じつは、言霊主義者よりも、思霊主義者のほうが、手ごわいのだ。
どうしてかというと、思ったかどうかというのは、外側から、はっきりとわかることではないからだ。言えば、言ったというのがわかる。
けど、思ったとしても、思ったかどうかわからない。
「思いが、現実化する」というのが、手短に説明した場合の思霊主義者の考え方だ。思霊(おもだま)というのは、ぼくの造語だ。言霊に対応した言葉がないので、ぼくがつくっておいた。だから、みんなが知っている言葉ではない。
言霊主義者の場合、「言ったことが、現実化する」ということになる。
その場合、「言霊の力によって現実化する」という意味になるのである。
思霊主義者は、ただ単に「思いが現実化する」と言っているわけではなくて、「思いが、超自然的な力によって、現実化する」と言っているのである。
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「思うだけ」だと、思ったかどうか、外側から、よくわからないということを言ったわけだけど、じつは、本人にも、よくわからない場合がある。
言った場合は、本人が記憶していなくても、言ったということを、だれかが記憶していれば、言ったという場合について考えることができる。あるいは、ボイスレコーダーで録音しておけば、言ったということを(ある程度)証明できる。
これ、音声合成技術が発達してしまったので、じつは、本人が言っていないことも、言ったように見せかけることはできるのだ。けど、今回言いたいことは、「思い」だと、本人も思ったことを忘れてしまうことがよくあるということだ
言う場合よりも、思う場合のほうが、より、忘れられやすいのである。
本人にとっても、思ったかどうかというのは、記憶に残りにくいことなのである。
だって、そうだろ。起きてから、四六時中、なんらかのことを思っているわけだから、特別に注意が向いたことだけ、思ったことが、たしかに思ったこととして記憶されているけど、あんまり注意が向かなかったことは、思ったということ自体が、忘れられてしまうかもしれない。
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問題なのは、「無意識的に思った」とか「潜在意識で思った」ということを認めてしまった場合、「思った」のか「思わなかった」のかを、決められなくなるということになる。
これは、理論的に決められなくなる。
なので、「思った」と「思わなかった」の区別がつかなくなってしまうのである。しかし、「無意識的に思った」とか「潜在意識で思った」ということは、よく言われることなのである。
どうしてかというと、ここにも、トリックがあるからだ。
思霊を信じているような人たちは、広い意味で精神世界の人たちなので、『後出し理論』を好むのだ。
ようするに、結果から、原因を推察するということになる。
しかし、推察ではなくて、決定してしまう。こうだと決めつけてしまうのだ。
どうして、そのような動機がしょうじるかというと、「思わなかったこと」が発生してしまったからだ。
「思ったことが発生する」ということになっているので、思わなかったことが発生した場合は、「思ったにちがいがない」ということになってしまうのである。
ようするに、結果に合わせて、過去の出来事を(記憶の中で)書き換えてしまうのである。
そうすると、見せかけの論理性がたもてるのである。
しかし、これは、下手なトリックだ。
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「思った」ということを、意識的に思ったということにしておく。この場合、意識的に思わなかったのであれば、思わなかったということになる。
思わなかったことが発生した場合、思わなかったことが発生したということになる。
ほんとうは、これでおしまいなのだ。
しかし、実際には、思わなかったことが発生したので、「自分は思ったにちがいがない」ということにして、現実を書き換えてしまう。
ほんとうは、「思わなかった」のに……「無意識的思った」とか「潜在意識で思った」ということにして、「思った」ということにしてしまう。
そうすると、「思ったから発生した」という流れが、思考のなかで、かろうじてたもたれるのである。
しかし、これは、本人が本人に『嘘』をついている状態だ。
そして、「思ったにちがいがない」と思ったのは、じつは、「思っていなかったことが、発生した」という事実から、発生するのである。
つまり、事実を書き換えなければならなくなるのである。
(1)思ったこと(オン)が現実化した(オン)
(2)思わなかったこと(オフ)は現実化しない(オフ)
(3)思ったこと(オン)が現実化しなかった(オフ)
(4)思わなかったこと(オフ)が現実化した(オン)
事実として、思わなかったことが現実化したので、思わなかったことが発生したのではなくて、無意識的に思ったことが、現実化したということに、してしまうのである。
思わなかったことが現実化したので、(1)思ったこと(オン)が現実化した(オン)にしておかなければ、つじつまが合わなくなったのである。あるいは、つじつまが合わないと、本人が認識したのである。
だから、つじつまを合わせるために、現実化したという事実に合わせて、むりやり、「思ったことにしてしまう」のである。思ったことにしてしまう方法が「無意識」とか「潜在意識」という概念の導入なのだ。
これをやってしまうと、すべての現実化したことは、思ったことだということになってしまうのである。現実化したことなら、思ったことなのであるということにしてしまうのだ。
これは、完全に間違っている。精神世界の人は、こういう幼稚な言い訳をよくする。だから、矛盾が矛盾を生み出すということになってしまう。嘘が嘘を生み出すのだ。
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そして、主体はだれなのかという問題がしょうじる。普通は、「自分」なのである。
しかし、「他人」も人間はみんな、主体となりえるのである。なので、現実に発生したことは(現実化したことは)どんなこともすべて、誰かが思ったことだということになってしまう。
ところが、人間を取り巻く環境は、物理的な環境であり、物理的なものが物理的な運動をすると、だれが思ったわけでもなのに、運動が発生したということになる。
そして、その運動の結果をだれが認識した場合、じつは、運動のあとに、認識がしょうじるということになるのである。
これは、だれも思わなかったのに、運動の結果として出来事が発生したということなのである。
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たとえば、ヘビメタ騒音について考えてみよう。きちがい兄貴が、どでかい音でヘビメタを鳴らそうと思ったので、ヘビメタ騒音が発生した。実際に、ヘビメタの音が(大音響で)鳴り始めた。きちがい兄貴とっては、「思ったこと」なのである。
けど、ぼくにとっては、思ったことではないのである。ヘビメタという音楽分野があるということすら、当時、ぼくは知らなかったのだ。
どうやって、ぼくが、「やがて兄貴がヘビメタをでかい音で鳴らす」と思うことができるのか?
そんなことは、できないのである。
「思わなかったこと」が発生したのだ!!
だから、だれかAさんと、だれがBさんがいた場合、Aさんにとって、思ってやりはじめたことだけど、Aさんの活動によって生じた物理的な出来事は、Bさんにとっては、思ってもみなかったことだということは、ありえる。
だれかほかの人の活動に関しては、(本人が)思わなかったことが発生する場合があるのである。本人がすべての事象を「思い」によって支配しているのではないのだから、当然だ。
つまり、じつは、「(自分が)思ったことが、現実化する」という理論は、最初から破綻しているのである。 では、誰かが思ったことが現実化するという理論は、最初から破綻しているわけではないと言えるのかどうかというと、言えない。
人間が発生するまえから、物理的な出来事が、発生していた。だれも思わなかったのに、出来事が発生していたのである。だれも思わなかったことが、発生していたのである。
別に歴史をさかのぼらなくても、普通に、分子的な運動が発生している。だれが思わなくても、勝手に、風吹く。だれが思わなくても、勝手に、空気中のほこりが、個別に、個別的な運動をしている。
だれか、特殊な人が、空気中の一個一個のほこりについて、動きを予想したとしても、その特殊な人が、世界中のほこりについて、動きを予想できるわけではない。ようするに、つねに「(だれにも)思われていない運動」あるいは「(だれにも)思わなれなかった運動」が、現実化しているのである。