ほんとうは、もう、眠っているはずの時間なんだけど、起きている。
長期ヘビメタ騒音のことで、腹が立ってしかたがない。絶望を感じる。
「俺の一生はなんだったんだ」と思う。ほんとうに、きちがい兄貴が、一秒もゆずらないで、爆音で鳴らしていた。
これが事実なのに、きちがい兄貴は、思いっきりでかい音で鳴らしたつもりがないのである。これが、きちがい親父とおなじなんだよな。
そして、きちがい親父が、適切なハンダゴテをもたせてやらなかったことで、兄貴が恥をかいたということを、認めないのとおなじように、きちがい兄貴が、認めないのである。
俺が……きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で!!!恥をかいたということを、当のきちがい兄貴が、認めないのである。
そんなの、普通の頭の人なら、言われなくても、わかることだ。
ところが、こっちが、どれだけ、言ったって、わからないのである。きちがい兄貴は、わからない。
きちがい親父のようにわからない。
どれだけ言ったって、ともかく、そのとき『自分が思いっきり鳴らせること』が大切なのである。これが、絶対命令なのである。
だから、もし、認めてしまったら、自分が思いっきり鳴らせないようなことは、どれだけ明らかなことでも、きちがい的な意地で、真っ赤な顔をして、認めない。
でっ、認めないと、それで……本人のなかでは……すんでしまうのである。
だから、その日も……「やめてくれ」と言われたその日も、きちがい的な意地で全部の時間、思いっきり鳴らして、おしまいなのである。きちがい兄貴が、一分間ですら、ゆずらずに鳴らしきって、おしまいなのである。
きちがい的な意地で、全部の時間、思いっきり鳴らしたら……その日……一秒も鳴らしていないこと鳴ってしまうのである。きちがい兄貴が鳴らさずに、すごした一日とおなじになってしまうのである。
そのくらいに、『自分の騒音』と『弟が言ってきたこと』は関係がないことなのである。
きちがい兄貴のなかで、両者の関係がまったく成り立っていないのである。
それは、きちがい親父とおなじなのである。頭の作りがおなじなんだよな。おなじような反応をする。いや、まったくおなじ反応をする。
これ、ほんとうにどれだけ本人が意地になってやったことでも、本人のなかで、やってないことと、おなじことになってしまうのである。
だから、本人は、気楽だよ。一秒だって鳴らしていないのとおなじ気持ちだから、まったく悪いと思わないのである。普通の人は、きちがい兄貴の状態なんて見たことがないし、きちがい兄貴にやられて、実際にこまっているわけではないから、「ひとごと」なのである。俺がこまっていると言うことは、きちがい兄貴にとって「ひとごと」だし、きちがい兄貴ではない他人にとっても「ひとごと」なのだ。
こういう人たちの場合「ひとごと」だと、その人がどれだけこまるかということがわからない。
ハンダゴテのことは、ここを読んでいる人には、なじみのストーリーなんだけど、普通の人が、このことに興味を持つのかどうかぜんぜんわからない。
ほかの人にとっては、「そんなことはどうでもいい」ということなのである。
ヨソの人たちは、きちがいヘビメタ騒音を浴びていない。浴びて暮らしていない。自分が、この世で一番きらいな音が、爆音で常に鳴っているという状態を経験していない。
そして、家族が鳴らしている音で、ずっとずっと、くるしんでいる状態なんて経験していないのだ。
なかには、ヘビメタという音楽分野が好きな人もいるだろう。俺にとっては、ヘビメタは、この世で一番きらいな音を寄せ集めた音楽だ。音楽なんて言うのも、ちょっと、はばかる気分だ。
音楽なんて、言いたくない。ヘビメタのことを音楽だとは、言いたくない。
ともかく、「ヨソの人」の「約一〇割の人」が「うちのこと」を誤解するのである。ぜんぜんちがう考え方をもつのである。
普通の人たちは、事実とは、まったくちがう解釈をしてしまうのである。
ちがい解釈をしてしまうということは、とりもなおさず、同レベルのことを経験していないということなのである。
しかし、約六割の人が「そんなの関係がない」と言い、約四割の人が「そんなのは、嘘だ」と言うのである。
わかっていないだけじゃないか。