2026年6月13日土曜日

●こういうレベルのやつが、どれだけ多いか■社会※2026/06/12 14:32

ほんとうは、条件の悪い人を袋叩きにしているのに、やっているほうは、いいことをしていると思っているのだ。

こういう認知のズレがある。あるのだから、しかたがない。この人たち、条件の悪い人に……助言をしているつもりでいい気になっている人たち……が、この構造に気がつくかというと、気がつかないのだ。

この人たちは「俺だって、さんざん言われた」とか「わたしだって、さんざん言われた」ということを言って、お茶をにごしてしまう。自分がやられたことなら、ほかの人にやり返してもいいのか。

だいたい、ほんとうにいいことだと思っているのであれば、「俺だって、さんざん言われた」とか「わたしだって、さんざん言われた」ということを言い返さなくても、よいのではないか?

これ、自分がやられたとき、「不愉快な感じがした」という記憶があるんだよなぁ。

まあ、本人が意識しているか、意識にしていないかに関係なく、やられたときに、「不愉快な感じがした」から、ほかの人に……やり返している。

やり返しているだけなんだよなぁ。

まあ、けど、一見正しいそうに思えることは、「正しいこと」として、機能している。

これが問題なんだよ。問題だけど、ここに書いてきたようなことを、ほかの人に言っても、ほかの人は……たいていの場合……無視してしまう。こういうレベルのやつが、どれだけ多いか。

条件の悪い人を袋叩きにしているやつらが、どれだけ「人がいやがることはやめましょう」「人のせいにするのはやめましょう」「人に親切にしましょう」「ネガティブなことを言うのはやめましょう」「努力すれば成功する」「できると言えばできる」というようなことを言っても、こいつら自身が、悪い社会を生み出しているのだから、意味がない。 

 

2026年6月12日金曜日

●こういうきれいごとが言われる世の中は、不幸な世の中なのである■社会※2026/06/12 14:16

「すべては」という言葉を含まないのに、「すべては」と言っているのと、おな同じ効果がある言い方というのがある。

たとえば、「人のせいにしない」という言い方だ。この言い方は、根底では、「すべては自己責任」とおなじ意味がある。しかも、「人のせいにする」というネガティブな表現を使っているので、条件が悪い人を、ディスることができるのである。

相手のことを悪く言うことができる。

そして、こういうことを言う人が、「世の中のためになにかをやるということが必要」とか「人のためになにかをやることが必要」というようなことを言う。

たいへん、ポジティブな言葉なのだけど、「人のせいにしない人」が、頑張ると、不幸な人が増えるのだ。

ちょうど、いまの世の中のようになってしまうのだ。

こういうきれいごとが言われる世の中は、不幸な世の中なのである。

「どうしようもないこと」というのがある。そして、「迷惑をかける」という行為についても、ほんとうは、主体からの目線しかないので、当然、取りこぼしがある。

ようするに、きちがい兄貴のような人間が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で鳴らしても、本人は、迷惑をかけているつもりがまったくないというような状態があるのである。

その場合、騒音が一時間で終わってくれればやりようがあるのに、夜の一一時までずっと続いてしまうという状態だと、どれだけ頑張っても、やりようがないという状態になるのだ。

ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音の影響で、できなくなることがある。

そして、その人他は「人のせいにする」というようなことを思い浮かべる場合、長期間続くようなことではなくて、短期間で終了するようなことを、イメージとしては想定している場合が多いのである。

これだと、一回一回終わって、だーじが続かないようなイメージをもってしまうのである。ところが、毎日毎日ずっと続くことは、人を疲労させて、ずっと続く障害を生み出してしまうのである。ようするに、やられた人の身の上に、障害が生じるのである。

「だれだれのせいにする」という言い方は、たいへん「きたない」言い方で、責任の所在について、たいへん偏りがある言い方をしているのである。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんに対して、(神様目線で)迷惑をかけたとする。その結果、Bさんに障害が発生したとする。

このような場合と、AさんがBさんになにもしていないにもかかわらず(Bさん目線で)Aさんが自分(Bさん)に迷惑をかけたと(Bさんが)思って、Aさんのせいにするという場合は、ちがうのである。実際に、AさんがBさんに迷惑行為をしたかどうかというのは、重要なところなのだ。

さらに、どういう迷惑行為をしたかということが、重要なのだ。迷惑行為の質と量は、重要だ。

ところが、「人のせいにする」という表現を使うと、神様目線で、AさんがBさんに迷惑をかけた場合でも、「Bさんが人のせい(Aさんのせい)にしている」ということになってしまうのである。

「なにをやったのかということ」と「責任の所在」は、重要なことだ。

ところが、その性質を完全に無視して、勝手に『やられたほうが』妄想で、言いがかりをつけている言うような判断があるような言い方になってしまうのだ。

「だれだれのせいにしている」という言い方にはそういう効果がある。見えないけど、決めつけがあるのだ。

なにか責任の所在について問うている人がいたら、その人は「人のせいにしている」と決めつけてしまうところがある。「人のせいにしている」というのは、そういう効果がある。

まるで、ほんとうに、だれか他人の責任で被害を被ることが、この世にはないような言い方なのである。

だれか他人の責任で(自分が)被害を被ることはない……というような妄想的な前提が、その理論の底にある。背後にある。

2026年6月11日木曜日

●「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ■※2026/06/10 13:59

「人に親切にすること」と「人に親切にすれば幸福になる」ということは、ちがうことなんだよ。

たとえば、ある人がいるとする。その人が不幸だとする。不幸感がある生活をしているとする。

その場合、不幸感を生み出すような出来事が消失しなければ、幸福になったような感じがしないのである。幸福ではないのである。

「人に親切にすれば幸福になる」ということは、不幸をもたらす出来事が消失することを、意味しているのである。

とりあえず、不幸をもたらす出来事が消失することを、不幸だと感じするすべての問題が解決することだとする。

そうすると、人に親切にしただけで、不幸だと感じるすべての問題が解決してしまうことになるのである。

ところが、実際にはそんなことはないのである。「不幸だと感じるすべての問題」が、だれかほかの人に、一度でも親切にしただけで、解決してしまうなんてことはないのだ。

親切にするかどうかというのも、二値だ。まず、人に親切にすることが、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果があるのかどうかということを考えると、人に親切にすることには、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果がないということがわかる。

*     *     * 

ところで、ここでいろいろと書いてきたように、だれかAがだれかBに親切にしたつもりでも、Bが、たしかにAから親切にしてもらったと思わなければ、AはBに親切にしたことにならないのである。

だれかの頭のなかに、人に親切にする行為のイメージがあるとする。それを、とりあえず、その人にとっての親切行為だとする。この親切行為をすれば、かならず、人に親切にしたことになるかというと、そうではないのである。

いつでも、親切行為として成り立つ、理想的な親切行為があるような前提でものを言っているけど、ほんとうは、ちがうのである。

絶対に人に親切にしたことになる「親切行為」なんてものは、この世に存在しない。

ところが、「人に親切にするつもりで、なんらかの行為をすれば、それは、人に親切にしたことになる」という前提が……「人に親切にすれば幸福になる」という言い方には……ある。だからもう、その時点で、話が現実的ではないのだ。

*     *     * 

そして、「人に親切にすれば幸福になる」と言ってしまった場合、幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だというとになってしまうのである。

一度も、人に親切にしたことがないので、不幸なのだ。そういう人が、幸福になるには、人に親切にすればよいのだということになってしまう。

「人に親切にすれば幸福になる」というライフハックを口(くち)にしている人は……そういう話をしているつもりはないかもしれないけど、そうなるのである。 

ともかく、人に親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決してしまうわけではないので、人に親切にしても、幸福ではない場合がある。一回だけではなくて、何回も何回も人に親切にすればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。

しかし、何回も何回も人に親切にしても、不幸である場合がある。回数を増やすことでは、このことは、かわらない。

つまり、人に何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決しなければ、幸福にならないという性質は、かわらない。

「人に親切にすれば、運があがって幸福になる」と言う場合もおなじだ。「運があがった」ことで、不幸感をもたらす問題が解決しなければならないのである。

しかし、不幸感をもたらす問題が、「運がないと感じる状態」をつくっているのである。だいたい、人に親切にすれば、運があがるということが、正しいこととして語られているけど、人に親切にしても、運があがるかどうかは、わからない。

そして、運というのは、現実の写し絵なのだ。実際に、不幸な生活をしていれば、運がない状態で暮らしているということになる。親切にするというトリガーをひけば、自動的に、運があがるということになっているのだけど、それは、たしかなことではない。

実生活のなかでは、現実的な問題でくるしんでいる人が、たとえ、人に親切にしても、運があがらない場合がある。どうしてかというと、現実的な問題でくるしんでいる人が、人に親切にしても、その人をくるしめている現実的な問題が解決しないからだ。

たとえば、家族のヘビメタ騒音で悩んでいる人が……だれかに親切にしても、家族のヘビメタ騒音がかわらなければ、ずっと、その人は、幸福ではない状態で暮らすということになる。

だれかに親切にしたあとも、幸福ではない状態で暮らしているのだから、「運があがった」とは言えない。たとえば、家族のヘビメタ騒音にくるしんでいる人が、だれか、ほかの人に親切にしたら、きちがい家族が、ヘビメタをやめてくれるのであればいいのだけど、実際には、そうならない。

人に親切にしたから、それを神様が見ていて、その人の家族に働きかけて、ヘビメタ騒音をやめさせてくれるというのであれば、それでよいのだけど、それは、現実的な話ではない。

ところが、「運があがって」という表現がある文に関しては、たいていの場合、神様や神様に相当する存在が、不幸をもたらす問題を消去してくれるという期待があるのだ。

これは、単なる期待だ。

単なる期待なのに、単なる期待だとは認識されていないのだ。単なる期待なのに、単なる期待であるようには表現されていないのだ。

たとえば、「人に親切にすれば運があがる」という文も一〇〇%構文の文なのだ。すべての……「人に親切にする」ということにおいて、人に親切にすれば、一〇〇%の確率で運があがるのである。この「運があがる」ということが、また、問題なんだよなぁ。

その問題を考慮しなくても、一〇〇%構文で言ってしまうということには問題がある。

「人に親切にすると運があがって幸福になる」という文に出てくる「人に親切にすると運があがって」という部分が「人に親切にすれば運があがる」という文の意味内容を含有しているかというと、含有している。

「人に親切にすると運があがって」という部分が意味していることは、「人に親切にすれば運があがる」という文が意味していることを前提にしている。「人に親切にすれば運があがる」という前提がなければ、「人に親切にすると運があがって」とは言えない。

「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ。

「あがって」のあとに、なにかが語られる形式になっているけど、この形式を無視すれば、一度「人に親切にすれば運があがる」ということを、言い切っているということになる。

「人に親切にすれば、運があがる」という文は「Xをすれば、Yになる」という構造をもっている。「あがる」だから「なる」ではないのだけど、「あがる状態になる」ということにしておこうかな。

まあ、「Xをすれば、運があがる」ということにしておこう。「人に親切にする」以外にも、「掃除をすれば、あがる」とか「感謝をすれば、あがる」とか「パワースポットに行けば、運があがる」とか「おまいりすれば、運があがる」とか「なになに色の財布を使うと、運があがる」とか「こういう置物を玄関に置くと、運があがる」とかと、いろいろとある。

「運があがる」と言い切っているけど、「運」なるものが「現実の写し絵」であり、「空想上のもの」なので、はっきりしないのだ。

これは、勝手に言い切っているだけだ。本人が、そういうふうに思っているということを言っているにすぎない。しかし、一〇〇%構文の文なのである。

これは、やばい。法則性がありそうな一〇〇%構文の文だ。

この一〇〇%構文の文というのは、「自分の場合、運があがったよ」ということを意味する文ではないのだ。

あるいは「運があることがある」ということを意味する文でもないのだ。

すべてのXをすることにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがるということを意味している。

ようするに、「Xをすれば、運があがる」という文は、「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」のである。あがらないことはないのである。

何回もやらないとあがらないということもないのである。一回でもやれば、かならず、運があがるのである。

どれだけ、へたくそなやり方でやっても、かならず、運があがるのである。その行為をやったのに、運があがらなということはないのである。

次に「運があがれば、幸福になる」という文について考えることにする。

この文も一〇〇%構文の文なのである。「運があがれば、幸福になることがある」ということを言っているわけではないのだ。「運があがれば、一〇〇%の確率で幸福になる」のである。

「運があがったのに、不幸だ」ということは、ないのでる。運があがれば、かならず、幸福になるのである。運があがったのに、不幸なことが起こるということはないのである。

かならず、幸福になって、そのあとも、幸福になったまま、すごせるのである。

だって、運があがれば一日目は、幸福になるけど、二日目には不幸になるということになっているのであれば、「幸福になる」とは言えない。イメージとしては、効き目は、永遠なのである。イメージとしては、幸福になったままなのである。イメージとしては、そのあと、不幸にならないのである。

イメージとしては、不幸になることはないのである。

……まあ、イメージの問題なんだけどね。

幸福になったあと、効き目が切れて、不幸になる場合があるということは、想定されていることなのだろうかね?

それとも、想定されていないのかな?

どっちかな。

まぁ、効き目の持続期間のことは、問題にしないことにしよう。

「幸福になる」と言っているだけで、そのあと、不幸になるかもしれないけど、一時的には幸福になるのだから、「幸福になる」という表現で問題がない……と考えることもできる。

しかし、一時的に、一度は、一〇〇%の確率で幸福になるのである。

「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文は、「Xをすれば、運があがる」という一〇〇%構文の文と、「運があがれば、Yの状態になる」という一〇〇%構文の文を、組み合わせた文になる。

ふたつとも、一〇〇%構文の文だ。

「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」し「運があがれば、一〇〇%確率でYの状態になる」のだ。「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文の意味は、そういう意味になる。

だから、この場合も、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を無視しているということになる。

言霊主義者が、『区別』に書いたことを理解していないのとおなじだ。

「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」と言っている人は、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を理解していない。区別をあいまいにして、ひとつの文に、ちがった意味を込めて使っている。

言っているほうも、聴いているほうも、区別をしないのだ。

これじゃあ、話にならない。

「Xをすれば、運があがることだってある」という意味で、「Xをすれば、運があがって、幸福になる」と言っている人は、その時点で、間違いをおかしている。

間違いなんだけど、本人は気がつかない。

2026年6月10日水曜日

●言ったことの内容は、じつは、制限を受けるのである■言霊※2026/06/05 4:25

たとえば、Aさんがいたとする。Aさんが「おっぺけぺ」と言ったあと、かならず、よいことが起こるということを経験したとしよう。

その場合、「おっぺけぺと言うこと」と「よいことが起こる」ということは、関係性のあることになる。

時間的に、「おっぺけぺと言うこと」ことが先で、「よいことが起こる」ということが、あとだ。Aさんは「おっぺけぺ」と言ったあと、比較的短い時間のなかで、結果を得ることができた。

はたして、「おっぺけぺ」と言ったということが、その結果を引き寄せたのか、「おっぺけぺ」と言ったということと、結果はまったく関係がないのか、それは、わからない。

たぶん、「おっぺけぺ」と言ったということは、結果を引き寄せたということと、まったく関係がないと思う。

しかし、「おっぺけぺ」と言うことで、いいことが起こるということを信じた結果、Aさんが、実際の行動をすることができたなら、おっぺけぺと言うことは、Aさんにとっては、意味があったことなのだと思う。

しかし、これは、言霊の力ではない。

これは、「おっぺけぺ」の「言葉の力」だ。

自己暗示がいい影響を与える場合は、言霊の力がいい影響を与えたのではなくて、言葉の力がいい影響を与えただけだ。言霊主義者は、このことを、誤解してしまう。

言霊の力ではなくて、言葉の力なのだ。

このことは、個人の範囲において、言葉が、いい影響を与えることがあるということを意味しているだけだ。

前にも書いたけど、この言葉の力で、物理法則をくつがえすことはできない。

言霊の力は、物理法則も(言うだけで)くつがえすことができる力として想定されている。

想定されているだけで、もちろん、言霊なんてないし、言霊の力で、物理法則をくつがえすことはできない。言霊主義者は、言葉の力があるということを示す例をあげて……「だから、言霊の力はある」ということを言う。

ようするに、言霊の力と、言葉の力の区別ができていないのだ。

自分が「元気だ元気だ」と言ったら、元気になったような気がしたとする。これも、言霊主義者によれば、言霊の力によって元気になったということになっているのだけど、これは、言霊の力ではなくて、言葉の力によって元気になったような気がしたということを意味している。

このような場合、身体の機能をこえて、言葉が体に影響を与えることがないのだ。

たとえば、「三秒以内に、月が爆発する」と言ったとする。言霊理論に従えば、「三秒以内に、月が爆発する」という言葉に宿っている言霊の力によって、「三秒以内に、月が爆発する」のだ。

ところが、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」というのは、自分の身体のなかで起こることなのである。

そして、瀕死の重傷のとき、「元気だ元気だ」と言えば、すぐに、元気になるわけではない。瀕死の重傷のときだけではなくて、睡眠不足でものすごくつかれている場合も、「元気だ元気だと言っても、元気になるわけではない。

ところが、自分が……「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という例から、「言えば言ったことが、言霊の力によって現実化するという言霊理論は正しい」という結論を導き出した人がいたとする。

言葉の力を示す例から、言霊の力があるという判断をしたのだ。

この判断は間違っている。

「元気だ元気だと言ったら、元気になった」ということから、「言霊理論は正しい」と判断することはできない。

それだと、「三秒以内に、月が爆発する」と言えば、「三秒以内に、月が爆発する」いう言葉に宿っている言霊の力によって、「三秒以内に、月が爆発する」はずだ。

ところが、爆発しないのである。

これは、言霊主義者が、言霊と言葉の意味を区別していないという特徴から発生することだ。

本人が、言葉の意味をよく理解していないのである。

そして、推論が間違っているのである。

残念ながら、間違った飛躍がある。

言霊理論において、「言う内容」に関しては、いかなる制限もないのである。ほんとうは、元気になることや?元気になったと思うことに関しても、言霊の力ではなくて、言葉の力が影響しているだけなのだけど、ここでは、話をすすめるために、いちおう、言霊の力で元気になったとする。

たとえば、Aさんが、言霊主義者で、Aさんが「元気だ元気だと言ったら、元気になった」とする。この場合、Aさんがその言語を理解している人間だという条件や、Aさんの体が、普通の人間の体として成り立っているという条件が、ある。

だから、条件付きの話なのだ。条件付きの「例」なのだ。ところが、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という場合は、一〇〇%構文になり、条件に関係なく、どんな場合でも、言ったことが……(言霊の力によって)現実化するということになる。

実際のAさんの例では、Aさんの身体や、Aさんの言語能力という制限があるのである。

これらが、見ない条件として、成り立っているのである。見えないというよりも、言霊主義者が、無視する条件として成り立っているのである。

言ったことの内容は、じつは、制限を受けるのである。

制限を受けるのだけど、制限を受けないと思い込んでいるのである。「言えば言ったことが、現実化する」という理論を信じている人は、制限を、無視してしまう。制限について考えることができない状態になっている。

ほんとうは、Aさんが人間だという条件があり、Aさんが日本語を理解する能力があるという条件があり、Aさんの体は、普通の体であり、ある程度のストレス対応力があるという条件がある。

こういう条件を無視して、すべての条件で成り立つことを言ってしまうのこと自体が、間違いなのだ。条件付きの例から、条件なしの法則性があるような文を導き出してしまうということ自体が、間違いなのだ。

これ、覚えておいたほうがいいよ。

*     *     *

元気だと言ったら、元気になった感じがしたとする。元気になった感じがしたので、ある行動をすることができたとする。言霊主義者は、このような例をあげて……「だから、言霊理論は正しい」と考えしまう。けど、いろいろなところで間違っている。

まず、元気だと言ったら元気になったと(本人が)感じたのは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。そして、「言えば言ったことが現実化する」というのは、一〇〇%構文の文なんだよ。だから、すべての言った内容が、一〇〇%の確率で現実化するということになる。

ところが、元気だと言っても、元気にならないことがあるのである。

だから、その点でもちがう。

そして、「言えば言ったことが現実化する」という表現は「言う内容」に関して、制限を受けない表現になっている。これだと、物理法則に反したことでも、現実化するということになってしまうのである。

どうしてかというと、物理法則に反したことも、言えるからだ。言った内容が、物理法則に反したことであったとしても、言ったのだから、現実化するということになる。

「言えば、言ったことが、現実化する」という文は一〇〇%構文の文なので、そうなるのである。これは、完全に理論的な問題で、感情的な問題じゃないんだよ。

そして、元気だと言ったら、元気になった感じがしたので、ある行動をとることができたということに関しても、いつも、元気だと言えば、元気な感じがして、その「ある行動」をとることができるのかというとそうではないのだ。

言霊主義者は無視しているけど、本人の体調で「元気だ」と言っても、元気にならず、その「ある行動」をとれないときがあるはずなのだ。

言霊主義者は無視しているけど、いつも、「元気だ」ということで、そのあと、すぐに「ある行動」ができるとは限らない。

けど、「元気だ」と言えば、いつも、一〇〇%の確率で、そのある行動ができると思っているのである。

関連性ということを考えると、「元気だ」と言ったことによって、ある行動をすることができたのだから、「元気だ」と言ったことは、ある行動をすることができるようになることに影響を与えたということができる。

しかし、それは、それだけなのだ。

そのとき、そうだったということだけだ。

一〇〇%構文で、法則化できるような出来事ではないのだ。

こういうことを問題にしなくても、「元気だ」ということで、元気になったような気がしたというのは、言葉に関係した作用であって、言霊に関係した作用ではない。

なんで、これがわからないのか? 

2026年6月9日火曜日

●(1)対(1)と(多)対(1)■社会※2026/06/05 9:05

 (1)対(1)と(多)対(1)について、書いておこう。


たとえば、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れただけで、努力→←成功(努力する人は成功者だ・成功者は、努力する人だ)というパターンと非・努力→←不成功(努力しない人は不成功者だ・不成功者は努力しない人だ)というパターンのふたつの対になるパターンが、「努力をすれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。

努力→←成功ということが一つのペアをつくっているし、非・努力→←不成功ということが、ひとつのペアをつくっている。

この場合、(1)対(1)ということになる。

努力と成功がペアをつくっており、非・努力と不成功がペアをつくっているのである。

しかし、まえにも説明したように、努力だけが成功の要素ではないのだ。

さまざまな条件や、才能が、成功するかどうかを決めている場合がある。努力をしなくても、成功する人は、成功する。才能があり、さまざまな条件に恵まれていたら、努力をしなくても、成功する。

だから、ほんとうは、(多)対(1)のパターンにならなければならないのだ。

才能だけが成功するかどうかを決めると考えている人は、才能と成功のあいだに一対のパターンをつくりだしていて、そのパターンにあった世界観をもっている。

その世界観をもっている人にとっては、成功していない人は、才能がない人なのである。

そういう、基準で他人について考えてしまう。

努力ではなくて、才能について考えてみよう。 

「才能があれば成功する」という言葉を受け入れただけで、才能→←成功(才能がある人は成功者だ・成功者は、才能がある人だ)というパターンと非・才能→←不成功(才能がない人は、不成功者だ・不成功者は才能がない人だ)というパターンが、「才能があれば成功する」という言葉を受け入れた人の頭のなかに、できあがってしまう。

いろいろと問題があるのだけど、特に問題があるのは(不成功者は才能がない人だ)というパターンが頭のなかにできてしまうことだ。

そうすると、人を見るとき、そのパターンの内容に従って人を見るようになってしまうのである。

ようするに、「見なし方の問題」が発生する。「才能があれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。

*     *     *

「努力をすれば成功する」ということに関しても、おなじことが言える。「努力すれば成功する」という一見、害がなさそうな思考パターンが、害を生み出すのである。

成功していない人を努力をしない人だ(努力をしてこなかった人だ)と見なしてしまうのである。

一度、そういうふうに見なしてしまうと、その人(本人)にとって、成功をしていない他人は、「実際に、努力をしてこなかった人だ」ということになってしまうのである。

その人の頭のなかではそうなる。

*     *     * 

ほんとうは、「努力をする」ということは、一意には決まらない。そして、「成功する」ということも、一意には決まらない。「才能がある」ということも、一意には決まらない。

しかし、そういうことに注意を向ける人はまれだ。以降、とりあえず、かりそめの話なのだけど、「努力をする」ということも「成功する」ということも、「才能がある」ということも、一意に決まるという前提で話をする。ほんとうは、ちがう。

だから、(1)対(1)とか、(多)対(1)ということを言ったって、それは、一意に決まらないのだから、意味がないということになる。

ほんとうは、(多)対(1)なのだけど、(1)対(1)の関係を言うことによって、ほかの要素を無視するように、誘導するのだ。

そして、逆の関係を暗示する。逆の関係が、言っている人に優越感を与えるようになっているのだ。

たとえば、「努力をすれば成功する」と言っているときは、『自分は努力をしたから、成功した』という気持ちがあるのである。そして、自分は説教をする資格があるという気持ちになっているのである。

『成功』のゴールをずらせば、他人から見て、どれだけ成功していないように見える人でも、人に説教をしているときは、本人は『自分は成功した』と思っているのである。

相手は、成功していない人間なので、努力をしてこなかった人間だということになる。だから、説教をしてもいいのである。

そして、各種サブルーチンに入っていく。「こころがまえができていないから、努力をしても成功しないのだ」ということを語りだすのだ。

こういうしくみが最初から成り立っている。

相対的に条件が悪い人を苦しめるようになっている。相対的に条件がいい人が、自分は成功したつもりで、相手にダメ出しをするようになっている。

たとえば、「努力をすれば成功する」というい言い方は、説教をする人に、そういう権利を与えてしまう言い方なのである。

2026年6月8日月曜日

●自分が理解できないことを言う人のことは、「なんとか障害者」にしてしまう■社会※2026/06/08 18:32

一意に決まらないということだって……。これからちょっと、空想のたとえ話をする。

たとえば、ぼくが、現実世界で「一意に決まらないというのは、問題だ」と言ったとしよう。現実世界のやつらというのは、「くだらないことを、言いやがって」とか「○○障害だから、へんなことにこだわる」というようなことを言う可能性がある。

俺が、ヘビメタで無職だというとになっていて、俺がヘビメタ騒音で無職だということを、こいつらが知っていたとしよう。

まあ、「ご職業は(なんですか)」という質問は、はじめてあった人に訊くことが多い。

俺が、嘘を言わずに、無職である理由を話そうとすると、どうしても、ヘビメタ騒音のことが(話に)出てきてしまう。ともかく、嘘をつきたくないから、正直に無職だと言ったとする。

そうなると、こいつらは、自分のなかにある無職の偏見にあわせて、ぼくの言っていることを解釈してしまうのだ。

きちがいヘビメタで学歴がなく、きちがいヘビメタで通勤する体力と通勤する睡眠力をなくしてしまったので、働けない状態になっているのだけど、そんなことは、理解しないのだ。

昨日も書いたけど『そんなの関係がない』とか『そんなに鳴っているのに、家族がやめさせようとしないのはおかしい』とかと思ってしまうようなやつらばかりなのである。

ともかく、無職であれば、無職であるということだけで、こいつらは、ぼくのことを、バカにして、下に見てくる。こいつらの理解力は、言霊主義者とたいしてかわらない。

「一意に決まらないというのは、問題だ」ということについて、ぼくがここに書いてきたようなことを、説明したとする。

そうすると、「くだらないことを、言いやがって」とか「○○障害だから、へんなことにこだわる」というような反応がかえってくる可能性はある。

こいつらが理解できないだけなのに、俺がバカだということになってしまうのだ。こいつらが理解できないだけなのに、俺が「○○障害だ」ということになってしまうのだ。

俺が、博士号をもっていたら、こいつらは、こんな反応はしない。

だから、そういうことも含めて……きちがい兄貴に、「ヘビメタを鳴らさないでくれ」「しずかにしてくれ」ということを、何万回も、十数万回も言ったのに、きちがい兄貴が、親父のようなきちがい感覚で、無視してしまったのだ。

鳴らし続けてしまったのだ。これだって、あいつらの常識から考えれば、へんな話だから、「エイリの言っていることはへんだ」とか「エイリの言っていることは嘘だ」とかと、思うやつがいても、まったく、不思議ではない。

実際、リアル世界で、こういうことはあった。

「一意に決まらないというのは、問題だ」ということに関する反応は、ぼくが勝手につくりあげたものだ。空想の話だ。

けど、こいつらの態度というのは、こういう態度だ。

ぼくが言ったことを、ちゃんと理解しようとしない。相手の属性で、態度をかえる。言ったことではなくて、相手の属性で、「あの人が言ったことは正しい」とか「あの人が言ったことは間違っている」ということを決めてしまう。

ちなみに、○○障害というのは、悪く言うための用語みたいなものだ。なんでも、「なんとか障害」と言ってしまえば、それで、言い当てたような気分になる。

悪口のためのタームで、特に、意味がない。ぼくが、実際に「○○障害者に見えること」をやったのではないのだ。

自分が認めたくないことや、自分が理解できないことを言う人のことは、「なんとか障害者」にしてしまう。

軽く悪口を言うための、言葉なんだよね。なんとか障害者……というのは。

きちがいヘビメタで、通勤ができない体になって、ほんとうに、不愉快なことを言われた。ゆるせない。

きちがい兄貴も、不愉快な発言をしたやつも、ゆるせない。こういうことをしたやつらですら、別の場面では「人の言うことなんて気にしなければいい」なんてことを言うのだ。

どれだけ……。どれだけ……。

*     *     *

 自分が理解できないことを言うやつは、「なんとか障害者」にしてしまう……ということを書いたけど、相手が自分よりも地位が高い場合は、もちろん、そんなことはしないのである。あくまでも、相手が自分よりも地位が低い場合に、そういうことをするということだ。

地位の高低というのは、その人がそう思ったらそうなのである。たとえば、自分はアルバイトだけど、働いているから無職よりも地位が高いと思ったら、自分のほうが地位が高いと思うわけだから、自分が理解できないことを言う人は、「なんとか障害者」なのである。

自分が理解できないことを言ったとしても……相手が学者だったら、そういう態度にはならない。

*     *     *

学生時代から、ほかの人に誤解されることはいっぱいあった。ヘビメタ騒音のことを言っても、言わなくても、ヘビメタ騒音の影響があり、ぼくの状態や、ぼくの行為に影響を与えていた。

無職ということでせめられるのは(時期的に)あとのことだけど、ほんとうにいろいろなことが発生した。

きちがいヘビメタ騒音の影響をけてしまう。前の日のきちがいヘビメタ騒音の影響を受けた朝になってしまう。昼になってしまう。午後になってしまう。

それに、たとえば、ほんとうにヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題すらできないのだけど、宿題ができなかったということは、次の日の一日に影響を与える。

ヘビメタ騒音が、あの音圧で、あの音量で鳴っていると、ほんとうに宿題ですらできなくなってしまうのだけど、先生も含めて、まわりの人は、「できなくなる」ということを認めない。遅刻もしてしまうようになるのだけど、遅刻しないでちゃんと通うことができなくなるということを、まわりの人は認めない。

みんな、けっきょく、きちがい兄貴のような人間と一緒に住んでいないから、きちがい兄貴のような人間がやることを、毎日、押し付けられていない。

ヘビメタ騒音は、押し付けられたことなんだよ。俺がどれだけ言っても、きちがい兄貴がやめてくれなかったんだよ。その意味で、制御できないことなんだよ。

きちがいのレベルで鳴らしてしまうと、どうしても、どうしても、普通の音で鳴っているわけではないから、影響を受けてしまうんだよ。

影響を受けてしまうと、「できないこと」が増えるのだけど、よその人は、きちがい的な家族と一緒に住んでいるわけではないから、きちがい家族が、しつこくしつこく、毎日毎日、もたらす、騒音のことについて知らない。

そりゃ、だれだって、騒音を経験したことがあるのだけど、そういう騒音とは、ちがう騒音なんだよ。

けど、経験をしていないからわからない。

経験をしていないから「どうしてもできなくなる」という部分がわからない。そうすると、自分ならできるという前提で、クソを言ってくるようになる。なめたことを言ってくるようになる。これは、学生時代から、かわらないことなんだよ。

●「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」■言霊※2026/06/02 8:36

「言えば、言ったことが、(言霊の力によって)現実化する」と思っているのに、「人間は働くべきだ」と思っているのである。

そして、「特権階級の人は、労働をしなくてもいい」と思っているのである。「特権階級ではない人は、労働をするべきだ」と思っているのである。

特権階級ではない人が、労働をしないのはけしからん」と思っているのである。

特権階級ではない人が、労働をしないのはけしからんと思っているのであれば、言霊の力を使って、労働させればよいのである。

言霊の力を使うのは、簡単だ。言えばいいのである。「これ以降、特権階級ではない人は、すべての人が労働をするようになる」と言えば、言っただけで、言霊の力によって、「特権階級ではない、すべての人」が労働をするようになる。

言っただけで、自分が思った通りの社会をつくることができるのだ。

話をすすめるために、一時的に、「特権階級」云々のことは、どうでもいいとする。

ともかく、言霊理論が正しいなら、「これ以降、すべての人が労働をするようになる」と言いさえすれば、赤ちゃんも、重病人も労働をするようになる。

自分が……「他人が働かないことに不満をもっている場合」……は、言うことで解決できるのだ。「これ以降、自分以外のすべての人が、働くようになる」と言ってしまえば、言霊の力によって、自分以外のすべての人が、働くようになる。

例外はない。

赤ちゃんだって、働く。病人だって働く。

「自分以外のすべての人が、働くようになる」と言ってしまったのだからそうなる。

ところが、そんなことは、できないので、「働かないやつは、けしからん」と「愚痴」を言うようになるのである。

*     *     *

ブラック社長は、言霊主義者だ。言霊主義者なら、説得する必要がないのである。たとえば、名前だけ店長が「もう、これ以上、サービス残業はしません」と(ブラック社長に)言ったとする。

そうしたら、ブラック社長は「できるできると言って頑張ればいい」と名前だけ店長を説得することになる。

説得して、サービス残業をさせようとする。

しかし、言霊理論が正しいのなら、「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」と、どこかで、言ってしまえば、それで、 「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」ことになるのである。

名前だけ店長の意志を無視して、言霊の力によって、名前だけ店長は、サービス残業をすることになるのである。

言霊理論が正しいなら、そうなるのである。

間違っているから……言霊理論が間違っているから、ブラック社長は……言霊理論が背後にある……「できるできると言って頑張ればいい」ということを、名前だけ店長に言うことになるのである。

言霊理論が前提であることを言って、名前だけ店長を働かせようとするのである。

ほんとうに、言霊理論が正しいのであれば、「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」とトイレのなかで言ったって、「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」ことになるのである。

別に、名前だけ店長に言わなくても、ブラック社長がトイレのなかで「名前だけ店長は、これからもずっと、サービス残業をする」と言いさえすれば、名前だけ店長がどう思っているかは、関係なく、言霊の力が作用して、名前だけ店長は、サービス残業をすることになるのである。

言霊理論が正しいなら、そうなる。

なので、言霊理論が背後にある言葉を言って、相手を説得する必要などはないのである。言霊理論が正しいなら、相手を説得する必要なんてない。

ところが、言霊主義者は、言霊の力を使って、相手の行動をかえようとせず、相手を説得することによって、相手の行動をかえようとするのである。相手がいないところで、ひとりで……自分が……「相手はこうなる」と言ったって無駄だと考えているということを意味している。

これは、言霊主義者が、じつは、言霊理論を信じていないということを意味している。こういうところでも、「ぬけぬけ」なのである。

最初から「ぬけぬけ」なのである。

2026年6月7日日曜日

●基本的なことを言えば、ヘビメタ騒音の問題を解決できなかった■騒音※2026/06/07 18:53

ちょっとだけ、片づけをした。

しかし、つまんない。

どうすることもできないなぁ。動画も、もう、見飽きたしな。どうしようかな。いろいろと不愉快なことが、浮かんでくる。連想のきっかけがあるものもあるし、連想のきっかけがないように見えるものもある。

「なんで、急に思い出すのだろう」と思うことも、ある。

しかし、このさき、どうすればいいんだ。ぼくは、もう、できるだけのことはやった。

けど、基本的なことを言えば、ヘビメタ騒音の問題を解決できなかった。

体がこわれてしまうような最大限の力をしたけど、ヘビメタ騒音が次から次へと、注ぎ込まれた。

ほんとうに、ボロボロだった。

普通の理解度は、言霊主義者の理解度と、だいたい、おなじだ。

普通の人は、自分のことではないので、無理解ぶりを発揮した発言をする。

さらに、実際にきちがいヘビメタ騒音にやられて、俺の学業成績がさえないものになると、いろいろなところで、立場がない思いをした。さらに、通勤・通学ができなくなれば、もっといろいろなところで、立場がない思いをした。

約一〇割の人が、みんな、無理解ぶりを発揮した発言しかしない。約一〇割の人が、みんな、ほんとうに、「なめたこと」を言ってくる。

約四割が、「俺(エイリ)が言っていることは、嘘だ」と思っているやつらだ。そして、約六割が「そんなの関係がないと」思っているやつらだ。

ぼくの経験の範囲で言えば……みんな、「自分だって苦労した」と言う。それで、ほんとうは、経験していない、ヘビメタ騒音レベルの苦労を均質化・同質化・同量化・同期間化してしまう。

一度、均質化・同質化・同量化・同期間化してしまえば、自分は同レベルの苦労をしたけど、ちゃんと、通勤・通学しているという立場から、えらそうなことを言えるようになるのだ。

『同レベルのことを経験したのに、自分は、なんとか通勤・通学しているから、エイリよりも、絶対にえらい』と思ってしまう。

それに、カルト思考が付け加われば、自分のことは棚にあげて、めちゃくちゃなことを言ってくるようになる。

しかも、『自分はエイリよりも、すぐれている』と思っているせいか、ゆずらないのである。

どれだけちゃんとした説明をしてやっても、カルト思考がぬけないのだ。

ぼくの経験の範囲で言えば……彼らは「絶対に正しい」と主張してゆずらなかった。

きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らしていたときも、絶対にゆずってくれなかった。きちがい兄貴も、言霊主義者も、ゆずらないのである。きちがいの壁と、バカの壁を感じる。

*     *     *

一日分だけでも、どんだけ、ボロボロになるか、みんな、わかっていない。例外的な人も、自分で体験したわけではないから、わからない。期間が長すぎる。「関係がない」わけがない。

これ、ほんとう、「関係、ない」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。「なんだ。そんなの」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。「ヘビメタ騒音が、なんだ」と言ったやつを、ぶんなぐってやりたい。

一日だけでも、たいへんなのに、何千日も、続いていいわけがない。土曜も日曜も、祭日も、夏休みも、冬休みも、春休みも、全部、やられた。ずっと、続いていた。

きちがい兄貴が熱中していたにしろ、やり方が、きちがいなんだよ。

まったく、気にしないということが、親父とおなじレベルで、きちがいなんだよ。親父とまったく、おなじやり方なんだよな。実際に、時間を、とられた。

これ、どれだけなにを言ったって「負の時間」なのである。これも、まるで、俺が悪いみたいに言うやつからがいる。「俺(エイリ)が気にしすぎだからダメなんだ」というようなことを言うやつもいた。

しかし、こいつらが(この世で一番)きらいな音を、あの音のでかさで、あの至近距離で、ずっと何時間も何時間も鳴らされたら、こいつらにだって、わかるよ。

そして、こいつらは、きちがい兄貴のしくみがわからないから、「俺だったら、(兄貴を)しずかにさせることができた」ということを言う。これも、屈辱だ。こんなの、きちがい兄貴がきちがいだから発生したことだ。

こんなやつらに、いいように言われなければならないというのは、屈辱だ!! 

*     *     * 

きちがい兄貴のしくみも、きちがい親父のしくみも、約一〇割のよその人は、理解しない。「きちがい兄貴がきちがい的な意地でやり続けてきたこと」と「普通の人の常識」のあいだに、はさまれて、俺が、不愉快な思いをし続けた。

限界がある。

どれだけ我慢しても、限界がある。

●これ、条件が悪い人をおいつめる理論なのだ■言霊※2026/06/07 8:16

「俺が、すぐに停電はなおると言ったから、すぐに停電がなおった」と言ったやつだって、電気の力に頼り切って暮らしているのだ。「家電」に頼って暮らしている。

「家電」を使って暮らしている。

たいていの言霊主義者は、「家電」は「電気で」動いていると思っている。「家電」は「言霊で」動いているとは思っていないのだ。

冷蔵庫、クーラー、パソコン、テレビ、ラジオ、プリンター、スキャナー、スマホ、電熱レンジ、HIレンジ、電子レンジ、電子蚊取り器……全部、電気で動いていると思っている。

言霊の力で動いているわけではないのだ。

家電はすべて……故障しても、「三秒以内に、なおる」と言えば、なおるのだ。

言霊の力によって、なおる。

ところが、「俺が、すぐに停電はなおると言ったから、すぐに停電がなおった」と言ったやつだって、冷蔵庫が故障したら、言霊の力でなおすのは、無理だと思っているのだ。

この矛盾に(本人は)気がつかない。

自分にとって都合のいいときは、「言霊の力でこうなった」と思って、うたがわない。そして、別の意味で自分にとって都合のいいときは「修理をしなければならない」と思うのだ。

あるいは、「これはもう、だめだから、買い替えよう」と思うのだ。

さらに、こまかく、電気代のことを気にしたりする。

言霊の力を使って、おカネを出せば、電気代なんて、関係がないわけ。「自分の口座に一億円振り込まれる」と言えば、言霊の力によって、そうなるのだから、電気代のことなんて、まったく気にする必要がない。

ところが、人には「言霊は正しい」「言霊は絶対だ」と言うのに、電気代のことを気にして生きているのである。

電気代なんて、言霊でどうにでもなるだろ。

それどころか、電気で動くものを、全部、言霊で動かせばいいのだ。厳密に言えば、言霊で動かすというよりも、言霊の力で動かすと言ったほうが、正しいのだろう。

けど、おなじことだ。

家電は、電気の力で動いている。

言霊主義者だって、それを知っている。

ところが、「言霊は正しい」「言霊は絶対だ」と言ってしまう。「言霊は正しい」というのは、「言霊理論は正しい」という意味だ。

こんな、妄想的なことを大威張で、言ってしまうやつが、ヘビメタ騒音でこまっている俺に、「無理なことを」言ってくる。

「言い方が、へたくそだから、現実化しない」と言ってくる。

きちがい兄貴の行動が問題なのに、「エイリの口癖が問題だから、ヘビメタ騒音の問題が起こった」と言って、エイリのせいにする。こんなのない。いや。ある。あるあるある。

これ、条件が悪い人をおいつめる理論なのだ。

特に、特殊な家族に、長期間、騒音でやられた人を、おいつめる理論なのだ。

しかも、言っている相手は、「宇宙の真理」について言っていると思っている。『エイリが理解しないのは、エイリが幼稚だからだ』とか『エイリが理解しないのは、エイリが理屈にこだわっているからだ』とかと、本気で考えているのだ。

「エイリが幼稚だからだ」というのは、「エイリが、真理を理解できないほど、幼稚だから理解できない」という意味だ。

「エイリが理屈にこだわっているからだ」というのは、「エイリが理屈屋だから、理屈にこだわって、こころで感じるべき真理を理解できない」という意味だ。こんなのない。いや、ある。あるあるある。

●不親切→←不幸(不親切なら不幸だ・不幸なら不親切だ)というパターン

あんまり説明したくないのだけど、ちょっとだけ、説明しておこう。

たとえば、「人に親切にすれば幸福になる」とする。

その場合、幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だということになる。人に親切にしていたなら、幸福になっているはずなのだ。

幸福になっていないということは、人に親切にしてこなかったということを、意味しているのである。

その場合、特に意識していなくても、「人に親切にすれば幸福になる」という文を受け入れた人には、「幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だ」という認識が成り立ってしまう。

人に親切にしてこなかった人のことを、短く「不親切な人」と言い換えるとする。

そうなると、「幸福ではない人は、不親切な人だ」ということになる。さらに、「幸福ではない人」を「不幸な人」と言い換えるとする。

そうなると「不幸な人は不親切な人だ」ということになってしまうのである。

もちろん、言い換えには問題がある。どうしてかというと、たとえば「幸福ではない人」の集合のなかには、「幸福ではないけど、不幸でもない人」が含まれるからだ。

しかし「人に親切にしてこなかった人」の場合は「不親切な人だ」ということになってしまう。

親切にしないことが「不親切」という表現の内容になるからだ。

「人に親切にしてこなっかたけど、親切な人」という表現は、矛盾している。

だから、表現の問題で、ばらつきがある。

幸福という表現の場合は、幸福ではないけど不幸ではない人がいる。何度も言うけど、表現によってばらつきがある。

このことは、注意しなければならないことなのだけど、普通は、「幸福ではない人」は「不幸な人」だと意識されやすい。

「幸福・不幸関係」において、不幸ではないけど、幸福でもないことを『中間地点』と呼ぶことにする。

表現のばらつきについては説明した。とりあえず、表現のばらつきを無視することにする。そして、反対語については、そのまま、『中間地点』を考えずに、反対語として扱うとする。

たとえば、人に親切にすることを、親切にすると表現することにする。そして、親切にするの反対を不親切にすると表現することにする。

そうすると、「親切にすれば、幸福になる」という言葉は、親切と幸福のあいだにペア(つい)をつくることになる。頭のなかに、親切なら(→)幸福という思考回路ができあがるのだ。その場合、逆に、頭のなかに、不親切なら(→)不幸という思考回路も、できあがってしまう。

ところが、実際の場面では、だれか(1)がだれか(2)のことを、「親切な人」と見なしているだけなのだ。神様視点で、「親切な人」と「不親切な人」が決まっているわけではない。

そして、これは、かなり、時間が限られた出来事によって決まることであり、「だれだれは親切な人」「だれだれは、不親切な人」というように、だれかが判断したということを意味するだけだ。

これは、永続的に、だれかが親切な人であるということを意味していない。

あるいは、これは、永続的に、だれかが不親切な人であるということを意味していない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Bさんが、Aさんにおカネを貸してくれ」と言ったとする。

そうしたら、Aさんがおカネを貸してくれなかったとする。

Bさんのなかで、「Aさんは不親切な人だ」ということになったとする。

しかし、Aさんがほんとうに、不親切な人なのかどうかはわからない。

これは、BさんのAさんに対する判断であり、Aさんがほんとうに不親切な人なのかどうかわからない。

たとえば、BさんとCさんがいたとする。Bさんが、Cさんに「カネを貸してくれ」と言ったとする。Cさんは、Bさんにカネを貸したとする。

そのとき、Bさんは「Cさんは親切な人だ」と思ったとする。

Bさんのなかでは、Cさんは親切な人なのである。

そして、CさんがBさんに五回カネを借りたとする。Bさんが六回目、おカネを借りようとしてCさんに「おカネを貸してくれ」と言ったとする。そうしたら、Cさんは「今までのカネを返してくれ。かえてくれないなら、もう、カネはかさない」と言ったとする。

そのとき、Bさんのなかで、「Cさんは不親切な人だ」ということになったとする。おなじCさんなのだけど、あるときは、「親切な人」だと判断されて、あるときは「不親切な人」だと判断されたということになる。

Bさんのなかで、Cさんが親切か不親切かということについて判断がかわったということだ。

けど、これは、Bさんのなかでの話だ。ほかの人は、Cさんのことをどう評価するかわからない。ほかのとの関係では、Cさんは、なにをしているのか、この話だけではわからない。

いまは、作中の人物ということになって、作者であるぼくが、ほかの情報を排除して、Aさん、Bさん、Cさんについて語ったけど、実際には、神様的な視点を持つ人なんて、この世にはいない。

勝手に、個人の頭のなかで「あの人は、親切な人だ」とか「あの人は、不親切な人だ」ということを、決定しているにすぎない。決定するときの根拠が、また、人によって異なるのである。

人は出来事によって、自分やほかの人のことを、親切な人だとか不親切な人だと勝手に判断しているにすぎない。そして、それは、時間とともに変わる場合がある。出来事一の時点と、出来事二の時点で、登場する人の状態や価値基準が異なっている場合がほとんどなので、(人に対する)対応が異なることがある。

しかし、人格としての一貫性は「ある」ような感じがしているものなのである。

そして、人格としての一貫性は、複数の出来事によって、ある人(3)の頭のなかに、ある人(4)はこうだというようなイメージができあがったということだ。

しかし、どちらの人も、時間とともに変化していくのである。その時点(1)での条件・状態というものは、永遠ではない。

ある人(3)も、ある人(4)も、その時点(2)での条件・状態というものは、ちがう。

時間がちがえば、評価するほうの状態もちがうし、評価されるほうの状態もちがうのだ。状態と書いたけど、これは、複数の条件が成り立っている状態ということだ。

そして、場面がちがえば、認知も、メタ認知もちがうのだ。いちおうは、人格として「親切な人」とか「不親切な人」という判断はできそうなのだけど、ほんとうは、場面場面の「印象」の総合でしかない。

そして、場面場面の「印象」をもっているのは、個々人であって、神様ではない。個々人が……個々人の視点で、個々人の出来事に関して解釈して、その出来事に関係した他人のことを、その都度「親切な人だ」とか「不親切な人だ」と判断しているだけなのだ。

そして、記憶に残る場合もあるけど、記憶に残らない場合もあり、記憶に残った場合でも、忘れる場合がある。

だから、個々人が出来事に応じて、かりそめに、「あの人は親切だ」とか「あの人は不親切だ」と判断しているだけで、だれかのことを、人格として……固定的に……「親切な人」とか「不親切な人」と決めつけることはできない。

親切→幸福というパターンができあがると、不親切→不幸というパターンもできあがってしまうということが問題なのだ。

いったん、不親切→不幸というパターンができあがると、不幸→親切というパターンもできあがってしまう。幸福→親切というパターンは、親切→幸福というパタンができあがったときに、できあがってしまう。

親切→←幸福(親切なら幸福だ・幸福なら親切だ)というパターンと、不親切→←不幸(不親切なら不幸だ・不幸なら不親切だ)というパターンのふたつの対になるパターンが、頭のなかにできあがってしまう。

「親切にすれば、幸福になる」という言葉だけで、言葉に表現されていない関係が、頭のなかにできあがってしまうのだ。

現実に不幸な人は、不親切な人だというイメージが、頭のなかにできあがってしまう。不親切な人が、がんばって、人に親切にすれば、幸福になるいうことを言っているということになってしまう。

不幸な人は、不親切なの人なのである。

一般的ではないけど、中間地点まで含めた言い方をすれば、非・幸福な人は、人に親切にしてこなかったから、非・幸福なのである……ということになってしまう。

そういうイメージが頭のなかにできあがってしまう。

これは、じつは、ものすごく問題があることだ。 

2026年6月6日土曜日

●「人に親切にすることの、なにがいけないのだ」■社会※2026/06/05 20:05

 たとえば、ぼくの話を聴いた場合、ある一定のことを言ってくる人たちがいる。

その人たちは「Xをすることのなにが、いけないのだ」ということを言ってくるのである。

たとえば、「人に親切にすることの、なにがいけないのだ」とか「感謝することの、なにがいけないのだ」とか「掃除をすることの、なにがいけないのだ」とか「努力をすることの、なにがいけないのだ」とかということを言ってくる。

こういう反応がある。

「人に親切にすることの、なにがいけないのか」ということについては、もうすでに、ずっと書いているので、省略する。

これは、実際に、運用の時点で問題が発生してしまうことがあるということについて書いてある。

けど、運用の問題をぬかせば、別に「人に親切にすること自体には、問題はない」ということになる。

問題なのは、この人たちが、「エイリは、Xをすることが悪いことだ」と言っていると、認識していることなのだ。

ぼくが言っていることは、Xの不足が、Yの原因だと言って、他者について「この人はこういう人だ」と決めつけてしまうことがよくないことだということだ。

これのちがいがわかっていない人たちが多いのである。

●「人に親切にするな」とか「掃除をするな」とか「感謝をするな」とか■社会※2026/06/05 8:57

これ、まったく理解していない人がいる。

ぼくは「人に親切にするな」とか「掃除をするな」とか「感謝をするな」とかと言っているわけではないのだ。

どうして、そういうことになってしまうのだろうか?

たぶん、これも、間違った集合的一括思考が災いしているのではないかと思う。

ぼくが主に言いたいのは、「間違った前提がある助言をするべきではない」ということなのである。人に親切にすると幸福になる」……。人に親切にしたときは、幸福な気持ちになることがある。

たしかに、そうだ。しかし、人に親切にしたことで、不幸な人が継続的に、幸福になるわけではないのである。小さな親切でもいいということになっているけど、「人に親切にしましょう」と言うときに出てくる親切行為は、案外、限られているのである。

そして、本人が勝手に、「親切にしてあげよう」と思っているだけなのである。

ようするに、人に親切にするのだから、相手がいる。相手が、親切にされたと思わなければ、親切にしたことにならないのである。これに関しては『還元』が必要だ。これ、さんざん書いたからいいか。

ともかく、有難迷惑になることがあるし、「人に親切にしよう」と思っている人を利用してやろうと思っている人もいるわけ。まあ、ここら辺のことについては、すでに書いたから、ここでは省略する。

「人に親切にするなと言っている」わけではなくて、「人に親切にすると幸福になる」というようなライフハックを口にしないほうがいいということを言っているわけ。

それは、実際には不幸な出来事の数を増やすことになるからやめたほうがいいということを言っているわけ。普通に、親切にしたいときに、親切にすればいいわけ。

『自分が幸福になるために、親切にしよう』ということになると、いろいろな問題が発生することになる。

まあ、書いたからいいか。

それよりも、どうして、ぼくが書いたことを読んで、エイリは「人に親切にするな」と言っていると思ってしまう人がいるのかということが、気になる。

感謝にしても、「感謝をするな」と言っているわけではないのだ。自然に、感謝をしたいときは、感謝をすればいいのである。

どうして、エイリは「感謝をするな」と言っていると解釈するやつがいるのか、疑問だ。ちゃんと読んでいるのかと、疑いたくなる。

「条件に関係なく、感謝をすれば、すべての問題が解決するようなことを言うべきではない」ということは、言っている。

掃除に関しても、「掃除をするな」と言っているわけではないのだ。「条件に関係なく、掃除をすれば、すべての問題が解決するようなことを言うべきではない」ということは、言っている。

いろいろと、勝手に誤解をするやつがいて、こまる。こまるんだよーー。

すべての問題と書いておいたけど、主要な問題は、悪い条件が生み出す問題なのである。個々人によって、その時々によって、悪い条件がちがう。ものすごく特殊な「悪い条件」をかかえている人もいる。

その「ものすごく特殊な悪い条件」が生み出す出来事によって、その人がずっと、長期的に苦しんでいるとする。

その場合、その人は、自分が幸福ではないと思うだろう。あるいは、その人は、自分が不幸だと思うだろう。その場合、悪い条件によって、問題が作り出されているのだから、悪い条件に対処しなければならない。

ところが、「掃除をすれば運があがって、幸福になる」と言った場合は、あたかも、その人が……特殊な悪い条件を抱えているその人が……掃除をすると、その人を苦しめている条件がなくなり、悪い出来事が発生しなくなり、幸福になるということを言っているということになる。

掃除幸福論者にすれば、もちろん、掃除をすれば、運があがって幸福になるのだから、悪い条件が生み出す問題は、解決するはずなのである。

しかし、悪い条件がかわらないと、悪い条件から発生する悪い出来事が減らないのである。なくならないのである。悪い条件が、悪い出来事をを生み出しているので、悪い条件がなくならないと、悪い出来事がなくならない。

次から次へと、その悪い条件によって、悪い出来事が生み出される。掃除をすることは、その悪い条件をかえないのである。掃除幸福論者の頭のなかでは、掃除をすることで、悪い条件がわかるということになっているのである。

掃除をすることで、悪い条件がかわる場合はある。その悪い条件が、掃除にかかわる条件であった場合は、そうなるかもしれない。

しかし、きちがい家族が、きちがい的な音のでかさで、ずっと騒音を鳴らすというようなことは、掃除をしても、かわらないのである。

きちがい家族が、きちがい的な音のでかさで、ずっと騒音を鳴らすから、不幸である場合は、掃除をしても、きちがい家族に直接働きかけることがなければ、きちがい家族はそのままきちがい行為をし続けてしまうのだから、掃除をしても、きちがい家族がきちがい行為をし続けるということが、かわらないのである。

ようするに、作用しない場所があるのだ。

「掃除をすること」によって、かわる部分と、かわらない部分がある。

不幸な出来事が、掃除をすることによって、かわらない部分なのであれば、不幸な出来事が掃除をすることによって、かわらないわけだから、幸福にならないのである。

不幸感がある場合は、不幸感をもたらしている出来事があるはずだ。掃除をして、気分をかえたら、不幸感をもたらしている出来事がなくなったということもある。

しかし、それは、それこそ、掃除にかかわる特殊なことが不幸感をもたらしていたのである。

すべての不幸な状態をつくりだしている条件が、掃除をすることによってかわるわけではないのである。

「運があがって幸福になる」という言葉を使うと、あたかも、現実的な問題が、掃除をすることによって、魔法のように、なくなるような感じになる。

そういう印象を与える。

実際、不幸ではなくて、幸福になるのだから、継続的な幸福感があるはずだ。

あるいは、少なくても、強烈にくるしい状態ではなくなるはずなのだ。

ところが、掃除に関係がないことが、強烈にくるしい状態を生み出している場合は、掃除をすることで、問題が解決しない。

あたかも、掃除をすることによって、不幸な状態から幸福な状態になるようなことを言うけど、不幸な状態をつくりだしている問題がまったく解決しないのだから、幸福な状態にならないのである。

手短に言うと、掃除幸福論においては、掃除をすることは、言霊理論における、ポジティブなことを言うことのような意味をもっているのである。

あるいは、掃除幸福論においては、掃除をすることは、思霊理論における、ポジティブなことを思うことのような意味をもっているのである。

あるいは、掃除幸福論においては、掃除をすることは、引き寄せ理論における、引き寄せ行為をするような意味をもっているのである。

掃除は、日常的に必要な行為であり、引き寄せ行為は、日常的には不必要な行為なのだ。だから、掃除のほうが、やるメリットがある。掃除をすれば、掃除をしたというメリットがある。

引き寄せ行為をしても、本人の自己満足以外のメリットはない。掃除をすると現実的なメリットがあるということが、重要だ。

しかし、掃除をするということは、単に掃除をすることではないのである。よいことを引き寄せる行為なのである。

ところが、掃除によって、よいことが引き寄せられるということは、決まっていないのである。よいことが引き寄せられるということに関しては、引き寄せ行為とおなじように、自己満足でしかない。

掃除をしたのだから、いいことが引き寄せられるはずだという期待をもつだけで、それ以外の効果はない。

期待をもっていると、時間的に接近した状態で、よいことが起こった場合は、「掃除をしたからよいことが起こった」と思う確率が高い。

期待をしていたのだから、原因について「掃除をしたからだ」と考えるのは、自然なことだ。

しかし、だから、ほんとうに、掃除がその「よいこと」を引き寄せたのかというと、ちがうのである。

前にも書いたように、ため込んでいた掃除をするということができるぐらいの行動エネルギーがたまっているのであれば、ほかのこともできる場合がある。ほかのことができたということが、そもそも、よいことだと感じることなのであれば、よいことが起こったということになる。

その場合は、行動エネルギーがたまっていたので、実際に行動したら、よいことが起こったということなのである。

掃除をすることに、「掃除霊(そうじだま)」が宿っていて、「掃除霊」がいいことを運んできたわけではない。

けど、そのように理解しても、問題はない。

問題は、あたかも、掃除をすることで、すべての問題が解決するようなことを言うことだ。

2026年6月5日金曜日

●現実の結果から、「運」なるものを、想像しているだけなのである■社会※2026/06/05 3:40

「これをやると運があがる」と思っている人が、善意で「これをやれば、運があがる」と人にアドバイスをすることがある。

その人のなかでは「ほんとうに、そう」なのである。

真実なのである。

「実際にそうなった」ことなのである。

しかし、「これをやること」と「運があがること」のあいだに、因果関係があるのかというと、わからないのだ。

「運」というのは、現実の写し絵であって、なにか、固有の能力ではない。「運がある人」というのは、神様視点で、運がある人のことではなくて、個人個人の視点から見て「運がある人」に見えるだけなのだ。

どうして、本人やほかの人が、その人のことを「運がある人だ」と思うかというと、現実が関係している。勝負に勝ってきたから、運がある人に見えるだけなのだ。さきのことではなくて、実際には、過去の結果を見て、判断している。

逆に、勝負に負けてきた人は、運がない人に見えるのである。これも、勝負に負けてきたから、「運がないのだろう」と推測しているだけなのだ。

推測の「もと」になっていること……は、過去の結果だ。

過去において「勝率が高い人」は「運がいい人」に見えるし、過去において「勝率が低い人」は「運が悪い人」に見えるだけなのである。

だから、固有の運というのは、ない。

勝手に、「結果」を「運」のせいにして、結果がいい人を「運がいい人だ」と表現して、結果が悪い人を「運が悪い人だ」と言っているだけなのだ。

何度も言うけど、「運」というものは、現実の写し絵だ。

現実の結果から、「運」なるものを、想像しているだけなのである。



●「間違いのクッション」■言霊※2026/06/01 16:42

「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という文は、「すべての言ったことが、言霊の力によって、かならず、現実化する」という文と意味的に等価なんだよ。

だから、失敗することはないわけ。

言ったのに、現実化しないということはないわけだ。

しかし、もちろん、言霊の力なんて、ないので、言ったところで、現実化しないのだ。現実化したように見えるのは、誤解をしたときだけだ。誤解なのである。

だから、言霊主義者が、だれかに「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化するので、なになにと言えばいい」とアドバイスをした時点で、そのだれかが、失敗することが決まっているんだよ。

言霊主義者をAさんだとする。言霊主義者にアドバイスをされた人をBさんだとする。Bさんが成功したように見えるのは、誤解が成り立っているときだけなのだ。

「言ったから、現実化した」とBさんが思ったとしても、それは、「言ったから、言霊の力で、現実化したもの」ではないのだ。勘違いをしている。だから、勘違いが成り立つときだけ、Bさんも、 「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という考え方を受け入れることがある。

Bさんも受け入れた場合には、Bさんは言霊主義者になってしまう。

なので、 「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という考え方は拡散することになる。これは、よくないことだ。

そして、BさんがAさんに「言ったけど、うまくいかなかった」ということを言ったとする。「うまくいかなかった」というのは、ようするに、「言ったことが現実化しなかった」ということだ。

その場合は、「言い方がへたくそだ」というサブルーチンに入るのである。これも、決まっているんだよ。

Bさんが、言ったのに、言ったことが(言霊の力によって)現実化しなかったのだから、言霊理論は間違っているということになる。なので、Aさんは「言霊理論は間違っている」ということを認めなければならない。

ところが、Bさんの言い方がへたくそだから、現実化しないということを言って、Bさんのことを悪く言うのである。Aさんが、「人のことを悪く言わない」とか「人のいやがることをしない」とか「すべては自己責任だ」とかと言ったとしても、ちゃんと、できなかった人のことを、悪く言って、できなかった人のせいにしているのだ。

よく「人のことを悪く言わない」とか「人のいやがることをしない」とか「すべては自己責任だ」なんて、言えるものだなぁ。

Bさんができなかったのは……Aさんの理論が間違っていたからなのである。これだって、言霊主義者は、たぶん認めないだろう。

最初から、言霊の力では現実しないので、Bさんが失敗することは、決まっている。Bさんが誤解をしない限り、もともとの理論が間違っているので、理論通りにはいかないということになる。それは、理論が間違っているから、Bさんがどれだけ言っても、現実化しなかったのだ。

Bさんのい言い方が悪いからではない。どれだけ言い方が悪くても、言ってしまったら、言霊の力によって、現実化してしまうのである。

「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という文は、「すべての言ったことが、言霊の力によって、かならず、現実化する」という文と意味的に等価なので、どんな悪い言い方で言っても、言ったことが、言霊の力によって、かならず、現実化するということになる。

言い方が悪いから現実化しないなんてことはない。

言い方が悪いと、現実化しないと思っている場合は、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」とは、言えないことになる。

しかし、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という文は、「すべての言ったことが、言霊の力によって、かならず、現実化する」という文と意味的に等価だということに気がつかないので、『言い方が悪いと現実化しないこともある』と考えてしまう。

「すべての言ったことが、言霊の力によって、かならず、現実化する」という文と「言ったことが、現実化することがある」という文は、意味的に等価ではないのだけど、等価だと思っているので、自分の間違いに気がつかない。

「言ったことが、現実化することがある」という文は、「言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」ということを意味しているのではない。

「言ったことが、言霊以外の力によって、現実化することがある」ということを意味しているのだ。

「言ったことが、現実化することがある」という文が「言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」という文とおなじだと思っているので、言い方が悪いから、現実化しないこともあると思ってしまうのだ。

しかし、言霊のことを話して、その文脈で、「言えば、言ったことが、現実化する」と言っているのだから、言霊主義者の頭のなかでは、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という文の意味と「言えば、言ったことが、現実化する」という文の意味は、おなじだというとになっている。

言霊主義者頭のなかでは、おなじだということになっている。

実際、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と思っていて、それを省略して、「言えば、言ったことが、現実化する」と言っているのだ。

*     *     *

「一秒以内に(なになにという)夢がかなう」と言ったら、「一秒以内に(なになにいという)夢がかなわなければならないのだ。

言霊理論が正しいなら、かなうはずなのである。

「すべての言ったことが、言霊の力によって、かならず、現実化する」ので、かなうはずなのである。言い方が悪いから、かなわないということはないのである。

*     *     *

言霊以外の理由で、言ったことが現実化することはある。

たとえば、「明日は(自分が住んでいるこの地域に)雨が降る」と言ったとしよう。そして、雨が降ったとしよう。この場合は、言霊以外の力によって、雨が降ったのである。表現の問題だけど、雨が降るということが現実化「した」ということになる。

なら、雨が降るということが現実化したのは、だれかが「明日は(自分が住んでいるこの地域に)雨が降る」言ったからなのかというと、そうではない。

さまざまな物質の、物理的な運動によって雨が降ったのだ。

これを、「言霊の力で雨が降ったんだ」と勘違いしてしまうのが、言霊主義者だ。

そもそも、勘違いなのである。

そして、たとえば、「自分の……言霊の力によって、雨が降った」と考えるのならば、言霊の力の「でどころ」は自分だということになる。

ようするに、「明日は(自分が住んでいるこの地域に)雨が降る」という言葉に、言霊を宿らせたのは、自分だということになる。

自分が……この自分が……言葉に言霊を宿らせることができる存在なのである。

「言い方が悪いと、うまくいかない」というような考え方は、もともと、こういう考え方が基礎にあるから出てくる考え方だ。

ようするに、言葉に言霊が最初から宿っているわけではないと……言霊主義者は考えているのだ。

しかし、言霊主義者は、ここでも、矛盾を感じないまま、「言霊に言霊が最初から宿っている」という考えも持っているのだ。

両方とも持っている。

だから、このことが「言い方が悪いと現実化しない」というような「クッション」を生み出すことになる。

これは、「間違いのクッション」だ。 

矛盾を感じないですむような理解のしかたが、最初から、ある。

そして、それは、矛盾している。ほんとうは、ちがうことを言っているのに、おなじことを言っていると思っているのだ。

そして、その間違いに、気がつかない。

2026年6月4日木曜日

●『俺が、すぐに停電はなおると言ったから、すぐに停電がなおったのだ』■言霊※2026/05/31 21:19

じつは、おどろくべきことに、言霊主義者は、こわれた冷蔵庫を「言霊で」なおすことさえ、できないのだ。

じつは、おどろくべきことに、言霊主義者は、電源プラグを電源コンセントにささなければ、冷蔵庫の庫内をひやすことさえできないのだ。

もちろん、冷蔵庫を設置してくれた人は、電源プラグを電源コンセントにさすだろう。だから、言霊主義者の家でも、冷蔵庫の庫内は、冷えるわけだ。

言霊主義者は、あたりまえだと思っているけど、電気で、冷蔵庫内を冷やしているのだ。

たとえば、電源プラグを電源コンセントから、ぬいたとする。その場合は、もちろん、冷蔵庫庫内は、次第に室温とおなじになる。

だから、冷蔵庫庫内だけ冷えている状態は、維持できない。

しかし、言霊でなおすことができるはずなのだ。言霊理論が正しいなら、確実になおすことができる。

「冷蔵庫庫内が、摂氏五度になる」と言えば、言っただけで、例外なく、 「冷蔵庫庫内が、摂氏五度になる」のだ。

だから、ほんとうなら、冷蔵庫なんて必要がないし、かりに、冷蔵庫を使っている場合でも、電源プラグを電源コンセントにつながなくても、言霊の力で、冷蔵庫庫内の温度を、自分が言った通りの温度にすることができる。

例外はない。

言い方が悪いから、「冷蔵庫庫内が、摂氏五度になる」と言ったのに、「冷蔵庫庫内が、摂氏五度にならなかった」なんてことはないのだ。

もっと、驚くべきことは、言霊主義者が、このことに気がつかないことだ。自分のうちの「冷蔵庫」が、こわれたら、言霊主義者でも、『言霊で』なおそうとはしないのだ。

もともと、冷蔵庫なんか使わなくても、言霊で、自由に温度を調整することができる。

さらに、「これこれは、くさらない」と言えば、くさらない状態を維持できる。

まあ、腐敗のプロセスと消化のプロセスはおなじなので、くさらないと言われたものを食べると、消化ができないということになってしまう。

だから、たとえば、「このエリアは、摂氏五度になる」と言えば、「このエリアは、摂氏五度になる」ので、それで、おしまいだ。

冷蔵庫なんて買う必要がない。電力会社と契約して、電力を買う?必要はない。電気の力なんて使わずに、言霊の力を使って、ものを冷やすことができる。

室温だって自由自在だ。「エアコンの電気代が高い」などと言う必要はない。

ところが、人には「言霊は絶対だ」と豪語する言霊主義者も、普通に、電力会社と契約をして、普通に、エアコンを使っているのである。

なんで、言霊で室温を調整しようとしないのか。

言霊では、室温を調整することができないので、言霊で、室温を調整しようとも思わないのだ。言ったところで、冷えないので、言わない。

言っても冷えないということを、言霊主義者が知っている。

言ったところで、あたたかくならないので、言わない。

言っても、あたたかくならないということを、言霊主義者が知っている。

自分の現実的な問題に関しては、現実的な対処をするのである。エアコンを設置してもらったり、エアコンのスイッチを入れたりして、温度の調整をしようとする。

もし、もし、停電で電気が切れた場合は、言霊の力で、どうにかすることかできるかというと……人には「言霊は絶対だ」と豪語する言霊主義者といえども……どうにかすることができないので、停電から復旧して電気が入るのをまつしかない。

停電しているときに「すぐに停電はなおる」と……ある言霊主義者(Aさん)が言ったとする。そして、すぐに停電がなおったとする。つまり、停電から復旧したとする。

なら、その言霊主義者(Aさん)が「言ったから」言霊の力によって、停電から復旧できたのかというとそうではないのだ。

勝手に、言霊主義者が『俺が、すぐに停電はなおると言ったから、すぐに停電がなおったのだ』と思っただけだ。

こういう勘違いをしているのが、言霊主義者なのだ。

そして、何度も言うけど、言霊主義者だって、電気の力で、部屋を冷やしたり、部屋をあたためたりしているということを、知っている。知っているのだ。

人には「言霊は絶対だ」と豪語する言霊主義者ですら……言霊の力で、部屋を冷やしたり、部屋をあたためたりしていると考えているわけではないのだ。

問題なのは、言霊主義者自身が「言霊の力で部屋を冷やしたり、部屋をあたためたりしているわけではない」ということを知っているのに、「言えば言ったことが(言霊の力で)現実化する」と言ってしまうことなのだ。

矛盾をまったく感じないということが問題なのだ。

2026年6月3日水曜日

●「言霊的な助言」をするたびに、真理から離れていくのである■言霊※2026/05/28 4:03

ほんとうは、言霊理論が正しいなら、働かなくてもよいのである。

ところが、言霊主義者の頭のなかには、言霊理論と「人間は働くべきである」という価値観が、両立していることが多い。

そうなると、現実の場面では、言霊主義者は、名前だけ店長ではなくて、ブラック社長の見方をするということになる。

その場合、名前だけ店長に「無理なことを」言って、名前だけ店長を追い込むということになる。「できるできると言って頑張ればいい」ということになってしまう。

ところが、名前だけ店長は「でなくなった」から、こまっているのである。

できなくなった名前だけ店長に対して、言霊主義者は「できるできると言って頑張ればいい」とこたえるのである。このズレがわかるだろうか。

名前だけ店長は、もうさんざんやってきて、「限界だ」と言っているのだ。「もう限界だ」「もうこれ以上はできない」と言っているのだ。

しかし、強欲なブラック社長や、ブラック社長に同調するアホな言霊主義者は、名前だけ店長が必死になって言ってることを、無視してしまう。

そのうえで、頭がおかしいアドバイスをするのだ。

これがどういうことなのか、言霊主義者はわかっていない。言霊主義者は、自分のことは、理解しているのだ。自分が一倍速で感じていることについては、理解している。自分がどのくらいつかれているのかということは理解している。

だから、言霊主義者だって、名前だけ店長とおなじことを、十数年間にわたってすれば、「もう無理だ」ということが、わかるのだ。自分のことだと、わかる。

しかし、他人のことだと、わからなくなる。

他人のことなら、それは他人のことなので、自分が一倍速で経験してきたことではない。

だから、名前だけ店長が、その十数年間でどれだけつかれているのかということを、簡単に無視してしまう。

しかも、自分のことに関しては、無視しないということも、無視してしまう。

他人のことについて考えているときは、ごく自然に、他人が一倍速で感じていることを無視してしまうのだけど、自分のことについて考えているときは、ごく自然に、自分が一倍速で感じていることを無視しない。

そして、「自分が一倍速で感じていることを無視しない」ということを、ごく自然に無視してしまう。

これが、問題なんだよ。

運用のレベルで問題があるということを、どれだけ言ったって、こういう人たちは、わからないのだ。

自分のことと他人のことについて、まったくちがった理解が成り立っているということについて無自覚であり、無自覚なことを認めないわけだから、運用レベルでの問題は、(本人としては)感じないことになる。

体感できないのだ。

その場合、人には、言霊理論に基づいた「無理なことを言って」悦に入るということになる。

これ、じつは、「いいことをした」と思ってるのだ。

自分としては、「よい助言をしてやった」と思っているのだ。

ところが、無理なことを押し付けているだけなのである。

言霊理論は間違った理論なので、「無理なことを押し付ける」ときは、重宝する理論なのである。言霊理論は間違った理論なのだけど、言霊主義者のなかでは、正しい理論だということになっているので、言霊主義者・本人は「正しいことを言った」と思うようになっている。

言霊主義者のなかでは「言霊的な助言をすること」はよいことなのである。ここらへんのズレがわかるだろうか。これは、悪魔に利用されているとしか、言いようがない。

こういう、自分のことならちゃんと「無理だと」判断できるのに、他人のことになると、言霊理論を持ち出して、無理なことを言うやつらが、増えるのはよくないことだ。自己責任論にもおなじことが成り立っている。

これ、本人が一倍速で感じていることについては、自己責任だと思わないのである。自分のなかに、ちゃんとした?理由がある場合は、自己責任だと思わないのである。

しかし、他人のことであれば、「なんだろうが、自己責任」で、その他人の責任だと、その他人をせめることができる人間になっている。

自分に適応する基準と、他人に適応する基準が、まったくちがうのに、本人がそれを意識できないのだ。

こういう人間を増やすことはよくない。

まあ、自己責任論に関しては、今回は、自己責任論と言霊理論はおなじような問題をかかえているということを、指摘するだけにしておこう。

*     *     *

じつは、「XをすればYになる」というタイプの助言にも、言霊理論に基づいた助言とおなじことが成り立っている場合が多い。

「XをすればYになる」というタイプの助言した人は、いいことをしたつもりになるかもしれない。

しかし、条件が悪い人には、「無理なこと」である場合がある。条件が悪いから、「できないこと」があるのだ。

ところが、 「XをすればYになる」というタイプの助言をする人には、「無理なこと」に思えない。条件がちがう世界で生きてきたので、「無理なことだ」ということが、理解できない。

「XをすればYになる」というタイプの助言をする人にも、言霊主義者のようなところがあり、自分が一倍速で感じていることは重視するけど、他人が一倍速で感じていることは無視するという傾向がある。

ようするに、自分が……かりに、その他人とおなじ条件なら、自分にもできないということを、理解していないのだ。

ほんとうは、条件は重要だ。

ところが、他人の条件を無視してしまうのである。

だから、その他人にとって「無理なこと」でも、助言をする人にとっては「無理なことではない」ということになってしまう。

だいたい、「XをすればYになる」というのは、一〇〇%構文の文なので、条件を、最初から無視している。なので、『他人の条件』は当然に無視されることになっている。

その場合、サブルーチンに入ってしまう。

ようするに、『やり方が悪いからできないのだ』というサブルーチンや『方向が間違っているからできないのだ』というサブルーチンや『こころがけが悪いからできないのだ』というサブルーチンに入ってしまう。

『こころがけが悪いからできないのだ』と表現したけど『こころがまえができていないから、だめなのだ』とか『こころの用意ができていないからダメなのなのだ』という表現が使われることもある。

あるいは、『マインドセットの問題だ』というマインドセットサブルーチンに入る場合もある。

ともかく、相手の側(助言を受ける側)の問題で「できないのだ」ということになる。

もともとの、理論に無理があるということにはならない。助言を受ける側の「不足」によって、理論通りにいかないのだということになる。

「不足」というのは、たりていない状態だ。『やり方が悪い』『方向が間違っている』『こころがけがよくない』「こころがまえがよくない」「こころの準備がよくない」「こころの用意がよくない」「マインドセットがよくない」と相手側の不足によって、本来なら、うまくいくはずのことが、うまくいかないのだということになる。

そういう決めつけをされることになる。助言をされて、なおかつ、助言通りにしたのに、うまくいかない人は、自動的に、『やり方が悪い』『方向が間違っている』『こころがけがよくない』「こころがまえがよくない」「こころの準備ができていない」「こころの用意ができていない」「マインドセットがよくない」ということになる。

*     *     *

言霊主義者は、よかれと思って「言霊的な助言」をするたびに、真理から離れていくのである。 

言霊主義者は、よかれと思って「言霊的な助言」をするたびに、善からも離れていく。言霊主義者は、よかれと思って「言霊的な助言」をするたびに、こころがよごれていく。

 「XをすればYになる」というタイプの助言をする人も、良心?にしたがって、助言をするたびに、傲慢になり、こころがよごれていくのである。

この人たちは、一〇〇%詐欺構文の文で、条件が悪い人に無理なことを言う。そして、言霊主義者とおなじように「やり方が悪いからできないのだ」というサブルーチンや「方向が間違っているからできないのだ」というサブルーチンや「こころがけが悪いからできないのだ」というサブルーチンに入ってしまう。

こころがけサブルーチン、こころがまえサブルーチン、こころの用意サブルーチン、マインドセットサブルーチンに入ってしまう。それぞれのサブルーチンについて語っているときも、よいことをしていると思っている。

ところが、相手をディスって、いい気持ちになっているだけなのである。

こころが、よごれていく。傲慢な気持ちが強くなる。マウントをして楽しいと思ってしまう。

そして、相手が、条件について、言及すれば、相手に対して、おこってしまう。

相手に対して怒りの感情がわいてくる。

「そんなのは、言い訳だ」「そんなのはあまえだ」と腹を立ててしまう。けっきょく、よごれる。助言をするたびに、くさっていくのだ。それこそ、こころが、くさっていく。

うまくできている。うまくできていると思う。

●「掃除をすることで運があがって、就職することができた」■掃除※2026/05/26 7:08

「実際に、掃除をすると運気があがる」と思っている人は多いと思う。「掃除をすると運気があがる」というライフハック?は、けっこう、やっかいなライフハックだ。

ウィルパワーというのがあるのだけど、これはまあ、意志のエネルギーみたいなものだ。その場合、意志のエネルギーというのは、一日のなかで、使うと減るものなのだ。

だから、会社では、てきぱきと動くけど、家に帰ってくるとぐたーっとして、動けなくなるというようなことが発生する。実際に、体もつかれているのだけど、ウィルパワーも消費してしまっている。体力消費とウィルパワーの消費があると思っていい。

ウィルパワーの残存量が少ないと、「やろう」と思ってもできない状態になる。「掃除をしよう」と思っても、掃除をする気にならないということになる。

だから、会社に行って働くということで、体力とウィルパワーを消費してしまった場合は、家に帰ってきて、家の掃除をすることができなくなる。料理をする気力もないので、インスタント食品で済ませて、インスタント食品の容器をゴミ袋に入れない状態で、寝てしまう。風呂キャンセルになってしまう。歯磨きも、キャンセルになってしまう。

まあ、わずかに残ったウィルパワーで歯磨きをしても、ウィルパワーがいっぱい残っているときの歯磨きのしかたとは違った歯磨きのしかたになってしまう。

まあ、だいぶ省略した歯磨きのしかたになってしまう。そして、これは、一日のなかの話なのだけど、毎日、このような状態が続くと、一日のなかで消費できるウィルパワーが減ってくるのだ。

ウィルパワーのチャージ量も、減ってくるということになる。そうなると、余計に掃除がしにくくなる。

ある程度、休暇をとって、ウィルパワーの(一日の供給量が)あがってくると、「掃除をしよう」という気持ちになる。

だから、この時点で、ウィルパワーが枯渇している状態ではないということになる。掃除をすることができるぐらいに、ウィルパワーが回復しているということになる。

その場合、掃除以外のほかのことも、チャレンジしたくなる。ウィルパワーが回復しているからだ。

たとえば、退職して、しばらく休んだあと、そろそろ、新しい会社に応募してみようかなという気持ちになったとする。そうしたら、就職できたということがあったとする。掃除をやり始めた時期と、就職ができた時期が、だいたいおなじであって、なおかつ、掃除をやり始めた時期のほうが、就職活動をし始めた時期よりも、まえだと、「掃除をしたから、就職できた」と思うかもしれない。

「掃除をすることで運があがって、就職することができた」と考えても不思議ではない。 

ようするに、退職して休んでいる期間にウィルパワーがあがったので、掃除をする気になったということが、重要なのだ。この場合、掃除ではなくて、ウィルパワーの回復が、実際には、次の就職に結びつくことになる。 

掃除をしていたら、三万円が入った封筒を見つけたとする。これも、自分が三万円をいれた封筒のことを、忘れていただけなのだけど、三万円の臨時収入があったと思うこともできる。

その場合、 「掃除をすることで運があがって、三万円、ゲットすることができた」と考えても不思議ではない。この場合は、掃除をすることで、おカネを見つけたということだ。

けど、そのおカネは、ほんとうは、まえから、カウントするべきおカネだったのである。

まあ、掃除には、家のなかのものを(あらためて)見つけるというような効果はある。

けど、これは、「運」という考え方を応用しなくてもよい効果だ。単純に、掃除をしたので、家のなかにあるものを見つけたということを意味している。「運があがった」と考えても、いいけど、ほんとうに、「運があがった」のかどうかわからない。

掃除をしたら、田舎のおかあさんから、小包が届いたとする。その小包のなかには、メロンが入っていたとする。

これも、別に、掃除をしていなくても、小包はとどいたかもしれないのだけど、「掃除をすることで運があがって、メロンをゲットすることができた」と考えても不思議ではない。

掃除をしたあと、たまたま、メロンが届いたので、掃除の効果だと思うこともできるけど、それが、ほんとうに、掃除の効果なのかどうかは、わからない。「運があがった」と考えても、いいけど、ほんとうに、「運があがった」のかどうかわからない。

雨が降ると言ったあと、雨が降ったので、言霊(理論)は正しいと思うのとおなじような思考スタイルだ。言ったから、言霊の力によって、雨が降ったのではなくて、言ったあと、さまざまな物質の物理的な運動によって、雨が降ったのだ。

これは、言ってみれば「偶然」なのか「必然」なのかという問題なのである。

ほとんどの人間には、必然だと思いたい気持ちがあると仮定すると、この現象をよく理解することができるようになる。「言ったあと」「思ったあと」「おまじないをしたあと」「引き寄せ行為をしたあと」「掃除をしたあと」「お祈りをしたあと」「感謝をしたあと」……その個人にとっていいことが起こった場合は、自分がそれぞれの行為をしたから、そうなったのだと思いたい気持ちがある人が多いのだと思う。

これも、思いようなので、そう思っている人にとっては、そのような効果があるということになる。

「掃除」をしたあと、いいことが起こった場合、掃除をしたから、掃除の効果によって、いいことが起こったのだ(引き寄せられたのだ)と思っている場合、掃除は、いいことを引き寄せる効果があるということに……その人のなかでは……なる。

2026年6月2日火曜日

●「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」■社会※2026/05/28 3:40

まず、条件が無視されているである。そして、条件が無視されているということも、無視されている。

ところが、条件が与える影響がものすごくでかいのである。条件がちがう人は、ちがう状態で生きているのである。

かりに、AさんとBさんで、能力がまったくおなじだとしても、条件がちがえば、ぜんぜんちがう結果になるのである。

ところが、条件のちがいを無視して、「言えば言ったことが現実化する」ということを言う人たちがいる。

この人たちは、洗脳されている人たちだ。

より条件の悪い人に、「無理なことを言う」というという役目がある。まあ、そのほかにも役目があるのだけど、あんまり、いい役目ではない。

ともかく、言霊について語る人たちというのは、現実的な条件を無視している。もちろん、自分のことに関しては、無視しないのである。自分が一倍速で感じることに関しては、現実的な判断をするのである。

言霊なんて、ひとつも出てこないような判断をする。

しかし、「ぬけぬけ」だから、ひとつも出てこないような判断を……自分がしたということは無視してしまう。

ともかく、条件の無視というのが非常に重要なポイントになっている。見えないスタート地点で、条件を無視している。あとの話というのは、見えないスタート時点で、条件を無視したことが、土台になっている。

あとは、特殊なことなのだけど、「人間は働くべきだ」という前提もある。

働くと書いたけど、現実的な意味を言ってしまうと、「人間は奴隷労働をするべきだ」ということになる。特権階級の人間は、奴隷労働をしなくてもいいのである。

しかし、非・特権階級の人間は、奴隷労働をするべきなのである。こういう意識がある。こういう意識が、見えないスタート時点で成り立っている。

だから、非・特権階級の人間であって、奴隷労働をしている人は……非・特権階級の人間なのに、奴隷労働をしない人間を見かけると、攻撃したくなるのである。

しかし、「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」という前提もうたがう必要がある。「生活をするために、非・特権階級の人はだれでも、奴隷労働しなければならない」という考え方は、間違った考え方かもしれない。

まあ、非・特権階級の人間であるにもかかわらず、奴隷労働をしなくてもいい社会というのが、できあがるかもしれない。そういう社会において、働くということがどういう意味をもつかというと、たぶん、ボランティアのような意味をもつと思う。

ともかく、現実世界の現実世界的な条件を無視しているということと、「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」ということが、無視された前提として、話の最初にあるのだ。話の土台になっている。

言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論を考えた場合、各論のスタート地点のまえに、現実的な条件の無視と「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」という感覚がある。

「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」と、文にすると、違和感を覚える人がいるかもしれないけど、「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」という前提は、すべての論に影響を与えている。

特に、サブルーチンのなかに出てくることに影響を与えている。ものすごく、いいことを言っているように思える場合でも、「生きるためには、奴隷労働をしなければならない」という前提が横たわっている場合がある。

その感覚があるんだよ。

だから、けっきょく、どの理論をとっても、「がんばればいい」ということになる。

まあ、たとえば、言霊理論の場合は「できるできると言って、がんばればいい」ということになるわけだ。言霊理論が正しいなら、別にがんばらなくてもいいのである。

言えば、それで、問題を解決できる。

だから、ほんとうは、「言えば言ったことが現実化する」ということから、「できるできると言って、がんばればいい」ということが出てくるのはおかしなことなんだよ。

けど、たいていの言霊主義者は「おかしい」と思わない。

ぬけぬけだからだ。

2026年6月1日月曜日

●「普通の兄貴」がやっていることのギャップがひろがる■騒音※2026/06/01 7:03

じつは、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」というのは、妄想的な前提なんだよ。この前提が正しいなら、「なおる」と言えば、なおるんだよ。

ところが、多くの言霊主義者は、自分の歯がいたくなったら、歯医者に行くのだ。

「なおる」と言ってなおそうとしない。「なおる」と言ってなおそうとした場合だって、実際には、なおらず、歯が相当にダメになる。

けど、人には「言霊は絶対だ」「なおると言えばなおる」と豪語してゆずらない。ゆずらないんだよ。歯の痛みに関しては、多くの人が経験したことがあるいたみなんだよ。

もちろん、経験したことがない人だっている。

けど、経験したことがある人のほうが、多数派だ。

だから、わかる。しかし、「きちがい家族によるしつこい騒音」となると、経験者がぐっと減る。うちの兄貴のやり方が、きちがい的なほど、理解者が減ってしまうのだ。経験者が減ってしまうからだ。

そうなると、自分が経験した「普通の騒音」のことを考えて、俺の騒音について、いろいろと判断することになる。きちがいヘビメタ騒音がずっと続くのであれば、働けない体になる。

ところが、ほかの人は、そんなに長い間、きちがい家族によるしつこい騒音」を経験したわけではないので、「普通の騒音」について考えて……「そんなことはない」と考える。

「関係がない」と考える。「影響がない」と考える。そうなると、俺がヘビメタ騒音のことについて、どれだけ説明したって「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言ってくることになる。

きちがい兄貴の程度が、普通ではないほど、そうなる。

きちがい兄貴が、きちがい的なことだわりで鳴らした騒音の程度が、普通ではない程度になる。「普通の人」にはわからない。

「普通の人」には、「普通の騒音」の経験しかないから、わからない。

どうして、そうなるのか、自分の体で経験したことがないから、わからない。自分の体で経験したことがないからわからないだけで、こいつらが言っていることが、正しいわけではないのだ。

けど、こいつらのなかでは、「自分は正しいことを言っているということになる。きちがい兄貴のきちがい的な感覚がひどければひどいほど、ギャップがひろがるのである。

普通の人は、普通の兄貴を想像してしまう。だから、普通の兄貴が鳴らすような騒音でしかないと思っているのだ。ところが、普通の兄貴が、一日に一秒だって鳴らさないような騒音を鳴らしているのである。だから、実際にきちがい兄貴がやっていることと、普通の人が思い浮かべる「普通の兄貴」がやっていることのギャップがひろがる。

そして、これは、「影響の差」でもあるのだ。きちがい兄貴のやり方が、きちがい的にしつこければ、普通の人が思っている「騒音の影響」と、ぼくが実際に体感した「騒音の影響」のギャップがひろがるようになるのだ。

普通の人は、言霊主義者のように、「できると言えばできる」とか「できないというからできないのだ」とかというようなことを、付け足すことはない。

けど、普通の人の認識というのは、言霊主義者の認識とおなじなのだ。ようするに、普通の人は、ほんとうに、「そんなのは影響がない」と思って、「影響がない」と言い、「影響があると言っているエイリはあまえているだけなんだ」と言うわけだ。きちがい兄貴の、きちがいにしかできない「無視」というのが、これがまた、こたえるのだ。

よその人は、理解しないわけ。けど、よその人よりもずっとずっとずっとずっと、理解していないのが、きちがい兄貴なのだ。普通の人だったら、絶対にあんな音で、鳴らさないんだよ。普通の人だったら、どれだけ、思いっきり鳴らしたくても、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、あれだけの音で鳴らすということはないんだよ。

でっ、これが、親父の異常行動とおなじで、よその人には、理解できないことなんだよ。だから、「そんな音で鳴らしているわけがない」「そんな音で鳴らしているのに、ほかの家族が文句を言わないなんておかしい」と思って、ぼくが言っていることは、嘘だと判断する人たちが出てくる。

この人たちは、ぼくのすべての発言に対して、「嘘を言っている」と判断するようになるので、めちゃくちゃにいやな存在になる。

これも、本気で、「エイリは嘘を言っている」と思っている人にとっては、当然の行動であって、悪い行動ではない……ということになっている。

だから、絶対に反省なんてしない。つねに、意地悪な解釈をして、「ずれたこと」を言ってくるということになる。「ずれたこと」というのは、ぼくが嘘を言っているという前提で、相手がぼくの言ったことを、解釈した場合の「ずれたこと」なのだ。

これが、悪質なんだよ。「ぼくの言ったこと」というのは、ヘビメタ騒音に関することも、ヘビメタ騒音が関係ないことも、すべてが対象になるんだよ。こいつらの「推論」は間違っているのだけど、こいつらが、間違っているということを、認めることは、ほとんどない。

どうしてかというと、ぼくが「嘘を言う人間だ」という前提で、ぼくの言うことを聞いているからだ。きちがい兄貴のずれが大きければ大きいほど、きちがい親父のずれが大きければ大きいほど、ぼくが嘘を言っているということになってしまうのである。

これが、どれだけつらいか、ほかの人たちは、わかっていない。こういう人たちだって「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言えるのだ。

だから、「そんなのはなんでもない」という連想が働いてしまう。騒音について、同質化・同量化してしまうのは、ヘビメタ騒音の話を信じている人も、信じていない人もおなじだ。

信じていない人の場合は「もし、それが本当だったとしても」という仮定の前提が付け加わることになる。けど、これは、感覚として成り立っているものなので、エイリが嘘を言うという前提でも、考えることができるわけ。

ようするに、エイリが嘘を言う人だという前提を崩さずに、「たとえ、ほんとうに、エイリが言っているように、鳴っていたとしても」そんなのは関係がないと思ってしまうわけ。

「エイリが嘘を言っている」と思った時点で、そういう人間だと、ぼくを見下しているので、簡単に「たとえ、ほんとうに、エイリが言っているように、鳴っていたとしても、そんなのは関係がない」という気分的な意見が成り立ってしまう。そいつらのなかに、成り立ってしまう。

●「自分が気にしても、しかたがないことは、気にしないようにする」■言霊※2026/05/27 6:27

『どうせ、普通の人はぬけぬけだから、矛盾するメッセージを出しても、矛盾を感じないだろう』という思いが、洗脳計画者にはあると思う。

たとえば、「言えば言ったことが現実化する」というメッセージを出したとする。言っただけで、言った内容が現実化するのだから、ものすごいことだ。

条件なんか、関係なく、だれもが、現実をかえることができるのだ。現実をつくりだすことができるのだ。まさしく、夢のようなスーパーパワーだ。スーパーマンにだって、こんな能力はない。神に匹敵する能力だ。物理法則だって、自由に変えることができるのだから、すごい。

ところが、もう一方で、「自分ができることだけに注目すればいいのだ」というようなメッセージを出す。これは、小市民的な価値観を醸成する。

「自分がかえられないことには、関心なんて、持たなくてもいい」という政治家側からすれば、すごくいい価値観だ。

世の中にはいろいろな問題がある。自分がかえられるような問題かどうかということを考えた場合、自分がかえられないような問題である場合が多い。そういう、自分がかえられないことで、自分の気持ちを乱すのはよくないという考え方だ。

だって……「どうせ、なにをしても、かわらないのだから、考えるだけ無駄だ」ということになる。時間がもったいないし、自分が心配してもしかたがないことを心配したことで、憂鬱な気分になる必要はないという考え方だ。

けど、おかしいと思わないか。

「言えば、言ったことが現実化する」のだろ。言えば、簡単にかえることができるじゃないか。

なんで、言うことでかえようと思わないのだ。

「言霊は絶対だ」なんて言っているやつだって、「自分がかえられないことを考えて、気持ちを乱す必要はない」なんてことを言う。

「言えば、言ったことが現実化する」なんて言っているやつだって「自分が気にしても、しかたがないことは、気にしないようにする」なんてことを言う。

いやーー。矛盾しているでしょ。

「言霊は絶対」なのであれば、言うだけで、かえられるはずだ。自分だけではなくて、だれもが、そういうパワーをもっているということになる。

言葉に、すごい言霊が宿っているのだから、言いさえすればいい。

そうすれば、なんだって、かえられる。

自国の政治、他国の政治、全部、言うだけでかえられる。

なんで、「自分には、自国の政治、他国の政治をかえる力がない」と考えるのだ?

「言うだけで、かえられる」という価値観と「自分がかえられないことには、関心を持たなくていい」という価値観が、同居しているのだ。

おかしいだろ。

けど、「ぬけぬけ」だから、気にしない。

そのとき、そのときで、気分がちがう。

そのとき、そのときで、言っていることが一八〇度、ちがっていても、特に気にしない。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。