2026年5月31日日曜日

●生きた心地がしない■騒音※2026/05/31 15:08

気楽に書くけど、ここらで、モードを変換しないとダメみたいだなぁ。

やぶれかぶれモードにしないと、だめだ。

ほんとうに、ヘビメタ騒音と、きちがい親父のネズミで、つんだ。どこに行っても、くるしいままだ。きちがいヘビメタ騒音が続くなかで、試験に行った時の気分がそのまま、続いている。

もう、何十年も前のことだけど、切羽詰まった気分は、わすれない。というか、すべてのことをやるとき、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている(日)だったんだよな。なにをやるのも、どこに行くのも、まえの日のヘビメタ騒音の影響を受けていた。

その日のヘビメタ騒音の影響を受けていた。

ヘビメタ騒音の日々は「もう死ぬしかない」というような日々だ。「関係ない」とか「影響ない」というやつがいるけど、こいつらは、ほんとうに、わかっていない。経験していないからわかっていないだけど、ほんとうおなじレベルのことを、家族にやられたら、どういうことになるか、わかる。

鳴っていない時間も、『ものすごい影響』を受ける。鳴っていない時間……たとえば、学校にいる時間……。たとえば、道を歩いている時間……。全部、きちがいヘビメタに汚染されているよ。どれだけ、つらいか、ほかの人はわからない。経験がないからわからない。

けど、ごく少数の例外を除いて、みんな、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言う。けど、その人たちは、きちがい家族が鳴らす、きちがい騒音に、くるしめられてきたわけではない。きちがいだから、やり方がちがう。

ほんとうに、普通の人が鳴らさない音で、ずっと鳴らしていた。しかも、ここに書いている通り、頭がおかしい反応しか、かえってこないのである。一秒も鳴らしていないつもりで、きちがい兄貴は、生きている。

どれだけひどいことをしても、きちがいモードでひどいことをまったくしていないと思って暮らしているわけだ。じゃあ、ゆずってくれるのかというと、一秒だって、ゆずらない。きちがい親父とおなじなんだよな。けど「ゆずってやらなかった」という気持ちもないのだ。認識がない。

そして、ちがいだから、やり方が、ひどいんだよ。全部の時間、ほんとうに、一秒もゆずらずに、がめてしまう。がめがめなんだよ。

ところが、兄貴本人は、一秒もやっていないつもりなんだよ。一秒だって、ほんとうに、弟のために譲るのは、死んだっていやなんだよ。そういう、こころがまえで、ずっとずっとずっと、執着して、執着して、しつこく、しつこく鳴らしていた。「一日」がこわれないわけがない。

影響がない?

関係がない?

ふざけるな。

こいつらも、ほんとうに、妄想が前提にあることを言って、ゆずらないんだよな。妄想的な前提が妄想的な前提だということを、ものすごい意地で認めない。こまるにきまっているだろ。影響を受けるにきまっているだろ。

いま、日曜日の午後三時三分だけど、鳴っている感じしかない。ものすごい音で鳴っている感じしかしない。そして、午前九時四五分ぐらいから、鳴っているので、その日の騒音がつもっている。

けど、そのあとも…… 午後三時三分以降もずっと鳴っている。音を落としてくれない。試験が近ければ、どれだけ、緊張した状態になるか、わからない。緊張した状態で、ガチャガチャ鳴っていて、破滅なんだよ。行くところがなかった。親戚のうちにも行けなかった。

こらえているあいだ、ずっと切羽詰まった気分で暮らしているわけ。

影響を受けないわけがないだろ。

耳をふさいだって、爆音で、響くんだよ。耳を、かたくかたく、ふさいだって、きちがいの音が頭のなかに入ってくる。ガンガンガンガン、入ってくる。生きた心地がしない。ずっと続いて、つらかった。

●いろいろな記憶が、断片的によみがえってくる■騒音※2026/05/31 2:49

いろいろな記憶が、断片的によみがえってくるのだけど、それが、全部、いやだ。

あと、きちがいヘビメタの日常というのは、ほかの人が想像しているようなものではない。もっとずっと、こたえるものだ。

あんなことをやられて、楽しい気分でいられるわけがないだろ。鬱にならないわけがないだろ。体がつかれないわけがないだろ。

「つかれる」と言っても、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったときのつかれとはぜんぜんちがうのだ。ぜんぜんちがうということが、ヘビメタ騒音がなかった頃のぼくに、わからないように、ほかの人にはわからない。

●相対的に条件が悪い人の人生は、過酷なものになる■社会※2026/05/27 23:45

非特権階級と特権階級のあいだには、差がある。条件の差があるのだ。

だから、「労働」というものも、非特権階級と特権階級のあいだには差がある。そもそも、特権階級は、労働なんてしなくてもいいのである。

しかし、非特権階級の内側にある差のほうが、重要なところもある。ようするに、普通の人の生活というものを考えると、普通の人のなかでの、差というのが……普通の人の人生に……めちゃくちゃに重要な影響を与えることになる。

ここでは、普通の人というのは、非特権階級の人という意味だとする。普通の人のなかで、条件の差があるのだけど、条件の差というのものは、普通の人の人生に「ものすごく大きな」影響を与える。与え続ける。

ところが、精神世界の話のなかでは、まず最初に、条件の差を無視した言い方をしてしまうのである。

しかも、条件の差を無視したということを、無視しているのである。

そして、条件というものは、あとで、付け加えられるものなのである。多くの人が、集合的一括思考をしてしまうので、そこで付け加えられた条件というのは、否定されるためにある条件だということになる。

つまり、無条件で、最初の言い方が成り立つということになってしまうのである。最初の言い方というのは、たとえば、「言えば言ったことが、現実化する」というような言い方だ。

「明るいことを思えば明るいことが起こり、暗いことを思えば、暗いことが起こる」ということも、「暗いことか明るいことか」という条件以外の条件を無視した言い方になっている。

「引き寄せは可能だ」という言葉も、「引き寄せ行為をすれば、引き寄せたい内容を引き寄せることができる」という意味になるのだけど、この場合も、引き寄せ行為をするかしないかという条件以外の条件は、自動的に、最初に、無視されることになるのである。

そして、サブルーチンがはじまり、サブルーチンのなかで、条件がわいる人がディスられることになるのである。条件が悪いから、悪い出来事が発生している人が、軽蔑されることになるのである。

格下の存在として見下すことになってしまうのである。

最初の言葉を信じた人は、自動的に、サブルーチンの考え方も、身に着けるようになる。ごく自然にそうなるのだ。

しかし、特性があるんだよね。特性としては「から」と「あと」の区別がつかないということや、100%構文の意味がよくわかっていないということや、「ぬけぬけ」の思考をするということだ。それぞれ、すでに、詳しく論じてきた。ここでは省略する。ようするに、いろいろな誤解が成り立っている。

しかし、その誤解が、最初の文は、絶対に正しいという確信を生み出すことになる。

もちろん、最初の文は、間違っている。なので、その確信も間違っているということになる。しかし、一度最初の文を受け入れた人のなかでは、最初の文が形成するパラダイムが成り立ってしまうので、間違っているようには思えないのである。

そして、サブルーチンは、サブルーチンのなかにサブルーチンをもっていることがある。サブルーチンだけでぬける場合もあるけど、サブルーチンのなかのサブルーチンがはじまってしまう場合もある。

さらに、サブルーチンのなかのサブルーチンに、さらにサブルーチンがある場合もある。まあ、ここら辺は、ネスト構造が成り立っているのだけど、何階層のサブルーチンが成り立っているかということは、たいして重要ではない。

ともかく、サブルーチンに入ると、ごく普通に「なになに……ではない人」を見下すようになるのである。一見正しそうなことを信じている人が、条件が悪くてこまっている人を、見下すようになる。これも、最初から、しくみとして成り立っていることなのだ。

だから、一見正しそうなことを信じる人が、どれだけ増えても、社会はよくならない。それどころか、一見正しそうなことを信じる人が、増えれば増えるほど、社会が悪くなっていくのだ。

そして、相対的に条件が悪い人の人生は、過酷なものになる。

2026年5月30日土曜日

●経験がない人は、「そんなのは関係がない」と思ってしまう■騒音※2026/05/30 13:49

あんな音で、至近距離で、自分のきらいな音がガンガン鳴っていたら、勉強することなんて、無理なのに、ろくでもないやつらが「勉強ぐらいできる」と言う。

きちがい兄貴が、きちがい基準で、ほかの人がやらないことをすると、ほかの人は、経験していないわけだから、それが、どういう状態なのかわからない。自分ができると思ってることでも、実際に経験したらできないかもしれない。

しかし、経験していないから『自分ならできるはずだ』と思って、ろくでもないことを、言ってくる。ろくでもないやつらが、ろくでもないことを、俺に言ってくるということになる。

しかも、一日だけ、騒音が鳴っている状態と、五〇〇〇日間、騒音が鳴っている状態を区別しないのだ。

一日のなかで鳴っている時間がおなじ長さでも、一日目と、五〇〇〇日目は、ちがう。

五〇〇〇日目のほうが、つかれている。五〇〇〇日目のほうが、つらい状態になっているのだ。しかし、実際に五〇〇〇日鳴らされた経験がない人は、「そんなのは関係がない」と思ってしまう。 

*     *     *

たとえばの話だけど、言霊主義者というのは、「言えば、言ったことが現実化する」と考えているので「元気だと言えば元気になる」と思っている。だから、五〇〇〇日間、騒音がつみかさなって、つらい場合も、つかれている場合も「元気だと言えば元気になる」と思っている。

基本的に、相手の状態を無視する考え方が、蔓延している。言霊主義者にとっては、……五〇〇〇日間のヘビメタ騒音も「元気だ」と言えば、解決してしまう問題なのである。ところが、五〇〇〇日目に、「元気だ」「元気だ」「元気だ」「元気だ」とどれだけて言っても、元気にならない。

●「こういうことを言った人」に対する偏見■社会※2026/05/29 7:26

「社会のせいにする」という言い方も、「人のせいにする」という言い方とおなじ問題を抱えている。個別性を考えないのだ。「社会のせいにしている」ように見える人は、みんな、こうだと決めつけてしまう。

だれかが、だれかを「社会のせいにしている」と思っているだけで、それは、神様視点での、決定事項ではない。

まず、これが肝心なんだよな。

AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、Bさんのことを「社会のせいにする人だ」と思っている人だとする。

Cさんは、Bさんのことを「社会のせいにする人だ」と思っていない人だとする。Bさんが難からの発言をしたり、何らかの行動をした場合、Aさんは「Bさんは社会のせいにしている」」と思ったわけだ。

そして、Cさんは「Bさんは社会のせいにしていない。Bさんの主張はあっている」と思ったわけだ。Aさんのなかでは、Bさんは「社会のせいにする人」であり、Bさんは「社会のせいにした」ということになる。

Cさんのなかでは、Bさんは「社会のせいにする人」ではなく、Bさんは「社会のせいにしたわけではない」ということになる。Bさんのことなのだけど、Bさんに対して、別の個人が、それぞれ、ちがった判断をくだしたということだ。

神様視点の個人などは、存在しない。神様視点は、神様しかもてない。みんな、『自分は、だれだれさんが社会のせいしていると思っている』ということを、表現しているにすぎない。

しかし、本人のなかでは、それは、「正しいこと」なのである。本人のなかでは、「決定事項」なのである。

だから、その「決定事項」にしたがって、そのあとの意見を言うようになる。そして、Bさんというような個別具体的な例について語っているときも、個別具体的なBさんのことについて語っているという意識だけではなくて、Bさんのような人全体について語っているという意識が成り立っている。

たとえば、Aさんは「Bさんは社会のせいにした」「Bさんは社会のせいにする人だ」と決めつけたわけだ。

ほんとうに、Bさんが「社会のせいにした」のかどうかは、わからない。

かりに、Bさんが社会のせいにしたとして、ほんとうに、社会側に責任があった場合はどうなのだ。

Bさんが言ってることは「Bさんが、社会のせいにしている」ということで、しりぞけていいことではない。「せいにする」という言い方には、「本当は、対象となる存在のせいではないのに、だれかが、その対象のせいだと言っている」というニュアンスが含まれることになる。

実際に……「だれだれ(1)が、だれだれ(2)のせいにした」と(だれだれ3が)言っている場合は、言っている主体(だれだれ3)が、ほんとうはだれだれ(2)の責任ではないことを、だれだれ(1)が、だれだれ(2)の責任だと考えて、「だれだれ(2)のせいだ」と表現したと……だれだれ(3)が考えているということを意味している。

Aさんの言っていることを考えると、Aさんは「ほんとうは、Bさんのせいなのに、Bさんが社会のせいにしている」という認識か成り立っている。

そして、Bさんが言っていることは、不適切なことだという認識が成り立っているのだ。Bさんが言っていることが間違っているという判断が、「Bさんが社会のせいにした」という言い方に、まぎれこんでいるのである。

集合的一括思考が成り立ってる場合、さらにやかっいなことに、Bさんのようなことを言ってる人は、みんな、Bさんとおなじだと考えてしまうのである。

しかし、「社会のせいだ」と言った人には、別々の人生があるのである。ようするに、おなじではない。「社会のせいだ」と考えだ場合の、「社会」というものについて、「社会のせいだ」と言っている人が、みんなおなじ考え方をもっているとは限らない。

「社会」と言ったって、具体的に思い浮かべている「社会」がちがうのだ。

けど、これらのことについても、捨象して、一般化した集合的一括思考が成り立っているのだ。

たとえば、神様視点で決定してしまうけど、Bさんが実際に「社会のせいにした」とする。これは、悪い例だ。ほんとうは「Bさん」のほうに責任の所在があるとする。

しかし、Bさんは、「社会」のせいにしたとする。しかし、この社会という言葉は、問題なんだよね。

まあ、それには触れずに、話をすすめることにしよう。

悪い例に合わせて、一般化してしまう。悪い例に合わせて、集合的一括思考をしてしまうとしよう。その場合……「ほんとうは、たしかに社会のほうに、責任がある」場合の人についても、「社会のせいにした」と判断して、Bさんとおなじ存在だと思うようになるのである。

どういう表現を使うかどうか、迷うのだけど、行動による一般化が成り立ってしまう。たとえば、無職の人に対する偏見は、無職の人に対する偏見なのだけど、「こういうことを言った人」に対する偏見は「こういうことを言った人」に対する偏見として成り立つのである。

だれか(4)が「社会のせいだ」と言ったとする。そうしたら、ほかの「社会のせいだ」と言っている(集合的他者)人も、だれか(4)とおなじだという偏見が成り立ってしまう。

職業的属性ではなくて、発言による属性、行動による属性によって、偏見が成り立つパターンがある。

だから、神様視点で、Bさんが「社会のせいにした」とする。

ほんとうは、Bさんが言っていることは間違っているとする。ほんとうは、社会のせいではなくて、Bさんのせいだとする。

つまり、実際にBさんに瑕疵があるのに、社会の瑕疵だとBさんが主張しているということになる。責任の所在が(神様視点で)Bさんにある場合だ。

社会にはBさんが主張するような責任がないという場合だ。こういう場合をひとつあげれば「社会のせいだ」と言っているやつは、みんな、実際に「社会のせいだ」と言っているやつに瑕疵があるのに、社会のせいにしているとみなしてしまう。

しかし、それは、適切なみなし方?ではないのである。一括思考をしたところで、間違った推論をしているということになる。

たとえば、Cさんが、ほんとうに、社会に責任があることについて、「社会のせいだ」と言ったとする。「社会のせいだ」と言ったという事実は、BさんとCさんでかわりがない。

たしかに、Cさんも「社会のせいだ」と言っている。たしかにCさんも「社会のせいだ」と言った。

言ったのだ。

なら、Cさんは「本当は社会に責任がないことについて」「社会のせいだ」と言ったということになるのかどうかだ。

この場合、Cさんは、ほんとうに社会に責任があることについて「社会のせいだ」と言ったわけだから、Bさんとはちがう。

しかし、Aさんは、Bさんが「社会のせいだ」と言ったこととと、Cさんが「社会のせいだ」と言ったことを、おなじように認識してしまう。

個別性は、はく奪されている。

Aさんのなかでは、「社会のせいだ」と言ったということが、重要なのだ。「社会のせいだ」と言った人は、みんな、ほんとうは、社会の責任ではないことについて、社会のせいだと言ったということになってしまう。

Cさんの場合は、ほんとうに社会に責任があることについて、「社会のせいだ」と言ったのだ。だから、CさんとBさんはちがう。しかし、Aさんにとっては、Cさんも「社会性だ」と言った人だということになっている。

その場合、Cさんも、Bさんとおなじように、「社会の責任ばないこと」を「社会のせいにした」と表現した人だということになる。

*     *     * 

「責任の所在について言及すること」と、「なになにのせいにすること」はちがう。ちがうけど、区別がついていない人たちがいる。この人たちにとっては「責任の所在について言及すること」と「なになにのせいにすること」はおなじことなのである。

責任の所在について、直接言及しない場合も、だれか(1)がだれか(2)によって「なになにのせいにしている」と判断されることはある。だれか(2)にとっては、だれか(1)が「なになにのせいにした」ということは、事実なのである。

ところが、だれか(2)が、ただ単に責任の所在について言及した場合は、だれか(2)は、「なになにのせいにした」ことにはならない。「責任の所在について言及すること」と、「なになにのせいにすること」はちがう、ちがうことだからだ。

「なになにのせいにした」ということは、「だから、だめなんだ」という思考と、簡単に結びつく性格をもっている。 「責任の所在について言及した」だれか(1)は、自動的に「ダメな人」になるのである。

だれか(2)のなかでは、「ダメな人」になる。こういうことが、広範な場所で、成り立っている。

ちなみにだけど、だれか(2)のようなひとは、自分が一倍速で感じていることに関しては、「こいつがこういうことをしたから、自分は腹を立てた」というような感情をもつことが、たびたびある。

そのときは、「なになにのせいだ」と言ったわけではないけど、自分が腹を立てたのは、こいつがこういうことをしたからだ」と思っているわけだ。

そして、じつは、口に出すこともあるのだ。

ところが、言霊主義者のように「ぬけぬけ」なので、自分が感情的に正しいと思っていることに関しては、『自分がだれだれのせいにした』という気持ちにはならないのだ。

自分の場合は、ちゃんとした理由があるのだから、「だれだれのせいにした」ということにはならないと思っていることが多い。まあ、ごく自然に、「だれだれのせいだ」ということにするのだけど、ごく自然に「あたりまえだ」と思って、『自分自身』がだれだれのせいにしたということを感じないような状態になっている。

だから、主観というのが、ものすごく重要で、他人のことなら、だれか(3)が、だれか(4)の責任を追及しているのであれば、そのだれか(3)は、「人のせいにする人だ」と認識するしまう人(だれか5)も、自分のことに関しては、自分は(外から見て)「人のせいにする」ような表現をしたとしても、(自分のことなので)「人のせいにする人だ」とは自分のことを思わないのである。

その本人(5)にとって、本人の主観的な感情があることに関しては、そとからみて、「人のせいにしているように見える場合でも」……本人の主観としては、「(自分は)人のせいにしていない」ということになっているのである。

だから、『自分は自己責任で生きている』と豪語するけど、実際には、あたりまえだと思うことに関しては、自己責任で生きていない人が、主観的には「自分は自己責任で生きている」と思っているようなことが、「人のせいにする」ということにも、しょうじてしまう。

かりに、他人同士のことであれば、ごく自然に、「とにかく、人の責任を追及しているほうが、人のせいにしている」と感じる人でも、自分と他人のことであれば、『自分が他人の責任を追及している場合』でも、自分が「人のせいにしている」ということにはならないのだ。こういうもたちがいる。

この「人のせいにする」というコンセプトは、言霊、思霊、引き寄せ、さまざまなXをすることの、サブルーチンとして、登場することがある。

*     *     *

無職に対する偏見と「だれだれのせいだ」と言った人に対する偏見は、偏見という意味では、たいしてちがいがない。「だれだれのせいだ」と言った人だというときに成り立つ認識も、無職の人に対する認識も、たいしてかわがない。無職の場合は、カテゴリーわけが簡単だ。しかし、「だれだれのせいだ」と言ったということに関しては、「だれだれのせいだ」と言ったということを認識した人のなかで成り立つカテゴリー(集合)であり、「だれだれのせいだ」と言ったときに、いなかった人のなかには「だれだれのせいだ」と言ったという認識は成り立たない。

 たとえば、AさんとBさんとCさんとDさんがいたとする。

Aさんは、無職であるとする。Aさんが、なにかのことで「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったとする。Bさんは、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったときに、Aさんと一緒にいたので、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったということを知っているとする。Cさんは、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったときに、Aさんと一緒にいなかったので、Aさんが、「これこれこうなのは、Dさんのせいだ」言ったということを知らなかったとする。

この場合、Bさんのなかには「Aさんは人のせいにした人だ」という認識が成り立ち、Aさんは「人のせいにしたグループ」のなかにいれられる。Cさんのなかには、「Aさんは人のせいにした人だ」という認識がないので、Aさんは「人のせいにしたグループ」のなかに、はいっていない。

BさんもCさんもAさんが無職であるということを知っているとする。「だれだれのせいだ」と言ったというようなことが原因であるカテゴリーわけは、流動的で、だれだれが、このように言ったということを聞いたかどうかという経験によって、差がつく。

無職というようなカテゴリーの場合、わりと!固定的なのだ。Aさんが無職であるという情報が正しい場合、Aさんが自分で言ったのか、どこかで発覚したのかわからないけど、Aさんが無職ではない人になるまでは、正しいカテゴリーわけだということができる。

正しいというのは、情報として正しいということであって、別に「無職であることがよくないことだ」という偏見が、正しいということではない。Aさんが無職であるという情報が間違っている場合、Bさんも、Cさんも間違った認識をしているということになる。

しかし、情報が訂正されるまでは、Bさんのなかでも、Cさんのなかでも、Aさんは無職であり続ける。「言った」ということは、忘れない限り、言ったという認識が成り立っている。

「Aさんは、Dさんのせいだ」と言ったというBさんの記憶がなくならない限り、Aさんが、Dさんのせいではなかったと言ったにしろ、言ったということは、言ったということとして、記憶に残る。まあ、無職ではない状態になったあとも、無職であったという記憶は残る。

まあ、ともかく、行動に関する集合的一括思考と、わりと!!固定的なカテゴリー関する集合的一括思考は、いちおう、わけて考えたほうがいいということを言いたい。

2026年5月29日金曜日

●「カネを憎んでいるから、カネがないのだ」■社会※2026/05/29 7:26

「カネを憎んでいるから、カネがないのだ」という決めつけがもたらすものは、なんなのか、ということについて、ちょっとだけ言っておこう。

まず最初に言いたいのは、多くの……強烈にカネがない人は、別に「カネを憎んでいる」わけではないということだ。

ところが、カネがないのは、カネを憎んでいるからだ」と決めつけてしまうのである。人間には、おぎゃーーっと生まれたときから、格差がある。当然、生まれた家の状態によって、生まれた人のカネの状態というのは、ちがってくる。

最初から、格差があるのである。

「カネを憎んでいる」という心の状態が、最初から、格差を生み出しわけではないのである。最初から、カネがないところに生まれた人は、カネがなく、カネがあるところに生まれた人は、カネがあるのである。もちろん、ものすごくカネもちの親だけど、子どもには、カネをかけないようにする親だっている。しかし、それは、例外的な存在で、たいていの場合、カネがある家は、子どもにカネをかける傾向があり、カネがない家は、子どもにカネをかけられないという傾向がある。そりゃ、カネがないのに、どうやって、子どもにカネをかけるのか。もちろん、「カネがない」と言っても、さまざまな状態がある。しかし、たいていの場合、カネの量(金融資産の額プラス年収)は、子どもにどのくらいカネをかけられるかということを、決めてしまう。その家の「カネの量」がその子の「カネの量」を決めてしまう傾向がある。これは、「カネを憎む」ということとは、関係がないことだ。だいたい、「あるほうがいい」と思う傾向が強いはずの「おカネ」をどうして、「憎むのか」という問題がある。それには、「憎むに至る」ストーリーがあったということだ。そして、そのストーリーは個別のストーリーであり、ほかの人にはないストーリーかもしれないのである。そして、「カネを憎むような経験」「カネを憎むような出来事」というのが、どの程度の頻度で発生したかということも、じつは重要なことなのである。ところが、「集合的な一括思考」をするので、「カネがない人は」「カネを憎んでいる」と決めつけ、さらに、「カネを憎んでいる人は、おなじようにカネを憎んでいる」と決めつけてしまうのだ。そういう、訳の分からない決めつけが、重層的に成り立っている。この、ろくでもない決めつけをして、人に説教をしてしまうということは、よくないことだぞ。

「カネを憎んでいるから、カネがないのだ」という決めつけのほかに、「カネがきらいだから、カネがないのだ」という決めつけもある。これ、金持ちの成功者が、「カネがない人は、カネがきらいだから、カネがないのだ」と決めつけてしまうと、「それは正しい」と決めつけてしまう人が、大量に発生する。その「それは正しい」と思った人だって……たいして、カネをもっているわけではないのに……そう思ってしまうのだ。これ、まあ、「ぬけぬけ系」の人なのだろう。「道徳的であれ」とおなじように「カネを好きになれば、カネが入ってくる」というような妄想を……金持ちの成功者が言えば、それを信じてしまう人が、大量に発生する。いやーー。好きとかきらいとか言う前に、条件の差があるのである。生まれの条件の差は、時間経過とともに、つみかさなっていく。ようするに、生まれたときのことだけではなくて、それから、数十年のことに影響を与えるのである。

ところが、条件を無視するメンターが、心がけ次第でどうにでもなるということを言うと、条件に関係なく心がけ次第でどうにでもなるということを信じてしまう人たちが、大量に発生する。「おカネのことを好きになれば、おカネが入ってくる」と言った場合、心がけ次第で、おカネが入ってくるということになるのである。 

2026年5月28日木曜日

●こういうことが、多すぎた■騒音※2026/05/28 23:27

 体調が悪いと、こまるんだよなぁ。親父ネズミ事件と親父ダニ事件で、俺は、相当に消耗した。いまも、消耗し続けている。

ガスの点検で、他人が家の中に入らなければならないときなど、相当に気をつかう。もう、気をつかいすぎて、(神経が)切れた。

そういうことが、全体的な鬱感情に影響を与えている。だいたい、家のなかの運動だって、ネズミが出たところでやる気になるかということだよ。

ともかく、昼間、相当に、体調が悪かったんだね。なんとか、風呂に入ったけど、ぐったりしていた。引っ越すべきなのだけど、これが、もう、エネルギーを吸いとられたあとだから、難航している。「もう、無理かな」と感じることがある。

長期ヘビメタ騒音がなく、ネズミ関連のこともなかったら、普通のエネルギーで、いろいろなことができるわけだけど、もう、すべてが、汚染されている感じなんだよな。

きちがい親父が、最後にやったことが、でかすぎる。猛烈にくさい、魚の切り身を、ほぼ一日中、テーブルの上に出しておくことに、こだわった。

なぜか知らないけど、そういう、普通の人がやらないことを、思いついてやってしまう。

そうすると、修正がきかない。驚くべき損害が出る。単にくさかったということで終わればいいけど、そうじゃないんだよな。こういうことが、多すぎた。俺の人生のなかで、他人には理解できない、こういうことが、多すぎた。家族関係のことが多すぎた。 

●ぼく固有の問題■騒音※2026/05/28 3:03

ぼく固有の問題なのだけど、ヘビメタ騒音の問題がある。これが、いまの感情に影響を与えているのだ。ぼくの生活すべてに影響を与えているのだ。

なので、ヘビメタ騒音の影響からはのがれられない。しかし、ヘビメタ騒音の影響は、ようするに、ぼくにとっては、苦痛なのである。

基本、これで、すべてを失った。得られるもの、すべてを失った。ヘビメタ騒音がなければ、得られるもの、すべてを失った。


ぜんぜん、ちがうのである。これ、やっぱり、一倍速で毎日、経験した場合と、そういう経験がない場合では、ぜんぜんちがうのである。一倍速で『自分』が経験しないとわからないことというのがある。

そして、わからないことというのは、ほとんどすべてだ。これ、ほんとうに、ほとんどすべてのことがわかっていない状態で「そんなのは関係がない」と言っているのだ。

こいつらとつきあうこと自体が、不愉快だ。

「そんなのは関係がない」と言う人は、九九・九九九九九九九九九九九九九九九%の現実を無視している。

まあ、ぼくの現実だから、こいつらにとっては、現実じゃない。そういうところがあるんだよな。この感覚のちがいは埋めようがない。

そこで、たとえば、「人間は働くべきだ」という価値観をもっているやつがいると問題がしょうじるのである。そこで、たとえば、「言ったことが、現実化する」という妄想的な考え方をもっているやつがいると、そいつとぼくの間で、問題がしょうじるのである。しょうじるのである。

きちがい兄貴が、しらんぷりで、ずっとずっとずっと、きちがい的な意地で、きちがい的な音で、日常的にヘビメタを鳴らすと、こういう問題がしょうじてしまうのである。もちろん、当のきちがい兄貴は、そんなことは知らない。

言ったって、まったくわかっていない状態で、発狂するので、けっきょく、きちがい兄貴側の記憶に残らないのだ。こんなの、ない。影響がないわけないだろ。

「影響、ない」「影響はない」と言うやつ……。

こいつらも、ある意味、きちがい兄貴とおなじなのである。きちがい兄貴は「影響が歩かないか」を考えるようなレベルまで達していない。

きちがい兄貴は「影響があるかないか」ということを考えたことすらないのだ。だから、影響を最初から無視している。しかし、影響を、最初から無視しているということは、「影響がない」と考えているのと、ほぼおなじ結果をもたらす。

もちろん、きちがい兄貴のほうがひどいのだけど、きちがいヘビメタの影響を無視するという点では、きちがい兄貴も、「影響、ない」「影響はない」と言うやつも、おなじだ。

影響がないわけがないのに、こいつらは、自分が「エイリのお兄さん」の「ヘビメタ騒音」の「影響」を受けなかったので、自分が受けなかったことに関しては、あんまりうまく考えることができないので、影響がないと判断してしまうのである。

もちろん、エイリにとって「影響がない」ということだ。これ、自分が影響を受けなかったということと、エイリに影響がないということを、なんか、混同している部分がある。

まあ、自分なら、影響を受けなかっただろうと思っているのだろう。稚拙な考え方だ。ほんとうに、幼稚な考え方だ。

俺が言っている通りの音のでかさで、自分が「この世で一番きらいな音」がずっと鳴っている状態で、影響を受けないわけがないだろ。 

『の』の重複は、指摘しなくてもいい。

●言霊パラダイムが、間違いを強化するように働くのである■言霊※2026/05/27 5:21

 引き寄せパラダイムをもっている人は、条件が悪くて不幸な人に対して、いろいろな偏見をもつようになっているのだけど、言霊パラダイスをもっている人も、条件が悪くて不幸な人に対して、いろいろな偏見をもつようになっているのだ。

しくみとしては、言霊も、引き寄せとおなじだ。

言霊はというものは、存在しない。

しかし、言霊の存在を信じて、言霊パラダイムに従って、世界を見るようになると、条件が悪くて、悪いことが発生しやすい人に関しても、言霊パラダイムに従って、世界を見るようになるのである。

そうなると、条件が悪くて悪いことが発生しやすくなっている人は、「悪い言葉を使っているから、だめなんだ」ということになってしまうのである。そういう見方が、その人のなかに定着してしまうのである。「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」というのは、大嘘だ。

嘘も嘘。

頭がおかしい嘘だ。

しかし、一度、言霊という考え方を受け入れてしまうと、言霊パラダイムに従って、世界を見るようになってしまうのである。その場合、実際に、悪い状態で暮らしている人は、「言霊の使い方が悪いから悪い状態で使っているのだ」ということになってしまうのである。

そのように見えてしかたがない状態になってしまうのである。

だから、言霊の使い方がうまい自分が、言霊の使い方がへたくそな人に、アドバイスをするのは、いいことだということになってしまう。

ところが、言霊なんてものはない。言霊の力もない。

言霊の力とは関係なく、現実の事象が発生しているのだ。人間においても、言霊とは関係なく、現実の事象が発生しているというとになる。

しかし、人間においては、言霊とは関係なく、言葉と関係した事象が発生することもあるのだ。

そうなると、言霊パラダイムに従って、世界を見ている人は、ほんとうは、言葉が関係している事象なのに、言霊に関係した事象がしょうじていると思うようになる。

だから、言霊パラダイスに従って、世界を見ている人にとっては、言霊が関係した事象が発生しているように見えるのである。実際に発生した、現実的なことに関しても、言霊がかかわっているように見えることがあるのである。

ようするに、言霊パラダイムが、間違いを強化するように働くのである。

2026年5月27日水曜日

●名前だけ店長が、サービス残業を引き寄せないようにすればいい■言霊※2026/05/23 14:57

場面を考えると、精神世界の人たちは、悪いことをしているほうの味方をするのである。

悪いことをされているほうに、わかったようなことを言うのである。

その……「わかったようなこと」……というのは、「無理なこと」なのである。

しかし、精神世界の人たちのなかでは「無理なことではない」ということになっていることなのである。

ジャイアンとのび太の話でとりあげたけど、やられてるほうに、無理なことを言うのである。これは、いつでもおなじだ。やっているほうではなくて、やられているほうに、無理なことを言う。これが、精神世界の人たちが、高確率でやることだ。

たとえば、ブラック社長と、名前だけ店長のことを考えたとしよう。

引き寄せ主義者は、過剰な労働を引き寄せた「名前だけ店長」が悪いということを言い出す。名前だけ店長が、過労死寸前の労働を引き寄せてしまったからダメなんだということを言うわけだ。名前だけ店長が、サービス残業を引き寄せたからダメなんだということを言うわけだ。

名前だけ店長に、サービス残業をおしつけているブラック社長のことは、悪く言わないのである。

そして、名前だけ店長が、サービス残業を引き寄せないようにすればいいということを言い出す。サービス残業ではなくて、快適な労働を引き寄せるように、快適な労働を引き寄せる行為をすればいいのだということになる。

だから、快適な労働をしているところを、ものすごく強くイメージすればいいということを言い出す。

引き寄せというのは、妄想だ。引き寄せができるというのも、妄想だ。引き寄せる力を強くすれば、なんでも引き寄せることができるというのも、妄想だ。

そして、最初は、『自分が、引き寄せたいことを引き寄せたい』と思ったところからはじまる。対象は、自分なのである。

しかし、引き寄せパラダイムを信じているから、この世界のすべてが、引き寄せパラダイムの対象になる。

ようするに、他人も、いろいろなことを「引き寄せている」と考えるようになる。他人も、自分とおなじように、いろいろなことを引き寄せることができると考えてしまうのである。

ほんとうは、引き寄せ能力などというものはない。

なおさら、個人に特有の引き寄せ能力なんてものはない。

だから、「ない」力をもっているという仮定のもとに暮らすことになる。

この人たちにとって、たいていの他人というのは、引き寄せの力に気がつかない愚かな存在なのだ。自分は気がついている存在だから、気がついているほうがえらいということになる。

そして、そういう他人というのは、引き寄せ能力が『自分よりも』低い存在なのである。

引き寄せがへたくそな人は、引き寄せることができないし、引き寄せることができる自分は、引き寄せることができるのである。

実際に、悪い条件が悪い出来事を発生させることがあるのだけど、これも、悪い条件が悪い出来事を発生させたのではなくて、その人が悪い出来事を引き寄せたから、ダメなんだ(悪いんだ)ということになってしまうのである。

だから、条件が悪いから、悪い出来事が発生しやすい人には、「いいことを引き寄せることができる方法」を教えてあげればいいということになってしまうのである。

しかし、これが善意であろうとも、もともと、個人的な「引き寄せ能力」というものはない。なにか、音楽の才能や、絵の才能のように、「引き寄せの才能」があり、「引き寄せの才能」には、個人差があるという世界観があるのである。

「引き寄せの才能」には、個人差があるというものの見方で、世界を見るようになるのである。

ようするに、世界のなかで起こったことを、引き寄せパラダイムに従って見るようになるのである。ほんとうは、「条件の悪さ」が原因なのだけど、「引き寄せ能力の不足」が原因なのだと思ってしまうのである。

他人のことも含めて、「引き寄せ能力の不足」が原因なのだとみなすようになってしまうのである。……一度、引き寄せという考え方を信じると、自動的にそうなってしまう。

●「できない状態になっている」ということを、認めない■言霊※2026/05/25 2:48

たとえばの話だけど、才能がなくてできない人に対して「できると言えばできる」と言うことが、どういうことなのか、「できると言えばできる」と言っているほうは、まったく理解していないのである。

「もうできない」という状態になっている人に対して「できると言えばできる」と言うことが、どういうことなのか、「できると言えばできる」と言っているほうは、まったく理解していないのである。

まじめな人が、辛抱して、辛抱して、ギリギリのところで続けてきたことがあるとする。けど、続けてきたので、限界に達したとする。

その場合、しくみはちがうけど、才能がなくてできない状態とおなじ状態になっているのである。

ようするに、「できない」状態になっているのである。

「できない状態になっている」ということを、認めないで、「できると言えばできる」と言うことが、いいことだと思っているのだから、あきれる。あきれはてる。

状態の無視という問題がある。もちろん、この場合は、「相手の状態を無視する」ということだ。自分のことなら、自分が一倍速で経験したことをもとにして、考えることができるのである。

いやおうなく、考えるし、感じてしまう。

「体感」がある。

ところが、他人のことだと、「体感」がないので、相手にとって無理なことなのか、無理ではないことなのかがわからないということになる。

その場合、相手が言っていることを無視して、「できると言えばできる」と言ってしまう。「できないと言うからできないのだ」「無理だというから、無理なのだ」と言ってしまう。

これは、けっこうひどいことなのだけど、たいていの場合、「できると言えばできる」とか「無理だと言うから、無理なのだ」とかと言っている人が、ひどいことだと認識してくれることがないのである。

●言霊、思霊、引き寄せ、霊格、波動、潜在意識、高次元人■社会※2026/05/26 6:34

悪い条件下で生活すると、悪い出来事が発生する確率が高くなるのである。

これは、そのひとのせいではない。

環境が悪い。

条件が悪い。

もちろん、本人に問題がある場合もあるのだ。これが、やっかいなのだよ。どうしてかというと、普通の人は集合的一括思考をしてしまうからだ。

霊界とか、霊格とかということにこだわっている人は普通の人だということにならないかもしれないけど、普通の人なのだ。言霊ということに特にこだわっている人は、いちおう、精神世界の人だ。

けど、言霊的感覚というのは、だれにでもあるものなのだ。だから、普通の人にも、言霊的な感覚はある。普通の人のなかに、霊界や霊格にこだわる人や、言霊にこだわる人が、いる。

じゃあ、まあ、普通の人と精神世界の人と言っておこう。

普通の人と精神世界の人は、集合的一括思考をしがちなので、どうしても、実際にくるしんでいる人を下に見るようになるのである。

ようするに、まじめなのに、環境が悪くて、くるしんでいる人のことも、くるしんでいる人だからということで、下に見るようになるのである。

人格がいいのに、ほかのひとにやられて、くるしんでいる人のことも、くるしんでいる人だからということで、下に見るようになるのである。

精神世界の様々なコンセプトは、このことを助長するようにできている。

言霊、思霊、引き寄せ、霊格、波動、潜在意識、高次元人……こういうコンセプトを信じてしまうと、実際にくるしんでいる人を、下に見るようになるのである。 

2026年5月26日火曜日

●波動が低い人のことを見下すようになる■社会※2026/05/24 5:15

何度も言ってしまうのだけど、精神世界のライフハックというのは、麻薬的な魅力がある。

ある人が、さまざまな、悪条件のもと、暮らしているとする。そうすると、ほんとうに、いろいろといやなことが起こるということになる。条件が悪ければ、ほんとうにたくさんの悪いことが起こるのである。

けど、それを、「思いだけ」で、解決することができると言うのだ。

これは、魅力的だ。

だって、そうだろ。条件に関係なく「こうすれば、こうなる」と言うのだから……。条件に関係なくという言葉は、省略されている。これが「きも」なんだよ。一〇〇%詐欺構文を使って言っているわけ。

けど、言っているほうも、一〇〇%詐欺構文で言っているとは思っていないわけ。「真実だ」と思っているわけ。

『区別』に書いたことが、わかっていない人のほうが多い……のだ。こいつらにしてみれば『区別』に書いたことにこだわるほうがおかしいということになる。

こいつらは、「すべてのXするということにおいて、Xすれば、一〇〇%の確率で(かならず)Yになる」という言葉の意味と「Xすれば、Yになることだってある」という言葉の意味のちがいを理解していない。

「Xすれば、Yになる」という文のなかに、ふたつのちがう意味を込めて使っているのだ。そして、ふたつのちがう意味を込めて使っているということに、気がつかない。ただ単に気がつかないだけではなくて、説明されても、わからないのである。

こんなの、ない。

相手がこまっていれば、自分より格下だと思う(確率が)非常に高いので、「Xすれば、Yになる」と説教をしてしまう。条件が悪い人がこまっているのは、条件が悪いから、さまざまな悪い出来事が(自分の意図は関係なく)しょうじるので、こまってのいるのだ。

たとえば、きちがい的な親という条件がある子どもは、きちがい的な親という条件がない子どもよりも、「いやなことが」起こりやすいのである。これは、その子どもの能力の問題ではない。ましてや、子どもの「心がけの問題」ではないのである。

もし、「心がけ」を問題にするなら、子ども側の「心がけ」の問題ではなくて、親側の「心がけ」の問題だ。

ところが、言霊でも、思霊でも、引き寄せでも……みんなみんな……やられているほうが悪いということになってしまうのである。

そして、たとえば、きちがい的ではない親と一緒に住んでいる子どもは、きちがい的な親と一緒に住んでいる子ども、よりも、人間的すぐれているというわけではないのだけど、とりあえず、きちがい的ではない親と一緒に住んでいる子どものほうが、「心がけがよい」ということになるわけだ。

そして、いまは、大人だけど……『自分』がかつて……まさに、きちがい的ではない親と一緒に住んでいた子どもであったなら、『自分』のほうが悪い出来事が少ないので、いまは大人だけど……かつて、きちがい的な親と一緒に住んでいた子どもよりも、自分のほうが「心がけがよい」ということになってしまうのだ。

子ども時代、きちがい的な親と一緒に住んでいなければ、それだけで、「心がけがよい」というとになってしまうのだ。霊格というのであれば、自分のほうが霊格が高いということになってしまう。波動がどうのこうのというのであれば、自分のほうが波動が高いということになってしまう。

悪い出来事がより少ない回数発生しているのであれば……自分のほうが、えらいと思ってしまうのだ。自分のほうがすぐれていると仮定してしまうのだ。

自分がこまっていないことで、こまっている人は、自分より格下だと思う気持ちが発生してしまうのである。

そして、これは、「心がけのサブルーチン」にも影響を与える。

たとえば、彼らは、「波動」というような言葉を使う。「すべては、波動だ」と、わけのわからないことを言う。

そして、「波動が低いから、悪い出来事が発生する」という考え方が正しいと(かなりの高確率で)思うようになる。彼ら、彼女らは思うようになる。

波動をあげれば、悪いことは、起こらないということになるのである。波動が低いから、悪いことが起こるというような考えにとらわれるようになる。

そうなると、引き寄せ能力が高い人と、引き寄せ能力が低い人がいるというような考え方をもった場合とおなじように、波動が低い人のことを見下すようになるのである。

波動が低い人というのは、波動パラダイムをもっている人から見て、波動が低い人ということだ。

どうして、波動パラダイムをもっている人が、ある人のことを「波動が低い人だ」と思ったかというと、その人(対象となる人)が、実際にくるしんでいるからなのである。

その人に、実際に悪い出来事が(多数)発生しているからなのである。

ようするに、ほんとうに、他者に問題がある場合でも、やられた人のことを、悪く言うようになるのである。つまり、ジャイアンになぐられたのび太は、波動が低いから、なぐられたのだということになる。

実際に、不幸な目にあっている人は、波動が低いということになってしまうのである。名前だけ店長は、さまざまなことでくるしんでいるわけだけど、くるしんでいるというとは、波動が低いからだということになってしまうのである。

なので、ここでも、名前だけ店長にサービス残業をさせているブラック社長のことは、無視して、名前だけ店長の波動が低いから、いろいろな、いやなことが起こるということになっていると、波動パラダイムをもっている人たちは、考えるようになるのである。

ここでも、逆転がある。

現実世界で、現実的な問題でくるしんでいる人は、波動が低いから、くるしんでいるということになってしまうのである。波動パラダイムにとりつかれた人から見ると、世界がそう見えるのである。波動パラダイムにとりつかれた人から見ると、くるしんでいる人が、波動の低い人に見えるのである。 

しかし、波動うんぬんというのであれば、ジャイアンの波動について言及するべきだし、ブック社長の波動について言及するべきだ。

つまり、やられているほうを、悪く言うようになっているのである。波動パラダイムを採用した場合でも、そういうことになっている。

霊格パラダイムを採用した場合でも、実際に「やらてれいるほう」が霊格が低い人だということになってしまうのである。霊格パラダイムをもっている人から見ると、実際に「やられて」こまっている人は、霊格が低い人に見えるのである。

しかし、これは、後出しだ。後出しジャンケンなのである。

2026年5月25日月曜日

●「心がけが(悪いから)現実化しないのだ」■言霊※2026/05/25 1:25

「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」というのが、メインルーチンのスタートポイントだ。

これは、一〇〇%構文の文なので、もし正しければ、言い方が悪くても、現実化してしまうのである。

しかし、妄想的な前提がある文なので、もちろん、現実的には、現実化しない。「言霊の力によって」という言葉を、入れるなら、一〇〇%の確率で、現実化しないのである。

しかし、言霊主義者は「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という意味で「言えば、言ったことが、現実化する」と言ってしまう。これも、誤解ポイントのひとつだ。

こういう誤解ポイントが、さまざまなレベルで成り立っているのである。

「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」ではなくて、「言えば、言ったことが、現実化する」と言った場合、「言ったあと、言ったことが、言霊の力ではない力によって現実化する」……ことがあるのだ。あくまでも、「ことがある」だけだ。

これも、「言えば、言ったあと、言ったことが、一〇〇%の確率で、言霊の力ではない力によって現実化する」わけではない。言ったって、現実化しないことがある。

これが、真実なのだ。

言えば言ったことが現実化する……これは、真実ではないのだ。

ところが、言霊主義者は妄想を信じるように洗脳されているので「言えば言ったことが現実化する」と……信じている。

ところが、「ぬけぬけ」なのである。

実際には、「言えば言ったことが現実化する」ということを信じていない行動をとるのだ。「あたりまえだ」と思うことに関しては、言霊思考にならないのである。

しかも、言霊主義者が、言霊思考にならないということを無視している。

だから、主観的には、いつも「言えば言ったことが現実化する」と思って行動していると、言霊主義者は思っているのである。自分が、言霊理論を裏切って行動しているということは、やっていたって、わからないのだ。

「言ったって、現実化しないことだと(無意識的に)思うこと」に関しては、「言霊的な解決方法」をやってみようとも、思わないのだ。そのくらい、言霊主義者の内部で、言霊理論は、否定されている。

これが、重要なことなのだよ。

しかし、こんなことを、言霊主義者に言ったって、たいていの言霊主義者は、認めない。「単純なのが正しい」「言霊は絶対だ」「エイリが、自分(言霊主義者)に罪の意識を持たせようと思って、間違ったことを言っている」というようなことを思いついて、そのようなことを言うことがある。

どういうふうに言うかは、別にして、ともかく、ここに書いたことを説明されたところで、言霊主義者は言霊理論が間違っているとは思わない確率がひじょーーーーに、高い。

*     *     * 

ともかく、「言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という文が間違っているので、当然、言っても、現実化しないということが発生する。

その場合、サブルーチンに入ることになる。

ちなみに、「現実化した」と誤解する場合は、その人のなかで「言霊(理論)は正しい」という考えが強化されることになる。誤解なのだけど、その人のなかでは、「正しいこと」になる。

その場合、他者に言霊理論を言う確率があがるのだろう。

他者に言わない場合もあるかもしれないけど、たいていの場合は、言うと思う。たいていの場合、自信をもって、間違ったことを(他人に)言うようになる。ようするに、社会全体としては、「間違ったことを言う人」が増えるということになる。

言ってみれば『布教』したい気持ちになるのだ。そして、『布教』は正しいことだと思っているということになる。

ようするに、かなり高確率で、言霊理論を人に教えてあげるのは、いいことだと……言霊主義者が思い込むようになるのである。これは、正直に言うと、迷惑な話だ。こういうところに、いやらしさがあるんだよね。

たまたま、言ったあと、言ったことが起こった場合は、確信信者が増えることになり、確信信者が、布教しやすい状態になる。言霊主義者にとって、言霊的な助言をほかの人にするのは、いいことだということになる。

ところが、これが、地獄を生み出すのである。ほんとうに、悪魔的なしくみが成り立っているなぁ。

いろいろなだましポイントについて、解説をすると、話がすすまないので、だましポイントのことは、無視して、話をすすめることにする。

スタートポイント「言えば言ったことが現実化する」……。言ったあと言ったことが発生した場合…… 確信信者が、布教しやすい状態になる。

言ったあと、言ったことが発生しなかった場合……「言い方が悪い」……ということになる。

「こころをこめて言えばいい」というようなことを、自分は言霊を使えるつもりの、言霊主義者が言う。

それでも、助言された人が……こころをこめて言ったあと、言ったことが発生しなかった場合は、「こころがけサブルーチン」にはいってしまう。

自分は言霊を使えるつもりの、言霊主義者は……「心がけをよくすれば言ったことが、現実化する」というようなことを相手に言う確率が高くなる。

「心がけをよくすれば、現実化する」と言われたほうは、「心がけが(悪いから)現実化しないのだ」ということを言われたことになる。

もともと、「言えば言ったことが現実化する」というのは、「欲のこころ」から発生しているのだ。ご利益が欲しいだけなのである。

「自分が言ったことが、かなえばいい」という気持ちが、ほんとうのスタートポイントだ。ほんとうは、「欲望」「私利私欲」から、発生しているのだ。

ところが、他人に「心がけをよくすれば、現実化する」と言っているときは、「自分は心がけがよい人間なので、言ったことが現実化する」と思っている確率が非常ーーーにたかい。

私利私欲にまみれて、妄想理論信じているだけなのに、なぜか、『自分は心がけがいい』ということになってしまっているのである。慢心。有頂天。夜郎自大。

ともかく「うまくできないのは、心がけが悪いからだ」というようなサブルーチンがはじまる。「心がけをよくすればいい」ということになる。

間違った信念にもとづいて、他人にマウントをとるということになりやすい。これは、心がけがいい状態とは言えない。

いろいろなところで、こまっている人をディスることが決まっている。これ、言霊思考を受け入れた人は、いろいろなところで、こまっている人をディスることになる。もちろん、人助けだと思っているんだよ。「いい助言をしてやった」と本人は思っているんだよ。

けど、肝心なところで、相手をディスっている。

かつて、一例として、名前だけ店長のことをあげたけど、これは、名前だけ店長のケースだに成り立っていることではない。いろいろなケースで成り立っている。

*     *     *

スタート・「言えば言ったことが現実化する」

→現実化した場合(布教成功。信者増大)

→現実化しなかった場合(やり方がへたくそだからダメなんだと、ダメ出し)&(道徳的ではないからダメだなんだと、人格否定)(心がけがよくないからダメなんだと、人格否定)&(自分はできる人だと慢心)&(自分はこの人よりも格が上だと慢心)&(心がけをよくすればできるようになると上から目線で説教をしてご満悦)&(いいことをしたと思って、有頂天)

「格が上」と書いたけど「霊格が上」でもいい。「波動が高い」でもいい。「自分が高次元人で、相手が低次元人」でもいい。けっきょく、自分のほうが、なんでもいいのだ。慢心慢心。 

*     *     *

条件が悪い人は、悪い意志をもった他人にやられて、できない状態になっている場合がある。そういう場合でも、場合分けなどはせず、「できなくなっている人のこころがけが悪いのだ。だから、できないのだ」と決めつけてしまう。

悪条件の結果、疲労困憊がたまり、できなくなった場合でも、「相手の霊格が低いからダメなんだ」ということになってしまう。「相手の波動が低いからダメなんだ」ということに(精神世界の人のなかでは)なってしまう。 そういう自動思考をしてしまう。

できない場合、「心がけサブルーチン」に入ってしまう。

「心がけサブルーチン」に「不平不満を言わない」ということが入っている場合、ほんとうに、悪い意志をもった他人が、悪いことをして、被害を受けて、できなくなっている場合でも、被害を受けたほうが「不平不満を言っているからダメなんだ」ということになってしまうのだ。

ほんとうに、他人の行為が問題である場合もあるのに、他人の行為が問題である場合も含めて、集合的一括思考をして……「不平不満を言っているからダメなんだ」と毀滅てしまうのである。こんなのない。全部とは言わないけど、逆なのである。逆。

●「心がけ」の問題■社会※2026/05/24 10:38

「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」とする。

その場合、言ったあと、たまたま、言霊以外の力によって、「言ったこと」が起こったら、「言霊理論は正しい」ということになる。

もちろん、誤解なのだけど、そう思うわけだ。ようするに、「明日、雨が降る」と言って、雨が降った場合は、言霊主義者は「言霊理論は正しい」と誤解することになる。言霊という考え方が正しいということに、自信を深めることになる。

もちろん、間違った自信なのだけど、かなりの高確率で、そうなる。

言ったあと、たまたま、言霊以外の力によって、「言ったこと」が起こらなかったら、言い方が悪いということになる。言い方をよくするには、こうすればいいということを、言い出す。

たとえば、「言い方をよくするには、こころをこめて言えばいいのである」というようなことを言い出す。これも、サブルーチンだ。

ようするに、「こころをこめて言わなかったから、ダメなんだ」ということになるのである。しかし、 「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」のだから、言ったのに、現実化しなかった時点で、 「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という考え方が間違いだというのが、わかる。

けど、それは、言霊主義者には、関係がないことなのである。言えば言っただけで、言ったことが現実化するという内容は、言霊主義者が信じたい内容なのである。

だから、信じたまま「言い方が悪かったから、現実しかなかった」と「非・合理的な思考」をしてしまう。「言い方」のほかに「心がけ」を問題にする場合がある。

というか、ほとんどの場合、「心がけ」は問題になる。

「道徳的であれというサブルーチン」について解説したけど、これも、「心がけ」の問題だ。心がけをよくすれば……願いがかなうのである。

ようする、言っただけで、言った内容(願望)が現実化されるようになるのである。

だから、「言うことで現実化させるという問題」が「心がけ」の問題に、すり替わることになる。

「心がけ」をよくするには、たとえば、人に親切にすればいいとか、人に感謝するようにすればいいとか、掃除をすればいいとか、不平不満を言わないようにするとか、人のせいにしないようにするとかということが、選ばれる。

これも、選ばれるようなことが選ばれているのである。

だから、この点で、非常に道徳的な感じがするのだけど、ぼくが、このブログに長々と書いた問題が発生することになる。

たいていの場合、運用の問題が発生する。

言霊主義者が、ブラック社長の味方になり、名前だけ店長に「無理なことを」押し付けようとするというのも、「運用の問題」のひとつだ。

●こういうところで、二重三重におかしいんだよ■騒音※2026/05/24 10:36

今日は、もうすでに、防草シートをはった。むかし、プロがはった防草シートに穴があいたり、隙間ができたりしていたので、なんとか、ふさごうとしたのだ。

考えると簡単なのだけど、実際には、地面の高さで切れない、木の幹や竹があるので、でこぼこで、むずかしい。

西側は、隣の家との間に、ブロック塀があるのだけど、ブロック塀と防草シートのあいだに、隙間ができてしまうのだ。さらに、家屋と防草シートのあいだに、隙間ができてしまうのだ。

これが……。

隙間が、どんどん、ひろがっていく。

そして、防草シートを突き破って、成長するやつもいるので、いろいろなところに、竹や雑草や木がはえてしまう。とくに、竹はすごい。雑草だけではなくて、木もはえる。

ともかく、思った以上に、難航した。いちおう、防草シートをかぶせて、ブロックを置いたけど、実際、太陽光線をどの程度、ふせげるのか、わからない。

ブロックは、庭に放置されていたものを使った。

そのあと、物置に入ったのだけど……「この物置に入ったのは、失敗した」と思った。これが、きったないのだ。そして、自転車が二台はいっていて、その二台を外に出して、自分が今使っている自転車を物置にいれようとしたのだけど、一台しか、自転車を外に出せなかった。

二台目の自転車が、でかい脚立にひっかかっているのである。脚立は、ほとんど倒れているのだけど、台があって、完全には横になっていない状態だ。

暗くてよく見えないけど、脚立の出っ張った部分が、自転車のスポーク(の間)に入っているみたいなのである。脚立の出っ張った部分というのは、ようするに、はしご部分の先端のことだ。

あれが、たぶん、スポークの間に挟まっている。

だから、自転車を動かそうとしたら、脚立まで動いた。脚立が動いたとき、中央を支える柱が、動いてしまったので、自転車を動かすことをやめた。この中央を支える柱というのは、ほんとうは、なかったものなのだ。

けど、物置の「天井」がさがってきたので、親父が、中央に木材をいれて、天井を支えるようにしたのだ。イメージとしては、突っ張り棒みたいなものだ。中央の柱(突っ張り棒)がちょっと動いたとき、天井から、ほこりのようなものが落ちてきた。

いやーー。ほこりなんだけど、なんか、かゆくなりそうなほこりだったので、いやだった。実際、なんか、背中がかゆくなったような感じがした。

ともかく、こっちのほうも、イメージ通りにはいかず、自転車を二台、出すことができなかった。一台しか出せなかった。あと、蛇が死んで、乾燥したようなものがあった。

それも、自分の自転車を出し入れするときに、踏みそうなところにあったので、なんとか、外に出した。これも、なにを使って出すかということで悩んで、けっきょく、枝切りばさみを使って出すことにした。いちおう出せた。

けど、これが……物置の内部に草が生えている。つる性の植物が侵入したみたいだ。でっ、草がひっかかって、めんどうだった。

そして、この物置は、親父が、なまごみを一時的に入れておく物置だったので、初期の段階で、ネズミが入ってくる物置だった。

これも、ほんとうに……親父が急に「生ごみを物置に持って行ってやる」と言い出して、聞かなかったのだ。おれがどれだけ「持って行かなくてもいい」と言っても、「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」「持って行ってやる」と言って聞かなかった。

俺が、料理係だったんだよ。

それで、なんだか知らないけど、「生ごみが、お勝手にあるのはいやだろ」ということになって、聞かなかった。親父の頭のなかで、俺が……「生ごみがお勝手にあるのは、いやだ」と思っている……ということになってしまうのだ。

これも、頭がおかしいのだけど、一度、言い出すと聞かないのだ。この頑固さとしつこさが並じゃない。自分のなかで……親父のなかでやりたくなったら、相手がなんと言っても、けっきょくやってしまう。

それも、俺のためにやってやるということになっているらしい。俺のためにやるなら、俺がやらなくていい」何十回も強く言っているのだから、退けばいいのに、退かない。

絶対にゆずらない。きちがいだから、そういうところで、一切合切、融通がきかない。これ、こまるんだよ。俺が、「持って行かなくていい」と何十回も、でかい声で言っているのに、それは、認めないのだ。

自分のなかで、一度スイッチが入ってしまうと、こっちがなにを言っても、聞かずにやってしまう。ともかく、まったく意味がないことなのだけど、親父が生ごみを、物置に入れて、ゴミの日まで、放置したので、ネズミがいっぱい寄ってくることになった。

けど、そのときは、まだ、物置に入るだけで、うちの中には、はいってこなかった。

けど、親父が、これまた、「酒粕のついた魚」をほぼ、一日中、テーブルの上に置いておくことに、こだわってこだわってこだわって、そうしたので、一日中、ものすごいにおいが、うちじゅうに、蔓延することになった。

鼻が正常なら、「臭い」「猛烈ににおっている」ということがわかるのに、きちがい的な意地と、きちがい的な無意識があるので、今度は、におっているということを、認めないのだ。

俺が「部屋じゅうがくさくなるからやめろ」と親父に言えば、親父が「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」と絶叫して、くさいということを、全否定するのだ。

こういう脳しくみがわかるか? 

こういうことになっている人がいるということがわかるか? 

「お父さんだって悪気があるわけではない」……と、むかし言われたことがある。けど、親父がやっていることは、むかしからこういうことだ。

親父と一緒に住んでいたら、「お父さんだって悪気があるわけではない」……と言った人だって、腹を立てるのに、一緒に住んだことがないからわからないんだよね。

ちなみに、親父が「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」「くさないよぉぉぉ!!!」と絶叫する態度というのは、きちがい兄貴が、「しずかにしてくれ」と言われたときの態度とまったくおなじだ。

絶叫するか、真っ赤になって、黙りこくるかのちがいがあるのだけど、頭のなかで起こっていることは、おなじなのだ。

どれだけ言っても、認めない。

きちがい兄貴が、親父の真似をして……「でかい音で鳴らしている」ということを、はねのけたのだ。親父の真似をしてというか、脳みその作りがおなじだから、基本的なことを認めないで、やりきるという態度になる。

しかも、そうやったということが、わからないのだ。兄貴は、いつもいつも、自分が鳴らしたい音で鳴らすということにこだわてっこだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、でかい音で鳴らしていたのだけど、でかい音で鳴らしているということを、認めなかったのだ。

絶対に、認めない。

しかも、でかい音で鳴らしているということを認めずに、断固して、一秒も静かにしてやらなかったということも、無視してしまうのである。

自分が、全力で、頑固にやったことを、全力で認めないということになる。

そりゃ、最初から、自分が、全力で、頑固に鳴らしきったという自覚がないのだから、認めないのである。こういうところで、二重三重におかしいんだよ。

これが、腹が立つ部分なんだな。こっちの腹が立つ……ところなんだよな。これだって、よその人にはまったくわからないだろう。

こういうことばかりなんだよ。

2026年5月24日日曜日

●道徳的であれというサブルーチン■社会※2026/05/23 7:10

引き寄せを含めて、精神世界のニセ法則の場合、「道徳であること」がサブチャンネルとして求められるのである。あるいは、サブルーチンと言ってもいい。ともかく、基礎として「道徳的であること」が求められる。

これも、いいことであるかのように見える。

ところが、実際に悪いことを経験している人は、「道徳的ではない」というイメージがこびりつくようになっているのである。信者の脳みそに、こびりつくようになっているのである。

精神世界の人たちが、実際に、くるしんでいる人を、格下の存在として見るということは、ずっとまえから、(ぼくは)気づいていた。

実際に、くるしい思いをしている人たちは「格下」の存在なのである。「じゅうぶんではない存在」なのである。「かけている存在」なのである。

この、道徳的であれというサブルーチンは、実際には、道徳的である人を、道徳的ではない人だとみなす(あるいは、みなさせる)役割をもっている。

そりゃ、ひどい目にあっている人のなかには、道徳的ではない人たちがいる。しかし、ひどい目にあっている人のなかにも、道徳的である人がいるのだ。その人たちは、すでに、道徳的なのである。ところが、精神世界のサブルーチンが、勝手に、道徳的ではないと決めつける回路を、各種信者のなかにうめこんでいる。

 

●「引き寄せパラダイムに従って」解釈するようになる(2)■思霊※2026/05/20 1:05

「人のせいにしない」「人のためにつくす」というのは、言葉はきれいだけど、実際には、条件が悪い人を、おいつめる言葉なのだ。

これ、条件のことは、考えていない発言なのである。運用の問題があると、ずっと、言っているだろ。引き寄せを成功させるためには、「人のせいにしない」「人のためにつくす」ということを守って暮らせばいいということになっている。

そういう用意ができると、引き寄せが可能になると言うのだ。しかし、ぼくが、ここで書いてきたように、引き寄せ理論というのは、カルト理論で人を不幸にするものだ。

ぜんぜん、よくないのである。

ほんとうの世界というのは、それはそれは、ものすごい、差がある世界なんだよ。条件に差がある世界なんだよ。ものすごく悪い条件下で暮らしている人は、基本的に言って「よいこと」を引き寄せることができない。

けど、これも、「人のせいにしない」「人のためにつくす」ということを(そのくるしい人が)守っていないから、引き寄せられないのだという理論につながっていく。

条件が悪いというのは、実際には、条件が悪いというような言葉で、あらわすことができないことなのである。

もう、引き寄せや思霊については、さんざん書いてきたけど、書いてきたような「しくみ」によって、じつは、社会に悪い影響を及ぼすのだ。「人のせいにしない」「人のためにつくす」というのは、麻薬や覚せい剤のようなもので、かならず、悪い効果を及ぼすものなのだ。

これ、精神のドラックなのだ。悪い意味で、ドラック。実際には、悪が支配しているのである。

この「精神世界の話」というのは、じつは、悪の支配を強化するものだ。悪魔側の道徳論なのだ。一見よさそうに見えるけど、かならず、運用のレベルで問題が発生するものになっている。まあ、気がつかない人が多いけど……。

*     *     *

引き寄せ能力をあげる話のなかに出てくる……「人のせいにしない」も「人のためにつくす」も、意図的なものなのだ。そして、引き寄せの力をあげるためにすることなのだ。この文脈ではそうだ。

そうなると、ほんとうは、別の目的のために、そうするということになってしまう。

おわかりだろうか。

ほんとうの良心に従った「人のためにつくす」とは、ちがうのである。「人のせいにしない」というのは、ほんとうに人のせいではない場合なら、有効だけど、ほんとうに人のせいである場合は、有害な圧力をかけることになる。

ともかく、責任の所在を考えないで「人のせいにしない」などと、ほかの人に言うのは、有害な圧力をかけることになる。

自己責任論とおなじなんだよなーー。

「人のせいにしない」というのは、せいぜいのところ、自分を対象にして、努力目標にするべきだ。

ほかの人に、無差別に言って、どうする?

ほかの人に無差別に言うということは、ほんとうに、人の行為が原因でこまっている人をおいつめることになる。

なんで、わからないかな?

*     *     *

世のため人のためと、言っているけど、ほんとうは、自分の利益が欲しい人たちなんだよ。「ごりやく」に、こだわっている人たちであるわけ。

それは、問題はないのだけど、一度、引き寄せ理論を信じてしまうと、引き寄せパラダイムに従って、ほかの人のことを見るようになってしまう。何度も言うけど、それが問題なの……。

実際には、条件の格差があるのだけど、引き寄せパラダイムは、条件の格差を認めないということになる。条件の格差が、実際の格差を引き起こしているわけ。

すでに、起こってしまったことなんだよ。わからないかな? その起こってしまったことについて、『あづけで』……『あとだし』で、引き寄せパラダイムの見方で、説明をしてしまうわけ。『あとだし』で説明しているのだから、引き寄せパラダイムを信じている人にとっては、納得がいく説明になる。

言霊や思霊でも説明したけど、厳然とした差を生み出しているのは、現実的な条件の格差なんだよ。

ほんとうは、悪い条件だからこそ、悪いことが起こってこまっている人に対して、「引き寄せ能力がないから」悪いことが起こっていると説明してしまうことになる。

ほんとうは、悪い条件だからこそ、悪いことが起こってこまっている人に対して、「悪いことを引き寄せているのはあなただ」と説明してしまうことになる。

これは、ほんとうは、よくないことだ。

そりゃ、そうだろ。ほんとうは、その人は……悪い条件でくるしんでいる人は……悪いわけではないのだから……。

さらに、たとえば、引き寄せ能力をあげるには、「人のせいにしないようにすることが必要だ」とか「人のためにつくすようにすることが必要だ」とかと言ってしまうと、じつは、引き寄せ能力が低い人は、「人のせいにしがちだ」とか「人のためにつくすことをしていないとだ」ということになってしまうんだよ。

引き寄せができない人や、引き寄せ能力が低い人は、「人のせいにするような人だ」とか「人のためにつくすことをしていない人だ」とかと、実際に、説明したわけではないけど、引き寄せができない人や、引き寄せ能力が低い人は「人のせいにするような人だ」とか「人のためにつくすことをしていない人だ」とかと説明したのと、おなじような効果をもっているのである。

ようするに、引き寄せパラダイムに従っている人は、引き寄せができない人や、引き寄せ能力が低い人を「人のせいにするような人だ」とか「人のためにつくすことをしていない人だ」 とかと見なすようになってしまうのである。自動的にそうなる。

引き寄せるのに、道徳性が必要だということになると、引き寄せられない人は、道徳性が低い人だとか、道徳性がない人だということに、なってしまうのである。

引き寄せパラダイムに従っている人のなかでは、そうなっしまう。

だから、引き寄せパラダイムに従っている人は、ごく自然に「引き寄せられない人」を見下すようになってしまうのである。

「道徳性がないから、うまく引き寄せることができないのだ」という見方が、引き寄せパラダイムに従っている人のなかで、定着してしまう。

だって、うまく引き寄せるには、道徳的にすぐれた存在にならなければならないのだから、そうなる。

しかし、実際には、引き寄せ教祖は、カネもうけのために、引き寄せ理論をはやらそうしているわけ。そして、引き寄せ信者は、ご利益が欲しくてほしくてたまらないから、引き寄せ能力をあげようとしているわけ。

ご利益と書いたけど、自分の願望が、かないやすくするように、引き寄せというものをやってみようと思っているわけだ。

だから、「道徳的にすぐれている」とか「道徳的になろう」と思っても、けっきょくは、自分の利益になるようなことをしているにすぎないわけ。

そして、「人のために尽くす」ということを念頭に置いた場合、人がどういう状態になるかというと、あんまりいい状態にならない。

これは、「人に親切にすると幸福になる」というライフハックのことについて書いたときも説明したけど、恩着せがましくなってしまったり、相手がやってほしくないことを、やってしまうことになる。

そして、実際にこまっている人には、手を貸さないということになってしまう。実際にこまっている人には、「助言」をするようになるのだけど、それが、よくない助言なのである。

どうしてよくない助言になってしまうかというと、相手の条件を無視した助言になるから、よくない助言になってしまうのだ。 

引き寄せ能力を上げたいという気持ちで、相手に尽くした場合、目的は、引き寄せ能力を上げたいということだから、ほんとうは、相手を見ていないということになる。相手のことを考えているようで、自分の利益のために、そうするということになってしまう。

そうなると、相手が望んでいないことでも、自分がそうしてやりたいからそうするというようなことになってしまうのである。ようするに、相手がなにを望んでいるのかについて、鈍感になってしまうのである。

そして、実際に、条件が悪くて、悪い出来事が多数発生している人には「引き寄せはあるから、引き寄せられるようになればいい」と助言してしまう。

しかし、相手は、現実的な問題でくるしんでいるわけ。たとえば、ブラック社長にやられている名前だけ店長は、長期間にわたって、サービス残業をしているからこまっているわけ。

それに関しては「サービス残業を引き寄せてしまったからダメなんだ」というようなことを、言うわけだから、名前だけ店長はこまってしまう。

そして、「いいことを引き寄せるには、引き寄せ行為をしたほうがいい」ということになるわけ。引き寄せ行為というのが、「強くイメージすること」であったり、「引き寄せ教祖が考え出したおまじないのようなことをすること」であったりするわけ。

そして、それでも、引き寄せができない場合は、「道徳的にすぐれた存在になればいい」ということになるわけ。「人のためにつくしたり」「人のせいにしない」ということを実行すればいいということになる。

ところが、表面的には、「名前だけ店長は、ブラック社長のせいにしている」というような解釈が成り立ってしまう。

これも、ひどい話なのだけど、やられているほうが、「人のせいにする」という「非・道徳的なことをしている」と見なしてしまう。ジャイアンとのび太の話でも、「のび太が、ジャイアンのせいにしている」という言い方を採用した場合、「のび太が、ひとのせいにするという非・道徳的なことをしている」と見なしてしまうことになる。

「なんだかむしゃくしゃする」とか「なんだか気にくわない」という理由で、のび太をなぐったジャイアンのことは、まったく問題にならず、「ジャイアンのせいにしたのび太」のほうが、人のせいにしているからダメなんだということになってしまうのである。

ブラック社長と名前だけ店長の場合も、実際に、名前だけ店長が、いじめられているのに、「名前だけ店長が、自分のつかれを、ブラック社長のせいにしている」ということになってしまうのである。

ちょっと言い方が複雑になるのだけど、「人のせいにしている」というのは、抽象的な言い方なのである。そのとき、個別的で、具体的な出来事について言っているわけではないのだ。

ともかく、「人が人をせめている」場合の話をしているということになる。

「人が人をせめている」と書いたけど、ネガティブな言い方をすると、人をせめている人が、「不平を言っている」とか「不満を言っている」ということになる。

抽象的にはそうなんだよ。

たとえば、のび太は、ジャイアンになぐられたことについて、不満を言っているということになる。不平を言っているということになる。

この場合、不満や不平を口にしているほうが、ともかく、悪いという見なし方が成り立っているのだ。

こういう前提で、一度、抽象化してしまうと、やられているほうに、理がある場合でも……やられているほうが、人のことをせめたなら……人のことをせめているほう(人)が、人のせいにしているということになってしまうのである。

こういう、言い方なのである。

めちゃくちゃに言いにくいことなのだけど、くるしんでいる名前だけ店長が、不平不満を言っているということになってしまう。その場合、不平不満を言っているほうが悪いということになってしまう。

わかるかな?

もちろん、やられたほうが悪い場合だってある。

しかし、それについては、個別具体的な判断をしなければならないのである。

個別具体的なケースついて、個別具体的な判断をしなければならないのである。それなら、どこに正義があるのか?

自分の富を増やしたいから、名前だけ店長を不当に働かせているブラック社長は、悪くないのかという問題がしょうじる。

しかし、「文句をっているほうは」名前だけ店長だということになる。名前だけ店長が、やられているほうなのに、名前だけ店長が、「人のせいにする悪い人間だ」ということになってしまうのである。

ようするに、「だれのせいか」ということを、まったく問題にせず、ともかく、「人のことをせめしている人が悪い」ということになってしまうのである。

「人のせいにしない」という言い方には、このような問題がある。

「人のせいにしない」という言い方は、やられたほうが悪いということを前提にした言い方なのである。

やられたほうが、ほんとうは、やられたわけではないのに、やったひとのせいにしているということになってしまう。

こんな、ひどい言い方は、ない。

やられたほうが、不当に!!やったほうのせいにしているという判断が混じった言い方になっているのである。もし、ほんとうにやられたほうが正しく、やったほうが悪い場合でも……やったほうが悪いのではなくて、やられたほうが悪いと最初から決めつけた言い方になっているのである。

どれだけひどいことをやられても、やられたほうが不平を言うなら、やれたほうが悪いという見なし方が前提にある言い方なのだ。

これが、やっかいなのは、不平を言いっているほうが、悪い場合が実際にあるということなのである。

その場合、そのよう一例をあげれば、不平を言いっているほうが、悪いということを、一般化することができるのだ。

どうしてかというと、普通の人は、集合的一括思考をしてしまうからだ。

悪い例をあげて、一般化した説明をすると、それで、一般化した説明を信じてしまう。

ほんとうは、個別性を無視しているという問題があるのに、それには、気がつかない。

集合的一括思考をしてしまう人は、個別性を無視しているということに、気がつかない。

名前だけ店長が、ブラック社長に、「もう、つかれたので、サービス残業をさせないでください」ということを言ったとする。これだって、名前だけ店長が、不平不満を言ったことになる。

あるいは、「つかれた」とネガティブなことを言ったということになる。

ちょっと脱線するけど……言霊ということを考えるなら、「つかれた」と言うから、つかれるのだということになってしまう。

「つかれると言うから、つかれるんだ」とブラック社長が言った場合、どうやって、言霊主義者は、ブラック社長に反論するのだ。言霊主義者は(ブラック社長に)同意すると思う。ようするに、言霊主義者は(かなりの高確率で)ブラック社長の見方をして、実際くるしんでいる名前だけ店長をさらにくるしめることになる。

話を元にもどそう。 

ともかく、名前だけ店長が不平不満を言ったということになってしまうのである。そして、不平不満を言うことは、悪いことだということになっていると、悪いことをしたのは、ブラック社長ではなくて、名前だけ店長だということになってしまうのである。

名前だけ店長が、ブラック社長のせいにしたということになってしまうのである。

 名前だけ店長がこれほどまで疲れているのは、たしかに、ブラック社長の要求に問題があるからなのだ。

しかし、名前だけ店長が不平不満を言ったということになれば、名前だけ店長が「不当に」ブラック社長のせいにしたということになってしまうのである。

ほんとうは、ブラック社長のせいではないのに、ブラック社長のせいにしたということになってしまうのである。

「ひとのせいにしない」という言い方には、なんらかの不平不満を述べた人がいるなら、なんらかの不平不満を述べた人が「ひとのせいにした」と……「ひとのせいにしない」という言い方をされた人に、思わせる機能がある。

最初から、判断が含まれている言い方なのだ。

その判断というのは、なんらかの不平不満を述べた人がいるなら、なんらかの不平不満を述べた人が「ひとのせいにした」という判断だ。

「ひとのせいにしない」という言い方をした人が、どれだけ、認識しているのかはわからないけど、「人のせいにしない」という言い方をされた人は、自動的に「個別具体的な区別をしなくても」……人をせめている人が、人のせいにしている(悪い人だ)という認識がうまれるようになっているのだ。

たぶん、「ひとのせいにしない」と言った人も、「個別具体的な区別をしなくても」……人をせめている人が、人のせいにしている(悪い人だ)と判断している。

この言い方には、そういうところがある。

認識が紛れ込んでいるのである。判断が紛れ込んでいるのである。

「不平不満の対象になっている人には、責任がない」という認識が紛れ込んでいるのである。

たとえば、やった人を不平不満の対象になる人だとする。そして、やられた人が不平不満を述べた人だとする。

その場合、なにが起こったとしても、不平不満の述べた人が、「不平不満の対象になる人」のせいにしたということになってしまうのである。

責任の所在を、まったく考えないのである。

だから、ほんとうに、「不平不満の対象になる」人に、責任がある場合でも、とにもかくにも、不平不満を述べた人が、不平不満の対象になる人のせいにしたということになってしまうのである。こういう、言い方なのである。

●「引き寄せパラダイムに従って」解釈するようになる(1)■思霊※2026/05/20 1:05

「人のせいにしない」「人のためにつくす」とAさんが言ったとする。

Aさんは、「引き寄せ」の専門家だ。

どういうふうにすれば、引き寄せることができるようになるか……という教えのなかに「人のせいにしない」ということと「人のためにつくす」ということが、まぎれこんでいる。

「人のせいにしない」とは、聞こえがいいけど、人に対して言うときは、注意が必要だ。

これ、ほんとうに、他者の責任である場合を否定しているのである。

他者に責任がある場合を否定しているのである。これが、どういうことなのかわかっていない。

何度も言うけど、「人のせいにする」という言葉には、「本来、その他人のせいではないことを、その他人のせいにする」という意味が込められている。「その他人のせいではないこと」を「その他人のせいにすることは、たしかに、よくないことだ。避けるべきだろう。

しかし、「本来、その他人に責任がある場合」も、「その他人のせいではない」と決めつけてしまっている。

たとえば、BさんとCさんとDさんがいるとする。Bさんが、Bさんの意志で、Cさんに迷惑行為をしたとする。そして、Cさんが「Bさんに、その迷惑行為をしないように言った」とする。これは、正しい行為だ。

しかし、BさんはCさんに対して「その行為」をすることやめず、結果として、Cさんは被害を被ったとする。この場合、Bさんには「その行為をした」という責任がある。

なので、CさんがBさんの責任を追及しても、問題はない。

ところが、Dさんが、Cさんは、Bさんのせいにしていると判断したとする。だから、DさんがCさんに「人のせいにしない」と言ったとする。Dさんの見立てだと、CさんがBさんのせいにしているということになる。

しかし、Cさんは、Bさんの責任を追及しただけだ。正しい行為なのである。

だから、「Bさんに責任の所在がある場合」も「Bさんに責任の所在がない場合」もおなじだと、Dさんは考えているということになる。

Dさんは、「Bさんに責任の所在がある場合」も「Bさんに責任の所在がない場合」もおなじだと考えているので、別に、Cさんに対して、失礼なことをしたとは思わないだろう。悪いことをしたとは思わないだろう。

けど、Cさんは、不愉快な気持ちになったとする。

どうしてかというと、「ほんとうにBさんに責任がある」のに、「Cさんが、責任がないBさんのせいにした」とDさんが考えているということがCさんには、わかるからだ。

Dさんは、特に気にしていないだけど、ぬれぎぬを着せられたほうは、いやな思いをすることがある。最初から、一括思考をしているのである。

だれか(1)がだれか(2)をせめたなら、だれか(1)は、人のせいにしているという一括思考をしているのだ。 だれかがだれかをせめたなら、せめたほうは、「人のせいではないこと」を「人のせいにしている」と決めつけてしまうのである。

*     *     * 

たとえば、Dさんが  「人のせいにしない」「人のためにつくす」ということを、ふたつともいいことだと思って、なるべく、そうしようと思っていたとする。

なるべく、自分が実行しようと思っていたとする。

「人のせいにしない」というのも、「すべては自己責任である」という自己責任論とおなじように、『自分』を対象としているのか、『他者』を対象としているのかということが、あいまいな言い方なのである。

自分を対象とした言葉なのに、いつのまにか、他者を対象としている場合がある。他者を対象としている場合は、他者に対して「勝手な決めつけをする」ということになってしまう。

その場合、「人のためにつくす」と言っているのに、人をおとしめるようなことをしているということになる。

別に、「人のためにつくす」ではなくてもいい。

たとえば、「人に親切にする」でもいい。

Dさんは、Cさんに親切にしていないのである。

むしろ、Cさんの名誉を毀損するようなことをしている。

それに、「人のせいにしない」ということを、「人をせめない」ということに置き換えると、Dさんは「Cさんが、Bさんのせいにしている」とCさんをせめている。

Dさんから見て、Cさんは他人なので、DさんはCさんに対して「人のせいにしている」と言える。

たしかに、DさんはBさんをせめてはいない。しかし、Dさんは「ほんらい、Bさんの責任ではないことを、CさんがBさんの責任だと言い、Bさんのせいにしている」と断定している。

とりあえず、DさんはCさんのせいにしている。

Dさんは「Cさんは、ほんらい、Bさんの責任ではないことを、Bさんのせいにしている」と思って……Cさんをせめている。 

*     *     *

これだと、実際に被害を受けた場合でも、「人のせいにした」ということになってしまうのである。実際に被害を受けた人が、加害者のせいにした……ということになってしまうのである。

その場合、実際被害を受けた人が、「人のせいにする」という悪いことをしたということになってしまうのである。

*     *     *

ちょっと、「人のせいにした」ということから、離れて、思霊思考について考えるとする。 

たとえば、のび太がジャイアンになぐられたとする。要するに、ジャイアンが、のび太をなぐったとする。思霊主義者は、「思ったことが現実化する」と思っているので、「のび太が、ジャイアンが自分をなぐると思ったから、ジャイアンがなぐったのだ」と解釈してしまうのである。

対処方法は、のび太が……「ジャイアンは自分をなぐらないと思うこと」になる。

思いが現実化するから、ジャイアンはのび太をなぐらなくなる。

ところが、ジャイアンが、また、のび太をなぐったとする。

そうすると、思霊主義者は「のび太の思い方が間違っているから、ジャイアンがのび太をなぐるのだ」とのび太の思い方のせいにしてしまうのである。

あるいは、「のび太が、強く思わなかったからダメなのだ」と「のび太の思う力」がたりなかったのだということにしてしまうのである。

引き寄せというのは、思霊思考の一種なのである。

だから、「のび太がジャイアンをひきよせた」とか「のび太が、ジャイアンがなぐってくることを引き寄せた」ということになってしまう。

引き寄せた、のび太が悪いのである。

なぐったジャイアンが悪いのではなくて、ジャイアンのこぶしを引き寄せたのび太が悪いのだということになってしまうのである。

思霊主義者は「ジャイアンが自分をなぐってくる」とのび太が、思ったから、ジャイアンが自分(のび太)をなぐるということが現実化したと考えてしまうのである。

引き寄せ信者は「ジャイアンが自分(のび太)をなぐる」と「のび太が思った」から、「ジャイアンがのび太をなぐること」を「のび太が引き寄せてしまった」と考えるのである。

けっきょく、のび太が「ジャイアンが自分(のび太)をなぐること」を引き寄せたから、ダメなんだということになってしまう。

ジャイアンが、自分の意志で、のび太をなぐったのではなくて、のび太が「ジャイアンになぐられる」ということを引き寄せたのだと(引き寄せ主義者は)考えてしまうのである。

*     *     * 

「引き寄せようと思えば、引き寄せることができるのだから、いいことじゃないか」と思うかもしれない。

それは、カジュアルなおまじないみたいなものなのである。

「引き寄せ行為をすると、願いがかなう。自分の願いをかなえるために、引き寄せ行為をする」……。

「別にいいことじゃないか」と思うかもしれない。

しかし、引き寄せパラダイムは、その人自身には、とどまらないのである。

引き寄せパラダイムをもっているということは、引き寄せパラダイムに従って、現実を理解するということにつながる。

そうなると、他者も現実世界に存在するのだから、他者のことも、「引き寄せパラダイムに従って」解釈するようになるのである。

2026年5月23日土曜日

●俺はどうやって自分の人生を、しめくくればいいのだろう■騒音※2026/05/23 14:18

俺はどうやって自分の人生を、しめくくればいいのだろうかねぇーー。一六歳の体になれるわけがないしなぁ。けど、一六歳の体にもどりたいなぁ。それにしても、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃだった。このめちゃくちゃさが、わかる人がいない。

いまも、鳴っている感じがする。


全部、が、ほんとうに、めちゃくちゃだった。

 

あの、騒音生活がどういうものなのか、みんな、ほんとうにわかっていない。わかっていないのに、えらそうなことばかり、いいやがって……。

2026年5月22日金曜日

●区別■言霊※2026/05/20 23:51

たとえば、「自分が元気だ元気だと言ったら、実際に元気になった」から「言霊理論は正しい」と思ってしまう人たちがいるのだ。

「自分が、元気だ元気だと言ったら、実際に元気になった」から「言霊理論は正しい」という考え方も、間違った集合的一括思考だ。間違っている。

だいたい、「元気になった」というのが、ほんとうのことなのかわからない。

本人が、「元気になったような気がした」ということを言っているだけかもしれないのだ。

普通に行動できるときに「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」というようなことを言っているだけなのかもしれない。

本人が、なんかの大きな?病気になり、ほんとうに弱っているときは「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。強烈にくるしいとき「元気だ元気だ」と言うと、元気になるのかどうか、問題がある。

ところが、言霊理論は「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」というものだから、一〇〇%構文の文になってしまうのである。

なので、ここから、間違った集合的一括思考がはじまってしまうのである。

この人たちは「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」という文の意味と「すべての言うということにおいて、言えば、言ったことが、言霊の力によって、一〇〇%の確率で、現実化する」という文の意味がおなじだと思っているのだ。

そもそも、言霊は、ないので、言霊の力もない。だから、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」という文も間違っている。問題なのは、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」という文の意味と「言えば、言ったことが、現実化することがある」という文の意味を……この人たちが区別していないことなのである。

ようするに、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」という文の意味と「言えば、言ったことが、現実化することがある」という文の意味がおなじだと思っているのである。

この人たちは……。「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化することがある」ということは、ありえる。これは、「言ったあと」言ったことが、言霊の力以外の力で、現実化されることがあるということだ。

言ったことは、物理法則に合致していなければならない。

だから、「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化することがある」としても、その「言ったこと」は、この世では、物理法則に合致していなければならないのである。

しかし、「言ったこと」の内容は、物理法則に合致していない内容も、含むことができる。

だから、「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化することがある」としても、言ったことの内容は、物理法則に合致した内容であるという条件がつくことになる。

ところが、言霊の世界では、物理法則なんて、最初から無視してしているのである。

「言うことの内容」は、「物理法則に合致している」というような条件がつかないものなのである。しかし、現実には、「物理法則に合致している」という条件からはずれることに関しては、「言えば、言ったことが、現実化することがない」のである。

最初から、現実化する可能性がないことなのである。こういう「条件」について、最初から、無視しているということが、重要なのである。

最初から、条件付きの文で、言わなければならないのに、条件付きではない文で言っているということは、詐欺的な意味内容の混乱を引き起こしている。

ようするに、言霊主義者は(1)「言えば、言ったことが、現実化する」という文と(2)「言えば、言ったことが、現実化することがある」という文と(3)「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化する」という文と(4)「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化することがある」という文の、区別をしていないということになる。

さらに、(5)「物理的な条件を満たすなら、言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化することがある」という文と(4)「言えば、言ったことが、言霊の力以外の力によって、現実化することがある」という文の、区別をしていないということになる。

「物理的な条件を満たすなら」という言葉は、「物理法則に合致することなら」という言葉に言い換えてもいい。

ともかく、物理法則に合致していないことなら、言っても、現実化することはないのである。

そのほかにも、人間の体に関係することである場合は、人間の体のしくみが、その言葉の内容に対応しているのかどうかということが問題になる。

「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言うけれども、そもそも、人間の体のしくみが、元気になることに対応していなければ、元気にならないのである。

そして、「元気になる」ということが、どういう意味なのか、はっきりしないけど、ともかく、「元気になる」ということと「元気になった気がする」ということは、わけて考えなければならないのである。

たしかに、血行がよくなるという表現を使えば、血行が悪いときよりも、元気になったような感じがするけど、単位時間内の血流量が増えたということは、かならずしも、元気になたっことを意味しない。

そして、前にも指摘したけど、自己暗示の力は、言葉の力であって、言霊の力ではない。そして、言葉の力は、身体のしくみに依存しているのである。言語の力というものも、身体のしくみの上に成り立っているのである。

身体のしくみをこえて、機能しないのである。

このことは、言葉の限界をしめしている。

しかし、言葉の力ではなくて、言霊の力だと考えていると、身体のしくみをこえて、言霊が「作用する」ということになってしまうのである。

その場合は、身体のしくみをこえるだけではなくて、物理世界のしくみをこえるということになってしまうのである。

ようするに、言霊の力は、身体の制限もうけないし、物理世界の制限もうけないということになってしまうのである。

言霊主義者は、言葉の力と言霊の力も区別していない。

●精神の麻薬なんだよ■社会※2026/05/22 21:00

まあ、精神世界というのは、一種の貧困ビジネスなんだよね。はったりで起業できるし、考え方の仕入れは、ただだ。だから、まあ、あんまり深く考えない人が、はったりで、参入できる。

そして、現実がくるしければくるしいほど、需要が増える。条件が悪い人が、増えれば増えるほど、需要が増える。そりゃ、夢みたいな話だからなぁ。精神のソフトドラックなんだよ。精神の麻薬なんだよ。精神の覚せい剤なんだよ。

これは、有害だ。

どうしてかというと、ぼくがここで説明してきたような「しくみ」が成り立っているからだ。精神世界がはやればはやるほど、社会がボロボロになる。なんで、道徳的な話から、問題がしょうじるのか? まあ、運用の問題があるんだよ。そして、「ぬけぬけ」の問題がある。おなじことだけどな。

精神世界と書いたけど、その対極にありそうな「努力論」もおなじなんだね。これが、わかっていない人が多すぎる。精神世界は宗教的だけど、努力論はビジネス的で現実的だと思っている。ちがう。ちがう。まったく、ちがう。努力論と精神論のさまざまな思想は、似ているんだよ。機能としては、おなじ機能をもっている。努力論も、精神の麻薬なんだよ。

なんで、これに、気がつかないのか。

精神世界のさまざまな考え方がはやればはやるほど、努力論がはやればはやるほど、世界が悪くなっていくのである。条件が悪くて、悪い出来事が発生して、くるしんでいる人が、余計にくるしむようにできている。精神世界のさまざまな考え方や努力論は、条件が悪い人を、追い込むようにできている。「ぬけぬけ」の人たちが……「抜け忍狩り」の体制的な忍者のように……条件が悪い人に、襲いかかるのである。

まあ、精神的に襲いかかるだけだけどなぁ。

●「これ以降、この店にあるものはすべて、わたしのものになる」■言霊※2026/05/21 4:33

「これ以降、この店にあるものはすべて、わたしのものになる」と言えば、この店にあるものはすべて、わたしのものになるのである。

言霊理論が正しいなら、そうなるのである。

しかし、たいていの言霊主義者は、店で普通に買い物をする。クレジットカードでカネを払うか、現金でカネを払うか、あるいは、スマホ決済で、カネを払うかということには、差があるけど、カネを払って買うことになる。

それは、普通のことだから、言霊主義者は、まったく疑問を感じない。

「これ以降、この店にあるものはすべて、わたしのものになる」と言ったのに、自分のものにならないということに、疑問を感じない。

これは、普段、「自分が言えば、自分が言った通りになる」と思っていないということだ。

「自分が言ったって、この店にあるものはすべて、わたしのものになる」わけではないということを……言霊主義者は知っている。

ようするに、「言ったって現実化しない」「言ったって、言った通りにならない」と……言霊と謝儀者は思っているわけだ。

しかし、夢や希望として語るなら、「いつか、この店のものをすべて買えるようになるかもしれない」という意味で、「いつか、この店にあるものはすべて、わたしのものになる」と言うことができる。

この場合も、別に社会制度や店のしくみを無視して、自分のものにしようとしているわけではない。言霊の力を使う場合は、社会制度や店のしくみも、言ったことにあわせて、かわることになっているのである。

そういう力が、「ことば」には宿っていると……言霊主義者は、考えているのだ。

言霊主義者は、(1)「言えば、言ったことが、現実化する」という文と(2)「言えば、言ったことが、現実化することがある」という文の区別をしていない。

そして、(3)「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という文と(4)「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化することがある」という文の区別もしていない。

だから、ほんとうは、単なる誤解なのだけど、「言霊の力によって、自分が元気になった」と思えば、 (3)「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と思ってしまうのである。

しかし、現実の生活のなかでは、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」とは、思っていないということになる。

もし、ほんとうに、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」と思っていれば、言霊主義者の行動は、妄想的な異常者の行動になってしまうのである。

じつは、「言い方がヘタだと、うまく言霊の力が働かない」というような考え方が、クッションになっているところもある。「言い方がヘタだと、言っても、言ったことが、言霊の力によって、現実化するとは限らない」ということになってしまうのである。

あるいは、「言い方がヘタだと、言っても、言ったことが、言霊の力によって、現実化しな場合がある」ということになってしまうのである。

これは、言霊が言葉に宿っているのか、言葉に『自分』が言霊を宿らせるのかという問題とも、関係がある。

言霊主義者は、 言霊が言葉に宿っていると思っているのだけど、ほんとうは、自分が、言葉に言霊を宿らせているという気持ちもあるのだ。

それが、また、現実的な矛盾を意識しないようにする「クッション」として成り立っている。ようするに、両者の区別をしないことによって、矛盾が意識にのぼらないようにしているのである。

うまく、言ったことが現実化しなかった場合は、自分の言い方が悪いから、現実化しないと考えることができるようになる。

それは、自分が言霊を宿らせるのに失敗したからそうなったということになる。

この場合、言霊を宿らせる力をもっているのは「本人(自分)」だということになる。

そして、言霊の力で物理法則も書き換えることができるということになっているので、自分は、物理法則も書き換えることができると思っている部分もあるのである。

どこまで、意識的なのか、わからないけど、自分が言葉に言霊を宿らせることによって、物理法則を改変することができると思っているのだ。

改変すると書くと、おおさだけど、物理法則を無視して、言霊の力が働くと思っているのだから、そういうことになる。物理法則に合致しないことを言った場合も、言霊の力によって、その物理法則に合致しないことが起こると思っているのである。

言霊主義者は、ほんとうは、そのように思っている。

だから、「言えば言ったことが現実化する」と考えて、物理法則のことなんて、無視してしまうのである。物理法則に合致しないことを言っても、言ったのだから、言霊の力によって、現実化するはずだと……言霊主義者は考えているところがあるのだ。

しかし、「あたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊思考にならないのである。言わなくても、現実化してしまうことに、まったく疑問をもたない。物理法則に合致したことに関しては、言霊の力を期待しない部分もある。

ようするに、夢や希望といった現実感覚が低いものに関しては、物理法則に合致してなくても、かなうかもしれないと……言霊主義者は思うのである。

その言霊主義者がどの程度、物理法則に合致しているかどうかということを気にするかということが、「言うかどうか」に影響を与えている。まったく気にしない場合は、物理法則に合致しないことも、「言えば、言っただけで、言った通りになる」と……言霊主義者は思っているのだ。

社会制度についても、物理法則とおなじようなことが成り立っている。言霊主義者のなかで、「そのことがあたりまえすぎる」と「言ってもかわらない」と思って、言霊の力を使って、現実をかえようとすることを、最初から、あきらめてしまう。言霊主義者でも、最初から、あきらめてしまう。

2026年5月21日木曜日

●「この店で、自分はただで食べることができる」■言霊※2026/05/20 2:29

たとえば、「この店で、自分はただで食べることができる」と言ったとしよう。

言霊理論が正しいなら、ただで食べることができるようになるのである。言ったことが、言霊の力によって現実化されるので、言った通りになるのである。

Aさんは、「この店で、自分はただで食べることができる」と言ったあと、とある店に入って、ロースカツ定食を注文して、ロースカツ定食を食べたとする。食べ終わったあと、おカネを払わずに、店を出ようとしたら、店の人が、「ちょっとお客さん、おカネを払ってください」と言ったとする。

しかし、Aさんは「この店で、自分はただで食べることができる」と言ったので、「ただで食べることができるはずだ」と言ってゆずらないとする。そして、無銭飲食で捕まったとする。

しかし、取調室でも「この店で、自分はただで食べることができると言って、店に入ったので、まったく問題はない」とAさんが言い張ったとする。

Aさんのなかでは、「言霊は絶対」なので、「店のほうがおかしい」ということになる。

Aさんが……「店の対応が間違っている。自分はたしかに、この店で、自分はただで食べることができると言った。言えば言ったことが現実化するので、ただで、食べることができるはずだ。おかしいのは店の店主だ」と言い張ったとする。

現実世界でAさんの主張が通ることはない。

言霊の力は、Aさんが言ったことを現実化せず、Aさんの行いが……現実の行いが、現実の行いだということになる。

Aさんの……「妄想のなか」では、「言ったのだから、言った通りになる」ということになっている。

だから、「Aさんのなか」では、Aさんの行動は、異常ではないのである。

しかし、外部から、Aさんの行動を見ると、異常だということになる。

言霊主義者が、飲食店に入って、なにかを注文してカネを払って出てくるのは、それが常識だと言霊主義者が思っているからだ。そして、「言っても、その常識は、かきかわらない」と思っているからだ。

「言うことで、その常識を書き換えれる」と(言霊主義者が)思っていないということをいしている。

しかし、言霊理論に忠実なら、じつは、書き換えられるはずなのである。

言っただけで、いかようにでも、書き換えられるはずなのである。

言っただけで、他人の行動や、他人の考え方をかえることができるはずなのである。

(その人が)言った通りになるはずなのである。

自分が「これこれこういうことになる」と言ったら、言霊の力によって「これこれこういうことになる」のが、あたりまえなのである。

だから、言霊主義者にとって、現実的な問題に関しては、特殊な場合を除いて、言霊のことなんてまったく気にしないで、言霊主義者は行動をしているのである。

言霊主義者が、いろいろなとこで、トラブルを起こさないのは、この現実感覚のおかげだ。

もし、ほんとうに、言霊主義者が、言霊理論を信じぬいて行動すると、妄想的な行動をして、ほかの人に迷惑をかけるということになってしまうのである。

2026年5月20日水曜日

●なんで、クーポン券を使って、食事をするんだ?■社会※2026/05/20 1:43

「ぬけぬけ」だから、わからない。

「ぬけぬけ」だから、自覚しないというのは、めちゃくちゃに重要なことなのである。

そして、一倍速で感じることができる『自分のこと』と、一倍速で自分が感じることができない『他人のこと』のちがいが、よくわかっていないということも、重要なことなのである。

ほんとうは、両者のちがいがわかっていないのだけど、なんとなく、わかったつもりになっているのである。

「わかっていない」ということを指摘されると、この人たちは、かなりの高確率で、「わかっている」とこたえるのだけど、相当に大雑把な理解なのだ。肝心なところがぬけている理解なのだ。

たとえば、言霊理論について、言霊主義者に話したとする。その場合、言霊主義者が「以上のような特徴をもっている」ので、いくら、理論について語っても無駄なのである。

言霊主義者は、自分の「現実的なこと」に関しては、言霊なんて気にしていないということが、わかっていない。

「夢にかかわること」に関しては、言霊が関係している。

そして、他人だって現実の問題を抱えているのに、他人が一倍速で実際に感じていることは、自分が感じていることのようには理解できないので、本人は、無視するつもりはないのだけど、無視してしまうのである。

他人にとっての現実を、無視してしまう。あるいは、軽視してしまう。しかし、本人は、ちゃんと考えているつもりなのである。「こういうことでこまっているんだろ」と思っているのである。

「そんなのは、言霊で解決できる」と思ってしまうのだけど、それは、言霊主義者本人にとって、他人の現実が「自分一倍速で経験しているような現実」ではないから、他人にとっ非常に重要な条件を無視してしまうのである。この、条件の無視ということは、重要なことだ。

他人が、なんとか病で、仕事ができないとする。その場合は、「なおると言えばなおる」と他人に言ってしまうのである。「できないと言うからできないんだ」と言ってしまうのである。

「できると言えばできる」と言ってしまうのである。自分がなんとか病にかかって、仕事ができなくなれば「なんとか病だから、仕事なんてとてもできない」と思って、仕事をやめてしまうのである。

仕事場で、ぎっくり腰になった場合、「三秒以内になおる」と言っても、「三秒以内になおらない」ということに、気がつかない。自分が一倍速で感じていることだから、言霊思考にならないのである。

けっきょく、言霊に頼らず、普通の方法でなおすことになるのである。

もちろん、余裕ができれば「なおる」と言って、なおそうとする。

しかし、それは、病院に行って、いちおうの処理をしたあとのことなのである。ほんとうに、言霊理論が正しいなら「なおる」と言えば、言ったとたんに、なおるのである。

「余裕ができれば」と書いたけど……現実的な問題なのだけど、「夢」や「希望」のステータスに移行しただけなのである。なにが移行したのかというと、「ぎっくり腰の感覚」が現実的な感覚から、「夢」や「希望」を語るステータスに移行したのである。

しかし、それは、現実的な処理をしてからのことなのである。

言霊主義者が老化して働けなくなった場合、言霊でどうにかすることができるかというと、できないのである。言霊主義者が認知症になった場合、「自分の認知症は一秒以内になおる」と言っただけで、なおるのかというと、なおらない。

自分が一倍速で感じていることに関しては言霊的な解決方法は、無力なのである。そして、自分が一倍速で感じていることに関しては、言霊的な解決方法が無力であるということを、言霊主義者が知っているのだ。

しかし、「ぬけぬけ」だから、意識的に考えているわけではないのである。

*     *     * 

たとえば、言霊主義主義者が、ほんとうは、豪華なホテルに泊まりたかったのだけど、おカネのことを気にして、安いホテルに泊まったとする。

この場合、言霊理論が正しいなら、いくらでも言霊を使って、解決することができることなのである。「この豪華なホテルに、ただで泊まれる」と言えば、「この豪華なホテルに、ただで泊まれる」という言葉に宿っている、言霊の力によって、「ただで泊まれる」ようになるのである。

ただで泊まれるようにならないなら、言霊理論が間違っているということなのである。

つまり、「言ったことが、言霊の力によって現実化する」という言霊理論が間違っているということになる。

ところが、現実的な問題なので……言霊主義者は……「この豪華なホテルに、ただで泊まれる」と言って、ただで泊まることを、最初から、あきらめてしまうのである。

しかも、言霊なんて頼りにならないから、現実的な方法を模索したということについても、無視してしまうのである。

「この豪華なホテルに、ただで泊まれる」と言って、ただで泊まることをあきらめたときも、意識的な思考のレベルでは「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」ということになっているのである。

ようするに、言霊主義者の言霊に対する信頼がゆらいでいない。

言霊主義者の言霊に対する信頼がこわれていない。

どうしてかというと、「ぬけぬけ」だからだ。ぜんぜん、気にしていないのである。

「この豪華なホテルに、ただで泊まれる」と言っても、ただでは泊まれないだろうと……言霊主義者が、考えたとする。その数分後に、友人から電話がかかってきたとする。友人が「他人が、ぎっくり腰で働けない」という話をしたとする。

その場合、言霊主義者は……「なおると言えばなおる」と他人には、言ってしまう確率が高い。自分で、自分の矛盾に気がつくことがないのである。

「この豪華なホテルに、ただで泊まれる」と言う方法のほかに、『自分の口座に一〇〇〇万円が、振り込まれる」と言う方法も考えられる。今日中に欲しいのであれば「今日中に、自分の口座に一〇〇〇万円が、振り込まれる」と言ってしまえばいいのである。

言霊理論正しいなら、かならず、振り込まれる。

なので、振り込まれた一〇〇〇万円を使って、豪華なホテルに泊まればいいのである。一〇〇〇万円全部を使う必要はない。一〇〇〇万円のうち、一部のカネを使って、その豪華なホテルに泊まればいいのである。

言霊主義者が、クーポン券を使って食事をしたとする。ほんとうは、クーポン券なんて使う必要がない。前述のとおり、 今日中に、自分の口座に一〇〇〇万円が、振り込まれる」と言えば、今日中に、自分の口座に一〇〇〇万円が、振り込まれるので、クーポン券などは使わずに、食事をすればいいのだ。

だいたい、そこに行って、食べなくても、「これこれこういう料理が目のまえに出現する」と言えば、「これこれこういう料理が目のまえに出現する」ので、言霊的な方法を使って、これこれこういう料理を食べればいい。

なんで、クーポン券を使って、食事をするんだ?

おかしいじゃないか。

「クーポン券なるものを使ってみたかっただけだ」と言うかもしれない。まあ、それはそれでいいけど、現実の暮らしのなかでは、言霊なんて、無視して暮らしているのではないのか?

現実の暮らしのなかでは、言霊の力に頼らずに、現実の問題に対処しているのではないのか?

おかしいじゃないか。

●どれだけ我慢しても、こういうことの繰り返しだった■騒音※2026/05/20 7:51

 今日は、水曜日で、プラスチック・ゴミの日なのだけど、行く気持ちが、なえた。行きたくない。ゴミ置き場?に行きたくない。だめだ。行く気がしない。来週、行けば、いいか。これで、この気持ちを振り切って、行ったとしても、いいことがないんだよな。「気持ちを振り切って、行ったら、さっぱりした気持ちになった」というようなことがない。相変わらず、つらいのである。どうしてかというと、ヘビメタ騒音が影響している。「ヘビメタ騒音の朝」が影響、している。これ、もうだめなんだよな。たぶんだけど、一生なおらない。そして、ぼくは、大切な時間を無駄にしてしまった。きちがいヘビメタ騒音で、わかいころの時間を消費してしまった。こんなの、ない。

ボロボロになっても、頑張って、学校に行っていた。それは、並じゃないつらさなのである。そりゃ、だれだって、学校に行きたくない日はあるだろう。けど、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていない日々の「学校に行きたくない気持ち」と、ヘビメタ騒音が鳴り始めてからの「学校に行きたくない気持ち」というのが、まるでちがうのである。天と地ほどちがう。ヘビメタ騒音が鳴り始めてからのほうが、ずっとずっとずっと、つらい。このつらさは、どれだけ言っても、経験した人じゃないとわからないと思う。けっきょく、きちがい兄貴のような家族がいないから、きちがい家族が鳴らす……毎日鳴らし続ける騒音というものを、経験したことがない人は、きちがい家族が鳴らす騒音というものを知らないから、きちがい家族が鳴らす騒音のすさまじさがわからない。きちがい家族が鳴らす騒音の「影響」がわからない。「鳴り終わったら関係がない」というやつは、次の日の「地獄のようなくるしみ」がわからない。どれだけ張り詰めた気持ちで、動きにくい体を、無理やり動かしているか、まったく、わかっていない。

きちがいヘビメタ騒音は約一四年と六か月で鳴りやんだけど、鳴りやんだあとも、ボロボロだよ。だいたい、きちがいヘビメタの症状で、やられていない他人から、文句を言われるという状態が、どれだけ、不愉快な状態かわからない……のだ。わからないやつらが「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、妄想的なことを言ってくる。無理なことを言ってくる。しかも、「妄想的なことを言っている」ということを理論的に説明してやると……ぼくの経験の範囲で言うと……みんな、不愉快になるのである。みんな、不機嫌になるのである。「なんだとおぉ」という態度になる。まあ、言霊主義者なら「言霊は絶対だ」と言い切って、腹を立てることになってしまうわけ。けど、言霊主義者だけではなくて「そんなのは関係がない」とか「過去は関係がない」とか「鳴り終わったら関係がない」というやつらも、言霊主義者とたいしてかわらない態度になる。

ヘビメタ騒音で、体が弱くなったとする。そうすると、こういうやつらが、えらそうなことを言える状態になる。言霊主義者は善意で「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる。「つかれたと言うからつかれるんだ」と言ってくる。これ、まるで悪意がないのだけど、おなじく、まるで悪意がないきちがい兄貴が、めちゃくちゃにでかい騒音を鳴らしたから、体が弱くなっているということを考えると、腹が立つことなのである。悪意がないから、放っておけるかというと、そうではない。どれだけ我慢しても、こういうことの繰り返しだったなぁ。きちがい兄貴が、毎日繰り返して、おなじような曲を、何時間も何時間も、鳴らし続けるからだ。 きちがい兄貴が、毎日繰り返して、おなじような曲を、何時間も何時間も、鳴らし続けるから「つかれている」のに、「つかれる」と言うから、つかれるんだと言われたときの、気持ちというのは、言いがたいほど不愉快な気持ちなんだよ。これがわかっていないのに……どういう気持ちになるかわかっていないのに……「俺だって苦労した」「俺だって、つかれることはある」と言えば、おなじレベルの騒音を毎日経験したことがあるということになり、おなじレベルの騒音を毎日経験したことがある自分が、「元気だ元気だ」と言えば元気になるのだから、「おまえ(エイリ)」も元気になるはずだという前提でものを言っているのだ。しかし、おなじレベルの騒音を毎日経験したことがない……人だか……「元気だ元気だと言えば元気になる」なんて、言えるんだよ。これ、おなじレベルの騒音を毎日経験したら、そんなことは、絶対に言えなくなる。こういう無理解な発言が、おなじレベルの騒音を毎日経験したことがないということを、如実に物語っている。

*     *     *

ともかく、ヘビメタ騒音でくるしかった。どれだけ、楽しくしようと思っても、楽しくならない。ヘビメタ騒音の連続で楽しくならない。きちがい兄貴は、きちがいだから、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、全部、やりきったんだよね。自分がやりたいようにやりきった。きちがいが、思いっきり、気が済むまで鳴らし続けたわけ。だから、普通の人のやり方じゃないんだよね。ほんとうに、休みの日は、一日中鳴らしているわけだし、きちがい兄貴の学校がある日は、帰ってきたら、眠るまで、ずっと鳴らしていた。これが、かわらないのである。どれだけ「試験だからやめろ」と言ったって、かわらない。しかも、何度も言うけど、「私見だからやめろ」と言われたあと、自分がやるつもりでいた時間は、全部鳴らしきったとしても、まったくそのつもりがない態度なのだ。これ、やりきったのに、あたかも、まったく鳴らさなかったときの態度とおなじなんだよ。これは、きちがいだからできることなんだよ。親父と同じタイプのきちがいだから、できることなんだよ。普通の人は絶対にできない。自分がやりきったら、ずっと鳴らしていたという記憶が残る。鳴らしているあいだ、何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も何回も、何回も「やめてくれ!!」 「やめてくれ!!」「やめてくれ!!」と言われたら、「やめてくれ!!」「やめてくれ!!」「やめてくれ!!」と言われた、記憶が残る。相手が「いやがっている」ということが、いやおうなく、わかる。ところが、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、まったく、まったく、まったく、わからないのである。あたかも、一日に一秒も鳴らさなかったという、態度なのだ。あたかも、一日に一秒も鳴らさなかったという感覚が成り立っている。きちがいだから、そうなる。「やめてくれ!!」と言われたときの、はねのけ方が、また、異常なのである。

こういうことだから、俺が、うたがわれるわけ。「そんな、でかい音で鳴らし続けることができるはずがない」と思ったやつは「エイリが嘘を言っている」と思うわけ。この人たちの常識で考えると「ありえないこと」なんだよ。だから、自然に「エイリが嘘を言っている」と思うわけ。こういう人たちが、約四割だ。

約六割の人たちは「そんなの、関係がない」と言う人たちだ。いやーー。関係、あるんだよ。ところが、こいつらは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、「関係がない」と言い張る。こっちが、ヘビメタ騒音でまずい立場……弱い立場の場合は、「そんなのは、関係がない」と強い態度で言うわけ。

約一〇割の人たちが、こういうやつらなんだよ。ほんとうに、頭にくる。 

●けど、それに気がついているのは、ぼくだけなんだよな■騒音※2026/05/20 1:41

ヘビメタ騒音で人付き合いがなくなったんだよね。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音が原因なんだよ。あれだけ長く、人生を破壊するかたちで、騒音が鳴っていると、友達関係も・友達関係以外の人間関係も、くずれていく……。けど、それに気がついているのは、ぼくだけなんだよな。

2026年5月19日火曜日

●「できると言えばできる」と「努力すればできる」(3)■言霊※2026/05/16 5:21

「すべての努力するということにおいて、努力すれば、成功する」という文と「努力すれば成功する」という文は、意味的に等価なのだ。

その場合、赤ん坊だって、努力すれば、縄跳びの二重廻しをすることに成功するということになる。

垂直飛びで一〇〇メートルジャンプするように、努力すれば、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプすることに成功するというこになる。努力論者は、「そんな、むちゃなことは言っていない」と言うかもしれない。

しかし、才能がなくてできない人に、「努力すれば成功する」ということは、赤ちゃんに対して「努力すれば、縄跳びの二重廻しをすることに成功する」と言うこととおなじなのである。

「赤ん坊じゃないだろ」と言うかもしれない。

では、足がない人に、「努力すれば、縄跳びの二重廻しをすることに成功する」と言うことはどうなのか?

すべての努力するということにおいて、努力すれば、成功するんだよ。

じゃあ、普通の人に、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプするように努力すれば、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプすることに成功するということは、どうか。

普通の人は、どれだけ努力しても、垂直飛びで一〇〇メートルジャンプすることができない。「努力すればできる」というのは、そのような「制限」を無視した表現なのである。「努力すればできる」というのは、本質的に「できると言えばできる」とおなじように「制限がない」ことを前提とした表現なのである。

ところで、普通の人に、走り幅跳びで八メートルとぶように、努力すれば、八メートルとぶことに成功するという場合は、どうか?

人類のなかには走り幅跳びで八メートルとべる人がいる。

なら、みんな、努力すれば、八メートル、とべるようになるのか?

そんなことはない。普通の人には、走り幅跳びで八メートルとべるような才能はない。才能がない人に、「努力すれば成功する」と言うということは……普通の人に、「走り幅跳びで八メートルとぶように、努力すれば、八メートルとぶことに成功する」と言って、走り幅跳びで八メートルとべるように、努力しろと言っているのとおなじなのである。

もちろん、多くの努力論者は、走り幅跳びで八メートルとべない。

努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになるか、真剣に考えたほうがいい。「そんな無理なことを言っているわけではない」と言うかもしれない。

しかし、条件が特別に悪い人にとっては、「努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになる」と言われているようなものなのである。

その分野において才能がない人にとっては、「努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになる」と言われているようなものなのである。

ところで、社会で求められる力には、かたよりがある。

普通の会社で、普通に働く能力というのは、人間の能力のなかの、一部の能力にすぎない。しかし、普通の会社で、普通に働く能力は、特別に重視されるのである。たとえば、Cさんが、走り幅跳びで八メートルとべる能力を持っていたとしても、普通の会社で、普通に働く能力がなかったとする。

その場合、Cさんは、普通の会社で、普通に働くことに、うまく適応でないということになる。

この……普通の会社で、普通に働く能力……というものが、くせ者なのだけど、とりあえず、普通の会社で、普通に働く能力と言っておく。

これ、ほんとうは、相当にあいまいな表現なのである。

普通の会社とはなにかとか、普通に働く能力とはなにかなんて、ほんとうは、うまく定義ができない。具体的な会社のなかで、求められる能力は、ちがうのである。その会社のなかでも、どういう仕事をするかによって、求められる能力がちがう。

ほんとうのことを言えば、「普通の会社で、普通に働く能力」という言葉は、抽象度が高すぎて、話にならないのである。

しかし、とりあえず、言いたいことを言うために、普通の会社で、普通に働く能力……という言葉を使ってみた。

普通の会社で、普通に働く能力……もしくは、普通の会社で、普通に働く才能がない人に、「努力すれば成功する」と言って、できない仕事を押し付けるのは、けっこう、ひどいことなのである。

それは、「普通の人」に対して「努力すれば、走り幅跳びで八メートルとべるようになる」と言っているようなものなのである。

無理な努力を押し付けている。

はっきり言えば、普通の人が努力しても、走り幅跳びで八メートルとべるようになる確率は、非常に低い。まず、無理だ。たいていの人には、無理なことなのである。

それとおなじで、なにかについて才能がない人にとっては、なにかについて「努力すれば成功する」と言われても、無理なことを言われているということになる。

なにかについて才能がない人に「努力すれば成功する」と言っても、無駄なのである。無理なことを押し付けていることになる。

そして、努力をしても、けっきょく、成功しなかった人の損害というのは、成功しなかった人が引き受けるしかないことなのである。

ようするに、無駄な努力をすることで、有限の体力も、有限である人生の時間も、消費してしまうことになる。得られるのは、「自信のなさ」だ。あるいは、破滅感だ。

「無駄な努力をすることによって」自分の人生を破壊してしまうことになる。人生の時間は有限だ。無限じゃない。

走り幅跳びで八メートルとべる能力がない人は、人間的に悪い人ではない。

別に走り幅跳びで八メートルとべなくても、「性格が悪い」とは、言えない。

ところが、普通の会社で、普通に働く能力の場合は、性格が悪い人だと言われるようになるのである。努力論が変換装置として成り立っているから、能力がない人は、努力をしない性格が悪い人だと言われるようになる。

「努力をすれば成功するのに、努力をしようとしないからダメなんだ」とか、「努力をすれば成功するのに、じゅうぶんな努力をしないからダメなんだ」とかと言われるようになる。

努力論を通すと、才能のなさが、性格の悪さに変換されてしまうのである。才能がない人には「だらしがない」とか「さぼり魔だ」とか「誠実ではない」とかというようなイメージがつきまとうのだ。

つまり、努力論者や、努力論者の影響を受けた人は、だれか「才能がない人」を「だらしがない人だ」とか「さぼり魔だ」とか「誠実ではない人だ」とかと決めつけてしまうのである。

その人たちのなかでは、「才能がない」人は、「だらしがない人」「さぼり魔」「誠実ではない人」ということになる。

努力論が、そのような変換装置として機能しているのである。人のこころのなかで、他者に対する見方を、かえてしまう。努力論が成り立っていると、「才能がない人」が「誠実ではない人」になってしまうのである。あるいは、努力論が成り立っていると、「才能がない人」が「性格の悪い人」になってしまうのである。

努力論は、一見よさそうなのだけど、ほかの人をダメ人間だとみなすようなしくみに貢献する。努力論がはびこっていなければ、その分野の才能のない人は、その分野の才能がない人……だということで、終わる。

「その分野の才能がないこと」は、「その分野の才能がないこと」だけを意味して、それだけで、終わる。

その人が、あたかも「道徳的に悪いことをしているようには」みなされないのである。努力論が社会にはびこっていると「その分野の才能がないこと」が「道徳的に悪いことをしているように」みなされてしまう。

やるべきことをやらずにさぼっているのだから、性格が悪い人だということになってしまう。道徳的な人ではないということになってしまう。

その分野の才能がない人が、この見方を、否定するには、「できるようにならなければならない」のである。

しかし、「才能がないからできない」のである。別にさぼっているわけではない。努力論がはびこっていると……「その分野の才能がない人」は、そこに居づらくなるのである。

たとえば、仕事場にいづらくなるのである。あるいは、社会のなかでいづらさを感じることになるのである。

2026年5月18日月曜日

●「俺だって眠れない夜はある」■騒音※2026/05/18 22:22

睡眠ひとつとっても、きちがいヘビメタ騒音に何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、何時間も、さらされ続けたら、交感神経が興奮して、眠れなくなるのに、「そんなの、関係、ない」と言うやつは、ヘビメタ騒音の影響を認めない。

影響、あるんだよ。

関係、あるんだよ。

こいつらのうち、何人かが「俺だって苦労した」と言いやがった。「俺だって、騒音ぐらいある」と言いやがった。

けど、ちがうんだよね。

だいたい、きちがい兄貴は、きちがい兄貴が鳴らしたいから、鳴らしている。きちがい兄貴が、よそでは絶対に鳴らせないような、でかい音で鳴らしたいと思っているから、よそでは絶対に鳴らせないような、でかい音で鳴らしている。

きちがい兄貴は、きちがい「兄貴の気持ち以外」の理由がないのである。こういうことも、「そんなの、関係、ない」と言うやつは無視するけど、きちがい兄貴が、「きちがい兄貴の気持ち」以外の理由がない状態で鳴らしているということは、重要なことだ。

たとえば、工事をするのは、工事をするという目的がある。だから、音が出る。別に、音を出したくて、音を出しているわけではない。

ちゃんと、「気持ち以外の目的」がある。これが、「容認できる目的」なのか、「容認できない目的」なのかは、感情に影響を与えるのである。

容認できない目的の場合は、余計に腹が立つのである。

そして、きちがい兄貴がきちがい兄貴なので、ほんとうは、夢中になって、全部の時間……鳴らしているのに、全部の時間……あたかも、静かにしてやったような気分でいるのだ。この認知のずれ……。この認知のずれだって、やられてるほうにしてみれば、容認できないことだ。

普通の人間は、でかい音で鳴らしているときは、でかい音で鳴らしているということを……言葉ではなんと言っても……認識している。

ところが、きちがい兄貴の場合、この認識が一切合切なのである。

その部分について、ぼくは、きちがいだと言っているわけ。

それについても、ちゃんと、理由があるんだよ。きちがいだと言うのには、理由があるんだよ。

きちがい兄貴が、きちがい的なでかい音で鳴らし続けているのに、一切合切、きちがい的なでかい音で鳴らし続けているという、認識をもたない……ということは、容認できないことなんだよ。

きちがい兄貴のこの認識は、きちがい兄貴の、特殊な、態度を生み出す。この態度が、これまた、容認できないものなのである。

これは、きちがい兄貴のような、他人が、横の部屋にいない人には、わからないことなんだよ。

家族として、きちがい兄貴のような他人が、横の部屋で、きちがい的にでかい音……きちがいでなければ、気にして鳴らせないような音でずっと鳴らしているということが、発生していない人にはわからないことなんだよ。

横の部屋で、きちがいではない他人が、音を鳴らしていても、それは、きちがいではない他人なのだから、抑制された音になる。

そして、もし、でかい音で鳴らしていたとしても、きちがいではないのだから、でかい音で鳴らしているということを、認識せざるをえない。でかい音で鳴らしている人は、『自分が』でかい音で鳴らしていると認識している。

きちがいではない他人は、どうしても、認識してしまうのである。

この部分を、きちがい兄貴は「スキップ」しているのである。きちがい的なしくみで、『やってないこと』にしてしまうのである。

こんなの、ない。

この部分が、ほかの人が経験した「騒音」とはちがうのである。この部分が、ほかの人が経験した「家族の騒音」とはちがうのである。これは、重要なことだ。

しかし、「そんなの、関係、ない」と言うやつや、「俺だって苦労した」と言うやつや、「俺だって、騒音ぐらいある」と言うやつは、無視するわけ。理解しないんだよ。説明したって、理解しないんだよ。

こいつらはこいつらで、頑固に、認めない。

実際に、ヘビメタ騒音で眠れなくなるのだから……眠るべき時間に眠れなくなるのだから、影響は、ある。一日に影響を与える。次の日に影響を与える。

きちがい兄貴が、きちがい的な頑固さで、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も、おなじように鳴らしてしまうのだから、そういう日が「つもる」のである。そういう日が「つもれば」……そりゃ、長期的な影響が出る。ぼくの体に長的な影響が出る。

ところが、こいつらにとっては、「自分のことではない」ので、「影響が出る」ということを認めないのである。

「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言ってくる。

言霊主義者なら、カルト的な言霊理論にしたがって「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる。

けど、「きちがい兄貴」による「ヘビメタ騒音の影響」があるから、元気だ元気だと言っても、元気にならないのである。ちゃんと理由がある。

ところが、こいつらは、理由を無視して、「ちゃんと言わないからダメなのだ」「言い方が悪いからダメなんだ」と、ダメ出しをしてくる。その背後には「俺はちゃんと言えるから、元気になるもんねぇーー」という、意識がある。自慢。自慢。マウント。マウント。

こいつらに「ちゃんと理由があるから元気だと言っても元気にならない」ということを言ったって、「言霊は絶対だ」とかなんだとか言って、認めないのである。

こんな、頭が悪いやつらに、マウントをとられることになる。こんな、頭が悪いやつらに、バカにされることになる。「言い訳だ」「あまえている」とののしられることになる。

ついでに言っておくと、「俺だって、眠れないときはある」とか「俺だって眠れない夜はある」と言って、「そんなのは関係、ない」と言うやつらもおなじだ。

関係がないわけがないだろ。こいつらの「眠れない夜」とぼくの眠れない夜は、ちがうんだよ。

一日でも、眠れない夜があれば、ヘビメタ騒音という理由を否定できるという、へんな考え方をもっているのである。

「きちがい兄貴の、普通の家では鳴らせない、きちがいヘビメタ騒音で、眠れなくなるのだ」ということを、認めないのである。

そして、一日でも、眠れない夜があれば、ヘビメタ騒音でこまっている、俺を見下していいと思ってしまうのである。

「俺だって苦労した」という言葉は、苦労を同質化・同量化してしまうのだけど、「俺だって眠れない夜がある」という言葉で、眠れない夜の質を、同質化してしまって、眠れない夜の日数を、同数化(同量化)してしまうのである。

時間の長さ、期間の長さは、重要な影響を与える。

こいつらは、期間の長さ……眠れない日が続く期間の長さを、無視している。

期間の長さを無視するなんて、アホすぎる。

ぜんぜん、ちがうのに、こいつらは、ひどい。

●「できると言えばできる」と「努力すればできる」(2)■言霊※2026/05/16 23:24

「できるように努力すれば、できる状態になることに成功する」と言い換えてしまうと、「努力をすれば、できるようになる」ということになる。

「できると言えばできる」とほとんどおなじ効力があるのだ。「できると言う」か「努力をするか」のちがいしかない。

たとえば、「時間内にこの作業を完了するように努力すれば、時間内にこの作業を完了することに成功する」という文と「時間内にこの作業を完了すると言えば、時間内にこの作業を完了することができる」という文の内容は、たいしてちがいがないものになる。

細かいところを無視すれば、結果的には、ほとんどおなじことを言っているということになる。

けっきょく、「時間内にこの作業を完了するように努力すれば、時間内にこの作業を完了することに成功する」と言っても、「時間内にこの作業を完了すると言えば、時間内にこの作業を完了することができる」と言っても、時間内にこの作業を完了させることを……強制することができる。

努力論における「努力」が、言霊理論における「言霊」のような役割をしているのである。そして、「努力をすれば成功する」も、また、「Xをすれば、Yする」型の一〇〇%構文の文なのだ。

「Xをすれば、Yする」という文と「すべてのXにおいて、Xをすれば、かならず、Yする」という文は、意味的に等価だ。この場合は、一個のXでも、Xをしたのに、Yにならないのであれば、「Xをすれば、Yする」という命題は、偽だということになる。

ようするに、命題として考えた場合、「努力をすれば成功する」という命題は偽だということになる。

ところが、多くの「普通の人たち」は、このことに気がつかずに、この文を使ってしまっている。

一個でも、「Yしない場合」があるのであれば、「Xをすれば、Yする」とは言えないということになる。「 Xをすれば、Yしない」場合があるのであれば、「Xをすれば、Yする」とは言えない。

ようするに、「努力をすれば成功する」という文は、最初から間違っているのである。

そして、「努力をすれば成功する」のだから、「努力をする」と「努力をしない」の二値しかない。どれだけ小さな努力をしても、努力をしたことになる。小さな努力をしたのに、成功しなかった時点で、「努力をすれば成功する」という文が間違いだということがわかる。

判明してしまう。

問題なのは、「何回でも努力をすればいい」ということになってしまうことだ。そして、さらに問題なのは、「できるできると言って何回でも努力をすればいい」ということになってしまうことだ。

「できると言えばできる」と「努力すればできる」というのは、カルト的な意味で、たいしたちがいがないのだ。

だから、くっつきやすい。「できる言うこと」や「努力すること」にカルト的な意味を付け加えているのだ。「できると言うことは、できるようになることを約束するわけではない。ところが、約束すると思ってる。カルト。カルト。

「努力するということは、できるようになることを約束するわけではない。

ところが、約束すると思っている。カルト。カルト。妄想的な土台がある。

問題なのは、「できると言えば、できる」という言い方の背後には、言霊主義があり、「努力すればできる」という言い方の背後には、努力論があるということなのである。

どちらも、カルト的な思考なのである。

ところが、「あたりまえのこと」としてあつかわれている。言霊主義者が多く、努力論者も多いので、たいして、問題がある考え方だとは思われないのだ。言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する(これは正しい)」と言い、努力論者は「努力をすれば成功する(これは正しい)」と言うのである。

しかし、これは、妄想的な考え方だ。背後に妄想があるのである。

●この、「いえ」と「よそ」の乖離がまた、問題なんだよな■騒音※2026/05/17 18:17

……しかし……。このさきどうするか?

ひとりで生きていくのはつらいけど……。ひとりで生きていくしかないかなぁ。

まあ、もしかりに、結婚したとしても、やばい展開になるが見えている。もう、つかれている。介護も介助もやりたくない。

いろいろな細かい記憶がよみがえってくるんだよ。これは、しかたがない。けど、その記憶がいい記憶じゃなくて、不愉快な記憶なんだよ。これは、問題だ。これ、どうも、なおりそうもないんだよな。どうも、生きている限り、続くみたいだ。

人によって、条件がちがいすぎる。条件がちがいすぎるよ。ほんとう、つかれた。長期ヘビメタ騒音でつかれた。そして、長期ヘビメタ騒音に対する「他人の反応」につかれた。

これ、不愉快なんだよ。

そして、長期ヘビメタ騒音が、すべてを削った。そのあと、長期ヘビメタ騒音のベースの上に、親父のネズミ騒動がつけくわわった。

親父らしい事件なんだよな。あれだけ、部屋をくさくしておいて、「くさくないよ!!!」と絶叫するやつなんて、親父ぐらいしかいない。

しかも、それが、ほんとうにネズミが(がんがん)入ってくる原因になっているのに、認めないんだよな。ほかの人がしないようなことをして、部屋を猛烈にくさくする。

それも、何十日もやってしまうわけで、そんなことは、認知症になった人だって、しない。

ともかく、普通の人はしない。あの当時、親父は、認知症だったけど、認知症じゃなくても、やっていたことなんだよ。これ、認知症の問題じゃなくて、親父の「もともとの性格」の問題なんだよ。親父がわかいときから、同等のことをやっているんだよ。

ほかの人に、どれだけなにを言っても、わからないと思う。

この、「いえ」と「よそ」の乖離がまた、問題なんだよな。

長期ヘビメタ騒音だって、そういう問題だ。 

2026年5月17日日曜日

●「できると言えばできる」と「努力すればできる」(1)■言霊※2026/05/16 5:21

「できると言えばできる」という文と「努力すればできる」という文は、おなじような機能を持つことになるのである。

「できると言えば、できる」のだから、「できる」と言えばできるのである。「できる」と言ったあとに、「できない」状態なのであれば、それは、言霊理論が間違っているからなのである。

「言い方が悪い」というようなことは、一切合切、関係がないのである。

言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化される」という言霊理論が間違っているから、「できる」と言ったあとも、できない状態なのだ。「できる」と言ったあと、「できる状態」になることは、ある。

あるけど、いつも、一〇〇%、できるようになるかというとそうではないのだ。

そして、肝心なことなのだけど、言霊の力によって、「できる状態」になったのではないのだ。

たとえば、なわとびの二重廻しが、できない人が、「できる」と言ったあと、なわとびの二重廻しができるようになったとする。もし、「できる」と言ったことが関係しているのなら、それは、言葉の力だ。自己暗示はある。

それから、すでにできる体力的な条件がそろっていて、「できる」と言わなくても、その日には、できるようになっていたかもしれない。

ようするに、「時間」が必要だったのかもしれないのだ。

やるまえに、『ひょっとして、自分はできるんじゃないかな』と思ってやってみたら、できたということはある。

けど、赤ちゃんにはできない。「自分」が赤ちゃんのとき、二重廻しができるかというと、できない。

ようするに、身体的な成長をまたなければならない。体が成長するということも、「言霊」の力によって、体が成長したわけではない。

「できる」と言ったあと、できるようになったとしても、それが、言霊の力によって、できるようになったのだと考えるのは、すでに、言霊理論におかされているから、そう感じて、そう考えるだけなのだ。

「できる」と言わなくても、そのトライのとき、できたかもしれない。だいたい、できると言わなくても、やってみたら、できたことがあるはずだ。

それなら、「できる」と言わなかったときに、できるようになったことについては、どう説明するのだ?

言霊理論が正しいなら、親が、「この赤ちゃんは、三秒以内に二重廻しができるようになる」と言えば、言霊の力によって、「この赤ちゃん」は、三秒以内に二重廻しができるようになる。

もし、できるようにならないのであれば、言霊理論が間違っているということだ。

「この赤ちゃん」が成長して、一〇歳ぐらいになったとき、二重廻しができるようになったとする。その場合、言霊主義者は「この子が赤ちゃんとき、二重廻しができるようになる」と言ったから、言霊の力によって、二重廻しができるようになったと考えるのだ。

しかし、赤ちゃんのときはできなかった。成長をまたなければならなかった。

どうしてだ?

言霊の力で二重廻しができるようになったわけではないからだ。

身体的な成長が必要だった。そして、身体的な成長には、時間が必要だった。練習をすれば、できるようになるときはある。別に「できる」と言わなくても、できるようになるときは、できるようになる。

身体的な成長や、そのときの気分などが影響する。そのときの気分というのは、重要だ。

「できるようにしなければならない」とへんなところに力が入っていると、できることも、できなくなってしまう場合がある。気分は重要なんだよ。

そして、いちおうは、やってみたいという気分になっているわけだ。気分は、重要なんだよ。

トライしようと思っていないのであれば、そもそも、何回目かのトライで、できるようになるということがない。

しかし、「できる」と言わなかったのに、一回目のトライで、できることだってある。

その場合も、身体的な成長と気持ちが関係している。「できる」と言わなくても、一回目のトライできることはあるのだから、「できると言えば、できる」という一〇〇%構文の文は、間違っている。

命題として考えた場合、「できると言えば、できる」という命題は『偽』なのである。

さらに、言霊の力によってできるという考え方は、間違っている。

できると言ったあと、できる状態になることはあるけど、言霊の力によって、できる状態になったわけではないのだ。

●毎日そうなんだよ■騒音※2026/05/16 4:04

たとえば、きちがい親父が、竹を植えようとしたとき、おかあさんが「竹なんて植えたら、たいへんなことになるからやめて」ということを、必死になって言ってたんだよ。

そして、親父が、発狂モードで植えてしまった。

実際に、親父がやったことは、おかあさんが言ったことをガン無視して、おかあさんがいやがっている竹を植えたということだ。

ところが、それがもつ意味がわかっていないのである。

もちろん、竹が実際に、庭のあちこちにはえて、たいへんなことになって、わからないままだ。邪魔な竹を切ってほしいから、「邪魔な竹を切ってくれ」と親父に(おかあさんが)言うと、親父は、また、真っ赤な顔をして無視してしまうのだ。

実際にやってることはこういうことなんだよ。

竹は、成長するので、俺が自転車を出すときは、どれだけ急いでも、蚊に五か所ぐらいは刺されるということになっていた。

さらに、自転車を出すときに、竹が背中にあたるのである。竹が、自転車を出すための道に、しだれかかるようにのびていた。だから、雨がふったあとは、背中に、雨水がついてしまうのである。背中がぬれる。

「自転車を出すための道」というのは、うちの庭の道のことだ。道と書いたけど、庭の一部だ。

きちがい親父に内緒で、勝手に、竹を切ってしまうと、ひどい騒ぎになるので、こっちが勝手に竹を切ることができないのである。

だから、親父に「切ってくれ」と頼むわけだけど、頼むたびに、きちがい親父が発狂して、たいへんなことになってしまうのだ。

基本的に言って、『言われたらいやなことは、言われると腹が立つ』のだ。これは、親父以外の人間もそうだけど、親父は、そういう性格を煮詰めたようなところがある。その割には、「文句を言われそうなことを、いっぱい、やる」のである。

だから、こっちは、言いたくないことを言わなければならなくなるのである。

竹だけではなくて、ほかの木も、そうなのである。親父がうちのなかでやることに関しても、そうなのである。親父がだしっぱなしにしたものを、こっちが片づけてしまうと、たいへんなことになるので、いやなのである。

でっ、俺が小さいときは、主におかあさんが親父に言ってたのだけど、親父は、どんなことでも、言われると、真っ赤な顔をして不機嫌になり、腹を立てていた。

でっ、ちゃんとやってくれるかというと、やってくれないのである。これが、へんなところなのだけど、何十回も言われたから、しかたがなく、木の枝を切るとする。

その場合、親父が切りたい枝しか切らないのである。

だから、邪魔な枝がいつまでも残って、いつも、こっちが不快な思いをしていたのだ。親父がへんな人だから、普通なら絶対に木を植えないようなところにも、木を植えてしまうのである。

「自転車を出すための道」と書いたけど、そこにも、木を植えてしまった。

けど、この木は、背が低い木で、何十年たっても、大きさがほとんどかわらない木なのである。「棟梁さん」が、「幸福の木」とか言っていたけど、不幸の木だ。通り道の真ん中に植えてしまうのである。

本人は、気にしないんだよ。

けど、自転車を出して、門のところまで行くときに、いちいち、邪魔な感じがしていた。注意して、避けなければならない。通りにくいのである。

けど、これも、親父が生きているあいだは、切ることがなかった。移動もしてくれなかった。

へんなところがあって、自分が植えたい気持ちで植えたやつは、親父にとっては、邪魔にならないのだ。

けど、普通の人なら絶対に植えないようなところに、植えてしまう。

で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。まーったくおなじなの。これ、よその人はわからないんだよな。親父は性格としてそうなっているんだよ。毎日、コンスタントにそうする。

兄貴も性格として……「そうなっている」のだよ。

毎日、コンスタントにそうする。

親父の場合は、植物を植えるということで、トラブルを発生させたのだけど、兄貴は、ヘビメタを鳴らすということで、トラブルを発生させたのだ。ほかの家族(当人以外の家族)がどれだけ言っても、親父も兄貴も、まったく気にしないのである。言われたときは、顔を真っ赤にしておこるのである。

発狂モードになってしまう。発狂モードになったときに、相手が言ったことをやるかというと、やってくれないのである。

ところが、「やってやらなかった」ということも、頭にまったく残らないのである。「文句を言っているときの」相手の感情というのは、全部、ほんとうに、無視してしまうのである。

そして、本人たちにとって「やりたいこと」はやりたいことだから、やってしまうのである。頑固に無視して、やってしまう。相手が「やめてくれ」と言ったことを、頑固に頑固に、発狂して、やってしまう。

それは、相手の感情を踏みにじる行為なんだよ。

そして、そのあともやり続けるわけだから、相手は、こまり続けるわけなんだよ。

毎日そうなんだよ。

2026年5月16日土曜日

●努力論者は、相手をせめることに成功する(3)■社会※2026/05/15 4:38

ごくごく、簡潔に書いておく。

才能がないからできないのに、「努力をしていない」とか「努力が足りない」とか「努力の方向が間違っている」とかと言われることになるAさんの問題は、ヘビメタ騒音で「能力」を失った僕にも成り立つ問題なのだ。

努力論者というのは、努力だけを問題にして、ほかの条件を考えない。条件が導入されたときは、条件について、都合がよい集合的一括思考をするので、その条件は「成功するかどうか」に影響を与えないということになる。

まあ、その条件は「成功する」ことに影響を与えないということになる。たとえば、貧しさ」という条件を導入した場合は、貧しさに関係なく、努力をすれば成功するということを、努力論者は言い出す。

貧しい状態なのに、成功した人の例をひとつあげて、貧しさという条件は、関係がないと断定してしまうのである。貧しい状態で、成功しなかった例をひとつあげて、貧しさという条件は、関係があると断定することはないのである。

それとおなじように、ヘビメタ騒音で、夜眠る能力を失うと、ヘビメタ騒音で夜眠る能力を失ったのに、夜眠る努力をしないから、夜眠ることができないのだということになってしまうのである。

夜眠れるかどうかは、次の日を「元気に」すごすことができるかどうかに影響している。夜眠れるかどうかは、次の日の「注意力」に影響を与える。与えるのだけど、与えるということを無視されることになるのである。

ヘビメタ騒音で、そうなった」と言っても、「ヘビメタ騒音なんて関係がない」ということになるのである。

ところが、ヘビメタ騒音がなかったとき、ぼくはちゃんと、夜眠ることができたのである。

もちろん、たいていの場合だ。ヘビメタ騒音がはじまってからは、たいていの場合……夜眠れることができ鳴ってしまったのである。これは、ヘビメタ騒音のせいなんだよ。

きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で、長時間ヘビメタを鳴らしきるということに、こだわってこだわって、実際にそうしたから発生したことなんだよ。

毎日のことなんだよ。夜眠れるかどうかに影響がないわけがない。ところが、こいつらは、「夜眠るように努力していないからダメなんだ」「夜眠れるように努力すしているかもしれないけど、努力の量がたりないからダメなんだ」「夜眠れるように努力しているのかもしれないけど、努力の方向が間違っているからダメなんだ」と、「努力をしていない」とか、「努力がたりない」とか「正しい方向で努力をしていない」とかということを、言い出すのである。

全部、努力関連事項の「せい」なのだ。だれの努力かと言えば「エイリの努力」に他ならないのである。

ちなみに、「過去は関係がない」と言ったやつが、「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言ったことがある。これ……努力の方向が間違っているということは、間違った方向で努力をしたと……こいつが認識している……ということを意味しているのである。

過去の時点における「努力の方向」が間違っていると言っているのである。過去が関係ないなら、過去の時点における努力の方向も関係がないはずだ。

「努力の方向が間違っている」と、「現在も努力の方向が間違っている」ということを示唆している言葉を使っているのだけど、こいつらがいう「現在」というのは「現在という瞬間」でしかないのだ。

ようするに、過去から現在までの努力の方向が間違っていると認識しているのである。

もちろん、本人ではなくて、相手の過去から現在までの努力の方向が間違っていると、本人が認識しているのである。ならば、過去は関係があると認識しているのである。

「努力をしないからダメなのだ」という表現には、「過去から現在まで」努力をしないからダメなのだという意味が含まれている。努力をしないというのは、過去から現在までの「時間帯」のなかで、その人(相手)が努力をしなかったということを意味しているのである。

ようするに、過去は関係があると思っているのである。

相手が「過去から現在」において、努力をしなかったから、まるまるすることに成功していないということを言っているのである。「過去は関係がない」と言いつつも、「過去の状態を問題にしている」のである。相手の状態だけどな……。

たとえば、「過去は関係がない」と言っているのに「努力不足だからダメなんだ」と言った人をAさんだとする。

そして、実際にAさんが、ぼくに、「努力不足だからダメなんだ」と言ったとする。Aさんは、ぼくの過去も問題にしているのである。Aさんは現在の状態も問題にしているけど、過去の状態も問題にしている。過去は「関係がある」と思っている。

Aさんが、俺に対して「努力不足だからダメなんだ」と言ったということは、過去の出来事だ。「瞬間としての現在」の出来事ではない。何度も言うけど、「努力」の「ど」を言ったという過去の出来事が、文の意味を全体をつたえることに影響しているのである。

「努力不足だからダメなんだ」と言い切ったということは、すぐに過去の出来事になる。「努力」の「りょ」を発音したということは、「不足」の「ぶ(ふ)」を言っているときには、すでに、過去の出来事になっているんだよ。

「ど」「りょ」「く」と言ったということは、そのあとの「ぶ(ふ)」を言っているときには、過去の出来事なのである。

しかし、「努力不足」言葉全体の意味を考えるなら、「ぶ(ふ)」「そ」「く」という言葉に影響を与えている過去の出来事なのである。「そ」のまえに「ぶ(ふ)」と言い、「く」のまえに「そ」と言わなければ、「ぶそく」と言ったことにならないのである。これは、とりもなおさず、過去のことが現在の認知に影響を与えているということなのである。

そして、「努力不足だからダメなのだ」と言ったという過去の出来事は、ぼくの「現在の感情」に影響を与えるのである。Aさんが言ったなら、Aさんに対するぼくの「現在の感情」に影響を与えるのである。だから、過去は関係がある。

Aさんが努力論者だとする。その場合、なんらかの努力をした……ということは、成功するかどうかに影響を与えると考えているということを意味しているのである。ところが、Aさんは努力論者なのに、「過去は関係がない」とどや顔で、豪語するのである。Aさんは、自分が言っていることの意味がわかっているのかと、ぼくは疑問に思う。こういう人は多い。

Aさんは努力論者なのに、ぼくが、努力論の批判をすれば、ぼくが努力を論を批判したという過去の出来事を重視するのである。ぼくが努力論を批判したということに、Aさんが腹を立てて「単純なのが正しい」とか「だいたいあっている」とか「こまかいことは、いいんだよ」とか「理屈じゃねぇーーんだよ」とかと言ったとする。

その場合、ぼくが過去のある時点において、努力論を批判したという出来事が、そのとき……「単純なのが正しい」とか「だいたいあっている」とか「こまかいことは、いいんだよ」とか「理屈じゃねぇーーんだよ」とかと言っているときの感情に影響を与えているのである。ようするに、過去は関係がある。過去の出来事は、関係がある。

これを、否定して、わけのわからないことを言いやがる。しかも、こういうふうに言ったあとも、「過去は関係がない」と考えているのである。「ぬけぬけ」なのである。いいかげん、矛盾に気がついてくれ。

*     *     * 

「不足」という言葉は普通は「ふそく」と発音されるのである。しかし、まえに「努力」という言葉がつくとたいていの場合は「ぶそく」と発音されるのである。

不足という言葉を単独で言う場合、たいていは「ぶそく」とは言わないのである。

「ふそく」のまえに、単語があるかどうかということや、不足という単語のまえにある単語は、「ふそく」と発音するか「ぶそく」と発音するかに影響を与える。

これも、時間的に過去の出来事が……つまり、時間的に過去の発音が……現在発音中の単語の発音に影響を与えるということの例だ。まあ、そんなことを言わなくても、過去の出来事は、現在の状態に影響を与える。

じゃあ、過去否定論者というのは、なにを言っているのかというと、じつは、「過去にこだわるな」ということを言っているのである。ようするに、「こだわること」を問題にしているのである。

ところが、この「こだわること」を問題にしているということが、本人にとっても、あいまいなのである。

「過去にこだわるな」と言いたいのか「過去は関係がない」ということを言いたいのかということが、本人にとって、よくわからないことなのである。

ひょっとしたら、「過去にこだわるな」という文と 「過去は関係がない」という文は、おなじ意味をもっていると考えているのかもしれない。

そして、前にも書いたけど、不可避的に影響を受けて、能力を失った相手に対して「過去にこだわるな」と言うのは、よくないことなのである。

これも、失礼な話なんだよな。相手がこれこれに「こだわっている」という断定は、よくない。もう、前に書いたから、説明は省略する。

2026年5月15日金曜日

●信者のなかでは、正しいことなんだよ■社会※2026/05/04 14:03

ほんとうは、人によって、差がある。

ほんとうは、人によって、ものすごい差がある。条件の差がある。

ところが、最初に出てくる一〇〇%詐欺構文は、条件を無視したものなのである。だから、現実には合致しないのである。

だから、条件が悪い人は、詐欺構文のようにうまくいかない場合がある。一〇〇%詐欺構文の信者は「努力すれば成功する」と言うわけ。

信者のなかでは、正しいことなんだよ。

ところが、実際には、一〇〇%詐欺構文は、理論的に間違っている。

信者が信じるような(信者の頭のなかにある文がもつ意味)と、現実的な意味での意味が食い違っているのである。しかし、信者のほうは、食い違っているということに無頓着だ。

あるときは、ほんとうに一〇〇%成り立つと思っているし、あるときは、一〇〇%じゃなくても成り立つ(だいたいは成り立つ)と思っているのだ。

また、あるときは、「努力すればする場合だってある」と思っているのだ。

条件に関係なく一〇〇%の確率で(文の内容が)成立するのか、あるいは、条件によっては成立する場合があるのかは、重要なちがいなんだよ。

ところが、努力論者は、自分のなかで、文がもつ意味を切り替えて、暮らしているのだ。

そして、何度も言うけど、切り替えていることに、無頓着だ。

努力論者自体が、無頓着なのだ。モードがちがえば言うことがちがうのである。自分のことであれば、条件を考慮しなければならなくなるので、自分のことに関しては、条件を考慮したことを言うのである。

けど、ほかの人のこと……に関しては、条件を考慮しなければならない理由がないので、条件を無視してしまうのである。

ともかく、言うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。思うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。まったく気にしないけどな。

本人がやっていることなのに、本人の意識にはのぼらないのだ。いったいどれだけの努力論者が、「努力すれば成功する」という文は、現実的ではないということを理解しているのか。

言霊主義者が、言霊理論が正しいと思いながらも、普段の生活のなかでは、言霊理論を無視してしまうということと、似ている現象が、努力論者にもしょうじる。 

2026年5月14日木曜日

●家族だけに囲まれているときとは、ちがう反応になるんだ■騒音※2026/05/12 21:26

俺と親父が言いあっているときに、きちがい兄貴が、冷蔵庫のものをとりだしに一階に下りてきて、通りすがりに……俺たいして……「問題児だ」と言ったときがあるんだよ。

どうして俺が親父と言いあっていたかというと、きちがいヘビメタ騒音で進学するときに問題を抱えていたからだ。きちがい兄貴の問題について、きちがい親父ともめていたんだよ。

きちがい兄貴が、そのとき、すでに六年以上、きちがいヘビメタを絶対の意地で、ゆずらずに、ものすごくでかい音で鳴らていたのだ。毎日鳴らしていた。

基本的に、兄貴の行為によって、ぼくの問題が発生していたのである。兄貴の行為によって、ぼくの側に進路の問題が発生していたのである。それ……進路……について、きちがい親父とぼくとのあいだに、言い合いが発生していたのだ。

きちがい兄貴が、ほんとうに原因なんだよ。きちがい兄貴の行為が、ほんとうに、原因なんだよ。しかも、兄貴は、張本人であり、関係者なんだよ。きちがい兄貴の行為でこまっているということは、きちがい兄貴に、最初の日から言っていることなんだよ。

きちがい兄貴は、自分がかかわっているということを理解していなかった。

どうしてかというと、きちがいヘビメタをどれだ長い時間、どれだけでかい音で鳴らしても、弟の勉強を邪魔しているという「認識」が生まれなかったからだ。これが、きちがい的なのである。

これが、きちがい兄貴のきちがい行為に影響を与えていたのである。ずっと、あんな音で鳴らし続けてなにも感じないなんていうのは、おかしいんだよ。正常じゃない。

親父も、きちがい兄貴とおなじように、自分が発狂して、頑固にやったことで、相手がこまった状態になっても、相手がこまっているということを、頑固に認めなかった人間だ。

*     *     * 

これ、脳みその「つくり」として、そうなっているのである。そして、他人にとっては、これまた、これこそが、盲点になってしまうのである。

よその人は、親父と兄貴が……自分が発狂して、頑固にやったことで、相手がこまった状態になっても、相手がこまっているということを、頑固に認めない人間だ……ということがわかっていないのである。

それも、「脳みそのつくり」で、そうなっているということが、わからない。

よその人は、うちの兄貴とうちの親父が、脳みそのレベルで、そういう反応をする人間だということを知らないわけ。

そして、「脳みそのつくり」と書いてしまったのだけど……そういう脳みそをもっている人間がいるということを……よその人は知らないわけ。

きちがい兄貴ときちがい親父の「ぬけぬけ度」は、普通の人の「ぬけぬけ度」とはちがうのである。

そして、きちがい兄貴ときちがい親父は、普通の人がやらないことをやるのである。

これも、よその人にはわからないことなのだけど、……ごく自然に、きちがい兄貴ときちがい親父は、「よその人」が普通にまずいと思って、やらないことを……きちがい的な意地で……やってしまうわけ。一度やるとなったら、きちがい的な意地でやるんだよ。

この……「一度やるとなったら、きちがい的な意地でやる」……ということも、よその人は、わかっていないわけ。よその人は「やる」にしても、「普通の程度でやる」と思っているわけ。

ところが、ちがうんだよ。

兄貴と親父は、きちがい的な意地でやるんだよ。この、状態が、よその人には、わからない。実際に、いあわせて、どういうことをどういう状態でやるのかということを、よその人は、知らないわけ。

よその人は、経験的にわかっていないわけ。

そして、よその人は、うちの兄貴とうちの親父が、「そうする」ということについて、特に関心があるわけではない。どうしてかというと、自分の家族はそんな人ではないので、関心がない。「よその人」という言い方で、くくって、一〇〇%詐欺をするつもりはない。

例外はあるかもしれないけど、ぼくの知りえる範囲で言うと、ほんとうに、よその人にとっては関心がないことなんだよ。特に関心がないことなの……。

実際、うちのなかにいるときの親父の状態や、うちのなかにいるときの兄貴の状態について……知っている人はいないわけ。

兄貴が鳴らしているときに、ぼくの部屋にいた友達は、兄貴がどのくらいの音で鳴らしているか知っているけど、ぼくの部屋にいるわけだから、兄貴の状態を確認したわけではない。

兄貴に対して、ぼくが、「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言ったときの兄貴側の反応なんて……よその人は……実際に見たわけじゃない。うちにきて、ぼくの部屋に入ったことがある友達ですらそうなんだよ。

そして、「うちのなかにいるときの親父の状態」と書いたけど、「うちなかに家族しかないときに、うちのなかにいるときの親父の状態」という意味だ。兄貴の状態に関してもおなじだ。

ようするに、よその人が「お客さん」としてきた場合は、「お客さんがいる」ということが、きちがい親父にもわかるわけ。そうなると、家族だけに囲まれているときとは、ちがう反応になるんだよ。

これも、とくに、「お客さんがきているから、態度をかえよう」と親父が意識的に思っているわけではないわけ。そうじゃなくて、言霊主義者の「モードの切り替え」のように、本人が意識しないまま、自然に、「モード」が切り替わる。

ともかく、例外がいるかもしれないけど、よその人は、「うちのなかにいるときの親父の状態」や「うちのなかにいるときの兄貴の状態」について、関心をもたない傾向が非常に強い。

ようするに、例外はいるかもしれないけど、多くのよその人は「経験的に、うちの親父やうちの兄貴のような反応をする家族とは一緒に住んだことがない」し「うちの親父やうちの兄貴の反応について特に関心をもっていない」わけ。

だから、多くの普通の人は、うちの親父やうちの兄貴のことについて、正確に考えることができない。

多くの普通の人は、うちの親父やうちの兄貴が、どういう態度で、きちがい的な意地を押し通して問題行為をするのかということが、よくわかっていない。

そして、多くの普通の人は、自分の家族が正常者なので、正常者との関係によってしょうじた常識をもっている。

その常識に、「うちの常識」が、あわないのである。

多くの普通の人が、うちの兄貴の行為やうちの親父の行為について、誤解をするのである。

●はっきり言えば「がんばらせる」ことができるようになる■社会※2026/05/13 15:03

「努力をすれば成功する」という文を考えた場合、努力をするかどうかが、成功するかどうかを決めるということになる。

しかし、実際には「成功したなら、努力をした」「成功しなかったなら、努力をしなかった」「成功しているなら、努力をした」「成功していないなら、努力をしなかった」ということになっている。

「成功しているなら、努力をした」ということになるのだから、成功しているかどうかが、努力したかどうかを決めることになる。

これ、逆なのである。

最初から、「成功しているなら、努力をした」「成功していないなら、努力をしなかった」ということが成り立っている。

だから、はずれることがないのである。

もちろん、でたらめだ。

「成功していないなら、努力をしなかった」ということになるので、成功していない人は、努力をしなかったと決めつけられることになる。

「自分は努力をした」と、努力をしなかったと決めつけられた人が言えば……努力をしなかったと決めつけたほうは「努力不足だ」とか「努力の方向が間違っている」とかと、言うことになっている。

最初から、決まっている。

でっ、こういうことが、上から下に、流れていくのである。成功の定義が言うたびにちがうし、言う人によってちがうので、その都度、成功の定義を自分の都合のよいように頭のなかで書き換えることができる。

だから、たとえば、底辺工場の下から二番目の人も、下から一番目の人には、『自分は成功した』という立場で、「おまえは、努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言える状態になる。

こういうことが、上から下に、順番に、成り立っている。

層をなして、成り立っている。

これは、別の角度から見ると、「上の人」には、なにも言えなくなるということも、意味している。

どうしてかというと、上の人から「おまえは、努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言われることになるからだ。

無理なことを言われても、無理なことができないのは、「おまえの努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからできないんだ」と言われるので、「それは無理だ」と反論しにくくなる。

基準を内面化しているので、さからえないのである。

*     *     * 

これは、「できると言えばできる」ということでも成り立っている。「それは無理だ」と言えば「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」と言われることがわかっているので、「それは無理だ」と言いにくくなる。

特権階級の人が、一般人を支配するには、もってこいの言い方なのだ。こういう言葉がはやっていれば、特権階級の人は、一般人を酷使することができるようになるのである。

一般人のなかで、上下関係が成り立っているので、一般人のなかで、無理なことを上の人が下の人に押し付けることができるようになる。

ほとんどの人がみんな、言霊的な感覚をもっていない場合、 「できると言えばできる」なんて言っても、「なにをきちがいみたいなことを言っているんですか」と反論されるけど、ほとんどの人がみんな言霊的な感覚をもっている場合、「なにをきちがいみたいなことを言っているんですか」と反論しにくくなる。

まあ、言霊的な感覚をもっていない人もいる。けど、これは、程度問題だ。幼児期を経てきた人間は、幼児的万能感がちょっとは成り立っているので、言霊的な感覚を、ちょっとはもっているはずだ。

けど、なかには、幼児的万能感をまったくもっていない大人もいるかもしれない。それは、わからない。けど、多くの人が、大人になっても、幼児的万能感をちょっとはもっているはずだと考えたほうが、現実的だ。

*     *     * 

言葉は悪いけど、奴隷労働者を管理する上で、とても便利な言葉なのである。なにが便利な言葉かと言えば、「できると言えばできる」という言葉が、便利な言葉なのである。

そして、「努力をすれば成功する」という言葉が、便利な言葉なのである。

こういうことを奴隷労働者階級の人が(みずから)信じ込んでいれば、より効率的に管理できることになる。はっきり言えば「がんばらせる」ことができるようになる。 

*     *     *

条件が悪い人は、成功できる確率が低いのである。だから、成功しない場合が多い。「成功していないなら、努力をしなかった」という言葉は、このことを覆い隠すことができる言葉なのである。

別に「成功していないなら、努力をしなかった」と言わなくても、なんとなく、そう思っていれば、じゅうぶんな効果がある。

成功していない人を(成功したつもりで)見下すことができるからだ。

そして、条件が悪い人にとたいして、「努力しないからダメなんだ」「努力が足りないからダメなんだ」「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と説教をすることができる。

マウントをとることができる。

これは、気持ちがいい行為だから、社会のなかで繰り返される。やられたほうは、気分が悪くなることが多いので、どこかで、ほかのやつに、おなじことをやりかえそうとする確率が高くなる。

自分のより下の人間を見つけたら、「努力しないからダメなんだ」「努力がたりないからダメなんだ」「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言って、マウントをとりたくなる誘惑にかられる確率が高くなる。

多くの場所で、これが繰り返されていく。

2026年5月13日水曜日

●次から次へと……■騒音※2026/05/13 21:21

ひょっとしたら、歯医者に行く必要があるかもしれない。いやだなぁーー。ひとつ片づくと、またひとひ発生する。いや、ふたつ以上発生する場合もある。

どうして、こうなる?

もう、いやだなぁ。なんか、もう、いろいろと、いやなんだよなぁ。体がかゆいのは、ダニなのか、アレルギーなのかよくわからない。

ダニなのかな。もう、いやだなぁ。全部が、いやだ。次から次へと……。親父対応とネズミ対応で、もう、ほんとうに、エネルギーを使い果たしてしまった。それから、なんていうのかな……。生きていても、楽しくない。

なら、死んでもいいかというと、そうではない。このさき、楽しくなるような予感がない。ずっと、くるしいまま生きてきた。 

もう、つかれたなぁ。かゆいのは問題だ。やっぱり、虫か、ダニに刺されているなぁ。気温が上がると……これかぁ。

ともかく、兄貴の騒音と親父のきちがい行為で、人生がない。楽しいことなんてなかった。いや、ちょっとはあったけど……。

それだって、ヘビメタ騒音に汚染された楽しみだ。「あの子」と普通に付き合いたかったというようなことを書いたけど、あれだって、わかいころじゃないと、ダメなんだよなぁ。そして、ヘビメタ騒音に汚染されていない、わかいころじゃないとダメなんだよなぁ。

けっきょく、このさき、どれだけ、楽しむように心がけても、きちがいヘビメタ騒音にたたられていたわかいころとおなじように、ダメなんだよなぁ。この、雰囲気が、もう、ヘビメタ騒音だ。

だれにも、頼れないまま、きちがいヘビメタ騒音にさらされて……それでも頑張って生きてきたけど……頑張って生きていればいいというものではない。

頑張って生きていれば、楽しかったかというと、楽しくなかった。

きちがいヘビメタ騒音でいつも、引きつっていた。きちがいヘビメタ騒音でいつも、暗い気持ちだった。

けっきょく、その延長線上で生きている。気ちがい家族がおらず、家族のきちがい騒音にさらされ続けなかった人は、まったくわかっていないんだよな。

「そんなの可能であるはずがない」と言ってやりたくなる。

あいつらが言っていることは、全部、無理なことなんだよ。楽しめるわけがない。生きているだけで、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。 

*     *     *

ひとつひとつが、めちゃくちゃに、憂鬱なんだよなぁ。いま、午後九時四一分だけど、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。いつも鳴っていた。あんな状態でいいわけが、ない。きちがい兄貴の状態というのが、ほかの人にはわからない。

実際に、きちがい兄貴の行為が続いてしまった場合の、影響というのが、ほかの人にはわからない。実際に、毎日つもらないとわからない。明るい気分になれるはずがない。

どれだけ張り詰めた状態で暮らしているか、まったくわかっていないやつばかりだ。

「そんなのは関係がない」「なにがヘビメタ騒音だ」と言ったやつを、なぐってやりたい。まあ、なぐらなかったし、なぐらないけど……。

ごく一部の例外を除いて、みんな、ほんとうに、わかっていない。こいつらが想像するようなことじゃないのである。こいつらが想像するような影響のでかさではないのである。

これ、ほんとうに、ぜんぜんわかっていないやつが、えらそうなことを言う。家に、きちがい兄貴のような家族がおらず、きちがい基準の騒音にさらされなかっただけなのに、えらそうなんだよ。

『自分なら平気だ』という、気持ちがある。

「なんだ!!そんなのぉ!!」と言ったやつも、ゆるせんなぁ。 

●努力論者は、相手をせめることに成功する(2)■社会※2026/05/12 20:52

あんまり言いたくないけど、努力論者が「だれか」を「さぼり魔だ」とか「ダメ人間だ」と決めつけたということは、ほかの人にも影響を与える。

たとえば、Aさんは、ほんとうは、才能がないから、成功しないのだけど、「ちゃんとした努力をしないだめな人間だ」と決めつけられることになる。そういう発言を、職場でしたなら、ほかの人もAさんは「ちゃんとした努力をしないダメな人間だ」とみなすようになるのである。

Aさんは、死に物狂いの努力をしていたかもしれない。「間違った方向の努力だ」と思われがちなのだけど、間違った方向の努力かどうかは、わからない。

これも、成功しなかったという事実に基づいて、勝手に努力論者側が、「Aさんは間違った方向の努力をしている」と決めつけただけなのだ。後出しジャンケンだ。ずるいことをしている。

ともかく、努力論者が、だれかを「努力論」に従って、「ダメ人間だ」と言い切ってしまうと、ほかの「努力論者ではない人たち」も、影響を受けて、だれかを「ダメ人間だ」と決めつけるようになる。そうなると、その人は、その場所で、居場所を失うことになる。

才能がないだけなのに、「努力不足だ」と言われて、「(ちゃんとした努力をしないダメ人間のレッテル」をはられて居場所を失うのである。

 ある分野の才能がないということは、ある分野の才能がないということを意味しているにすぎない。

ところが、「さぼり魔だ」ということになると、道徳の問題になるのである。

才能がないだけなのに、「性格が悪い人だ」ということになってしまうのである。才能の問題が、性格の問題になってしまう。努力論は、才能がない人のことを、「悪い性格をもっている人」にしてしまうのである。

どうしてなら、ほんとうは努力するべきなのに、努力しない人間だということになり、それは、努力をしようとしない性格の問題だということになってしまうからだ。

才能がないだけなのに、性格が悪い人だということになってしまうのである。

これも、「努力論」が実際の社会で運用されることになると、発生する問題だ。

かりに、Aさんが、その分野で才能がないということに悩んでいるとする。ところが、努力論者のなかでは「才能の問題」はないことになっているので、「努力不足の問題だ」ということになってしまうのである。

けっきょく、「さぼろうとしているAさんが悪い」ということになってしまう。Aさんが、どれだけ、頑張って努力しても、「やること」に成功しない限りは、努力をしていないことになってしまうのである。あるいは、努力不足ということになってしまうのである。

あるいは、正しい方向で努力をしてないということになってしまうのである。

まあ、まとめると「さぼって、ちゃんとした努力をしないから、やることに成功しないのだ」ということになってしまうのである。 Aさんが、なんらかの作業をする場合、その、なんらかの作業する場合には、絶対に必要なあることがでなかったとする。

その必要なことをする才能がAさんにはなかったとする。

その場合、Aさんは、その作業をすることに成功しないわけだから、努力不足だということになってしまうのである。ちゃんと努力をしていない問うことになってしまうのである。

Aさん(本人)は、どれだけ、ちゃんとやろうと努力したとしても、結核的に、その作業ができないのであれば(その作業をやることに成功しないのであれば)……自動的に、ちゃんと努力をしていないということになってしまうのである。

別に、さぼりたいわけではないかもしれない。けど、どれだけ努力をしてもできないのだから、しかたがない。

けど、努力論者や努力論者の影響を受けた人は、Aさんが「さぼり魔だからダメなんだ」と思ってしまうのである。

Aさんが「努力をおこたった」からダメなんだと思うようになってしまうのである。Aさんは、努力をしないような悪い人だということになってしまうのである。

ちゃんと努力をしないということは、誠実ではないということになってしまうのである。

Aさんは、「誠実ではない」のではなくて、その作業をする「才能がなかった」だけなのだ。ところが、才能の問題が、誠実さの問題にすりかわるのである。

ようするに、才能の問題が、性格の問題にすりかわるのである。

ようするに、努力論という変換装置があると、「才能のなさ」が「性格の悪さ」にすりかわってしまうのである。

努力論によって、Aさんは、性格が悪い人間だと思われることになってしまうのである。Aさんがどれだけ、誠実に頑張っても、才能がないからできなかったとする。

それでも、努力論がはびこった職場では、「Aさんは努力不足で、誠実に努力をしないからできないのだ」ということになってしまうのである。

2026年5月12日火曜日

●努力論者は、相手をせめることに成功する(1)■社会※2026/05/11 22:25

「適応するように努力すれば、適応することに成功する」という文について考えてみよう。適応するように出力すれば、適応することができるのである。

そうなると、「努力しないやつがだめなんだ」ということになるのである。「努力」に焦点があっているので、『努力しか』問題にならないのである。

そして、適応すことに成功しない人がいるのであれば、その人は、努力をしていない人だということになる。

あるいは、理論的に破綻しているのだけど、努力不足だから、ダメなんだ」とか「努力の方向が間違っているからダメなんだ」ということになってしまうのである。

項目要素が、努力しかないので、努力の問題になってしまうのである。貧しさが条件として取り入れられた場合は、「貧しくても、適応するように努力すれば、適応することに成功する」ということになり、貧しい人も、努力をすれば、適応することに成功するということになる。

なにに、適応するのか?

「社会に適応する」でも「仕事に適応する」でもいい。さらに、「目の前の仕事に適応する」でもいい。ともかく、努力すれば、適応することに成功するのである。

成功しないのであれば、努力をしていないからだということになってしまう。

あるいは、ほんとうは理論的に破綻しているけど……「努力不足だからダメなんだ」とか、「努力の方向が間違っているからだめなんだ」ということになってしまう。

才能なんて、関係がないのである。

しかし、才能がないと、どれだけ頑張って「目の前の仕事に適応するように」努力しても、適応できないことがある。そりゃ、才能がないのだから仕方がない。

ちなみに、才能の中に含めていいのだけど、体力や身体能力も、実際には、「成功するかどうか」に関係している。

ところが、体力なんて項目は出てこない。身体能力なんて項目は出てこない。捨象されているのである。この捨象された部分について、相手側!が、言及すれば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことに……なっている。

もう、これ、マルチ商法みたいにやることが決まっているんだよ。それは、100%詐欺構文である言い方と集合的一括思考のなかに、含まれている。この点で、誤解が生じるように、最初から、設計されている。

だから、「努力をすれば成功する」と言われると、「努力だけ」に意識が集中してしまって、貧困や才能や体力に(一切合切の)意識が向かないということになる。ようするに、それらの要素項目を、無視してしまう。洗脳計画者は、一般人の考え方のくせを熟知しているので、「努力に絞った言い方をすれば」「ほかの要素項目は全部無視してくれる」ということを、知っている。一般人は、その性質をうまく使われて、「努力をすれば成功する」という文を、信じ込まされる。洗脳される。自己責任論を展開するときに(はやらせるときに)……自己を対象とした責任論について、言及しておけば、他者を対象とした責任論を口にするようになるということを、知っていたとおなじだ。一般人に、自己を対象とした責任論を、教えれば、ごく自然に、他者を対象とした責任論を正しいと信じるようになるということを、洗脳計画者は、事前に知っていたのだ。自己を対象とした責任論から、他者を対象にした責任論への流れというのは、じつは、努力論のなかにもある。努力をすれば成功する……のだから、自分が努力をすれば、自分が成功するはずだという、思い込みが、エサなのである。成功したいわけだから、方法を知りたくなる。「努力をすれば成功する」ということになっていれば、「努力をすればいいのだ」ということになる。この場合は、最初は、自分が対象なのである。他人は、どうでもいいのである。ところが、他人が対象になるのである。それは、第一に、善意として助言をするときに対象になるのである。そして、第二に、ダメ出しをして快楽を感じるときに、対象になるのである。ようするに、マウントをとりたいときに、他人にマウントをとりたいときに、他人を対象として、「努力をすれば成功する」と言うことになる。「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言うときも、マウントをとれるので、気分がよいのである。努力論を口にされるほう(言われるほう)は、言う側にとっては、目下の人間なのである。こまっている人間や、弱っている人間は、目下の人間として意識されるのである。実際に、相手はこまっているわけだから、こまっていない自分よりも、目下だという意識が発生する。なので、「人がいやがることはやめましょう」と言っている人も、ごく自然に、ダメ出しをすることができるようになる。だいたい、「人助け」だと思って「正しい助言をしているつもり」になっているので、自分が「人がいやがることをしている」とは思わない。

しかし、言われたほうは、かなりの高確率で、いやな思いをするのである。

どうしてかというと、自分がどれだけ努力しても(自分が操作できない)要素項目が、実際の結果に影響を与えていることがあるからだ。

かりに、才能がない人は、どれだけ努力しても、結果として、成功しないとする。その場合、ほんとうの理由は、才能なのだけど、相手(この場合は、努力論者)は、「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言ってくることになる。

これは、前にも述べたように、結果を見てものを言っているだけだ。つまり、後出しでものを言っているだけだ。成功したら、努力をしたということになり、成功しなければ、どれだけ努力をしても、努力をしたことにならないのである。

あるいは、正しい努力をしたことにならないのである。

努力論者は、相手をせめることに成功するのである。

ほんとうは、その仕事に適応する才能がないから、適応できないだけなのかもしれないのに、「努力をしないから適応できないのだ」と決めつけることができるのである。

努力論者が、才能がないからできない相手に対して、「努力をしないから適応できないのだ」「努力が足りないから、適応できないのだ」「間違った努力をしているから、適応できないのだ(正しい努力をしないから、適応できないのだ)」と言うことができる。

「才能がないからできない」と言うことは、「言い訳」になってしまうのである。

「才能がないからできない」というのは「あまえだ」ということになってしまうのである。「間違った努力をしているから、適応できないのだ」というのは、「おまえは、間違った努力をするようなバカだ」というメッセージも送っている。

「正しい努力をしないから、適応できないのだ」というのは「おまえは、正しい努力がなんであるか知らないようなバカだ」というメッセージも送っているのである。

しかし、善意でやっていることなのである。「いい助言をしているつもり」なのである。「おまえは、正しい努力の方向もわからないようなバカだ」というメッセージを送っているのに、「いいことをしている」とか「本当に役に立つ助言をしている」とかと思い込んでいる状態が成立してしまう。

ほんとうの理由が「才能」だとしても、努力論者のなかには「努力」という項目しかないので、成功していないなら、努力をしていないということになってしまうのである。ほんとうは、「才能がないから」成功しないのに、「努力をしていないからダメなのだ」と言われることになる。何度も言うけど、努力論者のなかでは、努力だけが、成功するかどうかを決める項目なのである。

実際には、才能がないから、どれだけ努力しても成功できない人がいたとする。

Aさんだとする。Aさんは、自分ができる範囲で、ものすごい努力をしていたとする。

しかし、成功できなかった。あるいは、成功できない状態でいる。

その場合、努力論者から見れば、Aさんは努力をしていない人になるのだ。そして、理論的に破綻しているのだけど……「Aさんが成功しないのは、努力がたりないからだ」とか「Aさんが成功しないのは、努力の方向が間違っているからだ」とかということを努力論者は言い出す。

 Aさんが「才能がなくて」こまっていても、そんなのは、おかまいなしなのだ。かってに、Aさんが努力をしない「ダメ人間」だと決めつける。あるいは、Aさんは、必要な努力をしない「サボり魔」だときつめけるのだ。

Aさんは、努力がじゅうぶんではないと、どこまでもどこまで、せめられることになる。Aさんが成功出ないのは、才能がないからなのだけど、努力論者が、妄想的な理論に寄りかかって、Aさんをさぼり間にしてしまう。

「さぼっているからダメなんだ」「もっと、ちゃんと努力すれば、成功する」「正しい方向の努力をしないからだめなんだ」と言って、Aさんをせめるのである。こういうことを言っているとき、努力論者は、別に悪いことをしているつもりなんてない。

いいことをしているつもりなのだ。

努力論者の頭のなかでは……さぼっている相手が悪いということになる。

さぼっている相手に、「ちゃんとやらなければだめだぞ」と忠告しているだけだということになる。これは、いいことであって、悪いことではない。

悪いのは、さぼっているAさんだということになる。ちゃんと、努力をしないAさんが悪いということになってしまうのだ。

なので、こういうことが繰り返されて、社会がより悪くなるのである。

*     *     *

ちなみに、Aさんが「自分は才能がないから成功しない」と、ほんとうのことを言ったとしよう。

その場合、努力論者は「Aさんは、言い訳をしている」とみなすことになる。どうしてかというと、成功しないのは、努力をしないからだと思ってるからだ。

あるいは、成功しないのは努力が足りないからだと思っているからだ。

あるいは、また、「成功しないのは、正しい方向の努力をしないからだ」と思っているからだ。

ようするに、Aさんが「ちゃんと」努力をしないのが悪いということになっているのだ……。努力論者の頭のなかでは……。だから、努力論者は「言い訳をするな」と言って、Aさんをせめることになる。

最初の「努力をすれば成功する」という文は、問題がないような文に見えるのだけど、成功する要素は、努力だけだという「まちがった見方」が、最初から含まれている。「努力だけ」なのだから、ほかの要素は、全部、無視してしまうのだ。


ところが、実際には、「努力だけ」が「成功するかどうか」を決めるのではないのだ。 

けど、都合よく無視できる「理論」を提供する。これは、ライフハックなので、一見、役に立ちそうな理論なのだ。ところが、ほんとうは、社会を悪くする理論なのだ。運用の場面では、不利な立場の人を、追い込む理論として機能することになる。 


2026年5月11日月曜日

●発生しなかった問題なんだよ■社会※2026/05/11 16:23

きちがい兄貴の構造が特殊なので、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んだことがない人たちは、経験的に、きちがい兄貴が「意地になってやること」がわからないのである。

きちがい兄貴が、夢中になってやることがわからないのである。

普通だったら、絶対に、あんな音で鳴らさないんだよ。

そして、鳴らしている場合は、でかい音で鳴らしているという認識が、「かならず」しょうじる。

けど、きちがい兄貴は、例外者なので、でかい音で鳴らしているという認識がまったくしょうじない。俺がこまっているということも、きちがい兄貴は、わからない。

「俺がこまっているということが、きちがい兄貴にはわからない」のだけど、こういう脳みその問題は、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父にもある。

そうなると、常識的な人から見て、俺がへんな人に見えてしまうのである。

*     *     *

「そんなのちゃんと言えば、わかってくれる」と思っている人は、ちゃんと言わないエイリが悪いと思ってしまうわけだ。「ちゃんと言えばわかってくれる(はずだ)」という思い込みが激しい。

この思い込みは、ぼくが言っても、かわらない。一度、「ちゃんと言わないやつが悪い」と思った時点で、ある程度は、ぼくのことを見下しているので、見下したやつの言うことを聞くことが、めったにないのである。

「そんなのは、嘘だ」と思うやつもいて、こういうやつは、ぼくがまるまる人格障害で、嘘を言っていると思うんだよ。そうすると、次から次へと妄想的な解釈をするようになる。

俺の行動や発言を、次々に、妄想的に判断して、その判断に基づいた……「へんなこと」を言ってくるようになる。

こっちから見れば……「おまえが、間違った判断をして、間違った判断に基づいた解釈をしているだけだろ」と言いたくなるのだけど、そんなことを言ったって、相手は認めないのだ。

こいつらは、悪質だよ。

特に、四〇代、五〇代の女性グループができあがっている場合は問題がさらにふくらむ。まあ、メリーリングリストで出会った人たちなのだけど、かかわるんじゃなかったと思っている。

これも、けっきょく、きちがい兄貴の騒音で、普通の大学に進学できなかったことが、影響しているんだよな。

かりに、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で騒音を鳴らさなかった場合、普通に、通学制の大学に進学したはずなんだよ。あるいは、きちがい兄貴が、よそではありえないような、でかい音でヘビメタを鳴らしても……こっちが「やめてくれ」と言ったら、やめてくれた場合は、普通に、通学制生の大学に進学したはずなんだよ

通信制の大学で、こういう人たちと、出会うこともなかった。

この人たちの、解釈が問題なんだよな。

「ヘビメタ騒音の話が、嘘だ」ということになっているのだ。……この人たちの頭のなかではそうなんだよ。俺のことを嘘つきだと思って、次々に、へんな解釈をする。

これだって、相手に悪意があるわけではない。

本気でそう思っている。

こっちから見れば……「おまえらが、勝手に妄想に妄想を重ねているだけなんだよ」ということになるのだけど、どれだけ言っても、俺が嘘をつく人間だと思っているので、自分たちの解釈をかえることがない。

こういう、付属的なトラブルも発生してしまうのだ。

これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、あんなに長い期間、きちがい的な意地で、自分が鳴らしたい音を、自分が鳴らしたい音のでかさで鳴らすということをしなかったら、発生しなかった問題なんだよ。 

*     *     * 

きちがい兄貴ときちがい親父が、同じタイプの精神的な問題を抱えているのだ。

もちろん、きちがい親父が抱えている問題で、きちがい親父が苦しむということはないのである。きちがい兄貴が抱えている問題で、きちがい兄貴が苦しむということはないのである。「自分」が相手の気持ちを無視して、自分がやりたいことを、きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやったということを認識しないという精神的な病だ。

感覚器が正常なのに、『自分の都合に従って』感覚器を書き換えてしまう病だ。感覚器を書き換えてしまうというのは、感覚器が正常だから、正常な信号が(脳みそに)届いているのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父は……『自分の気持ち』を優先して、不都合な信号を遮断してしまうというようなことを、無意識的にしている。

本人が意識的にやっていることではないということが問題なんだよな。こいつらにとっては、「こいつらの認知が正常だ」ということになっているからだ。

この「遮断するとき」の意地がすごいんだよ。

けっきょく、意地でもやりたいことは、便利な遮断機能を使ってやってしまうのである。

で、やってしまったら、「そんなのやってない」と自分が思えるほど、関心がないことになっている。自分がやったのか、やらなかったのかについて、真剣に悩むことがない。

いつも、この方法で、自分がやりたいことは、まわりの家族がどれだけ「やめてくれ」と言っても、やってしまうのである。まわりの家族が「やめてくれ」と言ったことは「ない」ことになっているのである。

……たとえ、その日、周りの家族が何十回も強く、直接(本人に)「やめてくれ」と言ったとしても、まわりの家族が「やめてくれ」と言ったことは「ない」ことになってしまうのである。

きちがい兄貴の頭のなかでは、そうなってしまうんだよ。きちがい親父の頭のなかでは、そうなってしまうんだよ。

「自分は、なにも文句を言われないままやっただけだ」ということになっている。あるいは、「自分は、なにも文句を言われないままやっただけだ」ということを思うまでもなく、関心がないことになっている。

でっ、その方法で、ずっと毎日やるんだよ。

注意をしたから、兄貴が、かわってくれるということはなかった。

*     *     * 

「相手をかえることは、できないから、自分の受け止め方をかえればいい」というようなライフハックを口にする人がいるけど、そのライフハックを口にする人は、現実的な場面では、『自分の受け止め方をかえない』場合が多い。

そのライフハックを口にする人は、実際には、『自分の受け止め方をかえよう』と思わない場合が多い。

相手がかわらないということを(こっちが)言うと、「人はかえられないから自分をかえればいい」とか「人はかわらないから、自分の受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいる。

きちがい兄貴が、きちがい行為をしているのだから、かわってもらわないと、こまるのである。

かわらない相手がいるということは、「こっちが、受け止め方をかえればいい」ということを……自動的に……意味しているわけではないのだ。

こいつらは、実際の、きちがいヘビメタ騒音が及ぼす影響のでかさがわかっていない。こいつらも、俺がどれだけこまっているか、ぜんぜんわかっていないやつらなのである。

たしかに、「どれだけ、こっちが言っても、かわらない人」はいる。いる……。いる「から」こっちがかわらなければならないということにはならない。

こういうことですら、わかってないのである。

しかも、こいつらは、普段、自分が、「相手にあわせて、自分の受け止め方をかえているわけではない」ということが、自分でわかっていない。

「ぬけぬけ」なんだよな。

こいつらも、この点に限っては、うち兄貴やうちの親父と似ているところがある。無自覚。まあ、こいつらは、きちがい的にでかい音で自分が鳴らしたい音を鳴らし続けるということは、していないのだろう。だから、うちの兄貴とは、やったことがちがう。

それは理解している。

こいつらが、うちの兄貴のように、きちがい的にでかい音で、一日に何時間も、あるいは、十何時間もずっと、でかい音で音楽を鳴らしたと言っているわけではないのである。そういうところで似ているということを言っているわけではないのである。

ただ、普段、自分が言っていることと、普段の自分の行動が食い違っているということに気がつかないというところは似ているのだ。

*     *     *

これ、きちがい的な家族にやられて、ものすごくこまっている人に「(相手をかえることはできないから)自分がかわればいい」とか「(相手をかえることはできないから)自分の受け止め方をかえればいい」とかということを、言ってしまう人は、自分がなにをしているのか、ほんとうにわかっていない……と思う。相当にひどいことをしている。

「善悪」はどうなる?

「善悪」なんて関係なしに、「相手にあわせればいい」「相手にあわせて、自分の受け止め方をかえればいい」なんて、相当にひどいことを言っている。善悪を超越してますね……。

そのくせ、道徳は投げているわけではないのだろ。これ、自分がなにをしているのか、ほんとうにわかっていないな……。

●「俺はこのまま終わるのかな」■社会※2026/05/10 19:19

「俺はこのまま終わるのかな」という気持ちがある。俺はこのまま終わるのだろうか。その確率は、高い。相当に高い。

ほんとうにほかの人とはちがうんだよな。

「家の状態」がちがいすぎた。「一緒に住んでいる家族の状態」がちがいすぎた。

これ、ほんとうに、ほかの人にはわからないことなんだよな。

どうしても、ほかの人は、ほかの人の常識に従って、ものを考えてしまう。その場合、「家族」に対する常識も、普通の人の常識は、普通の家族と一緒住んだ場合の常識なのである。うちの親父と、うちの兄貴は、普通の人じゃないのである。普通の人の感覚を持ち合わせていない。

そうすると、どうしても、ほかの人から見ると、ぼくが「へんなことを言っている」ように見えるのだ。「そんなは、ちゃんと説明すればいい」とほかの人は言う。

「エイリがほかの家族にちゃんと説明すれば、そのほかの家族はちゃんとわかってくれる」という前提の発言だ。

ところが、うちは、ぜんぜんちがうのである。ぜーーんぜん、ちがうのである。そして、たとえば、きちがい兄貴自身が、きちがい兄貴の構造に気がついていないというところがある。

だから、ほんとうに、きちがい兄貴は、「ぬけぬけ」のチャンピオンみたいな存在なのだ。

きちがい兄貴にしたって、ほかの人が、きちがい兄貴の音量で、音を鳴らしていれば「うるっっっっっさい」と思のである。三〇秒で「なんだぁ!!」と思い……四〇秒で、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になるのである。

けど、自分が……思いっきり……鳴らしたい音だと、「相手の立場に立ってものを考える」ということがまったくできないきちがい兄貴は、感覚器をだまして、「普通の音だ」と思って、鳴らしてしまうのである。

「普通の音で鳴らしているのだから、どれだけ鳴らしたって問題がない」という意識が成り立っているのである。

自分の耳が悪くなるような……ものすごくでかい音で鳴らしているのに「普通の音で鳴らしているのだから、どれだけ鳴らしたって問題がない」と思っているのである。

耳が正常なら、ものすごくでかい音で鳴らしているということは、どれだけ、嘘を言っていても、わかる。

ところが、きちがい兄貴はわからない。

そして、実際に、自分の出した音で、聴力がさがっていくのである。

2026年5月10日日曜日

●気持ちよく風呂に入ることができなくなる■騒音※2026/05/10 18:18

とりあえず、起きて、ネットスーパーの注文をした。今日……「午後六時から午後八時」の時間帯に届くことになっている。

どうするかな。

問題なのは、体の問題と、やる気のなさの問題だ。体がしんどいと、どうしても、くるしい気分になる。

やる気は、もちろん、ない。

なんとか、低空飛行を維持しているだけだ。

低空飛行を維持しているだけの生活が楽しいかと言えば、楽しくない。けど、いろいろあったので、こころが、うまくうごかない。いろいろ、ありすぎた。

これ、実際に起こった出来事というのは、実際の気分に影響を与える。環境が悪い人は……特に……家族環境が悪い人は、不可避的に、悪い出来事がつみかさなるようにできている。

そして、悪い出来事は、悪い出来事を生み出す。呼び込むと書いてもいいのだけど、それだと、引き寄せのような感じになってしまうので、さけた。

悪い出来事というのは、それだけでは、すまないのである。

きちがいヘビメタ騒音が、家に帰ってから、寝るまでの時間、ずっと鳴っているということは、ひとつの悪いことだ。その悪いことが、さまざまな、悪いことを引き起こすのである。直接の原因になる。

ところが、言霊主義者のような理解レベルだと「うるさかったんだろ」「元気だ元気だと言えば・元気になる」というようなことを、かえしてくるということになる。「うるさかった」ということは理解するけど、それが、どのくらいつらいことかまったく理解していないのである。

さらに、たとえば、午後四時から、午後一一時一〇分まで、きちがい騒音にさらされると、そのあと、眠れなくなるということも、無視している。そういう悪い連鎖がはじまる。夜眠れないと、こまるのだ。

普通に、眠れる状態ではなくなるわけ。

騒音に、さらされ続けると不可避的に、眠れない状態になる。たとえば、きちがいヘビメタ騒音がなければ、普通の気分で、午後四時から午後一一時まてすごして、そして、午後一一時一〇分ごろには、歯磨きをして眠るということが、普通にできたわけ。

ところが、ヘビメタ騒音が鳴ると、どうしてもできなくなる。けど、「うるさかっただけだ」と解釈しているやつらは、眠れないくるしさや、歯磨きができなくなる問題がわからない。どうしても、できなくなるのだ。どうしても、眠るべき時間に眠れなくなるし、歯磨きをする体力もなくなる。

ちなみに、風呂だけど、風呂に入っているあいだも、ずっと、きちがいヘビメタ騒音をがんがん聞かされるわけだから、つらい時間になる。

たとえば、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていなければ、一(いち)のエネルギーで気持ちよく、風呂に入れるとしよう。これが、ヘビメタ騒音生活が一〇〇日続けは、一〇〇のエネルギーを使っても、気持ちよく風呂に入ることができなくなる。

しんどいわけ。

それが、二〇〇日続けば、二〇〇のエネルギーを使っても、気持ちよく風呂に入ることができなくなるわけ。一〇〇〇でも、二〇〇〇でも、おなじだ。どんどん、どんどん、つもっていく。風呂に入りにくくなれば……ほんとうに、ヘビメタ騒音で風呂に入りにくくなっているのだけど……そういうことは、言っても、無視されるのだ。

そして、ヘビメタ騒音でつかれて、風呂に入ることができない」ということを言えば……「そんなのは、いいわけだ」と言われることになるわけ。言霊主義者なら「できないと言うからできないんだ」「できると言えばできる」と言ってくるわけ。

いやーー。きちがいヘビメタ騒音……家族がきちがい的な意地で鳴らすヘビメタ騒音でできなくなったんだよ。だから、「できなくなった」と言っているんだよ。それを、「できない言うから、できない」と断定する。

しかも、悪気がない。こういう、妄想的な理由を持ち出して、人を苦しめても、まったく悪いと思わないのだ。そして、こともあろうに、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い出す。

これだって、ヘビメタ騒音音でできなくなったと言っていることを無視した発言だ。

もちろん、言霊主義者は、ちゃんと理解しているつもりなのだろう。ちゃんと理解して、素晴らしい助言……現実的な上限をしてやったつもりなのだお。

けど、こんなの、無理なことを押し付けているだけだ。きちがい兄貴にも、話は通じないけど、こいつらにも、話は通じない。こいつらは、理解しているようで理解していない。そして、こいつらの助言が、人の心を踏みにじるものだという自覚がまったくない。

「ヘビメタ騒音で眠れなくなった」「ヘビメタ騒音で風呂に入りにくくなった」と言っているんだよ。原因は、ヘビメタ騒音なんだよ。「できない」と言うから、「できなくなった」わけではないんだよ。

ヘビメタ騒音が鳴っていると、元気がなくなるんだよ。

ヘビメタ騒音が鳴っていれば……ヘビメタ騒音が鳴っている生活が続けば、原因は、「元気ではない状態になった原因は」ヘビメタ騒音なのだから、どれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないんだよ。

それを、ヘビメタ騒音なんていくら鳴っていたって、「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言う。「俺は、元気だ元気だと言ったら元気になった」「言霊は正しい」と言うんだよ。

かりに、言霊理論が正しいということになっていると、「エイリが、元気だ元気だと言って、問題を解決しようとしないのが悪い」ということになってしまうのである。

エイリが、元気だ元気だと言っても、元気にならないのは、エイリのやり方がへたくそだからだということになってしまうのである。うまくできる言霊主義者は、いい人で、うまくできないエイリは、ダメな人だということになってしまうのである。

元気になれないということは、言い方がへたくそだから、元気になれないのだということになってしまうのである。

もっとも、言霊理論が正しければ、どれだけへたくそな言い方で「元気だ元気だ」と言っても、元気になるはずなのだ。

ところが、そういう矛盾に……多くの言霊主義者が……一切合切気がつかない。うまく言える自分(某言霊主義者)は、エイリよりも、「うまく言う」能力があるということになってしまうのである。エイリは、某言霊主義者よりも、うまく言う能力がないダメなやつだということになってしまうのである。

「言霊理論は正しいので、うまく言えないエイリが悪い」ということになってしまうのである。エイリが「元気だ元気だ」とうまく言う能力がないので、エイリは、元気になれないのだということになってしまう。

●集合的一括思考(4)■社会※2026/05/09 2:27

「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったと思う」とEさんが言ったとする。ほんとうに、Bさんが成功しなかった理由が、Bさんの貧しさにあるのかどうかは、わからない。

しかし、「貧しいから、努力をしても成功しなかった」ということは、ありえることだ。貧しさが理由で、Bさんが、成功しなかったのかどうか、それだけではわからない。

しかし、貧しさが理由で、Bさんが成功しなかったということは、ありえることだ。

貧しい人は、みんな、貧しいから、努力をしても成功しないということを言っているのではなくて、Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったということを言っているのだ。

これは、正しいのかどうかわからないことだ。しかし、最初から、否定することはできない。

神様視点では、どっちなのかわからないことなのだ。

おのおのが、勝手に、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と考えたり、Bさんは、ほかの理由で、努力をしても成功しなかった」と考えたりするだけなのだ。

そして、Fさんが、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Gさんが、「Bさんは、才能がないから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Fさんが正しいのか、Gさんが正しいのか、ほんとうのことはわからない。

しかし、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」という考え方が、正しい場合もある。それは、否定できない。

*     *     *

いちおう、才能という視点を導入してみた。「努力をすれば、成功する」という場合は「努力」だけが、「成功するかどうか」を決めることになる。

努力のみについて語っていた時は、努力だけで、「成功するかどうかが決まる」ということを言っていたのである。

ここまでの話のなかで、「才能があるかどうか」なんてことは、出てこない。成功するかどうかは、努力をするかどうかで決まってしまうのである。

もちろん、努力をするかどうかで決まるということを、「努力をすれば、成功する」と言っている人たちが、主張しているだけだ。

ここで重要なのは、「才能がある」ということが、一意には決まらないということだ。「才能がない」ということも、一意には決まらないのである。だから、ほんとうは、こういうことを一〇〇%構文で言うべきではないのだ。

ところが、「これはこうだ」と断定することが、はやっていたのである。

いまでも、一〇〇%構文を使って、断定する人が、多数、いる。

この人たちは、「一意に決まらない」ということに注目しない。この人たちは、「(各項目のもつ意味が)一意に決まらない」ということに気がつかないまま、一〇〇%構文を使って、断定的にものを言う。

もう、この時点で、問題が発生している。

間違った思考をして、他人のことを「決めつけてしまう」のだから、問題が発生している。ただ、「間違った思考をしている」ということを、頑固に認めないのだ。

ともかく、集合的一括思考をして、他人のことを決めつけてしまうのは、よくない。

よくないことだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。