実際には、働けない人が「人は働くべきだ」とわかったようなことを言われると、不愉快な気持ちになるのだ。
そして、相手が言っている基準を自分自身も持っていると、最悪、自殺することになる。
相手は、条件を無視している。
条件について「自分」が語れば、相手は「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまえだ」と言ってくることが決まっている。
そして、相手は、意地悪でそういうふうに言っているわけではなくて、ほんとうに、そうおもって、そういうふうに言っているのだ。
この場合、「バカの壁」か「無理解の壁」を感じるのだ。言われたほうは、無理解の壁を感じる。
でっ、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、あまえだ」と言うやつは、そういうふうに確信している。
自信がないことを言っているわけではないのだ。完全にそういうふうに思っている。確信している。どうしてかというと、彼らが、うまい具合に洗脳されているからだ。
けど、これは……洗脳だとは思われていない。ものすごく、深いところにある反応パターンであり、思考パターンだ。
そして、たとえば、無職に対する偏見などもある。
これも、洗脳されているのだと思うけど、ともかく、信念のような偏見がある。ものすごく深いレベルでの偏見だ。
これも、信仰に近い。
ひきこもりに対する偏見もあり、相手がひきこもりなら、バカにしていいと思っている。これも、洗脳の結果だとは思うけど、ともかく、日本人は……相手がひきこもりなら、自分よりも格下の人間で、バカにしていいと非常に深いレベルで思っているのだ。
ぼくは、「言霊理論」「思霊理論」「引き寄せ理論」「努力論」「自己責任論」について、語ってきたけど、これらの考え方が、偏見をつくりだすのである。そして、条件が悪い人を、自殺に追い込むのである。
たとえば、「できると言えばできる」と言われたときの、破滅感が並じゃないのだ。ぼくの場合は、きちがいヘビメタ騒音という、ほかの人にはあんまり理解できないことが原因なのだけど、「できると言ったって、ヘビメタ騒音でできない」のだ。
けど、「できると言えばできる」と言う人は、ヘビメタ騒音が鳴っているとできない」ということを認めない。
「できると言えばできる」のだから認めない。どや顔で、「できると言えばできる」と言い切っておしまいだ。
言い切ったほうは、気持ちがいいかもしれないけど、言い切られたほうは、気分が悪いのだ。
条件が、理解されなければされないほど、死にたい度合いが強くなる。条件が悪ければ悪いほど、死にたくなるのだ。
これが、たとえば……「できると言えばできる」と言ったほうには、わからない。
「できると言えばできる」と言った人は、「できると言えばできる」という考え方が正しいと確信している。どうやって、間違ったことを言ったと思うことができるのか?
それこそ、できない。
「できると言えばできる」と言った人に、ちゃんと説明してやっても、むだなんだよ。ここに書いたことを、そのままちゃんと説明してやっても、むだなんだよ。
説明しても、相手は、考え方をかえない。時間の都合で説明しなければ、もちろん、相手は、考え方をかえない。どっちにしろ、考え方なんてかえない。
若い女性社員が自殺した話について、うわさになれば、「できると言えばできる」と言った人が、若い女性社員の味方をして、元上司や会社側の対応をせめることになる。
『いやーー。おまえ、まったくわかっていないなぁ』と思う。
「できると言えばできる」なんて、自殺に追い込むやつが言う言葉だ。ぜんぜん、わかっていないんだよなぁ。
けっきょく、相手の条件を無視しているということが、わかっていない。相手にとっては、重要な条件なんだよ。できなくなる条件なんだよ。
そして、こういう人たちは、みんな……ぼくの知る範囲ではみんな……「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」「俺だってつらい」「わたしだってつらい」と言う。
わっかたような気持になって言っているのだ。
もちろん、苦労したのだろう。つらいのだろう。つらい思いをしたことがあるのだろう。
それは、否定しない。
けど、相手の条件は無視しているのである。
「できると言えばできる」と言われて、黙って引き下がった人が、自殺した場合は、「できると言えばできる」という考え方を(その本人が)内面化している確率が高い。
これ、内面化しているので、「できないなら、死ぬしかないか」と思うようになるのである。自分自身に内面化された基準があると、内面化された基準にさからえなくなる。
そうすると「できないなら、死ぬしかない」という思考につながる。
「言霊理論」「思霊理論」「引き寄せ理論」「努力論」「自己責任論」というのは、内面化された基準をつくりだす「もと」の理論なのである。なので、さからいにくいのである。