なまゴミをすててきた。これだけで、今日は、もういいや。おてがらーー。おてがらーー。
外壁を見るたびに思うけど、はやく、引っ越すべきだ。外壁をどうにかしなければならない。外壁のタイムリミットがせまっている。ここにいるなら、外壁工事をする必要がある。外壁工事をするまえに、引っ越すべきだ。この場合は、もちろん、外壁工事はやらずに、家をこわすことになる。
手の甲の、ダニに刺されたあとが、いやなんだよ。これ、見ると、へこむわぁーー。ほんとうに、親父がいれたネズミの被害が甚大なんだよなぁ。ネズミの糞と、ダニ。外壁がじょうぶだとしても、ネズミの糞とダニはものすごくでかい問題だ。外壁がじょうぶでも、数か所、ネズミが入ってこれる部分があった。これは、ぼくが、パティでつぶした。あとは、通気口はネズミ対策業者の人にやってもらった。これも、ネズミのことは考えたないような間隔なんだよね。でっ、ほんとうに、親父が魚を出しっぱなしにするまえは、何個もはいれる場所があったのに、ずっと、何十年も、ネズミが入ったことなんてなかったんだよ。親父が魚を出しっぱなしにするまで、家の中にネズミが入ったことなんて、一度もなかった。親父が魚を出しっぱなしにして、実際にネズミが入ってきたあと、いろいろなところにはいれる場所があるということに気がついた。一個ふさいだだけじゃダメだったということだ。二個ふさいでもだめだったということだ。三個ふさいでもだめだったということだ。それだけ、いろいろな箇所に入り込める隙間や穴があったにもかかわらず、親父が魚を出しっぱなしにするまえは、ほんとうに、一度も!!!一度も!!!ネズミが入ったことがなかったのである。一度入ってくるようになったら、ものすごいよ。
親父が、台所にあるゴミを、毎日、物置のゴミ袋に入れてやる」と言ってきかなかったことがある。あれも、反対したのに、一度言い出すと聞かないので、けっきょく、親父が、台所にあるゴミを、毎日、物置のゴミ袋に入れるようになった。これが、ほんとうに無駄な行為なんだよ。あとで考えてみると、物置に、ネズミをおびき寄せていたことになる。親父が、うちにいて、へんなことをやりはじめるまえは、ネズミの問題なんて、まったくなかった。きちがい親父が、どこでスイッチが入ってしまうのかは、わからないけど、台所に置いてある市のゴミ袋に、市のゴミ袋がいっぱいになるまで、なまゴミを入れるということになっていた。それで、問題がなかった。何十年もそういうことをしていて、一度も、ネズミが入ってくるということがなかった。だから、清潔だったのである。ところが、きちがい親父が、へんな気を起こして、「毎日、うちのなかにある市のゴミ袋に、ゴミを入れるよりも、毎日、一度、うちのなかにある市のゴミ袋から、(親父が)物置に置いた市のゴミ袋にうつしかえるほうが清潔だ」というような考えにとりつかれたのだ。あるいは、「自分が!!!やってやる」という気持になった。これも、俺は、台所に置いてあるごみ袋に、捨てるぐらいにたまるまで、ゴミをおいておくという方法でまったく問題がなかった。言っておくけど、母親が病気になってから、ぼくが料理をしていたわけで、量はぼくの担当だ。だから、なまゴミを、市のゴミ袋に入れていたのはぼくだ。でっ、おかあさんが天国に行ってしまったあと、親父と二人きりで住んでいたわけだけど、親父と接触する機会が増えたのである。で、親父は、言いがたい気ちがいなので、「自分(おやじ)が、毎日、出る生ごみを、物置にあるゴミ袋にいれかえたほうが、俺(ブログ主)の役にたつ」と勝手に決めてしまったのだ。こうなると、どれだけ「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」と言っても、聞かないのだ。親父が訊かない。これ、何十回言っても、聞かない。一度、自分(おやじ)が思いつくと、そうするまで絶対に引きさがらないのだ。これが、「相手のためにやってやること」なのだ。その相手が、「やめてくれ」「やらないでくれ」とどれだけ言っても、相手がいやがっているということがわからない。相手の(親父に)やってほしくない気持ちと言うのは、親父には、絶対に伝わらないのだ。頭がおかしいから、つたわらない。で、これは、ゴミ袋のことだけではなくて、すべてのことにおいて成り立つのだ。俺が幼稚園生のころから、どれだけ、親父のこういう行為でこまったかわからない。幼稚園生のときなんて、きちがい親父が重いつ言ったことを、こっが否定すれば……つまりやらなくていいということを言ってしまえば……親父が顔を真っ赤にして、怒り狂ってやってしまのだ。おこりたいのはこっちなんだよ。これ、頭のスタイルなんだよ。いつものことなんだよ。まるでわからないだろうな。ほかの人にはまるでわからないことだろうな。「そんなの、やめて」と言えばいい……というのが、ほかのとの考え方だからなぁ。そんなことが成り立たないからこまっているのに……まったくわかってない。
俺が幼児のころは、親父が怒り狂って、きちがい行為を押しとおしていたのだ。でっ、親父の頭のつくりと、兄貴の頭の作りがおなじだから、「自分」たちが思ったことは、絶対の意地でやるし、それで問題がないと思っている。きちがい親父は、「相手のためになるだろう」と思ってやることだって、絶対に、相手が言っている通りには動かない。きちがい親父がやりたいようにやらないと、発狂する。きちがい兄貴は、もちろん、きちがい兄貴のために、ヘビメタを鳴らしているわけで、「弟のためにヘビメタを鳴らしてやろう」と思って鳴らしているわけではない。けど、おなじなんだよ。頭の作りがおなじなんだよ。ようするに、親父の場合は、勝手にこっちとは関係がないことをやりたくなってやるタイプと、親父の頭のなかでは、こっちのためにやりたくなるタイプがあるのだけど、兄貴の場合は、勝手にこっちとは関係がないことをやりたくなるタイプしかない。ようするに、集合で考えると、親父が、兄貴のタイプを含んでいる。たとえば、竹を植えるということは、親父が、やりたくなってやったことだ。おかあさんが「そんなところに竹なんて植えたら、たいへんなことになるからやめて」と必死に叫んでいたのに、顔を真っ赤にして植えてしまうのだ。しかも、「やめて」「やめて」「やめて」と言っていたおかあさんに、植え終わったあと「どうだ、すごいだろ」と言ったのだ。「ほめてよぉ」とも、ちょっと照れながら言っていた記憶がある。せっかくやったのだから、ほめてくれ」「うまく、植えられたのだから、ほめてくれ」ということだ。これ、おかあさんが、「やめてくれ」と言ったことが、まったく頭のなかにはいってないのだ。こまってこまって、「やめて、やめて」と言っていた相手に、「どうだうまくできだだろ」というようなことを言って、ほめてもらおうとする……。これがどういうことだかわかるか? まあ、こういう人間に、傷つけられないと、わからないと思うけど、これが、めちゃくちゃに不愉快なことなんだよ。しんどいことなんだよ。この世界と、「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちの世界は、ぜんぜんちがう。「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちたちは、「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちで、親父がつくった世界がわかってない。親父のアマのなかでどういうことが起こっているかまったくわかってない。この、相手の言い分の無視や、発狂的な意地というのがわかってないのだ。顔を真っ赤にして、顔をこわばらせて、あぶらあせをかいて、やってしまういのだからな。で、親父が「やめて」と言われたときの態度と、兄貴が「やめて」と言われたときの態度がおなじなんだよ。親父が(ほかの人から)親父がやる気になってやっていることを、(やめてくれ)と言われたときの態度と、兄貴が(ほかの人から)兄貴がやる気になってやっていることを、(やめてくれ)と言われたときの態度が、まったく、まったくおなじなんだよ。ヘビメタ騒音は、兄貴がやりたくてやっていることなんだよ。だから、ほかの人から、(やめてくれ)と言われたら、スイッチが入ってしまう。そして、スイッチが入ってやりきったのに、まったくやりきったつもりがないという状態になってしまう。ようするに、俺がどれだけ兄貴に(勉強ができないからやめてくれ)と言われても、無視して鳴らしたという気持がない。兄貴は、「エレキギターがうまくなったとほめてくれ」とは言わなかったけど、頭のなかに起こっていることは、親父が竹を植えたときとおなじなんだよ。「やめてくれ」と言っていた相手のことなんて、まったく頭にない。まっーーったく、まーーーったく、頭にない。普通の人だったら、残るんだよ。「俺が鳴らしているときに、勉強の邪魔だからやめてくれと、しつこく何回も、言ってきた」ということが、残る。どれだけ言われたって、残らない。何十回言われたって残らない。それなら……やめてくれるのかというとそうではないのだ。「やめてやらなかった」記憶がないのだ。「相手がやめてくれ」と必死になって何回も言ってきたという記憶がないのだ。これ、きちがい親父と、きちがい兄貴でおなじなんだよ。兄貴の場合は、「相手のために」やってやろうという部分がない。だから、親父のように「相手のためにやってやろう」としてトラブルを起こすということがない。この、親父が相手のためにやってやろうと思うことが、ことのこどとく、一〇〇%の確率で、相手にとってやってほしくないことなんだよ。相手が「やられたこまる」ということを、言ってくる。で、相手がどういう理由でこまるのかということを、親父に何十回、何百回説明しても、それは、無視してしまう。何十回も激しく言われたって、親父のなかでは、ゼロ回なんだよ。説明をうけてない状態とおなじなの……。で、きちがい兄貴の場合は、ヘビメタの音に関して、何千回も、何万回も、何十万回も言われてきたのに、兄貴のなかでは、ゼロ回なんだ。
こういうことを言うと、ほかの人は「そんなのへんだ」と思ってしまう。なかには、「そんなのはへんだから、エイリが嘘を言っている」と思うやつだっている。けど、ほんとうなんだよ。こういうところも、不愉快なんだよね。生きていて、不愉快だ。