極端に、「人の言うことを気にしない人」というものについて考えてみよう。たとえば、Aさんが、Bさんに、包丁を見せつけた。Aさんは、通り魔で、包丁を見せた時の、相手の反応を見て楽しみたい人だったのだ。そして、Aさんが、Bさんに包丁を見せたとき、Bさんが、Aさんのことをにらんだとする。そうしたら、Aさんが、Bさんにひどい目で見られたと思って、Bさんを刺した。こういう事件が起こったとする。その場合、Aさんは、「Bさんがひどい目付きで見てきたので、頭にきてさした。あんな目付きで見られただれだって腹をたてる。自分よりも、あんな目付きで見てきたBさんがひどい。Bさんが自分にやったことがひどいので、刺されても文句は言えない」と考えたとする。Bさんの家族が、Aさんがひどいやつだと言ったとする。「人の言うことを気にしない」能力が高いAさんは、なにを言われたって、気にしない。それどころか、自分がひどい目つきで見られたのでかわいそうだと思うのだ。Aさんのなかでは、『Bさんがひどいことを自分(Aさん)にしたので、刺されて当然であるわけで、自分(Aさん)がせめられるのはおかしいという感覚がある。「Bさんの家族は、たいしたことをやってない自分をせめてくるので感覚がおかしい」とAさんは思うのだ。だから、Aさんは、Bさんの家族をひどいクレーマーだと思っているだけで、Bさんの家族の言い分が妥当だということに、まったく気がつかない。アドラーは「自分でよく考えて判断すればいい」ということをいっているのだけど、Aさんがどれだけ考えたって、そんなことしか思い浮かばないのだ。相手の言い分が正しいかどうか、「自分がよく考えて判断すればいい」という考え方には、よく考えれば、だれだって正しい基準で考えることができるのだから、正しい結論に至るはずだという『妄想的な前提』が成り立っている。そりゃ、いろいろなやつがいるから、『だれだって正しい基準で考えることができる』『正しい基準で考えれば、正しい結論に至ることができる』と考えてしまうのは、現実的ではない。
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レッサーパンダ事件と呼ばれる事件が実際に起こったのだけど、被害者がアニメ声だったから、加害者は「本気で相手が嫌がっている」と言うことに気がつかずに、刺したというようなことを、主張するやつが出てくる。レッサーパンダ事件と言うのは、簡単に言ってしまうと、障碍者の男性が、女性を刺した通り魔事件のことだ。これは、通り魔事件だ。加害者と被害者の間に、因縁の関係があったわけではない。ただ、路上であっただけ。それまでは、一切合切、面識がない二人だったのである。加害者のほうが、被害者を刺した理由というのが、よくわからないので、いろいろな憶測を呼ぶことになる。加害者本人が動機について明確に話したわけではなくて、誘導されて調書ができあがったという感じだ。ともかく、こういう事件についても、「すべては自己責任」と考える人は、刺された人間のせいだと考えてしまうのだ。ただ単に、歩いていたら、へんな人が、包丁を見せて、へんな表情を浮かべた。なので、相手を見たら、相手が、包丁で(自分)を刺した。こういう場合だって、精神世界の人は、刺されたほうの自己責任だと言ってしまうのだ。そして、冒頭のアニメ声だったからというのも、じつは、被害者側の責任を追及しているのである。アニメ声でなければ、刺されなかったかもしれない。アニメ越えではない声で、「やめて」と言ったら、加害者は「やめた」かもしれない。それなのに、アニメ声で「やめて」と言ったので、加害者が、ほんとうにいやがっていると思わずに、包丁で(アニメ声の相手を)刺して、殺したということになる。こういうことを言う人の頭のなかでは、「やめて」とアニメ声で言わなかったことが、過失になるのだ。落ち度になるのだ。だから、被害者側にも、落ち度があるということになってしまう。こんなの……ない。アニメ声でない声で「やめて」と言ったらやめたはずだというのは、単なる想像なのである。アニメ声でない声で「やめて」と言ったって、刺したかもしれない。勝手に、「アニメ声だから、わからなかった」と言っているやつが、そう思っただけなのである。しかし、相手が本物の包丁を持って、近づいてくるのに、「やめて」と本気で言わない人なんているのだろうか。加害者が障害者だから「相手が本気で言っているとは思わなかった」とその人は思っているのだ。まあ、その人というのは、アニメ声でない声で、「やめて」と言ったら、加害者は被害者を刺さなかったと勝手に想像している人のことだ。とりあえず、この人のことを、Aさんということにしておこう。Aさんの考えでは、本気で刺そうと思って近づいてきた加害者に対して、被害者が「やめて」とアニメ声ではない声で言ったから、刺されたということになる。こんなのは、おかしいだろ。刺すつもりで、相手に近づき、刺すつもりで、相手を刺したのだ。どんな声で、「やめて」と言っても、刺したはずだ。じつは、加害者は知的障碍者なのだけど、知的障碍者だから、相手が、「本気でやめて」と言っていることに気がつかなかったというのが、Aさんの意見なのだ。いやーー。そりゃ、ないだろ。どれだけ、太い声で「やめろ」と言ったって、本気で刺すつもりで、刺したのだから、やめなかったと考えるのが筋だ。ようするにAは、加害者が知的障碍者だから、相手が『本気で』やめてと言っているということがわからなかったから、刺したとAさんは言うのだ。こんなの、ない。冗談で、刺すふりをしたら面白いだろうなと思って、刺したわけではないのだ。それこそ、本気で、相手がなにを言っても、かまわずに刺したのだ。相手が、アニメ声ではない普通の声で「やめて」と言ったら、やめてやるつもりで、ふざけるつもりで、刺すような真似をした? そんなことはないだろ。ふざけるつもりで、刺すような真似をしたのだけど……相手が、本気で「やめて」と言わなかったから、そのまま、ほんとうに刺した? そんなことはないだろう。ふざけてさすようなふりをするために(相手に)近づいたのではなくて、最初から、刺すつもりで、相手に近づいたのだ。相手が『本気で』やめてと言ったら、刺すのをやめるつもりだったけど、相手が『本気で』やめてと言っているようには思えなかったので、刺した。どれだけゆがんだ考え方をもっているのだろ? Aさんの考え方は、ゆがんでいる。相手が普通の声で「やめて」と言ったら、刺さなかったけど、相手がアニメ声で「やめて」と言ったから、刺した。被害者の女性が、女性らしい声で「やめて」と言ったので、相手がほんとうにいやがっているとは思わずに刺した。こんなのは、おかしい。Aさんの考え方は、事態を混乱させるだけだと思う。Aさんがどうしてこういうことを言うのかというと、Aさんは、自分が障害者の味方のつもりだから、こういうこと言うのである。しかし、Aさん自身は、公平に判断しているつもりなのである。こんなのは、ない。障害者に肩入れしているので、障碍者が加害者である事件に関しては、加害者側に立ってしまうのである。Aさんは、そういう人なのである。公平なわけがない。
けど、Aさんだけではなくて、「すべては自己責任」と被害者側の追及をしている精神世界の人も、相当に、加害者に肩入れをした意見をもっていると思う。
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だれだって正しい基準で考えることができるのだから、正しい結論に至るはずだ……と思っている人たちは、実際に起こった事件の前では、口をふさいでしまうのである。
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刺したほうの責任は追及されず、刺されたほうの責任が追及される。おかしな世の中だ。自己責任論なんてものがはやってから、やったやつの責任ではなくて、やられたやつの責任を問う世の中になってしまった。こんなのはおかしい。しかし、自己責任論がはやっているので、ほとんどの人がおかしいとは思わないのだ。こんなのは、おかしい。自己責任論者が、おかしいと思わないのもおかしい。善悪の基準が麻痺している。自分がどれだけ、でたらめなことを言っているのか、まったく、気がついていないんだよなぁ……。こんなのはない。自己責任論者が増えたことで、世の中は、悪くなった。自己責任論者が増えるまえよりも、あきらかに、悪くなった。なぜ、悪いことをやった人の責任が問われず、悪いことをされた人の責任が問われるのだ。こんなのおかしいだろ。これがおかしいと思わないのは、おかしい。「すべては、自己責任」なんてよく言うよ。それなら、自己責任論を信じることで、自己責任論者の数を増やしたことに、責任を感じるべきだ。自己責任論者が増えると、社会が悪くなる。やったらやりがちの世界になってしまうからだ。
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構造的には「やられている」側の人間が「自己責任」などと言いだす。支配者層は、ウハウハだな。ほんとうに、奴隷根性を植え付けられて、条件が悪い人をいたぶりはじめる。条件が悪い人に圧力をかけようとする。考えが、たりないんだよ。こんなやつばかりだ。