「動くと言ったから、電車が動いた」とする。
その場合、駅のプラットフォームに停車している電車が、次の駅に向かって、出発するときの「動く状態」というのが、イメージを構成している場合が多い。
しかし、「動く」と言っているだけだから、いきなり時速一〇〇キロで、動いしてしまうかもしれないのだ。あるいは、上方向に向かって動いしてしまうかもしれないのだ。ようするに、天に向かって動いしてしまうかもしれないのだ。
「動く」と言っているだけだから、ほんとうは、どのような「動き」をしてもいいということになる。
動けば、動いたことになる。
しかし、言霊主義者が……「電車のまえで『動く』と言って、電車が実際に動いたから、言霊が存在して、言霊の力があるということが証明できた」と言う場合は、普通に、電車がプラットフォームを出ていくときの「動き」のことを言っているのだと推測できる。
「動く」という文字列(言葉)は、じつは、そんなところまで、規定していない。
動き方を規定しているのは、発話者の、脳内にあるイメージだということになる。
ここにおいて、じつは、言霊というのは、思霊の一種だということになってしまう。
ようするに、「念力」のようなものを想定して、念力のようなものが、言葉に宿っているということを、言霊主義者は主張していることになってしまうのである。
たとえば「心をこめて言えば、いい」ということを言霊主義者が言う場合がある。
ようするに、「言ったのに現実化しない」場合は、言い方が悪かったから現実化しないということを言ったあとに、「心を込めて言えば、現実化する」ということを(言霊主義者は)言うのだ。
前にも述べたとおり、「言ってしまったら」どれだけ心がこもっていない状態で言っても、言ったということになってしまう。
だから、「心をこめて言わなかったから、現実化しなかった」という理屈は、じつは、言霊理論を否定していることになる。
けど、言霊主義者はそんなことは、気にしない。
ようするに、言いたいのは、言霊主義者が、言葉にこだわっているようで、「言い方」や「思い」にこだわっているということだ。
言葉にこめられている「思い」が重要なのである。
それならば、もちろん、言葉に(発話者が)自力で、言霊を付与するということになる。
これは、言葉自体に、言霊が(最初から宿っている)ということを意味していないのである。また、言霊の量(言霊の力の強さ)は、発話者が、決めてしまうというようなことを意味しているのである。
つまり、言葉は「うつわ」であり、発話者が「言霊」という「念力のような力」を、言葉にいれているということになる。
これは、本来の意味での、言霊主義ではない。
しかし、もともと、矛盾していることに気がつかないような言霊主義者たちは、もちろん、言葉自体に言霊が宿っているのか、言葉に自分が言霊を宿らせるのかのちがいについては、気にも留めない。
その都度、都合がいいほうが選ばれているのである。