人間が、「あまさ」を感じたとき「あまい」と表現することについて考えてみよう。
実際には、味蕾が感覚器として機能している。味蕾の感覚が電気信号として神経を伝わって、脳に至り、脳であまさを感じるのだ。
そして、この感覚と、この感覚のことを「あまい」と表現するということを学習している場合は、「これは、あまい」というような表現をすることになる。
言霊主義者といえども、この連合を学習する前に「あまい」と言うからあまくなるというようなことは、言わないのだ。言霊主義者というのは「あまいと言うからあまくなる」という理論を採用しているのである。
ところが、食べるまえに「これはあまい」と言って、食べて、「これはあまい」と言ったから、「これはあまい」という言葉に宿っている言霊の力によって「これ」があまくなったと考える言霊主義者は、あまりいないのである。
普通に「それ」を食べて、味蕾であまさを感知したあと、あまいと感じているのである。
別に、食べるまえに「これは、あまい」と言って食べるわけではない。
たとえば、水を飲む前に、「この水は、あまい」と言って、水を飲むと、「あまくなったような感じがする」というようなことを言う場合がある。
これは、自己暗示の世界だ。
言霊とは関係がない。
ところが、言霊主義者は、「言霊の力によって、あまくなったのだ」と勘違いしているのだ。
言霊主義者だって、電車は、電気の力で動いていると思っている。
電車が、言霊の力によって動いているとは思っていないのだ。
それとおなじように、言霊主義者だって、普段は、言霊の力によって、「それ」があまくなったのだとは思っていないのだ。
人間は、普通、あまいものを食べると、あまいと感じて、すっぱいものを食べればすっぱいと感じるのだ。言霊主義者も、このしくみは、おなじなのである。
たいていの場合、言霊主義者だって、からいものを食べると、からいと感じるのだ。
なにかを食べるまえに、味を決定するような言葉を言い、その言葉に対応した感覚がしょうじているわけではない。
ところが、コーヒーをスプーンでかき混ぜるとき、「あまくなーーるあまくなーーる」と言うと、実際に「あまくなるんだ」ということを言っているわけ。
自己申告制だから、自己暗示が強い人は「実際に、あまくなった」と思うだろう。自己暗示が強い人は、意識的に嘘を言っているわけではない。
けど、その自己暗示が強い人ですら、たいていは、食べるまえに、味を決定しているわけではない。「それ」を食べたとき、あまく感じるのは、「それ」を構成する物質と「身体」の相互作用の結果だ。
味蕾は、もっと詳細な構造をもっている。実際には、味細胞が味を感覚している。あまさに関しては、甘味受容体がかかわっている。
感覚器や脳みそがちゃんと機能していると、あまいものを食べたときは、あまいと感じるのだ。
これは、「それ」が「あまい」と言われるまえに、あまいものであるということを意味している。
もちろん、味を感じない人だっている。だから、その人は「それ」があまいのかどうかわからない。
しかし、普通の身体をもっている場合は、あまいものを食べると、あまいと感じるのである。
別に、食べるまえに「これはあまい」と言ったから、「これはあまい」という言葉に宿っている言霊の力によって、あまくなったわけではない。
つまり、「これはあまい」という言葉に宿っている言霊の力によってそれが実際に、人間があまいと感じる物質にかわるわけではない。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが、唐辛子を指さして「これは、あまい」と言ったとする。言霊主義者の主張が正しいなら、その唐辛子は「これは、あまい」という言葉に宿っている言霊の力によって、あまくなっているはずだ。
その唐辛子を、Bさんが食べたとする。
その場合、Bさんは、普通に「これは、からい」と感じるのである。Aさんが、自己暗示の強い人だと「これはあまいと言ったからあまく感じるはずだ」という気持ちになり、実際に食べたら、多少あまく感じたというようなことが、起こりえる。
だったら、言霊はあり、言霊の力が作用して、唐辛子があまくなったのだと言えるかというと、言えない。
だって、そうだろ。Bさんは、あまく感じなかった。
Aさんだって「少しあまくなったような気がする」と言うかもしれないけど、感覚器や脳みそが正常なら「からい」と感覚するはずだ。自己暗示力が強いAさんの場合だって「あまくなったような気がする」だけなのである。
完全に催眠術にかかっている場合は、「あまい」と思うかもしれないけど、これは、言霊の力とは関係がない。これは、言葉の力が関係している。そして、だれもが催眠術にかかるわけではない。催眠術の場合は、脳のほうに影響を与えるのである。
すでに、「あまい」という言葉とあまさの感覚の連合ができあがったあとの話なのだ。
ともかく、「これはあまい」という言葉にやどる言霊の力によって、「これ」があまくなったのではないことは確かだ。
そして、言霊主義者が、なにかをものを食べるまえに、「これは、なになにの味がする」と言って、言ったあとに、それが、その味になるわけではないということも確かなことなのだ。
もともと、カレーの味は、カレーの味だ。
カレーを食べるまえに「これは、カレーの味がする。」と言って、食べると、「これは、カレーの味がする」がするという言葉に宿っている言霊の力によって、「これ」が、カレーの味になるわけではない。
「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのが、言霊理論だ。
それだと、塩を前にして、「これは、砂糖だ」と言うと、塩が(言霊の力によって)実際に砂糖になるということが発生しなければならない。
言霊理論が正しいなら、言霊主義者が言ったとおりになるはずなのである。
塩でも、「これは砂糖だ」と言うと、言霊の力によって、砂糖になるのである。あまくないものでも「あまくなる」と言うと、言霊の力によって、あまくなるのである。
どれだけ、妄想的な理論かわかるだろう。
言霊主義者だって、普段ものを食べるときは、食べたものの味を知覚して、知覚した感想を言っているにすぎないのである。
カレーを前にして、「これは、かつ丼の味がする」と言ったって、普通の言霊主義者は「カレーを食べると、カレーの味がする」と思うのである。
普通の言霊主義者は、「言ったことによって、味がかわらない」ということを知っているのである。
普段、言霊主義者が、食べるまえに、「それ」の味を決定しているとかというと、決定していないのである。言霊主義者は、普段の行動を完全に無視している。
言霊主義者だって、普段は、食べたあとに、「これはまずい」とか「これはうまい」と感じているのである。
ある言霊主義者がいるとする。この言霊主義者がAという店でかけそばを注文したとする。そうしたら、そのかけそばが、まずかったとする。これは、食べたあとに、この言霊主義者がAという店のかけそばはまずかったと思ったのだ。
さきに、言霊主義者が「そのかけそば」の味を決定しているわけではないのである。
食べた「あと」に、まずいと思ったのだ。
だいたい、言ったことが現実化するなら、「このちり紙は、おいしいカレーになる」と言えば、このチリ紙がカレーになるのである。
魔法の力なのである。