2026年2月14日土曜日

●うまくいかなかった人の悪口を言うということが、決まっている■言霊※2026/02/14 15:48

 たとえばの話だけど「言い方が悪いから、ダメなんだ」と言霊主義者が、条件が悪い人に言ったとする。「言い方が悪いから、ダメなんだ」というのは、「言い方が悪いから、言ったことが現実化しなかった」という意味だ。

ところで、精神世界の人というのは、「ネガティブなことを言うべきではない」と考えているのだ。言霊主義者だって「ネガティブなことを言うべきではない」と考えているだろう。

しかし、「言い方が悪いから、ダメなんだ」という発言は、ネガティブな発言なのである。この、自分が他人をせめるときは、なにを言っても、ネガティブな発言ではないと考える傾向というのは、なんなんだろう。

たぶん、これは、鈍感力と関係していると思う。しかも、条件が悪い人は、条件が悪いから発生する「不愉快なこと」を経験している。その不愉快なことというのは、「よくなる」と言ったって、条件がかわらないと、高頻度で、高確率で発生することになのである。

なので、言霊主義者はまったく役に立たないことを、言っているということになる。そして、ほんとうは、言霊主義者が言っていることが間違っているから、言ったところで、(条件が悪い人の現実が)かわらないのに、言霊主義者は、条件が悪い人の「言い方のせいにする」のだ。

これは、決まっていることだ。

最初から、決まっていることなんだよ。

ようするに、妄想に従って、間違ったことを言うということと、相手の身に効果があらわれなかったら、相手のせいにして相手を悪く言うということが決まっている。

これ、「相手のやり方がへたっぴだから、うまくいかなかったのだ」と言うことは、ネガティブなことではないのである。言霊主義者にとってはネガティブなことではないのである。

これだって、ほんとうは、ネガティブなことだ。言霊主義者の場合は、うまくいかなかった人の悪口を言うということが、決まっているのである。

言霊主義者は精神世界の人である場合が多いけど、言霊主義者であって精神世界の人である人は、条件が悪い人の悪口を平気で言うのである。

ところが、本人は、「悪口を言った」と言う自覚がないのである。ようするに、「悪口を言った」と言う認識がない。

けど、悪口を言っている。しかも、もともと、現実的ではない方法を説明して、説明されたほうが現実化できないと、説明されたほうのせいにしてしまうのだ。

これが、ネガティブな行為でなくて、なんだ? 

*     *     * 

あと、助言をした言霊主義者が、同時に、自己責任論者であった場合の話を、ちょっとしておく。自分が助言したとおりにならなかったのは、自分の責任だとは思わないのか?

「すべては、自己責任」なのだろ。この場合の「自己責任」というのは、「自分の責任である」ということだ。相手が言ったとおりにしたのに、相手の身に、自分が言ったとおりのことが起こらなかった……。自分の責任だろ。

すべては、自己責任なのだから、言った通りのことが起こらなかったのは、言った人の責任だ。

自己責任論者が、条件が悪い人に言っていることというのは、こういうレベルのことなんだよ。その人の責任ではないことまで、その人のせいにしてしまう。こういう都合がいい理論が、自己責任論だ。

言いがかりレベルの自己責任論を振り回すな!! 

●「こころがおちて、冗談やギャグに反応できない状態」■社会※2026/02/14 14:48

むかし、精肉加工・なんとかハム工場のバイトをしたことがある。

おなじ時期にバイトに入った人をAさんとしておく。正社員の人をBさんとしておく。

基本、ぼくが、ヘビメタ騒音で、ジョーーダンやギャグに反応できなくなったという話だ。

ぼくが、正社員の人から、ある場所の仕事を指定されて、バイト仲間のAさんが別の場所の仕事を指定された。で、ぼくが指定された場所の仕事(Xの仕事)が、いやだったんだよ。苦手だったの……。

で、社員のBさんがいなくなったときに、なんか、ちょっと、バイト仲間のAさんと話をする時間があり、そのときに、バイト仲間のAさんに、「この指定された場所の仕事(Xの仕事)はいやだな」と(ぼくが)言ったわけ。

そのあと、ぼくが、「別の場所(Yの仕事)」の仕事を任されたわけ。

でっ、「別の場所(Yの仕事)」の仕事は、楽だった。

ところが、「別の場所(Yの仕事)」の仕事から、また、「前のいやな仕事場所の仕事(Xの仕事)」に移動させられたわけ。

そうしたら、ぼくが、その仕事(Xの仕事)をきらっているということを知っている、バイト仲間のAさんが……大阪漫才のようなノリでぼくのほうを指さして、大げさに笑うアクションを(何回も)したわけ。

で、そのとき、社員のBさんが、ぼくに「なんで、あいつ笑っているの」と訊いたわけ。でっ、ぼくは、説明する気になれず、「知りません」とこたえた。

「ぼくがその場所の仕事(Xの仕事)をいやがっている」ということを、社員のBさんに説明するのがいやだったのだけど、その話をしないと、どうして、バイト仲間のAさんが、ぼくのことを、見て大げさに笑っているのかを、説明できないのだ。

バイト仲間のAさんとしては、これまた、大阪漫才のようなノリで「うるさいなぁ。笑うな。ぼけーー」みたいなリアクションがほしかったみたいなんだよな。「いらん・いらん」という感じで、手をピピっとふるようなアクションがあればもっとよかったのかもしれない。

ともかく、Aさんとしては、そういう感じのアクションを返してほしかったのだと思う。

けど、ぼくは、ヘビメタ騒音でつかれまくっていて、そんな元気がないのだ。

これ、もう、小学六年生のころから、ヘビメタ騒音が毎日、鳴って、そのときは二一歳ぐらいだったので、一〇年間ぐらいずっと、ヘビメタ騒音を鳴らされていたということになる。早生まれなので、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めたとき、ぼくは一一歳だった。

なので、一日でも大変なヘビメタ騒音が、一〇年間毎日積もっていたので、そんな状態ではないのだ。

「こころがおちる」というのがある。

これも、「どれだけつかれていても元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる相手にはわからないことなのだけど、ほんとうに、一日でも、「こころがおちる」のである。

それがずっと毎日続いていたのだから、落ちまくりなのである。まあ、ともかく、もう、ヘビメタが鳴り始めて、何年間もたつと……基本、相手の冗談やギャグに対応できなくなってしまうのである。

それから、「どれだけ、つらいことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということを言う人たちには、わからないことなのだけど、明るくふるまっても、いいことがないのである。これ、ちがうんだよ。きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえの「不幸度」「いやなことが起こる頻度」と、きちがいヘビメタ騒音期間中と、きちがいヘビメタ騒音後の「不幸度」「いやなことが起こる頻度」があまりにもちがいすぎるのである。

きちがい親父がきちがい行為をするので、ヘビメタ騒音がはじまるまえから「不幸度」が普通の人よりも、高い状態で暮らしていた。

けど、それでも、冗談やギャグには普通に対応できていたのである。「こころがおちて、冗談やギャグに反応できない状態」ではなかった。

それが、きちがいヘビメタ騒音の連続で、くだけちって、反応できない状態になったのである。

ほかの人が言う……言霊的な発言だって、ヘビメタ騒音がはじまるまえなら「そうですね」ぐらいの反応はできた。

言霊的な発言をする人は、ヘビメタ騒音前のぼくの感覚で生きているのだと思う。

これ、ほんとうに、ちがうんだよ。そして、不幸でも明るい言葉を使って、明るくふるまえば……(運があがって)……いいことがある……というような(考え方)も、ぜんぜん、成り立たなくなってしまうのである。

これも……この感覚も、きちがいヘビメタ騒音以前の状態とおなじレベルで暮らしている人には、わからないと思う。

けど、言霊主義者や普通の人は、みんな「自分だって苦労した」ということを言うのである。それは……「不幸でも明るい言葉を使って、明るくふるまえば……(運があがって)……いいことがある」……というような(考え方)を保持できるような苦労なのである。

そういうレベルの「いやなこと」なのである。

基本的には……「明るい言葉を使って、明るくふるまえば……(運があがって)……いいことがある」という考え方は間違っている。これ、条件を無視している。「運があがって」という部分を入れて書いたけど、明るい言葉を使って、明るくふるまえば、いいことがあるとは、言えないのだ。

一〇〇%詐欺になってしまう。たとえ、「明るい言葉を使って、明るくふるまったらいいことがあった」としても、明るい言葉を使って、明るくふるまえば、いいことがあるとは、言えないのだ。いいことがない場合だってあるし、悪いことが起こる場合だってあるのだ。

法則性があるようなことを言うべきではない。

2026年2月13日金曜日

●長期ヘビメタ騒音生活をしていないからわからないだけ■騒音※2026/02/13 23:34

なんかいろいろと、細かいことを思い出してしまうんだよ。それも、トラブル関係の記憶だ。ヘビメタ騒音の影響で、基本的な立場が悪くなるのである。でっ、ほかの人に、長期騒音のことを言っても、通じないのである。履歴的にも、よくない状態になる。実際には、通勤通学ができない体になっていたのだけど、ヘビメタ騒音でそうなるということを、理解しない人たちが、めちゃくちゃなことを、ぼくに言ってくるのである。これ、たしかにやられていない人にとってみれば「理由にならないこと」なのだけど、理由になるんだよ。やられていないからわからないだけなんだよ。長期ヘビメタ騒音生活をしていないからわからないだけなんだよ。

●他人を対象としたスピリチュアリズム■社会※2026/02/13 15:30

もう、何回か書いているけど、自分を対象としたスピリチュアリズムは、どんどんやってもらって、かまわない。あくまでも、自分を対象とした場合の話だ。

自己責任論とおなじなのだけど、自己責任論には、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論がある。他人を対象とした自己責任論にかたよると、他人の条件を無視して、(他人に)無理なことを言うようになる。

もう、決まっているんだよ。

努力論もおなじだ。

自分を対象とした努力論なら、場合によっては、プラスに働くこともある。けど、これは、悪魔側が提示した考え方なので、じつは、しっぺ返し?をくらうことになる。

努力すれば成功すると、会社のなかで、頑張って働いてきたのに、定年退職したら、自分のうちなのに、自分の居場所がなくなっているというようなことが発生する。

じつは、今まで言っていたことを、ひっくり返すようだけど、自分を対象にした自己責任論の場合も、しっぺ返しを食らうことになる。自分を対象としたスピリチュアリズムでも、なぜか、しっぺ返しを食らうことになるのだ。

けど、しっぺ返しをくらうことになるとしても、他人を対象としたスピリチュアリズムよりも、よいものなのだ。

他人を対象としたスピリチュアリズムというのは、本人はいい気分になるかもしれないけど、他人を、こまらせることになる。他人に不愉快な感覚を与えるものなのである。

スピリチュアリズムというのは、悪魔側が提示した考え方なので、そうなってしまうのである。

だいたい、自分を対象としたスピリチュアリズムと、他人を対象としたスピリチュアリズムを区別しているスピリチュアリストなんて、めったにいない。

どうしてかというと、「真実」として語られるからだ。「宇宙をつらぬく法則」として語られるからだ。

神がもたらしたものとして語られるからだ。

ところが、じつは、悪魔がもたらしたものなのだ。なので、じつは、ひっくりかえってしまうのである。

*     *     * 

たとえば、みんなことを(他人のこと)愛するということを考えてみよう。みんなというのは、具体的な他者ではなくて、みんなという集合体なのだ。ひとかたまりで、みんなということになっている。その場合は、観念によるものになるのである。

しかし、具体的な個人というのは、具体的な個人として……たとえば、そのひとのまわりに現在しているのである。

たとえば、言霊的なことを考えているとき、しあわせになるとしよう。気分的にしあわせを感じるということだ。 前向きなことを言うと、前向きな気持ちになるとする。

本人は、それでいい。

しかし、他人に対して、言霊的な助言?をする場合は、かならず、他人の条件を無視して、言霊的な助言をすることになるのである。これは、相手をくるしめることであって、相手をしあわせにすることではない。

ここで、逆転が起きてしまう。ひっくりかえってしまう。

しかし、言霊主義者が、それに気がつくことは、めったにないのである。どうしてかというと、言霊主義者のなかでは、言霊原理は正しいということになっているからだ。その言霊主義者のなかで、言霊原理が正しいということになっているので、当然、自分が相手に言った内容も正しいということになるし、自分の行いも正しいということになってしまう。

たとえば、相手に言霊的な助言をすることも、愛の実践だと思ってしまうのである。他人のことを愛しているからこそ、他人のために、言霊主義的な考え方をおしえてあげるということになるのである。

これが、言霊主義者にとって、愛の実践でなくて、なんだ。

ところが、対象になった人は、不愉快な思いを経験することがある。

どうしてかというと、相手には、現実的な条件があるからだ。相手の条件が悪い場合は、不可避的に、不愉快な思いをすることになるのである。

言霊的な助言をされて、明るい気持ちになる場合は、だまされている場合だけなのだ。

そして、その人(助言された人)も、言霊主義者とおなじように、誤認して、言霊理論が正しいと思った場合だけなのだ。

こういう場合だってあるけど、それは、さらなる、誤解をうみだすのである。そして、この人……言霊理論を信じるようになった人も、他人に対して、言霊的な助言をするようになる。

言霊理論が正しいと感じる場合は、「言ったあと」と「言ったから」の区別がついていない場合が多い。区別がついていないから、「言ったあと」「言ったことが起こる(現実化する)」と、言霊理論が正しいと誤解するようになる。

けど、誤解だ。誤解なんだよ。

神様の力のような「なにかそれ」を想定して考えると、言霊の力によってそうなったと考えてしまうのだけど、ちがうのだ。言霊的な考え方というのは、幼児的な考え方で、だれにも、なじみがある考え方なのだ。

だから、それを、悪魔に利用されているにすぎない。

悪魔側の主な目的は、人(普通の人)に、条件が悪い人を攻撃させることだ。そうすると、トラブルが生じて、憎悪がしょうじるのである。言った側には慢心が生じて、言われた側には、憎悪がしょうじることになるのである。おわかりか?

普通の人は、言霊原理が正しいと思うと、ごくごく普通に、他人に言霊的な助言をするようになる。そういう「ひとのせいしつ」を、悪魔が利用しただけなのだ。

悪魔は、人がそういう存在であるということを理解している。悪魔がゲットするのは、トラブルと、憎悪と、慢心だ。

悪魔は、人間観のトラブルが大好きなのだ。悪魔は、人間のトラブルを見るとわくわくしてしまうのだ。言霊主義者が幼児的万能感に支えられた幼稚な理論に振り回されて、『悪事』を働いてしまうのである。

「言った通りになればいい」というのは、人間の存在に必要な気持ちだ。だから、別に、自分のなかで、そう思うことは、とめられない。しかし、原理として「言ったことが弦自活する」ということを、他人に言うのはよくないことだ。 

2026年2月12日木曜日

●疲労を引き起こしている原因が、普通の原因ではないのである■騒音※2026/02/12 3:59

きちがいヘビメタが鳴って、夜、眠るべき時間に眠れない場合の、眠れない状態というのが、ひどいのである。どういうふうにひどいかというと、金縛りにあったように動けない状態なのである。

けど、なんとか動ける状態になるときがあり、その状態のとき動くと、めちゃくちゃに、くるしいのである。眠るべき時間の長さというのが、八時間だとする。

その場合、六時間、七時間が、動けない状態なのである。その六時間のあいだに、あるいは、その七時間のあいだに、なんとか、動けるときがある。けど、それは、本格的に動けるわけではなくて、その時間に勉強をするということは、到底できない。

歯磨きだって、できない。なんとか、ものすごくしんどい状態で、トイレに行くということが、できる時間が……わずかに……隙間時間的に……あるけど、だから、起きて普通に勉強できるかというとちがうのである。

ともかく、もともとの、疲労を引き起こしている原因が、普通の原因ではないのである。あれだけでかい、きちがいヘビメタ騒音に……何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も……さられ続けるということが、どういうことなのか、わかっていない人が多すぎる。

そもそも、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、経験したことがない汚染された時間なのである。発狂・汚染状態なのである。切羽詰まった・混濁した状態なのである。

ぼくだって・兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまえに、騒音を経験した。普通の人が、経験している騒音というのは、兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまえに、ぼくが経験した騒音と同程度なのである……と思う。

けど、ぼくの経験の範囲だと、みんな「自分だって騒音ぐらい経験したことがある」と言うんだよな。そして、俺を「弱い人間だ」と決めつけてくる。「(自分だって騒音経験はあるけど)自分は、それでも働いている」「だから、エイリだって働ける」と思ってしまう。

けど、そのように言う人は、兄貴のヘビメタ騒音がはじまってからの生活と同等の生活をまったく経験していない。

経験していないから、誤解して、間違ったことを、堂々と言えるだけだ。ぜんぜん、ちがう。

けど、俺がどれだけ「ぜんぜん、ちがう」ということを言っても、相手は、認めない。ぼくの経験の範囲で言うと、(そういうことを言う人は)みんながみんな、認めなかった。

●まったくちがうことが「働く」という言葉で表現されている■社会※2026/02/12 4:02

有利な人にとって働くということがどういうことかというと、勝てるゲームをやっているようなものなのである。勝ちやすいゲームと言ったほうが、正確かな。

ともかく、有利な人にとって働くということは、楽しいゲームをやっているようなものなのである。

だから、こういう人たちのことを、念頭に置いて、「働く」ということについて考えても、しかたがない部分がある。

どうしてかというと、不利な人は、働きにくいからである。

不利な人がやっていることと、有利な人がやっていることがまったくちがうのである。まったくちがうことが「働く」という言葉で表現されているのである。

この、ちがいを無視して、「働くとは」ということについて考えてみたって、しかたがない。

ところが、「働くということについて考えてみよう」という場合は、働いていない人に説教する文脈で「働くということについて考えてみよう」と言っている場合が多いのである。

これが、こまったことなんだけど、こういうことを言う人は、「働く」という内容が、有利な人と、不利な人で、ぜんぜんちがうのだということに、気がついていない。

そりゃ、楽しいゲームをやるのと、つまらないゲームをやるのでは、話がちがう。ところが、条件を考えないで、精神論で乗り切ろうとするのである。

ようするに「つまらないゲームだって、楽しいと言えば楽しくなる」というような妄想的なことを言うのである。ポジティブ言葉を使っていれば、つまらないゲームをやっていたって、楽しいゲームをやっているときのように、ポジティブな状態になれると言うのである。

こんなの、暴言。

「妄想も、たいがいにしろ」と言いたくなる。

●健康であることは、重要なのだ■社会※2026/02/12 3:01

二〇歳の時にくらべれば、おカネをもっている。これが、だいぶちがうんだよね。失ったものは、あるけど、得たものもある。おカネ……。

あと、二〇歳の時にもっていなかったけど、今は持っているものは、クレジットカードだ。これも、カネ関係か……。あの時は、ほんとうにくるしかった。くるしかった。

「働く」ということについて、ちょっとだけ書いておく。「働く」ということを考える場合「働く」という文字を使うことによって、抽象化されてしまうのである。具体的な内容は、捨象されてしまうのである。

「働く」というのは、じつは、個々人の条件が、一番とは言わないまでも……かなり反映されるところなのである。ようするに、個人によって、「働く」と言っても、「働く内容」がちがうのである。

なので、まったく別のことについて、話しているということがよく、しょうじる。

*     *     *

金持ちというのも、人それぞれに、ちがった意味で使っているので、金持ちの定義から始めなければならないのだけど、特権階級的な金持ちは、基本的に、働くのが楽なのである。

まず、健康であることは、重要なのだ。働くとき、どうやって働くのかというと、自分の身体を動かして働くわけだから、健康というのは、重要なのである。働いているあいだ、つねに、いたいところがある場合は、問題がある。

楽しくは働けない。

それとおなじように、身体的なだるさというのも、問題がある。だるさにも、程度がある。ぼくの場合、きちがいヘビメタ騒音によって、ひどいだるさを経験するようになった。

睡眠回路がこわされた。そして、睡眠回路以外の回路も、実際にこわされたと思う。

手短に言うと、働いているあいだ、つねに、身体的にだるいので、おもしろくないのである。楽じゃないのである。根性論だと、個人の「だるさ」というのは、無視される。

「俺だってつかれている」と一言いえば、きちがいヘビメタ騒音が毎日続くという、異常な出来事によって引きこおこされた「だるさ」も、普通の人間が日常生活の中で感じるだるさも「おなじ程度のだるさだ」ということになってしまう。

「俺だってつかれている」と言っている人の「つかれ」とぼくが、感じている「つかれ」はちがうのである。

「だるさ」と「つかれ」で、表現はちがうけど、めちゃくちゃにつかれている状態は、だるい状態とほぼおなじ状態になる。

だるい状態というのは、つかれた状態のうえに、さらに、病的な不快がつみかさなっている状態なのである。

ここちよい「つかれ」はあるけど、ここちよい「だるさ」はない……と言ってみたくなる。

ともかく、だるさというのは、ここち悪いつかれの、上位バージョンなのである。だるさのほうが、つかれよりも、悪いほうに、傾いているのである。

2026年2月10日火曜日

●「きれいごとのルール」は、無視されることになる■社会※2026/02/10 19:45

たとえば、一〇〇人の村があるとする。その一〇〇人がみんな、「人がいやがることはするべきではない」と考えていたとする。

そうなると、人がいやがることをする人がいないような感じになるのだけど、そうとは、限らないのである。

たとえば、「仕事の場合は、人がいやがることをしてもいい」ということになっていると、仕事をしている人は、仕事中は、人がいやがることをしてもいいということになるので、人がいやがることをする場合もあるということになる。

「何時から何時まで仕事をしなければならない」というルールがあるとする。そうすると、その仕事をしたくない人も、仕事をおしつけなければならなくなるのである。

そして、「仕事中は、部下に命令をしてもいい」というルールがあるとする。

そうすると、部下がいやがる仕事をおしつけてもいいということになるのである。何時までにこの仕事をやってくれと命令してもいいということになるのである。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。AさんもBさんも「人がいやがることはするべきではない」と考えているとする。AさんがBさんの上司だとする。

Aさんは、仕事中であれば、Bさんがいやがることを命令してもいいということになるのだ。Bさんがこの仕事はやりたくないと思っていても、そんなのは、関係なしに命令するだろう。

いちいち、Bさんがいやがっているかどうかということを、気にしていたら、仕事ができないということになるのであれば、Bさんがいやがることだって、命令するだろう。

個々の具体的な「お題目」がどれだけきれいで、どれだけ、人を納得させるものであったとしても、実際の場面では、それが成り立たないということはある。

あるカルト宗教の人が、「教祖は、悪い人だけど、教えは正しい」と言ったとする。教えというのが、一〇項目ぐらいあったとする。その一〇項目を、すべての人が理解したとしても、いいことにはならないのだ。

この人たちは、実際の認知や、実際のメタ認知を無視している。

ようするに、場面的に成り立っているルールだ。

「仕事中なら、部下に命令してもいい」というルールがあるなら、「人がいやがることはしないようにしよう」と思っている人だって、部下がいやがることをする場合がある。

これが、例外かというと、そうでないのだ。

さまざまなところに、「きれいごとのルール」よりも、重要なルールが成り立っていて、重要なルールのほうが優先されると、「きれいごとのルール」は、無視されることになるのである。

その場面で、無視されることになる。

「(きれいごとのルールに関して)これは、正しい」と心底思っていたとしても、別の上位のルールがあるなら、ちゃんと、その(きれいごとのお題目)は無視されることになるのだ。

だから、みんながみんな、心底、きれいごとのルールを理解すれば、いい世界になるというのは、間違った考え方なのである。

その場面場面で、もっと優先されるルールが成り立っていると、きれいごとのルールは、無視されることになるので、「きれいごとのルールについて」どれだけ、説教をしても無駄だということになる。「きれいごとのルールを」理解した人がどれだけ、増えても無駄だということになる。

実際には、説教をするほうだって、メタ認知的に優先するルールを優先して、きれいごとのルールを無視することがある。無視する状態が、普通の状態であり、きれいごとのルールにこだわって、優先するルールを優先できないのであれば、社会不適合になってしまうのである。

どうしてかというと、社会の場面というのは、現実的な場面の組み合わせだからだ。

現実的な場面において、まわりの人が普通に優先しているルールを優先せずに、きれいごとのルールを優先すると、その場面に適応できなくなってしまう。

適応できない場面が増えれば、社会不適合になってしまう。そして、仕事というのは、そういう個別的な場面の連続を含んでいるものなので、(きれいごとのルールにこだわっている人は)社会不適合になってしまうのである。

きれいごとのルール(きれいごとのお題目)について、人に説得をしている人が、社会不適合にならないのは、鈍感力が優れているからなのである。社会の場面で、実際には、きれいごとのルールを本人が無視しているのに、無視しているということ自体に気がつかないので、本人は、適応できるのある。

だから、いやがっている人にも、宗教の宣伝ができるのである。きれいごとを実行していないからこそ、宗教の勧誘ができるのである。

しかし、今回言いたいのは、宗教の勧誘のことではない。ありとあらゆる仕事のことだ。

ありとあらゆる仕事にも、宗教の勧誘のように、きれいごとのルールを無視しなければならない状態がある。

その状態を無視しているから、本人はきれいごとのルールについて……『これは正しい』と思っている状態を保持できるのだ。

これが、感づいてしまう人だったら、すぐに、疑問を感じて、場面に適応できなくなってしまう。

運用レベルで実行するつもりである人であって、なおかつ明晰な人(鈍感力がない人)は、すぐに、自分がきれいごとのルールを無視しなければ、場面に適応できないということに気がついてしまう。

2026年2月9日月曜日

●「エイリは、かわらないから、自分をかえるしかない」■言霊※2026/01/31 21:25

言霊主義者も言霊主義者で、ぜんぜんわかっていない。そして、きちがい兄貴ほど頑固じゃないけど、言霊主義者だって頑固なのだ。

そして、言霊主義者は、精神世界の人である確率が高いけど、精神世界の人は、「ヒトゴトであれば」……「人はかわからないから自分を変えるしかない」とか「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。

けど、案外、頑固なのである。

ぼくが知る範囲では、精神世界の人は、「エイリは、かわらないから、自分をかえるしかない」と言霊に関する考え方をかえようとは、しなかった。

エイリの主張に合わせて「言霊理論は間違っている」と思うようにするということは、しなかった。

エイリが、言霊理論を否定したあとも「言霊は絶対」「理屈じゃねぇーんだよ」「アバウトでいいんだ」「だいたいあっていればあっているんだよ」と意地を張って認めなかったのである。

自分自身が「自分が言ったこと」を実行できているかというと、できていないのである。

「すべては受け止め方の問題だ。だから、受け止め方をかえればいいのだ」と考えて「言霊理論が間違っている」ということを正しいと受け止めなおすということをしてくれなかったのだ。

「なんだとおぉ」「俺が元気だ元気だと言ったら元気になった」「言霊(理論)は正しい」「心理学の実験でも証明されている」と言って、言霊理論が正しいということにこだわりまくって、言霊理論に関する受け止め方をかえてはくれなかった。

*     *     *

運用の問題ということを、ぼくは、言った。これは、ルールの優先順位が気分次第で変わってしまうことや、ルールの優先順位が高いほうが、ルールの優先順位が低いほうより優先するので、優先時トンがい低いルールは、なかったことになってしまうということだ。

「人がいやがることはやめましょう」と言ったって、「真実を知らない人たちを導くことはいいことだ」と思っていれば、「人がいやがる勧誘をする」のだ。「人がいやがることはしないようにする」というルールよりも、「真実を知らない人たちを導くこと」のほうが重要だと(自我が)判断したので、そうしているのである。

一つ一つのこと(教え)に納得していたとしても、実際の運用の場面では、そんなことはまったく気にしないで、教えを破るのである。教えを破っているということについても、気がつかない。そりゃ、 「真実を知らない人たちを導くこと」のほうが「人がいやがることをしない」ということよりも、重要だからだ。

「真実を知らない人たちを導く」ときは、相手がいやがっても、しつこく勧誘してもよいのである。いや、むしろ、「相手が嫌がっている」ということを無視して、頑固に勧誘するべきなのである。そうなると、「人がいやがることをしない」ということは、どこかに行ってしまう。

ルールとルールの上下関係について述べたけど、実際には、ルールと「正しいと思うこと」の間にも、上下関係が成り立っている。ルールだって、正しいルールだと思っているから、従おうと思うわけだろ。

けど、「言霊は絶対だ」「言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということを信じている人たちは、それが、正しいことだと思っている。

「言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのは、ルールではないけど、「正しい」と思っている人にとっては、「正しいこと」になる。正しいことを否定されたときも、(相手をかえるのではなくて、自分をかえる)というルールに従うことができるのかということが、問われているのである。その場合、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればいい」というルールよりも、 「正しいと思うこと」のほうが優先するということなのである。そして、これも、自我を構成するルールの一部なのである。

たいていの精神世界の人は……「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールを優先して、「自分が間違っていたのだと」と思わないのである。

何度も言うけど、これは、 「自分が正しい」と思うことのほうが、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも優先されているということだ。

自我は、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも、「自分が正しいと思うことは、正しいことだ」という信念?のほうを、優先しているのである。

そして、何度も言うけど、「相手をかえるのではなくて、自分をかえればよい」というルールよりも、「自分が正しいと思うことは、正しいことだ」という信念?のほうを、優先するということも、自我を構成するルールのひとつなのだ。

2026年2月8日日曜日

●きちがい兄貴のやり方が、異常なのだ■騒音※2026/02/08 10:17

きちがい兄貴のやり方が、異常なのだ。だから、ほかの人は、(うちの)きちがい兄貴のようなやり方で、やられたことがない。ほかの人の家族は、(うちの)きちがい兄貴のような感覚をもっていない。だから、ほかの人の家族は、(うちの)きちがい兄貴のような感覚をもった家族にやられたことがないということになる。そうすると(この人たちは)みんな、経験がないので、ヘビメタ騒音の影響を過小評価することになるのである。

2026年2月6日金曜日

●次の日もそれが続く……■騒音※2026/02/06 15:36

  ほんとうに、いろいろと不愉快な記憶がよみがえってくる。どうして、不愉快な記憶のほうが、残るのだろう。楽しい記憶だってあったはずなのに、なんか、蜃気楼のように消えてしまった。不愉快な記憶に関しては、リアルなのである。そのまま、感情が再現・再生されてしまう。

基本、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音にやられるということは、(ぼく自身が)ダメ人間側にシフトにするということなのである。どうしてかというと、実際に、鳴らされているあいだ、くるしいし、鳴らされたあと、眠れなくなって睡眠時間を確保できなくなるからだ。寝不足で動いているときの、不愉快な気持ちといったらない。実際に、不愉快な出来事が、(ちゃんと眠れる場合よりも)多く発生してしまうのである。そして、次の日もそれが続く。次の日もそれが続く……のは、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを最大音量で鳴らすことをあきらめずに、最大音量で鳴らしているからだ。強制的に、腹が立つし、強制的に睡眠時間が減らされるのである。しかし、ほかの人は、ぼくではないので、「強制的に睡眠時間が減らされるということはない」と考えるのだ。鳴り終わったら関係がない」と考えるのだから、そう考える。ところが、強制的に、睡眠時間が減らされる。強制的に、睡眠質が悪くなる。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音にさらされて、発狂した状態で、すごさなければならないからだ。よその人は、自分が、きちがい家族の騒音に毎日さらされている我毛はないので……毎日長時間さらされているわけではないので……強制的に「発狂した状態になる」「字尋常じゃないほど、張り詰めて腹が立った状態になる」ということも、否定してしまう。どれだけ鳴ってたって、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるのだ。そんなのは、自己責任なのだ。腹を立てるからダメなんだ」と言ってくる。けど、そいつが、そいつのきらいな音に、あれだけ長しい時間さらされたら、腹が立つと思う。そして、その音源である家族が、きちがい的な感覚をもっているやつであれば、それも、腹が立つのである。けど、やられていない人は「自分なら腹を立てない」「そりゃ、ちょっとは不愉快かもしれないけど、鳴り終わったら眠れる」と考えて、俺に無理なことを言ってくる。 

きちがい兄貴は、ぼくの立場が……なるくなるようになくなるように、ふるまっているのである。きちがい的な頑固さで、よそのうちでは一分間だって鳴らせないような騒音を鳴らす。どれだけ、俺が、きちがい兄貴、きちがい兄貴の騒音と自分の身に起こったことの関係を話したって、きちがい兄貴は……思いっきり鳴らしたいだけなので……認めないのである。一秒間だって、ゆずりたくないのである。自分が「屈服して」弟のために、ほんとうに我慢しなければならないとなったら、それこそ、発狂してしまうのである。そういうテンションの高さがあるのである。しかし、本人は毎日、「一秒も譲らない状態」で鳴らしているので、気がつかないのである。これをひっくり返すとなると、ほんとうに、殺さなければならなくなるのである。こっちは、こっちで、そういうテンションの高さで、不愉快ないのである。『やっていられない状態』なのである。毎日がそうなんだよ。影響がないわけないだろ。

ところが、「自分なら影響なんて受けない」と思っているやつらが、無理なことを言ってくるのだ。そいつらが、俺に無理なことを言えるのは、そいつらが実際に、やられていないからだ。実際にやられたら「自分なら影響なんて受けない」というバカな思考は粉砕される。こいつらは、想像力がないバカだから「自分なら影響なんて受けない」と思っている。けど、実際に、そいつらのまわりには、きちがい兄貴のような思考をもった人間がいないわけだから、やられないのである。きちがい兄貴のような家族がいないから、きちがい兄貴のような家族が、きちがい的な意地でやることで悩んでいないだけなのに、自分のほうが(エイリよりずっとすごい人間だ)と思っているのである。きちがい兄貴のような家族がいない。きちがい兄貴のような家族が(自分の周りにいないので)きちがい兄貴のような家族が(きちがい的な意地で)やることの影響を受けていないだけなのに、自分のほうが(影響を受けているエイリよりも)ずっと、すぐれていると思い込んでいある。こういうやつらの態度は、実際にぼくが、きちがい兄貴のきちがい行為の影響を受けているということから発生するのである。もっと言えば、こういうやつらの態度は、実際に、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい的な音を鳴らしているということから発生するのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい的な音を鳴らしていなければ、俺は、こいつらから、無理なことを言われないですむ。こいつらの常識的な思考というのは、実際にやられていないから「自分なら影響を受けないだろう」という仮定のもとに成り立っている。

もう、かさなりすぎた。 

2026年2月5日木曜日

●矛盾があるのだけど、本人は気がつかないままなのだ■言霊※2026/02/05 4:59

どれだけ頑固な言霊主義者だって、自分がカレーライスを食べたいときは、言霊の力でカレーライスを出現させようとは思わないのだ。

どれだけ頑固な言霊主義者だって、レトルトカレーをご飯の上にかけたり、自分でカレーをつくってご飯の上にかけたり、同居しているほかの人にカレーライスを作ってもらったり、カレーライスを食べさせてくれる店に行ったりして、カレーライスを食べるのだ。

「ざく切りのジャガイモのが入ったカレーライスが皿に盛られた状態で、このテーブルの上のどこかに、出現する」と言って、カレーライスを食べようとしない。

「三秒以内に」というような言葉をつけると、言霊なんて嘘だということがわかってしまうので、三秒以内にというような時間を制限するような言葉はつけないで、言霊は主義者は「現実化させたいこと」を言うことが多い。

いつか、どこかで、「皿に盛られたざく切りのジャガイモのが入ったカレーライス」を食べたら、「言ったから、願いがかなった」と思ってしまう。

言霊の力によって、「皿に盛られたざく切りのジャガイモのが入ったカレーライス」を食べられたということにしてしまう。インチキだ。

たいていの場合、本人がそう思ったとしても、だれも文句を言わない。

確信している状態が続く。

しかし、どれだけ頑固な言霊主義者だって、自分がカレーライスを食べたいときは、「三秒以内に、ざく切りのジャガイモのが入ったカレーライスが皿に盛られた状態で、このテーブルの上のどこかに、出現する」と言って、カレーライスを出現させようとは思わないのだ。

どうしてかというと、ほんとうは、言ったって、そんなことは、現実化しないということを知っているからだ。

だから、こういうところに、矛盾があるのだけど、本人は気がつかないままなのだ。

●言霊は、発話者の頭のなかに宿っている■言霊※2026/02/03 15:33

このあいだ、言ったことを、もうすこし、わかりやすく書いてみようと思う。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。 

Aさんが「ちり紙が、カレーライスになる」と言った場合は、Aさんが思い描いたようなカレーライスになるのである。

そして、Bさんが「ちり紙が、カレーライスになる」と言った場合は、Bさんが思い描いたようなカレーライスになるのである。

皿に盛らているかどうかということも、個々人のイメージ次第なのである。

ここでたとえば、「ちり紙が、皿に盛られているカレーライスになる」と言い直したとしよう。

その場合は、もちろん、「皿に盛られている」ということが、確定される。なので、ちり紙は「皿に盛られていないカレーライス」にはならない。この場合、「皿に盛られている」という言葉を付け足したわけだ。情報量が増えた。

「カレーライス」という言葉と「皿に盛られているカレーライス」という言葉はちがう。

これは、言葉に言霊が宿っているとなると、重要なちがいだ。

それから、たとえば、Aさんは、ジャガイモが入ったカレーライスを思い描いたとしよう。そして、Bさんも、ジャガイモが入ったカレーライスを思い浮かべたとしたよう。

しかし、Aさんは、一センチぐらいのダイスのような形をしたジャガイモが複数はいっている「ジャガイモが入ったカレーライス」を思い浮かべたのに対して、Bさんは、「四センチぐらいのざっくりと切られたジャガイモが複数はいっているカレーライス」を思い浮かべたとする。

その場合、おなじジャガイモがはいったカレーライスでも、ちがうものが出てくるのである。

ちり紙が、ちがう「ジャガイモ入りのカレーライス」になってしまうのである。

肉にしたっておなじだ。ビーフカレーなのか、ポークカレーなのか、チキンカレーなのか、はいる肉によってちがってしまう。

そして、ビーフカレーにしたって、牛肉がどのように切られているかで、ちがうビーフカレーになってしまうのである。

情報量がちがうということを言ったけど、それは、こういう意味だ。

「皿に盛られたジャガイモがはいっているビーフカレー」という文字列(言葉)に込められた言霊と「カレー」という言葉に込められた言霊は、ちがうはずなのだ。

しかし、Aさんが、最初からカレーという言葉で「皿に盛られたジャガイモがはいっているビーフカレー」を思い浮かべているのであれば、「カレー」という言葉と「皿に盛られたジャガイモが入っているビーフカレー」という言葉のちがいはないということになってしまうのである。

言霊主義者の場合は、「自分」が思っていることが、すべて言葉によって表現されていると思っているみたいなのだけど、自分が思っていることを言葉にした場合、じつは、その言葉は、自分が紡ぎだした言葉以上の意味をもっているのである。

一〇〇詐欺になることをおそれずに言えば、もちろん、言霊主義者はそんなことは、気にも留めない。言霊主義者は気がついていない。

「動く」と言えば「自分が思ったように動く」ものだと思っている。

「カレーライス」と言えば、「自分が思ったようなカレーライス」だと思っている。

しかし、言葉はイメージによって補完されているのだ。

言霊が言葉(自体)に宿っているということになっているけど、言霊は、発話者の頭のなかに宿っているのである。

まあ、もちろん、言霊はないし、言霊がないから、言霊の力もないのだけど、言霊主義者が想定している「言霊」というものは、言霊主義者自身は気がついていないかもしれないけど、じつは「言葉自体」に宿っているものではないのだ。

2026年2月4日水曜日

●内面化された基準があると、内面化された基準にさからえなくなる■社会※2026/02/03 11:41

 実際には、働けない人が「人は働くべきだ」とわかったようなことを言われると、不愉快な気持ちになるのだ。

そして、相手が言っている基準を自分自身も持っていると、最悪、自殺することになる。

相手は、条件を無視している。

条件について「自分」が語れば、相手は「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまえだ」と言ってくることが決まっている。

そして、相手は、意地悪でそういうふうに言っているわけではなくて、ほんとうに、そうおもって、そういうふうに言っているのだ。

この場合、「バカの壁」か「無理解の壁」を感じるのだ。言われたほうは、無理解の壁を感じる。

でっ、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまえだ」と言うやつは、そういうふうに確信している。

自信がないことを言っているわけではないのだ。完全にそういうふうに思っている。確信している。どうしてかというと、彼らが、うまい具合に洗脳されているからだ。

けど、これは……洗脳だとは思われていない。ものすごく、深いところにある反応パターンであり、思考パターンだ。

そして、たとえば、無職に対する偏見などもある。

これも、洗脳されているのだと思うけど、ともかく、信念のような偏見がある。ものすごく深いレベルでの偏見だ。

これも、信仰に近い。

ひきこもりに対する偏見もあり、相手がひきこもりなら、バカにしていいと思っている。これも、洗脳の結果だとは思うけど、ともかく、日本人は……相手がひきこもりなら、自分よりも格下の人間で、バカにしていいと非常に深いレベルで思っているのだ。

ぼくは、「言霊理論」「思霊理論」「引き寄せ理論」「努力論」「自己責任論」について、語ってきたけど、これらの考え方が、偏見をつくりだすのである。そして、条件が悪い人を、自殺に追い込むのである。

たとえば、「できると言えばできる」と言われたときの、破滅感が並じゃないのだ。ぼくの場合は、きちがいヘビメタ騒音という、ほかの人にはあんまり理解できないことが原因なのだけど、「できると言ったって、ヘビメタ騒音でできない」のだ。

けど、「できると言えばできる」と言う人は、ヘビメタ騒音が鳴っているとできない」ということを認めない。

「できると言えばできる」のだから認めない。どや顔で、「できると言えばできる」と言い切っておしまいだ。

言い切ったほうは、気持ちがいいかもしれないけど、言い切られたほうは、気分が悪いのだ。

条件が、理解されなければされないほど、死にたい度合いが強くなる。条件が悪ければ悪いほど、死にたくなるのだ。

これが、たとえば……「できると言えばできる」と言ったほうには、わからない。

「できると言えばできる」と言った人は、「できると言えばできる」という考え方が正しいと確信している。どうやって、間違ったことを言ったと思うことができるのか?

それこそ、できない。

「できると言えばできる」と言った人に、ちゃんと説明してやっても、むだなんだよ。ここに書いたことを、そのままちゃんと説明してやっても、むだなんだよ。

説明しても、相手は、考え方をかえない。時間の都合で説明しなければ、もちろん、相手は、考え方をかえない。どっちにしろ、考え方なんてかえない。

若い女性社員が自殺した話について、うわさになれば、「できると言えばできる」と言った人が、若い女性社員の味方をして、元上司や会社側の対応をせめることになる。

『いやーー。おまえ、まったくわかっていないなぁ』と思う。

「できると言えばできる」なんて、自殺に追い込むやつが言う言葉だ。ぜんぜん、わかっていないんだよなぁ。

けっきょく、相手の条件を無視しているということが、わかっていない。相手にとっては、重要な条件なんだよ。できなくなる条件なんだよ。

そして、こういう人たちは、みんな……ぼくの知る範囲ではみんな……「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」「俺だってつらい」「わたしだってつらい」と言う。

わっかたような気持になって言っているのだ。

もちろん、苦労したのだろう。つらいのだろう。つらい思いをしたことがあるのだろう。

それは、否定しない。

けど、相手の条件は無視しているのである。

「できると言えばできる」と言われて、黙って引き下がった人が、自殺した場合は、「できると言えばできる」という考え方を(その本人が)内面化している確率が高い。

これ、内面化しているので、「できないなら、死ぬしかないか」と思うようになるのである。自分自身に内面化された基準があると、内面化された基準にさからえなくなる。

そうすると「できないなら、死ぬしかない」という思考につながる。

「言霊理論」「思霊理論」「引き寄せ理論」「努力論」「自己責任論」というのは、内面化された基準をつくりだす「もと」の理論なのである。なので、さからいにくいのである。

●猛烈にきつい「鳴り終わったあとの時間」■騒音※2026/02/04 14:45

きちがい兄貴のヘビメタ騒音がこたえた。これ、生活上、どうしても、こたえるのだ。勉強だけに限って言っても、鳴っているあいだだけ、勉強ができなくてこまるということではなくて、鳴り終わったあとも、勉強ができなくてこまるのだ。多くのほかの人は、実際に、「そういう毎日」が続いたわけではないので、これがわかっていない。そうすると、多くの人たちが「鳴り終わったら関係がない」と思うわけ。ところが、鳴り終わったあとが、猛烈にきついのである。この猛烈にきつい「鳴り終わったあとの時間」が、わかっていないのである。多くの人はわかっていない。だから、そういうことについて、認知の差ができてしまうのである。これは、実際には、きちがい兄貴のような家族がいない人は、自分にとっては経験がないことだから、「鳴り終わったら関係がない」と普通に考えてしまう。自分の考えを訂正することは、エネルギーが必要なことだし、やりたくないことなので、普通の人は、やらない。その人の頭のなかには、「鳴り終わったら関係がない」のに「エイリが、あまえたことを言っている」という考え方が残ってしまうのである。

生活上、ものすごいハンディが発生してしまうのに、多くの人が、ものすごいハンディがあるということを、普通に否定してしまうのである。そして、多くの人は、実際に、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んでいるわけではないので、生涯のあいだ、きちがい家族がしつこく鳴らす騒音を経験しないですむのである。 

●ずっとずっとずっと、続く■騒音※2026/02/04 0:32

 一番腹が立つのは、きちがい兄貴が「まったくやったつもりがないまま」やったということだ。きちがい兄貴だって、あの音のでかさで、自分が聞きたくない音を聞かされたら、腹を立てるのに、それがぜんぜんわからない。どれだけ言っても、わからない。けっきょく、なにも悪いことをしていないつもりで、ずっとずっとずっと、鳴らす。こっちが、どれだけ……「こまるからやめろ」と言っても、きちがい的に発狂して、きちがい的にはねのけたら、その瞬間に、忘れてしまうのだ。これ、こっちが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で腹を立てているのに、きちがい兄貴に、「ヘビメタを鳴らすな」「ヘビメタの音をさげろ」と言うと、きちがい兄貴が、きちがい親父のように発狂して、おしまいなのだ。きちがい兄貴が、騒音で、弟がこまっているということを、理解することがない。まえまえから、はんだごて事件について言っているけど、はんだごて事件というのは、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだに起こった事件だ。きちがい親父は、自分の主張で、きちがい兄貴がこまったということを、理解しないのだ。「はんだごてが使えなかった」と言うことを言われれば「つかえる!!!つかえる!!!」と逆上しておしまいなのだ。まるで、兄貴が、自分の主張でこまったということが、わかっていない。これ、何万回繰り返したっておなじなんだよ。それと、おなじで、きちがい兄貴は、自分の騒音で弟がこまっているということを、認めないのだ。認めないまま、まるで、悪いことをしていないつもりで、非常識な音で、きちがい的な音を鳴らしている。こまるにきまっているだろ。そして、「こまるにきまっている」ということは、普通の人ならわかることなのである。ところが、きちがい親父とおなじでまったくわからないのだ。何千日、繰り返してもわかしない。数千日にわたって、「きちがい兄貴のヘビメタ騒音でこまるからやめろ」と言っている二の……こっちが言っているのに……ちょっとでも、ほんとうに自分が辞めなければならないようなことを言われたら、きちがい親父のように、きちがい兄貴が発狂して、はねのけて、おしまいなのである。まったく、なにも言われなかったという認知のまま、きちがいヘビメタを、鳴らしたいぶんだけ、鳴らし続ける。ゆずるなんてことはないんだよ。自分が、ほんとうにゆずるとなったら、くやしくして、くやしくて、発狂してしまうんだよ。一秒間だって、ほんとうに自分が「我慢してゆずってやらなければならない」と言うことになったら、発狂してしまうんだよ。発狂して、「そんなこと、やってられるか」という気持ちになって、きちがい兄貴・本人が満足できる、きちがい的にでかい音で鳴らしてしまう。まるで悪いと思っていない。まるで悪いと思っていない状態が、ずっとずっとずっと、続く。

2026年2月3日火曜日

●言葉自体に言霊が宿っているのか、言葉に自分が言霊を宿らせるのか■言霊※2026/02/03 12:08

「動くと言ったから、電車が動いた」とする。

その場合、駅のプラットフォームに停車している電車が、次の駅に向かって、出発するときの「動く状態」というのが、イメージを構成している場合が多い。

しかし、「動く」と言っているだけだから、いきなり時速一〇〇キロで、動いしてしまうかもしれないのだ。あるいは、上方向に向かって動いしてしまうかもしれないのだ。ようするに、天に向かって動いしてしまうかもしれないのだ。

「動く」と言っているだけだから、ほんとうは、どのような「動き」をしてもいいということになる。

動けば、動いたことになる。

しかし、言霊主義者が……「電車のまえで『動く』と言って、電車が実際に動いたから、言霊が存在して、言霊の力があるということが証明できた」と言う場合は、普通に、電車がプラットフォームを出ていくときの「動き」のことを言っているのだと推測できる。

「動く」という文字列(言葉)は、じつは、そんなところまで、規定していない。

動き方を規定しているのは、発話者の、脳内にあるイメージだということになる。

ここにおいて、じつは、言霊というのは、思霊の一種だということになってしまう。

ようするに、「念力」のようなものを想定して、念力のようなものが、言葉に宿っているということを、言霊主義者は主張していることになってしまうのである。

たとえば「心をこめて言えば、いい」ということを言霊主義者が言う場合がある。

ようするに、「言ったのに現実化しない」場合は、言い方が悪かったから現実化しないということを言ったあとに、「心を込めて言えば、現実化する」ということを(言霊主義者は)言うのだ。 

前にも述べたとおり、「言ってしまったら」どれだけ心がこもっていない状態で言っても、言ったということになってしまう。

だから、「心をこめて言わなかったから、現実化しなかった」という理屈は、じつは、言霊理論を否定していることになる。

けど、言霊主義者はそんなことは、気にしない。

ようするに、言いたいのは、言霊主義者が、言葉にこだわっているようで、「言い方」や「思い」にこだわっているということだ。

言葉にこめられている「思い」が重要なのである。

それならば、もちろん、言葉に(発話者が)自力で、言霊を付与するということになる。

これは、言葉自体に、言霊が(最初から宿っている)ということを意味していないのである。また、言霊の量(言霊の力の強さ)は、発話者が、決めてしまうというようなことを意味しているのである。

つまり、言葉は「うつわ」であり、発話者が「言霊」という「念力のような力」を、言葉にいれているということになる。

これは、本来の意味での、言霊主義ではない。

しかし、もともと、矛盾していることに気がつかないような言霊主義者たちは、もちろん、言葉自体に言霊が宿っているのか、言葉に自分が言霊を宿らせるのかのちがいについては、気にも留めない。

その都度、都合がいいほうが選ばれているのである。

●情報量がちがいすぎる■言霊※2026/02/02 10:58

「このちり紙は、おいしいカレーになる」という文の「カレー」というのは、どういう「カレー」なのかということが、気になった人はいないだろうか?

じつは、この文の「カレー」というのは、「カレーライス」のことなのだ。

そして、皿の上に盛られたカレーライスなのだ。

「カレー」部分だけだと、ちり紙が、カレーになってしまった場合、下にあるものがカレーで、覆われてしまう。

たとえば、机の上に、「このちり紙」があるとする。机は、とりあえず、木製の机だとする。机の表面は、木でできている。

しかも、木がむき出しなのではなくて、ニスのようなものが塗られているとする。

その場合、机の表面にカレーがのってしまうということになる。

たいへんだ。

とても食べられたものではない。

机の表面が汚れてしまう。

じつは、「カレー」と言っても、人によって思い浮かべるものがちがうのだ。「カレーライス」と言っても、人によって思い浮かべるものがちがうのだ。

しかし、「カレー」という文字列は「カレー」だし、「カレーライス」という文字列は、カレーライスという文字列なのだ。これは、ものすごく重要な意味をもっている。

はっきり言ってしまうと、じつは、言霊は、言葉(文字列)に宿っているのではなくて、発話者の脳内に宿っているのだ。カレーライスという文字列は、カレーライスという文字列だ。

言霊理論が正しい場合……「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」と言ったら、言霊の力によって、おいしいカレーライスになるのである。

しかし、そのカレーライスというものは、どういうカレーライスなのかというと、発話者の脳内にあるカレーライスのイメージとおなじカレーライスになるのだ。言霊理論が正しいなら、そうなる。

そして、ここが肝要なのだけど、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という文字列を読んだ人の場合だと、読んだ人のなかにあるカレーライスのイメージ通りのカレーライスになるのだ。

読んだ人が「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」と言った場合、今度は、読んだ人のなかにあるカレーライスのイメージが具現化されることになる。言ったことが現実化すると言っているのだから、そうなるのである。

つまり、「カレーライス」という言葉に宿っている言霊は、言っている人によってちがうカレーライスを現実化してしまうのである。

しかし、「カレーライス」と言ったら、カレーライスなのだ。

わかるかな?

言葉に宿っている言霊ということになっているけど、じつは、言霊は、言葉自体に宿っているのではないということを意味しているのである。これは、言霊理論自体が、幼稚な脳に対応しているために、起こることだと(わたしは)思う。

幼児にとって「自分」というのは、「自分」だから、「自分が考えたようなカレーライスになる」と思ってしまうのだ。自己中心性が強いのだ。

だから、文字列(ことば)自体に、言霊が宿っているということを聴いても、別に疑問を感じない。カレーライスという言葉を聴いて、思い浮かべるカレーライスが、カレーライスであると勝手に決めつけてしまうことができるからだ。

*     *     *

ここで言いたいのは、たとえば、カレーライスという言葉が持っている情報量と、カレーライスと言う言葉を聴いた側が持ってるカレーライスに関する情報量がまったくちがうということだ。

言霊理論に従えば、カレーライスという文字列が、言霊をもっているということになるのだ。 これは、間違っている。彼らは、またまた、自分で自分をだましているのである。

「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉は「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉でしかないのだから、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉に言霊が宿っているとなると、おかしなことになるのだ。

ようするに、受け取り側の力を無視して、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉に言霊が宿っているということになっているのだけど、実際には、受け取り側の情報量に従ったカレーライスがイメージされるので、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という言葉に対応したカレーライスが、ひとつのカレーライスにはならずに、各々が思い浮かべたカレーライスになってしまうのだ。

その場合、言霊というのは、言葉自体に付与されているものではなくて、言った人が自分で付与するものになってしまうのだ。

ところが、そういうことを、言霊主義者は一切合切考えないのである。自分が思い浮かべたカレーライスがカレーライスなのであれば、「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」と言えば、ちり紙が(言霊の力によって)カレーライスになると思ってしまうのだ。

「このちり紙は、おいしいカレーライスになる」という文字列(言葉)に宿っている言霊はおなじなのに、各々の発話者によって、ちがうカレーライスができてしまうことに(言霊主義者は)疑問をもたない。 

もちろん、大人の言霊主義者は、「そんなことはない」と思うだろう。

ところが、これは、普段、「当たり前だと思うこと」に関しては、言霊思考をしないということで、さけられている。大人の言霊主義者は、一〇円玉が(下に)落ちるのは当たり前だと思っているのだ。

だから、一〇円玉が下に落ちるのは、言霊の力とは関係なく一〇円玉が下に落ちると思っているのだ。言霊思考をしないのだ。

*     *     *

あんまりわからないかもしれないけど、「カレーライス」という言葉の情報量と、「カレーライスが具現化する」ということを考えているときの「カレーライス」という言葉の情報量がちがいすぎるのだ。カレーライスという言葉が持っている情報量と、人のなかにある「カレーライス」という言葉がもっている情報量がちがいすぎるのだ。だから、言葉だけに注目する言霊理論は、こういうところでも、まちがっている。

 

2026年1月31日土曜日

●「このちり紙は、おいしいカレーになる」■言霊※2026/01/31 11:17

人間が、「あまさ」を感じたとき「あまい」と表現することについて考えてみよう。

実際には、味蕾が感覚器として機能している。味蕾の感覚が電気信号として神経を伝わって、脳に至り、脳であまさを感じるのだ。

そして、この感覚と、この感覚のことを「あまい」と表現するということを学習している場合は、「これは、あまい」というような表現をすることになる。

言霊主義者といえども、この連合を学習する前に「あまい」と言うからあまくなるというようなことは、言わないのだ。言霊主義者というのは「あまいと言うからあまくなる」という理論を採用しているのである。

ところが、食べるまえに「これはあまい」と言って、食べて、「これはあまい」と言ったから、「これはあまい」という言葉に宿っている言霊の力によって「これ」があまくなったと考える言霊主義者は、あまりいないのである。

普通に「それ」を食べて、味蕾であまさを感知したあと、あまいと感じているのである。

別に、食べるまえに「これは、あまい」と言って食べるわけではない。

たとえば、水を飲む前に、「この水は、あまい」と言って、水を飲むと、「あまくなったような感じがする」というようなことを言う場合がある。

これは、自己暗示の世界だ。

言霊とは関係がない。

ところが、言霊主義者は、「言霊の力によって、あまくなったのだ」と勘違いしているのだ。

言霊主義者だって、電車は、電気の力で動いていると思っている。

電車が、言霊の力によって動いているとは思っていないのだ。

それとおなじように、言霊主義者だって、普段は、言霊の力によって、「それ」があまくなったのだとは思っていないのだ。

人間は、普通、あまいものを食べると、あまいと感じて、すっぱいものを食べればすっぱいと感じるのだ。言霊主義者も、このしくみは、おなじなのである。

たいていの場合、言霊主義者だって、からいものを食べると、からいと感じるのだ。

なにかを食べるまえに、味を決定するような言葉を言い、その言葉に対応した感覚がしょうじているわけではない。

ところが、コーヒーをスプーンでかき混ぜるとき、「あまくなーーるあまくなーーる」と言うと、実際に「あまくなるんだ」ということを言っているわけ。

自己申告制だから、自己暗示が強い人は「実際に、あまくなった」と思うだろう。自己暗示が強い人は、意識的に嘘を言っているわけではない。

けど、その自己暗示が強い人ですら、たいていは、食べるまえに、味を決定しているわけではない。「それ」を食べたとき、あまく感じるのは、「それ」を構成する物質と「身体」の相互作用の結果だ。

味蕾は、もっと詳細な構造をもっている。実際には、味細胞が味を感覚している。あまさに関しては、甘味受容体がかかわっている。

感覚器や脳みそがちゃんと機能していると、あまいものを食べたときは、あまいと感じるのだ。

これは、「それ」が「あまい」と言われるまえに、あまいものであるということを意味している。

もちろん、味を感じない人だっている。だから、その人は「それ」があまいのかどうかわからない。

しかし、普通の身体をもっている場合は、あまいものを食べると、あまいと感じるのである。

別に、食べるまえに「これはあまい」と言ったから、「これはあまい」という言葉に宿っている言霊の力によって、あまくなったわけではない。

つまり、「これはあまい」という言葉に宿っている言霊の力によってそれが実際に、人間があまいと感じる物質にかわるわけではない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが、唐辛子を指さして「これは、あまい」と言ったとする。言霊主義者の主張が正しいなら、その唐辛子は「これは、あまい」という言葉に宿っている言霊の力によって、あまくなっているはずだ。

その唐辛子を、Bさんが食べたとする。

その場合、Bさんは、普通に「これは、からい」と感じるのである。Aさんが、自己暗示の強い人だと「これはあまいと言ったからあまく感じるはずだ」という気持ちになり、実際に食べたら、多少あまく感じたというようなことが、起こりえる。

だったら、言霊はあり、言霊の力が作用して、唐辛子があまくなったのだと言えるかというと、言えない。

だって、そうだろ。Bさんは、あまく感じなかった。

Aさんだって「少しあまくなったような気がする」と言うかもしれないけど、感覚器や脳みそが正常なら「からい」と感覚するはずだ。自己暗示力が強いAさんの場合だって「あまくなったような気がする」だけなのである。

完全に催眠術にかかっている場合は、「あまい」と思うかもしれないけど、これは、言霊の力とは関係がない。これは、言葉の力が関係している。そして、だれもが催眠術にかかるわけではない。催眠術の場合は、脳のほうに影響を与えるのである。

すでに、「あまい」という言葉とあまさの感覚の連合ができあがったあとの話なのだ。

ともかく、「これはあまい」という言葉にやどる言霊の力によって、「これ」があまくなったのではないことは確かだ。

そして、言霊主義者が、なにかをものを食べるまえに、「これは、なになにの味がする」と言って、言ったあとに、それが、その味になるわけではないということも確かなことなのだ。

もともと、カレーの味は、カレーの味だ。

カレーを食べるまえに「これは、カレーの味がする。」と言って、食べると、「これは、カレーの味がする」がするという言葉に宿っている言霊の力によって、「これ」が、カレーの味になるわけではない。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのが、言霊理論だ。

それだと、塩を前にして、「これは、砂糖だ」と言うと、塩が(言霊の力によって)実際に砂糖になるということが発生しなければならない。

言霊理論が正しいなら、言霊主義者が言ったとおりになるはずなのである。

塩でも、「これは砂糖だ」と言うと、言霊の力によって、砂糖になるのである。あまくないものでも「あまくなる」と言うと、言霊の力によって、あまくなるのである。

どれだけ、妄想的な理論かわかるだろう。

言霊主義者だって、普段ものを食べるときは、食べたものの味を知覚して、知覚した感想を言っているにすぎないのである。

カレーを前にして、「これは、かつ丼の味がする」と言ったって、普通の言霊主義者は「カレーを食べると、カレーの味がする」と思うのである。

普通の言霊主義者は、「言ったことによって、味がかわらない」ということを知っているのである。

普段、言霊主義者が、食べるまえに、「それ」の味を決定しているとかというと、決定していないのである。言霊主義者は、普段の行動を完全に無視している。

言霊主義者だって、普段は、食べたあとに、「これはまずい」とか「これはうまい」と感じているのである。

ある言霊主義者がいるとする。この言霊主義者がAという店でかけそばを注文したとする。そうしたら、そのかけそばが、まずかったとする。これは、食べたあとに、この言霊主義者がAという店のかけそばはまずかったと思ったのだ。

さきに、言霊主義者が「そのかけそば」の味を決定しているわけではないのである。

食べた「あと」に、まずいと思ったのだ。

だいたい、言ったことが現実化するなら、「このちり紙は、おいしいカレーになる」と言えば、このちり紙がカレーになるのである。

魔法の力なのである。

●実際にやられたことがないから、わかっていない■騒音※2026/01/31 11:00

 学校から帰ってくると、きちがいヘビメタが鳴っていて、それが、基本、午後一一時一〇分まで続くのである。

実際には、きちがい兄貴が飯を食って風呂に入る時間は、鳴っていない。

だいたい、午後七時二〇分から午後七時四〇分だ。この二〇分間、鳴っていないから、いいかというと、よくないのだ。午後七時二〇分から午後七時四〇分の間の二〇分間、勉強すればいいかというと、よくないのだ。
じつは、午後四時から午後七時二〇分までのあいだの、三時間二〇分で、頭が、相当にやられている。

これも、「そんなのはいいわけだ」と言う人がいるのだけど、いいわけではない。ほんとうに、やられている。どれだけ、響くか……ぜんぜん……わかっていない。

超・高圧状態なんだよ。

あの音圧で、あの至近距離で、自分がこの世で、一番嫌いな音をずっと聞かされ続けるということが、どれだけ脳みそを破壊するかわかっていない。

どれだけ精神を破壊するかわかっていない。

鳴りやんだら、すぐに、勉強できるような状態じゃないのだ。

この…… 午後四時から午後七時二〇分までの間の、三時間二〇分間だけで、終わっている。もう、めちゃくちゃな気持ちになっている。

きちがい兄貴が、まったくわかっていないんだよな。その態度が、頭にくる。そういうやつ……まったくわかっていない家族が鳴らす、……よその家では鳴っていないきちがいヘビメタ騒音が、ぼくのこころを破壊しないわけがないだろ。

脳みそは、不可避的に影響を受けるのである。言っておくけど、耳栓なんて慕って無駄だ。ガンガンガンガンガンガン、入ってる。耳に入ってくる。頭に入ってくる。

脳みそを破壊する。

どれだけくるしい気持ちになるか、ほかの人は……つまり、実際に、家族にやられていない人は、わからない。

きちがい家族が、絶対の意地で鳴らすけど、絶対の意地で、悪いと思わないのだ。そういう構造自体が、ものすごく腹が立つことなんだよ。

きちがいが「あたりまえ」だと思っているんだからな。ぜんぜん、あたりまえじゃない。

あんまりにも、あたりまえじゃないから、よその人は、「想像」でものを言うのである。これは、ようするに、自分がやられていない状態で言っていることだ。

ぜんぜん、ちがう。これも、ぜんぜんちがう。

実際にやられたら、みんな、ぼくに賛成する。

やられていないから「そんなのは、言い訳だ」と(ほとんどの人が)言う。

言うかどうかは別にして……「自分なら平気だ」という前提でものを言う。

言うかどうかは別にして……「自分なら影響を受けない」という前提でものを言う。

実際に、あの態度で、やられたら、(こういうことを言っている人たちだって、みんな)猛烈に腹を立てる。

腹を立てて、腹が立っているあいだ、影響を受ける。

心がガラガラになる。発狂状態と実際の騒音で、勉強なんてできくなる。態度が、きちがいなんだよ。みんな、ここのところがわかっていない。

きちがい的な態度で、鳴らされるということがどういうことなのか、みんな、ぜんぜんわかっていない。

実際にやられたことがないから、わかっていない。

想像でおぎなえる、ごくごく少数の人だって、実際にやられていなければ、わかっていない部分がある。

きちがい家族が「まったくわかっていない」ということが、どれだけ、腹が立つことか、(みんな)わかっていない。

きちがい家族のきちがい的な感覚が……感覚自体が……やられている人間にとっては、ものすごく腹が立つことなのである。

「これ、どれだけ、現実を無視した態度かわかっているのか?」とよその人にも言いたくなる。言いたくなる。

*     *     *

俄然、きちがい的な態度で鳴らすわけだけど、それが、猛烈にいやなことなんだよ。

きちがい的な態度が、いやなんだよ。

あの、きちがい的な態度で鳴らされて、憤慨しない人なんていないと思う。

鳴っているあいだじゅう、憤慨が持続する。

つかれる。どれだけ「楽しい楽しい」と言ったって楽しくならない。どれだけ「元気だ元気だ」といたって元気にならない。

だいたい、「すぐに鳴りやむ」と言ったって、ぜんぜん鳴りやまないんだぞ。

2026年1月29日木曜日

●よその人が言う、提案で、ぼくを傷つけなかったものはない■騒音※2026/01/29 11:53

よその人が言う、提案で、ぼくを傷つけなかったものはない。これが、この世の真実だ。これは、よその人が悪いわけではなくて、きちがい兄貴が悪いのだ。実際には、よその人には、きちがい兄貴のような兄がいないのだ。もちろん、ぼくが知っている範囲で言うとの話だ……。だから、基本的に、ぼくは、誤解をされる。ぼくが知っている範囲で言うと……きちがい兄貴のことについて、理解できる人が、だれもいないのだ。これは、よくある問題ではないということを、意味している。けど、だれもが、騒音の問題は、経験しているのである。疲労困憊の問題は経験しているのである。鬱問題は、経験しているのである。だから、それがまた、やばい状態を引き起こすのだ。よその人が、普通に、誤解をする。そして、誤解をしたままなんだよ。きちがい兄貴のことについて、よく理解して、自分が誤解をしていたということに気がつくことがないわけ。ぼくが知っている範囲で言うと……一生涯、そうなんだよ。

2026年1月28日水曜日

●ところが、毎日続くと、「そうなる」のである■騒音※2026/01/28 15:35

 ほんとう、これ、「言いにくいところで」……きちがい兄貴が、ダメにしているんだよ。これ、ほんとうに、ほかの人から見ると、見えない部分なんだよ。きちがい兄貴のやり方が、きちがい的だから、ほかの人が、生涯のなかで、経験しないことを、経験させられる。そうすると、ほかの人には、ヘビメタ騒音と「症状」の関係がわからないのである。「そうなる」という必然性がわからないのである。だから、「鳴ってたって」……「そうならない」と思っているのである。普通の人は、そう思っている。ところが、毎日続くと、「そうなる」のである。

●騒音レベル一〇〇の騒音■騒音※2026/01/25 13:17

一〇〇%詐欺は、したくないので、思考実験というものをすることにした。これは、仮定の話だ。最初から、仮定の話……。

ようするに、「人間」という主語を使って書きたいと思う。人間は、こうだ……というモデルを作っておきたい。あくまでも、モデルの話なので、「実際にこうだ」と言っているわけではない。

実際にこうだと言い切ってしまうと、一〇〇%詐欺になってしまうのだ。

どうしてかというと、ぼくが感じたことだからだ。

ぼくが経験的に知りえたことを土台にして「人間」というものについて考えてみたい。

*     *     * 

きちがい兄貴の騒音というのは、普通の家では成り立たない騒音なのだ。いくら、きちがい的にやりたい人がいたとしても、家族や近所の人の態度というものがある。

そして、自分の出している騒音に関する、自分の認知が正しいのかどうかということを、普通の人は俯瞰できる。ようするに、ほんとうにものすごくでかい音で鳴らしていたなら、ものすごくでかい音で鳴らしているということが、認識できる。

その認識がどれだけ、自分にとって不都合なことであったとしても、普通は、不都合なことだから、認識しないようにするということはしない。

もし、認識しないようにしようと、意識的に思って認識内容にした場合は、意識的に思って認識しないようにしたという認識がしょうじる。どうしたって、しょうじてしまうのだ。

この、スーパーバイザー(監督者)としての機能が、きちがい兄貴の場合はぬけているのだ。

自分にとって、不都合なことは、認識しないのである。

だから、でかい音で鳴らしているということも、ほんとうに、嘘ではなく、認識しない。認識しないようにしたという認識もない。 

*     *     *


ヘビメタ騒音相当の音を騒音レベル一〇〇と呼ぶことにする。

サラリーマンの場合、どれだけ疲れたと言っても、家に帰ったあと、ずっと、横の部屋で、きちがい的な人がきちがい的な音を鳴らし続けるということはない。

ほんとうに、きちがい兄貴は、きちがいだったんだよ。

騒音についてきちがいだったの。そして、目の前がでっかい幼稚園の敷地だったし、隣の家とは、庭や道路で、うまいこと、距離があった。もちろん、普通の人たちなら、近所で大問題になるような音なんだよ。

実際には、隣の人たちは、それぞれに、理由があって、親父に文句をあまり言わなかった。幼稚園が近いので、騒音耐性が強い人が多かったのかもしれない。

それでも、隣の家からは、文句を言われたことがある。

そして、当時、隣の家の子どもだった人が「ほんとうにくるさかった」「文句を言ってやろうと思っていた」と言ったんだよ。隣の家に住んでいて、なおかつ、当時のことを知っている人は、「ほんとうにうるさかった」ということを知っているのだよ。だから、俺の妄想ではないわけ。

*     *     *

騒音レベル一〇〇の騒音を経験したことがない人は、自分の騒音経験の範囲で、騒音というものを考えてしまう。だから、「俺だって、騒音ぐらいある」とか「わたしだって、騒音ぐらい経験した」ということを言うわけ。

けど、そういうことを言っている人たちは、みんな、普通に通勤して働ける人なのである。そして、うつ病的な鬱を毎日感じている人間ではないのである。そりゃ、人間だから「鬱になるとき」はある。

けど、これも、ぜんぜんちがうのレベルのを「鬱」を想定して、ものを言っているわけ。「そんなのは関係がない」「騒音なんて関係がない」と言う人たちは、ぼくが経験した騒音とはちがう騒音を思い浮かべて、自分が騒音の打撃を受けなかったから、「そんなのは関係がない」「騒音なんて関係がない」と言うわけ。

*     *     *

もし、ぼくとおなじレベルの騒音を経験した人だと、ぼくが、愚痴を言っているようには思えないはずだ。

けど、「そんなのは関係がない」「騒音なんて関係がない」と言う人たちは……みんな……たぶん……ぼくが、愚痴を言っていると思っていると思う。

ともかく、ぼくとおなじレベルの騒音を経験して、通勤通学が不可能になっている人は、ぼくのことをバカにしたりしない。

「根性がないから無職なんだ」「根性がないから、通勤できないなんてことを言っているんだ」とは思わないのである。

ところが、「そんなのは関係がない」「騒音なんて関係がない」と言う人たちは……たぶんだけど、「根性がないから無職なんだ」「根性がないから、通勤できないなんてことを言っているんだ」と思っていると思う。

●矛盾なんて感じない■言霊※2026/01/28 9:32

 人に対しては、「どんなにつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」「どんなにひどい状態でも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」と言っていた人が、いざ、大きな?病気にかかると、言うことがかわってしまうのである。

「こういう状態なのだから、働けない」と言う。「こんな状態で働けるわけがないだろ」と言う。「こんな状態じゃ、無理だ」と言う。

いやーー。「働けないと言うから、働けないんだよ」「できると言えばできるんだよ」と言ってやりたい。

自分が、一倍速で感じていることは、とても重要だ。

自分が一倍速で「無理だ」と感じていたら、無理なのである。「できるわけがない」のである。

だから、自分が他人に対してなにを言っていたのかなんて忘れて、かつての自分の発言を、全否定するようなことを、自信をもって言ってしまう。

自分が働けない状態になったら、「人間は働くべきだ」と言っていたことは、忘れてしまって、「こういう状態なのだから、働かなくても当然だ」「無理に決まっているだろ」と言う。

壮大なブーメランが刺さりまくっている人がいるのだ。

ところが、本人が、気がついていないのだ。自分がかつて人に言ったことなんて、忘れてしまう。完全に忘却してしまう。

そして、自分がかつて、人に言った言葉の逆の言葉を言い出す。

そのときはそのときで、「正しい」と思っているのだ。

矛盾なんて感じない。

「元気だ元気だ」と言えば、元気になるんだろ。それだったら、とっとと、「元気だ元気だ」と言って、元気になればいいじゃないか。そして、働けばいいだろ。「人間は働くべきだから、働くべきだ」と言ってただろ。

なんで、「元気だ元気だ」と言って、問題を解決しようとしないのだ。無理だというから無理なんだ。できると言えばできる。

自分が病気になれば、言っていることが一八〇度、わかってしまう。

ところが、気がつかないのだ。

自分がそのときに……感じていることが、全部なのだ。

だから、自分が元気なら、ほかの人の状態なんてお構いなしに「元気だと言えば元気になる」「これは絶対に正しい」「言霊は絶対だ」と言い張って、聞かない。 

2026年1月25日日曜日

●条件を無視する言霊主義者■言霊※2026/01/24 8:48

赤ん坊(赤ちゃん)が、縄跳びの二重廻しをできるのかどうかということについて、書いたのだけど、ちょっと、付け足しておく。

赤ん坊が、横になっているとする。「(その)赤ん坊が、三秒以内に、二重廻しをする」と言ったら、二重廻しをすることができるようになるかどうかということだ。言霊に超物理的な力があるのであれば、できるようになるのである。

しかし、言霊主義者だとしても、普通に考えて赤ん坊には、できないと思うだろう。

言霊主義者は、自分が「あたりまえだ」と思うことについては、言霊思考にはならないのである。認知やメタ認知が成り立っているので、条件を無視できない場合は、言霊思考にならないのである。

しかし、言霊主義者は、人の話を聴く場合は、相手の条件を完全に無視してしまうところがある。自分が一倍速で体験したことではないからだ。

ほんとうは……言霊主義者にとっても、物理法則や社会のしくみは、言ったって言った通りにならないことなのである。言えば、言霊の力で現実化するようなものではないのである。

そして、赤ん坊は二重廻しができないというのは、言霊主義者といえども、経験的にわかっていることなので、言霊思考にならないのである。

*     *     * 

ここで、すべての条件を無視する言霊主義者と、自分かあたりまえだと思うことに関ては条件を重視する言霊主義者というものを考えてみよう。

すべての条件を無視する言霊主義者は、赤ん坊だって、「(その)赤ん坊が、三秒以内に、二重廻しをする」と言ったら、二重廻しをすることができるようになると言うのである。

そして、そう思う根拠は、自分の経験から出てくる根拠なのだ。たとえば、「(自分が)雨になると言ったら、雨になったので、言霊理論は正しい」と思っているのである。言霊理論が正しいということは「自分が、雨になると言ったら、雨になった」ということで、証明できると思っているのだ。

だから、だれかが、「(その)赤ん坊が、三秒以内に、二重廻しをする」と言ったら、二重廻しをすることができるようになる」と言ったら、二重廻しができるようになるのである。

そして、条件を重視する言霊主義者が「いくらなんでも、それは、無理だ」と言ったとする。その場合、条件を無視する言霊主義者は「できないと言うから、できない」と条件を重視する言霊主義者に言うのである。

条件を無視する言霊主義者は「無理だと言うから、無理なんだ」と条件を重視する言霊主義者に言うのである。条件を無視する言霊主義者は「できると言えばできる」と条件を重視する言霊主義者に言うのである。

そして、たとえば……赤ん坊がいるまえで、条件を無視する言霊主義者が「この赤ん坊は、三秒以内に二重廻しをする」と言ったとする。その場合、その赤ん坊は、二重廻しができない。当然、自分の足で立つこともできない。二重廻しどころか、普通に縄跳び(一回のジャンプで一回縄を回す縄跳び)をすることもできないのだ。

けど、条件を無視する言霊主義者は、できないということを認めないのである。できない現実を認めない。条件を無視する言霊主義者は、現実を無視して、「できると言えばできる」と言うのである。

ようするに、条件を無視する言霊主義者は、妄想のなかで生きていて、現実を見ないのである。条件を無視する言霊主義者には、赤ん坊が、元気に立って、自分で移動して、どこから出現したのかわからない縄跳びをもって、二重廻しをする光景が見えるのである。

いまや、条件を無視する言霊主義者にとっては、妄想世界のほうが、現実なのである。だから、現実に適応できなくなってしまう。

しかし、『多くの言霊主義者は、現実に適応しているではないか』と思う人がいると思う。多くの言霊主義者は、条件を無視しない言霊主義者なのである。

しかし、条件を無視しない言霊主義者というのは、他人のことについては、他人の条件を無視しがちなのである。条件を無視しない言霊主義者というのは、自分が「あたりまえだ」と思うことに関しては、条件を無視しない傾向が強いのである。

あるいは、自分が「むりだ」と思っている場合は、無理である条件を理解しているので、「できる」と思わないのである。

『言えば、言ったことが現実化するので、できると言えば、できる』と思わないのである。言霊主義者、失格である。

条件を無視しない言霊主義者は「赤ん坊が、二重廻しなんてできるわけがない」と思っているのである。この場合「赤ん坊」という条件を、条件を無視しない言霊主義者は無視しないで重視しているのである。自分が赤ん坊を目の前で見ている場合は、認知とメタ認知によって、「できない」と考えるのである。

あるいは、「聞いた話」でも、一度、赤ん坊と、縄跳びの二重廻しとの間に、思考の関連ができている場合は、認知とメタ認知によって、「できない」と考えるのである。

どうして、赤ん坊と、縄跳びの二重廻しとの間に、思考の関連ができあがるのかというと、これも、脳みその機能によって、そのような思考の関連ができあがるのである。

この場合、忘れがちなのだけど、過去が、現在の思考に影響を与えているのである。過去は、重要なのである。言霊主義者は、「過去は関係がない」と言いがちなのだけど、「言ったことが現実化する」と言っているのだから、ほんとうは、言霊主義者は過去を重視しているのである。

けど、これも、幼児的な思考と関係があって、矛盾を感じないようになっているのである。

言霊主義者は、同時に、精神世界の人である場合が多いので、言霊主義者なのに、「過去は関係がない」と考える人が多いのである。話を元に戻す。

条件を無視しない言霊主義者と書いたけど、条件を無視するかどうかというのは、かなり恣意的に決まっているのである。そして、恣意的に決まっているということに、まったく(言霊主義者本人が)関心を持っていないのである。

ようするに、『自分はいつもおなじことを言っている』と思っているのである。また、『自分は、いつも、言霊を信じている』と思っているのである。

この自分に関する認識は、間違っている。

たいていの場合、言霊主義者は相手の条件を無視するのだけど、条件を無視しない場合もある。たとえば、対象が赤ん坊の場合だ。言霊がかかわる対象というのがあるのである。

言霊主義者は、自分が経験していなレベルの騒音という条件を無視するけど、言霊の対象が赤ん坊である場合は、言霊の対象が赤ん坊であるという条件は無視しない傾向が強い。

ところで、言霊主義者における時間の問題ということについて、語っておこう。時間制限という条件は、通常、言霊主義者によって無視されるのである。

たとえば、「この赤ん坊が、二重廻しをできるようになる」と言った場合、時間制限をつけないで言った場合、赤ん坊が成長して、二重廻しができるようになる場合がある。

その場合は、『言霊の力によって、この人(赤ん坊だった人)は、二重廻しができるようになった』と言霊主義者は考えてしまうのである。しかし、この思考は、まちがっている。

普通に、成長して二重廻しができるようになったのである。成長した場合、二重廻しができる人は「言霊の力によって」二重廻しができるようになったのではない。

体が成長して、二重廻しが可能な筋肉がつき、そして、運動にかかわる脳のネットワークも発達したので、二重廻しができるようになったのだ。

「この赤ん坊は二重廻しができる」と言霊主義者が言ったことは、まったく関係がないのである。

そして、たとえば、赤ん坊のとき、「(この)赤ん坊が、二重廻しをできるようになる」と言われたのにもかかわらず、一生涯、二重廻しができない人もいるのだ。言霊の力が、働くのであれば、これはあり得ない。

「(この)赤ん坊が、二重廻しをできるようになる」と(だれかが)言ったら、生きているうちに、二重廻しができるようになるのである。

もし、(この)赤ん坊が、二重廻しをできるようになると言ったのに、二重廻しができないまま一生涯を終えた人がいたなら、言霊理論が間違っているということになるのである。

言霊主義者は、言霊理論が間違っているということを認めたくないので、さまざまな誤解をしているのである。言霊理論というのは、さまざまな誤解の上に成り立っている妄想的な理論なのである。

条件を無視する言霊主義者だって、妄想的な現実が、現実にならないではないかと思っている人もいると思う。それは、矛盾を感じない力によって、現実的な世界にとどまって、誤認はあるけど、妄想的な現実が、実際の現実を追い払わないようになっているだけなのである。

ほんとうは、矛盾しているのだけど、本人が矛盾していないと感じているので、普通に暮らしているのである。もし、条件を無視する言霊主義者が、ほんとうに、言霊主義的な世界観で現実を解釈するなら、妄想的な現実解釈になり、実際の現実に適応できくなってしまうのである。

矛盾に気がつかずに、言霊思考にならない時間のほうが長いから、言霊主義者は正気をたもてるのである。

*     *     *

言霊主義者は、無理だとわかることに関しては、言わないようにしているのである。たとえば、「三秒以内に(この)赤ん坊は二重廻しができるようになる」とは言わない。かわりに「いつか、(この)赤ん坊は二重廻しができるようになる」と言うのである。こうやって、「現実的に可能なこと」を言うようにしているのである。言霊主義者の多くは、自分が経験したことがない騒音生活は、自分が経験していないのでわからないのである。ぼくが、「あのレベルの騒音が鳴っていると、勉強することができない」と言っても、実際には、その言霊主義者は、ぼくが経験したような騒音生活を経験したことがないので、「無理なことではない」と考えて、言霊思考になってしまうのである。こういう切り替えが、無意識的なところで行われているから、いちおう、言霊主義者は狂人にならないで済んでいるのである。

しかし、それは、幼児のようなレベルで、「できるかできないか」を(恣意的に)決めているということなのである。

*     *     *

条件を無視する言霊主義者と書いたけど、条件を無視する言霊主義者であって、なおかつ、現実を無視する言霊主義者と書くべきなのだ。しかし、そのように書くと、言霊主義者が、どれだけ、現実を無視しているのか、逆にわからなくなってしまうから、条件を無視する言霊主義者と書いておいた。 

2026年1月24日土曜日

●「楽しい楽しい」と言えば、払しょくできるようなものではない■騒音※2026/01/24 14:10

 全部の時間がヘビメタ騒音でつぶされているのだから、言いようがない気持ちになる。もちろん、ほかの人にとってはどうでもいいことだ。俺の身の上にしょうじたことだから……。しかし、小学六年生のときから、あの頻度で、あの時間の長さ、ずっと、「この世で一番きらいな音」を爆音で聞かされるようになるとは……。そりゃ、影響、あるよ。いま、買い物に行こうかと思っているのだけど、買い物に行くときの雰囲気が、並じゃないのである。破滅破綻の雰囲気なのである。我慢して、それでも、前向きに?暮らしていたときの、雰囲気が、並じゃないのである。みんな、ほんとうに、わかっていない。ちょっと前向きになろうと思って、前向きになれるような状態じゃないんだよ。前向きになろうとすると、ものすごい、抵抗がある。もう、発狂的な高圧状態になってしまうのである。わかるかな? わからないか。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音のことを、『軽く』考えている人が多い。この人たちも、ぼくのことを苦しめてきた。けど、この人たちがぼくを苦しめることというのは、きちがい兄貴がきちがいヘビメタにこだわってこだわってこだわって、こだわりの音で、ガンガン鳴らさなかったら、発生しなかったことなんだよ。だから、ほかの人から見れば、透明なんだよね。ヘビメタ騒音の実害なんて、ぼくが感じているだけなのだから、ほかの人にとって見れば、透明だ。「どんなに苦しくても、楽しいと言えば楽しくなる」と言えるような『軽い』ものなのだ。「前向きな発言をすれば、いいことがある」と言えることなのだ。これは、普通の状態なら、そうなのかもしれないけど、ちがうんだよ。どれだけ、ヘビメタ騒音で吹き飛ばされているか……みんな……そういうことを言う人は……みんな……わかっていない。その人たちが想像する「くるしい状態」とはぜんぜんちがうのである。けっきょく、こいつらは、自分がこの世で、一番きらいな音を、至近距離で、爆音で、浴び続けたことがない。生活が全部、その騒音に侵されてしまう状態というのを経験したことがない。これ、ほんとうは、ものすごいことなんだぞ。もちろん、普通の人にはわからないけど……。ともかく、ヘビメタ騒音から発生した、破滅感は、「楽しい楽しい」と言えば、払しょくできるようなものではないのである。ほんとうに、まるでわかっていない。どや顔でアホなことを言いやがって……。 

2026年1月19日月曜日

●自己責任論というのは、自業自得論になってしまうのである■社会※2026/01/15 13:25

 非常に大雑把なくくりを持ち出して、そのなかで、判断してしまう人たちが多い。

たとえば、「就職氷河期」とか「ニート」とか「無職」とか「ひきこもり」という「くくり」を持ち出して、一括処理してしまうのだ。

個々人は、ちがうのに、その集合のなかにいる人は、みんなおなじだという考えに基づいて、一括処理してしまう。個別性は、議論されないのだ。個別性は、認識すらされないのだ。

その場合、社会にはびこっている「言霊(理論)」「思霊(理論)」「引き寄せ(理論)」「努力論」「自己責任論」が、個々人をせめることになる。

特に、ほかの人から理解されない「条件」をもっている個人は、非常に不愉快な思いをすることになっているのである。もう、決まっている。

個々人のちがいを無視してしまうので、自己責任論においては、すべては、自己責任だということになってしまうのである。

ほんとうは、条件によってちがう。

たしかに、その人の自己責任(自業自得)であるような場合がある。

だから、ほかの人もみんな、自己責任(自業自得)なのかというと、そうではないのだ。

条件がちがうので、自己責任(自業自得)なのかどうかということは、個別に判断しなければならないことなのである。しかし、根本において、個別性というのは、無視されることになっているのである。

Aさんの場合は、本人の行動に問題があり、Aさんの責任だと判断できるとする。この場合は、自己責任論がとりあえず、正しいということになる。

しかし、別のBさんの場合は、本人の行動には問題がなく、ほかの人(Cさん)に行動の責任があるとする。この場合は、Bさんの責任には、ならない。Bさんがどれだけひどい目にあったとしても、Bさんの責任ではない。

ところが、自己責任論に陥っている人は、Bさんの身の上に起こったことだから、Bさんの自己責任だと決めつけてしまうのである。

*     *     * 

大雑把なくくりとしての集合があるとする。その集合には、その属性をもっている人がすべて含まれてしまう。性格が悪いニートもいるかもしれないけど、性格がいいニートだっている。

ところが、性格の悪いニート(Dさん)のことを、テレビで取り上げると、ニート全体に悪いイメージがついてしまうのである。その場合、性格がいいニートであるEさんも、性格が悪いニートであると思われてしまうのである。

だれに思われるかというと、一括処理をしてしまう人に思われる。

一括処理をする人というのは、集合内の人に、一括してあるイメージを付与してしまうのだ。個別性が問題にならない思考をしてしまうのである。

これは、呪いのようなものだ。しかし、一括処理をする側に立てば、不利益はないのである。呪いだとしても不利益がない。

*     *     * 

ある人たちが、共通の属性を持っていたとしても、属性を表すシンボルような言葉で、共通の属性をもっている人たちを表現できるわけではないのだ。

ようするに、集合のなかには、条件がちがう人たちがいるのである。

ニートいう集合のなかには、ニートの属性を持った人たちがいる。そのニートの属性を持った人たちには、それぞれ、別の条件があるのである。

だから、ほんとうは、ニートはこれこれであるというようなことは、言えない。

個別の人が持っている個別の条件がちがうからだ。

ところが、一括思考する人は、条件を無視してしまうのである。そして、属性に基づいて、その属性ならこうなのだと決めつけてしまう。

これは、普段、自然におこなっていることだ。

「決めつけはいけない」と言ったって、決めつけが普通におこなわれるわけだ。

「人がいやがることはやめましょう」と言ったって、実際には、自分が人がいやがることをやっているという認識が発生しないまま、人がいやがることをやっている場合だってあるのだ。

それとおなじように、「属性で、決めつけてはいけない」と思っていたって、属性で、決めつけてしまうことが、多々、しょうじる。

問題なのは、「属性一括思考」と 「言霊(理論)」「思霊(理論)」「引き寄せ(理論)」「努力論」「自己責任論」の相性のよさなのだ。

「言霊(理論)」「思霊(理論)」「引き寄せ(理論)」「努力論」「自己責任論」になじみがある人は、思考において「属性一括思考」をしてしまう傾向が非常に強い。相性がよすぎる。

「言霊主義者」「思霊主義者」「引き寄せ主義者」「努力論者」「自己責任論者」は、たいていの場合、属性一括処理思考をするので、相手の条件を無視してしまう。

相手の身の上に発生した『個別の出来事』の個別性を無視してしまう。ほとんどの場合、属性集合内の人は、みんな、おなじだと考えてしまうのである。

*     *     *

すべては、自己責任という考え方を、他人の身の上に適応した場合、自己責任という言葉は、じつは、自業自得にという意味になってしまうのである。

実際には、自業自得ではないケースについても、自己責任という言葉をもちいることで、自業自得だということにしてしまうのである。

そして、自分が、一括処理をして、自業自得とは言えない人に、自業自得だという意味の言葉を投げかけているということについて、自業自得だという意味の言葉を投げかけている人(自己責任論者)は、無自覚なのだ。

自己責任論者は、自己責任という便利な言葉を使うことによって、ほんとうは責任がない人に対しても、「自業自得だという意味の言葉」を投げかけることになる。投げかけている。

そこでは、個別性は無視されるのである。

つまり、この人の場合、自業自得なのか、自業自得ではないのかということについて、一切合切、考慮することなく、自業自得だと決めつけて、自業自得ではない人にも、自業自得だという言葉とおなじ意味をもつ言葉を投げかけていることになる。

これは、言われたほうにとってみれば、腹が立つことなのである。

しかし、盲目な自己責任論者は、「絶対に正しい」と思っているので、「あなたの場合も自己責任だ(自業自得だ)」と思っていることについて、訂正しない。「あなたの場合も自己責任だ」という言葉は「あなたの場合も、自業自得だ」という意味をもってしまうのである。

しかし、何度も言うけど、一括処理をしてしまう自己責任論者は、「あなたの場合も自己責任だ」という言葉が「あなたの場合も、自業自得だ」という意味になるということについて、無自覚だ。たいていの場合、どれだけこのことを説明しても、通じない。たいていの場合、自己責任論者は、このことを認めない。

*     *     *

自己責任論というものは、もともとは、アンガーコントロール論なのである。その意味で、本人を対象とした自己責任論なのである。

しかし、一度、「人間」という範囲で抽象化してしまうと、他人の責任を問う「他責論」になってしまうのである。真逆のものが出てくるのである。

そして、他責をする場合は、自己責任論というのは、自業自得論になってしまうのである。

アンガーコントロール論について語った人たちは、自らの「自己責任論」が「自業自得論」にかわることを、最初から知っていたのだろう。メディアのバックアップというのがあるのだ。自然なかたちで、宣伝される。

2026年1月18日日曜日

●いまも、鳴っている感じしかしない■騒音※2026/01/18 13:54

うーー。どうしたらいいんだ? 基本、体がかゆい。猛烈にかゆい。背中が特にかゆい。けど、背中だけではなくて、いろいろなところがかゆい。うーーん。それから、やっぱり、憂鬱だ。ヘビメタ騒音のことがでかすぎる。いまも、鳴っている感じしかしない。

これ、日曜日の午後一時五四分。

十数年間にわたって、日曜日の午後一時五四分は、鳴っていた。ものすごい音で鳴っていた。「やめろ!!やめろ!!」「しずかにしろ!!しずかにしろ!!」と怒鳴っていたのに、鳴っていた。

これ、きちがい兄貴の部屋に行って、「やめろ!!やめろ!!」「しずかにしろ!!しずかにしろ!!」と怒鳴ったって、きちがい兄貴が、やめない。怒鳴るのは、怒鳴らないと、なにを言っているのかわからないから、怒鳴ったのだ。そういう音で鳴らしてたんだよ。

みんな、きちがいの意地がわからない。みんな、きちがいの感覚がわからない。きちがい兄貴は、あれで、普通の音で鳴らしているつもりなんだからな。あんなでかい音で、鳴っていたら、こまるんだよ。

それが……。きちがい兄貴は「(相手が)こまる」ということが、わからないのである。きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじように「(相手が)こまる」ということを無視するのである。しかも、きちがいだから、無視したことになっていないのである。自分はなにもしていないつもりなのである。だったら、言えばやめてくれるかと言うと、きちがい的な意地ではねのけて、やめない。

自分が好きなだけ、つねにならせるのが当たり前で、そこから、一秒だって譲るつもりが、ほんとうは、ないのである。ところが、「そうしている」ということが、まじでわかっていないのだ。きちがい兄貴は、自分が思いっきりでかい音で鳴らしているから「うるさい」と感じないけど、自分が特に聞きたくない音を、あのでかさで鳴らされたら、一秒でおこるんだよ。「うるさい」と言って怒るんだよ。それがまったくわからない。自分が鳴らすときは、自分が鳴らしたいわけで、自分が普段、「ほかの音について」どういうふうに感じているのかということは、無視されてしまうのである。きちがい兄貴は、自分のヘビメタ騒音で耳が悪くなったけど、ヘビメタを大音響で聴く前は、耳は正常だったんだよ。自分のヘビメタで、自分の耳が悪くなったんだよ。そういうとでかい音で鳴らしてたんだよ。ところが、きちがいヘビメタ騒音の影響を無視するやつからが、「そんなのは関係がない」と言う。関係、あるんだよ。

これ、きちがい兄貴が、きちがいだから、「ヨソの人」が理解できるようなことをしていないのである。ヨソの人は、自分が実際にやられたことがないのでわからないのである。どれだけ影響を受けるかわかっていない。よその人にはきちがい兄貴のような家族がいないのだ。いないのなら、やられたことがないのも、納得できる。やられていないから、普通に暮らせるだけなのに、「自分なら平気だ」という前提で「そんなの(騒音なんて)関係がない」と言うのだ。 こいつらも、くさっているな。骨の髄までくさっている。

●現実世界で、現実的に発生したことの影響を受ける■騒音※2026/01/18 10:47

とりあえず、生きているけど、どーーしーーよーーかなーー。睡眠時間が分断して、ほんとうに、なにがなんだかわからない。そして、いろいろなことを、やりたくない。きちがいヘビメタ騒音時代の『受験のこと』を思い出す。これ、めちゃくちゃに憂鬱になることなんだよ。ともかく、つかれたなぁ。

なんとか、楽しくなりたいと思うけど、現実はちがうんだよね。俺だって、ここに、明るいことや楽しいのことを書きたい。しかし、現実はちがうんだよね。やっぱり、現実世界で、現実的に発生したことがでかい。現実世界で、現実的に発生したことの影響を受ける。

●「思った」のか「思わなかった」のかを、決められなくなる■思霊※2026/01/17 15:52

 じつは、言霊主義者よりも、思霊主義者のほうが、手ごわいのだ。

どうしてかというと、思ったかどうかというのは、外側から、はっきりとわかることではないからだ。言えば、言ったというのがわかる。

けど、思ったとしても、思ったかどうかわからない。

「思いが、現実化する」というのが、手短に説明した場合の思霊主義者の考え方だ。思霊(おもだま)というのは、ぼくの造語だ。言霊に対応した言葉がないので、ぼくがつくっておいた。だから、みんなが知っている言葉ではない。

言霊主義者の場合、「言ったことが、現実化する」ということになる。

その場合、「言霊の力によって現実化する」という意味になるのである。

 思霊主義者は、ただ単に「思いが現実化する」と言っているわけではなくて、「思いが、超自然的な力によって、現実化する」と言っているのである。

*     *     *

「思うだけ」だと、思ったかどうか、外側から、よくわからないということを言ったわけだけど、じつは、本人にも、よくわからない場合がある。

言った場合は、本人が記憶していなくても、言ったということを、だれかが記憶していれば、言ったという場合について考えることができる。あるいは、ボイスレコーダーで録音しておけば、言ったということを(ある程度)証明できる。

これ、音声合成技術が発達してしまったので、じつは、本人が言っていないことも、言ったように見せかけることはできるのだ。けど、今回言いたいことは、「思い」だと、本人も思ったことを忘れてしまうことがよくあるということだ

言う場合よりも、思う場合のほうが、より、忘れられやすいのである。

本人にとっても、思ったかどうかというのは、記憶に残りにくいことなのである。

だって、そうだろ。起きてから、四六時中、なんらかのことを思っているわけだから、特別に注意が向いたことだけ、思ったことが、たしかに思ったこととして記憶されているけど、あんまり注意が向かなかったことは、思ったということ自体が、忘れられてしまうかもしれない。

*     *     * 

問題なのは、「無意識的に思った」とか「潜在意識で思った」ということを認めてしまった場合、「思った」のか「思わなかった」のかを、決められなくなるということになる。

これは、理論的に決められなくなる。

なので、「思った」と「思わなかった」の区別がつかなくなってしまうのである。しかし、「無意識的に思った」とか「潜在意識で思った」ということは、よく言われることなのである。

どうしてかというと、ここにも、トリックがあるからだ。

思霊を信じているような人たちは、広い意味で精神世界の人たちなので、『後出し理論』を好むのだ。

ようするに、結果から、原因を推察するということになる。

しかし、推察ではなくて、決定してしまう。こうだと決めつけてしまうのだ。

どうして、そのような動機がしょうじるかというと、「思わなかったこと」が発生してしまったからだ。

「思ったことが発生する」ということになっているので、思わなかったことが発生した場合は、「思ったにちがいがない」ということになってしまうのである。

ようするに、結果に合わせて、過去の出来事を(記憶の中で)書き換えてしまうのである。

そうすると、見せかけの論理性がたもてるのである。

しかし、これは、下手なトリックだ。

*     *     * 

「思った」ということを、意識的に思ったということにしておく。この場合、意識的に思わなかったのであれば、思わなかったということになる。

思わなかったことが発生した場合、思わなかったことが発生したということになる。

ほんとうは、これでおしまいなのだ。

しかし、実際には、思わなかったことが発生したので、「自分は思ったにちがいがない」ということにして、現実を書き換えてしまう。

ほんとうは、「思わなかった」のに……「無意識的思った」とか「潜在意識で思った」ということにして、「思った」ということにしてしまう。

そうすると、「思ったから発生した」という流れが、思考のなかで、かろうじてたもたれるのである。

しかし、これは、本人が本人に『嘘』をついている状態だ。

そして、「思ったにちがいがない」と思ったのは、じつは、「思っていなかったことが、発生した」という事実から、発生するのである。

つまり、事実を書き換えなければならなくなるのである。

(1)思ったこと(オン)が現実化した(オン)

(2)思わなかったこと(オフ)は現実化しない(オフ)

(3)思ったこと(オン)が現実化しなかった(オフ)

(4)思わなかったこと(オフ)が現実化した(オン)

事実として、思わなかったことが現実化したので、思わなかったことが発生したのではなくて、無意識的に思ったことが、現実化したということに、してしまうのである。

思わなかったことが現実化したので、(1)思ったこと(オン)が現実化した(オン)にしておかなければ、つじつまが合わなくなったのである。あるいは、つじつまが合わないと、本人が認識したのである。

だから、つじつまを合わせるために、現実化したという事実に合わせて、むりやり、「思ったことにしてしまう」のである。思ったことにしてしまう方法が「無意識」とか「潜在意識」という概念の導入なのだ。

これをやってしまうと、すべての現実化したことは、思ったことだということになってしまうのである。現実化したことなら、思ったことなのであるということにしてしまうのだ。

これは、完全に間違っている。精神世界の人は、こういう幼稚な言い訳をよくする。だから、矛盾が矛盾を生み出すということになってしまう。嘘が嘘を生み出すのだ。

*     *     * 

そして、主体はだれなのかという問題がしょうじる。普通は、「自分」なのである。

しかし、「他人」も人間はみんな、主体となりえるのである。なので、現実に発生したことは(現実化したことは)どんなこともすべて、誰かが思ったことだということになってしまう。

ところが、人間を取り巻く環境は、物理的な環境であり、物理的なものが物理的な運動をすると、だれが思ったわけでもなのに、運動が発生したということになる。

そして、その運動の結果をだれが認識した場合、じつは、運動のあとに、認識がしょうじるということになるのである。

これは、だれも思わなかったのに、運動の結果として出来事が発生したということなのである。

*     *     * 

たとえば、ヘビメタ騒音について考えてみよう。きちがい兄貴が、どでかい音でヘビメタを鳴らそうと思ったので、ヘビメタ騒音が発生した。実際に、ヘビメタの音が(大音響で)鳴り始めた。きちがい兄貴とっては、「思ったこと」なのである。

けど、ぼくにとっては、思ったことではないのである。ヘビメタという音楽分野があるということすら、当時、ぼくは知らなかったのだ。

どうやって、ぼくが、「やがて兄貴がヘビメタをでかい音で鳴らす」と思うことができるのか?

そんなことは、できないのである。

「思わなかったこと」が発生したのだ!!

だから、だれかAさんと、だれがBさんがいた場合、Aさんにとって、思ってやりはじめたことだけど、Aさんの活動によって生じた物理的な出来事は、Bさんにとっては、思ってもみなかったことだということは、ありえる。

だれかほかの人の活動に関しては、(本人が)思わなかったことが発生する場合があるのである。本人がすべての事象を「思い」によって支配しているのではないのだから、当然だ。

つまり、じつは、「(自分が)思ったことが、現実化する」という理論は、最初から破綻しているのである。 では、誰かが思ったことが現実化するという理論は、最初から破綻しているわけではないと言えるのかどうかというと、言えない。

人間が発生するまえから、物理的な出来事が、発生していた。だれも思わなかったのに、出来事が発生していたのである。だれも思わなかったことが、発生していたのである。

別に歴史をさかのぼらなくても、普通に、分子的な運動が発生している。だれが思わなくても、勝手に、風吹く。だれが思わなくても、勝手に、空気中のほこりが、個別に、個別的な運動をしている。

だれか、特殊な人が、空気中の一個一個のほこりについて、動きを予想したとしても、その特殊な人が、世界中のほこりについて、動きを予想できるわけではない。ようするに、つねに「(だれにも)思われていない運動」あるいは「(だれにも)思わなれなかった運動」が、現実化しているのである。

2026年1月17日土曜日

● 相手の条件を認めないということが、『緩衝地帯』になっている■言霊※2026/01/16 10:41

たとえば、Aさんが言霊主義者で、Bさんが悩みを抱えている人だとする。

AさんがBさんに、言霊でBさんの悩みを解決できるということを言ったとする。

しかし、Bさんの問題は、言霊的な解決方法では解決しなかったとする。

この場合、Aさんは、Bさんの言い方に文句をつけるのである。

これが決まっているんだよ。

最初から、こうなることが決まっている。

Bさんの言い方が悪かったから、言霊の力が発動しなかったという言い方になるのだ。それこそ、言い訳だとわたしは思うけど、Aさんは、Bさんの言い方が悪かったという自分の意見が正しいと思っているわけだ。

言い方がよければ、言霊の力が発動して、Bさんの問題は解決できるのである。Aさんのなかでは、そうなっている。何度も何度も言うけど、Aさんにとっては、Bさんが「言ったか言わなかったかということだけ」が問題になっているのである。

Bさんが抱えている条件は、Bさんがどれだけなにを言っても、Aさんには、関係がないことになっている。AさんにとってBさんの条件が関係がないことだとAさんが思っているのはもちろんだけど、Aさんは、Bさんにとっても、Bさんの条件は関係がないと思っているのだ。

この決めつけがひどい。

Bさんの条件は、実際にBさんの出来事に影響を与えている。その影響を無視してしまうのである。

Bさんが「なおる」と言えば、なおるのである。Bさんができると言えば、Bさんが抱えている条件に関係なく、「できる」のである。そして、もしできなかったら、それは、Bさんの言い方が悪かったから、言霊の力が発動せずに、できなかっただけなのだという解釈をしてしまう。Aさんの思考というのは、ここまで、自動的に進んでしまう。

これも、言霊教祖や言霊セミナー講師が、そのまま言ったことを、受け売りで言っているだけなのだけど、ともかく、Aさんのなかでは、「言ったか言わなかったか」という条件以外の条件は、無視されているのである。

もちろん、後出しで「言い方」という条件が問題になる。

しかし、これも、矛盾していて「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」のだから、言い方なんて、関係がないのである。それこそ、どんな言い方で言っても、言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化するのである。

もし、言っても、現実化しないなら、言霊理論が間違っているのである。

ところが、相手の条件を認めないということが、『緩衝地帯』になっているのだ。相手の条件を認めないということによって、自分の矛盾に気がつかなくてもいい構造を維持しているのだ。

だから、言霊主義者に、どれだけ「言い方の問題ではない」ということを説明しても、言霊主義者は、聞かない。受け入れない。

言霊主義者は……「そんなのはおかしい」「理屈じゃねーんだよ」「アバウトでいいんだよ」「簡単なのが正しい」と言って、認めないのである。

*     *     * 

そのAさんも、博物館で完全にとまっている電車に向かって「動く」と言っても、電車が動かないことは知っているのだ。「動くと言えば動く」のである。言霊理論に従えば、そういうことにしかならないのである。

たとえば、Aさんが……博物館で完全にとまっている電車に向かって「動く」と言っても、電車が動かなかったとする。その場合、Aさんは、自分の言い方が悪かったから、動かなかったとは思わないのだ。

人のことと、自分のことだと、ぜんぜんちがう認識が成り立ってしまう。

Aさんにとっては、Bさんのことはひとごとなので、Bさんの条件はまったく関係がないのだ。Aさんは、BさんにとってBさんの条件が重要な役割を果たしているということを、認めない。Bさんの条件が、Bさんの身の上に発生した出来事の原因になっているということを、絶対の意地で、認めない。

ただ単に、言ったか言わなかったかということが、問題になるのである。

そして、言ったのに、ダメだった場合は、言い方が悪いということになってしまうのである。Bさんの言い方がまずかったから、言ったとおりにならなかったのだと、認識してしまう。

このAさんの認識を、Bさんが覆すことができるかというと、できない。

Aさんは、自説にしがみついて、「言霊は絶対だ」と言い出すのである。

最初から、Bさんの条件は、Aさんにとって関係がないことだから、言霊的な解決方法をAさんがBさんに教えたあとも、Bさんの条件は、Aさんによって、無視されることが決まっているのだ。最初から、決まっている。

*     *     *

ところで、駅で電車がとまっていたとする。駅でとまっているのだけなので、たいていの場合は、電車に乗っていた客がおりて、電車に乗りたい客が乗り込めば、動き出す。電車は、たいていの場合、動き出すことが決まっている。

Aさんが、この電車をまえにして、電車に向かって「動く」と言ったとしよう。そうしたら、電車が動き出し。はたして、Aさんの「動く」という言葉に宿っていた言霊の力によって、電車が動き出したであろうか?

ちがう。Aさんの「動く」という言葉に関係なく、電車が動いたのである。

それは、電車の運転士が、電車を動かす動作をしたから、電車が動いたのである。そして、電車が動くしくみは、完全に、言霊に関係なく、物理的な構造として成り立っているのだ。言霊の力に関係なく、電気の力で電車が動いたのだ。

*     *     * 

しかし、Aさんが言霊主義者だと「動くと言ったから、電車が動いたのだ」と思ってしまうのである。Aさんが「動く」と言ったあと、電車が動いただけなのだけど、Aさんは、「動くと言ったから、電車が動いた」と誤解をしてしまう。

これは、ずっとまえから言っていることなのだけど、言霊主義者は「言ったから」と「言ったあと」の区別がついていないのである。

積極的に、誤解をして、「言霊がある」ということの証明として使ってしまう。

「自分が動くと言ったから、電車が動いた」と思って、「だから、言霊はある」と思ってしまう。何度も言うけど、「から」と「あと」を誤認しているだけなのだ。

*     *     * 

けど、ほんとうは、言霊主義者のAさんも、「これから動くことが決まっている電車のまえで、自分が動くと言ったから、電車が動いた」というような説明はしないのである。

現実的なことだと、「電車が予定通りに動くのはあたりまえだから、動く」と思っているのである。あるいは、「電車は、乗客を乗せたら、動くのがあたりまえだ」と思っているのである。

Aさんが、駅のプラットフォームにいるとき、電車を指さして、「動く」と言ったとする。

そして、電車が予定通りに動いたので、「自分が動くと言ったから、動いたんだ」と言うことは、まずない。

言霊主義者でも、それはやりすぎだと思っているところがある。言霊主義者でも、そういうバレバレのことはやらないようにしようと思っているのだ。だから、言霊主義者の、現実感覚というのは、微妙なものなのだ。

*     *     * 

『博物館』と書いたけど『車両基地』にしようかと迷った。駅のプラットフォームのところに停止している電車、博物館のなかにおいてある電車、車両基地においてある電車……。みんなちがう状態の電車なのである。これは、認知とメタ認知によって、ちがいがわかるのだ。書いた場合は、記述によって、ちがいがわかるのだ。

言霊主義者も、じつは、電車の車両を見たとき……認知とメタ認知によって、数分以内に動くかどうかということを判断している。しかし、「言った」とか「言わなかった」と言うことのなかには、認知とメタ認知が含まれていないのである。

何度も言うけど、言霊主義者だって、普段は、認知とメタ認知によって条件を判断して暮らしているのである。自分が一倍速で体験していることに関しては、ちゃんと、自分の五感と頭で感じる認知とメタ認知が成り立っているのである。成り立っているのだけど、成り立っているという自覚がないのだ。

言霊教祖が言う簡単な例を信じてしまう。言霊教祖が言う簡単な例というのは……例から抽象への飛躍が起きやすい例なのである。「抽象」と書いたけど、ようするに、抽象世界では、一律に、成り立つものとして説明されてしまうのである。

もう、前にも書いたけど、例から、抽象的な法則へと飛躍してしまうのである。けど、これが、間違った飛躍なのだ。

ほんとうは、法則性なんてない。

最初から間違った例を使って、言霊の法則が成り立っているということを説明するのである。言霊教祖は説明するのである。

肝心なことは、言霊主義者は相手(他人)の条件を無視してしまうけど、自分が普段、条件を考えて行動しているということも、無視してしまうということなのである。言霊に注意が向いているときは、自分が普段、認知やメタ認知によって認知できる条件を重視しているということを、無視してしまう。

言霊に注意が向いているときは、言霊の法則が、あらゆる条件を排除して成り立つという気分になっているのである。気分なんだよね。気分次第で言うことがちがう。 

 

2026年1月16日金曜日

●ぜんぜん、ちがう■騒音※2026/01/16 14:46

 きちがい兄貴は気がついていないけど、ぼくの人生というのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に吸い取られてしまった。一生、全部、吸い取られてしまった。きちがい兄貴は気がついていないけど、ぼくの時間というのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に吸い取られてしまった。あの、時間。みんな、ほんとうに、ぜんぜん、わかっていない。みんなというのは、一〇〇%詐欺じゃない。ほんとうに、おなじことを経験しないとわからない。おなじことを同じ時期に経験して生きてみないとわからない。ほんとうに、ちがう。それから、ほかの人は、一五年目にヘビメタ騒音が鳴りやんだとき、ヘビメタ騒音がおわったのだから、ぼくがヘビメタ騒音から自由になったと思っているみたいなのだけど、ちがう。いまも、ヘビメタ騒音の後遺症で苦しんでいる。そして、あまりにも長い期間鳴っていたから、ぼくの履歴に取り返しがつかない汚点が残った。これは、氷河期世代の問題どころではない。ヘビメタ騒音そのもので、健康な体を失った。働けない体になった。ヘビメタ騒音で、働けない体になったままなのだ。ヘビメタ騒音が鳴りやんだとき……一五年目から、元の体に戻ったわけではないのである。鳴り終わったあとも、働けない体のままなのである。まあ、働けないというのは、通勤して働けないという意味になる。しかし、家で働くにしろ、ヘビメタ騒音のハンディがある。みんな、鳴り終わったら、ものと体にもどると思っている。けど、そうじゃないんだ。そして、みんな、ヘビメタ騒音の影響について、考え違いをしている。過小評価している。ぼくが気持ちをかえれば、それで、切り替えられるものだと思っている。ようするに、ヘビメタ騒音の影響を受けずに暮らせると思っている。ヘビメタ騒音の影響を受けずに『普通に』働けると思っている。ぜんぜん、ちがう。

*     *     * 

ちょっとだけ言っておくと、就職氷河期の問題というのは、新卒カードの問題と適切な時期に正社員としてのキャリア(履歴)がない問題なのだ。新卒カードの問題と適切な時期に正社員としてのキャリアがない問題と書いたけど、新卒カードの問題というのは、適切な時期に正社員としてのキャリアがない問題のなかに含まれるので、まとめて言うと、適切な時期に正社員としてのキャリアがない問題だと言える。適切な時期に正社員としてのキャリアがない問題だけでも、就職氷河期の人には、非常にでかいハンディが発生している。適切な時期に正社員として就職できなかっただけで、ものすごいハンディがしょうじるような社会構造なのだ。就職氷河期の人は、七年間きちがいヘビメタ騒音の毎日を経験して、普通に働くことができなくなったぼくとは、ちがう。いちおう、普通に働ける体をもっているのである。それですら、大学卒業時において、あるいは、高校卒業時において、正社員として働くことができなかったということが、人生全体のハンディになってしまうのである。就職氷河期の条件が普通の人は、就職氷河期の条件がいい人や、ほかの世代から、めちゃくちゃなことを言われるようになる。ようするに、言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論、自己責任論が根底にあることを言われるのである。影響がでかい順に並べると、努力論、自己責任論、思霊理論、言霊理論、引き寄せ理論ということになるだろう。しかし、この順番は厳密な順番ではない。努力論のなかに自己責任論がとけてはいっている場合だってある。明確に区切ることはできないにしろ、発言の前提に努力論、自己責任論、思霊理論、言霊理論、引き寄せ理論が成り立っている発言がある。就職氷河期の「普通の人」が経験した不利な状態というのは、ほかの世代の「考え方」や就職氷河期の「有利な人」が作り出しているという「側面」もある。社会的な信仰が、不利な条件を成立させるのである。適切な時期に正社員の履歴がないというが、不利な状態をつくりだしているのである。適切な時期に正社員の履歴がないことだけでも、ずっと影響を与えることなのである。体がじょうぶでも、ずっと、影響を与えることなのである。ヘビメタ騒音というのは、ほかの人には、あんまりわからないことなのだけど、適切な時期に正社員の履歴がないという状態をつくりだしてしまう。その点では、就職氷河期の問題とおなじなのだ。しかし、問題はそこでとどまらないのである。ぼくは、健康な体を失った。普通に働ける体を失った。社会が想定している普通の労働に耐えられる体を失った。普通に働ける体を失ったということは、でかいことなのである。そして、普通に働ける体を失ったということすら、普通の人は理解しないのである。ぼくのほうにはきちがい家族が鳴らす、騒音の毎日がある。それは、でかいことなんだよ。高校を卒業したあとも続いたけど、高校を卒業する時点の七年間で、鳴りやんだにしろ、ぼくは、普通に働ける体を失った。

ああっ。あと、過去否定論者というのがいた。こいつらは、問題を矮小化してとらえてしまう。本人は、その問題を抱えていないから、わかっていないだけなのだ。たとえば、本人は、ぼくのような騒音問題を(人生のなかで)抱えなかった人なのだ。だから、体の問題と、騒音の問題を切り離しして考えてしまうのである。騒音の問題と切り離した体なんて、ヘビメタ騒音がはじまってから、なくなってしまったんだよ。ずっと、つながっているのぉーー。り・く・つ・づ・きなんだよ。陸続き。切れ目なくずっとつながっているんだよ。過去の問題じゃないんだよ。ほんとうにまったくわかっていない。

 

●「言ったから、一〇〇〇万円ためられた」■言霊※2026/01/13 23:50

言霊主義者は、「言えば言ったことが、現実化する」という文と「言えば言ったことが、言霊の力によって現実化する」という文の区別をしていない。

そして、「言ったから」と「言ったあと」の区別をしていない。

そして、さらに、「言葉の力」と「言霊の力」の区別をしていない。だから、いかようにでも、誤解をすることができるのである。

たとえば、あるとき、Aさんが「一〇〇〇万円、ためる」と言ったとする。そして、Aさんが働いて、給料をもらったとする。そしてさらに、Aさんが給料のうちの一部を貯金したとする。

そして、一〇年後に、「一〇〇〇万円、ためた」とする。Aさんが言霊主義者の場合は、「言ったから、一〇〇〇万円ためられた」と言うのである。

Aさんが言霊主義者の場合は、「実際に、一〇〇〇万円ためられたのだから、言霊(理論)は正しい」と言うのである。

しかし、Aさんは、実際に自分が働いたということと、給料をもらったということと、給料の一部を貯金したということを、無視している。なんで、無視をするのだ。無視するな。

実際に、一〇〇〇万円たまったのは、貯金したからだろ。実際に、一〇〇〇万円たまったのは、貯金をするために働いたからだろ。なんで、働いて貯金したという事実を無視するのだ。言霊なんて、関係がないのだ。

Aさんが「一〇〇〇万円、ためる」と言ったあと、実際には、働かず、貯金をしなかったのであれば、「一〇〇〇万円ためる」と言っただけで、実際には、一〇〇〇万円たまらなかったということになる。

実際に、「一〇〇〇万円、ためる」と言ったけど、「一〇〇〇万円、ためるられなかった」人もいるはずだ。

とりあえず、Bさんは「一〇〇〇万円、ためる」と言ったけど、死ぬまで一〇〇〇万円をためられなかったとする。その場合、言霊の力はなかったことになる。

実際に、Aさんの場合にも、言霊の力は、働いていないのである。

「言ったからだ」とAさんが勝手に思い込んでいるだけなのである。Aさんのなかでは「言ったから、一〇〇〇万円たまったんだ」ということになっているだけなのである。

Aさんは、言霊の力によって、たまったと思っているわけだし、これは、言霊があることの証明になると、考えているのだ。

けど、これは、誤解だ。完全に誤解。

実際には、Aさんも言霊の力でお金をためたわけではなくて、働いて貯金をするという、物理的な運動をしたのだ。身体を動かして働く場合のほうが多いからな。頭を使って働くという場合だって、すくなくても、一回以上の手続きをしたはずだ。

それは、物理的な運動なのである。

なので、実際に自分の身体を動かして、稼いだということになる。もちろん、ほかの人に指示を出して、稼ぐ場合だってあるだろう。けど、指示を出すときに、なんらかの運動をしたのである。

たいていの場合、生きていれば、呼吸をしている。呼吸だって、物理的な運動だ。

たいていの場合、物理的な運動をして、生きているのである。これは、言霊の力で、生命をたもつ運動をしているのではない。言ってみれば、人体のしくみにたよって、運動をして、生命を維持しているのである。

この場合も、言霊は、関係がない。

うまれるまえに、「うまれたら、呼吸をする」と言ったから、うまれたあと、呼吸をしたわけではない。言霊なんて関係がないのである。

言霊の力で、呼吸をしているではないのである。

言霊主義者だって、普段、体のしくみに頼って、呼吸をしているのである。

そして、体内では、これまた、物理的な力によって、さまざまなものが運動をしているのである。言霊……は……まったく関係がない。

言わなくたって、細胞レベル、分子レベル、原子レベルで、運動をしている。だから、生命が維持されている。何度も言うけど、「言霊」なんて、一切合切出てこない。どうして、言霊が出てくるのか、不思議なぐらいだ。

言霊主義者だって、生まれたてのときは、言霊のことなんて、まったく知らないのである。それでも、人体のしくみによって、生命を維持できたのである。言霊の力によって、生命を維持したわけではないのである。

言霊主義者が、言語を覚えたのだって、ほんとうは、言霊の力が影響を与えだけではない。

「言語能力が発達すると言ったから、言語能力が発達した」のか?

ちがうね。

言語能力が発達しなければ、「言霊」というような概念について考えることができなかったのだ。これは、言霊の力が、けっきょくは、人間の脳みそのしくみに依存しているということの、あらわれだ。

脳みその発達にあわせて、幼児的万能感がしょうじて、幼児的万能感の一部として、言霊というような考え方が、頭のなかに浮かんだのだ。あるいは、ほかの人が言霊的なことを言っているところを見聞きして、言霊的なことを記憶したのだ。

順番を考えるのならば、言霊の概念形成よりさきに、脳みそが発達したのだ。

もちろん、個人の話をしている。つまり、個体発生について言及しているわけだ。個体発生において、言霊の概念形成よりも、脳みその発達のほうがさきだったのである。

脳みそが、ある程度、発達したあとに、言霊の概念を理解できるようになったのだ。

そして、脳みその発達というのは、これまた、物理的な運動の結果なのである。

だから、この意味でも、物理的な法則のほうが、言霊の法則よりも、強いのである。

もちろん、言霊の法則なんてものはないのだけど、言霊主義者が考えているように、言霊の法則のほうが物理法則よりも、強いということはないということを言っておきたいがために、わざわざ、「物理的な法則のほうが、言霊の法則よりも、強い」と言っておいただけだ。

物理法則のほうが、上なのである。

ここら辺も、言霊主義者が妄想のなかで勘違いしていることなのだけど、言霊には、物理法則を変更するよう力なんてないのだ。

ところが、物理法則よりも、上位の力として、言霊の法則が成り立っているようなことを、言霊主義者は、言う。

完全に、間違っている。

2026年1月15日木曜日

●「電車が動く」と言ったから、言霊の力によって、電車が動くようになった■言霊※2026/01/13 9:07

たいていの言霊主義者は、こまっている人に「いい方法」を教えてやるつもりなのである。

しかし、ダメな方法なのだ。

ところが、「ダメな方法だ」ということを言われると、たいていの言霊主義者はおこってしまう。

こういう、やばい状態が蔓延しているのである。

たいていの言霊主義者にとって、言霊理論は、絶対的な真理なのである。そのように思っている人間だからこそ、やっかいなのである。やられたほうは、対処にこまるのである。

悪意はないのだけど、悪意があると相手に思われてもしかたがないことを、多くの言霊主義者は、やってしまう。

これ以降、単に言霊主義者と書く場合は、ぼくが知っている範囲の言霊主義者を意味しているということにしておく。

言霊主義者は、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い、「実際に、自分は元気になった」ということを言う。「だから、言霊は存在している」ということを言うのだ。

ところが、これは、言葉による自己暗示であって、言霊の力の証明にはならない。

言霊主義者にとって、自己暗示的な言葉の力と、超自然的な言霊の力がおなじものだということになっているのである。

言霊主義者にとっては、じつは、言霊の力のほうが、物理的な力よりずっと上の存在なのだ。言霊主義者にとっては、じつは、言霊の法則と、物理の法則では、言霊の法則ほうが優位な法則なのだ。

だから、物理的な力では起こりえないことが、言霊の力で、起こるのである。それで、あたりまえだと言霊主義者は信じているのである。

しかし、これは、言霊主義者の注意が言霊に向かったときだけの話だ。

普段は、言霊も、言霊の力も無視して暮らしているのである。

電車がどうして、動くのか?

言霊主義者だって、言霊の力によって、電車が動くと思っていない。

電気の力で、電車が動くと、言霊主義者だって思っているのである。

「電車が動く」と言ったから、言霊の力によって、電車が動くようになったとは、言霊主義者ですら、考えていないのである。電車が、言霊の力によって動いているとは、言霊主義者だって考えていないのである。

そういう意味では、言霊主義者は、「それであたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊思考にならないのである。

特別に、注意が言霊に向いたとき、言霊主義者は言霊思考をしてしまう。注意が言霊に向いたときというのは、主に、他人の悩みを聴いたときと、自分の夢や希望について語るときだ。

他人の悩みを聴いたときは、他人の条件を無視して、「言えば、言っただけで、問題を解決できる」ということを言うのである。

そして、自分の夢や希望について語るときも、言霊に注意が向いているときなのである。

『言霊の力によって、それがかなうと思いたい』からである。『言ったのだから、かならず、かなう』と思いたいのである。

言えば……言霊の力によって……言ったことが現実化する……ことになっているので、「かなう」と言えば、言っただけで、かなうことになるのである。これは、妄想的な判断だけど、本人のなかでは、真実だということになっているのである。

*     *     * 

言霊主義者が妄想しているような「超物理的な力」としての「言霊の力」と、自己暗示の効果としてあらわれる「身体に働く物理的な力」としての「言霊の力」は、まったくちがう力なのだけど、言霊主義者のなかでは、両者は区別されず、おなじものとして認識されているのである。

これも、非常に厄介なことなのだ。

言霊主義者自身が、言霊主義者自身をだましているのだけど、言霊主義者自身が、そのことについては、まったく無頓着だという状態なのだ。

まえから、「言霊の力」と「物理的な力」とどっちが上(うえ)かということを問題にしているのだけど、言霊主義者は、第一義的には、言霊の力のほうが、物理的な力よりも上(うえ)だと考えているのである。

ようするに、言霊によって、物理法則を、いくらでも、書き換えることができると思っているのだ。

言霊によって、物理法則は、改変できるのである。

しかも、改変するには「言うだけ」でいいのだ。

言霊主義者は、物理法則も、言うだけで、簡単に改変することができると思っているのだ。

ところが、普段の言霊主義者でも……『電車は、言霊の力ではなくて、電気の力によって動いている』と考えているだ。

電車に向かって、「動け」と言ったって、「動かない」と思っているのだ。

言霊理論に従えば、言霊の力によって、動くはずなのである。

自分が言えば、言ったことが現実化するので、動くはずなのである。

動かなかったら「言えば、言ったことが現実化する」という言霊理論が間違っているということになる。

だから、言っても、動きそうもないときは、「動く」とは言わないのだ。

言霊主義者も、電車は、電気で動くものだと思っている。

しかし、言霊主義者は、自分の注意が言霊に向かっているときは、言霊の力によって、電車が動くと思っているのだ。

電気に関する物理的な法則は、言霊の力によって、いくらでも、書き換えることができるのだ。自分の注意が言霊に向かっているときは、電気のことは、無視して、言霊が現実を書き換えることができると思ってるのである。

言えば、物理的な力をこえて、言霊の力が、機能するのである。

言霊主義者にとっては、電気の力なんて、いくらでも、改変できるものなのだ。

言霊主義者は、じつは、言霊によって、すべての物理法則を改変することができると主張している。言霊主義者が自信をもって言うことの背後には、物理法則をこえる言霊の法則が横たわっているのだ。

言霊主義者にとって、言霊というのは、超自然的な力として意識されているのである。どのような摩訶不思議なことでも、言ってしまえば、言霊の神秘的な力によって実行されるのである。

言葉には、そういう、摩訶不思議な力が宿っていると、言霊主義者は真剣に考えているのである。

だから、こういうところに、矛盾があるのだけど、言霊主義者自身は、それにまったく気がつかないのだ。

これ……言霊法則が物理法則を超克するという考え方は、幼稚な考え方だ。幼児的万能感が生み出している妄想にすぎない。

しかし、自分の体や感情に限って考えると、「元気だと言えば、元気になる」というような考え方が成り立ってしまう。

この 「元気だと言えば、元気になる」という考え方が、超物理的な力としての言霊の力が存在することの根拠になっているのだ。言霊主義者のなかでは……。

もちろん、理論的に考えれば、根拠にならないのだけど、だまされて、根拠になると思い込んでしまう場合がある。

言霊教祖や言霊のセミナー講師が、そういう説明をすることがあるのである。

言霊教祖や言霊のセミナー講師も、両者の区別をしていない。

言霊教祖や言霊のセミナー講師も「超物理的な力としての言霊の力」と「アファメーションとしての言霊の力」を区別していないので、「アファメーションとしての言霊の力」があるから、「超物理的な力としての言霊の力」もあるという説明をしてしまう。

あるいは、言霊教祖や言霊のセミナー講師も「超物理的な力としての言霊の力があるということは、アファメーションの効果があることによって証明できる」と説明してしまう。

教えるほうが、間違っているのだ。

だから、教わるほうも、そのまま、間違いを継承してしまうことになる。

自分の身体に限った話としての「アファメーションの効果」を、物理法則すら改変することができるような言霊の力があることの証明として使ってしまうところが……言霊教祖や言霊のセミナー講師にはある。

証明にならないということを、ぼくが説明しても、彼らは認めない。

「そんなことはない」「言霊は絶対だ」「言霊の法則は宇宙をつらぬく絶対の真理だ」と言って、聞かない。

「元気だと言うと元気になることが心理学の実験で証明されている」「だから、言霊の力はある」と言って、聞かない。

わからない人のために言っておくけど、 「元気だと言うと元気になるということ」は、「自分の身体に限った話なのだけど、アファメーションの効果がある」ということを言っているにすぎないのだ。

ところが、これを「言霊があることの証明」として語ってしまう。「言霊があり、言霊の力によって元気になっている」と説明してしまう。

けど、これは、間違っていることなんだよ。

2026年1月10日土曜日

●長期ヘビメタ騒音の朝を繰り返している■騒音※2026/01/10 3:54

さっき、だいぶ眠った。頭が正常な状態に戻りつつある。しかし、なんていうのかな、すべてが面倒くさいというのがある。しかも、面倒くささが並じゃないのである。なにかをやらなければならないと思うと、いちいち破滅的な気分になるのである。たとえば、免許の更新。たとえば、ネズミの糞処理。たとえば、ゴミ出し。めちゃくちゃに憂鬱なのである。どうしてこうなったかというと、長期ヘビメタ騒音の毎日が影響している。ダイレクトに影響している。ようするに、ぼくが、破滅的な面倒くささを感じるときは、長期ヘビメタ騒音の朝を繰り返しているということなのである。長期ヘビメタ騒音で、一日に二時間ぐらいか、三時間ぐらいしか、眠れなかったのだけど、朝起きて、学校に行かなければならない。ちょうど、眠りが深くなったときに、起こされて、無理やり動いて学校に行っていた。無理やり動いて……というところが、肝心なことなのだ。そりゃ、三か月で終了してくれればいい。けど、この状態は、七年間続いた。七年間、積もった。そりゃ、めちゃくちゃに憂鬱な気分になる。八年目以降、アルバイトをしていた時期をのぞけば、行くところは、なくなった。自分で図書館に通っていた時期があるけど、図書館だから、何時に図書館に到着しなければならないということはない。ようるすに、通勤・通学のように時間が決まっているわけではない。八年目以降も、ずっと、ヘビメタがおなじレベルで、鳴っていたのである。バイトから返ってきた鳴っていたのである。休日は一日に一三時間以上、フルの音で鳴っていたのである。

2026年1月8日木曜日

●ヘビメタ騒音なしの人生がほしかった■騒音※2026/01/08 23:30

 ヘビメタ騒音なしの人生がほしかった。きちがい兄貴が、きちがいではなく、普通の音で鳴らしていたら、こんなことになっていない。これ、みんな、俺がさぼっているように思っているのだけど、どれだけ、張り詰めた状態で、頑張って暮らしてきたか……なんだよな。そして、それが、すべてをこわした。からだもこころも、こわした。じゃあ、ヘビメタ騒音付きの生活で、頑張らない状態で暮らしたら、どうなのかというと、それも、地獄なんだよ。けっきょく、こっちが、頑張っても頑張らなくても、ヘビメタ騒音状態だとだめなんだ。やられていない人たちは、まったくわかっていない。どれだけ、足を引っ張られるかわかっていない。どれだけ、無視しようとしても、きちがい家族が鳴らす、けたたましい騒音で、日常生活が破壊される。不可避的に、破壊される。頑張っても、頑張らなくても、破壊される。不可避的に破壊されるということが、やられていない人たちにはわからない。その人たちは、みんな、「自分だって苦労した」ということを言う。けど、ちがうんだよな。きちがい兄貴が、きちがい的な特質をもっているのだから、普通の人ではないのだ。普通の家族が鳴らす騒音ではないのだ。ぜんぜん、ちがう。やり方自体がちがうんだよ。普通の人だったら、絶対に鳴らそうと思わない音なんだよ。そして、「うるさい」と言われたら「うるさい音で鳴らしている」ということがわかるんだよ。ところが、きちがい的に都合がいい性格で、ものすごくでかい音で鳴らしたいから、ものすごくでかい音で鳴らしているということを、無意識的なレベルで無視してしまうのだ。だから、意識的なレベルでは、「うるさい音で鳴らしていない」ということになっているのである。そして、自分が、このレベルの音で鳴らされたら、「うるさいと感じる」ということを無視してしまうのである。だから、どれだけ言われても、その都度、腹を立てるだけで、きちがい兄貴がきちがい兄貴の行動をまったく、かえようとしないのである。そして、きちがい兄貴の「譲歩」というのが、きちがい親父の「譲歩」とおなじでまったく意味がない譲歩なのである。これも、普通の人がやる場合は、わざと意地悪でやることなんだよ。ところが、きちがいだから、きちがい兄貴もきちがい親父も、「精一杯譲歩した」と本気で思っているのだ。こういうところのズレが、また、ほかの人にはわからないズレなのだ。一緒に暮らしていないとわからないズレなのだ。

●就職氷河期の人なら、みんな、おなじ条件で競争をしている■社会※2026/01/08 8:50

 ちょっと軽めに書いておく。

就職氷河期の人にも、コネがあった人と、コネがなかった人がいる。コネのなかにも、グレードがあり、たいへん有力なコネと、そんなに頼りにならないコネがある。

とりあえず、コネがあった人には、有力なコネがあった人だとする。

有力なコネがある人は、就職氷河期においても、正社員として就職することができたとする。いっぽう、コネがまったくない人は、就職氷河期においては、正社員として就職することができなかったとする。

ようするに、有力なコネがあるかどうかということは、重要なことなのだ。

ところが、就職氷河期という基準だけで、分類すると、みんな就職氷河期の人だということになる。

ようするに、就職氷河期という条件だけに注目して、そのなかで、コネがあったのかどうかという条件は、無視するのだ。

無視しても、条件は重要なのである。

ところが、コネという条件を無視して推論する人たちがいるのだ。

たとえば、「就職氷河期でも、正社員として就職できた人はいるのだから、就職できなかった人の自己責任だ」ということを言う人たちがいる。

「就職氷河期でも就職した人はいるのだから、就職氷河期で就職できなかったなんていうのは、あまえ」ということを言う人たちがいる。

この人たちは、就職氷河期の人なら、みんな、おなじ条件で競争をしている(していた)という前提でものを考えている。就職氷河期かどうかという条件だけは、見るけど、ほかの条件は見ないのだ。

就職氷河期ならみんなおなじ条件だという、間違った前提で推論をしているのだ。

だから、推論の結果も、間違ったものになってしまうのである。

ともかく、人に対して「そんなのは、関係がない」「そんなのは、言い訳だ」「だから、おまえは、あまえている」と言いたくなる人がいるのだ。

そして、言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論、自己責任論のセットは、この言葉……「そんなのは、関係がない」「そんなのは、言い訳だ」「だから、おまえは、あまえている」という言葉を支えているのだ。

条件を考えずに、相手にレッテルをはり「そんなのは、関係がない」「そんなのは、言い訳だ」「だから、おまえは、あまえている」と言う人たちの脳裏には言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論、自己責任論のセットがあるのである。 

*     *     *

「就職氷河期だって、正社員として就職できた人はいるのだから、就職氷河期の人は、正社員として就職しにくかったというのは、間違いだ」と思ってしまう人がいるのだけど、その人が、間違った推論をしているだけだ。


2026年1月7日水曜日

●自分が体験したことではないので、『実感がない』のである■言霊※2026/01/06 23:29

他人を対象にした自己責任論が世にはびこっていると、加害者まで、「そんなのは、被害者の自己責任だ」と考えるようになってしまうのである。

たとえば、第一者・加害者、第二者・被害者、第三者・関係のない他人だとする。

その場合、社会において「すべては自己責任だ」という考え方が正しいということになっていると、第三者である「関係のない他人」は、みんな、被害者の責任だと考えるようになるのである。

だって、そうだろ。「自分」の「身の上に起こったこと」は「すべて、なんだろうが」「自分(その人)」の責任なのだからだ。

問題なのは、「自分」という言葉で表現されているものが、自分自身のことなのか、他者自身のことなかというところなのである。

自己責任論というのは、最初から、こういうところに、誤解が生まれる余地があるのである。

言霊主義者の話をしたけど、言霊主義者は、自分が体験したこと関しては、言霊思考抜きで考える傾向がある。

自分が蚊に刺されて、かゆくなったときは、蚊に刺されたからかゆくなったと「言霊思考抜きで」考えてしまうのである。

たとえば、言霊主義者が、夏の竹やぶに入って作業をしなければならない場合、言霊主義者だって、「蚊に刺されたからかゆくなった」と考えるのである。そして、かゆいから、「かゆい」と言ったとする。

その場合は、「蚊に刺されてかゆくなったから、かゆいと言っただけなんだ」とプロセス全体を理解しているのである。出来事の順番は、(一)「蚊に刺される」→(二)「かゆくなる」→(三)「かゆいと言う」という順番になる。そして、この順番に、言霊主義者自身が、疑問を感じないのである。

ところが、ひとごとになると、他人が蚊に刺されたことは関係がないことなので、そのプロセスが、頭に浮かんでこないのである。他人が「かゆい」と言った場合、……言霊主義者は「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と決めつけてしまうのである。

相手が、「蚊に刺されたから、蚊に刺されたあと、かゆくなったんだ」と言ったって、言霊主義者は「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と言って認めないのである。この場合の出来事の順番は、(一)「かゆいと言う」→(二)「かゆくなる」という順番なのである。

そして、蚊に刺されたあとに、物理的な反応の結果として、かゆくなったということを無視して、蚊に刺されるまえに、「かゆい」と言ったから、言霊の力によって「かゆくなったのだ」と理解してしまう。

こういう、意見の切り替え……思考回路の切り替えを、普段、意識することなくやっているのである。

言霊主義者は、普段、意識することなく、他人の身の上に起こったことと、自分の身の上に起こったことについて、ちがう反応をしているのである。

そのちがう反応というのは、思考回路自体がちがうということから、しょうじることなのである。他人の身に起こった場合の思考回路と、自分の身に起こった場合の思考回路が、ちがうのである。

これは、言霊主義者によくみられることだけど、普通の人間も、言霊主義者ほどではないしろ、おなじことをやっている。普通の人においても、自分の身に起こったことに関する判断と他人の身に起こったことに関する判断は、相当にちがうと言わなければならない。

自分が体験したことではないので、プロセス進行中の順番を軽視してしまうのである。プロセス進行中の順番というのは、「出来事の順番」のことだ。

自分が体験したことだと、出来事の順番を間違えることはないのだけど、他人のことだと、出来事の順番を間違てしまうのである。

そして、自分が体験したことではないので、『実感がない』のである。

自分が体系しているときは、時系列的な『実感』が、たしかに成り立っているのである。重篤な記憶障碍者でもない限り、ちゃんと、自分の『実感』は思考のなかに残っているのである。

他人の実感は、自分の実感ではないので、他人の実感をそのまま自分の実感として認識し記憶しているわけではない。他人の実感は、自分の思考のなかに、まったくないのだ。

他人が話している内容を理解して、他人の『実感』について想像しているだけなのである。

しかし、この想像は、人によって、だいぶ、『精密さ』がちがうのである。単純な人だと、相手が「蚊に刺されてかゆくなった」と言っても、「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と反応してしまうのである。

「かゆくなった」と相手が言っていること以外は、あんまり理解しないのである。「かゆくなった」と言っているから「かゆいと言うからかゆくなる」と思ったことを自動的に返しているだけのような感じになる。

フォーカスされる部分が「(相手が)かゆいと言った」というこということだけなのだ。この場合、他人の話を聴いた人は、ほかの部分にはフォーカスしないのである。

どうしてかというと、自分には関係がない他人の経験なので、他人の経験を構成する要素には、たいして、注意を払わないからだ。

他人の経験を構成する要素というのは、経験を構成する出来事の順番や、出来事が発生してしまう条件によって、構成されている。つまり、経験を構成する出来事の順番や、出来事が発生してしまう条件には、相手が仮に明言したとしても、たいして、注意が向けられないのである。

まあ、言霊主義者ほどひどくはないにしても、普通の人も、そういう傾向が強い。そりゃ、自分が経験したことは、細部までよくわかるけど、他人が経験したことは、他人が言ったことのうち(自分の注意が向くこと)しか、認識しない。

*     *     * 

ともかく、人間は、他人の身にしょうじた出来事について、軽く考えてしまうような生き物なのである。もともと、そのような性格があるので、「すべては自己責任」という言葉は他人を対象とした自己責任論になりやすいのである。

ほんらい、自己責任論というのは、自分を対象とした自己責任論なのだ。

もともとは、自己責任論というのは、アンガーコントロール論なのだ。「すべては自己責任だ」と考えることによって、怒りがわかなくなるという理論なのだ。

アンガーコントロール論としての自己責任論の対象は、もちろん、自分自身だ。他人のことではないのである。

ところが、「すべては自己責任だという考え方は正しい」と思った人は、他人の身の上に発生したことは、すべて他人の責任だと考えるようになってしまうのである。

どうしてかというと、自分の経験したプロセスには実感があるけど、他人の経験したプロセスには、まったく実感がないからだ。

ごく自然な思考の移行なのである。この移行をもたらすものは、もともと他人の経験は自分の経験ではなく、自分にとって実感がわかないという人間の性質によるものなのである。他人の身の上にしょうじたことは、自分の身の上にしょうじたことではなく、実際の出来事を経験したわけではないので、話に聞いたことのうち、自分の印象にのこることしか、考えないのである。 

他人の行動に関係なく、他人の身の上にしょうじたことは、すべてその他人の責任であるという考え方が、世にはびこっていると、よくないことが発生する。人間というのは、他人の身の上に起こったことに関しては、ものすごく荒い理解しかしないので、相手の条件を無視してしまうのである。あるいは、軽視してしまうのである。なので、もともと、他人の身に起こったことは、他人の責任だと思いやすい傾向があるのである。 

2026年1月6日火曜日

●アニメに出てくる「魔法の回復薬」を使ったのとおなじ状態になる■言霊※2026/01/05 2:05

言葉には力があるので、多少は体に影響を与えるとする。

けど、これは、言霊の力ではないのである。断じてちがう。

前も話したけど、言霊主義者というのは、言葉の力を言霊の力だと、思っているのである。そして、これは、誤謬を生み出す。

「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」とする。「元気だという言葉が、自分の体に影響を与えた。だから、言霊には力がある」……と思っているのだ。そこからの推論で、言えば言ったことが「言霊の力によって」現実化されると思うわけだ。

一度、言えば言ったことが「言霊の力によって」現実化されるということが、正しいこととして頭中に成り立つと、「のろい」「ジンクス」系の言霊も、あることになってしまうのである。

ほんとうは、この二者は、峻別しなければならないのである。

しかし、「言葉の力があるということ」が「のろい」「ジンクス系」の「言霊の力」を、証明しているような「感じ」がしてしまうのだ。しかし、これは、間違っている。

もともと、「雨が降ると言ったら、雨が降った」ということからも、「のろい」「ジンクス系」の言霊の力があると、言霊主義者は確信してしまっているところがある。

そして、自分が、「元気だと言ったら」自分が元気になったような気がしたということも、体のしくみではなくて、言霊の力によって、元気になったのだと誤解してしまうのだ。

そして、この両者は、言霊主義者の中で、区別されていないのだけど、ともかくも、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」ということが、「のろい」「ジンクス」系の言霊の力があるということの……根拠になってしまうのだ。

もちろん、これは、間違った推論なのである。ほんとうは、根拠になんかならない。

「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」ということは、「のろい」「ジンクス」系の言霊の力があるということの、根拠にはならないのだ。

どうしてかというと、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」というのは、体がもたらす感覚だからだ。自分の体のことで、自分が申告するだけなら、いかようにでも言えるのだ。

じつは、言霊主義者の場合、自分の体以外の、外部の出来事に関しても、この感覚が成り立っているのである。しかし、ほんとうは、この二者は、区別しなければならないのである。

自分の体(からだ)系のことと、出来事招喚系のことは、区別しなければならないのである。

出来事招喚系の場合は、招喚したあとは、出来事が物理的なプロセスを経て、現実化するのである。それは、外部の出来事であって、本人の気分とか、本人の体調とかとは、ちがうことなのである。

*     *     *

一度、「言霊の力がある」ということになると、なんでも、言霊の力でくつがえすことができるということになってしまうのである。言霊主義者の頭のなかでそうなるのである。

しかし、言霊主義者のなかにも、現実感覚は成り立っているので、その言霊主義者にとって「あまりにもあたりまえであること」は、言霊感覚の影響を受けないのである。

しかし、自分が、「あたりまえだ」と思っていることに関して、自分が、「言霊の力を無視している」ということが、言霊主義者の頭のなかにのぼることは、めったにないことだ。

一〇〇%詐欺になることをおそれず、現実感覚で言ってしまうと、 言霊主義者の頭のなかにのぼることは、ないと言っていいレベルなのだ。そのくらいに、完璧に無視しているのである。そして、無視しているということも、完璧に無視しているのである。

ひとごとだと、自分が経験したことではないので、現実感覚が成り立っていないことなのである。自分にとって、現実感覚が成り立っていないことに関しては、言霊感覚が成り立ちやすいのである。言霊主義者の場合、言霊感覚が成り立ちやすいのである。

なので、ほかの人のことだと、言霊的な説教をしてしまう。「絶対に正しい」と思っているのだ。しかし、ほかの人の条件を無視することは、非常に失礼なことなのである。

*     *     *

現実に感じるつかれの段階を一〇〇段階にわけるとする。

きちがいヘビメタにやられたときのつかれは、一〇〇段階の一〇〇段階目なのだ。つかれが一〇〇なのである。一(いち)が、つかれ最小。一〇〇がつかれ最大だ。

自己暗示のような意味で、言葉には力があるので、「元気だ元気だと言ったときに、元気になったような気分がする」とする。自己申告制なので、実際に元気になるとしておこう。

たとえば、「元気だ元気だ」と言うことによって、一(いち)のぶんだけ、実際につかれが減るというモデルについて考えてみよう。

一〇〇つかれているときに「元気だ元気だ」と言えば、一だけ、つかれが減るので、つかれは九九になる。一〇〇段階中の九九番目(に強い)つかれだ。

「元気だ元気だ」と言えば、一だけつかれが減るので、「元気だ元気だ」というと、一〇〇の疲れが九九になる。これだって、モデルとしてわかりやすいように、一だけ減るということにしているだけだ。

ほんとうは、現実的な世界では一〇〇つかれているときに「元気だ元気だ」と言うことによってしょうじるつかれの減退(減少)は、〇・〇〇〇〇〇〇一ぐらいだと思う。

実際には、つかれが消えないのだ。

むしろ、つかれた状態で「元気だ元気だ」と言ったぶんだけ、つかれが増えるような気がする。実際、ヘビメタ騒音でつかれているときに、「元気だ元気だ」と言ったときのつかれ方が並じゃないのである。「どへーーっと」思う。

ヘビメタが鳴っている最中に、「元気だ元気だ」と言ったときは、怒りが爆発して・もっともっと、つかれてしまう。発狂状態になってしまう。これは、そのときの身体に影響を与えるし、そのあとの身体に影響を与える。

たとえば、ヘビメタが鳴り終わって、一〇分経ったとき、「眠ろう」と思っているときの身体に影響を与える。悪い影響を与える。

言霊主義者は、「元気だ元気だ」と言えば、かならず、身体にいい影響を与えると思っているけど、実際には、そうではない。悪い影響を与えるときだってある。

さきのモデルに組み込むとすると、たとえば、九〇から一〇〇までの間で疲れている場合は、「元気だ元気だ」というたびに、〇・一のぶんつかれるということにしておきたい。

まあ、〇・一は控えめな数字だ。ほんとは、一ぐらいつかれるのではないかなと思っている。ともかく、「元気だ元気だ」と言ったときに、つかれが減らない場合だけではなくて、つかれが増えてしまう場合もあるということは、認識しておかなければならない。

言霊主義者は「どんなときでも」「かならず」……「元気だ元気だ」と言えば、元気になると思っている。

実際にはちがう。

*     *     *

つかれの段階数値モデルについて考えてみたけど、実際には、「元気になるか」「元気にならないか」の二値について論じられているのだ。

言霊に関する議論のなかでは、言霊の効果というのは、二値で語られることが多い。

たとえば、「元気だ元気だと言えば、元気になる」ということについて考えてみよう。「元気になる」場合と、元気にならない場合の二値なのだ。言霊主義者が「元気だ元気だと言えば」「かならず」「元気になる」ということを言い、言霊主義を否定する人が「元気にならないことだってある」ということを言うのだ。

別に段階は関係がないのだ。つまり、つかれの段階は関係がないことになっている。

「どんなにつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」と言霊主義者は主張するのである。

ところが、ほんとうは、言霊主義者も、ものすごくつかれたときは、いくら「元気だ元気だ」と言っても、元気にはならないのである。

「つかれがちょっと減ったかもしれない」と思うかもしれないけど、言霊主義者だって、「早く寝よう」と思ったり「ちょっと休憩をしないだめだ」と思ったりするのである。

ところが、 「早く寝よう」と思ったり「ちょっと休憩をしないだめだ」と思ったりするということは、言霊主義者が「元気だ元気だと言えば元気になる」と主張しているときは、言霊主義者の頭のなかから、完全に、消し去られているのだ。消去されている。

現実世界で、実際に自分が「早く寝よう」と思ったり「ちょっと休憩をしないだめだ」と思ったということは、リコールされないのである。まったく、リコールされない。

「元気になるのだから、元気になる」と言霊主義者は思っている。つかれた状態から、「元気だ元気だ」と言っただけで、元気な状態になるのである。二値だ。

*     *     * 

つかれ一〇一段階モデルというものを考えてみよう。〇段階目は、つかれていない状態なのである。このつかれていない状態が、元気な状態であるか、ただ単につかれていない状態なのかは、問題のあるところなのだけど、とりあえず、このモデルでは、言霊主義者の実感に合わせて?「つかれていない状態」であれば「元気な状態」だとする。

つまり、〇段階目では、元気だとする。 

そうすると、一〇〇段階目のつかれを感じているときも、「元気だ元気だ」と言えば、いきなり、〇段階目の状態になるのである。つまり、元気になるのである。こんなのは、ない。

言霊主義者だって、人間だ。

胸に手を当てて考えれば、自分の感覚とズレているということがわかるだろう。

言霊主義者にとって「元気だ元気だ」と言うことは、「「魔法の回復薬」」なのだ。

アニメに出てくる「魔法の回復薬」とおなじだ。あるいは、魔法の治癒薬なのである。

死にそうになっているのに、「元気だ元気だ」と言うだけで「元気な状態になってしまう」のだ。

これが、幼児的万能感ではなく、なんだ?

言霊主義者は、ほかの人に言うときは、妄想を信じ切った状態で、ものを言っているのである。死にそうな状態でも、「元気だ元気だ」と言えば元気になるのである。どんな病気にかかっていても、「なおる」と言えば、なおるのである。

なんだって、できると言えばできるのである。

幼児的万能感に支配されている状態なのである。

ほかの人のことは、自分のことではないので、妄想理論が大爆発している状態で、人のことについて、とやかく言うのである。

アニメに出てくる「魔法の回復薬」なんてない。

言えば、言っただけで、アニメに出てくる「魔法の回復薬」を使ったのとおなじ状態になるのだ。こういうでたらめなことを、真実だと言っているのが、言霊主義者だ。

しかも、相手が「言ったけど、効果がなかった」と言えば、「言い方が悪いからダメなんだ」と言うのが、言霊主義者だ。

言霊主義者だって、「魔法の回復薬」なんてもっていない。

言霊主義者においても、「元気だ元気だと言うこと」は「魔法の回復薬」じゃない。

ところが、言霊主義者は、「元気だ元気だ」と言うことは、「魔法の回復薬」を飲むのとおなじだと言っているのである。

言霊主義者は「そんなことはない」と反論するかもしれないけど「言えば言ったとおりになる」のだから、おなじなんだよ。「つかれる前の健康な状態になる」と言えば、「つかれる前の健康な状態になる」のである。「傷つく前の健康な状態になる」と言えば、「傷つく前の健康な状態になる」のである。

「魔法の回復薬」とおなじじゃないか。

2026年1月3日土曜日

●自分が「蚊に刺されない」と思っていたから、刺されなかったのだ■思霊※2026/01/03 18:37

 ヘビメタ騒音という条件が、ほかの人には想像できないほど、ひどい条件なのだ。ほかの人は、普通の騒音をこころの中に思い描いて、きちがい家族によるきちがい的な騒音について、誤解をしてしまう。自動的に、誤解をしてしまう。きちがい兄貴のきちがい的な特性がわからないので、どういう頻度で、どういう音のでかさで、どういうしつこさで、鳴らすか、まったくわかっていないのだ。実際に自分が鳴らされて……毎日鳴らされて……ずっとずっとずっと、生活したことがないので、毎日ずっとずっとずっとずっと……鳴らされたときの影響のでかさがわからない。そして、ぼくとは別の個体なので、エイリのことはエイリのことだから、自分のことではないというのがある。自分のことではないので、まったくこまらないのである。どれだけ、きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らしていたって、実際に自分がこまっていないので、こまらないのである。別の個体に起こっていることだから、「影響」を軽く見てしまうのである。

前投稿のAさんは、Bさんの「竹やぶのなかでの作業」という条件を、軽く見ているのである。そもそも、「言えば言ったことが現実化する」とか「思えば思ったことが現実化する」とかという言い方を採用すると、相手」の条件は無視してしまうことになるのである。「明るいことを考えれば明るいことが起こるし、暗いことを考えると暗いことが起こる」という言い方の場合も、相手の条件は無視してしまうことになる。だから、別の条件によって暗いことが(相手の身の上に発生した場合は)相手の条件を無視することになってしまうのである。しかし、別の条件が相手の状態をつくりだしているわけだから、ほんとうは無視することなんて、できないのである。しかし、無視してしまうのである。かわりに、相手が暗いことを考えたから、その暗いことが起こっているのだと、決めつけてしまう。対処方法は、明るいことを考えることなのである。しかし、これでは、もとの原因にまるで対処しないことになってしまうのである。

前投稿のBさんが、どれだけ「蚊に刺されない」「かゆくなることはない」と明るいことを考えて、竹やぶの中で作業しても、蚊に刺されるような条件が成り立っていれば、高確率で、蚊に刺されるのである。前投稿のAさんが、思霊主義者だとする。その場合、Aさんには、「蚊に刺される条件」が成り立っていないのである。だから、自分なら「蚊に刺されない」「かゆくなることはない」と明るいことを考えて、蚊に刺されないようにすることが可能だと考えてしまうのである。しかし、これは、現実的話ではない。Aさんのこの考えを、蚊が理解してくれるわけではないからだ。蚊は、蚊の本能に従って、行動してしまう。だから、Aさんが、どれだけ「蚊に刺されない」「かゆくなることはない」と思っても、実際に、Bさんとおなじ条件で作業をすれば、かなりの高確率で、蚊に刺されるということになるのである。「蚊に刺されない」「かゆくなることはない」と思うことは、防御にならないのである。蚊に影響をまったく与えないのである。もし、声に出して「蚊に刺されない」「かゆくなることはない」と何回も何回も言った場合は、二酸化炭素や水蒸気によって、蚊がもっと寄ってくるかもしれないのである。「蚊に刺されない」「かゆくなることはない」と言うときに、普通に呼吸する場合よりも、多くの息を出していれば、蚊が寄ってくる確率はあがる。まあ、たいした差はないと思うけど、どちらかというと、蚊をおびきよせる行為なのである。蚊は、Aさんの思いにはまったく反応せずに、Aさんの吐く息や体温に反応してしまうからだ。思いなんて関係がない、物理的な反応なのだ。

この場合も、Aさんは、Bさんに成り立っている条件が成り立っていないので、条件を無視して、思霊理論にそくしたことを、Bさんに言うことができるのである。それは、Aさんには、「竹やぶの中に入って作業をしなければならない」という条件が成り立っていないからだ。おなじ条件なら、思いに関係なく、AさんもBさんも蚊に刺される。Aさんの体温とBさんの体温という条件も、もちろん、おなじだとする。AさんもBさんも、汗が出る量はおなじだとする。ようするに、汗の量という条件もおなじだとするということだ。ともかく、ほかの条件をすべておなじにして、「蚊に刺されない」と思うことだけを、AさんとBさんでかえた場合、結果は、おなじことになると推測できる。ようするに、Aさんには「蚊に刺されない」と思って作業をしてもらい、Bさんには「蚊に刺されない」と思わないで作業した場合、AさんもBさんも蚊に刺されるということになる。実際には、竹やぶにいるときの位置などを完全にそろえることができないので、ばらつきが出ると思う。どうして「位置などを完全にそろえることができない」かというと、ふたりの人間が、同時におなじ場所に立つことができないからだ。けど、「蚊に刺されない」と思わなかっただけで、蚊にまったく刺されないということにはならないだろう。もちろん、冬の竹やぶで、AさんとBさんに、作業をしてもらった場合、AさんもBさんも蚊に刺されなかったということはあり得る。たとえば、AさんとBさんに、冬の竹やぶのなかで作業してもらい、Aさんには「蚊に刺されない」と作業中ずっと思ってもらい、Bさんには「蚊に刺されない」と思わないようにしもらったとする。そして、AさんもBさんも、蚊に刺されなかったとする。その場合、Aさんは、思霊思想をもっているので、「自分は蚊に刺されないと思っていたから、蚊に刺されなかったのだ」と思うだろう。しかし、Aさんは、冬」という条件を無視しているのだ。そして、自分が「蚊に刺されない」と思っていたから、刺されなかったのだと思うことになるだろう。

 


2026年1月2日金曜日

●理由がある人にとって、かなりの高確率で、不愉快な発言なのである■言霊※2026/01/02 21:57

 たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんは、竹やぶに入ったとき、蚊に刺されたという経験があるとする。Aさんは、竹やぶに入ったとき、蚊に刺されて、かゆくなったので、「竹やぶに入ると、かゆくなる」と思うようになったのだ。

この経験則は、正しいのである。

ただし、夏なのか冬なのかで、条件が異なる。

だいたい、竹やぶはおなじようなものだけど、「あの竹やぶ」と「この竹やぶ」はちがうかもしれない。Aさんが、竹やぶに入って、作業をしたあと、蚊に刺されたので「かゆい」と言ったとする。そうすると、それを見ていたBさんが「かゆいと言うからかゆくなる」「かゆいと言わなければかゆくならない」と得意がって言うのである。

Bさんは、竹やぶに入って作業をしなければならないという条件がないのだ。だから、竹やぶに入って作業をすると、蚊に刺されるという経験がない。Aさんのものの見方と、Bさんのものの見方をくらべた場合、どちらが正しいかというと、Aさんのものの見方のほうが正しいのだ。

ところが、たとえば、きちがい家族による騒音が発生してくるしい思いをする場合は、竹やぶに入って作業をする場合よりも、経験する人が少ないのだ。

きちがい家族のなので、普通の家族とは、騒音の出し方ちがうのである。普通の家族にわかることが、きちがい家族にはわからないのである。普通の家族と一緒に住んでいる人は、「きちがい家族が鳴らす騒音」について理解がない状態なのである。

きちがい家族が騒音を鳴らした場合、きちがい家族による騒音が、生活の条件をつくってしまうのだ。この条件は、わずかな例外を除けば、ほかの人が経験したことがない条件なのである。

だから、最初から無理解ぶりを発揮するのである。経験的にわかっていないから、「勉強することができなくなる」ということや「どうしても、眠れなくなる」ということがわからないのだ。

ほんとうに、ヘビメタ騒音で「勉強することができなくなっている」にもかかわらず、きちがい家族が鳴らす、非常識な騒音を経験したことがない人は、「自分なら、平気だ」と思って「ヘビメタ騒音が鳴っているから、勉強することができないなんていうのは、いいわけだ」と言ったりするのである。

たとえばの話だけど、Bさんだって、Aさんと同じ条件が成り立つとき、竹やぶに入れば、体を蚊に刺されてかゆくなるのである。感覚器や神経が正常なら、かゆいと感じるのである。蚊に刺されたあと、かゆいと感じるのである。

ところが、Bさんは、Aさんが「かゆい」と言ったところを見て、「かゆいと言うからかゆくなる」と言うのである。これは、かなりの高確率で、Aさんにとって不愉快なことなのである。

そりゃ、なにも知らないBさんが、勝手に、理由を考えだして、自分のことをせめるのだ。

しかも、Bさんは得意になって言ってるので、せめているつもりがない。「おまえが、かゆいと言うから、かゆくなる」という発言は、ちゃんと理由がある人にとって、かなりの高確率で、不愉快な発言なのである。

Bさんが普段「人がいやがることはやめましょう」と言っていたって、自分が、Aさんがいやがることをしているという自覚がないので、自覚がないまま「人がいやがること」をしてしまうのである。そして、Aさんが「かゆいというからかゆくなったわけではない」ということを言ったって、認めないのである。言霊信者だから、言霊の力でかゆくなったと思って、認めない。「単純なのが正しい」「アバウトでいいんだ」と言って、言霊の力でかゆくなったのではないといこうとを、認めないのである。

Bさんは、自分が蚊に刺されてかゆくなったときは、「蚊に刺されたからかゆくなった」と思う人間なのである。Bさんだって、蚊に刺されてかゆくなったときは、かゆくないのに、「かゆい」と言ったから、言霊の力によってかゆくなったのではないと思っているのである。

「かゆいと言うからかゆくなる」という考え方を、Bさんも、普段は否定しているのである。

ちゃんと、理由がある場合は、言霊に関係なく、その理由でかゆくなったと判断し、認識しているのである。Bさんですら、そうなのである。Bさんが蚊に刺された場合、Bさんは、言霊の力でかゆくなったのではなくて、蚊に刺されたからかゆくなったと認識しているのである。

*     *     *

Bさんが最初から、Aさんと一緒に、夏の竹やぶに入ったとしよう。その場合は、Bさんは、Aさんとおなじように、蚊に刺される。Bさんも、自分が体験したことだと、蚊に刺されたあと、かゆくなったということがわかるのである。しかし、自分が体験したことではなく、ひとごとだと、「かゆいと言ったからかゆくなったのだ」と解釈してしまうのである。

自分が一倍速で体験したことなのか、あるいは、自分はただ単に相手の話を聴いただけで、まったく体験したことがないことなのかというとが、重要なのである。 かゆいというからかゆくなるという場合、かゆいと言った「あと」かゆくなるのである。省略されているけど、言霊の力でかゆくなるのである。ところが、実際は、蚊に刺された「あと」かゆくなったので、かゆいと言っただけなのだ。

*     *     *

言霊主義者は、他人の条件について、うまく考えることができないのである。他人の条件は、他人の条件を無視した、「Xすれば、Yになる」という文に沿った形で再解釈されてしまうのである。

「Xすれば、Yになる」という文は、言霊主義者の場合「 言えば、現実化する」という文になる。

「言えば、現実化する」という文は、言うという条件以外の条件を無視した文なのである。「言う」という条件だけは、現実化するという結果に、影響を与える条件なのである。

「言う」という条件さえ満たせば、かならず、「現実化する」のである。つまり、ほかの条件は、すべて無視しているのである。「言えば、現実化する」という文を言っている人にとっては、言うということ以外の、ほかの条件は、すべて、関係がないことなのである。

一〇〇%詐欺ということを言ってきたけど、一〇〇%詐欺が成り立つ文の場合、具体的な条件は無視されているのである。

だから、言霊主義者は、意図せず、他人の条件を無視してしまうことになる。それで、あたりまえなのだ。条件に関係なく「言えば、現実化する」のである。

言霊主義者が、言霊に視点をフォーカスしている場合は、言霊主義者は、「言えば、現実化する」ということを妄信ているのである。相手にとって、不愉快なことだということは、一切合切考えない。 

しかし、相手が実際に経験したことを無視しているのだから、たいていの相手は「不愉快に思う」のである。そりゃ、中には変態さんがいて、誤解されると楽しく感じてしまうかもしれないけど、こういう人は、例外中の例外だ。

先ほどの例を使えば、Aさんの「蚊に刺されたから、(蚊に刺されたあと)かゆくなった」という認識は、あっているのである。Bさんの「かゆいと言ったから(言ったあと)かゆくなった」という認識は間違っているのである。

ただし、Bさんが、言霊にフォーカスして、他人の体験について語っているときは、たいていの場合、認めない。

Bさんが、Aさんとおなじ竹やぶに入って、蚊に刺された場合は、ちゃんと「蚊に刺されたから、(蚊に刺されたあと)かゆくなった」という認識をもつのである。

●言霊的な力と、物理的な力と、どっちが「上(うえ)」かという話■言霊※2026/01/02 1:27

 「かゆいと言うからかゆくなる」ということについて考えてみよう。

かゆいと言うことによって、実際にかゆくなる場合と、かゆいと言うとによって、物理的なかゆくなる出来事が起こってかゆくなる場合がある。

もちろん、言霊主義者が考えていることを考えると、そういうことを考えているのではないかということだ。

実際には、自己暗示が猛烈に強い人でなければ「かゆい」と言ったって、かゆくならないのである。実際にはかゆくないのに、突然、「腕がかゆくなる」と言って、腕にかゆさを感じるというのは、日常的には少ない体験なのである。

言霊主義者だって、かゆくないときに、「腕がかゆくなる」と言ったって、なかなか、腕がかゆくならないのである。

言ってみれば、言霊主義者は、普段、「腕がかゆくなる」と言って、「腕がかゆくなること」に失敗している。本当は、かゆくならないのである。

しかし、人がこまっていれば「かゆいと言うからかゆくなる」と言ってしまう。幼児的な万能感が、その手発言に影響を与えているのである。

しかし、言霊主義者自身が、日常生活の中で、かゆくないときに「かゆい」と言っても、なかなか、かゆくならないのである。しかも、そのことに、気がつかないのである。

「元気だ」と言ったら、「元気になったような気がした」ということは、記憶に残るけど、「かゆくなる」と言っても、「かゆくならなかった」ということは、記憶に残りにくいのだ。

「雨が降る」と言ったら、「雨が降った」ということは、記憶に残りやすいけど、雨が降ると言っても、雨が降らなかったことは、記憶に残りにくいのだ。言霊主義者には、「言ったことが現実化する」という考えたが強く成り立っているので、その考え方に沿った記憶は、残りやすいのである。

ところで、今回言いたいことは、いったんは物理法則にしたがったことを経由して、言霊が働くと、言霊主義者が思っているケースについてなのである。

たとえば、「腕がかゆくなる」と言ったら、蚊がいない部屋に、急に、蚊が出現して、蚊が、腕を刺して、かゆくなったというケースだ。これも、実際には、蚊が入り込んでくる隙間がない部屋であって、なおかつ、ほんとうに蚊が存在しない場合は、「蚊がいない部屋に、急に、蚊が出現する」なんてことはない。

ないのだけど、言霊主義者は、自分の信じている妄想に沿って、そういうことだってあり得ると思ってしまうのだ。

一度、物理的なことを介在している場合というのは、言ったことにより、現象が、言ってみれば、引き寄せられてそうなるということだ。

言霊の力が、物理的な世界の物理的な力に影響を与えるか、あるいは、言霊の力が、物理的な世界の物理的な力を生み出すと信じているのである。

*     *     * 

「どんなにいやなことがあっても、楽しいと言えば楽しくなる」とか「どんなにつかれていても、元気だと言えば、元気になる」とかということは、自分の体感で完結する話だ。

そして、「自分の腕がかゆくなる」というのも、「体感」で済ませることができる話なのだ。だから、「腕かゆくなる」と言ったら、実際に「腕がかゆくなる」と言霊主義者は信じることができる。

もうひとつ、体感だけではなくて、実際に物理的な出来事が発生するという話がある。言霊の力が、物理的な力をかりて、あらわれるのである。

あるいは、言霊によって、物理的な出来事が発生するのである。

かゆくなる話の場合は、実際にかゆくなるようなことが発生して、かゆくなるということだ。「かゆい」と言うと、言霊の不思議な力によって、実際にかゆくなるような出来事が発生すると(言霊主義者は)考えているのである。

たとえば、蚊に刺されてかゆくなるということが、実際に発生する。けど、蚊に刺されてかゆくなるプロセスというのは、物理的なプロセスなのだ。

だから、言霊の力が、物理的な出来事を発生させていると(言霊主義者は)考えているのだ。この場合、言霊の力は、物理的なプロセスをおびきよせる(引き寄せる)力なのだ。言霊の力は、単なるトリガーであって、一度、引き寄せられると、物理的なプロセスに移行するのである。

体感だけで済む話と、実際に物理的な出来事が物理的な世界で発生する話は、それぞれ、ほんとうは、ちがう話なのである。

ところが、言霊主義者自身が、このふたつの話をごちゃまぜにして、区別なく信じているのである。このふたつは、ぜんぜん、ちがうことなんだよ。

*     *     * 

言霊の力というのは、言霊主義者が信じているように「超・物理的な力」なのだ。物理法則を無視して、働く力なのだ。だから、言っただけで、なんだって、可能になるのである。

言えば、物理法則を無視して、言霊の力が働くと(言霊主義者は)思っているのだ。自覚はないみたいなのだけど、そうなのだ。

言霊主義者自身が、じつは、言霊についてよく理解していないのである。その都度、妄想的な話をしているだけなのである。

言霊的な力と、物理的な力と、どっちが「上(うえ)」かという話だ。どっちがどっちを支配しているのかという話だ。

もちろん、第一義的には、言霊主義者の頭のなかでは、言霊の力が物理的な力を支配しているのである。超物理的な力も、言霊によってしょうじさせることができると思っているのだ。

言霊の力というのは、物理法則を無視して働く力なのだ。言霊の力のほうが、物理的な力よりも、上なのだ。言霊主義者は、第一義的には、そう思っている。

しかし、物理的な現象を引き寄せるだけの「言霊の力」は、トリガーの役目しかしていないのである。もちろん、トリガーの役目をしてしまうのだから、そこには、超・物理的な力が働いているということになる。

しかし、呼び出しただけで、あとは、物理世界の中で、物理的な力が働くのである。

つまり、物理的な力に頼っている。

言霊主義者も、物理的なプロセスを認め、物理的な力に頼っているのだ。

その場合は、物理的な力は、言霊の力によって簡単につくりかえることができるよう力ではなくて、言霊の力によっても、簡単にはつくりかえることができない力として(言霊主義者によって)イメージされているのだ。

もともと、言霊思考が妄想的な思考なので、言霊主義者自体は、そんなことは気にしない。気にしていない。

ともかく、物理的な出来事を「招来」するだけの「のろい」のような力として言霊の力を(言霊主義者が)イメージしている場合と、自己暗示のように、直接、自分の身体や精神に影響を与える力として言霊の力を(言霊主義者が)イメージしている場合がある。

「のろいのような力」としてイメージしている場合は、引き寄せやジンクスと関係がある。

そして、「直接自分の身体や精神に影響を与える力」としてイメージしている場合は、アファメーションと関係がある。これは、言葉による自己暗示であって、言霊の力ではないのだけど、言霊主義者は、言葉による自己暗示を、言霊の力だと勘違いしてしまっている。

自分の気分で言い切れるほうは、体感感覚に基づくものであり、本人が自己申告できるものなのである。「元気だ元気だ」と言ったあと、特に元気になったような感じがしないとしても、自分は言霊を信じているので「元気になった」と言ったほうがいいかと思って「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という場合だってある。

「事実、 元気だ元気だと言ったら、元気になった」と言霊主義者が言う場合もあるけど、言霊主義者だって、身体的につかれる理由があって、ほんとうにつかれていたら、「元気だ元気だ」と言っても元気にならない場合もある。ところが、それは、言霊理論とはちがう結果なので、「雨が降ると言ったのに雨が降らなかった」場合のように、無視されてしまうのである。

言霊主義者だって、「これは、眠らないとだめだ」と思うときがあるのである。「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないときがあるのである。何度も言うけど、そういうことは、言霊というものを信じている文脈では、語られることがないのである。

*     *     *

言霊主義者は、人には「かゆいというからかゆくなる」「かゆくないと言えば、かゆくない」ということを言うけど、実際に、蚊に刺されて、かゆくなれば「蚊に刺されたからかゆくなった」と思うのである。蚊に刺されたあと、蚊に刺されたところがかゆくなるというのは、完全に物理的な現象なのである。

そして、それを知覚し認識する自我(脳みそ)がある。それは、身体に依存していることなのである。「言霊」なんてまったく関係がないことだ。「言霊」なんて出る幕がない。

言霊主義者だって、「蚊に刺されたから、蚊に刺されたところがかゆくなった」と思うのである。蚊に刺される前に、「かゆくなる」と、言ったから、言霊の力によって、かゆくなったわけではないのだ。

言霊主義者だって、普段は、かゆくないのに、突然「かゆくなる」と言いたくなったから、「かゆくなる」と言ったら、言霊の力によって、実際にかゆくなったとは、思っていないのだ。

しかし、「思っていない」ということが、意識にあがらないのである。

言霊主義者だって「蚊に刺されたら、かゆくなる」と思っていて、言霊的な思考をしていないのだ。「蚊に刺されたら、蚊に刺されたところがかゆくなってあたりまえだ」と(言霊主義者ですら)思っているのである。

何度も言うけど、言霊主義者本人が「あたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊なんて関係なしに、思考をしているのである。 

2026年1月1日木曜日

● 「それでも、つかれたと言うと、つかれたような気がする」■言霊※2026/01/01 22:26

 

 「それでも、つかれたと言うと、つかれたような気がする」と思う人もいるだろう。しかし、これは、実際につかれたときに、「つかれた」と言った記憶があるから、そういうふうに感じるだけなのだ。実際に、つかれていないときに「つかれた」と言うだけで、ほんとうにつかれた状態になるのかというと、そうではない。「つかれたような気がする」だけなのである。

言霊主義者だって、階段から落ちていたいと言ったときは、「いたい」と言ったから、なんの理由もないのに、「いたくなった」とは思わないのだ。階段から落ちるまえに、落ちそうではないのに、急に「おちる」と言いたくなって、「おちる」と言ったから、言霊の力によって「おちたのだ」とは思わないのだ。自分が階段から落ちて、いたいと言ったときは、ちゃんと、階段から落ちるという出来事が発生して、その出来事の最中に、階段を構成する物質と自分の体が接触していたみを感じたということを理解しているのである。あるいは、階段から落ちて、床を構成する物質と自分の体が接触して痛みを感じたということを理解しているのである。この場合のいたみは、言霊の力によってしょうじたいたみではなくて、物理的な接触によってしょうじたいたみなのだ。そして、物理的な接触が発生したあとに、体が痛みを感じる構造をもっているので、接触を感知して、痛みを感じたのである。だから、順番としては、落ちている最中や落ちたあとにいたみを感じているのである。そして、自分のことだと、言霊主義者でも、順番を間違うことはないのである。これは、言霊主義者が、普段、物理的なことに関しては、言霊をまったく無視して暮らしているということの証拠なのである。自分の意識が集中する「夢」や「希望」に関しては、「言えば言ったことが現実化するから、言おう」と思っているだけなのである。そして、他人のことに関しては、自分が経験したことではないので、勝手に順番を入れ替えて、言霊理論に従って思考をしているだけなのである。

腕をどこかにぶつけると、腕がいたくなる。神経伝達の速さに依存するので、「接触」がある程度の時間の幅をもつことになると、「さいちゅう」という表現があてはまってしまう場合があるのだけど、「接触」がしょうじている時間の長さと、神経伝達の速さを無視するなら、腕をどこかにぶつけたあと、腕にいたみを感じたのである。いたいと言うまえに、いたくなるような出来事が発生しているのである。まったく、腕にいたみを感じていないときに、突然「腕がいたい」と言って、そのあと、腕をどこかにぶつけるという物理的な現象が「言霊の力によって」発生して、その結果、いたみを感じたわけではないのである。

自分のことなら、腕をぶつけたあと「いたい」と言う……ということに、疑問をもたないのである。自分の経験だから、「いたい」と言ったから「いたくなった」とは思わないのだ。ちゃんと、どこかものに、腕をぶつけたので、腕がいたくなったと思うのだ。この場合は、出来事の順番に関する認識が正常なのである。自分のことだから、出来事の順番に関する認識が正常なのだけど、ひとごとだと、自分の身の上にしょうじたことではないので、出来事の順番に関する認識があいまいになり、言霊主義的な考えをもっていると、言霊主義的な考えに引きずらて、「いたいと言うからいたくなる」と他人に言ってしまうだけなのだ。言霊主義者本人が、自分のことに関しては、言霊主義的な理解をしないということに、言霊主義者本人が、気がついていないだけなのだ。言霊主義者は、いつも自分が言霊主義に合致した現実認識をもっていると、認識しているけど、じつは、言霊主義者は、言霊主義に合致した現実認識をもっていない場合のほうが多い。いつもではないのである。ちゃんと、具体的な出来事が、自分の身の上にしょうじて、自分が体験したことに関しては、言霊主義に合致した現実認識をもっていないのである。

*     *     *

「つかれた」と言うと、催眠術にかかったように「つかれ」を感じる場合は、すでに、「つかれた」という言葉と、現実的な経験の連合を経験したあとなのである。何回もそういうことがあったので、「つかれた」という言葉と「つかれた」感覚の間に「連合」ができあがっただけなのだ。だから、これは、言霊の力の証明にはならない。むしろ、言葉の力でそうなっているだけだ。言霊の力も、言葉の力もおなじだと、言霊主義者は主張するかもしれないけど、ぜんぜん、ちがう。

*     *     *

身体的な病気で、いたさを感じない人は、階段から落ちてもいたさ感じないし、腕をどこかにぶつけても、いたさを感じない。いたさを感じない人が「いたい」と言っても、言霊の力によって、いたさがしょうじるかというと、しょうじないのである。身体が痛みを感じるしくみをもっているから、いたさを感じるのである。

 身体的な病気で、いたさを感じない人も、「いたい」と言えば、「いたい」という言葉に宿っている言霊の力によって、いたさを感じるはずなのである。「いたいと言うからいたくなる」というのは、そういう意味なのである。「いたい」と言うと、身体的な病気で、いたさを感じない人も、言霊の力によって、いたさを感じるような感覚器と神経が発生して、いたさを感じるようになるのだ。「言ったことが、言霊の力によって、現実化する」のだから……そうならなければならない。

じゃあ、たとえば、「身体的な病気で、いたさを感じない人も、いたいと言うといたさを感じるような感覚器と神経が発生して、いたさを感じるようになる」と言うと、言霊の力によって、いたさを感じるような感覚器と神経が発生して、いたさを感じるようになるのかということを考えてほしい。

言霊主義者が言っていることは、現実的ではないのである。言霊主義者が言っていることは、でたらめなのである。けど、このでたらめが、絶対に正しいと思い込んでいる人たちがいる。言霊主義者だ。けど、自分が一倍速で経験したことに関しては、言霊主義者といえども、言霊的な思考をしない傾向が、きわめて強いのである。普段の物理的な出来事に関しては、言霊主義者と言えども、まったく言霊的な思考をしていないのである。言霊主義者も物理的な思考をして、それであたりまえだと思っているのである。自分の身にしょうじたことに関しては、そうなる。 

● 「無理だと言うから無理なんだ」■言霊※2026/01/01 20:54

 「無理だと言うから無理なんだ」という言い方について考えてみよう。これを口に出す人は、ほんとうにそういうふうに思っているのだ。しかし、これも、間違った理由を自分で考えだして、相手の条件を無視したことを言っているということになる。「無理だということ」自体が、無理な理由ではないのである。相手は、この条件下では「それは無理だ」といっているのだ。けど、条件を無視してしまう。相手の条件を無視して、間違った理由を考えだしてしまうひとが多い。別バージョンとしては「ダメだと言うから、ダメなんだ」というものもある。言うから、ダメになっているわけではないのである。手短に言うと、「ダメだ」と言ったから、言霊の力によって、ダメになるわけではないのだ。ところが、妄想的な人は「言霊の力」というものがあるという前提でものを考えるので、つねに間違ったことを言うことになる。条件がみんな同じなら、このことは、そんなには問題を引き起こさない。ところが、人によって、条件がちがうのである。天と地ほどちがうのである。条件には、さまざまなものがあり、他人から見て見えない条件を抱えている人もいる。けど、人が他人を見るとき、見えない条件は、見えないので、当然無視してしまうのである。そうなると、人から見えないけど、ものすごく悪い条件を抱えている人が、不憫な思いをすることになるのである。どうしてかというと、「無理だと言うから無理なんだ」と言ってくる人がたくさん(この世には)存在するからだ。こいつらは、特になんの考えもなく、ただ単に、言霊感覚でものを言ってしまう。当然、他人が抱えている見えない条件なんて考えるわけがない。言う「から」ダメなんだという考え方は、できると言えばできると同様に、幼稚な考え方なのである。そして、条件が悪い人のことを傷つける考え方なのである。そうなっている理由について「間違った考え」もっているのである。誰かが、事実そうなっている理由について、その人は(言霊主義者)は、間違った考えをもっている。これ自体か、 「無理だと言うから無理なんだ」と言われた人にとって、不愉快なことなのだ。ところが、 「無理だと言うから無理なんだ」と言う言霊主義者が、「人がいやがることはやめましょう」ということを、他人に普段言っていたって、 「無理だと言うから無理なんだ」という発言が、条件が悪い人にとって不愉快なことだから、 「無理だと言うから無理なんだ」と言うべきではないという意見に賛成するかというと賛成しないのだ。だいたい、精神世界の人は、言霊を信じているのだけど、「言ったことが現実化する」なら、ダメ出しなんてしてないで、相手の問題を「言霊だけで」解決することができるはずなのだ。ところが、言霊を使って、相手の問題を解決してやるなんてことはしない。これは、できないからしないのだ。「人に親切にするということが大切だ」と熱弁している精神世界の人だって、言霊で相手の問題を解決してやったりしない。言い訳としては、「それは、個人の学びを妨害することになるからやらないだけだ」ということを言うと思うけど、ちがう。「言ったことが、言霊の力によって現実化する」なら、相手の悪い条件を改善してあげることだってできるのだ。ところが、できないから、「それは、個人の学びを妨害することになるからやらないだけだ」と言って、ごましているだけだ。嘘が多い。精神世界の人には、嘘が多い。そして、精神世界の人は、他人の問題について「間違った決めつけ」を頻繁にしてしまう。

ここでずっと述べていることなのだけど、精神世界の人は、出来事の順番について間違った理解をしているのである。相手が、言う前に、相手にとってこまったことが発生しているのである。実際にこまったことが発生したから、発生したあとに「こまった」と言うのである。「こまった」と言ったから、「こまった」と言った後に、こまったことが発生したのではないのである。相手はすでに、「できない」状態になっているので「できない」と言っているのだ。「できない」と言ったから、そのあとに、「できなくなった」のではない。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。