うーーん。まあ、あんまり、頭が働いてないから、適当に書く。
たとえば、困難の度合いを一〇〇段階にわける。一段階目から、一〇〇段階目までわける。そして、一〇〇段階目の人も、ひとつは、困難があるとする。一段階目の人は一〇〇の困難がある。
なので、「ある」とか「ない」という、二値であらわすと、みんな、困難があるということになる。
けど、一段階目の人と、一〇〇段階目の人とでは、困難の数がちがう。
けど、個体は個体なので、ほかの人の、困難の度合いというのは、わからないとする。体験しないとわからないので、体験してない困難については、理解できないものとする。
その場合、あきらかに「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、相対化できるのである。
「困難のちがい」がないのようなことを言える。
実際は、「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、「困難のちがい」を無視することができるのである。
でっ、その場合、やられたほうを悪く言う「言い方」がはやっていると、困難の度合いが強いものが、被害を受けることになるのである。
けど、あいかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」と言っている人は、困難の度合いを同質化して、無視することができる状態ではあるのだ。
これは、たいへんまずい状態なのだ。社会として、たいへんまずい状態だ。
たまたま、きちがい的な親のもとにうまれてしまった人は、きちがい的な親のもとにうまれなかった人とは、ちがう困難を経験することになるのである。
けど、きちがい的な親のものとにうまれなかった人は、経験的に、ちがう困難だということがわからないので、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、困難を同質化して、無視することができるのだ。
きちがい的な親のもとうまれなかった人は、無視できるけど、きちがい的な親のもとにうまれた人には、きちがい的な親のもとにうまれなかった人にはわからない「異質な困難」がある。
けど、同質化されてしまうので、「困難の質」は無視されてしまうのである。その場合、たとえば、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような文言が、きちがい的な親のもとにうまれた人の首をしめることになるのである。
ぼくが、ここで、いままで述べてきたように、言霊理論、思霊理論、努力論、引き寄せ理論などは、すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。