たとえば、えらそうに説教する人たちの「きれいごと」をすべて理解しているとして、理解したうえで、ヘビメタ騒音下で、生活するということが、どれだけひどいことなのか、まったくわかってないんだよね。「きれいごと」を言う人たちは……。説教をする人たちは……。「きれいごと」の内容が、できなくなるからこまっているのに……。ヘビメタ騒音で、どうしてもできなくなるからこまっているのに……。こいつらときたら……。こいつらときたら、きれいごとの内容をすればいいんだ……と……言う。できないからこまっているんだぞ。こいつら……きれいごとを言う人たちだって、おなじ環境下なら、できなくなる。自分だって、できなくなる……ということが、まーーったく、まーーったく、わかってない。こういうレベルの理解力しかない。どれだけぼくが、言葉をつくって語ったっとしても、こういうやつらは、こういうやつらのレベルでしか理解しない。そして、こともあろうに……ぼくのことを見下してくる。きちがい兄貴にやられたときから、このことが決まっている。これ、セットなんだよ。言ってみれば、セット。
みんながみんな、あの、常識的な、佐藤(仮名)レベルの理解しかしてない。こんなの、地獄だろ。不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる。ところが、常識的な人は、不可避的にできなくなるということを、ガン無視して、できるという前提でものを言ってくる。こんなの、ない。どれだけ言ったって、(むこうは)わからない。こうなると、あんまり言いたくないけど、似てくるんだよな。きちがい兄貴と、常識的な人の態度が似てくる。しくみはちがうけど……しくみは、完全にちがうけど……態度だけは、似てくる。みんながみんな、きちがい兄貴のように、無視するという構造ができあがる。無視している部分も、無視をする全体のしくみもちがうけど、むしするという構造ができあがる。わかってないやつが、「わかってもらえなくてもいいじゃないか」なんて、言い出す始末だ……。いったいどこまで、こんなことが続くのかと、途方にくれる。