まあ、端的に言って、しあわせな生活を想像できない。想像することができない。
これが、やっかいなんだよな。そりゃ、理想的な生活はある。自分にとって、理想的な生活はある。しかし、ヘビメタ騒音で破壊された。それは、わかい時期を破壊されたということだ。わかい時期というのが、ほんとうに重要なのだ。気持ちの問題というのがあるからね。
問題なのは、たとえば、楽しく感じないということだ。これも、長期騒音の結果なんだけど、そうなんだよ。実際に、そうなんだよ。実際に、楽しく感じないんだよ。意欲の問題もある。この楽しく感じる力と、意欲というのは、おなじものを別の言い方で言っているのではないかと思える。まあ、それぞれ、多少ちがう側面に光が当たっている言い方なのだろうけど、だいたいはおなじだ。もっている、実際的な意味がおなじなんだよね。
でっ、問題なのは、自分の意志では、「楽しく感じることができない」ということなのだ。これに関しては、いろいろと言いたいことがある人がいるだろう。「自分は意志で、楽しく感じることができる」と言いたくなる人もいるだろう。その人たちとぼくのちがいはなにかと言えば、きちがいヘビメタ騒音がずっと鳴っていたかどうかのちがいだと思う。
この「自分は意志で、楽しく感じることができる」と言いたくなる人は、本人は「自分だってつらい思いをした」と言うけど、ほんとうは、たいしてつらい思いをしていない人なのである。もう、はっきり断言できる。ほんとうは、たいしてつらい思いをしていないから、「自分は意志で、楽しく感じることができる」と思っているだけなのだ。たぶん、刺激の程度と期間の長さがちがうのだと思う。
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自分の意志で、自分の感じ方を制御できると言い張る人たちもいるけど、この人たちは、感じ方の根源を決めてしまうような体験がない人たちなのだ。あるいは、言霊主義者のように、ほんとうの現実を無視して、「そのときだけ」「その気になっているだけ」の人たちかもしれない。ほんとうは、言霊主義者だって、自分が言った通りに感じる存在ではないのだ。自分が言ったって、自分の感情をかえられないときがあるのだ。実際には、自分が言ったって、自分の感情をかえられない「時間」のほうが長いのに、その「長い時間」を無視してしまうのである。実際には、自分が腹を立てているときは、「うれしい」と言ったって、うれしくならないのに、そういうことは、ガン無視して、「自分は自分の意志で自分の感情を制御できる」と思っているだけなのだ。「自分の感情を制御するには、言えばいい」ということになっている。自分にとって、都合がいい感じ方があったとする。たとえば、「楽しい」とか「うれしい」という感じ方だ。出来事に関係なく「楽しい」と言えば、「自分は楽しく感じる」のである。出来事に関係なく「うれしい」と言えば、「自分はうれしく感じる」のである。そういうことが、自分にはできると「意識的には」確信している。けど、実際の生活のなかでは、ぜんぜんちがうのである。腹が立っているときに、「うれしい」と感じるべきだと思って「うれしい」と言っても、うれしく感じないはずなのである。けど、言霊主義者はそういうことを、無視してしまう。全部の時間、自分は、自分が言ったとおりの感情を維持できると思っているのだ。「どんなにつらいことがあったって、楽しいと言えば楽しく感じる」のである。だから、つらいときは、「楽しい」と言えば、それで、楽しくなるので、問題が解決するのである。自分が言えば、自分が言ったとおりに、自分が感じることができるという「現実的ではない」自己イメージをもっているのだ。
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実際に、きちがい兄貴がきちがい騒音を爆音で鳴らしているときも、爆音で鳴らし終わった後も、ひどい時間なのに、こいつらがわかっていないだけなのである。もちろん、ヘビメタが好きなら、わからないだろう。けど、そういうやつらにだって、苦手な音があるはずだ。この世で一番嫌いな音があるはずだ。この世で一番嫌いな音が、ガンガン、隣の部屋で鳴っていたら、うるさいと思うのである。こういうやつらだって、うるさいと思うのである。そして、それが続けば、こういうやつらにだって、体調の変化が訪れるのである。体調の変化と言うのは、そのまま、意欲や感じ方の問題に移行するのである。全体性と言うのがあるんだよ。脳だって、機関なのだから、影響を受ける。脳だけは、影響を受けないまま存在し続けるという考え方は、明らかにおかしい。脳も、内臓とおなじ機関なんだよ。生物的な機関なんだよ。だから、外界の刺激があれば、影響を受ける。なんで、音という外界の刺激だけ、影響を受けないと考えることができるんだよ? おまえら、ほんとうに、頭がおかしいことを言いやがって。