2024年7月3日水曜日

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである

きちがい親父の話をする。ハンダゴテ事件のとき、きちがい親父は、兄貴がピンチだということを認めずに怒り狂ってたんだよ。ハンダゴテ事件のときは、きちがい親父の態度で、兄貴がピンチになった。きちがい親父が、自分がもっているハンダゴテにこだわって、新しいハンダゴテを買ってやらなかったのだけど、自分がもっているハンダゴテは、使えないということを、絶対の意地で認めなかったのである。

きちがい親父は、自分がもっているハンダゴテが使えないということを、絶対の意地で認めてやらなかったのだけど、絶対の意地で認めてやらなかったということを、認識してない。そして、絶対の意地で認めてやらなかったから、兄貴が……長男が学校で恥をかいたということを認めてやらない。

ようするに、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」で、兄貴が学校で恥をかくことになったのだけど、親父は、認めないのである。親父が、兄貴のピンチをつくったわけだけど、親父は、兄貴をピンチにしたつもりがないのである。

きちがい親父は、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」のせいで、兄貴(親父から見れば長男)がこまっているということが、まったくわかってない状態なのである。

自分が損をすることがわかっているので、きちがい的な意地で「ハンダゴテが使えない」ということを認めない。無意識的なレベルでは、新しいのを買ってやると、自分が損をするというとがわかっていた。なので、無意識的なレベルで、自分がもってきたハンダゴテが使えないということを認めるということが「できないこと」になる。

けど、きちがい親父の意識は、それがわかっってないのである。意識のレベルでは、「自分が物置から出してきたハンダゴテが使える」ということになっているのである。それはもう、決まっていることなので、ほんとうなら、どれだけ頭がわるい人でもわかる説明を聴いても、認めないのである。

そして、実際に、きちがい兄貴が学校に「そのきちがい親父が押し付けたハンダゴテ」を持って行ったら、先生にバカにされて、みんなに、わらわれたのである。恥をかいたのである。「これが使えると思っているのか」「これが使えると思っているなんて、おまえバカだ」という意味のことを、友達に言われて、兄貴は、ものすごく、くやしい思いをしたのである。

そりゃ、自分だって、「使えない」ということがわかっている。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。兄貴は自分が、学校にもって行った「親父のハンダゴテ」が使えないハンダゴテだということは、知っているのである。

だから、「知っているよ」と答えるのだけど、「じゃあなんで持ってきたんだよ」と友達に言われるのである。でっ、「親父がどうしても、認めなかったんだ」ということを友達に言うわけなんだけど、友達が「おとなの人がこんなのがわからないなんてことはおかしい」と言ったのである。

でっ、技術科の先生まで「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」ということを言ったのである。だから、恥をかいて、家にもどってきたわけ。

それで、きちがい親父に、そういうプロセスについて話して、学校で恥をかいたということを説明したのだ。しかし、きちがい親父が、一回目のときとおなじ態度ではねのけて「使える!!使える」と絶叫して、新しいハンダゴテを買ってくれないのである。

そういういじわるをする。もちろん、きちがい親父は、いじわるをしているつもりなんてないのである。親父の頭のなかでは、いつまでも「使えるハンダゴテ」なのである。

親父にとっては、「自分が物置から出してやった、うちにもともとあるハンダゴテ」は、「使えるハンダゴテ」なのである。だから、学校で恥をかいたということを説明しても、絶対に認めないのである。きちがい親父のなかでは、どこまでも、「使えるハンダゴテ」なのである。なにを言われても、判断をかえることがないのである。

無意識なレベルで、「使えないハンダゴテだ」ということを認めるのは、それこそ、ピンチになることなので、認めない。ピンチというのは、親父にとってピンチということだ。

親父にとってピンチなのは、新しいハンダゴテを買わされることなのである。使えないということを認めてしまったら、新しいハンダゴテを買ってやらなければならなくなるので、絶対に「使えない」ということを認めないのである。

でっ、これが、「いつもの」親父のやり方だ。

うちでは、ずっとこうなのである。兄貴が生まれたときから、親父の態度がずっとこうなのである。親父が、わざと、いじわるでそうしているわけではなくて、親父は、「認めない」ということで、ずっといじわるをするのである。ずっと、おなじようにやってきたのである。

だから、親父にかかわると100%確率で、こういう不愉快なことが発生してしまうのである。意識の部分は、「使えないハンダゴテだ」ということを、絶対に、認めない。

ピンチということをいったけど、きちがい親父の態度というのが、おかしいのだ。普通の人だと、殺人をして、その証拠を突き付けられたときのようなピンチなのだ。普通の人は、まあ、殺人なんてしないわけだけど、テンションの高さがちがう。

親父にとって、「ハンダゴテが使えない」ということを認めるのは、普通の人が、自分がかくしておきたい「殺人の証拠」を認めるようなことなのだ。認めてしまったら、自分が新しいハンダゴテを買ってやるために、カネを払わなければならないということに関する緊張感が、普通の人とはちがうのである。

普通の人の場合、「認めてしまったら」全財産を失って、破産しなければならないというような緊張感は、そういうことがなければないわけなんだけど、親父は、くるっているので、どんな少額なことでも、そういう考えがうかんでしまうような態度になる。ようするに、カネを出さされる……ハンダゴテのカネを出さなければならないというとは、親父にとっては、殺人をしたことを認めなければならないピンチや、全財産を失うようなことを認めなければならないようなピンチなのである。そういう緊張感がある。普通の人にとっては、ハンダゴテを買ってやることぐらいなんでもないだろう。

しかも、学校で必要なものだ。ところが、きちがい親父にとってみれば、人生の破滅を意味することなのである。絶対に負けられないことなのである。絶対に、認めてやるわけにはいかないことなのである。

だから、絶対の意地で振り払わなければならないことなのである。

全力で、否定しなければならないことなのである。無意識レベルでは、絶対に認めてはならないものなのである。無意識が、絶対に認めてはならないと、意識に命令すると、意識は、認めることができなくなってしまうのである。

これは、知能とは関係がない。「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」というのは、大人になった人なら、どんな大人の人でも、そのくらいの知能があると思ってる人の発言なのである。

もちろん、おとなでも知能が特別に低い人はいるかもしれないけど、親父は、「社会人として普通に働いているので」知能が特別に低い人ではないということになる。普通の人は、知能が低いからわからないこともあるかもしれないけど、それ以外の場合は、わかるはずだと考えてしまう。

そういう前提でものを言ってくる。

親父が精神的な病気?で、わからないという可能性を考えない。

そして、実際に、親父が社会人として暮らしているわけだし、精神病院に通院したり、入院したりしているわけではないのだから、「おかしい」とは思わないのである。ようするに、『わからない理由』として、知能と精神病ということが考えられるのだけど、そのどっちも、普通の人の頭のなかでは、否定されることなのである。

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである。普通の人は、そういう「無意識的な問題」について、考えない。特別に、精神病院に通っていなくても、特別に、精神病院に入院していなくても、へんな態度をとる人のことがわからない。

だから、親父のように、無意識に問題があって、なおかつ、うちの人にしかそういう態度をとらない人の場合は、ほかの人たちにとっては、『普通の人』であるわけだから、『普通の人だ』と思って、『普通の人だからこうする』というような枠組みで(親父のことを)考えてしまう。

だから、まあ、言ってみれば、よその人にはわからない精神病なんだよ。しかも、そういう精神病的な反応が、うちにいるときは、すべのことに影響をしてしまうのである。ようするに、一回や二回、たまたま、そういうことがあったということではないのである。型にはまった反応なんだよ。

けど、よその人は、それがわからない。「かくれ精神病」みたいな言い方が、適切なのかどうかわからないけど、「かくれ精神病」だとわからないのだ。

ほかの人には、わからないのだ。

その場合、よその人から見ると、(自分の)親父のことをそういうふうに言っている人がおかしいと見えるわけだ。

だから、「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」とか「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」とかと、言われると「こまる」のである。こまるんだよ!!! こまるの!!

ハンダゴテ事件は、親父と兄のあいだの問題だけど、親父の構造がかわらないわけだから、当然、親父と俺のあいだにもおなじような問題が発生する。


よそで、よその人にバカにされたり、せめられたりする人が、うちのなかで、「かくれ精神病の親」にやられている人なのだ。手短に言って、よその人が、これを理解してくれたことは、ない。ぼくの経験の範囲ではない。

よその人の理解というのは、ぼくからすると、いつもいつも、「気楽な理解」なのである。ぜんぜんわかってないのである。誤解したままなのである。

じゃあ、兄貴の友達が「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」と言ったとき、兄貴の友達に兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。技術科の先生が「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」と言ったとき、技術科の先生が兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。

けど、友達や先生の「無理解ぶりを発揮した言葉」で、兄貴は傷ついている。

それから、ちょっとこれは、横道にそれるのだけど、認知療法は、「たまたま起こったことだ」ということを、重視する傾向がある。

たとえば、AさんとBさんがいて、AさんはBさんの父親だとする。あるとき、プールに行ったとき、AさんがBさん背中を押して、Bさんをプールに突き落とした。Aさんとしては、ちょっとしたいたずらでやったことだ。けど、Bさんは、それから、水がこわくなって、プールに入れなくなったとする。その場合、Bさんは、たまたま起こったことを、ずっと何回も起こることだと勘違いしているというような解釈をする。

ようするに、たまたま起こったことなのに、ずっと何回も起こることだと認知してしまったということだ。だから、たまたま起こったことだということを認知して、ずっと何回も起こることだという認知をすてれば、水をおそれる行動がなくなるということになる。「ずっと起こることだ」という認知は、ゆがんでいるのである。

だから、「たまたま起こったことだ」という正しい認知を、Bさんが獲得すれば、それで、問題解決するはずなのである。けど、これは、かくれ精神病の家族にやられている場合とは、ちがうことだ。はっきり言ってしまうと、かくれ精神病の家族にやられている人の(そのことに関する)認知は、ゆがんでいない。

「一回不愉快なことが起こったから、毎回不愉快なことが起こる」と思うのは、認知のゆがみだということになる。どうしてかというと、その「一回の不愉快なこと」というのは、「たまたま起こったことであることがあきらかであり、たまたま起こったことにすぎない」からだ。

けど、かくれ精神病の人は、繰り返し、そういう反応をするのである。だから、かくれ精神病の家族にやられた人の判断はあっているのである。かくれ精神病の人の認知がゆがんでいるかどうかは、ここでは問題にしないとする。かくれ精神病の人は、無意識的な構造でそうしているのだから、繰り返しそういうことをするのである。

実際に、うちのきちがい親父はそういうことをずっとしてきた。ハンダゴテの反応というのは、いつもの、反応なんだよ。親父らしい反応なんだよ!! いかにも、親父がやりそうなことなんだよ!!

ハンダゴテという部分では、たまたま起こったことのように思えるかもしれないけど、パターンがある。親父は、ほかのいろいろなことで、ハンダゴテのように反応するのである。

自分が出したくないカネを、出さされそうになったら、いつもそういう頑固さで、相手の言い分を否定して、怒り狂って「カネを出してやらない」という反応をするのである。

たまたま起こったことじゃないのである。

かくれ精神病の家族にやられた人の判断は、あっているのである。

どういう判断かというと、「おなじようなことが起こる」というような判断だ。「おなじようなことがずっと繰り返されてきたし、おなじようなことが繰り返されるのではないか」という考えは正しい考えなのである。「おなじようなことが繰り返されるのではないか」という認知がゆがんでない認知であり、「今回のことは、またまた起こったことだから、繰り返し起こることはない」という認知がゆがんだ認知なのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。