2026年4月3日金曜日

●きちがいヘビメタ騒音が続くと、ぼくの問題が発生するのである■騒音※2026/04/03 1:55

  親父と兄貴の、行為で、どれだけ俺が、傷ついてきたか。

どれだけ、ほかの人から見て、無能に見えるようになったか。ほんとうに、毎日の行為が影響を与えるのである。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなかったら、ほんとうに、あんなことは、起こらないのである。起こらないから、起こらない。

これは、ぼくの問題ではないのである。

ところが、毎日毎日、きちがいヘビメタ騒音が続くと、ぼくの問題が発生するのである。こまるのである。そして、能力がさがるのである。精神を破壊されるのである。憂鬱になるのである。人生がなくなるのである。

きちがい親父が、きちがい行為をしなければ、ネズミなんて入ってこないんだよ。そして、きちがい親父がきちがい的な意地で、俺の提案を否定しなければ、こんなことになっていないんだよ。俺が、きちがい親父の入院、転院の手続きをしながら、ネズミ対策をしなくてもすんだんだよ。

そして、いまも、ネズミが入ってきて、俺は、超・鬱な状態になっている。

どれだけ、心細い状態でネズミと戦っているか、わかるか?

ダニのことも、またスタートラインに戻ってしまった。

女の子のことだって、結婚だって、ほかの人が考えるようなことではないのである。これ、ほんとうに、きちがい兄貴のきちがい行為で、全部、ちった。

普通の状態じゃない。

関係、あるんだよ。

俺が一人で、ネズミと、(きちがい親父が残した家で)戦わなければならなくなる。

あれだけきちがい兄貴のヘビメタを聞かされ続けて、普通の気持ちで、女の子と付き合うなんてことはできないんだよ。

そして、通勤して働くということが、ほんとうに、できなくなった。

これだって、ほかのやつは、ヘビメタとは関係がないと考えるのだ。

そんなことはない。関係があるよ。

けど、ほかのやつらは、別に、ヘビメタを鳴らしたやつじゃないのだ。ヘビメタを十数年間ずっと、俺が、ずっとずっと毎日「やめてくれ」と言っているのに、鳴らし続けたやつじゃない。

そして、きちがい親父は、兄貴の騒音活動を、陰からささえていた。これだって、おかしなことなんだよ。あまりにもへんだから、ほかの人が、勘違いしてしまう。

「たいした音で鳴っていなかったから、ほかの家族が文句を言わなかった」と勘違いしてしまうのだ。

そんなことじゃないんだよ。

きちがい親父の態度というのは、ほかの人には、はかり知れないものがある。

2026年4月2日木曜日

●経験していない人が、勝手に「自分なら平気だ」と思っているだけ■騒音※2026/03/21 9:11

 これ、ちょっと思ったから、ほんとうは、書くべきではないけど、書いておく。あとで、消すつもりだ。

言霊主義者に、一〇〇%詐欺のことを説明しても、なかなか理解してくれない。

あいつらにとって、ぼくは、他者だろう。

コミュニケーション障害者の特徴として「相手が言うことを、うまく理解できない」というのがあるのだけど、それを言うなら、言霊主義者だって(相手である)エイリ(俺)の言っていることをうまく理解できないということになる。

しかし、言霊主義者のほうが、多数派だ。

そして、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられて、通勤通学ができなくなった俺は、特別な少数派なのだ。

そして、一般人には、無職に対する偏見がある。

そして、一般人には、ひきこもりに対する偏見がある。

偏見があるということは、そのことについて一括思考をしているということになる。たとえば、ひきこもりというグループ(集合)に対して、ひきこもりはコミュニケーション障害者だという偏見をもっている人がいたとする。

その人は、個別性を考えることなく、ひきこもりなら、コミュケーション障害者だと、自動的に思うわけだ。きちがいヘビメタ騒音にやられて、七年間、歯を食いしばって、通学していたら、通学ができない体になっていたのだ。そして、通勤もできない体になっていた。「まあ、どうにかなるんじゃないか」と思っていたけど、実際には、無理だった。高校を卒業したあとは、まだ、通えるつもりだったのだ。きちがい兄貴が鳴らしている時間、バイトをして、鳴らし終わったころ帰ってくればいい」というような、甘い考えもあった。実際には、きちがい兄貴は、土曜も日曜も、ガンガン鳴らすので、無理なのだ。そりゃ、もう、七年間やられたあとだから、無理なのだ。けど、こういう体の感覚も、実際にやられた人しかわからない。実際に経験した人しかわからない。ほかの人は、経験がないので、どうしても、軽く考えてしまう。自分ならそんなのは平気だ」と考えてしまう。けど、これは間違った考え方だと思う。証明はできないけど、ほとんどの人が、通勤通学できない体になると思う。ほんとうは、一〇〇%の人が通勤通学できない体になると言いたいけど、しかたがないから、ほとんどの人が通勤通学できない体になると思うとだけ、言っておく。しかし、ほんとうに、無理なんだよ。先行する七年間の重みがまったくわかっていない。経験していない人は、先行する七年間の重みがまったくわかっていない。こいつらは、わかっていないのだから「そんなのはあまえだ」とか「そんなのは、関係ない」とかと言う。そのあとに「俺だってつらい思いをした」と付け加えれば、同程度のつらい思いをしたということになってしまう。実際には、もちろん、経験していないのだ。実際に、通勤通学ができるぐらいのことだったんだろ」と言いたくなる。言うこともある。言えば、相手は怒ってしまうけどね。ぼくの経験の範囲で言うと、一〇〇%のやつが怒ってしまった。「自分だったら平気だ」「自分だって、(おなじ程度)のことを経験した」という前提でものを言ってくる。その前提に対して、俺が、「ちがうのではないか」ということを言うと、「たいていのやつ」ではなくて、「すべてのやつ」が、不機嫌になった。まあ、平たく言うと、怒ったよ。「なんだ!そんなのぉ!」という感じで、怒ってしまう。

いやーー。きちがい兄貴が、普通の人がやらないことを、頑固に七年間毎日やり続けたせいで、他人との間にこういうやり取りが発生してしまう。

「働くのが善だ」「働かないのは悪だ」という思考が蔓延していれば、俺が「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言えば、それで、人間関係が崩れる。「そんなのは関係がない」「そんなのはあまえだ」「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「お兄さんにちゃんと言えばしずかにしてくれる」「そんな音で鳴っているのに、家族がなにもしないなんておかしい(だから、嘘だ)」……こういう反応が返ってくる。

ともかく、七年間、日曜祭日も含めて、きちがい兄貴がやったことを、やる家族がいた場合、ほんとうに、通勤通学ができなくなる。けど、それを認めない人たちが、たくさんいる。ぼくの観察の範囲だと、ほぼ一〇〇%だ。その人たちだって、実際に!!やられたら、めちゃくちゃにつらい生活になって、七年間もその生活が続いたら、睡眠回路が崩れ、生活体力がなくなって、うつ病レベルの憂鬱な状態になり、通勤通学ができなくなる。ほんとうに、体力がなくなる。ぎりぎりのところで、ずっと、生活していた。ずっと、睡眠不足だった。睡眠不足で、生活するということが、どういうことを意味しているのか、「自分なら平気だ」と思っている人は、わかっていない。しかも、その時点で七年間も続いている。毎日続いている。これがどういう意味をもっているのか、経験した人じゃないとわからない。経験していない人が、勝手に「自分なら平気だ」と思っているだけなのである。けど、自分なら平気だと思っているので、「そんなのはあまえだ」「そんなのは、関係がない」と言ってくるのである。 

●よさそうな考え方が、じつは、抑圧システムと相互監視社会をつくっている■社会※2026/04/02 3:18

たとえば、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という考えをもっている人が、ブラック社長が、名前だけ店長にサービス残業を押し付けているとき、どっちの味方になるかという問題は、けっこうでかい問題なんだよ。

どうしてかというと、これが、精神世界全体に成り立っているからだ。

そし、精神世界だけではなくて、努力論や自助論といったビジネス精神世界にも、成り立っている。

ようするに、社会で「よし」とされていることが、運用の場面では、悪い効果をもっているということになる。

一見、よさそうな考え方が、じつは、抑圧システムと相互監視社会をつくっているのだ。

そして、条件が悪い人が、より、くるしみ、条件がいい人が、よい思いをするということになっている。

支配者階級、特権階級、特権階級よりちょっと下の階級(準特権階級)……こういう階級の人たちが、「とく」をして、条件が悪い人が、「そん」をすることになっている。

そして、それをつくりだしている人たちが、一見、良心的な人たちだというところが問題なのだ。

「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という考えについては、すでに説明した。「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」とという考えについて考えてみよう。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」と考えている人は、ブラック社長が、名前だけ店長にサービス残業を押し付けているとき、どっちの味方になるかというと、ブラック社長の味方になるのだ。

「明るいことを考えて、頑張れば、明るいことが起こるから、頑張ればいい」ということになってしまう。名前だけ店長の言っていることは、暗いことなので、だめだということになる。

名前だけ店長は、「もう無理だ」と言っている。暗いことだ。その場面では、名前だけ店長は、「できない」ということを言うわけだから、当然、暗いことを言うことになる。

「もう、無理だ」「できない」とネガティブなことを言うことになる。

名前だけ店長は「このままでは、ダメだ」ということを言うことになるので、ネガティブなことを言っているということになる。名前だけ店長は、ネガティブなことを考えているということになる。

当然、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」と考えている人は、「できると言えばできる」と「明るいこと」を言っているブラック社長の側に立ち、ブラック社長の味方をすることになる。

名前だけ店長に、明るいことを考えて、このまま、続ければいいということを言うのだ。

これも、「できると言えばできるから、できると言って頑張ればいい」ということの別バージョンだ。

「ネガティブなことを考えると、ネガティブなことが起こる」と考える人は、実際につらい思いをしている人を攻撃することになる。

攻撃する側に加勢するのである。

やる側の人と、やられる側の人を考えた場合、ネガティブなことが起こると考える人は、やる側の人を応援するのである。

押し付ける側と押し付けられる側のことを考えた場合、「よさそうなこと」に酔いしれている人は、実際の場面では、押し付けるほうに味方をするのである。

押し付けられるほうが、くるしんでいても、それは無視して、押し付けられるほうが、もっともっと、くるしむことに賛成するのである。

これは、たまたま、発生することではない。

システムとしてそうなっている。

基本的には、「一括思考」と「自分を対象とした思考から他人を対象とした思考への移行」がある。「自分を対象とした思考から他人を対象とした思考への移行」は個人のなかのことなのだけど、移行することがあらかじめ想定されている「きれいごと」なのである。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」という考え方だって、それを聴いたときに「その通りだ」と思った人は、他人を対象する用意ができあがっている人なのだ。

ようするに、たいていの場合、自分から他人への移行が発生する。

そして、「助言をすることはいいことだ」「いいアイディアを教えてあげるのはいいことだ」という気持ちがあるので、『やられているほう』を攻撃しているつもりは、発生しない。

ようするに、本人の認知としては、「いいことをしている」ということになる。

ところが、実際には、押し付けるほうに味方をして、押し付けられるほうに、敵対するということになる。

悪いことをしているほうの味方になってしまうのである。

しかし、こういうことをしている人たちは、悪いことをしているほうの味方になったという認識がない状態なのである。

これは、まずい状態だ。

こういうことになるということを、見込んで、『やられているほう』を攻撃しているつもりなどは、発生しない。というような、一見正しそうだけど、間違っている教えを、つくっておくのだ。

洗脳の道具なのだ。

一見よさそうな考え方(教え)が、じつは、現実の場面では、悪い教えとして作動してしまうのである。

精神世界やビジネス精神世界の教えは、一見よさそうなのだけど、悪い教えだ。

まあ、わからないかな。

2026年4月1日水曜日

●そういう、ズレが常にあるんだよ■騒音※2026/04/01 9:26

  ヘビメタが鳴っていると、人格的なことでも、能力的なことでも、誤解を受けるようにできているのである。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で無視したことというのは、これなのである。もちろん、きちがい的な意地で、自分がでかい音で鳴らしているということを、無視して鳴らした。そんなことは、ほかの人にはできない。ほかの「普通の人」にはできないことなのである。だから、ほかの人は、家族がそういう人間ではない人なのである。きちがい兄貴が、俺に押し付けてきたものというのは、人生的なものだ。きちがい兄貴が俺に押し付けてきたものは、きちがい親父が俺に押し付けてきたものより、はるかにはるかに、大きい。けど、それが、きちがい兄貴にも、普通の人にもわからないのである。親友ですら、わかってくれなかったというのがある。ヘビメタ騒音を実際に体験していないと……自分がこの世で一番きらいな音が、ガンガンガンガン、鳴っている毎日を数千日体験しないと、ほかの人との間に、どうしても、どうしても、トラブルがしょうじるということが、わからないのである。きちがい兄貴にも、ほかの人にも、わからないのである。ほかの、普通の人が、みんなみんな、わかっていないのである。これが、どれだけむなしい状態か、わかるか? ともかく、うまくいかないことになるのである。けど、ほかの人は、ヘビメタ騒音に実際にやられているわけではないから、ヘビメタ騒音のことは無視するのである。俺の説明を聴いても、そんなに大きな影響はないだろうと思ってしまうのである。他人がすべてそういう態度だとしたら、他人のそういう態度の総和自体が、俺にとって、むなしいものなのである。「説明することができない」「むなしいこと」なのである。説明は、しているけど、実際に、おなじようなレベルの騒音生活をしないと、わからない。どういうところで、「こまった状態になるのか」ほかの人は、まったくわかっていない。言霊主義者が、俺に対して「できないと言うから、できない」とか「できると言えばできる」と言ってくるということ自体が、めちゃくちゃにこまったことなのである。これが、言霊主義者にはわからないでしょ。そういう、ズレが常にあるんだよ。 


2026年3月31日火曜日

●そのとき、「楽しい楽しい」と言わなかったのか?という疑問がわく■言霊※■2026/03/31 21:00

けっきょく、俺が楽しく感じれば、楽しく感じるのだけど、楽しく感じないから、こまっている。

まあ、いろいろと、ありすぎたね。前から言っているけど、実際に起こったことが、感情に影響を与える。

実際に起こったこととは関係なしに「楽しい」と言えば、楽しく感じるなんてことはない。そりゃ、中立的な状態で「楽しい」と言ったら、楽しく感じたと言う人もいるけど、それは、中立的な状態で「楽しい」と言っただけだ。

別に、くるしくてくるしくて、したがないときに、「楽しい」と言ったわけではない。「楽しい」と言うと、楽しい気分になるような気がするというのは、すでに、楽しいとき……実際に楽しいとき!!……「楽しい」と言ったという経験がものを言うのだ。

これは、言葉と感情の連合が、ある程度、頭のなかに成り立っているから、「楽しいことを想起して」あるいは、「楽しい状態を想起して」……自分は楽しくなったのではないかと感じているだけだ。

ようするに、最初に経験がないとだめなのである。

ところが、「楽しいと言えば楽しく感じる」と言っている人は、経験を無視してしまうのである。経験なしに「楽しい」と言っても、「楽しく感じるはずだ」と間違って、思い込んでいるのである。

言霊思考の影響があるのであれば、経験なしに「楽しい」と言っても、言霊の力で、楽しく感じるはずだと考えてしまうのである。「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力によって、楽しいと感じるのだと考えてしまうのである。

だから、どんな状態でも「楽しい」と言えば、「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力によって、楽しいと感じるはずだと考えてしまうのである。

しかし、「どんな状態でも、楽しいと言えば、楽しく感じるか」と言えば、そんなことはない。

だいたい、そういうことを主張している言霊主義者だって、怒っているとき「楽しい」と言っても、楽しく感じないのだ。

実生活のなかで、実際に不愉快なことを経験したときは、どれだけ「楽しい」と言っても楽しく感じないのだ。そして、たとえば、疲労困憊が続き、うつ病的な状態になっているときは、「楽しい」とどれだけ言っても、楽しく感じないのだ。

朝起きた直後など、頭が回転していないときは、「楽しい」と言ったって、そんなこととは関係なしに、頭が回転していないので、「楽しい」気分にはなれないのだ。

特に、寝不足が一〇〇日以上続いている状態で、朝、無理やり起きたときに「楽しい」と言っても、楽しくならない。言霊主義者は「俺だって、苦労した」とか「俺だって、つらいことはあった」と言うけど、そのとき、「楽しい楽しい」と言わなかったのか?という疑問がわく。

ちょっとでも、「つらい」と感じたら、即座に「楽しい」と言えば、「楽しい」という言葉に宿っている言霊の力で、楽しくなるのではないのか?と言いたくなる。

実際に、ある言霊主義者が「自分でひどい苦労をした」ということを言ったのだけど、「ひどい苦労」を経験する前に「楽しい」と言えば、それで済むわけなんだよ。

どうして、ちょっと「つらい」と感じたときに「楽しい」と言わなかったのか。楽しいと言えば、それ以降は、楽しくなるわけだから、「ひどい苦労」なんて、経験しないはずなのである。

あるいは、言霊理論が真実なのであれば……つまり正しいのであれば……「自分はこれ以降、一切合切、苦労しない」と言ってしまえば、「自分はこれ以降、一切合切苦労しない」という言葉に宿っている、言霊の力によって、苦労なんてしない状態になるのである。

一切合切、苦労を経験しないで済む状態になるのである。どうして、その方法で、苦労しないようにしなかったのか?と訊きたくなる。ひょっとして、そういう言霊的な解決方法を思いつかなかったのか?

人には、あたかも「楽しい楽しいと言えば、どんな状態でも楽しくなる」というようなことを言っているけど、本人は、そういうことをしてない状態なのである。

本人が、日常生活の中で、つらい体験をしたら、つらいと思って、「楽しい」と思わないのである。つらい体験をした直後に「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。

そうしたら、つらい体験は「楽しい体験」にかわるのである。自分が、日常的にはやっていないことを、よその人には、求めるのである。……言霊主義者は……。

それ以前に「これ以降、つらいことは発生しない」と、ひとこと言えば、それで、つらいことは発生しないことになるのである……言霊理論が正しいのであれば……。 

ぼくの観察の範囲で言えば、言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、普通に「怒った状態」になる。即座に、「楽しい楽しい」と言って、楽しくなってくれよ。「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのだろ。

それから、「受け止め方をかえればいい」と言っている言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、「言霊理論を否定してくれてありがとう」と受け止め方をかえればいいのである。

それから、「すべてに感謝すれば幸福になる」と言っている言霊主義者は、言霊理論を否定されたときは、「言霊理論を否定してくれてありがとう」と受け止め方をかえればいいのである。

なんで、自分が信じている理論を否定されたときは、それらの「きれいごと」「お題目」を実践しないのか?

自分が信じている理論を否定されたときは、「受け止め方をかえればいい」だろ。

自分が信じている理論を否定されたときは、「なんでも感謝感謝だから、否定した相手に感謝すればいだろう。「すべてに感謝すれば幸福になる」のだから、「否定してくれてありがとう」と感謝すれば、幸福になる。

どうして、現実の場面では、腹を立てるんだよ?

だいたい、「今後、一切合切、言霊理論は否定されない」と言えば、今後、一切合切、言霊理論は否定されないようになるのである。だったら、そう言えばいいだろう。

*     *     *

言葉との連合ということを書いた。ようするに、「実際の楽しい感情」と「楽しい」という言葉のあいだに連合ができているので、「楽しい」と言うと、楽しくなったような気がするということだ。

たとえば、宇宙のどこかに、地球に似た惑星があるとする。そして、その惑星に人間らしき生命体(生物)が生きていたとする。そこでは、「ぺぺろっぽ」という言葉が「日本語の悲しい」と言う言葉に対応しているとする。

その場合、日本人である言霊主義者が「ぺぺろっぽ」と言うと、悲しく感じるかどうかいう問題がある。たぶん、感じないだろう。

「ぺぺろっぽ」と言う言葉と、「じっさいの悲しい体験」のあいだに連合ができていないからだ。「ぺぺろっぽ」だと、語感から「楽しく」感じてしまう場合があるので、「ぺぺろっぽ」という言葉の意味を「悲しい」にしておいた。

自分が知らない言葉に関しては、言葉と「実際の感情」のあいだに、連合ができていないので、どれだけその言葉を言っても、その言葉が意味することを、感じることがないのである。生きている中で「こういうときは、楽しい」と言うのだということを、学んできたのである。

「言語」と「そういうプリミティブな感情」の学習(体験)が、だいたいおなじ時期に発生するので、連合が最初からできあがりやすい状態になっているのである。

人間の脳というのは……。「楽しい感情」がわいたときは「楽しい」と言うものだということを、学習したから、そのあとで、「楽しい」と言うと、楽しく感じるような気分になるのだ。

音による例外はあるけど、言葉と感情(体験)の学習がなければ、その言葉に応じる「感情」は発生しないのである。

これは、言霊とは関係がないということを意味しているのである。

実際の感情的な経験と言葉のあいだにある連合が、「その言葉を言うと」……「そういう気持ちになる」という現象を発生させているのではないかと思う。

断言はできないけど、たぶん、そうだ。 

言葉自体に言霊が宿っているわけではないのである。

言葉と感情体験の連合が、言葉を言うときに、感情体験を引き出すことがあるから、そういうことが起こるのである。

ただし、どんな状態でもそうなるかというと、ちがうのである。

ともかく、まったく自分が知らない言葉で、「楽しい」と言う意味の言葉を言っても、ぜんぜん楽しくならないということは理解してくれたかな?

まあ、「おん(音)」がおもしろいから、おもしろく感じるということはある。おもしろいとか、楽しいということに関しては、「おん(音)」が関係していることもある。「おん(音)」音が関係している場合も、言霊とは関係がない。

「音」に対する人間の感じ方の問題だ。

2026年3月29日日曜日

●通勤ぐらいできるという考え方が、ぬけなかった■騒音※2026/03/29 19:26

ぼくの経験の範囲で言うけど……ほんとうに、みんな、「俺だってつらいことがあった」とか「わたしだって、つらいことを経験した」と言うけど、ちがうんだよね。

その人たちは、みんな、普通に通学して、普通に通勤している。まあ、俺は、高校までは、行き切ったので、「普通に通勤している」人にだけフォーカスしよう。

当時、俺が無職であることをせめた人というのは、通勤している人なんだよ。その人たちにどれだけ、「ヘビメタ騒音で通勤通学することができくなった」ということを、言っても、その人たちは、まったく……まったく!!……認めなかった。

どれだけヘビメタ騒音を浴びたにしろ、通勤ぐらいできるという考え方が、ぬけなかった。俺と話したあとも「たとえ、どれだけヘビメタ騒音の毎日が続いても、通勤ぐらいできる」という考えたを捨てなかった。

その人たちが、「俺だってつらいことがあった」と言うのである。こんなの、ない。「こんなの、ない」と言う気持ちが、これまた、この人たちにはわからない。俺にしてみれば「こんなの、ない」と思うしかないことなんだよ。

この人たちは、「俺だってつらいことがあった」という言葉で、つらいことの均質化・同質化・同程度化をしている。

実際に、通勤できる体をもっているという時点で、この人たちが、ぼくが経験したのと同程度のことを、経験していないということを意味している。実際の体が、如実に示している。

ぜんぜん、ちがうのだ。この人たちが考える「つらいこ」と、ヘビメタ騒音のつらさが、ぜんぜんちがう。この人たちの想像力がないから、ヘビメタ騒音を「同程度のつらさだ」と決めつけてしまうのだ。

同レベルことを毎日経験していたら……毎日数年間、毎日十数年間経験していたら……絶対にそんなことは言えない。

もちろん、証明はできない。

だから、「そんなのは、おまえが言ってる一〇〇%詐欺じゃないか」と思うかもしれない。しかし、ちがうのだ。ちがう。ぜんぜん、ちがう。

この人たちが、普通に通勤できる体を(その時点で)もっているということが、同程度の経験をしていないということを、如実に示している……。如実に示している……と思うとしか、言いようがないのだけど、如実に示している。

どのみち、証明はできないので、「そんなのは、おまえが言ってる一〇〇%詐欺じゃないか」と思ってくれても、けっこう。

ぜんぜん、ちがう。

同程度の経験がないから、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤ぐらいできる」「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、通勤ができないなんていうのは、あまえだ」と言えるだけ。

小六・途中から毎日、中学全部毎日、高校全部毎日……ぼくが、どれだけ、努力して、学校に通っていたのか、この人たちは、無視している。努力なんてものじゃない。

もう、必死になって、くらいついていた。毎日、二時間、三時間しか眠れなくて、つらかった。ヘビメタ騒音で勉強ができない時間というのが、ただ単に勉強ができない時間ではないのである。死に至るほど、マイナスの時間なのだ。 

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつが、理解できることじゃない。ぜんぜんちがう。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつが、経験してきた困難なんて、たいした困難じゃない。

はっきりと、そう言える。どれだけちがうか……「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつ本人が、わかっていない。

けど、それを言えば「わかってる。わかっている」と言う。「俺だって苦労した」と言う。けど、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という考え方を保持できるような苦労なんだよ。

ぜんぜん、ちがう。ぜんぜん、ちがう。

口が裂けても「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言えなくなる。経験として、わかっていないということじゃないか。

「楽しい楽しい」とどれだけ言っても、楽しくならないということを、経験としてわかっていないだけじゃないか。そんな人が言う、苦労なんて、たいした苦労じゃない。

通勤して、「俺だって苦労した」と言っているやつもおなじ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつとおなじ。

こいつらは、みんな、おなじレベルのやつらだ。まったく、わかっていない。ぜんぜん、わかっていない。「そういうことじゃないんだ」ということを、どれだけ説明しても、理解してくれない。きちがい兄貴のような『壁』を感じる。

まあ、この人たちが、きちがい兄貴のように、非常識な行動をするというわけではないけどね。この人たちは、俺の不都合(通勤できなくなったという不都合)に関係がない。

この人たちがいたから、俺が(通勤でなくなった)というわけではない。けど、ヘビメタ騒音のことを理解しないという点では、きちがい兄貴とおなじなんだよ。

この人たちは、いつも、いつも、ヘビメタ騒音がもたらす負の効果(影響)を過小評価するか、無視する。

兄貴とかわらない。

どういうことになるか、まったくわかっていない。

毎日、つみかさなる場合の効果がぜんぜんわかっていない。経験していないから、わかっていないだけだ。

ぜんぜんちがう。

ともかく、ぜんぜんちがうということが、わかっていないやつらから、俺がバカにされる。ともかく、ぜんぜんちがうということが、わかっていないやつらが、俺のことを下に見るようになる。

これも、ヘビメタ騒音の副作用だ。

きちがい家族による、毎日続く、きちがい騒音の、副作用。これも、こいつらの構造が変わらないなら、不可避的なことだ。きちがい的な感覚で、きちがい的な音を、毎日、鳴らされちゃったら、不可避的にそうなる。

こいつら(理解してない’人)は、自動的に俺ことを見下すようになる。きちがいヘビメタ騒音で、普通にできていたことができなくなる。最大限の努力をしても、できなくなる。

「できると言えばできる」とか、冗談でも、失礼だよ。「失礼な発言をした」ということが、わからないレベルのやつらなんだよ。

●あのなかで、勉強なんて、できないよ■騒音※2026/03/29 4:04

『ヘビメタ騒音で人生がなかった』とつくづく思う。

睡眠回路が壊れているので、この時間に起きている。いま、午前三時四四分だ。

しかし、うまくいかない人生だった。

ヘビメタ騒音で、睡眠回路が壊れた。壊れるのに七年かかった。もう、だめだったんだなぁ。それからは、人に悪く言われて、不愉快な人生をあゆんできた。

その七年間も、アホなやつは、否定する。

ヘビメタ騒音で、睡眠回路が壊れないと思っているのだ。この時間……午前二時三〇分……いつも起きていたよ。眠りたいのに、まったく眠れない状態で起きていたよ。金縛りにあったような感じで体が動かない状態で起きていたよ。

不安でいっぱいだった。

そりゃ、勉強したくても、できないのだ。学生なら、不安になるだろう。

ところが、アホなやつらが「自分なら平気だ」という前提で、「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言うのだ。いやーー。関係があるんだよ。

その人たちが、実際には、ぼくとおなじような経験がないから、わかっていないだけなんだよ。あれだけでかい音で、あれだけの至近距離で、ガンガンガンガン、自分のきらいな音を聞かされ続けたら、眠れなくなるんだよ。わかってないだけじゃん。

ところが、「俺だって、苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」「俺だって眠れない夜ぐらいある」と言いやがるのだ。

けど、毎日ずっと十数年間も、続いているわけじゃないだろ。まあ、学生時代に限れば、七年間だけどな。中学時代、高校時代、すっぽり包み込んで、毎日鳴っているんだぞ。

家族が鳴らす騒音なんだぞ。

俺の話を信じない人たちがいるけど、その人たちの常識が普通なんだよ。きちがい兄貴が、常識の外で生きているんだよ。

そして、きちがい親父は、きちがい兄貴とおなじように、常識外の生き物だし、おかあさんには、兄貴を静かにさせる力(ちから)がなかった。おかあさんは、こまっていただけだ。

俺が、どれだけ、きちがい兄貴、静かにするように言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で鳴らしてしまう。絶対にゆずらなかったんだよ。

一日に、一分だって、ほんとうには、ゆずらなかった。ゆずるとなったら、きちがい兄貴がやりたいやり方でゆずるということになってしまう。

きちがい兄貴がやりたいやり方でゆずると、まったく、かわりがないようなでかい音で鳴らし続けるということになってしまう。

けど、きちがい兄貴はきちがいだから「ゆずってやった」と思っているのだ。きちがいだから……。

きちがいと一緒の家に住んでいて、きちがいが、きちがい的な理由ときちがい的な感覚で、俺が一番嫌いな音を、夢中になって鳴らし続けるのだ。その壁……の……すぐうしろで、でかいスピーカーが、ガンガン鳴っている。

勉強なんてできない。宿題もできない。

きちがい兄貴が鳴らしているあいだ、眠って、起きてから、宿題をしようと思ったことがあるけど、きちがい兄貴が鳴らしているあいだ、ここで眠れるわけがないのだ。

ちなみに、おかあさんの部屋だと眠れた。

ヘビメタ騒音が鳴っているこの部屋で、勉強をしようとすると、勉強が苦手になってしまうのだ。

発狂的な状態で、本を読んでも、文字が頭のなかに入ってこない。きちがいヘビメタが鳴っていない状態なら、簡単に解ける問題が、まったく解けなくなってしまう。

きちがいヘビメタが鳴っていなければ、一回読んだだけで、おぼえられることが、何回呼んでも、おぼえられなくなってしまう。

そのときの「あせった感覚」が、テストのとき、復活してしまう。「あせった感覚」が似ているのだ。

もちろん、テストのとき、きちがい兄貴のヘビメタが鳴っているわけではない。

けど、「あせった感覚」が復活してしまう。頭がぜんぜん、まわ回らなくなってしまう。おちつかない。煮詰まった、頭の感覚がある。

きちがいヘビメタ騒音生活の中で、できあがった煮詰まった、頭の感覚だ。

これだって、ほかの人にはわからないだろう。

きちがい兄貴のような感覚で、非常識な音を鳴らす家族が、ほかの人にはいないからだ。きちがい兄貴の、頭の構造というのは、きちがい親父の頭の構造とおなじなんだよ。

だから、(きちがい兄貴は)普通の人がわかることがまったくわからない。相手の立場が、どこまでもわからない。自分(兄貴)がきちがい的な意地でやっていることで、相手(俺)がこまっているということが、とことん、わからない。

この「わからなさ」が、おかしいのだ。

正常じゃない。

いくらなんでも、わかることまで、わからない状態で、鳴らしている。

だから、本人は、鳴らしたつもりがないというぐらいに、関係がない人になっているんだよね。

まったく鳴らしていないから、弟が言っている騒音とは関係がないという意識を保って、きちがい兄貴は、生活している。

もちろん、きちがい的な意地で鳴らすのだ。そして、「しずかにしてくれ」と言われると、真っ赤な顔をして、きちがい的な意地で鳴らしてしまう。鳴らし続けてしまう。

けど、本人は、まったく鳴らしていなときとおなじ気分なのだ。俺が、どれだけ、「こまるからやめてくれ」と言っても、きちがい的な態度で鳴らし続けて、やめてくれなかった。

はんだごて事件のことについて書いたけど、きちがい兄貴の態度というのは、はんだごて事件のときのきちがい親父の態度とおなじなんだよ。

きちがい兄貴は、自分が、やられているときは、きちがい親父のやり方でやられると、はらわたが煮えくり返るほど、腹が立つということがわかっている。

実際、きちがい兄貴は、きちがい親父にやられて、腹を立てていたのである。

そして、きちがい兄貴は、「自分(兄貴)が、親父のやったことでこまった立場になった」ということを、きちがい親父に説明していた。

きちがい親父は、上記のようなきちがい兄貴とおなじような態度で、きちがい兄貴の言い分を、さえぎって、「絶対に、はんだごてを買ってやらない」という意地を通した。

それで、子どもがどれだけこまっても、(親父は)まったくわからないのだ。

本人(親父)がこまらないから、わからない。

逆上、逆上、逆上だよ。

「使える使える」と体をこわばらせて、真っ赤な顔をして、叫んで終わり。きちがい親父のなかで終わっちゃうの。

そうしたら、兄貴が、自分(親父)が押し付けたはんだごてでこまっているということも、うけいれないまま、はねのけてしまう。認識するまえ、はねのけるように怒り狂ってしまう。

だから、そういうやり取りが何度あっても、きちがい親父が「買ってやらない」という状態がかわらない。

どこかで理解してくれるというのがないのである。

だから、けっきょく、おかあさんが金を出して、買ったわけ。

親父に隠れて買ったわけ。

学校に持って行くはんだごてを買うということが、犯罪みたいなものなのだ。親父に隠れて、買わないと、ダメなのだ。

でっ、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度というのは、親父のはんだごてに対する態度とおなじなんだよ。

絶対の意地で、自分がやりたいようにやりたいわけ。

だから、絶対の意地で、自分がやりたいようにやる。

それで、終わりなんだよ。

自分の音で、弟がこまっているということは、一切合切認識しないんだよ。

これは、言われなかったからわからなかったわけではなくて、どれだけ、何千回、何万回言われても、わからないことなんだよ。

親父とおなじように、発狂してはねのけておしまい。

本人(兄貴)が発狂してはねのけると、最初から、言われなかったという状態になってしまう。

押し通せるのだから、そうなんだよ。

これが、我慢して鳴らせなかったということになったら、一分だろうが、一秒だろうが、発狂してしまう。

「なんで、俺が我慢してやらなければならないんだ」という怒りがわいて、そんなのは、バカらしいという感じがわいて、けっきょく、普段通りの音で鳴らしてしまう。

 *     *     *

どれだけ言っても、きちがい兄貴や言霊主義者はわかってくれないのだけど、ほんとうにひどい状態だった。ほんとうにひどい空間だった。

あのなかで、勉強なんて、できないよ。あのなかで、普通の気分を維持して生活するなんてことはできないんだよ。

どれだけ無視して生きようとしても、実際に、「そこで」ドカスカドカスカ、ほんとうに、普通家ではありえない音で鳴っているから、影響を受ける。

きちがい兄貴がヘビメタ騒音の影響を無視した。

それを認めると、思いっきり鳴らすことができなくなってしまう。

まあ、きちがい兄貴の脳みそは、きちがい親父の脳みそと、おなじような部分があるから、「もともとぬけている」という感じがする。

普通の人にはある、脳みその部分がないから、わからないという感じでわからない。きちがい兄貴には、普通の人にはある「脳みその部分」がないので、普通の人のように、「(でかい音で)騒音を鳴らしてる」ということが認識できない。

たいていの言霊主義者は、きちがい兄貴のように、「よその家では鳴らせないような音で、ガンガン鳴らす」ということは、しない。

しかし、言霊主義者は、きちがい兄貴のように、ヘビメタ騒音の影響を無視する。

そして、「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」妄想的に考えているので、「どんな状態だって、できると言えばできる」というようなことを言う。

自分(言霊主義者)が俺みたいな騒音生活をしてないから、自分(言霊主義者)にはできると思っているだけなんだけど、「できないと言うからで、きないんだ」というようなことを言う。

これが、こっちにしてみれば、腹が立つ、発言なんだよ。

ところが、ここで書いてきたような説明をしても、「できないと言うからできない」という考え方がおかしな考え方だということを……きちがい兄貴のように……認めないのだ。言霊主義者が認めない。

だから、たいていの言霊主義者は、兄貴のように、自分が鳴らしたい音を思いっきり鳴らし続けて、まったく悪いと思わないような人ではないのだけど、きちがい兄貴のように、ヘビメタ騒音の影響を無視するようにできているのだ。

そりゃ、言霊理論が正しいなら、「すぐに鳴りやむ」と言えばすぐに鳴りやむわけだし「(自分は)影響を受けない」と言えば、「(自分は)影響を受けない」のだ。

ところが、そうじゃないから、こまっているんだよ。

ところが、言霊主義者は、 「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」と信じているので、「こまっている」ということがわからないのだ。言霊主義的な解決方法は役に立たないということを認めない。

言霊主義的な解決方法が役に立たないので、ヘビメタ騒音を鳴らされっぱなしでこまっている」ということを、今度は、言霊主義者が、意地になって認めないということになる。

言霊主義者だけではなくて、「努力をすれば成功する」ということを信じている人も、認めないのである。

「努力をすれば成功する」と考えている人は、「どんな状況だろうが、努力をすれば、成功する」と考えている。

だから、「できるように努力すれば、それに、成功する」と考えているのとおなじだ。

「できるように努力すれば、ヘビメタ騒音の影響を受けないことに、成功する」と考えているのだ。だから、「無理なんだ」というということを認めない。

2026年3月28日土曜日

●「受け止め方」をかえていたら、正常な人格を維持できない■社会※2026/03/28 14:00

ちょっと付け足しなんだけど……『それでも、こういうふうに考えていたけど、ある考え方を聴いたら、そっちのほうが正しいのかなと思って、以降、そう思うようになった』というようなことがあるだろと思う人もいるかと思う。

そういうことはある。

けど、だから、受け止め方をかえようと思えば、いくらでも、受け止め方をかえることが出るという考え方は間違いなのだ。「前の考え方(今の考え方)」と「新しい考え方」ということを考えた場合、じつは、新しい考え方を受け入れるとなると、その周辺まで、書き換えなければならなくなるのだ。

「それだけ」を書き換えればいいということにはならない。「運用」ということを言ってきたけど、それは、ルールの相互関係が、メタ認知のレベルで成り立っているということなのだ。

相互関係があることに関しては、「それだけ」を書き換えるわけにはいかないのだ。だから、「こっちのほうが正しいと(思わなければならなくなったから)こっちのほうが正しい」と思うようにしようというような考え方は、実際には、うまくいかないのである。

けど、「納得して」書き換える場合だってある。しかし、納得するには、それなりの、根拠が必要なのである。この根拠もまた、どうしても、ほかのルールとの相互関係をもってしまうものなのである。

ほかのルールと書いたけど、正確には、「ほかのルールの根拠」との相互関係だ。

言霊主義者のように、理論的に間違っていることを言っている場合でも、本人のなかでは、いちおうは、整合性がたもたれているものなのである。

だから、いちおう、「新しい考え方」を受け入れるとなると、ほかのルールや、ほかのルールの根拠との関係が問題になる。

しかし、人間の場合、言霊主義者のように「ぬけている」のだ。ぬけている部分がある。あるときは「意識」するけど、あるときは「まったく意識しない」というような気分による差がある。

だから、どの程度、「自分のなか」の総合的な合理性にこだわるかというのは、人によって差がある。そして、言霊主義者を見ればわかるけど、能力的な差がある。

「総合的な合理性にこだわろう」と意識的に思ったとしても、それができるわけではないのだ。いづれにせよ、「納得」しないと、受け入れないのである。

納得して受け入れたことであっても、そのあとの経験によって、「やっぱり、前の考えのほうが正しかったのではないか」というような疑念が浮かぶ場合がある。

そのときは、また、前の考えに戻ってしまうこともある。基本的なことを言ってしまうと、いちおうは、納得しなければならないのだ。

納得できないけど、「こっちが正しい」と思うことには、たいていの人間は、抵抗を感じるものなのである。人に言われるたびに、「受け止め方」をかえていたら、正常な人格を維持できないのである。

2026年3月27日金曜日

●「誤解をする余裕」がある■社会※2026/03/26 15:54

「Xをすれば、幸福になる」というようなことは、普通の人たちにとっては、希望があることなのだけど、極端に条件が悪い人たちにとっては、絶望的なことなのである。

普通の人たちというのは、いちおう、条件が普通の人たちだ。条件が普通の人たちだって、現代社会で生き抜くことは、つらいことなのである。

だから、なんとか、幸福になりたいと思うわけだけど、そうなると「Xさえ、すれば、幸福になる」というような、話にだまされてしまう。

しかし、普通の人たちは、普通の条件の人たちなので、「誤解をする余裕」がある。条件が悪くて、十数年間にわたって、毎日、究極の疲労生活をしている人は、「誤解をする余裕」がない。誤解をする余裕がある人たちというのは、「実際にXをしたら、しあわせになった」と思うような人たちのことなのである。

その人たちと、条件が極端に悪い人は、ちがうのである。

もう、ぜんぜん、ちがう。

「あと」と「から」を誤解する人たちというのは、ある意味、しあわせな人たちなのである。この人たちが、どれだけ、自分だって苦労したということを言っても、その苦労は、条件が極端に悪い人たちの苦労とはちがうのである。

条件が極端に悪い人たちというのは、誤解をする余裕がない人たちなのである。

苦労と言っても、苦労の苦労がちがう。困難と言っても、困難の困難がちがう。つらさと言っても、つらさのつらさがちがう。

「できると言えばできる」「無理だというから無理なんだ」「感謝をすれば幸福になる」「掃除をすれば幸福になる」「親切にすれば幸福になる」「ニコニコすれば幸福になる」「明るいことを思えば明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」「口癖が人生をつくる」「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」「元気だ元気だと言えば元気になる」「引き寄せは可能だ」……こういう言葉の背後にどれだけの死体が横たわっていると思っているんだ?

こういう前向きな助言が、自殺の山をつくっている。

自己責任論とライフハックは、条件が極端に悪い他人を自殺に追い込む(ための)文化的な装置の一部だ。これ、『文化装置』なのである。

2026年3月26日木曜日

●名前だけ店長は、ニコニコしていないから、不幸なのではない(3)■ニコニコ※2026/03/26 15:12

「ニコニコしていたら、ニタニタしていると言われて不愉快な気持ちになった」というようなことを書いた。ニコニコしていたら、不愉快なことが起こったのだから、ニコニコしていたら、悪いことが起こったのである。

ならば、「ニコニコすると悪いことが起こる」と間違った一般化をするともできるというとを書いた。この話は、不自然ではないだろう。

ところで、「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という意見がある。「ニコニコ」と「ニタニタ」に関しても、受け止め方の問題だと言うことが、できるのだ。

この人たちの意見に従えば、一度は「ニタニタしている」と言われて不愉快な思いをしたという認識があるのだけど、その認識を「ニタニタしている」と言われたことは、いいことなのだと、認識しなおせば、よいということことになる。認識をしなおすというのは……つまり、受受け止め方をかえるということだ。

この人たちは、「ニタニタしている」と言われたことはいいことなのだと認識すればよいということを言っているのである。

この人たちは、受け止め方に問題があるときつめつけているけど、ほんとうに、受け止め方に問題があるのかどうかは、わからない。

ぼくは、「ニタニタしている」と言われて不愉快な感じがするのは、正常だと思える。

「ニタニタしている」と言われることが、いいことであるならば、「ニコニコするといいことが起こる」と100%詐欺構文をつくりだすことができるのだ。不愉快だと認識したときも、打とめ方をかえれば、それで、愉快だと思うことができるのである。

だから、その都度、自分にとって都合がいいように、自分の認識を書き換えればいいのだという言い分なのだ……。

受け止め方をかえるということは、じつは、自分の認識を書き換えるということなのだ。しかし、これが、できるのであれば、ある意味、精神異常なのだ。

この人たち……「受け止め方をかえればいい」と言っている人たちは、自然な心の流れ……認識を無視して、認識を書き換えればいいと言っているのである。

しかし、それは、できないことだ。受け止め方がわかるときというのは、それまでの文脈がかわるときなのだ。自我を構成しているルールをいろいろと書き換えないと、「これは、不都合だから、受け止め方をかえよう」と思っても、うまくいかない。

自我そのものの変更を意味するので、意識的な自我が「不都合だから、このように受け止め方をかえよう」と思っても、そのような自我自身がかわっていないのだから、無理なのだ。

「不都合だから、このように受け止め方をかえよう」と思ったときの自我というのは、従来の自我なのだ。だから、受け止め方を、かえるということはできない。書き換えようとしている自我が、書き換えようとしている自分自身を認識してしまう。

最初から「ニタニタしている」と言われたら、いいことが起こったと思う自我の構造と、ほんとうは「ニタニタしている」と言われて、いやなことが起こったと思う自我の構造はちがうのである。

ともかく、人には「受け止め方をかえればいい」なんて言っている人は、なかなか、受け止め方をかえない人なのである。

自信をもって「すべては受け止め方の問題だ」と思っているわけだろ。

そして、それを激しく主張するわけでしょ。

「すべては受け止め方の問題だ」という考え方には問題があるということを指摘されただけで、怒ってしまう人が多い。

ぼくの経験の範囲で言うと「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言った人は、みんな、「すべては受け止め方の問題だ」という考え方には問題があるということを指摘されただけで、怒った。

受け止め方をかえられない人たちなのである。

●名前だけ店長は、ニコニコしていないから、不幸なのではない(2)■ニコニコ※2026/03/25 19:53

「ニコニコすれば、いいことが起こる」と思って、ニコニコしていたら、「なに、ニタニタしているんだ」と言われたとする。

この場合は、意識的に「ニコニコする」ということが、直接の原因になって、悪いことが起こったということになる。

また、「ニコニコすれば、いいことが起こる」と思って、ニコニコしていたら、「なに、人の顔を見て、わらってんだ」と怒鳴られたとする。「俺の顔がおかしいか。おまえ、わらったな」とすごまれたとする。

この場合も、「ニコニコするということが、直接の原因になって悪いことが起こったということになる。

それとは、別にニコニコしていることが、直接の原因ではなく、ニコニコしていることで運がさがり、悪いことが起こると考えることもできる。ニコニコしていたら、運がよくなって、いいことが起こったと考えることができるのだから、ニコニコしているときに、悪いことが起こった場合、ニコニコしていたら、運が悪くなって、悪いことが起こったと考えることもできるのだ。

しかし、普通は「ニコニコすること」と「よいことが起こること」が組になっていて、「ニコニコすること」と「悪いことが起こる」ということは、組になっていない。

しかし、「運がよくなる」という考え方は、「運が悪くなる」という考え方のように、恣意的な考え方なのである。あるいは、妄想的な考え方なのである。

あたかも、科学的に証明されたようなことを言うことがあるけど、「運」というものを科学的に定義できないないのだから、そんな証明はなされたことがないと考えるべきなのである。

「運」は科学的に定義できないばかりか、科学的に計測することもできないのだ。「運がよくなった」と感じるということは、主観的なこととしてあり得るので、「運がよくなった」と感じることに関しては、計測できるけど、それは、主観的な報告を統計的に処理しているに過ぎない。

ようするに、ほんとうに、ニコニコしていること(あるいは、ニコニコすること)が、個人に固有の「運」を上げるかどうかはわからない。

何度も言うけど、「運」というのは、現実の写し絵だ。個人に固有の能力ではないのである。個人に固有の能力である「運」があることや、個人に固有の能力である「運」があがったりさがったりするということは、科学的には、証明できないことなのである。

どうしてかというと、そもそも、個人に固有の能力である「運」なるものが、ないからだ。そして、個人に固有能力である「運」なるものを計測することができないからだ。個人に固有の能力である「運」なるものなんて、ない。人が、そのようなものを、勝手に想像して「運がある」とか「運が強い」と思っているだけだ。

Xをすると、運があがるので、よいことが起こるというのは、嘘だ。勝手な妄想なのである。

この中間項目の「運があがる」という項目が、くせ者なのだ。「Xをすると、運があがるので、Yが起こる」というのは、法則性があるようでないものだ。

いま見せたように、Xをしたあと、少しでも悪いことが起これば、それで、「Xをすると、運がさがるので、マイナスのYが起こる」と言い換えることができる。

実際の生活のなかでは、「ニコニコ」していたのに、悪いことが起こる場合だってある。

ニコニコしていたことと、直接関係がある悪いことと、ニコニコしていたこととは、直接は関係がない悪いことがある。

「運がさがる」という中間項目をいれてしまうと、Xをしたあと、ほかの理由で、Yが起こった場合は、「Xをすると、運がさがってマイナスのYが起こる」と言ってしまうことができる。

あるいは「Xをすると、運がさがって、Yが起こらない」と言ってしまうともできる。見過ごされているけど、悪いことでも、法則性がありそうなことは、言うことができる。

もちろん、間違っている。

「あと」にすぎないのに、「から」だと思っているのだ。あるいは、「ので」だと思っているのだ。

因果関係がないことなのに、因果関係があるように言える。その因果関係は一〇〇%の因果関係なのだ。そういう構文で言ってしまう人たちがいっぱいいる。

いま、逆の例で説明したから「そんなことはないのではないか」と思う人がいるかもしれないけど、逆の例で説明すると、「XをすればYになる」という言い方には、理論的なほころびがあるということが、よくわかるだろう。


2026年3月25日水曜日

●名前だけ店長は、ニコニコしていないから、不幸なのではない(1)■ニコニコ※2026/03/25 18:44

たとえば、「ニコニコすれば、いいことがある」ということについて考えてみよう。

とりあえず、「ニコニコすれば、いいことが起こる」と「ニコニコすれば、いいことがある」は、等価だとする。

この場合、「XをすればYが起こる」ということになって、一〇〇%構文になる。

すべての(ニコニコすることにおいて)ニコニコすれば、一〇〇%の確率で、いいことが起こるのである。

これは、いいことが起こらないということはないということを意味している。

さらに、ニコニコしたのに、悪いことが起こるということはないということを意味している。

ところが、実際には、ニコニコしても、いいことが起こらないことはあるし、ニコニコしていても、悪いことが起こることはある。

だいたい、ニコニコ教祖でも「わたしだって、つらいことはあった」と言っているのである。

幼児期から、ニコニコしていたのに、成人してから、なにか深刻な病気にかかったらしい。まあ、病気にかかったとしよう。その場合、じつは、ニコニコしたのに、悪いことが起こったということになる。

ニコニコしていたのに、いいことが起こったのではなくて、悪いことが起こったということになる。

ニコニコすれば、いいことが起こるので、悪いことが起こるのは、おかしいのである。

これは、「ニコニコすれば、いいことが起こる」という理論が間違っているということを意味している。

ニコニコ教祖も気にしていないけど「ニコニコすれば、いいことが起こる」という文がもつ意味と「(すべてのニコニコすることにおいて)ニコニコすれば、一〇〇%の確率で、いいことが起こる」という文がもつ意味は、等価なのである。

そして、じつは「ニコニコする」というのが、一意には決まらないのである。「いいこと」も一意には決まらない。

だから、ほんとうは、「ニコニコすれば、いいことが起こる」という文は、意味が不定である文なのだ。

しかし、いちおう、言いたいことは通じる。

ニコニコ教祖が言いたいことは……「ニコニコすれば、いいことが起こる場合がある。私の場合は、いいことが起こった」ということなのである。

「ニコニコすれば、いいことが起こる場合がある。私の場合は、いいことが起こった」ということを「ニコニコすればいいことが起こる」と一〇〇%構文で表現してしまうので、問題が発生する。

たとえば、名前だけ店長は、ニコニコしていないから、不幸なのではないのである。

名前だけ店長が不幸感を感じているのは、長時間労働が、長期間、続いたことによって、つかれがとれない状態で生活をしているから、不幸であると感じているのである。つまり、不幸なのである。

短時間睡眠で、長時間労働をしているので、体がだるくて、くるしいのである。

実際に、自殺してしまったわけだから、不幸だと思っていたのだろう。

また、長時間労働が長期間続くと、自分の時間をもてなくなる。

風呂にゆっくり入る時間すらないのだ。恋愛などはできないだろう。休日出勤はあたりまえなので、ほんとうに、そんなことをしている暇がないのだ。

ブラック社長は、自分の利益のために、名前だけ店長を低賃金と無賃金で、使い倒すつもりなのである。

そのブラック社長がつくりだした構造によって、名前だけ店長は、不幸な生活をしているのである。

原因は、ブラック社長が作り出しているのである。

ブラック社長が、名前だけ店長の言うことをきいて、名前だけ店長にサービス残業を押しけることをやめたら、その分、名前だけ店長は、不幸な生活から解放されるのである。

まず、じゅうぶんな睡眠時間を確保することが、絶対に必要なのである。

ところが、ニコニコ教祖は、名前だけ店長がどういう理由で、不幸感がある生活をしているのかということを、無視して、「ニコニコすればいいことがある」「ニコニコすれば、いいことが起こる」と言うのである。

名前だけ店長が、言われたことを実行するとなると、めちゃくちゃにつかれた状態で「ニコニコしていなければならなくなる」のである。

これは、苦痛だと思う。

条件に関係なく「ニコニコすれば、いいことが起こる」ということはない。

もとの原因が、寝不足や超過労働なのであるから、そこのところどうにかしなければならないのである。

ちなみに、ぼくの場合は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が問題なので、ヘビメタ騒音がどうにかならなければ、ぼくの場合も、ニコニコしたところで、不幸感がある生活を続けることになるのである。

だいたい、「ニコニコすれば、いいことが起こる」というのは、一〇〇%の因果関係があるということを言っているのである。ニコニコすることが原因で、かならず、いいことが起こるということを言っているのである。法則性があるようなことを言っている。

しかし、ほんとうは、法則性なんてないのだ。

ニコニコしたのに、悪いことが起こる場合だってあるのである。一〇〇%の確率で起こることではないのに、一〇〇%の確率で起こるという意味の文を、ニコニコ教祖は言ってしまっている。

何度も言うけど、ニコニコしたことで、不愉快な出来事が発生する場合だってあるのだ。

ニコニコしても、ニコニコしたこととは、関係なく、悪い出来事が発生する場合だってあるのだ。

そういう可能性を、ガン無視して、自分の場合は、ニコニコしていたらいいことがあったから、「ニコニコすれば、いいことが起こる」と言ってしまっているだけなのだ。

何度も言うけど、ニコニコ教祖もまた、自分が言おうとしていることと、自分が言ったことの、ズレに気がついてないのだ。

「ニコニコすれば、いいことが起こる場合はある。すくなくても、わたしの場合、ニコニコしたら、いいことが、一回以上、あった」ということを……ニコニコ教祖は……言いたいだけなのだ。

それを、一〇〇%構文で言うから、一〇〇%詐欺になってしまう。

そして、子どものころから、「ニコニコすればいいことが起こる」と思って生きてきたのに、「わたしだってつらい思いをしたことがある」と言うのであれば、それは、「ニコニコしていたのに、悪いこと(つらいと思うこと)が起きた」ということを意味しているのである。

「ニコニコすればいいことが起こる」と言っているけど、悪いことが起きたということは、「ニコニコすれば、悪いことが起こる場合がある。わたしの場合は、ニコニコしていたので悪いことが起こった」と言うこともできるのである。

「ニコニコすれば、悪いことが起こる場合がある。わたしの場合は、ニコニコしていたので悪いことが起こった」ということを、頭のなかで、変換すると「ニコニコすれば、悪いことが起こる」と言うことができるようになるのである。

「頭のなかで、変換すると」と書いたけど、これは、一〇〇%構文を使って、一〇〇%詐欺をするときの変換だ。

ほんとうは、「ニコニコすれば、悪いことが起こる」という文の意味と「ニコニコすれば、悪いことが起こる場合がある。私の場合は、ニコニコしていたので悪いことが起こった」という文の意味は、等価ではない。

ところが、頭のなかで変換しているとき、これらの文の意味が等価であるという誤解が成り立っているのである。

なので、最初から誤解が成り立っている文が、できあがってしまう。

2026年3月24日火曜日

●自分のつかれに関しては、自分のつかれなので、判断を間違えない■社会※2026/03/24 17:30

名前だけ店長が、つかれているのは、一日に三時間ぐらいしか、眠ることができない生活をしているから、つかれているのだ。

あるいは、一日中働いている生活をしているから、つかれるのだ。

無理な労働によって、「眠れない状態」が引き出されるのである。長時間労働によって、睡眠時間が実質的に削られるのである。

寝不足のまま、動かない体を動かしているから、つかれがたまるのである。つかれきって、元気がない状態になるのである。

ところが、「過去は関係がない」と言い切るやつが出てくる。「できると言えばできる」と言う意見に賛成したAという人について、多少の記述をしたので、ある人が、言霊主義者であって、過去否定論者である場合について考察することにする。

とりあえず、ある人のことをAさんだとする。はじめにことわっておくけど、過去否定論者というのは、「過去は関係がない」という理論を信じる人のことだ。「過去は現在に影響を与えない」とか「過去は記憶の中にしかない」ということも、過去否定論に含まれているとする。

けど、名前だけ店長が、つかれはてているのは一五年間毎日、サービス残業が続き、睡眠時間を確保できず、自分の時間を確保できないからなのである。

睡眠時間が確保できない生活は、めちゃくちゃにつらいのである。

しかし、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言う人は、「名前だけ店長がどれだけつかれているのか」を無視してしまうのである。

おなじように、「過去は関係がない」と言う人は、「名前だけ店長がどれだけつかれているのかを無視してしまうのである。

過去は関係がないので、名前だけ店長は、つかれていないのである。

一日目のつかれと、一五年目のつかれは、おなじなのである。

ずっと一五年間、睡眠不足のまま暮らしてきたという過去は、無視されてしまうのである。

しかも、それで、いいことを言った気持ちになっているのだ。

「過去は関係がない」と言い切る人は、「過去は関係がない」と言い切ったことで、いい気持ちになっている。なんか、すごくいいことを言った気持ちになっているのだ。

しかし、「過去は関係がない」というのは、暴論なのである。

妄想的な前提が成り立っているアホな理論なのである。
 

名前だけ店長が、「もう、サービス残業をすることはできない」ということを言って、それ対して、ブラック社長が「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と返したところを、Aさんが、聴いたとする。

これは、過去の出来事を認識したということを意味している。ブラック社長が「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と言ったという出来事は、過去のことであり、名前だけ店長が、「もう、サービス残業をすることはできない」と言ったというとは、さらに過去の出来事なのだ。

それに対して、Aさんが「できると言えばできるという考え方は正しい」「過去は関係がない」と思ったので、その場で、そのような発言をしたのである。

どうして、Aさんが「できると言えばできるという考え方は正しい」「過去は関係がない」と思うことができたのかと言うと、それは、過去の出来事に対する記憶があったからであり、出来事の記憶に関して、あれやこれやと考えることができたからなのだ。

これは、そのまま、「過去は関係がある」ということを意味している。

もし、過去が関係のないことなのであれば、Aさんが「できると言えばできるという考え方は正しい」「過去は関係がない」と思うこともできず、そのような考えを発言することもできないのである。

過去は関係があるから、過去の出来事に対して、自分の意見を言うということができるのだ。

もし、ほんとうに、「過去は関係がない」ということが正しいことなら、過去の出来事に関して、自分の意見を言うことすらできない。

「過去は関係がない」というAさんの考え方は、この文脈において、どのような意味をもっているのだろうか。「過去は関係がない」というのは、名前だけ店長が、過去において一五年間つかれた生活をしていたとしても、過去は関係がないので、一五年間の疲労は、関係がないという意味をもっているのである。

ようするに、Aさんが、名前だけ店長の疲労について過小評価しているか、あるはい、無視しているのである。

Aさんは言霊理論を信じているので、「できると言えばできる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」とかという考え方は、正しいと思っているのである。だから、名前だけ店長のつかれを無視してしまう。

名前だけ店長がどれだけつかれていたって、「元気だ元気だ」と言えば、元気になるのだから、そんなのは、関係がないのだ。

また、「できると言えばできるのだから、できると言ってやればいい」と考えてしまうのだ。

「つかれているかどうか」という条件は、「できるかどうか」に関係がないことになっているのだ。

『できると言えばできるのだから、条件に関係なく、できると言えば、できる』と考えているので、条件は最初から無視される。

他人である名前だけ店長のつかれなんて、Aさんには関係がない。

Aさんは、じつは、自分が一倍速で経験していることについては、現実的な考え方をもっているのである。

つまり、「できると言ったってできないことはある」と思っているし、「元気だ元気だと言っても元気にならないことがある」と思っているのだ。

自分が、実際に経験していることに関しては、現実的な選択をするのである。

自分の認知は、あたりまえにあるし、自分の過去の記憶は、あたりまえにある。あたりまえのことに関しては、言霊思考にならないのである。

Aさんだって、猛烈につかれているときは「眠らないとだめだ」と考えて「元気だ元気だと言えば元気になる」と考えないのだ。

自分のつかれに関しては、自分のつかれなので、判断を間違えないのである。

ところが、ひとごとになると、自分のつかれではないので、途端に、言霊思考になってしまうのである。

「条件に関係なく、元気だ元気だと言えば元気になる」「条件に関係なく、できると言えばできる」と考えしまう。この自己中心性は、そのまま、幼児的万能感に直結している。

なお、自分の過去の記憶というのは、その時点で、覚えている範囲の過去の記憶だとする。

あと、「おなじ」を「同じ」と書くかどうか迷っている。これ、いままで「おなじ」にしていたのだよね。めんどうだから、「同じ」でいいかな。 

●理論的な考え方ができないから、つねに、自分を欺くことができる■社会※2026/03/23 7:53

間違いのバッファーは、一〇〇%詐欺なのである。

「努力をすれば成功することもある」ということと「努力をすれば成功する」ということを、意味的にイコールだと思っている人たちがいる。

その人たちは、恒常的に間違いをおかすので、自分の矛盾に気がつかなくてもいいことになっているのである。

理論的な考え方ができないから、つねに、自分を欺くことができるのである。

2026年3月23日月曜日

●元名前だけ店長を無職だという理由で、バカにするようになる■社会※2026/03/23 9:17

たとえ、みんながわかってくれたとしても、きちがいヘビメタ騒音で発生してしまった問題は解決しないのだ。

しかし、少数の例外を除いて、みんながみんな、きちがい兄貴のような無理解ぶりを発揮するというのは、ゆるせないなぁ。

これ、こいつらはこいつらで、ほんとうに「自分なら影響を受けないつもり」なのだ。

「自分だって苦労した」という言葉の背景には、「同レベル」「同等」「同質」の苦労を経験したという前提が成り立っている。

この前提が間違っているのだ。

「自分だってつらいことがあった」という言葉の背景には、「同レベル」「同等」「同質」の苦労を経験したという前提が成り立っている。

ようするに、自分なら、おなじことを経験しても、普通に働けたと思っているのだ。ようするに、自分なら、おなじことを経験しても、遅刻をしない暮らしを維持できたと思っているのだ。

ようするに、自分なら、おなじことを経験しても、普通に勉強することができたと思っているのだ。

ようするに、自分なら、おなじことを経験しても、身体が弱くならなかったと思っているのだ。

ようするに、自分なら、おなじことを経験しても、憂鬱な気分は一時的なもので、ずっと毎日、憂鬱な気分ですごしたりしないと思っているのだ。

けど、ちがう。ぜんぜんちがう。

長さがわかっていない。期間の長さがわかっていない。実際にやられたことがないから、どのように、影響を与えるかわかっていないだけなのだ。

けど、問題なのは、学歴、職歴、うつ病的な鬱、慢性疲労症候群のような疲労だ。これ、きちがい兄貴がやったことを、自分の家族がやったって、自分は、普通になっていないときと同じように暮らせると思っているのだ。

ところが、6年以上頑張り続けたら、だめになるのだ。これがみんなわかっていないところなのだけど、6年間、鳴っている状態で、学校に通うことができたなら、そのまま、学校に通えるはずだと思ってしまう。

6年間、鳴っている状態で、学校に通うことができたなら、そのまま、職場に通うことができるはずだと思ってしまう。けど、その&年間がどういう、6年間なのかわかっていないだけなのだ。

どういう努力によって維持されている「学校に通える生活」「学校に通った生活」なのかと言うことが、わかっていないだけなのだ。

たとえば、名前だけ店長は、15年間、頑張って働いてきたのである。

たえて、生きてきたのである。

だから、15年目に働けなくなったのである。これが、わかっていないのだ。たとえば、名前だけ店長は、1日目、働いていたのである。なら、15年と1日目も働けるかというと、そうではないのだ。

うつ病的な鬱、慢性疲労症候群のような疲労が蓄積して、働けない状態になっている。もう、1日目のようには体が動かないのだ。15年と1日目には、動かない体になっている。

1日目にできたのだから、できると思っているやつが間違っている。

14年と1日に目に、できたことなのだから、できるにきまっていると思っているやつが間違っている。この手の間違いをおかすやつが、「わかっているわけがない」のだ。

この手の間違いをおかす人は……100%詐欺になることを恐れずに言えば……みんな、わかっていない。

この手の間違いをおかす人は「自分だって苦労した」と言うけど、まったくわかっていないのだ。こいつらの思考がおさないのだ。

こいつらの想像力が、じゅうぶんではないのだ。自分は苦労した……だから、15年目の名前だけ店長と同じぐらい苦労したにきまっていると考えてしまう。

けど、その人の苦労は……通勤を続けることができるぐらいの苦労なのである。ぜんぜん・おなじじゃないのである。けど、想像力がじゅうぶんにないので、「おなじだ」と思ってしまう。

だから、間違える。

そして、たとえば、名前だけ店長が、働けなくなったら、「働けないなんて言うのは、あまえだ」と言ってせめる側の人間になるのだ。

こいつら、ほんとうに、思考力がないなぁ。

名前だけ店長が働けなくなったら、名前だけ店長は、店長ではなくて、無職になる。

そうしたら、普通の人には「無職はけしからん」という常識がうめこまれているので、普通の人は、元名前だけ店長を無職だという理由で、バカにするようになる。

2026年3月22日日曜日

●「他人の状態がわからない人」は、そのちがいを、無視してしまう■社会※2026/03/22 3:07

学習性無力感と累積疲労の問題がある。ところが、言霊的な思考をする人や思霊的な思考をする人は、学習性無力感と累積疲労の問題を無視しがちなのである。

そして、「言えば言ったことが現実化する」とか「明るいことを思えば、明るいことが起こる」と言った、妄想的な「一括思考」をしてしまうので、話の流れの中で、相手側の「学習性無力感と累積疲労の問題」をガン無視してしまう発言をする。

それが、「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのは、あまえだ」といった発言だ。

そして、実際に、学習性無力感と累積疲労の問題が、他者の行為によって発生した場合も、「人のせいにしている」と評価してしまう。

ようするに、相手が、「学習性無力感と累積疲労の問題」について語ったなら、それは、相手が「人のせいにしている」ということになるのである。

評価する側からすると、そういうふうに見えるのである。

しかし、これは、侮辱だ。

どうしてかというと、相手にとって、ほんとうに、ほかの人に責任の所在がある場合は、人のせいにしているという言い方が適切ではないからだ。

名前だけ店長は、サービス残業をさせられて、非常にこまっているのである。一五年間という長い期間の話だ。どれだけ長い間、毎日につみかさなってきたことかということを、「そんなのはいいわけだ」とか「そんなのは、あまえだ」とか「自分だって苦労した」と言っている人は、無視してしまう。

そして、「元気だ元気だ」と言えば、問題が解決してしまうようなことを言うのである。

ところが、「元気だ元気だ」と言っても、元気にはならないのである。

どうしてかというと、一五年間という長い期間のあいだ、寝不足が続いているからだ。睡眠時間が短いという問題を抱えているのに、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならない。

この「元気だ元気だと言えば元気になる」というような決めつけは、名前だけ店長にとって不愉快なことなのである。

一括思考で決めつけて、自分だってそういう経験があるということを言っているわけなのだけど、ほんとうはちがう。

ひとごとだから、同程度の経験がないのに、同程度の経験があるという前提でものを言っているのだ。

名前だけ店長が「寝不足でくるしい」と言えば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言い返してしまえば、本人は、それですむのである。本人というのは、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言い放ったほうのことだ。

名前だけ店長が、引き下がった場合、名前だけ店長の寝不足問題は続いてしまうのである。

「元気だ元気だと言うこと」は名前だけ店長の「寝不足問題」を解決してくれない。ところが、「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言っているほうは、名前だけ店長が「元気だ元気だと言えば」名前だけ店長の寝不足問題が解決すると信じ込んでいるのである。

どうしてかというと、妄想的な言霊思考をしているからだ。

言霊思考には「できると言えばできる」という妄想的な思考もある。

だから、「無理だ」と言っている名前だけ店長を、この言葉でせめることができるのである。

そして、名前だけ店長は、無理をして、たいへんなことをやってきたのである。「やってきたなら、できるだろ」という意見もある。

ところが、疲弊と睡眠不足がつみかさなるので、やってきたことが、できなくなるポイントがあるのである。

ずっと、無理をし続けるわけにはいかないのだ。

ところが、名前だけ店長が「もう無理です」と言えば「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」ときちがい的な言葉を投げかけて、名前だけ店長の言っていることを否定してきたのだ。

この積み重ねは、でかい。

名前だけ店長にしてみれば「サービス残業を減らしてくれ」と言うことをずっと言っているわけ。

けど、ずっと、その望みがかなわなかったわけ。

これも、学習性無力感をうむ。

何回も言っているのに、毎回失敗する。

望みをとおすことができなかったという経験がつみかさなるのだ。

これは、学習され、無力感をうむ。

だいたい、言霊理論が正しいなら、名前だけ店長だって、休むことができた。「これ以降、残業はなくなる」とか「これ以降、残業をしなくていい状態になる」と言えば、それで、問題解決ができるからだ。

そもそも、言霊理論が正しいなら、名前だけ店長が、おカネのために働く必要もないのである。「おカネが、出てくる」と言えば、おカネが出てくるからだ。

同様の理由で、ブラック社長が、会社を経営する必要もないのだ。言霊理論が正しいなら、強欲なブラック社長は、カネで、窒息するほど、カネを出して、窒息してしまうだろう。

ともかく、言霊理論が正しいなら、ブラック社長が、会社を経営する必要もない。残業を、従業員に押し付ける必要もない。

それなのに、会社を経営して、残業を従業員に押し付けているということは、言霊理論が正しくないということを意味しているのである。

ブラック社長のような、腹グロな人は、「社会貢献」のために会社を経営しているというようなことを言うことがある。

これ、嘘。

社会貢献であるはずがないだろ。腹グロな人は「世のため、人のために仕事をしている」と言う場合がある。これ、ほんとうに、こまるんだよな。

言霊主義者が、この場面に居合わせたら、ブラック社長が言っていることが正しいと言うのだ。

そりゃ、そうだろ。

「できると言えばできる」なんて、言霊主義者が、言いそうなことだ。言霊理論を信じているなら、否定できるわけがない。言霊主義者が、悪いやつの味方をすることがあるということは、覚えておいたほうがいい。

ところが、言霊主義者は、いい考え方を、世に広めるつもりなのだ。

「言霊は絶対だ」と思っている。

なにが絶対なのか、よくわからないけど、「言霊理論は絶対に正しい」ということなのだろう。

そして、「ポジティブなことを言うのは、よくて、ネガティブなことを言うのは悪い」というような価値観も持っている。

そうなると、ブラック社長のほうが「できる」とポジティブなことを言っているから、いい人で、名前だけ店長は「できない」とネガティブなことを言っている人だからダメな人だというような判断をしてしまうのである。

そりゃ、「ポジティブなことを言うのは、よくて、ネガティブなことを言うのは悪い」というような価値観をもっているのだから、そのような判断をするだろう。

ここにおいて、一緒に居合わせた、言霊主義者も、共犯者だということになる。名前だけ店長に無理なことを押し付けた、共犯者だ。

ともかく、名前だけ店長には、失敗の経験が積もっていく。

実際には、サービス残業を続けているということだけでも、睡眠問題や疲労問題がつみかさなっていく。

サービス残業一日目とおなじ体ではないのだ。

サービス残業一五年と一日目は、サービス残業一日目とおなじ体ではないのだ。

ぜんぜんちがう状態なのだ。

ところが、「他人の状態がわからない人」は、そのちがいを、無視してしまう。

 

 

2026年3月21日土曜日

●そして、繰り返されれば、学習性無力感(Learned Helplessness)が生まれる■社会※2026/03/20 19:26

「XをすればYになる」というような一〇〇%構文を口にする人たちが、個別の条件を無視しているということは、指摘した。

もうひとつ、このような「XをすればYになる」というような一〇〇%構文を口にする人たちが、無視することを指摘しておこう。

それは、学習性無力感である。

一〇〇%構文なので、Xをすれば、Yになるはずなのである。

しかし、これは、条件を無視した、でたらめなのである。

「そんな感じがする」と言っているだけなのである。

当然、Xをしても、Yにならない場合がある。

そして、さらに、悪いことに、Xをしたので、より不幸な状態になる場合があるのである。

Xをしても、Yにならないという中立的な場合と、Xをしたので、マイナスのYがしょうじる場合がある。

マイナスのYというのは、反対のことがしょうじると言うことである。たとえば、Yの内容が幸福になるということである場合は、マイナスのYの内容は不幸になるということだ。 

条件によっては……ようするに、人によっては、Xをしたので、マイナスのYが生じる確率が九〇%ぐらいある人もいる。

ほんらいなら、おのおの文型について、説明しなければならないのだけど、それは、今までのまとめになってしまうんだよな。

たとえば、「言えば、言ったことが(言霊の力)によって現実化する」確率は、〇%だ。

言霊主義者や言霊的な感覚をもっている普通の人が、勝手に、言葉の力を言霊の力だと勘違いしている場合がある。また、「言ったあと」と「言ったから」を誤解している場合がある。

言霊理論に関しては、「言えば、言ったことが(言霊の力)によって現実化する」確率は〇%なので、実際には当然、Xをしても、Yにならない確率は一〇〇%だ。

しかし、言霊の力によってという部分を、文から削除すると、言葉の力によって現実化される場合があるので、〇%だとは言えなくなる。

しかし、「言えば、言ったことが(言霊の力)によって現実化する」と言わなくても、「言えば、言ったことが現実化する」と言っている場合は、言霊の力によって現実化されるということを意味しているのである。

言葉の力によって、「言ったことが、言ったあとに現実化する場合」というのは、主に自己暗示や、他者に対する命令や依頼によって、現実化する場合に限られる。

自己暗示の場合は「元気だ元気だと言ったら、元気になった(ような感じがした)」というような場合だ。

ただ単に、感じがするだけではなくて、血流をはかったら、血流があがったというようなことがあったとする。

けど、血流があがったことが元気になったことを意味するのかというと、ちがうのである。

しかし、ここでは、自己暗示は効果があったということにしておく。

何度も言うけど、これは、言霊の効果ではなくて、言葉の効果だ。これを、勘違いする人が多い。

他者に対する依頼は、「なになにをしてくれ」と他者に頼んだので、日本語を理解できる他者が、その「なになに」をしてくれた場合だ。

これは、たしかに、「言ったから」「言ったあとに」他者がそうしてくれたということを意味している。「言ったから」という要素は、重要だ。

けど、これが言霊の力で、他者が、他者の意志と関係なく(依頼した人が依頼したことを)実行したのかというと、そうではないのだ。

他者の意志がある。ようするに、他者が、言霊の力によって、動かされているわけではない。

言霊の力というのは、この場合、依頼者が発した言葉に宿っている言霊の力を意味するとする。

「命令」の場合は、「依頼」の場合と、ほとんどおなじだ。

しかし、依頼よりも強制力が強い。組織に属している人が、組織に属している人に命令する場合が多い。

組織に属していない人が、組織に属していない人に命令する場合は、命令されるほうが、命令するほうに対して、命令する権利があると思っている場合だと、命令通りに動くけど、命令されるほうが、命令するほうに対して、命令する権利がないと思っているのであれば、命令通りに動かない。

ともかく、「依頼」と「命令」に関しては、言葉の力であって、言霊の力ではない。

まあ、今回は、言霊の話はこのくらいにしておこう。「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのは、一〇〇%構文なので、条件が悪い人が言っても、一〇〇%の確率で、言ったことが現実化しなければならないのである。

ところが、現実化しない。

これは、条件が悪い人の言い方が悪いわけではない。最初から、「言霊の力によって」現実化することがないから、現実化しないだけだ。

言霊主義者は、「言ったことが、言ったあと、言霊以外の力で、現実化する場合がある」ということを「言えば、言ったことが現実化する」と表現しているのだけど、そもそも、そこに、間違いがある。

「言ったことが、言ったあと、言霊以外の力で、現実化する場合」の確率なんて、わからない。

条件がちがえば、確率もちがう。そもそも、「言ったこと」がどういうことなのかということは、重要だ。確率にも影響を与える。

「言ったことが、言ったあと、言霊以外の力で、現実化する場合」のなかには「言ったことが、言ったあと、言葉の力で、現実化する場合」も、含まれている。

「依頼」と「命令」に関しては「言ったから」という表現が、間違いではないということになる。

しかし、「依頼」と「命令」が現実化した場合であっても、「言霊の力」で現実化したのではないのである。

言霊主義者が、勝手に、誤解をして「言霊の力で現実化したのだ」と思い込んでいるだけなのだ。

*     *     * 

今回、ぼくが言いたいことは、確率の低さなのである。

「依頼」と「命令」をぬかせば、「たまたま」起こることなのである。だから、条件が悪い人は、「たまたま起こること」に期待をしなければならないのである。

条件が悪すぎて、一%しか「言ったあと、言霊以外の理由で、現実化すること」がない場合は、九九%は失敗するということになる。

ところが、言霊主義者は、条件が悪い人のせいだというのである。

ところで、「人のせいにしない」ということについて書いたけど、言霊主義者であって、なおかつ「人のせいにしない」ようにしようと思っている人がいたとする。

その人だって、実際の場面では、失敗したという報告を受ければ、「言い方が悪かったから失敗した」と失敗した人(相手)のせいにしてしまうことが多い。

しかし、 言霊主義者であって、「人のせいにしない」ようにしようと思っている人は、「言い方が悪かったから失敗した」と言って相手のせいにしているとき……別に、自分が「人のせいにしている」とは思っていないのである。あるいは、思わないのである。

ここでも、鈍感力が強い人は、無自覚なのだ。

ほんとうなら「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化することはない」ということを認めなければならないのである。あるいは、「言えば言ったことが現実化する」という命題は『偽』であるということを認めなければならないのである。

ところが、たいていの場合、「偽である」ということを認めない。

これに関して言っておくと、言霊主義者は、そもそも、命題が「真である」か「偽であるか」ということを気にしない人たちなのである。「(言霊理論は)絶対に正しい」と思っているのだ。

つまり、「言えば言ったことが現実化する」は『真』であると確信している人たちなのだ。

ところが、『偽』なのである。

ともかく、条件が悪い人は、「言ったことが言ったあとに言った通りになる」ことが確率的に低いのである。

だから、「失敗する」確率が高いのである。そうなると、何回やっても、「うまくいかない」ということになる。

もともと、言霊の力で、言ったことが現実化する確率は〇なんだけど、言ったから、言ったことが現実化したと誤解することができる確率は、ある程度あるのである。

それは、誤解をしているだけだ。誤解をしているだけなのだけど、それでも、条件が悪い人の場合、言った通りにならない確率が高いのだ。

そして、「ある程度ある」と書いたけど、これが、ほかの条件によって、高い場合と低い場合があるのである。

たとえば、言霊主義者の(あることに関する)条件が良ければ、高い確率で(言霊主義者は)誤解をすることができる。いっぽう、条件が悪い人は、低い確率でしか、誤解をすることができないのだ。

しかし、言い方にこだわる言霊主義者は、「自分のほうが言い方がうまいから、現実化させることができるのだ」と……これまた、誤解をしてしまうのである。

こんな、幼稚な人から、助言されるような立場がどういう立場か、わかるか?

*     *     * 

言霊主義者は「何回でも言えばいい」と言うけど、これがどういうことなのか、わかっていないのである。その分だけ、失敗がつみかさなり、その分だけストすれが増すのである。

そして、繰り返されれば、学習性無力感(Learned Helplessness)が生まれるのである。

どうしたって、無力感を感じてしまう。無力感の学習が発生する。どうしてかというと、繰り返し「失敗」が発生するからである。「うまくいかないこと」を複数回、経験してしまう。

もともと、条件を考えていない人にとっては、どうでもいいことなのだけど、条件が悪い人にとっては、重要な問題なのである。

*     *     *

たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っているとする。自分にとってヘビメタが苦手な音だとする。そうすると、鳴っているあいだ、勉強することができないのである。これだけでも、繰り返し学習してしまうので、くるしいことだ。

けど、「言えば解決できる」と言い張る人が出てきたとする。その人は「しずかになる」と言えばしずかになると、言うわけ。ところが、どれだけ「しずかになる」と言ったって、きちがい家族が、ヘビメタを、よそではありえないようなでかい音で鳴らし続けるので、「失敗する回数」が増えるのである。

これも、「言い方が悪い」からダメなんだということになる。言霊主義者の視点から見ると、そう見えるのである。

だから、言霊主義者は、ヘビメタ騒音に悩んでいる人に「言い方が悪いからダメなんだ」とダメ出しをするようになってしまうの出る。これは、言霊主義者側に悪意がなくても、やられているほうにすれば、不愉快な出来事だ。

ただでも、きちがい兄貴のヘビメタでくるしんでいるわけだから、きちがい兄貴のヘビメタが鳴っているということ自体が、不愉快な出来事なのだけど、それにさらに、「しずかになると言えば、しずかになる」というきちがい的な誤情報を与えられることになる。

そして、ポジティブなことが好きな人は、こっちがトライをしなければ、「トライをしないからダメなんだ」と言ってくるようになるのである。ここでも、ダメ出しなのである。

ヘビメタ騒音が鳴っているということが、対処不可能箱に閉じ込められたようなものなのだよ。

それのうえに「しずかになる」と言っても、しずかにならないという「失敗体験」がつみかさなる。

どれだけ兄貴に、直接、しずかにするように言っても、しずかにならない。

毎回毎回、失敗が、つみかさなる。

これ自体が、学習性無力感を生み出すのに、さらに、「しずかになる」と自分の部屋に戻って言っても、しずかにならないということがつみかさなるのである。

言霊理論に従えば、「しずかになる」と言ったら、しずかになるのである。

「しずかになる」と言ったに、しずかにならないわけだから、「言ったことを現実化することに」失敗しているということになる。

多くの言霊主義者は、「言えば言ったことが現実化する」「これは、宇宙を貫く絶対法則だ」と言うのである。

これ以降のことは、ずっと説明してきたとおりだ。ほんとうに、こまるんだよ。ほんとうに、こまる。

2026年3月19日木曜日

●この個別性を無視した「三点セット」が、抑圧を生み出す■社会※2026/03/19 23:36

 個別の条件を無視してしまうというのが、最大の欠点なのだ。

しかし、これもまた、運用の問題がある。個別の条件を無視して「Xをすれば、幸福になる」と言ったとする。個別の条件を無視しているので、「だれもが」Xをすれば、幸福になるという意味になる。

一括思考で、個別性を無視しているのだ。

あたかも、いいことであるような気分にさせる。あたかも、有効であるような気分にさせる。

しかし、個別性を無視しているので、条件が悪い人はXをしても、幸福にならないことが、決まっている。

ところが、そこで終わりではないのだ。

条件が悪い人が、条件について、口にすれば……ほんとうは、めちゃくちゃなことを言っている人たちが「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言うことになっているのである。

これも、運用上、決まっているプロセスなのである。

だから、「Xをすれば、幸福になる」という嘘を押しつけられたうえに、失敗すれば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言われることになる。条件が悪い人が、相対的に条件がいいかもしれない他者に言われるということになる。

これは、最初から決まっている。

「掃除をすれば幸福になる」「親切にすれば幸福になる」「感謝をすれば幸福になる」「掃除をすれば、運があがる」「親切にすれば運があがる」「感謝をすれば運があがる」「掃除をすれば元気になる」「 親切にすれば元気になる」「感謝をすれば元気になる」というようなことを言うけど、最初から、条件に差があるのである。

ひどい条件のもとで暮らしている人は、そのひどい条件の影響を受けて、不幸だったり、運がない(と思えるような)状態だったり、元気ではない状態だったりするのだ。

だから、条件を無視して、条件の影響を無視すれば、なんとだって言えるのだけど……言っただけなのだ。

ところが、「掃除をすれば幸福になる」「親切にすれば幸福になる」「感謝をすれば幸福になる」「掃除をすれば、運があがる」「親切にすれば運があがる」「感謝をすれば運があがる」「掃除をすれば元気になる」「 親切にすれば元気になる」「感謝をすれば元気になる」と言うほうは、絶対にそうなると思っているのだ。

だから、「そうならなかった」という失敗報告を受けると、ごく自然に、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」というようなことを言うのだ。

ここまでがセットなんだよ。

そして、「自己責任論」と「人のせいにしない論」が、補助システムとして成り立っている。これも、条件に見解なく、なんだろうが、自己責任だということを言っているわけだから、個別性を無視している。

この個別性を無視した「三点セット」が、抑圧を生み出すのである。

さらに問題なのは、ほんとうは、洗脳されて、「Xをすれば幸福になる」「そんなのは、いいわけだ」「人のせいにするな」と言っている側が、抑圧システムの主役になっているのに、抑圧システムの主役になっているほうが、「正しいことをしている」と思っている点だ。

「Xをすれば幸福になる」と書いたけど「Xをすれば運があがる」や「Xをすれば元気になる」でもおなじだ。

「そんなのは、いいわけだ」と書いたけど「そんなのは、あまえだ」でもおなじだ。

「人のせいにするな」と書いたけど「すべては自己責任だ」でもおなじだ。

これらの発言というのは、みんな、個別性を無視した発言なのである。

これらの発言というのは、みんな、条件を無視した発言なのである。

●「人のせいにしない」■社会※2026/03/18 15:10

「人のせいにしない」というのは、かたちをかえた「自己責任論」なのだ。

これも、サラリーマン向けのしあわせになる本みたいな本のなかで、よく言われることだ。こういう言い方がはやると、じつは、条件が悪い人が、もっともっと、追い込まれることになる。

「人のせいにしない」というのも、一括思考だ。

どんなことであれ、人のせいにしないということだから、個別性を考えていないのだ。

この……条件の無視と、個別性の無視というのは、かならず、問題をはらんでいる。

条件が悪い人というのは、ほんとうに、人のせい(他人のせい)で、悪いことが発生する場合がある。きちがい的な家族が、きちがい的な行動をした場合、ほんとうに、被害を受けている人が「きちがい的な家族のせいだ」と言うことができなくってしまうのである。

個別性を考えないので……ほんとうに「他人」に責任がある場合も、その人(他人のせいだと言っている人)のせいだということになってしまうのである。

なんだろうが「あの人に責任がある」と言ってしまうと、それは、「人のせいにしていることになってしまうのである。

そして、「人のせい」という言葉は、「ほんとうは、人のせいではないのに人のせいにしている」というニュアンスをもっているのである。

ただ単に、他人に責任があるということを言っているわけではなくて、かならず、的が外れたことで他人をせめているということになってしまうのだ。つまり、本人に責任があるにもかかわらず、その本人が、「他人のせいにしている」という意味あいがしょうじる。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんが「Bさんのせいだ」と言うと、Aさんが「Bさんのせいにしている」ということになり、Aさんが、ほんらい、Bさんの責任ではないことについて、Bさんをせめているということになってしまうのだ。自動的にそうなってしまう。

普通の人たちのこの言葉に対する解釈は、Bさんのせいではないのに、Aさんが、Bさんのせいにしているということになってしまう。

Aさんが「Bさんのせいだ」と言った場合、ほんとうは、Aさんのせいなのに、AさんがBさんのせいにしていると(普通の人は)思ってしまうのだ。

「だれだのせいだ」と言う人のことを「本人」だとしておく。本人が「だれだれのせいだ」と言ったとき、「だれだれ」に該当する人のことを「対象者」だとしておく。

そして、本人が「対象者のせいだ」という言葉を放ったということを、知った人のことを「普通の人」だとしておく。

ほんとうは、本人に責任があるのに、責任のある本人が、他人である対象者のせいにしていると(普通の人は)解釈してしまうのだ。

ところが、普通の人は、本人のせいだと決めつけているのだけど、とくに、本人のせいだと決めつけたという気持ちがないのだ。自覚があんまりない。

あるいは、自覚がまったくない。

本人のせいなのかどうか知らないけど……人のせい(対象者のせい)にするのは、よくないと自動的に判断しているにすぎない。

本人のせいかどうかというのは、普通の人にとって、わからないことなのである。

その場合、ほんとうに、本人のせいである場合はいいけど、ほんとうに、対象者のせいである場合は、本人が傷つくのである。不快な思いをするのである。

自分勝手な人がいるので、自分勝手な人が、ほんとうに、ひどい迷惑行為を、がめつく、やる場合がある。

その場合も、自分勝手な人にやられた人が、「自分勝手な人(対象者)のせい」で迷惑したということを言えば、普通の人は、ほんとうは、自分勝手な人のせいではないのに、自分勝手な人にやられた人が、自分勝手な人のせいにしていると思ってしまうのだ。

一括思考は、個別性を重視ないので、「ともかく、こういうことを言っている人は」「人のせいにしている」ということになってしまう。

けど、それは、間違いだ。

個別に考えなければならないのである。

責任の所在に関しては、個別に考えなければならないのである。

それを、一括思考で「責任の所在について」考えずに、ほんとうは、「本人に責任がある」と、他人であり、第三者である「普通の人」が考えてしまう。

ともかく「だれだのせいだ」と言った人に責任があり、「だれだのせいだ」と言った人が、ほかの人(対象者)のせいにしているだけだと決めつけてしまうのである。

こんなの、ない。

個別性を重視しない考え方というのは、現実の条件を無視してしまうので、現実世界で「だれだれ」が、ほんとうにやったことを軽視してしまうのだ。

そうなると、条件が悪い人が、悪く言われるということになるのである。

そして、「人のせいにしない」と言っている人も、今まで見てきたよう、「人のせいだ」と言った人のせいにしているのである。

「人のせいだ」と言った人に責任があると決めつけているわけで、「人のせいだ」と言った人のせいにしている。

だから、自分は、中立を保ちながらも……そして、自分は「人のせいにしていない」つもりで、「人のせいだ」と言った人のせいにして、「人のせいだ」と言った人を、道徳的にせめているということになる。

中立ではない。

ちゃんと、「人のせいだ」と言った人のことを攻撃している。勝手に「人のせいだ」と言った人のせいにしている。

個別性を考えて、「人のせいだ」と言った人に、責任がある場合について考えてみよう。

その場合は、「人のせいだ」と言った人をせめる行為は、いちおう、認められる。

しかし、個別性を考えて、「人のせいだ」と言った人に責任がない場合はどうなのだ。個別性を考えた場合、対象者の責任である場合がある。

その場合、「普通の人」は間違ったことを言って、「(だれだれのせいだと言った)本人」をせめていることになる。

 「人のせいにしない」と言っている「普通の人」も、「ぬけぬけ」なのだ。

「(自分は)人のせいにしない」と思っている「普通の人」も、普段、自分が一倍速で経験したことに関しては、ちゃんと、「人のせい」にしているのである。

けど、自分が「人のせいにしている」という気持ちが発生しないだけなのである。

どうしてかというと、「ちゃんとした理由がある」と思っているからだ。

「対象者のせいだ」と言っても、自分の場合は、正しいのである。実際に「対象者のせいだから」「対象者のせいだ」と言うことは、正しいと思っているのである。

ちゃんと、自分の現実的なことに関しては、他者(対象者)の責任を問うようなことをしている。

ようするに、「ぬけぬけ」なのである。

自分が「あたりまえだ」と思っていることについては、「他人(対象者)の責任を追及して、あたりまえだ」とごく自然に思っているのである。

「人のせいにしない」ということを実践していないのである。

自分が「あたりまえだ」と思っていることに関しては、自分が他人のことを見ているときは、ちがった視点が成り立っているのである。

視点がちがうので、ぬけぬけになる。

自分が「人のせいにしないようにしよう」と思う場合は、自分のなかに人のせいにしたい気持ちがあるけど、ほんとうに、「人のせいではない(ということを自分が知っている)場合」なのである。

言霊主義者の「雨がふると言ったから、雨になった」ではないのだけど、本人にとって都合がいいことが、選ばれて、本人のなかで、一般化している。

ようするに、自分の意識が集中したときだけ、そのように行動しているのだけど、自分の意識が集中していないときは、普通に「人のせいにしている」と言うことに、自分自身が気がつかない状態で暮らしている。 

*     *     * 

「人のせいにしない」という言葉も、現実社会において、立場が悪い人をおさえつけるような役割をはたしている。「人のせいにしなければ、幸福になる」というような感じの本を出している人たちがいる。

その人たちは、一般的な読者よりも、社会的な地位が高いのである。

その人たち(著作者たち)が、普段、「人のせいにしないで」暮らしているかというと、そうではないと思う。たぶん、「ぬけぬけ」だと思う。

*     *     * 

条件が悪い人や立場が悪い人は、不当な扱いを受けがちになる。

その場合、ほんとうに、「相手」が悪い場合がある。

ようするに、条件が悪い人や立場が悪い人の言い分が正しい場合がある。

しかし、「普通の人」が一括思考をしてしまうと、「本人」の言い分が正しい場合も、「普通の人」は「本人」の言い分が正しいとは認めないことが多い。

この人たち……「普通の人」は、「本人」の言い分が正しい場合も、「本人である」条件が悪い人や立場が悪い人が「人のせいにしている」と認識してしまうのである。

このような構造が成り立っている社会というのは、このような構造が成り立っていない社会よりも、悪い社会なのだ。生きにくい社会なのだ。

2026年3月18日水曜日

●どれだけ、俺が、いろいろなことで、誤解されたと思っているんだ■騒音※2026/03/18 22:54

ほんとうに、ヘビメタ騒音なしで生きたかった。それだけなんだよなぁ。

みんな、ほんとうにはわからない。あの生活がどれだけくるしい生活かわからない。わかっていない。

ほんとうに、ヘビメタ騒音で「おしだされてしまう」ものがある。

どれだけ、騒音のなかでたえて、頑張っても、「おしだされてしまう」ものが増えてしまうのだ。

きちがい兄貴が、容赦なく、きちがい的な意地で鳴らし続けたのだけど、あれは、異常な状態だ。普通の家で、あんなことがあるわけがないのである。

これも、ぼくの経験の範囲で言うと……みんながみんな「自分だって苦労した」「自分だっ騒音ぐらいあった」というけど、ちがうんだよね。

俺とおなじレベルで、きちがい家族の騒音を浴びて、暮らした人がそんなことを言うわけがないのだ。

もし、俺とおなじレベルで、きちがい家族の騒音を浴びて、暮らした人がいたら、その人は、ぼくが言うことを、すべて理解してくれる。

どんなことになるか「自分だって苦労した」と言う人は、わかっていない。

わかっていないで、言っている。

彼女のことだって、親友のことだって、ヘビメタ騒音で破壊された。ところが、こいつらはみんな「そんなのは関係がない」というのだ。どうしても押し出されてしまうことがあると言っているだろ。

どれだけ我慢したって、影響をは受けるんだよ。ずっと鳴っていていいわけがない。きちがい兄貴のやり方が、異常なのだ。

そして、普通の人だったら、いっくらなんでも、「弟がこまっている」ということがわかる。

ところが、きちがい兄貴の頭は、きちがい親父の頭とおなじだから、そこのところが、ほんとうにまったくわからないのである。

だから、悪いことをしている気持ちというのが、一切合切ないんだよね。

そして、自分が鳴らしているとき、ちょっとでも「やめろ」ということを言われると、発狂する。発狂してはねのけたら、もう、関係がない人になっているんだよね。

ものすごくでかい音で、意地になって鳴らしているのに……そのあともずっと鳴らしているのに、関係がない人になってしまう。

これも、きちがい兄貴ときちがい親父で、まったく、おなじなんだよ。

そっくりの反応なんだよ。

どれだけ、意地になってやっているか、本人がわかっていない。

「ゆずる」というのも、きちがい兄貴が、でかい音で鳴らしたいわけだから、ほんとうには、ゆずらないんだよ。

けど、〇・〇〇〇〇一デシベルでも、しずかにしてやったら、しずかにしてやったと言うことになってしまう。これも、親父と兄貴でおなじなんだよ。

「ヘビメタ騒音なしで、あの子と普通に付き合いたかった」という気持ちが、ある。「ヘビメタ騒音なしで、ダイヤとツーリングに行きたかった」という気持ちがある。

いまだに、ある。これ、両方とも、きちがいヘビメタ騒音がなければ、実行可能だったことなんだよ。ヘビメタ騒音と恋愛なんて関係がないと言う人がいるのだけど、関係があるんだよ。

あのときの、ぼくの気持ちというのは、すごい気持ちだ。

ヘビメタ騒音が鳴り始めて、六年目の気持ちなんて、ほかの人には絶対にわからない。どれだけほかの人と対立することになったか、ぜんぜんわからない。「ヘビメタ騒音で大変だということを、ほかの人に言っても」「ヘビメタ騒音でたいへんだということを、ほかの人に言わなくても」かなりまずいことになるのだ。

両方とも、悪い結果につながるのだ。「そんなことはない」と思う人がいるかもしれないけど、ちがう。あれが毎日続いていいわけがない。

どれだけ、俺が、いろいろなことで、誤解されたと思っているんだ。

「俺だって、騒音ぐらいあった」「俺だって、つらいことがあった」「俺だって苦労した」「そんなのは、関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「そんなのは、言い訳だ」と言った人は、誤解している人なんだよ。

誤解している人が、誤解していないつもりで、半分、腹を立てて、無理なことを言ってくる。そういうことになってしまう。毎日、十数年間も鳴っていたら、そうなってしまうんだよ。

無理がいぶり発揮しているやつが「そんなのは関係がない」と言う。

いや、関係、あるんだよ。

●自己責任論がはやったら、世界が悪くなってしまった■社会※2026/03/16 15:10

もし、自己責任論が「いいもの」であるのならば、自己責任論がはやれば、はやったぶんだけ、世界がよくなるはずなのである。

ところが、自己責任論がはやったら、世界が悪くなってしまった。

自己責任論をふりまわす人は、自己責任論が正しいと思って、うたがわない。

「自分は、自己責任論で生きるよ」と豪語するのだ。

ところが、その本人が、じつは、自己責任論では生きていない人間なのである。しかし、その人は、それに気がつかない。

ようするに「ぬけ」があるのだ。

自分が「普通に」ほかの人に責任があると思ってることに関しては、普通に「ほかの人のせいだ」と思う人なのである。

しかし、自己認識は「自己責任論で生きている人」なのである。

言霊主義者が、あたりまえだと思うことに関しては、言霊理論について考えないのとおなじで、自己責任論者も、あたりまえだと思うことに関しては「自己責任だ」と考えないのだ。

そして、「自己責任だと思わなかった」という意識がない状態で生きている。

言霊主義者が、夏の暑い日、自分の買ってきたアイスを、机の上に置いたままにしたら、アイスがとけてしまったということを経験したとする。夏は暑いから、(アイスは)とけてあたりまえなのである。自分が「アイスがとける」と言ったから「アイスがとけたのだ」とは思わないのだ。

自分が……「このアイスはとけない」と言わなかったことについて、注意をはらわない。

「このアイスはとけない」と言えば、アイスがとけないまま、残り続けるとは、言霊主義者でも思わないのだ。言霊なんてまったく関係なく、「暑い日に、アイスを机の上に置いておいたら、そりゃ、とけるだろ」と思っているのだ。

言霊の力でアイスがとけたとは思わないのだ。固体になっていたアイス成分が、熱によって液体になったと考えるのだ。それであたりまえだから、言霊の力なんて、まったく、考えもしないのだ。

あたりまえだと、言霊の力なんて無視してしまうのだ。

言霊なんて、一切合切関係なく、アイスがとけたのである。

そして、言霊主義者自身も、言霊なんて、一切合切関係なく、アイスがとけたと思っているのである。「アイスはとける」と言ったから、言霊の力によって、アイスがとけたとは思わないのだ。

それと、おなじように、自己責任論者も、「普通に」「相手のせいだ」と思えることに関しては、相手の責任を追及するのである。自分が立腹したら、相手の発言が、自分を立腹させたと思うのである。

「自分が立腹したのは、自己責任だ」とは思わないのである。

「ぬけぬけ」なのである。「ぬけぬけ」なのである。

いったい、この自己責任論になんの意味があるのか?

アンガーコントロール論としては意味はない。

自己責任論というのは、ただ単に、他人の責任を追及するためにあるのである。

他人の責任というのは、この場合、他人の身に起きたことは、すべてその他人の責任であるという意味での、他人の責任だ。

なお、アイスというのは、アイスキャンディー(氷系のアイス)を考えて書いた。

2026年3月17日火曜日

●「ひきこもりならコミュニケーション障害者だ」■社会※2026/03/15 10:54

たとえば、一五年間、ブラック企業で働いてきた「名前だけ店長」が、自殺をせずに、うつ病的な状態になり、生活し始めたとする。

うつ病的な状態と書いたのは、医者に行く気力もなかったから、名前だけ店長が、医者に行かなかったからである。

投薬治療というものに意味があるのかどうかということは、ここでは、書かないことにする。

ともかく、セルフニグレクト状態で、名前だけ店長が、ぐたぐたな生活をしていたとする。長期化したとする。

その場合、名前だけ店長は、ひきこもりだということになる。一般人は、ひきこもりならコミュニケーション障害者だと考えてしまう傾向が強い。

しかし、名前だけ店長は、一五年間、ずっと、働いてきた人なので、コミュニケーション障害者ではないということがわかる。一般人が頭のなかにもっている「ひきこもりならコミュニケーション障害者だ」という考え方が間違っているのである。

これも、一括思考で、全部、決めつけてしまう。

なお、セルフニグレクト状態で暮らしている人は、たしかに、人とコミュケーションを積極的にとろうとしている状態ではない。できれば、コミュニケーションをとりたくないと思っている状態だろう。

そして、セルフニグレクト状態であれば、投げやりな状態になっているので、実際のコミュケーション能力も下がっているだろう。しかし、これは、コミュニケーション障害者が、他者とうまくコミュニケーションができない状態とはちがうのである。

コミュニケーション障害者は、セルフニグレクト状態ではなくても、他者とうまくコミュニケーションがとれないのである。ひきこもりならコミュニケーション障害者だという決めつけは、よくない。

コミュニケーション障害者と言っても、いろいろなタイプがいる。ひきこもりと言っても、いろいろなタイプがいる。言葉のイメージで、一括思考してしまうことはよくない。

たとえば、一五年間、ブラック企業で働いてきた「名前だけ店長」が、自殺をせずに、うつ病的な状態になり、生活し始めたとする。

うつ病的な状態と書いたのは、医者に行く気力もなかったから、名前だけ店長が、医者に行かなかったからである。投薬治療というものに意味があるのかどうかということは、ここでは、書かないことにする。

ともかく、セルフニグレクト状態で、名前だけ店長が、ぐたぐたな生活をしていたとする。長期化したとする。

その場合、名前だけ店長は、ひきこもりだということになる。一般人は、ひきこもりならコミュニケーション障害者だと考えてしまう傾向が強い。

しかし、名前だけ店長は、一五年間、ずっと、働いてきた人なので、コミュニケーション障害者ではないということがわかる。一般人が頭のなかにもっている「ひきこもりならコミュニケーション障害者だ」という考え方が間違っているのである。

これも、一括思考で、全部、決めつけてしまう。

なお、セルフニグレクト状態で暮らしている人は、たしかに、人とコミュケーションを積極的にとろうとしている状態ではない。できれば、コミュニケーションをとりたくないと思っている状態だろう。

そして、セルフニグレクト状態であれば、投げやりな状態になっているので、実際のコミュケーション能力も下がっているだろう。

しかし、これは、コミュニケーション障害者が、他者とうまくコミュニケーションができない状態とはちがうのである。

コミュニケーション障害者は、セルフニグレクト状態ではなくても、他者とうまくコミュニケーションがとれないのである。

ひきこもりならコミュニケーション障害者だという決めつけは、よくない。

コミュニケーション障害者と言っても、いろいろなタイプがいる。ひきこもりと言っても、いろいろなタイプがいる。言葉のイメージで、一括思考してしまうことはよくない。

だいたい、コミュニケーション障害者の場合、普通の人と交流しているときに、うまく意思伝達ができないという問題を抱えている。ようするに、人と交流しているときの問題なのである。ようするに、ひきこもっているわけではない人の問題なのである。

しかし、コミュニケーション障害を抱えているので、人と交流したくないと思って、人と交流しない生活をしている場合もある。

けど、これは、コミュニケーション障害者全体の特徴ではない。

コミュニケーション障害というのは、主に、相手が言っていることをうまく理解できないということや、自分が言おうとしていることをうまく言えないという障害のことだ。

名前だけ店長は、コミュニケーション障害者ではない。

それは、彼の一五年間が証明している。いちおう、脳の問題で、人との交流がうまくいかない人と、「人と交流したくない」と思っている人のことは、区別して考えたほうがいい。

2026年3月16日月曜日

●不幸な人は、「徳」が、たりない人であるというイメージ■社会※2026/03/15 21:31

不幸な人は、「徳」が、たりない人であるというイメージが、刷り込まれるようになっているのである。

それは、不足部分としてイメージされるからだ。

「感謝して掃除をすると幸福になる」というメッセージは、不幸な人が、感謝して掃除をしていないというメッセージになってしまうのである。

「Xをすれば幸福になる」というタイプのライフハックは、じつは、不幸な人には「Xをすることがたりていない」というメッセージを送っているのである。

「だから、不幸なのだ」というメッセージを送ってしまっている。

しかし、「不足」がほんとうに、「不幸であること」の理由なのかというと、そうではないのである。

たえとば、「感謝をすれば幸福になる」と言ったとする。不幸な人は「感謝をすること」が足りていないというイメージをつくってしまうのである。

自分が、感謝をするとき、幸福な気持ちになるとする。だから、「感謝をすると幸福になる」と言い換えたとする。この言いかえの問題については、すでに語ってきた。

「感謝をすると幸福になる」のだから、不幸な人は、感謝(をすること)がたりない人なのだということになってしまうのである。

しかし、何度も言うけど、ほんとうは、条件が不幸な状態を引き起こしていることが多いのである。

条件が相対的によい人が、感謝をする機会があったとする。多数の感謝をする機会があったとする。

「すべてのことに感謝をすればいい」ということになるのだけど、感謝を自然に感じられることがあるし、憎しみを自然感じられることもあるのだ。

条件によって、感謝を感じやすいことが起こる機会が多い人と、感謝を感じにくいことが起こる機会が多い人がいる。

だから、「条件が悪い人が、むりやり、感謝を感じることで、幸福になるのかどうか」ということは、別の問題なのである。

たとえば、うちの父親は、うちの父親だったわけで、問題行動をほんとうに、やっていたのである。うちの父親の脳みそに従うと、そういうことをやってしまう人間なのである。

はっきり言ってしまえば、「虐待されても、感謝感謝」ということにはならない。「頭がおかしい理由で怒り狂われても、感謝感謝」ということにはならないのである。「親父が頑固にやった行為のせいで人前で恥をかかされても、感謝感謝」ということにはならないのである。

それがどれだけ人の心を破壊するか、ぜんぜんわかっていない、「普通の人」が、条件を無視してアホなことを言っているだけなのである。

そして、普通の人がみんなみんな「自分だって苦労した」と言うのである。そして、それは、正しいのである。

たしかに、「自分だって苦労した」というのは事実なのである。「自分だってつらい思いをした」と普通の人が言う場合、「つらい思いをした」ということは、事実なのである。

しかし、つらさの質や、つらさの量がちがうかもしれない。まったくちがう「つらさ」について、言及しているのかもしれないのである。

つまり、自分だって同じ質の、同じ量のつらさを経験したという意味で、普通の人が、「自分だってつらい思いをした」と言う場合、同じ質の、同じ量のつらさを経験していないのかもしれないという疑いがある。

たぶんだけど、同じ質の、同じ量のつらさなんて、経験していないのではないかと(わたしには)思えるのである。

どうしてかというと、「すべてに感謝すればいい」なんてことは、言えないということを身にしみてわかっている人は、「すべてに感謝すればいい」とは言わないと思うからだ。

ともかく、「感謝をすれば幸福になる」と言った場合、条件が悪い人が、感謝する気持ちをもっていないので、幸福ではないのだというイメージを与えてしまうのである。

ようするに、条件が悪い人は、そういう点で劣っているのだというイメージを与えるのである。

その言葉は、感謝をする気持ちがないか、あるいは、感謝をする気持ちが普通の人よりも少ない人間なので、不幸になってるというイメージを与えるのだ。

普通の人が感謝するところで、不幸な人は、感謝しない……から、不幸なのだというイメージを与える。

しかし、不幸な人は、条件が悪いから、不愉快なことをいっぱい経験しているだけのなかもしれないのである。

不幸な人は条件が悪いから、感謝するようなよい出来事が発生する機会が少ないだけかもしないのである。

しかし、あたかも、性格が悪いので、感謝するところで感謝をしないから、不幸になるのだというイメージを(言外に)つくってしまうのである。

●「努力をすれば成功する」「これが正しい」■社会※2026/03/15 13:39

「努力すれば成功する」という文も、「言えば、言ったことが現実化する」という文とおなじように、妄想的な前提がある。

それらの文を言っている人が、文の意味を理解していないのである。

もう、さんざん……「言えば、言ったことが現実化する」……という文の問題については語ったので、「努力すれば成功する」という文についても、語っておく。

「努力をすれば成功する」という文の意味は「努力をすれば成功する場合もある」という文の意味と等価ではない。

「すべての努力するということにおいて、努力をすれば、一〇〇%の確率で成功する」という文の意味と「努力をすれば成功する」という文の意味は、等価なのである。

しかし、「努力をすれば成功する」という文の意味が「すべての努力するということにおいて、努力をすれば、一〇〇%の確率で成功する」ということになってしまうというとに気がつかない。

「努力をすれば成功する場合がある。自分の場合は、成功した」という意味で「努力をすれば成功する」と言ってしまう。

ところが、「努力をすれば成功する場合がある。自分の場合は、成功した」という複数の文が全体的にもつ意味と、「すべての努力において、努力をすれば、一〇〇%の確率で成功する」という文がもつ意味は、不等価なのである。

そして、問題なのは、「努力をすれば成功する」と言っている人が、それに気がついていないということなのである。

しかも、気がついていない人の多くは、いま、エイリが書いたことを説明しても、自分の誤りを認めないということだ。

気がついていない人の多くは「努力をすれば成功する」「これが正しい」という内容のことを言って認めないのだ。

ぼくの経験の範囲で言うと、みんな、認めなかった。

なかには、怒ってしまうやつだっている。ほとんどの人が「不機嫌な状態」になる。

しかし、理論的には、ぼくが言っていることが正しいのである。

その人たちは、理論的なことが、わかっていないのである。その人たちは、言われたあとも、理論的なことがわかっていないままなのである。

ぼくの経験の範囲で言うと、みんな、認めないままだった。

ぼくが説明したあとも、その人たちの認識がかわらないのである。「努力をすれば成功する」「これが正しい」と思ったままなのである。

その人たちのなかには、「相手はかわらないから自分をかえるしかない」と言っていた人がいた。

いやーー。そんなことを言っているのなら、エイリはかわらないから、自分をかえてください。

その人たちのなかには、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言った人がいた。

そいつの考えに従えば……ヘビメタ騒音も俺の受け止め方の問題なのだ。

そいつは、ぼくの説明を聴いたときは、「すべては受け止め方の問題だから、(自分の)受け止め方をかえればいい」と思わなかったのである。

*     *     * 

基本的に、運用の問題について語ってきたけど、こういう場面でも運用の問題は成り立つ。

どれだけ、きれいごとを言っていたって、実際には、きれいごとなんて無視してしまう場合が多いのである。どれだけ、正しそうなお題目を、普段、言っていたとしても、実際の場面では、正しそうなお題目は実行されない場合が多いのである。

お題目のきれいごとを、どれだけ、多くの人が理解したとしても、現実の場面で、実行されないなら、意味がないのである。

村人がいて、その村人のうち一〇〇%が、「教え」を理解したとしても、意味がないのである。

しかも、これがひっかけになっていて、一見よさそうなお題目が、実際には、社会的なトラブルを引き起こすことがある。確率で言えば、ほぼ一〇〇%の確率でトラブルを引き起こすのである。

言っているほうは、言い切って、気分がいいかもしれないけど、それは、言っているほうに傲慢さを植えつけるのである。

そして、言っているほうは、言い切って、気分がいいかもしれないけど、言われたほうは、不愉快な思いをすることがあるのである。

不愉快な思いをしない場合も、ようするに、言った人とおなじように、「だまされてしまう」わけだから問題がしょうじる。

だいたい、間違ったことを自信をもって言うことは、よくないことだ。

「努力をすれば成功する場合がある。自分の場合は、成功した」と言えばいいのに、「努力をすれば成功する」と言ってしまうのである。

一〇〇%詐欺が成り立っている。

言っている本人が言っている内容をよく理解していないという問題がある。

*     *     *

一見よさそうなことなのに、問題があるライフハックは、条件が悪い人にとって、圧迫面接のような効果があるのだ。ライフハックのほかにも、精神世界でよく言われることというのは、むしろ、社会的な圧力を増大させる。

2026年3月15日日曜日

●神の道徳なのか、悪魔の道徳なのか、見極めることができる■社会※2026/03/11 19:51

 『X幸福論』に関しても、じつは、自己責任論とおなじ構造が成り立っていると思う。

構造というのは社会的な構造のことである。

洗脳計画者が立案して、身近なところにいる「成功者」が実行するのではないかと思っている。洗脳計画者は、表には出てこない。

しかし、条件や人がどういうふうに感じるかということを熟知したものなのである。

実行者は、実際に、ほんの著作者たちだ。けど、これは、洗脳計画者の近くにいる人が一軍で、一軍の影響を受けた人が二軍なのである。二軍の下に三軍もいる。二軍、三軍は、善意がある人たちだ。計画者と一軍には、善意がない。悪意がある。

しかし、計画者と一軍の悪意よりも、二軍と三軍の善意のほうが、問題になる。問題を大きくしてしまう。二軍と三軍の問題は、そのまま、普通の信者に影響を与える。普通信者というのは、一軍、二軍、三軍の著作者の影響を受けた人たちのことだ。

普通の人たちなのである。なお、一軍、二軍、三軍は、本を書くだけではなくて、インフルエンサーとして、活躍している人たちなのである。

そして、マスメディア(オールドメディア)とネットメディア(SNSや動画サイト)が、一軍、二軍、三軍の人を、支持している。

これは、経済活動のように見えるけど、洗脳計画者の下で動いているということは、一軍とおなじだ。

メディアにかかわる人たちが、みんな悪い人たちだとは言わないけど、すべてのメディアが、黒側の「うつわ」なのである。メディアは洗脳用の「うつわ」なのである。

だから、まず、メディアが支持をしているということ自体が、黒側の意志をあらわしているということになる。

ようするに、どれだけ正しそうでも、一軍、二軍、三軍の著作者が言っていることを信じてしまうと、悪い方向に導かれるということになる。

実際、運用の問題が発生してしまうのである。基本的なことを言えば、「ブラック社長と名前だけ店長の問題」はいたところで、形を変えて、発生しているのである。

別に、サービス残業に限られたことではないのである。一見よさそうなのに、それに従うと、けっきょく、社会が悪い方向に引っ張られてしまうことがある。

一軍の人たちが書くことや言うことは、社会を悪い方向に誘導するのである。そういう意図がある。一軍の人たちには意図がある。知っていてやっていると考えたほうがいい。

もちろん、計画者は、知っている。二軍、三軍になると、一軍が人が言ってることを、自分流にコピーして使いまわしているだけなので、黒側の意図を知らないということになる。

しかし、ここでも、メディア側が支持をしているということが重要なのである。二軍、三軍の著作者は、善意でやっていることがある。

そして、熱心な読者を四軍としてとらえると、四軍の人も、善意で、ほかの人に、そういう本や、そういう考え方をつたえるということになる。

五軍を普通の読者だとすると、五軍の人も、ほかの人に、いいことを教えてあげるつもりで、そういう考え方を伝えるということになる。

しかし、これは、相対的に立場がいい人が、相対的に立場が悪い人に、嘘を教えるということになる。間違った考え方を教えるだけなのだ。そのときにしょうじるトラブルや嫌悪感(ストレス)が、悪魔の餌なのだ。

下の者同士のトラブルや嫌悪感は、悪魔にとって最高においしいことだ。悪魔の楽しみが増える。問題なのは、言っていることが、道徳的に見えることなのである。

言ってみれば、悪魔の道徳だ。

文字だけをとれば、神の道徳も悪魔の道徳も、かわらないのである。

文字列だけを追うならば、ちがいがわからなくなるのである。

しかし、悪魔の道徳のほうは、運用において、かならず、反対の効果をもたらすものになる。

だから、文字列を見るのではなくて、反対の効果があるのかどうかということにだけ、注目すれば、神の道徳なのか、悪魔の道徳なのか、見極めることができる。

●だから、よその人が感じないことを、感じてしまうわけ■騒音※2026/03/14 12:22

 ヘビメタというのが、この世で一番嫌いな音楽なので、あのでかさでやられると、ほんとうに、生きていること自体がつからかった。

音楽と書いたけど、音楽なんてものじゃないのである。

ぼくがきらいな音を、全部、寄せ集めたような「騒音集」なのだ。ひとつひとつの音素が、ほんとうに、頭を刺激するのである。悪い意味で刺激する。

無視することなんてできないのだよ。あの音のでかさで、あの至近距離で鳴っていて、無視するなんてことは、そもそも、できないことなんだよ。

ところが、「 無視することなんてできない」と言うと、言霊主義者がスキをついたように、すかさず「無理だと言うから、無理なんだ』と言ってくる。

無理だから、無理だと言っている。「無視するなんてことは、そもそも、できないことなんだよ」と言うと、言霊主義者がスキをついたように、すかさず「できないと言うから、できない」と言ってくる。

実際に、できなかったから、できないと言っているんだよ。

ほんとーーに、頭にくる。

きちがい兄貴と言霊主義者の組み合わせは、最悪の組み合わせだ。

よその人がやらないことを、きちがい兄貴がやってしまうのである。

そして、きちがい兄貴のやり方というのが、ほんとうに、きちがい的に極端なのだ。きちがい兄貴のやり方というのが、ほんとうに、頭がおかしいレベルで、しつこいのだ。

だから、よその人が感じないことを、感じてしまうわけ。やり方が極端だから、そうなるんだよ。

言霊主義者は「できないと言うから、できない」というけど、自分がこの世で一番嫌いな音を、あのでかさで、あの至近距離で鳴らされたら、やはり、できないと思う。

しかし、「できないと言うから、できない」ということを言う、言霊主義者の家族は、家のきちがい兄貴のような家族ではなく、きちがい兄貴のようなしつこさで、きちがい的なことをしないのである。

だから、そういうことを言う言霊主義者は、ほんとうは、経験したことがないのである。

ところが、「できないと言うから、できない」ということを言う言霊主義者が……ぼくの経験の範囲だと……みんな……「俺だって、騒音ぐらいある」「わたしだって、騒音ぐらいある」というようなことを言ったのだ。

経験がないから、「できない」ということや「できなくなる」ということがわかっていないだけなのに、えらそうなんだよ。

きちがい兄貴が、よその人に俺が、アホなことを言われる原因をつくる。

ところが、きちがい兄貴は、どれだけ(こっちが)言っても、原因をつくっているということを認めず、ガン無視するのである。

そして、言霊主義者も、兄貴の騒音が原因なのだということを無視して、「できないと言うからできなくなる」とアホなことを言う。

ほんとうに、こういう世の中が嫌だった。言霊主義者は、偽の原因を考え出して、偽の原因のせいにしてゆずらない。言霊主義者は、本当の原因を、頑固に無視する。

きちがい兄貴も、俺が苦しんでいる原因が、きちがい兄貴の騒音だということを、どれだけ言っても、無視して鳴らし続けるのである。

こんなの、ない。

ほんとうに、きちがいにやられて、バカにバカにされた。 

2026年3月14日土曜日

●「だいたいは、あっている」■言霊※2026/03/14 10:37

 言霊理論について「だいたいは、あっている」と言っていた言霊主義者がいた。

けど、その言霊主義者は、普段は、言霊理論なんて無視して生活しているのだ。たとえば、アイスがとけるのは、あたりまえだと思っている。

言霊は、まったく関係がないのである。

「アイスがとける」と言ったから、アイスがとけたわけではない。

夏の暑い日、アイスを買ってきた。これだって、アイスなんて、「アイスが出てくる」と言えば、アイスが出てくるのだ。

言霊主義者が、「アイスが出てくる」と言ったとする。それなのに、アイスが出てこなかったとする。

そうしたら、言霊主義者は……『言霊理論が正しくないのではないか』と思わなければならないはずだ。

ところが、『アイスが出てくると言ったって、アイスが出てくるわけじゃない』と考えているから、疑問にも思わないのだ。

人には……「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」と言っているけど、アイスを手に入れるときは、アイスを売っているところで、アイスを買うのである。

アイスを売っているところというのは、一般的には、コンビニとか、スーパーとかといったところだ。アイスの自動販売機もあるので、アイスの自動販売機が近くにあるところに住んでいれば、アイスの自動販売機で買うこともできる。

ともかく、言霊の力を使って、アイスを出そうとはしないのだ。

これは、おかしな話だ。

ところが、「言ったって、出てくるわけじゃない」と考える言霊主義者が、言っても出てこないことを、おかしなことだと思わないのだ。

まあ、お菓子だって、出てくるよ。

「お菓子が出てくる」と言えば、言っただけで、お菓子が出てくるはずなのである。

出てこなかったら、言霊理論が間違っているということだ。

言霊理論が間違っているということに、気がつかなければならない。

ところが、言霊主義者は、言霊理論が間違っているということに、気がつかないのである。

*     *     * 

アイスを冷蔵庫の冷凍室に入れたとする。以降、冷凍室ということにする。

その場合、言霊主義者は、冷凍室のなかに入れれば、アイスはとけないと思っているのである。

言霊が関係しているかというと、ぜんぜん関係していないのである。

言霊なんて関係なしに「とけない」と思っているのである。

「アイスはとけない」と言えば、言っただけで、冷凍室に入れなくても、アイスはとけないのである。

冷凍室にいれるとき「冷凍室にいれると、アイスはとけない」と言ったかというと、言わなかったのである。

しかし、ここで重要なのは、「冷凍室にいれると、アイスはとけない」と言霊主義者が言わなかったことなのである。

言えば、言ったことが現実化するので、アイスをとけないようにするには、「冷凍室にいれると、アイスはとけない」と言わなければならないのだ。

ところが、言わない。

どうしてか?

どうしてかというと、言霊の力なんて、ぜんぜん信じていないからだ。言霊の力なんて、ぜんぜん信じていないから「冷凍室にいれるとアイスはとけない」と言わない。

冷蔵庫には、熱交換器がついている。熱交換器をちゃんと機能させるには、電気(の力)が必要なのである。

言霊主義者も、冷蔵庫は電気で作動していると思っているのだ。

冷蔵庫は、言霊(の力)で作動しているわけではなくて、電気の力で作動しているのだ。

ちゃんと、本人が、原理を知っていることについては、現実的なことを考えるのである。

現実的なことを考えているときは、一切合切、言霊的な思考をしないのである。

ところが、言霊主義者は、いつも、自分が言霊思考をしているような感覚をもっている。

だから、「だいたい、正しい」と言うのだ。

「だいたいのことは、言霊で説明がつく」と思っているのだ。

ところが、普段は、言霊なんて、まったく意識しないで生活しているのだ。

言霊主義者は、自分自身が、言霊なんてぜんぜん信じていないことに、気がつかない。ぬけぬけ、なのである。ボロボロなのである。

言霊に意識が集中していないときは、「言霊なんてあるわけがない」と思って暮らしているのである。と言うのは、「言霊なんてあるわけがない」と思っている人の普段の態度と、言霊主義者の普段の態度は、おなじなのである。

どれだけ「言霊は絶対だ」などと言っていても、普段は言霊なんて、無視しきって暮らしているのである。そして、言霊主義者自体が、そのことに、まったく気がつかないのである。 

●運用の問題がある■社会※2026/03/13 14:57

運用の問題がある。

たとえば、「人がいやがることはやめましょう」と言っている人が、実際の場面では、人がいやがることを押し付ける人に、賛同してしまうのだ。

ブラック社長が、名前だけ店長に、「できると言えばできる」と言って、サービス残業を押し付けようとした。名前だけ店長は「できない」と言っていたのだ。

「もう、つかれたからできない」と言ったのだ。「もう、限界だからできない」と言ったのだ。

たとえば、Aさんがいるとする。Aさんは、「人がいやがることはやめましょう」と普段は言っている人だ。それが正しいと思っている。

けど、その場に居合わせたAさんは、こともあろうに、「人がいやがることをしている」ブラック社長の味方をしてしまうのだ。

「できると言えばできる」という言霊理論が正しいと言ってしまうのだ。

こんなの、ない。

Aさんはまた、「人に親切にするのが重要だ」「人に親切にすると幸福になる」と言ってたとする。

Aさんは、名前だけ店長のつかれを、軽く見積もって、「できると言ってやればいい」と思うのだ。

そして、ブラック社長のいじめを許容して、ブラック店長の言い分が正しいということを言う。

ぜーーんぜん、親切じゃないのだ。

こまっている人に、ぜんぜん親切にしないのだ。

名前だけ店長が、睡眠時間を削っている生活を知っているのに、「そんなのは関係がない」と言って、名前だけ店長に、サービス残業をさせようとする。

ブラック社長に「サービス残業なんてさせないほうがいい」と言わないのだ。

Aさんは「俺だって、つかれている」と言って、名前だけ店長に、サービス残業をさせようとする。

Aさんは、ほんとうにこまっている人に、親切にしない。

Aさんみたいな人ばかりではないと思うけど、運用の問題がある。

普段、お題目を言ってたって、実際に行動が必要な時は、逆の行動をしてしまう人が多い。

2026年3月13日金曜日

●自己責任論自体が、社会的なトラブルを生み出す■社会※2026/03/12 11:28

ちょっと、むずかしい話になるのだけど、自己責任論で説明したことが、「Xをすると幸福になる」というライフハックにも成り立っているのだ。

自己責任論の場合は、「自分を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象とした自己責任論になってしまう」ということが問題だったのだ。

もちろん、少数の例外は、他人を対象とした自己責任論にシフトしない。

しかし、多くの人が、他人を対象とした自己責任論にシフトしてしまう。

自己責任論が正しいと思った場合、他人を対象とした自己責任論にシフトしてしまう確率が高い。

ようするに、人間は、高い確率で、他人の責任を追及することになるのである。

その場合、責任がない他人の責任を追及する場合もあるということになってしまう。

そして、その場合も、責任がない他人の責任を追及しているほうは、「自己責任論が正しいので、その他人に全責任がある」と思っている状態になる確率が高い。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが自己責任論者だとする。Aさんは「すべては自己責任なので、Bさんに起こったことは、すべてBさんの責任だ」と言ったとする。しかし、あることについて、Bさんには責任がなかったとする。ところが、Aさんは、Bさんのせいだと言ったわけだ。 

その場合、Bさんが、Aさんに言い返せば……Aさんは「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と決めつける場合が多い。ほぼ一〇〇%の確率で、そのように言い返すことになっている。これは、毎度毎度のパターンで、もう、パターンとして決まっていると言いたくなるところがある。

Bさんが、Bさんの事情について話して、Aさんに理解を求めるわけ多気ド、Aさんは、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と決めつけるわけだから、Bさんは不愉快なる確率が高い。

しかも、Aさんが「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言い放っているとき、Aさんも、ある程度、腹を立てている場合が多い。むきになっている場合だってある。

まあ、マウントをして、楽しいという場合もあるので、なんとも言えないけど、自分が最初に言ったことが、相手によって否定されたことが不愉快な感情を引き起こす場合がある。

そうすると、自己責任論自体が、社会的なトラブルを生み出すことが多いということになる。どっちも、腹を立ててしまうわけだから、「不愉快だ」と感じる人が増えてしまう。

あるいは、不愉快だと感じる「機会」が多くなってしまう。

たぶん、洗脳設計者のほうは、そこまで見込んで、自己責任論をはやらせたのだと思う。

ようするに、洗脳設計者は、(多くの)普通の人には、自分を対象とした自己責任論を他人を対象にした自己責任論に変換してしまう思考回路があると見抜いていたのだ。

そして、その通りになった。


●ポジティブというのが、善であるかのような妄想■社会※2026/03/12 11:28

不可避的なことだってあるのに、不可避的なことまで、その人の身の上に起きたらその人の責任だというのは、ほんとうは、おかしい。

そして、どれだけ、普段、「自己責任論」を振り回しているやつだって、「自分にとって理由が明らかなこと」に関しては、人の責任を追及するのである。

日常生活の中で、ほんとうに、「すべては自己責任だ」と思っているわけではないのである。

たとえば、自己責任論は正しいと思っているので、自己責任論を批判されたら、怒りの感情がわく場合が多い。

ひどいのになると、「エイリは(自分に)罪悪感を持たせようとしている」と勝手に勘ぐって、エイリのせいにしてしまう。

すべては自己責任なら、(エイリの発言で)不愉快な気持ちになったとしても、それは、その人の責任だ。

普段から、「すべては自分の責任だ」と思って暮らしているわけではないのである。

それどころか、何度も言うけど、自分の体験として、事のいきさつを知っていることに関しては、自己中心的なことを言って、相手の責任を問う場合がものすごく多い。 

*     *     *

ポジティブというのが、善であるかのような妄想をもっている人がいるのだけど、ポジティブだからと言って、善であるわけではない。積極的に、いじめをするやつだっている。

たとえば、サービス残業をずっとさせられてきた……名前だけ店長が……「もう、できません」と言ったとする。それに対してブラック社長が「できないというからできない」「できると言えばできる」と言ったとする。

名前だけ店長が「できない」ということを言っているのだから、ネガティブな発言をしたということになり、ブラック社長が「できる」ということを言っているのだから、ポジティブな発言をしたということになる。

普通の感覚だとそうなるのだろう。

しかし、これ……サービス残業を押し付けているときに、発せられた言葉なのである。

社長が、従業員にサービス残業を押しつている。

これだけで、もう、ネガティブな行為をしているということになる。

違法行為をしているということになる。

それなのに、それなのに、普通の人は「できる」という言葉だけに反応して、ブラック社長は、ポジティブなことを言ってると思い、「できない」という言葉だけに反応して、名前だけ店長が、ネガティブなことを言っていると思ってしまう。

普通の人は、そういう解釈をするように、洗脳されているのである。

普通、英語の「ポジティブ(Positive)」という言葉は、日本語の「積極的」という意味をもっている。

ところが、積極的という意味のほかに、「善である」というニュアンスがつきまとってしまうのだ。

積極的にサービス残業を押し付けようとするのであれば、積極的に悪いことをしているということになる。

積極的にサービス残業を押し付けたなら、法律に違反していることを積極的にやったということなのである。

善悪で言えば、悪なのである。

悪行なのである。ところが、言霊主義者や言霊的な感覚をもっている普通の人は、「できる」とポジティブなことを言っているブラック社長がいい人で、「できない」とネガティブなことを言っている名前だけ店長は悪い人だと思ってしまうのである。

これは、おかしい。

こんなのは、積極的にいじめをするやつはいいやつで、いじめられたやつは悪いやつだと言っているのとおなじだ。

こんなのは、おかしい。

ポジティブかネガティブかということよりも、「なにをしているのか」ということが、重要なのである。

言霊にこだわると、そんなこともわからなくなってしまうのだ。

そして、積極的にいじめをするほうの味方をして、いじめられているほうをバカにして圧力をかけるようになってしまう。

言霊主義者のなかでは、言霊思考がいい思考だというとになっているけど、そうではない場合だってある。

*     *     *

ちなみに、ポジティブを「明るいこと」と置き換えて、ネガティブを「暗いこと」に置き換えると「できる」というのは、「明るいこと」で、「できない」というのは、「暗いこと」だということになってしまう。だから、「できる」と言っているブラック社長は「明るいことを言っている」ということになり、「できない」と言っている名前だけ店長は「暗いことを言っている」ということになってしまう。

明るいことを言うのが、善であるという妄想があると、明るいことを言ったブラック社長が、善であり、暗いことを言った名前だけ店長が悪なのだということになってしまう。

しかし、実体はどうか?

ブラック社長が悪いことをしているのである。名前だけ店長が、そんなブラック社長に「サービス残業を減らしてくれ」と懇願しているのである。それも、ずっとずっと、我慢してきて、懇願しているのである。その懇願を、容赦なく、打ち切るのが「(できると言えば)できる」という自分勝手な発言なのである。

これでどうして、できると言っているブラック社長が、ポジティブで、前向きで、明るいから、いいと言えるのだ? 

こういうことすら、わからなくなってしまうのが、言霊洗脳なのである。

こういうことすら、わからなくなってしまうのが、思霊洗脳なのである。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」という妄想的な考え方が、あたかも、正しい考え方であり……あたかも、善であるような幼稚な前提が成り立っているのである。

多くの人が、そんな幼稚な考え方をもってしまうと、社会がそれだけ、悪くなるのである。「明るいほうがいい」「ポジティブなほうがいい」「明るいことを言えば、明るいことが起こる」「ポジティブなことを言えば、明るいことが起こる」……こんな考え方が、正しいこととして流通しているのだ。

そのぶん、条件が悪い人が、ダメ出しをくらって、くるしい思いをするのである。

そのぶん、「明るいほうがいい」「ポジティブなほうがいい」と言っているやつらが、増長して、傲慢になり、悪をなすのである。

*     *     *

しかも、押し付けられているほうが「自分の条件について語る」と、こいつらは「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と怒って言う確率が非常に高い。まあ、怒らないで言うこともあるけどね。

相手の条件を考えずに「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」ということは、明るいことなのかな? 正しいことなのかな? 善行なのかな?

一見、正しそうなことを信じると、こういうことを平気でやる人間になってしまうのだ。悪魔がささやくことというのは、一見、正しそうなことなのだ。

悪魔がささやくことは、一見、よさそうなことなのだ。ところが、信じる人が増えると、社会がそれだけ、悪くなる。社会が、それだけ、住みにくくなるのだ。

悪魔がささやくことは、よさそうなことなのだ。明るいことを考えれば、明るいことが起こる……というのは、一見、よさそうなことだ。心地よいことなのだ。「言えば言った通りになる」……一見、よさそうなことだ。心地よいことだ。

ところが、毒が入っているのである。心の毒が入っている。まやかしの善に、ひきずられるな。心地のよい、明るい話に、ひきずられるな。 

2026年3月12日木曜日

● 「二値思考」「数量思考」「性質思考」というものについて考えてみよう■社会※2026/03/11 9:26

 「二値思考」「数量思考」「性質思考」というものについて考えてみよう。

「Xをすれば幸福になる」と言う場合、最初は、二値思考なのである。

「二値思考」で、Xの欠乏……Xをしてないことが、幸福になれない原因だと決めつけてしまうのである。

そのあとに、「Xをしても、幸福になれなかったぞ」と言ってくる相手があらわれた場合は、突然、「数量思考」と「性質思考」に切り替わってしまうのである。

「数量思考」になった場合は、「数量がたりないからダメなんだ」ということを言うわけ。ようするに、「回数がたりないからダメなんだ」とか「努力(の量)がたりないからダメなんだ」ということを言うわけ。

しかし、この状態でも、X幸福論者のなかでは、二値思考的な言い方が、たもたれているのである。ようするに、X幸福論者は、理論が破綻していることに気がついていない。

「回数がたりないからダメなんだ」と言っている場合だって、「Xをすれば幸福になる」と考えているのである。だから、二値思考を、放棄していないのである。

性質思考の場合は、「こころをこめてやらないからダメなんだ」とか「感謝しながらやらないからダメなんだ」というようなことを言い出すわけ。

集合の話をしたけど、「Xをするという集合」のなかには、「こころをこめてXをする」という集合が含まれている。だから、こころをこめても込めなくても、とにもかくにも、Xをすれば、幸福になるということを(最初は)言っていたということになる。

この場合も、「数量思考」とおなじで、言っている本人が、気がつかないというところがある。

最初に、二値思考で、ニセの原因を持ち出して、ニセの原因に対する行為をすれば、問題が解決すると言っていたのである。

しかし、そのニセの原因が原因ではなくて、ほんとうの原因がある場合には、Xをすることは、問題解決のためには、役に立たないのである。

X幸福論者は、ほかの人がXをした場合……いいことだけが起こると思っているのだけど、実際には、悪いことが起こる場合だってある。

それは、その人(実行者)がどのくらい、おいつられているかで決まる。

そして、エネルギー問題はある。さらに、時間の問題だってある。

Xをすることにエネルギーを振り向けると、問題がしょうじる場合だってある。

これは、Xをすることにエネルギーを振り向けることによって、しょうじた問題のことについて言及しているのである。もとの問題が片づかないだけではなくて、エネルギーをXをすることによって、Xをすることによってしょうじる問題があるということだ。

時間の問題もエネルギーの問題とおなじだ。

本当の原因によって、時間に余裕がない場合、Xをすること自体が、時間がさらに、たりなくなるという問題を生み出してしまうのだ。

後出しだけど「X幸福論者」というのは「Xをすれば幸福になる」と主張する人のことである。そして、「Xをすれば幸福になる」という理論を「X幸福論」と呼ぶことにする。

2026年3月11日水曜日

●まずいことだということに、気がつかない■社会※2026/03/11 1:37

 「Xをすれば、幸福になる」というようなライフハックの場合、社会的な構造を無視してしまうのである。

Xをしないのが、原因で幸福ではないのだ。

ライフハックを口にするほうは、「不幸な人は、Xをしないから……不幸なのだ」という決めつけをしてしまうのだけど、この決めつけは、最初から間違っている場合が多い。

ライフハックを口にするほうは、そんなことは、まったく気にしない。

それは、ここがダメなんだというようなダメ出しなんだけど、まったくはずれている場合がある。

社会的な構造を無視してしまうというのは、問題がある。

どうしてかというと、すべてではないけど、社会的な構造から押し出されてしまうものによって、不幸になる場合があるからだ。

社会的な構造といったけど、そもそも、生まれてくる家がちがうのである。

それは、『条件がちがう』ということだ。

何度も何度も言うけど、『条件のちがい』は重要だ。

たとえば、Aさんが不幸だとする。Aさんが不幸になる原因をAさんの家族がつくりだしている場合だってある。

けど、社会の構造や、生まれてくる家のちがいを無視して、「その人」が不幸なのは、Xをしないことが原因だと決めつけてしまうのである。

これは、まずいことなのだけど、善意で、「Xをすれば、幸福になる」というようなライフハックを口(くち)にする人は、まったく、気がつかない。

まずいことだということに、気がつかない。

2026年3月10日火曜日

●スネ夫と(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合■社会※2026/03/08 9:26

 基本的に言うと、社会的に優位な人が「掃除をすると幸福になる」と言い、普通の人が「掃除をすると幸福になる」と言って、不幸な人を攻撃し始めるのである。

これは、攻撃なんだよ。

基本的に言って、「掃除をして、幸福な気持ちになる人」というのは、おいつめられた生活をしていない。ある程度、余裕がある、中立的な生活をしているのだ。

「ぎりぎりの生活をしていない人」が、掃除をしたあと、幸福な気持ちになれるだけなのだ。

一時的な気分ではなくて、継続的に幸福な生活を送れるようになったという場合も、当然、ある。

ほんとうに、掃除をしないことで、実害がしょうじている生活をしていた人が、掃除をすることによって、実害がしょうじる生活から抜け出した場合であって、なおかつ、掃除以外のこと(あるいは、掃除をしないということが生み出すこと以外のこと)に、不幸になる原因がない生活をしている場合に限られるのである。

ようするに、たとえ、実害がしょうじている生活をしていた人が、掃除をすることによって、実害がしょうじる生活から抜け出した場合であっても、ほかのことで不幸を感じる場合は、掃除をする生活をしても、不幸を感じる生活をしているということになる。

ほかのことで、頻繁に、ひどく腹立たしいことが、発生する生活の場合は、掃除をしても、全体的に、幸福感を感じられないのである。

ところが、「掃除をすると幸福になる」と言っている人は、「掃除をすると運があがるので、ほかの問題も、自動的にかたづいて、幸福になる」ということも、言っている場合が多い。

「運があがる」という中間項目は重要だ。

本当は、「掃除をする」ことと「運があがる」ことのあいだに、明確な因果関係はない。

掃除をしても、不幸な人はいる。

そして、「運気」のところで説明したけど、「運」もまた、現実の写し絵なので、後出しで、運がいいとか運が悪いと言っているだけだ。

「運」を個人に固有の能力のように考えている人がいる。

しかし、固有の能力じゃないのである。

固有の能力のように仮定して、見ているだけなのである。

実際には、よい出来事が頻繁に起こる人のことを(後出しで)運がいい人と言っているだけなのである。

そして、よい出来事が頻繁に起こるかどうかというのは、たいていの場合、「条件」によって決まってしまう。

たとえば、スネ夫と(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合、スネ夫のほうが、好きなものを買ってもらえる機会が、(ドラえもんがいない)のび太より多いので、(ドラえもんがいない)のび太よりも、頻繁に「よい出来事」が発生するだけなのである。

「よい出来事」が頻繁に発生する人を「運がいい人」と言い、「よい出来事」がめったに発生しないか、まったく発生しない人のことを「運が悪い人」と言っているだけなのである。

生まれた家の条件のちがいが、スネ夫の「欲しいものをゲットできる頻度」と(ドラえもんがいない)のび太の「欲しいものをゲットできる頻度」を決めている。

「スネ夫がスネ夫のうちに生まれたから、そもそも、運がいいのだ」という言い方もできるのだけど、その言い方の問題については、ここでは取り上げない。

自分が欲しいものをゲットできるという「よい出来事」が頻繁に起こるスネ夫と、自分が欲しいものをゲットできるという「よい出来事」がそんなには起こらない(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合、スネ夫のほうが運がよく、(ドラえもんがいない)のび太のほうが運が悪いと言うことができるのだけど、それは、条件を言い換えたにすぎないのだ。

現実的な条件を、妄想的で仮想的な「運」という言葉で言い換えたにすぎない。

スネ夫の固有能力ではなくて、親の財産と親の生活の問題なのである。(ドラえもんがいない)のび太の固有能力ではなくて、親の財産と親の生活の問題なのである。

「勝負ごと」については、試行回数が少なければ、ばらつきが多いので「運」があるとかないというような感覚がしょうじる。

これ、試行回数の問題なのだ。

試行回数を増やしていけば、運は関係がないということがわかる。

「勝負ごと」と言っても、能力にちがいがあるものに関しては、能力のちがいが関係する。

完全にランダムな現象について勝負をすると、試行回数が少ないうちは、ばらつきがあるので、「運がある」とか「運がない」ということは、ばらつきが関係している。

ばらつきの結果、運があるように見える場合と、ばらつきの結果、運がないように見える場合がある。

しかし、試行回数が増えれば、ばらつきが収束する。

運があるように見える人も、運がないように見える人も、ちがいがなくなる。

つまり、試行回数が少ないうちは、運があるように見えた人も、運が普通レベルの人になり、試行回数が少ないうちは、運がないように見えた人も、運が普通レベルの人になる。

●「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」■社会※2026/03/08 8:36

とりあえず、掃除をすれば、幸福になるという理論を、「掃除幸福論」と呼ぶことにする。掃除をすれば、幸福になるという理論を信じている人たちを「掃除幸福論者」と呼ぶことにする。感謝をすれば、幸福になるという理論を、「感謝幸福論」と呼ぶことにする。感謝をすれば、幸福になるという理論を信じている人たちを「感謝幸福論者」と呼ぶことにする。 

*     *     *

「掃除をすれば、幸福になる」という文について、再び考えてみよう。

まず、掃除をしないにもかかわらず、幸福な人がいるということは、指摘しておかなければならない。

掃除をしない人は幸福ではないということになっている。掃除をすれば、幸福になるのだから、掃除をしない人は、幸福ではないのである。

しかし、掃除をしないにもかかわらず、幸福な人もいる。掃除をしているにもかかわらず、不幸な人もいる。

しかし、「掃除をすれば、幸福になる」という文は、掃除をしているにもかかわらず、幸福ではない人のことを無視している。

……いるのに、無視している。

掃除をすれば、幸福になるはずなので、掃除をしているのに、幸福ではない人はいないということになる。

けど、実際には、掃除をしているのに、幸福ではない人がいる。「掃除をする」ということに、注目すると、ほかの条件を無視してしまうのだ。

ほかの条件のほうが大切な場合がある。

ようするに、重要な影響を与えている場合がある。

ところが、「掃除をすると幸福になる」という文は、ほかの条件を無視してしまっている。

だから、掃除をしているにもかかわらず不幸な人がいるということになるし、掃除をしていないのに、幸福な人がいるということになる。

掃除をしているにもかかわらず不幸な人は、掃除以外の条件によって、不幸なのである。

あるいは、掃除をすること自体が……その不幸な人にとって……「掃除をすれば幸福になる」と言っている人が想定するような意味をもっていない場合が考えられる。

掃除だけで……幸福か不幸かが、決まるわけではない。
 

*     *     *
 

掃除をする仕事をしている人たちがいる。掃除をする仕事をしている人たちが、みんな、みんな、幸福なのかというと、そうではない。

もちろん、掃除をする仕事している人たちのなかには、幸福な人もいるだろう。

ここでは、「幸福な人」というのは、本人が、幸福だと感じていれば、幸福な人だとする。主観的にその人が幸福だと思っていれば、幸福な人だということにしておく。

主観的にどう思っているのかということが重要だ。他人から見て、「幸福そうに見える」とか他人から見て、「幸福そうに見えない」ということは、一切合切関係がないということになる。

ところで、「一時的に幸福を感じる」ということと「継続的に幸福だと思えるような生活をする」ということはちがうので、「幸福」の意味はちがってくるのだ。

掃除をしたあと、一時的に幸福を感じた人だって、会社に行って、作業をしているとき不愉快な思いをするかもしれない。

掃除をしたあと、一時的に幸福を感じた人だって、会社に行って、顧客対応をしているとき、不愉快な思いをするかもしれない。

ようするに、一時的に、幸福を感じるということと、生活の中で、ずっと幸福を感じるということはちがうのだ。

会社で掃除をする人たちもいる。掃除をすれば、幸福になるのであれば、会社で掃除をしている人たちは(みんな)幸福だということになる。

学校で掃除をする人たちもいる。

たとえば、小学校で、全生徒が、学校がある日は、毎日、掃除をしたとする。その場合、掃除をしているのだから、全生徒が幸福かというとそうではないのである。

家で虐待されている小学生は、掃除をしても、それで幸福になるわけではなく、虐待される生活が続いてしまう。虐待される生活が、幸福な生活なのかというとそうではないだろう。

ところが、虐待される生活をしている子どもだって、「掃除をすれば」幸福になるのである。「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人たちは、そういうことを言っているのである。

「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人は、一括思考をしているから、わからないかもしれないけど、たとえ、毎日掃除をしていても、幸福ではない人たちがいる。

しかし、一括思考をしている人は、そういう人たちの存在を「理論的に」無視してしまう。

「掃除をしても、不幸な人がいる」ということは正しい。

不幸側の人が「掃除をしても、不幸な人がいる」ということを「掃除をすれば幸福になる」と言っている人に、言うと……たいていの場合、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人は、怒って認めないということになってしまう。

「なんだこんにゃろう」「ケチをつけるな」「掃除をすれば幸福になると言っているだろ」「いちゃもんをつけるな」と怒ってしまう場合だってある。

「そういう例外的なことを言ってもしかたがない」「掃除をすれば、運があがるから、今は不幸な人だって幸福になる」と言って、怒ってしまう場合だってある。

掃除をしていても、不幸な人がいるということは、例外的なことなのかというと、そうではないのだ。

むしろ、「掃除する」という行為によって、幸福になる人のほうが、めずらしいのではないかと(わたしは)思う。

これは、「掃除をしたあと、一時的に、幸福感がある」ということではない。「幸福な生活」が成り立っていなければならないのだ。

掃除をしたあと、一時的に幸福感を感じている人だって、自分は幸福だと思っているかどうか、疑わしい。

*     *     *

ブラック工場勤務について考えてみよう。ある工場勤務の人がいたとする。ジェーさんだとする。ジェーさんは、毎日、工場現場の掃除をしているとする。

しかし、全体的には、つかれはて、異性にもてず、つらい生活をしているとする。

その場合、幸福かというと幸福ではないということになる。一時的に、幸福感を感じたとしても、生活全体が、幸福ではない場合がある。

さらに、たとえば、自殺寸前の名前だけ店長について考えてみよう。

名前だけ店長は、日常の業務なかで、掃除をしている。しかし、長時間のサービス残業をしていて、体がボロボロなのである。

そして、家に帰って寝る時間が短いので、憂鬱な気分で暮らしているとする。その場合、毎日、掃除をしているのに、不幸な状態で暮らしているということになる。

つまり、毎日、掃除をしているのに、幸福ではないのである。

「掃除をすれば、幸福になる」と言う人は、ブラック社長のもとで働いている、名前だけ店長のような人のことを無視している。「掃除をすれば、幸福になる」理論は、間違っている。

どうしてかというと、一〇〇%詐欺になってしまうからだ。

 「掃除をすれば、幸福になる」という法則が成り立っているかのようなことを言う人は、自分がなにを言っているのか、理解していない。

「(自分は)掃除をしたあと、一時的に幸福を感じる」ということと「人間は、掃除をすれば、幸福になる」ということは、ちがうことなんだよ。

こういうところに、ちがいがあるということがわかっていないまま、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人は、名前だけ店長に、もっともっと、掃除をすることを求めてしまうということになる。

名前だけ店長には休息が必要なのだ。もっともっと、掃除をすることが必要なわけではない。 

名前だけ店長が、幸福ではないのは、掃除をしていないからではない。

実際に、掃除をしているのだ。

毎日毎日、いろいろなところを掃除している。片づけている。整理整頓している。

ところが、不幸なのである。不幸な暮らしをしているのである。

「掃除をする」ことで、不幸な状態から、幸福な状態にならないのである。

掃除をすることで、不幸な状態から、幸福な状態にならないということを、言われた……「掃除をすれば、幸福になる」 と言う人は、「感謝をしながら掃除をすればいい」ということを言い出す場合がある。

要するに、「掃除する」だけではなくて、幸福になるには、感謝をしながら、掃除をするということが必要になるということを、言い出すのだ。

そうすると、名前だけ店長のような人は、もっと、もっと、こまることになるのである。名前だけ店長が、不幸な原因……幸福ではない原因について……「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人たちは、誤解をしているのだ。

こういう人たちは、「言い方が悪い」と言い出す言霊主義者のように、相手のやり方が悪いから、幸福にならないということを言い出すことがある。

これも、しくみとして成り立っているのだ。あくまでも、相手がこまっている本当の理由を認めない。

勝手に妄想的に作り出した、本人の理論にこだわる。

「掃除をしたのに、幸福にならないなんてことはない」「やり方が悪いんだ」「感謝ながら掃除をすればいい」「そうすると、幸福になる」……なんてことを、言いだす。

感謝しながらというところを、感謝して、掃除をすると言い換えるとする。その場合、感謝をすることと、掃除をすることを(同時に)すれば、幸福になるということを言っているということになる。

結論から言うと、名前だけ店長みたいな人に、さらに、負担をかけることになる。

「掃除する」ことだけではなくて、「感謝すること」まで必要になる。「感謝ながら掃除をすればいい」と言う人は、ほんとうにそれがいい方法だと思っているみたいだけど、それは、どうかなぁ。

まじめな人に、さらに負担をかけることにならないかなぁ?

ぼくは、まじめな人にさらに負担をかけてしまうことのほうが、心配だなぁ。だって、そうだろ。

「掃除をすれば幸福になる」という命題が「偽である」ということが、はっきりしたのだよ。

その場合、ちゃんと、偽であるということを認めなければならない。

ところが、偽であるということを認めずに、「不幸な人の)やり方が悪いから、ダメなんだ」ということを言い出すのである。

言霊の説明のとき、小さな声で言うことの集合は、言うということの集合の中に含まれるということを書いたけど、感謝をしながら掃除をするということの集合は、掃除をするということの集合のなかに含まれる。

だから、掃除をすると幸福になるという命題が偽ならば、感謝をしながら、掃除をすると幸福になるという命題も偽になる。

掃除をすれば幸福になることだってある……と、掃除をする幸福になると言っている人たちは言うかもしれないけど、掃除をすれば幸福になる場合があるという文が持つ意味と、掃除をすると幸福になるという文が持つ意味は、まったくちがうのである。

ほんとうは、「掃除をすれば幸福になる」という考え方が間違っているということを認めなければならないのに、認めず、ほかの人のせいにしているのである。すでに不幸な人のせいにしているのである。すでに、つかれはてている人のせいにしているのである。

悪いけど、やることが増えしまう。

これが、どういうことなのか、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人はまったく理解していない。

*     *     * 

もし「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」と思っているのであれば、「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」と最初から、言わなければならないのだ。

まあ、「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」という命題も、偽だけどね。

最初は「感謝をしながら、掃除をすると幸福になる」とは言わないのである。

そして、「掃除をしても幸福にならかなった」ケースについて、言及されると、後出しで「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」と言い出すわけだ。言い訳なのだ。

しかも、理論的に間違っているのである。

*     *     *

「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」と言う場合もおなじだ。最初は「掃除をすれば、幸福になる」と言っていたのだから、当然、こころをこめずに掃除をしても、掃除をすれば幸福になる(はず)なのである。

「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人は、本人は、気がついていないけど、「こころをこめずに掃除をしても、掃除をすれば幸福になる」という意味をもつことも言っているのである。本人が、気がつかないのだけど……。

*     *     *

名前だけ店長が、掃除をしていたのに、不幸だったということを言われると、掃除幸福論者は……たとえば…… 「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」ということを言い出す。

名前だけ店長が、掃除をしていたのに、不幸だったという事実があった時点で、「掃除をすれば、幸福になる」という考え方は間違っているということになるんだよ。

別の言い方をすると、「掃除をすれば、幸福になる」という命題は偽であるということになる。

だから、「掃除をすれば、幸福になる」と言っていた人は、そのことを、素直に認めなければならない。

ところが、認めずに、 「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」とか「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」とかと言い出すのである。

何度も言っているけど、理論的に破綻している。

「こころをこめて掃除をする」ことも「感謝をしながら掃除をすること」も「掃除をすること」のなかに含まれている。

もし、ほんとうに、 「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」と考えているなら、「掃除をすると幸福になる」とは言わずに、最初から「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」と言わなければならない。

*     *     * 

ところで、これは、ものすごく言いにくいことなのだけど、最初から、普通の人の「思考レベル」を織り込み済みなのかなと思う。

正直に言うと、「掃除をすれば、幸福になる」と言う人が増えれば増えるほど、限界ぎりぎりの生活をしている人は、不幸になるのである。不幸度が増すのである。

ひょっとしたら、ぎりぎりの生活をしている人が「ネガティブな発言をする」というところまで、最初から、想定されているのかもしれない。ネガティブな発言というのは……たとえば……「掃除をしても幸福にならない場合がある」ということや「そもそも、掃除ができない」ということだ。

基本的なことを言うと、「掃除幸福論者」が幸福な人を増やそうとして「掃除をすれば幸福になる」ということを言うと、ぎりぎりの生活をしている人が、もっともっと、ぎりぎりの生活をすることになるのである。

まず、「幸福を(一時的に)感じる」ということと「幸福な生活をする(幸福な生活をある程度長い期間続ける)」ということは、ちがうということを指摘した。

「掃除幸福論者」が言っていることは、「自分は掃除をすると、幸福を一時的に感じる」ということであって「人間は掃除をすれば、幸福な生活をすることができる」ということではないということも、指摘した。

掃除をしているのに、不幸な人がいるということも指摘してきた。名前だけ店長は、掃除をしているのに、全体的には、不幸な生活をしているのだ。

残業が続いて、眠る時間が短い。恋愛をする時間もない。楽しい時間が一切合切ないのだ。そういう人に対して「掃除をすると幸福になる」と言うことは、はたしてよいことなのだろうかという問題がある。

ブラック社長が掃除幸福論者だとする。

そうすると、ほんとうは、ブラック社長が、名前だけ店長に長時間労働をさせて、名前だけ店長の幸福感を奪っているのに、ブラック社長は「掃除をすれば幸福になる」ということを、名前だけ店長に言うのである。

ただでも、ギリギリなのに、家に帰って掃除をすることは、つらいことになる。風呂に入る時間だってなかなかないのだ。料理をする時間もない。

どうしてそうなっているかというと、ブラック社長が、利益を得たいので、名前だけ店長を奴隷のように働かせているからなのだ。そんなブラック社長が「掃除をすれば幸福になる」とか「感謝をしながら掃除をすれば幸福になる」と名前だけ店長に言うのだ。

ブラック社長が、名前だけ店長がやらなければならないことを増やしている。名前だけ店長は、 感謝をしながら掃除をしても幸福にならない。ぎりぎり、かつかつのくるしい生活が続くだけだ。

2026年3月8日日曜日

●原因は、ゼットさんがXをしないことではない■社会※2026/03/07 20:59

「Xをすれば幸福になる」というライフハックについて考えてみよう。

ゼットさんは、悪い家族によって不幸なのである。悪い家族が、ゼットさんがこまることを、やるから、不幸な出来事が発生してしまうのである。

単位時間内に、悪い家族が迷惑行為を……普通の家族がやるのよりも、もっともっともっともっと……頻繁にやった場合、ゼットさんが感じる不幸感が増すのである。

ところが、「Xをすれば幸福になる」ということを言った場合、幸福になるかどうかの原因は、Xだということを言っていることになる。

すでに不幸な人は、Xをしないから、不幸なのだということになってしまうのである。

だから、Xこそが原因であるという決めつけをしてしまうのである。

ところが、ゼットさんは、悪い家族の行為によって不幸なのである。原因は、悪い家族の行為なのである。原因は、ゼットさんがXをしないことではないのである。

たとえば、「人に親切にすれば、幸福になる」というライフハック文について考えてみよう。「人に親切にすれば、幸福になる」というライフハック文を言った人がBさんだとする。

Bさんは、あらゆる人に向かって、幸福ではない理由は、人に親切にしないからだということを言ったことになる。不幸な人が、幸福ではない理由は、人に親切にしないからなのである。

人に親切にすれば、幸福になるのである。

すでに、不幸な人(幸福ではない人)は、人に親切にしないから、不幸なのだと言っているのとおなじ状態になる。

世の中には、すでに不幸になっている人がいる。その不幸になっている人が、不幸になっている原因というのは、人それぞれにちがう。

ところが、Bさんは、「すでに不幸な人が、不幸なのは、その不幸な人が、人に親切にしないからだ」とは、言っていないのだけど、「人に親切にすれば、幸福になる」と言った時点で「すでに不幸な人が、不幸なのは、その不幸な人が、人に親切にしないからだ」と言っているのとおなじことになってしまうのである。

しかし、Bさんは、不幸な人を幸福にしてあげようと思って、 「人に親切にすれば、幸福になる」と言っているわけ。

自分が、「原因のきめつけ」をしているとは思っていないわけ。

不幸な人のなかには、「その原因の決めつけ」によって、不愉快な気持ちになる人もいるのだけど、Bさんは、自分の発言で「不愉快な気持ちになる人がいる」ということが、……たぶん……まったくわかっていない。

「いい助言をしている」とBさんは思っているわけだし、「いい助言をすることは、いいことだ」とBさんは思っているわけ。

自分の行為が、そのぶんだけ、社会を明るくすると思っているわけ。

自分の行為によって、少しでも、幸福になる人を増やせればいいと思っているわけ。

それ自体は、善意なんだよ。

しかし、間違った原因を考えだして、一括して、決めつけているということ自体は、かわらない。決めつけられた人のうち、どれだけの人が不愉快だと感じるのかは、わからないけど、不愉快だと感じる人はいる。

そして、優位な人と、劣位な人をわけてしまうと、ライフハックを口にする人が、相対的に優位な人で、ライフハックを聴くほうが相対的に劣位な人なのである。

勝ち組と負け組という言い方で言えば、ライフハックを口にするほうが勝ち組で、ライフはっっくを聴くほうが負け組なわけ。

そりゃ、「不幸な人」はなんとか「幸福になりたい」わけだから、聴く動機がある。そして、相対的に優位なほうは、「自分は、幸福だ」という自意識があり、その自意識の結果、ほかの人に幸福になる方法を教えてあげようと思うわけだ。

相対的に優位なのである。

もしかりに、不幸な人が、「決めつけられて不愉快だ(ニセの原因を持ち出され、ニセの原因によって不幸なのだと決めつけられて不愉快だ)」ということを言ってしまうと、不幸な人がネガティブなことを言ったということになるのである。

「こうすれば、幸福になる」ということを言ったほうは、ポジティブなことを言ったということになる。

不幸な人が、そのポジティブな発言を、すこしでも否定するようなことを言えば、不幸な人がネガティブなことを言ったということになる。

その場合、だれにでもある言霊感覚が刺激され、「ネガティブなことを言うから、ネガティブなことが起こる」と思ってしまう人が出てくる。

ようするに、不幸な人は、踏んだり蹴ったりなのである。

そして、幸福な人?だって、自分が善意で言ったことを否定されれば、不愉快な気持ちになることがある。不愉快な気持ちになる確率はかなり高いと思う。

ほかの場面で、否定してきたやつを攻撃してやろうと思っても、不思議ではない。

けど、表面上は、「人に親切にすれば、幸福になる」という言葉は、生きているということになる。

けど、Bさんがゼットさんに敵意を覚えて、ゼットさんが失敗すれば、よろこぶような気持になるということを、否定することはできないと思う。思うだけだけどね……。まあ、ここら辺の『本音調査』はむずかしいところがある。 

 

2026年3月7日土曜日

●「Xをすれば、Yになることだってあるよ」■社会※2026/03/06 10:40

すでに、不幸な人がいるとする。とりあえず、ゼットさんだとする。

ゼットさんは、悪い家族にやられて不幸な状態で暮らしているとする。「Xをすれば、Yになる」という構造を持つ文というのは、一〇〇%詐欺になりやすいのである。

実際には、『Xをする』ということは、『言う』ということとおなじように、『すべてのXをする』ということを含んでしまう。

けど、言っている人は、別に、「条件に関係なく、すべての場合において、Xをすれば、Yになる」という意味で「Xをすれば、Yになる」と言っているわけではないのだ。

「Xをすれば、Yになることだってあるよ」という意味で、「Xをすれば、Yになる」と言ってしまっている。これは、そもそも、間違いなのだけど、気がつかない。

「条件に関係なく」という言葉を付けくわえなくても、「Xをすれば、Yになる」という文の意味は、「条件に関係なく、Xをすれば、Yになる」という文の意味と等価なのだ。

けど、「Xをすれば、Yになることだってあるよ」という文の意味は、「Xをすれば、Yになる」という文の意味と等価ではない。ぜんぜん、ちがうことを言っている。

けど、「ぜんぜんちがうことを言っている」という気持ちがないのである。あるいは、認識がないのである。

これは、じつは問題なんだよ。

「Xをすれば、Yになることだってあるよ」ということを言いたいのに「Xをすれば、Yになる」と言ってしまっている。

本人が言いたいことと、本人が選んだ文の意味がちがうのである。そして、本人が、そのことにまったく気がついていないのである。

自分が言っている文の正確な意味がわかっていないのだ。

あるいは、自分が言っていることの意味と自分が選んだ言い方の意味がちがうということに、気がついていないのだ。

しかし、本人は、「絶対に正しい」と思っている。「Xをすれば、Yになる」というのは、「真実だ」と本人は、本気で思っているのである。「Xをすれば、Yになる」というのは、「真理だ」と本人は、本気で思っているのである。

本人が「絶対に正しい」と思う文の意味を、本人が理解していないというのは、非常にこまったことなのである。最初の時点で、文の意味解釈に誤解がしょうじている。この問題を抱えたまま、最後まで、話が進んでしまう。

普通の人は、ゼットさんの生活がわからない。

普通の人は、ゼットさんの条件がわからない。

前向きな助言をするほうにしてみれば、ゼットさんの条件なんて、関係がないのである。

関係ないということ意味は、ふたつある。

ひとつは、ゼットさんの条件は、自分の条件ではないので、自分には関係がないという意味だ。もうひとつは、ゼットさんの条件がうみだすことは、ゼットさんには影響を与えないという意味だ。

ゼットさんの条件とおなじ条件を抱えて生きてきたわけではないので、ゼットさんが抱えている条件が「うみだすもの」がわかっていないのだ。その条件だと、どうしてもそうなるというような「必然性」がわからない。

わからなければ、無視してしまう。

そして、「そんなのは、言い訳だ」と言ってしまえば、必然性を無視してもいいということになってしまうのである。あるいは、「そんなのは、あまえだ」と言ってしまえば、 必然性を無視してもいいということになってしまうのである。

「すべては構文」というと問題があるのだけど、「Xをすれば、Yになる」という文は「すべてのXにおいて、Xをすれば、すべての場合において、Yになる」ということを言っているのである。たとえば、「言う」という集合のなかに、「小さな声で言う」とか「大きな声で言う」とか「ささやくように言う」とか「やる気がない感じて言う」という集合が含まれているのである。

もっとも、小さな声というのは、どのくらいの音量だと小さな声なのかという問題がある。それぞれ、言うほうの主観と、言われたほうの主観が異なる場合だってある。

だから、「小さな声」の定義というのが、ないようなものなのだ。三〇デシベル以下の声は、小さな声だとするというような定義を決めたとしても、その定義に汎用性がなければ、意味がないのである。

そして、普段、自分が言うとき、あるいは、他人が言うとき、デシベルをはかっているわけではないという問題がある。

しかし、ここでは、その問題は考えないことにする。ここで考えなければならないことは、小さな声で言うという集合が、言うという集合のなかに含まれるということだ。

「言えば、(言霊の力によって)言ったことが現実化する」という文の意味は、「小さな声で言えば、(言霊力によって) 言ったことが現実化する」という文の意味を含んでいるのである。

あるいは、おなじことなのだけど……「言えば、(言霊の力によって)言ったことが現実化する」という文の意味は、「小さな声で言っても、言えば、言ったことが現実化する」という文の意味を含んでいる。

だから、「小さな声で言ったから、現実化しなかった」というのは……それこそ……言い訳なのである。

2026年3月4日水曜日

●ヘビメタ騒音が、ガンガン鳴っている中で、掃除をしても■騒音※2026/03/01 8:34

ヘビメタ騒音の一日というのは、どれだけほかの人に説明してわからないと思う。

被害がすごいのだ。

鳴っているあいだの被害もすごいけど、鳴り終わったあとの被害もすごい。

けど、ほかの人には、経験がないから、鳴り終わったあとの被害というものを無視してしまう。しかも、鳴り終わったあとの被害というのは、不可避的なのだ。

これも、わからないだろう。ほかの人は、「不可避的だ」ということも、無視してしまう。

人間の体(からだ)を考えると、鳴り終わったあとも、すぐに楽になるわけではないのだ。

そりゃ、ちょっとした騒音なら、鳴り終わったあと、すぐに楽になる。影響を考えなくてもいい状態になる。

しかし、きちがい家族による「行きすぎた騒音」だと、鳴り終わったあと、すぐに楽になるわけではないのだ。

そして、次の日の騒音が鳴り始めてしまうので、けっきょく、一日中、影響を受けているということになる。

そして、きちがい兄貴のきちがい思考(思いっきり鳴らしたいという欲望と、思いっきり鳴らしてもいいという思考)によって、それ(きちがい兄貴が思いっきり鳴らすこと)が、続いたら、ヘビメタ騒音が毎日鳴っている状態というのも続いてしまう。

一日目と一〇日目は、ちがう。一日目と一〇〇日目もちがう。一日目と一〇〇〇日目もちがう。

ぜんぜん、ちがうのに、実際に一〇〇〇日間、きちがい家族が鳴らす騒音にさらされ続けたことがない人は「そんなのは関係がない」と考えてしまう。「鳴り終わったら関係がない」と考えてしまう。


*     *     *

ところで、「掃除をすれば、しあわせになる」ということについて、話をした。きちがいヘビメタ騒音に何千日もさらされると、とてつもなく、掃除をしにくい状態になってしまうのだ。

家にいるときは、きちがいヘビメタが鳴っているという状態だ。

普通の人が眠る時間帯というのは、鳴っていないけど、普通の人が起きている時間帯は、きちがい兄貴が家にいれば、ヘビメタが鳴っている状態になる。きちがい兄貴が風呂に入っている時間除くとする。

ともかく、ヘビメタ騒音が、ガンガン鳴っている中で、掃除をしても、「掃除をしたあと、しあわせな気分になるか」というと、ならないのだ。ならない。

そりゃ、ものすごい音圧で、ガンガン、自分がこの世で一番きらいな音が、至近距離で鳴っているのだから、落ち着かない気持ちになる。きちがい兄貴の態度に腹が立っているので、きちがい兄貴が鳴らしている騒音が、ガンガン聞こえる状態だと、ものすごく腹が立つ。

音が切れ目なく、続くので、怒りも切れ目なく続く。じつは、掃除だけではなくて、風呂ですら、たいへんなことになる。ヘビメタ騒音生活というのは、そういう生活なのである。

ヘビメタが鳴っているから、くるしいのである。ヘビメタが鳴っているから、主観的に不幸なのである。「掃除をすれば、しあわせになる」というのは、二つの意味があって、掃除をしたあと、実際にさっぱりして、しあわせな感じがするという意味で、しあわせになるということと、掃除をすると運があがるからしあわせになるという意味がある。

これも、掃除をすると、さっぱりして(主観的に)しあわせな感じがするということ、掃除をすると運があがってしあわせな生活ができるということが、ごっちゃになっているのだ。

言っている人のなかで、ごっちゃになっている。

だから、区別をしないで、語るということになる。掃除をすると(自分は)しあわせを感じる(ことがある)ということが、掃除をすると、運があがって(恒常的に)しあわせな暮らしができるということの、根拠になっている場合がある。

実際に、自分は、掃除をしたあとしあわせを感じるので、(他人も含めて人間というものは)掃除をすると運があがって幸せな生活ができると考えてしまうのだ。

けど、言っていることがちがうんだよね。

問題なのは、ヘビメタ騒音で掃除ができなくなったのに、掃除をしないから不幸なのだと考えてしまうことだ。

だから、掃除をすればしあわせになるのである。エイリが、ヘビメタ騒音の連続によって、掃除ができなくなったとする。その場合、掃除ができなくなった理由は、ヘビメタ騒音なのだ。ヘビメタ騒音が(リターン可能期間内に)鳴り終わらないと、掃除ができない状態が続いてしまう。

ヘビメタ騒音で不幸になり、ヘビメタ騒音で掃除をすることもできなくなったのだ。ところが、掃除をしていないエイリを、「掃除をすれば幸せになる」と考える人が見た場合、「掃除をしていないから、エイリは不幸なのだ」と考えてしまう。理由がちがうのだ。

ヘビメタ騒音が鳴っているから、不幸になり、掃除ができない状態になったのだ。不幸になった理由は、ヘビメタ騒音だ。掃除ができなくなった理由もヘビメタ騒音だ。

ところが、妄想的な人たちが、一番の理由である「ヘビメタ騒音」を無視してしまう。そして、ヘビメタ騒音の結果、しょうじた「掃除ができない状態」を「不幸になった理由」にしてしまうのだ。

完全に、原因を勘違いしている。

この人たちが、勘違いをして、妄想的なことを言って、ぼくに、へんな助言をして、ぼくを、くるしめるのである。

しかし、この人たちが、「理由はヘビメタ騒音だ」ということを認めることが少ないのである。

どうしてかというと、この人たちの頭のなかには、精神世界的な理論が成り立っているからだ。

これは、妄想なんだけど、本人は、「ちゃんとした理由だ」と感じるのである。 

●妄想的な前提で、ほかの人をせめるのはよくない■社会※2026/03/03 14:11

たぶんなんだけど、ぼくが言っていることを理解してくれる精神世界の人って、少ないと思う。大半の精神世界の人は、理解してくれないと思う。

それでも、言わなければならないのだ。ぼくが知っている範囲では、ぼくしか、説明できる人がいない。

最終的には、カルマ論は、大きな誤解だったということを理解してほしいのだけど、そんなに多くの人は、理解してくれないだろう。

まあ、けど、このさき、どうなるかわからない。

手短に言うと、条件が悪い人が、悪く言われる状態というのをかえたい。条件のちがいがある。

条件のちがいは、実際の幸福感に影響を与える。実際の生活に影響を与える。

ところが、精神世界の話というのは、条件を無視したところから、はじめるのだ。

何度も言うけど、条件が出てきた場合には、条件が悪い人だって成功できるというような話のなかで出てくるだけだ。この話というのは、ほんとうの作り物である場合と、ニセの作り物である場合があるけど、どのみち、多くの人の実態を反映しないものになっている。

それこそ、「いいわけ」として出てくるのだ。

条件が悪い人は、成功できないということになっているけど、これこれこういうふうに条件が悪い人だって、成功した……ということを言いたいためだけに出てくる話なのだ。

成功話に出てくる……条件が悪い人の条件が……ほんとうに悪いのかどうかわからないのである。

条件というのは、複数ある。切り取り方によっては、無限にあるといっていいものだ。

だから、どの条件に焦点があてられるかで、印象がちがってくる。

そして、「例外」の「実例」として取り上げられた人の「悪条件」とおなじ悪条件だけを抱えている人というのは、少ないのである。

「例」として、こういう人がいる。……だから、条件は関係がないというような話になってしまうのだ。

条件に関係なく、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」ということになってしまうと、暗い人がいけないのだということになってしまうのだ。

暗いことを考えたから、暗いことが起こったと考えるようになってしまう。

そして、暗いことが起こったのは、暗いことを考えた人の責任だということになってしまうのである。

そして、さらに、そういう人は、前世で悪いことをしたから、今世で、暗いことが起こっているのだということになってしまう。

しかし、そういう決めつけは、よくない。

そういう決めつけはよくないということを、ずっとずっと、わたしは言ってきたのだ。

ともかく、条件を無視することはできない。妄想的な前提で、ほかの人をせめるのはよくない。 

2026年3月3日火曜日

●実際には、「人のいやがること」をやってしまうのである■社会※2026/03/03 7:41

たとえばの話だけど、ブラック社長が、どこかの宗教にはいっていて「人のいやがることはやめましょう」というお題目が正しいと思っていたって、実際には、人のいやがることをするのである。

そりゃ、サービス残業を押し付けられたほうは、いやな思いがするだろう。「いやだなぁ」と思うだろう。ちゃんと「できません」と言ったのに、「できないと言うからできないのだ」「できると言えばできる」というような妄想的なこたえが返ってきたら、いやな気持になるだろう。

けど、ブラック社長は、気にも留めない。

どれだけ、ブラック社長が「人のいやがることはやましょう」という教えを正しい教えだと思っていたとしても、ほかに優先することがあったら、「人のいやがること」を積極的にするようになるのである。

そして、たぶんだけど、ブラック社長には、「人がいやがることをしている」という認識がないだろう。

それは、名前だけ店長が、どれだけはっきり、「サービス残業はいやなことだから、やりたくない」ということを伝えても、理解されることがないのである。

ようするに、名前だけ店長が、どれだけ「いやなことだ」ということをブラック社長に伝えても、ブラック社長は、「名前だけ店長が、いやがっている」ということがわからないのだ。

そんなことは、気にも留めない。

ブラック社長が「人のいやがることはやるべきでない」という意見に、こころから、賛成していたとしても、実際には、「人のいやがること」をやってしまうのである。

だから、「人のいやがることはやめましょう」という教えを布教したとしても、社会がよくならないのである。

*     *     * 

ある村が、一〇〇〇人の人で構成されている人する。

その一〇〇〇人が、みんな、「人のいやがることはやめましょう」という教えは正しいと思っていても、実際の生活は、よくなるとは言えないのである。そういうことがまったくわかっていない人が「教祖はだめだけど、教えは、だいたい正しい」などと言う。

「だいたい正しい教え」をみんながみんな、正しいと思っても、運用のレベルで問題がしょうじるのである。

生活がよくなるとは限らない。

実際、「教祖はだめだけど、教えは、だいたい正しい」と言った人は、言霊主義者で、「できると言えばできる」「言霊は絶対だ」と言っている人なのである。この人が言っていること自体が、ブラック社長が言っていることとおなじなのである。

*     *     *

人がいやがることを、がんがんやってやろうと思っている人もいる。その人が「人がいやがることはやめましょう」と言われて、やめるかどうかわからない。

しかし、正しい教えがひろまれば、それで、問題が解決すると思っている人は、ブラック社長のようなケースをまったく考えていないのだ。

みんながみんな、どういう場合に自分が「人がいやがることをする」のかということについて明確な認識を持っていて、なおかつ、それが、よくないことだという認識をもっている場合においては、「説得」は、ある程度、意味があることかもしれない。

しかし、実際には、そうでない人のほうが多い。

「正しい」と思ってやっていることである場合もあるのだ。たとえば、宗教の勧誘だ。自分は、正しいと思ってやっているのである。相手のためになると思ってやっているのである。

だから、「相手がいやがることをやっている」という気分がしない。そういう気持ちになれない。

実際に、だれか、その相手が「自分の勧誘」をいやがっていたとしても、そんなのは、気にしないのである。それは……「相手がわかっていないだけだ」と思ってしまうのである。

相手が、いやな顔をしても、そんな表情は読み取れない。『なんとか説得して、正しい道に導くのがよいことだ』と思っていれば、相手がいやな顔をしていても、そんなことには、まったく気がつかずに、勧誘をするのである。

相手が、はっきりと「勧誘されるのはこまる」と言ったって、しつこく勧誘するかもしれない。その場合も、鈍感な人は……相手がいやがっているとは、思わないのである。

●自分にとって都合がいいときだけ、「言霊を信じる」ようになる■言霊※2026/03/03 7:01

言霊主義者である「ブラック社長」とその会社の従業員である「名前だけ店長」について考えてみよう。

ブラック社長が、名前だけ店長に、サービス残業を押し付けたとき、「名前だけ店長が「無理です」「できません」と言ったのだ。

それに対するブラック社長の返事は「できないと言うからできない」「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」というものだった。

「できないと言うからできない」「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」という一連の発言の背後には、言霊思想がある。

ブラック社長は、言霊主義者なのだ。

ほんとうは……「言えば言ったことが現実化する」ので、別に、サービス残業を押し付ける必要なんてないのだ。

わかるかな?

「自動的にこれこれのことが完了する」と言ってしまえば、言った通りになるので、ブラック社長は、名前だけ店長に、サービス残業を押し付ける必要がない。

ブラック社長は、いちおう、この世のルールにのっとって会社を経営しているのである。

ブラック社長が、名前だけ店長にサービス残業を押し付けたくなる気持ちというのは、どういうところから発生しているかというと、「自分がおカネを、もっともっともっと、儲けたい」というところから発生しているのだ。

ようするに、名前だけ店長という従業員に「ただ働き」をさせて、そのぶん、自分が儲けるつもりでいるのだ。

そもそも、サービス残業を押しけるということが、違法行為なのだけど、そんなことは、気にしない。ブラック社長は「自分の経営手腕だ」と思っている。

人がどうなろうが、自分のふところに、もっともっともっと、カネが入ってくればいいのである。そのために、言霊思想を利用しているだけだ。

しかし、ブラック社長は、ほんとうに、言霊思想を信じているのである。

自分にとって都合がいいときだけ、言霊思想を信じるということは、言霊主義者が普段からやっていることだ。

だから、ブラック社長が、言霊思想を「ほんとうに」信じていたとしても、不思議はない。

ようするに、ブラック社長が、言霊思想を信じているふりをしているのではなくて、言霊思想を信じているということだ。

けど、前から述べているように、ブラック社長が、カネを儲けたいのであれば、現実的なことをするのではなくて、言霊の力を使って、カネを儲ければいいのである。現実的なことをしてカネを儲けなければならないと考えている時点で、ブラック社長は言霊主義者ではないのだ。

はっきりと言うと、ブラック社長は、言霊なんてまったく信じていないのだ。言霊の力なんてまったく信じていないのだ。

だから、「言うことだけ」で問題を解決しようするのではなくて、現実的な方法で、問題を解決しようとする。

会社の経営をしているということは、「言霊の力を信じていない」ということをあらわしている。

「人は働くべきだ」と言った愚かな言霊主義者のように、ブラック社長は、ほんとうは、言霊なんてまったく信じていない人なのだ。

ところが、自分にとって都合がいいときだけ、「言霊を信じる」ようになる。「言霊の力は、絶対だ」と言うのである。「言ったことが現実化するので、できると言えばできる」と言うのである。

言霊の力が絶対なら、「一日以内に、自分の口座に一兆円振り込まれる」と言えばいい。そうすれば、言っただけで、言霊の力によって、一日以内に、自分の口座に一兆円振り込まれるのである。

どうして、このような方法を(ブラック社長が)採用しないのかというと、「そんなことを言ったって、現実化されるわけがない」と思っているからだ。深く深く……「そんなことは、無理だ」と思っているのである。

無理だと言うから、無理なんだろ。

できると言えばできるんじゃないのか?

「一日以内に、自分の口座に一兆円振り込まれる」と言ったって、実際に一兆円振り込まれることはないと(ブラック社長は)確信しているのである。

ようするに、言霊の力を否定しているのである。

「そんなことはありえない」と考えているのである。

「一日以内に、自分の口座に一兆円振り込まれると言うことによって、自分の口座に一兆円振り込まれるようにすることはできる」と言えば、「できるようになる」のである。言霊の力によって、できるようになる。

できないと言うから、できない。できると言えば、できる。

2026年3月2日月曜日

●言霊主義者なのに「人間は働くべきだ」と言っていたやつ■言霊※2026/03/02 10:17

重要なことなので、もう一度言うことにした。

言霊理論が正しいなら、働く必要はない。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という言霊理論と「人間は働くべきだ」という価値観は、相性が悪いのである。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということは、「言えば、言った通りになる」ということだ。条件に関係なく、言ってしまったら、言った通りになるのである。

だから、なにかが欲しかったら、「そのなにかが目の前に出現する」と言ってしまえば、それで済むことになる。おカネが欲しかったら、「おカネが目の前に出現する」と言えば、それで、おカネをゲットできる。

例外はないのである。

言えば、言ったことが現実化するのだから、言った通りになる。

言ったのに、現実化しないということはないのだ。

言い方が悪いから現実化しない……。言霊理論が正しいなら、こんなことはありえない。どんなに悪い言い方で言っても、現実化してしまう。

言霊主義者は、こういうレベルでも、言霊理論が正しいと思っていないのである。

どうして、言霊主義者は「言い方が悪いと現実化しない」ということを、突然、言い出すのか?

言霊理論を理解していないからなのである。「言霊は絶対だ」というようなわけのわからないことを言うくせに、言霊を信じ切れていないのである。

条件に関係なく、言ったことが、現実化するのだから、悪い言い方で言うという条件は、そもそも、関係がない。

なんだって、言えば、言った通りになるのだから、そもそも、通貨があるということ自体がおかしい。もちろん、通貨があってもよいのだけど、言えば言ったことが現実化するのであれば、通貨なんて必要がない。

必要がない通貨というものについて、考えて、「通貨なるものが出現する」と言う人も、まれにはいるかもしれないから、「必然性」はないのだけど……言えば、欲しいものが出てくる世界で、どうして、通貨なるものが必要なのか?

言えば、なんでも手に入るのである。

口をきけない人は、かわいそうだ。言えないからだ。けど、だいじょうぶだ。だれかが、助けてくれる。

「〇・一秒以内に、口をきけない人は、口をきけるようになる」とだれかが言えば、それで問題が解決する。まちがいなく、口をきけるようになる。

言霊理論が正しい世界では、言っただけで、すべての病気を治すことができるし、そもそも、「これ以降、すべての人間は病気にならない」と言ってしまえば、それ以降、すべての人間が病気にならないのだ。

いま、ぼくが「これ以降、すべての人間は病気にならない」と言った。言霊理論が正しい世界に住んでいるのであれば、これ以降、すべての人間は病気にならないので、「病気になってしまうのではないか」と心配する必要はない。

言霊主義者は「言ったことが現実化する」と言うけど、「言ったことが現実化してしまう世界について、ちょっとでも考えたことがあるのか」と言いたなくなる。

なんで、病院があるのか?

どうして、おカネなるものが必要なのか?

みんな、言うことで、欲しいものをゲットできる。

自分だけではなくて、ほかの人だって、言うだけで、欲しいものをゲットできるのだ。働く必要なんてない。

どうやって、働くのだ?

どうやって、ほかの人が欲しがるものをつくるのだ?

なぜ、欲しいものが、すべて、言っただけで手に入る世界で、働く必要があるのか?

欲しいものがすべて手に入る世界で、働くということは、一体どういうことなのか?

ものの生産にかかわるということはどういうことなのか?

サービス業をするということはどういうことなのか?

悪いけど、みんな、自分で、できる。欲しいものは、欲しいものを思い浮かべて、「(その欲しいものが)出現する」と言えば、それで、出現するのだ。他人から、もらう必要もなければ、他人から借りる必要もない。

ほかの人も、ほかの人がほしいものを、言うだけで生産できるのだから、だれかほかの人のために、なにかものを生産するということ自体が、無意味なことになる。

もちろん、やったっていいんだよ。

相手が受け取るかどうかはわからないけど……。食べるために働かなければならない世界……というもの想定している時点で、「言霊の力が成り立っていない世界」について、考えていることになる。

言霊の力が成り立たず、言っても、言った通りにならないから、働く必要があるのである。

言えば、ものが好きなだけ、出てくるという前提がわかっていないのだ。言えば、言っただけで、好きなものが、好きなだけ手に入る世界になっているはずなのである。

だれもが、言っただけで、必要なものを手に入れることができる世界なのである。働く必要なんてない。

どうやって、働くのか?

自分以外の他人も、そういうことができる世界なのである。

「なになにが目の前に出てくる」と言えば、それで、なになにがないという問題を解決できる。「一秒以内に」という言葉をつけて言えば、一秒以内に出てくるのである。言霊理論が正しければそうなるのである。

ところが、言霊理論が正しくないので、『働く必要(働くということの必要性)』が発生するのである。

言霊が存在せず、人間が言霊の力を利用することができないので、欲しいものを手に入れるために働く必要がある世界になってしまのである。

「言霊(理論)は正しい」と思っている人で、なおかつ「人間は働く必要がある」と思っている人は、それらの理論の関係性について考えたほうがいい。

なんで、考えないのだ?

言霊の力なんてないから、「人は働くべきだ」と考える人が発生する世界になっている。言霊の力がほんとうに、働いているのであれば「人は働くべきだ」と考える人は発生しにくい世界になっている。

働くということが、まったく成立しない世界のなかで、「働く」ということについて、考える人がいるかもしれないということは、否定できないけど、その人にとって「働く」ということは、この世の人にとって「働く」ということとは、だいぶちがうものになるのではないかと思われる。

もしかりに、言霊があり、言霊の力が働くなら、そもそも「働く必要がある」世界になっていない。

言えば、言った通りになるので、働く必要がないのだ。

自分だけではなくて、他人もそうだから……たいていの場合、他人のために、なにかをつくるということ自体が、価値を失う世界になるのである。

それでも、だれか特定の他人のために、こういうものをつくってあげたいと思う人はいるかもしれない。けど、それは、仕事なのかという疑問が発生する。

それは、おカネのやり取りがない取引になるので、働くとは言えない。

趣味で、茶碗をつくっている人が、どれだけ茶碗をつくって、ほかの人にあげても、「働いた」ことにならない。茶碗をつくって、市場において販売すると、それで、やっと、働いたことになる。これは、ものすごく重要なことなのだ。

言霊主義者なのに「人間は働くべきだ」と言っていたやつは、言霊がほんとうに成り立っている世界で、どういう労働が可能なのか、考える必要がある。

言霊が成り立っているということは、だれもが、言霊の力を使える世界なのである。

しかも、言ったか言わなかったかの二値しかないので、言えば、かならず、現実化されるのである。言霊理論が正しいならそうなる。

頑固な言霊主義者のくせに、言霊の力なんて、まったく信用していないのだ。『言霊なんてないから、言ったって、現実化しない』と深く思っているのである。

だから、言霊が、ほんとうに成り立っている世界のことを、想像することすらできない。

言霊が成り立っていたら、生産手段を所有することも、言っただけで可能なんだよ。

そして、売り物として売るものは、すべて、ほかの人が言っただけで、手に入れることができるものなんだよ。相手は、いくらでも、言霊の力を使って、同様のことができる存在なんだよ。

言霊があり、だれもが言っただけで言霊の力を使える世界というものについて、言霊主義者は、考えたほうがいい。そのような世界では、逆に、働く必要がないのである。

それどころか、どうやって、働いていいのか、迷ってしまうような世界なのだよ。

いまの通貨が持っているような意味を見出せないものを、とりあえず、通貨としてみなして、それを、相手にまえもって、渡しておく。あるいは、相手がその「通貨らしきもの」を言霊の力によって、つくっておく。

そのあと、自分がなんらかのものをつくりだして、相手にあげて、相手から、「通貨らしきもの」をもらうという行為をした場合、外から見れば、なんとなく、働いたように見える。

しかし、この世における「働く」ということとは、ちがったことをしているのである。働いたように見えるけど、じつは、この世で働くということとは、ちがったことをしているということになる。

●ある程度、現実に、浸食された万能感■言霊※2026/03/02 6:51

手短に言うと、幼児的万能感というのは、つねに、現実から浸食を受けているのである。

浸食されているのである。

だから、幼児期における幼児的万能感も、完ぺきではないのだ。

ようするに、幼児期における幼児的万能感も、傷がある万能感なのである。

万能感を押し通したいのだけど、現実が、そうは、させてくれないのである。ほんとうは、万能感が勝ったほうが気持ちがよいのである。「言った通りになった」と思えるほうが、気持ちがいいのである。「思った通りになった」と思えるほうが、気持ちがいいのである。

しかし、しかし、現実というやつが、それを、ゆるさない。

そういう場面がある。

そのとき、現実を受け入れて万能感を放棄しなければならなくなるのだけど、現実を受け入れつつも、万能感を放棄しない場合がある。それが、矛盾を感じないこころを育てあげることになる。

万能感は、放棄せず、「細かい現実」「圧倒的な現実」には、首を縦に振るのである。

もっとも、これは、万能感が万能感としてあるのであれば、屈辱だ。

けど、屈辱も無視してしまうのである。

「こういうものだ」と、万能感を一時的に押し殺して、現実を受け入れるのである。

しかし、万能感は、死んだわけではなくて、残っているのである。

だから、現実から干渉されない部分では、万能感が羽ばたくのである。万能感に支配された状態になる。

「万能感があってあたりまえの状態」になるのだ。

しかし、また、現実がやってくるのである。

その場合は、万能感は、カメが頭を隠すようにして、姿を隠してしまうのである。万能感は喪失されたわけではなくて、一時的に、頭のなかにない状態になる。

そして、現実社会のなかで、現実的に生きていくとなると、この時間が長くなるのである。

現実は万能感を打ち砕くのである。

ただし、「いつかこうなる」ということに関しては、「いつかこうなればよい」のだから、万能感を打ち砕かれずにすむのである。なので、緩衝地帯になる。

現実の出来事に対処しているあいだも、「いつかこうなる」という部分は否定されないので、「いつかこうなる」という部分では、そのまま、万能感が残ることになる。

しかし、この万能感は、妥協策として生まれた万能感なので、すでに、ある程度、現実に、浸食された万能感なのである。

2026年3月1日日曜日

●言霊理論が正しいのであれば、働く必要なんてない■言霊※2026/03/01 7:02

ある言霊主義者が「人は働くべきだから、エイリさんも働いたほうがいい」と言ったことがある。俺が「ヘビメタ騒音で働けなくなった」ということを説明したあとだ。

言霊主義者が、ほかの人に、働くことをすすめるというのは、ある程度おかしなことなのである。

どうしてかというと、「二日以内に、エイリさんが働くようになる」と言ってしまえば、二日以内に、エイリの意志に関係なく、言霊の力によって、働くようになるからだ。

そして、たとえば、「働ける」とぼくが言えば、ぼくの過去に関係なく……そして、ぼくの現在の状態に関係なく「働けるようになる」のである。

もっとも、ぼくが働けると言ったにもかかわらず、働けない場合は、「エイリさんの言い方が悪いから、働けるようにならない」ということになるのだ。

「言い方が悪いから、だめなんだ」ということを言い出す。言霊には、だれだれが言わなければならないという制限がない。もっと言ってしまえば、言霊には、本人が言わなければならないという制限がない。

だから、だれかの代わりに、言霊主義者が言ってしまえば、それで、だれかが、そのようになるのである。

たとえば、言霊主義者のAさんが、「一日以内に、アメリカ大統領のドナルド・トランプが、これこれこういうことをする」と言えば、アメリカ大統領のドナルド・トランプは、アメリカ大統領のドナルド・トランプの意志に関係なく、Aさんの「言霊の力によって」……これこれのことをするのである。

言霊主義者は、すべての人を動かすことができるのである。

ところが、そんなことは無理なのだ。

だから、「言霊理論は正しい」という考え方は、間違っている。

以前、思霊の話で「のび太が、ジャイアンをして、のび太をなぐらせる」ということを書いたけど、おなじことが、言霊にも成り立っている。

言えば、他人を自分が思ったようにあやつることができるのである。あやつれなかったら「言い方が悪かった」ということになる。

ところが、言ってしまえば、どれだけ言い方が悪くても、言霊の力が発動してしまうのである。どうしてかというと、「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化される」からだ。これが、わかっていないのである。

*     *     *

言霊主義者は、いくらでも、おカネをつくりだことができる。おカネだけではなくて、ともかく、欲しいものはすべて、言霊の力によって、出すことができるのだ。

言霊の力によって、現実化されるのである。

とりあえず、「まるまるが、目の前に出現する」と言ってしまえば、それで、出現することになる。

このようなことが可能な社会において、銀行とか、銀行口座というものがどういう役割をするのかは、ちょっとわからないけど、ともかく……「自分の銀行口座に一〇〇万円が振り込まれる」と言えば、自分の銀行口座に一〇〇万円が振り込まれるのだ。

このような社会においては、働くことというのは、必要なことではない。働けないと言っている相手に、働くことを求めるということ自体が、おかしなことなのだ。

*     *     * 

言霊主義者が、働きたいなら、働けばいいのである。

言霊主義者が、ある他人を働かせたいなら、「ある他人が働く」と言えば、働くことになるので、「ある他人が働く」と言えばいいだけのことだ。

言霊の力によって、言ったことが、現実化されるだろう。

*     *     * 

とりあえず、おカネをもらわずに、働く行為をするということを、ボランティアをするという言葉で表現をするとする。

その場合、「人間は働くべきだから、エイリさんも働いたほうがいい」とエイリに言った言霊主義者は、ぼくに、ボランティアをすすめているわけではなくて、働くことをすすめているのである。

これは……実際に、その言霊主義者がすすめているのは、「働く行為をする」ということではなくて「経済的に自立する」ということなのだ。

これもおかしな話だ。

「三秒以内に、エイリが経済的に自立する」と言えば、それで、エイリは、三秒以内に、経済的に自立するのである。

その言霊主義者はエイリが経済的に自立していないことに、腹を立てていたのだ。

あるいは、『それは、いけないことだ』と考えていたのである。

言霊主義者なのだから「エイリが経済的に自立する」と言えば、それでおしまいなのである。

エイリがいないときに、天に向かって、その言霊主義者が「エイリが経済的に自立する」と言えば、それでおしまいなのである。

ぼく(エイリ)を説得する必要なんてないのである。

ぼくが……「ヘビメタ騒音の影響で、通勤して働くことはできない」と言っているのに、それを無視して……「通勤して、働くこと」をぼくに求めるというような愚行を、どうしてするのだろうか?

その言霊主義者は「言霊は絶対だ」と言っていたやつなのである。

なんで、言霊を使って、問題を解決しようとしないのか?

そもそも、言霊が絶対であり、言霊理論が正しいのであれば、働く必要なんてないのである。

*     *     * 

言霊主義者や普通の人は、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するのである。言霊主義者や普通の人は、ヘビメタ騒音の影響を無視するのである。

俺がどれだけ、「ヘビメタ騒音の影響で、働けなくなった」ということを説明しても、それは無視なのである。

無視されてしまうのである。こいつらの、こういう態度!

ほんとうに、頭にくるよ!!

しかも、自分が矛盾したことを主張しているということが、わかっていないのである。こんなやつばかりだ。

*     *     * 

ヘビメタ騒音生活のひどさがわかっていないから、ヘビメタ騒音生活のひどさを無視する。

ヘビメタ騒音のひどさがわかっていないのは、ヘビメタ騒音生活を一倍速でしたことがないからなのである。

五〇〇〇日間、ヘビメタ騒音生活が続いたとき、体がどういう状態になるか、理解してないから、「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と決めつけてしまう。

こいつらだって、自分にとって苦手な音が爆音で、ずっと何時間も何時間も、毎日、鳴っているような状態で暮らしたら、通勤通学ができなくなる。

実際に、自分が自分の体で経験したことじゃないから、わからないだけなのである。

こいつらがみんな……ほんとうに、みんな……「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言って、「苦労」を同質化・同量化してしまう。

*     *     * 

ほんとうに、ヘビメタ騒音のせいで、こいつらに、わかったようなことを言われて、つらかったよ。

きちがい兄貴が、普通の人がやらないような音でヘビメタを鳴らしているから、働けなくなって苦労しているのに、ほかのやつらが「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは関係がない」と言ってくる状態ができあがった。

ほかの人は、苦労したのかもしれないけど、きちがい家族による、ほかのうちではありえない、騒音を、毎日、経験したわけではない。苦労の苦労がちがう。

症状は、たぶん、人間である限り、ほとんどの人に出る。あらわれる。

いちおう、「ほとんどの人に」と書いたけど「すべての人に」と書きたいほど、ぼくにとっては、あきらかなことだ。

すべての人が、ぼくとおなじ経験をしたら、通勤して働くことはできなくなる……とぼくは思う。もちろん、思うだけだけどね。

証明?

そんなことは、できるわけがないだろ。

*     *     *

ある言霊主義者が「一日以内に、アメリカ大統領のドナルド・トランプが、これこれこういうことをする」と言ったあとに、アメリカ大統領のドナルド・トランプが、これこれこういうことをした場合について考えてみよう。

その言霊主義者は、言霊の力によって、アメリカ大統領のドナルド・トランプが、これこれこういうことをしたと考えるのだ。

自分がその言葉を言ったから、アメリカ大統領のドナルド・トランプが、これこれこういうことをしたということを、(その言霊主義者は)主張する。

けど、こんなのは、間違いだ。

自分(その言霊主義者)の言葉に宿る言霊の力によって、ドナルド・トランプが、ドナルド・トランプの意志に関係なく、これこれこういうことをしたわけではない。

「明日、雨が降る」と言ったら、雨が降ったので、『自分の言葉に宿る言霊の力によって雨が降ったのだ』と確信している子どもとおなじだ。

勘違いをしている。

言霊は、関係がない。

*     *     *

ともかく、言霊理論が正しいなら、「働かなくても、よい世界」になっている。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」なら、働かなくても、生活できる。

言霊理論が正しいなら、思ったことを言っただけで、経済的に自立できる。

働かなければ、経済的に自立できないか、あるいは、経済的に自立しにくい世界というのは、言霊の力が(まったく)働かない世界なのである。

だから、言霊主義者が、なにを信じているのか、わからなくなる。

言霊主義者は、へんなところで言霊主義者であり、言霊主義者はへんなところで現実主義者なのである。言霊主義者があたりまえだと思っていることに関しては、言霊思考にならないのである。

『生きていくには働かなければならない』と思っている言霊主義者は、『言霊の力によって、働かずに生活できる』とは思っていないのである。

言っただけで、言霊の力を使用することができるのに、働かなければ生きていけないと(その言霊主義者が)思っているのである。 

*     *     *

ほんとうに、みんな、ヘビメタ騒音の影響について、勘違いをしている。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な欲求を満たしたので、こういうことになってしまう。

みんな、きちがい兄貴の異常さがわかっていない。

実際にそういう異常な行為をする人が、家族として身のまわりにいるわけではないので、わかっていない。経験として、わかっていない。

異常な行動を異常な意地でやってしまう家族と、家族として一緒に住んでいるわけではないので、わかっていない。

経験がないので、まったくわかっていない。

経験がないので、「どういうことになるのか」ということがわかっていないのだ。

それぞれ、自分のなかの苦労を想像して「そんなのは、関係がない」と思ってしまう。いやーー。関係があるんだよ。

これ、どれだけ「関係がある」と言っても、認めないやつは認めないからな。

そういうやつにとっては、「ヘビメタ騒音は関係がないのに、ヘビメタ騒音が関係があるとエイリは思っている」ということになってしまう。これも、いやなんだよな。

ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい行為をしたから、ぼくがほかの人から、悪い意味で誤解されることになる。

こんなの、ない。

そして、「社会に流通している考え方」が、こういう誤解を強化してしまうのである。ほんとうに、いやな社会だ。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。