2026年4月30日木曜日

●俺の人生は、こういう朝の繰り返しだった■騒音※2026/04/30 8:21

朝起きたときの気分が、並じゃない。ほんとうに、俺は、よく生きてたなぁ。こんなの、ない。ど

れだけ、きちがいヘビメタが、次の日の「朝」に影響を与えるか、ほかの人はわかっていない。きちがい兄貴はわかっていない。

ほんとう、タイムマシンで、当時の世界に行って、きちがい兄貴を殺したい。これ、ほんとうに、ものすごくひどいことなのである。きちがい兄貴は、この朝の気分の、一不可思議分の一も、わかっていない。

自分がなにをしているのかわかっていない。

俺の人生は、こういう朝の繰り返しだった。

「そんなの関係がない」と言うやつを、ぶっ殺してやりたい。「ヘビメタなんて関係がない」と言うやつを、ぶっ殺してやりたい。「鳴り終わったら関係がない」と言うやつをぶっ殺してやりたい。「過去は関係がないというやつを、ぶっ殺してやりたい。

まあ、もちろん、ぶっ殺すどころか、なぐりもしないし、どつきもしない。

こいつらは、みんな、「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言う。こいつらは、みんな、「俺だってつらい思いをした」「私だってつらい思いをした」と言う。

けど、こいつらには、きちがい家族がいないのである。きちがい家族が、どれだけ狂った感覚で、きちがい騒音を鳴らすか、まったくわかっていない。きちがい騒音を鳴らされた「次の日」の死にたくなるような憂鬱を経験していない。

何千日、続いたと思っているんだ。

これ……「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて……死刑宣告みたいなものなのだぞ。「元気だ元気だと言えば元気になる」なんて……死刑宣告みたいなものなんだぞ。

それがわかっていないということは、わかっていないということなんだよ。

何千日繰り返したか、ぜんぜんわかっていないなぁ。毎日のつみかさねが、どういう影響を与えるか、ぜんぜんわかっていないなぁ。 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて、ほんとうに、どれだけ、腹が立つか……。どれだけ腹が立つか、ぜんぜんわかっていないなぁ。

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて、他人に言うやつが経験した苦労なんて、たいした苦労じゃないよ。

影響……。影響……あるにきまっているだろ。ふざけるな。ふざけんな。

きちがい兄貴が、ほんとうに無慈悲に、無感覚に、自分がやりたいことを押し通したんだよな。

それが、根源だ。

やっちゃ、いないことを、毎日、やったのである。普通の人が、やらないことを、毎日、やり通したのである。ぜんぜん、気がつかないんだよ。きちがい兄貴と、きちがい親父はおなじ。きちがいだから、人がこまるということがわからない。

特に、「家族がこまる」ということは、まったくわからない。これ、他人より、家族のほうが、気をつかわなくてもいい存在なのである。

そして、言霊主義者のように、「ぬけぬけ」なのである。

家族に「うちのなかで」言われているときのモードと、他人に「そとで」言われているときのモードがちがうのである。

意地を通してやるということが、家族に与える影響が、やっているときは、まったくわかっていないのである。どれだけ激しく言われても、まったく、まったく、まったくわからないのである。自分が、意地になってやったことが、ほかの家族にどれだけ影響を与えるか、意地になってやっているきちがい兄貴には、まったくわからないのである。やっているときに言われても、やったあとに言われても、まったくわからないのである。

きちがい兄貴が、やってはいけないことを、毎日、何時間も何時間もやったのである。

俺は不可避的に影響をけた。

ところが、ぼんくらな他人から見ると、俺がさぼっているように見えるのである。俺が、言い訳をしているように見えるのである。俺が、たいした理由もないのに、勝手に、ネガティブなことを言っているように見えるのである。

他人は他人で、必然性が、見えていないのである。必然性が見えないなら……俺が、さぼっているように……見える。

そりゃ、「不可避的に、そうなる」ということがわかっていないなら、俺がたいしたことではないことで、なやんでいるようにしか見えないのである。

俺がたいしたことではないことで、愚痴を言っているようにしか見えないのである。

きちがい家族が、きちがい的な感覚で鳴らす騒音のことがわかっていない。

きちがい的な感覚で鳴らす騒音が、どれだけ不可避的に、「次の日の朝」に影響を与えるか、まるでわかっていない。

きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で鳴らす騒音が、どれだけ不可避的に、「次の日」の「すべての時間」に影響を与えるか、まるでわかっていないのである。わかっていないだけなのに、えらそうなんだよ。

やられてないからわからない。

やられたことがないから、わからない。

それだけなのに、えらそうだな。

きちがいヘビメタ騒音で、毎日が地獄だったよ。きちがいヘビメタ騒音で、「毎日のすべての時間」が地獄だったよ。どれだけ、くるしい体で、動いているのか……俺が、動いているのか……「きちがい兄貴」と「たいていの他人」は、まったくわかっていないな。

ああっ、きちがい親父もわかっていなかったなぁ。

これ、きちがい親父のわからなさが、異常なのである。きちがい親父の「ヘビメタ騒音問題に関する」無理解ぶりが異常なのである。常識的に考えるとありえない態度なのである。

ありえない考え方をしている。

だから、俺が誤解される。「そんなにうるさいのに、家族が注意しないなんておかしい」と思って、俺が言っていることを信じないやつがいる。

そいつにとってみれば、俺が「嘘を言うへんな人」なのである。

そして、そいつは、一度できあがった、その解釈に従って、俺の行動を理解しようとする。こんなの、ない。しかも、こいつは、間違った解釈をして、俺に迷惑をかけるのだけど、ぜんぜん気にしないのだ。

こういう人は、何人もいた。こいつらだって、俺が説明したって、理解しない。

こいつらには、こいつらの常識があって、常識的に信じられないことは、信じないようにしている。こいつらは、俺が嘘を言う人間だという(最初の)解釈に基づいて、いろいろな誤解をする。いろいろないじわるなことを言ってくる。

結果的には、いろいろないじわるなことをする。

けど、こいつらが、どれだけ「人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはやめよう」と思っていたって、こいつらは、俺に迷惑をかけるのである。俺がいやがることをするのである。

2026年4月29日水曜日

●「貧しくても、努力をすれば成功する」■社会※2026/04/27 20:48

就職氷河期について考えたわけだけど、このことは、努力論にもあてはまる。

努力をすれば成功するという考え方のことをとりあえず、努力論といっておく。これも、すでに指摘したことなのだけど、「努力」をしたかどうかの二値なのだよ。

最初は、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値だ。

値としては、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値しかない。

ところが、あとで、「努力の量」や「努力の方法」が問題になるのである。努力をしたというのが、だれによって決められるのかも、あいまいなままだ。本人が決めるのか、ほかの人が決めるのかわからないところがある。

だから、どうにでも言うことができるという状態なのだ。ところが、努力をすれば成功するという文は、一〇〇%構文の文なのだ。

だから、努力をすれば、一〇〇%の確率で、成功するということになる。どんな努力でも、努力をしさえすれば、成功するのである。言霊理論における「言い方の問題」とおなじ問題が努力論にも成り立っている。

しかし、今回言いたいことは、それではない。

努力をした人は、努力をした人という範疇に入る。努力をしなかった人は、努力をしなかった人という範疇に入る。これは、属性とおなじ問題なんだよ。努力をしたという属性の人と、努力をしなかったという属性の人がいるのである。

努力をしなかった人は、成功していない人なのだ。成功した人は、みんな、努力をした人なのである。成功した人が成功した理由は、努力をしたからなのだ。

ところが、就職氷河期という属性を持つ人のなかで、条件がちがうということがある。

それとおなじように、努力をしなかったという属性を持つ人のなかで、条件がちがうのである。努力をしなかったという属性を持つ人は、ただ単に「努力をしなかった」という属性だけで、判断されるのである。

一括思考の決めつけだ。

しかし、努力をした人のなかにも、いろいろな人がいる。

努力をした人は、努力以外の条件がみんな、おなじかというと、ちがうのだ。努力をしない人は、努力以外の条件がみんなおなじかというとちがうのだ。

たとえば、貧しいかどうかという条件を付けくわえてみよう。

そうすると、たとえば、「貧しい人は、努力をしても成功しない」という言い方や「貧しい人でも、努力をすれば成功する」という言い方ができあがる。努力という条件のほかに、貧しいかどうかという条件が付け加わったのだ。

たとえば、「だれだれという貧しい人は、貧しいのに、努力をしたから成功した」ということを言ったとする。だれだれという貧しい人の条件は、すべての貧しい人に成り立っているかというと、成り立っていないのだ。

ところが、努力においても、やった間違いを、貧しさ(貧しい度合い)でもやってしまう。

貧しい人と貧しくない人という二値を考えて、貧しい人というのは、同等に貧しいし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。

貧しくない人は、同等に貧しくないし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。そして、仮定したことに気がつかない。

じつは、貧しさにおいても、貧しさの程度がちがうし、ほかの条件だってあるのだ。親の年収が一五〇万円の貧しい家においても、親の性格がちがえば、条件はちがってくる。

だいたい、貧しい人は、だれでも、おなじ才能をもっているわけではない。人によって、才能がちがう。貧しくて、努力した人が成功したとする。

けど、それは、才能があったから、成功したのかもしれない。貧しくて努力した人が成功しなかったとする。それは、才能がなかったから成功しなかったのかもしれない。努力と、貧しさだけが、成功を決める要素ではない。

ところが、努力をしたかどうかに意識が集中していると努力をしたかどうかということが、成功するかどうかを「一〇〇%の確率」で決めるということになってしまうのである。

自動的にそういう考え方を選択してしまうのである。

貧しくても、努力したから成功した人が一人でもいれば、「貧しくても、努力をすれば成功する」と言えるかどうかということを考えた場合、言えないのだ。

一括思考をして決めつけてしまう人は言えると思っているだけなのだ。

そういう前提で物事を言っている。決めつけている。理論的な思考ができないので、間違った推論をしてしまう。

才能があるかどうかという条件は、「貧しくても、努力をすれば成功する」という文のなかには出てこない。才能があるかどうかという条件は、事前に、無視されているのである。

すべての条件について言及するのは無理だ。

しかし、いろいろな条件を考えるほど、精度が高くないのだ。

なんと言っても、「努力する」ということが、一意に決まらない。「成功する」ということが、一意に決まらない。

最初から、こういう土台の上で、「感じたことを」言っているだけなのだ。

ところが、こういう、でたらめなことをしているのに、一括思考で決めつけた結論を、多くの人は受け入れてしまうのである。二値しかないのに、一意には決まらないという性質は、第二の条件にも、第三の条件にも成り立つ。

だから、しょせんは、言葉の遊びをしているだけで、なにかしら、「これはこうである」と言い切れることは、言っていない。ところが、つねに、言い切ってしまうのである。誤謬の上に誤謬を重ねている。

問題なのは、第一条件について述べている場合は、第二条件以下の条件は、まったくなにも意味をもたないということだ。

そして、第一条件と第二条件について述べている場合は、第三条件以下の条件は、まったくなにも、意味をもたないということだ。

第二条件として「貧しさ(貧しいか、貧しくないか」ということを……とりあえず、出したけど……これは、ぼくが恣意的にやったことにすぎない。 

「貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第三条件である才能は、出てこない。無視されているのだ。

「才能があれば(第三条件)、 貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第四条件以降の条件が出てこない。

ところが、条件なんて、無数にあるのだ。

そして、貧しいという条件を考えた場合でも、どいうふうに貧しいのかということについてちがいがある。このちがいが、もっと、詳細な条件のちがいを内包しているのである。才能がある」と言っても、才能があるということは、どういうことなのか、これまた、一意には決まらないのである。

どういう才能が、どの程度あるのかというのは、わからない。測定できる才能に関しては、不完全だけど、測定値がものを言うのだろう。

しかし、それは、はかれる才能を、その試験方法で、切りだして、かりそめの値を与えているだけなのだ。「才能」なんてものは、ほんとうは、わからない。

この場合も、実際にできれば才能があり、実際にできなければ才能がないというようなことになりがちだ。しかし、これは、後出しなのである。現実の写し絵なのだ。

「才能があれば」と言っているときは、まだ、発揮されていない(現実化していない)ポテンシャルな才能も含めて、才能と言っているのだ。

だから、現実の写し絵である才能と、ポテンシャルな才能を含めた才能は、ちがうものなのである。

2026年4月28日火曜日

●それじゃあ、話は、食いちがうよ■騒音※2026/04/28 6:40

ヘビメタ騒音の毎日を……六年以上……経験したことがない人にはまったくわからないのだけど、憂鬱なのである。

これ、騒音で憂鬱というのは、わかりやすい部類のことだと思うけど、やはり、経験したことがある人とない人では、ぜんぜんちがうのである。

そして、きちがい家族による騒音なので、きちがい家族による騒音を、最低で六年以上、毎日経験した人じゃないとわからないことがある。「朝、憂鬱」と言っても、まったく、なにもかも、通じないのである。

そりゃ、ヘビメタ騒音にやられた、毎日の朝が、ないからである。

その人たちには「ない」からである。

「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言うけど、そういうことを言う人たちは、実際に、ヘビメタ騒音の毎日を……六年以上……経験したことがない人たちなのである。

憂鬱の憂鬱がちがうのである。

ぜんぜん、ちがうと想像できる。

この人たちは、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」というけど、そのあとに、あるいは、そのまえに、「Xの欠乏を満たすように、頑張ればいい」ということを言う。

正しいと思って言うわけだ。

ぜんぜんちがうと思う。

そして、なによりも肝心なのは、この人たちが、通学不可能な状態、あるいは、通勤不可能な状態になっていないのだ。なっていない。なっていないのだから、ちがう。

通勤不可能な状態と、「朝の憂鬱」は、関係がある。きちがいヘビメタ騒音で「夜、眠れなくなる」ことと、通勤不可能な状態は関係がある。関係があるなんてものではなくて、通勤不可能な状態になった……直接の原因が……「朝の憂鬱」と「夜の眠れない状態」なのだ。

夜、眠れない状態であるとき、俺が、楽だったかというと楽ではなかったのである。夜、眠れない状態であるとき、俺が「楽しい楽しい」と言えば、俺が楽しくなったかというとちがうのである。

この、夜のくるしさがわかっていないのである。

夜のくるしさも朝の憂鬱もわからないやつが、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」というのである。

そして、「Xの欠乏を満たすように、頑張ればいい」と言い、「どれだけつらいことがあったときも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うのである。こんなのは、ない。

そいつらは、一万分の一も、わかっていないよ。一億分の一かな。一兆分の一かな。一京分の一かな。一不可思議分の一かな。まるでわかっていない。

そして、ほんとうに、「負の積み重ね」がないのである。ぼくが経験したような負の積み重ねがない。それじゃあ、話は、食いちがうよ。

ヘビメタ騒音で「眠れなくなる」状態と、普通の理由で……みんなが経験したことがあるような理由で……眠れなくなる状態は、まったくちがう。「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言う人たちは、そのちがいが、まったくわかっていない。

このわからなさが、ひどい。

ぜんぜんわかっていないのである。

けど、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っている本人たちは、わかっているつもりなのである。どうしてかというと、自分が経験した眠れなくなる状態と、エイリが(ヘビメタ騒音で)経験した眠れなくなる状態は、おなじだと仮定しているからだ。

おなじじゃないのである。ぜんぜんちがうのである。

この人たちは、毎日の「つみかさね」を軽視している。あるいは、無視している。「毎日のつみかさね」というと、普通は、いいことのつみかさねだから、言いがたいものを感じてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意味で、鈍感で、こっちが、くるしんでいるということを、つねに無視してきたのである。

つねに無視して、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしてきたのである。きちがい兄貴は「ゆずってやった」と思っているけど、ぜんぜん、ゆずってくれなかったのである。

きちがい兄貴の無理解ぶりと、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っている人たちの無理解ぶりは、だいたいおなじだ。ほんとうに、わかっていない。気にしていない。

無視して、見積もっていないか、軽視して、ものすごく低く見積もっている。まあ、無視している状態なのだろう。

「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っているから、見積もっているような部分もあるのだけど、無視していると言っていい。

これ、「無視しているレベル」の理解度なのだ。

しかも、この人たちは、言霊主義者とおなじように、認めない。きちがい兄貴は、きちがい兄貴のしくみを通して、認めない。きちがい兄貴のしくみは、言霊主義者のしくみとは、ちがう。

きちがい兄貴が無視する機制は、言霊主義者が理解しない規制とはちがう。ちがうのだ。ちがいすぎる。

しかし、無理解ぶりは、おなじだ。

しくみはちがうけど、理解度が低いということは、おなじだ。

あるいは、理解していないということは、おなじだ。両者とも、まったく、理解していないのである。

2026年4月27日月曜日

●コネという条件を考えただけでも、だいぶちがう■社会※2026/04/27 14:48

もうすでに話したことだけど、たとえば、氷河期世代という属性を考えた場合、氷河期世代に属する人も、条件は、いろいろとちがう。

氷河期世代でも、コネがある人は、正社員(正規従業員)として会社に滑り込めただろうし、コネのない人は、非正規労働者ならざるを得なかったかもしれない。

しかし、氷河期世代というひとつの属性を考えると、氷河期世代でも、就職できた人がいるのだから、就職できなかった人は、ダメ人間だというようなことを言う人が出てくる。ダメ人間といわなくても、「就職できなかったのは、自己責任だ」というようなことを言う人も出てくる。

「就職できなかった人は、あまえている」とか「氷河期世代だから、就職できなかったと言う人は、言い訳をしているだけなのだ」とかと言ってしまう人がいる。この人たちの「頭のなか」にあることは、「就職氷河期世代でも、就職できた人はいるのだから、就職できないということはない」ということだ。

就職氷河期世代でも、就職できた人がいるということが、根拠になっているのである。

しかし、就職氷河期という属性をもっている人でも、条件がちがうのである。

だから、その条件のちがいによって、就職できない場合もある。ところが、「就職氷河期世代のなかにも、就職できた人はいるのだから、就職ができないなんてことはない」と間違った推論をしてしまうのだ。

就職氷河期という条件だけを見て、ほかの条件を無視してしまうのだ。就職氷河期世代の人でも、ひとによって条件がちがうということを無視してしまう。

これは、「自分だって苦労した」と言う場合にも、おこなわれていることだ。

「苦労をした」というひとつの条件を考えれば、苦労の質や量は、考えずに、相手のことについて結論をくだしてもいいという考え方があるのだ。

苦労といっても、同一の苦労ではないのだから、苦労によって差があるということは、頭のなかに入れておかなければならない。

ところが、この人たちは……苦労をしたというひとつの属性にこだわって……ほかの属性を無視してしまう。

まあ、苦労の程度も無視してしまうのだけど、同時に、ほかの属性を無視してしまう。「苦労をした属性」の人は、みんなおなじだと考えてしまうのだ。

ところが、ちがうのである。

「就職氷河期という属性」の人は、みんなおなじだと……この人たちは考えてしまうのだ。

ところが、ちがうのである。

この人たちの考え方は間違っている。前提となる思考に間違いがあるのである。「ある属性の人たちは、みんなおなじだ」と考えてしまうのである。これが間違いなのである。

就職氷河期の人というのは、全体的には、条件が悪い人なのである。就職において条件が悪い人たちなのである。当然、就職氷河期の人は、みんな、おなじように条件が悪かったのかというと、ちがうのである。ぜーーんぜん、ちがう。

何度も言わなければならないのだけど、コネという条件を考えただけでも、だいぶちがう。ほかにもいろいろな条件がある。

たとえば、年収と能力が一致しているという仮説を立てたとする。

その場合、氷河期世代だけ、他の世代にくらべて能力が低いということになってしまう。この仮説は、間違っている。

学校を卒業した時点で、就職がしにくい状態だと、そのあとの人生にいろいろな影響を与えるという仮説のほうが、説得力がある。いろいろな影響のなかに、年収という項目があるということになる。

正規従業員になれなかったことが、そのときだけではなくて、その後の年収に影響を与えるということだ。これは……「個別の能力値」の問題ではないということを意味している。

●その条件を満たす人は全員おなじ条件をもっているとみなしてしまう■社会※2026/04/06 11:23

 属性と一括思考ということについて考えてみよう。

たとえば、貧しい家の出身でも、成功した人がいるとする。これも、作り話である可能性があるのだけど、とりあえず、貧しい家の出身でも、社会的に成功した人がいるとする。

しかし、「貧しい家」と言っても、「貧しさ」には差があるのである。

そして、貧しい家の「親」にも、差がある。貧しい家の「兄弟」にも、差があるのである。「姉妹」にも差があるのである。貧しい家と言っても、「自分以外の家族のメンバー」に差があるのである。

きちがい的な家族がきちがい的な騒音をずっと鳴らしているような貧しい家もあるし、ずっとしずかだから、静かな状態で勉強をできる貧しい家もある。

ようするに、「貧しい家」と表現されるいるだけで、実際には、条件には差があるのである。

ところが、「貧しい家」の出身という条件を考えて一括思考すると、「貧しい家」の出身であるにもかかわらず、社会的に成功した人がいるから、ほかの「貧しい家」の人も、社会的に出世できるはずだと考えてしまうのである。

「貧しい家」の出身という第一階層レベルでの「条件わけ」だけに、注目して、一括思考をすると、第二階層以下の「条件」を見すごしてしまうのである。

どこからどこまでが、「貧しい家」なのか。

貧しさの程度にも差がある。

上層部の貧しい家と、下層部の貧しい家は、ちがうのである。

条件がちがう。

ところが、「貧しい家なのだから、条件はおなじだ」と考えてしまう人たちがいる。

この人たちは、条件を考えているようで、条件を考えていない。

じつは、条件を無視をするために、第一階層の条件について、言及しているにしかすぎないのである。

そして、「貧しい家の出身でも、社会的に成功した人がいるから、貧しい家の出身かどうかは関係がない」というような間違った推論をしてしまう人がいるのである。

これは、質が悪い推論だ。

貧しい家だけど、上層部の貧しい人が、成功したということは、貧しい家であり、下層部の貧しい人が成功できるということを、意味していないのである。

けど、「一括思考」をしてしまうので、「貧しい家の出身でも、社会的に成功できるのだから、貧しい家の出身だから成功できないと言っている人は、言い訳をしているにすぎない」と決めつけてしまうのだ。

しかし、第一階層で「貧しい家」の出身と表現された場合でも、ほんとうは、さまざまな部分で、条件がちがうのである。

どのくらい貧しいのかということを第二階層で考えるなら、貧しい家のなかにも貧しさの程度に差がある。

三つに分けた場合は上・中・下の三段階だ。

そして、たとえば、親の性格がよく、子供の将来について考えている親と、親の性格が悪く、子供の将来について考えていない親みちがいがある。

それは、条件のちがいになる。

貧しい家という第一階層の条件を考えただけで、親の性格という(ここでは)第二階層の条件を無視してしまうことは、よくないことなのである。

ところが、第一階層の条件を満たしていれば、その条件を満たす人は全員おなじ条件をもっているとみなしてしまうのである。

これは、間違った思考だ。

第一階層の条件を満たしていても、第一階層の条件を満たしている人はみんなおなじ条件だとは言えないのだ。

ところが、おなじ条件だと決めつけて考えてしまう。「貧しい家」といっても、「貧しい家」のなかで、「貧しさ」の格差がある。おなじじゃない。

*     *     * 

もうひとつ、例を出しておこう。

たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは氷河期世代だけど正社員として就職できたとする。Bさんは、氷河期世代であって、正社員として就職できなかったとする。

Bさんが「自分(B)は、氷河期世代だから、就職ができなかった」と言ったとする。それを受けてCさんが「氷河期世代でも、就職できた人はいるのだから、氷河期世代だから、就職ができなかったというのは、いいわけだ」と言ったとする。

この場合、Cさんの言っていることは、間違っているのである。

Bさんが言っていることは、不定だ。わからない。

正しいのかどうかわからない。

けど、Cさんが言っていることは、間違っている。前にも書いたけど、就職氷河期世代のなかにも、コネをもっている人とコネをもっていない人のちがいがある。これは、コネがあるという条件と、コネがないという条件のちがいだ。

まあ、コネのなかにも、有力なコネと、弱いコネのちがいがある。

けど、とりあえず、第二階層には、コネがあるかどうかという条件のちがいがあるとする。

Aさんが就職できたのは、有力なコネあったからだとする。Bさんが就職できなかったのは、有力なコネがなかったからだとする。氷河期世代という第一階層の条件を考えて、一括思考をすると、氷河期世代でも就職できた人はいるのだから、就職できるはずだと考えてしまうのである。

何度も言うけど、これは、間違った考え方だ。

おなじ氷河期世代でも、個人によって、条件がちがうのである。

一括思考をするべきではないのだ。

第一階層レベルで、一括思考をすると、第二階層以下の条件が無視されてしまうのである。

だいたい、「就職氷河期で、就職できなかった人がいるのだから、就職氷河期の人は就職できない」と考え方間違っているのである。

ようするに、その属性を持つ人(条件を持つ人)が、ひとり就職できなかったら、その属性を持つ人全員が就職できないということはない。

おなじように、その属性を持つ人が、ひとり就職できたら、その属性を持つ人全員が就職できる(はずだ)と考えるのは間違いなのである。

第一階層レベルで一括思考をして、第一階層レベルの条件を持つ人は、「みんな」こうだと決めつけてしまうのは、よくないことなのである。

「Xという属性を持つ人はYに成功する」という文について考えてみよう。これも、Xという属性を持つ人は、みんな(全員)Yに成功するという意味になってしまう。

ここに、トリックがあるのである。

ひとり、Xという属性を持つ人が、Yに成功したからと言って、Xという属性を持つ人全員がYに成功するとは言えないのだ。

ところが、「そうであるはずだ」と一括思考をしてしまう。

だから、Xという属性をもっている人だけど、第二階層以下の属性がちがう人が成功しないということはないと考えしまうのである。

ようするに、Xという属性をもっている人だけど、第二階層以下の属性がちがう人が失敗するということはないと考えてしまうのである。 

●侮辱になっているということに気がつかない■騒音※2026/04/27 6:46

過去否定論者にしたって、自分が正しいと思っていることを否定されると……かなりの高確率で……腹が立つのだ。ぼくの経験の範囲で言うと、過去否定論者全員が腹を立てるという反応をしめした。

法則性ということを言うのであれば、むしろ、『自分が正しいと思っていることを否定されると腹が立つ』ということのほうに、法則性がありそうな感じがするけどなぁ。

まあ、これも、条件によってちがうんだよな。ようするに、場面によってちがう。

だから、一〇〇%構文で言うと、一〇〇%詐欺になってしまう。

けど、傾向はある。因果関係も相関関係もある。

過去否定論者は、「過去は関係がない」と言うけど、「過去は関係がないという考え方」を過去において、否定されたから、腹を立てているのである。

過去否定論者が腹を立てている。きちがいヘビメタにやられると、ほんとうに、ほかの人から攻撃を受けるようになる。

きちがいヘビメタの結果、「できなくなった」のに、まるで俺がさぼっているからいけないのだというようなことを言われる。

おなじように、まるで俺が「こだわっているからダメなのだ」と言うようなことも言われる。

言っているほうは、「いいことを言っているつもり」なんだよ。言っているほうは、「正しいことを言っているつもり」なんだよ。

けど、すくなくても、ぼくの場合に関しては……こいつらが言っていることは間違っているんだよ。影響があるのに、影響がないと言っている。こんなのはおかしい。

きちがい兄貴のやり方が、普通のやり方じゃないんだよ。きちがい兄貴の感覚が普通の感覚じゃないから、きちがい兄貴のやり方が、異常なやり方になる。

こいつら……たとえば、過去否定論者や言霊主義者の家族には、うちのきちがい兄貴のようなやり方をする家族がいないんだよ。

だから、そこで、受ける迷惑というのは、限定的なものになる。普通の家族と一緒に暮らしているわけだから、異常な家族から攻撃を受けなくてすむのだ。これは、条件が決定していることなんだよ。

ところが、『自分なら平気だ』『自分なら影響を受けない』と考える普通の人たちが、きちがい家族によるヘビメタ騒音について、間違った考え方をもってしまうのである。

そして、きちがい家族によるヘビメタ騒音が、直接の原因になって、ダメな状態になってしまうのである。

俺が、「外から見て」ダメな状態になってしまうのである。

俺が、きちがいヘビメタ騒音によって、つかれれば、つかれた状態になる。俺が、きちがいヘビメタ騒音によって、勉強することができない状態になれば、当然、学業成績がさがる。ほんとうは、きちがいヘビメタ騒音によって、遅刻をしてしまうということは言いたくないけど、ほんとうに、そうなるんだよ。

俺が、「できる状態なのに」さぼっているわけではないのだ。こいつらは、それを認めない。認めないということが、そのまま、侮辱になっているということに気がつかない。

*     *     *

『過去は記憶の中にしかない』ということを言う人もいる。ぼくは、こういう人たちのことも、過去否定論者と呼んでいる。じつは、過去は記憶の中にしかない」と言う人も、「過去は記憶の中にしかない」という考え方を否定されると……たいていの場合……おこる。

ちゃんと、感情的な反応をしている。

記憶の中にしかないのなら、感情的な反応なんて発生しない。記憶の中にしかないからだ。エイリが「過去は記憶の中にしかない」という考え方を否定した……という記憶しかないことになる。なんで、感情的な反応がしょうじるのか?

「エイリが過去は記憶の中にしかないという考え方を批判したという過去の出来事」が、現在の感情に影響を与えているのである。

そして、怒りという感情を引き起こした。

影響を受けているでしょ。

「過去の出来事」の影響を受けている。

*     *     * 

「過去は記憶中にしかない」という言い方には、過去は記憶の中にしかないから感情的に反応する必要はないという考え方が含まれている。

「過去は記憶の中にしかない」のだから、単なる記憶にすぎないのだという考え方が含まれている。 ところが、言っている本人ですら、「過去は記憶の中にしかない」という考え方を批判されると、感情的な反応をしめすのだ。「単なる記憶にすぎないのだから、感情的な反応なんてするなよ。特に、「おこる」という反応はするべきじゃない。

単なる記憶にすぎないのだろ!!

感情的に反応しているじゃないか。

「過去は記憶の中にしかない」という言い方には、「過去は関係がない」という意味も含まれている。記憶の中にしかないのだから、現在に影響を与えないという(妄想的な)考え方が含まれている。ところが、過去の出来事は、現在の状態に影響与えるのである。

2026年4月26日日曜日

●「そんなのは関係がない」と言う■騒音※2026/04/26 20:50

どうするかな。だるいのだけど、ヘビメタ騒音が影響している。

さっき、悪夢を見たけど、長期騒音時代の生活、そのものなのだ。明らかなハンディがしょうじているのに、きちがい兄貴も、よその人もハンディがしょうじているということに、気がつかない。

言ったって、認めないのだ。しくみは、言霊主義者とおなじだ。過去否定論者とおなじだ。わずかな例外を除いて、みんな、ヘビメタ騒音の影響を認めない。「たいしたことじゃない」と思うのだ。

「そんなのは関係がない」と思うのだ。ところが、めちゃくちゃなんだよ。騒音のなかでどれだけ頑張っても、影響が出る。ものすごく悪い影響がている。ものすごく悪い影響が出た体で暮らしている。暮らしている。暮らしている。

けど、それがほかの人にはわからない。

「騒音のなかでどれだけ頑張っても」……と書いたけど、じつは、騒音のなかで、どれだけ頑張らなくても、騒音のなかにいるから、ほとんどかわらない影響を受ける。きちがい兄貴の部屋の「横にいる」ということだけで、ほかの人が考えられないほどの影響を受ける。

これも、たいていの人にはわからないのだ。わからないのだ。

基本的に、きちがい兄貴の騒音が、「できないこと」を増やしていく。

ところが、「できない」ということになると、なめられるのだ。これのループだ。わずかな例外をぬかして、こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するのだ。

あるいは、完全に無視する。まあ、過小評価する人よりも、完全に無視する人のほうが多いので、これからは、完全に無視すると書くことにする。ヘビメタ騒音が、最初の原因なんだよ。ヘビメタ騒音の結果、できなくなっている。

ところが、「そんなのは関係がない」とヘビメタ騒音という原因を無視するやつは、ぼくが、『言い訳をしている』とか、『あまえたことを言っている』とかと思うわけだ。

こいつらは、みんな、きちがい兄貴のような「家族」といっしょにくらしたことがいやつらなのだ。

だから、こいつらの身の上には、きちがい家族による騒音というハンディがしょうじていない。きちがいなんだよ。普通の人の騒音じゃないわけ。

けど、こいつらは、認めない。

『自分だって苦労した』と言えば、同程度の苦労をしたことになってしまう。『自分だって騒音ぐらいあった』と言えば、同程度の騒音を経験したことになってしまう。ぜんぜん、ちがうのに、ちがうということを……こいつらはこいつらで、意地になって……認めない。

この意地になって認めないというのも、きちがい兄貴に似ている部分なんだよな。もちろん、こいつらは、普通の人なので、きちがい兄貴みたいなことはしない。

だから、こいつらが、きちがい兄貴みたいなことをするということを言っているわけではないのだ。けど、「きちがい兄貴と似ている部分がある」と言ってしまうと、こいつらがみんな……ぼくの経験の範囲だと……みんな、「なんだとぉ」と言った感じで、文句を言ってくる。腹を立てて文句を言ってくる。

文句を言いたいのは俺なんだよ。

こいつらがまず最初に、ヘビメタ騒音の影響を無視している。「言い訳をしている」とか、「あまえたことを言っている」とかとろくでもないことを言いやがる。

こいつらの反応だって、きちがい兄貴が、きちがい基準で、ほかのひとがぜったいにやらないようなことを、毎日毎日、意地になってやるから、しょうじるんだよ。

きちがい兄貴が、きちがい基準で、きちがい的な行為にしがみついて、きちがい行為をしなければ……続けなければ、こんなことになっていない。こいつらになめられたりしない。

こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音のハンディを認めずに、なめてくる。

こいつらは、みんな、『自分が正しいことを言っている』と思っている。なめられる。

どうしても、しょうじてしまうことなんだよ。きちがいヘビメタが鳴っていれば、こっちの体の症状は不可避なんだよ。あの生活をしていたら、そういう体の症状が、どうしても、出てくる。

けど、たいていの人たちが、認めない。

「そんなのは関係がない」と言う。

ほんとうに、ゆるしがたい。

2026年4月25日土曜日

●「絶対的な力としての言霊」と「まったく無力な言霊」■言霊※2026/04/24 9:46

「神はこうする」と言えば、神は、こうするのである。

だから、神よりも、言霊のほうがずっと上だということになる。言霊の力で、神を動かすことができるのである。

言霊の力で、神をも、支配できるのである。完全支配だ。

ところが、言霊主義者は、ほんとうにくるしくなれば、神頼みもすることがある。

矛盾している。

そして、言霊の主が、言霊主義者なら、その言霊主義者は、神を完全に超越した存在だということになる。

ようするに、「自分」が言えば、神を操作できるのである。自分が神について言えば、神は、自分が言った通りに動くしかないのである。

どうしてなら、言霊は、宇宙を貫く絶対法則だからだ。

この宇宙を貫く絶対法則には、神も逆らえない……。言霊理論が正しいなら、そうなる。

人間である言霊主義者が「神はこうする」と言ったら、神はこうするしかないのである。神よりも、自分のほうが上だということになる。

もちろん、普段は、「言ったって、かわらないこと」に関しては、言わないことが多い。

どうしてかというと、「どうせ言ったって、かわらない」からだ。

政治のことについて「自分」がなにを言っても、政治がわからないと思っている。

だから、「一票を投じるだけだ」などと言う。

自分が好きな異性と付き合おうと思っても、「どうせ、言ったって、かわらない」と思って、「自分が好きな異性は、自分と付き合う」とか「自分が好きな異性は、自分と結婚する」とかと言わないのだ。

もちろん、言う場合だってある。

けど、言ったって、言っただけなのである。

ひとりでいるとき「自分が好きな異性は、自分と結婚する」と言った。

言ったから、なんなんだ?

言っただけではないか。

「絶対的な力としての言霊」と「まったく無力な言霊」が、言霊主義者のなかで、同居しているのである。

そして、言霊主義者はそのときの雰囲気に従って、使い分けているのである。

しかし、言霊主義者自体が、「使い分けをしている」という気持ちがないのだ。

ぜんぜん、気がつかない。

自分が、言霊を使い分けているという認識がまったくない。

突然、「言えば言ったことが現実化する」と言ったり、突然、「言ったって、なにもかわらない」と思ったりするのだ。 

こういうところも、なんか、兄貴と似ているんだよ。こういうところも、なんか、親父と似ているんだよ。 いやなんだよなぁ。

似ているけど、ぜんぜんちがう。まったく、ちがう。

普通の人や言霊主義者は、人生のなかで、きちがい兄貴みたいなことを、一回もしない。

きちがい兄貴は、毎日やる。ぜんぜん、ちがう。

けど、「矛盾に気がつかない」という点だけは、似ている。親父のことも、おなじだ。普通の人は、親父みたいな行為をしない。

けど、親父は、「うちのなかにいるときは」親父らしい異常な行為をする。親父らしい異常な反応をする。

そして、みんな……というか、うちの状態を知らない人たちは……きちがい兄貴やきちがい親父のことについて誤解をするのである。

これもこまる。

だいたい、きちがい兄貴みたいな人間は、めったにいない人間なのだよ。

そのめったにいない人間が、ぼくの一番嫌いな音楽であるヘビーメタルに興味を持ってしまった。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。

そうすると、いちおう……言霊の矛盾点に気がつかない普通の人である言霊主義者が、「言えば言ったことが現実化する」と言い「できると言えばできる」と言い、「できないと言うからできない」と言う。

ところが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の連続で、ほんとうに、夜……眠るべき時間に眠ることができないんだよ。

それは、ヘビメタ騒音がはじまってから、そうなったんだよ。

毎日の積み重ねでそうなったんだよ。

 

2026年4月24日金曜日

●言ってしまえば、神は、自分が言った通りに動く■言霊※2026/04/23 9:31

言霊と神の関係について考えてみよう。言霊主義者にとって、言霊は、絶対に自分の望みを却下しない神のようなものなのだということを、以前説明した。

言霊と神と、どっちが上かと言えば、言霊のほうが上なのである。

言霊を信じている人が、神を信じていても問題はない。そして、言霊を信じている人が神を信じている場合もあるだろう。言霊理論が正しいなら、「神はこれここれ、こうする」と言えば、言霊の力によって、神が、これこれをこうするということになる。

言霊の力は、神の上にあるのである。

だから、自分が言ってしまえば、神は、自分が言った通りに動くのである。話せない人を除いて、普通の人は、話せる。以降、人と言った場合は、話せない人を除くとする。

人は、話せるのだから、神について、なにかを言えば、神は、その通りに動くということになる。人が、神を自由に動かせるようになるのだ。

どうしてかというと、言霊のほうが神よりも上だからだ。言霊の力のほうが、神の力よりも、上だからだ。

神ですら、言霊の力には、さからうことができないのだ。

「神はこうする」と言われてしまったら、神は、こうするしかないのである。

なぜかというと、言霊理論が正しいなら、言われたことが、言霊の力によって執行されるからだ。

たまたま、執行されるのではなくて、言霊理論が正しいなら、かならず、執行されるのである。

ところで、人と言ってきたけど、自分も人だとする。

その場合、自分が言ったことは、神の力をこえて、執行されるということになるのだ。

そのくせ、言ったあと、努力が必要なことなのである。ばかばかしい。

言霊理論が正しいなら、言っただけで、現実する。

努力なんて必要がない。努力が必要だと考えている時点で、言霊理論を、否定しているのである。

ところが、この矛盾に、たいていの言霊主義者は気がつかない。

まーーーったく、気がつかない。

「気がつかないという性質」の上に、「言霊に対する信仰」が成り立っている。

最初から、矛盾を抱えた信仰なのである。わかるかな?

ともかく、人である「自分」が「神はこうなる」と言えば、神は、こうなるのである。神がどうあがなっても、言霊の力によって、神はこうなるのである。

ようするに、言霊を通せば、自分は神をも支配できるということになる。

言霊を通せば、どんなことも、可能なのである。

完全に、すぐに、現実化させることができるのである。

どうしてかというと、言霊理論には、時間的な制限がないからだ。

ようするに、三秒以内に、こうなると言ったら、ほんとうに、三秒以内にこうなるのである。三秒以内に、神はこうすると言ったら、三秒以内に、(言霊の力によって)神はこうするのである。

「言うこと」によって、神を制御できる。

基本的なことを言えば、じつは、言霊というのは、神の代わりなのである。

しかし、たいていの「精神世界の人」は神も信じているわけだ。

しかし、そこで信仰されている神というのは、「カジュアルな神」なのである。

わかるかな?

信じるのも信じないのも、自由だという感じの神なのである。

これは、絶対的な神ではない。

信仰するしかない神ではないのだ。

信仰するかどうか、自分が選べるような神なのだ。

そして、普通の言霊主義者は、神と言霊の関係について考えもしない。 

●好きなだけ、やれたから、なにもやっていないつもりなんだよ■騒音※2026/04/24 2:01

ヘビメタ騒音で、全部がくるしいことになってしまった。だいたい、普通の人の対応をするのだってくるしい。

少数の例外を除いて、みんな、ここに書いたようなことを言ってくる。

「なにがヘビメタ騒音だぁ!!」と言われたことがあったけど、殺してやりたいほど、腹が立つ。むなくそ悪い気分になる。

そりゃ、もちろん、殺しはしないし、ぶったりけったりもしない。

けど、そのくらいに腹が立つ。

そして、帰れば、ヘビメタ騒音が鳴っていた。

これ、鳴っているなかで、無視しようとしても無理なんだよ。どれだけ無視しようと頑張っても、むりなんだよ。耳をきつくふさいでも無理なんだよ。耳栓をつけても無理なんだよ。

音がでかすぎる。もとの音がでかすぎる。

がんがん、頭に入ってくる。とまらない。あんな状態が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続いて……それで、頭が影響を受けないわけがないだろ。

鳴り終わったあと勉強をしようとしても、無理だった。宿題すら、できなかったよ。

「やめろ」「やめろ」「やめろ」「やめろ」「やめろ」と、言っているのに、きちがいが「やっていい」と思って、きちがい的な意地でやり続ける。

きちがい的な意地でやり続けたほうは、自分が、中断してゆずったわけではないから……つまり、自分がやりたい分だけやることができたので……やったことについて、まったくなにも、感じない状態になっている。

これが、一分間だろうが三〇秒間だろうが一〇秒間だろうが、弟のために鳴らさないで我慢してやったということになったら……我慢しなければならなくなったということになったら……もう、ひどいんだよ。

きちがい的に怒り狂って、怒りがとまらない状態になってなってしまう。

好きなだけ、やれたから、なにもやっていないつもりなんだよ。こんなのない。毎日こんなのが続いていいわけがない。 

2026年4月23日木曜日

●絶対に、わかる■騒音※2026/04/23 20:15

 いま、午後八時一九分なんだけど、この時間は、日曜日も含めて、ガンガン鳴っていた。

きちがい兄貴のやり方が、ほんとうに、異常なのだ。普通の人は、どれだけやりたくても、あんなことはしない。

そして、きちがい兄貴の友達が家にきたとき、きちがい兄貴の友達が、きちがい兄貴に「こんな音で鳴らしたら、家の人がかわいそうだよ」と言ったのに、「だいじょうぶ。だいじょぶ」と兄貴が言って、まったく、気にしなかったのだ。

こういう脳みそなんだよ。

ほんとうに静かにさせられそうになったら、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、やり続けるのである。殺さないとやめさせることができないのである。

そういうことをやっていても、自分がそういうことをやったということが、一切合切、わからない人間なのだ……。……きちがい兄貴は……。

なので、そういうことが毎日続いてしまう。

これは、経験したことがない人にはわからない。

しかし、ほかの人は、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいある」と言って、俺の言うことを認めない。

ほかの人たちが経験した苦労のレベルと、ぼくが経験した苦労のレベルがちがうわけ。ぼくが経験した苦労と同レベルの苦労を経験した人は、みんな……ほんとうにみんな……ぼくが言ったことに賛成する……と思う。

これも、「思う」しかないのだけどね。

みんな、「鳴り終わったら関係がない」とか「過去は関係がない」とか「なんだ、そんなの!!」とか「ヘビメタ騒音なんて関係がない」とかと言う。

俺が言っていることを否定している。

同レベルの苦労を経験した人が、わかっていないはずがないのだ。

みんな、軽く考えている。

あるいは、無視している。影響のでかさを無視している。

そんなに、うまく暮らせるわけがないだろ。

全部の時間を、とられる。

全部の時間が、生きいるだけで、超ストレス状態のマイナスの時間になってしまう。

「自分だって騒音ぐらいある」と言った人もおなじだ。……「自分だって苦労した」と言った人とおなじだ……。

同レベルの騒音経験がないだけなのである。

同レベルの騒音経験があれば、俺の言ったことに、即座に、同意してくれる。

「自分だって騒音ぐらいある」と言うやつは、俺が言ったことに、同意しないのだ。

同意しないで、「自分だって騒音ぐらいある」と言っている。このちがいは、でかい。

ともかく、兄貴が特殊な人だったのである。

だから、レアな存在なのである。

あのやり方で、ずっとやり続けてしまうなんて、ほんとうに、きちがい的な人なのだ。これが、まずわかっていないのである。

ほかの人は、まず、これがわかっていない。

レア中のレアな存在が、きちがい的な意地をかけて、やったことなんだよ。やり続けたことなんだよ。

そして、きちがい親父も、レア中のレアな人なのだ。

この組み合わせの意味が、まったくわかっていない。この組み合わせの意味がまったくわかっていないということは、同レベルの経験をしたことがないということを、そのまま、意味している。

ともかく、続きすぎた。毎日なんだよ。どれだけ言っても、きちがい感覚で、スルーしてしまう。きちがい的反応をして、終わりにしてしまう。もちろん、やり続けるし、やり続けたことを、まったく気にしていないのだ。

何万回言っても、おなじなんだよ。

こういうレアな人と、一緒に住んだことがある人は、俺が言っていることがわかる。俺が言っていることに疑いをもったり、俺が言っていることを過小評価してしまう人というのは、じつは、俺と同レベルの経験がない人だ。

絶対に、わかる。

●くるしいときの神頼み■言霊※2026/04/19 14:01

まだ、思い付きの段階だけど……切迫度と現実感度が問題なのだと思う。

あまりにも、切迫度がありすぎると、逆に、言霊主義者は言霊思考になってしまうのである。命にかかわるような病気になったとする。

その場合は、切迫度が高すぎるので、「なおると言えばなおる」といったタイプの言霊にすがりつきたくなるのだ。

くるしいときの神頼みというのがあるけど、そういう気持ちになったときは、言霊でどうにかしたくなる。

だから、言霊に対する信頼度もあがるのである。もちろん、それは、望みとして、あがるのである。 

自分のことに関しては、現実感度が高いので、自分のことに関しては、現実的な解決法が採択されるのである。

この場合、言霊的な解決方法は、浮かんでこない。

言霊主義者なのに、言霊的な解決方法は、考えすらしないのだ。

かわりに、具体的で現実的な解決方法をためすのである。どこかに行きたい場所がある場合は、「近くの駅まで、徒歩で行って、駅から、なになに線の電車に乗って、なんとか駅で降りよう」というように、考えるのである。

「目的地まで、瞬間移動で移動しよう」とは思わないのである。

これは、どれだけ「瞬間移動することができる」と言っても、瞬間移動ができないということを、言霊主義者が、じつは認識しているので、無理なことはしないで、普通に、駅まで行くというような現実的な選択をするのである。

なになに線で、事故が起こって、電車が動かなくなったとする。そして、徒歩で移動しなければならなくなったとする。

その場合は、言霊主義者も普通に、徒歩で移動するのである。

「三秒以内に、なになに線の電車が動くようになる」と言えば、動くようになるので、熱心に、何回も、「三秒以内に、なになに線の電車が動くようになる」とは言わない。

こういう現実的なことに関しては、たいていの言霊主義者は、現実的な選択をするのである。

自分の身体に関することなど、切迫度と現実感度が、高すぎる場合は、言霊思考になる。切迫度と現実感度が中程度のことに関しては、言霊主義者も現実的な対処をするのである。最初から、言霊主義的な対処が思い浮かばないのである。

*     *     * 

切迫度と現実感度が、低すぎる場合も言霊思考になる。切迫度と現実感度が、中程度である場合は、言霊思考にならないのである。

ようするに、日常生活のいろいろなことに関しては、言霊思考にならないのである。わずかな例外を除けば、日常生活のいろいろなことに関しては……言霊主義者といえども……言霊思考なんて完全に無視して解決策を探して行動するのである。

わずかな例外というのは、ほんとうに、狂っている場合や、現実的な解決法が、ぜんぜん見つからない場合だ。

ようするに、普通の状態で普通のことに対処している場合は、まったく、言霊思考にならない。

しかし、言霊主義者・本人は、自分が言霊的な考え方を無視しているという認識をもてないのである。言霊を無視しているつもりは、まったくない。

言霊自体に、注意が向かないので……無視しているということにも、気がつかないのである。 

●まあ、言葉の遊びだけどね■社会※2026/03/12 11:31

ちょっと、言葉の遊びをしてみよう。

「だけ」という言葉は、排他的な意味をもってしまうのである。なので、排他的な意味が付け加わってしまう。 

たとえば「掃除をすること(ほかのことをするかどうかは不明)」と「掃除だけをすること」は意味的に等価ではない。

「掃除をすること(ほかのことはしない)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをすることは」は意味的に等価になる。「掃除をすること(ほかのこともする)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをする」ことは、意味的に不等価になる。

しかし、掃除だけをしたとしても、幸福になるのである。「掃除をすると、幸福になる」のだから、「掃除をする」ということは「掃除だけをする」ということを含んでいる。

たとえ「掃除だけをしても、幸福になる」のである。「掃除だけをする」ということは、掃除をするという条件を満たしている。 

「掃除をすれば、幸福になる」という言い方は、掃除をすることが、幸福か不幸かを決めるのだと……暗示的に主張しているのである。

たとえば、「掃除をして、人に感謝すると幸福になる」と言っているわけではなくて「掃除をすれば、幸福になる」と言っているので、「幸福になる条件」は「掃除という行為をすることだけ」なのだ。ほかの行為をすることは、「幸福になる条件」ではなく、掃除をすることが幸福になる条件だと考えているのである。

この場合「人に感謝する」という行為は、条件の中に含まれないのである。掃除以外のことをすることも、条件に含まれていないのである。

たとえば、食事をすることは、掃除をすることではない。掃除をすることは、幸福になることと、関係があるけど、食事をすることは、掃除をするとではないので、食事をすることは、幸福とは関係がないということになってしまうのである。

しかし、通常の暮らしにおいて、「掃除をすれば幸福になる」と言った場合、ほかのことをして、さらに「掃除をすること」を想定して言っているのである。

なので、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人も、「掃除だけをすれば幸福になる」と言っているわけではないという、主観的な感覚がある。まあ、認識でもいい。

なら、「言う」ことのなかに「熱心に言うこと」が含まれているということも、「想定」の問題にしていいかというと、そうではないのだ。他分野への(意味的な)言及があるかということが重要になる。

たとえば、「掃除をすること」のなかに、たしかに、「熱心に掃除をすること」が含まれているのである。

それとおなじように、「掃除をすること」のなかには「掃除だけをすること」も、じつは、含まれている。

しかし、「掃除だけをすること」と言った場合には、ほかの分野についても、ほかの分野のことは一切合切しないということを、意味してしまうのである。

なので、集合的には、たしかに、掃除をするという集合のなかに「それだけをする」という集合が含まれているのだけど、「掃除だけをする」という言い方には、排他的な要素が含まれている。

「熱心に言う」という場合、他の分野における排他的な要素を含んでいないということと、対照的だ。「熱心に言う」という場合、おなじじ分野における排他的な要素を含んでいる。

しかし、「幸福になると言えば、幸福になる」と言った場合、「幸福になると言う」という集合のなかに「幸福になると言うだけ」という集合も含まれてしまう。しかし、「幸福になると言う」と言う場合は、特に(他分野における)排他的な要素がない。他分野のことは、関係なしに言っているのである。

ようするに、「だけ」をつけると「他分野における排他的な要素」が付け加わってしまうけど、「だけ」をつけないで言う場合は、「他分野における排他的な要素を含まない」ということになる。

「だけ」をつけないで言う場合は、「ほかの分野をしていても」「ほかの分野のことをしていなくても」関係がないのである。

ようするに、両方とも含んでいる。分野的に言って排他的ではない。だけをつけて言うと、分野的に言って排他的になる。ようするに、「だけをつけないで言う場合」は、他分野に関しては「不定」なのである。

まあ、言葉の遊びだけどね。

「Xをするだけで」と「Xだけをすれば」は、意味内容がちがう。「Xだけをすれば」のほうは、排他的な要素があり、「Xをするだけで」は、排他的な要素があるかどうかは、不明だ。

ほかのことをするのかしないのかは、特に、明確に示唆されているわけではない。

しかし、人間の生活は、Xをするだけでは、成り立たないので、「Xをするだけで、幸福になる」という文は、もともと、正しくない。「掃除をするだけで、幸福になる」……。

いや、食事をしないと、人間は生きてはいけないので、掃除だけをする生活だと、死んでしまう。幸福にならない。

そして、ほかのことをして、生活を成り立たせて、掃除をする場合は、掃除をするだけで、幸福になるという意味で使っている場合がある。

しかし、掃除をするだけでは、やはり、幸福にならない場合がある。どうしてかというと、人によって、なにに幸福を感じるかはちがうからである。生活を成り立たせたうえで、掃除をするだけで、幸福を感じる人もなかにはいるかもしれない。

しかし、ほかのことをしているということは、否定できない。ほかのことをしているのである。掃除をするだけで、生活しているわけではない。

まあ、言葉の遊びだけどね。

「Xをするだけで、幸福になる」というようなキャッチコピーを考える人もいるかもしれしれない。「Xをするだけで、幸福になるなら、Xをしてみよう」と思う人もいるかもしれない。

けど、「Xをするだけ」というのが、ほんとうに「Xをするだけ」ということを意味しているのであれば、それは、嘘だ。

あんまり書きたくないけど、排泄をしなければならない。しかも、排泄ができなくなっただけで、不幸になってしまうのである。食べたり排泄をするということをしないで、「Xだけをして」幸福になるかというと、幸福にはならない。

呼吸だってしている。

「Xだけをして」呼吸をしなければ死んでしまう。

だから、「Xをするだけで、幸福になる」という発言は、最初から嘘だ。 「Xをするだけで、幸福になる」という文は、「Xだけをすれば」という文と、意味的に等価になってしまう場合がある。不定なので、X以外のことをしている場合は、「Xだけをすれば、幸福になる」という文と「Xをするだけで、幸福になる」という文は、不等価になる。

「Xをするだけで、幸福になる」という場合、ほかのことをしているのかどうかは、不明なのである。「Xだけをすれば、幸福になる」という場合は、ほかのことはしないことになっている。

まあ、言葉の遊びだけどね。

まあ、Xをするだけで幸福感を感じるかどうかというのは、人によってちがうので、一〇〇%構文で言う場合は、嘘になる。命題として『偽』だ。

まあ、前にも指摘したけど、一時的に幸福感を感じることと、幸福な生活をすることはちがうことだ。

今回書いたことに関しては、あとで、意見をかえる可能性がある。備忘録として、残しておく。

 



2026年4月22日水曜日

●「生卵を台の上に落して、生卵が割れる」■言霊※2026/04/22 7:59

 いま、生卵を台の上に落してしまったのだけど、これだって、「生卵が台の上に落ちる」と言ったあと、言霊の力によって、生卵が台の上に落ちたわけではない。

予言はしなかった。

予言成就はなかったということだ。

ところが、言霊主義者は「生卵が台の上に落ちる」と言ったので、言霊の力によって、生卵が台の上に落ちたのだと解釈するのだ。予言成就型と人体感覚型がある。予言成就型というのは、どこかで、その人が、あるとき「生卵が台の上に落ちる」と言ったので、それが、現実化したというタイプの考え方だ。

一方、「元気だ元気だと言ったら元気になった」というような人体感覚型の考え方もある。これは、予言が成就したというタイプとは、ちがうタイプだ。わけて考えるべきだ。

言霊主義者だって、落とすつもりではなかったけど、生卵を落としてしまったときは、「失敗した」というようなことを思うはずだ。

落とすつもりではなかったのだ。

落とすつもりではなかったのに、落としてしまった。

結果、卵が割れて、中身が出てきた。

台の上に出てきたのか、床の上に出てきたのか知らないけど、ともかく、中身が出てくる。

落ちるとか、殻が割れて中身が出てくるというのは、物理的な現象なのである。言霊が一切合切、関係していないことなのである。

そして、言霊主義者ですら、日常生活のなかでは、このような物理的な現象をあたりまえの現象として受け入れているのだ。

何度も言うけど、「あたりまえだ」と言霊主義者が思うことに関しては、言霊主義者は、言霊理論を無視して考えてしまうのである。

しかも、言霊主義者自体は、それが、異常なことだとは思っていないのである。完全スルーで、完全に、意識にのぼらないのである。意識にのぼらない自分を、自分として、受け入れているのである。

だから、「ぬけぬけ」なのである。

予言成就型の場合は、言っておかなければならないのである。事前に言わなければ、「言ったことが」「言霊の力によって」「現実化した」ということにならない。

そりゃ、そうだろ。言わなかったことが、「言霊の力によって」「現実化した」というのは、言霊理論に照らし合わせて考えてみると、おかしなことだ。

「言ったから」現実化するのだ。

「言わなかった」のに、現実化するのは、おかしいのだ。

ところが、言わなかったことが、現実化しても、言霊主義者は、おかしいと思わないことが多い。たいていの言霊主義者は、「言わなかったことが現実化」しても、まったくおかしいと思わないのだ。

これこそ、おかしなことだろ。

どれだけ、「ぬけぬけの思考」をしているのか、よくわかる。

しかも、ぼくが、こういうことを説明しても、たいていの言霊主義者は、認めないのである。「言霊は絶対だ」「単純なのが正しい」「言ったことが、現実化する」と言って、ゆずらない。

ぼくの経験の範囲だと、ぼくが言ったことを認めてくれた言霊主義者はゼロ人だ。だれも、認めてくれなかった。

そして、「下衆の勘ぐり」をしてしまうのである。

ぼくに悪意があって、わざと間違ったことを言っていると思うのだ。これ、勘弁してくれよ。ようするに、自分が正しいと思っていることを、今度は、間違っていることだと認めるのがいやなのだ。

だから、エイリのほうに、悪意があるということにして、認めないようにする。

こういうことが起こってしまう。

その場合、エイリに悪意があって、わざと間違ったことを言っている……と思っても、別にエイリに悪いことをしたとは思わないのだ。

だから、どれだけ言葉では「きれいごと」を言っていても、無駄だということになる。

だって、そうだろう。「人がいやがることはやめましょう」「人に親切にしましょう」「すべてに感謝しましょう」と言っていたって、エイリにとっていやなことは、言うし、エイリに親切にしないし、エイリの発言に感謝しないのだ。

……この人たちは、感謝しない。

「正しいことを教えてくれた」「自分の間違いをただしてくれた」と思わずに、「エイリというやつが、よこしまなことを考えているから、言霊(理論)の悪口を言った」と思ったりするのだ。

「言霊を信じている自分のことを、悪く言った」と思ったりするのだ。「言霊は正しい」「単純なのが正しい」と言ってゆずらない……ことが多い。『エイリに悪意があって、自分に、言霊が間違っているということを信じ込ませようとしている』というようなことを考える人だっている。

やれやれ……。

いやなんだよなぁ……。

こうなることが多い。

ようするに、ぼくが説明したあとも、たいていの言霊主義者は、言霊思考をあきらめないのである。しかし、生卵を台の上に落して、割ってしまった場合は、言霊思考なしで、普通に、生卵を台の上に落して、割ってしまったと考えるのである。

言霊主義者だってそう考える。

日常生活のなかでは、言霊(理論)を完全に無視して、暮らしているのである。「生卵を台の上に落して、生卵が割れる」ということを言わなかったのに、「生卵を台の上に落して、生卵が割れる」ということが現実化したのである。

言わなかったことが、現実化した。

*     *     *

「生卵を台の上に落して、生卵を割るぞ」と思って、「私は生卵を台の上に落して、生卵を割る」と言ったあと、実際に、生卵を台の上に落して、割ったとする。

この場合は、言霊の力によって、生卵が割れたわけではないのである。「生卵を台の上に落して、生卵を割るぞ」と思った人の意志が関係している。

そして、実際にそのような行動をしたということが重要なんだよ。そして、物理的予想がつくことを、やったということが重要なのだよ。

生卵が、かたいものに衝突すると生卵の殻が割れて、中身が出てくることがあるということを、学習したのだ。

なので、このことは、「あたりまえ」のことになるのである。その人のなかで「あたりまえのこと」になる。もしかりに、言霊主義者が「生卵を台の上に落して、生卵を割るぞ」と思って、「私は生卵を台の上に落して、生卵を割る」と言ったあと、実際に、生卵を台の上に落して、割ったとする。

その場合、「言霊理論は正しい」と言いたい言霊主義者は「言霊理論は正しい」と言う。

その言霊主義者にとっては、「言霊理論が正しいことを証明した」と言うことになる……場合が多い。しかし、その言霊主義者は「言霊理論が正しい」ことを証明したわけではない。

しかし、言霊主義者のなかでそのようなことがおこなわれることが多いのである。

自分でやって、自分で納得してしまう。

「言霊は正しい」と確信してしまう。「言った通りになった」と思うわけだ。

「言った通りになったのだから、言ったことが(言霊の力によって)現実化するという言霊理論は正しい」と思うわけだ。しかし、間違っている。

日常生活の中でミスをする場合は、「思っていなかったこと」が発生したときなのである。言霊主義者だって、「思ってなかったこと」が発生した場合は、ミスをしたとか失敗をしたと思うわけだ。

ようするに、思っていなかったことが発生したのである。思ってないことを、口走ることはできるけど、数は少ない。

たいていは、思っていなかったことは、言わないのである。

だいたい、気がつかなかったことを、言えるわけがない。気がつかなかったから、ミスがしょうじた場合、気がつかなかったので、ミスがしょうじたのである。

ようするに、過去の自分が、予言したことが起こったわけではないのである。

「思わなかったこと」が発生したのだ。「思わなかった」のだから、たいていの場合は、「それ」を言うことができない。

あとで!!ミスをした認識するのである。おなじことだけど、あとで!!!失敗をしたと認識するのである。あとで!!本人が気がつくのである。

本人が、事前に、予言できるわけがないだろ。

トランス状態におちって、自分でも気がつかずに「生卵を台の上に落して、生卵を割る」と言っていたということが、あとでわかるということは、あるかもしれない。

しかし、数が少ない。

自分がトランス状態におちいったときのことを、ちゃんと記録しておかなければならない。日常生活の些細なことについて、そのようなことをやることは、まれだ。

あっても、例外的なことだ。

その場合は、トランス状態におちいったときの自分の発言を記録しておこうという意図がある。

ほんとうに、「思っていなかったのかどうか」うたがわしい。

●「実際の理由」を無視したほうは、ぜんぜん、それがわかっていない■社会※2026/04/17 3:33

言霊の場合は、言霊がないので、言霊の力によって現実化することはない。また、思霊の場合も、思霊がないので、思霊の力によって、現実化することはない。

しかし、たとえば、掃除の場合は、掃除をすることで、気持ちがいいと感じる人はいるので、掃除をしていなかったときよりも、掃除をするようしてからのほうが、幸福度が上がったと感じる場合がある。

その場合は、掃除によって幸福になったと表現することができる。

しかし、ここで重要なのは、その人の場合、ほんとうに「掃除(をすること)が欠乏していた」ということなのだ。その人が幸福ではない……あるいは、幸福感がたりないと思っている原因が、実際に「掃除だった」わけだ。

ようするに、たまたま、Xが欠乏していたので、Xを充足させることによって、幸福感が得られたわけだ。

それならば、Xの欠乏が、不幸の理由ではない人も、Xをすれば、幸福になるのかというと、ちがうのである。

ところが、一〇〇%構文で言うので、Xの欠乏が不幸の理由ではない人まで、「Xの欠乏が不幸の理由だ」と言われるわけである。

決めつけられるわけである。

決めつけるほうは、実際に、ある人の「不幸な理由は、Xをしないことだ」と思っているのである。

しかし、家族のきちがい騒音がずっと鳴っていることで、不幸な思いをしている人は、Xの欠乏で、不幸な思いをしているわけではないのである。

しかし、Xの教祖や、Xの信者は、「Xの欠乏が(その人が)不幸である理由だ」と決めつけてしまうのである。

「Xをすれば、幸福になる」と言う場合、「X」にフォーカスが集まっている。言っているほうは、「X」に意識を集中しているのである。 

何度も言うけど、「本当の理由」を見ようとしないのである。

不幸な条件が成り立っている人は、その不幸な条件によって不幸なのである。

だから、その不幸な条件から発生する実際の出来事が、不幸感のもとになっていることなのである。Xに意識を集中させている人は、相手の不幸な条件を、ガン無視するのである。

その態度自体が、不幸な人の気持ちを傷つける場合がある。

しかし、Xに意識を集中させている人は、そのことにまったく気がつかない。

Xに意識を集中させている人は、善意で、「Xをすれば、幸福になる」と言っている。

いいことを言っているつもりなのである。

この温度差は、たいていの場合、発生するものなのである。

人は……自分自身における「実際の理由」を無視されると……たいていの場合、腹が立つのである。

しかし、相手自身における「実際の理由」を無視したほうは、ぜんぜん、それがわかっていない。

こういう、温度差がある。 

2026年4月21日火曜日

●誤認の上に、誤認が成り立っているような状態なのである■言霊※2026/04/20 8:13

もう、すでに、指摘したことだけど、言霊主義者が、勘違いしているところがあるのだ。

言えば、言ったことが、(言霊の力によって)現実化するのだから、一回言えば、現実化するのである。

ようするに、何回も言う必要はない。

一回言ったら、現実化するのである。

どれだけ、やる気がない状態で言っても、言ってしまったら、現実化する。それが、言霊理論なのである。

ところが、言霊主義者でも「言ったって、言った通りにならないこと」ことがあるということは、多少は認識することがある。

だから、理論的な破綻を気にしない言霊主義者は……「何回だって、言えばいい」と思うようになる。一回目に、現実化しなかった時点で、言霊理論が間違っているということには……言霊主義者は気がつかない。

言霊主義者が、言霊理論は正しいということを説明した「相手」がいるとする。

「相手」が「言ったけど、言ったことが現実化しなかった」ということを……言霊主義者に言ったとする。

その場合は、言霊主義者は、自分なら、言ったことを現実化させることができるという認識のまま、相手のやり方が悪いということを言い始めるのである。

『言霊理論は正しいから、現実化する……現実化しないなら、相手のやり方が悪い』……と思ってしまうのである。

相手のやり方がどれだけ悪くても、言霊理論が正しいなら、相手の言ったことは、現実化するのである。

言霊主義者は、もう、この時点で間違っている。

相手が嘘を言っているのではなくて、相手が事実の報告をしているなら……言霊主義者は言霊理論が間違っているということを認めなければならないのである。

相手のことだけではなくて、言霊主義者自身も、「言ったけど、言ったことが現実化しなかった」という経験があったはずなのだ。

しかし、自分自身の場合は、無視することが多い。

ところが、うまくいかなかったことを無視しないで、ほんのちょっとだけ(言霊主義者が)認めることがある。

何度も言うけど、言えば言ったことが現実化するのだから、言ったあと、努力をする必要なんてないのだ。「一秒以内に、こうなる」と言えば、一秒以内にこうなる。

言霊理論が正しければ……「一秒以内に、こうなる」と言ったら、一秒以内にそうならなければならない。

ところが、間違っているから!!そうならないことがあるのである。

言霊の力によって、そうなることは、〇%だ。

これは、かわらない。

言ったあと、言霊ではない、ほかの理由で、そうなることがあるので「一秒以内に、そうなる」可能性はある。言霊主義者は区別していないけど、これは重要なことだ。

そして、言霊理論というのは、「言霊の力で」という、肝心な部分を省略して言われることが多い。

だから、言霊主義者でなくても、言霊の力でそうなったと誤解する場合がある。

ようするに、「言ったあと」と「言ったから」の区別がつかない人が多い。

そして、「言えば、言ったことが現実化する」と一〇〇%構文で言われるので、法則性があるように思い、信じてしまう人がいる。たくさん、いる。

しかし、何度も言うけど、言ったあと、努力をする必要なんてないのだ。言霊理論が正しいなら、言ったら、言っただけで、現実化するのである。

言ったことが現実化するために必要なことは、言うことだけなのである。

ほかのことは、一切合切必要がないのである。

だから、「言ったあと努力をすればいい」という言葉は、じつは、言霊理論を否定している人が使う言葉なのである。

ところが、たいていの言霊主義者は「ぬけぬけ」なので、自分が言霊理論を否定しているということに、気がつかない。ぬけぬけ。どこまでも、ぬけぬけ。

誤認の上に、誤認が成り立っているような状態なのである。

●「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」■社会※2026/04/17 8:44

「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」という考え方も、言霊の万能感からすれば、おかしなことなのである。

言うだけで、そのネガティブなことを言う人を、ポジティブな人にかえることができるのだ。

もちろん、自分が言うだけで、相手をかえることができる。

「この人は、これ以降、ネガティブなことを言えなくなる」と言ってしまえば、その人は、これ以降、ネガティブなことを、言えなくなる。

「この人は、これ以降、ネガティブなことを一切合切、考えることができなくなる」と言えば、言っただけで、その人は、これ以降、ネガティブなことを一切合切、考えることができなくなるのだ。

だから、「ネガティブな人と一緒にいると、ネガティブがうつる」と考えなくてもいいということになる。

ネガティブなことを言われて、自分が不愉快になったのである。

だから、対策として、 「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」と思ったのである。

いちおう、言っておくけど、過去は関係がある。

ネガティブなことを言われて、自分が不愉快だと感じなかったなら、「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」と思わなかったからだ。

過去は、ちゃんと、その時点での『現在』に影響を与えているのである。

過去の過去のことを大過去というとする。

その場合、大過去は、過去に影響を与えているのである。

精神世界の人は、「過去は関係がない」とか口走ることが多いのだけど、それは、言霊や思霊を否定していることになる。

「言ったことが」現実化すると言霊主義者が信じているからだ。「思ったことが」現実化すると思霊主義者が信じているからだ。

ところが、精神世界の人は、「過去は関係がない」と言っているときは、「言霊思考」や「思霊思考」とは関係がない状態になっているのである。 

 だから、精神世界の人は「過去は関係がない」と言っているのに、ネガティブな人と一緒にいて、自分が不満を感じたら、「ネガティブな人と一緒にいると、ネガティブがうつる」と考えてしまうのだ。

ネガティブな人と一緒にいたということは、過去の出来事。

ネガティブな人と一緒にいるとき、自分が不愉快な気持ちになったということも、過去の出来事なのだ。

現在の時点で「ネガティブなことを言う人には近づかないようにする」と思っているなら、「過去の出来事」の影響を受けたということだ。

過去は関係がある。

なんで、ほかの人のことだと「過去は関係がない」ということになってしまうのか?

いい加減、自分の矛盾に気がついたほうがいいよ。

2026年4月20日月曜日

●「言うだけ」なら、楽だ■言霊※2026/04/19 8:17

一部の例外を除いて言霊主義者というのは、じつは欲張りな人たちなのである。

自分の願望をかなえたい気持ちで、いっぱいなのである。

自分の願望をかなえたいのだけど、「楽な方法」でかなえたいのだ。

「言うだけ」なら、楽だ。

だから、「言霊は絶対だ」とか「言霊の法則は、宇宙貫く絶対法則だ」と確信しやすいのである。しかし、日常の生活では、「言ったってかなわない」と言うことを知っているのである。

だから、言霊に自分の注意が集まっているときにしか、言霊思考にならない。

そして、自分の現実的な問題は、言霊で解決することができないということを知っているのである。

だから、自分の現実的な問題に関しては、そもそも、言霊で解決しようとは思わないのである。

政治の問題は、言霊で解決しようとは思わないのである。どうしてかというと、言ったってかわらないからだ。

自分が「これこれこう、かわる」と言ったって、かわらないのである。

自分が「なになにという政治家が、こういう発言をする」と言ったって、その政治家が、自分の言葉に宿っている言霊の力によって、「こういう発言をする」とは……頑固な言霊主義者ですら……思えないのだ。

自分が「なになにという政治家が、こういう発言をする」と言ったあと、言霊ではない別の理由で、「なになにという政治家が、こういう発言をする」ことを期待するしかない。

そして、その確率がとてつもなく低いと……その言霊主義者が……思っている場合は、そもそも、「なになにという政治家が、こういう発言をする」と言わないのだ。

世界中の紛争を、一秒以内に解決することだってできるのだ……。言霊理論が正しいなら……。

言霊の法則が、宇宙を貫く絶対法則なら……。

ところが、言霊理論は正しくないし、言霊の法則は、宇宙を貫く絶対法則ではないから、言霊の力によって、世界準の紛争が一秒以内に解決しないことが多い。

ようするに、言霊主義者が「無理だ」と思っていることに関しては、言霊主義者は「言霊による解決法」を採択しないのである。

「言ったって、言った通りにならない」と思っているのである。言霊主義者だって、「言ったって、言った通りにならない」と……普段は普通に、思っているのである。

ところが、言霊主義者は……夢や願望に関しては、楽な方法でかなえたいという気持ちが非常に強いのである。

だから、言霊(理論)を信じる必要性が出てくる。

「言えば、言ったことが(言霊の力で)現実化する」のだから、楽ではないか。実に樂だ。

言うだけでいいのだ。

普通の人は、言うことができる。

ある言霊主義者が普通に話せる人だとする。その言霊主義者は『自分は普通に話せるので、言える。なら、自分は言うだけで、自分の夢を現実化することができる』と思うことになる。

その言霊主義者のなかでは……『言うだけで自分の願望を現実化することができる』……ということになる。

楽だ。

実に樂に、自分の夢をかなえられる。

ラクラク~~。

●こういうことの犠牲者は、まじめな人なのである■言霊※2026/04/19 15:30

 言霊理論が正しいなら、ほんとうは、サービス残業なんてしなくてすむわけ。

カネなら、いくらでも「言うだけで」出てくるからだ。

サービス残業ではなくても……自分のことではなくて……相手のことなら……相手がどれだけ「無理だ」と言っても、相手に「作業」を押し付けることができるのである。

ようするに、言霊理論が背後にある言葉というのは……相手に「無理なこと」を押し付ける道具になってしまうのだ。

言霊思考が、相手に無理なことを押し付ける道具になってしまう。

しかも、押し付けるほうは、まったく悪いと思わないことが可能なのである。

「無理だと言うから無理なんだ」という言い方も、言霊理論が正しいなら、成り立ってしまう。

「無理だ」と言ったことが、無理であることの原因にはならないのである。

ところが、言霊主義に汚染されていると、「無理だと言うから無理なんだ」という意見が正しいことのように思えてくるのである。

だから、言霊主義者は「無理だと言うから無理なんだという考え方が正しい」と思ってしまうのである。「無理だと言っている相手が、間違っている」と思ってしまうのである。

『相手は、無理ではないことを無理だと言っているのだから、相手が言い訳をしているだけだ』……と言霊主義者は思ってしまうのである。

あるいは、『相手は、無理ではないことを無理だと言っているのだから、あまえているだけなのだ』……と言霊主義者は思ってしまうのである。

『言い訳をするのはよくないことだ』……と言霊主義者が考えている場合、言霊主義者の頭のなかでは……『相手が言い訳をしているのだから、相手が悪い』ということになってしまうのである。

『あまえることが、悪いことだ』……と言霊主義者が考えている場合、相手があまえているだけだから、さとしていいと思ってしまうのである。

なので、「無理だ」と言っている相手には、たいていの言霊主義者が、高圧的な態度をとることになるのである。

ところが、自分の態度が、高圧的だと思っていないのである。

言霊主義者の頭のなかでは……『無理だと言っている相手』がおとっているからダメなんだという解釈になってしまうのである。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考えたを受け入れだけで、このように、「相手に無理なことを押し付ける」ことに抵抗がない人間になってしまうのである。

自分のことであれば、無理な理由が、わかっているのである。自分のこととしてわかっている。自分の!!経験を通してわかっている。

だから、普通の現実感が成り立っている場合、言霊主義者は、自分には、言霊理論を適用しないのである。ようするに、「これは、言い訳だ」と思わないし「これは、あまえだ」と思わないのである。言霊主義者が、自分のことについて、相手には説教をしたようなことを思っても、相手に説教をしたときの気持ちとはちがう、気持ちになってしまうのである。どうしてかというと、自分の身に起きたことの場合は、自分が「無理だ」と思う理由が、自分のなかで成り立っているからなのである。

しかし、他人のことだと、自分にとっての「普通の現実感」がないので、他人には、「無理なこと」を平気で押し付けることができるようになるのである。

もっとも、他人にとって……つまり、言霊主義者から見て相手にとって……それが本当に無理ことなのかどうかというのは、この場合、不定だ。実際に、無理なことになっている場合と、無理なことにはなっていない場合がある。

しかし、無理なことになっている場合は、言霊主義者の発言は、不適切な発言になってしまうのである。

これ、こういうことの犠牲者は、まじめな人なのである。

まじめな人が、耐えて耐えて、耐えて耐えて、それで「もう無理だ」という意味で「無理だ」と言っているのである。

言霊主義者は、まじめな人が、耐えて耐えて、耐えて耐えて、やってきた期間を、無視してしまう。

言霊主義者の認識というのは……相手が「無理だ」と言っているだけだ……というような認識なのである。

だから、「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」というセリフを、気軽に言ってしまう。

しかし、耐えて耐えて、耐えて耐えて、やってきた期間を、無視されることは、たいていの場合、屈辱なのである。

ところが、言霊主義者は「いいことを言っている」と思っているのだ。自分は適切なことを言っていると思っているのだ。『相手が「無理だ」とネガティブなことを言って、さぼろうとしているのだから、さぼろうとしている相手が悪い』……と言霊主義者は思ってしまう。

2026年4月19日日曜日

●「できるできると言って、サービス残業をすればいい」■言霊※2026/04/19 6:34

 「できるできると言って、頑張ればいい」ということになってしまうのである。

「できるできると言って、サービス残業をすればいい」ということになってしまうのである。

おかしいだろ。

「できると言えばできる」という考え方の裏には、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考え方がある。

単なる妄想なのだけど、(この人たちは)信じている。確信している。信仰している。

だから、「できるできると言って、サービス残業をすればいい」という考え方に疑問をいだかなくなってしまうのだ。

しかし、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」と考えているなら、そもそも、サービス残業なんしてなくてもいいのである。

それどころか、働く必要すらないのである。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」のだから、働く必要はない。

「カネが出てくる」と言えば、カネが出てくる。

「自分の銀行口座に、おカネが振り込まれる」と言えば、おカネが振り込まれる。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」のだから、そうなる。

通勤して働く必要なんてないのである。

だいたい、おカネだって、おカネで『なにか』を買うから必要なのだ。

その、もともと必要な『なにか』を、言霊の力で、出せばいい。

それで、解決だ。

●妄想の毒■言霊※2026/04/19 6:19

『妄想の毒』を飲まされてからは、限られた分野で、妄想を言うようになるのである。

限られた分野というのは、『夢と希望』と『他人のこと』だ。

『他人のこと』が重要なんだよ。

他人の身の上に起こったことに関しては、妄想を言うようになる。

妄想を前提としたことを言うようになる。『夢と希望』に関しては、かなったほうがいいわけだから、妄想思考になるのである。

「言えば、現実化する」……。妄想だ。

「思えば、現実化する」……。妄想だ。

「引き寄せ行為をすれば、引き寄せることができる」……。妄想だ。

妄想。妄想。

たとえば、「できると言えばできる」という考え方の裏には、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という思考がある。

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という思考が、妄想的な思考であり、妄想的な前提なのである。

ひとごとなら、自分はまったく傷つかないので、「できると言えばできる」と他人には、言ってしまう。「いいことを教えてやったつもり」なのだ。

「ものすごくいい解決法を教えてやったつもり」なのだ。

けど、相手の条件を無視しているのである。この「相手の条件を無視すること」というのは、相手にとって、不愉快なことである場合が多い。

しかし、相手が「これこれこうだからできない」と言ったら……言ってきたら……「そんなのは、言い訳だ」と言ってやればよいのである。

これも、最初から決まっているんだよ。もう、マニュアルで決まっている。洗脳されたときに、「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことが決まっている。

矛盾だらけなのである。

ところが、鈍感力によって、気がつかないのだ。まきえさ」と書いたけど、自分の願望を満たしてくれる考え方は、いい考え方なのである。全力で肯定できる考え方なのである。だから、相手にとってもいい考え方だと思ってしまうのである。

相手の願望を満たすことができる、いい考え方を教えてやったと思っているのである。

それなのに、相手が「できない」ということを言ってきた……とする。

そうなれば、「そんなのは、言い訳だ」と言うことになる。

あるいは、「そんなのは、あまえだ」と言うことになる。

「言い訳」も「あまえ」も、どっちも、おなじ効果をもつものなのである。

2026年4月18日土曜日

●なめられる■騒音※2026/04/18 18:36

やっぱり、ヘビメタ騒音で人生がない。

あの暮らしが、どういう暮らしかわかっている人は、ぼくしかいない。

だから、なにを言っても、ほかの人には伝わらない。ただ、伝わらないだけならいいのだけど、バカにしてくるのである。

「俺だって苦労した」と言えば、同等の苦労したということになってしまう。「俺だって、騒音ぐらいあった」と言えば、同等の騒音を経験したというとになってしまう。

ぜんぜん、ちがうんだよね。

そして、「言ったことが、言霊の力で、現実化する」とか「明るいことを思えば、明るいことが現実化して、暗いことを思えば暗いことが現実化する」とかという妄想を言ってくる人たちがいる。

これ、妄想なのに、本人(たち)は気がつかない。

ほんとう、とことん、ヘビメタ騒音なんだよ。いま、土曜日の午後六時三〇分なのだけど、土曜日の午後六時三〇分は、つねにヘビメタ騒音が鳴っていたから、ヘビメタ騒音の雰囲気しかしない。

この雰囲気の中で、この部屋で、鳴っていた。鳴っていたんだ。

そして、ほかの人が考えるよりも、影響を与えていた。

さっき……当時はやっていたアイドルの歌を聴いたのだけど、めちゃくちゃに、当時のことを思い出した。

ヘビメタが鳴っていた。

ほかの人は、わからない。

「鳴り終わったら関係がない」「そんなのは関係がない」と言う。「関係がある」とこっちが言えば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言ってくる。こいつらの正体は、これだ。こういうレベルの理解しかしない。なめられる。

ほんとうに、四六時中なっていたなぁ。くるしくてくるしくて、たまらなかった。勉強ができない、プラスマイナスゼロの時間ではなくて、マイナスの時間なんだよな。

どれだけ広範な分野に、影響が出るか、実際に暮らした人じゃないわからない。ほんとうに、なめくさって、好き勝手なことを言いやがって。こいつらは、間違った前提で、間違ったことを言っている。経験がないからわからないのは、しかたがないことだけど、理論的なことは認めるべきだ。たとえば、「言霊理論は間違っている」ということは、認めるべきだ。自分なら平気だという前提で、理論的に間違ったことを言ってくる。ほんとうに、腹立たしい。バカを言うのも、いい加減にしろ。

きちがい兄貴。ほんとうに、ヘビメタ騒音に汚染されていない「わかい時期」を返してほしい。返せ。 

●「自分が制御できないことはない」■社会※2026/04/17 8:13

「自分が、かかわろうとしても、どうにもならないことは、放っておきましょう」というような考え方には、一理ある。

しかし、問題もある。

これは、無関心を誘う考え方だからだ。

基本的に言って、このような考え方に傾くときは、つかれはてているときが多い。自分のことで、頭がいっぱいであるときが多い。

自分のことでたいへんなのに、さらに、ほかのことに関心を払っている余裕がないときは、このような考え方に傾きやすくなる。

「自分が制御できないことは、放っておく」という考え方は、精神世界やビジネス精神世界にもある。

そして、ある程度、正しい考え方のようにも思えるのだ。

精神世界の場合は、言霊や思霊という考え方とは、反対の方向を向いているにもかかわらず、言霊という考え方にこっている人は……つまり、言霊があると信じている人は…… 「反対の方向を向いている」ということには、気がつかない。

言霊という考え方と「自分が制御できないことは、放っておく」という考え方は、反対の方向を向いているのである。

言霊思考をするときは、万能感があるので、自分が制御できるのである。

自分が言った通りになる……と思っているのである。自分が言えば、自分が言った通りになる……と思っているのである。

これは、「自分が制御できないことはない」という考えにつながる。……というか、自分が言えば、自分が言った通りになるのであるから、自分が制御できないことなんて、最初からないのだ。

万能感が成り立っているのだから「自分が制御できないことはない」と考えるべきなのだ。

実際、言霊モード?になっているときは、そう思っているのである。

万能感に満ちているのである。

『言えば、言っただけで、その通りになる』と本気で思っているのである。

けど、「ぬけぬけ」だから、おカネを稼ぐために、会社に通っていたりするのである。

言えば言った通りになるのだから、会社なんて行かなくても、カネを稼ぐことは可能だ。「言えばいい」のである。しかし、「ぬけぬけ」だから、矛盾に気がつかない。

言霊モードと書いてしまったけど、「言霊は絶対だ」と思っているときのモードと、現実的なことについて考えているときのモードがまったくちがうのである。

そして、(言霊主義者は)器用に、モードの切り替えをやっているのである。

このモードの切り替えは、意識的にやることではないので、トラブルを生み出す。

しかし、言霊モードのときの思考と現実モードのときの思考が食い違うので、自分の矛盾が、トラブルを生み出しているとは、思うことができないのである。

現実と接しているときも、自分が一倍速で経験したことに関係していないことに関しては、言霊モードになることができるのである。

たとえば、他人の身に起こったことについては、言霊モードになるのである。

他人の疲労は、自分の疲労ではないので「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言ってしまうことができる。

他人の条件は自分の条件ではないので「できると言えばできる」と言ってしまうことができる。

このとき、言霊主義者は、夢のなかにいるわけではなくて、現実世界のなかにいるのである。

そして、他人と一緒の空間に存在しているのである。

だから、自分にとって不可能なことも、「できると言えばできる」と言ってしまう。

自分にとって不可能なことも、実際に自分の身の上に起こっていることではないので、言霊モードになってしまうのである。

●「自分にできるのは、一票を投じることだけだ」■社会※2026/04/17 7:24

何度も書いてしまうけど、言霊主義者のCさんは、「政治について、言ったって、なにもかわらない」と思っているのである。

「自分がなにを言ったって、政治なんてかわらない」と思っているのだ。

だから、「自分にできるのは、一票を投じることだけだ」と言い、「自分がやれることはやっているのだから、文句を言われる筋合いはない」と言うのだ。

「自分が政治についてやれることは、投票をすることだけだ」と思っているのである。

「言えば、言ったことが現実化する」のではないのか?

政治について、「自分」がこうなると言えば、言ったから、言霊の力によって、こうなるのではないのか?

もちろん、「自分」の意識が言霊に向いているときは、「言えば、言ったことが現実化する」と思っているのである。

ところが、現実世界で、現実的なことを考えると、言霊なんて、無視されてしまうのである。

「これこれこういう政策が実行される」と言えば、「これこれこういう政策が実行される」のである。

精神世界の人は、「社会のせいにしないで、自分のできることだけやればいい」などと言っている人が多い。

「自分ができないことは、最初から考えないで、自分ができることだけ考えればいい」と、言霊主義者なのに、言っている人がいる。

言霊主義者なのだから、言えば、かえられるよ。

できると言えばできるのだろ。

これ、おかしいんだよ。モードが切り替わってしまう。

言霊について語るときは、「言霊は絶対だ」と豪語するのである。「絶対に、言ったことが現実化する」と言って、ひかない。

ところが、普段は、「政治についてどれだけ自分が意見を言ったって、政治がかわるわけではない」などと言っているのだ。「自分がどうすることもできないことには、関心を向けないほうがいい」などと言っているのだ。

いやーー。できると言えば、できるんでしょ。言えば言ったことが、現実化するんでしょ。

問題なのは、本人が、モードの切り替えをしているつもりがないということなのである。

ようするに、言霊主義者が「自分が政治についてなにかを言っても、政治なんてかわるわけがない」と思っていても、まったく、疑問をいだかないのである。

どうかしているぞーー。

「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考えと「自分が政治についてなにかを言っても、政治なんてかわるわけがない」という考えが、どうやって、両立すんだよ?

*     *     *

「社会について不満を言うべきではない」という考え方も、わりと、はやっているのだ。これは、「不満を言うのはよくない」という考え方の系譜だ。

ようするに、「ネガティブなことを言うべきではない」という考え方なのだ。

これも、支配者にとっては、都合がいい考え方だ。

被支配者が、みんな「社会について不満を言うべきではない」と考えてくれると、支配者はやりやすくなる。

「自分ができることだけに集中して、自分ができないことは、無視したほうがいい」という考え方も、支配者にとっては、都合がいい考え方なのだ。

問題なのは、言霊的な考え方と、こういう「不満を言うべきではない」という考え方が両立してしまうことだ。

「不満を言うと、不満が(現実してしまうので)不満を言うべきではない」と言う考え方もある。

しかし、不満は、すでに、現実化しているのである。

現実生活の中で、不満を感じることが「すでに」あったのである。

だから、その時点で「不満を感じている」のである。

言ったあとに、現実化するのではなくて、言うまえに、現実化したことなのである。

こういうところでも、言霊主義者は、出来事の順番をまちがってしまう。出来事の順番をよく考えていない。

ともかく、自分の世界に埋没して、政治について不満を言うべきではないという考え方がある。

問題なのは、言霊主義者が、「政治について不満を言うべきではない」と言うことなのである。いい加減、矛盾に気がついてよ。

かりに、不満を感じたとする。言霊理論が正しいなら……そのときに、「これこれこれは、これこれこういうふうになる」と言えば、それで、これこれこういうふうになるのである。

言霊理論が正しいと思っているなら「不満を言うべきではない」とは、言うべきではない。

いくらだって、言うことで、上書きできるからだ。言うことで、即座に現実をかえることができる。「一秒以内に、これが、こうなる」と言えば、それで、現実をかえることができるんだよ。

言霊理論が正しいなら……。

けど、正しくないから、かえられない。

かえられないのに「言霊理論は正しい」と言っているのが、言霊主義者だ。

言霊主義者だって、現実の生活のなかでは、「自分にはできないことがある」と認識しているのである。

ところが、言霊理論に注意が向いているときは「できると言えばできる」と言ってしまう。「言霊理論は正しい」と言ってしまう。「言えば、言ったことが現実化する」と言ってしまう。
 

2026年4月17日金曜日

●エサにつられて、「これは、正しい」と思い込む■社会※2026/04/16 4:33

「願いがかなう」というのは、エサなのである。「思い通りになる」というのは、エサなのである。「幸福になる」というのは、エサなのである。「運があがる」というのは、エサなのである。

エサにつられて、「これは、正しい」と思い込む。

いったん思い込むと、それが、そいつのなかで「絶対法則」になる。

しかし、それは、自分が一倍速で経験していることには、あてはまらない。自分が一倍速で経験していることに関しては、「あたりまえだ」と思ってスルーしてしまう。無視してしまう。

言霊主義者の例で、説明したとおりだ。

自分が、電信柱に頭をぶつけて、いたいと思った場合は、「電信柱に頭をぶつけたから、いたい」と思っているのだ。いたくないときに「いたい」と言ったから、「電信柱に頭をつぶつけた」のだとは考えないのだ。

「いたい」と言ったから、「電信柱に頭をぶつけていたく感じるということが起こった」とは考えないのだ。

付け加えて言うと、冷蔵庫・庫内がひえるのは、あたりまえだから、「冷蔵庫・庫内がひえる」と言わなくても、ひえると思っているのだ。

以降、冷蔵庫と言う場合は、冷蔵庫の庫内のことを意味しているとする。

言霊理論が正しいなら……「冷蔵庫がひえる」と言わなければ、冷蔵庫はひえない。

「冷蔵庫がひえる」と言わなければ、「冷蔵庫がひえる」ということが現実化しない。

ところが、「冷蔵庫がひえる」と言わなくても、電気が供給されれば、物理的なしくみによって、冷蔵庫がひえるのである。

それから、室温が三〇度なら、部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける。

これも、言霊理論が正しいなら……「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言わないと、アイスキャンディーがとけない。

これも、物理的な現象だ。

別に、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言ったから、言霊の力によって、「部屋のなかにあるアイスキャンディーがとけた」わけではない。

しかも、室温がマイナス一〇度なら「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言っても、アイスキャンディーはとけない。室温という条件が、アイスキャンディーがとけるかどうかを、決めている。

言霊なんて、関係がないのだ。

「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言ったかどうかということは、「部屋のなかにあるアイスキャンディーがとけるかどうかに、あまり影響を与えない。

本人が、部屋のなかにいることで、室温がかわったり、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言うときに、室温がかわったりしなければ、影響はない。

たいていの場合、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言うことは、室温にたいした影響を与えない。

「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言うこと自体が、室温にものすごく小さな影響を与えるとする。

その場合だって、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」という言葉に宿っている言霊が結果に影響を与えているわけではない。

言霊主義者自身が、「あたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊の力で、そのことが現実化していなくても……まったく、疑問を持たない。

そういうレベルの「信仰」なのだ。

「ぬけぬけ」なのである。

*     *     * 

こいつらは、きちがい家族による至近距離の長時間騒音を経験していない。長期間騒音を経験していない。

こいつらは、毎日鳴る、きちがい騒音を経験していない。

それなのに、「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのだ。「どれだけ騒音が鳴ってたって、勉強ぐらいできる」と言うのだ。「できるできると言えばできる」と言うのだ。こんなうんこ野郎ばかりだったよ。

きちがい家族にやれると、こういう夜郎自大なバカに、わかったようなことを言われ、バカにされるのである。こんなの、ない。

以降、実際のクラスメイトを思い浮かべて書くことにする。 

そいつらだって、ほんとうは、自分がこの世で一番きらいな音が、あの至近距離で、あの時間の長さ、あの長期間、鳴っていたら、影響を受ける。自分がこの世で一番きらいな音……だという条件を満たすなら、あの音のなかで、勉強なんてできない。

やろうと思った時間が、汚染される。勉強しようと思ってみたものが、すべて、きらいになる。勉強しようと思ってみたものに、「騒音がしみついて」しまうからだ。

教科書を見たなら、教科書に書いてあることと、騒音が関連付けられてしまうのである。

これが、どこまでも、マイナスに働くのである。至近距離手を、あんな音のでかさで、自分がこの世で一番きらいな音が鳴っていたら、勉強なんてできない。

たぶんだけど、みんなできないんじゃないかな。もちろん、証明はできない。

2026年4月15日水曜日

●「Xの欠乏を満たすように、ポジティブに(前向きに)頑張ればいいのだ」■社会※2026/04/14 6:39

 たとえばの話だけど、名前だけ店長が、ニコニコしていなかったわけではないのである。

店長なので、営業中は、ニコニコしていたのである。

そして、名前だけ店長が、掃除をしていなかったわけではないのである。むしろ、店を維持するために、普通の人よりも長い時間、掃除をしていたのである。

そして、ほかのスタッフに、親切にしていたのである。サービス残業をしていたのだから、それだけでも、ほかのスタッフに親切にしていると言える。名前だけ店長が、ほかのスタッフがやるべき作業もしていたからだ。

名前だけ店長は、ニコニコしていなかったわけでもないし、掃除をしていなかったわけでもないし、ほかの人に親切にしていなかったわけではないのだ。

むしろ、それらの作業が、名前だけ店長の「疲労」をつくりだしていた。

これらの作業が、名前だけ店長の不幸をつくっているのである。

この場合は、不幸感と言ってもいい。あるいは、この場合は、不幸な感じがする生活をしていたと言ってもいい。

ようするに、日常の業務がきついということが、名前だけ店長が不幸だと感じる理由だったのである。

そりゃ、長時間労働になるので、家に帰っても、ゆっくり風呂にも入れない。長時間労働を毎日、しているので、毎日、睡眠時間が不足する。睡眠時間をじゅうぶんにとれないということが、重要なことなのである。

ニコニコ(作り笑い)とか掃除とか、他人に対する親切行為が不足していたから、不幸な生活をしているわけではなくて、逆に、ニコニコして、掃除をして、仕事を通して他人に親切にしていたからこそ、切羽詰まった生活が持続していたのである。

そりゃ、そんな生活をしていたら、趣味活動なんてできない。

趣味活動が一定の幸福感をもたらすとするなら、ニコニコ(作り笑い)とか、掃除とか、他人に対する親切行為をやりすぎて、趣味活動をする時間が無くなっていたので、幸福感がまったくない生活をしていたのである。あるいは、まったく幸福ではない生活をしていたのである。

普通の人よりも、各種教祖がすすめることをやりすぎているから、問題がしょうじているのである。

ところが、名前だけ店長が、不幸だからこまっているということを聞けば、ニコニコ教祖は「ニコニコするといいことがあるから、ニコニコすればいい」と言い、掃除教祖は「掃除をすれば、幸福になるから、掃除をすればいい」と言い、「人に親切にすると、運があがって幸福になるから、人に親切にすればいい」と言うのである。

むしろ、くるしめている。

むしろ、名前だけ店長をくるしめている。

ニコニコすることが欠乏しているから、不幸なのではなくて、ニコニコしている生活が不幸感をつくりだしているのである。そりゃ、長時間勤務で、長時間、作り笑いを浮かべていたら、つかれるだろ。

そして、あまりにもいそがしすぎて、異性と付き合う時間もないのだ。そして、勤務時間が長いにもかかわらず、低収入だから、異性と付き合うにしても、不利な立場になってしまうのである。

そういうこと、全体が、不幸感をもたらすのである。

だから、名前だけ店長が、幸福になるには、まず、ここから抜け出す必要がある。

労働時間の問題と労働に見合わない賃金の問題をどうにかする必要があるのである。

それでも、不幸さの度合いが、下がっただけだ。幸福になるのかどうかはわからない。

しかし、まず、自由な時間が必要なのである。

疲労困憊で、仕事以外のことがしにくい状態というのが改善されなければならないのである。

ところが、……何度も繰り返すけど、教祖は、「ニコニコすれば、幸福になる」と言い、掃除教祖は「掃除をすれば、幸福になる」と言い、親切教祖は「人に親切にすれば、幸福になる」と言うのである。

この人たちは、ぎりぎりの生活をしている名前だけ店長に、さらに頑張ることを、期待しているのだ。

こんなのは、ない。

やることが増えてしまうのでは、ないか。ただでも、労働だけで、時間が圧迫され、くるしい生活をしている。時間が圧迫され、くるしい生活をしているから、「幸福ではない」と(名前だけ店長は)感じているのである。

そして、さらに、収入が低いのである。こっちのほうが問題なのである。

ところが、ブラック社長が、名前だけ店長に、続けて労働をすることを押し付けているとき、もし、ニコニコ教祖がその場にいたら、ニコニコ教祖は、ブラック社長の味方になり、「もっもっとニコニコしながら仕事を続ければ、幸福になる」というようなことを言うのである。

掃除教祖がいたら、「もっともっと掃除をして頑張れば、幸福になる」と言うのである。

親切教祖は「もっともっと人に親切にして、頑張って働けば幸福になる」と言うのである。

この人たちは「もっともっともっと」頑張れば幸福になるということを言うけど、つかれている名前だけ店長の体調を心配したりしない。

「Xがたりないから、不幸なのだ」と決めつけ「がんばって、Xをやり続ければ幸福になる」ということを言う。

名前だけ店長の体なんて、まったく気にしていない。

「もう、むりだ」と言っている名前だけ店長が、どれだけつかれているか、まったく、まったく気にしない。

「Xの欠乏を満たすように、ポジティブに(前向きに)頑張ればいいのだ」ということになってしまう。

みんな、名前だけ店長に、親切にしないのである。

ブラック社長に攻撃され、搾取され、こまりきっている名前だけ店長の味方にならず、名前だけ店長を搾取する気持ちでいっぱいの、ブラック社長の味方になって、ブラック社長にとって、都合がいいことを、(各種教祖は)言うのである。

 「Xをすれば、幸福になる」と言うとき、「X」に、意識が集中しているのである。なので、対象者が「幸福ではない」理由は、「X」をしないからだということになってしまう。

ようするに、X以外の条件というのは、最初から無視されているのである。

だから、疲労とか睡眠不足という条件は、最初から無視されているのである。

疲労や睡眠不足といったわかりやすい条件だけではなく、(X以外の)ほかのすべての条件が無視されてしまうのである。

名前だけ店長は一人暮らしだから関係がないけど、たとえば、家族がきちがい行為を頻繁に繰り返せば、どうしたって、一緒に暮らしている人(別の家族)は影響を受ける。

この結果しょうじた「不幸感」というのは、対象者がほかの人に親切にしていないからしょうじる不幸感ではないのである。

ともかく、「Xをすれば、幸福になる」と言うとき、「X」にフォーカスが集まるので、「X以外の条件」は瞬時に、自動的に無視されてしまうのである。

そして、相手(対象者)が「Xをしても、幸福にならなかった」という意味のことを各種教祖に言えば、教祖は、「不足」を問題にするのである。

ようするに、「じゅうぶんでないから、幸福にならない」ということを言い出すのである。

これも、ステレオタイプの反応だ。

その場合、ほんとうは、「Xをしないから、幸福ではない」という理論は、くずれている。崩壊している。

どうしてかといと、「Xをしたのに、幸福にならなかった」からだ。

そして、各種教祖は、このことを認めない。

数量を持ち出すなら、もう、まけているのだ。

ところが、まけているということに気がつかない。自分が間違っていたということに気がつかないのだ。

そして、あくまでも「対象者」のXをする回数やXの量が問題なのだと言い出す。

二値思考から、数量思考になっているのだけど、二値思考である「最初の理論」が破綻していることに気がつかない。

しかし、あいかわらず「Xにフォーカスが集まっている状態」は続くのである。

各種教祖は「ほかのことが原因で」相手が幸福ではない状態で暮らしているとは、考えないのだ。あくまでも、Xに注意が集中している状態が、続く。

「Xをすれば、幸福になる」と言ったとき「Xの欠乏が、幸福ではない人が、幸福ではないことの原因だ」と決めつけてしまうからだ。

対象者が、ほかのことでどれだけくるんでいても、それは、認められないのである。

対象者が、ほかのことでどれだけくるしんでいても、そんなことは、無視してしまう。各種教祖は、ほかのことで(対象者が)くるしんでいるということを、無視してしまう。

こういうことを(各種教祖が)善意でやっているということが、さらに問題なのだ。各種教祖は、不幸な人を救ってやりたくて、「Xをすれば、幸福になる」というようなことを言っているわけだ。

善意でやっていることなのである。

二軍以下は、善意でやっている。もちろん、カネもうけの手段である場合は、善意だけではないのだけど、善意でやっていることだ。

けど、これが問題なのである。洗脳設計者は、こういう状態をつくりだしたかったのである。各種教祖の状態は、そのまま、各種教徒の状態になる。

各種教祖は、おカネ儲けのためにやっているという側面もあるけど、各種教徒が(おカネとは関係なく)対象者に助言しているときは、各種教徒は、善意でやっているのである。

しかし、けっきょく、「Xをしていないから(対象者は)不幸なのだ」という前提が間違っているのである。見当ちがいのことを言っているのである。 あるいは、「Xの量がたりていないから、(対象者)は不幸なのだ」という前提が間違っている。これも、見当ちがいのことを言っているのである。 

`Xにフォーカスが集まっているから、Xをしていないことや、Xをする量が不足していることが、「理由」になってしまう。

その対象者が、不幸な理由は、Xをしていないことや、Xをする量が不足しているからだということになってしまう。

ところが、X自体が、対象者を不幸にしている場合がある。

そして、X自体が対象者を不幸にしていない場合も、ほんとうの原因から、Xに気持ちをそらす役割をしてしまうのである。

Xはこの場合、ニセの原因なのだけど、ニセの原因に意識が集中してしまうために、むしろ本当の原因は、無視されてしまうのである。

なので、Xをしていることや、Xをやりすぎていることが、不幸感の原因ではない場合も、ニセの原因を提示されたために、対象者の幸福度がさがるのである。

そりゃ、ほんとうの原因が取り除かれなければ、その本当の原因によって、不幸な状態というのは、「Xをしたあとも」続くわけだから、こまるのである。不幸感が消えないのである。

かえって、やることが増えて、不愉快な状態になるのである。Xをやらなければならい状態になると、Xがリソースをくうので、もっともっともっと、くるしい状態になってしまうのである。

Xをやるということは、そのぶん、体力を失うということになる。そして、同時にできることを除いて、Xをやるということは、そのぶん、時間を失うことになる。

いいことじゃないのである。

そして、ほんとうの原因に対処したわけではないので、たいていの場合、不幸感が増すのである。 

2026年4月14日火曜日

●自我と結びついた確かな感覚があるのである■社会※2026/04/14 6:21

「感謝すれば幸福になる」と言ったとしよう。

これは、前向きな発言だと思える。

ところが、背後には、暗い考え方がひそんでいるのである。あるいは、傲慢な決めつけがひそんでいるのである。どうしてかというと、相手が不幸なのは、感謝をしないからだという決めつけがあるからだ。

「だれかが不幸なのは、その人が感謝をしないからだ」という考え方が前提にあるのである。

だれかというのが、Aさんだとする。Aさんが不幸なのは、Aさんが感謝をしないからだという考え方があるのである。

だから、不幸なAさんが感謝をするようにすれば、幸福になるのである。……そういう考え方だ。

しかし、Aさんが不幸なのは、感謝をしないからではないのだ。

そして、「(いま)あるものに感謝をする」という考え方は、これまた、格差を是認する考え方であり、格差を強化する働きがある。

Aさんが子供で、きちがい的な父親にたたられているとしよう。

その場合、きちがい的な父親の行為によって、Aさんが、幸福ではないと感じているということになる。父親に感謝をする気持ちがないから、Aさんが不幸なわけではないのである。Aさんが不幸なのは、現実的な父親の行為が原因だ。

「Aさんが、不幸なのは……」と書いたけど、Aさんが、不愉快な気持ちになって、腹を立てていたとしても、Aさんが、不幸だと考えているかどうかはわからない。

不幸というのは「態」であり、本人の認識によるものだ。

生活全体を「不幸だ」と認識すると、不幸だということになるのである。

個々の感情は、かならずしも、「不幸な感情」ではない。

*     *     *

まあ、それはともかくとして、 「だれかが不幸なのは、その人が感謝をしないからだ」と語られないにしろ、「感謝すれば幸福になる」と言う人の頭のなかには、 「だれかが不幸なのは、その人が感謝をしないからだ」という考え方がある。

最初は、二値なんだよ。

「感謝する」と「感謝しない」という二値だ。

けど、相手が「自分だって感謝している」ということを言ってきた場合、その人……「感謝すれば幸福になる」と言っている人は……数量思考になり、感謝がたりないということを言い出すのである。

「相手が不幸なのは、感謝の量がたりないからだ」ということを言い出すのである。まあ、感謝の回数でもいいよ。

ともかく、ここでも、「相手は欠乏」しているのである。

感謝の量や感謝の回数がたりないから、相手が不幸なのだと言い出すわけ。

最初の二値思考の場合は、「あるかないか」だけが問題になっているのに、相手が反論をした場合は「量や回数」が問題になるのである。

もう、「量や回数」を持ち出した時点で、最初に言っていることとは、ちがう内容を言っているのである。

しかし、「感謝すれば幸福になる」と言う人にとっては、そのちがいは、たいしたちがいではないのである。

しかし、もう、ぜんぜんちがうことを言っているということは、認識するべきだ。「感謝すれば幸福になる」と言っている人は、認識するべきだ。ぜんぜん、ちがうことを言っている。

だいたい、感謝というのは、意識的に「するようにする」ものなのかという疑問がある。意識的に「するようにする」感謝の場合は、自然に湧き出る感謝とは、ちがうのではないかという疑問がある。

笑いたくないのに、笑顔をつくるときの気持ちと、なにか自然におかしなことをがあって笑っている場合の気持ちは、ちがうのではないかと思う。

意図的に、笑い顔をつくるときと、楽しいことがあって笑っているときとでは、そのとき感情がちがうのである。

意図的に、笑い顔をつくれば、ほんとうに笑えるようなことが発生するようになるという考え方があるけど、それは、妄想だ。

おなじように、ほんとうに、感謝をしたくて感謝をしているときの気持ちと、意図的に感謝をする気持ちになろうとして、感謝をしているとき?の気持ちは、ちがう。

ちがうのでちがう。

意図がかかわっているから、ちがう。

意図がかかわっていないときは、自我と結びついた確かな感覚があるのである。

そのように感じるプロセスのなかで、自然にそのように感じるのである。

「意図的に」こういう気持ちをつくろうと思って、こういう気持ちになったようにふるまっているのではないのだ。

そして、「感謝すれば幸福になる」と言う人は、相手……自分以外のだれか……の条件を、無視している。

不幸な暮らしをしているのに、意図的に感謝をすることをすすめられたときの、気分というのを無視している。その不幸感には理由があるんだぞ。

そりゃ、「感謝すれば幸福になる」と思っていて、意図的に感謝した場合も、自然に感謝の気持ちが湧き出て感謝した場合もおなじだと考えているのであれば、「感謝すれば幸福になる」と自信をもって言って、なにも感じないわけだけど、ほんとうは、かなり、相手に対して無礼なことをしている。

相手が抱えている条件を無視するという態度自体が、ほんとうは、相手に対して失礼なのだ。

2026年4月13日月曜日

●罪の意識を持たせようとして、わざと間違ったことを言っている■社会※2026/04/03 3:42

たとえば、「エイリは、自分(Cさん)に、罪の意識を持たせようとして、わざと間違ったことを言っている」と思う人が、同時に、「すべては自己責任」だと思っている人だとする。

ようするに、「エイリのせいで、自分(Cさん)が反省しなければならないような気分になった」と言っているのだ。

Cさんというのは、ブラック社長が、名前だけ店長に、無理なことを押し付けたときに、ブラック社長がっていることが正しいと言って、ブラック社長に協力をした人だ。

こういう人が、実際に、名前だけ店長を追い込んでいる。ブラック社長だけではなくて、Cさんのような人も、名前だけ店長を追い込んでいる。

Cさんの理論というは、単純で、間違っている。『できると言えばできる』と思っているのだ。『これが正しい』と思っているのだ。だから、名前だけ店長は「できると言って、頑張ればいい」ということになる。こういう問題を指摘したのだ。

エイリがこういう問題を指摘したとする。

そうすると、Cさんは、「自分は正しいことをやっているのに、エイリというやつが、自分(Cさん)に罪の意識をもたせようとしている」とも思うのだ。

しかも、「すべては自己責任」なら、「罪の意識をもたされそうになった」ことも、自己責任だ。そもそも、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考え方が間違っている。こまるんだよ。

Cさんの発言で、名前だけ店長はこまったんだよ。ブラック社長の側に立つやつがいる。ブラック社長の言っていることが正しいと決めつけるやつが、いる。いやーー。

ブラック社長が言っていることは、間違っている。

「人に親切にしましょう」「人がいやがることはやめましょう」「すべては自己責任だ」と言っている人が、こういう反応なのだ。

Cさんやブラック社長は、たぶん認めないと思うけど、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考え方は相当に間違っている。その考え方は、妄想的な考え方なのである。現実的ではない考え方なのである。

そして、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということを前提にして「できると言えばできる」と言うことも、相当に、よくない行為だ。

「エイリというやつは、自分(Cさん)に罪の意識を持たせようとしている。だから、そういう発言をしている」という推測は、邪推だ。ほんとうは、自分は間違っていないのに、間違っていると言われたのが、くやしいという気持ちがある。

エイリというやつが、よこしまなやつだから、ほんとうは悪いことをしていない自分に、悪いことをしたと思い込ませようとしているのだと考えてしまうのだ。

いやーー。どこまで、自分勝手なんだよ。

名前だけ店長がかわいそうだろ。

「エイリのせい」にしているじゃないか。自分の不機嫌な気持ち(不愉快)を、エイリのせいにしている。

しかも、Cさんは、「すべてに感謝」とか「感謝をすれば幸福になる」とかというようことを言っている人なのだ。

けど、いままで、人の代わりに、強烈にくるしいサービス残業をしてきた名前だけ店長には、ぜんぜん感謝しないのだ。

Cさんにとって、名前だけ店長は「できない」とネガティブな発言をする人だ。それだけなのである。

こういうやつが、「すべては自己責任」「人のせいにしない」などと言っているのだ。

こんなのない。 

●ようするに、「ぬけ」がある■言霊※2026/04/02 3:32

「ぬけ」という言葉で表現してきたのだけど、人によって、自分が提唱している理論に、自分が、普段、あわせて暮らしているかどうかという意識には、差があるのである。

「ぬけぬけ」度が高い人は、自分が提唱している理論とはちがうことをしていても、「ぬけぬけ」だから、まったく気にしない。

一方、「ぬけぬけ」度が低い人は、自分が提唱している理論とはちがうことをしているということを、意識してしまう。

だから、自分が提唱している理論とはちがうことをしているということを、意識してしまうような人は、自分の内なる基準にやられて、くるしむことになるのである。

この感度の差というのは、どうすることもできない。

「ぬけぬけ」度が高い人……鈍感力が強い人に……「もっと、注意して考えたほうがいい」と言っても、「ちゃんと考えている」と言ってゆずらないので、本人が、本人のぬけぬけ具合に、気がつくことがないのである。

言霊主義者が、普段、自分が当たり前だと思っていることに関しては、現実的な思考になり、言霊的な思考にならないということも、「ぬけぬけ」度が高いかどうかと関係がある。

「一〇円玉が下に落ちるのは当たり前だ」と考えている場合は、「一〇円玉が下に落ちる」と言わなくても、一〇円玉が落ちたことに関して、まったく疑問を抱かないのである。

どうしてかというと、あたりまえだからだ。

「万有引力によって落ちる」と考えている場合だってあるだろう。

「万有引力によって落ちる」と考えている言霊主義者は、「言霊の力によって落ちる」とは考えないのだ。

「電車は、電気の力で動く」と考えている言霊主義者は、言霊の力で、電車が動かなくても、まったく疑問をもたないのだ。

ぬけぬけ度が高いから、疑問をもたない。

「冷蔵庫(庫内)が冷えるのは当たり前だ」と思っている言霊主義者は、「冷蔵庫(庫内)が冷える」と言ったから、冷蔵庫(庫内)が冷えるのだとは思っていないのだ。

冷蔵庫(庫内)は冷えてあたりまえだから、言霊の力なんて関係なしに冷えると思っているのだ。

けど、言霊の力なんて関係なしに冷えると思っているということに(言霊主義者本人が)無頓着なのだ。

ようするに、「ぬけ」がある。

 

2026年4月12日日曜日

●言うだけで、きちがい家族の行動をかえられたら■言霊※2026/04/12 6:28

 ほんとうに、ずっと「やめろ」「やめろ」「やめろ」と言っていたのに、ずっとやられたんだよな。

ずっと、鳴っていた。ものすごい音で鳴っていた。

ほかのうちでは鳴っていないような、ものすごい音で鳴っていた。

「やめろ」というのは、兄貴の部屋まで行って、兄貴に向かって言ったのだ。

ぼくが、自分の部屋で言ってたわけではない。「言えば、言ったことが現実化する」のであれば、苦労はないよ。その理論は、ぼくをずっと裏切ってきた。

言霊主義者が、言霊は正しいと思っている根拠というのは、「雨がふると言ったら雨がふった」とか「元気だ元気だと言ったら、元気になった」とか、そういうレベルのことだ。

どっちも誤解なのである。

たとえばの話だけど、きちがい家族と一緒に住んでいるぼくのような人は、きちがい家族の行動によって、こまっているんだよ。言うだけで、きちがい家族の行動をかえられたら、こんないいことはない。けど、それができないのである。

どうしてかというと、言霊なんてないからだ。

きちがい家族が、きちがい家族の脳みそをもっていて、その脳みそが、きちがい行動を、熱心に、しつこくやることを要求しているからだ。

その要求通りに、きちがい家族の体が動く。

そうなると、自動的に、「こっち」が被害を受けるのだ。

問題は深刻なんだよ。

それを、「言えば言ったことが現実化する」と言って、無理なことを押しつけてくるやつはなんなんだ。そういうやつらは、みんな……ぼくの経験の範囲で言うと……みんな……「言い方が悪いからダメなんだ」と言ってくる。

これも、ひどい話だぞ。

ところが、兄貴とおなじように、言霊主義者は、「ひどい話だ」とは思っていないのである。「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」と言ってゆずらない。

*     *     *

『信念』と言えば、格好いいけど、『妄想的な信念』は、やっかいなんだよ!!! 

●そういう表面的な、第一印象的な解釈が、ずっと続くことになる■騒音※2026/04/09 7:07

きちがい兄貴の態度というのが、ほかの人にとって想像しにくい態度なんだよな。誤解がうまれる態度なんだよな。

だいたい、兄貴・本人が「でかい音で鳴らしていない」という気持ちをもっていること自体がおかしいからな。そりゃ、ほかの人は誤解するだろう。常識的に考えて、ありえないことだから、誤解をする。

あれだけでかい音で鳴らしていて、普通の音で鳴らしているという感覚をもっている(認識をもっている)ということ自体が、おかしいことだ。異常なことだ。

でかい音で鳴らしていても、普通の音で鳴らしているというふりをしているという場合はある。聴力が正常で、自分が、おなじ音で騒音を聞かされたら、「うるっさささい」と逆上してしまうような音で鳴らして、静かな音で鳴らしていると思っている感覚がおかしい。認識がおかしい。 

そんな「隠れ設定」が、ほかの人に、わかるはずがない。きちがい兄貴がきちがいたるゆえんは、本人がわかっていなことだ。

ほかの人だけではなくて、本人がわかっていないのだ。自分が頑固にやっていることなのに、わかっていない。

聴覚が正常なら、どれだけ止めたくないことだって、認めるしかないのことなのに、「認めないぞ」と思っていないのに、ごく自然に「認めない」状態になっている。

こんなの、おかしい。まじで、きちがいだ。こういうところに、ずるさがあるんだよ。きちがい兄貴のずるさがある。絶対に、きちがい兄貴がきらいな音を、きちがい兄貴が鳴らした音のでかさで、鳴らしているやつがいたら、うるさいと思うのである。

きちがい兄貴だって、『うるさい』と思って腹を立てるのである。きちがい兄貴だって、その騒音なかで、勉強することができないのである。

ところが、ヘビメタは自分が思いっきり鳴らしたい曲なので、そういう部分を乗り越えてしまう。

もちろん、無意識的に乗り越えているから、意識的には、ぜんぜん気にしないということになる。わざとやっていることじゃないんだよ。普通なら……きちがいでない人なら……わざとやることになるんだよ。

必然的にそうなる。

きちがい兄貴は、きちがいだから、「でかい音で鳴らしている」という認識が、一五年間、ずっとなかった。これがおかしいのである。

けど、そのおかしさが、また、ほかの人にはわからないのである。

だから、俺が嘘を言ってると思うやつが、続出する。俺が大げさに言っているだけなんだと思うやつが、続出する。きちがい兄貴は、そういうことを、俺に押し付けている。このやり方は、きちがい親父のやり方とまったくおなじだ。

やっているやつの感覚がおかしいから、よその人が誤解をしてしまうのだ。こんなの、ない。

よその人はよその人で、自分の解釈に自信があるんだよ。常識的な解釈をしているわけだからそうなる。こまるんだよな。言霊主義者とぼくとの間に起こったことが、常識的な人とぼくのあいだに、起こる。

しくみは、おなじなんだけど、認めないだろ。

みんな、自分の解釈に自信がある。

「そんなのおかしい」と思ったら、よっぽどのことがない限り「そんなのおかしい」と思ったままだ。

つきあいが、とてつもなく深い人でなければ、そういう表面的な、第一印象的な解釈が、ずっと続くことになる。 

2026年4月11日土曜日

●「一〇〇%構文」が、「人(ひと)」というレベルで成り立ってしまう■社会※2026/04/11 1:16

自己責任論についてちょっとだけ言っておく。

自己責任論というのは、ほんらい責任を問うべき人の責任を問わない理論なのである。

たとえば、政治家が悪い政策をしたとする。その場合、その政治家の責任だということになる。

ところが、自己責任論になると、悪い政策の被害を受けた人の責任だということになってしまうのである。どうしてかというと、悪い政策の被害者は、その政治家が悪い政策をするとき、反対しなかったから、自己責任だということになるからだ。

そして、「なんでも、自分の身に起こったことは、自分の責任だ」ということになるので、悪い政策の被害を受けた人たちの責任だということになってしまうのである。

そうなると、「ほんとうは、責任がある人」をせめずに、「ほんとうは、責任がなく、被害を受けた人」をせめるということになってしまうのである。

この特徴は、いろいろなところであてはまる。

言霊の「できると言えばできる」ということも、これとおなじことが成り立っている。

それらの言葉は、社会のしくみのなかで機能しているわけだから、言ったもの勝ちだということになってしまう。

「すべては自己責任」とか「できると言えばできる」という言葉は、社会のなかで機能しているのである。

だから、運用の問題が発生する。

ところが、『正しそうなら、正しい』と確信してしまう人たちが出てくる。

この人たちは、悪い政治家の責任は問わずに、悪い政治家がやったことによって被害を受けた人たちの責任を問うということになってしまうのである。

しかし、自己責任論を信じている人たちは……つまり、自己責任論で洗脳されている人たちは……『自分がいいことをしている』とか『自分が言っていることは正しい』とかと思ってしまうのである。

ほんとうは、責任がない人たちの責任を問い、ほんとうは、責任がある人の責任を問わず……ほんとうは責任がある人の側に立ち、責任がある人をかばっているにもかかわらず、『自分が正しいことをしている』と思ってしまうのである。

これが、社会における自己責任論のほんとうの存在理由だ。

逆算して、こういう『社会的な雰囲気』をつくるために、自己責任論をはやらせたのだ。

しかし、「ほんとうは、責任がない人たちの責任を問いましょう」「ほんとうは、責任がない人たちに責任をおしつけましょう」「ほんとうは、責任がある人の責任を問わずに、責任がある人のことをかばいましょう」とは、(彼らは)言わない。

そんなことを言っても、「これは正しい」と思う人は少ないからだ。

だから、アンガーコントロール論としての、自分を対象とした自己責任論を、まずは、はやらせるのである。

これだと、『これは正しい』と思う人たちが、出てくるからだ。

多くの人が、自分を対象とした、アンガーコントロール論としての、自己責任論は正しいと感じてしまうのである。

しかし、一度、自己責任論を受け入れた人たちの多くが、他人を対象とした自己責任論を語りだすのである。

どうしてかというと、人間には、自分を対象とした自己責任論限定で、自己責任論が正しいとは、思えない傾向があるからだ。

自己責任論は『論』として正しいと思ってしまうのである。

だから、他人を対象とした自己責任論も正しい理論だということになってしまう。ここで、抽象的なジャンプをおこなっているのである。

対象が、拡張してしまう。

「宇宙を貫く絶対法則」ではないにしろ、『これは正しい』と思った人は、他人を対象とした自己責任論を語るようになるのである。

なぜかというと、『これは正しい』と思っているからだ。

なので、冒頭に戻ると、「悪い政治家」の責任は、なぜか追及されず、悪い政策の被害者が、責任を追及されるということが発生してしまうのである。

そして、責任を追及するほうも、一般人だという「いやらしさ」がある。

一般人が、被害者である一般人の責任を追及し始める。これは、やばいだろ。

数で言えば、一般人のほうが、圧倒的に多いのである。

少数の「悪い政治家」ではなくて、多数の「一般人」が、批判の対象になるのである。

多数の一般人が、多数の一般人の「責任」を追及し始める。

しかも、えん罪である場合もある。

この場合、悪い政治家のほうが悪いわけだから「悪い政治家の責任」を追及するべきなのに、悪い政策の「被害者の責任」を追及し始めるということになってしまうのだから、えん罪だ。

一般人のなかで、「被害者」のほうに責任がなすりつけられているのである。

他人を対象とした自己責任論者は、一括思考をして、被害者のほうの責任だと決めつけ、被害者のほうの責任を追及し始めるのである。

たとえば、実際に一般人のなかに、その人の責任で、うまくいかないことが発生したということがあるとする。

けど、それは、個別に考えるべきことなのである。

ようするに、一括思考はよくない。

これ、一括思考をしているのだ。

たとえば、無職のなかには、たしかに、その人の責任で無職になったという人もいる。

けど、その人の責任ではなく、いたしかたがない理由で無職になった人もるのだ。無職のなかには、とりあえず、この二種類がいるとする。

無職というレベルでラベリングをすると、無職は無職なので、いたしかたがない理由で無職になった人も、その人の責任で無職になったという人も、おなじだということになる。

一括思考で、おなじような存在だとみなして、「無職になったのは、自己責任だ」と決めつけてしまうのである。

しかし、その人の責任で無職になったという人といたしかたがない理由で無職になった人は、ちがうのである。

たとえば、ニートのなかには悪い人もいるとする。

だから、ニートは全員が悪い人なのかというと、それは、ちがうのである。

ところが、一括思考をしてラベリングをしてしまう人は、「ニートのなかに、悪い人がいるのだから、ニートは悪いやつらだ」と一括思考をしてしまうのである。

たしかに、被害者のなかにも悪い人がいるのだけど、それは、被害者が悪い人だということをいしていないのである。

悪い政策の被害者のなかには、たしかに、「本人」に問題がある人もいるだろう。

「本人」の行動によって、悪い状態がしょうじたということもあるだろう。

しかし、そういう「本人」が、ひとりいるからといって、「本人」全員に問題があるとは言えないのだ。

本人に問題がない場合も、被害を受けることがある。

ラベリングをして、一括思考をすると、個別性が失われるのである。

そして、自己責任論の場合、他者を対象とした自己責任論になるので、「他者全体」というレベルのラベリングがおこなわれることになる。

どこでおこなわれるかというと、一般人のなかにいる自己責任論者の頭のなかでおこなわれるのである。

多数の一般人なのだよ。

多数の一般人は、まず、アンガーコントロール論としての「自分を対象とした自己責任論」を正しい理論だと認識する。

しかし、この人たちの頭のなかで、他人を対象とした自己責任論が付け加わるのである。

どうしてかというと、「抽象的に正しい理論だ」と思っているからだ。

抽象的なレベルで、「一括化」が発生する。

自分を対象とした自己責任論は、「人(ひと)」というレベルで抽象されてしまうのである。

そうなると、「一〇〇%構文」が、「人(ひと)」というレベルで成り立ってしまう。

2026年4月10日金曜日

●働かないことを選んだわけではなくて、働けない体にされたのである■騒音※2026/04/08 9:29

ちょっとよくわからないことがある。

それは、ぼくが(当時)無職だということに、コンプレックスをもっていると思う人たちがいるということだ。

これ、当時の話なのだけど、この人たちが想定している「無職コンプレックス」とぼくが、感じている「いらだち」はちがうのである。

ぼくが感じている「いらだち」というのは、きちがいヘビメタ騒音のことをほかの人たちが認めないということなのである。

きちがいヘビメタの影響を……多くの人たちが認めないのである。

そして、このようなほかの人たちは、(みんな)無職に対して偏見をもっているので、俺に対して、偏見を持つのである。

しかし、ぼくは、偏見を持たれるようなことをしていないのである。

こっちが不愉快だと感じる態度をとられると、腹が立つのである。こいつら……は、みんな、ヘビメタ騒音の影響がどれだけでかいかということを認めない。

こいつらが経験したような「騒音」とおなじレベルの騒音だと思っているのである。そして、「自分だって苦労した」という言葉で、すべてを、相対化してしまう。

いやーー。あなたが、苦労したということは認めるけど、ぼくと同等の苦労をしたとは認めていないのである。ぼくは……認めていないのである。

けど、相手の頭のなかでは、「自分だって苦労した」と言うことで「同質・同量」の苦労をしたということになってしまうのである。「同質・同量の苦労をしたけど」自分はそれにたえて、働いている……。

……だから、エイリも働けるはずだという思い込みがあるのである。

ところが、この思い込みが間違っているのである。そもそも、この人たちは、ぼくと「同質・同量」の苦労をしていない人たちなのだ。苦労はしたけど、「同質・同量」の苦労は、していないのである。

どうしてかというと、家族がきちがい兄貴のような家族ではなくて、普通にしずかにしてくれる家族だったからだ。あるいは、そもそも、きちがい兄貴が鳴らすような音で、音楽を聴こうとしない家族だったからだ。

何度も言うけど、この人たちは、きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがないのである。だから、きちがい的な家族がもたらす、苦労をしたことがないのである。

家族関係の苦労に絞るなら、この人たちが経験した苦労というのは、普通の家族がもたらす苦労なのである。

きちがい兄貴と言ってるけど、うちの兄貴の感覚は、おかしいのである。狂人のそれなのである。

まず、あれだけの音で鳴らしても、まったく問題がないと感じてしまう感じ方がおかしいのである。

そして、あれだけの音で鳴らしていながら、なおかつ、聴力が正常なのであれるにもかかわらず、「普通の音で鳴らしている」と思ってしまう無意識的構造が、おかしいのである。

異常なのである。

普通の頭の持ち主ではないのである。

異常な頭の持ち主なのである。

その異常な頭の持ち主が、こだわってこだわって、こだわって、やることが、ぼくに影響を与えたのである。

ほかの人たちは、ヘビメタ騒音の話を聴いたあとも、ぼくが、普通に働けると思っているのである。

ところが、ぼくは、普通に働くことができないのである。どうしてかというと、長期間、きちがい兄貴の騒音が毎日、鳴っていたからだ。

この毎日の騒音というのは、毎日に影響を与える。

もちろん、ぼくの毎日に影響を与える。

「自分だって苦労した」と言った人の、毎日影響を与えたのではなくて、ぼくの毎日に影響を与えているのである。

*     *     * 

ぼくが「無職コンプレックス」をもっていると考える人が、考えている「無職コンプレックス」というのはなんなのかというと、「無職劣等コンプレックス」のことなのだ。

ようするに、劣等感のことなのだ。

だから、ぼくは、この言葉に、ひっかかりを感じるのである。ぼくが持っているのは、「無職劣等コンプレックス」ではないのである。

コンプレックスというのは、心的な複合体という意味だ。

だから、当然、優位コンプレックスとか優等コンプレックスとかといわれるものもある。

しかし、日本語では、コンプレックスと言えば、劣等コンプレックスのことを指すということになっている。 

コンプレックスということを言うのであれば、ぼくが感じているコンプレックスは、「きちがい兄貴コンプレックス」なのである。ぼくが感じているコンプレックスは、「きちがい騒音のコンプレックス」なのである。

きちがい騒音の結果、無職になった。「きちがい騒音の結果」という部分を、ごく少数の例外を除いて、よその人は、無視する。

無視したよその人が、ぼくが言っていることを認める確率というのは、ほぼ〇%だ。これが現実なのである。

だから、「無職であることのコンプレックス」ではなくて、「ヘビメタ騒音によって無職にされたコンプレックス」なのである。自分が納得して、無職になったのではなくて、きちがいヘビメタ騒音によって、無職にされたのである。この「された」という部分を理解できる人は、ほんとうに少ない。たいていの人は、この部分を無視する。たいていの人は、この部分を理解しない。

働かないことを選んだわけではなくて、働けない体にされたのである。

長い年月をかけて、働けない体にされたのである。

この「長い年月をかけて」という部分を無視してしまう人がいる。その人たちのなかでの「騒音」というのは「鳴っているときの騒音」だけなのである。

割と短い騒音時間を想定して「鳴っている時間」というものを考えるのである。だから、きちがい兄貴の騒音のことがわからないのである。

どれだけの意地で、毎日、無視して鳴らしたか……ということがわかっていない。毎日のことなんだよ。通学していたとき、六年と半年間、続いたんだよ。

そのあとも何年も何年も毎日、あたりまえのように続いたんだよ。

どうしてかというと、きちがい兄貴が、鳴らしてはいけないレベルの騒音だということを、そのあいだずっと考えなかったからだ。

どれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度ではねのけて、耳が正常なら絶対にわかることを認めないのである。絶対に認めなければならないことを、認めないのである。

この態度が、もたらす、不愉快な感じといったらない。

そういう態度で鳴らしているやつが鳴らしている騒音なのである。これも、工事の騒音とは違う。工事の人たちは、でかい音を出しているということがわかっている。

工事を計画した人も、それがわかっているから周辺住民に、だいたい、この時期には終わるということを告知するのだ。

ところが、きちがい兄貴は、でかい音で鳴らしているのに、小さな音で鳴らしていると思っているのである。あんなでかい音で鳴らして普通の音で鳴らしていると思っているのだる。これが、感覚器を欺くことなのだ。

普通の人であれば、芝居をしているだけなのである。

ところが、きちがい兄貴は、自分がどでかい音で鳴らしたときは、それが普通の音に感じてしまうのだ。

そういう脳の書き換えがある。感覚器自体は正常なのに、思いっきり鳴らしたいので、たいした音じゃないと思ってしまう。

感覚してしまう。思いっきり鳴らしたいから、無意識的な嘘がしょうじるのである。そして、そういう嘘を生じさせたということに、ほんにんがどこまでも、無自覚なのである。

こんな汚いやり方で、毎日、ものすごい損害がしょうじる騒音をやられたら、たまったものじゃない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている人は、ちがうタイプの騒音について述べている。ぜんぜん、ちがう。

「俺だって騒音ぐらいあった」という反応しかたは、俺だって苦労した」いう反応とおなじで、ぜんぜんわかっていない人の反応なのである。

この人たちは、感覚器を書き換えてしまうタイプの嘘つき家族とは、一緒に暮らしたことがないということが、あきらかだ。

感覚器を書き換えてしまうタイプの人間が出している騒音を毎日聞かされたことがないということが明らかだ。ほんとうに、毎日、ほんとうに同じレベルの騒音が、ずっとずっと続いたら、こいつらだって、通勤して働けない体になる。

実際に、通勤して働けない体になっていないところを見ると、ずっと、軽症なのである。ぜんぜん、わかっていない。

わかっていないということ自体が、この人たちが経験した騒音が、ぼくの経験した騒音とは全くレベルのちがう騒音だということを、如実にあらわしている。

2026年4月9日木曜日

●ヘビメタにやられて人生がなかった■騒音※2026/04/09 14:33

『懐メロ』を聴いているけど、むなしい。とてつもなく、むなしい。はやく、ねむれるようにならないかな?

ほんとうに、ぼくの人生は、なんだったんだ。 

ヘビメタにやられて人生がなかった。

あのくるしい日々が実際に続いてしまったら、もう、元の状態にはならない。ずっと、やられてくるしかった。あんなの、ほんとうに、ほかの人のうちでは、ありえないことなのである。だから、ほか人は、自分のこととして体験していない。同程度の体験がない。同程度の体験がないら、体がどうなるかわからない。

どれだけ、「楽しい」と言ったって、そりゃ、毎日、一秒だって聞きたくない、きちがい騒音が、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、鳴っているのだから、こたえるだろ。

この、こえるということがわからないんだよね。

たとえば、普通の人……やられていない人は。特に自己中心性が強い人にはわからない。相手の立場に立って考えることが、不得意だからだ。

本人が、「じゅうぶんに考えたつもり」になっても、「わかったつもり」になっても、きちがい兄貴とおなじぐらいに、わかっていないのである。

もちろん、この人たちは、騒音事件の犯人ではない。

だから、兄貴とは立場がちがう。それは、わかる。わかるんだよ。ともかく、影響を無視したり、低く見積もるのは、やめてくれ。実際には、不可避的に、影響を受ける。

その過程について、まったく理解がないから、俺に対して、アホな発言をする。アホな発言なんだよ。

どうしたって、影響を受ける。毎日、受ける。そして、ぼくは、ぎりぎりの生活をしていた。これも、不可避的にぎりぎりの生活になってしまうのである。実際に、平日は約7時間、休日は約13時間、きらいな音を、あの音ででかさで、聞かされ続けると、どれだけ頑張っても、影響が出る。

はりつめた毎日だ。

たとえ、ほかの人に、ヘビメタ騒音のことを言わなかったとしても、はりつめた状態で暮らしていることには変わりがない。ぎりぎりだった。これが、どういうことだかわかるか? 言霊主義者なんてわかるはずがない。

「ネガティブなことを言うから、ネガティブなことが起こる」……これが、きちがい家族に毎日やられた人にとって、どういう発言かわかるか? 

 

 

 

●だったら、それ以降、騒音の影響を受けなくてもすむか?■騒音※2026/03/31 3:54

あーー。やっと、頭が正常な感じになってきた。

頭が、モヤモヤして、モヤモヤして、したがなかった。

動画を視ていても、いやなことを思い出してしまう。ひとつの動画を視ると、二・三個は、いやなことを思い出してしまう。全部、細かい、いやなことだ。なんか、出口がないんだよな。

けっきょく、長期騒音で普通の生活ができなかったということが、いろいろな後悔につながっている。

長期騒音がなければ、ほんとうにかわいい子と、つきあえたのだけど、長期騒音でダメなのだ。長期騒音期間中の一日というのが、ひどい。


でっ、わかいころにできなかったことに、人間というのは、……一生こだわるらしいのだけど……。ぼくの場合も、そうなっている。

いま、長期騒音の影響がないかと言えば、ないわけがない。ようするに、ある。おおいにある。ものすごく、ある。

影響がものすごくある。影響というのも、つみかさなるからね。毎日ずっと、やられたことが影響を与えないわけがないのだ。

「関係ない」と言えば、関係なくなるか?

「関係ない」と言ったって、関係がなくなるわけではない。

だいたい、俺が、ヘビメタ騒音の影響を受けたと言っているのに、「そんなのは関係がない」と言うやつは、なんなんだ。

こいつら、ほんとうに、失礼だな。

こいつらが考えてのるようなことではないのだ。

一一歳から二五歳まで、毎日続く騒音が、影響を与えないわけがないだろ。一生に、影響を与えないわけがないだろ。二五歳のある日、騒音がなくなった。

だったら、それ以降、騒音の影響を受けなくてもすむか?

そんなことにはならない。体に残っている。「そんなのは関係がない」と言っているやつらは、なにを考えて「そんなのは関係がない」と言っているのか?

ほんとうに、アホだな。こいつらがみんな……ほんとうに、みんなみんな、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うのだ。

こいつらが想定している苦労なんて苦労じゃないよ。

終わればすぐに影響がなくなってしまうような苦労……。

そんなんじゃない。

「関係がない」と言えば、すぐに、「関係がなくなってしまう」ような苦労……。

そんなんじゃない。

●そもそも、認識自体がしょうじないということもある■社会※2026/04/08 6:52

どれだけ、「自分は自己責任で生きている」と思っている言霊主義者だって、「あなたの言い方が悪い」と言ったとき、「相手が失敗したのは、自分の理論が間違っていたからだ」とは思わないだろう。

「ほんとうに、相手のやり方がまずかったから、言ったのに現実化しなかった」と思っているのだ。だから、もっとうまくやれば、現実化するはずなのである。しかし、もともとの言霊理論が間違っているので、「言ったのに現実しかなかった」のだ。

だから、もともと、言霊理論が間違っているという前提に立てば、まさに、「相手の言い方ではなくて、だれが言っても、言霊の力がないから、現実化しない」ということになる。

しかし、言霊主義者が、この説明をうけたとしても、それを認めることはないだろう。言霊主義者にとっては「言霊は絶対」であり「間違っている」などということはないからだ。

むしろ「言霊理論が間違っている」と言っているやつが、失礼なやつだと思うだろう。しかし、言霊理論は間違っているのである。言霊で言ったことが現実化することは、一〇〇%ない。

一〇〇%だ。

だから、だれがやっても、失敗するのである。

しかし、言霊主義者が、「言霊はある」「言霊の力は絶対だ」と思った根拠はある。それは、「言ったから」と「言ったあと」の区別をしないということからしょうじるのだ。あるいは、「言霊の力」と「言葉の力」を区別しないということからしょうじるのだ。

ただ単に、区別をしないから、勘違いしているだけなのである。

けど、実際の場面で、言霊主義者がそれを認めることは、まずない。だから、別に自分は「間違ったことを教えたのではない」と思うわけだ。

そして、「相手の言い方が悪かったから、現実しなかった」と思うわけだ。

前に、ルールのことについて話したけど、これは、ルール以前の問題だ。

ようするに、言霊主義者が、言霊について誤解をしているから、「相手の言い方がまずいから、現実化しなかった」と(嘘いつわりなく)思っているわけだ。

だから、この言霊主義者が「すべては自己責任だ」とか「自分は、自己責任で生きていくつもりだ」ということを言ったとしても、ほんとうは、このレベルのことに関しては、自己責任をまったく感じないで生きているのである。

ルールとルール同士の衝突と衝突回避(自分にとって重要なルールを優先して、自分にとって重要ではないルールを無視する)というようなことでも、「すべては自己責任だ」と思っている人も、実際の運用の場面では、 優先順が低いルールを無視してしまうということが発生する。

「自分は自己責任で生きていく」というようなルールが、その場面で、劣位のルールだとしたら、「自分は自己責任で生きていく(べきだ)」というルールは、完全に無視されてしまうのである。

今回、指摘したのは、そういうレベルの無視ではなくて、認識自体からしょうじる無視だ。

認識自体からしょうじる「自分が正しいと思うルールの無視」は、さけようがない。

だから、「自分は自己責任で生きていく(つもり)」の人が、どれだけ増えても、対立が生まれ、トラブルがしょうじるのである。

他人の発言や他人の行為に対する「うらみの感情」もしょうじるのである。

もし、ほんとうに「すべてが自己責任」であるなら、他人の発言や他人の行為に対する「うらみの感情」はしょうじない。

その人は、他人の他人の発言や他人の行為に対する「うらみの感情」もたない人になるのである。どうしてかというと、「すべては自己責任」だからだ。

ところが、こんなのは、お題目で、どれだけ「自分は自己責任で生きているつもり」でも、場面場面で、劣位ルールが無視されるのだ。

そして、そもそも、認識自体がしょうじないということもある。

現実の場面では、お題目は、無視されるのである。自分がルールとして採用したことでも、実際の場面では、無視してしまうのである。

だから、どれだけ、お題目のルールが正しい認識している人が増えても、世の中はよくならないのである。

「こういうことがいい」「こういうことが正しい」と深く深く思ったとして、現実の場面では、それを無視してしまうのである。

例外があるかどうかはわからないけど、人間というのは、そういう動物だ。これは、一〇〇%構文になってしまうので、一〇〇%詐欺の可能性がある。

けど、社会のなかで普通に生きている人は、「劣位ルールの無視」をしていると思う。そして、たぶん、例外なく、認識自体の問題も発生しているものと、思われる。

離島で、ひとりで暮らしている人は、たしかに、自己責任で生きているのだろう。

そして、自己責任で生きているかどうかわからないけど、人間としての感情を失った人も、上記ような反応をしないと思われる。

ようするに、例外はある。普通の社会のなかで生きている人だと、相当に多くの人が上記のような反応をする。

それは、しかたがないことだ。

2026年4月7日火曜日

●「普通の人」の「ヘビメタ騒音に関する理解レベル」■騒音※2026/04/01 9:46

言霊主義者というのは、少しだけ「幼児的万能感」が普通の人よりも強い……「普通の人」なのだ。

「普通の人」の「ヘビメタ騒音に関する理解レベル」というのは、「言霊主義者」の「ヘビメタ騒音に関する理解レベル」とおなじだ。

時間的に積み重なっていくんだよ。きちがい兄貴のヘビメタがはじまった日から、ずっとずっと、きちがい兄貴のヘビメタが鳴っている日が、つみかさなっていく。

そうなると、一日目とは、ちがう症状が出てくるのである。けど、そんなのは、ほかの人にまったくわからない。どうしてかというと、ほかの人は経験していないからだ。

ほかの人は、「自分だって苦労した」ということを言う。

「ほかの人は、「自分だって騒音ぐらいある」ということを言う。

けど、ほかの人は、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んで「いる」わけではない。ほかの人は、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んで「いた」わけでもない。

きちがい兄貴は、きちがいなんだよ。親父と同じタイプのきちがいなんだよ。ぜんぜん、わかっていないんだよ。

常識的な人の判断というのがまったくないわけ。

自分がやりたかったら、自分の感覚を無意識的に書き換えてしまうようなやつなんだよ。こんなのは、普通の人にはできない。

だから、やり方が普通の人のやり方ではないということになる。やり方が尋常じゃないのである。きちがい兄貴のやり方が、きちがい親父のやり方とまったく同じなのである。どれだけなにを言っても、伝わらない。

やっていなつもりで、100%頑固にやりきる。100%頑固にやりきるけど、まったくやっていないつもりで暮らしているのだ。こんなのはない。

普通の人にはこんなことはできない。

どうしたって、普通の人は「やっている」「頑固にやりきった」と言うとがわかる。どれだけうそをついたって、どれだけ芝居をしたって、わかる。わかるんだよ。

けど、その普通の人が、どうしたって、わかってしまう部分が、きちがい兄貴はわからない。ちなみに言っておくと、親父にもわからない。俺の言っていることがおかしいから、俺が嘘をついていると思う人は、きちがい兄貴のやり方や、きちがい親父のやり方がわかっていない人なのだ。

「そんな音で鳴っていたら、家族が、絶対に動く」と言った人がいたのだけど、そうじゃないんだよ。その人は、きちがい兄貴のことも、きちがい親父のこともわかっていない。

おかあさんの、言うことは、兄貴は、きちがい親父のように無視して、きかなかった。

きかなかったということが、わかっていないという状態がずっと続く。おかあさんはおかあさんで、「そと」に「うち」の問題を出したくないタイプの人で、「うち」の問題を「そと」の人に、隠してしまうようなところがあった。いづれにせよ、おかあさんは、こまっていただけだった。

きちがい親父になにか、おかあさんが言って、それがきちがい親父に伝わるかと言うと、伝わらないのである。それとおなじで、きちがい兄貴に、なにか、おかあさんが言ったとしても、それが、きちがい兄貴に伝わらないのである。

このつたわらなさ」というのが、きちがい的なのだ。この「うち」のなかだけで発揮される、きちがい的な感覚というのは、よその人にはわからない。 

●「はねのけて」しまったら、どれだけやり続けたって、本人は、なんともない■騒音※2026/04/07 21:12

 もう、むりかな。もう、むりな感じがする。おなじなんだよね。じつは、ネズミが入ってきてしまった。おなじなんだよねーー。

きちがい騒音にやられてから、めちゃくちゃにくるしい。普通の人は、普通の騒音なんだと思ってしまう。けど、きちがい兄貴はきちがいなので、やり方がちがうんだよ。

異常なんだよ。

その異常が、ずっと、成り立っている状態なんだよ。

こっちが、ずっとくるしいんだよ。

ほかの人は、助けてくれないよ。

「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「家族で話し合えばいい」と言っておしまいだ。ほかの人は、きちがい兄貴ときちがい親父が、きちがいだということがわかっていない。わかっていないレベルでの発言なんだよ。

実際に、きちがい兄貴の騒音で、その人・本人がこまっているわけではない。異常なやり方なんだよ。死にたくなるような、やり方なんだよ。

そして、勉強の邪魔だ」「入試の邪魔だ」「期末テストの邪魔だ」と言ったって、きちがい兄貴が、きちがい基準で、のりこえて、自分がやりたい時間、自分がやりたい音で、鳴らしてしまう。

自分というのは、きちがい兄貴のことだ。しかも、のりこえてと書いたけど、きちがい兄貴本人は、ほんとうにまったく、悪いことをしているつもりがないのだ。

この「つもりのなさ」がひどいんだよ。こっちが、「やめてくれ」と言えば、きちがい兄貴が、きちがい親父のように、興奮して、発狂して、「はねのけて」しまう。

本人が、興奮して、発狂して、「はねのけて」しまったら、どれだけやり続けたって、本人は、なんともないんだよ。

こっちは、きちがい兄貴の騒音で、毎日死にたい気分だよ。だったし、いまもそうだ。よりよく生きたいと思っているので、自殺はしないけどね。

*     *     * 

きちがいヘビメタが鳴っていた、一〇代と二〇代というのが、とてつもなく、重要なのである。だいたい、ずっと毎日続いたことが、その人の人生に影響を与えないわけがないだろ。

「鳴り終わったら関係がない」とか「過去は関係がない」というやつは、なぐってやりたくなる。

ヘビメタ騒音で穴があいている。ほかの人は、自分の問題ではないから、きちがいヘビメタ騒音の影響をあまく見ている。

これ、ぼくにとって、屈辱なんだよ。

侮辱なんだよ。

これも、相手は、まったく気がつかないけどね。

相手は、自分の見立てが、正しいと思っている。相手は、自分の信じていることが正しいと思っている。

たとえば、言霊主義者は、言霊理論が正しいと思っている。「元気だ元気だと言えば、元気になる」のである。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」のである。「できるできると言えば、できる」のである。

こんなのない。

どんだけ、きちがいヘビメタ騒音でズタボロになっている俺を、傷つける言葉なのか、まったくわかっていない。

*     *     * 

きちがい兄貴も、言霊主義者も、ヘビメタ騒音の影響をあまく見るのは、おなじなんだよな。きちがい兄貴も、言霊主義者も、ヘビメタ騒音の影響を無視するのは、おなじなんだよな。

「そんなのは気にしなければいい」「そんなのは、こだわらなければいい」「しずかになると言えばしずかになる」「眠れると言えば眠れる」だからなぁ。こんなのない。

「鳴らない、と言えば、鳴らない」……。こんなのはない。

どれだけ、「鳴らない」と言ったって、きちがい兄貴がきちがい兄貴の意志をもって、きちがい的にでかい音で……自分が満足できる時間の長さ鳴らしたいと思っていたら、鳴らすんだよ。

おれが「鳴らない」と言ったって、きちがい兄貴が鳴らす。

「ならないと言ったって、鳴る」と、言霊主義者に言えば、「言い方が悪いんだ」と言霊主義者が言ってくる。こんなの、ない。「うまく言えば、鳴りやむ」というきちがい理論だ。

こんな人を傷つけることを言っておいて、まったく、へっちゃらなんだよ。

やっぱり、きちがい兄貴と言霊主義者は似ているところがある。相手の立場に立って考えることができないのだ。あるいは、苦手なのだ。本人が「相手の立場に立って考えているつもり」でも、ほんとうは、相手の立場を無視しているということが、多いのではないか。

「人のせいにするな」と言う言霊主義者もいるけど、「やり方がへたくそなんだ」と俺のせいにするじゃないか。

根本的に理論が間違っているから、鳴りやまないんだよ。

「うまく言えば、鳴りやむ」という発想自体が、おかしい。人のせいにしている。「(あなたの)言い方が悪いから、鳴りやまない」と言うのであれば、人のせいにしている。

『言い方が悪くなければ、鳴りやむ』と思っているんだよな。言っただけで問題が解決するなら、苦労しないよ。

ともかく、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で鳴らすと、自動的に、俺と言霊主義者のなかが悪くなるんだよ。言霊主義者は言霊主義者で、『言ったことが現実化する。これが正しい』と思っているわけだからな。


●家族が張本人なのに、その家族が、まったく、気がつかないまま■騒音※2026/04/07 21:07

 家族が張本人なのに、その家族が、まったく、気がつかないままなんだよな。

何万回言ったって、気がつかない。この構造が、ほかのひとにはわからない。

でかい音で鳴らしているのであれば、でかい音で鳴らしているということに気がついていると……普通の人は思っている。

けど、ちがうんだよ。

うちのきちがい兄貴は、きちがいだからちがう。ぜーーぜん、ちがう。この家族が……めちゃくちゃに問題をつくりだしている状態というのが、ほかの人にはわからないんだよな。家族が鳴らす騒音なんて、うるさいと言ったって、たいしたでかさじゃない……と思ってしまう。

家族なんだから、言えばわかるだろう……と思ってしまう。

ぜんぜん、ちがうんだよね。ほんとうに、きちがいだから、自分が原因で、ほかの家族がこまっているということが、ほんとうに、ほんとうに、わからない。

あんなでかい音で、鳴らしたら、まわりのひとがこまるというのが、ほんとうにほんとうに、わからないんだよーー。きちがい兄貴は……。

だから、ひどいことをひどいことをしていないつもりのまま、やり続ける。どれだけ言ったって無駄なんだよ。

この「どれだけ言ったってむだ」のむだというところが、ほんとうにほんとうに、ほかの人にはわからないんだよ。

●ぼくは、騒音のなかで、できる限りの努力をしていた■騒音※2026/04/07 3:19

 限界ぎりぎりの努力をしても、どうしてもそうなる」というのが、実際に経験した人じゃないとわからないのである。きちがい兄貴のやり方が異常なので、きちがい兄貴のような家族にやられた人が、めったにいないのである。

騒音問題はいろいろとあるけど、きちがい兄貴の騒音は、程度、性質、時間の長さ、機関の長さが異常なのである。

ほんとうに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のせいで「不可避的に、どうしても、発生してしまうこと」があるんだよ。

ところが、やられていないほかの人は、「人のせいにしている」と思うわけ。エイリが「人のせいにしている」と思うわけ。できなくなった個々のことに関しても、ほんとうは、ぎりぎりの努力をしているんだよ。

ほかの人がまったくわからない、ぎりぎりの努力を毎日していたわけ。

それを、破壊するような音で、きちがい兄貴のヘビメタが鳴ってたんだよ。ほかの人には、「必然性」が見えない。

ほかの人は、どうしても、自分のことではないから、きちがい兄貴の影響も、ぼくの努力も、無視してしまう。自分のことではないからだ。自分が実際に経験したことではないからだ。

「話として」聞いたことだからだ。

これ、わからない。

ほんとうに、ぼくは、騒音のなかで、切羽詰まった生活をしていた。ほんとうに、ぼくは、騒音のなかで、できる限りの努力をしていた。その努力の結果、いろいろな障害が発生するのである。

ようするに、もっともっとできなくなるである。

このプロセスも、何年間も「自分が一番嫌いな音」をずっとずっと、自分の家で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、聞かされ続けた人じゃないとわからない。

基本的に言って、「人のせいにしている」と言われることも、ヘビメタ騒音派生物だ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴のセンスで、きちがいヘビメタをあれだけこだわってこだわってやらなかったら、なかったことなのである。

*     *     *

あーあーーあっ。どこに行っても、なにをやっても、ヘビメタ騒音の暗い気持ちがぬけない。

ヘビメタ騒音の切羽詰まった気持ちがぬけない。何十年、毎日、こんな状態で暮らしてきたと思っているんだ。

そりゃ、対処可能期間がある。

対処可能期間中に、鳴り終わってくれなければ、意味がないのである。ところが、ほかの人たちは「鳴り終わったら関係がない」「過去なんて関係がない」「元気だ元気だと言えば元気になる」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「俺だって、苦労した」と言う。ぜんぜんちがう。

ぜんぜんちがうのに、ぜんぜんちがうということが、まったくわかっていない。 

「鳴り終わったら関係がない」なんて、口が裂けたって言えないことだ。

こいつらが、俺と同レベルのことを経験していないことが、その発言からわかる。

2026年4月5日日曜日

● こいつらは、ほんとうに、なにもわかっていない■騒音※2026/04/05 19:38

まあ、俺がこまっているだけと言えば、俺がこまっているだけなんだよなぁ。けど、俺がこまっているということは、俺にとって大問題だ。

そりゃ、そうだろ。

しかし、こまったなぁ。

どうするかな。

タイムリミットをこえてしまった。

しかし、動きたくないときは、動きたくないんだよな。「いま動くなら、死んだほうがましだ」という感じになる。眠ったあと、動けるような感じがするときはあるから、それを待っていればいいということになる。

けど、眠ったあとも、やりたくないことはある。考えただけで憂鬱になることはある。

「もう、つかれたよ」と何回、こころのなかで、言っているかわからない。 

ヘビメタ騒音期間中に、つかれはて、ヘビメタ騒音後は、まったく回復していない。ヘビメタ騒音期間中のつかれが、そのまま続いているような感じだ。多少回復したときも、ヘビメタ騒音四〇〇〇日目のつかれに復活しただけなんだよな。

ヘビメタ騒音五〇〇〇日目のつかれから、ヘビメタ騒音四〇〇〇日目のつかれに復活したとしても、たいして、復活していないわけ。ヘビメタ騒音〇日目(ヘビメタ騒音なし)つかれには、復活しないわけ。

ところが、「過去は関係がない」とか「過去は記憶の中にしかない」とか「鳴り終わったら関係がない」というような、アホなことを言う人たちが、俺のつかれを認めないんだよ。

これも、迷惑な話だ。こいつらは、関係がないと思っている。だから、つかれはないわけだ。ヘビメタ騒音〇日目のつかれになっていると思っている。

ところが、ヘビメタ騒音〇日目のつかれを感じるようにはならない。ヘビメタ騒音が鳴り終わっても、ならない。

こういうことが、自分の体を通してわかっていないということは、わかっていないということを意味している。自分の経験を通してわかっていないということは、わかっていないということを意味している。

けど、こいつらは「ヘビメタ騒音でつかれたんだろ。そんなのは、わかっている」と言う。

けど、「過去は関係がない」と思っているので、ぼくの体が、ヘビメタ騒音〇日目のつかれに戻ったと思ってるのだ。だから、わかっていない。

こいつらは、ほんとうに、なにもわかっていない。

となりの部屋で、きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で、ずっと、「自分がきらいな音を」ガンガン鳴らし続ける生活がどういう生活か、ぜんぜんわかっていないのである。自分というのは、俺のことだ。

一日のなかでも、何時間も鳴っていたということが、そのあとの状態に影響を与えないわけがないのだ。経験としてわかっていないから「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言っているだけだ。

こいつらは、ほんとうに、なにもわかっていない 

*     *     *

「過去は記憶の中にしかない」と言っているやつだって、自分が交通事故にあい、足が動かない状態になったら、「交通事故にあったという過去の出来事が、今の状態に影響を与えている」と思うのだ。

「過去は関係がない」と言っているやつだって自分が交通事故にあい、足が動かない状態になったら、「交通事故にあったという過去の出来事が、今の状態に影響を与えている」と思うのだ。

本人が、あたりまえに思いすぎているから、自覚がないだけだろ。交通事故にあったから、足が動かなくなった」という認識が、あまりにも、本人にとってあたりまえだから「過去は記憶の中にしかない」と思わないようになっているのだ。

「過去は記憶の中にしかない」と他人に言っていた時の自分と、「足が動かなくなっている」自分の姿が、むすびつかないのだ。自分が一倍速で実際に経験したことに関しては、もちろん、「過去は関係がある」「過去は記憶の中にしかないという考え方は間違っている」と思っているのだ。

ただ、鈍感力があるので、その状態に気がつかない。「ぬけぬけ」なのである。

「過去にこだわるのはよくない」という意味で 「過去は関係がない」と言う場合もあるだろう。けど、「過去にこだわるのはよくない」と言いたいなら、「過去にこだわるのはよくない」と言うべきなのだ。「過去にこだわるのはよくない」という文がもつ意味と、「過去は関係がない」という文がもつ意味は、おなじではないんだよ。

そして、ここでも、他者に対する発言だという問題がある。勝手に、自分に対して、そう言っていればいいんだよ。「足が動かなくなったなら、足が動かなくなった」のだ。足が動かないなら、足が動いていた時よりも、不便になる。

その状態を(他人である人が)「足が動かないということにこだわっている」と評しているだけなのだ。

これも、他人事だから、「こだわっている」ように見えるだけだ。「過去にこだわるのはよくない」と言う人も、自分が一倍速で経験したことについては、人並みに?こだわっているのである。

ただ、自分のことだから、「こだわっている」と思っていないだけなのだ。

これに関しても、「こう思うのがあたりまえ」と思っているから、あたりまえだと思っていることに関しては、特に、意識しないだけだ。

とても言いにくいけど、「過去にこだわる」ということも、「自分のことについて言っているのか」「他人のことについて言っているのか」ということを、考えなければならないのである。

「こだわる基準」「こだわりをもっていると判断するときの基準」が「自分のこと」と「他人こと」で、異なっているのである。

そして、「こだわる」という言葉が、こういう場合は「マイナス」の意味をもっているので、「こだわる必要がない」ことに、対象者である人が「こだわっている」という判断が、内包されているのである。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんが「こだわり否定論者」だとする。そして、Bさんに「Bさんは、こだわっているからダメなんだ」と言ったとする。この場合、Aさんは、Bさんがこだわる必要がないことに、こだわっていると評しているのである。

それが、あたっているのか、間違っているのかは別にして、Aさんが「Bさんがそのことにこだわっている」と勝手に評して、そのうえで「そんなことはやめたほうがいい」と言っているのである。

間違っている場合は、相当に失礼な発言になる。

Bさんから見た場合、Aさんこそが、Aさんの過去において発生したことに「こだわっている」と思う場合だってある。自己中心的な人だと、「だれだれは、こだわる必要がないことにこだわっている」と思いがちなのである。

そして、自分のことに関しては、普通の人並に、こだわっている場合がある。神様視点で、Aさんが、Aさんのことに関しては、人並みにこだわっている人だとする。

けど、Aさんは、自分がこだわっていることに関しては、普通だと思っているのである。

Aさんにも、自分がこだわっていると思っていることがあるかもしれないけど、それは、Aさんにとってプラスに評価できるようなことなのである。Aさんにとって、マイナスに評価できることに関しては、「こだわっていない」と評価する傾向が強いのである。

Aさんが、自分は、このことについて特にこだわっていることではないと思っているけど、このことについて、普通に考えてしまうというのがある。

ようするに、自分の体調や、自分の障害に関しては、こだわっているとAさんは思っていないとする。けど、ほかの人から、Aさんのことを見た場合、Aさんは、こういうことにこだわっているように見えるのだ。

ほかの人と言っても、複数の人がいるのである。だから、ほかの人の見解が、全部正しいとは言えない。

ともかく、自分を対象とした「こだわり否定論」と他人を対象とした「こだわり否定論」を、天秤にかけた場合、他人に対する「こだわり否定論」は、よっぽどのことがない限り、やめたほうがいい。自己責任論とこだわり否定論には、おなじような問題がある。他人を対象とした自己責任論と他人を対象とした「こだわり否定論」おなじような問題がある。

たとえば、自分が事故にあって、足が動かなくなったとする。その場合、足が動かないという現実を受け入れて、足が動かなくても、できることをしていこう」と思ったとする。

このことを自分のなかで「こだわりをすてる」と表現したとする。

こういう場合は、勝手にやればいいのだ。ただ、他人に対しては、そういうことを押し付けないほうがいい。他人を対象にするのか、自分を対象にするのかで、ちがう部分がある。

それから、言霊主義との関連について述べておく。言霊主義者は「言えば言ったことが現実化する」と思っているのだから「足が元通りになる」と言えば、それでいいということになる。

だってそうだろ。

言霊主義者にとって言霊は絶対なので、絶対にそうなるのである。

言えば、言っただけで、元通りになるのである。

言えば、言っただけで、言霊の力によって、元通りになるのである。

その場合、「足が動かない」という現実を受け入れる(受けとめる)必要なんてない。

だって、言えば、言っただけで解決してしまうのだから……。

ところが、自分の現実的な問題に関しては「こだわりを捨てて受け入れる」などと言うのだ。いやーー。言霊で解決すればいいだろ。自分の現実的な問題に関しては、突然、絶対である言霊を捨ててしまって、「現実を受け入れる」という選択をするのだ。

現実を受け入れるということは、言うことによって、現実をかえられないということを意味しているのである。

矛盾している。

言霊主義者が、普段、どれだけでたらめなことを言っているか、よくわかる。自分の問題に関しては、現実的な選択をするのである。

そして、「受け入れて」「前向きにできることをする」のがよいことだという考え方があるわけだけど、それがほんとうによいことなのかどうかはわからない。

このように言うと、現実の不都合が軽減されるように思うかもしれないけど、現実の不都合が経験されるかどうかはわからないし、現実の不都合が改善されたと思うかどうかもわからない。

人によって、条件によって、現実の不都合が改善される度合いもちがう。

改善される場合の話だ。

改善されない場合だってあるんだよ。

自分が一倍速で感じたことと、他人が一倍速で感じたことを、鈍感な人が考える場合、他人が一倍速で感じたことを、過小評価してしまうのである。過小評価する人を、鈍感な人と言っているので、トートロジーになっているけど、一〇〇%詐欺はしていない。

じゃあ、まあ……。例外的な鈍感な人を除いて、鈍感な人が考える場合、他人が一倍速で感じたことを、過小評価してしまう傾向が非常に強いと書いておこう。

●下衆の勘ぐり■騒音※2026/04/05 0:24

『なになにをしたいから、こういうふうに言い訳しているのだ』と考える人たちがいるのである。この人たちは、一括思考をしている。

そうなると、じつは、『下衆の勘ぐり』になってしまう場合があるのである。

しかし、この人たちは『実際そうだ』と思って、認めないのである。

決めつけがある。

たとえば、ぼくは、ほんとうに、ヘビメタ騒音のなかで勉強をすることができなかった。マイナスの時間なのである。これやられているだけで、ものすごいマイナスなのである。

下衆の勘ぐりをする人たちが、どういうふうに思おうと、ヘビメタ騒音「で」勉強することができなかったのだ。

ところが、下衆の勘ぐりをする人たちは、『エイリは、勉強をしたくないから、ヘビメタ騒音で勉強することができないと言っている』と思ってしまうのである。

言っておくけど、ヘビメタ騒音がなければ、勉強することができたのである。ヘビメタ騒音がなければ、普通に勉強していたのである。

ヘビメタ騒音がものすごい勢いで鳴っているから、どうしても、勉強することができなかったのだ。これが、事実だ。ヘビメタ騒音がなければ、普通に勉強することができたのだ。俺は、小学生の時はともかくとして、中学生からは、勉強したかったんだよ。ヘビメタなしで、勉強したかったんだよ!!

嘘いつわりなく、勉強したかったんだよ。勉強をしたくないから、「ヘビメタ騒音がうるさくて勉強ができない」と言っていたわけではないのだよ。それを、「エイリは、勉強をしたくないから、騒音で勉強ができないと言い訳をしている」と解釈するわけだよ。こつらが、そういうふうに解釈したら、こいつらのなかでは、そうなんだよ。

だから、きちがい兄貴が、きちがい的な基準で、ほかの人がやらないような時間の長さ、ほかの人が鳴らさないような大きさで、ヘビメタを鳴らすと、ぼくが、ほかのやつから、「エイリは、勉強をしたくないから、騒音で勉強ができないと言い訳をしている」と思われるようになるのだ。これが、決まっている。

*     *     * 

たとえば、水俣病患者が、企業を相手に訴訟を起こしたとき、下衆の勘ぐりをする人は、「おカネが欲しいから、仮病を使っている」と水俣病患者をののしったのだ。

こんなの、ののしり。

下衆の勘ぐりをする人は、「おカネが欲しいから、訴訟をしている人たちは、水俣病でこうなったと詐称している」と思ったのだ。実際に、その企業が、水銀を流したから、水俣病になっている。

だから、その企業のせいで……つまり、その企業の行動によって……水俣病になった人たちがいる。たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、ほんとうに、企業が流した水銀のせいで水俣病になったとする。

そして、企業に訴訟したとする。Bさんは、ほんとうは、水俣病ではないけど、おカネが欲しいから、企業に訴訟したとする。

その場合、Aさんが、企業の行いのせいで、ほんとうに、水俣病になったということは、否定できない。

ところが、一括思考をしてしまうCさんは、「企業に訴訟している人はみんな、おカネがほいから、病気のふりをしているだけだ」と決めつけてしまうのだ。

Cさんの目から見ると、Aさんも、そういう人に見えるのである。

だから、不当にAさんをののしったことになるのだけど、Cさんは、自分の考えを捨てないので、自分は、悪いことをしているわけではないと思っているのだ。

実際に、Cさんは「Aさんも、仮病を使って、企業を訴えている人だと決めつけている」ので、別に悪いと思わないのだ。

Bさんが悪い人だとしても、だから、Aさんも悪い人だということにはならない。Bさんが仮病を使っていても、それは、Aさんも仮病を使っているということを意味しない。しかし、Cさんは一括思考をしてしまうので、Aさんも、Bさんとおなじだと考えてしまうのである。

AさんもBさんも、企業を訴えている。Cさんは、企業を訴えている人は、みんな、仮病を使っているだけなんだというような一括思考をしてしまうのである。

「水俣病である」という条件を満たし、「訴えている」と言う条件を満たすと、その条件を満たしている人たちは、みんな、仮病なのに、企業を訴えているとCさんは思ってしまう。

たとえば、無職に対して偏見をもっている人たちがいる。これは、無職属性に対する偏見だ。Cさんのような偏見は、もうちょっと複雑なのである。

しかし、Cさんも、勝手にレッテル針をしているに過ぎない。

そして、その根拠が、たとえば、Bさんみたいな人がいるということなのだ。

一括思考をしてしまうので、Cさんのなかで「Bさんとおなじような行為をしている人」は、みんな「Bさんのような人」なのである。 

これは、行為に対する偏見なのである。だから、「無職」に対する偏見とはちょっとちがってくる。

でっ、行為に対する偏見なのだけど、一括思考で、その集団に属する(その属性をもっている)と思われる人を、全員、おなじ目的で、その行為をしている人だと決めつけてしまうのだ。

*     *     *

『なになにをしたいから、こういうふうに言い訳しているのだ』と書いたけど、「なになに」ということが、「欲望」をあらわしているのである。そして、その欲望というのが、「いまわしいこと」を表現しているのだ。

たとえば、詐称とか、疾病利得とか、不当に利益を得ることをしたいから、でっちあげの理由をつけて、言っているだけなんだと、「下衆の勘ぐり」をする人たちは、思い込んでしまう。決めつけてしまう。

「なになにをしている人」は、不当な理由をつけて、自分のいまわしい欲望を現実化しようとしている、いまわしい人たちだという、決めつけがあるのである。勝手に、範疇を決めて、こういうことを言う人たちは、一括で、こういう人たちなのだと、決めつけしまう。そして、その決めつけは、決まって、悪い決めつけなのである。

こういうやっかいな人たちが、ほんとうにいる。いっぱいいる。

じつはこうすることで、この人たちは、ほかの人をディスっている。悪口を言っている。勝手に悪く決めつけて、悪口を言っている。自分のいまわしい、欲望のために、人に悪口を言っている。正当なふりをして、自分が他人を貶めたいという欲望を、現実化しているだけだ。この人たちがやっていることは、そういうことだ。こいつら自身が、いまわしい存在だ。 

●ほかの人が思い浮かべるような一日ではない■騒音※2026/04/05 2:53

やっぱり、アニメを見ていてもダメなんだよね。いろいろと、いやな記憶を思い出す。ほんとうに、ヘビメタ騒音がはじまってから、ぼろぼろ。

ヘビメタ騒音は、ヘビメタ騒音がはじまってからの、俺の発言、俺の態度、俺の人間関係、すべてに、影響を与えている。全部、ほんとうに、ヘビメタ騒音がなければ起こらなかったことなんだよなぁ。親友との絶交も、ヘビメタ騒音がなければなかった。ヘビメタ騒音に関する、意見のちがいだ。

これは、リアル言霊主義者との関係でもおなじだ。騒音がなければ「そうですね」ですんだ。過去否定論者との関係でもおなじだ。常識的な人との関係でもおなじだ。ヘビメタ騒音が与えた影響のでかさを、ほかの人が理解できないのである。あるいは、理解しない。

小学6年生以降の、すべての記憶に影響を与えている。

ヘビメタ騒音が影響を与えている。ヘビメタ騒音がなければ、ああいう会話のやり取り自体がなかった。

みんな、ほんとうに、わかっていない。

毎日毎日、あの騒音が続いたときの、一日がどういうものになるのか、わかっていない。まるで、自分なら、影響を受けないで暮らすことができると思っているようだ。ほんとうの、一日というのはちがう。

ヘビメタ騒音の一日というのは、ぼくの説明を聴いたときに、ほかの人が思い浮かべるような一日ではない。 

2026年4月3日金曜日

●これが、度外れな家族にやられた人には、こたえる■社会※2026/03/31 3:22

 きちがい兄貴は、まったく気にしないで、きちがいヘビメタを鳴らしたわけ。

どれだけ、俺が「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった。

これが事実だ。きちがい兄貴は、俺がやめてくれと言ったことを、無視している。

俺は、そのとき、『やめてほしい理由』も言ったけど、きちがい兄貴は、こっち側の『やめてほしい理由』をこれまた、無視したのである。

きちがい親父のやり方で、きちがい兄貴が無視したのである。そして、こういうことは、正常な兄貴がいる家では、起こらないことなんだよ。

だから、「自分だって苦労した」と言う(正常な家族と一緒に住んでいる人は)ぼくが経験したような苦労をしていない。

そして、『へんな言葉』がはやっている。

「元気だ暖気だと言えば、元気になる」とか「努力をすれば成功する」とか「明るいことを考えれば明るいことが起こる」とかという言葉だ。

こういう言葉、一見正しそうなのだけど、正しくない。命題として考えれば、「偽」だ。ところが、こういうことを言う人たちは、こういう命題が「偽」であることを知らない。

説明しても、(この人たちは)兄貴のようにはねのけて、認めない。

世の中には、「前向きであるような発言」や「ポジティブであるような発言」が求められる。これが、度外れな家族にやられた人には、こたえるのだ。

「元気だ元気だと言っても元気にならない」のに「元気だ元気だと言えば元気になる」という前提でものを言ってくるやつらが多かった。

これが、きちがい的な家族にやられている人間にとっては、どれだけ負担か、言っている本人(主張している本人)には、わからないのである。

この人たちは、きちがい家族ではなくて、きちがい家族にやられているほうの悪口しか言わない。

これ、ほんとうは、ネガティブな発言なのである。

悪口なのである。

誹謗中傷なのである。

言いがかりなのである。

頭がおかしい決めつけを一方的にして、その基準に相手がたっしていないと理由で、説教し始めるやつらなのである。

一部の例外を除いて、精神世界の人やビジネス精神世界の人は『やられたほう』を悪く言うのである。

どうしてそうなるかというと、洗脳されているからだ。

この価値観……「前向きであることがよい」と言う価値観や「ポジティブであることがよい」という価値観は洗脳の結果、埋め込まれた価値観だ。

ほんとうは、ポジティブあることが、かならずしも、よいとは言えないし、前向きであることが、かならずしも、よいとは言えない。

けど、「無条件に、無思考に、よいことになっている」のである。

考えるまでもなく、「ポジティブであることがよい」とか「ポジティブであることがよい」とかと思っているのである。

そして、それを疑わない。

洗脳の結果だ。

神様の国では、こんなことは、起こりえない。

●きちがいヘビメタ騒音が続くと、ぼくの問題が発生するのである■騒音※2026/04/03 1:55

  親父と兄貴の、行為で、どれだけ俺が、傷ついてきたか。

どれだけ、ほかの人から見て、無能に見えるようになったか。ほんとうに、毎日の行為が影響を与えるのである。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなかったら、ほんとうに、あんなことは、起こらないのである。起こらないから、起こらない。

これは、ぼくの問題ではないのである。

ところが、毎日毎日、きちがいヘビメタ騒音が続くと、ぼくの問題が発生するのである。こまるのである。そして、能力がさがるのである。精神を破壊されるのである。憂鬱になるのである。人生がなくなるのである。

きちがい親父が、きちがい行為をしなければ、ネズミなんて入ってこないんだよ。そして、きちがい親父がきちがい的な意地で、俺の提案を否定しなければ、こんなことになっていないんだよ。俺が、きちがい親父の入院、転院の手続きをしながら、ネズミ対策をしなくてもすんだんだよ。

そして、いまも、ネズミが入ってきて、俺は、超・鬱な状態になっている。

どれだけ、心細い状態でネズミと戦っているか、わかるか?

ダニのことも、またスタートラインに戻ってしまった。

女の子のことだって、結婚だって、ほかの人が考えるようなことではないのである。これ、ほんとうに、きちがい兄貴のきちがい行為で、全部、ちった。

普通の状態じゃない。

関係、あるんだよ。

俺が一人で、ネズミと、(きちがい親父が残した家で)戦わなければならなくなる。

あれだけきちがい兄貴のヘビメタを聞かされ続けて、普通の気持ちで、女の子と付き合うなんてことはできないんだよ。

そして、通勤して働くということが、ほんとうに、できなくなった。

これだって、ほかのやつは、ヘビメタとは関係がないと考えるのだ。

そんなことはない。関係があるよ。

けど、ほかのやつらは、別に、ヘビメタを鳴らしたやつじゃないのだ。ヘビメタを十数年間ずっと、俺が、ずっとずっと毎日「やめてくれ」と言っているのに、鳴らし続けたやつじゃない。

そして、きちがい親父は、兄貴の騒音活動を、陰からささえていた。これだって、おかしなことなんだよ。あまりにもへんだから、ほかの人が、勘違いしてしまう。

「たいした音で鳴っていなかったから、ほかの家族が文句を言わなかった」と勘違いしてしまうのだ。

そんなことじゃないんだよ。

きちがい親父の態度というのは、ほかの人には、はかり知れないものがある。

2026年4月2日木曜日

●経験していない人が、勝手に「自分なら平気だ」と思っているだけ■騒音※2026/03/21 9:11

これ、ちょっと思ったから、ほんとうは、書くべきではないけど、書いておく。あとで、消すつもりだ。

言霊主義者に、一〇〇%詐欺のことを説明しても、なかなか理解してくれない。

あいつらにとって、ぼくは、他者だろう。

コミュニケーション障害者の特徴として「相手が言うことを、うまく理解できない」というのがあるのだけど、それを言うなら、言霊主義者だって(相手である)エイリ(俺)の言っていることをうまく理解できないということになる。

しかし、言霊主義者のほうが、多数派だ。

そして、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられて、通勤通学ができなくなった俺は、特別な少数派なのだ。

そして、一般人には、無職に対する偏見がある。

そして、一般人には、ひきこもりに対する偏見がある。

偏見があるということは、そのことについて一括思考をしているということになる。たとえば、ひきこもりというグループ(集合)に対して、ひきこもりはコミュニケーション障害者だという偏見をもっている人がいたとする。

その人は、個別性を考えることなく、ひきこもりなら、コミュケーション障害者だと、自動的に思うわけだ。きちがいヘビメタ騒音にやられて、七年間、歯を食いしばって、通学していたら、通学ができない体になっていたのだ。そして、通勤もできない体になっていた。「まあ、どうにかなるんじゃないか」と思っていたけど、実際には、無理だった。高校を卒業したあとは、まだ、通えるつもりだったのだ。きちがい兄貴が鳴らしている時間、バイトをして、鳴らし終わったころ帰ってくればいい」というような、甘い考えもあった。実際には、きちがい兄貴は、土曜も日曜も、ガンガン鳴らすので、無理なのだ。そりゃ、もう、七年間やられたあとだから、無理なのだ。けど、こういう体の感覚も、実際にやられた人しかわからない。実際に経験した人しかわからない。ほかの人は、経験がないので、どうしても、軽く考えてしまう。自分ならそんなのは平気だ」と考えてしまう。けど、これは間違った考え方だと思う。証明はできないけど、ほとんどの人が、通勤通学できない体になると思う。ほんとうは、一〇〇%の人が通勤通学できない体になると言いたいけど、しかたがないから、ほとんどの人が通勤通学できない体になると思うとだけ、言っておく。しかし、ほんとうに、無理なんだよ。先行する七年間の重みがまったくわかっていない。経験していない人は、先行する七年間の重みがまったくわかっていない。こいつらは、わかっていないのだから「そんなのはあまえだ」とか「そんなのは、関係ない」とかと言う。そのあとに「俺だってつらい思いをした」と付け加えれば、同程度のつらい思いをしたということになってしまう。実際には、もちろん、経験していないのだ。実際に、通勤通学ができるぐらいのことだったんだろ」と言いたくなる。言うこともある。言えば、相手は怒ってしまうけどね。ぼくの経験の範囲で言うと、一〇〇%のやつが怒ってしまった。「自分だったら平気だ」「自分だって、(おなじ程度)のことを経験した」という前提でものを言ってくる。その前提に対して、俺が、「ちがうのではないか」ということを言うと、「たいていのやつ」ではなくて、「すべてのやつ」が、不機嫌になった。まあ、平たく言うと、怒ったよ。「なんだ!そんなのぉ!」という感じで、怒ってしまう。

いやーー。きちがい兄貴が、普通の人がやらないことを、頑固に七年間毎日やり続けたせいで、他人との間にこういうやり取りが発生してしまう。

「働くのが善だ」「働かないのは悪だ」という思考が蔓延していれば、俺が「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言えば、それで、人間関係が崩れる。「そんなのは関係がない」「そんなのはあまえだ」「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「お兄さんにちゃんと言えばしずかにしてくれる」「そんな音で鳴っているのに、家族がなにもしないなんておかしい(だから、嘘だ)」……こういう反応が返ってくる。

ともかく、七年間、日曜祭日も含めて、きちがい兄貴がやったことを、やる家族がいた場合、ほんとうに、通勤通学ができなくなる。けど、それを認めない人たちが、たくさんいる。ぼくの観察の範囲だと、ほぼ一〇〇%だ。その人たちだって、実際に!!やられたら、めちゃくちゃにつらい生活になって、七年間もその生活が続いたら、睡眠回路が崩れ、生活体力がなくなって、うつ病レベルの憂鬱な状態になり、通勤通学ができなくなる。ほんとうに、体力がなくなる。ぎりぎりのところで、ずっと、生活していた。ずっと、睡眠不足だった。睡眠不足で、生活するということが、どういうことを意味しているのか、「自分なら平気だ」と思っている人は、わかっていない。しかも、その時点で七年間も続いている。毎日続いている。これがどういう意味をもっているのか、経験した人じゃないとわからない。経験していない人が、勝手に「自分なら平気だ」と思っているだけなのである。けど、自分なら平気だと思っているので、「そんなのはあまえだ」「そんなのは、関係がない」と言ってくるのである。 

●よさそうな考え方が、じつは、抑圧システムと相互監視社会をつくっている■社会※2026/04/02 3:18

たとえば、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という考えをもっている人が、ブラック社長が、名前だけ店長にサービス残業を押し付けているとき、どっちの味方になるかという問題は、けっこうでかい問題なんだよ。

どうしてかというと、これが、精神世界全体に成り立っているからだ。

そし、精神世界だけではなくて、努力論や自助論といったビジネス精神世界にも、成り立っている。

ようするに、社会で「よし」とされていることが、運用の場面では、悪い効果をもっているということになる。

一見、よさそうな考え方が、じつは、抑圧システムと相互監視社会をつくっているのだ。

そして、条件が悪い人が、より、くるしみ、条件がいい人が、よい思いをするということになっている。

支配者階級、特権階級、特権階級よりちょっと下の階級(準特権階級)……こういう階級の人たちが、「とく」をして、条件が悪い人が、「そん」をすることになっている。

そして、それをつくりだしている人たちが、一見、良心的な人たちだというところが問題なのだ。

「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という考えについては、すでに説明した。「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」とという考えについて考えてみよう。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」と考えている人は、ブラック社長が、名前だけ店長にサービス残業を押し付けているとき、どっちの味方になるかというと、ブラック社長の味方になるのだ。

「明るいことを考えて、頑張れば、明るいことが起こるから、頑張ればいい」ということになってしまう。名前だけ店長の言っていることは、暗いことなので、だめだということになる。

名前だけ店長は、「もう無理だ」と言っている。暗いことだ。その場面では、名前だけ店長は、「できない」ということを言うわけだから、当然、暗いことを言うことになる。

「もう、無理だ」「できない」とネガティブなことを言うことになる。

名前だけ店長は「このままでは、ダメだ」ということを言うことになるので、ネガティブなことを言っているということになる。名前だけ店長は、ネガティブなことを考えているということになる。

当然、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」と考えている人は、「できると言えばできる」と「明るいこと」を言っているブラック社長の側に立ち、ブラック社長の味方をすることになる。

名前だけ店長に、明るいことを考えて、このまま、続ければいいということを言うのだ。

これも、「できると言えばできるから、できると言って頑張ればいい」ということの別バージョンだ。

「ネガティブなことを考えると、ネガティブなことが起こる」と考える人は、実際につらい思いをしている人を攻撃することになる。

攻撃する側に加勢するのである。

やる側の人と、やられる側の人を考えた場合、ネガティブなことが起こると考える人は、やる側の人を応援するのである。

押し付ける側と押し付けられる側のことを考えた場合、「よさそうなこと」に酔いしれている人は、実際の場面では、押し付けるほうに味方をするのである。

押し付けられるほうが、くるしんでいても、それは無視して、押し付けられるほうが、もっともっと、くるしむことに賛成するのである。

これは、たまたま、発生することではない。

システムとしてそうなっている。

基本的には、「一括思考」と「自分を対象とした思考から他人を対象とした思考への移行」がある。「自分を対象とした思考から他人を対象とした思考への移行」は個人のなかのことなのだけど、移行することがあらかじめ想定されている「きれいごと」なのである。

「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「暗いことを考えれば暗いことが起こる」という考え方だって、それを聴いたときに「その通りだ」と思った人は、他人を対象する用意ができあがっている人なのだ。

ようするに、たいていの場合、自分から他人への移行が発生する。

そして、「助言をすることはいいことだ」「いいアイディアを教えてあげるのはいいことだ」という気持ちがあるので、『やられているほう』を攻撃しているつもりは、発生しない。

ようするに、本人の認知としては、「いいことをしている」ということになる。

ところが、実際には、押し付けるほうに味方をして、押し付けられるほうに、敵対するということになる。

悪いことをしているほうの味方になってしまうのである。

しかし、こういうことをしている人たちは、悪いことをしているほうの味方になったという認識がない状態なのである。

これは、まずい状態だ。

こういうことになるということを、見込んで、『やられているほう』を攻撃しているつもりなどは、発生しない。というような、一見正しそうだけど、間違っている教えを、つくっておくのだ。

洗脳の道具なのだ。

一見よさそうな考え方(教え)が、じつは、現実の場面では、悪い教えとして作動してしまうのである。

精神世界やビジネス精神世界の教えは、一見よさそうなのだけど、悪い教えだ。

まあ、わからないかな。

2026年4月1日水曜日

●そういう、ズレが常にあるんだよ■騒音※2026/04/01 9:26

ヘビメタが鳴っていると、人格的なことでも、能力的なことでも、誤解を受けるようにできているのである。

きちがい兄貴が、きちがい的な意地で無視したことというのは、これなのである。

もちろん、きちがい的な意地で、自分がでかい音で鳴らしているということを、無視して鳴らした。

そんなことは、ほかの人にはできない。

ほかの「普通の人」にはできないことなのである。

だから、ほかの人は、家族がそういう人間ではない人なのである。きちがい兄貴が、俺に押し付けてきたものというのは、人生的なものだ。きちがい兄貴が俺に押し付けてきたものは、きちがい親父が俺に押し付けてきたものより、はるかにはるかに、大きい。

けど、それが、きちがい兄貴にも、普通の人にもわからないのである。

親友ですら、わかってくれなかったというのがある。ヘビメタ騒音を実際に体験していないと……自分がこの世で一番きらいな音が、ガンガンガンガン、鳴っている毎日を数千日体験しないと、ほかの人との間に、どうしても、どうしても、トラブルがしょうじるということが、わからないのである。

きちがい兄貴にも、ほかの人にも、わからないのである。ほかの、普通の人が、みんなみんな、わかっていないのである。これが、どれだけむなしい状態か、わかるか?

ともかく、うまくいかないことになるのである。

けど、ほかの人は、ヘビメタ騒音に実際にやられているわけではないから、ヘビメタ騒音のことは無視するのである。

俺の説明を聴いても、そんなに大きな影響はないだろうと思ってしまうのである。他人がすべてそういう態度だとしたら、他人のそういう態度の総和自体が、俺にとって、むなしいものなのである。

「説明することができない」「むなしいこと」なのである。

「説明」はしているけど、実際に、おなじようなレベルの騒音生活を経験しないと、わからない。

どういうところで、「こまった状態になるのか」ほかの人は、まったくわかっていない。

言霊主義者が、俺に対して「できないと言うから、できない」とか「できると言えばできる」と言ってくるということ自体が、めちゃくちゃにこまったことなのである。

これが、言霊主義者にはわからないでしょ。

そういう、ズレが常にあるんだよ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。