2018年9月25日火曜日

これからどうするかな?


これからどうするかな?



午後一一時五九分。こんな時間に起きてしまってよいのかどうかわからない。夢をまた見た。風呂のことで、気違い兄貴をなぐろうとしているところで目が覚めた。







オウム返しに正反対のことを怒鳴るのである

つまんないなぁ~~



これから、寝るよ~~







今日はなんか、図書館に行ってた頃の雰囲気だな。こういう雰囲気の日曜日、図書館に行ってたよ。あの頃は、まだ、友達とつきあってたな。けど、その時ですら、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃなんだよ。僕のこころは。みんなわかってない。わかるわけがないか。実際にやられなければ、どれだけ、たたるかわかるわけがない。言われるのと経験するのはちがうからね。そりゃ『騒音がうるさかったんだな。それでつらかったんだな』ということはわかるかもしれないけど、ぼくが経験したのはそういうことではない。理解できることではない。実際にやられてみれば、どれだけの「しばり」になるかわかるよ。本当にゼンブガゼンブ、だめになる。これは、行きすぎた一般化なんだけど、ゼンブガゼンブと言っていいほど、だめになる。すべてにたたる。だから、かならずしも、イ・ラショナル・シンキングとは言えない。それは、生活全部に影響を及ぼすので、『ゼンブガゼンブ、ヘビメタ騒音でだめになる』というのは、真実なんだよ。わからないとは思うけど……。そして、気違い兄貴の態度が、気違い親父の態度とおなじだというのが、最大の問題だ。これは、他の人には……ヨソの人には、まったくわからないことだ。『親父の態度』事態がわからないからな。けど、気違い兄貴は、親父にやられて親父の態度がどういうものかわかっているんだよ。ただ、親父の場合、自分が気違い的な意地でやったことは、全部、やってないこととして認識するという気違い的な認識方法がある。この認識方法が兄貴にも成り立っているので、気違い兄貴が、顔を真っ赤にして、気違い的な意地でやり通したことは、本人にとっては「やってないこと」になっている。「そんなんじゃない」と認識している状態が、ずっと成り立つ。成り立っている。いまも、そうだ。やっていた当時もそうだ。やっていた当時、現在進行形で、「やったってやってない」という認識が成り立っているのだ。こんなのは、ない。そういう人が、閉鎖病棟に収容されていないということはないと考える人にとっては、俺が嘘を言っていることになる。けど、ちがうんだよね。まさしく「やってないこと」なのだけど、それは、相手に「やった」と言われたときだけそう思うことなのである。あとの時間は、「やったとかやってないとか、そういうことは、一切合切関係がない」という認知が成り立っている。だから、「やったのはやった」のだけど、「やったってやってないのとおなじ」なのである。はじめから、その通りに受け取ってない。兄貴の場合は、『本当はデカイ音で鳴らしている』のだけど、『デカイ音で鳴らしている』とは認知してないのである。親父の場合は、理由がないことで怒っているのだけど、理由がないことで怒っているとは認知してないのである。で、あとは、「認めたら、自分にとって不利なことをしなければならない」という無意識側の認知があるんだよ。だから、「自分にとって不利になることは、どんなことがあっても、認めない。認めないということも認めないというかたちで認めない。だから、いつも「そんなことはない」という認知が成り立っているのである。「デカイ音で鳴らしている」ということを認めてしまったら、音を落とさなければならないのである。そして、音を落とすのは死んだっていやなので、絶対に、「デカイ音で鳴らしている」ということを認めない。これが、意識的なレベルで起こっている場合はよいのだけど、無意識的なレベルで起こっている場合は、全体の認知がゆがむということになる。デカイ音で慣らしているあいだじゅう、本人は、本当に「デカイ音で鳴らしているつもりがない」状態なのである。意識的には!! けど、よそのうちではデカイ音で鳴らさないのだから、デカイ音だということは、わかっているのである。聴力が弱いから、デカイ音だということがわからないということではない。要するに、無意識的にはでかい音だということがわかっている。兄貴にはわかっている。

やりたいときは、やっているということを「即座に否定する」ということになる。気違い親父の「なんだって反対表現」とおなじだ。オウム返しに正反対のことを怒鳴るのである。本人は「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」「なんだ!なんだ!」と怒り狂えば、それですんじゃっているのである。これ、本当にこまる。否定して怒鳴れば、それで、本人のなかでは終わっている。もちろん、やり通すし、これからも、おなじようにやるのだ。「やっている」ということを認めて「やらないようにする」ということは、ない。死んでもない。こういうルールが成り立っている「うち」の状態なんて、「よそ」のひとは、本当にわからない。だから、「よそ」の常識でものを言う。けど、それ(よその常識)は、「うち」では成り立たない。



2018年9月24日月曜日

けど、実際にそうしている。



まあ、アクセスのことなどは考えないで、書きたいことを書いてしまおう。書きたいことというのは「つまらない」ということだ。本当につまらない。なにもする気がしない。正直言って、体調が悪い。起きているだけで、つらいんだけど、横にっていてもつらいんだよね。とことん、ヘビメタで人生がなかった……そう思う。この感覚……この世のこの感覚……こりゃ、だめだ。どうしたって、こうなるんだよ。舞値にやられちゃったら……。毎日やられてわかいときの時間をうばわれれば……。あの、親父のような態度でやられたら……。本当に、気違い的な意地で、やりきるのに、気違い的な感覚で「やってない」と本気で思っているんだぞ。そういう毎日なんだぞ。そういう気違いが、横の部屋にすんでいて、壁のすぐうしろで、ばかでかいスピーカーが、ばかでかい音を出しているんだぞ。気違い親父とおなじで、本人がやっているのに、本人はまったくつもりがないという状態が「つねに」成り立っている。こんなの、ない。で、やることが、常識外れなんだよ。「よそ」じゃ絶対にあり得ないことなんだよ。しかも、本人はスイッチが入っていて、殺されなければ、どれだけ言われたってやるのに、本気で「やった」と思ってないんだからな。本人は「そんなの知らなかった」みたいな態度でずっとやりやがる。何万回怒鳴り込んでも、そういう態度がかわらない。
そうすると、スピリチュアルな人からも、攻撃を受けるんだよ。「現実は自分がつくっている」なんて、言ってくる。これは、間違っている。ベットで寝ている障害者が、ナイフで刺されて死ぬという事件があったけど、その刺されて死んだ障害者に関しても「現実は自分がつくっている」なんて、言うのかよ? これ、自分でひどいことをしているというのがわからないのかね?
ともかく、なんて言うのかな? 感覚がずれた人にやられると、一般の人は常識を押しつけてくるし、スピリチュアルな人は非常識なことを押しつけてくるんだよ。一般の人の常識というのは、間違った認識に立った間違った解釈だ。常識に従った解釈は、非常識な家で成り立っている現実を説明できない。だから、間違っている。間違っているけど、「関係がない」常識的な人にとっては、ちょっとだけ思ったことが、自分にとって正しいことであるわけで、ずれた「いえ」で成り立っている非常識なことをちゃんと理解しようとは思わない。動機すらない。ちゃんと理解してあげる、理由がない。自分の中にある「常識」を壊してまで、相手が言っている「へんなこと」を信じてあげる必要性がない。だから、俺が「これこれ、こうで、ちがうんですよ」と言ったあとも、常識的な人は「そんなことはない」と思っている状態が続く。で、それとは関係なしに、気違い兄貴が、気違い兄貴モードで、頑固に、絶対的な意地で、絶対的にうるさい騒音を鳴らす。デカイ音で鳴らすことにこだわりきって鳴らす。けど、気違い兄貴本人は、気違い兄貴の感覚に基づいて「デカイ音で鳴らしているつもりがない」という状態が成り立つ。毎日毎時間、ずっとそうやって、「つもりがないまま」鳴らし続ける。どれだけ「やめてくれ」と言われても、無視して鳴らし続ける。けど、鳴らしたつもりがない。ずっと鳴らしているのだけど、鳴らしているつもりがない。本人がずっと、そういう感覚を持っているのであれば、現実を無視して、ずっと、そういう感覚を持っているのである。これが、腹立たしい。親父もおなじなんだよ。大家である親父がおなじ感覚の持ち主。しかも、気違い兄貴がそういう感覚を持つことになった理由を、つくっている。何千回も、兄貴と同じようなことをした。気違い的な意地でやっているのに、本人は「まったくそのつもりがない」という感覚を持っている。これは、「感覚」だけなんだけど、持っている。そういう感覚を持っているということに関しては、無頓着なんだよ。「そんなことはない」ということになっている。本人の意識的な感覚では「そんなことはない」はずなのである。けど、実際にそうしている。

2018年9月22日土曜日

本当に人間ってなんなんだろうな?

あーしかし、本当に人間ってなんなんだろうな?

俺の騒音生活は苦しかったよ~~



人間の能力の差なんて本当に小さなものなのに、現実の社会ではものすごく、その小さな差が大きな差になって現れてしまうんだよな。というか、みんながみんな、その小さな差にこだわりつくして、大きな差だと感じてしまう。しかも、得意不得意なんて、分野によってちがうのに、その分野が絶対的な大きさで現れてしまうんだよな。目の前に現れる。そうすると、『格付け』がはじまる。これが悲惨なのは、自分以外の他人に対する格付けが、だれの頭のなかにもあるということだ。自分は「ぬき」なんだよ。自分を入れると、いろいろと問題がある。自分を入れた場合、自分を自分でバカにするというようなことがはじまる。こんなのはない。本当は、たいしたことじゃないのに、あたかも、重要なことだと思ってしまう。最重要案件になって、目の前をふさぐ。


   *   *   *

優雅な散歩に行ってくるかなぁ。
とぼとぼ、ひとりで歩くわけだけど、わりと、いいんだよなぁ。
あーー、ヘビメタ騒音がなければなぁ!!

散歩中も、ヘビメタ騒音のことで頭がいっぱいだ。というよりも、感覚として生きている。感覚として生きている。ヘビメタ騒音でつらくてつらくてたまらなかったときの感覚が生きている。『地続き』。これ、わからないだろうな。ちがうんだよ。たんなる、過去の記憶じゃないんだよ。ときどき思い出すような過去の記憶じゃない。たとえば、息を吸っているときは息を吸っているときの感覚があるだろ。あれとおなじだ。息を止めれば、一〇年前に息を止めたときとおなじ感覚があるはずだ。イップンカン息を止めようとした場合、最後のほうはだいぶくるしくなるだろ。俺は、イップンカンはたぶん無理だけど。その、くるしい状態というのは、たとえば、一〇年前にトライしたときも、おなじだろ。そういうことなんだよ。(まあ、イップンカン息を止めることにトライして死なないようにしてください。ぼくは責任、もちません)。

   *   *   *

気違い兄貴の態度で、ヘビメタ騒音を鳴らされ続けたら、だれもが、俺とおなじ状態になると思う。鳴らされたことがないから、認知療法家みたいなことを言ってられるだけだ。

これは、水俣病でもおなじなんだよ。

絶対的な差がある。絶対的な差というのは、『それでこまっている』か『それでこまっていないか』という差だ。こまっているのは、水俣病で言えば、水俣病患者だ。水俣病患者に「つらいと言うから、つらいんだ」というような言葉を投げかける人は、こまってない。こまっているか、こまっていないかが絶対的な差になる。

そして、たとえば、『つらいと言うから、つらいんだ』というような言葉が正しいか正しくないかは、関係がないのである。……こまってない人には関係がない。関係がないので、正しいか正しくないのかは、切実な問題にならない。

しかし、こまっているほうは、切実な問題になる。水俣病の場合、有機水銀が問題なので、『つらいと言うから』つらいと感じるというわけではない。

また、『つらくない』『つらくない』と言うことによって、つらくない状態になるかというと、ならない。それは、脳細胞から有機水銀が離れて体外に放出されるのであれば、つらくなくなるかもしれないけど、『つらくない』『つらくない』と言っただけでは、つらくない状態にはならない。

しかし、『つらくない』『つらくない』と言ったことによって、言った後、ちょっとあいだは『ちょっとは楽になった』と感じることはあるかもしれない。けど、長い目で見れば、その効果は、ないに等しい。

やはり、有機水銀の問題をどうにかしないと、楽にならない。だから、『つらくない』『つらくない』と言うことでは、根本的な問題解決にはならない。ちょっとだけ、『つらくなくなったような感じがする』と感じることがあるもしれないけど、それは、有機水銀の効果にくらべて小さい効果だ。

ここらへんが、ガンとはちがうのである。ガンは、時間の問題できれいになくなる(治る)場合がある。『治る治る』と言わなくても、治る場合がある。けど、ガンであることがわかってから、『治る治る』と言って、実際にガンが治った場合は、『治る治る』と言った「から」治ったのだと考える人が出てきても不思議ではない。ガンの場合は、わりと、可逆的な変化なのだ。

いっぽう、有機水銀のほうは、かなり不可逆的な変化で、『治る』『治る』と言っても治らない。しかし、一般には、ガンのほうが重い病気として認知されているので、ガンですら治るのだから、他のどんな病気だって治ると、思われてもしかたがないようなところがある。

これは、間違った推論なのだけど、そういうことを言う人は、そういうことを気にしないだろう。指摘されても、たぶん、納得しないと思う。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」というのは、科学的な問題ではなくて、宗教的な信仰の問題だからだ。

話を元に戻そう。実際に水俣病で苦しんでいる人にとっては「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」ということが、正しいか正しくないのかは、重要な問題だ。

しかし、水俣病にかかってない人にとっては、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」ということが、正しいかどうかは、関係がない。現実とは関係なく、その言葉が成り立ち続ける。特に、自分のことではなくて、他人のことであるならば、なおさら、そうなる。

現実を無視して!!「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」ということを信念として言いまくるということができる。現実を無視して、だれにでもその言葉を本気で投げかけることができる状態を維持できる。そりゃ、本人はいたくもかゆくもないのだから。

水俣病になっている人にとっては、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のか、治らないのかは、重要なことだ。常に、苦しみから解放される『解』を求めているのである。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」という解が正しい解なのか、間違った解なのかは重要な問題だ。そして、残念なことに、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」という解は間違った解だ。

しかし、水俣病でくるしんでいる人は、ワラをもつかむ状態なのだ。溺れている状態なのだ。だから、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」という「ワラ」をつかんでしまう。しかし、それは、くるしんでいる人を救ってくれない。間違った解だからだ。水俣病に限らず、わりと、不可逆的変化が関係している場合は、『治る』『治る』と言っても、治らない場合が多い。

だいたい、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と言っている人は、この世に病院が存在する意味がわかってない。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のであれば、病院なんて必要がないだろう。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のだから。

「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と言っている人にしたって、盲腸のような激しい痛みを感じれば、病院に行くのではないだろうか。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のだから、「『治る』『治る』」と言い続けて、病院に行かないのだろうか。

「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と言っている人は、虫歯になったと感じても、歯医者に行かないのだろうか。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のだから、「『治る』『治る』」と言うことで虫歯を治してしまうことができるのではないか。もっとも、ぼくは、そういうことにこだわって、歯医者に行かないようにするということを推奨したりはしない。だから、普段「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と他人に言っている人が、歯医者に行ってもいいと思う。





2018年9月19日水曜日

『被害者意識ばっかり』という言い方

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そう言えば、スピリチュアルな人たちは、常日頃から『引き寄せ引き寄せ』『すべては自己責任すべては自己責任』とえらそうにブログに書いている。もし、こういう事件が起こった場合、『そういう人を引き寄せてしまったからだめなんだ』と言うのだろうか。そういう人というのは、この話で言えば『犯人』だ。ベッドの上にいる人を、一〇人ぐらい刺した犯人だ。刺された一〇人は、「そういう人を引き寄せた』から悪いのだろうか。

また、『すべては自己責任』ということを考えた場合、どういうことが言えるだろうか? 『すべては自己責任』と考える人は、刺された人の自己責任だと考えるのだろう。実際そういうふうに言っている。『すべては』自己責任なのだから。

そういう施設を選んだ人が、悪いのである。そういう施設を選んだ人の責任なのである。また、こういうふうに言う人は『人のせいにしてもしかたがない』などということも言う。

少なくてもぼくは、刺されて傷を負ったということに関しては、刺した人の行為が原因なのだから、刺した人のせいだと思う。しかし、『すべては自己責任』ということを言う人は刺された人に『人のせいにするな』と言うのである。

他人の行為に原因がある場合は、『人のせいにする』というような言い方は、不自然ではないか? 

他人の行為に原因がないのに、その他人のせいだと言う場合は、たしかに、『人のせいにするな』と言うことは問題がないと思う。しかし、相手の行為に原因がある場合は、「すべて」とひとくくりにして良いのだろうか?

『人のせいにする』というのは、そもそも、ちがった原因を設定している人のみに言われるべき言葉なのだと思う。原因があっている場合は、『人のせいにする』というのは、間違った言い方だと思う。

あとは、『被害者意識ばっかり』という言い方か。自分がなにもしてないのに、刺された場合、被害者であるのは間違いがないので、被害者意識を持って当然だと思うけどな。

これも、まるで、本当は、被害者意識だけを持つべきではないのに(もかかわらず)加害者意識を持たず、被害者意識だけを持っているので、「けしからん」という抗議の気持ちがこめられた言葉なのである。加害者意識というのは、実は、過去の文脈を問題にしているのである。ようするに、被害者側が、加害者側に過去において、不適切なことをしたというような意味がこめられているのである。

それであれば……被害者になった人が、加害者に対してなにがしかの悪いことを、過去において、しているのであれば……被害者意識だけを持つのは、不適切なことだと思う。

しかし、『被害者意識ばっかり』と思う人が勝手に頭の中で、でっち上げたことなので、でっち上げた事実?に基づいて、人のことを判断しているということになる。

しかも、『被害者意識ばっかり』という言葉を使った場合、あきらかに、その人のことを批判しているのである。その人というのは、ここで言えば、刺された人のことだ。

だから、この場合は、実際に過去において、被害者が加害者になんらかのことをしたのかどうか? 過去の時点において、実は、被害者が加害者に被害を加えたという事実があるのかなのかということが問題になる。

話しはそれるが、ちゃんと、過去の事実は、判断に影響を与えている。こういう場合においても、『過去のことは過去のことだから、どうでもいい』とか『過去のことは過去のことだからこだわる必要はない。こだわる必要がないことにこだわっているのはおかしい。非合理的だ』ということにはならないのである。

「被害者意識ばかり」とか「すべては自己責任(なのだから、他人を批判するべきではない)」ということを言う人たちも、ちゃんと、他人を批判している。問題なのは、それが、架空の事実に基づいた批判である場合だ。「被害者意識ばかり」と言う場合は、実際に、被害者のほうが、加害者のほうになんらかのことをしている場合に限られる。

事実、好ましくないことを、過去において加害者に対してしているのであれば、被害者意識ばかり」をもつのは正しくない態度と言える。しかし、過去において加害者に対して好ましくない行為をしていないのであれば、間違った架空の事実を設定して、被害者を批判しているのとおなじことになる。それは、良くない行為だ。

なので、過去においてどのようなことがあったかということを問題にせずに「被害者意識ばかり」と「被害者」をせめるのは良くないことなのである。よく知りもしないくせに、「被害者意識ばかり」というような言葉の攻撃を加える人は、自分がしていることがわかってない。これでは、まるで、掲示板の荒らしではないか。

ここまで、被害者が過去において加害者に対してなんらかの悪いことをしている場合について考えてきたけど、過去において、被害者が加害者になんらかの警告をしたかどうかということも問題になるだろう。警告を怠ったのであれば、被害者にも悪いところがあり、責任の所在は加害者だけに限られるわけではないということだ。この場合は、たしかに「被害者意識ばかり」をもつのは問題があることかもしれない。しかし、無限に責任を押しつけるのは良くない。予見できることに対して、普通に警告をしたのであれば、(被害者のほうに)問題はないと考えるべきなのである。予見できないことについて、被害者が……被害者になるひとが……警告をするというのは無理なのである。なので、そういうことに関しては、予見ができることなのか、できないことなのかということが重要になる。また、予見ができることに関して警告しないのであれば、問題はたしかにあると思うが、警告したにもかかわらず、加害者側が考えをかえなかったということに関しては、無限の責任を負うと考えるのはまずいことなのではないかと思う。ここらへんも、「無限の責任を負う」と考える人たちがいるんだよな。たぶん、冒頭の「すべては自己責任」などと考える人は、「(被害者は)無限の責任を負う」と考えているのだろう。これは、どういうことかというと、過去の時点において加害者の考えをかえることができなかったのだから、(被害者にも)責任があると考えているということだ。「すべては自己責任」と考える人はおそらく、そう考えるのであろう。けど、これは、不適切だ。個人に対してそこまで責任をかぶせるのは良くない。「すべては自己責任」という人は自分に対してその言葉を言っている場合は、まったく問題はない。しかし、多くの場合、他人に対してその言葉を使っている。他人の人生上の出来事に対しても、その言葉を使っている。他人というのは、この場合「すべては自己責任」と言っている人以外のひとのことだ。「すべては自己責任」などと普段から言っている人は、やはり、他人のぶんまで、他人に対して責任を追及している。こういう人が「批判はするべきではない」「人のことを批判するのは良くない」ということを言うのは、問題がある。けど、「すべては自己責任」という言葉を言う人は「批判はするべきではない」「人のことを批判するのは良くない」と言っている場合が多い。「すべては自己責任」と「批判はするべきではない」はわりと、セットになって表れる言葉だ。批判、しているじゃないか。「すべては自己責任」と「批判はするべきではない」というルールをセットにしてもっている人は、部分的に自己撞着に陥っていると言える。



2018年9月17日月曜日

架空の事件を考えて、さらに、架空の事件に関する感想を述べてみた(こんな事件が起こらないように、事前に対策について語っておいたよ)


障碍者施設の職員が障碍者を殺してしまった事件というのを、空想の世界で考えて、その空想の世界の事件について感想を述べようと思う。

この事件について詳しく調べるつもりはないので、ちょっとした感想を述べておこう。ちょっとした感想なので、認識が間違っていることもあるかもしれない。私は、犯人の年収は知らない。わからない。そして、彼が働いていた施設で、ひとりの障碍者の生活を維持するのにどのくらいの金がかかっているのかわからない。だから、感じで言ってしまうけど、『自分は働いているのに、金がない。年収が低い。この人たちは働いてないにもかかわらず、金がある生活をしている』というような気持ちが芽生えたんじゃないかなと思う。

こういう気持ちは、働いているにもかかわらず、収入が生活保護をもらっている人たちよりも低い人たちにもあると思う。底辺の仕事は、労働強度が高く、精神労働強度(仮)が特別に高い仕事だ。精神労働強度というのは、ぼくが勝手につくった概念で、詳しい説明は、そのうち、するかもしれない。労働強度は、基礎代謝量と労働時の代謝量だけが問題になるのだけど、精神労働強度の場合は、『気苦労』が問題になる。

だから、主観的な尺度にしかならないようなところがある。精神労働強度が高い仕事では、プライドをずたずたにされるというようなことがよく起こる。底辺の仕事は、ともかく、労働強度も精神労働強度も高いのである。にもかかわらず、もらえる給料が少ない。なので、「ストレスがたまりがちになる」のである。

自分が耐えたくないことに耐え、我慢して、働いているのに、生活保護費よりも収入が低いということになれば、怒るのも無理はない。「自分は働いているのに、さまざまな点で優遇?されている生活保護の人よりも苦しい生活をしている。こんなのは不公平だ」という気持ちになるのではないかと思う。

たぶん、犯人も、同じような気持ちを持っていたのではないかなと、ぼくは思う。根拠はあんまりない。そんな感じがするというだけだ。

この問題に対処するには、介護する方の年収を上げるしかない。たとえば、ひとりの障碍者の生活を維持するのにかかる金が一〇〇だとする。この一〇〇というのは、一〇〇万円という意味ではなくて、単位がない、比較のための数字だ。

ひとりの障碍者の生活を維持するのにかかる金が一〇〇だとすると、障碍者の世話する人にはだいたい、一五〇ぐらいの金が入らないとだめなんじゃないかと思う。まあ、理想だと二〇〇なんだけど。二倍ぐらいは、世話をする人がもらったほうがいい。まあ、理想論だ。

犯人が最初から、殺すつもりで介護の道を選んだのか、あるいは、働いている途中で、そういう気持ちになったのかということだけど、たぶん、働いている途中でそういう気持ちになったのではないかなと思う。これも、『感じ』だ。

たぶんだけど、彼は「たてまえ」や「きれいごと」を真に受けてしまったタイプなのではないかと思う。介護職に就いているのだから、介護に関する教育を受けているはずだ。その教育課程で「たてまえ」や「きれいごと」を教えられた。けど、実際の介護はそういう「たてまえ」や「きれいごと」を吹き飛ばすようなものだった。

だから、自分が思い描いていた理想と現実のギャップが大きくなっていたのではないかと思う。これも、ストレスがたまることだ。まあ、むかしのはなしで言えば、『金八先生』にあこがれて教師になってみたけど、一年後、二年後には、だいぶちがった気持ちになっていたというような感じではないかなと思う。

現場のリアルを無視した「たてまえ」や「きれいごと」をあんまり吹聴しないほうがいいんじゃないかなと思う。真に受けてしまう人がたまにいる。なるべく現場のリアルに対応したようなことを教えたほうがいいんじゃないかと思う。

まあ、これも、無理な話だろう。どうしたって、現場のリアルを無視した「たてまえ」や「きれいごと」を教えることになる。「教育課程」では理想を語ってしまうのだよね。まあ、わかる話だ。「教育課程」でなるべく理想を語らずに、現場のリアルに対応したことを教えましょうというのは、理想論だ。これも理想論。

で、まあ、最後に、言っておくと、彼は仕事を間違えたんじゃないかと思う。彼は「介護」にはまったくむいてなかった。畑違いの仕事に足を踏み入れてしまったのではないかなと思う。

で、まあ、付け足していっておくと、だれもが働く社会よりも、働くことにむいてない人が働かなくてもいい社会をつくるべきだということになる。『働くことはすばらしい』というイメージを吹聴しているから、こんなことになるんだ……とは言わないけどね。そりゃ、ちょっと話しが飛躍しているからね。

けど、ギリケン(ぎりぎり健常者)の問題は考えたほうがいいよ。今回の話しとは、つながりがないけど、ぎりぎり健常者も含めてだれもが、働く社会がいいという考え方を、あらためなければならないところまできている。

(「彼」というのは、「犯人」のことです)。

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彼も無理して働かなければ、こんなことにならないですんだかもしれないんだぞ……とつぶやいておこう。それを、『働くのはすばらしい』『みんな我慢して働いている』『みんなものすごくつらい思いをして働いている』『つらいなんていうのは甘えだ』『くるしいなんていうのは甘えだ』『無職は社会のゴミ』などという考えを流布させるから、彼は畑違いの仕事に足を踏み入れ、畑違いの仕事をしているうちにストレスを限界までため込んで爆発してしまったのかもしれないんだぞ……というのは、我田引水にすぎるか。

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そう言えば、障害者差別にはあれだけ敏感な人たちが、無職差別にはまったく鈍感なのはどうしてなんでしょうかね? 自らすすんで無職差別をしてますしね。就職できなくて追い込まれた若者が自殺したり、『どうせ将来なんてない』と思っている若者が、あーーんなことや、こーーんなことをしてしまったら、こまるなぁ。『無職でも良いじゃないか』ということにておいた方が、いいんじゃないかな。

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けど、看護師が点滴を使って施設利用者を殺してしまうというような問題はどうなんだろうね。あれも、同じような感じがするんだよな。もとは、看護師になろうというような人なのだから、ある程度の理想は持ってたんじゃないかな。職場のストレスをうまく発散できない人が多いのではないかと思う。


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もうひとつだけ言っておくと、たとえば、犯人が精神障害者だったらどうなるかという話しだ。そりゃ、異常なことをしたのだから精神障害者であることがうたがわれる。精神障害者である犯人が障害者を殺してしまったということになったら、どうなるんだろうか。こうなると、いろいろとややこしいことになりそうだな。犯人に精神科の通院歴があったということにしておこう。その場合、どうなるんだろうな?

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もうひとつ言っておくと、こういう事件が起こった場合、「たてまえ」が強化されると思う。もちろん、『教育』のなかで「たてまえ」が強化される。そうなると、ますますこういうやつが出てくる土壌ができるということになる。

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たぶん、利用者が自分の思ったとおりに動かないことにいらだち感じていたんだろうな。キレイゴトの世界で想像していた、反応がなかったんだな。自分がこうしたら、利用者はこうしてくれる……こういう反応を返してくれるはずだというような思い込みが強かったんじゃないかな。手短に言うと、「むいてない」。むいてないと思ったら、すぐにやめるべきだったんだな。

 
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理想を言えば、一日に四時間ぐらい働けば、じゅうぶんに生活できるというような社会が望ましい。

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2018年9月15日土曜日

出来事が中立的に生起しているだけだということ……についてもうちょっと真剣に考えたほうがいい

スピリチュアリズムの人は、新しいおもちゃを手に入れた幼児のようだ。そして、それを他の人に投げつけたりする。

有機水銀が入っている排水をがぶ飲みしたあとにものを言えとは言わない。そりゃ、飲まれてしまったらこまるしね。ぼくは、すすめませんよ。飲まないでくださいね。これ以降は、『かり』の話しだ。

もし、自分が気がつかずに、有機水銀を摂取してしまったら、どうなのかということをちょっとは考えたほうがいい。出来事は中立的に生起している。「くるしい」とか「つらい」といったことは、その中立的な出来事に「くるしい」とか「つらい」といった意味合いを与えているにすぎない。……などと言っていられるだろうか?

意味合いを与えているのは自分だ。だから、「くるしくなる」「つらくなる」。そんなのは、本来、中立的な出来事に「くるしい」「つらい」といった意味合いを与えた自分のせいだ。……などと言っていられるだろうか?

たとえば、あなたが誰かにナイフで刺されたとしよう。
その場合、「ナイフで刺されたという中立的な出来事が生じたにすぎない。『いたい』というような意味を与えるのは自分だ。だから、『いたい』という現実は自分が作り出した現実すぎない」……などと言っていられるのだろうか?

さらに、そうやって、いたがっている?……あるいは、『いたい』と感じているあなたに、「それは、自分が作り出した現実だから、他の人の『せい』にするべきではない」などと言う人が出てきたら、どう思うんだよ?

「すべては自分が作り出している現実だ。自己責任自己責任」……刺されているあなたにそういうことを言う人が出てきたらあなたはどう思うのか? 

そういう人がスピリチュアルな人だと思うのか? 彼の言っていることは正しいと思うのか?

認知療法家だと、「反応すべきことは反応べきだ」と言う。この場合、反応すべきことというのは、たとえば、ナイフで刺してきたやつをなぐることや、助けを求めたり、救急車を呼ぶということだろう。認知療法家だと、とっさの反応を認めている。

適切な期間、怒って反応するというのは認められている。適切な期間、悲しむのも認められている。しかし、適切な期間をこえて怒るのは不合理なことだとされている。適切な期間をこえて悲しむのは不合理なことだとされている。

それは、どうしてかというと、効率が悪いからだ。「適切な期間」悲しむのは、効率が良いのでよいことであり、「適切な期間」をこえて悲しむのは効率が悪い良くないことなのである。

しかし、この場合も、たとえば、有機水銀を摂取してしまったあと、有機水銀を摂取してしまったということからしょうじる、いろいろなことを『気にしている』場合は、認知療法家のいうような「適切な期間」というような条件は成立しない。一度、摂取してしまったらずっと続くからだ。「適切な期間」なんてことは言ってられない状態になる。

出来事が中立的に生起しているだけだということ。そして、中立的に生起していることに意味合いを与えるのは自分だということ。それらに関しては、スピリチュアル系の人が言うことと、認知療法家が言うことは似ている。「すべては受けとめ方の問題だ」と彼らは言う。しかし、「すべては受けとめ方の問題だ」というのは、間違っている。どういうふうに間違っているのかということについては、すでに書いた。『騒音サイコパス』のどこかに書いた。

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たとえ、知らずに有機水銀を摂取してしまったにしろ、自分の身に実際に起こったことは、すべて、自分自身が『選択』したことだ……なんてことはない。知らずに摂取したのであれば、その人の『選択』ではない。

   *   *   *

だいたい、『すべては自己責任』ということは、他人における他人の責任を追及している。『あの人がああなったのは、あの人の責任』『あの人がああいう思いをしているのは、あの人の責任』と責任の所在について言及しているということになる。

もちろん、そういう人は、主観的には『自分の身に起こったことはすべて自分の責任だ』と常日頃から考えて生きているのだとは思うけど、実際は、普通に『他人の責任を追及して』怒ることがあると思う。

自分が不当なあつかいを受けたと感じたら、不当なあつかいをした人間に対して怒りをぶつけると思う。あるいは、抗議すると思う。自分が不当なあつかいを受けたと感じているのに、『すべては自己責任だから、相手が自分を不当にあつかうのも、自分の責任だ』なんて考えないと思う。本当に毎回毎回、『すべては自己責任だ』などと考えているのだろうか? 本当に『すべては自己責任だ』と考えているなら、怒る必要も、悲しむ必要もないのだが……。その人はもう、広い意味で言って『この世の人ではない』と思う。

まあ、他人がなにをしたにしろ、『不当だ』と感じるのは本人であり、本人の感じ方次第であると言うのであれば、そういうことを言う人は現実生活のなかでどんな目に遭っても不当だとは感じずに、中立的なことが発生したと思うだけだろう。

『すべては自己責任』というのは、普通は『他人に対して』投げかける言葉だ。自分のなかで、本当に『すべては自己責任』だと思っているのであれば、自分に向かってそう言っていればよいのである。人知れず、言葉に出すのでもなく、『すべては自己責任』ととっさに思って、自己責任だと思っている人間がするような態度で、自己責任だと思っている人間がするようなことをすればいいだけだ。わざわざ、他人に向かって言う必要なんて、それこそない。

いずれにせよ『すべては自己責任』と他人に向かって投げかけるということは、他人に対して他人の責任を問うている。つまり、他人に対して他人の責任を追及している。『他人の責任を追及する』ということをまったくしてないということではないのである。

   *   *   *

不当、云々について言っておこう。たとえば、通販で三万円のおせち料理を買ったとしよう。そうしたら、重箱の中にちくわが二本入ったものがきたとする。その場合、『ホームページの写真とはちがうじゃないか』などとは思わずに、『そういう店を選んだのは、自分なのだから自己責任だ。他人の責任を追及するのはやめよう』と思うのが『すべては自己責任』と日頃から言っている人の思うことだ。

けど、日頃から「すべては自己責任」などと言っている人も、いざ写真とはちがうものが送られてきたら『写真とはちがうじゃないか』と思って、「写真通りのちゃんとしたものを送ってくれ」と抗議の電話をするのではないかと思う。まあ、「返金してくれ」でもいいけど。意図的にやった人たちが、ちゃんとしたおせち料理を用意しているとは思えないからな。

(ホームページと書いたけど、本当はウエブサイトだ。日本ではなぜかウエブサイトのことをホームページと呼ぶことになっているので、そう書いた)。


2018年9月14日金曜日

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どれだけ言っても、なにも伝わらない。

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サイコパス(精神病質者)はこういうふうに家族にたたる。迷惑をかける。けど、迷惑をかけたつもりはまったくないという状態のまま暮らす。どれだけ言われても、わからない。

2018年9月12日水曜日

そんなの、小さいときはやられっぱなしになるに決まっているだろ

なんとかなんないか?



そういうふうに言ってしまうと、また問題があるんだよな。



そのしくみは、書かない。書かないけど、あるんだよ。







けっきょく、「どうにかしたい」というようなことを書くと、突っ込まれるんだよな。「溺れる者は藁をもつかむ」ってやつさ。水に浮かぶワラのようなアドバイスをもらうことになる。ワラなんてつかんだって、どうにもならない。「はずれ」だから。けど、ヘビメタ騒音というものがわかってないひとは、わかってないひとの常識でアドバイスをする。そのアドバイスは、ぼくの現実をうらぎったものなんだよ。



はっきり言えば、水俣病になっている人に「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「なおるなおると言えばなおる」とかそういうアドバイスをしてもしかたがない。それとおなじだ。あるいは、水俣病になっている人に「あなたは、病気を引き寄せてしまったんだ。自己責任自己責任」と言ってもしかたがない。『引き寄せ』とか『前世で悪いことをしたから』とか『すべての出来事は意味があってしょうじている』というようなことを言って「せめて」もしかたがない。これ、どれだけの人が、これだけの説明でわかるのだろうか? えせスピなんだよね。ほんとうにスピリチュアル的な人はそんなことは絶対に言わない。ちゃんと相手の状態が見える。相手がどういうことを経験してきたのか、ぱーーっとみえるわけよ。自分のことのように一瞬体験してしまうわけよ。だから、「自分はだいじょうぶだった」「自分はそんなことになってない」という立場から、神様目線で、『スピリチュアリズム的なアドバイスをする』ことがない。ちゃんと、受けとめたあとの話しだからね。けど、中途半端というか、よくわかってない人は、無邪気な幼児が●●ている人を見て「あのひと●●ている」と言うような状態で、『スピリチュアリズム的なアドバイス』をしてしまう。こどもが買ってもらったばかりの刀のおもちゃを振り回しているのとおなじだ。幼児が買ってもらったばかりのおもちゃを、ぽーんと人に向かって投げてしまうのとおなじだ。まあ、スピリチュアリズム的なアドバイスというのは、実は、間違った前提に立った間違ったアドバイスなので、「あのひと●●ている」と言うのよりもひどい。ヘビメタ騒音について言うと、常識的な人からも、攻撃を受ける。しかも、この常識的な人の考えていることも、実は間違った前提に立った間違ったことなので、たちが悪い。家の中に、常識的な人が絶対に理解できないことを、常識的な人が絶対に理解できない頻度で、常識的な人が絶対に理解できない時間の長さ、常識的な人が絶対に理解できない強情さで、やる人がいると、そういうことになってしまう。これも必然だ。常識的な人にとっては「そんなの、言えばいい」ですんでしまうことなのだ。「そんなの、言えば静かにしてくれるのだから、静かにしてって言えばいいだろ」という考え方がぬけない。こっちが、どれだけ「言っても静かにしてくれない」と言っても、半信半疑で信じない。『家族なら静かにしてくれるはずだ』というような考えがぬけないので、言われた後もそう思っている……状態が続く。「そんなのは、言えばいい。他の家族がなにも言わないなんておかしい」……そういう考えを持ち続ける。『そんなにデカイ音で鳴らし続ける人がいるかなぁ』などという疑問も、持ち続ける。俺が『いる』と言った後も、そういう疑問を持ち続ける。こういうやつは、話にならない。気違い兄貴の感覚や、気違い兄貴のやり方があまりにも常識外れなので、そういう疑問を持つ方が多数派だという現実ができあがってしまう。俺の立場はどうなる? これ、ほんとうに、催眠術にかかったように、頑固に認めないでやりきるのに、催眠術にかかったように、やったということを認めない。血相を変えて頑固に頑固にやったことがまったくやったことではないのだ。兄貴の頭の中でそういう認知ができあがっている。これは、どれだけ言っても、くずれない。気違い親父とおなじなんだよね。常識的な人は『親のことを、気違いとか……』と思ったりする。これも、常に気違い的な意地で、気違い的な考えにしたがって、気違い的な感覚で、虐待してくる親のことを知らない人は……。知らない人は、無邪気な感覚で、こっちを攻撃してくる。気違い的な意地で、迷惑行為をやりきる人間が近くにいるということが、どういうことなのか、ほんとうにわかってない。しかも、その人間が社会的にいって、生物的にいって親だから、他の人から『親』だと見なされるということの意味がわかってない。そんなの、小さいときはやられっぱなしになるに決まっているだろ。悪気なく、常にエンジンがかかっていて、常に、わけのわからないことをする。わけのわからないことというのは、わけのわからない迷惑行為だ。だいたい理由もないのに、逆上して怒鳴り込んでくるというのがおかしい。常にそういう状態だというのもおかしい。おかしいけど、事実なんだよ。それなのに、常識的な人は「そんなのはおかしい」『理由がないのに、親が怒るはずがない』「子供だからわからないだけだろ」と思ってしまうのだ。これが、自動思考だ。常識的な自動思考だから、常識的な世界では肯定されうることなのだけど、うちの状態をうまく説明してない。間違っている。間違っているということが、根本からわかってない。気違い的な親にやられている人は、気違い的な親の自動思考、自動行為と常識的な人の自動思考の間にはさまって、くるしんでいる。常識的な人はまず、否定から入ってしまうので、うまく理解できない。



2018年9月10日月曜日

認知療法と水俣病 『過去は現在に影響を与えない』という行きすぎた一般化

有機水銀のことを考えれば、過去のことが現在のことに影響を与えない、なんてことは、ないということがわかる。これは、過去のことはすべて現在のことに影響を与えないということではない。現在に影響を与えることがある過去の出来事もあるし、現在に影響を与えない過去の出来事もある。


オール・オア・ナッシングというかたよった思考をするのであれば、「過去のことはすべて現在に影響を与えない」と考えることになる。しかし、それは間違っている。現在に影響を与える過去もあるし、現在に影響を与えない過去もある。実際には、現在に影響を与えない過去ではなくて、現在に影響を与えないと見なしうる過去だけど。(見なしているのは、その人本人か、本人の話を聞いた認知療法家である)。

「過去のことは現在に影響を与えない」と言う場合は「すべての過去のことは現在に影響を与えない」もしくは「過去のことは、すべて現在に影響を与えない」という意味で言っているのである。『過去』の抹消なのである。


過去の影響力ということを完全に無視している。それは、かたよった価値観なのである。『すべては思考』なのである。「過去のことはすべて現在に影響を与えない」というのは、かたよった信仰なのである。かたよった価値観なのである。『過去の出来事は一切合切関係がない』というような態度をとるのは、その価値観のあらわれだ。過去の出来事ひとつずつを吟味するのではなくて、過去の出来事であれば、現在に影響を与えるはずがないという先入観にしたがって、過去の出来事が持つ意味を否定しているのである。ひとつの過去の出来事がもつ意味を考えずに、そのひとつの過去の出来事は、過去の出来事だから意味がないと考えてしまうのである。

これは、価値観中立的なのではなくて、かたよった価値観をもっているというとだ。なんとしても過去は無視しなければならない……のであるから。『過去の出来事は、現在に影響を与えるはずがない』という間違った信仰を持っているのであるから。彼らが言うには、たとえ、過去の出来事が影響を与えたとしても、それは、無視できる影響にしかすぎないのである。ひとつひとつの過去の出来事を考えることなく、全部、過去のことを考えるのは無意味という名の「ゴミ箱」に突っ込んでしまうのである。

「無視できる影響を、無視できない影響だと考えているから、考えがかたよっている」と言うのであれば……「無視できない影響を、無視できる影響だと考えているから、考えがかたよっている」と言うこともできる。

価値観中立的なのではなく、過去の無視、過去の無価値化という、価値観をすでにもっている。認知療法家やそういう考え方に賛成する人たちは、そういう価値観をすでにもっている。しかし、これは「行きすぎた一般化」なのではないか? 

これもまた、『影響があると考える必要がある過去の影響は認めましょう』ということになるのだろうけど、『必要がある』とか『必要がない』というのは、どういう価値基準で決めているのかということが問題になる。

どんな過去だって、「必要がない」と決めつけることができる。そりゃ、どんな過去だって考える必要がない過去だと考えることは、できるのだから。ひとつの過去を取り上げて、どういう基準かは知らないけど『この過去の出来事は現在に影響を与えない(与えていない)』と言い切ることはできる。

しかし、それは、考えずに言っているだけなのである。最初から『価値がない』と決めつけている。最初から『過去の出来事は現在に影響を与えない』と決めつけている。考える前に、決めつけているのである。

いずれにせよ、認知療法家は「過去の軽視」「過去の無視」「過去の無効化」という価値観をもっているわけで、価値観中立的とはとても言えない。認知療法家が過去を無視する傾向があるのは、フロイトの精神分析が影響している。最初から、反・フロイト的な価値観なのである。だから、認知療法の理論は価値観中立的ではない。

有機水銀を摂取してしまったためにからだがだるくなっている人は、『過去なんて関係がない』と言われても、だるさが軽くなることがない。有機水銀がいま現在、脳みそをおかしているからだ。そういう状態が続いているからだ。そして、そのような現在の状態は、過去!において有機水銀を摂取してしまったという『出来事』からしょうじているのである。ようするに、過去の出来事が現在に影響を与えている。

反・フロイト的な価値観に基づいて、過去の影響を否定してしまうから、細胞の死滅ということまで、気分的なものとしてあつかい、否定してしまうのである。これは、間違った考え方だ。反・フロイト的な価値観に立とうとしたために過去の影響を無視することにしてしまったのだけど、脳細胞に不可逆的な変化が生じている場合は、過去の影響を無視することはできない。

認知療法家だって、言霊主義者だって有機水銀が入った食べ物を食べ続ければ、からだがだるくなったり、からだが震えるということがおこる。これは、人間としてかわらないからである。

ようするに、水俣病の患者も、認知療法家も、言霊主義者も人間としてのからだをもっている。脳の組織は、ほとんどまったくと言っていいほどおなじだ。細胞を構成する物質もおなじだ。だから、そこで起こる分子的な化学変化も同様なのである。

認知療法家が『過去は関係がない』と言っていられるのは、水俣病患者とちがって、有機水銀を摂取してないからだ。言霊信仰者が「元気だ元気だ」と言えばつかれがとれて元気になると言っていられるのは、水俣病患者とちがって、有機水銀を摂取してないからだ。

だいたい、おなじ量の有機水銀を摂取すれば、だれもが、つかれた状態になる。だるい状態になる。「つかれなつかれない」「だるくないだるくない」と言っても、一度、有機水銀を摂取してしまったら、つかれてだるい状態が続くことになる。

普通の細胞でできている人間なら、だれでもそうなる。あーーあ、それなのにそれなのに、自分が有機水銀を摂取してないから、好き勝手なことを言って、人をバカにしている。


2018年9月9日日曜日

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水俣病と鬱病 おなじ病名内のグループについて(広い意味で病名)


水俣病の人が「だるい」「しんどい」「つかれた」と言っているとき、水俣病の人が、本来こだわる必要がないことにこだわっているから、そういうふうに言っていると思う人たちもいるかもしれないけど、そうじゃない。

そりゃ、なんの理由もないのに!!「だるい」「しんどい」「つかれた」ということに、こだわっている人もいるだろう。単なる自動思考で「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じる人もいるだろう。その人たちはこだわる必要がないことにこだわっていると言える。

しかし、脳細胞が破壊されて「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じている人は、そう感じるだけの理由があるからそう感じているのである。原因がある。原因は、何回も言うけど「水銀の毒」で、脳細胞が壊されたからだ。「水銀の毒」がその人をして「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じさせ、その人をして「だるい」「しんどい」「つかれた」と言わせているのだ。

ちゃんと、根拠がある。原因がある。

ただ単に、自動思考をして「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じているわけではないのだ。そうであるならば、自動思考をやめれば、だるさがとれて、しんどくない状態になって、つかれを感じない状態になる。自動思考ではなくて「水銀の毒」でつらいと感じている場合は「水銀の毒」が体から出ていって、すでにおかされた脳細胞にとってかわる脳細胞が神経の枝を伸ばさなければならない。もう、すでにおかされてしまった脳細胞(有機水銀と結びついてしまった細胞)は元に戻らないだろうけど、新しい脳細胞が育つかもしれない。

もちろん、最初から水俣病だとわかっていれば、その時点で鬱病と診断されることはないだろう。しかし、普通に鬱病だと診断するとき、医師は、すべての他の可能性を排除しているわけではない。つかれに関しては、内臓の検査などをしてからではないと診断できないと言ってくれる医者もいるだろう。しかし、たとえば、慢性疲労症候群の可能性をはっきりと否定した後に、鬱病だと診断する医者がどのぐらいいるだろうか? 

未知の毒で脳の神経細胞がおかされていたとしても、いちいち、脳の神経細胞の状態を確認した後、診断するということはない。シナプス間隙のセロトニンの量やレセプターの数を確認した後、たしかに、シナプス間隙のセロトニンの量が少ないから、トランスポーターに働きかける薬を使いましょうと提案するわけではない。

というわけで、いちおう鬱病という診断を受けた人のなかにも、いろいろな人が含まれている。これは、たとえば「はらいた病」という名称の『広い意味で病気』だと思われている病気のなかに、「ただ単に気分で腹が痛くなった人(自己暗示で腹が痛いと思っている人)……(1)」や「腹をほんのちょっと殴られたので腹が痛い人……(2)」や「盲腸で腹が痛い人……(3)」が混じっているということになる。

言っておくけど、「はらいた病」なんてありません。ここで、説明をしやすくするために、ぼくがかりにつくった『広い意味での病気』です。
言いたいことは、たとえば、気分だけで腹が痛くなったもとはらいた病患者が、自動思考をやめたら「はらいた病」が治ったと言っている場合、そのひとにとっては、それは事実なのだけど、「はらいた病」に含まれている人すべてにそれが当てはまるわけではないということだ。


けど、「はらいた病」は「はらいた病」としてくくられているので、「はらいた病は自動思考をやめれば治る」ということを、「もとはらいた病患者」が言い出す場合がある。実際、医者ではない「はらいた病カウンセラー」や「はらいた病臨床士」が「はらいた病は自動思考をやめれば治る」「はらいた病の原因は自動思考だ」と言っているので、カウンセラーが言ったことを、そのまま、真実だと思い込んでしまう「もとはらいた病患者」も出てくる。

このばあい、単に「はらいた病患者」と言った場合、「はらいた病患者」ではない人が含まれることはないので、ただ単に「はらいた病患者」と言っても、それは、「すべてのはらいた病患者」と等価になるという問題がある。これは、言葉の問題だ。普通の人は「例外」があるような感じがしている場合ですら、「例外」については、特に言及しないので単に「はらいた病患者は、どうのこうの……」と言うことになるだろう。

しかし、盲腸である「はらいた病患者」は、自動思考をやめても「はらいた病」が治らない。「雑菌」でくさった部分(炎症を起こしている部分)を取り除かないと、盲腸は治らない。しかし、盲腸で「はらいた病」になっている場合も、「おなじはらいた病」で腹が痛いということになってしまう。

もちろん、実際には盲腸が「はらいた病」としてくくられるということはない。これは、「たとえ」の話をしているのだ。「はらいた病」とおなじことが「鬱病」で起こっている。ちがう原因で「鬱病」になっている人たちが「鬱病」というカテゴリーでくくられてしまっているために、ただたんに「気分で鬱病になっているもと患者」が、そうではない患者に、間違った前提に立った助言をおこなうことになる。

助言を否定されれば、「気分で鬱病になっていたもと患者」だって、いい気分はしないだろう。なので、溝ができるのである。また、「気分で鬱病になっているもと患者」は「鬱病はあまえ」などと言ってしまう。そうすると、一般人は「ああっ、鬱病はあまえなんだなぁ」と思ってしまうだろう。

なんてたって「もと患者」が言っているのだから、わりと信憑性がある。「気分で鬱病になっているもと患者」が「自分もそうだった」などと言った場合、「おなじ鬱病患者というカテゴリーにくくられている患者」は抵抗できなくなってしまう。

これは、「気分で、はらいた病になっているもと患者」が「自分も腹が痛かった」と言っているのとおなじなのである。「気分ではらいた病になっているもと患者」が盲腸で「はらいた病」になっている現はらいた病患者に、「自分も腹が痛かったけど、『いたくないいたくない』と声に出して言ったらいたくなくなった。

だから、あなたもおなじだ」と言っているのとおなじだ。「うそだと思うかもしれないけど、『いたくないいたくない』と言ったら治った。だから、これは真実だ。『いたくないいたくない』と言うことは、はらいた病にきく。はらいた病は「いたくないいたくない』と言うことで治る。それなのに、どうしてあなたは、『いたくないいたくない』と言わないのか? 治りたくないのか? そんなのは甘えだ」と言ってしまう場合がある。

けど、何度も言うけど、雑菌が原因で「はらいた病」にかかっている人は雑菌の問題が解決しなければ「はらいた病」は治らない。有機水銀でつかれている人は、有機水銀の問題をどうにかしないと『疲れを感じた』ままだ。

しかし、かりに、『鬱病だ』と間違って診断されている場合は、『運動をすればいい』とか『認知のゆがみをただせばいい』というようなことを言われてしまうのだけど、有機水銀の問題をどうにかしないと運動をしても認知のゆがみをなくそうとしても、全体的に感じる「つかれ」の問題が解決しない。

その場合、長期にわたって「つらいつらい」とか「つかれたつかれた」と言うことになるだろう……有機水銀で『鬱病』状態になっている人は。その場合、言霊主義者から「『つらいつらい』と言うからつらいんだ……つらくないつらくないと言えばつらくなくなる」と助言を受けることになるだろう。「『つかれたつかれた』と言うから、つかれたままなんだ。元気だ元気だと言えば元気になる」といった助言を受けることになるだろう。
その場合、有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者が「『つらくないつらくない』と言ってもつらいままだ」とか「『元気だ元気だと言っても、元気にならない」とかということを言うと軋轢が生じる可能性が高い。そりゃ、だれだって自分が正しいと思っていることを『否定』されたら、腹が立つからなぁ。多くの、助言をした言霊主義者が腹を立てて「そんなことを言うから、だるいままなんだ」「そんなことを言うからつかれたままなんだ」というようなことを言うかもしれない。

多くの助言をされた有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者は「事実だるいからだるい。事実つかれているからつかれている。事実『元気だ元気だ』と言っても元気にならなかったからそういった」と言う可能性がある。

実際、有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者は、有機水銀が原因で「つかれを感じる状態」になっているので、「元気だ元気だ」と言っても元気にならない。言霊主義者は完全に誤解している。

こころみない場合は、「嘘だと思ってやってみろ」と言われ、こころみたあと正直な報告をすれば「そんなことを言うからつかれたままなんだ」と言われてしまう状態におちいっている……有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者は。これは「そういうステータスにおちいった」ということだ。もうちょっと強い言葉で言うと、「そういう身分になった」ということだ。

さらに悪いことには、有機水銀で、だるくて動けない状態でいれば、いろいろな不安が襲ってくる。「こんなにだるいんじゃ仕事ができない」と思ったりするだろう。この「こんなにだるいんじゃ仕事ができない」というのは、間違った思考ではないのである。むしろ現実に対応している思考だ。仕事ができないほどだるいのであれば、仕事ができないと考えるのが普通だ。ゆがんでない。

むしろ、仕事ができないほどだるいのに、仕事ができると考える方が、ゆがんでいる。現実を受けとめてない。現実を否認している。記憶障害が強くなり、記憶障害によって引き起こされる「だめエピソード」増えれば、自分が仕事ができるのかということについて不安になってもしたがない。また、体のふるえが強くなっていったら、やはり、『仕事ができないんじゃないか』と思ってしまう。前は、まっすぐ歩くことができたのに、まっすぐ歩くことができないようになれば、やはり、『仕事ができないんじゃないか』と思ってしまう。

この不安は、なんとなく自動思考で不安になっているのとはちがう。なんとなく自動思考で『仕事ができなくなってしまうのではないか』と不安になっている場合は、その自動思考をやめれば『仕事ができなくなる』現実を避けることができる。

しかし、有機水銀でだるくて動けない場合、『仕事ができなくなってしまうのではないか』という不安は、自動思考やめることでは、『仕事ができなくなる』現実を避けることができない。

やはり、有機水銀が体から出ていくことが必要になる。『できないことが増えていく』ということは、不安でしょ。いままで経験したことがない疲労、どれだけ休んでも治らないだるさが積み重なれば、不安になったり憂鬱になったりする。できないことが増えていけば、不安になったり憂鬱になったりする。記憶障害でトラブルが増えれば、不安になったり憂鬱になったりする。その場合、鬱病と診断される要素が増えてしまう。

有機水銀を摂取したあとそういう状態がずっと続けば、憂鬱(鬱状態)や不安もずっと続くことになる。この鬱状態や不安は、ほんとうはそうなる理由がまったくないのに、単なる自動思考で鬱状態や不安になっている場合とはちょっとちがう。






2018年9月7日金曜日

溝があるわけ。


けど、まあ、ほんとうは、けっこう、いたんでいる。俺のこころがいたんでいる。ヘビメタ騒音のことが他の人にはわからない。どれだけ、説明してもけっきょく、経験がない人にはわからない部分があると思う。で、「そのわからない部分」がでかい。そして、「そのわからない部分」がいまの俺に影響与えている部分がでかい。けど、そういうことを言っても、他の人にとってみれば、「エイリがまた言っている」というようなことでしかない……のは、わかっている。だから、まあ、溝があるわけ。



2018年9月4日火曜日

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●強迫神経症
●言霊と強迫神経症
●神経症と耳なし芳一
●認知療法と踏み絵
●患者の認知がゆがんでない場合について
●ガマガエルと父親
●事柄と認知

もともと、認知療法についていける鬱病患者は、認知療法についていける鬱病患者



もともと、認知療法についていける鬱病患者は、認知療法についていける鬱病患者なのである。認知療法についていけない鬱病患者は、どこかで認知療法を投げ出すはずだ。あるいは、最初から脱落しているはずだ。

それは、認知療法家がすすめるいろいろなことを、やる気になれないというところからしょうじる。鬱になりそうな自動思考をしないようにして、からだを動かすということをアドバイスされても、水俣病でだるくて『つかれ』ていたら、体を動かすということができない。

体を動かせばすっきりすると言われても、体が動かないし、むりやり体を動かすと、『すっきりした気持ちにならず、よけいにつかれを感じる』ということになってしまう場合は、体を動かすということができない。

認知療法家は柔軟なので、「やりたくないことはやらなくていい」「やったあと気分が悪くなることはやらなくていい」と言う。しかし、全部がやりたくないことであるような人の場合は、スモールステップできざんでいっても、習慣化することがむずかしいということになる。

「やりたくないことはやらなくてもいい」というのは、ほかにはやりたいことがある場合には有効だけど、やりたいことがない場合は問題がある。治療目標、あるいはカウンセリングの目標を設定することができない。

2018年9月3日月曜日

ぼくよりもつらい思いをしている人はたしかにいるだろう

つまんない。リアルがつらい。

つまんないなぁ。



目がつかれている。もう一度眠るか。黄色眼鏡装着。



歯磨き中



戦意喪失。



ジュースでも買いに行こうかと思ったけど、雨が降ってきた。

現実って、これ、くるしいよな。ぼくの場合はヘビメタ騒音以降、くるしくなった。それまで苦しさと、ヘビメタ騒音以降のくるしさはちがう。他の人は、ヘビメタ騒音以降のくるしさを知らない。

だから、話しが食い違う。『くるしい』と言ったって、ヘビメタ騒音以前の『普通の生活が成り立っているところでの』くるしさだ。ぜんぜんちがう。ヘビメタ騒音以前だって、気違い親父にいろいろとやられていて、普通の人たちよりはくるしかった。

けど、ヘビメタ騒音以前とヘビメタ騒音以降とではちがうんだよ。基本がちがう。普通の人たちの場合、精神病質者である父親にはたたられていない。精神病質者ではない父親との間にだっていろいろある。

学校に行けば、学校に行ったで、いろいろなことがあるだろう。その中にはつらいこともあるだろう。俺も、いろいろなことがあった。当然、つらいこともあった。

けど、それは、ヘビメタ騒音以前の「つらさ」なのである。ヘビメタ騒音以降のつらさではない。ぜんぜんちがうんだよ。ヘビメタ騒音以降と書いているけど、これは、ヘビメタ騒音『さいちゅう』も含んでいる。ヘビメタ騒音以降で、ヘビメタ騒音期間中とヘビメタ騒音以降を含んでいる。ヘビメタ騒音以前と、ヘビメタ騒音以降だと、つらさのつらさがちがう。つらさの質も強度もちがう。ぜんぜんちがう。ともかく、ちがう。

ちがうのだからしかたがない。

これも、たぶん『自分だけつらいと思っている』などと思う人がいるのだろうけど、ちがう。普通の人のつらさとは、ちがうんだよ。まあ、他の人でも、抱えていることがちがうので、ぼくよりもつらい思いをしている人はたしかにいるだろう。けど、似非スピリチュアルなことを言っている人は、ヘビメタ騒音以降のつらさを知らない。普通のつらさしか知らない人たちだ。

そりゃ、生きていればいろいろある。

けど、似非スピリチュアルなことを言っているということ自体が、その人たちが経験したつらさは普通のつらさだということを明示している。そんなことは言ってられない状態になる。ぜんぜんちがう。ただ単に、経験してないから、そういうことが言えているだけだ。別に人間の質がいいからではない。

ほんとうに、『知らないだけ』。知らないだけの人たちなんだよな。それはある意味、しあわせだ。いや、すべての意味でしあわせなのかもしれない。けど、それは、知らないだけ。経験してないだけ。人間の質とは関係がない。ただ単に、経験してないだけ。


雨がやんだから、ジュースでも買いに行こうかな。


似非スピリチュアルなことを言う人たちは、『雨が降ったから、ジュースを買いに行けない』ということ考えるのが非合理的だと言うだろう。あるいは、ネガティブだと言うだろう。

『雨が降ったって、ジュースなんて買いに行ける。雨の中、ジュースを買いに行くということすら、楽しむことができる。雨を楽しむことだってできる。雨の中を歩くということすら、楽しむことができる。『雨が降っている』ということをネガティブにとらえるか、ポジティブにとらえるかで、楽しいと思うか、つらいと思うかがちがってくる。他の人たち(ネガティブな人たち)が言っている「つらさ」なんていうものは、そんなものだ。ネガティブな人は、中立的な事象(事柄)をネガティブにとらえるから、つらく感じているだけなんだ』……こんなふうに思うかもしれない。

ぜーーんぜん、そんなんじゃないから。もう、ここらへんからしてちがうんだよな。経験がないというのは、こういうふうに残酷になれるのか。経験がないのだとしたら、どれだけ言ってもわからないだろうな。それそこ、その人のとらえ方次第だからな。「つらい」あるいは「つらさ」という言葉であらわされていることが、ぜんぜんちがうのだからしかたがない。

水俣病で言えば、有機水銀を摂取したあとの世界と、有機水銀を摂取するまえの世界は違う。有機水銀を摂取するまえだって、人間として暮らしていれば、それは、「つらいこと」だっていっぱいあるわけだ。けど、有機水銀を摂取したあとのつらさと有機水銀を摂取するまえのつらさはちがうと思う。

これは、もう、質がちがう。脳みその神経細胞が不可逆的に変化してしまったのだからしかたがない。「水銀の毒」で感じているつらさと、普通の生活をしていたときに感じていたつらさはちがうはずだ。

人間というのは、たしかに、自己治癒能力がある。これは、感じ方とかそういうこととはちがう話だ。ちがう話をしているんだけど、人間には生命体としての自己治癒能力がある。だから、自己治癒能力で治るところは治る。自己治癒能力で、つかれがとれる場合だってある。というか、普通は睡眠中に、つかれがとれているはずなのである。けど、激しいヘビメタ騒音はそういう普通の機能を破壊した。十年数年も毎日、激しい物理刺激を受けると、どうも、不可逆的な変化が生じるみたいなのである。

問題なのは、たぶん、可逆的か不可逆的かということなのだと思う。

   *   *   *

「つらさの、質がちがう」と言ったけど、それは、たぶんこういうことが影響していると思う。水銀の毒でつらい場合は、二十四時間中、二十四時間、ずっと、水銀の毒でつらいと感じている状態で暮らしているのだと思う。寝ているあいだ、どの程度の「つらさ」を感じるかどうかはわからないけど、「シネン」に関係なく、脳細胞がおかされているわけだから、体がつらいつらい状態が続くと思う。

普通の生活のなかでつらいことがあるという場合のつらさは、出来事のあとにしょうじるつらさなのである。出来事というのは、たとえば、失恋したとか、友達と喧嘩したとか、事実無根の悪口を言われたとか、いじめられたとか、親が離婚したとか、飼っている犬が死んでしまったとか、そういうことだ。ひとつひとつがいちおう「出来事」として感じられるつらさなのである。一方、「水銀の毒」でつらさが生じている場合は、二十四時間中二十四時間そのつらさが持続しているのである。

だから、水銀の毒でやられているさいちゅうに……出来事が生じることになる。要するに、普通の人の場合、悪い出来事があったときにつらさを感じるわけだけど、水銀の毒にやられている人の場合は、水銀の毒によるつらさにくわえて、悪い出来事がしょうじるということになる。

出来事のつらさを、たとえば、かりに1、2、3、4、5という度数で表現するとする。そして、水銀の毒でつらいといった場合のつらさを、3のつらさだとする。そのばあい、普通の人は、一日の中で、2、1、3、4、1というような感じでつらさを感じるわけだ。

実際に、ある人が、ある日に、順番に2、1、3、4、1という強度でつらさを感じたとしよう。けど、水銀の毒でやられている人はすでに、3がプラスされている。だから、ある人とおなじように悪い出来事が生じた場合、5、3、6、7、4というようにつらさを感じるということになる。

さらに、水銀の毒で体がつらい状態だと、実際にミスが多くなったり、記憶障害が出てトラブルが生じるのである。ふるえが止まらなくなったりして、やばい状態になってしまうのである。将来についても、不安な要素が増えてしまうだろう。要するに、悪い出来事が実際に多くなる。

かりに、悪い出来事が普通の人とおなじ回数、普通の人と同じような強度(度数)で生じていたとしても、「水銀の毒」による体のつらさで、強度が「そこあげ」されてしまう。だから、主観的には、普通の人が感じているつらさよりも強いつらさを感じてしまうということになる。

ノイズで表現すると、普通の人は、普通の場合、ノイズがない状態で暮らしている。普通の人の場合は、なんらかの悪い出来事のあとに、ぷ、ぷ、ぷとノイズを感じるのである。「水銀の毒」にやられている人は、常に、ノイズが鳴っている状態なのである。

そして、常に鳴っているノイズにくわえて!なんらかの悪い出来事のノイズがのることになる。それから、先ほど例としてあげた悪い出来事のつらさは、純粋に精神的なつらさなのである。悪い出来事のなかには、純粋に精神的なつらさとは言えないつらさがある。

それは、やけどをしたり、骨折したりというつらさである。小さなやけどなら治るし、骨折も普通の場合は時間がかかるけど治る。大きなやけどの場合は、跡が残る場合があるだろう。

だから、つらさはだいたい、純粋に精神的なつらさ、可逆的な身体損傷によるつらさ、不可逆的な身体損傷によるつらさにわけられると思う。その場合「水銀の毒」によって生じるつらさは不可逆的な身体損傷によるつらさだと思う。可逆的な身体損傷によるつらさも、不可逆的な身体損傷によるつらさも、精神的なつらさをともなうものだと思う。

   *   *   *

それから体のふるえだけど、これは、べつに「体をふるわせよう」と思って、ふるわせているわけではない。だから、「体をふるわせる必要がない」ということを認知したとしても、ふるえはとまらない。精神的に緊張してふるえている人は、精神的に落ちつけばふるえが止まるだろうけど、「水銀の毒」で体がふるえている人は、気分に関係なくふるえているわけだから、認知療法的な理屈は成り立たない。認知療法的な理屈というのは、「必要なぶんだけ緊張すればいい」というような理屈だ。「体をふるわせる必要がない」と認知すれば、からだのふるえは、とまるはずなのである。体のふるえと書いたけど、痙攣でもおなじだ。


2018年9月2日日曜日

こういうしくみが成り立っている

今日は起きたあと、飯も食わないで作業をした。



作業を終えて、ご飯を食べ終わったところ。



つかれた。



作業中も、もちろん、ヘビメタ騒音のことが頭のなかをまわっている。これは、だめだ。昨日の夜眠る前もヘビメタ騒音のことを考えた。どうしても、頭にくる。で、まあ、簡単に言うと『頭にくる』というようなことを書けば、書いたぶんだけ俺がきらわれるということになる。こういうしくみが成り立っている。ほかにもいろいろなしくみが成り立っている。

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2018年9月1日土曜日

認知療法家の認知はゆがんでいる(1) 理由と症状 『理由なんてどうでもいいんです』という決めつけ


ちなみに、「認知療法家は原因を重視しない」と言った場合の原因というのは、たとえば、「どうしてゆがんだ認知が生じたか」ということは問題にしないということだ。けど、いちおう、鬱病は『ゆがんだ認知』によって引き起こされると考えているのである。


ところで、鬱病の症状のうち『憂鬱な気分』に関しては、いろいろと考えなければならない要素が多すぎるので、鬱病の症状のうち『つかれ』と『だるさ』について考えてみよう。

水俣病によっても『つかれ』や『だるさ』が生じる。しかし、いまは水俣病の原因がはっきりとわかっているので、水俣病によって『つかれ』や『だるさ』を感じている場合は、鬱病で『つかれ』や『だるさ』を感じているのではなくて、水俣病によって『つかれ』や『だるさ』を感じしていると診断される。

水俣病というのは、有機水銀が脳細胞を壊すことによってしょうじる病気だ。ちゃんと、原因がわかっている。

原因がわかっている場合は、原因がわかっているので、『原因はどうでもいいのです』なんてことは言われない。しかし、認知療法家は『原因はどうでもよい』とする特殊な考え方をするので、原因は考えない。

ところで、いまは、水俣病の原因がわかっているけど、原因がわかってないときがあった。そのときは、当然『水俣病』というような病名もない。理由はわからないけど、『だるさ』『つかれ』『痙攣』『記憶障害』などの症状がでる患者が出現した。

このときは原因がわかってないので、鬱病だと診断される場合がある。だって、他の病気で鬱病と診断できるような鬱状態になっているわけではない人が、鬱病のグループにいれられるわけだから、そうなる。要するに、はっきりした原因がわかっているグループとはっきりした原因がわかってないグループにわけられるのである。

そのうち、はっきりした原因がわかっているグループは、ひとまず、鬱病ではないと診断される。もっとも、かさなることはある。鬱病と他の病気は排他的ではないのでかさなることがある。(鬱病は狭い意味では病気ではない。単極性の感情障害だ。『病気』ではなくて『障害』だということをまず理解しておかなければならない。)

ちなみに、精神科医や心療内科の内科医は、鬱病を脳の機能障害と考えている。精神科医や心療内科の内科医にとっては、性格とかそういうことは、一切合切関係がないのである。レセプターやトランスポーターや神経伝達物質がこれこれこうだから、鬱病になると考えているのだ。

けど、これも、実は、よくわかってない。いろいろな仮説はあるけど、みんな仮説の状態にとどまっている。これこれが理由で、鬱病になるということは、まだわかってない。

医者は、『ちょっとしたことを、重大なことだと考えて憂鬱になる性格』が問題だとは思ってないわけだ。あるいは、医者は、『なんでもないのに、自動思考で憂鬱になるから、鬱病になる』とは考えてない。

認知療法家は『認知のゆがみ』や『自動思考』を鬱病の原因だと考えている。認知療法家が「原因は関係がありません」「原因を探すのはやめましょう」と言う場合は、「自動思考をする原因について考えるのはやめましょう」「認知のゆがみが生じた原因について考えるのはやめましょう」と言っているだけだ。

しかし、ほんとうは、認知療法家にとってみれば、鬱病の原因は『認知のゆがみ』なのである。なので、認知療法家は、認知療法家で鬱病の原因を考えている。ちゃんと、原因を考えている。そして、すべての鬱病患者の認知はゆがんでいると考えている。だから、鬱病患者の認知のゆがみを修正すれば鬱病は治るのである。


ここで問題なのは、まだ、病名がついてない水俣病で、だるくてつかれている人が『自動思考で憂鬱になるような性格だから鬱病になる』と言われて、『自動思考を修正する』ようにしても、まだ、病名がついてない水俣病で、だるくてつかれている人の『だるさ』や『つかれ』がとれるわけではないということだ。

しかし、自動思考を修正して鬱病が治ったと思っている「もと鬱病患者」は、自動思考を修正すれば鬱病が治ると思っているので、「自動思考の修正すれば鬱病は治る」と、まだ、病名がついてない水俣病になってしまったので、だるくてつかれている人にアドバイスしたりする。

「認知療法家がそう言ってた」「自分もむかしつかれやすくてからだがだるかったけど、自動思考をやめたら元気になって、やる気が出た」というようなことを言ってしまう。

けど、『自動思考』でつかれてだるくなっている人と『有機水銀』でつかれてだるくなっている人』はちがう。両者は決定的にちがう。

有機水銀でつかれてだるくなっている人』が『自動思考』を修正しても、有機水銀が体から出ていかないかぎりは、つかれてだるい状態が続く。

もともと、原因がちがうので、アドバイスにならないのである。腹をぶたれて腹がいたくなった人が、盲腸(急性虫垂炎)で腹がいたくなった人に対して、『湿布をしておけば治る』と言っているようなものだ。「自分だって腹が痛かった。けど、湿布をしたら治った。だから、あなたも湿布をすればかならず治る」と言っているようなもの
だ。けど、盲腸は湿布をしても治らない。どうしてかというと、原因がちがうからだ。原因を考えるということは、このように重要なことなのだ。


原因を考える必要がない場合は、『自動思考』や『認知のゆがみ』だけで、鬱病になっている場合だけだ。はっきりした理由はないけど、からだ全体に症状が出ている場合だけだ。

はっきりした理由がないけど、からだ全体がだるいと『感じてしまう』ときはある。そういう場合は、『原因を考える必要はない』と考える人たちが考え出した療法が効くことがある。

しかし、それは、はっきりした理由がない場合に限られる。『弱い理由』『はっきりしない理由』でただなんとなくそういう気分がするという場合に限られる。やはり、はっきりした理由がある場合は、そういうことでは、治らない。

認知療法家は『理由なんてどうでもいいんです』というところからはじまる『自動思考』をどうにかしたほうがよいのではないかと思う。『理由なんてどうでもいい』という決めつけがあるので、はっきりした理由がない人にしか効かない。はっきりとした理由がある人は対象外なのである。認知療法の対象外。認知療法は、はっきりとした理由がある人にもちいても、意味がない。ほんとうに、『気分だけでそうなっている人』にしか通用しない。

それから、くわえて言っておくと、『理由なんてどうでもいい』と考えているということは『理由なんてどうでもいい』という価値観をもっているということだ。つまり、価値観中立的ではない。しかし、認知療法家は、さも価値観中立的であるようなことを言う。価値観中立的、あるいは、価値中立的であるようなふりはやめたほうがいい。たいへん強い価値観をもっている。まるで、どの価値観にも傾いていない中立的な価値観を採用しているように説明することがあるが、ちゃんと、こういう価値観をもっている。『理由は関係がない』『理由を考えるのは無駄だ』『理由を考えるのは非効率的なことだ』という価値観をもっている。これは、中立的な価値観ではない。価値観から切り離されたところに『認知療法』が中立的に存在しているわけではないということは、頭のかたすみにおいておかなければならない。


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わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。