2026年7月1日水曜日

●「これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになる」■社会※2026/06/30 7:02

まえにも書いたけど、多くの言霊主義者は、「ネガティブがうつる」などと言う。

多くの言霊主義者は、「ネガティブな人といるとネガティブがうつる」と言ったり「ネガティブな言葉を聴くと、ネガティブな気持ちになる」と言ったりする。

多くの言霊主義者は、「ネガティブなことを言う人は、さけるようにすればいい」と言う。多くの言霊主義者は、「鬱病的な人といると、鬱になる」と言う。

言霊はどうした?

「これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになる」と言えば、それで、問題解決だ。

「どれだけネガティブな人一緒にいても、自分は、ネガティブにならない」と言えば、それで問題解決だ。

万能感があるのに、こういう現実的なことになると、途端に、言霊の力を信じないようになるのである。

しかも、そのことに、気がつかない。

たとえば、『これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになると言ったって、言った通りになるわけがない』と言霊主義者は、心底、思っているのである。

だから、「これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになる」と言ったりしない。

それで現実的な問題を解決できると思っていないから、現実的な問題を解決しようとするときは、「言霊を使って問題を解決しよう」という気持ちがない。

「言霊を使って問題を解決しよう」という発想すらない。「自分がネガティブな気持ちになるのが、いやだから、ネガティブな人をさけよう」という現実的な解決策を選択する。

「言霊で解決をする」ということは、選択肢にすら入ってこない。

これが現実だ。

憂鬱な人といると、(こっちまで)憂鬱な気分になる(ことが多い)ということは、言霊では解決できないことなのだ。

そのくせ、「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」などと言う人もいる。

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たとえば、「楽しい楽しいと言えば、楽しくになる」のだろ。

それなら、ネガティブな人と会ったときも、「楽しい楽しい」と言えば、それで問題が解決できる。

「ネガティブなことが起こっても、ポジティブに書き換えることができる」と言っている人は「あの人の発言を聴けて、ほんとうに楽しかった」と自分の受け止め方を書き換えればいいのである。

あと、「うつ病はあまえ」なら、もちろん、「憂鬱な人といると、憂鬱な気分になるのは、あまえ」だ。

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たとえば、すべては自己責任だと思っている人は、当然、「ネガティブな人の話を聞いて、ネガティブな気分になったときも、自己責任だと思っているんだろうな。まさか、「ネガティブな人のせいで、自分がネガティブな気持ちになったのは、ネガティブな人のせいだ」とは思っていないのだろうな。

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たとんば、「人のせいにしない」とほかの人に言っている人は、 「ネガティブな人の話を聞いて、ネガティブな気分になった」ときも、ネガティブな人のせいにしないのだろうな。そりゃ、人のせいにしない人なのだから、もちろん、自分がネガティブな気分になったのは、そのネガティブな人のせいではないと、思っているのだろう。

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ネガティブな人の話を聞くとネガティブな気分なると思っているからダメなんだ。ネガティブな気分になるということに、こだわっているから、だめなんだ。ネガティブな気分になるとこだわっているから、ネガティブな気分になる。

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そんなの、関係、ない。ネガティブな話を聞いたということと、自分がネガティブな気持ちになったということは、関係がない。関係、なーーい。そんなのは、関係がない。

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「ネガティブな話を聞くと、ネガティブな気持ちになる」と……気にするからダメなんだ。気にしなければ、ネガティブな気持ちにならない。気にしなければいいんだ。気にしてしまうのは、自己責任。

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ちょっと、ネガティブな話を聞かされただけで、不愉快な気持ちになり、現実的な手段で解決しようとする。言霊的な手段は、頭に浮かばないのである。

こんなの、ない。

「ネガティブな話を聞かされたら、不愉快な気持ちになるのはあたりまえだ」ということになっている。だから、交わりをたって、自分の気持ちを守ろうとする。

それは、別にいい。

それならそれで、「(どんなことがあっても)楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「(どんなことがあっても)うれしいうれしいと言えばうれしくなる」など言わなければいい。「受け止め方をかえればいいんだ」と言わなければいい。「すべては自己責任だ」と言わなければいい。「ひとのせいにしない」と言わなければいい。 

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ネガティブな人の話を聞いたら、「この人は、幸福になる」と言えばいいでしょ。言えば、その人は幸福になるんだよ。「ネガティブな話を聞いたから、自分もネガティブな気持ちになった」なんて、考える必要もないことなんだよ。

政治について、愚痴を聞かされたと思ったら、「この人が言ったことがすぐに現実化する」と言えばいいんだよ。どうして「愚痴を聞かされた」とネガティブにとらえるかな? 「べき論をふりまわすべきではない」と言う。

「政治についてどれだけ理想論を語ったって無駄だ」と考えているのだ。

いやーー。政治についてだって、「言えば言ったことが現実化する」はずだ。

どうして、「政治だけ言ったことが現実化しないことがある」と思うのだ。

「政治については、言っても現実化しないことがある」というよりも、「政治については、言っても、絶対に現実化しない」と思っているようなのだ。

普段、「言えば言ったことが現実化する」と言っているやつがこの調子だ。

ほかの人には、「自分は言霊をうまく使える」という前提で、「あなたの言い方が悪いから、現実化しないのだ」と言ってるやつが、この調子だ。

自分が自分でなにを言っているのか、まるでわかっていないのだよ。 

2026年6月30日火曜日

●最初の感じ方のほうが、「地」の感じ方なのである■社会※2026/06/30 6:52

『タンスのカドに足をぶつけたとき、頭をぶつけなくてよかった』と思ったり、『道路でころんだとき、ころんだだけで、事故にあわないでよかった』と思ったりすることが奨励されている。

何事もポジティブに考える人の例としてあげられることが多い。

しかし、そういう場合は、そういうシチュエーションが選ばれている。

「なになによりも、ましだから、よかった」というようなポジティブ・シンキングは、使われる場所が限られているのである。

こういう例は限られている。

そして、こういう人がいるという場合も、「こういう人」……いつもポジティブに感じることができる人は実際の場面では、普通に感情がしょうじて、普通に対応していることが多い。ネガティブな感情が発生しやすい場面では、普通に、ネガティブな感情が発生している。

ようするに、いつもポジティブに(変換して)考える人がいるという確信も、確信をもっている人が「ぬけぬけ」だから、いつもポジティブに(変換して)考える人が実際にいると感じているだけなのである。

そのポジティブな人というのも、普通のことに関しては、普通に反応している。

ぬけぬけだから気がつかないだけ。

ぬけぬけだから、『自分はいつもポジティブに反応している』と思っているだけだ。ぬけぬけだから、『いつもポジティブに反応している人がいる』と思っているだけだ。

ともかく、ポジティブに変換すればいいのだと言われる場面は限られている。

そして、いつもポジティブに変換できる(と言われている)人も、いつもは、ポジティブに変換していない。

考え方を書き換えるまえの……つまりポジティブに変換するまえの感じ方があるのだから、特に、注意が向けられないことに関しては、ポジティブに変換するまえの感じ方で感じている。

元の感じ方があるということ自体が、元の感じ方で感じるということを意味している。ようするに、元の心理的な反応を引き起こす、脳みその体系(シナプスの連合)が成り立っている。

最初の感じ方のほうが、「地」の感じ方なのである。

もし、地の感じ方がまったくない場合は、精神異常者になっている。地の感じ方が弱くなっただけで、躁状態になり、躁病になる。

「ポジティブに受け止めなおせばいい」という考え方は……おさえているところは、おさえて、不愉快に感じるところを、好意的に感じるようにすればいいという考え方なのだけど、おさえているところがおさえられなくなったら、病的な状態になってしまうのである。

おさえているところというのは、もともとの感じ方を生み出す部分なのである。このもともとの感じ方を生み出す部分が消失してしまったら、問題行動のオンパレードになる。

好ましい状態ではなくなる。

ようするに、選んで言っているだけだ。

ポジティブに書き換えられそうな場面が選ばれている。

「いつも」ポジティブに考えている人が、「いつも」ポジティブに考えているというのは、幻想だ。

この「いつも」というのは、ほんとうは、「いつも」ではなくて、そうできる選ばれた場面でポジティブに考えているということを意味しているだけだ。

●一〇円玉が落ちたときは、落ちてあたりまえだと思っている■言霊※2026/06/30 2:45

一〇円玉が落ちたときは、落ちてあたりまえだと思っている。

「すべてのものは、天に向かって運動する」と言ったあと、すべてのものが、天に向かって運動しないということに、言霊主義者は気がつかない。

「一〇円玉は、下に落ちるのではなくて、上にあがる」と言えば、一〇円玉は、下に落ちるのではなくて、上にあがるようになるのである。言霊理論が正しければそうなる。

ところが、言霊理論は正しくないので、どれだけ、言っても一〇円玉が、上にあがるようにならないのである。

言い方がうまければ、一〇円玉が、上にあがるようになるわけではない。

いい加減、認めたらどうなんだ。

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「物理法則にしたがう限り、言えば言ったことが、現実化する」と言っているわけではないのだ。物理法則に従わないことも、言えば、言ったことが現実化するのだ。

「すべてのものが、天に向かって運動する」と言えば、言っただけで、すべてのものが天に向かって運動するようになる。

その場合、万有引力の法則なんてものは、書き換えられてしまうのである。

だれかが、「すべてのものは、支えがなければ、地面の方向に運動する」と言うと、また、地面の方向に運動するようになる。

そのときは、また、万有引力の法則が働きだすのである。

だれかのひとことで、物理法則が書き換わってしまう。

言霊理論が正しいなら、そうなる。

●『言葉で、正しいと思っていること』と『現実世界における自分の反応』がちがう■社会※2026/06/29 23:37

『自分にとって不都合な結果』に書いたことも、『ぬけぬけ感覚』のひとつだ。

本人が、気がつかないのだから、ぬけている感じはしないだろう。

だから、「ぬけぬけだ」と言われると、おこる確率が非常に高い。

「ぬけぬけだ」と言ってきた相手に対する嫌悪感もしょうじるだろう。人間として、当然の感覚だ。

その場合、言霊でどうにかしようとしないのだ。

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と普段、豪語していても、「楽しい楽しい」と言ったりしない。まあ、言っても、ものすごく高い確率で楽しくならないだろう。推測でしかないけどね。

「言霊理論」に従えば、「ぬけぬけだと言われて、うれしい」と言えば、うれしくなるのだ。はたして、うれしくなるのかどうか、わからない。

自分がぬけぬけだと言われて腹が立った場合は、「うれしい」と言って、うれしくなるようなことをしない確率が高い。

たいていの場合、言霊主義者を含めて、普通の人は、腹が立つことを言われたあと「うれしい」と言って、うれしくなるようなことをしない。

そういう行為だと想定されている行為をしても、たいていの場合、うれしくならない。

そして、たとえば、人には「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人も、「受け止め方をかえればいいのだ」と思わない。

「ぬけぬけだと言われて腹が立ったというのは、受け止め方の問題だから、ぬけぬけだと言われて、うれしいと思えばいい」とは思わない……確率が非常に高い。

そして、「ぬけぬけだと言われて、うれしいと思えばいい」と思ったあと、ほんとうに、うれしいと思えるかどうかだ。「受け止め方をかえればいい」と人には言うけど、自分の受け止め方は、なかなか、かえられない確率が高い。

「ぬけぬけだ」と言われて、腹が立ったあと……「これは、うれしいことなんだ」と受け止め方をかえられる人は、めったにいないと思う。

そういう感情がわくのがあたりまえだと思うことに関しては、「受け止め方を」かえようとはしないのである。

たとえ、相手のことを憎く思っても、受け止め方をかえようとしないのである。

たとえば、自分に対して「ぬけぬけだぞ」と言ってきた相手に対する嫌悪感がしょうじたとする。

その場合……『自分のなかに、人に対する嫌悪感がしょうじることは、よくないことだ』と考えて、人に対する嫌悪感を、人に対する好感に、書き換えることによって、人に対する嫌悪感を消滅させようともしないのである。

ようするに、嫌悪感を感じたけど、嫌悪感を感じたという受け止め方をかえて、好感を持ったという受け止め方にかえようとしないのである。

しかし、「すべては受け止め方の問題だ」「これは、正しい」と思ったままなのである。

「人はかわらないから、自分をかえればいい」と思ったままなのである。

『タンスのカドに足をぶつけたとき、頭をぶつけずによかったと思って、出来事の解釈を書き換えるように、「ぬけぬけだ」と言われたときは、悪口を言われたと思わないで、自分では気がつくことができなかった……とてもためになることを教わったと書き換えればいいのだ』とは思わないのだ。

「ぬけぬけだ」と言われて、嫌悪感がしょうじたら、嫌悪感に従った行動をするのである。「ぬけぬけだ」と言われて、嫌悪感がしょうじたら、嫌悪感に従った反応をかえすのである。

『ああっ。自分が気がつかないことを教えてくれたのでありがたい』とは思わない確率が非常に高い。

『言葉で、正しいと思っていること』と『現実世界における自分の反応』がちがうのである。

しかも、『言葉で正しいと思っていること』は、いつまでも自分のなかでは、正しいことなのである。現実の場面で、その言葉通りではない反応を自分がしているのに、それに気がつかない。

2026年6月28日日曜日

●自分にとって不都合な結果■言霊※2026/06/28 23:09

自分の身に起こったことですら、自分にとって不都合なことは、無視してしまうし、無視したことに気がつかないのだから、他人の身の上に起こったことなんて、わかるわけがない。

『わかった』と思っても、理解の度合いが低いのである。

だから、きちがい家族にやられると、言霊主義者になめられたことを言われるようになる。

言霊主義者の理解度が低いのである。

ヘビメタ騒音がどれだけの影響を与えるのか、言霊主義者はまったく理解していない。

「うるさっかたんだろ」「そんくらいわかっている」と言って、「言えば言ったことが現実化するから、元気だ元気だと言えば元気になる」とか「言えば言ったことが現実化するから、できると言えばできる」とかということを言う。

いやーーー。まったくわかっていない。どれだけの影響が出るかまったくわかっていない。

自分にとって不都合な結果は、無視する。そして、無視したということを認識しない。

こういう態度だ。

出来事に対して、誠実とは言えない。

たとえ、自分にとって不都合な結果でも、結果として受け入れて、「言ったことが現実化しなかった」ということは、考えなきゃいけない。

●言霊主義者は「言霊理論は正しい」と思ったままなのだ■言霊※2026/06/28 21:04

「明日は、雨が降る」と言って、次の日に雨が降ったとしよう。

その場合、言霊主義者は「言霊(理論)は正しい」「言ったことが、現実化する」と思うわけだ。けど、「明日は、雨が降る」と言って、次の日は、晴れたとしよう。

ようするに、雨が降らなかったとしよう。その場合は、「言霊(理論)は間違っている。言ったことは、現実化しない」と思うかというと、たいていの場合、思わない。

「たいていの場合」と書いたけど、「言霊(理論)は間違っている。言ったことは、現実化しない」と思った時点で、言霊主義者ではなくなるので、言霊主義者はほぼ一〇〇%の人が、「言霊(理論)は間違っている。言ったことは、現実化しない」と思わないのである。

かたよりがある。

ちなみに、どちらの一般化も間違っている。

実際には、「明日は雨が降る」と言ったあとに、雨が降ることもあるし、雨が降らないこともあるということになる。

言ったあと、かならず、言った内容を否定することが起こるわけではない。

言ったから、そうなるという考え方が間違っている。言ったあと、言霊の力とは関係なく、言った通りになる場合があるし、言った通りにならない場合もあるということだ。

言霊は、関係がないのである。

だから、「言霊(理論)は間違っている」ということだけは、正しいということになる。「言ったことは、現実化しない」という文の意味内容は間違っている。

言ったあと、言霊の力とは関係なく、現実化?することはある。まあ、現実化といういいかたが、いやらしいけどね。それだといかにも、言霊の力で「現実化した」というニュアンスが出てしまう。

ただ単に「言った通りになる」「言った通りにならない」ということなのに、『現実化』などという表現を使うことで、いかにも、真理のような感じをつくりだしている。

言霊は一切合切関係がないので「言霊(理論)」が「言霊の力によって、言えば言ったことが現実化する」ということなのであれば、「言霊(理論)は間違っている」と言い切ることができる。

ただ、言霊主義者は、「言霊理論」ではなくて「言霊は正しい」とか「言霊は間違っていない」という表現を使うから、ほんとうは、なにを言いたいのかわからないところがある。

さらに、「言霊は絶対だ」という表現は、言っている本人も、なにを言っているのか、わかっていないと思う。問題なのは、上記の例だと、言霊主義者が、「雨が降らなかった場合」のことを、無視してしまうことだ。

言った通りにならなかった場合は、「言霊の力によって、言えば言ったことが現実化する」という理論は間違っていたのだということを、認めないのだ。

かわりに、無視して、考えないことにしてしまう。

しかも、それについて、まったく問題がないと思っているのである。あるいは、それについて、問題があるとは、まったく思っていないのである。

ようするに、上記の例だと「雨が降らなかった場合」も、言霊主義者は「言霊理論は正しい」と思ったままなのだ。こんなのは、おかしい。

けど、そうなのである。

現実は、そうなのである。

●言霊は、こころのなかで、しっかりと信じていればいい■社会※2026/06/28 2:00

 現実の結果というのは、さまざまな条件を反映したものなのだ。人によって、まったく条件がちがう。うまれおちた、家がちがえば、条件はまったくちがったものになる。

ところが、言霊理論では、言霊に注意が向いているので、言霊をどれだけうまく使えるのかということが、重要なことになってしまうのである。

そして、言霊をうまく使えない人は、バカにされるのである。

しかし、言霊はないので、ほんとうは、言霊をうまく使える人なんて、ひとりも、いないのである。かってに、いると思っているだけなのである。

そして、勝手に、人々には、言霊をうまく使う能力に差があると思っているだけなのである。

そして、実際の差は、能力の差を指し示していると勝手に思ってしまうのである。

これが、どれだけおろかなことか。

こうなると、現状肯定になる。羽振りのいい人、社会的な地位が高い人は、自動的に言霊の能力が高い人だということになる。

言霊主義者は、奴隷根性丸出しで、(言霊の能力が高い人に)しっぽを振るようになる。自動的にそうなる。

いっぽう、実際に、不幸な状態で暮らしている人に対しては、傲慢な態度になるのである。自分のほうが優れていると思って、言霊のうまい使い方について説明するようになる。「こうすれば、うまくいく」ということを、善意で、教えるようになる。

ところが、でたらめなのである。でたらめなのだ。言霊なんてないし、現実的な地位が低いということは、別に、言霊の力をうまく使う能力がないということを意味しているわけではないのだ。

ところが、もう、条件反射のように、そういう態度になってしまう。

彼らは、どのみち、相手の条件は無視する。

条件なんて、関係がないのである。

さまざまな条件は、影響を与えないということになっているのである。

たとえ、条件が影響を与えるにしろ、そんなことは、言霊でひっくり返してしまえばよいのである。言霊で、条件を制御することができるという前提でものを言ってしまうのである。

しかし、言霊で条件が制御できるわけではないのだ。

どうしてかというと、言霊なんてないからだ。言霊の力なんてないからだ。人によって、言霊をうまく使う能力に差があるなんてことはないからだ。

実際に、条件が悪いので、その人は、くるしんでいるのである。

あたかも、言霊で条件を、どうにでもかえられるようなことを、言うべきではない。

事実、言霊で条件をかえられないのだから、妄想的なことを押し付けるのはよくないことだ。 

あんまり言いたくはないけど、君たち、幼児的万能感を利用されているよ。あんまり言いたくはないけど、悪事に加担することになる。

言霊は、こころのなかで、しっかりと信じていればいい。

●だから、現実の結果から、人を差別するようになるのである■社会※2026/06/27 20:08

たとえ、成功者がもともと、条件がいいだけの人であったとしても、実際に成功しているから、言霊能力が高い人だということになってしまうのである。

実際の条件が、成功しているとか、成功していないというような結果を導き出した場合でも、言霊パラダイスを通して見ると、言霊能力があるから、成功したのだということになってしまうのである。言霊主義者のなかでそうなってしまうのである。

だから、現実の結果から、人を差別するようになるのである。

自分よりも地位の高い人や社会的に成功している人は、無条件に、言霊的に優れている人になり、自分よりも地位の低い人や社会的に成功していない人は、無条件に言霊的に劣っている人だということになってしまうのである。

引き寄せでもおなじだ。

実際に、成功しているから、引き寄せ能力が高い人だということになってしまうのだ。 実際の条件が、成功しているとか、成功していないというような結果を導き出した場合でも、引き寄せパラダイスを通して見ると、引き寄せ能力があるから、成功したのだということになってしまうのである。引き寄せ主義者のなかでそうなってしまうのである。

だから、現実の結果から、人を差別するようになるのである。

自分よりも地位の高い人や社会的に成功している人は、無条件に、引き寄せ的に優れている人になり、自分よりも地位の低い人や社会的に成功していない人は、無条件に引き寄せ的に劣っている人だということになってしまうのである。

このような態度は、特権階級にとっては都合がいいものだ。

非・特権階級が言霊的な考え方や、引き寄せ的な考え方に染まれば、それだけ、支配が容易になるのである。 

2026年6月27日土曜日

●そういうふうに、世の中が見えるようになる■社会※2026/06/27 19:48

基本的なことを言ってしまえば、できない人に対する高圧的な態度と、自分よりもできる人に対する従属的な態度は、表裏一体だ。

たとえば、言霊パラダイムを受け入れたとする。

そうすると、「言霊能力」が高い人と、低い人にわかれる。言霊パラダイムを受け入れた人のなかで、わかれるのだ。

成功している経営者は、自分よりも、言霊能力がある人だと見なされるのである。

なので、奴隷的な態度が発生する。

成功している経営者は、自分よりも、言霊能力があるので、自分よりも成功しているのである。

そういうふうに、世の中が見えるようになる。

奴隷化の完成である。

●君ら、どうかしているぞ■社会※2026/06/27 18:36

「言えば、言ったことが現実化する」「明るいことを思えば、明るいことが現実化して、暗いことを思えば、暗いことが現実化する」「引き寄せは可能だ」「努力をすれば成功する」「何事にも感謝すれば幸福になる」「人に親切にすれば幸福になる」……こういう言葉が、まじめな人を、ボコボコにぶんなぐる。

これ、どういうことだかわかっているのかな?

言っているほうは、まったくわかっていないのだろうな。

さらに、「言い方が悪いんだ」「思い方が悪いんだ」「努力の方向が間違っているんだ」「努力の量が不足しているんだ」と、ボコボコに、なぐる。なぐってなぐって、なぐりまくる。

さらにさらに、「人せいにしない」「環境のせいにしない」「どれだけ悪い環境でも、成功した人はいる」「こころがけの問題だ」「こころがまえの問題だ」と、さらにさらに、なぐりまくる。もう、リンチだ。

こういうことを、して、いいことをしたと思っているやつら……。立場の悪い人がボコボコにされる。

条件が悪い人が、ボコボコにされる。

こんなのが、いいわけがない。

君ら、どうかしているぞ。 

2026年6月26日金曜日

●強烈な宣伝効果を望むことができる■社会※2026/06/26 20:10

言霊、思霊、引き寄せ、努力論……全部……バイラルマーケティングみたいなところがある。ウィルスのようにひろがるようなところがある。感染症みたいなところがある。

バイラルマーケティングよりも、相当に強力な部分もある。バイラルマーケティングの場合は、ある程度限定的だ。

しかし、言霊、思霊、引き寄せ、努力論……は、バイラルマーケティングよりも、守備範囲がひろいのである。

意図的な宣伝行為ではなくて、意図せず、宣伝してしまうようなところがある。

そして、たとえば、「実際に、言った通りになった」とか「実際に引き寄せることができた」とかと思った人は、信者になってしまう。

これも、強烈なインセンティブをうむ。

善意で、人に教えてあげようとする人もいるだろう。善意なのである。

これは、強烈な宣伝効果になる。おカネのために、自分がいいと思っているのか、いいと思っていないのかわかっていないものを、(人に)すすめるのではなくて、自分がものすごくいいと思っているものを、善意で、すすめるわけだから、インセンティブは強い。

人間には善意があると仮定すると、強烈な宣伝効果を望むことができる。

まあ、実際、多くの人には善意があると思う。

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インセンティブというのは、「報酬」のことだ。モチベーションは、まあ、動機だと思ってもい。

でも、多くの人は善意をもっているとすると、「いいことをした」ということが、おカネではない「報酬」になることがある。

なので、インセンティブという言葉を使っておいた。

●引き寄せ行為自体に、引き寄せる力があると「誤解する力」もあがる■引き寄せ※2026/06/26 19:59

引き寄せの場合も、言霊とおなじように、ヒエラルキーがある。

引き寄せ教祖も引き寄せセミナー講師も、「自分は引き寄せができるけど、相手は引き寄せができないという立場」でものを言うわけだ。

自分は『できる人』で、相手は『できない人』なのだ。

できないから、教わりにくる。できるから、教えてあげる。

こういうヒエラルキーがあるんだよね。

こういう優越感みたいなものは、信じると発生してしまうやっかいなものなのだ。言霊でも、説明したように、じつは誤解をしているだけだ。

誤解をしているだけなのだけど、ともかく、「自分はできる」という自己イメージが発生する。だから、優越感が発生する。

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わりと面倒なことなので、説明しにくいのだけど、ちょっとだけ説明しておく。

たとえば、「いいことが起こると思っていると、いいことが起こる」ということを信じたとする。その場合、「いいこと」というのは、恣意的に決まる。

たとえば、毎日、卵がけご飯を一日に一回は、食べていたとする。ある日、特別に卵ご飯がうまく感じたとしよう。

その場合、「いいことが起こった」ということになる。「いいことが起こると思っていると、いいことが起こる」ということを信じている場合、期待がしょうじるのだ。そして、「いいことが起こると思っていると、いいことが起こる」と思うこと……と……出来事のあいだに関連を見つけやすくなる。

そりゃ、期待しているからそうなる。「いいことが起こる」と思っていることを、とりあえず、期待的行為だとする。思うだけなのだけど、行為としてあつかうことにする。

そして、「いい出来事」のことを期待的出来事だとする。そして、さらに「いい出来事が起こったと認識すること」を期待的認識だとする。

その場合、期待的行為をすれば、期待的出来事が発生しやすくなるというのは、なにを期待的出来事だと認識するかにかかっている。自分が少しでも「いいことだ」と思えば、普段やっていることでも、「いいこと」になる。そして、それは、期待的認識が発生したということを意味する。

自分が「おいしく感じた」なら、「期待的出来事」が発生したということになるのである。普段、何回も食べているものなのだけど、「おいしく感じた」なら、期待的行為をしたから「こそ」期待的出来事がしょうじたと思うことができるのだ。

ここら辺の「関連」について、わりと、恣意的に操作できるのだ。

自分が「いいことが起こった」と思いやすい状態になると、期待的な行為に特別に力がなくても、自分で「いいことが起こった」と思いやすい状態をつくることができる。

たとえば、期待的な行為を、引き寄せ行為だとする。

そうすると、引き寄せ行為をしたのだから、引き寄せられるはずだという期待値が、あがる。

その場合、「なにかいいこと」を引き寄せようとした場合は、「なにかいいこと」だと思いたい気持ちが強くなる。

だから、結果的に、「なにかいいことだ」と思う確率が、あがる。

実際に、確率があがる。

「なにかいいこと」を引き寄せるための引き寄せ行為をしたことによって、「これがいいことなのだ」と思う確率が上がるので、引き寄せ行為自体に、引き寄せる力があると「誤解する力」もあがるのだ。

●こころから納得している人たちを増やしても、世の中は、よくならない■2026/06/25 0:29

どう思うかは、恣意的なのだけど、それでも、条件が悪い人は、実際に「いいことが起こった」と思う確率が、低いのである。

どうしてかというと、条件が悪いので「いいこと」だと感じることが、なかなか、起こらないからだ。これは、言霊ということを考えとると、条件の悪さではなくて、その人の「能力の問題」になる。

その人が「言霊の力をうまく使えない」ということになる。

ようするに、「その人の言い方が悪いから、言った通りにならないのだ」ということになる。さらに、こころがけサブルーチンに入れば、「こころがけが悪いから、言った通りにならないのだ」ということになる。

ようするに、条件を無視してしまっているので、その人の「能力の問題」になるのである。「うまい言い方で言う能力」の問題になる。

そして、「その人の言い方が悪いから、言った通りにならないのだ」と言っているほうは、まるで、相手をディスっている気持ちがないのだ。

気持ちがないだけで、ディスっている。

「こころがけが悪いから、言った通りにならないのだ」と言っているほうは、まるで、相手をディスっている気持ちがないのだ。

気持ちがないだけで、ディスっている。

まあ、ディスっているという表現を使ったけど、悪口を言うということだ。あるいは、誹謗中傷をするということだ。

「いい助言をしてやっている」と思っている。「実際に(相手が)そうだから、言っても、現実化しない」と思っている。

悪口ばっかり言っているのに、そのつもりがない。

自分は、いいことをしていると思っている。自分の助言は適切だと思っている。

こういうことになってしまう。

言霊パラダイムを受け入れて、言霊で、さまざまな事象やさまざまな出来事を説明しようとする、そうなってしまう。

こういう人たちが「人に親切にしましょう」「人の悪口を言わないようにしましょう」と言ったって、意味がない。自分が、こころから納得して「人に親切にしよう」「人の悪口を言わないようにしよう」と思っていたとする。

その場合、自分がほかの人たちを説得して、「人に親切にしよう」「人の悪口を言わないようにしよう」を増やせば、そのぶん、世の中はよくなると確信している人たちがいる。

けど、こころから納得していても、こころから納得している人たちを増やしても、世の中は、よくならないのである。

運用に問題がある。認知・認識に問題がある。

むしろ、社会の構造や人の構造に注目したほうがいい。

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「こころがけが悪いから、言った通りにならないのだ」という発言については、「そんなことは、言っていない」と思う人がいるだろう。「悪い」という言葉を使っていなくても、ようするに、「じゅうぶんでない」ということを言っているのならば、「悪い」と言っているのとおなし効果がある。

AさんとBさんがいたとする。

AさんがBさんに『言霊』でマウントをとったとする。

その場合、Aさんのなかには『自分は、言霊をうまく使える』という自信と、『Bさんは言霊をうまく使えない』という軽蔑(見下し)が存在している。勝手に、自分のほうが上だというヒエラルキーをつくってしまう。

それから、たとえば、「人のせいにしない」という言い方がある。これは、「言い方が悪い」というさぶールチンのなかの、サブルーチンなることがある。

ようするに、メインから見れば、サブ・サブルーチンだ。メインは「言えば言ったことが現実化する」ということだ。

たとえば、Aさんが、Bさんに「人のせいにしない」と言った場合、Aさんは、Bさんのことを、人のせいにする(悪いやつだ)と見なしているということになる。

この「人のせいにしない」という、言い方は、絶妙だ。「人のせいにするな」と直接的な表現で言っているわけではないのだ。

あらゆることに関して「人のせいにしない(ようにしたほうがいい)」ということを、たぶん言っているのだろう。

しかし、これには、相手が……あるいは読者が……「人のせいではないこと」を「人のせいにする」悪い性格の人だという前提が必要なのだ。この、いやらしい表現。

「人のせいにしない」というのは、まあ、こころがけサブルーチンなんだよね。

こころがけサブ・サブルーチンなのか、こころがけサブルーチンなのかは別にして、ともかく、いろいろな言い方のサブルーチンとして、出てくる言い方だ。

悪いけど、相手側をそれとなく、ディスっている。

たとえば、引き寄せができないのは、こころがけが悪いからなのだということを言う場合がある。こころがけが悪いと言わなくても、「こころがけがたりない」と言う場合があるし、「こころがまえができていない」と言う場合がある。

ともかく、相手は、「不足している」のだ。

ともかく、相手は、「じゅうぶんではない」のだ。

言霊でも、引き寄せでも、サブルーチンは大体おなじようなものになる。思霊理論は「思えば、思ったことが現実化する」という理論だ。

変形バージョンとしては「明るいことを思えば明るいことが起こり、暗いことを思えば、暗いことが起こる」というものがある。

どうして、「思ったことが現実化しないのか」ということが問題になる場合がある。

あるいは、「明るいことを思っているのに、どうして、明るいことが起こらないで、暗いことばかりが起こるのか」ということが問題になることがある。 

そのときは、「思い方が悪い」ということになるのだ。

ようするに、「思い方が悪い」というサブルーチンに入ることになる。

そして、「いい思い方」についてレクチャーするようになる。

それでも、うまくいかなかったとしよう。その場合は、「思い方が悪いのはどうしてか」ということが問題になり、こころがけサブルーチンや、こころがまえサブルーチンに話が進むことになる。

こころがけサブルーチンのなかに、「人のせいにしない」というサブルーチンがあるのだ。

相手は人のせいではないことを人のせいにしているという……決めつけ。

そして、そのメンターや教祖だって、ほんとうは、人に責任があると思っている場合は、人のせいにするのである。

だいたい、人のせいではないのに、人のせいにしているではないか。

「思い方が悪い」と人のせいにして、「こころがけが悪い」と人のせいにして、「こころがまえができていない」と人のせいにして「(あなたは)人のせいにするからダメなんだ」と人のせいにする。

そして、よく観察してみてみると、メンターや教祖だって、人がおこりやすいところで、おこっている。普通の人が、おこることが多い場面では、メンターや教祖だって、よくおこっている。

自分自身にとってみれば、そのときにおこるのは、あたりまえなのだ。

それから、思霊なんてないから、メンターや教祖も一〇〇%の確率で、思霊の力を使えない。ただ単に勘違いをしているだけなのだ。勘違い。勘違い。大きな大きな勘違い。

幼児的万能感が強いから『自分は思霊の力を使える』と思っているだけだ。ようするに、ニセの自己効力感が強い人なのだ。

2026年6月25日木曜日

●夜になれば、鳴っていないときとおなじように、ちゃんと眠れると思っているのだ■騒音※2026/06/25 19:56

実際に、一日でも、自分のきらいな音で、経験してみれば、どれだけひどいことか、わかるのに、実際には、一日も、自分のきらいな音で、経験したことがないから、わからない。

きちがい家族が、きちがいモードでやることがわかっていないから、わからない。きちがい兄貴の態度言ったらないよ。あの態度で、やられたことがないから、どれだけ腹が立つことか、普通の人たちは、わからない。

一〇〇一日目には、どういうことになるか、一〇〇一日目にはわかる。けど、一〇〇一日間、ずっと経験したことがないので、どういうことになるかわからない。

そうなると「関係、ない」「影響、ない」と悪気なく、言うことになる。

これ、ほんとうに、『自分なら、影響なく、生きることができる』と思っているのだ。自分なら、どんな音が鳴っていたって、宿題ぐらいできると思っているのだ。

自分なら、どんな音が鳴っていたって、夜になれば、鳴っていないときとおなじように、ちゃんと眠れると思っているのだ。

自分なら、どんな音が鳴っていたって、遅刻をしないでちゃんと、通学できると思っているのだ。

自分なら、そういう生活がどれだけ長く続いても、鳴っていない期間とおなじように、通勤できると思っているのだ。こんなやつ、ばかりだ。

何度も言うけど、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で「ほかの人がやらないこと」を十数年間にわたって、毎日毎日やったために、ぼくが、「ほかの人が経験しないこと」を十数年間にわたって、毎日毎日、経験してしまったのだ。

きちがい兄貴は、親父モードで、きちがい的な意地で鳴らしているだけだから、こっち(弟)に対する影響なんて、まったく、わからない。きちがいモードで無視をして、やりきる。

そして、別にほんとうに、悪いことをしたつもりがないのである。

影響を与えることをしたつもりがまったくないのである。

自分(兄貴)だって、あの音で、(自分が聞きたくない音を)鳴らされたら、一分で発狂するのに、それがまったくわからないのである。ぬけぬけなのである。

●相手は『できない人』で、自分は『できる人』■言霊※2026/06/23 17:59

自分はできるけど、相手はできないという立場でものを言うわけだ。

自分は言霊の力をよく使えるけど、相手は言霊の力をうまく使えないという立場でものを言うわけだ。

ヒエラルキーがある。

このヒエラルキーは、『自分はできる』と言っている側が、勝手に作り出したヒエラルキーだ。

そして、「ぬけぬけ」なのである。

ほんとうは、言霊の力なんて使えないのに、言霊の力を使えると誤解をしているだけなのだ。

全部、誤解なのである。

ただ単に「明日は雨になる」と言って、次の日に雨が降ったから、自分は言霊を使えると思っているだけなのだ。ただ単に「明日は雨になる」と言って、次の日に雨が降ったから、自分は言い方がうまいと思っているだけなのだ。

たまたま、言ったあとに、言った内容が発生したので、自分の言霊によって、そうなったと思っているだけなのだ。

自分はうまく言えるという自信は、単なる勘違いなのである。

もし、文句があるなら……「どこどこに、瞬間移動する」と言って、瞬間移動してみろ。

「わたしは、Aという場所に、一秒以内に瞬間移動する」と言えば、「わたしという人は、Aという場所に、一秒以内に瞬間移動する」のである。

しかし、瞬間移動しない。

わたしという人は、瞬間移動できないということは、無視して暮らしているのである。

言えば言ったことが現実化するのだから、言えば、言ったことが現実化するのである。

ところが、現実化しない。

どれだけ、うまく言っても、現実化しない。

瞬間移動できないのは、言い方が悪いからではない。

「わたし」本人だって、どれだけうまい言い方で言っても、瞬間移動はできないのだ。

しかし、できないということを、意識の「蚊帳の外」においてしまうのである。

だから、できるつもりなのである。

どうしてかというと、自分は言い方がうまいからだ。

「できない」と思っていることは、日常生活において、言霊で解決しようとしないのだ。

どうしてかというと、「言ったって、言った通りにならない」と思っているからだ。

そういう分野が、どんなに頑固な言霊主義者にもある。

ところが、たいていの言霊主義者は、「ぬけぬけ」なので、そもそも、そういうことに気がつかない。こういうレベルの思考なのだ。

明日は雨が降るということを、あてただけで、自分は言霊を使えるということになって、自分の言い方はうまいということになる。

そうすると、問題を抱えている人は、自分よりも下の人間になってしまうのである。

どうしてかというと、言霊のことを知らない人だということになってしまうからだ。だから、自分が「上から」教えてあげるのである。

そして、相手が、言霊を否定した場合には、たいていの場合、言霊主義者はおこるのである。

さらに、相手が、「やってみたけど、できなかった」と(言霊主義者に)言えば、(相手は)(言霊主義者にとって)『できない人』になってしまうのだ。

ほんとうは、自分だって、『できない人』なのに、相手は『できない人』で、自分は『できる人』だと思ってしまう。

そうすると、有頂天になって、どや顔で、「こころをこめて言えばいい」と説教をし始める。

全部、誤解。間違っている。めちゃくちゃ。

誤解というのが、ものすごい、威力をもっているのだ。

『誤解』が人を動かしている。

『誤解』が人の、人に対する判断に影響を与えている。

●「こだわりをすてれば働けるようになる」■社会※2026/05/19 17:08

そういえば……「こだわっているからダメなんだ」と言うやつもいるね。認知症で働けない人がいるとする。

認知症で働けない人は、認知症であるということに「こだわっている」から、働けないわけではない。

ところが、「こだわっているからダメなんだ」と言うやつは、「こだわっているからダメなんだ」と言う。「こだわり」が働けないことの理由だと思っているのだ。

だから、「こだわりをすてれば働けるようになる」と思っているのだ。

原因について、間違った考え方をもっているのである。

もし、 「こだわりをすてれば働けるようになる」のであれば、自分が認知症であるという自覚がない人は、認知症でも働けるということになる。

「こだわっているからダメなんだ」と言う人は、「こだわり」が原因だと勝手に解釈して、決めつけているだけなのである。

認知症ということで、書いたけど、なんとか病の場合だっておなじだ。なんとか障害の場合だって同じだ。ある人がなんとか病で働けない場合は、なんとか病で働けないんだよ。

「なんとか病であることにこだわっているから」働けないわけではない。それを、「なんとか病であることにこだわっているから働けないんだ」と「その人のこだわりのせい」にしてしまうのである。

 できないからできないのに、「こだわっているから」できないのだと、かっに決めつける。なんとか病の症状で、働けなくなったんでしょ。別に、なんとか病であるということにこだわっているから、働けないわけではない。

「腰にいたみを感じているので、腰に負担がかかるような仕事はできない」……とAさんが言ったとする。Bさんが、「こだわり原因主義者」だったとする。

そうすると、Aさんが「腰の痛みにこだわっているからダメなんだ」ということになってしまうのである。

あるいは、「Aさんが腰にこだわっている」からダメなんだということになってしまう。

 Bさんの頭のなかでは、そうなってしまうのである。こだわりをすてれば、働けるようになるのである。だから、「こだわりを、すてればいい」とアドバイスをしてしまう。

Bさんだって、自分のことなら、「腰がいたいから、腰に負担がかかる仕事はさけよう」と思うのだ。自分が一倍速で経験していることに関しては、「原因」について間違った考え方をもちにくいのである。

それは、自分が感じていることだからだ。

ところが、他人のことになると、他人が感じていることは、無視してしまうので、別の原因を考えだしてしまうのである。

そして、別の原因というのが、相当の高確率で「相手の感情」を踏みにじるものなのである。別の原因で、決めつけられたほうは、かなりの高確率で、不愉快な思いをすることになる。

しかし、「こだわり原因主義者」は、他人の立場に立ってものを考えることが不得意なので、別に、まずいことをしたとは思わないのだ。

「こだわり原因主義者」のBさんが、普段「人に親切にしよう」「人がいやがることはやらないようにしよう」と思っていたとしても、実際にやることは、こういうことなのだ。

かなりの高確率で、「こだわりが原因ではない」と言われた「こだわり原因主義者」は、おこるだろう。「なんだとぉ」という気持ちになる確率が高い。

「せっかく、助言してやったのになんだぁ!!」という気持ちになる確率が高い。どうしてかというと、「こだわっているのが原因だ」と考えているからだ。

自分の考え方を否定されると、腹が立つということなのだろう。 

*     *     *

ちなみに、言霊主義者なら「なおる」と言えば、なおるので、「なおる」と言って、頑張って働いてください。

「永遠に働ける」と言えば、永遠に働けるので、頑張って働いてください。

「腰はいたくならない」と言えば、腰はいたくならないので、腰のことなんて気にしないで、頑張って働いてください。

もし、腰がいたくなったとしても、「なおる」と言えば、なるので、「なおる」と言って、頑張って働いてください。

認知症も「なおる」と言っただけで、なおるので、認知症になっても「なおる」と言って、頑張って働いてください。

*     *     *

「腰痛は、あまえ」

「認知症は、あまえ」

「その歳で、働いていないということが、どういうことだか、わっかっっってっっっのかぁぁぁぁ!!!」 

「なにが、腰痛だ!!」

「なにが、認知症だ!!」

*     *     * 

「なにが、ヘビメタ騒音だ!!!」 

*     *     *

「助言してやったのに、なんだぁ!!!!」「こんなこと、言われるとは、思わなかった!!!」

「思わなかったのかよ? エイリから、こういうことを言われると思わなかったのに、どうして、エイリから、こういうことを言われたんだ? 思ったことが、現実化するんだろ。思わなかったことが、現実化したんだぞ。思ったことが現実化して、思わなかったことも現実化するなら、思ったことが現実化すると言う意味がないだろ!!!」 

2026年6月24日水曜日

●恣意的なこと■社会※2026/06/23 18:20

「Xをすると、いいことが起こる」という言葉につい考えてみよう。

実際には、「Xをすると、いいことが起こる場合」がある。実際には「Xをすると、悪いことが起こる場合」がある。

そして、実際には「Xをすると、いいことも起こらず、悪いことも起こらない」場合がある。とりあえず、 「いいことも起こらず、悪いことも起こらない」ということを「非良・非悪」と呼ぶことにする。

Xをすると、いいことが起こるという場合、じつは、Xをしたあといいことが起こるということだ。

実際には、Xという行為は、その後に起こる「いいこと」や「悪いこと」に影響を与えない。与えないのだ。

しかし、行為者が「Xをしたから、いいことが起こった」とか「Xをしたから、悪いことが起こった」と感じてしまう。

ようするに、そのような間違った認識が発生してしまう。

Xを事前にすることは、あとに起こることに、まったく影響を与えないのだから、間違った認識だ。

しかし、この認識が、間違っているということについて、「本人」が認識できないとする。

ようするに、その人が「いいことが起こった」と思った場合は、「いいことが起こった」ということになる。その人が「悪いことが起こった」と思った場合には「悪いことが起こった」ということになる。

無視されがちなのだけど、これは、重要なことだ。

「いいことが起こった」「悪いことが起こった」「いいことも悪いことも起こらなかった」というのは、恣意的な判断なのである。

そして、本人以外、だれも決めることができないのだ。

神様視点で「いいこと」や「悪いこと」を決めることもできない。

だれもが、神様ではないからだ。

たとえば、「掃除をするといいことが起こる」と一般化・法則化した人がいたとする。この場合、100%構文の文なので、「すべての掃除をするということにおいて、掃除をすると、100%の確率でかならずいいことが起こる」という意味になる。

そういう意味にしかならないのだ。

ところが、実際に表現されていることは、自分の場合は「掃除をしたら、いいことが起こった」ということなのである。

言っている人の意味をくみ取れば、「掃除をするといいことが起こる場合がある」ということを言っているのだ。

実際には、掃除をすると、掃除をしたあと、時間的に接近している状態で、いいことが起こる場合もあるし、悪いことが起こる場合もあるし、いいことも悪いことも起こらない場合があるということを意味している。

もちろん、時間的に接近している状態ということの時間的な解釈をひろげるなら、いいことが起こったあとに、悪いことが起こる場合があり、悪いことが起こったあとにいいことが起こる場合もある。

この時間の取り方も、じつは恣意的なものなのだ。

だから、その人が「なにかいいことが起こった」と感じることができることが起こった場合と、その人が「なにか悪いことが起こった」と感じることができることが起こった場合、その人が、「なにかいいことが起こった」とか「なにか悪いことが起こった」と思っただけなのだ。

ようするに、なにかの出来事が起こったとして、それを、いいことだと判断したのは、その人だということだ。

これが、けっこうやっかいなことなのである。

掃除をしたあと、外に出たら、交通事故にあったとする。その人が「掃除をするといいことが起こる」ということを信じている場合、はたして、「掃除をすると悪いことが起こる」と考えることができるかどうかということもじつは、問題なのだ。

ほんとうは、掃除をしたということと、事故にあったということは、関係がないことだ。

しかし、結びつけて考える人は、一般化して法則化してしまう。

これは、間違った法則化なのだけど、本人は、間違った法則化だとは思わない。

だって、本人にとっては、そうなのだから。

かりに、掃除をしたあと、夫からプレゼントをもらったとする。この場合「掃除をするといいことが起こる」と法則化してしまう人がいる。

それなら、おなじように、掃除をしたあと、交通事故にあったら、「掃除をすると悪いことが起こる」と法則化してしまうかというと、そういうこともあるけど、事前に「掃除をするといいことが起こる」と法則化して考えたことがある人は、たぶん、なかなか「掃除をすると悪いことが起こる」と考えないと思う。

一度「よい方向」で一般化・法則化した人は、悪い方向で一般化・法則化しにくいのではないかと思う。

もっとも、なになにをしたあと、悪いことが起こったので、「なになにをすると、悪いことが起こる」と一般化・法則化してしまう人もいるにはいる。いるにはいるのだけど、少ないと思う。

一度、よい方向で一般化・法則化した人は、掃除をしたということが、事故にあったということと関係がないこととして処理される傾向が強いのではないかと思うのである。

掃除をしたあと、事故にあった場合、「掃除をしたから、事故にあった」と思うかどうかなのだ。

「掃除をしたあと、事故にあった」だけなのだけど、それを法則化して考えるかどうかというのは、その人が、無意識的に……しかし……恣意的に決めていることなのだ。

その人の判断でしかない。

人によっては「なになにをすると悪いことが起こる」と法則化して考える場合もあるのだ。個人の体験がものを言う。

しかし、この場合も、本人のなかで法則化しないで、無視するか、本人のなかで法則化してしまうのかということは、恣意的に決まるのである。

それまでの個人の体験と、それまでの個人の判断・考え方で、決まってしまうところがある。これは、個人的な判断なのである。

いっぽう、その最中に、悪いことが起こる場合がある。

たとえば、掃除をしていたら、手をけがしてしまったとする。その場合、「掃除をすると悪いことが起こる」と一般化・法則化してしまう場合がある。

しかし、よい場合も、悪い場合も、一般化・法則化は間違いでしかない。

掃除をしても、手にけがをしない場合もある。

しかし、掃除という行為は、なにもしていない状態よりも、手をけがをする確率は高くなる。

あるいは、掃除をしていたら、むせたということがあったとする。

ほこりを吸い込んでむせたのだ。その場合、ほこりを吸い込んでむせるということは、一般的に?悪いこととして認識されやすい。

なので、ある人が、「掃除をすると、悪いことが起こる」と一般化してもおかしくはない。 

ようするに、恣意的なことなのだけど、一度「本人」のなかで一般化されると、それと反対の一般化をしにくくなるという傾向が(人間には)あるのではないかということだ。

2026年6月23日火曜日

●やられたことがないやつが、「関係がない」「影響はない」と言う■騒音※2026/06/23 21:08

ぼくが、学校から帰ってきたときには、きちがい兄貴が、爆音で鳴らしているのである。

家に近づくのがいやだった。

ぼくが、この世で一番きらいな音が、がたがた鳴っているのがわかるからだ。

家に近づけば近づくほど、音がでかくなるからだ。

そして、ドアを開けると、雪崩のように、きちがい騒音が襲いかかってくる。もう、うちのドアを開けた時点で、ボロボロなんだよ。精神的に、崩壊している。精神的にパニックになっている。

「なんとしても、今日はしずかにせてやる」「殺してもしずかにさせてやる」と決意する。その決意した状態で、きちがい兄貴の部屋に行って、いろいろと言う。

ほんとうに、包丁で刺したかった。ぴとするがあるなら、ピストルで撃ちたかった。

10分間でも、ほんとうに静かにさせようと思ったら、包丁で刺すして、やめさせるしかないのである。そういう状態を、きちがい兄貴が毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、押し付けてきた。押し付けてきた。

もう、こころが破裂している。

家に帰ってきた途端に、こころが爆発している。この世で一番きらいな音が爆音で鳴っている。どうしてもくるしくなる。

これ、やられたことがないやつが、「関係がない」「影響はない」と言う。ほんとうに、ヘビメタ騒音でできないのに、「ヘビメタ騒音でできない」ということを言うと、やられたことがないやつが、「そんなのはあまえだ」「そんなのはいいわけだ」「人のせいにしている」と言う。やられたことがないやつが、「なんだ! そんなのぉ」と言う。

こんなの、ない。 

●だから、それの兄貴バージョンが、騒音なのだ■騒音※2026/06/23 20:58

いま、火曜日の午後八時四五分。火曜日日の午後八時四五分は、きちがいヘビメタがものすごい音で鳴っていた。きちがい兄貴が、やってはいけないことをやっているんだぞ。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、やりきってしまった。

きちがい兄貴は自分耳が悪くなるような爆音で鳴らしているのに、小さな音で鳴らしていると思っているのである。きちがいだから、自分自身をそうやって、だますことができるのである。

きちがい兄貴ですら、「いま住んでいるマンション」では、半分野音だって鳴らすことができないような音で鳴らしているのである。きちがい兄貴が、思う存分、鳴らせたのは、「うち」だからだ。

親父がつくった「うち」だからだ。

親父がずっとそれまでやってきたことを考えると、やって当然なのである。やれて当然なのである。親父がやってきたことというのは、まさにそういうことなのだ。

親父は爆音でヘビメタを鳴らしたいという気持ちがなかった。

だから、やらなかっただけなのだ。しかし、親父が、爆音でヘビメタを鳴らしたいと思ったなら、親父は兄貴とおなじやり方で、鳴らしていただろう。

親父が……「うち」……でずっとやってきたことというのは、自分が押し通したいとなったら、普通なら絶対認識することを認識しないで、押し通してしまうということなのだ。

だから、それの兄貴バージョンが、騒音なのだ。

本人は、小さな音で鳴らしているつもりだから、まったく悪いと思わないのである。感覚器を書き換えて、爆音なのに、小さな音で鳴らしていると思ってしまう。

そして、ヘッドホンをすることには、絶対の意地で、反対するのである。ヘッドホンをつけて鳴らすという方法は、本人のなかにないのである。スピーカーから、なまの音で、聴きたいという気持ちがあり、なまの音は、でかい音でなければならないのだ。

そして、でかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているということを認めない。ただ単に認めないだけではなくて、本気でそう思っている。でかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているという認識が、まったーーーく、まったーーーく、まったーーく、ない。

でかい音で鳴らしているというとは、普通の人なら、わかってしまうことなのである。どれだけ認めたくないことでも、感覚器が正常なら、認めるしかないことなのである。

ところが、きちがいだから、苦もなく、認めないということを、続けてしまう。

ぜんぜん、でかい音で鳴らしていないという認識しかないのだ。爆音で鳴らしているあいだずっと、でかい音で鳴らしていないという認識しかない。俺がどれだけ言っても、でかい音で鳴らしていると言うことが、わからない。

わからないふりをしているのではなくて、ほんとうにわからない。そういう人は、特殊なんだ。だから、特殊な人に、騒音でやられた人は少ない。

なおさら、その特殊な人が、家族である人は少ない。家族なら、ほんとうに、どれだけ、でかい音で鳴らしたいという気持ちがあったとしても、三日で、やめている。

それが、一五年間、兄貴が引っ越すまで続いてしまった。

何度も言うけど、入試一日前に、ものすごくでかい音で何時間も何時間も鳴らし続けても、まったく悪いと思わないんだよ。

どれだけ、言っても、まったく悪いと思わないんだよ。

だから、特殊なの。特殊なんだよ。ほかの人が経験しない騒音を経験したんだよ。

そして、よその人は、「お兄さんに言えばしずかにしてくれる」と思っている。

ところが、しずかにしてくれないのである。

よその人は「家族で相談すればいい。家族で相談すれば問題は解決する」と思っているのである。

ところが、解決しないのである。

●このでたらめな理論は、ニセの自己効力感によって、成立している■言霊※2026/06/23 2:34

何度も言うけど、「祈ってはいけない」とか、「感謝してはいけない」とかということを言っているのではないのだ。

そういうことじゃなくて、他者に対して「うまくいかないのは、あなたのやり方がへたくそだからだ」というようなことを言うことは、よくないと言っているのだ。

こころのなかで、静かに祈ればいいじゃないですか。

あるいは、人に感謝したいなら、その感謝したい人に、「感謝の気持ち」を伝えればいいと思う。

「感謝の気持ちがたりないから、不幸なままなのだ」というようなことを、言うことが、よくないと言っているのだ。

どうして、「感謝の気持ちがたりないから、不幸なままなのだ」と言ってしまうかというと、一〇〇%構文で、もとの言葉が語られるからなのだ。

条件を無視して、どんな場合でも、それが成り立つということを言ってしまっている。

ところが、成り立たない。

あるいは、成り立たない場合がある。

たとえば、「言えば言ったことが現実化する」というのは、一〇〇%構文の文なのだ。これが、「もとの文」だとすると、「不足」に焦点があうことになる。

「言ったことが現実化した場合」言ったことが、言った『あと』に現実化しただけだ。

もちろん、そういうことは、ある。

そうすると、一〇〇%構文で言っているために、「言ったことが現実化しなかった人」は、なんらかの不足があると思われてしまうのだ。

ほんとうは、言霊はない。だから、言霊の力によって現実化したのだと勘違いしているだけなのだ。

言霊は原因ではなくて、ほかのことが原因で……『そのこと』が言霊とは関係なく……発生したのだ。それだけのことなのだ。

ところが、言霊の力によって、「言ったことが」現実化したのだと、勘違いしてしまう人がいる。

じつは、「言ったことが、現実化する」というのは、誤解で成り立っている。

言った『あと』言った内容が現実化した場合、幼児的万能感が強い人は……「言霊はある」「言霊の力によって現実化した」と思い込んでしまう。

しかし、ちがう。

自分のことだと、自分の現実的なことがわかっているので、じつは、条件を考えて、「これは言っても怒りそうもない」ということが、わかっている。

ところが、他人のことだと『他人における現実』は、その人・本人(自分)にはわからないので、条件による制限がぬけてしまうことになる。

そうすると、ほんとうは、他人には、言っても言ったことが現実化しない条件があるから、言ったあと、その言った内容が発生しにくいのに、その人・本人(自分)は、他人の言い方が悪いから、言ったことが現実化しないのだと思ってしまう。

言葉に言霊が宿っていると言うことになっているのだけど、それとは別に、言葉に自分が言霊を宿らせることができるというような感覚があるのだ。

だから、『自分は言霊をうまく使える人間だ』というような自意識が発生するのである。

他人において、言ったのに言ったことが現実化しなかったということは、その他人が言葉にうまく、言霊を吹き込むことができなかったと考えてしまうのだ。

「不足」と「欠乏」に注意が向いてしまう。

他人のの力不足によって、そうならなかったのだと結論してしまう。言ったのに、言ったことが現実化しないのは、言霊がないからではなくて、他人の能力が低いから、現実化しなかったのだと考えてしまう。他人の能力というのは、言霊を言葉に宿らせる力のことなのである。

言霊主義者は、「言えば、すべての言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という意味で「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだけど、実際には、その言葉を発した本人も「言ったのに、言った通りにならなかった」ということを経験している。

しかし、この体験は、たいていの場合、無視されることになる。

無視されない場合は、「どうやったら、もっとうまくやれるのか」ということに注意が向く。その場合、「思いをこめればいい」というようなことを思いつく。

言霊の力は、言葉に宿っていることになっているのだけど、本人が言い方をかえることによって、言霊の量?を増やすことができると思っているのだ。

本人が、うまく言葉に言霊をのせれば、言霊を増強できるというような「間違った」考え方がめばえてしまう。

これは、けっこう、よくあることだ。

まあ、ともかく、本人の場合は、いいんだよ。

しかし、他人のことになると、問題が発生する。

他人の『不足』に、注意が向くようになっているのである。

「うまく、言葉に言霊をのせることができないから、現実化しないのだ」というようなことを、言い出すことが多い。その場合、やはり、他人は「不足している」のである。

他人の技が未熟だから「うまく、言葉に言霊をのせることができない」というようなことを考えるようになる。

ほんとうは、言霊理論は最初からでたらめで、自分の言い方で言霊の力を増強できるという考え方も、でたらめだ。

そして、このでたらめな理論は、ニセの自己効力感によって、成立している。

ようするに、最初から、「夜郎自大な感覚」がある。

2026年6月22日月曜日

●「エイリが話していることはおかしい」■騒音※2026/06/20 6:56

ヘビメタで、全部ない。恋愛も、友情もない。おもしろくない。全部、ない。

みんな本当に、ひとごとだと思って、勝手なことを言いやがって……。

実際に暮らして見ろ。きちがい家族が、きちがい家族の基準で、きちがい的にでかい音を、きちがい的なことだわりで、いつもいつも鳴らしている。勉強なんてできるわけがないだろ。

それから、何時間もあびせられると、普通に眠れなくなる。

それでも、「眠れると言えば眠れる」とか……。「夜更かしは自己責任」とかと言いやがる。どうしても、遅刻するようになる。

毎日、二時間、三時間しか眠れない状態で、起きて学校に行くということがどれだけつらいか、わかっていない。自分が起きているつもりで起きていたわけではないのだ。

ゲームをやりたくて、午前四時まで起きていたわけではない。

ぜんぜん、ちがう。

ヘビメタがなければ、普通に暮らせていた。普通に、眠って、起きることができた。ヘビメタ騒音が原因なんだよ。

けど、遅刻をすれば、「そんなのは関係がない」「お兄さんに言えばいい」「家族で相談すればいい」と言われておしまいだ。

けっきょく、俺がさぼって遅刻をしていると言うことになる。

だから、そういうことがあった日は、俺が、きちがいヘビメタを爆音で鳴らながらエレキギターを爆音で鳴らしているきちがい兄貴に、こういうことでこまったということを、絶叫して言う。どうして、絶叫して言うかというと、きちがい兄貴が、絶叫している声をかき消してしまうような音で鳴らしているからだ。

絶叫して言わないと、言ったことにならないのだ。普通に言ったら、わからないような音で鳴らしているからだ。

カオ君という兄貴の友達と、兄貴の会話を聞いたのは、カオ君が話すときに、まるで聞こえないので、兄貴が、ボリュームをさげたんだよ。

そして、そのとき、ぼくが、ちょっと用事があって一階に行こうと思って、階段を下りていた。うちのつくりは、ちょっと普通のつくりではない。

階段にいるときは、きちがい兄貴がきちがい的な音で鳴らしていなければ、きちがい兄貴の部屋の会話が聞こえるの。

ともかく、きちがい兄貴は、やめてやるつもりがないんだよ。

もし、しずかにするなら、自分が静かにしてやりたいぶんだけ静かにしてやるという態度だったんだよ。そして、自分は、思いっきり鳴らしたいのだから、しずかにしても、思いっきり鳴らしている状態だった。

きちがい兄貴が、最大限、しずかにしてやったつもりの音でも、ヘビメタ難聴になってしまうような音のでかさなんだよ。

きちがい親父とおなじで、融通が利かない。

一切合切の、融通が利かない。

そして、まったくやったつもりがないんだよ。

これが、ほかの人には、わからない。たぶん、ぼくが説明しても、わからないんじゃないかな。

けど、ほかの人よりも、きちがい兄貴自身がわかっていないわけ。

親父に関しても、親父自身が、ほかの人よりも、わかっていないわけ。

俺が嘘を言っていると思っている人の根拠のひとつに、「そんな音で鳴っていたら、家族がやめさせようとする」というのがある。

それがちがうんだよね。

だから、信じない。

こいつらは、「俺がなんとか障害で嘘を言っている」とか、「なんとか症で嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人だ」とかと思うわけだよ。こいつらの悪意がある解釈はひどすぎる。

きちがい兄貴やきちがい親父のことがわかっていないだけなのに、こいつらは……。こいつらは……。近所の人も、文句を言いたかったけど、ほとんど我慢してしまったんだよ。

親父が跳ね返した。そして、でかい幼稚園の横だから、騒音耐性が強い人たちばかりだった。ある程度離れた家屋のなかで、きちがい兄貴の音が、どの程度の音で聞こえていたのかは、知らない。

これ、八メートル離れているだけで、ぜんぜんちがうんだよ。ぼくの部屋と、幼稚園の園舎の距離がだいたい八メートルなんだけど、ぜんぜんちがう。ちなみに、八メートルというのは、ぼくの部屋の、幼稚園側のところと、幼稚園の園舎のぼくの部屋側の距離のことだ。

相当に文句を言いたかったのだろうけど、我慢してしまったところがあるのではないかと思う。基本、幼稚園の側が、どばーーっと、幼稚園の土地なんだよ。そして、東側は、家が建っていなかった。空き地だったんだよ。

そして、道路と庭があった。

俺の部屋は、すぐそこに、スピーカーがあるような状態で……外壁を挟んで、一〇メートル以上の空間があるような状態ではないんだよ。

北側の家に関しては、その家の前の道路が、親父の所有なんだよ。だから、文句を言いにくかったのかもしれない。

ともかく、親父はあんまり文句は言われなかった。兄貴は、自分の部屋に閉じこもって、ガンガン鳴らしている最中なので、よその人が(庭に出た)親父に文句を言ったということも、知らないよ。

親父が「人の息子が鳴らしているのになんだ」と怒鳴って、ボンボンゴミもやしをしたので、会話になっていない。

親父は、兄貴に、こういうことがあったということを言わなかった。言うわけがない。

ぜんぜん、気にしていない。親父が、ほんとうに普通の人じゃないんだよ。

けど、そのとき以外のことでも、近所の人が文句を言いたかったということは確認してある。

あとは、当時を知る人は、わずかな例外のをぞいて、みんな、引っ越してしまった。西側の人のうちはむかしからあって、そこにむかしから住んでいた人は、知っている。

けど、二世帯、三世帯住宅で、当時の状態を知らない人が、新しくやってきて、住んでいるのである。

ともかく、きちがい兄貴は、ほんとうにまったく気にしていなかった。きちがいなんだね。俺のことは、気にしないんだよ。きちがい親父とおなじなんだよ。

でっ、そういうところが、ほかの人にとって「おかしい」と感じる部分なんだよ。

「エイリが話していることはおかしい」と感じる部分なんだよ。

だから、常識的な人は、「そんなことは、あるはずがない」と思って、「エイリが嘘をついている」と思うわけ。

おかあさんは、よその人との交流がなくて、よその人に相談するとか、市役所に相談するということはなかった。おかあさんは、「こまった。こまった」と言って、布団をかぶって寝ていた。

おかあさんの部屋のほうが、ぼくの部屋よりも、しずかなんだよ。

これ、だいぶちがうんだよね。うるさいけどさ。おかあさんの部屋なら、眠れるんだよ。

真横なのか、斜め下なのかで、音の伝わり方が、だいぶ、ちがう。それから、おかあさんは左の耳の感度が普通の人よりも低い。右耳を下にして横になっているときは、多少、音が聴きにくくなる。

ともかく、近所の家のなかで、きちがい兄貴の音が、どの程度の音で聞こえていたのかは、知らないけど、俺の部屋では、兄貴のスピーカーの音が、めちゃくちゃにでかい音で聞こえるんだよ。

近所の人が、けっこう我慢してしまったんだよなぁ。

あとは、親父の関係があるんじゃないかなと思ってる。

*     *     * 

ともかく、全部ない。きちがいヘビメタで、友情も恋愛もなくなった。普通の体力も、普通の睡眠力もなくなった。普通に勉強できる時間も、なくなった。全部、ない。

ヘビメタ騒音で体力がない状態で仕事の面接に行ったらどうなる?

ヘビメタ騒音のことをはっきりと言って、体力に自信がないから、通勤できるかどうかわからないと言ったら、どうなる? 

「元気になってから、きてください」と言われておしまいだろ。

実際そういうことがあった。

そして、たとえば、ヘビメタ騒音で体力がない状態で仕事の面接に行って、ヘビメタ騒音のことを隠した場合はどうなるかというと、受かる場合がある。

けど、ヘビメタ騒音で体力がない状態は、かわらないのだ。

俺が、めちゃくちゃに、くるしむことになる。

けど、そのときですら、うちに帰ったら、きちがいヘビメタが鳴っている状態だった。眠れな状態なのである。

そして、土曜日と日曜日は、一日に一三(じゅうさん)時間以上、鳴っている状態だった。一三(じゅうさん)時間と一五分鳴らせるなら、きちがい的な意地で一三(じゅうさん)時間と一五分、鳴らすのが、きちがい兄貴だ。

毎日、鳴らせる時間は、すべての時間、容赦なく、全力で鳴らしていたのが、きちがい兄貴だ。

これ、五分でも、一分でも静かにさせようとしたら、殺さなければならないのだ。殺さなければ、一分間だけだって、静かにさせることができない。

そりゃ、きちがい兄貴の都合で、きちがいヘビメタ道具のまえを離れるときは別だよ。

けど、その時間は短い。たとえば、風呂に入っている時間は一〇分間、飯を食っている時間も一〇分間だ。合計二〇分間はしずかになるけど、ほかの時間は、全部、鳴っている状態だ。

こんなのが、毎日、繰り返されていいわけがないだろ。

そりゃ、死にたくもなる。そりゃ、めちゃくちゃに、腹が立つ。そりゃ、めちゃくちゃに、むなしい気分になる。そりゃ、めちゃくちゃに憂鬱になる。

俺が、どれだけ我慢して、張り切って、ほかの人と付き合っていたと思っているんだ?

なにが「そんなの関係ない」だ!!!

なにが「鳴り終わったら関係がない」だ!!

なにが「俺だって苦労した」だ!!

なにが「俺だって騒音ぐらいあった」だ!!!!

ふざけるな!!!!! 

2026年6月21日日曜日

●「うまくいかないのは、あなたのやり方が悪いからだ」■社会※2026/06/20 1:37

くるしい人が多ければ多いほど、「儀式に依存する人たち」が増えていく。

たとえば、一〇〇人の社会を考えてみよう。条件が悪くて悪くて、九〇%の人がくるしんでいる社会だ。九〇%の人は、くるしくてくるしくてしかたがないので、なんとか、このくるしさから抜け出したいと思うようになる。

そのとき、条件に関係なく、「これこれをすれば幸福になる」という方法について、述べている人がいたらどう思うだろうか。

なんとかして、教えてほしいと思うだろう。

「Xをすれば幸福になる」「Xをすれば運があがる」「Xをすれば、お金持ちになれる」……。

そう、Xをすればよいのだ。

そして、Xは、だれもができるような簡単なことなのだ。その簡単なことで、自分がくるしさから、解放される。こんないいことはない。……こんないいことはないと思うだろう。

しかし、これが、地獄の入り口なのだ。

実際には条件が悪いから、くるしくなることが発生している。実際には条件が悪いから、つらくてつらくして、しかたがない状態で暮らすことになる。

Xすることは、たいていの場合、悪い条件に影響を与えないのである。あるいは、Xをすること自体が、くるしい状態をつくりだしてしまうことになる。これは、リソースの問題だ。体力というリソース。時間というリソース。

くるしい状態で暮らしている人は、限界状態で暮らしているので、体力も時間もないのである。

Xをすることで、体力か時間が奪われるのであれば、あるいは、その両方が奪われるのであれば、それは、マイナスなのである。そして、条件が悪いから、うまくいかないのに、条件を無視した人たちが、ダメ出しをしてくる。

「うまくいかないのは、あなたのやり方が悪いからだ」と、その人たちは、言い出す。

もう、決まっているんだよ。

Xをすることで、くるしさから逃れることができるというのが、間違いなのである。

Xをすること自体にそんな効果はない。

まあ、努力というのは、短期的に見れば、いい影響を与える場合がある。行動と欲しいものが一致しているからだ。儀式系のことだと、行動と欲しいものが一致していない。

だから、無駄に、行動の決まりが増えていくだけになる。儀式の方法が複雑になっていくのだ。

儀式のやり方がへたくそだから、うまくいかないということになると、儀式のやり方が複雑になっていく。

しかし、儀式のやり方が複雑になっても、もともとの不幸をもたらす条件がかわらないと、時間経過とともに、不幸な出来事の回数か増えるのである。当然、消耗する。

ほんとうは、一〇〇%の人が、儀式をしなくても、しあわせなほうがいいのだ。

たとえば、社会の一〇〇%の人がしあわせなら……すでに幸福なら……幸福になる方法は、はやらないのである。

不幸な人が多いから、幸福になる方法がはやるのである。

そして、「Xをすれば幸福になる」というような方法は、条件を無視しているので、でたらめな方法なのである。

Xをすれば幸福になるというのは、がせねたなんだよ。

不幸な人のうち、どうしても、幸福になりたいと思う人の割合を九〇%だとしておこう。その場合、社会の九〇%が不幸な人だと、八一%の人が、幸福になる方法に興味をしめすということになる。

いっぽう、社会の一〇%が不幸な人だと、九%の人が幸福になる方法に興味をしめすということになる。幸福になりたいと思う人の割合が一定なら、幸福になる方法に興味をしめす人が多い社会のほうが、幸福になる方法に興味をしめす人が少ない社会よりも、悪い社会だというとができる。

まあ、最初の設定に、結果が含まれているような、たとえ話なのだけど……言いたいことは、幸福になる方法がはやっている社会というのは、悪い社会だということだ。

それだけ、不幸な人が多いのである。

つまり、条件が悪い人のほうが、条件がいい人よりも、多いのである。だからこそ、不幸からだ出したくて、幸福になる方法を知りたくなる。 

ところが、短文で語られる幸福になる方法というのは、一〇〇%構文で語られるという特徴がある。最初から間違っている。

ところが、教えているほうも、教わるほうも、『区別』で書いた「区別」がついていないのである。だから、誤解が誤解を呼ぶことになる。

しかし、この誤解こそが、じつは、真理であるような雰囲気を醸し出している。しかし、誤解をしているだけなのだ。

もともと、でたらめな方法なのだけど、なんとなく、それらしく聞こえるのだ。そうすると、当然、落ちこぼれる人が出てくるわけ。

つまり、やったけど、効果がなかったという人たちが出てくるわけ。

ちなみに、やったら効果があったと思っている人は、これまた、誤解をしているだけなのである。「明日は雨が降ると言ったら、実際に次の日、雨が降ったので、言霊理論は正しい」と思っているだけなのだ。ほんとうは、間違った推論をしているだけだ。

ともかく、「効果があった」と言う人たちが出てくる。

この人たちも「言ったあと」と「言ったから」の区別ができていないので、そうなる。

ともかく、やったけどダメだった人たちが、大量に発生する。

だって、ほんとうは「おっぺけぺと言えば、なんでも願いがかなう」というぐらいには、でたらめだからだ。

そうなると、もう、これは、マニュアルで決まっているように、「やり方がへたくそなんだ」と言われることになる。

そうすると、これは、うまくいかなかった人を(間違った理論で)ディスっているだけなのに、やっている本人たちは、ものすごく、いいことをしているつもりになってしまうのである。

そりゃ、「改善の道」をしめしてやるつもりだからな。

そのあと、「うまく言った人」と「うまくいかない人」にわかれて、うまくいかない人は、「あれがたりない」「これがたりない」と言われることになる。

これも、親切にしてやっているつもりなのだ。

これも、「性格が悪い」「心構えができていない」「波動が低い」というよな悪口なのだけど、その人たちには、相手を見下して、悪口を言っているつもりがないのだ。

こういうことが、重層的に繰り返されてしまう。 

なので、こういうことがはやっている社会は、こういうことがはやっていない社会よりも、より悪い社会なのである。

●これが、人を隷属させる方法なのである■社会※2026/06/20 1:37

条件を無視したまま、細かい作法にシフトしていくという問題がある。

不幸な人が不幸なのは、それぞれ、不幸になるような現実的な条件があるからなのである。条件が、出来事の質や回数を決定してしまう。

たとえば、悪い親と一緒に住んでいる人は、悪いことが起きやすくなるのである。

ところが、そういう条件を無視して、「運をよくしようとする」と、作業の深度が深くなるのである。

つまり、「運をよくするための儀式」がより、複雑になるのである。

しかし、どれだけ、儀式が複雑になっても、悪い条件がかわらないと、悪い出来事の質や回数がかわらないので、不幸な思いをすることになるのである。

たとえば、神社にお参りをするとする。神社にお参りをすると「運があがる」ということにしておこう。

そうすると、神社にお参りしても、条件が悪い人は、なかなか幸福にならない。たまたま、起こることに期待しなければならなくなる。

ところが、条件が悪いので、よいことが起こらず、悪いことばかりが起こるというとになってしまうのである。

条件が悪いからなのである。

ちゃんと、「悪い家族」という原因があるのである。運とかそういうことではなくて、ちゃんと、物理的な身体をもった、「悪い家族」という原因がある。

ところが、神社にお参りをしても、運があがらなかったということになると、お参りのやり方が悪いのではないかということになってしまうのである。

これが、人を隷属させる方法なのである。

このやり方は、「言霊」でも「思霊」でも「引き寄せ」でもおなじなのである。

言霊の場合は、「言い方が悪いから効果がない(言ったことが現実化しない)」ということになる。思霊の場合は、「思い方が悪いから効果がない(思ったことが現実化しない)」ということになる。

引き寄せの場合は、「引き寄せ方法を、うまく、実行していないから引き寄せられない」ということになる。祈り方とおなじで、儀式の問題になる。儀式の細かさが深くなるのである。

言霊において「言うこと」は儀式のようなものなのである。

「うまく言えば現実化するけど、うまく言えないと現実化しない」ということになるので、「言い方」について、作法の深度が深くなるのである。

しかし、言い方を工夫しても、どれだけ、うまく言うようにしても、もともとの理論が、でたらめなので、言い方を工夫したり、うまく言うようにしても、「現実化の頻度」とは関係がないのである。

この、関係がないところで、ダメ出しをして、相手を従属させるという「きたない手」を使っているところが多いのだ。

最初から、ダメな方法なのである。

最初から効果がない方法なので、効果がないのである。

「いいことが起こる」言ったあとに、なにがしかのいいことが起こったとする。そうすると、言ったから、いいことが起こったのだと考えるわけだ。

しかし、言霊はないので、言霊の力によって、そのいいことが起こったわけではないのだ。

しくみは、「雨が降ると言ったあとに、雨が降った」ということとおなじだ。「言ったあと」と「言ったから」の混同があるのである。

たとえば、「いいことが起こる」と祈ったあと、いいことが起こったとする。これは、「いいことが起こる」と祈ったあと、いいことが起こっただけだ。「あと」なのである。

それを、「祈ったから」いいことが起こったのだと(勝手に)解釈してしまうのだ。そうすると、「祈りのパワーは絶大だ」ということになるのである。

そのときの祈り方や、そのときに行った神社だと、「うまくいく」と思うわけだ。

しかし、条件をぬかせば、ランダムに起こっていることなのである。あるいは、条件によって起こる頻度が決まっているものなのである。

たとえば、家では、きちがい的な家族にたたられるけど、学校で、いい友達ができたとする。

友達ができたことで、家族の基本的な問題は解決しないけど、学校でいい友達と交流したときに、いい思い出ができたとする。

これは、いいことだ。

その場合、お祈りをしていなければ……「お祈りをしたから、いいことがあった」とは思わない。お祈りをしていないのだからそうなる。

ところが、お祈りをしたあと、学校でいい友達と出会い、いい思い出ができた場合は、「お祈りをしたあといいことが起こった」と考えるのではなくて、「お祈りをしたからいいことが起こった」と考えることが可能になる。

けど、その「いいこと」というのは、一番悪い条件からはずれたときに起こっていることなのである。

条件は様々だから、一番悪い条件にたたられている人も、どこか、その一番悪い条件が条件として機能しない場所では、いいことが起こる場合がある。

しかし、実際には、家族の問題というのは、学校にいるときにも、影響を与える。

特に、騒音系の問題だと、学校にいる時間も、家にいるときのように、影響を与える。睡眠が削られ、体力がなくなり、学校でのさまざまな行動に影響を与えるからだ。

だから、基本的には、「悪い家族」という条件が、ほかのことにも影響を与えている。

けど、影響が低い場面では、たまたま、いいことが起こることもある。

それは、お祈りとは関係なく、起こるのである。

ともかく、条件というのは、ひとつじゃない。

もう、複雑に絡み合っているのである。

だから、「たまたま」いいことが起こることもある。

しかし、条件が悪い人というのは、いろいろなところで、条件が悪いのである。

まあ、それを改善したいと思うのは当然だ。

だから、安直な方法を求めるのである。

たとえば、「言うこと」「思うこと」「お祈りすること」「お祈り以外の儀式をすること」だ。その方法が効くとか聞かないというのは、じつは、雨が降ると言ったあと、雨が降る確率とおなじようなもので、方法に関係なく、ほかのことによって、出来事の質が決まってしまう。

「雨が降る」と、どれだけ「いい言い方」で言っても、言うことが……雨が降る確率に影響を与えないのだから、「いい言い方」をどれだけ研究して言っても、無駄なのだ。

生きにくい人が多ければ多いほど、この「安直な解決産業」がうるおうようになっている。

条件が厳しければ厳しいほど、この「誤解の上に成り立つカルト産業」がうるおうようになっている。

*     *     *

全員が、悪意を持って、隷属させようとしているとは、言わない。実際そうではないからだ。「Xをすれば運があがる」「Xをすれば幸福になる」と言っている人たちが、すべて、悪意を持って、人を隷属させようとしているわけではないのだ。それは、ちがう。

しかし、社会の構造を考えると……。意図せず、圧力を加えているということになる。まあ、善意なのはわかるし、『区別』に書いたことがわからないのだから「妄信」することはある。

社会の全体像なんて、見えないか、積極的に無視しているのだから、善意で、「本当にいい方法を教えてあげるんだ」と思っていたとしても、不思議ではない。

それに、どっち側に回るかと言うことを除いて考えると、人間は、不安な生き物なのである。そして、なにか神仏に、助けを求めたくなる生き物なのである。

だから、条件が厳しければ厳しいほど、自分にもできそうな「安直な解決方法」を求めることになる。この圧力が、ものすごい圧力なのである。

なら、どうして、このものすごい圧力がしょうじるかというと、厳然とした……でっかいでっかい、格差があるからなのだ。猛烈な格差がある。条件の格差と言ってもいいのだけど、実際に、どういう家に生まれたかで、厳然とした格差が生じてしまう。

緩やかな格差ではなくて、猛烈に激しい格差なのである。猛烈に激しい格差が現前して、生まれたと同時に、その格差のただなかに、なげこまれてしまう。

だから、条件が悪い人は、悪い出来事がたくさん発生してしまうのである。条件が悪いと一口に言っても、悪さの程度に、差があるのである。条件と言っても、無数の条件があるのである。

だから、条件が悪い人のなかにも、激しい格差があるということになる。

まあ、ともかく、「社会構造を考えよう」ということになる。 

2026年6月20日土曜日

●学校でおぼえたことも、家で、復習すると、ヘビメタで吹き飛んでしまう■騒音※2026/06/18 14:40

きちがい兄貴のしくみが、きちがい親父のしくみとおなじなんだよなぁ。

だから、きちがい兄貴も、自分がやっていることには、気がつかない。

どれだけ言われたって、「やってない」ときと、態度がおなじなのである。

きちがい兄貴だって、自分が、親父の猛烈な態度にやられて、適切なハンダゴテを学校にもっていけなかったときの、くやしさは、わかるのに、自分(きちがい兄貴)が、俺に、おなじ思いをさせているということが、どれだけ言われても、まったくわからないんだよな。

いま、午後五時二五分で、午後五時二五分も鳴っていた。もうすでに、一時間三〇分ぐらい鳴っている状態だ。そして、俺が午後四時に家に到着したとする。

そうすると、一時間二五分ずっと鳴っているわけ。一時間二五分、昨日も、一昨日も、一〇〇日前も、ずっとやられていた音が鳴っているわけだよ。

これが、どれだけ悔しいか。どれだけ、体にこたえるか。一〇〇日前と書いたけど、ずっと五〇〇〇日以上積もってしまう。そのあいだ、家では勉強ができないし、学校でも、寝不足なにの気をつかって張り詰めている状態だったり、寝不足でポーっとしている状態で、あんまり、勉強ができる状態ではなかった。

ちなみに、……やってしまうと、マイナスの勉強になって、頭がこんがらがって……家で勉強しなければ解けた問題も解けなくなってしまう……。

学校でおぼえたことも、家で、復習すると、ヘビメタで吹き飛んでしまう。

教科書に書いてあることや、参考書に書いてあることが、「ヘビメタつき」の状態になってしまう。ヘビメタに汚染されたいやなものになってしまう。これが、いろいろな影響を与える。

これも、俺にとってヘビメタという音楽ジャンルがどういうものかということを理解していないやつにはわからないことだ。

遅刻をした理由を問われたので、「ヘビメタ騒音で眠れなかった」ということをこたえたときがある。

そのとき、ヘビメタが好きなやつが「なにが、ヘビメタ騒音だぁ」と吐き捨てるように言ったのだ。

おなじヘビメタ好きでも、きちがい兄貴の友達はまともで、「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」「家族の人がかわいそうだ」と言って俺に気をつかってくれたのだ。

きちがい兄貴は、自分の友達の発言でも、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と俺との間にあったことを、考えれば、到底言えないことを、言ったのだ。

ともかく、ヘビメタが好きな人にも、いろいろな人がいる。

*     *     *

ちなみに、ぼくが宿題を忘れたことについて、「宿題を忘れるなんて、バカだ」と言った人がいた。宿題を忘れたのではなくて、宿題をすることができなかったのだ。

きちがいヘビメタ騒音で、どうしても、宿題ができないのだ。別に忘れたわけじゃない。宿題をしあげて、学校にもっていくということが、ヘビメタ騒音で、できなかっただけだ。

「宿題なんてやろうと思えば、できるのに、なんで忘れるんだよ」というようなことを、「宿題を忘れるなんて、バカだ」と言うまえに、そいつが言ったわけ。

だから、「兄貴のヘビメタ騒音で宿題ができない」と言ったのだ。そのときは、その人が、ヘビメタが好きだということを、ぼくは知らなかった。そいつがヘビメタが好きなやつで、普段、家で聴いているということは……その時点では、ぼくは、知らなかった。あとで、知ったわけ。

遅刻にしろ、宿題にしろ、理由を問われることがあるんだよ。

でっ、ヘビメタ騒音のことをしかたな言うと、あんまりいい反応が返ってこないんだよね。ヘビメタが好きな人も、ヘビメタのことを知らない人も、ヘビメタのことは知っているけど、特に本人が聴いているわけではない人も、いるわけ。

でっ、その人が、ヘビメタのことを好きだということを、ぼくが事前に知らない場合がある。で、正直に言ってしまうと、ヘビメタを好きな人は、「なんだこいつ」と思うことがあるみたいなんだよな。

ともかく、ヘビメタ騒音の影響が「遅刻」や「宿題未提出」というかたちになって、あらわれるわけ。それ以外にも「注意不足」とか「興奮のしやすさ(ストレスがたまっているのでおこりやすい)」というかたちになって、あらわれるけ。

でっ、「遅刻」や「宿題未提出」に関しては、理由を問われることがある。

しかたがないので、正直にヘビメタ騒音で、眠れなかったとか、ヘビメタ騒音で宿題をすることができなかった」ということを言うわけ。

けど、普通の人は、『そんなのは、お兄さんに言えば、解決する問題だ』と思うわけ。そして、騒音に関しても、『そんなにひどい音でずっと鳴っているわけではないだろう』と思ってしまうわけ。

ほんとうに、ずっと、ものすごい音で鳴っているから、ほんとうに勉強ができないのだ。宿題もできない。

ところが、世間的には、「家族のヘビメタ騒音で宿題ができないということはない」ということになっているわけ。

「家族なんだから、しずかにしてくれと言えば、静かにしてくれるはずだ」と自動的に思ってしまうわけ。普通の人には、きちがい兄貴の(家出の態度)がわからない。普通の人には、きちがい兄貴の「このくらいの音で鳴らしていいはずだ」という感覚がわからない。

きちがい兄貴は、本人も気がついていないところがあるのだけど、猛烈にでかい音で鳴らして、普通の音で鳴らしていると思っているところがある。

けど、ここに書いたように、きちがい兄貴の側に、精神的な問題がある。ちがい兄貴の側に、認知の問題がある。ちがい兄貴の側に、無意識的な問題がある。

兄貴にしたって、自分が聞きたくはない音……特にきらいな音ではない音を……あの音のでかさで聞かされたら、一〇秒で、頭にくるんだよ。

けど、きちがい兄貴は、ヘビメタを思いっきり鳴らしたいという、無意識的な欲求があるので、自分が思いっきり鳴らしたい音に関しては、どれだけでかい音で鳴らしても、しずかに鳴らしている(普通の音で鳴らしている)と思ってしまうという倒錯的な心理的な問題がある。

けど、きちがい兄貴自身も、わかっていないし、なおさら、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にさらされたことがないほかの人も、わかっていないわけ。

きちがい兄貴無意識に問題があるということは、きちがい兄貴もヨソの人も、ぜんぜんわかっていないわけ。きちがい兄貴が、「普通の音で鳴らしていると思って(でかい音で)鳴らす」ということを意識的に、お芝居として、やっているなら、まだ、問題が小さかったわけ。

たぶん、そういう場合は、(自分が本当はでかい音で鳴らしていると言うことを)知っているのだから、どれだけ頑張っても、三日ぐらいで、ヘビメタ騒音問題が終了したと思う。

普通の家なら、三日で、解決する問題なんだよ。そして、ほかの家族も、実際にでかい音で鳴っているわけだからしずかにさせることに積極的に協力してくれたはずだ。

ところが、兄貴は、芝居でやっているわけではなくて、ほんとうに気がつかないわけだし、家族は、積極的に協力してくれたわけじゃない。

だから、こういうことが、よその人には、不自然にうつるのだ。

だから、人によっては、ぼくが嘘を言っていると思うわけ。

この、「エイリが嘘を言っている」と思ったやつらの態度が、ひどいんだよ。

2026年6月19日金曜日

●そういうレベルのことじゃないんだよ■騒音※2026/06/19 15:13

腹がしくしくする。なんとか、乗り切れば、楽になるような気がしていたのだけど、あんまり、楽にならないなぁ。この調子が続くとやばい。

基本的に、つかれている。

あとは、他人との付き合いで……ヘビメタ騒音以降……あんまり、いい思いをしてこなかったというのがある。そういうことも、この雰囲気に影響を与えている。

あとは、ほんとうは歯医者に行かなければならないのだけど、歯医者に行くことを考えると、考えただけで、憂鬱になる。

ヘビメタ騒音の毎日がつらすぎた。回収できない。

けっきょく、ヘビメタ騒音の日々が続いている。きちがい兄貴は、軽い気持ちで、まったく気にせずに、きちがい的にでかい音で、こだわってこだわってこだわって、鳴らしただけなのだけど……。

鳴らされているこっちは、毎日がつらかった。

そして、他人は、実際に、一倍速でぼくとおなじことを経験したわけではないから、わからないのである。あの音のなかで、生きるということがどういうことなのか、わからないのである。

まったくわからないのである。

そういうやつらが、「楽しいと言えば楽しくなる」と言う。「俺だって、苦労した」と言う。きちがいにやられて、夜郎自大な人にバカにされる状態になった。

あとは、「そんなの嘘だ」というやつもいる。

こいつらが、俺にやってきた『悪いこと』の数々。

こんなやつらが「人に親切にしましょう」「人のいやがることはしないようにしまょう」なんて言っている。はぁーー。なに言ってんだ? 

*     *     * 

どれだけ、なにを言っても、ほかの人には「鳴っているとき」の状態がわからない。どれだけなにを言っても、ほかの人は「鳴り終わったあと」の状態がわからない。

「鳴り終わったら関係がない」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい気持ちになった。いまも、ときどき、ぶんなぐってやりたい気持ちになる。

これ、まったくわかっていないんだよ。

そのくせ、「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって苦労した」と言いやがる。

まったく、わかっていない。

そういうレベルのことじゃないんだよ。

●ごく普通の人たちも、そういうふうに思うように誘導されている■社会※2026/06/18 18:45

たとえば、カレーライスをつくろうと思ったとする。

そして、実際に行動して、カレーライスをつくったとする。

こういう例をあげて「思ったことは現実化する」と思霊主義者は言うのだ。

しかし、行動したということを、すっ飛ばしている。無視している。

実際に行動した……。

だから、カレーができた。

しかし、「思ったから」カレーライスができたのだと言い張るのだ。

たしかに、思ったことは、スタート地点として重要なことだ。しかし、「カレーライスをつくろう」と思っただけで、実際に行動にうつさなかったら、カレーライスはできないのである。

こういう、自分の身体を動かしてやったことを、無視してしまう人がいる。

表現としては……「カレーライスをつくろうと思ったから、カレーライスができた」という表現は、正しい表現だ。

しかし、だから、「思ったことは、現実化する」という結論も正しいかというと、そうではないのである。

「思ったこと」というのは、「すべての思ったこと」という意味になる。

ところが、思ったって、現実化しないことはあるのである。

だから、「思ったことが現実化することもあるし、現実化しないこともある」ということになる。

「思ったことが現実化することもあるし、現実化しないこともある」という文の意味と「思ったことは、現実化する」という文の意味は、等価ではない。

まず、これを理解しないとだめなのだ。

そして、自分が実際の行動を無視しているということを理解しないとだめだ。

思った……だけでは、現実化しないことのほうが多い。まず、思っただけで、現実化するのは、思ったということだ。そして、これは、誤解をしやすいところなのだけど、思ったことが、思霊以外の理由で、現実化することがある。

これは、現実化するというよりも、実際にそうなったということだ。

「明日は、雨が降る」と思ったあと、実際に次の日になってみたら、雨が降ったとする。

思霊とは関係がないけど、思ったあとに、思ったことの意味内容が、現実化した。

しかし、思霊という神秘的な力によって、思ったことの意味内容が、現実化したわけではない。明日は雨が降ると思ったあと、実際に、その通りになっただけだ。

そして、思霊主義者は、このことだけを取り上げて、「思霊という神秘的な力がある」ということと「自分が、その神秘的な力の根源になりえる」ということを確信してしまうのだけど、これは、間違った推論だ。

実際に、「明日は、雨が降る」と思ったのに、雨が降らない場合もある。

この場合、「思霊という神秘的な力がない」ということと「自分はその神秘的な力の根源になりえない」ということを、確信するかというと……たいていの場合……確信しないのだ。

ようするに、あたったときだけ、間違った推論をして、確信してしまう。

確率が二分の一だとすると、当たったときの二分の一だけを見ているということになる。

だから、ほんとうは、間違った推論をしているのだけど、「正しい」と確信してしまう。

この確信は、本人にとって都合がいいものなのである。

しかし、幼児的な、間違った確信なのである。

*     *     *

表現の問題というのがある。

「漫画家になろうと思ったから、漫画家になれた」という表現は、正しい。漫画家になろうと思わなければ、漫画家になれない。

漫画家になろうと思わなかったのに、ちょっと漫画を描いてみたら、あれよあれよという間に、漫画家と呼ばれる存在になっていたということは、ありえる。

しかし、それでも、漫画を描いたのである。そして、それを人に見せたのである。

まあ、漫画家だと、漫画家になろうと思わなかった人が、漫画家になってしまうことは、ありえるので、ちょっと、例をかえておこう。

たとえば、プロ野球の選手になろうと思ったから、プロ野球の選手になれた」という表現は正しい。プロ野球の選手になろうと思わなかったら、プロ野球の選手になれない。

しかし、「思っただけ」でプロ野球の選手になったわけではないのだ。思ったあと、実際に行動をした。

この「行動をした」というところを無視して「プロ野球の選手になろうと思ったから、プロ野球の選手になれた」と言う場合、表現としては正しいのだ。

しかし、ほんとうは、行動をしたから、プロ野球の選手になることができたわけだ。

そして、プロ野球の選手になるために、実際に行動をしたにもかかわらず、プロ野球の選手になれなかった人だっているのだ。

だから、「思えば、思ったことが現実化する」と一〇〇%構文で一般化してしまうのは、間違ったことなんだよ。

そして、実際の行動を無視して、「思っただけで、思ったことが現実化してしまう」というようなことを言うのは、よくない行為なんだよ。

どうしてかというと、思っただけではないからだ。

嘘を、嘘じゃないと思って言っている場合は、愚かな行為……。

嘘を嘘だと思っているのに、真実だということにして言っている場合は、詐欺行為だ。

漫画家の例でもおなじだ。実際に、漫画を描くというような行為をした。実際に、書いた漫画をほかの人に見せた。そういう行為を全部無視してしまうのは、おかしい。

「思ったということ」と「実際に行動したということ」の二つの部分にわけるとすると、「思った」という部分だけに注目して、「実際に行動した」という部分を無視するのは、意図的ではないにしろよくない行為なのである。

どうしてかというと、間違いを誘発するからだ。

実際に不幸な人は、「不幸になると思ったから、不幸なのだ」とか「不幸になると言ったから、不幸なのだ」とか「幸福になる努力をしなかったから、不幸なのだ」ということになってしまうのである。

精神世界の影響を強く受けた人たちだけではなくて、ごく普通の人たちも、そういうふうに思うように誘導されている。

ひとごとなら、条件を簡単に無視できるので、そうなってしまうのである。その人たちの頭のなかでそうなってしまう。

そうなると、不幸な人に対する偏見が発生するのである。不幸な人を、見下すようになるのである。

「思えば思ったことが現実化する」とか「言えば言ったことが現実化する」とか「努力すれば成功する」とかということが、そういう偏見を生み出す、原動力になっている。

自分のことの場合は、自分が一倍速で感じていることを基準にして判断するのである。

だから、思霊理論や言霊理論や努力論の影響を受けずに、なまで、感じることができるのである。

自分のことに関しては、自分の記憶があるので、記憶に応じた「理由」が自分自身のなかで、あきらかなのである。

別に「不幸になると思ったから、不幸なのだ」とか「不幸になると言ったから、不幸なのだ」とか「幸福になる努力をしなかったから、不幸なのだ」とか思わなくてもすむ。

そんなことよりも、自分の経験に根差した確かな理由がある。

そっちの理由のほうが、でかい。「思った」という理由よりもでかい。

だから、自分のことに関しては、よっぽど、思霊理論に注意が向かない限り、思霊理論を無視して考えてしまうのである。

こういう現実的な理由があるのだから、こうなって当然だと……感じてしまうのである。

事柄によっては、思霊理論に注意が向きやすい事柄がある。

だから、主観的には、そのときの思考をとりあげて、自分のにも、ちゃんと、思霊理論を適用しているつもりになってしまう。

しかし、注意が向かないことに関しては、思霊理論をガン無視して、生きているのである。思霊主義者も、普通の人も、思霊理論ガン無視して、生きている。思霊理論に注意が向くようなことが起こったときだけ『自分が思ったから、こうなった』と思っているだけなのだ。

普段のいろいろなことに関しては、『思った』ということ以外のちゃんとした理由があるように思うので、そうなってあたりまえだと思うのである。

思霊主義者が、思霊理論を批判されたときの反応について書いた。エイリが「思霊理論は間違っている」と思霊主義者に言ったときの話だ。

言語に関係した感情的な反応やボディーサインに関係した感情的な反応というのは、主に、それまでつちかった「ビリーフ」によって、発生するのある。ようするに、あたりまえの反応をするのである。腹が立つことをされたら、腹が立つのである。「それ」は腹が立つことだと判断する内面的な基準があるのである。

内面的な基準は、明確に意識され、明確に言語化された基準であるとは限らない。むしろ、語られていない基準のほうが大きな役割をはたしている。

自分が正しいと思っていたことを否定されたときは、たいていの場合、主に怒りの感情がわくのである。それは、明確に「こういうことを思ったから、こういうことが発生した」というような思考回路を経るものではないのだ。

実際に「思ったことがない」ことが発生した場合だって、「思ったことがない」ことが発生したということに、驚きを感じたりする。

「怒り」の感情や「驚き」の感情や「悲しみ」の感情や「よろこび」の感情は、一部の例外を除いて、思霊理論とは、まったく関係なしに発生するのである。

思霊理論に特別に関係がある場合を除いて、ほとんどの場合は、普通に、おこったり、驚いたり、悲しんだり、よろこんだりしているのである。

「自分が過去において(そのことを)思った」ということと、関係なく、人々はおこったり、驚いたり、悲しんだり、よろこんだりしているのである。

●バリバリの全能感だ■社会※2026/06/18 14:04

「現実化する」という言い方が、絶妙なのだ。

いかにも、自分の行為によって、その現実をつくりだすというような感じがする。

しかし、言いたいことは、「言えば言った通りになる」とか「思えば思った通りになる」ということなのだ。自分が言えば、言った通りになるんだよ」と言いたいだけだ。自分が思えば、思った通りになるんだよ」と言いたいだけだ。

それを、「現実化する」と言ってしまう。

勝手に、ほかの理由で思った通りになるのではなくて、まさに、自分の行為によって、現実をつくりだすという意味になる。

こういう言い方は、自尊心をくすぐるのである。こういう言い方は、万能感をくすぐるのである。万能感。全能感。

ともかく、自分はすごいんだという話になる。

創造主のように、現実世界をつくりだすことができる……というような感じになる。

しかも、言うだけでいいのだ。思うだけでいいのだ。こんなに楽なことはない。バリバリの全能感だ。

自分が言えば、言ったことが現実化する。自分が思えば、思ったことが現実化する……。神にも匹敵する響きがある。

だから、ここちよい。受け入れられやすい。どうしてかというと、人間というのは、そういう感覚を持っている者だからだ。

どうして持ったのかというのは、わからないけど、たぶん、そうしないと生きていけないから、そういう感覚が育ったのだと思う。

そういう感覚を持たないと、現実が厳しすぎて、生きていけなかったのだと思う。

災害にやられる可能性、外敵にやられる可能性、病気になってしまう可能性がある。そして、避けられないものとして「死」がある。

だからこそ、万能感でもなければ、生きていけない……。

たぶんそんなところだろう。

2026年6月18日木曜日

●そこ、重要なことだから■社会※2026/06/18 16:35

まさかと思うことが起こったとき、思霊主義者は「自分が思わなかったことが起こった」とか「思ったことが現実化して、思わなかったことも現実化するのでは、思ったことも思わなかったことも現実化することになり、特に、思ったことが現実化すると言い切る意味はないのではないか」とか「思わなかったことが現実化したのだから、思ったことが現実化するという言霊理論は間違っているのではないか」とかと思わないのだ。

『宇宙の摂理』とか『真理』とかと言ったって、こういうレベルだ。

じゃあ、思わなかっことが発生した場合、思霊主義者はどういうことをするのかというと、普通のことをするのだ。どういう反応があるかというと、普通の反応があるのだ。

たとえば、エイリが思霊理論は間違っていると、ある思霊主義者に言ったとする。とりあえず、その思霊主義者はAさんだとする。

Aさんは、エイリが言ったことに、そのまま、反応をするのである。

たとえば、「思霊理論は間違っていない」「だいたい正しければ、正しい」「単純なのが正しい」「理屈じゃないんだ」と言って、エイリが言ったことを理解せず、かなりの高確率で「腹を立てて」対応する。「なんだとおぉ」という態度になるのだ。

「自分が言っていることは正しくて、エイリが言っていることは間違っている」ということを、かなりの高確率で主張する。

そのままだ。

思霊理論の矛盾について説明されても、そのまま、思霊理論は正しいと思ったままなのだ。

たいていの場合、思霊理論の矛盾や、自分の態度の矛盾に気がつかない。

「自分が正しいことを信じているのに、エイリというやつがへんなことを言ってきた」というような反応に(かなりの高確率で)なってしまう。

Aさんは、『自分は、はたして、エイリが思霊理論は間違っていると言ってくるまえに、エイリが思霊理論が間違っていると言ってくると思ったのだろうか』なんて、たいていの場合は、考えない。

いやーー。考えてよ。そこ、重要なことだから。 

●「まさかと思うことが起こった」■社会※2026/06/15 13:47

精神世界の人も、普通の出来事に関しては、普通に対応しているのである。

ようするに、精神世界的な理論にあわせないで、普通に、対応している。

「まさかと思うことが起こった」とする。「まさかと思うことが起こった」ということは、予期していたことが起こったわけではないということを意味している。

「まさか、自分の身には起こらないだろうと思っていたことが、起こった」のである。

その場合、普通の感情がわくのである。

「自分が起こると思っていたから起こったのだ」と自分の記憶を塗り替えたりしない。自分が思っていなかったことが起こったと、普通に認知しているのである。「まさか」と思うことが起こったのに、自分は、そのことが起こると思っていたと、記憶を改ざんしたりしない。

たいていの場合、思霊理論にあわせて、「実は、自分が思っていたから、思っていたことが起こった」と改ざんしたりはしないのだ。

特殊な人は、思霊理論にあわせて、「自分には記憶がないけど、思っていたのだ」ということにしてしまう。そういう人もいるにはいるけど、少数派だ。

そして、その少数派の人だって、すべての「まさか」と思うことに関しては、そのように思わないのである。ぬけがある。

自然に感情がわく場合は、予期していなかったことに関しては、普通の認知が発生して、普通の認知に合わせて、普通の感情が発生する。

そのプロセスは、あたりまえのプロセスだから、思霊的な考えたで、認知を修正したりしない。

ぼくに、思霊理論を批判されて、おこった思霊主義者は、普通に、自分が……正しいと信じていたことを批判されて、おこっている。

「エイリによって、自分が正しいと信じていたことを批判される」と自分が思っていたから、実際に、エイリが……自分が正しいと信じていたことを批判批判した……とは、思わないのだ。

自分が信じていたことが批判されると、普通に、怒りの感情がわくのである。

けど、「普通の感情」に関しては、特に、「自分が思っていたから、そういうことが起こった」とは思わないのだ。普通に感情が発生している。

普通に感情が発生しているということについて、思霊主義者は、あまりにも、無頓着だ。

*     *     *

「まさかと思うことが起きた」ということは、「こうなると思っていなかったことが、起こった」ということだ。

ようするに、「思っていなかったことが、起こった」のだ。

ようするに、「思わなかったことが起こった」のだ。

「思えば、思ったことが現実化する」というのは一〇〇%構文の文なんだよ。すべての思ったことが一〇〇%の確率で現実化するのである。

「思えば、思ったことが現実化する」という文の意味に、どうやって「思わなかったことが現実化することもある」ということを含めるのだ。

けっきょく、思霊主義者の現実認識は、「思ったことが現実化することもある」し「思わなかったことも現実化することもある」ということになる。

だって、「まさかと思うことが起こった」と認識しているのだから、思わなかったことが現実化した(実際に起こった)ということを認めているということになる。

ところが、ぬけぬけなので、「まさかと思うことが起こった」と認識しているときは、思霊理論なんてどうでもいいのである。

どれだけ、強く「思えば、思ったことが現実化する」ということを主張していても、現実の認識においては、思わなかったことが現実化することがあるということを、認めているのである。

この、ていたらく。この矛盾認知の回避。

*     *     *

思霊主義者というのは、「思ったことが現実化する」という文の意味と「思ったことが現実化することもある」という文の意味を、区別していない。ここに、間違いの根源がある。

ほんとうは、「思えば、思ったあとに(思霊以外の理由で)思ったことが現実化することがある」ということを言っているにすぎない。

ところが、無意識的には、空想のなかで、一〇〇%構文を思い描いているのである。

つまり、思ったのだから、それは、絶対に現実化する」ということを信じたいのである。だから、一〇〇%構文で言っているということは、特に意識していないのだけど、願いを込めて一〇〇%構文で言い切っているのである。

もう、この時点で、自分をだましている。

自分が言っていることの意味がわかっていない。

自分の矛盾に気がついていない。

そういうレベルの理解力なんだよ。自分をだましている。

しかし、意識的には「絶対に(思霊の力でそうなる)と思っている」ので、他人には、大威張で、「思えば、思ったことが絶対に現実化するので、思えばいい」ということを言ってしまう。

この時は、ほんとうに、思っただけで、思ったことが一〇〇%の確率で現実化すると思っているのだ。他人に言うときは、思っただけで、思ったことが一〇〇%の確率で現実化するという意味で「思ったことが現実化する」と言っているのである。

だから、他人に言うときは、「思ったことが現実化する」は、一〇〇%構文の意味で、「思ったことが現実化する」と言っているのである。

一〇〇%構文の意味というのは、ようするに、「すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という意味だ。

思ったことのなかに、思わなかったことを含めるのは無理なんだよ。だから、「思ったこと」と、「すべての思ったこと」は等価なんだよ。

他人に言うときは、一〇〇%構文の意味で言っているのだけど、現実的なことに関しては、「思わなったことが現実化することもある」ということを認めているのである。

「自分が思わなかったことが、起こった」と認めている。

それならば、せいぜいのところ、「思ったことが現実化することもあるし、思わなかったことが現実化することもある」という表現にとどめておくべきなのだ。

けど、最初から、 思ったことが現実化することもあるし、思わなかったことが現実化することもある」と言ってしまったら、「絶対に現実化する」という意味にならない。

「思えば、すべての思ったことが一〇〇%の確率で現実化する」ということが決まっているというのが、夢を持たせる思霊理論の概要だ。じつは……これは、自分の念の力で、現実化するという意味と、宇宙の摂理として現実化することが決まっているという意味がある。

思いに、言霊のような力(思霊・念)があるという理論と、思ったことが現実化してしまうのは宇宙の摂理なんだという理論が混じった考え方になっている。

思霊主義者のなかで、両方の理論が混じった考え方になっている。それは、そういうふうに、なんとなく、教えられたのである。

だから、思霊主義者は……「自分の潜在意識が、宇宙意識に伝わって、宇宙意識が、現実をつくる」という考えた受け入れやすい。

潜在意識・宇宙意識系の考え方も、思霊主義のなかに含まれている。しかし、第一段階では、自分の「念」が現実をつくるという考え方のほうが主流であるようだ。

まあ、現在の状況から考えると、『潜在意識・宇宙意識系』も『念系』も、両方とも、思霊主義者の(頭の)なかにあると思う。

潜在意識という言葉を使うと、「思わなかったこと」が現実化してしまうことがあるということを、説明できるようになるのだ。

顕在意識では、思っていなかったことが、起こったって不思議じゃないということになる。ようするに、潜在意識という似非科学タームは、矛盾の解消に役立つ。

しかし、似非科学タームだ。

*     *     *

そりゃ、これだけ条件に差がある世の中だから、人によっては、不幸な条件によって、不幸な思いをする人だっている。悪い条件によって、悪い出来事が起こる場合だってある。人によって、ぜんぜんちがう条件のなかで生きている。

いまの社会というのは、原始共産社会のように、共同体のなかの人が、だいたいおなじような条件でおなじような暮らしをしているわけではない。絶対的な条件の差というものがある。環境の差と言ってもいい。

ところが、思霊主義的な考え方を通すと、不幸な人が不幸なのは、その人個人の問題だということになってしまうのである。

その人が、不幸なことではなくて、幸福なことを思えば、幸福なるということになってしまう。ところが、幸福になるということをどれだけ、うまく思っても、不幸な条件があると、幸福には、なれないのである。

不幸な条件の解消がほんとうは、必要なのである。

*     *     *

俺が言っていることは、受けないということは、わかっている。

別に「念をこめる」ことが悪いと言っているわけではないのだ。自分のことであれば、しずかに、念をこめて思うことだっていいと思う。

ただ、社会のしくみというものを考えると、所与の条件として、悪い条件がある人は、悲惨なことになってしまう。

精神世界の人たちは、条件が悪い人に言霊のことや思霊のことを教えてあげれば、人助けになると思っている。

しかし、それがちがうのだ。

ちがうということが、たぶん、わからないのだろうと思う。

2026年6月17日水曜日

●この人たちにとって、道徳とはなんなのかということが、じつは、問題になる■社会※2026/06/14 20:12

ちょっと、思ったままを書く。

基本、結びつかないと思うのだ。結びつくわけがない。

「いいことを考えれば、いいことが起こり、悪いことを考えると、悪いことが起こる」とか「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とか「ポジティブなことを考えれば、ポジティブなことが起こり、ネガティブなことを考えるとネガティブなことが起こる」とかという、一見、害がなさそうな考え方が、まずいことを引き起こしてしまう。

一見、よさそうなことを、他人に言うことが……特に「こまっている他人」に言うことは、よくないことを引き起こすのである。 

精神世界の人たちは、気にも留めないと思うけど、のび太とジャイアンの話は重要だ。精神世界の人たちが、のび太の側に立たず、ジャイアンの側に立ってしまうということは、問題だ。

しかし、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えている人たちは、のび太がなぐられたのは、のび太がなぐられると思ったから、起こったのだ」と考えてしまう。

「のび太が、ジャイアンになぐられるというネガティブなことを考えたから、実際に、ジャイアンになぐられるというネガティブなことが起こったのだ」と考えてしまう。

「道徳」や「人の道」や「真理」について、深く考えている人たちが、なぐられたのび太をせめて、ジャイアンをせめないということは、問題だ。

なぐられたのび太に説教をして、どうしようもない理由で、のび太をなぐったジャイアンに説教をしないというのは、問題だ。

まあ、のび太とジャイアンの話は、架空の話だから、実際には、のび太に説教することもできないし、ジャイアンに説教をすることもできない。

しかし、現実世界でも、こういうことはある。

たとえば、いじめられたほうに、ほんとうに、落ち度がなかったとしても、「ネガティブなことを考えたから」いじめられたのだと考える精神世界の人たちは多い。

実際には、ネガティブなことを考えなかったのに、いじめられた人もいると思う。

まあ、実際に、いじめられたほうに原因がある場合もある。

しかし、その場合でも、いじめたほうが、悪いのである。これは、ケンカじゃない。いじめだ。

ともかく、ネガティブなことを考えなかった場合にも、ネガティブなことを考えたということに、されてしまうのである。精神世界の人が、そう思ってしまう。

精神世界の人たちのなかでは、ネガティブなことをされたのだから、ネガティブなことを思ったのだということになっているのだ。

精神世界の人たちは、後出しが多い。

実際には、結果を見て、こうなんだと思ってしまう。その場合、精神世界の人たちのなかでは、確信になる。精神世界の人たちのなかでは「事実」になってしまう。

たとえば、のび太がジャイアンになぐられるということが発生するまえに、のび太が、ジャイアンになぐられるというネガティブなことを考えなかったとする。考えなかった。

ところが、実際に、ジャイアンがなぐったとする。なぐった理由は、ジャイアンがむしゃくしゃしていたからなのである。ジャイアンが八つ当たりで、人をなぐった。

普通に考えれば、ジャイアンが悪いことをしたということになる。

ほとんどの道徳に敏感な人たちが、ジャイアンのほうをせめずに、のび太のほうをせめるのは、おかしくはないか?

精神世界の人たちは、道徳に敏感な人たちだ。

道徳とか、倫理とか、人の道について考えている人たちだ。

その人たちのほとんどが、ジャイアンではなくて、のび太に説教をしてしまうのだ。

そうすると、この人たちにとって、道徳とはなんなのかということが、じつは、問題になる。

しかも、精神世界の人と言ったけど、普通の人のなかにも、似たようなことを考えている人は多い。

特に精神世界にふれていなくても、幼児的万能感はだれにでもあるので、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というようなことを、信じやすい状態なのだ。

ジャイアンをせめずに、のび太をせめる人たちの多くが、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを信じている人たちなのだ。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方が、ジャイアンではなくて、のび太に説教をするという行動を、誘発しているのではないか?

この人たちの「のび太に対する態度」というのは、「不幸なことが起こった人に対する態度」とおなじなのである。

「なにか不幸なことが起こったなら、その人が不幸なことを思ったから、不幸なことが起こった」考えてしまうのだ。

この人たちのなかでは、決定事項なのである。

実際に不幸なことが起こった人が、実際にその不幸なことが起こるまえに、その不幸なことが起こると思ったかどうかということは、問題ではないのである。

この人たちによって「思った」と決めつけられてしまうからだ。

この人たち……多くの「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方を受け入れた人たちは、「だれか不幸な人がいたら、そのだれか不幸な人は、不幸なことが起こるまえに、その不幸なことを思った」と、勝手に決めつけてしまう。

思わなかった場合だってある。

しかし、思わなかった場合はないと……その不幸な人の状態なんてまったく、知らないのに、決めつけてしまうのである。

この人たちの、こういう態度自体が、決めつけられた人にとっては、不愉快である場合がある。たいていの場合は、こういう決めつけは、不愉快な決めつけなのである。

やられたほうにしてみれば、不愉快になる確率のほうが高い。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と信じている人たちが、意識的には「人がいやがることはしないようにしよう」と思っていても、実際の場面では、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えに従って、相手がいやがることをするのである。

しかし、相手がいやがることをしたという主観的な認識がない状態なのである。

かりに、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを相手が否定して、自分の場合は、こういう原因があると、原因について説明したとしても……一度、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということを受け入れて、「その不幸な人は、その不幸なことを思った」と思う人たちは、「その不幸な人は、その不幸なことを思った」と決めつけたままである場合が多い。

その不幸な人が説明した原因は無視して、その不幸な人が思ったから、その不幸なことが現実化したという自分の意見を……高確率で、かえない。

そのまま、「その不幸な人は、その不幸なことを思った」と考えている場合が多い。

つまり、たいていの場合、相手が否定しても、認めないのである。

どれだけ、普段は「人のいやがることはやめましょう」などと言ってたって、実際には、こういうことが発生してしまう。

*     *     *

『ぬけぬけシステム』と言うべきものが成り立っている。自分が一倍速で感じていることに対す価値基準と他人が一倍速で感じてきたことに対する価値基準がまったくちがうのだけど、本人が、まったくそれに気がつかないという構造がある。 

*     *     *

たとえば、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人に、今回書いたようなことを言うと、おこってしまう確率が高い。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということに、こだわる!!人が、たくさんいる。

その場合、おこったのだから、ネガティブなことが起こったということなのだろう。

たとえば、Bさんがいるとする。Bさんは『明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる』と思っていたとする。

エイリが、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こると思うことに関する問題点を指摘したとする。

そのとき、Bさんは『自分が正しいと思っていることを批判されて不愉快だ』と感じたとする。

この場合も、Bさんの考えに従えば……『自分が正しいと思っていることを批判される』と思っていたから『自分が正しいと思っていることを批判される』ということが起こったということになる。

Bさんが暗いことを考えていたので、暗いことが起こったのだ。「暗いこと」というのは、ここでは「自分が正しいと思っていることを批判される」ということだ。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方は正しいのに、エイリというやつが批判した」とBさんは高確率で思って、腹を立てるのではないか。

自分のことになると、「そんなことをされたら、腹が立つにきまっている」と思う確率が高い。

しかも、自分(Bさん)は、事前に……「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という考えを批判されると考えていなかったので、Bさんにとっては、Bさんが事前に、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考えを批判される」と思っていなかったことは、あきらかなことだ。

しかし、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」という理論に従えば……Bさんが、事前に「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方を批判される」ということを考えていたということになる。

はたして、Bさんは、自分は「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方を批判されると思っていた」と思うことができるのだろうか。

思っていなかったというのが事実なのに……エイリに批判される前は、そんなことは一切合切考え方こともなかったのに、考えていたということになってしまう。

これを、Bさんは受け入れることができるのか?

*     *     * 

ところで、Bさんが、あるブラック企業でアルバイトをしたとする。ブラック企業では、不愉快なことが、起こりまくりだったとする。

そのブラック企業で、アルバイトをし始めてから六か月たったとき、ものすごく不愉快なことが起こったとする。

こういう場合は、「もっといやなことが起こるかもしれないと思っていたから、もっといやなことが起こった」と考える確率が、わりと、高いのだ。

これは、考えていたことだ。すでに、小さないやなことや中ぐらいのいやなことが発生したあと、「もっと、いやなことが起こるかもしれない」と思ったのだ。

「そう思う」だけの根拠があるのだ。

環境が改善されなければ、かなりの高確率で、「もっといやなことが起こるだろう」と予想できた。自分が「予想できたことが起こった場合」は、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考え方正しい」と思うのである。

「ネガティブなことが起こる」と自分が考えていたと思っていない場合も、「ネガティブなことが起こる」と自分が考えていたと思った場合も、どっちも、睡眠中ではなくて起きているときに、意識的に判断していることなのである。

現実的な条件というのは、生まれたときから、現前しているのである。

たとえば、どういう親のものとに生まれるかということは、その人が選んだことではないのに、重要な条件になる。その条件が、その人のいろいろなことを決定してしまう。

ようするに、条件のただなかに、産み落とされるのである。

その場合、もちろん、「いい親のもとに生まれると考えたから、いい親のもとに生まれた」というようなことは、言えない。

言語をおぼえるまえに、言語で、考えることができないのだから、言語で考えたことを思うことはできない。

同様に「悪い親のもとに生まれれる」と考えたから悪い親のもとに生まれたわけではないのだ。

ところが、「思ったことが現実化する」ということになっていると、もちろん、うまれるまえに、言語的な意味で、「悪い親のもとに生まれる」と考えたから、実際に、悪い親のもとに生まれたということになってしまうのである。

この考え方は、完全に間違っている。

たとえば、生後一か月で、親と一緒にいるとする。

その状態というのは、実際に発生した出来事によって決まっているのだ。

どういう部屋にいるか、どういううちにいるか、どういう親と一緒に住んでいるのかということが、まず、最初にある。「思い」のまえにあるのだ。

「思い」のあとに「思い」に従って、現実が発生したわけではないのだ。

*     *     * 

もちろん、思霊主義者を含み、精神世界の人は、「うまれるまえに、親を選んだのだ」というようなことを言う。「学びのために、悪い親を選ぶ場合もある」というようなことを言う。

「魂が学習するために、適切な親を選んでいる」というようなことを言う。これ、妄想だから。こういう妄想を、事実であるように言うな。

*     *     * 

ちょっと、ちがう話をしよう。ぼくは、新型コロナウィルスが実在したということについて疑問をもっている。しかし、ほかの人に合わせるとしよう。

たとえば、「三秒以内に、すべてのコロナウィルスが消滅する」と思えば、それだけで、三秒以内に、すべてのコロナウィルスが消滅するのである。

思ったのに消滅しないということはない。

ところが、多くの思霊主義者は、ワクチンに頼ったのである。人の一生については、決めつけたことばかり、言うのに、ちょっと、話が大きくなると、「常識的に考えてそんなことはない」と思ってしまうのではないか?

ちがうか?

こまっている人には、こまっているのは、おまえがネガティブなことを考えたから、こまっているのだということを言うわけ。

きちがい的な親の元に生まれた人には、お前がきちがい的な親の元に生まれることを選んだと断言するわけ。決めつけてくるわけ。

ところが、大きなことに関しては「思ったって現実化するわけではない」と思ってしまうのである。

ちがうか?

まあ、思霊主義者で、「三秒以内に、すべての新型コロナウィルスが消滅すると思えば、それだけで、新型が消滅する」と思っている思霊主義者もいるかもしれない。

なら、思ってみろ。

三秒ジャストを含まず、三秒よりあとには結果が出ている。思うだけでかえられるなら、かえられたはずなのである。別に新型コロナウィルスに限ったことではない。

「これ以降、すべての病原体は消滅する」と言えば、その瞬間からすべての病原体が消滅するのである。

だから、この方法で、すべての病原体を排除すればよいのである。そうなれば、狭い意味で病気になる人はいなくなる。

しかし、病原体とは関係がない症状がある。そういう症状は、この言葉を思っても、消えない。

けど、「これ以降、人間はすべて、健康な状態で生きられる」と思えば、それで、健康な状態で生きられるようになるのである。

どうして、決めつけをしないのか?

思ったって、そうならないと思っているから、自信をもって決めつけることができないのである。

しかし、不幸な他人に関しては、「不幸なのは、あなたが不幸になると思ったから実際に不幸になったのだ」と決めつけてしまう。

どれだけ、かたよっているかわかるかな?

*     *     * 

「思う」だけで、問題が解決するなら、それは、いいことだ。

しかし、決めつけてよいのだろうか。

「思えば、思ったことが現実化する」という文は、一〇〇%構文の文だ。なので、「思えば、思ったことが現実化する」と言う人は、じつは、「思えば、すべての思ったことが一〇〇%の確率で現実化する」と言っているということになる。

「思ったこと」と「すべての思ったこと」は、イコールなのである。

イコールではないのなら、どうやって、思ったことのなかに、思わなかったことを含めるのかという問題が発生してしまう。

思ったら、思ったことなんだよ。思わなかったら、思わなかったことなんだよ。

まあ、おなじことを何回も書くのは、どうかと思うので、これ以降の説明は省略する。

*     *     * 

思霊主義者は、どんなことでも、思えば、思ったことが現実化すると言っているわけ。どういう条件でも、思ったら、現実化してしまうのだよ。……そういうことを言っている。

しかし、思ったって現実化しないことはある。

思霊主義者は、じつは、自分で行動して、自分の思いを現実化したときのことと、思霊の力で思ったことが現実化するということの区別をしていない。

これは、重要なことなのだけど、無視されてしまう。言霊主義者とおなじ構造が成り立っている。

思霊ではなくて、潜在意識という言葉を使う場合もあるけど、その話に出てくる潜在意識というのは、思霊に働きかけるものであって、なおかつ、思霊とおなじものなのである。

宇宙意識という言葉を使う場合もある。潜在意識が、宇宙意識に影響を与えるので、宇宙意識が、潜在意識の内容を現実化するというような説明を(一部の思霊主義者が)する場合もある。

潜在意識というのが、エセ科学タームなのである。似非(エセ)なのである。似非(エセ)科学ターム。ニセ科学ターム。

この話だけでも、その人たちは、ちっとも科学的な思考ができる人たちではないということが、あきらかだ。潜在意識についても、過去に書いたことがあるので、ここでは省略する。

*     *     * 

ともかく、思えば、思ったことが現実化するということを言うわけ。ところが、思霊によって、思ったことが現実化するということは、ないのである。思ったあと、思ったことが現実化することはある。

しかし、思ったから、思霊がしょうじて、思霊の力で、そのことが現実化したわけではないのだ。

思霊に関しても、言霊のように、「思ったあと」と「思ったから」の区別ができない人が多い。

この区別があいまいだから、「思ったあと」に「思ったことが現実化する」と「思ったから」「思ったことが現実化した」と思ってしまうのである。これは、間違いだ。

たとえば、ある人が「明日は雨になる」と思ったとする。そして、雨になったとする。この場合、ある人が「明日は雨になる」と思ったことと、実際に雨になったということは関係がないことなのである。

ある人が「思ったから」思霊が発生して、思霊の力によって、雨が降ったわけではない。

この場合の思霊は、念力のようなものなのである。あるいは、「念」のようなものなのである。

この「念」が実際の気象現象に影響を与えたとする考え方なのだ。

しかし、実際はちがう。

また、ある人が「電車が動く」と思ったあと、実際に電車が動いたとする。これも、その人の「動く」という念が、電車を動かしたわけではないのだ。

ともかく、相手がこまっていた場合、現実的な問題でこまっているのだから、「思えば、思ったことが現実化する」と助言してしまうことは、よくないことなのである。

失礼なことなのである。どうして、失礼かというと、相手が自分の状況について説明しても、相手が説明した状況を理解していないからなのである。

条件がある。

相手が条件について説明しても、思霊主義者は相手の条件を無視してしまう。相手の条件なんて関係なく、「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまう。

これは、ほんとうに、失礼なことだ。

*     *     * 

「思うだけで解決する」という前提でものを言う。

そして、相手が、思っても、解決できなかった場合には、「思い方が悪いのだ」ということを言い出すのである。

そして、「こころがけサブルーチン」や「こころがまえサブルーチン」に入っていく。ほんとうに、失礼なやつらだな。

*     *     * 

もともと、欲から出発しているのである。自分の欲望を、楽な方法で満たしたいので、思霊的な考え方が正しいと確信したのである。

ようするに、自分の欲望を、楽な方法でかなえたいので「思えば、思ったことが現実化する」ということを信じたのである。

まあ、自分の欲望……「我欲(がよく)」を満たすために「思えば、思ったことが現実化する……これは正しい」と確信したわけ。

だから、何度も言うけど、自分にとって都合がいい「欲のこころ」から出発しているわけ。

そして、ぬけぬけだから……思霊主義者本人には……わからないのだけど、自分が思っても、ぜんぜん現実化しないこともあるわけ。

ところが、いくつか、自分が思ったら、思ったあとに、思ったことが現実化したと思えることがあると、それで、自分には「思霊の力がある」と確信してしまう。

「自分はできる」と確信してしまう。

そして、相手はこまっているのだから、思霊による解決方法を知らない人だということになる。

だから、教えてあげるのである。

教えてあげるのだから親切なことだと思うわけ。

たとえば、タダで、教えてあげたら、親切なことをしたということになる……と思うわけ。

けど、ぬけぬけだから、思霊の力によって、現実化することはないということに、気がついていないだけなんだよ。自分で自分をだましている状態なんだよ。

問題なのは、我欲の塊なのに、人には「こころがけサブルーチン」や「こころがまえサブルーチン」で、えらそうなことを(他人に)言うことだ。

心がけサブルーチンや心構えサブルーチンには、さらに、「人のためサブルーチン」や「社会のためサブルーチン」や「言い訳をしないサブルーチン」や「人のせいにしないサブルーチン」が含まれている。

2026年6月14日日曜日

●努力論者において「努力」というのは全能感をまとったコンセプトなのである■社会※2026/06/14 13:54

精神世界の人というのは、やられたほうの落ち度を見つけ出して、やられたほうをせめるのである。

やられたほうに落ち度がなくても、落ち度があると決めつけて、妄想的なことを言うのである。

しかも、「絶対に正しい」と思っているので、間違ったことを言っているつもりがない。間違ったことをしているつもりがないのだ。

ぼくの経験の範囲で言うと、ここに書いたようなことを指摘してしまうと、たいていの精神世界の人がへそをまげてしまう。おこってしまう。かなりの高確率で、精神世界の人はおこる。

「絶対に正しい」と決めつけていることが批判されると、怒りの感情がわくようだ。

ところで、やられたほうの落ち度をつくってしまうというのは、相当にひどいことなのだけど、ほんとうに、やったって、別に気にしない。

ジャイアンになぐられたのび太のところで話したけど、精神世界の人は、洗脳されている。かなりの高確率でやられたほうをせめるというのは、なにも、たまたま発生していることではないのである。

相当に、洗脳されている。

このでたらめな態度……やられたほうの落ち度をつくってやられたほうに、妄想的な説教をするという態度は、つくられたものだ。

精神世界の人は、自分の波動があがったと思っているかもしれないけど、そういう言い方をするのであれば、むしろ、自分の波動がさがっているのである。

精神世界の人は、自分が真理に近づいたと思っているかもしれないけど、そういう言い方をするのであれば、むしろ心理から遠ざかっている。

条件が悪い人や立場が悪い人をせめるように、洗脳されている。

そして、これは、なにも精神世界に限ったことではないのである。一般的には、精神世界とは対極にある……ような感じがする……努力論も、じつは、条件が悪い人や立場が悪い人をせめるように設計された理論なのである。

そして、努力論における努力が、言霊理論における言霊のような役割をはたしているので、努力論の背後には、カルト的な前提がある。「努力」というのが、「言霊の力」とおなじように、すべての問題を解決することができるものとして、想定されているのである。

これは、おかしな想定だ。

しかし、「自分は努力して成功した」とか「努力をすれば成功する」とかと考えている人は、成功のゴールを自分で動かして、成功したつもりになっているので、別に、問題を感じない。

カルト的だとは思わないのだ。

しかし、努力が、すべての問題を解決してしまうような全能的な力であるように、想定されているということは、おかしなことだ。どうしてかというと、努力は全能的な力ではないからだ。

努力論者は、努力を、全能的な力として前提しているときがある。

たとえば、他人に言うときだ。他人のことであれば、他人の条件は無視できるので……他人に対して無理なことを言う場合がある。

この場合も、「無理なことを言っているつもり」はないのである。

言霊主義者が「言えば言ったことが現実化する」と自信をもって言っているときのように、努力論者も、「努力すれば成功する」と自信をもって言ってしまうのである。

相手の条件では無理なことに関しては、相手の条件は無視してしまうので「努力すれば成功する」と言ったとしても、特に間違ったことは言っていないつもりなのである。

ところが、努力で解決できる問題もあるけど、努力では解決できない問題もある。

すべての問題が努力で解決できるわけではないのに、「努力で解決できる」と、特に意識することなく、考えているということには問題がある。

努力論者において「努力」というのは全能感をまとったコンセプトなのである。

*     *     *

ここでも、自分が一倍速で経験したことと、他人が一倍速で経験したことは、ちがうのである。

もちろん、実際にちがうのだけど、自分が経験したことに関しては、一倍速の認知とメタ認知が成り立っているので、「無理なこと」と「無理ではないこと」を、意識することなく、区別することができるのである。

だから、「無理なことは、努力をしてもできない」ということは、どんなに頑固な努力論者でも、ほんとうは、知っているのである。

努力論者であっても、どれだけ努力しても、物理法則をかえることはできないということを知っている。

そして、自分の手に届かない、社会制度に関しては、努力で解決することができないと思っているのである。

もちろん、努力で解決できると思っている社会制度に関しては、努力をすれば解決できると思って、かえるように努力することはできる。

しかし、普通に企業で働いている人は、割と頑固な言霊主義者でも、政治家になって、制度をかえようとはしないのである。「自分にはできない」と感じているから、最初から、制度をかえるということを、志向しないのだ。

言霊主義者のところで、小市民的な感覚と万能感が、両立しているということを書いた。

たとえば、「政治についてがたがた言ってもしかたがないので、一票を投じて意思表示をすればいいのだ」というような小市民的な感覚と「言えば、言ったことが現実化する」という万能感が同居しているのである。

しかし、事柄に対するメタ認知が成り立っているので、最初から無理なものは無理だと思っているのである。ようするに、「どれだけ言ったって、政治なんてかわらないから、投票をするだけでいいのだ」ということになっているのだ。

しかし、たいていの言霊主義者は、「自分は、言い方がうまいから、物理法則もかえることができる」とどこかで思っているのである。言霊主義者は「なんだって、言えば、言ったことが現実化する」と思っているときもあるのである。

この乖離に、矛盾を感じないのである。時間的に、言霊に対する解釈が、入れ替わっている。

これとおなじことが、努力論者にも成り立っている。「努力すれば成功する」というのは、努力することが、無限の成功を保証しているという意味があるのである。無限なのである。

「努力をすれば成功する」という集合を考えた場合、「努力をすれば、制度をかえることに成功する」ということは、「努力をすれば成功する」という集合の部分集合になる。

だから、「努力をすれば、一〇〇%の確率で(かならず)制度をかえることに成功する」ということになる。制度をかえることに成功しなかったら、努力不足なのである。

あるいは、努力の方向が間違っていたということになる。

しかし、努力をすれば、一〇〇%の確率で(かならず)制度をかえることに成功するのだから、じゅうぶんでない努力でも、ただ、努力をするだけで、一〇〇%の確率で(かならず)制度をかえることに成功するのである。

もし、ほんのちょっとでも努力をしたのに、一〇〇%の確率で(かならず)制度をかえることに成功しなかったのであれば、「努力をすれば、制度をかえることに成功する」という文の意味が間違っていたということになるのである。努力の方向がちがう場合でもおなじだ。

これも、実際に、成功しなかったのであれば、「努力の方向が間違っているからだ」と考えるから、おかしなことになる。

これは、後出しで言っているだけだ。

後出しで正当化してしまう人は「努力をすれば、制度をかえることに成功する」という文の意味が、わかっていないということになる。

「努力をすれば、制度をかえることに成功する」ということを言ったのに、あとで、「努力の方向が間違っていたから、努力をしても成功しなかった」ということを言う人は、「努力をすれば、制度をかえることに成功する」という文の意味がわかっていないのである。

自分で言っていることの意味がわかっていない。

最初に万能感があることを言うのである。全能感と言ってもいい。すべての問題が、努力で解決できるわけではないのに、努力すれば解決すると決定してしまう。

自分のことに関しては、現実的な思考ができるけど、他人のことになると、現実的な思考ができなくなってしまうのである。

そして、他人のことに関しては現実的な思考をしていない場合でも、努力論者はそれに、気がつかないのである。

2026年6月13日土曜日

●おなじしくみが成り立っている■騒音※2026/06/13 22:55

ほんとうに、ほかの人がわからないくらいに、邪魔されてきた。

常に、「そこ」でヘビメタが鳴っていた。

そこだよ。そこ。押し入れの……うしろあたり。

けど、俺の部屋で鳴っているようにうるさいのである。

壁が透明だったら、ほんとうに「そこ」で鳴っている。

きちがい兄貴はまったく気にしていなかったけど、毎日、ずっと続く、騒音が、俺のすべてをうばった。まえまえから、きちがい親父ときちがい兄貴のあいだにあった、ハンダゴテ事件について説明してきたけど、きちがい兄貴の態度というのは、きちがい親父の態度とおなじだ。

絶対に、自分が発狂的な意地でやっていることで、相手がこまっているということを……認めないのである。

これが……いちおうは、認識するけど、自分にとって不都合なので、はねのけるというような状態ではなくて、認識しないまま、はねのけている状態なのである。

これが、やっかいなんだよ。

そんなの、ほんとうに、きちがいでなければ、絶対わかることなんだよ。きちがいだから、きちがい的な意地で押し通して、きちがい的な意地で押し通したということを、きちがい的な意地で認めない。

これ、すっぽぬけている。

どれだけバカな人だって、言われればわかることが、わからない。

これ、全力でわからなくて、全力で、押し付けているのである。

きちがい親父なら、使えないハンダゴテを全力で押し付けているのである。

きちがい兄貴なら、きちがい的な騒音を、全力で押し付けているのである。

きちがい親父は、きちがい兄貴に押し付けたハンダゴテのことで、兄貴がどれだけこまっても、かまわないのである。

これも、一度は、「こまったんだな」ということを認めて、一切合切かまわないのではなくて、そもそも、「こまった」ということが、どれだけ言われてもわからない状態なのである。

きちがい親父が、普通の親父だったら、絶対にわかることを説明されたのに、きちがい親父にとってそれを受け入れるのがいやなことだったので、きちがい的な方法で、認めないことにしたのである。

兄貴が、学校で恥をかいたというエピソードを話して、学校でも、技術科の教師から、「そのはんだごては使えない」と言われたということを、必死になって、説明しているのに、きちがい親父は「なんだ!そんなの!!!」「使える!!使える!!使える!!」と絶叫して認めないのである。

こういう意地なんだよ。

そして、兄貴が、「このはんだごては使えない」ということを説明したときも、 「使える!!使える!!使える!!」と絶叫して使えないということを認めなかったのである。けっきょく、一回目も二回目も、おなじ反応なのである。

もう、学校で戦線にバカにされ、ほかの生徒からも「こんなことがわからないのか」とバカにされて、返ってきたんだよ。これ、きちがい親父にかかわるとよくあることなんだよ。よその人は、「だいのおとな」がわからないはずがないと思っている。

だから、兄貴の説明が悪かったから、お父さんがわからなかったんだ」ということになってしまうのである。

そして、「兄貴がバカだから、このハンダゴテが使えないということをひとめ見てわからなかったのだ」ということになってしまうのである。

けど、あれに関しては、ほんとうに、わかるように説明していたのである。きちがい親父が、いつものきちがいモードではねのけただけなのである。

これ、きちがい兄貴は、悔しくて、悔しくて、きちがい親父と絶交したんだよね。こういうことは、よくあることなんだよ。けど、きちがい親父が一切合切気にしないのである。気にするわけがない。

そのくらいにズレている。きちがい親父は、きちがい的な意地でハンダゴテを押し付けて、事件を起こした犯人なのだけど、まったくかかわっている気持ちがないのだ。自分が傷ついたとしか思っていない。

この……「自分のカネで新しいハンダゴテを買ってやらなければならない状態を押し付けられた」ということが……パニックなのである。これが、ものすごいことなんだよ。全力ではねのける。

きちがい親父にとっては、自分の心臓をえぐられてとられたというような感じなのだ。そういう身体感覚で、発狂して、歯向かってくる。

発狂して、基本的なことを否定する。

この「基本的なこと」というのは、この場合は、ハンダゴテが使えないということだ。

これ、命にかかわることのように、重要なことなのである。認めたら、死んでしまうというような感じで、パニックになっているのである。

でっ、パニックになって押し通したことは、「やったってやってないこと」なのである。こういうところで、普通の人がわからないことをやっているのである

。きちがい兄貴は、毎日、ヘビメタ騒音で、普通の人がわからないことをやっていたのである。普通の人がわかるわけがない。

だいたい、きちがい兄貴が、きちがい親父のように、わかっていないのである。兄貴が、でかい音で鳴らしているということを認めないで、きちがい的な意地で鳴らした。基本的なことというのは、兄貴の場合、音のでかさなのである。

耳が正常なら絶対にわかることが、わからない。盲点になってわからない。きちがい的な意地でわからない。きちがい的な意地で認めないし、きちがい的な意地で認めなかったということを、きちがい的な意地で認めない。

だから、いつもやっているのに、いつもやっていないと思っている状態なのである。あるはい、「やってない」と思うような関心もない状態なのである。

それで、一秒間だってゆずらないぞという意地で、やりきる。やりきることに命がかかっているのである。きちがい親父と、きちがい兄貴はおなじなのである。おなじしくみが成り立っている。

*     *     *

普通の生活に関して、愛情飢餓感みたいなものがある。まさしく、飢餓感。これ、普通の生活をしていた人にはまったくわからない感覚だと思う。ぜんぜん、ちがう。ほかの人が考えているような騒音生活ではないのだ。ぜんぜん、ちがう。

ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音なしで、普通に暮らしたかった。きちがいヘビメタ騒音なしで、普通にデートをしたかった。恋愛をしたかった。

それは、できた。きちがいヘビメタ騒音がなければ、できことなんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っていたから、どうしても、できなことになった。

それから、ほかのやつらは、「騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできる」という前提でものを言うことがあるけど、できない。できないんだよ。

マイナスになってしまう。

おぼえたことも忘れてしまう。普段、何も教えてもらわなくても、自分考えてできる数学の文章問題でも、ヘビメタ騒音のなかで勉強してしまうと(勉強しようとしてしまうと)考えがおぼつかなくなってしまうのである。

まるで、『できなくなる練習をしているような』感じになってしまう。

ヘビメタ騒音のなかで見てしまったものは、考えがおぼつかなくなる。わからなくなる。自分が普通に、ヘビメタ騒音がなければ、一度目はできた問題でも、できなくなってしまうのである。

考えがおぼつかなくなる。こんがらがってわからなくなる。自信がなくなる。緊張して、頭がこんがらがる。きちがい兄貴や、きちがい親父とは、ちがう意味で、パニックになってしまう。

これ、ヘビメタ騒音が鳴っているときは、ずっとパニックになっているような状態なのである。

考えられない。

頭がこんがらがる。

すごい切迫感がある。

騒音の切迫感がある。

頭がこんがらがってできないという切迫感がある。

これ、やっただけ、おかしくなってしまうのである。できたことが……できなくなってしまうのである。 

*     *     *

 おなじところを、ぐるぐるとまわっている。何十年も前、おなじ感じで、さみしかった。 

●こいつらの態度は、こういう態度だ■騒音※2026/06/13 10:14

午後四時から考えても、きちがいヘビメタ騒音の一日というのは、悲惨なのである。

この悲惨さがわからないやつが「関係がない」「影響なんてない」「できると言えばできる」「あまえているだけだ」「いいわけをしているだけだ」と言う。言ってくる。

こいつらは……ぼくの経験の範囲で言うと……みんな、「自分だって苦労した」ということを言った。

しかし、自分のきらいな音が、実際に、あのレベルの音量で、きちがい家族が、なんだろうがの意地で、鳴らしている状態というのを経験したことがないのである。それが、何千日もずっと続くという状態を経験したことがないのである。

 一日目の騒音が与える影響と、五〇〇一日目の、騒音が与える影響がおなじだと思っている。ちがいがないと思っている。

だいたい、きちがい兄貴の行為を肯定している点で、すでに、こいつらに、正義はない。

きちがい兄貴の態度というのが、きちがい親父の態度とおなじなんだよ。「よそのいえ」の人は、きちがい兄貴の態度も、きちがい親父の態度もわかっていない。

きちがい兄貴やきちがい親父がどういう認知的な特徴をもっているのかも、わかっていない。ようするに、きちがい兄貴のきちがい感覚や、きちがい親父のきちがい感覚がわかっていない。

わかっていないのだから、わかっていないということを前提に話せばいいのに、わかっているつもりなのである。「ちゃんと説明すれば、お父さんだってわかってくれる」「ちゃんと説明すれば、お兄さんだってわかってくれる」……こういう言葉が、どれだけ、現実的ではない言葉か、こいつらはわかっていない。

そして、実際に、きちがい家族による、しつこい騒音が、続く状態で、生きたことがない。

こいつらは、ヘビメタ騒音に関する、一番重要な点を無視している。

ところが、無視しているつもりがないのだ。「そんなの、ちゃんと言えば、わかってくれるのに、ちゃんと説明しないからダメなんだ」と、やられているほうをせめる。こういう態度なんだよ。こいつらの態度は、こういう態度だ。

*     *     *

ヘビメタが好きな人やヘビメタが苦手ではない人は、ヘビメタを自分のきらいな音に置き換えて考えてみればいい。 

●こういうレベルのやつが、どれだけ多いか■社会※2026/06/12 14:32

ほんとうは、条件の悪い人を袋叩きにしているのに、やっているほうは、いいことをしていると思っているのだ。

こういう認知のズレがある。あるのだから、しかたがない。この人たち、条件の悪い人に……助言をしているつもりでいい気になっている人たち……が、この構造に気がつくかというと、気がつかないのだ。

この人たちは「俺だって、さんざん言われた」とか「わたしだって、さんざん言われた」ということを言って、お茶をにごしてしまう。自分がやられたことなら、ほかの人にやり返してもいいのか。

だいたい、ほんとうにいいことだと思っているのであれば、「俺だって、さんざん言われた」とか「わたしだって、さんざん言われた」ということを言い返さなくても、よいのではないか?

これ、自分がやられたとき、「不愉快な感じがした」という記憶があるんだよなぁ。

まあ、本人が意識しているか、意識にしていないかに関係なく、やられたときに、「不愉快な感じがした」から、ほかの人に……やり返している。

やり返しているだけなんだよなぁ。

まあ、けど、一見正しいそうに思えることは、「正しいこと」として、機能している。

これが問題なんだよ。問題だけど、ここに書いてきたようなことを、ほかの人に言っても、ほかの人は……たいていの場合……無視してしまう。こういうレベルのやつが、どれだけ多いか。

条件の悪い人を袋叩きにしているやつらが、どれだけ「人がいやがることはやめましょう」「人のせいにするのはやめましょう」「人に親切にしましょう」「ネガティブなことを言うのはやめましょう」「努力すれば成功する」「できると言えばできる」というようなことを言っても、こいつら自身が、悪い社会を生み出しているのだから、意味がない。 

 

2026年6月12日金曜日

●こういうきれいごとが言われる世の中は、不幸な世の中なのである■社会※2026/06/12 14:16

「すべては」という言葉を含まないのに、「すべては」と言っているのと、おな同じ効果がある言い方というのがある。

たとえば、「人のせいにしない」という言い方だ。この言い方は、根底では、「すべては自己責任」とおなじ意味がある。しかも、「人のせいにする」というネガティブな表現を使っているので、条件が悪い人を、ディスることができるのである。

相手のことを悪く言うことができる。

そして、こういうことを言う人が、「世の中のためになにかをやるということが必要」とか「人のためになにかをやることが必要」というようなことを言う。

たいへん、ポジティブな言葉なのだけど、「人のせいにしない人」が、頑張ると、不幸な人が増えるのだ。

ちょうど、いまの世の中のようになってしまうのだ。

こういうきれいごとが言われる世の中は、不幸な世の中なのである。

「どうしようもないこと」というのがある。そして、「迷惑をかける」という行為についても、ほんとうは、主体からの目線しかないので、当然、取りこぼしがある。

ようするに、きちがい兄貴のような人間が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で鳴らしても、本人は、迷惑をかけているつもりがまったくないというような状態があるのである。

その場合、騒音が一時間で終わってくれればやりようがあるのに、夜の一一時までずっと続いてしまうという状態だと、どれだけ頑張っても、やりようがないという状態になるのだ。

ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音の影響で、できなくなることがある。

そして、その人他は「人のせいにする」というようなことを思い浮かべる場合、長期間続くようなことではなくて、短期間で終了するようなことを、イメージとしては想定している場合が多いのである。

これだと、一回一回終わって、だーじが続かないようなイメージをもってしまうのである。ところが、毎日毎日ずっと続くことは、人を疲労させて、ずっと続く障害を生み出してしまうのである。ようするに、やられた人の身の上に、障害が生じるのである。

「だれだれのせいにする」という言い方は、たいへん「きたない」言い方で、責任の所在について、たいへん偏りがある言い方をしているのである。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんに対して、(神様目線で)迷惑をかけたとする。その結果、Bさんに障害が発生したとする。

このような場合と、AさんがBさんになにもしていないにもかかわらず(Bさん目線で)Aさんが自分(Bさん)に迷惑をかけたと(Bさんが)思って、Aさんのせいにするという場合は、ちがうのである。実際に、AさんがBさんに迷惑行為をしたかどうかというのは、重要なところなのだ。

さらに、どういう迷惑行為をしたかということが、重要なのだ。迷惑行為の質と量は、重要だ。

ところが、「人のせいにする」という表現を使うと、神様目線で、AさんがBさんに迷惑をかけた場合でも、「Bさんが人のせい(Aさんのせい)にしている」ということになってしまうのである。

「なにをやったのかということ」と「責任の所在」は、重要なことだ。

ところが、その性質を完全に無視して、勝手に『やられたほうが』妄想で、言いがかりをつけている言うような判断があるような言い方になってしまうのだ。

「だれだれのせいにしている」という言い方にはそういう効果がある。見えないけど、決めつけがあるのだ。

なにか責任の所在について問うている人がいたら、その人は「人のせいにしている」と決めつけてしまうところがある。「人のせいにしている」というのは、そういう効果がある。

まるで、ほんとうに、だれか他人の責任で被害を被ることが、この世にはないような言い方なのである。

だれか他人の責任で(自分が)被害を被ることはない……というような妄想的な前提が、その理論の底にある。背後にある。

2026年6月11日木曜日

●「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ■※2026/06/10 13:59

「人に親切にすること」と「人に親切にすれば幸福になる」ということは、ちがうことなんだよ。

たとえば、ある人がいるとする。その人が不幸だとする。不幸感がある生活をしているとする。

その場合、不幸感を生み出すような出来事が消失しなければ、幸福になったような感じがしないのである。幸福ではないのである。

「人に親切にすれば幸福になる」ということは、不幸をもたらす出来事が消失することを、意味しているのである。

とりあえず、不幸をもたらす出来事が消失することを、不幸だと感じするすべての問題が解決することだとする。

そうすると、人に親切にしただけで、不幸だと感じるすべての問題が解決してしまうことになるのである。

ところが、実際にはそんなことはないのである。「不幸だと感じるすべての問題」が、だれかほかの人に、一度でも親切にしただけで、解決してしまうなんてことはないのだ。

親切にするかどうかというのも、二値だ。まず、人に親切にすることが、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果があるのかどうかということを考えると、人に親切にすることには、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果がないということがわかる。

*     *     * 

ところで、ここでいろいろと書いてきたように、だれかAがだれかBに親切にしたつもりでも、Bが、たしかにAから親切にしてもらったと思わなければ、AはBに親切にしたことにならないのである。

だれかの頭のなかに、人に親切にする行為のイメージがあるとする。それを、とりあえず、その人にとっての親切行為だとする。この親切行為をすれば、かならず、人に親切にしたことになるかというと、そうではないのである。

いつでも、親切行為として成り立つ、理想的な親切行為があるような前提でものを言っているけど、ほんとうは、ちがうのである。

絶対に人に親切にしたことになる「親切行為」なんてものは、この世に存在しない。

ところが、「人に親切にするつもりで、なんらかの行為をすれば、それは、人に親切にしたことになる」という前提が……「人に親切にすれば幸福になる」という言い方には……ある。だからもう、その時点で、話が現実的ではないのだ。

*     *     * 

そして、「人に親切にすれば幸福になる」と言ってしまった場合、幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だというとになってしまうのである。

一度も、人に親切にしたことがないので、不幸なのだ。そういう人が、幸福になるには、人に親切にすればよいのだということになってしまう。

「人に親切にすれば幸福になる」というライフハックを口(くち)にしている人は……そういう話をしているつもりはないかもしれないけど、そうなるのである。 

ともかく、人に親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決してしまうわけではないので、人に親切にしても、幸福ではない場合がある。一回だけではなくて、何回も何回も人に親切にすればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。

しかし、何回も何回も人に親切にしても、不幸である場合がある。回数を増やすことでは、このことは、かわらない。

つまり、人に何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決しなければ、幸福にならないという性質は、かわらない。

「人に親切にすれば、運があがって幸福になる」と言う場合もおなじだ。「運があがった」ことで、不幸感をもたらす問題が解決しなければならないのである。

しかし、不幸感をもたらす問題が、「運がないと感じる状態」をつくっているのである。だいたい、人に親切にすれば、運があがるということが、正しいこととして語られているけど、人に親切にしても、運があがるかどうかは、わからない。

そして、運というのは、現実の写し絵なのだ。実際に、不幸な生活をしていれば、運がない状態で暮らしているということになる。親切にするというトリガーをひけば、自動的に、運があがるということになっているのだけど、それは、たしかなことではない。

実生活のなかでは、現実的な問題でくるしんでいる人が、たとえ、人に親切にしても、運があがらない場合がある。どうしてかというと、現実的な問題でくるしんでいる人が、人に親切にしても、その人をくるしめている現実的な問題が解決しないからだ。

たとえば、家族のヘビメタ騒音で悩んでいる人が……だれかに親切にしても、家族のヘビメタ騒音がかわらなければ、ずっと、その人は、幸福ではない状態で暮らすということになる。

だれかに親切にしたあとも、幸福ではない状態で暮らしているのだから、「運があがった」とは言えない。たとえば、家族のヘビメタ騒音にくるしんでいる人が、だれか、ほかの人に親切にしたら、きちがい家族が、ヘビメタをやめてくれるのであればいいのだけど、実際には、そうならない。

人に親切にしたから、それを神様が見ていて、その人の家族に働きかけて、ヘビメタ騒音をやめさせてくれるというのであれば、それでよいのだけど、それは、現実的な話ではない。

ところが、「運があがって」という表現がある文に関しては、たいていの場合、神様や神様に相当する存在が、不幸をもたらす問題を消去してくれるという期待があるのだ。

これは、単なる期待だ。

単なる期待なのに、単なる期待だとは認識されていないのだ。単なる期待なのに、単なる期待であるようには表現されていないのだ。

たとえば、「人に親切にすれば運があがる」という文も一〇〇%構文の文なのだ。すべての……「人に親切にする」ということにおいて、人に親切にすれば、一〇〇%の確率で運があがるのである。この「運があがる」ということが、また、問題なんだよなぁ。

その問題を考慮しなくても、一〇〇%構文で言ってしまうということには問題がある。

「人に親切にすると運があがって幸福になる」という文に出てくる「人に親切にすると運があがって」という部分が「人に親切にすれば運があがる」という文の意味内容を含有しているかというと、含有している。

「人に親切にすると運があがって」という部分が意味していることは、「人に親切にすれば運があがる」という文が意味していることを前提にしている。「人に親切にすれば運があがる」という前提がなければ、「人に親切にすると運があがって」とは言えない。

「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ。

「あがって」のあとに、なにかが語られる形式になっているけど、この形式を無視すれば、一度「人に親切にすれば運があがる」ということを、言い切っているということになる。

「人に親切にすれば、運があがる」という文は「Xをすれば、Yになる」という構造をもっている。「あがる」だから「なる」ではないのだけど、「あがる状態になる」ということにしておこうかな。

まあ、「Xをすれば、運があがる」ということにしておこう。「人に親切にする」以外にも、「掃除をすれば、あがる」とか「感謝をすれば、あがる」とか「パワースポットに行けば、運があがる」とか「おまいりすれば、運があがる」とか「なになに色の財布を使うと、運があがる」とか「こういう置物を玄関に置くと、運があがる」とかと、いろいろとある。

「運があがる」と言い切っているけど、「運」なるものが「現実の写し絵」であり、「空想上のもの」なので、はっきりしないのだ。

これは、勝手に言い切っているだけだ。本人が、そういうふうに思っているということを言っているにすぎない。しかし、一〇〇%構文の文なのである。

これは、やばい。法則性がありそうな一〇〇%構文の文だ。

この一〇〇%構文の文というのは、「自分の場合、運があがったよ」ということを意味する文ではないのだ。

あるいは「運があることがある」ということを意味する文でもないのだ。

すべてのXをすることにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがるということを意味している。

ようするに、「Xをすれば、運があがる」という文は、「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」のである。あがらないことはないのである。

何回もやらないとあがらないということもないのである。一回でもやれば、かならず、運があがるのである。

どれだけ、へたくそなやり方でやっても、かならず、運があがるのである。その行為をやったのに、運があがらなということはないのである。

次に「運があがれば、幸福になる」という文について考えることにする。

この文も一〇〇%構文の文なのである。「運があがれば、幸福になることがある」ということを言っているわけではないのだ。「運があがれば、一〇〇%の確率で幸福になる」のである。

「運があがったのに、不幸だ」ということは、ないのでる。運があがれば、かならず、幸福になるのである。運があがったのに、不幸なことが起こるということはないのである。

かならず、幸福になって、そのあとも、幸福になったまま、すごせるのである。

だって、運があがれば一日目は、幸福になるけど、二日目には不幸になるということになっているのであれば、「幸福になる」とは言えない。イメージとしては、効き目は、永遠なのである。イメージとしては、幸福になったままなのである。イメージとしては、そのあと、不幸にならないのである。

イメージとしては、不幸になることはないのである。

……まあ、イメージの問題なんだけどね。

幸福になったあと、効き目が切れて、不幸になる場合があるということは、想定されていることなのだろうかね?

それとも、想定されていないのかな?

どっちかな。

まぁ、効き目の持続期間のことは、問題にしないことにしよう。

「幸福になる」と言っているだけで、そのあと、不幸になるかもしれないけど、一時的には幸福になるのだから、「幸福になる」という表現で問題がない……と考えることもできる。

しかし、一時的に、一度は、一〇〇%の確率で幸福になるのである。

「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文は、「Xをすれば、運があがる」という一〇〇%構文の文と、「運があがれば、Yの状態になる」という一〇〇%構文の文を、組み合わせた文になる。

ふたつとも、一〇〇%構文の文だ。

「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」し「運があがれば、一〇〇%確率でYの状態になる」のだ。「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文の意味は、そういう意味になる。

だから、この場合も、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を無視しているということになる。

言霊主義者が、『区別』に書いたことを理解していないのとおなじだ。

「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」と言っている人は、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を理解していない。区別をあいまいにして、ひとつの文に、ちがった意味を込めて使っている。

言っているほうも、聴いているほうも、区別をしないのだ。

これじゃあ、話にならない。

「Xをすれば、運があがることだってある」という意味で、「Xをすれば、運があがって、幸福になる」と言っている人は、その時点で、間違いをおかしている。

間違いなんだけど、本人は気がつかない。

2026年6月10日水曜日

●言ったことの内容は、じつは、制限を受けるのである■言霊※2026/06/05 4:25

たとえば、Aさんがいたとする。Aさんが「おっぺけぺ」と言ったあと、かならず、よいことが起こるということを経験したとしよう。

その場合、「おっぺけぺと言うこと」と「よいことが起こる」ということは、関係性のあることになる。

時間的に、「おっぺけぺと言うこと」ことが先で、「よいことが起こる」ということが、あとだ。Aさんは「おっぺけぺ」と言ったあと、比較的短い時間のなかで、結果を得ることができた。

はたして、「おっぺけぺ」と言ったということが、その結果を引き寄せたのか、「おっぺけぺ」と言ったということと、結果はまったく関係がないのか、それは、わからない。

たぶん、「おっぺけぺ」と言ったということは、結果を引き寄せたということと、まったく関係がないと思う。

しかし、「おっぺけぺ」と言うことで、いいことが起こるということを信じた結果、Aさんが、実際の行動をすることができたなら、おっぺけぺと言うことは、Aさんにとっては、意味があったことなのだと思う。

しかし、これは、言霊の力ではない。

これは、「おっぺけぺ」の「言葉の力」だ。

自己暗示がいい影響を与える場合は、言霊の力がいい影響を与えたのではなくて、言葉の力がいい影響を与えただけだ。言霊主義者は、このことを、誤解してしまう。

言霊の力ではなくて、言葉の力なのだ。

このことは、個人の範囲において、言葉が、いい影響を与えることがあるということを意味しているだけだ。

前にも書いたけど、この言葉の力で、物理法則をくつがえすことはできない。

言霊の力は、物理法則も(言うだけで)くつがえすことができる力として想定されている。

想定されているだけで、もちろん、言霊なんてないし、言霊の力で、物理法則をくつがえすことはできない。言霊主義者は、言葉の力があるということを示す例をあげて……「だから、言霊の力はある」ということを言う。

ようするに、言霊の力と、言葉の力の区別ができていないのだ。

自分が「元気だ元気だ」と言ったら、元気になったような気がしたとする。これも、言霊主義者によれば、言霊の力によって元気になったということになっているのだけど、これは、言霊の力ではなくて、言葉の力によって元気になったような気がしたということを意味している。

このような場合、身体の機能をこえて、言葉が体に影響を与えることがないのだ。

たとえば、「三秒以内に、月が爆発する」と言ったとする。言霊理論に従えば、「三秒以内に、月が爆発する」という言葉に宿っている言霊の力によって、「三秒以内に、月が爆発する」のだ。

ところが、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」というのは、自分の身体のなかで起こることなのである。

そして、瀕死の重傷のとき、「元気だ元気だ」と言えば、すぐに、元気になるわけではない。瀕死の重傷のときだけではなくて、睡眠不足でものすごくつかれている場合も、「元気だ元気だと言っても、元気になるわけではない。

ところが、自分が……「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という例から、「言えば言ったことが、言霊の力によって現実化するという言霊理論は正しい」という結論を導き出した人がいたとする。

言葉の力を示す例から、言霊の力があるという判断をしたのだ。

この判断は間違っている。

「元気だ元気だと言ったら、元気になった」ということから、「言霊理論は正しい」と判断することはできない。

それだと、「三秒以内に、月が爆発する」と言えば、「三秒以内に、月が爆発する」いう言葉に宿っている言霊の力によって、「三秒以内に、月が爆発する」はずだ。

ところが、爆発しないのである。

これは、言霊主義者が、言霊と言葉の意味を区別していないという特徴から発生することだ。

本人が、言葉の意味をよく理解していないのである。

そして、推論が間違っているのである。

残念ながら、間違った飛躍がある。

言霊理論において、「言う内容」に関しては、いかなる制限もないのである。ほんとうは、元気になることや?元気になったと思うことに関しても、言霊の力ではなくて、言葉の力が影響しているだけなのだけど、ここでは、話をすすめるために、いちおう、言霊の力で元気になったとする。

たとえば、Aさんが、言霊主義者で、Aさんが「元気だ元気だと言ったら、元気になった」とする。この場合、Aさんがその言語を理解している人間だという条件や、Aさんの体が、普通の人間の体として成り立っているという条件が、ある。

だから、条件付きの話なのだ。条件付きの「例」なのだ。ところが、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という場合は、一〇〇%構文になり、条件に関係なく、どんな場合でも、言ったことが……(言霊の力によって)現実化するということになる。

実際のAさんの例では、Aさんの身体や、Aさんの言語能力という制限があるのである。

これらが、見ない条件として、成り立っているのである。見えないというよりも、言霊主義者が、無視する条件として成り立っているのである。

言ったことの内容は、じつは、制限を受けるのである。

制限を受けるのだけど、制限を受けないと思い込んでいるのである。「言えば言ったことが、現実化する」という理論を信じている人は、制限を、無視してしまう。制限について考えることができない状態になっている。

ほんとうは、Aさんが人間だという条件があり、Aさんが日本語を理解する能力があるという条件があり、Aさんの体は、普通の体であり、ある程度のストレス対応力があるという条件がある。

こういう条件を無視して、すべての条件で成り立つことを言ってしまうのこと自体が、間違いなのだ。条件付きの例から、条件なしの法則性があるような文を導き出してしまうということ自体が、間違いなのだ。

これ、覚えておいたほうがいいよ。

*     *     *

元気だと言ったら、元気になった感じがしたとする。元気になった感じがしたので、ある行動をすることができたとする。言霊主義者は、このような例をあげて……「だから、言霊理論は正しい」と考えしまう。けど、いろいろなところで間違っている。

まず、元気だと言ったら元気になったと(本人が)感じたのは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。そして、「言えば言ったことが現実化する」というのは、一〇〇%構文の文なんだよ。だから、すべての言った内容が、一〇〇%の確率で現実化するということになる。

ところが、元気だと言っても、元気にならないことがあるのである。

だから、その点でもちがう。

そして、「言えば言ったことが現実化する」という表現は「言う内容」に関して、制限を受けない表現になっている。これだと、物理法則に反したことでも、現実化するということになってしまうのである。

どうしてかというと、物理法則に反したことも、言えるからだ。言った内容が、物理法則に反したことであったとしても、言ったのだから、現実化するということになる。

「言えば、言ったことが、現実化する」という文は一〇〇%構文の文なので、そうなるのである。これは、完全に理論的な問題で、感情的な問題じゃないんだよ。

そして、元気だと言ったら、元気になった感じがしたので、ある行動をとることができたということに関しても、いつも、元気だと言えば、元気な感じがして、その「ある行動」をとることができるのかというとそうではないのだ。

言霊主義者は無視しているけど、本人の体調で「元気だ」と言っても、元気にならず、その「ある行動」をとれないときがあるはずなのだ。

言霊主義者は無視しているけど、いつも、「元気だ」ということで、そのあと、すぐに「ある行動」ができるとは限らない。

けど、「元気だ」と言えば、いつも、一〇〇%の確率で、そのある行動ができると思っているのである。

関連性ということを考えると、「元気だ」と言ったことによって、ある行動をすることができたのだから、「元気だ」と言ったことは、ある行動をすることができるようになることに影響を与えたということができる。

しかし、それは、それだけなのだ。

そのとき、そうだったということだけだ。

一〇〇%構文で、法則化できるような出来事ではないのだ。

こういうことを問題にしなくても、「元気だ」ということで、元気になったような気がしたというのは、言葉に関係した作用であって、言霊に関係した作用ではない。

なんで、これがわからないのか? 

2026年6月9日火曜日

●(1)対(1)と(多)対(1)■社会※2026/06/05 9:05

 (1)対(1)と(多)対(1)について、書いておこう。


たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れただけで、努力→←成功(努力する人は成功者だ・成功者は、努力する人だ)というパターンと非・努力→←不成功(努力しない人は不成功者だ・不成功者は努力しない人だ)というパターンのふたつの対になるパターンが、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。

努力→←成功ということが一つのペアをつくっているし、非・努力→←不成功ということが、ひとつのペアをつくっている。

この場合、(1)対(1)ということになる。

努力と成功がペアをつくっており、非・努力と不成功がペアをつくっているのである。

しかし、まえにも説明したように、努力だけが成功の要素ではないのだ。

さまざまな条件や、才能が、成功するかどうかを決めている場合がある。努力をしなくても、成功する人は、成功する。才能があり、さまざまな条件に恵まれていたら、努力をしなくても、成功する。

だから、ほんとうは、(多)対(1)のパターンにならなければならないのだ。

才能だけが成功するかどうかを決めると考えている人は、才能と成功のあいだに一対のパターンをつくりだしていて、そのパターンにあった世界観をもっている。

その世界観をもっている人にとっては、成功していない人は、才能がない人なのである。

そういう、基準で他人について考えてしまう。

努力ではなくて、才能について考えてみよう。 

「才能があれば成功する」という言葉を受け入れただけで、才能→←成功(才能がある人は成功者だ・成功者は、才能がある人だ)というパターンと非・才能→←不成功(才能がない人は、不成功者だ・不成功者は才能がない人だ)というパターンが、「才能があれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。

いろいろと問題があるのだけど、特に問題があるのは(不成功者は才能がない人だ)というパターンが頭のなかにできてしまうことだ。

そうすると、人を見るとき、そのパターンの内容に従って人を見るようになってしまうのである。

ようするに、「見なし方の問題」が発生する。「才能があれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。

*     *     *

「努力をすれば成功する」ということに関しても、おなじことが言える。「努力すれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。

成功していない人を努力をしない人だ(努力をしてこなかった人だ)と見なしてしまうのである。

一度、そういうふうに見なしてしまうと、その人(本人)にとって、成功をしていない他人は、「実際に、努力をしてこなかった人だ」ということになってしまうのである。

その人の頭のなかではそうなる。

*     *     * 

ほんとうは、「努力をする」ということは、一意には決まらない。そして、「成功する」ということも、一意には決まらない。「才能がある」ということも、一意には決まらない。

しかし、そういうことに注意を向ける人はまれだ。以降、とりあえず、かりそめの話なのだけど、「努力をする」ということも「成功する」ということも、「才能がある」ということも、一意に決まるという前提で話をする。ほんとうは、ちがう。

だから、(1)対(1)とか、(多)対(1)ということを言ったって、それは、一意に決まらないのだから、意味がないということになる。

ほんとうは、(多)対(1)なのだけど、(1)対(1)の関係を言うことによって、ほかの要素を無視するように、誘導するのだ。

そして、逆の関係を暗示する。逆の関係が、言っている人に優越感を与えるようになっているのだ。

たとえば、「努力をすれば成功する」と言っているときは、『自分は努力をしたから、成功した』という気持ちがあるのである。そして、自分は説教をする資格があるという気持ちになっているのである。

『成功』のゴールをずらせば、他人から見て、どれだけ成功していないように見える人でも、人に説教をしているときは、本人は『自分は成功した』と思っているのである。

相手は、成功していない人間なので、努力をしてこなかった人間だということになる。だから、説教をしてもいいのである。

そして、各種サブルーチンに入っていく。「こころがまえができていないから、努力をしても成功しないのだ」ということを語りだすのだ。

こういうしくみが最初から成り立っている。

相対的に条件が悪い人を苦しめるようになっている。相対的に条件がいい人が、自分は成功したつもりで、相手にダメ出しをするようになっている。

たとえば、「努力をすれば成功する」というい言い方は、説教をする人に、そういう権利を与えてしまう言い方なのである。

2026年6月8日月曜日

●自分が理解できないことを言う人のことは、「なんとか障害者」にしてしまう■社会※2026/06/08 18:32

一意に決まらないということだって……。これからちょっと、空想のたとえ話をする。

たとえば、ぼくが、現実世界で「一意に決まらないというのは、問題だ」と言ったとしよう。現実世界のやつらというのは、「くだらないことを、言いやがって」とか「○○障害だから、へんなことにこだわる」というようなことを言う可能性がある。

俺が、ヘビメタで無職だというとになっていて、俺がヘビメタ騒音で無職だということを、こいつらが知っていたとしよう。

まあ、「ご職業は(なんですか)」という質問は、はじめてあった人に訊くことが多い。

俺が、嘘を言わずに、無職である理由を話そうとすると、どうしても、ヘビメタ騒音のことが(話に)出てきてしまう。ともかく、嘘をつきたくないから、正直に無職だと言ったとする。

そうなると、こいつらは、自分のなかにある無職の偏見にあわせて、ぼくの言っていることを解釈してしまうのだ。

きちがいヘビメタで学歴がなく、きちがいヘビメタで通勤する体力と通勤する睡眠力をなくしてしまったので、働けない状態になっているのだけど、そんなことは、理解しないのだ。

昨日も書いたけど『そんなの関係がない』とか『そんなに鳴っているのに、家族がやめさせようとしないのはおかしい』とかと思ってしまうようなやつらばかりなのである。

ともかく、無職であれば、無職であるということだけで、こいつらは、ぼくのことを、バカにして、下に見てくる。こいつらの理解力は、言霊主義者とたいしてかわらない。

「一意に決まらないというのは、問題だ」ということについて、ぼくがここに書いてきたようなことを、説明したとする。

そうすると、「くだらないことを、言いやがって」とか「○○障害だから、へんなことにこだわる」というような反応がかえってくる可能性はある。

こいつらが理解できないだけなのに、俺がバカだということになってしまうのだ。こいつらが理解できないだけなのに、俺が「○○障害だ」ということになってしまうのだ。

俺が、博士号をもっていたら、こいつらは、こんな反応はしない。

だから、そういうことも含めて……きちがい兄貴に、「ヘビメタを鳴らさないでくれ」「しずかにしてくれ」ということを、何万回も、十数万回も言ったのに、きちがい兄貴が、親父のようなきちがい感覚で、無視してしまったのだ。

鳴らし続けてしまったのだ。これだって、あいつらの常識から考えれば、へんな話だから、「エイリの言っていることはへんだ」とか「エイリの言っていることは嘘だ」とかと、思うやつがいても、まったく、不思議ではない。

実際、リアル世界で、こういうことはあった。

「一意に決まらないというのは、問題だ」ということに関する反応は、ぼくが勝手につくりあげたものだ。空想の話だ。

けど、こいつらの態度というのは、こういう態度だ。

ぼくが言ったことを、ちゃんと理解しようとしない。相手の属性で、態度をかえる。言ったことではなくて、相手の属性で、「あの人が言ったことは正しい」とか「あの人が言ったことは間違っている」ということを決めてしまう。

ちなみに、○○障害というのは、悪く言うための用語みたいなものだ。なんでも、「なんとか障害」と言ってしまえば、それで、言い当てたような気分になる。

悪口のためのタームで、特に、意味がない。ぼくが、実際に「○○障害者に見えること」をやったのではないのだ。

自分が認めたくないことや、自分が理解できないことを言う人のことは、「なんとか障害者」にしてしまう。

軽く悪口を言うための、言葉なんだよね。なんとか障害者……というのは。

きちがいヘビメタで、通勤ができない体になって、ほんとうに、不愉快なことを言われた。ゆるせない。

きちがい兄貴も、不愉快な発言をしたやつも、ゆるせない。こういうことをしたやつらですら、別の場面では「人の言うことなんて気にしなければいい」なんてことを言うのだ。

どれだけ……。どれだけ……。

*     *     *

 自分が理解できないことを言うやつは、「なんとか障害者」にしてしまう……ということを書いたけど、相手が自分よりも地位が高い場合は、もちろん、そんなことはしないのである。あくまでも、相手が自分よりも地位が低い場合に、そういうことをするということだ。

地位の高低というのは、その人がそう思ったらそうなのである。たとえば、自分はアルバイトだけど、働いているから無職よりも地位が高いと思ったら、自分のほうが地位が高いと思うわけだから、自分が理解できないことを言う人は、「なんとか障害者」なのである。

自分が理解できないことを言ったとしても……相手が学者だったら、そういう態度にはならない。

*     *     *

学生時代から、ほかの人に誤解されることはいっぱいあった。ヘビメタ騒音のことを言っても、言わなくても、ヘビメタ騒音の影響があり、ぼくの状態や、ぼくの行為に影響を与えていた。

無職ということでせめられるのは(時期的に)あとのことだけど、ほんとうにいろいろなことが発生した。

きちがいヘビメタ騒音の影響をけてしまう。前の日のきちがいヘビメタ騒音の影響を受けた朝になってしまう。昼になってしまう。午後になってしまう。

それに、たとえば、ほんとうにヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題すらできないのだけど、宿題ができなかったということは、次の日の一日に影響を与える。

ヘビメタ騒音が、あの音圧で、あの音量で鳴っていると、ほんとうに宿題ですらできなくなってしまうのだけど、先生も含めて、まわりの人は、「できなくなる」ということを認めない。遅刻もしてしまうようになるのだけど、遅刻しないでちゃんと通うことができなくなるということを、まわりの人は認めない。

みんな、けっきょく、きちがい兄貴のような人間と一緒に住んでいないから、きちがい兄貴のような人間がやることを、毎日、押し付けられていない。

ヘビメタ騒音は、押し付けられたことなんだよ。俺がどれだけ言っても、きちがい兄貴がやめてくれなかったんだよ。その意味で、制御できないことなんだよ。

きちがいのレベルで鳴らしてしまうと、どうしても、どうしても、普通の音で鳴っているわけではないから、影響を受けてしまうんだよ。

影響を受けてしまうと、「できないこと」が増えるのだけど、よその人は、きちがい的な家族と一緒に住んでいるわけではないから、きちがい家族が、しつこくしつこく、毎日毎日、もたらす、騒音のことについて知らない。

そりゃ、だれだって、騒音を経験したことがあるのだけど、そういう騒音とは、ちがう騒音なんだよ。

けど、経験をしていないからわからない。

経験をしていないから「どうしてもできなくなる」という部分がわからない。そうすると、自分ならできるという前提で、クソを言ってくるようになる。なめたことを言ってくるようになる。これは、学生時代から、かわらないことなんだよ。

●「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」■言霊※2026/06/02 8:36

「言えば、言ったことが、(言霊の力によって)現実化する」と思っているのに、「人間は働くべきだ」と思っているのである。

そして、「特権階級の人は、労働をしなくてもいい」と思っているのである。「特権階級ではない人は、労働をするべきだ」と思っているのである。

特権階級ではない人が、労働をしないのはけしからん」と思っているのである。

特権階級ではない人が、労働をしないのはけしからんと思っているのであれば、言霊の力を使って、労働させればよいのである。

言霊の力を使うのは、簡単だ。言えばいいのである。「これ以降、特権階級ではない人は、すべての人が労働をするようになる」と言えば、言っただけで、言霊の力によって、「特権階級ではない、すべての人」が労働をするようになる。

言っただけで、自分が思った通りの社会をつくることができるのだ。

話をすすめるために、一時的に、「特権階級」云々のことは、どうでもいいとする。

ともかく、言霊理論が正しいなら、「これ以降、すべての人が労働をするようになる」と言いさえすれば、赤ちゃんも、重病人も労働をするようになる。

自分が……「他人が働かないことに不満をもっている場合」……は、言うことで解決できるのだ。「これ以降、自分以外のすべての人が、働くようになる」と言ってしまえば、言霊の力によって、自分以外のすべての人が、働くようになる。

例外はない。

赤ちゃんだって、働く。病人だって働く。

「自分以外のすべての人が、働くようになる」と言ってしまったのだからそうなる。

ところが、そんなことは、できないので、「働かないやつは、けしからん」と「愚痴」を言うようになるのである。

*     *     *

ブラック社長は、言霊主義者だ。言霊主義者なら、説得する必要がないのである。たとえば、名前だけ店長が「もう、これ以上、サービス残業はしません」と(ブラック社長に)言ったとする。

そうしたら、ブラック社長は「できるできると言って頑張ればいい」と名前だけ店長を説得することになる。

説得して、サービス残業をさせようとする。

しかし、言霊理論が正しいのなら、「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」と、どこかで、言ってしまえば、それで、 「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」ことになるのである。

名前だけ店長の意志を無視して、言霊の力によって、名前だけ店長は、サービス残業をすることになるのである。

言霊理論が正しいなら、そうなるのである。

間違っているから……言霊理論が間違っているから、ブラック社長は……言霊理論が背後にある……「できるできると言って頑張ればいい」ということを、名前だけ店長に言うことになるのである。

言霊理論が前提であることを言って、名前だけ店長を働かせようとするのである。

ほんとうに、言霊理論が正しいのであれば、「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」とトイレのなかで言ったって、「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」ことになるのである。

別に、名前だけ店長に言わなくても、ブラック社長がトイレのなかで「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」と言いさえすれば、名前だけ店長がどう思っているかは、関係なく、言霊の力が作用して、名前だけ店長は、サービス残業をすることになるのである。

言霊理論が正しいなら、そうなる。

なので、言霊理論が背後にある言葉を言って、相手を説得する必要などはないのである。言霊理論が正しいなら、相手を説得する必要なんてない。

ところが、言霊主義者は、言霊の力を使って、相手の行動をかえようとせず、相手を説得することによって、相手の行動をかえようとするのである。相手がいないところで、ひとりで……自分が……「相手はこうなる」と言ったって無駄だと考えているということを意味している。

これは、言霊主義者が、じつは、言霊理論を信じていないということを意味している。こういうところでも、「ぬけぬけ」なのである。

最初から「ぬけぬけ」なのである。

2026年6月7日日曜日

●基本的なことを言えば、ヘビメタ騒音の問題を解決できなかった■騒音※2026/06/07 18:53

ちょっとだけ、片づけをした。

しかし、つまんない。

どうすることもできないなぁ。動画も、もう、見飽きたしな。どうしようかな。いろいろと不愉快なことが、浮かんでくる。連想のきっかけがあるものもあるし、連想のきっかけがないように見えるものもある。

「なんで、急に思い出すのだろう」と思うことも、ある。

しかし、このさき、どうすればいいんだ。ぼくは、もう、できるだけのことはやった。

けど、基本的なことを言えば、ヘビメタ騒音の問題を解決できなかった。

体がこわれてしまうような最大限の力をしたけど、ヘビメタ騒音が次から次へと、注ぎ込まれた。

ほんとうに、ボロボロだった。

普通の理解度は、言霊主義者の理解度と、だいたい、おなじだ。

普通の人は、自分のことではないので、無理解ぶりを発揮した発言をする。

さらに、実際にきちがいヘビメタ騒音にやられて、俺の学業成績がさえないものになると、いろいろなところで、立場がない思いをした。さらに、通勤・通学ができなくなれば、もっといろいろなところで、立場がない思いをした。

約一〇割の人が、みんな、無理解ぶりを発揮した発言しかしない。約一〇割の人が、みんな、ほんとうに、「なめたこと」を言ってくる。

約四割が、「俺(エイリ)が言っていることは、嘘だ」と思っているやつらだ。そして、約六割が「そんなの関係がないと」思っているやつらだ。

ぼくの経験の範囲で言えば……みんな、「自分だって苦労した」と言う。それで、ほんとうは、経験していない、ヘビメタ騒音レベルの苦労を均質化・同質化・同量化・同期間化してしまう。

一度、均質化・同質化・同量化・同期間化してしまえば、自分は同レベルの苦労をしたけど、ちゃんと、通勤・通学しているという立場から、えらそうなことを言えるようになるのだ。

『同レベルのことを経験したのに、自分は、なんとか通勤・通学しているから、エイリよりも、絶対にえらい』と思ってしまう。

それに、カルト思考が付け加われば、自分のことは棚にあげて、めちゃくちゃなことを言ってくるようになる。

しかも、『自分はエイリよりも、すぐれている』と思っているせいか、ゆずらないのである。

どれだけちゃんとした説明をしてやっても、カルト思考がぬけないのだ。

ぼくの経験の範囲で言えば……彼らは「絶対に正しい」と主張してゆずらなかった。

きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らしていたときも、絶対にゆずってくれなかった。きちがい兄貴も、言霊主義者も、ゆずらないのである。きちがいの壁と、バカの壁を感じる。

*     *     *

一日分だけでも、どんだけ、ボロボロになるか、みんな、わかっていない。例外的な人も、自分で体験したわけではないから、わからない。期間が長すぎる。「関係がない」わけがない。

これ、ほんとう、「関係、ない」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。「なんだ。そんなの」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。「ヘビメタ騒音が、なんだ」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。

一日だけでも、たいへんなのに、何千日も、続いていいわけがない。土曜も日曜も、祭日も、夏休みも、冬休みも、春休みも、全部、やられた。ずっと、続いていた。

きちがい兄貴が熱中していたにしろ、やり方が、きちがいなんだよ。

まったく、気にしないということが、親父とおなじレベルで、きちがいなんだよ。親父とまったく、おなじやり方なんだよな。実際に、時間を、とられた。

これ、どれだけなにを言ったって「負の時間」なのである。これも、まるで、俺が悪いみたいに言うやつからがいる。「俺(エイリ)が気にしすぎだからダメなんだ」というようなことを言うやつもいた。

しかし、こいつらが(この世で一番)きらいな音を、あの音のでかさで、あの至近距離で、ずっと何時間も何時間も鳴らされたら、こいつらにだって、わかるよ。

そして、こいつらは、きちがい兄貴のしくみがわからないから、「俺だったら、(兄貴を)しずかにさせることができた」ということを言う。これも、屈辱だ。こんなの、きちがい兄貴がきちがいだから発生したことだ。

こんなやつらに、いいように言われなければならないというのは、屈辱だ!! 

*     *     * 

きちがい兄貴のしくみも、きちがい親父のしくみも、約一〇割のよその人は、理解しない。「きちがい兄貴がきちがい的な意地でやり続けてきたこと」と「普通の人の常識」のあいだに、はさまれて、俺が、不愉快な思いをし続けた。

限界がある。

どれだけ我慢しても、限界がある。

●これ、条件が悪い人をおいつめる理論なのだ■言霊※2026/06/07 8:16

「俺が、すぐに停電はなおると言ったから、すぐに停電がなおった」と言ったやつだって、電気の力に頼り切って暮らしているのだ。「家電」に頼って暮らしている。

「家電」を使って暮らしている。

たいていの言霊主義者は、「家電」は「電気で」動いていると思っている。「家電」は「言霊で」動いているとは思っていないのだ。

冷蔵庫、クーラー、パソコン、テレビ、ラジオ、プリンター、スキャナー、スマホ、電熱レンジ、HIレンジ、電子レンジ、電子蚊取り器……全部、電気で動いていると思っている。

言霊の力で動いているわけではないのだ。

家電はすべて……故障しても、「三秒以内に、なおる」と言えば、なおるのだ。

言霊の力によって、なおる。

ところが、「俺が、すぐに停電はなおると言ったから、すぐに停電がなおった」と言ったやつだって、冷蔵庫が故障したら、言霊の力でなおすのは、無理だと思っているのだ。

この矛盾に(本人は)気がつかない。

自分にとって都合のいいときは、「言霊の力でこうなった」と思って、うたがわない。そして、別の意味で自分にとって都合のいいときは「修理をしなければならない」と思うのだ。

あるいは、「これはもう、だめだから、買い替えよう」と思うのだ。

さらに、こまかく、電気代のことを気にしたりする。

言霊の力を使って、おカネを出せば、電気代なんて、関係がないわけ。「自分の口座に一億円振り込まれる」と言えば、言霊の力によって、そうなるのだから、電気代のことなんて、まったく気にする必要がない。

ところが、人には「言霊は正しい」「言霊は絶対だ」と言うのに、電気代のことを気にして生きているのである。

電気代なんて、言霊でどうにでもなるだろ。

それどころか、電気で動くものを、全部、言霊で動かせばいいのだ。厳密に言えば、言霊で動かすというよりも、言霊の力で動かすと言ったほうが、正しいのだろう。

けど、おなじことだ。

家電は、電気の力で動いている。

言霊主義者だって、それを知っている。

ところが、「言霊は正しい」「言霊は絶対だ」と言ってしまう。「言霊は正しい」というのは、「言霊理論は正しい」という意味だ。

こんな、妄想的なことを大威張で、言ってしまうやつが、ヘビメタ騒音でこまっている俺に、「無理なことを」言ってくる。

「言い方が、へたくそだから、現実化しない」と言ってくる。

きちがい兄貴の行動が問題なのに、「エイリの口癖が問題だから、ヘビメタ騒音の問題が起こった」と言って、エイリのせいにする。こんなのない。いや。ある。あるあるある。

これ、条件が悪い人をおいつめる理論なのだ。

特に、特殊な家族に、長期間、騒音でやられた人を、おいつめる理論なのだ。

しかも、言っている相手は、「宇宙の真理」について言っていると思っている。『エイリが理解しないのは、エイリが幼稚だからだ』とか『エイリが理解しないのは、エイリが理屈にこだわっているからだ』とかと、本気で考えているのだ。

「エイリが幼稚だからだ」というのは、「エイリが、真理を理解できないほど、幼稚だから理解できない」という意味だ。

「エイリが理屈にこだわっているからだ」というのは、「エイリが理屈屋だから、理屈にこだわって、こころで感じるべき真理を理解できない」という意味だ。こんなのない。いや、ある。あるあるある。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。