自己責任論者は、無理解ぶりを発揮して、条件が悪い人にひどいことを言っているのに、ひどいことを言っているということには、もちろん、責任なんて感じない。
まあ、条件が悪い人にひどいことを言うこと自体は、それほど、悪いことではないのだろう。日常茶飯事だ。
けど、悪口を言うことに匹敵していることをしているんだよ。誤解をして悪口を言うことに匹敵している。
けど、もちろん、自己責任論者は、「悪いことをした」という認識がないので、責任なんて感じることができない。
けど、この悪いことを、殺人まで引き上げたとしよう。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんが、包丁でBさんを刺して殺した。Aさんが道に出て、Bさんにあうまで、AさんとBさんはあったことがないとする。メールのやり取りもしていないとする。
ようするに、Aさんは、Bさんのことを、知らなかった。これは、Bさんが、Aさんに、悪いことをしたので、Aさんが、復讐するつもりで、Bさんを刺したということではないということを意味している。
さて、Aさんは、Bさんを刺したことが悪いことだとはどうしても思えない人だとする。そういう人だっている。
Aさんのなかでは、ムカついたことがあったら、関係がない人を刺してもいいということになっていたのだ。これは、Aさんの基準だ。ほんとうに、悪いことをしたとは、どうしても思えないのだ。Aさんにとって、自分がせめられているということ自体が、腹がたつことで、気に食わないことだとする。そうすると、自分が人を殺したことよりも、自分がせめられているということに腹をたててしまう。
そして、それは、Aさんにとって当たり前のことだ。
ここで、自己責任論者に登場してもらおう。
自己責任論者は、刺されたBさんの自己責任を追及するのである。
刺されたほうに問題があるという「特殊な理論」を展開するのだ。「刺されたほうが、注意を怠ったから、刺された」「注意をおこたったっという責任がある」と、言うのだ。
すべては自己責任なので、注意をおこたって刺されたBさんが悪いということになる。
自己責任論者は、刺されたBさんの自己責任を追及するのである。
Aさんには、なにも言わない。
かりに、Aさんの責任を、自己責任論者が、追及したとする。責任追及をされたAさんが、無視して、おしまいだ。あるいは、責任を感じないAさんが、むっとしておしまいだ。
別に、自己責任論者が、Aさんに「責任を感じさせる」ことはできないのだ。
もちろん、Bさんに責任を感じさせることもできないけど、自己責任論者が刺されたほうに問題があるという「特殊な理論」を展開したのは、事実だ。
いままでの設定だと、Bさんは殺されたので、おこったりしない。もし、刺されたけど、一命は取り留めた場合について考えてみよう。
この場合、Bさんは、自己責任論者から、責任追及をされるのだ。
かりに、Bさんのほうに、現実的な落ち度がなかったとしても、自己責任論者が、Bさんの落ち度を勝手に作り上げ、Bさんの落ち度を追及し始めるのだ。Bさんが生きていれば、腹をたてるだろう。
「自分には、落ち度がない」と言うだろう。「自分には落ち度がなかった」とBさんが言ったとする。けど、それは、自己責任論者には届かない。自己責任論者は、一度、Bさんのせいにしているので、「Aさんのせいだ」と言うことに、抵抗を感じるのだ。
そうすると、自己責任論者は、Bさんに対して「そんなのは、いいわけだ」「一方が一方的に悪いということはない」「やられたほうにも責任がある」「Aさんのせいにしている」「被害者になりたがっている」「被害者意識、ばっかり」「被害者づらをするな」「泣き言を言っていれば、それですむと思っているのか」「泣き言ばっかり言っている」「愚痴ばっかり言っている」「暗いことばっかり言っている」と言い出す。自己責任論者がやっていることは、こういうことだ。自己責任論者は、いいことをしているつもりかもしれないけど悪いことをしている。
自己責任論者は「真実を述べたつもり」かもしれないけど「誤解」をして、真実を語っていない。真実ではないものを、勝手に真実だと決めつけているだけだ。
自己責任論者は、Aさんにはなにも言わない。自己責任論者は「やったほう」にはなにも言わない。自己責任論者は、責任があるほうには、なにも言わない。
Aさんの行為なのだから、Aさんに責任があるだろ。
ところが、自己責任論者は、責任があるほうには、なにも言わない。
Aさんは責任なんて一切合切感じないのだから、やったものがちになる。第三者である自己責任論者が、こまっているBさんをディスるのである。
こまっている相手に「自己責任だ」というとに、快感を感じているのである。言いきって、気分爽快なのである。
実際にせめられているのは、やられたほうだ。やったほうじゃない。自己責任論者が攻撃をするのは、やられたほうであり、こまっているほうなのだ。こんなの、ていのいい「いびり」。
いじめほど、ひどくはないけど、誤解をしているということが、問題なんだよな。そ
して、責任のがないほうに、責任をなすりつける。誤解をしている部分を、自己責任論者が認めるかというと、認めない。ほんとうに、やっかいな存在だ。
妄想で、こまっている人の「落ち度」をつくりだし、「落ち度」を追及し始める。しかも、自己責任論者・本人には、そういうつもりがなく、ほんとうに、そのこまっている人には、落ち度があると思っている。
その落ち度というのは、なんでも自己責任だから、やられたら、やられただけで責任があるというものだ。こんなろくでもないことを、「真理」と言っているのが、自己責任論者だ。
* * *
たとえば、包丁で刺されるというネガティブなことが、発生したから、包丁で刺されたということについて、語りだすのである。
包丁で刺されたということについて、ネガティブな発言をすると、言霊主義者が、「ネガティブな発言するから、ネガティブなことがを起こる」と言うのだ。
包丁で刺されたということについて、ネガティブな発言をすると、引き寄せ論者が、「ネガティブな発言をするから、ネガティブなことを引き寄せた」と言うのだ。
ところが、時間的な出来事の順番を見ると、ネガティブな出来事が発生したあとに、被害者であるBさんが、ネガティブなことを言ったのだ。順番は、出来事がさきだ。
ところが、因果関係を逆転させる考え方に慣れ親しんだ人たちが、因果関係を逆転させて、「ネガティブなことを言うから、ネガティブなことが起こる」と言いきるということが、発生してしまう。
因果関係を逆転させて考える人は、時間的な順番も、逆転させて考えてしまう。
しかも、時間的な順番を逆転させて(自分が)話しているということについて、気がつかないのだ。「時間的な順番がちがう」と言われたって、「言ったことが発生する」とか「ネガティブなことを言ったから、ネガティブな結果を引き寄せた」と言ってゆずらない。
自己責任論、因果関係の逆転思考、言霊理論、引き寄せ理論は、密接に結びついていて、一種の「思考群」を形成している。