2026年7月18日土曜日

●自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論■社会※2026/07/18 8:16

『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』の続きをちょっと書こうかな。

『自分の身に起きたことは、すべて自分の責任だ』という考え方が『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』という考え方に置き換わってしまうのだ。

その場合、自分が他人に、なにか悪いことをやったにしろ、他人の身に起きたことは、他人の責任だということになる。自分がなにか悪いことを他人にしたかどうかの判定というのは、たいていの場合、自分がすることになる。裁判所で決着をつけるときもあるけど、たいていの場合は、本人の主観に任されたことなのである。

なので、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つとは限らない。

ところが、これもまた、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つはずだという前提が成り立っているのだ。

だから、自分が相手になにか悪いことをした場合も、基本的には、『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』ということになってしまう。「すべては自己責任」という考え方は、基本的には、自分が被害を受けたと感じるときにどう思うことにするということに対応している。

なにが起きても、自分の責任だと考えることによって、相手をせめる気持ちがなくなるというのが、本来の、自己責任論の在り方だった。

それは、自分に対する自己責任論だったのである。ところが、他人の身に起きたことは、すべて(その)他人の責任だという自己責任論にすりかわっていくのである。

この場合、『他人の身に起きたことは、すべて、(その)他人の責任だ』と考えているわけだから、他人の落ち度をせめることになる。自己責任論ではなくて、他人責任論になってしまう。その他人に「落ち度がない」場合も、じつは「落ち度がある」と判定されて、その他人のせいになってしまう。

この場合、被害者側にも落ち度がある……に……決まっているという考え方が成り立っている。そして、被害者がの責任を追及するわけだけど、加害者側の責任はまったく追及しないのである。

加害者は、「自己責任論」において、「自己」ではないのだ。

わかるかな?

加害者側だって、いつも加害者であるわけではなく、ある特定のことについて、加害者側になっただけだ。こころの道徳としては、自分の行為が、相手に与えた影響を考慮しない場合は、ほんとうに他人に危害を加えた場合も、『自己責任論の範疇外』になるのである。

わかるかな?

法的な裁きがくだっった場合、加害者であるということが、決定される。それは、法的な手段なのである。この法的な手段は、『こころのなかの道徳』に影響を与える場合もあるけど、まったく影響を与えない場合もある。

ようするに、感じ方については「個人の王国」なのである。個人が、たしかに自分は相手(他者)にこれこれこういう被害を与えたということを認識しなければ、『こころのなかの道徳』には影響を与えないのである。

その場合、自己責任論だと、ここで想定されている加害者側人は、責任を感じなくてもすむのである。

自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論なのである。

自分が、被害を与えた(かもしれない)という場合は、被害を与えたという道徳的で主観的な認識がなければ、自分が、被害を与えたということにはならないのである。

外側で、法的に処理をされたとしても、本人の道徳的で主観的な認識はまったくかわらないかもれしない。

どういうことで他人に迷惑をかけるかということに関する考え方は、個人によって千差万別だ。個人によって、ぜんぜんちがうのである。だから、他人に迷惑をかけたということに、鈍感な人は、他人に迷惑をかけた場合でも、まったく自己責任を感じないということになる。

*     *     * 

自己責任論の基盤は、自分が相手の行為によって、被害を受けたと主観的感じる側の人が、自分の責任だと思いなおす場合の……責任論なのだ。だから、自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人は、そもそもも、その行為に関する責任なんて、感じないのである。

そして、自己責任論というのは、(外側から見れば) 自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人を援護する理論なのである。そういう「自己責任論」に切り替わっている。 

*     *     *

自分が(被害を与えた)場合は、そもそも、自己責任論の範疇外ということになる。自分が(被害を与えた)場合は、「自己責任論」ではなくて、単なる「責任論」になる。こういうところに、トリックがある。

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自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論だと書いたけど……自分が被害を受けたということに関しては、社会制度的な被害も含まれる。ともかく、主観的に「自分が被害を受けた」と感じることに関しては、自己責任論の対象になる。そして、自己責任論のなかでは、「自分が他者から被害を受けた」ということは、否定されるのである。ようするに、否定されることが、理論的に決定されている。

だれか、個人が自分にしてきたことに限らず、たとえば、社会制度的に自分が被害を被ったということを感じた場合は、自己責任論の対象になるということが重要だ。

なんらかの制度で、自分が不利な立場になったということに関する自主的な認識も、「自己責任論」の対象になるのである。

そして、「自己責任論」のなかで、その自主的な認識は否定されるのである。

「たとえ、制度的に不利な扱いを受けたとしても、それは、自分の責任なのだ」と思い直すための理論なのだ。『思う』のではなくて、『思い直す』のである。

ようするに、自己責任論のまえに、なまの感覚として、「こういう不利益が生じた」という感覚が、まず成り立っている。

●関係あるよ■騒音※2026/07/18 1:52

眠れたので、どうにかなった。

しかし、あいかわらず、喉がかわいているし、あいかわらず、腹の調子が悪いし、あいかわらず、問題が山積している。もう、つかれたなぁ。あいかわらず、つかれている。

けど、ちょっとは、すっきりした。

どうするかな。ほんとうに、つかれた。ヘビメタ騒音がつみかさなって、つかれた。ネズミ問題、ダニ問題がつみかさなって、つかれた。これ、体調に影響があるんだよ。体の状態に影響がある。歯医者に何回も、時間通りに行くということ自体が、できなくなる。

歯医者だけではない。

もちろん、バイトに行くとか、就職して普通の時間、普通に働くということに、影響がある。影響があるというよりも、破壊する。睡眠回路のズレ、長期間にわたる疲労の蓄積……。関係あるよ。 

●ヘビメタ騒音の影響を無視する相手と、うまくいくはずがない■騒音※2026/07/18 1:27

起きたとき「やったぁ!眠れた!!」と思った。すこしは、さっぱりした。

しかし、上半身、裸で眠ったので、ねむのところがかゆい。

あせもか、ダニに刺されたのか、ホコリダニアレルギーなのかどうかわからない。

たぶん、ダニに刺されたのではないと思う。半そでのTシャツを着て、冷房の温度を下げるか、汗をかいたまま掛け布団を抱いて寝るか迷った。冷房の温度を下げると、風邪を引く可能性が、まじであるので、迷った。

 汗をかいて、掛け布団を抱いて?眠ると、掛布団に汗がつく。これが、また、ダニ環境だと問題なのだ。

起きたあと、考えるのは長期ヘビメタ騒音のことだ。もう、ほかの人とはぜんぜんちがうのだ。人生のあいだ、ずっと、そうだよ。長期ヘビメタ騒音が鳴り始めてから、ずっと、そうだよ。

考えること自体が、ぜんぜんちがう。考えること自体が、きちがい家族による騒音がない人や、なかった人とは、ぜんぜんちがう。

そりゃ、鬱にもなるだろう。

理解しない他人と、うまくいかなくなるだろう。それは、不可避的でしかたがないことだ。長期ヘビメタ騒音の影響を無視する相手と、うまくいくはずがない。 

2026年7月17日金曜日

●ゼロだと思っている■騒音※2026/07/17 15:51

 ちょっと鳴っているという感じではなくて、生活!すべてを!とられる。不可避的にとられる。けど、きちがい兄貴が、気にしない。ほかの人も気にしない。ゼロだと思っている。とられる力のでかさがわかっていない。こんなの、ない。だいたい、ほんとうに、あの調子でずっと鳴っていたら、入試でもデートでも、なんでも、つらいものになるんだよ。それがわかっていないやつが、調子をこいて、えらそうなことを言う。わかったようなことを言う。

どうにか、なんないか?

ずっとつきささっている。ずっとつもりつもっている。ほかの人の、何気ないひとことも、いやな体験として、つもっている。そりゃ、マイナスのマイナスなのに、相手は、ゼロだと思っているんだからな。きちがい兄貴……張本人のきちがい兄貴が……どれだけ言っても、認めない。ヘビメタ騒音が鳴っていたらこまると言うことを認めない。ヘビメタ騒音の影響で、勉強ができないということを認めない。ヘビメタ騒音の影響で、ほかの人から悪く言われて恥をかくということを、認めない。認めない。認めない。すべて、認めない。やっていないのと、おなじつもりなのである。まったくやっていないのと、おなじ認識なのである。いやーー。きちがい的な意地で、使える時間はすべて使って、やっているだろ。

張本人がまったくわかっていないというのが、兄貴と親父でおなじなんだよ。

よその人は、そりゃ、経験していないのだから、兄貴みたいにわかっていないよ。マイナスの効果について、まったくわかっていない。マイナスの俺を、ノーマルな俺だと思っている。だから、バカにしてくる。ノーマルな俺は、マイナスの俺をバカにしてくるやつより、すぐれていると、思う。けど、それを言っちゃおしまいなんだよな。

ヘビメタ騒音がなければ「そんなことは言わせない」ということを、言ってくる。理解力も想像力もない人たちが言ってくる。こいつらにしてみれば、「そんなのは関係がない」と言えることなのだ。関係がないわけないだろ。

家で、能力を下げられて、ものすごく不愉快な思いをしてきた。 

この文は、あとで非公開にしよう。 

●長期ヘビメタ騒音がなければ感じないつらさだ■騒音※2026/07/17 15:06

 楽に眠りたい。眠れない。ネズミ以降だけど、腹痛と不安が結びついているやつがある。腹痛と不安がきつい。騒音だけで、いっぱいいっぱいなのに、親父とダニとネズミと業者がつけくわわった。いろいろと、へんな気持ちになる。普通の人が経験していないことを、経験してしまった。これは、悪い意味で言っていることだ。普通の人が経験していない、ものすごくいや経験をしてしまった……という意味。腹がしくしくする。眠れない。

女神みたいな人がいても、むりだ。これ、よくならない。これ、というのは、腹痛のことではなくて、この雰囲気。歯医者に行くとき、つらかった。歯医者で待っているとき、つらかった。長期ヘビメタ騒音がなければ感じないつらさだ。めちゃくちゃにつらい。つもりにつもって、つぶれている。 

もう、無理なほど、つもった。

ともかく、楽に眠りたい。起きたとき、さっぱりしていればいいのだけど……。ちょっとは、さっぱりしてくれないかな。ちょっとは、回復してくれないかな。楽に暮らしたい。ほかのことは、据え置き?でいいけど、ともかく、ヘビメタ騒音がなかった場合のつかれぐらいしか、経験したくなかった。ぜんぜんちがう。別の個体だから、ほかの人は、ヘビメタ騒音があった場合のつかれが、わからない。みんな、ヘビメタ騒音がなかった場合のつかれにしか、言及していない。みんな、ヘビメタ騒音がなかった場合の『憂鬱』しか、言及していない。

ライフハックで言っていることが、正しいと思える人なんて、ほんとうにまったくわかっていないよ。

ああーー。早く眠って、楽になりたい。早く眠って、楽になりたい。

*     *     * 

自分の能力をうばわれて、常にマイナスで暮らしてみろ。ほかのやつは、ぼくがノーマルな状態でマイナスなんだと思っている。ヘビメタ騒音でマイナスなんだよ。これが、事実だ。けど、普通の人は、「そんなのはいいわけだ」「そんなのはあまえだ」と言う。きちがい家族がいないから、きちがい騒音に悩まされなくてすむやつらが、マイナスの俺を、ノーマルな俺だと思って、バカにする。こういう世界だったよ。 

●ヘビメタ騒音が七日間以内に鳴りやんでくれたら■騒音※2026/07/17 13:01

 ヘビメタ騒音が七日間以内に鳴りやんでくれたら、ライフハックなんて関係なしに、楽しい状態になったのである。普通に努力して、努力を得られる状態になったのである。ヘビメタ騒音が鳴りやめば……。ヘビメタ騒音が鳴りやめば……。 

ライフハックで言われていることは、条件を無視したことだ。そして、勘違いでも有効だと……人によっては……思えることなのである。条件が、相対的によい条件なのである。だから、ライフハックを試した期間に、勘違いでいいことがあると、ライフハックは有効だと思ってしまう。一生涯、そういう感地位をしていれば、たしかに、しあわせな人なのである。けど、条件がちがう。ほとんどの人が……みんな……「自分だって苦労した」ということを言う。けど、ちがうんだよ。

だいたい、四割の人が嘘だと思うことなんて、普通の人の身の上には起こらないことなんだよ。それが、条件になってしまう。しつこいしつこい条件になってしまう。他人が理解しない……しつこいしつこい条件をつくりだしてしまう。 

●きちがいヘビメタで吹っ飛んだこと■騒音※2026/07/17 12:51

 まあ、簡単に言って、歯を治療したあと、いいことがあるかどうかだ。もう、長期騒音にやられているので、感性が、ぼろぼろになっている。正直に言うと、いつも、異世界転生したような気分だ。ほんとうに、長期騒音がつらかった。そして、今の孤独な状態というのは、長期騒音の結果できたものだ。かりに、おカネが入って、ある程度裕福な暮らしができるようになったとしても、それで、なんだというのだ。若いころに、長期騒音なしでやりたかったことなんて、できない。長期騒音は、ほんとうに、めちゃくちゃに鬱になる騒音なのである。毎日が、ピンチでくるしかった。

歯医者に行くときも、長期騒音と戦って、行くのである。歯医者で待っているときも、地右京騒音と戦って、まっているのである。夜も昼もずっとおなじだ。くるしい。だれにどれだけ言っても、むだだ。むだなのはたしかだ。しかし、ほんとうに、きつい。 

かりに……ほんとうにかりに……ぼくのことを大好きな美少女と一緒に暮らしたとする。それで、ぼくは、楽しくなるか。多少は、楽しくなる。けど、ヘビメタ騒音の「鬱」のほうが、何兆倍もでかい。そのうち、美少女も、ぼくのもとから、離れるだろう。だって、鬱な人と暮らしているのは、つらいから……。ともかく、ぼくは……ものすごくいいことがあれば、ほんのちょっとは、うわむくかもしれないけど、しずんだ気持ちのまま生活することになる。

反転可能な時期というのがある。そこまでに、鳴りやめば、どうにかなる時期というのがある。その時期を過ぎてしまったら、もうだめだ。どれだけいいことがあっても、無駄だ。そして、ものすごくいいことなんて、ないのである。

ヘビメタ騒音の生活で、いろいろなことが、ダメになっている。これも、実際にやられた人じゃないと、どういう過程で、そうなるのか、わからない。表面だけ考えたって、わからない。ほんとうに、経験しないと、日常茶飯事のことがわからない。ほんとうに、経験しないと、他者の反応というのがわからない。どういうことになるのか、わからない。不可避的に、どういうことになるのか、わからない。わかっていないんだよ。わかっていないところで、「こうすれば、うわむく」というようなことを言う。それ、初期段階で、何万回も繰り返して、きちがいヘビメタで吹っ飛んだことだから。


●『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』■社会※2026/07/17 8:27

基本的なことを言うと「すべては、自己責任」と他人に言う人は、他人に親切にしないのである。

どうしてかというと『すべては、自己責任だから、他人の身に起きたことは、他人の責任だ』と考えるからだ。

『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』と考えているわけだから、他人に親切にしない。けど、人間は矛盾した生き物なので、他人に親切にすることもあるだろう。寄付をすることもあるだろう。

しかし、この寄付というのが、たいていの場合、反対のことに使われるのである。もちろん、『デモンストレーション枠』というのはある。

それは、寄付を集めるのに必要だからやることだ。寄付で集めたカネを、悪いことに使う組織が多すぎた。影の目的のために、カネが使われてしまうのだ。

ともかく、自己責任論者は、『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』と考えているわけだから、他人に親切にしない。

まあ、「すべては、自己責任だ」と説教をしてやることが、他人に親切にしたことになるのだろう。そういうやつらにとっては……。

*     *     *

 きちがい親父が、きちがい的な意地で、竹を植えたとしよう。そして、その結果、おかあさんが、被害を受けたとしよう。その場合、「すべては自己責任」と考えるやつらの思考だと、おかあさんが被害を受けたのだから、おかあさんの責任だということになってしまうのである。やられた側の責任は追及するけど、やった側の責任は追及しないのである。

こういう不公平な態度がある。「すべては、自己責任」と言って、他人をせめる人には、そういう不公平な態度がある。

*     *     *

ときには、こういうやつらが、「人に親切にしましょう」「世のため人のために、つくしましょう」なんて、言っている。 

*     *     *

きちがい親父の行為なのだから、きちがい親父に責任がある。ところが、やられたやつが悪いんだということになってしまうのである。「自分で阻止できなかったからダメなんだ」ということになってしまう。被害を受けたほうの責任だけ追及して、行為の主……やった人の責任は追及しないのである。

こんなの、ない。

これが、あたりまえで正しいと思っているやつらが、どれだけ多いか。

自分の行為の結果、ほかの人に迷惑をかけた。やったほうの責任だ。

*     *     *

自己責任論をふりまわすやつらは、自己責任論を否定されただけで、がんがん文句を言ってくる連中だ。自己責任論を否定されたのは、自己責任論者の責任じゃないのか。自分が不機嫌になった理由を、他人に求めているぞ。

ぜんぜん、自己責任じゃないじゃないか。

たとえば、エイリが自己責任論を否定したので、腹が立ったのである。エイリの行為のせいで、自分が腹を立てたということになる。自己責任じゃないじゃないか。

2026年7月16日木曜日

●「いいだろ」「ほめてよ」と言ったのである■家族※2026/07/16 13:42

 ほんとうに、きちがい兄貴がへんな顔で、鳴らしてたんだよな。あんなの、ない。基本、きちがい兄貴とは、めったに、あわなかった。きちがい兄貴が、使える、ほとんどすべての時間を使って鳴らすからだ。兄貴は、兄貴の部屋に閉じこもって、エレキギターを弾きながら、きちがいヘビメタを爆音で鳴らすわけだから、ほかの部屋にいる時間が短いのである。でっ、風呂に入っているときは、風呂場にいるわけだけど、風呂場は風呂場で個室だから、話しかけるのは不便だ。風呂に、兄貴が入っているときに、話しかけたって無意味だ。そして、兄貴がテレビを視ながら、ご飯を食べているときだけ、話しかけることができるということになる。きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らしていない状態で、話しかけることができるのは、きちがい兄貴が、飯を食っているときの、わずかな時間だけだ。でっ、話しかけても、こいつ……きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじ態度なのである。いまにいるときの態度が、きちがい兄貴ときちがい親父でまったくおなじなのである。きちがい兄貴に、きちがいヘビメタを鳴らすなと言うことを言えば、きちがい兄貴は、不機嫌になって黙りこくる。こっちを、無視する。どれだけ言ったって、無駄なんだよ。そして、鳴らしているときは、爆音で鳴らしているわけだから、怒鳴ったって、そんなには聞こえない。怒鳴っているということが、わかって、音量をさけで、こっちが言うことを聴く体勢になるときはあったけど、「鳴らさないでくれ」「しずかにしてくれ」ということを言われたら、きちがい兄貴は……「ハンダゴテを買ってくれ」と言われたときのきちがい親父のように、発狂して、はねのけてしまう。きちがい親父が、竹を植えようとしたとき、おかあさんが、「やめてほしい」ということを言ったんだけど、真っ赤な顔をして、無視して、植えてしまったのだ。このとき、親父は「緘黙バージョン」だ。黙りこくって、真っ赤な顔をして、やってしまう。きちがい親父のこの態度が、きちがい兄貴の態度だ。ヘビメタを鳴らしているときに、「やめてくれ」ということを言われれば、顔を真っ赤にしてやり続けてしまうのである。そして、あとは、なんにも、残らないのである。こっちが、こまっているということは、まったく、なにも残らないのである。だから、相手はなにも言ってこなかった」という前提でずっと、鳴らすということになる。これ、ほんとうに、きちがい的なんだけど、そうなんだよ。この態度は、相手を怒らせる態度だ。そりゃ、こんな失礼な態度は、ないだろう。けど、そういうことを、まったく考えないで、やってしまうのが、きちがい兄貴やきちがい親父なのだよ。きちがい親父が竹を植え終わったとき、おかあさんに、なんて言ったと思う。「いいだろ」「ほめてよ」と言ったのである。自分の気持ちだけで、相手がどう思っているのかなんて、まったく、わからないのである。あれだけ「やめてほしい」「将来、ひどいことになるからやめて」と、普段は口少ないおかあさんが何度も何度も言ったのに、真っ赤な顔をして、かちゃかちゃと動き、やりきってしまったのだ。相手が「いやがっている」ということが、まったく、わかっていないのだ。まったくまったくわかっていない。だから、「やめてくれ」と言っていた相手に「いいだろ」「ほめてよ」と笑顔で言えるのだ。こういう人間なんだよ。自分のなかでは満足なので、ほめられることを期待する。「やめて」「やめて」と必死に言っていた相手に対して、言うことが、これなのだ。「やめて」「やめて」と必死に言っていた相手に対する態度が、これなのだ。こんなの、ない。普通の人間じゃないのだ。ほんとうに、狂っている。でっ、この時の「親父の態度」のままなんだよ。兄貴が、俺に「やめてくれ」と言われたときの態度が、こういう態度なんだよ。「うまいだろ」とは言わなかった。きちがい兄貴は、きちがい兄貴が鳴らしたくて鳴らしているだけで、ほかのことはまったく関係ないからだ。ともかく、自分が鳴らしたい音で鳴らすということに、命がかかっているのである。なら、そうやって、相手の意見を退けて、鳴らし続けたということが、ちょっとでも認識できれば、いいけど、認識できないのだ。「認識できればいいけど」と書いたけど、どのみち、ずっと鳴らし続けるのであれば、意味がない。意味がないけど、どれだけ文句を言われたって、きちがい親父のように、文句を言われたと言うことは、無視して、まったくわかっていない状態なのである。しかし、相手が言っていることを認めてしまえば、「ほんとうにしずかにしてやらなければならない」状態になるので、相手が言っていることは、絶対に認めないのである。きちがい親父が「このハンダゴテは使える」と思い込んで、「今ハンダゴテは使えない」ということを認めなかったように、きちがい兄貴は、「自分がデイ音で鳴らしている」ということを認めなかった。ここら辺の「あたまのつくり」がおかしいのである。だから、約四割の常識的な人たちは、「エイリが嘘を言っている」と思うのだ。こんなのない。こいつらはこいつらで、認めないのだ。俺が本当のことを言っているということを、しつこく、認めない。こいつらのなかでは、「エイリは嘘を言う人だ」という間違った解釈が成り立って、ずっと、そのままなのである。俺が言うことを、いちいち、うたがう。そして、自分のなかの「常識」にあった解釈をしてしまうのである。でっちあげだ。

●「夢を見させるアイテム」■社会※2026/07/16 6:33 あとで消すかも

条件について、言及することは、「とても恥ずかしいこと」なのである。こういう価値観が、深く、深く、深く、浸透している。

しかし、これは、奇妙なことだ。ほんとうは、条件について、言及することは、恥ずかしいことではない。条件が事実なら、事実だからだ。

しかし、条件についてだけは、事実であっても、言及してはいけないことになっているのである。

そして、条件は、たいていの人にインストールされている「集合的一括思考」によって、否定される……ことになっている。

悪態をつく人が、条件について言及するようになっているのである。そうすると、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのはあまえだ」「こいつは、なにを言っているんだ」という気持ちになるのである。

多くの動画で、悪い人が条件について言及するようになっている。

「ふざけた話だ」と多くの人が思うようになっているのである。「こいつは、自分が悪いのに、なにを言っているんだ」と多くの人が 思うようになっているのである。

「自分が悪いのに、人のせいにしている」とか「自分が悪いのに(その結果、起こったことを)条件のせいにしている」という悪いイメージができあがるように、動画が構成されているのである。

たたきやすいところに関しては、ちゃんと、たたきやすいような動画がつくられている。

たとえば、生活保護を不正受給している人が、条件について、言及するのである。もともと、悪いことをしている人が、ああだこうだと(自分の生まれながらの条件について)言及して、正当化しているような動画をつくってしまうのである。

ひきこもりでも、ニートでも、無職でも、「条件が悪い」ということを言う人は、最初から、悪役として出てくるのである。

逆に、さまざまなアニメの主人公や様々なドラマの主人公は、どれだけ条件が悪くても、条件について言及せず、スーパーパワーと意志力で、最後には、勝率をつかむ人たちなのである。

もう、われわれは、小さいときから、洗脳されている。

そして、ほんとうのことを言ってしまうと、現実社会に住んでいる非・支配者層の人は、じつは……見放されているのである。

はっきり言うと、主人公のほうに、肩入れをして、自分が主人公側の人間だと思うようになっているのだけど、現実には、非・支配者層の人は、やられてしまうほうの人間で、最後の最後に大逆転をして勝つ人ではないのだ。

けど、最後には、ものすごくラッキーなことが起きて、自分が勝つというイメージをうめこまれてしまうのである。

ところが、実生活のなかでは、アニメやドラマのようには、いかないのである。

現実を思い知らされることになる。

けど、「どこかで、そういうことが起こる」「最後には、ものすごくいいことが起こって、大逆転する」というようなことを最後の最後まで、期待してしまうところがある。

非・支配者階級に生まれた時点で、勝負がついているのである。

支配者層と、非・支配者層のあいだには、ものすごくでかい溝がある。

支配者層が仕掛けたいろいろなことを、非・支配者層の人は、回避できない。

ようするに、支配者層が仕掛けたしくみによって、駆逐されてしまう。罠にかかってやられてしまう。

本人……が主人公だとする。その場合、ものすごくいいことが起こって、逆転するということが、起こらずに、そのまま主人公(自分自身)がやられてしまうということになる。

こっちがい、現実なのだ。

非・支配者層のなかにも、ランクがある。

支配者層のピラミッドとおなじように、非・支配者層のなかにも、ピラミッドがある。その場合、たいていの人は、やられてしまう側なのである。

まあ、わからないか?

やられたことに気がつきもしないのが、大衆なのである。

ようするに、「ものすごい逆転劇」を視聴しているほうだ。ドラマやアニメのように、やられる側の人が、最後には救われて、大逆転をするということは……現実世界では……ない。やられてしまう。 

*     *     *

架空の話のなかでは、最後に救いの手が差し出されて、大ラッキーで、勝つのである。主人公は、そうなる。たいていの場合、主人公に、自己を投影するので、『自分』がそっち側の人間だと思ってしまうのである。

非・支配者階級のトップのほうは、それでも、いい暮らしができるのである。適当に思いついたライフハックを、口にすることができる。一〇〇%構文で言って、おカネもうけをすることもできる。けど、それは、非・支配者階級のなかで「条件がいいほうだから」可能なことなのである。

非・支配者階級のなかで、「条件が特別に悪い人」や「条件が悪い人」や「条件が普通の人」は、相当に、もがくことになるのである。

そして、けっきょくは、一〇〇%構文で言われたことが、かなわないまま、この世から去ることになる。

ともかく、条件が悪い人は、最初から、「嫌悪すべき対象」として(物語のなかに)出てくる。そして、きらわれるようなことを言って、負けるのである。

だから、そういう物語をずっと、小さいときから魅せられていると「条件について言及する」ということが、容易にはできなくなる。どうしてかというと、そういう「嫌悪すべき対象」と「自分」がおなじだと、他人から見なされるようになるからである。

最初から、嫌悪される存在を配置して、なんとなく、そのことについて、言いにくい雰囲気をつくるというのが、「黒」のやり方だ。

たとえば、反ワクだって、そうなのである。陰謀論者だってそうなのである。あるいは、うるさい音をたてて迷惑をかける右翼の人もそうなのである。あるいは、なんかいやな感じで、テレビに映っている左翼の人もそうなのである。この人たちは、言いにくい雰囲気をつくるために……配置された人たちだ。

「嫌悪感が生まれる」ようになっているのである。

 *     *     * 

非・支配者階級の普通の人や、非・支配者階級の条件が悪い人は……言霊のように「いつか」夢がかなうと、先送りにして生きているのである。

言霊が、強力なアイテムなら、「いつか」などと言わないで、三秒でかなえてしまえばいいのである。ところが、かなわない。

だから、「いつか」かなうということにして、夢を先送りにする。大逆転を待っている状態だ。「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力」というアイテムは、夢を先送りにするアイテムなのだ。だから、期待は持たせるけど、ほんとうは、それだけの力をもつアイテムではないということになる。「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力」……なかで……「努力」だけは、わりと有益だけど、しっぺ返しを食らうようになっている。「努力」で、やりきると、最後には、相応の不幸なことが襲ってくるようになっている。

「言霊」「思霊」「引き寄せ」は、勘違いによって、「正しい」と思われるアイテムなのである。だから、勘違いが持続しているあいだは、有力なアイテムなのである。本人にとって……有力なアイテムだ。しかし、勘違いをしているだけだ。

ほんとうに、有力なアイテムなら、時間内に効果を発揮している。

たとえば、言霊なら……「三秒以内に、こうなる」と言えば、三秒以内に言った通りになっている。どんなことでも、言えば、かなう。いつかはかなう……と待っている必要はない。 

*     *     *

だから、ほんとうに必要なのは、しくみを理解して、条件をかえていくということなのである。あまりにも、開きすぎている条件の差を、縮めるということが必要になるのである。それには、まず、「夢を見させるアイテム」のしくみを理解して、現実的な格差を減らしていく必要がある。

これ、「夢を見させるアイテム」は、ひどい社会を維持するための、アイテムなのだ。そりゃ、幼児的万能感があるから、有効であるように思える。幼児的万能感は、だれにでもある。それに、誤解をする力もあるので、有効であるように見えるのである。

個人のなかでは、それでいい。しかし、一〇〇%構文で、あたかも、事実のように言うことには、問題がある。

けど、一〇〇%構文で、事実のように言うことが、むしろ、奨励されているのである。言われたほうは、だまされるか、苦渋をなめるしかないのである。だまされているあいだは、夢を見ることができるので、ある程度、有効だと言うことができるのだけど、それは、だまされているあいだのことだ。儀式自体が快感を生み出す場合があるのである。

そして、積極的に誤解をすれば、「これは有益だ」と思えるのである。

そして、一〇〇%構文で、言い切ること自体が、快感を生み出すことなのである。だから、巧妙にしかけられた、悪の連鎖がはじまる。

2026年7月15日水曜日

●そして、この人たちには、悪意がない■社会※2026/07/15 11:39

条件が悪い人のことを考えて、いろいろと書いてきたけど、ほとんどの人がわからないと思う。言霊、思霊、引き寄せ、努力論……。全部、善意で言われることが多い。有効な方法を教えてあげる……という文脈が成り立っている。しかし、これ……ひどいことなのである。まったく、意図していない効果がある。言っている人たちが、まったく意図していない効果があるのだ。その効果は、負の効果だ。これ、ほんとうに、ひどい話なのである。条件が悪い人が、涙を呑んで、耐えると言うことになる。これ、ストレス減なのである。ストレスなんだよ。もちろん、「言えば言ったことが現実化する」「明るいことを思えば明るいことが現実化して、暗いことが起これば暗いことが現実化する」「引き寄せは、ある」「ニコニコすれば、いいことがある」「掃除をすればいいことがある」と言っているほうは、善意で言っているのである。しかし、今までここに書いてきたような、まずい部分がある。だれも、それを説明できなかったのである。ぼくが説明するしかなかった。けど、多いのである。多すぎる。言霊、思霊、引き寄せ、努力論……の影響を受けている人が多すぎる。そして、この人たちには、悪意がない。悪意がないのだけど、相手を自殺に追い込むような効果があるのである。もちろん、悪意なく言っている人は、そんなことは、気にしない。理解しない。「そんなことがあるはずがない」と思っておしまいだ。「ネガティブなことを言うな」と思っておしまいだ。けど、しくみを見ると、たしかに、ある。ここでずっと書いてきたことが、実際に成り立っている。しくみとして、成り立っている。悪い家族にずっとやられてきた人は、行き場をうしなう。これ、特別に悪い条件が成り立っている人のことを、袋叩きにするような理論なのだ。

まあ、あとで消すかも。 

●ぜんぜん、ちがう■騒音※2026/07/15 9:13

 きちがい兄貴が悪いことをやっているのに、こいつらは、まるで俺がさぼっているみたいに言うのだ。

こいつらは、まるで俺があまえているように言うのだ。

こいつらは、みんな『自分だって苦労した』と言う。

けど、きちがい兄貴と一緒に住んでいるわけではない。きちがい親父と一緒に住んでいるわけではない。きちがい兄貴が、どんな態度で、どんな感覚で、きちがい行為をするかまったくわかっていない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言うやつらもいる。

けど、こいつらが言っている騒音というのは、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを始めるまえの、騒音だ。うちは、でかい幼稚園の隣なので、きちがい兄貴がきちがいヘビメタをはじめるまえから、うるさかった。

だから、俺だって、まさに、騒音ぐらいあったのだ。こいつらは、俺が、ヘビメタ騒音を体験するまえの、騒音レベルで「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている。

ぜんぜん、ちがうレベルの騒音についてものを言っている。

ぜんぜん、ちがう。

2026年7月14日火曜日

●「体力エネルギーなんて関係なく、できると言えばできる」■社会※2026/07/14 10:56

ちょっと、気楽に話したいと思う。基本、ラフな話になってしまう。

ようするに、厳密な話ではない。

だから、そういう前提で読んでほしい。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは標準的な体力がある人だとする。Bさんは、ものすごく、体力がない人だとする。

この体力というのは、体力測定で測れるような体力ではなくて、生活するための体力だ。

とりあえず、体力ではなくて、体力エネルギーと言っておこう。

Bさんは、病気になって、自力でトイレに行くのも、やっとだという状態だとする。Aさんは、普通に働いている。

で、Bさんの体力エネルギーというのは、一だとする。Bさんがつかれているときの体力エネルギーは、〇・一だとする。

Aさんの体力エネルギーは一〇〇だとする。そして、Aさんが「つかれた」と感じるときの体力エネルギーが九〇だとする。Aさんは、つかれていても、ちょっとやる気を出せば、たいていのことができる状態であり、当然、Aさんがつかれているときも、自力でトイレに行くことぐらいは、簡単にできることだ。

だから、そもそも、基準がちがうのである。

けど、両方とも、「つかれた」という言葉で、自分の状態を表現しているとする。

その場合、Bさんがつかれている状態というのは、Aさんが経験したことがないつかれている状態なのだ。Aさんがつかれているとき、Aさんの体力エネルギーは九〇ある。Bさんは、通常の状態で、体力エネルギーが一で、Bさんがつかれているときは、体力エネルギーが〇・一ぐらいになってしまう。

Aさんが「(自分は)つかれている」と表現しているときの体力エネルギーが九〇で、Bさんが「(自分は)つかれている」と表現しているときの体力エネルギーは〇・一だ。

九〇〇倍の差がある。

AさんとBさんは別の個体なので、AさんにBさんの『つかれ方』が伝わるわけではない。その場合、Aさんには、Bさんのつかれは、わからないということになる。

わからないということが、前提として成り立つ。

しかし、「つかれている」という表現で状態がわかるという前提で、AさんとBさんが生きているとする。その場合、Aさんが「つかれている状態」として想像できるのは、自分がつかれている状態のときの状態なので、体力エネルギー九〇の状態なのだ。

だから、Aさんは……Bさんが「つかれている」と言ったときも、だいたい九〇ぐらいの状態なのだろうと仮定して考えてしまう。

しかし、実際には、九〇〇倍の差がある。

ぜんぜんちがう「つかれ」について、語っているということになる。

ライフハック的な言い方は、条件を無視したものなのである。「言えば言ったことが、現実化する」……条件なんて関係がない。「思えば、思ったことが、現実化する」……条件なんて関係がない。「努力すれば、成功する」……条件なんて関係がない。「感謝をすれば、運があがるので、幸福になる」……条件なんて関係がない。「掃除をすれば、運があがるので、幸福になる」……条件なんて関係がない。

ほかにも、条件を無視した言い方は、いろいろとある。「すべては、受け止め方の問題なので、受け止め方をかえればいい」……条件なんて関係がない。「すべては、自己責任だ」……条件なんて関係がない。

ライフハックの言い方というのは、基本的に、条件を無視した言い方になるのである。しかし、条件はある。 

たとえば、「できると言えばできる」ということについて考えてみよう。

「できると言えばできる」のだから、どんなことだって、どんな状態だって、できると言えば、できるのだ。

「できると言えばできる」という言い方は、最初から、「条件」を無視した言い方なのである。「努力をすれば成功する」という言い方も、最初から「条件」を無視した言い方なのである。「できると言えばできる」という言い方にも「努力をすれば成功する」という言い方にも「体力エネルギーのちがい」という条件はまったく出てこない。

だから、これらの文について、Aさんが正しいと思っている場合は、「体力エネルギーなんて関係なく、できると言えばできる」と思っていることになり、「体力エネルギーなんて関係なく、努力をすれば成功する」と思っているということになる。

まあ、「努力をすれば成功する」という言い方については、そのうち、機会があったら、考えるとする。いまは、「できると言えばできる」という考え方だけについて、考えるとする。

Aさんが考える「人間がつかれている状態というのは、体力エネルギー九〇の状態」だ。だから、つかれているにしろ、じゅうぶんに動ける状態だ。余力があるのである。

その場合、Aさんは、そういうじゅうぶんに動ける状態のつかれしか経験したことがないので、Bさんのつかれも、そのようなものだろうと思ってしまう。

Bさんが「つかれて動けない」と言えば、そのようなつかれた状態を想像して、Bさんに対して「そんなのはあまえだ」と言うのである。

実際に、Aさんが、Bさんに「そんなのはあまえだ」と言ったとする。

つかれていたって、「できると言えばできる」のである。Aさんのなかではそうなのである。

Aさんは、「Bさんがつかれたと言った」ということを理解できる。しかし、Bさんのつかれについては、理解しているようで理解していない。

あくまでも、自分が体力エネルギー九〇のときに感じるつかれについて考えているわけだ。だから、Bさんが「できない」と言えば、Aさんは「そんなのはあまえだ」「できると言えばできる」と思ってしまう。実際に体力エネルギー九〇のときは、できると言わなくても、できるのである。
 

Aさんは、じつは、Bさんが感じているつかれについて考えることができないのである。経験していないので、経験から、考えることができない。しかし、自分が、Bさんが感じているつかれについて正確に理解していないということについて、無頓着なのである。

だから、ほかの人が経験したことがないような「つかれ」を感じている人は、不利な立場に追い込まれることになるのである。Bさんのまわりの人が、みんなAさんみたいな人だったら、「そんなのはあまえだ」「できると言えばできる」と言われることになる。

特殊な環境で、不可避的な条件によって、どうしても、つかれる状態というのがある。それが、たまりにたまってしまうということもある。ほかの人が、このつかれを感じないのであれば……つまり、ほかの人がこのつかれを経験したことがない人なのであれば……どれだけ言ったって、ほかの人の理解なんて得られないのである。

だから、きちがい家族によって、疲労がつみかさなるような状態で暮らしていると、ほかの人から、むなくそ悪いことを言われるということになる。

●兄貴も……弟が学校で恥をかいたということを認めない■騒音※2026/07/14 5:28

きちがい親父は……兄貴がちゃんとしたハンダゴテを学校にもっていけないようにした……張本人なんだよ。

ところが、兄貴が、ちゃんと、きちがい親父に「親父が使えると言い張っていたけど、(そのハンダゴテは)使えないものだった」ということを言っても、きちがい親父が事実を無視して「使える使える」と言い張って、認めない。

この、「認めないということ」が、二回繰り返されているのだ。この時点で、二回繰り返されている。

そして、普通の人たちは「ちゃんと言えば(お父さんだって)わかってくれる」と思っている。

そうであるならば、「ちゃんと言わなかった(エイリの)兄貴が悪い」ということになってしまうのだ。普通の人たちのなかではそうなる。

ヘビメタ騒音で、宿題ができないということにも、まったくおなじことが成り立っている。

きちがい兄貴がやりきった場合、きちがい兄貴は、やりきった気持ちがないのだ。自覚がないのだ。認知がないのだ。認識がないのだ。ほんとうは、きちがい兄貴は……きちがい的な意地でやりきって、やりきってやりきってやりきって、相手の言い分を認めなかったのに、相手の言い分を認めなかったという認識がないのだ。

だから、きちがい兄貴は、どれだけ、なにを言われても、「自分の騒音が、弟に影響を与えている」ということを認めない。

弟が、その日の宿題をやりきることができるかということについて、きちがい兄貴の騒音が影響を与えているのにもかかわらず、どれだけ「兄貴の騒音で宿題ができないから、しずかにしてくれ」ということを言われても……わからないままなのだ。

自分が影響を与えているということがわからない。きちがい親父が、自分(親父)が絶対の意地で、子ども(兄貴)にもたした、ハンダゴテのことで、兄貴が、学校で恥をかいたということを認めないように……兄貴も……弟が学校で恥をかいたということを認めない。

認めない。どれだけ、はっきりと言われても、きちがい回路で、はねのけて、認めない。認めない場合、親父も兄貴も、どれだけ何回やっても、「やっていない」ということになってしまうのである。

「そんなことはやっていない」という前提で、相手との人間関係を考える。あるいは、相手との人間関係を無視する。

でっ、それが脳みその、ものすごく深いところで起こっていることなんだよ。

だから、本人は、ほんとうに「悪気」がないんだ。

これが、「こっち」にとって、どれだけこまることか、きちがい家族やきちがい兄貴タイプのきちがい家族と一緒に住んだことがない人にはわからない。

2026年7月13日月曜日

●でたらめな嘘を言って、逃げ切ろうとする■家族※2026/07/13 11:12

足の太もものところをよく見てみたのだけど、ダニに刺されたあとが残っている。うすくだけどね。複数個ある。メンタルがやられる。きちがい親父が……と言いたくなる。

ともかく、生命力的な体力を使い果たしてしまったようところがあり、動きたくないのだ。「やりたくない」と思ってしまう。引っ越しも、いつできるのか、わからない。

これから、睡眠トライをするけど、たぶん、無駄だ。じつは、昨日、けっこう、眠ってしまった。眠るつもりはなかったんだけど、眠ってしまった。肌のことは、失敗だったなぁと思う。ネズミ・ダニにやられるまえに、引っ越し先を見つけて引っ越すべきだった。けどなぁ。集合住宅になってしまう。ちょっと、いろいろとやばいのだ。まあ、気にしている人は(あんまり)いないけどね。

このあいだ、掛布団シーツを洗ったので、今度は、敷布団シーツを洗おうと思う。熱湯処理をしなくてもいいなら、気楽に洗っていたのだけどね……。

ともかく、気分が落ち込む。ゲームでいうHPが、残り少ない感じがする。どうにかして、チャージしなければならない。ほんとうに、つらい時間をすごしてきた。いまさら、はじまったことじゃないのである。長期騒音でHPを削られた。ともかく、絶望的に不利だったんだよな。それはそれは、つらいものになるよ。 

そして、今、なんとか生きているけど、じゃあ、わかい時間を取り戻せるのかというと、取り戻せない。なんか、いろいろとやる気がぬけている。「もう、いいか」と思うことが、多い。「もう、つかれた」と思うことも、多い。横になると「うーーーっ」という気持ちになるときがある。これも、多い。

じゃあ、どうするかというと……。 

*     *     *

全部が、めんどうくさい。気力がわかない。ダニに刺されなければ、たしょうは、気力があがっていたのかな。 

*     *     * 

段ボール箱に熱湯かけたあと、冷やした段ボールをビニール袋に入れる作業をするべきではなかった。

どうも、ビニール袋に入れる作業をしていたときに、ダニが手について、二階にあがってきてから、ダニに刺されたような感じがする。

この件で、もう、やる気がなくなっている。

暑いから、ビニール系レインコートを着たくない。むかしは、暑くても、ビニール系レインコートを着て、ネズミの糞処理をしていたんだよ。

けど、もう、力尽きた。そして、今日も、ネズミを袋にいれなければならなかった日のことを思い出して、不愉快な気持ちになった。きちがい親父が「俺が捕まえるからいい」と言い張って、ネズミ対策工事をさせてくれなかった。

「親父が死んだら、俺がネズミ処理をしなければならくなるんだぞ」と俺が言ったら、親父が「しなないよぉぉぉぇぇ、しなないよぉぇぇぇ」ときちがいのように絶叫しやがるのだ。

これ、居合わせた人じゃないとわからいよな。

ネズミが出てくることが決まっている居間で、きちがい親父を説得しなければならないのだ。どんな地獄か、わからないだろ。 

「死ななくても、(親父が)入院したら、俺がネズミ処理をしなければならくなるんだぞ」と俺が言ったら、親父が「入院、しないよぇぇぇぉぉぉ、入院しないよぉぉ」と顔を真っ赤にして絶叫するのだ。

そういう、基本的なことを認めない。

このあと、けっきょく、急性胆嚢炎になって、入院したんだよ。「このあと」と書いたけど、1年2か月ぐらいは経過していた。1年二か月後ぐらいに入院した。

けど、じつは、このことが起こるまえも、親父は脳梗塞で入院しているのである。入院したことがあるのである。

入院したことがあるのに、「その場で言い勝ちしたいから」……基本的なことを無視することを言う。

どれだけでたらめなことだっていいのだ。

入院することもある……ということを認めると、親父が入院したあと、俺(エイリ)が、ネズミの処理をしなければならなくなる。俺(エイリ)がネズミの処理をしなくてもいいようにするには、ネズミ対策工事に賛成しなければならなくなる。

……だから、「入院しない」ということを言って、その場を、おさめようとする。その場で、でたらめな嘘を言って、逃げ切ろうとする。

きちがい的なことを言って、絶対に認めない。

「このさき、入院することは絶対にない」ということは、言えない。「このさき、死ぬことはない」ということは、言えない。

ところが、絶叫して、言ってしまう。顔を真っ赤にしていってしまう。

これ、ちゃんと、相手の言っていることを、否定するために、言っているんだよ。きちがいだけど、そういうところは、わかっている。どれだけバカげたことでも、ともかく、基本的なことを否定して、相手の言い分をつぶすということをする。

しかも、そうやってつぶした、つぶしたということがわからなくなってしまうのだ。

これ、つぶしたあとは、まったく関心がない状態ができあがる。

だから、実際に、入院したり、実際に死ぬまでは、そういうことを繰り返すのだ。どれだけなにを言っても、認めないのである。

基本的なことを認めない。

じつは、きちがい兄貴も、脳みその構造が、きちがい親父とまったく、おなじで、まったくおなじことを、するのだ。

絶叫があるかないかのちがいはあるけど、頭のなかで起こっていることはおなじなのだ。

自分が「思いっきりでかい音で」ヘビメタを鳴らしたいとなったら、自分が「思いっきりでかい音で」鳴らしているとき、自分が「思いっきりでかい音で」ヘビメタを鳴らしているということを否定する。

耳が正常なら、絶対にわかることなんだよ。

けど、きちがい親父とおなじで、基本的なことを否定する。

基本的なことを否定したら、もう、それで、「やっていない」ことになるから、やり続けていいということになってしまう。わかるかな?

「でかい音で鳴らしている」という基本的なことを認めてしまったら、「でかい音で鳴らせなくなってしまう」のだよ。

だから、「でかい音で鳴らしているという」基本的なことを、認めないようにする。ただし、意識的にそうするわけではないのだ。無意識的にそうする。

だから、「そうした」ということが、わかっていないことになる。きちがい兄貴が、意地になって「でかい音で鳴らしている」という基本的なをこと認めなかったのに、きちがい兄貴は、実際に、自分が、 「でかい音で鳴らしている」という基本的なをこと認めなかったことは、ないと思っている状態なのだ。

何万回繰り返したってそうなんだよ。

あくまでも、きちがい兄貴のなかでは、「小さな音で鳴らしている」とか「普通の音で鳴らしている」とか「フォークギターぐらいの音で鳴らしている」ということになっているのだ。

ぜんぜん、ぜんぜんちがう。

兄貴がこういう状態だと、俺が嘘を言っていると思うやつが、出てくる。

こいつらが、また、やっかいなやつらなのだ。もう、きちがい兄貴と常識的な人たちにはさまれて、俺が、猛烈に不愉快な思いをすることになるのである。

みんな、ほんとうに、わかっていない。

●一番、接近している「儀式的な行為」が「原因」として選ばれやすい■社会※2026/07/11 10:31

『時間的な接近』についてちょっと書いておく。


たとえば、Bさんは、毎日、掃除をしていたとする。Bさんは『掃除をするといいことがある』と思っていたとする。Bさんは、『掃除をすることで、いいことを引き寄せることができる』と思っていたとする。

たとえば、六月一日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

そして、六月二日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。六月三日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月四日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月五日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月六日に、掃除をしたけど、いいことがなかったとする。

六月七日に、掃除をしたら、いいことがあったとする。

その場合、六月七日の掃除が、いいことを引き起こしたということになる。Bさんのなかではそうなる。 

しかし、たとえば、六月一日に、「儀式的な行為」である掃除をして、六月七日にいいことが起こったとする。その場合、六月二日から六月六日までは、「儀式的な行為」である掃除をしなかったので、六月二日、六月三日、六月四日、六月五日、六月六日、は、当然、原因として選ばれない。

一番、接近している「儀式的な行為」が「原因」として選ばれやすい。

「いつかかなう系の夢」に関しては、長い時間のロングパスが可能だ。「いつかかなう」と先送りにしてきた夢なので、どれだけ長い時間がかかっても、かなえばいいわけである。「いつかかなう」と思ったまま、死ぬ場合もあるだろう。

「いつかかなう夢」に関しては、儀式的な行為の目的は、「いつかかなう」という気持ちを支えるためにある。だから、すぐにかなわなくても、よいのである。

2026年7月12日日曜日

●実際に、そうなったのだから、これは、正しい■社会※2026/07/11 10:53

たとえば、Aさんが「明日は雨が降ると言ったあと、次の日になったら、実際に雨が降ったので、Aさんは言えば言ったことが、言霊の力によって現実化する」と考えたとしよう。

悪いけど、これ、妄想なのだ。

しかし、『関係妄想』のように悪くは言われない。どうしてかというと、受け入れられやすい妄想だからだ。幼児期を経た人は、みんな、幼児的万能感をもっている。言霊という考え方は、幼児的万能感に一致する考え方なのである。

だから、多くの人にとって、「言えば言ったことが、現実化する」という考え方は、妄想ではないように思えるのだ。

しかし、妄想なんだよね。

そして、妄想への道は、案外、だれにでも開かれているのである。

予言・出来事関連の妄想は、実際の個人的な出来事のあいだに、関連性を認めて、法則性があるように考えることから、はじまる。

でっ、これも、起こりやすいことなのである。あるものを食べたら、食中毒になったとする。そうなると、『あるものを食べると食中毒になる』という考え方が、頭のなかに浮かぶのである。

『実際に、そうなったのだから、これは、正しい』と思うようになるのである。

しかし、主語が人間であっりたり、自分であったりするわけで、法則性が成り立つ範囲というのが、もともと、あいまいなのである。

関係妄想の場合は、あくまでも、自分自身に結びつく妄想なのだけど、言霊のような妄想は、かならずしも、自分自身に結びつく妄想ばかりではないのだ。

しかし、言霊のような妄想の場合でも、自分に結びつく妄想である場合はある。

関係妄想の場合は、関係妄想をもっている人にとって、まわりの人やSNSで知っている人が、敵になってしまうので、関係妄想の場合は、たいていの場合、よくは言われない。

しかし、言霊のような妄想の場合は、いちおうは、ポジティブな意味をもつことができるので、悪く言われない。しかし、言霊のような考え方は、妄想の一種だ。

*     *     * 

「出来事・出来事関連妄想」が「法則・出来事関連妄想」になる。「法則・出来事関連妄想」のように見えるけど、妄想でない場合は、法則があっている場合だ。 

●間違った学習なのだけど、学習が発生してしまう■社会※2026/07/11 10:33

間違った学習なのだけど、学習が発生してしまう。

たとえば、「明日は雨が降る」と言ったあと、実際に、次の日になったら雨だった場合、もちろん、「明日は雨が降る」と言ったことと、実際に、雨が降ったことには、なんの関係もないのだけど、「自分が明日は雨が降ると言ったから、雨が降ったんだ」と本人が確信すると、関係を学習したということになる。

間違いの学習なのだけど、学習した効果は残る。

たとえば、おっぺけぺと言うと願いがかなうと思っている人がいたとする。その人が実際に「おっぺけぺ」と言ったら、行政から給付金が振り込まれたとする。

「おっぺけぺ」と言ったから、おカネが振り込まれたのだと思った場合、「おっぺけぺ」ということと「おカネが振り込まれた」ということのあいだに関連があるように思うのである。

これも、間違いなのだけど、本人がそう思った場合、本人のなかでは、「たしかに関係があるものだ」と認識されることになる。

この場合も、学習が発生したということになる。

とりあえず、「おっぺけぺ」と言うと、願いがかなうと思っている人は、Aさんだとする。

「おっぺけぺ」と言うと、いいことが起こると確信したAさんが、就職活動をするかどうか迷っていたのだけど、「おっぺけぺ」と言えば、就職できると思って、就職活動をしたとする。

その場合、Aさんのなかでは……「おっぺけぺ」と言うことと、就職活動をするということには、関係があることになる。

「おっぺけぺ」と言うと、就職活動でも成功すると思ったAさんが、実際に就職活動をした。その結果、就職できたとする。

その場合、「おっぺけぺと言うことがプラスの影響を与えた」と言うことができるかというと、言えると思う。

しかし、就職した先が超・ブラック企業だった場合、いろいろといやなことが発生するので、就職自体がよかったことなのかどうかは、わからないということになる。

時間的な接近というのが、けっこう問題なのだ。

Xをしたときと、いいことが起こった(と認識したとき)の時間の近さが、けっこう問題なのだ。時間的に近いと、Xをしたから、いいことが起こったと思う確率が高くて、時間的に遠いとXをしたから、いいことが起こったと思う確率が低くなる。

マウスの話になってしまうのだけど、マウスが、レバーを引くと、エサが出てくるようにしておく。その場合、レバーを引いたあと、一秒で、エサが出てくる場合は、レバーを引くとエサが出てくるということを(魔数が)学習しやすくなる。

しかし、たとえば、レバーを引いたあと、二三時間たつとエサが出てくる場合は、レバーを引くということと、エサが出てくるということの関係性にマウスが気がつかない場合が出てくるはずだ。

人間の場合は、夢や願望を、時間をかけてかなえるということができるので、相当に長い時間がかかって「現実化した」ことでも、「言ったこと」と「現実化したということ」のあいだに関係性を認める場合がある。

しかし、内容がはっきりしている夢や内容がはっきりしている願望ではなくて、「なにかいいことが起こる」という場合は、「なにかいいことが起こる」ということに、意識が集中するので、もし、意識が集中していなければ、「なにかいいこと」として認識されなかったことも、「なにかいいこと」として、認識される場合がある。


ある儀式的な行為とある出来事のあいだに、比較的短い時間の流れしかないと、「儀式的な行為をしたからある出来事が起こった」と思ってしまう確率が高くなる。

これは、「儀式的な行為をしたからある出来事が起こった」ではなくて、「儀式的な行為をしたあとある出来事が起こった」ということなのだけど、誤解をしてしまう。

ぼくから見れば、誤解だけど、その人から見れば、「真実」なので、その人にとってみれば「効果があった」ということになる。ある出来事が起こったというのは、たいていの場合、客観的な事実だけど、意味合いは、主観的に与えられるものなのである。

ようするに、その出来事が「いい出来事である」ということは、主観的に決まることでしかない。主観と客観がだいたい、一致する場合もあるけど、主観のほうが優先される。その人にとって「いいこと」なのか、「悪いこと(いやなことを含む)」なのかは、ほかの人にはわからないことだ。

本人が「いいことが起こった」と思っている以上、「いいことが起こった」ということになる。「いいことが起こった」という言い方をしたけど「いいことがある」という場合もおなじだ。何度も言うけど、ある出来事が、「いいこと」なのか「悪いこと」なのかは、その人が主観的に決めることだ。

けど、それなりに、「いいことである」と感じる根拠があるのだ。その人のなかに根拠がある。

それは、情報のつみかさねによってしょうじた価値観の総体だ。

無意識的なレベルまで含んで、価値観の総体があるから「その時点」で、「いいことが起こった」「いいことがあった」と自然に思えるのだ。

これを、たとえば、その時点で「悪いことが起こった」と感じたのに、意識的な意思で、むりやり「いいことが起こったのだ」と書き換えることは、じつは容易ではない。

そして、その試みは、失敗する確率が非常に高い。総体のほうが、そのときの意識的な意思よりも、出来事の価値を決めてしまう力が強い。

だから、そのときの意志に合わせて、出来事を自由に書き換えるということはできない。

ほんとうは、できないのだけど、これまた、できるようなことが、言われるのだ。

その場合、そこにしめされる例は、例外的であり、普段は、相対的な感覚で感じたことを、意識的に書き換えることは、むずかしいことなのだ。あんまり、成功しない。

たとえば、「タンスの角に足をぶつけて、痛いと思った」とする。そのとき「頭をぶつけなくてよかったと思えばいい」というような例があげられる。

これらの例は「悪いことが起きても、いいことだと思いなおすことができる」という例として語られる。じつは、これらの例は、案外レパートリーが少ない。

自分がミスをしたということが、前提になっている場合が多い。

「思いようだ」というようなことが、言われるけど、これらの例に関しては、『自分が思いなおすことが容易』な例なのだ。こういうことを言う人たちだって、普段、自分が、ほんとうに腹を立てることには、普通に腹を立てている。ヌケヌケだからわかっていないだけなのだ。

自分が正しいと思ったことを否定されたとする。そのときは、普通に腹を立てるのだ。『自分が正しいと思ったことを否定されただけで、なぐられたわけではないので、よかった』とは、なかなか思わない。顔を殴られたら、『顔を殴られたけど、歯が折れなくてよかった』とは、なかなか思わない。

「Aということが起こったけど、Bということが起こるのよりも、ましだから、よかった」と言い換えて、安心できる範囲というのは、案外限られている。

この人たちは、例をあげられると、「その通りだ」と思って、自分もその通りに行動しているように思っているのだけど、実際には、その通りには行動していないことが多い。

「相手の行為が原因だ」と思っている場合は、「なになによりもましたがら、よかった」とは考えないで、相手に対して、おこる確率が非常に高い。自分が損をしたときも、「なになによりもましたがら、よかった」とは思わずに、普通にくやしがる確率が非常に高い。

相手が無礼な態度で、無礼なことをしてきたら、 「なになによりもましたがら、よかった」とは思わずに、普通におこる確率が非常に高い。

「例」をあげるメンター・教祖が、普段どういう生活をしているのかということを、ちょっとは、気にしたほうがいい。 

2026年7月11日土曜日

●常識を裏切って、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた■騒音※2026/07/11 13:08

常識を裏切って、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた。いま、土曜日の午後一二時五〇分だけど、土曜日の午後一二時五〇分は、きちがいヘビメタ騒音が、一〇〇%の確率で鳴っていた。どれだけ「鳴らすな」と言っても、きちがい兄貴が、一〇〇%の確率で、無視して、鳴らしていた。常識を裏切って……というのは、ほかの人の常識を裏切ってということだ。あるいは、ぼくの常識を裏切ってと言うことだ。きちがい兄貴が、常識を裏切って、非常識な音を鳴らしていたのである。そして、きちがい兄貴の「認めない態度」は、非常識な態度なのである。「認めない態度」というのは、「でかい音で鳴らしていると言うことを認めない態度」のことであり、「ゆずらないで鳴らしているのに、ゆずらないで鳴らしていると言うことを認めない態度」のことである。「そんなの、嘘だ」という人たちは、常識的な判断で、損なのはうそだと思っているのである。けど、きちがい兄貴が非常識な人間なので、きちがい兄貴が常識的な判断を無視して、きちがい的な判断をして、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、常に、鳴らしていたのである。どれだけ「やめてくれ」と言っても、きちがい兄貴がきちがい的な態度で、こっちが言っていることを無視して、鳴らしていたのである。普通の範囲まで、音を下げてくれなかったのである。きちがい兄貴が音を下げたつもりになっても、きちがい兄貴の耳が悪くなるようなでかい音を鳴らしていたのである。ちなみに、きちがい兄貴が、命がけで無視したことは、実際でかい音で鳴らしているということいがいにもある。たとえば、「弟が自分の騒音でこまっている」と言うことだ。これ、どれだけなにを言われたって、「「弟が自分の騒音でこまっている」ということにならないのである。きちがい兄貴の頭のなかで、ならない。非常識な思考をして、あるいは、常識的な思考を無視して、ならないのである。きちがい兄貴のなかで鳴らなかったら、きちがい兄貴にとっては、実際に自分は「弟がこまることをしていない」と言うことになってしまうのである。だから、兄貴としては、なにもしていないつもりなのである。こんなのが、入試まで三年間毎日続いたらこまるだろ。最後の冬休みに、勉強をするつもりでも、まったく勉強ができない。そして、きちがいヘビメタ騒音で勉強ができないと言うことを、どれだけどれだけ、何回も何回も言ったって……きちがい兄貴が認めないのである。認めなければ、「実際にやっていない」と言うことになってしまうのである。だから、兄貴は、俺を困らせたつもりが、一切合切ないまま暮らしていたのである。しかし、こまっていたのである。このくらいに、ズレがあると、よその人は、俺がへんなことを言っているように思うのである。兄貴がくるっているのに、俺がくるっているように思うのである。よその人だって、自分がやられたら「気にする」のに……実際に自分がやられているわけではないので……「気にするからダメなんだ」と俺に言うようになるのである。しかも、「気にするからダメなんだ」と言った場合、俺が、不愉快な気持ちになると言うことは、こいつらの頭にはないのである。きちがいヘビメタで騒音で、めちゃくちゃに、くるしい思いをしているのに、頭から否定するやつがあらわれるのである。こいつらの頭は、きちがい兄貴の頭と、ちょっとだけ似ている。しかし、こいつらは、きちがい兄貴が「うち」でやったことを、こいつらの「うち」でやるわけではないのである。そういう意味で、常識的な人なのである。しかし、きちがいヘビメタで、俺が、不可避的にこまるというとは、きちがい兄貴のように、こいつらも認めないのである。しかも、こいつらはこいつらで、正しいことを言っているつもりなのである。「こだわるからダメなんだ」というのも「気にするからダメなんだ」とおなじだ。ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、きちがい的な行為を、きちがい的な意地でやってしまうから、不可避的な……当然の反応が……よその人にとって「へんな反応」だと思えるようになってしまうのである。あるいは、ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、きちがい的な行為を、きちがい的な意地でやってしまうから、不可避的な……当然の反応が……よその人にとって「不可避的ではない反応」だと思えるようになってしまうのである。こいつらは「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、騒音の程度と騒音の持続時間、騒音の持続期間を無視する。しかも、「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている時点で、「騒音」というものを抽象化して、同レベル化しているので……自分が騒音の程度と騒音の持続時間、騒音の持続期間を無視しているということに、気がつかないのである。こいつらも、騒音の程度と騒音の持続時間、騒音の持続期間を無視したつもりがないのである。こいつらの態度と、兄貴の態度は、似ているところがあるんだよ。こいつらがやったわけじゃないけど、こいつらは、ヘビメタ騒音の「影響のでかさ」を無視している。無視するな。くそ発言をするな。

2026年7月10日金曜日

●本人において、一般化した時点で、もう、それは人類の法則なのだ■社会※2026/07/10 4:11

いちおう、「おっぺけぺ」と言うことの神秘的な効果はないとする。神秘的な文字列なので、神秘的な力をもっているということはないとする。

けど、おっぺけぺと言うことと、いいことが起こるということのあいだには関係があると信じている人たちがいるとする。そして、その人たちの条件がちがっているとする。実際に、いいことが起こる確率は、条件によって決まっているとする。実際には、条件は複数あり、記述できない条件も存在しているとする。

しかし、モデルが複雑になるので、ひとつの条件が、「いいことが起こる確率」を決めているとする。

「おっぺけぺ」と言うことの神秘的な効果はないので、「おっぺけぺ」と言ったあとに、いいことが起こったとしても、「おっぺけぺ」と言うことと、いいことが起こったと言うことのあいだには、因果関係はない。ところが、いいことが起こったと考える人が、「おっぺけぺ」と言うといいことが起こる」と一般化・法則化してしまうのである。

その人のなかでは、『事実』そうなのである。

この場合、自分の場合は、「おっぺけぺ」と言うといいことがある……ということと、ほかの人間も含めて、人間の場合は「おっぺけぺ」と言うといいことがあるということは、ちがうことだ。

ところが、「おっぺけぺと言うと、いいことが起こる」と一般化してしまう人は、一般化してしまった時点で、人間というのは、みんなそういうものだと規定してしまうのである。

だから、本人において、一般化した時点で、もう、それは人類の法則なのだ。

しつこくなるけど……『自分の場合は、こうだ』ということと、『ほかの人の場合も……ともかく人間というのは、こうだ』というのは、ちがう。ちがうのだけど、本人のなかで、区別がついていないのである。

そして、たいていの場合、こういう人たちは、『区別』に書いたことを、区別していない。

なので、主語においてまず、間違っているし、一〇〇%構文の文で言っているということの意味もわかっていない。

最初から、でたらめなのだ。

ところが、人を救うために、「XをすればYになる」ということを言うのは、いいことだということになっている。だから、誤解が誤解を呼ぶと言うことになってしまう。そういう構造が成り立っている。 

●「Aをすると、Bになる」と一般化してしまう傾向が強い■社会※2026/07/10 3:38

 出来事が実際に発生した場合について考えてみよう。

たとえば、大根の味噌汁を、置いておいて、だいぶ時間がたったあと、煮なおして、食べたとする。そのとき、腹がいたくなって、トイレに駆け込んだとする。

まあ、食中毒になったとする。

この場合、「大根の味噌汁を食べると、食中毒になる」という連合は、最初はなかったのだ。

しかし、そのとき、「大根の味噌汁を食べると、食中毒になる」という連合がつくられてしまう。つくられやすい状態になる。

そして、「大根の味噌汁を食べると、食中毒になる」というのは、一〇〇%構文の文なのだ。だから、間違っている。間違った法則化をしてしまっている。

あるいは、間違った一般化をしてしまっている。

すべての大根の味噌汁が悪いのではなくて、その大根の味噌汁が悪かっただけだ。『放置した』という理由がある。放置したあと、いわゆる雑菌が増殖したのである。あたためなおせば、すべての細菌が死ぬだろうと思っていたかもしれないけど、100度付近では死なない細菌もあるのだ。

まあ、ともかく、大根の味噌汁と腹痛という連合ができてしまう。

何度も言うけど、この連合は間違いだ。

しかし、なんとなくそういう気持ちになってしまう。

これは、人間の場合、しかたがないことだと思う。

饅頭でも、カレーライスでも、なんでもかんでも、ただ単に、個人的な連想が発生してしまう場合がある。

これは……『思っていなかったこと』だけど、一度経験すると、脳みそのかなで一般化されてしまうので、それ以降、「まるまるを食べると、食中毒になる」というような「気持に近い」「考え方」が発生してしまう。

これは、人間のしくみとしてしかたがないことだと思う。割と、本能的なところで、この連合ができてしまうのだと思う。

しかし、原因は、大根の味噌汁ではなくて、放置した食べ物だとと思った場合は、放置した食べ物との間に連合ができる。

それに関しては、「理由」が必要であり、「理由」が自我に受け入れられるということが必要なのである。時間的な接近ということについて考えてきたけど、「Aをすると、Bになる」という場合、「AとBが時間的に接近していたほうが、Bの理由としてAがあがりやすいという」傾向がある。

これも、けっこう、人間の思考というものを考えた場合、割と根源的なところにある『思考の元型』だと思う。

ようするに、「Aをすると、Bになる」という思考は、生まれやすい思考なのである。

そして、それが、本人とって「いいことである」か「悪いことであるか」ということは、意味をもつものなのである。

だから、「Aをすると、Bになる」と一般化してしまう傾向が強い。

ジンクスなども、自我にのっていることなので、たとえ、間違った一般化であろうが、本人にとっては、重要なことになる。

人間は間違った一般化をしやすい動物だということが、たぶん、言える。

しかし、本人にとっては、いい結果をもたらす、間違った一般化であっても、ほかの人にとっては、悪い結果をもたらす、間違った一般化であるかもしれないので、注意が必要だ。 

2026年7月9日木曜日

●「そんなことはない」ということになってしまう■騒音※2026/07/09 19:45

ともかく、なんというか、もう、つかれた。

これ、親父のネズミ・ダニ事件よりも前から、つかれはてているのである。

長期ヘビメタ騒音から、ずっと、つかれている。陸続きなのだ。一度も、切れ目がない。どんだけつかれるか……長期騒音でどれだけつかれるか……ほかの人はまったくわかっていない。長期ヘビメタ騒音で、睡眠回路が完全に破壊されてしまうことも、わかっていない。

わかっていないと、「そんなことはない」ということになってしまう。

「あまえだ」「いいわけだ」と言われることになってしまう。

●問題なのは、正しいと思って、善意で言うことなのだ■社会※2026/07/08 13:50

 まるで、みんな、気にしていないけど「XをすればYになる」というようなライフハックは、やはり、いくつもの、問題を抱えている。

問題なのは、ほんとうに、Yになると思っているところなのだ。

そして、元気にポジティブに言えば、それに、引きずられる人が出てくる。誤解が誤解を生む状態になる。そして、単純な人……と言ってしまうけど……単純な人は、「XをすればYになる」という文と「すべてのXにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」という文が、意味的に等価であるということに気がつかない。

説明されたって、わからないのである。

なので、この部分にも、理論的な誤解の「種」がまかれている。

ともかく、「すべてのXにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」という文の意味と「XをすればYになることだってある」という文の意味を、区別しないということには、問題がある。

しかし、区別をしない人や、区別ができない人は、区別をしないと言うことに問題があるとは、考えないのである。

じつは、これは、問題だ。ほんとう、問題なんだよ。けど、区別しない。

多くの人は、区別しない。ほんとうは、区別してもらわないとこまる。しかし、区別しない。

「問題が決すると言えば、問題が解決する」とする。この場合、すべての問題が解決するのである。

ただ単に「問題」と言った場合も、「すべての問題」と言った場合も、おなじ意味になってしまうのである。

問題ではない問題はないので、問題という集合は、すべての問題という集合と、等価になるのである。

だから、ただ単に「問題が解決する」と言っただけで「すべの問題が解決する」ということになる。「問題が決すると言えば、すべての問題が解決する」のである。

「すべての問題が決すると言えば、すべての問題が解決する」と言わなくても「問題が決すると言えば、すべての問題が解決する」のである。

「言えば、問題が解決する」とする。たとえば、兄のヘビメタ騒音が俺にとって問題だとする。その場合、ぼくが、「兄のヘビメタ騒音がすぐに鳴りやむ」と言えば、すぐに鳴りやむのである。

 ぼくが、「兄のヘビメタ騒音が一秒以内に鳴りやむ」と言えば、「兄のヘビメタ騒音は一秒以内に鳴りやむということになる……はずだ。

ところが、鳴りやまなかった。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の意思で鳴らしていることなので、きちがい兄貴が、鳴らすのをやめようと思わなければ、きちがい兄貴は鳴らすのをやめない。

ぼくが、自分の部屋でどれだけ「兄のヘビメタ騒音は一秒以内に鳴りやむ」と言ったって、鳴りやまないのだ。どうしてかというと、「言えば、問題が解決する」という理論が間違っているからだ。間違っているのである。

「言えば、問題が解決する」ではなくて、「問題が解決すると言えば、問題が解決する」でもいい。

あるいは、「言えば、言ったことが現実化する」でもいい。

ともかく、「言えば、言った内容が、現実化する」という理論は間違っている。

間違っているんだよ。

「言えば、言った内容が、現実化することだってあるじゃないか」と思うかもしれない。

もちろん、言った内容が、言ったあとに、現実化することはある。

けど、「現実化することがある」だけだ。言えば、言った内容が、かならず、現実化するわけではないのである。

だから、「区別することは大切だよ」と言っているのだ。「言えば、言った内容が、現実化することだってある」という文の意味と「言えば、言った内容が、現実化する」という文の意味は、不等価なんだよ。なんでわからないのかな?

じゃあ、「すべての問題は解決すると言えば、すべての問題が解決する」とする。言うだけで、すべての問題が解決してしまうのだ。

もちろん、言うだけで「ヘビメタ騒音の問題」も解決するはずだ。「すべての問題は解決すると言えば、すべての問題が解決する」のだから、ヘビメタ騒音の問題も解決する。

ところが、解決しないのである。「すべての問題は解決する」と言っても、解決しないのである。

問題なのは、善意で助言しているということなのである。いままで、言霊という言葉を使ってこなかったけど、言葉に宿っている言霊の力によって、問題が解決するという理論なのである。

言霊があるから「すべての問題は解決すると言えば、すべての問題が解決する」と思っているのである。言霊主義者だけではなくて、一般の人にも、この感覚はある。

どうしてかというと、みんな、幼児期をこえて生きている人は、幼児的万能感をもっているからだ。

多かれ少なかれ幼児的万能感をもっているのである。なので、言霊理論は、一般人にも、感覚的に受け入れやすい理論なのだ。「言えば、言ったことが現実化する」のだから、「言う」だけでいい。安直な解決方法だ。言うことができる人には、だれにでも、できることだ。

安直な解決方法なのである。

そして、オールマイティーなのである。

どんなことも、解決できるのである。

どんな願いもかなうのである。

どんな願いも、言うだけでかなう。こんなすばらしいことはない。そりゃ、事実なら、信じたい。信じたいと思うのが人間だ。

ところが、事実じゃないのである。事実じゃない。だから、信じている人は、裏切られるのである。

『けど、信じている人はいるじゃないか』と思うかもしれない。そりゃ、信じている人はいる。信じている人は、誤解をしているのである。誤解をしているだけだ。

けど、誤解をしているだけだということは、認めない傾向が強い。ぼくの経験の範囲で言うと、言霊にこだわっている人が、誤解をしているだけだということを、認めてくれたことはない。

問題なのは、正しいと思って、善意で言うことなのだ。善意で、言う。相手を助けてやりたいつもりで言う。そのこころに、嘘はない。

だからこそ、問題なのだ。これも、わかってくれないか。

2026年7月8日水曜日

●自分なら憂鬱にならないと思っているのだ■騒音※2026/07/08 1:52

きちがいヘビメタ騒音にやられている時間というのは、うるさい時間でもあるけど、くやしい時間でもあるのである。

そりゃ、勉強をしたいのに、勉強ができないのだから、くやしい気持ちになる。くやしい気持ちになる決まっている。

ところが、きちがい兄貴と一緒に住んでいないから、きちがい兄貴の騒音をまのがれている一般人が、「そんなのは関係がない」と言うのだ。いやーー。関係あるよ。

うるさい時間で、くやしい時間で、腹が立つ時間で、憂鬱になる時間だ。とにもかくにも、生きているだけで、腹が立つし、憂鬱になる時間なのである。強制的に、そうなるのである。

工事で騒音が出ているわけではなくて、きちがい兄貴が、思いっきり鳴らしたいから、騒音が出ているのである。これ、ほんとうに、きちがい兄貴が我慢するべきなのである。

ところが、普通の人が、きちがい兄貴が我慢するべきだと言うことを無視して、俺が気にしなければいいということを言う。俺が影響を受けなければいいのだということを言う。……こんなの、ない。

その人たちだって、きちがい兄貴の態度でやられて、腹が立たないわけがないのだ。

ところが、きちがい兄貴の態度を無視して、自分なら、どれだけ騒音が鳴ってたって、勉強ぐらいできると思っているやつが、「どれだけ騒音が鳴ってたって、勉強ぐらいできる」と言う。

これ、かりの話なのである。

こいつは、きちがい家族の、きちがい騒音に、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もさらされているわけではない。

休みの日なんて、きちがい家族が、きちがい的な意地で、こっちのことはまったく気しないで、一日に一三時間以上も鳴らしているのだ。鳴らしてはいけない音のでかさで鳴らしている。

これを無視して、「気にするほうが悪い」と言うのが、約六割の人だ。そして、「そんなのはおかしいから、エイリが嘘を言っている」と思うやつが約四割だ。

こいつらが、みんな、誤解をしている。

妄想的な考えで、俺のことを、悪く言う。俺のことを劣った人間のように言う。こいつらは、みんな、別に悪いことをしているわけではないと思っている。

たとえば、約四割の人のなかでは……なかでは……エイリが嘘を言っているということは、確定事項なので、エイリが悪いということになってしまうのである。

エイリが嘘を言っているにもかかわらず、エイリが嘘を言っているつもりがないとするならば、エイリはなんとなんとか症だということになってしまうのである。

ほんとうに、失礼な決めつけなのだけど、こいつらがバカだから、そういう決めつけをしても、バカな決めつけをしたと思わない。

こいつらに、「ヘビメタ騒音の話は本当だ」と言うことを言っても、信じないのである。一度、「そんなのは、へんだ」「エイリが嘘を言っている」と思ったら、そのままなのである。「エイリが嘘を言っている」という土台を信じて、ぼくの言っていることを信じない。

ぼくの言っていることを、これまた、エイリが嘘を言っているという土台の上で解釈して、頭がおかしい解釈を付け加える。だから、結果的には、この四割の人は、俺の悪口を言っていることになるのだけど、悪口言っているつもりがないのである。

でっ、こういうことは、「そんなのは関係がない」と言う人たちにも、成り立っている。こういうことは「過去は関係がない」と言う人たちにも、成り立っている。「自分なら、そんな音を気にしないで勉強ができる」と言う人たちにも、成り立っている。

 自分が本当にさらされたわけではないから、「できる」と思っているだけだ。

それから、「楽しいといえば楽しくなる」と言う人たちは、きちがい兄貴の態度で、きちがい家族が、よそではありえないような音でずっと鳴らしていても、自分なら憂鬱にならないと思っているのだ。「勉強ができる」というのとおなじだ。

自分なら、どれだけでかい音で、自分が、この世で一番きらいな音が、ずっと鳴っていても、憂鬱にならないと思っているのだ。憂鬱になったら、「楽しい」と言えばいいのである。

楽しいといえば、楽しくなるので、憂鬱な状態から抜け出せるのである。「抜け出せないのは、エイリが悪い」ということになってしまうのである。

2026年7月7日火曜日

●「程度のちがい」は、よく、無視されることだ■社会※2026/07/07 10:19

きちがいヘビメタ騒音で、夜眠るべき時間に眠れなくなってしまったのだ。

そして、これは、何度も言ってしまうことだけど……きちがいヘビメタ騒音がなければ、ほんとうに、そういう状態にはならなかったのである。

これを、普通の人は無視してしまう。

自分がやられてみればわかるのに、やられたことがないから、わからない。

俺や名前だけ店長のように、一日に二時間ぐらいしか眠れない人がいる。そして、それが、毎日ずっと続けば、つかれる。このつかれは、普通の人のつかれではない。

これは、ようするに、一日に「普通の時間」眠っている人たちの、つかれではないのだ。「普通の時間」と書いたけど、まあ、七時間から八時間ということにしておこう。

七時間と二時間のちがいはでかい。

そして、一日目と一〇〇〇日目のちがいもでかい。

そして、一〇〇一日目と、二〇〇〇日目のちがいは、一日目と一〇〇〇日目のちがいよりももっとでかい。そして、二〇〇一日目と、三〇〇〇日目のちがいは、一〇〇一日目と、二〇〇〇日目のちがいよりも、ずっとずっとずっと、でかい。

そして、三〇〇一日目と四〇〇〇日目のちがいは、二〇〇一日目と、三〇〇〇日目のちがいよりも、もっともっともっともっと、ずっとずっとずっと、でかい。疲労が蓄積してしまうのだ。

ところが、蓄積した疲労を経験したことがない人が、「俺だってつかれている」と言って、疲労を同レベル化してしまう。

そうなると、言霊主義者を含む疲労が蓄積していない人たちが、「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言するようになる。

実際には、「蓄積された疲労」のちがいがある。

「つかれている」と言ったって、つかれ方がちがうのだ。

ところが、つかれ方のちがいを無視して、「俺は、実際に元気だ元気だと言ったら元気になった。言霊理論は正しい」と言って、相手のつかれを認めない発言をする。

しかし、状態がちがうのだから……ようするに、蓄積の度合いがちがうのだから……そのような助言は意味をなさないのである。

しかし、「言えば言ったことが現実化する」という洗脳を受けていると、「言えば言ったことが現実化するのだから、相手だって、元気だ元気だと言えば、元気になるはずだ」という意見をもつことになる。

「相手だって、元気だ元気だと言えば元気になる」と思っているわけだ。

そして、「元気だ元気だと言えば元気になる」という考え方を否定されると、否定された人は「頭にくる」確率が非常に高くなる。

「元気だ元気だと言っても、元気にならない」と言ってくる相手には、言霊主義者は怒りを感じる可能性がある。

そして、言霊主義者にとって「元気だ元気だと言えば、元気になることは、もう、決まっていることなので……「元気だ元気だと言っても元気にならないと言っている相手は、あまえている」ということになってしまう。

あるいは、『やり方がへたくそなのに文句を言う、ダメなやつだ』ということになってしまうのである。

そして……たとえば、「元気だ元気だと言えば元気になる」という意見をもっている人のほうが、「元気だ元気だと言っても元気にならない」という意見を持っている人よりも、立場が上だと非常に厄介なことになるのである。

立場が上で「元気だ元気だと言えば元気になる」と思っている人は、相手の「蓄積疲労」を見ていない。どのくらいの疲労が蓄積しているのかと言うことについて、まったく考えない。

この人たちは「疲労」と言えば「疲労」であって、ひとつの抽象的な疲労しか見ていないのである。「元気だ元気だと言えば元気になる」と思っている人だって、「つかれる」ということは、経験している。自分のみで知っているのだ。

しかし、この人たちは、単純だから、自分と関係なければ、一種類の「抽象的な疲労」しか頭に浮かばない。実際に、この人たちが、いろいろな出来事によって、つかれている場合は、出来事によって生じたつかれの「差」を知っているのである。

けど、「ぬけぬけ」なので、そういうことは、深く考えないのである。

自分が、ほんとうにつかれているときは、「元気だ元気だと言っても、元気にならない」ということを、ごく普通に無視してしまう。この人たちが、ほんとうに徹夜をしてつかれているときは、「休みが欲しい」「眠りたい」と思うのである。

ところが、そのときはそのときで、言霊のことなんて考えないのである。

そもそも、ほんとうにつかれはてているときは「元気だ元気だと言えば元気になる」ということは、考えない。もし、かりに考えて……「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないと言うことを経験した場合も「元気にならなかった」という現実的な結果を、無視してしまうのである。

「明日は、雨になる」と言って、次の日、晴れていた場合は、「言った通りにならなかった」ということを、軽く見て、忘れてしまう。

あるいは、無視してしまう。そうやって、自分にとって都合が良い結果だけ、覚えているのである。自分にとって都合が悪い結果は、意味をなさないものになっているのである。

軽く無視してしまう。そして、軽く無視したということも、無視してしまう。

ようするに、「ぬけぬけ」になる。この人たちは、「ぬけぬけ」な状態で暮らしている。

そうすると、自分が中立的な状態で、「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という記憶しか残らないので、「言霊理論は正しい」と思ってしまうのだけど、同時に、相手の疲労のレベルということについて考えることがまったくできないので、中立的な状態で感じた疲労をもとにして、「抽象的な疲労」を考えて、相手の疲労も、自分が考えている「抽象的な疲労」とおなじレベルの疲労だと考えてしまうのである。

中立的と書いたけど、ある程度、元気な時に「元気だ元気だ」と言っているのである。症状がひどい病気になって、寝込んでいるときに「元気だ元気だ」と言ったら、すぐに元気になったという体験はないのだ。

深刻な症状が出て、元気ではないときは、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。けど、こういうことも、事前に無視されている。

 「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という経験は、元気なときに経験したことなのである。あるいは、健康で中立的な状態で、経験したことなのだ。

どこもいたいところがなく、特にくるしいということもなく、健康な状態で、暇なときに「元気だ元気だ」と言ってみたら、「もっと元気になったような気がした」ということを意味しているだけだ。

しかも、ものすごく、元気になったわけではなくて、「なんとなく、言うまえより、元気になったような気がする」というレベルのことなのだ。

瀕死の重傷で横たわっているときに「元気だ元気だ」と言って、すぐに、ぱっと、元気になったわけではない。

言霊主義者ではなくても、普通の人は、自分のこと以外のことは、「想像して推し量る」ということをしているわけだ。

その場合、「ひとごと」なら、言霊主義者とおなじレベルの思考をしてしまうのである。

エンパスのような人だけが、人のことを、自分のことのように感じるとができるのである。

たいていの人は、「ひとごと」なら、自分のことではないので、いろいろなことを無視してしまうのである。

「程度のちがい」は、よく、無視されることだ。 

●ほんとう、ヘビメタ騒音なしで、生きたかった■騒音※2026/07/07 7:39

あーー。つまんない。いったい俺はなんだったんだって思う。なんだったんだろうなぁ。ほんとうーー。正直に、頑張って生きてきたけど、つらいことばかりだったなぁ。いつのまにか、時間がたっていた。もう、わかいころの時間はかえってこないしなぁ。ほんとう、ヘビメタ騒音なしで、生きたかった。

2026年7月6日月曜日

●「ヨソの人」の「約一〇割の人」が、「うちのこと」を誤解するのである■騒音※2026/07/06 11:41

ほんとうは、もう、眠っているはずの時間なんだけど、起きている。

長期ヘビメタ騒音のことで、腹が立ってしかたがない。絶望を感じる。

「俺の一生はなんだったんだ」と思う。ほんとうに、きちがい兄貴が、一秒もゆずらないで、爆音で鳴らしていた。

これが事実なのに、きちがい兄貴は、思いっきりでかい音で鳴らしたつもりがないのである。これが、きちがい親父とおなじなんだよな。

そして、きちがい親父が、適切なハンダゴテをもたせてやらなかったことで、兄貴が恥をかいたということを、認めないのとおなじように、きちがい兄貴が、認めないのである。

俺が……きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で!!!恥をかいたということを、当のきちがい兄貴が、認めないのである。

そんなの、普通の頭の人なら、言われなくても、わかることだ。

ところが、こっちが、どれだけ、言ったって、わからないのである。きちがい兄貴は、わからない。

きちがい親父のようにわからない。

どれだけ言ったって、ともかく、そのとき『自分が思いっきり鳴らせること』が大切なのである。これが、絶対命令なのである。

だから、もし、認めてしまったら、自分が思いっきり鳴らせないようなことは、どれだけ明らかなことでも、きちがい的な意地で、真っ赤な顔をして、認めない。

でっ、認めないと、それで……本人のなかでは……すんでしまうのである。

だから、その日も……「やめてくれ」と言われたその日も、きちがい的な意地で全部の時間、思いっきり鳴らして、おしまいなのである。きちがい兄貴が、一分間ですら、ゆずらずに鳴らしきって、おしまいなのである。

きちがい的な意地で、全部の時間、思いっきり鳴らしたら……その日……一秒も鳴らしていないこと鳴ってしまうのである。きちがい兄貴が鳴らさずに、すごした一日とおなじになってしまうのである。

そのくらいに、『自分の騒音』と『弟が言ってきたこと』は関係がないことなのである。

きちがい兄貴のなかで、両者の関係がまったく成り立っていないのである。

それは、きちがい親父とおなじなのである。頭の作りがおなじなんだよな。おなじような反応をする。いや、まったくおなじ反応をする。

これ、ほんとうにどれだけ本人が意地になってやったことでも、本人のなかで、やってないことと、おなじことになってしまうのである。

だから、本人は、気楽だよ。一秒だって鳴らしていないのとおなじ気持ちだから、まったく悪いと思わないのである。普通の人は、きちがい兄貴の状態なんて見たことがないし、きちがい兄貴にやられて、実際にこまっているわけではないから、「ひとごと」なのである。俺がこまっていると言うことは、きちがい兄貴にとって「ひとごと」だし、きちがい兄貴ではない他人にとっても「ひとごと」なのだ。

こういう人たちの場合「ひとごと」だと、その人がどれだけこまるかということがわからない。

ハンダゴテのことは、ここを読んでいる人には、なじみのストーリーなんだけど、普通の人が、このことに興味を持つのかどうかぜんぜんわからない。

ほかの人にとっては、「そんなことはどうでもいい」ということなのである。

ヨソの人たちは、きちがいヘビメタ騒音を浴びていない。浴びて暮らしていない。自分が、この世で一番きらいな音が、爆音で常に鳴っているという状態を経験していない。

そして、家族が鳴らしている音で、ずっとずっと、くるしんでいる状態なんて経験していないのだ。

なかには、ヘビメタという音楽分野が好きな人もいるだろう。俺にとっては、ヘビメタは、この世で一番きらいな音を寄せ集めた音楽だ。音楽なんて言うのも、ちょっと、はばかる気分だ。

音楽なんて、言いたくない。ヘビメタのことを音楽だとは、言いたくない。

ともかく、「ヨソの人」の「約一〇割の人」が「うちのこと」を誤解するのである。ぜんぜんちがう考え方をもつのである。

普通の人たちは、事実とは、まったくちがう解釈をしてしまうのである。

ちがい解釈をしてしまうということは、とりもなおさず、同レベルのことを経験していないということなのである。

しかし、約六割の人が「そんなの関係がない」と言い、約四割の人が「そんなのは、嘘だ」と言うのである。

わかっていないだけじゃないか。

2026年7月5日日曜日

●これが、俺をおいつめる■騒音※2026/07/04 12:49

一日、勉強を邪魔される怒りが、並じゃないのである。

あの、時間の連続。

きちがい兄貴は、きちがいだから、ほんとうにまったく気にしていない。ぜんぜん、迷惑をかけているつもりがないのである。

これ、迷惑なんて、弱弱しいものではなくて、人の人生を破壊するために、つねに、攻撃をしかけているのとおなじだ。音攻撃をしかけて、俺の体を破壊するつもりでいるのおなじだ。

そういう効果がある。

ところが、本人は……きちがい兄貴本人は、なにもやっているつもりがないのである。

で、これが、「うちで」成り立っていることだから、学校に行ったら、「関係がないこと」なのである。

ところが、朝から関係があり、遅刻をしたり、宿題を忘れたり、忘れ物が多かったり、おこりやすかったりと、いろいろなことが発生してしまうのである。

通っている学校だけではなくて、ようするに、外であっている人たちには、一切合切関係がないことなのである。

ところが、ぼくの体は、きちがいヘビメタで汚染されている状態なのである。身も心も、毎日のヘビメタ騒音でズタボロなのである。

しかし、しかし、ほかの人たちにとっては関係がないことなのである。でっ、ほかの人たちは、経験がないのに……あるいは、経験がないから「そんなの、関係ない」と言うのである。あるいは、「そんなのは、嘘だ」と言うのである。

「話がおかしいから嘘だ」と思ったやつの俺に対する態度がひどいのである。俺のヘビメタ騒音の話が嘘だ」と勝手に確信している状態なのである。

嘘なら、嘘を言うつもりで嘘を言っているか、あるいは、嘘だと思っていない状態で嘘を言っているということになる。

こいつらの世界では、俺がそういう病人に見えてしまうのである。

じつは、きちがい兄貴が、ほかの人が考えられないような感覚で、ずっと鳴らしている。こいつ……きちがい兄貴の感覚というのは、ほかの人には理解できない。

でっ、きちがい兄貴自体が、自分がやっていることがまったくわかっていない状態なのである。

これが、俺をおいつめる。

おいつめた。

どれだけなにを言ったって、ほかの人には、きちがいヘビメタ騒音の「影響のでかさ」がわからない。ほんとうに、人生全部が台無しになるようなことなのに、「そんなのは関係がない」と言いやがる。「そんなのは、嘘だ」と言いやがる。

●名前だけ店長の気持ちには、まったく気がつかない■社会※2026/07/03 22:07

うんと手短に言うと、名前だけ店長に「できると言えばできる」というような言葉をかけてしまう人というのは、相手の状態がわからない人なのである。

相手が、「こういうふうにつかれている」ということを言っても、それは、無視してしまう。

即座に「自分だって、つかれている」と言って、それで、相手と自分のつかれを同レベル化してしまう。

けど、その同レベル化がほんとうに正しかったのかどうかということは、わからないのである。

まあ、そのような人たちは、同レベル化をしたときに、同レベル化が間違ってるという可能性については、考えないのだろう。

そして、言霊理論の矛盾に気がつかないほど、「ぬけぬけ」なのである。

普段から、言霊理論にあわない現象は、ずっとずっと、何回も何回も、何十回も何十回も、何百回も何百回も、何千回も何千回も、何万回も何万回も、無視しているのである。

そして、無視しているということにも気がつかない。

矛盾を感じる能力が低いのである。

ともかく、相手の状態を理解することが不得意で、理論的な矛盾にこだわらないタイプなのである。

その場合、この人たちが、「人に親切にする」ということを考えても、自分の思った「人に親切にする」ということだけを考えて、相手が本当になにを望んでいるのかということについて、考えないということになる。あるいは、考えても、間違った考えが浮かんでしまう可能性がある。

相手の状態を読み取る力に欠けているのだから、相手に親切にするということを考えても、的外れなものになってしまう可能性がある。

しかし、「人に親切にしよう」ということは考えられるのである。的外れでも、考えられるのである。

だから、この場合も、トラブルの数が増えてしまうかもしれない。

ようするに、何度も言うけど「人に親切にしましょう」という掛け声がどれだけ増えても、社会は、よくならないのである。「人に親切にすることはいいことだ」と思う人が、どれだけ増えても、社会が(そのぶん)よくなるとは、限らないのである。

だって、相手の状態がわからない人が、相手に親切にしてあげようと思って行動しても、空回りになってしまう。あるいは、その行動の結果、相手が、被害を被ることだってある。

実際、言霊主義者は、「名前だけ店長に、いい助言をしてあげた」「名前だけ店長に、助言をしてやることで、名前だけ店長に親切にしてあげた」と思っているのである。

しかし、名前だけ店長は、言霊的なことを言われて、自分の主張と自分の気持ちをおられてしまう。

名前だけ店長は、サービス残業をしたくないのだ。もう、続けたくないと思っている。

それに対して、言霊主義者が「できないと言うからできないんだ」「できると言えばできる」と言って、サービス残業を続けさせようとするのである。

こんなのは、名前だけ店長が求めていることではない。

むしろ、名前だけ店長が求めていることの……正反対のことだ。

名前だけ店長にしてみれば、いやなことをされたということになる。親切にされたのではなくて、いやなことをされたということになる。

けど、相手の状態がわからない「言霊主義者」は、「いい助言をしてやった」「親切にしてあげた」と思っているだけで、名前だけ店長の気持ちには、まったく気がつかないのである。

2026年7月4日土曜日

●おなじレベルの蓄積疲労がある人は、そんなことは言わない(2)■社会※2026/07/03 1:32

たとえば、精神世界では、「感謝感謝、すべてに感謝」というようなことが言われる。

感謝をすれば、運があがっていいことがある感謝をすれば、運があがって幸福になる?と言うようなことが言われる。

一五年間の過労でつかれている名前だけ店長が「すべてに感謝」をしても、名前だけ店長の生活は楽にはならないのである。暗くてつらい生活が続くだけなのである。

むしろ、いままで働いてきた名前だけ店長に感謝するべきだ。感謝して、名前だけ店長の言い分を聞いて、名前だけ店長が適切な時間だけ働きたいと言っているのだから、適切な時間だけ働けるようにするべきだ。

ところが、名前だけ店長がつらいのは、感謝がたりないからだということになってしまう。

だから、名前だけ店長が、感謝をすれば……つらい生活がおわり……幸福になると言うのである。こんなの、ない。

たとえば、 名前だけ店長の部屋がきたなかったとする。

そりゃ、風呂に入る時間もおしいぐらいの忙しさで、毎日暮らしている。

土曜日持ちに曜日も、一日に二時間、三時間しか眠れないような状態だ。

そうしたら、部屋の掃除ができなくなるのは、あたりまえだ。

ところが、「きれいさが不足している」と言うのである。

なので、名前だけ店長にも「掃除をすれば、運があがって、しあわせに暮らせる」と言ってしまう。

名前だけ店長が、どれだけ忙しい日々をすごしているのかということを、聞いたあとでも、こうなのである。

名前だけ店長は、店の掃除を毎日欠かさずしていた。掃除をすることが不足しているから、不幸なのではないのだ。残業以外の労働と、残業部分の労働がくるしいから不幸なのだ。

睡眠時間が短いから、体調が悪く、顔色が悪く、憂鬱な顔をして暮らしている。

しかも、営業時間は無理やり笑顔をつくっているのである。

それなのに、そういうことでつかれているということを、無視して、「掃除をしていない」と「不足」を指摘して、「不足」をおぎなえば、しあわせになれるというのだ。こんなの、ない。

「靴をきれいにすれば、運があがって、幸福になる」ということについても言っておく。眠ったあと、二時間もしたら、次の出勤の用意をしなければならないという状態で毎日暮らしているのに、そりゃないよ。

そりゃ、靴ぐらいよごれて当然だ。靴を買いにいく余裕なんてないし、靴を磨く余裕なんてない。

けど、「靴をきれいに磨けばしあわせになれる」と言うのだ。

名前だけ店長が、朝のカツカツの時間を利用して、靴を磨くようにすると、それだけ、名前だけ店長の負担が増えるのである。よけいに、顔色が悪くなるのである。

しかし、「顔色が悪い人のところは、しあわせはやってこない」と言ったりする。「きれいではない靴を履いている人ところには、不幸がやってくる」と言ったりする。

すべてが、なんらかの「不足」に注目した発言なのである。

ところが、睡眠不足には、触れないのだ。残業でこまっているということにも触れないのだ。

名前だけ店長が、ちょっとでも「こういう状態でくるしい」ということを言えば、こいつらは「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは関係がない」とかと言う。

もし、「寝不足で、靴を磨く余裕なんてありません」と名前だけ店長が言えば、「そんなのは、言い訳だ」と(この人たちは)言うのである。

「睡眠不足にこだわるからダメなんだ」「睡眠不足を気にするからダメなんだ」と……この人たちは『ダメ出し』をするのである。

この人たちは、名前だけ店長がこまっている、ほんとうの理由を無視して、いろいろな不足を指摘して、不足を補えば、しあわせになるということを言う。

けど、名前だけ店長は、労働時間が長すぎるから、不幸だと感じる生活をしているだけなのだ。本当の理由は、長すぎる労働時間だ。

これを無視して、『こころがけの問題』にしてしまうのである。こんなの、ない。

しかも、「あれが不足している」「これが不足している」と言っているほうは、ほんとうに、いい助言をしてやっているつもりなのだ。こんなの、ない。

「あれをやれば運があがって、しあわせになる」「これをやれば運があがって問題が解決する」と言っているほうは、ほんとうに親切にしてやっているつもりなのだ。こんなの、ない。

*     *     *

感謝をすることは、いいことだけど、感謝をすることで「すべての問題」が解決するわけではないのだ。状態や構造がある。めちゃくちゃにひどい家族に、やられ続けているときは、その状態から抜け出さないと、どれだけほかの人に感謝をしても、いい状態にならない。

問題なのは、感謝をすることではない。問題なのは「感謝をすれば、すべての問題が解決する」というようなことを言うことだ。わざと、すべての問題という表現を使ったけど、文脈によれば、相手の問題は、感謝をすることで解決するということになってしまうのである。

どうしてかというと、「運があがる」ことによって問題が解決するからだ。とくに、すべての問題と言われたり、書かれたりしていなくても、けっきょくは、「相手の問題が、感謝をすることによって、解決する」という意味になる。

きちがい的な家族が、毎日、よその人がやらないようなひどい行為をするという場合は、ただでも、ほかの人から、誤解を受けやすい状態になるのである。きちがい家族にやられている人にとっては、「感謝をすれば、運があがって、しあわせになる」というような言葉ですら、凶器になる。

きちがい兄貴の騒音なら、騒音で、騒音問題が解決しないと、しあわせではないのである。

そして、「すべての場合において」「感謝をすることは、有効だ」という意識がある人の発言は、やはり、特殊な家族にやられている人の気持ちを傷つけるのである。

これも、ずっと言っていることなのだけど、感謝をすれば、問題が解決するとする。感謝をすると、運があがって、問題が解決するでもいい。そうなると、問題を抱えている人は、逆に言えば、感謝をしないからダメなのだということになってしまうのだ。

そういう見なし方をしているということになるに。 悪意なく「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」と言っている人は、不幸な人や問題を抱えている人が「感謝をしない人だ」と見なしているということになる。

その感謝をしない人が、感謝をするようにすれば、感謝をしない人が抱えている問題は、解決するということを言っているのである。そういうことに、自動的になって、しまうのである。こういうことに、こだわる人は、少ない。

 「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」と言っている人は、問題を抱えている人は、感謝をしない人だと「明言している」わけではない。ただ単に、軽い気持ちで、自分の考えを表現しているだけだ。

実際に、感謝をしたときに、自分だけではなくて、相手もいい気持ちになるのだから、感謝することは重要だと思うだろう。

たしかに、重要だ。

しかし、そういう効果を打ち消すような、毒家族がいるのである。

いっぱい、いっぱいになって暮らすしかない人たちがいるののである。

毒家族に、毎日毎日、(ほかの人がやられないようなことをされて)……いっぱい、いっぱい、精いっぱいの努力をしても、くるしいだけの状態になってしまう人がいる。

そういう人にとって、「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」という(一見よさそうな)お気楽な言葉は、『毒』なのである。

感謝をすると、運があがって、きちがい家族がもたらす問題も、解決しそうな雰囲気するのだけど、雰囲気だけで、実際には、きちがい家族と離れて暮らさないと、問題が解決しないのである。きちがい家族がかわってくれるということは、ほとんどの場合ない。

どれだけ、きちがい家族にやられている側の人が、いろいろな人に感謝しても、きちがい家族がかわってくれるということは、ほとんどの場合ない。

「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」という(一見よさそうな)お気楽な言葉は……きちがい家族にやられている側の人を……どこまでも、どこまでも、おいつめる『呪いの言葉』になる。 

2026年7月3日金曜日

●おなじレベルの蓄積疲労がある人は、そんなことは言わない(1)■社会※2026/07/03 1:32

 精神世界の人が言うことは、まじめな人を、おいつめることばかりなのである。

ヘビメタ騒音だと、経験した人が限られるので、名前だけ店長に登場してもらおう。

言霊主義者が、こまっている名前だけ店長に「できると言えばできる」と言って、サービス残業を押し付けようとするということについては、話した。

「できると言えばできる」と言ったのはブラック社長だ。ブラック社長は、言霊主義者なのだ。

ブラック社長は「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」と思っている。

これもすでに指摘したけど、ブラック社長は、ブラック社長の懐を肥え太らしたいと思って、名前だけ店長にサービス残業をさせようとしているわけ。

もし、ブラック社長が、「言えば、言ったことが現実化するから、自分の口座に毎日一億円、振り込まれる」と言えば、「自分の口座に毎日一億円、振り込まれる」ということに、気がついていれば、そうしたわけである。

ところが、自分の口座に毎日一億円、振り込まれると言って、自分の口座に一億円が振り込まれることを待っていても、無駄だということに、言霊主義者であるブラック社長は気がついているのである。

だから、そんなことは、試みようともしないのである。

かわりに、会社をつくって、従業員を雇い、従業員の給料を極限まで小さくすれば、会社がもうかり、自分の懐が満たされると思って、そうしているだけなのだ。

だから、現実的に考えた場合は、現実的ではない方法は採用されないのである。

どれだけ頑固な言霊主義者でも、現実的なことに関しては、現実的な方法を採用するのである。

「いつか夢がかなう」系だと、その時点である程度、現実的でないことなのである。

だから、言霊的な方法が採用されるのである。

「いつかかなう」わけだから、「かなわない」ということに、直面しなくてもよいのである。

だからこそ、時間制限がある言い方を、言霊主義者は、めったにしないのである。

しかし、「明日は、雨になる」というように、事実上の時間制限があることを言うこともある。

その場合は、実際に、次の日、雨にならなかったら、雨にならなかったということを、無視して、「言霊理論は間違っている」という結果を考えないようにするのである。

自分にとって都合がいいことだけを見て、「言霊は正しい」と言い切るのである。

「言霊は正しい」と言い切ったあとも、じつは、現実的なことに関しては、言霊なんてまったく考えないのである。

言霊でどうこうしようとは思わない。

ブラック社長だって「言えば、言ったことが現実化するから、自分の口座に毎日一億円、振り込まれると言ったって、実際に振り込まれるわけじゃないからそんなことは、無意味だ」と考えて、「自分の口座に毎日一億円振り込まれる」なんて、言わないのだ。

ちゃんと、現実的なしくみのなかで、カネを儲けるということを考えて、現実的な手段を模索して、現実的な手段を実行するのである。

これは、ブラック社長だけではなくて、たいていの言霊主義者が、実行していることなのである。

「いつかかなえばいい」というような夢ではなくて、もっと現実的なことだと、現実的に考えて、現実的な方法を模索して、現実的な手段を実行するのである。

頑固な言霊主義者でもそうするのである。

言霊主義者のなかには、働いている人たちもいる。その言霊主義者たちは、現実的に考えて、「働こう」と思うのである。

この世界では、従業員として働く契約をして、従業員としては働けば、自分が生きていくだけのカネをかせぐことができる……とする。

それは、現実的な方法なのである。

「言ったって、言っただけではどうにもならない」と思っているから、「働こう」と思うのである。

そして、働いているときは、言霊的な思考にならないのである。

現実的な問題に、対処しなければならないからだ。

現実的な問題は、時間的な制限があるものが多い。「いつかかなう」などとは言っていられない。

「いつかかなうだろう」と言っていられな問題に関しては、「言ったので、いつかかなうだろう」というような悠長な問題解決方法は、意味がないのである。

そして、多くの言霊主義者は、言霊主義者といえども、「意味がない」というとを知っているのである。

しかし、「意味がない」と思っていながらも、「言霊は正しい」と思ったままなのである。

矛盾を感じないように、なっている。

これは、そういう思考スタイルが採用されているので、矛盾を感じない。

自分が「言ったって意味がない」と思って暮らしているということは、無視されているのだけど、無視されているということにも、気がつかないのだ。

場面がちがえは、考えることもちがってしまうわけ。

そして、本人は、「使いわけている」とも、思わないのだよ。

*     *     * 

名前だけ店長が一五年間、毎日毎日、究極のサービス残業生活をしているということは、言霊主義者によって、無視されてしまうのである。

「元気だ元気だ」と言えば元気になるからだ。

毎日毎日、過度な労働が続けば、つかれる。

けど、その疲労蓄積も、関係がないのである。

名前だけ店長以外には、名前だけ店長の疲労なんて、関係がないのである。

だから、「つかれたというから、つかれるんだ」「つかれないと言えばつかれない」「元気だ元気だと言えば元気になる」と、元気になれない(現実的な)理由を無視して(名前だけ店長に)言うのである。

一五年の蓄積疲労を無視して……「自分だってつれることはある」と(その人たちは)言う。

そりゃ、その人たちだって、つかれることはあるのだろうけど、程度がちがう。

一五年の蓄積疲労をため込んだことがある人が、「自分だって、つかれることはある」と言うだろうか。

一五年の蓄積疲労をため込んだ経験がない人が、一五年の蓄積疲労を軽く見て、あるいは無視して、けっきょく、名前だけ店長が、今までとおなじレベルで残業をしなければならなくなるようなことを、言ってしまう。

おなじレベルの蓄積疲労がある人は、そんなことは言わないと思う。

おなじレベルの蓄積疲労がある人は……一日でも早く(名前だけ店長のサービス残業を)やめさせようと思って、名前だけ店長の言い分に賛成する。

ところが、おなじレベルの蓄積疲労がない言霊主義者たちは……名前だけ店長の言い分を無視して、「つかれるというから、つかれるのだ」「元気だ元気だと言えば元気になる」と言う。

いいことを言ったつもりなのだ。いい助言をしてやったつもりなのだ。

こんなやつが、たとえ「人に親切にしましょう」なんて、本気で言っていたとしても、意味がない。

実際にやっていることは、まじめな人に、いままで通りにやることを強いることばかりだ。

その人たちは……「もう、無理だ」と言っている相手に、今まで通りにやらせようとする発言をする。

こんなやつが、わかっているはずがない。

2026年7月2日木曜日

●相手の問題は……「言えば解決する」……と思っている■言霊※2026/07/02 22:36

言霊主義者と言うのは、相手が普通の人だと思っているんだよ。普通の状態で普通の問題について悩んでいる人だと思っているんだよ。

言霊主義者が、どれだけ「自分だって苦労した」と言っても、普通の人の、普通のレベルの苦労なんだよ。言霊主義者が、どれだけ「自分だって困難を経験した」と言っても、普通の人の、普通のレベルの困難なんだよ。

普通の人であるわけ。

特別な状態で、特別な困難を、長い期間経験してきたわけではない。「普通の困難」なんだよ。普通の人が経験するような、普通の困難なんだよ。

特別な人は、ちがう。その人たちは、普通の人たちが経験していないような困難を経験している。ぜーんぜん、ちがうわけ。

その人たちが、「言霊理論は正しい」なんて言わない。言霊なんて信じているわけがないだろ。言霊を信じていられるという点で、普通の人なんだよ。恵まれた人なんだよ。

言霊を信じていられるなら、相対的に恵まれた人だ。まったく、なにも、わかっていない。

ほんとうに長い間、ほんとうにくるしいことを経験してきた人は、「言えば言ったことが、現実化する」なんて、口が裂けても、言わない。

 「言えば言ったことが、現実化する」なんて、のんきに言っていられるのは、ほんとうに長い間、ほんとうにくるしいことを経験したことがないからなんだよ。

それで……漫画のような感動のストリーだろ。これ、黒側の協力者が提供しているものだ。ほんとうに、だまされやすいやつらだな。

相手の問題は……「言えば解決する」……と思っている。相手の問題は、言っただけで解決できる問題だと、決めつけている。

それだけで、じゅうぶんに、失礼だぞ。 

ぼかして言うけど……こういうやつらを量産しようとするな。 

幼児的万能感を利用されて、特別にくるしい人に、横柄な態度をとるように、しむけられている。

その人たちは、幼児的万能感が、強いので、そう思ってしまう。その人たちは……自動的に……『ものすごく困難な問題』を抱えた人に……横柄な態度をとるようになる。

そして、言っちゃわるいけど、言霊理論を否定されれば、たいていの言霊主義者は、おこる。不機嫌になる。

ちゃんと、実際の出来事に対応した反応をかえしている。

実際の出来事が重要なのである。

言霊主義者が、実際の出来事に対応して、おこっているときに、「楽しい楽しい」と言っても楽しくならない場合が多い。自分にとって現実で、ちゃんとした「おこる根拠がある」と感じているときは、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない確率が非常に高い。 

「す」のまま、おこって「なんだとぉ」という態度になって、相手を攻撃してしまう。「理屈じゃねぇーーんだよ」と言う。

実際の出来事には、こういう反応をするのに、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」なんて……よく言うよ。

受け止め方をかえればいいと、ほかの人に助言している人だって、俺の理論に合わせて、受け止め方をかえてくれるわけではない。 

きちがいヘビメタ騒音一分間でも、「言霊理論を否定される」ことよりも、一兆倍ぐらい腹が立つことなんだよ。一日目でそれだ。一〇〇〇日目の……ヘビメタ騒音の一分間は、 「言霊理論を否定される」ことよりも、一〇〇〇兆倍ぐらい腹が立つことだ。

レベルがちがう。不愉快さのレベルがちがう。

そして、起こっていることがちがうのである。

エイリは、正しいことを言っただけだ。きちがい兄貴は、やってはいけないことを、やっているのである。連日連日、やっているのである。

きちがい兄貴・本人は、まったく問題がないと思っているのだけど、問題行為をやりっぱなしなのである。

言葉を聞いた・相手側がおこるとしても、おこる根拠がちがうのである。

おこる根拠をまったく問題にせず、ただ単に「言えば、言った通りになるから、問題は解決する」と言うのは、おかしい。

きちがい兄貴の問題だって、言霊主義者に従えば、「言っただけで解決できる問題」なのである。言霊主義者は、そう見なしているのである。これが、どれだけ、不愉快なことか、わかるか? わかるわけがない。

言霊主義者は、ぬけぬけだからわかっていないと思うけど、こういうところでも、特殊な問題で(長期間)悩んでいる人に、圧力をかけている。

言霊主義者が、アホな発言をすることによって、長期間、特殊な問題で猛烈にくるしい思いをしている人に、圧力をかけている。

●『儀式関連系の心理』と『自己暗示系の心理』■言霊※2026/07/01 23:59

まあ、基本的なことを言ってしまうと、『儀式関連系の心理』と『自己暗示系の心理』がある。

たとえば、ある引き寄せ行為をしたら、引き寄せることができた……とAさんが感じているとしよう。ある引き寄せ行為と、引き寄せることができた(と思った)出来事が発生したということのあいだには、まったく関係がないのである。

引き寄せ行為は、原因になりえないのである。

それは、「おっぺけぺ」と言ったあと、引き寄せたいものを言えば、引き寄せたいものを引き寄せることができるという場合と、おなじなのである。

たとえば、Aさんが「おっぺけぺ・プレゼント」と言ったとする。そうしたら、数日後にプレゼントをもらったとする。

その場合、「おっぺけぺ・プレゼント」とAさんが一人で言ったということと、実際に、だれかから、プレゼントをもらったということは、なんの関係もないのである。

ほんとうは、無関係。

だけど、Aさんが、引き寄せ行為をやったあとなので、引き寄せ行為の結果、プレゼントをもらうことができたと(Aさんが)考えたとしても不思議ではない。

言霊の話になるけど、「明日は雨が降る」と言ったあと、次の日になって雨が降れば、「明日は雨が降る」と言った、その言霊主義者は『自分が明日は雨が降るといったから、実際に雨が降った」と考えるのである。

考えるだけ。

ほんとうは、雨が降るということと、その言霊主義者が「明日は雨が降る」と言ったということは、なんの関係もない。

しかし、言霊主義者にとっては、『自分が雨が降ると言ったから、雨が降ったのだ』と思えることなのである。

それとおなじように、原因にはなりえないことが、原因として認識されるのである。これは、間違った認識だ。

しかし、本人にとってみれば、まさしくそれが、真実なのである。

雨が降ったということのほんとうの原因は、自分が雨が降ると言ったことではない。

しかし、その言霊主義者のなかでは、自分が雨が降ると言った「から」実際に雨が降ったということになっている。

Aさんが、自分(Aさん)が「おっぺけぺ・プレゼント」と言ったから、実際にプレゼントをもらったと思っている場合とおなじだ。

理由について勘違いしているのだけど、本人が、理由について勘違いをしているという認識をもたないのだから……本人のなかでは……理由について勘違いをしているということにはならないのである。

ここまでが、『儀式関連系の心理』の説明である。自分が儀式をしたということが、実際の出来事の原因になっているという妄想をもっている場合の話だ。

『自己暗示系の心理』は、身体と関係がある。たとえば、中立的な状態で「元気だ元気だと言ったら、元気になった(ような気がした)」という場合のように、言葉の力がかかわっている場合の話だ。

言霊主義者は、言霊の力でそうなったと思っているけど、これは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。その証拠に、日本語の意味がわからない人が「ゲンキダゲンキダ」と言っても、元気にならないのである。

逆に、日本語の意味がわからない人が、元気な状態で「ツカレタツカレタ」と言っても、つかれた状態にならない。意味がわかっていないと、ダメなのだ。

これは、言葉に宿っている、力ではない。言葉に宿っている力なのであれば、意味がわからなくても、言葉を発音しさえすれば、言葉に宿っている力によって、その状態になるのである。

言葉に宿っている力によって、言葉で言ったことが……たとえ、本人には、意味がわからない言葉であったとしても……現実化するのである。

ところが、言葉の意味がわからない言葉を発したところで、言葉の意味がわからないのだから、自己暗示系の力は発生しないのである。

そして、何回も言ってきたのだけど、身体機能の範囲で、現実化されることでしかない。言霊主義者は、言霊の力でそうなったと思っているのだけど、これは、妄想的な勘違いだ。

他者に対する暗示も、他者の身体を通して発揮されることにしか発揮されない。他者に対する言葉を使った命令も、他者の身体を通して、速記されることにしか発揮されない。ようするに、物理法則を書き換えてしまうような部分がまったくないのだ。

言霊主義者は、言霊という神秘的な力を想定してものを言っている。

言霊の力があるという証拠として「明日は雨が降ると言ったら、実際に、雨が降った」ということが、語られる場合がある。これは、言霊主義者が、誤解をしているだけだ。儀式と出来事のあいだに妄想的な関連性があると本人が思っているだけだ。言霊の力あるということの証明にはならない。

そして、言霊の力があるという証拠として「元気だ元気だと言ったら、元気になった」ということが語られる場合がある。これは、言霊主義者が、言葉の力を、言霊の力だと思っているだけだ。勘違いしているだけなのである。だからこれも、言霊の力あるということの証明にはならない。

言霊主義者にとって、実際に「その言葉を言う」ということが、儀式なのだ。言霊主義者にとっては、「言葉を言う」ということが、儀式として成り立っている。

思霊主義者にとっては、「(そのことを)思う」ということが、儀式として成り立っている。

引き寄せ主義者にとっては、引き寄せ行為が、儀式として成り立っている。

だから、儀式をやったということと、実際に発生したなんらかの出来事のあいだに、因果関係があると思ってしまう。因果関係があると思ってしまうだけだ。「儀式をした」という原因によって「その出来事」が、現実化したと思ってしまうのだ。

思ってしまうだけ。

主に、『儀式関連系の誤解』と『自己暗示系の誤解』にわけられるのだけど、自己暗示系の場合も、儀式自体はやるので、『儀式関連系の誤解』と『自己暗示系の誤解』の複合型として理解したほうがいい場合もある。

ようするに、考えを整理するために、『儀式関連系の誤解』と『自己暗示系の誤解』のふたつにわけたけど、わけ方自体に意味があるわけではない。

とりあえず、いま説明したことを、理解してほしい。

●他人には、うちの兄貴のようなきちがい的な家族がいない■騒音※2026/07/02 10:28

 片づけをしていたら……足を……たぶん……ダニに刺された。太もものところだ。たぶん、平積みしてある本の、ほこりをちり紙でふいたときに、刺されたんじゃないかなぁ。落ち込む。刺されたくなかった。ほこりは、やばい。

あとは、歯医者の予約をしなければならないのだけど、そんな気になれない。長期ヘビメタ騒音のことで、腹がたったり、落ち込んだりしている。

ダニよりも、長期ヘビメタ騒音のことが気になる。

長期騒音から派生した、人との会話が、気になる。これ、ほんとうに、ずっとずっとずっと、いやな思いをしてきたんだよな。

そりゃ、他人にはわからない。

他人には、うちの兄貴のようなきちがい的な家族がいない。

兄貴も兄貴で、ほんとうに、「す」のまま、そうなんだよ。「す」のまま、相手がこまっていると言うことが、まったく、わからない人なんだよな。自分がやっていることで、相手がこまっているということは、「す」のまま、無視してしまう。

これ、どれだけ言っても、無駄なのである。よその人は、よその人で、「どれだけ言っても無駄な人がいる」と思っていないのである。

よその人は、言えば、言っただけのことは……伝わると思っているのである。

だから、もし、伝わらないのだとしたら、エイリの言い方が悪いということになってしまうのである。 

エイリの兄貴が、そういうところでは、普通の人がまったく想像できないほど「ぬけぬけだ」ということが、よその人にはわからない。

その、きちがい兄貴の特性が、どれだけの問題を引き起こすか、よその人は、まったくわからない。

どうしてかというと、よその人は、きちがい兄貴のような人間と一緒に住んでいないからだ。あるいは、住んだことがないからだ。

どれだけこまるか、まったくわかっていない。 

2026年7月1日水曜日

●「これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになる」■社会※2026/06/30 7:02

まえにも書いたけど、多くの言霊主義者は、「ネガティブがうつる」などと言う。

多くの言霊主義者は、「ネガティブな人といるとネガティブがうつる」と言ったり「ネガティブな言葉を聴くと、ネガティブな気持ちになる」と言ったりする。

多くの言霊主義者は、「ネガティブなことを言う人は、さけるようにすればいい」と言う。多くの言霊主義者は、「鬱病的な人といると、鬱になる」と言う。

言霊はどうした?

「これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになる」と言えば、それで、問題解決だ。

「どれだけネガティブな人一緒にいても、自分は、ネガティブにならない」と言えば、それで問題解決だ。

万能感があるのに、こういう現実的なことになると、途端に、言霊の力を信じないようになるのである。

しかも、そのことに、気がつかない。

たとえば、『これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになると言ったって、言った通りになるわけがない』と言霊主義者は、心底、思っているのである。

だから、「これ以降、ネガティブな人は、みんな、ポジティブになる」と言ったりしない。

それで現実的な問題を解決できると思っていないから、現実的な問題を解決しようとするときは、「言霊を使って問題を解決しよう」という気持ちがない。

「言霊を使って問題を解決しよう」という発想すらない。「自分がネガティブな気持ちになるのが、いやだから、ネガティブな人をさけよう」という現実的な解決策を選択する。

「言霊で解決をする」ということは、選択肢にすら入ってこない。

これが現実だ。

憂鬱な人といると、(こっちまで)憂鬱な気分になる(ことが多い)ということは、言霊では解決できないことなのだ。

そのくせ、「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」などと言う人もいる。

*     *     * 

たとえば、「楽しい楽しいと言えば、楽しくになる」のだろ。

それなら、ネガティブな人と会ったときも、「楽しい楽しい」と言えば、それで問題が解決できる。

「ネガティブなことが起こっても、ポジティブに書き換えることができる」と言っている人は「あの人の発言を聴けて、ほんとうに楽しかった」と自分の受け止め方を書き換えればいいのである。

あと、「うつ病はあまえ」なら、もちろん、「憂鬱な人といると、憂鬱な気分になるのは、あまえ」だ。

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たとえば、すべては自己責任だと思っている人は、当然、「ネガティブな人の話を聞いて、ネガティブな気分になったときも、自己責任だと思っているんだろうな。まさか、「ネガティブな人のせいで、自分がネガティブな気持ちになったのは、ネガティブな人のせいだ」とは思っていないのだろうな。

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たとんば、「人のせいにしない」とほかの人に言っている人は、 「ネガティブな人の話を聞いて、ネガティブな気分になった」ときも、ネガティブな人のせいにしないのだろうな。そりゃ、人のせいにしない人なのだから、もちろん、自分がネガティブな気分になったのは、そのネガティブな人のせいではないと、思っているのだろう。

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ネガティブな人の話を聞くとネガティブな気分なると思っているからダメなんだ。ネガティブな気分になるということに、こだわっているから、だめなんだ。ネガティブな気分になるとこだわっているから、ネガティブな気分になる。

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そんなの、関係、ない。ネガティブな話を聞いたということと、自分がネガティブな気持ちになったということは、関係がない。関係、なーーい。そんなのは、関係がない。

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「ネガティブな話を聞くと、ネガティブな気持ちになる」と……気にするからダメなんだ。気にしなければ、ネガティブな気持ちにならない。気にしなければいいんだ。気にしてしまうのは、自己責任。

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ちょっと、ネガティブな話を聞かされただけで、不愉快な気持ちになり、現実的な手段で解決しようとする。言霊的な手段は、頭に浮かばないのである。

こんなの、ない。

「ネガティブな話を聞かされたら、不愉快な気持ちになるのはあたりまえだ」ということになっている。だから、交わりをたって、自分の気持ちを守ろうとする。

それは、別にいい。

それならそれで、「(どんなことがあっても)楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「(どんなことがあっても)うれしいうれしいと言えばうれしくなる」など言わなければいい。「受け止め方をかえればいいんだ」と言わなければいい。「すべては自己責任だ」と言わなければいい。「ひとのせいにしない」と言わなければいい。 

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ネガティブな人の話を聞いたら、「この人は、幸福になる」と言えばいいでしょ。言えば、その人は幸福になるんだよ。「ネガティブな話を聞いたから、自分もネガティブな気持ちになった」なんて、考える必要もないことなんだよ。

政治について、愚痴を聞かされたと思ったら、「この人が言ったことがすぐに現実化する」と言えばいいんだよ。どうして「愚痴を聞かされた」とネガティブにとらえるかな? 「べき論をふりまわすべきではない」と言う。

「政治についてどれだけ理想論を語ったって無駄だ」と考えているのだ。

いやーー。政治についてだって、「言えば言ったことが現実化する」はずだ。

どうして、「政治だけ言ったことが現実化しないことがある」と思うのだ。

「政治については、言っても現実化しないことがある」というよりも、「政治については、言っても、絶対に現実化しない」と思っているようなのだ。

普段、「言えば言ったことが現実化する」と言っているやつがこの調子だ。

ほかの人には、「自分は言霊をうまく使える」という前提で、「あなたの言い方が悪いから、現実化しないのだ」と言ってるやつが、この調子だ。

自分が自分でなにを言っているのか、まるでわかっていないのだよ。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。