2026年5月18日月曜日

●この、「いえ」と「よそ」の乖離がまた、問題なんだよな■騒音※2026/05/17 18:17

……しかし……。このさきどうするか?

ひとりで生きていくのはつらいけど……。ひとりで生きていくしかないかなぁ。

まあ、もしかりに、結婚したとしても、やばい展開になるが見えている。もう、つかれている。介護も介助もやりたくない。

いろいろな細かい記憶がよみがえってくるんだよ。これは、しかたがない。けど、その記憶がいい記憶じゃなくて、不愉快な記憶なんだよ。これは、問題だ。これ、どうも、なおりそうもないんだよな。どうも、生きている限り、続くみたいだ。

人によって、条件がちがいすぎる。条件がちがいすぎるよ。ほんとう、つかれた。長期ヘビメタ騒音でつかれた。そして、長期ヘビメタ騒音に対する「他人の反応」につかれた。

これ、不愉快なんだよ。

そして、長期ヘビメタ騒音が、すべてを削った。そのあと、長期ヘビメタ騒音のベースの上に、親父のネズミ騒動がつけくわわった。

親父らしい事件なんだよな。あれだけ、部屋をくさくしておいて、「くさくないよ!!!」と絶叫するやつなんて、親父ぐらいしかいない。

しかも、それが、ほんとうにネズミが(がんがん)入ってくる原因になっているのに、認めないんだよな。ほかの人がしないようなことをして、部屋を猛烈にくさくする。

それも、何十日もやってしまうわけで、そんなことは、認知症になった人だって、しない。

ともかく、普通の人はしない。あの当時、親父は、認知症だったけど、認知症じゃなくても、やっていたことなんだよ。これ、認知症の問題じゃなくて、親父の「もともとの性格」の問題なんだよ。親父がわかいときから、同等のことをやっているんだよ。

ほかの人に、どれだけなにを言っても、わからないと思う。

この、「いえ」と「よそ」の乖離がまた、問題なんだよな。

長期ヘビメタ騒音だって、そういう問題だ。 

2026年5月17日日曜日

●「できると言えばできる」と「努力すればできる」(1)■言霊※2026/05/16 5:21

「できると言えばできる」という文と「努力すればできる」という文は、おなじような機能を持つことになるのである。

「できると言えば、できる」のだから、「できる」と言えばできるのである。「できる」と言ったあとに、「できない」状態なのであれば、それは、言霊理論が間違っているからなのである。

「言い方が悪い」というようなことは、一切合切、関係がないのである。

言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化される」という言霊理論が間違っているから、「できる」と言ったあとも、できない状態なのだ。「できる」と言ったあと、「できる状態」になることは、ある。

あるけど、いつも、一〇〇%、できるようになるかというとそうではないのだ。

そして、肝心なことなのだけど、言霊の力によって、「できる状態」になったのではないのだ。

たとえば、なわとびの二重廻しが、できない人が、「できる」と言ったあと、なわとびの二重廻しができるようになったとする。もし、「できる」と言ったことが関係しているのなら、それは、言葉の力だ。自己暗示はある。

それから、すでにできる体力的な条件がそろっていて、「できる」と言わなくても、その日には、できるようになっていたかもしれない。

ようするに、「時間」が必要だったのかもしれないのだ。

やるまえに、『ひょっとして、自分はできるんじゃないかな』と思ってやってみたら、できたということはある。

けど、赤ちゃんにはできない。「自分」が赤ちゃんのとき、二重廻しができるかというと、できない。

ようするに、身体的な成長をまたなければならない。体が成長するということも、「言霊」の力によって、体が成長したわけではない。

「できる」と言ったあと、できるようになったとしても、それが、言霊の力によって、できるようになったのだと考えるのは、すでに、言霊理論におかされているから、そう感じて、そう考えるだけなのだ。

「できる」と言わなくても、そのトライのとき、できたかもしれない。だいたい、できると言わなくても、やってみたら、できたことがあるはずだ。

それなら、「できる」と言わなかったときに、できるようになったことについては、どう説明するのだ?

言霊理論が正しいなら、親が、「この赤ちゃんは、三秒以内に二重廻しができるようになる」と言えば、言霊の力によって、「この赤ちゃん」は、三秒以内に二重廻しができるようになる。

もし、できるようにならないのであれば、言霊理論が間違っているということだ。

「この赤ちゃん」が成長して、一〇歳ぐらいになったとき、二重廻しができるようになったとする。その場合、言霊主義者は「この子が赤ちゃんとき、二重廻しができるようになる」と言ったから、言霊の力によって、二重廻しができるようになったと考えるのだ。

しかし、赤ちゃんのときはできなかった。成長をまたなければならなかった。

どうしてだ?

言霊の力で二重廻しができるようになったわけではないからだ。

身体的な成長が必要だった。そして、身体的な成長には、時間が必要だった。練習をすれば、できるようになるときはある。別に「できる」と言わなくても、できるようになるときは、できるようになる。

身体的な成長や、そのときの気分などが影響する。そのときの気分というのは、重要だ。

「できるようにしなければならない」とへんなところに力が入っていると、できることも、できなくなってしまう場合がある。気分は重要なんだよ。

そして、いちおうは、やってみたいという気分になっているわけだ。気分は、重要なんだよ。

トライしようと思っていないのであれば、そもそも、何回目かのトライで、できるようになるということがない。

しかし、「できる」と言わなかったのに、一回目のトライで、できることだってある。

その場合も、身体的な成長と気持ちが関係している。「できる」と言わなくても、一回目のトライできることはあるのだから、「できると言えば、できる」という一〇〇%構文の文は、間違っている。

命題として考えた場合、「できると言えば、できる」という命題は『偽』なのである。

さらに、言霊の力によってできるという考え方は、間違っている。

できると言ったあと、できる状態になることはあるけど、言霊の力によって、できる状態になったわけではないのだ。

●毎日そうなんだよ■騒音※2026/05/16 4:04

たとえば、きちがい親父が、竹を植えようとしたとき、おかあさんが「竹なんて植えたら、たいへんなことになるからやめて」ということを、必死になって言ってたんだよ。

そして、親父が、発狂モードで植えてしまった。

実際に、親父がやったことは、おかあさんが言ったことをガン無視して、おかあさんがいやがっている竹を植えたということだ。

ところが、それがもつ意味がわかっていないのである。

もちろん、竹が実際に、庭のあちこちにはえて、たいへんなことになって、わからないままだ。邪魔な竹を切ってほしいから、「邪魔な竹を切ってくれ」と親父に(おかあさんが)言うと、親父は、また、真っ赤な顔をして無視してしまうのだ。

実際にやってることはこういうことなんだよ。

竹は、成長するので、俺が自転車を出すときは、どれだけ急いでも、蚊に五か所ぐらいは刺されるということになっていた。

さらに、自転車を出すときに、竹が背中にあたるのである。竹が、自転車を出すための道に、しだれかかるようにのびていた。だから、雨がふったあとは、背中に、雨水がついてしまうのである。背中がぬれる。

「自転車を出すための道」というのは、うちの庭の道のことだ。道と書いたけど、庭の一部だ。

きちがい親父に内緒で、勝手に、竹を切ってしまうと、ひどい騒ぎになるので、こっちが勝手に竹を切ることができないのである。

だから、親父に「切ってくれ」と頼むわけだけど、頼むたびに、きちがい親父が発狂して、たいへんなことになってしまうのだ。

基本的に言って、『言われたらいやなことは、言われると腹が立つ』のだ。これは、親父以外の人間もそうだけど、親父は、そういう性格を煮詰めたようなところがある。その割には、「文句を言われそうなことを、いっぱい、やる」のである。

だから、こっちは、言いたくないことを言わなければならなくなるのである。

竹だけではなくて、ほかの木も、そうなのである。親父がうちのなかでやることに関しても、そうなのである。親父がだしっぱなしにしたものを、こっちが片づけてしまうと、たいへんなことになるので、いやなのである。

でっ、俺が小さいときは、主におかあさんが親父に言ってたのだけど、親父は、どんなことでも、言われると、真っ赤な顔をして不機嫌になり、腹を立てていた。

でっ、ちゃんとやってくれるかというと、やってくれないのである。これが、へんなところなのだけど、何十回も言われたから、しかたがなく、木の枝を切るとする。

その場合、親父が切りたい枝しか切らないのである。

だから、邪魔な枝がいつまでも残って、いつも、こっちが不快な思いをしていたのだ。親父がへんな人だから、普通なら絶対に木を植えないようなところにも、木を植えてしまうのである。

「自転車を出すための道」と書いたけど、そこにも、木を植えてしまった。

けど、この木は、背が低い木で、何十年たっても、大きさがほとんどかわらない木なのである。「棟梁さん」が、「幸福の木」とか言っていたけど、不幸の木だ。通り道の真ん中に植えてしまうのである。

本人は、気にしないんだよ。

けど、自転車を出して、門のところまで行くときに、いちいち、邪魔な感じがしていた。注意して、避けなければならない。通りにくいのである。

けど、これも、親父が生きているあいだは、切ることがなかった。移動もしてくれなかった。

へんなところがあって、自分が植えたい気持ちで植えたやつは、親父にとっては、邪魔にならないのだ。

けど、普通の人なら絶対に植えないようなところに、植えてしまう。

で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。まーったくおなじなの。これ、よその人はわからないんだよな。親父は性格としてそうなっているんだよ。毎日、コンスタントにそうする。

兄貴も性格として……「そうなっている」のだよ。

毎日、コンスタントにそうする。

親父の場合は、植物を植えるということで、トラブルを発生させたのだけど、兄貴は、ヘビメタを鳴らすということで、トラブルを発生させたのだ。ほかの家族(当人以外の家族)がどれだけ言っても、親父も兄貴も、まったく気にしないのである。言われたときは、顔を真っ赤にしておこるのである。

発狂モードになってしまう。発狂モードになったときに、相手が言ったことをやるかというと、やってくれないのである。

ところが、「やってやらなかった」ということも、頭にまったく残らないのである。「文句を言っているときの」相手の感情というのは、全部、ほんとうに、無視してしまうのである。

そして、本人たちにとって「やりたいこと」はやりたいことだから、やってしまうのである。頑固に無視して、やってしまう。相手が「やめてくれ」と言ったことを、頑固に頑固に、発狂して、やってしまう。

それは、相手の感情を踏みにじる行為なんだよ。

そして、そのあともやり続けるわけだから、相手は、こまり続けるわけなんだよ。

毎日そうなんだよ。

2026年5月16日土曜日

●努力論者は、相手をせめることに成功する(3)■社会※2026/05/15 4:38

ごくごく、簡潔に書いておく。

才能がないからできないのに、「努力をしていない」とか「努力が足りない」とか「努力の方向が間違っている」とかと言われることになるAさんの問題は、ヘビメタ騒音で「能力」を失った僕にも成り立つ問題なのだ。

努力論者というのは、努力だけを問題にして、ほかの条件を考えない。条件が導入されたときは、条件について、都合がよい集合的一括思考をするので、その条件は「成功するかどうか」に影響を与えないということになる。

まあ、その条件は「成功する」ことに影響を与えないということになる。たとえば、貧しさ」という条件を導入した場合は、貧しさに関係なく、努力をすれば成功するということを、努力論者は言い出す。

貧しい状態なのに、成功した人の例をひとつあげて、貧しさという条件は、関係がないと断定してしまうのである。貧しい状態で、成功しなかった例をひとつあげて、貧しさという条件は、関係があると断定することはないのである。

それとおなじように、ヘビメタ騒音で、夜眠る能力を失うと、ヘビメタ騒音で夜眠る能力を失ったのに、夜眠る努力をしないから、夜眠ることができないのだということになってしまうのである。

夜眠れるかどうかは、次の日を「元気に」すごすことができるかどうかに影響している。夜眠れるかどうかは、次の日の「注意力」に影響を与える。与えるのだけど、与えるということを無視されることになるのである。

ヘビメタ騒音で、そうなった」と言っても、「ヘビメタ騒音なんて関係がない」ということになるのである。

ところが、ヘビメタ騒音がなかったとき、ぼくはちゃんと、夜眠ることができたのである。

もちろん、たいていの場合だ。ヘビメタ騒音がはじまってからは、たいていの場合……夜眠れることができ鳴ってしまったのである。これは、ヘビメタ騒音のせいなんだよ。

きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で、長時間ヘビメタを鳴らしきるということに、こだわってこだわって、実際にそうしたから発生したことなんだよ。

毎日のことなんだよ。夜眠れるかどうかに影響がないわけがない。ところが、こいつらは、「夜眠るように努力していないからダメなんだ」「夜眠れるように努力すしているかもしれないけど、努力の量がたりないからダメなんだ」「夜眠れるように努力しているのかもしれないけど、努力の方向が間違っているからダメなんだ」と、「努力をしていない」とか、「努力がたりない」とか「正しい方向で努力をしていない」とかということを、言い出すのである。

全部、努力関連事項の「せい」なのだ。だれの努力かと言えば「エイリの努力」に他ならないのである。

ちなみに、「過去は関係がない」と言ったやつが、「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言ったことがある。これ……努力の方向が間違っているということは、間違った方向で努力をしたと……こいつが認識している……ということを意味しているのである。

過去の時点における「努力の方向」が間違っていると言っているのである。過去が関係ないなら、過去の時点における努力の方向も関係がないはずだ。

「努力の方向が間違っている」と、「現在も努力の方向が間違っている」ということを示唆している言葉を使っているのだけど、こいつらがいう「現在」というのは「現在という瞬間」でしかないのだ。

ようするに、過去から現在までの努力の方向が間違っていると認識しているのである。

もちろん、本人ではなくて、相手の過去から現在までの努力の方向が間違っていると、本人が認識しているのである。ならば、過去は関係があると認識しているのである。

「努力をしないからダメなのだ」という表現には、「過去から現在まで」努力をしないからダメなのだという意味が含まれている。努力をしないというのは、過去から現在までの「時間帯」のなかで、その人(相手)が努力をしなかったということを意味しているのである。

ようするに、過去は関係があると思っているのである。

相手が「過去から現在」において、努力をしなかったから、まるまるすることに成功していないということを言っているのである。「過去は関係がない」と言いつつも、「過去の状態を問題にしている」のである。相手の状態だけどな……。

たとえば、「過去は関係がない」と言っているのに「努力不足だからダメなんだ」と言った人をAさんだとする。

そして、実際にAさんが、ぼくに、「努力不足だからダメなんだ」と言ったとする。Aさんは、ぼくの過去も問題にしているのである。Aさんは現在の状態も問題にしているけど、過去の状態も問題にしている。過去は「関係がある」と思っている。

Aさんが、俺に対して「努力不足だからダメなんだ」と言ったということは、過去の出来事だ。「瞬間としての現在」の出来事ではない。何度も言うけど、「努力」の「ど」を言ったという過去の出来事が、文の意味を全体をつたえることに影響しているのである。

「努力不足だからダメなんだ」と言い切ったということは、すぐに過去の出来事になる。「努力」の「りょ」を発音したということは、「不足」の「ぶ(ふ)」を言っているときには、すでに、過去の出来事になっているんだよ。

「ど」「りょ」「く」と言ったということは、そのあとの「ぶ(ふ)」を言っているときには、過去の出来事なのである。

しかし、「努力不足」言葉全体の意味を考えるなら、「ぶ(ふ)」「そ」「く」という言葉に影響を与えている過去の出来事なのである。「そ」のまえに「ぶ(ふ)」と言い、「く」のまえに「そ」と言わなければ、「ぶそく」と言ったことにならないのである。これは、とりもなおさず、過去のことが現在の認知に影響を与えているということなのである。

そして、「努力不足だからダメなのだ」と言ったという過去の出来事は、ぼくの「現在の感情」に影響を与えるのである。Aさんが言ったなら、Aさんに対するぼくの「現在の感情」に影響を与えるのである。だから、過去は関係がある。

Aさんが努力論者だとする。その場合、なんらかの努力をした……ということは、成功するかどうかに影響を与えると考えているということを意味しているのである。ところが、Aさんは努力論者なのに、「過去は関係がない」とどや顔で、豪語するのである。Aさんは、自分が言っていることの意味がわかっているのかと、ぼくは疑問に思う。こういう人は多い。

Aさんは努力論者なのに、ぼくが、努力論の批判をすれば、ぼくが努力を論を批判したという過去の出来事を重視するのである。ぼくが努力論を批判したということに、Aさんが腹を立てて「単純なのが正しい」とか「だいたいあっている」とか「こまかいことは、いいんだよ」とか「理屈じゃねぇーーんだよ」とかと言ったとする。

その場合、ぼくが過去のある時点において、努力論を批判したという出来事が、そのとき……「単純なのが正しい」とか「だいたいあっている」とか「こまかいことは、いいんだよ」とか「理屈じゃねぇーーんだよ」とかと言っているときの感情に影響を与えているのである。ようするに、過去は関係がある。過去の出来事は、関係がある。

これを、否定して、わけのわからないことを言いやがる。しかも、こういうふうに言ったあとも、「過去は関係がない」と考えているのである。「ぬけぬけ」なのである。いいかげん、矛盾に気がついてくれ。

*     *     * 

「不足」という言葉は普通は「ふそく」と発音されるのである。しかし、まえに「努力」という言葉がつくとたいていの場合は「ぶそく」と発音されるのである。

不足という言葉を単独で言う場合、たいていは「ぶそく」とは言わないのである。

「ふそく」のまえに、単語があるかどうかということや、不足という単語のまえにある単語は、「ふそく」と発音するか「ぶそく」と発音するかに影響を与える。

これも、時間的に過去の出来事が……つまり、時間的に過去の発音が……現在発音中の単語の発音に影響を与えるということの例だ。まあ、そんなことを言わなくても、過去の出来事は、現在の状態に影響を与える。

じゃあ、過去否定論者というのは、なにを言っているのかというと、じつは、「過去にこだわるな」ということを言っているのである。ようするに、「こだわること」を問題にしているのである。

ところが、この「こだわること」を問題にしているということが、本人にとっても、あいまいなのである。

「過去にこだわるな」と言いたいのか「過去は関係がない」ということを言いたいのかということが、本人にとって、よくわからないことなのである。

ひょっとしたら、「過去にこだわるな」という文と 「過去は関係がない」という文は、おなじ意味をもっていると考えているのかもしれない。

そして、前にも書いたけど、不可避的に影響を受けて、能力を失った相手に対して「過去にこだわるな」と言うのは、よくないことなのである。

これも、失礼な話なんだよな。相手がこれこれに「こだわっている」という断定は、よくない。もう、前に書いたから、説明は省略する。

2026年5月15日金曜日

●信者のなかでは、正しいことなんだよ■社会※2026/05/04 14:03

ほんとうは、人によって、差がある。

ほんとうは、人によって、ものすごい差がある。条件の差がある。

ところが、最初に出てくる一〇〇%詐欺構文は、条件を無視したものなのである。だから、現実には合致しないのである。

だから、条件が悪い人は、詐欺構文のようにうまくいかない場合がある。一〇〇%詐欺構文の信者は「努力すれば成功する」と言うわけ。

信者のなかでは、正しいことなんだよ。

ところが、実際には、一〇〇%詐欺構文は、理論的に間違っている。

信者が信じるような(信者の頭のなかにある文がもつ意味)と、現実的な意味での意味が食い違っているのである。しかし、信者のほうは、食い違っているということに無頓着だ。

あるときは、ほんとうに一〇〇%成り立つと思っているし、あるときは、一〇〇%じゃなくても成り立つ(だいたいは成り立つ)と思っているのだ。

また、あるときは、「努力すればする場合だってある」と思っているのだ。

条件に関係なく一〇〇%の確率で(文の内容が)成立するのか、あるいは、条件によっては成立する場合があるのかは、重要なちがいなんだよ。

ところが、努力論者は、自分のなかで、文がもつ意味を切り替えて、暮らしているのだ。

そして、何度も言うけど、切り替えていることに、無頓着だ。

努力論者自体が、無頓着なのだ。モードがちがえば言うことがちがうのである。自分のことであれば、条件を考慮しなければならなくなるので、自分のことに関しては、条件を考慮したことを言うのである。

けど、ほかの人のこと……に関しては、条件を考慮しなければならない理由がないので、条件を無視してしまうのである。

ともかく、言うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。思うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。まったく気にしないけどな。

本人がやっていることなのに、本人の意識にはのぼらないのだ。いったいどれだけの努力論者が、「努力すれば成功する」という文は、現実的ではないということを理解しているのか。

言霊主義者が、言霊理論が正しいと思いながらも、普段の生活のなかでは、言霊理論を無視してしまうということと、似ている現象が、努力論者にもしょうじる。 

2026年5月14日木曜日

●家族だけに囲まれているときとは、ちがう反応になるんだ■騒音※2026/05/12 21:26

俺と親父が言いあっているときに、きちがい兄貴が、冷蔵庫のものをとりだしに一階に下りてきて、通りすがりに……俺たいして……「問題児だ」と言ったときがあるんだよ。

どうして俺が親父と言いあっていたかというと、きちがいヘビメタ騒音で進学するときに問題を抱えていたからだ。きちがい兄貴の問題について、きちがい親父ともめていたんだよ。

きちがい兄貴が、そのとき、すでに六年以上、きちがいヘビメタを絶対の意地で、ゆずらずに、ものすごくでかい音で鳴らていたのだ。毎日鳴らしていた。

基本的に、兄貴の行為によって、ぼくの問題が発生していたのである。兄貴の行為によって、ぼくの側に進路の問題が発生していたのである。それ……進路……について、きちがい親父とぼくとのあいだに、言い合いが発生していたのだ。

きちがい兄貴が、ほんとうに原因なんだよ。きちがい兄貴の行為が、ほんとうに、原因なんだよ。しかも、兄貴は、張本人であり、関係者なんだよ。きちがい兄貴の行為でこまっているということは、きちがい兄貴に、最初の日から言っていることなんだよ。

きちがい兄貴は、自分がかかわっているということを理解していなかった。

どうしてかというと、きちがいヘビメタをどれだ長い時間、どれだけでかい音で鳴らしても、弟の勉強を邪魔しているという「認識」が生まれなかったからだ。これが、きちがい的なのである。

これが、きちがい兄貴のきちがい行為に影響を与えていたのである。ずっと、あんな音で鳴らし続けてなにも感じないなんていうのは、おかしいんだよ。正常じゃない。

親父も、きちがい兄貴とおなじように、自分が発狂して、頑固にやったことで、相手がこまった状態になっても、相手がこまっているということを、頑固に認めなかった人間だ。

*     *     * 

これ、脳みその「つくり」として、そうなっているのである。そして、他人にとっては、これまた、これこそが、盲点になってしまうのである。

よその人は、親父と兄貴が……自分が発狂して、頑固にやったことで、相手がこまった状態になっても、相手がこまっているということを、頑固に認めない人間だ……ということがわかっていないのである。

それも、「脳みそのつくり」で、そうなっているということが、わからない。

よその人は、うちの兄貴とうちの親父が、脳みそのレベルで、そういう反応をする人間だということを知らないわけ。

そして、「脳みそのつくり」と書いてしまったのだけど……そういう脳みそをもっている人間がいるということを……よその人は知らないわけ。

きちがい兄貴ときちがい親父の「ぬけぬけ度」は、普通の人の「ぬけぬけ度」とはちがうのである。

そして、きちがい兄貴ときちがい親父は、普通の人がやらないことをやるのである。

これも、よその人にはわからないことなのだけど、……ごく自然に、きちがい兄貴ときちがい親父は、「よその人」が普通にまずいと思って、やらないことを……きちがい的な意地で……やってしまうわけ。一度やるとなったら、きちがい的な意地でやるんだよ。

この……「一度やるとなったら、きちがい的な意地でやる」……ということも、よその人は、わかっていないわけ。よその人は「やる」にしても、「普通の程度でやる」と思っているわけ。

ところが、ちがうんだよ。

兄貴と親父は、きちがい的な意地でやるんだよ。この、状態が、よその人には、わからない。実際に、いあわせて、どういうことをどういう状態でやるのかということを、よその人は、知らないわけ。

よその人は、経験的にわかっていないわけ。

そして、よその人は、うちの兄貴とうちの親父が、「そうする」ということについて、特に関心があるわけではない。どうしてかというと、自分の家族はそんな人ではないので、関心がない。「よその人」という言い方で、くくって、一〇〇%詐欺をするつもりはない。

例外はあるかもしれないけど、ぼくの知りえる範囲で言うと、ほんとうに、よその人にとっては関心がないことなんだよ。特に関心がないことなの……。

実際、うちのなかにいるときの親父の状態や、うちのなかにいるときの兄貴の状態について……知っている人はいないわけ。

兄貴が鳴らしているときに、ぼくの部屋にいた友達は、兄貴がどのくらいの音で鳴らしているか知っているけど、ぼくの部屋にいるわけだから、兄貴の状態を確認したわけではない。

兄貴に対して、ぼくが、「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言ったときの兄貴側の反応なんて……よその人は……実際に見たわけじゃない。うちにきて、ぼくの部屋に入ったことがある友達ですらそうなんだよ。

そして、「うちのなかにいるときの親父の状態」と書いたけど、「うちなかに家族しかないときに、うちのなかにいるときの親父の状態」という意味だ。兄貴の状態に関してもおなじだ。

ようするに、よその人が「お客さん」としてきた場合は、「お客さんがいる」ということが、きちがい親父にもわかるわけ。そうなると、家族だけに囲まれているときとは、ちがう反応になるんだよ。

これも、とくに、「お客さんがきているから、態度をかえよう」と親父が意識的に思っているわけではないわけ。そうじゃなくて、言霊主義者の「モードの切り替え」のように、本人が意識しないまま、自然に、「モード」が切り替わる。

ともかく、例外がいるかもしれないけど、よその人は、「うちのなかにいるときの親父の状態」や「うちのなかにいるときの兄貴の状態」について、関心をもたない傾向が非常に強い。

ようするに、例外はいるかもしれないけど、多くのよその人は「経験的に、うちの親父やうちの兄貴のような反応をする家族とは一緒に住んだことがない」し「うちの親父やうちの兄貴の反応について特に関心をもっていない」わけ。

だから、多くの普通の人は、うちの親父やうちの兄貴のことについて、正確に考えることができない。

多くの普通の人は、うちの親父やうちの兄貴が、どういう態度で、きちがい的な意地を押し通して問題行為をするのかということが、よくわかっていない。

そして、多くの普通の人は、自分の家族が正常者なので、正常者との関係によってしょうじた常識をもっている。

その常識に、「うちの常識」が、あわないのである。

多くの普通の人が、うちの兄貴の行為やうちの親父の行為について、誤解をするのである。

●はっきり言えば「がんばらせる」ことができるようになる■社会※2026/05/13 15:03

「努力をすれば成功する」という文を考えた場合、努力をするかどうかが、成功するかどうかを決めるということになる。

しかし、実際には「成功したなら、努力をした」「成功しなかったなら、努力をしなかった」「成功しているなら、努力をした」「成功していないなら、努力をしなかった」ということになっている。

「成功しているなら、努力をした」ということになるのだから、成功しているかどうかが、努力したかどうかを決めることになる。

これ、逆なのである。

最初から、「成功しているなら、努力をした」「成功していないなら、努力をしなかった」ということが成り立っている。

だから、はずれることがないのである。

もちろん、でたらめだ。

「成功していないなら、努力をしなかった」ということになるので、成功していない人は、努力をしなかったと決めつけられることになる。

「自分は努力をした」と、努力をしなかったと決めつけられた人が言えば……努力をしなかったと決めつけたほうは「努力不足だ」とか「努力の方向が間違っている」とかと、言うことになっている。

最初から、決まっている。

でっ、こういうことが、上から下に、流れていくのである。成功の定義が言うたびにちがうし、言う人によってちがうので、その都度、成功の定義を自分の都合のよいように頭のなかで書き換えることができる。

だから、たとえば、底辺工場の下から二番目の人も、下から一番目の人には、『自分は成功した』という立場で、「おまえは、努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言える状態になる。

こういうことが、上から下に、順番に、成り立っている。

層をなして、成り立っている。

これは、別の角度から見ると、「上の人」には、なにも言えなくなるということも、意味している。

どうしてかというと、上の人から「おまえは、努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言われることになるからだ。

無理なことを言われても、無理なことができないのは、「おまえの努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからできないんだ」と言われるので、「それは無理だ」と反論しにくくなる。

基準を内面化しているので、さからえないのである。

*     *     * 

これは、「できると言えばできる」ということでも成り立っている。「それは無理だ」と言えば「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」と言われることがわかっているので、「それは無理だ」と言いにくくなる。

特権階級の人が、一般人を支配するには、もってこいの言い方なのだ。こういう言葉がはやっていれば、特権階級の人は、一般人を酷使することができるようになるのである。

一般人のなかで、上下関係が成り立っているので、一般人のなかで、無理なことを上の人が下の人に押し付けることができるようになる。

ほとんどの人がみんな、言霊的な感覚をもっていない場合、 「できると言えばできる」なんて言っても、「なにをきちがいみたいなことを言っているんですか」と反論されるけど、ほとんどの人がみんな言霊的な感覚をもっている場合、「なにをきちがいみたいなことを言っているんですか」と反論しにくくなる。

まあ、言霊的な感覚をもっていない人もいる。けど、これは、程度問題だ。幼児期を経てきた人間は、幼児的万能感がちょっとは成り立っているので、言霊的な感覚を、ちょっとはもっているはずだ。

けど、なかには、幼児的万能感をまったくもっていない大人もいるかもしれない。それは、わからない。けど、多くの人が、大人になっても、幼児的万能感をちょっとはもっているはずだと考えたほうが、現実的だ。

*     *     * 

言葉は悪いけど、奴隷労働者を管理する上で、とても便利な言葉なのである。なにが便利な言葉かと言えば、「できると言えばできる」という言葉が、便利な言葉なのである。

そして、「努力をすれば成功する」という言葉が、便利な言葉なのである。

こういうことを奴隷労働者階級の人が(みずから)信じ込んでいれば、より効率的に管理できることになる。はっきり言えば「がんばらせる」ことができるようになる。 

*     *     *

条件が悪い人は、成功できる確率が低いのである。だから、成功しない場合が多い。「成功していないなら、努力をしなかった」という言葉は、このことを覆い隠すことができる言葉なのである。

別に「成功していないなら、努力をしなかった」と言わなくても、なんとなく、そう思っていれば、じゅうぶんな効果がある。

成功していない人を(成功したつもりで)見下すことができるからだ。

そして、条件が悪い人にとたいして、「努力しないからダメなんだ」「努力が足りないからダメなんだ」「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と説教をすることができる。

マウントをとることができる。

これは、気持ちがいい行為だから、社会のなかで繰り返される。やられたほうは、気分が悪くなることが多いので、どこかで、ほかのやつに、おなじことをやりかえそうとする確率が高くなる。

自分のより下の人間を見つけたら、「努力しないからダメなんだ」「努力がたりないからダメなんだ」「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言って、マウントをとりたくなる誘惑にかられる確率が高くなる。

多くの場所で、これが繰り返されていく。

2026年5月13日水曜日

●次から次へと……■騒音※2026/05/13 21:21

ひょっとしたら、歯医者に行く必要があるかもしれない。いやだなぁーー。ひとつ片づくと、またひとひ発生する。いや、ふたつ以上発生する場合もある。

どうして、こうなる?

もう、いやだなぁ。なんか、もう、いろいろと、いやなんだよなぁ。体がかゆいのは、ダニなのか、アレルギーなのかよくわからない。

ダニなのかな。もう、いやだなぁ。全部が、いやだ。次から次へと……。親父対応とネズミ対応で、もう、ほんとうに、エネルギーを使い果たしてしまった。それから、なんていうのかな……。生きていても、楽しくない。

なら、死んでもいいかというと、そうではない。このさき、楽しくなるような予感がない。ずっと、くるしいまま生きてきた。 

もう、つかれたなぁ。かゆいのは問題だ。やっぱり、虫か、ダニに刺されているなぁ。気温が上がると……これかぁ。

ともかく、兄貴の騒音と親父のきちがい行為で、人生がない。楽しいことなんてなかった。いや、ちょっとはあったけど……。

それだって、ヘビメタ騒音に汚染された楽しみだ。「あの子」と普通に付き合いたかったというようなことを書いたけど、あれだって、わかいころじゃないと、ダメなんだよなぁ。そして、ヘビメタ騒音に汚染されていない、わかいころじゃないとダメなんだよなぁ。

けっきょく、このさき、どれだけ、楽しむように心がけても、きちがいヘビメタ騒音にたたられていたわかいころとおなじように、ダメなんだよなぁ。この、雰囲気が、もう、ヘビメタ騒音だ。

だれにも、頼れないまま、きちがいヘビメタ騒音にさらされて……それでも頑張って生きてきたけど……頑張って生きていればいいというものではない。

頑張って生きていれば、楽しかったかというと、楽しくなかった。

きちがいヘビメタ騒音でいつも、引きつっていた。きちがいヘビメタ騒音でいつも、暗い気持ちだった。

けっきょく、その延長線上で生きている。気ちがい家族がおらず、家族のきちがい騒音にさらされ続けなかった人は、まったくわかっていないんだよな。

「そんなの可能であるはずがない」と言ってやりたくなる。

あいつらが言っていることは、全部、無理なことなんだよ。楽しめるわけがない。生きているだけで、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。 

*     *     *

ひとつひとつが、めちゃくちゃに、憂鬱なんだよなぁ。いま、午後九時四一分だけど、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。いつも鳴っていた。あんな状態でいいわけが、ない。きちがい兄貴の状態というのが、ほかの人にはわからない。

実際に、きちがい兄貴の行為が続いてしまった場合の、影響というのが、ほかの人にはわからない。実際に、毎日つもらないとわからない。明るい気分になれるはずがない。

どれだけ張り詰めた状態で暮らしているか、まったくわかっていないやつばかりだ。

「そんなのは関係がない」「なにがヘビメタ騒音だ」と言ったやつを、なぐってやりたい。まあ、なぐらなかったし、なぐらないけど……。

ごく一部の例外を除いて、みんな、ほんとうに、わかっていない。こいつらが想像するようなことじゃないのである。こいつらが想像するような影響のでかさではないのである。

これ、ほんとうに、ぜんぜんわかっていないやつが、えらそうなことを言う。家に、きちがい兄貴のような家族がおらず、きちがい基準の騒音にさらされなかっただけなのに、えらそうなんだよ。

『自分なら平気だ』という、気持ちがある。

「なんだ!!そんなのぉ!!」と言ったやつも、ゆるせんなぁ。 

●努力論者は、相手をせめることに成功する(2)■社会※2026/05/12 20:52

あんまり言いたくないけど、努力論者が「だれか」を「さぼり魔だ」とか「ダメ人間だ」と決めつけたということは、ほかの人にも影響を与える。

たとえば、Aさんは、ほんとうは、才能がないから、成功しないのだけど、「ちゃんとした努力をしないだめな人間だ」と決めつけられることになる。そういう発言を、職場でしたなら、ほかの人もAさんは「ちゃんとした努力をしないダメな人間だ」とみなすようになるのである。

Aさんは、死に物狂いの努力をしていたかもしれない。「間違った方向の努力だ」と思われがちなのだけど、間違った方向の努力かどうかは、わからない。

これも、成功しなかったという事実に基づいて、勝手に努力論者側が、「Aさんは間違った方向の努力をしている」と決めつけただけなのだ。後出しジャンケンだ。ずるいことをしている。

ともかく、努力論者が、だれかを「努力論」に従って、「ダメ人間だ」と言い切ってしまうと、ほかの「努力論者ではない人たち」も、影響を受けて、だれかを「ダメ人間だ」と決めつけるようになる。そうなると、その人は、その場所で、居場所を失うことになる。

才能がないだけなのに、「努力不足だ」と言われて、「(ちゃんとした努力をしないダメ人間のレッテル」をはられて居場所を失うのである。

 ある分野の才能がないということは、ある分野の才能がないということを意味しているにすぎない。

ところが、「さぼり魔だ」ということになると、道徳の問題になるのである。

才能がないだけなのに、「性格が悪い人だ」ということになってしまうのである。才能の問題が、性格の問題になってしまう。努力論は、才能がない人のことを、「悪い性格をもっている人」にしてしまうのである。

どうしてなら、ほんとうは努力するべきなのに、努力しない人間だということになり、それは、努力をしようとしない性格の問題だということになってしまうからだ。

才能がないだけなのに、性格が悪い人だということになってしまうのである。

これも、「努力論」が実際の社会で運用されることになると、発生する問題だ。

かりに、Aさんが、その分野で才能がないということに悩んでいるとする。ところが、努力論者のなかでは「才能の問題」はないことになっているので、「努力不足の問題だ」ということになってしまうのである。

けっきょく、「さぼろうとしているAさんが悪い」ということになってしまう。Aさんが、どれだけ、頑張って努力しても、「やること」に成功しない限りは、努力をしていないことになってしまうのである。あるいは、努力不足ということになってしまうのである。

あるいは、正しい方向で努力をしてないということになってしまうのである。

まあ、まとめると「さぼって、ちゃんとした努力をしないから、やることに成功しないのだ」ということになってしまうのである。 Aさんが、なんらかの作業をする場合、その、なんらかの作業する場合には、絶対に必要なあることがでなかったとする。

その必要なことをする才能がAさんにはなかったとする。

その場合、Aさんは、その作業をすることに成功しないわけだから、努力不足だということになってしまうのである。ちゃんと努力をしていない問うことになってしまうのである。

Aさん(本人)は、どれだけ、ちゃんとやろうと努力したとしても、結核的に、その作業ができないのであれば(その作業をやることに成功しないのであれば)……自動的に、ちゃんと努力をしていないということになってしまうのである。

別に、さぼりたいわけではないかもしれない。けど、どれだけ努力をしてもできないのだから、しかたがない。

けど、努力論者や努力論者の影響を受けた人は、Aさんが「さぼり魔だからダメなんだ」と思ってしまうのである。

Aさんが「努力をおこたった」からダメなんだと思うようになってしまうのである。Aさんは、努力をしないような悪い人だということになってしまうのである。

ちゃんと努力をしないということは、誠実ではないということになってしまうのである。

Aさんは、「誠実ではない」のではなくて、その作業をする「才能がなかった」だけなのだ。ところが、才能の問題が、誠実さの問題にすりかわるのである。

ようするに、才能の問題が、性格の問題にすりかわるのである。

ようするに、努力論という変換装置があると、「才能のなさ」が「性格の悪さ」にすりかわってしまうのである。

努力論によって、Aさんは、性格が悪い人間だと思われることになってしまうのである。Aさんがどれだけ、誠実に頑張っても、才能がないからできなかったとする。

それでも、努力論がはびこった職場では、「Aさんは努力不足で、誠実に努力をしないからできないのだ」ということになってしまうのである。

2026年5月12日火曜日

●努力論者は、相手をせめることに成功する(1)■社会※2026/05/11 22:25

「適応するように努力すれば、適応することに成功する」という文について考えてみよう。適応するように出力すれば、適応することができるのである。

そうなると、「努力しないやつがだめなんだ」ということになるのである。「努力」に焦点があっているので、『努力しか』問題にならないのである。

そして、適応すことに成功しない人がいるのであれば、その人は、努力をしていない人だということになる。

あるいは、理論的に破綻しているのだけど、努力不足だから、ダメなんだ」とか「努力の方向が間違っているからダメなんだ」ということになってしまうのである。

項目要素が、努力しかないので、努力の問題になってしまうのである。貧しさが条件として取り入れられた場合は、「貧しくても、適応するように努力すれば、適応することに成功する」ということになり、貧しい人も、努力をすれば、適応することに成功するということになる。

なにに、適応するのか?

「社会に適応する」でも「仕事に適応する」でもいい。さらに、「目の前の仕事に適応する」でもいい。ともかく、努力すれば、適応することに成功するのである。

成功しないのであれば、努力をしていないからだということになってしまう。

あるいは、ほんとうは理論的に破綻しているけど……「努力不足だからダメなんだ」とか、「努力の方向が間違っているからだめなんだ」ということになってしまう。

才能なんて、関係がないのである。

しかし、才能がないと、どれだけ頑張って「目の前の仕事に適応するように」努力しても、適応できないことがある。そりゃ、才能がないのだから仕方がない。

ちなみに、才能の中に含めていいのだけど、体力や身体能力も、実際には、「成功するかどうか」に関係している。

ところが、体力なんて項目は出てこない。身体能力なんて項目は出てこない。捨象されているのである。この捨象された部分について、相手側!が、言及すれば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことに……なっている。

もう、これ、マルチ商法みたいにやることが決まっているんだよ。それは、100%詐欺構文である言い方と集合的一括思考のなかに、含まれている。この点で、誤解が生じるように、最初から、設計されている。

だから、「努力をすれば成功する」と言われると、「努力だけ」に意識が集中してしまって、貧困や才能や体力に(一切合切の)意識が向かないということになる。ようするに、それらの要素項目を、無視してしまう。洗脳計画者は、一般人の考え方のくせを熟知しているので、「努力に絞った言い方をすれば」「ほかの要素項目は全部無視してくれる」ということを、知っている。一般人は、その性質をうまく使われて、「努力をすれば成功する」という文を、信じ込まされる。洗脳される。自己責任論を展開するときに(はやらせるときに)……自己を対象とした責任論について、言及しておけば、他者を対象とした責任論を口にするようになるということを、知っていたとおなじだ。一般人に、自己を対象とした責任論を、教えれば、ごく自然に、他者を対象とした責任論を正しいと信じるようになるということを、洗脳計画者は、事前に知っていたのだ。自己を対象とした責任論から、他者を対象にした責任論への流れというのは、じつは、努力論のなかにもある。努力をすれば成功する……のだから、自分が努力をすれば、自分が成功するはずだという、思い込みが、エサなのである。成功したいわけだから、方法を知りたくなる。「努力をすれば成功する」ということになっていれば、「努力をすればいいのだ」ということになる。この場合は、最初は、自分が対象なのである。他人は、どうでもいいのである。ところが、他人が対象になるのである。それは、第一に、善意として助言をするときに対象になるのである。そして、第二に、ダメ出しをして快楽を感じるときに、対象になるのである。ようするに、マウントをとりたいときに、他人にマウントをとりたいときに、他人を対象として、「努力をすれば成功する」と言うことになる。「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言うときも、マウントをとれるので、気分がよいのである。努力論を口にされるほう(言われるほう)は、言う側にとっては、目下の人間なのである。こまっている人間や、弱っている人間は、目下の人間として意識されるのである。実際に、相手はこまっているわけだから、こまっていない自分よりも、目下だという意識が発生する。なので、「人がいやがることはやめましょう」と言っている人も、ごく自然に、ダメ出しをすることができるようになる。だいたい、「人助け」だと思って「正しい助言をしているつもり」になっているので、自分が「人がいやがることをしている」とは思わない。

しかし、言われたほうは、かなりの高確率で、いやな思いをするのである。

どうしてかというと、自分がどれだけ努力しても(自分が操作できない)要素項目が、実際の結果に影響を与えていることがあるからだ。

かりに、才能がない人は、どれだけ努力しても、結果として、成功しないとする。その場合、ほんとうの理由は、才能なのだけど、相手(この場合は、努力論者)は、「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言ってくることになる。

これは、前にも述べたように、結果を見てものを言っているだけだ。つまり、後出しでものを言っているだけだ。成功したら、努力をしたということになり、成功しなければ、どれだけ努力をしても、努力をしたことにならないのである。

あるいは、正しい努力をしたことにならないのである。

努力論者は、相手をせめることに成功するのである。

ほんとうは、その仕事に適応する才能がないから、適応できないだけなのかもしれないのに、「努力をしないから適応できないのだ」と決めつけることができるのである。

努力論者が、才能がないからできない相手に対して、「努力をしないから適応できないのだ」「努力が足りないから、適応できないのだ」「間違った努力をしているから、適応できないのだ(正しい努力をしないから、適応できないのだ)」と言うことができる。

「才能がないからできない」と言うことは、「言い訳」になってしまうのである。

「才能がないからできない」というのは「あまえだ」ということになってしまうのである。「間違った努力をしているから、適応できないのだ」というのは、「おまえは、間違った努力をするようなバカだ」というメッセージも送っている。

「正しい努力をしないから、適応できないのだ」というのは「おまえは、正しい努力がなんであるか知らないようなバカだ」というメッセージも送っているのである。

しかし、善意でやっていることなのである。「いい助言をしているつもり」なのである。「おまえは、正しい努力の方向もわからないようなバカだ」というメッセージを送っているのに、「いいことをしている」とか「本当に役に立つ助言をしている」とかと思い込んでいる状態が成立してしまう。

ほんとうの理由が「才能」だとしても、努力論者のなかには「努力」という項目しかないので、成功していないなら、努力をしていないということになってしまうのである。ほんとうは、「才能がないから」成功しないのに、「努力をしていないからダメなのだ」と言われることになる。何度も言うけど、努力論者のなかでは、努力だけが、成功するかどうかを決める項目なのである。

実際には、才能がないから、どれだけ努力しても成功できない人がいたとする。

Aさんだとする。Aさんは、自分ができる範囲で、ものすごい努力をしていたとする。

しかし、成功できなかった。あるいは、成功できない状態でいる。

その場合、努力論者から見れば、Aさんは努力をしていない人になるのだ。そして、理論的に破綻しているのだけど……「Aさんが成功しないのは、努力がたりないからだ」とか「Aさんが成功しないのは、努力の方向が間違っているからだ」とかということを努力論者は言い出す。

 Aさんが「才能がなくて」こまっていても、そんなのは、おかまいなしなのだ。かってに、Aさんが努力をしない「ダメ人間」だと決めつける。あるいは、Aさんは、必要な努力をしない「サボり魔」だときつめけるのだ。

Aさんは、努力がじゅうぶんではないと、どこまでもどこまで、せめられることになる。Aさんが成功出ないのは、才能がないからなのだけど、努力論者が、妄想的な理論に寄りかかって、Aさんをさぼり間にしてしまう。

「さぼっているからダメなんだ」「もっと、ちゃんと努力すれば、成功する」「正しい方向の努力をしないからだめなんだ」と言って、Aさんをせめるのである。こういうことを言っているとき、努力論者は、別に悪いことをしているつもりなんてない。

いいことをしているつもりなのだ。

努力論者の頭のなかでは……さぼっている相手が悪いということになる。

さぼっている相手に、「ちゃんとやらなければだめだぞ」と忠告しているだけだということになる。これは、いいことであって、悪いことではない。

悪いのは、さぼっているAさんだということになる。ちゃんと、努力をしないAさんが悪いということになってしまうのだ。

なので、こういうことが繰り返されて、社会がより悪くなるのである。

*     *     *

ちなみに、Aさんが「自分は才能がないから成功しない」と、ほんとうのことを言ったとしよう。

その場合、努力論者は「Aさんは、言い訳をしている」とみなすことになる。どうしてかというと、成功しないのは、努力をしないからだと思ってるからだ。

あるいは、成功しないのは努力が足りないからだと思っているからだ。

あるいは、また、「成功しないのは、正しい方向の努力をしないからだ」と思っているからだ。

ようするに、Aさんが「ちゃんと」努力をしないのが悪いということになっているのだ……。努力論者の頭のなかでは……。だから、努力論者は「言い訳をするな」と言って、Aさんをせめることになる。

最初の「努力をすれば成功する」という文は、問題がないような文に見えるのだけど、成功する要素は、努力だけだという「まちがった見方」が、最初から含まれている。「努力だけ」なのだから、ほかの要素は、全部、無視してしまうのだ。


ところが、実際には、「努力だけ」が「成功するかどうか」を決めるのではないのだ。 

けど、都合よく無視できる「理論」を提供する。これは、ライフハックなので、一見、役に立ちそうな理論なのだ。ところが、ほんとうは、社会を悪くする理論なのだ。運用の場面では、不利な立場の人を、追い込む理論として機能することになる。 


2026年5月11日月曜日

●発生しなかった問題なんだよ■社会※2026/05/11 16:23

きちがい兄貴の構造が特殊なので、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んだことがない人たちは、経験的に、きちがい兄貴が「意地になってやること」がわからないのである。

きちがい兄貴が、夢中になってやることがわからないのである。

普通だったら、絶対に、あんな音で鳴らさないんだよ。

そして、鳴らしている場合は、でかい音で鳴らしているという認識が、「かならず」しょうじる。

けど、きちがい兄貴は、例外者なので、でかい音で鳴らしているという認識がまったくしょうじない。俺がこまっているということも、きちがい兄貴は、わからない。

「俺がこまっているということが、きちがい兄貴にはわからない」のだけど、こういう脳みその問題は、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父にもある。

そうなると、常識的な人から見て、俺がへんな人に見えてしまうのである。

*     *     *

「そんなのちゃんと言えば、わかってくれる」と思っている人は、ちゃんと言わないエイリが悪いと思ってしまうわけだ。「ちゃんと言えばわかってくれる(はずだ)」という思い込みが激しい。

この思い込みは、ぼくが言っても、かわらない。一度、「ちゃんと言わないやつが悪い」と思った時点で、ある程度は、ぼくのことを見下しているので、見下したやつの言うことを聞くことが、めったにないのである。

「そんなのは、嘘だ」と思うやつもいて、こういうやつは、ぼくがまるまる人格障害で、嘘を言っていると思うんだよ。そうすると、次から次へと妄想的な解釈をするようになる。

俺の行動や発言を、次々に、妄想的に判断して、その判断に基づいた……「へんなこと」を言ってくるようになる。

こっちから見れば……「おまえが、間違った判断をして、間違った判断に基づいた解釈をしているだけだろ」と言いたくなるのだけど、そんなことを言ったって、相手は認めないのだ。

こいつらは、悪質だよ。

特に、四〇代、五〇代の女性グループができあがっている場合は問題がさらにふくらむ。まあ、メリーリングリストで出会った人たちなのだけど、かかわるんじゃなかったと思っている。

これも、けっきょく、きちがい兄貴の騒音で、普通の大学に進学できなかったことが、影響しているんだよな。

かりに、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で騒音を鳴らさなかった場合、普通に、通学制の大学に進学したはずなんだよ。あるいは、きちがい兄貴が、よそではありえないような、でかい音でヘビメタを鳴らしても……こっちが「やめてくれ」と言ったら、やめてくれた場合は、普通に、通学制生の大学に進学したはずなんだよ

通信制の大学で、こういう人たちと、出会うこともなかった。

この人たちの、解釈が問題なんだよな。

「ヘビメタ騒音の話が、嘘だ」ということになっているのだ。……この人たちの頭のなかではそうなんだよ。俺のことを嘘つきだと思って、次々に、へんな解釈をする。

これだって、相手に悪意があるわけではない。

本気でそう思っている。

こっちから見れば……「おまえらが、勝手に妄想に妄想を重ねているだけなんだよ」ということになるのだけど、どれだけ言っても、俺が嘘をつく人間だと思っているので、自分たちの解釈をかえることがない。

こういう、付属的なトラブルも発生してしまうのだ。

これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、あんなに長い期間、きちがい的な意地で、自分が鳴らしたい音を、自分が鳴らしたい音のでかさで鳴らすということをしなかったら、発生しなかった問題なんだよ。 

*     *     * 

きちがい兄貴ときちがい親父が、同じタイプの精神的な問題を抱えているのだ。

もちろん、きちがい親父が抱えている問題で、きちがい親父が苦しむということはないのである。きちがい兄貴が抱えている問題で、きちがい兄貴が苦しむということはないのである。「自分」が相手の気持ちを無視して、自分がやりたいことを、きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやったということを認識しないという精神的な病だ。

感覚器が正常なのに、『自分の都合に従って』感覚器を書き換えてしまう病だ。感覚器を書き換えてしまうというのは、感覚器が正常だから、正常な信号が(脳みそに)届いているのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父は……『自分の気持ち』を優先して、不都合な信号を遮断してしまうというようなことを、無意識的にしている。

本人が意識的にやっていることではないということが問題なんだよな。こいつらにとっては、「こいつらの認知が正常だ」ということになっているからだ。

この「遮断するとき」の意地がすごいんだよ。

けっきょく、意地でもやりたいことは、便利な遮断機能を使ってやってしまうのである。

で、やってしまったら、「そんなのやってない」と自分が思えるほど、関心がないことになっている。自分がやったのか、やらなかったのかについて、真剣に悩むことがない。

いつも、この方法で、自分がやりたいことは、まわりの家族がどれだけ「やめてくれ」と言っても、やってしまうのである。まわりの家族が「やめてくれ」と言ったことは「ない」ことになっているのである。

……たとえ、その日、周りの家族が何十回も強く、直接(本人に)「やめてくれ」と言ったとしても、まわりの家族が「やめてくれ」と言ったことは「ない」ことになってしまうのである。

きちがい兄貴の頭のなかでは、そうなってしまうんだよ。きちがい親父の頭のなかでは、そうなってしまうんだよ。

「自分は、なにも文句を言われないままやっただけだ」ということになっている。あるいは、「自分は、なにも文句を言われないままやっただけだ」ということを思うまでもなく、関心がないことになっている。

でっ、その方法で、ずっと毎日やるんだよ。

注意をしたから、兄貴が、かわってくれるということはなかった。

*     *     * 

「相手をかえることは、できないから、自分の受け止め方をかえればいい」というようなライフハックを口にする人がいるけど、そのライフハックを口にする人は、現実的な場面では、『自分の受け止め方をかえない』場合が多い。

そのライフハックを口にする人は、実際には、『自分の受け止め方をかえよう』と思わない場合が多い。

相手がかわらないということを(こっちが)言うと、「人はかえられないから自分をかえればいい」とか「人はかわらないから、自分の受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいる。

きちがい兄貴が、きちがい行為をしているのだから、かわってもらわないと、こまるのである。

かわらない相手がいるということは、「こっちが、受け止め方をかえればいい」ということを……自動的に……意味しているわけではないのだ。

こいつらは、実際の、きちがいヘビメタ騒音が及ぼす影響のでかさがわかっていない。こいつらも、俺がどれだけこまっているか、ぜんぜんわかっていないやつらなのである。

たしかに、「どれだけ、こっちが言っても、かわらない人」はいる。いる……。いる「から」こっちがかわらなければならないということにはならない。

こういうことですら、わかってないのである。

しかも、こいつらは、普段、自分が、「相手にあわせて、自分の受け止め方をかえているわけではない」ということが、自分でわかっていない。

「ぬけぬけ」なんだよな。

こいつらも、この点に限っては、うち兄貴やうちの親父と似ているところがある。無自覚。まあ、こいつらは、きちがい的にでかい音で自分が鳴らしたい音を鳴らし続けるということは、していないのだろう。だから、うちの兄貴とは、やったことがちがう。

それは理解している。

こいつらが、うちの兄貴のように、きちがい的にでかい音で、一日に何時間も、あるいは、十何時間もずっと、でかい音で音楽を鳴らしたと言っているわけではないのである。そういうところで似ているということを言っているわけではないのである。

ただ、普段、自分が言っていることと、普段の自分の行動が食い違っているということに気がつかないというところは似ているのだ。

*     *     *

これ、きちがい的な家族にやられて、ものすごくこまっている人に「(相手をかえることはできないから)自分がかわればいい」とか「(相手をかえることはできないから)自分の受け止め方をかえればいい」とかということを、言ってしまう人は、自分がなにをしているのか、ほんとうにわかっていない……と思う。相当にひどいことをしている。

「善悪」はどうなる?

「善悪」なんて関係なしに、「相手にあわせればいい」「相手にあわせて、自分の受け止め方をかえればいい」なんて、相当にひどいことを言っている。善悪を超越してますね……。

そのくせ、道徳は投げているわけではないのだろ。これ、自分がなにをしているのか、ほんとうにわかっていないな……。

●「俺はこのまま終わるのかな」■社会※2026/05/10 19:19

「俺はこのまま終わるのかな」という気持ちがある。俺はこのまま終わるのだろうか。その確率は、高い。相当に高い。

ほんとうにほかの人とはちがうんだよな。

「家の状態」がちがいすぎた。「一緒に住んでいる家族の状態」がちがいすぎた。

これ、ほんとうに、ほかの人にはわからないことなんだよな。

どうしても、ほかの人は、ほかの人の常識に従って、ものを考えてしまう。その場合、「家族」に対する常識も、普通の人の常識は、普通の家族と一緒住んだ場合の常識なのである。うちの親父と、うちの兄貴は、普通の人じゃないのである。普通の人の感覚を持ち合わせていない。

そうすると、どうしても、ほかの人から見ると、ぼくが「へんなことを言っている」ように見えるのだ。「そんなは、ちゃんと説明すればいい」とほかの人は言う。

「エイリがほかの家族にちゃんと説明すれば、そのほかの家族はちゃんとわかってくれる」という前提の発言だ。

ところが、うちは、ぜんぜんちがうのである。ぜーーんぜん、ちがうのである。そして、たとえば、きちがい兄貴自身が、きちがい兄貴の構造に気がついていないというところがある。

だから、ほんとうに、きちがい兄貴は、「ぬけぬけ」のチャンピオンみたいな存在なのだ。

きちがい兄貴にしたって、ほかの人が、きちがい兄貴の音量で、音を鳴らしていれば「うるっっっっっさい」と思のである。三〇秒で「なんだぁ!!」と思い……四〇秒で、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になるのである。

けど、自分が……思いっきり……鳴らしたい音だと、「相手の立場に立ってものを考える」ということがまったくできないきちがい兄貴は、感覚器をだまして、「普通の音だ」と思って、鳴らしてしまうのである。

「普通の音で鳴らしているのだから、どれだけ鳴らしたって問題がない」という意識が成り立っているのである。

自分の耳が悪くなるような……ものすごくでかい音で鳴らしているのに「普通の音で鳴らしているのだから、どれだけ鳴らしたって問題がない」と思っているのである。

耳が正常なら、ものすごくでかい音で鳴らしているということは、どれだけ、嘘を言っていても、わかる。

ところが、きちがい兄貴はわからない。

そして、実際に、自分の出した音で、聴力がさがっていくのである。

2026年5月10日日曜日

●気持ちよく風呂に入ることができなくなる■騒音※2026/05/10 18:18

とりあえず、起きて、ネットスーパーの注文をした。今日……「午後六時から午後八時」の時間帯に届くことになっている。

どうするかな。

問題なのは、体の問題と、やる気のなさの問題だ。体がしんどいと、どうしても、くるしい気分になる。

やる気は、もちろん、ない。

なんとか、低空飛行を維持しているだけだ。

低空飛行を維持しているだけの生活が楽しいかと言えば、楽しくない。けど、いろいろあったので、こころが、うまくうごかない。いろいろ、ありすぎた。

これ、実際に起こった出来事というのは、実際の気分に影響を与える。環境が悪い人は……特に……家族環境が悪い人は、不可避的に、悪い出来事がつみかさなるようにできている。

そして、悪い出来事は、悪い出来事を生み出す。呼び込むと書いてもいいのだけど、それだと、引き寄せのような感じになってしまうので、さけた。

悪い出来事というのは、それだけでは、すまないのである。

きちがいヘビメタ騒音が、家に帰ってから、寝るまでの時間、ずっと鳴っているということは、ひとつの悪いことだ。その悪いことが、さまざまな、悪いことを引き起こすのである。直接の原因になる。

ところが、言霊主義者のような理解レベルだと「うるさかったんだろ」「元気だ元気だと言えば・元気になる」というようなことを、かえしてくるということになる。「うるさかった」ということは理解するけど、それが、どのくらいつらいことかまったく理解していないのである。

さらに、たとえば、午後四時から、午後一一時一〇分まで、きちがい騒音にさらされると、そのあと、眠れなくなるということも、無視している。そういう悪い連鎖がはじまる。夜眠れないと、こまるのだ。

普通に、眠れる状態ではなくなるわけ。

騒音に、さらされ続けると不可避的に、眠れない状態になる。たとえば、きちがいヘビメタ騒音がなければ、普通の気分で、午後四時から午後一一時まてすごして、そして、午後一一時一〇分ごろには、歯磨きをして眠るということが、普通にできたわけ。

ところが、ヘビメタ騒音が鳴ると、どうしてもできなくなる。けど、「うるさかっただけだ」と解釈しているやつらは、眠れないくるしさや、歯磨きができなくなる問題がわからない。どうしても、できなくなるのだ。どうしても、眠るべき時間に眠れなくなるし、歯磨きをする体力もなくなる。

ちなみに、風呂だけど、風呂に入っているあいだも、ずっと、きちがいヘビメタ騒音をがんがん聞かされるわけだから、つらい時間になる。

たとえば、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていなければ、一(いち)のエネルギーで気持ちよく、風呂に入れるとしよう。これが、ヘビメタ騒音生活が一〇〇日続けは、一〇〇のエネルギーを使っても、気持ちよく風呂に入ることができなくなる。

しんどいわけ。

それが、二〇〇日続けば、二〇〇のエネルギーを使っても、気持ちよく風呂に入ることができなくなるわけ。一〇〇〇でも、二〇〇〇でも、おなじだ。どんどん、どんどん、つもっていく。風呂に入りにくくなれば……ほんとうに、ヘビメタ騒音で風呂に入りにくくなっているのだけど……そういうことは、言っても、無視されるのだ。

そして、ヘビメタ騒音でつかれて、風呂に入ることができない」ということを言えば……「そんなのは、いいわけだ」と言われることになるわけ。言霊主義者なら「できないと言うからできないんだ」「できると言えばできる」と言ってくるわけ。

いやーー。きちがいヘビメタ騒音……家族がきちがい的な意地で鳴らすヘビメタ騒音でできなくなったんだよ。だから、「できなくなった」と言っているんだよ。それを、「できない言うから、できない」と断定する。

しかも、悪気がない。こういう、妄想的な理由を持ち出して、人を苦しめても、まったく悪いと思わないのだ。そして、こともあろうに、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い出す。

これだって、ヘビメタ騒音音でできなくなったと言っていることを無視した発言だ。

もちろん、言霊主義者は、ちゃんと理解しているつもりなのだろう。ちゃんと理解して、素晴らしい助言……現実的な上限をしてやったつもりなのだお。

けど、こんなの、無理なことを押し付けているだけだ。きちがい兄貴にも、話は通じないけど、こいつらにも、話は通じない。こいつらは、理解しているようで理解していない。そして、こいつらの助言が、人の心を踏みにじるものだという自覚がまったくない。

「ヘビメタ騒音で眠れなくなった」「ヘビメタ騒音で風呂に入りにくくなった」と言っているんだよ。原因は、ヘビメタ騒音なんだよ。「できない」と言うから、「できなくなった」わけではないんだよ。

ヘビメタ騒音が鳴っていると、元気がなくなるんだよ。

ヘビメタ騒音が鳴っていれば……ヘビメタ騒音が鳴っている生活が続けば、原因は、「元気ではない状態になった原因は」ヘビメタ騒音なのだから、どれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないんだよ。

それを、ヘビメタ騒音なんていくら鳴っていたって、「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言う。「俺は、元気だ元気だと言ったら元気になった」「言霊は正しい」と言うんだよ。

かりに、言霊理論が正しいということになっていると、「エイリが、元気だ元気だと言って、問題を解決しようとしないのが悪い」ということになってしまうのである。

エイリが、元気だ元気だと言っても、元気にならないのは、エイリのやり方がへたくそだからだということになってしまうのである。うまくできる言霊主義者は、いい人で、うまくできないエイリは、ダメな人だということになってしまうのである。

元気になれないということは、言い方がへたくそだから、元気になれないのだということになってしまうのである。

もっとも、言霊理論が正しければ、どれだけへたくそな言い方で「元気だ元気だ」と言っても、元気になるはずなのだ。

ところが、そういう矛盾に……多くの言霊主義者が……一切合切気がつかない。うまく言える自分(某言霊主義者)は、エイリよりも、「うまく言う」能力があるということになってしまうのである。エイリは、某言霊主義者よりも、うまく言う能力がないダメなやつだということになってしまうのである。

「言霊理論は正しいので、うまく言えないエイリが悪い」ということになってしまうのである。エイリが「元気だ元気だ」とうまく言う能力がないので、エイリは、元気になれないのだということになってしまう。

●集合的一括思考(4)■社会※2026/05/09 2:27

「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったと思う」とEさんが言ったとする。ほんとうに、Bさんが成功しなかった理由が、Bさんの貧しさにあるのかどうかは、わからない。

しかし、「貧しいから、努力をしても成功しなかった」ということは、ありえることだ。貧しさが理由で、Bさんが、成功しなかったのかどうか、それだけではわからない。

しかし、貧しさが理由で、Bさんが成功しなかったということは、ありえることだ。

貧しい人は、みんな、貧しいから、努力をしても成功しないということを言っているのではなくて、Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったということを言っているのだ。

これは、正しいのかどうかわからないことだ。しかし、最初から、否定することはできない。

神様視点では、どっちなのかわからないことなのだ。

おのおのが、勝手に、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と考えたり、Bさんは、ほかの理由で、努力をしても成功しなかった」と考えたりするだけなのだ。

そして、Fさんが、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Gさんが、「Bさんは、才能がないから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Fさんが正しいのか、Gさんが正しいのか、ほんとうのことはわからない。

しかし、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」という考え方が、正しい場合もある。それは、否定できない。

*     *     *

いちおう、才能という視点を導入してみた。「努力をすれば、成功する」という場合は「努力」だけが、「成功するかどうか」を決めることになる。

努力のみについて語っていた時は、努力だけで、「成功するかどうかが決まる」ということを言っていたのである。

ここまでの話のなかで、「才能があるかどうか」なんてことは、出てこない。成功するかどうかは、努力をするかどうかで決まってしまうのである。

もちろん、努力をするかどうかで決まるということを、「努力をすれば、成功する」と言っている人たちが、主張しているだけだ。

ここで重要なのは、「才能がある」ということが、一意には決まらないということだ。「才能がない」ということも、一意には決まらないのである。だから、ほんとうは、こういうことを一〇〇%構文で言うべきではないのだ。

ところが、「これはこうだ」と断定することが、はやっていたのである。

いまでも、一〇〇%構文を使って、断定する人が、多数、いる。

この人たちは、「一意に決まらない」ということに注目しない。この人たちは、「(各項目のもつ意味が)一意に決まらない」ということに気がつかないまま、一〇〇%構文を使って、断定的にものを言う。

もう、この時点で、問題が発生している。

間違った思考をして、他人のことを「決めつけてしまう」のだから、問題が発生している。ただ、「間違った思考をしている」ということを、頑固に認めないのだ。

ともかく、集合的一括思考をして、他人のことを決めつけてしまうのは、よくない。

よくないことだ。

●集合的一括思考(3)■社会※2026/05/09 2:17

それから、前にも説明したけど、「ネガティブな人と一緒にいるとネガティブな気持ちになりやすい」というような感想を言う言霊主義者がいるのだけど、言霊主義者なら、一気にかえることができると思っているはずなのだ。

「これ以降、ネガティブな人は消滅する(いなくなる)」とか「これ以降、ネガティブな人は、ポジティブな人になる」とかと言ってしまえば、それで問題が解決する。

あるいは、「自分は、ネガティブな人の影響を受けない」とか「自分は、ネガティブな人と一緒にいても、ネガティブな人の影響を受けなくなる」とかと言えば、ネガティブな人の影響を受けなくなるのだ。

言霊主義者は、妄想的な万能感と現実的な無力感のあいだを行き来しているのだ。

万能感という言い方にあわせるけど、全能感と言ったほうがいいのかもしれない。

自分が言えば、神様だって、自分が言った通りに動くのだ。そういう全能感がある。

「すべて、自分が言った通りになる」という全能感があるのだ。

それと、「ネガティブな人と一緒にいると、ネガティブな気分になる」というようなことを気にする……せせこましい?部分が……同居しているのである。

好きなように、かえられると思っているのに、実際には、かえられそうにもないので、自分がネガティブな人と一緒にないようにして、自分の感情を守ろうとするところが(この人たちには)ある。

この場合、「自分は、言霊の力を使って、世界を自分が好きなようにかえることができる」という全能感と「自分は、言霊の力を使って、世界を自分が好きなようにかえることなんてできない」という無力感が同居している状態なのである。

言霊を信じているようで、信じていない。言霊の力を信じているようで信じていない。言霊の力を自分が使えるということを、信じているようで信じていない。

……こういう状態で、言霊主義者は生きているのだ。

だから、モードの切り替えというのは、重要な役割をはたしている。

2026年5月9日土曜日

●ヘビメタ騒音の影響を、過小評価してしまう■社会※2026/05/09 20:21

頭の悪い人たちというのは、想像力がないので、ヘビメタ騒音の話を聴いたときも、ヘビメタ騒音の影響度について、うまく考えることができないのである。

頭の悪い人たちは、ヘビメタ騒音の影響を、過小評価してしまうのである。

あるいは、まったく、無視してしまう。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するか、あるいは、ヘビメタ騒音の影響をゼロだと思ってしまう。

でっ、これもまた、こういう人たちの頭の(基本的な構造)に由来することなので、ぼくがどれだけうまい説明をしても、わからない人はわからないのである。こういうところでも、なんとなく、きちがい兄貴とこういう人たちが似ているような感じがする。

そして、頭の悪い人たちが多いのである。ぼくの話を聴いても、ヘビメタ騒音が与える影響のでかさを理解できない人が多いのである。

ぼくが、この人たちの頭をどうにかしてやることができないのだ。だって、そうだろ。どうやって、この人たちの頭をよくしてあげることができるのか。せいぜいのところ、わかりやすい説明をするように心がけるだけだということになる。

しかし、どれだけわかりやすい説明をしても、こいつらは、わからないのである。こいつらが、言霊主義者である場合を考えてみよう。

「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」と考えているやつらだ。こいつらは、エイリの話を理解できるように、自分の頭をよくしようとは、考えない。

かりに、こいつらが「自分の頭が、エイリの話を理解できるぐらいによくなる」と言ったとしよう。言えば言ったことが、言霊の力によって現実化されるはずだ。

ところが、まったく、よくならないのである。

言えば、言っただけなのである。こっちが、事実だ。こっちが、ほんとうの話だ。こっちが、現実だ。現実を無視して、妄想を語るなと言いたい。ところが、「現実を無視して、妄想を語るな」とこいつらに言ってしまえば、こいつらは、かなりの高確率で腹を立てるのである。

「なんだとぉ」という態度になる確率が高い。ぼくの経験の範囲だと、こいつらは、みんな、腹を立てたと思う。見た感じと態度で判断すると、腹を立てたのではないかなと、ぼくは思う。

こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音影響を、無視するのである。

あるいは、軽視するのである。

じゃあ、実際に、こいつらが思っているように、ヘビメタ騒音の影響が、小さいものだったかというとちがうのである。こいつらの想像力がないから、うまく想像できないだけだ。

あるいは、こいつらが、実際に、自分のきらいな音で経験していないから、どれだけ影響を受けるか、わかっていないだけだ。

ところが、こいつらの頭のなかでは……「ヘビメタ騒音の影響なんて、たいしたことはない」ということになってしまう。

そうすると、こいつらが、そろいもそろって、俺のことを見下すようになる。

きちがい兄貴が、普通の感覚を無視して、きちがい的にでかい音で、きちがい的な頑固さを発揮して、ヘビメタという音楽を鳴らすということと、想像力のないやつらや、経験がないやつらが、俺のことを見下してくるということまで、セットなんだよ。

こいつらは、想像力がないので、「そんなの関係がない」と言ってしまう。この発言が、どれだけ、俺にとって腹が立つ発言か、こいつらは、もちろん、理解しない。これは、一〇〇%詐欺じゃない。トートロジー系の文だ。

理解しないやつらのことを、想像力がないやつらだと言っているのだから、一〇〇%詐欺ではない。

けど、トートロージーになっているところがある。

ちなみに、こいつらの代わりに、ぼくが「こいつらの頭は、エイリの話を理解できるぐらいによくなる」と言っても、こいつらの頭は、よくならないのである。おかしいじゃないか。「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」……じゃないのか?

俺がどれだけ、「こいつらの頭がよくなる」と言っても、こいつらの頭はよくならない。言霊理論は間違っている。 

●集合的一括思考(2)■社会※2026/05/08 15:20

たとえば、Aさんのような人が一万人一人いるとする。

そして、Bさんのような人が一万人に九九九九人いるとする。そういう場合でも、九九九九人は、「貧しいから、努力をしても成功できない」と言うことが、できなくなってしまうのである。

こういう封殺する力がある。

しかし、それは、間違いによってつくりだされた幻想だ。

これ、集合的一括思考は、間違っている。理論的じゃない。理論的に間違っている。

しかし、たとえば、Cさんという人が、集合的一括思考をしがちな人だと、Cさんに、集合的一括思考が間違っているということを説明しても、Cさんは、納得しないだろう。

Cさんの理解力のほうが、問題なのだ。

たとえば、集合的一括思考は間違っているということを、説明する人がDさんだとする。Dさんの説明が正しくても、Cさんが理解しないのであれば、Dさんは、うまく説明することができなかったということになってしまうのである。

そして、Cさんが、自分が正しいと思っていることを否定されると腹が立つ人だと、Cさんは、腹を立ててしまう。Cさんが正しいと思ってやっている集合的一括思考が間違っているという話をされるわけだから、Cさんとしては、不愉快な気持ちになるのである。

たとえば、Cさんが、人には「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人でも、Cさんは、そのとき、Dさんの意見に合わせて、受け止め方をかえる確率が、非常に小さい。

もう、こういうことのほうが、法則性があるのではないかと思えるほどなのだけど、例外はいるので、いちおう、法則性があるようなことは言わないでおこう。人には「受け止め方をかえればいい」という人が、自分の受け止め方をかえればいいと思うかどうかというと、かなりあやしいのだ。

自分が正しいと思っていることを、否定されると、腹が立つという反応が自然に起こる。……そうなる確率が非常に高い。

そして、たとえば、Cさんが、すべては自己責任だと思って生きているとしよう。その場合、もちろん、Dさんの説明を聴いて、Cさんが腹を立てた場合、Cさんが腹を立てたのだから、Cさんの責任なのである。

もともと、自己責任論というのは、アンガーコントロール論なのだ。ところが、自分が立腹したときは、相手が悪いと思っている場合が多い。相手が(自分が正しいと思っている理論を)否定してきたので、相手のせいで、腹が立ったと思う場合が多いのである。

まあ、Cさんは、腹を立てたとする。Cさんは、普段、人には、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人だとする。

さらに、Cさんは、普段、人には「すべては、自己責任だ」と言っている人だとする。

そのCさんですら、実際の場面においては、腹を立てるのである。

そして、腹が立ったのは、Dさんのせいだと思うのである。

Dさんは、Cさんが正しいと思っていることを否定したので、Cさんは不愉快な気持ちになり、Dさんはネガティブな人だと思ったとしよう。

Dさんが「自分(Cさん)の意見を否定した」のだから、CさんがDさんのことを、ネガティブな人だと思っても、不思議ではない。

しかし、Dさんは、ネガティブな人とは限らないのである。

Dさんは、集合的一括思考は間違っているということを言ったにすぎない。そして、それは、正しいことだ。あっている。

Cさんが、集合的一括思考をして、「貧しくしても、努力をすれば成功する」と言った場合、やはり、Cさんは、間違ったことを言っているということになる。貧しいから、努力をしても成功しない人がたくさんいるからだ。

「貧しくても」という条件がついているけど、「貧しくしても、努力をすれば成功する」という文は一〇〇%構文の文なのだ。「貧しい人」という集合のなかの人は、みんな、同等に貧しい人であり、ほかの条件もおなじだと、Cさんは、勝手におもんこんでいるのである。

ちなみに「貧しい人は、努力をしても成功しない」という文も、間違っている。貧しくても、努力をして成功する人がいるからだ。

条件付きの一〇〇%構文の文がある。

これは、そのまま、一〇〇%構文の問題点を継承している。 

まあ、ともかく、運用の問題があるということを言いたいわけ。

Cさんが、普段、どれだけ「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを人に言っていたとしても……なおかつ……自分(Cさん)はそれを実践しいると思っていたとしても、実際の場面では、反対のことをしている場合が多い。

本人が、気がつかないだけなのである。

この本人が気がつかないというのは、非常に大きな問題だ。運用に問題があるということを重視しない人は、本人が気がつかないということも、無視してしまう傾向が強い。

本人が気がつかない……というのは、でっかい問題だ。

2026年5月8日金曜日

●集合的一括思考(1)■社会※2026/05/08 15:04

集合的一括思考と呼ぶことにしたのだけど、集合的一括思考をしていると、間違うのである。

たとえば、「貧しい人でも努力をすれば成功する」と言ったとしよう。

どういう人を「貧しい人」と呼ぶのかは、はっきりしないのだけど、ともかく、「貧しい人」というイメージに従って考えるとしよう。

これ自体が、もう、法則性をあらわす文としては、不適切なのだ。

まあ、話をすすめよう。

「貧しい人」という集合のなかにも、いろいろな貧しさの人が含まれているのである。はっきり言えば、「貧しい人」と一括してくくったけど、その中身は、千差万別だ。

ところが、貧しい人という集合のなかには、おなじように貧しい人がいると……集合的一括思考をする人は……考えてしまうのである。

貧しい人という集合のなかには、均一な貧しい人がいるという前提で物事を考えてしまうのである。

ところが、実際には、貧しい人のなかにも、いろいろな人がいるのである。貧しい人々が、共通のコミュニティーに属しているわけではない。ほかの貧しい人との接触頻度や関係というものが、ちがうのである。そして、文化的な資産の差もある。

家によって、文化的な資産がちがうし、地域によっても文化的な資産がちがう。貧しさを、本人の年収や、親の年収で考えた場合、年収(金額)以外の差は無視されてしまうのである。

そして、たとえば、貧しさを、本人の貯蓄額や、親の貯蓄額で考えた場合、貯蓄額以外の差は無視されてしまうのである。貧しさを、本人の年収と貯蓄額や親の年収と貯蓄額で考えた場合、年収と貯蓄額以外の差は、無視されてしまうのである。

そして、「貧しい人」のなかに入る人たちの年収がちがうし、貯蓄額もちがう。

年収や貯蓄額という「貧しさの基準」を考えた場合でも、貧しい人とひとくくりにされた人たちは、それぞれ、ちがう年収額や、ちがう貯蓄額で生活をしているのである。

ようするに、貧しい人という集合の中に入っている人たちは、同様に貧しいわけではないのだ。

ところが、一括思考をするので……「貧しい人といったら、貧しい人なのだ」と考えてしまう。

これが、じつは「ひどいあやまり」なのだ。「あやまり」なのだ。ところが、そんなことは、「貧しくても、努力をすれば成功する」と考えている人は、考えない。

たとえば、Aさんという人がいるとする。Aさんは貧しい人だとする。そのAさんが、社会的に?成功した。そのような例があるとする。その場合、集合的一括思考をする人は「貧しいAさんが成功したのだから、貧しい人も成功する」と考えてしまう。

そこで、貧しさの程度や、貧しさ以外の条件は、捨象されてしまう。

無視されてしまう。

努力をするかどうかという条件のほかに、貧しい(貧しさにおいて下である)という条件をつけたして考えたわけだけど、この場合も、「貧しさ」という条件は、あとでつけくわえられることになる。

そして、「成功した例」が語られることになる。

しかし、貧しい人の集合を考えた場合、みんながみんな、Aさんとおなじように貧しいわけではない。条件がちがう。

ところが、貧しい人は、Aさんとおなじ条件だと……自覚がないまま……考えてしまうのである。

かりに、Bさんが貧しい人だとする。そのBさんが社会的に成功しなかったとする。

「努力をすれば成功する」と考える努力論者は、貧しいBさんが成功しなかったのだから「貧しい場合は、努力をしても成功しない」と考えるかというと、そのようには考えないのだ。

例としてあがるのは、成功した人の例だけなのだ。集合一括思考をしているのに、ひとりでも貧しいのに、成功した人がいれば、「貧しくしても、努力をすれば成功する」ということになってしまう。Bさんが成功しなかった例というのも、自動的に無視される。

そうなると、「貧しいから、(努力をしても)成功しなかった」という思考は、間違った思考だと思われるのである。

ようするに、最初に……条件なしで「努力をすれば成功する」と考えて、そのあと……「貧しい場合は、努力をしても成功しない」という反論に対応して、Aさんが成功したという例を後出しで付け加えるのだ。

こうすると……あたかも、努力以外の条件についても、考えているようなポーズをとることができる。

しかし、これは、見せかけのポーズだ。

貧しくても成功したAさんのような例だけを取り上げるのである。そうすると、Aさん以外の貧しい人を、努力不足だとせめることができるようになる。

これ、最初から、他人をせめるための道具なのである。

「貧しくてもAさんが成功したのだから、Aさん以外の貧しい人も成功するはずだ」と……無自覚に……考えてしまうのである。

しかし、Aさんの条件と、Aさん以外の条件は、貧しさにおいてもちがうし、ほか条件においてもちがうのだ。Aさんには、Aさんに協力的な家族がいたかもしれない。

エイリには、勉強の邪魔をするきちがい家族がいた。そのきちがい家族の邪魔のしかたが、ほかの人が考えるような邪魔のしかたではないのである。常軌を逸したしつこさで、邪魔をするのである。どの時間も、可能な限り邪魔をするのである。

そういう家族と一緒に住んでいるという条件は「貧しさ」という条件を導入した場合でも、無視されているのである。事前に無視された条件なのである。

なので、事前に無視された条件は、結果に影響を与えないという(間違った)考え方がしょうじる。無視しているから、ないのとおなじで、ないのとおなじだから、どんなことが起きても、結果に影響を与えないということになってしまうのである。

ヘビメタ騒音という条件は、無視されているので、ヘビメタ騒音という条件がもたらすことに関しては、無視をしてもいいという考え方が横たわっているのである。

ようするに、「貧しさ」という条件を導入した場合でも、貧しさのなかの条件のちがいは無視され、ほかの条件も無視されるということになる。しかし、「無視している」という気持ちがまったくないのである。「ちゃんと考えている」と思っているのである。

集合的一括思考をしている時点で、じつは、人の条件について、誤った考え方をもっているのである。

ところが、それがわからない。

集合的一括思考をしている人は……『自分』は正しいことを言っているつもりなのだ。「Aさんが、成功したのだから、貧しくても、努力をすれば成功する」と思っているのだ。

その場合、「貧しいから成功しない」と言っている人たちは、みんな……「言い訳をしているだけだ」ということになるのである。こういう思考の流れがある。

最初に、いいこととして「努力をすれば成功する」という考え方を受け入れたために、他人に対して、その他人は「言い訳をしているだけだ」と決めつけるところまで、誘導されてしまう。

これが、一見正しそうに見える……一〇〇%構文をもつライフハックが、もたらす、効果だ。

まず、普通の人は、「努力をすれば成功する」という文が一〇〇%詐欺構文の文だということ気がつかない。

だから、条件を無視して、考えてしまう。

そして、普通の人は、自分が一倍速で経験したことは重視するけど、他人が一倍速で経験したことは、無視する傾向が非常に強い。例外的な「普通の人」はいるだろうけど、たいていの「普通の人」は、一〇〇%%詐欺構文を与えられると、条件を無視して(他人のことについて)考えるという傾向が、非常に強い。

*     *     *

ちなみに「貧しいなら、努力をしても成功しない」という命題も『偽』だ。

ここで言いたかったのは、「成功しなかった例」というのは、無視されるということだ。成功しなかった例をあげて、これまた、間違った文を言う確率は、低いのだ。

ちなみに、「貧しいBさんが成功しなかったのだから、貧しい人は成功しない」という文も間違っている。理論的におかしなことを言っているということになる。

「貧しいBさんが成功しなかったのだから、貧しい人は、みんな、成功しない」と言えば、文のおかしさに気がつくだろう。単に「貧しい人」と言った場合も「貧しい人は、みんな」と言った場合も、おなじ意味になるのだ。

「貧しい人」という言葉が示す集合と、「貧しい人は、みんな」という言葉が示す集合は、おなじだ。

●事前に無視された条件に対する言葉なのである■社会※2026/05/08 4:24

最初は「努力をすれば成功する」と言うのだけど、それでは終わらないのだ。

社会的に運用されるとなると「努力の量がたりない(からダメなのだ)」とか「努力の方向が間違っている(からだめなのだ)」という文字列が付け加わることになる。

「努力をすれば成功する」という文は、一〇〇%構文の文であり、条件を無視した文なのだ。

この最初の時点で「条件を無視している言い方を採用している」ということが、重要なのである。「条件は、事前に無視されているのだけど、条件が無視されているように見えない」言い方なのである。

だから、後出しで、「努力の量がたりない(からダメなのだ)」とか「努力の方向が間違っている(からだめなのだ)」とかいう言い方が出てくることになる。

これらの言葉は、事前に無視された条件に対する言葉なのである。

ちなみに、どれだけ少ない量の努力でも、努力をすれば成功する「はず」なのだ。

「努力をする」という集合のなかに「少ない努力をする」という集合が含まれている。

逆ではない。

「少ない努力」をした以上、努力をしたということになるのである。

なので、だれかが、「努力をすれば成功する」と言ったあと、「努力の量がたりない(からダメなのだ)」と言った場合、「努力の量がたりない(からダメなのだ)」と言った時点で、最初に自分が言ったことを、自分で否定していることになる。

「努力の量がたりないと、成功しない」なんてことは言っていないのだ。努力の量に関係なく、努力をすれば成功するのである。少ない努力でも、努力をしたのに成功しなかったなら、最初の文……「努力をすれば成功する」という文が間違っているということになる。

命題としては、『偽』なのである。

しかし、ツラの皮が厚い「努力論者」は、そのことを認めない。相手の問題だと切り捨ててしまうのである。

相手の問題だと断定して言う態度は、じつは、問題がある態度だ。

しかし、当の本人は……問題だとは思わないのである。どうしてかというと、「努力をすれば成功する」と最初に言った人は、自分が「努力の量がたりない(からダメなのだ)」と言った時点でも、「努力をすれば成功する」という文は正しいと思っているからだ。

「努力をすれば成功する」という命題は、『偽』なのだけど、『真』だと思っている状態が、続くのである。そのあとも、ずっと続くのである。

言霊主義者とおなじように……努力論者は「ぬけぬけモード」で暮らしているから、自分が言ったことの矛盾に気がつかない。

自分が最初に言ったことと、自分があとで言ったことは、矛盾しているのである。

ところが、自分自身である本人は、自分が矛盾したことを言っているとは思わないのである。

まったく思っていないのである。

2026年5月7日木曜日

●「努力をしない人間はダメな人間だ」■社会※2026/05/07 20:56

成功の反対は失敗なのだけど、失敗ではないにしろ、成功していない状態に状態について考えてみよう。

「成功する」と「成功しない」ということについて考えた場合、「成功しない」状態というのは、ダメな状態なのである。成功していない状態というのは、ダメな状態なのである。

だから、「努力をすれば成功する」と言った場合、暗に「成功していない人」は努力しないから成功しないのだというイメージが成り立ってしまう。

ようするに、成功していない人間はダメな人間であり、どうして、ダメな人間かというと、努力をしない人間だからダメな人間なのだという、ことになる。

「努力をすれば成功する」というポジティブな言葉が、「成功していない人間は、努力をしていないダメな人間だ」というというイメージを与えるのである。

努力をしない人間は、ダメな人間だというのが、ほんとうのメッセージだ。

そして、ダメな人間が、「努力をした」と言っても、「努力したことにならない」のである。

どうしてかというと、「成功していないから」だ。結果がすべてなのである。

努力をすれば成功するのだから、成功していない以上、努力をしなかったということになる。

一括思考で、ダメな人間は、努力をしない人間なのだというイメージを、人の頭のなかに植え付けるのだ。

「努力をすれば、成功する」というのは、ポジティブな印象を与えるけど、実際には、「努力をしない人間はダメな人間だ」というネガティブな印象を「成功していない人間」に与える効果をもっている。

●「言霊モード」と「現実モード」■言霊※2026/04/25 7:45

自分が言えば、言った通りになるのだから、全部を支配できるのだ。

言えばいい。「これこれは、こうなる」と言えば、「これこれ」はそうなる。

その人の頭のなかでは……「自分に制御できないことはない」ということになっているのだ。

ところが、「自分が制御できないことは、距離を置いたほうがいい」と考えることもあるのだ。自分が制御できないことはないと思ったり、自分が制御できないことがあるという前提でものを言ったりする。

この場合も、モードが切り替わっているので、本人が、本人の矛盾に気がつくことがまったくない。

「言えば、言ったことが、現実化する」のだから、すべて、言えば、制御できる。

ところが、「自分が制御できないことは、自分が制御できないことなのだから、かかわらないようにしたほうがいい」というような考え方を、もっているのである。

しかも、そういう気分になっているときは、ほかの人に、その考えたをすすめたりする。

ほかの人には……「社会が悪いと言ったところでしかたがないので、自分の身の回りの自分に関係があることだけを気にすればいい」というようなことまで、言ってしまうことがある。

言霊主義者なのだから、言霊は絶対だと思っていて、自分は言霊の力を使うことができると思っているのだ。言霊モードのときは……。

言霊モードのときは、「言霊は絶対だ」とわけのわからないことを言い、「言霊は宇宙を貫く絶対法則だ」と言ってゆずらないのである。

ところが、場面がかわれば……「社会についてネガティブ(と本人が思うことを言っている人には)社会についてネガティブな発言をしてもしかたがないので、自分の身の回りのことに集中したほうがいい」……などと口走ってしまう。

まったく、矛盾に気がついていない。

「言霊モード」と「現実モード」という言い方を採用するなら、言霊モードのときに言っていることと、現実モードのときに言っていることは、矛盾しているのである。

しかし、本人が、それにまったく、気がついていない状態で、生きている。本人が(自分の矛盾に気がつかない状態で)長い間、生活している。

2026年5月6日水曜日

●「カネがはいってくると言ったからカネがはいってきた」■社会※2026/05/06 13:50

たとえば、働いて、カネを稼いだとする。あるとき、自分の銀行口座に、働いた分のカネが振り込まれたとする。

そのとき、『カネがはいってくる」と言ったから、実際にカネがはいってきたのだ』と思うのである。

「カネがはいってくる」と言ったのは、事実だとする。

なら、働かずに、「カネがはいってくる」と言っただけで、「働いた分のカネ」が振り込まれるかというと、そうではないのである。

そうではないのである。

ところが、「カネがはいってくると言った」ということに、注目して、自分が働いたということを、無視してしまうのである。「カネがはいってくると言ったからカネがはいってきた」と思ってしまうのである。

自分が銀行口座を複数、もっていたとする。そして、ある銀行口座のことをすっかり忘れていたとする。おカネがなくてこまったときに、ある銀行口座のことを思い出して、その銀行口座の残金を調べたら、二万円あった。

そうしたら、「カネがあると思ったから、カネがあった」とも思うのである。

けど、カネがあると思うだけで、カネがある状態になるなら、そもそも、「おカネがなくてこまった状態」にならないのである。

こういうことの繰り返しだ。

これは、「明日雨が降ると言ったら、雨が降ったから、言霊理論は正しい」と言っているのよりも、もっとひどい。

自分がやったことなのに、自分がやったことを無視して、「言霊のおかげだ」と思い込むようにしているのである。あるいは「思ったから、こうなった」と思い込むようにしているのである。

こんなの、ない。

*     *     * 

言霊主義者は、自分がやったことを忘れて、「言った通りになった」と思う傾向が強い。自分がやったことなのに、自分がやったということを、忘れてしまった場合や、自分がやったということに注意が向かない場合は、「言霊のおかげだ」と考えてしまう傾向が強い。

これは、他人に対しても、おなじだ。

他人に対して「いたいと言うから、いたくなる」「かゆいと言うからかゆくなる」と言う場合も、他人の出来事を無視しているのである。自分のことではないから、最初から、ほんとうの理由に注意が向かないのである。

本当の理由に注意が向かないので、「言った」ということに、注目してしまう。言霊主義者本人にとって、他人の「過去における出来事」は、たいしたことじゃないのである。自分のことじゃないからね。

言霊主義者には「言った」ということ以外の……「過去の出来事」を無視する傾向がある。

他人のことなら、簡単に無視できる。相手が本当の理由について述べても、それは、無駄なのだ。「言ったからそうなった」と言ってゆずらない。

「かゆくなる」出来事が他人の身の上に起こったとしても、それは、言霊主義者にとっては、関係がないことだから、簡単に無視することができるのである。

そうなると、「言霊のせいだ」という連想が働くことになる。そうやって、「言霊(理論)は正しい」「言霊は絶対だ」という考えを強化していくのである。

*     *     *

言霊主義者には「言った」ということ以外の……「過去の出来事」を無視する傾向があるのだけど、全部無視するかというとそうではないのである。

過去の出来事をすべて無視するわけではない。自分が一倍速で経験したことに関しては、認知とメタ認知が成り立っているので、過去の出来事を無視しない場合がある。

この場合は、現実モードになっているのである。言霊主義者は、現実モードと言霊モードを切り替えて、生きている。

けど、本人としては、現実モードのときも、「言霊は正しいと思って生きていることになっている」のである。

●なんで、おかしいと思わないのか、不思議だ■社会※2026/05/06 13:39

「カネを用意できないと、ひどい目にあう」ということが決まっているんだよ。

「カネを用意できないと、ひどい目にあう」ということが決まっている社会なんだよ。

ところが、「カネがあると言えば、カネがある状態になる」と妄想的なことを言う人が出てくる。「カネ持ちになった自分をイメージすれば、カネ持ちになる」と妄想的なことを言う人が出てくる。

「これが真実だ」と言うのである。

ところが、その人たちは、『普通の労働』をしているのである。

「カネがある」と言ってカネをつくりだしているわけではない。

『普通の労働』をして、カネをなんとか、かせいでいる。こういう現実がある。

もし、「カネがある」と言っただけで、「カネがある状態になる」のであれば、『普通の労働』をする必要がないのである。

矛盾している。

もし、「カネ持ちになった自分をイメージする」だけで、実際に「カネ持ちになる」のであれば、『普通の労働』などする必要がないのである。

こいつらは、『普通の労働』をしているのに、妄想的なことを言って、自分をごまかしている。

自分をごまかすだけならいいけど、他人まで、ごまかそうとするのだ。

そして、こいつらは「それ(他人までごまかそうとすること)」が、よいことだと思っている。妄想的なことを言えば、「いい助言をしてやった」と思うのである。

*     *     *
この人たちのカネの出どころは、労働行為だ。

それなのに、「カネ持ちになると言っただけで、カネ持ちになる」と言う。

それなのに、「カネ持ちになると思っただけで、カネ持ちになる」と言う。

しかも、「絶対の真実だ」と思っているのである。

だっら、「カネ持ちになる」と言って、『普通の労働』をやめればいい。だったら、「カネ持ちになる」と思って、『普通の労働』をやめればいい。

『普通の労働』は、生活をするために必要なのである。

『普通の労働』をしないと、生活費ですら、捻出できないのである。

(カネを)つくることができない。

『普通の労働』をしないと、生活できないよなやつが「カネ持ちになると言えば、カネ持ちになる」と言う。

なんで、おかしいと思わないのか、不思議だ。 

自分は、こまらないように、せこせこと労働をしているのに、人には「カネがあると言えばカネがある状態になる」と言うのだ。

「言い方がへたくそだから、ダメなんだ」と言うのだ。

「自分は、現実化させることができる」と言うのだ。

「言霊は絶対だ」と言うのだ。

「カネ持ちになるまで、何度でも、カネがあると言えばいい」と言うのだ。

こんなのは、おかしい。

なんで、おかしいと思わないのか、不思議だ。

ほかの人を巻き込もうとするな。

●こまっている人には、えらそうなことを言う■社会※2026/05/05 17:07

弱っている人には、えらそうなことを言う……。こまっている人には、えらそうなことを言う……。

こういうやつらを、量産しやがった。

こいつらは、「ぬけぬけ」だから、自分がなにをしているのか、自覚がない。

「自己責任で生きているつもり」の人……。

ぜんぜん、自己責任で生きていない。

こまっている他人には「そんなのは、自己責任だ」と言うのである。

弱っている他人は「すべては、自己責任だ」と言うのである。

こいつらが、ほんとうに、「自己責任で生きているか」といえば、自己責任では生きていない。

こいつらは、自分が、一倍速で経験している場合は、「相手の責任だ」と考えるのである。

そう思う根拠が、あるのである。

一倍速で経験したことだから、認知とメタ認知が成り立ち、『自分のせいではなく、相手のせいだ』と考えるのである。

ところが、『自分のせいではなく、相手のせいだ』と考えたことは、「あたりまえのこと」として処理されて、「自己責任で生きていない」ということに、まったく、気がつかない。

「ぬけぬけ」なんだよ。

「ぬけぬけ」だから、「自己責任で生きている」という意識を維持できるだけだ。

「世のため人のために行動しよう」「ほかの人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはしないようにしよう」「人にやさしくしよう」「人に親切にしよう」「人に感謝しよう」 と言ってたって、実際にやっていることは、こういうことだ。

運用に問題があると言っているだろ。

そもそも、認識が発生しないことがあると言っているだろ。

「世のため人のために行動しよう」「ほかの人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはしないようにしよう」「人にやさしくしよう」「人に親切にしよう」「人に感謝しよう」と思っている人がどれだけ増えても、世の中なんて、よくならない。そうなっている。

 「明るいことを考えましょう」「ポジティブなことを言いましょう」と他人に言う人が、どれだけ増えても、世の中なんて、よくならない。そうなっている。

「ぬけぬけ」だから、現実の場面では、ほかの人に、親切にしないのだ。かわりに、ほかの人が、いやがることをする。ほかの人がいやがることをしたという認知がしょうじない。

本人の認知は「いいことをした」という認知なので、ぜんぜん、世の中がよくならないのだ。

他人の現実を無視して、他人に無理なことを押し付けているときも「正しいことをした」と思っているのである。

それなら、どれだけ、 「世のため人のために行動しよう」「ほかの人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはしないようにしよう」「人にやさしくしよう」「人に親切にしよう」「人に感謝しよう」と思っていたって、むだだ。

現実的な場面では、妄想的な理論を押し付けたり、無理なことを押し付けたりしている。

けど、それに気がつかないのである。自分が一倍速で経験したことに関しては、成り立っている「常識」が、他人が一倍速で経験したことに関しては、成り立っていないのである。

*     *     *

こいつらにとっては……こまっている人に「妄想的な無理なこと」を言うことが、いいことなのである。これじゃあ、世の中なんてよくならない。 

2026年5月5日火曜日

●毎日続いたということが重要なんだよ■社会※2026/05/05 15:45

そりゃ、「そんなの関係がない」と言っていたやつが、ヘビメタ騒音の影響を認めてくれたほうが、いい。俺にとっては、それは、いいことだ。

けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられた「からだ」がある。

体(からだ)を実際に使って、生きているわけだ。

つまり、きちがいヘビメタ騒音を経験した体なのだ。これがもつ意味が、ほかの人にはわからない。

少数の例外も、ほんとうのところはわからないと思う。個人的な「信念」になってしまう。「影響がある」「影響が残っている」ということが、個人的な信念になってしまうのだ。

「過去は関係がない」と言っていたやつも、けっきょく、「ヘビメタ騒音の影響」を否定しているわけ。

それが、俺にとって、どういう意味をもっているのか、こいつらはまったく理解していない。

「こだわっているから、ダメなんだ」と言ったやつも、けっきょく、「ヘビメタ騒音の影響」を否定しているわけ。

こいつらは、ほんとうに、ダメなやつらだ。ほんとうに、ダメなやつらだ。

こいつらとつきあったって、なにもいいことがない。こいつらは、ぼくのなかでは、もうすでに、この世にいない人間だから……。まあ、この世にいない人間だとしても、腹が立つけどね。

こういうやつらの、現実的ではない発言というのが、めちゃくちゃに、俺ことを傷つけるんだよな。

はっきり言えば、ぼくのこころは、おだやかではない。こういう発言をされたとき、ぼくのこころは、おだやかではないのだ。

ところが、こいつらは、そろいもそろって、「正しいことを言った」と思っている。こいつらが、実際の騒音生活を経験していないから、言えることだ。こいつらにとって、苦手な音が、あの音のでかさで、何時間も何時間も鳴っている一日というものが、どういう一日か、わかっていない。

勉強の邪魔をされるということが、わかっていない。ただ、やりにくい状態になるのではなくて、不可能な状態になる。それも、わかっていない。

こいつらは「どれだけ、騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできる」と思っている。

こいつらは「耳栓を使えば、勉強ができるレベルまで、音を減衰させることはのカウだ」と思っている。

ところが、ちがうんだよ。

破壊的な音で鳴っている。ぜんぜん、状態がちがう。距離がちがう。音のでかさがちがう。きちがい家族の、常識が、ほかの人の常識とは違う。きちがい家族の感覚が、ほかのひとの感覚とはちがう。

あんなにでかい音でずっと鳴らしているのに、まったく、なにも感じないというのおかしい。こっちが、ずっと、黙っているのであれば、(きちがい兄貴が)気がつかないということもありえるけど、(こっちは)ずっと毎日毎日、何回も何回も、何十回も言っているんだぞ。

頭がおかしいから、できることなんだよ。

頭がおかしいから「普通に」できることなんだよ。

頭がおかしいから「普通に問題なく」できることなんだよ。

「問題なく」というのは、本人が、問題を感じないままできるということだ。

こんなのは、おかしい。まさにくるっている。

そして、くるっている時間が長かった。狂っている期間が長かった。これが重要なんだよ。毎日続くということが重要なんだ。毎日続いたということが重要なんだよ。これの重要さが、普通の人たちにはわからない。

どうしてかというと、経験したことがないからだ。同程度の経験がないのである。同程度のことを経験したことがないのである。

普通の人たちには、きちがい家族がいないし……その、きちがい家族が、たまたま、自分がこの世で一番きらいな音楽を、こだわってこだわって、毎日毎日、頑固に頑固に鳴らし続けたということもない。

きちがい家族はいるけど、そのきちがい家族が、よりによって、自分がきらいな音を、ガン無視で、頑固に、ずっとずっと、一日中鳴らし続けるなんてことは、めったに、ないんだよ。

きちがい家族にやられた人は、はいるにはいるけど、そのなかで、何人の人が、音でやられたかわからない。何人、いるのだ。

理解者は、きちがい家族がいて、そのきちがい家族が、音を頑固に鳴らすことにこだわってこだわって鳴らした人でしかない。

ほかの人は、みんな、わかっていない。わからない。

わからないから「そんなの関係がない」と言う。わからないから、「なにがヘビメタ騒音だ!」と言う。わからないから「こだわっているから、ダメなんだ」と言う。わからないから「過去は関係がない」と言う。

こいつらのことが、ゆるせるかというと、ゆるせない。

「そんなのは関係がない」と言ったあと「人間は働くべきだ」と言ったやつも、ゆるせない。こんなの、ゆるせるわけがないだろ。

こいつらは、みんな、正しいことを言っているつもりなのだ。

「できると言えばできる」と言ったやつも、「無理だというから無理なんだ」と言ってやつも、正しいことを言っているつもりなのだ。

こいつらは、みんな、自分の問題であれば、正反対のことを考えるのだ。

実際に自分が老化したら、老化したから、今までのように働けないと考えて、仕事をやめたりする。

「無理だ」と言うから無理なんだよ。

 こいつらは、みんな、自分が深刻な病気になれば、正反対のことを考えるのだ。

「こんな深刻な病気を抱えていたら、仕事なんてできない」と言い出す。

「できない」と言うから、できないんだよ。

人間は、働くべきだ。そんなのは、あまえ。そんなのは、言い訳だ。

2026年5月4日月曜日

●「努力の方向が間違っている」■社会※2026/05/03 17:58

よくわかっていない人に、ちょっとだけ付け足して言っておこう。

Bさんが、努力をして解決した場合、Aさんは、「努力の方向が間違っている」と決めつけ、「努力の量がたりない」と決めつけ、「熱心に努力しない」と決めつけるだろうか?

Bさんの努力が、どれだけ、小さな努力でも、解決に成功してしまったら、「努力不足だ」と言えないことになる。裏を返せば、Bさんの努力が、どれだけ大な努力でも、解決に成功していないなら、AさんはBさんに「努力不足だ」と言えることになる。

だから、努力の量のは、ここまで努力すれば成功するとか、ここまでの努力では成功しないということが、決まっていることではないのだ。

Aさんが、Bさんに「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言った時点で、Aさんが、必要な努力量を知っているわけではないのだ。

そんなことは、まったくわからずに、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という言葉が心地よいので、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言っているだけだ。

まあ、Aさんは、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」ということを信じているのだろう。だから、「成功しなかったなら、努力不足だ」ということにしてしまう。

なお、努力不足で説明したけど「努力の方向が間違っている」という説明についても、おなじことが成り立ってしまう。

Aさんは、知っているわけではないのだ。

ほんとうは、Bさんの努力の方向があっているかもしれないのだ。

しかし、Bさんの悪い条件が、方向があっている(Bさんの)努力をうちまかして、成功できない状態になっているのかもしれないのだ。

ところが、AさんにとってBさんの問題は、ひとごとなので、Aさんは、Bさんの条件について「軽く考えてしまう」か、あるいは、無視してしまう。

Bさんが、努力をしても、努力の量に関係なく、失敗したら「努力が不足している」「努力不足だ」とAさんに言われることが決まっているのである。Bさんが、努力といえるような努力をしていなくても、Bさんが成功したら、Aさんは「Bさんはじゅうぶんな努力をした」と評価し「努力をしたから成功した」と断定してしまう。

あらかじめ、必要な努力量が決まっているわけではないのだ。

これは、重要なことだ。Aさんが、あらかじめBさんの必要な努力量を知っていて、努力が足りなかったとか、努力がじゅうぶんだったとかと言っているわけではないのだ。

そして、これは、Aさんが勝手に言っていることだ。Bさんがどのくらい努力をしたかなんてAさんはまったく知らないのである。

別の努力論者であるCさんも、Bさんがどのくらい努力をしたかなんて知らない。

けど、Cさんも、Bさんが成功したなら、じゅうぶんに努力したと思い、Bさんが失敗したなら、Bさんの努力はじゅうぶんにではないと思うのだ。

Cさんも、Bさんに必要な努力量がどのくらいの量なのか、事前に知っているわけではない。

努力論者が、勝手に、「(はずした)言い訳」をしているにすぎない。

最初から、「努力をすれば、成功する」という命題が、偽なのである。最初から、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という命題が、偽なのである。

Aさんは、「(はずした)言い訳」をしているにすぎない。しかも、「人のせい」にしている。

Bさんが、少しでも努力すれば、成功しているはずなのである。

最初から「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という一〇〇%構文をもつ文が、間違っているのである。それを、Aさんが、正しいと思っているだけなのだ。

最初から間違っているのは、Aさんなのに、Aさんは、Bさんの努力不足だと、Bさんをせめるのだ。

どっちが、言い訳をしているのか、よく考えたほうがいい。

*     *     *

ほんとうは、一〇〇%詐欺構文がまちがっているのに、一〇〇%詐欺構文に合致しない結果が出ると、対象者のせいにしてしまうのである。しかし、最初に提示された一〇〇%詐欺構文が間違っている。合致しない結果が出て当然なのである。合致しない人が出てきて、当然なのである。最初から、一〇〇%詐欺構文が間違っている。

努力論者であって、「人のせいにするな」と人に言う人たちは多い。努力論自体が、自助努力を前提にしているので、「人のせいにするな」人に言いやすい状態になるのである。しかし、(一〇〇%詐欺構文が)間違っていることに気がつかない努力論者は、デフォルトで、成功しなかった人のせいにしてしまう。


2026年5月2日土曜日

●「解決するように努力すれば、解決することに成功する」■社会※2026/05/02 14:10

「解決するように努力すれば、解決することに成功する」とする。

そうなると、解決できない人は、努力をしないからダメなのだということに、なってしまう。

努力をしないからダメなのだと言われた側……決めつけられた側が……「自分だって努力した」と言ったとしよう。

そうなると、「努力の方向が間違っているからダメなんだ」とか「努力の量がたりないからダメなんだ」とか「熱心に努力しないからダメなんだ」とかと、最初に「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言った人は、言うのである。

「二値思考」「数量思考」「性質思考」の問題については、指摘しておいた。

最初に選ばれる言い方は「二値」的な言い方なのである。あとで、「数量」と「性質」が付け足される。何度も説明したけど、これは、後出しジャンケンなのである。

なにを根拠に「努力の方向が間違っている」とか「努力の量がたりない」とか「熱心に努力しない」とか言っているかというと、じつは、「実際に解決できなかった」ということを根拠に言っているのだ。

結果的に、解決していないので「努力の方向が間違っている」と決めつけ、「努力の量がたりない」と決めつけ、「熱心に努力しない」と決めつけている。結果を見て、後出しで、好き勝手な理由をつけているだけなのである。

しかし、「すべての場合において、解決するように努力すれば、解決することに成功する」という最初の考え方が間違っているのである。

「すべての場合において」なんて言っていないと……思う人もいるかと思う。

しかし、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」というのは、100%構文の文なので、「すべての場合において」と付け加えた文と「解決するように努力すれば、解決することに成功する」とだけ言っている文は、意味的に等価なのである。

これは、意見のちがいとかそういう問題ではない。

理論的な思考ができるかどうかの問題だ。

文の意味を正確に認識しているかどうかの問題だ。

これを、『意見のちがい』としてとらえるという……態度……が、問題なのである。

「どんな条件でも、すべての場合において解決するように努力すれば、解決することに成功する」という文と「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という文は、意味的に等価だ。

ほんとうは、条件が悪ければ、成功しない場合だってあるのに、成功すると決めつけてしまうのである。これは、たしかに前向きだけど、まちがっている。

そして、条件が悪いから、解決することに成功しない人は……たいていの場合…… 「努力の方向が間違っているから」とか「努力の量がたりないから」とか「熱心に努力しないから」とかと、決めつけられると不愉快な気持ちになる。

そりゃ、間違った原因を探し求めて、間違った原因が原因だと決めつけてくるからだ。そして、間違った原因と言うのが、ようするに、「その人のせい」なのである。「人のせいにしない」などと言っている人も、人のせいにするのである。その人の「努力がたりない」成功しないと言っているほうは、気分がいいかもしれないけど、言われたほうは……たいていの場合……気分が悪くなるのである。

こういう、トラブル生成装置なのである。

「努力がたりない」というのは、言う側が勝手に言ったことなのである。AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんに「(Bさんの)努力が足りないから(Bさんは)(解決することに)成功しない」と言ったとする。その場合、Aさんがよく調査して、たしかに、Bさんの努力が足りないということを、つきとめたわけではないのだ。

ただ単に、Bさんが成功していないなら、努力が足りないのだと決めつけただけだ。そうなると、Bさんは、どれだけ努力をしても、成功しない以上、Aさんから「努力が足りない」と言われることになる。Aさんは、Bさんに向かって、ただ自分の気分で……「(Bさんの)努力が足りないから(Bさんは)(解決することに)成功しない」と言っているとき、別に、Bさんのことを不愉快な気分にさせやろうと思って言っているわけではない。

ほんとうに、そう思って言っている。その背後には「どんな条件でも、すべての場合において解決するように努力すれば、解決することに成功する」という間違った考え方がある。もっと単純に言うと「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という間違った考え方がある。

この考え方は、間違っている。条件が悪ければ、成功しないことだってあるからだ。

ところが、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という間違った考え方にとらわれて、Bさんは努力不足だと(Aさんは)断定してしまう。

こういう不幸なことが、全国で発生することになる。「努力すれば、成功する」という文は、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という文の内容を含んでいる。

「努力すれば、成功する」という考え方の集合のなかに「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方の集合が含まれている。「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方の集合は、「努力すれば、成功する」という考え方の集合の、部分集合なのだ。

多くの人が「努力すれば、成功する」という考え方をもっている社会と、多くの人が「努力すれば、成功する」 という考え方をもっていない社会をくらべた場合、多くの人が「努力すれば、成功する」という考え方をもっている社会のほうが、多くの人が「努力すれば、成功する」 という考え方をもっていない社会よりも、上記のようなトラブルが発生しやすいのである。

上記のようなトラブルというのは、AさんがBさんとのあいだに発生したトラブルのことである。もっとも、Aさんは、トラブルだと認識していない。Aさんは、かなりの高確率でBさんを不愉快にさせるけど、Aさんは、たいていの場合、自分の発言に問題があるとは思わない。

Bさんが「不愉快だ」とAさんに言った場合、Aさんが、それ(自分の発言に間違いがある)ということや(自分の発言がBさんを不愉快にさせた)ということを認めるかというと、認めないことのほうが多いだろう。

どうしてかというと、Aさんにとっては、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方は、正しい考え方だからだ。

たいていの場合、『自分が正しい』と思っていることを言ったって、別に悪いとは思わないだろう。そして、Bさんが解決することに成功していないなら、Bさんの努力不足だと(Aさんが)認識したということについて……たいていの場合……Aさんは、問題があるとは感じない。

どうしてかというと、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方は、正しい考え方だとAさんがもっているからだ。

ほんとうは、「二値」と「性質」の問題がある。

しかし、Aさんのような人は、最初に自分が「『二値文』を言った」ということを、忘れてしまう傾向が強い。

解決するはずなのだから、「解決しないなら、Bさんの努力不足だ」とAさんが考えても不思議ではない。

それから、「解決しないなら、Bさんの努力の方向が間違っている」とAさんが考えても不思議ではない。


2026年4月30日木曜日

●俺の人生は、こういう朝の繰り返しだった■騒音※2026/04/30 8:21

朝起きたときの気分が、並じゃない。ほんとうに、俺は、よく生きてたなぁ。こんなの、ない。ど

れだけ、きちがいヘビメタが、次の日の「朝」に影響を与えるか、ほかの人はわかっていない。きちがい兄貴はわかっていない。

ほんとう、タイムマシンで、当時の世界に行って、きちがい兄貴を殺したい。これ、ほんとうに、ものすごくひどいことなのである。きちがい兄貴は、この朝の気分の、一不可思議分の一も、わかっていない。

自分がなにをしているのかわかっていない。

俺の人生は、こういう朝の繰り返しだった。

「そんなの関係がない」と言うやつを、ぶっ殺してやりたい。「ヘビメタなんて関係がない」と言うやつを、ぶっ殺してやりたい。「鳴り終わったら関係がない」と言うやつをぶっ殺してやりたい。「過去は関係がないというやつを、ぶっ殺してやりたい。

まあ、もちろん、ぶっ殺すどころか、なぐりもしないし、どつきもしない。

こいつらは、みんな、「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言う。こいつらは、みんな、「俺だってつらい思いをした」「私だってつらい思いをした」と言う。

けど、こいつらには、きちがい家族がいないのである。きちがい家族が、どれだけ狂った感覚で、きちがい騒音を鳴らすか、まったくわかっていない。きちがい騒音を鳴らされた「次の日」の死にたくなるような憂鬱を経験していない。

何千日、続いたと思っているんだ。

これ……「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて……死刑宣告みたいなものなのだぞ。「元気だ元気だと言えば元気になる」なんて……死刑宣告みたいなものなんだぞ。

それがわかっていないということは、わかっていないということなんだよ。

何千日繰り返したか、ぜんぜんわかっていないなぁ。毎日のつみかさねが、どういう影響を与えるか、ぜんぜんわかっていないなぁ。 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて、ほんとうに、どれだけ、腹が立つか……。どれだけ腹が立つか、ぜんぜんわかっていないなぁ。

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて、他人に言うやつが経験した苦労なんて、たいした苦労じゃないよ。

影響……。影響……あるにきまっているだろ。ふざけるな。ふざけんな。

きちがい兄貴が、ほんとうに無慈悲に、無感覚に、自分がやりたいことを押し通したんだよな。

それが、根源だ。

やっちゃ、いないことを、毎日、やったのである。普通の人が、やらないことを、毎日、やり通したのである。ぜんぜん、気がつかないんだよ。きちがい兄貴と、きちがい親父はおなじ。きちがいだから、人がこまるということがわからない。

特に、「家族がこまる」ということは、まったくわからない。これ、他人より、家族のほうが、気をつかわなくてもいい存在なのである。

そして、言霊主義者のように、「ぬけぬけ」なのである。

家族に「うちのなかで」言われているときのモードと、他人に「そとで」言われているときのモードがちがうのである。

意地を通してやるということが、家族に与える影響が、やっているときは、まったくわかっていないのである。どれだけ激しく言われても、まったく、まったく、まったくわからないのである。自分が、意地になってやったことが、ほかの家族にどれだけ影響を与えるか、意地になってやっているきちがい兄貴には、まったくわからないのである。やっているときに言われても、やったあとに言われても、まったくわからないのである。

きちがい兄貴が、やってはいけないことを、毎日、何時間も何時間もやったのである。

俺は不可避的に影響をけた。

ところが、ぼんくらな他人から見ると、俺がさぼっているように見えるのである。俺が、言い訳をしているように見えるのである。俺が、たいした理由もないのに、勝手に、ネガティブなことを言っているように見えるのである。

他人は他人で、必然性が、見えていないのである。必然性が見えないなら……俺が、さぼっているように……見える。

そりゃ、「不可避的に、そうなる」ということがわかっていないなら、俺がたいしたことではないことで、なやんでいるようにしか見えないのである。

俺がたいしたことではないことで、愚痴を言っているようにしか見えないのである。

きちがい家族が、きちがい的な感覚で鳴らす騒音のことがわかっていない。

きちがい的な感覚で鳴らす騒音が、どれだけ不可避的に、「次の日の朝」に影響を与えるか、まるでわかっていない。

きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で鳴らす騒音が、どれだけ不可避的に、「次の日」の「すべての時間」に影響を与えるか、まるでわかっていないのである。わかっていないだけなのに、えらそうなんだよ。

やられてないからわからない。

やられたことがないから、わからない。

それだけなのに、えらそうだな。

きちがいヘビメタ騒音で、毎日が地獄だったよ。きちがいヘビメタ騒音で、「毎日のすべての時間」が地獄だったよ。どれだけ、くるしい体で、動いているのか……俺が、動いているのか……「きちがい兄貴」と「たいていの他人」は、まったくわかっていないな。

ああっ、きちがい親父もわかっていなかったなぁ。

これ、きちがい親父のわからなさが、異常なのである。きちがい親父の「ヘビメタ騒音問題に関する」無理解ぶりが異常なのである。常識的に考えるとありえない態度なのである。

ありえない考え方をしている。

だから、俺が誤解される。「そんなにうるさいのに、家族が注意しないなんておかしい」と思って、俺が言っていることを信じないやつがいる。

そいつにとってみれば、俺が「嘘を言うへんな人」なのである。

そして、そいつは、一度できあがった、その解釈に従って、俺の行動を理解しようとする。こんなの、ない。しかも、こいつは、間違った解釈をして、俺に迷惑をかけるのだけど、ぜんぜん気にしないのだ。

こういう人は、何人もいた。こいつらだって、俺が説明したって、理解しない。

こいつらには、こいつらの常識があって、常識的に信じられないことは、信じないようにしている。こいつらは、俺が嘘を言う人間だという(最初の)解釈に基づいて、いろいろな誤解をする。いろいろないじわるなことを言ってくる。

結果的には、いろいろないじわるなことをする。

けど、こいつらが、どれだけ「人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはやめよう」と思っていたって、こいつらは、俺に迷惑をかけるのである。俺がいやがることをするのである。

2026年4月29日水曜日

●「貧しくても、努力をすれば成功する」■社会※2026/04/27 20:48

就職氷河期について考えたわけだけど、このことは、努力論にもあてはまる。

努力をすれば成功するという考え方のことをとりあえず、努力論といっておく。これも、すでに指摘したことなのだけど、「努力」をしたかどうかの二値なのだよ。

最初は、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値だ。

値としては、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値しかない。

ところが、あとで、「努力の量」や「努力の方法」が問題になるのである。努力をしたというのが、だれによって決められるのかも、あいまいなままだ。本人が決めるのか、ほかの人が決めるのかわからないところがある。

だから、どうにでも言うことができるという状態なのだ。ところが、努力をすれば成功するという文は、一〇〇%構文の文なのだ。

だから、努力をすれば、一〇〇%の確率で、成功するということになる。どんな努力でも、努力をしさえすれば、成功するのである。言霊理論における「言い方の問題」とおなじ問題が努力論にも成り立っている。

しかし、今回言いたいことは、それではない。

努力をした人は、努力をした人という範疇に入る。努力をしなかった人は、努力をしなかった人という範疇に入る。これは、属性とおなじ問題なんだよ。努力をしたという属性の人と、努力をしなかったという属性の人がいるのである。

努力をしなかった人は、成功していない人なのだ。成功した人は、みんな、努力をした人なのである。成功した人が成功した理由は、努力をしたからなのだ。

ところが、就職氷河期という属性を持つ人のなかで、条件がちがうということがある。

それとおなじように、努力をしなかったという属性を持つ人のなかで、条件がちがうのである。努力をしなかったという属性を持つ人は、ただ単に「努力をしなかった」という属性だけで、判断されるのである。

一括思考の決めつけだ。

しかし、努力をした人のなかにも、いろいろな人がいる。

努力をした人は、努力以外の条件がみんな、おなじかというと、ちがうのだ。努力をしない人は、努力以外の条件がみんなおなじかというとちがうのだ。

たとえば、貧しいかどうかという条件を付けくわえてみよう。

そうすると、たとえば、「貧しい人は、努力をしても成功しない」という言い方や「貧しい人でも、努力をすれば成功する」という言い方ができあがる。努力という条件のほかに、貧しいかどうかという条件が付け加わったのだ。

たとえば、「だれだれという貧しい人は、貧しいのに、努力をしたから成功した」ということを言ったとする。だれだれという貧しい人の条件は、すべての貧しい人に成り立っているかというと、成り立っていないのだ。

ところが、努力においても、やった間違いを、貧しさ(貧しい度合い)でもやってしまう。

貧しい人と貧しくない人という二値を考えて、貧しい人というのは、同等に貧しいし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。

貧しくない人は、同等に貧しくないし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。そして、仮定したことに気がつかない。

じつは、貧しさにおいても、貧しさの程度がちがうし、ほかの条件だってあるのだ。親の年収が一五〇万円の貧しい家においても、親の性格がちがえば、条件はちがってくる。

だいたい、貧しい人は、だれでも、おなじ才能をもっているわけではない。人によって、才能がちがう。貧しくて、努力した人が成功したとする。

けど、それは、才能があったから、成功したのかもしれない。貧しくて努力した人が成功しなかったとする。それは、才能がなかったから成功しなかったのかもしれない。努力と、貧しさだけが、成功を決める要素ではない。

ところが、努力をしたかどうかに意識が集中していると努力をしたかどうかということが、成功するかどうかを「一〇〇%の確率」で決めるということになってしまうのである。

自動的にそういう考え方を選択してしまうのである。

貧しくても、努力したから成功した人が一人でもいれば、「貧しくても、努力をすれば成功する」と言えるかどうかということを考えた場合、言えないのだ。

一括思考をして決めつけてしまう人は言えると思っているだけなのだ。

そういう前提で物事を言っている。決めつけている。理論的な思考ができないので、間違った推論をしてしまう。

才能があるかどうかという条件は、「貧しくても、努力をすれば成功する」という文のなかには出てこない。才能があるかどうかという条件は、事前に、無視されているのである。

すべての条件について言及するのは無理だ。

しかし、いろいろな条件を考えるほど、精度が高くないのだ。

なんと言っても、「努力する」ということが、一意に決まらない。「成功する」ということが、一意に決まらない。

最初から、こういう土台の上で、「感じたことを」言っているだけなのだ。

ところが、こういう、でたらめなことをしているのに、一括思考で決めつけた結論を、多くの人は受け入れてしまうのである。二値しかないのに、一意には決まらないという性質は、第二の条件にも、第三の条件にも成り立つ。

だから、しょせんは、言葉の遊びをしているだけで、なにかしら、「これはこうである」と言い切れることは、言っていない。ところが、つねに、言い切ってしまうのである。誤謬の上に誤謬を重ねている。

問題なのは、第一条件について述べている場合は、第二条件以下の条件は、まったくなにも意味をもたないということだ。

そして、第一条件と第二条件について述べている場合は、第三条件以下の条件は、まったくなにも、意味をもたないということだ。

第二条件として「貧しさ(貧しいか、貧しくないか」ということを……とりあえず、出したけど……これは、ぼくが恣意的にやったことにすぎない。 

「貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第三条件である才能は、出てこない。無視されているのだ。

「才能があれば(第三条件)、 貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第四条件以降の条件が出てこない。

ところが、条件なんて、無数にあるのだ。

そして、貧しいという条件を考えた場合でも、どいうふうに貧しいのかということについてちがいがある。このちがいが、もっと、詳細な条件のちがいを内包しているのである。才能がある」と言っても、才能があるということは、どういうことなのか、これまた、一意には決まらないのである。

どういう才能が、どの程度あるのかというのは、わからない。測定できる才能に関しては、不完全だけど、測定値がものを言うのだろう。

しかし、それは、はかれる才能を、その試験方法で、切りだして、かりそめの値を与えているだけなのだ。「才能」なんてものは、ほんとうは、わからない。

この場合も、実際にできれば才能があり、実際にできなければ才能がないというようなことになりがちだ。しかし、これは、後出しなのである。現実の写し絵なのだ。

「才能があれば」と言っているときは、まだ、発揮されていない(現実化していない)ポテンシャルな才能も含めて、才能と言っているのだ。

だから、現実の写し絵である才能と、ポテンシャルな才能を含めた才能は、ちがうものなのである。

2026年4月28日火曜日

●それじゃあ、話は、食いちがうよ■騒音※2026/04/28 6:40

ヘビメタ騒音の毎日を……六年以上……経験したことがない人にはまったくわからないのだけど、憂鬱なのである。

これ、騒音で憂鬱というのは、わかりやすい部類のことだと思うけど、やはり、経験したことがある人とない人では、ぜんぜんちがうのである。

そして、きちがい家族による騒音なので、きちがい家族による騒音を、最低で六年以上、毎日経験した人じゃないとわからないことがある。「朝、憂鬱」と言っても、まったく、なにもかも、通じないのである。

そりゃ、ヘビメタ騒音にやられた、毎日の朝が、ないからである。

その人たちには「ない」からである。

「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言うけど、そういうことを言う人たちは、実際に、ヘビメタ騒音の毎日を……六年以上……経験したことがない人たちなのである。

憂鬱の憂鬱がちがうのである。

ぜんぜん、ちがうと想像できる。

この人たちは、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」というけど、そのあとに、あるいは、そのまえに、「Xの欠乏を満たすように、頑張ればいい」ということを言う。

正しいと思って言うわけだ。

ぜんぜんちがうと思う。

そして、なによりも肝心なのは、この人たちが、通学不可能な状態、あるいは、通勤不可能な状態になっていないのだ。なっていない。なっていないのだから、ちがう。

通勤不可能な状態と、「朝の憂鬱」は、関係がある。きちがいヘビメタ騒音で「夜、眠れなくなる」ことと、通勤不可能な状態は関係がある。関係があるなんてものではなくて、通勤不可能な状態になった……直接の原因が……「朝の憂鬱」と「夜の眠れない状態」なのだ。

夜、眠れない状態であるとき、俺が、楽だったかというと楽ではなかったのである。夜、眠れない状態であるとき、俺が「楽しい楽しい」と言えば、俺が楽しくなったかというとちがうのである。

この、夜のくるしさがわかっていないのである。

夜のくるしさも朝の憂鬱もわからないやつが、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」というのである。

そして、「Xの欠乏を満たすように、頑張ればいい」と言い、「どれだけつらいことがあったときも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うのである。こんなのは、ない。

そいつらは、一万分の一も、わかっていないよ。一億分の一かな。一兆分の一かな。一京分の一かな。一不可思議分の一かな。まるでわかっていない。

そして、ほんとうに、「負の積み重ね」がないのである。ぼくが経験したような負の積み重ねがない。それじゃあ、話は、食いちがうよ。

ヘビメタ騒音で「眠れなくなる」状態と、普通の理由で……みんなが経験したことがあるような理由で……眠れなくなる状態は、まったくちがう。「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言う人たちは、そのちがいが、まったくわかっていない。

このわからなさが、ひどい。

ぜんぜんわかっていないのである。

けど、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っている本人たちは、わかっているつもりなのである。どうしてかというと、自分が経験した眠れなくなる状態と、エイリが(ヘビメタ騒音で)経験した眠れなくなる状態は、おなじだと仮定しているからだ。

おなじじゃないのである。ぜんぜんちがうのである。

この人たちは、毎日の「つみかさね」を軽視している。あるいは、無視している。「毎日のつみかさね」というと、普通は、いいことのつみかさねだから、言いがたいものを感じてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意味で、鈍感で、こっちが、くるしんでいるということを、つねに無視してきたのである。

つねに無視して、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしてきたのである。きちがい兄貴は「ゆずってやった」と思っているけど、ぜんぜん、ゆずってくれなかったのである。

きちがい兄貴の無理解ぶりと、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っている人たちの無理解ぶりは、だいたいおなじだ。ほんとうに、わかっていない。気にしていない。

無視して、見積もっていないか、軽視して、ものすごく低く見積もっている。まあ、無視している状態なのだろう。

「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っているから、見積もっているような部分もあるのだけど、無視していると言っていい。

これ、「無視しているレベル」の理解度なのだ。

しかも、この人たちは、言霊主義者とおなじように、認めない。きちがい兄貴は、きちがい兄貴のしくみを通して、認めない。きちがい兄貴のしくみは、言霊主義者のしくみとは、ちがう。

きちがい兄貴が無視する機制は、言霊主義者が理解しない規制とはちがう。ちがうのだ。ちがいすぎる。

しかし、無理解ぶりは、おなじだ。

しくみはちがうけど、理解度が低いということは、おなじだ。

あるいは、理解していないということは、おなじだ。両者とも、まったく、理解していないのである。

2026年4月27日月曜日

●コネという条件を考えただけでも、だいぶちがう■社会※2026/04/27 14:48

もうすでに話したことだけど、たとえば、氷河期世代という属性を考えた場合、氷河期世代に属する人も、条件は、いろいろとちがう。

氷河期世代でも、コネがある人は、正社員(正規従業員)として会社に滑り込めただろうし、コネのない人は、非正規労働者ならざるを得なかったかもしれない。

しかし、氷河期世代というひとつの属性を考えると、氷河期世代でも、就職できた人がいるのだから、就職できなかった人は、ダメ人間だというようなことを言う人が出てくる。ダメ人間といわなくても、「就職できなかったのは、自己責任だ」というようなことを言う人も出てくる。

「就職できなかった人は、あまえている」とか「氷河期世代だから、就職できなかったと言う人は、言い訳をしているだけなのだ」とかと言ってしまう人がいる。この人たちの「頭のなか」にあることは、「就職氷河期世代でも、就職できた人はいるのだから、就職できないということはない」ということだ。

就職氷河期世代でも、就職できた人がいるということが、根拠になっているのである。

しかし、就職氷河期という属性をもっている人でも、条件がちがうのである。

だから、その条件のちがいによって、就職できない場合もある。ところが、「就職氷河期世代のなかにも、就職できた人はいるのだから、就職ができないなんてことはない」と間違った推論をしてしまうのだ。

就職氷河期という条件だけを見て、ほかの条件を無視してしまうのだ。就職氷河期世代の人でも、ひとによって条件がちがうということを無視してしまう。

これは、「自分だって苦労した」と言う場合にも、おこなわれていることだ。

「苦労をした」というひとつの条件を考えれば、苦労の質や量は、考えずに、相手のことについて結論をくだしてもいいという考え方があるのだ。

苦労といっても、同一の苦労ではないのだから、苦労によって差があるということは、頭のなかに入れておかなければならない。

ところが、この人たちは……苦労をしたというひとつの属性にこだわって……ほかの属性を無視してしまう。

まあ、苦労の程度も無視してしまうのだけど、同時に、ほかの属性を無視してしまう。「苦労をした属性」の人は、みんなおなじだと考えてしまうのだ。

ところが、ちがうのである。

「就職氷河期という属性」の人は、みんなおなじだと……この人たちは考えてしまうのだ。

ところが、ちがうのである。

この人たちの考え方は間違っている。前提となる思考に間違いがあるのである。「ある属性の人たちは、みんなおなじだ」と考えてしまうのである。これが間違いなのである。

就職氷河期の人というのは、全体的には、条件が悪い人なのである。就職において条件が悪い人たちなのである。当然、就職氷河期の人は、みんな、おなじように条件が悪かったのかというと、ちがうのである。ぜーーんぜん、ちがう。

何度も言わなければならないのだけど、コネという条件を考えただけでも、だいぶちがう。ほかにもいろいろな条件がある。

たとえば、年収と能力が一致しているという仮説を立てたとする。

その場合、氷河期世代だけ、他の世代にくらべて能力が低いということになってしまう。この仮説は、間違っている。

学校を卒業した時点で、就職がしにくい状態だと、そのあとの人生にいろいろな影響を与えるという仮説のほうが、説得力がある。いろいろな影響のなかに、年収という項目があるということになる。

正規従業員になれなかったことが、そのときだけではなくて、その後の年収に影響を与えるということだ。これは……「個別の能力値」の問題ではないということを意味している。

●その条件を満たす人は全員おなじ条件をもっているとみなしてしまう■社会※2026/04/06 11:23

 属性と一括思考ということについて考えてみよう。

たとえば、貧しい家の出身でも、成功した人がいるとする。これも、作り話である可能性があるのだけど、とりあえず、貧しい家の出身でも、社会的に成功した人がいるとする。

しかし、「貧しい家」と言っても、「貧しさ」には差があるのである。

そして、貧しい家の「親」にも、差がある。貧しい家の「兄弟」にも、差があるのである。「姉妹」にも差があるのである。貧しい家と言っても、「自分以外の家族のメンバー」に差があるのである。

きちがい的な家族がきちがい的な騒音をずっと鳴らしているような貧しい家もあるし、ずっとしずかだから、静かな状態で勉強をできる貧しい家もある。

ようするに、「貧しい家」と表現されるいるだけで、実際には、条件には差があるのである。

ところが、「貧しい家」の出身という条件を考えて一括思考すると、「貧しい家」の出身であるにもかかわらず、社会的に成功した人がいるから、ほかの「貧しい家」の人も、社会的に出世できるはずだと考えてしまうのである。

「貧しい家」の出身という第一階層レベルでの「条件わけ」だけに、注目して、一括思考をすると、第二階層以下の「条件」を見すごしてしまうのである。

どこからどこまでが、「貧しい家」なのか。

貧しさの程度にも差がある。

上層部の貧しい家と、下層部の貧しい家は、ちがうのである。

条件がちがう。

ところが、「貧しい家なのだから、条件はおなじだ」と考えてしまう人たちがいる。

この人たちは、条件を考えているようで、条件を考えていない。

じつは、条件を無視をするために、第一階層の条件について、言及しているにしかすぎないのである。

そして、「貧しい家の出身でも、社会的に成功した人がいるから、貧しい家の出身かどうかは関係がない」というような間違った推論をしてしまう人がいるのである。

これは、質が悪い推論だ。

貧しい家だけど、上層部の貧しい人が、成功したということは、貧しい家であり、下層部の貧しい人が成功できるということを、意味していないのである。

けど、「一括思考」をしてしまうので、「貧しい家の出身でも、社会的に成功できるのだから、貧しい家の出身だから成功できないと言っている人は、言い訳をしているにすぎない」と決めつけてしまうのだ。

しかし、第一階層で「貧しい家」の出身と表現された場合でも、ほんとうは、さまざまな部分で、条件がちがうのである。

どのくらい貧しいのかということを第二階層で考えるなら、貧しい家のなかにも貧しさの程度に差がある。

三つに分けた場合は上・中・下の三段階だ。

そして、たとえば、親の性格がよく、子供の将来について考えている親と、親の性格が悪く、子供の将来について考えていない親みちがいがある。

それは、条件のちがいになる。

貧しい家という第一階層の条件を考えただけで、親の性格という(ここでは)第二階層の条件を無視してしまうことは、よくないことなのである。

ところが、第一階層の条件を満たしていれば、その条件を満たす人は全員おなじ条件をもっているとみなしてしまうのである。

これは、間違った思考だ。

第一階層の条件を満たしていても、第一階層の条件を満たしている人はみんなおなじ条件だとは言えないのだ。

ところが、おなじ条件だと決めつけて考えてしまう。「貧しい家」といっても、「貧しい家」のなかで、「貧しさ」の格差がある。おなじじゃない。

*     *     * 

もうひとつ、例を出しておこう。

たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは氷河期世代だけど正社員として就職できたとする。Bさんは、氷河期世代であって、正社員として就職できなかったとする。

Bさんが「自分(B)は、氷河期世代だから、就職ができなかった」と言ったとする。それを受けてCさんが「氷河期世代でも、就職できた人はいるのだから、氷河期世代だから、就職ができなかったというのは、いいわけだ」と言ったとする。

この場合、Cさんの言っていることは、間違っているのである。

Bさんが言っていることは、不定だ。わからない。

正しいのかどうかわからない。

けど、Cさんが言っていることは、間違っている。前にも書いたけど、就職氷河期世代のなかにも、コネをもっている人とコネをもっていない人のちがいがある。これは、コネがあるという条件と、コネがないという条件のちがいだ。

まあ、コネのなかにも、有力なコネと、弱いコネのちがいがある。

けど、とりあえず、第二階層には、コネがあるかどうかという条件のちがいがあるとする。

Aさんが就職できたのは、有力なコネあったからだとする。Bさんが就職できなかったのは、有力なコネがなかったからだとする。氷河期世代という第一階層の条件を考えて、一括思考をすると、氷河期世代でも就職できた人はいるのだから、就職できるはずだと考えてしまうのである。

何度も言うけど、これは、間違った考え方だ。

おなじ氷河期世代でも、個人によって、条件がちがうのである。

一括思考をするべきではないのだ。

第一階層レベルで、一括思考をすると、第二階層以下の条件が無視されてしまうのである。

だいたい、「就職氷河期で、就職できなかった人がいるのだから、就職氷河期の人は就職できない」と考え方間違っているのである。

ようするに、その属性を持つ人(条件を持つ人)が、ひとり就職できなかったら、その属性を持つ人全員が就職できないということはない。

おなじように、その属性を持つ人が、ひとり就職できたら、その属性を持つ人全員が就職できる(はずだ)と考えるのは間違いなのである。

第一階層レベルで一括思考をして、第一階層レベルの条件を持つ人は、「みんな」こうだと決めつけてしまうのは、よくないことなのである。

「Xという属性を持つ人はYに成功する」という文について考えてみよう。これも、Xという属性を持つ人は、みんな(全員)Yに成功するという意味になってしまう。

ここに、トリックがあるのである。

ひとり、Xという属性を持つ人が、Yに成功したからと言って、Xという属性を持つ人全員がYに成功するとは言えないのだ。

ところが、「そうであるはずだ」と一括思考をしてしまう。

だから、Xという属性をもっている人だけど、第二階層以下の属性がちがう人が成功しないということはないと考えしまうのである。

ようするに、Xという属性をもっている人だけど、第二階層以下の属性がちがう人が失敗するということはないと考えてしまうのである。 

●侮辱になっているということに気がつかない■騒音※2026/04/27 6:46

過去否定論者にしたって、自分が正しいと思っていることを否定されると……かなりの高確率で……腹が立つのだ。ぼくの経験の範囲で言うと、過去否定論者全員が腹を立てるという反応をしめした。

法則性ということを言うのであれば、むしろ、『自分が正しいと思っていることを否定されると腹が立つ』ということのほうに、法則性がありそうな感じがするけどなぁ。

まあ、これも、条件によってちがうんだよな。ようするに、場面によってちがう。

だから、一〇〇%構文で言うと、一〇〇%詐欺になってしまう。

けど、傾向はある。因果関係も相関関係もある。

過去否定論者は、「過去は関係がない」と言うけど、「過去は関係がないという考え方」を過去において、否定されたから、腹を立てているのである。

過去否定論者が腹を立てている。きちがいヘビメタにやられると、ほんとうに、ほかの人から攻撃を受けるようになる。

きちがいヘビメタの結果、「できなくなった」のに、まるで俺がさぼっているからいけないのだというようなことを言われる。

おなじように、まるで俺が「こだわっているからダメなのだ」と言うようなことも言われる。

言っているほうは、「いいことを言っているつもり」なんだよ。言っているほうは、「正しいことを言っているつもり」なんだよ。

けど、すくなくても、ぼくの場合に関しては……こいつらが言っていることは間違っているんだよ。影響があるのに、影響がないと言っている。こんなのはおかしい。

きちがい兄貴のやり方が、普通のやり方じゃないんだよ。きちがい兄貴の感覚が普通の感覚じゃないから、きちがい兄貴のやり方が、異常なやり方になる。

こいつら……たとえば、過去否定論者や言霊主義者の家族には、うちのきちがい兄貴のようなやり方をする家族がいないんだよ。

だから、そこで、受ける迷惑というのは、限定的なものになる。普通の家族と一緒に暮らしているわけだから、異常な家族から攻撃を受けなくてすむのだ。これは、条件が決定していることなんだよ。

ところが、『自分なら平気だ』『自分なら影響を受けない』と考える普通の人たちが、きちがい家族によるヘビメタ騒音について、間違った考え方をもってしまうのである。

そして、きちがい家族によるヘビメタ騒音が、直接の原因になって、ダメな状態になってしまうのである。

俺が、「外から見て」ダメな状態になってしまうのである。

俺が、きちがいヘビメタ騒音によって、つかれれば、つかれた状態になる。俺が、きちがいヘビメタ騒音によって、勉強することができない状態になれば、当然、学業成績がさがる。ほんとうは、きちがいヘビメタ騒音によって、遅刻をしてしまうということは言いたくないけど、ほんとうに、そうなるんだよ。

俺が、「できる状態なのに」さぼっているわけではないのだ。こいつらは、それを認めない。認めないということが、そのまま、侮辱になっているということに気がつかない。

*     *     *

『過去は記憶の中にしかない』ということを言う人もいる。ぼくは、こういう人たちのことも、過去否定論者と呼んでいる。じつは、過去は記憶の中にしかない」と言う人も、「過去は記憶の中にしかない」という考え方を否定されると……たいていの場合……おこる。

ちゃんと、感情的な反応をしている。

記憶の中にしかないのなら、感情的な反応なんて発生しない。記憶の中にしかないからだ。エイリが「過去は記憶の中にしかない」という考え方を否定した……という記憶しかないことになる。なんで、感情的な反応がしょうじるのか?

「エイリが過去は記憶の中にしかないという考え方を批判したという過去の出来事」が、現在の感情に影響を与えているのである。

そして、怒りという感情を引き起こした。

影響を受けているでしょ。

「過去の出来事」の影響を受けている。

*     *     * 

「過去は記憶中にしかない」という言い方には、過去は記憶の中にしかないから感情的に反応する必要はないという考え方が含まれている。

「過去は記憶の中にしかない」のだから、単なる記憶にすぎないのだという考え方が含まれている。 ところが、言っている本人ですら、「過去は記憶の中にしかない」という考え方を批判されると、感情的な反応をしめすのだ。「単なる記憶にすぎないのだから、感情的な反応なんてするなよ。特に、「おこる」という反応はするべきじゃない。

単なる記憶にすぎないのだろ!!

感情的に反応しているじゃないか。

「過去は記憶の中にしかない」という言い方には、「過去は関係がない」という意味も含まれている。記憶の中にしかないのだから、現在に影響を与えないという(妄想的な)考え方が含まれている。ところが、過去の出来事は、現在の状態に影響与えるのである。

2026年4月26日日曜日

●「そんなのは関係がない」と言う■騒音※2026/04/26 20:50

どうするかな。だるいのだけど、ヘビメタ騒音が影響している。

さっき、悪夢を見たけど、長期騒音時代の生活、そのものなのだ。明らかなハンディがしょうじているのに、きちがい兄貴も、よその人もハンディがしょうじているということに、気がつかない。

言ったって、認めないのだ。しくみは、言霊主義者とおなじだ。過去否定論者とおなじだ。わずかな例外を除いて、みんな、ヘビメタ騒音の影響を認めない。「たいしたことじゃない」と思うのだ。

「そんなのは関係がない」と思うのだ。ところが、めちゃくちゃなんだよ。騒音のなかでどれだけ頑張っても、影響が出る。ものすごく悪い影響がている。ものすごく悪い影響が出た体で暮らしている。暮らしている。暮らしている。

けど、それがほかの人にはわからない。

「騒音のなかでどれだけ頑張っても」……と書いたけど、じつは、騒音のなかで、どれだけ頑張らなくても、騒音のなかにいるから、ほとんどかわらない影響を受ける。きちがい兄貴の部屋の「横にいる」ということだけで、ほかの人が考えられないほどの影響を受ける。

これも、たいていの人にはわからないのだ。わからないのだ。

基本的に、きちがい兄貴の騒音が、「できないこと」を増やしていく。

ところが、「できない」ということになると、なめられるのだ。これのループだ。わずかな例外をぬかして、こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するのだ。

あるいは、完全に無視する。まあ、過小評価する人よりも、完全に無視する人のほうが多いので、これからは、完全に無視すると書くことにする。ヘビメタ騒音が、最初の原因なんだよ。ヘビメタ騒音の結果、できなくなっている。

ところが、「そんなのは関係がない」とヘビメタ騒音という原因を無視するやつは、ぼくが、『言い訳をしている』とか、『あまえたことを言っている』とかと思うわけだ。

こいつらは、みんな、きちがい兄貴のような「家族」といっしょにくらしたことがいやつらなのだ。

だから、こいつらの身の上には、きちがい家族による騒音というハンディがしょうじていない。きちがいなんだよ。普通の人の騒音じゃないわけ。

けど、こいつらは、認めない。

『自分だって苦労した』と言えば、同程度の苦労をしたことになってしまう。『自分だって騒音ぐらいあった』と言えば、同程度の騒音を経験したことになってしまう。ぜんぜん、ちがうのに、ちがうということを……こいつらはこいつらで、意地になって……認めない。

この意地になって認めないというのも、きちがい兄貴に似ている部分なんだよな。もちろん、こいつらは、普通の人なので、きちがい兄貴みたいなことはしない。

だから、こいつらが、きちがい兄貴みたいなことをするということを言っているわけではないのだ。けど、「きちがい兄貴と似ている部分がある」と言ってしまうと、こいつらがみんな……ぼくの経験の範囲だと……みんな、「なんだとぉ」と言った感じで、文句を言ってくる。腹を立てて文句を言ってくる。

文句を言いたいのは俺なんだよ。

こいつらがまず最初に、ヘビメタ騒音の影響を無視している。「言い訳をしている」とか、「あまえたことを言っている」とかとろくでもないことを言いやがる。

こいつらの反応だって、きちがい兄貴が、きちがい基準で、ほかのひとがぜったいにやらないようなことを、毎日毎日、意地になってやるから、しょうじるんだよ。

きちがい兄貴が、きちがい基準で、きちがい的な行為にしがみついて、きちがい行為をしなければ……続けなければ、こんなことになっていない。こいつらになめられたりしない。

こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音のハンディを認めずに、なめてくる。

こいつらは、みんな、『自分が正しいことを言っている』と思っている。なめられる。

どうしても、しょうじてしまうことなんだよ。きちがいヘビメタが鳴っていれば、こっちの体の症状は不可避なんだよ。あの生活をしていたら、そういう体の症状が、どうしても、出てくる。

けど、たいていの人たちが、認めない。

「そんなのは関係がない」と言う。

ほんとうに、ゆるしがたい。

2026年4月25日土曜日

●「絶対的な力としての言霊」と「まったく無力な言霊」■言霊※2026/04/24 9:46

「神はこうする」と言えば、神は、こうするのである。

だから、神よりも、言霊のほうがずっと上だということになる。言霊の力で、神を動かすことができるのである。

言霊の力で、神をも、支配できるのである。完全支配だ。

ところが、言霊主義者は、ほんとうにくるしくなれば、神頼みもすることがある。

矛盾している。

そして、言霊の主が、言霊主義者なら、その言霊主義者は、神を完全に超越した存在だということになる。

ようするに、「自分」が言えば、神を操作できるのである。自分が神について言えば、神は、自分が言った通りに動くしかないのである。

どうしてなら、言霊は、宇宙を貫く絶対法則だからだ。

この宇宙を貫く絶対法則には、神も逆らえない……。言霊理論が正しいなら、そうなる。

人間である言霊主義者が「神はこうする」と言ったら、神はこうするしかないのである。神よりも、自分のほうが上だということになる。

もちろん、普段は、「言ったって、かわらないこと」に関しては、言わないことが多い。

どうしてかというと、「どうせ言ったって、かわらない」からだ。

政治のことについて「自分」がなにを言っても、政治がわからないと思っている。

だから、「一票を投じるだけだ」などと言う。

自分が好きな異性と付き合おうと思っても、「どうせ、言ったって、かわらない」と思って、「自分が好きな異性は、自分と付き合う」とか「自分が好きな異性は、自分と結婚する」とかと言わないのだ。

もちろん、言う場合だってある。

けど、言ったって、言っただけなのである。

ひとりでいるとき「自分が好きな異性は、自分と結婚する」と言った。

言ったから、なんなんだ?

言っただけではないか。

「絶対的な力としての言霊」と「まったく無力な言霊」が、言霊主義者のなかで、同居しているのである。

そして、言霊主義者はそのときの雰囲気に従って、使い分けているのである。

しかし、言霊主義者自体が、「使い分けをしている」という気持ちがないのだ。

ぜんぜん、気がつかない。

自分が、言霊を使い分けているという認識がまったくない。

突然、「言えば言ったことが現実化する」と言ったり、突然、「言ったって、なにもかわらない」と思ったりするのだ。 

こういうところも、なんか、兄貴と似ているんだよ。こういうところも、なんか、親父と似ているんだよ。 いやなんだよなぁ。

似ているけど、ぜんぜんちがう。まったく、ちがう。

普通の人や言霊主義者は、人生のなかで、きちがい兄貴みたいなことを、一回もしない。

きちがい兄貴は、毎日やる。ぜんぜん、ちがう。

けど、「矛盾に気がつかない」という点だけは、似ている。親父のことも、おなじだ。普通の人は、親父みたいな行為をしない。

けど、親父は、「うちのなかにいるときは」親父らしい異常な行為をする。親父らしい異常な反応をする。

そして、みんな……というか、うちの状態を知らない人たちは……きちがい兄貴やきちがい親父のことについて誤解をするのである。

これもこまる。

だいたい、きちがい兄貴みたいな人間は、めったにいない人間なのだよ。

そのめったにいない人間が、ぼくの一番嫌いな音楽であるヘビーメタルに興味を持ってしまった。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。

そうすると、いちおう……言霊の矛盾点に気がつかない普通の人である言霊主義者が、「言えば言ったことが現実化する」と言い「できると言えばできる」と言い、「できないと言うからできない」と言う。

ところが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の連続で、ほんとうに、夜……眠るべき時間に眠ることができないんだよ。

それは、ヘビメタ騒音がはじまってから、そうなったんだよ。

毎日の積み重ねでそうなったんだよ。

 

2026年4月24日金曜日

●言ってしまえば、神は、自分が言った通りに動く■言霊※2026/04/23 9:31

言霊と神の関係について考えてみよう。言霊主義者にとって、言霊は、絶対に自分の望みを却下しない神のようなものなのだということを、以前説明した。

言霊と神と、どっちが上かと言えば、言霊のほうが上なのである。

言霊を信じている人が、神を信じていても問題はない。そして、言霊を信じている人が神を信じている場合もあるだろう。言霊理論が正しいなら、「神はこれここれ、こうする」と言えば、言霊の力によって、神が、これこれをこうするということになる。

言霊の力は、神の上にあるのである。

だから、自分が言ってしまえば、神は、自分が言った通りに動くのである。話せない人を除いて、普通の人は、話せる。以降、人と言った場合は、話せない人を除くとする。

人は、話せるのだから、神について、なにかを言えば、神は、その通りに動くということになる。人が、神を自由に動かせるようになるのだ。

どうしてかというと、言霊のほうが神よりも上だからだ。言霊の力のほうが、神の力よりも、上だからだ。

神ですら、言霊の力には、さからうことができないのだ。

「神はこうする」と言われてしまったら、神は、こうするしかないのである。

なぜかというと、言霊理論が正しいなら、言われたことが、言霊の力によって執行されるからだ。

たまたま、執行されるのではなくて、言霊理論が正しいなら、かならず、執行されるのである。

ところで、人と言ってきたけど、自分も人だとする。

その場合、自分が言ったことは、神の力をこえて、執行されるということになるのだ。

そのくせ、言ったあと、努力が必要なことなのである。ばかばかしい。

言霊理論が正しいなら、言っただけで、現実する。

努力なんて必要がない。努力が必要だと考えている時点で、言霊理論を、否定しているのである。

ところが、この矛盾に、たいていの言霊主義者は気がつかない。

まーーーったく、気がつかない。

「気がつかないという性質」の上に、「言霊に対する信仰」が成り立っている。

最初から、矛盾を抱えた信仰なのである。わかるかな?

ともかく、人である「自分」が「神はこうなる」と言えば、神は、こうなるのである。神がどうあがなっても、言霊の力によって、神はこうなるのである。

ようするに、言霊を通せば、自分は神をも支配できるということになる。

言霊を通せば、どんなことも、可能なのである。

完全に、すぐに、現実化させることができるのである。

どうしてかというと、言霊理論には、時間的な制限がないからだ。

ようするに、三秒以内に、こうなると言ったら、ほんとうに、三秒以内にこうなるのである。三秒以内に、神はこうすると言ったら、三秒以内に、(言霊の力によって)神はこうするのである。

「言うこと」によって、神を制御できる。

基本的なことを言えば、じつは、言霊というのは、神の代わりなのである。

しかし、たいていの「精神世界の人」は神も信じているわけだ。

しかし、そこで信仰されている神というのは、「カジュアルな神」なのである。

わかるかな?

信じるのも信じないのも、自由だという感じの神なのである。

これは、絶対的な神ではない。

信仰するしかない神ではないのだ。

信仰するかどうか、自分が選べるような神なのだ。

そして、普通の言霊主義者は、神と言霊の関係について考えもしない。 

●好きなだけ、やれたから、なにもやっていないつもりなんだよ■騒音※2026/04/24 2:01

ヘビメタ騒音で、全部がくるしいことになってしまった。だいたい、普通の人の対応をするのだってくるしい。

少数の例外を除いて、みんな、ここに書いたようなことを言ってくる。

「なにがヘビメタ騒音だぁ!!」と言われたことがあったけど、殺してやりたいほど、腹が立つ。むなくそ悪い気分になる。

そりゃ、もちろん、殺しはしないし、ぶったりけったりもしない。

けど、そのくらいに腹が立つ。

そして、帰れば、ヘビメタ騒音が鳴っていた。

これ、鳴っているなかで、無視しようとしても無理なんだよ。どれだけ無視しようと頑張っても、むりなんだよ。耳をきつくふさいでも無理なんだよ。耳栓をつけても無理なんだよ。

音がでかすぎる。もとの音がでかすぎる。

がんがん、頭に入ってくる。とまらない。あんな状態が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続いて……それで、頭が影響を受けないわけがないだろ。

鳴り終わったあと勉強をしようとしても、無理だった。宿題すら、できなかったよ。

「やめろ」「やめろ」「やめろ」「やめろ」「やめろ」と、言っているのに、きちがいが「やっていい」と思って、きちがい的な意地でやり続ける。

きちがい的な意地でやり続けたほうは、自分が、中断してゆずったわけではないから……つまり、自分がやりたい分だけやることができたので……やったことについて、まったくなにも、感じない状態になっている。

これが、一分間だろうが三〇秒間だろうが一〇秒間だろうが、弟のために鳴らさないで我慢してやったということになったら……我慢しなければならなくなったということになったら……もう、ひどいんだよ。

きちがい的に怒り狂って、怒りがとまらない状態になってなってしまう。

好きなだけ、やれたから、なにもやっていないつもりなんだよ。こんなのない。毎日こんなのが続いていいわけがない。 

2026年4月23日木曜日

●絶対に、わかる■騒音※2026/04/23 20:15

 いま、午後八時一九分なんだけど、この時間は、日曜日も含めて、ガンガン鳴っていた。

きちがい兄貴のやり方が、ほんとうに、異常なのだ。普通の人は、どれだけやりたくても、あんなことはしない。

そして、きちがい兄貴の友達が家にきたとき、きちがい兄貴の友達が、きちがい兄貴に「こんな音で鳴らしたら、家の人がかわいそうだよ」と言ったのに、「だいじょうぶ。だいじょぶ」と兄貴が言って、まったく、気にしなかったのだ。

こういう脳みそなんだよ。

ほんとうに静かにさせられそうになったら、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、やり続けるのである。殺さないとやめさせることができないのである。

そういうことをやっていても、自分がそういうことをやったということが、一切合切、わからない人間なのだ……。……きちがい兄貴は……。

なので、そういうことが毎日続いてしまう。

これは、経験したことがない人にはわからない。

しかし、ほかの人は、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいある」と言って、俺の言うことを認めない。

ほかの人たちが経験した苦労のレベルと、ぼくが経験した苦労のレベルがちがうわけ。ぼくが経験した苦労と同レベルの苦労を経験した人は、みんな……ほんとうにみんな……ぼくが言ったことに賛成する……と思う。

これも、「思う」しかないのだけどね。

みんな、「鳴り終わったら関係がない」とか「過去は関係がない」とか「なんだ、そんなの!!」とか「ヘビメタ騒音なんて関係がない」とかと言う。

俺が言っていることを否定している。

同レベルの苦労を経験した人が、わかっていないはずがないのだ。

みんな、軽く考えている。

あるいは、無視している。影響のでかさを無視している。

そんなに、うまく暮らせるわけがないだろ。

全部の時間を、とられる。

全部の時間が、生きいるだけで、超ストレス状態のマイナスの時間になってしまう。

「自分だって騒音ぐらいある」と言った人もおなじだ。……「自分だって苦労した」と言った人とおなじだ……。

同レベルの騒音経験がないだけなのである。

同レベルの騒音経験があれば、俺の言ったことに、即座に、同意してくれる。

「自分だって騒音ぐらいある」と言うやつは、俺が言ったことに、同意しないのだ。

同意しないで、「自分だって騒音ぐらいある」と言っている。このちがいは、でかい。

ともかく、兄貴が特殊な人だったのである。

だから、レアな存在なのである。

あのやり方で、ずっとやり続けてしまうなんて、ほんとうに、きちがい的な人なのだ。これが、まずわかっていないのである。

ほかの人は、まず、これがわかっていない。

レア中のレアな存在が、きちがい的な意地をかけて、やったことなんだよ。やり続けたことなんだよ。

そして、きちがい親父も、レア中のレアな人なのだ。

この組み合わせの意味が、まったくわかっていない。この組み合わせの意味がまったくわかっていないということは、同レベルの経験をしたことがないということを、そのまま、意味している。

ともかく、続きすぎた。毎日なんだよ。どれだけ言っても、きちがい感覚で、スルーしてしまう。きちがい的反応をして、終わりにしてしまう。もちろん、やり続けるし、やり続けたことを、まったく気にしていないのだ。

何万回言っても、おなじなんだよ。

こういうレアな人と、一緒に住んだことがある人は、俺が言っていることがわかる。俺が言っていることに疑いをもったり、俺が言っていることを過小評価してしまう人というのは、じつは、俺と同レベルの経験がない人だ。

絶対に、わかる。

●くるしいときの神頼み■言霊※2026/04/19 14:01

まだ、思い付きの段階だけど……切迫度と現実感度が問題なのだと思う。

あまりにも、切迫度がありすぎると、逆に、言霊主義者は言霊思考になってしまうのである。命にかかわるような病気になったとする。

その場合は、切迫度が高すぎるので、「なおると言えばなおる」といったタイプの言霊にすがりつきたくなるのだ。

くるしいときの神頼みというのがあるけど、そういう気持ちになったときは、言霊でどうにかしたくなる。

だから、言霊に対する信頼度もあがるのである。もちろん、それは、望みとして、あがるのである。 

自分のことに関しては、現実感度が高いので、自分のことに関しては、現実的な解決法が採択されるのである。

この場合、言霊的な解決方法は、浮かんでこない。

言霊主義者なのに、言霊的な解決方法は、考えすらしないのだ。

かわりに、具体的で現実的な解決方法をためすのである。どこかに行きたい場所がある場合は、「近くの駅まで、徒歩で行って、駅から、なになに線の電車に乗って、なんとか駅で降りよう」というように、考えるのである。

「目的地まで、瞬間移動で移動しよう」とは思わないのである。

これは、どれだけ「瞬間移動することができる」と言っても、瞬間移動ができないということを、言霊主義者が、じつは認識しているので、無理なことはしないで、普通に、駅まで行くというような現実的な選択をするのである。

なになに線で、事故が起こって、電車が動かなくなったとする。そして、徒歩で移動しなければならなくなったとする。

その場合は、言霊主義者も普通に、徒歩で移動するのである。

「三秒以内に、なになに線の電車が動くようになる」と言えば、動くようになるので、熱心に、何回も、「三秒以内に、なになに線の電車が動くようになる」とは言わない。

こういう現実的なことに関しては、たいていの言霊主義者は、現実的な選択をするのである。

自分の身体に関することなど、切迫度と現実感度が、高すぎる場合は、言霊思考になる。切迫度と現実感度が中程度のことに関しては、言霊主義者も現実的な対処をするのである。最初から、言霊主義的な対処が思い浮かばないのである。

*     *     * 

切迫度と現実感度が、低すぎる場合も言霊思考になる。切迫度と現実感度が、中程度である場合は、言霊思考にならないのである。

ようするに、日常生活のいろいろなことに関しては、言霊思考にならないのである。わずかな例外を除けば、日常生活のいろいろなことに関しては……言霊主義者といえども……言霊思考なんて完全に無視して解決策を探して行動するのである。

わずかな例外というのは、ほんとうに、狂っている場合や、現実的な解決法が、ぜんぜん見つからない場合だ。

ようするに、普通の状態で普通のことに対処している場合は、まったく、言霊思考にならない。

しかし、言霊主義者・本人は、自分が言霊的な考え方を無視しているという認識をもてないのである。言霊を無視しているつもりは、まったくない。

言霊自体に、注意が向かないので……無視しているということにも、気がつかないのである。 

●まあ、言葉の遊びだけどね■社会※2026/03/12 11:31

ちょっと、言葉の遊びをしてみよう。

「だけ」という言葉は、排他的な意味をもってしまうのである。なので、排他的な意味が付け加わってしまう。 

たとえば「掃除をすること(ほかのことをするかどうかは不明)」と「掃除だけをすること」は意味的に等価ではない。

「掃除をすること(ほかのことはしない)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをすることは」は意味的に等価になる。「掃除をすること(ほかのこともする)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをする」ことは、意味的に不等価になる。

しかし、掃除だけをしたとしても、幸福になるのである。「掃除をすると、幸福になる」のだから、「掃除をする」ということは「掃除だけをする」ということを含んでいる。

たとえ「掃除だけをしても、幸福になる」のである。「掃除だけをする」ということは、掃除をするという条件を満たしている。 

「掃除をすれば、幸福になる」という言い方は、掃除をすることが、幸福か不幸かを決めるのだと……暗示的に主張しているのである。

たとえば、「掃除をして、人に感謝すると幸福になる」と言っているわけではなくて「掃除をすれば、幸福になる」と言っているので、「幸福になる条件」は「掃除という行為をすることだけ」なのだ。ほかの行為をすることは、「幸福になる条件」ではなく、掃除をすることが幸福になる条件だと考えているのである。

この場合「人に感謝する」という行為は、条件の中に含まれないのである。掃除以外のことをすることも、条件に含まれていないのである。

たとえば、食事をすることは、掃除をすることではない。掃除をすることは、幸福になることと、関係があるけど、食事をすることは、掃除をするとではないので、食事をすることは、幸福とは関係がないということになってしまうのである。

しかし、通常の暮らしにおいて、「掃除をすれば幸福になる」と言った場合、ほかのことをして、さらに「掃除をすること」を想定して言っているのである。

なので、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人も、「掃除だけをすれば幸福になる」と言っているわけではないという、主観的な感覚がある。まあ、認識でもいい。

なら、「言う」ことのなかに「熱心に言うこと」が含まれているということも、「想定」の問題にしていいかというと、そうではないのだ。他分野への(意味的な)言及があるかということが重要になる。

たとえば、「掃除をすること」のなかに、たしかに、「熱心に掃除をすること」が含まれているのである。

それとおなじように、「掃除をすること」のなかには「掃除だけをすること」も、じつは、含まれている。

しかし、「掃除だけをすること」と言った場合には、ほかの分野についても、ほかの分野のことは一切合切しないということを、意味してしまうのである。

なので、集合的には、たしかに、掃除をするという集合のなかに「それだけをする」という集合が含まれているのだけど、「掃除だけをする」という言い方には、排他的な要素が含まれている。

「熱心に言う」という場合、他の分野における排他的な要素を含んでいないということと、対照的だ。「熱心に言う」という場合、おなじじ分野における排他的な要素を含んでいる。

しかし、「幸福になると言えば、幸福になる」と言った場合、「幸福になると言う」という集合のなかに「幸福になると言うだけ」という集合も含まれてしまう。しかし、「幸福になると言う」と言う場合は、特に(他分野における)排他的な要素がない。他分野のことは、関係なしに言っているのである。

ようするに、「だけ」をつけると「他分野における排他的な要素」が付け加わってしまうけど、「だけ」をつけないで言う場合は、「他分野における排他的な要素を含まない」ということになる。

「だけ」をつけないで言う場合は、「ほかの分野をしていても」「ほかの分野のことをしていなくても」関係がないのである。

ようするに、両方とも含んでいる。分野的に言って排他的ではない。だけをつけて言うと、分野的に言って排他的になる。ようするに、「だけをつけないで言う場合」は、他分野に関しては「不定」なのである。

まあ、言葉の遊びだけどね。

「Xをするだけで」と「Xだけをすれば」は、意味内容がちがう。「Xだけをすれば」のほうは、排他的な要素があり、「Xをするだけで」は、排他的な要素があるかどうかは、不明だ。

ほかのことをするのかしないのかは、特に、明確に示唆されているわけではない。

しかし、人間の生活は、Xをするだけでは、成り立たないので、「Xをするだけで、幸福になる」という文は、もともと、正しくない。「掃除をするだけで、幸福になる」……。

いや、食事をしないと、人間は生きてはいけないので、掃除だけをする生活だと、死んでしまう。幸福にならない。

そして、ほかのことをして、生活を成り立たせて、掃除をする場合は、掃除をするだけで、幸福になるという意味で使っている場合がある。

しかし、掃除をするだけでは、やはり、幸福にならない場合がある。どうしてかというと、人によって、なにに幸福を感じるかはちがうからである。生活を成り立たせたうえで、掃除をするだけで、幸福を感じる人もなかにはいるかもしれない。

しかし、ほかのことをしているということは、否定できない。ほかのことをしているのである。掃除をするだけで、生活しているわけではない。

まあ、言葉の遊びだけどね。

「Xをするだけで、幸福になる」というようなキャッチコピーを考える人もいるかもしれしれない。「Xをするだけで、幸福になるなら、Xをしてみよう」と思う人もいるかもしれない。

けど、「Xをするだけ」というのが、ほんとうに「Xをするだけ」ということを意味しているのであれば、それは、嘘だ。

あんまり書きたくないけど、排泄をしなければならない。しかも、排泄ができなくなっただけで、不幸になってしまうのである。食べたり排泄をするということをしないで、「Xだけをして」幸福になるかというと、幸福にはならない。

呼吸だってしている。

「Xだけをして」呼吸をしなければ死んでしまう。

だから、「Xをするだけで、幸福になる」という発言は、最初から嘘だ。 「Xをするだけで、幸福になる」という文は、「Xだけをすれば」という文と、意味的に等価になってしまう場合がある。不定なので、X以外のことをしている場合は、「Xだけをすれば、幸福になる」という文と「Xをするだけで、幸福になる」という文は、不等価になる。

「Xをするだけで、幸福になる」という場合、ほかのことをしているのかどうかは、不明なのである。「Xだけをすれば、幸福になる」という場合は、ほかのことはしないことになっている。

まあ、言葉の遊びだけどね。

まあ、Xをするだけで幸福感を感じるかどうかというのは、人によってちがうので、一〇〇%構文で言う場合は、嘘になる。命題として『偽』だ。

まあ、前にも指摘したけど、一時的に幸福感を感じることと、幸福な生活をすることはちがうことだ。

今回書いたことに関しては、あとで、意見をかえる可能性がある。備忘録として、残しておく。

 



2026年4月22日水曜日

●「生卵を台の上に落して、生卵が割れる」■言霊※2026/04/22 7:59

 いま、生卵を台の上に落してしまったのだけど、これだって、「生卵が台の上に落ちる」と言ったあと、言霊の力によって、生卵が台の上に落ちたわけではない。

予言はしなかった。

予言成就はなかったということだ。

ところが、言霊主義者は「生卵が台の上に落ちる」と言ったので、言霊の力によって、生卵が台の上に落ちたのだと解釈するのだ。予言成就型と人体感覚型がある。予言成就型というのは、どこかで、その人が、あるとき「生卵が台の上に落ちる」と言ったので、それが、現実化したというタイプの考え方だ。

一方、「元気だ元気だと言ったら元気になった」というような人体感覚型の考え方もある。これは、予言が成就したというタイプとは、ちがうタイプだ。わけて考えるべきだ。

言霊主義者だって、落とすつもりではなかったけど、生卵を落としてしまったときは、「失敗した」というようなことを思うはずだ。

落とすつもりではなかったのだ。

落とすつもりではなかったのに、落としてしまった。

結果、卵が割れて、中身が出てきた。

台の上に出てきたのか、床の上に出てきたのか知らないけど、ともかく、中身が出てくる。

落ちるとか、殻が割れて中身が出てくるというのは、物理的な現象なのである。言霊が一切合切、関係していないことなのである。

そして、言霊主義者ですら、日常生活のなかでは、このような物理的な現象をあたりまえの現象として受け入れているのだ。

何度も言うけど、「あたりまえだ」と言霊主義者が思うことに関しては、言霊主義者は、言霊理論を無視して考えてしまうのである。

しかも、言霊主義者自体は、それが、異常なことだとは思っていないのである。完全スルーで、完全に、意識にのぼらないのである。意識にのぼらない自分を、自分として、受け入れているのである。

だから、「ぬけぬけ」なのである。

予言成就型の場合は、言っておかなければならないのである。事前に言わなければ、「言ったことが」「言霊の力によって」「現実化した」ということにならない。

そりゃ、そうだろ。言わなかったことが、「言霊の力によって」「現実化した」というのは、言霊理論に照らし合わせて考えてみると、おかしなことだ。

「言ったから」現実化するのだ。

「言わなかった」のに、現実化するのは、おかしいのだ。

ところが、言わなかったことが、現実化しても、言霊主義者は、おかしいと思わないことが多い。たいていの言霊主義者は、「言わなかったことが現実化」しても、まったくおかしいと思わないのだ。

これこそ、おかしなことだろ。

どれだけ、「ぬけぬけの思考」をしているのか、よくわかる。

しかも、ぼくが、こういうことを説明しても、たいていの言霊主義者は、認めないのである。「言霊は絶対だ」「単純なのが正しい」「言ったことが、現実化する」と言って、ゆずらない。

ぼくの経験の範囲だと、ぼくが言ったことを認めてくれた言霊主義者はゼロ人だ。だれも、認めてくれなかった。

そして、「下衆の勘ぐり」をしてしまうのである。

ぼくに悪意があって、わざと間違ったことを言っていると思うのだ。これ、勘弁してくれよ。ようするに、自分が正しいと思っていることを、今度は、間違っていることだと認めるのがいやなのだ。

だから、エイリのほうに、悪意があるということにして、認めないようにする。

こういうことが起こってしまう。

その場合、エイリに悪意があって、わざと間違ったことを言っている……と思っても、別にエイリに悪いことをしたとは思わないのだ。

だから、どれだけ言葉では「きれいごと」を言っていても、無駄だということになる。

だって、そうだろう。「人がいやがることはやめましょう」「人に親切にしましょう」「すべてに感謝しましょう」と言っていたって、エイリにとっていやなことは、言うし、エイリに親切にしないし、エイリの発言に感謝しないのだ。

……この人たちは、感謝しない。

「正しいことを教えてくれた」「自分の間違いをただしてくれた」と思わずに、「エイリというやつが、よこしまなことを考えているから、言霊(理論)の悪口を言った」と思ったりするのだ。

「言霊を信じている自分のことを、悪く言った」と思ったりするのだ。「言霊は正しい」「単純なのが正しい」と言ってゆずらない……ことが多い。『エイリに悪意があって、自分に、言霊が間違っているということを信じ込ませようとしている』というようなことを考える人だっている。

やれやれ……。

いやなんだよなぁ……。

こうなることが多い。

ようするに、ぼくが説明したあとも、たいていの言霊主義者は、言霊思考をあきらめないのである。しかし、生卵を台の上に落して、割ってしまった場合は、言霊思考なしで、普通に、生卵を台の上に落して、割ってしまったと考えるのである。

言霊主義者だってそう考える。

日常生活のなかでは、言霊(理論)を完全に無視して、暮らしているのである。「生卵を台の上に落して、生卵が割れる」ということを言わなかったのに、「生卵を台の上に落して、生卵が割れる」ということが現実化したのである。

言わなかったことが、現実化した。

*     *     *

「生卵を台の上に落して、生卵を割るぞ」と思って、「私は生卵を台の上に落して、生卵を割る」と言ったあと、実際に、生卵を台の上に落して、割ったとする。

この場合は、言霊の力によって、生卵が割れたわけではないのである。「生卵を台の上に落して、生卵を割るぞ」と思った人の意志が関係している。

そして、実際にそのような行動をしたということが重要なんだよ。そして、物理的予想がつくことを、やったということが重要なのだよ。

生卵が、かたいものに衝突すると生卵の殻が割れて、中身が出てくることがあるということを、学習したのだ。

なので、このことは、「あたりまえ」のことになるのである。その人のなかで「あたりまえのこと」になる。もしかりに、言霊主義者が「生卵を台の上に落して、生卵を割るぞ」と思って、「私は生卵を台の上に落して、生卵を割る」と言ったあと、実際に、生卵を台の上に落して、割ったとする。

その場合、「言霊理論は正しい」と言いたい言霊主義者は「言霊理論は正しい」と言う。

その言霊主義者にとっては、「言霊理論が正しいことを証明した」と言うことになる……場合が多い。しかし、その言霊主義者は「言霊理論が正しい」ことを証明したわけではない。

しかし、言霊主義者のなかでそのようなことがおこなわれることが多いのである。

自分でやって、自分で納得してしまう。

「言霊は正しい」と確信してしまう。「言った通りになった」と思うわけだ。

「言った通りになったのだから、言ったことが(言霊の力によって)現実化するという言霊理論は正しい」と思うわけだ。しかし、間違っている。

日常生活の中でミスをする場合は、「思っていなかったこと」が発生したときなのである。言霊主義者だって、「思ってなかったこと」が発生した場合は、ミスをしたとか失敗をしたと思うわけだ。

ようするに、思っていなかったことが発生したのである。思ってないことを、口走ることはできるけど、数は少ない。

たいていは、思っていなかったことは、言わないのである。

だいたい、気がつかなかったことを、言えるわけがない。気がつかなかったから、ミスがしょうじた場合、気がつかなかったので、ミスがしょうじたのである。

ようするに、過去の自分が、予言したことが起こったわけではないのである。

「思わなかったこと」が発生したのだ。「思わなかった」のだから、たいていの場合は、「それ」を言うことができない。

あとで!!ミスをした認識するのである。おなじことだけど、あとで!!!失敗をしたと認識するのである。あとで!!本人が気がつくのである。

本人が、事前に、予言できるわけがないだろ。

トランス状態におちって、自分でも気がつかずに「生卵を台の上に落して、生卵を割る」と言っていたということが、あとでわかるということは、あるかもしれない。

しかし、数が少ない。

自分がトランス状態におちいったときのことを、ちゃんと記録しておかなければならない。日常生活の些細なことについて、そのようなことをやることは、まれだ。

あっても、例外的なことだ。

その場合は、トランス状態におちいったときの自分の発言を記録しておこうという意図がある。

ほんとうに、「思っていなかったのかどうか」うたがわしい。

●「実際の理由」を無視したほうは、ぜんぜん、それがわかっていない■社会※2026/04/17 3:33

言霊の場合は、言霊がないので、言霊の力によって現実化することはない。また、思霊の場合も、思霊がないので、思霊の力によって、現実化することはない。

しかし、たとえば、掃除の場合は、掃除をすることで、気持ちがいいと感じる人はいるので、掃除をしていなかったときよりも、掃除をするようしてからのほうが、幸福度が上がったと感じる場合がある。

その場合は、掃除によって幸福になったと表現することができる。

しかし、ここで重要なのは、その人の場合、ほんとうに「掃除(をすること)が欠乏していた」ということなのだ。その人が幸福ではない……あるいは、幸福感がたりないと思っている原因が、実際に「掃除だった」わけだ。

ようするに、たまたま、Xが欠乏していたので、Xを充足させることによって、幸福感が得られたわけだ。

それならば、Xの欠乏が、不幸の理由ではない人も、Xをすれば、幸福になるのかというと、ちがうのである。

ところが、一〇〇%構文で言うので、Xの欠乏が不幸の理由ではない人まで、「Xの欠乏が不幸の理由だ」と言われるわけである。

決めつけられるわけである。

決めつけるほうは、実際に、ある人の「不幸な理由は、Xをしないことだ」と思っているのである。

しかし、家族のきちがい騒音がずっと鳴っていることで、不幸な思いをしている人は、Xの欠乏で、不幸な思いをしているわけではないのである。

しかし、Xの教祖や、Xの信者は、「Xの欠乏が(その人が)不幸である理由だ」と決めつけてしまうのである。

「Xをすれば、幸福になる」と言う場合、「X」にフォーカスが集まっている。言っているほうは、「X」に意識を集中しているのである。 

何度も言うけど、「本当の理由」を見ようとしないのである。

不幸な条件が成り立っている人は、その不幸な条件によって不幸なのである。

だから、その不幸な条件から発生する実際の出来事が、不幸感のもとになっていることなのである。Xに意識を集中させている人は、相手の不幸な条件を、ガン無視するのである。

その態度自体が、不幸な人の気持ちを傷つける場合がある。

しかし、Xに意識を集中させている人は、そのことにまったく気がつかない。

Xに意識を集中させている人は、善意で、「Xをすれば、幸福になる」と言っている。

いいことを言っているつもりなのである。

この温度差は、たいていの場合、発生するものなのである。

人は……自分自身における「実際の理由」を無視されると……たいていの場合、腹が立つのである。

しかし、相手自身における「実際の理由」を無視したほうは、ぜんぜん、それがわかっていない。

こういう、温度差がある。 

2026年4月21日火曜日

●誤認の上に、誤認が成り立っているような状態なのである■言霊※2026/04/20 8:13

もう、すでに、指摘したことだけど、言霊主義者が、勘違いしているところがあるのだ。

言えば、言ったことが、(言霊の力によって)現実化するのだから、一回言えば、現実化するのである。

ようするに、何回も言う必要はない。

一回言ったら、現実化するのである。

どれだけ、やる気がない状態で言っても、言ってしまったら、現実化する。それが、言霊理論なのである。

ところが、言霊主義者でも「言ったって、言った通りにならないこと」ことがあるということは、多少は認識することがある。

だから、理論的な破綻を気にしない言霊主義者は……「何回だって、言えばいい」と思うようになる。一回目に、現実化しなかった時点で、言霊理論が間違っているということには……言霊主義者は気がつかない。

言霊主義者が、言霊理論は正しいということを説明した「相手」がいるとする。

「相手」が「言ったけど、言ったことが現実化しなかった」ということを……言霊主義者に言ったとする。

その場合は、言霊主義者は、自分なら、言ったことを現実化させることができるという認識のまま、相手のやり方が悪いということを言い始めるのである。

『言霊理論は正しいから、現実化する……現実化しないなら、相手のやり方が悪い』……と思ってしまうのである。

相手のやり方がどれだけ悪くても、言霊理論が正しいなら、相手の言ったことは、現実化するのである。

言霊主義者は、もう、この時点で間違っている。

相手が嘘を言っているのではなくて、相手が事実の報告をしているなら……言霊主義者は言霊理論が間違っているということを認めなければならないのである。

相手のことだけではなくて、言霊主義者自身も、「言ったけど、言ったことが現実化しなかった」という経験があったはずなのだ。

しかし、自分自身の場合は、無視することが多い。

ところが、うまくいかなかったことを無視しないで、ほんのちょっとだけ(言霊主義者が)認めることがある。

何度も言うけど、言えば言ったことが現実化するのだから、言ったあと、努力をする必要なんてないのだ。「一秒以内に、こうなる」と言えば、一秒以内にこうなる。

言霊理論が正しければ……「一秒以内に、こうなる」と言ったら、一秒以内にそうならなければならない。

ところが、間違っているから!!そうならないことがあるのである。

言霊の力によって、そうなることは、〇%だ。

これは、かわらない。

言ったあと、言霊ではない、ほかの理由で、そうなることがあるので「一秒以内に、そうなる」可能性はある。言霊主義者は区別していないけど、これは重要なことだ。

そして、言霊理論というのは、「言霊の力で」という、肝心な部分を省略して言われることが多い。

だから、言霊主義者でなくても、言霊の力でそうなったと誤解する場合がある。

ようするに、「言ったあと」と「言ったから」の区別がつかない人が多い。

そして、「言えば、言ったことが現実化する」と一〇〇%構文で言われるので、法則性があるように思い、信じてしまう人がいる。たくさん、いる。

しかし、何度も言うけど、言ったあと、努力をする必要なんてないのだ。言霊理論が正しいなら、言ったら、言っただけで、現実化するのである。

言ったことが現実化するために必要なことは、言うことだけなのである。

ほかのことは、一切合切必要がないのである。

だから、「言ったあと努力をすればいい」という言葉は、じつは、言霊理論を否定している人が使う言葉なのである。

ところが、たいていの言霊主義者は「ぬけぬけ」なので、自分が言霊理論を否定しているということに、気がつかない。ぬけぬけ。どこまでも、ぬけぬけ。

誤認の上に、誤認が成り立っているような状態なのである。

●「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」■社会※2026/04/17 8:44

「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」という考え方も、言霊の万能感からすれば、おかしなことなのである。

言うだけで、そのネガティブなことを言う人を、ポジティブな人にかえることができるのだ。

もちろん、自分が言うだけで、相手をかえることができる。

「この人は、これ以降、ネガティブなことを言えなくなる」と言ってしまえば、その人は、これ以降、ネガティブなことを、言えなくなる。

「この人は、これ以降、ネガティブなことを一切合切、考えることができなくなる」と言えば、言っただけで、その人は、これ以降、ネガティブなことを一切合切、考えることができなくなるのだ。

だから、「ネガティブな人と一緒にいると、ネガティブがうつる」と考えなくてもいいということになる。

ネガティブなことを言われて、自分が不愉快になったのである。

だから、対策として、 「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」と思ったのである。

いちおう、言っておくけど、過去は関係がある。

ネガティブなことを言われて、自分が不愉快だと感じなかったなら、「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」と思わなかったからだ。

過去は、ちゃんと、その時点での『現在』に影響を与えているのである。

過去の過去のことを大過去というとする。

その場合、大過去は、過去に影響を与えているのである。

精神世界の人は、「過去は関係がない」とか口走ることが多いのだけど、それは、言霊や思霊を否定していることになる。

「言ったことが」現実化すると言霊主義者が信じているからだ。「思ったことが」現実化すると思霊主義者が信じているからだ。

ところが、精神世界の人は、「過去は関係がない」と言っているときは、「言霊思考」や「思霊思考」とは関係がない状態になっているのである。 

 だから、精神世界の人は「過去は関係がない」と言っているのに、ネガティブな人と一緒にいて、自分が不満を感じたら、「ネガティブな人と一緒にいると、ネガティブがうつる」と考えてしまうのだ。

ネガティブな人と一緒にいたということは、過去の出来事。

ネガティブな人と一緒にいるとき、自分が不愉快な気持ちになったということも、過去の出来事なのだ。

現在の時点で「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」と思っているなら、「過去の出来事」の影響を受けたということだ。

過去は関係がある。

なんで、ほかの人のことだと「過去は関係がない」ということになってしまうのか?

いい加減、自分の矛盾に気がついたほうがいいよ。

2026年4月20日月曜日

●「言うだけ」なら、楽だ■言霊※2026/04/19 8:17

一部の例外を除いて言霊主義者というのは、じつは欲張りな人たちなのである。

自分の願望をかなえたい気持ちで、いっぱいなのである。

自分の願望をかなえたいのだけど、「楽な方法」でかなえたいのだ。

「言うだけ」なら、楽だ。

だから、「言霊は絶対だ」とか「言霊の法則は、宇宙貫く絶対法則だ」と確信しやすいのである。しかし、日常の生活では、「言ったってかなわない」と言うことを知っているのである。

だから、言霊に自分の注意が集まっているときにしか、言霊思考にならない。

そして、自分の現実的な問題は、言霊で解決することができないということを知っているのである。

だから、自分の現実的な問題に関しては、そもそも、言霊で解決しようとは思わないのである。

政治の問題は、言霊で解決しようとは思わないのである。どうしてかというと、言ったってかわらないからだ。

自分が「これこれこう、かわる」と言ったって、かわらないのである。

自分が「なになにという政治家が、こういう発言をする」と言ったって、その政治家が、自分の言葉に宿っている言霊の力によって、「こういう発言をする」とは……頑固な言霊主義者ですら……思えないのだ。

自分が「なになにという政治家が、こういう発言をする」と言ったあと、言霊ではない別の理由で、「なになにという政治家が、こういう発言をする」ことを期待するしかない。

そして、その確率がとてつもなく低いと……その言霊主義者が……思っている場合は、そもそも、「なになにという政治家が、こういう発言をする」と言わないのだ。

世界中の紛争を、一秒以内に解決することだってできるのだ……。言霊理論が正しいなら……。

言霊の法則が、宇宙を貫く絶対法則なら……。

ところが、言霊理論は正しくないし、言霊の法則は、宇宙を貫く絶対法則ではないから、言霊の力によって、世界準の紛争が一秒以内に解決しないことが多い。

ようするに、言霊主義者が「無理だ」と思っていることに関しては、言霊主義者は「言霊による解決法」を採択しないのである。

「言ったって、言った通りにならない」と思っているのである。言霊主義者だって、「言ったって、言った通りにならない」と……普段は普通に、思っているのである。

ところが、言霊主義者は……夢や願望に関しては、楽な方法でかなえたいという気持ちが非常に強いのである。

だから、言霊(理論)を信じる必要性が出てくる。

「言えば、言ったことが(言霊の力で)現実化する」のだから、楽ではないか。実に樂だ。

言うだけでいいのだ。

普通の人は、言うことができる。

ある言霊主義者が普通に話せる人だとする。その言霊主義者は『自分は普通に話せるので、言える。なら、自分は言うだけで、自分の夢を現実化することができる』と思うことになる。

その言霊主義者のなかでは……『言うだけで自分の願望を現実化することができる』……ということになる。

楽だ。

実に樂に、自分の夢をかなえられる。

ラクラク~~。

●こういうことの犠牲者は、まじめな人なのである■言霊※2026/04/19 15:30

 言霊理論が正しいなら、ほんとうは、サービス残業なんてしなくてすむわけ。

カネなら、いくらでも「言うだけで」出てくるからだ。

サービス残業ではなくても……自分のことではなくて……相手のことなら……相手がどれだけ「無理だ」と言っても、相手に「作業」を押し付けることができるのである。

ようするに、言霊理論が背後にある言葉というのは……相手に「無理なこと」を押し付ける道具になってしまうのだ。

言霊思考が、相手に無理なことを押し付ける道具になってしまう。

しかも、押し付けるほうは、まったく悪いと思わないことが可能なのである。

「無理だと言うから無理なんだ」という言い方も、言霊理論が正しいなら、成り立ってしまう。

「無理だ」と言ったことが、無理であることの原因にはならないのである。

ところが、言霊主義に汚染されていると、「無理だと言うから無理なんだ」という意見が正しいことのように思えてくるのである。

だから、言霊主義者は「無理だと言うから無理なんだという考え方が正しい」と思ってしまうのである。「無理だと言っている相手が、間違っている」と思ってしまうのである。

『相手は、無理ではないことを無理だと言っているのだから、相手が言い訳をしているだけだ』……と言霊主義者は思ってしまうのである。

あるいは、『相手は、無理ではないことを無理だと言っているのだから、あまえているだけなのだ』……と言霊主義者は思ってしまうのである。

『言い訳をするのはよくないことだ』……と言霊主義者が考えている場合、言霊主義者の頭のなかでは……『相手が言い訳をしているのだから、相手が悪い』ということになってしまうのである。

『あまえることが、悪いことだ』……と言霊主義者が考えている場合、相手があまえているだけだから、さとしていいと思ってしまうのである。

なので、「無理だ」と言っている相手には、たいていの言霊主義者が、高圧的な態度をとることになるのである。

ところが、自分の態度が、高圧的だと思っていないのである。

言霊主義者の頭のなかでは……『無理だと言っている相手』がおとっているからダメなんだという解釈になってしまうのである。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考えたを受け入れだけで、このように、「相手に無理なことを押し付ける」ことに抵抗がない人間になってしまうのである。

自分のことであれば、無理な理由が、わかっているのである。自分のこととしてわかっている。自分の!!経験を通してわかっている。

だから、普通の現実感が成り立っている場合、言霊主義者は、自分には、言霊理論を適用しないのである。ようするに、「これは、言い訳だ」と思わないし「これは、あまえだ」と思わないのである。言霊主義者が、自分のことについて、相手には説教をしたようなことを思っても、相手に説教をしたときの気持ちとはちがう、気持ちになってしまうのである。どうしてかというと、自分の身に起きたことの場合は、自分が「無理だ」と思う理由が、自分のなかで成り立っているからなのである。

しかし、他人のことだと、自分にとっての「普通の現実感」がないので、他人には、「無理なこと」を平気で押し付けることができるようになるのである。

もっとも、他人にとって……つまり、言霊主義者から見て相手にとって……それが本当に無理ことなのかどうかというのは、この場合、不定だ。実際に、無理なことになっている場合と、無理なことにはなっていない場合がある。

しかし、無理なことになっている場合は、言霊主義者の発言は、不適切な発言になってしまうのである。

これ、こういうことの犠牲者は、まじめな人なのである。

まじめな人が、耐えて耐えて、耐えて耐えて、それで「もう無理だ」という意味で「無理だ」と言っているのである。

言霊主義者は、まじめな人が、耐えて耐えて、耐えて耐えて、やってきた期間を、無視してしまう。

言霊主義者の認識というのは……相手が「無理だ」と言っているだけだ……というような認識なのである。

だから、「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」というセリフを、気軽に言ってしまう。

しかし、耐えて耐えて、耐えて耐えて、やってきた期間を、無視されることは、たいていの場合、屈辱なのである。

ところが、言霊主義者は「いいことを言っている」と思っているのだ。自分は適切なことを言っていると思っているのだ。『相手が「無理だ」とネガティブなことを言って、さぼろうとしているのだから、さぼろうとしている相手が悪い』……と言霊主義者は思ってしまう。

2026年4月19日日曜日

●「できるできると言って、サービス残業をすればいい」■言霊※2026/04/19 6:34

 「できるできると言って、頑張ればいい」ということになってしまうのである。

「できるできると言って、サービス残業をすればいい」ということになってしまうのである。

おかしいだろ。

「できると言えばできる」という考え方の裏には、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考え方がある。

単なる妄想なのだけど、(この人たちは)信じている。確信している。信仰している。

だから、「できるできると言って、サービス残業をすればいい」という考え方に疑問をいだかなくなってしまうのだ。

しかし、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」と考えているなら、そもそも、サービス残業なんしてなくてもいいのである。

それどころか、働く必要すらないのである。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」のだから、働く必要はない。

「カネが出てくる」と言えば、カネが出てくる。

「自分の銀行口座に、おカネが振り込まれる」と言えば、おカネが振り込まれる。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」のだから、そうなる。

通勤して働く必要なんてないのである。

だいたい、おカネだって、おカネで『なにか』を買うから必要なのだ。

その、もともと必要な『なにか』を、言霊の力で、出せばいい。

それで、解決だ。

●妄想の毒■言霊※2026/04/19 6:19

『妄想の毒』を飲まされてからは、限られた分野で、妄想を言うようになるのである。

限られた分野というのは、『夢と希望』と『他人のこと』だ。

『他人のこと』が重要なんだよ。

他人の身の上に起こったことに関しては、妄想を言うようになる。

妄想を前提としたことを言うようになる。『夢と希望』に関しては、かなったほうがいいわけだから、妄想思考になるのである。

「言えば、現実化する」……。妄想だ。

「思えば、現実化する」……。妄想だ。

「引き寄せ行為をすれば、引き寄せることができる」……。妄想だ。

妄想。妄想。

たとえば、「できると言えばできる」という考え方の裏には、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という思考がある。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という思考が、妄想的な思考であり、妄想的な前提なのである。

ひとごとなら、自分はまったく傷つかないので、「できると言えばできる」と他人には、言ってしまう。「いいことを教えてやったつもり」なのだ。

「ものすごくいい解決法を教えてやったつもり」なのだ。

けど、相手の条件を無視しているのである。この「相手の条件を無視すること」というのは、相手にとって、不愉快なことである場合が多い。

しかし、相手が「これこれこうだからできない」と言ったら……言ってきたら……「そんなのは、言い訳だ」と言ってやればよいのである。

これも、最初から決まっているんだよ。もう、マニュアルで決まっている。洗脳されたときに、「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことが決まっている。

矛盾だらけなのである。

ところが、鈍感力によって、気がつかないのだ。まきえさ」と書いたけど、自分の願望を満たしてくれる考え方は、いい考え方なのである。全力で肯定できる考え方なのである。だから、相手にとってもいい考え方だと思ってしまうのである。

相手の願望を満たすことができる、いい考え方を教えてやったと思っているのである。

それなのに、相手が「できない」ということを言ってきた……とする。

そうなれば、「そんなのは、言い訳だ」と言うことになる。

あるいは、「そんなのは、あまえだ」と言うことになる。

「言い訳」も「あまえ」も、どっちも、おなじ効果をもつものなのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。