄貴に注意をするということが、ものすごくたいへんなことなのである。ともかく、おかあさんから注意されたって、きちがい兄貴が、鳴らし続けるので、意味がないのである。「そんなにでかい音で鳴らしているのに、親が注意しないなんておかしい」というのは、普通のうちの感覚なのだ。こういう感覚が成り立っている人が、俺とおなじ苦労をしたはずがないんだよ。逆に言えば……。ぜんぜんちがう苦労なんだよ。そういう常識が成り立たない「うち」なんだよ。ともかく、きちがいが、きちがいモードでやることなので、きちがい本人は、まったくやったつもりがないことなのである。けど、じゃあ、「うるさいからしずかにしてくれ」と言えばしずかにしてくれるのかというと、そんなことは、まったくない。きちがい的な意地でやっていることなのに……毎日やっていることなのに……一秒だってゆずらないという気持でやっていることなのに……本人のつもりがないなんておかしいだろ。けど、そういう状態なんだよ。

*     *     *

きちがい親父に「しずかにするように兄貴に言ってくれ」と俺が言えば、今度は、きちがい親父のほうで、「絶対に注意してやらない」というスイッチが入ってしまう。梃子でも動かさないぞという感じで、注意しない。

2024年10月17日木曜日

もし、おなじことをおなじ量、おなじ時間の長さ、やられていれば、ちがった意見をもつことになるだろう

 うまくいかない理由が「まったくない」にもかかわらず、きちがい親父の「気持ち」だけで、うまくいかなくなるのである。その、きちがい親父の「気持ち」というのがものすごい気持ちなのである。これ、言いようがないよ。普通の人が意地をはった状態の一〇〇〇〇倍ぐらい意地をはった状態になる。きちがい化け物になって、発狂的な意地をはる。何度も言うけど、そこで、きちがい親父が意地をはる理由なんてないのだ。そこで、きちがい親父が意地をはる理由は、気ちがいおやじの頭のなかにしかない。きちがい親父の気持ちでしかない。しかも、発狂して意地をはっているのに、本人は、それがどうもわかってないみたいなのである。そして、「理由がない」ということを、どれだけ説明されても、きちがいスイッチが入ってしまうと、一切合切受け付けない状態になる。そして、きちがい的な意地でやったことに、責任をとるということが、これまた、一切合切ないのである。きちがい親父が、やったことなのに、きちがい親父としては、自分が意地をはってやったことだという気持がないのだ。認識がない。そして、きちがい親父が過去のある時点で、こういうことをやったからこまっている、ということを言われただけで、きちがいスイッチが入ってしまう。だから、どの時点で言ってもおなじなのだ。こういうことが、連続的におこって、いっしょに住んでいる家族がどれだけこまるか、こういう人間(家族の一員)といっしょに住んだことがない人には、わからない。根本からわからない。そんなの、普通の人たちの頭のなかにはないことなのである。きちがい親父の反応というのは、きちがい親父がいないうちで育った人の頭のなかには、一切合切ないのである。これも、一切合切ない。だから、俺が、きちがい親父に関する「正しい説明」をすると、ほかの人たちは「そんなのはおかしい」と思って、別の理由を差が出して、別の理由づけをしてしまう。その場合、「エイリの説明のしかたがまずかった」というようなことが選ばれる場合が多い。そして、この「なんだか不愉快な話」にかかわっているとろくなことにならないというような気分がするので、「説明のしかたがまずかっだけなんだ」という決めつけをして、話を終了するのである。これも、俺が、きちがい親父の行動や、きちがい親父の認識について、どれだけ正確に記述したとしても、普通の人にとっては「そんなのおかしい」と思えることだから、やられたほうの家族が、適切な説明をしなかったからダメなんだとか、なんかおこる理由がほかにあったのだろうと、勝手に決めつけてしまう。そして、不可解だというのは、居心地が悪いことなのである。これは、もう、だいぶまえに説明したので、省略して説明するけど、ようするに、きちがい親父の話というのは、自我を不安定にするのである。だから、なんとなく不愉快な感じがして、話を打ち切りたいと思うようになるのだ。これ、常識というのは、自我と関係しているので、常識がやぶられるようなことを言われると、自我が不安定になるのだ。この世の認識というのは、自我と裏表の関係にある。ともかく、一般的な人にとってみれば、きちがい親父の話、きちがい親父にかかわるエピソードというのは、なんとなく不愉快な感じがするものなのである。そこで、不愉快さを解決するために、まちがった解釈をして、そのまま、考えが動かなくなってしまう。ようするに、普通の人は普通の人で、「そんなのおかしい」「えいりの説明のしかたが悪かったんだろう」と思ったままなのである。

でっ、いままで話したことは、親父の話なんだけど、気ちがい兄貴にも、まったくおなじことがあてはまるのだ。あてはまってしまう。親父の態度と、きちがい兄貴の態度が、まったくおなじなのである。きちがい親父の感覚ときちがい兄貴の感覚がまったくおなじなのである。きちがい親父の……過去のある時点において、自分が発狂的な意地でやったことに関する認識と、きちがい兄貴の……過去のある時点において、自分が発狂的な意地でやったことに関する認識がおなじなのである。認識のしかたがおなじなのである。

だから、兄貴がやったことに関しても、ぼくがほかの人に話すと、ほかの人は、誤解をするのである。ほかの人は、簡単な問題だと思うけど、簡単な問題じゃない。ほかの人は、どれだけ(相手がやたっって)たいした影響はないだろうと思うのだけど、それは、やられないから言えるだけの話で、もし、おなじことをおなじ量、おなじ時間の長さ、やられていれば、ちがった意見をもつことになるだろう。

やられたことがない他人は、影響を無視できるのだけど、ぼくは、気ちがいや兄貴やられたことの影響を、他人のようには無視できないのである。ところが、実際にやられたら、影響があるので、影響を無視することができないということを、他人が否定する。「できると言えばできる」と、妄想的なことを言って否定する。「思い方をかえればいいんだ」「受け止め方をかえればいいんだ」と、妄想的なことを言って否定する。

*     *     *

経験がない人は、ヘビメタ騒音の影響を否定されても、ぼくがおこらないと思っているみたいだけど、ぼくはおこる。これも、おなじ立場になってみればわかるよ。きちがい兄貴が、ぼくにおける、影響を無視して、きちがいヘビメタを、鳴らし続けた。これが事実だ。きちがい兄貴は、よそのうちでは、鳴らせないような音でずっと鳴らしていたのである。本人は、よそのうちでも鳴らせるような音だと思っているかもしれないけど、きちがい兄貴が、おばあちゃんのうちに下宿していたら、絶対に、一日に一分間だって、鳴らせないでかい音だ。だから、ここらへんの「自分だまし」がおかしいのである。聴覚が正常なら、絶対にわかることが、わからないのである。きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、本人は『普通の音で鳴らしているつもり』なのである。そして、きちがい親父とおなじように、一度スイッチが入ってしまうと、きちがい的な意地でその行為をやってしまうのである。日本語がわかればわかることを、どれだけ言われたって、一回も言われてないという状態で、わからないままなのである。きちがい兄貴が、ヘビメタを、思いっきり、ほかの人のことなんて気にしないで、自分が鳴らしたい音で鳴らしたいと思っているあいだは、ずっとそうするのである。しかも、一秒も、そうしたことがないという認識が、やっているあいだじゅう、成り立っているのである。これは、矛盾した言い方なのだけど、きちがい兄貴の状態がそういう矛盾た状態なのだからしかたがない。こういうふうに言うしかない。

*     *     *

ともかく、腹がたつよ。「そんなのは、言えばいい」「影響をうけないぞと思えば影響を稀有内ですむ」「すべては思いようだ」……こんなことを言われて、いいわけがないだろ。こいつらは、自分がやられたことがないから、どれだけ影響をうけるかまったくわかってない。どれだけ「影響をうけないぞ」と決心しても、きちがい的な音で鳴っていれば、睡眠時間を含めて、影響をうける。次の日も、ヘビメタ騒音の影響をうけた状態で暮らしているのである。生きているのである。普通の人がわからないのは、自分自身に、俺とおなじ経験がないからだ。きちがい家族と一緒に住んだことがない人は、ぼくとおなじ経験をしたことがないのである。だから、やられてないから、影響をうけないですんだだけだ。ところが、そいつらの想像のなかでは、「影響をうけないこと」は可能なのである。「影響をうけないで生活することは可能」なのである。一般人は、自分ならそうできると思っているのである。きちがい家族と一緒に暮らしたことがない人たち……ヘビメタ騒音に長時間さらされたことがない人たちは、影響をうけないで生活することが可能だという前提でものを言ってくるのである。これ自体が、ぼくにとって、非常に不愉快なことなんだよ。

「ヘビメタ騒音に長時間さらされたことがない人たち」と書いたけど「自分が、この世で一番苦手な音に、さらされ続けたことがない人たち」という意味だ。そして、家族の一員によって、その音が鳴らされているのである。どれだけ「やめろ」と言っても、きちがい的な家族の一員が、長時間鳴らしているのである。自分が苦手な音、家族による音、家族が無視して鳴らすということをみたしてなければ、ぼくと同等の騒音にさらされたことにならない。「ヘビメタ騒音」というと、ヘビメタが好きな人たちにとっては、たいした騒音ではないということになってしまう。けど、その人たちだって、苦手な音はあるはずだ。自分が苦手な音が、めちゃくちゃにでかい音で、鳴っていたら、こまるだろ。

*     *     *

「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」「鳴り終わったら関係がない」といったやつらがいるんだけど、ぼくは、そいつらをぶんなぐってやりたい。

人に言いたくないことを、きちがい親父がつくる

「いやー。ネズミが家に入ってくるようになって、ネズミの糞が部屋に散乱しているんですよーー」なんて、言いたくない。人に言いたくないことを、きちがい親父がつくる。そして、きちがい親父は、知らんぷりなんだよ。人によっては「そんなのはおかしい。おかしいから、エイリさんが嘘を言っている」と思うわけだよ。

ヘビメタ騒音のことだって、人に言いたくないことなんだよ。ヘビメタ騒音で宿題ができなかったということだって、人に言いたくないことなんだよ。ヘビメタ騒音で、どうしても遅刻してしまうということだって、人に言いたくないことなんだよ。言いたくないこと、きちがい兄貴がつくる。そして、きちがい兄貴は知らんぷりなんだよ。人によっては「そんなのはおかしい。おかしいから、エイリさんが嘘を言っている」と思うわけだよ。

 不名誉なことを言わせるように、きちがい兄貴ときちがい親父が、勝手に行動する。こいつらは、きちがいだから、常識なんてない。きちがい的な行為を、きちがい的な意地で実行してしまう。どれだけ「やめてくれ」と言っても、発狂的な意地でやってしまう。けど、本人は、やってしまえば、知らんぷりなんだよ。信じられないことに、きちがいだから、知っているのに知らないふりをしているというのではなくて、ほんとうに知らない状態になってしまうんだよ。

「やめてくれ」と言ったら、エンジンがかかるんだよ。こっちが、こまるから、やめてくれというわけだけど、「やめてくれ」と言われると、きちがいエンジンがかかってしまう。すべてを無視して、反対語を叫ぶ状態になってしまう。すべてを無視して、だまりこくって、やりきることだけに集中した?状態になってしまう。これが、また、こまるんだよ。こういう状態について、きちがい家族といっしょにいたことがない人は、まるでわかってないので、こういうことも、俺が嘘を言っているように聞こえるんだよ。

そして、そういう人たちが、「そんなのは、ちゃんと言えばいい」と言うんだよ。俺に、言うんだよ。毎日、きちがい的な意地で、自動的にやってしまう。きちがい兄貴ときちがい親父はそういう人間なんだよ。そして、どっちも、「やめてくれ」と言われた、きちがいエンジンがかかってしまうんだよ。きちがいスイッチが入ってしまうんだよ。

2024年10月16日水曜日

そんなことよりも、現実的な条件をどうにかするべきなのだ。

 「人間は働くべきだ」とか「できると言えばできる」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「努力をすれば成功する」とかということは、じつは、悪魔側が用意した、悪いコンセプトだ。

これは、生まれつき条件が悪い人を、必然的に、くるしめる。

言霊思考は、幼児的万能感から出てくるものだ。人間が、言葉を学習する段階で、どうも、物理現象と言葉の学習がむすびついてしまうみたいなのである。

手短に言うと、物理現象だけではなくて、社会のしくみなどとも、むすびついてしまうのである。

どうも、幼児的万能感というのは、言葉の(原初的な)学習と、物理現象に関する理解が、不可避に結びついてしまうところぉ原因があるのではないかと思う。

けど、自己中心性というものもかかわっているようだ。ようするに、人間というのは、基本的な構造として「自分勝手」なのだ。自分勝手な見方が、世界認識の根本になっている。まあ、夜郎自大が、スタンダードだ。

言霊主義者が「言霊」という言葉を使っているので、「そこは、言霊理論と言うべきなのではないか」と思うところまで含めて、数か所だけ、言霊主義者が実際に「言霊」という言葉を使って、「言霊理論」という言葉を使わなかったということをしめすために、「言霊」と書いた部分がある。これは、ぼくの発言ではなくて、言霊主義者の発言だ。だから、まあ、数か所だけ、言霊主義者にあわせて、言霊主義者の発言通りに、言霊と書いている部分がある。

まあ、そういうことを前提にして言うけど、言霊思考が正しいということが成り立っていると、条件が悪い人が、おいつめられるのである。

言霊思考によって、おいつめられる。

言ったって、言っただけなのに、言えば、世界がかわるようなことを言うやつらが多い。なにによってかわるのかというと、言霊の力によってかわるのだ。

けど、実際には、言霊の力では、条件がかえられない。

けど、実際には、言霊の力では、現実をかえられない。

なので、無力なのだけど、無力なことが有力なこととして流通していると、無力であるばかりか、有害なのだ。

残念ながら、いまの社会では、言霊思考というのは、弱者を「これでもか」とくるしめることになる。

もともと、幼児期を経験したことがある人間には、幼児的万能感が備わっている。だから、悪魔にそれを利用されて、言霊の力を使って問題解決ができると思い込んでいる。

けど、実際には、言霊の力なんてないから、言霊の力を使って問題解決ができないという現実のなかで生きていくということになる。これは、くるしいことなんだよ。

言霊思考が問題を可決して、よい状態をつくるのかというとそうではないのだ。言霊思考が、問題をつくりだし、悪い状態がさらに悪い状態になるのだ。

言霊思考になれている人間は、本人のことだけではなく、社会のすべての人に言霊が成り立っていると自然に見なしてしまう。そして、それが問題を引き起こす。

どうしてかというと、言霊の力がないからだ。言霊的な解決方法というのが、無力な解決方法だからだ。

そんなことよりも、現実的な条件をどうにかするべきなのだ。

ほんとうは、社会的な条件をかえなければどうにもならない問題なのに、個々人が、言霊の力を使って解決すればいいということになってしまうのである。

どういう一日だと思っているんだよ?

 普通の人には、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員がいない。

きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員がいる人は、ぼくが言っていることを理解できる。

けど、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員がいない人は、ぼくがっていることがわからない。

そして、そんなことよりも、もっともっと、重要なことなのだけど、実際に、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族がいない人は、毎日、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員にやられるということが、ない。

毎日、きちがい兄貴のようなきちがい感覚をもった家族の一員は、きちがい感覚で、きちがい的なことを、きちがい的な意地でやる。

兄貴のヘビメタ騒音がまさしくそういうものだ。

きちがい兄貴にとってみれば、あたりまえのことなので、やめるつもりは、まったくない。

そして、きちがい兄貴はきちがいなので、「ゆずる」ということに関しても、きちがい親父とおなじような感覚をもっているのである。

だから、絶対の意地で、ゆずらない。

なので、きちがい家族が、自動的に、迷惑行為をするということになる。毎日毎日、きちがい家族が、きちがい的な感覚で、迷惑行為を、すべての時間を使ってやるのである。すべての時間というのは、使えるすべての時間という意味だ。

きちがい家族が、生きていて、起きていて、使える時間を使って、迷惑行為を「意地になって」やるのである。四六時中、迷惑行為を「意地になってやっている」のに、迷惑行為をしているという感覚がまったくないのである。

だから、どれだけやっても、やったことになってないのである。相手がこまっているということは、きちがい的な感覚で無視するので、相手は、こまっていることにならないのである。

どれだけやっても、気がつかない。

どれだけ、「やめてくれ」と言われても、気がつかない。

気がつかないまま、なにもしてないつもりで、四六時中、迷惑行為を……きちがい的な意地で、きちがい的な感覚でやりきる。

ようするに、そういうきちがいが、家族のなかにいない人は、そういうきちがいやることを、自分の身で、経験してないのである。

きちがい家族がいないのだから、きちがい家族が意地になって、毎日、四六時中やることの影響をうけなくてすむのである。

まず、これを理解しなければならないのである。

ところが、「自分だって苦労した」と言えば、きちがい家族の迷惑行為も経験したことになってしまうのである。

きちがい家族がもたらすのと、おなじぶんの苦労、おなじ質の苦労を、自分だって、経験したというとになってしまうのである。

そして、「自分だったら、お兄さんを説得できた」というような感覚もあるので、必然的に、説得できなかったエイリを見下してくるのである。

こういう人間が九割以上いた。九割以上だ。

ようするに、普通の人は、そういう反応をするのである。きちがい家族にやられたことがないので、実際にはやられたことがないので、それがどういうものなのか、経験的にわかってないのである。

けど、わかってないということ理解してないのである。

こうなると、普通の人が、きちがい兄貴に、似てきてしまうのである。しくみは、ちがう。けど、まちがった認識をもっているということと、まちがった認識をもっているということを知らないという意味で、きちがい兄貴に似てくるのである。普通の人が、なんとなく、きちがい兄貴とおなじようなことをしてくるということになる。

きちがい兄貴は、きちがい感覚で無視して、普通の人は、経験がないから無視するのだけど、無視するということは、おなじなのである。

だから、きちがい的な家族が、きちがい的な感覚でやると、よその人は、経験的に理解できないので、まちがった解釈を自動的にしてしまうのである。

それが、また、きちがい的な家族にやられた人の、足かせになるのである。

きちがい家族がいない人も「自分だって苦労した」という魔法のひとことを言えば、苦労を、均質化、同質化、同量化してしまうことができる。

けど、きちがい家族がいない人は、きちがい家族がもたらす苦労を経験したことが、一度もないのである。

だから、きちがい家族がもたらす苦労がどういうものか、必然的に、わからない。そして、「苦労」という言葉は、非常に抽象的な言葉なので、苦労のなかみがちがういうことに気がつかないのである。

「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言えば、言ったとたんに、苦労のなかみがおなじようなものになってしまうのである。

同量の苦労、同質の苦労をしたということになってしまうのである。 

同量の苦労、同質の苦労をしたのであれば、通勤通学ができている自分はえらくて、通勤通学ができないエイリはだめだということになるのである。

同量の苦労、同質の苦労をしたのに、自分はちゃんと通勤して働いている。同量の苦労、同質の苦労しかしてないエイリが、できないというのはおかしいということになってしまうのである。

同量の苦労、同質の苦労なら、通勤できるので、通勤できないと言っているエイリはあまえているということになってしまうのである。

こういうところがある。九割以上の人が、こういう発想だ。自分が通勤して働いているかどうかは別にして、割以上の人がそう感じてしまう。定年退職して働いていない人も、そう、感じてしまうのである。

自分だって、定年退職して、それ以降働いてないのだから、通勤して働いていないにもかかわらず、自分は通勤して働いていたから、そういうふうに言う権利があると思ってしまう。

働いてない学生だって「自分だって苦労した」という魔法のひとことを放てば、同量の苦労、同質の苦労をしたことになってしまうのである。同量の苦労、同質の苦労をした自分が、通学できるのだから、「通学できないなんて、あまえだ」と考えてしまうのである。

だから、きちがい兄貴が、よその人には考えることができないことを、ガンガン毎日、きちがい感覚でやると、よその人から、俺が、誹謗中傷されるようになるのである。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、非常識な騒音を鳴らし続けると、きちがい家族による非常識な騒音を経験したことがない人まで、おなじ量の騒音経験したことがある、おなじ質の騒音を経験したことがあるという前提で、エイリを見下してくるようになるのである。

しかも、そうやって、見下してくるやつらは、「助言をしてやっている」「あたりまえのことを言っただけで、自分は悪いことをしてない」と思っているのである。自分はエイリを見下してないし、自分はエイリのことを誹謗中傷してないということになっているのである。

けど、それは、自分も、きちがい家族によるきちがい的な騒音を経験したことがあるという前提が正しい場合の話だ。

正しいなら、誹謗中傷してないのだろう。

けど、前提が正しくないので、誹謗中傷している。

悪口を言っている。

けど、これもまた、「自分だって苦労した」という言葉を放つ人間は、認めないのである。

一日のなかでの持続時間だけではなくて、騒音が何時からはじまってな何時まで続くかということは、騒音の質に影響をあたえる。そして、一一歳のころから騒音がはじまって、けっきょく、二五歳のときまで騒音が続いたということも、騒音の質に影響をあたえる。ぜんぜんちがうのである。

騒音の質と騒音の量がぜんぜんちがうのに、「自分だってそういう騒音を経験するという苦労をした」ということになってしまうのである。「自分だって苦労した」とひとこと言えば、自分だって、「同量の騒音、同質の騒音を経験した」ということになってしまうのである。

そいつのなかで、「同量の騒音、同質の騒音がもたらす、さまざまな苦労をした」ということになってしまうのである。

けど、きちがい兄貴がいない家では、ぼくと同量の騒音を経験することができないのである。きちがい兄貴がいない家では、ぼくと同質の騒音を経験することができないのである。だから、経験してない。

あたかも、自分だって「同量の騒音、同質の騒音を経験した」ということになっているのだけど、経験してない。

だから、「同量の騒音、同質の騒音」がほんとうにもたらす、いろいろな影響をすべて無視して、「自分だって苦労した」と言い放ち……自分も同量の騒音、同質の騒音がもたらすことを経験したという前提で、ものを考えて、ものを言ってくるわけだけど、前提がまちがっている。

まあ、こういう説明をしたところで、「前提がまちがっている」ということを、認めてくれるのは、はなして、何人か?

*     *     *

言っておくけど、ぼくは、「働いてないやつは働くべきだ」とか「通勤できないなんていうのは、あまえだ」とかということを言ってないからね。

エイリだって、俺が苦労したような苦労を経験してないじゃないか……だから、エイリがそういうことを言うのは不当だ……と考えるやつらがいるのだ。

ぼくは、その人たちの苦労を否定してない。

自分(エイリ)は、その人たちが経験した苦労を経験してないということを、ちゃんと理解している。

そのうえで、「人間は働くべきだ」とか「通勤できないなんて言うやつは、あまえている」とかというようなことは、言ってない。

言ってないのだから、最初から、はずしているぞ。

「エイリだって、自分が経験した苦労をしてない。だから、エイリが言っていることはまちがっている」と思うやつらがいるのだけど、最初から、はずしている。

*     *     *

 まわりの人が『義人』なら、いちいち、侮辱されることがない。あれ、侮辱なんだよ。ヘビメタ騒音の一日がどういう一日だと思っているんだよ?

どういう一日だと思っているんだよ? 

*     *     *

ぼくが経験してない苦労をしている人がいる。そんなのは、わかっている。だから、「人間は働くべきだ」とか「通勤ができないなんてあまえだ」とか「できると言えばできる」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「努力をすれば成功する」なんて言ってない。言ってないんだよ。

逆に、「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかということを、否定している。否定しているんだよ。ぜんぜんちがう。

*     *     *

「人間は、働くべきだ」ということと「どんな条件が成り立っていても、人間は働くべきだ」というのは意味的に等価なのである。「条件がない場合」と「条件がある場合」にわけて、 「どんな条件が成り立っていても、人間は働くべきだ」と言った場合は、「条件がない場合」がぬけているので、意味的に等価ではない。けど、「条件がない」という条件が成り立っていると考える場合は、意味的に等価になる。

「条件がない」という条件が成り立っていると考える場合は、「人間は、働くべきだ」ということと「どんな条件が成り立っていても、人間は働くべきだ」というのは意味的に、等価になる。

*     *     *

ともかく、「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかと、ぼくは言ってないのだから、「エイリさんだって、自分の苦労がわかってない」という批判は、意味がない。

「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかと言っている人が、エイリの苦労を否定するので、あるいは、ヘビメタ騒音の不可避的な影響を否定するので、問題が発生する。

最初から俺(エイリ)は、「どんな条件でも、人間は働くべきだ」とか「どんな条件でも、通勤ができないなんてあまえだ」とか「どんな条件でも、できると言えば、できる」とか「どんな条件でも、明るいことを考えれば明るいことが起こる」とか「どんな条件でも、努力をすれば成功する」とかと言ってない。 

働けなくなるような苦労をした場合は、働けなくなると思っている。「どんな条件でも、人間は働くべきだ」という意味をこめて「人間は働くべきだ」と言ってない。これ、本人が、自分が言っていることの意味がわかってないのである。「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という言葉と「人間は働くべきだ」という言葉が、この人たちの頭のなかで、意味的に等価なのである。本人は、おなじ意味で言っているのである。けど、まちがっている。理論的にまちがっている。「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という言葉の意味と「人間は働くべきだ」という言葉の意味は、完全にちがう。ちがうのでちがう。「人間は働くべきだ」という言葉に、「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という意味を込めるのはむりだ。 

自分の言葉の意味が「よく」わかってないのである。 

*     *     *

「働けない人はしかたかがないけど、人間は働くべきだ」という言葉なら、いいのかというと、ぼくの場合はそうでない。ぼくに対して、この言葉をはきだしてきたやつらは、ヘビメタ騒音が働けない理由にならないと思っているのである。だから、「人間は働くべきだ」と(ぼくに)言ってくるのである。

2024年10月14日月曜日

やられてないやつに、「関係ない」と言われて、いいわけがない。

 あんなこと、やられて、いいわけがない。あんなことをやられて、影響をうけないわけがない。やられてないやつに、「関係ない」と言われて、いいわけがない。

2024年10月13日日曜日

認識が発生しない状態というのが、どうにもこうにも、普通の人とはちがうのである

  まあ、給湯器を買い替えるぐらいのカネはあるんだよ。問題なのは、部品の供給を十数年でやめてしまうことだ。「部品をつくってない」「部品がなくなるから買い替えをしましょう」というようなガス会社の態度がいやなんだよな。部品なんて、スタンダードなやつをずっと供給すればいいでしょ。けど、それだと、買い替えが少なくなるので、無理やりに、自分たちで部品供給サイクルを調整して、買い替え需要を増やそうとしているのでしょ。たぶんだけど……。わざわざかえて、「もう、部品がないので、全体(給湯機本体)を買い替えましょう」というところにもっていきたいわけだ……と思う。

問題なのは、親父がネズミの糞をまきちらしたので……もう、この表現でいいや……。親父がいろいろなところにネズミの糞をまきちらしたので、人を(うちに)入れたくないのだ。ネズミの糞ってほんとうに、掃除できないところにあるのだ。そもそも、危険地帯が増えてしまうから、掃除できないところが増えてしまうというのもあるのだけど、たとえば、タンスの裏などは、タンスを動かさないと、掃除ができないので、こういう事態になると、ものすごくやばいのだ。「俺がつかまえるからいい」と発狂して、絶叫して、絶対に、言うことをきかないんだよね。ネズミ本体を、処理したって、あとからあとから入ってくる状態をかえなければ、ネズミの糞が増えていくわけだから、工事を先にやったほうがいいと言っていたのに、こういうあほなところで、きちがい親父がふんばるんだよな。こういうところで、ほんとうに、スムーズにいかない。本人は「ネズミの糞なんてどれだけ落ちていたって気にしない」というところがあって、これも、普通の人の感覚ではない。ともかく、「工事をしない」ときちがい親父が、思ったら、絶対にまげないのだ。そういうところがあるし、もともとの感覚が普通の人としては、おかしいのである。普通なら、ネズミの糞が一個おちていただけでも「どうにかしよう」と思う。ところが、ネズミの糞なんて、気にしないのである。ネズミの糞がどんどん増えていっても、知ったことじゃないのである。これ、おかしいんだよなぁ。普通なら、畳の上に、ネズミの糞がいっぱいおちていたら、気になる。ネズミの糞が増えていくなら、増えているというのが気になる。ところが、気にならない。言っておくけど、こういう、感覚のちがいというのは、むかしからある。親父が認知症になったということは、関係がない。あとは、その、ネズミがはいる二年前に、脳梗塞になって、手術をしたのだけど、これも関係がない。認知症も、脳梗塞も関係なく、親父は、むかしから、普通の人間とは、ちがう感覚をもっている。生まれながらなのか、それとも、育ちが影響しているのかよぐからないけど、ともかく、普通の人とはちがう感覚を病気などとは関係なく、ネイティブで?もっているのである。これは、言いがたい。普通なら、スムーズにいくことが、まったくスムーズにいかないのである。ところどころで、発狂的な意地で頑固に、動かないということが発生してしまうし、逆に、ところどころで、発狂的な意地で頑固に、動いしてしまうということが発生してしまう。「言えばわかる」なんてものじゃないのだ。ほんとうに、きちがい。そして、これが、かわらない。言ってかえるなんてことは、できない。この、ネズミ対策工事をしないという頑固さと、竹を植えたくなったら、竹を植えしまうという頑固さは、おなじところから、きているんだよ。出ているんだよ。そうすると、いっしょに住んでいる人は、非常にこまることになるのである。けど、よその人は、いっしょに住んでいる人がこまるということがわからない。父親なら、父親だ。大人なら、大人だと思っている。だから、「言えばわかってくれる」「ちゃんと説明すればわかってくれる」と思うわけだ。けど、わからない。きちがい的な意地で、わかってない行動をする。とめられない。そして、相手がこまっているということに関する、無頓着さが、また、尋常ではないのだ。普通ではない。これが、ほんとうに、脳みそ配線が切れているんじゃないかと思えるほど、異常なのだ。これ、頑固に動いてしまうことや、頑固に動かなくなってしまうことと、セットになっていることなんだよ。だか、この組み合わせで、非常に、不愉快な思いをさせられるということになる。けど、そんなの、知ったことじゃないのだ。どれだけ、こまっているということを言っても、……親父に、わかるように言っても……親父に、普通の人理解できるような言い方で言っても……わからないのだ。このわからないときの、発狂の度合いがすごいんだよ。意地になっている度合いがすごいの……。エネルギーの投入量は、殺人級なんだよ。殺人のエネルギー、殺人の頑固さが、どんなに小さいことにでも、発揮される。ハンダゴテ、魚を片づけない、(すでにできあがっている)もつ煮込みを何時間も煮込むこと、ほんとうは、資格を持っていなければやってはいけない工事を自分でやろうとすること、電球をかえること、電池をかえること……すべてに、発揮される。こまるんだよ。親父が勝手にやっ、こっちに影響が出ないことならこまらないけど、影響が出ることだとこまるんだよ。けど、いっしょに住んでない人間は、実際の感覚としては……わからないのである。よその人は。実際に親父と一緒に住んでないから、親父と一緒に住んでいると、いろいろなところで、こまるということがわからない。医者だって、最初は、「それは、認知症だからでしょ」とか「認知症の忘却が影響している」とか言っていたのに、自分がリハビリの指導をしたとき、きちがい親父が、気概的な面を発揮して、頑固に動かなくなったから、めちゃくちゃに怒っていたのだ。だれだって、めちゃくちゃに不愉快になる態度なんだよ。医者は、最初は、親父にかかわったことがないから、わからなかっただけなんだよ。普通に考えると、「そんなのはへんだから」「こうなんじゃないの」と思うんだよ。たとえば、「認知症だから」とか「脳梗塞になって脳梗塞の手術をしたから」とか「説明する法の説明の仕方が悪かったから」とかと思うんだよ。けど、「うち側で」実際にかかわると、そうじゃないということがわかるんだよ。「うち側で」というのは、親父が、「そとっつら」にならなくていい状態のときに、かかわるとということだ……。親父は、さすがに、「よそ」で、自分が普段「うちのなかでやっているようなことを、うちのなかでやっているような感覚でやると」……まずいというのがわかっている。けど、これは、意識的に思考して、そういう結論に至ったというわけではなくて、よそでやると、袋叩きにあうので、経験をとおして、無意識的に理解したことなんだよ。だから、よその顔とうちの顔を……本人が使いわけているつもりはないのだけど、使いわけるということになる。親父は、よそのうちで、虐待されて育ったので、自分の保護者のような人には、気にいられたいというような衝動的な気持がある。保護者のような人というのは、たとえば、会社の社長だ。家出をして、こまっているときに、親父が働いていた会社の社長にあい、小間使いのような感じで、その会社で働くことにしたのだ。そうしないと、虐待され続けた、親戚のうちにもどることになるので、それは絶対にいやだったのである。だから、会社の社長が「親代わり」みたいな感じになったんだけど、もちろん、親ではないし、親としての愛情なんて、まったくないわけだ。だから、ほんとうに、一歳のときから、親の愛情を知らずに育ってきたのだ。親父が生れるまえに、親父の父親が自殺してしまい……親父の母親は病気で、親父が一歳のときに死んでしまう。「自殺」と書いたけど、これが、「自殺」なのかどうか、親父自身もまったくわからないことなのである。たぶん自殺なんじゃないかということになっている。親父よりも10歳年上の姉」がいるのだけど、その姉である人が、真相を知っているのかどうかわからないけど、ともかく、まったく、親父の父親……その「姉」の父親について、語りたがらないのである。黙秘なのである。だから、親父は、自分の父親が自殺したのかどうかもわからないし、自殺だとしても、自殺の理由もわからないのだ。でっ、親戚の人たちというのが、まあ、いろいろいたわけだけど、複数の親戚が、みんな、幼児である親父を、虐待したのだ。これは、いちおう、理由があって、親父の父親と、親父の母親が、当時はめずらしい、駆け落ち結婚をしたのだ。父親と母親の両方が、両方の親戚づきあいをたって、結婚をした。だから、そういう人間の子どもが、自分のうちにころがりこんできたとしても、愛情なんて、まったくないということになる。愛情どころか、憎しみがあったみたいで、とにもかくにも、どこの家に行っても、虐待されるのである。でっ、一度だけ、親戚ではない人に、引き取られたのだけど、その引き取った人が、親父を引き取ったあと、すぐに死んでしまうのである。当時、幼児の親父をまともな人間としてあつかってくれたのは、この人だけだったのである。たまたま、愛情をもって接してくれた人は、すぐに死んでしまう。また、いやでいやでたまらない、親戚のうちにもどらなければならなくなる……。こういう状態でずっと暮らしてきたわけ。「たらいまわしにされた」と(親父が)言っていたけど、複数の親戚が、親父を引き取ったみたいなのだけど、どの親戚も、親父に愛情をそそがなかったのである。かわにり、憎しみをそそいで、親父をいかしておいたのである。ともかく、おいたちからして、普通じゃないのだ。だから、よその人にはわからない、態度や感覚がある。

で、ながながと書いてきたわけだけど、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度や感覚が、親父のいろいろなことに対する態度や感覚とおなじなのだ。親父や兄貴にかかわって、「すーずに行ったこと」なんて、一度もないんだよ。こっちがどれだけこまっているか、両方とも、きちがい的なレベルで理解しない。発狂的な意地で動いてしまうし、発狂的な意地で動かなくなってしまう。たとえば、発狂的な意地でヘビメタを鳴らして、絶対にやめてくれなということが、「発狂的な意地で動いてしまう」ということにあてはまる。たとえば、発狂的な意地で絶対にゆずらないようにするということが、「発狂的な意地で動かなくなってしまう」ということにあてはまる。これ、動くとということと、動かないということは、反対の方向をむいているのだけど、おなじ原理が成り立っている。これ、こまるんだよ。この、意地のはり方が、普通の人の意地のはり方ではないである。そして、普通の人なら、自分が意地をはってやった結果を、「相手」から言われれば、「相手がこう思っている」ということは、認識するのだけど、親父と兄貴の場合は、一切合切、認識しないのである。普通は、相手が言ったことにしたがわない場合でも、相手がこまっているということは、認識するものなのだけど、認識しないのである。認識がない状態、あるいは、認識が発生しない状態というのが、どうにもこうにも、普通の人とはちがうのである。感覚がぜんぜんちがう。「一クラなんでもそれはひどすぎる」というレベルと質で、相手が言っていることを無視する。認識しない。むしろ、認識しないというよりも、認識できないと言ったほうが正確なんじゃないかと思うけど、認識しない。普通の人だと、認識はするけど、やだから、無視するというような感じなのだけど、親父と兄貴は、最初から認識しないし、認識できないのである。認識できる能力がある人が、認識をして、そのあと、したがわないという行動をとるのではなくて、最初から認識できないから、認識をした場合の行動が、最初からないという状態なのだ。

2024年10月11日金曜日

そういうところに、常にギャップがあるのである

 ヘビメタ騒音をやられていれば、いわゆるポジティブ思考とは、溝ができる。ヘビメタ騒音というのが、ものすごい、ものなのである。

ものすごく、エネルギーを消費することなのである。

普通の生活エネルギーを、うばいまくるものなのである。

だから、ヘビメタ騒音をやられているときのぼくと、ヘビメタ騒音をやられていないときのぼくはちがう。「とき」というのは、一日のなかで、ヘビメタが鳴っているときと、鳴っていないときがあるという意味ではない。ヘビメタ騒音が鳴っている期間というのは、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も、ヘビメタ騒音が鳴っている時間とおなじように、つかれはてている状態なのである。

まあ、さすがになっている最中は、程度の差がある。鳴っているときのつかれ方を一〇〇だとすると、鳴っていないときのつかれ方は八九ぐらいだ。

そして、ヘビメタ騒音一日目よりも、ヘビメタ騒音一〇〇〇日目のほうが、つかれる状態の『深度』が深くなっている。

底のほうまでつかれるのである。

ともかく、これ、実際にはどんな感じかということは、実際にやられた人にしかわからないと思う。

だから、「俺だってつかれているときはある」と言っている人にはわからないつかれ方だ。そして、「俺だって騒音ぐらいある」と言っている人には、わからない騒音だ。こういう言い方をする人が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音について、知っていることなんて、なにもない。

そんな言い方で、相対化できるわけがないだろ。同質の騒音を同量だけ浴びたように、誤解するようことを言うな。同質の騒音を同量だけ浴びたという前提で、ものを言うな。それだけで、とても失礼なことだ。

他人は、実際に、きちがい兄貴と一緒に住んでいるわけではないので、実際に、きちがい兄貴の騒音が、人生のなかで続いたということがないのである。

そりゃ、騒音はある。騒音はあるのだけど、騒音の騒音がちがうのだ。これ、ほんとうに、きちがい的な人しかやらないことなのである。きちがい的な思考で、自分がやりたい音を普通の音だと書き換えてしまう人じゃないとできないことなのである。

普通の人は、そういう特殊なしくみをもってないので、きちがい兄貴のようには鳴らさない。

普通の人は、どれだけ、無視していても、聴覚が正常なのであれば、いま鳴っている音のでかさというのは、正常に知覚してしまう。

自分がものすごくでかい音で鳴らしたいので、ものすごくでかい音を鳴らして、それが普通の音だと思うことは、普通の人には、できないことなのである。

きちがいだから、できる。

そういう、きちがい兄貴のようなきちがいが少ないので、普通の人は、めったに、やられないのである。

ぼくとおなじことをやられないのである。

ぼくは、きちがい家族と一緒に住んでいたから、きちがいヘビメタ騒音を経験してしまったのである。ほかの人には、経験がない。

「俺だって騒音ぐらいあった」というひとことで、相対化できることではない。

「おなじだ」と言えることではないのだ。

けど、他人は、他人の身の上に起こったことを、小さいことだと考えがちなので、ぼくではない他人は「きちがいヘビメタ騒音なんて言ったって、小さなことだ」と考えてしまうのである。

そういうところに、常にギャップがあるのである。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなかったら、こんなことは、しょうじてないんだよ。

*     *     *

他人とあうときは、いつも、心身ともにボロボロな状態なのである。ほかの人にはわからない。まあ、生気がない人だとか、元気がない人だとか、憂鬱そうな人だとか、他人は思うだろう。

それは、ある程度、様子を見て、理解したということだ。けど、他人がこういう印象を持って、いいことがあるかというと、ない。

ヘビメタ騒音のことを言ったって、他人は、理解しない。影響のでかさを理解しない。だから、他人には、性格的に、勝手に憂鬱になっている人に見えるわけだし、性格的に、勝手に元気がない人だと見えるわけだ。

それは、他人にとっては、できれば(修正してもらいたい)内容なのである。リクエストなのである。

他人からぼくに対するリクエストなのである。

けど、きちがいヘビメタ騒音の影響で、そんなリクエストには到底、対応できない状態なのである。帰れば、きちがいヘビメタ騒音がまっているわけで、ほんとうに、憂鬱なのである。数千日にわたって、よく眠れなかったし、昨日もよく眠れなかったので、たいへんつかれた状態なのである。

これは、たとえば、ヘビメタ騒音期間中じゃないときに、「元気がない」と言われたということではない。ヘビメタ騒音期間中に「元気がない」と言われるということと、ヘビメタ騒音期間以前の期間に「元気がない」と言われることは、意味がちがうのである。

ヘビメタ騒音期間以前の期間なら、対処可能だけど、ヘビメタ騒音期間中は、対処不可能なのである。

けど、他人は、ヘビメタ騒音以前の期間と、ヘビメタ騒音期間中は、たいしたちがいがないと思っているのである。感覚的には、おなじなのである。他人は、ヘビメタ騒音以前の期間とヘビメタ騒音期間中のちがいを無視するので、ヘビメタ騒音以前の期間中の感覚で、ぼくにものを言ってくる。

そして、そういうふうに無視する他人に、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、そういうふうに無視する他人の九九%ぐらいが、説明されたあとも、ヘビメタ騒音の影響を過小評価し、あるいは、無視するので、けっきょく、他人は、おなじ態度で接してくるのである。

説明をされた場合も、説明をされなかった場合とおなじような感覚、おなじような態度で、ぼくに接してくるのである。

これ、他人にしてみれば、たしかに、ぼくのヘビメタ騒音は「どーーーでも、いいこと」であり、簡単に無視しても、まったく問題がないことなのだけど、ヘビメタ騒音は、ぼくにとって、そういう問題ではない。

無視すればなくなってしまうような問題ではないのだ。

 *     *     *

手短に言って、「過去は関係がない」とか「そんなのは関係がない」とか「鳴り終わったら関係がない」とかと言ったやつに対する、ぼくの側の怒りは、尋常ではない。とてつもなく、不愉快だ。とてつもなく……。「関係あるよ」と言って、ぶんなぐってやりたくなる。あのくるしい状態が、関係ないわけないだろ。睡眠にも、多大な影響をあたえる。関係ないわけないだろ。毎日、何時間も何時間も続いて、くるしかったよ。鳴り終わったあとも、くるしかったよ。

 たいていのやつが「鳴ってたんだろ」「けど、そんなの関係がない」というようなことを言う。「騒音があったのはわかった」「けど、鳴り終わったら関係がない」というようなことを言う。

いやーー。まったく、わかってないでしょ。

それで、「自分だって苦労した」「自分だって狂いことがたくさんあった」「自分だって騒音ぐらいあった」ということを言う。こいつらみんな、わかってない。

 「そんなことじゃない」と(俺が)言っても、こいつらは、みんな、認めない。「そんなことじゃない」と言われたあとも「そんなもんだろ」と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、他人とかかわって、いいことなんてなかった。

ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、他人とかかわって、いいことなんてなかった。

ヘビメタ騒音の影響をうけた身体で、ほかの人のまえに立つのがつらかった。

ヘビメタ騒音の影響がつみかさなった身体で、ほかの人とあうのがいやだった。

ヘビメタ騒音の影響は、他人に誤解される透明装置のようなものだ。ヘビメタ騒音の影響なんて、他人には見えない

 ヘビメタ騒音がはじまってから、他人とかかわって、いいことなんてあったっけ、なぁーー。

ないなぁ。

ない。

どうしても、ヘビメタ騒音が穴ぼこになる。ヘビメタ騒音というのが、特殊すぎて、他人にはわからないのである。ヘビメタがわからないという意味ではなくて、兄貴のヘビメタ騒音が特殊すぎてわからない。兄貴のやり方が特殊すぎてわからない。兄貴のやり方が特殊すぎるので、おなじ経験をした人がいないのである。だから、みんな、誤解をする。みんな、誤解をして、俺に、敵意をもつようになる。みんな誤解をして、俺のことを、なめてかかってくる。

これが、ヘビメタ騒音のことをかくすときも、かくさないときも、それぞれ、ほんとうに、へんなのろいのような効果をもたらして、俺にたたるのである。

これ、実際に、きちがい家族にやられて、相対的に低い立場になったことがある人じゃないとわからないと思う。どれだけの誤解がしょうじるかわからないと思う。そして、世の中には、「じゅんあにき」のような、へんなやつがいるんだよ。頭がおかしいやつがいる。あるいは、「じゅんおやじ」のような、へんなやつがいる。普通のやつだって、きちがいヘビメタ騒音というブラックホールをかかえていると、いろいろと誤解をうける。アルバイト先にきちがい野郎がいたのだけど……これも、ほんとうに、言いがたいきちがいなんだけど……きちがい野郎が、ほかの人が、俺のことをうらむようなことを、言いやがるのである。

きちがいヘビメタで、相対的に低い立場になると、ほんとうに、へんなぐあいに、悪いことがしょうじるのである。これ、言いがたいんだよな。「過去は関係がない」と言うやつが、無理なことを言ってくるというのも、ヘビメタ騒音がけっきょく、影響している。

「過去は関係がない」と言う人は、いちおう、ヘビメタ騒音が鳴ってたんだなということは、理解するけど、ヘビメタ騒音の影響は、まったく理解してないのである。けど、まったく理解していないということがわからないのである。

だから、勝手に誤解をして、勝手に、なめてかかってくる。これだって、ヘビメタ騒音がなければ、発生しなかったことなんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がなければ、ヘビメタ騒音の影響について誤解されることもないし、俺が相対的に低い立場になって、なめられたことを言われるということもないんだよ。

「過去は関係がない」と言ってくるやつは、俺のことをなめている。こいつだって、ほんとうに、同質の、同量の騒音生活をすれば、通勤して働くということがどうしてもできなくなる。能力にあった学歴を獲得することができなくなる。

けど、「過去は関係がない」と言ってくるやつの誤解は、まだまだ、単純なんだよ。これ、ほんとうに、へんな人……準きちがい?がかかわると、ものすごく、やっかいなことになる。準きちがいが、ほかの人に、影響をあたえるのである。これ、ほんとうに、言いがたいものがある。

きちがいヘビメタにやられると、きちがいヘビメタが穴ぼこになって、ほかの人から、誤解をされるのである。

言いがたいし、どれだけ言ったって、他人はわからないと思うけど……ほんとうに、自動的に他人が誤解をする装置を、つけられたような感じなんだよな。

ヘビメタ騒音の影響は、他人に誤解される透明装置のようなものだ。

他人には、きちがい兄貴という、きちがいブラックホールが見えないので、自動的に誤解をするようになるのである。自動的に「俺について」誤解をすることになる。

きちがいブラックホールが見えないのだから、しかたがない。影響をうけるに決まっているのに……ああいうきちがい的なやり方で、十数年も毎日毎日やられれば、影響をうけるに決まっているのに、ほかの人には、影響が見えないのである。影響がわからないのである。

きちがい的なやり方でやられれば、影響をうけるのに、ほかの人には見えないのである。影響が見えないのである。

だから、ほかの人は、自動的に誤解をするのである。まあ、ほかの人は、きちがい的な家族に、きちがい的なやり方で、十数年も毎日、きちがい行為をされたことがないので、ほんとうに、どういう影響があるか、体験的にはわからない。経験的にはわからない。

けど、わかったつもりになるのである。どうしてかというと、「騒音」という、ほかの人にとっても、なじみがある問題だからだ。けど、ちがうのである。

きちがい親父のハンダゴテ事件についてちゃんと理解しできる他人は、めずらしい。言葉にして、説明したって、たいていの人はわからない。関心もないだろう。自分のことではないから関心がないし、きちがい的な親がやることがわかってないから、関心がない。

だから、そういう意味で、他人が経験したことがないことなのである。

けど、親とのもめごとというのは、他人だって経験しているので、「俺だって経験した」と言えることなのである。けど、きちがい的な親とのもめごとと、正常な親とのもめごとは、ちがうのである。質において、決定的なちがいがある。

それだって、ここでずっと、説明してきたけど、わからない人にはわからない。説明を読んだって、わからない人にはわからない。

他人というのは、ハンダゴテ事件のような誤解をする。誤解をするのがデフォルトだ。出来事を理解してないのである。そして、自分の常識にあわせて、まちがった解釈をするのである。これが、デフォルトだ。

ハンダゴテ事件じゃなくて、ヘビメタ騒音事件のことだけど「そんなにでかい音で鳴っているのに、親が文句を言わないのはおかしい。だから、本当はそんなにでかい音で鳴ってないにちがいがない」と勝手に誤解をしてしまうのである。

「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんは、しずかにしてくれるはずだ」と勝手に誤解をしてしまうのである。

こんなの、うちのなかにいるときのきちがい兄貴の状態がわかってないから、言えることなんだぞ。こんなの、うちのなかにいるときのきちがい親父の状態がわかってないから、言えることなんだぞ。

*     *     *

「そんなのは、関係ない」「ヘビメタ騒音なんて、関係ない」「過去は関係がない」というのは、表現はちがうけど、みんな、おなじ意味になる。

そいつらのまえにいるぼくは、ヘビメタ騒音の影響をずっとうけてきたぼくなのである。そいつらのまえにいるぼくは、ヘビメタ騒音の影響をうけたぼくなのである。

過去?

関係あるよ。

ヘビメタ騒音?

関係あるよ。

そいつらには見えないけど、ヘビメタ騒音の影響をうけた身体なんだよ。今現在、大きく影響をうけているんだよ。今現在、ヘビメタ騒音の影響をうけて、いるんだよ。そいつらが勝手に無視するだけだ。

けど、この無視は、他人にとっては当たり前なのである。そりゃ、ヘビメタ騒音なんて見えないしな。そりゃ、ヘビメタ騒音の影響なんて、見えないしな。

けど、ヘビメタ騒音の影響をうけた身体なんだよ。

たった一日でも、きちがい兄貴のやり方だと、大きな、大きな影響をうける。どれだけ、影響をうけたくなくても、浴びせられれば、影響をうける。何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も浴びせられれば、影響をうける。

日曜日なんて、十三時間以上やられる。月曜日に影響しないわけがないだろ。月曜日のからだは、日曜日に十三時間以上、浴びせられたからだなんだよ。平日だって七時間ぐらいは、浴びせられる。学校から帰ったあとの七時間が、つらいのである。

どれだけがんばっても、宿題ができないのである。

どれだけがんばって眠ろうとしても、眠れないのである。つかれはてて、ボロボロになっているのに、眠れないのである。次の日に影響が出て、当然だ。

けど、家で鳴っているわけだから、学校に行けば、学校のみんなは、ヘビメタ騒音の影響をうけたぼくを、ヘビメタ騒音の影響をうけてないぼくだと思うのである。

無味、無臭なんだから。

ヘビメタ騒音の影響は、無味、無臭だ。見えない。だから、必然的に、(他人は)勘違いをするのである。

それとおなじことが、大人になっても、成り立つのである。ずっと、ヘビメタ騒音の影響をうけ続けたからだだから、どうしてもできないことというのがある。

ちなみに、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったらできたことなんだよ。たとえば、一定の時刻に起きて、一定の時刻に同じ場所に行くことは、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったときは、普通にできたことなんだよ。

夜眠ることは、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったときは、普通にできたことなんだよ。けど、この普通にできたことが、どうしても、どうしても、できなくなる。

問題の深刻さが、きちがいヘビメタ騒音をあびてない……他人には、わからない。

まったく、見えない。ヘビメタ騒音を浴びた俺の身体と、ヘビメタ騒音を浴びてないときの俺の身体は、まったくちがう身体なんだよ。

けど、ヘビメタ騒音を浴びてない身体と、ヘビメタ騒音を浴びた身体は、他人には、おなじように見える。 ヘビメタ騒音の影響なんて、他人には見えない。

ヘビメタ騒音を浴びなければ、宿題はできるんだよ。けど、ヘビメタ騒音を浴びるとどうしてもできなくなるんだよ。「どうしてもできなくなる」という部分が、実際に、うちに住んで、俺とおなじヘビメタ騒音をあびてない人にはわからない。

きちがい兄貴が鳴らしているとき、俺の部屋にいない人には、わからない。

ヘビメタ騒音の影響は、無味無臭で、見えないから、ほかの人には、わからない。

けど、影響はある。影響をうけた身体で、ほかの人のまえに立っている。

俺は、ヘビメタ騒音の影響をうけた身体で、ほかの人のまえに立っている。

2024年10月10日木曜日

あーーあ。つまんない。

  あーーあ。つまんない。なんとか、時間をつぶして、生きのこらないとなぁ。あーーあ。俺の人生はなんだったのか? ほんとう、そうだよなぁ。

ほんとうに、どんだけいろいろなことがあったか。それも、くるしいことばかりだった。楽しいことと、くるしいこと……。断然、くるしい。そもそも、この家のなかで生きるということが、たいへんだった。きちがい兄貴ときちがい親父がいるからなぁ。頭がおかしいやつは、普通に、頭がおかしいことをするのである。別に、なにか悪いことを企んで、悪いことをするのではなくて、普通に、悪いことをする。そして、迷惑をかけているとは絶対に思わない。これは、言われないから気がつかないのではなくて、どれだけ言われても、気がつかない。発狂して、はねのけて、気がつかない。絶対の意地で、自分がやりたいことをするけど、その行為が、相手にとって、迷惑な行為になっているとは、絶対に考えない。どれだけ言われても、考え方をかえることがない。親父なんて、さらに狂っていて、頭がおかしいことで、怒り狂う。これだって、見方をかえれば、あるいは、言い方をかえれば、迷惑行為なんだよ。けど、迷惑行為だということを認めることがないのである。たとえば、幼児である子どもに、いちゃもんをつけて、あらがえるということをするとする。理由がないことなので、迷惑なんだよ。けど、親父のほうが死にものぐるいなんだよ。なにかひどいことをやられたように、怒り狂うんだよ。親父のなかでは、自分の怒りに匹敵するようことを、幼児がやったということになっているのである。もちろん、感情の世界だ。発狂すれば、それで、本人のなかでは、すんでしまう。やけを起こして、わけのわからないことで、怒り狂って、怒りを発散させれば、それで、本人のなかでは、すんでしまうのである。けど、やったことなんだよ。やってないことじゃない。けど、けど、本人が、これまた、へんなぐあいに、忘れちゃう。わけのわからないことや、頭がおかしいほど、細かいこと?で、怒り狂って、爆発に爆発を続けるのだけど、そんなのは、本人は、しったことじゃないのである。これ、言いがたいんだよな。ネズミをおびき寄せた、魚のことだって、「それをみとめるとなると」立場が悪くなるので、発狂して、否定する。魚をのせた皿を片づけてくれと言われたときは、発狂して、片づけないようにするのである。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音も、きちがい兄貴にとっては、そんなものなのである。一日分だけでも、俺がこまったか。「このままじゃ、人生がまっくらやみだ」と、俺がどれだけ、不愉快な気持で、思ったか。思い続けたか。毎日そういうことが続くんだよ。毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ずっと、何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も続いたことが、人生に影響をあたえないわけがないだろ。鳴っている期間中だって、一日のなかで、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったら、鳴り終わった」ということになる。他人にしてみれば、「いま鳴っていないのだから関係がない」ということになる。変形としては「過去は関係がない」という言い方になる。関係あるんだよ。この、現実的ではない、妄想的な前提に立って、ものを言うやつらのほうが、俺よりも、身分が上?……立場が上だったら、こいつらもこいつらで、絶対に「影響がある」ということとを認めないんだよ。ともかく、なっている期間中の、一日のなかで鳴っていない時間だって、めちゃくちゃにつらい状態になる。それがわかってない。わかってないやつらが、「過去は関係がない」という。「鳴り終わったら、関係がない」という。影響があるのに、こっちのことを下に見て、言うことを聞かない。この場合における「言うことを聞かない」というのは、俺が言っていることを認めないという意味だ。どうして、ぼくが、そいつらに対して劣位になるかというと、ヘビメタ騒音で勉強することができなかったからなのだ。どうして、ぼくが、そいつらに対して劣位になるかというと、ヘビメタ騒音で、体力をなくしたからだ。どうして、ぼくが、そいつらに対して劣位になるかというと、ヘビメタ騒音で働く能力をなくしたからだ。ほんとうに、きちがいヘビメタで、働けないようになる。普通に起きることができくなる。ところが、「俺だって苦労した」と言うやつが、影響を認めないのである。こいつらのうちには、きちがいがそくがいないから、俺が経験した苦労を、こいつらは、していないのである。同量の苦労をしてない。同質の苦労をしてない。俺だって、きちがいヘビメタ騒音がなかったら、こいつらのように、体力があり、こいつらのように能力があり、こいつらのように、働くことができた。はっきりいうと、こいつらよりも、勉強もできたし、生活体力もあった。けど、それが粉々になってしまうような、ヘビメタ騒音なのである。できくなるヘビメタ騒音なのである。能力をうしなうヘビメタ騒音なのである。まるで、俺が、最初からできないように、あつかいやがって。おなじ経験をしてないから、能力をうしなわかっただけのやつらが、えらそうに説教をしてくる。

2024年10月7日月曜日

兄貴自身の「矛盾した部分」が、よその人たちの思考に「矛盾」としてあらわれてしまう

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、ほんとうにひどいんだよ。よそのうちでは、絶対に一日に一分間だってなってないような音で、ずっと鳴っているんだよ。でかい音で鳴っているわけ。至近距離で聞かされるぼくには、無視するという選択肢はない。そりゃ、放射能をあびれば、放射能を浴びたというとになる。放射能を浴びているけど、無視すれば、放射能をどれだけ浴びても、浴びていないということになる……わけじゃない。もちろん、きちがい兄貴は、気持ちがいいから、どでかい音で鳴らしているわけ。だから、放射能とはちがうということになるのだけど、ぼくにとっては、放射能とおなじなんだよ。耳栓をしたって、きつく手で、両耳をふさいだって、「ものすごい音」でヘビメタ騒音がせめてくる。けど、きちがい兄貴は、「しずかな音で鳴らしている」と思っている。「普通のよくある音で鳴らしている』と思っている。その自己催眠の効果が、みごとなので、ほかの人が、ぼくのことを疑うようになってしまのである。「そんなでかい音で鳴っているわけがない」「そんなでかい音で鳴っているのに、ほかの家族が注意しないなんておかしい」と思うわけ。だから、ぼくが嘘を言っていると思っている人は、ぼくのいろいろなことをうたがって、解釈をつくりだすようになる。「ほんとうは、お兄さんは、普通の音で鳴らしているのに、神経質なエイリが、うるさいと言っているだけだ」「ほんとうは、そんなにでかい音で鳴らしてないのに、エイリさんが大げさに言っているだけだ」ということになってしまうのである。疑いを持った普通の人の頭のなかではそうなってしまう。そして、ヘビメタ騒音の結果、無職になれば、「無職になったいいわけをしている」「お兄さんの騒音のせいにしている」と思うわけ。どれだけ、いろいろなことで、うたがいをもたれるか、きちがい家族……きちがい兄貴とおなじように、きちがい的な意地で、きちがい的な音を鳴らし続ける家族と……一緒に暮らした人じゃないと、わからない。その人が、ほかのところで、どれだけいい意思をもっていたとしても……その人が、俺のことをうたがって、いろいろなことを誤解してしまうということになれば、その人は、ぼくにとって、悪い意思をもっているということになる。その人が、、どれだけいい性格をしていたとしても……俺のことをうたがって、いろいろなことを誤解してしまうということになれば、その人は、ぼくにとって、「悪い性格の人だ」というとになる。そりゃ、そうだろ。悪意のかたまりのような存在になる。どれだけ誤解してるんだよ!と言って、なぐりたくなる。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴自身を、うまい具合にだましているので、俺がほかの人から、うたがわれるようになるのである。そして、ほかの人は、実際に、きちがい兄貴のような家族に、騒音で、虐待されたことがないので、実際に経験してないという意味で、きちがい兄貴のような家族が出す、騒音が、どれだけ、「やられているほうの」すべての能力に影響をあたえるかということが、わかってない。わかっていなければ、これもまた、「ない」のとおなじなんだよ。だから、よその人は、やられてないという意味で、普通に、やられた俺の「分量」を無視する。「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、同質の、同量の騒音があったということになってしまうのである。その人の頭のなかでは、そうなる。

きちがい兄貴自身の「矛盾した部分」が、よその人たちの思考に「矛盾」としてあらわれてしまうのである。 矛盾を解決しようとすると、俺の言っていることを信じないという解決方法を思いつくのである。そして、それは、経験則から言って、ありえないことなので、エイリが「うそを言っている」と決めつけてしまうのである。いったん決めつけたら、俺が妄想の持ち主だから「ものすごい音のでかさでヘビメタ騒音が鳴っていた」と妄想を言っていると思ってしまうのである。そうなると、ぼくが、実際には、兄貴がやっていないことについて、兄貴に関して、文句を言っているということになる。そういう意味で、「人のせいにする人だ」ということになってしまうのである。「宿題ができない」ということも、お兄さんのせいにしているだけだということになってしまうのである。「勉強するができない」ということも、お兄さんのせいにしているだけだということになってしまうのである。妄想をもっているエイリが、ただ単に浪人しているだけなんだということになってしまうので。もうそうをもっているエイリが、ただ単に、無職になっただけだと思ってしまうの出る。けど、そういうふうに言う人たちだって、実際に、おなじ質の、おなじ分量のヘビメタ騒音相当の騒音を、あれだけの時間、毎日毎日浴びせられたら、「宿題ができなくなる」し「勉強することができなくなる」し「(入学試験に失敗して)浪人するようになる」し「(働けなくなって)無職になる」のである。ところが、自分のことじゃないからわからない。自分の経験ではないので、実際の「影響」がまったくわかってないのである。相手の身になって考えるということが不得意な人は、「自分だってそのくらいやれたら、働けなくなる」とは考えずに、「自分だったら、そのくらいやられても働ける」と軽く考えて「人は働くべきだ」と言ってくるようになるのである。

「でかい音で鳴らしている」ということが、最後の最後まで、わからないということになる

 さっき、重装備で横の部屋の片づけをやろうかと思った。重装備というのは、上下とも、レインコートを着るということだ。そして、防毒マスク系のマスクをして、ビニール袋を頭からかぶるのだ。もちろん、呼吸ができるように、マスクの吸気口部分を、外に出す。防毒マスクは、一方向のみに突起物がある防毒マスクで、二方向に突起物がある防毒マスクは使えない。ようするに、ビニールをマスクの突起部分にあわせて、やぶくのだ。これについて、以前、書こうと思ったけど、書かなかった。というのは、ぼくが小さいころに、ビニールを頭からかぶって、窒息死した子どもがいたのだ。いや、知り合いじゃなくて、そういうニュースがあった。ともかく、「ビニール袋を頭からかぶっちゃいけないよ」ということを付け加えておく。ビニール袋をかぶるのと、防毒マスクの突起部分をあけてビニール袋をかぶるのはちがう。けど、だれかが、ビニール袋をかぶって、窒息死してしまうといやだなという気持があるのだ。まあ、神経質なんだけど、そういうことも、気にしてしまう。絶対に、頭からビニール袋をかぶっちゃだめだよ!!


窒息死した子どもというのは、たぶん、「吸うこと」だけに、意識が集中しちゃったんだな。吸うと、ビニール袋の内側が口にくっついて呼吸ができなくなる。というわけで、まず、口のところのビニール袋に穴をあけるか、ビニール袋を「ぬがなければ」ならない。けど、幼児だと、ビニール袋をぬぐというか、はずすことに、頭がまわらなかったんだろうなぁ。ビニール袋の厚みとかたさ……つまりやぶきにくさ……と、ビニール袋と頭の密着度が気になる。なんか、かなしい事件だよなぁ。まあ、その事件以降、そういう事件は聞いたことがない。

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こうしないと、顔をダニに刺される可能性があるのだ。顔をダニに刺されると、へこむので、しかたがないから、こうしている。だから、基本、きちがい親父が、ネズミシートでネズミを捕るということにこだわらず、ネズミ対策工事をするということに賛成してくれたらよかったんただけど、そうはならなかった。まあ、そのまえに、きちがい親父が、二か月間ぐらい、毎日、魚をテーブルの上に出しっぱなしにするというが問題だった。1日に23時間ぐらいずっと出しっぱなしにする。これも、部屋中、におっているのに、親父がにおっているということを認めない。「におっているから、冷蔵庫に入れろ」と言っても、「におってないよ」「におってないよ」「におってないよ」「におってないよ」と絶叫して入れようとしないのだ。「くさいだろ」とこっちが言うと、「くさくないよ」「くさくないよ」「くさくないよ」「くさくないよ」「くさくないよ」とくさいというとを認めないのだ。こういう態度が、ずっと続くんだよね。いちいち、こういうところで、ぎくしゃくして、うまくいかないのである。こういうことが、別のことでも、いっぱいあるのだ。主なのは、ネズミ関連、竹関連、自転車関連、アンテナ関連のことだけど、いろいろなことで、こうなるのだ。これは、きちがい親父の頭の問題だ。けど、じゃあ、きちがい親父の頭の問題だと、問題を切り分けてかかわらないようにすればいいということではないのだ。実際に、テーブルの上に、くさい魚をおいておくということについて、かかわらないようにしても、ネズミが入ってくれば、ネズミが入ってきたという問題がしょうじる。アドラー心理学では、無視しようと思えば無視できるということになっている。けど、いっしょに住んでいるのであれば、きちがいがやることを無視できない場合もある。アドラーこそ、こういう、きちがい的な親がいる家のことを無視している。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、きちがい兄貴の頭の問題だと、問題を切り分けて考えれば、それでいいのかというと、そうではないのだ。こういうことを、アドラーは無視している。きちがい兄貴が、きちがいだから、よそのうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしたのだ。そして、きちがい兄貴がきちがいだから、でかい音で鳴らしているということに、最後の最後まで「気がつかなかった」のだ。そして、きちがい兄貴がきちがいなので、「ゆずる」ということができなかったのだ。〇・一デシベルでもゆずってやれば、ものすごくゆずってやった気持ちになり、もうそれ以上ゆずる必要がないと思ってしまうのだ。だから、きちがい兄貴も、きちがい親父とおなじで「ゆずったゆずった」「ゆずってやったゆずってやった」と言って、絶対に、ゆずらないのである。きちがい兄貴の頭のなかでは、1・デシベルだろうが、自分がゆずってやったら、それでゆずってやったことになってしまうのである。もともと、ものすごい大音響で鳴らしていれば、〇・一デシベルゆずっても、ぜんぜんしずかにならない。〇・一デシベルゆずった時点で、大音響で鳴らしている。けど、きちがい兄貴は、自分が大音響で鳴らしたいので、大音響で鳴らしているということを、認めない。この、認めないという状態がおかしいのだけど、認めない。無意識的なレベルで、認めたくないから、感覚器を書き換えて認めないということをするのだけど、意識の部分では、ほんとうに大音響で鳴らしてないということになっているのだ。ようするに、大音響で鳴らしているということに、最後まで、気がつかない。自分の意地を通したいとき、嘘をつくという方法がある。大音響で鳴らしてたって、大音響で鳴らしているということを無視して、大音響で鳴らしているということ自体を認めない。そうすれば、自分の意地を通すことができる。最初からやってないということにしてしまうわけだ。けど、普通の人だと、そういうことができない。自分だ大音響で鳴らしていて、自分の聴覚が正常なら、「気持ち」に関係なく、無意識的な規制が働かないから、大音響で鳴らしているということはちかくしてしまう。しかし、無意識的な規制が働く、きちがい兄貴のようなタイプだと、自分の意地を通すために、「やったってやってない」ということにしてまうのだ。本人の意識では、「でかい音」じゃないのである。じゃあ、他人が、その音のでかさで、なにかの音を鳴らしていたら、「でかい音だ」と感じないかというと、そうではないのである。他人が出す音場合は、無意識的な機制がかかわらないので、「でかい音」だということが、わかるのである。けど、自分が「でかい音」で鳴らしたいときは、無意識的な規制が働いて、「でかい音で鳴らしている」ということが、最後の最後まで、わからないということになる。わからなければ、「普通の音で鳴らしているんだから、いいんだ」ということになる。「普通の音で鳴らしているのに、文句を言ってくる相手が悪い」と腹をたてて、でかい音で鳴らすことになる。

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たとえば、ダニに刺されると、あとが残る場合がある。ダニの種類によるけど、あとが残る場合がある。実際に、手の甲に、ダニに刺されたあとが残っている。こういうことと、「やりたくないなぁ」と思う気持は、無関係じゃない。こういう出来事と関係なく、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるわけではない。ところが、中立的な状態で「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなったような気がするというような経験がある人が「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と一般化してしまう。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と「どんな状態でも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とは、意味的に等価なので、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」はまちがったことを言っているということになる。状態によっては、「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないのである。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と法則性があるようなことを言うけど、法則性なんてない。「どんな状態だって」と付け足す場合があるけど、本人が、「どんな状態だって」ということについて、うまく考えられないだけだ。自分が、中立的な状態で「楽しい楽しい」と言ったら、楽しく感じた。「だから、どな状態だって、楽しく感じる(はずだ)……これが真理だ」と考えてしまうのである。そして、自分が起こったときに「楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という事実は、簡単に無視されてしまう。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言っている人たちは、じつは、「自分が楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」場合は、無視している。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言霊的なことを考えているときは、自分が普段感じていることを無視してしまうのだ。言霊主義者だって、言霊理論を否定されたら、楽しくないわけで、そのとき「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。言霊主義者なんて、ぼくの知っている範囲では、みんな、例外なく、おこるということになる。言霊理論を、理論的に否定されると、言霊主義者は、(僕の知っている範囲では)みんな、おこる。そのおこったとき……「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないで、おこっているままなのだ。けど、そういうことは、無視してしまうのである。

言霊主義者だって、毎日の長時間通勤でボロボロにつかれはてているとき「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。けど、そういうことは、無視してしまう。中立的な状態、あるいは、「元気だ元気だと言って自分を鼓舞しよう」というエネルギーが残っているときに、「元気だ元気だと言ったら、なんとなく、元気が出たような気がした」というような記憶だけを残して、ボロボロにつかれはてているときに「元気だ元気だと言っても、元気にならなかった」という記憶は、消してしまうのだ。記憶に残さないようにしているのだ。だから、いつも「元気だ元気だと言えば、元気になる」と思っているだけなのだ。そして、もっと言ってしまうと、ボロボロにつかれているときは、「元気だ元気だと言って、自分を鼓舞する気持ちにもならないので、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということを忘れてしまって、言霊的な方法をこころみることすらしないということになる。言霊的な方法というのは、この場合は「元気だ元気だと言うこと」だ。「元気だ元気だ」と言えば元気になるのだから、ほんとうは、ボロボロにつかれているときに、「元気だ元気だ」と言って、元気になるようにしなければならないのである。ことろが、ボロボロにつかれているときは、そんなことは思いつかない。「元気だ元気だ」と言えば、元気になるのであれば、ボロボロにつかれている状態なんて、最初から、ないのである。だいたい「自分はつかれない」と言えば、それ以降、つかれることがないのである。言霊理論が正しければ、そうなる。

2024年10月6日日曜日

現在における影響を、同等の経験をしたものが、無視するわけがない

 ボロボロになって、最大限の努力をしても、からだがこわれていくのである。この世で、一番きらいな音のなかで、ずっとすごすということが、どういうことなのか、まったくわかってないやつらが、この世で、一番嫌いな音のなかで、ずっとすごす影響についてわかるわけがない。勝手に、「俺だって苦労した」と言って、同等の苦労をしたことにしてしまうだけだ。けど、同等の苦労なんてしているわけがない。同等の苦労をしていたら、俺が言っていることがわかる。俺が言っていることが、まったくわからないのだから、同等の苦労なんてしない。同等の苦労をしていたら、俺が言っていることに同意して理解を示してくれる。自分だってそうだと言ってくれる。ところが、こいつらは、「人間は働くべきだ」「過去は関係がない」「影響なんてない」「そんなの気にしなければいいんだ」「そんなのはあまえだ」「家族が注意しないなんておかしい」「ちゃんと言えばわかってくれる」「そんなに騒音が鳴っているわけがない」「エイリさんは嘘を言っている」と言ってくる。同等の苦労を経験したことがないから、影響がわからない。その日の影響がわらない。これは、一日のなかで、その日のヘビメタ騒音がどういう影響をあたえるかということがわからないという意味だ。そして、その期間の影響がわからない。これは、ヘビメタ騒音期間中のなかで、つもりにつもったヘビメタ騒音の毎日が、(現時点に)どういう影響をあたえているのかわからないという意味だ。毎日毎日やられたら、つもる。これがわかってない。だから、「過去なんて関係がない」と言う。「こだわっているからダメなんだ」と言う。ヘビメタ騒音で働けないなんていうのは、あまえだ」と言う。ほかの人には、きちがい家族がおらず、きちがい家族の影響をうけてない。それもわかってないから、「同等の苦労をした」という意味で「俺だって苦労をした」と言ってしまう。これは、ようするに、同等の苦労をした俺が働けるのだから、働ける」「同等の苦労した俺が働いているのに、同等の苦労をしたエイリが働けないのは、あまえだ」ということだ。ようするに、「同等の苦労をした」ということが前提にある。けど、同等の苦労なんてしていないのである。同等の苦労なんて経験したことがないのである。どうしてなら、でかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているということを、無意識的に無視してしまうようなきちがい家族と暮らしたことがないからだ。そして、そういうきちがい家族が、実際に、きちがい的な意地で、よそのうちでは、絶対にありえないきちがい的な音を、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、こだわって、こだわって、鳴らさなかったからだ。実際に、鳴らしてないのに、「同等の苦労をした」ということを前提にしてしまう。こういうまちがった前提の上に立つ、発言だ。正しいわけがない。経験がないから、……実際に自分の身の上にしょうじたことではないから……ヘビメタ騒音の影響を過小評価したり、無視している。過小評価したり、無視しているということに、気がつかない。「人間は働くべきだ」「過去は関係がない」「影響なんてない」「そんなの気にしなければいいんだ」「そんなのはあまえだ」「こだわっているからダメなんだ」と言っているときは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したり、ヘビメタ騒音の影響を無視しているということを、忘れてしまっている。

ほんとうは、同等の苦労なんて経験したことがないのに、同等の苦労をしたことにしてしまい、ヘビメタ騒音を過小評価したり、無視したりして、頭がおかしいことを言ってくるのが、普通の人たちだ。普通の人たちには、きちがい家族がいない。きちがい家族が、自分の一番苦手な音をずっと鳴らすという経験がない。たとえば、一〇年以上にわたって、毎日毎日、自分の一番苦手な音を、いっしょに住んでいる家族が、大音響で鳴らしたということが、人生のなかで発生してない。だから、一〇年以上にわたって、毎日毎日、自分の一番苦手な音を、いっしょに住んでいる家族によって、大音響で鳴らされたという経験がない。経験がないなら、経験がないら、経験がないんだよ。そして、この経験がもたらす影響をガン無視するなら、同等の経験がないんだよ。同等の経験をもっているものが、「影響」を無視するわけがない。「影響」というのは、「現時点での影響」のことだ。「現在における影響」のことだ。現在における影響を、同等の経験をしたものが、無視するわけがない。その人においても、無視できない影響が残っているから、その人自身の影響を無視できないように、(エイリにおける影響も)無視できない。勝手に無視して、勝手なことを言いやがって。それで、いいことをしたつもりでいる。それで、いいことを言ったつもりでいる。自分は正しい助言をしたと思っている。自分は正しいことを言ったと思っている。

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同等の家族がいなければ、同等の経験なんて、するはずがないんだよ。おまえら、勘違いしている。きちがい家族といっしょに住んだことがない人は、ぼくと、同等の経験をすることは、できない。なので、同等の経験はない。同等の経験がないのに、同等の経験があるという前提で、ものを言うな。

「ちゃんと言えば、つたわる」「ちゃんと、家族で話をすればいい」「ちゃんと言えば、やめてくれる」……。これも、同等の経験がないやつが言うことだ。きちがい家族といっしょに暮らしたことがないやつが言うことだ。おまえら、まちがっている。おまえら、勘違いをしている。勘違いをして、できないことをできるように言うな。これだと、きちがい家族にやられた人が、ちゃんと、きちがい家族に言わないからダメなんだ」ということになってしまう。けど、それはちがう。こいつらも、同等の苦労をした言うやつらなんだけど、同等の苦労をしているわけがないだろ。きちがい家族といっしょに住んでいないのに、きちがい家族といっしょに住んだ場合の苦労なんて、経験するわけがない。だから、苦労の質がちがう。苦労の量がちがう。

2024年10月5日土曜日

必然的にそうなる

 この、くそ凡人の言い分……普通の人たちの言い分というのが、ことのごとく、俺の状況を無視したものなのである。自分らだって、ほんとうに、きちがい兄貴みたいな家族がいて、きちがい感覚で、自分がきらいな音を、あの時間の長さ、あの音のでかさで鳴らしたら、一日がめちゃくちゃになるのに、それがわからない。あの音のなかで勉強ができないのに、それがわからない。そして、鳴り終わったあとも、はげしく影響をうけた状態で暮らしているということが、わからない。だから、常識や自分の感覚にしたがって、好き勝手なことを言ってくる。もう、ほんとうに、こんな人生いやなのである。ほんとうに、きちがい兄貴にやられて、凡人になめられる。凡人が、俺にダメ出しをしてくるようなことばかり、きちがい兄貴がする。そして、凡人は凡人で、自分が、ほんとうに、おなじ期間、おなじ量やられたら、「できなくなる」ということが、わからない。無視する。そして、やられてない感覚でものを言ってくる。けど、「俺だって苦労、した」と言えば、それで、おなじことを、おなじぶん量だけ、おなじ期間の長さ、やられたことにしてしまうのである。だから、わかって言っているということになってしまう。ほんとうは、なにもわかってないのに、わかっているつもりで、バカにしてくる。なめてくる。必然的にそうなる。 

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こんなことを言う凡人といっしょにいて、おもしろいわけがない。「おもしろいわけがない」ということは、凡人にもわかるかな?

乖離

 ヘビメタ騒音が鳴っていると、どうしても、できなくなるのである。ヘビメタ騒音が鳴っていると、どうしても、適応できなくなるのである。これ、事実なんだけど、きちがい兄貴みたいな兄貴がいる人じゃないとわからない。みんな、軽く見る。「どうにかなること」だと思う。だか、ぼくが感じる「どうにもならない状態」と他人が見なす「どうにかなる状態」が、どんどん、乖離していくことになる。それを、表現すると、くそ凡人が「こだわっている」と言い出す。ほんとうに、くそ凡人。考えてみろ。きちがいヘビメタがなかったら、くそ凡人が、「こだわっている」と言ってくることはなかったんだよ。このくそ凡人だって、「どうにかなる状態」だと思っているんだろ。地獄だよ。他人がみんな敵になる。きちがい兄貴が、すっとぼけた状態で、きちがいヘビメタを鳴らすと、自動的にそうなる。でっ、こっちにしてみれば、ヘビメタ騒音が鳴っているときは、パニックだし、どれだけ影響をうけないようにしても、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も、めちゃくちゃなんだよ。これは、実際に、自分がきらいな音を、あの至近距離で、爆音で、聞けば、わかる。聞かされれば、わかる。聞かされ続ければわかる。けど、ほかのうちには、きちがい兄貴のような非常識な人がいない。あんなでかい音……あんなに非常識な音で鳴らしていて、常識的な音で鳴らしていると、思い込んでいる人間がいない。きちがいだから、普通にそうできる。きちがいだから、ほんとうにまったく気にしない。「やってない」のと同じつもりでいる。「まったく鳴らしてない」のとおなじつもりでいる。きちがいだから、そうなんだよ。けど、他人は、「きちがいだからそうだ」という点を、見逃す。そして、ヘビメタ騒音全体を、過小評価する。「自分だったら平気だ」と思ってしまう。そして、現実離れしたことを言ってくる。けど、これだって、言っている本人してみれば、「現実離れしたこと」じゃないんだよ。

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いま、けっこうでかい音で工事の音が鳴っているけど、ちがうんだよね。たしかに、不愉快なんだけど、ちがうんだよね。たとえば、この音のなかで、勉強ができるかと言えば、できるんだよね。不愉快だし、効率は、さがるのだろうけど、できる。けど、至近距離の、あのきちがいヘビメタ騒音だと、まったくできない。どれだけやろうとしても、まったくできない。やれるのと、まったくやれないのとでは、ちがう。そして、たしかに、でかい音で、工事の音が鳴っているのは、不愉快なんだけど、そんなにメンタルがやられない。たしかに、がががががががーーーと、道路工事の音とチェーンソーでものを切るような音が鳴っていて、いやなんだけど、それでも、きちがいヘビメタ騒音が鳴っているときのような、「圧迫感」はない。あの地獄はない。きちがい兄貴がきちがいだからそういうことがしょうじる。ずっとしょうじる。けど、他人は、こっちをせめるのだ。「そんなの、たいしたことがない」「そんなの、お兄さんをしずかにさせることができないやつが悪い」……他人の反応はこういうものだ。

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たとえば、きちがいヘビメタ騒音がなければ、家庭教師や塾のバイトをやって、自分のカネをかせぐことができた。その金を使って、きちがいヘビメタ騒音にたたられてない、ぼくの普通の気持ちで、女の子とつきあうことができた。そういうことを、全部、破壊するんだよ。毎日、きちがい的な意地で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、よその家では、ありえない、きちがい騒音を鳴らし続けて、破壊する。

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きちがい騒音のことがわかってないやつは、「アルバイトでもなんでもすればいい」と言う。けど、それが無理なんだよ。小学六年生のときから、ヘビメタ騒音がつみかさなっていると、無理なんだよ。逆立ちしても、できないことなんだよ。ヘビメタ騒音が毎日続くことによって、できないことになってしまうんだよ。けど、たとえば、「アルバイトでもなんでもすればいい」と言うやつは、そこのところがまったくわかってない。まっーーーったく、わかってない。こういう、想像力がないやつが、俺をけなすようになる。ダメ出しをしてくるようになる。

2024年10月2日水曜日

感じ方の根本がちがうのである

 親父の脳みそが、兄貴に遺伝して、おかあさんの脳みそが、俺に遺伝したようなところがあって、とにもかくにも、ちがうのである。考え方がちがうとかそういうレベルではなくて、考え方の根本がちがうのである。感じ方の根本がちがうのである。

俺の言っていることがわからない

 ぎりぎり、たえてやってきた人に、「働けるはずだ」と言うことが、どういうことなのか、こいつらはまるでわかってない。腹がたつに決まっている。言われたほうは、腹がたつに決まっている。こいつらは、鈍感で、頭がわるいので、俺の言っていることがわからない。考えが、常識内にとどまるので、常識外のことをやる、「家族」については、考えることができない。かならず、勘違いをする。かならず、まとはずれなことを言ってくる。その、まとはずれなことが、きちがい的な家族にやられた人の気持ちを、傷つけるのである。だから、きちがい的な家族にやられた人は、まず、きちがい的な家族によって傷つけられるし、次に、きちがい家族にやられたことがない人に、傷つけられるのである。もう、決まっている。

こいつらが、ほんとうに俺がやられたこととおなじことをやられたら、耐えきれずに、死んでいる。そういうやつらが、「そんなのは関係がない」「騒音が鳴っていたから働けないというのはあまえだ」「そんなのは、嘘だ」と言ってくるのだ。こんなの、ない。どれだけバカなんだよ。どれだけ、アホなんだよ。アホすぎる。バカすぎる。なにもわかってない。 

きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、鳴らさなかったら、俺の視界に入らないようなやつらが、えらそうことを言ってくる。侮辱だ。屈辱だ。こいつらは、きちがいヘビメタ騒音と同等の騒音にさらされてないだけなんだよ。きちがいヘビメタ騒音と同等の騒音にさらされる生活をしたことがないだけなんだよ。たまたま、きちがい兄貴のような家族がいないところに生まれたから、経験してないだけなのに、えらそうに言いやがって。自分のほうがのうょくがあるという前提でものを言いやがって。自分のほうが体力があるという前提でものを言いやがって。しかも、自分が(相手にとって)いいことを言っていると思っている。しかも、自分が言っていることは、正しいと思っている。大まちがいもいいところだよ。ばかだから、わからないんだよ。傲慢なやつだからわかないんだよ。想像力がないからわからないんだよ。経験がないからわからないんだよ。

こいつらのなかにある、「家族の常識」で考えてしまう

 ともかく、きちがいヘビメタ騒音は強烈で、どれだけやっても、できなくなるのに、それがわかってないやつらが、無理なことを言ってくるので、くるしくなる。そりゃ、ヘビメタが好きな人にとっては、なんでもないことかもしれないけど、俺にとっては、ヘビメタというのは、この世で一番きらいな音なんだよ。音の集まりなんだよ。音楽なんて言えない代物なんだよ。ヘビメタが好きなやつらだって、自分が聞きたくないときに、ヘビメタが大音響で鳴っていたら、不愉快に思うかもしれない。あるいは、ヘビメタが好きなやつだって、自分がきらいな音が、大音響で鳴っていたら不愉快に思うかもしれない。生活的になっているということが重要なんだよ。きちがい兄貴は、普通の兄貴ではない。きちがい兄貴は、やるとなったら、それだけに夢中になってしまう人なんだよ。一日中やっているのがノーマルな状態になってしまうんだよ。きちがい兄貴は、気ちがい兄貴であって、普通の兄貴ではない。ゆずるということが、一切合切できない人間なんだよ。だから、一日中、ゆずらずに、ずっと鳴らし続けるというのがノーマルな状態になってしまう。昨日、「俺が嘘をついている」と思っている人間たちについてちょこっと、述べたけど、こういうやつらの家族は、きちがい兄貴のような家族ではないんだよ。だから、基本的に、誤解がある。こいつらが、きちがい家族にやられたことがないので、きちがい家族にやられている人間のことについては、基本的なところで、誤解をするのである。しかも、きちがい家族にやられている人間が「誤解だ」と言っても、こいつらはこいつらで、「誤解をしている」ということを認めない。「そんなのは、おかしい」と常識で考えてしまう。こいつらのなかにある、「家族の常識」で考えてしまう。けど、それがまちがいなんだよ。きちがい兄貴は、俺が記述したような気ちがい兄貴なんだよ。

「一日以内に、すべてのニートが働きだす」

 ちょっとだけ言っておく。「過去は関係がない」と言っている人がいて、その人が「俺は働いたことがあるから、無職でも無職ではない」と言ったとする。矛盾している。過去は関係がないなら、「自分が働いていたかどうか」は関係がない。矛盾している。

ちょっとだけ言っておく。AさんとBさんがいたとする。Aさんは、言霊主義者であって、なおかつ、ニートはけしからんと思っている人間だ。言霊主義者なのだから、言霊的な解決方法で、ニートを働かせればいい。Bさんが、ニートで無職だとする。Aさんは、「一日以内に、Bさんが働きだす」と言えば、それで問題を解決できる。Bさんだけではなくて、Aさんが「一日以内に、すべてのニートが働きだす」と言えば、すべてのニートが、一日以内に、働きだすので、ニートの問題?は解決する。まあ、Aさんにとって、解決するということだけどなぁ。じゃあ、どうして、Aさんは、ニートのことが気になるのに、そうしないのか? それは、Aさんが、ほんとうは、言霊の力なんて信じてないからである。言霊の超自然的な力で、すべてのニートが働き始めると思ってないからなのである。

こいつらだって

 こいつらだって、毎日、自分の嫌いな音を、あれだけの時間の長さ、あれだけの期間の長さ、聞かされ続ければ、働けないからだになるのに……。そういうことが、人生のなかで生じなかった人たちが、俺のことを、自動的に悪い人間だと考えるのだ。どうしてかというと、たとえば、「無職」に対して偏見をもっている人は、エイリが無職であるということを知れば、エイリは無職であるという認識をもって、エイリにむかってくるのである。だから、自動的に、わるい態度で、むかってくるということになる。「引きこもり」についてもおなじだ。はたして、自分がおなじことをやられて、普通に働けると思うのか? 普通に働けると思っているなら、それこそ、考えがあますぎる。こういうやつらがあまいやつらだ。こいつらは、たとえば、無職の人間は、あまえていると言うけど、こういうやつらが、あまえているやつらなんだよ。そして、こいつらが無職になれば、自分は、働いていたから、無職じゃないと勘違いして、いままでの態度をあらためようとしない。こういうレベルの人間だ。

これがこの世だ。これが、この世の多くの人間のすがただ。

2024年10月1日火曜日

「ヘビメタ騒音が鳴っていたと言っているけど、それは、嘘だ」

 きちがい兄貴の感覚というのが、あまりにも、きちがい的な感覚なので、ほかの人が信じないというのがある。そして、これが問題なんだけど、きちがい兄貴は、自分のきちがい的な感覚に関して、まったく認識してないんだよ。きちがい的な感覚で、実際に、「よそではありえない」きちがい行為を頑固にしてしまうわけだから、問題がしょうじる。けど、きちがい兄貴は、やりたいようにやっているので、本人が主観的に感じる「問題」がないのである。そして、文句を言われたら、きちがい親父のように、怒り狂ってはねのけるということをする。これも、ほんとうに、そうなんだけど、ほかの人は、そのことがよくわからない。どういうことかというと、ほかの人は、きちがい的に怒り狂ってはねのけたなら、その記憶があるはずだと思ってしまう。けど、きちがい兄貴は、ここでずっと述べているように気ちがいなので、自分が怒り狂って、はねのけたという記憶がまったくない状態で、生きているのだ。だから、普通の人が考える、普通の人の態度というものと、きちがい兄貴の実際の態度がちがいすぎる。そして、実際の態度がちがうだけではなくて、感覚がちがうのである。ようするに、ほかの人たちは、きちがい兄貴の「そのときはねのければ、まったく記憶に残らない」という性格というか、感覚がわからない。なので、ぼくが嘘を言っていると思うのだ。そして、よその人は、こういうきちがい的な家族と一緒に住んでいるわけではないので、実際に、こういうきちがい家族に、やりきられたことがない。「やったってやってない」という態度でやりきられたことがない。ほんとうに、「やったってやってない」と思える感覚の持ち主と一緒に暮らしたことがないので、そういう人間の態度や感覚が、ほんとうにまったくわからない。普通の人は、きちがい兄貴が家でやっていることに関して、基本的に誤解をしている。そして、誤解をしているということに気がつかない。「そんなのへんだろ」と、俺(エイリ)が嘘を言っていると思って、おこるやつがている。こいつらは、ゆるせない。こいつらは、ゆるせない。そして、このわかってない他人が、いじわるなことをしてくるのだ。これ、俺が嘘を言っていると思って、俺に対する憎悪が生じているんだよね。こんなの、ほんとうに、きちがい兄貴がきちがいではなかったら、しょうじなかったことだ。勘違いしているやつらが、勘違いしたまま、俺に、憎悪をむけてくる。こいつらは、俺(エイリ)が嘘を言っていると思っている。そして、嘘を言うエイリに対して、非常に悪いイメージを持つ。その悪いイメージにそって、ぼくの行動が解釈されるようになる。「ヘビメタ騒音が鳴っていたと言っているけど、それは、嘘だ」という認識のもとに、俺に対して、憎悪をむけてくるやつらがいる。

 

こういうやつらと、ヘビメタ騒音の影響を無視して、無理なことを言ってくるやつらが、九割ぐらいいる。いちおう、中学生以上を母集団と考えると、九割ぐらいのやつらがそういうやつらだ。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、異常な音を鳴らし続けると、こっちのからだにいろいろな症状が出る。その症状も、けっきょくは、「健康の自己管理ができないからダメなんだ」ということになってしまうのである。あんな音が鳴っていて、健康の自己管理ができるわけがないだろ。 

ほんとうに、この世は、こういうやつら、ばかりだった。こういう性格ではない人たちは、一割未満しかいない。一割未満の人だって、自分の問題ではないのだから、感覚的には、きちがいヘビメタ騒音のしんどさがわかってない。

これ、この世のなかで、きちがい兄貴のような態度と感覚で、きちがいヘビメタ騒音……俺にとって、この世で一番嫌いな音を、ずっと、ぶつけられると、こういうことになってしまう。敵ばかりだということになってしまう。 

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「そんなに鳴っているのに、家族がなにも言わないなんておかしい」「そんなになっているのに、ほかの家族がどうにかしようとしないなんておかしい」と言うやつらも、まったくわかってないやつらだ。勝手に誤解をしている。こういうやつらが、こともあろうに、俺に対して、敵意をむけてくるのである。そして、想像のなかで……そいらの想像のなかで、いろいろなことがつみかさなって、俺に対して憎悪をもつ。これ、憎悪だ。こいつらは、性格がわるすぎる。けど、こういうレベルの人間が、どれだけ、この世に多いか、わかったものではない。この、勝手に、妄想的な想像を膨らませて、俺の行動を常に悪い方向で解釈して、勝手に憎悪をもつやつというのが、意外に多い。

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きちがい兄貴があまりにも、きちがいなので、俺が妄想の持ち主だと思われることがある。思考力がないやつら、あるいは、性格がわるいやつらが、俺のことを、妄想の持ち主だと考えるのだ。こんな侮辱ない。きちがい兄貴が、きちがいだとこういうことになってしまう。きちがい兄貴が、固着して固着して、ずっとずっと、きちがい的なでかい音で、騒音を鳴らし続けるとこういうことになってしまう。

どれだけ、自分の音に固着して固着して鳴らしていたか。きちがい兄貴が、満足できる音で鳴らさなければ、きちがい兄貴は不満なのである。きちがい兄貴が満足できる音で鳴らさない時間はない。だから、きちがい兄貴が、主観的にしずかにしたつもりのときも、けっきょくは、ずっときちがい的にでかい音で鳴らしている。よその家じゃ、絶対にありえないようなでかい音で鳴らしている。これが事実だ。

この事実を、認めないやつらが、ものすごく、性格がわるいことを俺にしてくる。これが、この世だ。 

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想像力がたりないやつら、ばかり。性格がわるいやつらばかりだ。

想像力がたりないやつらというのは、ヘビメタ騒音の影響に関する想像力がないやつらだ。こいつらにとっては、もちろん、自分がやられたわけではないので「そんなのは関係がない」「過去のことなら関係がない」ということになる。こいつら、ほんとうに、想像力がないなぁ。自分の立場と相手の立場を置き換えて考えるということが、できない。この点では、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじ。もっとも、きちがい兄貴やきちがい親父の、相手のことを考えられない能力というのは、すさまじいものがある。すさまじいものがあるので、やっぱり、普通の「想像力がない人」と、きちがい兄貴は、ちがうし、普通の「想像力がない人」ときちがい親父は、ちがう。ちがうのだけど、態度が似ているのである。普通の人である「想像力がない人」と、きちがい兄貴の態度が似てくる。普通の人である「想像力がない人」と、きちがい親父の態度が似てくる。普通の人は、普通の想像力しか持ってない。きちがい家族にやられたことについて、きちがい家族にやられた人が語っても、想像力が普通なので、理解できない。普通の範疇のなかで、考えてしまう。これは、ちがうことについて考えているのとおなじだ。ほんとうにまったく、わかってないのである。

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きちがい兄貴やきちがい親父の、相手のことを考えられない能力というのは、すさまじいものがある」と書いたけど、ほんとうに、へんな思考回路がある。頭のなかで、普通の人だったら、むすびついて連想するものが、連想されてないのだ。そして、普通の人が考えないことが、連想されてしまっている。「能力」という書き方は、へんな書き方だけど、「無視力」のようなものを考えると、一種の能力なんじゃないかと思ってしまうところがある。ものすごい勢いで、自分にとって都合がいいように考えてしまうのである。現実の無視度がひどい。普通の人は、否定したい気持ちがあったとしても、現実は現実として認めるものだ。だから、そういう点では、普通の「想像力がない人」ときちがい兄貴やきちがい親父は、ちがう。ちがうのだけど、普通の「想像力がない人」はきちがい家族とは一緒に暮らしたことがなく、きちがい家族が鳴らし続ける騒音を経験したことがない。だから、経験の範疇にはないことなのである。ぼくが語っていることは、経験の範疇にはないことなのである。だから、理解度が、ものすごくとぼしい状態で、想像をしていることになる。なので、普通に、勘違いをするのである。被害のでかさ、影響のでかさについて、勘違いをする。勘違いをしているのがノーマルな状態だ。

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普通の「想像力がない人」は、ヘビメタ騒音が鳴っていたということまでは理解しているのだけど、性格がわるいやつらは、ヘビメタ騒音が鳴っていたということまで、否定している。性格、わるいだろ。こんな性格がわるいやつらが、ねじまがったこころで、「エイリは、嘘を言うわるいやつだ」と思っているのだ。

ヘビメタ騒音の影響を無視するやつらも、ヘビメタ騒音の話が嘘だと思って、わるい妄想をふくらませるやつらも、みんな、わるいやつらだ。きちがい家族にやられると、普通の人が、ほとんど、みんな、わるいやつらになってしまう。みんなと言っても、全員ではなくて、だいたい、九三%ぐらいのやつらが、わるいやつらになる。


「鳴り終わったら関係がない」と「残っている影響」をガン無視するやつら

 普通に働いている時点で、ぼくとおなじ程度の苦労をしてないということがわかってないんだよな。彼らは、自分が働いているという点で、ぼくより、自分のほうがずっと上の人間だと思ってしまうわけさ。だから、えらそうに説教をしてくる。そして、「自分だって苦労した」と言う。けど、その苦労は、働けるぐらいの苦労なんだよ。そして、もし、ぼくとおなじ程度の苦労をした人が、「人間は働くべきだ」とか「過去は関係がない」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「仕事をしてないやつは、くず」というようなことを言うかというと、言わない。口がさけても言わない。だいたい、きちがいヘビメタ騒音生活をした人、あるいは、きちがい騒音生活と同等の生活をした人は、働けなくなっている。だから、そもそも、「人間は働くべきだ」とか「仕事をしてないやつは、くず」とかという権利がない。働いているやつは、たまたま、きちがいヘビメタ騒音と同等の苦労をしなかったから、働けるだけだ。それを、自分の手柄だと勘違いして、クソを言ってくる。ようするに、苦労がたりないのである。アホなのである。

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見逃されがちな点は、ヘビメタ騒音が、一一歳のときからはじまったということだ。これがどういう意味か、ほかの人たちはまったくわかってない。とくに、「過去は関係がない」とか「鳴り終わったら関係がない」と「残っている影響」をガン無視するやつらは、まったくわかってない。こいつらは、ほんとうにバカな人間なのだけど、バカであるという自覚がまったくない。こいつらが、善人であるはずがない。いや、バカだけど、善人なのか? まあ、特に悪意はないんだよ。こっちに対する悪意はない。けど、これが……。もし、自分が一一歳のときから、きちがいヘビメタ騒音相当の苦労を経験したとして、もし、自分が「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言われた場合のことを、考えることができる人間だとは、思えない。ようするに、自分がぼくとおなじ苦労をして、自分がおなじ立場になったとき、その言葉がひどい言葉であるということをはじめて、さとるのだろう。バカだから、経験なしにわからない。かしこければ、経験がなくても、だいたい想像ができる。だいたいのことを、理解できる。バカだから理解できない。そして、理解してないということすら、理解してない状態だ。バカ以外のなにものでもない。こういうやつらが、俺にどういう圧力をかけてきたか? こんなバカなやつらにえらそうなことを言われることが、どれだけ屈辱的なことか、ほとんどの人は、わかってない。

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自分が働いているとする。自分が働いているという立場であれば、働いていない人間には、なにを言ってもゆるされると思っているやつらがいる。こいつらは、自分が働けなくなったら、「自分が働けないのはしかたがない」と自分が、働いていたとき、働いていない人間に投げかけた言葉を、忘れてしまう。全部、自分に、つきささっている。ブーメラン。ブーメラン。けど、こいつらは、バカだから、自分に、つきささっていることには、気がつかない。最初から、傲慢なやつだから、働いてないやつにはなにを言ってもかまわないという、傲慢な考え方をもってしまう。「俺は働いていたから、いまは働いてなくても、無職じゃない」と思っているバカ。自分がやったあやまちに、最後まで気がつかない。たぶん、こういうやつら……働いていない人間には、なにを言ってもゆるされると思っていたやつらのうち、九九・九九%ぐらいのやつらが、最後まで気がつかないやつなんじゃないかな。思考が浅い。ブーメランになっていることに、気がつかない。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。