きちがい家族がおらず、きちがい家族の異常な騒音攻撃を経験したことがない人は、それがどういうことなのか、わからないのである。けど、わからないということもわかってないのである。自分の騒音経験をもとに、ぼくの騒音経験をものすごく、軽く考えるのである。あるいは、無視するのである。もちろん、無視できるのは、実際にやられてないからだ。それだけしかない。こいつらが、実際にやられても、平気だというわけではないのだ。ところが、実際にやられていないので、「平気だ」と思ってしまう。
そして、世間には、たとえば……「努力をすれば成功する」というようなへんな言葉がある。この言葉は、実際には、意味のあることを言っていないにも関わず、意味があることを言っていると思っている人たちがたくさんいるという状態になる。この人たちは、「努力をする」ということが、一意に決められないということにすら、気がつかない人たちだ。この人たちの思考力は限られているのである。だから、一〇〇%詐欺をして、法則性詐欺をしてしまう。そして、自分のことと、他人のことをわけて考えるのだけど、それも、自分がそういうことをしているということに気がつかないというありさまだ。これは、言霊主義者が、自分の現実的なことに関しては、現実的考えるけど、他人の現実的なことに関しては、言霊的に?考えるということに似ている。そして、普段、自分が自部分の現実的なことに関しては、まったく言霊的なことを考えないということについて、無自覚なのだ。でっ、まあ、こういうことに関しては、ここで説明してきた。言霊に関しては、まあ、言霊にこだわる人にかぎられてるけど、努力論に関しては、日本社会のほぼ全員が、なんとなく、努力論を支持してしまっているところがあると言えるほど、支持されている。しかし、努力論にも、言霊理論とおなじような誤謬があり、最初からまちがっている。まちがっているのだけど、正しいこととして、流通してしまっているという状態がある。これは、不健康な状態なのである。たとえ、「努力をすれば成功する」ということを信じて、「自分は、努力をして、成功した」と言っている人が社会のなかにいたとしても、「努力をすれば成功する」という言葉は、社会全体としては、社会が悪化するような言葉なのである。この言葉は、他人に圧力をかけるための言葉であり、成功だと思っている成功は、副作用でしかない。個人的には、「努力をして成功した」と思って、一時的にいい気分になるかもしれないけど、社会全体には、不幸をもたらすものなのである。
自己責任論について述べたとき、自分を対象とした自己責任論と、他人を対象とした自己責任論があるということを述べたけど、「努力をすれば、成功する」という言葉にも、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論がある。他人を対象とした努力論に関しては、自分のなかに、社会的なラベルとしての成功のイメージがあり、自分を対象とした努力論に関しては、過程などを重視した自分なりの成功のイメージがあるのである。だから、「成功」と言っても、意味がちがうのである。そして、相手が敗者であるように見えるときは、「この人は、成功していない」とみなす傾向がある。ようするに、敗者である属性をもってるものに関しては、「この人は、努力をしなかったから、成功しなかったのだ」と考えがちなのである。しかし、成功したかどうかなんて、わからないのである。だって、成功の意味がちがうのだから。努力についても、一意に内容が決まらないのだけど、成功についても、一意に内容が決まらない。言霊主義者だって、自分が現実的に体験したことに関しては、自分がプロセスを知っているので、言霊的な考え方をしないのである。しかし、他人に関しては、他人が経験したプロセスがわからないので、見た感じで、ラベリングをしてしまう。こういうところに、人間の限界があり、その限界が、悪く働いてしまうのである。努力論においても、言霊理論においても、この人間の限界が、悪く働いてしまうのである。だから、基本的に、努力を論を口にする人は、傲慢で自己中なのだ。おなじように、基本的に言霊理論を口にする人は、傲慢で自己中なのだ。手短に言うと、どちらも、夜郎自大なところがある。言霊理論と努力論は、人間の夜郎自大な性格を、引き出してしまうようなところがあるのである。
ひろい範囲では、自己イメージと属性思考のイメージは、だいたいのところ、一致している。しかし、「自分は自分なりに成功した」と思っているときは、自己イメージと属性思考のイメージは乖離しているのである。ようするに、自分なりに、成功というものを定義して、自分は成功したと思っているときは、「努力をすれば成功する」という言葉は正しいと思っているのである。そして、他人を見て、他人の属性で他人をラベリングするときも、「努力をすれば成功する」という言葉は正しいと思っているのである。両方とも、普通の人が思っていることだ。だから、こういうことを考えている普通の人にとっては、「努力をすれば成功する」という言葉は正しいということになっているのである。ただし、狭い範囲で自分のことを考えるとき「成功」の意味と、他人のことを考えるときの「成功」の意味は、ちがう。自分なりに成功した」と小さい範囲で思っていることに関しては、自分がプロセスを知っているので、成功の意味が、自分のプロセスを考慮したものになるのである。しかし、他人について考えているときは、自分のプロセスがなく、他人のプロセスについて考えて、無視するので、プロセスを重視しないのである。だって、他人のプロセスなんて、自分の身の上に起こったことではないので、簡単に無視できるものだからだ。無視しようと思って無視するわけではなくて、最初からわからないので、「そういうもの」なのである。無視をしようという明確な意識があるわけではなくて、ごく自然に、他人のプロセスは無視してしまうのである。自分のことではないので、わからない。他人の「プロセスの意味合い」が、欠落しているのである。「の」の重複は指摘しなくてもいい。
他人の場合は、プロセスについて考えないし、成功の意味が、ラベリングに適したものになるのである。条件が悪い他人の、悪い条件については、考えないのである。悪い条件がもたらすことについては考えないのである。悪い条件のなかで、他人が「努力をした」としても、その他人が「失敗しているように見える」限り、その他人は(本人にとって)努力をしたことにならないのである。どうしてなら、努力をすれば成功するはずだからだ。だから、もし、条件が悪い他人が、成功しているように見えない場合は、その他人が「努力をしなかったから成功していない」と考えがちなのだ。おわかりか?
そうなると、不幸な条件をかかえた人は、不幸な条件がもたらすことについて、他人から理解されないということになる。不幸な条件をかかえた人が不幸なのは、その人が努力をしなかったからだ」と(普通の人が)考えるようになるのである。他人に関してはそうなる。特に不幸な条件であって、なおかつ、特殊な条件をかかえた人は、他人から誤解されるようになるのである。その「不幸な条件であって、なおかつ、特殊な条件をかかえた人」が、どれだけ努力をしても、他人は、その「不幸な条件であって、なおかつ、特殊な条件をかかえた人」が、努力をしてないと簡単にみなすようになるのである。不幸な条件のせいではなく、特殊な条件のせいではなく、その人が単に、……努力をしなかったから、不幸なのだと、考えるようになるのである。その人が単に、サボり魔だから、成功せずに不幸な状態で暮らしているのだと考えるようになるのである。普通の人が普通に(そのように)考えるようになるのである。
そうなると、普通の人は、不幸な他人の「不幸な条件がもたらすもの」や「特殊な条件がもたらすもの」を無視して、その人が努力不足だからダメなんだと考えるようになるのである。不幸な条件が「不可避的にもたらすもの」を完全に無視し、「特殊な条件がもたらすもの」を完全に無視するように、誘導されてしまうのである。他人の……「不幸な条件がもたらすもの」や「特殊な条件がもたらすもの」を無視して、「その他人が、不幸なのは、努力不足だから、不幸なのだ」と考えるようになるのである。
改善する努力をしないから、不幸である場合もあるのだけど、不幸の度合いというのがちがうので、改善する余地すら、あたえられなかった場合もある。あるいは、他人から見たら、さぼっているように見えても、本人は、死に物狂いで努力をしている場合もある。ところが、「努力をすれば成功する」という言葉は、一括して、すべての場合において、「努力をすれば成功する」という意味になるので、成功していない場合は、一括して、すべての場合において、努力をしなかったということになってしまうのである。一括的な判断と言うべきもの、あるいは、全体的な判断と言うべきものが、成り立っているのである。