2017年9月30日土曜日

「ホントウノウソ(ウラノオモテ)(オモテノウラ)」

今日は、掃除をした。
ひさびさに階段のところと渡り廊下をやった。
多少むせた。

マスクをしてもむせちゃう。

それで、いま、ひと息ついたところ。

椅子に座っているとけつ(大腿部との接続部分)が痛くなる。
なんかクッションがほしいな。かたいんだよな。

今日はセブンイレブンの惣菜ばっかりだな。
ご飯も炊いたし、下の部屋も掃除したし、洗濯もした。
けっこうやった。

セブンのスパゲッティーを食べようっと。
これ、買ってくるのだってけっこうたいへんだったんだよ。

ヘビメタ騒音で「うっっ」ってくるときがあるんだよ。
だれにもわからないだろうけど。自分の人生はなんだったんだろうと思うと「うっっ」とくる。

もちろん、ヘビメタ騒音と関係がある。この思いは、だれにも通じないんだろうな。通じるわけがない。通じたとしても、ぼくがそれで救われるわけではないし……。それほど通じる必要もないのだけど……けど、くるしい。

『あの感じはない』『あの記憶はない』『あれだけ言ったのに、ずっと一日中鳴らしやがって』と思ってしまう。入試の前にさんざん言ったのに、けっきょく、その日、一分も静かにしてくれなかったいうの記憶が、俺を襲う。

そういう日は、一日だけじゃないんだよ。高校入試のときも大学入試のときも、ほんとうに無慈悲に、すべての時間鳴らすことにこだわって、ガンガン鳴らしてた。

何回、怒鳴り込んだと思っているんだよ? 気違い兄貴!!

俺は、さんざん、言ったからな!!!! 

「明日入試だから静かにしろ」「明後日、入試だから静かにしろ」「あと一週間で入試本番だから静かにしろ」と何回も何回も言ったからな。けっきょく、「これぐらいならいいだろ」というノリで、よそのうちでは一分だって鳴らせないようなでかい音で、鳴らし続けた。

「静かにしてやったから、いいだろ」というノリで、鳴らしまくった。カオ君がおどろくような音で鳴らし続けた。どでかい音で鳴らし続けて、ほんとうにゆずってやったつもりなのだ。

「こまるからやめろ」「うるさいからやめろ」と何回も何回も兄貴の部屋に怒鳴り込んだのに、けっきょく、一分も静かにしてくれなかった。それが、気違い兄貴がこだわってこだわってこだわって、親父のような態度でやったことだ

いまは、親父のような態度で、「やった」ということを否定しているけど、そういう態度で鳴らし続けた。(否定している態度と、やっているときの態度がおなじなんだよ)

兄貴の友達のカオ君が言っただろ。「こんなでかい音で鳴らしたことはない」って。そういう音で鳴らして……何時間も鳴らし続けて、「静かにしてやった」と思っている気違い野郎なんだよ。兄貴は!!

親父のハンダゴテとおなじで、まったく意味がない譲歩をして、一〇〇%譲歩してやったような気持ちになっているだけ。

その「一〇〇%譲歩してやって、ゆずってやったつもりになっている時間」……物理的にものすごくでかい音で鳴らしているんだよ。きちがい親父とおなじ認知だから、本人がわかってないだけ。

〇・一デシベルでも静かにしてやったら、一〇〇%静かにしてやったと思う。しかも、〇・一デシベル静かにしてやった時間の長さか、五分間から一〇分間だ。そのあとは〇・一デシベルもどして(音を上げて)鳴らす。

だから、一〇〇%の音で一〇〇%ゆずらずに、ずーーっと鳴らしているのに、本人は、『もう、静かにしてやったから、これ以上静かにしてやる必要はない』と思っている。ほんとうは、本人だってよその家じゃ一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに、「こんなのたいした音じゃない(だから、どれだけ鳴らしてもいい)」と思っている。

「それじゃ、静かにしたことになってないから、こまる!!!!!」と俺が、兄貴の部屋に怒鳴り込んで言っているのに、親父のように腹を立てて「静かにしてやったのに、あとからあとからなんだ!!」と怒り狂う。

そのまま、こっちが一〇回怒鳴り込んでも、二〇回怒鳴り込んでも、夜の一一時一〇分まで、かならず、やりきる。

それで、ほんとうに『静かにしてやったつもり』なんだよ。親父のように!!

「やってやった。やってやった」ってなる。シランプリだよ。一〇〇%ゆずってやったから、「ぜんぜん迷惑なんてかけてないつもり」なんだよ。

本人は、入試の前だろうが自分のやりたい気持ちをおさえずに、すべての時間、すべて思い通りに、でかい音で鳴らしたのに、まったく鳴らしてないつもりになってしまう。親父のように!!

だから、本人は、ぜんぜん悪いと思ってないんだよ。自分との関わり合いが、まったくわかってない。何十回文句を言われても、「まったくそんなの知らなかった」ということになっている。

だから、試験の二週間前だろうが、俺がどれだけ真剣に頼もうが、自分のやりたい気持ちをまったくおさえずに、頑固に鳴らして!!……鳴らして!!!……鳴らし続けて!!……まったく鳴らしたつもりがない……(状態なんだよ)。

どれだけ「それじゃこまる」「鳴らすな」と言われても、「言われたという感じ」がないんだよ。それこそ、ハンダゴテのときの親父の態度とおなじで、自分が関わったという気持ちがない。

ほんとうは自分が意地を張って、意地を張って意地を張って、逆上して、真っ赤な顔をして、押し通したのに……押さえつけて、自分がやりたいようにやったのに……まったく!!つもりがない状態なんだよ。だから、まったく反省しない。

いつもいつも、「そんなの知らなかった」という状態なのである。トータルで何万回「静かにしろ」と言われても、「そんなの知らなかった」「言われたおぼえがまったくない」という状態が成り立つ。

ハンダゴテを押しつけたとき、押しつけたのは親父なんだよ。兄貴に押しつけたのは親父だ。「絶対に使える」と言い張って押しつけた。けど、押しつけたつもりがまったくないんだよ。自分がハンダゴテのことに関わっているという気持ち自体がまったくない。だから、「使えなかった」と言われると「使える!!使える!!」と一回目とおなじように怒り狂う。これは、親父の話だけど、兄貴の態度もおなじだ。兄貴のヘビメタに関する態度もおなじだ。

何万回言われても、自分が鳴らしている音がどでかい音だと認めない。「こんなのフォークギターぐらいの音だ」「こんなの下(一階の居間)のテレビぐらいの音だ」と本気で思っている。

ほんとうは、フォークギターの音、下のテレビぐらいの音にするつもりなんてまったくないんだよ。

カオ君がおどろくようなでかい音で鳴らしている。カオ君がおどろくようなでかい音で鳴らすことに、い・の・ち・が・け・でこだわる。こだわりつくす。一分だって、フォークギターぐらいの音、下のテレビの音ぐらいの音にするはずがない。

それは、きちがい親父が「このハンダゴテは使える。大丈夫だ」と言ってハンダゴテを押しつけるのとおなじなんだよ。やられた方は憤慨するしかない。で、これは、押さえつけられているあいだ! 押しつけられているあいだ!!続く。そりゃそうだろ。そのステータスが続くわけだから。

で、気違い兄貴のヘビメタ騒音は鳴っているあいだずっと、そのステータスが続くんだよ。毎日鳴っていたら、毎日そのステータスが続くんだよ。これがまったくわかってない。親父も兄貴もまったくわかってない。自分がやり勝ちして、押しつけることができれば、「なにもやってない」という気分になれる。

これをひっくり返すには、殺すしかない。

これ、「殺すしかない」と言うと、飛躍しているように思われるのだけど、それは、そういうときの親父や兄貴の態度を知らないからそう思うだけ。どれだけの意地でやっているかわかってないから、飛躍しているように思えるだけ。

自分がどでかい音で鳴らしたい以上、その音は普通の音なのである。で、でかい音だということを絶対に認めない。気違い兄貴が引っ越して「よそのうち」に行ったら、一日に一分だってそのでかい音で鳴らさないわけだから、ほんとうは、でかい音だということがわかってたんだなと思うしかない。ほんとうに普通の音だと思っているのなら、兄貴の嫁さんや嫁さんの家族の前で、鳴らしてみろ。一日に一分だって鳴らせないだろ。どうして、「うち」だとどれだけ鳴らしてもかまわないということになるんだよ?

しかも、ほんとうはそういうでかい音で鳴らしているのに(いたのに)ぜんぜんそういうつもりがないんだよな。きちがい親父がハンダゴテが使えるかどうかなんてまったくわかってないのに、(金を出したくないから)「使える使える」と真っ赤な顔をして怒鳴ってたのとおなじなんだよ。ほんとうは知らない。

けど、こだわりつくして、殺人的な意地で、「使える使える」と言い張る。けど、言い張ったことは、忘れてしまう。「言い張った」ということ自体が「都合の悪いこと」になると、「そんなのは知らない」「そんなんじゃないそんなんじゃない」と言い張る。

だから、際限がない。

兄貴もおなじなんだよ。兄貴がわかってないのは親父とおなじ脳みそだからだ。おなじ思考回路、おなじ認識回路だからだ。これ、際限なく、おなじことが成り立ってしまう。際限なく、「ウソ」が成り立ってしまう。

「つもりがない」というのも、「ホントウノウソ(ウラノオモテ)(オモテノウラ)」なのである。

でかい音で鳴らしたい以上、その音はでかい音ではない音に決まっているのである。実際の状態というのは、無視する。実際にやっていることを、意地でも認めない。認めないとなったら、特に認めないつもりがなくても、認めない。

だから、一切合切言っていることが通じない状態になる。だから、押し通してやれる。そして、やったつもりがまったくないという状態ができあがる。でかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、本当に静かにしければならなくなる。

本当に静かにするのは一分だろうが、死んだっていやなんだよ。

だから、「脳みそ」を書き換えて、「でかい音じゃない」ということにする。そういふうに「したら」、こっちが、どれだけ、なにを言っても兄貴にとっては「でかい音じゃない」んだよ。現実は、無視される。不都合な現実は、死にものぐるいの意地で、無視される。だから、本人は本当に、知らないことなんだよ。……これ、ほんとうに頭にくる!! ふつーーーに、そういう気違い構造が成り立っている。

朝、雲を見てきたと言ったけど、実は、雲を見ているあいだも、ヘビメタ騒音のことでくるしい。あの道は、前日まで三年間と半年やられて、入学試験を受けにいった道だ。あの道は前日まで六年間と半年やられて、入学試験を受けに行った道だ。脱力。死にたい気持ち。雲がきれいだったとか言ったけど、からだがだるくて、人生破滅で死にたい気持ちだ。そういうくるしい気持ちが、常に続いている。なにかをやっているときも……この場合は、雲を見ているときも……「ヘビメタ騒音でつらい」という気持ちが半分以上ある。

きれいな雲を鑑賞してきた。

行ってきたぞ~~。

ドクターペッパーゲット。
きれいな雲を鑑賞してきた。
立ち止まったり歩きながらね。
もちろん、車のことは気にしているよ。

立ち止まって空を見たのは、小道の前の小さな空き地のようなところだよ。白い雲と灰色の雲が層になっていて、オレンジの光を浴びていたので、きれいだった。『そういえば、最近、ちゃんとしたひつじ雲を見てないな』と思った。ひつじ雲が好きなんだよ。かたちが壊れているのより、ちゃんと、ひつじっぽい形になっているのがいいんだけどな。ひつじ雲が朝日を浴びてオレンジ色に輝いて見えるのは、いいよ。夕日と朝日ではまた、おももちが違う。

やっぱり、セブンのおかずは高いな。けど、きんぴらごぼうを買ってきたから、野菜の補給なる。いちおう、カットレタスも買ってきた。けど、カットレタスは、ちょっと問題がある。ドレッシングをかけて食べると、ドレッシングのとりすぎになってしまうのだ。油のとりすぎになる。塩とか醤油のほうがいい。

   *   *   *


常にヘビメタで憂鬱だった

あ~やっぱり、つまんねぇ。
つまんない。

喉がかわく。どうしよう。

これ、ほんとう、俺の人生どうしようかな?

ぼくがヘビメタ騒音にやられて、どんな気持ちで生きてきたと思っているんだ?

常にヘビメタでだるかった。常にヘビメタで死にたかった。常にヘビメタで憂鬱だった。常にヘビメタで怒っていた。やっぱり、死にたい気分だな。けど、死なないけど。死にませんよ。けど、つかれた。



2017年9月29日金曜日

聞くは聴くをかねるので、聞くで統一

このサイトはアクセス数なんてどうでもいいから、連投できる。
おれ、さぁー、いまさぁーー、つまらないんだよね。

やっと、騒音が終わったのに……。

なんか、防音対策だけで疲れ果てた。(防音対策というのは、太鼓の音を聞かないようにするために、英語の音声とドラマの音声を同時に聴くということ)

「聴く」と「聞く」にかんては、これでいいんだけど、小説のほうで実はこまったんだよな。「騒音を聞かされる」の「聞かされる」は、聞かされるでいいわけ。気違い兄貴が、ヘビメタを聴くのは、聞くではなくて、「聴く」なんだけど、それだと、なんか文章が不統一になるんだよ。聞くは聴くをかねるので、聞くで統一。

あーあ、全体感情ってあるよな。

防音対策のために音をかけているときは、実は走り回っているようなものか? 動いてないのに、つかれる。

幼稚園の子供はうるさいよ。いまも、複数の子が同時に奇声をあげて(たぶん、走り回っている)。きーーっていう叫び声は聞こえるけど、走っているのかとまっているのかわからない。

けど、この程度なら、いいんだよ。ヘビメタはこんなもんじゃない。

(一部まずい表現があるので『小説』ということにしなければならなくなった)

どうしても、つきあえなかった

昨日は太鼓が鳴らなかった。今日も鳴らなければいいな。
晴れ~~。
西の空は、灰色の雲と青空がだいたいはんはん。そして、朝日があたって灰色の雲がちょっとオレンジ色にかがやいている。白い雲にオレンジの光もよいが、灰色の雲にオレンジの光もいい。

ほんとうに気違い兄貴の騒音が、幼稚園の普段の騒音ぐらいだったらそれでよかったのにな。フォークギターの三年間は、文句を言ってないだろ。どうして、爆音でエレキギターなんだよ。兄貴の友達が言ってただろ。『こんなでかい音で鳴らしたことがない』って。でかい音なんだよ。けど、気違い兄貴は、きちがい親父の魔法にかかっていて、自分が鳴らしたければ……自分がでかい音で鳴らしたければ、そのでかい音で鳴らして、そのでかい音は、でかい音じゃないと本気で思って言い張るという状態だった。これ、おかしいんだよな。兄貴にしたって、「よそ」に行けば、鳴らせないわけだから。兄貴の、耳が難聴だったというわけではないんだよ。もっとも、兄貴はいわゆるヘビメタ難聴になるわけだけどさ。ヘビメタ難聴というのは、ヘビメタの音をでかい音で聴きすぎて、聴力が落ちるという難聴だ。もっとも、あれは治るのか? まあ、ともかく、やり始めたときは、普通の聴力だったんだよ。

ほんとうに、だれも、ヘビメタ騒音が前の日、午後一一時一〇分まで続いたときの、次の日の朝七時四五分を経験してない。三ヶ月ならそれで終わったけど、一〇年以上毎日続くと、それで終わりということはない。三ヶ月なら、後遺症が残らない。三ヶ月なら……三ヶ月できっぱりと終わってくれれば……

この世の雰囲気が、すでに気違いヘビメタ騒音に汚染された雰囲気で、……なんて言うのかな? きれい事の助言が、全部、よそよそしく思える。それは、俺がかつてこころみて失敗したことなんだよ。ヘビメタ騒音のなかで。ヘビメタ騒音の連続。毎日毎日、ずっと鳴っている……これが、こたえる。『連続』がこたえるんだよ。他の人は『連続』のことをあまり重視しない。四時間ぐらいの騒音について言っているようにしか思えない。せいぜい三ヶ月間鳴っている騒音に対して、「こう思う」ということを言っているにすぎない。連続がきつい。連続のきつさがわかってない。体感してない。体験してない。なので、『連続のくるしさがわかってない人』が、一般的には正しいことを言っても、こころにはひびかない。

『大きな声で挨拶運動』(未公開)のところでも書いたけど、どんだけ「うげっ」って気持ちになると思っているんだよ。「ヘビメタ騒音で、それどころじゃないんだ」「昨日も一昨日も、その前も、そのずっと前も、ヘビメタ騒音にやられてくるしいんだ」「そんな元気ない」「昨日もやられて、どれだけくるしい状態を我慢して、学校にきていると思っているんだ」と言いたくなる。

ヘビメタ騒音で体力を削られて、昨日も二時間しかねてない……今日になってから二時間、三時間しか寝てないという状態で……どれだけしんどいからだを引きずって学校にきていると思っているんだよ。

「そんな、いやな顔をするな!」「いやな顔をしやがって!」「そんなに、いやなことかよ!!」「挨拶が大切だということは、認めるんだろ」「だったら、やれよ!!」

みんな、一日だけ、ちょっとの時間、うるさかった場合の話ししか想定してない。兄貴の意地で、兄貴のこだわりで、ヘビメタ騒音がずっと鳴ってしまうことに関しては、あまり考えない。「そんなのは言えばいい」「お兄さんに、相談すればいい」といこうとになる。もう、全部いやだ。それもセットで全部いやだ。

逆に考えると、ヘビメタ騒音さえ、毎日一四年間も続かなければ……鳴ると鳴ったら、かならず、一一時一〇分まで鳴っている状態が続かなければ……ぼくは、そういうものにつきあえた。「大きな声で挨拶運動」も、ある程度はつきあえた。ある程度というのは、とくに反対せずに、適当にやり過ごすことができたという意味。一般論、正論につきあえた。

気違いヘビメタ騒音の一〇年が、どういう一〇年だかわかってない。一四年だけど、最初の一〇年で、だめになっている。ヘビメタ騒音一一年目あたりまで、社会と関係があった。いろいろなつきあいがあった。けど、ヘビメタ騒音一二年目あたりから、切ってる。どうしても、だめだった。疲れがたまってダメだった。反応できない状態になっていた。けど、一二年目あたりから、三年ぐらいかけて、ひとりふたりの例外をのぞいて、社会の関係を切っている。どうしても、つきあえなかった。どうしても、ヘビメタ騒音でくるしい。ヘビメタ騒音歴一六年目はない。一四年と数ヶ月で終わったから。この、後ろのほうがわからないんだよ。まるまる荘にいたから。そして、ヘビメタ騒音がいやだから、帰らない日もあったから。夜、家に帰って、飯を食っている時間はヘビメタ騒音が、中学時代とおなじ音で鳴っている。鳴っていた。風呂に入っているときは、中学時代とおなじ音でヘビメタ騒音が鳴っていた。「風呂に入る時間は、静かにしろ!!!」と一〇〇回怒鳴り込んでも、絶対に、静かにしてくれない。それも、中学時代と同じだった。ヘビメタ騒音歴二年目と、ヘビメタ騒音歴一四年目の態度がおなじなのである。結婚して、よそのうちに行ったら、一発でやめてるんだよな。あれだけこだわって、一日に一〇分だろうが、臨機応変にやめてくれるということがなかったのに。「一〇分で、ご飯を食べるから、一〇分間、ヘビメタを鳴らすな!! ヘッドホンをして鳴らせ!!」と言っても、一〇分間、やめてくれるということが、絶対になかったんだよ。絶対にない。

2017年9月28日木曜日

「うち」にいるのに「よそモード」で行動するということはありえない

相当にやばい。やらなければならないことはあるのに、ぜんぜんやる気になれない。

そして、この異常な喉渇き。
水分補給しても、そんなにかわらないんだよな。

あ~~、けっきょくヘビメタ騒音障害が治る前に、なんだかわからない病気になっておしまいか? いや、そんなことはない。ぼくは治るとかたく信じているので、必ず治る。

しかし、家族が悪すぎるんだよな。親父だけならともかく、ヘビメタがはじまってしまっては、どうやったってむだだ。だめだ。どの道を通ってもだめだ。で、また、「むだだ」とか「だめだ」と言うと、「むだだと言うから、むだになる」「ダメだというからだめになる」というへんな理屈で、せめるやつも出てくる。

そいつは、ヘビメタ騒音を経験したわけじゃない。一〇〇〇日ヘビメタ騒音がつもったときのだるさを経験したわけじゃない。二〇〇〇日ヘビメタ騒音が毎日連続した場合の、二〇〇一日目の、「動けない」状態を経験したわけじゃない。三〇〇〇日ヘビメタ騒音が連続したときの、「朝のだるさ」を経験したことがない。……もう、いい。もう、そういうの、つかれたからいいよ。

ほんとうに、まずヘビメタ騒音が鳴りやむのが先。そして、そのヘビメタ騒音が鳴りやむ「時期」は一年以内じゃないとだめだ。それ以降はダメだ。鳴りやんでもだめだ。

けど、三年間か。最長で三年。それ以降は、ぴったり鳴りやんだとしてもだめだ。後遺症は残る。それにしても、三年目も、四年目も、まったくおなじ態度で鳴らして、一日に一分だってやめてくれなかったな。どれだけ、どれだけ、言っても、怒鳴り込んでも、ぜっーーったいにやめてくれなかった。

一分だって、ちゃんとやめてくれなかった。

気違い親父とおなじやり方で、やり通すんだよな。あれで、「ゆずってやったつもり」なのかよ。冗談は、顔だけにしろ。ふざけるな。気違い兄貴は、親父にやられたので、自分が親父にやられた分はわかってるんだよな。気違い兄貴よ、気違い兄貴は、俺に、(兄貴が親父にやられた分の)一〇〇〇〇〇倍の量、やっているよ。

兄貴は、親父のことを憎んでいるけど、その憎しみの度合いを一だとすると、俺は兄貴のことを一兆倍うらんでいるよ。兄貴が俺にやったことに対する俺のうらみは、一兆だ。ほんとうに、どれだけ言っても、やめてくれなかったな!!

やめてくれなかったということが、アカシックレコードに記録されているよ。本人は、「やめてやったつもり」「じゅうぶん譲歩してやったつもり」「ゆずってやったつもり」なんだからな。親父だってそうだろ。

親父が「ゆずってやらなかった」と思っているとでも思っているのか? 兄貴は! しくみがおなじなんだよ!! しくみが!!!
気違い兄貴が毎日鳴らすから、朝、くるしくなる。毎日毎日鳴らすから、毎日毎日、くるしくなる。

言われてやめることができる期間ずっと、一日に一分もやめてくれなかったということを、兄貴は記憶しておくべき。

そういうのも、「そんなんじゃない」と本人が思えば、それで、まったく、気にしない。そういうところも、親父にそっくりだよ。やり方が親父とまったくおなじ。

だから、こまっているんだろ。

親父だって毎日あれだけやっておいて……好き勝手に怒り狂っておいて……「そんなつもりがまったくない」んだからな。「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」って言っているよ。それを、第三者が聞いたら「そんなんじゃないのかもしれないな」と思うかもしれない。

けど、親父が「そんなんじゃない」と言って、第三者が「そんなの事実だとしたら、おかしいし、そうだったのでしょう」と言ったら、兄貴はどう思うんだよ?? 兄貴は、ヘビメタ騒音でそういうことをしている。第三者の前でどれだけ「そんなんじゃない」と言い続けた?

それで、第三者が「兄貴の言い分と俺の言い分のどっちがほんとうなのかわからないから、中立的な立場に立とう」と言ったら、俺がどういう気分になると思うんだよ。

「あの意地で、毎日、頑固にやったことなのにやったつもりがないのかよ? 嘘言うな!」と思うね。気違い兄貴は、きちがい親父の言い分が半分でも認められたら、どう思うんだよ。「ふざけんな」と思うだろ。「しらばっくれるな」と思うだろ。「一日中、居合わせれば、きちがい的な理由で怒り狂っていたのに、なんだ!!」「やってないとはなんだ!!」と思うだろ。気違い兄貴は、いまでも、俺にそういう思いをさせている。まったく反省してないから、そういうことが普通にできる。

やっているときは、そういう状態で、全部、ふつーーに、あたりまえのことして、やり通した。「時間を決めてゆずってやろう」なんて、まったく思わなかったんだよ。親父が「理由のないことで腹を立てるのはやめよう」とまったく思わなかったようにな!!

本人だけは、自分の気違い的な意地がわからないんだよな。そして、「うちにいるあいだは」自分の意地を通して、異常な行為をし続けたということがわかってない。よそのうちじゃ一分だってできないのに……。

親父も兄貴も、よそのうちじゃ、一分だってできないことを、ずっと、うちにいるあいだはやってたんだよ。「よそ」じゃ、自分が「うちでそうしている」ということですら、認めることができないような異常なことを、こだわりつくして、そして、なんとも思わないでやってたんだよ。

そりゃ、ちからまかせに、狂って、狂って、自分の意地を押し通す。

押し通したら、押し通したのに、本人は、あまりにもあたりまえすぎて、なんとも思ってない。一〇〇%できれば、まったくやってないと思うことができる状態だ。こういう異常な心理状態なんだよ。

けど、それは、日常のなかであたりまえのことなんだよ。つねにそうしていることなんだよ!! うちではつねにそうしてたんだよ。毎日毎日。一日二四時間中、うちにいる時間はつねにそうしてた。押し切っていた。「なんとも思わずに押し切ってきた」。

うちに、眠っている時間をぬかして八時間いたら、八時間、かならず、ぜんぶ、そういう状態で暮らしていた。「うち」にいるのに「よそモード」で行動するということはありえない。

「うち」にいるときに「よそのうちにいるときとおなじ認識が成り立つ」なんてこともありえない。「うち」にいる限り一分だってない。うちにいるのに、よそモードの認識が成り立つなんてことは、一分だってない。うちにいるときは、普通に、悪事を働いていた。普通に、迷惑行為を繰り返していた。

「相手が迷惑だと言ってきたから、やめてやろう」なんて思うことは、絶対ないんだよ。そんな状態じゃない。そんなよゆうはまったくない。『本人』が迷惑行為をやり始めて、『まわりの人(他の家族)』が「迷惑だからやめてくれ」『こまるからやめてくれ』と言って、『本人』が一分でもやめてくれるなんてことは、ありえないんだよ! うちでは!!

どうにもならないほどこまっている状態がわからない

雨が降っている。この雨なら、幼稚園の太鼓はないだろう。
この雨が午後一時ぐらいまで続けば、太鼓の練習はない。ただ、最近午後三時ぐらいに、太鼓だけの練習があるんだよな。幼稚園生がいないところで太鼓の練習だけ太鼓を鳴らす人がやっている。

三時もあるんだよな。けど、これは長くは続かない。あーあ、ヘビメタ騒音がこの程度の騒音だったらなぁ~~。あ~~あ。ほんとうに、他人から誤解を受けまくり。悪く言われまくり。説教されるポジションにどーしても、落ちていく。

みんな、ヘビメタ騒音が七時間続いたあとの、眠れない状態がわかってない。眠れないまま朝になって、通学するときの、激しい憂鬱がわかってない。毎日それが続いて、……つもってつもって、どうにもならないほどこまっている状態がわからない。


どれだけ俺が「根性、根性」でがんばってきたと思っているんだよ。普通の人なら、中学三年間だって無理なんだよ。あんな生活は無理だ。俺は普通の人よりも本当は生活体力があるから、もった。

けど、そのあと三年、四年続いて、限界がきた。限界がきたあとは、ぬけない。一五年後にヘビメタ騒音から解放されても、からだがだるい状態から解放されない。睡眠回路がこわれた状態から、解放されない。睡眠回路が治らない。

俺が「俺は普通の人よりも本当は生活体力があるから、もった」と言ったとしよう。その時「だったら、いいじゃない」なんて言うやつがいるんだよ。文脈がわかってない。三年間はもったけど、そのあとずっと続いたので、くるしいということを言っているんだよ。

あと、その「根性、根性」でがんばっているくるしい毎日は、穴ぼこだらけだ。トラブルだらけだ。(他の人から見ると、穴ぼこだらけなので、とてもがんばっているようには見えないのである。むしろ、さぼっているようにしか見えない。)

ほんとうに、「ハンダゴテの日」を毎日繰り返しているようなものだ。気違い兄貴よ、気違い兄貴は、ヘビメタ騒音で、自分がハンダゴテの日に感じたようなことを、俺に押しつけている。一日で、一〇〇回ハンダゴテトラブルだ。五〇〇〇日以上押しつけているんだからな。きちがい親父のように「まったく、そういうつもりがない」んだけどな。

けど、「やることはきまっている」ので、はねのけてやる。そのはねのけ方があまりにも「異常」なので他の人にはわからない。他の人からすれば「そんなのは、言えばいい」「ちゃんと言えばわかってくれる」「ちゃんと言わないから、まずいのではないか(つたわらないのではないか)」と思えるようなことなのである。

「うち」にいるときの親父の状態を知らないから!!
自分にとって、都合が悪いことを言われたときの親父の状態がわからないから!!!

そう思っているだけ。

普通なら、ヒトコト言えばわかることが通じない。

そして、どれだけ激しく言っても、どれだけわかりやすく言っても、通じない状態だったということが、また、わかってないのだ。言われたということは無視するし、無視したということも、無視する。兄貴もおなじだ。いや、むしろ親父よりもひどい。

これ、ほんとうに、不都合なことを言われた途端に発狂して、真っ赤な顔をしてやり続ける。で、そういう態度でやったことは、どれだけやっても「やったことになってない」みたいなのである。やりきれば、「そんなんじゃない」ってはじまる。兄貴はぜんぜんわかってないけど、親父とおなじ態度で、ヘビメタ騒音を押しつけている。

わかってないのは、親父とおなじ感覚で押しつけたからだろ。押しつけてないから、押しつけてないつもりでいるというわではないんだよ。むしろその逆、こだわりつくして、頑固にやり切ったから、「やったつもりがまったくない」「関わりがまったく生じなかったつもりでいる」だけ。

ともかく、世間の人の「ちゃんと言えばつたわるはず」という思い込みはまちがっている。まちがった前提で、ひとをせめるな。

けど、こういうことを言うと、受けないわけだよ。「なんだ、こんにゃろう」と思う人もいるわけ。

2017年9月27日水曜日

納得がいかないものは納得がいかない

ヘビメタ騒音がなかった場合の『俺のウキウキ生活』を考えると、ほんとうに虚しい気分になる。ヘビメタ騒音なしで、大学生活を送りたかった。ヘビメタ騒音なしで、高校生活を送りたかった。ヘビメタ騒音なしで中学生活を送りたかった。ヘビメタ騒音なしで小学六年生生活……初恋の日々……を送りたかった。

ほんとうに、どれだけちがうかわからない。

そういう小学生活、中学生活、高校生活、大学生活のうえに成り立つ、社会人生活は、これまた、まったくちがったものになっていただろうな。人間関係だって……。社会的地位だって……。収入だって……。収入によってもたらされる嫁さんとの生活だって……。

そんなことを言ってもしかたがないだろ。たしかに、しかたがない。けど、普通の人にはヘビメタ騒音生活がないというのもたしかなんだよ。似たような生活ですら、したことがない人が圧倒的多数だ。ヘビメタ騒音生活がなかったにもかかわらず、……小学生活、中学生活、高校生活、大学生活とヘビメタ騒音がまったくなかったにもかかわらず、小学生活、中学生活、高校生活、大学生活を楽しめなかった人にそんなことを言われても、むなしいだけだ。そりゃ、それぞれ、わりと短期間の「楽しめない」理由あったと思う。失恋、受験失敗、就職失敗、友達とのケンカ、一生障害が残るような事故ではない事故、十数年間も続く病気ではない病気などなど。

毎日、圧倒的な騒音を午後一一時一〇分までやられていたわけじゃないだろ。休みの日は、遅くても午前一〇時からずっとどでかい音でヘビメタが鳴ってたわけじゃないだろ。なんかちがうんだよね。毎日そういうことが続いたわけじゃないだろ。毎年そういうことが続いたわけじゃないだろ。なんかちがうんだね。

実際に、俺とおなじ目に遭ってないひとが……長期間、気違いヘビメタ騒音に午後一一時一〇分までさらされてないひとが、そんなことを言っても、なんか、納得がいかない部分が残る。

まあ、そういうふうに、「納得がいかない部分が残る」などと言ってしまうと、人間関係にひびが入るわけだけどな。それは、わかる。言われた方がおもしろくない気持ちになるというのもわかる。「俺だって、あれでつらかった」「俺だって、これでつらかった」と言いたくなる気持ちもわかる。けど、やっぱり、納得がいかないものは納得がいかない。

どれだけ、人間的にいやな人だなと思われても、「ヘビメタ騒音がなければ」と言いたくなる気持ちにはわかりがない。まあ、だから、ヘビメタ騒音はそういうところにもたたっているんだけどさ。他の人が言っていることもわかるけど、やっぱり、納得がいかない。俺は、実際にこの世であったこととして、ヘビメタ騒音のことを書く。そういうことだってあるわけだから……。この世には……。ないわけじゃない。しかも、俺にとっては、自分の人生に匹敵するぐらい、重要なことだ。

「そんなこと」というのは……「そんなこと(ヘビメタ騒音がなかったらということ)を言ってもしかたがないだろ」ということ……。

2017年9月26日火曜日

感情が死んでいた

ダイヤ君のことを考えていた。ヘビメタ騒音がなければ、あるいは、ヘビメタ騒音が一一年も続かなければ、ああいうことにはならなかったと思う。あの時も鳴ってたんだよ。家に帰ってご飯を食べるとき、ヘビメタがずっと鳴っていた。「ご飯を食べるときだけ、鳴らすな」とどれだけ言っても、気違い兄貴は普通に!!ちょ~どでかい音で鳴らしていた。爆音で鳴らしていた。よそじゃ一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしていた。それが、普通の状態だから……。これ、何回も言うけどさ。よそじゃ鳴らせないような、特別にでかい音で鳴らすのが、あたりまえだった。うちではあたりまえだった。

あれ、ほんとうにちがうんだよ。実際にあの時点で一一年毎日、土日も含めて鳴らされている人じゃないとわからない。どれだけいい人でも、どれだけ親しくしていても、そこがちがうと、いろいろなところでずれが生じる。いま、俺が言いたいのは、なんて言うのかな……いまもそうなんだけど、感情が死んでいたということだ。ほんとうに、楽しくないのである。感情が死んでいるのである。きちがいヘビメタ騒音が一一年年間、毎日鳴っていることで……毎日午後一一時一〇分まで鳴っていることの繰り返しで……感情が死んでいた。「バイクの免許を取ったんだよ。後ろにのせてやるから、いっしょに、どこか行こうぜ」「同人誌を作ろう。なにか書いてくれよ」と言われても、のれなかった。のれなかった。感情が死んでいた。まだ、ここで書いてないけど「元気に挨拶運動」とおなじ状態になる。「きつい」と思うようになる。それが、毎日一〇年なり、毎日一一年のヘビメタ騒音の効果だ。

「どうして自分で楽しくしない?」「感じ方の問題だよ」と人は言う。理論的にはそう思わないでもない。実際くるしいわけだから。……あっ、いま思ったことを、ちょっとだけ言っておこうかな……友情はスイッチを入れたり、切ったりすることができないものだった。……まあ、それはいい。話を進める。

「どうして自分で楽しくしない?」……それが、根本のところでこわれているから、こまっている。

「感じ方の問題だよ」……感じ方の問題とは言い切れない部分がかならずある。

押し通せれば、「(やったって)やってない」と思うことができる


そういえば、飯を炊いてない。炊かないとな。

なんかもう、全部いやだ。ヘビメタ騒音のことはだれもわからない。おなじことを経験したわけじゃないから、わからない。けど、軽く考える人たちは、失礼だと思う。俺に対して失礼だ。そういう、めんどうくさいしくみがあるんだよな。これも、ほかのひとにはわからない。毎日、気違い的な態度で、こっちの言い分を無視されて、午後一一時一〇分までやられてみろ。気違い兄貴が家にいるときは朝から、午後一一時一〇分まで、気違い兄貴がどこかに行ったときは、帰ってきてからずっと午後一一時一〇分まで、あの至近距離で、あの音のでかさで、鳴らされてみろ。気違い兄貴だって、よその家じゃ、一日も鳴らしてない。一日に一分だって鳴らしてない。気違い兄貴が「鳴らしていた音」がどれだけでかいか知っているんだよな。頭にくる。うちでは普通に鳴らしていた音が、よそではでかすぎて一分だって鳴らせない音だって、知っている。で、自分でその矛盾に気がついてない。これも、親父とおなじで、自分に不都合なことは、どれだけ何万回言われても、むすっとふくれるだけで、気がつかない。一切合切認めない。そういう性格だ。そういう性格だから、鳴らしたいときは、自分が鳴らしたい音で鳴らしてたんだろ。自分だって、やられてみれば、わかるのに。自分だって、あの態度で、一日に七時間鳴らされたら、どういう状態になるかわかるよ。気違い兄貴よ、気違い兄貴は、自分が親父にやられてくやしかったことを、俺に押しつけている。気違い兄貴よ。おまえのせいで、「毎日がハンダゴテ事件の日」「毎日が自転車事件の日なだよ。おまえ、あんだけ怒ってたのに、自分が「親父の態度で」ガンガン鳴らすのは平気なのな。自分がやりたいことをやる場合は、平気なんだよ。どれだけ言い訳したって、でかい音なのに、でかい音だということを、そもそも、認めない。たぶんだけど、気違い兄貴は、ほんとうにゆずってやったつもりで、一日に一〇分間ぐらい、普通のテレビの音でへびめたを鳴らしたつもりだ。一日に一三時間、こだわりきって、ヘビメタをでかい音で鳴らしても、一日に一〇分ぐらい、フォークギターぐらいの音でヘビメタを鳴らしたつもりしかしょうじない。で、これが、親父とおなじで変更不能なんだよ。どれだけ言われても、「やりたいあいだ」は認めない。でかい音で鳴らしたいあいだは、どれだけ言われても、気違い兄貴にとっては「普通の音」なのである。だから、実際にはゆずらない。一分だってゆずらない。気違い兄貴よ、気違い兄貴は、親父が「使えないハンダゴテだ」ということを、認めなかったように、自分のヘビメタがでかい音だと移行とを認めなかった。気違い兄貴よ。気違い兄貴は、親父が「ハンダゴテなんてどうでもいい。出してやった」と思っているように「ヘビメタ騒音なんてどうでもいい。静かにしてやった」と思って、絶対にこっちが困っているということを認めなかった。全部の時間、よそのうちでは一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らして、どれだけ「こまるからやめろ」と言われても、あてが困っているということ自体を認めない。完全に全部、頑固に押しつけながら認めない。自分が騒音を押しつけているということを認めない。きちがい親父が、気違い的な理論に基づいて、ハンダゴテを気違い兄貴に押しつけたということを、認めないように、兄貴は、でかい音ヘビメタ騒音を俺に押しつけたということを認めない。認めなかったら、どれだけ、こだわりつくしてやったって、押しつけたことになってないのである。頑固にやり切るけど、まったく関係がない人なのである。親父は(自分)が押しつけたハンダゴテのことで「学校で兄貴がこまった」「学校で兄貴が恥をかいた」ということが、親父には最後の最後までわからなかったけど、兄貴も(自分)押しつけたヘビメタ騒音で「学校で弟がこまった」「学校で弟が恥をかいた」ということが、最後の最後までわからないみたいだ。まるで精神異常者のように認めない。普通に言われれば、普通にわかることでも、どれだけはっきりと何万回言われても、わからない。わからないとなったらわからない。やりきるけど、完全に関係がない人のままでいる。そして、自分のなかでやってやりたいこと……をやってやったら、それでもう、やったことにしてしまうのである。で、そのやってやったことというのが相手にとって、破壊的な意味を持っているのである。これ、何千日繰り返したと思っているんだよ。自分がやることで、相手が困っていると言うことを認めない。認めなければ、どれだけ続けてやったって、相手は困っていることになってないのである。気違い兄貴の頭のなかではそうだ。で、普通日本語がわかればつたわることが、絶対に、何万回言っても、つたわらないんだよ。つたわってないと言うこともつたわらない。どれだけの意地でやっていると思っているんだよ。どれだけの「無視」でやっていると思っているんだよ。自分がやりたいから、自分がやりたいやり方で、やっているのに、やっているということを認めない。認めないとなったら、現実がどうであろうが認めないのである。認めたら、自分がやりたいようにやれなくなってしまうからな。でかい音で鳴らせなくなってしまう。だから、でかい音で鳴らしたいうちは、でかい音で鳴らしているということを絶対に認めないのである。そういうやかりただ。そういうやり方で、何年間も毎日通す。けど、気違い兄貴は、「一日もそんなことをしたつもりがない」ままなんだよ。「知らなかった」「そんなんじゃない」「なんだなんだ」だよ。頑固に、でかい音で、すべての可能な時間ヘビメタを鳴らしていたと言われたら「そ「そんなに鳴らしてない」「鳴らしてない」と言い出す。で、これも、言い出したら、認めないのである。何十年間でも、毎日認めない。あれだけこだわって、鳴らしたのに「そんなに鳴らしてない」とか頭がおかしいことを言う。本人は、まったく、悪いと思ってないんだよな。鳴らしているときは、そういうモードで、こだわりきって鳴らしたんだよ。こっちがどれだけ、言ったって!! 「こっちがどれだけ言ったって鳴らしてた」と言われると、今度は「そんなの知らなかった」と言い出す。「ゆずってくれなかった」と言われると、今度は「ゆずってやったゆずってやった」と言い出す。親父とおなじ。兄貴はほんとうに、親父のコピーだな。そういうわけのわからない態度で、頑固にやりやがったんだよ。うちではな!! よそじゃ一分だって鳴らせない音で、ずっと、鳴らしてた。ゆずってやった時間が、一日に一分もない。気違い兄貴のゆずってやった時間というのは、気違い兄貴が満足できるでかい音で鳴らしている時間だ。当時ゆずってやった音で、いま住んでいるところで鳴らせるのか? それがほんとうに問題がない普通の音なら、いま住んでいるところで鳴らせるはずだぞ。けど、「ゆずってやった音」ですら、いま住んでいるところでは、一分も鳴らせないんだよ。でかい音だから!!! 頭がおかしい。気違い兄貴は、ほんとうに感じ方ややり方が、親父そのものだから!! 本人は、気がついてないんだろな。これも親父のように、まったく気がついてない。気違い兄貴のヘビメタの態度というのは、きちがい親父の普段の「居間の態度」なんだよ。気違い的な意地でやりたいほうだいのことをやるけど、本人はまったくやっているつもりがない。頭がおかしいことで、興奮して怒り狂うけど、本人は、怒り狂ったつもりがない。全面的に自分がやりたいことをやり散らかしている。気違いモード大爆発で、わけがわからないことで怒る。意地になって怒る。自分意地を爆発的な怒りで押し通す。けど、どれだけやったって、「やったことになってない」のである。本人の頭のなかではそうだ。意地になってやったことなのに!! 意地になって、発狂してやったことなのに!! ぜんぜん知らないことなのである。ぜんぜん関係がないことなのである。ぜんぜん意地にならなかったことなのである。頭がおかしいから、そういうことが、普通に成立する。自分の意地に気がついてない。相手がどれだけやめろと言っても、やめてやらなかった……全部自分が好きなように、やり通した……これが現実なのに(本人が実際にやったことなのに)……本人は「まったくつもりがない」という状態ができあがる。「やった」と言われたら「そんなんじゃないそんなんじゃない」「やってないやってない」「なんだなんだ」とはじまる。怒り狂う。そして、自分が怒り狂ったら、「そんなのどうでもいいこと」になっている。これも、押し通せれば、「(やったって)やってない」と思うことができるということの変形型だ。やりきって爆発した途端に、「自分にはまったく関係がないこと」になっている。押し通せたからな!! 押し通せた「から」なんだよ。ここのところが、本人にはわからない。けど、これは、他の人たちにもわからないところだ。それこそ、うちで親父がどんな状態だったか、うちで兄貴がどんな状態だったかなんて、ほかのひとにはわからない。居間で、親父がどういう状態で怒り狂ってたかなんて、ほんとうに他の人にはわからないからな。二階の部屋で、気違い兄貴がどういう状態で、どれだけでかい音で、どれだけ音にこだわりつくしてヘビメタを鳴らしてたかなんて、他の人にはわからないからな。他の人にはわからない。だから、「言えばいい」とか「相談すればいい」とか気楽に言う。けど、それは、ちがうんだって。けど、「相談すればいい」と言った人は「そういう状態じゃないんです」と言われると普通に不愉快になるわけ。で、俺もその気持ちはわかる。けど、ちがう。

2017年9月24日日曜日

まわりの人に、いっぱい「ありがとう」と言ってください

感謝の言葉を述べるのは大切なことです。是非とも、感謝の言葉を述べてください。まわりの人に、いっぱい「ありがとう」と言ってください。ぼくはそれを否定しているわけではありません。

しかし、たとえば、「感謝の言葉を述べれば、すへでの問題は解決する」とか「感謝の言葉を述べることで、人間関係の問題はすべて解決する」とか「感謝の言葉を述べれば、家庭の問題はすべて解決する」とは考えていません。

例外があるからです。

たとえば、「感謝の言葉を述べれば、家庭の問題はすべて解決する」と言った場合、家庭の問題を抱えている人をせめることになる。「感謝の言葉を述べれば、家庭の問題は解決するのに、どうして、感謝の言葉を述べずに家庭の問題(家庭の人間関係の問題)を抱えたままにするのか」ということを言われると、特殊な家族(の構成員がいる人は)こまるわけです。

そもそも、「自分は感謝の言葉をまわりの人に述べる(述べたいので、述べる)」ということと「感謝の言葉を述べれば、家庭の問題はすべて解決する」ということは、ちがうことです。

感謝の言葉を述べたい人は、どんどん述べればいいんですよ。けど、それと、「感謝の言葉を述べないから、うまくいかないんだ」と決めつけることはちがうことです。「感謝の言葉を述べないから、うまくいかないんだ」とか「感謝の言葉を述べれば、うまくいくのに、感謝の言葉を述べないからうまくいかないんだ」とか「感謝の言葉を述べたのに、うまくいかないということはない。いかないとしたら、感謝の言葉がたりないのだ。あるいは、感謝の気持ちがたりないからそういうことになる」という言葉は、感謝の言葉ではなくて、むしろ「せめ」の言葉です。叱責です。

というわけで、最初から話がちがう。

家庭の人間関係(家族における人間関係)がうまくいかないのは、感謝の言葉を述べるかどうかだけで決まるわけではありません。

それこそ、どうして、「感謝の言葉で決まる」と決めつけてしまうのか? そういう勝手な決めつけで、人を責めるのはやめたほうがいいということを言いたいわけで、「まわりの人に感謝の言葉を述べるのはやめろ」と言いたいわけではありません。

さらに「まわりの人に感謝の言葉を述べても、まったくむだだ」とかそういうことは言ってないわけです。しかし、なんだか知らないけど、そういうことを言っているという誤解を受けることがあります。

なんか、勝手に誤解されている。

ちょっとだけ言っておくと、ぼくは「この世はポジティブなことで満ちている」なんて言ったことはありません。ぼくが言ったのは「この世はポジティブに感じろという意見・言論で満ちている」ということです。ぜんぜんちがう内容なので、ちがう内容だと言っておきます。

なんか、勝手に誤解されている。


この気分から抜け出さない限り

つまんなくなってきた。
この気分。

けっきょく、この気分から抜け出さない限り、おなじなんだろうな。

かりに今日の午前一〇から、ほぼ理想的な彼女と会うにしろ、どっしりと重たい気分だ。頭の横でヘビメタ騒音が鳴りそうだし。なんか、雰囲気がある。夜起きていて、午前一〇時というのはくるしい。じゃ、午前一一時なら大丈夫かというと、大丈夫じゃない。じゃ、午後二時なら大丈夫かというと、大丈夫じゃない。けっきょく、どの時間に外にでも、ヘビメタ騒音の雰囲気で、暗い。くるしい。あの時とおなじ気分なんだよな。トラウマはある。トラウマというと、非常にショックなことが短い時間のあいだに生じた場合を思い浮かべるけど、実は、長期間にわたる毎日繰り返しのトラウマというのもある。俺の場合、それだ。

2017年9月23日土曜日

けど言っておく!! 連れて行けるわけがないだろ!!!

今日は土曜日なので、幼稚園の太鼓はない。けど、となりのじいさんがへたくそなバイオリンを弾いている。まあ、ヘビメタ騒音とは比べものにならないほどしずかな音だからいいとする。

にしても、つらかった。ヘビメタで死にたかった。

これ、いまもかわらないんだよな。起きたとき、どうしてもあの感じが襲ってくる。きちがいヘビメタが鳴っている状態が襲ってくる。ほんとうに、入試の前俺がどれだけ『静かにしろ』と言ったと思っているんだよ。どれだけ、『話しあいのテーブルにつけ』と言ったと思っているんだよ。

一言も口を利かないで、ガン無視しで、二階にあがって、そのあとずっと、一分もゆずらないでヘビメタを鳴らし続けた。カオ君が『こんなで買い音で鳴らして大丈夫なの』と言った、でかい音で鳴らし続けた。気違い兄貴の反応は二種類ある。

けど、これは何回も書いているからいいか。

ほんとうに、きちがいヘビメタが受験シーズンもずっと鳴っていて、くるしい思いをした。どれだけ言っても、一日に一分だってやめて静かにしてくれなかった。受験シーズンだけ、午後四時から午後一一時まで静かにしてくれるということがなかった。気違い兄貴が、気に入った分だけ、静かにしてやる』という状態を死守した。

「自分が静かにしてやりたい分だけ静かにしてやる。それでいいだろ」という態度なのだ。気違い兄貴にはもともと、音に対するズレがある。どれだけでかい音で鳴らしていても「こんなのは、フォークギターぐらいの音だ」と思っている。

そして、自分が静かにしてやれば、たとえ、〇・一デシベルでも静かにしてやったら、それは、全部静かにしてやったのとおなじだ」と思っているところがある。

一〇〇台の電話器が鳴っていたとして、そのひとつに座布団をかけてやるとする。そうすると座布団を掛けた分だけしずかになる。けど、最低でも九九台分の音で鳴っている。座布団で、小さくなった分が〇・五台分だとすると、九九・五台分の音で鳴っていることになる。それだとこまる。けど、こっちがこまるということを認めない。

「それじゃ、ダメだからもっと静かにしてくれ」と言われると、「せっかく静かにしてやったのになんだ」という気持ちになる。

で、元の音に戻して、……言われなくても、五分ぐらいで元の音に戻すのだけど……元の音に戻して、そのあとは一分だって、静かにしない。〇・五台分だって、絶対に静かにしてやらないで鳴らす。で、気違い兄貴は『一日中静かにしてやった』と思っている状態なのである。

これは、実は、きちがい親父がやり始めたことで、親父のやり方なのである。こういう、意味がない譲歩をして、『譲歩してやったこと』にしてしまうというやり方だ。

こんなのは、強烈な嫌がらせ、または、強烈な意地悪?なんだけど、本人はまったくそんなつもりがない。むしろ、妄想なんだけど『自分は、(相手が言う通りに)やってやった』と思っている。

実は、幼い兄貴は、(親父にこういうことをされて)くやしい思いをしてたんだよ。これ、ものすごく恨みを買うやり方なんだけど、ごく自然にすべての迷惑行為でそうする。

こういう世界がわかってない。うちでは、気違いが意地を通して、頑固に迷惑行為をするのがあたりまえだった。「やったってやってない」があたりまえだった。どれだけ言われたって、まったく気にしないでやることがあたりまえだった。「何回も何回も強く、はっきりと言われたって、言われたつもりがない」ということがあたりまえだった。

他の人はこういう気違いの世界がわかってない。

本人はぜんぜん意地悪をしているつもりがないのだけど、本人が(他の人にやっていることは)全部意地悪なことになっているんだよ。けっきょく、すべて、自分の意地を通してやって……つまり、やりたいようにやって……ゆずってやったということにしてしまう。

ぜんぜんゆずってないのに、本人はものすごくゆずってやった気分になってしまうのである。こんなの、ほんとうに、まったくゆずらずに自分のやりたいことをしたという状態なのに、本人は、「すべてゆずってやった」「じゅうぶんにゆずってやった」と思っている状態なのである。

何度も言うけど、気違い的な意地でやることに関してはそうなる。自動的にそうなる。だから、ほんとうは、相手の意見を無視して頑固にやっているのに……頑固に迷惑行為をやっているのに、本人は、どれだけ注意されても、「まったくやってない」と思っている状態ができがある。

で、「うち」では、そうやって、一〇〇%思いを通して、あたりまえなのである。自分が好きなようにやれてあたりまえなのである。「うち」でゆずるということは、ありえない。

うちで『自分がぁぁぁ』『我慢してぇぇぇ』ゆずるということは、ありえないことなのである。だったら、自分は、どれだけ注意されても、やめてやらなかったと思えばいいのだけど、そういうふうに思ってない。思うことができない。

自分は「ゆずってやったつもり」なのである。これ、ほんとうに、精神異常なのである。で、構造として、つねにそういう反応が返ってくる。本人がやりたいことなら、どんな迷惑行為でも、うちでは一〇〇%やれて、あたりまえだ。

ほんとうの意味で、自分が一%でも、我慢させられるとなったら、発狂して発狂して発狂して、とまらないことになる。発狂して、意地を通そうとする。絶対に自分がやりたくないことはしない。つまり、ゆずりたくないので、ほんとうの意味でゆずるということは、絶対の意地で阻止する。絶対に、意地でもやってやらないという態度で、やり続ける。

で、どんな些細なことでも、やられている方が、一%でも、自分の思いを通そうとしたら、殺し合いになるしかないのである。殺さなければ、絶対の意地で一%もゆずらずに、やりきる。

だから、やられているほうが、やられっぱなしになっていれば、それで、気違いが意地を通す状態が成立して、それが、『普通の状態』になる。

いつもそう。うちでは、いつもそうだったんだよ。

で、本人の性格が変わらないので、うちにいるときは、いつもそうしていた。そうでないモードの時間というのは、うちでは〇秒だ。きちがい親父はずっとそういうことを、やってきた。そういうことを押しつけてきた。そして、そういうことを押しつけたきたということを、一〇〇%認識してない。

これが、うちの普通の状態。うちでは、親父が昔からそういう状態だった。で、さんざんやられ続けた気違い兄貴が一五歳になって、親父のまねをした。そっくりそのまま、親父のまねをしてヘビメタを鳴らし出した。

「今度は自分の番だ」ということなのだろう。ヘビメタに関しては、絶対にゆずらないつもりでやり出したんだよ。で、絶対にゆずらなかった。

一日に一分だってゆずらなかった。そして、それが「あたりまえ」だった。まったく悪いことをしているつもりがない。どれだけやっても「やったつもり」がしょうじない。どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているという現実を頑固に無視する。でかい音で鳴らしているつもりがない。

「午後八時から、午後一一時一一分までは、鳴らさないで静かにしてくれ」と言われても、そういうことを実行した日が一日もない。気違い兄貴が午後八時から、午後一一時一一分まで静かにしてくれた日というのが、一年を通して、一日もない状態だ。

そういう意地で鳴らしている。

けど、そういうことが、他の人にはわからない。他の人にそういうふうに説明しても「そんなひといるかな」「ちゃんと言えばわかってくれるよ」みたいな話になってしまうのである。

特に、『教師をやっているやつ』はそうだ。むしろ、友達のほうがそういうことは、ちゃんと理解してくれた。まあ、理解しないやつと、理解してくれるひとがいるんだけど。気違い兄貴の状態について、つまり、気違い兄貴の意地について、ヒトコト言って、理解する人と理解しない人の差が、激しすぎる。

「だから!!! 兄貴は静かにしてくれなと言っているでしょ」と言っても、「それは、まあ、家族で話し合って決めてください」みたいなテンションだったよ。(気違い兄貴の意地がわかってない人は)たいした問題じゃないと思っている。

ほんとうに、こっちは、死ぬか生きるかの問題なのに。ぼくの人生すべてがかかった問題なのに。ひとりの学習障害の子に、どうやって、ひとつの問題を解かせるかということよりも、ずっとずっとずっと重要なことだ。

   *   *   *


ある養護学校の先生は、養護学校の生徒が「これはまずいな」ということをすることがあるということを言っていた。その養護学校の先生は、普通の人は(養護学校の)生徒がどんな状態かわかってないということを言っていた。

けど、その人だって、きちがい親父がうちでどんな状態か、わかってない。言っておくけど、きちがい親父が若いときの状態な。子供が小さかったころ、きちがい親父がどんな態度で子供に接していたかわかってない。うちでの!!!きちがい親父の状態がわかってない。

わけのわからないことで、怒り狂っている状態がわかってない。ほんとうに「ひっちゃかめっちゃか」なんだからな。家の大黒柱がそういう状態だと、どんな状態になるか、ぜんぜんわかってない。

きちがい兄貴のうちでの状態もわかってない。どんな意地で鳴らしていたかわかってない。「鳴らすな」と言われたとき、どういう状態でエレキギターにしがみついて、鳴らしていたかわかってない。「やめろ」と言われたら、どんな態度でヘビメタを鳴らすかわかってない。そりゃ、うちの人以外にはわからない。気違い兄貴のうちでの態度というのは、他の人には理解しがたい態度だ。

これ、もうひとつ言っておくと……言いたくないけど言っておくと……たとえば、「親父さんがほんとうにそういう状態なら、どうして、親父さんを精神病院に連れていかなかったんだ?」ということを言うひとがいた。

けど言っておく!! 連れて行けるわけがないだろ!!!

俺はその時、子供だったんだ。だれが精神科の金を払うと思っているんだよ?? 母親が外交的で、外に助けを求めようとする人じゃない無理なんだよ。

で、あの頃は!!まだ、ドメスティックバイオレンスだって認められてなかった状態なんだぞ。「いえの問題はいえで解決してください」と言われる状態だった。たとえば、市の相談所に行ったって、たぶんだけど、そう言われておしまいだろう。

それから、たとえば、ハンダゴテ事件だって、そりゃ、やられれば、こころをかきむしられた状態になるけど、暴力があったわけじゃない。暴力は、実は、俺に二回、兄貴にも二回ぐらいあった。

けど、それは、なんて言うのかな、相手が引き下がらなかった場合だ。

で、きちがい親父の場合、暴力だけは、反省するんだよ。自転車事件の時は、親父が兄貴の顔をびんたして、兄貴の口の中がちょっと切れてんだよ。俺も、実は、幼稚園のときに、なぐられている。けど、なぐるという行為自体は、ほんとうにすくない。それから、きちがい親父の場合、朝から晩まで、強烈にまじめに働いていた。無職で、昼間から酒を飲んで暴れているというようなわかりやすい人じゃないんだよ。

これ、もし、母親が外向的な人で、市の相談所に相談に行ったとしても、なんの解決にもならないと思う。「ゆずらないで一〇〇%頑固にやり切るけど、一〇〇%ゆずってやったと思ってしまうような性格(認知のズレ)」だって、やられた方にしてみれば、問題だけど、危機介入してくれるのかよ? ということを考えると危機介入はしてくれないと考えるべきだろう

「カミナリ親父はどこにでもいる」などと言われておしまいだと思う。まあ、時代が時代なんだよ。今の時代の基準で考えるのがまちがっている。今の時代の基準で考えて、「どうしてお父さんを精神病院に連れて行かなかったんだ。そんなの、精神病院に連れて行くレベルだぞ」などと言われても、こまる。

父親を精神病院に連れて行くことができなかった、俺の責任を問うのか??




2017年9月22日金曜日

言葉(言霊)よりも体験が重要  『元気だ元気だ』と言えば、元気になる について

たとえば、騒音で体がしんどい人がいたとするだろ。

で、騒音が毎日毎日、午後一一時一〇分まで、続いたとするだろ。で、その人が、「しんどいしんどい」と言ったとするだろ。けど、その人は、ポジティブ思考にこっていて「『しんどいしんどい』と言うから『しんどく』感じるんだ。『元気だ元気だ』と言えば、元気になる」と思ったとするだろ。

けど、ほんとうはしんどかったとするだろ。言葉で「元気だ元気だ」と言っているのに、体感的にはしんどくてつらい。そういう状態が、毎日、一五年間続いたとするだろ。

一五年間、気違い的な、けたたましい騒音が鳴っているから、一五年間毎日、「元気だ元気だ」と言っているにもかかわらず「しんどかった」とするだろ。

その場合、やはり、しんどいんじゃないかと思う。言ったって、しんどい状態を一五年間毎日続けて、人間がたえられると思う?

まあ、一六年目に、あまりにもしんどいので「しんどいしんどい」と言ったする。いや、自分のブログに書いたとする。一年間、毎日書いたとする。そうしたら、一七年目に「しんどいしんどいと言うからしんどく感じるんだ。元気だ元気だと言えば、元気になる」というコメントをもらったとする。

コメントを書いた人にしてみれば、このブログの運営者(書いている人)は、一年間も「しんどいしんどい」と言い続けているネガティブな人なんだよ。けど、その人(運営者)は、一五年間も「元気だ元気だ」と言い続けた人なんだよ。こういうことが発生した場合、あなたは、どう思う?

ぼくが、「たてまえ」とか「体感」とか「現実」と言っているのはこういうことなんだ。どれだけ、「元気だ元気だ」と言ってみても、やはり、体感的にしんどかったら、しんどい。

「元気だ元気だ」と言うことで、しんどい現実がかわらない……こういうとき、どうする?

コメント主は「こいつは、『しんどいしんどい』とネガティブなことばかり書きやがって」と思っているわけだよ。けど、ブログ主は実は一五年間もコメント主が言っていることを『実践』した人だったわけだ。

「元気だ元気だ」と言っても、しんどいままだった現実はどうなる? 一五年間の体験はどうなる? 一五年間の体感はどうなる。身体感覚は、「元気だ元気だと言えば、元気になる」という命題を裏切り続けている。逆に言えば「元気だ元気だと言えば、元気になる」という理論は、その人の身体感覚(体感)を裏切り続けている。

だから??なに???

だから、ブログ主はコメント主の意見に合わせて一七年目から、「元気だ元気だ」と言い続けるべきなのかどうかだ? コメント主は一年間しか見てないから「ブログ主はしんどいしんどいとネガティブなことばかり言っているからしんどいままなんだ」と思っているかもしれない。いや、そう確信するだろう。けど、それは、事実ではない。

こういう問題があるんだよ。

まあ、「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言う人は、「元気だ元気だ」と言って実際に元気になった人が多い。ジョセフ・マーフィーも中村天風も「元気だ元気だ」と言って、あるいはそれに類似した言葉を言って、病気が治ったことがある人なんだよ。だから、彼らにとっては「元気だ元気だと言えば、病気が治る」ということは真実なんだよ。言葉ではなくて、イメージ療法でもいいわけだけど、ともかく、「思い」によって病気が治ったということを経験している。

だから??なに???

だから、体験が重要なんじゃないかなと思う。違う体験をした場合、違う結論に至るんじゃないかなと思う。こういうことに関しては、特に!!!!そういうことが成り立つんじゃないかな。

本人の体感が「元気だ元気だと言えば、元気になる」という理論を裏切っているのか、裏切ってないなのか、それが重要だ。

2017年9月21日木曜日

この、行き止まり感はない。

どうやら、ほんとうに鳴りやんだみたいだ。
けど、ぼくは、ヘビメタ騒音のことで、いっぱいだ。
(幼稚園の騒音じゃなくて、ヘビメタ騒音のことでいっぱいだ)。

昨日の夜からいろいろなことを考えている。
ほんとうに、くるしい。
まだ、三〇代の頃のほうが、ましだったんだなと思う。
この、行き止まり感はない。

もう、ほんとうに気違いヘビメタ騒音が、すべてにたたった。
あんなのやられたら、どうやっても、だめなんだよ。


「な・ん・と・も・お・も・っ・て・な・い・だ・け」

いきていくのだけでけっこうたいへん。
いろいろな記憶が俺を襲う。いろいろな気分が俺を襲う。
ともかく、つらい。何十年も前から、ずっとずっとずっとずっと、ひとつのことでくるしい。そのひとつのことが、他のことに影響を与え続ける。モーレツにくるしい。

気違い兄貴、おまえ!ほんとうに!!!!



あれだけしつこく、毎日毎日、午後一一時一〇分までの時間、すべて鳴らし続けて、あたかもまったく鳴らしてないのとおなじ気分、おなじ気持ちなのかよ。きちがい親父のように、自分がやったことを無視する。「やってないやってない」という気持ちで、頑固にやり続ける。一秒だって、ゆずらないことに、命がかかっている状態だ。ゆずるわけがないだろ。それじゃ、一日に一時間、午後四時から、午後五時までは、鳴らさないでしずかにするという約束をしたことがあるか? 入学試験前ですら、一時間だって、静かにしてくれなかった。それが事実だ。なんで、気違い兄貴は『静かにしてやった』と思っているんだよ? 時間を決めて静かにしてくれたことなんてないだろ。鳴らしているのに、中断して、静かにしてれたことなんて、一日もないだろ。一四年間と数ヶ月間で、一日もないんだぞ。中断して一〇分静かにしてくれたことが、一日もないんだぞ。例外なく、頑固に、すべての可能な時間、どでかい音で鳴らしていた。だから鳴らしているのに、気違いだから……きちがい親父とおなじ脳みそを持っているから……脳みその構造だから……きちがい親父とおなじ感覚だから……おなじように無視してなんと思わない性格だから……なにもしたつもりがないわけだろ。そういうのが、どれだけ腹が立つか、気違い兄貴は身をもって知っているよな。自分が、きちがい親父に一〇分でもそういうことをやられたら、一日中腹が立っていたくせに。気違い兄貴は、横で、気違い兄貴の嫌いな音を、一日中、鳴らされることを経験したほうがいいよ。そして、その嫌いな音を鳴らすやつは、きちがい親父とおなじタイプだ。感じ方がおなじ、態度がおなじ……。きちがい親父とおなじ態度で、そいつがこだわるへんな音を、爆音で鳴らし続けるやつが、横の部屋に住んでいたら、どう思うんだよ? きちがい親父のように「な・ん・と・も・お・も・っ・て・な・い・だ・け」なんだよ。やったのに、「な・ん・と・も・お・も・っ・て・な・い・だ・け」だけなんだよ。

あれだけ意地になって、すべての時間、毎日毎日やり続けたことなのに、「そんなにやってない」とか「やってない」とか、親父をこえて、頭がおかしい。どれだけしらばっくれれば気が済むんだ。で、まさしく、それが、鳴らしている最中の態度なんだよ。

あんときの、あれはない。あんときの、あれはない。あんときの、あれはない。

2017年9月20日水曜日

風邪をひいて、熱が出てくるしい状態で動いている

空想のなかで自分を励ましてみたが、現実にもどるとやはり、つらい。めんどうだ。なにかやるのがめんどうなんだよね。

俺がヘビメタ騒音にやられてない状態で二十歳だったらな。まあ、ヘビメタ騒音にやられていなければいくつでもいいや。

ヘビメタ騒音にやられたあとはすべてがめんどい。このめんどさ。わかる?

今日も、これで終われば、幼稚園の騒音をしのいだと言える。もちろん、子供は騒いでいるけど、太鼓が終わればそれでいい。

ほんとうに、ききききぎーーーってものすごい声でさわいでる子供がいる。けど、このくらいの距離があれば大丈夫だ。問題は至近距離のヘビメタ。そして、ヘビメタにやられてしまったぼくの人生。


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やっぱり、ヘビメタ騒音のことは出さないで、ポジティブな仮面をかぶり、仮面ポジダーになってやるしかないか。

集客ブログを作るにはああしたらいい、こうしたらいいというのは、わかる。まあ、ブログではないな。普通のサイト。セルフブランディングはこうしたらいいああしたらいい……。わかる。顔出し動画はこうつくればいい、ああつくればいい……わかる。

けど、つかれた。
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とりあえず、ご飯を食べたんだけどつかれた。
なんかほんとうに、ヘビメタ騒音前の体力の一五%ぐらいでやっているような感じなんだよ。普通の人だと、風邪をひいて、熱が出てくるしい状態で動いている……ようなものだ。

つかれた、つかれたと言ってもしかたがないのはわかる。けど、嘘は言えない。嘘は言えない。信じてないことを、信じているように言うことはできない。認知療法的な思考、アドラー心理学的な思考、行動心理学的な思考、表面的なスピリチュアリズム、やはり、こういうのはおかしい。おかしいところがある。俺は信じてない。

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やばい。幼稚園の太鼓がまたはじまった。

ネガティブが必要なときもある

ネガティブを叩いている人たちは、ネガティブな発言をしているのとちがうの?

ネガティブの悪口を言うのは、ネガティブの悪口を言っているように聞こえる。ネガティブを悪く言うのは、ネガティブを悪く言っているのとちがうの? 悪く言うのは、ポジティブなことなの?

ネガティブな人を悪く言う人は、ネガティブな発言をしている。

すべてを受けとめ方の問題に還元できるかというと、還元できないと思う。人間は生き物だから、生き物として特性がある。生き物の特性に逆らったことは無理だ。活動することをポジティブ、休むことをネガティブだとしよう。

その場合、休むことを無視して動き続けるということはできない。睡眠だって、活動することをポジティブだと考えればネガティブだということになる。まあ、これは、受けとめ方の問題とは話が違うけどな。

認知が現実を裏切っている場合は、だめなんだと思う。無理やり思い込もうとしても、ほんとうは、認知が現実を裏切っていることを知っている場合は、無意識的な現実認知のほうが、生き残るので、ポジティブな思い込みは、意味をなさない。当初、目的とされた効果を与えない。

人間が生物として感じてしまっていることがあるわけだから、それを意図的にポジティブに捉えようとしても無駄だ。もちろん、そういうふうな時期もないわけではない。そういうストレスに人間は耐えられる。けど、それは、時間の問題でダメになる。

たとえば、室温四二度の部屋にいるとする。クーラーをつけようと思えばつけられるとする。けど、「涼しいと思えば涼しい」ということにこだわってクーラーを付けなかったとする。「ものは思いよう」「くるしいと感じるからくるしい」「現象は中立的だ。くるしいという意味付けをするのは、くるしいという意味付けをする個人だ。四二度だという物理的な条件は、中立的に存在する。それをくるしいと感じるか、快適だと感じるかは個人の受けとめ方の問題だ。だから、快適だと感じれば、快適なんだ」と、言い張って、クーラーのスイッチを入れない。

で、熱中症で死んじゃったとする。ある程度までは、ストレスに対応できるけど、その対応をこえて、ストスレ状態が続いてしまうと、最悪の場合は死ぬ。なので、死ぬということを避けるためには、「このまま、暑い部屋にいると死ぬのではないか」というようなネガティブなことを考える必要なのではないか。

ちなみに、言霊にこだわるなら「このまま、暑い部屋にいると死ぬ」ということは、言ってはならない。本当に死んでしまう。けど、ストレスが生物の限界をこえてかかり続ける状態なら、やはり、そういうネガティブなことを考えて、そのストスレから逃げたほうが良いということが言える。

けど、精神異常者によるヘビメタ騒音のストレスからはどうやっても逃げることができなかった。これが、僕の「ネガティブ」な発言の根本にある。ヘビメタ騒音に関しては、ぼくという生物的な個体においては、暑さよりも、こたえる物理的な刺激なのである。手短に言うと、受けとめ方ではかわることがない「まずいストレス」なのである。

   *   *   *



2017年9月19日火曜日

無職歴が長いと無職歴が、ひとづきあいの足かせになる

起きてシャワーを浴びた。
ご飯は食べてない。
あとで食べる。

あ~~。

眠れないかと思ったけど、眠れた。よかった。
けど、起きてもヘビメタ騒音以降の時間があるだけだ。
ほんとうに出会いや、つきあいの維持でどれだけヘビメタ騒音が……毎日午後一一時一〇分まで鳴るヘビメタ騒音が足かせになったか。どれだけ、気違い兄貴が俺の「つきあい」を邪魔しているか。

長い間無職を続けていると、「長い間無職だ」ということ自体がつきあいのさまたげになる。ほんとう、あっちがぼくにアプローチをしてきてくれたとしても、ぼやかしてある経歴が明らかになるのがいやだから、「つきあわない」みたいなことが、何回あったか。そりゃ、つきあえば、いろいろ出てくるだろ。「どういうひとなのか」「なにをしてきた人なのか」「どういうひとなのか」ということが!!! そして、ぼくにはそれがないのである。ヘビメタ騒音でズタボロになったそれしかない。つきあいというのは、なにも女性とのつきあいに限ったことじゃない。男でもおなじだ。男の場合、学生なら学生、学生以外なら、「どういう仕事をしているか」ということを言いたがる。というか、言うだろ。で、「仕事の話しがいやだから」適当に話をあわせて、自分は仕事の話をしないようにしたいわけだけど、相手が仕事のことを言ったら、いちおう、自分も仕事のことを言わなければならないような雰囲気がある。あっちだけ、自分の仕事について語って、こっちがうなずくだけだと、不自然なんだよ。相手が仕事の話し……自分の経歴のようなものを話したら……うなずくだけではだめで、こっちもそれに対応したような自分の経歴を話さなければならないような状態になる。で、ここで、経歴を話さないで、まあ、話しをかえると、相手は、なんかはぐらされたような感じがするみたいなんだよ。なかには、「自分の仕事の話しを聞いて、自分をこバカにしたから、話を打ち切ったんだ」と思うやつまで出てくる。別に仕事をバカにしたりしてないのだけど、(自分が仕事の話をしたのに)相手が仕事の話しをしてこないとなると、なんか、バカにされたと思う人たちがいるんだよ。「せっかく、自己開示したのに、なんだ」というような感想を持つ人たちが、一定数いる。自分が自己開示した分は、相手も自己開示してくれると思っているのだ。普通、そうなんだろう。けど、自分が自己開示をしたけど、相手は自己開示をしてくれなかった。「(こいつは)職業についてかくした」「(こいつは)話しをそらした」「(こいつは)話を打ち切った」と思うと、当然、「おもしろくない」。この、第一印象の「おもしろくない」「なんだこいつ」という気持ちが、続くらしい。だいたい、そのあとも、仕事の話しはしないわけだから。仕事の話しというか「経歴」だね。で、馬鹿にされたと思いがちな人は、仕事に関係した相手が食いつくような経歴を持っている。普通は、関心を示さなければならないのだけど、俺は自分の無職に話しが及ぶのがいやだから、話を打ち切った。けど、その態度が、まるで自分を馬鹿にしているような態度だと感じたんだろう。それは、ちょっといきさつがあるんだけど、詳しくは話せない。その仕事の話しの前にちょっといきさつがある。これは、ちょっと言えない。男の場合、英会話学校に行っても、なんかの集まりに行っても、どこに行っても、仕事の話しというのは、まとわりつく。出てくる。それをしないというのは、不自然なことなんだよ。ときどき俺は、人間として(男の人にも)興味を持たれるんだけど……簡単に言うと「無職」がたたる。これ、ヘビメタ騒音がなくて、俺が普通に働いていたら、いいつきあいになったと思うんだよ。けど、そういう場合でもあんまりうまくいかない。無職の経歴が長すぎると、どうやって答えていいのかわからないことには、なるべく触れないような態度になる。で、その態度が、要するに、「仕事社会?」の日本では、へんなふーーに思われる。肩書きとか経歴は、相手との関係を決めるのに重要な役割しているのである。で、普通は、自分が自己開示した分は、相手も自己開示してくれないと、不満を感じる……みたいだ。だから、ぼくの態度は不自然なんだよ。その人たちからみると……。じゃ、働けばいいじゃないか」と思うかもしれないけど、ヘビメタ騒音「で」できない。ヘビメタ騒音障害でどうしても働くことができない。この働くというのは、普通に働くということだ。ヘビメタ騒音障害ですべての道を断たれた。高級な仕事も低級な仕事も、中ぐらいの仕事も、全部、できない。で、「ヘビメタ騒音障害」と言ったけど、当然「そんなものは認めない」というスタンスの人もいる。こいつらは、自分が!!!毎日毎日、一一歳から二五歳まで、かならず、どでかい音で夜の一一時一〇分まで、ヘビメタ騒音にさらされるという経験をしてない。だから、ヘビメタ騒音障害が、どれだけの障害かわかってない。で、こういう人たちにヘビメタ騒音障害がどれだけの障害か説明しても、わかってくれない場合が、多い。これ、わかってくれる人はわかってくれるのだけど、わかってくれない人は、徹底的にわからない。そもそも、ひとづきあいのはじめにそういうことを説明しなければならないということ自体が、不幸なことなんだよ。むなしいことなんだよ。「どうして、俺がこんなことをしなきゃいけないんだ」と思うようなことなんだよ。

一一歳から二五歳までと書いたけど、うしろの四年間は、それほどでもない。けど、ぼくは最初の七年間ですべてを失っている。普通に働ける体力なんてない。普通に通勤できる体力なんて、ない。ほんとうにヘビメタ騒音が、どれだけ「やめろ」と怒鳴り込んでも、ずっと夜の一一時一〇分まで、続く毎日が、どういう毎日だと思っているんだよ。無理なんだよ。全部無理。これも、体験してない人が「無理だと言うから無理なんだ」とか言う。おなじことを経験してないのだから、不公平だ。

2017年9月18日月曜日

レッサーパンダ帽男殺人事件5 ●近代国家と仇討ちの権利 強者と弱者の理論

現代の被害者には仇討ちの権利や決闘する権利がない。刑事事件なら警察が調べて検察が訴えるということになる。だから、容疑者(個人)と検察(国家)という対立構造ができあがる。これが、案外、被害者遺族を、いらだたせているのではないだろうか。

人権派は、国家を目の敵にして個人を守ろうとする。しかし、その個人というのは、この場合容疑者だから、罪が確定する前の加害者である場合が多い。この事件の場合、知的障害者が加害者であるような事件だから、佐藤さんみたいなひとが知的障害者側に立とうとする。中立だと言っているけど、私には加害者側に立っているように見える。

たぶん、加害者は自閉症者ではない。加害者は反社会的な性格の知的障害者だと思う。障害者というのは、言ってみれば、弱者の立場に立つ。障害者は守られなければならないのである。

しかし、この加害者とこの被害者の場合は、道路の上で立ち向かう以上、加害者が強者で、被害者が弱者だ。加害者は身長一八〇センチぐらいの大男で、包丁という武器を持っている。

一方、被害者の方は、身長はわからないけど、アニメ声?のわかい女性だ。こんなもの、どうみたって、力の差が明らかだろう。道路の上では、加害者が「強者」、被害者が「弱者」。法定では、いちおう被告が弱者で、検察側(国家)が強者なのだろう。検察は被害者にかわって、加害者(容疑者)を訴えることになっている。

しかし、検察は被害者ではない。加害者には、弁護士(弁護団)と人権保護団体が味方につく。さらに、知的障害者の犯罪ともなれば、知的障害者に特別な思い入れがある人も加害者側につく。この事件の被害者はすでになくなっているので、加害者が殺した時点で、復讐の権利・イーブンなことをする権利は永遠に剥奪されてしまったわけだ。仇討ちの権利があるのであれば、被害者遺族は、仇討ちをする権利があるということになる。

しかし、近代国家は、被害者遺族から、仇討ちの権利を剥奪してしまった。なので、こういう社会に住んでいるということが、被害者遺族にとっては、もどかしい感じがするのではないかだろうか。

路上 加害者・強者 被害者・弱者
法廷 加害者・守られた強者 国(検察)・強者 被害者・無視された弱者
障害者かどうか 加害者(障害者なので弱者) 被害者(健常者なので強者)


路上と法廷で加害者は強者だ。法廷では加害者の人権は守られる。そういう配慮がなされる。一方、被害者の遺族は、裁判を見守るということしかできない。

ともかく、路上で加害者のほうが強者なのだからどうにもならない。強者なんだけど、障害者という「弱者」属性を持っていた。だからこそ、被害者のほうの人権は、無視されるような状態になる。これは、おかしい。

「刑期を長くしても反省するとは限らない(だから、刑期を長くする必要はない)」などと言う人まで出てきてしまうしまつだ。この人は路上強者の人権しか考えてない。路上弱者の人権はどうなるのか??

「弱者」属性を持っている人の人権ばかりが尊重されて、「弱者」属性を持っている人に殺された人の人権は無視されている。また、反省してないのだから、再犯する可能性は高いので、その点でも将来の『路上弱者』の人権が無視されていると言える。


(社会的な罪と道徳的な罪の続き)佐藤さんは罪を償って早く出てきてほしいのだろうけど、被害者の遺族は早く出てきてほしくないだろう。被害者も生きていたら、早く出てきてほしいなどとは思わないだろう。

2017年9月17日日曜日

無料中。騒音サイコパス 8: 兄のヘビメタ騒音で人生がない

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2017年9月16日土曜日

レッサーパンダ帽男殺人事件4 情状酌量の余地ありの方向性

この加害者がまったく関係がない人を刺して殺したということがまず重要だ。それまで、あったことがない人を殺しているのである。これは、けっこう重要な事だ。たとえば、加害者は職場で前歯をおられるほどのいじめを受けていたのだけど、自分をいじめた職場の人を殺したというのであれば、情状酌量の余地はある。

文脈が大切。いじめに耐えかねて、殺したというのであれば、そこには、殺しに至るまでの理解可能な文脈がある。このいじめがもっと凄惨なものであれば、情状酌量の余地は、ひろがる。

しかし、自分になにもしなかったものを殺している。被害者側の拒否は、むしろ当然で、加害者に対して、被害者がひどいことをしたというわけではない。

たとえば、加害者と被害者が一緒に住んでいて、被害者が加害者を長年に渡っていじめていたというわけではない。そういう文脈がない。復讐の相手を間違っている。好みの女性だから自分のものにしようとした……しかし、拒絶されて頭にきたので殺したという感じだ。

刑期を長くしたって反省はしない可能性があると言っても、刑期を短くしても中位にしても反省はしないわけだから、刑期を短くする必要はない。復讐という文脈がないので、情状酌量の余地はない。

ひどいことをされたので、ひどいことをやり返したという場合、なんて言うのかな?やられたことと、やり返したことがイコールであることが望ましい。突出してはいけない。

この場合は、振り返ったときの表情が気に食わなかった(バカにされたようで頭にきた)ということだから、被害者が先に加害者にやったことが、少なすぎる。勝手に人がおどろくような格好をして外に出て、おどろかれたから「拒絶された」と思って殺したわけだから、これは、情状酌量の余地がない。

むしろ、加害者は職場の人間や加害者の父親をなぐったり蹴ったりするべきだったのである。そういう場合は情状酌量の余地がある


まず、加害者は相当にストレスをため込んだ状態になっていた。これは、自閉症の症状とは切り離して考えるべきだ。そして、かりに自分がいじめられて、ストレスを感じていたにしろ、いじめた相手にやり返すべきなのだ。職場を追われて、家に帰れない状態で、相当にストレスを感じていたと思う。家には問題のある父親がいる。その場合、やはり、やり返すなら、自分にストレスを与えた相手にやり返すべきだ。

まったく関係がない(か弱い)女性に怒りを向けてどうする? それは、自閉症とは関係がない。アニメ声じゃなければ、加害者がまじめに聞いて?犯行にはいたらなかったのではないかというのは、佐藤さんが勝手に考えたことで、加害者がそう言ったわけじゃない。アニメ声じゃなければ、加害者が刺さなかったかもしれないというのはまったくの空想だ。声の質に関係がなく、たまりきったストレスを女性にぶつけた可能性が高い。どこかで爆発するようなストレスを抱えていたというのが、重要なのではないか。それは、何度も言うけど、自閉症そのものとは関係がない。小さなことで怒って殺すというのは、ストレスをため込んだ人間の特徴であって、自閉症の特徴じゃない。

注解
加害者は「就職先では前歯を全部折られるほどひどいいじめを受ける」。

佐藤さんの偏見から、自閉症者を守る。




2017年9月15日金曜日

どれだけ言われても相手の気持ちはまったく考えない(無視する)(言われなかったことにする)

宗教の勧誘で起こされてしまった。
張り紙をしてあるのに、張り紙を無視して、ピンポンを押したみたいだ。インターホンじゃないので、一度出て話を聴かなければ、宗教の勧誘だとはわからない。若い男の人とおばさんの組み合わせだった。二階のドアからちょっとだけ外を確認したとき、その若い男の人がガス屋の人のような感じに見えたから、そっちかと思った。

ともかく、睡眠を邪魔された。けど、喉が乾いたから、水を飲もう。どうすっかな。これだけ喉が乾くというのもおかしいよな。

   *   *   *
水を飲んだあと一度横になったけど、幼稚園がちょっとうるさいので、イヤーマフをした。で、イヤーマフをすると、上しか向けないので、不自由なんだよ。ともかく、なんか眠れなくなっちったよ。

   *   *   *
横になっているとき、ヘビメタ騒音のことが頭に浮かんだ。気違い兄貴の態度が頭に浮かんだ。そして、他の人の無理解な発言が頭に浮かんだ。気違い兄貴の(非常識な態度・異常な態度)と普通の人の中にある『お兄さんの態度』のギャップがある。兄貴のこだわりなんて普通の人にはわからない。兄貴の態度というのは、親父の態度とおなじだから、他の人にはまったくわからないんだよな。あとは、兄貴の態度は親父の態度とおなじだから、兄貴自身にもまったくなにもわかってないというところがある。自分が親父にそういう態度で接されて、どんだけ、こころが、いたんだとおもっているんだよ。自分がやられたときは、親父の態度が異常だとわかるのに、自分がやっているときは自分の態度が異常だと、わからないんだよな。これも、親父の認識とおなじで、気違い的な意地でやったことはまったくやってないことになっている。だから、そういうところで、認知のズレがあるから、他の人には、余計にわからない態度になる。どれだけ言われても、言われたときだけ腹を立てて(やり続け)、言われた記憶もなければ、やり続けた記憶もないという状態になってしまう。言われた方の記憶はともかく、やり続けた記憶に関しては、やり続けたという行為の記憶はあるんだよ。けど、相手がやめてくれと言ったことを頑固にやり続けたという意味合いがなくなっている。もう、そんなの、言われて、腹を立てて、一秒目には、言われたという記憶が(あたかも)すっ飛んでいるような状態だ。だから、本人のなかでは、「言われたにもかかわらず!!!!!!」頑固に、固着して、そのままやってやったというような記憶がないような状態になってしまうのである。これも、なんて言うのかな、やった記憶がないと言うよりも、やったということに、まったくこだわりがない状態になってしまうのである。だから、やったってやってなくたって、まったく関係がないという気持ちになってしまうのである。で、行為としてやったというのは、ものすごくうすい意味で、あるのだけど、……記憶喪失ではないからあるのだけど……「制止」を無視して、意地になってやったという意味合いがまったくぬけてしまうのである。だから、発狂して頑固にやったこと……やり続けたこと……何時間も何時間もやり続けたこと……そして、何回も何回もやめろと言われたこと……なのに……だからこそ、まったくやってないときとおなじ気持ちになれるんだよな。記憶喪失じゃないから記憶自体はあるのだけど、『迷惑行為をやった』という記憶は、まったくない状態なのである。やめろと言われたにもかかわらず、自分がこだわりつくしてやったという記憶はない状態だ。言われてないから、気がつかずにやり続けている状態なのである。やっているさいちゅうは。そして、やり終わったあとは、言われてないから気がつかずにやったと思っている状態なのである。そのことを、やったという記憶自体はあるのだけど、「やめろ」と何回も言われた『迷惑行為』をやった記憶は、まったくない状態なのである。ようするに、まったくなにも言われてない状態で……「やめろ」と言われてない状態で、普通の音で鳴らしたという気持ちしかない。実際は、頑固にどでかい音で鳴らした。何回も何回も「やめろ」「やめろ」「やめろ」「やめろ」「やめろ」と言われたにもかかわらず、頑固にどでかい音で鳴らしたというのが客観的な事実だ。


親父なんて、相手が「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と何回も絶叫したことをやって、「どうだ、うまいだろ」なんて言うところがある。頭がおかしい。相手の気持ちというのが、ほんとうにまったくわからないんだ。自分の気持ちしかない。「自分がうまくやれるところを見せてやる」みたいな気持ちしかない。親父がいじると不幸なことになるからやめてくれと言っているのに、それは、無視して、……ガン無視で……やっちゃう。作業する。どれだけ、「そこは、いじらないでくれ!!!」「そこは、いじらないでくれ!!!」「そこは、いじらないでくれ!!!」と絶叫しても、真っ赤な顔をして、無視して、あぶらあせをいかてやってしまう。で、できたら「どうだ!うまいだろ!」みたいなことを言う。ほんとうに、相手の気持ちというのがまったくわかってないんだよな。兄貴は、「どうだ、うまく弾けただろ」とか言わなかったけど、中身は、親父とおなじなんだよ。相手の気持ちはガン無視で、頑固に、真っ赤な顔をして、無視して、あぶらあせをいかてやって、特に相手がいやがるようなことをしたつもりがまったくしょうじない。相手の気持ちはどうでもよくて、自分の気持ちだけ、なのである。

頭がモヤモヤする。

頭がモヤモヤする。
俺の頭がモヤモヤするのは、どう考えても気違い兄貴が悪い。

けど、つらいのは、俺だ。

今日もたぶん、幼稚園の練習があるだろう。また、イヤーマフ プラス 音声で耐え抜く。


にしても、生きているのがめんどうだな。
ともかく、ヘビメタ騒音前の気力と体力と知力が返ってくれば、それでいいんだけどな。気力がないよ。体力もない。ほんとうにすべてがつかれた。いま、朝だけど、これはヘビメタ騒音の朝だ。きえない。


2017年9月14日木曜日

レッサーパンダ帽男殺人事件 なんで包丁を持ち歩いているのか?(3)

●沸点の低さと怒りの大きさ


あんまり、問題にされてないけど、なんで包丁を持ち歩いているのかというのがわからない。あとは、沸点の低さが気になる。

怒りやすい人間の「気持ち」を気にしながら歩くなんてことはできない。自分の表情一つで、相手が自分を殺したくなるほど興奮する(頭にくる)なんて、普通は考えない。そういうことを考えて外に出るとしたら、たいへんだと思う。

レッサーパンダのかぶり物をしている背の高い男性がいたから、被害者が「あれ」っと思っただけだろと思う。被害者がおどろいた顔をしても不思議ではない。問題なのは、加害者の沸点の低さだ。自分のほうを見ておどろいた顔をした人がいた。

……だから、どうしたというのだ。

普通は怒ったにしても、にらみ返すとか、「おまえ、こっちを見るな」とか言うだけだと思う。なぐる蹴るの乱暴をするにしても、包丁で刺したりはしない。普通の人はそうしないということだけではなく、自閉症者もそうしないだろう

小さな刺激(不快な刺激)→小さな怒り(小さな攻撃)
中ぐらいの刺激→中ぐらいの怒り
大きな刺激→大きな怒り

小さな刺激で刺殺という、最大級の怒りの表現をしているわけだ。
だから、むしろ問題なのは、自閉症かどうかということではなくて、この「沸点の低さ」と「小さな刺激に対応した怒りの大きさ」である。もともと、小さな刺激に対応した小さな怒りになるはずのものが、大きな怒りに発達してしまっている。おなじことだが、別の言葉で言うと「怒りと殺人までの距離」が短すぎる。

普通は、小さな刺激には、小さな怒りで対応するものだ。表情ひとつで、いきなり殺人マックス(殺意の頂点に達する)ということがおかしい。だから、自閉症なのだと言いたいのかもしれないけど、何回も言うけど、これは、自閉症の特徴ではない。

ようするに、「沸点の低さ」「怒りと殺人までの距離が短い」が、自閉症的であると言うのであれば、加害者は自閉症ということになるのであるけど、これからの特徴が「自閉症的ではない」のだから、自閉症とは、言えない

佐藤さんは、加害者は自閉症だと決めつけているので、加害者がほんとうに自閉症なのかどうかが気になってしまう。しかし、重要なのは、加害者が「ちょっとしたこと」で被害者を刺し殺したということだ。ちょっとしたことで怒るというのは、わかるが、ちょっとしたことで怒って殺すというのは、たしかに異常だ。

そのばあい、その異常さが自閉症に特有のものであるかというと、自閉症に特有のものではないと断言できる。佐藤さんは「ちょっとの刺激で殺してしまうほど強い怒りがしょうじる」ということが自閉症者の特徴だと思っているのだろうか?

●「怒るということ」と「刺して殺す」ということ距離感


包丁を持って歩いていたということが、どうして、重視されないのかわからない。包丁は、たぶんモデルガンのかわりなのではないだろうか。ウキペディアを読んでいるだけではわからなかったけど、どうも、最初から女性がねらいだったのではないか。まあ、ナンパという言葉を使っても良いかもしれない。

しかし、このナンパは普通のナンパではないのかもしれない。拒否したら、モデルガンや包丁で脅して、レイプなどをするつもりのナンパかもしれない。加害者じゃないので、レイプするつもりがあったのかどうかはまったくわからないが、前科がある。ほか四件のうち、残り三件が気になる。この三件の詳細がわかれば、加害者の普段の考え、思考の特徴がわかるのではないか。

ナンパしようと思って声をかけたら、拒否された(変な目で見られたので)怒って殺した……これが、加害者のやったことなのではないか。これは自閉症うんぬんとは関係がない。知的障害はあったのだろう。しかし、知的障害があれば自閉症だとは言えない。

この加害者の場合、子供の頃からの自閉症的なエピソードが少ない。というか、ほとんどない。

テーブルのしたに潜り込んで、テーブルの脚の一点を凝視するとか、ドアの開け閉めに夢中になるといった自閉症児らしいエピソートがない。自閉症(児)の怒りに関しても、自分がすでにやっていたことを中断させられそうになると怒るという感じで、相手の顔の表情を敏感に感じ取って、怒るという感じではない。相手の顔の表情がわからないか、あるいは、まったく無関心だから、問題が起こる場合のほうが多い。

また、「怒るということ」と「刺して殺す」ということ距離感については、自閉症者であっても健常者とおなじなのではないかと思う。「怒るということ」と、「だから、刺して殺す」ということのあいだには距離感がある。

そりゃ、だれだって、自分が馬鹿にされたと思えば怒るわけだけど、怒ったから、殺していいとは普通は思わないわけで、せいぜい怒鳴って文句を言うというようなことで終わる。

この「怒ると殺すのあいだの距離感のなさ」が、まさに、自閉症の特徴だというのであれば、自閉症裁判と名付けることは、納得がいくことだけど、これは、自閉症の特徴ではない。なので、自閉症裁判と名付けることには納得がいかない。

それなら、自閉症と診断される人が、人を殺す率が、健常者が人を殺す率よりも高くないとだめだ。しかし、私の知る限りではそういうデータはない。むしろ、自閉症者が、粗暴犯を犯す確率は健常者が犯す確率よりもわずかに低いはずだ。知的障害者が軽犯罪を犯す確率は、健常者が軽犯罪を犯す確率よりも高い。しかし、これは、万引きなどの軽犯罪に限定した話しだ。しかも、知的障害者の場合、療育手帳や障害年金で、ある程度のお金が入ってくる場合、軽犯罪率も健常者と同等かそれ以下にさがる。言語において知的障害があると、取り調べのときに自分をうまく弁護できず、取調官に誘導されやすいという問題はある。だから、やはり、自閉症裁判ではなくて、知的障害者裁判なのではないかと思う。

ともかく、最初から包丁を持ち歩いていたことが軽視されすぎている。わりと計画的にレイプしようとしていたのではないか。いずれにせよレイプ未遂と強盗の前歴があることと、おどす目的で包丁を持ち歩いているということは、自閉症的ではない

事件から約1時間10分前の4月30日午前9時半ごろ、山口は別の女性を襲っている。隅田川の下流に位置する吾妻橋上で、刺殺事件の現場からわずか約600mしか離れていなかった。
 山口が吾妻橋をで渡っていたところ、橋の中央付近で若い女性とに出くわした。山口が懐に手を入れ刃物を出すような素振りを見せたら、女性は大声を出し、持っていた傘で振り払うようにした。山口はすぐに逃げていったが、女性は傘を差していたため、山口の顔やレッサーパンダの帽子の有無など詳しい特徴は覚えていなかったという。

https://matome.naver.jp/odai/2140573719102419301
より引用。

加害者が懐に手を入れ刃物を出すような素振りを見せたら、女性は大声を出し、持っていた傘で振り払うようにした……ということだけど、この時、加害者はこの女性を見ていたのだよな。

刃物を出して、女性がどういう反応をするか見ていたということであって、「女性」と視線があうことに関しては、問題がないのだろうか。視線をあわせるのが苦手と言っても、それは、自分より強そうな対象に対してなのではないだろうか。(このときの女性は、傘で防御しようとしたため、加害者の顔を見てない。視線は合わなかったと思うが、合う可能性があるということについて加害者はどう思っていたのか気になるということ。)

レイプ未遂をしたとき、相手の女性の目を見れたのかどうか気になる。相手の女性の目を見てなにかをしゃべったかどうかが気になる。自分にとって不都合なことを聴かれているとき、目を見てしゃべれなくなるひとは、わりと多いのではないか。

加害者はある条件が成立したときは、相手の目を見てしゃべれるのかもしれない。と言っても、かたことで一方的な言葉かもしれないけど。普段、加害者が(加害者の)妹と会話するときは、視線があうことがあったのかどうか気になる。

言語障害を伴う知的障害者であれば、自閉症だというわけではないということに、注目するべきだ。佐藤さんの知的障害者に対するイメージが、佐藤さんのなかの自閉症のイメージと重なっているので、佐藤さんには自閉症にみえるだけかもしれない。

●ストレスがたまっている人の犯罪


それから、ちょっとだけ言っておくと、ストレスがたまっている人は、小さな刺激で爆発しやすい。包丁を持っていれば、小さな刺激で人を刺しやすい状態になっていると思う。これは、ストレスがたまっている人の特徴だ。自閉症の特徴じゃない。

なので、ストレスがたまっている知的障害者が通り魔殺人をしたと考えるべきで、自閉症者が通り魔殺人をしたと考えるべきではない。この加害者の場合、レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない知的障害者だ。レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がないのは、知的障害者の特徴でもないし、自閉症の特徴でもない。

この加害者が、たまたま、「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」知的障害者だっただけで、知的障害と「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」性格(考え方)は、関係がない

普通の人だって「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」人はいる。「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」のが自閉症の特徴であるのであれば、自閉症裁判でいいが、そうではないのだから、自閉症裁判というタイトルは、問題がある。

「ちょっとの刺激で、殺人をする」というのが、自閉症の特徴であるのならば、自閉症裁判でいいが、そうではないのだから、やはり、自閉症裁判というタイトルには問題がある。

この加害者の場合、知的障害者であるということと「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」という性格が重なっているので、知的障害者の殺人になってしまったのである。

けど、「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」というのは、繰り返しになるけど知的障害とは関係がない。そうではない知的障害者がたくさんいる。なので、知的障害者らしい犯罪というわけではない。「レイプ、強盗、殺人などにわりと抵抗がない」人らしい犯罪と、言うことはできる。

知的障害者らしい犯罪でもないのに、加害者がたまたま知的障害者だったので、知的障害者による殺人ということになり、なにか知的障害と殺人行為そのものが関係があるようなカタチで、考察されているのではないか。

だいたい、包丁を持ち歩いていることと、レイプ未遂、強盗の前歴があることだけをとっても、普通の知的障害者ではない。しかし、この加害者が知的障害者だから、知的障害者らしい犯罪になってしまうのか。それは、ちがうだろう。それは、あまりよくないレッテル貼りだ。

自閉症者らしい犯罪ではないのに、佐藤さんの目から見ると、加害者が自閉症者らしい特徴を持っているように見えるので、自閉症と殺人というものが結びつけて語られるようになっているのではないか。

私の考えでは、(加害者は)むしろ自閉症者らしい特徴がすくなすぎるので、自閉症者だとは思えない。知的障害者ではあるけど、自閉症者ではないのではないかと思う。

佐藤さんは知的障害者と自閉症者の区別をどのようにしているのだろうか。もちろん、知的障害者であり、かつ自閉症者である人もいる。ようするに、「かぶっている」場合がある。しかし、その場合も知的障害と自閉症はおなじではない。




注解 引用文中の、山口というのは加害者のこと。自分の書いた文章のなかでは加害者に統一。

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ようするに、相手の表情を読み取れないから、問題が生じることの方が圧倒的に多い。被害者は殺されてしまったので、確認することはできないが、加害者の「被害者の表情に関する読み取り」は被害者の感情とわりと一致していたのではないだろうか。馬鹿にしたかどうかわからないけど、加害者に対して好意的な感情というよりは、「なにをされるかわからない」といった不安な感情と嫌悪感がわき起こったのだろう。それが表情に出た。その場合、馬鹿にしたということはないのだろうけど、好意と嫌悪の読み取りに関しては、成功していると言ってよいのではないか。これに関しても普段加害者が「加害者の妹」と話すとき、どの程度、表情の読み取りに障害があったのか気になるところだ。普段、加害者の妹と話すときに、どの程度(加害者の)妹の目を見ることができたのか、どういう話し方だったのかは、気になる。



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指さしが不得意。これは、対象を指でさすことができないということだ。だから、親の袖をつかんで、親の手を使おうとしたりするのである。人を指でさすことが苦手というのが自閉症の特徴の一つだ。加害者は、指でさすどころか、正面から包丁で刺しているわけで、指でさすのが不得意ということはなかったと思う。たぶんだけど、モデルガンを人にむけたり、モデルガンの銃口を人の頭に向けたりしている。自閉症らしからぬ特徴の一つだ。

それから、(友達がきたときに)加害者が大音響でステレオを鳴らしたという記述があるのだけど、これも、自閉症らしからぬエピソードの一つだ。自閉症者の場合、大きな音が苦手なのである。(音に敏感)(においに敏感)。もちろん、自閉症者は全員、大きな音が苦手だというつもりはない。けど、大きな音が苦手というのは、自閉症者の特徴の一つだ。もちろん、自閉症じゃなくても大きな音が苦手な人はいる。










レッサーパンダ帽男殺人事件 自閉症者の犯行というようなイメージがつくと、自閉症の人が迷惑をする(2)

https://matome.naver.jp/odai/2140573719102419301



・ほんとうに自閉症かどうかわからない。
・加害者の沸点の低さ(怒りやすさが)問題。
・包丁を持ち歩いている理由は、なにか?
・被害者側に問題はない。
・被害者がかわいそう。
・被害者の人権が無視されている。
・加害者が被害者を刺したということは、確かで、疑いようがない。

wikipediaによると、
「交差点で被害者が加害者を確認した際に驚いた顔をしたため、加害者は自分が馬鹿にされたと思い込み、被害者を狭い路地に引き込んで胸や腹、背中などを包丁で刺し、失血により死亡させた。」
ということらしい。

これって、自閉症と関係があるのだろうか。自閉症はむしろ他者の表情を読み取れないか、他者の表情に無関心だ。
他者も含めて外世界との関係がうまくつかめないのである。加害者の解釈がまちがっている可能性があるが、被害者のおどろいた顔に敏感に反応している。

「(相手が)おどろいた顔をしたから、自分を馬鹿にしている」という解釈をしてしまったわけだけど、自閉症のばあい、どちらかというと他者の表情に鈍感であり無関心な場合が多い。

繰り返し行為があるわけでもなく、一つのことに熱中して他のことを無視してしまうという傾向も加害者にはないようである。目を合わせて話すことができない、ということと、かたことの言葉を話すということが、自閉症であるという根拠みたいなのだけど、目を合わせて話すことが苦手な人は自閉症の人以外にもたくさんいる。

かたことの言葉に関しても、自閉症ではなくても、かたことの言葉を話す人はいる。

また、自閉症の場合、かたこと言葉に関しては、オウム返しなどの特徴がみられる。加害者の場合、オウム返しなどかあったのかどうか、わからないが、資料を読んだ限りでは、オウム返しが特徴とは思えない。加害者の場合、知的障害者であるのだろうけど、自閉症ではないのではないかと思う

まあ、自閉症(自閉症スペクトラム障害)の場合、いろいろなタイプがいるので、被害者の表情を(過剰に読みこってしまったから)自閉症ではないとかオウム返しやクレーン現象(行動)や繰り返し行為や逆さバイバイなどがないから自閉症ではないとは言えない。

しかし、加害者の場合、視線をあわせることができないということと、かたこと言葉であるということしか当てはまらない。ほかの特徴が生育歴のなかに出てこない。ともかく、自閉症者の場合、他人の表情を読み取れないか、そもそも他人の表情に関心がないことのほうが多い。

複数の前科、つまり窃盗、強姦未遂に関しては、一般的な自閉症(者)のイメージとはどうも異なるのである。たしかに自閉症者の中にもいろいろな人がいるから、自閉症ではないと言い切ることはできないけど、なにか違う感じがする。

自閉症者の場合、どちらかというと他人に対する計画的な犯行は、苦手なはずだ。複数の前科を、詳細に語ることが必要なのではないか。複数の前科の特徴がわかれば、自閉症かどうかも、より、はっきりするのではないかと思う。

自閉症の場合、やはり、わりとイレギュラーな行為は苦手であるような印象がある。というわけで、自閉症(者)の犯行だと決めつけると、ほかの自閉症者が迷惑を被るのではないかと思う。

ともかく、なんか、自閉症者ではないような印象を受ける。それから、自閉症者だとしても、自閉症たらしめるような特徴を持っている中核的なイメージとはだいぶ異なる。

まあ、さまざまなタイプの自閉症者がいるので、自閉症じゃないとは言い切れないけど、前科の犯行のタイプを考えると、自閉症じゃない可能性のほうが高い。前科の犯行に関しては、外世界との関係を理解しているとしか思えないのである。女性をおかすという目的があり、モデルガンで脅すために、わざわざモデルガンを持って外に出るというような一連の行為は、むしろ、自閉症的じゃないと言えるのではないか。

自閉症は外世界と自分との関係があまりよくわからないというところに特徴があるわけで、加害者の前科に関しては、自閉症に特徴的な犯罪ではない。いずれにせよ、レッサーパンダ帽男殺人事件→自閉症者の犯行というようなイメージがつくと、自閉症の人が迷惑をするのではないかと思う。
加害者は自閉症かどうかはわからないが知的障害者であるのはたしかなので、「知的障害者裁判」のほうがしっくりくるのではないだろうか。

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自閉症の場合、どちらかというと、新しい場所が苦手な場合が多い。
新しい場所で、新しい行為をするのが、不得意な傾向がある。
また、日常のルーティン化した作業をしているときに、割り込みで新しい作業が必要になると、混乱してしまうということがある。
日常のルーティン化した作業にしても、本人がこだわるポイントというのがある場合が多い。そして、その本人がこだわるポイントというのは、他の人には「どうしてこだわっているのかわからない」場合が多い。(たぶん、本人にもどうしてこだわるかわかってない。合目的的ではない。)
放浪の旅に出て、モデルガンで人をおどして、セックスを強要するというのは、自閉症の特徴とは異なる印象を受ける。


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合目的的というのは、たとえば、普通の人だと「右手で使う道具だから右側におこう」と思ってその道具を右側におく。この場合は合目的的だ。けど、自閉症児の場合は、右手で使う道具でも、左の上の方におくと決めたら、左の上の方におくことにこだわるのである。使いにくくても、理由がなくても、「ここにおく」ということを決めたら、「ここにおく」というとにこだわる。本人にも、どうして、そこにおく(ここにおく)のがいいのかわからない場合が多い。けど、なんとなく、そういうふうに決めたら、そういうふうにしなければ気が済まないところがある。(合目的的ではない)。そういう本人にもどうしてこだわるのかよくわからないことに、こだわるというのが、自閉症の特徴の一つだ。加害者にこういう特殊なこだわりがあったのかどうかわからない。

レッサーパンダ帽子にこだわっていたではないかと思うかもしれないが、これはちがう。これは、「ライナスの毛布」とか、女の子が熊さんのぬいぐるみにこだわる(愛着を持っている)というのとおなじだと思う。ライナスというのは、漫画『スヌーピー』に出てくる登場人物で、いつも毛布をだきしめている。愛着があるものを持ち歩きたい、愛着があるものを着たいと思うのは、普通の人にもある感情だ。愛着があるものを着たいというのは、愛着があるものを着ると落ち着くので、愛着があるものを着たいと思うわけで合目的的だ。同様に、好きなものを持ち歩くと落ち着くので、好きなものを持ち歩くというのは、合目的的なことだ。他の人にもわかる、理由があることなのである。

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新しい事態に対応しずらいということについてもちょっとだけ述べておこう。前述の通り、道具の位置を例にしよう。普通の人だと、右手で使うから右側におこうと思っていた道具であったとしても、「みんなで使うから、この箱に入れてください」と言われたら、「この箱」に入れることができる。

この「みんなで使うから、この箱に入れてください」というのが、『新しい事態』だ。自閉症の場合、いったん左上におくと決めたら、新しい事態が生じても左上においてしまうのである。「この箱に入れてください」と言われても、昔の自分の方法にこだわるのである。なので、そういうところで、トラブルが生じやすい。「いままでは、こうだったけど、今度からはこうしてください」ということを言われてもうまく対応ができない傾向がある。これが、「新しい事態に対応しずらい」ということだ。

(左上においても、本人が使いにくいだけなので、左上におくことはゆるされていたとする)。

2017年9月13日水曜日

がんばって目玉焼きを作るべきか?

飯食わなくても大丈夫かなーーと思っていたんだけど、腹が減ってきたので、ご飯を食べることにした。紅ショウガとご飯だけ。で、いま食べおわったんだけど、腹が減ってきた。ちょっとだけ食べたら、めちゃくちゃに腹が減ってきたという。呼び水となったか。
ここで、さらに紅ショウガで食べるべきか、あるいは、がんばって目玉焼きをつくって目玉焼きで食べるべきかまよう。実は、腹が減ってきたんだけど、横になりたくなっている。起きたばかりなのに横になりたくなっているのはおかしいけど、横になりたい。どうするべきか。
がんばって目玉焼きを作るべきか? それとも、このままご飯をたして紅ショウガで食べるべきか、冷凍の焼きおにぎりをチンするべきか。まよう。
にしても、つかれたな。つかれるわけがないのに、つかれている。起きて、四時間目なのにこのつかれ。どうにか、ならないか。

ほんとう、なんだったんだろう? ぼくの人生。ヘビメタ騒音でつらいだけだった。

2017年9月12日火曜日

ヘビメタ騒音で、他のやつから下に見られて、苦しかったよ

いままで、文章を書いていた。

かなり、きてる。
限界。

本当にヘビメタ騒音でくるしい人生になっちゃったな。ヘビメタが始まってから、いいことなんてひとつもないよ。

人付き合いも気違いヘビメタ騒音でじょじょに減っていった。睡眠時間の問題があるので、人付き合いにも支障が出る。

ともかく、疲れた。

あんだけ、意地になってやって、やってないつもりなんだろうな。どれだけの意地でやり通したか? ほんとうに、精神異常と言っていい意地だ。しかも、やってないことになっているんだろ。これも、精神異常だ。ともかく、あいつはやり通した。午後四時から午後五時までは、鳴らさないで静かにしてやるとか、ヘッドホンをして静かにしてやるということがまったくなかった。それで、ゆずってやったつもりなんだろ。どこまで、気違いなんだよ。どこまで、親父とおなじなんだよ。ヘビメタ騒音「※で※」、他のやつから下に見られて、苦しかったよ。

レッサーパンダ帽男殺人事件について 自閉症というよりも、反社会性パーソナリティ障害かつ知的障害者であった可能性のほうが高い

●自閉症というよりも、反社会性パーソナリティ障害かつ知的障害者であった可能性のほうが高い


レッサーパンダ帽男殺人事件には興味がない。『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』も読んでない。あとで読むから、これは、レビューを読んだときに感じたこと。ようするに覚え書き。



加害者の場合、自閉症というよりも、反社会性パーソナリティ障害かつ知的障害者であった可能性のほうが高い。前科のことも含めて考えると、そうなる。

自閉症だからではなく、反社会性パーソナリティ障害だから、わりと簡単に犯罪行為をするのではないか。反社会性パーソナリティ障害場合、犯罪行為はそれほどたいした行為ではない。

言い切れないけど、「怒るということ」と犯罪までの距離が短いのではないかと思う。佐藤さんは加害者のことを自閉症と決めつけているけど、前科と自閉症であるということの関係性についてはどう考えているのだろうか。

たとえば、ドアの開け閉めに夢中になっている自閉症者がいるとする。この、他者から見るとまったく無意味な行為に夢中になる(繰り返しずっとやっている)ということは、自閉症の特徴の一つだ。

セックスがしたいからレイプとか、お金が欲しいから略奪というのは、わりと目的がはっきりしている。他人から見て、無意味な行為ではない。他人から見ると、なんでそんな行為に夢中になっているのかわからないような行為に夢中になるというのが自閉症の特徴の一つだ。

そして、その行為をやめさせようとすると、たしかに怒るわけだけど、怒るから殺人をするというわけではない。「怒るということ」と「殺人」までの距離は、たぶん健常者とおなじだ。自閉症者だから、「怒るということ」と殺人までの距離が短いということはない。


あとは、どちらが先に行為をしかけているかという順番について考えてみよう。たとえば、ドアの開け閉めに夢中になっている自閉症者(Aさん)をドアから引き離して、ドアの開け閉めという行為をやめさせようとすると、Aさんは怒るだろう。この場合は、夢中になっていることを他者によって中断させらそうになるから怒るわけだ。他者の自分に対する、具体的で強制的な行為がきっかけで怒るわけで、具体的で強制的な行為を先にするのは他者だ。

当人からみると、自分がなにかをやられたあとに怒るわけだ。そして、怒ったあとなにをしたいかというと、元の行為をしたいわけで、怒って元の行為に復帰しようとするのである。当人からみれば、他者による行為の中断(他者による具体的な強制的な行為)→怒りという受動的な順序だ。一方、加害者は他人の表情を読み取り、怒り、能動的に攻撃をしかけているのであって、順序がちがう。

おどろいたような表情をするというのも、行為といえば行為だ。しかし、相手の身体を拘束しようとするというような、相手の身体に力強く触れるような行為ではない。行為の強度と質がちがう。加害者がほんとうに自閉症なら、むしろ、他人の表情には鈍感だったはずだ。被害者が先に加害者の身体に触れ、加害者のなんらかの行為を中断させようとしたわけではない。

佐藤さんが(加害者は)自閉症と決めつけているところがある。本のタイトルは『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』だ。これだと、自閉症者というのは、ちょっと拒否されただけで殺人までするおそろしい人だというイメージさえ与えかねない。怒りと殺人までの距離が短いというのは、自閉症の特徴ではない。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%80%E5%B8%BD%E7%94%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

レッサーパンダ帽男殺人事件
レッサーパンダ帽男殺人事件(レッサーパンダぼうおとこさつじんじけん)とは2001年4月に東京都台東区浅草で発生した殺人事件。
「浅草レッサーパンダ事件」とも呼ばれる。

2017年9月11日月曜日

どうして、線路の横のボロい宿を借りなければならなかったか

金曜の夜から通信障害で、まだ、通信障害が続いている。じゃ、どうして、投稿できるかというと、ほんのちょっとの時間、つながるから。だから、ダウンロードというのはできない。アマゾンビデオも見れない。

いまさっき、ドクターペッパーを買いに行こうと思ったんだけど、雨が降っているからやめた。あと、今日から「幼稚園が運動会の練習」を始めたので、太鼓の音でうるさい。これ、ほんとう、でかい幼稚園のすぐ横が、どれだけうるさいかわかってないな。みんな、あんまりわかってない。

それから、幼稚園が休みの日などに修復工事をけっこうこまめにやっているので、がががががががと音がすることが多い。運動会の練習は、そーーとうにうるさいよ。

こっちは、ちょっと音量が足りないのだけど、スピーカーから英語の音声を聞いている。防音イヤーマフをつけて、音声を聞いている。スピーカーが直径八センチぐらいしかないスピーカーで、音を打ち消せるわけではない。

で、まあ、運動会の練習のときは相当にうるさいけど、勉強が出来ないというわけではない。ぼくは、線路の横で勉強したことがあるけど、線路の横でも勉強が出来ないということはない。けど、ヘビメタ騒音……至近距離のヘビメタ騒音の場合は、ほんとうに、どれだけ集中して頑張ろうとしても、勉強ができない。

どーーやってもできない。

「いっくら、ヘビメタ騒音がでかい音で鳴ってたと言ったって、たいした音で鳴ってないんだろ」みたいなことを言ったひとがいたけど、そのひとは誤解している。

線路の横と言ったけど、線路は一本じゃない。四本だ。複線が二つ。複々線だ。しかも、駅のアナウンスだって、うるさい。複々線なので、けっこう短い間隔で電車がくる。それでも、ヘビメタ騒音でなければ、勉強はできた。

どうして、線路の横のボロい宿を借りなければならなかったかというと、きちがい兄貴が、正月だというのに、朝から夜の一一時一〇分までヘビメタを鳴らしてたからだ。だから、おれが、正月のあいだ、ボロい宿に行かなければならない。

「正月は静かにしろ」と一一月から言っていたのに、どれだけ言っても、静かにしてくれなかった。結果として、一日に一分も静かにしてくれなかった。で、これ、きちがい兄貴は自分のヘビメタがうるさいから、弟が宿を借りなければならなくなった」ということを知らないんだよ。

一二月のあいださんざん、何回も何回も言われているのに、※気がつかない※。そういうレベルなんだよ。気違い親父とおなじなんだよ。これ!! 「これだって、正月だって静かにしてくれなかった」「一二月もさんざん言った」と言っても、なんて言うのかな?……本人はシランプリで知らないままなんだよ。

嫁さんの前で、「これは、ほんとうなの?」と聞かれたら「そんなのまったく知らなかった」と答える。それじゃまるで、知っていたら、正月のあいだ鳴らさないで静かにしてくれたみたいな感じじゃないか。そんなのは、一切合切ないんだよ。で、「気がつなかった」というのが、気違い兄貴の態度をそのままあらわしている。

ヘビメタ騒音で勉強ができなかったというと、いかにも俺が勉強をしたくないから、いいわけをしているように聞こえるけど、そうじゃない。で、そういうことを言わなければならないということが、もう、俺に恥をかかせることなんだよ。

で、他の人はヘビメタ騒音がどれだけ、うるさいかわかってない。だから、「どんだけ騒音が鳴ってたって勉強できる」とか「騒音がうるさいから勉強ができないなんていうのはいいわけだ」というようことを言う。

けど、それは、兄貴のヘビメタ騒音を経験してないからだろ。一〇〇人中一〇〇人が、兄貴のヘビメタ騒音の中で勉強することができないと断言できる。「どんだけ騒音が鳴ってたって勉強できる」とか「騒音がうるさいから勉強ができないなんていうのはいいわけだ」というようことを言うひとは、自分が経験してないから知らないだけ。わかってないだけ。

気違い兄貴がやったことでどうして俺が不名誉な思いをしなければならないのか。それ、一〇年二〇年三〇年、四〇年ずっと毎日そうだ。やられているときもそうだったけど、いまもそうだ。きちがい兄貴が俺に押しつけてきたことのひとつだ。

「ヘビメタ騒音で勉強ができなかった」とかいいわけに聞こえて、みっともないことも書くことにしている。どうしてかというと、実際に僕が生きている間、感じたことだからだ。実際に感じたことは、書いておく。みっともないから、書かないようにしようということはない。

それと、ヘビメタ騒音なかで、勉強することが可能かどうかというと、可能ではない。「ヘビメタ騒音がどれだけ鳴ってたって勉強ぐらいできる」と言うひとは、経験がないからわかってないだけ。それに、一〇分間できたってしかたがないんだよ。毎日、一〇年間、できなければ、意味がない。

ともかく、自分が意地になってやったことを、「知らない」と言っている時点で頭がおかしい。性格があまりにも不誠実だ。本当にどれだけ言われても、正月だろうが……正月三が日の間だろうが、絶対に、静かにしてくれなかったのに……「そんなの知らなかった」とか、気違い野郎。そういう態度でいつも鳴らしていたから、こっちは苦しいんだよ。いまだに苦しいんだよ。

どうしてかって? 駅に行くと、気違いヘビメタの記憶がそのままよみがえってしまうからだ。いま、午後一〇時二〇分だけど、午後一〇時二〇分の、「ヘビメタ騒音の雰囲気」がそのまま成立しているからだ。

もう、脳みそをとりかえないとだめなレベルだ。

それだけ、長い時間ヘビメタ騒音を押しつけた。気違い親父がハンダゴテを押しつけたとき、気違い兄貴は二日間の間、怒り狂っていたけど、毎日三六五日、そういう状態だ。ヘビメタを押しつけられて、苦しかったよ。午後一〇時二〇分は、鳴っている時間だけど、鳴っていない時間も苦しい。腹が立つ。気違い親父と接触した後、腹が立っただろ。押しつけられた後「これじゃだめだ」という気持ちになって、腹が立っただろ。不愉快な思いをしただろ。不愉快な状態ですごす時間が長かっただろ。

気違い兄貴は、ヘビメタ騒音だけではなく、気違い兄貴の態度で、俺を不愉快な思いにさせている。気違い兄貴の態度は、気違い親父の態度そのものだからな。

自分が弟にそういう態度でずっと、気違いヘビメタ騒音を押しつけてきたということについて、ちょっとは自覚しろ。態度が同じなんだよ。兄貴と親父で態度がまったく同じなんだよ。

兄貴は、親父の態度に腹を立てて腹を立てて生きてきたよな。ちょっとでも接触したら、一日中腹が立つようなことをされたよな。気違い兄貴が普段、ヘビメタ騒音で押しつけていることはそういうことだ。気違い兄貴の態度は、親父の態度そのものだ。自分が親父の態度にどれだけ腹を立ててきたか、考えれば、すこしは、俺が気違い兄貴の態度に腹を立てているということがわかるよ。

これ、立場が違うから、まったくわかってないんだよね。親父だって、自分の態度がまずかったなんて思ってないよ。自分の態度がどれだけ、相手を悪い意味で興奮させるか、いらだたせるか、感情をかきむしってズタボロにするか、腹立たしい状態にさせるかなんて、まったく気にしてないよ。そんなの、「やった」なんて、思ってない。

いつもそういう態度で、気違い的なもめごとを起こしていたけど、本人は、まったくそういうつもりがないんだよ。これも、どれだけ言われたって、まったく通じない。全部毎日そういう状態だ。


「刑期を長くしても反省しない可能性がある」……について


刑期を長くしても反省しない可能性がある
ということについて。

可能性だからね。可能性。
刑期を長くしても反省しない場合と、刑期を長くしたので反省する場合について考えてみよう。

刑期を長くしても反省しない場合、刑期を長くしても反省しないのだから、刑期を長くする必要はないという考えを持っている人がいる。けど、これは、おかしいのではないか。刑期を長くしても反省しないのだから、そのまま刑務所に入ってもらっていたほうが良いのではないかと思う。刑期が短くても反省しない。刑期が普通でも(中ぐらいでも)反省しない。刑期が短くても反省しない。

反省しないまま社会にでることになる。反省していないのだから、やりたい気分になったらまたやるだろう。再犯の可能性が極めて高い。なので、反省しないのだから、永久に死ぬまで、刑務所に入っていたほうが良いのではないかと思う。少なくても、そう考える根拠がある。

そりゃ、まったく反省してないひとが、また、社会に出たらおなじことをする「可能性がある」ので、未来の被害者を救うために、刑務所になるべく長く入っていたほうが良いのではないかと考えても不思議ではない。むしろ、不思議なのは「刑期を長くしても反省しない可能性があるから、刑期を短するべきだ」とう考え方だ。

次に、「刑期を長くしたら、反省する可能性がある」場合について考えてみよう。われわれは「刑期を長くしても反省しない可能性がある」という文章から出発した。すでに「刑期を長くしても反省しない場合」については考えた。「刑期を長くしたら、反省する可能性がある」場合はどうだろう?

刑期を長くしたら、反省する可能性がある場合は、刑期を長くするべきなのではないかと思う。反省してほしいわけだから。刑期を長くしたら反省する場合があるのであれば、刑期を長くしてもよいのではないか。いや、刑期を長くした方がよいのではないか。

というわけで、刑期を長くしても反省しない場合も、刑期を長くすれば反省する場合も、刑期を長くした方がよいという考えにいたった。

みなさんはどう思いますか?

2017年9月10日日曜日

『感謝感謝』と精神異常者・敵陣営のなかの健常者・健常者


これも、うけないのはわかっている。たぶん、「うけなさ」で言えば、最たるものだろう。自分の人生を破壊した人に「ありがとう」を言う必要はない。感謝する必要もない。

さらに言ってしまえば、ゆるす必要もない。人間関係をよくするテクニックとして『感謝感謝』というのかがある。だれにでも、なんにでも感謝すれば、その感謝のこころが返ってくっるという理論だ。

しかも、これは、とりあえず、テクニックといったけど、単なるテクニックではない。これも、宇宙原理とか宇宙意識とかそういうことがかかわってくる。感謝にはそれ自体にものすごい!!!パワーがあるという考え方だ。「ありがとう」という言葉の波動にはものすごいパワーが秘められているという考え方だ。その証拠としていろいろな例があがる。で、その人の助言を聞いた人から「自分もそうでした」「やってみたら、うまくいきました」という声が返ってくる。

で、まあ、それはそれでいい。けど、これも、健常者同士の関係に限られる。一方が精神異常者だった場合は、まったく結果が異なる。精神異常者に『感謝』しても、精神異常者の行為がかわることがない。

さらに、その『感謝』を声に出して言ってしまうと、精神異常者は、自分勝手な解釈をするので、異常な行為に拍車がかかるということがある。

さらに、実際に感謝の言葉を言ってしまったとなると、相手が誤解するようなことを言ってしまったという事実が残ることになる。この事実は、あとあとになってけっこう重たい結果を生み出すことがある。『感謝』という言葉を使ったけど『ゆるし』でもおなじだ。ゆるしの言葉が新しい妄想のきっかけになる場合がある。

健常者同士でも、言葉の掛け違いはある。腹が立っているときに、声をかけられて、怒ったような声で対応したということがあると、それだけで、人間関係?がこわれるときがある。

まあ、それだけでは、こわれはしないだろうけど、そういう小さなことがつみかさなれば、大きなもめごとに発展することもある。そういう意味では、やはり、『感謝感謝』『ありがとうの気持ち』というのは、たいせつだ。

だから、べつに、そういうことを否定しているわけではない。けど、それは、健常者同士の関係においてだ。一方が精神異常者の場合は、そういうことが、むだなのである。むだなばかりか、やられている方が、やられまくることになる。

こういう、『感謝感謝』というような考え方は、だれにでも成り立つといこうとになっている。普遍的に成り立つということになっている。人ならだれでも、どんな悪人に対しても、効くということになっている。

けど、そうじゃない。こういう、どんな場合でも成り立つというようなことを言うのはよくない。どんな人にも、『まず自分のほうが』感謝感謝という気持ちをもって、相手に接することができれば(相手との関係は)改善されるというようなことが言われるけど、実は、そうじゃない。

精神異常者の場合は、もともと自分勝手なところがあって、自分勝手なところが突出している。感覚器を言い換えて、自分勝手な行為を通してしまう。そうなると、迷惑をこうむるのはやられた方なのだけど、やられた方が、気持ちをかえても、自分勝手な行為をやっている方の性格はかわらない。

まず、三つのグループに分ける必要がある。

第一のグループ 精神異常者、精神病質者、掲示板の荒しなど
第二のグループ 敵陣営のなかの健常者、特別な価値観を持っている人たち、テロリスト、カルト宗教の人たち)
第三のグループ いわゆる健常者、普通の人

第一のグループと第三のグループについては語ってきたので、第二のグループについて多少語っておこう。

たとえば、北朝鮮がミサイルを飛ばしているだろ。あれは、迷惑だよな。けど、北朝鮮の人にしてみれば、この行為は北朝鮮の利益を考えた合理的な行動だということになる。

テロリストも彼らのなかでは、健常者なのである。テロリスト支援国家やテロリストの団体のなかでは、こっちがテロリストと呼ぶひとたちは健常者なのである。第一のグループには属さない人たちなのである。敵対する国家のなかにも、第一のグループに属する人たちはいる。

しかし、組織が存在して、組織がなんらかの合理的な活動をしている以上、合理的な活動をしているメンバーは、その中では、健常者なのである。精神病質者の場合はうまいこと活動している場合もあるけど、それは、精神病質者の精神病質的な感覚のズレ(あるいは、認知のズレ)がその組織のなかでは、発揮されてない場合に限られる。

北朝鮮が大陸弾道弾ミサイルを日本のほうに向けて飛ばした場合、日本に住んでいる人たちにしてみれば迷惑なんだよ。その場合、北朝鮮に対して『感謝感謝』という気持ちで接すれば、相手がいい方向にかわってくれるかというと、そうではないだろう。

北朝鮮が水爆実験をしたとする。その場合、『ありがとう』と言えば、北朝鮮が日本人にとってよい方向にかわってくれるかというと、そうではないだろう。

『感謝感謝』という気持ちで接すれば相手がかわると言っている人たちは、そこらへんのことを考えたほうがいい。

だいたい、相手の態度がかわることを求めている場合、相手の態度が『自分にとって』いいほうにかわることを求めているわけで、それ自体は利己的なこころから発していることだ。利他的なこころから発しているわけではない。

けど、まあ、ここらへんを意識しないで、ほんとうに相手に感謝すれば、感謝の波動はものすごい力を持っているので、自分にとってよい方向でかわってくれるはずなのである。けど、こういう考えにとりつかれている人たちは、それがうまくいかない場合は、自分のほうに問題があると考えるのである。たとえば、感謝の気持ちがたりなかったとかそういうふうに思うことで現実を説明する。けど、それではすまないこともある。

『感謝感謝』で人間関係がよくなるというような法則?は、健常者同士なら成り立つ。けど、相手が精神異常者である場合と、相手が健常者であっても敵のグループに属している場合は成り立たない。

自分とおなじグループに属している健常者に限定される。精神異常者にどれだけ感謝したってむだだから……。家族のなかに精神異常者がいる場合、あるいは家族のなかに「うちでだけ精神異常者になってしまう精神病質者」がいる場合、はなっから、『無理な話』なのである。

しかし、家族というような閉鎖的な集団の場合、外から見るとよくわからない場合がある。で、健常者同士の家族でもスレ違いが発生して、険悪な状態になっている場合がある。その場合(健常者同士でスレ違いが発生している場合)は、たとえば、『鏡の法則』で説明されることが有効な場合がある。けど、家族の構成メンバーのうち、誰かが精神異常者か精神病質者であるばあい、『鏡の法則』で言われるようなことは、実は、成り立たない。無効。無益。むしろ、やられている人にとって有害。

   *   *   *
自分の母親はほんとうに優しい人で、精神病質者的な自分の父親にも、こころから優しく接していたけど、なんて言うのかな?……どれだけ、相手のことを思って行動しても、精神病質的な父親は、わけがわからない理由で怒り狂っているだけだった。

父親は父親で、不幸な過去を背負っていて、その怒りを(弱い人にぶつけている)だけなので、相手が気持ちを変えても、最初から「なるべくよくしてあげよう」と思って接していても、怒り狂う状態というのがかわらなかった。(むしろ、あたりまえだと思っているのか親父の怒り狂いはエスカレートしたと思う。いや、最初から、フルスロットルで怒り狂っているから、怒り狂っている時間の長さ、怒り狂いの量、怒り狂う回数というのは、かわからないか)。

鏡の法則というのは、「自分が相手にとげとげしい感情を持っているから、相手もとげとげしい感情をかえしてくる」といったような法則だ。「自分の中のとげとげしい気持ちが、相手の行為を通して返ってくる」というような法則だ。そういうことが成り立つ場合もあるけど、相手が自分に関係がないことで怒り狂っている場合は、自分の態度をかえても、相手が怒り狂っている態度というのはかわらない。

どういうことかというと、八つ当たりで怒っているので、原因は、「こっち」にはない。原因が母親のほうにないのだから、かりに父親が母親に対して、「まったくわけがわからない理由」「頭がおかしいとしか思えないような理由」「了解不能な理由」で怒っている場合は、母親がどれだけ、思いやりを持って父親がいいようにしてやったとしても、怒り狂っている時間の長さ、怒り狂いの量、怒り狂う回数がかわらない。

母親は頭がおかしい理由で、怒りをぶつけられて、ストレスで病気になってしまったよ。怒りをぶつけられてと書いたけど、怒りをぶつけられ続けてと書いたほうが正確だな。ほんとうに、長い間続く。一〇年とか二〇年とかそういう毎日が続いてみろ。

精神異常者相手のもめごとは、健常者同士のもめごととは、質的にちがう

腹が痛い。
ひとりだとむなしい。

このあいだのラーメンが効いているのか?
やっぱり、お札のばい菌がもやしにうつったのだろうか?

ひとりごとを言って自分を鼓舞しているよ。

きちがいヘビメタにやられていたころの、あの坂を思い出す。学校に行くときにどうしても通らなければならない坂。ほんとうに、うちに帰るとヘビメタ騒音が鳴っているから……。あの気持ちはない。あれで、崩壊している。あの時のあの気持ちはない。死にたい。ヘビメタ騒音で死にしたい。ヘビメタ騒音が鳴っていたから、死にたい。他のことじゃない。ヘビメタ騒音が鳴っていたから、死にたい。しつこくしつこくヘビメタ騒音が鳴っていたから、暗い気持ちになる。死にたい気持ちになる。あの切れた、気持ち、ない。

みんな、きちがいが家にいて、頑固にヘビメタ騒音を一一時一一分まで鳴らしている生活を経験してない。毎日、つもったら、どういうことになるか、身をもって経験してない。兄貴だって経験してない。おまえ、兄貴、他の騒音で経験してみろ。きちがい兄貴が俺に押し付けてきたヘビメタ騒音を、他の騒音で、おなじ時間の長さ、経験してみろ。おなじ期間の長さ、経験してみろ。どういうことか、わかる。きちがい兄貴が、無視して、やってないつもりで、頑固に押し付けてきたヘビメタ騒音がどれだけ人生に負の影響を与えてるか、身をもって経験しろ。

ほんとう、他の人にはまったくないことだから、俺が、しつこく変なことを言っているようにしか聞こえない。俺が、こだわらなくてもいいことに、こだわっているようにしか聞こえない。他のやつの耳にはそういうふうにしか聞こえない。

ほんとう、どれだけ。どれだけ!!

ほんとうにきちがい兄貴は、親父とおなじで、まったくやってないつもりなんだよな。けど、発狂的な意地でこだわってこだわって、こだわって、こだわって、やって、絶対にゆずってくれない。ゆずってないのに、「ゆずってやった」と思っている気違い。頭がおかしい。

みんな、家族のひとりが、頭がおかしいやつだとどういう目に遭うかわかってない。しかも、家でだけておかしくなる、グレーなやつ。健常者、白。精神異常者、黒。精神病質者、グレー。時間限定、地域限定の気違い。他の人の前では、健常者で、家に帰ると精神異常者になる、精神病質者。いいかげんにしろ。気違い兄貴が家でやったことは、きちがい親父が、家でやったこととおなじ。で、親父がきちがい行為を意地になっているときの、態度なんて、健常者に囲まれて育った人には、想像もできない態度だ。もう、はなっから、わからない。そりゃ、健常者同士だって、もめごとはしょうじる。けど、精神異常者が相手のもめごとは、健常者同士のもめごととは、質的にちがう。

2017年9月8日金曜日

金を儲けて豪遊したい

体力があれば外の仕事もやりたい感じはあるのだけど


まったくもって無理だ。

それにしても、つまらない。なんか大きなことをやらかしたいな。
もっと、どかんと金が儲かるようななにか……。

金を儲けて豪遊したい。ずっとやりたいわけじゃない。人生の中でそんな時期が一週間ぐらい……いや一ヶ月ぐらいあってもいいじゃないか。

そもそも、ぼくはまじめすぎた。くそまじめな性格でただでも楽しめないのに、ヘビメタ騒音がはじまってしまった。こんなんじゃ、楽しめるはずがない。すべてが苦行になってしまう。どんなささないことも……。どんなささいなことも……。本来楽しめることですら、くるしいくるしい苦行だ。

ほんとう、ヘビメタ騒音ですべてが狂った。

どの時期を思い出しても、ヘビメタ騒音でさみしくて、腹立たしくて、不安で、憂鬱だ。どの時期を思い出しても、ひきつって、疲労している。あんなの、「たのしめる」はずがない。ずっと、死にたかったよ。
いまも、死にたい気持ちはある。しかし、死ぬわけにはいかない。ヘビメタ騒音にやられっぱなしで死ぬわけにはいかない。けど、ほんとうに、すべてのことが雲のまた、雲の、向こうなんだよ。

ヘビメタ騒音のなかで、がんばりきっている状態

起きたけどつまんないな~~
どうしたものか。

どうしてどうして。

あああ。つまんない。

まあ、起きれた。
通販のあれがきた。(食料といろいろ対策物)
暑い。
けど、クーラーが必要なほどではない。

通販ゲットか。もうすでにいいことが起きた。
起きた起きた。

紅茶、飲んだ。
あじは、微妙だな。
まあ、いつものあじだけど、あんまりうまく感じない。
けど、紅茶を飲んで、喉の渇きがちょっとは、おさまる。

よきことかな、よきことかな。

全体的に元気はないな。
ヘビメタ騒音以降やはりくるしい。
そこで、嘘は書けない。
元気がないのに、「元気だ元気だ」と言って、元気になるかとう問題。俺は、何百回も何千回もトライしたが、元気にならなかった。やはり、ヘビメタ騒音があるとどうにもならない。(トライしたときヘビメタが鳴っていた)これは、あたかも、毒ガス室のなかで、「元気だ元気だ」と言っているようなものである。「ちょっと運動をすれば元気になる。俺は、元気になった」……そういうふうにアドバイスしてくれる人もいるだろう。けど、これも、毒ガス室のなかで運動しても、元気になれないのとおなじで、元気になれない。みんな、午後一一時一〇分までの激しいヘビメタ騒音を経験してない。七時間から一四時間のヘビメタ騒音でどれだけの毒がたまるか。一日に、浴びている量、不可避的につかれる。このつかれが、強烈で異質だから問題がある。「深呼吸をすればいい」。これも、毒ガス室のなかで深呼吸をしても、いいことにならないのとおなじでいいことにならない。ヘビメタ騒音が七時間から一四時間鳴っているという事実のほうを動かさないで、俺がどうにかしようとしても、ほんとうにむだだった。けど、他の人からすれば、「こうすればいい」「ああすればいい」と言っているのに「エイリがやらない」ということになる。「否定ばかりだ」などと言われる。けど、ほんとうに、きつい。だいたい、そういうアドバイスをしてくれる人は、知識ではヘビメタ騒音で困っているということを知っているけど、実際に、ヘビメタ騒音を浴びてこまっているわけではない。ヘビメタ騒音のほうを動かさないで、俺がどうにかするというのは、無理だった。ぼろぼろにつかれた状態が、ヘビメタ騒音のなかで、がんばりきっている状態だ。けど、ヘビメタ騒音のことを知らない人たちは、そんなことはわからない。ひとことで言えば「さぼっている」ようにみえる。「たいしたことないな」と思われる。ヘビメタ騒音がなければ、

2017年9月7日木曜日

「いま現在こまっている人」をまちがった理論でせめない

だいたい、イチローは、『自分のこの夢は実現する』と思っていたかもしれないが、『すべての人の思いが、実現化する』と思っていないかもしれない。

彼が本当のところどう考えているのか、俺は知らない。

けど、イチローの場合、『すべての人の思いが、実現化する』とは考えてない可能性のほうが高い。野球の選手になると言っていた友達が、野球の選手にならずに、あるいは、なれずに、自分の前を去って行くということがあったはずだから。

『自分が野球選手になる』と考えることと『すべての思いが実現化する』と考えるのはまったく違ったことだ。これ、ほんとうに自分のいまの思いが実現化するということでいいんじゃないかなと思う。しかし、『思いは実現化する』というのは、実は、そういうことを言っているのではない。

かならず、一般化が起こる。『思い』というのは、『思い』の全体集合だ。だから、『思いではないもの』は含まれない。

なので、「思いは実現化する」と「すべての思いが実現化する」は意味的にはおなじだ。「思い」はだれの「思い」でも、「思い」なので、「すべての人の思いが実現化する」と言っているのと同じ意味になる。「思いは実現化する」と「すべての人の思いが実現化する」意味的に等価なのだ。

たとえおなじように「思いが実現化する」と言ってもその言葉にこめられた意味がまったく違う。

「自分のこの思いが実現化する」という言葉と「すべての人のすべての思いが実現化する」という言葉は違う。

つまり、ただ単に「思いが現実化する」言った場合、省略しなければ「自分のこの思いが現実化する」ということを意味している場合と省略しなければ「すべての人のすべての思いが実現化する」ということを意味している場合がある。

おなじ言葉でふたつのまったくちがったことを言える場合、そこらへんはあいまいにしておいて、理論をつなげることができる。おなじ言葉が使われているにもかかわらず、厳密なことを言えば、そのおなじ言葉が持っている意味がちがうのだけど、普通はそのことに気がつかない。おなじ言葉が使われているので、おなじ言葉が持つ意味内容がちがうということに注意がむかない。

スピリチュアリズム世界の人たちの言説?意見?理論?は、「すべての人のすべての思いが実現化する」という言説?意見?理論?なのだ。だから、イチローの思いが現実化したにしろ、最初から言っていることがちがう。

ほんとうに、「自分がなになになる」と思ってがんばっている人のことは、応援する。それは、まちがいじゃない。是非ともなってほしい。けど、「すべての人のすべての思いが実現化する」という理論を持ち出して、「いま現在こまっている人」をまちがった理論でせめないでほしい。

ぼくが言いたいのはここだ。「いま現在こまっている人は、こまっている状態を想像したから悪いんだ」「こまったこまったと言うから、こまっているんだ(こまった状態になるんだ)」と、言う人たちがいる。

この人たちは、たいていの場合、その人がこまっている原因について、まちがった考え方を持っている。少数ではあるけど「こまったこまったと言うからこまった(気分になっている)ひと」がいるかもしれない。その場合は、原因が当たっている。なので、この場合は!「こまったこまったと言うから、こまっているんだ(こまった状態になるんだ)」という理由付けは正しい。

しかし、それは、ごく少数だ。他の原因でこまっている人のほうが多い。これは、自己暗示で、すべてを語ろうとする人たちがおちいる誤謬だ。他の人の状態について、まちがった理論を使って、まちがった説明をする。けど、その人にとっては、正しい理論なのである。まちがった理論で説明されると、実際に、不愉快に思う人がいるということは、精神世界の人ならわかるよね。

『自分のこの思いは現実化する』で、いいんじゃないかな。世界のしくみとかそういうことは、考えなくて良いんじゃないかなと思う。

けど、世界のしくみをいちおう説明したあとに、だから、『あなたの思いは実現化する』と説明するのが、暗黙のルールみたいなものだから、やっぱり、副産物として『すべての思いが実現化する』という考え方が出てくる。自分のだけについて語るならいいけど、いま苦しんでいる人について語るとなると、だいぶ問題がある。

ある病気になって苦しんでいる人がいるとしよう。その人に向かって「その病気になることを想像したから、その病気になったんだ」とか「その病気が治るところを想像しないから、その病気が治らないんだ」とか「その病気が進行するところを思い浮かべたから、その病気が進行してしまったんだ(より悪くなってしまったんだ)」とか言うのは、問題がある。そうじゃない場合が多いからだ。

だいたい、その患者さんは「治るところを思い浮かべている」かもしれない。というか、思い浮かべるだけなら、何万回だって思い浮かべたかもしれないのである。けど、実際に治ってないなら、それは、思い浮かべなかったということになる。「思いはすべて実現化する」と考えているひとにとっては、そういうことになる。

なぜなら、「思い浮かべたなら、治っているはず」だからだ。「治っていないなら、それは、思い浮かべなかったからだ」ということになる。そういう自動思考が働く。まあ、これ関しては「うまく思い浮かべることができなかった」というような言い方になる場合がある。ようするに『思い浮かべる』ときの『思い浮かべ方』が悪かったから、治らないという理屈だ。

けど、これは、アトダシしだ。

「思ったら」思い方に関係なく、治るはずなのである。思ったことは、すべて現実化するわけだから。なので、やはり、思ったにもかかわらず、その病気が治ってない人は、思ってない人だということになる。

そういう決めつけが患者さんのほうじゃなくて、精神世界の人の頭の中に、発生してしまう。けど、それは、『思い浮かべた』という患者さんの証言とは矛盾する。

そうすると、『うまく思うことができない人はダメだ』というような選別理論が発生してしまう。

そういう選別理論にとりつかれた精神世界の人は「うまく思い浮かべることができる人はドンドン良くなって、うまく思い浮かべることができない人は、ドンドン悪くなる」などと言ってしまう。


そして、「うまく思い浮かべるには、どうしたらいいか」ということが、その人のキャッシュポイントになる。「自分のセミナーで説明するからセミナーにくればいい」とかそういうことになる。そのセミナーがまた、高額セミナーだったりする。

まあ、普通の経済活動の範囲に入るセミナーなら問題がないだろう。高額セミナーは、まあ、避けた方がよいのではないかと思うけど、高額セミナーに行く人の自由だ。けど、高額セミナーに出席する金がない人に、借金をすすめるところは、あんまりいい感じはしない。ぼくは、そういうところはよしたほうがよいと思うけど、借金をしてでも、高額セミナーに出席したい人の自由を束縛することはできない。成功する可能性は、ゼロにちかいけど、ゼロではない。

けど、ひとつだけ注意しておいた方がいいことがある。最初は、なんと言っていたかに注意しておいた方がいい。最初に『思いは実現化する』ということを言っていたのであれば、『思い方』『思い浮かべた』についてセミナーを開く人は避けたほうがいい。

『思いは実現化する』というのは、いままでみてきたように『すべての思いは現実化する』あるいは『思はすべて現実化する』ということと意味的に等価なので、『思い方」『思い浮かべ方』に関係なく、実現化される。……ということになる。

なので、最初の主張と、『思い浮かべ方』について語ったあとの主張はちがうということになる。思い浮かべたことは、いいことも、悪いことも、現実化するのである。もちろん、『思い方』『思い浮かべ方』に関係なく現実化する。

へたくそな思い浮かべ方だと現実化しないけど、うまい思い浮かべ方だと現実化するなんてことはない。思ったことは、いいことも、わるいことも、へたくそな思い浮かべ方でも、うまい思い浮かべ方でも、かならず、現実化する……これが、その人の最初の主張だから、『思い方』『思い浮かべ方』を持ち出したあとの主張とは、主張自体が異なるということに注意してほしい。


   *   *   *

ほんとう、なんでぼくがこんな受けないことを言わなければならないのか?

2017年9月6日水曜日

「思いは現実化することもあるし、現実化しないこともある」

わりと重要なことを言っているのに、あんまり評価されないな。
ほんとうは思ってないけど、儲かりそうなことをいえばいいわけか。


もし、ヘビメタ騒音が一〇年以上続かなければ、俺も、スピリチュアリズムみたいなことは言えた。親父だけなら言えるんだよ。けど、兄貴のヘビメタ騒音がずっと続くと言えなくなる。スピリチュアリズムや認知療法的な建前は、ぼくを苦しめた。「そうじゃないから」くるしいんだ。「そうじゃないから」こまっているんだというのがあった。

基本的に、個人の不幸の量というのは、差がある。これは、感じ方の問題ではなくて、「神様的な視点に立った場合そうだ」ということだ。もちろん、神様的な視点に立つことは、完全にはできないので、そういうことを想像していった場合、そういうことが言えるのではないかということだ。神様的な視点に立つということは、神様にならなければできない。『神様』ではなくて『神様的』と書いてあるわけだが、おなじだ。

主観のなかで、神様的な視点に立った場合の話をしているだけだ。これは、ぼくだけではなくて、他の人もそうだ。神様ではないのだから、ほんとうに主観を離れて、神様的な視点に立ってものを言うということはできない。

思いはすべて現実化すると言った方が、思いは現実化することもあるし、現実化しないこともあるというよりも、うける。どうしてかというと、そういうふうに言ってほしい人が大勢いるからだ。理論的な必然ではなくて、ただ単に「思いはすべて現実化する」と言ってほしいだけなのだ。

よく、イチローの話が出る。

「イチローは小さいころ、野球選手になると言った。まわりの大人は信じてくれなかった。けど、彼自身(イチロー)は信じていたので、野球選手になれた。だから、思いは現実化する。だから、あなたの思いも現実化する」
というようなことを言う。

「思うこと」が先で、結果があとだというのは、わかる。想起しなければはじまらない。しかし、小さいころ、「野球選手になる」と言ったのに、けっきょくは、野球選手になれなかったひともいる。一例を出して、「すべてそうだ」と言ってしまうところに理論的な誤謬がある。

イチロー→なれた
思いは現実化する→正しい
なので、
あなたの思いも現実化する→正しい

という理論の展開は、一例を一般化しているだけだ。
一例を出して、一般化するという方法で、まったく逆のことを言う場合について考えてみよう。


Bさんは小さいときに「野球選手になる」と言った。(事実)
Bさんは、野球選手になれなかった。(事実)
だから、思いは現実化しない。(一例を一般化)(すべてこうだ)
だから、あなたの思いも現実化しない。(一般化したあと、一例にもどる)(すべてこうだから、あなたの場合もこうだ)


理論の誤謬がわかるだろう。そして、そういう理論の展開に抵抗を感じるのではないだろうか。「Bさんはなれなかったかもしれないけど、俺はなる」とか思ったりしないだろうか。理論の展開のしかたはおなじだけど「なれた」ほうはここちよくて、「なれなかった」ほうはここちがわるいのではないかと思う。これは、たぶん、「あなたの思いも現実化する」と言ってほしいからだろう。ここちがよい場合は、理論の誤謬なんて気にしない。

「思いは現実化する」と言っているけど、「思いはすべて現実化する」と言っていることとイコールなので、「思いは現実化する」のところでいきなり、普遍的な原理について言及していることになる。「思いは現実化する」というのは「例外のない普遍的な原理」なのである。

だから、「あなたも」と次の言葉を加えることができる。

思いが現実化するかどうかは、ちょっと考えてみればわかる。

「思いは現実化することもあるし、現実化しないこともある」が正しい。
しかし、そんなことを言ったら、身も蓋もない。自分は絶対に成功すると思いたい人が、「あなたは絶対に成功する」と言ってほしくてそういう本を買うのだから、『思いは現実化する』というタイトルの本の方が『思いは現実化することもあるし、現実化しないこともある』というタイトルの本よりも売れる。

しかし、ここでいちおう考えてみる必要があることについてちょっと言っておこう。イチローはそういう本を買って読んだのだろうかということだ。イチローは「自分は絶対に野球選手になる」と思って、ひたすら、野球の練習をしたのではないだろうか。イチローのような人は、確信しているので、むだがない。そんな本を読む必要がないのである。

そういう本を読む人は、確信がたりない人なのである。そういう本を読む人は、だれかに「絶対に成功する」と言ってほしい人なのである。繰り返しになるけど、それは、「絶対に成功する」という確信がどこかで欠けているからだ。


おもしろくない。限界だ。

おもしろくない。限界だ。
こんな人生あるか?
ヘビメタ騒音がはじまってから、地獄だ。
全部、くるしい。

2017年9月5日火曜日

「よそ」では、普通に普通の人になってしまう

きちがい兄貴の態度があまりにも異常なので、他の人にはわからないという部分がある。これは、親父の態度があまりにも異常なので、他の人にはわからないという部分があるということとおなじだ。

けど、きちがい兄貴にしても、自分の異常な部分はというのは、わからないままなのだ。だから、いまでも、「悪いことはしてない」と思っている。いまでも、「迷惑行為は特にしてない」と思っているだろう。主語は、きちがい兄貴は、……だ。きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音について、特に悪いことだと思ってないという意味だ。

しかし、そのヘビメタを、よそのうちでは、一日に一分だって鳴らせない。嫁さんや嫁さんの親がこわいからだ。「よそ」では、普通に普通の人になってしまう。そして、「よそ」で、普通に普通の人になっているときは、気違い的な意地で気違い的な迷惑行為をしないのである。

しかし、「うち」では、自分が好きなだけ、好きなときに、好きなように、迷惑行為をすることができて、あたりまえなのだ。「よそ」のうちでは、一日に一分だってやることを控える迷惑行為を、うちでは、一日に一四時間やっても、まるで悪いと思わない。……こういうところがある。

前文の主語は、きちがい兄貴で、きちがい兄貴は、こういうところがあるという意味だ。いちいち、主語について書くとめんどうなので、主語が推測できると思う部分に関しては、主語を書かない場合がある。主語の問題はいいとして、きちがい兄貴の問題にもどる。

これ、ほんとうに感覚自体がすっかり入れ替わっていて、同一人物とは思えないほどの差がある。この、「うち」と「よそ」で態度が違う精神異常者については、絶対にもっと研究する必要がある。というのは、こういう人が家族の一員であった場合、家族は、強烈に不愉快な思いをさせられるからだ。そういう家では、やったものがちになっている。

しかも、やっている方は、「やったつもりがない」ままなのである。これは、やっているさいちゅうも「特にやっているつもりがない」状態を維持している。そこが精神異常と言いたくなる部分なのだけど、他の人にはこの部分がわかりにくい。強烈な意地でやっっていることは、全部、やってないことなのである。そういう感覚が、強く強く成り立っている。


だから、話しが一切合切つたわらないというところがある。そりゃ、「やってない」つもりなのだから。強情にやっていることなのだけど「やってない」つもりなのだから。

こういうふうに言うと、おかしく感じるかもしれないけど、感覚をずらせばいい。感覚をずらせばそれは成立する。たとえば、ほんとうは九〇デシベルのでかい音で鳴らしているのだけど、こんなのは、二五デシベルぐらいの小さい音だと思えば、九〇デシベルで鳴らしていても、「特にでかい音で鳴らしているわけではない」「だから、騒音で迷惑をかけているわけではない」と思える状態が成立する。

たしかに、ヘビメタは鳴らしているけど「でかい音で鳴らしてはいない」という現実認知が(きちがい兄貴の中に)成り立ってしまうのである。そうしたら、一日に一四時間鳴らそうが、かまわないわけで、「文句を言ってくる相手がおかしい」という主観を持つことができる。

もっとも、実際に鳴らしている音の認知は、無意識的なレベルでは、正常であるらしく、そういう特殊な認知が成立するのは、「うち」だけなのである。ようするに、よそでは、九〇デシベルの音が九〇デシベルに聞こえて、うちでは、九〇デシベルの音が二五デシベルに聞こえてしまうということだ。

これは、「鳴らしたい」という気持ちが働いているときの話しだ。「うち」で、「でかい音で思いっきり鳴らしたい」という気持ちが無意識的に働いているときは、無意識的に、そういう認知が成り立ってしまうのである。

だから、主観的には、また、意識的には、ほんとうに二五デシベルぐらいの音で鳴らしているつもりなのである。だから、「どれだけ言っても通じない」「どれだけ言っても、やめない」「どれだけ言っても、自分が迷惑行為をしていると言うつもりがもてない」という状態が成り立つ。

しかし、無意識的には知っているので「よそのうち」で九〇デシベルの音で鳴らすということはしないのである。しかも、本人は「うち」と「よそ」で自分の態度が違うということに、どこまでも、気がつかない。自我にのらないのである。

だから、「うち」でやったことは、問題がないことだといまでも思っているわけである。自分が弟の人生を破壊したというつもりがまったくない。「そんなの知らなかった」で、すんでしまうような小さいことなのである。きちがい兄貴のなかでは……。いや、きちがい兄貴のなかでは、むしろ、「静かにしてやったのに……弟がガンガン文句を言ってる」と思っているわけで、むしろ、自分が被害者なのだ。

「自分が、どういう思いをしたと思っているんだ」と思っているかもしれない。ほんとうに「やったつもりがない」のであれば、そういうことも、可能だ。じゅうぶんに考えられることだ。ほんとうに、腹立たしい。頭にくる。こういう態度で、鳴らしやがったんだよ。絶対の意地で、鳴らすけど、自分はなにもしてないと思っている。

それなら、親父だって、ハンダゴテのことで兄貴に迷惑をかけてないと言える。きちがい兄貴は、きちがい親父が、どんだけ意地になって否定したかわかっているよな。

そして、きちがい親父が「そんなことはしてない」とか「否定なんてしてない」とか「ちゃんと出してやった」とか「協力してやった」と言ったら、どう思うんだよ??? きちがい兄貴ときちがい親父はまったくおなじ精神構造なので、きちがい親父が兄貴にしたことを、そっくりそのまま、弟にした……のだけど、……自分(兄貴が)弟にしたということは、これまた、きちがい親父とおなじ精神構造で、わからないのである。

否定する。

わからないまま、否定する。

何十年経っても、わからないままだ。精神的には当時とおなじなのである。うちでやったことに関しては、「うち」にいるときとおなじ精神構造が成り立っている。感じ方が成り立っている。解釈のズレが成り立っている。感覚のズレが成り立っている。知覚のズレが成り立っている。認知のズレが成り立っている。認識のズレが成り立っている。生きている限り、永遠にそうなんだろな。

だから、兄貴が生きているあいだは、兄貴は自分がしたことが、わからないままなのではないかと思う。そして、死んでからもわからないのだから、ほんとうに永遠にわからないままなんだろうな。


2017年9月2日土曜日

『ヘビメタ騒音の午後』のだるい、しんどい感じ

記録として書いておきます。

だるい。やっぱり、だるい。しんどい。
このからだの感じはいいようがないな。『ヘビメタ騒音の午後』なんだけどね。『ヘビメタ騒音の午後』のだるい、しんどい感じなんだけどね。他の人には、わからない。

しんどい。しんどいけど、無理して、体を動かしたとしよう。たとえば、外に買い物に行くとか。で、まあ、よその人はそういうことをやたらとすすめるけど、あんまり、よくないんだよね。やったとしても、しんどい。くるしい気持ちのまま動いている……ということになる。で、帰ってきても……なんて言うのかな……すすめる人たちがいうほど、いい効果がない。すすめる人たちとのあいだには深い溝ができてしまう。そりゃ、ちょっとは気分転換になることもある。けど、なんて言うのかな……すすめる人が想定している『良い効果』が続かない。すすめる人は、自分がやってみたら良かったからすすめるわけだよ。だから、良い効果の分量がわかっている。言っている場合、その自分においておとづれた良い効果が、良い効果の分量?として設定されている。たぶん、ヘビメタ騒音生活の有無が影響を与えているんじゃないかと思う。

ものすごくつまらないと感じている同士へ

つまんない。
これは、ものすごいつまんなさだ。
つまらなくて死ぬことがあるだろうか?
いや、つまらないという理由では死なないだろう。どうしても、からだは生きようとする。

つまらないって書くけどさ、気にしないでね。俺がつまらないだけだから。「つまらないつまらない」と書くからつまらないんだとか、そういう言葉はいらない。そういう言葉はもう、どれだけ傷つけられてきたかわからない。まあ、ヘビメタ騒音期間がなければ、それでいいんだろうけど、ちがう。「ちがう」ということを説明しても、またこれが物議を醸し出すことだから?めんどうくさい。

たしかに、つまらないけど、そういうことじゃないんだよ。

2017年9月1日金曜日

飢餓陣営の佐藤さんへ 社会的な罪と道徳的な罪 (加害者が精神異常者である場合)

それと、佐藤さんは「早く罪を償って出てきてほしい」みたいなことをぽろっと言ってたけど、これも、加害者寄りの感覚だと思う。社会的な罪と道徳的な罪みはちがう。「罪を償う」と言ってもそれは、社会的な罪を償っただけで、道徳的な罪は償っていない。

これは、「社会」が復讐の権利を個人から、うばってしまったことから生まれてる問題だ。社会が、対処しているだけなのである。社会は、社会的な罪を問うことしかできない。社会は、加害者に道徳的な罪を問うことはできない。社会が問うのは社会的な罪だけだ。

加害者が精神異常者である場合、自分がやったことがわかってないという部分があると思う。自分がやったことについて、ちゃんとした認識がないのに、道徳的な罪を償うことができるのだろうかという問題がある。自分がやったことについてちゃんとした認識がないのだから、当然、反省することもできない。

「早く罪を償って出てきてほしい」と言ったって、そこで、償われているのは社会的な罪であって、被害者が関係している道徳的な罪ではない。「罪を償う」と言っても社会が課した罰を受けるだけだから、社会との関係はあるけど、被害者との関係はない。社会的な罪を償えば、罪を償ったことになるという感覚は、被害者にしてみれば、おもしろくないものだろうと思う。

また、佐藤さんは言ってないけど「社会的な罪を償えば、それで良い」という意見は、被害者にしてみれば、おもしろくない意見だろうと思う。

そんなことをちょっと感じました!!!!

なお、社会的な罪というのは、社会的な意味での罪ということです。道徳的な罪というのは、道徳的な意味での罪ということです。




   *   *   *

あと、認定心理士のあの原稿に関しては、ほんとうに最初に書いたことが、すべてで、しつこくせがまれた?あとに書いたことは、投げやりになって、書いたことだから自分でも、あんまり当たってないと思います。あの原稿に関しては、ほんとうに、最初の感想以外のことは感じてなかった。けっこうしつこく「言いたいことがあるなら言え」と言われたので、不愉快な気持ちになって、あんまり自分も思ってないことを書いた。「なにか言いたいことがあるんだろ」とおっしゃっていましたが、「言いたいことは」うまく文章にすることができなかったけど、あった。そのなにか言いたいことというのは「ヘビメタ騒音のこと」「親父のこと」「兄貴のこと」「無職の現象学」に書いたこと、「引きこもりの現象学」に書いたこと、であって、認定心理士のあの原稿についてではないんです。ほんとうにあの原稿に関しては、正直言ってしまうと、どうでもよかった。話に出てくる人のことも、その認定心理士のこともどうでもよかった。ぼくが言いたいことというのは、主に「無職の現象学」に書いたことと「引きこもりの現象学」に書いたことだから、そっちほうをよろしければ読んでください。

   *   *   *
今回の話しとは関係がないことですけど、
市場経済社会における労働について考えるならカール・ポランニーの『大転換』『経済の文明史』は、必読書だと思う。労働と書いたけどこの場合の労働というのは「働くということ」と同義です。

「つたわらなかった」ということもつたわらないんだよ

あ~、頭がモヤモヤする。
あ~~、あの子と幸せに暮らせば良かった。
あの子と、つきあっておけばよかった。


きちがいヘビメタが鳴っていて、死にたいほどつらかったけど、あの子とつきあっておけばよかった。親友とのあいだに起こったようなことが起こって、ケンカ別れするかもしれないけど、それでも、つきあっておけばよかった。親友とのあいだに起こったことって、ヘビメタ騒音関係のことだから。ヘビメタ騒音が長すぎる。期間的に長すぎる。

そりゃ、「いいかげん、どうにかなってくれ」と言いたくなるだろう。

ほんとうに、自分のことのように、親身に心配してくれたわけだから。事情を知っている人なんだよ。一〇年来の事情を知っている人なんだよ。きちがい兄貴は、「まったくやったつもりがない」んだよな。入学試験前の冬休みに、一日に一三時間鳴らしても、まったく悪いと思わない。

あれ、ほんとうに、親父と頭の作りがおなじだった。いっくらなんでも、うるさい音で鳴らしていることには気がついていると思ったけど、ほんとうに「こんなの、たいした音じゃない」と思って鳴らしてたんだな。頭がおかしい。

それから、ほんとうに一デシベルでもゆずってやったら、ゆずってやったことになってたんだな。一〇〇デシベルで鳴らしていたとして、一デシベルさげて九九デシベルにしても、でかい音にはかわりがないんだよ。九九デシベルは爆音なんだよ。

これがわかってない。

一デシベルでもさげてやったら、「静かにしてやった」のだから、問題がないと思って、一三時間、ドカスカ鳴らす。ヘビメタを鳴らしている兄貴の友達が、「こんなでかい音で鳴らしたことがない」と言うほど、でかい音で鳴らしても、なんとも思わない。

しかも、言われてないから、「なんとも思わない」わけじゃない。何千回、何万回言われても、なんとも思わないままなんだよ。これは、ほんとうに、ハンダゴテ事件の日を何千日も繰り返しているようなことなんだよ。きちがい兄貴にわかるように言っておくとそういうことだ。

けど、一四年間、どれだけ言われてもわからなかったわけだし、そのあと、どれだけ、こういう文章を送られても、ずっと、わからないままなんだよ。二〇年三〇年、わからないままだ。一切合切、つたわらない。

だから、「鳴らしている」時も、そういう感覚で鳴らして、なんとも思わなかった。入学試験前に、一〇時間鳴らせるなら一〇時間鳴らすわけで、それで、なんとも思わないんだよな。

むしろ、「静かにしてやった」と思ったりする。具体的な内容は、こっちがどれだけなにを言っても、兄貴の友達が「こんなでかい音で鳴らしたことはない」と言うほどでかい音で、一日中鳴らし続けるわけだよ。

けど、本人は、五分間ぐらい、一デシベルさげて、もう、じゅうぶんにさげてやったつもりになっている。「静かにしてやった」と思っている。「静かにしてやった」と思ったまま、爆音で鳴らす。絶対に聞かない。親父の態度おなじなんだよ。何度でも言うけど、親父がハンダゴテを押し付けても、押し付けたつもりがないのとおなじ。

押し付けた途端に関係がない人になって、まったく関心がなくなる。関心がなくなるなら、「これは使えない」と言ったら、それを認めてくれるのかというと、そうじゃないんだよ。一回目の、否定とおなじ否定が返ってくる。

で、ほんとうに爆発して、怒り狂って認めない。これも、何十万回繰り返したっておなじなんだよ。うちで、うちの人に言われている限り、おなじ。ハンダゴテは、二回で済んだけど、もし、お母さんがハンダゴテを買ってやらなかったら、ずっと続く。

相手が学校で困るということを認めない。認めないとなったら、発狂して認めないわけで、何十万回言われても、「知らないまま」「認めないまま」おなじことを繰り返す。

で、こういうことをやられて、兄貴が育ってきたわけだけど、兄貴が、ヘビメタでしつこく何万回もやっていることは、親父が兄貴にしつこく何万回もやってきたこととおなじなんだよ。

ヘビメタ騒音で、相手(俺)がこまっているということは、どれだけ何十万回言われても、認めない。自分がやってやりたいことをやってやれば、それで、問題解決というか、一切合切関係がない人になってしまう。

きちがい兄貴の場合も、一デシベル、五分間でも静かにしてやれば、それで、静かにしてやったことになってしまう。親父は、金をかけたくないので、ハンダゴテを物置から出してやれば、それで、問題が解決したと思って関係がない人になる。

どれだけ「使えない」と言っても認めない。「自分が思いついたことをしてやれば、それでいい」と思っているところがあって、自分が思いついたことをやってやるだけなんだよ。

それがどれだけ無意味なことでも、やってやったら、すごいことで、もう、一切合切関係がない人になっている。「使えないからこまる」と言われても、親父のなかでは、永遠に「使えるハンダゴテ」なのである。で、それは、相手にどれだけ言われても、ひっくり返らない。

きちがい兄貴の場合も、五分間、一デシベル静かにしてやれば、それで、問題が解決したと思い込む。

もう、静かにしてやったから関係がないのである。

だから、「もう、静かにしてやったから関係がない」という気持ちになって、そのあともずっと一三時間、鳴らし続ける。こまるので、一日に何回も、「もうすぐ入試だから静かにしてくれ」と言いに行くけど、きちがい兄貴は「もう、静かにしてやったつもり」なので、「静かにしてやったのに、あとからあとからなんだ!」と怒り狂って、絶対の意地で、気違い的な音のでかさでヘビメタを鳴らし続けるのである。

けど、気違い的にでかい音でヘビメタを鳴らし続けても、「もうすでに静かにしてやったのだから問題がない」ということになってるのである。

そもそも、ほんとうは、きちがい兄貴ですら「よその家では一分ですら鳴らせないような」でかい音で鳴らしているのに、うちにいるきちがい兄貴は、その音を「普通の音」で「どれだけ長く鳴らしてもいい音」だと感じてしまうのである。

これも、きちがい親父が理由に関係なく!「このハンダゴテは使える」と思ったら、どれだけ言っても、つたわらないのとおなじで、きちがい兄貴が一旦「普通の音だ」と決めつけてしまったら、どれだけ何万回言っても、(実は非常識なでかい音だというとが)つたわらないのである。

で、「つたわらなかった」ということもつたわらないんだよ。で、そういう構造で、まったく迷惑をかけているつもりがないまま、頑固に、入試の前だろうが、鳴らし続ける。その日一三時間四〇分鳴らせるのであれば、一三時間四〇分、気違い的な意地で、すべての時間、普通のうちではあり得ないほどでかい音で鳴らし続ける。

その日、六時間三〇分鳴らせるのであれば、何回も何回も「静かにしてくれ」と言われても、六時間三〇分は、普通のうちではあり得ないほどでかい音で鳴らし続ける。そういうことをしても、「まったく悪いことをしたとは思わない」。そういう特徴がある。システムがある。感じ方のシステムがある。常に毎日、そういう態度なんだよ。

それで、一四年間通したら、一五年目には「そんなんじゃない、そんなんじゃない」「知らなかった」「やってない」と言い出す。これも、きちがい親父とおなじなんだよ。コピーなんだよ。全部全部おなじ。

どれだけ、俺が他の人から誤解されると思っているんだよ。そういう人がいるということがわかってない常識的な人から、いろいろと誤解される。「働けるのに働いてない」というのも、そういう誤解のうちのひとつだ。

「入学試験が近づいているのに、勉強しないなんて、なにふざけてるの?」「入学試験に遅刻するなんて、頭がおかしいんじゃないか」「入学試験が近づいているのに夜更かしをするなんて、入学試験をなめている」「夏休みが四〇日ぐらいあるのに、どうして、宿題をやってこなかったんだ(ふざけている)」「そんな、三五歳になって、アルバイト以外の職歴がないなんて、人間としておかしい」というのもそういう誤解の例だ。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。