2026年5月18日月曜日

●「できると言えばできる」と「努力すればできる」(2)■言霊※2026/05/16 23:24

「できるように努力すれば、できる状態になることに成功する」と言い換えてしまうと、「努力をすれば、できるようになる」ということになる。

「できると言えばできる」とほとんどおなじ効力があるのだ。「できると言う」か「努力をするか」のちがいしかない。

たとえば、「時間内にこの作業を完了するように努力すれば、時間内にこの作業を完了することに成功する」という文と「時間内にこの作業を完了すると言えば、時間内にこの作業を完了することができる」という文の内容は、たいしてちがいがないものになる。

細かいところを無視すれば、結果的には、ほとんどおなじことを言っているということになる。

けっきょく、「時間内にこの作業を完了するように努力すれば、時間内にこの作業を完了することに成功する」と言っても、「時間内にこの作業を完了すると言えば、時間内にこの作業を完了することができる」と言っても、時間内にこの作業を完了させることを……強制することができる。

努力論における「努力」が、言霊理論における「言霊」のような役割をしているのである。そして、「努力をすれば成功する」も、また、「Xをすれば、Yする」型の一〇〇%構文の文なのだ。

「Xをすれば、Yする」という文と「すべてのXにおいて、Xをすれば、かならず、Yする」という文は、意味的に等価だ。この場合は、一個のXでも、Xをしたのに、Yにならないのであれば、「Xをすれば、Yする」という命題は、偽だということになる。

ようするに、命題として考えた場合、「努力をすれば成功する」という命題は偽だということになる。

ところが、多くの「普通の人たち」は、このことに気がつかずに、この文を使ってしまっている。

一個でも、「Yしない場合」があるのであれば、「Xをすれば、Yする」とは言えないということになる。「 Xをすれば、Yしない」場合があるのであれば、「Xをすれば、Yする」とは言えない。

ようするに、「努力をすれば成功する」という文は、最初から間違っているのである。

そして、「努力をすれば成功する」のだから、「努力をする」と「努力をしない」の二値しかない。どれだけ小さな努力をしても、努力をしたことになる。小さな努力をしたのに、成功しなかった時点で、「努力をすれば成功する」という文が間違いだということがわかる。

判明してしまう。

問題なのは、「何回でも努力をすればいい」ということになってしまうことだ。そして、さらに問題なのは、「できるできると言って何回でも努力をすればいい」ということになってしまうことだ。

「できると言えばできる」と「努力すればできる」というのは、カルト的な意味で、たいしたちがいがないのだ。

だから、くっつきやすい。「できる言うこと」や「努力すること」にカルト的な意味を付け加えているのだ。「できると言うことは、できるようになることを約束するわけではない。ところが、約束すると思ってる。カルト。カルト。

「努力するということは、できるようになることを約束するわけではない。

ところが、約束すると思っている。カルト。カルト。妄想的な土台がある。

問題なのは、「できると言えば、できる」という言い方の背後には、言霊主義があり、「努力すればできる」という言い方の背後には、努力論があるということなのである。

どちらも、カルト的な思考なのである。

ところが、「あたりまえのこと」としてあつかわれている。言霊主義者が多く、努力論者も多いので、たいして、問題がある考え方だとは思われないのだ。言霊主義者は、「言えば、言ったことが現実化する(これは正しい)」と言い、努力論者は「努力をすれば成功する(これは正しい)」と言うのである。

しかし、これは、妄想的な考え方だ。背後に妄想があるのである。

●この、「いえ」と「よそ」の乖離がまた、問題なんだよな■騒音※2026/05/17 18:17

……しかし……。このさきどうするか?

ひとりで生きていくのはつらいけど……。ひとりで生きていくしかないかなぁ。

まあ、もしかりに、結婚したとしても、やばい展開になるが見えている。もう、つかれている。介護も介助もやりたくない。

いろいろな細かい記憶がよみがえってくるんだよ。これは、しかたがない。けど、その記憶がいい記憶じゃなくて、不愉快な記憶なんだよ。これは、問題だ。これ、どうも、なおりそうもないんだよな。どうも、生きている限り、続くみたいだ。

人によって、条件がちがいすぎる。条件がちがいすぎるよ。ほんとう、つかれた。長期ヘビメタ騒音でつかれた。そして、長期ヘビメタ騒音に対する「他人の反応」につかれた。

これ、不愉快なんだよ。

そして、長期ヘビメタ騒音が、すべてを削った。そのあと、長期ヘビメタ騒音のベースの上に、親父のネズミ騒動がつけくわわった。

親父らしい事件なんだよな。あれだけ、部屋をくさくしておいて、「くさくないよ!!!」と絶叫するやつなんて、親父ぐらいしかいない。

しかも、それが、ほんとうにネズミが(がんがん)入ってくる原因になっているのに、認めないんだよな。ほかの人がしないようなことをして、部屋を猛烈にくさくする。

それも、何十日もやってしまうわけで、そんなことは、認知症になった人だって、しない。

ともかく、普通の人はしない。あの当時、親父は、認知症だったけど、認知症じゃなくても、やっていたことなんだよ。これ、認知症の問題じゃなくて、親父の「もともとの性格」の問題なんだよ。親父がわかいときから、同等のことをやっているんだよ。

ほかの人に、どれだけなにを言っても、わからないと思う。

この、「いえ」と「よそ」の乖離がまた、問題なんだよな。

長期ヘビメタ騒音だって、そういう問題だ。 

2026年5月17日日曜日

●「できると言えばできる」と「努力すればできる」(1)■言霊※2026/05/16 5:21

「できると言えばできる」という文と「努力すればできる」という文は、おなじような機能を持つことになるのである。

「できると言えば、できる」のだから、「できる」と言えばできるのである。「できる」と言ったあとに、「できない」状態なのであれば、それは、言霊理論が間違っているからなのである。

「言い方が悪い」というようなことは、一切合切、関係がないのである。

言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化される」という言霊理論が間違っているから、「できる」と言ったあとも、できない状態なのだ。「できる」と言ったあと、「できる状態」になることは、ある。

あるけど、いつも、一〇〇%、できるようになるかというとそうではないのだ。

そして、肝心なことなのだけど、言霊の力によって、「できる状態」になったのではないのだ。

たとえば、なわとびの二重廻しが、できない人が、「できる」と言ったあと、なわとびの二重廻しができるようになったとする。もし、「できる」と言ったことが関係しているのなら、それは、言葉の力だ。自己暗示はある。

それから、すでにできる体力的な条件がそろっていて、「できる」と言わなくても、その日には、できるようになっていたかもしれない。

ようするに、「時間」が必要だったのかもしれないのだ。

やるまえに、『ひょっとして、自分はできるんじゃないかな』と思ってやってみたら、できたということはある。

けど、赤ちゃんにはできない。「自分」が赤ちゃんのとき、二重廻しができるかというと、できない。

ようするに、身体的な成長をまたなければならない。体が成長するということも、「言霊」の力によって、体が成長したわけではない。

「できる」と言ったあと、できるようになったとしても、それが、言霊の力によって、できるようになったのだと考えるのは、すでに、言霊理論におかされているから、そう感じて、そう考えるだけなのだ。

「できる」と言わなくても、そのトライのとき、できたかもしれない。だいたい、できると言わなくても、やってみたら、できたことがあるはずだ。

それなら、「できる」と言わなかったときに、できるようになったことについては、どう説明するのだ?

言霊理論が正しいなら、親が、「この赤ちゃんは、三秒以内に二重廻しができるようになる」と言えば、言霊の力によって、「この赤ちゃん」は、三秒以内に二重廻しができるようになる。

もし、できるようにならないのであれば、言霊理論が間違っているということだ。

「この赤ちゃん」が成長して、一〇歳ぐらいになったとき、二重廻しができるようになったとする。その場合、言霊主義者は「この子が赤ちゃんとき、二重廻しができるようになる」と言ったから、言霊の力によって、二重廻しができるようになったと考えるのだ。

しかし、赤ちゃんのときはできなかった。成長をまたなければならなかった。

どうしてだ?

言霊の力で二重廻しができるようになったわけではないからだ。

身体的な成長が必要だった。そして、身体的な成長には、時間が必要だった。練習をすれば、できるようになるときはある。別に「できる」と言わなくても、できるようになるときは、できるようになる。

身体的な成長や、そのときの気分などが影響する。そのときの気分というのは、重要だ。

「できるようにしなければならない」とへんなところに力が入っていると、できることも、できなくなってしまう場合がある。気分は重要なんだよ。

そして、いちおうは、やってみたいという気分になっているわけだ。気分は、重要なんだよ。

トライしようと思っていないのであれば、そもそも、何回目かのトライで、できるようになるということがない。

しかし、「できる」と言わなかったのに、一回目のトライで、できることだってある。

その場合も、身体的な成長と気持ちが関係している。「できる」と言わなくても、一回目のトライできることはあるのだから、「できると言えば、できる」という一〇〇%構文の文は、間違っている。

命題として考えた場合、「できると言えば、できる」という命題は『偽』なのである。

さらに、言霊の力によってできるという考え方は、間違っている。

できると言ったあと、できる状態になることはあるけど、言霊の力によって、できる状態になったわけではないのだ。

●毎日そうなんだよ■騒音※2026/05/16 4:04

たとえば、きちがい親父が、竹を植えようとしたとき、おかあさんが「竹なんて植えたら、たいへんなことになるからやめて」ということを、必死になって言ってたんだよ。

そして、親父が、発狂モードで植えてしまった。

実際に、親父がやったことは、おかあさんが言ったことをガン無視して、おかあさんがいやがっている竹を植えたということだ。

ところが、それがもつ意味がわかっていないのである。

もちろん、竹が実際に、庭のあちこちにはえて、たいへんなことになって、わからないままだ。邪魔な竹を切ってほしいから、「邪魔な竹を切ってくれ」と親父に(おかあさんが)言うと、親父は、また、真っ赤な顔をして無視してしまうのだ。

実際にやってることはこういうことなんだよ。

竹は、成長するので、俺が自転車を出すときは、どれだけ急いでも、蚊に五か所ぐらいは刺されるということになっていた。

さらに、自転車を出すときに、竹が背中にあたるのである。竹が、自転車を出すための道に、しだれかかるようにのびていた。だから、雨がふったあとは、背中に、雨水がついてしまうのである。背中がぬれる。

「自転車を出すための道」というのは、うちの庭の道のことだ。道と書いたけど、庭の一部だ。

きちがい親父に内緒で、勝手に、竹を切ってしまうと、ひどい騒ぎになるので、こっちが勝手に竹を切ることができないのである。

だから、親父に「切ってくれ」と頼むわけだけど、頼むたびに、きちがい親父が発狂して、たいへんなことになってしまうのだ。

基本的に言って、『言われたらいやなことは、言われると腹が立つ』のだ。これは、親父以外の人間もそうだけど、親父は、そういう性格を煮詰めたようなところがある。その割には、「文句を言われそうなことを、いっぱい、やる」のである。

だから、こっちは、言いたくないことを言わなければならなくなるのである。

竹だけではなくて、ほかの木も、そうなのである。親父がうちのなかでやることに関しても、そうなのである。親父がだしっぱなしにしたものを、こっちが片づけてしまうと、たいへんなことになるので、いやなのである。

でっ、俺が小さいときは、主におかあさんが親父に言ってたのだけど、親父は、どんなことでも、言われると、真っ赤な顔をして不機嫌になり、腹を立てていた。

でっ、ちゃんとやってくれるかというと、やってくれないのである。これが、へんなところなのだけど、何十回も言われたから、しかたがなく、木の枝を切るとする。

その場合、親父が切りたい枝しか切らないのである。

だから、邪魔な枝がいつまでも残って、いつも、こっちが不快な思いをしていたのだ。親父がへんな人だから、普通なら絶対に木を植えないようなところにも、木を植えてしまうのである。

「自転車を出すための道」と書いたけど、そこにも、木を植えてしまった。

けど、この木は、背が低い木で、何十年たっても、大きさがほとんどかわらない木なのである。「棟梁さん」が、「幸福の木」とか言っていたけど、不幸の木だ。通り道の真ん中に植えてしまうのである。

本人は、気にしないんだよ。

けど、自転車を出して、門のところまで行くときに、いちいち、邪魔な感じがしていた。注意して、避けなければならない。通りにくいのである。

けど、これも、親父が生きているあいだは、切ることがなかった。移動もしてくれなかった。

へんなところがあって、自分が植えたい気持ちで植えたやつは、親父にとっては、邪魔にならないのだ。

けど、普通の人なら絶対に植えないようなところに、植えてしまう。

で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。まーったくおなじなの。これ、よその人はわからないんだよな。親父は性格としてそうなっているんだよ。毎日、コンスタントにそうする。

兄貴も性格として……「そうなっている」のだよ。

毎日、コンスタントにそうする。

親父の場合は、植物を植えるということで、トラブルを発生させたのだけど、兄貴は、ヘビメタを鳴らすということで、トラブルを発生させたのだ。ほかの家族(当人以外の家族)がどれだけ言っても、親父も兄貴も、まったく気にしないのである。言われたときは、顔を真っ赤にしておこるのである。

発狂モードになってしまう。発狂モードになったときに、相手が言ったことをやるかというと、やってくれないのである。

ところが、「やってやらなかった」ということも、頭にまったく残らないのである。「文句を言っているときの」相手の感情というのは、全部、ほんとうに、無視してしまうのである。

そして、本人たちにとって「やりたいこと」はやりたいことだから、やってしまうのである。頑固に無視して、やってしまう。相手が「やめてくれ」と言ったことを、頑固に頑固に、発狂して、やってしまう。

それは、相手の感情を踏みにじる行為なんだよ。

そして、そのあともやり続けるわけだから、相手は、こまり続けるわけなんだよ。

毎日そうなんだよ。

2026年5月16日土曜日

●努力論者は、相手をせめることに成功する(3)■社会※2026/05/15 4:38

ごくごく、簡潔に書いておく。

才能がないからできないのに、「努力をしていない」とか「努力が足りない」とか「努力の方向が間違っている」とかと言われることになるAさんの問題は、ヘビメタ騒音で「能力」を失った僕にも成り立つ問題なのだ。

努力論者というのは、努力だけを問題にして、ほかの条件を考えない。条件が導入されたときは、条件について、都合がよい集合的一括思考をするので、その条件は「成功するかどうか」に影響を与えないということになる。

まあ、その条件は「成功する」ことに影響を与えないということになる。たとえば、貧しさ」という条件を導入した場合は、貧しさに関係なく、努力をすれば成功するということを、努力論者は言い出す。

貧しい状態なのに、成功した人の例をひとつあげて、貧しさという条件は、関係がないと断定してしまうのである。貧しい状態で、成功しなかった例をひとつあげて、貧しさという条件は、関係があると断定することはないのである。

それとおなじように、ヘビメタ騒音で、夜眠る能力を失うと、ヘビメタ騒音で夜眠る能力を失ったのに、夜眠る努力をしないから、夜眠ることができないのだということになってしまうのである。

夜眠れるかどうかは、次の日を「元気に」すごすことができるかどうかに影響している。夜眠れるかどうかは、次の日の「注意力」に影響を与える。与えるのだけど、与えるということを無視されることになるのである。

ヘビメタ騒音で、そうなった」と言っても、「ヘビメタ騒音なんて関係がない」ということになるのである。

ところが、ヘビメタ騒音がなかったとき、ぼくはちゃんと、夜眠ることができたのである。

もちろん、たいていの場合だ。ヘビメタ騒音がはじまってからは、たいていの場合……夜眠れることができ鳴ってしまったのである。これは、ヘビメタ騒音のせいなんだよ。

きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で、長時間ヘビメタを鳴らしきるということに、こだわってこだわって、実際にそうしたから発生したことなんだよ。

毎日のことなんだよ。夜眠れるかどうかに影響がないわけがない。ところが、こいつらは、「夜眠るように努力していないからダメなんだ」「夜眠れるように努力すしているかもしれないけど、努力の量がたりないからダメなんだ」「夜眠れるように努力しているのかもしれないけど、努力の方向が間違っているからダメなんだ」と、「努力をしていない」とか、「努力がたりない」とか「正しい方向で努力をしていない」とかということを、言い出すのである。

全部、努力関連事項の「せい」なのだ。だれの努力かと言えば「エイリの努力」に他ならないのである。

ちなみに、「過去は関係がない」と言ったやつが、「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言ったことがある。これ……努力の方向が間違っているということは、間違った方向で努力をしたと……こいつが認識している……ということを意味しているのである。

過去の時点における「努力の方向」が間違っていると言っているのである。過去が関係ないなら、過去の時点における努力の方向も関係がないはずだ。

「努力の方向が間違っている」と、「現在も努力の方向が間違っている」ということを示唆している言葉を使っているのだけど、こいつらがいう「現在」というのは「現在という瞬間」でしかないのだ。

ようするに、過去から現在までの努力の方向が間違っていると認識しているのである。

もちろん、本人ではなくて、相手の過去から現在までの努力の方向が間違っていると、本人が認識しているのである。ならば、過去は関係があると認識しているのである。

「努力をしないからダメなのだ」という表現には、「過去から現在まで」努力をしないからダメなのだという意味が含まれている。努力をしないというのは、過去から現在までの「時間帯」のなかで、その人(相手)が努力をしなかったということを意味しているのである。

ようするに、過去は関係があると思っているのである。

相手が「過去から現在」において、努力をしなかったから、まるまるすることに成功していないということを言っているのである。「過去は関係がない」と言いつつも、「過去の状態を問題にしている」のである。相手の状態だけどな……。

たとえば、「過去は関係がない」と言っているのに「努力不足だからダメなんだ」と言った人をAさんだとする。

そして、実際にAさんが、ぼくに、「努力不足だからダメなんだ」と言ったとする。Aさんは、ぼくの過去も問題にしているのである。Aさんは現在の状態も問題にしているけど、過去の状態も問題にしている。過去は「関係がある」と思っている。

Aさんが、俺に対して「努力不足だからダメなんだ」と言ったということは、過去の出来事だ。「瞬間としての現在」の出来事ではない。何度も言うけど、「努力」の「ど」を言ったという過去の出来事が、文の意味を全体をつたえることに影響しているのである。

「努力不足だからダメなんだ」と言い切ったということは、すぐに過去の出来事になる。「努力」の「りょ」を発音したということは、「不足」の「ぶ(ふ)」を言っているときには、すでに、過去の出来事になっているんだよ。

「ど」「りょ」「く」と言ったということは、そのあとの「ぶ(ふ)」を言っているときには、過去の出来事なのである。

しかし、「努力不足」言葉全体の意味を考えるなら、「ぶ(ふ)」「そ」「く」という言葉に影響を与えている過去の出来事なのである。「そ」のまえに「ぶ(ふ)」と言い、「く」のまえに「そ」と言わなければ、「ぶそく」と言ったことにならないのである。これは、とりもなおさず、過去のことが現在の認知に影響を与えているということなのである。

そして、「努力不足だからダメなのだ」と言ったという過去の出来事は、ぼくの「現在の感情」に影響を与えるのである。Aさんが言ったなら、Aさんに対するぼくの「現在の感情」に影響を与えるのである。だから、過去は関係がある。

Aさんが努力論者だとする。その場合、なんらかの努力をした……ということは、成功するかどうかに影響を与えると考えているということを意味しているのである。ところが、Aさんは努力論者なのに、「過去は関係がない」とどや顔で、豪語するのである。Aさんは、自分が言っていることの意味がわかっているのかと、ぼくは疑問に思う。こういう人は多い。

Aさんは努力論者なのに、ぼくが、努力論の批判をすれば、ぼくが努力を論を批判したという過去の出来事を重視するのである。ぼくが努力論を批判したということに、Aさんが腹を立てて「単純なのが正しい」とか「だいたいあっている」とか「こまかいことは、いいんだよ」とか「理屈じゃねぇーーんだよ」とかと言ったとする。

その場合、ぼくが過去のある時点において、努力論を批判したという出来事が、そのとき……「単純なのが正しい」とか「だいたいあっている」とか「こまかいことは、いいんだよ」とか「理屈じゃねぇーーんだよ」とかと言っているときの感情に影響を与えているのである。ようするに、過去は関係がある。過去の出来事は、関係がある。

これを、否定して、わけのわからないことを言いやがる。しかも、こういうふうに言ったあとも、「過去は関係がない」と考えているのである。「ぬけぬけ」なのである。いいかげん、矛盾に気がついてくれ。

*     *     * 

「不足」という言葉は普通は「ふそく」と発音されるのである。しかし、まえに「努力」という言葉がつくとたいていの場合は「ぶそく」と発音されるのである。

不足という言葉を単独で言う場合、たいていは「ぶそく」とは言わないのである。

「ふそく」のまえに、単語があるかどうかということや、不足という単語のまえにある単語は、「ふそく」と発音するか「ぶそく」と発音するかに影響を与える。

これも、時間的に過去の出来事が……つまり、時間的に過去の発音が……現在発音中の単語の発音に影響を与えるということの例だ。まあ、そんなことを言わなくても、過去の出来事は、現在の状態に影響を与える。

じゃあ、過去否定論者というのは、なにを言っているのかというと、じつは、「過去にこだわるな」ということを言っているのである。ようするに、「こだわること」を問題にしているのである。

ところが、この「こだわること」を問題にしているということが、本人にとっても、あいまいなのである。

「過去にこだわるな」と言いたいのか「過去は関係がない」ということを言いたいのかということが、本人にとって、よくわからないことなのである。

ひょっとしたら、「過去にこだわるな」という文と 「過去は関係がない」という文は、おなじ意味をもっていると考えているのかもしれない。

そして、前にも書いたけど、不可避的に影響を受けて、能力を失った相手に対して「過去にこだわるな」と言うのは、よくないことなのである。

これも、失礼な話なんだよな。相手がこれこれに「こだわっている」という断定は、よくない。もう、前に書いたから、説明は省略する。

2026年5月15日金曜日

●信者のなかでは、正しいことなんだよ■社会※2026/05/04 14:03

ほんとうは、人によって、差がある。

ほんとうは、人によって、ものすごい差がある。条件の差がある。

ところが、最初に出てくる一〇〇%詐欺構文は、条件を無視したものなのである。だから、現実には合致しないのである。

だから、条件が悪い人は、詐欺構文のようにうまくいかない場合がある。一〇〇%詐欺構文の信者は「努力すれば成功する」と言うわけ。

信者のなかでは、正しいことなんだよ。

ところが、実際には、一〇〇%詐欺構文は、理論的に間違っている。

信者が信じるような(信者の頭のなかにある文がもつ意味)と、現実的な意味での意味が食い違っているのである。しかし、信者のほうは、食い違っているということに無頓着だ。

あるときは、ほんとうに一〇〇%成り立つと思っているし、あるときは、一〇〇%じゃなくても成り立つ(だいたいは成り立つ)と思っているのだ。

また、あるときは、「努力すればする場合だってある」と思っているのだ。

条件に関係なく一〇〇%の確率で(文の内容が)成立するのか、あるいは、条件によっては成立する場合があるのかは、重要なちがいなんだよ。

ところが、努力論者は、自分のなかで、文がもつ意味を切り替えて、暮らしているのだ。

そして、何度も言うけど、切り替えていることに、無頓着だ。

努力論者自体が、無頓着なのだ。モードがちがえば言うことがちがうのである。自分のことであれば、条件を考慮しなければならなくなるので、自分のことに関しては、条件を考慮したことを言うのである。

けど、ほかの人のこと……に関しては、条件を考慮しなければならない理由がないので、条件を無視してしまうのである。

ともかく、言うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。思うたびに、一〇〇%詐欺構文がもつ意味がちがうということは、重要ことなんだよ。まったく気にしないけどな。

本人がやっていることなのに、本人の意識にはのぼらないのだ。いったいどれだけの努力論者が、「努力すれば成功する」という文は、現実的ではないということを理解しているのか。

言霊主義者が、言霊理論が正しいと思いながらも、普段の生活のなかでは、言霊理論を無視してしまうということと、似ている現象が、努力論者にもしょうじる。 

2026年5月14日木曜日

●家族だけに囲まれているときとは、ちがう反応になるんだ■騒音※2026/05/12 21:26

俺と親父が言いあっているときに、きちがい兄貴が、冷蔵庫のものをとりだしに一階に下りてきて、通りすがりに……俺たいして……「問題児だ」と言ったときがあるんだよ。

どうして俺が親父と言いあっていたかというと、きちがいヘビメタ騒音で進学するときに問題を抱えていたからだ。きちがい兄貴の問題について、きちがい親父ともめていたんだよ。

きちがい兄貴が、そのとき、すでに六年以上、きちがいヘビメタを絶対の意地で、ゆずらずに、ものすごくでかい音で鳴らていたのだ。毎日鳴らしていた。

基本的に、兄貴の行為によって、ぼくの問題が発生していたのである。兄貴の行為によって、ぼくの側に進路の問題が発生していたのである。それ……進路……について、きちがい親父とぼくとのあいだに、言い合いが発生していたのだ。

きちがい兄貴が、ほんとうに原因なんだよ。きちがい兄貴の行為が、ほんとうに、原因なんだよ。しかも、兄貴は、張本人であり、関係者なんだよ。きちがい兄貴の行為でこまっているということは、きちがい兄貴に、最初の日から言っていることなんだよ。

きちがい兄貴は、自分がかかわっているということを理解していなかった。

どうしてかというと、きちがいヘビメタをどれだ長い時間、どれだけでかい音で鳴らしても、弟の勉強を邪魔しているという「認識」が生まれなかったからだ。これが、きちがい的なのである。

これが、きちがい兄貴のきちがい行為に影響を与えていたのである。ずっと、あんな音で鳴らし続けてなにも感じないなんていうのは、おかしいんだよ。正常じゃない。

親父も、きちがい兄貴とおなじように、自分が発狂して、頑固にやったことで、相手がこまった状態になっても、相手がこまっているということを、頑固に認めなかった人間だ。

*     *     * 

これ、脳みその「つくり」として、そうなっているのである。そして、他人にとっては、これまた、これこそが、盲点になってしまうのである。

よその人は、親父と兄貴が……自分が発狂して、頑固にやったことで、相手がこまった状態になっても、相手がこまっているということを、頑固に認めない人間だ……ということがわかっていないのである。

それも、「脳みそのつくり」で、そうなっているということが、わからない。

よその人は、うちの兄貴とうちの親父が、脳みそのレベルで、そういう反応をする人間だということを知らないわけ。

そして、「脳みそのつくり」と書いてしまったのだけど……そういう脳みそをもっている人間がいるということを……よその人は知らないわけ。

きちがい兄貴ときちがい親父の「ぬけぬけ度」は、普通の人の「ぬけぬけ度」とはちがうのである。

そして、きちがい兄貴ときちがい親父は、普通の人がやらないことをやるのである。

これも、よその人にはわからないことなのだけど、……ごく自然に、きちがい兄貴ときちがい親父は、「よその人」が普通にまずいと思って、やらないことを……きちがい的な意地で……やってしまうわけ。一度やるとなったら、きちがい的な意地でやるんだよ。

この……「一度やるとなったら、きちがい的な意地でやる」……ということも、よその人は、わかっていないわけ。よその人は「やる」にしても、「普通の程度でやる」と思っているわけ。

ところが、ちがうんだよ。

兄貴と親父は、きちがい的な意地でやるんだよ。この、状態が、よその人には、わからない。実際に、いあわせて、どういうことをどういう状態でやるのかということを、よその人は、知らないわけ。

よその人は、経験的にわかっていないわけ。

そして、よその人は、うちの兄貴とうちの親父が、「そうする」ということについて、特に関心があるわけではない。どうしてかというと、自分の家族はそんな人ではないので、関心がない。「よその人」という言い方で、くくって、一〇〇%詐欺をするつもりはない。

例外はあるかもしれないけど、ぼくの知りえる範囲で言うと、ほんとうに、よその人にとっては関心がないことなんだよ。特に関心がないことなの……。

実際、うちのなかにいるときの親父の状態や、うちのなかにいるときの兄貴の状態について……知っている人はいないわけ。

兄貴が鳴らしているときに、ぼくの部屋にいた友達は、兄貴がどのくらいの音で鳴らしているか知っているけど、ぼくの部屋にいるわけだから、兄貴の状態を確認したわけではない。

兄貴に対して、ぼくが、「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言ったときの兄貴側の反応なんて……よその人は……実際に見たわけじゃない。うちにきて、ぼくの部屋に入ったことがある友達ですらそうなんだよ。

そして、「うちのなかにいるときの親父の状態」と書いたけど、「うちなかに家族しかないときに、うちのなかにいるときの親父の状態」という意味だ。兄貴の状態に関してもおなじだ。

ようするに、よその人が「お客さん」としてきた場合は、「お客さんがいる」ということが、きちがい親父にもわかるわけ。そうなると、家族だけに囲まれているときとは、ちがう反応になるんだよ。

これも、とくに、「お客さんがきているから、態度をかえよう」と親父が意識的に思っているわけではないわけ。そうじゃなくて、言霊主義者の「モードの切り替え」のように、本人が意識しないまま、自然に、「モード」が切り替わる。

ともかく、例外がいるかもしれないけど、よその人は、「うちのなかにいるときの親父の状態」や「うちのなかにいるときの兄貴の状態」について、関心をもたない傾向が非常に強い。

ようするに、例外はいるかもしれないけど、多くのよその人は「経験的に、うちの親父やうちの兄貴のような反応をする家族とは一緒に住んだことがない」し「うちの親父やうちの兄貴の反応について特に関心をもっていない」わけ。

だから、多くの普通の人は、うちの親父やうちの兄貴のことについて、正確に考えることができない。

多くの普通の人は、うちの親父やうちの兄貴が、どういう態度で、きちがい的な意地を押し通して問題行為をするのかということが、よくわかっていない。

そして、多くの普通の人は、自分の家族が正常者なので、正常者との関係によってしょうじた常識をもっている。

その常識に、「うちの常識」が、あわないのである。

多くの普通の人が、うちの兄貴の行為やうちの親父の行為について、誤解をするのである。

●はっきり言えば「がんばらせる」ことができるようになる■社会※2026/05/13 15:03

「努力をすれば成功する」という文を考えた場合、努力をするかどうかが、成功するかどうかを決めるということになる。

しかし、実際には「成功したなら、努力をした」「成功しなかったなら、努力をしなかった」「成功しているなら、努力をした」「成功していないなら、努力をしなかった」ということになっている。

「成功しているなら、努力をした」ということになるのだから、成功しているかどうかが、努力したかどうかを決めることになる。

これ、逆なのである。

最初から、「成功しているなら、努力をした」「成功していないなら、努力をしなかった」ということが成り立っている。

だから、はずれることがないのである。

もちろん、でたらめだ。

「成功していないなら、努力をしなかった」ということになるので、成功していない人は、努力をしなかったと決めつけられることになる。

「自分は努力をした」と、努力をしなかったと決めつけられた人が言えば……努力をしなかったと決めつけたほうは「努力不足だ」とか「努力の方向が間違っている」とかと、言うことになっている。

最初から、決まっている。

でっ、こういうことが、上から下に、流れていくのである。成功の定義が言うたびにちがうし、言う人によってちがうので、その都度、成功の定義を自分の都合のよいように頭のなかで書き換えることができる。

だから、たとえば、底辺工場の下から二番目の人も、下から一番目の人には、『自分は成功した』という立場で、「おまえは、努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言える状態になる。

こういうことが、上から下に、順番に、成り立っている。

層をなして、成り立っている。

これは、別の角度から見ると、「上の人」には、なにも言えなくなるということも、意味している。

どうしてかというと、上の人から「おまえは、努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言われることになるからだ。

無理なことを言われても、無理なことができないのは、「おまえの努力不足だ」「おまえの努力の方向が間違っているからできないんだ」と言われるので、「それは無理だ」と反論しにくくなる。

基準を内面化しているので、さからえないのである。

*     *     * 

これは、「できると言えばできる」ということでも成り立っている。「それは無理だ」と言えば「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」と言われることがわかっているので、「それは無理だ」と言いにくくなる。

特権階級の人が、一般人を支配するには、もってこいの言い方なのだ。こういう言葉がはやっていれば、特権階級の人は、一般人を酷使することができるようになるのである。

一般人のなかで、上下関係が成り立っているので、一般人のなかで、無理なことを上の人が下の人に押し付けることができるようになる。

ほとんどの人がみんな、言霊的な感覚をもっていない場合、 「できると言えばできる」なんて言っても、「なにをきちがいみたいなことを言っているんですか」と反論されるけど、ほとんどの人がみんな言霊的な感覚をもっている場合、「なにをきちがいみたいなことを言っているんですか」と反論しにくくなる。

まあ、言霊的な感覚をもっていない人もいる。けど、これは、程度問題だ。幼児期を経てきた人間は、幼児的万能感がちょっとは成り立っているので、言霊的な感覚を、ちょっとはもっているはずだ。

けど、なかには、幼児的万能感をまったくもっていない大人もいるかもしれない。それは、わからない。けど、多くの人が、大人になっても、幼児的万能感をちょっとはもっているはずだと考えたほうが、現実的だ。

*     *     * 

言葉は悪いけど、奴隷労働者を管理する上で、とても便利な言葉なのである。なにが便利な言葉かと言えば、「できると言えばできる」という言葉が、便利な言葉なのである。

そして、「努力をすれば成功する」という言葉が、便利な言葉なのである。

こういうことを奴隷労働者階級の人が(みずから)信じ込んでいれば、より効率的に管理できることになる。はっきり言えば「がんばらせる」ことができるようになる。 

*     *     *

条件が悪い人は、成功できる確率が低いのである。だから、成功しない場合が多い。「成功していないなら、努力をしなかった」という言葉は、このことを覆い隠すことができる言葉なのである。

別に「成功していないなら、努力をしなかった」と言わなくても、なんとなく、そう思っていれば、じゅうぶんな効果がある。

成功していない人を(成功したつもりで)見下すことができるからだ。

そして、条件が悪い人にとたいして、「努力しないからダメなんだ」「努力が足りないからダメなんだ」「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と説教をすることができる。

マウントをとることができる。

これは、気持ちがいい行為だから、社会のなかで繰り返される。やられたほうは、気分が悪くなることが多いので、どこかで、ほかのやつに、おなじことをやりかえそうとする確率が高くなる。

自分のより下の人間を見つけたら、「努力しないからダメなんだ」「努力がたりないからダメなんだ」「努力の方向が間違っているからダメなんだ」と言って、マウントをとりたくなる誘惑にかられる確率が高くなる。

多くの場所で、これが繰り返されていく。

2026年5月13日水曜日

●次から次へと……■騒音※2026/05/13 21:21

ひょっとしたら、歯医者に行く必要があるかもしれない。いやだなぁーー。ひとつ片づくと、またひとひ発生する。いや、ふたつ以上発生する場合もある。

どうして、こうなる?

もう、いやだなぁ。なんか、もう、いろいろと、いやなんだよなぁ。体がかゆいのは、ダニなのか、アレルギーなのかよくわからない。

ダニなのかな。もう、いやだなぁ。全部が、いやだ。次から次へと……。親父対応とネズミ対応で、もう、ほんとうに、エネルギーを使い果たしてしまった。それから、なんていうのかな……。生きていても、楽しくない。

なら、死んでもいいかというと、そうではない。このさき、楽しくなるような予感がない。ずっと、くるしいまま生きてきた。 

もう、つかれたなぁ。かゆいのは問題だ。やっぱり、虫か、ダニに刺されているなぁ。気温が上がると……これかぁ。

ともかく、兄貴の騒音と親父のきちがい行為で、人生がない。楽しいことなんてなかった。いや、ちょっとはあったけど……。

それだって、ヘビメタ騒音に汚染された楽しみだ。「あの子」と普通に付き合いたかったというようなことを書いたけど、あれだって、わかいころじゃないと、ダメなんだよなぁ。そして、ヘビメタ騒音に汚染されていない、わかいころじゃないとダメなんだよなぁ。

けっきょく、このさき、どれだけ、楽しむように心がけても、きちがいヘビメタ騒音にたたられていたわかいころとおなじように、ダメなんだよなぁ。この、雰囲気が、もう、ヘビメタ騒音だ。

だれにも、頼れないまま、きちがいヘビメタ騒音にさらされて……それでも頑張って生きてきたけど……頑張って生きていればいいというものではない。

頑張って生きていれば、楽しかったかというと、楽しくなかった。

きちがいヘビメタ騒音でいつも、引きつっていた。きちがいヘビメタ騒音でいつも、暗い気持ちだった。

けっきょく、その延長線上で生きている。気ちがい家族がおらず、家族のきちがい騒音にさらされ続けなかった人は、まったくわかっていないんだよな。

「そんなの可能であるはずがない」と言ってやりたくなる。

あいつらが言っていることは、全部、無理なことなんだよ。楽しめるわけがない。生きているだけで、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。 

*     *     *

ひとつひとつが、めちゃくちゃに、憂鬱なんだよなぁ。いま、午後九時四一分だけど、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。いつも鳴っていた。あんな状態でいいわけが、ない。きちがい兄貴の状態というのが、ほかの人にはわからない。

実際に、きちがい兄貴の行為が続いてしまった場合の、影響というのが、ほかの人にはわからない。実際に、毎日つもらないとわからない。明るい気分になれるはずがない。

どれだけ張り詰めた状態で暮らしているか、まったくわかっていないやつばかりだ。

「そんなのは関係がない」「なにがヘビメタ騒音だ」と言ったやつを、なぐってやりたい。まあ、なぐらなかったし、なぐらないけど……。

ごく一部の例外を除いて、みんな、ほんとうに、わかっていない。こいつらが想像するようなことじゃないのである。こいつらが想像するような影響のでかさではないのである。

これ、ほんとうに、ぜんぜんわかっていないやつが、えらそうなことを言う。家に、きちがい兄貴のような家族がおらず、きちがい基準の騒音にさらされなかっただけなのに、えらそうなんだよ。

『自分なら平気だ』という、気持ちがある。

「なんだ!!そんなのぉ!!」と言ったやつも、ゆるせんなぁ。 

●努力論者は、相手をせめることに成功する(2)■社会※2026/05/12 20:52

あんまり言いたくないけど、努力論者が「だれか」を「さぼり魔だ」とか「ダメ人間だ」と決めつけたということは、ほかの人にも影響を与える。

たとえば、Aさんは、ほんとうは、才能がないから、成功しないのだけど、「ちゃんとした努力をしないだめな人間だ」と決めつけられることになる。そういう発言を、職場でしたなら、ほかの人もAさんは「ちゃんとした努力をしないダメな人間だ」とみなすようになるのである。

Aさんは、死に物狂いの努力をしていたかもしれない。「間違った方向の努力だ」と思われがちなのだけど、間違った方向の努力かどうかは、わからない。

これも、成功しなかったという事実に基づいて、勝手に努力論者側が、「Aさんは間違った方向の努力をしている」と決めつけただけなのだ。後出しジャンケンだ。ずるいことをしている。

ともかく、努力論者が、だれかを「努力論」に従って、「ダメ人間だ」と言い切ってしまうと、ほかの「努力論者ではない人たち」も、影響を受けて、だれかを「ダメ人間だ」と決めつけるようになる。そうなると、その人は、その場所で、居場所を失うことになる。

才能がないだけなのに、「努力不足だ」と言われて、「(ちゃんとした努力をしないダメ人間のレッテル」をはられて居場所を失うのである。

 ある分野の才能がないということは、ある分野の才能がないということを意味しているにすぎない。

ところが、「さぼり魔だ」ということになると、道徳の問題になるのである。

才能がないだけなのに、「性格が悪い人だ」ということになってしまうのである。才能の問題が、性格の問題になってしまう。努力論は、才能がない人のことを、「悪い性格をもっている人」にしてしまうのである。

どうしてなら、ほんとうは努力するべきなのに、努力しない人間だということになり、それは、努力をしようとしない性格の問題だということになってしまうからだ。

才能がないだけなのに、性格が悪い人だということになってしまうのである。

これも、「努力論」が実際の社会で運用されることになると、発生する問題だ。

かりに、Aさんが、その分野で才能がないということに悩んでいるとする。ところが、努力論者のなかでは「才能の問題」はないことになっているので、「努力不足の問題だ」ということになってしまうのである。

けっきょく、「さぼろうとしているAさんが悪い」ということになってしまう。Aさんが、どれだけ、頑張って努力しても、「やること」に成功しない限りは、努力をしていないことになってしまうのである。あるいは、努力不足ということになってしまうのである。

あるいは、正しい方向で努力をしてないということになってしまうのである。

まあ、まとめると「さぼって、ちゃんとした努力をしないから、やることに成功しないのだ」ということになってしまうのである。 Aさんが、なんらかの作業をする場合、その、なんらかの作業する場合には、絶対に必要なあることがでなかったとする。

その必要なことをする才能がAさんにはなかったとする。

その場合、Aさんは、その作業をすることに成功しないわけだから、努力不足だということになってしまうのである。ちゃんと努力をしていない問うことになってしまうのである。

Aさん(本人)は、どれだけ、ちゃんとやろうと努力したとしても、結核的に、その作業ができないのであれば(その作業をやることに成功しないのであれば)……自動的に、ちゃんと努力をしていないということになってしまうのである。

別に、さぼりたいわけではないかもしれない。けど、どれだけ努力をしてもできないのだから、しかたがない。

けど、努力論者や努力論者の影響を受けた人は、Aさんが「さぼり魔だからダメなんだ」と思ってしまうのである。

Aさんが「努力をおこたった」からダメなんだと思うようになってしまうのである。Aさんは、努力をしないような悪い人だということになってしまうのである。

ちゃんと努力をしないということは、誠実ではないということになってしまうのである。

Aさんは、「誠実ではない」のではなくて、その作業をする「才能がなかった」だけなのだ。ところが、才能の問題が、誠実さの問題にすりかわるのである。

ようするに、才能の問題が、性格の問題にすりかわるのである。

ようするに、努力論という変換装置があると、「才能のなさ」が「性格の悪さ」にすりかわってしまうのである。

努力論によって、Aさんは、性格が悪い人間だと思われることになってしまうのである。Aさんがどれだけ、誠実に頑張っても、才能がないからできなかったとする。

それでも、努力論がはびこった職場では、「Aさんは努力不足で、誠実に努力をしないからできないのだ」ということになってしまうのである。

2026年5月12日火曜日

●努力論者は、相手をせめることに成功する(1)■社会※2026/05/11 22:25

「適応するように努力すれば、適応することに成功する」という文について考えてみよう。適応するように出力すれば、適応することができるのである。

そうなると、「努力しないやつがだめなんだ」ということになるのである。「努力」に焦点があっているので、『努力しか』問題にならないのである。

そして、適応すことに成功しない人がいるのであれば、その人は、努力をしていない人だということになる。

あるいは、理論的に破綻しているのだけど、努力不足だから、ダメなんだ」とか「努力の方向が間違っているからダメなんだ」ということになってしまうのである。

項目要素が、努力しかないので、努力の問題になってしまうのである。貧しさが条件として取り入れられた場合は、「貧しくても、適応するように努力すれば、適応することに成功する」ということになり、貧しい人も、努力をすれば、適応することに成功するということになる。

なにに、適応するのか?

「社会に適応する」でも「仕事に適応する」でもいい。さらに、「目の前の仕事に適応する」でもいい。ともかく、努力すれば、適応することに成功するのである。

成功しないのであれば、努力をしていないからだということになってしまう。

あるいは、ほんとうは理論的に破綻しているけど……「努力不足だからダメなんだ」とか、「努力の方向が間違っているからだめなんだ」ということになってしまう。

才能なんて、関係がないのである。

しかし、才能がないと、どれだけ頑張って「目の前の仕事に適応するように」努力しても、適応できないことがある。そりゃ、才能がないのだから仕方がない。

ちなみに、才能の中に含めていいのだけど、体力や身体能力も、実際には、「成功するかどうか」に関係している。

ところが、体力なんて項目は出てこない。身体能力なんて項目は出てこない。捨象されているのである。この捨象された部分について、相手側!が、言及すれば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことに……なっている。

もう、これ、マルチ商法みたいにやることが決まっているんだよ。それは、100%詐欺構文である言い方と集合的一括思考のなかに、含まれている。この点で、誤解が生じるように、最初から、設計されている。

だから、「努力をすれば成功する」と言われると、「努力だけ」に意識が集中してしまって、貧困や才能や体力に(一切合切の)意識が向かないということになる。ようするに、それらの要素項目を、無視してしまう。洗脳計画者は、一般人の考え方のくせを熟知しているので、「努力に絞った言い方をすれば」「ほかの要素項目は全部無視してくれる」ということを、知っている。一般人は、その性質をうまく使われて、「努力をすれば成功する」という文を、信じ込まされる。洗脳される。自己責任論を展開するときに(はやらせるときに)……自己を対象とした責任論について、言及しておけば、他者を対象とした責任論を口にするようになるということを、知っていたとおなじだ。一般人に、自己を対象とした責任論を、教えれば、ごく自然に、他者を対象とした責任論を正しいと信じるようになるということを、洗脳計画者は、事前に知っていたのだ。自己を対象とした責任論から、他者を対象にした責任論への流れというのは、じつは、努力論のなかにもある。努力をすれば成功する……のだから、自分が努力をすれば、自分が成功するはずだという、思い込みが、エサなのである。成功したいわけだから、方法を知りたくなる。「努力をすれば成功する」ということになっていれば、「努力をすればいいのだ」ということになる。この場合は、最初は、自分が対象なのである。他人は、どうでもいいのである。ところが、他人が対象になるのである。それは、第一に、善意として助言をするときに対象になるのである。そして、第二に、ダメ出しをして快楽を感じるときに、対象になるのである。ようするに、マウントをとりたいときに、他人にマウントをとりたいときに、他人を対象として、「努力をすれば成功する」と言うことになる。「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言うときも、マウントをとれるので、気分がよいのである。努力論を口にされるほう(言われるほう)は、言う側にとっては、目下の人間なのである。こまっている人間や、弱っている人間は、目下の人間として意識されるのである。実際に、相手はこまっているわけだから、こまっていない自分よりも、目下だという意識が発生する。なので、「人がいやがることはやめましょう」と言っている人も、ごく自然に、ダメ出しをすることができるようになる。だいたい、「人助け」だと思って「正しい助言をしているつもり」になっているので、自分が「人がいやがることをしている」とは思わない。

しかし、言われたほうは、かなりの高確率で、いやな思いをするのである。

どうしてかというと、自分がどれだけ努力しても(自分が操作できない)要素項目が、実際の結果に影響を与えていることがあるからだ。

かりに、才能がない人は、どれだけ努力しても、結果として、成功しないとする。その場合、ほんとうの理由は、才能なのだけど、相手(この場合は、努力論者)は、「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言ってくることになる。

これは、前にも述べたように、結果を見てものを言っているだけだ。つまり、後出しでものを言っているだけだ。成功したら、努力をしたということになり、成功しなければ、どれだけ努力をしても、努力をしたことにならないのである。

あるいは、正しい努力をしたことにならないのである。

努力論者は、相手をせめることに成功するのである。

ほんとうは、その仕事に適応する才能がないから、適応できないだけなのかもしれないのに、「努力をしないから適応できないのだ」と決めつけることができるのである。

努力論者が、才能がないからできない相手に対して、「努力をしないから適応できないのだ」「努力が足りないから、適応できないのだ」「間違った努力をしているから、適応できないのだ(正しい努力をしないから、適応できないのだ)」と言うことができる。

「才能がないからできない」と言うことは、「言い訳」になってしまうのである。

「才能がないからできない」というのは「あまえだ」ということになってしまうのである。「間違った努力をしているから、適応できないのだ」というのは、「おまえは、間違った努力をするようなバカだ」というメッセージも送っている。

「正しい努力をしないから、適応できないのだ」というのは「おまえは、正しい努力がなんであるか知らないようなバカだ」というメッセージも送っているのである。

しかし、善意でやっていることなのである。「いい助言をしているつもり」なのである。「おまえは、正しい努力の方向もわからないようなバカだ」というメッセージを送っているのに、「いいことをしている」とか「本当に役に立つ助言をしている」とかと思い込んでいる状態が成立してしまう。

ほんとうの理由が「才能」だとしても、努力論者のなかには「努力」という項目しかないので、成功していないなら、努力をしていないということになってしまうのである。ほんとうは、「才能がないから」成功しないのに、「努力をしていないからダメなのだ」と言われることになる。何度も言うけど、努力論者のなかでは、努力だけが、成功するかどうかを決める項目なのである。

実際には、才能がないから、どれだけ努力しても成功できない人がいたとする。

Aさんだとする。Aさんは、自分ができる範囲で、ものすごい努力をしていたとする。

しかし、成功できなかった。あるいは、成功できない状態でいる。

その場合、努力論者から見れば、Aさんは努力をしていない人になるのだ。そして、理論的に破綻しているのだけど……「Aさんが成功しないのは、努力がたりないからだ」とか「Aさんが成功しないのは、努力の方向が間違っているからだ」とかということを努力論者は言い出す。

 Aさんが「才能がなくて」こまっていても、そんなのは、おかまいなしなのだ。かってに、Aさんが努力をしない「ダメ人間」だと決めつける。あるいは、Aさんは、必要な努力をしない「サボり魔」だときつめけるのだ。

Aさんは、努力がじゅうぶんではないと、どこまでもどこまで、せめられることになる。Aさんが成功出ないのは、才能がないからなのだけど、努力論者が、妄想的な理論に寄りかかって、Aさんをさぼり間にしてしまう。

「さぼっているからダメなんだ」「もっと、ちゃんと努力すれば、成功する」「正しい方向の努力をしないからだめなんだ」と言って、Aさんをせめるのである。こういうことを言っているとき、努力論者は、別に悪いことをしているつもりなんてない。

いいことをしているつもりなのだ。

努力論者の頭のなかでは……さぼっている相手が悪いということになる。

さぼっている相手に、「ちゃんとやらなければだめだぞ」と忠告しているだけだということになる。これは、いいことであって、悪いことではない。

悪いのは、さぼっているAさんだということになる。ちゃんと、努力をしないAさんが悪いということになってしまうのだ。

なので、こういうことが繰り返されて、社会がより悪くなるのである。

*     *     *

ちなみに、Aさんが「自分は才能がないから成功しない」と、ほんとうのことを言ったとしよう。

その場合、努力論者は「Aさんは、言い訳をしている」とみなすことになる。どうしてかというと、成功しないのは、努力をしないからだと思ってるからだ。

あるいは、成功しないのは努力が足りないからだと思っているからだ。

あるいは、また、「成功しないのは、正しい方向の努力をしないからだ」と思っているからだ。

ようするに、Aさんが「ちゃんと」努力をしないのが悪いということになっているのだ……。努力論者の頭のなかでは……。だから、努力論者は「言い訳をするな」と言って、Aさんをせめることになる。

最初の「努力をすれば成功する」という文は、問題がないような文に見えるのだけど、成功する要素は、努力だけだという「まちがった見方」が、最初から含まれている。「努力だけ」なのだから、ほかの要素は、全部、無視してしまうのだ。


ところが、実際には、「努力だけ」が「成功するかどうか」を決めるのではないのだ。 

けど、都合よく無視できる「理論」を提供する。これは、ライフハックなので、一見、役に立ちそうな理論なのだ。ところが、ほんとうは、社会を悪くする理論なのだ。運用の場面では、不利な立場の人を、追い込む理論として機能することになる。 


2026年5月11日月曜日

●発生しなかった問題なんだよ■社会※2026/05/11 16:23

きちがい兄貴の構造が特殊なので、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んだことがない人たちは、経験的に、きちがい兄貴が「意地になってやること」がわからないのである。

きちがい兄貴が、夢中になってやることがわからないのである。

普通だったら、絶対に、あんな音で鳴らさないんだよ。

そして、鳴らしている場合は、でかい音で鳴らしているという認識が、「かならず」しょうじる。

けど、きちがい兄貴は、例外者なので、でかい音で鳴らしているという認識がまったくしょうじない。俺がこまっているということも、きちがい兄貴は、わからない。

「俺がこまっているということが、きちがい兄貴にはわからない」のだけど、こういう脳みその問題は、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父にもある。

そうなると、常識的な人から見て、俺がへんな人に見えてしまうのである。

*     *     *

「そんなのちゃんと言えば、わかってくれる」と思っている人は、ちゃんと言わないエイリが悪いと思ってしまうわけだ。「ちゃんと言えばわかってくれる(はずだ)」という思い込みが激しい。

この思い込みは、ぼくが言っても、かわらない。一度、「ちゃんと言わないやつが悪い」と思った時点で、ある程度は、ぼくのことを見下しているので、見下したやつの言うことを聞くことが、めったにないのである。

「そんなのは、嘘だ」と思うやつもいて、こういうやつは、ぼくがまるまる人格障害で、嘘を言っていると思うんだよ。そうすると、次から次へと妄想的な解釈をするようになる。

俺の行動や発言を、次々に、妄想的に判断して、その判断に基づいた……「へんなこと」を言ってくるようになる。

こっちから見れば……「おまえが、間違った判断をして、間違った判断に基づいた解釈をしているだけだろ」と言いたくなるのだけど、そんなことを言ったって、相手は認めないのだ。

こいつらは、悪質だよ。

特に、四〇代、五〇代の女性グループができあがっている場合は問題がさらにふくらむ。まあ、メリーリングリストで出会った人たちなのだけど、かかわるんじゃなかったと思っている。

これも、けっきょく、きちがい兄貴の騒音で、普通の大学に進学できなかったことが、影響しているんだよな。

かりに、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で騒音を鳴らさなかった場合、普通に、通学制の大学に進学したはずなんだよ。あるいは、きちがい兄貴が、よそではありえないような、でかい音でヘビメタを鳴らしても……こっちが「やめてくれ」と言ったら、やめてくれた場合は、普通に、通学制生の大学に進学したはずなんだよ

通信制の大学で、こういう人たちと、出会うこともなかった。

この人たちの、解釈が問題なんだよな。

「ヘビメタ騒音の話が、嘘だ」ということになっているのだ。……この人たちの頭のなかではそうなんだよ。俺のことを嘘つきだと思って、次々に、へんな解釈をする。

これだって、相手に悪意があるわけではない。

本気でそう思っている。

こっちから見れば……「おまえらが、勝手に妄想に妄想を重ねているだけなんだよ」ということになるのだけど、どれだけ言っても、俺が嘘をつく人間だと思っているので、自分たちの解釈をかえることがない。

こういう、付属的なトラブルも発生してしまうのだ。

これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、あんなに長い期間、きちがい的な意地で、自分が鳴らしたい音を、自分が鳴らしたい音のでかさで鳴らすということをしなかったら、発生しなかった問題なんだよ。 

*     *     * 

きちがい兄貴ときちがい親父が、同じタイプの精神的な問題を抱えているのだ。

もちろん、きちがい親父が抱えている問題で、きちがい親父が苦しむということはないのである。きちがい兄貴が抱えている問題で、きちがい兄貴が苦しむということはないのである。「自分」が相手の気持ちを無視して、自分がやりたいことを、きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやったということを認識しないという精神的な病だ。

感覚器が正常なのに、『自分の都合に従って』感覚器を書き換えてしまう病だ。感覚器を書き換えてしまうというのは、感覚器が正常だから、正常な信号が(脳みそに)届いているのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父は……『自分の気持ち』を優先して、不都合な信号を遮断してしまうというようなことを、無意識的にしている。

本人が意識的にやっていることではないということが問題なんだよな。こいつらにとっては、「こいつらの認知が正常だ」ということになっているからだ。

この「遮断するとき」の意地がすごいんだよ。

けっきょく、意地でもやりたいことは、便利な遮断機能を使ってやってしまうのである。

で、やってしまったら、「そんなのやってない」と自分が思えるほど、関心がないことになっている。自分がやったのか、やらなかったのかについて、真剣に悩むことがない。

いつも、この方法で、自分がやりたいことは、まわりの家族がどれだけ「やめてくれ」と言っても、やってしまうのである。まわりの家族が「やめてくれ」と言ったことは「ない」ことになっているのである。

……たとえ、その日、周りの家族が何十回も強く、直接(本人に)「やめてくれ」と言ったとしても、まわりの家族が「やめてくれ」と言ったことは「ない」ことになってしまうのである。

きちがい兄貴の頭のなかでは、そうなってしまうんだよ。きちがい親父の頭のなかでは、そうなってしまうんだよ。

「自分は、なにも文句を言われないままやっただけだ」ということになっている。あるいは、「自分は、なにも文句を言われないままやっただけだ」ということを思うまでもなく、関心がないことになっている。

でっ、その方法で、ずっと毎日やるんだよ。

注意をしたから、兄貴が、かわってくれるということはなかった。

*     *     * 

「相手をかえることは、できないから、自分の受け止め方をかえればいい」というようなライフハックを口にする人がいるけど、そのライフハックを口にする人は、現実的な場面では、『自分の受け止め方をかえない』場合が多い。

そのライフハックを口にする人は、実際には、『自分の受け止め方をかえよう』と思わない場合が多い。

相手がかわらないということを(こっちが)言うと、「人はかえられないから自分をかえればいい」とか「人はかわらないから、自分の受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいる。

きちがい兄貴が、きちがい行為をしているのだから、かわってもらわないと、こまるのである。

かわらない相手がいるということは、「こっちが、受け止め方をかえればいい」ということを……自動的に……意味しているわけではないのだ。

こいつらは、実際の、きちがいヘビメタ騒音が及ぼす影響のでかさがわかっていない。こいつらも、俺がどれだけこまっているか、ぜんぜんわかっていないやつらなのである。

たしかに、「どれだけ、こっちが言っても、かわらない人」はいる。いる……。いる「から」こっちがかわらなければならないということにはならない。

こういうことですら、わかってないのである。

しかも、こいつらは、普段、自分が、「相手にあわせて、自分の受け止め方をかえているわけではない」ということが、自分でわかっていない。

「ぬけぬけ」なんだよな。

こいつらも、この点に限っては、うち兄貴やうちの親父と似ているところがある。無自覚。まあ、こいつらは、きちがい的にでかい音で自分が鳴らしたい音を鳴らし続けるということは、していないのだろう。だから、うちの兄貴とは、やったことがちがう。

それは理解している。

こいつらが、うちの兄貴のように、きちがい的にでかい音で、一日に何時間も、あるいは、十何時間もずっと、でかい音で音楽を鳴らしたと言っているわけではないのである。そういうところで似ているということを言っているわけではないのである。

ただ、普段、自分が言っていることと、普段の自分の行動が食い違っているということに気がつかないというところは似ているのだ。

*     *     *

これ、きちがい的な家族にやられて、ものすごくこまっている人に「(相手をかえることはできないから)自分がかわればいい」とか「(相手をかえることはできないから)自分の受け止め方をかえればいい」とかということを、言ってしまう人は、自分がなにをしているのか、ほんとうにわかっていない……と思う。相当にひどいことをしている。

「善悪」はどうなる?

「善悪」なんて関係なしに、「相手にあわせればいい」「相手にあわせて、自分の受け止め方をかえればいい」なんて、相当にひどいことを言っている。善悪を超越してますね……。

そのくせ、道徳は投げているわけではないのだろ。これ、自分がなにをしているのか、ほんとうにわかっていないな……。

●「俺はこのまま終わるのかな」■社会※2026/05/10 19:19

「俺はこのまま終わるのかな」という気持ちがある。俺はこのまま終わるのだろうか。その確率は、高い。相当に高い。

ほんとうにほかの人とはちがうんだよな。

「家の状態」がちがいすぎた。「一緒に住んでいる家族の状態」がちがいすぎた。

これ、ほんとうに、ほかの人にはわからないことなんだよな。

どうしても、ほかの人は、ほかの人の常識に従って、ものを考えてしまう。その場合、「家族」に対する常識も、普通の人の常識は、普通の家族と一緒住んだ場合の常識なのである。うちの親父と、うちの兄貴は、普通の人じゃないのである。普通の人の感覚を持ち合わせていない。

そうすると、どうしても、ほかの人から見ると、ぼくが「へんなことを言っている」ように見えるのだ。「そんなは、ちゃんと説明すればいい」とほかの人は言う。

「エイリがほかの家族にちゃんと説明すれば、そのほかの家族はちゃんとわかってくれる」という前提の発言だ。

ところが、うちは、ぜんぜんちがうのである。ぜーーんぜん、ちがうのである。そして、たとえば、きちがい兄貴自身が、きちがい兄貴の構造に気がついていないというところがある。

だから、ほんとうに、きちがい兄貴は、「ぬけぬけ」のチャンピオンみたいな存在なのだ。

きちがい兄貴にしたって、ほかの人が、きちがい兄貴の音量で、音を鳴らしていれば「うるっっっっっさい」と思のである。三〇秒で「なんだぁ!!」と思い……四〇秒で、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になるのである。

けど、自分が……思いっきり……鳴らしたい音だと、「相手の立場に立ってものを考える」ということがまったくできないきちがい兄貴は、感覚器をだまして、「普通の音だ」と思って、鳴らしてしまうのである。

「普通の音で鳴らしているのだから、どれだけ鳴らしたって問題がない」という意識が成り立っているのである。

自分の耳が悪くなるような……ものすごくでかい音で鳴らしているのに「普通の音で鳴らしているのだから、どれだけ鳴らしたって問題がない」と思っているのである。

耳が正常なら、ものすごくでかい音で鳴らしているということは、どれだけ、嘘を言っていても、わかる。

ところが、きちがい兄貴はわからない。

そして、実際に、自分の出した音で、聴力がさがっていくのである。

2026年5月10日日曜日

●気持ちよく風呂に入ることができなくなる■騒音※2026/05/10 18:18

とりあえず、起きて、ネットスーパーの注文をした。今日……「午後六時から午後八時」の時間帯に届くことになっている。

どうするかな。

問題なのは、体の問題と、やる気のなさの問題だ。体がしんどいと、どうしても、くるしい気分になる。

やる気は、もちろん、ない。

なんとか、低空飛行を維持しているだけだ。

低空飛行を維持しているだけの生活が楽しいかと言えば、楽しくない。けど、いろいろあったので、こころが、うまくうごかない。いろいろ、ありすぎた。

これ、実際に起こった出来事というのは、実際の気分に影響を与える。環境が悪い人は……特に……家族環境が悪い人は、不可避的に、悪い出来事がつみかさなるようにできている。

そして、悪い出来事は、悪い出来事を生み出す。呼び込むと書いてもいいのだけど、それだと、引き寄せのような感じになってしまうので、さけた。

悪い出来事というのは、それだけでは、すまないのである。

きちがいヘビメタ騒音が、家に帰ってから、寝るまでの時間、ずっと鳴っているということは、ひとつの悪いことだ。その悪いことが、さまざまな、悪いことを引き起こすのである。直接の原因になる。

ところが、言霊主義者のような理解レベルだと「うるさかったんだろ」「元気だ元気だと言えば・元気になる」というようなことを、かえしてくるということになる。「うるさかった」ということは理解するけど、それが、どのくらいつらいことかまったく理解していないのである。

さらに、たとえば、午後四時から、午後一一時一〇分まで、きちがい騒音にさらされると、そのあと、眠れなくなるということも、無視している。そういう悪い連鎖がはじまる。夜眠れないと、こまるのだ。

普通に、眠れる状態ではなくなるわけ。

騒音に、さらされ続けると不可避的に、眠れない状態になる。たとえば、きちがいヘビメタ騒音がなければ、普通の気分で、午後四時から午後一一時まてすごして、そして、午後一一時一〇分ごろには、歯磨きをして眠るということが、普通にできたわけ。

ところが、ヘビメタ騒音が鳴ると、どうしてもできなくなる。けど、「うるさかっただけだ」と解釈しているやつらは、眠れないくるしさや、歯磨きができなくなる問題がわからない。どうしても、できなくなるのだ。どうしても、眠るべき時間に眠れなくなるし、歯磨きをする体力もなくなる。

ちなみに、風呂だけど、風呂に入っているあいだも、ずっと、きちがいヘビメタ騒音をがんがん聞かされるわけだから、つらい時間になる。

たとえば、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていなければ、一(いち)のエネルギーで気持ちよく、風呂に入れるとしよう。これが、ヘビメタ騒音生活が一〇〇日続けは、一〇〇のエネルギーを使っても、気持ちよく風呂に入ることができなくなる。

しんどいわけ。

それが、二〇〇日続けば、二〇〇のエネルギーを使っても、気持ちよく風呂に入ることができなくなるわけ。一〇〇〇でも、二〇〇〇でも、おなじだ。どんどん、どんどん、つもっていく。風呂に入りにくくなれば……ほんとうに、ヘビメタ騒音で風呂に入りにくくなっているのだけど……そういうことは、言っても、無視されるのだ。

そして、ヘビメタ騒音でつかれて、風呂に入ることができない」ということを言えば……「そんなのは、いいわけだ」と言われることになるわけ。言霊主義者なら「できないと言うからできないんだ」「できると言えばできる」と言ってくるわけ。

いやーー。きちがいヘビメタ騒音……家族がきちがい的な意地で鳴らすヘビメタ騒音でできなくなったんだよ。だから、「できなくなった」と言っているんだよ。それを、「できない言うから、できない」と断定する。

しかも、悪気がない。こういう、妄想的な理由を持ち出して、人を苦しめても、まったく悪いと思わないのだ。そして、こともあろうに、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い出す。

これだって、ヘビメタ騒音音でできなくなったと言っていることを無視した発言だ。

もちろん、言霊主義者は、ちゃんと理解しているつもりなのだろう。ちゃんと理解して、素晴らしい助言……現実的な上限をしてやったつもりなのだお。

けど、こんなの、無理なことを押し付けているだけだ。きちがい兄貴にも、話は通じないけど、こいつらにも、話は通じない。こいつらは、理解しているようで理解していない。そして、こいつらの助言が、人の心を踏みにじるものだという自覚がまったくない。

「ヘビメタ騒音で眠れなくなった」「ヘビメタ騒音で風呂に入りにくくなった」と言っているんだよ。原因は、ヘビメタ騒音なんだよ。「できない」と言うから、「できなくなった」わけではないんだよ。

ヘビメタ騒音が鳴っていると、元気がなくなるんだよ。

ヘビメタ騒音が鳴っていれば……ヘビメタ騒音が鳴っている生活が続けば、原因は、「元気ではない状態になった原因は」ヘビメタ騒音なのだから、どれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないんだよ。

それを、ヘビメタ騒音なんていくら鳴っていたって、「元気だ元気だと言えば、元気になる」と言う。「俺は、元気だ元気だと言ったら元気になった」「言霊は正しい」と言うんだよ。

かりに、言霊理論が正しいということになっていると、「エイリが、元気だ元気だと言って、問題を解決しようとしないのが悪い」ということになってしまうのである。

エイリが、元気だ元気だと言っても、元気にならないのは、エイリのやり方がへたくそだからだということになってしまうのである。うまくできる言霊主義者は、いい人で、うまくできないエイリは、ダメな人だということになってしまうのである。

元気になれないということは、言い方がへたくそだから、元気になれないのだということになってしまうのである。

もっとも、言霊理論が正しければ、どれだけへたくそな言い方で「元気だ元気だ」と言っても、元気になるはずなのだ。

ところが、そういう矛盾に……多くの言霊主義者が……一切合切気がつかない。うまく言える自分(某言霊主義者)は、エイリよりも、「うまく言う」能力があるということになってしまうのである。エイリは、某言霊主義者よりも、うまく言う能力がないダメなやつだということになってしまうのである。

「言霊理論は正しいので、うまく言えないエイリが悪い」ということになってしまうのである。エイリが「元気だ元気だ」とうまく言う能力がないので、エイリは、元気になれないのだということになってしまう。

●集合的一括思考(4)■社会※2026/05/09 2:27

「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったと思う」とEさんが言ったとする。ほんとうに、Bさんが成功しなかった理由が、Bさんの貧しさにあるのかどうかは、わからない。

しかし、「貧しいから、努力をしても成功しなかった」ということは、ありえることだ。貧しさが理由で、Bさんが、成功しなかったのかどうか、それだけではわからない。

しかし、貧しさが理由で、Bさんが成功しなかったということは、ありえることだ。

貧しい人は、みんな、貧しいから、努力をしても成功しないということを言っているのではなくて、Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったということを言っているのだ。

これは、正しいのかどうかわからないことだ。しかし、最初から、否定することはできない。

神様視点では、どっちなのかわからないことなのだ。

おのおのが、勝手に、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と考えたり、Bさんは、ほかの理由で、努力をしても成功しなかった」と考えたりするだけなのだ。

そして、Fさんが、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Gさんが、「Bさんは、才能がないから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Fさんが正しいのか、Gさんが正しいのか、ほんとうのことはわからない。

しかし、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」という考え方が、正しい場合もある。それは、否定できない。

*     *     *

いちおう、才能という視点を導入してみた。「努力をすれば、成功する」という場合は「努力」だけが、「成功するかどうか」を決めることになる。

努力のみについて語っていた時は、努力だけで、「成功するかどうかが決まる」ということを言っていたのである。

ここまでの話のなかで、「才能があるかどうか」なんてことは、出てこない。成功するかどうかは、努力をするかどうかで決まってしまうのである。

もちろん、努力をするかどうかで決まるということを、「努力をすれば、成功する」と言っている人たちが、主張しているだけだ。

ここで重要なのは、「才能がある」ということが、一意には決まらないということだ。「才能がない」ということも、一意には決まらないのである。だから、ほんとうは、こういうことを一〇〇%構文で言うべきではないのだ。

ところが、「これはこうだ」と断定することが、はやっていたのである。

いまでも、一〇〇%構文を使って、断定する人が、多数、いる。

この人たちは、「一意に決まらない」ということに注目しない。この人たちは、「(各項目のもつ意味が)一意に決まらない」ということに気がつかないまま、一〇〇%構文を使って、断定的にものを言う。

もう、この時点で、問題が発生している。

間違った思考をして、他人のことを「決めつけてしまう」のだから、問題が発生している。ただ、「間違った思考をしている」ということを、頑固に認めないのだ。

ともかく、集合的一括思考をして、他人のことを決めつけてしまうのは、よくない。

よくないことだ。

●集合的一括思考(3)■社会※2026/05/09 2:17

それから、前にも説明したけど、「ネガティブな人と一緒にいるとネガティブな気持ちになりやすい」というような感想を言う言霊主義者がいるのだけど、言霊主義者なら、一気にかえることができると思っているはずなのだ。

「これ以降、ネガティブな人は消滅する(いなくなる)」とか「これ以降、ネガティブな人は、ポジティブな人になる」とかと言ってしまえば、それで問題が解決する。

あるいは、「自分は、ネガティブな人の影響を受けない」とか「自分は、ネガティブな人と一緒にいても、ネガティブな人の影響を受けなくなる」とかと言えば、ネガティブな人の影響を受けなくなるのだ。

言霊主義者は、妄想的な万能感と現実的な無力感のあいだを行き来しているのだ。

万能感という言い方にあわせるけど、全能感と言ったほうがいいのかもしれない。

自分が言えば、神様だって、自分が言った通りに動くのだ。そういう全能感がある。

「すべて、自分が言った通りになる」という全能感があるのだ。

それと、「ネガティブな人と一緒にいると、ネガティブな気分になる」というようなことを気にする……せせこましい?部分が……同居しているのである。

好きなように、かえられると思っているのに、実際には、かえられそうにもないので、自分がネガティブな人と一緒にないようにして、自分の感情を守ろうとするところが(この人たちには)ある。

この場合、「自分は、言霊の力を使って、世界を自分が好きなようにかえることができる」という全能感と「自分は、言霊の力を使って、世界を自分が好きなようにかえることなんてできない」という無力感が同居している状態なのである。

言霊を信じているようで、信じていない。言霊の力を信じているようで信じていない。言霊の力を自分が使えるということを、信じているようで信じていない。

……こういう状態で、言霊主義者は生きているのだ。

だから、モードの切り替えというのは、重要な役割をはたしている。

2026年5月9日土曜日

●ヘビメタ騒音の影響を、過小評価してしまう■社会※2026/05/09 20:21

頭の悪い人たちというのは、想像力がないので、ヘビメタ騒音の話を聴いたときも、ヘビメタ騒音の影響度について、うまく考えることができないのである。

頭の悪い人たちは、ヘビメタ騒音の影響を、過小評価してしまうのである。

あるいは、まったく、無視してしまう。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するか、あるいは、ヘビメタ騒音の影響をゼロだと思ってしまう。

でっ、これもまた、こういう人たちの頭の(基本的な構造)に由来することなので、ぼくがどれだけうまい説明をしても、わからない人はわからないのである。こういうところでも、なんとなく、きちがい兄貴とこういう人たちが似ているような感じがする。

そして、頭の悪い人たちが多いのである。ぼくの話を聴いても、ヘビメタ騒音が与える影響のでかさを理解できない人が多いのである。

ぼくが、この人たちの頭をどうにかしてやることができないのだ。だって、そうだろ。どうやって、この人たちの頭をよくしてあげることができるのか。せいぜいのところ、わかりやすい説明をするように心がけるだけだということになる。

しかし、どれだけわかりやすい説明をしても、こいつらは、わからないのである。こいつらが、言霊主義者である場合を考えてみよう。

「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」と考えているやつらだ。こいつらは、エイリの話を理解できるように、自分の頭をよくしようとは、考えない。

かりに、こいつらが「自分の頭が、エイリの話を理解できるぐらいによくなる」と言ったとしよう。言えば言ったことが、言霊の力によって現実化されるはずだ。

ところが、まったく、よくならないのである。

言えば、言っただけなのである。こっちが、事実だ。こっちが、ほんとうの話だ。こっちが、現実だ。現実を無視して、妄想を語るなと言いたい。ところが、「現実を無視して、妄想を語るな」とこいつらに言ってしまえば、こいつらは、かなりの高確率で腹を立てるのである。

「なんだとぉ」という態度になる確率が高い。ぼくの経験の範囲だと、こいつらは、みんな、腹を立てたと思う。見た感じと態度で判断すると、腹を立てたのではないかなと、ぼくは思う。

こいつらが、みんな、ヘビメタ騒音影響を、無視するのである。

あるいは、軽視するのである。

じゃあ、実際に、こいつらが思っているように、ヘビメタ騒音の影響が、小さいものだったかというとちがうのである。こいつらの想像力がないから、うまく想像できないだけだ。

あるいは、こいつらが、実際に、自分のきらいな音で経験していないから、どれだけ影響を受けるか、わかっていないだけだ。

ところが、こいつらの頭のなかでは……「ヘビメタ騒音の影響なんて、たいしたことはない」ということになってしまう。

そうすると、こいつらが、そろいもそろって、俺のことを見下すようになる。

きちがい兄貴が、普通の感覚を無視して、きちがい的にでかい音で、きちがい的な頑固さを発揮して、ヘビメタという音楽を鳴らすということと、想像力のないやつらや、経験がないやつらが、俺のことを見下してくるということまで、セットなんだよ。

こいつらは、想像力がないので、「そんなの関係がない」と言ってしまう。この発言が、どれだけ、俺にとって腹が立つ発言か、こいつらは、もちろん、理解しない。これは、一〇〇%詐欺じゃない。トートロジー系の文だ。

理解しないやつらのことを、想像力がないやつらだと言っているのだから、一〇〇%詐欺ではない。

けど、トートロージーになっているところがある。

ちなみに、こいつらの代わりに、ぼくが「こいつらの頭は、エイリの話を理解できるぐらいによくなる」と言っても、こいつらの頭は、よくならないのである。おかしいじゃないか。「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」……じゃないのか?

俺がどれだけ、「こいつらの頭がよくなる」と言っても、こいつらの頭はよくならない。言霊理論は間違っている。 

●集合的一括思考(2)■社会※2026/05/08 15:20

たとえば、Aさんのような人が一万人一人いるとする。

そして、Bさんのような人が一万人に九九九九人いるとする。そういう場合でも、九九九九人は、「貧しいから、努力をしても成功できない」と言うことが、できなくなってしまうのである。

こういう封殺する力がある。

しかし、それは、間違いによってつくりだされた幻想だ。

これ、集合的一括思考は、間違っている。理論的じゃない。理論的に間違っている。

しかし、たとえば、Cさんという人が、集合的一括思考をしがちな人だと、Cさんに、集合的一括思考が間違っているということを説明しても、Cさんは、納得しないだろう。

Cさんの理解力のほうが、問題なのだ。

たとえば、集合的一括思考は間違っているということを、説明する人がDさんだとする。Dさんの説明が正しくても、Cさんが理解しないのであれば、Dさんは、うまく説明することができなかったということになってしまうのである。

そして、Cさんが、自分が正しいと思っていることを否定されると腹が立つ人だと、Cさんは、腹を立ててしまう。Cさんが正しいと思ってやっている集合的一括思考が間違っているという話をされるわけだから、Cさんとしては、不愉快な気持ちになるのである。

たとえば、Cさんが、人には「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人でも、Cさんは、そのとき、Dさんの意見に合わせて、受け止め方をかえる確率が、非常に小さい。

もう、こういうことのほうが、法則性があるのではないかと思えるほどなのだけど、例外はいるので、いちおう、法則性があるようなことは言わないでおこう。人には「受け止め方をかえればいい」という人が、自分の受け止め方をかえればいいと思うかどうかというと、かなりあやしいのだ。

自分が正しいと思っていることを、否定されると、腹が立つという反応が自然に起こる。……そうなる確率が非常に高い。

そして、たとえば、Cさんが、すべては自己責任だと思って生きているとしよう。その場合、もちろん、Dさんの説明を聴いて、Cさんが腹を立てた場合、Cさんが腹を立てたのだから、Cさんの責任なのである。

もともと、自己責任論というのは、アンガーコントロール論なのだ。ところが、自分が立腹したときは、相手が悪いと思っている場合が多い。相手が(自分が正しいと思っている理論を)否定してきたので、相手のせいで、腹が立ったと思う場合が多いのである。

まあ、Cさんは、腹を立てたとする。Cさんは、普段、人には、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人だとする。

さらに、Cさんは、普段、人には「すべては、自己責任だ」と言っている人だとする。

そのCさんですら、実際の場面においては、腹を立てるのである。

そして、腹が立ったのは、Dさんのせいだと思うのである。

Dさんは、Cさんが正しいと思っていることを否定したので、Cさんは不愉快な気持ちになり、Dさんはネガティブな人だと思ったとしよう。

Dさんが「自分(Cさん)の意見を否定した」のだから、CさんがDさんのことを、ネガティブな人だと思っても、不思議ではない。

しかし、Dさんは、ネガティブな人とは限らないのである。

Dさんは、集合的一括思考は間違っているということを言ったにすぎない。そして、それは、正しいことだ。あっている。

Cさんが、集合的一括思考をして、「貧しくしても、努力をすれば成功する」と言った場合、やはり、Cさんは、間違ったことを言っているということになる。貧しいから、努力をしても成功しない人がたくさんいるからだ。

「貧しくても」という条件がついているけど、「貧しくしても、努力をすれば成功する」という文は一〇〇%構文の文なのだ。「貧しい人」という集合のなかの人は、みんな、同等に貧しい人であり、ほかの条件もおなじだと、Cさんは、勝手におもんこんでいるのである。

ちなみに「貧しい人は、努力をしても成功しない」という文も、間違っている。貧しくても、努力をして成功する人がいるからだ。

条件付きの一〇〇%構文の文がある。

これは、そのまま、一〇〇%構文の問題点を継承している。 

まあ、ともかく、運用の問題があるということを言いたいわけ。

Cさんが、普段、どれだけ「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを人に言っていたとしても……なおかつ……自分(Cさん)はそれを実践しいると思っていたとしても、実際の場面では、反対のことをしている場合が多い。

本人が、気がつかないだけなのである。

この本人が気がつかないというのは、非常に大きな問題だ。運用に問題があるということを重視しない人は、本人が気がつかないということも、無視してしまう傾向が強い。

本人が気がつかない……というのは、でっかい問題だ。

2026年5月8日金曜日

●集合的一括思考(1)■社会※2026/05/08 15:04

集合的一括思考と呼ぶことにしたのだけど、集合的一括思考をしていると、間違うのである。

たとえば、「貧しい人でも努力をすれば成功する」と言ったとしよう。

どういう人を「貧しい人」と呼ぶのかは、はっきりしないのだけど、ともかく、「貧しい人」というイメージに従って考えるとしよう。

これ自体が、もう、法則性をあらわす文としては、不適切なのだ。

まあ、話をすすめよう。

「貧しい人」という集合のなかにも、いろいろな貧しさの人が含まれているのである。はっきり言えば、「貧しい人」と一括してくくったけど、その中身は、千差万別だ。

ところが、貧しい人という集合のなかには、おなじように貧しい人がいると……集合的一括思考をする人は……考えてしまうのである。

貧しい人という集合のなかには、均一な貧しい人がいるという前提で物事を考えてしまうのである。

ところが、実際には、貧しい人のなかにも、いろいろな人がいるのである。貧しい人々が、共通のコミュニティーに属しているわけではない。ほかの貧しい人との接触頻度や関係というものが、ちがうのである。そして、文化的な資産の差もある。

家によって、文化的な資産がちがうし、地域によっても文化的な資産がちがう。貧しさを、本人の年収や、親の年収で考えた場合、年収(金額)以外の差は無視されてしまうのである。

そして、たとえば、貧しさを、本人の貯蓄額や、親の貯蓄額で考えた場合、貯蓄額以外の差は無視されてしまうのである。貧しさを、本人の年収と貯蓄額や親の年収と貯蓄額で考えた場合、年収と貯蓄額以外の差は、無視されてしまうのである。

そして、「貧しい人」のなかに入る人たちの年収がちがうし、貯蓄額もちがう。

年収や貯蓄額という「貧しさの基準」を考えた場合でも、貧しい人とひとくくりにされた人たちは、それぞれ、ちがう年収額や、ちがう貯蓄額で生活をしているのである。

ようするに、貧しい人という集合の中に入っている人たちは、同様に貧しいわけではないのだ。

ところが、一括思考をするので……「貧しい人といったら、貧しい人なのだ」と考えてしまう。

これが、じつは「ひどいあやまり」なのだ。「あやまり」なのだ。ところが、そんなことは、「貧しくても、努力をすれば成功する」と考えている人は、考えない。

たとえば、Aさんという人がいるとする。Aさんは貧しい人だとする。そのAさんが、社会的に?成功した。そのような例があるとする。その場合、集合的一括思考をする人は「貧しいAさんが成功したのだから、貧しい人も成功する」と考えてしまう。

そこで、貧しさの程度や、貧しさ以外の条件は、捨象されてしまう。

無視されてしまう。

努力をするかどうかという条件のほかに、貧しい(貧しさにおいて下である)という条件をつけたして考えたわけだけど、この場合も、「貧しさ」という条件は、あとでつけくわえられることになる。

そして、「成功した例」が語られることになる。

しかし、貧しい人の集合を考えた場合、みんながみんな、Aさんとおなじように貧しいわけではない。条件がちがう。

ところが、貧しい人は、Aさんとおなじ条件だと……自覚がないまま……考えてしまうのである。

かりに、Bさんが貧しい人だとする。そのBさんが社会的に成功しなかったとする。

「努力をすれば成功する」と考える努力論者は、貧しいBさんが成功しなかったのだから「貧しい場合は、努力をしても成功しない」と考えるかというと、そのようには考えないのだ。

例としてあがるのは、成功した人の例だけなのだ。集合一括思考をしているのに、ひとりでも貧しいのに、成功した人がいれば、「貧しくしても、努力をすれば成功する」ということになってしまう。Bさんが成功しなかった例というのも、自動的に無視される。

そうなると、「貧しいから、(努力をしても)成功しなかった」という思考は、間違った思考だと思われるのである。

ようするに、最初に……条件なしで「努力をすれば成功する」と考えて、そのあと……「貧しい場合は、努力をしても成功しない」という反論に対応して、Aさんが成功したという例を後出しで付け加えるのだ。

こうすると……あたかも、努力以外の条件についても、考えているようなポーズをとることができる。

しかし、これは、見せかけのポーズだ。

貧しくても成功したAさんのような例だけを取り上げるのである。そうすると、Aさん以外の貧しい人を、努力不足だとせめることができるようになる。

これ、最初から、他人をせめるための道具なのである。

「貧しくてもAさんが成功したのだから、Aさん以外の貧しい人も成功するはずだ」と……無自覚に……考えてしまうのである。

しかし、Aさんの条件と、Aさん以外の条件は、貧しさにおいてもちがうし、ほか条件においてもちがうのだ。Aさんには、Aさんに協力的な家族がいたかもしれない。

エイリには、勉強の邪魔をするきちがい家族がいた。そのきちがい家族の邪魔のしかたが、ほかの人が考えるような邪魔のしかたではないのである。常軌を逸したしつこさで、邪魔をするのである。どの時間も、可能な限り邪魔をするのである。

そういう家族と一緒に住んでいるという条件は「貧しさ」という条件を導入した場合でも、無視されているのである。事前に無視された条件なのである。

なので、事前に無視された条件は、結果に影響を与えないという(間違った)考え方がしょうじる。無視しているから、ないのとおなじで、ないのとおなじだから、どんなことが起きても、結果に影響を与えないということになってしまうのである。

ヘビメタ騒音という条件は、無視されているので、ヘビメタ騒音という条件がもたらすことに関しては、無視をしてもいいという考え方が横たわっているのである。

ようするに、「貧しさ」という条件を導入した場合でも、貧しさのなかの条件のちがいは無視され、ほかの条件も無視されるということになる。しかし、「無視している」という気持ちがまったくないのである。「ちゃんと考えている」と思っているのである。

集合的一括思考をしている時点で、じつは、人の条件について、誤った考え方をもっているのである。

ところが、それがわからない。

集合的一括思考をしている人は……『自分』は正しいことを言っているつもりなのだ。「Aさんが、成功したのだから、貧しくても、努力をすれば成功する」と思っているのだ。

その場合、「貧しいから成功しない」と言っている人たちは、みんな……「言い訳をしているだけだ」ということになるのである。こういう思考の流れがある。

最初に、いいこととして「努力をすれば成功する」という考え方を受け入れたために、他人に対して、その他人は「言い訳をしているだけだ」と決めつけるところまで、誘導されてしまう。

これが、一見正しそうに見える……一〇〇%構文をもつライフハックが、もたらす、効果だ。

まず、普通の人は、「努力をすれば成功する」という文が一〇〇%詐欺構文の文だということ気がつかない。

だから、条件を無視して、考えてしまう。

そして、普通の人は、自分が一倍速で経験したことは重視するけど、他人が一倍速で経験したことは、無視する傾向が非常に強い。例外的な「普通の人」はいるだろうけど、たいていの「普通の人」は、一〇〇%%詐欺構文を与えられると、条件を無視して(他人のことについて)考えるという傾向が、非常に強い。

*     *     *

ちなみに「貧しいなら、努力をしても成功しない」という命題も『偽』だ。

ここで言いたかったのは、「成功しなかった例」というのは、無視されるということだ。成功しなかった例をあげて、これまた、間違った文を言う確率は、低いのだ。

ちなみに、「貧しいBさんが成功しなかったのだから、貧しい人は成功しない」という文も間違っている。理論的におかしなことを言っているということになる。

「貧しいBさんが成功しなかったのだから、貧しい人は、みんな、成功しない」と言えば、文のおかしさに気がつくだろう。単に「貧しい人」と言った場合も「貧しい人は、みんな」と言った場合も、おなじ意味になるのだ。

「貧しい人」という言葉が示す集合と、「貧しい人は、みんな」という言葉が示す集合は、おなじだ。

●事前に無視された条件に対する言葉なのである■社会※2026/05/08 4:24

最初は「努力をすれば成功する」と言うのだけど、それでは終わらないのだ。

社会的に運用されるとなると「努力の量がたりない(からダメなのだ)」とか「努力の方向が間違っている(からだめなのだ)」という文字列が付け加わることになる。

「努力をすれば成功する」という文は、一〇〇%構文の文であり、条件を無視した文なのだ。

この最初の時点で「条件を無視している言い方を採用している」ということが、重要なのである。「条件は、事前に無視されているのだけど、条件が無視されているように見えない」言い方なのである。

だから、後出しで、「努力の量がたりない(からダメなのだ)」とか「努力の方向が間違っている(からだめなのだ)」とかいう言い方が出てくることになる。

これらの言葉は、事前に無視された条件に対する言葉なのである。

ちなみに、どれだけ少ない量の努力でも、努力をすれば成功する「はず」なのだ。

「努力をする」という集合のなかに「少ない努力をする」という集合が含まれている。

逆ではない。

「少ない努力」をした以上、努力をしたということになるのである。

なので、だれかが、「努力をすれば成功する」と言ったあと、「努力の量がたりない(からダメなのだ)」と言った場合、「努力の量がたりない(からダメなのだ)」と言った時点で、最初に自分が言ったことを、自分で否定していることになる。

「努力の量がたりないと、成功しない」なんてことは言っていないのだ。努力の量に関係なく、努力をすれば成功するのである。少ない努力でも、努力をしたのに成功しなかったなら、最初の文……「努力をすれば成功する」という文が間違っているということになる。

命題としては、『偽』なのである。

しかし、ツラの皮が厚い「努力論者」は、そのことを認めない。相手の問題だと切り捨ててしまうのである。

相手の問題だと断定して言う態度は、じつは、問題がある態度だ。

しかし、当の本人は……問題だとは思わないのである。どうしてかというと、「努力をすれば成功する」と最初に言った人は、自分が「努力の量がたりない(からダメなのだ)」と言った時点でも、「努力をすれば成功する」という文は正しいと思っているからだ。

「努力をすれば成功する」という命題は、『偽』なのだけど、『真』だと思っている状態が、続くのである。そのあとも、ずっと続くのである。

言霊主義者とおなじように……努力論者は「ぬけぬけモード」で暮らしているから、自分が言ったことの矛盾に気がつかない。

自分が最初に言ったことと、自分があとで言ったことは、矛盾しているのである。

ところが、自分自身である本人は、自分が矛盾したことを言っているとは思わないのである。

まったく思っていないのである。

2026年5月7日木曜日

●「努力をしない人間はダメな人間だ」■社会※2026/05/07 20:56

成功の反対は失敗なのだけど、失敗ではないにしろ、成功していない状態に状態について考えてみよう。

「成功する」と「成功しない」ということについて考えた場合、「成功しない」状態というのは、ダメな状態なのである。成功していない状態というのは、ダメな状態なのである。

だから、「努力をすれば成功する」と言った場合、暗に「成功していない人」は努力しないから成功しないのだというイメージが成り立ってしまう。

ようするに、成功していない人間はダメな人間であり、どうして、ダメな人間かというと、努力をしない人間だからダメな人間なのだという、ことになる。

「努力をすれば成功する」というポジティブな言葉が、「成功していない人間は、努力をしていないダメな人間だ」というというイメージを与えるのである。

努力をしない人間は、ダメな人間だというのが、ほんとうのメッセージだ。

そして、ダメな人間が、「努力をした」と言っても、「努力したことにならない」のである。

どうしてかというと、「成功していないから」だ。結果がすべてなのである。

努力をすれば成功するのだから、成功していない以上、努力をしなかったということになる。

一括思考で、ダメな人間は、努力をしない人間なのだというイメージを、人の頭のなかに植え付けるのだ。

「努力をすれば、成功する」というのは、ポジティブな印象を与えるけど、実際には、「努力をしない人間はダメな人間だ」というネガティブな印象を「成功していない人間」に与える効果をもっている。

●「言霊モード」と「現実モード」■言霊※2026/04/25 7:45

自分が言えば、言った通りになるのだから、全部を支配できるのだ。

言えばいい。「これこれは、こうなる」と言えば、「これこれ」はそうなる。

その人の頭のなかでは……「自分に制御できないことはない」ということになっているのだ。

ところが、「自分が制御できないことは、距離を置いたほうがいい」と考えることもあるのだ。自分が制御できないことはないと思ったり、自分が制御できないことがあるという前提でものを言ったりする。

この場合も、モードが切り替わっているので、本人が、本人の矛盾に気がつくことがまったくない。

「言えば、言ったことが、現実化する」のだから、すべて、言えば、制御できる。

ところが、「自分が制御できないことは、自分が制御できないことなのだから、かかわらないようにしたほうがいい」というような考え方を、もっているのである。

しかも、そういう気分になっているときは、ほかの人に、その考えたをすすめたりする。

ほかの人には……「社会が悪いと言ったところでしかたがないので、自分の身の回りの自分に関係があることだけを気にすればいい」というようなことまで、言ってしまうことがある。

言霊主義者なのだから、言霊は絶対だと思っていて、自分は言霊の力を使うことができると思っているのだ。言霊モードのときは……。

言霊モードのときは、「言霊は絶対だ」とわけのわからないことを言い、「言霊は宇宙を貫く絶対法則だ」と言ってゆずらないのである。

ところが、場面がかわれば……「社会についてネガティブ(と本人が思うことを言っている人には)社会についてネガティブな発言をしてもしかたがないので、自分の身の回りのことに集中したほうがいい」……などと口走ってしまう。

まったく、矛盾に気がついていない。

「言霊モード」と「現実モード」という言い方を採用するなら、言霊モードのときに言っていることと、現実モードのときに言っていることは、矛盾しているのである。

しかし、本人が、それにまったく、気がついていない状態で、生きている。本人が(自分の矛盾に気がつかない状態で)長い間、生活している。

2026年5月6日水曜日

●「カネがはいってくると言ったからカネがはいってきた」■社会※2026/05/06 13:50

たとえば、働いて、カネを稼いだとする。あるとき、自分の銀行口座に、働いた分のカネが振り込まれたとする。

そのとき、『カネがはいってくる」と言ったから、実際にカネがはいってきたのだ』と思うのである。

「カネがはいってくる」と言ったのは、事実だとする。

なら、働かずに、「カネがはいってくる」と言っただけで、「働いた分のカネ」が振り込まれるかというと、そうではないのである。

そうではないのである。

ところが、「カネがはいってくると言った」ということに、注目して、自分が働いたということを、無視してしまうのである。「カネがはいってくると言ったからカネがはいってきた」と思ってしまうのである。

自分が銀行口座を複数、もっていたとする。そして、ある銀行口座のことをすっかり忘れていたとする。おカネがなくてこまったときに、ある銀行口座のことを思い出して、その銀行口座の残金を調べたら、二万円あった。

そうしたら、「カネがあると思ったから、カネがあった」とも思うのである。

けど、カネがあると思うだけで、カネがある状態になるなら、そもそも、「おカネがなくてこまった状態」にならないのである。

こういうことの繰り返しだ。

これは、「明日雨が降ると言ったら、雨が降ったから、言霊理論は正しい」と言っているのよりも、もっとひどい。

自分がやったことなのに、自分がやったことを無視して、「言霊のおかげだ」と思い込むようにしているのである。あるいは「思ったから、こうなった」と思い込むようにしているのである。

こんなの、ない。

*     *     * 

言霊主義者は、自分がやったことを忘れて、「言った通りになった」と思う傾向が強い。自分がやったことなのに、自分がやったということを、忘れてしまった場合や、自分がやったということに注意が向かない場合は、「言霊のおかげだ」と考えてしまう傾向が強い。

これは、他人に対しても、おなじだ。

他人に対して「いたいと言うから、いたくなる」「かゆいと言うからかゆくなる」と言う場合も、他人の出来事を無視しているのである。自分のことではないから、最初から、ほんとうの理由に注意が向かないのである。

本当の理由に注意が向かないので、「言った」ということに、注目してしまう。言霊主義者本人にとって、他人の「過去における出来事」は、たいしたことじゃないのである。自分のことじゃないからね。

言霊主義者には「言った」ということ以外の……「過去の出来事」を無視する傾向がある。

他人のことなら、簡単に無視できる。相手が本当の理由について述べても、それは、無駄なのだ。「言ったからそうなった」と言ってゆずらない。

「かゆくなる」出来事が他人の身の上に起こったとしても、それは、言霊主義者にとっては、関係がないことだから、簡単に無視することができるのである。

そうなると、「言霊のせいだ」という連想が働くことになる。そうやって、「言霊(理論)は正しい」「言霊は絶対だ」という考えを強化していくのである。

*     *     *

言霊主義者には「言った」ということ以外の……「過去の出来事」を無視する傾向があるのだけど、全部無視するかというとそうではないのである。

過去の出来事をすべて無視するわけではない。自分が一倍速で経験したことに関しては、認知とメタ認知が成り立っているので、過去の出来事を無視しない場合がある。

この場合は、現実モードになっているのである。言霊主義者は、現実モードと言霊モードを切り替えて、生きている。

けど、本人としては、現実モードのときも、「言霊は正しいと思って生きていることになっている」のである。

●なんで、おかしいと思わないのか、不思議だ■社会※2026/05/06 13:39

「カネを用意できないと、ひどい目にあう」ということが決まっているんだよ。

「カネを用意できないと、ひどい目にあう」ということが決まっている社会なんだよ。

ところが、「カネがあると言えば、カネがある状態になる」と妄想的なことを言う人が出てくる。「カネ持ちになった自分をイメージすれば、カネ持ちになる」と妄想的なことを言う人が出てくる。

「これが真実だ」と言うのである。

ところが、その人たちは、『普通の労働』をしているのである。

「カネがある」と言ってカネをつくりだしているわけではない。

『普通の労働』をして、カネをなんとか、かせいでいる。こういう現実がある。

もし、「カネがある」と言っただけで、「カネがある状態になる」のであれば、『普通の労働』をする必要がないのである。

矛盾している。

もし、「カネ持ちになった自分をイメージする」だけで、実際に「カネ持ちになる」のであれば、『普通の労働』などする必要がないのである。

こいつらは、『普通の労働』をしているのに、妄想的なことを言って、自分をごまかしている。

自分をごまかすだけならいいけど、他人まで、ごまかそうとするのだ。

そして、こいつらは「それ(他人までごまかそうとすること)」が、よいことだと思っている。妄想的なことを言えば、「いい助言をしてやった」と思うのである。

*     *     *
この人たちのカネの出どころは、労働行為だ。

それなのに、「カネ持ちになると言っただけで、カネ持ちになる」と言う。

それなのに、「カネ持ちになると思っただけで、カネ持ちになる」と言う。

しかも、「絶対の真実だ」と思っているのである。

だっら、「カネ持ちになる」と言って、『普通の労働』をやめればいい。だったら、「カネ持ちになる」と思って、『普通の労働』をやめればいい。

『普通の労働』は、生活をするために必要なのである。

『普通の労働』をしないと、生活費ですら、捻出できないのである。

(カネを)つくることができない。

『普通の労働』をしないと、生活できないよなやつが「カネ持ちになると言えば、カネ持ちになる」と言う。

なんで、おかしいと思わないのか、不思議だ。 

自分は、こまらないように、せこせこと労働をしているのに、人には「カネがあると言えばカネがある状態になる」と言うのだ。

「言い方がへたくそだから、ダメなんだ」と言うのだ。

「自分は、現実化させることができる」と言うのだ。

「言霊は絶対だ」と言うのだ。

「カネ持ちになるまで、何度でも、カネがあると言えばいい」と言うのだ。

こんなのは、おかしい。

なんで、おかしいと思わないのか、不思議だ。

ほかの人を巻き込もうとするな。

●こまっている人には、えらそうなことを言う■社会※2026/05/05 17:07

弱っている人には、えらそうなことを言う……。こまっている人には、えらそうなことを言う……。

こういうやつらを、量産しやがった。

こいつらは、「ぬけぬけ」だから、自分がなにをしているのか、自覚がない。

「自己責任で生きているつもり」の人……。

ぜんぜん、自己責任で生きていない。

こまっている他人には「そんなのは、自己責任だ」と言うのである。

弱っている他人は「すべては、自己責任だ」と言うのである。

こいつらが、ほんとうに、「自己責任で生きているか」といえば、自己責任では生きていない。

こいつらは、自分が、一倍速で経験している場合は、「相手の責任だ」と考えるのである。

そう思う根拠が、あるのである。

一倍速で経験したことだから、認知とメタ認知が成り立ち、『自分のせいではなく、相手のせいだ』と考えるのである。

ところが、『自分のせいではなく、相手のせいだ』と考えたことは、「あたりまえのこと」として処理されて、「自己責任で生きていない」ということに、まったく、気がつかない。

「ぬけぬけ」なんだよ。

「ぬけぬけ」だから、「自己責任で生きている」という意識を維持できるだけだ。

「世のため人のために行動しよう」「ほかの人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはしないようにしよう」「人にやさしくしよう」「人に親切にしよう」「人に感謝しよう」 と言ってたって、実際にやっていることは、こういうことだ。

運用に問題があると言っているだろ。

そもそも、認識が発生しないことがあると言っているだろ。

「世のため人のために行動しよう」「ほかの人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはしないようにしよう」「人にやさしくしよう」「人に親切にしよう」「人に感謝しよう」と思っている人がどれだけ増えても、世の中なんて、よくならない。そうなっている。

 「明るいことを考えましょう」「ポジティブなことを言いましょう」と他人に言う人が、どれだけ増えても、世の中なんて、よくならない。そうなっている。

「ぬけぬけ」だから、現実の場面では、ほかの人に、親切にしないのだ。かわりに、ほかの人が、いやがることをする。ほかの人がいやがることをしたという認知がしょうじない。

本人の認知は「いいことをした」という認知なので、ぜんぜん、世の中がよくならないのだ。

他人の現実を無視して、他人に無理なことを押し付けているときも「正しいことをした」と思っているのである。

それなら、どれだけ、 「世のため人のために行動しよう」「ほかの人に迷惑をかけないようにしよう」「人がいやがることはしないようにしよう」「人にやさしくしよう」「人に親切にしよう」「人に感謝しよう」と思っていたって、むだだ。

現実的な場面では、妄想的な理論を押し付けたり、無理なことを押し付けたりしている。

けど、それに気がつかないのである。自分が一倍速で経験したことに関しては、成り立っている「常識」が、他人が一倍速で経験したことに関しては、成り立っていないのである。

*     *     *

こいつらにとっては……こまっている人に「妄想的な無理なこと」を言うことが、いいことなのである。これじゃあ、世の中なんてよくならない。 

2026年5月5日火曜日

●毎日続いたということが重要なんだよ■社会※2026/05/05 15:45

そりゃ、「そんなの関係がない」と言っていたやつが、ヘビメタ騒音の影響を認めてくれたほうが、いい。俺にとっては、それは、いいことだ。

けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられた「からだ」がある。

体(からだ)を実際に使って、生きているわけだ。

つまり、きちがいヘビメタ騒音を経験した体なのだ。これがもつ意味が、ほかの人にはわからない。

少数の例外も、ほんとうのところはわからないと思う。個人的な「信念」になってしまう。「影響がある」「影響が残っている」ということが、個人的な信念になってしまうのだ。

「過去は関係がない」と言っていたやつも、けっきょく、「ヘビメタ騒音の影響」を否定しているわけ。

それが、俺にとって、どういう意味をもっているのか、こいつらはまったく理解していない。

「こだわっているから、ダメなんだ」と言ったやつも、けっきょく、「ヘビメタ騒音の影響」を否定しているわけ。

こいつらは、ほんとうに、ダメなやつらだ。ほんとうに、ダメなやつらだ。

こいつらとつきあったって、なにもいいことがない。こいつらは、ぼくのなかでは、もうすでに、この世にいない人間だから……。まあ、この世にいない人間だとしても、腹が立つけどね。

こういうやつらの、現実的ではない発言というのが、めちゃくちゃに、俺ことを傷つけるんだよな。

はっきり言えば、ぼくのこころは、おだやかではない。こういう発言をされたとき、ぼくのこころは、おだやかではないのだ。

ところが、こいつらは、そろいもそろって、「正しいことを言った」と思っている。こいつらが、実際の騒音生活を経験していないから、言えることだ。こいつらにとって、苦手な音が、あの音のでかさで、何時間も何時間も鳴っている一日というものが、どういう一日か、わかっていない。

勉強の邪魔をされるということが、わかっていない。ただ、やりにくい状態になるのではなくて、不可能な状態になる。それも、わかっていない。

こいつらは「どれだけ、騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできる」と思っている。

こいつらは「耳栓を使えば、勉強ができるレベルまで、音を減衰させることはのカウだ」と思っている。

ところが、ちがうんだよ。

破壊的な音で鳴っている。ぜんぜん、状態がちがう。距離がちがう。音のでかさがちがう。きちがい家族の、常識が、ほかの人の常識とは違う。きちがい家族の感覚が、ほかのひとの感覚とはちがう。

あんなにでかい音でずっと鳴らしているのに、まったく、なにも感じないというのおかしい。こっちが、ずっと、黙っているのであれば、(きちがい兄貴が)気がつかないということもありえるけど、(こっちは)ずっと毎日毎日、何回も何回も、何十回も言っているんだぞ。

頭がおかしいから、できることなんだよ。

頭がおかしいから「普通に」できることなんだよ。

頭がおかしいから「普通に問題なく」できることなんだよ。

「問題なく」というのは、本人が、問題を感じないままできるということだ。

こんなのは、おかしい。まさにくるっている。

そして、くるっている時間が長かった。狂っている期間が長かった。これが重要なんだよ。毎日続くということが重要なんだ。毎日続いたということが重要なんだよ。これの重要さが、普通の人たちにはわからない。

どうしてかというと、経験したことがないからだ。同程度の経験がないのである。同程度のことを経験したことがないのである。

普通の人たちには、きちがい家族がいないし……その、きちがい家族が、たまたま、自分がこの世で一番きらいな音楽を、こだわってこだわって、毎日毎日、頑固に頑固に鳴らし続けたということもない。

きちがい家族はいるけど、そのきちがい家族が、よりによって、自分がきらいな音を、ガン無視で、頑固に、ずっとずっと、一日中鳴らし続けるなんてことは、めったに、ないんだよ。

きちがい家族にやられた人は、はいるにはいるけど、そのなかで、何人の人が、音でやられたかわからない。何人、いるのだ。

理解者は、きちがい家族がいて、そのきちがい家族が、音を頑固に鳴らすことにこだわってこだわって鳴らした人でしかない。

ほかの人は、みんな、わかっていない。わからない。

わからないから「そんなの関係がない」と言う。わからないから、「なにがヘビメタ騒音だ!」と言う。わからないから「こだわっているから、ダメなんだ」と言う。わからないから「過去は関係がない」と言う。

こいつらのことが、ゆるせるかというと、ゆるせない。

「そんなのは関係がない」と言ったあと「人間は働くべきだ」と言ったやつも、ゆるせない。こんなの、ゆるせるわけがないだろ。

こいつらは、みんな、正しいことを言っているつもりなのだ。

「できると言えばできる」と言ったやつも、「無理だというから無理なんだ」と言ってやつも、正しいことを言っているつもりなのだ。

こいつらは、みんな、自分の問題であれば、正反対のことを考えるのだ。

実際に自分が老化したら、老化したから、今までのように働けないと考えて、仕事をやめたりする。

「無理だ」と言うから無理なんだよ。

 こいつらは、みんな、自分が深刻な病気になれば、正反対のことを考えるのだ。

「こんな深刻な病気を抱えていたら、仕事なんてできない」と言い出す。

「できない」と言うから、できないんだよ。

人間は、働くべきだ。そんなのは、あまえ。そんなのは、言い訳だ。

2026年5月4日月曜日

●「努力の方向が間違っている」■社会※2026/05/03 17:58

よくわかっていない人に、ちょっとだけ付け足して言っておこう。

Bさんが、努力をして解決した場合、Aさんは、「努力の方向が間違っている」と決めつけ、「努力の量がたりない」と決めつけ、「熱心に努力しない」と決めつけるだろうか?

Bさんの努力が、どれだけ、小さな努力でも、解決に成功してしまったら、「努力不足だ」と言えないことになる。裏を返せば、Bさんの努力が、どれだけ大な努力でも、解決に成功していないなら、AさんはBさんに「努力不足だ」と言えることになる。

だから、努力の量のは、ここまで努力すれば成功するとか、ここまでの努力では成功しないということが、決まっていることではないのだ。

Aさんが、Bさんに「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言った時点で、Aさんが、必要な努力量を知っているわけではないのだ。

そんなことは、まったくわからずに、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という言葉が心地よいので、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言っているだけだ。

まあ、Aさんは、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」ということを信じているのだろう。だから、「成功しなかったなら、努力不足だ」ということにしてしまう。

なお、努力不足で説明したけど「努力の方向が間違っている」という説明についても、おなじことが成り立ってしまう。

Aさんは、知っているわけではないのだ。

ほんとうは、Bさんの努力の方向があっているかもしれないのだ。

しかし、Bさんの悪い条件が、方向があっている(Bさんの)努力をうちまかして、成功できない状態になっているのかもしれないのだ。

ところが、AさんにとってBさんの問題は、ひとごとなので、Aさんは、Bさんの条件について「軽く考えてしまう」か、あるいは、無視してしまう。

Bさんが、努力をしても、努力の量に関係なく、失敗したら「努力が不足している」「努力不足だ」とAさんに言われることが決まっているのである。Bさんが、努力といえるような努力をしていなくても、Bさんが成功したら、Aさんは「Bさんはじゅうぶんな努力をした」と評価し「努力をしたから成功した」と断定してしまう。

あらかじめ、必要な努力量が決まっているわけではないのだ。

これは、重要なことだ。Aさんが、あらかじめBさんの必要な努力量を知っていて、努力が足りなかったとか、努力がじゅうぶんだったとかと言っているわけではないのだ。

そして、これは、Aさんが勝手に言っていることだ。Bさんがどのくらい努力をしたかなんてAさんはまったく知らないのである。

別の努力論者であるCさんも、Bさんがどのくらい努力をしたかなんて知らない。

けど、Cさんも、Bさんが成功したなら、じゅうぶんに努力したと思い、Bさんが失敗したなら、Bさんの努力はじゅうぶんにではないと思うのだ。

Cさんも、Bさんに必要な努力量がどのくらいの量なのか、事前に知っているわけではない。

努力論者が、勝手に、「(はずした)言い訳」をしているにすぎない。

最初から、「努力をすれば、成功する」という命題が、偽なのである。最初から、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という命題が、偽なのである。

Aさんは、「(はずした)言い訳」をしているにすぎない。しかも、「人のせい」にしている。

Bさんが、少しでも努力すれば、成功しているはずなのである。

最初から「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という一〇〇%構文をもつ文が、間違っているのである。それを、Aさんが、正しいと思っているだけなのだ。

最初から間違っているのは、Aさんなのに、Aさんは、Bさんの努力不足だと、Bさんをせめるのだ。

どっちが、言い訳をしているのか、よく考えたほうがいい。

*     *     *

ほんとうは、一〇〇%詐欺構文がまちがっているのに、一〇〇%詐欺構文に合致しない結果が出ると、対象者のせいにしてしまうのである。しかし、最初に提示された一〇〇%詐欺構文が間違っている。合致しない結果が出て当然なのである。合致しない人が出てきて、当然なのである。最初から、一〇〇%詐欺構文が間違っている。

努力論者であって、「人のせいにするな」と人に言う人たちは多い。努力論自体が、自助努力を前提にしているので、「人のせいにするな」人に言いやすい状態になるのである。しかし、(一〇〇%詐欺構文が)間違っていることに気がつかない努力論者は、デフォルトで、成功しなかった人のせいにしてしまう。


2026年5月2日土曜日

●「解決するように努力すれば、解決することに成功する」■社会※2026/05/02 14:10

「解決するように努力すれば、解決することに成功する」とする。

そうなると、解決できない人は、努力をしないからダメなのだということに、なってしまう。

努力をしないからダメなのだと言われた側……決めつけられた側が……「自分だって努力した」と言ったとしよう。

そうなると、「努力の方向が間違っているからダメなんだ」とか「努力の量がたりないからダメなんだ」とか「熱心に努力しないからダメなんだ」とかと、最初に「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言った人は、言うのである。

「二値思考」「数量思考」「性質思考」の問題については、指摘しておいた。

最初に選ばれる言い方は「二値」的な言い方なのである。あとで、「数量」と「性質」が付け足される。何度も説明したけど、これは、後出しジャンケンなのである。

なにを根拠に「努力の方向が間違っている」とか「努力の量がたりない」とか「熱心に努力しない」とか言っているかというと、じつは、「実際に解決できなかった」ということを根拠に言っているのだ。

結果的に、解決していないので「努力の方向が間違っている」と決めつけ、「努力の量がたりない」と決めつけ、「熱心に努力しない」と決めつけている。結果を見て、後出しで、好き勝手な理由をつけているだけなのである。

しかし、「すべての場合において、解決するように努力すれば、解決することに成功する」という最初の考え方が間違っているのである。

「すべての場合において」なんて言っていないと……思う人もいるかと思う。

しかし、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」というのは、100%構文の文なので、「すべての場合において」と付け加えた文と「解決するように努力すれば、解決することに成功する」とだけ言っている文は、意味的に等価なのである。

これは、意見のちがいとかそういう問題ではない。

理論的な思考ができるかどうかの問題だ。

文の意味を正確に認識しているかどうかの問題だ。

これを、『意見のちがい』としてとらえるという……態度……が、問題なのである。

「どんな条件でも、すべての場合において解決するように努力すれば、解決することに成功する」という文と「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という文は、意味的に等価だ。

ほんとうは、条件が悪ければ、成功しない場合だってあるのに、成功すると決めつけてしまうのである。これは、たしかに前向きだけど、まちがっている。

そして、条件が悪いから、解決することに成功しない人は……たいていの場合…… 「努力の方向が間違っているから」とか「努力の量がたりないから」とか「熱心に努力しないから」とかと、決めつけられると不愉快な気持ちになる。

そりゃ、間違った原因を探し求めて、間違った原因が原因だと決めつけてくるからだ。そして、間違った原因と言うのが、ようするに、「その人のせい」なのである。「人のせいにしない」などと言っている人も、人のせいにするのである。その人の「努力がたりない」成功しないと言っているほうは、気分がいいかもしれないけど、言われたほうは……たいていの場合……気分が悪くなるのである。

こういう、トラブル生成装置なのである。

「努力がたりない」というのは、言う側が勝手に言ったことなのである。AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんに「(Bさんの)努力が足りないから(Bさんは)(解決することに)成功しない」と言ったとする。その場合、Aさんがよく調査して、たしかに、Bさんの努力が足りないということを、つきとめたわけではないのだ。

ただ単に、Bさんが成功していないなら、努力が足りないのだと決めつけただけだ。そうなると、Bさんは、どれだけ努力をしても、成功しない以上、Aさんから「努力が足りない」と言われることになる。Aさんは、Bさんに向かって、ただ自分の気分で……「(Bさんの)努力が足りないから(Bさんは)(解決することに)成功しない」と言っているとき、別に、Bさんのことを不愉快な気分にさせやろうと思って言っているわけではない。

ほんとうに、そう思って言っている。その背後には「どんな条件でも、すべての場合において解決するように努力すれば、解決することに成功する」という間違った考え方がある。もっと単純に言うと「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という間違った考え方がある。

この考え方は、間違っている。条件が悪ければ、成功しないことだってあるからだ。

ところが、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という間違った考え方にとらわれて、Bさんは努力不足だと(Aさんは)断定してしまう。

こういう不幸なことが、全国で発生することになる。「努力すれば、成功する」という文は、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という文の内容を含んでいる。

「努力すれば、成功する」という考え方の集合のなかに「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方の集合が含まれている。「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方の集合は、「努力すれば、成功する」という考え方の集合の、部分集合なのだ。

多くの人が「努力すれば、成功する」という考え方をもっている社会と、多くの人が「努力すれば、成功する」 という考え方をもっていない社会をくらべた場合、多くの人が「努力すれば、成功する」という考え方をもっている社会のほうが、多くの人が「努力すれば、成功する」 という考え方をもっていない社会よりも、上記のようなトラブルが発生しやすいのである。

上記のようなトラブルというのは、AさんがBさんとのあいだに発生したトラブルのことである。もっとも、Aさんは、トラブルだと認識していない。Aさんは、かなりの高確率でBさんを不愉快にさせるけど、Aさんは、たいていの場合、自分の発言に問題があるとは思わない。

Bさんが「不愉快だ」とAさんに言った場合、Aさんが、それ(自分の発言に間違いがある)ということや(自分の発言がBさんを不愉快にさせた)ということを認めるかというと、認めないことのほうが多いだろう。

どうしてかというと、Aさんにとっては、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方は、正しい考え方だからだ。

たいていの場合、『自分が正しい』と思っていることを言ったって、別に悪いとは思わないだろう。そして、Bさんが解決することに成功していないなら、Bさんの努力不足だと(Aさんが)認識したということについて……たいていの場合……Aさんは、問題があるとは感じない。

どうしてかというと、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という考え方は、正しい考え方だとAさんがもっているからだ。

ほんとうは、「二値」と「性質」の問題がある。

しかし、Aさんのような人は、最初に自分が「『二値文』を言った」ということを、忘れてしまう傾向が強い。

解決するはずなのだから、「解決しないなら、Bさんの努力不足だ」とAさんが考えても不思議ではない。

それから、「解決しないなら、Bさんの努力の方向が間違っている」とAさんが考えても不思議ではない。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。