非常に大雑把なくくりを持ち出して、そのなかで、判断してしまう人たちが多い。
たとえば、「就職氷河期」とか「ニート」とか「無職」とか「ひきこもり」という「くくり」を持ち出して、一括処理してしまうのだ。
個々人は、ちがうのに、その集合のなかにいる人は、みんなおなじだという考えに基づいて、一括処理してしまう。個別性は、議論されないのだ。個別性は、認識すらされないのだ。
その場合、社会にはびこっている「言霊(理論)」「思霊(理論)」「引き寄せ(理論)」「努力論」「自己責任論」が、個々人をせめることになる。
特に、ほかの人から理解されない「条件」をもっている個人は、非常に不愉快な思いをすることになっているのである。もう、決まっている。
個々人のちがいを無視してしまうので、自己責任論においては、すべては、自己責任だということになってしまうのである。
ほんとうは、条件によってちがう。
たしかに、その人の自己責任(自業自得)であるような場合がある。
だから、ほかの人もみんな、自己責任(自業自得)なのかというと、そうではないのだ。
条件がちがうので、自己責任(自業自得)なのかどうかということは、個別に判断しなければならないことなのである。しかし、根本において、個別性というのは、無視されることになっているのである。
Aさんの場合は、本人の行動に問題があり、Aさんの責任だと判断できるとする。この場合は、自己責任論がとりあえず、正しいということになる。
しかし、別のBさんの場合は、本人の行動には問題がなく、ほかの人(Cさん)に行動の責任があるとする。この場合は、Bさんの責任には、ならない。Bさんがどれだけひどい目にあったとしても、Bさんの責任ではない。
ところが、自己責任論に陥っている人は、Bさんの身の上に起こったことだから、Bさんの自己責任だと決めつけてしまうのである。
* * *
大雑把なくくりとしての集合があるとする。その集合には、その属性をもっている人がすべて含まれてしまう。性格が悪いニートもいるかもしれないけど、性格がいいニートだっている。
ところが、性格の悪いニート(Dさん)のことを、テレビで取り上げると、ニート全体に悪いイメージがついてしまうのである。その場合、性格がいいニートであるEさんも、性格が悪いニートであると思われてしまうのである。
だれに思われるかというと、一括処理をしてしまう人に思われる。
一括処理をする人というのは、集合内の人に、一括してあるイメージを付与してしまうのだ。個別性が問題にならない思考をしてしまうのである。
これは、呪いのようなものだ。しかし、一括処理をする側に立てば、不利益はないのである。呪いだとしても不利益がない。
* * *
ある人たちが、共通の属性を持っていたとしても、属性を表すシンボルような言葉で、共通の属性をもっている人たちを表現できるわけではないのだ。
ようするに、集合のなかには、条件がちがう人たちがいるのである。
ニートいう集合のなかには、ニートの属性を持った人たちがいる。そのニートの属性を持った人たちには、それぞれ、別の条件があるのである。
だから、ほんとうは、ニートはこれこれであるというようなことは、言えない。
個別の人が持っている個別の条件がちがうからだ。
ところが、一括思考する人は、条件を無視してしまうのである。そして、属性に基づいて、その属性ならこうなのだと決めつけてしまう。
これは、普段、自然におこなっていることだ。
「決めつけはいけない」と言ったって、決めつけが普通におこなわれるわけだ。
「人がいやがることはやめましょう」と言ったって、実際には、自分が人がいやがることをやっているという認識が発生しないまま、人がいやがることをやっている場合だってあるのだ。
それとおなじように、「属性で、決めつけてはいけない」と思っていたって、属性で、決めつけてしまうことが、多々、しょうじる。
問題なのは、「属性一括思考」と 「言霊(理論)」「思霊(理論)」「引き寄せ(理論)」「努力論」「自己責任論」の相性のよさなのだ。
「言霊(理論)」「思霊(理論)」「引き寄せ(理論)」「努力論」「自己責任論」になじみがある人は、思考において「属性一括思考」をしてしまう傾向が非常に強い。相性がよすぎる。
「言霊主義者」「思霊主義者」「引き寄せ主義者」「努力論者」「自己責任論者」は、たいていの場合、属性一括処理思考をするので、相手の条件を無視してしまう。
相手の身の上に発生した『個別の出来事』の個別性を無視してしまう。ほとんどの場合、属性集合内の人は、みんな、おなじだと考えてしまうのである。
* * *
すべては、自己責任という考え方を、他人の身の上に適応した場合、自己責任という言葉は、じつは、自業自得にという意味になってしまうのである。
実際には、自業自得ではないケースについても、自己責任という言葉をもちいることで、自業自得だということにしてしまうのである。
そして、自分が、一括処理をして、自業自得とは言えない人に、自業自得だという意味の言葉を投げかけているということについて、自業自得だという意味の言葉を投げかけている人(自己責任論者)は、無自覚なのだ。
自己責任論者は、自己責任という便利な言葉を使うことによって、ほんとうは責任がない人に対しても、「自業自得だという意味の言葉」を投げかけることになる。投げかけている。
そこでは、個別性は無視されるのである。
つまり、この人の場合、自業自得なのか、自業自得ではないのかということについて、一切合切、考慮することなく、自業自得だと決めつけて、自業自得ではない人にも、自業自得だという言葉とおなじ意味をもつ言葉を投げかけていることになる。
これは、言われたほうにとってみれば、腹が立つことなのである。
しかし、盲目な自己責任論者は、「絶対に正しい」と思っているので、「あなたの場合も自己責任だ(自業自得だ)」と思っていることについて、訂正しない。「あなたの場合も自己責任だ」という言葉は「あなたの場合も、自業自得だ」という意味をもってしまうのである。
しかし、何度も言うけど、一括処理をしてしまう自己責任論者は、「あなたの場合も自己責任だ」という言葉が「あなたの場合も、自業自得だ」という意味になるということについて、無自覚だ。たいていの場合、どれだけこのことを説明しても、通じない。たいていの場合、自己責任論者は、このことを認めない。
* * *
自己責任論というものは、もともとは、アンガーコントロール論なのである。その意味で、本人を対象とした自己責任論なのである。
しかし、一度、「人間」という範囲で抽象化してしまうと、他人の責任を問う「他責論」になってしまうのである。真逆のものが出てくるのである。
そして、他責をする場合は、自己責任論というのは、自業自得論になってしまうのである。
アンガーコントロール論について語った人たちは、自らの「自己責任論」が「自業自得論」にかわることを、最初から知っていたのだろう。メディアのバックアップというのがあるのだ。自然なかたちで、宣伝される。