2026年7月31日金曜日

●影響を受けないように暮らすなんてことは無理なんだよ■騒音※2026/07/31 23:09

長期ヘビメタ騒音で、ほんとうに、人からいろいろと疑われたり、悪く思われたりすることが多かった。長期ヘビメタ騒音で……親戚とも、関係が切れている。もっとも、あっちは、長期ヘビメタ騒音が原因だと思っていないだろうけど。

思っていなかったのだけど、親父が、俺のことを……。親父が悪いやつで……ヘビメタ騒音のことを、かくして、俺が(その親戚の人たちをバカにしている)とか、俺が(その親戚の人たちをきらっている)とかということを、親戚の人たちに、吹き込んだのだ。

こんなの、やる人いると思う?

やる親がいると思う? 思わないよなぁ。

こういうこと、(親父は)しやがるんだよ。長期騒音だって、長男がでかい音で鳴らしていたのだから、親父は、注意すべき立場なんだよ。

ところが、そういうことも、まったくわかっていないやつなんだよ。

俺が(その親戚の人たちをバカにしている)とか、俺が(その親戚の人たちをきらっている)とかということを、親戚の人たちに言ったのは、自分がよく思われたいからなんだよ。

俺……自分の息子をさげて、自分がいい思いをしたいわけ。息子のことを悪く言うと、自分の総体的な評価があがると思っているわけ。

自分が(俺に比べて)いい人だと思われるというようなことを考えて、わざわざ、そういうことをするんだよ。

これ……。ヘビメタ騒音で大学を落ちまくっていたから、親戚とあわせる顔がなかったんだよ。 

親父が死んだときに、ネズミのことを話しているうちに、このこと……親父が俺のことを(親戚の人たちに)悪く言っていたということが、発覚した。

最初、ネズミのことを話したときも、親戚の人たちが「そんことは、ないだろう」「嘘言っているんじゃないか」と思ったわけ。それで、兄貴の嫁さんに電話をかけて、「ネズミの話は本当なのか」ということを、親戚の人たちが、訊いたわけ。

兄貴の嫁さんだって、ネズミのことを話したときは、俺が、嘘を言っているんじゃないかと思ったわけ。

「そんなことがあるわけがない」と思ったわけ。

ところが、そうなんだよ。

粗大ごみの人たちには、親父が認知症になって、こういうことになった(ネズミの糞が部屋中にころがっているような状態になった)ということを説明したわけだけど、ほんとうは、認知症になるまえから、こういう性格だったわけ。原因は認知症じゃないんだよ。原因は、性格なんだよ。

むかしっから、親父はそうなんだよ。

なまごみの袋を、俺が頼んでないのに、「物置においてやるおいてやる」と言って、聞かなかった。そうしたら、ネズミが、物置に、出入りするようになった。そういう、「前置き」があるわけ。

医者から、「魚の食べたほうがいい」と言われて、粕漬の魚を食べるようにしたのだけど、医者は、まさか、親父が、一日に二三(にじゅうさん)時間、テーブルの上に粕漬の魚を出しておくことにこだわるということは、想定していないわけ。

じつは、ネズミ事件の八年ぐらい前にも、モツ鍋事件があった。

これも、医者に「モツを食べたほうがいい」と言われたらしくて、 モツを食べることにしたのだけど、もうすでに、できあがっている状態のモツ鍋を、何時間も、煮詰める必要なんてないわけだよ。

チューブ系パックで、もう、あっためればいいだけのモツ鍋(セット)を買っているわけだから、何時間も煮込む必要なんないわけ。

しかも、モツ鍋を煮詰めるときは、かならず、レンジのまえから離れて、庭に出て、庭の手入れをしてしまう。雑草をとったりすることだ。だから、モツ鍋が頻繁に、灰になっていたわけ。

「もう、できあがったモツ鍋パックなのだから、煮込む必要はない」ということを、親父にどれだけ言っても、親父が聞かないで、煮込むことにこだわり続けて、煮込んだ。

そして、煮込むときは、頻繁に外に出てしまうので、モツ鍋が灰になった。肺にならなくても、もう、できあがっているモツ鍋を煮込み続けると、部屋中がくさくなるんだよ。

このときも、きちがい親父がこだわってこだわって、自分のやり方をかえない。このときも、「くさないよぉ」「くさないよぉ」「くさないよぉ」「くさないよぉ」「くさないよぉ」「くさないよぉ」と絶叫して、「くさい」という基本的なことを認めない。

この、くさくなっているいるのに、絶対に認めない態度というのは、兄貴の態度と似ているのだ。兄貴は、ヘビメタ騒音を、ものすごくでかい音で鳴らしていたのに、きちがい親父のように、ものすごくでかい音で鳴らしているという「基本的なこと」を認めない。

兄貴は、「でかくないよぉ」「でかくないよぉ」「でかくないよぉ」「でかくないよぉ」絶叫しなかったけど、おなじなのである。

頭のなかで起こっていることが、おなじなのである。

ごく基本的なことを、絶対の意地で認めないのだ。そして、やり通してしまう。これが、どれだけ、頭にくることか、よその人は、知らない。こんなの毎日、やられて、黙ってられるわけがないだろ。だから、言うわけだけど、きちがい頭で押し切って、毎日やりきるのである。

で、よその人は、この「きちがい頭で押し切って、毎日やりきる」ということが、わからないのである。そして、やりきっているなら、でかい音で鳴らしているという自覚があるのだろうと思ってしまう。

ネズミの話も、ヘビメタの話も「そんなのは、嘘だ」と思うやつが、一定数いる。こいつらに、俺が疑われて、どれだけ不愉快な思いをしたか、わからない。

こういうことが、日ごろの鬱感情や、日ごろのやる気に影響を与えるんだよ。

それなのに、よそのやつは「そんなのは、気にしなければいい」とか「(お父さんだって)ちゃんと言えば、わかってくれる」というようなことを言う。

これだって、ほんとうに、きちがい親父並みに、無理解ぶりを発揮した発言なんだぞ……。ほんとうは……。しくみがちがうけどね。しくみがちがうんだよ。

そして、こういう発言以外、こいつらは、俺に迷惑をかけているわけではないんだよ。こいつらは、経験がないからわかっていないだけなんだよ。

だから、兄貴や親父とは、しくみがちがう。よその人は、兄貴や親父のようなのう回路をもっていない。普通の人たちなのだ。

普通の人たちが、信じないようなことを、きちがい兄貴ときちがい親父が、きちがい的な意地でやりやがるのだ。

そうすると、自動的に俺が、疑われることになる。

そして、よその人たちは、やられていないから、やられたときの不愉快な感覚がわからないのである。

これ、やられてみればわかるんだよ。みんな、不愉快になるんだよ。ようするに、よその人はやられていないから、信じないだけで、もし、自分自身がおなじことをやられたら、不愉快になるということがわかるはずだ。

しくみはちがうけど、「関係がない」「たいしたことはない」「影響はない」と考えるのは、きちがい兄貴と、きちがい親父と、よその人でおなじなんだよ。 

よそのやつらはよそのやつらで、どれだけ、ヘビメタ騒音の影響を受けるか、まるでわかっていない。

こんなのどれだけ、影響を受けないようにしても、影響を受けるのだよ。

それが、よその人にはまったくわからないのだ。

だから、よその人も、親父や兄貴のように、ヘビメタ騒音の影響を無視する。無視するということになる。

影響……あるよ。どれだけ、気にしないようにして暮らしても、気になる。どれだけ、影響を受けないように頑張って暮らしても、影響を受けまくりなんだよ。

どうしてかというと、何時間も何時間も、至近距離で、激しい音が鳴っているからだ。よそのうちでは絶対に鳴っていないような激しい音が、至近距離で鳴っているからだ。よそのうちでは絶対に鳴っていないような激しい音が、至近距離で鳴っているから…… 影響を受ける。

これ、影響を受けないように暮らすなんてことは無理なんだよ。

ところが、言霊主義者は、言えば、ヘビメタ騒音の影響を受けないで暮らすことができると思っている。言霊主義者は、言えば、ヘビメタ騒音の問題が解決すると思っている。

いちおう、言っておくけど、よその人たちの理解度なんて、言霊主義者の理解度とおなじだ。

約一〇割の人が、ヘビメタ騒音の影響を無視するのである。「たいした問題じゃない」と考えるのである。

ところが、強烈に身体や精神に影響を与える問題なんだよ。

これ、も、ほんとう、に、腹が立つ。

●勝手な推論をして、「影響がない」と思っているだけ■騒音※2026/07/31 2:26

今度は、不安になって眠れない。なんか、すごくいい知らせが欲しいよなぁ。これ、不利すぎるだろ。あーあ。ほんとう、人によって、ぜんぜんちがうんだよなぁ。人並みの勉強環境、人並みの受験環境があればなぁ……。ほんとうに、くるしい人生だった。

ヘビメタ騒音が、関係、ないわけがない。ヘビメタ騒音が、影響、ないわけ、ない。ほんとう、ふざけるな。勉強環境だけではなくて、きちがいヘビメタ騒音で、普通の体力と普通の睡眠を、なくした。

きちがいヘビメタ騒音で、普通に行動できる力と、普通に行動できる精神を、なくした。ほんとうに、ぜんぜんちがうのである。

きちがい兄貴が、ほかのひとにはわからない、独特のセンスで、ほかの人にはわからないことをやったのである。当然、ほかの人は、自分が経験したことじゃないから、細かい影響がわからない。

わかるわけがない。

ほかの人は、経験がないからわからないだけなのだけど、「影響がない」と言い切ってしまう。「過去は関係がない」というのも、「影響がない」ということの別バージョンだ。

「過去のことだから、そんなのは、影響がない」ということになってしまうのだ。こいつらの、頭のなかでそうなる。こいつらの頭のなかは、妄想的な断定で満ち満ちている。

経験がないから、わからないだけ。経験がないから、勝手な推論をして、「影響がない」と思っているだけ。

どれだけ、ひどいことになるか、わかっていないやつらが、勝手なことを言っているだけだ。けど、こいつらは、実際にやられたわけではないから、ほんとうに、関係がないのだ。やられたら、わかる。

けど、やられなかった。

だから、わからない。きちがい兄貴のような家族がいない人間は、きちがい兄貴のような家族が(実際に)いないから、きちがい兄貴がもたらしたような騒音は経験したことがないのである。

しかし、騒音は経験したことがある。だから、自分が経験した騒音をもとにして、兄貴のヘビメタ騒音について考えてしまう。そういうことでしかないのである。

やられていないから、そういうことでしかない。

やられたことがないから、そういうことでしかない。

それなら、気楽だ。勝手に、気楽に、「影響」を否定できる。勝手に、気楽に、「関係」を否定できる。

けど、こいつらは、間違っている。影響がないわけがない。関係がないわけがない。こいつらがわかっていないだけだ。

そして、きちがい兄貴もわかっていないのだ。きちがい兄貴のわからなさは、異常だ。ほんとうに、異常なんだよな。脳みその作りが、普通の人とは、ちがうのである。脳みその作りが、親父とおなじなのである。

そして、約四割の人は、こういうことがわからない脳みそなのである。だから、俺が嘘を言っていると思ってしまう。

さらに、約六割の人は、「影響がある」ということがわからない脳みそを搭載しているのである。

自分のことじゃないから、わからない。どんなことになるか、体でわかっていないから、わからない。自分が経験した騒音の範囲で騒音と言うものを考えるから、実際に「やられたら」どういうことになるかわかっていない。

どういう生活になるかわかっていない。影響のでかさがわかっていない。あらゆることとの関係がわかっていない。

関係がないわけがないだろ。

2026年7月30日木曜日

●最初から、間違った推論をしている■言霊※2026/07/30 20:12

もう、ずっと、説明してきたことなので、簡単に説明する。「元気だ元気だ」と言って、元気になったような感じがしたとする。

その場合、言霊主義者は「言霊の力によって」元気になったと勘違いしてしまう。「元気だ元気だと言えば、元気になるので、言霊の力は絶対だ」というようなことを言ってしまう。

「元気だ元気だと言ったら、元気になった」とする。

しかし、言霊の力で元気になったということは、どこから出てくるのだ?

中立的な状態で「元気だ元気だ」と言うと、言葉の力によって、元気だと感じる場合があるということしか、意味していない。

言葉の力というのは、この場合、自己暗示の力だ。

これも、言葉と元気な感覚との間に、連合ができあがっていなければならないのだ。

そして、元気だと感じた場合、それをもたらしているのは、体なのだ。体のしくみを通して、元気だと感じているだけだ。

ようするに、体のしくみをこえることを言ったって、言霊の力で、そうなるわけではないので、そうならないのである。

そして、たとえば「元気だ元気だと言えば、元気になる」という文も一〇〇%構文の文なのだ。「すべての、元気だ元気だということにおいて、元気だ元気だと言えば、一〇〇%の確率で(かならず)元気になる」ということが、「元気だ元気だと言えば、元気になる」という文の意味になってしまうのである。

「元気だ元気だと言えば、元気になることだってある」ということは、「元気だ元気だと言えば、元気になる」という文で表現できることではないのである。

言霊主義者だって、大きな病気をしているときは、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならない。

大きな病気ではなくても、ただの風邪だって、三九度の熱がでて、くるしいときは、「元気だ元気だ」と言っても、なかなか元気にならない。

熱が出るというのも、体のしくみでそうなっているのである。だから、これは、下げればいいというものではない。

しかし、たとえば、「三秒以内に、平熱にもどる」と言えば、もどるのかというと、もどらない(ことのほうが)多い。

最初から、間違っている。

問題なのは、「元気だ元気だと言えば、元気になるから、言霊はある」と思ってしまうことだ。

いやーー。

「元気だ元気だと言ったあと」「元気な感じがした」としても、それは、言霊があることの証明にはならないのである。

ところが、「元気だ元気だと言ったあと、元気な感じがしたから、言霊はある」と思ってしまう。「言霊があることを証明した」と思ってしまう。

こんなのはない。

最初から、理論的に間違っている。最初から、間違った推論をしている。

*     *     * 

「できると言えば、できる」と大の大人が言ってしまう。こんなのは、ひどい。 

●なによりも、なまなましい、現実だ■騒音※2026/07/30 16:14

何千日も、寝不足で、頑張っていた。そうするしかなかった。

それが、いまの状態に影響を与えている。

これは、ほかの人にとっては、どうでもいいことだけど、ぼくにとっては、現実なんだよ。

なによりも、なまなましい、現実だ。身体と世界の認識がある。脳みそを含んだ身体で、この世を認識しているわけ。

そして、現実に起きたことは、現実に起きたことだから、身体に影響を与える。現実に起きたこととは関係なく「うれしい」と言えばうれしいと感じるはずだという考え方が間違っている。

倒錯しているのである。

どうして、他人の経験を無視したことを言うのか?

何度も言うけど、それは、「うれしい」という言葉と、過去の出来事のあいだに、連合ができているから、中立的な状態なら「うれしい」と言うと「うれしくなったような気分がする」ということを意味しているにすぎない。

中立的な状態で「うれしい」と言ったということを、無視することはできない。

ところが、「うれしいと言えば、うれしくなる」という言い方になると、どんな状態でも、「うれしい」と言えば、うれしくなる……はずだという考え方が導入されることになる。

これは、間違った考え方だ。

けど、頭のなかに一度「正しい考え方」として「そういう考え方」が成り立つと、しばらくの間は、あるいは、ずっと、「そういう考え方は、正しい考え方だ」という認識が生まれる。

この認識は、じつは、間違った認識だ。

正しい考え方ではないからだ。

●いま、午前七時八分■騒音※2026/07/30 7:13

いま、午前七時八分。やっと、なまごみを、出せた。よかった。

けど、長期騒音の朝を思い出してしまった。

強烈にだるい。この状態で、動くというのが、きつい。こういう思いをしていた。毎日、こういう思いをしていた。それだけでも、ほんとうは、自殺案件なのに、きちがい兄貴が、まるで気にしないで、鳴らしてたんだよなぁ。

●いま、午前六時三五分■騒音※2026/07/30 6:42

いま、午前六時三五分。やばい。めちゃくちゃ、気持ち悪いけど、起きたから、ごみをまとめて出そうと思って、外に出たら、『青いカゴ』がまだ設置されていなかった。まじ、はきそう。相当に、やばいなぁ。

帰ってきて、すぐに眠るつもりだったけど、だめだ。待機する必要がある。もう、いやだ。

ちなみに『青いカゴ』というのは、カラス除けのための、青い網でできた箱のようなものだ。 

●いま、午前四時■騒音※2026/07/30 4:14

 いま、午前四時。やばい。あれだけ気をつけていたのに、眠れなくなった。

まったく、眠れない。このまま起きて、ごみを出せればいいけど、また、午前八時ぐらいにならないと、青いカゴが出てこないかもしれない。午前六時には、出てほしいのだけど……。それなら、なまごみを出せるのだけど……。

けど、大きくずれてしまったので、来週の歯医者が気になる。そして、長期ヘビメタ騒音のことについて考えていたのだけど、ほんとうに、ゆるせない気持ちになる。

ともかく、長期ヘビメタ騒音で、ぼくの人生がない。

これは、ぼくにとっては、でかいこと。過去のことじゃないんだよね。そのまま、現在のことだ。現在に影響を与えていることだ。

ずっと、影響を与え続けたことだ。これ、ほんとうに、ほかの人が考えているようなことではないのである。

喉がちょっと、いたい感じがする。これは、蚊取り線香を炊いてたときから、続いている。よくならない。もちろん、かわいてもいる。喉がかわいてもいる。

しかし、きゅーーーっと、不安になる。いままでのことを考えると、きゅーーっと不安になる。これ、長期ヘビメタ騒音の夜とおなじだ。

●意識は、自分がそうしているということを、認めない状態になっている■騒音※2026/07/30 0:25

もう、ほとんど、すべてのことに、やる気がなくなっている。薄いやる気しかない。

『なんとか、濃いやる気が復活してくれないかなぁ』と思う。

思っているのだけど、実際には、憂鬱になることが多く、つかれやすい状態で暮らしている。ヘビメタ騒音が鳴っている感じしか、しない。多くの人が無視する、きちがいヘビメタ騒音中の気持ちと、きちがいヘビメタ騒音後の気持ち……。

こんなの、わかるわけがない。

俺は、特別に、きちがいヘビメタ騒音がきらいなのである。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音がつもってつもって、俺の立場が悪くなった。

これ、ヘビメタ騒音がなかったとしたら、俺が勝手に、さぼっているだけに見えるのだよな。ところが、ヘビメタ騒音があった。この、きちがいヘビメタ騒音のやり方が、きちがいなのである。

みんな、兄貴の狂気がわかっていない。みんな、兄貴のきちがい感覚がわかっていない。

兄貴の感覚がわかっていないし、実際に、自分のきらいな音でやられたわけでもないので、わからないのだ。

そうなると、実際には鳴っていたのだけど、他人から見れば、「鳴っていないのとおなじだ」ということになる。。そして、これが奇妙なことなのだけど、きちがい兄貴が、その他人たちよりも、鳴らしたつもりがないのだ。

俺が、きちがい兄貴の騒音でこまっているということが、他人以上にわかっていないのだ。こんなの、ない。

ほんとうに、普通の人じゃない。普通の人なら、どれだけ、無視しても、わかることだ。ところが、きちがい親父とおなじで、きちがい兄貴にはわからないのである。

きちがい親父が竹を植えたとき、おかあさんに「いいだろ」「ほめてよ」と言ったことを書いたけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音終了後の気持ちというのは、「ほめてよ」という言葉を除けば、おなじなのである。

竹事件における親父の感覚が、そのまま、きちがい兄貴のヘビメタ騒音事件の感覚なのだ。ようするに、どれだけなにを言われても、「相手のことが」わからないのである。

おかあさんが、親父に、「竹を植えたら、ひどいことになるからやめて」「庭じゅうに、竹の根が伸びるからやめて」「隣の人に迷惑がかかるからやめて」と必死になって言っているのに、それが、まったくわからないのだ。親父が、ちょっとでも、竹の根が、地中で伸びるということを認めてしまったら、竹を植えられなくなってしまう。

それは、絶対にいやなのだ。だから、絶対に認めない。

そして、相手がこまっているということが、ほんとーーーに、ほんとーーーに、ほんとーーーに、わからないのだ。これ、無視しているとかじゃなくて、まったくわからない。どれだけ、なにを言われても、相手が言っていることがわからない。

自分の行為で、相手がこまるということが、わからない。

いちおう、わかって……わかっているけど、無視してやる切るということではないのだ。

親父がやっていることはそういうことではない。

どれだけ言われても、日本語がわかるのに、わからないのだ。相手のことが、きちがい親父の頭のなかに、まったく入ってこない状態になる。

どれだけなにを言われても、相手の状態だけは、まったくわからないままなのだ。認めたくないことは、どれだけ言っても、はねのけて認めないのだけど、意識的にはねのけて認めないようにしているわけではないのだ。

無意識的に、はねのけて、認めないようにしているので、はねのけて、認めないようにしているということ自体が、わからない。

親父の意識にのぼらない。親父がきちがい的な意地でやっていることなのだけど……はねのけて認めないということは、親父が、きちがい的な意地でやっていることなのだけど、意識は、自分がそうしているということを、認めない状態になっている。

自我は、自分がそうしているということを、認識していないのだ。

だから、全部が、すっぽぬけてしまうことになる。

これとおなじことが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に成り立っている。ほかの人がわかるわけがない。実際に、ほかの人は、自分がきらいな音を、あの至近距離で、あのでかさで、いっょに住んでいる家族に鳴らされ続けたことがない。

そりゃ、ちょっとはあるかもしれないけど、ぜんぜん、程度がちがうのだ。うちの場合は、程度がちがいすぎる。程度のちがいは、質のちがいになる。ぜんぜん、ちがう。

2026年7月28日火曜日

●恵まれた人が、恵まれない人をたたくための、道具■社会※2026/07/28 10:51

一見よさそうに思える?助言というのは、恵まれた人が、恵まれない人をたたくための、道具なのだ。

これ、ほんとうに、ひどい話なのだ。

そして、恵まれた人たちには、悪意がない。善意でやっていることだ。たいていの場合、善意でやっていることだ。

結果だけを見れば、恵まれない人は、下に置かれるようになるのである。結果だけを見れば、恵まれない人たちは、時間というリソースを削られ、体力というリソースを削られ、下のポジションに置かれることになる。

下のポジションに置かれれば、建前はどうであれ、ストレスを感じるのである。

しかし、そこで、ストレスを感じることは、悪いことだということになっている。

「人間ができていないから、ストレスを感じる」ということになってしまう。

あるいは、「こころがまえができていないから、ストレスを感じるんだ」ということになってしまうのだ。

言っていることが、わかるかな?

ほんとうは、関係がない「Xの不足」が原因だと言われる……。

「できない原因」や「ダメな原因」や「不幸な原因」だと言われる。

だから、Xを充足させる必要が出てくるのだけど、助言通りに、Xを充足させようとすると、必然的に時間というリソースを削られ、体力というリソースを削られ、下のポジションに置かれることになるのだ。

*     *     * 

一般人が、一般人に助言をした場合について、述べてきた。

ここには、金銭の受け取りがない。本というかたちであれ、セミナーというかたちであれ、金銭の受け取りがない。素人の一般人が、素人の一般人に、助言をした話だ。

しかし、これとは、別に、カネをとって、助言をする場合がある。この場合、恵まれないほうから、恵まれているほうに、カネが流れるということになる。恵まれている人から、恵まれない人におカネが流れるのではなくて、恵まれない人から、恵まれている人におカネが流れるのだ。

へんだとは思わないか?

Xの不足が原因だと決めつけることを、職業にしている人たちがいる。あるいは、副業にしている人たちがいる。本業は、経営者だけど、Xの不足が原因だと言って、副業をする人たちがいるのだ。メンター業?と言ったところか。

こまっている人たちは、ほんとうにこまっているのである。ものすごく、こまっている人は、ものすごくこまっているのである。

だから、こまっている人たちは、なんとかして、問題を解決したいと思っている人たちなのだ。

だから、「Xをすれば、すべての問題が解決する」というような言葉は、こまっている人たちにとっては、非常に魅力的な言葉になる。

*     *     * 

たまたま、いいことが起こったから、「この方法は、本物だ」と思う人たちがいるのだけど、もう、この時点で、「期待」がかかっているのだ。

わかるかな? 「この方法は、本物だ」と思う潜在的なエネルギーが高いのだ。ようするに、より、誤解しやすい状態になっている。

「儀式」と「いい出来事」の時間的な接近は、重要だ。「Xを充足させるための儀式」が、その人のなかで、重要なことになってしまうのである。

しかし、たいていの場合「儀式」と「いい出来事」のあいだには、因果関係はない。

たいていの場合……と書いておいたのは、儀式自体が、ある程度ストレス発散になり、有益なことである場合があるからだ。ならいいのではないかと思うかもしれないけど、いつでも、だれでも、ストレス発散になるわけではないのだ。

また、いつでも、だれでも、有益である実感が得られるというものでもない。たとえば、掃除が儀式だった場合、実際に、掃除をすると、きれいになるという実益がある。

しかし、これも、掃除をすることでトラブルが発生してしまう場合もあるし、掃除をすることで、身体がいたくなることもあるので、いつもいつも、かならず、「有益だという実感」が得られるわけではない。

「掃除をすると幸福になる」ということを信じている人が、掃除をして、さっぱりしたと思ったとする。掃除をするという儀式自体に、さっぱりする効果が、ある程度は、ある。

けど、これも、いつでもだれでも、かならず、そうなるというものではないのだ。つかれはてている状態で、掃除をしても、いい気分にはならず、つかれが増す場合もある。

「掃除をするとさっぱりして気持ちがいい」と、普通の状態で感じることができる人なのであれば、掃除という儀式のあと、快感を感じることができるので、掃除という儀式は有効だと思うのである。

けど、その人だって、気温四〇度のところで掃除をすれば、体にこたえる場合だってある。その人がきらいな音が、ガンガン鳴っている状態で、掃除をすれば、不愉快な気持ちになることだってある。

あるいは、粉塵が舞うところで、掃除をした結果、肺の病気になることだってあるかもしれない。原発作業員として掃除をした結果、なんらかの病気になることだってあるかもしれない。

「掃除をすると幸福になる」と一般化することはできない。

ようするに、一〇〇%構文の文で言うべきことではない。

*     *     *

おカネの流れに注目した場合、恵まれない人から、恵まれている人におカネが流れるのである。これは、重要だ。

おカネの流れがない場合も、恵まれた人が(より高い地位になり、快感を得る)ようになっている。おカネの流れがない場合も、恵まれない人が(より低い地位になり、不快を得る)ようになっている。しくみは、カネが流れる場合とおなじだ。 

2026年7月27日月曜日

●焦燥の念にかられる■騒音※2026/07/27 19:11

 歯医者行ってきた。長期ヘビメタ騒音のことで、焦燥の念にかられる。今朝の夢からして、長期ヘビメタ騒音時代の人間関係、そのままなんだよなぁ。

これ、騒音と人間関係と、関係ないように思う人が多いけど、ぜんぜんちがう。

人生全部が、きちがいヘビメタ長期騒音でくずれた。

まともな人生じゃない。

人間関係を考えても、焦燥の念にかられる。人生全部を考えても、焦燥の念にかられる。

ほんとうに、兄貴のところまで行って、殺したくなるなぁ。まあ、そんなことができるのなら、とっくにやっているけど……。あれを、気軽に、なにもしてないと思って、やり続けたわけだからな。

さんざん、言ったぞ。

きちがい兄貴があまりにも気ちがいだから、俺が嘘を言っていると思うやつらだっている。たくさん、いる。たくさんいる。

こいつらは、俺が嘘を言っていると思っているわけだから、俺がきちがい兄貴の悪口を言っていると思っているのだ。

実際には、きちがい兄貴が、俺が言っているような音のでかさで、鳴らしていなかったにもかかわらず、俺が、兄貴がこれこれこういう音のでかさで、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしていた……と言っているということになる。こいつらのなかでは……そうなる。

俺が、妄想で、きちがい兄貴の悪口を言っていると(こいつらは)思っているのだ。

それ自体が、俺に対する侮辱なんだよ!!

そして、それを口に出したとき、俺の悪口を言っているということになる。こいつらは、俺が兄貴の悪口を言っているという……悪口を言っている。

俺の悪口を言っている。

こいつらも、言霊主義者とおなじで、どれだけ説明しても、認めようとしないのだ。こんなやつばかりだ。

●「騒音」「苦労」……どっちもちがう■騒音※2026/07/27 13:00

 みんな、無視しているけど、あんな生活が毎日、十数年間、何十年間続いたら、そりゃ、「楽しい気持ち」がなくなる。これを理解しないやつが、どや顔で「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と断言する。そして、「俺だって、苦労した」と言いやがる。こんなの、ない。

きちがい兄貴が押しつけてきたもの……について、考え違いをしているのだ。

「騒音」「苦労」……どっちもちがう。……ちがうのだ。

こいつらの中に入っている「騒音というもの」……こいつらの中に入っている「苦労というもの」……ぜんぜんちがう。

ぼくが経験した「騒音」と、ぜんぜんちがう。

ぼくが経験した「苦労」とぜんぜんちがう。

「楽しい楽しい」と言っただけで楽しくなるようなやつが経験した「苦労」なんて、「苦労」のうちに入らない。なにを言っているんだという気持ちになる。 

●自分の条件も相手の条件も無視する言い方

「努力をすれば成功する」ということについては「カルト的な要素がまったくない」ので、正しいと思っている人がいるかもしれない。

しかし、「努力をすれば成功する」という文における「努力」というというのは、言霊理論における「言霊」のように、カルト的なタームになっているのである。

まず、「努力をすれば成功する」という文は一〇〇%構文の文になっている。

だから、「すべての努力をするということにおいて、努力をすれば、一〇〇%の確率で成功する」という意味になる。これ以外の意味にはならないのである。

「努力をすれば成功する」という文は「努力をすれば成功することもある」という意味にはならないのである。

そして、努力をするということの意味が、一意には決まらないのである。

そして、「努力をしたかどうか」というのは、だれが決めるのだという問題がある。これは、一意には決まらないという問題と直結した問題だ。

ある人がいたとする。Aさんだとする。Aさんが、努力をしたのに成功しなかったとする。その場合、「努力をすれば成功する」という文は間違っているということになる。

だって、努力をしたのに成功しなかったのだから、努力をすれば成功するという文は間違いだということになる。

しかし、この世界のなかでは、Aさんは「努力の方向が間違っていた」とか「努力がたりなかった」と言われることになる。

あくまでも、一〇〇%構文の文である「努力をすれば成功する」という文が正しいと言い張る人たちが出てくる。

この人たちは、一〇〇%構文の文で言っているということと、努力をするということが一意に決まらないということを無視している。

努力をしたのに、努力がたりなかったから、成功しなかった……。正しそうに見えるけど、正しくない。努力不足の努力をするという集合は、努力をするという集合の中に含まれているのである。内包されているのである。

なので、どんな努力であれ、努力をすれば、努力をしたということになる。こっちが、正しい考え方だ。だから、どんな努力であれ、努力をすれば、成功するということになる。もし、成功しなかったなら、その人の努力不足ではなくて、「努力をすれば成功する」という文の意味内容が間違っていたということになる。

まあ、努力をするということの内容が、一意には決まらないのでなにを言っても無駄だ。

ともかく、努力論における『努力』というタームは、なんとでも言える要素を含んでいる。

もう、まえに書いたので、ここでは省略するけど、努力論における努力というタームは、カルト的な意味をもつタームなのである。

ここで言いたいのは、「自分は努力をしたら成功したから、努力をすれば成功するという文は正しい」と思っている人たちが増えると、言霊理論とおなじように、社会が、より悪くなるということだ。

これ、よくなるのではなくて、悪くなるのだ。しくみは、おなじだ。 

*     *     * 

AさんがBさんに「努力をすれば成功する」と助言したとする。この場合、Aさんは、自分の条件を無視している。そして、Bさんの条件も無視している。

「努力をすれば成功する」という言い方自体が、自分の条件も相手の条件も無視する言い方だからだ。

普遍的な法則のように言うけど、ぜんぜん普遍的な法則ではないのである。Aさんの場合は、Aさんの遺伝子的な条件やAさんが生まれた家という条件が、あたえられている。

これをAさんがどの程度理解しているかどうか、わからないけど、重要な条件なのである。たいてい、所与の条件は、本人にとってあたりまえの条件なので、無視されがちなのである。

ところが、人によって所与の条件がちがうのである。

条件が『成功するかどうか』という結果に大きな影響を与えているので、「努力をすれば成功する」と、あたかも普遍的な法則が成り立っているような印象を与える言い方は、よくないと言える。

Aさんがまあまあ、貧乏な家に生まれたとする。Bさんもまあまあ、貧乏な家に生まれたとする。しかし、Bさんの兄が、ヘビメタに凝って、爆音で、鳴らすということをし始めたとする。Bさんの兄が、きちがい的な意地で長時間、毎日、ヘビメタを鳴らすということが続いた結果、Bさんには、睡眠障害が生じたとする。

その場合、Aさんがまあまあ貧乏な家の出身で、Bさんがまあまあ貧乏な家の出身だとしても、ぜんぜんちがう状態で暮らしているというとになる。

Aさんは、勉強をしようと思えば、騒音の影響がない状態で普通に勉強することができたとする。「貧乏でも、努力をすれば成功する」と一般化したとき、騒音という要素(条件)は無視されてしまうのである。

実際に、Aさんが、成功できたとしても、「努力をすれば成功する」と一般化してしまうことには、問題がある。

そして、『成功』の内容も、一意には決まらない。『成功する』ということの内容も一意には決まらないのだ。

「普通に働くことに成功した」「まるまるという会社で一〇年間働くことに成功した」ということだって、文脈によっては『成功した』ということになるのである。

Aさんは、Bさんが失った基本的な体力を失っていないので、「社会人として三年間働くことに成功した」とする。条件がちがうのである。

Bさんは、兄のヘビメタ騒音によって、基本的な体力を失ったとする。そうすると、三年間、通勤するということができなくなる。

Aさんが「俺だって苦労した」「俺だって朝はつらい」と言えば、それで、AさんはBさんと同質・同量の苦労をしたというとになってしまう。あくまでも、Aさんのなかではそうなるということだ。

Aさんには、Bさんにはあった、兄の騒音という条件がない。この条件がちがうから、通勤できるかどうかの差ができる。

しかし、Aさんは、「努力をすれば社会人として三年間働くことに成功する」と思っている。思っているから、Bさんに「努力すればいい」ということを言う。

こういうことが繰り返されてしまう。

Aさんは、Bさんの条件を無視しているということに、気がつかない。そして、一〇〇%構文の文で、言っているということに気がついていない。

いろいろなところに、トラップがあるのである。

●世間のやつらも「ひどいことを言ったつもりがない」■騒音※2026/07/27 10:28

ともかく、長期ヘビメタ騒音で、ボロボロなんだよ。これ、ボロボロにならないはずがない。

ところが、世間の人は「そんなのは関係がない」「そんなのは、自己責任だ」「そんなのは、影響を与えない」「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言う。世間のやつらが、ひどいことを言ってくる。

しかも、世間のやつらも「ひどいことを言ったつもりがない」のだ。

こんなの、ない。

みんな、正しいことを言ったと思っている。こんなの、ない。

あれを経験してみろ。

一日だって、わかる。

次の日、どんな状態になるかわかる。

あんなの、きちがい兄貴が、知らんぷりで、やりのけて、いいわけがない。よくない。

ほんとうに、ひどい状態で暮らしていた。

毎日続く……ということの意味がわかっていないやつらが「俺だって苦労した」と普通のことをあげて、せめてくる。せめてくる。せめてくる。

こんなの、ない。

●「なにかをしたことになっていない」■騒音※2026/07/27 0:34

きちがい兄貴も、きちがい親父も、俺が孤立するように……孤立するようにと……きちがい感覚で、きちがい行為をする。……きちがい感覚で、きちがい行為をし続けた。どれだけ言っても、やめてくれなかった。

しかも、きちがい感覚で、なにもしていないつもりなのである。まったくなにもしていないという認知・認識なのである。その陰で、俺がどれだけ、こまったか。

きちがい兄貴に、勉強することを邪魔されて、ほんとうにこまったよ。

これも、孤立する原因のひとつだ。

勉強云々と言っているときは、勉強にフォーカスがあっているので、勉強のことだけになってしまうけど、勉強を邪魔しているあいだだって、勉強を邪魔しているだけではないのだ。

体力と精神力を削っている。

きちがい兄貴ではない『他人』なら、絶対にわかることが、きちがい兄貴にはわからないのだ。この、わからなさ……が、病的なのだ。

でっ、よその人は、この病的なわからなさが、わからないのである。だから、俺がはさまれることになる。そういうことの繰り返しで、いいわけがない。精神が、すさまないはずがない。

精神が、ボロボロにされる。

体も精神もボロボロにされた。

けど、「なにかをしたことになっていない(なにもしなかったことになっている)」のである。きちがい兄貴は、まったくなにもやったつもりがないからな。

どれだけ、言われたって、俺が騒音でこまっているというとを、きちがい親父のように、認めない。きちがい兄貴が、きちがい親父のように、認めない。自分がやっていることで、弟がこまっているということを、おかしな頭の構造を使って、認めない。

この「認めない」というのも、へんなんだよ。

普通の人が「認めない」ときの、「認めない」方法で認めないわけではないのだ。兄貴は、普通の人が「認めない」方法で、「認めない」わけではない。

最初から、どれだけ言われても、わからないままなのだ。

これがおかしいのだけど、きちがい兄貴は、そうなっている。きちがい親父もおなじ構造をもっている。ヘビメタ騒音を全身全霊でやりきって……やりきったのに、やりきったということを、まったく認めない。当然、自分が鳴らすヘビメタ騒音で、弟がこまっているということは、命がけで、認めない。全身全霊で、認めない。認めない。

何度も言うけど、「この、認めない」というのが、おかしいのだ。普通の人の「認めない」状態じゃない。ぜんぜん、ちがう。兄貴が規格外なのだ。

そうなると、ぼくが、へんな人のように、思われるのである。普通の人が、兄貴のへんな認めなさを、認めないので、ぼくが、へんな風にうたがわれるのである。

しかも、うたがっているほうは、「エイリの兄貴」のへんな認めなさを認めていないという認識がないのだ。

ようするに、一般人……普通の人は、兄貴がへんな人だということがわかっていない。

普通の人は、兄貴の態度がわかっていない。普通の人は、兄貴の脳みそのしくみがわかっていない。普通の人は、兄貴の、感覚がわかっていない。

*     *     * 

きちがいヘビメタにたたられていると、どれだけ誠実に努力しても、だめなのだ。

それから、いまもそうなんだけど……まさしく、いまもそうなんだけど……日時を決められると、眠れない状態になる。

これが、地獄なのだ。けど、これ、きちがいヘビメタが、午後四時から鳴っていて、数時間、ヘビメタ騒音にずっとさらされると、眠れなくなる。誠実な性格でも、遅刻するようになる。

けど、遅刻をしたら、「ヘビメタ騒音で眠れなかった」と言っても、ほかのやつは「そんなのはいいわけだ」と言うわけだ。

そして、「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんはしずかにしてくれるはずだ」という前提で「お兄さんに言えばいい」と言ってくる。

これだって、地獄だ。

誠実だから、時間に遅れてはいけないと思って、緊張度が増すのである。

そうすると、ただでも眠れないのに、余計に眠れなくなるのである。きちがいヘビメタがなければ、こういう不安が、そもそも生じないのである。

実際に、きちがいヘビメタがなかったときは、こういう不安がなかったのである。だから、ヘビメタ騒音が鳴っているから、そういう不安が生じるようになったのである。

そして、この「時間に遅れないようしなければならない」という意識と、きちがいヘビメタ騒音にたたられているときの体の状態の相性が悪いのである。

この「時間に遅れないようしなければならない」という意識と、きちがいヘビメタ騒音にたたられたあとの体の状態の相性が最悪なのである。

どれだけ、睡眠回路がくずれるか、ほかの人はぜんぜんわかっていない。

どれだけ、不安な気持ちになるか、ほかの人は、ぜんぜんわかっていない。

ともかく、きちがいヘビメタ騒音が鳴らなかった場合の人生をかえしてくれ。

ともかく、きちがいヘビメタ騒音が鳴らなかった場合の人間関係をかえしてくれ。

きちがい兄貴よ。ともかく、きちがいヘビメタ騒音が鳴らなかった場合の人生をかえしてくれ!!

けっきょく、親友のとの関係も、友達との関係も、ヘビメタ騒音が破壊した。これ、他人だから……親友や友達は他人だから……実際にぼくとおなじ生活をした人たちじゃないから……やっぱり、わからないのである。

わからない。

まあ、きちがいヘビメタ騒音に、六年間、毎日やられた時点で、ぼくの人生は終了している。あがいて生きてきたけど、それは、興奮と緊張を強いるものだった。

これ、興奮と緊張が、鬱感情を育てる。これ、興奮と緊張が、睡眠回路を破壊する。

誠実でなくても、きちがい騒音によって、睡眠回路は破壊されるけど……。

……これ、ほんとうに、ほかの人には、「全過程」がぜんぜんわからないんだよな。

わからない。

他人は、別の個体だから、実際にぼくの身の上に起こったことがわからない。ぼくとは別の個体だから、ぼくが経験したことがわからない。

経験がないことだからわからない。 こいつらにとっては「そんなのは関係がない」と言えてしまうことなんだよ。やられてないから、言えるだけなんだけど、言えてしまう。

これが、どれだけくやしいことか、こいつらは、わかっていない。ぼくにとって、どれだけくやしいことか、こいつらはわかっていない。

そいつらが、くちをそろえて「自分だって苦労した」「自分だってつらい思いをした」と言う。

ぜんぜん、わかっていないのである。

*     *     * 

ともかく、「そんなのは関係がない」と言うやつと、きちがい兄貴の無理解ぶりは、似たようなところがある。ヘビメタ騒音の影響を認めないということにおいては、こいつらときちがい兄貴でおなじなのである。

もちろん、こいつらは、張本人ではない。騒音の張本人ではない。

実際に、鳴らした人物ではない。

だから、ぜんぜんちがう。

きちがい兄貴とは、ぜんぜんちがう。きちがい兄貴とは、その点では、似ていない。

しかし、「ヘビメタ騒音の影響を無視する」という点においては、おなじなのである。

2026年7月26日日曜日

●自分にできないことを、他人には、要求する人たちが増えてしまう■言霊※2026/07/26 9:18

ほんとうは、自分だって、おこっているときは、どれだけ「うれしいうれしい」と言ったってうれしくならない人たちがいたとする。

この人たちを「ぬけぬけの人」と呼ぶことにする。

「ぬけぬけの人たち」のなかには、「絶対に、言えば言ったことが、(言霊の力によって)現実化する。これは正しい」と思っている人たちがいる。

けど、直前の出来事によって、「なまの感情」が「本人のなかに」発生しているときは、言葉で(自分の感情を)言い換えることができないのである。言うことで、自分の感情を書き換えることができないのである。

こういう人たちが増えると、どうなるかというと、自分のことは棚に上げて、ほかの人に、無理なことを言う人たちが増えてしまうのである。

自分にできないことを、他人には、要求する人たちが増えてしまうのである。

こういう人たち……ぬけぬけの人たちが、増えてしまうと、その分、社会は住みにくくなるのである。「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということが、正しいなら、社会はよくなるのである。

ところが、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということが、正しくないので、社会は、住みにくくなるのである。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化するから、言えばいい」というのは、一見、いい助言に見えるけど、じつは、有害な助言なのである。

まあ、助言ですらないのだけど、言っている本人は、助言しているつもりなので、それにあわせて、助言と言っておく。

ともかく、もともと、本人だってできないことを、ほかの人に押しつけるための言葉になっているのである。

「言霊」に関する思考は、本人にだってできないことを、ほかの人に押しつけるための思考になっているのである。

「ぬけぬけの人」が増えれば増えるほど、まわりの人が、生きにくくなってしまうのである。「ぬけぬけの人」が増えれば増えるほど、条件が悪い人が、生きにくくなってしまうのである。

もともと不利な条件で、立場が低い人は、立場が上の人が、「ぬけぬけの人」だと、非常に苦労するということになってしまうのである。「ぬけぬけの人」は……自分のことは棚にあげて「無理なことを言ってくるようになる」からだ。

ともかく、「ぬけぬけの人」を増やすような行為は、一切合切やめるべきなのである。

社会において言霊理論が正しいということになっていると、悪意なく、ほかの人に無理なことを押しつけるということ、横行するようになる。

2026年7月25日土曜日

●どんなに頑固な言霊主義者だって、そんな生活はしていない■言霊※2026/07/25 13:29

 言霊主義者だって、なまの感情がある。なまの感情は、それまでの「解釈」の体系と、実際の出来事によって、大半は、決まってしまうのである。

実際の出来事は、記憶に残り、解釈の体系にある程度の影響を与える。ものすごく影響を与えるときだってある。

たとえば、言霊主義者が、言霊理論を否定されたときは、怒りのような感情がわくのである。不愉快だと思うのである。言霊主義者は、言霊理論が絶対に正しいと思っているので、言霊理論を否定されると、不愉快な感情がわくのである。

不快になるのである。

ちょっとだけ説明しておくと、「言霊理論が絶対に正しい」と思っているということが、「解釈の体系」の一部を形成しているのである。

だから、自分が絶対に正しいと思っていた言霊理論を否定されたときは「うれしいうれしい」と言っても、なかなか、うれしくならないのである。

「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないのである。言葉に言霊の力が宿っていて、その力が絶対的な力なのであれば、自分が絶対に正しいと思っていた言霊理論を否定されたときも、「うれしいうれしい」と言うだけで、ほんとうにうれしくなるはずなのだ。

「楽しい楽しい」と言うだけで、直前の出来事にまったく関係なく「楽しくなるはず」なのだ。

ところが、楽しくならないのである。

こういうことを、言霊主義者は、無視している。

おこっているときに、「うれしい」と言っても、なかなかうれしくならないという事実を、無視しているのである。おこっているときに、「楽しい」と言っても、なかなか、楽しくならないという事実を、無視しているのである。

「ぬけぬけ」だから、気がつかないだけなのだ。

自分の「なまの感情」を、無視してしまう。

出来事に対応したなまの感情があるのに、それを、無視してしまうのである。

言霊との関連において考えることができないのである。自分の「なまの感情」と「言霊」の関係について、よく考えることができないのである。言霊主義者は……。

*     *     * 

逆にたとえば、なにか、とてつもなくうれしいと感じることが起こったとする。

うれしいと思っているときは、「腹が立つ」と言っても、なかなか、腹が立たないのである。うれしいと思っているときは「くやしい」と言っても、なかなか、くやしくならないのである。

どうしてかというと、実際の出来事によって、うれしく感じているからだ。

この場合も、時間的な接近は、ある程度、影響を与える。直前の出来事が、そのときの感情を(だいたいのレベルで)決定しているのである。

だから、直前の出来事が発生して、自分がなんらかのことを感じてしまっている場合は、「言葉によって、書き換えよう」としても、なかなか、書き換えることができないのである。

実際は、こっちが正しい。

言霊理論に従えば、直前の出来事に関係なく、いくらでも、自分の感情を書き換えることができるはずなのだ。

なにが起こったって、自分が「楽しい」と言えば、楽しくなるのである。なにが起こったって、自分が「くやしい」と言えば、くやしくなるのである。

ところが、そんなことにはならない。自分の「なまの感情」が、そのときの感情なのである。

「なまの感情」が発生しているときは、それなりの理由があるのである。それなりの理由を無視して、「言えば」言った通りに(自分が)感じるわけではないのである。

ところが、そういう日常的な出来事を無視して「言えば、言った通りの感情になる」と思っているのが言霊主義者なのである。

言えば、言った通りの感情になるのだから、言えばよいのである。

なにが起こったって、「楽しい」と言えば楽しくなるはずなのである。

ところが、実際には、どんなに頑固な言霊主義者だって、そんな生活はしていない。

●順番を間違えるべきではない■言霊※2026/07/25 12:57

ほんとうに、楽しく感じる場合の「楽しさ」というのは、自然な流れの中にあるのだ。

出来事の流れの中にある。

ところが、楽しく感じるべきだから、「楽しいと言おう」と思っている場合は、起点が「楽しく感じるべきだ」ということだから、そもそも、「自然な流れのなか」にない。

言霊主義者は、誤解をしているけど、自然な流れのなかで「楽しい」と思ったことがあるから、「楽しい」ということが、どういうことなのか、わかっている状態が発生する。

ようするに、その言霊主義者だって、最初から「楽しいと言えば楽しくなるから、楽しいと言おう」と思って、楽しくなったわけではないのだ。

経験として、これこれこういうことがあった。そのなかで、自然に楽しく感じた。赤ん坊として生まれてから、生活しているなかで「この感情」を「楽しい」という言葉で表現するのだということを、学習したのである。

「楽しい」という言葉と、「心理的な状態」のあいだに、連合ができたのである。

連合ができるまえも、「楽しい」と感じたことがあったのである。「楽しい」と感じることがなかったなら、「楽しい」という言葉を学んでも、それがどういう感情に連合しているものか、わからないのである。つまり、わからないままなのである。

だから、その状態で、どれだけ「楽しい楽しい」と連呼しても、ぜんぜん楽しくならないのである。

「楽しい」という言葉と、「実際の感情」のあいだにすでに?連合ができていたから「楽しいというと、楽しくなるような感じがする」という感覚が芽生えたのだ。

順番を間違えるべきではない。

言霊理論によれば、「楽しい」と言うと「楽しい」という言葉に宿っている、「言霊」の力によって、楽しくなるということになる。

しかし、これが、間違っているのである。

言霊の力によって、楽しくなったのではないのだ。

すでに、「楽しい」という言葉と「実際の感情」のあいだに連合ができていたので、条件によっては、「楽しい」という言葉を言うことによって、「実際の感情」か、あるいは「実際の感情」の「雰囲気」がリコールされただけなのだ。

「楽しい」という言葉に、言霊が宿っているわけではないのだ。

「楽しい」と言えば「楽しくなったような感じがする」というのは、自己暗示系の現象だ。

これは、言霊ではなくて、言葉に対応しているのである。

そして、言葉を使うという能力は、発達の過程で、発生した能力なのである。

ようするに、言葉を使うという能力と、言葉に宿っている言霊は、一切合切関係がないのだ。

言霊主義者が勝手に妄想的な思考をして、言葉には言霊が宿っているということにしてしまったのだ。なので、最初から、間違っているのである。

「言霊は絶対だ」と言う人たちがいるけど、なにを言っているか、さっぱりわからない。たぶん、「言霊は絶対だ」と言っている人たちも、自分がなにを言っているのか、さっぱりわかっていないのだと思う。

まあ、雰囲気で考えれば「言霊の力は、絶対的に働く」というようなことなのだろう。

あるいは、「言霊理論は、絶対に正しい」ということなのだろう。

どっちも、間違っている。両方とも間違っている。

●これが、事実だ■社会※2026/07/23 16:40

まあ、納得してくれる人は少ないと思うけど、いちおう、言っておく。

「人に親切にしましょう」というような言葉は、じつは、繊細で親切な人をおいつめるための言葉なのだ。

これ、今の社会だと、そうなってしまう。

まあ、人に親切にするのは、いいことなのだけど、人それぞれの、レベルのちがいがある。人がどういうふうにこまっているかということを、読み取る力が、人によって、ちがいすぎる。

そして、案外、無視されてしまうのだけど、社会のなかで、たとえば、仕事をする場合、立場の弱い人が、いろいろなことを背負い込むことになってしまうのである。「人に親切にしましょう」というような言葉は、生活のなかで、まったくわかっていない人に対する言葉なのだ。

ところが、生活のなかで、まったくわかっていない人は、「人に親切にしましょう」と言われたって、人に親切にしないのである。特に、自分の欲望がかかわる部分に関しては、親切にしない。自分の欲望にあわせて、不親切な行動をする。

それで、別に悪いとは思わない。

あるいは、きちがい兄貴のように、特別に鈍感で、どれだけ言われても、相手が(自分の行為で)こまっているということを、認めない人もいる。

これも、「こうしましょう」と言われたことがあるというレベルのことで、「こうすることが(実際に)できるか」というと、できないのだ。そういう脳みそがないから、できない。

それに対応したシナプスのネットワークがないから、できない。

ともかく、「人に親切にしましょう」というような言葉は、どちらかというと、鈍感な人に対して言うような言葉であり、もともと、親切な人には言うべきではない。

繊細な人が、こういう言葉を真に受けると、ひどいことになってしまう。

「繊細な人」や「もともと親切な人」が、くるしむ状態になっている。

じゅうぶんに親切な人が、じつは、「人に親切にしましょう」というような言葉で、傷つく状態になっている。負担が増え、ボロボロされるような状態になっている。

社会全体がそうなっている。そして、「人に親切にすれば、幸福になる」と言うような言葉は、じつは、すでに不幸な人をより不幸にしている。助言になっていないのである。

すでに不幸なら、その不幸な人は、人に親切にしなかった人だというマイナスの認知が生じるようになっているのである。

しかし、こころがきれいな人だって、不幸な状態で暮らしていることはある。

*     *     *

それじゃあ、きちがい兄貴が、人に親切することは、まったくないのかというと、そうではないのである。きちがい兄貴だって、時と場合によって、人に親切にすることだってある。

「親切にする」ということの「範囲」がひろいのだ。状態だって、いろいろだ。暗黙知、メタ認知、認知が、それぞれの場面でちがうのである。

だから、たまたま、対応しているような部分がある。だから、たまたま、対応しているような部分がある場合は、(めったにないことだけど)人に親切にすることが……きちがい兄貴のような人間にも……できる。できる場合がある。

けど、うちのきちがい兄貴は、俺には親切にしなかったのである。一日に、一秒も、(ほんとうには)ゆずってくれなかった。これが、事実だ。

●条件が悪い人に「余分な圧力」をかけている■社会※2026/07/24 17:39

じつは、「人に親切にしましょう」と言っている人たちは、ほんとうにこまっている人には、親切にしないという傾向があるように思える。

ほんとうにこまっている人は、条件が悪い人なのである。

ほんとうにこまっている人は、立場が低い人なのである。

だから、常識的な判断をすると、「親切にしない」傾向が強くなる。常識的な判断というのが、いままで、ここで述べてきたようなことなのである。「言霊」「思霊」「努力論」「過去否定論」「自己責任論」なのである。

「XをすればYになるから、Xをすればよい」という場合も、条件が悪い人は、Xをすること自体が、非常に困難である場合が多い。

ぼくは、ここで、体力的なリソースのことについて述べているけど、体力的なソースなんてことは、「XをすればYになるから、Xをすればよい」と言っている人たちは、気にしないのである。時間的なリソースだって、有限だ。

条件が悪い人は、すでにこまっている人なのである。

しかし、すでにこまっている人に対して、的外れの助言をすることがはやっている。

そして、助言をしただけでは終わらず、かならずと言っていいほど、ディスりはじめるのである。悪口を言い出す。

しかし、きれいごとを口にしているときは、「人の悪口を言うのはやめましょう」と、本気で言っているのだ。

助言される側……こまっている人が「これこれこうゆう理由で、Xすることができない」ということを言えば、「XをすればYになるから、Xをすればよい」と言っている人たちは、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」という確率が非常に高い。

これ、テンプレートなのだ。

決まった、受け答えなのだ。そして、この受け答えは、全体としての価値観を代表している。

「XをすればYになるから、Xをすればよい」と言っている人たちが、相手をダメな人間だと決めつけるようにできているのである。

そして、基本的なことだけど「XをすればYになるから、Xをすればよい」と言っている人たちは、条件の差を認めない傾向が強い。認めた場合も、そんなのは、たいした差ではないということになる。

そして、条件の差については、集合的一括思考をするので、間違った判断を正しい判断だと思い込むことになっているのである。

そして、さらに、この人たちに、集合的一括思考のことについて説明して、それが、理論的にまずい部分を含んでいるということを説明するのは、非常に困難なことなのである。

説明したとしても、かなりの高確率で「XをすればYになるから、Xをすればよい」と言っている人たちは、認めない。

たいていの場合は、「なんだとぉ」という態度になる。「XをすればYになるから、Xをすればよい」という考え方が正しいのに、ろくでもないやつが、文句を言っていると思う確率が、非常に高い。

だから、むしろ、こういう人たちが、ほんとうに条件の悪い人たちにとって、『敵』になる。そして、じつは……これが重要なことなのだけど……条件の悪い人たちのなかにも、「XをすればYになるから、Xをすればよい」と他人に言う傾向がある人が多い。

これも、テンプレートなのだ。

普通の人も、条件が悪い人も、人に対しては「常識的な助言」をする傾向が強い。常識というのが、妄想で、できあがっているのである。そして、トリックがある。

ところが、矛盾を感じるほど、深く考える人が少ないために、トリックに気がつかない。前提に、妄想的な考え方があるということに気がつかない。

だから、妄想的な考え方に従って、現実を判断しているのである。

ともかく、「XをすればYになるから、Xをすればよい」と言っている人たちは、いいことを言っているような気分になっているかもしれないけど、ほんとうは、親切にしていない。

条件が悪い人に親切にしているのではなくて、条件が悪い人に「余分な圧力」をかけている。

2026年7月24日金曜日

●おかしなことを言っているのは、どっちか■社会※2026/07/24 14:04

ヘビメタ騒音のことについて……「そんなのは、関係がない」と言う人たちがいる。

そして、「過去は関係がない」と言う人たちもいる。

「過去は関係がない」と言っている人たちは、別に、ヘビメタ騒音のことでなくても、「過去は関係がない」と言うのである。

しかし、本人は、まったく気がつかないまま、過去の出来事に反応して、生きているのである。その意味で、過去は関係があるのである。

ところが、これがまた、「ぬけぬけ」で、「自分は過去は関係がないと思って生きているよ」という認識をもっているのである。これが、やっかいなんだよな。

「過去は関係がない」と言っている人たちにとっては、ヘビメタ騒音も、エイリにとって、関係がないことになってしまうのである。過去は関係がないので、エイリが、過去の出来事であるヘビメタ騒音のことを、いつまでも言っているのはおかしいということになってしまう。

過去の出来事なら、自動的に「関係がないことになる」ので、「ヘビメタ騒音が影響を与えた」と言っているエイリは、おかしなことを言っているということになるのである。

いやーー。おかしなことを言っているのは、どっちか。

これは、ぬけぬけ感覚と他者の状態をうまく理解できない性格によって、成り立っている発言だ。こんなやつらが、どれだけ多いか。

「ヘビメタ騒音の話は嘘だ」と思っているやつらを除けば、こういうやつらが、約一〇割なのである。

こういう世界だ。

そうなると、きちがい的な家族にやられて、普通に生活する能力や、普通に通勤して仕事をする能力を失った人間は、非常にくるしい思いをすることになる。もう、決まっている。

●同質・同レベルの経験があるということになってしまう■騒音※2026/07/24 13:54

いま、近くで、工事をしていて、ガーガーブーブーと、うるさい。けど、このくらいの騒音なら、本も読めるし、勉強もできる。不愉快だし、抵抗を感じるけど、勉強ができるぐらいの騒音だ。

みんなが、「騒音」として認知・認識しているのは、この程度の騒音なのだと思う。自分が、この世で、一番、一番、きらいな音が、めちゃくちゃにでかい音で鳴っている状態とはちがうのである。これが、わかっていないやつが多い。

これ、ヘビメタ騒音と言うのは、ぼくにとって、一番苦手な音なのだ。

そして、きちがい兄貴は、きちがいなので、めちゃくちゃにでかい音で鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、すべての常識と倫理と道徳を無視して、自分の欲望に従って、きちがい的な音で鳴らしたのである。

これは、「よそのうち」では、鳴っていない音なのである。よそのうちでは、鳴りえない、音のでかさで鳴っている騒音なのである。

だから、よそのうちの人は、きちがい家族によって、つくりだされるこの空間を経験していない。きちがい家族の騒音によってつくりだされる、この時間を経験していない。

経験していないのである。

ところが、みんな……ぼくの経験の範囲で言うと……ほんとうに、みんながみんな……「自分だって苦労した」と言うことを言うのである「自分だってつらい思いをした」と言うのである。

「自分だってつらい思いをした」と言うのは、事実だと思う。

けど、同質・同量の騒音を浴びて暮らしていたわけではないのだ。ここのところがわかっていない。

そりゃ、きちがい家族と一緒に暮らしていなくても、つらいことはいくらだってある。思い通りに行かないことはいくらだってある。不安を感じることはいくらだってある。不満を感じることは、いくらだってある。

しかし、それは、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を鳴らす前の、ぼくが感じていたレベルの、ひらいこと、思い通りに行かないこと、不安、不満なのである。

ところが、「自分だって苦労した」のひとことで、ぼくとおなじレベルの、しつこい騒音を経験したということになってしまうのである。

ぼくとおなじレベルの、しつこい騒音を経験した自分が、通勤できるのだから、エイリだって通勤できるということになってしまうのである。

エイリとおなじレベルのしつこい騒音を経験した自分が、勉強できるのだから、エイリだって勉強することができるということになってしまうのである。

なかには、「家に閉じこもって、勉強をした」ということが、「苦労だ」と言うやつもる。

まったく反対のこと言っているのである。

*     *     * 

俺は、勉強をしたくても、きちがいヘビメタ騒音で、勉強することができなかった。それが、苦労なのである。好きなだけ勉強できる状態で勉強した……。それが苦労だというのだ。

エイリと同質・同レベルの苦労をしたという意味で、そいつは、「自分だって苦労した」と言うのだ。

そして、ほかの人たちは、ほんとうは……ほんとうのことを言ってしまえば、きちがい家族と一緒に住んでいないので、きちがい家族が鳴らす騒音に一〇年以上毎日さらされ続けるということがなかったのである。

一四年と六か月間とは言わないけど、中学・高校の六年間を、きちがい的な騒音……に、毎日さらされるという経験がなかったのである。

毎日さらされるという経験がなかったのに、同質・同レベルの経験があるということになってしまうのである。

そして、それは、見積もりが誤っている。間違った見積もりをしている。その発言自体が、まちがった認知に基づいた発言だ。

基本的に言って、「わかっていないから」……過小評価して、間違ったことを言っているのである。

間違った見積もりをして、間違ったことを言っている。

しかし、こっちには、それを証明する手立てがない。

証明なんできるわけがない。

2026年7月23日木曜日

●やられたことがないやつは、不可避的にそうなるということを、認めない■騒音※2026/07/23 16:00

「他人に親切にしましょう」なんて、言っているやつが、自己責任論者だったりする。『他人の身に起こったことは、すべて他人の責任だ』と考えているやつが、どうやって、他人に親切にするんだよ。

まあ、『他人に親切にすると幸福になる」と言っているやつが、おなじ口で、『他人の身に起こったことは、すべて他人の責任だ』と言う。

本人は、まるで矛盾を感じない。

その都度、矛盾したことを言うことが、他人に親切にしたということになってしまうのである。

本人は、「いいアドバイスをしてあげた」と思っているわけだから……。

「今ここに集中すればいいんだ」というようなことを、名前だけ店長に言うことは、名前だけ店長に親切にしてあげていることになるかというと、ならない。

名前だけ店長を、おいつめている。

今ここに、集中して……名前だけ店長を不幸にしているサービス残業を続ければいいということになってしまう。

そんなことを言われて、不愉快になる気持ちというのが、この人たちには、(自分のこととして)わからない。「他人に親切にしましょう」と言っているときは、そういう気分。「すべては自己責任だ」と他人に言い放っているときは、そういう気分なのである。

気分次第で言うことがちがう。ある気分のときに言ったことと、別の気分のときに言ったことが、矛盾していたって、そんなのは、気にしない。

矛盾しているとは思わないわけだから、気にしない。

*     *     * 

こういうレベルの人が、ヘビメタ騒音の話を聞くと、ろくでもないことを言い出す。ほんとうに、屈辱。侮辱。侮辱以外のなにものでもない。

きちがい兄貴に勉強時間を削られるとそうなる。

きちがい兄貴に、生活体力を奪われるとそうなる。きちがい兄貴に、睡眠回路を破壊されるとそうなる。

これ、ほんとうは、不可避的にそうなることなんだけど、やられたことがないやつは、不可避的にそうなるということを、認めない。

「そんなのは、関係ない」「過去は関係ない」「影響なんてない」と言って、かたくなに、認めようとしない。

「人のせいにしない」と言うやつは……俺が、兄貴のせいではないことを、兄貴のせいだと言っていると思っているのだ。こんなの、ない。

どれだけ、バカにされているかわからない。

全部とは言わないけど、たいていのことは、こうなってしまう。ほかの人が体験しないことを、家族にやられるとこうなってしまう。

長い長い時間、長い長い期間やられると、どうしても、そうなる。

●だから、わからない■騒音※2026/07/23 14:35

 ほんとうに、ヘビメタ騒音の影響がでかいんだよな。

それは、当時の一日だけではなくて、今の一日も影響を与える。

これ、ものすごく深い影響があるわけで、到底、「関係がない」なんてことは言えない。「影響はない」なんてことは、言えない。毎日ずっと、破滅的な、破壊的な影響を与え続けてきた。きちがい兄貴が、きちがいだから、まったく気にしなかっただけなのである。

一日の総量を考えても、影響がないわけがない量なのである。

ところが、「関係がない」と言っているやつは、別に、自分が、自分のきらいな音で、おなじことを経験したわけではない。

きちがい兄貴の「ズレ」がまったくわかっていないのである。そいつと一緒に暮らしている、あるいは、そいつと一緒に暮らしていた、うちの兄貴のような「ズレ」がある家族がいないからだ。

ぜんぜん、わかっていない。実際に、きちがい兄貴がやることを、毎日体験していないわけだから……毎日押しつけられていないのだから、影響がないのである。だから、わからない。

●「今ここに集中すればいい」■社会※2026/07/23 13:42

 どういうふうに考えれば、一番楽に生きられるのか? ということが問題だ。これ、一般的な問いではなくて、ぼく限定の問いだ。

ぼくにとって、憂鬱で破滅的な気分に、なるべくならずに、死に向かうとしても、それなりに、気楽に、しあわせに、充実感がある状態で、暮らす、方法は、なんなのかということだ。

けど、そんなのは、ちょっと、体調が悪くなっただけで、吹き飛んでしまう。だから、問題なんだ。

ともかく、特殊なことを経験しすぎた。特殊なことの連続だった。だから、個人の物語が発生してしまっている。今現在の状態というのは、当然ながら、いままでの出来事の影響を受ける。

いままでの出来事(すべて)が、現在の状態を形作っている。

べつに、いま現在の身体というのが、過去に関係なく、それだけで、独立に存在しているわけでないのだ。身体というのは、当然、脳みそを含んでいる。脳みそは、いろいろなことを学習した脳みそなのである。

なので、過去の出来事を一切合切無視して、「今ここに集中すればいい」なんてことは、言えない。

どうしてかというと、「今ここに集中できるような身体」はどういうしくみによって、支えられているのかということを考えれば明らかだ。

「今ここに集中すればいい」というセリフは、気分だけで言っているセリフだ。そのときは、「今ここに集中すればいい」というセリフを言えるだけの体力がある状態なのである。

気力がある状態なのである。

その、体力がある状態や気力がある状態というのは、過去の出来事の組み合わせによって、今現在、そういうことを言える状態になっているということを意味しているだけだ。

「今ここに集中すればいい」というのも、一見よさそうに見えるけど、努力論のように、人を労働に縛り付けるための「方便」だ。

これ、ひどい言葉なのである。

「今ここに集中すればいい」と主張している人が、言霊主義者だったとする。言霊で、解決できる問題なのだ。言霊主義者にとって、言霊で解決できない問題はないということになっている。

ところが、言霊主義者が、労働市場において、労働をしているのである。

「目の前の作業に集中すれば、つかれなんてどうでもいい」という文脈で、「今ここに集中すればいい」などということが、言われるのだ。

この矛盾。

 「今ここに集中すればいい」というのは、まやかしなのである。

ほんとうは、身体的な疲れという問題がある。ほんとうは、精神的な疲れという問題がある。ほんとうは、社会的な枠組みから発生する問題がある。「

今ここに集中すればいい」に集中して、それらの問題を無視すれば、「今だけは働ける」ということなのだ。これは、薬を飲んで、無理やり仕事をしている状態に近い。その状態には、いつか終わりがくる。

終わりがきて、働けなくなった人にも、(容赦なく)「今ここに集中すればいい」と言うのだ。

「今ここに集中すればいい」と言う人は、「今ここに集中すればいい」と言う。

*     *     * 

たとえば、名前だけ店長を働かせようとした場合、「今ここに集中すればいい」というのは、有効な助言なのだ。名前だけ店長の疲労をまったく考えていない、クソ発言なのである。

わかるかな?

長年のサービス残業で、身体が疲弊している。

けど、名前だけ店長が、それを無視して「今ここに集中すればいい」のである。……こういうことになってしまう。

ヘビメタ騒音で疲弊しているのに、「今ここに集中すればいい」なんて言われたら、そりゃ、腹が立つ。絶望を感じる。連日連日、十数年間も続くヘビメタ騒音で、睡眠を妨害され、身体が疲弊している状態で暮らしているわけだ。

ヘビメタ騒音なんて関係なしに、「今ここに集中すればいい」ということになってしまう。

けど、俺はこまる。「今ここに集中すればいい」と言っているやつは、別に、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないから、きちがい家族の騒音で日ごろから疲れまくっている身体で暮らすということの意味がわかっていない。

そして、「今ここに集中すればいい」と言うやつと、ぼくは、別固体だ。

ぼくが感じている疲労をそいつが感じるわけではない。そいつはそいつの身体を使って生きている。ぼくはぼくの身体を使って生きている。

両者の間には、断絶があるのである。

深い深い溝があるのである。

だから、こいつは、俺の身体を無視すれば、「今ここに集中すればいい」と言える。適切で正しいことを言っている気分だ。

そして、たとえば、ぼくが、「今ここに集中すればいい」という考え方を批判したとする。言霊理論を批判したとする。

そうすると、こいつは、かなりの高確率で、腹を立てる。とりあえず、腹を立てたとする。

その場合、過去の出来事に反応したということになる。「過去は関係がない」なんてことはないのだ。

そして、たとえば、自分が正しいと思っていることを、批判されたときに感じる「なまの感情」がある場合、そいつは「今ここの作業」に集中できなくなっている。

「今ここに集中すればいい」ではないか。

自分が正しいと思っていることを批判されて腹が立っているとき、「今ここに集中すればいい」のだ。

できるだろ。さあさあ、腹なんて、立ててないで、働いた!!働いた!! 目の前の作業に集中すればいいんだよ!!

●ぜーーぜん、ちがうのである■言霊※2026/07/23 9:47

ちょっとだけ、ちがいについて述べておく。なんのちがいについて述べるかは、お楽しみ。

たとえば、「走れば息があがる」とする。

この場合、走るという現実的な行為の結果、ほんとうに、息があがるのである。ようするに、呼吸を短い間隔で繰り返すことになる。それは、人間の体を通した、完全な反応なのである。

これと、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということはちがう。この場合、言霊という、妄想的な設定がはいることになる。

言霊というのは、なんとだって言える、へんなタームなのである。言霊の存在は、証明されていない。言霊の力なんて、あるかどうかわからない。

そして、言った通りにならないことがあるということが、言霊の力がないということを、証明している。言った通りになる場合も、言霊の力によって、言った通りになったのかどうかわからない。

制限時間をつけて、言えば、たいていの場合、言った通りにならない。100%構文で言い切ることは、最初から、無理なことなのである。そして、言う……という恣意的な行為と、実際に言ったことが(別の理由で)現実化したということのあいだに、関係性がないのである。

いっぽう、「走れば息があがる」というのは、関係性があることなのである。体のしくみを通して、関係性を完全に説明できることなのである。

そして、走っていると、息があがってくる……というのは、たいていの場合、再現可能なことなのである。

そりゃ、走る距離によっては、息があがらない場合がある。しかし、息があがらない場合も、息があがらないしくみを、説明できるのである。体の「反応の量」の問題だから、量的に観測できることなのである。

ともかく、「走れば、息があがる」という場合、体のしくみを通して、あらゆる過程が説明できることなのである。

そして、条件も、条件として、ちゃんと記述できることなのである。

たとえば、その人の身体的な条件は、条件として、記述できる。その人の肺活量や、体重や、その人が走れる最大限の速さや、息があがってくるまでの距離というのは、条件として、記述できるのである。

ところが、「言ったことが」「言霊の力」によって、「現実化する」という場合は、その人のもっている「言霊の力」の「量」というのは、そもそも、記述できないことなのである。

そんなのは、はかりようがないのである。

だから、ぜんぜんちがう。

「身体的な出来事」と「身体的な出来事」の関係に関する記述と、「空想的な出来事(恣意的な出来事)」と「現実的な出来事」の関係に関する記述は、ぜんぜん、性格が異なるものなのである。ぜーーぜん、ちがうのである。ぜんぜん、ちがう。

2026年7月22日水曜日

●「予想していなかった」悪いこと■社会※2026/07/22 13:21

つぎつぎに、「予想していなかった」悪いことが起こり、こんな人生になってしまった。どうしても、つらい。

「思えば、思ったことが、現実化する」「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」と言っている人がいるけど、これ、まちがっている。

別に、個人が思ったことが、現実化するわけではないのである。

もちろん、個人が自分の意思で、自分の体を動かして、現実化させることができることはある。

けど、「思えば、思ったことが、現実化する」という文は一〇〇%構文の文なのである。

「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思うと、暗いことが起こる」という文も一〇〇%構文の文なのである。いままで、さんざん書いてきたことなので、ここでは説明しない。

そして、これも書いたことだけど、「思えば、思ったことが、現実化する」と普段言っている人が、「人生には『上り坂』『下り坂』、そして『まさか』の三つの坂がある」などと言ってしまうのだ。

いやーー。思ったことが現実化するのだから、「まさか」と思うことは起こらないということになる。

その人が「起こらない」と思っていたことが、起こったから、その人は「まさか」と思っているのである。これは、そのまま、思わなかったことが起こったということを、意味しているのである。

自分で、矛盾を感じない人なんだよなぁ。

矛盾を感じたほうがいいよ。

だいたい、ヘビメタ騒音のことだって、俺が「ヘビメタ騒音が鳴る」と思ったから、「ヘビメタ騒音が鳴ったんだ」ということになってしまう。

これ、失礼な話なんだよ。

俺が、「親父がネズミを誘い込むことをして、結果、ネズミが入ってくるようになった」と思ったから、実際に「親父がネズミを誘い込むことをした」ということになってしまう。

そして、「ネズミが入ってくるようになった」と思ったから、実際に、「ネズミが入ってくるようになった」ということになってしまう。

どっちとも、そうなったあとに、言っていることなんだよ。

そうなったあとに、思ったことなんだよ。

人にぬれぎぬを着せる人たちばかりだ。

ヘビメタ騒音に関しては、ヘビメタ騒音が鳴ると(ぼくが)思ったから、鳴ったんだ、というとになってしまう。ぼくが、ヘビメタ騒音が鳴るという暗いことを思ったから、ヘビメタ騒音が鳴るという暗いことが起こったのだということになってしまう。

これ、どれだけ、事実とは異なるイチャモンをつけているか、わかる?

*     *     *

「暗いことを思うと、暗いことが起こる」という文について考えてみよう。「暗いことを思うと、暗いことが起こる」という文が正しいとする。

その場合、実際に、暗いことが起こって不幸な人は、暗いことが起こると思っていたから、暗いことが思ったのだということになってしまう。条件によって、悪いことが起こる場合がある。

たとえば、父親がきちがいなら、幼児に対して、きちがい行為をする。きちがい行為をするのは、きちがい行為をしたほうが悪い。

ところが、幼児が「悪いことが起こる」と思ったから、実際に、悪いことが起こったのだと解釈してしまうのである。

たとえば、幼児が「お父さんは自分を虐待する」と思ったので、その幼児の父親が、幼児を虐待したということになってしまう。幼児が「お父さんが自分を虐待する」という「暗いことを考えた」ので、その「暗いことが現実化した」という話になってしまう。

こんなのは、ひどい。

けど、「暗いことを思うと、暗いことが起こる」と言っているやつらは、まるで気がつない。

実際に不幸な人は、いる。実際に不幸な人は、不幸な条件を抱えているのである。不幸な条件を抱えているから、頻繁に不幸なことが起こるのである。なぜ、これがわからないのか?

なぜ、不幸な人のせいにしてしまうのか?

「人のせいにしない」などと言っているけど、「人のせいにしない」などと言っている人が、人のせいにしている。

これだって、 「人のせいにしない」と言った人が、条件に恵まれた一般人だとする。

とりあえず、Aさんだとする。そして、きちがい的な父親のもとに生まれたから、いろいろなことで不幸な思いをした人がいたとする。Bさんだする。

Bさんがちょっとでも、「父親がこういうことをしてこまった」ということを言えば、Aさんは……Bさんが「人のせいにしている」と決めつけることができるのだ。

AさんはBさんを「人のせいにする人だ」と決めつけることができるのだ。

こんなの、ない。

*     *     *

ちなみに、自己責任論者は、「幼児の自己責任だ」と考えるのである。どうしてかというと、その人の身に起こったことは、すべて、その人の自己責任だからだ。

ようするに、虐待された幼児がいたとする。Bさんだとする。Bさんが虐待されたのは、Bさんの自己責任なのである。

そして、虐待したほうの責任は、問わないのである。

AさんがBさんの父親で、Bさんを、きちがい的な理由で虐待したとする。当然、Aさんの行為だから、Aさんに責任がある。

そんなことも、わからないようになってしまうのだ。

●『日時を指定されると、眠れなくなる件』■騒音※2026/07/22 10:54

歯医者に行きたくない。けど、どうにかしなければならない。

まあ、『日時を指定されると、眠れなくなる件』については、ほかの人にはないことだから、理解されないだろうな。

これ、長期騒音の副産物なんだよ。

けど、これも、経験がないほかの人にはわからないだろう。

どうもダメそうだったら、三日前には、キャンセルすればいいや。まあ、あそこだとそういうことを嫌がるけどなぁ。五日前には、キャンセルするべきか。

けど、ほんとうに、どのくらい睡眠時間がずれるか、わからないんだよな。本人にも、まったくわからない。

これが、ぼくの人生にけっこう影響を与えている。努力論で片づける人がいるけど、長期騒音期間中、努力に努力を重ねて、学校に通い切ったから、非・二四時間睡眠覚醒症候群になり、なおかつ、『日時を指定されると、眠れなくなる状態」になっているんだぞ。

ちなみに、「努力論で片づける」というのは、「そんなのは、努力して解決すればいい」という意見のことだ。それをやってきたから、そういう症状が発生した。こいつらは、ゆるせない。

けっきょく、きちがい兄貴のような家族と一緒に暮らしたことがないから、きちがい兄貴がやるようなしつこい、しつこい騒音が……自分の人生のなかには……発生しなかっただけだ。

発生しなかったから、 努力でどうにかなると思っているのだ。努力をしたから、無理な状態がつみかさなったんだよ。

『日時を指定されると、眠れなくなる状態』が発生したんだよ。十数年の努力の結果、『日時を指定されると、眠れなくなる状態』になったんだよ。

そして、二〇時間、三〇時間、起きている状態で、仕事をすれば、どうしても、ミスが発生する。トラブルが発生する。三〇時間起きている状態で、「ニコニコ」したってしたがない。

三〇時間起きている状態で「元気だ元気だ」と言っても、元気にならない。きちがい家族によって、おいつめられて、こういう状態になった。それを考えたら、憂鬱な顔になるにきまっているだろ。

憂鬱な顔をしていると(他人に)思われるのがいやだから、なるべく、ニコニコしてたって、いいことなんてない。なるべく、憂鬱そうな顔に見えないように、気をつかって、普通の顔をつくったって、いいことなんてない。騒音の連続で、ボロボロになっている。

「ニコニコすればいいことが起こる」という人がいる。一〇〇%構文で言っている。

そして、「ニコニコすればいいことが起こる」と言っている人の「ニコニコすればいいことが起こる」と思った根拠が……自分がニコニコしていたら、友人から褒められたということなのである。

自分の場合は、そうだったということだ。

いつもいつも、そうなるとは限らないのである。

*     *     *

おまえだって、「自分のきらいな音をあれだけのでかさで、あれだけの期間の長さ聞かされ続けたら、これこれこういう状態になる」と言っているではないかと思う人がいるかもしれない。

まあ、自分の経験から一般化したことを言っているというのは、正しい。

しかし、これ、「ニコニコ」論者と、ぼくが言っていることはちがうのである。

だいたい俺は、一〇〇%構文で言うことの、問題を理解している。ニコニコ論者は、一〇〇%構文で言うことの、問題を理解していない。 

まあ、「自分のきらいな音をあれだけのでかさで、あれだけの期間の長さ聞かされ続けたら、これこれこういう状態になる」ということについては、実験も証明もできない。

これは、「こういう運動をすれば、人間は、つかれる」と言っているのとだいたい等しい。ただ単に、ほかの人には発生しないことなのである。

だから、ほかの人は、軽く見て、「そんなのは関係がない」「影響はない」と言う。あるいは、はげますつもりで「過去は関係がない」と言う。

こいつらはこいつらで、こっちの気持ちを踏みにじっているということに気がつかない。みんな……実際に、自分のきらいな音で、ぼくが経験したこととおなじことを経験していない人は……エラそうなことを言う。わかったようなことを言う。

「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、おなじレベルのことを経験したということになってしまう。

けど、ぼくとおなじレベルのことを経験した人は、体に症状があらわれているはずなので、そんなことは、言わない。言えない。

ほんとうに、不利な話なんだよな。

「きちがい兄貴」と「ぼくが経験したレベルの騒音を経験したことがない一般人」の組み合わせが最悪だ。

こいつらが、「ヘビメタ騒音影響」を否定する。こいつらは、ゆるせん。

●全力で否定すれば、それで、おしまいなのである■家族※2026/07/22 9:36

  あんまりいい感じじゃないんだよな。足の甲をダニに刺されたのだけど、これが、協力タイプのダニだったのだ。かゆさがじんじん、伝わってくる。

薬を塗ったけど、かゆさがとまらない。

刺されたところが、つねに、かゆさを訴えかけてくるので、なんか、あんまり、いい感じじゃない。

幸福度がさがる。

あとは、歯医者に行きたくない。これも、足の甲がじんじんかゆい状態で行くということになるのだけど、行きたくない。

まあ、まだ、予約を入れていない状態なので、あとで入れるつもりだ。

けど、先行きが暗いのである。これ、どのみち、あとで、掘り返さなければならなくなる。埋めて、掘るということを、繰り返しているうちに、掘るところがなくなって、入れ歯だ。

もう、治しても、運命が決まっているんだよな。自由診療がいいらしいけど、そんなところに行く、体力がない。ある歯医者が言っていることを総合すると、まえに通っていた歯医者も、これから通う予定の歯医者も、「悪い歯医者」だということになる。

そして、ダニなんだけど、これ、ほんとうに、親父がネズミをいれるまえは、こんなことは、一回もなかったことなのである。

それが、もう、親父がネズミをいれてから、毎日毎日、ダニに刺されるようになった。

親父は、きちがいだから、「親父がネズミをいれたから、ダニが繁殖した」と俺が言えば「ダニなんていないよぉ!!!」「ダニなんていないよぉ!!!」「ダニなんていないよぉ!!!」と、事実を無視して、絶叫するのだ。

そうやって、ネズミをおびきよせる行為をしたのに、まったく反省していない。

反省どころか、ほんとうに、自分がやったことが原因で、ネズミがくるようになったということが、まったくわかっていない状態なのだ。

「まずい」ことは、全力で否定して、おしまいなのである。

その場で、全力で否定すれば、それで、おしまいなのである。 

2026年7月21日火曜日

●「におわないよぉ」「におわないよぉ」「におわないよぉ」■家族※2026/07/21 18:43

 じゃあ、なにか楽しいことがあるのかというと、ないのである。かゆみを抱えながらも、かゆみを忘れられるような、楽しいことがあるかというと、ないのである。

なにかおもしろい人たちと、おもしろいことをやる……そんなのは、ない。ナッシング。

一か所も、かゆいところがないようにしたかったのだけど、どれだけ、頻繁にサンダルや服を買い替えても、無理だ。

もう、そういう状態になっている。畳をかえて、すべてのものを捨てて、何回か、バルサンを家全体にかければ、なんとかなる。

けど、それも、あやしいんだよな。もし、ネズミが入れるところが一か所でもあって、ネズミが、そのあとに、入ってしまったら、また、おなじことをしなければならなくなる。

ともかく、無理なんだよ。だから、部屋をくさくしないでくれと親父に言ったのに、「におわないよぉ」「におわないよぉ」「におわないよぉ」と基本的な事実を否定する発言をして、絶対に、酒粕のついた魚の切り身を、テーブルの上にのせていたのである。

でっ、ネズミが入ってきたら入ってきたで、親父が「俺が捕まえるからいい!!」と言って、俺にネズミ対策工事をさせてくれなかったのである。

どっちも、親父が原因をつくっている。

しかも、普通の人は、そんなことをしない。狂っている。だから、俺が、誤解をされるの……。そして、俺が「きたなくしている人」「ダニを気にしない人だ」と思われてしまうのである。

俺がフロントに立って、いろいろとやらなければならない状態になると、そうなる。

●一〇〇%構文で言うということは、そういうことなのである■社会※2026/07/21 11:00

どすーーーんっっっと、重たい問題で悩んでいる人がいたとする。その人にとっては、生死をわかつような、切羽詰まった問題だとする。その場合、人間というのは、やはり、魔法のような解決方法に頼りたくなる。「なになにで解決できる」と言われると、信じたくなる。

ところが、だれも、魔法なんて使えないのである。現実的な方法でかえていくしかないのである。「言霊」「思霊」「引き寄せ」……全部、一発で、問題を解決してくれるような解決方法じゃない。

だから、解決しなかった場合にそなえて……「あなたのやり方が悪い」「あなたの器ではだめなんだ」「あなたのこころがけではだめなんだ」というような言い訳を最初から用意しておくのである。

ただ、一〇〇%構文で言うので、最初は、言い訳部分を隠すことができる。

ようするに、「うまくいかないことなんてない」という前提で、ものを言っているのである。最初はそうなのである。一〇〇%構文で言うということは、そういうことなのである。

けど、一〇〇%構文で言ったって、言っただけでは、問題は解決しない……。言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化するのであれば、言っただけで、解決するはずなのである。言ったのに、現実化しないということ自体が、おかしいのである。

言ったのに現実化しないということ自体が、ペテンだということを意味しているのである。一〇〇%構文の文で言うということは、そういうことなのである。

●もう、つかれたよ■騒音※2026/07/21 3:28

ちょっと眠って、起きたけど、状態なんてかわらない。

けっきょく、日時を決められると、まえのまえの日から、眠れない状態になって、精神的にボロボロになる。

もう、つかれたな。ヘビメタ騒音でぼろぼろなところに、親父のネズミ・ダニ騒動が付け加わって、なにをやるにしてもくるしい状態になった。

もう、つかれたな。こんなの、何十年やっているんだよ。もう、つかれたよ。親父のネズミ・ダニ騒動は、八年前からだけど、親父のきちがい行為は、俺が生まれたときからあった。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、鳴らしていた。

きちがいがきちがいモードでやると、俺がほかの人から、誤解をされるようになるのだ。こんなの、やっていられない。

だいたい、前々日から眠れなくなる状態だって、「ヘビメタ騒音の日」を繰り返したから、そうなったのだ。

これも、ほかの人は簡単に否定して、俺が「人のせいにしている」ということになるのだろう。けど、ちがう。ぜんぜん、ちがう。

そりゃ、あんな状態で鳴らされ続けて、学校に、時間通りに行かなければならない状態も続くなら、そりゃ、緊張して、眠れない状態になる。何万回繰り返したかわからない。

実際に鳴っていた日々は、数千回だけど、数千回、繰り返せば、そうなる。自動的にそうなる。学習してしまう。

●ヘビメタ騒音で誤解されっぱなしの人生だった■騒音※2026/07/21 3:17

やっぱり、くるしみたくないわけだけど、くるしんじゃってる。ほんとうに、ヘビメタ騒音で、くるしい。ヘビメタ騒音で人生がない。容赦なく、鳴ってた。

ほんとうに、くるしかった。

ヘビメタ騒音でくるしいだけの、人生だった。

ヘビメタ騒音でくるしいだけではなくて、ヘビメタ騒音で誤解されっぱなしの人生だった。

たぶん、このまま生きて、このまま終わるのだろう。くるしくない状態になることは、ないだろう。ヘビメタ騒音でくるしいまま、生活して、そのまま、死ぬのだろう。

ヘビメタ騒音がなかった場合の、精神に到達することはないのだろう。逆転なんてない。くるしまま、生きてきた。ヘビメタ騒音でくるしいまま生きて、ヘビメタ騒音でくるしいまま、死ぬのだろう。 

2026年7月20日月曜日

●鳴っている空間がいやだった■騒音※2026/07/20 20:53

体がだるい。喉がかわく。息を吸うたびに、吐き気がする。

けど、ともかく、ヘビメタ騒音がひどかった。やっぱり、人生、ない。 

あーー。いま、午後八時四九分。平日の午後八時四九分。平日の午後八時四九分は、きちがいヘビメタがガンガン鳴っていた。どれだけ言っても、一秒もやめてくれなかった。そのまま、ガンガン鳴らし続けた。だから、ほんとうに勉強ができない。勉強をすることができない。

ともかく、くるしい。生きていて、いやだった。鳴っている空間がいやだった。いやだった。ともかく、生きていること自体が、ものすごく、くるしい。 

●くるしいけど、頑張って動いてきた■騒音※2026/07/20 12:53

 くるしいけど、頑張って動いてきた。

意味なかったなぁ。

全部の記憶が俺をせめたてる。 

●ヘビメタ騒音で、つらいだけの人生だった■騒音※2026/07/20 2:13

ほんとうに、ヘビメタ騒音で、人生がない。いつも、こまっていた。あの地獄……。どれだけ頑張っても、地獄が続いた。もう、つかれた。いいことがなかった。

どれだけ解決するように頑張っても、きちがいがきちがい感覚で鳴らしてしまう。鳴らされた場合の、日常が、地獄なんだよ。「関係がない」なんて言っているやつらがわかるようなつらさじゃない。

だいたい、そいつらも、俺にとって、つらい状態をつくっている。

ほんとうに、いいこと、なかった。どれだけ頑張っても、つらいだけだった。頑張らなくても、つらいんだよ。頑張っても頑張らなくても、きちがいヘビメタ騒音でつらい。全部がつらい。全部がつらくなるんだよ。非・合理的な考え方じゃない。実際、すべてに影響を与える。

つらいだけの人生だった。ヘビメタ騒音で、つらいだけの人生だった。

*     *     *

あの日も、この日も、ずっとずっと、ヘビメタ騒音でつらかった。つらくない日がない。

もう、無理だ。どれだけ、影響を受けないようにしても、つらくてつらくて、しかたがない人生だったな。人間関係に影響を与えるにきまっている。

それなのに「そんなのは関係ない」「影響ない」「楽しいと言えば楽しくなる」「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまい」……というようなことばかり言われた。

こういうことを言われること自体が、人間関係に影響を与えているということなんだよ。 

●鈍感な人は、そこら辺のことを、切り離して考える■社会※2026/07/19 22:20

 「人のいやがることはやめましょう」 ということについて、ちょっと付け足して書いておこう。人によって感度がちがうということだ。

相手が「ほんとうに、いやがっているのかどうか」ということに考えることができるかどうかということは、重要だ。ある人がいたとする。

ある人はAさんだする。Aさんが、「人がいやがっていることかどうか」ということについて、なまの感情では、気にしない人だとする。その人だって、「人のいやがることはよくないことだ」という説明には、納得するのである。

しかし、実際に、「人がいやがることをしないようにできるかどうか」というのは、「Aさんの判断」の影響を受ける。Aさんが、だれかに対して、なんらかのことをした場合、そのだれかが、どの程度いやがっているのかどうかというのは、Aさん側の主観的な判断に任されることになるのである。

だれかをBさんだとする。「Bさんがいやがっている」ということをAさんが「認識しない人」である場合は、Aさんが、「人のいやがることはやめましょう」ということに賛成していても、Bさんには、気がつかずに、Bさんがいやがることを積極的にしている場合がある。

だから、認識の問題というのがある。

本人が、「人のいやがることはやめよう」と思ったって、感度が悪い人?だと、人がいやがることをやってしまう場合がある。

もちろん、Bさんが「やめてくれ」と言うかもしれないけど、言っても、Aさんがどの程度Bさんの言い分を理解できるかどうか、わからない。

そして、たとえば、AさんとBさんが、おなじ職場で仕事をしているとする。Aさんのほうが立場が上だとする。その場合、Aさんは、Bさんがいやだと思うことでも、命令して、やらせようとするだろう。その場合は、業務をつつがなく、実行するということのほうが重要で、Bさんの気持ちは、たいして重要ではないということになる。

いちいち、Aさんが、Bさんの気持ちについて、本気で考えていたら、Aさんは、Bさんに命令することに、抵抗を感じる機会が増えるということになる。

だから、仕事上のルールや慣習が優先する場合は、Aさんは、たとえ 「人のいやがることはやめましょう」ということに心から賛成していたとしても、かならずしも、Bさんがいやがることをしないとは、限らないのである。

だから、その場のルールのほうが、「人がいやがることはしない」というルールよりも上位のルールであった場合、「人のいやがることはやめましょう」ということに心から賛成している人も、「人のいやがることはしない」というルールを無視して、人がいやがることをする場合がある。

それが、常に、仕事上、求められることなのであれば、仕事をしているときは、「人のいやがることはしない」というルールなんて、関係なしに、人がいやがることをするというとになる。

けど、鈍感な人は、その場において、上位のルールがある場合は、上位のルールに従って行動して、下位のルールのことは、気にしないのである。

たとえば、「これこれこういうことを下の人にさせなければならない」というルールがあるとする。その下に、なるべく優先するべきルールとして「人のいやがることはしない」というルールがあるとする。

そういうルールの上下関係を持った個人がいたとする。まあ、この個人もAさんだとしておこう。Aさんは、仕事のルールを優先して、下位の「人のいやがることはしない」というルールを無視することになる。

そして、それについて、気にしない場合がある。気にする場合もあるかもしれないけど、恒常的にそうすることが求められているのであれば、気にしない場合のほうが多くなる。

だから、「教えの場」「宗教の集会」で、どれだけ、「人のいやがることはやめましょう」などと言っていたって、別に世界はかわらないということになる。

だって、世の中に、「優先すべき上位のルール」が組み込まれていたら、上位のルールのほうに従おうとするからだ。そして、上位のルールに従っているとき、自分が悪いことをしていると思う人は、まれだ。自分が悪いことをしていると思ってしまう人は、その仕事場で働くことに、苦痛を感じてしまう。働きにくい状態で働くということになる。

実際には、自分も、ほかの人に「ほかの人がいをがっていること」を押し付ける場面もあるかもしれない。その場合、ルール間の葛藤をもっている人は、非常に疲弊してしまう。ストレスをため込んでしまう。

なので、上位のルールに従っているとき、下位のルールを完全に無視できる人のほうが働きやすいということになる。

「世のため人のため」というのも問題がある。たとえば、問題のある金融商品をほかの人に勧めている人は、世のため人のために働いていることになるのかどうかという問題がある。

たとえば、ダメな投資信託があるとする。そのダメな投資信託をすすめなければならないとする。

良心の呵責を感じるタイプは、ダメな投資信託を、買った?人が、将来、損をすることがわかっているので、そういうことをしにくくなる。こういうところでの、個人の感覚ということは、「世のため人のため」と言っているときは、無視されるのである。

「人に親切にしましょう」ということについても、おなじようなことが言える。

たとえば、Cさんは「人に親切にすることがよいことだ」とこころから、思っていたとする。「人に親切にしよう」と思っていたとする。

けど、Cさんが、そのダメな投資信託を客に勧める会社に勤めていたら、業務として、ダメな投資信託を客に勧めるということになる。鈍感な人は、そこら辺のことを、切り離して考えるので、葛藤が生まれない。

しかし、敏感な人は、そこら辺のことを切り離して考えてしまうので葛藤が生まれる。

その会社で働きにくくなってしまうのだ。自分がやっている業務が、なるべくやりたくない、いやな業務になってしまうのだ。

ここらへんの個人の感覚というのは、ほんとうに、個人によってちがう。どや顔で「人のために尽くしましょう」「人に親切にしましょう」「人がいやがることはやめましょう」と言っていたって、実際には、仕事となれば、人のためにならないことをしたり、親切な人ならできないことを人にしたり、人がいやることをしたりする。

何度も言うけど、実際の他人が「いやがっているかどうか」ということについて、鈍感な人と敏感な人がいる。声高に「人がいやがることはやめましょう」と主張している人が、鈍感な人であった場合、その鈍感な人は、本人が気がつかないところで、人がいやがることをしている確率が非常に高い。 

生活のなかで成り立つ現実的な道徳観と、生活とは切り離れたところでの「説話」としての道徳観は、かならずしも、一致しない。

どれだけ、「教え」にたがっている人が増えても、現実社会は、ぜんぜんよくならないかもしれない。ならない可能性がある。ならない確率は非常に高い。

むしろ、「教え」にたがっている人が増えれば、増えるほど、社会が悪くなる可能性だってある。

2026年7月19日日曜日

●日常的に、何時間も何時間もやられるということが、ぜんぜんわかっていないやつら■騒音※2026/07/19 14:23

日常的に、何時間も何時間もやられるということが、ぜんぜんわかっていないやつらがいる。そいつらがみんな……「そんなのは関係がない」と言う。

こんなやつらと、ヘビメタ騒音にさらされ続けたからで、「いっしょにいて」おもしろいわけがない。

そして、もっと残酷なのは、けっきょく、日常的に、何時間も何時間もやられてしまったので、影響が残っている。

こいつらが、どれだけ「影響なんてない」と言ったって、影響が残っている。こいつらは、「影響がない」と思っているのだから、「影響がないエイリ」だと思っているのだ。いや、「影響があるエイリ」なんだよ。

かりに、こいつらがみんな「影響を認めた」とする。影響を認めた……。けど、きちがい兄貴は、きちがい感覚で、きちがい行為をやり続けた。これ、きちがいだから、意地になってやるのである。

そして、きちがいだから、自分がやったことを、ガン無視することができるのである。「まったく、一秒もやっていない」「まったく、一回も(そんなことは)やっていない」という、認識が成り立っている。

これ、きちがいだから成り立つ認識なのだけど、普通の人は、わからない。

普通の人には、きちがい兄貴がそういう人間だということがわからない……。そして、きちがい的な意地でやったことについて、きちがい的な感覚でやっていないと思うことができる人間がいるということが、普通の人には……わからない。結果、エイリがへんなことを言っているということになる。

実際には、こいつらは、影響をけていないのだから……つまり、日常的に、何時間も何時間もやられるということを経験しないまま生きているのだから、基本的には、わからない。実際に、そういう毎日が続いた場合、どういう影響が出るか、わからない。わかっていない。

何度も言うけど、かりに、こいつらが影響を認めたとしても、やられてしまった以上は、こっちの影響は、消えないのである。

ほんとうに、こいつらが言うことは、不愉快なことばかりなのだけど、かりに、こいつらが理解のあることを言ったとしても、きちがい兄貴にやられてしまったことは、消えない。

きちがい兄貴が毎日頑固に、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もやりきったことの影響が、消えない。

2026年7月18日土曜日

●自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論■社会※2026/07/18 8:16

『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』の続きをちょっと書こうかな。

『自分の身に起きたことは、すべて自分の責任だ』という考え方が『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』という考え方に置き換わってしまうのだ。

その場合、自分が他人に、なにか悪いことをやったにしろ、他人の身に起きたことは、他人の責任だということになる。自分がなにか悪いことを他人にしたかどうかの判定というのは、たいていの場合、自分がすることになる。裁判所で決着をつけるときもあるけど、たいていの場合は、本人の主観に任されたことなのである。

なので、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つとは限らない。

ところが、これもまた、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つはずだという前提が成り立っているのだ。

だから、自分が相手になにか悪いことをした場合も、基本的には、『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』ということになってしまう。「すべては自己責任」という考え方は、基本的には、自分が被害を受けたと感じるときにどう思うことにするということに対応している。

なにが起きても、自分の責任だと考えることによって、相手をせめる気持ちがなくなるというのが、本来の、自己責任論の在り方だった。

それは、自分に対する自己責任論だったのである。ところが、他人の身に起きたことは、すべて(その)他人の責任だという自己責任論にすりかわっていくのである。

この場合、『他人の身に起きたことは、すべて、(その)他人の責任だ』と考えているわけだから、他人の落ち度をせめることになる。自己責任論ではなくて、他人責任論になってしまう。その他人に「落ち度がない」場合も、じつは「落ち度がある」と判定されて、その他人のせいになってしまう。

この場合、被害者側にも落ち度がある……に……決まっているという考え方が成り立っている。そして、被害者がの責任を追及するわけだけど、加害者側の責任はまったく追及しないのである。

加害者は、「自己責任論」において、「自己」ではないのだ。

わかるかな?

加害者側だって、いつも加害者であるわけではなく、ある特定のことについて、加害者側になっただけだ。こころの道徳としては、自分の行為が、相手に与えた影響を考慮しない場合は、ほんとうに他人に危害を加えた場合も、『自己責任論の範疇外』になるのである。

わかるかな?

法的な裁きがくだっった場合、加害者であるということが、決定される。それは、法的な手段なのである。この法的な手段は、『こころのなかの道徳』に影響を与える場合もあるけど、まったく影響を与えない場合もある。

ようするに、感じ方については「個人の王国」なのである。個人が、たしかに自分は相手(他者)にこれこれこういう被害を与えたということを認識しなければ、『こころのなかの道徳』には影響を与えないのである。

その場合、自己責任論だと、ここで想定されている加害者側人は、責任を感じなくてもすむのである。

自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論なのである。

自分が、被害を与えた(かもしれない)という場合は、被害を与えたという道徳的で主観的な認識がなければ、自分が、被害を与えたということにはならないのである。

外側で、法的に処理をされたとしても、本人の道徳的で主観的な認識はまったくかわらないかもれしない。

どういうことで他人に迷惑をかけるかということに関する考え方は、個人によって千差万別だ。個人によって、ぜんぜんちがうのである。だから、他人に迷惑をかけたということに、鈍感な人は、他人に迷惑をかけた場合でも、まったく自己責任を感じないということになる。

*     *     * 

自己責任論の基盤は、自分が相手の行為によって、被害を受けたと主観的感じる側の人が、自分の責任だと思いなおす場合の……責任論なのだ。だから、自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人は、そもそもも、その行為に関する責任なんて、感じないのである。

そして、自己責任論というのは、(外側から見れば) 自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人を援護する理論なのである。そういう「自己責任論」に切り替わっている。 

*     *     *

自分が(被害を与えた)場合は、そもそも、自己責任論の範疇外ということになる。自分が(被害を与えた)場合は、「自己責任論」ではなくて、単なる「責任論」になる。こういうところに、トリックがある。

*     *     *

自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論だと書いたけど……自分が被害を受けたということに関しては、社会制度的な被害も含まれる。

ともかく、主観的に「自分が被害を受けた」と感じることに関しては、自己責任論の対象になる。

そして、自己責任論のなかでは、「自分が他者から被害を受けた」ということは、否定されるのである。ようするに、否定されることが、理論的に決定されている。

だれか、個人が自分にしてきたことに限らず、たとえば、社会制度的に自分が被害を被ったということを感じた場合は、自己責任論の対象になるということが重要だ。

なんらかの制度で、自分が不利な立場になったということに関する自主的な認識も、「自己責任論」の対象になるのである。

そして、「自己責任論」のなかで、その自主的な認識は否定されるのである。

「たとえ、制度的に不利な扱いを受けたとしても、それは、自分の責任なのだ」と思い直すための理論なのだ。『思う』のではなくて、『思い直す』のである。

ようするに、自己責任論のまえに、なまの感覚として、「こういう不利益が生じた」という感覚が、まず成り立っている。

●関係あるよ■騒音※2026/07/18 1:52

眠れたので、どうにかなった。

しかし、あいかわらず、喉がかわいているし、あいかわらず、腹の調子が悪いし、あいかわらず、問題が山積している。もう、つかれたなぁ。あいかわらず、つかれている。

けど、ちょっとは、すっきりした。

どうするかな。ほんとうに、つかれた。ヘビメタ騒音がつみかさなって、つかれた。ネズミ問題、ダニ問題がつみかさなって、つかれた。

これ、体調に影響があるんだよ。体の状態に影響がある。歯医者に何回も、時間通りに行くということ自体が、できなくなる。

歯医者だけではない。

もちろん、バイトに行くとか、就職して普通の時間、普通に働くということに、影響がある。影響があるというよりも、破壊する。睡眠回路のズレ、長期間にわたる疲労の蓄積……。関係あるよ。 

●ヘビメタ騒音の影響を無視する相手と、うまくいくはずがない■騒音※2026/07/18 1:27

起きたとき「やったぁ!眠れた!!」と思った。すこしは、さっぱりした。

しかし、上半身、裸で眠ったので、ねむのところがかゆい。

あせもか、ダニに刺されたのか、ホコリダニアレルギーなのかどうかわからない。

たぶん、ダニに刺されたのではないと思う。半そでのTシャツを着て、冷房の温度を下げるか、汗をかいたまま掛け布団を抱いて寝るか迷った。冷房の温度を下げると、風邪を引く可能性が、まじであるので、迷った。

 汗をかいて、掛け布団を抱いて?眠ると、掛布団に汗がつく。これが、また、ダニ環境だと問題なのだ。

起きたあと、考えるのは長期ヘビメタ騒音のことだ。もう、ほかの人とはぜんぜんちがうのだ。人生のあいだ、ずっと、そうだよ。長期ヘビメタ騒音が鳴り始めてから、ずっと、そうだよ。

考えること自体が、ぜんぜんちがう。考えること自体が、きちがい家族による騒音がない人や、なかった人とは、ぜんぜんちがう。

そりゃ、鬱にもなるだろう。

理解しない他人と、うまくいかなくなるだろう。それは、不可避的でしかたがないことだ。長期ヘビメタ騒音の影響を無視する相手と、うまくいくはずがない。 

2026年7月17日金曜日

●ゼロだと思っている■騒音※2026/07/17 15:51

ちょっと鳴っているという感じではなくて、生活!すべてを!とられる。不可避的にとられる。

けど、きちがい兄貴が、気にしない。ほかの人も気にしない。ゼロだと思っている。

とられる力のでかさがわかっていない。こんなの、ない。だいたい、ほんとうに、あの調子でずっと鳴っていたら、入試でもデートでも、なんでも、つらいものになるんだよ。

それがわかっていないやつが、調子をこいて、えらそうなことを言う。わかったようなことを言う。

どうにか、なんないか?

ずっとつきささっている。ずっとつもりつもっている。ほかの人の、何気ないひとことも、いやな体験として、つもっている。

そりゃ、マイナスのマイナスなのに、相手は、ゼロだと思っているんだからな。

きちがい兄貴……張本人のきちがい兄貴が……どれだけ言っても、認めない。ヘビメタ騒音が鳴っていたらこまると言うことを認めない。ヘビメタ騒音の影響で、勉強ができないということを認めない。

ヘビメタ騒音の影響で、ほかの人から悪く言われて恥をかくということを、認めない。認めない。認めない。

すべて、認めない。

やっていないのと、おなじつもりなのである。

まったくやっていないのと、おなじ認識なのである。

いやーー。きちがい的な意地で、使える時間はすべて使って、やっているだろ。やっただろ。

張本人がまったくわかっていないというのが、兄貴と親父でおなじなんだよ。

よその人は、そりゃ、経験していないのだから、兄貴みたいにわかっていないよ。マイナスの効果について、まったくわかっていない。

マイナスの俺を、ノーマルな俺だと思っている。だから、バカにしてくる。ノーマルな俺は、マイナスの俺をバカにしてくるやつより、すぐれていると、思う。

けど、それを言っちゃおしまいなんだよな。

ヘビメタ騒音がなければ「そんなことは言わせない」ということを、言ってくる。理解力も想像力もない人たちが言ってくる。こいつらにしてみれば、「そんなのは関係がない」と言えることなのだ。関係がないわけないだろ。

家で、能力を下げられて、ものすごく不愉快な思いをしてきた。 

●長期ヘビメタ騒音がなければ感じないつらさだ■騒音※2026/07/17 15:06

 楽に眠りたい。眠れない。ネズミ以降だけど、腹痛と不安が結びついているやつがある。腹痛と不安がきつい。騒音だけで、いっぱいいっぱいなのに、親父とダニとネズミと業者がつけくわわった。

いろいろと、へんな気持ちになる。普通の人が経験していないことを、経験してしまった。これは、悪い意味で言っていることだ。普通の人が経験していない、ものすごくいや経験をしてしまった……という意味。腹がしくしくする。眠れない。

女神みたいな人がいても、むりだ。これ、よくならない。

これ、というのは、腹痛のことではなくて、この雰囲気。

歯医者に行くとき、つらかった。歯医者で待っているとき、つらかった。長期ヘビメタ騒音がなければ感じないつらさだ。めちゃくちゃにつらい。つもりにつもって、つぶれている。 

もう、無理なほど、つもった。

ともかく、楽に眠りたい。起きたとき、さっぱりしていればいいのだけど……。ちょっとは、さっぱりしてくれないかな。ちょっとは、回復してくれないかな。楽に暮らしたい。

ほかのことは、据え置き?でいいけど、ともかく、ヘビメタ騒音がなかった場合のつかれぐらいしか、経験したくなかった。

ぜんぜんちがう。

別の個体だから、ほかの人は、ヘビメタ騒音があった場合のつかれが、わからない。みんな、ヘビメタ騒音がなかった場合のつかれにしか、言及していない。

みんな、ヘビメタ騒音がなかった場合の『憂鬱』しか、言及していない。

ライフハックで言っていることが、正しいと思える人なんて、ほんとうにまったくわかっていないよ。

ああーー。早く眠って、楽になりたい。早く眠って、楽になりたい。

*     *     * 

自分の能力をうばわれて、常にマイナスで暮らしてみろ。ほかのやつは、ぼくがノーマルな状態でマイナスなんだと思っている。ヘビメタ騒音でマイナスなんだよ。

これが、事実だ。けど、普通の人は、「そんなのはいいわけだ」「そんなのはあまえだ」と言う。きちがい家族がいないから、きちがい騒音に悩まされなくてすむやつらが、マイナスの俺を、ノーマルな俺だと思って、バカにする。

こういう世界だったよ。

●ヘビメタ騒音が七日間以内に鳴りやんでくれたら■騒音※2026/07/17 13:01

 ヘビメタ騒音が七日間以内に鳴りやんでくれたら、ライフハックなんて関係なしに、楽しい状態になったのである。普通に努力して、努力を得られる状態になったのである。ヘビメタ騒音が鳴りやめば……。ヘビメタ騒音が鳴りやめば……。 

ライフハックで言われていることは、条件を無視したことだ。

そして、勘違いでも有効だと……人によっては……思えることなのである。条件が、相対的によい条件なのである。だから、ライフハックを試した期間に、勘違いでいいことがあると、ライフハックは有効だと思ってしまう。

一生涯、そういう勘違いをしていれば、たしかに、しあわせな人なのである。

けど、条件がちがう。ほとんどの人が……みんな……「自分だって苦労した」ということを言う。けど、ちがうんだよ。

だいたい、四割の人が嘘だと思うことなんて、普通の人の身の上には起こらないことなんだよ。それが、条件になってしまう。しつこいしつこい条件になってしまう。

他人が理解しない……しつこいしつこい条件をつくりだしてしまう。

●きちがいヘビメタで吹っ飛んだこと■騒音※2026/07/17 12:51

まあ、簡単に言って、歯を治療したあと、いいことがあるかどうかだ。

もう、長期騒音にやられているので、感性が、ぼろぼろになっている。

正直に言うと、いつも、異世界転生したような気分だ。

ほんとうに、長期騒音がつらかった。そして、今の孤独な状態というのは、長期騒音の結果できたものだ。かりに、おカネが入って、ある程度、裕福な暮らしができるようになったとしても、それで、なんだというのだ。

若いころに、ヘビメタ騒音なしでやりたかったことなんて、できない。長期騒音は、ほんとうに、めちゃくちゃに鬱になる騒音なのである。毎日が、ピンチでくるしかった。

歯医者に行くときも、ヘビメタ騒音と戦って、歯医者に行くのである。歯医者でまっているときも、ヘビメタ騒音と戦って、まっているのである。夜も昼もずっとおなじだ。くるしい。

だれにどれだけ言っても、むだだ。むだなのはたしかだ。しかし、ほんとうに、きつい。 

かりに……ほんとうにかりに……ぼくのことを大好きな美少女と一緒に暮らしたとする。それで、ぼくは、楽しくなるか。多少は、楽しくなる。けど、ヘビメタ騒音の「鬱」のほうが、何兆倍もでかい。そのうち、美少女も、ぼくのもとから、離れるだろう。

だって、鬱な人と暮らしているのは、つらいから……。ともかく、ぼくは……ものすごくいいことがあれば、ほんのちょっとは、うわむくかもしれないけど、しずんだ気持ちのまま生活することになる。

反転可能な時期というのがある。そこまでに、鳴りやめば、どうにかなる時期というのがある。その時期を過ぎてしまったら、もうだめだ。どれだけいいことがあっても、無駄だ。

そして、ものすごくいいことなんて、ないのである。

ヘビメタ騒音の生活で、いろいろなことが、ダメになっている。これも、実際にやられた人じゃないと、どういう過程で、そうなるのか、わからない。

表面だけ考えたって、わからない。ほんとうに、経験しないと、日常茶飯事のことがわからない。ほんとうに、経験しないと、他者の反応というのがわからない。どういうことになるのか、わからない。不可避的に、どういうことになるのか、わからない。

わかっていないんだよ。わかっていないところで、「こうすれば、うわむく」というようなことを言う。

それ、初期段階で、何万回も繰り返して、きちがいヘビメタで吹っ飛んだことだから。

●『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』■社会※2026/07/17 8:27

基本的なことを言うと「すべては、自己責任」と他人に言う人は、他人に親切にしないのである。

どうしてかというと『すべては、自己責任だから、他人の身に起きたことは、他人の責任だ』と考えるからだ。

『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』と考えているわけだから、他人に親切にしない。けど、人間は矛盾した生き物なので、他人に親切にすることもあるだろう。寄付をすることもあるだろう。

しかし、この寄付というのが、たいていの場合、反対のことに使われるのである。もちろん、『デモンストレーション枠』というのはある。

それは、寄付を集めるのに必要だからやることだ。寄付で集めたカネを、悪いことに使う組織が多すぎた。影の目的のために、カネが使われてしまうのだ。

ともかく、自己責任論者は、『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』と考えているわけだから、他人に親切にしない。

まあ、「すべては、自己責任だ」と説教をしてやることが、他人に親切にしたことになるのだろう。そういうやつらにとっては……。

*     *     *

 きちがい親父が、きちがい的な意地で、竹を植えたとしよう。そして、その結果、おかあさんが、被害を受けたとしよう。その場合、「すべては自己責任」と考えるやつらの思考だと、おかあさんが被害を受けたのだから、おかあさんの責任だということになってしまうのである。やられた側の責任は追及するけど、やった側の責任は追及しないのである。

こういう不公平な態度がある。「すべては、自己責任」と言って、他人をせめる人には、そういう不公平な態度がある。

*     *     *

ときには、こういうやつらが、「人に親切にしましょう」「世のため人のために、つくしましょう」なんて、言っている。 

*     *     *

きちがい親父の行為なのだから、きちがい親父に責任がある。ところが、やられたやつが悪いんだということになってしまうのである。「自分で阻止できなかったからダメなんだ」ということになってしまう。被害を受けたほうの責任だけ追及して、行為の主……やった人の責任は追及しないのである。

こんなの、ない。

これが、あたりまえで正しいと思っているやつらが、どれだけ多いか。

自分の行為の結果、ほかの人に迷惑をかけた。やったほうの責任だ。

*     *     *

自己責任論をふりまわすやつらは、自己責任論を否定されただけで、がんがん文句を言ってくる連中だ。自己責任論を否定されたのは、自己責任論者の責任じゃないのか。自分が不機嫌になった理由を、他人に求めているぞ。

ぜんぜん、自己責任じゃないじゃないか。

たとえば、エイリが自己責任論を否定したので、腹が立ったのである。エイリの行為のせいで、自分が腹を立てたということになる。自己責任じゃないじゃないか。

2026年7月16日木曜日

●「いいだろ」「ほめてよ」と言ったのである■家族※2026/07/16 13:42

 ほんとうに、きちがい兄貴がへんな顔で、鳴らしてたんだよな。あんなの、ない。

基本、きちがい兄貴とは、めったに、あわなかった。

きちがい兄貴が、使える、ほとんどすべての時間を使って鳴らすからだ。兄貴は、兄貴の部屋に閉じこもって、エレキギターを弾きながら、きちがいヘビメタを爆音で鳴らすわけだから、ほかの部屋にいる時間が短いのである。

でっ、兄貴が風呂にはいっているときは、風呂場にいるわけだけど、風呂場は風呂場で個室だから、話しかけるのは不便だ。風呂に……兄貴がはいっているときに、話しかけたって無意味だ。

だから、兄貴がテレビを視ながら、ご飯を食べているときだけ、話しかけることができるということになる。きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らしていない状態で、話しかけることができるのは、きちがい兄貴が、飯を食っているときの、わずかな時間だけだ。

でっ、話しかけても、こいつ……きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじ態度なのである。いまにいるときの態度が、きちがい兄貴ときちがい親父でまったくおなじなのである。

きちがい兄貴に、きちがいヘビメタを鳴らすなと言うことを言えば、きちがい兄貴は、不機嫌になって黙りこくる。こっちを、無視する。どれだけ言ったって、無駄なんだよ。

そして、鳴らしているときは、爆音で鳴らしているわけだから、怒鳴ったって、そんなには聞こえない。怒鳴っているということが、わかって、音量をさげて、こっちが言うことを聴く姿勢になるときはあったけど、「鳴らさないでくれ」「しずかにしてくれ」ということを言われたら、きちがい兄貴は……「ハンダゴテを買ってくれ」と言われたときのきちがい親父のように、発狂して、はねのけてしまう。

きちがい親父が、竹を植えようとしたとき、おかあさんが、「やめてほしい」ということを言ったんだけど、真っ赤な顔をして、無視して、植えてしまったのだ。このとき、親父は「緘黙バージョン」だ。黙りこくって、真っ赤な顔をして、やってしまう。

きちがい親父のこの態度が、きちがい兄貴の態度だ。

ヘビメタを鳴らしているときに、「やめてくれ」ということを言われれば、顔を真っ赤にしてやり続けてしまうのである。

そして、あとは、なんにも、残らないのである。

こっちが、こまっているということは、まったく、なにも残らないのである。

だから、「相手はなにも言ってこなかった」という前提でずっと、鳴らすということになる。

これ、ほんとうに、きちがい的なんだけど、そうなんだよ。

この態度は、相手をおこらせる態度だ。そりゃ、こんな失礼な態度は、ないだろう。

けど、そういうことを、まったく考えないで、やってしまうのが、きちがい兄貴やきちがい親父なのだよ。

きちがい親父が竹を植え終わったとき、おかあさんに、なんて言ったと思う。「いいだろ」「ほめてよ」と言ったのである。

自分の気持ちだけで、相手がどう思っているのかなんて、まったく、わからないのである。

あれだけ「やめてほしい」「将来、ひどいことになるからやめて」と、普段は口少ないおかあさんが何度も何度も言ったのに、親父は真っ赤な顔をして、かちゃかちゃと動き、やりきってしまったのだ。

相手が「いやがっている」ということが、まったく、わかっていないのだ。まったくまったくわかっていない。

だから、「やめてくれ」と言っていた相手に「いいだろ」「ほめてよ」と笑顔で言えるのだ。

こういう人間なんだよ。

自分のなかでは満足なので、ほめられることを期待する。「やめて」「やめて」と必死に言っていた相手に対して、言うことが、これなのだ。

「やめて」「やめて」と必死に言っていた相手に対する態度が、これなのだ。こんなの、ない。普通の人間じゃないのだ。

ほんとうに、狂っている。

でっ、この時の「親父の態度」のままなんだよ。兄貴が、俺に「やめてくれ」と言われたときの態度が、こういう態度なんだよ。

「うまいだろ」とは言わなかった。きちがい兄貴は、きちがい兄貴が鳴らしたくて鳴らしているだけで、ほかのことはまったく関係ないからだ。ともかく、自分が鳴らしたい音で鳴らすということに、命がかかっているのである。

なら、そうやって、相手の意見を退けて、鳴らし続けたということが、ちょっとでも認識できれば、いいけど、認識できないのだ。「認識できればいいけど」と書いたけど、どのみち、ずっと鳴らし続けるのであれば、意味がない。

意味がないけど、どれだけ文句を言われたって、きちがい親父のように、文句を言われたと言うことは、無視して、まったくわかっていない状態が続くのである。

相手が言っていることを、ほんのちょっとでも、認めてしまえば、「ほんとうにしずかにしてやらなければならない」状態になるので、相手が言っていることは、絶対に認めないのである。命がかかっている。認めないことに、命がかかっている状態なのだ。

きちがい親父が「このハンダゴテは使える」と思い込んで、「今ハンダゴテは使えない」ということを認めなかったように、きちがい兄貴は、「自分がでかい音で鳴らしている」ということを認めなかった。

ここら辺の「あたまのつくり」がおかしいのである。

だから、約四割の常識的な人たちは、「エイリが嘘を言っている」と思うのだ。こんなのない。

約四割の人たちも、認めようとはしないのだ。

俺が本当のことを言っているということを、しつこく、しつこく、認めない。こいつらのなかでは、「エイリは嘘を言う人だ」という間違った解釈が成り立って、ずっと、そのままなのである。

俺が言うことを、いちいち、うたがう。嘘だと思って、ぼくが言ったことを、へんな風に解釈するのである。

そして、自分のなかの「常識」にあった解釈をしてしまうのである。

でっちあげだ。

●「夢を見させるアイテム」■社会※2026/07/16 6:33

条件について、言及することは、「とても恥ずかしいこと」なのである。こういう価値観が、深く、深く、深く、浸透している。

しかし、これは、奇妙なことだ。ほんとうは、条件について、言及することは、恥ずかしいことではない。条件が事実なら、事実だからだ。

しかし、条件についてだけは、事実であっても、言及してはいけないことになっているのである。

そして、条件は、たいていの人にインストールされている「集合的一括思考」によって、否定される……ことになっている。

悪態をつく人が、条件について言及するようになっているのである。そうすると、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのはあまえだ」「こいつは、なにを言っているんだ」という気持ちになるのである。

多くの動画で、悪い人が条件について言及するようになっている。

「ふざけた話だ」と多くの人が思うようになっているのである。「こいつは、自分が悪いのに、なにを言っているんだ」と多くの人が 思うようになっているのである。

「自分が悪いのに、人のせいにしている」とか「自分が悪いのに(その結果、起こったことを)条件のせいにしている」という悪いイメージができあがるように、動画が構成されているのである。

たたきやすいところに関しては、ちゃんと、たたきやすいような動画がつくられている。

たとえば、生活保護を不正受給している人が、条件について、言及するのである。もともと、悪いことをしている人が、ああだこうだと(自分の生まれながらの条件について)言及して、正当化しているような動画をつくってしまうのである。

ひきこもりでも、ニートでも、無職でも、「条件が悪い」ということを言う人は、最初から、悪役として出てくるのである。

逆に、さまざまなアニメの主人公や様々なドラマの主人公は、どれだけ条件が悪くても、条件について言及せず、スーパーパワーと意志力で、最後には、勝率をつかむ人たちなのである。

もう、われわれは、小さいときから、洗脳されている。

そして、ほんとうのことを言ってしまうと、現実社会に住んでいる非・支配者層の人は、じつは……見放されているのである。

はっきり言うと、主人公のほうに、肩入れをして、自分が主人公側の人間だと思うようになっているのだけど、現実には、非・支配者層の人は、やられてしまうほうの人間で、最後の最後に大逆転をして勝つ人ではないのだ。

けど、最後には、ものすごくラッキーなことが起きて、自分が勝つというイメージをうめこまれてしまうのである。

ところが、実生活のなかでは、アニメやドラマのようには、いかないのである。

現実を思い知らされることになる。

けど、「どこかで、そういうことが起こる」「最後には、ものすごくいいことが起こって、大逆転する」というようなことを最後の最後まで、期待してしまうところがある。

非・支配者階級に生まれた時点で、勝負がついているのである。

支配者層と、非・支配者層のあいだには、ものすごくでかい溝がある。

支配者層が仕掛けたいろいろなことを、非・支配者層の人は、回避できない。

ようするに、支配者層が仕掛けたしくみによって、駆逐されてしまう。罠にかかってやられてしまう。

本人……が主人公だとする。その場合、ものすごくいいことが起こって、逆転するということが、起こらずに、そのまま主人公(自分自身)がやられてしまうということになる。

こっちがい、現実なのだ。

非・支配者層のなかにも、ランクがある。

支配者層のピラミッドとおなじように、非・支配者層のなかにも、ピラミッドがある。その場合、たいていの人は、やられてしまう側なのである。

まあ、わからないか?

やられたことに気がつきもしないのが、大衆なのである。

ようするに、「ものすごい逆転劇」を視聴しているほうだ。ドラマやアニメのように、やられる側の人が、最後には救われて、大逆転をするということは……現実世界では……ない。やられてしまう。 

*     *     *

架空の話のなかでは、最後に救いの手が差し出されて、大ラッキーで、勝つのである。主人公は、そうなる。たいていの場合、主人公に、自己を投影するので、『自分』がそっち側の人間だと思ってしまうのである。

非・支配者階級のトップのほうは、それでも、いい暮らしができるのである。適当に思いついたライフハックを、口にすることができる。一〇〇%構文で言って、おカネもうけをすることもできる。けど、それは、非・支配者階級のなかで「条件がいいほうだから」可能なことなのである。

非・支配者階級のなかで、「条件が特別に悪い人」や「条件が悪い人」や「条件が普通の人」は、相当に、もがくことになるのである。

そして、けっきょくは、一〇〇%構文で言われたことが、かなわないまま、この世から去ることになる。

ともかく、条件が悪い人は、最初から、「嫌悪すべき対象」として(物語のなかに)出てくる。そして、きらわれるようなことを言って、負けるのである。

だから、そういう物語をずっと、小さいときから魅せられていると「条件について言及する」ということが、容易にはできなくなる。どうしてかというと、そういう「嫌悪すべき対象」と「自分」がおなじだと、他人から見なされるようになるからである。

最初から、嫌悪される存在を配置して、なんとなく、そのことについて、言いにくい雰囲気をつくるというのが、「黒」のやり方だ。

たとえば、反ワクだって、そうなのである。陰謀論者だってそうなのである。あるいは、うるさい音をたてて迷惑をかける右翼の人もそうなのである。あるいは、なんかいやな感じで、テレビに映っている左翼の人もそうなのである。この人たちは、言いにくい雰囲気をつくるために……配置された人たちだ。

「嫌悪感が生まれる」ようになっているのである。

 *     *     * 

非・支配者階級の普通の人や、非・支配者階級の条件が悪い人は……言霊のように「いつか」夢がかなうと、先送りにして生きているのである。

言霊が、強力なアイテムなら、「いつか」などと言わないで、三秒でかなえてしまえばいいのである。ところが、かなわない。

だから、「いつか」かなうということにして、夢を先送りにする。大逆転を待っている状態だ。「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力」というアイテムは、夢を先送りにするアイテムなのだ。だから、期待は持たせるけど、ほんとうは、それだけの力をもつアイテムではないということになる。「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力」……なかで……「努力」だけは、わりと有益だけど、しっぺ返しを食らうようになっている。「努力」で、やりきると、最後には、相応の不幸なことが襲ってくるようになっている。

「言霊」「思霊」「引き寄せ」は、勘違いによって、「正しい」と思われるアイテムなのである。だから、勘違いが持続しているあいだは、有力なアイテムなのである。本人にとって……有力なアイテムだ。しかし、勘違いをしているだけだ。

ほんとうに、有力なアイテムなら、時間内に効果を発揮している。

たとえば、言霊なら……「三秒以内に、こうなる」と言えば、三秒以内に言った通りになっている。どんなことでも、言えば、かなう。いつかはかなう……と待っている必要はない。 

*     *     *

だから、ほんとうに必要なのは、しくみを理解して、条件をかえていくということなのである。あまりにも、開きすぎている条件の差を、縮めるということが必要になるのである。それには、まず、「夢を見させるアイテム」のしくみを理解して、現実的な格差を減らしていく必要がある。

これ、「夢を見させるアイテム」は、ひどい社会を維持するための、アイテムなのだ。そりゃ、幼児的万能感があるから、有効であるように思える。幼児的万能感は、だれにでもある。それに、誤解をする力もあるので、有効であるように見えるのである。

個人のなかでは、それでいい。しかし、一〇〇%構文で、あたかも、事実のように言うことには、問題がある。

けど、一〇〇%構文で、事実のように言うことが、むしろ、奨励されているのである。言われたほうは、だまされるか、苦渋をなめるしかないのである。だまされているあいだは、夢を見ることができるので、ある程度、有効だと言うことができるのだけど、それは、だまされているあいだのことだ。儀式自体が快感を生み出す場合があるのである。

そして、積極的に誤解をすれば、「これは有益だ」と思えるのである。

そして、一〇〇%構文で、言い切ること自体が、快感を生み出すことなのである。だから、巧妙にしかけられた、悪の連鎖がはじまる。

2026年7月15日水曜日

●そして、この人たちには、悪意がない■社会※2026/07/15 11:39

条件が悪い人のことを考えて、いろいろと書いてきたけど、ほとんどの人がわからないと思う。言霊、思霊、引き寄せ、努力論……。

全部、善意で言われることが多い。有効な方法を教えてあげる……という文脈が成り立っている。しかし、これ……ひどいことなのである。まったく、意図していない効果がある。

言っている人たちが、まったく意図していない効果があるのだ。

その効果は、負の効果だ。

これ、ほんとうに、ひどい話なのである。

条件が悪い人が、涙を呑んで、たえるということになる。

これ、『ストレス源』なのである。ストレスなんだよ。

もちろん、「言えば言ったことが現実化する」「明るいことを思えば明るいことが現実化して、暗いことが起これば暗いことが現実化する」「引き寄せは、ある」「ニコニコすれば、いいことがある」「掃除をすればいいことがある」と言っているほうは、善意で言っているのである。

しかし、今までここに書いてきたような、まずい部分がある。

だれも、それを説明できなかったのである。ぼくが説明するしかなかった。けど、多いのである。多すぎる。

言霊、思霊、引き寄せ、努力論……の影響を受けている人が多すぎる。

そして、この人たちには、悪意がない。悪意がないのだけど、相手を自殺に追い込むような効果があるのである。

もちろん、悪意なく言っている人は、そんなことは、気にしない。理解しない。

「そんなことがあるはずがない」と思っておしまいだ。

「ネガティブなことを言うな」と思っておしまいだ。

けど、しくみを見ると、たしかに、ある。

ここでずっと書いてきたことが、実際に成り立っている。しくみとして、成り立っている。

言霊、思霊、引き寄せ、努力論……を信じている人が多いと、悪い家族にずっとやられてきた人は、行き場をうしなう。

言霊、思霊、引き寄せ、努力論……は、『特別に悪い条件が成り立っている人』のことを、袋叩きにするような理論なのだ。

●ぜんぜん、ちがう■騒音※2026/07/15 9:13

 きちがい兄貴が悪いことをやっているのに、こいつらは、まるで俺がさぼっているみたいに言うのだ。

こいつらは、まるで俺があまえているように言うのだ。

こいつらは、みんな「自分だって苦労した」と言う。

けど、きちがい兄貴と一緒に住んでいるわけではない。きちがい親父と一緒に住んでいるわけではない。きちがい兄貴が、どんな態度で、どんな感覚で、きちがい行為をするかまったくわかっていない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言うやつらもいる。

けど、こいつらが言っている騒音というのは、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを始めるまえの、騒音だ。うちは、でかい幼稚園の隣なので、きちがい兄貴がきちがいヘビメタをはじめるまえから、うるさかった。

だから、俺だって、まさに、騒音ぐらいあったのだ。こいつらは、俺が、ヘビメタ騒音を体験するまえの、騒音レベルで「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている。

ぜんぜん、ちがうレベルの騒音についてものを言っている。

ぜんぜん、ちがう。

2026年7月14日火曜日

●「体力エネルギーなんて関係なく、できると言えばできる」■社会※2026/07/14 10:56

ちょっと、気楽に話したいと思う。基本、ラフな話になってしまう。

ようするに、厳密な話ではない。

だから、そういう前提で読んでほしい。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは標準的な体力がある人だとする。Bさんは、ものすごく、体力がない人だとする。

この体力というのは、体力測定で測れるような体力ではなくて、生活するための体力だ。

とりあえず、体力ではなくて、体力エネルギーと言っておこう。

Bさんは、病気になって、自力でトイレに行くのも、やっとだという状態だとする。Aさんは、普通に働いている。

で、Bさんの体力エネルギーというのは、一だとする。Bさんがつかれているときの体力エネルギーは、〇・一だとする。

Aさんの体力エネルギーは一〇〇だとする。そして、Aさんが「つかれた」と感じるときの体力エネルギーが九〇だとする。Aさんは、つかれていても、ちょっとやる気を出せば、たいていのことができる状態であり、当然、Aさんがつかれているときも、自力でトイレに行くことぐらいは、簡単にできることだ。

だから、そもそも、基準がちがうのである。

けど、両方とも、「つかれた」という言葉で、自分の状態を表現しているとする。

その場合、Bさんがつかれている状態というのは、Aさんが経験したことがないつかれている状態なのだ。Aさんがつかれているとき、Aさんの体力エネルギーは九〇ある。Bさんは、通常の状態で、体力エネルギーが一で、Bさんがつかれているときは、体力エネルギーが〇・一ぐらいになってしまう。

Aさんが「(自分は)つかれている」と表現しているときの体力エネルギーが九〇で、Bさんが「(自分は)つかれている」と表現しているときの体力エネルギーは〇・一だ。

九〇〇倍の差がある。

AさんとBさんは別の個体なので、AさんにBさんの『つかれ方』が伝わるわけではない。その場合、Aさんには、Bさんのつかれは、わからないということになる。

わからないということが、前提として成り立つ。

しかし、「つかれている」という表現で状態がわかるという前提で、AさんとBさんが生きているとする。その場合、Aさんが「つかれている状態」として想像できるのは、自分がつかれている状態のときの状態なので、体力エネルギー九〇の状態なのだ。

だから、Aさんは……Bさんが「つかれている」と言ったときも、だいたい九〇ぐらいの状態なのだろうと仮定して考えてしまう。

しかし、実際には、九〇〇倍の差がある。

ぜんぜんちがう「つかれ」について、語っているということになる。

ライフハック的な言い方は、条件を無視したものなのである。「言えば言ったことが、現実化する」……条件なんて関係がない。「思えば、思ったことが、現実化する」……条件なんて関係がない。「努力すれば、成功する」……条件なんて関係がない。「感謝をすれば、運があがるので、幸福になる」……条件なんて関係がない。「掃除をすれば、運があがるので、幸福になる」……条件なんて関係がない。

ほかにも、条件を無視した言い方は、いろいろとある。「すべては、受け止め方の問題なので、受け止め方をかえればいい」……条件なんて関係がない。「すべては、自己責任だ」……条件なんて関係がない。

ライフハックの言い方というのは、基本的に、条件を無視した言い方になるのである。しかし、条件はある。 

たとえば、「できると言えばできる」ということについて考えてみよう。

「できると言えばできる」のだから、どんなことだって、どんな状態だって、できると言えば、できるのだ。

「できると言えばできる」という言い方は、最初から、「条件」を無視した言い方なのである。「努力をすれば成功する」という言い方も、最初から「条件」を無視した言い方なのである。「できると言えばできる」という言い方にも「努力をすれば成功する」という言い方にも「体力エネルギーのちがい」という条件はまったく出てこない。

だから、これらの文について、Aさんが正しいと思っている場合は、「体力エネルギーなんて関係なく、できると言えばできる」と思っていることになり、「体力エネルギーなんて関係なく、努力をすれば成功する」と思っているということになる。

まあ、「努力をすれば成功する」という言い方については、そのうち、機会があったら、考えるとする。いまは、「できると言えばできる」という考え方だけについて、考えるとする。

Aさんが考える「人間がつかれている状態というのは、体力エネルギー九〇の状態」だ。だから、つかれているにしろ、じゅうぶんに動ける状態だ。余力があるのである。

その場合、Aさんは、そういうじゅうぶんに動ける状態のつかれしか経験したことがないので、Bさんのつかれも、そのようなものだろうと思ってしまう。

Bさんが「つかれて動けない」と言えば、そのようなつかれた状態を想像して、Bさんに対して「そんなのはあまえだ」と言うのである。

実際に、Aさんが、Bさんに「そんなのはあまえだ」と言ったとする。

つかれていたって、「できると言えばできる」のである。Aさんのなかではそうなのである。

Aさんは、「Bさんがつかれたと言った」ということを理解できる。しかし、Bさんのつかれについては、理解しているようで理解していない。

あくまでも、自分が体力エネルギー九〇のときに感じるつかれについて考えているわけだ。だから、Bさんが「できない」と言えば、Aさんは「そんなのはあまえだ」「できると言えばできる」と思ってしまう。実際に体力エネルギー九〇のときは、できると言わなくても、できるのである。
 

Aさんは、じつは、Bさんが感じているつかれについて考えることができないのである。経験していないので、経験から、考えることができない。しかし、自分が、Bさんが感じているつかれについて正確に理解していないということについて、無頓着なのである。

だから、ほかの人が経験したことがないような「つかれ」を感じている人は、不利な立場に追い込まれることになるのである。Bさんのまわりの人が、みんなAさんみたいな人だったら、「そんなのはあまえだ」「できると言えばできる」と言われることになる。

特殊な環境で、不可避的な条件によって、どうしても、つかれる状態というのがある。それが、たまりにたまってしまうということもある。ほかの人が、このつかれを感じないのであれば……つまり、ほかの人がこのつかれを経験したことがない人なのであれば……どれだけ言ったって、ほかの人の理解なんて得られないのである。

だから、きちがい家族によって、疲労がつみかさなるような状態で暮らしていると、ほかの人から、むなくそ悪いことを言われるということになる。

●兄貴も……弟が学校で恥をかいたということを認めない■騒音※2026/07/14 5:28

きちがい親父は……兄貴がちゃんとしたハンダゴテを学校にもっていけないようにした……張本人なんだよ。

ところが、兄貴が、ちゃんと、きちがい親父に「親父が使えると言い張っていたけど、(そのハンダゴテは)使えないものだった」ということを言っても、きちがい親父が事実を無視して「使える使える」と言い張って、認めない。

この、「認めないということ」が、二回繰り返されているのだ。この時点で、二回繰り返されている。

そして、普通の人たちは「ちゃんと言えば(お父さんだって)わかってくれる」と思っている。

そうであるならば、「ちゃんと言わなかった(エイリの)兄貴が悪い」ということになってしまうのだ。普通の人たちのなかではそうなる。

ヘビメタ騒音で、宿題ができないということにも、まったくおなじことが成り立っている。

きちがい兄貴がやりきった場合、きちがい兄貴は、やりきった気持ちがないのだ。自覚がないのだ。認知がないのだ。認識がないのだ。ほんとうは、きちがい兄貴は……きちがい的な意地でやりきって、やりきってやりきってやりきって、相手の言い分を認めなかったのに、相手の言い分を認めなかったという認識がないのだ。

だから、きちがい兄貴は、どれだけ、なにを言われても、「自分の騒音が、弟に影響を与えている」ということを認めない。

弟が、その日の宿題をやりきることができるかということについて、きちがい兄貴の騒音が影響を与えているのにもかかわらず、どれだけ「兄貴の騒音で宿題ができないから、しずかにしてくれ」ということを言われても……わからないままなのだ。

自分が影響を与えているということがわからない。きちがい親父が、自分(親父)が絶対の意地で、子ども(兄貴)にもたした、ハンダゴテのことで、兄貴が、学校で恥をかいたということを認めないように……兄貴も……弟が学校で恥をかいたということを認めない。

認めない。どれだけ、はっきりと言われても、きちがい回路で、はねのけて、認めない。認めない場合、親父も兄貴も、どれだけ何回やっても、「やっていない」ということになってしまうのである。

「そんなことはやっていない」という前提で、相手との人間関係を考える。あるいは、相手との人間関係を無視する。

でっ、それが脳みその、ものすごく深いところで起こっていることなんだよ。

だから、本人は、ほんとうに「悪気」がないんだ。

これが、「こっち」にとって、どれだけこまることか、きちがい家族やきちがい兄貴タイプのきちがい家族と一緒に住んだことがない人にはわからない。

2026年7月13日月曜日

●でたらめな嘘を言って、逃げ切ろうとする■家族※2026/07/13 11:12

足の太もものところをよく見てみたのだけど、ダニに刺されたあとが残っている。うすくだけどね。複数個ある。メンタルがやられる。きちがい親父が……と言いたくなる。

ともかく、生命力的な体力を使い果たしてしまったようところがあり、動きたくないのだ。「やりたくない」と思ってしまう。引っ越しも、いつできるのか、わからない。

これから、睡眠トライをするけど、たぶん、無駄だ。じつは、昨日、けっこう、眠ってしまった。眠るつもりはなかったんだけど、眠ってしまった。肌のことは、失敗だったなぁと思う。ネズミ・ダニにやられるまえに、引っ越し先を見つけて引っ越すべきだった。けどなぁ。集合住宅になってしまう。ちょっと、いろいろとやばいのだ。まあ、気にしている人は(あんまり)いないけどね。

このあいだ、掛布団シーツを洗ったので、今度は、敷布団シーツを洗おうと思う。熱湯処理をしなくてもいいなら、気楽に洗っていたのだけどね……。

ともかく、気分が落ち込む。ゲームでいうHPが、残り少ない感じがする。どうにかして、チャージしなければならない。ほんとうに、つらい時間をすごしてきた。いまさら、はじまったことじゃないのである。長期騒音でHPを削られた。ともかく、絶望的に不利だったんだよな。それはそれは、つらいものになるよ。 

そして、今、なんとか生きているけど、じゃあ、わかい時間を取り戻せるのかというと、取り戻せない。なんか、いろいろとやる気がぬけている。「もう、いいか」と思うことが、多い。「もう、つかれた」と思うことも、多い。横になると「うーーーっ」という気持ちになるときがある。これも、多い。

じゃあ、どうするかというと……。 

*     *     *

全部が、めんどうくさい。気力がわかない。ダニに刺されなければ、たしょうは、気力があがっていたのかな。 

*     *     * 

段ボール箱に熱湯かけたあと、冷やした段ボールをビニール袋に入れる作業をするべきではなかった。

どうも、ビニール袋に入れる作業をしていたときに、ダニが手について、二階にあがってきてから、ダニに刺されたような感じがする。

この件で、もう、やる気がなくなっている。

暑いから、ビニール系レインコートを着たくない。むかしは、暑くても、ビニール系レインコートを着て、ネズミの糞処理をしていたんだよ。

けど、もう、力尽きた。そして、今日も、ネズミを袋にいれなければならなかった日のことを思い出して、不愉快な気持ちになった。きちがい親父が「俺が捕まえるからいい」と言い張って、ネズミ対策工事をさせてくれなかった。

「親父が死んだら、俺がネズミ処理をしなければならくなるんだぞ」と俺が言ったら、親父が「しなないよぉぉぉぇぇ、しなないよぉぇぇぇ」ときちがいのように絶叫しやがるのだ。

これ、居合わせた人じゃないとわからいよな。

ネズミが出てくることが決まっている居間で、きちがい親父を説得しなければならないのだ。どんな地獄か、わからないだろ。 

「死ななくても、(親父が)入院したら、俺がネズミ処理をしなければならくなるんだぞ」と俺が言ったら、親父が「入院、しないよぇぇぇぉぉぉ、入院しないよぉぉ」と顔を真っ赤にして絶叫するのだ。

そういう、基本的なことを認めない。

このあと、けっきょく、急性胆嚢炎になって、入院したんだよ。「このあと」と書いたけど、1年2か月ぐらいは経過していた。1年二か月後ぐらいに入院した。

けど、じつは、このことが起こるまえも、親父は脳梗塞で入院しているのである。入院したことがあるのである。

入院したことがあるのに、「その場で言い勝ちしたいから」……基本的なことを無視することを言う。

どれだけでたらめなことだっていいのだ。

入院することもある……ということを認めると、親父が入院したあと、俺(エイリ)が、ネズミの処理をしなければならなくなる。俺(エイリ)がネズミの処理をしなくてもいいようにするには、ネズミ対策工事に賛成しなければならなくなる。

……だから、「入院しない」ということを言って、その場を、おさめようとする。その場で、でたらめな嘘を言って、逃げ切ろうとする。

きちがい的なことを言って、絶対に認めない。

「このさき、入院することは絶対にない」ということは、言えない。「このさき、死ぬことはない」ということは、言えない。

ところが、絶叫して、言ってしまう。顔を真っ赤にしていってしまう。

これ、ちゃんと、相手の言っていることを、否定するために、言っているんだよ。きちがいだけど、そういうところは、わかっている。どれだけバカげたことでも、ともかく、基本的なことを否定して、相手の言い分をつぶすということをする。

しかも、そうやってつぶした、つぶしたということがわからなくなってしまうのだ。

これ、つぶしたあとは、まったく関心がない状態ができあがる。

だから、実際に、入院したり、実際に死ぬまでは、そういうことを繰り返すのだ。どれだけなにを言っても、認めないのである。

基本的なことを認めない。

じつは、きちがい兄貴も、脳みその構造が、きちがい親父とまったく、おなじで、まったくおなじことを、するのだ。

絶叫があるかないかのちがいはあるけど、頭のなかで起こっていることはおなじなのだ。

自分が「思いっきりでかい音で」ヘビメタを鳴らしたいとなったら、自分が「思いっきりでかい音で」鳴らしているとき、自分が「思いっきりでかい音で」ヘビメタを鳴らしているということを否定する。

耳が正常なら、絶対にわかることなんだよ。

けど、きちがい親父とおなじで、基本的なことを否定する。

基本的なことを否定したら、もう、それで、「やっていない」ことになるから、やり続けていいということになってしまう。わかるかな?

「でかい音で鳴らしている」という基本的なことを認めてしまったら、「でかい音で鳴らせなくなってしまう」のだよ。

だから、「でかい音で鳴らしているという」基本的なことを、認めないようにする。ただし、意識的にそうするわけではないのだ。無意識的にそうする。

だから、「そうした」ということが、わかっていないことになる。きちがい兄貴が、意地になって「でかい音で鳴らしている」という基本的なをこと認めなかったのに、きちがい兄貴は、実際に、自分が、 「でかい音で鳴らしている」という基本的なをこと認めなかったことは、ないと思っている状態なのだ。

何万回繰り返したってそうなんだよ。

あくまでも、きちがい兄貴のなかでは、「小さな音で鳴らしている」とか「普通の音で鳴らしている」とか「フォークギターぐらいの音で鳴らしている」ということになっているのだ。

ぜんぜん、ぜんぜんちがう。

兄貴がこういう状態だと、俺が嘘を言っていると思うやつが、出てくる。

こいつらが、また、やっかいなやつらなのだ。もう、きちがい兄貴と常識的な人たちにはさまれて、俺が、猛烈に不愉快な思いをすることになるのである。

みんな、ほんとうに、わかっていない。

●一番、接近している「儀式的な行為」が「原因」として選ばれやすい■社会※2026/07/11 10:31

『時間的な接近』についてちょっと書いておく。


たとえば、Bさんは、毎日、掃除をしていたとする。Bさんは『掃除をするといいことがある』と思っていたとする。Bさんは、『掃除をすることで、いいことを引き寄せることができる』と思っていたとする。

たとえば、六月一日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

そして、六月二日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。六月三日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月四日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月五日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月六日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月七日に、掃除をしたら、いいことがあったとする。

その場合、六月七日の掃除が、いいことを引き起こしたということになる。Bさんのなかではそうなる。 

しかし、たとえば、六月一日に、「儀式的な行為」である掃除をして、六月七日にいいことが起こったとする。その場合、六月二日から六月六日までは、「儀式的な行為」である掃除をしなかったので、六月二日、六月三日、六月四日、六月五日、六月六日、は、当然、原因として選ばれない。

一番、接近している「儀式的な行為」が「原因」として選ばれやすい。

「いつかかなう系の夢」に関しては、長い時間のロングパスが可能だ。「いつかかなう」と先送りにしてきた夢なので、どれだけ長い時間がかかっても、かなえばいいわけである。「いつかかなう」と思ったまま、死ぬ場合もあるだろう。

「いつかかなう夢」に関しては、儀式的な行為の目的は、「いつかかなう」という気持ちを支えるためにある。だから、すぐにかなわなくても、よいのである。

2026年7月12日日曜日

●実際に、そうなったのだから、これは、正しい■社会※2026/07/11 10:53

たとえば、Aさんが「明日は雨が降ると言ったあと、次の日になったら、実際に雨が降ったので、Aさんは言えば言ったことが、言霊の力によって現実化する」と考えたとしよう。

悪いけど、これ、妄想なのだ。

しかし、『関係妄想』のように悪くは言われない。どうしてかというと、受け入れられやすい妄想だからだ。幼児期を経た人は、みんな、幼児的万能感をもっている。言霊という考え方は、幼児的万能感に一致する考え方なのである。

だから、多くの人にとって、「言えば言ったことが、現実化する」という考え方は、妄想ではないように思えるのだ。

しかし、妄想なんだよね。

そして、妄想への道は、案外、だれにでも開かれているのである。

予言・出来事関連の妄想は、実際の個人的な出来事のあいだに、関連性を認めて、法則性があるように考えることから、はじまる。

でっ、これも、起こりやすいことなのである。あるものを食べたら、食中毒になったとする。そうなると、『あるものを食べると食中毒になる』という考え方が、頭のなかに浮かぶのである。

『実際に、そうなったのだから、これは、正しい』と思うようになるのである。

しかし、主語が人間であっりたり、自分であったりするわけで、法則性が成り立つ範囲というのが、もともと、あいまいなのである。

関係妄想の場合は、あくまでも、自分自身に結びつく妄想なのだけど、言霊のような妄想は、かならずしも、自分自身に結びつく妄想ばかりではないのだ。

しかし、言霊のような妄想の場合でも、自分に結びつく妄想である場合はある。

関係妄想の場合は、関係妄想をもっている人にとって、まわりの人やSNSで知っている人が、敵になってしまうので、関係妄想の場合は、たいていの場合、よくは言われない。

しかし、言霊のような妄想の場合は、いちおうは、ポジティブな意味をもつことができるので、悪く言われない。しかし、言霊のような考え方は、妄想の一種だ。

*     *     * 

「出来事・出来事関連妄想」が「法則・出来事関連妄想」になる。「法則・出来事関連妄想」のように見えるけど、妄想でない場合は、法則があっている場合だ。 

●間違った学習なのだけど、学習が発生してしまう■社会※2026/07/11 10:33

間違った学習なのだけど、学習が発生してしまう。

たとえば、「明日は雨が降る」と言ったあと、実際に、次の日になったら雨だった場合、もちろん、「明日は雨が降る」と言ったことと、実際に、雨が降ったことには、なんの関係もないのだけど、「自分が明日は雨が降ると言ったから、雨が降ったんだ」と本人が確信すると、関係を学習したということになる。

間違いの学習なのだけど、学習した効果は残る。

たとえば、おっぺけぺと言うと願いがかなうと思っている人がいたとする。その人が実際に「おっぺけぺ」と言ったら、行政から給付金が振り込まれたとする。

「おっぺけぺ」と言ったから、おカネが振り込まれたのだと思った場合、「おっぺけぺ」ということと「おカネが振り込まれた」ということのあいだに関連があるように思うのである。

これも、間違いなのだけど、本人がそう思った場合、本人のなかでは、「たしかに関係があるものだ」と認識されることになる。

この場合も、学習が発生したということになる。

とりあえず、「おっぺけぺ」と言うと、願いがかなうと思っている人は、Aさんだとする。

「おっぺけぺ」と言うと、いいことが起こると確信したAさんが、就職活動をするかどうか迷っていたのだけど、「おっぺけぺ」と言えば、就職できると思って、就職活動をしたとする。

その場合、Aさんのなかでは……「おっぺけぺ」と言うことと、就職活動をするということには、関係があることになる。

「おっぺけぺ」と言うと、就職活動でも成功すると思ったAさんが、実際に就職活動をした。その結果、就職できたとする。

その場合、「おっぺけぺと言うことがプラスの影響を与えた」と言うことができるかというと、言えると思う。

しかし、就職した先が超・ブラック企業だった場合、いろいろといやなことが発生するので、就職自体がよかったことなのかどうかは、わからないということになる。

時間的な接近というのが、けっこう問題なのだ。

Xをしたときと、いいことが起こった(と認識したとき)の時間の近さが、けっこう問題なのだ。時間的に近いと、Xをしたから、いいことが起こったと思う確率が高くて、時間的に遠いとXをしたから、いいことが起こったと思う確率が低くなる。

マウスの話になってしまうのだけど、マウスが、レバーを引くと、エサが出てくるようにしておく。その場合、レバーを引いたあと、一秒で、エサが出てくる場合は、レバーを引くとエサが出てくるということを(魔数が)学習しやすくなる。

しかし、たとえば、レバーを引いたあと、二三時間たつとエサが出てくる場合は、レバーを引くということと、エサが出てくるということの関係性にマウスが気がつかない場合が出てくるはずだ。

人間の場合は、夢や願望を、時間をかけてかなえるということができるので、相当に長い時間がかかって「現実化した」ことでも、「言ったこと」と「現実化したということ」のあいだに関係性を認める場合がある。

しかし、内容がはっきりしている夢や内容がはっきりしている願望ではなくて、「なにかいいことが起こる」という場合は、「なにかいいことが起こる」ということに、意識が集中するので、もし、意識が集中していなければ、「なにかいいこと」として認識されなかったことも、「なにかいいこと」として、認識される場合がある。


ある儀式的な行為とある出来事のあいだに、比較的短い時間の流れしかないと、「儀式的な行為をしたからある出来事が起こった」と思ってしまう確率が高くなる。

これは、「儀式的な行為をしたからある出来事が起こった」ではなくて、「儀式的な行為をしたあとある出来事が起こった」ということなのだけど、誤解をしてしまう。

ぼくから見れば、誤解だけど、その人から見れば、「真実」なので、その人にとってみれば「効果があった」ということになる。ある出来事が起こったというのは、たいていの場合、客観的な事実だけど、意味合いは、主観的に与えられるものなのである。

ようするに、その出来事が「いい出来事である」ということは、主観的に決まることでしかない。主観と客観がだいたい、一致する場合もあるけど、主観のほうが優先される。その人にとって「いいこと」なのか、「悪いこと(いやなことを含む)」なのかは、ほかの人にはわからないことだ。

本人が「いいことが起こった」と思っている以上、「いいことが起こった」ということになる。「いいことが起こった」という言い方をしたけど「いいことがある」という場合もおなじだ。何度も言うけど、ある出来事が、「いいこと」なのか「悪いこと」なのかは、その人が主観的に決めることだ。

けど、それなりに、「いいことである」と感じる根拠があるのだ。その人のなかに根拠がある。

それは、情報のつみかさねによってしょうじた価値観の総体だ。

無意識的なレベルまで含んで、価値観の総体があるから「その時点」で、「いいことが起こった」「いいことがあった」と自然に思えるのだ。

これを、たとえば、その時点で「悪いことが起こった」と感じたのに、意識的な意思で、むりやり「いいことが起こったのだ」と書き換えることは、じつは容易ではない。

そして、その試みは、失敗する確率が非常に高い。総体のほうが、そのときの意識的な意思よりも、出来事の価値を決めてしまう力が強い。

だから、そのときの意志に合わせて、出来事を自由に書き換えるということはできない。

ほんとうは、できないのだけど、これまた、できるようなことが、言われるのだ。

その場合、そこにしめされる例は、例外的であり、普段は、相対的な感覚で感じたことを、意識的に書き換えることは、むずかしいことなのだ。あんまり、成功しない。

たとえば、「タンスの角に足をぶつけて、痛いと思った」とする。そのとき「頭をぶつけなくてよかったと思えばいい」というような例があげられる。

これらの例は「悪いことが起きても、いいことだと思いなおすことができる」という例として語られる。じつは、これらの例は、案外レパートリーが少ない。

自分がミスをしたということが、前提になっている場合が多い。

「思いようだ」というようなことが、言われるけど、これらの例に関しては、『自分が思いなおすことが容易』な例なのだ。こういうことを言う人たちだって、普段、自分が、ほんとうに腹を立てることには、普通に腹を立てている。ヌケヌケだからわかっていないだけなのだ。

自分が正しいと思ったことを否定されたとする。そのときは、普通に腹を立てるのだ。『自分が正しいと思ったことを否定されただけで、なぐられたわけではないので、よかった』とは、なかなか思わない。顔を殴られたら、『顔を殴られたけど、歯が折れなくてよかった』とは、なかなか思わない。

「Aということが起こったけど、Bということが起こるのよりも、ましだから、よかった」と言い換えて、安心できる範囲というのは、案外限られている。

この人たちは、例をあげられると、「その通りだ」と思って、自分もその通りに行動しているように思っているのだけど、実際には、その通りには行動していないことが多い。

「相手の行為が原因だ」と思っている場合は、「なになによりもましたがら、よかった」とは考えないで、相手に対して、おこる確率が非常に高い。自分が損をしたときも、「なになによりもましたがら、よかった」とは思わずに、普通にくやしがる確率が非常に高い。

相手が無礼な態度で、無礼なことをしてきたら、 「なになによりもましたがら、よかった」とは思わずに、普通におこる確率が非常に高い。

「例」をあげるメンター・教祖が、普段どういう生活をしているのかということを、ちょっとは、気にしたほうがいい。 

2026年7月11日土曜日

●常識を裏切って、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた■騒音※2026/07/11 13:08

常識を裏切って、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた。いま、土曜日の午後一二時五〇分だけど、土曜日の午後一二時五〇分は、きちがいヘビメタ騒音が、一〇〇%の確率で鳴っていた。どれだけ「鳴らすな」と言っても、きちがい兄貴が、一〇〇%の確率で、無視して、鳴らしていた。常識を裏切って……というのは、ほかの人の常識を裏切ってということだ。あるいは、ぼくの常識を裏切ってと言うことだ。きちがい兄貴が、常識を裏切って、非常識な音を鳴らしていたのである。そして、きちがい兄貴の「認めない態度」は、非常識な態度なのである。「認めない態度」というのは、「でかい音で鳴らしていると言うことを認めない態度」のことであり、「ゆずらないで鳴らしているのに、ゆずらないで鳴らしていると言うことを認めない態度」のことである。「そんなの、嘘だ」という人たちは、常識的な判断で、損なのはうそだと思っているのである。けど、きちがい兄貴が非常識な人間なので、きちがい兄貴が常識的な判断を無視して、きちがい的な判断をして、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、鳴らしていたのである。どれだけ「やめてくれ」と言っても、きちがい兄貴がきちがい的な態度で、こっちが言っていることを無視して、鳴らしていたのである。普通の範囲まで、音を下げてくれなかったのである。きちがい兄貴が音を下げたつもりになっても、きちがい兄貴の耳が悪くなるようなでかい音を鳴らしていたのである。ちなみに、きちがい兄貴が、命がけで無視したことは、実際でかい音で鳴らしているということいがいにもある。たとえば、「弟が自分の騒音でこまっている」と言うことだ。これ、どれだけなにを言われたって、「「弟が自分の騒音でこまっている」ということにならないのである。きちがい兄貴の頭のなかで、ならない。非常識な思考をして、あるいは、常識的な思考を無視して、ならないのである。きちがい兄貴のなかで鳴らなかったら、きちがい兄貴にとっては、実際に自分は「弟がこまることをしていない」と言うことになってしまうのである。だから、兄貴としては、なにもしていないつもりなのである。こんなのが、入試まで三年間毎日続いたらこまるだろ。最後の冬休みに、勉強をするつもりでも、まったく勉強ができない。そして、きちがいヘビメタ騒音で勉強ができないと言うことを、どれだけどれだけ、何回も何回も言ったって……きちがい兄貴が認めないのである。認めなければ、「実際にやっていない」と言うことになってしまうのである。だから、兄貴は、俺を困らせたつもりが、一切合切ないまま暮らしていたのである。しかし、こまっていたのである。このくらいに、ズレがあると、よその人は、俺がへんなことを言っているように思うのである。兄貴がくるっているのに、俺がくるっているように思うのである。よその人だって、自分がやられたら「気にする」のに……実際に自分がやられているわけではないので……「気にするからダメなんだ」と俺に言うようになるのである。しかも、「気にするからダメなんだ」と言った場合、俺が、不愉快な気持ちになると言うことは、こいつらの頭にはないのである。きちがいヘビメタで騒音で、めちゃくちゃに、くるしい思いをしているのに、頭から否定するやつがあらわれるのである。こいつらの頭は、きちがい兄貴の頭と、ちょっとだけ似ている。しかし、こいつらは、きちがい兄貴が「うち」でやったことを、こいつらの「うち」でやるわけではないのである。そういう意味で、常識的な人なのである。しかし、きちがいヘビメタで、俺が、不可避的にこまるというとは、きちがい兄貴のように、こいつらも認めないのである。しかも、こいつらはこいつらで、正しいことを言っているつもりなのである。「こだわるからダメなんだ」というのも「気にするからダメなんだ」とおなじだ。ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、きちがい的な行為を、きちがい的な意地でやってしまうから、不可避的な……当然の反応が……よその人にとって「へんな反応」だと思えるようになってしまうのである。あるいは、ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、きちがい的な行為を、きちがい的な意地でやってしまうから、不可避的な……当然の反応が……よその人にとって「不可避的ではない反応」だと思えるようになってしまうのである。こいつらは「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、騒音の程度と騒音の持続時間、騒音の持続期間を無視する。しかも、「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている時点で、「騒音」というものを抽象化して、同レベル化しているので……自分が騒音の程度と騒音の持続時間、騒音の持続期間を無視しているということに、気がつかないのである。こいつらも、騒音の程度と騒音の持続時間、騒音の持続期間を無視したつもりがないのである。こいつらの態度と、兄貴の態度は、似ているところがあるんだよ。こいつらがやったわけじゃないけど、こいつらは、ヘビメタ騒音の「影響のでかさ」を無視している。無視するな。くそ発言をするな。

2026年7月10日金曜日

●本人において、一般化した時点で、もう、それは人類の法則なのだ■社会※2026/07/10 4:11

いちおう、「おっぺけぺ」と言うことの神秘的な効果はないとする。神秘的な文字列なので、神秘的な力をもっているということはないとする。

けど、おっぺけぺと言うことと、いいことが起こるということのあいだには関係があると信じている人たちがいるとする。そして、その人たちの条件がちがっているとする。実際に、いいことが起こる確率は、条件によって決まっているとする。実際には、条件は複数あり、記述できない条件も存在しているとする。

しかし、モデルが複雑になるので、ひとつの条件が、「いいことが起こる確率」を決めているとする。

「おっぺけぺ」と言うことの神秘的な効果はないので、「おっぺけぺ」と言ったあとに、いいことが起こったとしても、「おっぺけぺ」と言うことと、いいことが起こったと言うことのあいだには、因果関係はない。ところが、いいことが起こったと考える人が、「おっぺけぺ」と言うといいことが起こる」と一般化・法則化してしまうのである。

その人のなかでは、『事実』そうなのである。

この場合、自分の場合は、「おっぺけぺ」と言うといいことがある……ということと、ほかの人間も含めて、人間の場合は「おっぺけぺ」と言うといいことがあるということは、ちがうことだ。

ところが、「おっぺけぺと言うと、いいことが起こる」と一般化してしまう人は、一般化してしまった時点で、人間というのは、みんなそういうものだと規定してしまうのである。

だから、本人において、一般化した時点で、もう、それは人類の法則なのだ。

しつこくなるけど……『自分の場合は、こうだ』ということと、『ほかの人の場合も……ともかく人間というのは、こうだ』というのは、ちがう。ちがうのだけど、本人のなかで、区別がついていないのである。

そして、たいていの場合、こういう人たちは、『区別』に書いたことを、区別していない。

なので、主語においてまず、間違っているし、一〇〇%構文の文で言っているということの意味もわかっていない。

最初から、でたらめなのだ。

ところが、人を救うために、「XをすればYになる」ということを言うのは、いいことだということになっている。だから、誤解が誤解を呼ぶと言うことになってしまう。そういう構造が成り立っている。 

●「Aをすると、Bになる」と一般化してしまう傾向が強い■社会※2026/07/10 3:38

 出来事が実際に発生した場合について考えてみよう。

たとえば、大根の味噌汁を、置いておいて、だいぶ時間がたったあと、煮なおして、食べたとする。そのとき、腹がいたくなって、トイレに駆け込んだとする。

まあ、食中毒になったとする。

この場合、「大根の味噌汁を食べると、食中毒になる」という連合は、最初はなかったのだ。

しかし、そのとき、「大根の味噌汁を食べると、食中毒になる」という連合がつくられてしまう。つくられやすい状態になる。

そして、「大根の味噌汁を食べると、食中毒になる」というのは、一〇〇%構文の文なのだ。だから、間違っている。間違った法則化をしてしまっている。

あるいは、間違った一般化をしてしまっている。

すべての大根の味噌汁が悪いのではなくて、その大根の味噌汁が悪かっただけだ。『放置した』という理由がある。放置したあと、いわゆる雑菌が増殖したのである。あたためなおせば、すべての細菌が死ぬだろうと思っていたかもしれないけど、100度付近では死なない細菌もあるのだ。

まあ、ともかく、大根の味噌汁と腹痛という連合ができてしまう。

何度も言うけど、この連合は間違いだ。

しかし、なんとなくそういう気持ちになってしまう。

これは、人間の場合、しかたがないことだと思う。

饅頭でも、カレーライスでも、なんでもかんでも、ただ単に、個人的な連想が発生してしまう場合がある。

これは……『思っていなかったこと』だけど、一度経験すると、脳みそのかなで一般化されてしまうので、それ以降、「まるまるを食べると、食中毒になる」というような「気持に近い」「考え方」が発生してしまう。

これは、人間のしくみとしてしかたがないことだと思う。割と、本能的なところで、この連合ができてしまうのだと思う。

しかし、原因は、大根の味噌汁ではなくて、放置した食べ物だとと思った場合は、放置した食べ物との間に連合ができる。

それに関しては、「理由」が必要であり、「理由」が自我に受け入れられるということが必要なのである。時間的な接近ということについて考えてきたけど、「Aをすると、Bになる」という場合、「AとBが時間的に接近していたほうが、Bの理由としてAがあがりやすいという」傾向がある。

これも、けっこう、人間の思考というものを考えた場合、割と根源的なところにある『思考の元型』だと思う。

ようするに、「Aをすると、Bになる」という思考は、生まれやすい思考なのである。

そして、それが、本人とって「いいことである」か「悪いことであるか」ということは、意味をもつものなのである。

だから、「Aをすると、Bになる」と一般化してしまう傾向が強い。

ジンクスなども、自我にのっていることなので、たとえ、間違った一般化であろうが、本人にとっては、重要なことになる。

人間は間違った一般化をしやすい動物だということが、たぶん、言える。

しかし、本人にとっては、いい結果をもたらす、間違った一般化であっても、ほかの人にとっては、悪い結果をもたらす、間違った一般化であるかもしれないので、注意が必要だ。 

2026年7月9日木曜日

●「そんなことはない」ということになってしまう■騒音※2026/07/09 19:45

ともかく、なんというか、もう、つかれた。

これ、親父のネズミ・ダニ事件よりも前から、つかれはてているのである。

長期ヘビメタ騒音から、ずっと、つかれている。陸続きなのだ。一度も、切れ目がない。どんだけつかれるか……長期騒音でどれだけつかれるか……ほかの人はまったくわかっていない。長期ヘビメタ騒音で、睡眠回路が完全に破壊されてしまうことも、わかっていない。

わかっていないと、「そんなことはない」ということになってしまう。

「あまえだ」「いいわけだ」と言われることになってしまう。

●問題なのは、正しいと思って、善意で言うことなのだ■社会※2026/07/08 13:50

 まるで、みんな、気にしていないけど「XをすればYになる」というようなライフハックは、やはり、いくつもの、問題を抱えている。

問題なのは、ほんとうに、Yになると思っているところなのだ。

そして、元気にポジティブに言えば、それに、引きずられる人が出てくる。誤解が誤解を生む状態になる。そして、単純な人……と言ってしまうけど……単純な人は、「XをすればYになる」という文と「すべてのXにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」という文が、意味的に等価であるということに気がつかない。

説明されたって、わからないのである。

なので、この部分にも、理論的な誤解の「種」がまかれている。

ともかく、「すべてのXにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」という文の意味と「XをすればYになることだってある」という文の意味を、区別しないということには、問題がある。

しかし、区別をしない人や、区別ができない人は、区別をしないと言うことに問題があるとは、考えないのである。

じつは、これは、問題だ。ほんとう、問題なんだよ。けど、区別しない。

多くの人は、区別しない。ほんとうは、区別してもらわないとこまる。しかし、区別しない。

「問題が決すると言えば、問題が解決する」とする。この場合、すべての問題が解決するのである。

ただ単に「問題」と言った場合も、「すべての問題」と言った場合も、おなじ意味になってしまうのである。

問題ではない問題はないので、問題という集合は、すべての問題という集合と、等価になるのである。

だから、ただ単に「問題が解決する」と言っただけで「すべの問題が解決する」ということになる。「問題が決すると言えば、すべての問題が解決する」のである。

「すべての問題が決すると言えば、すべての問題が解決する」と言わなくても「問題が決すると言えば、すべての問題が解決する」のである。

「言えば、問題が解決する」とする。たとえば、兄のヘビメタ騒音が俺にとって問題だとする。その場合、ぼくが、「兄のヘビメタ騒音がすぐに鳴りやむ」と言えば、すぐに鳴りやむのである。

 ぼくが、「兄のヘビメタ騒音が一秒以内に鳴りやむ」と言えば、「兄のヘビメタ騒音は一秒以内に鳴りやむということになる……はずだ。

ところが、鳴りやまなかった。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の意思で鳴らしていることなので、きちがい兄貴が、鳴らすのをやめようと思わなければ、きちがい兄貴は鳴らすのをやめない。

ぼくが、自分の部屋でどれだけ「兄のヘビメタ騒音は一秒以内に鳴りやむ」と言ったって、鳴りやまないのだ。どうしてかというと、「言えば、問題が解決する」という理論が間違っているからだ。間違っているのである。

「言えば、問題が解決する」ではなくて、「問題が解決すると言えば、問題が解決する」でもいい。

あるいは、「言えば、言ったことが現実化する」でもいい。

ともかく、「言えば、言った内容が、現実化する」という理論は間違っている。

間違っているんだよ。

「言えば、言った内容が、現実化することだってあるじゃないか」と思うかもしれない。

もちろん、言った内容が、言ったあとに、現実化することはある。

けど、「現実化することがある」だけだ。言えば、言った内容が、かならず、現実化するわけではないのである。

だから、「区別することは大切だよ」と言っているのだ。「言えば、言った内容が、現実化することだってある」という文の意味と「言えば、言った内容が、現実化する」という文の意味は、不等価なんだよ。なんでわからないのかな?

じゃあ、「すべての問題は解決すると言えば、すべての問題が解決する」とする。言うだけで、すべての問題が解決してしまうのだ。

もちろん、言うだけで「ヘビメタ騒音の問題」も解決するはずだ。「すべての問題は解決すると言えば、すべての問題が解決する」のだから、ヘビメタ騒音の問題も解決する。

ところが、解決しないのである。「すべての問題は解決する」と言っても、解決しないのである。

問題なのは、善意で助言しているということなのである。いままで、言霊という言葉を使ってこなかったけど、言葉に宿っている言霊の力によって、問題が解決するという理論なのである。

言霊があるから「すべての問題は解決すると言えば、すべての問題が解決する」と思っているのである。言霊主義者だけではなくて、一般の人にも、この感覚はある。

どうしてかというと、みんな、幼児期をこえて生きている人は、幼児的万能感をもっているからだ。

多かれ少なかれ幼児的万能感をもっているのである。なので、言霊理論は、一般人にも、感覚的に受け入れやすい理論なのだ。「言えば、言ったことが現実化する」のだから、「言う」だけでいい。安直な解決方法だ。言うことができる人には、だれにでも、できることだ。

安直な解決方法なのである。

そして、オールマイティーなのである。

どんなことも、解決できるのである。

どんな願いもかなうのである。

どんな願いも、言うだけでかなう。こんなすばらしいことはない。そりゃ、事実なら、信じたい。信じたいと思うのが人間だ。

ところが、事実じゃないのである。事実じゃない。だから、信じている人は、裏切られるのである。

『けど、信じている人はいるじゃないか』と思うかもしれない。そりゃ、信じている人はいる。信じている人は、誤解をしているのである。誤解をしているだけだ。

けど、誤解をしているだけだということは、認めない傾向が強い。ぼくの経験の範囲で言うと、言霊にこだわっている人が、誤解をしているだけだということを、認めてくれたことはない。

問題なのは、正しいと思って、善意で言うことなのだ。善意で、言う。相手を助けてやりたいつもりで言う。そのこころに、嘘はない。

だからこそ、問題なのだ。これも、わかってくれないか。

2026年7月8日水曜日

●自分なら憂鬱にならないと思っているのだ■騒音※2026/07/08 1:52

きちがいヘビメタ騒音にやられている時間というのは、うるさい時間でもあるけど、くやしい時間でもあるのである。

そりゃ、勉強をしたいのに、勉強ができないのだから、くやしい気持ちになる。くやしい気持ちになる決まっている。

ところが、きちがい兄貴と一緒に住んでいないから、きちがい兄貴の騒音をまのがれている一般人が、「そんなのは関係がない」と言うのだ。いやーー。関係あるよ。

うるさい時間で、くやしい時間で、腹が立つ時間で、憂鬱になる時間だ。とにもかくにも、生きているだけで、腹が立つし、憂鬱になる時間なのである。強制的に、そうなるのである。

工事で騒音が出ているわけではなくて、きちがい兄貴が、思いっきり鳴らしたいから、騒音が出ているのである。これ、ほんとうに、きちがい兄貴が我慢するべきなのである。

ところが、普通の人が、きちがい兄貴が我慢するべきだと言うことを無視して、俺が気にしなければいいということを言う。俺が影響を受けなければいいのだということを言う。……こんなの、ない。

その人たちだって、きちがい兄貴の態度でやられて、腹が立たないわけがないのだ。

ところが、きちがい兄貴の態度を無視して、自分なら、どれだけ騒音が鳴ってたって、勉強ぐらいできると思っているやつが、「どれだけ騒音が鳴ってたって、勉強ぐらいできる」と言う。

これ、かりの話なのである。

こいつは、きちがい家族の、きちがい騒音に、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もさらされているわけではない。

休みの日なんて、きちがい家族が、きちがい的な意地で、こっちのことはまったく気しないで、一日に一三時間以上も鳴らしているのだ。鳴らしてはいけない音のでかさで鳴らしている。

これを無視して、「気にするほうが悪い」と言うのが、約六割の人だ。そして、「そんなのはおかしいから、エイリが嘘を言っている」と思うやつが約四割だ。

こいつらが、みんな、誤解をしている。

妄想的な考えで、俺のことを、悪く言う。俺のことを劣った人間のように言う。こいつらは、みんな、別に悪いことをしているわけではないと思っている。

たとえば、約四割の人のなかでは……なかでは……エイリが嘘を言っているということは、確定事項なので、エイリが悪いということになってしまうのである。

エイリが嘘を言っているにもかかわらず、エイリが嘘を言っているつもりがないとするならば、エイリはなんとなんとか症だということになってしまうのである。

ほんとうに、失礼な決めつけなのだけど、こいつらがバカだから、そういう決めつけをしても、バカな決めつけをしたと思わない。

こいつらに、「ヘビメタ騒音の話は本当だ」と言うことを言っても、信じないのである。一度、「そんなのは、へんだ」「エイリが嘘を言っている」と思ったら、そのままなのである。「エイリが嘘を言っている」という土台を信じて、ぼくの言っていることを信じない。

ぼくの言っていることを、これまた、エイリが嘘を言っているという土台の上で解釈して、頭がおかしい解釈を付け加える。だから、結果的には、この四割の人は、俺の悪口を言っていることになるのだけど、悪口言っているつもりがないのである。

でっ、こういうことは、「そんなのは関係がない」と言う人たちにも、成り立っている。こういうことは「過去は関係がない」と言う人たちにも、成り立っている。「自分なら、そんな音を気にしないで勉強ができる」と言う人たちにも、成り立っている。

 自分が本当にさらされたわけではないから、「できる」と思っているだけだ。

それから、「楽しいといえば楽しくなる」と言う人たちは、きちがい兄貴の態度で、きちがい家族が、よそではありえないような音でずっと鳴らしていても、自分なら憂鬱にならないと思っているのだ。「勉強ができる」というのとおなじだ。

自分なら、どれだけでかい音で、自分が、この世で一番きらいな音が、ずっと鳴っていても、憂鬱にならないと思っているのだ。憂鬱になったら、「楽しい」と言えばいいのである。

楽しいといえば、楽しくなるので、憂鬱な状態から抜け出せるのである。「抜け出せないのは、エイリが悪い」ということになってしまうのである。

2026年7月7日火曜日

●「程度のちがい」は、よく、無視されることだ■社会※2026/07/07 10:19

きちがいヘビメタ騒音で、夜眠るべき時間に眠れなくなってしまったのだ。

そして、これは、何度も言ってしまうことだけど……きちがいヘビメタ騒音がなければ、ほんとうに、そういう状態にはならなかったのである。

これを、普通の人は無視してしまう。

自分がやられてみればわかるのに、やられたことがないから、わからない。

俺や名前だけ店長のように、一日に二時間ぐらいしか眠れない人がいる。そして、それが、毎日ずっと続けば、つかれる。このつかれは、普通の人のつかれではない。

これは、ようするに、一日に「普通の時間」眠っている人たちの、つかれではないのだ。「普通の時間」と書いたけど、まあ、七時間から八時間ということにしておこう。

七時間と二時間のちがいはでかい。

そして、一日目と一〇〇〇日目のちがいもでかい。

そして、一〇〇一日目と、二〇〇〇日目のちがいは、一日目と一〇〇〇日目のちがいよりももっとでかい。そして、二〇〇一日目と、三〇〇〇日目のちがいは、一〇〇一日目と、二〇〇〇日目のちがいよりも、ずっとずっとずっと、でかい。

そして、三〇〇一日目と四〇〇〇日目のちがいは、二〇〇一日目と、三〇〇〇日目のちがいよりも、もっともっともっともっと、ずっとずっとずっと、でかい。疲労が蓄積してしまうのだ。

ところが、蓄積した疲労を経験したことがない人が、「俺だってつかれている」と言って、疲労を同レベル化してしまう。

そうなると、言霊主義者を含む疲労が蓄積していない人たちが、「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言するようになる。

実際には、「蓄積された疲労」のちがいがある。

「つかれている」と言ったって、つかれ方がちがうのだ。

ところが、つかれ方のちがいを無視して、「俺は、実際に元気だ元気だと言ったら元気になった。言霊理論は正しい」と言って、相手のつかれを認めない発言をする。

しかし、状態がちがうのだから……ようするに、蓄積の度合いがちがうのだから……そのような助言は意味をなさないのである。

しかし、「言えば言ったことが現実化する」という洗脳を受けていると、「言えば言ったことが現実化するのだから、相手だって、元気だ元気だと言えば、元気になるはずだ」という意見をもつことになる。

「相手だって、元気だ元気だと言えば元気になる」と思っているわけだ。

そして、「元気だ元気だと言えば元気になる」という考え方を否定されると、否定された人は「頭にくる」確率が非常に高くなる。

「元気だ元気だと言っても、元気にならない」と言ってくる相手には、言霊主義者は怒りを感じる可能性がある。

そして、言霊主義者にとって「元気だ元気だと言えば、元気になることは、もう、決まっていることなので……「元気だ元気だと言っても元気にならないと言っている相手は、あまえている」ということになってしまう。

あるいは、『やり方がへたくそなのに文句を言う、ダメなやつだ』ということになってしまうのである。

そして……たとえば、「元気だ元気だと言えば元気になる」という意見をもっている人のほうが、「元気だ元気だと言っても元気にならない」という意見を持っている人よりも、立場が上だと非常に厄介なことになるのである。

立場が上で「元気だ元気だと言えば元気になる」と思っている人は、相手の「蓄積疲労」を見ていない。どのくらいの疲労が蓄積しているのかと言うことについて、まったく考えない。

この人たちは「疲労」と言えば「疲労」であって、ひとつの抽象的な疲労しか見ていないのである。「元気だ元気だと言えば元気になる」と思っている人だって、「つかれる」ということは、経験している。自分のみで知っているのだ。

しかし、この人たちは、単純だから、自分と関係なければ、一種類の「抽象的な疲労」しか頭に浮かばない。実際に、この人たちが、いろいろな出来事によって、つかれている場合は、出来事によって生じたつかれの「差」を知っているのである。

けど、「ぬけぬけ」なので、そういうことは、深く考えないのである。

自分が、ほんとうにつかれているときは、「元気だ元気だと言っても、元気にならない」ということを、ごく普通に無視してしまう。この人たちが、ほんとうに徹夜をしてつかれているときは、「休みが欲しい」「眠りたい」と思うのである。

ところが、そのときはそのときで、言霊のことなんて考えないのである。

そもそも、ほんとうにつかれはてているときは「元気だ元気だと言えば元気になる」ということは、考えない。もし、かりに考えて……「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないと言うことを経験した場合も「元気にならなかった」という現実的な結果を、無視してしまうのである。

「明日は、雨になる」と言って、次の日、晴れていた場合は、「言った通りにならなかった」ということを、軽く見て、忘れてしまう。

あるいは、無視してしまう。そうやって、自分にとって都合が良い結果だけ、覚えているのである。自分にとって都合が悪い結果は、意味をなさないものになっているのである。

軽く無視してしまう。そして、軽く無視したということも、無視してしまう。

ようするに、「ぬけぬけ」になる。この人たちは、「ぬけぬけ」な状態で暮らしている。

そうすると、自分が中立的な状態で、「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という記憶しか残らないので、「言霊理論は正しい」と思ってしまうのだけど、同時に、相手の疲労のレベルということについて考えることがまったくできないので、中立的な状態で感じた疲労をもとにして、「抽象的な疲労」を考えて、相手の疲労も、自分が考えている「抽象的な疲労」とおなじレベルの疲労だと考えてしまうのである。

中立的と書いたけど、ある程度、元気な時に「元気だ元気だ」と言っているのである。症状がひどい病気になって、寝込んでいるときに「元気だ元気だ」と言ったら、すぐに元気になったという体験はないのだ。

深刻な症状が出て、元気ではないときは、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。けど、こういうことも、事前に無視されている。

 「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という経験は、元気なときに経験したことなのである。あるいは、健康で中立的な状態で、経験したことなのだ。

どこもいたいところがなく、特にくるしいということもなく、健康な状態で、暇なときに「元気だ元気だ」と言ってみたら、「もっと元気になったような気がした」ということを意味しているだけだ。

しかも、ものすごく、元気になったわけではなくて、「なんとなく、言うまえより、元気になったような気がする」というレベルのことなのだ。

瀕死の重傷で横たわっているときに「元気だ元気だ」と言って、すぐに、ぱっと、元気になったわけではない。

言霊主義者ではなくても、普通の人は、自分のこと以外のことは、「想像して推し量る」ということをしているわけだ。

その場合、「ひとごと」なら、言霊主義者とおなじレベルの思考をしてしまうのである。

エンパスのような人だけが、人のことを、自分のことのように感じるとができるのである。

たいていの人は、「ひとごと」なら、自分のことではないので、いろいろなことを無視してしまうのである。

「程度のちがい」は、よく、無視されることだ。 

●ほんとう、ヘビメタ騒音なしで、生きたかった■騒音※2026/07/07 7:39

あーー。つまんない。いったい俺はなんだったんだって思う。なんだったんだろうなぁ。ほんとうーー。正直に、頑張って生きてきたけど、つらいことばかりだったなぁ。いつのまにか、時間がたっていた。もう、わかいころの時間はかえってこないしなぁ。ほんとう、ヘビメタ騒音なしで、生きたかった。

2026年7月6日月曜日

●「ヨソの人」の「約一〇割の人」が、「うちのこと」を誤解するのである■騒音※2026/07/06 11:41

ほんとうは、もう、眠っているはずの時間なんだけど、起きている。

長期ヘビメタ騒音のことで、腹が立ってしかたがない。絶望を感じる。

「俺の一生はなんだったんだ」と思う。ほんとうに、きちがい兄貴が、一秒もゆずらないで、爆音で鳴らしていた。

これが事実なのに、きちがい兄貴は、思いっきりでかい音で鳴らしたつもりがないのである。これが、きちがい親父とおなじなんだよな。

そして、きちがい親父が、適切なハンダゴテをもたせてやらなかったことで、兄貴が恥をかいたということを、認めないのとおなじように、きちがい兄貴が、認めないのである。

俺が……きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で!!!恥をかいたということを、当のきちがい兄貴が、認めないのである。

そんなの、普通の頭の人なら、言われなくても、わかることだ。

ところが、こっちが、どれだけ、言ったって、わからないのである。きちがい兄貴は、わからない。

きちがい親父のようにわからない。

どれだけ言ったって、ともかく、そのとき『自分が思いっきり鳴らせること』が大切なのである。これが、絶対命令なのである。

だから、もし、認めてしまったら、自分が思いっきり鳴らせないようなことは、どれだけ明らかなことでも、きちがい的な意地で、真っ赤な顔をして、認めない。

でっ、認めないと、それで……本人のなかでは……すんでしまうのである。

だから、その日も……「やめてくれ」と言われたその日も、きちがい的な意地で全部の時間、思いっきり鳴らして、おしまいなのである。きちがい兄貴が、一分間ですら、ゆずらずに鳴らしきって、おしまいなのである。

きちがい的な意地で、全部の時間、思いっきり鳴らしたら……その日……一秒も鳴らしていないこと鳴ってしまうのである。きちがい兄貴が鳴らさずに、すごした一日とおなじになってしまうのである。

そのくらいに、『自分の騒音』と『弟が言ってきたこと』は関係がないことなのである。

きちがい兄貴のなかで、両者の関係がまったく成り立っていないのである。

それは、きちがい親父とおなじなのである。頭の作りがおなじなんだよな。おなじような反応をする。いや、まったくおなじ反応をする。

これ、ほんとうにどれだけ本人が意地になってやったことでも、本人のなかで、やってないことと、おなじことになってしまうのである。

だから、本人は、気楽だよ。一秒だって鳴らしていないのとおなじ気持ちだから、まったく悪いと思わないのである。普通の人は、きちがい兄貴の状態なんて見たことがないし、きちがい兄貴にやられて、実際にこまっているわけではないから、「ひとごと」なのである。俺がこまっていると言うことは、きちがい兄貴にとって「ひとごと」だし、きちがい兄貴ではない他人にとっても「ひとごと」なのだ。

こういう人たちの場合「ひとごと」だと、その人がどれだけこまるかということがわからない。

ハンダゴテのことは、ここを読んでいる人には、なじみのストーリーなんだけど、普通の人が、このことに興味を持つのかどうかぜんぜんわからない。

ほかの人にとっては、「そんなことはどうでもいい」ということなのである。

ヨソの人たちは、きちがいヘビメタ騒音を浴びていない。浴びて暮らしていない。自分が、この世で一番きらいな音が、爆音で常に鳴っているという状態を経験していない。

そして、家族が鳴らしている音で、ずっとずっと、くるしんでいる状態なんて経験していないのだ。

なかには、ヘビメタという音楽分野が好きな人もいるだろう。俺にとっては、ヘビメタは、この世で一番きらいな音を寄せ集めた音楽だ。音楽なんて言うのも、ちょっと、はばかる気分だ。

音楽なんて、言いたくない。ヘビメタのことを音楽だとは、言いたくない。

ともかく、「ヨソの人」の「約一〇割の人」が「うちのこと」を誤解するのである。ぜんぜんちがう考え方をもつのである。

普通の人たちは、事実とは、まったくちがう解釈をしてしまうのである。

ちがい解釈をしてしまうということは、とりもなおさず、同レベルのことを経験していないということなのである。

しかし、約六割の人が「そんなの関係がない」と言い、約四割の人が「そんなのは、嘘だ」と言うのである。

わかっていないだけじゃないか。

2026年7月5日日曜日

●これが、俺をおいつめる■騒音※2026/07/04 12:49

一日、勉強を邪魔される怒りが、並じゃないのである。

あの、時間の連続。

きちがい兄貴は、きちがいだから、ほんとうにまったく気にしていない。ぜんぜん、迷惑をかけているつもりがないのである。

これ、迷惑なんて、弱弱しいものではなくて、人の人生を破壊するために、つねに、攻撃をしかけているのとおなじだ。音攻撃をしかけて、俺の体を破壊するつもりでいるのおなじだ。

そういう効果がある。

ところが、本人は……きちがい兄貴本人は、なにもやっているつもりがないのである。

で、これが、「うちで」成り立っていることだから、学校に行ったら、「関係がないこと」なのである。

ところが、朝から関係があり、遅刻をしたり、宿題を忘れたり、忘れ物が多かったり、おこりやすかったりと、いろいろなことが発生してしまうのである。

通っている学校だけではなくて、ようするに、外であっている人たちには、一切合切関係がないことなのである。

ところが、ぼくの体は、きちがいヘビメタで汚染されている状態なのである。身も心も、毎日のヘビメタ騒音でズタボロなのである。

しかし、しかし、ほかの人たちにとっては関係がないことなのである。でっ、ほかの人たちは、経験がないのに……あるいは、経験がないから「そんなの、関係ない」と言うのである。あるいは、「そんなのは、嘘だ」と言うのである。

「話がおかしいから嘘だ」と思ったやつの俺に対する態度がひどいのである。俺のヘビメタ騒音の話が嘘だ」と勝手に確信している状態なのである。

嘘なら、嘘を言うつもりで嘘を言っているか、あるいは、嘘だと思っていない状態で嘘を言っているということになる。

こいつらの世界では、俺がそういう病人に見えてしまうのである。

じつは、きちがい兄貴が、ほかの人が考えられないような感覚で、ずっと鳴らしている。こいつ……きちがい兄貴の感覚というのは、ほかの人には理解できない。

でっ、きちがい兄貴自体が、自分がやっていることがまったくわかっていない状態なのである。

これが、俺をおいつめる。

おいつめた。

どれだけなにを言ったって、ほかの人には、きちがいヘビメタ騒音の「影響のでかさ」がわからない。ほんとうに、人生全部が台無しになるようなことなのに、「そんなのは関係がない」と言いやがる。「そんなのは、嘘だ」と言いやがる。

●名前だけ店長の気持ちには、まったく気がつかない■社会※2026/07/03 22:07

うんと手短に言うと、名前だけ店長に「できると言えばできる」というような言葉をかけてしまう人というのは、相手の状態がわからない人なのである。

相手が、「こういうふうにつかれている」ということを言っても、それは、無視してしまう。

即座に「自分だって、つかれている」と言って、それで、相手と自分のつかれを同レベル化してしまう。

けど、その同レベル化がほんとうに正しかったのかどうかということは、わからないのである。

まあ、そのような人たちは、同レベル化をしたときに、同レベル化が間違ってるという可能性については、考えないのだろう。

そして、言霊理論の矛盾に気がつかないほど、「ぬけぬけ」なのである。

普段から、言霊理論にあわない現象は、ずっとずっと、何回も何回も、何十回も何十回も、何百回も何百回も、何千回も何千回も、何万回も何万回も、無視しているのである。

そして、無視しているということにも気がつかない。

矛盾を感じる能力が低いのである。

ともかく、相手の状態を理解することが不得意で、理論的な矛盾にこだわらないタイプなのである。

その場合、この人たちが、「人に親切にする」ということを考えても、自分の思った「人に親切にする」ということだけを考えて、相手が本当になにを望んでいるのかということについて、考えないということになる。あるいは、考えても、間違った考えが浮かんでしまう可能性がある。

相手の状態を読み取る力に欠けているのだから、相手に親切にするということを考えても、的外れなものになってしまう可能性がある。

しかし、「人に親切にしよう」ということは考えられるのである。的外れでも、考えられるのである。

だから、この場合も、トラブルの数が増えてしまうかもしれない。

ようするに、何度も言うけど「人に親切にしましょう」という掛け声がどれだけ増えても、社会は、よくならないのである。「人に親切にすることはいいことだ」と思う人が、どれだけ増えても、社会が(そのぶん)よくなるとは、限らないのである。

だって、相手の状態がわからない人が、相手に親切にしてあげようと思って行動しても、空回りになってしまう。あるいは、その行動の結果、相手が、被害を被ることだってある。

実際、言霊主義者は、「名前だけ店長に、いい助言をしてあげた」「名前だけ店長に、助言をしてやることで、名前だけ店長に親切にしてあげた」と思っているのである。

しかし、名前だけ店長は、言霊的なことを言われて、自分の主張と自分の気持ちをおられてしまう。

名前だけ店長は、サービス残業をしたくないのだ。もう、続けたくないと思っている。

それに対して、言霊主義者が「できないと言うからできないんだ」「できると言えばできる」と言って、サービス残業を続けさせようとするのである。

こんなのは、名前だけ店長が求めていることではない。

むしろ、名前だけ店長が求めていることの……正反対のことだ。

名前だけ店長にしてみれば、いやなことをされたということになる。親切にされたのではなくて、いやなことをされたということになる。

けど、相手の状態がわからない「言霊主義者」は、「いい助言をしてやった」「親切にしてあげた」と思っているだけで、名前だけ店長の気持ちには、まったく気がつかないのである。

2026年7月4日土曜日

●おなじレベルの蓄積疲労がある人は、そんなことは言わない(2)■社会※2026/07/03 1:32

たとえば、精神世界では、「感謝感謝、すべてに感謝」というようなことが言われる。

感謝をすれば、運があがっていいことがある感謝をすれば、運があがって幸福になる?と言うようなことが言われる。

一五年間の過労でつかれている名前だけ店長が「すべてに感謝」をしても、名前だけ店長の生活は楽にはならないのである。暗くてつらい生活が続くだけなのである。

むしろ、いままで働いてきた名前だけ店長に感謝するべきだ。感謝して、名前だけ店長の言い分を聞いて、名前だけ店長が適切な時間だけ働きたいと言っているのだから、適切な時間だけ働けるようにするべきだ。

ところが、名前だけ店長がつらいのは、感謝がたりないからだということになってしまう。

だから、名前だけ店長が、感謝をすれば……つらい生活がおわり……幸福になると言うのである。こんなの、ない。

たとえば、 名前だけ店長の部屋がきたなかったとする。

そりゃ、風呂に入る時間もおしいぐらいの忙しさで、毎日暮らしている。

土曜日持ちに曜日も、一日に二時間、三時間しか眠れないような状態だ。

そうしたら、部屋の掃除ができなくなるのは、あたりまえだ。

ところが、「きれいさが不足している」と言うのである。

なので、名前だけ店長にも「掃除をすれば、運があがって、しあわせに暮らせる」と言ってしまう。

名前だけ店長が、どれだけ忙しい日々をすごしているのかということを、聞いたあとでも、こうなのである。

名前だけ店長は、店の掃除を毎日欠かさずしていた。掃除をすることが不足しているから、不幸なのではないのだ。残業以外の労働と、残業部分の労働がくるしいから不幸なのだ。

睡眠時間が短いから、体調が悪く、顔色が悪く、憂鬱な顔をして暮らしている。

しかも、営業時間は無理やり笑顔をつくっているのである。

それなのに、そういうことでつかれているということを、無視して、「掃除をしていない」と「不足」を指摘して、「不足」をおぎなえば、しあわせになれるというのだ。こんなの、ない。

「靴をきれいにすれば、運があがって、幸福になる」ということについても言っておく。眠ったあと、二時間もしたら、次の出勤の用意をしなければならないという状態で毎日暮らしているのに、そりゃないよ。

そりゃ、靴ぐらいよごれて当然だ。靴を買いにいく余裕なんてないし、靴を磨く余裕なんてない。

けど、「靴をきれいに磨けばしあわせになれる」と言うのだ。

名前だけ店長が、朝のカツカツの時間を利用して、靴を磨くようにすると、それだけ、名前だけ店長の負担が増えるのである。よけいに、顔色が悪くなるのである。

しかし、「顔色が悪い人のところは、しあわせはやってこない」と言ったりする。「きれいではない靴を履いている人ところには、不幸がやってくる」と言ったりする。

すべてが、なんらかの「不足」に注目した発言なのである。

ところが、睡眠不足には、触れないのだ。残業でこまっているということにも触れないのだ。

名前だけ店長が、ちょっとでも「こういう状態でくるしい」ということを言えば、こいつらは「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは関係がない」とかと言う。

もし、「寝不足で、靴を磨く余裕なんてありません」と名前だけ店長が言えば、「そんなのは、言い訳だ」と(この人たちは)言うのである。

「睡眠不足にこだわるからダメなんだ」「睡眠不足を気にするからダメなんだ」と……この人たちは『ダメ出し』をするのである。

この人たちは、名前だけ店長がこまっている、ほんとうの理由を無視して、いろいろな不足を指摘して、不足を補えば、しあわせになるということを言う。

けど、名前だけ店長は、労働時間が長すぎるから、不幸だと感じる生活をしているだけなのだ。本当の理由は、長すぎる労働時間だ。

これを無視して、『こころがけの問題』にしてしまうのである。こんなの、ない。

しかも、「あれが不足している」「これが不足している」と言っているほうは、ほんとうに、いい助言をしてやっているつもりなのだ。こんなの、ない。

「あれをやれば運があがって、しあわせになる」「これをやれば運があがって問題が解決する」と言っているほうは、ほんとうに親切にしてやっているつもりなのだ。こんなの、ない。

*     *     *

感謝をすることは、いいことだけど、感謝をすることで「すべての問題」が解決するわけではないのだ。状態や構造がある。めちゃくちゃにひどい家族に、やられ続けているときは、その状態から抜け出さないと、どれだけほかの人に感謝をしても、いい状態にならない。

問題なのは、感謝をすることではない。問題なのは「感謝をすれば、すべての問題が解決する」というようなことを言うことだ。わざと、すべての問題という表現を使ったけど、文脈によれば、相手の問題は、感謝をすることで解決するということになってしまうのである。

どうしてかというと、「運があがる」ことによって問題が解決するからだ。とくに、すべての問題と言われたり、書かれたりしていなくても、けっきょくは、「相手の問題が、感謝をすることによって、解決する」という意味になる。

きちがい的な家族が、毎日、よその人がやらないようなひどい行為をするという場合は、ただでも、ほかの人から、誤解を受けやすい状態になるのである。きちがい家族にやられている人にとっては、「感謝をすれば、運があがって、しあわせになる」というような言葉ですら、凶器になる。

きちがい兄貴の騒音なら、騒音で、騒音問題が解決しないと、しあわせではないのである。

そして、「すべての場合において」「感謝をすることは、有効だ」という意識がある人の発言は、やはり、特殊な家族にやられている人の気持ちを傷つけるのである。

これも、ずっと言っていることなのだけど、感謝をすれば、問題が解決するとする。感謝をすると、運があがって、問題が解決するでもいい。そうなると、問題を抱えている人は、逆に言えば、感謝をしないからダメなのだということになってしまうのだ。

そういう見なし方をしているということになるに。 悪意なく「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」と言っている人は、不幸な人や問題を抱えている人が「感謝をしない人だ」と見なしているということになる。

その感謝をしない人が、感謝をするようにすれば、感謝をしない人が抱えている問題は、解決するということを言っているのである。そういうことに、自動的になって、しまうのである。こういうことに、こだわる人は、少ない。

 「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」と言っている人は、問題を抱えている人は、感謝をしない人だと「明言している」わけではない。ただ単に、軽い気持ちで、自分の考えを表現しているだけだ。

実際に、感謝をしたときに、自分だけではなくて、相手もいい気持ちになるのだから、感謝することは重要だと思うだろう。

たしかに、重要だ。

しかし、そういう効果を打ち消すような、毒家族がいるのである。

いっぱい、いっぱいになって暮らすしかない人たちがいるののである。

毒家族に、毎日毎日、(ほかの人がやられないようなことをされて)……いっぱい、いっぱい、精いっぱいの努力をしても、くるしいだけの状態になってしまう人がいる。

そういう人にとって、「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」という(一見よさそうな)お気楽な言葉は、『毒』なのである。

感謝をすると、運があがって、きちがい家族がもたらす問題も、解決しそうな雰囲気するのだけど、雰囲気だけで、実際には、きちがい家族と離れて暮らさないと、問題が解決しないのである。きちがい家族がかわってくれるということは、ほとんどの場合ない。

どれだけ、きちがい家族にやられている側の人が、いろいろな人に感謝しても、きちがい家族がかわってくれるということは、ほとんどの場合ない。

「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」という(一見よさそうな)お気楽な言葉は……きちがい家族にやられている側の人を……どこまでも、どこまでも、おいつめる『呪いの言葉』になる。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。